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スペイ ン内戦原因に関する一考察

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スペイ ン内戦原因に関する一考察
蕎学論集 第袴巻第3号 騰総年3得
【論 文墨
スペイン内戦原因に関する一考察
ルイス・カンぷス・ゴリス列福によせて
渡 邊 千 秋
はじめに
スペイン内戦(欝総一懲3§年)は,現在にいたるまでスペイン瑛代史における重要な醗究テーマ
の一つである。讐にその原霞藩究寿こ関していえば,政治愛翫法網愛翫教育愛翫社会史導等,様々
な分野で膨大な量の羅究が蓄積されている51。
教会史では,第二共鞍敷による反教権的政策とそれを後押しした縫会的心性が轟戦を導く冗雑
だった,という解綬が一般的であ参,その解額の麺長上に,内戦下の墾職者殺害に関する醗究が進
められている。教皇ヨハネ・パウ賞2盤が,量界の殉教者の列橿・列聖を促進しているのに辱癒し
て,スペインでも,19鱒奪代に入り,内戦における聖職者殺害を宗教的遺書と灘籔し,実体を解窮
しようとする麟究が活性化してきた嚇。鮭会学・地理学の手法を援絹し,壁織者殺害の地域分薦を解
明する蘇究も理れたη。また,晒究対象を聖職者だけに鰻らず,懸じく海戦で殺害された平鯖徒の犠
il カト弓ック擁護を党利とした諸政覚・政治的グループの政策懸究,業報琶の蝿教皇庁磐交政策.また地域政
治史ま1の致策展雛など,テーマを挙げれば枚挙にいとまがない。
2} 婚3i無憲法条項の分析懸究隷もとよ讐,その下位法が教会を一つの絡縫と養えることで,いかに活糞を親譲
したか等に関する麟究がある。
3) 欝密教奮学院が教会の影響力から臆して行った鍵総的教育と反教権主義の穫灘窪に駕する醗究の蓄積は羅覚
しい。
襲 鍵えば,雛3玉年§月.マドサードその飽の都薙で趣きた修道銑焼き討ちに象徴される第2共秘致下における
渓衆暴麟は.鱗鍵紀スペイン縫合を説窮する上で常に言及される事件となっている。
51 これらの売行麟究を整還することは本稿σ)執筆欝欝を逸税するものとなるので,ここでは文蘇レファレンス
資料を毒摘するに留めたい.この資料は,第2共棲政の驚連文献の琴ストである。著者名顯に謹んだ文戴の
それぞれに,窺い内容解説がつき,またテーマからも文献が探せるサストも付羅しているた猷帯締である。
溝繰z艶艶z、M農撫G亙面&,鋤鞍癖β醐麟と輩磁s癖識/1聯動細ε蜘翻4(!鰹一1936〉・θ吾郷
舞め翫撒嚢濾砂留簿」硲慮激器19甕}濁ず9≦粟;∼.工耀a曇r羅,Ft溢血}c圭6費U綴vers量tar鍛蒙s茎識銀経翫聡警3・
§) この分響び)醗究考の第一入者は在俗整職者であ婆教会史欝究者のカルセル・オルティである。「殉教者1に雛
する破の醗究には.以下の文藏がある。C激cel O綴,Vlce覆e,L4熊欝ε耀認魏rε線承ヌ灘醗&舞惣盈搬癖8
躍鋤鐸紬R磯激ζ寮鰻一醜9,M諮雄、繋三脚,玉蜘;雄、、綴離∼s囎罐癩露g紳XX潅魏磁
9AC,玉韓§;羅.,正嘉9瓢確舞欝ε‘観薙鴛.ε∫舞勲,雄3差難39,3arcelO照,P醸盤et&,2韓{}・
7〉M3rt鶴翼醸。.A騨1馳v羅,騰a騨鷲C癒醸re藝gl・s3e誠s輔置(i穆3レ欝3鰍懸鋤ort&c圭6登SG藝f巌s
c量{rasヤ’、∫菰舞漉S甜鴛.t騰瞬3,懸盤.i彗7,2麗.餓63−8§、
一27一
商 学 論 集
第簿巻第尋号
牲者へ広げる必要がある,という縫題提起もなされている8う。
このような流れのなかで,スペイン・カトサック鳶教協議会は欝馨食年尋月,簿千人にも及ぶ内戦
の「殉教者ほたちの粥福へ臨け,教会法上,審判の手続きを露始する意志を表明した勤。カトリック
の教義上「講懸3とは「教会の頸としての教皇が・死亡したひと箏の信縫が存命中に聖なる生活を
送ったこと,あるいは殉教死したこと,そして現在は天に在住していると宣言すること」を雛う期。
司教協議会の姿勢には,教会が定める「殉教考」が殺害されたのは,「単にカトワックであるという
だけ,ミサに背くという,ただそれだけのせいであってほかには簿も遷患はない玉門という考えがみ
られる。しかし本盗に飽1こ蟄郵まなかったのか。カト婆ック墾職者・平儀鍵であること1こよ吟迫害
を受け殺害された者がいた,とすれば,それは,当時の教会がそれだけの載礫を受ける存在であっ
たこと,つまり社会的繕悪の対象だったという事実と裏表一体のものであることを忘れてはなるま
い。しかし講教編議会は2春(婚年塁月の第鮭露総会で,紛織としての教会が内戦で反乱軍欝を支持
したことや,戦後,フランコ独裁の存続に貢献したことなどに対する謝罪を癒否した購。また,教会
史醗究者の中には,内戦下では,その終結後1こ独裁体鱗が成立するとは誰も思わなかったのだから,
それ1こ関して教会には責任はない,という遅解も生まれている!3}。つまむ,「当籍,教会こそは業報
政の暴力による被害者だったのだから,教会にとって,反鼠軍籔・フランコ陣営を支持したのはや
むをえない必要悪であった珪と解毅されているのである聯。
現姦までのところ,まるで内戦下の教会の人的・経済的・社会的損失は業報馨締営によってだけ
もたらされたかのよう砥共融覆薄営1こよって殺害された聖職者・平緒徒の実態の講査蘇究が進ん
でいる玉㍉これと覧べて,粟穂国難を支捺した聖職者・平信徒の犠牲者についての醗究は進んでいな
いのが実情だ.しかし,全ての塗職者や平信徒が,のちに勝者となるフランコ陣営へ纏することを
是としたわけではな魏。醗えば,共報国翻による教会迫害を葬難した,至§37年のぎスペイン遜教毯
鴎 しかし実藝祭は平{言覆…のなかで純粋に「迫害」され.て死んだ者と,飽の,騨えば政治的遷建1紅よって死んだ考
を麹犠することは難しいと思われる。講.岡題提趨垂こ臠しては以下σ)論文を参照。Cl鍵v&,」畿1麺6e l3,ご‘R磁一
9魏s費ersec疑t醸,A賊量clεr量。雄丁瞼盛t茎G糞a癒裂evol雛醸10糞A鵬。魏sa寒罐st癒εC董εr鍔y曲r玉璽琴曲
s鞍鞭油Ci煽wガ,/醜7曜夢『c翻ε麟ご伊耀轡∫翻礎,曜.33.至ss蓑e3,圭鵬,貸費.355−3齢.
§}癬翫露,蓬A毎rl12§春夢.『エル・パイース垂紐は,スペイン講教鶴議会長票ウコ極機藥は.第2バチカン公会
議以蕪の饗論を継承し,内戦を懸盤紀最後の寒数遍害と趣羅付けていると述べた。
董憩 ハードマン.ジョン・A(纏),郵現代カトサック事典重工ンデルレ書鷹,平成淫奪.第3叛,7鎗頁。嵩,列
整は翼福された麟者の取次ぎによって串さらに2つの奇鑛が行われては軽めて,教皇によって童言されるも
のである。
玉i} C激ce茎Or蟹,Vlce鑑e,ムα9魏離舞欝6躍‘癖三一・,嚢,翼,
工2〉εJP鷹,4A翻童2蟹欺5A擁i2韓馨;8続rl璽2§{1馨.
13/ この主張に麗しては.C激ce垂Ort重,マlce窺e,Lδg鰻舞舞欝麟爵碗….夢.鴛を参黙書
翰 もちろん教会が内戦において優した趨害の事実を認誇,それを謝罪すべきだとする整職者もいる。彼らの多
くはカタルーニャやバスクなど,地方ナシ3ナ亨ズムの強い地域に聯か昏の入籍である。讐に.ベネディク
ト会士であウ教会史群発者であるイラヲ・ラゲールの存在を挙げておきたい。
蔦〉 アントニオ・モンテ一口・モレノの嚢究が究駆である。欝覆奪藩こ窃藪,難鱒年に再販が鐵蔽された。綾によ
れば,聖職者ぎ)犠牲者は68磐{}名以上にのぼる。Mむ統轄。 M蟹謹倉、A蟹3鍛沁,鎌躍磁器醸海霧躍鷹撫舞芦
源ε観ゴ魏勘緯蜘躍。声ま1…画嚢磁α皇冤一/蘇39),M縦{董ギ遍,正3AC,1鶴i.
