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シニフィアンとシニフィエ 記号概念の根拠

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シニフィアンとシニフィエ 記号概念の根拠
シニフィアンとシニフィエ
──記号概念の根拠(1)
a 田 大 介
シニフィアンとシニフィエという主題に関して、今さら随分旧弊な問題を扱うものだと思う向き
もあるかもしれない。
シニフィアンとシニフィエという術語自体は既に常識に属するものだ。文芸なり言語そのものな
りを検討するにあたっての操作概念として既に当然のように使用されている術語であり、なかば既
知事項として扱われている。文字通り人口に膾炙した操作概念と言ってよい。くわえてこのシニフ
ィアンとシニフィエという術語が口にされるときには「ソシュールの定式化した」といった枕詞が
付せられるのが通り相場になっている。
ところがシニフィアンとシニフィエと呼ばれているものに関し、そのソシュール本人が実際どの
ような定式化を行なっていたのかをつぶさに追ってみるといささか事情が紛糾しはじめる。言語記
号という概念を巡って、ソシュールはこのシニフィアンとシニフィエという言葉を持ち出して何を
考えようとしていたのか。そこのところを詰めて考えていこうとすると、既に見知っていたこれら
シニフィアンとシニフィエが俄かに見慣れない相貌をもって立ち上がってくるような節がある。そ
れというのも、記号という概念そのものの根拠であり、記号概念の操作を可能にしているこのシニ
フィアンとシニフィエという作業仮説が、奇妙な循環論によって根拠づけられている様が浮かび上
がってくるからだ。
筆者もソシュール研究をうたっている以上、なにかにつけてシニフィアンとシニフィエといった
構図に関して説明を求められる。しかしそのたび奥歯に物の挟まったようなものの言い方しか出来
ず困惑することになる。ソシュールの文言にしたがってシニフィアンとシニフィエについて考え詰
めてみると、かえってこの記号概念に関する明確な見通しというものを失ってしまうのだ。「一般
に考えられている限りではこれこれこういうものだ」などといった暫定的な説明をせざるを得ない。
なにかソシュールの文言の中にシニフィアンとシニフィエに関して断定を妨げるようなものがあ
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り、しかもそこに極めて原理的な問題が含まれているように思われる。そういったシニフィアンと
シニフィエについて考える際の困惑をいささかなりとも共有してもらうべく、シニフィアン・シニ
フィエという構図そのものに敢えてもう一度検討を加えてみたいというのがこの小論の趣旨であ
る。その上で今日常識と化しているシニフィアンとシニフィエを巡る概念結構に対して、当のソシ
ュールの文言に従って、いくつか疑問を提出してみたい。
したがって我々としては、通常シニフィアンとシニフィエに関して、ひいては記号というものに
関して充てられている説明や比喩に対して、いささかなりとも懐疑的な立場で接近してみなくては
ならない。
その手始めとして「ソシュールによって初めて定式化されたシニフィアンとシニフィエ」という
文言を疑ってみる。
結論からいえばシニフィアン、シニフィエという語をもって記号の二重性を語ろうとしたのは何
もソシュールが初めではない。すでに中世にはスコラ学の伝統的な用語法として « signans /
signatum » というペアが存在している。この « signans / signatum » はラテン語の動詞 « signo » の現
在能動分詞と完了受動分詞(中性)であるから « signifiant / signifié » とも平仄のあったものである。
というより単なる « calque » すなわちラテン語からの敷き写しであり、ヤーコブソンの言葉を借り
ればソシュールは「スコラ的伝統を甦らせた」(JAKOBSON 1963:115) に過ぎない。
そもそもこの中世神学における « signans / signatum » にしても、すでにストア学派の言語論の中
に « semainon / semainomenon » という先例を知っており、シニフィアン・シニフィエの二項対立は
ソシュールの創案どころか実にギリシャ以来の二千数百年になんなんとする歴史的蓄積を持つ、極
めて伝統的な記号概念の結構だったということになる(2)。次ページにストア学派から現在に至る諸
家の記号概念を図式化して一覧したので参照して欲しい。これは記号概念を定式化しようとした試
みを、ほぼ時代をおって大ざっぱに図示したものである。
さて、しかもこれら近代以前の記号概念における二項図式は現在の標準からいっても決して雑駁
なものではなく、高度に抽象的な記号という観念に対する接近の仕方として妥当な配慮がなされて
いる。まだ厳密な概念規定が成されていない古代・中世の未成熟な記号概念だとは、ある面では言
い難い。
すなわち記号の二面性を語るとともに、そこに見いだされる意義、概念、意味作用、われわれの
言葉で言えばシニフィエを、音声的側面ばかりでなく、むしろその指示対象と厳密に区別すること。
こういった錯綜した区別づけこそ「シニフィアンとシニフィエ」の二項対立に基づく記号概念の要
諦の一面である。
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例えば「犬」という音声が表現ないし記号であって、その指し示す現実界に歩いているあの四つ
足の生き物、あれがその意味ないし意義である、というような説明は日常的には普通そう考えられ
ており、それでいっこうに構わない。この場合は、「犬」という言葉が記号であり、現実の犬がそ
の記号対象であるという考え方になる。いわゆる言語名称目録観である。しかしこれは言語学的に
は明らかに、言語記号内部に見いだすべき意味ないし意義といったものと現実界の指示対象とを混
同した議論である。現実を生きる犬は「犬という概念」ではない。さらにいえば、その「犬という
概念」そのものは「犬」という言語記号がもしなければ成立し得ないだろうし、逆にまた一方「犬」
という言語音としての音声形は犬という言語記号が保証する概念がなければ当該の言語、この場合
日本語には登録されないだろう。つまりもっぱら言語記号に内部化され二重化している音声的な側
面、観念的な側面というものを前提しなければ、言語音としての音そのもの、純粋な概念そのもの
が立ち現れてこない。記号概念はもっぱらこういった場面を考えるために精密化されている。これ
はちょっとした唯言論だが記号概念を考える上でのイロハである。
しかるにストア学派(資料1の fig. 1 )にせよ、スコラ哲学(同 fig. 2 )にせよ、記号の指示対
象としての事物をはっきりと別個にくくっている。既に見たとおり資料1では、ほぼ時間軸にそっ
て同じ形式のもとに、古代から現代に至る記号概念の構図がそれぞれ図示されている。細かい概念
規定を別にすれば基本的な構図そのものはギリシャ以来いっかな変化を被っていないことはすぐに
理解されよう。記号概念はその黎明期にあってさえ既に、指示対象とは別個のものとしての、記号
