...

受賞作品はこちら - 商工総合研究所

by user

on
Category: Documents
17

views

Report

Comments

Transcript

受賞作品はこちら - 商工総合研究所
テーマ名
「食品リサイクル・ループ~エコ循環型経営」構築
氏名:国府光朗
勤務先:寿海酒造協業組合
職位:理事長
1
(要
旨)
昭和 60 年 4 月、串間市内の零細焼酎メーカー5 社が、生き残りのため協業組合を設
立し、協業化しました。土地を取得、生産工場等 3 棟からなる新工場を建設すること
とし、昭和 61 年 3 月に完成しました。
昭和 61 年 4 月より、新工場で焼酎製造開始。ただ、当時は焼酎には逆風の環境で、
業務提携した東海地区の酒問屋の営業力に限界を感じ、昭和 62 年 9 月からは、単独で
の新規開拓を決意。営業担当の理事と二人で、全国行脚の営業に乗り出しました。後
発メーカーであり、その後、10 年間ほど筆舌では言い尽くせない営業を強いられまし
た。しかし、このことが、今日の安定健全経営に繋がっています。
その後、不況に強い酒類として焼酎が認知され、更に、「芋焼酎」へのフォローの環
境により、大きく飛躍出来ました。
寿海酒造のメイン商品は、赤芋(宮崎紅)を利用した芋焼酎。ソフト・マイルドな甘
味ある商品として重宝されています。熊本国税局焼酎鑑評会で毎年のように優等入賞、
中小企業事業団理事長、中小企業庁長官、農林大臣、宮崎県知事などからも表彰を受
けています。
焼酎メーカーで「ネック」になっているのが蒸留副産物(粕)の処理。陸上処理施設を
設置しましたが、うまくいかない。何とかクリーンな処理は出来ないのかと模索、「牛
の胃袋」を借りて処理しようと平成 18 年 4 月(有)チェアフル・カウズ(陽気な牛達)
という系列会社を立ち上げ、肉牛の飼育を始めました。
様々な問題に直面しましたが、現在、年間の粕の 70%近くをチェアフル・カウズで
処理、肉牛も「エコ循環型経産牛」として販売しています。更に、牛の排出物を堆肥化
し、畑に散布し、牛の粗飼料、牧草栽培、又赤芋の栽培を行い、芋を親会社の焼酎原
料とする、完全な循環型経営を構築していく計画です。経営基盤を揺るがしかねない
厄介者の蒸留粕が「宝の山」として活用することができ、素晴らしい成果を見ること
が出来て来ています。
2
目
次
1.はじめに ································································· 4
2.「一か八か」の中で進めた協業化 ············································ 4
3.組合設立、工場の建設へ ·················································· 5
4.新工場完成······························································· 6
5.全国行脚の営業に乗り出す ················································ 7
6.認知された焼酎、協業前の 40 倍の造りに··································· 8
7.副産物の飼料化、系列会社で肉牛生産 ······································ 9
8.最後に ···································································11
3
1.はじめに
宮崎県の最南端、野生馬で名高い都井岬、串間市において、「単式蒸留焼酎・リキュ
ール」を製造販売しています寿海酒造協業組合です。また、製造の過程で排出してき
ます蒸留副産物(粕)を家畜(牛)の飼料として有効活用しています系列会社(有)チェア
フル・カウズも経営しています。
2.「一か八か」の中で進めた協業化
協業組合を立ち上げましたのが、昭和 60 年です。当時の串間市は、昭和 29 年の市
制発足時 42,000 人の人口が 30,000 人を割り、毎年 400 人近く減っていくという、将