一28…
渡i 邊:ノレイス・カンポス
集遜書篶満塁こは,首座大司教ゴマ極機簿の捲導にも翼わらず,署名を捲否した高位肇職者がいた鵡。
饑えば,業報蟹政府によ鞍遺教されたセグーラ枢機麟に代わってスペイン講鞍懸をと参まとめ,業
報国政癒と教会の蝿語を追及したタラゴーナ大講教ビダル・イ・バラケル極機簿や麟,萌述の書綾の
ビルバオで教会迫害があったとする部分に不満を示し,署名を極否したバスク地方ビトサア藩教藝
ムヒカ講教などがそうである塒。またバスク地方では,アギーレ嚢治政癖大統領を筆頭に,多くの平
懸徒が業報鍾陣営を支持した蠣。また墾職考の生命を奪ったのは共鞍国陣営のみではなく,フランコ
陣営もバスクの聖職者たちを銃殺に越したのであった鴎。
ここで改めて考えてみたい。内戦で死亡した人々の大多数は,洗礼を受けているという点におい
てはカトリックの平懸徒であった。しかし破らの全てがr教会のために戦う」という大義を掲げて
内戦に参戦したわけではない。フランコ陣営・共報国陣営のどちらにおいても,鵜然戦霧に巻き込
まれた人々,進んで志顯して戦縫に参撫した考,磨分の意思にそぐわない形ではありながら参戦せ
ねばならなかった考など,参戦理麹は様々であり,そのような状混1こおけるr殉教剖とそうでは
ない者との区震は露難を極める。またこの区溺,つま蓼 ヂ殉教者達のギ差潮化雌は,戦争という暴
力がもたらした死を美化することにつながる危験性を孕んでいる。
雛に遊べたよう1こ,現姦までのところ,講教協議会は,「当鋳の人々が聖職者や平穏徒を殺害の的
にするまでの敵意を捲いたのはなぜか葺戦後,体麟紅よる反体鰯勢力の纂力的弾圧に沈黙したのは
正当であったか」などの縫いかけ1こ無籔答である。しかし内戦の駒教老雄を諾臆する上では,そ
の「殉教考」を生み塗した宗教以外の歓会・政治的要因の諸磨にも目を海けるべきである。
1嚇 集慈婁簡1こ臠しては.戦争の鳶禦にある桂会争議紅絶する鴛重みなコメント,バスク翼題の単綾化,蔑童生
義秩窪の懸麺観ヘグ)感受牲欠如,フランコ陣営の擁圧・魏裁に臆する分藪の不徹底などの矯題点が毒摘され
ている癖Alvar奮z菖麟a{麺,A歓襯S{},君4躍書留羅r羅禦紹縦寵,身4躍9躍躍ヂ醜声薦.忽癒s裁ダ(銚羅躍ご〕翻露∫
1欝6ぜ欝タ,躍麟r羅.雛)co,1鱒§,欝.i縫一圭編.
i7) しかし,署名振否漂は運倒的少数である。照。盤羅1.A麟r綴、覆錘幽幽嬬解壽癖郷,露礁cel(》照.甦a謄&
」纏es磁1雛畠s,2綴,嚢.3斑.
麟 ビダル・イ・バラケルは薬籟馨下の教会遊客について,懸人としては鰹然と遺憾の意を表聡したが.霧教羅
が欝らの集羅喪簿を迫害に辮蔑する手段として綾絹することには段繋であった。}{e溝識由.欝er盤r透蟄むM、,
確論吻ε梛趨躍如瑠三癖溺.∠)ε露瘤ε磁。撮£磁,M誕麟,鎚茎。繍es鯵,王§7了,即、誕一書7、
1§〉 内戦当窃,ビト亨ア司教ムヒカ1ま宗教療遷主義(玉塩鯨rls鵜G〉の故に.粟穂蟹瞳営を撲離した。内戦下,自ら
は笈鼠軍を支持する一方で.バスク・ナショナ夢スト党を中心とする勢力へ粟穂靉靆営への支持を撤軽する
ようにと響びか1すたが,失敗し.蟻ってフランコ無常麟の疑念を招鵠た。フランコ陣営σ)騎織評議会はムヒ
カの罷魔を求め,玉§3§年璋鰐.綾は国擦宣載墾職饗遵会会議簿癬の名爵でローマへ肉かうことを余儀なくさ
轟た。Garc鍛曲C倉rt義z撮醸zAg醸r鴛,Fer鷺a麟),“Mat㈹M登9圭ca、互雄贈s譲ylaG慧erraCl嘘e鴛e至
碧a重sVaSCず,五ε魏器慮∠擁蜘.懸盤.薦.灘錐。−a即s翰墨§86,欝.2縫3;論32護6.,呪a曝es嬢聾a
(}麗rra”,e駐舞至撮曇a蓑1叡建曇way4(e{量.〉,五49鍵毘搬ぬε鯵麟惚1鼠36一歪参3登,M撮ぎ量{董,Tat圭r譲s,董鱒{3,麗}、52§一
528.
2溝 アギーレの行動・戦争鶴等については以下の文戴を参黙せよ。A簿lrre LeC癒e,恥語A齪薇。,窟纏疫群駕
確P眺魏漉擁9麗魏ぞ4κ;o旛耀編融融ゆ勲」魏30醜婦鳶麟硲騨8ゴ漉γ擁縦灘勧/磁影π羅伽漉難癖
露欝欝磁露}節磁膨」伽,1鰐7ノ鼠,βε磁ε窺離礁翫鯉γ醜声薦魏魏加r8厩魏,翫e懸sA魏s,
鎚lt.翫塗,欝43.(部課『バスク大統鎮亡命記1ゲルニカからニュー3一タヘ妻三省堂,1露§年1
2茎/ Garc盤琶εCOr譲zaで盆縫至z A9耀rre,恥膿撒面,“M段te轡樋き暮lca…”,費、2鐘、
一2§一
商 学 論 集
第蒋巻第逢号
そこで,本稿では,2倉鍵年3月昼譲にダ彗福された平懸絶.ルイス・カンぷス・ゴリス(L罐s
Ca灘獅sG6rr童z〉の生漣を追い聯,「殉教者3として粥福された平奮徒の歩みを跡付けたい鱗。これ
によ箏,「殉教考まは,単にカトリックであるだけで殺された,という単純な霞式化が,常に当ては
まるわけではないことを知らしめる機会となれば幸輪である繍。
i.ルイス・カンポス・ゴ1ナス(隻鱒5一欝繋駕/:生立ち
ルイス・カンぷス・ゴサスは聯,i鱒5隼6月灘馨,不動産登記吏であった父ホセ・カンボス・セ
ルベラと母マサーナ・ゴ婆ス・ボルハの罎に生まれた。生家のあったバレンシアのミラグロ選り露
番地は市街区の中心薬にあ警,サント・トマス教区に属していたが,この地方の習縷紅従い,バレ
ンシアの守護蛮人,塑ビセンテ・フェレールが洗礼を受けた洗礼盤があるサン・エステバン教会で,
欝毒5年7月茎霞に洗礼を授かった騰。ルイスの母マサーナは.儒御心厚く,「模範的匪カトサック盤1
徒女性であったと誉われている。彼女は,イエズス会のカステ》ヤ神父を窪らの霊的指導餐と鐸ぎ,
家庭における宗教的振鉾を確國たるものにしていった鋤。家族で鶴舞を培おうとする雰羅気は,ルイ
スに「よきカトワック」平信縫となるべき精神的基礎をつくったと考えられる鰍。
家庭環境と織様,学校教育における環境も,ルイスのカト穿ックの縫上としての意識形成に強い
影響を与えたということができる。鍵盤紀撰頭のスペインでは,携等・中等教育全般を握っていた
のは.その多くが修道会の経営する学校であった蹴。なかでもイエズス会が経営する教育機鷺は,男
子の管蓬教育1こ尽力し,都市中鷺響及び上流踏級の子弟を将来の社会・政治工夢一トとして養成す
る役塞を果たしていた覇。ルイスも,バレンシアでイエズス会が経営するサン・ホセ学駝の寄徳生と
して,窮等・中等課程1こおける教育を受けた。学駝では,クラスのトップの成績を駁め,学院での
学業成績及び宗教的実践において秀でていると認められた者だけが入会を許されるマ婆ア繕徒会に
22) 舞福を記念するA4飯嬉当爾面部購のパンフレットが鐵ている。ぴ㌶4窺蓼蜘4諭鯛鱒磁J C扉鱈鎗漉Sα2¢
南頭禰ア癬磁ノε$観漉齢.醜虜拓五蘊。齢御5〔諺鎖漉IP野襯麗醜!92鳶.
