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Instructions for use Title フェリクスの「宗教改革」はフガート
Title Author(s) Citation Issue Date フェリクスの「宗教改革」はフガートが多すぎるか 加地, 徹 基督教学 = Studium Christianitatis, 23: 32-35 1988-07-18 DOI Doc URL http://hdl.handle.net/2115/46467 Right Type article Additional Information File Information 23_32-35.pdf Instructions for use Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP フェリクスの﹁唐爪教改革﹂ フガートが多すぎるか 加 地 ︵二︶ フェリクスは一八二九年作曲を︼計︸圓、 一八三〇年三月 革命。 ﹁宗教改革﹂のタイトルははじめからつけたので はなかった。 一八三〇年六月の三〇〇年祭はカトリヅク 側の反対で中止。一八三二年にオーケストラの楽員はこ の曲がフガートが多くメロディがないことを理由に演奏 中止。 ⋮八芝二年十⋮月十五日にベルリンで初演。三百 期は①一五一七年の九五条を提起したとき、②破門され 年祭とはルタ⋮による宗教改革を記念するものでその始 ︵醐︶ ︵1︶ ︵ 2 ︶ フェリクスの﹁宗教改革﹂はフガートが多く、メロデ ィが少ないのでオrケストラの楽員は演奏を中止したと 一般に知られているがどうしてであるのか、また本当に あるがフェリクスの時代には③をとり一八三〇年六月二 三〇︶︶二月革命三月革命のときであった。 盤代は、ウィン会議︵一八一五︶、パリ七月革命︵ 八 十五臼を三〇〇年祭としていた。フェリクスが生存した る作曲家との対位をしてみたい。 ②遁走曲。バッハによって確立された楽曲形式の 誓学者モ⋮ゼスを祖父としサロモンを父とした恵まれ ︵三︶ 二歳で弦楽四重奏曲を作曲、ベートベンの第九をピアノ たユダヤ人の家系に育ったフェリクスは語学に通じ、十 ︵2︶ 一。先行する=戸部に対して、後続する二声部が対 ︵Ho◎8∼Ho。ミ︶。 ω 蜜8ぴ轡瓢α鼠αq閃の財駁ζ窪α飢。。。・9⇒じσ母昏。︸ξ フガートが多すぎるのか。時代的背景と彼の先輩にあた iル五指の前での信仰告白発表のときと三つのとらえが た一五二〇年、③一五三〇年のアウグスブルグの皇帝力 ︵1︶ 徹 偶主題を提示し、三声部・四声部でこれを展開して 作る対位法的楽曲。 で弾き、第五を弾いたとき﹁家がくずれ落ちるみたい 32 は ユダヤ教でなくキリスト教を宣言したため、すぐれてバ だ﹂とゲーテが言っている。フェリクスは後述のように イギリスの方がずっとよい。天への感謝です。﹂とある。 は解放されました。ポーゼン勅令が批判され、私たちは 教性との類似性のゆえに嫌悪されたのではないか。それ 楽は音楽であった。劇場でのオプラ運営や能力の不足、 気にし、ルター派ユダヤ教半々のフェリクスにとって音 デュッセルドルフの音楽監督についても前任者の解任を で彼はベルリンが響きでなくヘンデル・ハイドンと同じ ッハ、べートベンを吸収していたためにその民族性と宗 くイギリスへ行きイギリス国民に愛されるのである。バ 楽団員の不平にもかかわらず、一八三六年五月デェセル ドルフの音楽祭で、 ﹁聖パウロ﹂にユダヤ教とキリスト イオリン協奏曲ホ短調や﹁イタリア﹂を聴くとき彼の心 れを思っていたと思う。ゲーテが山を越えてイタリア旅 の団員より技術的に劣っているとフェリクスは言う。 一 ルはユダノi派であった。ベルリンの楽員はライプチヒ 教のかけ橋としてのフェリクスの努力があった。妻セシ 行したように。親はツエルター︵ジングアカデミーの監 八四四年置ルリンをはなれて解放感を味う。イギリス人 は海をこえ、山をこえスコトランドとイタリアにあこが 督︶の後継者にしたがった。二三才の彼は立候補を強調 から尊敬され﹁スコトランド﹂を作曲する。一八四六年 ﹁エリア﹂を九度目の訪英で初演。 一八四七年十一月四 する狙いもあり、三回の音楽会で﹁宗教改革﹂などをと りいれるが、多くの反対意見は、①年令の若さ、②経験 命の年である。死後イギリスの音楽界を独占。ジョージ 月死亡。一八四八年ニューヨークでの追悼式。