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地図と契約―安部公房

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地図と契約―安部公房
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地図と契約
作品﹂として新潮社から刊行された。この小説の結末部はその
前年に発表された短編小説﹁カ lブの向う﹂(﹁中央公論﹂一九六
﹃燃えつきた地図﹄は一九六七年九月、﹁純文学書下ろし特別
めはまん中に入る予定でした。それが書いているうちに、
両側を挟むパンになつやつやった、本当はサンドウイツチの
安部全体の構想はもっと前から:::でもあの部分、はじ
編集部そのときは、もうちゃんとこういう長編の構想が
││安部公房﹃燃えつきた地図﹄
たか。
六・一)を改稿したものになっているが、カーブの先に広がって
いるはずの光景を思い出せずに街をさまよい歩く﹁ぼく﹂のイ
る。あれは初めから計画的に:::
勅使河原あの最初と終りに、坂のところの描写がでてい
安部そうそう、あそこは最初から出来ていた。
編 集 部 安 部 さ ん 、 以 前 に ﹃ カ 1ブの向う﹄という題で﹁中
央公論﹂にこの小説の最後の部分を発表したのはいつでし
そのためか、多くの先行研究が結末部の解釈に力を注いでい
も言うべき重要性を持っていると考えられる。
チの中身﹀ではなくなったものの、最初に書かれ、小説の結末
に置かれるようになったこの部分は、﹃燃えつきた地図﹄の核と
中身のつもりでいたんだが・:
記憶を失った﹁ぼく﹂の部分は︿最初から出来て﹀おり、その
典
メージは﹃燃えつきた地図﹄を創作する上で重要なものだった
らしい。安部は座談会﹁。燃えつきた地図。をめぐって﹂の中で
和
位置を中央から結末へと変えながら、より大きな物語を構成し
て﹃燃えつきた地図﹄は書き上げられたらしい。︿サンドウイツ
野
次のように語っている。
安部二年くらい前です。
中
2
ω
をこのような一貫した時間の流れる場所にしようとする思
想なのである。だから(略)永遠の移動を説く安部氏の思
想は、空間から時間を排除しようとするものであり、逆説
過去の時間をつなごうとする思想ではないか。そして空間
空間のなかに、過去が残した意味を保存し、未来の時間と
たし、﹁昨日と今日を同じ日だと考える﹂思想ではないか。
共同体や家庭の思想とは、要するに空間を時間によって満
ことに注目して次のように論じている。
白、言わば︿時間のない空間﹀が﹁ぼく﹂の眼前に現れている
る。高山鉄男は記憶喪失によって時間的な連続性を失った空
共通している。
しかし、柄谷行人は﹃燃えつきた地図﹄が描く共同体の否定
を共同体意識の解体という文脈で捉えている点では高山の論に
ぞれに独自の論を展開しながら、記憶を失った﹁ぼく﹂の物語
な関係の出発点に立とうとする人物﹀を読む波潟剛論も、それ
失践者に︿社会共同体への帰属を拒む無名の存在、すなわち人
間関係に既成の形式や目的を設定せず、つねに他者との流動的
という︿偽の共同体﹀からの離脱を読む前田愛論、安部が描く
く﹂が最終的に﹁女﹂のもとからも逃れることにエロスの空間
の共同体になると思う﹀という安部の発言とも整合性を持って
いるだけに説得力がある。
吉岡山は記憶を失った﹁ぼく﹂が失綜者になっていく過程を︿伝
統的な共同体意識﹀が解体していく過程として捉えている。こ
の解釈は高山が論中で引用している︿失践はいずれ何らかの共
同体からの失綜だと思う。失綜不可能というか、失綜が意味を
なさないほど自由な共同体ができたときに、はじめて次の次元
社会を実質的に支配しているのが︿物質的幸福の追求﹀や︿階
ここで論じられている︿外界喪失﹀とは、認めたくない現実を
抑圧し、それを見まいとすることである。例えば、我々は戦後
どころか、読者を安心させる﹁流通概念﹂をしか与えてい
ないのだ。
的な言い方かも知れないが、安部氏の作品は、氏における
逃亡の夢を、反共同体的な自由への願望を語ったものとも
解し得るのである。
これに加え、﹃砂の女﹄﹃他人の顔﹄﹃燃えつきた地図﹄という
層意識﹀であるという受け容れがたい現実を抑圧するために︿民
主主義﹀や︿平等﹀といった概念を流通させているのだと柄谷
には自己欺臓がひそんでいるのだと批判した。
安部公房氏に﹃燃えつきた地図﹄という作品がある。たし
かにこの小説は外界喪失を描いており、また安部氏は根を
求めるのをやめて根のないところから出発しようといって
いる。しかしそれは性急ないい分であり、それが支持され
るのは、われわれがまだまだいやな﹁根﹂をもちすぎてい
るからである。当然この作品は、﹁外界喪失﹂を感じさせる
安部の六0年代の小説に︿古い共同体の一言葉、古い共同体的思
考に訣別をつげようとする者の決意﹀を読む高野斗志美論、﹁ぽ
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は言、っ。これと同じように﹃燃えつきた地図﹄においても、我々
が共同体にとらわれ続けているという現実を抑圧するために共
同体の否定という概念が安部と読者の間で流通しているのであ
り、それは自己欺臓に過ぎないのだと柄谷は批判しているので
﹁根﹂を関係性としてとらえるならば、﹁根なんかもともと
いらないんだ﹂という発想は、まことにラディカルなもの
と、戦後社会の動向を見据え、さらに︿それを思想の側から﹁進
歩﹂とみることも可能である﹀と、都市化が積極的な意味を持
ち得ることを認めた上で、それをいかに描くかということを問
うているのである。血縁や地縁をも含む共同体(根)の人間関
係を︿もともといらない﹀ものとする発言は、人聞に︿根本的
ラヂ 4カル
な革命﹀を迫る急進的なものであるが、それが現実としては残
り続けている共同体意識を見まいとする自己欺闘を補強するだ
ヨンサヴア四一7 4ヴ
けならば、むしろ保守的に作用しかねない。﹁地図は燃えつき
