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スウェーデンにおける成人教育の歴史と制度

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スウェーデンにおける成人教育の歴史と制度
第3回北欧教育研究会
2004 年 7 月 24 日
※無断転載厳禁
スウェーデンにおける成人教育の歴史と制度
一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程
太田 美幸
はじめに
1 (19 世紀末∼20 世紀初頭)民衆運動と民衆教育運動
1-1 農村における教育要求の高まりと民衆大学
1-2 禁酒運動と学習サークル
1-3 労働者啓蒙運動
2 (20 世紀前半)民衆教育の拡大と定着
2-1 民衆教育の組織化
2-2 民衆教育への財政支援の実現
3 (20 世紀後半)成人教育の制度化とリカレント教育の導入
4 民衆教育・成人教育の現代的状況
おわりに―成人教育・民衆教育の機能変容
はじめに
生涯学習社会として注目を集めるスウェーデンでは、多くの人々が積極的に学習活動に参加しているが1、人々
の学習活動を支えているのは、19 世紀末より組織化された民衆教育(folkbildning)と、1960 年代以降に整備
された公的な成人教育制度である。民衆教育は、学習サークル(studiecirkel)
、民衆大学(folkhögskola:国民
高等学校)
、民衆図書館(folkbibliotek)からなる。これらは、近代化とともに到来した階級闘争・文化闘争の
過程で組織化されたものであり、それを基盤として構想された公的成人教育制度は、労資のコーポラティズム
化の過程で労働市場政策と密接に結びついて導入されたものであった。公的成人教育制度の下支えとしても、
民衆教育は重要な位置を占めている。両者は相互に機能を重複させつつ、人々の自己実現と社会参加・社会統
合を促進し、スウェーデン型福祉国家体制をつくりあげるのに貢献した。スウェーデン型生涯学習社会は、ス
ウェーデンの社会民主主義化・福祉国家化と密接に関連しつつ形成されてきたといえる。報告者は、スウェー
デン型生涯学習社会の構造的特質を明らかにするため、成人教育の社会的機能の変遷に着目してきたが、本報
告では、成人の学習活動が民衆教育として組織化された 19 世紀末から成人教育が制度化された 20 世紀後半ま
での展開を概観し、現代的状況もふまえてスウェーデン社会における成人教育の機能変容について検討する。
1 民衆運動と民衆教育運動
広範な民衆層を対象にした自発的な教育・学習活動としての民衆教育は、19 世紀末から 20 世紀初頭にかけ
ての都市化・産業化のなかで興隆した民衆運動(folkrörelse)において、主として運動メンバー育成のために組
織化された。それ以前には、1830 年代にエーヴェルレーフ(Ewerlöf,F.A.)が設立した有益知識普及協会
(Sällskapet för spridandet av nyttiga kunskaper bland allmogen och de arbetande klasserna)による啓蒙
活動や、1845 年にストックホルムにつくられた啓蒙サークル(bildningscirkel)などが存在した。有益知識普
及協会は、都市の労働者や農村の小作農を対象として「Läsning för folket(民衆のための読み物)
」という小冊
子を販売するなどし、主としてイギリスからの農業技術の紹介や健康面、倫理面の啓発を中心とするものであ
1 2000 年における 25∼64 歳の人口は 4,695,805 人、同年層の高等教育機関在籍者数は 150,498 人、地方自治体成人学校
(Komvux:コムブクス)在籍者は 227,634 人、民衆大学在籍者は 240,501 人。年齢制限のない学習サークル参加者は、延
べ人数で 2,816,921 人であった。SCB(2002)
、Skolverket(2002)
、Högskoleverket(2002)
、日本労働研究機構編(1997)
。
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太田美幸
った2。また啓蒙サークルでは、台頭しつつあった中間層や産業化のなかで取り残された手工業者を中心として
参加者が募られていた3。この頃すでに、 folkbildning(民衆教育) あるいは arbetare(労働者) というタ
ームが用いられているが、当時の folk(民衆) あるいは arbetare(労働者) の概念は、農業社会解体前の
旧秩序のもとでの農民や職人らを指しており、啓蒙活動の内実は道徳的側面を強調する慈善事業的色彩の濃い
ものであった。民衆教育が社会変革のための手段として広範に用いられるようになるのは、19 世紀後半に深刻
な社会的貧困状況が到来してからである。
近代化の波に直面した 19 世紀後半、スウェーデンでは都市部を中心に様々な立場の民衆が各々の利害や関心
に沿って結社を組織し、多様な民衆運動が展開されるようになる。代表的な運動は、宗教復興運動から発展し
た自由教会運動(frikyrkorörelse)、自由教会運動における社会改良活動の一環として生じた禁酒運動
(nykterhetsrörelse)
、社会主義思想のもとで勢力を強めた労働運動(arbetarrörelse)などである。総じて民
主的社会の実現を目指したこれらの運動は、互いにメンバーを重複させながら深い関わりを持ち、その目標を
普通選挙権の獲得へと収斂させていった。20 世紀前半には、全国民の三分の一が民衆運動に参加したといわれ
ている。これらの運動において、運動推進の手段として展開されたのが民衆教育であった。
民衆運動と並行して展開された民衆教育運動は、大きく三つの流れに分けてとらえることができる。デンマ
ークのフォルケホイスコーレ運動の影響を受け、農民の教育要求の高まりによっておこった民衆大学運動、飲
酒の弊害を啓発するためにおこなわれ、のちに学習サークルを生じさせた禁酒運動内の教育事業、イギリスか
ら流入した功利主義や合理主義の影響を受け、科学的知識の普及を目指した都市中間層のおこなった労働者啓
蒙運動である。民衆教育運動において形成された教育・学習の形態は、のちに社会民主主義運動や労働運動に
おいて労働者教育の手段として採用されたことを契機に組織化され、次第にその規模を拡大していった。
1-1 農村における教育要求の高まりと民衆大学
(1)19 世紀までの農村の教育状況
スウェーデンにおいて民衆のための教育がはじまったのは、グスタフ・ヴァーサ王の即位後に宗教改革が本
格化した 16 世紀半ばである。1536 年のグスタフ・ヴァーサ王による福音ルーテル教国教化宣言をもってスウェ
ーデンの宗教改革とされるが、それ以前からスウェーデン国内では漸進的にプロテスタント化がすすんでおり、
1526 年にはウラウス・ペートリ(Petri,O.)によって新約聖書のスウェーデン語訳が刊行されていた4。
周知のとおり、ルターはすべての民衆に神の言葉を説くために民衆への教育の必要性を強く訴えていたが、
ルター派の伝来によってスウェーデンの農民たちにもたらされた教会における教理問答が、農民大衆の教育の
はじまりとなったとされる。新約聖書とルターの教理問答書がスウェーデン語に訳されたことによって、教会
での民衆への教育は、それまで口頭で信仰箇条を覚えこむだけであったものから、教理問答書をテキストとし
て読みそれに応えることを主とするものとなり、ここから定期的な民衆のための教育が発展していくこととな
った。
教会法において教区牧師が教理問答について教えることがはじめて規定されたのは 1656 年のことである。
1686 年の教会法では、児童はキリスト教知識と読み方を学ばなければならないことが示されている。1723 年
の勅令では、両親が子どもを教えることができない場合、他の方法で子どもに教えるべきことが義務づけられ、
特に貧しい家庭の子どもにも教育が与えられるように教区が補助すべきこととされていた。1700 年までに総人
口の約 10%が学校教育を受け、1800 年までにはほぼ 50%に達したとされる5。とはいえ、そこでの教育内容は
専ら読み方と教理問答に偏っていた。
Sörbom,P.(1972)s.118-128.
Andersson,B.(1980)s.104-105.
4 スウェーデン言語史ではこれをもって近代スウェーデン語の出発点とし、これが書き言葉の基礎、話し言葉の模範となっ
たとされている。
5 バウチャー(1985) p.8。
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スウェーデンでは 16 世紀にグスタヴ・ヴァーサ王が農民武装勢力の支持を基盤としてカルマル連合からの脱
退を成し遂げて以来、農民は政治的な力を保持し続けており、1634 年基本法がグスタヴ 2 世アドルフのもとで
制定され四身分制議会が確立されてからは議会にも参加していた。にもかかわらず、農民層はそういった政治
的関与にふさわしい知識や教養を身につける教育機関を持たず、このことは当初より問題視されていた。1820
年に学校令が公布され農民層子弟の教育の充実が図られたが、状況はさほど改善されなかった。そうした状況
のなか、1833 年に独学の農民サールストレーム(Sahlström,P.)が「スウェーデンの国民教育について(Om
folkundervisningen i Sverige)
」を著し、農村に住む民衆も他の諸階級と同様に自らの教育を求める権利を認め
られるべきであると主張し、広く関心を集めた。これを機に、農民議員やリベラルな知識人たちが農民の教育
要求を積極的に支持するようになる。農民子弟の教育状況についての調査がおこなわれ、全国の半数以上の教
区に常設学校はおろか巡回学校も存在しないことが明らかになると、このような状況を政府も傍観することは
できず、1842 年に国民教育令(Stadga angående folkundervisningen i Sverige)が公布されて義務教育が制
度化され、全国に国民学校(folkskola)が建設されることとなる。
しかし、依然として国民学校と上層階級の子弟が通う学校とは区別されていた。国民学校は、大学へつなが
る中等学校(läroverk)とは制度的に接続しておらず、一方で官僚や聖職者、ブルジョア階級の子弟は、国民学
校を経由せずに中等学校から大学に至るルートをたどっていたのである。
また、発足当初は国民学校における児童の就学状況は十分でなく、教育の質もなかなか向上しなかった。そ
うしたなか、1850 年代にルーデンシェルド(Rudenschöld,T.)によって初等教育三段階方式が考案された。こ
れは、学校を三つの段階からなる制度に編成したもので、第一段階は読み方を教える地区学校(roteskola)
、第
二段階はより進んだ者のために上級読み方学級(överläsarklass)
、第三段階は最年長で能力のあるものを対象
としたエリート学級(elitklass)である。ルーデンシェルドはこの方式を自らが設立した学校で実践していたの
であったが、次第に全国の学校において模倣されるようになり、彼は各学校に対する助言活動もおこなうよう
になる。こういったルーデンシェルドの実践から、のちに初級小学校(småskola)制度、国民学校視学制度
(folkskoleinspektor)
、高等国民学校(högre folkskola)が生まれた。
(2)スカンディナヴィア主義とグルントヴィ主義
ところで、19 世紀前半はデンマーク、スウェーデン、ノルウェーの 3 国を中心にスカンディナヴィア主義6
(skandinavismen)が高揚した時期であった。スカンディナヴィア主義のはじまりは、1802 年にドイツから
帰国したデンマーク人ステフェンス(Steffens,H.)が、公開講座においてシェリング哲学を紹介するなどして
ドイツ・ロマン主義を持ち込んだことを契機とする。そこで展開された文学論に感化された詩人エーレンスレー
ヤ(Oelenschläger,A.)が書き上げた『黄金の角』と題される詩は、デンマークの農地で 1639 年、1734 年に
それぞれ発見された 2 本の黄金の角をモチーフにしたものであった。エーレンスレーヤはこの角をめぐる北欧
の神々の意図を謳い上げたが、キリスト教の伝来以来数世紀にわたって封印されてきた「古代北欧の神々」が
謳い上げられたのは画期的な出来事であり、この詩を契機として、北欧にかつて存在した「古き輝かしき、ひ
とつなる北欧」への関心が人々のあいだに広まった 7 。デンマークではエーレンスレーヤ、グルントヴィ
(Grundtvig,N.F.S.)
、スウェーデンではテグネール(Tegnér,E.)
、イェイエル(Geijer,E.G.)
、リング(Ling,P.H.)
らによって、古代北欧を題材とした文学作品が次々と生まれた。彼らの作品を通じて、自らの輝かしき過去を
称揚し継承していこうとする意識が人々のなかに芽生えていったのである。
特にグルントヴィの思想は、のちにスウェーデンの民衆教育運動にも深く関わるようになる。グルントヴィ
6 スカンディナヴィア主義とは、民族ロマンティシズムを基盤として育まれた思想とそれに源を有する北欧諸民族の連帯を
求める運動を指すが、一般的には 19 世紀初頭から 1830 年代にかけて高揚した文学的スカンディナヴィア主義と、1830 年
代以降の政治的スカンディナヴィア主義とに区別して捉えられる。村井誠人(1982)p.6。ここでは、前者の文学的スカン
ディナヴィア主義を、スウェーデンの民衆教育に大きな影響を及ぼしたものとしてとりあげる。
7 百瀬宏他編(1998)p.198。
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は、ドイツとの戦争に敗れ屈辱的な生活に耐えていたデンマーク国民に生きる勇気を与えること、先進的な都
市文化を誇示する知識人に蔑まれてきた農民を救うことをめざした社会活動家であり、真のキリスト教のあり
方を模索した宗教家、思想家でもあった。彼の活躍した 19 世紀前半のデンマークは、政治的にも文化的にもド
イツの強い影響下にあった。ホルシュタイン=シュレスヴィヒ地域をめぐるドイツとの緊張関係があった一方、
国内では都市部においてドイツ文化が支配的で、都市に住む支配層が農村の伝統的農民文化を蔑んでいたこと
により都市と農村の対立は深刻化していた。そのようななか、農村の伝統を美しく尊いものだと賞賛するグル
ントヴィの思想は、デンマーク農民の政治的勃興を支える精神的支柱となる一方、彼の構想する学校と教育の
ありようも農民の支持を得て、各地でフォルケホイスコーレが次々と設立された。フォルケホイスコーレにお
ける教育実践は、スカンディナヴィア主義が北欧諸国内に広まり始めるなかでスウェーデンやノルウェーにも
伝えられていく。
(3)民衆大学の設立
1842 年の国民教育令公布ののち全国に国民学校が設置されたが、それ以上の水準の教育を求める農民のため
の教育機関として、1858 年に高等国民学校が生まれていた。これは先述したルーデンシェルドのエリート学級
にヒントを得て生み出されたもので、1856 年に農民部会の国会議員ヨーナス・アンデション(Andesson,J.)