に内在的なシニフィアンの面とシニフィエの面を問題にしていたことが、これらの三項からなる図
式に明白に現れている。従ってやはりシニフィアン・シニフィエの二項図式はソシュールの専売特
許ではない。それではなぜ、ことさらにソシュールばかりが「シニフィアンとシニフィエの記号概
念」の宣揚者として名指されているのか。ソシュールが記号概念の歴史にあって、敢えて新たに、
少なくとも言葉としては新奇に「シニフィアンとシニフィエ」という術語を提唱したことがどんな
意味を持つのか。
ところがそもそも、ソシュールの原資料にあたってみた限りではソシュールがシニフィアンとシ
ニフィエという二項対立を積極的に提唱していた節が見られないのである。これもまた今日の常識
に属するかと思われるが、ソシュールの名を冠して出版され、後年関連諸学に広範な影響力を持っ
た『一般言語学講義』はソシュール自身の手になるものではない。ソシュールの行なった講義を筆
写した学生のノートを参考に、ソシュールの弟子達が彼の講義を「再構成」して著したものである。
筆者はこの『一般言語学講義』がソシュールの真意にもとる「偽書」の類であるとする意見に与す
るものではない。むしろ『一般言語学講義』の文言の中にある主張の不等質性をも含めて『一般言
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語学講義』を積極的に評価したい立場にある。それでもソシュールが現に言っていない文言をこの
書物が多く含んでいるのは事実である。
『一般言語学講義』第一章「言語記号の性質」によれば:
Nous proposons de conserver le mot signe pour désigner le total, et de remplacer concept et image
acoustique respectivement par signifié et signifiant;
(SAUSSURE 1972: 99; CLG/E:
1115)(3)
..
.. ....
...
われわれは、記号という語を全体を示すために保存し、概念と聴覚映像とをそれぞれシニフ
.. ......
ィエとシニフィアンに替えることを提唱する。
とある。文字通りはっきり提唱しているわけだが、この文言の原資料となる講義録を見る限りで
は実際にはソシュールはなにも「提唱」してなどいないのだ。提唱していないどころかこのシニフ
ィアンとシニフィエという語を記号概念の解説に用いているのが極めて稀なことと言ってもいい。
そしてソシュールが「シニフィアン・シニフィエ」二項対立をその生涯において初めて口にした
のは、意外に思われるかもしれないが時期としてはかなり後年になってのことなのだということも
指摘しておく。ゴデルの『講義原資料』 ( GODEL 1957 ) およびエングラー校訂版の『一般言語学講
義』 ( SAUSSURE 1967 ) 等の関連資料の記述に拠って具体的な日付を明確にしておこう。ソシュール
がその生涯の終わり近くに行なった三度の一般言語学に関する講義の最後にあたる第三回、そのさ
らに終盤にあたる1911年5月19日、この日になって初めてデガリエとコンスタンタンを初めとする
学生のノートに「シニフィアン・シニフィエ」という文言の記述が見いだされる。ソシュールの一
般言語学講義はこの後一月半ほどで終わってしまうのだ。そして翌年には病に倒れ講義は中断、年
が明けるや春を待つことなく1913年の2月22日に享年55歳で亡くなることになる。したがって「シ
ニフィアン・シニフィエ」の記号概念がその言葉とともに語られたのはソシュールの最晩年になっ
てのことなのだと言っていい。
また「シニフィアン・シニフィエ」の文言は、書物『一般言語学講義』では先に引いた章の他に
は第四章「言語価値」と題された、言語記号が示差的価値体系としてあることを説いた章にも多く
見られる。この章は原資料によると第一回講義、第二回講義と第三回講義の学生のノート、並びに
ソシュール手稿のノート9、10、12、19を切り張りして出来ている、全く寄せ集めだと言ってよい
ある意味で奇妙な章なのだが、この章でも「シニフィアン・シニフィエ」の文言の典拠として挙げ
られる部分は第三回講義終盤、やはり上で指摘した部分と同時期のノートによるものである。
つまりソシュールが「シニフィアンとシニフィエ」という術語を使っているのは少なくとも資料
に残っている限りではこのたかだか一月半ほど、授業数にして五度にも満たないごく一時期の間で
あるということになる。もちろんそれがソシュールの最晩年にあたるということに積極的な意味を
見いだす向きもあるかもしれない。ソシュールが記号概念の定式化のために最終的にたどり着いた
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術語こそ「シニフィアンとシニフィエ」であると考えることは出来なくはない。しかし学生のノー
トに残っているソシュールの文言からすると「シニフィアンとシニフィエ」という術語に関して、
ソシュールがそんなに大きな役割を負わせていたとは思われない。先に引いた『一般言語学講義』
の文言のなかには「われわれは…提唱する」との表現が見られたが、その部分に対応するソシュー
ルが講義で述べていたと思われる言葉によると、ソシュールの文言はもっと消極的なものだ。とい
うよりむしろシニフィアンとシニフィエという術語を持ち出すにあたっていろいろと言い訳をして
いるほどである ( IIIC: 310; CLG/E: 1119, sq. )。とりわけソシュールは次に引く部分では、どんな言
葉を選んでも駄目だと半ば諦め顔である。
Précédemment, nous donnions simplement le mot signe qui laissait confusion. Ajoutons cette
remarque : Nous n’aurons pas gagné par là ce mot dont on peut déplorer l’absence et qui désignerait
sans ambiguïté possible leur ensemble
signifié
—————
signifiant
N’importe quel terme on choisira (signe, terme, mot, etc.) glissera à côté et sera en danger de ne
désigner qu’une partie. Probablement qu’il ne peut pas y en avoir. Aussitôt que dans une langue un
terme s’applique à une notion de valeur, il est impossible de savoir si on est d’un côté de la borne ou de
l’autre ou des deux à la fois. Donc très difficile d’avoir un mot qui désigne sans équivoque association.
