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漢 詩 人 と し て の 阪 口 五 峰

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漢 詩 人 と し て の 阪 口 五 峰
現代社会文化研究 No.55 2012 年 12 月
漢詩人としての阪口五峰
田
「禪」に関する詩句を中心に
―
Abstract
―
春
娟
This is a study of Zen poems in classical Chinese made by
Sakaguchi Gohō(1859-1923), father of Sakaguchi Ango.
Although Sakaguchi Gohō is known as a statesman, he was
also a poet who wrote his poetry in classical Chinese. This
口 献 吉 編 輯 兼 発 行 )に は 、
「 禅 」字 を 含 む 語 句 の 出 現 す る 詩 が 一 二
首 に の ぼ る 。通 覧 し て 、そ の 詩 の 題 と と も に 語 句 を 挙 げ て み る と 、
以下のとおりである。
「 逃 禅 」(「 偶 題 」、 二 〇 歳 )
「 病 禅 」(「 歳 暮 雜 感 」、 二 三 歳 )
「 病 禅 」(「 新 正 三 日 書 懐 」、 二 五 歳 )
「 禅 榻 」(「 題 舟 江 嬉 春 圖 」、 二 五 歳 )
「 竹 林 禅 」(「 寄 居 村 舍 雜 詠 次 藍 川 養 病 詩 屋 原 韻 」、 二 五 歳 )
折 二 」、 二 五 歳 )
「 不 在 禅 」(「 消 夏 六 詠 用 蔭 山 晩 香 韻 」、 二 五 歳 )
「 參 禅 」(「 題 玉 峰 小 稿 後 四 首
(
、) 二 五 歳 )
「 禅 追 蘇 晋 」(「 佛 前 飮 酒 浩 然 有 得 次 張 船 山 韻 」、 二 五 歳 )
「 真 禅 」(「 佛 前 飮 酒 浩 然 有 得 次 張 船 山 韻 」
「 問 禅 (「 贈 立 阿 師 」、 二 八 歳 )
「 通 禅 」(「 鬢 絲 禪 榻 小 影 」、 三 五 歳 )
「 談 禅 」(「 清 河 陳 中 即 事 」、 四 六 歳 )
他 、遺 墨 中 に 一 首(「 通 禅 」、四 〇 歳 )、ま た 、五 峰 研 究 に と っ て 、
極 め て 重 要 な 文 献 資 料 の 一 つ で あ る『 五 峰 餘 影 』
( 昭 和 四・一 九 二
九 年 、 阪 口 献 吉 編 輯 ) に も 一 首 (「 不 解 禪 」、 年 齢 不 詳 ) が あ る 。
(
)
(21)
study discusses his five Chinese poems which have “Zen” as
an important factor. By paying attention to the sources of
which Gohō made use, it becomes clear that what Gohō
wanted to express in these poems is his longing for the unity
of “Zen” and poetry.
病禅
『五峰餘影』に収録される市島謙吉による「五峰君の絶作」
では、
(前略)君は幼少の頃父母の言ひつけに毎朝必ず普門品を讀
めと言はれ盛に讀んだものだけれど、君は「自分は禪を解し
2
キーワード……阪口五峰、漢詩人、逃禅、維摩居士、道人、
はじめに
阪 口 五 峰 の 唯 一 の 詩 集『 五 峰 遺 稿 』
( 大 正 一 四・一 九 二 四 年 、阪
1
漢詩人としての阪口五峰(田春娟)
ない人間で父母の歿後は観音のお詣りもせず詩の佛さんばか
りをお詣りしてナム賈島佛々とばかり言つてゐた」と言はれ
いと思う。
た と え ば 、右 に 紹 介 し た 市 島 春 城
(
が) 五 峰 詩 と し て 引 用 し た 文
に 見 え る「 不 解 禪 」と 、
「 逃 禪 」を 用 い た 上 記「 偶 題 」と 題 す 二 〇
.解
.禪
.。( 傍 点 筆 者 )
兒 也 生 來不
あ り 、中 に「 維 摩 居 士 」と い う 語 彙 や 、
『 維 摩 詰 所 説 經 』の 内 容 な
歳 の 作 詩 の 間 に 、注 目 す べ き「 梅 花 丈 室 歌 」
( 一 九 歳 )と い う 詩 が
爺嬢禱子大慈前。
どを散見することができるし、
「 虚 白 」、
「 道 人 」、
「 混 沌 七 竅 」な ど
れているのは、かなり特殊な事例である。このような観点から、
散 花 」、「 混 沌 七 竅 」 と い っ た 内 容 に 歴 々 と し て 綯 い 混 ぜ な が ら 触
中 で わ ざ わ ざ 「 維 摩 居 士 」 と い う 固 有 名 詞 や 「 文 殊 問 疾 」、「 天 女
家的な書物を通覧するのは珍しくないかもしれないが、自作詩の
の道家的な言語も見出せる。文人として、仏教の経文や道教・道
南無島佛一年々。
は) 既 に 五 峰 没 後 の こ と で あ る し 、い
五峰詩の「禪」に関する用語の出典の有無を、中国の古典文学に
(
つ作詩されたかを確認することは容易ではない。それにしても、
見出し比較しながら、論を起こすこととする。
前 掲 の よ う に 「 逃 禪 」、「 病 禪 」、「 通 禪 」 な ど 多 彩 な 語 句 を 用 い た
一、五峰詩「偶題」と杜甫詩「飲中八仙歌」にみる「逃
)
」と
題する詩を取り上げる。
析を進めたい。具体的には、少壮期にはなかなか理解できなかっ
尚誦長齋繍佛篇
病來未斷酒因縁
明日は壺を提げて僧と與に醉はん
尚お誦す長齋繍佛の篇
病み来るも未だ酒の因縁を断たず
(
禪」
そこで本稿では、五峰の漢詩に出てくる「禪」に関する詩中、
「 逃 禪 」、「 病 禪 」 の 二 つ に 限 定 し た う え で 、 漢 詩 人 で あ る 五 峰 が
た「禪」への理解が、その後の人生の積み重ねや漢学・仏教など
明日提壺與僧醉
風流蘇晋是れ逃禅
「禪」を通して、如何なる境地を表現したかったのかについて分
の 勉 学 を 通 し て 、ど の よ う な 変 化 が あ っ た の か 、何 の た め に 、
「禪」
風流蘇晋是逃禪
まず、
『 五 峰 遺 稿( 上 )』中「 偶 題
詩があり、五峰の禅に対する興味は浅くなく、実は多彩である。
『五峰遺稿』に使われている「禪」に関する詩を探ってみると、
こ の 詩 で 五 峰 自 身 は「 不 解 禪( 禅 を 理 解 し な い )」と 言 っ て い る が 、
右の詩が発見された時期
と、五峰と禅との関係について言及している。
家世屬真宗其誦普門品異例也
父母禱子観音大士而生予以故先子在日毎朝必誦普門品蓋
除夕還修祭詩典。
た。之にも一詩がある。
4
への理解を求めていたのか。その禅に対峙する心境を探ってみた
5
(22)
3
現代社会文化研究 No.55 2012 年 12 月
この七言絶句の大意は以下の通りである。病にかかっても、酒
る。気持ちとしては、明日、酒壺を持って行き、和尚さんと一緒
心中では、依然として杜甫の「長齊繍佛」という詩篇を誦してい
五峰があまり重くない病気で、一、二ヶ月ぐらい新潟病院で入院
て い る「 病 」は ち ょ う ど 、
「 偶 題 」詩 を 作 っ た の と 同 じ 明 治 一 一 年 、
という証言がある。そうすると、五峰の「偶題」詩に言及され
す で に 社 中 に 頭 角 を 現 は し て ゐ ま し た 。( 後 略 )
に 酔 っ て 、風 雅 を 楽 し む 蘇 晋 の よ う に 禅 の 世 界 に 逃 げ た い も の だ 。
し、治療を受けたことを指すのだろう。同じく年譜によると、二
と の 因 縁 を 断 つ こ と が で き な い 。即 ち 、禁 酒 す る こ と が で き な い 。
まず、起句の「病來未斷酒因縁」を検討しよう。この詩は『五
〇歳ごろの五峰は既に郡会議員である。その上、引用した山際操
己の理想を告白しているのが興味深い。
禅の世界に逃げようと言って、結ばれている。古人を通して、自
と詠い、自分のことを蘇晋になぞらえ、蘇晋のように酔っ払い、
こ の 七 言 絶 句 の 全 体 観 を 把 握 す る と 、最 後 に 、「 風 流 蘇 晋 是 逃 禪 」
