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近代イラン金融史研究 利権/銀行/英露の角逐

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近代イラン金融史研究 利権/銀行/英露の角逐
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【書 評】
水 田 正 史 著
『近代イラン金融史研究──利権/銀行/英露の角逐』
ミネルヴァ書房,2003 年,x+211 ページ
入 江 節 次 郎
1
著者の水田正史氏は,日本ではきわめて数少ないイラン経済史専攻の研究者である.こ
うした貴重な研究者として,精力的にイラン経済史の研究に取組み,1980 年代から 14 点
の論稿を発表してきた.これらをベースとして手を加え,新たに写真や地図などを挿入
し,書き下ろしの「章」を付加して刊行されたのが本著である.英語,ロシア語,ペル
シャ語の史資料に拠りながら手堅く遂行された研究の結集である本著は,日本における経
済史研究に対して貴重な貢献をしたものといえるであろう.
資本主義経済の根幹をなす商品経済は,全地球的規模の世界的な空間を与えられるこ
とによって,はじめて存立の基盤を確保することができた.それにもかかわらず,商品経
済発達の歴史過程を跡づける使命をもつ経済史研究は,誠に不思議なことに,世界の部
分である欧米の特定の地域を対象として選択し,これらの地域の経済史を世界経済史から
切り離して追究していく傾向が濃厚であった.
欧米以外では,東インドや中国などが,経済史の対象として少なからざる研究者たちに
よって選ばれてはいる.けれども,ヨーロッパについても北や東のヨーロッパの諸地域,
アフリカや西アジアの諸地域,東南アジアの諸地域,南アメリカの諸地域における商品経
済の発達史を跡づけていく研究は,日本においては非常に少なかった.まず,水田正史氏
は,この少ない研究者の一人であることを重ねて強調しておきたい.
ところで,いままで少数の人たちによってしか取り上げられなかった地域の経済史を究
明する意義は,経済史の空地を埋めていくことにとどまるものでは断じてない.
商品経済の体制的な表現体である世界資本主義は,世界商品市場と世界金融市場とい
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う脈管内の循環を通じて世界的な資本蓄積の運動を繰り返している.だから,世界資本主
義史の基軸は,取りも直さずこの蓄積の運動の史的態様を明らかにしていくことに据えな
ければならない.そして,今まで経済史の空地とされていたこれらの地域の経済史は,こ
の世界資本主義史展開の一環として捉えることによってとりわけその正しい姿を把握する
ことができるのである.ということは,これらの地域を対象とする経済史の究明は,厳存
する世界資本主義の発達史を無視し,これと切り離して欧米の特定の地域を対象として選
択した従来の経済史の偏った一面性を衝くものになる.このようなさらに大きな意義をもっ
ているのである.
さて,第 1 次世界大戦期までの世界資本主義の循環の脈管である世界金融市場が,形
態的にはロンドン金融市場を中心として世界的な網の目状に連鎖して形成された組織であっ
たことは,いうまでもないであろう.この著書の何よりもさらに大きな特徴は,イラン経
済史と世界資本主義史の切点を,世界金融市場の具体的な史的動態に求め,そこに焦点
を当てることによって,世界資本主義史の観点に立ったイラン経済史研究の新地平を開拓
した点にあるということができよう.
立ち入って考察するとき,この世界金融市場は,1870 年ころからの帝国主義時代にな
ると,帝国主義支配と絡み合う場になっていったのである.イランにおいて,そこに登場
したのが,イギリス帝国主義とロシア帝国主義であった.それゆえ,本著の近代イラン金
融史研究は,内容的にはまさしく「金融帝国主義下のイラン」という表現に象徴される態
様を浮彫化する研究となっているのである.現在においても,イランやイラクなどを考察
していく場合,金融帝国主義との歴史的な係わりが問われてくるのである.しかも,この
点が明確にはされていなかったのである.こうした観点に立つとき,本著は,今日のイラ
ンについて考察していく際に,下敷きにしてわきまえておかなければならない不可欠な認
識を提供したものとして,きわめて意義深いものとされるのである.
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では,「金融帝国主義下のイラン」にどうしてなっていったのであろうか.その歴史的
な根は,どのように求めていったらよいであろうか.こうしたきわめて重要な課題につい
て,本著は解答を提示してくれるのである.
まず,イラン経済が,世界資本主義の体制に組み込まれていった発端から説き明かして
『近代イラン金融史研究──利権/銀行/英露の角逐』(入江節次郎)
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いかなければならない.いつごろから,どのようにしてであったか.
ときは,1830 年代ころからであった.イランは,主として当時すでに世界商品となっ
ていた綿製品などを外域から取り込み,同じく絹などを外域に積み出すことによって,世
界商品市場に組み込まれていったのである.この市場関係は,2 地域間の関係にとどまる
ものではなかった.イギリス−イラン−ロシアを基軸として,トルコや地中海諸地域,東
ヨーロッパ,東インドなどの対外通商網に,これは連鎖していったのである.
