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ドイツの通貨信用制度における 国家干渉機構の形成と発展

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ドイツの通貨信用制度における 国家干渉機構の形成と発展
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
ドイッの通貨信用制度における
国家干渉機構の形成と発展
はじめに 問題の所在と限定−
目 次
清
水
哲
之
よび集中の点からみれば⋮⋮資本制的生産様式一般によってもたらされる最も人為的で最も発達した産物である。⋮⋮ −
マルクスは﹁資本論﹂で信用11銀行制度を詳細に研究し、次のような結論に到達した。 ﹁銀行制度は、形式的な構造お
67
一 はじめに1問題の所在と限定1
−第二次大戦の終結よりドイツ連邦銀行の創設までー
西ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の再編と発展
第二次大戦前における中央i公営銀行制度の形成
三 二 一
(323)
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
︵1︶
銀行および信用は⋮⋮資本制的生産をしてそれじしんの諸制限をふみこえさせる最有力な手段となる﹂と。
︵2︶
この銀行11信用制度すなわち﹁資本制的生産様式をその最高11および最終可能な形態に発展させる推進力﹂によって資
本主義が帝国主義段階に突入するとともに、レーニンの指摘したごとく、銀行業の中に﹁多数のひかえめな仲介者からひ
とにぎりの独占者への⋮⋮転化﹂が生じ、この転化こそは﹁資本主義の資本主義的帝国主義への成長転化の基本的過程の
一つをなし﹂たのであった。
︵3︶
資本主義の国家独占資本主義への発展とそれへの包括的な移行によって、銀行11信用制度の分析の意義は、以前にもま
して重要性をおびてきている。実際、独占体と国家との絡み合いあるいは金融資本の国家の掌握過程の中から資本主義経
済にさまざまな新しい現象が現われており、同時に通貨信用制度にも一定の変容が現われている。しかし、資本主義にお
いてはあらゆる所有関係は貨幣形態で現われ、貨幣は貨幣資本︵利子生み資本︶として機能し、資本循環の始点ーおよび
帰結点であるという事実は何ら変るものではないし、それはまた社会的富あるいは資本制的生産様式の経済的諸関係をも
表現している。それゆえに資本−貨幣循環におけるいわば中継局として機能している銀行は、いぜん資本主義の発展過程
の中で生ずる諸変化の明確な表示器である。しかしそれを通して生産の社会化の発展がもたらす全社会的関連の発展によ
って、銀行制度に根本的に新しい現象が生じているのである。われわれは、とくに通貨信用制度における国家の支配的役
割の中に、また独占銀行と﹁国立銀行﹂ ︵中央銀行はもちろん各種公営銀行をも含む︶との絡み合いの中に生じている諸
変化は国家独占資本主義の形成とよりいっそうの発展の基礎的過程を反映七たものであるということができる。
この小論の問題意識は、ドイツ︵第二次大戦後は西ドイツ︶における金融資本と国家の権力的融合の道具としての中央
168
(324)
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
1公営銀行のメカニズム、すなわち金融寡頭制の利害に密着しておこなわれる資本−貨幣流通の管理.支配の機関として
の中央1公営銀行のメカニズムを検討することによって、金融資本による国家の掌握過程を明らかにしようとするもので
ある。このことによって国家独占資本主義における金融としての財政1および信用制度のより突進んだ研究が可能になる
と考えるからである。
この課題に迫るために、まず第一に、ドイツにおける通貨信用制度における国家独占的管理.支配機構が生産の社会化
の高度な発展段階を反映しているということが明らかにされるべきであろう。何故なら国家独占資本主義における中央ー
公営銀行の機能の発展は資本制的生産様式の合法則性とその展開によって実現される変化から必然的に生ずるからであ
る。第二に、中央−公営銀行制度とその諸機能の役割がどのような矛盾を孕んだものであるかを明らかにすべきであろ
う。中央−公営銀行の役割は、客観的には多くの制約をうけているが、この制度に内在する諸過程と諸矛盾を反映してお
り、この矛盾とりわけ資本主義の基本矛盾こそが中央−公営銀行の形成と機能の発展をひきおこし、その活動形態を規定
しているからである。もちろんそれらの活動は帝国主義の矛盾に作用し、それらの経済諸部門にたいする作用を修正しは
するが、結局は矛盾を尖鋭化するにすぎないことはいうまでもない。本稿では、以上のような観点に立って、ドイツにお
ける通貨信用制度にたいする国家介入の展開・再編過程を、ライヒスバンクの成立からドイッ連邦銀行の創設に至る期間
について検討してみたものであ麓この場△。・もちろんドイ・銀行業における管理・支配機構の分析、とくに独占銀行と
中央−公営銀行との絡み合いの主要形態の分析が必要であるが、独占銀行の役割の研究は、それが中央1公営銀行の機能
の分析にたいして重要である限りでのみ取り上げ、考察の重点をもっぱら中央−公営銀行に限定した。中央−公営銀行こ
(325)
169
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
そが、とくにドイツにおいては、通貨信用部門における国家独占的調節の手段そのものであると考えるからである。
註︵1︶ K・マルクス、長谷部文雄訳﹃資本論﹄第三部、第二分冊、角川文庫、昭和四十四年、四〇八i四〇九頁。
︵2︶ 同書、四〇八頁。
︵3︶ W・1・レーニン、副島種典訳﹃帝国主義論﹄、国民文庫、大月書店、一九七一年、四〇頁。
︵4︶ もちろん最も興味ある問題は、第二次大戦後の西ドイツにおける中央i公営銀行を媒介とした独占銀行と国家の絡み合いを
検討することであるが、この問題については、他の機会に譲りたい。
二 第二次大戦前における中央ー公営銀行制度の形成
中央−公営銀行制度は、一方では国家独占資本主義の発展とともに形成され、他方ではその発展にたいして積極的に影
響を与えてきた。
資本主義の全般的危機とその恒常的な尖鋭化は、通貨信用制度における国家独占資本主義のさまざまな現象形態を理解
するための出発点である。この歴史的諸事実の分析からはじめて中央−公営銀行の現代的意義を認識し、全般的危機の
深化に原因をもちつ︾さらに発展する新たな形態と方式とを正しく分類し、その機能を分析することができるからであ
る。
独占資本主義段階以前のドイツにおいては、唯一の中央−公営銀行としてライヒスバンク幻①甘ゴのげ。。昌屏が存在していた
にすぎなかった。その任務は﹁ドイツ帝国全域における通貨の流通を調節し、支払決済を容易にし、かつ自由に処分しう
る資本の利用を配慮する﹂ことであった。
︵1︶
170
(326)
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
ライヒスバンクは国家の監督と指導の下にあり、政府に全面的に従属tていた。もちろんビスマルク内閣をはじめとす
る歴代政府は、自由競争の資本主義の下では、ライヒスバンク理事会にたいして命令権を行使する必要は全くなかった。
競争に適応した通貨メカニズム、いわゆる﹁金の自動調節機能﹂は一般的に国家干渉を不要にしていたからである。通貨
および信用は原則として平均利潤と生産価格の法則の作用に支配され、資本制的生産様式の矛盾はまだ通貨価値の根本的
︵2︶
変化を招来してはいなかった。通貨の金含有量は比較的コンスタントにとどまっていた。自由競争の下で、商品の価値と
価格は一般に一致し、国民経済に必要な通貨流通量は厳格に守られていたからである。金の移動はライヒスバンクの割引
率決定の測定器であり、大量の金流出がはじまると、割引率は引上げられ、この金流出と銀行利率の引上げは信用量を縮
小させた。大量の金流入が生じた場合には、そのメカニズムは逆に機能した。と同時に信用量の大きさを通じて、輸出入
もそれに応じた影響をうけた。資本主義の帝国主義段階への発展とともに、独占に照応しえなくなったこの自動調節機能
はそれに代るべき装置によって代えられなければならなかった。
飛躍的な生産力の発展と自由競争の独占支配への転換によって特徴づけられる第一次大戦までに、銀行業にも国家独占