く、詩社でも才気がある若手詩人と見られていた。
峰遺稿』の収録位置からすると、五峰二○歳(明治一一年)のも
の) 「 五
の証言から見れば、当時の五峰は政界に頭角を現しただけではな
(
のだと推測できるが、しかし、詩中に出ている「病」に関する話
題 は 、 そ れ ま で の 五 峰 年 譜 に は 見 え な い 。『 五 峰 餘 影 』
峰・阪 口 仁 一 郎 小 傳 」の「 三 、青 年 時 代 」に 友 人 の「 山 際 操 氏 談 」
が載り、
私は明治十年頃新潟に居ましたが、その頃五峰君は阿賀浦
問題は、二句目の「尚誦長齋繍佛篇」という承句であるが、こ
れ は 杜 甫( 七 一 二 年 ~ 七 七 〇 年 )の「 飮 中 八 仙 歌
村から突然自分を新潟に來訪し、その後屢々往來して互に作
詩の唱和を試みると言ふ間柄となりました。十一、二年頃で
ていると思われる。この二句目の真意を解釈すべく、杜甫詩と比
」) を 典 拠 と し
したか五峰君がさう重くない病氣で一、二ヶ月新潟病院へ入
較してみたい。文字通り「飲中八仙歌」に酒仙として登場する人
(
院したことがありましたが當時自分は関屋に住んでゐてほど
物八人中、五人目の蘇晋の名が五峰詩に使われている。この蘇晋
蘇晋は長齋す繍佛の前
についての「飲中八仙歌」中の詩句は、
遠からぬことでもあり始終訪ねては詩文の交はりをしてゐま
した。
蘇晋長齋繍佛前。
醉中往往にして逃禅を愛す
此時分の社中では水落鸕水(名は璋之助、柏崎の人、當時
醫學校生徒)や小林二郎、丸岡南陵(佐渡の詩人で社中の大
醉中往往愛逃禪。
五 峰 君 は 廿 歳 か 廿 一 歳 の 最 年 少 者 で 、し か も 詩 に は 天 才 あ り 、
家、折々新潟へ來ては唱和した)諸橋田龍の諸家であつたが
7
(23)
6
漢詩人としての阪口五峰(田春娟)
して、最後に結句では「風流蘇晋是逃禪」と、自分の飲酒をかの
引き合いに登場させたのは、五峰のオリジナルな作文である。そ
かは不明であるが、とにかく、一般に厳粛な社会的立場の僧侶を
な飲酒に憧れたのかもしれない。酒を飲む相手の「僧」が誰なの
う。
「 長 齋 繍 佛 」と い っ た 詩 文 を 諳 ん じ て い る う ち に 、蘇 晋 の よ う
る。転句である「明日提壺與僧醉」というのは、五峰の願望だろ
ができない自分を、
「 飲 中 八 仙 歌 」の 蘇 晋 に な ぞ ら え て い た の で あ
かになる。つまり五峰は、病にかかっていても、酒を止めること
篇」
「 風 流 蘇 晋 是 逃 禪 」が 、 飲
「 中八仙歌 を
」 典拠とすることが明ら
となっていて、この部分から、五峰詩「偶題」の「尚誦長齋繍佛
居られる、と云ふた方が宜しいと思ひます。
に行つて、一切の世事を打ち棄てゝ、唯だ酒を飲んで楽んで
中でありながら、佛を信じて居られるものであるから、佛前
でありまして、矢張り禪に逃れると云ふ方に解きまして、醉
でありますが、併し逃禪を破戒と云ふのは、餘程可笑な解釋
ら、此處ばかりは破戒をする、斯う云ふ意味であると云ふの
云ふので、佛前で物忌みをして御座るけれども、酒を飲むか
解釋が二様ありまして、或る説に據りますと、禪を逃れると
だ酒ばかり飲んで居るのであります。逃禪と申しますのは、
ふのは。佛前に居るのでありますから、肴は食べませぬ、唯
(
」)の 語 句 の 意 味 合 い を 掘 り 下 げ
同時に、酒に逃げることでもある。仏前に行って、全ての俗世間
この森槐南の解釈によれば、
「 逃 禪 」は 禅 に 逃 げ る こ と で あ る と
」)と 題 す る 詩 中 に 用 い ら れ た 類 似 の 詩 句 か ら も 明 ら か に な
りますけれども、平生極めて酒を愛して居つた人でありまし
.仿 長 江 祭
.以 杯
詩
.追 蘇 晋 逃
.于 酒
禪
詩は
禅は
長江に仿いて
蘇晋を追いて
祭るに杯を以てす
酒に逃げ
(24)
酒仙・蘇晋の逃禅になぞらえて詠いおさめている。
次 に 、五 峰 が 意 識 し た「 逃 禪
に) 収 め ら れ た「 飲
(
のことを投げ捨てて、酒を飲んで楽しむのが、禅の境地でもある
て み た い 。ま ず 、先 人 に 遡 っ て 、
『杜詩叢刊』
中 八 仙 歌 」 の 諸 注 釈 の 中 に は 、「 醉 中 往 往 愛 逃 禪 」 に つ い て 、「 禪
んで「禪に逃げる」と解釈し、それを自らの詩に用いたと考えら
と言うのである。これに倣い、五峰は杜甫の「逃禪」を、酒を飲
(
と) い う 両 様 の 解 釈 が あ る 。
から逃げて酒に浸る」
(
(
て、世の中の蒼蝿いことは打遣つて置いて、何時でも佛前で
(傍点筆者)
る。その頸聯に、
13
酒を飲んで楽んで居られたと云ふことであります。長齋と云
其次は蘇晋、是は戸部侍郎と云ふ様な官に登りました人であ
れる。このことは、二五歳に作詩した「佛前飮酒浩然有得次張船
下巻』
と) い う 解 釈 と「 酒 を 飲 む こ と で 禪 に 逃 げ
9
8
また、五峰が師事した森春濤の子・槐南の『杜詩講義
る」
10
山韻
11
に) は 、「 逃 禪 」 に つ い て 以 下 の よ う な 説 明 が 書 か れ て い る 。
(
12
現代社会文化研究 No.55 2012 年 12 月
というのであるから、
「 逃 禅 」は 禅 か ら 逃 げ る の で は な く 、酒 を 飲
とあり、その前半は「禅については蘇晋に倣って酒に逃げよう」
.詩
.典 。
除夕還修祭
爺嬢禱子大慈前。
.佛
.一 年 々 。
南無島
.解
.禪
.。
兒也生來不
(傍点筆者)
「島佛」は五峰自ら「詩の佛さんばかりをお詣りしてナム賈島
んで禅に逃げることであるのは明らかである。
では、五峰が酒を飲みつつ禅の世界に逃れ入るのは何故か。再
「 禪 」は 、
「 禪 」そ れ 自 体 を 求 め て い る と い う よ り も 、詩 を 創 作 で
これは、同一の境地の別な表現だと思われる。要するに、五峰の
は 、賈 島 の よ う に 酒 を 以 っ て 祭 ろ う と い う こ と で あ る 。す な わ ち 、
り 、そ の 頸 聯 の 大 意 は 、
「 禪 」は 、蘇 晋 の よ う に 酒 に 逃 れ 入 り 、
「詩」
ここでもう一度、五峰詩「佛前飮酒浩然有得次張船山韻」に戻
存在であったと考えられる。
佛々とばかり言つてゐた」と語っていることから分かるように、
酒に逃げ
び、五峰七言律詩「佛前飮酒浩然有得次張船山韻」の頸聯に注目
蘇晋を追いて
賈島のことを指している。五峰にとって、賈島は詩の仏のような
禅は
祭るに杯を以てす
する。
.追 蘇 晋 逃
.于 酒
禪
長江に仿いて
) 七七九~
((
詩は
(
(25)
.仿 長 江 祭
.以 杯
詩
(傍点筆者)
この対句は、蘇晋の「逃禪」と、中唐詩人・賈島
前述したように五峰の禅についての関心は、これらの詩以前か
きる雰囲気や境地への希求であると考えられる。
と 言 う 。) の 「 祭 詩 」 と の 話 を 借 り 、「 禪 」 と 「 詩 」 と の 関 係 を 語
ら 存 在 し て い た と 思 わ れ る 。と い う の は 、禅 と か か わ り の 深 い『 維
)
」
っている。先述した蘇晋「逃禪」の例は、杜甫詩「飲中八仙歌」
り上げる。
(
摩詰所説經』に言及する詩句が、二〇歳以前の五峰の漢詩に早く
」)と 記 し て あ る 。す な わ ち 、賈 島 は 常 に 大 晦 日 に 自 分
)
が出典であったことを明らかにしたが、賈島の「祭詩」の話は、
(
二、
『維摩詰所説經
』と 道 家 と 詩 作 ―「 梅 花 丈 室 歌
も散見されるからである。
「 梅 花 丈 室 歌 」と 題 す る そ の 詩 を 次 に 取
以是補之
のその年の詩を、酒と肴を以って祭り、自分で自分を激励したの
で あ る 。ま た 、
「 禪 」、
「 詩 」、
「 賈 島 」に 関 連 あ る 詩 が 五 峰 に は あ る 。
17
この詩は『五峰遺稿』の編集順からすると、先に触れた二〇歳
(
『雲仙雜記』に「賈島常以歳除取一年所得詩祭以酒脯曰労吾精神
八 四 三 )長 江 県( 今 の 四 川 省 )の 主 簿 と な っ た と こ ろ か ら「 長 江 」
14
本論文の「はじめに」で紹介した「不解禪」についての七言絶句
を振り返って見よう。
16
15
漢詩人としての阪口五峰(田春娟)
作「偶題」より早く、すなわち一九歳ごろに作詩されたと推測さ
れる。
譬諸維摩居士浄明室咫尺
