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研究連絡誌 第71号の2
古 代 東 国 の 交 通 網 一 大和 王 権 の道一 雨 小論では 6・ 7世 紀 に大和王権が東国 に設定 した二 宮 龍太郎 二 条 に貫附す。昔物部小事大連、 天朝 を錫節 し、 つの重要 な交通路 を論 じる。 これ らの路 線 を設定 し保 出て板束 を征す。凱歌 して帰報 し、此の勲功 を藉 安維持す ることを通 して、大和王権 は東国に対 して本 り、下総国に於 いて始めて匝瑳郡 を建 つ。傷て以 格的に介入する ことが可能になった。そのルー トの復 て氏 となす ことを得 しむる。是れ則 ち熊猪等の祖 原にあたっては、従来本 シリーズが採用 して きた古墳 な り。 間 をつ な い で路線 を復 原す る とい う方法 は通用 しな 記事 の構文 は前半 と後半 に分かれる。前半は物部匝瑳 い。 一般的に 6世 紀後半か ら 7世 紀初頭 までに、東国 連熊猪が改姓 され、京内に移貫 された事実 を記 し、後 の群集墳 は最盛期 を迎 える。その動向をとらえて束国 半は本来そ の理 由が述べ られるのだが、熊猪 の先祖 の 主要道 を復原 したのであるが、それはあ くまで も在地 功業が記 されるにとどまってお り、本人 の改姓 の理 由 勢力 の主 要道 である。 大和王権が企図 した ルー トは、 にはなってい ない。 もっと も、その詮索 をする余裕 は それ とはまった く無関係であ り、別途な コース をた ど な く、小論 にとって重要なのは後半部分 なので、 ここ っている。そ の復原方法 は、従来 の よ うに具体的に示 ではその史実性 を確認 しておこう。 す ことはで きない。それは、古墳分布 か ら推定 される 後半 の主 旨は物部小事大連が錫節 して、坂東 を征服 軌道 とは異な り、可視的な手がか りを求め られないか し、下総国匝瑳郡 を建てた とい う内容である。 ここで らである。 したが って、客観性・確実性 とい う点 では、 い う「錫節」 とは、大和 王権か ら遠征使節の手形 (し 従来 の方法 に比べ て見劣 りがするか もしれない。その る し)を 戴 くとい うほ どの意味 で ある。 この中には物 方法 とは政 治史 の枠組み の 中 で交通 史 を考察す るこ 部小事 の活動時期が知れれ ば、時代 を異 にする二つの と、交通 史 をそれ 自体 としてではな く、政治史の一分 事柄が含 まれて いる と考 えざるを得 ない。すなわち坂 野 として広い視野の 中で相対化 して い く作業である。 東 を征服する ことと、下総国匝瑳郡 を建てた こととは それを通 して交通史は趣味的で狭小 な特殊分野か ら脱 明 らかに別件 となるのである。 却 し、史学の王道 としての政 治史の一分科へ 組み込 ま 物部小事 は 『先代 旧事本紀』 の「天孫本紀」 によれ れるであろ う。本論 では第一 に大和 王権 の東国遠征 と、 ば、物部木蓮子連の弟で、木蓮子 は安閑天皇に妃 を入 第二 にそれに続 く国造制 の変容 を論 じ、第三にそれ ら れた実在 の人物 である に付随す る地方制度 上の新市Jと しての評制の整備過程 子条、今後 はたんに『書紀』と表記す る)。 したが って、 を取 り上げる。第四に これ らの政治史的考察 をふ まえ 小事 の実在性 もきわめて高 い。その ことは小事 の坂東 て、現地東国に関わる断片史料 を収集 し、関連す る考 遠征 も、史実 として認 めて よいのではなかろ うか。 か 古資料 とつ き合 わせて、東国の王権道路 を具体的に復 れが活躍 した地域 は 『後紀』 にあるとお り、後世の下 原 してみたい。 総国匝瑳郡 であったろ う。小事 が活躍 した年代 は、 木 (『 日本書紀』安 閑元年 3月 戊 蓮子 の弟 であることか ら 6世 紀後半 の早 い時期 に収 め 1 6世 紀後半の東国政治史 られよう。 とすれ ば、小事の事績 と大化以後 に促進 さ 1.常 総 の擾乱 れた建評政策 とは直接 にはつ なが らない。そ こには史 『続 日本後紀』承和 2年 (835)3月 辛酉条 に次の 書 の記事 に見 うけが ちな短絡性 を認 め ざるを得 な い が、改姓 された熊猪 の系譜 を復原すれば、物部連小事 よ うな改姓記事 がある。 下総国人陸奥鎮守将軍外従五位下勲六等物部匝瑳 ― ○○○○―物部匝瑳連熊猪 とな り、 この 中間に位置 連熊猪、連 を改め宿禰 を賜ふ。又本居 を改め左京 す る姓氏不明者 が下総国匝瑳郡 (評 )を 建 て、それを ―- 23 -― (1933) 契機 に物部連か ら物部匝瑳連 に改姓 されて熊猪 に至っ 以下の よ うに実名 で公 表 されてい る。 ・穂積 臣咋は官 の勢 い によって戸毎に公私 の物資を たのであろ う。そ のことか ら熊猪 は匝瑳郡の譜代郡司 一族 であった と思われる。 求 め取 った。その介 である富制臣 と巨勢臣紫檀 は 以上の論述か ら 6世 紀後半 の早 い時期 に大和王権 が 物部連 を派遣 して東国の下総 に侵攻 したことが明 らか 上司の不 正 を止めなかった 。巨勢徳禰臣 は百姓の戸毎 に物資を求め取 り、 さら になった と考 える。 この遠征 の具体的な対象 はだれで に田部の馬や国造の馬 を奪 った。その介 である朴 あ り、行軍が どの よ うな コース をた ど り下総国を侵略 井連 と押坂連 は上司の不 正 を糸Lさ ず、 上司 ととも し、それが房総全域 にどれほ どの影響 を与 えたかにつ にその利益 を享受 した。部下 の蔓直須爾はは じめ いては後論 で考察す るとして、以下では しば らくこの は上司 を諫めたが、やがて ともに不 正 をはた らい 事件が呼 び水 となった東国在地 の 国造制 の変容 につい た て考 えてみた い。国造制 の変容 の発端 となるのは、崇 。紀臣麻利者柁 は朝倉君 と井上君 の馬 を牽 き来 させ 峻 2年 (588)の 近江 臣満等 の東方諸方面 へ の 巡察行 て鑑 賞 した。 また朝倉君 に刀 を作 らせた り、その であるが、小 事等 の坂東遠征 とはおそ らく20∼ 30年 の 弓 ・布 を奪 った。 さらに国造が一括 して送 り寄 こ 隔た りがあ る。残念 なが らこの間の状況 を語 る史料 に した兵器類 を本主に戻 さず、国造に伝領 した。そ 恵 まれず、二つの事件 の関連 を具体的に考察す ること の うえ、任国や倭国で 自分 の刀 を盗 まれた。その は不可能 である。それ以後 の関連史料 の流れか ら、あ 介 三輪君大口 。河辺臣百依に も責任がある。 ・ 阿曇連 (欠 名)は 和徳史が病 になった時、国造に えて推測 をた くましくす れば、坂 東遠征以来20∼ 30年 をかけて、大和王権 は後世 の下総国匝瑳郡周辺 の 旧弊 命 じて官物 を送 らせ た。 また湯部 の 馬 を奪 った。 な諸支配関係 を清算 して国造制の再編 を行 い、東国の そ の介膳部臣百依 は官牧 の牧草 を私蔵 し、 さらに 諸他 の地域 に先駆 けて王権 に忠順 な部姓国造 を創 出 し 国造 の馬 を他人 の馬 と勝手 に取 り替 えた。 。大市連 (欠 名)は 菟碩 の住民 の訴訟 を聞 き、中臣 た。その具体相 は後述す るところであるが、一連のこ の事件 が、 6世 紀末 と思われる相模 ・ 武蔵地域 におけ 徳 の奴 の事件 を裁 い た。 ・涯田臣 (欠 名)は 倭国で 自分 の刀 を盗 まれた。 る同様 の改革 の先行 モデル となった と考 えられる。 こ うした「国司」たちを受け入れた在地 の 国造 の 中に 2.国 造制 の変容 も、詔に違反 して、賄賂 を国司の もとに贈 り不正 な利 大化元年 (645)8月 庚子、東方八道に赴任 した「東 益 を分けあっていたことが指摘 されてい る。 さて、以上延 々と『書紀』の記事 を意訳引用 したが、 国等国司」 を朝廷 に招集 して、有名 な詔が発せ られた (『 書紀』 による、以下 ことわ らないか ぎり同 じ)。 そ ここで注 目したいのは、派遣 された「国司」 と在地 の 国造 との、赤裸 々に具体的な関係描写 である。 の内容 は もう一 度派遣 された「国司」に与 えられた 7か 条 の ①任地 の人民 の戸籍 の作成 ② 田畑 の調査 使命 についてふ り返ってみ よ う。重要な点は二つ ある。 ③薗池水陸か ら生 じる利益の百姓 との共有 第一 に、それが「国司」に関わるものであれ、国造 に ④他人 の財産 を理由な く徴収 しない 在地行政体 の範囲や領域 につい て、 関 わる もので あれ、 ⑤ 上京の際の従者 は「国造・ 郡領」にか ぎり、多 く まった くふれ られてい ない点である。 このことは、派 遣先が「東方八道」と明記 されてい る以上、各「国司」 の百姓 を従 える ことは禁止す る ⑥元来「国造・伴造・縣稲置」の家筋でない者が、 そのように詐称する場合は、真偽を確認してから の担当領域 はす でに決め られてい たのであろ う。そ の 領域が律令制下 の「国」 に等 しい とは、後述す ること か ら軽 々に判断で きない。 ここでは しば らく留保 して 上 申する ⑦広 閑地 に兵庫 を造 り、「国郡」 の刀・ 甲・ 弓 ・矢 話 を進め よ う。 さてその領域内には、複数の国造が所 を収納す る。 ただ し辺境や蝦夷 と境す る所 では、 管 されて い た ことが想像 される。そ の 国造 たちに も、 兵 器 の 数 量 を調 べ て か ら、 本 主 に仮 授 す る 今回の 「国司」派遣 の件 は事前に通達 されてい た もの とい うものである。その後、朝廷はかれ らの勤務状況 と考え られる。 ここにひと りの「国司」に対す る複数 を、現地に朝集使を派遣 して監視 した。その結果、大 の特定的な国造 たちが対応する特殊 な政治関係が発生 化 2年 (646)3月 辛巳には違詔罪に問われた国司が、 す る。第二の重要点 は、「 国司」 に与 え られた 7か 条 (1934) ―- 24 -― の使命 は、 この特殊 な政治関係 をとお してのみ遂行 さ 5世 紀後半 か ら 6世 紀前半 にかけて、大和王権 は相 れるとい う点 である。 7か 条 の うち最重要 なのは① ・ 次 ぐ地方 の叛乱や騒擾 に苦 しめ られる。 これ らの事件 ②条 で ある。領域内の 人口 と沃野の正確 な分布が知れ の多 くは国造層が関与 した もので ある。以下 に列挙 し れば、領域内を線引 きして、同様規模 の複数評 を編出 よ う。 ・吉備下道臣前津屋 (或 本 に国造吉備臣山)は 、小 する根拠が与 え られる。そ して⑥条 は、近 い将来 の評 督選考 の一過程であろ う。この 7か 条 の全 条が、 「 国司」 女 を「天皇」、大女 を自分 に見立て闘わせ たが、小女 単独 では実行不可能 で、在地 の実情 に詳 しい国造 との が勝 つ と彼女 を殺 した。 また、羽根 を切 りむ しった小 共 同作業 を経 なけれ ば実 現 しな い ことは 明 らかであ 雄鳥 を「天皇」、蹴爪 に鈴・ 金 をつ けた大雄鳥 を自分 る。すなわち、国造が動かなければ 「国司」 の使命は に見立て闘わせたが、小雄鳥が勝 ったので、 また殺 し 達成 されない とい うわけだ。 派遣 された「国司」が在 て しまった。 これを聞いた「天皇」 は物部兵±30人 を 地で引 き起 こす数 々の トラブルの 中には、国造が らみ 派遣 して、前津屋 とその一族70人 を誅殺 した (雄 略 7 の件が少な くないの も肯けるところで ある。 年 (462)8月 条 )。 ここか ら「国司」 と国造 の 当時 の 関係 につい ての具 ・伊勢 の豪族朝 日郎が原因不詳 の叛乱 をひき起 こし 体的な考察に入 る。 さきに掲示 した違詔罪の中か ら国 物部菟代宿禰 ・物部 目連が派遣 され、伊賀青墓 におけ 造関係 を抽出す ると、 る二 日間の戦 いの末、これを鎮圧 した (雄 略 18年 (473) a巨 勢徳禰 臣は国造 の馬 を奪 った 8月 戊 申条)。 b紀 臣麻利者柁 は国造か ら一括 して送 られた兵器類 皇子 は皇位纂奪 を試みたが、大伴室屋大連 に討ち取 ら を本主に戻 さず、国造の伝領 を許 した c阿 曇連 (欠 名 )は 病気 の和徳史へ 、国造 に命 じて れた。皇子 の外戚 である吉備 上道臣は、船師40艘 を整 え皇子 の救援 に向か ったが、 途中皇子 の憤死 を聞 いて 官物 を送 らせた d阿 曇連 ・雄略 の崩御後、雄略婦人 の吉備稚媛 とその子星川 (欠 名 )は 国造 の馬 を他人の馬 と勝手 に取 引 き返 した。上道臣はそ の罪 を問われ、領有す る山部 を奪われた (清 寧即位前紀 =雄 略23年 り替 えた e国 造 の 中には「国司」へ 賄賂 を贈 るもの もあ った (478))。 ・筑紫国造筑紫君磐井 が、新羅征討途上 にあった近 これ らの事例 か らは、 「国司」 に対す る国造 の卑小 さ・ 江毛野 臣軍 を阻止 して、大和王権 に叛逆 した。翌年、 劣弱 さが 目立ち、唯一 b例 のみがおそ らく賄賂 を使 っ 王権 は大連物部色鹿火 を大将軍に立てて、筑紫 三井郡 て不正 な利益 を得 た もので あろ う。「 国司」対 国造 の での交戦 を経て磐井 を斬殺 した。磐井の子葛子 は、連 関係 にお い て、「 国司」が圧倒的優勢 に立 っているこ 座 をおそれて糟屋屯倉 を献上 した (継 体21年 (527) とが明瞭に うかが える。その関係 はす でに、律令制下 6月 甲午 ∼22年 12月 条 )。 ・ 武蔵国笠原直使主 と同族小杵 は、国造職 をめ ぐり の 国司 と郡司 の 関係 に限 りな く近 づ いている とい え、 国造 はこの時点 で、 善良な末端地方官吏 の趣 をたたえ 経年争 って い た。小杵 は上毛野君 を後 ろ盾 に して使主 てい る。 国造 の「国司」へ の応対 ぶ りをみれば、今次 を殺 そ う としたが、 使 主 は大和王権 に訴 え出たため、 の派遣 で 国造が大和 国家 に対 して従来の態度 を急変 し て、順応的になった とは考 えられない。 もしそ うなら 小杵 は大和王権 によって殺 され、使主は国造に任命 さ れた。使主は感謝 して、横淳 ・橘花 。多氷 ・倉模 の四 ば、国造たちの反逆や不正が記事 に載せ られて しかる 屯倉 を献上 した (安 閑元年 (531)問 12月 是月条)。 