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第30号 (PDF 1.7MB)
 5
9 日
9
平成11年 (
9 月
資料館 だよ り
第 3 0 号
五
象変安多窃安
■鵜顛 ギ 一
編集 ・
発行 武 蔵村山市立歴史民俗資料館 〒208‐0004武 蔵村山市本町 5-2,一 ]TEL 042(560)6620
陰陽道 「
摂津正」呼名許状 ( 嘉永 6 年 )
指田和明氏所蔵
髪 努套 象 灸
( 嘉永 6 年 )
指 田和明氏所蔵
特 別 展
「
村の知識人 指 国家三代の資料
一
期 間
市 指 定 文 化 財 指 田 日記 の 周 辺 一 」
平 成11年(1999)1月
24日(日)∼3月28日(日)
一
つ
い
に
て
端
し
ま
紹
介
す
。
薔
層整
緩
(檀
富
垂
繊
許
合
昌
け
彊
掻
暑
ぢ の
協博
留
江戸時代か ら明治時代 にかけて武蔵村山市内 の
-1-
古 文書、書籍、医療器具等 を展示 し、村 の知識人
一
古文書 か らみた武蔵村山⑥
中
野
犬
の
養
育
市文化財保護審議会委員 寺 町
江戸幕府 5代 将軍細吉 の生類憐 みの令 は有名で
すが、それにより江戸西郊 の村 々で 中野犬 を養育
していた こ とはあまり知 られてい ないのではない
で しょうか。 ここでい う中野犬 とは、中野 の大小
勲
座候 (中略)此の御犬 の用 い く金参歩壱金壱分請け
取 り申 し候」とあ り、 1匹 当 り年 間金 3分 だった
のではないで しょうか。 しか し、荏原郡上野毛村
屋 に収容 しようとしている野犬 のことです。
では、元禄16年(1703)に
年間金 2分 が与 えられて
お り、御犬御用 の世話役 が 1匹 当 りなにが しかの
本市域 では、中藤村市郎右衛門組 の名主 乙幡家
に約的点の関係文書や鑑札 。印鑑な どが残 されて
賄金 (山口領村 々では 1匹 当 り銀 2匁 4分 )を受け
取 つてい ま したか ら(所沢市史研究 3、 大館右喜
お ります ので、大養育 の様子 を探 ってみ ましょう。
氏論文)、
大養育人の取 り分 は明確 ではあ りません。
なお、宝永 4年 の請取証文 (前出)は、140匹分 で
1.犬 養育の 目的 村 々 に大 を預けたのは、中
野の大小屋 に収容 しきれなかったからだと思 われ
ますが、預けられた村 々にとっては、 よい副J又
入
い
この
ことは
になったようです。
、「
願 の通 り御
大預 く可 く候」とか、「
村 の内七郎右衛門願 い御犬
の内、三拾疋遣す可 く候」とい う犬遣 わ し状や、「
御
23両400ですか ら、1匹 当 りは660文とな り、年間
の全養育費 とはい えない ようです。
5.犬 養育 の様子
犬 養育の始期 は、中野大小
屋落成が元禄 9年 (1696)で
、上中藤村 に元禄 13年
大御預 け下 し置 かれ侯様 に願 い奉 り、御預 け遊 ば
され、養育金下 され候 に付、村中の潤 い に罷 り成
辰年 (171111)の
大預 か り請書が 2点 もあ りますか ら、
その間であ つたと思 われます。また、終期 は、江
戸幕府 6代 将軍家宣が この法 を廃止 した宝永 6年
り有難 き仕合せ に存 じ奉 り候」とい う請書 な どに
よつて知 るこ とがで きます。
ったようです。その間、副J又
入になった
(1709)だ
とはい え、御大 の養育 にはかな りの神経 を使 つた
2.犬 養育の人々 で は、 どの ような村 々で大
の養育 をしていたので しょうか。「中野村大養育
コよ、柴村 Ξ ケ嶋村 ・入
返納金納入方廻状写」↓
のではないで しょうか。御犬養育請書 には、次 の
ような配慮事項 を列記 した ものがあ ります。①御
大 について百姓 の障 りになる ことはない。②病犬
村 表 堀 口村 上 藤沢村 ・坂□村 上 芋久保村
・上正楽寺 下 正楽寺 ・上堀之内 下 堀之内 下
椛谷村 ・久保村 ・下 (上の誤 リカ)中藤村 ・下芋久
保村 ・菩提 (木脱落 力)村な どの村名があ り、本市
当 をして、す ぐに申し上げる。④往遺 で御大 に障
る者が いたら、預 かった御大 であることを告げ、
域 としては上 中藤村 (市郎右衛門組)だけになって
い ます。
不届 き者 は留 め置 き、す ぐに申 し上げる。③御大
預 か りのことは近村へ も知 らせお き、当村では御
また、
宝永 6年 (1拘9)と思 われる丑 7月 付 の「
御
・
コま、大名主督右衛 門 同年寄
犬小飼之者共覚」↓
犬 を預 か らない者や幼少者で も御犬 を大切 にす る。
⑥狼 には十分気 をつ け、狼が出たら村中で追 い払
七郎右衛門をは じめ35人の名があ ります。市郎右