資本主義の要因と最初の特徴が現われた。産業の集積・集中とならんで銀行の大規模化がおしすすめられ、ここに六大銀
行の支配体制が確立した。こうしてレーニンが指摘したごとく、銀行は﹁ひかえめな仲介者から、あらゆる資本家と小経
営主のほとんどすべての貨幣資本と、さらに⋮⋮生産手段と原料資源の大部分を自由にする全能の独占者に転化﹂し、
︵3︶
﹁この転化は、資本主義の資本主義的帝国主義への成長転化の基本的過程の一つ﹂をなしたのであった。
レーニンは﹃帝国主義論﹄で、第一次大戦前にペルリンに存在した六大銀行ードイッチェバンク、ドレスデンバンク、
(327)
171
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
ディスコントーーゲゼルシャフト、ダルムシュタット・バンク、コムメルツ・ウント・ディスコントバンク、ナチィオナー
ルバンク・ウント・ドイッチュランドーを研究しているが、これらの銀行の資本は一八七〇年から一九一四年にかけて六
︵4︶
倍から二〇倍に増大した。
これらの銀行独占体は次第に産業資本と融合し、ここにこの金融資本と国家との融合の端緒が準備されることとなっ
た。
自由競争を建前とした資本主義の下での初期の発券銀行が帝国主義的諸条件の下での中央発券銀行に移行する転換過程
を根本的に促進した決定的な歩みは、第一次大戦前の数年間にはじまった。まず一九〇九年にライヒスバンク銀行券が法
定貨幣として公布された。当時すでに、とくに戦争の場合には、増大する国家経費を調達するためには、ライヒスバンク
︵5︶
に全面的に依存しなければならないだろうということは認識されるようになっていた。しかし熱狂的な経済軍事化、世界
の再分割をめぐる闘争そして国内におけるすべての社会主義的・民主々義的勢力にたいする弾圧は、この時すでに国家経
費と国債の相当な膨張をもたらしていた。そこで帝国主義戦争の要求に応ずる資金調達方法の準備として、一九一〇年一
月一日に、それまで補助貨幣として流通していたライヒスバンク券の本位貨幣への転換がおこなわれたのである。これに
ょってライヒスバンク券はドイツ帝国のすべての取引において金貨と同じく強制通用力をもたされた。それゆえに以前
縺Z九年まで︶金によって表示されていた通貨単位に、さらに金とならんでライヒスバンク券が加えられることにな
った。こうして本位貨幣の圧倒的部分は年とともにますます紙幣にとって代へられた。第一次大戦の前年には、通貨の発
︵6︶
行準備規定はいっそう緩和され、 ﹁金融制度改正に関する法律﹂によって帝国金庫証券男。甘冨・国9ωωΦ昌ω。げΦぎ①コすなわち
172
(328)
(一
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
強制通用力をもった政府紙幣の発行および銀貨︵補助通貨︶鋳造の権限が貨幣当局に与えられた。このようにしてドイツ
帝国主義の侵略目的の必要に応じて銀行券発行を拡張する途が開かれたのである。銀行券の金兎換は、ライヒスバンクに
たいする請求が平常の平均量を越えないかぎり、維持することができた。しかし戦争とともに金兇換は放棄された。それ
にたいする法律は戦前にすでに用意されていたのである。
資本主義の全般的危機の第一段階において、銀行業にたいする国家の役割は飛躍的に発展した。ライヒスバンクとこの
時期に新設された数多くの公営銀行は、あらゆる領域でまたさまざまな方式で、ようやくあらわになりはじめた経済的・
政治的矛盾に応じて国家独占資本主義を発展させる道具として設立された。この中央−公営銀行体制は、第二次大戦の資
金調達、すべての非独占的な階級と社会層とくに労働者階級への戦時負担の転嫁、インフレーション、相対的安定期にお
ける景気の促進と独占体の支配力の回復、世界経済恐慌で破産した銀行独占体と産業独占体の救済や再建そして一九三三
年以後におけるさまざまな金融政策的措置による再軍備と経済軍事化の促進に積極的に関与した。これらのすべての領域
にたいする国家独占的諸措置は、その帰結として何よりもまずインフレと恐慌をひきおこした。それによって中央−公営
銀行は、それをいっそう広範に利潤貫徹のために利用しなければならなかった独占体とますます融合した。
そこで、われわれは中央−公営銀行と独占体とのこの融合の発展過程を若干の事例にもとついて明らかにしてみよう。
第一次大戦中にはじめて、戦費調達のために、ライヒスバンクと公営銀行の通貨信用部門への全面的動員と積極的介入
がおこなわれた後、大戦後の時期に、最初の国家独占的措置が帝国主義体制を復活しそして戦時・戦後の膨大な経費を勤
労大衆へ転嫁するためにさし向けられた。
(329)
173
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
第1表 ペルリンにおけるドル相場
期
時
1913年=1 為替相場
・_⊥____二」_塾_⊥_△_上__
1919年1月から7月まで
1。95
3.59
1919年7月〃1920年2月まで
3.59
23.60
1920年2月 〃1920年7月 〃
23.60
9.32
1920年7月 〃1921年9月 〃
9。32
24.98
1921年9月 〃1921年11月 〃
24.98
62.64
1921年11月 〃1922年1月 〃
62.64
45.69
1922年1月 〃1922年7月 〃
45.69
75.62
1922年7月 〃1923年2月 〃
76,00
1923年4∼5月
5,048.00
1923年4月から1923年12月まで
5,826.00
上昇
〃
下落
上昇
〃
下落
上昇
6,650.00
〃
および
5,826.00
下落
1兆
上昇
(註) L Jurgen Kuczynski, Studien zur Geschichte des staatsmono・
polistischen Kapitalismus in Deutschland 1918−1945, Berlin 1963。
S.52.
2.対ドル為替レート=平価4.20マルク.
1 74
いうまでもなく第一次大戦後のインフレは銀行
券の増発による戦費調達がその根本原因であっ
た。しかしその後、独占体がいわゆる﹁消極的抵
抗﹂勺器ω等臼芝乙o誘雷巳 ︵一九二一二年一月︶の
︵7︶
下で財政資金から補助金を与えられたことによっ
ていっそう激しくなった。このことは第一表が明
瞭に示している。インフレは中小ブルジョアジー
の一部を含めた大衆を収奪するための手段となっ
た。もちろんインフレの利得者は特定グループの
独占ブルジョアジー、たとえばライヒスバンク総
裁ハーベンシュタイン国碧魯曾Φぎを強力な後楯
︵
としたシュティンネス・グループoo菖目Φ゜。−OH巷O①
であった。
このように、ライヒスバンクはインフレの最大
の利得者である独占体と緊密に結びついていたの
で、インフレ防止策が思うに任せなかったことは
33 の
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
第2表 インフレーションの源泉
(単位:10億マルク)
ライヒにより売却された大蔵省証券
手形一信用の現在高
月 末
総 額
ライヒスパ ライヒスバ
塔N以外
塔Nによる
ライヒス
oンク
貸付金庫
補助鋳貨
の流通
1918・11月
51
29
22
0.3
14
1919・5月
70
42
29
0.2
19
39
1919・11月
85
51
34
0.5
23
45
64
28
1920・5月
102
65
37
6
30
1920・11月
148
96
51
4
33
77
1921・5月
177
114
63
2
23
81
1921・11月
227
289
113
114
1
12
108
1922・5月
122
168
3
14
161
1922・11月
839
167
672
247
92
768
1923・5月
10,275
2,253
8,022
4,015
1,892
8,576
1923・11月
191,580
1,779
189,801
39,530
1,996
92,845
(註) 1. Jurgen Kuczynski, Studien zur Geschichte des staatsmono。
polistischen Kapitalismus in Deutschland 1918−1945, Berlin 1963,
S.37.