べ きであ り、なにより国造 層 を平伏 させ るための、兵 ここに収 めた争乱 は厳密 にい えば、雄略期 とそれ以後 力や軍事的エ ピソー ドがあって もよい。 しか しいっこ の継体 ・ 安 閑期 を区別すべ きである。王権が安定 し、 うにそ うではなかった。「 国司」たちは違詔罪 にひっ 支配領域 を拡張 しつつ あった雄略期 と、王位継承 に問 かか りなが らも、大半は順調 にその使 命 を成 し遂げた 題が生 じ、大和進出に手間取 った り、 ご く短命政権 に と考 え られるのである。つ ま り、国造 はこの時点では、 終 わつた継体 ・安閑期 では、政権の本質が異 なってお すでに地方官僚化 を遂げて い た とみるほかはないので り、同 じく地方 における争乱 といって も、政権 との 関 ある。それでは「国司」すなわち大和王権 の地 方派遣 係 にお いて意味す るところは、おのづ か ら異 なって く 官 と、在地国造 との こ うした明瞭な上下関係 はいつ 頃 るか らである。 ここでは、 そ の問題 を指摘するだけに 発生 したのだろうか。 この問 い に答 える前 に、比較対 とどめて先 を急 ぎた い。 照する意味 で、一昔前 の国造 の姿 を確認 してお こ う。 ―- 25 -― さて、上例中の吉備臣 は雄略 と姻戚関係 を結んでお (1935) り、たんなる地方豪族以上 の存在 で ある。 また伊勢の 中心 とす る大和 王権 中枢 の権力集中の強化であ り、そ 朝 日郎 は伊 賀青墓 で決戦 してい ることか ら、支配領域 れは朝廷 を構成する蘇我氏 をは じめ とす る中央諸貴族 の広範性が うかが われ、 国造 クラスの実力 を擁 してい との隔絶 を狙 った ものであって、王家 一族 の専制化 を た と考 えられる。筑紫国造磐井 は、火 ・豊二 国を支配 促進す る一過程 とみなす ことがで きる。国造は大化改 した上での王権 に対する叛乱である。武蔵国造事件 は 新 を経て郡司層 に転身 した。 もちろん令制郡 の数 は国 上毛野 君 を中心 にみるべ きで、毛野 を治めた上毛野君 造数を上 まわるので、郡司のすべ てが国造の末裔 とい が武蔵 に触手 を伸 ばそ う とした ところ、大和王権 に妨 うわ けにはいかない。 しか し、大化前代の国造姓氏 は 害 された結果 となってい る。 こ うした事例か ら抽 出さ 残存例が少 ないので、以下の考察では主 として郡司層 れる国造のイメー ジはいかなるものか。国造 の 中には の それか ら旧国造の姓氏 を推定 してい る。 吉備 臣の よ うに王権 と外戚 関係 を持 つ もの もあるが、 舎人部 につい ては、国造の子弟 を舎人に点定 し、中 そ の一般的な傾向は、上毛野君や朝 日郎 の よ うに、支 央 に上番 させて大王 をは じめ とする王親 の親衛軍を構 配領域 をつ ねに拡張 しようとす る意欲 と実 績 であ り、 成 した とする井上光貞氏 の説があ って、その出身地が そ の ある段階における達成者が、九州北部 を事実上領 以下にみるよ うに東国に偏 ることか ら、王親勢力の軍 有 した筑紫 国造 であろ う。磐井が叛乱す るにあた り、 事的基盤 を東国に求めて い る 新羅が貨賂 を贈 って きた とい う 『書紀』 の記事 は、磐 訳 をみれば 1)。 東国 を中心 にその内 井 と新羅 の 間に常時外交関係が成立 して いた とみなす 檜隈舎人部 (清 寧 ) こと もで き、抗戦が長引けばそ こに新羅が介入 して、 金刺舎人部 (欽 明) 遠江・ 武蔵 ・上総 駿河 。信濃 筑紫国造 。新羅連合対大和王権 とい う国際紛争 の可能 他田舎人部 (敏 達 ) 駿河 。信濃 性 さえ秘めてい た。大和 王権 はこの よ うな国造領 の過 があげ られ、檜隈舎人部 は早 いほ うであ り、他 は 6世 度な膨張 に対 して、派遣軍 を投入 して武力で弾圧 し、 一 方 の 国造 は、それに対 して真正面か ら抗戦 を挑 むの 紀中葉か ら後半に設定 されてい る。 この制度 は従来大 和 王権 か ら半ば独立的に政治的 。軍事的 に活動 して き である。 た国造 の子弟 を朝廷 に上番 させ、王親身辺 の雑用や警 5世 紀後半か ら 6世 紀前半 にお ける こ うした国造 の 護に就かせた もので、 そ の 間に中央貴族 を介入 させず 膨張主義 と、 さきに考察 した 7世 紀中葉 における国造 に親王権教育 を施 して、成人後は地元に帰 し国造 に就 の、大和王権か らの派遣官 に対す る卑屈 ともいえる対 任 させて、地方における懐柔政権 を作 り出す とい う画 応 ぶ りを比較 してほ しい。そ の意識や行動 において、 期的な政策であった。国造 の官僚化 の 第一歩 とみてよ 両者間には大 きな落差が生 じてい ることが明瞭 に読 み い。 取れ るであろ う。国造 は明 らかに、一部民 の供出等一 壬生部 は推古 15年 (606)に 新設 され、従来履 中 の 定 の負担 を除外 して一 ほぼ独 立 した領域 の主 権者か 伊波礼部、反正 の崚部等 の よ うに、大王や王子の各人 ら、大和 王権 の息 をうかが う忠実 な地方官僚へ と変化 的な資養機関 として設定 されていた過去 の名代や子代 してい るのである。その転機 を探 る手がか りは、部姓 を、そ の相続関係 を清算 して、一括 して上宮王家 (厩 国造 の普遍化 にある らしい。 それによって、 戸皇子 )に 付属 せ しめた制度である 。 い 名代 子代 を事実上私民化 して た中央伴造氏族の縁 3.部 姓国造の族生 を断ち切 って、上宮 王家 の経済基盤が著 しく向上 した 2)。 部姓国造 は東国 にお い て と くに顕著な普及 を示 して ので ある。壬生部は東 国に重点的に設置 されてお り、 い るので、それについて考察 しよ う。 もっとも厳密 に と りわけ令制東海道 に偏在 し、東 山道には確認 されな い えば、部姓国造 とい う表記は正 しくな く、そ の多 く いの を特徴 とする。在地 にお け る伴造 には国造が指定 は部 の下に直や造 の姓が付 された国造 をい う。す なわ され、多 くは壬生 直 を姓 とす る。その内訳は以下 に示 ち在地の部民 を支配 し、中央政 府 に資料 を送 った り、 す とお りである。 部民 を上番 させてい た伴造 を兼ねる国造 を指す。 この 駿河国 駿河郡 現象 に注 目す るのは、その発生や普及が 6世 紀後半か 相模国 ら 7世 紀初頭 に集 中 して い る とみ な され るためであ る。 ここで取 り上げるのは、舎人部 ・壬生 部 ・丈部で ある。 これ らの新設 された部に共通 す るのは、大王 を (1936) ―- 26 -― 武蔵国 壬生 直佐陀理 大住郡 壬生直広主 高座郡 壬生 直黒成 男余郡 壬生吉士福生 甘楽郡 壬生公郡守 壬生主足人 伴造化 したのだが、その対象者には複数 のパ ター ンが 茨城郡 壬生連麿 (国 造 ) 考えられ る。第一 に既成の国造があげ られるが、大和 那珂郡 壬生直夫子 (国 造 ) 王権 に反旗 を翻すほどの強大なものでは な く、当初 か 常陸国 行方郡 丈部 (は せ つ かべ )は 駆使 (は せ つ か い)に その原 ら王権 に従順 な中小 の 国造であ ったろ う。第二 として 義 をた どることがで き、従来そ の まま令制の駆使丁に 伴造化す るとともに、新 たな国造 として取 り立てた場 跡 づ け られてい たが、佐伯有清氏 によって令制使部に 合である。 これにはさらに二 通 り考 えられ、第一 に既 3)。 令制使部 は官 成 の 国造 の統治圏外 にあって、同時に大和王権か らも 内雑事 に使役 される下位官位者 の子弟 で、 身材劣弱 か それまで孤立 してい た豪族 であ り、第二 には既成の国 造 の支配下にあ って政治的 。経済的に成長 しつつ あ っ 引 き継がれる ことが 明 らか となった 文算 を知 らない者が配属 されて い る。要す るに丈部 は 下級官司 の雑用係 であったが、令制 の定員配置 をみる と衛 門府 。衛士府 ・兵衛府等、そ の多 くが軍事関係 の た新興の有力豪族 を任用 したことが想定で きる。 この 官司に配属 されて い る。その よ うに中央 で駆使 される この場合、既成国造 が従来手に してい た支配領域 の一 丈部 を在地か ら送 り出 したのが丈部姓の国造である。 部、支配領民 の一部が切 り離 される ことにな り、その 東国におけるその 内訳 は 支配管理者 として従来国造 の統制下に服 していた新興 うち、問題 を潜在 させてい るのは最後のケースである。 遠江国 佐益郡 丈部塩麻 呂 豪族 が、大和王権 に対 しては自分 と同 じ国造 として対 相模国 足上郡 丈部人上 等 に取 り扱 われることになるか らである。当然の こと 武蔵国 足立郡 丈部直不破麻 呂 なが ら、大和王権 のそ うした 中央専制的な行為 は、 国 横見郡 丈部直 造領内に矛盾 を引 き起 こ し、新興国造が既成 の国造 と 多摩郡 丈部山継 の 間に重大な軋礫 を生 じる。その軋礫か ら発展する大 上総国 周准郡 丈部果安 な り小 な りの武力的闘争 に備 えて、大和王権 は勅 命 を 天羽郡 丈部石万 呂 伝 える「国司」(く にのみ こと もち)だ けに とどまらず、 下総国 Ep烙 郡 丈部直牛養 相応 の軍団 も海路束国へ派遣 したのではないだろ うか。 常陸国 筑波郡 丈部直佐弥万呂 下野国 那須郡 丈部益野 4.大 和王権 の東国政策 となって い る。その分布 は壬生 部 と同様 に、 ここで も 前節 では欽明朝か ら推古朝 にかけての 6世 紀中葉か 東山道ではな く、東海道に偏在 して い ることが明瞭で ら 7世 紀前半 に、大和 王権 が舎人部・ 壬生部 ・丈部 の ある。 このほかに、『書紀』 には記 されな いが、丈部 設置 をとお して、東国に本格的に進出 していった事情 は東国にお いては中央の阿倍氏が伴造 となって、東北 を考察 した。 とくに推古朝 における壬生部 ・丈部 の場 地方の植拓事業 に動員 されてい る。丈部 の設置時期 は、 合 は、東国の 中で も東海道筋 に重 点が置かれていたこ 史料 に明記 されないので不明 とい うほかない。しか し、 とは興味深 い。 ここでは、東国を含む在地国造が大和 丈部 の後裔たる令制使部 の主たる配置先が、大王身辺 王権 の官僚体制 に組み込 まれていった表象 や事例 を確 や後官等の王権身内的ないわゆる内廷ではな く、衛門 認 してか ら、国造官僚化が もた らした地方制度の変化 府 ・衛士府 ・兵衛府等 の外廷警護 であったことは、そ の成立が推古朝 に ピー クを迎 える官司制 4)の 成熟 に を考 えてみたい。 (1)国 造の官僚化 伴 う施策 であったことが想定で きる。 とすれ ば、文部 まず大王が不特定多数 の 臣下に、新政策等 を宣言す は壬生 部 と同様 に東国の有力豪族層 を足がか りとした る詔 (み ことの り)を 発する際 の呼 びかけ言辞の変化 一 阿倍氏 とは確執があ るものの一大 王一族 の権力伸張 を 『書紀』 か ら探 ってみ よ う。最 も一 般的な表現 は、 の一枝 とみなす ことがで きよう。 対象 を表現せずにたんに「詔 して曰 く」とす るもので、 こ うした壬生部・ 丈部設置 の実現 は、蘇我氏 に対抗 新旧の別な く見 い だす ことがで きるので (例 :安 閑 2 する厩戸皇子 の政治力 に与かるところがあったが、実 年正月壬子条、大化 2年 3月 甲申条)、 除外 してお く。 はそれ以上 に壬生部 を設定するための国造 をは じめ と する と、対象 が表現 されるようになるのは、以下のよ す る在地 の有力豪族層 との交渉が大 きな鍵 を握 ってい うに用明朝以降である。 た と思われる。大和王権 はこれ らの在地伴造 を任命す るにあたって、在地有力豪族 を壬生直 ・丈部直 として ―- 27 -― 用明 2 4丙 午 崇峻 4.8庚 成朔 群臣に詔 して曰 く 群臣に詔 して曰 く (1937) 推古 13.4辛 酉朔 大化 2.2戊 申 皇太子 。大臣及び諸王 ・諸臣に 国造等、西 日本 を中心 とす る国造が国造軍 を率 い て出 詔 して 兵 して い る 集侍 る卿 等・ 臣・連 。国造・ 伴 造が大連大伴金村 と主従関係 を結んで い たように (敏 造及び諸 の百姓 に詔たまは く 達 12年 是歳条 )、 多 くの 国造層 は 中央大族 の命令 の も 5)。 しか しその出兵のあ り方は、火葦北国 対象表現が異 なって いて も、その 内容 は大王の臣下全 とに動 いて いた と推定 される。そ して大伴金村が任那 体 を包括 した もので ある点 では変わ りはない。 一見 し 割譲問題 の責任 をとって引退 した ように (欽 明元年 9 て明 らかなように、変化 の転機 は推 古朝 にある。それ までは群臣 とい う漠然 とした表現 か ら一転 して、諸 身 月己卯条 )、 当時 の朝鮮 出兵 は大和王権 の 国家的意志 とい うよ りも、大連 。大臣クラスの執政官 の専断 に発 分 を具体的に連記 しているので ある。そのことは、推 していた形跡が うかが われるのである。ちなみに大伴 古朝 にお いて、臣下たる諸 身分 の支配管理方式が精緻 金村 は軍事 ・外交権、蘇我馬子 は財政 を掌握 してい た にな り、多様性 を帯 びて きた ことを反映 してい る。そ であろ う。 こで推古朝 と大化期 を比較す ると、かな り出入 りがあ その体制 に変化が生 じたのは欽 明23年 (561)の こ るが、大化期 には国造が含 まれるが、推古朝ではそれ とである (欽 明23年 8月 条 )。 大伴狭手彦が大将軍 に が見 られない点が注意 される。 とい うの も、国造がそ 任 じられ、兵数万 を率 いて百済救援 のため高句麗 を討 の 中に含 まれるとい うことは、 国造が大王 の 臣下 とな 伐すべ く渡海 した。 これ以後半島へ の外征軍 の主将 に り、大和王権 の官僚化 をとげた ことを明示 してい るか は、すべ て (大 )将 軍職が賜与 されてい る。将 軍職 は らである。 それ以前 の任命者が定か でない主将 とは異な り、大和 それでは推古朝では、国造はまだ大王 の 臣下 にはな 王権 の総意 としての国家意志が含 み込 まれてい る。 こ っていなかったのだろ うか。