たか﹂という柄谷の聞いは、﹃燃えつきた地図﹄が描く共同体意
であり、人間の意識そのものに根本的な革命を要求するも
のである。むろん安部氏にそんな認識はない。
もちろん柄谷は都市化という現象を問題にしているのではな
い。彼は︿都市の汎化現象、資本制生産関係の拡大のもとに、
人間関係の抽象化と外界喪失が進行していることは疑えない﹀
郷愁から戦後を︿喪失の時代﹀と認識し、そ初認識が︿私情で
あって正義でなくてもよい﹀と断言した江藤淳への共感に根ざ
すものであった。文学を︿﹁正義﹂につく﹀ものではなく︿私情
を率直に語ることにはじまるもの﹀であるとする江藤に寄り添
う柄谷の視点からは、安部は戦後を謡歌するために私情を偽っ
て﹁正義﹂を語る者にしか見えないのだろう。さらに、柄谷は
識の解体が、逆にその保持を促す危険性があることを訴えるべ
く発せられたものだったのである。
ある。つまり、﹃燃えつきた地図﹄は記憶を失った﹁ぼく﹂の形
象によって︿外界喪失﹀を描き、共同体を否定するのだが、そ
れは現実としては残り続けている共同体意識を自覚させず、む
しろそれを見まいとする自己欺臓を補強する作用しか持ってい
﹁地図は燃えつきたか﹂と許っ挑発的な評論を書き、安部の︿根
なんかもともといらないんだ﹀という発言に︿農村や地方都市
安部を私情を偽る者として対照的に捉えているが、その根拠が
ないというのが柄谷の論である。
このような柄谷の見方は、﹁故郷﹂(戦前の大久保百人町)への
の人間関係から脱出してきた都市生活者のほっとしたような身
軽さにひそむ、何がしかの罪感情を洗い流すような意図がうか
がわれる﹀と、自己正当化の論理を見出し、その︿身軽さ﹀を
暖味である。確かに都市化を続ける戦後社会において﹁故郷﹂
に執着する江藤とそれを否定する安部とを比較すれば、安部の
しかし、このような柄谷の論には大きく三つの問題点を指摘
することができる。第一に、柄谷は江藤を私情を偽らざる者、
︿当然経なければならない対決をすりぬけてきた﹀結果のもの
として批判した。
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方が﹁正義﹂に迎合しているように見えるかもしれない。しか
る﹀という記述に表れている通り、柄谷は﹃燃えつきた地図﹄
敗戦直後の奉天で無政府状態に遭遇したときに︿父と、父に代表
される財産や義務からの解放﹀を感じたという安部の経歴を鑑
者﹁ぼく﹂と﹁彼﹂は、いずれも共同体と呼ぶべき集団には属
しておらず、それらへの郷愁を語ることもない。そして、彼ら
きた地図﹄の舞台は都市(東京)なのであり、︿愛郷精神﹀を掲
げて協業する﹃砂の女﹄における﹁村﹂のような共肉体は描か
れていないのだ。また、﹁燃えつきた地図﹄における二人の失院
と︿根なんかもともといらないんだ﹀という安部の発言を直結
して理解しているが、そこには陥穿がある。そもそも﹃燃えつ
みれば、共同体を否定する言説が彼の私情を偽った結果のもの
だと容易には断定できないはずである。そのような可能性を検
が属する家庭(団地)や企業(興信所・商事会社)を、無条件に伝
統的な共同体(旧来の家や協業集団)と同一視することもできな
し、原籍(北海道)と出生地(東京)と育った場所(主に﹁満州﹂)
が異なることから︿一と口に出身地と聞かれて、いったい何ん
と答えればいいのだろう﹀と自らの﹁故郷﹂の定め難さを認識し、
討せずに江藤だけを私情の率直な表明者と認め、安部をそれと
認めないのは公正さを欠く議論であると一言わざるを得ない。
された共同体意識であるからこそ、その内実が問われなければ
ならないのである。つまり、柄谷は﹁地図は燃えつきたか﹂と
い。したがって、﹁ぼく﹂や﹁彼﹂の失院をそのまま共同体から
の脱出として読むことはできないのである。むろん、安部の関
がそのような自己欺蹄を犯していると言いきれるのか。柄谷は
安部が︿先験性﹀や︿抽象化﹀にとらわれて現実を見ていない
のだと批判しているが、彼自身がそうしていないという確証は
問う前に﹁地図とは何か﹂を問うべきであった。安部の共同体
否定論と直結して﹃燃えつきた地図﹄を読む視点からは、この
第二に、柄谷は、安部と読者が︿自己の過去と現実を消去し
てしまいたいという﹀願望を共有しており、︿それを支持する黙
どこにもないのである。そのため、柄谷に安部と読者との﹁共
犯関係﹂が見えるのは、彼自身が先験的かつ抽象的に読者を捉
小説で描かれる共同体意識の問題性は見えてこないのである。
以上、柄谷への反論を試みたが、第一の点については作家論
契﹀を交わしているのだと指摘しているが、その根拠も具体性
を欠いている。そもそも何をもって﹃燃えつきた地図﹄の読者
え、その現実を見ていないからではないのか、という疑念が残っ
てしまう。
的観点から、第二の点については読者論的観点からさらに検証
を重ねる必要があるだろう。それらは今後の課題とするとし
心は実体的な共同体にではなく、内在的な共同体意識に向けら
れているのだから、必ずしも具体的な共同体が描き込まれてい
る必要はない。しかし、具体的な共同体の表象に拠らずに表象
第三に、︿この小説は外界喪失を描いており、また安部氏は根
を求めるのをやめて根のないところから出発しようといってい
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て、本論では第三の点に焦点を絞って考察を加えたい。それは
﹃燃えつきた地図﹄についての評価を異にする高山らと柄谷が、
この点においては共通の問題を抱えているからである。確かに
安部は︿失除はいずれ何らかの共同体からの失綜だと思う﹀と
語っている。しかし、﹃燃えつきた地図﹄に共同体は描かれてい
ない。高山らならば共同体ではなく、都市に残存する︿疑似共
同体﹀が描かれているのだと言うだろう。その指摘は的確であ
る。ただ、団地や興信所としてしか描かれない家庭や企業が、
どのような意味において︿疑似共同体﹀であるのかということ
は聞い直す必要がある。それを問わない限り、﹃燃えつきた地