まさに革 グローブの音楽事典はモ⋮ッアルトに三二頁、フェクス 不足、③長期のベルリン不在、④ジングアカデミーに深 に六〇頁を記述している。バ∼ナ;ド・ショはワグナー くかかわっていない。⑥ユダヤ人であること、そしてメ ンバーの多くは、このアカデミーはキリスト教の団体で グナーとフェリクスが個人的知り合いであったことを知 と比べてフェリクスが大家かどうか決めよと賞讃し、ウ り、フェリクスは失意のうちにロンドンに、そして﹁イ る。 一九三四年にナチはフェリクスの曲の演奏禁止、・楽 したのである。採択でルンゲンハーゲンが多数決できま タリア﹂を発表し評価され、その聴衆のなかにパが一 一 譜は発禁。現在華やかなバイォオリソ曲としてポピ鋳ラ畠 あり、指揮者にユダヤ人をすえるのは前代未聞だと拒否 二もいた。一八三三年七月二十三日の手紙でhユダヤ人 一k33 一 その中にフガートが美しく効果的に、ルターのコラール ︵3︶ して音楽界における予告を思い、 ﹁宗教改革﹂を聴き、 のちにこのテ⋮マは力強く主張される。モ⋮ツァルトや トで他の楽器が演奏されることなく神に救いを求めるコ・ えるようなG音を静かに、フル⋮トがアンダンテコン・モ オーケストラでは前章でコントラバスのピアニシモの消 とドレスデンアーメンが美しく流れるのを祈りとして感 べートベンの一つの動機をこれでもかこれでもかと訴え iなフェリクスのホ短調も、この人の宗教的、人種的そ ずるのである。 るのとは異なるものである。あの慎ましかで暗示的だが 色彩豊かな楽しい管弦法はフェリクスにしかなく、ドレ スデンア;メンとルターのコラールを用いることが当時 ︵4︶ としてはおどろくべぎことであった。 ︵西︶ フガートが多すぎるか︵テープと総譜による対比︶ べートベンの第九の合唱の六五七小節から七六二小節 であり、フ⋮ガはテンポがすべることなくはっきりとし テープープリント楽譜の@㊧㊥㊧㊦㊦㊦、リベートベ までのアレグロ・エネルギコは長大な二重フーガの部分 っかりと歌われるものである。フェリクスの﹁宗教改 多すぎず、バッハやべートベンに比してより明るさを感 ず力強さをそして希望を与えるものである。フガートは ドレスデンアーメンーテープープリント④⑤⑥⑦③⑨⑩ メロディは少いか。 iトを強調している。 ンとの対比︵第九の合嘱部分の六五七∼七六二︶ーフガ じさせるものである。 ルターのコラ!ルーテ⋮プー⑫ 革﹂の八六からの弦楽器のフォルテはべ⋮トベンに負け メμディは少ないか、三三小節からのドレスデンアー メンや二長調から二短調への感動的移行は宗教的改心を ル﹁閃ぎ.瀧ω冨ゆ霞σq陣。。博償霧角Oo零一神はわがやぐら﹂ 力により教会と信仰ある家庭とに歌と音楽が始まった澄 ルターは排斥されるか。 ﹁神はわがやぐら﹂かかる努 ︵五︶ では、フルートの敬酷な祈りの導入である。讃美歌集で カルビンは音楽を排斥したが、ルタ⋮には優しく美しい 感じさせるものである。さらに四楽章のルターのコラー は二六七番﹁飴牛﹂ルタ⋮とあり、ハ畏調としてあるが 一 34 一 自然的な感情が豊かでありこれを正しく養うことの宗教 ︵5︶ 的意義を確信していたのである。 ルタ⋮からバッハへの二〇〇年と、そしてフェリクス の受けた圧迫、その作品のなかにある心やさしい宗教心 を聴くことができる。 では免罪符・反抗者としてのみ扱い、長期間で教科書会 ルターを改革者としてのみ扱い︵高校の世界史教科書 社との交渉でインドルゲンチアの語を導入させた経験が 思い出となるが︶ルタ⋮をカトリックに対しての扱い、 フェリクスをユダヤ人、ジングアカデミーの部外者とし てのみ考えるところがらは美しい信仰︵ルターのコラ⋮ ル︶や宗派の心からの理解と一致は困難である。冷たい 人達の心から暖かい地中海の門イタリア﹂を作曲し、 ﹁宗教改革﹂において演奏中止や拒否にあってもその心 は信仰の曲であるし、フガートが多いしメロディがない としたベルリンの人達の心にこそフェリクスの宗教心か である。 ら遁走・対位するものがあるといわれでも仕方ないもの 働 ヘルベルトクヘルベルグコニ代のユダヤ人メンデルスゾーン ① 徳善義和﹁アウグスブルグ信仰告白の解説﹂聖文桂。 家の人々扁横溝訳 東京創之社。 ディールタケルナー﹁−孤村陶楽家の病歴﹂石由[訳凹、二九頁、・立目 μスタン﹁ドイツ音楽﹂吉田訳、=二頁、白水社。 楽之友社 石原謙著作日集第⊥ハ巻、 瓢工ハ○町貝0 35 {3) {4) (5)