2・1923年11月については,単位:1兆マルク.
︵
33
D
容易に理解できよう。ライヒスバンクは大蔵省証
券の割引によって国家財政に信用を与えていたの
であるが、その割引額は、第二表にみられるごと
く、いちじるしく増大し、国家経費の九〇%以上
が信用によって賄われることとなった。
しかし、ライヒスバンクは単に大蔵省証券の割
引によって国家財政に信用を供与していたばかり
でなく、インフレの激化を促進するような他の貸
付政策をもおこなった。すなわちインフレによる
︵8︶
貨幣価値の低下とともに、銀行取引はますます減
少し、銀行預金は減っていた。したがって一九二
二年以後信用能力が逼迫していたうえに、投機的
信用需要がこれをいっそう強めていた。その限り
では、この状態はインフレ阻止要因として作用し
ていたということができよう。しかしこうした状
況の下でライヒスバンクが介入したのである。
怖
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
﹁それ︵ライヒスバンク︶は信用逼迫を除去すべき使命を自覚していた。手形流通の回復を奨励し、私的手形を大々的に
︵9︶
再割引し、それによって通貨の増大を促進した﹂のである。
一方、ライヒスバンクは、一九二〇年と一九二一年=月から二二年一月にかけさらに一九二一二年四∼五月に、非常に
大規模ないわゆる支持活動によりその準インフレ的通貨政策をオ妙に遮蔽していた。これにより、第一表にみられるごと
く、この時期には為替相場が一時的・相対的に安定した。ライヒスバンクのこうした政策は、とくに国民大衆の経済的没
落による政治的・社会的生活の荒廃にたいする激昂と革命的雰囲気の高揚によって要強されたのである。
貨幣価値の低落に必然的にともなう耐えがたい負担に直面して、銀行の公的収用とその民主的支配の要求はますます大
きくなった。こうした状況の下で、ライヒスバンクのとった活動は基本的には旧体制への復活政策であり、とくに頻発し
たストライキ活動とルール闘争の時期に顕著にみられたインフレ糊塗政策であった。
すべての独占グループが同じ方法でインフレの利得者となったのではなかった。しかしこのことは、中央発券銀行が戦
時・戦後負担の勤労者への転嫁および戦時利潤の保証や独占体の保護のための国家独占的道具としてインフレ政策を遂行
していたという事実と矛盾するものではない。ライヒスバンクの積極的援助によって、資本の集積.集中がいっそう促進
され、国家財政を媒介として大部分の国富はドイツ独占体の競争者にたいする権力闘争の資金調達︵ルール地方の防衛︶
とプロレタリアートの革命的反乱の鎮静に支出された。この時期にはじめて通貨の領域で国家独占的干渉が現われたとい
えよう。
イγフレの終焉から一九二九年恐慌に至るまでのいわゆる相対的安定期におけるドイツ独占体の合同は、この時期に数
176
(332)
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
においても意義においても大きくなった中央−公営銀行の積極的援助によっておこなわれた。通貨改革はすでに独占グル
ープとの協同作業により彼等の利益にかなうような方法で実行されていた。ライヒスバンクと公営銀行によって試みられ
た金融引締め政策、独占体とユンカーにたいする信用救済政策さらにさまざまな部門にたいする景気振興政策といった諸
措置は、富裕階級の地位を強化し、多くの中小企業者の没落を招いていた。公営銀行はドイツ独占資本にたいする国際資
本とくにアメリカ資本の援助にあたりはじめて仲介者としての役割を演じた。
この時期に、中央−公営銀行体制はいっそう急速に発展した。例へばドイツ金割引銀行∪⑦ロ冨魯ΦO巳α島ω8導げ①昌閃が
創設され、景気促進の任務を負わされた。この金割引銀行は独占体に廉価な為替信用を供給し、外国貿易の発展を促進さ
せる目的で設立されたのであるが、その後この銀行は国家独占的干渉の必要性に応じて、極めて多様な任務を課せられ、
︵10︶
恐慌時における独占銀行の整理とかヒットラi政権下での軍需金融等にたずさわった。
さらにこの時期には、一九二四年に設立されたドイッ・ライヒ鉄道の﹁お家銀行国⇔霧−げ曽犀﹂としてドイツ交通信用銀行
∪Φ昌ω。冨くΦ蒔Φ腎。。−琴巴一什−切Ω。醤や国有工業コンツェルンである合同工業企業会社<Φ邑巳σq8冒含ω巳Φ−d馨ΦヨΦず日8ひq魯
の銀行が国家の租税収入の中から廉価な信用を独占体に供給していたということはあまり知られていない。その後ドイッ
ドイツ工業債務銀行は公式にはドーヅ案に基づいて生じた工業債務からの利子徴収機関と考えられていた。しかしこ
された。
男Φ8げ。。ξ巴諦σqΦωΦ=ω畠緯けおよびドイツエ業債務銀行しd弩屏h冒◎Φロ富魯Φ冒畠ロω↓目峯〇三σq鋤け凶8魯のような公営銀行が設立
>O︵≦︾O︶と合同電気鉱山会社く霞①巨σq8固Φ屏誌N詳似件ω古巳切臼σq≦Φ爵ω−﹀○︵<国UU︾︶の銀行としてライヒ信用会社
(333)
177
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
工業債務銀行は、いわゆる東部救済○ωけ・匡摩すなわち東エルペ地方のユンカーを救済するための重要な銀行機関となった。
この年代に大地主と都市地主への信用供給のために多数の公営銀行、例へばドイツ土地改良会社∪。暮8げΦ切oq①艮巳け霞
︾O、ドイツ建築および土地銀行UΦ暮ω。げo切・。q自鼠切oΩ①昌げき屏、プロイセン州立地代銀行勺器信田ω魯。い撃麟o胃巴↓①昌ぴ碧屏
が設立された。これらは、たいてい銀行の形態をとった国家補助金の分配機関であった。
一九二九年にはじまり一九三二年に至る世界経済恐怖に直面して、独占体のために恐慌の作用を緩和し、回避するため
の広範な国家独占的諸措置が通貨信用制度の中に組み込まれた。公営銀行はこの時はじめてしかも大々的に恐慌対策のた
めに動員された。この時期はまた銀行業における国家独占資本主義の加速的発展の端緒であるので、当時遂行された諸政
策のいくらか立入った考察が必要であろう。
一九二九年一〇月二四日、ウォール街の株式暴落に端を発した大恐慌は、資本主義の全般的危機の基礎上で急激にドイ
ツをも襲った。販路の縮小と生産の減退は銀行信用の返済不能をもたらし、銀行は破産状態に陥った。満期銀行信用の返
済要求は企業家の破産宣言を明かるみに出したにすぎなか・た・藷支払の讐的連鎖とそれらの決済の人為的難﹂は
中断された。この撹乱は全般的貨幣1および信用恐慌として発現した。この恐慌は、ドイツにおいては相対的安定期に過
︵12︶
度に高められた信用借入とくに外国信用の借入のために、とくに激烈に作用した。
一九三一年には、インフレ後に構築された通貨信用体系は瓦解してしまった。五月末から六月中旬までの僅かな期間
に、約二〇億RMの金と外国為替がライヒスバンクから国外に流出してしまった。ドイツの大銀行のうち、とくにダナー
ト銀行U残ヨω慈鼻魯β民2銭o富一ぴ碧屏とドレスデン銀行∪8巴口臼ヒdき屏は流動性危機に陥り、ダナート銀行は一九三
178
(334)
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