﹁人生に必要な地図は、一枚だけで、沢山なんですって
::弟の口ぐせなの:::世間は、猛獣や毒虫がうようよし
ている、森や薮みたいなものだから、みんなが通りつけて、
はっきり安全だと分ったところしか、絶対に通っちゃいけ
ないんだって::﹂(略)﹁ぼくには、十枚でも、二十枚で
も、とにかく地図が必要なんだ。こんな、顔写真一枚と、
古いマッチ箱一つで、いったい何をしろって言、つんです。
ぼくは、奥さんとはちがって、危険なところを嘆ぎまわる
のが商売なんですからね。(略)﹂(二七)
使いふるした広告マッチと、一枚の写真。地図というに
は、あまりにも余白が多すぎる。だからと言って、無理に
図﹄において共同体意識の解体が描かれることの必然性は捉え
られず、安部の︿身軽さ﹀を批判する柄谷の論にも応えられな
いのである。果たして、この小説で燃えつきた日解体されたも
のとは何だったのだろうか、改めて聞い直したい。
︿人生に必要な地図﹀とは生きるのに欠かせない情報一般を指
す常套的な表現だが、﹁女﹂が得られる情報は﹁弟﹂によって安
全が確かめられたものだけに限定されているので、写真とマッ
チ箱しか﹁彼﹂の遺留品を提示できないのだと一言う。失践者の
居場所をつきとめることを︿商売﹀とする﹁ぼく﹂としては、
地図 H手がかりを︿十枚でも、二十枚でも﹀とさらに要求せざ
るを得ないわけだが、﹁女﹂はそれに応じようとしない。このた
﹃燃えつきた地図﹄において燃えつきたものとは地図である、
とひとまず一言うほかはない。しかし、地図への言及はこの小説
のいたるところでなされており、その描かれ方も一様ではない。
地図は、ときに具体的な地図そのものとして、ときに抽象的な
その余白を埋めてやる義務はないのだ。ぼくはべつに、法
の番人というわけではないのだから。合一二)
あえて手がかりが示されないのだとすれば、﹁ぼく﹂に求められ
め、﹁ぼく﹂は手がかりが示されないこと自体の意味を考えずに
はいられなくなる。
何かとして描かれている。
当初、地図は失隠した﹁彼﹂にたどり着くための手がかりの
隠除であった。﹁ぼく﹂と﹁女﹂は次のように語り合う。
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の信窓性を高めることであることになる。﹁ぼく﹂は︿どうやら、
自分でも気付かずに、なにか犯罪めいたことの、片棒をかつが
ている役割は﹁彼﹂を探し出すことではなく、プロの探偵にも
﹁彼﹂を探し出せなかったという事実を成立させて、その失践
ている。支払われた費用は、あくまでも依頼人の利益保護
のためであって、真相の追求などは、いずれ二の次なのだ
の境界を確かめられない。さらに、そのまま﹁弟﹂が殺害され
ることによって、﹁ぼく﹂は︿この調査依頼が、﹁彼﹂の行方を
さらに隠蔽するための、陽動作戦かもしれないという疑惑を、
完全には拭いきれ﹀(一四七)ないという状態に取り残されるの
﹁ぼく﹂は︿真実以上に、依頼人の利益と保護が優先している﹀
(一二八)ことを﹁女﹂に告げてその真意を探ろうとするが、矛
盾や思い込みに満ちた彼女の言動に翻弄されて地図 H契約範囲
一度、そのつもりになって、彼女に会い、地図の境界線を、
はっきり確認しなおしてみる必要がある・・(九五)
単なる口裏合わせだけでなく、言葉どおりの意味での、事
実と、真相を求めているのだとしたら:::とにかく、もう
され、許可を与えられた区域だけ﹀(六=一)に自らの行動を制限
しようとするのだが、﹁弟﹂が情報提供を惜しみながらも捜索期
間の延長をほのめかすという矛盾した行動を取るため、地図 H
契約範囲の境界を見極めることができない。
ぼくは、誤解していたのだろうか・:もしも、依頼人側が、
から。(=一八)
﹁ぼく﹂は依頼人の利益を損なう恐れがある領域を︿地図の空
白﹀として語っている。ここで地図は﹁ぼく﹂が探偵として依
頼人から課される行動の制約、すなわち契約範囲を表象するも
のになっているのである。そのため、﹁ぼく﹂は︿依頼人に指定
される筋書になっているらしい﹀(三人)と推測し、何らかの犯
罪の加害者か被害者になった﹁彼﹂の隠蔽工作に自分が利用さ
れているのではないかと疑う。それでも自分は︿法の番人とい
うわけではないのだから﹀と、利用されることを厭わないとこ
ろに探偵という職業の特質がある。警察官ならば失綜の真偽ま
でを究明することが求められるが、探偵はそうではない。その
上、もし推測どおり﹁ぼく﹂に期待されている役割が﹁彼﹂の
捜索に﹁失敗﹂することであったとしても、それを明言すれば
犯罪も隠せなくなるため、依頼者がそれを口にすることはない
のである。﹁ぼく﹂は、探偵であるがゆえに地図の余白 H手がか
りの欠如の意味を自分で見極めなければならない位置に立たさ
れる。
このように、失綜者の捜索という明示された役割が疑わしい
ものになり、手がかりの意味が不確かになることによって、地
図は次のような独特の表象機能を持つようになる。
うっかり気をまわしすぎると、地図の空白のまっただ中
に、いやおうなしに踏み込んで行かざるを得ない、危険な
予感。しかし、めったなことでは、この疑惑を、相手につ
きつけたりはしないつもりだ。それくらいのことは、心得
2
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である。
︿
S釈での待ち合わせ場所の地図﹀(五四)やF町の地図(七五)
このように見ると、この小説に描かれる地図は他者から強く
制約を受ける性質を持つものであることが分かる。﹁ぼく﹂は
といった具体的な地図をもとに﹁彼﹂を探すのだが、常に契約
範囲の隠喰としての地図を逸脱しないよう自戒し続けねばなら
ない。むろん、契約という制度が﹁ぼく﹂にそれを強いている
のである。そもそも﹁ぼく﹂が T興信所を介して探偵業務を行
う契約を﹁女﹂と結んでいることは、﹁調査依頼書﹂として小説
大体ぼくが、いまごろ、こんな所を走っていること自体、
まるで説明のつかないことなのだ:::事務所に戻って、主
任に会うことになっていた、約束の時間もとうに過ぎてし