諸を譬えん維摩居士が浄明室の
咫尺
四邊環植萬梅花
靈芬直欲浄吟魄
十笏之室生虚白
春来りて地を満たして暖雪積る
四辺環植す萬梅花
霊芬直ちに吟魄を浄せんと欲す
十笏之室虚白を生ず
香南雪北不知處
百千諸佛安在哉
諸天縹縹春雲開
解頥自驚太妙絶
興旺現出匡鼎身
如何方門向人説
道人亦存廣長舌
髣髴す花を散らして天女来たるを
香南雪北処を知らず
百千の諸仏いづこに在らんや
諸天縹縹として春雲開く
解頥して自ら驚く太妙絶
興旺に現出す匡鼎の身
如何が方門人に向かいて説かん
道人亦た廣長舌を存す
八万由旬の須彌山を収容するに
春來滿地暖雪積
夜月玲瓏たり蕊珠宮
髣髴散花天女來
収容八萬由旬須彌山
夜月玲瓏蘂珠宮
繁華穠蕊衆香國
梅花丈室の歌
繁花穠蕊衆香國
道人林下に道場を開く
經營慘澹日抱膝
有時閉門不敢出
咳唾成珠千百章
手持游戲一枝筆
混沌の七竅鑿開に苦しむ
経営惨澹
時有て閉門して敢えて出でず
咳唾珠を成す千百の章
手に持ち遊戯す一枝の筆
いた。左右には獺祭のように寝台が書籍で一杯である。手に筆を
山の花が乱れ咲いて衆香國のようである。道人は林下に道場を開
ら)が積っている。夜の月が玲瓏と輝いて仙宮のようであり、沢
えてある。春が来て地面いっぱいに暖かい雪(のような梅の花び
ようとする。その部屋の周囲には、数え切れぬほどの梅の花が植
が生ずる。優れたよい梅の香りは、直ちに詩歌を作る心を浄化し
(
混沌七竅苦鑿開
夢に見る文殊の疾を問いに来たるを
持って遊べば、片言隻語が悉く珠玉の章句と成る。ある時、門を
ら、夢に文殊菩薩が見舞いに来た。どうして道人の詩が神に通じ
)
(26)
梅花丈室歌
道人林下開道場
左右獺祭書床に満つ
夢見文殊來問疾
豈に道人の詩の神に通ずるを知らんや
閉 ざ し 、敢 え て 外 に 出 ず 、あ れ や こ れ や と 思 案 を め ぐ ら し て 、日 々 、
大意は以下の通りである。狭い部屋の中にいると純白の心
左右獺祭書滿牀
豈知道人詩通神
妙想彌漫す六合の間
日に抱膝す
妙想彌漫六合間
別に天有り
を) 彫 る の に 苦 し む よ う に し て い た
ひ ざ を か か え て 、混 沌 の 七 竅
悉く詩中に入りて
(
物として事として網羅せざる無く
18
無物無事不網羅
悉入詩中別有天
19
現代社会文化研究 No.55 2012 年 12 月
の) 身 が 勢
)
に) あ る 以 下 の よ う な 経 文 を 典 拠 と し て い る 。
彌燈王。今現在。彼佛身長八萬四千由旬。其師子座高八萬四
(前略)東方度三十六恒河沙國有世界。名須彌相。其佛號須
(
は、直接に「維摩居士」のことに触れている。これも『維摩経』
(
たのか、妙想は天地四方の間に広がり、ありとあらゆる事が残ら
の) 広 大 な 須 彌 山
の「 不 思 議 品 第 六 」
(
ずそこに包含され、悉く詩の中に入って別天地が出現した。例え
ば維摩居士の狭い浄明室の中に、八万由旬
(
を収容するようなもの。道人も釈迦のように勝れた弁舌を持って
い て も 、方 便 を い か に 人 に 向 か っ て 説 く べ き か 。匡 鼎
。)
須弥山が入れられた。五峰は文殊が夢に現れたのを描いた後、四
上記経文のように維摩居士の十笏しかない丈室に、八万由旬の
(
千由旬嚴飾第一。於是長者維摩詰。現神通力。即時彼佛遣三
ながら天女がやってくるようである。
) 以下
』(
句をもって、詩作の世界を描く。この「梅花丈室歌」の最後を締
(
』) に 、「( 前 略 ) 問 金 粟 如 來 爲 什 麼 却 降 釋
迦 會 裏 。 師 曰 。 香 山 南 雪 山 北 。( 後 略 )」 と あ り 、「 香 山 南 雪 山 北 」
例 え ば 、『 景 徳 傳 燈 録
南 雪 北 」「 散 花 天 女 」 と い う 言 葉 は 、 仏 教 と 関 係 あ る 語 彙 で あ る 。
髣髴散花天女來」の詩句の中の「香
『 維 摩 経 』と 呼 ぶ 。)の 影 響 を 記 述 す る 。五 峰 詩「 梅 花 丈 室 歌 」の
(
。) ま た 、こ れ と 対 に な っ て い る 言 葉「 虚 白 」は『 荘 子 ・ 人
の「 衆 香 國 」は 、
『 維 摩 経 』の「 香 積 佛 品 第 十 」
(
に) 典 拠 が あ る 。
(
)) 夢 に 文 殊
品第五」で、維摩の病を仏の命により、文殊が見舞う話から来て
い る 。(「 爾 時 佛 告 文 殊 師 利 。 汝 行 詣 維 摩 詰 問 疾 。」
の後の詩句「譬諸維摩居士浄明室咫尺
収容八萬由旬須彌山」で
(
に) は 、以 下 の よ う に 天 女 が 菩
31
何 故 去 華。答 曰。此 華 不 如 法 是 以 去 之 天 曰 勿 謂 此 華 爲 不 如 法。
便著不墮。一切弟子神力去華不能令去。爾時天女問舍利弗。
即以天華散諸菩薩大弟子上。華至諸菩薩即皆墮落。至大弟子
(前略)時維摩詰室有一天女。見諸大人聞所説法便現其身。
薩らの頭上に花を撒く話がある。
というのは、天竺の香醉山の南、大雪山の北という意味である。
(
之室」というのは、維摩居士の部屋を指すのに用いられた言葉で
例 え ば 、 最 初 の 句 は 「 十 笏 之 室 生 虚 白 」 で あ る が 、 こ の「 十 笏
めくくる「香南雪北不知處
まず、はじめに本詩における仏教の『維摩詰所説經
29
間 世 』の「 瞻 彼 闋 者 、虚 室 生 白 、吉 祥 止 止 」を 出 典 と す る 。ま た 、
ある
30
また、
『維摩経』
「觀衆生品第七」
24
語 彙 ・ 構 成 か ら 見 れ ば 、『 維 摩 経 』 と 道 家 思 想 と の 関 わ り が 深 い 。
(
天竺の香醉山の南、大雪山の北、いたるところ、花をまきちらし
いよく出現し、破顔一笑その大妙絶に自ら驚く。もろもろの天上
)
28
萬 二 千 師 子 座 高 廣 嚴 浄 。 來 入 維 摩 詰 室 。( 後 略 )
21
界 で は 縹 渺 と し て 春 の 雲 が 開 き 、大 勢 の 仏 様 達 は ど こ に い る の か 。
22
23
が現れたのが、維摩に文殊が現れたようだと言うのであろう。こ
27
(27)
20
「 夢 見 文 殊 來 問 疾 」と い う 詩 句 は 、
『 維 摩 経 』の「 文 殊 師 利 問 疾
26
「 夜 月 玲 瓏 蘂 珠 宮 」の「 蘂 珠 宮 」は 仙 宮 で あ り 、
「繁花穠蕊衆香國」
25
漢詩人としての阪口五峰(田春娟)
所以者何。是華無所分別。仁者自生分別想耳。若於佛法出家
有 所 分 別 爲 不 如 法。若 無 所 分 別 是 則 如 法。觀 諸 菩 薩 華 不 著 者。
この六句は、五峰が作詩時において求めている環境・雰囲気を
うかがわせる。
道人林下開道場
次の四句も詩作の心境に関係する。
これを読めば、五峰詩「梅花丈室歌」の最後の一句「髣髴散花
左右獺祭書滿牀
已 斷 一 切 分 別 想 故 。( 後 略 )
天 女 來 」も 、
『 維 摩 経 』に 由 来 し た も の で あ る こ と は 明 ら か で あ ろ
手持游戲一枝筆
(
を) 意 味 す る が 、こ
こでいう「道人」は、書籍を寝台の上に満たし、珠玉の名文をた
に 歸 依 す る 人 」、
「 俗 世 間 を の が れ た 人 」な ど
道 人 と は 「 神 仙 の 道 を 得 た 人 」、「 道 家 の 法 を 修 め る 者 」、「 仏 法
咳唾成珠千百章
う。
五 峰 詩「 梅 花 丈 室 歌 」に は 、作 詩 に 関 す る 語 句 が い く つ か あ る 。
まず冒頭二句目を再掲する。
十笏之室生虚白
靈芬直欲浄吟魄
くさん作っていることからすれば、主として詩人を意味している
あり、後、文詞の優美を形容する言葉として用いられることにな
と 思 わ れ る 。「 咳 唾 成 珠 」 は 『 荘 子 』「 秋 水 」 を 典 拠 と す る 言 葉 で
「梅花」の香りは五峰の「吟魄」詩精神をただちに浄化してくれ
った。
「梅花丈室」である「十笏之室」にいると精神は純粋になり、
る。次の詩句に出ている「蘂珠宮」や「衆香國」も、全て「梅花
次の二句、
有時閉門不敢出
丈室」のことを描写している。
四邊環植萬梅花
贈 曹 将 軍 覇」 に あ る 詩 句 で 、 次 に 、 杜 詩 を 紹 介 す る 。
は 、詩 人 五 峰 の 苦 吟 の 有 様 を 表 現 し て い る 。
「 經 營 慘 澹 」は 、杜 甫
經營慘澹日抱膝
(傍点筆者)
春來滿地暖雪積
.珠
.宮
.