来に「夢と希望」を持つことなど出来得ない、衰退の一途をたどっていました。
その串間市を主なエリアとして商いをやっていた焼酎メーカーは 9 社。その中で 1
社は県内でも中堅メーカーで宮崎市内にも進出していましたが、他の残った 8 社は合
わせての生産量が、中堅 1 社の 1/3 という量で、永年、串間市で、老舗として家内工
業的に、焼酎造りに携わってはいたものの、串間市以外の広域市場への販路進出など、
その手立てすら見出すことの出来得ない零細メーカーでした。市内だけを主エリアと
した「商い」では、メーカーとしての存続すら「ゼロ」に等しい規模でした。
昭和 60 年代には、酒類全体が成熟期に入り、ワイン等の台頭で焼酎の伸びにも陰り
が出てきた時期でした。将来を展望するとき、何社かで合併・協業化し、「適正規模の
生産」をし、広域市場へ進出をするしか生き残り策は無いと言う危惧の念から、市内
中堅メーカー1 社を除く 8 社で、対等合併への話し合いを持ったのは昭和 59 年 8 月、
お盆過ぎでした。
月 1 回ベースで話し合いを持ち、翌年 3 月末を目途に協業への意思決定を見るべく、
国税局・税務署からの支援・助言を受けながら、夫婦同伴で精力的に会合を行ってま
いりました。が、3 ヶ月後 2 社が不参加の申し出 (協業組合設立には 5 社の参加が最低
条件)。
最終決定の昭和 60 年 3 月末、夫婦同伴の会合で、さらに 1 社離脱。お盆過ぎの 8 月
から最も協業化に積極的であったメーカーであったし、経営者は、串間市内でも焼酎
メーカー以外にも手広く事業を営んでおられ、経営ノウハウ、資力とも多大な力を持
たれた方でしたので、残った 5 社にしてみれば、晴天の霹靂、大変な選択を余儀なく
される非常事態となった次第です。
それまで、8 ヶ月間も、串間市、宮崎県、税務署、国税局などから大変なる指導・支
4
援を受けて来た訳ですから後へも引けない。だからといって残った 5 社で果たして企
業として成功できるだろうか、苦渋の選択を強いられましたし、夜も眠れない日々が
続きました。何はともあれ残った 5 社で会合を重ね、「やるか?やらないか?」大変な
激論を交わしましたが、「ここにきては、前に進むしかない。」との不退転な悲壮な決
意のもとで 5 社の意思を確認し、県中小企業団体中央会・串間商工会議所へ組合設立
の指導をお願いしたのが昭和 60 年 4 月中旬でした。
串間商工会議所での初会合で、県の商工労働部、中央会から見えていた主任の方々
が、5 社の現状、これからの計画を一読され、「寿海さん。幾ら欲目に見ても、これ『絵
に描いた餅』に過ぎないんでは。」と真剣な眼差しで言われたことを 25 年経った今で
も鮮明に覚えています。それ程規模が小さく、5 社全面協業しても弱小メーカーの域か
ら脱することが出来ない状況でした。しかし、後に戻ることは出来得ない、不退転な
悲壮感を持っての決意で、前に進むしかない 5 社でした。本当に「一か八か」の中で進
めた協業でした。
3.組合設立、工場の建設へ
協業をやると決した昭和 60 年 4 月後半からが、又、大変でした。組合設立へ向かっ
ての計画書の作成、所管が国税局ですので酒類製造関係の許可申請書作成。当時はパ
ソコンなど無く、手動のタイプライターを理事長の私(国府)が持っていましたので、
不眠不休でそれらの資料を作り、5 月連休明けに完成させ、国税局に提出、昭和 60 年
6 月 25 日付けで合併の認可を受け、7 月 1 日「寿海酒造協業組合」として高波の大海
へ船出した訳です。
櫓を漕ぎ出したからには、一日でも早く「生産・詰口・販売」と一貫した工場を建設
し、適正規模の生産を行い、それを広域市場へ売って行くことが、健全経営に持って
いく必須要件でした。
協業の認可に目途が立った 5 月中旬から資金調達・土地探しに没頭。資金調達は、
国の高度化資金をお願いすべく宮崎県に申請。通常高度化資金は申請から調達まで、
早くて二年近くかかるのに、私たちの悲壮な決意、熱意が認められ、一年でも早いほ
うが良いとの配慮で、その年の資金、昭和 60 年度の分、2 億 5000 万円を実行して頂く
