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第4回大会 研究発表要旨

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第4回大会 研究発表要旨
第 4 回 大 会 研 究 発 表 要 旨
(2002.10.19)
春秋戦国時代における盟・誓の性格について
このように法制史の観点から研究が進んで
― 学説史的整理を中心に ―
きた「盟誓」だが、増淵龍夫氏によって従来
大塚 恭一
(山形大学大学院社会文化システム研究科)
とは異なる視点が提示された。氏は「戦国秦
漢時代における集団の「約」について」
(1955
春秋戦国時代において、戦争や祭祀、国家
年)の中で、
「盟」とは、内に分裂対立の契機
間の相互援助などは、すべて「盟誓」を通し
を含む諸勢力を、神明(鬼神)の力を保証と
て行われてきた。
「盟誓」とは、主に春秋時代
することによって、外側から結びつけようと
に社会秩序を維持・安定させるために行われ
するものであるとしている。そして、このよ
たものである。これは諸侯同志だけでなく、
うな鬼神信仰が薄れてくるにつれて、内側か
あらゆる階層で行われてきた行為であるため、
ら結びつく新しい人的結合
(任侠的人的結合)
「盟誓」は、この時代における社会のあり方を
が生まれてくるとしている。この説を継承し
探るための不可欠の対象であるといえる。そ
た高木智見氏は「春秋時代の結盟習俗につい
こで、本報告では我が国における「盟誓」研
て」
(1985年)で、
「盟」とは春秋時代のあら
究を整理し、今後の研究を深化させるための
ゆる階層で行われていた人的結合方法であっ
基礎的作業としたい。
たとした。
従来、
諸侯同志の会盟が中心であっ
我が国における「盟誓」研究は、思想史の
た「盟誓」研究に対し、君臣間、あるいは個
分野から始まった。この分野の研究は、
「盟誓」
人間で行われた「盟誓」を考察の対象とし、
の儀式的特徴に主眼を置き、
そこから
「
「盟誓」
かつて行われていた血縁的紐帯が崩壊したこ
とは何か」を明らかにしようとするもので
とによって、結盟を行うことで擬制的な親族
あった。そのような研究から、
「盟誓」は次第
関係を形成しなければならない必要が生じて
に法制史と関わりを持っていくようになる。
きた、と結論付けた。高木氏のいう「血縁的
仁井田陞氏はその著書『唐宋法律文書の研究』
紐帯の崩壊」とは、西周時代から春秋時代に
(1937年)の中で、「封爵之誓」
「白馬之盟」
移った頃から始まり、それと同じくして「盟
を取り上げ、これらは家士が主君に対して行
誓」も始まったとされている。しかし、春秋
う忠誠宣誓ではなく、逆に君主が臣下に対し
以前には、本当に「盟誓」は存在しなかった
て行う宣誓であった、としている。この説を
のか、という疑問が残る。
受けた滋賀秀三氏は、
「中国上代の刑罰につい
以上の研究は文献史料、おもに『左伝』を
ての一考察」
(1976年)の中で、
「盟誓」の中
中心としてなされてきたが、1965年には山西
に追放刑としての役割を見出し、
「盟誓」と法
省侯馬市で、79年には河南省温県でそれぞれ
との接点を明らかにした。
「載書」
(
「盟誓」の契約文書)が発掘されてい
― 85 ―
る。これらの考古学的成果により、春秋時代
次に、それを踏まえて、高野山の前寺務弘
における「盟誓」研究は、新しい地平が開拓
範の権威を有する、この絵図の出現によって
されつつある。今後は文献史料と出土史料と
四国遍路八十八札所が確立したこと等を述
の個別的具体的な比較検討が必要となり、そ
べた。
れによって、
「盟誓」の性格をより明確にして
すなわち、先学の研究により、十七世紀末
いくことが課題となるだろう。
の頃には八十八札所とその番数が固定しつつ
あったことが明らかにされてきた。しかし、
貞享四(一六八七)年の高野聖真念の著作
四国遍路八十八札所の成立
『四国遍路道指南』
で札所の番数と札所が説明
― 四国遍路絵図を手がかりにして
され、しかも現在のそれと一致するにもかか
松尾 剛次(山形大学人文学部)
わらず、元禄二(一六八九)年の高野山の学
本報告では、四国遍路を取り上げた。四国
僧寂本の著作『四国
遍路は、四国八十八札所の弘法大師空海の遺
が無視され、弘法大師誕生の地、善通寺から
跡を訪ねる旅で、要するに聖地巡礼の一種で
札所を書き始められ、九十三所もの札所が挙
ある。四国遍路といえば、阿波(徳島県)霊
げられている。すなわち、真念の説は、必ず
山寺を第一番札所とし讃岐(香川県)大窪寺
しも権威あるものによって公認され、確定さ
を第八十八番札所とする八十八の札所が直ち
れたものではなかったことが逆に窺える。
に想起される。だが、そうした八十八札所が、
それに対して、高野山の前寺務弘範の密教
現在の八十八所に固定したのは、いつからな
的意味付けを特徴とする宝暦十三
(一七六二)
のかといった根本的な問題はなぞに包まれて
年正月二十八日付の絵図は、前寺務の権威も
いる。
あって、札所の確立に決定的な影響を与えた。
そこで、本稿では、そうした問題に光を当