夜月玲瓏蘂
.香
.國
.
繁花穠蕊衆
詩「丹青引
(28)
32
現代社会文化研究 No.55 2012 年 12 月
意匠惨澹たり経営の中
た の で「 然 ら ば 汽 車 中 は 如 何 で す 」と 問 ふ た 處 、
「いや汽車は
静かに途上の風光を見て詩興を動かすことが最も多いと聞い
の 各 地 を 旅 行 中 、山 村 水 郭 を 人 車 に ゆ ら れ な が ら 過 ぐ る 際 に 、
意匠慘澹經營中
斯須九重真龍出づ
人が混雜して詩作に適せぬ。併し徒然だから眼を閉ぢて將棋
詔 して将軍に謂ふ絹素を拂へと
みことのり
斯須九重真龍出
万古の凡馬を一洗して空し
詔謂将軍拂絹素
一洗萬古凡馬空
れた七言古詩である。曹将軍は馬を描くのが得意であるため、あ
とができたが、勉学を重ね、知識を蓄積すればするほど、たやす
右の山田の回想からは、五峰は少壮期に席上で詩を即吟するこ
の 詰 手 を 考 へ て ゐ る 」 と 答 へ ら れ た も の で あ つ た 。( 後 略 )
る日、玄宗皇帝は、曹将軍に玉花騘と称す馬を写生して見よと命
く作詩することができなくなり、苦吟するようになったと書かれ
杜甫詩「丹青引」は、曹覇という将軍の人物伝記について描か
じた。将軍はこう描こうか、ああ描こうかと、いろいろ考え、工
ているが、一九歳での作「梅花丈室歌」の「有時閉門不敢出
なる。
こ れ に 続 く 詩 句 は「 混 沌 七 竅 苦 鑿 開
詩 作 に お い て 、『 荘 子 』 の 「 應 帝 王
夢 見 文 殊 來 問 疾 」で あ り 、
」) の 中 の 渾 沌 に つ い て の 挿
作の背景を道家思想と『維摩経』の世界の二つの世界が融合した
話と維摩居士を文殊菩薩が見舞った話に触れている。すなわち詩
(
詩作は少壮期からすでに、
「遅吟」
「苦吟」
「 沈 吟 」で あ っ た こ と に
經
夫を凝らし、絹素に描いた馬はまるで九重の真龍(駿馬の意味)
。)
營慘澹日抱膝」という詩句が事実を表しているとすれば、五峰の
(
」) を 参 看 し た い 。
つた斯うして漸く出來上がつても尚ほ推敲に時日を費して定
なる程一字一句苟もせず、寧ろ遅吟、苦吟、沈吟の詩人とな
つた側でもあつたらうが、其後の先生は文字が豊富になれば
悉入詩中別有天
無物無事不網羅
妙想彌漫六合間
豈知道人詩通神
も の と し て 語 っ て い る の で あ る 。注 目 す べ き は 、次 の 四 句 で あ る 。
稿とする迄には容易でなかつた。多忙であつた先生は、縣内
(29)
のように出現し、外の凡馬は一洗され、周辺はただ空しくなるば
かりであった
五 峰 の「 經 營 慘 澹 日 抱 膝 」の「 經 營 慘 澹 」も 、杜 甫 詩 に あ る「 慘
澹經營」のような努力をし、詩作に尽力している様子を描いてい
ると思われる。
(
五 峰 の 詩 作 姿 勢 に つ い て は 、『 五 峰 餘 影 』に 収 め る 山 田 穀 城 の「 懐
かしき第二の父
35
33
(前略)其少壮時代に在つては或は席上直ちに作を成すと言
34
漢詩人としての阪口五峰(田春娟)
こ こ に 再 び「 道 人 」と い う 言 葉 が 使 わ れ て い る 。
「 道 人 」の 詩 は
とは以前拙稿
(
で) 論 じ た 、五 峰 の 仙 境 或 は 隠 逸 の 世 界 へ の 憧 れ へ
大なイメージは仏教的であるが、しかし、最後に用いられている
界には、あらゆる物事が網羅され、別天地が形成される。この広
現として結晶しているのである。五峰は杜甫詩「飮中八仙歌」の
いが、それは『維摩経』の語彙とイメージによって五峰なりの表
五峰詩「梅花丈室歌」では「禪」という文字は使われてはいな
と繋がっていくと思われる。
「別有天」という言葉は、李白詩『山中問答』の「桃花流水窅然
「醉中往往逃禪を愛し」て飲酒と禅を一致させた蘇晋に我が身を
神に通じ、また、その「妙想」は天地の間に広がり、その詩的世
去 、別 有 天 地 非 人 間 。」を 踏 ま え て い る こ と か ら す れ ば 、そ の 世 界
なぞらえ、
『 維 摩 経 』を わ が も の と し て 自 ら の 詩 の 世 界 を『 維 摩 経 』
三 、「 病 禪 」 ― 五 峰 「 歳 暮 雜 感
(
)
」、「 新 正 三 日 書 懐
(
)
」
の仮病を「病禪」と称して、自らを維摩になぞらえたのである。
の壮大華麗なイメージを用いて描き、維摩の法を説く方便として
は道家・道教的な仙境を意味するものでもある。
最後の四句、
諸天縹縹春雲開
百千諸佛安在哉
香南雪北不知處
は、したがって、一見絢爛たる『維摩経』的イメージの世界のよ
懐 」の 詩 中 で あ る 。ま ず 、最 初 に 使 わ れ た「 歳 暮 雜 感 」を 見 よ う 。
暮雜感」においてであり、もう一箇所は同じ上巻の「新正三日書
綈袍恥受故人憐
凍を忍ぶ空斎
綈袍
残年を照らす
故主に帰る
散逸の図書
夜眠らず
故人の憐み
うであるが、実は仏教的な悟りの世界を表現しているわけではな
らの詩作を道家の思想や維摩の悟りと重ね合わせて表現している
忍凍空齋夜不眠
このように、五峰は『維摩経』と道家・道教の語彙を用い、自
が 、そ れ は 道 家 的 思 想 自 体 を 、ま た 、
『 維 摩 経 』的 悟 り 自 体 を 求 め
闃寥たる灯火
散逸圖書歸故主 圖書遭盜近日皆返
閴寥燈火照殘年
恥じて受く
『 五 峰 遺 稿 』の 編 集 順 か ら 推 測 す れ ば 、五 峰 二 三 歳 の 作 詩 で あ る 。
峰遺稿』には二回使われている。最初は『五峰遺稿』上巻の「歳
次に、
「 病 禪 」と い う 言 葉 に つ い て 考 え て み た い 。こ の 言 葉 は『 五
38
い。詩の境地を表すイメージとして結実しているのである。
髣髴散花天女來
37
ていたからではない。あくまで求められているのは詩作における
「 妙 想 」で あ っ て 、自 ら の 詩 の 世 界 の 中 で 、道 家 的 隠 逸 思 想 と『 維
摩経』的悟りの融合することが求められているのである。このこ
(30)
36
現代社会文化研究 No.55 2012 年 12 月
誰か知らん范叔が真の寒士な
重用される。魏は范叔を死んだと思っていた。ある日、魏の使者
り、范叔に罰を加えた。范叔は魏を逃げ、秦に入って相となり、
自ら笑う
え、細民の格好で須賈に会いに行った。須賈は驚き、范叔の貧し
として、須賈が秦に入り、范叔がそれを聞いて、襤褸の服を着替
誰知范叔眞寒士
るを
自笑維摩是病禪
戸の隙に繽紛として飛雪入る
維摩の是れ病禅なりと
戸隙繽紛飛雪入
い身なりを見て、哀れに思い、自分の綈袍を范叔に与えた。この
居然として身
散花の前に坐る
居然身坐散花前
分かり、その場で、范叔に謝罪する。范叔は「あなたには罪が三
後 、須 賈 が 秦 の 相「 張 禄 」に 会 い 、
「 張 禄 」が「 范 叔 」の こ と だ と
大意は以下の通りである。恥ずかしいことに綿入れの着物を友
五 峰 詩 の「 綈 袍 恥 受 故 人 憐 」は 、
『 史 記 』の こ の 記 事 を 踏 ま え た
つあるけれども、先日、旧友の情けから綈袍をくれた。それで、
てきた。物寂しく静かなともし火が残りの年を照らしている。一
ものである。すなわち、范叔が宰相の身でありながら、貧寒の人
人からもらった。がらんとした部屋で寒さに耐え、夜になっても
体、誰が范叔のことを本当に貧しい人物だと思うだろうか。これ
に 身 を や つ し(「 范 叔 一 寒 如 此 哉 ! 」)、旧 友 の 須 賈 か ら 一 枚 の 綈 袍
あ な た の 罪 を 追 及 し な い こ と に す る 。」 と 言 っ た 。