ことになりました。余りにも早い資金調達に、喜びより果たして昭和 60 年度でやれる
のだろうかという戸惑いの方が強く感じました。「土地の選定・その取得・造成」、「工
場建設・機械発注設置」を昭和 61 年 3 月末日までに完成させなければならない。その
5
間 8 ヶ月しかない。不可能に近い日数、不安ばかりが先行し、自信は毛頭ありません
でしたが、事が決定を見ていましたので前に進むしかない事態であったわけです。
4.新工場完成
まず、新工場を建設する土地探しに全力を投入。焼酎メーカーは「水」が一番大事で
すので、串間市内で唯一湧き水の有る、清閑で緑豊かな串間市大字北方 1295 番地の現
在の土地を第一候補に選び、串間市の誘致企業として串間市開発公社に動いていただ
くことになり、地元にも企業誘致促進協議会を設置してもらい、「地権者 33 名・面積
11,000 ㎡」の田園・山林の買収交渉に入ったのが 7 月下旬でした。
串間市開発公社の主事さんが地権者 33 名を見られ、「理事長、早くて 3 ヶ月はかか
りますよ------。」と言われましたが、来春 3 月末までには全体の完成を見なければい
けない。土地取得には長くて 1 ヶ月位には目途を付けなければならず、「開発公社の方
ばかりに任せるんではなく、私も弁当を持参して頑張りますから----。」と言って、公
社に 20 日間近く出勤し、地権者の交渉などに努力致しました。東京・大阪方面まで、
地権者・その相続人の印鑑を頂くために出向いて、土地取得に必要な手続きを了承い
ただきました。
早くて 3 ヶ月間はかかると言われていた「33 名・11,000 ㎡の土地」が 1 ヶ月過ぎた
8 月下旬には全員契約でき、9 月初めに造成・周辺側溝工事を終え、10 月初めに三棟か
らなる 2,200 ㎡の「生産工場・詰口管理貯蔵庫・事務管理棟」を 3 業者と同時契約着工、
12 月下旬には工場建屋など 3 棟完成。昭和 61 年 1 月明けから、各機械・器具の設置を
行い、3 月中旬試運転し、期限内 3 月 25 日に目出度く完成竣工し、落成式を挙行した
次第です。
各関係機関、地元地区民の方々のご支援、ご協力により、予想以上の順調さで完成
出来、皆さん方驚嘆されました。自分ながら、良くこれまで出来たものだと、心から
思いましたし、前向きな挑戦にて不可能を可能に変える事が出来たと思いました。そ
れには、構築された人間関係に裏打ちされたと言いますか、組合員 5 名のそれまで歩
んできた社会的貢献が大きな原動力になっていたことも事実です。
私(理事長)自身、「地域と共存共栄」をモットーに進めてきました。当時串間市 PTA
連協長、串間市消防副団長、串間市交通安全協会副会長と 1 週間のうち半分は、それ
らのボランティア的役のために費やしていましたし、それらの役を通じて、多くの方々
と親交・交流を持つことが出来ていましたので、国府さんの依頼ならと各方面からご
6
支援を頂き、土地取得なども 33 名の方々に短期間で了承頂けたと思います。他の 4 名
の組合員のそれまで歩んで来られた力量も大いに貢献に値していました。
5.全国行脚の営業に乗り出す
新しい年度、昭和 61 年 4 月から新工場で焼酎製造開始。「芋製 400kℓ 、麦製 800kℓ 」
を製成、協業前の 8 倍の造りで、酒質も近代的効率の良い設備でキメ細かな造り、最
高の酒質の焼酎が出来ました。営業面でも念願でありました全国広域市場への進出も、
東海地区の中堅酒問屋を拠点に「関東・東海・関西」の 100 社余りと取り引きが出来
てまいりました。
しかし、昭和 60 年代は、先程も記しましたように日本経済バブルの絶頂期で、何も
かも高級志向が先行し、同じ商品でも高価な物ほど好調な売れ行きを示し、酒類の中
でも高級洋酒、ワインなどが好調、焼酎は必然的に店舗の片隅に追いやられ減退の道
をたどっていた時でした。全国総販売元を前提として業務提携した東海の酒問屋の実
績も一進一退の売り上げで、その営業力にも限界を感じましたので、昭和 62 年 9 月か
ら「寿海酒造協業組合」単独での新規の酒問屋開拓を決意、私と営業担当の理事(石上
昭夫)二人で、全国行脚の営業に乗り出した次第です。