23〉 溝,本稿は擁墾・粥福の是葬を論ずる霞醜をもたない。
2蔀 糞福・舞聖を食いことだと攣縮ことらえて規擁する勤向への畿轡も存在する。Co葺灘.舞謡s,“∈So號a癌e盆os
ysa誠魯sγ’,XXS忽醜,簸餓.菊,2毒韓,難.§2−93.
25) 以下.鞍をゼルイス墜という浅礼名で騨ぶこと紅する。また本穣では,現在,バレンシアのサン・恵セ学院
に保存され,ルイスの残した書麟・パンフレット・藏妻等からなるアーカイブIA駕短鴇壷Lt臨Ca灘舞s
G6r媛z:A至.CG}を主資料として蒙i駕する。
2§/ この慣習は第2バチカン公会議振鉾.褒還しつつある。
27/ 蟻硬磁綬,恥硬rt⑪,観磁ダ醸卿夢あ4扉蹴琢翅盤正編$磁瑠卸8G舟渡,V註1雛cla,鴛騒,夢.2.この文藏でル
イス慧醗畢こ「殉教考涯とされ.ている。また彼を「神の下僕〔S楚rマ{}〔艶至)沁s擁と響ぶなど,書籍の内容とし
は護教護窪∫論講が晃ら才しる。
28) 潟, ノレイスぴ)母は妊擁暮年鷺贋書こ死{虻。 互む魏至.,夢嚢.9㎜墨書.
2§)修道会の教育への雛与についてはYet餓倉,A照,加醗5癖雌羅溺聴齢ε窪翻論裁物磁波臨翫S繊ぜ辮ごゴ顔
(脇澄。−/92θ).8arce董鍼a,A融ぎ。舞s,垂蓼88.
3欝 イエズス会の教畜によって生徒がどのように入賂形成されていくか1こ関しては以下の文醸を参類されたい。
蔽う玉§韓年代の事弼だが,それ以前のイエズス会の教畜システムも.ここで述べられているものとほぼ蔭様
であったと考えてよい。Car盤。舩Fεr醸磁ez,Fr蝕clscOJ.,撫ε碑ψ厩鍛碗陶磁s}・8碁羅ε羅讐ご}磁躍灘
醗毎歪勉κ4群躍漉Jos‘麗幽幽裁(2e透.〉,U盤vers羅a塵慶Gギ欝撚{捻,王欝5.
一3暮一
渡 邊ニルイス・カン潜ス
所属,卒業後もi蟹7年には会長を務めた。また,纏えばベルダ神父鋤をはじめとする学統のイエズ
ス会士たちと,家族ぐるみで良好な関係を築いた路。
また学銑での生活を通じて形成された人的「ネットワーク」は将来のルイスの琶会・致治的活動
を左右するものとなった。たとえば,スペイン誉派密治連合〔C盆DA〉所属議員のサルモンや鋤バ
リエンテ鋤など,第2粟穂放下の右翼酸治エリートが瞬窓生であ参,この繋が参が欝欝年代のルイ
スのカト婆ックr騰士」としての様々な行動に膨らみをもたせていく。
2.学生時代:ゼよきカト》ック涯としての毯舞観確立難
ルイスはi§潰年6月,サン・ホセ学統を卒業した。その新客,イエズス会への入会を希望したが,
父親に談得されて修練院入りを保留し,瞬隼欝月バレンシア大学法学部に入学した働。以来,カト
婆ック全蟹学生連合(C狂CE)バレンシア支部に所属,i§艇庫からi競5年には法学部分会長として
緩緩整備に尽力し錨,19器奪から麦9器隼にはバレンシア支翻書記長を務めた勝。これと平行して,
3夢 ベルダ神父はルイスの成長を晃寝る一方.様々な購言を与えていた、また,ルイスが成人すると手紙を送参,
綾が雲分に曝して襲う簑上への「尊敬」の言葉遣いを.観しい椿事への表現菰改めるよう捲示してこう遜べ
ている。「なぜ私に鰐してゼお許しください垂葬車し訳あ警ません護などといった表理を襲うのですか?(中
蕗〉すぐに(使わないよう1こ)直しなさい諺ALCG,C撚t3蓉{}J{)s遷M鍵盤8el(ねS∫a裏編sCa獄至}倉sG6π貌,
δel鰺蓑ovl雌鶏rε1麗§.2人の闘の鑑頬嚢{系は継続し,ルイスは訴にふれてベルダ神父に連絡をとってい
た。ALCG,C3rtas6εL縦墨sC&登簿}osG6rr重za』10s{…1麗&r{准8e至{董aS』}、琶e董i?Fe募罫εrO圭§27y〔茎e茎i7」慧難G
i§3i.
32/実擦.イエズス会士はルイスの家を訪れている。「ミラール吻ンボにいる学薩長1こ鞭まれて.書のお父さん
のご招待をお受けするため1ここの手紙を書いています.我々が行けるとすればこの金曜蕪もしくは来週の月
曜か火曜露です。3ALCG,C盆r盤醗A鍵○擁06e Lε醗SJ目無ls Ca螢齢s G6rrlz,6el鰻6e舞1めδd§22.
33) i§鍵年生まれのフェデ亨コ・サルモン・アモサンは,ルイス講様,マサア信疑会会暴だった。カトサック学
生連合バレンシア支離長を務めた、就職紅よ箏移猛したムルシアで,カトサック青年運動の麗麗紅大きく罵
与した。JCEムルシア凝教区連合発起人の一人。ムルシアのカト亨ックξ蓄鷺紙蓼真遷(加鉱騨磁4捲編集長。
ig35年には労{鐵大器を務め,内職で殺害され.た。
34/ ホセ・マリア・バサエンテ・ソ》アノは至親7年から董盤2年まで,スペイン・カトサック青年会(JC鶴会長
を務めた。第2共憩蟹下では窟翼の青年婆一ダーとして,アタシオン・潔プラル青葎部(JA欝の長となり.
政治活動に奪・む。讐誕卑.亡命申のアルフォンソ欝量とフォンテンヌプローで密会したことが発覚し,所霧
政党C騒}A党首ホセ・マ婆ア・ヒル・ロブレスとの鷺熱が悪此,覚を去った。事欝の詳纈については,綾の
睡懇録を参照されたい。Val{e競e S醗laR脅.」総6M鍵重a,れPor豊麗醗e無董6e la C狂OA”,否認雛」錨羅
魚鋤勲魏,鷺麟.鍵3,2§露簸erO玉§7春;磁雛.鰭,5恥碁rero1§祷;良⑳.鱗5,i2ぎe碁re欝欝7§;磁瓶璽6,1§
F(めτero i§7{}.
3き/醸)r磁er,盆。暮e齢,硬.‘露.,β.亙i2.
3§〉 法学灘会長就豊後早々に,辮25箏生月薦僧予定のCεCε全錘集会の総総委貴会に臨労した。その膜様垂こつい
ては,以下を参照されたい。ALCG,Car捻6e恥鐡B弓s盈Mar重継L彗lsCa欝欝s G6rr墨z,6el認」磁撰§簸;
C麗ta{重εP段碁10Me16簸{量ez8{)sc農a L雛s C3盤夢os G昌rr量z.‘艶1蔦Oct譲翼e鯵2尊;Caダね藪ε」{)s善M舘稔C(}sta
Seでra簸G農縣sCa胸倉sG6rriz,6e1230ct癒rε魏4.
37/妊鯨中,大学教授職こ文藻の活麹が評懸されるよう1こ饑きかけ,猪霧バレンシア進1こ寄稿して学外考から支
蔀への寄欝金を集めるなど,界蔀との接触紅尽力した。また鰹蔀的にはサッカーのり一グ戦を企鬱するなど,
会員の娯楽促進にも力を窪いだ。ALCG,Car絵6e L額s Ca欝欝s G6rr重z准Joa騨搬狂s雛灘s呂,慶1講
N倉》蓄e簸/董}re i§25.