は維摩居士の病禅のようなものだと思い、自ら笑う。戸の隙間か
をもらったという故事である。五峰も友人から綿入れの着物をも
(31)
眠れない。先日、盗難に遭って散逸した図書が自分の手元に帰っ
ら雪が繽紛と入ってくるが、安らかな気持ちで花のように散る雪
らって、起聯の後半「忍 凍 空 齋 夜 不 眠 ( 凍を忍ぶ空斎
ら ず )」に 描 か れ て い る よ う に 寒 さ を 何 と か し の い で い る が 、本 来
夜眠
の前に坐っている。
この七言律詩の起聯の前半、
「 綈 袍 恥 受 故 人 憐 」に 出 て く る「 綈
の自分は范叔同様、単なる貧乏人ではないという気概がこの詩句
(
) 范睢蔡澤列伝第
』(
袍」という語句の典拠は、司馬遷の『史記
にこめられているだろう。
の図書
閴 寥 燈 火 照 殘 年( 散 逸
睢(字叔)が先に魏の大臣・須賈に仕えた。ある時、范叔が須賈
という対句になっている。詩中の注釈が語っているように、盗難
次の前聯は、
「散 逸 圖 書 歸 故 主
とともに、魏の使者として斉国に行った。斉の襄王が范叔の才能
に遭った図書が先日、全部帰ってきた。詩人・文人の五峰にとっ
残 年 を 照 ら す )」
のことを聞いて、金銭と酒を范叔に賜った。須賈がそのことを耳
て は 、喜 ぶ べ き こ と で あ る 。と も し 火 が「 殘 年 」を 照 ら し て い る 。
闃寥たる灯火
にして怒り、范叔が魏を裏切ったのではないかと疑った。魏に帰
「 殘 年 」は 年 末 を 意 味 し 、ま た 、人 生 の 晩 年 を 意 味 す る 言 葉 で あ
故主に帰る
国した後、須賈が斉でのことを魏の相に報告すると、魏の相は怒
略 )」と 書 か れ て い る 。あ ら ま し を 記 す と 、戦 国 の 魏 の 人 で あ る 范
一 九 ) で あ る 。 そ こ に は 、「( 前 略 ) 以 綈 袍 纞 纞 、 有 故 人 之 意 ( 後
39
漢詩人としての阪口五峰(田春娟)
るが、ここではまさに一年が尽きようとしているという意味にと
仏 門 に 入 る わ け に は い か な い だ ろ う 。そ の 気 持 ち が あ る と し て も 、
居然身坐散花前
戸隙繽紛飛雪入
実現できないわけである。
(傍点著者)
るべきであろう。後聯を見よう。
.士
.
誰知范叔眞寒
.禪
.
自笑維摩是病
結聯の後半では、
「 散 花 」と い う 言 葉 が 使 わ れ て い る 。雪 の 乱 れ 入
これはこの七言律詩の結聯である。右記の雪国の話とともに見
こ こ に 、「 病 禪 」 と い う 語 句 が 登 場 す る 。「 梅 花 丈 室 歌 」 で 述 べ
る 情 景 を 比 喩 的 に 描 い て い る と 考 え ら れ る が 、前 述 し た 五 峰 詩「 梅
「寒士」とは、貧しいが人格高潔である人物を指す語として使
たように、
『 維 摩 経 』で は 文 殊 菩 薩 が 病 気 の 維 摩 居 士 を 見 舞 い に 行
花 丈 室 歌 」の 最 後 の 一 句 で あ る「 髣 髴 散 花 天 女 來 」を も 連 想 さ せ 、
れば、雪が戸の隙間から舞い入り、乱れ落ちて来た風景を描いて
くことになっているが、実は、維摩居士は本当に病気になったわ
さらに『維摩經』の「散花天女」まで連想させるだろう。天女か
われているが、同時に雪国新潟の年末の寒さに耐えている自分を
け で は な い 。『 維 摩 経 』 で は こ の こ と を 、「 其 れ は 方 便 を 以 っ て 身
ら撒いた花のように降り注ぐ雪の中、じっと坐っている身は禅僧
い る 。吹 雪 さ な が ら の 世 界 を 読 者 の 目 の 前 に 展 開 し て い る だ ろ う 。
に 病 あ る を 現 ず 」(「 方 便 品 」 第 二 ) と 書 い て い る 。 そ れ は 法 を 解
の座禅中の姿のようにも見える。体を動かさず心も動かさず安ら
41
(32)
現す表現だと考えられる。
くための方便であり、維摩は見舞いに来た客に法を説いたのであ
かに静かにずっと座り込む五峰の年末心境が、このイメージによ
」)
る。
「 病 禅 」と は 、あ ま り 用 い ら れ た 例 の な い 言 葉 で あ り 、五 峰 の
懐を書す
鳥語の邊
(
って表されていると考えられる。
である。
新正三日書懐
淑氣先ず通ず
新正三日
次 に 「 病 禪 」 と い う 語 句 が 出 て く る 詩 は 、「 新 正 三 日 書 懐
造 語 か と 思 わ れ る が 、病 を 方 便 と し た 維 摩 の 禅 を 指 す の で あ ろ う 。
自らを、なかば冗談のように、維摩居士の「病禅」になぞらえて
いるのである。
五峰は一八歳の時に、すでに地租改正のため、奔走し、また、
淑氣先通鳥語邊
二〇歳の年に、すでに郡会の議員になり、さらに、明治一二年即
ち五峰二一歳の時に、新潟米商会所(今の米穀取引所前身)頭取
辛盤
接上す誕辰の筵
辛盤接上誕辰筵
(
。)社 会 人 に な っ た ば か り の 五 峰 が 、実 際 に
の代理となっている
40
現代社会文化研究 No.55 2012 年 12 月
開春蕩蕩たり第三日
從謝後
本詩の中で最初に注目したい言葉は、頸聯の冒頭の「慧業竟應
開春蕩蕩第三日
落地匇匇たり二五年
こ の 語 句 の 典 故 は 、『 宋 書
』) の 以 下 の 叙 述 で あ る 。
道應須慧業文人、生天當在靈運前、成佛必在靈運
太 守 孟 顗 事 佛 精 懇 、 而 為 靈 運 所 輕 、 嘗 謂 顗 曰 :「 得
(
才 名 肯 道 愧 盧 前 」と い う 対 句 に 登 場 す る「 慧 業 」で あ る 。
落地匇匇廿五年
慧業は竟に謝の後に從ふべく
才名は肯て盧の前にあるを愧ずと道は
慧業竟應從謝後
才名肯道愧盧前
ん
蕭然たる丈室
梅花の下
蕭然丈室梅花下
後。」顗深恨此言。
大意は以下の通りである。太守である孟顗は仏教に仕えるのが
笑ひて署す頭銜是れ病禅
大意は、和やかな新春の雰囲気が先ず鳥の鳴き声のあたりに感
大変熱心なものの、
( 謝 )霊 運 に は 軽 視 さ れ て い た 。あ る 時( 謝 霊
だしく二五年を過ごしてきた。慧業はやはり謝(霊運)には及ば
ゆったりしたこの三日に私はこの世に生まれ出て、以来、あわた
っ た が 、仏 と な る の は き っ と 私 の 後 に な る だ ろ う 。」と 言 っ た 。顗
るべきだ。あなたが天に生まれたのはまさに霊運より前のことだ
運が)孟顗に「悟りを会得するにはまさに教理に通じた文人であ
(
ず、才名は盧(照鄰)の前にあることを愧じなければならない。
はこの言葉を深く憎んだ。
「慧業」という言葉は、本来仏の知恵に裏付けられた行為を、
ている。頷聯の「開春蕩蕩第三日
落地匇匇廿五年」という対句
辰筵 と
」 始 ま り 、和 や か な 誕 生 祝 い の 宴 の 様 子 が 目 の 前 に 展 開 さ れ
ばないだろうという意味になる。しかし、頸聯の後半「才名肯道
く )」と い う の は 、自 分 の 仏 教 に つ い て の 知 識 は つ い に 謝 霊 運 に 及
頸聯の前半である「慧業竟應從謝後(慧業は竟に謝の後に從ふべ
さ ら に は 仏 教 の 教 理 に 通 じ て い る こ と を 意 味 す る 。そ う 考 え る と 、
をなす点からすれば、この詩は五峰の二五歳の七言律詩だと推定
愧 盧 前( 才 名 は 肯 て 盧 の 前 に あ る を 愧 ず と 道 は ん )」と い う こ と か
辛盤接上誕