アルコール飲料の中でも全国市場での単式蒸留焼酎の占める位置は、当時はまだま
だ微々たるもので、麦焼酎なら大分の 1 社、芋焼酎も鹿児島の 1 社か宮崎の 1 社の商
品が店頭にあれば「商い」が出来る市場でした。後発メーカーの寿海酒造にとっては、
それこそ筆舌では言い尽くせない大変な営業を強いられましたし、殺人的苦難の営業
でした。月のうち 2 週間、日曜日早朝 5 時、串間市を普通ボンゴ 2t車で出発、不通箇
所のあった九州道、中国道を走行し、岡山の国民宿舎に夕方着、一泊し、翌日から関
西を中心に 6 日間営業。土曜日午後 3 時、大阪吹田インターに上がり、日曜日の深夜 2
時、3 時に帰宅。途中交替で 2 時間づつ車を運転、経費も 1 日 3 食で 1 万円以内。当時
は携帯電話など無く、ましてカーナビなど有り得ないし、宿泊にしても、今のように
ビジネスホテルなど無く、駅裏の簡易旅館で、事前に予約など出来ず、夕方になって
安い旅館を探し回る始末。本当に言葉では言い尽くせない苦労苦難の営業でした。そ
のような苦労の営業を 10 年近く行い、関西を中心に 250 店近くの酒問屋と取引が出来、
今日の安定健全経営に繋がっています。現在、沖縄県を除く全国で 500 店強の酒類問
屋・卸屋との取引が構築出来ています。
7
6. 認知された焼酎、協業前の 40 倍の造りに
平成 3 年後半からバブルが崩壊、消費者趣向も浪費から「節約・倹約」へと移行、
酒類の中でも不況に強い酒類として焼酎が認知されました。経済性もさることながら、
焼酎の「経済性・爽やかさ・カクテル調」で自分の好みで割って飲めることなどが再
評価され、全国市場で市民権を得る酒類になった次第です。
寿海酒造も平成 12 年までは一進一退の実績でしたが、平成 13 年、平成 14 年、飛躍
的に業績も伸び、生産が追いつかず、他のメーカーから麦焼酎の原酒を購入。設備の
ライン補充しか増産体制はないとの観点から、高度化資金 170,000 千円を調達、生産
アップに結び付けました。
当初の目的は 10 年目で達成しましたが、設立 10 年間は血の滲むような「生みの苦し
み」を痛いほど経験しました。
平成 15 年以降、「芋焼酎」への驚異的フォローの環境により、製造・詰口管理部の設
備を補完し、平成 17 年度にはアルコール 25%換算、6,000kℓ と協業前 5 社での造り
が 150kℓ でしたので 40 倍の造りになり、大きく飛躍出来て参りましたし、自己資金
も充実して参りました。
芋製焼酎の中でも寿海酒造のメイン商品は、串間市特産で「焼き芋・料理用」とし
て使用します赤芋(宮崎紅)の規格大の芋を利用。通常の芋焼酎よりソフト・マイルド
な甘味ある差別化商品として重宝され、業績の伸張につながっています。熊本国税局
焼酎鑑評会でも、毎年優等入賞していますし、平成 16 年には中小企業事業団理事長表
彰、平成 7 年、12 年には、中小企業庁長官表彰を受けました。
平成 17 年には優良企業として全国各業種の中 14 社の 1 社として、「農林大臣表彰」
を拝受できました。なお、宮崎県特産のマンゴー、完熟金柑、梅酒を使ったリキュー
ルは、赤芋焼酎をベースに、味わい深く、こくのあるリキュール酒として好評を頂い
ています。「地産地消」、地元産のマンゴー、金柑などの規格外品の利用ということで、
「農林大臣表彰」も頂いた訳です。
平成 20 年 10 月には宮崎県知事より、「頑張る中小企業」の表彰を受けています。
8
7. 副産物の飼料化、系列会社で肉牛生産
私達焼酎メーカーでもっとも「ネック」になっているのが製造の過程で出る蒸留副産
物(粕)の処理です。寿海酒造も、以前は牧草地、畑、田んぼに肥料として散布して処
理していましたが、環境保全・公害の点で、それらの処理も出来なくなり、平成 15 年、
20t/日の処理能力の陸上処理施設を約 2 億円かけて設置しました。
半年近く順調に稼動していましたが、毎日 20~30t 処理しますので、浄化部分に徐々
に負荷がかかり、3 ヶ月順調に稼動しているかと思うと 20 日近くトラブル。このよう
な故障の連続パターンでどうしようもない。90%の実効性を挙げることが出来ず、故