一3至一
臨 学 論 集
第溝巻第塁号
C狂C総会醗評議員,i§留年には全霞書記長,と地方・全国レベルでの役職を経験した。
在学中,ルイスは,当蒔瞬大学文学部で歴史学の教鞭をと箏C狂C狂バレンシア支藩の活動に携
わっていたフアン・コントレーラス(霞ソや伯/と知多合った。欝鍛年には,カトリックの政治・
桂会的エリート集餐聾圧力癒体である「カト肇ック全麗蕎教協会(AC翼P肩に入会。バレンシア支
部に籍を麗きつつ,醗究サークルなどへの参撫を通じて,様々なカトワックの騒士たちと寒参合い
人的ネットワークを形賊していった細。その一纏として,AC翼Pバレンシア支部長で,譲鷺バレン
シア(溺β吻ぬ晦纏磁雌紐の編集長でもあったルイス・ルシアとの交流を挙げることができる鋤。
またi彌5年にはスペイン・カトサック青年会(JC勧鱒のバレンシア地籔連合書誌長続任命され
た。教区センターの設立に麗与し,議らの所羅教会であるサント・トマス教区でのセンター麟立に
も協力した聯。JC建は教駆教会を活動の場として,愛憐者としての意識と宗教心を兼ね備えた青隼
の育成に尽力した騒体である鋤、この簿体での活動を通じて,カトリックの霞士としての自己認識を
深め,よきカト婆ックとして生きる漂動力を得た。
時を移さず,ルイスはJCEバレンシア支部の主要メンバーとなった。地区連合を代表して,オン
テ二王ンテやハティバなどへ赴き,JC£の宣伝活動を行った鱗。マド婆一ドの全轟靉靆局が,カト
ヲックの諸協会・グループに対して.JCEの活動に麗しては,地域の緩織を通さず1こ塵接全蟹書記
局と連絡をとるようにとしたことを畿甥し,JCE内部の癩導系統を整欝した、kで,地域に譲ざした
38〉 鷺ソや熱嚢は欝欝年セゴビア生まれ。法学博士・文学博士.志翼識客の代表的人物の一人。カト婆ック全畿
学生連蟹・カトサック憲年会会長として活躍し,年齢によ撃これらの矯俸の役職から退いた後も,後援者と
して活動に協力した。またAC翼碧の亘会員でもあった.プサモ・デ導べ一ラ体調下の翼賛政党.愛醒連合
メンバー。第2共1穣露下では雑誌誓アタシオン・エスパニョーラ遜で執筆活勤を震麗した邑またC狂PA党貸
として鐵馬,欝33無総選挙で国会議嚢淀当選。欝曇無から王立歴史学アカデミー会員。
3§l AC翼Pは入会者を厳選した。ルイスの参癬は.サン・承セ学駿鎌来の鱗笈ミゲル・デ・カステルスの招待に
よ拳実現。婚2§年玉月轟こはAC灘》の董会轟となった。A勤CG,C鍵盤6e醗線麗鍵eC総tel董saL繕sC灘聯os
G6でrlz.曲董7鱗茎沁圭艶容.
韓1 ルイス・ルシアは,露88年生まれ,第2共徳政下バレンシア慕翼党の盆V)党首として活聾し,国会議賛を
務めた。講戦麗餓鋳に黄鞍体調を支持したことを運由善こ.戦後に韓講年の禁態飛をいいわたされた愚なお.
ルシアの是錘;については以下の文献が詳し鵠。Val総、薮滋ael,五拾 澄ε紺が齢 R馨ゴ醇羅∫ 毫権」脅κ躍艶㌶二E∼
齢麟麟辮擁鋤拶磁燐酸欄〔∫餓冠936},Va臨cla,無。瞳sAl醜s繧Ma鍔鑓会睡雀,趣t勲。墨6
Vale簸C熱撚6’狂S敏感sl玉璽轡es童蒙a磁、亙鱒2.
縫) }CEは鯵歳舞圭:3§歳鍬下の男子青年を会費とし,スペインにおける寿ト婆ック・アタシ濤ン運動の一翼と
してカト}タック釣人韓奮成をになった.詳綴については捲稿を参顛されたい。WATA翼汽露狂.C蟹盈圭,翻
f4$o擁ご繍磁魏魏瀬齪擁認磁P形鋼冨麟認総総ダ臨西鯉麟擢。認6藏聡躍最脚離〔稽器一碧36),Tes董s
6⊂}c竜or段璽1盤{1{室員叢.le重《垂a e鞭la{」翼壁ID、鈎硬aギz{}2蟹}董.
勢ALCG,C轍マGC&torlaδelactOδe愁磁a£董翩翻Ce雄○脚ギro瞬a招eSa譲が鶏頭s,2董M&rzむ難き1
工〉齢勉励薇纏磁,26簸arzOi§25.
垂3) 」(業賛歌は,カトワッタ的運懇をもってスペイン玉籤へσ)愛遜心を呼び起こそうとした。「スペインの大地
よ,玉露の籏が青年たちを響んでいるのだ,鞍らを目覚めさせよ。崇轟な遅慧というす護らしい武器をもつ
転たちを打ち幾かすものは誰もない。」と錘っている。ALCG,κ魏魏。魏魏ノ観照魏童ぜ4C罐翻∫薦録麟雌雍ρ齢.
鋤ALCG,Cart麟e無sCa脚OsG醗1腺}脱漁r簸丁縦e曲罠06准s,s魏艶礁a,鷺26;C段r捻6eL癖s
C徽鈴s(}6類z寂麺識80s趨Mar齋,甑ずec蕪、醗§、
一32一
渡 邊:ルイス・カンポス
運動を展瞬させようとした働。
ルイスは,カトリック青年運動の発展のため,奪毒幸欝譲葉曇こも力を注いだ鷲1。欝2ε年7繕,AC溝欝
会長であり,カト婆ック暴利紙蓼エル・デバーテ(躍醜加麟。1編集長でもあったエレーラ覇とと
もにヨー賞ッパ擁察簾行を行い,各国のカト喜ヌック青年纏織紐ついての覧縫を深めた。この厳行は
エレーラがルイスに信を難く決定的な契機とな参,霧年秩マド婆一ド大学法学薬博士課程に登録し,
住居をマド弓一ドのカトサック学生寮に移したルイスは翁,エレーラの推薦によ参,JC狂の全羅書
鑓属書記長として鑓会の事務全般に聡与することとなった。就任鋭鋒は第建欝CE全霧大会露難準
騰1こ追われ,1鎗7隼2鐸の麗催まで,ルイスの生活は多忙を極めた期。
また馨麗隼憩月には,メキシコで広が陰つつあった宗教的迫害に貌議する集会をマドリードで
開こうと企面したが,プリモ・デ・りべ一ラ政権1こより嬉害された灘.しかしルイスは打聞策を模索
しつづけ,トレド大舞教の承認を得た上で,メキシコの守護聖人.グアダルーぺの墾母の概疑であ
るi2月費目に,メキシコの発弟たちのためミサを遵じて雛1議・祷醸を行うよう,全瞬のJCE肇一
ダーたちに瞠びかけた鶴。結果,この金聾はマド蓼一ド,バレンシア,サラゴサなどで実施された鋤。
3.凄C露中央評議会のメンバーとして
3CEは臆27年2澤に簾縷された第i回全羅大会で,会購.JCEにおける聖職者額舞の役額.教区
センターと修道会が指導する慶存σ)青年綾織との関係,またJC狂がかかえる経済的な課題.}C登楼
縫誌の発鷺,藩究サークルの位置づけ,といった多様なテーマの報告・討論を行った。こうしてこ
の全騒大会は}C狂の活動方錯を決定し,緩織の拡大を促進する上での分鼈煮となった.
大会では綾織の整備が護われ,全羅指導部である中央評議会と教区センターとの達樵を醗るため
の媒介として霧教区連合を麟殺することを決議した。以降,各藩教区でJC狂縫織イ紅)宣伝活動が行
籍) ALCG、C簾識6e L錘s Ca廻書()s G6rr魏a J(露6聾鉛τ鍛TG誉e義e聚蟹懸s.〔1謹鷺銭詑r(》欝2藪
鮒 彼の蔑霧1こは.フランスやベルギーの力簿ック・アクション運動驚達文離が多い。
47/ アンヘル・エレーラ跡ワアは欝総年鑑まれ。ACN聾麟立雛来のメンバーで窄イエズス会の鯖神を愛護継ぐ
人麹。第2共穂裁下,カトワック・アクション運動5)全羅評議会長を務めた。また茎穂綿との婦護露線を選
んだビダル・イ・バラケル極機辮の難頼厚い入梅であった。難戦勃発以前1こ髪職者への遵を選び,フランコ
捧鍵下ではマラが司教となった。
塁8/「イベロアメ亨力寮」はピ・ギ・マルガル通参7悉地1こあった。
薯鶴 大会直前書こ隷,翌馨まで事務所に残って薄くこともあった。ALCG、C鍵ta嬢eL藤sC3職獅s(節rrlz隷Ml難el
慶C瀦s醸ls、由13i E鍵r〔妻亙麗?.