一年七月=二日破産した。その帰結は、まもなく全般的支払不能に進まなければならなかった銀行および貯蓄銀行にたい
する全般的な銀行取り付けとなって現われた。﹁ドイツにたいする取り付け﹂︵外国信用の流出︶から﹁ドイツにおける取
り付けが起った﹂のである。それにより一九二四年に築かれた通貨体制は事実上瓦解し、国家独占資本主義段階の下では
︵13︶
自由競争に対応した﹁金の自動調節機能﹂とか﹁経済の自由﹂とかへの復帰は全くの幻想にすぎないことが明らかになっ
た。
この時期に、広範かつ多面的な国家独占的恐慌対策が中央−公営銀行によりあるいはその協力によってはじめられた。
以下、その主要な措置を列挙してみよう。
まず第一に、完全な崩壊を阻止するたあに、最初のそして最も切迫した措置として、政府は二日間の銀行閉鎖切碧屏,
h9。二飴σq①を命令した。しかし外国為替はその後も継続して法的統制をうけていた。
第二に、議会審議を経ることなく、政府は緊急法令によって外国為替統制を導入した。その目的は外国為替の徹底的把
握と国家独占的必要に応じたその運用にあった。この措置はライヒスバンクのきびしい強制手段によって実施された。
第三に、ライヒスバンクは、破産独占体のために、 ﹁大部分の外国債権者に勧めて自発的に支払期間の猶予をするよ
︵14︶
う、また国内に滞留する外国信用量を以前の水準に維持するよう﹂懸命に努力した。
第四に、さらにつけ加えられた措置は、ライヒスバンクによる独占銀行への融資の再開とコンツェルンへの信用供与の
広範な緩和であった。すなわち銀行恐慌直後いちじるしく引上げられた割引率は、四%という当時としてはきわめて低い
利率にまで引下げられた。しかもライヒスバンクは﹁ライヒスバンク割引適格手形﹂の種類と手形有効期間についてそれ
(335)
179
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
までの厳格な制限を放棄してしまった。このことは事実上独占体にたいする信用供与を大幅に緩和し、信用量をいちじる
しく膨張させた。
この信用救済は、いわゆる東部救済法によって補完されており、窮乏農民の救済を旗印に約一万三千の大地主が丁度
四〇億RMの直接の国家補助金のうち圧倒的部分を交付されていた。その役割を金割引銀行が委任されていたのである。
第五に、このドイツ金割引銀行は輸出振興策の推進役をも荷負わされ、独占銀行がリスクを恐れて進出しにくい輸出信
用の融資とか為替差損による輸出業者のリスク軽減の任務をささえていた。
第六に、この時期における本質的な国家独占的措置は勤労大衆の零細な租税をテコとした破産銀行の整理であった。こ
の場合にも中央1公営銀行体制が多面的効果的な道具として、その他の若干の機関の助けをかりて、銀行整理にたずさわ
った。すなわち政府は破産したダナート銀行の全預金を保証することを宣言し、すでに整理のために政府にょり引受けら
れていたドレスデン銀行との合併に介入したのである。さらに政府はコムメルツ・ウント・プリバートバンクの株式資本
︵15︶
の過半数およびドイッチェ・バンクとディスコント・ゲゼルシャフトの株式資本の大部分を引受けた。この株式取引にあ
たり、その資金が財政から直接独占銀行に与えられたのではないという意味において、主として金割引銀行が介在したの
であるが、この金割引銀行は、例へば額面金額七、二〇〇万RMのドイッチェ・バンク株式を現金払いで一一五%という
高値で引取った。つまりドイッチェ・バンクは金割引銀行から、それゆえ国家から株式市場において額面金額を割ってい
︵16︶
た株式︵一九三三年の最も低い相場ー四〇RM︶にたいし約八、三〇〇万RMを受け取ったことになる。金割引銀行は、
同じ方法で、コムメルツ・ウント・プリバートバンク、アドカ≧茜。日①言①ロUΦ99冨昌99凶壁﹀昌緯9。#︵︾∪○︾︶および
180
(336)
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
ドレスデン銀行の整理にあたった。
︵17︶
一九三一年末までに、国家はドレスデン銀行の株式の九一%、コムメルツ銀行株式の七九%ドイッチェ・バンク株式の
三五%そしてアドカ株式の七〇%を手中に収難・しかし国家による・の株式取得は・金馨本勢力の馨あるいは集
主義体制の保護のための一時的措置として問題となったのであり、破産独占体の公的収用が問題であったのではない。そ
れは国家による取得株式のその後の再私有化にかんする一部秘密裏の一部公然たる︵アドカの場合のような︶過程を見れ
ば明らかである。
さらに特殊な公営整理銀行として、例へば破産銀行に信用を供給する﹁引受銀行︾皆Φ讐冨鳥﹂が設立された。こうし
た方法でダナート銀行だけでも一九三一年までに数十億RMの救済信用を受取っていたといわれる。同様な任務に割引会
社Uδ8p壁国o日℃曽巳。とドイツ金融会社UΦ葺。。9①国冒旨§§σq。・冨ω蜂暮︾ρがたずさわり、銀行の債務消滅を助け、
破産コンツェルンの株式や持ち分ならびにこれらの企業の中・長期債権を引受けてこれを流動化していた。同じく工業信
用償却金庫目凝暮σqω吋器ω①h膏σq。をΦ円菖。冨国H巴ぎ︵目一涛鋤︶も同様な役割を負わされ、不良企業にたいする銀行の固定
した債務者勘定︵貸付︶を譲り受け、その全額を銀行よりの債権者勘定︵預金︶として引受けることによって、銀行の不
良債権を長期に漸次的に償却する機会をこれらの銀行に保証していた。これらの諸措置は、ライヒスバンクにより集中的
に促進された産業独占体の整理、とくに補助金と国家保証によって補完されていた。こうして大銀行は支払不能の債務者
から次第に解放されていったのである。
第七に、中央−公営銀行とくにライヒスバンクの眼前に全く新しい任務が現われたのは、一九三二年九月パーペン内閣
(337)
181
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
が赤字財政を通じて資本流動化条件の改善と労働機会供与政策を導入した時点においてであった。それまでは政府は、恐
慌によって尖鋭化した階級対立と階級闘争の観点から、もっぱらインフレ傾向の回避に努力していた。それゆえ公債発行
は問題になるほどには増大しておらず、均衡予算が守られて脈耀。
しかし今やパ麦・計画の下で、恐慌対策として二〇億RMの国家資金がいわゆる租税証券゜。§㊦Hσq毒匿墾という
形の国家援助を通じて助成された。この助成金は向う五力年間にある種の工業税収入によって補填されることになってい
た。企業家へのこの﹁租税贈与﹂を、ライヒスバンクは新しい信用手段として活用した。この租税証券はライヒスバンク
の発券準備に加えられ、信用の基礎として利用された。こうしてライヒスバンクの信用膨脹がひきおこされたのである。
企業家は租税証券によって直ちに租税軽減の利益を亨受することができたし、新たな流動資金を手に入れることができ
た。国家によるこの強制的信用拡張形態はパーペン計画の下ではじめて活用されたのであるが、それはいっそう拡張さ
れ、後にナチスによって大々的に利用されるにいたるのである。ともあれ独占体に与えられたこの新たな国家信用手段の
︵21︶
額は次のように増大した。
︻九三二年=一月 二億六、三〇〇万RM租税証券