まった:::依頼人への連絡も、すっぽかしたままだ:::こ
こにいるはずのないぼくが、何処かに辿り着いたりするわ
けがないではないか:::純粋な時間:::目的のない、時間
の消費:::なんという賛沢さ:::アクセルをいっぱいに踏
み込む:::速度計の針が徐々に上って、九十六キロを指す
・:風にハンドルを取られはじめる:::緊張感で、ぼくは
ほとんど点のようになる:::暦に出ていないある日、地図
にのっていない何処かで、ふと目を覚ましたような感じ
・:この充足を、どうしても脱走と呼びたいのなら、勝手
に呼ぶがいい:::(略)誰でもないぼくに、同情なんて、
まっぴらさ・:溺れ死しかけている人間のために、砂漠で
渇き死しかけている人聞がそそぐ涙におとらず、馬鹿気て
冒頭に明示されている。つまり、この小説は契約の始まりを物
語の始まりとする﹁契約の物語﹂とも言うべき構造を持ってい
るのである。かつてホッブズが︿人々が︽契約︾(コントラクト)
と呼ぶところのものは、権利の相互譲渡のことである﹀と述べ
た通り、契約は締結者同士が互いの役割を規定し合う関係を作
り出すため、﹁ぼく﹂のように自らの行動を他者の要求に応じて
﹃燃えつきた地図﹄は都市化を続ける空簡を描くために、人口
が描き込まれているが、高速道路もそのような道具立ての一つ
になっている。﹁ぼく﹂は経済活動の活性化を目的に増設され
いる:::(一七二)
制限するのは契約関係一般において避けられないことである。
ただし、公的な契約を結びながらも他者の最も私的な要求に応
密度の高まり(︿そっくり同じ人生の整理棚﹀(六)としての団地)
やエネルギー需要の増大(︿あるところまで発展して都市ガスが
ていた高速道路を、あえて無目的に疾走することで、ひととき
(鈎}
じねばならないという探偵業務の特質によって契約関係の複雑
さが強調されていることを考えれば、﹁ぼく﹂が探偵として設定
入ったとたんに、もう一巻の終り﹀(五O) になるプロパンガス)等
れを逸脱しようとする人間でもあった。﹁ぼく﹂は高速道路で
しかし、﹁ぼく﹂は地図 H契約範囲を強く意識する一方で、そ
されていることには必然性が認められる。
次のように考える。
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するのは︿地図にのっていない何処か﹀であるが、これは彼が
上司や依頼人との契約関係から逃れようする。﹁ぼく﹂が夢想
あった。﹁ぼく﹂は別居中の妻と次のように語り合う。
﹁分ったわ、あなたは家出をしたのよ、逃げ出したのよ。﹂
りもしない自分の中途半端さ﹀(一七四)を自認する半失践者で
者は未登録であるがゆえに契約の効力も及ばない領域を指し、
﹁逃げ出した?﹂
避け続けている︿地図の空白﹀とは似て非なるものである。前
後者は契約によって生じる立入禁止領域を指している。むろ
ん、﹁ぼく﹂が走っている高速道路も現実的には地図に載ってい
はなV ・
i-そして、本来ならば、ぼくが立っているべき場
身の地図:::立っているのは、ぼく自身であって、﹁彼﹂で
くが探っている、この暗閣は、けっきょくぼく自身の内臓
にすぎないのだ:::ぼくの脳味噌に映し出された、ぼく自
解体させるものであった。
ぼくは﹁彼﹂を求めて、手探りする:::いや駄目だ:::ぼ
と違いがない。この類似性の自覚は﹁ぼく﹂と﹁彼﹂の対立を
たら、調査中の﹁彼﹂が、自分の影と、ぴったり重なり合っ
たような気がしたからかもしれない。(一占ハ九)
﹁ぼく﹂が狼狽と屈辱を感じたのは、妻の発言が探偵である自
分と失際者である﹁彼﹂との類似性を自覚させたからである。
彼女の言葉通り﹁ぼく﹂は既に家出人であり、その点では﹁彼﹂
うが、よほどどうかしているのだ。そう思う一方、その当
然すぎる指摘に、ぼくが妙な狼狽を感じていたことも事実
である。いきなり顔に、灰皿のなかみをあびせられたよう
な、ひりひり泌みいる屈辱感:::なぜだろう:::もしかし
当然のことじゃないか。ぼくも、そのつもりだったし、
そんなことは、一言われなくても分っている。まるで、新発
見でもしたように、いまさららしく驚いてみせたりするほ
るに違いないのだから、どれだけ疾走してもそこが︿地図にのっ
ていない何処か﹀になるはずはない。ここで明らかになるのは、
未登録の場所が存在しない以上、契約関係の網目で覆われた世
(
E
v
界から出るには失除者になって自らを未登録の存在にするしか
ないということである。このような契約の無効を求める心理は
﹁ぼく﹂に限ったものではない。﹁彼﹂の上司も失除すれば︿せ
いせいするだろう﹀(五三)と語り、部下の田代も︿あんな会社
のために、貴重な人生を切り売りしているんだと思うと、火で
も付けてやりたいくらいだ﹀(一一二三)と憤慨するのである。さ
らに、失綜願望の社会的な広がりを印象づけるために︿千人に
一人の割で失践者がいる﹀(二四四)ことを報じた新聞記事も引
用されている。﹁ぼく﹂が自分を︿溺れ死しかけている人間﹀、
他者を︿砂漠で渇き死しかけている人間﹀と見なして同情を拒
むのは、そもそも同情という一方的な感情が成立するほどの差
異が自他に認められないからである。
このような失除願望の根深さは﹁ぼく﹂と﹁彼﹂の関係の変
化を通じて示されている。そもそも﹁ぼく﹂は︿逃げもせず戻
2
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6
の工事場の板塀の前あたりでなければならないはずなのに
::・そのぼくが、依頼人という偶然の関係以外にはなにも
所は、ここではなく、たとえば妻の部屋の窓が見える、あ
販売)等、﹁彼﹂が結んでいた諸々の契約関係を手がかりにその
ない、他人の窓を探して、ふるえながら立ちつくしている
ているのである。さらに、探偵が失践者の契約関係をもとにそ
の行動範囲を再構成する過程と、探偵自身が自らの契約範囲を
逸脱する過程を重ねることによって、探偵の内部に潜んでいた
て、この図像的なイメージを用いて諸々の契約関係を一元的に