そ うではない 史料が 2点 の違 い は大 きく、おそ らく大伴金村 の失政か ら教訓 を ある。 いずれ も同時代史料 としては問題が含 まれてい るのだが。その 一つ は、12年 (605)4月 戊辰条 に記 得 て、欽明 自身が英断 した ものだ と思 う。それ まで の 執政官主導 の軍事 。外交権が、大王 直轄 の指揮下に組 された憲法十七条 の一 部 である。その第 12条 に国司・ み込 まれた意義は大 きい。その流れは推古朝 の王族将 国造 は在地農民 に規定以上の収奪 をす るな、 とうたっ 軍 の誕生によってピー クを迎 えるであろう。推古 10年 てい る。 この時点 での「 国司」 は大 い に問題があるの (601)に 編成 された新羅 に対す る外征軍では、厩戸 で、それを取 り除 くと国造が主体 となる。す なわち、 国造・ 皇子の異母弟来 日皇子 を将軍に据 えて、諸神部 。 国造が大和王権か ら請け負 って、なん らかの税 を支配 伴造等 の軍衆 二万五千人が整えられ た (推 古 10.2月 領民か ら徴収 して い たことが この文脈か ら明 らかにな 己酉朔条 )。 そ の 中に国造が含 まれて いることは見落 る。その二つ は、28年 (628)是 歳条 に厩戸 と蘇我馬 とせ ない。国造は この時点で、王権が興行す る外征軍 子が 「天皇記及 び国記、臣連伴造国造百八十部井 て公 の一部 として、官僚化 され下僕 として、 国造軍 を従 え 民等本記」 を編纂 した とす る記事 である。 この 中で天 てその一 員に参加す ることを余儀 な くされ ているので 皇 と公民 は書紀編者 の造作であろう。天皇 は大王、公 ある。 民 は王民 とい う語句 に置 き換 えれば、 信頼す るに足 る。 以上、国造が在地君主か ら大和王権の地方官僚 に転 とい うの も、皇極 4年 (645)の 改新 クーデ タの直後、 身す るい きさつ を考察 して きたが、そ の時期は欽明朝 蘇我本宗家滅亡 の時に、船史恵尺が火中か らその中の 後期か ら推古朝前期、すなわち 6世 紀後半か ら 7世 紀 一巻である「国記」 を取 り出 して中大兄 に献上 した史 初頭 に求 めることがで きる。 実があり、該当す る書物があったことは否定 で きない (2)東 国行政の変革 と軍事行動 か らであ る。「 臣連伴造 国造百八十部」 なる謂方 は、 前節 では、 国造が遅 くとも推古朝 の時点 までに、伴 国造が臣連伴造 とと もに、大和王権 の忠実 な官僚 に位 造 を兼ねる ことを通 して大和王権の地方官僚 に変 身 し 置づ け られてい ることを示唆 してい る。 てい たことを論証 したつ もりである。 ここではそ の結 国造が大和王権 の忠実 な下僕 となった徴証は、朝鮮 半島へ の派遣軍の構成にもみて とれる。 もともと国造 はその支配領域 を維持 。拡張す るために、領民か ら構 果、大和王権 の地方政策、 とくにその東国政策が どの よ うに推移 して いったかを考 えてみたい。 成 される国造軍 を保有 して いた。 朝鮮半島へ も吉備臣・ 上毛野君・ 筑紫国造・倭国造 ・播磨直 。筑紫火君 ・紀 (1938) ―- 28 -― 『書紀』等か ら関連記事を列記 してみる。 ①崇峻 2(588) 近江臣満 を東山道に派遣 して蝦夷 との国境 を観 る。宍人臣順を東海道に派遣 して東方海浜諸国の境を して① o② を踏 まえた屯倉 の設定は、従来にはない機 観る。阿倍臣を北陸道に派遣 して越等諸国の境 を観る。 能が加わ っていたはず である。新設 された屯倉 を含め、 あ らゆる屯倉 は所在地 の国造 に対 して、監視 ・牽制 を ②推古15(606) 強化 しは じめ、そのバ ックボー ンと して、中央か ら軍 壬生部を定む。 事力 を屯倉領内に導入 して い たと考 えられる。 ここで ③同年 いったい何が起 こっているのか。それは伝来 の国造領 国毎に屯倉を置 く。 ④皇極 2(643) とその領民 に関 わることである。在地国造 と屯倉 の緊 「国司」に詔 して「前の勅せる所 の如 く、更改め 張関係 の 中で行われた作業 は、国造領国の四至 と、そ 換ること無 し。 欣 の任けたまへ るところに之 りて、 の領民 のおお まかな所在地 と人口の調査であろ う。大 爾 の治す所 を慎め」 と訓1令 する。 和王権 はその報告 を受けて、 いったんその支配状態 を ⑤大化元 国造に仮授 したのであろう。 しか しその時点で、国造 (645) 「東国等の国司を舞」 して、前述 した任務を授け 領国 とその領民 は、 国造 の ものではな く、大和王権 に る。 帰 して しまい、来 るべ き評制施行の第 一 歩 となった。 ⑥大化 2(646) 発遣された「国司」とその管下の国造に、国々の 境 界 を示 した文書 。 図類 の提 出 を求 め る。「 国県」 上述の経緯 は、大和 王権 と在地国造 の 間で軋礫や摩擦 が生 じやす く、 もっと も緊張関係 を学 んでい た時期 で ある。 の 名 はその と きに定 め る。 後群は「国司」 を中心 に、在地国造の管理状態 か ら ⑦大化 5(649)∼ 白雉 4(653) 高向臣 。中臣幡織連等が派遣 され、常陸国で建評 建評にいたる までが扱 われている。 まず⑤ に注 目した い。 ここでは東国等国司 に対 して「拝」 とい う漢字 を 常陸国風土記』)。 これ らの記事は、時期的 。内容的にみて① ∼③ の前 用 い、それ を「めす」 と読 ませ て い る。「拝」 には官 群 (588∼ 606)と ④ ∼⑦ の後群 (643∼ 653)に 三分す とい う意味 に解 されるが、「めす」 とい う ことはたん ることができる。またこれらの記事は、相互に孤立的 なる招集であって、新 しい職務 の設置 とは関係がない。 なものではなく、すべ ては⑦ に示 されるように、国造 そ こで注意 されるのが④ の記事 で ある。それによれば、 領国制か ら評制へ の移行に収束する歴史過程を表 して はあったのだろ うが、前群を受けて後群 の諸記事が展 ⑤以前に各所に「国司」が赴任して、一定の任務に就 いていたことが知られる。つまり④ と⑤を整合的に考 えれば、 「東国等国司」は⑤の時点で新任されたもの 開す るとい う見通 しがたてられるのである。 ではな く、す でに派遣 されて いた国司が呼 び戻 されて 事業 にあたる (『 いると解することがで きよう。 したがって多少の曲折 位 を授 ける とい う意味 があ り、東国等国司 を新任 した 前群 の特徴 は、部民制や屯倉等、大化前代にあ りふ 新 しい任務 を拝命 した とい うことでは なかろうか。す れた支配方式が駆使 されている点であ り、その意味で なわち「大化改新」にあ らわれる「国司」なるものは はなんら新鮮味はないが、それが著 しく広域化 してい 皇極 2年 の時点 です でに各地 で活躍 してお り、そ の活 ることは見落 とせない。① の国境巡察団は東 日本に限 動 は④ の記事の書 きぶ りか らして、さらにおそらく舒 られている。そのことは大和王権が東 日本をフロンテ 明朝にまで遡るものであろう。その主要な任務 は前群 イアとみなしていたためであって、当時の西 日本 と比 記事で推定 した国造領の再編の具体化であ り、前群 と べ ると支配の深度 に隔た りがあったのであろう。それ 後群の空 白期間に、旧来の地方制度には存在 しなかっ を受けて② のごとく、上宮王家が施主 とな り東 日本を た「国司」なる中央派遣官が創設され、それまで屯倉 中心に壬生部が設定される。丈部の設置 も、おそ らく が行っていた任務を引き継 いだのであろう。その成果 それに前後 したであろう。 この時点で、大和王権 の東 が⑥で示されている。これは「国司」と管下の国造の 西 日本に対する支配の浸透度がほぼ均衡化 されたと思 共同作業 で、国 々の境界 とは もちろん国造領国であ り、 われる。それを受けて、③ にみるように全国的に屯倉 「 国県」 の名 は評の名 にほかならない。 この時点 で国 が設置される。「国毎」の「国」 は当然令制下の「国」 造 は「国司」の忠実な下僚であ り、そ こにはかつての ではな く、国造領国を指 してい よう。安閑紀 に集約的 緊張関係 はほ とん どみ られない。やがて⑦ にみるよう に載せ られた屯倉 は、西 日本を主体 としているので、 に本格的な建評が全国的に実施 されて い くのである。 今回の措置は東 日本に重点があったと考えられる。そ ―- 29 -― 以上の ことか ら大和王権が在地国造 との間に緊張関 (1939) 係 を手 み、軍事力 の動員 さえ もあ りえたのは前群記事 7で ある (第 1図 )。 これ らの ター ミナ ルは結論的に (588∼ 606)の 時代 であったことが 明 らかになったと い えば、親大和王権派であ り、む しろ王権の後 ろ盾 を 考え る。その対象 はこれまでの検討か ら、西国ではな 得 て隆盛 を迎 えたとい って もよい。大和王権 は勃興 し く、東国 と限定 して よかろ う。そ していったん兵力動 つつ あった これ らの新興 ター ミナルを貴重 な足がか り 員 となれば、朝鮮派兵に匹敵する規模で行われると思 として北進す るのである。東国における大和王権 ルー われるので、 当時頻発 して い た朝鮮派兵 と同時に実施 トは、大規模 な兵力が移動す るに耐 える広幅で十分填 す ることは不可能 であろ う。 このことか ら東国へ の軍 圧 されて いたことが想定 され、そ の意味か ら後世の律 事 力 の 派遣時期 を略推す る こ とがで きる。崇峻 4年 令官道 を先取 りした もので あ ったろ う。その大動脈 は (590)紀 男麻 呂以下 三万余 の軍衆で新羅 を攻めてか ら、 2本 認め られる。 一つ は上総 ・下総方面 に、 い ま一つ 推古 8年 (599)境 部 臣以下万余 の兵で再 び新羅 と戦 は相模 ・ 武蔵方面 に展開 した ものである。大和か ら東 うまでに、 9年 間の空 白期間がある。 これほ ど長期間 国へ の東海道 ルー トは、陸上 ・海上 ともに考え られる にわたって半島に派兵 しなかったことは当時 としては のだが、 ここでは大和か ら直接海路で相模湾 ・東京湾 めず らしい。 この休戦状態 は もちろん半島情勢 による に進出 した もの として議論 を進めた い。 ところ大 きいが、一方 で大和王権 の 国内事情、す なわ ち東国対策にその軍事力が振 り向け られてい た可能性 1.上 総・ 下総 。南常陸 の概況 もある。そ の主たる矛先 は相模 ・武蔵地域 であろ う。 この方面へ の大和王権 の進出は、前述 した物部連小 事等 の遠征 に関 わるものである。 (1)下 総諸 ター ミナルの様相 Ⅱ 大和王権の東国の道 前章 では下総国匝瑳郡周辺 に 6世 紀後半 の早 い頃に 関連す る在来主要道の確認 か らは じめ よ う。後出的 大和王権が侵攻 した こと、その後国造制が半独立的な な主要道は、交会点 kか ら分岐 し、房総丘陵の裾野 を 在地首長か ら大和王権の地方官吏 に変容 した こと、そ 掠 めて北総 台地 の東縁 に達する。 さらに、太平洋 に注 の画期 は推古朝前半 に訪れ、伴造 を兼ねる新国造が創 ぐ栗山川 と、その周辺河川 の河口部に形成 された巨大 出された こと、6世 紀末 の 9年 間にはその変革 を維持・ な潟湖 を周 回す る よ うに、EN‐ 5・ EN-6・ EN‐ 7の 強化す るために、東国へ の兵力動員が実行 されたので 新 しい ター ミナルを縫 って進む。おそ らく北総台地 を はないか とい う仮説 を提示 した。 この 中で最 も実証性 縦 断 して、EN-6か らEN‐ 2・ EN-3に 通 じる路 線 が が危 ういのは、東国 (相 模 ・ 武蔵地域 )へ の兵力動員 開かれ、 また、EN-7か らもEN-4へ 連絡 して い たで である。 この ことは史料 に載せ られて い ないの だか ら あろう。 この在来線 の政治史的意味を考察するために 致 し方ない。 しか し国造制の変容の契機 として、大和 は、視野 をさらに周辺 に拡大する必要がある。上記の 王権の在地国造 に対する武力行使 は、十分あ り得 た と ルー トを北総台地の東廻 リコース とすれば、EN-4か 考 えられる。 この仮説 を生かせば、崇峻 2年 に近江臣 らEN-2を 経 て kに 至 る コース は西廻 りとい え よう。 満以下を東国・北陸に派遣 して、その復命 に基 づいて 東国や北陸に兵力 を動員 して在地国造 を威嚇 し、 とき そ して、kの 背後 にはES-4が 控 えてい る (第 1図 )。 ところで、前 。中期古墳 の伝統 を持たない地域 に忽 には武力衝突 を起 こしなが ら新国造 を創 出 した り、国 然 と進 出 したEN-5。 EN-6・ EN-7は 、周 辺 の ター 造 の官僚化 をすすめてい き、その成果が推古朝前半の ミナルに比べ 後出的 であ り、 6世 紀後半 か ら末葉 に盛 壬生部や諸国屯倉の設置に結 びつい た と考え られる。 期 を迎 えてお り、そ の新 しさは西方 のWS_5に 匹敵す 東国へ 派遣 された使節や兵力 は、おのずか ら特定 さ る。 6世 紀後半か ら末葉 とい う時期 に、 自力で、あた れた宮都か らの ルー トを通 じて 目的地に達 したわけで か も 4、 5世 紀 の古墳 づ くりの よ うに、在地社会 を束 ある。それは崇峻 2年 に、近江 臣満が東 山道へ 、宍人 ねて、半独立的な権力 を形成することは、 もはや不可 臣鳩が東海道へ 赴任 した コースに重なってい る 能 であろ う。 新 しい ター ミナルが形成 された背景 には、 (も っ とも、 当時東山道や東海道等 とい う概念 は存在す るは 大和王権 の遠隔操作がはた らいてい るとみて、 まず ま ず もな いが )。 ここでは東海道 ルー トに注 目す る。 当 ちが い な い。 で は大 和 王 権 は、 なぜ この 地 に政治 的 な 時東国の南部では 6世 紀後半以降、特徴的な後出的交 クサ ビ を打 ち込 む こ とに なったのか。またその こ とは、 通 ター ミナ ル が形 成 され る。 多摩 川流域 のWS 4・ 国造 制 か ら評 制 へ と移 行 す る在 地 の歴 史過 程 の上 で、 WS-5、 及 び外房太平洋に面 したEN-5・ EN-6。 