一九三三年五月 六億四、四〇〇万RM租税証券
︻九三三年=一月 一二億一、五〇〇万RM租税証券
このように、中央ー公営銀行体制はこの時期にさまざまな恐慌対策を通して独占資本主義体制の崩壊を回避しようと努
力したのである。しかしその帰結は、金本位制度の決定的崩壊を導き、独占体にたいする隠然・公然たる金融的援助と再
182
(338)
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
建策の拡大をもたらし、銀行部門における公共部門のいちじるしい拡張を結果して、為替統制経済へと進んでいったので
ある。
こうして、ドイツにおける国家独占資本主義は、ファシズムの時代にあらゆる面でこれまでの最高発展段階に到達し
た。ヒトラー政権誕生の第一日から全経済は戦争準備と軍需生産体制に編成された。わけても重要なことは、この経済軍
事化が全財政制度の動員と拡大を通して、すなわちファッション的統制経済の体系内への全財政制度の組み入れを通して
おこなわれたことである。財政の包括的利用とならんで既存中央!公営銀行も広範にこの体系に編入され、さらにはこの
種の諸機関が新たに創設された。
この時期における中央−公営銀行の役割は次の三点に要約できるであろう。
第一に、中央1公営銀行とその援助の下にあったその他の金融機関が戦争準備と軍事経済の体系に完全に組み入れられ
五ことである。この目的のために通貨信用制度全体が一九三三年以後組織的に﹁統制﹂されるに至った。すなわちライヒ
スバンク総裁の指揮下におかれた﹁通貨−資本市場監督委員会﹂の設置にはじまり、市町村公債の借換、公債基金法、資
本市場における遊休資金の吸収機関としての金割引銀行の動員、市町村および諸機関にたいする公債等の発行禁止そして
広範にわたるこの種の措置を経て、一九三四年の﹁信用制度に関する帝国法﹂によって、すべての金融機関の国家統制へ
の包括的編入が完成した。
第二に、中央−公営銀行、とくにライヒスバンクが軍拡と戦費調達の道具として動員されたことである。これらの銀行
の援助によって、信用体系の中に軍国主義化を推進するために開発された数多くの新方式が組み込まれ、動員させられ
(339)
183
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
た。こうした方法のうちの一つは、軍拡の初期に実施された形態であり、ライヒスバンクが割引を保証するいわゆるメフ
ォ手形竃Φho−毛①畠里により国家の軍需発注にたいする支払をおこなう形態であった。要するにメフォ手形の発行は、政
府がライヒスバンクからの直接借入を避けるためにとった信用調達手段であり、実質的には中央銀行引受け公債の発行と
その後ライヒスバンクが通貨の安定を維持しながら軍拡を実施してゆく力を失ってしまうや、ライヒスバンクはすべて
なっていたのであった。
債消化は一種の強制公債的性格をもったものであった。かくして多数の勤労者は知らぬ間にナチス国家の間接的債権者と
合、貯蓄金庫、保険会社あるいは社会保険等が集めた貨幣を強制的に吸い上げるという形での消化であった。こうした公
家の手中への集中が保証されていた。一九三八年央までに早くも一一〇億RMの長期公債が起債されたが、それは信用組
勤労大衆の収奪さらにその背後で独占体への再分配が進められたことである。一九三五年にすでにすべての遊休貨幣の国
第三に、ライヒスバンクとそのいわば子会社であるドイツ金割引銀行を通じて組織され﹁管理された﹂インフレにょる
ォ手形はライヒスバンクにとり銀行券発行の隠れミノであったのである。
に入り込まないのであるから、商品手形︵商業手形︶に偽装された中期の融通手形であったといえよう。したがってメフ
占的性格の特質を示していて興味深い。メフォ手形は、その助けによって生産された軍需品が生産的あるいは個人的消費
バンクによって配置され、他方でその資本が独占体によって調達されていたが、これはナチスの軍需金融における国家独
目をもって設立され、ライヒスバンクに代って手形を再割引していた。このメフォは、一方でその機構と職員がライヒス
同じであった。すでに一九三三年に仮装会社、金属研究所有限会社竃。冨霞9ω9ロ昌σqωO①日げ国︵︼≦Φho︶が手形引受けの役
184
(340)
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
の公営銀行とともにナチス国家の管理する単なる信用調達手段、つまり戦時金融の二行政機関﹂となってしまった。こ
︵22︶
うしてライヒスバンクとすべての公営銀行は終戦に至るまで通貨供給者の役割を演じ、国家は大蔵省手形つまり大蔵省証
券の発行によって思うがままの通貨量を調達することができた。戦時中必要とされた資金の五〇%以上はこのような方法
で調達された。すなわち第二次大戦におけるブァッショ財政の公債発行額は合計で中・長期債一、一七一RM億と短期債
(註)1.Europa・Archiv, Frankfurt am
Main,6. Jahr,12. Folge,20. Juni
1951,S.4131,
2.1939年は4月1日から8月30日まで
会計年度
4.1
2.1
51.2
1935−36
5.5
2.7
49.0
1636−37
10.3
4.4
42.7
1937−38
11.0
2.7
24.6
1938−39
17.2
1939
11.9
12.0
20.0
60.0
計
翔馳、
めのあらゆる形態と方法がいっそう遂行されるにいたったと
制度においてもまず資本主義体制の存続を可能ならしめるた
つの世界大戦︶と世界経済恐慌によって規定され、通貨信用
本主義の発展は、ドイッ帝国主義のきわめて侵略的性格︵二
主義の漸進的形成過程の中で、この時代における国家独占資
うに総括することができるであろう。すなわち国家独占資本
以上われわれは第二次大戦終結までの時代について次のよ
果され、中央−公営銀行は完全に破産してしまった。
めにライヒスバンクに動員された国民の貯蓄は徹底的に使い
かくして、終戦とともに信用は完全に粉砕され、戦争のた
二、二五五億RMに達した。さらに公債発行額の増大とともに、紙幣の流通額も必然的に膨張し、一九三六年と比較して
(単位:10億RM)
(341)
185
︵23︶
1934−35
玄昼
割 合
直接軍事
支出
メフォ手形
こよる調達
九四五年には約一〇倍に達した。
第3表 直接軍事費に占めるMefo手形の割合 一
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
いうことである。しかし同時に中央ー公営銀行の意義と数の増大の中に資本主義の経済基盤の内在的崩壊過程、すなわち
搦
資本主義の基本矛盾の尖鋭化を見てとることができる。
全般的危機の第一段階において、中央1公営銀行の機能は発券銀行の金自動調節機能のシグナルにもとつく消極的反応
から通貨信用制度のあらゆる領域における中央−公営銀行全体の積極的活動へと変化した。しかしその活動はまだ偶発的
要因に対処する個別的役割であり、特定の問題や計画に迫られてこれらの銀行装置が動員されていたにすぎなかった。中