衛 門組 の家数 を約150軒とします と、 4軒 に 1軒
位 の割 で大 を養育 していたことにな ります。
う。 もし、怪我 した御犬が いたらよく手当 をし、
3.養 育犬の数 養 育犬 の数 は残念なが らよ く
分 か りません。 しか し、「中藤村名主方へ 申 し入
れ候、明十四日願 いの通 り御犬相預 く可 く候、(中
略)御大五十四疋遣 わす可 く候Jとい う犬遣 わ し状
や、宝永 4年 (1約7)2月 16日付 の「
御犬百四拾疋
の養育金合 わせて金弐拾 三両四百 陀 に請取 り申
す処実正也、
銘 々百四拾疋 にわ り渡 し申す可 く候」
とい う請取証文 などをみると、150疋は越 えてい
は大切 に してす ぐに申 し上 げる。③御犬同士 の け
んかはす ぐに引 き分け、怪我 した御犬 は十分 に手
す ぐに飛卿 をもってと進す る。②御犬が病死 した
ら飛脚 をもって注進する。③御犬が行方不明 にな
ったら10日間は捜 し、代 り大受領後 も留意す る。
③犬養育金は間違 いな く取 り扱 うな どです。
宝 永 6年 (1拘9)、この法 が
廃止 されると、御犬は返す ことにな りました。 し
か し、養育金 も返納 しなければな りませんで した
6=犬 養育 の結末
ので、 これに困 って延納や分納 を願った文書が多
数あ り、 これ によります と、返納 は少な くとも宝
たのではないか と思われます。
暦年間 まで続け られました。 また、養育期間中で
あ って も、養育金 をめ ぐるもめ ご となどが起 こ り
4.養 育金の線 元 禄 13年(1700)11月
7日 付 の
請書 には、「
御犬壱疋 但 しとらけ之御犬 にて御
ます と、御大 と養育金 の返還 を命 じられたようで
宥免 を願 う文書が残 されてお ります。
-2-
武蔵村山の伝統文化 ② 一
『
指 田 日記 』 に見 る民間療法 (その 1)
市文化財保護審議会委員 水
指 田藤詮 の記 した『
指田 日記 』は、幕末 か ら明治
野
紀
一
初年 にかけての37年 間 にわたる 日記 であ り、そ こ
の験者 (天保 九 3/22)と か、
箱根 ケ崎 の正 重院 (天
保十 二 4/15)が 病家 に頼 まれ来村 して い ます。
には近代化 される以前 の村落社会 にお け る伝統的
藤詮 自身 については、
石川 (八王子市)や三 沢村 (日
な民俗文化 の様 々 な側面が鮮 やかに描 き出 されて
お り、極めて貴重 な民俗学的資料 で あ る と言 えま
野市)、
芋久保 な どに出張 してい る記事 や、 自村 に
お いて も、例 えば疾病罹息 の母子 のために常宝院
す。そ こで筆者 は、同 日記 を通 して知 られる武蔵
とともに「
疲神送 り」の儀礼 を行 った り(嘉永三 ・7
村 山の伝統的民俗文化 について様 々 な角度 か ら言
及 してみたい と考 えてお ります。本号 では先ず初
/11)、
安政三年八 月 に疫病 が流行 したため、村 中
相談 して痢病邪気送 りをする ことにな り、藤詮 と
めに、民俗学 で 「
民 間療法」とか 「
伝統療法」な どと
言 われてい る近代医科学 が発達す る以前 の病気治
常宝院が祈祷 をし、村人 も思 い思 いの異形 の出で
立ちで九山台(東大和市)まで疫神 を送 った等 の大
療法 について取 り上げてみることに します。
変興味深 い記載 も見 られます。
③ 観 音経 ・般若経読経 ・ 病人が出ると観
音経や般若経 を個人的に、 また集国で読経 し、病
近代医科学が未発達であった時代、世界 の どの
民族 に も共通する ことなのですが 、病気 は呪術 と
か妖術 な どの宗教信仰 と深 い 関 わ り合 い をもって
い ま した。病気 の原因 は、誰かの邪術 による呪 い
で ある とか 、悪霊 の崇 りだな どと考 えられ 、そ の
ため病気 の治療 は邪術や奴術 に打 ち勝 つ力 を身 に
つ け てい る呪術 師 によって行 われ ま した。今 日で
気平癒 を御仏 に祈願す る こともあ りました。安政
五年八 月には コ レラの流行 (江戸市中で も大流行)
により中藤村 の三つの村組 と神明 ケ谷 。原山合同
もこ う した伝統療法 を実践 して い る民族 もまま見
で大般若経 の転読 を行 つた、 とあ ります。
④ 社 寺へ の千度参 り ・ 霊 験あ らたかな社
寺へ の千度参 りにより、その御利益 にすがること
受け られ ます。『
指 田 日記 』にも病気 が宗教信仰 と
い
い
わ
を
り合
深 関
持 っていたことを示す記述 が 多
も行われてい ました。 日記 には、村 の鎮守社や真