が提出した動議が承認され国庫補助を受けて発足した。しかしこれはさほど普及せず、1868 年に至っても全国
で 10 校しかない状況であった8。高等国民学校での教育内容は明確に規定されておらず、初等国民学校本科と
ほとんど内容の変わらないところもあれば、中等学校を模倣したものもあった。いずれにおいても発足当初か
ら、農民の子弟が学ぶべき内容について明確な理念が保持されていなかったといえよう。農民に対するより高
水準の教育が求められていたとはいえ、その中身がどのようなものであるべきかについては十分な議論がなさ
れていなかったのである。
このようななか、デンマークのフォルケホイスコーレがスウェーデンにおいても知られるようになる。1860
年代後半になると、フォルケホイスコーレに倣った教育機関を設立することによって農民の教育要求に応えよ
うとする動きがはじまった。
1867 年にクリスチァンスタッド(Kristianstad)の県議会において、ニルソン(Nilsson,S.)により農村に
住む青年のための青年学校(ungdomsskola)設立が提案された。ニルソンの提案は、地方副監督ベリィマン
(Bergman,C.A.)の新聞論文に触発されたもので、この論文のなかでベリィマンは、農民に必要なものは高等
国民学校ではなく、デンマークのフォルケホイスコーレであると主張していた。ベリィマンは自らデンマーク
に出向いてフォルケホイスコーレを訪問し、帰国後『スウェーデンの高等国民学校と比較したデンマークのフ
ォルケホイスコーレについて』という小冊子を発行してフォルケホイスコーレを高く評価したが、それを受け
て県議会はベリィマン、ニルソンらに青年学校調査のための委員を委嘱した。委員会は 1868 年秋、フォルケホ
イスコーレに倣って民衆大学(folkhögskola)を設立することを決定し、1868 年 11 月 1 日、エンネスタッド
(Önnestad)に開校した。校長にはニルソンが教師を兼ねて就任した9。
同年、
「Aftonbladet」紙の記者オールンド(Ålund,O.W.)もデンマークにフォルケホイスコーレの視察に出
かけ、スウェーデンにおいてフォルケホイスコーレを設立することを目指すようになる。オールンドは、高等
国民学校設立を主導した国会議員ヨーナス・アンデションに援助を求め、1868 年 11 月に東イェートランド
(Östergötland)地方にヘッレスタッド民衆大学(Herrestads folkhögskolan)を開校し、自ら初代校長に就任
した10。
ニルソンの提案と同じ頃、マルメヒュース(malmöhus)県バーラ(Bara)郡の農業クラブでは、ウラ・ア
8
松崎巌(1976)p.192。
松崎(1976)p.192。
10 松崎(1976)pp.193-194。
9
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ンデション(Andersson,O.)が高等国民学校の設立を提案していた。アンデションは農業学校教師ベンツ
(Bentz,O.P.)に協力を求めたのであるが、ベンツが勧めたのはフォルケホイスコーレの設立であった。ベンツ
は、東イェートランドのオールンドが書いたデンマーク視察記録を通じてフォルケホイスコーレの情報を得て
いた。アンデションはベンツの勧めを受け入れ、1868 年 4 月 17 日、フォルケホイスコーレを設立・維持する
ための基金団体「folkhögskoleförening(民衆大学協会)
」を結成した。スウェーデンではこの日をもって民衆
大学設立の日とされる。協会は、教師には高い見識を持つ人物を迎える必要があるとし、ルンド大学講師のホ
ルムストレーム(Holmström,L.)を校長兼教師として招いた。同年 11 月 1 日、ヴィーラン(Hvilan)の旧公
民館の建物を校舎として、ヴィーラン民衆大学(Folkhögskolan Hvilan)が開校した。ヴィーラン民衆大学は、
スウェーデン最初の民衆大学とみなされている11。
こうして、1868 年に三校の民衆大学が誕生した。これらは、農民自身の私的なイニシアティヴによるもので
あり、財政的には国や教会からの援助は受けず、生徒の授業料と支持者からの寄付金で運営される、自立的な
組織として発足した。エンネスタッド民衆大学は県からの補助金を受けていたが、ヴィーラン民衆大学の運営
は民衆大学協会の資金によるものであり、またヘッレスタッド民衆大学は当初支持団体がなく経済的に逼迫し
ていたが、1869 年に維持のための協会が結成され運営は軌道に乗った。
その後、19 世紀末にかけて各地に地域的性格の強い民衆大学が設立され、運営にも地方自治体が関わるよう
になっていく。当初、生徒のほとんどは比較的富裕な農家の子弟であったが、次第に小農や農業労働者の子弟
も加わるようになっていった。
(4)民衆大学運動の背景
民衆大学設立を求める動きは急速に全国の農村に広がったが、その背景には、1865 年議会改革以後の農民の
政治意識の高まりがあった。この時期、農民は自由主義との結びつきを強め、スカンディナヴィア主義に導か
れてナショナリズムが高揚するなか、民衆大学を設立し、そこでの教育を通じて自らの政治的権力の向上をは
かろうとしたのだった。
ここで、スカンディナヴィア主義とスウェーデンにおけるナショナリズムの高揚との関連について触れてお
く。スカンディナヴィア主義は、スウェーデンにおいてはイェート主義と結びついて民族的覚醒をもたらした。
イェート主義とは、
「輝かしき古代スウェーデン」に熱狂的なロマンティシズムを抱く歴史解釈とそれに基づく
思想潮流であり、16 世紀半ばにすでに形を整え発展していたものである。スウェーデン王国は 11 世紀頃、中南
部スウェーデン、現在のイェートランド(Götaland)地方に居住していたイェート人(götar)を中北部スウェ
ーデンに居住していたスヴェア人(svear)が統合して建国したとされるが、このイェート人と、ヨーロッパ大
陸で 5∼6 世紀に西ゴート・東ゴート両王国を建国したゲルマン系ゴート人(goter)とを同一視し、スウェー
デン人がかつての勇壮なゴート人の末裔であることを誇示したのがイェート主義の起源であった12。イェート主
義は 17 世紀頃には北欧神話やアイスランド文学と結びついて熱狂的支持を受けたが、ゴート人の原住地がスウ
ェーデン南部であったとの説はあるものの、イェート人とゴート人が同一民族であったことを確証するものは
なく、この解釈の根拠はのちに失われている。スウェーデンを全民族・全人類の祖国であるかのように描く極
端な解釈も生まれたが、18 世紀に入り啓蒙主義者から激しい批判を受け鎮静化した。
しかし 19 世紀初頭、デンマークから文学的スカンディナヴィア主義がもたらされ復古主義的ロマンティシズ
ムが高揚したことにともない、新イェート主義(nygöticism)が勃興する。これはアドレルベート(Adlerbeth,J.)
を中心とする官僚グループが、テグネール、イェイエルらと協力して 1810 年に設立したイェート連盟(Götiska
förbundet)を母体とするもので、1809 年のフィンランド戦線での敗北とフィンランド喪失後の国家の結束強
化をはかるため、古代イェートの自由な空気と勇壮さ、頼もしさをよみがえらせることをスローガンとして掲
11
12
松崎(1976)p.193。
Bonniers stora lexicon(2001)”göticism”.
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げた運動であった13。ヨーロッパ辺境の文化的後進国であったスウェーデンは、ナポレオン戦争の混乱のなか、
再びイェート主義を掲げることによって民族的自覚を促し、ポジティブに自己意識を形成しようとしていたと
いえる。イェート連盟は、1844 年に解散するまで、古代北欧を中心に民話や伝統的慣習などについて研究をお
こない、伝統的民衆文化を称揚し積極的に継承していこうとする文化運動をリードした。
19 世紀後半、新イェート主義は再び盛り上がりをみせる。新イェート主義運動の中心人物は「イェテボリ商
業海運新聞(Göteborgs Handels- och Sjöfartstidning)
」の主筆を務めていたヘドルンド(Hedlund,S.A.)で、
この新聞は新イェート主義の機関紙的性格を有していたといわれる14。ヘドルンドは民衆大学運動の指導者の一
人でもあった。ヘドルンドは、当時支配的であった古典語偏重の形式的教養を批判し、それに対抗する教養理
念を民衆の生活のなかから創造しようとしていた。つまり、都市に蔓延する洗練された形式的文化と農村にお
ける民衆文化の乖離・対立を解消し、古代北欧の文化を継承する現在の民衆文化のなかに存在する「真の教育」
を見出すことを目指したのである。
このような思想は、1865 年議会改革ののち下院の主導権を握り、官僚・都市中間層に対する強力な敵対勢力
となっていた農民議員らの政治的見解とも重なっていた。農民の政治的な興隆と意識の高まりは彼らの教育要
求を押し上げ、各地で民衆大学設立のための運動が生じた。例えばエレン・ケイ(Key,Ellen)の父で国会議員
であったエーミル・ケイ(Key,Emil)は、カルマル地方の民衆大学設立に尽力したことで知られているが、彼は
1875 年に県議会に提出した民衆大学に関する報告書の中で、民衆大学の目的を「新しい代表が政治の権威を高
めることのできるように、国民に合目的教育を与える」ことであると述べている15。また 1872 年の国会におい
ては、農民党から民衆大学への補助金と学生に対する奨学金に関する動議が提出された16。民衆大学運動は、農
民の政治勢力拡大と結びついて推進されていたのである。
ところで、デンマーク成人教育史を扱ったコースゴー(1999)によれば、国民感情を強くあらわすグルント
ヴィ主義はスウェーデン社会には適合せず、ヒンホルム校のようなより理性主義的で伝統を重んじるやり方に
共感が集まったという17。その背景には、デンマークにおけるナショナリズムの高揚とスウェーデンにおけるそ
れとの性格の相違がある。ナポレオン戦争以降、国家の枠組みを揺さぶられ続けてきたデンマークにおいては、
いわば敗者としてのコンプレックスのなかから民族ロマンティシズムが展開していた。一方、地理的に北欧の
中央に位置し欧州列強の脅威を直接的には感じずにすんだスウェーデンでは、民族的自覚は祖先である古代イ
ェート人の勇壮さを賞賛するイェート主義に導かれてあらわれたのであった。デンマークは「民族精神」でも
って塁壁を固め、周囲の敵から身を守る必要があったのに対し、スウェーデンにはそのような必要がなかった
のである。
こうした事情のもと、スウェーデンの民衆大学は理念においても内容においても次第に本来のフォルケホイ
スコーレから離れていくことになる。そうした動きを代表するのが、ヘッレスタッド民衆大学で開校の翌年オ
ールンドから校長を引き継いだイェーデケ(Gödecke,A.)である。彼は、デンマークのフォルケホイスコーレ
の理念に学びつつ、それがデンマーク社会の歴史のうえに成り立っていることを指摘し、ヘッレスタッド民衆
大学での実践を通じてスウェーデン社会に即した独自の民衆大学を発達させようとした18。
イェーデケは民衆大学の任務を、伝統的なスウェーデン人の姿を尊ぶよう生徒の思慮を鼓吹することである
と考えていた。激しく燃え上がるがすぐに消えてしまうような感情を呼び覚ますことよりも、忍耐力、辛抱強
さを鼓吹するような教育が目指されるべきであった。また彼は、生徒が椅子に座り、持てる力を尽くして生徒
に働きかけようとする教師の姿を受動的に見たり聞いたりするだけの教育方法は、民衆を満足させるものでは
13
14
15
16
17
18
Bonniers stora lexikon(2001)”Götiska förbundet”.
石原俊時(1994)p.52。Richardsson, G.(1963)s.141-144.
レングボルン(1982)p.36。
レングボルン(1982)p.36。
コースゴー(1999)p.179。
Ingers,E.(1943)s.111.