弱) 簸擁に企醸した集会は致概の保安総合管麗縁によ撃禁止され.また集会に臠して護刊紙1’エル・デバーテ、纏こ
慮す予定だった広善縁検騰で撮載を蟻下された。ALCG.C欝t36e勤錘sC設艶夢{)sG6r藍z霞雛e灘飴C{)r羅s
難s宅{)r.6e124饗脅v麺欝銚e欝2§;Cart投壷L蟻lsC&欝欝倉sG6r窺9M至9睡〔le C盆ste夏誰s.雛e}玉2N(}v1綴蹴白
欝2§。
溌/ 通携の宗教行事に璽ねて擁議を背う,という」)はイエズス会士グイムの提案に、柔るもσ)であ今,休講の教会
へぎ)「治磐法権盛を遜勲こ取った方策であった。
§2〉AむCG,Caでta感eA聾9纏旋で欝30罫重職L睡C3離郷G6rrlz.磁i5i)1cle盤硬玉鰯;C盆無趣麺s
C麗聯sG6ギrlza露醸鑓oM歯噛es、磁正紺漉麟re玉鰯IC欝t認eL譲sC徽欝s(}善r撤a撫(纏雀
M童er,慶12鑓)lcle雌)re醗暮.
一33
蕗 学 論 集
第驚巻第4号
われることになる錨。ルイスは大会終了後,バレンシア璃教区連合の最善こ任命される一方で鋤,全霞
レベルではJCE中央評議会の事務を統癒した。各司教区での宣伝活動を効率的紅展麗させるため,
司教区の縫織化を麺う窺場の運動家と演説の専門家との闘の連絡等に絶する橋濃しを行った。様々
な羅い合わせに癒じるほか,事務通知の発送.会費の籔叡,JC£記章の簸売,などを選じ,中央評
議会による上からのイデオヨギー的統鰯の促進・綴織基盤の財政的安定を醒つた。
会員への思想的統霧彗に灘達していえば,ルイスは,会員の活動が「JC狂は独裁体鱗と絃びつきの
深い政治綴織である」という認識を生むような機会をつくることを極力露遷しようとした。それゆ
え.大会終了直後,ドミニコ会士ガフォがJC髭のメンバーを引き連れ,マルティネス・アニ誉将軍
を表敬訪問したと報道された蒔には,JCεの靉靆であった在俗奇祭コルテスと連絡を取り鋤,ガ
フォ神父に対して会の猫撫性を無視した越権行動だとして強く貌議した561。この行動に見られるよ
うに,ルイスは,JCεという,残存の枠緩みを越えた新しい青年継織の麟造を意識し,政治への縫
与が噂されることによる弊害が生ま蕊ないように,積極的に上からの活動管理を試みている。また,
継織拡大を弩捲し,第茎冠大会以蕩に活働が根付かなかった地域紅鱒しては,マリア信徒会のネッ
トワークを駆優して宣伝活動を行いつつ麟,JCEと醗存の青年綴織との連携にむけて尽力した。ま
た時としてAC翼Pのネットワークを通εて働,また教会ヒエラルキーの動力を得て,カトサックの
青年たちにJCεへの趨盤を促したのだが細,残存の縷体はJC翼という聾しい績織を邊解できず,自
らの存在意義を否定する新参者として遅解することが多かった。結果として,JCEによるカトリッ
ク青年緯織の指導系統一本化の試みは矢数に終わった覇。そσ)上,恒常化する人員不定・資金不是な
ど絽織機能.との開題点を癒え,中央評議会の事務を挺うルイスの仕事量は増撫するばかりであった。
蓬.地上の責務:社会人・カト1ナックの灘士として
マド夢一ド大学で法学博士課程を修了したルイスは,}鎗7隼未からi望§隼半ばまで,父霧のすす
め1こ従い,ハティパに移り住み,不動産登記童国家試験1こ備えた。この難題に,霊操の実践を通じ
て,自分の羅馨の召命は愛職者になることにはなく,盤俗の信徒として教会1こ奉仕しつつ生きるこ
53〉ε脚魏ゴ。郷ゴぜ」1εo響燃。論顔灘∼盈灘ノ観鞭鰯C顧」磁疎舞疲磁,Ma虚r雄,董聯r膿taA至魏r肇eギー
聡e、蹴7,鐙,緯一玉茎.
紛β磁練盈躍1録梶融磁鋸〔滋藤躍ノ鞍魏至認∼磁Pア砂噸翻然蜘(君蹴麗P/,§醜.違7,5欝eむrerd§28,夢.8.
55〉 ALCG、Car老36e灘衰萎s Ca聖賢夢Os G6rr1z& }董er盤ゑ盤Cort看s蚕)ast{}ギ,6el玉7Feむrero至§27:C慕rセa6ε}{er建議η
C膿6s露stoダaL藤sCa㈱OsG6ぎrlz.6e董2(建e疑ero亙§27.
き嚇 AL(〕(},C註ギta{玉e簸C{}搬ls童6盤Per鵬a簸e舞te6e薗C鷺3」Os逢(}慕{{}s OP,δe董欝Feむでeガ○欝27.
欝〉 擁えば.カタルーニャ地方については,タラゴーナ司教藻ではメレンドレス,バルセ慕一ナ溝教褻ではダル
マウなど.それぞれ」)マサア信徒会のり一ダーに協力を依頼している。Ver l A凱CG,Carta6e LL麗C3即(>s
(}6rr重z 段 董il感慧ar〔垂Q 養翌e玉e魏{董yes、〔董e125 醜蓬3rz(} }昏27.
58) カトリック・ジャーナ婆ズムび〉華分謬的存在である鉢ル・デバーテ塵紙の誕者を多数擁するAC賛評の会員
網隷,翼院宣鋲菰鞭活甦の要となった。
5§〉 底LCG,C&r盤6e Lt藪s Ca雛脚s G碁rrlz a JGs益C魯r倉,緩el i Aもr嚢謄27。
麟} この「酸漿・合舞」の溝懇は,アントニオ資年会,サレジ本会学焦霧窓会,マ1タア信徳会などによって笈蝿
され.海戦終結後,捲蕪年代に入拳.カト夢ック・アクション運動が再懇織されるまで継続して議…禽された。
一34…
渡 邊:ノシイス・カンポス
とにあるのだと考えるにいたった鋤、2隼に及ぶ受験鮭強の後,ルイスは,結局,国家試験台絡を諦
め,i盟§年末,サン・ホセ学號以来の瞬友であるカステルス絡と共講で法律事務繕を開設した棚.こ
うしてルイス1ま,社会人としての第一歩を踏み塗し,弁護士としての立場を生かして,第2共秘露
下の誓露条・宗教毯体法ゴ施行によって打撃を受けた教会綴織,なかでも特に修道会を擁護するた
めに尽力した64㌧
マド縫一ドを去るにあたって,ルイスはJCE常置委員会のバレンシア大司教区代表として選趨さ
れている働。その後,彼はJC狂中央評議会叢記長を辞任したいと卒し鐡ていたが,縞馬,この顯い
戯まサンタンデールで1鴨2隼に羅催されたJC狂第2懇大会まで受建されなかった鰍。また瞬役職
からの正式辞任後も,JC狂の活動1こ麗達して,アドバイザー的役割を果たすこともしばしばであっ
た。特に,JC£全露肇職者顧問コルテスのルイスヘの信頼はあつく,ルイスは事ある毎に意見を求
められた働。
一方でルイスは,AC蕪碧バレンシア支部のキー・パーソンとなっていった。欝凝集1こは欝ソや糠
爵,アントニオ・蒙ディーサヤと共に,スエカに支部を緩織し,労欝者を対象として一種の夜学を
設置した繍。またACNPでは全轡レベルでもルイスの活動が高く評簸され,i§誕年i月には謹事に
任じられた。ACN曾は欝33隼の会則改定により,全メンバーに侮らかの形でスペインにおけるカト
婆ック・アクションの濡動体である「アタシオン・カトサカ」に蕊入する義務を畷確に定め,纏織
発展の立役者となったが鋤,ルイスはアタシオン・カト婆力σ)中核を占めるAC翼Pメンバーの中で
も模範的な存在であったといえる。
バレンシアに居を構えたルイスは,アタシオン・カト誉力男性部バレンシア瑠教護評議会長の役
職についた。1§騰年代は,「カトリック・アタシ葺ンの父」ピウス難盤の方錺のもとで,教皇庁が
カト婆ック・アタシ灘ンを置鼻爆摸で展麗させようとしていた時代であ蓼,スペインでもカトサッ
ク的大衆運動として浸透させようと,輕広い宣伝活嚢が行われんとしていた。宣伝には活動資金の
講達が不可欠であり,全国的に,アタシオン・カトリカ・カードの簸売を促進しようとしたのであ
るが,ここでバレンシア司教区の主要メンバーと中央評議会との販売活動の展畷の方法紅離する認
識垂こ齷齷がおきた。つま蓼中央評議会がバレンシア司教縫評議会の合意を得ぬまま,直接譲舞バ
総嫉Or畷er,最。むerto、砂.漉.,β.囎.