福寺百観音、そ して山口観音 (現 ・所沢市)へのそ
く見受け られます。それは、 日記 の著者 で ある指
れが多 く見 られます。 また、 日記 によると、特 に
田藤詮 自身が陰 陽 道 によ り病気 の平癒 を祈補す
病が重 い場合や、庖塘 の流行な ど重大な事態に立
ち至 った場合 などには「
組合Jや「
若者衆」による村
中挙げての千度参 りが行 われていたことが知 られ
ます。 これは大事な点で、伝統的な村落社会の生
る ことを主 な職掌 とす る陰陽師 とい う職 にあった
ことにもよると思われ ます。病気 に関す る記述 の
中 に藤詮が病人の家 の者 に頼 まれて、病気平癒 の
祈祷 を行 つてい る記事 が しば しば見出 されます。
F指田 日記』か らは病 に対す る民間療法 として様 々
活 では、病 は、軽ければ個人やその家 の レベ ルの
事柄 であ りますが、病が重症になるに従 い、それ
は村全体 が関わる事 になる、つ ま り次第に多 くの
人が集 まり関わることになるのです。病 が軽 い時
な手段があ ったことが知 られ ます。そ してそれ ら
の手段 が、病 の軽重 によ り選択 され、或 い は病 の
進行具合 によって段階的 に実践 されるとい った様
子 も窺えます。そ こで それ らの伝統療法 を一 つ一
には見舞 いの人が多 く訪 れるけれ ど、い よい よ重
態になる と見舞 い を控 え、更 に危篤状態 ともなれ
つ取 り上げて見 る こ とに します。
① 千 垢離 ・ ・ 比較的病気が軽 い場合 の療法
ば面会謝絶 とな り、病人 は社会的に孤立するとい
う、今 日の病気 に対す る対処 の仕方 と全 く正反対
で 、家人力引││や池 で水浴 びを して身 を清 め、神仏
的祈願 で したが、重病の場合 な どに若衆連 が 集団
であることが興味深 い ところです。またこの事 を
裏返 して言 い換 えれば、「
病Jがあ るこ とで村中の
S強
人々の回結や結束力 化 されるとい うこと、そ し
で 行 った り(天保 六 3/29の 記事)、
村 中 で御獄 堂
・
の池 (現 番太池)で行 った り(天保 七 ・9/8)す る
て「
病Jが「
組合」や「
差場」などの村落組織、そ して
「
若者衆」とい う年令集団組織 の必要性や存在意義
こと もあ りま した。千垢離 は、後述す る千度参 り
を村人達 に再認識 させるの に重要 な役割 を果 た し
ていた、 と言 うことがで きるのです。
に病気平癒 を祈願す る行為 です。基本的には個人
とと もに行われる ことが多 か った ようです。
か し さ とう
し
, げん
② 加 持祈祷 ・ 修験者や藤詮自身などの専
門家によるもので、例えば三ヶ島の椛谷(所沢市)
-3-
(つづ く)
寄 贈 資 料 (平成 9年 度)
寄
贈
者
住
所
寄
贈
口叩
区分
番号
名
数 量
三 ッ木 一 丁 目
灯籠絵 (明治 ・大正時代)
町 田市 相 原 町
作業服(少年飛行兵学校勤務時)ほか
立 川市幸 町
ミシ ン(シ ンガー社製)
本 町 四丁 目
貼妨こほか
博
本 町二 丁 目
阪東鉄道関係書類 ほか
勇
残堀五丁 目
灯籠及 び灯籠絵
保
神 明二 丁 目
タライ
1
範
子
三 ツ木 二 丁 目
豆腐販売用岡持 ほか
7
瀬
永
由
本 町 四丁 目
キ セ ,レほ か
7
畑
芳
旦
本 町 四丁 目
縄文土器破片 ほか
1
豊
泉
2
木 村
3
前 田
4
川 島
5
乙 幡
6
福
7
柳
下
義
8
金
井
9
永
10
荒
林
春
七
枝
恵
政
島
雄
80「
壬
3
1
3
105
30
側
資料館利用状況 (平成 9年 度)
区分
開館 日数
総利用者数
月
5
23
6
24
7
割
合
人
数
割
合
908
361
39 8
547
60 2
26
1,078
549
510
529
49.0
8
26
1,210
649
53 6
9
22
693
298
43 0
10
20
618
386
62.5
11
24
1,163
652
56.0
511
坐 .0
22
841
56.1
369
43 9
1
23
7 坐
5似
67.7
240
32 3
61.2
359
38.8
67.4
280
10,840
5,999
55.3
計
-4-
つつ
つ々
力を
872
395
つ4
つ0
つ々
つつ
つつ
1,294
貧0
氏υ
つつ
24
ウイ
つθ
Oθ
52 3
つち
ワr
力を
370
ウイ
︵υ
,′
485%
3
339人
外
319人
つつ
合
658人
数
市
ウイ
な0
EU
24 日
人
内
6
つ4
nフ
4
市
4,841
51.5%
47.7
46 4
57 0
37 5
32.6
隻 7
摩 書
Fly UP