表象し、一個の人聞が負っている制約の多重性と複雑さを示し
このように﹁燃えつきた地図﹄における地図とは、契約から
生じる人間行動の制約を象るという独特の表象機能を持ってい
る。あるいはこの小説においては契約が地図の描線になってい
るのだと言っても良い。これによって人間行動に課される不可
視の制約が図像的なイメージとして形象化されている。そし
方を同時に逸脱するものであった。そのため︿﹁彼﹂の地図を
辿っているつもりで、自分自身の地図を辿﹀っているという認
識、つまり諸々の契約関係から逃れ出た﹁彼﹂を追う行程が、
そのまま﹁ぼく﹂が自身の契約関係から逸脱する行程になって
いるという認識が生まれているのである。
行動は異なるものであるはずだが、﹁彼﹂に代わり、妻に代えて
﹁女﹂を欲望する﹁ぼく﹂の行為は、業務契約と婚姻契約の両
足取りを辿る試みであった。それでも見つからないために﹁ぼ
く﹂は﹁彼﹂が︿自身の地図にさえ載っていない﹀場所に立っ
ているのだと考えるのである。そして、﹁彼﹂との類似性を自覚
する﹁ぼく﹂の眼差しはそのまま自身の契約関係に向かう。本
来、﹁ぼく﹂が探偵として取るべき行動と配偶者として取るべき
のだ:::おそらく﹁彼﹂が立っている場所も、﹁彼﹂自身の
地図にさえ載っていない、どこか思いがけない窓の下なの
だろう:::(略)しかし、いまここに立ちつくしているの
は、ぼくである。まぎれもない、ぼく自身なのである。﹁彼﹂
の地図を辿っているつもりで、自分自身の地図を辿り、﹁彼﹂
の跡を追っているつもりで、自分の跡を追い、ふと、立ち
つくしたまま、凍りつき:::(二五
O)
﹁ぼく﹂が立っている︿﹁彼﹂が最後に目撃されたという、その
あたり﹀(二四人)は、かつては﹁彼﹂を捜索する起点であった
が、その意味は大きく変化している。﹁ぼく﹂は﹁彼﹂なら︿捨
て去ったわが家の窓を見上げて、なにを思うだろう﹀(二四八)
とその心理を探ろうとするのだが、明らかになるのは﹁ぼく﹂
の内面ばかりなのである。﹁女﹂のもとに帰るべき﹁彼﹂の代わ
りに﹁女﹂の窓下に立った﹁ぼく﹂は、妻のもとに帰るべき自
分が妻の代わりに﹁女﹂の窓下に立っていることに思い至る。
ここで語られる地図 H契約範聞は業務だけではなく、婚姻を含
む契約一般を視野に入れて考える必要がある。そもそも﹁彼﹂
の捜索は、婚姻(﹁女﹂と﹁弟﹂との﹁三角関係﹂)・雇用(大燃商事
での人間関係)・公的業務 (M燃料庖への卸売)・私的業務(中古車
7
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失綜願望を動的に顕在化させているのである。
﹃燃えつきた地図﹄で解体されたものとは、契約によって構築
された人間関係であった。この小説の結末部は︿依頼人の弟が
殺され、﹁彼﹂の部下だった田代君が自殺し、妻からは一本の電
話さえなく﹀(二六四)と、﹁ぼく﹂と関わりのあった人々が姿を
消し、さらに彼が T興信所を辞め、︿ちょうど五分前に、契約が
切れたとこよ﹀(二七二)と、﹁女﹂との契約期間も終わることに
よって﹁ぼく﹂が結んでいた諸今の契約関係が解体した果ての
物語になっている。この部分は、先述の通り短編小説﹁カ lブ
の向、つ﹂を改稿したものであるが、両者には決定的な違いがあ
る。すなわち、救助を求めた﹁ぼく﹂が、﹁ヵ lブの向う﹂では
﹁女﹂に︿捕縛﹀されるのに対し、﹃燃えつきた地図﹄では﹁女﹂
から︿身を隠す﹀(二九八)のである。
﹃燃えつきた地図﹄の﹁ぼく﹂はコーヒー庖︿つばき﹀で受け
た暴行のために、かつて﹁弟﹂が語っていた︿過去の記憶だけ
をなくして、現在の出来事については(略)判断力を失わない﹀
アイデンティテ 4
(四三種類の記憶喪失に陥っているのだが、名前も忘れて︿自
分が自分であるという自覚﹀(二八五)が辛うじて残っているだ
けであるため、自他の自己同一性を混同してしまう。﹁ぼく﹂は
カlブの向うに自分の家があると思い込んでいるが、それは
﹁彼﹂の家であって﹁ぼく﹂のではない。また、実際には数回
しか通ったことがない団地へ至る坂道を︿もう何百回も繰返し
て、すっかりなじみになったはずの道﹀(二七五)だと信じ込ん
でいることから見ても、﹁ぼく﹂がかつて︿獲物の頭になって考
えて﹀(一七四)作り上げた﹁彼﹂の記憶を自分のそれと混同し
ていることは明らかである。﹁ぼく﹂自身もこの記憶を︿偽の既
知感﹀(二七九)かもしれないと危ぶみ、もしそうならば︿自分
自身さえ、もはや自分とは呼べない、疑わしいものになってし
まう﹀(二七九)という自我の危機に直面している。
﹁ぼく﹂は訪僅の末にコーヒー庖に辿り着くが、その庖が︿つ
ぱき﹀であり、そこにいる庖員が︿求女庖員﹀(一一一一一一及び二六六)
という求人広告に応えて︿明日から、勤めに出ることに決った﹀
(二七二)と話していた﹁女﹂であることが分からない。そこで
﹁ぼく﹂は自分の所持品を手がかりに記憶を取り戻そうとポ
ケットを改め、特に︿ノ 1トの切れ端と、バッジの、二品だけ﹀
(二九 O) をいわくありげなものとして選び出す。ノートの切
れ端は田代に書かせた︿S駅での待ち合わせの場所の地図﹀(五
四)であり、バッジは︿ぼくがあずかつておきます﹀(一九三)と
言って持っていた﹁弟﹂の形見(大和奉仕団の徽章)なのだが、
これらも﹁ぼく﹂には見知らぬ物にしか映らない。
このように、結末部では記憶を失った語り手が既に語られた
ものを再び語り直すという手法によって、読者の︿既知感﹀を
喚起する構造が作り出されている。まず、小説冒頭部と結末部
﹀(四及び二七四)という同
l
l
の語り出しが共に︿道の表面はa
2
1
8
一の風景描写になっているのを目にして、読者は最初の︿既知
が、無気味なバッジの出現によって人間の記憶に完全な持続を
求めることはできないのだと認識を改めている。このように記
憶への信頼感の相対化を空間的なイメージを用いて表象する手
﹁ぼく﹂は記憶を失った当初、記憶が持続しているカ lブの手
前を正常、消えた向うを異常とする二分法で事態を捉えていた