( III C; SM III: 124; CLG/E: 1116, 1119 )
..
先程まではわれわれはただたんに記号と、混乱を残した言い方をしていた。付け加えておく
が、どうしてもそれでなくてはならない、曖昧さなくその全体を示す語が、これで手中に収ま
ったというわけにはなるまい。
(図)
.. .. .
どんな用語(たとえば記号、辞項、語など)を選んでも的外れになって、一部分しか示さな
くなる危険をはらんでいる。おそらくそんなもの [どんぴしゃの用語] はありえないのだろう。
あるラングにおいて、ある一つの辞項がある価値概念に適用されるやいなや、どちらの側を指
しているのか、それとも両方いっぺんに指しているのかを知ることができなくなってしまう。
ことほど左様に多義性を伴わずに連合を示す語を手にするのはきわめて難しいのだ。
引用周辺で述べられていることを簡単にまとめて言えばこういうことだ。« signe » というと言語
外の諸事象に対してひとまとめの « signe » が対応しているようで紛らわしい。それでは言語記号
が名称目録のように思われてしまってうまくない。物理音に対応しているのは概念だというのでは
ないし、現実界の諸事象に対応しているのが普通に言う「音」だというのも間違いだ。物理音は
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「音・観念」に対応しているのであり、諸事象も「音・観念」に対応している。したがって記号の
中に言語音としての音声的なものがあり、概念を担う部分がある。« signe » にはその言語記号とし
ての限りでの音的な部分と概念的な部分とがあるといった方が誤解が無くてよいだろう。
つまりソシュールにとって記号は音と概念の二つからなっているのではない。物理的な音声その
ものとして自立してあるのではない「音=観念」複合体がある。また概念そのものとして自立して
あるのではない「音=観念」複合体がある。それが記号だというのである。その音でも概念でもな
い、記号に内在するものとして不可分にしかし二重化している音的な部分と概念的な部分とを明確
に示すために、ひいては積極的なものとしてある音そのものと概念そのものを否定するために、ソ
シュールは記号すなわち « signe » と語根を等しくする「シニフィアン・シニフィエ (signifiant /
signifié )」という術語を旧来の記号概念 ( signans / signatum ) から借りてきたに過ぎない。乱暴な言
い方をすれば、ここでソシュールは記号の二面性を強調するとともに、記号を構成している二つの
要素は記号に全く内在的なものであって、言語外の例えば現実界の事物であるとか、超越的な概念
であるとかとは区別されるということに重点を置いて語っている様子が窺われる。
だからソシュールにとっては必ずしも、歴史的に様々な概念連想を伴っている「シニフィアン・
シニフィエ」という用語にことさらに固執するいわれもなければ、現に固執していた節も見られな
いのだ。事実ソシュールは「シニフィアン・シニフィエ」という語を第三回講義で使うまでは、な
がらく他の言葉を使っている。ソシュールが一般言語学と呼ばれるものに乗り出したのは、資料に
残って確認される限りでは1891年のジュネーブ大の教授就任以来、
具体的には同年の教授就任演説、
1894年の「ギリシャ語曲用組織」に関する講義、同じく1894年頃に書かれたと見るべき一般言語学
と名指されるかもしれなかった「書物の草稿」、こういった数々の草稿がものされた時期にほぼ重
なると推定される。ところがこの時期から三度の「一般言語学講義」を開講した1910年代初頭にか
けて、「一貫した言葉」をつかって記号の二面性を語ったことがないのであり、変な言い方だがそ
の点では、つまり用語を固定しなかったということに関してはソシュールは一貫している。ソシュ
ールが記号の結構を論じるにあたって使った用語を次ページの資料2にまとめてみた。ソシュール
がいかに用語の確定に苦慮していたかは一目瞭然である。
あえて危険を冒して非常に当たり前の言葉を用いている場合もあり、厳密さへの要請から奇妙な
造語をしている場合もある。シニフィアンとシニフィエがごく一時期にしか使われていないことも
明白である。それにしてもソシュールは何故に決定的な用語を確定することにかくも難渋していた
か。
ソシュールは記号を、ひいては言語を語るにあたって、どんな言葉も満足していなかった節があ
る。彼の「言語を語る言葉」そのものへの不信が端的に現れたものとして、ソシュールの1894年
(1月4日づけ)の書簡を参照しよう。時期的にはちょうど「一般言語学」に関する書物の草稿を書
いていたとおぼしい時期に、彼の高弟にして印欧言語学の碩学としてすでに有名を馳せていた友人
メイエ宛の手紙にソシュールはこう書いている。
--- 55 ---
Sans cesse l’ineptie absolue de la terminologie courante, la nécessité de la réforme, et de montrer
pour cela quelle espèce d’objet est la langue en général, vient gâter mon plaisir historique, quoique je
n’aie pas de plus cher vœu que de n’avoir pas à m’occuper de la langue en général.