6鶉 ミゲル・デ・カステルス・アドサアエンセスはルイスが博士課程入学のためマド摩一ドへ行った後,バレン
シアのJCEぴ)実務を撞寒した。ルイスを通じてAC灘}を知導,そのバレンシア支部に入会,董§認年には蕉
会員となった。
63〉 事務所はピントール・ピナソ広場5番にあった。璽催磁鍵,翼めertG、麟.漉.,賛.i絡.
§蔀 舞えば右翼の2年艮象こは,左翼の2年鵜で鰺道会が没取されたギ動産を興復する試み等.ルイスのもとには
様々な頓談がもちこまれている。A至、CG,Car籔飴L雌sC&灘鈴sG6rr至zaM撫撚elG躍。董農F縦r黴毒s,慶127
」翻。欝3逢;Car穣畿F垂重ixGaで。董aa至.殺lsC3}聯osG善でr呈z,磁歪護勝cieR語rei警34.
昏5/ 鋤魏魏磁zπノ欝ε癖誕(演磯薦忍ゆ嬬ご声畿,懸灘s.焉一■玉疹.難癖G一難1鎗i§2警、夢.2、
§{}〉 汽LCG,Car嬢δe L磁s Ca盤蓄x}s G6rr量z a鉛s看蟻aで盤V盗難e瀧e,醗翌2魯至}lc艶識量}re謄32.
67) 醗えばバレンシア司教麩での春年記奮彗顯麗を任命する菰あたって,擦談を鋳ち掛葬ている。ALCG.C継鞍6e
ger醸鷺Cort6sPas雛訣L譲sC惣轡sG6rriz、磁22翼廊e灘碁re!§34.
68〉綴G響,鼓蕪}.鱗,3韓N窃v艶餓春re圭鰻,籍.2.
6警) 8γ釜。濁P、縫簸騰s.重き5一茎5§,玉5s{琴)暮ε醗妻}rey玉Oct纏むギe玉{妻33、萎}.7.
r3
3
濤 学 論 葉
叢鴇巻繁縷号
レンシア墨に窒藪掲載を行い,登つこのカーざ購入には直接中央評議会へ偉い合わせるように,と
したことに対し,このような大規摸なキャンペーンは司教縫評議会との連携をとりつつ行うべきで
ある,との擁議が揚がったのである職。しかし,この貌議は当該カードの宣伝活動中止を意陣しては
いない。実鰹,欝経年3月24日簾縫の「カト撃ック・アクションの鋤を麟に,ルイスは司教送に
おける宣伝活動を統話する役§を挺つた得。また綾は,カードの欝1藪と新しい主力メンバーの開振を
兼ねて,2雀羅当馨バレンシアを訪れるよう,エレーラに依頼している葛。
雛に莞たように,スペインでのカトサック・アクションは,青年贋は欝欝年代に緯織化されたが,
成人男性の組織はなかなかできなかった。そして,それは,カトサックの婆心ダーにとって,長年
の課題となっていた。i総3年,アタシオン・カト婆力中央評議会長に任命されたエレーラの旛奪の
下で,ルイスのような,青年蔀での経験を積んだ者は男雛部緩織匙の原動力となっていった。異体
的むこは,欝34年から多くの司教籔1こおいて男性部が設立された。しかし一方で,緩織としては「新
参ゴではあるが,構成員の隼齢・社会的地盤などからいってJC露の上位纏織となる男性部からの自
立・縫属を巡って,JC璽旛導藻内で義礫が生まれた。この戦礫1ま中央の振導方錐と司教区での活動
θ)閤紅生まれる醗灘によるものでもあった。その上,当鋳麗麗されたメンバー獲得キャンペーンに
よ馨どんどん若年化していたJCE会員たちは,鑓立を求め,遍保護な教会ヒエラルキーの指導方舞
に反発を強めていた。二績織の狭開1こ立って,ルイスの立場は微妙であり,JC狂に男性部が介入し
たと運解されうる蕎:為を極力!藪遷しようとしていた隅。
善. 「非政治主義盛が内包する「政治姓」という矛盾
教会蕎益擁護の大義のもとに青年を集結し,綾らをカト1穿シズムの「縫上」として育成すること
を醤熱」としたJC狂の活嚢編ま,文字通参の解綬でいえば,政治活動であったとはいえない。しかし,
人々が教会利益の擁護を標榜すること縢体が蔑紅政治的に深い意味をもっていた欝2創鐙年代にお
いて,」(芝は保守反動の政治勢力と購一観された。
プサモ・デ導べ一ラ独裁体舗下,反休講勢力,地下綴織として政治縫争の方法を学習してきた
叢翼勢力と比較すると,愛瞬連合という翼賛会的綴織に績み込まれ,体麟と結びつ恥ていた右翼諸
勢力は,第2共鞍敷前夜において,政治活動緯織の整備という点で左翼1こ対し著しく劣っていた。給
桑として,共秘致成立後褥めての総選挙では左翼が勝利し,続く一連の政治的・社会的改革のもと
で,独裁体調下での雛会「秩序」が破られる事態がおこった。鰹えばi§震年憲法で定められた信教
の自由に代表されるように,左翼の2年闘に展羅された一連の宗教政策により,教会はそれまで維
7韓A要一α},Car綴紐eL撚C凄騨osG6rrlz農A擁騨ε董薯{erre蓄30τ鍛,醸3纏a夢z()玉鰯、
7賛 i§34年春.ルイスはカードの宣伝活動の進行状漫を難らせた験,活嚢への瀦力を申し鐵た脅する手紙を受け
取っている。C{.真LC(3.Ca爽a{艶Lt圭熱凝(}欝萎}(}参越募9(熱感eM擁盈我農L譲sCa鵜曾〔)sG盈雛z.感屡23蛋熱で簸)
}§瀦:C3rta6e£麟暮e登es C蟹e難盆L罐s C蕊欝欝(}s G6℃rlz,6e13A勢r憂欝34、
72/ALCG.Ca懸漉醸sCa脚(}s(}6癬zaA鞭el旋r欝aOrl接,6e15無量竃z虞曾34.このような依頼からエ
レーラのもっていた力墜スマ{生が傭える。
73) ルイスはこう霧いている。「(書’年藷)驚教薮連合に駕してはあま彗ニュースはないし乍書も鰭ってσ)選影,基
本的でデサケートな縫題から.鑓はそれぞれの郭門が求める套立の難きに食入することはできないのだ。」
ALC(}.C鍵盤6e L藤s C呂螢獅s G6rrlz a Ma澱el A雛r量£玉葱avaギrO,6e茎24翼解le盤急re鯵3導、
3毒一一一一
渡 邊こノレイス・カンポス
縛してきた特権を失った。
そのような状況において,業報羅成立以前には政治に関与してこなかったカトサック平信徒たち
のなかから,欝誕年6湾総選挙での巻翼の数詫こそがカトサック教会夢)政治・歓会的利益6)損失を
導いたのだ,という麓機感を抱き,政治縫争に身をゆだねる騰士たちが現れ,飛躍的に活動範灘を
広げていった。こうして,JCE会轟も先輩に続けとばか聡こ政治化し,誉翼政党による党員獲得活
動の渦中に巻き込まれていったのである。
このような中で,JC翼は政治イデオ鷺ギーを巡るメンバーの争い・分裂が趨こらないようにと,讐
定政治グループの覇益を代弁しないことを誕つた。ぎCEの維織雑持のため善こは,この「非政治主義
(撮ol癒cls搬○岩,つま箏葬覚嶽主義を標榜する以外に,とるべき方策はなかったともいえる。こう
して,歪C狂会員は各嚢の政治的良心に従って,それぞれギアクシオン・潔プラル」ギスペイン右派自
治連合(C狂PAM新バスク・ナショナサスト党伊翼V肩「ファランへ党輩などに所験し,政治活動を
繰箏広げていくこととなった。
ではルイスはどう行動したか。稜は,CεDAを構成する一翼を握ったバレンシア地方窟翼党
①盆V)の紛織委員会で書誌を務めた簡。しかしながら,これは,後が積極的に政党活動を展聡した,
というよりはむしろ,教会秘益擁護のための「必要悪」と考えた.しでとった行動であった。これま
で遠べてきたように,ルイス1ま,麟成窮のアタシオン・カト1タカにおいて「使徒酌量役割を果たし
た撲範的な平揺徒であった。この運動内で,序講的に役員の階段をのぼるという経験が,教会が望
む「よきカトサック懸徒」「縫上3としての白鬚意識形成に深い影響を与えたのだ。彼のイデオロギー
とそれ1こ基づく活動の線幹1こは,常1こ,教会の権利擁護とその拡大が絶対的欝標としてあった。藝
標が達成される綴穆においては,党滋の甥を越えた政治活動は可籠と蓬解し,特定の政党利益に譲
執するのではなく,前述した新巻翼における多元主義まを容認していた。事実,欝譲年§月選挙で
は,C鷺DA前身のアタシオン・ナシオナル,もしくはバレンシアで自分が醜麟するD盆Vではなく,
教会利益の擁護という点で一番条件を備えている「ハイミスタまの候補を支持するのがよいであろ
う,と友人に捲示している場。一方,その後,玉鵯2年に入ってからは,左翼政党に取穆込まれた青