障の時など蒸留粕は毎日 25t近く出ますし、産廃業者に処理を依頼しても足元を見ら
れ、渋々引き受けて頂けるものの、普段より高値になってしまう。
設置から 3 ヵ年という期間は大変な心労を強いられました。トラブルと悪臭が酷く、
周辺住民の方々に多大な迷惑をかけてしまいましたし、地区集会に呼ばれて1時間近
く正座して苦情を聞かねばならず、「針のムシロに座る」と言う言葉がありますが、そ
れ程苦痛心労を経験しましたし、行政サイドからも大変なお目玉を頂きました。
「これでは焼酎メーカーとしての製造自体が出来ない。組合の存亡にもかかわる。」、
との危惧の念から、何とか環境保全にも適合したクリーンな処理は出来ないのか、製
造部会で日夜研究模索してまいりました。そのような時、生産牛の飼育を営んでおら
れた方から、「高齢で畜産を止めたい。牛舎が空くので寿海酒造で使っては頂けないだ
ろうか?」との相談を受け、緊急役員会を催しました。
「牛の胃袋」を借りて蒸留(粕)を処理しようと言うことになると、排出量からして
200 頭は飼育いたさねばならず、設備の改修、牛購入資金、飼育運転資金と、どんなに
安く見積もっても億単位の投資が必要。ズブの素人が「生きもの」の飼育となると大
変なリスクを伴う-------。余りにも冒険過ぎるとのことで一応断ると言う結論に達し
た次第です。
私の長女の夫が獣医をしていますので、二人で飲む機会があり、この事を話しまし
たところ、「初めから大掛かりではなく 50 頭位からテスト的に取り掛かったら、そう
リスクは伴わないのでは。」とのこと。役員会の了承を取り付け、平成 18 年 4 月 1 日
付で(有)チェアフル・カウズ(陽気な牛達)という系列会社を立ち上げ、50 頭の経
産牛(子供を産まなくなった黒毛和牛メス牛)を平成 18 年 5 月から導入。市・県の畜
産担当者の方々、獣医のご指導を仰ぎ、出荷までの 7 ヶ月間飼育し様子を見ることに
しました。その間、畜産の盛んな都城地区の中堅畜産農家に、知人を通じて視察方々
9
指導を仰ぎに行きましたが、私の名刺を見られるなり、「理事長、スブの素人が野生で
ある牛の扱いも知らず、怪我のもとになり、牛自体の死亡もあるし病気にもなる。安
易な考えでやっては大変な事になるから、今からでも遅くはない。辞めなさい。」と、
きつく注意されました。又、「焼酎粕を主飼料として養ったら、牛の出荷時、肉質は一
番最低の加工品にしか成らない。絶対採算ベースに乗れない-------。」と、悪いこと
ばかり言われ、取り付くことは出来ない酷評でした。
しかし、農業法人化してのスタートはしていますし、後へは引けない。不退転の決
意でやるしかない。その後の経過は、中堅畜産農家から酷評された牛飼育、心配した
事態がことごとく払拭され好転、現在黒毛和牛 350 頭、子牛 20 頭を飼育しています。
飼育の過程での事故死も極端に少なく、市場から購入してきた黒毛和牛を 7 ヶ月~8
ヶ月間飼育、一日一頭 50ℓ の焼酎粕を原液そのまま牛に与えていくため、通常の経産
牛飼育農家より、穀物飼料がチェアフルの場合 1/3 ですむ。なにより、蒸留粕には、
まだ微量のアルコールが残っているので、人が晩酌するみたいで、ウットリとしてい
てストレスが解消され、オドオドしてなく温和にして育っています。一番心配してい
る出荷段階での肉質がどうなるか?現在、月 50 頭出荷していますが、一般農家の出荷
される牛と「勝るとも劣らない」何ら遜色ない良質の黒毛和牛として認証頂き、大手商
社と取引でき、関西市場で自然有価物を与えている「エコ循環型経産牛」として販売
いただいています。
1 日 1 頭当たり蒸留粕原液を 50ℓ 与え、1 日 17~18t牛の胃袋で処理しています。
現在、寿海酒造で年間 9,000kℓ ~10,000kℓ の粕が出ますが、70%近くをチェアフル・
カウズで処理。自社の陸上処理施設での処理や外部産廃業者での委託処理ですと、年
4,000 万円~5,000 万円の処理費用がかかります。牛の餌を有効資源として活用するこ
とで、寿海酒造にも多大な貢献をしていることになります。
しかし、ここまで一企業が第一次産業(農業)に参入していくには、考えもしなかっ