Cela finira malgré moi par un livre où, sans enthousiasme ni passion, j’expliquerai pourquoi il n’y a
pas un seul terme employé en linguistque auquel j’accorde un sens quelconque. Et ce n’est qu’après
cela, je l’avoue, que je pourai reprendre mon travail au point où je l’avais laissé.
(SAUSSURE 1964b: 95)
資料2 ソシュールが記号概念を指し示すために使っていた用語一覧
典拠
シニフィアンに対応する項
手稿1教授就任演説
(N. 1.2; CLG/E 3284)
手稿7形態論
(N.7; CLG/E: 3293)
手稿7形態論
(N.7; CLG/E: 3295)
手稿9書物の草稿
(N.9; CLG/E: 3295a)
手稿10ホイットニー追悼論文
(N.10; CLG/E: 3297)
手稿10における抹消
(N.10; CLG/E: 3297)
手稿10
(N.10; CLG/E: 3297)
手稿15
(N.15; CLG/E: 3320.2)
第一回講義
(I R; CLG/E: 3348)
第一回講義
(I R; CLG/E: 2025)
第二回講義
(II R; CLG/E: 1833-35)
第二回講義
(II R; CLG/E: 1942)
第二回講義
(II R; CLG/E: 0139)
第二回講義
(II R; CLG/E: 0338)
第三回講義
(III C; CLG/E: 0331)
第三回講義
(III C; CLG/E: 0261)
第三回講義
(III C; CLG/E: 0206)
第三回講義
(III C; CLG/E: 0252)
第三回講義
(III C; CLG/E: 1177)
音的側面
観念的側面
( le coté du son )
( le coté du l’idée )
音
観念
( son )
( idée )
音声的形象
( figure vocale )
音
観念
( son )
( idée )(4)
象徴
観念
(le symbole )
( idée )
慣習的象徴
精神
( SYMBOLE CONVENTIONNEL)
( esprit )
象徴的対象
観念
( objet symbolique )
( idée )
ソーム
コントル・ソーム
( sôme )
( contre-sôme )(5)
心的聴覚印象・心的映像
( l’impression acoustique psychique / image psychique )
形態
観念
( forme )
( idée )
音節
意義
( syllabes )
( signification )
音
観念
( son )
( idée )
声音
意味
( son vocal )
( sens )
聴覚印象
観念
( impression acoustique )
( idée )
音声記号
観念
( signe vocal )
( idée )
聴覚映像
観念
( image acoustique )
( idée )
言語映像(ないし聴覚映像)
概念
( image verbale (ou acoustique) )
( concept )
聴取映像
概念
( image auditive )
( concept )
シニフィアン
シニフィエ
( signifiant )
( signifié )
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シニフィエに対応する項
いま用いられている用語法の全くの愚昧さ、それを改革する必要性、そのために言語一般と
はどういう類の対象であるかを示す必要性が、絶えず私の歴史に対する喜びを台無しにしてし
まうのです。私は言語一般などにかかずらわないで済めばそれに越したことはないと思ってい
るぐらいなのですが。
こういったことは、結局のところいやでも一冊の本になるでしょう。その本の中で私は感動
も情熱もなく、言語学で用いられている術語には、なんらかの意味があると認められるものが
ただの一つたりともないのが何故なのか説明することになる。正直なところその後になっては
じめて私の仕事を、かつて放り出していたところからはじめることが出来るでしょう。
ソシュールは言語記号を定式化し、さらには言語一般を様々な二項対立を駆使して分析可能な様
態に還元したことで知られている。そしてその言語学的成果は原資料がどうであろうが、現実に言
語学の前進に大きく寄与してきた。それなのに当の本人はどうも自分の提出する言語観、ないし言
語を語ろうとする言葉に絶望している様子がこの書簡にも端的にうかがわれる。しかしソシュール
が用いている術語はそんなに「意味があると認められない」と言うほどひどいものだろうか。非常
に厳密だし、理解もしやすい。だいたいこんなところで良いのではないだろうかと思うのがむしろ
妥当ではないか。ではソシュールはどうして、自分の手になるものをも含めて言語学的術語にかく
も絶望しているのだろうか。
ソシュールはこれらの術語の分かりやすさの背後にある、非常に難しい問題に立ち至っていたの
ではないか。今まで見てきたような様々な言葉を使って定式化されようとしていた記号概念に隠さ