り、語り直される人や物について語り手は知らず、読者は知っ
ているという状況が作り出されるため、読者は﹁ぼく﹂に何も
法は﹃燃えつきた地図﹄へ引き継がれるが、バッジを捨てるこ
とでその恐怖を遠ざけられると考えるような楽観性は引き継が
感﹀を覚えるはずだが、この語りの構造には﹁ぼく﹂の認識と
読者の︿既知感﹀との髄績を逐一確認させる働きがある。つま
伝達できないことを知りながらも、個々の事物について注釈を
加えずにいられなくなるのである。むろん、﹁ぼく﹂が何者であ
であることを彼に伝える。ただ、バッジについてだけは︿なに
かしら﹀と彼女にも説明できないのだが、﹁ぼく﹂は︿この程度
に分っていれば、それでいいのかもしれない﹀と納得する。
く﹂が彼女の夫であり、カ lプの向うには彼らの住む団地があ
り、彼が持っていた地図は︿家主さんのところ﹀を示したもの
界に閉じ込められていることに変りはないのだ。坂のカー
ブの手前、地下鉄の駅、コーヒー庖、その三角形はなるほ
信用するものか。誰だって、どんな健康な人間だって、自
分の知っている場所以外のことなど、知っているわけがな
いのだ。誰だって、今のぼくと同じように、狭い既知の世
誰からも記憶を補填されることはない。彼は電話ボックスの中
で彼女の到着を待つ聞に次のように考える。
医者なら、ぼくが失ったのは、カーブの向うなどではなく、
記憶なのだと主張したがることだろう。誰がそんなことを
れない。この楽観性は失った記憶を﹁女﹂から補填されること
なしには成立し得ないものだったのである。
一方、﹁女﹂から身を隠す﹃燃えつきた地図﹄の﹁ぼく﹂は、
あのカ lブの手前で、ぼくがここまでは正常だと感じてい
た、あの持続感のほうが、むしろ異常な夢の世界だったの
るのかを彼に伝えられる人間は﹁女﹂ただ一人しかいない。彼
女は極度に狭まった﹁ぼく﹂の認識領域の中で彼のことを知っ
ている唯一の人間であるのだから。
そして、短編小説﹁カ lプの向う﹂に描かれる﹁女﹂は、そ
の唯一の人間としての役割を確かに果たしている。﹁女﹂は﹁ぼ
かもしれない。なんだか分らないバッジの角を、指のあい
だにはさんで、まわしてみる。ぼくにはやはり、このわけ
ど狭い。狭すぎる。しかし、この三角形が、あと十倍にひ
ろがったところで、それがどうしたというのだ。三角形が、
十角形になったところで、何処がどう違うというのだ。
もし、その十角形が、決して関かれた無限に通じる地図
が分らないバッジが恐ろしくてならないのだ。夜が明けた
ら、すぐにどこか遠くに行って捨ててこよう。
9
1
2
だったとしたら:::(二九七)
ではないことを、自覚したとしたら:::救助を求める電話
に応じて、やって来る、救いの主が、自分の地図を省略だ
らけの略図にすぎないと自覚させる、地図の外からの使い
契約という制度で構築された世界なのである。したがって、誰
もが︿既知の世界﹀に閉じこめられているとは、誰もが契約関
係の内部で生きており、それ以外の関係については時間を失っ
景だけを残して︿人や車が消え﹀(一一人こてしまうという不安
定さを持っているのもそのためである。彼に残された選択肢は
二つしかない。一つは再び人々と契約を結び直すことによって
た断絶状態にあるということを意味していることになる。
世界がそのように見えるのは﹁ぼく﹂が契約関係を解消した
果ての状態にあるからだ。彼の認識領域が極度に狭められ、風
カlブの手前・駅・コーヒー庖を頂点とする三角形の外部が消
えたのは、記憶を失ったからではないのだと﹁ぼく﹂は主張す
には、なんら真空と変らない﹀(二九五)空間であった。つまり、
る。記憶ではなく、ヵ lブの向うそのものが消えるとはいかな
る事態なのか。﹁ぼく﹂が覗き込んだカ lブの向うとは︿時間的
従来の地図 H契約範凶へ帰ることである。これは﹁女﹂から記
憶を補填されれば容易に果たすことができる。﹁ぼく﹂は思い
しい。
しかし、﹁ぼく﹂が辛くも選び取ったのはそこへの帰還を拒む
という、もう一つの方法であった。それを実行するためには︿悲
鳴を噛み殺しながら﹀(二九九)身を隠さねばならない。﹁女﹂は
カlブの向うとは時間だけが消えた空間なのであり、カーブの
向うの消失とは時間の消失を意味していることになる。さら
に、﹁ぼく﹂は︿既知の世界﹀に閉じこめられているという点で
は、誰もが自分と同じなのだと主張する。それはたとえ認識領
域が彼の︿十倍にひろがったところで﹀質的な違いはないから
だという。ここで︿既知の世界﹀が︿無限に通じる地図ではな
いこと﹀を自覚することが、︿自分の地図を省略だらけの略図に
すぎない﹀ことを自覚することと同等に語られていることに注
目したい。これは﹁ぼく﹂が︿つばき﹀で撃退されたときに到っ
た︿現実の街にくらべたら、ぼくらの画いた地図なんて、あま
り簡単すぎるんだ﹀(二七こという自覚と同一のものである。
彼が何者であるのかを語り得る唯一の人間だったのだから。
今ぼくに必要なのは、自分で選んだ世界。自分の意志で選
んだ、自分の世界でなければならないのだ。彼女は探し求
違いをしているが、﹁女﹂は決して彼が恐れる︿地図の外からの
使い﹀ではない。彼女はコーヒー庖と雇用契約を結び、新たな
契約関係の中で生き始めた人間なのだ。むしろ︿地図の外から
の使い﹀と呼ぶにふさわしいのは失除した﹁彼﹂の方であり、
彼女の役柄は﹁ぼく﹂を契約関係へ連れ戻そうとする探偵に等
ここで語られる︿省略﹀や︿簡単﹀さを生み出すものこそが契
約に他ならない。すなわち、︿省略だらけの略図﹀で捉えられた
︿既知の世界﹀とは、人聞が互いを規定し合い、抽象化し合う
2
2
0
める。ぼくは身をひそめつづける。やがて、彼女は、あき
らめたように、のろのろと歩きはじめ、たちまち車の陰に
さえぎられて、もう見えない。ぼくも、閣の隙聞から出て、
彼女とは反対の方角に歩き出す。理解出来ない地図をたよ
りに、歩きだす。もしかすると、彼女のところに辿り着く
ために:::彼女とは反対の方角に、歩きだす。(二九九)
﹁ぼく﹂が拒否するのは属性を与えられることである。﹁女﹂は