たいろいろの問題がありました。規模拡大し、1ヶ所で 200~300 頭と飼育するとなる
と、近郊の集落との「環境保全」のため、相互契約協定を結ばなければなりません。
小さな集落でも絶対といって良いほど協定への賛同は得ることが出来ない昨今です。
平成 19 年 9 月、第 2 牧場ということで原野 25,000 ㎡の土地を購入し、「牛舎・堆肥庫・
管理倉庫」と計画し、串間市の方に提出したところ、現地調査の結果、地目原野が放
牧地とみなされ、一企業が農地を活用、農業参入するのには農地法に抵触するとのこ
と。普通の農業法人ではいけない、農業委員会の認可を得るため「農業生産法人化」
10
が必須要件となり、ややこしい厳しい条件をクリアーさせねばならず、途中で止めて
しまおうかとも思いました。
平成 20 年 3 月末、全ての許可・認証を頂き、資金面もスーパーL 資金を日本政策金
融公庫直轄で調達出来、平成 20 年 8 月、素晴らしい環境の地に公害保全にも十分配慮
した 200 ㎡の新牛舎 4 棟、堆肥庫 2 棟、管理倉庫が完成しました。
牛の排出物「糞・尿」はノコ屑を敷物として堆肥化し、チェアフル・カウズの持って
いる畑、組合員が個人で持っている畑に有機肥料として散布し、牛の粗飼料、牧草栽
培、又赤芋の栽培を行い、収穫した芋を親会社の焼酎原料としていく、完全な循環型
経営を構築していく計画です。
8. 最後に
経営基盤を揺るがしかねない厄介者の蒸留粕が「宝の山」として活用することがで
き「一石五・六鳥」にもなり、素晴らしい成果を見ることが出来て来ています。又、エ
コ社会の構築、自然環境保護の観点からも関係機関、行政サイドから、是非成功して
下さいと暖かい言葉で、激励いただいています。今年 3 月でチェアフル・カウズは第 4
期決算を終えましたが、年 600 頭の売却、粕活用 6,500t、健全経営が構築できました。
(年 120,000 千円・粕処理助成 20,000 千円)
第 5 期、妊娠しない黒毛母和牛の中で、70 頭(月 50 頭入れ替え)に 1 頭近く妊娠して
いる母牛がおり、現在 20 頭の子牛を飼育しています。それらの子牛を管理する従業員
がいるので、今期から「生産母牛」50 頭近く購入、子牛から黒毛和成牛までの一貫し
た畜産経営を営んでいく予定です。そのための牛舎も昨年廃業された牛舎(400 頭強飼
育可能)を購入しています。
これからも一貫した経営を営んでいくことに全役職員意気込んでいた矢先、考えも
しなかった最悪の事態発生。4 月 20 日から宮崎県東北部に「口蹄疫」発生。非常事態
の環境ですので、チェアフル・カウズも徹底した防疫体制を行い、キメ細やかな管理
飼育を行っています。一日も早く終息してくれることを念じている昨今です。現在、
牛の入れ替えが出来ず、大変なマイナスを蒙っている状況です。
色々の面で多大な支障、損失を蒙っていますが、直接的被害を受けられている地区
の方々を思うとき、お見舞いの言葉すらない心境です。微々たる義援金として、寿海
酒造金 500 千円、従業員一同金 100 千円を拠出致しました。
寿海酒造創立 25 年、チェアフル・カウズ設立 4 年を終えようとしていますが、発足
11
時の生みの苦しみ、筆舌では言い尽くせ得ない苦労・試練を常に心し、今まで経験し
たことの無い未曾有の厳しい年と位置づけ、内にあっては「ムリ・ムダ・ムラ」を徹
底して省き、キメ細やかな管理、「節約・倹約」に努め、組合理念「連携・協調」「思いや
り・労わり」「忍耐・根性」を指針とし、役職員一致団結、「燃える寿海・チェアフル集
団」として頑張ってまいります。「絶対弱音を吐くな!!前進あるのみ!!常に問題意識・
危機感を持って、今は『忍と辛抱・我慢』の時。」と思い、厳しい現況を乗り切ってい
く所存です。
農商連携を深耕し、食料自給アップ、人材雇用創出にも寄与できるよう、取り組ん
でまいります。尚、寿海酒造協業組合は、「生産規模・自己資本・経営力」とも健全・
堅固な組合に成長してきましたので、より信用・信頼構築のため組織変更し、「株式会
社」といたします。平成 22 年8月 1 日発足いたします。更なる飛躍・躍進目指して役
職員努力研鑽してまいります。
以上
12
13
Fly UP