れている、ある思考を阻むようななにものか。ソシュールが次々と言葉を換えて接近しようとして、
その度に跳ね返されていたなにものかが言語記号の中核にはあって、ソシュールが直面していたの
はそういった問題だったのではないかと思われるのだ。
そういった問題を一つ、われわれが今し方検討してきた、そしてともすれば判ったつもりになっ
ている記号概念から導き出してみよう。
例えばここに記号 /isi/ (石)がある。物理音としての /isi/ はこの際、もう関係ないことにしよう。
/isi/ という記号がソプラノの高音によって発音されたのと、詩吟のだみ声で発音されたのとでは音
響音声学的には、つまり物理的な周波数特性その他で一意に規定される音波形としてみた場合には、
明らかな違いがある。しかし言語音としてはソプラノの /isi/ も詩吟の /isi/ も同一であるとみなされ
る。 /isi/ という発音にとってその同一性は発音された音そのものよりも、その音の「聴覚的イメー
ジ」によっているのだ。「聴覚イメージ」はその聞こえてきた物理音が、われわれの脳裡で差異に
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よって織りなされる体系性のなかでどんな価値をもつものであるか、それしか問題にしていない。
ある方言の一系統では前方歯茎音のス音 /s/ を一貫して後方歯茎音で「シュ /∫/ 」と発音する。従
って「先生」は「しぇんしぇい」と発音されるのだが、「しぇんしぇい」を聞いてもわれわれは聞
いたことのない新たな言葉を聞いたのだとは思わない。標準語で言うところの「せんせい」である
ということを即座に了解するだろう。もっと甚だしい例では、一貫して「ア」という母音を「エ」
と発音する人物がいたとしても、我々は彼の発音から正確な語形を一瞬にして認識することができ
る。このように母音をそっくり通常のものとずらして使っているような場合ですら、当該の母音が
ある体系の中で他の母音と対立して使われている限りでは、そして意味と文脈との助けがある限り
では、その母音の「聴覚イメージ」が損なわれることはないのだ。その音がわれわれの発音すると
ころの「ア」音であるということがほとんど発音と同時的に了解される。ことほど左様に「聴覚イ
メージ」言い換えればシニフィアンは、実際に音として聞こえるものとは関係なく、そのシニフィ
アンが、他の諸シニフィアンとともに織りなしている「差異・対立によって形作られる体系性」の
なかで、どのような位置を占めることになっているかにしか成立の根拠を持っていない。
だから「石」という語が前方歯擦音で /isi/ と発音されても、後方歯茎音で /i∫i/ と発音されても、
その対立が関与性を持たない日本語においては「聴覚イメージ」は変わらない。それらは言語音と
.......
して日本語においては別の音ではないのだ。しかしもちろんことが他の言語だと話は違ってくる。
英語では前方歯擦音で « see /si / » と言えば「見る」ということだし、後方歯茎音で « she /∫i / » と
いえば「彼女」ということになる。英語ではこの摩擦音の前方性・後方性が「聴覚イメージ」の対
....
立に組み込まれている。つまり « see /si / » と言ったときと « she /∫i / » と言ったときでは別の音と
.....
みなされる。
ところでこのように見てくるとシニフィアンの同一性が何に拠っているのかは明白である。二つ
の異なった物理音が「聴覚イメージ」において同一であるということは、問題の言語においてその
二つを相互に交換して代入しても意味が変わらないということを意味することになる。また「聴覚
イメージ」が異なるということは、互いに入れ替えると意味が変わってしまうということを意味す
ることになる。それではこの「聴覚イメージ」、すなわちシニフィアンの成立の如何は詰まるとこ
ろ、ひとえに意味の違いが生じるか否かにかかっているということになるだろう。つまりシニフィ
アン成立の根拠は概念の差異なのだ。シニフィアンはシニフィエの存在によってはじめて保証され
ることになる。これはやや奇異な結論だが、ここではしばらく保留にしておこう。
他方、当のシニフィエの方は今までの議論では、現実界の指示対象でもないし、超越的に存在す
るような不動のイデア性でもないと規定されていた。そしてもっぱら記号に内属するものとしての
シニフィエの成立根拠、記号の概念的側面の成立与件はシニフィアンに他ならないこともそこには
暗示されていた。これを説明する簡便な例は次のようなものだ。
われわれは狸というものの存在を疑わないが、「狸」という語をもたぬ言語においては狸は存在
しない。フランスには狸はいない。その代わりにそこにいるのはただ単に « chien » ないし « une
--- 58 ---
sorte de blaireau » といったものである。だからと言うわけではないだろうが「捕らぬ狸の皮算用」
もフランス語では熊が登場することになっている。 « Vendre la peau de l’ours avant de l’avoir tué. »
するとフランスに狸をつれていってもフランス人はそこに狸を見ないということになる。狸をこ
とさらに別の言葉をもって名指す習慣のない言語にとって、そこにいる動物はブルドッグやダック
スフンドと並ぶ犬のヴァリエーションの一つに過ぎない。つまり概念「狸」が存在するためには
「狸」という記号、あるいはその相当物があらかじめその言語の価値体系に登録されていなければ