できる。事実、五峰年表によると、誕生日は一月三日であり、こ
ら す れ ば 、「 慧 業 」は 、単 に 文 業 の こ と を 言 っ て い る よ う に 見 え る 。
』) に 左 の よ う な 記 述 が 見 え る 。
の詩は誕生日にちなんで作られたものであろう。新春の穏やかな
(
次 に 、「 盧 前 」 と い う 言 葉 で あ る が 、 こ れ に つ い て は 、『 舊 唐 書
つ ま り「 新 正 三 日 書 懐 」詩 に は 、 淑
「 氣先通鳥語邊
れ ば な ら な い と す れ ば 、 笑 っ て 、「 病 禅 」 と 記 す の で あ る 。
物寂しい狭い居室は梅の花の下にあり、若し仮に、署名をしなけ
じ ら れ る 。五 辛 盤
が) 私 の 誕 生 日 の 宴 に 次 々 と 出 て く る 。新 春 の
笑署頭銜是病禪
43
三日目に生まれてから、あわただしく二五年の年月が経ってしま
ったという誕生日における感慨が表されている。
44
(33)
42
漢詩人としての阪口五峰(田春娟)
烱與王勃、盧照鄰、駱賓王以文詞齊名、海內稱
為 王 楊 盧 駱 、 亦 號 為 「 四 傑 」。 烱 聞 之 、 謂 人 曰 :「 吾
(
。)王 の 著
集『舟江雜詩』を編輯し、注をつけて出版した。清末の在日文人
の 中 で も 、三 〇 年 間 と い う 滞 在 期 間 最 長 の 人 物 で あ る
作は極めて少なく、この『舟江雜詩』は、王にとっては唯一の刊
ていたが、世評は「王、楊、盧、駱」の順番で呼んでいた。楊烱
楊烱は王勃、盧照鄰、駱賓王とともに文章や詞などで名を馳せ
業績に対して五峰の抱いた自負心と自尊心は、想像に難くない。
の手で出版されたのは、ただの偶然ではないと考えられる。この
題詩などが、大量に残されたにもかかわらず、唯一の詩集が五峰
愧在盧前、恥居王後。」
がそれを聞いて、人に「私は盧(照鄰)の前に自分が位置づけら
詩の頸聯からうかがわれるのは、このような五峰の青年期の客気
行資料になる。三〇年間にわたる、詩の評点や詩集の序や題詞・
れることを恥ずかしく思い、一方、王(勃)のような人物の後に
である。
蕭然丈室梅花下
正三日書懐」の尾聯は、
最 後 に 、 注 目 し た い の は 、「 丈 室 梅 花 」 と い う 言 葉 で あ る 。「 新
自 分 が 位 置 づ け ら れ る の も 恥 ず か し い 。」と 嘆 い た 、と い う こ と で
ある。
こ の 記 述 か ら す れ ば 、前 半 の「 慧 業 竟 應 從 謝 後 」の「 慧 業 」も 、
る 。「 梅 花 丈 室 歌 」 に お い て も 、 自 ら を 維 摩 に 喩 え 、「 道 人 」 と 称
笑署頭銜是病禪
文業についてのことを比喩的に述べているのではないかと思われ
しながらも、仏教のことを述べているのではなく、詩作のことを
な自負心と自尊心との高さが感じられる。五峰の漢詩は、二一歳
同時に、二五歳になったばかりの人物の言葉としてみれば、相当
自分の作詩才能に対する謙遜の気持ちが表現されたと見てよい。
に出ることを恥じると述べたのは、先人に対する尊敬の気持ちと
て 、 自 ら を 、 智 恵 は 無 論 、「 謝 」 の 後 に 従 い 、 詩 才 が 「 盧 」 の 前
の深さを表すとともに、五峰の部屋が維摩の「丈室」になぞらえ
女散花」などの仏語が用いられ、五峰の『維摩經』に対する関心
摩經』の「衆香國」や「文殊問疾」や「八萬由旬須彌山」や「天
と 題 す る 別 詩 を 連 想 さ せ る だ ろ う 。そ の「 梅 花 丈 室 歌 」に は 、
『維
この「丈室梅花」という言葉は、先述した五峰の「梅花丈室歌」
と な っ て い て 、そ の 前 半 に 、「 丈 室 梅 花 」と い う 言 葉 が 出 て く る 。
言っていたことが参考になろう。五峰が「新正三日書懐」におい
の時、明治詩壇を一新した森春濤の「新文詩」に初めて掲載され
ら れ て い た 。こ の 尾 聯 の 後 半 に 、
「 歳 暮 雜 感 」で 用 い ら れ て い た「 病
(
禪 」と い う 言 葉 が 再 び 登 場 す る 。
「 笑 ひ て 署 す 頭 銜 是 れ 病 禅 」。
「歳
(34)
46
。) さ
た 。 当 時 「 新 文 詩 」と い え ば 、 唯 一 無 二 の 漢 詩 雑 誌 だ っ た
らに二五歳の時には、清人・王治本(一八三五~一九〇七)の詩
45
現代社会文化研究 No.55 2012 年 12 月
禅」
( 笑 ひ て 署 す 頭 銜 是 れ 病 禅 )と い う 詩 句 は 、句 の 構 造 自 体 類 似
と、それから一年余りがたった二五歳の誕生日の「笑署頭銜是病
「 自 笑 維 摩 是 病 禪 」( 自 ら 笑 う
維摩の是れ病禪)という詩句
病を使って道を説いた維摩に擬しているのである。
「 歳 暮 雜 感 」の
う く ら い の 意 味 で あ ろ う 。冗 談 半 分 に 自 ら を 、
「 病 禪 」す な わ ち 仮
いであろう。
「 頭 銜 」は 一 般 に 官 職 名 を 言 う が 、こ こ で は 自 称 と い
られていたが、基本的には同じ意味で用いられていると考えてよ
暮雜感」では「病禪」は維摩の方便としての病という意味で用い
うな、禅の「妙悟」と詩の「妙悟」が一致する境地を求めていた
った理由もここにあるに違いない。五峰は『滄浪詩話』にあるよ
「飮中八仙歌」の「逃禪」に注目した訳も、維摩の「病禪」を語
摩経』に対する探究の理由になったのではないか。五峰が杜甫詩
通 性 の 話 を 読 ん だ こ と が あ る と し た ら 、こ れ が 五 峰 の 仏 教・禅・
『維
詩 話 』に あ る「 禪 道 惟 在 妙 悟 、詩 道 亦 在 妙 悟 。」と い う 禅 と 詩 の 共
の目指す境地は同じであるということになる。仮に五峰が『滄浪
と述べられている。嚴羽の作詩に対する理論では、参禅と作詩
最初に述べたように、五峰の詩にはこのほかに様々な禅につい
のである。
いう内容自体は変化していない。
「 病 禅 」と は 言 う も の の 、仏 教 の
ての言及がなされているが、紙幅の都合で、本稿ではそのすべて
>
に迫ってゆきたい。
注
<
「 禅 」字 の 表 現 は 違
( 『
) 五 峰 遺 稿 』上 巻 に 収 録 さ れ て い る 詩 で あ る が 、
うが、タイトルは前の詩と同じである。つまり、同じ題目で作詩した
のである。
一八
( 阪
) 口献吉編輯『五峰餘影』新潟新聞社、昭和四年一一月三日
〇~一八一頁。
( 前
) 掲『五峰餘影』一七九頁。
( 市
) 島謙吉の号である。
( 坂
) 口 献 吉 編 輯 兼 発 行『 五 峰 遺 稿( 上 )』日 清 印 刷 株 式 会 社 、大 正 一 四
年一〇月二五日 五丁オ。
( 阪
) 口献吉編輯『五峰餘影』新潟新聞社、昭和四年一一月三日、二四
頁。
(35)
しているが、自らを病を方便として禅を説く維摩になぞらえると
教理や悟りを意味しているのではなく、
「 梅 花 丈 室 歌 」の 用 例 と 同
「) 詩 辨 」 で は 、
借りて論じ、五峰の漢詩人としての「禅」に対する態度の全体像
を論ずることはできなかった。これらについては、また別な場を
四首と、維摩と関係する「梅花丈室歌」に注目し、典拠などを通
本 論 で は 、 五 峰 の 「 逃 禅 」、「 病 禅 」 と い う 語 句 が 出 て く る 漢 詩
結びにかえて
様、詩の境地を表現しているものと考えられる。
)
1
2
じて、五峰の詩と禅仏教の関係を分析した。
(
日本には「詩禅一味」という表現があるが、同様のことが宋の