央−公営銀行の国家独占的管理体系への全面的編入は、国家独占資本主義の包括的な全体系が形成される次の時代の手に
よってはじめてなされるのである。
︵1︶O。鴎p。乙牢。ω♂≦碧島旨ぴq①昌首α①暮ω。冨昌Z9。99昌犀≦Φω。Pζ茸9。Pお鐸9持︵幻OOづ♂H°。録ω﹂ミ︶°
︵2︶ 頃母巴阜∪凶o匡魯囚爵器噛芝讐暑轟呂呂二犀β巳幻8﹃巳鼻二〇霧只oN巴ぎω$餌誘ヨo昌80冴ぼω。冨昌国9。℃ぎ冴δロω゜序”
︵3︶ W・1・レーニン、副島種典訳﹃帝国主義論﹄、国民文庫、大月書店、一九七一年、四〇頁。
内o口冒昌算霞昌昌畠 閑 二 器 ℃ H O 霧 ℃ 国 ゜ H り ω ゜ 戯 Q 。 頃 ゜
︵4︶ 同書、三九頁以下参照。なほ次表︵冒蹟o昌囚岱oN房匡”ωεα一〇昌N霞Ooω。三〇犀oα①ω山o暮ωoゴo昌H目O臼芭一ωBロω・Uごq﹂・
bd興一ぎ一〇鴇”幹H置︶は、一八七〇年から一九一四年までのベルリン所在六大銀行の資本金の推移を示したものである。
OQコQrqQくハ
扇1ま8届
Hc。ざ岳
HO置岳
︾汁駐識S讃耕降S瞭︾ ︵紐欝”HOOd勾]≦︶
Mト邑HHω←己
賜旨岳
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てへ堂浄H・︾冥、
亀ヘメu冥ヲ。職歳、マ㌣々刈ザ
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トコ
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園、マ﹀㌣μ隣受ザ・︾冥、
てマメ当冥ン\、
u卜×、 マ く ・ 可 冥 ザ ・ 洩 ヘ メ u Y τ ︵ \ 、
斗浄へ丼斗i、マ︾冥、・可\ヲ。男へ粍事H寸冥男
(342)
註
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
︵6︶ 一九=二年七月三日の法律。
︵5︶ Oo︸胃畠勺﹃oωρ”°PO‘ω゜卜◎ω゜一九〇九年の修正法令。 一九一〇年一月一日に施行。
るとされた。
てした。この租税証券は五分の一額つつを一九三四年より向う五力年間所得税以外の租税の納付にあたり使用することができ
ともに、ドイツの財政状態よりして、現金をもってこれらの需要に応ずることは困難であったので、いわゆる租税証券をもっ
︵20︶ 一九三二年九月のパーペン内閣の経済振興策は操業割増金制度と租税負担の軽減を二大支柱としていたが、この二つの場合
︵19︶ 冒巴9梓鵠﹃O①゜■巴ω99臣け乱ωωo器o冨津①昌Lヨ9H芭一ωヨ臣冨暮ρ軽︾¢沖U一①9<①二β。ゆq植bd臼一ぎμ88ω゜①Hい
ω゜①H°
︵18︶ 目゜竃巴霞ロ昌山い﹂くきoぎごロ梓oヨ9ヨ興ω訂緯lN彗幻oぎα窪ω9鉾ω国8Noヨ①凶昌類Φω巴o暮ω〇三き鼻Uσ震一ぎH8卜⊃、
︵17︶ もっともドレスデン銀行の場合には、整理はライヒ信用会社との協力でおこなわれた。
lHOωトコ゜げ一ωNロお国昌αoα興出三〇学U涛8εさ∪一ωωこ=巴δH80°
︵16︶ 出彗ω竃臼竃㌍∪一①︼≦8εo房ぼω09国導≦8匹ロロ四αΦω幽o暮ω9窪し⇔雪犀≦①ω窪。・く自山興≦⑦犀乱穽ωoず四津犀ユ器H㊤b。O
︵15︶ ∪類H自oユo犀ρH8P国゜Hω鳩ω゜ω.
ぢωω.国゜♪ωo昌畠曾ゲohrω゜①゜
︵14︶ 写碧NUo臼ぎoq℃蜜畿昌昏80口匹臼力oざ冨σ窪閑窪︷山ΦヨOΦ甑Φ8畠Φ弓ロヴ目貯宕犀貯ω①一けα㊤閑二ωρ一Rω冨昏oωωρ
︵13︶ =p房国゜℃ユΦωけoが∪器O魯o凶ヨ三ω9ωHω゜言戸田口↓簿ω8ゴΦpげΦユo馨く自匹①﹃bdき評opξ凶ωρじdΦ≡昌おω卜◎蟻ω畳刈﹃°
︵12︶ O仁曾9︿ω8首oび帥゜PO°りω゜μQQH°邦訳、 一二六頁。
︵11︶ K・マルクス、長谷部文雄訳﹁資本論﹂第一部、第一分冊、角川文庫、昭和四十四年、二=二頁。
︵10︶ 楠見一正・島本融共著﹁独逸金融組織論﹂有斐閣、昭和十年、四六九−四九八頁参照。
︵9︶菊巳。罵ωε興。pu窪θω9。O巴−暮α寄。α菩。一三犀Hりにげ凶ωH8。。”斡ぎ訪‘ぎ三轟窪ぢ㎝ωりω゜ω9
︵8︶ 崔岸”ω゜HOド邦訳、九六頁参照。
一九六九年、八九頁参照。
︵7︶ O島鐙くω8首ΦびU⑦葺ω9Φ≦一答ω畠9津ωo淳μ。。刈ρ6ロ三昌σq窪ご①♪ω゜りω゜坂井栄八郎訳﹁現代ドイツ経済史﹂竹内書店、
(343)
187
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
ぎωユεけま﹁O①ω①一一ω9m津三ω器塁9臥ひg℃p”。O‘ω゜2h
) )
そう発展させられた。中央−公営銀行も国家独占的機構の中で新たな任務を支え、古い形態は放棄され、新しい形態で動
や﹁自由な市場経済﹂を目標にし、ドイツ帝国主霧の過去の経験にもとついて、西ドイツにおける国家独占的機構はいっ
このような新しい条件の下で、政治と経済、国家と国民経済の関係が大きな役割を演ずるようになった。 ﹁福祉社会﹂
制はアメリカとの緊密な結合を通して資本主義世界における彼等の大戦前からの地位を守ることができたのである。
ヨーロッパに建設されていた社会主義の﹁防壁﹂として必要不可欠なことであった。またそれによって、ドイツ金融寡頭
可能性が現われた。しかし世界資本主義にとって、西ドイツ帝国主義の再建と強化はすでにドイツ民主共和国として中央
帝国主義勢力の弱体化によって、一九四五年に民主々義体制の建設という﹁ドイツ全体﹂にとっての歴史的方向転換の
機を激化した。ドイツ帝国主義は決定的な打撃を受け、その勢力範囲はいちじるしく縮小した。
第二次大戦におけるドイツ帝国主義とその同盟国の敗北ならびに社会主義世界体制の形成は、世界資本主義の全般的危
三 西ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の再編と発展
写一g男巴①茜二U臼N≦①一什o≦o#町凶ooq”ωoぎ①盟爵昌N一〇﹁琶oqぎ∪。暮ω。三ロ巳噛↓口三轟9一8卜。鰯ω゜①P
Oo葺碧ユ℃﹁oω計p斜O‘ω。トコω゜参照。
A A
2221
)
員されることによって、この銀行体制は完成された。それは現代資本主義の政治的経済的諸制度の主要な環になったとい
える。
188
(344)
A23
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
第二次大戦の結果、かつてのファッショ的国家機構は徹底的に打ち砕かれ、独占体は全面的に連合国の支配下におかれ
た。西ドイツにおける大戦後の数年は、こうした状態の下で、列強の産業独占体や銀行独占体を代表する軍国主義的占領
軍の包括的な戦後処理政策によって特徴づけられていた。このことが、広範な国民大衆の意志に反して、西ドイツにおけ
る独占資本主義体制の存続を可能にした主要因であった。こうしてドイツ独占体にとって﹁彼等の勢力を次第に集中し、
︵1︶
経済調節にあたってその諸機関が一歩一歩占領軍の︿パートナー﹀となるような独自の機構を構築すること﹂が可能にな
った。
大戦の結果として、帝国主義ドイッの通貨信用制度は混乱し、その機構は寸断された。国家の統制措置ー物価の凍結
と配給制度1により、インフレは終戦までかろうじて塞き止められていたが、今やこの堰はずたずたに裂け、誰の目に