ならない。犬とも狐とも対立するものとして記号「狸」があらかじめなくてはならない。逆にそこ
に記号があって現に犬と区別がある場合でも、「狼という記号がもしなかったら、山犬という記号
がそれまで記号「狼」が受け持っていた概念をほぼおおってしまうだろう」(MARUYAMA 1981: 96)。
もちろんその際に山犬・犬・野犬といった、記号「狼」を取り巻く体系性の網の目の付置が全体的
に書き直されることになるだろう。これをもって概念の成立にはその概念を名指す記号が成立条件
となっているということになる。シニフィエはシニフィアンの存在によってはじめて保証されると
いうとになる。そして記号の体系すなわち言語が、多様である世界に投影されて、それによって世
界の分節化が生じてくるのであると。なるほどこういった説明は一見正しいように見える。言って
いることが一貫しているし、その帰結も納得のいくものではある。しかしこの分かりやすさに罠が
ある。
この説明はほんとうに正しいのか。この説明は要するに記号がなければ概念があり得ないという
ことを言っているが、それは本当だろうか。この説明が本当に言っていることは実は記号と概念分
節に相関があるということに過ぎないのではないか。そしてつまりは記号「狸」を欠いている言語
には概念「狸」が存在しないということを語っているにすぎない。でもそれはむしろ説明者の意図
に反して概念「狸」の超越的な存在を語ってもいないだろうか。つまり概念「狸」、その指示対象
たる現実の「狸」の自立した存在を前提としなければ、そこに記号「狸」が欠けている、あるいは
他の記号がその欠落を充当して体系を作っているという説明そのものがそもそも成り立たないので
はないか。もし概念「狸」の超越的かつ自立的な存在を仮定しないのであれば、より厳密にはむし
ろ「記号『狸』を欠いている言語には概念『狸』が存在しない」などというかわりに「シニフィア
ンとしての記号『狸』を欠いている言語にはシニフィエとしての記号『狸』が存在しない」と言う
べきではないのか。そしてこれは要するに「ある記号を欠いている言語にはその記号が欠けている」
という当たり前のことをしか語っていないと言うことになる。
このような、事象一般が言語によって産み出されるという唯言論的説明のなかにはいつでも、皮
肉なことに他ならぬ超越的シニフィエが密かに前提されている。唯言論的言語観は論理的に循環し
て破綻しているか、単なる同語反復であるかのいずれかだ。そしてここでの問題はむしろ、シニフ
ィアンとシニフィエの成立根拠を問う場面に生じている論理の循環そのものが、何を意味するか
だ。
................
シニフィアンとシニフィエのあいだで権利上の先行性がどちらにあるのかを問うことはもちろ
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ん、偽の問題に拘泥することに過ぎない。しかしシニフィアンとシニフィエ相互の間にこのような
権利的・論理的な時間性の捻れが生じていることが、記号そのものの概念結構にとって本質的な問
題だということを看過することは出来ない。言語の時間はいたるところで倒錯した姿を見せるので
ある。
先程来シニフィアンの存在根拠がシニフィエであり、シニフィエの存在根拠がシニフィアンであ
るということをそれぞれ別の例によって確認してきた。それら両者の不可分である性質、分離不能
の二重性を語るという点ではこの鶏と卵のような結構はむしろ好ましいものである。しかしより厳
密にシニフィアンとシニフィエの存在根拠を規定していくなら、あるシニフィアンが同一性を持っ
.................
たものとして存在する根拠はそのシニフィアンがシニフィエと既に結びついてあることであり、同
......
様に、あるシニフィエが同一性を持ったものとして存在する根拠はそのシニフィエがシニフィアン
............
と既に結びついてあることだということになる。つまり記号の成立条件であるところの、記号をあ
らしめる諸要素が、ほかならぬその記号の存在によってはじめて自らの存在の根拠を得ることにな
る。ここにも循環論が、そして言うなれば時間の転倒 anachronisme が生じてしまっている。
それでは問題のシニフィアンとシニフィエが自らその根拠となり、
自らの根拠をもそこに求める、
当の記号自身はどうなのか。記号が成立するためにはシニフィアンとシニフィエそれぞれが体系の
中で消極的にであれ、ともかくも存在することが必要なのに、それら両者の成立のために記号自身
が必要だというのである。それでは記号はいうなればその内包を一抱えにして、一挙にそこにあら
ねばならない。しかも記号というものは示差的対立の体系性の中ではじめてある価値をにない、は
じめてその自己同一性を与えられるわけだから、「記号はそのシニフィアン・シニフィエの結びつ
いたものとして一挙にある」と言うとき、その記号を取り巻く諸記号もまた一挙にあらねばならな
い。変な話になってきた。そもそも記号がなければ、記号達が形作る体系も有りはしないと考える
のが当たり前のはずなのに、ある記号が存在するためにその記号自身をも含めて体系を形作る諸記
号があらかじめなくてはならないということになってしまうのだ。しかしおそらくそれが本当なの
である。
このように見てくると、ある記号の自己同一性の根拠は、「その記号自身が自ら内属している示
................
差的体系性の中での価値」という面も含めて、あらかじめその記号自身が既に自己同一なものとし
.....