嚴 羽 ( 約 一 一 九 二 ~ 一 二 四 三 )『 滄 浪 詩 話 』
(
( 前 略 )大 抵 禪 道 惟 在 妙 悟、詩 道 亦 在 妙 悟。
( 中 略 )然 悟 有 淺
深 、 有 分 限 、 有 透 徹 之 悟 、 有 但 得 一 知 半 解 之 悟 。( 後 略 )
48
5 4 3
6
47
漢詩人としての阪口五峰(田春娟)
( 『
) 全唐詩』中華書局 一九六〇年四月 第四冊 巻二一六 二二五
九~二二六〇頁。
( 諸
) 橋轍次『大漢和辞典』修訂第二版 巻一一 大修館書店 平成一
一年一〇月二〇日 四〇~四一頁 ①禪にのがれる。浮世を脱出して
禪に入る。僧侶の生活をする。②禪をのがれる。酒をのんで、佛戒に
そむき離れる。③禪のこと。
( 黄
) 永 武 博 士 主 編『 杜 詩 叢 刊 』台 湾 大 通 書 局 印 行、一 九 七 四 年 一 〇 月 。
( 『
) 杜詩叢刊』の『杜詩詳註』清、仇兆鰲輯註 文史哲出版社 二二
二頁 (前略)持齋而仍好飮、晋非真禪、直逃禪耳。逃禪猶云逃墨逃
楊 是 逃 而 出 非 逃 而 入 ( 後 略 )。
( 『
) 杜 詩 叢 刊 』の『 分 門 集 註 杜 工 部 詩( 二 )』宋 、闕 名 集 註 上 海 涵 芬
樓借南海潘氏藏宋刊本 七六五頁。
『 杜 詩 叢 刊 』 の 『 刻 杜 少 陵 先 生 詩 分 類 集 註 ( 五 )』 明 、 邵 寶 集 註 明 、
萬暦廿三年呉周子文刊本 二〇四六頁。
『 杜 詩 叢 刊 』の『 集 千 家 註 分 類 杜 工 部 詩( 二 )』 宋 、徐 居 仁 編 黄 鶴 補
註 九七〇頁。
『 杜 詩 叢 刊 』の 『 唐 李 杜 詩 集( 三 )』明 、邵 勳 編 明 、嘉 靖 二 十 一 年 無
錫知縣萬氏刊本 台湾大通書局印行 八二九頁。
『 杜 詩 叢 刊 』の 『 纂 註 杜 詩 澤 風 堂 批 解 ( 一 )』朝 鮮 、 李 植 批 解 清 、 康
煕十八年朝鮮李氏家刊本 一一九頁。
『 杜 詩 叢 刊 』 の 『 草 堂 詩 箋 ( 千 家 注 杜 詩 )( 上 )』 宋 、 魯 訔 編 次 宋 、
蔡夢弼會箋 廣文書局印行、一九七一年九月 四〇頁。
『 杜 詩 叢 刊 』 の 『 欽 定 四 庫 全 書 九 家 集 註 杜 詩 ( 一 )』 一 〇 九 頁 。
( 森
) 槐南『杜詩講義 下巻』文會堂書店 大正元年一一月 六一三~
六一四頁。
( 坂
) 口 献 吉 編 輯 兼 発 行『 五 峰 遺 稿( 上 )』日 清 印 刷 株 式 会 社 、大 正 一 四
年一〇月二五日一五丁オ~ウ。
「佛前飮酒浩然有得次張船山韻」
百年賤辱老蒿萊
百年 辱賤 老い蒿萊
面目唯能保本來
面目 唯能く本来を保つ
擧世驚猜真怪物
挙世 驚猜 真怪物
受人憐惜豈奇才
人に受けること 憐惜 豈 奇才ならんや
禪追蘇晋逃于酒
禅 蘇晋を追い 酒に逃げる
詩仿長江祭以杯
詩 長江に仿い 祭るに杯を以てす
債鬼満前齊叩首
債鬼 前に満ち齊に叩首す
先生笑坐亂書堆
先生 笑ひ坐って乱書堆し
「 推 」を 改 め て「 敲 」に し よ う
( 賈
) 島 は「 僧 推 月 下 門 」の 句 を 得 た が 、
か と 迷 っ て 韓 愈 に 問 い 、「 敲 」 の 字 に 決 め た と い う 故 事 で 有 名 。
馮 贄 撰 『 雲 仙 雜 記 』( 四 部 叢 刊 続 編 子 部 ) 巻 四 「 祭 詩 以 酒 脯 」
( 唐
)
上海書店、一九八四年一二月。
( 高
) 楠 順 次 郎 編『 大 正 新 脩 大 藏 經 』普 及 版 第 一 四 巻『 維 摩 詰 所 説 經 』
姚秦三藏鳩摩羅什譯 大正新脩大蔵経刊行会 一九八八年~一九八九
年。
( 坂
) 口 献 吉 編 輯 兼 発 行『 五 峰 遺 稿( 上 )』日 清 印 刷 株 式 会 社 、大 正 一 四
年一〇月二五日 四丁ウ~五丁オ。
( 心
) が無念無想であれば、自ら真理に到達することが出来るという喩
え。
「 應 帝 王 」に「 南 海 之 帝 爲 儵 、北 海 之 帝 爲 忽 、中 央 之 帝 爲 渾
( 『
) 荘子』
沌、儵與忽、時相與遇於渾沌之地、渾沌待之甚善、儵與忽謀報渾沌之
徳、曰、人皆有七竅、以視聴食息、此獨無有、嘗試鑿之、日鑿一竅、
七 日 而 混 沌 死 。」
( 由
) 旬とは、古代インドの距離測定の単位である。一由旬は七マイル
または九マイルとする。
( 仏
) 教 の 世 界 説 で 、世 界 の 中 心 に そ び え 立 つ と い う 高 山 。海 中 に あ り 、
高さは八万由旬。
( 人
) 名 、 匡 衡 の こ と 。 匡 衡 は 前 漢 の 政 治 家 、 生 没 年 不 詳 。『 漢 書 』( 巻
八 一 匡 張 孔 馬 傳 第 五 一 )に「 無 説『 詩 』、匡 鼎 来 。匡 説『 詩 』、解 人 颐 。」
と い う 叙 述 が あ る 。「 匡 衡 鑿 壁 」 の 話 で 有 名 。
( 大
) 乗仏教経典の一つで、サンスクリット本、チベット語訳と 種の
漢 訳 支( 謙 訳 、鳩 摩 羅 什 訳 、玄 奘 訳 が) 現 存 す る 。一 般 に 用 い ら れ る の は
鳩 摩 羅 什 訳『 維 摩 詰 所 説 経 』 で あ る 。内 容 は 明 ら か に 般 若 経 典 群 の 流
れを引いているが、大きく違う点は、一般に般若経典は呪術的な面が
強く経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそうい
う面が希薄である。中インド、バイシャーリーの長者ヴィマラキール
テ ィ 維( 摩 詰 、 維 摩 、 浄 名 が
) 病気になったので、釈迦が菩薩や弟子達
に見舞いを命じるが、以前に維摩にやりこめられているため、誰も理
由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩
と 対 等 に 問 答 を 行 い 、最 後 に 維 摩 は 究 極 の 境 地 を 沈 黙 に よ っ て 示 し た 。
全編戯曲的な構成の中に旧来の仏教の固定性を批判し、在家者の立場
から大乗の空の思想を高揚した初期大乗仏典の傑作である。中国、日
本 で 広 く 親 し ま れ 、聖 徳 太 子 の 三 経 義 疏 の 一 つ『 維 摩 経 義 疏 』を 始 め 、
注釈も多い。
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現代社会文化研究 No.55 2012 年 12 月
( 十
) 笏とは笏を十箇容れる程の広さを意味する。笏は束帯の時、帯に
插すもの。
(『 大 正 新 脩 大 藏 經 』)
( (
) 宋 )重 顯 頌 古 克 勤 評 唱『 佛 果 圓 悟 禪 師 碧 巖 録 』
「維摩示疾於毘耶離城也。唐時王玄策使西域過其居。遂以手板縱横量
其室得十笏。因名方丈。」二一〇頁。
( 『
) 維摩詰所説經』巻下 姚秦三藏鳩摩羅什譯 香積佛品第十 五五
二頁 (前略)有國名衆香。佛號香積。今現在。其國香氣比於十方諸
佛 世 界 人 天 之 香 最 爲 第 一 。彼 土 無 有 聲 聞 辟 支 佛 名 。唯 有 清 浄 大 菩 薩 衆 。
佛爲説法。其界一切皆以香作樓閣。經行香地苑園皆香。其食香氣周流
十 方 無 量 世 界 。( 後 略 )。
(前略)衆香という国がある。そこの仏は香積と号し、いまも現にま
します。その国の香気は十方の諸仏の世界における人間や天人どもの
香に比べてみても、最もすぐれ第一のものである。その国土には、教
えを聞くのみの修行僧や、ひとりでさとりを開く修行者がいるとは聞