も国家破産は明らかであった。
ポツダム協定はすべての占領地区における国家の通貨放出を禁止していた。ただ連合国軍事国境経費の支出についてだ
け、唯一の例外として追加的通貨放出が許されていた。しかしその額は終戦時に存在した通貨量︵三、○○○億RM︶に
比べ無視しうるほどのものでしかなかった。
だが銀行にたいするその他の措置は東西両占領地区で非常に異なっていた。ソヴィエト占領地区では、すべての銀行が
閉鎖され、すべての預金が閉鎖されたが、西ドイツにおいてはそれがおこなわれなかった。このことは銀行預金の大部分
を支配していた資本主義的企業家にたいし、彼等の地位を漸次強化させ、ある程度の貨幣減価を有利に利用させることを
容易にした。
(345)
189
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
中央−公営銀行は、民間大銀行と同じく、ソヴィエト占領地区におけるすべての銀行の閉鎖によって、ベルリン所在の
本店を失ってしまった。しかし西ドイッに存在した中央i公営銀行の支店、例へばライヒスバンクの支店はなほ活動を続
けていた。これらの支店は各州あるいは各占領地区の境界内で非常に急速に組織され、例へばイギリス占領地区について
はハンブルクにライヒスバンク管理部幻①8げω冨口匹舞ωけo幕が設置されるにいたった。すべては旧態依然であり、 ﹁信用
︵2︶
銀行は従来どおりライヒスバンクと一致協力して活動していた﹂のである。
その後一九四七年から四八年にかけて、連合国︵西側︶の法律に基づき、ライヒスバンクの支店網の土台の上に州中央
銀行い曽q①。。No導邑げ9。爵が設立された。他方、中央発券銀行として一九四八年三月、通貨改革に備へてドイツ諸州銀行
︵3︶
切§屏住o暮ω9臼い習α臼が創設された。こうして﹁四肢ばらばらの胴体に頭がつけられ﹂、段階的に下から上へと築き上げ
られた新中央銀行制度が構築された。しかし州中央銀行は、ドイツ諸州銀行に従属した下級機関としてではなく、それ自
体独立した銀行であった。信用供与や銀行券流通の調節といった発券銀行の任務はドイッ諸州銀行と州中央銀行の義務で
あった。
中央銀行制度のすぐれて分権的な性格は、旧制度と比較した場合の優れた特徴である。しかしそれは戦後期における
﹁下から上へ﹂という民主的な国家建設に対応したものであり、国民大衆の分権主義的志向を反映したものであった。た
しかにそれは、ナチス的中央集権制の対極から見て、一定の民主主義的傾向に根ざしていた。しかし、それはこの時期に
おけるドイツ帝国主義の特殊形態とも大いに係わっていた。銀行制度全体は連合国銀行委員会の監督下にあり、この委員
会は西ドイツにおける新中央銀行制度の構築にあたり全面的に合衆国連邦準備制度をとり入れたからである。その上、わ
190
(346)
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
れわれはニュルンベルク裁判で、第二次大戦中にライヒスバンクの演じた犯罪的役割︵いわゆる﹁静かな戦時金融﹂︶が
徹底的に暴露されたということも考慮しなければならない。
新中央銀行制度にとり、その最初の試金石は通貨改革であった。それは、戦前の経験と旧ライヒスバンクの官僚主義に
基づいて、通貨改革の﹁摩擦なき﹂遂行を配慮し、ドイツを経済的に分割し、戦時・戦後負担を勤労層に転嫁し、独占体
を強化して、ドイッ帝国主義の新たな経済的・政治的侵略の基礎を築いたのである。通貨改革の国家独占的性格は、とく
に一九四八年六月二一日の﹁ドイッ・マルク開始貸借対照表に関する法令﹂に現われている。この法令によって民間企業
なかんつく独占企業は通貨改革による損害をほとんどこうむることなく、戦時に蓄積された資産の大部分は新通貨への切
替えを保証された。
通貨の切替え前後における西ドイツの全株式会社の約九〇%にあたる二、二四一社の株式資本は次の通りである。
一九四八年六月二〇日 =一兆0、三〇〇億DM
一九四八年六月[=日 一〇兆一、一九〇億DM
それゆえに、これらの企業が通貨切替えによってうけた損害は一兆九、=○億DMすなわち一五・五%にすぎなかっ
た。
これに対して、西ドイツの公営貯蓄銀行︵大衆貯蓄銀行︶の預金総額は、一九四八年五月三一日に四五兆一、九一〇憶
(247)
緕O〇億DMとなっている。したがって零細預金者の損害額は四二兆九、九八〇億DMすなわち九五・一%に達し
191
DMにのぼっていた。しかし公営貯蓄銀行における預金の切替え勘定からの引出し額は一九四九年一二月三一日に二兆
一、
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
た。二、二四一の株式会社のうち七二一社︵三二・二%︶は通貨改革によってその資本を減じ、一、一六三社︵五一・九
︵4︶
%︶は旧水準を維持し、三五七社︵一五・九%︶はその資本を増大させたのである。
通貨改革後直ちに、公営銀行制度は旧制度への途を歩みはじめた。数多くの特殊機関が、一方では旧公営銀行の再構築
により、他方ではドイツ独占資本あるいはアメリカ独占資本の特別な要求に沿った機関の設立により出現した。それらに
共通した主要任務は、ドイツ帝国主義にたいしてはその勢力の集中を容易にし、外国とくにアメリカ帝国主義にたいして
は西ドイツにおけるその地位の強化を可能にすることにあった。例へば一九四八年にはすでに、マしシャルプランとその
他のアメリカ供与物資によるいわゆる﹁見返資金﹂を基金とした復興金融公庫昏巴壁房け薗#h盲芝一巴29。自げ碧が設立さ
れた。この国家機関は、通貨改革後の数年間、戦後経済の処理および独占体にたいする低利資金の融資にあたり非常に重
要な役割を演じた。復興金融公庫の資金︵中・長期の投資信用︶は、リスクがあまりにも大きく、利潤も低すぎあるいは
必要投資額があまりにも巨額すぎるために、民間大銀行が信用供給に全く興味を示さないような経済部門に流れ込んでい
った。とはいえその他の銀行︵ほとんどは民間銀行︶もその信用業務に協力させられた。復興金融公庫の融資は、通例直
接的にではなく、これらの銀行を通じて供給されたからである。もちろんこれらの銀行はその取扱融資額に応じて手数料
と利子を受取っていた。
復興金融公庫は経済協力機構︵国○﹀︶の要請したがってマーシャルプラン資金にたいするアメリカ管理局の要請に応じ
て発電所、製鉄・製鋼工場、住宅建設、輸出産業ならびに農業への融資を重点的におこなった。復興金融公庫のこうした
意思決定機構と融資内容から明らかなことは、西ドイッ経済の復興という名の下で、戦後問もないこの時期に早くも﹁ボ
192
(348)
リシェヴィズムに対する防壁﹂としてこの公庫の融資が大々的に活用されたということである。とくに一九四九ー五〇年
におけるベルリン問題と朝鮮動乱以後、軍事的観点がますます目立つようになった。こうして一九五一年以後、復興金融
公庫の融資は・マーシャルプランの範囲内で、それが﹁西側世界の防衛準備の強化﹂北寄与する場合に制限されることが
公然と強調されるにいたった。
通貨改革後の一九四九1五一年にかけて、総計一一の州中央銀行が活動をはじめた。この時期にいわゆる﹁半官的