てあることだという、一見同語反復のような結論がここから導き出されてしまう。いうなれば記号
の自己同一的存在は記号自身の自らの反復にかかっている。ある記号がその記号としてあるために
は、既にあらかじめあったことになっている自らを反復することが必要なのだ。言うなれば記号は
自らを反復することで自らになる。
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なぜならこれら同一性を保つ記号は、反復のなかでしか見いだされ得ないからだ。記号は何度も
繰り返され、反復されて、然るに同一的であることによって、はじめてある一つの記号たり得る。
無際限に再現可能性が開かれてあることこそ記号の要諦であり、同時に記号を可能にする条件な
のだ。ある記号が記号たり続けるためには、その都度同じものとしてその記号が反復されなければ
ならない。しかも既に見たように、記号は先に自己同一的な存在を確保しており、その故に反復に
耐えるのではない。その都度同じものとして反復されることによって記号の自己同一性は事後的に
あったことになるわけである。言いかえれば、記号の恒常性は不断の自己反復によって事後的に成
立する。しかも記号はそもそも反復を許す以上は、その都度あらかじめあったものでならねばなら
ない。
ソシュールが第二回講義の序説で語っていることを学生リードランジェがこう書き記している。
En quoi consiste–t–elle, cette identité? Mais ne nous imaginons pas que là soit la grande question: Il
est tout aussi intéressant de se demander sur quoi nous faisons reposer l’affirmation de l’identité d’un
même mot prononcé deux fois de suite, de « Messieurs! » et « Messieurs! ». Assurément, il y a là deux
actes successifs. Il faut se référer à un lien quelconque. Quel est–il? Il s’agit d’une identité à peu près la
même que si je parle de l’identité du train express quotidien de 12 h. 50 ou 5 h. pour Naples. Peut
paraître paradoxal: matière [ phonique sic ] différente! Mais dans « Messieurs » prononcé deux fois, c’est
la même chose: j’ai dû renouveler la matière. Donc ce n’est pas une identité quelconque qui est sous la
main. Autre exemple: on rebâtit une rue; c’est la même rue!
Cette identité est du même genre que l’identité linguistique. Cette question: sur quoi repose
l’identité? est la plus grave, parce qu’elle revient tout à fait à la question de l’unité. Il n’y a pas d’identité
si certaines conditions tacites ne sont pas acquises d’avance.
(SAUSSURE 1957: 38-39)
このような [ despectus と dépit の間の ] 同一性は何によっているのだろうか。もっともここ
に大問題があるなどと思ってはいけない。二度続けてある同じ語が発音される、例えば「諸
君!」と「諸君!」といったように、その同一性が断言できるのは何に立脚しているのかを自
問することもまた関心事である。たしかにここに二つの連続した行為がある。何らかその二つ
を結びつけるものに基づいてのことでなくてはならない。その結びつけるものとは、では何な
のか?ここでいっている同じものだというのは、毎日出る十二時五十分発あるいは五時発ナポ
リ行きの急行について同じものだというのとほぼ同様のことだ。ちょっと奇妙な理屈に思われ
るかもしれない。それを構成している素材が違うではないか!しかし二度にわたって発せられ
た「諸君」にしても同じことだ。私は新たに別の(音の)(6) 素材をつかわなければならなかった
のだから。とするとこれはその辺の手に取れる同一性とは違うということだ。他にも例を挙げ
よう。ある街路を再建したとする。それでもそれは同じ街路なのだ!
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こういった同一性は、言語の同一性とおなじ類のものだ。「同一性の根拠は何に立脚してい
るのか?」という問いこそ最も重大なものであり、それはこの問いがそのまま一性とはなにか
という問いに帰着するからだ。なにかある暗黙の条件があらかじめ得られているのでなければ
同一だということはあり得ない。
やはりソシュールは言語記号の自己同一性の中に既に時間の転倒を見ていたのである。ある言語
記号が反復されるその場面で言語記号の同一性の根拠を問おうとするソシュールの言葉は、言語記
号の倒錯した奇妙な時間性を問おうとしているように見受けられる。さもなければそもそもある語
がその語自身と同一であることの根拠など、どうして問題になるだろうか。ある一つの語が反復さ
れる中で自分自身と同一でありうる、そのことの根拠をあえて問うというのは、まさしくソシュー
ルの記号概念が明晰きわまりない分析の道具としての位置を越えて、言語記号が己自身の反復によ
って倒錯した時間の中で己自身の自己同一性を獲得する、その原場面に届いていることの証左であ
る。そういったソシュールの言語記号に対する思索が、記号概念の定式化に原理的な困難を感じて
いた節のある彼の身振りに帰着するのはむしろ当然のことではないか。
かようにシニフィエとシニフィアンをめぐる記号概念の根拠をたどっていくと、いたる所で時間
の倒錯、因果の倒錯に逢着することになってしまう。ところがシニフィアンとシニフィエはその背
後にこのような理論的困難をはらんだままで、しかし今日も簡便で有効な操作概念として使用され、
その効力を発揮しているのである。ここにソシュールの問題が極めて興味深い一つの理由がある。
ソシュールの思考は言語学を可能にした思考であった。にもかかわらずソシュールの思考はその果
てに、いつでも言語学にとっての原理的困難を暴きださずにはおかない。そのとき言語学はかかる
段階に至ったソシュールの思考をむしろ不問に付すことによって、生産的な言語分析をおのれに許
すのである。
二十世紀言語学の祖としてのソシュールは、同時にこの言語学の最大の敵でもある。ここに現代
言語学の背理がある。
(了)
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注
(1)この小論は1998年11月におこなわれた早稲田フランス文学会における同名の研究発表のために用意
した原稿に加筆・修正を施したものである。
(2)古代・中世の言語学、あるいはそれに相当する学における理論構成が、現代の言語学の概念布置と
どういう異同を持っているかについては、ROBINS (1959) と COSERIU (1970) が最も簡明な見取り図を与
えている。
(3)ソシュールの原資料に関しては通常の典拠表示とは別に、以下に特に定義する記号を用いる。
Ms.fr. = Manuscrits français de Ferdinand de SAUSSURE (Bibliothèque publique et universitaire de Genève,
[ Catalogue des manuscrits, Tome XI, pp. 236-241. ]); N ** = Note no ** par SAUSSURE; R = Cahier par
RIEDLINGER; D = Cahier par DÉGALLIER; C = Chaier par CONSTANTIN; SM = (Godel 1957); CLG/E = (SAUSSURE
(éd. ENGLER) 1967 /1978); CFS = Cahiers Ferdinand de Saussure, Genève, Droz.