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ないと主張した。民衆は働かねばならないのであり、仕事に役立つようなものを欲している。本を読んだり文
章を書いたりすることは、そのための基礎として、また案内役として必要なのであるが、現状の教育方法では
そうしたことが意識されておらず、読書や作文は生徒にとって「死んだ言葉」となっている。しかし、何のた
めに必要かを意識することによって、彼らのおこなう読書や作文は「生きた言葉」になりうるのである。従っ
て、彼は前任者オールンドの用いたような、デンマークから導入された教育方法は捨て去るべきであると考え
た。感情に働きかけるデンマーク式の教育はスウェーデンの民衆大学には適切でない。目的が明確化され十分
な動機づけがなされたうえで、生徒が自ら学習活動に取り組むことができるような教育こそ、スウェーデンの
民衆大学にとって重要であると彼は考えたのであった19。
このように、スウェーデンにおける民衆大学運動は、グルントヴィ主義の思想を受容して生じたわけではな
く、むしろグルントヴィが構想したフォルケホイスコーレの「農民のための教育機関」というコンセプトが新
イェート主義の思想と合致し、それが民衆大学運動を主導したといえる。従って民衆大学運動にとっては、民
衆大学が「農民のための教育機関」であることが重要であった。民衆大学運動はのちに労働運動を通じてその
基盤を拡大していくことになるが、伝統的民衆文化と結びついた農民の生活を支えることを理念として掲げた
民衆大学が労働者階級にも門戸を開放していったことは、のちの民衆教育の発展にとって大きな意味があった。
農村における農民生活の向上のみならず、社会のあらゆる面での状況改善を求めた民衆運動により深く関わる
ことによって、民衆大学はその存在意義を増していったといえる。
1-2 禁酒運動と学習サークル
(1)IOGT の教育事業
農業革命後のスウェーデンでは、多くの農業経営者にとって、じゃがいもを原料とする蒸留酒ブレンビンの
醸造が重要な収入源となっており、ほとんど規制のないまま生産・販売されていた。元来、寒さの厳しい地では
アルコールの摂取量が比較的多いが、当時のスウェーデンにおいては、農業不況、都市労働者の急増、工業化
にともなう労使関係の変容などによる生活様式の変化と貧困状況の悪化が、飲酒への過度の依存を社会全体に
生じさせていた。
そのようななか、スコーネ地方において牧師ヴィーセルグレン(Wieselgren,P.)により、ヴィーセルグレン
禁酒運動(den Wieselgrenska nykterhetsrörelsen)とよばれる半絶対禁酒主義20の禁酒運動が始まる。
「禁酒
社会(nykterhetssamhälle)
」の実現を目指したヴィーセルグレンにとって、その主要な手段は、禁酒の弊害を
訴えた冊子の配布と全国各地への遊説活動であった。ヴィーセルグレンが重視した冊子配布と遊説活動は、こ
れ以降の禁酒運動に引き継がれていくが、この形態が禁酒運動における初期の教育活動とみなされる。
アメリカで結成された国際善良テンプル騎士団(International Order of Good Templars:スウェーデン語で
は Godtemplarorden、以下 IOGT と略)のスウェーデン支部が 1879 年に組織されると、禁酒運動はさらに本
格的な展開をみせはじめる21。初期の IOGT においても、冊子の配布や講演活動を通じて飲酒の弊害が啓蒙され
Ingers,E.(1943)s.112-123.
半絶対禁酒主義とは、すべてのアルコールを口にしない絶対禁酒主義に対し、蒸留酒のみ禁酒する立場のことをさす。半
絶対禁酒主義運動は、農家での醸造は実質的に禁止する 1855 年のブレンビン法改正にも大きく貢献した。しかしながら、
このことは都市支配層による酒類販売の利権独占と都市財政の癒着等の問題を生み、被支配層のなかに新たな問題意識をも
った禁酒運動を喚起することとなる。自律性を失い貧困に苦しむ労働者層の飲酒への依存、それによる失業者・犯罪者の増
加、治安の悪化などへの対応が迫られていた一方で、節酒主義あるいは半絶対禁酒主義の立場にたつことによって利権を得
る都市支配層と民衆との対立もここには存在していた。こうした背景をもって絶対禁酒主義運動があらわれ、民衆運動の中
核となっていく。石原俊時(1991)p.112。
21 IOGT の初期の指導者は、ほとんどが自由教会に所属していた。絶対禁酒主義運動の団体は、IOGT のほか、IOGT から
分離して結成された NGTO(Nationella godtemplarorden:全国善良テンプル騎士団、1888 年。1922 年に TO と合併して
NTO:Nationaltemplarorden:全国テンプル騎士団となる)
、NOV(Nykterhetsorganisation- en Verdandi:禁酒団体ヴ
ェルダンディ、1896 年)
、IOGT と同系列でアメリカで結成されたフリーメイソンの流れを汲む TO(Templarorden:テン
プル騎士団、1884 年。1922 年に NGTO と合併して NTO となる)
、IOGT のメンバーがイギリスで展開していた運動をス
ウェーデンに導入した組織である SBF(Svenska blåbands- föreningen:スウェーデンブルーリボン協会、1886 年)など
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ていた。より効果的な教育方法を模索しはじめたのは、IOGT 全国本部長となったヴァヴリンシィ
(Wavrinsky,E.)であったといわれる。1887 年以降、ヴァヴリンシィは IOGT 地方支部が冊子の配布活動を怠
っていることを非難し、教育のための機関を即座に整備する必要があることを主張しつづけていた。社会全体
に対して効果的に禁酒を訴えていくためにはよく訓練された人物によってメッセージを伝導していくことが必
要であるとヴァヴリンシィは考え、そのための教育活動の整備を目指したのである。IOGT 内では彼の提案を受
けて教育に関する調査活動がすすめられ、1894 年には教育活動のための事業(Godtemplar-
ordens
studieverksamhet)の立ち上げが決定された22。
1894 年に教育事業の立ち上げが決定されると、初代の学習指導者(studiedirektor)に任命されたベリィマ
ン(Bergman,J.)を中心として学習委員会(studiekommitté)が結成された。ここでは教育事業の内容が協議
され、禁酒問題に限らずメンバーの知識・教養を向上させること、従来の講義・授業といった受身の学習だけ
でなく、共通の関心を持ったものが集まり、自発的・積極的に読書・学習をすすめる機会を提供することを目
標に掲げ、多様なテーマを扱う講習会(studiekurs)を IOGT 全国本部の主導の下に組織的に展開することが
決定された。講習会は講義形式の教育活動で、禁酒問題のほか、保健、自治体や国家に関する知識、歴史、英
語、地理など、多様なテーマが扱われている23。この頃、各支部においては図書館や読書サークルも設置されは
じめており、講習会とともに IOGT 内の教育活動の柱となっていった。
(2)学習サークルの生成
学習サークルの形態は、IOGT の教育活動のなかから誕生した。学習サークルを考案したのはオスカル・ウー
ルソン(Olsson,O.)である24。ウールソンは 1877 年にヘルシングボリに靴職人の息子として生まれ、ルンド大
学に進んだ。両親が禁酒運動の熱心なメンバーであったこともあって学生時代から IOGT のルンド支部で活躍
し、労働者とともに活動するなかで社会民主主義労働運動にも接することとなる。SAP にも入党し、青少年組
織でも活動していた。1897 年にルンド大学を卒業したのち中等学校の教師となるが、その一方で禁酒運動・労
働運動の活動も継続し、1899 年には IOGT の講習会講師となった。
講習会講師を務めるなかで、彼はいくつかの困難を感じるようになる。講義形式の講習会では学習は一方的
なものになりがちで、生徒の関心の持続が困難であったこと、また彼自身が大学で学んだ学問と労働者が望ん
でいる学習とが一致しないことなどである。彼はこのような困難の克服を模索して、少人数のグループを編成
し、そこで自己の関心に基づく自主的な読書活動を推進するようになっていった。これが学習サークルの原型
である。従来の読書サークルを自己教育の手段として再構成したもので、必然的に図書館の利用が促進される
こととなった。
当時は教区図書館(sockenbibliotek)のほか、禁酒団体に付随する図書館、労働運動のなかでつくられた労
働者図書館(arbetarbiblioteken)が存在し、また慈善家による図書の開放もおこなわれていた。しかしながら
これらは民衆運動にとっては不十分で、労働者が必要とするような書物を備えた労働者のための図書館の必要
が高まっていた。1902 年に最初の学習サークルが IOGT ルンド支部内に創設されると、教材として購入された
書物を蓄積した「学習サークル図書館」がつくられ、全国各地において次々と同様の図書館が整備されていく。
がある。1910 年代には、上記 5 組織の参加者総数は約 33.5 万人であった。
22 Andersson,B.(1980)s.63.
もっとも、ヴァヴリンシィのこの提案以前から、教育活動の必要性は IOGT 内で認識され
ていた。1880 年代初め頃から、各支部においては定期的な会合が開かれるようになっていたが、この会合は禁酒問題に限ら
ず様々な社会問題に関する議論をおこなう場として機能していたほか、読み書きなども教えられ、外部の団体と協力して教
育活動をおこなうことも一部では検討されていた。組織の末端のレベルにおいては、かなり早い時期から具体的な教育の要
求がなされていたのである。
23 石原俊時(1995b)p.102。Norlig(1929)s.136-140.
24 実際のところ、学習サークルは民衆運動のなかで広く行われてきた種々の学習活動を統合したものであり、そのことをウ
ールソン自らも強調している(Olsson,O.(1942)s.3.)
。特に、学習サークル活動の中核を占める読書とそれに基づく議論
の習慣は、信仰復興運動から自由教会運動、禁酒運動へと継承されてきたものであった。ウールソンはそれらを理論化し体
系化した人物であるといえる。
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1902 年、学習サークルの形態を全国的に推進すべきであるというウールソンの提案が IOGT 全国本部で承認
され、1904 年には彼は IOGT の学習指導者に就任する。学習サークルはまず禁酒運動のなかで普及し、1905
年頃からは労働運動にも取り入れられ、主として青少年組織で活用されるようになった。
(3)学習サークルにおける「自己教育」の理念
学習サークルの活動を特徴づけるのは、
「人間形成(bildning)とは自己活動(självverksamhet)である」
というウールソンの教育理念であった。彼にとって、民衆の教養とは個々人の日常生活に深くかかわるもので
あり、その点において旧来の上流階級の抱いてきた装飾物としての教養理念とは大きく異なっている。日々の
生活と各人の経験が学習活動の出発点であり、得られた知識は現実の生活における諸問題と結びつけられなけ
ればならない25。ただし、知識そのものはさして重要ではなく、得た知識を自身の経験と生活の中にいかに位置
づけるかが問題であった。彼は、理性や知識、感情、意志、行動力などを含めた諸能力の発展を目指し、そう
した諸能力をもって日常生活のなかで直面する様々な問題を自ら解決していくことこそ、民衆にとって必要な
教養(bildning)であると考えていたのである。
そのような教養は、生活のなかで自ら問題と格闘することを通じて育成される。社会における現実の諸問題
との格闘が、人間の内面的発達を促すと彼は考えた。しかしながら、人が実際に経験できることは限られてい
る。彼はより幅広い自己教育を可能にするための手段として、読書を重視した。書物のなかには、人類の多様
な経験が集約されており、自らが経験できないことを書物を通じて知ることにより、自己の教養の幅を広げる
ことができるのである。それゆえ、彼の構想した学習サークルの活動は、参加者が図書館で自らの必要と関心
に応じた本を探し、それをサークルの中で主体的に理解し問題解決に活用していくことに主眼を置いていた26。
さらに、そのような読書に基づく自己教育は、人類が蓄積してきた文化を継承していくことでもあった。彼
にとっては、
「すべての教育活動は自己教育の活動であるが、それは個人の活動、個人の学習、個人の思考であ
るのみならず、自律的で信頼できる人々によって担われる文化の継承と発展のための共同作業27」であった。そ
れゆえ、民衆教育の目標は「多くの民衆を人類の文化の継承に関わらせること、すべての市民にそれへの責任
感を抱かせること28」であるとされた。彼は「そのような活動には終わりがなく、教育が完了したという人間は、
精神的にすでに死んでいる」とも述べている29。つまり、自己教育とは、個々人が自らの生活における問題を主
体的に解決しながら能力を発達させると同時に、人類の文化を継承し発展させてゆくことであり、それは生涯
続けられるべき活動なのである。社会民主主義思想にもとづく活動家でもあった彼にとって、目指されるべき
文化の継承・発展とは、社会民主主義社会の実現を意味していたと考えられる。自己教育の理念にもとづく民
衆教育を普及させることは、すべての民衆に社会民主主義社会への参加とそのような社会への責任感をもたら
すものであった。すべての民衆がそのような自己教育に取り組むようになれば、個々人の日常生活の諸問題は
乗り越えられ、生活のありようは一新する。さらに、個人と社会との関係のありようも変わり、社会のありよ
うそのものも変容することが期待される。しかも、そのようなことを可能にする自己教育とは、生涯続けられ
る学習のプロセスなのである。
学習サークルは、こうしたウールソンの教育理念を反映させて形成されたものであった。学習サークルの活
動は、自らの日常生活に即した関心からテーマを選択し、図書館で適切な書物を選んで知識を広げ、数人のグ
ループでそれに基づく議論をおこない理解を深め、それを生活に還元させてゆくことの繰り返しである。ウー
ルソンは、このような学習形態を広く普及させることにより、民衆の日常生活を改善し社会のありようをもつ
くりかえていくことを構想したのであった。
25
26
27
28
29
Olsson,O.(1921) Folkbildning och självuppfostran, Stockholm , s.29, 48,116.