どの よ うな意義 を持 つ のか 。 (1940 EN― ―- 30 -― 壼 難‐ 才 素 ヽ [‐ 通期的主要道 ― ーー 局地的古墳 ロー ド 想定部分 後出的主要道 ―…… 局地的古墳 ロー ド ーー 想定部分 第 1図 (2)海 上国造 在 来 主 要道 った とは考 えられない。令制下の国制にお いては、旧 この テーマ を考 えるために、 各 ター ミナルを国造勢 大国が行政処理上、 しば しば上 。下、前 ・後 に分割 さ 力範囲に比定 してみ る。ES 4は 上 海 上国造、交 会点 れてい る。その場合、上下にせ よ前後 にせ よ、分割 さ kは 菊 間 国 造、EN-5。 EN-6・ EN-7は 武 社 国 造、 EN-2は 印波 国造、EN-3・ EN 4は 下 海 上 国造 に置 れた旧大国は、例外 な く地続 きで連続 してい るのであ る。 ところが、上 。下 の両海上国造 の場合 はそれには 換 で きる。菊間国造 は大古墳 も存在 せず勢力範囲 も小 あ てはまらず、特異 な例外事例 となっている。一案 と さいので、上海上国造の強 い影響下 にあ り、郡名 に名 して、両勢力 は元来別個 に誕生 ・発展 して、ある時期 をとどめてい ない ことか ら、建 評時 には解体 されて し に何 らかの親近的な関係が発生 して、 ともに「海上」 まった と思われる (海 上 国造 は 『古事記』では菟上国 を含む国造名 を称するよ うになった、 とも一見 考えら 造 と表記 される)。 また武社 国造領 は後述 す る理 由か れそ うである。 しか し、「ある時期」や「何 らかの親 ら、広大 な範囲を想定 した。 近的な関係」 を具体 的に構想す ることは困難 で あ り、 さて、国造配置上奇異に感ず ることは、武社 国造 の 「親近的な関係」 になったか らとい って、東西 に隔離 東西 に上 ・下 の両海上国造が位置す ることである。そ した両勢力が、同一語根 の 国造名 を戴 くことは考え ら の名に「海上」 を戴 く両国造が、 まった く無関係であ れないので ある。 ―- 31 -― (1941) これに対する、以下 の よ うな別案 の方が現実味があ 穴式石室 の玄室木棺内か ら、遺骸 の胸 の上に安置 され る。上 海上国造 と下海上国造 は、元来権力的に一体化 た当時のままであった。 しか し、なぜ古 い鏡が新 しい した「海上国造」であ り、東京湾北東岸の一 角 と香取 古墳 に副葬 されてい たのか、その名答 は寡聞に して知 流海の南西岸 に政権 中枢が所在するが、東京湾岸 に古 らない。私見では、 この鏡 は上・ 下 の海上国造が同祖 い古墳 が集 中す るので、東京湾岸か ら東方へ 発展 し、 関係 にあることの証 しではないか と考え る。 この鏡は つい には大霞 ヶ浦の流海 に到達 して、その地 に兄弟同 下海上国造が香取流海 に分枝土着する際に、上海上国 盟的な権力核 を形成 した、とす る案 である。す なわち、 造か ら下海上国造 にもた らされた レガリアでは なかろ 海上国造は東国では珍 しい多極国造 であった。その形 うか。本領 とは隔離す る新領の統治 を、本領宗主 の子 成過程 は毛野君によく似てい る。毛野君 は本来現在の 弟に委任 して新領 に派遣す る際に、宗主か らその子弟 群馬県域 に覇権 したが、やがて渡瀬湿原 を越 えて東北 へ 本宗 の形見 として宝鏡が授与 される ことが行 われた 方 に進出 して下毛野君領 を分枝 した。両海上国造の中 のは、『 日本書紀』神代巻天孫 降臨条 の一 書 に、 アマ 枢 を結ぶ勢力範囲は、北西 に印波国造が存在す ること テラスが天忍穂耳に宝鏡 を授 けて、高天原か ら葦原中 か ら、外房太平洋岸 に及んで い た。 したがって、南北 国に送 り出 してい ることか らもうかが える。授与 され 7が 成立す る以前 た宝鏡 は、 「 ともに床 を同 じくし殿 を共 に」す る齋鏡 か ら機能 していた通期的主要道 とい うことに なる。や ― アマ テラスの分身 として取 り扱 われたのである。 し がて 6世 紀 の後半 に至 り、後出的な武社国造が外房太 てみれば、城 山 1号 墳 は海上国造分離後、初代下海上 平洋岸 にその勢力 を築 いて、海上国造 を東西 に分断 し 国造その人、 またはその系譜上の人物の奥津城の可能 て、それぞれに上 ・下を付 して呼び分けたのであると 性が生 まれるであろう。 11号 線 は後出的 ではな く、EN‐ 5∼ 次に、海上国造 の勢力範囲 につい て考 えよう。両海 考え られる。 海 上国造の補足説明を続 け よ う。 まず上 。下 の 区別 上 国造 の権力中枢 が遠 く離れ てい るか らといって、中 をつ けない「海上国造」の実在性 について。令制上総 間地域 が政治権力 の 空 白地帯 であ った とは思 われ な 国に は海上郡が存在 し、 これには「上」字が付 いてい い。武社 国造が遅れ て九十九里平野 に進出す る以前 に、 「下」 ない。同 じく下総国にも海上郡があって、これに も 海上国造が東方へ発展 して下海上国造 を派生する過程 字が付 いて い ない。 また 『常陸国風土記』香 島郡条 に は、香 島新郡建置 に際 して「下総国海上国造」が登場 で、当然 この地域 をも勢力圏内に収めて い たはず であ ろ う。顕著 な前 。中期古墳が見 られないの は、 海上国 「海上郡大領司仕奉事解文」(『 寧楽遺文』 する。さらに、 造が この地域 を重要視せず、権力拠点 を創 出 しなかっ 「中 下巻 )に は、申請者 が下総国海上郡大領職 を請 うて、 たことによると考え られる。香取流海に拠点 を形成 し 宮舎 人左京七条人従八位下海上 国造他 田 日奉部直神 護」 と自称 して い る。 これ らのことは、上 。下両海上 てか らは、海上国造の領域的野心 はさらに北方へ 拡張 国造 の成立以前 に、単一 的権力機構 としての海上国造 5年 に「下総国海上国造部内」 の「軽野以南 一里」 と が存在 して いたことの証左 になろ う。次 に上・ 下両海 那賀国造部内の「寒 田以北五里」 を割出 して、香 島神 上国造の関係 であ るが、「 国造本紀」 に よれば、下 海 郡 を建置 して い る。 これによれば、太平洋 と霞 ヶ浦 を 上 国造 の初祖 は上海上 国造祖孫 久都伎 直 とされてお 遮 る砂州 の南半は海 上 国造部内 であった ことに なる。 り、両者が同族的出 自関係 にあった ことが暗示 され、 ここで、EN-4に 直近 の常 陸国側 の ター ミナ ルEN‐ 8 この点か らも毛野君 との類似性が注 目される。以上 の に注 目しよう。香島郡は国造不在 の新編郡 であ り、郡 「 国造本紀」 考察か ら、上・下両海上国造 を書 き分ける 域 に含 まれる古墳時代 の諸勢力は、海上 ・那賀 いずれ の成立年代 の上 限は、単 一の海上 国造時代 に遡 りえな かの国造勢力の影響下 にあった とみて よい。EN-8に いこ とは明 らかで、両国造 に分裂 した 6世 紀後半以降 とって、那賀 国造 の本拠EN-12は か な り遠隔であ り、 の作品であることが知 られ よ う。 それに対 して海上国造のEN-4と は現在の外浪逆浦 を それはともか く、下海上国造が上海上国造か らの枝 される。前 出の 『常陸国風 土記』香 島郡条 には、大化 挟 んで 間近 に対峙 してい るのである。海上国造の影響 本拠地にあたる城 山 1号 墳 か ら、 当の古墳 の築造年代 力 は、おそ らくEN_8に まで及んで いたで あろ う。 し か しなが ら、 海上国造のこうした勢力範囲は、鹿 島 。 を邊かに遡 る吾作銘 三角縁 三神 五獣鏡が出土 してい る 香取 のご く特殊な神社 の存在 を考 えた とき、後述 の よ 族 とすると、興味深 い事実に思 い至る。下海上国造の ことは夙 に著聞である (1942) 6)。 しか もそ の 出土状態 は、横 うに宿命的な歴史を呼 び込むことになる。 ―- 32 -― 2-u-0-a 彗 華 杯 V期 杯 Ⅲ期 ― _ ※ 塗 りつ ぶ し部 は 赤 彩 第 2図 2-Ⅱ ―B― a型 土 師 器 坪 ―- 33 -― (1943) 以上のよ うに、 海上国造の勢力範囲は、東京湾北東 鹿島・ 香取 の両神社が設置 された。『常 陸国風土記』 岸か ら九十九里平野 を経て、香 取流海 の南東端、 さら によれば、香島郡は中臣□子や中臣部兎子等の中臣氏 には対岸 の北浦南部 にまで及ぶ広大 な領域 であった。 一族 の 申請に よって建 郡 されてい る。下総側の香取郡 それは大霞 ヶ浦北部の茨城国造 に匹敵す る、北総の大 も、国造不在 の新編郡 である。おそ らく当地の 中臣氏 国造 で あ った。 の 申請 によって、大化年間 に香島郡 とほぼ同時に下海 (3)印 波国造 上国造領 を割取 って香取郡が建 て られたのであろ う。 海上 国造 の こ うした膨 張政策 に、深刻 な脅威 を感 じ 鹿島社が設置 されたために、伝統的な在来 の浮島信仰 ていたのは印波国造 であろ う。 なぜ な ら、印波国造の が廃れて い った事情 は、前稿 で考察 した とお りで 南部 と東部 は海 上国造 によって包 囲された形勢 であっ 霞 ヶ浦の大勢 力茨城国造 の宗教的権威 を失墜せ しめる て、膨 張政策が西方 に振 り向けば交戦 は必至 となる。 に与 って力があ った。 これ らの中臣氏の一 団 は、海上 こ うした情勢 に対処するために、 印波国造 は西 方に進 国造領が上下 に分割 された際に、下海上国造領内に大 出 したのではないか。手賀沼北 岸 には後出的 ター ミナ 和王権か ら派遣 された形で、新 たに入植 して きた もの ルEN‐ 1が 存在す る。手賀沼周辺 は相 馬郡 に含 まれる であろ う。鹿島・香取 の両社 も、それに伴 って社殿が が、相馬国造 は存在 してい なかった。 したがって相 馬 整備 された と思われる。国家的な威信 を背景に負 う両 郡 は周辺国造領か ら割出された新 置 の非国造領郡 とい 社が この地に創建 された理 由は、海上国造 を牽制 して、 うことになるが、 この場合割 き取 られた対象は印波国 対岸 にあって、大霞 ヶ浦北半の制海権 を掌握す る茨城 造領以外 には考え られない だろ う。手賀沼周辺 は新 し 国造 との政治的な交通 を阻止する ことにあった。 7)、 い古墳が主体的で、 この地へ の印波国造 の進出は 6世 武社国造 の誕生 と海上国造の上下分断は、 一枚 の コ 紀中葉以降に本格化す る。 手賀沼北岸 に新拠点 を構築 イ ンの裏表 の ように軌 を一 に している。 したがって一 したのは、利根川水運 を活用 して、北方は上毛野君や 方 の成立時期がわかれば、他方 もほぼ同時期に国造職 元邪志 国造 と、南方 は東京湾岸 の諸勢力、就中多摩川 に任命 された とみて よいで あ ろ う。そ の手がか りとな 下流 の橘花屯倉 と迅速 に連絡で きる等、そ の水運 の便 る史料があ る。 さきに例示 した天平20年 に申請 された を期待 した ところが大 きい。 「海 上郡大領司仕奉事解文」 に もう一 度注 目した い。 (4)武 社国造 そ こで 申請者 は「海上国造他 田日奉直神護」 と自称 し か くして印波 ・海上 の両勢力 は、北総 台地 を挟 んで ている。 申請者 の姓名は複姓 で、 海上 国造 プラス他田 一触即発 の危機 を秘めて対峙するに至 る。そ して、両 日奉直で構成 されて い る。先 ほどはこの うち「海 上国 者 の武力衝突が実際に発生 し、交戦状態 に突入 したの 造」 を問題 に したが、今は「他田 日奉直」 について考 ではないか。劣勢の印波国造 は、EN-1か ら橘花屯倉 える。 日奉直は太陽神 を奉祀 した らしい 日奉部 を統制 へ 通報 し、大和王権 へ急 を告げた もの と思われる。王 する伴造 で、 中央 には 日奉連が置かれて い たことか ら 権 に してみれば、強大 な国造が周辺 の 中小勢力 を じわ (『 左京神別〉条 )、 地方 にあって部民 新撰姓氏録』 〈 じわ と蚕食する行動 を規制するよ りも、国造同士 の 闘 の供出や資養 を担当 してい た と考 えられる。そ して「 日 争 を調停す る方が、大義名分 の観点か らもはるかに干 奉直」 に先立 つ 「他 田」は、 日奉部が奉仕 した王宮の 渉 しやす いで あろう。大和王権 は動 い た。物部連小事 所在地 を示 して い る。『古事記』 では他田宮、『 日本書 を含 む板東遠征軍が派遣 された。印波国造 を支援 し、 紀』 では訳語 田幸玉宮 と称 される敏達天皇 (大 王 )の 王権直轄勢力 をこの方面に扶植す るためにも、 海上国 王宮 である。 す なわち神護 の祖先 は、 敏達朝 (572∼ 造 を制裁す ることになる。 585)に 日奉部の伴造 に任 命 された ことが 知 られ るの 大和王権 と海上国造 との 間に、軍事的衝突があった である。572∼ 585年 とい う西暦年 は、前章 で取 り上げ か どうか は不明 である。 しか し結果的には、海上 国造 た地方再編 の「前群記事」 における、壬生部や丈部が 部内の、重 要ではあるが もっとも手薄な地域 に、王権 広範に設置 された と思われる588∼ 606年 よ りも先 ん じ のクサ ビが打 ち込 まれる。その地域 は九十九里平野 で ている。「海上 国造」職へ の任官 は、伴造職 と同時 で あ り、打 ち込 まれたクサ ビは新置国造 としての武社国 あるのか、それ以前か ら就任 して いたのかはわか らな 造である。 これによって、海上国造は南西の上 海上国 い。 しか し海上国造の伴造化 は、明 らかに国造領分断 造 と、北 束 の下海上国造 に分断 されたのである。 さら に運動 した現 象 と考 えられ、その時点で武社国造が誕 には、下海上 国造領内には、王権 を宗教的に守護す る 生 した とみて差 し支 えなかろう。 このことは 6世 紀後 (1944) ―- 34 -― 半 の早 い時期 とみ られる物部小事 の常総侵入 の混乱が れ と絡んだ道程 になる。ES-2か らは半 島内陸 をむ し 一段落 し、侵入地域の王土化が完了 した ことを物語 っ て い る。それは東 国にお い て常総 と くに房総 の地が、 ろ南下 しつつES-3で 小櫃 川 を渡渉 した と思 われ る。 ES-3は 前 。