(:**) = 通常はページ数、CLG/E と SM にかぎり断章番号。ローマ数字はソシュールが三度にわたって
行なったジュネーブ大での一般言語学講義のいずれにおける発言(のノート)であるかを示す。具体
例:(Ms.fr. 3951, N15:2) = Manuscrits français no 3951, Note no15 par F. de SAUSSURE : page 2.
(II R; SM II:58; CLG/E:1706) = IIe cours de SAUSSURE, Cahier par RIEDLINGER; = Les Sources Manuscrites du
Cours de linguistique générale, par R. GODEL (GODEL 1957) IIe cours : fragment no 58; = Cours de linguistique
général, édition critique par R. ENGLER (SAUSSURE 1967 / 1978) : fragment no 1706.
また引用訳文はすべて、既訳のあるものについては参照の上、あらためて私訳を試みた。
(4)« le groupe son-idée » という形で使われており、物理音と対立(ないし対置)される。物理音と対立
するのは断じて観念ではなく、この « le groupe son-idée » であるとされている。
(5)音声(物質的アポセーム)と概念(知的アポセーム)の結合が記号(ここでは「セーム」)を形作る
のではなく、記号に内的なソーム(シニフィアン的側面)とコントル・ソーム(シニフィエ的側面)
の二重性から抽象化されて両アポセームが「あったことになる」。資料1の fig.6 参照。
(6)学生リードランジェは他の学生(恐らくはデガリエ)のノートを参照して、自分のノートを補完し
ていた節がある。ここでは « phonique » という語が « matière » という語の後ろに挿入されている。と
ころで、この « phonique » という語は挿入される位置が間違っている疑いがある。文脈上その語は、
ここで都合二度用いられている « matière » という語の二度目の方の後ろに挿入されるべきである。電
車の「音声的素材」というのは意味をなさない。むしろ「諸君!」という発話の「音声的素材」が問
題になる場面である。こうした判断から我々はゴデルとエングラー両者の校訂にも拘わらず、私訳に
おいてはそのように « phonique » の位置を修正して訳してある。
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Bibliographie
※通常の資料に関しては(著者 発表年:頁)の形で典拠を表示し、これに対応する書誌を付す。
※ソシュールの未完手稿・『一般言語学講義』原資料に関する典拠表示に関しては注3参照。
COSERIU, Eugenio
(1970) Sprache-Strukturen und Functionen: XII Aufsätze zur Allgemeinen und Romanischen Sprachwissenschaft,
éd. par Uwe PETERSEN, Tübingen, TBL, p.232 sq.
GODEL, Robert
(1957) Les Sources Manuscrites du Cours de linguistique générale, Genève, Droz / Paris, Minard.
(1966) «F. de Saussure's Theory of Language», in Current Trends in Languistics III, pp.479-493.
(1968) «Ferdinand de Saussure et les débuts de la linguistique moderne», in Semaine d'études Genève 67;
Enseignement secondaire de domaine, Aarau, Sauerlönder.
(1969a) «Question concernant le syntagme», in CFS 25, pp.115-131.
(1969b) A Geneba School Reader in linguistics. Bloomington and London, Indiana Univercity Press.
HJELMSLEV, Louis
(1968) Prolégomènes à une théorie du langage, trad. par Anne-Marie LÉONARD, Paris, Minuit.
JAKOBSON, Roman
(1963) Essais de la linguistique générale, I, trad. par N. RUWET, Paris, Minuit.
MARUYAMA, Keizaburô
(1981) 『ソシュールの思想』、岩波書店.
OGDEN, Charles Kay & RICHARDS, Ivor Armstrong
(1923) The meaning of meaning, London, K. Paul, Trench, Trubner / New York, Harcourt, Brace.
PEIRCE, Charles Sanders
(1950) The philosophy of Peirce : selected writings, éd. par Justus BUCHLER, London, Routledge & Kegan Paul.
(1978) Écrits sur le signe, trad. par G. DELEDLLE, Paris, Seuil
ROBINS, Robert Henry
(1951) Ancient and Mediaeval Grammatical Theory in Europe with Particular Reference to Modern Linguistic
Doctrines, London, G. Bell & Sons.
SAUSSURE, Ferdinand de
(1916) Cours de linguistique générale, publié par Charles BALLY et Albert SECHEHAYE, avec la collaboration
d’Albert Riedlinger, Lausanne et Paris, Payot; (2e éd. 1922.).
(1954) «Notes inédits de Ferdinand de Saussure», éd. par Robert GODEL, in CFS 12, pp.49-71.
(1957) «Cours de linguistique générale (1908-1909): Introduction», éd. par Robert GODEL, in CFS 15, pp.6-103.
(1964b) «Lettres de Ferdinand de Saussure à Antoine Meillet», éd. par Emile BENVENISTE, in CFS 21, pp.89-130.
(1967) Cours de linguistique générale, édition critique préparée par Rudolf ENGLER, tome 1, fascicule 1,2,3,
Wiesbaden, Harrassowits.
(1972) Cours de linguistique générale, édition critique préparée par Tullio DE MAURO, Paris, Payot.
(1978) Cours de linguistique générale, édition critique préparée par Rudolf ENGLER, tome 2, fascicule 4,
Wiesbaden, Harrassowits.
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