﹁ぼく﹂に名前を与え、帰るべき家を与え、さらには新しい夫
という地位までを与えるかもしれない。だが、それでは彼の危
機は解決できない。なぜなら、属性を与えられるという関係の
受動性こそが危機の元凶であるからだ。かつてルソーが社会契
約を︿各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自
(幻)
身にしか服従せず、以前と同じように自由であること﹀と謡っ
たように、契約とは﹁主体﹂的な人間同士が﹁自由﹂意志に基
く、契約が生んだものに過ぎない。その証拠に、より﹁主体﹂
的な彼の行動は地図 H契約範囲からの逸脱として顕れ出てい
る。すなわち、﹁ぼく﹂の失践者化とは契約が生む﹁主体﹂とは
異なる位相の﹁主体﹂の出現を意味しているのである。むろん、
一切の契約を拒むことなど現実的には不可能に近い。それを実
行するには失践し続けるしかないのが現状である。それゆえ、
失綜をそのまま行動規範と見なすことは性急の務りを免れな
い。しかし、人聞が契約に収まりきれない﹁主体﹂を抱える存
在であることもまた確かである。﹁ぼく﹂が究明しようとした
謎がついに謎のままであることがそれを示している。すなわ
ち、契約関係の調査からは﹁彼﹂が失践した動機すら突き止め
られなかったという捜索の不可能性こそが、契約を越える﹁主
アクチュアリテ 4
体﹂の現実性を逆説的に表象しているのである。
では、このような契約社会における﹁主体﹂の問題は、共同
体意識の問題とどのように関係しているのだろうか。安部は
ぼくには、人聞は。拠りどころ。を持たねばならないとい
う考え方に対する疑惑がある。自分で足がかりをつくるの
﹃燃えつきた地図﹄についてのある取材記事の中で次のように
(旦)
語っている。
の受動性を解体するものであるはずだ。しかし、かつて﹁ぼく﹂
が結んでいた契約はどれだけ﹁主体﹂的なものだっただろうか。
﹁ぼく﹂は常に他者の要求を探り、変動する地図 H契約範囲に
じゃなしに、ア・プリオリにある拠りどころを受身的に持
つこと、例えば故郷とか民族とか、それへの疑惑がある。
づいて結ぶものと見なされている。そうであるならば、契約こ
そが所属や行動規範を能動的に決定することを可能にし、関係
翻弄され続けていたのだった。それでも﹁ぼく﹂が自分の﹁主
体﹂性を疑わずに済んだのは、契約を履行しているという意識
かつて人聞は共同体の中で先天的に付与される属性に基づいて
生きていた。都市化とはそのような共同体の弱化現象に他なら
ア・プリオリ
が彼の行動を﹁主体﹂的なものに見せていたからである。つま
り、﹁ぼく﹂が持っていた﹁主体﹂は、契約を生んだものではな
1
2
2
ず、現代においては契約によって得られる所属や行動規範の重
要度が拡大し続けている。しかし、﹁主体﹂的な契約の名の下に
受動的な関係が成立しているのであれば、契約と共同体との機
能的な差異はなくなってしまう。すなわち、そのような関係の
受動性を無自覚に容認する態度こそが共同体意識の内実だった
のである。したがって、この小説に描かれる団地や興信所を︿疑
似共同体﹀と呼ぴ得るのは、そこでの関係が受動的であるとい
う意味においてである。ただし、共同体意識の問題性は単に︿疑
似共同体﹀の弊害を批判するだけでは見えてこない。脱共同体
的な制度であるはずの契約が関係の受動性を生み出すという
アポリア
﹁主体﹂の難問に向かい合うとき、共同体意識をより深刻な現
代の問題として捉えることが可能になる。柄谷行人は共同体意
(国)
識を抑圧することを︿自己欺楠﹀と呼んだが、その自己の欺臓
を描くことによって、この小説は共同体意識をより根源的な次
元で問うているのである。
安部自身が︿三部作﹀と称した﹃砂の女﹄﹃他人の顔﹄﹃燃え
つきた地図﹄は、それぞれが砂川労働、顔 H記号、地図 H契約
によって構築される人間関係を題材としながら、そこに潜む共
同体意識への聞いを共有している。ただし、契約が共同体﹁以
後﹂において人間関係を築く上で最も現実的な影響力を持つ制
度になっていることを考えれば、この小説は他の二作を凌ぐ強
度で共同体意識を問題化していることになる。﹃燃えつきた地
図﹄は三番目に書かれねばならない小説だったのである。
注(
l) 座談会﹁。燃えつきた地図。をめぐって﹂(﹃燃えつきた地図﹄
一九六七・九、新潮社、付録︺。出席者は安部公房、佐々木基
一、勅使河原宏、編集部。
(2) 高山鉄男﹁安部公房における空間﹂(﹁司 O河田のZ 口斗何回 N k r
,包凶﹂一九七六・六)。
、HC
) 座談会つ燃えつきた地図。をめぐって﹂(前掲)。
3
(
) 高野斗志美﹃増補安部公一房論﹄(一九七九・七、花神社)。
4
(
) 前田愛﹁空間の文学へ││都市と内向の世代﹂(﹁文学界﹂一
5
(
九七九・九)。
) 波潟剛﹁安部公房﹃燃えつきた地図﹄論││作品内の読者、
6
(
小説の読者、および同時代の読者をめぐって│l﹂(﹁文学研究
論集﹂一九九七・三 ) 0
) 近年も、中村友紀子﹁安部公一一房﹃砂の女﹄﹃燃えつきた地図﹄
7
(
﹂
﹁密会﹄における失除者たち││彼らの足跡とその後 l │ │
(﹁聖心女子大学大学院論集﹂二 O O八・七)、友田義行﹁安部
公房﹃燃えつきた地図﹄における映画的手法││勅使河原宏と
の協働を媒介に││﹂(﹁昭和文学研究﹂二 O O八・九)等の論
が書かれているが、いずれも﹁燃えつきた地図﹄における共同
体意識の分析を主題としたものではないので、今回は取り上
げていない。
) 柄谷行人﹁江藤淳論﹂(﹁群像﹂一九六九・二)。
8
(
) 江藤淳﹁戦後と私﹂(﹁群像﹂一九六六・一 O)。
9
(
(叩)柄谷は安部公房﹁向いと答えの間││第一部・問題提起﹂
(﹁海﹂一九六九・一 O) の次の部分を引用して批判を加えて
2
2
2
いる。︿そういう現実の中で﹁どこに根があるのか﹂という聞
いはすぐに発したがるけれど、﹁根なんかもともといらないん
だ、根があるという発想は、歴史的にある段階でつくられたも
のに過ぎず、ゥどこに根があるんだ。という問いを我キがもつ