Gustavsson,B.(1991)s.162-165. Olsson,O.(1921).
Olsson,O.(1918)Folklig självuppfostran, Stockholm, s.4.
Olsson,O.(1921) s.19.
Olsson,O.(1921) s.19.
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1-3 労働者啓蒙運動
(1)文化急進主義の勃興
スウェーデンでは、1870 年代からイギリス功利主義、ポジティヴィズム、ダーヴィニズムなどが本格的に紹
介され始めた。これらの影響を受け、1880 年代にはあらゆる文化領域において刷新運動がはじまり、従来の文
化観・社会観の見直しがおこなわれるようになる。この動きは文学の領域にはじまり、美術、自然科学、社会
科学など多方面にわたった。これはスウェーデン文化史において文化急進主義(kulturradikalism)とよばれ
ている。文学においては、ストリンドベリ(Strindberg,A.)
、イェイエシュタム(Geijerstam,G.)
、ウラ・ハン
ソン(Hansson,O.)らによって自然主義文学、リアリズムが勃興した。伝統的に観念論の影響を受けてきた旧
来の文学に対して、彼らは民衆の日常生活をリアルに描くことによって観念論的理念とはかけ離れた現実を浮
き彫りにし、文学において社会問題を発見したといわれている30。ポジティヴィズムに基づくニュストレームの
労働者協会運動や、ヴィクセル(Wicksell,K.)による新マルサス主義的社会運動なども、文化急進主義運動の
うちに含まれる。
文化急進主義の思想的特質として、効用や実用性を重視することがあげられる。科学的知識にもとづいた合
理的な社会秩序の形成がめざされ、そのための前提として、旧来の支配体制の打破とともに、労働者に対して
新たな秩序を担うにふさわしい知識や道徳を身につけさせることが課題とされた。そしてこのような課題は、
主として学生の政治的結社によって、啓蒙活動を通じて担われたのである。1880 年代の文化急進主義運動のな
かで最も強い影響力を持った結社として、ウプサラ大学の学生団体ヴェルダンディがあげられる31。ヴェルダン
ディの活動は、以後設立される学生団体にとってひとつのモデルとなった。
ヴェルダンディは、1882 年にウプサラ(Uppsala)でカール・スターフ(Staaf,K.)を中心として結成された。
この年、何らかの異なる信仰に移ることなく国教会を脱退する権利を認めようとする動議が国会に提出された
ことを受けて、スターフらはこれを支持すべく結集し、当初 25 人のメンバーで「思想・言論の自由を奉じ、人
間や社会の問題全般に関心を持つウプサラ大学生の結合体」であることを掲げてヴェルダンディを立ち上げた32。
彼らは自分たちのなかでのみ議論を繰り広げるのではなく、たびたび討論会を開き、当時活躍していた活動家
たちや大学教授との議論を公開した。都市部の労働者をとりまく様々な社会問題が顕在化していたこの時期、
学生たちはアカデミズムの掲げる理念と明らかに対立する現実のありようを焦点化し、旧来の権威への反発を
もって世論に働きかけたのであった。
ヴェルダンディは、下層中間層、労働者階級への客観的・科学的知識の普及をめざして講義活動をおこなっ
たほか、安価な小冊子シリーズ(Verdandis småskrifteer)を幅広い分野にわたって発行した。このシリーズは
1954 年まで継続的に発行され、530 冊が刊行された。
ヴェルダンディ以外の学生団体としては、ウプサラと並ぶ学園都市ルンド(Lund)で 1884 年に設立された
DUG(Den Unga Gubben:若い老人33)
、1886 年にウプサラで設立されのちに各地に広まった「学生と労働者
(Studenter och Arbetare)
」
、1902 年にヴェルダンディから分離し SAP 支持を明確に打ち出していたラボレム
ス(Laboremus)などがあり、ヴェルダンディと同様、講義活動や小冊子の発行などをおこなって民衆教育を
推進した。これら学生団体からは、のちの社会民主主義労働運動や禁酒運動の指導者が多数輩出されている。
ヴェルダンディには、のちに SAP のリーダーとなったブランティング、民衆大学運動で活躍し 1906 年にブル
ンスヴィク民衆大学(Brunnsviks folkhögskola)を設立したフォシュルンド(Forsslund,K.E.)
、労働運動の
30
石原(1994)p.40。
Skoglund,C.(1991)s.71.
32 スウェーデンの大学には通常、ネイション(nation)と呼ばれる出身地方別に結成される学生団体があり、当時の学生運
動はネイション単位でおこなわれるのが一般的であったが、信仰の自由に関するこの件に関しては、複数の異なるネイショ
ンから学生が結集した。文化急進主義運動以前にもスウェーデンにおける学生運動は多様な展開をみせていたが(例えば学
生スカンディナヴィア主義など)
、これ以前の学生運動の詳細については、Skoglund, C.(1991)s.18-52 を参照。
33 この団体はまもなく消滅したが、1896 年に DYG(Den Yngre Gubben:より若い老人)として再生した。
31
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指導者として活躍したユーゴー(Hugo,Y.)
、カッレソン(Carleson,C.N.)
、リンドハーゲン(Lindhagen,C.)
などが所属していた。しかしながら、こうした学生団体は文化急進主義を掲げるラディカルなものばかりでは
なかった。ヴェルダンディに対抗して 1889 年には祖国学生連合(Fosterländska studentförbundet)
、1891 年
にはヘイムダル(Heimdal)が保守派の学生によって設立され、同様に民衆に対する啓蒙活動をおこなってい
た34。特にヘイムダルは、1897 年以降は政治的活動を一切やめ、民衆教育のみをおこなう団体として精力的に
活動を展開していった。
(2)自由主義労働運動における啓蒙活動
一方、1880 年代には労働者に対する啓蒙運動も本格的に開始された。都市中間層によって労働者の組織化が
すすめられ、自由主義勢力に牽引されるかたちで初期労働運動が展開されるなか、啓蒙的な講義活動を通じて
労働者教育が推進されたのである。啓蒙運動の中心となったのは、ニュストレーム(Nyström, A.)の主導で 1880
年に発足したストックホルム労働者協会(Stockholms arbetareinstitut;SAI)であった。ニュストレームはコ
ントのポジティヴィズムに傾倒し、当時の自由主義運動を主導した人物である。労働者協会は全国各都市に設
立され、労働者を対象として自然科学と歴史を中心とした講義を多数開講した35。SAI の活動も文化急進主義運
動のなかに位置づけられる。
本来、自由主義労働運動の各結社はそれぞれ異なる利害関心を持っており、労働者の啓蒙に対する姿勢も様々
であったが36、SAI はあえて当時の敏感な社会諸問題に関わることを避け、労働者の啓蒙と道徳的問題の検討に
関心を限った機関として設立された。SAI の設立・運営には各結社の諸リーダーが関わっており、のちの労働
運動や民衆教育の指導者がここから多数輩出されている。当時の民衆運動のなかで啓蒙活動に特化した組織が
つくられたことの功績は大きく、その活動はその後の民衆教育の発展の基盤を形成したとされている。
1880 年代に開講された SAI の全プログラムには「労働者協会の目的は、成人するまでのあいだ高度な教育を
受けることがなかった全ての女性・男性に、一般的・科学的教養を伝えること、ならびに芸術的な娯楽を精製す
る機会を与えることである37」という序言が掲げられ、労働者に向けて自然科学と歴史を中心とした連続講義が
開講された。文明史の講義を担当したのはエレン・ケイであったが、彼女の伝記から当時の SAI の講義や聴講者
の様子を見てとることができる。ケイは 1883 年から 1904 年まで講師を務めたが、開講してまもなく 480 名収
容の大講義堂が満員になるほどの聴講者を集めた。
「ある聴講者が述べたように、
『労働者協会の門戸はすべて
の人に対して、すなわち貧しさのため、生活のために働かねばならないため、勉強する時間がないために十分
な教育を受けることができなかった者たちに対して開かれていた』のであるが、このような人々が非常に多く
の聴講者となって、彼女の講義がおこなわれた大講義堂を満たしていた38」という。
ところで、ニュストレームは SAI 設立にあたり、その運営資金を国家および市からの補助金と富裕層からの
寄付によってまかなうこと、このような資金調達の仕方こそがポジティヴィズムのイデオロギーの基石である
「異なる階級間の穏やかな共存」をもたらすであろうことを主張したが、すでに 1880 年 4 月には政治家、官僚、
資本家などの富裕層に対して SAI の趣旨説明と支援依頼の回状が送られ、初年度は約 60 名から 3200 クローナ
の資金が寄せられた39。個人からの寄付金のほか、1883 年以降は国民党二月連合の働きかけにより国庫補助金
を受けるようになり、ストックホルム市からも資金援助を得た。また当時の労働運動におけるニュストレーム
の立場を反映して、複数の労働組合からも資金提供がなされていた。
34
35
36
37
38
39
Skoglund,C.(1991)s.78-79.
Bolin, I.(1930).
Andersson,B.(1980)s.33.
Andersson, B.(1980)s.39.
Hamilton, L.(1917)s.76.
Andersson, B.(1980)s.40.
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2 民衆教育の拡大と定着
2-1 民衆教育の組織化
民衆教育運動には上記の三つの流れが存在したのであるが、これら三つが民衆教育として融合し組織化され
たのは、社会民主主義労働運動の主導によるものであった。文化急進主義運動と連動した形で自由主義労働運
動において労働者の啓蒙が叫ばれる一方、労働者の組織化は社会民主主義の導入によって急速に進展し、労働
者啓蒙の仕事は社会民主主義労働運動に引き継がれた。社会民主主義勢力は、労働者に対する教育活動を効率
的におこないうるものとして民衆大学や学習サークルの形態に着目し、労働運動のさらなる発展のためにこれ
らを組織化して全国展開することを構想した。その結果、労働者のための教育機関として労働者教育連盟(ABF)
が設立され、その主たる活動として学習サークルの形態が採用された。以後、民衆運動の諸団体はこれに倣っ
て教育活動推進のための学習協会を各々設立し、学習サークル活動を推進してゆく。
(1)社会民主主義労働運動における教育活動
社会主義思想は 1880 年代に仕立職人パルム(Palm,A.)によってデンマークから伝来したが、当初から修正
主義的であり、議会政治を通した平和的な手法で労働者階級を取り巻く社会環境の改善を目指すものであった。
1889 年に社会民主労働党(Socialdemokratiska arbetarparti:以下、SAP)が設立されると、社会民主主義運
動の活動家は急速に増加した工場労働者に対して労働組合の結成を説き、SAP と労働組合運動とは強固な協力
関 係 の も と に 急 速 に 規 模 を 拡 大 し た 。 1898 年 に は 多 様 な 労 働 組 合 が 結 集 し て 労 働 組 合 全 国 組 織
(Landsorganisationen:以下、LO)が結成され、LO は以後、SAP の強力な支持基盤へと成長した。
労働者啓蒙の必要性は、都市における様々な社会問題の解決の手段として、自由主義運動において以前から
主張されていた。自由主義勢力は啓蒙活動の拠点として SAI を設立し、ニュストレームを中心として労働者啓
蒙運動を展開していたのであるが、労働運動において次第に社会民主主義が勢力を増し、労働者の組織化に関
する主導権を掌握するようになると、それにともなって労働者への啓蒙活動の主軸も社会民主主義勢力に引き
継がれていく。
初期の社会民主主義労働運動における教育活動の場は、SAP の青少年組織である社会民主主義青少年連盟
(Socialdemokratiska ungdomsförbundet)で、これは教会の日曜学校に対抗して 1890 年代にはじまった日曜
学校活動を母体としている。日曜学校活動は社会主義教育を目的とするものではなく、青少年を対象に物語り、
遊戯、遠足などをおこなっていたという 40 。社会民主主義青少年連盟は 1903 年に社会主義青少年連盟
(Socialistiska ungdomsförbundet)から独立して成立し、1905 年頃からは、体系化されてはいないものの学
習サークル活動や図書館活動、講義を活発におこなっていた。また、教育の重要性の主張を前面に押し出した
冊子「Fram(前へ)
」を発行し、新しい教育活動の形態を積極的に模索していた41。
一方、1890 年代以降、社会民主主義労働運動は、より効果的な教育活動を迫られるようになっていた。その
要因の一つは、労働運動の飛躍的な成長である。結成当初 3000 人余りであった SAP の党員数は 1895 年には 1
万人を超え、1906 年には 10 万人超となった。党組織が大規模化したことにしたがって顕在的に指導者が不足
し、大量のリーダー養成が急務となっていたのであった。さらに要因として注目されるのは、1900 年代に男子
普通選挙導入に向けた政治的な動きが活発化していたことである42。政治的民主化の第一歩を踏み出そうとして
いたこの時期、懸念されていたのは民主主義を機能させるための前提となる「市民」育成の遅れであった。こ
うした状況への対応として、労働運動に根ざしたより大規模で効果的な教育活動が求められるようになってい
たのである。
40
41
42
石原俊時(1995a)pp.100-101。
Andersson, B.(1980)s.107.