中期 にめぼ しい古墳 はな く、 6世 紀後半 い ち早 く将来 の評制へ 向けた準備体制 を整 えたことを か ら群集墳 を中心 に発達 した地域である。 なぜ この時 意味 して い る。 期 にES-3が 忽然 と現れたかを説明するには、ES-3が 大和王権 の後押 しで形成 された武社国造 は、後述 す ES-2を 出発 した王権派遣官の中継基地 となって い た る相武 国造 と同様 に、大和 王権 の派遣官が直接海上国 か らと考 えるほかはな い。ES-3か らは北東 に進 路 を 造領 の 閑地 に乗 り込 んだ ものであろう。相武国造の場 『延 取 り養老川左岸 の、奈良時代 には設置 されてお り、 合 は周辺に横穴墓が群在 して い るが、 このたびは横穴 喜式』 の 頃にはすでに廃 されていた大倉駅 (市 原市大 墓群進出以前 の 出来事 と考え られる。 この ことか らも 蔵 )101を 経 て、なお も横穴墓密集地域 たる原総国府 (上 大和王権 の房総対策は、そ の武相対策 よ りも一歩先ん じて い たことが理解 される。武社国造が外部か ら忽然 総国成立以前 の次元であろう)と 思われる茂原市国府 関 。国府里 を通過 して、上総丘陵の尾根 上 を進んで南 と進入 して きた ことの証 は、大堤権現塚古墳や西 ノ台 北 11号 線 の古墳 ロー ドに合流 しEN-5に 到達す る とい 古墳等 の大型古墳 の造営が、地元 の 中小首長群 の政治 うコースである。大倉駅 については大脇保彦氏が比定 能力 をはるか に超 えて い るこ とに よって 明 らかであ した とお りで、市原市大蔵 を支持 した い る。その進出にあたっては、 兵士や単純土工 として大 国府里 とい う国府に因んだ遺称地が単独で存在する場 量の人員が、海上国造 に対抗するために、それを上 回 合にはなん とも判断 の下 しよ うがない けれ ど、それが る規模で他処か らこの地に投入 された と思われる。そ 横穴墓群 の密集地域 の一 角にあ り、しか も付近には『延 れでは、 どこか らこの兵力や労働力が もた らされたの 喜式』 では消滅 してい た古駅の大倉駅の遺称地 まで も か。その手が か りは、土器 の移動が示 して くれる。土 が併存 してい るとなれば、市原郡 に所在 した上総国府 師器杯形土器 の一類型が興味ある動 きを示 して い るの に先立 つ 原総国府 をこの地 に想定す るほかなかろ う。 である 8)。 Ⅱ ―B― 須恵器杯身を忠実 に模倣 した タイプ (2- a)で 、 6世 紀初頭 に小櫃川下流 に出現 し、 11)。 国府関 ・ 古墳 ロー ドか らはずれ たこのルー トは、南 ・北総 を区 切 る山峡地帯 を縦断 し、武蔵野台地同様 に当時の定住 漸次的に扁平化 しつつ 7世 紀初頭 には養老川か ら房総 農耕生活 には不適な地域 であった。おそ らく大和王権 半島南端 の東京湾岸、同中葉 には南北 11号 線沿 い に栗 は、軍事専用道路 として新 しい広幅道路 を建設 して、 山川沿岸 まで達 してい る (第 2図 、例示 した土器 資料 九十九里平野 を目指 した と考えられる (第 3図 )。 は木更津市花 山遺跡 の一括 品 9))。 (5)事 変 とその後の状況 土器移動 の この道 筋 は、彼地へ の大量の人間集団が移動 した ルー トを考 以上のような海上国造の事変 と、その後 につい て言 える際の有力候補であ り、おそ らく大和王権 の房総経 及 してお こ う。そ こでは、海上国造対武社国造 (大 和 略 ルー トを示 してい るのだろ う。 この タイプの杯形土 王権 )。 印波 国造連合 とい う対 立 の構 図が得 られた。 器 の移動 の軌跡が こ うした意 味 を持 つ とすれば、小櫃 その出来事 の影響が、それぞれの地の古墳文化 に反映 川下流域が、大和王権 との関わ りにお いて重 要性 を増 されてい るのではないか。海上国造側か ら見ていこ う。 して くる。現在 の ところ物証 はあげ られないが、 この 上 海 上国造領では、 5世 紀前半 に墳 長 114mの 姉崎 二 地域 に屯倉 に類 す る王権 の 出先機関が置かれて いた可 子塚古墳 を築 いて国造権力の頂点に達 したが、その後 能性 はある。その機関が周辺住民 を徴発 して、兵力 と も 6世 紀中葉 に墳長69mで 金銅製冠 を副葬する姉崎山 して武社 国造 の もとに送 り込 んだのではないか。 王山古墳、 7世 紀代 には墳長45.6mで 金鋼製馬具 を収 当該土器 の流通、すなわち房総経略の北上 ルー トに める六孫王原古墳 が築造 されてい る。一 方下海上国造 ついて、 もう少 し言及 してお こ う。それは古墳 ロー ド 領では、 5世 紀 中葉 に墳 長123mで 長持形石棺 を内蔵 の形跡か ら推 して、ES-2に 発 して交会点 kを 経 由 し す る三之分 目大塚 山古墳が出現 して、権力の強大性 を てEN-5に 及 ぶ南北 11号 線 に沿 った動 きが まず考 え ら 誇示 したが、 6世 紀前半 に墳長60∼ 70mで 豪華 な甲冑 れる。 しか し諸史料 の読み合わせか らは明 らかにそれ とは違 うもうひとつ のルー トが想定 され、 しか もそち や馬具、画文帯神獣鏡等 を出土 した禅 昌寺山古墳、 6 世紀後半 には墳長68mで 甲冑・馬具 ・天冠 。三角縁神 らの方が正規 ルー トの可能性が高 い。すなわち茂原市 獣鏡等 を出土 した城 山 1号 墳が造 られてい る。 こ うし 周辺 に一大横穴墓密集地域があって、そのルー トはそ て見ると、海上国造は、 6世 紀代 までは制裁 の さした ―- 35 -― (1945) 層太郡 フツ大神 下海上国造 雌 ヽ ′ ′ ′ 武社国造 0 原総国府 上海上国造 横穴墓密集地 第 3図 常総 の北進 ル ー ト るダメージは認 め らず、む しろ下海上領では古墳文化 の充実 さえ感 じられ る。 しか し 7世 紀代 の終末期 を迎 い える頃 には、両者 ともに見 るべ き古墳 は造 られては ない。 これに対 して武社国造領 では、 6世 紀後半 か ら 忽然 として大規模古墳 が陸続 と造営 されてい く。 それ ・ は墳長88mで 二重周濠 を伴 い、頭椎大刀 銅碗等 を出 土 した殿塚古墳 には じま り、墳長 115mの 大堤権現塚 古墳 、墳長90mの 西 ノ台古墳 等が続 き、 7世 紀 に入っ て も一辺60mの 方墳 で銀象眼頭椎大 刀・ 馬具 を出土 し た駄 ノ塚古墳 、径66mの 大円墳 山室姫塚古墳 、墳長63 mで 線刻壁画 を伴 う巨石切石積複室式横穴式石室 を内 蔵す る不動塚古墳等 、古墳文化 の精彩 は終末期 まで維 持 され ている。 Ep波 国造領 では、 6世 紀初頭 に墳長86 mの 長方形墳 船塚古墳 が成立す る。その後墳長63mの (1946) 天王塚古墳 や墳長48mの 上福 田 4号 墳 に引 き継が れ、 7世 紀 に入 る と墳長78mで 複室式横 穴式石 室 を備 え、 金銀製冠飾 りや金銅装馬具等 を副葬 した浅 間山古墳 、 一辺79mの 大方墳岩屋古墳、一辺34mの 方墳 で持 ち送 り天丼切石積横穴式石室 を伴 う上福 田 7号 墳等 が築造 されて いる。 このことか ら、武社国造領 では 6世 紀後 半以来終 末期 まで一貫 して有力古墳 が造営 され続 け、 印波国造領 では 6世 紀 よりも 7世 紀 に入 ってか ら充実 ぶ りを示 している。以上 の概観 によつて、対立 した と 思われ る両勢力 の古墳文化 は、 6世 紀末 か ら 7世 紀初 頭 にかけて、対照的な違 いを見せていることが理解 さ れる。そ の時期 を境 に して、上・ 下 の海 上国造領 では ・ 顕著な古墳 は もはや造営 されず、武社国造 印波国造 いる 領 にお いては、反対 に有力古墳 が次 々に造 られて ―- 36 -― ので あ る。 この こ とは後 の 下総 東 半部 にお い て、 この サ とい う二音節 か らなる素朴 な地名は、 一 カ所 しかな 時期 に海 上 国造 か ら武社 国造 ・ 印波 国造 へ と、 勢 力 の い と考 える方がおか しいのではないか。事実、大和 国 交替 が行 われ た こ とを暗示 して い よ う。 高市郡には身狭 なる地名があ り、雄略朝 には身狭村主 ところで、 海上国造 と武社国造 ・印波国造 の勢力交 替 の現象が、 6世 紀末か ら 7世 紀初頭 に現れる ことが 青 なる人物が外交 に活躍 した り、欽明朝には大身狭屯 倉 。小 身狭屯倉 が設置 されて い る (『 書紀』)。 さらに 明 らかになったが、 この時期 はまさに、小櫃川下流 に い えば、東国の 国造 の姓 は、 問題 の牟耶 臣を除けば 臣 誕生 した須恵器模倣の杯身形土師器が北上 をは じめる 姓 は皆無である。上 ・下毛野氏 のみ は公 (君 )姓 で、 年代 と合致 して いる。そのことは、仮想 した 〈 海上国 他 は直姓 が 一般的であろう。その傾向か らして も、武 造 の変〉が物部連小事 の東征 とあいまって、 一歩実在 社国造 =牟 耶 臣は受け入れ られない。 的史実 に近づい たことを示 して い る。ただ し、武社国 筆者 は武社国造は、大和王権が派遣 した地方調整官 造領 に大規模古墳が造営 されは じめる時期 を重視すれ 一物部小事連本人 か、その近 い親族一 が、そのまま任 ば、土器 の流通伝播 をもう一 世代分引 きあげたい とこ 地に土着 して初代国造 に就任 した と考えて い る。 この ろである。 場合 の派遣官 の主たる任務 は、海上国造の軍事的な制 武社 国造 に代表 され る進 出領域 を令制郡で示せ ば、 裁であ り、その 国造領 を削減 して強大な権力 を骨抜 き EN-5が 山辺 郡、EN-6が 武射 郡、EN-7が 匝瑳 郡 に にする ことで あ った。 武社国造領 は大化 ∼ 白雉年間に 相当す る。物部連小 事 の一 族 はEN-7に 含 まれる大古 分割 されて、上総国山辺郡 ・武射郡、下総国匝瑳郡 と 墳 に埋 葬 されたであろう。海上国造 に対する干渉的な して再編成 をみた と考 えられる。史料的な確認は取れ 軍事行動 の結果、 この地域 に古墳 時代後期 としては、 ない ものの、 匝瑳郡 の物部氏 と同様 に山辺郡 ・武射郡 希 に見 る大規模古墳が造営 されたので ある。ところで、 について も、武社国造か ら分枝 した物部連系の譜代郡 ター ミナ ル と令制郡域 はよ く対応 してい るのだが、 こ 司が就任 して いた と思われる。物部氏 については、王 の地域の国造は武社 国造 のみで山辺国造や匝瑳 国造は 権権力 をまとって全 国的に軍事力 を展開で きる下限は 存在 しない。 この ことは大化前代 には、 この地域 は総 明確 に決め られる。それは本宗物部守屋が滅亡す る用 じて武社 国造領 で、評制 の施行 に伴 って武社国造領か 明 2年 (587)で ある。すなわち、 ター ミナルEN-5・ ら山辺郡 と匝瑳郡が分出され、そ の残 りが武射郡 とし EN-6。 EN-7の 成立時期が含 まれる ことになる。 て国造領の名残 をとどめた とみなす ことがで きるので 物部氏 の進出は九十 九里 平野 にとどまる ものではな かった。 自雉 4年 (653)物 部河内 。 物部会津等 は筑波・ EN-5。 EN‐ ある。それをあ らためて言 い換 えれば、 EN‐ 6。 7の ター ミナルは武社 国造 に統括 されて い た こと 茨城郡 を割 いて信太郡 (評 )の 建置 を申請 してい る (『 常 になる。それでは、武社国造 の本拠 はこの中の どれか。 陸国風土記』逸文 )。 信太郡 (評 )は 香取流海 の北 に 単純 に考えれば、国造名 を引 き継 い だ武射郡 であろ う 位置 し、現在 の稲敷郡 にあたる。その申請 の前提 には、 が、山辺郡には武射郷が存在す る。 こ うした類例 は常 物部氏 の在地 における地域支配 の現実があ ったはず で 陸国にもあって、茨城郡に隣接する那珂郡 に茨城郷が ある。物部氏 の 当地へ の進出は、物部氏が海上 国造 を 存在す る。『常 陸国風土記』 によれば、那珂郡の茨城 制裁 した行動 の延長線 上 にもとめ られ よ う。物部氏 は 郷は もとの茨城郡家 の所在地 であるとい う。 この事例 海上国造領 を中央突破 して後、令制香取郡 に拠点 を築 を援用すれば、山辺郡の武射郷が武社国造の故地 とな き、そ こか ら流海 を渡って、流海 の対岸 にさらなる拠 るであろ う。 点 を築 い た と思われる。その地が信太郡 (評 )の 故地 (6)物 部連 となって、武社国造領 と同様 にその子孫 が、現実の支 それでは武社国造 の姓氏 はなにか。これについては、 配状況 を大和王権 に承認 させ、自雉 4年 (653)に 郡 (評 ) 『古事記』孝昭天皇段 に孝昭 の兄 の天押帯 日子命 を始 を立ち上げて初代郡司 (評 督 )職 に就任 したので ある。 祖 とする一 団の諸氏族が列挙 され、その 中に牟耶 臣が 信太郡 (評 )は 国造不在 の新編郡 (評 )で 、大化前代 含 まれてい る。そこか ら武社 国造 の姓氏 は牟耶 臣であ には九十九里平野 とは異な り、 ここには国造 は置か れ るとす る考え方 がある。 しか し、列挙 された16氏 族 は 大和東部・伊勢 。尾張 。近江 といった畿内東部か ら東 なかった。信太郡 (評 )の 位置取 りは、香 島郡 ととも に北の茨城国造 と南の海上国造 の 間に割 って入 った形 近畿 とい うま とま りある地域 の諸豪族で、牟耶 臣 ひと になって い る。それ とともに、茨城・ 海上両国造が掌 り辺境上総 の 国造 とす るには躊躇 せ ざるをえない。 ム 握 して いた大霞 ヶ浦南半 の制海権が、大和王権 の 出先 ―- 37 -― (1947) たる物部氏 の手に移 った。 両国造は大和王権 に自己の きるのである。そ こでフツノ ミタマ とフツヌシの 関係 国造領 を割出され、なおかつ直近に接近 されて、大 き か ら引 き出される、物部氏 と中臣氏の深 い関係 に論及 な脅威 を被 ったであろ う。 こ うしてみると、物部氏 の 軍事 。政治行動 は、海上国造 と茨城国造 との連 絡 を遮 す る必要がある。 断す ることもその 目的の一つにあ ったことが 考えられ 神 の 関係は、史料上 にお いて混然 としてい る。記紀神 よ う。