ようするに、高野山寺務の権威を背景とし
てた。その際、従来、さほど注目されてこな
て四国遍路八十八札所が確立したのである。
かった四国遍路のガイド絵図といえる四国遍
四国遍路八十八札所といえば、なんとなく
路図を史料として紹介しつつ、四国遍路の成
自然発生的に成立したかに思われてきた。し
立を論じた。
かし、本報告で述べたように、高野山の権威
まず、私見に及んだ四十一例の四国遍路絵
を利用して、十八世紀後半になっていわば確
図を紹介・分析し、四国遍路絵図には、変型
立したのである。こういう観点にたって、日
はあるが、一応、A型−F型の六形式がある
本人の生活の中に息づく他の霊場の成立と高
ことを明らかにした。それら六形式のうち、
野山ほかの宗教的権力との関係をもみなおし
とくに、椅子に座った弘法大師像と四国遍路
たいと考えている。
に関する高野山の前寺務弘範の密教的意味付
けを特徴とする宝暦十三(一七六二)年正月
二十八日付の絵図(A型)の形式が当初から
の基本型であることを論じた。
― 86 ―
礼霊場記』では、それ
シルクロード青海省ルートの調査
あるいは西寧から日月山をへて黄河九曲と長
阿子島 功(山形大学人文学部)
江の最上流地域であった。黄河九曲と長江の
1.調査の目的
最上流地域はチベット高原の東部であり、か
青海省の漢代から唐代における青海省のシ
つて蔵族によってアムド地方とよばれたとこ
ルクロードを確認することを目的とした
(財)
ろである。
奈良シルクロード学研究センターのプロジェ
この地は、漢・蔵・蒙が牧野をあらそった
クト研究(代表者 杉本憲司 佛教大学教授)
ところであり、文化の指交するところである。
の青海省の現地調査(2001と2002の夏)に
日月山(赤嶺)はまさに文化圏の境界とさ
参加した。青海省は河西回廊ルートの裏道で
れたところであり、蔵へ嫁下する文正公主が、
あり、チベット高原東縁を通じて、四川省、
都を映す鏡を捨てた峠である。自然景観の急
雲南省方面ひいては海のシルクロードとも連
変するところでもある。
(長編TVドラマ文正
絡している。
公主は現場撮影をしていないらしくたいへん
シルクロードの定義をゆるく広くとれば、
険しい山が描かれているが、実際はたおやか
西と東をつなぐ、ときにはさらに北と南に連
な草原が広がりはじめるところである。
)
絡する古代の人・物の流れの道である。今回
山頂には草原が広がり、谷底にはナタネ畑が
の調査範囲で、シルクロードの定義を私なり
広がる。黄河へ下る谷に沿った山麓扇状地台
に、狭く明示的にとれば、唐の長安の都を起
地の台地面と斜面にはヒツジが、谷底面には
点終点とする漢人の道といえる。
なぜ漢人
ナタネ畑が対照をなす。
「烽火台」と「オボ」
の道と呼ぶかといえば、漢民族は 城、駅、
とが対峙している。
道、烽火台、街、壁、耕地、仏教遺跡を残し
2.地域の自然環境
た。一方、草原で水と草を追って暮し、羊・
チベット高原は、
空気希薄、寒冷、乾燥の
馬を生活の基盤とするモンゴル民族、山地に
ためヤクと羊の遊牧=現在は定住化=地域。
暮し山羊・ヤクを生活の基盤とするチベット
黄河・長江の上流地域は、
やや乾燥、
寒冷、
急
民族は天幕(グル、
包、
モンゴル語ではゲル、
マ
峻のため半農半牧でチンコー麦・ナタネなど
イハン)で移動するために、生活の痕跡が残
とヤク・羊の地域である。
りにくい。死んで遺体は、チベットでは天葬
ツァイダム盆地は ごく乾燥砂漠であるた
(鳥葬)、モンゴルでは風葬が行われるために
め、縁辺の扇状地地帯の扇端部にのみ(新し
墓は残されにくい。チベット仏教の(煉瓦づ
い)緑洲経営または羊遊牧が行われている。
くりの)寺院やオボなどの宗教施設だけが遺
なお、2002年より継続して調査している四
跡になり、あるいは現在に引き継がれている。
川省岷江の谷は、ごく急斜面、少雨であり、
したがって、シルクロードの遺跡が明示的に
姜族がトウモロコシなど棚田
(段々畑の意味)
残されたのは漢民族の遺跡がほとんどである。
農業を行い、石と木の家屋に住んでいる。
調査範囲は、河西回廊の敦煌、あるいはタ
3.私の調査の視点
クラマカン砂漠方面から祁連山脈をこえてツ
現在の風土とくらしを参考にしながら、考
アイダム盆地へ、都蘭、日月山をへて西寧へ、
古遺跡の解釈と古環境復元を行うことであり、
― 87 ―
くらし様式(農耕であるか、遊牧であるか)
が異なれば、古環境変化に対して、その影響
の受け方は異なるはずと考える。
ツァイダム盆地のような、乾燥盆地であっ
ても、扇端の湧水があるところをたどれば、
通過する者にとって、常に水・食糧(ヒツジ)
・
燃料(ヤクの糞)が得られる。これを水・草
の道と呼ぶ。一方、扇端の湧水帯付近は、地
形も植生も変化しやすい。タウェンタリハ遺
跡は青銅器時代の(半農半牧を示唆する)遺
物を含む砂包とよばれるマウンドであるが、
現在はほとんど乾いた礫原にある。
ツァイダム盆地については、地形分類図を
作成し、水・草の道となりうる地帯を示した。
― 88 ―
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