スウェーデンにおいて男子普通選挙が実現したのは 1911 年であった。
12
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具体的には、1907 年の社会民主主義青少年連盟の大会と 1908 年の SAP 党大会においていくつかの提案がな
されている。1907 年の大会で動議された主なものをあげると、①地域組織、地域間の協力による講義活動の組
織化、②学習サークルを党の綱領で取り上げさらにそれを普及させること、③基金をつくって図書館の不足し
ている農村部に図書館を建設すること、④教育活動の進展のために経験のない新しい組織にそのノウハウを教
えるインストラクターを養成すること、⑤全国各地に日曜学校を建設することなどである43。さらに 1908 年の
党大会では、来たる民主主義社会への備えとして「市民ハンドブック(medborgarens handbok)
」の発行が論
議され、また労働運動のための民衆大学を設立することが検討された。
こうした動議を主導したのは、リカルド・サンドレール(Sandler,R.)であった。彼は 1884 年に後述するフ
ーラ民衆大学の校長ヨーハン・サンドレールの息子として生まれ、1901 年にウプサラ大学に入学、1902 年か
らラボレムスのメンバーとして活躍するとともに、1904 年からは社会民主主義青少年連盟にも所属していた。
1905 年にウプサラ大学を卒業後フーラ民衆大学の教師となったが、党の活動にも積極的に参加し、1907 年、
1908 年の大会で教育問題が論議された際には、教育活動の体系化に向けた動議を主導した。このときの彼の中
心的な主張が、労働運動の指導者養成を目的とする民衆大学を建設することだったのである。
しかしながら 1908 年の党大会ではこれは実現せず、また同時に青少年連盟で検討された他の議題についても、
資金不足などの理由から具体的な方針は打ち出すことができないままであった。サンドレールらの主張したよ
うな充実した教育活動を SAP が単独で実現させることはできなかったのである。
(2)学習協会 ABF の設立
SAP において主に経済的な問題から実現されないままであった教育活動の体系化は、まもなく他の労働運動
諸団体との協力によって動き出すこととなる。SAP と社会民主主義青少年連盟のほか、LO、消費者協同組合
( Kooperativa förbundet : 以 下 KF )、 鉄 道 労 働 者 組 合 ( Jänvägsmannnaförbundet )、 印 刷 工 組 合
(Typografförbundet)
、禁酒団体ヴェルダンディ(NOV)
、労働者図書館(arbetarbiblioteken)が手を結び、
これら諸団体による共同の教育機関として、のちの学習協会の前身となる ABF が 1912 年に設立されたのであ
る。
SAP における教育活動体系化の要求と、
他の労働運動諸団体の教育活動への展望とが接点を持つ契機は、
1906
年のブルンスヴィク民衆大学(Brunnsviks folkhögskola)の設立に見出すことができる。ブルンスヴィク民衆
大学は、フォシュルンドのイニシアティブによってダーラナ地方南部のルドヴィーカ(Ludvika)県に設立され
た。フォシュルンドはアンカルクローナ(Ankarcrona,G.)
、スタディウス(Stadius,U.)らとともに郷土文化
の維持・発展を目指す運動を展開しており、その活動のなかでこの地域に住む青年を対象とした民衆大学設立
を構想していたのであった44。しかしこれに対して県が補助金支給を拒否したため、県の対応とフォシュルンド
らの民衆大学構想をめぐって世論が喚起される。民衆運動の指導者や知識人らが各新聞紙上で民衆大学支持の
立場を表明し、また寄付金も集められたが、最終的には SAP、LO や KF、労働組合などから経済的援助を受け
て運営されることとなり45、また、禁酒団体のために当時新築されたばかりの「民衆の家(folket hus)46」の一室
が校舎として利用された。フォシュルンドら運動の中心人物は社会民主主義労働運動や禁酒運動、景観保存運
動(hembygdsrörelse)などの活動にも関わっており、ブルンスヴィク民衆大学は当初から民衆運動諸団体と密
接な関係を持っていたのである47。
先述のとおり、この時期サンドレールは労働運動の指導者養成のための民衆大学設立を構想していた。彼は当
43 石原(1995a)p.101。Motioner till socialdemokratiska ungdomsf;rbundets andra kongress i Stockholm(1907)
s.12,16,18-21.
44 Möller, Y.(1990)s.49-50.
45 Andersson, B.(1980)s.106.
46 “folket hus”とは本来、労働運動の集会所として建設された建物の一般的呼称である。
47 フォシュルンドは社会民主主義青少年連盟のメンバーでもあり、1902 年に SAP の候補として国会議員に立候補したこと
もあった。石原(1995a)pp.126-127。Nordin,R.(1981)Brunnsvik och arbetarrörelsen, Övervåla, s.29-40.
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第3回北欧教育研究会
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初、ブルンスヴィク民衆大学を SAP に付随する学校として機能させることを考えていたのであった。これは実
現しなかったが、彼は 1909 年に教師を務めていたフーラ民衆大学からブルンスヴィク民衆大学に移り、また同
時に青少年連盟の学習指導者にも就任して、労働運動における教育問題の前進に向けての活動を続けていった。
一方、この時期、保守派もまた民衆教育の強化をめざしていた。国内では民衆運動の台頭と左派勢力の飛躍
的伸張、外からは列強帝国主義の脅威が迫るなか、国家権力にとって国民の教育水準の低迷は深刻な問題だっ
た。このような状況への対応として、国民の文化的・道徳的水準を向上させ国民的利害に奉仕させるべきであ
るという認識のもと、国民統合の攻勢の一環として 1912 年に図書館法が制定された。これは、2 万人以上のメ
ンバーを擁し毎年 6000 クローナ以上の図書を購入している団体に対し、その団体が運営する図書館に対して図
書購入費の 50%を国家が援助するというもので、政府からアメリカに派遣され図書館調査をおこなったパルム
グレン(Palmgren,V.)の提案によるものであった。
労働運動における教育活動の組織化は、こうした保守主義勢力の攻勢を巧みに捉えて前進した。図書館法が
制定されると、サンドレールは演説や冊子の発行などを通じて、労働運動における教育活動を集約させること
を提案しつづけた。図書館法を利用して政府からの補助金を獲得し、労働運動全体の教育活動を充実させるこ
とを目指したのである。彼のこの提案は党内の賛同を得て、党執行部において実現のための特別委員会が設置
された。このとき、ストックホルム労働者図書館(Stockholms arbetarebibliotek)はサンドレールの提案に素
早く対応し、全国の労働者図書館に賛同を促すなど積極的に協力している。同年 7 月、ストックホルム労働者
図書館と SAP 幹部、青少年連盟の代表者が出席した会議において、組織化に向けた具体的な議論がすすめられ
た。この席で、サンドレールは具体的提案として IOGT の学習サークルの形態をあげている。同年 9 月には、
LO、KF など他の労働運動諸団体の代表者を交えた合同会議がもたれ、ここで大筋の合意を得て、翌 10 月には
教育活動のため合同組織の設立が決定された。こうして、1912 年 11 月 16 日、全国労働者連盟(Arbetarnes
riksförbund)がストックホルムにて設立された。この組織は 1913 年 2 月に改称し、ABF(Arbetarnas
Bildningdförbund, riksförbund för arbetarnes föreläsnings- och bibloteksverksamhet:労働者教育連盟―労
働者に対する講義活動ならびに図書館活動のための全国組織)となった。
ABF での教育活動は講義、学習サークル、図書館活動を中心に整備されたが、次第に学習サークルとそれに
付随する図書館活動が大きな割合を占めるようになってゆく。
(3)学習サークルの普及
ABF の設立は民衆運動の諸団体に大きな影響を与え、各運動各団体でおこなわれていた教育活動は ABF の
形態に倣って徐々に組織化されていった。それらは学習協会と呼称される現在の諸団体の母体となっている。
すでに述べたように、禁酒運動においては、 IOGT が 1894 年に教育活動を体系化して教育事業
(Godtemplarordens studieverksamhet)を組織したことを契機に、各禁酒団体が同様の組織を立ち上げてい
た。禁酒運動内の各教育事業は、母体となった団体の統廃合を経て、最終的に 1971 年に NBV(禁酒運動教育
事業)として統合され、禁酒運動全体の下部組織としての学習協会となる。
また、SAP や LO などが ABF を設立したのと同様、他の政治勢力や労働組合も徐々に学習協会を組織するよ
うになっていった。保守派は 1904 年に結成された全有権者連盟(Allmännna valmansförbundet)を母体とし
て 1938 年に右党(Högerpartiet:1969 年より穏健統一党)を発足させたが、その下部組織として 1940 年に
つくられた学習協会が Mbsk(市民学校)である。農民運動を展開していた農民勢力は、1913 年に農民同盟
(Bondeförbundet:1958 年より中央党)を結成し、下部組織として 1918 年に JUF(農民青年連盟)を設置
した。JUF は 1958 年に Sfr(学習促進連盟)と改称している。自由主義勢力が 1895 年に結成した国民党
(Folkpartiet)は、1934 年に FPU(国民党青年連盟)を設立したが、FPU は農民運動のなかで生まれた SLU
(スウェーデン農村青年連盟、のちに SLS:スウェーデン農村学習協会)と合併し、1967 年に SV(学習協会
成人学校)となった。さらに 1931 年にはホワイトカラー労働組合の中央組織として Daco(De anställdas
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centralorganisation:雇用者中央組織)が設立され、1935 年に TBV(ホワイトカラー教育事業)を組織した。
Daco は、1937 年に設立された TCO(ホワイトカラー労働組合中央組織)と 1944 年に合併している。
宗教団体のなかからも学習協会が生まれた。自由教会運動の流れを汲むバプティスト教会、メソディスト教
会、ミッション連盟は、1947 年に各々の青年組織(SBUF、MKU、SMU)を母体とする教育事業を統合して
FS(自由教会学習協会:2003 年に Bilda に名称変更)を設立し、国教会は 1930 年に SKB(スウェーデン国教
教育連盟、のちの SKS)
、KFUM-KFUK(キリスト教青年組織)は 1929 年に KFUM-KFUK 学習協会を設立
した。現在ではこの2つは合併し Sensus 学習協会となっている48。
このように、各運動内の学習活動は学習協会を中心として展開されるようになる。いずれも ABF に倣って講
義、学習サークル、図書館活動をおこなっていたが、活動の中心は学習サークルであった。禁酒運動、政治運
動、労働組合運動、自由教会運動等々、あらゆる民衆運動は、主に学習サークルという学習形態を用いて運動
の担い手たる個々のメンバーを育成するようになっていったのである。
<図1 学習協会の設立>
(4) 民衆大学の拡大
1868 年に最初の三校が開校したのち、1869 年にさらに1校、1870 年代には 19 校が設立された。1900 年代
初頭には全国に 29 校の民衆大学が存在し、そのうち 18 校は地方自治体により設立されたものであった49。農
現在ある学習協会はここに太字で示した 8 団体のほか、スウェーデンスポーツ連盟の下部組織として 1985 年に設立され
た Sisu(スポーツ学習連盟)
、大学の公開講座が母体となって 1945 年に設立された FU(国民大学)の全 10 団体である。
49 Hedlund, K.(1943)s.154.
48
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民以外を対象とした最初の民衆大学は、1896 年にスウェーデン北部ノールランド地方の森林地帯に製材労働者
のための学校として開校したフーラ民衆大学(Hola folkhögskola)であったが、これは労働運動と結びついた
ものではなく、19 世紀に設立された民衆大学はほとんど全てが農村に住む青年を対象としていた。一部農村で
は、民衆大学で学んだ青年たちが自らの所属する禁酒団体の指導者になるようなことはあったが、民衆大学自
体が禁酒運動と関わりをもっていたわけではなかった。
1906 年に、先に述べたような経過を経てブルンスヴィク民衆大学が開校すると、これを機に民衆運動と民衆
大学との関わりは徐々に密接になっていく。 禁酒運動の民衆大学として 1908 年にヴェンデルスベリィ民衆大
学(Wendelsbergs folkhögskola)がつくられたほか、1918 年にはセツルメント運動の中から季節労働者と対
象としたビルカゴーデン民衆大学(Birkagårdens folkhögskola)が開校し、1919 年には協同組合運動に関わる
ヤコブスベリィ民衆大学(Jakobsbergs folkhögskola)が設立された。宗教団体によって最初に設立されたのは
スウェーデン国教会が 1917 年に開校したシグテュナ民衆大学(Sigtuna folkhögskola)で、自由教会運動に関
わる学校としては 1921 年にバプティスト教会の主導で設立されたショーヴィク民衆大学(Sjöviks
folkhögskola)
、1939 年にスウェーデンミッション連盟が設立したカーリクス民衆大学(Kalix folkhögskola)
などがある50。
これらの民衆大学は、
「運動学校(rörelsefolkhögskola)
」とよばれ、それぞれの運動の諸団体と密接な関係
をもった。例えばビルカゴーデン民衆大学は、民衆大学設立のためにつくられた基金団体と ABF が共同出資し
て設立した学校である。また、ヤコブスベリィ民衆大学は消費者協同組合(KF)の主導のもとに社会問題、経
済問題を主として扱う学校で、KF のメンバーが出資する基金団体が運営資金を提供していた51。ヴェンデルス
ベリィ民衆大学は、禁酒団体 NGTO が基盤となっていた52。こうした「運動学校」としての民衆大学は、各運
動の普及とメンバー育成の機能を果たし、学習協会でおこなわれた学習サークル活動と同様に運動内で大きな
役割を担っていたのである。
2-2 民衆教育への財政支援の実現
上にみたとおり、民衆教育は社会変革を目指す諸運動のメンバー育成の手段として組織化された。この時期
の民衆教育は運動とまさに密接に結びついており、例えば民衆教育の中心的存在であった ABF の教育活動には
社会民主主義のイデオロギーが強く反映され、国教会に反発する自由教会においては各々の教義に則った教育
がおこなわれていた。こうした事情から、民衆教育は概してイデオロギー性が強く反体制的なものとみなされ
たのである。にもかかわらず、組織化された民衆教育は早い時期から公的な財政支援を獲得している。これは
どのようにして実現したのであろうか。
民衆教育への国による財政支援は、先述した 1912 年の図書館法制定53を契機とするが、すでに 1850 年代に
民衆運動の一端として図書館運動が生じていた。1842 年に国民教育令が公布されて以降、国民学校や教会等の
片隅に小規模な図書館が設置されるようになっていたが、それらに収められている書物は民衆の興味からほど
遠いものだった。のちにリベラルな慈善家らによって設置された私設図書館も、民衆のモラルを高め、支配し
やすい従順な国民気質を育てるような書物に偏り、文学的価値は二の次であったという54。こうした知識の押し
付けに対する反動として生まれた図書館運動は、労働運動と結びついて発展した。社会民主主義勢力傘下の労
働者図書館は、すでに 1880 年代にはストックホルム市内に 10 館以上設立され、20 の移動巡回図書館、約 400
タイトルの蔵書を有する国内最大の図書館組織となっており、1891 年にストックホルム労働者図書館連盟
50
51
52
53
54
Hedlund, K.(1943)s.182-187.