そ してその背景には、南北の伝統的な両国造が 話 では、イザナキが カグツチを斬殺 して、十拳剣か ら 強固な連合体 を形成 して、霞 ヶ浦 ・北浦 を己れの海 と したたる血か ら神 々が誕生す る。『古事記』 では建御 して いた過去の事実があ ったのでは なかろうか。物部 雷之男神 またの名は建布都神が産 まれてい る。建布都 氏 の進出は、海上国造勢力 を制裁 ・分断 して、その結 神すなわちフツ神 とはフツヌシとフツノ ミタマ を総括 果茨城国造 の独 自な政治行動 を封印 して しまった と評 したような神名である。 また 『書紀』神代巻四神出生 価する ことがで きよう。 条第六 の一 書 では、 まず経津主神 の祖 五 百箇磐石が、 フツノ ミタマ、フツヌシにタケ ミカヅチ を加 えた三 物部氏 の足跡 は志太郡 までにとどまるが、北隣する 次 いで武発槌神が産 まれてい る。 この ことか らタケ ミ 大族茨城国造 の動向 も垣 間見てお こ う。茨城国造は推 カヅチ とフツ神 は同一神 または親族神で、 ともに剣の 古朝 の壬生 部 の設置 とともに壬生連 を姓 に戴 き、伴造 神格体 であることが知 られる。 またホ ノニニギの降臨 常陸国風土記』行方郡条 )。 この時 に先立 ち、 タケ ミカヅチ とフッノ ミタマが 降 りて、オ 国造に転身 した (『 点で伝統的な茨城 国造家 に異変が生 じた と思われる。 オクニ ヌシか ら葦原中国を譲 り受 けて い る おそ らく茨城国造 は、本来地元 の地名 を襲った直姓の 神代巻天孫 降臨条本文及 び一 書第 一 ・ 第二 )。 タケ ミ 有力国造 であった と考え られる。それが大和王権 の な カヅチはい うまで もな く、鹿島社 に祀 られる中臣氏の ん らかの圧力 によって、領 内に壬生部 を設定 されて、 氏神 であ り、前述 の ようにフツノ ミタマは物部氏 の氏 そ の管理 を委託 されるにい たって地方官僚化 したので 神 である。 ここでは両氏 の氏神が共同行動 を起 こして 『常陸国風土記』の著名な夜刀神伝説 の後半部、 あろう。 い ることが重要である。 もうひとつ 、史料か ら引 いて 茨城国造 の一族壬生連麻呂 は、田地の 開発 を妨害する お こ う。神武天皇が熊野山中で荒ぶる神 に苦戦 した際、 夜刀神 に対 して、なぜ「風化」 に従 わないのか といっ 神武 を助けるため天降るよう命 じられた タケ ミカヅチ て、 ことごと く打 ち殺 して しまった。 ここでいわれた は、自身の 身代 わ りとしてフツノミタマ を神武 に授 け、 「風化」 とは茨城国造家の権威 ととれないこ ともない 窮地 を脱す る場面 がある が、既 に大和王権の地方伴造 に転化 して いる以上、そ で もフツノ ミタマは タケ ミカヅチの分身 として登場 し の権威 は大和王権 に帰せ られるもので、昔 日の茨城国 て い る。共同行動 といい分身関係 といって、神話 はあ 造 の立場 は見 る影 もない とい うべ きであろう。 たか もふたつ の神格が存在す るかの よ うに表現 して い (7)宗 教情勢一 中臣氏 の進出一 (『 (『 書紀』 古事記』、『書紀』)。 ここ るが、物語の展 開上はわざわざ二神 に分 ける必然性 は ここで再 び、大霞 ヶ浦南辺 の宗教事情 にふれておこ 認 め られない。この よ うな不完全 な神格の分化状態 は、 う。それ は大 霞 ケ浦地方 の古代 における宗教改 革 にほ 鹿島社 にお いて もうかが うことがで きる。 タケ ミカヅ かな らない。信太郡では 8世 紀初頭以前 に、普都大神 チ を祀 る当社 には古来長大 な神刀が伝世 されて い る 信仰が流行 して い ることに注 目した い 常 陸国風土 が、その神刀の銘はフツノ ミタマ になってい るのであ 記』、信太郡条 )。 その改革たる所以は、現地住民 には る。地域 は離れ るが、推古朝に肥前国三根郡物 部郷 に な じまない、天か ら高貴な神が降臨 して地上 を支配す 建 立 された一社があ り、その縁起では、来 日皇子が新 るとい う発想 にある。 この天神降臨信仰が流行 した背 羅征伐 の際に、物部 の若宮部 に「物部 の経津 主の神」 景 には、 当地に勢力 を扶植 しつつ あ った物部氏が関わ を祀 らせた とい う (円 巴前国風土記』)。 (『 っていたのでは なかろうか。物部氏 は大和石上神宮 に ここに至れば、 フツ大神が フツノ ミタマであるのか 霊剣 フツノ ミタマを奉祀 して氏神化 して いる。その 固 フツヌシであるのかは、 さほ ど大 きな問題 にはな らな 有信仰たる フツノ ミタマ を、 フッ大神 と称 して信太郡 い。本来 この二 者 は単 一神格 であった と考 えられるの にもた らした もの と考え られるのである。こ うい えば、 である。 フツ (大 )神 は神話 に示唆 されて いたように、 フツ大神 とはフツヌシであ り、元来香取社 に祀 られ奈 フツヌシとフツノ ミタマが独立神 として取 り扱 われる 良時代新造 の春 日社 に勧請 された中臣氏 の氏神 であ 以前、つ ま り両神が分裂す る以前の素朴 な単一神 であ る、 との反論が予想 される。実はその反論に も納得で ろ う。そ して タケ ミカヅチ (本 来は ミ・ イカヅチ)は (1948) ―- 38 -― 雷、 フツ神 は雷光 (フ ツとは閃光が発す る際の表音表 外房 に進 出 した物部氏 は、 さらに香取流海 を渡 り、 現であろう)を 元 々象徴 していた。両神 はいずれ も稲 信太郡 に進出 して普都大神 を自ら布教 して い る。その に稔 りを与 える豊穣神 だが、本来 は別系統 の神格 とし かたわ らでは、中臣氏が活躍 してい る。鹿 島台地 に進 て認識 されてい た と考 えられる。当然それぞれを奉祀 出 して鹿島社 を創建 し、鹿島郡 を建置 した。 また香取 す る集団 も異 なって いた。それが記紀神話 に定着す る 郡にお いて も、同様 な ことが考えられ るであろ う。す 段 階で、十拳剣 を仲介 して武神の性格 を帯 びた剣神 と なわち、中臣氏 は当地に定着 して、 フツヌシ・斎主 を して習合 して しまったのであろ う。その時点 で、神 々 祭神 とす る香取社 を建立 し、下海上国造領 と一部 の 印 は本来備 えて い た豊穣神 の性格 に加 えて、武神の性格 波国造領 を割 き取 って、香取郡 を起 こ した と想 定 され をも併せ持 つ ことに なったのである。 この事例 は記紀 る。以上の出来事 は、すべ て 6世 紀後半か ら 7世 紀 中 以前の神話 の状態 を探求す る上で、貴重 な材料 を提供 葉 までに行われたので ある。両氏 の混然化 した姿 はこ してい る。 この 問題 をさらに論 じ詰めれば、津田左右 こに きわまっていよ う。池田源太氏 ははや く物部 ・中 吉が提示 した記紀神話の編述者 による「机上の述作」 臣両氏 の交友関係 を論 じて教 え られ るところが多 く、 理論 を根底か ら批判で きる地平 に立 つ ことがで きるよ うな思 いがす る。 しか しそのことは同時に、物部 ・中 この地域 にお いて も物部 ・ 中臣両氏 の共同行動 を認め お てお られる しか し、中臣氏 を「物部氏の軍事顧問 臣の各氏族史 の研究 とともに、神話生成論 の深 い森ヘ の ような役割」 と評価す る点には従 えない。 また志 田 さ迷 い 出る ことにな りかねず、勉強不足 の筆者 として は、 この辺 りで判 断中止 を宣言す るほかはない。本来 諄 一氏 も、武発槌命 を介 して物部氏 と中臣氏 の 関係 を M)。 物部 。中臣の両氏 は、諸国造 と対峙 し 論 じて い る の 問題 に立ち返れば、氏族神 として信奉す る神 々にこ なが ら流海沿岸 を分担 して、大和王権 による中央集権 の よ うな混乱が み られる以上、物部氏 と中臣氏 はほと 化 の端緒 を開い ていつた。物 部氏 と中臣氏 はこの時点 ん ど同 じ剣神 =武 神 。豊穣神 を奉祀す る、宗教的 に深 で軍事的 には もちろん、宗教的共同体 を形成 して い る いつ なが りを持 っていた氏族であった とする ことがで のである。 なぜ大霞 ヶ浦南部 にフツの神 を執拗 に布教 きよう。 したのか。それは後 に鹿島 ・香取両郡 を神郡に昇格 さ )。 物部氏 と中臣氏 の 関係 は神話世界 に限る ものではな せた大和王権 の意図 とい うほかないであろ う。その過 く、世俗世界 において もしば しば協調関係が うかが わ 程 で取 り残 され、後援 を断たれたのはほかならぬ浮島 れるのである。そ の最たるものは仏教公伝 にあたって、 である。物部 ・ 中臣両氏 の圧倒的な宗教的攻勢 によっ 蘇我氏 に対抗 して、チ ーム を組んで阻止 した い きさつ て、在地国造が伝統的 に庇 護 して きた地元 の守護神 は、 がある。今 は香 取流海 を中心 とす る東国世界 に注 目し あっけな く忘れ去 られ しまった。 て、考察 を進め よ う。結論か ら先 にい う と、 中臣氏 は 物部氏 の海上国造領進出にあた り、物部氏 に同道 して 2.相 模・ 武蔵 の概況 きた と思われるので ある。 こ うい って しまえば、用明 この地域へ の大和三権 の派兵行動が蓋然性が高 い と 2年 (587)の 物部本宗家 の滅亡 と中臣氏 の 進出が ど すれ ば、それは 6世 紀末 の約 10年 間に起 こった 出来事 う関 わるのか究明する必 要があ るが、本当の ところは であ り、それ以後地方行政 の整備拡充がすすめ られた よくわか らない。はっ きりとわかる ことは、物部氏が ことは事実 である。 (1)相 模 。南武蔵 の一体性 北進す る過程で、下海上国造領がそのまま香取 ・鹿島 郡 として、 中臣氏が領有す る結果 に落着 した とい う事 多摩川下 流域 のWS‐ 4と WS-5に は若干の時期差が 実である。 物部 。中臣連合 は、 まず前述の須恵器 を忠実 に模倣 あ って、WS‐ 4は 6世 紀後半か ら、WS-5は 6世 紀末 頃か ら活性化す る。関連す る主要道路線 を確認 してお した土師器杯身が定着 した馬来田国造領内か ら出発す くと、東西 10号 線がWS-3・ 4・ 5を 貫 き、交会点 るのだが、す ぐ南 にある富津岬、 これを筆者 はフツの に発す る南北 12号 線がWS‐ 5へ 、 また同 じく、南北 13 津 と解釈 して普都大神 に結びつ ける。 い うまで もな く 号線 がWS-3に 通 じて いる。 この路線配置でまず注 目 三浦半島か ら房総半島へ の 目標 とな り、派遣軍の航海 すべ きことは、古墳 ロー ドの確 立度である。WS-3- の安全 と進 軍 の無事 を祈 っての名付 けである。古津、 WS-4間 は距離 も短 いせい もあって、古墳 ロー ドが成 古戸か らの訛化 とす る 『大 日本地名辞書』 の見解 は、 立 して い る。 一 方、WS-4-WS-5間 は想定路線 とな い0。 筆者 は支持で きな j ってお り、古墳 ロー ドは未発達である。 また、交会点 ―- 39 -― (1949) iか らWS-5へ は古墳 ロー ドが 確 立 して い るのであ 機能が負荷 されて いたのではないか。 この屯倉 は交会 る。 これ をWS-5を 中心 に してみ る と、WS-5は WS― 点 iに 設置 された新設屯倉 と双子の関係 にあ り、 とも 4よ りも交会点 iと よ り緊密 に連絡 してい た とい えそ に推古朝 に建 設 された原初的な地方行政 の拠点 であ っ うである。その iの 背後 には、新興勢力の横穴墓群 の た。橘花屯倉 の政治的な役割 は多氷屯倉 へ 引 き継がれ 一大基地を形成す る交会点 jが 控 えてお り、そ もそ も た と考 えられる。 南北 12・ 13号 線 は、1に よって整備 された可能性が高 新 しい屯倉 の主たる業務 は、旧来の国造領 を越 えた いので ある。対比 的に強調すれば、WS-5と WS‐ 4の 疎遠性 に対す るWS-5と 交会点 jの 親近性 と表現 で き 広域的な調整事業 を中心 とす る。 この場合 は、令制相 武蔵両国の範囲で、そ こに含 まれる諸国造領―知 々 模。 る。このことを政治史 の動向 とか らめて考 えてみ よ う。 夫・ 元邪志 ・胸刺 ・師長・相武― の確認 。承認 と、新 関連する ター ミナルや交会点 を政治史的用語で言 い 規屯倉 の設置等 の再編成であ った と考 え られる。 多氷 換 えれば、WS-4は 橘花屯倉 で 『倭名類衆抄』所載 の 屯倉 の場合 は、南武蔵 と北武蔵の関係調整が主たる任 武蔵 国橘樹 郡御 宅郷 (東 京都 狛江市 )に 比 定 され、 務 であったろ う。元邪志 と多氷 との交流が考古資料 の WS-5は 後 の武蔵国府域 (東 京都府 中市 )を 含 む多氷 動態に反映 されてい る。すなわち、 6世 紀末か ら 7世 屯倉 である。 また交会点 jは 相模国余綾郡東端 の伊蘇 紀初頭 にかけて、北武蔵―元邪志国造領 の比企型不が 郷 に位置す るが、花水川の対岸 には大住郡三宅郷 (倭 多摩地方 に出回った り 名類衆抄 )が 存在す る。その淵源は、おそ らく推古朝 が、埼玉古墳群周辺 と多摩地方 の両地域か ら検出され に一括的に新設 された屯倉のひとつ であると考え られ る る して い る。比企型杯の南下は多氷屯倉の整備 に必要 な (『 書紀』、推古 15年 是年条 )。 前稿 で橘花屯倉 に関 19、 r)、 18現 複室式胴張 り型横穴式石室 象 は、両地域 の新 しい歴 史 な関係 の胎動 を示 ここで もまた屯倉 と横穴墓群 労働力 の徴発であ り、挑発 された人民は多氷屯倉 の整 が密接 に結びついていることは注 目に値 しよ う。 この 備拡張 と多氷屯倉か ら元邪志国中枢 に延 びる官道 の造 屯倉が発展 して 7世 紀後半 には相模国府 (平 塚市四之 成工事 に使役 された と思われる。 また両地域 における 宮遺跡群 )が 建設 される重要拠点である。交会点 jは 複室式胴張 り型横穴式石室 の 出現は、その起源 の先後 令制下 では郡域 を異 にするが、接近 した位置関係か ら がはっきりしないが、その石室型式は埼玉古墳群 の そ みて、む しろ当該屯倉の発祥地であった と考 えられる ので ある。 旧稿 “)で は、 この地の 最有力者 を「国造 本紀」 の相武国造 とみな してい る。