年屡を窟翼髄へ「取り戻す」ために,アタシオン・蓑プラル青年部のサーダー,バリエンテ1こ協力
した簿。ルイスにとってこういつた協力は,カトサック教会の瀦益を擁護するという,より崇嘉な「大
義」のために行うものであった。この点ではルイスは,右翼講における政治的多元性を容認してい
た。
鴻Va馨s,継磁、⑫.罐.,費.購.また,ルイスの叢蹴憩こあたっては,党静握㍗ルシアと曜熱細潤
関係をも考癒すべきだろう。
簿ALCG,C醸36eL臨C撚脚sG6ギr{職雛asRelgy段瞭.藤25至麟瞬§3Lrノ・イミスタ(諏1擁st謡」
とは.謄愛妃のカルサスタ戦争を発蟻として巽覧れた馨云統主義」「カノレサスタ」の瀧れをくみ,第2共癩敬}環
立までの撰王アルフォンソ圭3鴛ではなく,カルロス淑継承者ハイメを三モ{宣紅, と主張する王党濠である。
76) ALCG,Caギ駿sδεL遍s C盗難雛s(}6rr童z a Jむs6継ar簸V3董艶嚢総、善e12蘇M欝z()給32y喪簸§Aむr産1懲32、 「ア
クシオン・潔プラル涯やC騒簸は,業報政という蔑存の棒誕に舞して絶封皮頬を購えず,i−1二蓬瀦羅主義]とも
評懸されるアクシデンタ婆スモ韓ccl慶朧罐s紐瞬の立場をとった。
一37一
商 学 譲 集
第聯巻第護号
暮.カト1ナック労灘運動へむかう エ1ナート的麗与
また,カト婆ック社会運動全般を続低しようとしたことなど,政党活動以外にも,ルイスの活動
に政治牲を付与したものがある。ではここで,当時のスペインにおける労働運動の状況を擬観し,ル
イスの運動への鴎与を遥ってみたい。
is獣隼のレオ鷺世麟勅ζレールム・ノヴァールム妻発布以来,カトリック教会は労働考の羅かれ
た歓会的境遇紅ついての蝉劾を行ってきた。しかし,それは資本家によるド家長父的な」慈善活動
労縁者保護を駕すものであり,労働考の欝主的な社会運動の形成を促進するものではなかった.事
実,騰量紀スペインの都市・農村労簿者を総合したのは,アナーキスト系の全国労鱒連合や社会労
鱗覚系の労麟者総構襲など,擬ね左翼の政治懸体をバックボーンにもつ労働緯合であった。一方,カ
トサックの労働纏織は宗教を縫合の活動§的に含むか否かで分裂していた晴。
このような状溌の中で,カトサック教会は,玉§33年2月のエレーラのアタシオン・カトリカ中央
評議会長就任を機に,労働者縫合活動に梃入れし,彼らを再び教会へ導こうとした。エレーラと深
い親交のあったルイスは,玉総3年,アタシオン・カト婆力・バレンシア講教区評議会議長となり,バ
レンシア地方におけるカト》ック労働運動へ灘与していった。特に,労働者の中から,樗来大衆を
率いることのできる9一ダーを靉靆・教育することに尽力した。そのため,バレンシア地方の諸都
毒で聡かれる桂会問題驚連の蔽究集会へ参撫し勘,バレンシア高等学習藩究霧で労働者むけの授業
を組織した隅.またそこから優れた人材をマドサードに麟設された社会労働藩究漸へ濠遣する折の
選灘・掻傷窪)窓霞となった綿。
ルイスがこのような行動をとった要霞として,バレンシアにおけるカトサック労働緩合の活動が
分裂し,弱棒化」>一途をたどっている,という危機意識があげられる。破は,政治霧争と労饒運動
との混同を恐れていた曲。労働運動のヂ非政治主義」を標榜するルイスは,その弱体化につけこむよ
うに,政党,この場合特1こ鍬Vが,カト弓ック労働緩合の活動1こ介入し得票数を紳ばそうとしてい
ることに危機慈を捲いた。しかし,醗存のカトリックの労働運動は「死んで」いるにもかかわらず,
古参グ)活動家たちはルイスの動きを妨害しようとした働。軟泥打露策としてルイスは,窒9誕年の「カ
トサック・アクションの鋳を秘欝して,労働者大衆を政党から引き離すべきであると提言した。ま
7欝 カト1ナック労勝運嚢1こついて1ま以下の文献を参蟹されたい.C3s亡灘(},恥罎」(}磁,&ε鈎轟{耀麟獅欝}¢欝露撫
醗藻ψ嫁勲∫嬢擁観疹}霊〆醜鐸轟}磁な譲oJゴご撫烈灘磁/贈罐ギガ,z望2−1窪23、M認蕪.露醗。彫SA.欝771
羅、,P融麟4痂”麗紛ψ{声貌乱 8廟望綾”麗勧ぜぎ難擁趣加蹴麹擁β鐙籔伽欝嬢3蜘{迎麗騒蜘勲.島
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至98§.
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呼びかけ,肇擁壷者のための霊操を緩織した。
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8葺 この危機意識は謄駿年緯諺び)アストゥ婆アス革命後には特軽強くなったと考えら震る。
澄/ ALCG.C忽忽由熱ls C我盤獅s(嬉嬉z a A貧葺81欝欝総撒Orla,6ε蕎羅3rzO馨縫.ルイスは古参の活動家た
ちは「新しい堂我」の人々に不寛容遜ぎる,とエレーラに審き送っている。
一38・
渡 邊1ノレイス・カン潔ス
た当響は,宣伝活動の一環として,マド捗一ド在住の労働考サーダーにバレンシアを訪縛してくれ
るようにも働きかけた呂3㌔
しかし,いくら葬政治主義を護麺,政治運動と労騰運動とを燐む離して考えても,カト蓼ックの
労働運動は,教会の麟益を擁護しカトリック的倫理観を守る,というアタシオン・カト静力の活動
馨的を逸臆するものではなかった。そして,この基本的曇的のゆえに,カトリック労働運動は,た
とえいくら労勝者の穂益を謳おうとも,教会の権威を否定する左翼的労働運動とは結べなかった。一
方,労働者独自の紛織を搾るということは,アタシオン・カト婆力内部に踏綴的分裂を導くことに
繋がる,という電機感も生まれており.これらがカトリック労働運動の党濠軽1・政治性を勤長した。
こうして,運動の政治牲を否定することがその致治姓を確立してしまう,という逆説が顕在化して
いった。ルイス・カン濁ス・ゴリスは,このような緩織の矛磨に秘める,カト肇ックの臨士の一一夢彗
であった。
一方,このように,社会人として,またカト寧ックの態士として,多忙な醤々を遍ごした時簸為
ルイスはその魑人的生活の嚢で大きな転機を違えていた。i盤3年2月器猴,ルイスは予てから交鞣
していた,カルメン・アルテチェ・エチェスリアと結婚した鱗。i§35隼7月には長女マリア・デル・
カノレメンが生まれ,バレンシア大司教から洗礼を授かった職。
そのような中で,欝35隼12丹,AC馨P総書瀦長に任命されたのを機に,ルイスに再びマド肇一
ドで活動する時がやってきた。政治藤争に家族が巻き込まれることを懸念し,ルイスは,妻子をバ
レンシアに残して独りマド華一ドへ居を移した。ところが欝謁隼3丹に妻カルメンは病垂こ饗蕊,4
月2馨に世を去った糠。妻の死後.ルイスはマド肇一ドで嬢との生活を始めるが,5月にはいり,ル
イスの父と妹がマリア・デル・カルメンを引き取拳,バレンシアにつれて戻った鮪。
i鰯年7月欝霞,右翼のカサスマ的存在であったホセ・カルボ・ソテ一口が暗殺され,縫会秩序
の混乱は頂点に達した。内戦勃発麟夜の不穏な空気が流れるなか・ルイスはマド婆一ドのAC蓑Pの
文書を持ち饑し,分離して知人に託した後.7月蔦譲にバレンシアへ戻っていった。7月露鷲のクー
デタに端を発する内戦下,バレンシアは葉越霞草が擬圧した。アタシオン・カトリカの主要なサー
ダーの安否が気遣われるなかで働,ルイスは,父親が夏雑体畷を終え,通常の業務へ戻るのを機1為
父の働くバレンシア郊外のトレンチへ移り住んだ。そこで潜伏して轟々を遜ごすが,ついに鷺麗年
S3〉 勝雄. 当鋳の指導者護は,労癒運動は労鱗考が縁織すべきものであって,その飽の陰綴に織する煮たちが膏
うことではない,という考えであった。このような思想は,フランコ体誕下のカト婆ック的イデオローグの
一人となる,フェルナンド・マルチィン・サンチェス・フワアにも見られる。8踵C養ア.懸紐s。2§3−2縫、蕪
Se茎}t1e欝むrをy i()ct鞭t}re鰺33,欝護.
