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<ネッシーのお薦め作品(焚書坑儒リスト)> 国内編 31. 安部公房 「砂
<ネッシーのお薦め作品(焚書坑儒リスト)> 国内編 31. 安部公房 「砂の女」 (新潮文庫) 映画「砂の女」 昭和 39 年 2 月公開 監督:勅使河原宏 脚色:安部公房 音楽:武満徹 主演:岸田今日子 岡田英次 映画ファンだった方ならきっと覚えているのではないでしょうか。われら花の 19 回生は中三のときですね。たしか、上映は 三宮新聞会館、けっこうエロチックな宣伝ポスターだったのを覚えていますが、18 禁ではなかったように思います。でも、私の記憶 違いかも。 「八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出かけたきり、消息をたっ てしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄におわった。」 ― これが、見知らぬ砂丘の部落へ昆虫採集(ニワハンミョウ)に出かけた男が、逆に虫のように採集されてしまう物語の冒頭 です。推理小説風に砂のようなドライな語り口で始まります。この男は妻のいる二十八歳の学校教師です。― なお、男 の年齢は読む箇所によって若干の相違があります。 「昆虫採集には、もっと素朴で、直接的なよろこびがあるのだ。新種の発見というやつである。それにありつけさえすれ ば、長いラテン語の学名といっしょに、自分の名前もイタリック活字で、おそらく半永久的に保存されることだろう。」 ― 無名の人間の、自己存在証明への欲求です。誰か、自分を認知してくれる他者の目が必要なんです。夫であること、 父親であること、教師であること、社長であることを認めてくれる、他者の視線がつかの間の気休めでしかないとした ら、昆虫のラテン語名にでも自分の生の痕跡を残すことが残された唯一の存在証明なのです。 「 《 砂 ― 岩石の砕片の集合体。時として磁鉄鉱、錫石、まれに砂金等をふくむ。直径 2~16 分の 1mm。 》・・・その、 流動する砂のイメージは、彼に言いようのない衝撃と、興奮をあたえた。砂の不毛は、単なる乾燥のせいなどではなく、その 絶えざる流動によって、いかなる生物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることば かりを強要し続ける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。」 ― いかにも、理科系(医学部出身)の安部らしい引用です。ほかにも、「ガウスの誤差曲線」、「流体力学」(世界遺産漫 遊記の K.I.氏の専門分野)、 「乱流の最小波長」とか「溜水装置」等の言葉が出現します。主人公(男)の砂 ― 既存 の社会機構への定着を拒否する無機物への親和感は、満州の半砂漠の地で少年期を送った安部の原体験と無関係ではな いでしょう。また、一時接近した前衛批評家・花田清輝の影響があるのは間違いありません。どうやら、男の昆虫採集 趣味は、おきまりの現実逃避のようなのですが、皮肉にも脱現実ではなく、蟻地獄のような超現実(ウルトラ・レアル)の世界 に陥ってしまうことになるのです。 「『気がねはいらんから、ゆっくり休んで下さい…』老人は下には降りずに、そこから引返していった。ランプを捧げて迎 えてくれた女は、まだ三十前後の、いかにも人がよさそうな小柄の女だった。」 ― 主人公(男)が捕虫網にかかった瞬間です。しかし、男は翌朝になるまで、それに気付きません。それにしても、 小説の「女」と岸田今日子とを重ね合わすのはちょっと難しい。原作は原作、映画は別の独立した作品として鑑賞す べきなのでしょうね。 「『しかし、これじゃまるで、砂掻きするためにだけ生きているようなものじゃないか!』 『だって、夜逃げするわけにもいきませんしねえ…』」 ― ここに、現代的な寓意を読むことも可能です。砂掻きをするだけの無意味な労働 砂のような情報に支配されて生きる我々とどこか似ていないでしょうか。 「信じがたいことだった。昨夜あったはずのところから、縄梯子が消えていたのだ。 ― 高度資本主義社会の下で、 … 縄梯子の撤去が、女の了解のうちに行われたことの、これは明白な証人にほかなるまい。女は、まぎれもなく共犯者 だったのだ。 」 ― ここで初めて男は、捕らわれの身となったことに気づくのです。昆虫採集に来た男が、逆に捕獲されてしまう。 この小説全体が常に砂に埋もれてしまう蟻地獄のような逆説に満ちています。 「それにしても、ありえないことだ。