以上の比定作業 の れ とは異 質 で あ って、非在地性 の高 い もので あ り、大 して考察 した よ うに 和王権 とのつ なが りを想定 させ る。おそ らく北武蔵 の 複室式胴張 り型横穴式石室は、南武蔵 を経由せずに東 京湾 か ら利根川 を遡行 して、埼玉の津 に上陸 して元邪 結果 を上記の主要道のあ り方に上乗せ すれば、以下 の よ うに再解釈 で きよう。多氷屯倉が形成 。整備 される 志 国造膝下 に駐屯 した大和王権の派遣官の奥津城 で、 にあたっては、橘花屯倉の関与以上に、新設 された屯 元邪志国造 は じめ在地豪族 の不穏 な行動 を監視 ・ 牽制 倉 を管掌す る相武 国造 の支援が大 きく作用 した、 と。 したのであろう。 後 の武蔵国府 の揺藍 となった多氷屯倉 の在地 におけ このことか ら、両屯倉や相武国造の性格、及びそれ ら の 関係 について考 えてみ よ う。 る管理者 は、その地位 と職務が新置の国造 に匹敵 して (2)多 氷屯倉 と元邪志国造 いた と思われる。その系譜 は多摩郡 々司職 に伝 えて ら まず、橘花屯倉 と多氷屯倉 は設置時期が異 な り、設 れて い たであろ う。 天平勝宝元年 (749)│こ 郡大領 の 置 目的や内部構造 まで異質であったのではないか。安 閑紀元年条には「武蔵国造」 による橘花 。多氷等 4屯 大伴赤麻 呂が死亡 して い る 倉 の献上が記 されて い るが、 ター ミナルを構成す る諸 部直 に連なるのかわか らない。 また隣郡の入間郡で も 古墳 の年代か らは、 橘花屯倉 は 6世 紀後半 の早 い時期、 大伴部赤男が西大寺 に献物 した功 によ り、外従五位下 多氷屯倉 は 6世 紀末か ら 7世 紀初頭 の設置が妥当で、 を追贈 されて い る 『書紀』 の記事 は信用 で きない。その内部構造 につい してみると、大化前代以来の伝統的勢力 として、多摩 ては、橘花屯倉 は旧来の運営方式、すなわち、 国造勢 郡 か ら入 間郡 にか けて大伴 一 大伴 部 の一族 が盤据 して 力範囲 の一 角 を囲 い込んで、 田部 を差発 して営農 し、 い た こ とが 明 らか に な る。 日本霊異記』中巻第九)。 あい に く無姓者 なので、その上級姓が大伴連か膳大伴 収穫 された稲穀 を中央へ搬送す るとい う、大和王権 の 直営的な収稲施設 であるが、多氷屯倉にはそれ以上 の (1950) (『 ―- 40 -― (『 続 日本紀」宝亀 8年 6月 乙酉条)。 (3)相 武 国造 次 に相 武 国造 につ い て 考 える。 多氷屯倉 の 設置 ・ 運 辮 難 1瞥 \ 多胡郡 / 第 4図 相・ 武・ 毛 の北進ル ー ト 営 を支援 した相武国造 も、旧来 の 国造 とはその性格 を る大磯 町大磯付近 にその故地 を求め、国造 としての政 異 に して いた と思われる。相武国造 はその名 を令制国 治的な力量 を古墳ではな く、横穴墓 に見 い だす。横穴 名 にとどめる数少 ない 国造 である。 この タイプの国造 墓群 を基盤 にす る国造の相貌 は、父祖以来営 々 と前方 は他 に筑紫君、吉備 臣、尾張連、上毛野君、下毛野君 後円墳 を構築 して きた従来 の 国造 イメー ジとは隔たっ 等があげ られ、その領内に一族 の大古墳 を築 き、史書 ている。その 国造職 に任命 された者 は大和 王権か らの にも登場する鈴 々たる顔 ぶれで ある。 ところが、相武 派遣官 か、 もしくは著 しくロボ ッ ト化が進行 して い る 国造 の場合 は、相模 国内 に100m級 の大古墳 やそれ ら 在地首長 であろう。その任務 も、屯倉や部民 の管理 を の集合地 は存在 してい ない。 このことは、不思議 とい 大和王権か ら委任 された新興 国造 である と思われる。 えば不思議である。そ こで筆者 は、相模国の中央近 く 当地 の姓氏分布 によれば、余綾郡人 と思われる人物 に に位置 し、後期 中小古墳 と横穴墓 の一大混成地帯 であ 「大磯部 白髪」 なる人名 を見 い だす -41- (『 調庸墨書』 19、 (1951) 天平 10)。 かれは在地名「大磯」 に姓 (直 力)を 付 し 域 の集権的な王土化 にあったことが理解 されるのみで た有力者 の私有民 である。大磯氏 は「武蔵」国造 の姓 ある。 (4)活 動 ルー ト 氏 が 当地名 を冠す る笠原 直 であ るこ と も参考 され る 6世 紀前半、多摩川流域 にまだ屯倉が設 置 されてい が、相武国造 との 関係 は不明 である。大磯 の地が大規 模横穴墓群 のただ 中にある ことか ら、大磯氏が相武国 ない 頃には、 この地方か ら元邪志 国へ 通 うルー トは、 造職 に匹敵す る勢力 を維持 して い たことは疑 い ない。 東京湾東岸 をWS-3か ら胸刺 国 (WS‐ 国府が建設 された大住郡の譜代郡司は壬生直 であるこ り、そ こか ら荒川水運 で比企 ・埼玉地方へ 向か うコー とが判明 してい るが 続 日本後紀』、承和 10年 3月 壬 スが主流であった。やがて 6世 紀後半 にな り、橘花屯 子条及 び 『 日本 三代実録』、貞観元年 3月 辛酉条)、 相 倉、 さらに多氷屯倉が設置 されて元邪志国 との政治的 武国造 の姓氏 はいずれ とも決 めがたい。大磯 (直 )か な交流が活発 になると、大 きく迂回す る従来の主要路 ら壬生 直へ の改姓 も考慮 に入れる必 要があろう。 は しだ い に敬遠 され、 いっそ う効率的な路線が求 め ら (『 多氷屯倉 と同様 に相武国造 もまた、周辺勢カヘ 干渉 2)へ 陸路 を取 れるよ うになる。 この時点 で重要 な中継点 として浮上 の手を延ば して い る。 「 国造本紀」には令制相模 国内に、 す るのがWS-1で ある。橘花屯倉 相武国造 の他 に師長国造が記 されて い る。 師長国造 も 多氷屯倉 他 の 史書には表れないが、その本拠 は、大山東南山麓 か ら荒川を水行する コースが取 られたであろう。 しか の余綾郡磯長郷 である。国造の本拠地が評に移行する し、WS‐ 4あ る い はWS-5か らWS-1の 区間は古墳 ロ 場合 は、国造 名がその まま評 (郡 )名 に持 ち越 される ー ドが存在 しない。 にもかかわ らず、筆者 はこの区間 ことが多 い。『常陸国風土記』 によれば、新治・筑波・ が南北交通 の一 時的 な主要路線 となって い た と考 え 茨城 ・多珂 の諸郡が国造 の負名郡で、負名郡 を分割 し る。それはこの路線が政治路線であって、生活路線で て新 たに再編 した信太 ・行方・香 島の諸郡 は、 まった はないので、沿線住民が いたって乏 しく、かれ らを支 く新 しい名 を付 されてい る。 これを踏襲すれば、師長 配する豪族層 の墳墓 =古 墳 も量産 される状況ではなか 国造 の本拠地が含 まれる評 (郡 )は 、師長評 (郡 )と ったこと、 さらに この路線が乏水性 の高 い武蔵野台地 なるはずだが、国造名 とは関係 の ない余綾郡 とされ、 を縦断 して い るので、そ もそ も当時 の技術力 では、水 国造名はわずかに郷名にとどめ られてい る。 このこと 田耕作 を主 とする農業生産が定着で きない とい う基本 は、 国造制か ら評市1へ の移行過程 にお い て、 師長国造 的問題 を抱 えているので ある。 (WS-5)か (WS-4)あ るい は ら陸路 でWS‐ 1に 直行 し、そ こ 領が大 きく削減 された ことを暗示 してい よ う。 とすれ この路線 も、多氷屯倉 の重 要性が増 して くる と、 さ ば、相武国造 の成立期は評制へ の移行過程 の 第一段階 らに再検討が迫 られ る。WS-4か らWS-1へ はなん ら に相当 し、師長国造領の削減 に深 く関与 して い た可 能 問題 はないのだが、WS‐ 5か ら元邪志 国へ 向か う場合 性 はあるだろ う。た とえば、相武国造が軍事的な威嚇 は、WS-1の 中継点 は依然 として迂回路 になるのであ を伴 って師長国造領 の縮小 を迫 り、第二段 階 として大 る。そ こで、WS-5か ら元邪志国南端のWN-15へ 陸路 化年間に円満裡 に余綾郡中の一郷 として存続 を許 され で直行す る最短ルー トが開発 された。後の東山道武蔵 た と想定する こと も可能である。 このよ うに、多氷屯 路 の主要部分である。 この路線は多氷屯倉 の整備事業 倉 と相武国造が在地社会 の 中央集権的 だ律令制的 の一環 と考え られるので、その開発 は 7世 紀初頭 には と呼べ る段階 ではない)再 編 とい う大事業に最初 の鍬 着手 され、その中葉 には開通 して いたであろう。兵力 を入れた ことが考 えられ、一 方 は屯倉 とされ、 もう一 の大量移動 を前提 に したその道路 は、当然広 幅 で よ り 方 は屯倉 を管掌 しなが らも国造 と呼ばれて も、 この時 直線的に計画造営 されたはずである。比企型杯 を多摩 期 に至 っては、もはや さしたる違 い はな くなって い る。 地方に持 ち込んだ人 々の 中には、その造成工事 に駆 り (ま 上 記 の政治史的構図は、後の表現 を使 えば、相模 中 出 された者 も少な くなか ったで あろう。 枢部 と南武蔵が一体的な協力体制 を布 い て、相模外縁 この ル ー トの 出発 点 は交 会 点 jで あ る。 そ こか ら 部や北武蔵 に幡躍す る「 まつ ろわぬ」諸勢力 と対峙す WS-5に 達 しWN-15を 経 由 してWN-13に 到 達 して元 邪 る姿 を呈 して い る。 しか しこの ことか ら、 7世 紀末に 志 国 中枢 と接 触 す るわけだが 、政治 的 に選 定 され た こ 完成 される「武蔵国」や「相模国」 の青写真 を引 き出 の ルー トは まだその先 が あ った。 前 項 で は相模 ・ 武蔵 す ことには まだ無理がある。大和王権 の思惑が、上毛 間 の 交 通 に重 点 を置 い たが 、 関連 ルー トはその北 方 に 野君領 の本貫 を除外 した東国西 部 とい う限定 された地 及 び、 元邪 志 領 内か らは既 成 の南 北 9号 線 ・東西 5号 (195の ―- 42 -― 線 を上毛野領内の緑野屯倉・佐野屯倉 (金 井沢碑 ・ 山 的本宗家 に打 ち込 まれた決定的なクサ ビとなった。 と ノ上碑 )に まで達 して いるので ある (第 4図 )。 もあれ、 この計画が 6世 紀末か ら 7世 紀初頭 とい う時 (5)屯 倉 をつ なぐ道 期 に実行 に移 された ことによって、大化年間に始 まる い ままでの叙述か らも察 しられるように、 この沿線 には屯倉が多 い。南か ら指摘 して いこ う。平塚市西端 評制移行が、大 きな支障をきたさずに実行 された と筆 者 は考え る。 (6)渡 来民 の入植事業 には、推古朝 に設置 された とおぼ しい屯倉があ り、横 穴墓群の集積地がある大磯町 まで含めた範囲が相武国 この路線 の もうひとつ の特徴は、朝鮮半島か らの渡 造 の基盤である。多摩川流域 には橘花屯倉 があ り、そ 来民がその沿線 に大量 に遷住 ・ 定着せ られた ことにあ の上流 に多氷屯倉 が設置 された。武蔵野台地の彼方に る。その具体相 を南か ら追跡 していこ う。 まず南部 の状況である。神奈川県大磯町北束 の花水 は、通説 では武 蔵国横見郡 に比定 される横淳屯倉があ るはず である。 しか し、横淳 →横見 の音転 は納得が い 川沿岸 には大字高麗 かないので採用 で きない。そ の代案 として、坂 戸市東 い る。多摩川流域 に移 ると、武蔵国橘樹郡 に飛鳥部吉 郊 に大 字横沼があ る。荒川 の支流、越部川 に面する自 然堤防上 に占地 してい る。横淳 →横沼へ の変化 ならば 志五百国が記録 され 音義 ともに矛盾 をきたさないので、横淳屯倉 の故地に 現在 にも東京都狛江市 として名跡 をとどめてい る。 ま ふ さわ しいで あろう。た しかにこの地は比企 ・入間郡 た聖武朝 には多摩郡鴨里 に吉志大麻 呂が記録 されてい の古墳密集地 の入 り口に位置 し、大和王権か らみれば る 異界 へ の 道 の口に相 当す る関所 を兼ねて い た と考 え は 『倭名類衆抄』 には見 えず、その間に名称変更が行 る。道の奥に関わる菊多関や自河関 とまった く同 じ意 われた と想 定 され、所在不明である。 (旧 (『 高麗村 )な る地名が遺 されて 続 日本紀』、神護景雲 2年 6月 癸巳条)、 多摩郡には狛江郷が所在 し(『 倭名類衆抄』)、 (『 日本霊異記』、中巻 第三 )。 ただ し、鴨里 (郷 ) 味 を持 ち、機能 して い たであろ う。そ こか らは既成の 続 いて 中部 の様相 につい て。持統 朝 の前半 の施政 で 在来道 を改良 しなが ら官道化 して、元邪志国内を通過 投化 (渡 来)人 を東国へ 移送す る事例が 目立 ってい る。 して上毛野領内に入 り、緑野屯倉 に至 り、 さらにルー 持統元年 (687)3月 か ら 4月 にか けて、高麗人56人 トは利根川を渡 り、佐野屯倉で終着す る。緑野屯倉は を常陸国へ 、新羅人14人 を下野国へ 、新羅の僧 ・百姓 上 野国緑野郡 の母体であ り、 6世 紀後半 には成立 して 22人 を武蔵 国へ 等 い た とみ られる。 また佐野屯倉 は群 馬郡 の南域、現高 崎市佐野 を故地 として、推古朝 に一括 して設置 された 国へ の入植が本格化 した と思われる。その流れは霊亀 2年 (716)5月 にい た り、駿河・ 甲斐 。上総・下総・ 新屯倉 のひとつ であろ う。 常 陸 ・ 下野 に分散配置 された高麗人1,799人 を武蔵 国 この政治的なルー トが設計 。開発 された意図は もは (『 書紀』)、 この 頃か ら渡来人の東 に移送 して、高麗郡 を新置 した ことで ピー クを迎 える や明白であろう。それは、①屯倉 間の交通 を安全で迅 (『 続 日本紀』)。 その後 に も天平宝字 2年 (758)8月 速なシス テム に改善 し、大和王権の指令 を速やかに各 には武蔵国内の閑地に新羅郡 (後 の新座郡 )が 新設 さ 屯倉 に伝達す るとい った通信業務 にあるのは もちろん れて、新羅僧尼や男女が移 されて い る (同 )。 その北 だが、②個 々の屯倉 を強力に連結 して物資や武器 を融 方 の男余郡 では郡大領 として壬生吉志福生 の名が見え 通す ることで、各屯倉 はそれ 自身を越 える大和王権の ている 大 きな影響力 を、周辺の在地勢力 に発揮することがで 郡は武蔵野台地 と並ぶ乏水性 の高 い高燥台地 の櫛引台 きる。 