Hedlund, K.(1943)s.188.
Hedlund, K.(1943)s.160.
SFS 1912:229.
フォン・オイラーシェルピン三根子(1994)121 頁。
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(Stockholms Arbetarbiblioteksförbund)を結成し、1900 年以降は市および国から補助金を得ていた55。また、
1902 年以降 IOGT 内に次々と設置された学習サークルは 1906 年には 200 を超え、サークル参加者が利用する
学 習 サ ー ク ル 図 書 館 の 蔵 書 は 同 年 13,168 冊 に 達 し て い た 56 。 1903 年 に は 民 衆 教 育 協 会
(Folkbildningsförbundet)が結成され、各地に「読書小屋(lässtuga)
」が設置されるなど、民衆の読書は民
衆運動と強い結びつきをもって普及していたのである57。
1912 年の図書館法制定は、1909 年に政府より図書館調査を任されたパルムグレン(Palmgren,V.)の答申に
基づくものであった。ヨハンソン(1983)によれば、1909 年から 1911 年にかけておこなわれたこの調査は、
パルムグレンが視察したアメリカの図書館政策の影響を強く受けていたという。彼女は、教育はすべての人に
与えられるべきものであること、学習内容の如何を問わず全ての人々に対して学習環境を整備すべきであるこ
と、学習者は受動的な存在ではなく能動的に学習活動に関わるべきであることを主張し、図書館利用は能動的
学習によって促進されると考えていた58。
調査は講演会活動を対象として開始されたが、そこでの学習はあまりにも受動的であり、図書館利用を推進
するものではないとみなされた。講演会活動に代わって注目されたのは、IOGT の学習サークルでおこなわれて
いた活動であった。読書によって学習者の関心が喚起され、それにもとづいて集団学習をおこなうという学習
サークルの活動は、図書館利用と学習者の能動的学習が適合した好例であった59。答申は、学習サークルの創始
者である IOGT のオスカル・ウールソンも加わって作成された60。全ての人々の学習要求に応える施策として民
衆運動における図書館事業を対象とする財政支援が提案され、この答申に基づいて 1912 年の国会で動議が出さ
れたのである。国会では、間接的にではあれ民衆運動の活動を財政支援の対象とすることを警戒する声もあが
ったが、国家の維持と発展に向かっては社会全体の協力関係を深める努力がなされるべきとの認識が共有され、
全国規模で民衆教育運動を展開する団体に対して図書購入費の 50%を国が負担することが法制化された61。
補助の対象は、あらかじめ政府によって選定された図書の購入のみに限られていたが、こうした支援の実現
によって民衆運動団体間の連携が促進されることとなる。SAP は 1912 年に LO や消費生活協同組合などの諸
団体と共同で ABF を設立したが、このことには、同年に制定された図書館法を利用して国からの財政支援を獲
得し労働運動全体の教育活動を充実させようという意図もあった62。これを契機として多くの民衆運動団体によ
って次々と学習協会が設立され、学習サークルを中心とした民衆教育の組織化が一気に進展したのである。
1920 年には、1913 年から国会議員となっていたオスカル・ウールソンと、同じく禁酒運動家で SAP 党員の
シェルド(Sköld, P.E.)によって、民主主義の担い手を育成することの重要性が国会で主張され、民衆教育全
般に関する政府調査が要請された63。この頃にはすでに労働運動、禁酒運動等において教育活動の組織化がすす
んでおり、民衆教育の規模増大に伴い運営資金不足が顕在化していた。また、政治的民主化の進展に伴い「市
民」育成のための教育の拡充が国家的緊急課題として浮上した時期でもあった。1920 年 6 月に調査委員会が任
Brissman, S. och Wiktor, S. L.(2002)s.36-38, フォン・オイラーシェルピン三根子(1994)121-122 頁。
Svenska nykterhetsförlaget i distribution(1922)s.37.
57 当時の民衆の読書の様子を知る史料として、Nordiska Museet red(1968)に収録されている回顧録 Saltmätargatan,
Barnhusgatan och Klara norrakyrkogata(av Selén, I.)などがある。
58 Johansson, I.(1985)s.182-186.
59 IOGT の他には、キリスト教青年連盟(Kristliga förening av unge män)
、禁酒団体ヴェルダンディ、社会民主主義義青
少年連盟などが同様の学習サークル活動をおこなっているとして注目された。
60 Törnqvist, I.(1996)s.43-45.
61 こののち 1924 年に民衆教育に関する政府調査報告書(SOU 1924:5)が提出されたが、その草案では、民衆運動の諸団
体と関わりを持たない図書館に補助金を多く配分するべきであるとの見解が示された。こうした意見は各方面から辛辣な批
判を浴び、補助金の受給に関しては全ての図書館が同じ規定のもとにおかれることの重要性を強調する内容に書き換えられ
た。またこのとき、図書購入費のほか図書館運営のための費用も補助の対象とすることが検討されたが、国家財政の悪化を
理由に先送りされ、これが実現したのは 1931 年から 1933 年にかけてであった(ただし学習サークル図書館は対象から除外
された)
。Andersson, B.(1980)s.256-257.
62 Andersson, B.(1980)s.107-109.
63 Törnqvist, I.(2002)s.64.
55
56
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命され、ウールソンをはじめ、民衆教育協会会長のチェルベリィ(Kjellberg, K.)
、ABF の全国学習指導者フー
ゴ(Hugo, Y.)ら民衆教育関係者が中心となって調査が開始された64。しかしながら、1922 年に深刻化した経
済不況のために、調査は 1923 年をもって打ち切りとなる。それまでの調査結果をまとめたレポート65が 1923
年 10 月に提出されたものの、民衆教育の拡充を促進するような具体的施策は何ら実現しなかった。
このレポートは 1924 年に政府調査報告書として公表された66。報告書では、民衆教育は①成人の自由な自己
形成活動を補助するもの、②属性にかかわらず全ての人々を対象とするもの、③特定の能力向上ではなく全面
的発達を目指すもの、④組織形態や教育方法において青少年教育とは異なるもの、と規定された。ここにおい
て民衆教育の存在がはじめて公式に肯定されたといえる。さらに報告書では、成人の教育・学習はすべからく
自己形成活動であり、民衆教育組織においては学習者の学習要求にもとづいた教育が提供されねばならないこ
とが強調された。学習者の「自由(fri)
」と「自発性(frivillig)
」が民衆教育の原則とされ、民衆教育組織が最
も留意しなければならないのは、学習者の多様で流動的な学習要求を把握しそれに応えることであると規定さ
れたのである。
ところで、労働者を対象として活発におこなわれていた講演会活動は、すでに 1884 年に国からの財政支援を
獲得していたが、補助金受給の条件として政治性・宗教性を一切排除することが厳しく求められ、民衆運動と
の関わりは次第に希薄になっていた67。従来警戒されてきたことは、民衆教育の場が政治的・宗教的プロパガン
ダの中枢になることであった。1924 年報告書における自由と自発性の原則には、普通選挙制が実現した時代に
おいては全ての市民にとって中立的な政治教育が必要であるという考えも含まれていたが、プロパガンダ問題
に対しては、報告書では意図的な宣伝・教化活動を抑止する手立てを講じる必要があると主張されるにとどま
った。
1930 年代はじめには経済はやや回復の兆しを見せたが、すでに第二次世界大戦が近づいており、民衆教育へ
の財政支援の実現にむけた取り組みは中断されたままであった。第二次大戦の終戦が近づく 1944 年、宗教大臣
68であった右党のバッゲ(Bagge,
G.)により 1923 年に打ち切られた民衆教育調査がようやく再開される。この
調査は 1920 年調査を踏襲し、自由と自発性の原則を重視したが、調査開始にあたってバッゲは以下のようなこ
とを強調した。すなわち、国家を動かすものは市民の知識に基づく自律的判断であるが、その成熟は学校教育
だけでは不充分であり、成人は政治、経済に関する知識を継続的に深めていかねばならない。祖国や郷土の文
化、歴史を学ぶことは、特に国家運営の重要性を実感させることにつながるもので、民衆教育はそのために拡
充される必要があるとされた69。
実は、この時期すでに民衆教育はその内実を変容させつつあった。1930 年から 40 年代にかけて、自由主義
勢力や保守派、ホワイトカラー労組等が学習協会を組織して各々の掲げる理念に則した教育活動を開始してお
り、そこでも学習サークルが主要な学習形態として採用されていた。学習サークルを中心形態とする民衆教育
はラディカルな社会変革を目指すものとして誕生したのであったが、その学習形態は保革双方の諸勢力に取り
込まれ、多様な内実をもって展開されるようになっていたのである。
保守派によって主導された 1944 年調査では、民主主義の発展にとって民衆教育が重要であることは認められ
ていたものの、従来の反体制的な民衆運動のイデオロギーが教育活動に反映されることには根強い反発があり、
民衆教育に民衆運動が関与することに対する警戒心が顕わに示された。1946 年に提出された答申においては、
学習サークルを民衆教育の中心的形態とすることが確認されたうえで、学習サークルを 4 タイプに分けて各々
に補助規定を設けることが提案されると同時に、プロパガンダ対策として民衆教育を学校教育庁(SÖ)の管轄
Törnqvist, I.(2002)s.64-65.
Folkbildningskommittén(1923).