いていない。ただ清らかな大菩薩のかたがたのみがおられ、仏はかれ
らのために法を説きたもう。その世界の一切のものどもは、みな香を
もって楼閣を作り、香りよりなる地をそぞろ歩きし、庭園もみな香ば
し い 。そ の 食 物 の 香 気 は 十 方 の 無 量 の 世 界 に あ ま ね く 流 れ て い る 。
(後
略 )中 村 元 訳 者 代 表『 世 界 古 典 文 学 全 集 第 七 巻 仏 典 Ⅱ 』筑 摩 書 房 、
昭和四〇年七月 四四頁を参考にする。
( 『
) 維摩詰所説經』巻中 姚秦三藏鳩摩羅什譯 文殊師利問疾品第五
五 四 四 頁 そ の 時 、仏 が 文 殊 菩 薩 に 告 げ た も う た 、
「あなたが維摩詰の
ところへ疾の様子を問い、見舞いに行ってもらいますか。中村元訳者
代表『世界古典文学全集 第七巻 仏典Ⅱ』筑摩書房、昭和四〇年七
月 二四頁を参考にする。
( 『
) 維摩詰所説經』巻中 姚秦三藏鳩摩羅什譯 不思議品第六 五四
六頁。
( 中
) 村元訳者代表『世界古典文学全集 第七巻 仏典Ⅱ』筑摩書房、
昭和四〇年七月 二九~三〇頁を参考にする。
( 前 略 )こ こ か ら 東 の 方
に、ガンジス河の砂の数の三十六倍もあるほど多くの国をすぎたとこ
ろに、須弥相という名の世界があります。その仏を須弥燈王と号し、
今も現にまします。かの仏の身体はたけが八万四千ヨージャナありま
す。その獅子座の高さは八万四千ヨージャナあり、美しく飾られてい
る こ と 、 第 一 で す 。 と ( 文 殊 は 答 え た 。) そ こ で 長 者 ・ 維 摩 が 神 通 力 を
現じたところが、即時にかの仏は、高く広く美しく飾られ浄らかな三
万 二 千 の 獅 子 座 を 送 っ て 来 て 、 維 摩 の 室 に 入 ら せ た も う た 。( 後 略 )。
( 拙
) 稿「 漢 詩 人 と し て の 阪 口 五 峰
『現代社会文化研究』第五十二号
竹を題材とした詩についてー ―
」
――
二〇一一年一二月 (15)頁。
( (
) 宋 ) 釋 道 原 撰 『 景 徳 傳 燈 録 』『 大 正 新 脩 大 藏 經 』 三 九 〇 頁 。
( 『
) 維摩詰所説經』巻中 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀衆生品第七 五四
七頁~五四八頁 (前略)そのとき維摩の室にひとりの天女がいた。
もろもろの立派な人々を見て、説かれた法を聞いて、その身を現じ、
天の華をもろもろの菩薩・大弟子たちの上に散じた。これらの華が、
もろもろの菩薩のところに至ると、すぐに皆落ちてしまった。ところ
が、それらの華が大弟子たちのところに至ると、かれらに著いて、落
ちなかった。一切の大弟子たちが神通力によって華をとり去ろうとし
たけれども、とり去ることができなかった。そのとき天女はシャーリ
プ ト ラ に 問 う た 、「 ど う し て 華 を と り 去 ろ う と な さ る の で す か 。」 シ ャ
ーリプトラは答えた、
「 こ れ ら の 華 は 、修 行 僧 に は ふ さ わ し く な い も の
で す 。 だ か ら 、 こ れ を と り 去 ろ う と す る の で す 。」 天 女 は 言 っ た 、「 こ
れらの華を「修行僧にふさわしくない」とお考えになってはいけませ
ん。なぜかと申しますと、これらの華は分別するはたらきがないので
す。ところがあなたが自分で分別の想を生じておられるだけです。も
し も 仏 法 に お い て 出 家 し た の に 、し か も 分 別 す る と こ ろ が あ る な ら ば 、
それこそ「修行僧にふさわしくない」ことなのです。もしも分別する
はたらきがなければ、それはすなわち「ふさわしい」ことなのです。
もろもろの菩薩がたをみますに、華がつかないのは、すでに一切の分
別 の 想 を 断 じ て お ら れ る か ら で す 。」( 後 略 ) 村 元 訳 者 代 表 『 世 界 古 典
文学全集 第七巻 仏典Ⅱ』筑摩書房、昭和四〇年七月 三三~三四
頁。
( 『
) 漢語大詞典』繁体版 聯合出版集団 二〇〇二年 「道人」の項
目に以下のように解釈してある。
「 1、有 極 高 道 德 的 人。2、煉 丹 服 藥 、
修道求仙之士。3、道教徒道士。4、佛教徒、和尚。5、佛寺中打雜
的人。」
( 森
) 槐南『杜詩講義 下巻』文會堂書店 大正元年一一月 八七一頁
を参考にする。
( 阪
) 口献吉編輯『五峰餘影』新潟新聞社、昭和四年一一月三日 二六
六~二六七頁。
「 應 帝 王 」に「 南 海 之 帝 爲 儵 、北 海 之 帝 爲 忽 、中 央 之 帝 爲 渾
( 『
) 荘子』
沌、儵與忽、時相與遇於渾沌之地、渾沌待之甚善、儵與忽謀報渾沌之
徳、曰、人皆有七竅、以視聴食息、此獨無有、嘗試鑿之、日鑿一竅、
七 日 而 混 沌 死 。」
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漢詩人としての阪口五峰(田春娟)
( 前
) 掲 『 五 峰 遺 稿 』( 上 ) 九 丁 オ 。
( 坂
) 口 献 吉 編 輯 兼 発 行『 五 峰 遺 稿( 上 )』日 清 印 刷 株 式 会 社 、大 正 一 四
年一〇月二五日 一二丁オ。
( (
) 漢)司馬遷撰(宋)裴駰集解(唐)司馬貞索隱(唐)張守節正義
『史記』巻七九 范睢蔡澤列伝第一九 中華書局 一九八二年一一月
二四〇一~二四一四頁。
( 前
) 掲『五峰餘影』二二~二三頁。
( 坂
) 口 献 吉 編 輯 兼 発 行『 五 峰 遺 稿( 上 )』日 清 印 刷 株 式 会 社 、大 正 一 四
年一〇月二五日 一二丁オ。
( 大
) 皿・五種の辛物を盤に盛ったもの。元日に之を食べば、五脳の気
を通じ、健康を保つという。五辛菜のこと。
( (
) 梁 )沈 約 撰 楊 家 駱 主 編『 宋 書 』卷 六 七 列 傳 第 二 七 / 謝 靈 運 荀
雍 羊 璿 之 何 長 瑜 / 山 居 賦 一 七 七 五 ~ 一 七 七 六 頁 又 、 唐( 李) 延 壽
撰 楊 家 駱 主 編『 南 史 』卷 一 九 列 傳 第 九 / 謝 靈 運 何 長 瑜 孟 顗 孫
超宗 曾孫才卿 幾卿 五四〇頁には同じ叙述がある。
「太守孟顗事佛
精 懇、而 為 靈 運 所 輕、嘗 謂 顗 曰:
「 得 道 應 須 慧 業、丈 人 生 天 當 在 靈 運 前 、
成佛必在靈運後。」顗深恨此言。」
( (
) 後晋)劉昫撰 楊家駱主編『舊唐書』卷一九〇上 列傳第一四〇
上/文苑上/楊烱 五〇〇三頁。
( 前
) 掲『五峰餘影』二六頁。
( 王
) 宝平主編『中日詩文交流集』上海古籍出版社 二〇〇四年一〇月
四~五頁。
( ) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590380 市 野 沢 寅 雄 『 滄 浪 詩 話 』明
徳出版社、一九七六年七月 二一~二五頁
郭紹虞校釋『滄浪詩話
校釋』人民文学出版社、一九六一年五月 一二頁を参考にする。
( 前 略 )大 抵 禅 道 は 惟 だ 妙 悟 に あ り 、詩 の 道 も 亦 妙 悟 に あ
( 書
) き 下 し:
り 。( 中 略 ) 然 れ ど も 悟 浅 深 あ り 、 分 限 あ り 。 透 徹 の 悟 あ り 、 但 一 知 半
解 の 悟 を 得 る あ り 。( 後 略 )。
主 指 導 教 員 ( 佐 々 木 充 教 授 )、 副 指 導 教 員 ( 廣 部 俊 也 准 教 授 ・ 岡 村 浩 准 教
授)
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