さらに、③在地 における万 一の状況に対処する 地 を抱 える未墾地域 であった。おそ らく大和王権 は、 ため、大和 王権 か ら派遣 された大規模 な軍隊 を通過 さ この地に吉士 (志 )集 団 を指導者 に仕立て、諸他の渡 せ るに耐 えうる、広幅で、なるべ く直線的な道路 の建 来民 を強制的に移住せ しめて不毛地 の 開発 を図ったの 設が望 まれたので ある。 この時期 における計画的な道 であろう。 (『 続 日本後紀』、承和 12年 3月 己巳条 )。 男裳 路建設は、相模平野・ 武蔵野台地 に係 る範囲に限定 さ 北部 の上毛 野領内では、緑野屯倉周辺 に渡来民の集 れて いたであろう。④相模湾 か ら佐野屯倉 を結 ぶルー トは、② o③ の指摘 をふ まえれば、大和王権が 自由に 住が顕著 で、渡来民 に関わる二つの評 (郡 )が ある。 上野国甘楽郡 は緑野郡 に西接 し、 カラ (韓 →甘楽 )ノ 物資や人員 を海か ら群 馬郡域 の佐野屯倉 まで、支障な コホ リか ら出発 して いる。『続 日本紀』 に建郡記事が く運送 で きる ことを意味す る。その ことは、やがて 同 みえないことか ら、大宝令施行以前 には成立 して いた 郡 に国府が定め られることになる上毛野国中枢の伝統 であろ う。 天平神護 2年 (766)5月 には上野国在住 ―- 43 -― (1953) の新羅 人193人 に吉 井連が賜姓 されてお り 続 日本 亡 させ ることがで きなかった。そ の程度に これ らの旧 紀』)、 早 くか ら新羅人を主 とす る渡来民が集住 してい 国造 は政 治的 ・軍事的に強力 な存在であ った。それに たことが理解 される。吉井 は地名 で、群 馬県多野郡吉 対 して新国造 とは、小論 との 関わ りか らは武社国造や 井町を故地 とし、旧甘楽郡 に属 してい る。 また多胡郡 は、和銅 4年 (711)3月 に甘楽郡 4郷 ・緑野郡 1郷 。片 相武国造 を指す。かれ らは旧国造 と異 な り、在地の伝 統的な勢力 ではな く、大和王権か らの派遣官か、王権 岡郡 1郷 を割 い て建郡 されて い る (同 )。 元 々緑野郡 によって著 しくロボ ッ ト化 された中小 の在地首長 であ 西域 には甘楽郡 を中心 に多 くの渡来民が定着 して いた った。旧国造が 5世 紀 にはすでに存在 し、その領内に が、甘楽郡 の東半が分かれて新郡 となった もので ある。 いずれ も古式古墳 を伴 っていることか ら、 3∼ 4世 紀 なぜ この沿線 には渡来民が入植 された のだろ うか。 の大和王権成立時点 の地域 連合 の一翼 を担 った勢力 で (『 ひとえに渡来民 の能力に期待 してい たのであろ う。① あるのに対 し、 新国造 は 6世 紀後半か ら末に設定 され、 まず沿線 に点在す る屯倉 内 の 能吏 ぶ りが想定 される。 在地 の伝統的な政治環境 とは無関係 に大和 王権 か らの そ こでは、吉備の自猪屯倉同様、田戸の戸籍や田籍が 指示 を受け、周辺 の政治環境 を再編成する役割 を担 わ 記録 され、 屯倉管内 の武器収公が実施 されたであろう。 されたのである。 ここでは新旧国造 と呼 び分けている それはまさに、「大化改新」 の地方政策の一 部 を先取 が、一案 として新 国造 の設定 された時期 に、旧国造 も りした もので ある。② さらに、令制武蔵国内には古墳 は じめて国造職 に任 命 された と考 える こともで きる。 時代 に不毛 の 未墾地 として放棄 されて い た武 蔵野台 それはともか く、 この よ うな新旧国造 の 中間的な時 地 ・櫛引台地 に、率先 して 6世 紀末には吉士集団が配 期 に成立あるい は設定 された国造が存在す る。小 論 の 置 された形跡がある。そ こには吉士氏 を指導者 として 対象範囲 たる東国 に即 して指摘すれば、下毛野国造 と 諸他 の 渡来民が原野 の 開拓 に勤 じむ姿が彿彿 され よ 元邪志国造 である。下毛野国造は「国造本紀」 にある う。渡来民 には渡来民 を以て統治す る政 策が うかがえ よ うに、仁徳朝 に毛野国が上下 に分かれて設定 され、 る。③ さらに この政治 ルー トに沿 った渡 来民 の分布状 そ の初祖 は豊城命四世孫 の奈良別 とされている。上毛 況 は、おそ らく偶然 の結果 であろ う と筆者 は考 えるの 野国の母体 は毛野国であるか ら、下毛野国はそれか ら だが、碓氷坂 と足 柄坂 を以て東国 (→ 坂東 )の 入 り回 新たに分枝 した新興国造であろう。それが仁徳朝 の 出 とす る、大和 王権以来 の律令国家 の境界認識 とかな り 来事 とす るのは疑わ しいが、 6世 紀後半 よ りも遡 るこ 一致 しているので ある。 この境界認識は 6世 紀 には成 とは認め られ よう。また元邪志国造は安閑紀元年 (531) 立 して いた と考 えられるが、大和王権 はつい に 「東国」 に、大和 王権派 と上毛野君派 に分裂 した内紛事件が記 と蝦夷 の居住地域 を明確 には識別 で きなかった。 した されて い る。 この事件 を契機 に元邪志国造が設定 され がって、 もしこ うした結果 に国家的意図を見 い だそ う た と考え られるが、筆者 はその実年代 を埼 玉古墳群 と とすれ ば、蝦夷 なる異種族 には渡来民 なる異種族 を以 の 関係か ら、安閑朝ではな く雄略朝 の 5世 紀後半 に比 て、内 国を保護す る障壁 としよ う とした政 策が くみ取 定す る れるであろ う。 新国造 よ りはその歴史が古 い とい うことになるであろ 20。 これ ら二 国造 は旧国造 よりは成立が新 しく、 う。 Ⅲ.展 中間期 に成立 したこれ らの国造 は、新国造 よ りは大 望 今 まで の考察 をふ まえ、将来の研究針路の布石 とな 和王権 に対 して 自立的であるが、か とい って旧国造 ほ る二つの 問題 を指摘 して小論 を閉 じよう。第一 に国造 どの伝統 と勢力基盤 は持 ち合わせてはい ない。そ の性 の新旧であ り、第二 に官道の創出事情 とその盛 衰 につ 格付 けを考える際には、中間期国造が大和王権 と分枝 いて考 えてみたい。 母体― この場合 は上毛野国― とどちらに親近的で あ っ 1.国 造の新旧問題 たかが課題 となるであろ う。そ の度合 い によって、大 まず国造の新旧問題 について。 本論 の叙述か らひと 和王権 の統治機構が列 島社会 の 中央集権化 に対 して、 しく国造 と呼ばれ て も、そ こには新 旧の違 いがある こ よ り停滞的か よ り進歩的かを判断する重要 な目安 にな とが明 らかになった。旧国造 とは 5世 紀 にはすでに成 立 してお り、筑紫・吉備・尾張 。毛野等の国造 を指す。 ると考 えられる。 かれ らは大和 王権 との 身分的な近 さか ら、 しば しば ト 2.官 道の創 出とその盛衰 ラブル を引 き起 こ したが、大和王権 は結局かれ らを滅 前章にお いて、大和 王権が造営 した二本 の道路 とそ (1954) ―- 44 -― の道筋 を考察 した。それは 『延喜式』 に示 された駅路 黎明期 は大和 王権 が中央集権化の第一歩 を印 した時 をた どる コース とは大 幅 にず れてい た り、 一部 では整 期で、集権化 の妨げ となる地 方豪族 に対処す るため、 合 して い たが、 これ らの道路 は奈良時代や 『延喜式』 海路 を活用 して大量の兵員 を輸送 したであろう。それ の駅路が官道 とされているの と同様 に官道である。そ は朝鮮半島へ の度重 なる渡海経験が生か された もので の 造営 主 体が大和 王 権 であろ う と律令 国家 であろ う ある。長距離 の陸上輸送路が まだ整備 されないこの時 と、 中央政権 の国家事業 として営 まれた以上、ひとし 期 には、 目的地 の最寄 りの海岸 までは海路が陸路 よ り く官道 と呼ぶほかない。 も優先 された と考え られる。 また この期 には海岸か ら す なわち官道の淵源 は、律令国家 を遡 り大和王権 の 時代 に端 を発す る。前章 で考察 した相武の王権道に注 目的地 までは、兵員輸送 のために大和王権が 自ら広幅 道路 を造成 した。 目しては しい。そ こでは王権道 に沿 って、屯倉が処 々 拡充期 は評が全国的に設置 される時期で、それに伴 に点在 して い る。個 々の屯倉 はそれな りに建立 の沿革 って評 と評 をつ な ぐ道路が整備 されたであろう。評 の を持 ち、王権 の必要上設置 されたのだが、 一本 の道で 役所 が成立 していれば、役所 間の連絡網 の形成が急が つ ながれてみると、新たな機能が負荷 される ことにな れた。 なお評 の上位機構 の 国 は、 この時期 にはまだ出 る。大和 を発 した王権の使者 は、海上か ら相模国府近 そろわず、その境域 も不安定 であった。 したがって都 在 の屯倉 に旅装 を解 き、休養 をとった後に、王権道の か ら地方の国や評をめざす陸上 ルー トも不十分であっ 諸屯倉 に勅命 を伝達 しなが ら北上 を続け佐野屯倉 に達 た と考 えられる。評や国が整備 されるにつ れて官道の する。 このルー トを踏襲す る使者 の行旅 は、王権道 の 陸路優先化が促進 されて いった。 成立以来、建評政策の盛行期 に至 るまで頻 繁 に実行 さ 完成期 には律令制が本格的に整備 され、令市1国 がほ れたはず である。相模 国府近在 の屯倉か ら佐野屯倉 ま ぼ固定化 された時期である。諸国を 7方 面に分類す る での交通 手段 は、 当然馬が使用 された。始発か ら終点 施策 とともに、都 と国府 をつ な ぐ長距離主要道が整備 までは一 日行程 を大 きく上 まわるであろう。とすれば、 され、駅伝制 も最盛期 を迎 えた。奈良時代の後半 にな 途中の どこかで休息・宿泊 の便宜が必要 になる。その ると駅の改廃が 目立ち、駅伝制の維持 にかげ りがみえ 業務 は、 中間に点在する諸屯倉 に委ね られたのではな は じめる。 かろ うか。すなわち相模国府近在 の屯倉 を出発 した使 者は、 日没前 に最 寄 りの屯倉で宿泊 し、翌 日は馬 を替 衰微期 は伝馬制が消滅 し駅家の維持 もままな らず、 官道 の維持 。保全が行 き詰 まった時期である。 この時 えて北上 を続 ける。復路 も同様であろう。そ こに展開 期 に 『延喜式』が編纂 され、駅路 の全国網が明 らかに され る屯倉 の機能 は、 後 の駅家 となん ら異 な らない。 なったが、登載 された駅名 は同時代 の ものではな く、 使者 を受け入れる屯倉 は、使者の宿泊設備 を整 え、乗 平安前期 の駅路網 の引 き写 しであつた。同時代の実態 り継 ぎ用 の馬 も飼養 して常備 してお くのである。律令 は 『更級 日記』 にみるように、受領層は駅 を使用す る 制 の導入 によって駅家が七道に設置 される以前 に、駅 ことな く、赴任地へ の行旅 は郎党 を引 き連れて野宿す 家 に等 しい業務 を屯倉が担 って いた。 これは推古朝 の るあ りさまであ った。 はな しであ り、当時 のすべ ての屯倉がその よ うな任務 転 生期 は政権が幕府方 に移譲 された こと もあ って、 を負 っていた とい うのではない。条件 に恵 まれた相武 官道 に点在す る駅家 も廃止 され、それに代 わって始頭 王権道沿線の諸屯倉が、先駆的なモ デル ケース となっ したのが宿である。それは街道沿 い に設置 された もっ て、唐 令 を継受す る際に修正 を施 して、 日本の実情 に ぱ ら民間経営 の宿泊施設 で、官吏に限 らず民間人一般 あわせ るための参考事例の役割 を果た した と考 えるの の休息 ・宿泊 に供 されたので ある。七道 の うち不人気 で ある。 な官道 は廃れて しまった (た とえば東 山道 )。 しか し この よ うに考えると、官道 の変遷過程 は次の ような 五段階に分か たれるであろ う。 黎明期 :6世 紀後半 か ら推古朝前期 幕府 が鎌倉 に作 られたために、京 ・鎌倉間の往来は前 代 よりも活発 にな り、東海道は東 くだ りの公家 。僧侶 や京都大番役 に向か う武家等 で賑 わいをみせた。一方 拡充期 :「 大化改新」か ら天智朝 東国では各地 か ら鎌倉 に向か う鎌倉街道が開発 され、 完成期 :天 武朝か ら平安時代前期 衰微期 :平 安時代 中 。後期 武家 の興隆 とあわせて、中世的社会が形成 されて いっ た。 転生期 :鎌 倉時代以降 ―- 45 -― (1959 注 11)1978大 脇保彦「上総国」藤岡謙二郎編『日本古代の交通路』 1)1948井 上光貞「大和国家の軍事的基礎」『日本古代史の諸 I 問題」 『日本古代政治史研究」 2)1966岸 俊男「光明立后の史的意義」 3)1985佐 伯有清「丈部氏お よび丈部の研究」 F日 本古代氏族 の研究」 「日本古代国家の構造』 4)1958直 木孝次郎「政治史上の推古朝」 『 5)1966岸 俊男「防人考」 日本古代政治史研究』 6)1978丸 子亘他 「城山第一号前方後円墳』 (香 取郡小見川町 教育委員会) 7)2CX17雨 宮龍太郎「古代東国の交通網一古墳時代 の水運 ル ― 卜の復原―」『研究連絡誌」 第68号 ((財 )千 葉県 教育振興財団) 12)1903吉 田東伍編 『大 日本地名辞書』板東編 13)1975池 田源太「物部・ 中臣二氏 の居地に依 る交友関係の 可能性」『日本書紀研究』第 8冊 14)1985志 田諄―「物部連」『古代氏族の性格 と伝承』 15)前 掲 7) 16)21D6雨 宮龍太郎「元邪志国造 と埼玉古墳群」「埼 玉の考古 学」 Ⅱ (埼 玉考古学会) 17)1989水 口由紀子「いわゆる “比企型杯"の 再検討」『東京 考古』 7 18)1991カ 藤修「武蔵の胴張 り複室墳 について」『研究論集』 ロ 8)1987『 房総における古墳時代後期土師器 の年代 と地域性』 京都埋蔵文化財セ ンター) X(東 (第 6回 総括 シンポジウム資料集) 19)1953松 島順正「正倉院古裂銘文集成」『書陵部紀要』第 3 9)1988平 野雅之他『千葉県木更津市花山遺跡 (本 文編)」 ((財 ) 号 君津郡市文化財センター) 10)1962竹 内理三編 『寧楽遺文』中巻 (1956) 20)前 ―- 46 -― 掲 16)