こと自身、古いものに侵されているんだ﹂というところにまで
はなかなか飛躍しにくい。そしてすぐに。代用根。をどこかで
ひたすら見つけようとする。しかし、それが。代用根。である
限りみんな嘘だということ。そこまで思い切らないと駄目な
んじゃないか﹀。
(日)柄谷行人﹁地図は燃えつきたか││大江、安部にみる想像力
と関係意識﹂(﹁日本読書新聞﹂一九七0 ・三・二三、原題﹁大
江、安部にみる想像力と関係意識﹂)。これは﹃燃えつきた地図﹄
を直接的に論じたものではないが、題名が初版(﹁畏怖する人
間﹂一九七二・二、冬樹杜)において﹁地図は燃えつきたか﹂
と改められたことからこの小説を射程に入れた批評と見なす
ことができる。
(ロ)柄谷が﹁根﹂を共同体と同義のものとして理解していること
は︿安部氏は﹁根﹂を、故郷とか共同体とかいったプラスの意
味にもちいている﹀(﹁地図は燃えつきたか﹂前掲)と書いてい
ることから明らかである。
(日)安部公一房﹁安部公房年譜﹂(﹃新日本文学会集﹄二九巻、一九
六四・二、集英社)。
(
U
) 安部公房﹁年譜﹂(﹃新鋭文学叢書﹄二巻、一九六0 ・二一、
筑摩書房)。
(日)安部公房﹁都市について﹂(﹁新潮﹂一九六七・二。例えば、
前田愛が指摘する︿偽の共同体﹀がこれに該当する。
(凶)﹃燃えつきた地図﹄からの引用に付す漢数字は頁数を表して
いる。引用は初版(一九六七・九、新潮社)による。
(げ)﹁彼﹂の上司も︿根室君の細君が、わざわざあんたを雇った
となると、細君自身も、亭主の行方はさっぱりご存知ない証拠
だ(略)もしも万て根室君が細君と口裏を合わせて、私にだ
け行方を隠しているのじゃあるまいかと、そんな疑いも、どこ
かにちょっぴり残っておったようでしてな﹀(五一一一)と語って
いることから、既に﹁彼﹂の失院が疑われており、﹁ぼく﹂を
雇ったこと自体がその疑念を和らげる効果を持っていたこと
が描き込まれている。
(時)ホップズ﹃リヴアイアサン﹄第一四章(﹃世界の名著﹄一一一一一
巻、永井道雄他訳、一九七一・一、中央公論社)。
(問)団地群の出現を都市化の象徴と捉える見方は安部に限った
ものではない。例えば、川添登﹁都市の将来像﹂(﹁中央公論﹂
一九六六・八)には︿団地は年齢、生活水準の平均化された家
族集団の住む巨大な特殊部落である。その平均化はたがいに
影響し、強調しあって一般の平均とは異なるゆがめられた平
均化をつくっていくのである﹀という記述がある。
(却)戦後日本のエネルギー需要は飛躍的に拡大し、一九六O年
代にはエネルギー種別間での競争が激化していた。有沢広巳
﹃日本のエネルギー問題﹄(一九六三・四、岩波書庖)によれば
︿都市ガス、プロパンガス(略)など、それぞれ少しずつ用途
の差はあるとしてもだいたい似かよっている目的のために一
0種類以上の熱源、燃料源がひしめき合っている。だから、ェ
3
2
2
ネルギ l市場における流動性、互換性は、普通考えられる以上
に高いといえる﹀。特にガスについては、横倉尚﹁日本の都市
ガス産量不ーーその歴史と現状││﹂(﹃講座・公的規制と産業②
都市ガス﹄第一章、一九九四・四、 NTT出版)によれば︿都
市ガスの需要家数も、一九六O年の四四O万件から一九七O
年には一 O二O万件へと増加したが、この間に L P Gの需要
家数は四一 O万件から一四八O万件へとこれを上回る増加を
示した。 L P Gの販売はボンベ売りのほか小規模導管供給方
式によるものがあり、都市近郊の集合住宅や住宅団地を中心
に後者のタイプが発展しつつあったが、これを都市ガスの供
給とどのように調整するかが重要な政策上の課題となった﹀
という状況であった。
(幻)川畑成雄﹁高速道路時代﹄(一九六七・七、高速道路調査会)
によれば︿高速道路網建設を中核にしたわが国土の開発、再建
計画というのは、近代国家たるモータリゼ lシヨン化対策で
あり、陸上における輸送革命、流通機能近代化対策として策定
されたもので、十五カ年長期計画として、七六OOMに一日一る延
長の高速道路網整備が、精力的に(略)進められることになっ
﹀ 0
た
(辺)波潟側(前掲)が指摘する通り﹃燃えつきた地図﹄一一一五頁
に転写されているのは﹁朝日新聞﹂(一九六七・七・一五)の記
事である。
(お)ルソ l ﹃社会契約論﹄第一編第六章(桑原武夫他訳、一九五
四・二一、岩波書庖)。
(倒的)契約が生む﹁主体﹂という思考方法については、社会契約説
口
gζE型
研究から多くの示唆を受けている。例えば、杉田敦﹃権力﹄(二
000・六、岩波書庖)は、国家成立の暴力性を隠蔽するため
に社会契約に先立つ﹁主体﹂が権力的に作り出された可能性が
あることを指摘している。また、関谷昇﹁社会契約説と慾法﹂
(﹁岩波講座憲法﹄第三巻、二 O O七・六、岩波書庖)は、社
会契約説が﹁主体﹂を規範として表象し、特定の政治勢力によ
る支配を事後的に正当化してしまう可能性があることを指摘
している。これらはいずれも﹁主体﹂と国家権力の関係を論じ
たものであるが、﹁燃えつきた地図﹄には国家権力が直接的に
描かれていないため、本論ではこの思考方法を﹁主一体﹂悶の支
配関係に演柵押して援用している。
(お)安部公房﹁国家からの失綜﹂(﹁日本読書新聞﹂一九六七・一
一・二O)。
(お)安部公房﹁私の文学を語る﹂(﹁三一回文学﹂一九六人・三)。
(幻)詳細は拙論﹁流動と反復││安部公房﹁砂の女﹄の時間│﹂
(﹁近代文学論集﹂二O O二・一一←﹁安部公一房﹃砂の女﹄作品
論集﹄二O O三・六、クレス出版)及び﹁安部公一一房﹃他人の顔﹄
5 ﹂一一O O二・五)を
論││仮面と行為││﹂(﹁
ご参照いただきたい。
付 記 本 論 は 二O O八年度日本近代文学会九州支部秋季大会(二
0 0八・一 0 ・一八・於鹿児島大学)での口頭発表をもとに、
新たに論としてまとめたものである。質疑を通じて示唆を与
えてくださった方々に心より御礼を申し上げる。
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