66 SOU 1924:5.
67 Johansson, I.(1985)s.181, Andersson, B.(1980)s.42.
68 1968 年に教育省(Utbildningsdepartment)が設置されるまで、教育に関することは宗教省(Ecklesiastikdepartment)
の管轄であった。
69 Johansson, I.(1985)s.193, SOU 1946:68.
64
65
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のもとに置くことが求められた70。つまり、教育・学習内容を政府の管理下に置くことが、学習サークルへの補
助金給付の条件とされたのである。しかしながら、学習サークル活動に対する財政支援が実現することへの関
係諸機関の期待は非常に大きく、法制化に向けて協調姿勢は保持された。答申に基づいて 1947 年の国会で学習
サークルへの財政支援に関する動議が出され、提案はほとんど議論されることなく承認されたのであった71。
第二次大戦の苦い経験を経た戦後のスウェーデンでは、民主主義の重要性とその基盤としての民衆運動が一層
重視されるようになり、1963 年の国会では、SAP 所属の宗教大臣エデンマン(Edenman, R.)のもとで民衆運
動と民衆教育の一層の発展を目指す方針が確認された72。こうして民衆教育は、政治的民主化の進展とともに「市
民」育成という国家的課題と結びつき、その性格を変容させながら徐々にその意義を社会全体に認めさせてき
たのであった。その契機となったのは、民主主義実現に向けた社会の歩みのなかで、学習サークルという学習
形態が多様で流動的な学習要求に応えるうえでの効率性を高く評価されたことであったといえよう。
3 成人教育の制度化とリカレント教育の導入
戦後のスウェーデンでは、第二次大戦に参加しなかったことが幸いして経済成長が急速に進み、SAP が主導
した社会福祉改革も順調に進められ社会全体に豊かさが実感されるようになっていた。1962 年より義務教育改
革が始まり、19 世紀半ば以来の複線型学校教育の見直しが検討され、義務教育期間が 9 年間に拡大されるなど
抜本的な学校教育制度の改革がおこなわれた。一方、1960 年代は人的資本論のもとで成人教育政策が本格的に
始動した時期でもあった73。国会において「成人教育(vuxenutbildning)
」という概念が初めて扱われたのは
1967 年のことである。
1967 年の国会では、
「成人教育」を多様な学習・教育形態からなる複合的概念であるとし、その内実は①労
働力育成のためにおこなわれるもの、②中等教育レベルの学校教育を補完するもの、③民衆教育、の三つの分
野に集約された。そのうえで、公的資金をスウェーデン経済の発展に貢献しうる成人教育の拡充と義務教育改
革後の世代間教育格差の補償にあてることを求める動議が出されている74。また、当時の教育大臣であったオロ
フ・パルメ(Palme, O.)の指名により発足した 1968 年教育審議会(通称 U68)において、
「リカレント教育
(återkommande utbildning)
」のアイデアと理念が初めて登場する。U68 は最終レポートにおいて、リカレン
ト教育を「経済上の利益を生み、労働市場に恩恵をもたらし、平等を増加し、学生の知的探求心を刺激するも
の75」として正当化した。U68 の提案では、成人教育を社会的不平等の是正のためのものとする視点をそなえつ
つも、経済政策の一環としての成人教育の制度整備が強調されていたといえる。
こうした動向と並行して、労働運動による成人教育政策への働きかけも活発化していた。LO は、1966 年に
成人教育問題委員会(LOs arbetsgrupp för vuxenutbildningsfrågor:通称 LOVUX)を組織し、1969 年から
1976 年にかけて 4 本のレポートを公表している。LOVUX は 1969 年に公表したレポートにおいて、成人教育
SOU 1946:68. 答申では、学習サークルは「基礎サークル(Grundcirkel)
」
「教養サークル(Bildningscirkel)
」
「青年サ
ークル(Ungdomscirkel)
」
「大学サークル(Universitetscirkel)
」の 4 タイプに分類され、講師やコーディネーターへの報
酬、通信講座、学習計画作成、図書購入に対する補助規定が作成された。大学サークルには必要経費の全額が、基礎的・専
門的教育の要素が大きい基礎サークルと青年サークルには最大 75%が、教養サークルには最大 50%が国によって補助され
ることが提案された。この案に対しては動議の前に LO から変更が要請され、最終的な議案(Proposition 1947:204)では
基礎サークルと教養サークルを統合して「一般サークル(Allmäncirkel)
」とし、一般サークルへの補助は経費の最大 50%
とされた。Lönnström, P(1978)s.40-48, 82-83.
71 SFS 1947:508. 審議の際、議員からの唯一の発言は、民衆教育推進者としてすでに伝説的存在となっていたオスカル・
ウールソンによる法制化への賛辞であったという。Lönnström, P.(1978)s.48.
72 SFS 1963:463.
73 瀧端真理子(1994)76-77 頁。
74 Proposition 1967:85. これに先駆けて、1965 年の高等学校審議会(GU)答申「高等学校および専門学校における成人
教育」において、義務教育の補完、教育の機会均等、労働市場教育の必要性などの観点から成人教育の重要性が指摘されて
いた。SOU 1965:60.
75 瀧端(1994)78 頁。
70
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は平等と公正を実現し社会を変革するための一つの手段であると論じた76。さらに 1971 年のレポートでは、成
人教育への参加に偏りがあることが指摘され、これまで成人教育への参加が困難であった人々に優先的に教育
機会を提供することが要求された77。また、1972 年にはホワイトカラー労働組合中央組織(TCO)もリカレン
ト教育の形態での成人教育の制度化と修学援助を求める要望書を出している78。このように、労働組合からは教
育機会の不平等是正により重きを置いた提言が出されていた。これらを受けて、1970 年に政府は成人教育審議
会(kommittén för försöksverksamhet med vuxenutbildning:通称 FÖVUX)を組織した。FÖVUX のもとで、
リカレント教育の理念に基づいて教育の機会均等を目指す成人教育政策が立案され、成人に対する修学援助、
有給教育休暇法・成人教育義務資金法の制定、コムブクス(地方自治体が設置する成人学校)
、労働市場教育プ
ログラムの整備などが実現したのである。
<参考資料:成人教育制度の概要>
①成人学校教育
コムブクス
地方自治体成人教育(kommunal vuxenutbildning:Komvux(コムブクス)と
略称)
。地方自治体(コミューン)が運営する成人のための学校で、高校や職業
学校の夜間コースを前身として 1968 年に導入された。スウェーデンで最初にそ
のような夜間コースがつくられたのは 1953 年で、それが正規の学校として認め
られたのは 1961 年である。当時の夜間コースは、すでに職業をもっており能力
と意欲のある成人が、それぞれの分野での継続専門教育を受けるために大学に
入学することを目指し、それに必要な高校の単位を短期間に修得することを目
指すものであった。その多くは民衆教育を運営する民間団体によって設置され
ており、当時は公的補助金が支給されなかったため授業料はかなり高かったと
いう。1960 年代半ばには全国約 30 ヶ所にそのようなコースが存在していたが、
それらを吸収するかたちで 1968 年 7 月にコムブクスが制度化された。2000 年
度は、全国で 404 校のコムブクスが存在し、317,206 人が参加。
セルブクス
障害者のための成人教育(vuxenutbildning för utvecklingsstörda:Särvux(セ
ルブクス)と略称)
。身体に障害を持つ成人のための高校レベルの教育プログラ
ムで、教育内容はコムブクスと同様に一般の高等学校と同じであるが、不足し
ている教育を補充するために、コースや時間割などは各生徒の経験や受けてき
た教育を考慮して設定されることになっている。2001 年は 4,436 人が参加。
Sfi
移民のためのスウェーデン語教育(Svenska för invandrare)
。増加する移民が
スウェーデンでの生活に早急に慣れ、職を見つけ自立して生計を営むこと、ス
ウェーデン社会の一員として積極的に社会参加していくことを補助するための
制度である。移民は SFI の試験に合格することでスウェーデン語能力を認めら
れ、コムブクスにおいて無料で教育を受ける資格を得る。SFI を経由し、コムブ
クスで所定の単位を取得し卒業資格を得れば、一定の基準を満たした労働力と
して労働市場で評価されるようになっている。2000 年度は、SFI のための教育
機関は全国に 265 あり、受講者数は 37,322 人。
76
77
78
LO(1969).
LO(1971).
TCO(1973).
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高等教育
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太田美幸
大学検定の成績に労働経験が加算されることによって、労働経験者に有利な制
度が保持されている 2000 年度は、
25 歳以上 60 歳未満の高等教育機関在籍者
(研
究者養成機関在籍者は除く)は 150,498 人で全在籍者の 52.8%、30 歳以上 60
歳未満の在学者だけでみると、全在籍者の 30.2%であった。年齢層別の内訳は、
25∼29 歳が 64,469 人(同年齢層人口の約 11.7%)
、30∼39 歳が 52,687 人(同
約 4.4%)
、
40∼49 歳が 25,405 人
(同約 2.4%)
、
50∼59 歳が 7,937 人
(同約 0.7%)
。
その他
職 業 付 加 教 育 ( påbyggnadsutbildning )、 職 業 資 格 教 育 ( kvalificerade
yrkesutbildningen)
、補遺教育(Kompletterande utbildningar)
、など。
②労働市場
プログラム
雇用訓練が中心。失業者あるいは失業のおそれのある者を対象とし、職業訓練をおこない労働力と
しての評価を向上させることに加え、労働市場において増加の必要を認定された職業への集中的教
育をおこなうこと(例えば、看護婦が不足している場合には看護婦養成のためのコースに重点を置
いたりする)を目的とする。訓練内容は職業にあわせて初級から上級まで用意され、場合によって
は職業的な訓練のみならず教科教育もおこなわれる。雇用訓練参加者には、失業手当と同額の訓練
手当が支給される。1996 年には 45,613 人が雇用訓練に参加。
③民衆教育
民衆大学
デンマークにおいてニコライ・グルントヴィが 1844 年に創設したフォルケホイ
スコーレを起源とする。スウェーデンで最初の民衆大学は、農民層のイニシア
ティヴによって 1868 年に設立された。19 世紀末までに設立されたものは多く
が公立で地域的性格が強く、農民の教育水準を向上させる目的が明確であった
が、20 世紀に入ると都市部の青年労働者を対象とする教育機関としても着目さ
れるようになる。1906 年以降は、労働運動、宗教運動、禁酒運動などと結びつ
いたものが多く設立されるようになった。2002 年現在、民衆大学は全国に 147
校存在し、そのうち民間団体が運営するものは 103 校、地方自治体が運営する
ものは 44 校である。教育内容は各校ごとに自由に決定され、標準化された教育
計画やカリキュラムはない。コース内容も様々で、1∼8週間の短期コース、
2∼3 年の長期コースなどがあり、義務教育の補充、高等教育機関への進学に必
要な単位取得を目的とする高校レベルの教科教育などのほか、音楽、演劇、ジ
ャーナリズム等に特化したコース、一般教養コース、外国出身者や移民のため
のスウェーデン語コースなどが混在する。原則として授業料は無料、運営費用
は各団体が負担することになっているが、教員の給与は国庫補助金で賄われる。
ほとんどが寄宿制で、修了者には通常の学校教育と同等の卒業資格が与えられ
る。2000 年度は、延べ 240,501 人が在籍。
学習サークル
全国に 10 団体ある学習協会によって企画・運営されている(表3参照)
。参加費
は各サークルによって異なるが、いずれも小額である。学習内容は多彩で、実
務に役立つものから趣味・娯楽的なものまで幅広く揃っている。補助金を受け
ることができる学習サークルの条件は、1講座あたりのメンバーが 5 人以上 20
人以内であること、学習時間の合計が 20 時間以上であること、4 週間以上にわ
たって開講されること、の三つである。開講されていないテーマについて学習
サークルをつくりたい場合は、近所のスーパーマーケットの掲示板などにメン
バー募集の広告を出し、仲間が 5 人以上集まったら最寄りの学習協会に申し込
む。申し込みを受けた学習協会は教室や講師を必要に応じて提供し、学習協会
が負担する経費に対して FBR を通じて補助金が支給される。2000 年の学習サ
ークル数は 334,246、参加者は延べ 2,816,921 人。
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第3回北欧教育研究会
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4 民衆教育・成人教育の現代的状況
1980 年代には、成人教育政策は労働力育成に一層重点を置くようになる。1970 年代までに整備された労働
市場教育プログラムは学校教育庁(SÖ)と労働省労働市場政策局の管轄下にあったが、1986 年の制度改正によ
って労働市場教育が自由化され民間企業の参入がはじまるなど、60 年代にみられた教育の機会均等を目指すリ
カレント教育の原則は、この時期実質的に変容しつつあった。1990 年代においては、国際化の進展のなかで産
業における国際的競争力の向上が社会的急務となり、国際的に通用する人材の育成を目的とした教育改革が求
められた。その結果、高等教育機関ではエリート養成と研究開発の側面が強化され、リカレント教育導入当初
の大きなねらいであった世代間・階層間の教育機会不平等の是正は、高等教育以外の場面で担われることとな
ったのである。
こうしたなかで 1997 年より実施されたのが、5 年間の特別プログラム「知識向上(Kunskapslyftet)
」であ
る。このプログラムは後期中等教育レベルの成人教育の定員を増やそうとするもので、主としてコムブクスで
の能力開発コースが定員拡大の対象となったが、民間企業が主催するコースや、民衆大学(folkhögskola)
、学
習協会といった民衆教育の機関で開講される講座も対象に含まれ予算が配分された。成人教育政策の中核が高
等教育におけるリカレント教育の推進から「知識向上」プログラムへ実質的に移行した79ことに加え、このプロ
グラムが民衆教育の提供する学習機会の利用を含めて推進されたこと、民衆教育と公的な成人学校教育との質
的区分がなくなりつつあることが特に注目される。高等教育がリカレント教育の推進力を弱めエリート養成の
側面を強めた一方で、成人教育政策における民衆教育への役割期待は増大しているといえよう。
ところで、現在の民衆教育に対する財政支援は、1991 年に制定された「民衆教育への国庫補助に関する法令」
(SFS 1991:977)に基づいて実施されている。これ以前には、民衆大学への国家による財政支援は 1977 年制
定の「民衆大学法」
(SFS1977:551)
、学習サークルへの財政支援は 1981 年制定の「学習サークル等への国庫
補助に関する法令」(SFS1981:518)によって定められていた。1991 年の法令によって「民衆教育協議会
(Folkbildningsrådet)
」が設置され、民衆大学と学習サークルへの補助金支給は民衆教育協議会を通じておこ
なうこととされた(図2)
。
1991 年法令においては、民衆教育に対する国庫補助の目的として以下の三点があげられている。
<SFS 1991:977 第 2 条 民衆教育への国庫補助の目的>
政府は以下の目的のために民衆教育への財政支援をおこなう。
①人々の生活状況の向上に影響を与えうる活動、人々の社会参画を可能にする関係づくりの促進
②民主主義の強化・促進
③社会における文化的関心の拡大と人々の文化活動への参加促進
社会における教育格差の解消と教育水準の向上を目指す活動、ならびに教育的・社会的・文化的に不利な立場におか
れてきた人々を対象とする活動は、ともに優先しておこなわれるべきものとする。特に、外国のバックグラウンドを
持つ人々、障害者、失業者を重要な支援の対象とする。
(1998 年一部改定)
2001 年 2 月 22 日に教育科学省から国会に提出された政府議案「成人の学習と成人教育の発展(Vuxnas
lärande och utvecklingen av vuxenutbildningen:Regeringens proposition 2000/01:72)
」は、教育活動のみ
ならず、地域社会における情報伝達や学習環境の整備においても自治体と民衆教育、民間教育機関との連携が
重要性を増しているという認識にもとづき、学校法及び国立成人学校法の改定80、成人教育政策の目的の再検討
81、成人教育事業への新たな予算配分を要請するものであった。1960
年代の教育改革において導入された成人
SOU 1999:141 s.17-27.
