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1 四 日本における教育評価 測定意識の出現 日本に科学的な測定の
四 日本における教育評価 測定意識の出現 日本に科学的な測定の思想があらわれたのは 1920~1930 年代の「新教育」運動の開花期。 ◇この測定観の特徴は… ・最初から管理的性格が強い 『教育的測定学』 :視学の方法等に対しても教育的測定の効果は大である⇒ただし書き ・共同体的体質の強い日本の近代国家の体質と真っ向から衝突する為市民権を得られず ・この測定観念にもとづくテストの対象は高等教育に限定された。 評価の概念の成立 Q 西欧社会における評価の概念はいつ表れたのか? A1 1928 年、海軍兵学校にあらわれた「人格点」 【問題点】 学術点のみではなく全人的に評価するが、国家の統治体系と未分化なことが問題。 評価者は知識の所有、非所有だけでなく、その知識をどう使用するかまで統制する。 A2 綴方運動が作りだした評価の概念 1916 年『読み方教授』、芦田惠之助 ・綴り方をてがかりに子どもを知り、指導する。評価と統治の区別は曖昧。 1930 年代 小砂丘忠義、国分一太郎 ・評価活動は子どもを批評するのではなく、公教育制度と国家意志を評価。 ・ 【教壇的批評】表現させることを問題とするのではなく、表現するまでの 学級全体への生活指導、表現をどう行動として活かさせるか、 作品を「学級」で如何に吟味し、共同生活で役立てるかには 無関心である文壇的批評とは違う。 ・子どもが学習しえた知識を子どもの生活世界との関わり合いにまで探りを 入れる形で評価する。 ◎学芸的価値の体系に対して教育的立場の主体性の確立という手続きなしに 教育と評価についての現代的な概念は成立しなかった。 子どもおよび文化と評価 ・評価が「教育」であるためには子どもが現実の生活の中で持っている人間として の値打ちに関する評価体系を子どもの立場から築き上げることで、ピラミッド型 の評点体系を絶えず崩す必要がある。 ・客観的価値体系による不安やねぶみが必要。概念、形象、知、手技動作を 子どもの心身の発達の素材として伝達していくことで、情緒の上だけでなく 文化的にも解放していくべき。 1 教育課程における評価 教育評価の 2 つの要因(基準) 「観察される事象」と「観察者の価値の尺度」 この基準は、子どもの発達課題と、学習対象である目標内容のあいだの拮抗の構造に 即して作り上げなければならない。 ◇既成教科の評定尺度の原点 ・「生活具体の中に動きながらも一貫性をもつ尺度原器」を明らかにし、 作りかえる作業は、教育学研究の広大な領域を開く。 ◇現実の教育活動では、 ・評価活動は教育の技とそのシステムの諸過程の各部分と無関係 ・目的は「新教育」で内容や方法はそれに見合うものでも、評価は既成の制度、慣行 にくらがえ、芸術や自然、社会科学の系統性を直線的借用したものにすり替わる。 ◇教育課程の中での評価の位置と機能の問題 教育評価における評定尺度の原点は子どもの心身の発達を保障するための教育的価値 ⇒その具体化が目標内容、学力モデル ◇評価は 2 つの通路を持つ ① 評価の対象である子どもがモデルに対してどのような位置にあるかを評定する ② 教師やその背景にあるものの自己評定 教育評価では、②を回路にして公教育制度と国家制度を評定の尺度にするのではなく、 それら自体を評価する。 錯綜した権力のルートの 1 つ 1 つを点検して編みかえていく。 テストは人間を社会組織に繋いでいくのではなく、社会的生存条件を探って、改造す るために使いなおされる。 今後の課題 ・子どもの能力差は宿命ではなく、教育によって変革されうるものだという原則に踏 まえている限り、発達の抑圧にならない。差異を絶対化したり、その責任を生活条件 や教育条件にせずに子どもに押し付けたり、差異を人間のねうちの違いと同一視する ことが抑圧。 ・差異測定癖と、異質の能力相互に位置づけ合うべく普遍的な価値へと換算していく モデルとしての評定尺度の原点の欠如が日本人の精神活動の低迷の原因。 ・学校体系を国家や教師個人の慈恵心による保護と服従の体系と見てきた伝統的な学 校観、評定尺度の原点の決定が国家の密室で行われ受ける側に反論の足掛かりがない。 ・原点が明示されていないことがテストの物心性を生み出す。 共同体論的悪平等主義、テスト崇拝の悪差別主義といった一見矛盾する両者が子ども の発達の道筋を保障する客観的で明確な評定尺度の原点に関する情報の欠如という事 態を引き起こす。 2 ◇子どもを全体の部分とみる児童観 欠如しているのは、 ・国家制度や個人的好みとは別個の子どもの発達の権利をめぐる約束と保障の体系 ・保障を実現していくものとしての教師の教育活動を考えていく教職観 ⇒集団準拠の相対評価(原点の情報を公然化、尺度に客観性)の登場 ⇒これは上記の問題点をもつ 子どもの教育を受ける権利保障になじむものに再改革するために、さらに新しい第三 の評定の準拠枠をつくりださねばならない。 付論 「学習の評価」考 子どもの「学習」を「評価」することは教育的に考えて妥当か?改めて考えもせず誰 もがやっている。 ○教師による子どもの学習の評価は助力的評価の場合だけ教育的である 自分の「学習」活動のはげみの目標が見えてくるようにする作業に手をかし、 助力することは正当だが、教師が代行して評価すべきではない。 【理由】 評価は決して学習にとって悪ではないが、教師(=権力、権威)による評価は目標内 容に向かっていく多様な子どもの学習形態や目標への接近の筋道を画一化させるから。 子ども達の学習活動に正当と異端をつくることになるから ○「学習の評価」のしごとの側面 このしごとはそれ自身を目的にするのではなく教師や学校が子どものものであるべく、 自らを正してゆくために教育の評価を行う、その参考資料をうることを目的とした手 段的価値にとどまる。⇒「形成的評価」 中内敏夫『教室をひらく』の目次 3