関であるが、明らかに国家独占的調節機能をもっていた。それは、長期産業資金の調達をおこなっていた旧ドイツ産業銀
行の任務を引継ぎ一九四九年に設立された産業信用銀行冒自ω藍①ξ巴詳冨艮︾ρと一九五二年に輸出振興の特殊銀行と
して設立ざれた輸出信用会社﹀島旨胃胃Φ象什︾O︵﹀軍︶の活動によく現われている。
占領軍の積極的援助によって大戦の壊滅状態の中から再び組織され拡張されたこの中央−公営銀行の主要任務は、何よ
りもまずドイッ独占資本にたいして内外におけるかつての地歩の回復を助長し、同時にこの目的に適合するように新ドイ
ツ・マルクの相対的安定をはかることにあった。それは次の諸点に如実に示されている。
第一に、独占体の利益と国民大衆の損失という差別的な形で実施された通貨改革。
第二に、一方ではアメリカ独占体、他方ではドイッの銀行および産業独占体との緊密な協力関係の下でおこなわれたマ
ーシャルプラン資金の重点的運用。復興金融公庫のこのような役割は、敗戦によるドイツの全面的なアメリカ依存体制と
︵6︶
この時代における西ドイッ経済の矛盾の中から生み出されたものである。
(349)
ユ93
冨霞塁゜三銀行が若干設⊥誉麓・この半官的銀行はその管羅が国家と独占体の何れにあるかが明瞭でない金融機
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
第三に、信用政策による生産過程への介入、独占体の利益に適合した通貨の相対的安定の維持、急速な資本蓄積条件の
創出と資本の集積・集中過程の促進、独占体にたいする輸出金融の保証等々である。
これらの課題こそは、中央ー公営銀行制度の包括的かつ急速な再編成とよりいっそうの整備を促進した根本的原因であ
った。もちろん、上述の諸点は、資本主義の基本矛盾の尖鋭化とドイツ資本主義のきわめて複雑な状態に直面して、短期
間に広範な発展を示した国家独占的管理機構のうち中央−公営銀行のそれに限定した議論であることはいうまでもない。
さて、占領体制がドイッ条約の調印によって、事実上終了した一九五二年以後、西ドイッ独占体は国家機構との密接な
協働によってかなり急速な経済成長を実現した。この経済成長の過程で、中央−公営銀行は国家財政に匹敵するほどの重
要な役割を演じた。
この過程で若干の公営銀行の機能が変化し、拡大した。それによってこの銀行制度は再編され、国家独占資本主義への
移行条件に調和させられた。独占銀行と公営銀行の結びつきは深まりそして相互に絡み合うこととなった。それは、われ
われが今日独占体と国家の絡み合いの領域として独占銀行と中央銀行の融合現象を指摘するほどの密接な結合を示してい
た。
公営銀行と独占銀行のこの融合は、西ドイツ資本主義がこの時期に直面した経済的・政治的条件と密接な関係をもって
いた。科学技術の発展およびそれと結びついた設備拡張投資から合理化投資への変化、欧州経済共同体の結成機運、軍隊
の創設と経済軍事化、新植民地主義の展開、初めてのしかも深刻な景気後退と構造的危機等々が、とくに資金の調達と中
央銀行の通貨信用政策の実施ならびに急速に増大した国民所得の独占体への再分配と﹁総資本の委員会﹂たる国家の諸政
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ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
策の物的基礎の確保のために、銀行制度に大きく依存しなければならなかった。
国家独占的支配形態と支配方式のいっそうの整備によって特徴づけられる資本主義の質的に高度な新しい段階への到達
は、銀行業とくに三大独占銀行の支配力の完全な復活、ドイツ連邦銀行の創設および信用制度にたいする新たな国家干渉
などの中に示されている。
三大独占銀行︵ドイッチェ・バンク、ドレスデン・バンクおよびコムメルツバンク︶は、一九四五年の財閥解体による
完全な解体を免れ、ただ三〇の後継銀行に分散されたにすぎなかった。これによって銀行業における独占体の解体とポツ
ダム協定が履行されたと説明されていた。しかし実際には旧大銀行の後継者達は最初から密接な協力関係を保ち、四年後
には早くも、これら三〇の後継銀行は米英仏の三占領地区各々の内部︵北部ドイツ、西部ドイツおよび南部ドイツ︶で再
び合同した。しかしながら一九五〇年代の半ばになると、西ドイツ資本主義の新たな性質にとり、この﹁解体﹂そのもの
︵7︶
は経済発展の障害となった。そこで一九五七年に、この新後継銀行の法的独立性を取り除き、 ﹁三大銀行﹂の勢力を完全
に復活させそしてその活動にたいするすべての制限を廃止することが認められた。これによって中央−公営銀行と独占銀
行の急速な融合にたいする前提条件のすべてが敷設されたのである。
他方、こうした新しい条件の下で、通貨信用制度にたいする国家の中央集権的支配と統制を強化することが必要になっ
た。そこで一九五七年にドイッ連邦銀行UΦロ冨9魯切屋民Φωぴ曽鳥が創設され、これによって過渡的制度たる分権的中央
銀行制度は統一中央銀行に変えられた。たしかにドイツ独占資本はきわめて分権的に構成された中央銀行制度を制御し、
それを大々的に国家独占的トゥールとして利用してきた。しかし中央銀行制度の分権的構成は今や西ドイツ資本主義の発
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ドイツの通貨信用制度における国家干渉機構の形成と発展
展にとり一つの栓楷となるにいたった。各独占体と各州の特殊個別的利益は以前にも増して帝国主義的全体利益、すなわ
ち︵上述の︶国家の新しい役割の前に後退せざるをえなくなったからである。
鵬
連邦銀行の創設により西ドイツ独占資本の通貨信用政策的トゥールは完成され、それは全般的危機の第三段階とともに
現われた政治的経済的諸問題を解決するための金融的支柱として利用されるのである。この延長線上に一九六一年の銀行
業にたいする新たな国家干渉の制度が横たわっていたのである。
註︵1︶ぎω簿呉h母O①ωo=ωσ冨⇒琶ωω① ωo冨津”一30震芭剛゜。目ロω冨葺ρ心﹀信戸909<o=お℃しd①≡昌ぢ①NQQ・δ・
︵3︶ O¢ω$くω8一〇ΦさUΦ9ω魯①≦三ωoずp■津ω①謬H。。刈9↓二げぎσq①昌HO①食ω﹄お゜坂井栄八郎﹁現代ドイツ経済史﹂、竹内書店、
︵2︶寄象ωε。ぎpu①暮ω9ΦO巴阜自巳寄a言ユ繭鼻H⑩置三ωH8・。b°﹀島旧↓口三轟9H8・。讐。。﹂。。。。・
一九六九年、二三一頁。
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︵4︶≧蹄巴冨ヨヨ耳N噂9。幻亀。α①﹁乏Φω巳。葺ω。冨コ≦讐≡轟げ。凶自。同聞宣き恩。歪躍α曾円8甘鳥ε鴇目巳α霞
︵5︶ 国ロαo賦国討評ρωOoN凶巴すoα一けぎω簿¢けρぎ二︶騨ωUo昇ωo﹃oじd鋤鼻≦①器P≦一Φω冨α窪一り盟、ω﹂ωb。・参照。
︵7︶ O口ω3くω8な①6。5m°PO°噂ω’鱒b。。。°邦訳、二一七頁参照。
︵6︶ぎ巴け三律﹁OΦω。=ω。冨h薯凶ωω88冨h仲b’国゜O‘ω゜8跨‘逡喘゜
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