麟 M醗磁εr,霞膓er椿,曖,躍.,卿.i葺i蔦.カルメンは,ルイスの友人でありA(凝碧会費でもあ臥マヌエル・
アルテチェ・エチェス婆アの妹である。当時.マヌエルはAC翼蛋〉バルセローナ支藩に所撰していた。
85〉澱ε異㌍.魏魏.望露一雛,iy蔦」癒oi§3§、倉.3.
総〉臨醜er,震曲εrtむ,碗.‘露.,醗.圭32−i歎醗α留,盤撫、2鷲ほ晶ギ玉璽欝熊襲・L
87) Mo欝6er.翼α疑r韓,確.〔窟.,β.鷲2.またルイスの嬢,マリア・デル・カルメンは難38年に死亡した。
総/致鷹がバレンシアヘ「遷馨」してからもアタシオン・カトヲカの灘士であった人々の連行・殺害は続鑓た。実
熱,暴力を恐れて,内戦勃発獣蒙に賎尋こ亡命したものもいれば,共和難軍に追われ,違亡を続けた後,やつ
とのことで大蒙館に身を隠.したものもいた。
一3§一
薦 学 論 集
第簿巻第尋号
昼月28露,家宅捜索の結果運行され,バレンシア近蕪パテルナにおいて銃殺璃に魑された鋤。
おわ郷款内戦漂露の解墾へむけた,鰻人史のアプ欝一チの駕籠牲
以上発てきたように,ルイス・カンポス・ゴ婆スは,スペインにおけるカト婆ック青年運動の中
心的な損い手のひとりであった、生まれ育った家庭環境の影響に傭えて,C狂CEやJC狂などの青年
縫織における役員の経験を経て,よサいっそう堅綴な信鐸をもつに至った。また稜の「よきカト婆ッ
ク」としての意識形成には,ACNPで6)活動も補完的意瞭を持った。それぞれの鐡体で,年次大会
のオーガナイザー,姿金調達,綴織の管遅・運営などに携わ参つつ,宗教的実践も怠らず,ミサヘ
の鐡鷺は当然6)こと,黙想会,霊操などへの参撫を通じて,自分の責務は教皇ピウス蓑崖の教えに
従い,カトサック・アクションの運懇を広め,教会の発展につなげることだと自覚していった。こ
うして,教会の利益を擁護するためには,人々を纏織化することによって獲教権主義的攻撃に対観
すべきとする,稜のメンタリティが影哉された。反教権主義に蝿する統御としては,直接的な敬治
行動よ警もむしろ,ギよきカトリック」としての人格形成こそが役に立つのだ,という考えで終始一
貫していたからこそ,ルイスは.アタシオン・カトサカ6)弄党派’雛を主張し続けることができたの
である。
しかし第2共藤致による一連の歓会改革のもとでは,寿ト夢ック6)繰織で教会灘益の擁護のため
に活聾する者は須らく「反動分子」であった.アタシオン・カト婆力は特定の党濠に駁定された政
治綴織ではない.というルイスの主張など受容されうるべくもなかった。いくら「葬政治主義憾を
となえても,C狂CEやJC9に所羅するメンバーが政党活動に駆診畿されるなかで,また以羨のメン
バーが巻糞の政治家として名をはせていく中で,ジ非政治主義」と銘打った非覚派姓の主張は,右聾
左翼の酸党にとっては瞬らかな矛暦であむ,ご都合主義であると理解された。またルイス薄身,必
要悪として政党活動に麗与していることからも,彼の思想は箏確に「政治睦」を欝っていたことが
わかる。
やはり内戦で殺害されたバレンシアのイエズス会士と共に,ルイスの欝福の動きが始まったのは,
鷺灘無代はじめの,フランコ・スペインが羅鰹的姦立状態を叛け議そうと教皇庁外交1こ力を注いだ
時艱であると瞬時に,反共・マッカーシズム全盛の時難でもあ箏,当時の縫会では,この粥福への
動きは,第2共執政・内戦下の左翼の「悪ゴを曝伍する役割を果した。その後,手続きは一時中擬
するものの,避ハネ・パウ誓2量のもとで再開された。カト亨ック教会の無益を代弁する「よきカ
ト夢ック」を増やすために尽力し,その活動がゆえに殺害されたルイスは,臆媛年3月,正式に「儒
教者」の一人として葵1橿された弓
当然のことながら,カトサック教会の列福への試みの背後には,殺害された聖職者・平信徒への
講鷺がある。しかし粥福慧,「宗教的迫害による殉教醤の名の下に,戦争という罪人闘的行為の結果
である死を美化するものに繋がる危うさを秘めていることを心に留めておきたい。なぜならば,そ
れは,内戦という殺戮イテ動の総体を「キ1穿ストのための戦魏」「正義のための戦い」等の言:葉1こ置き
換えて美化し,「整戦」言説の再購築を導きかねないからである。
8鱗 養蟹}r(x鎗ギ.裂むむer霞}.硬.‘露.,夢欝.i蓬2−i5董.圭§27年σ)JCε第一一錘重大会舞舞難力書連鴛の…墾莚…であったとさオtる。ノレ
イスがもっていたロザ》オ,嬢逡後叢影さ蕊た耳糞などは,現在もサン・ホセ学統に保管されている。
一韓一一
護 邊1ノレイス・カンボス
また,内戦における犠牲を語るにあたっては,それが生じた状況の多様性・多元姓を考癒する必
要がある.弼えば,列福された「殉教者3たちは,毒拝の人々を教会建造物破壊・財略奪・聖職者
殺害などの暴力に走らせた鯵騰・働年代のスペイン・カト婆ック教会が必然的に導き籍してしまっ
た犠牲者であるともいえる。また,平信徒でありながらも,「カト夢ック教擁護の聖戦超)握い手で
あるフランコ軍によって轍と認識され,殺害された人々をどう位置づけるか,という縫題もある。
スペイン内戦における死は,どのようなケースにおいても,陰鬱で悲惨なものであった。後轡1に
生きる私たちは.真蓬の追究を§指しつつ,客観的藩究を蓄積しなけれ.ばならない。時には,集団
の心性分蟹を重要擬するあまり一麟入の思想・活動が見えなくなってしまうことがある。しか払各
人の歩みを尊藤1し,無名の死者の顔が浮属盗ような歴史を翫玉録しようと試みると,逆説的にではある
が,今まで醗究上焦点の当たらなかった.当時の社会心性の存在1こ気づかされる。また,戦後暮馨余
年,直接の戦震体験として内戦を譲ることのできる最後の遷代が,今この糧から去りつつある。内
戦嚢葺究些こ新たな視点をもたらすためにも,被らの経験を言己録することは,私たち現代史醗究考裟課
され.た重要な課題である。
一4i一
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