Förslag till lag om ändring i skollägen (1985:1100) Prop.2000/01:72, s.5. Förslag till lag om ändring i lagen
(1991:1108) Prop.2000/01:72, s.6.
81 この議案において政府が示した成人教育政策の目的に関する見解は、以下のとおり。1960 年代以降に整備された公的成
人教育制度は、広範にわたる技術革新やグローバル化のもとで求められる知識や技能を提供しようとしてきたが、求められ
る知識や技能が複雑化するにつれて個々人の学習も細分化せざるを得なくなり、それに対応する学習指導のありかたが一層
79
80
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第3回北欧教育研究会
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<図2 民衆教育組織図>
Folkbildningrådet(民衆教育協議会:FBR)
Folkbildningsförbundet
Rörelsefolkhögskolornas
(民衆教育協会)
Intresseorganisation
(民衆大学民間運営組織:RIO)
ABF
地方自治体が運営する
民衆大学(44 校)
︵学 習 協 会︶
︵民 衆 大 学︶
民間団体が運営する
民衆大学(103 校)
Bilda
FU
学習サークル
334,246
Mbsk
NBV
参加者
2,816,921 人
(2000 年)
Sensus
Source:
SCB(2002)
Sisu
Sfr
出所:報告者作成。
SV
TBV
教育政策は、民主主義の発展、経済成長、再分配政策を念頭におくものでもあったが、これらの重要性は未だ
強調されている。議案においては、21 世紀における成人教育政策の理念として「全ての成人は、人格の成長、
民主主義と平等の実現、経済成長、雇用、正当な再分配を促進するという目的で、知識を広げ能力を発展させ
る可能性を与えられるべきである82」ことが示され、そのための具体的戦略として、知識社会における個人の流
動的な学習要求の増大に対応するための教授法と労働形態の開発、成人の学習を促進するための修学援助の充
実などがあげられた83。それらに対応する形で、公的成人教育制度の改革に関する提案が述べられ、こうした一
連の成人教育改革案に含みこまれるかたちで民衆教育についての政府調査が 2001 年に実施された84。
重要になりつつある。成人学校のカリキュラムに従って提供されるプログラムや講座の形態は、必ずしも成人学習者のニー
ズを満たすわけではなく、個々人の求める知識や求職・転職・キャリアアップに有効なスキルの多様性に柔軟に対応してい
くには、あらゆる教育形態の複合的な利用を視野に入れていく必要がある。
82 Prop.2000/01:72, s.14, 27-28.
83 Prop.2000/01:72, s.14, 28-29.
84 民衆教育への国庫補助に関しては、予算配分をめぐる議論が今後継続されるものと思われる。政府によるこうした評価は
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第3回北欧教育研究会
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議案によれば、現在の民衆教育は、人々の生活状況を改善し文化的関心を喚起するものとして、また民主主
義を促進し教育格差の是正、教育水準の向上に貢献するものとして認識されている85。加えて、近年では障害者、
移民、失業者が民衆教育の重要な対象とされている。議案では、特に民衆大学において多く開講されている障
害者コースについて、公的な学校教育制度においては十分にフォローできない細やかな教育的配慮をおこなっ
ており、学習サークルも含めた民衆教育が社会的インテグレーションを推進する機関としての役割を果たして
いることが指摘された86。
2004 年 3 月 15 日に公表された最終報告書では、民衆教育に期待される機能が概ね以下の三点に集約されて
示されている87。
①民主主義の促進
民衆教育における教育活動の幅は非常に広く、あらゆる社会的グループからあらゆる
年齢層の人々が参加しており88、学歴格差を埋める働きをしていることも明らかになった89。学習協会によって
差があるが、全体的に学習サークル参加者の 4 割は学習協会の構成員となっている各種団体の活動の一環とし
てサークルに参加し、各戸に配布される開講プログラムをみて参加する人が約 3 割である。また、近年は民衆
大学参加者の約 1 割が障害者、1∼2 割が移民であることも特徴的である90。民衆教育は、参加にあたって個人
の能力やバックグラウンドが問われることがなく、全ての人々に門戸が開かれている。報告書では、この点こ
そが民衆教育の最も重要な特質であるとされ、ここに民主主義の根源的基盤が存在していると主張されている。
また、民衆教育における教授法・学習法の特徴として、グループ学習でのリーダー的役割の存在、対話や議
論が中心であることがあげられる。報告書では、こうした学びは問題解決に向けた共同の取り組みを促すもの
であり、社会参加をもたらすものになりうると評価されている91。
報告書は、民衆教育組織の民主主義的運営についても付言している。組織内の指導的立場につくのは中高齢
層の男性に偏っており、女性や若い世代の人々は少ない。また、移民や障害者等の組織内での地位が低いこと
も指摘されている。こうした偏りを改善していくことで、民衆教育における活動がより社会への貢献度を増し
ていくことが期待されている。
②地域における文化活動の促進
地域社会の文化活動において民衆教育は非常に大きな役割を果たしてお
り、個々の文化形成にも豊かな機会を提供している。とりわけ、芸術分野におけるアマチュアの活動の場とな
っている点が重要である。音楽、演劇、ダンス、手工芸等の活動があらゆる地域で活発に展開されているのは、
各地域における学習協会の取り組みの成果であるといえる。この観点から、地方自治体(コミューン)と民衆
教育組織とのより密接な連携が求められている。
③移民・少数民族・障害者に対する教育
多文化化が進展するスウェーデン社会においては、異なる文化
を持つ人々の相互理解と個々の文化の維持・形成にどう取り組むか、異なる文化的背景を持つ人々をどのよう
にして市民社会に取り込んでいくかが大きな課題となっている。政府は 1997 年以降、
「民族的・文化的多様性
(etnisk och kulturell mångfald)はあらゆる政策形成の出発点である」という姿勢を示してインテグレーショ
ン政策を推進してきたが92、そのなかで民衆教育にも大きな期待が寄せられてきた。今回の政府調査を通じて、
実質的に民衆教育の内実を検証するものであり、すでに実施されているような移民対象サークル等への特別補助金支給の効
用が確認されることによって、補助金全体に占める特別枠の割合が増加していくことも予想される。従来は原則として学習
時間(量)に応じてなされていた予算配分が、学習内容(質)に応じた配分に移行することになれば、実質的に学習内容の
方向づけが強化されることになると考えられよう。
85 Prop.2000/01:72, s.66.
86 Prop.2000/01:72, s.66.
87 SOU 2004:30, s.323-334.
88 2002 年の学習サークルへの参加者を年齢別にみると、
13∼24 歳が全参加者の 16%、25∼65 歳が 64%、66 歳以上が 20%
であり、17∼75 歳の全人口の 75%が過去に何らかの学習サークルに参加した経験をもつ。SOU 2004:30, s.189-190.
89 民衆大学、学習サークルともに、低学歴者のほうが高学歴者よりも参加率が高い傾向がある。SOU 2004:30, s.192, 195.
90 SOU 2004:30, s.193-195.
91 SOU2003:112 では、15 人の民衆教育参加者に対しておこなった質的調査に基づき、民衆教育における学びが社会参加へ
とつながる可能性が分析されている。
92 従来のスウェーデンの移民政策は、移民がスウェーデン人と同様の機会、権利、義務を負うことを目指し、移民の登録や
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第3回北欧教育研究会
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移民・少数民族・障害者といった人々にとっての民衆教育の重要性が以下のとおり明らかになった。
第一に、民衆教育が移民や障害者向けの教育プログラムを豊富に提供している点が注目される93。各民衆大学
が独自のコースを設置しているほか、種々の市民団体と密接な関係を持つ学習協会によって、ニーズに応じた
プログラム提供が可能となっている。例えば、ABF には移民組織や障害者団体が構成員として加盟しており、
Bilda には東欧系の移民が多く所属する東方正教会などの宗教団体が加盟している。また Sensus は、ムスリム
の学習団体 IbnRushd と提携している。民衆教育が提供する講座や学習サークルでは、スウェーデン語の修得
や職業訓練など社会生活を営むために必要な学習がおこなわれるとともに、自文化の維持・発展のための活動
も可能となっている。
第二に、異なる文化的背景を持つ人々の出会いの場として民衆教育が機能することが期待される。民衆大学
や学習サークルは、あらゆる人々が個々の関心に基づいて集う空間であり、そこで対等な相互交流がおこなわ
れることによって異文化理解が促進されると考えられる。しかしながら報告書では、民衆教育における活動全
般においてスウェーデン文化を基盤においた運営がなされているとの指摘もあり、民衆教育の場において異文
化間の「対等な相互交流」が実現しているか否かについては慎重な検討が必要である。
おわりに
上述した民衆教育の現代的性格をふまえて、19 世紀末以降の民衆教育・成人教育の機能変容についてまとめて
おきたい。
近代化の到来とともに労働者階級によって推し進められた民衆運動は、ラディカルな社会変革を目指して階
級闘争・文化闘争を繰り広げ、民衆教育はそのための手段として組織化された。初期の民衆教育は、ラディカ
ルな社会変革を実現するために、運動メンバー育成の手段として機能していた。
20 世紀に入ると、読書によって学習者の関心を喚起しそれにもとづいて集団学習をおこなうという学習サー
クルの活動は、多様で流動的な学習要求に応えるうえでの効率性を高く評価されるようになる。1920 年前後に
は、政治的民主化の進展に伴い「市民」育成のための教育の拡充が国家的緊急課題として浮上し、民衆教育に
は「市民」育成の機能が期待されるようになっていった。1930 年から 40 年代にかけて、自由主義勢力や保守
派、ホワイトカラー労組等も学習協会を組織し、各々の掲げる理念に則した教育活動を開始したが、そこでも
学習サークルが主要な学習形態として採用されている。
第二次世界大戦の苦い経験を経た戦後のスウェーデンでは、民主主義の重要性とその基盤としての民衆運
動・民衆教育が一層重視されるようになり、1963 年の国会では、民衆運動と民衆教育の一層の発展を目指す方
針が確認されている94。1960 年代は、経済成長が急速にすすみ社会福祉改革も順調に進められるなか、人的資
本論のもとで成人教育政策が本格的に始動した時期でもあり、この頃登場したリカレント教育の理念は以後の
教育政策において大きな位置を占めた。
国際化の進展のなかで国際的競争力の向上が社会的急務となった 1990 年代以降は、民衆教育と公的な成人学
校教育との質的区分がなくなりつつあり、高等教育がリカレント教育の推進力を弱めエリート養成の側面を強
めた一方で、成人教育政策における民衆教育への役割期待は増大している。さらに、今回の政府調査で強調さ
れたように、多文化化への対応においても民衆教育への期待が大きくなっている。
居住許可等をおこなう移民局のほか、労働省、文化省などの管轄下におかれてきた。1997 年に「移民政策」から「インテグ
レーション政策」への転換が図られ、移民を区別して政策の対象とするのではなく、移民、少数民族、スウェーデン生まれ
の人々を全て含みこんだ社会全体の多文化化を認識し、全ての人々の平等な社会参加、特定の文化にとらわれない個々のア
イデンティティとライフスタイルの形成を目指す方針が掲げられている。Prop. 1997/98:16.
93 民衆大学で開講される移民や障害者向けの特別コースや、参加者の半数以上が移民である学習サークルには、国から特別
補助金が支給されている。2002 年には、全開講サークルの約 11.5%が移民対象のサークルとして特別補助金を受給した。
SOU 2004:30, s.250. しかしながら、スウェーデン語を母語とする人々に比べると移民の民衆教育への参加率が低いという
ことも明らかになっている。SOU 2004:30, s.252.
94 SFS 1963:463.
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第3回北欧教育研究会
2004 年 7 月 24 日
太田美幸
このように、民衆教育が果たしてきた機能、あるいは民衆教育に期待される機能は時代に応じて変容してき
たが、注目すべきは、学習目的・学習内容が大きく変容したにもかかわらず、民衆教育組織は変わらず人々の生
活に密着した学びの場として存在しつづけていることである。民衆教育は政策過程にも大きな影響力を持つ民
衆運動と密接に結びついてその組織的基盤を形成したが、この基盤は、学習活動の性格変容にも対応可能な学
習組織として現在に引き継がれており、スウェーデン型生涯学習社会を支える柱となっているのである。
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