ちゃんとした戸籍をもち、職業につき、税金もおさめていれば、医療保険証も持っ ている、一人前の人間を、まるで鼠か昆虫みたいに、わなにかけて捕えるなどということが、許されていいものだろうか。」 ― 戸籍、職業、保険 ― ただ与えられただけの存在証明 ― こんな頼りないものに我々の実存が支えられている のが現実なんです。カフカ「変身」でも書きましたが、組織や集団への帰属が我々の存在証明なのですが、そんなものは、 この砂の穴の中では何の役にも立たないのです。 「じっさい、教師くらい妬みの虫にとりつかれた存在も珍しい・・・・生徒たちは、年々、川の水のように自分たちを乗りこ え、流れ去って行くのに、その流れの底で、教師だけが、深く埋もれた石のように、いつも取り残されていなければならな いのだ。」 ― 教師という職業への呪詛が語られていますが、現代においては、どんな職業でも同じです。これからも、個性を喪 失した砂のような人間関係はますます増殖してゆくでしょう。ところで、安部が、とくに教師に否定的な感情を持っ ていた形跡は認められません。成城高校の恩師には詩を献呈しているほどです。 「 《日米合同委、議題を追加か?》 《交通麻痺に、抜本的対策を!》 《玉ねぎに、放射能障害治療の有効成分》」 ― この小説の設定では、昭和三十年八月十六日(水)の新聞の見出しです。国会図書館にでも行けば、同じ日付の、 同じ見出しが見つかるかもしれません。なんせ、シュル・レアルの物語なのですから。 「そう・・・・十何年か前の、あの廃墟の時代には、誰もがこぞって、歩かないですむ自由を求めて狂奔したものだった。そ れでは、いま、はたして歩かないですむ自由に食傷したと言いきれるかどうか?」 ― 捕獲という不条理によって社会から隔絶されてしまった男の独白です。十何年か前の、あの廃墟の時代 ― この シュル・レアルな物語に戦中・戦後の日本のレアルな現実社会が、迂闊にも(?)露出しています。歩かないですむ自由って何 だったのでしょう。よくわかりません。兵隊として歩かされない自由 … あるいは安部自身の満州からの引揚げ体 験からきているのでしょうか。 「彼と『あいつ』とのあいだに、まるで愛情がなかったといえば、それは嘘になる。たとえば、彼が、結婚の本質は、要 するに未開地の開墾のようなものだと言えば、『あいつ』の方では、手狭になった家の増築であるべきだと、わけもなく憤 然として言い返す。逆を言えば、おそらく逆の答えをしたにちがいない。」 ― 『あいつ』とは、男(主人公)の妻のことです。夫と妻とは単なる関係性の呼称にすぎません。まるっきりの他人 である(名前すら知らない、知る必要もない) 「砂の女」の方が実存的な重みを持っているのと対照的に描かれています。 「肉食動物の食欲が、ちょうどこんなふうなのだろう…野卑で、がつがつしていて、ばねを仕込んだみたいに力みかえ っている…「あいつ」との時には、おおよそ経験したことのない一途さだ。…いまのおれに必要なのは、このがつがつし た情欲なのだ…」 ― ついに男と「砂の女」が結ばれます。それは、『あいつ』とのように、ゴム製品を使わない直接的な関係なのです。 閉じられた世界の男と女に残された唯一の(他者との)関係性です。しかし…。 「結局、なにも始まらなかったし、なにも終わりはしなかった。欲望を満たしたものは、彼ではなくて、まるで彼の肉体 を借りた別のもののようでさえある。性はもともと、個々の肉体にではなく、種の管轄に属しているかもしれない。」 ― 性行為の後の男の高揚感の失墜が自分のことのように書かれています。公房には、天才に特有の性の倒錯はなかっ たようです。彼は、 「第四間氷期」に書かれているように、進化発生論 発生の過程で引き起こされる ― に興味を魅かれていました。 ― 進化は、系統的に起こるのではなく、個体 「三月のはじめに、やっとラジオが手に入り、屋根の上に、高いアンテナをたてた。女は、幸福そうに、驚嘆の声をくりかえし ながら、半日、ダイアルを左右にまわしつづけた。その月の終わりに、女が妊娠した。 ある日、突然女が下半身を血に染めて、激痛を訴えだした。親類に獣医がいるという部落のだれかが、子宮外妊娠だろう と診断を下し、オート三輪で、街の病院に入院させることになった。 やがて、オート三輪が、崖の上まできて停まった。半年ぶりで、縄梯子がおろされた。女が連れ去られても、縄梯子は、そ のままになっていた。男は、こわごわ手をのばし、そっと指先でふれてみる。消えてしまわないのを、たしかめてから、ゆ っくり上りはじめた。…これが、待ちに待った、縄梯子なのだ…」 ― 思いがけず、あれほど苦労しても得られなかった脱出の機会が訪れます。縄梯子を登れば、かって自分が所属してい た社会へ易々と復帰することが出来るのです。 「べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人 の自由に書きこめる余白になって空いている。…逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。」 ― しかし、男は逃げません。穴の中での「砂の女」との共同生活に未練が残っているわけではありません。行先も戻る 場所も書かれていない自由という不自由に初めて気がついたといえるでしょう。 「 審判 申立人 仁木しの 不在者 仁木順平 昭和 2 年 3 月 7 日生 上記の不在者に対する失踪宣告申立事件について、公示催告の手続をした上、不在者は昭和 30 年 8 月 18 日以来 7 年以上生 死が分からないものと認め、次のとおり審判する。 不在者 主文 仁木順平を失踪者とする。 昭和 37 年 10 月 5 日 家庭裁判所 家事審判官 」 この小説は、日本国内のみならず、二十数ヶ国語に翻訳され、諸外国でも大きな反響を呼びました。その理由として(1) 作品の寓意性、(2)前衛(先駆)性、(3)リアル性があげられます。 (1)寓意性 アメリカ文学者の佐伯彰一氏が興味深い指摘をしています。「ソ連はじめ共産国での安部文学の評価は、国内と様相を異にし ている。とくにチェコやポーランドでは、 (この作品を)社会的禁制の実存的比喩として受けとめることが出来た。」これは、翻訳 文学の摂取という点で、大きな問題です(作者の意図せざる読み方をしてしまう危険性)。我々日本人(自由主義社会の住 人)は、この作品のテーマを資本主義的管理社会における疎外だとか、自由の中味の問題とかの寓意として受けとめるのが普 通です。たとえば、この小説に出て来る海辺の部落民の掲げる「愛郷精神」なるものを、企業第一主義の「愛社精神」と読 み替えることが可能です。一方で、社会主義社会においては「愛国・愛党(共産党)精神」の寓意として解釈することも出 来るでしょう。もっとも、 「芸術においては、作品こそが全てである」という立場にたてば(私は違います)、作者の意図な ど考える必要は毛頭ないということになりますが。 (2)前衛性(先駆性) さきの寓意性とも絡むのですが、この前衛作品は生活や主義主張を異にする人たちによる百人百様の受けとめかたが可能 です。例えば、 「砂掻きをするためにだけ生きている人生」を、住宅ローン返済のためにだけ生きているようなサラリーマンや、掻け ども、掻けどもきりがない沙漠のような情報社会下の生活に擬す人もいるでしょう。また、田舎の人間にとっては、砂は古 い共同体社会の桎梏ととらえられるかもしれません。私などは、この作品を再読して、北朝鮮で暮らしている拉致被害者の 身の上を考えてしまいます。 ここで言う「前衛」 (アヴァンギャルド)とは、いかなる立場の人間にも参照可能な芸術作品のことです。大衆社会の成熟によ って、前衛と後衛との先後が見定めがたくなっていますが、半世紀前に書かれた、この小説の前衛性は今でも褪せていない と思います。この作品は、 「壁-S カルマ氏の犯罪」と同様、それまでの日本文学のジャンルや伝統性を飛び越えたものです。ノーベ ル文学賞候補として並び称された三島由紀夫の作品と比べれば、その文学的系譜の特異性がわかります。安部は、日本の文 学者の中では珍しく、文壇仲間やグループに属さなかった作家で、彼が酒の席で文壇の大家や有名人に喧嘩を売った話は有名 です。 (3)リアル性 逆説的な言い方ですが、この小説のシュル・レアル性は強度のレアル性 ― それがシュル・レアルの本義なのですが ― によってもた らされています。これは、「燃えつきた地図」他の作品でも同じです。観念ではなく物質の物語といってもよいでしょう。 物質とはレアルなものです。 公房は人間よりも、物の世界に興味を持っていた人のようです。― 演劇集団「安部公房スタジオ」 (山口果林はそのメンバー) による活動は別として。カメラ、車、シンセサイザー、ワープロ、コンピュータなど、メカ好きで有名でした。また、簡易着脱式タイヤチェーンの発明 者でもありました。物への執着は、単なる個体でもなく液体でもない砂への親和感につながっているのかもしれません。 安部は、この作品によって一体何を言おうとしたのでしょう。 この作品の最後で「男」が逃げる自由を放棄したのはなぜでしょうか。 行先も、戻る場所も空白の往復切符に表象された自由の放棄。「男」にとって、不自由と対置されることのない自由とは、 もはや自由とは言えないのでしょうか。この小説のエピグラフがそのことを語っているようです。― 「罰がなければ、逃げ る楽しみもない」 2013.11.20 @ネッシー 2013