こうした通商網における通商と通商に伴う金融において主導的な役割を演じたのがアン
グロ=ギリシャ系のマーチャント・バンカーのラリ商会であった.その活動に触れていく
のであるが,こうしたマーチャント・バンカーは現地において,単独では活動することが
できず,必ずといってよいほど輩下を必要とするのである.そして,その役を引き受けた
イラン人のアミーノッザルブという企業家の存在を明確にしていくのである.この企業家
の活動についての詳細な研究は,今後の研究課題として残されているとされてはいるが,
こうした輩下の存在を明らかにしたことは意義深いものがあるといえよう.
ところで,イランにおける多角的な対外通商関係であるが,近代的な信用制度が未発達
な状況の下では,これらの決済は容易ではなかった.現象的には,この困難はイランにお
ける「貨幣不足」となって現われた.世界金融市場に連結したイラン金融市場の創設を
現実化させる銀行業の設立が求められた.結局は実現しなかったが,1879 年,アミーノ
ッザルブによる国王への銀行設立の請願書の提出は,こうした時代的な要請に応えたもの
であった.そして,それから 10 年後の 1889 年に,その前年にテヘラーンにおいて支店
を開設したイギリス系の「植民地銀行」であった新オリエンタル銀行の土地・建物を買収
し,ペルシャ帝国銀行(以下,帝国銀行と略称)というテヘラーンに本店を置くイギリス系
の海外銀行が設立されていくことになるのである.
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この帝国銀行は,イランにおける独占的な発券権を与えられ,イランの国立銀行と規定
されたのであった.ところで,この時期のイランはすでに,イギリスとロシア両帝国主義
の角逐する進出地域になっていた.両帝国主義ともこの進出を金融市場支配の面で追求し
ようとしていったのである.
イランの側にも,この金融帝国主義的進出を受け入れる条件があった.まず,世界金融
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市場で流通できるような銀行券を発行する銀行が設立されることは,いうまでもなくイラ
ンの商人たちにとっても望ましいとされていたからである.また,鉄道や道路の建設,鉱
山の開発といった事業推進のために巨額の資金を必要とする事業の展開が,イラン商人の
側からも期待されていたからである.
この帝国銀行が,単なる金融機関ではなく,金融帝国主義的な性格を表徴する機関で
あったことは,イランにおいて,鉄道や道路などの建設や鉱物資源開発の会社設立の利権
を獲得していったことに何よりもよく示される.
続いて,ペルシャ帝国銀行が設立された翌年の 1890 年,イランを中心とした多角的対
外通商の決済を円滑にする役割を果たすペルシャ割引貸付銀行(以下,割引貸付銀行と略称)
という銀行が,ロシアの企業者たちに与えられた特許によって設立された.重要な問題
は,当時「ルーブル帝国主義」の政策を追求していたロシア帝国主義権力が,1894 年,
この銀行のロシア国立銀行による買収を実行し,割引貸付銀行が国立銀行の事実上の支店
になり,ロシア帝国主義のはっきりとした道具となったことから生じることになった.
1900 年と 1902 年に,イラン政府は,巨額の借款を割引貸付銀行から受けることになっ
た.また,1901 年には,イランとロシアとの間にロシア側にきわめて有利な通商協定が
締結された.こうしたことが契機となって,イランにおいて,先発イギリス帝国主義と後
発ロシア帝国主義とは拮抗する関係になっていった.1894 年以来,割引貸付銀行は事実
上ロシアの国有であったが,1903 年には形式的にも国有化されて,イランにおけるロシ
ア金融帝国主義の体制はいちだんと強化された.さらに付言すれば,ロシア金融帝国主義
には,もう 1 つの支持機関があった.それは,モスクワ国際商業銀行のイランにおける出
先機関であった.
すべての帝国主義がそうであるように,イランに進出した両金融帝国主義とも,現地に
おける金融市場の近代化に支えられなければ,十全の活動をすることはできない.そし
て,この金融市場の近代化は,同時に在来企業家層の勃興を呼び起こすことになっていく
のである.
帝国主義従属下の地域の軍事組織が,愛国主義の名のもとに結集されていくのと同様
に,イラン現地の在来企業家層の生成の渦巻きのなかでの在来金融業の興隆も,経済ナシ
ョナリズムの名のもとに展開していったのであった.もちろん,こうした新たに勃興した
多業種にまたがる在来企業も,世界商品市場や世界金融市場を実質的な活動の場とせざ
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るをえないわけであるから,ヨーロッパや東インドに出先機関などを設立したのであった.
また,外国貿易と金融業を行なった在来企業であるマスウーディーイェ社のロンドンや香
港の代表は,帝国銀行とも深い関係にあったサスーン商会であったことを事例の 1 つとし
て掲げ,帝国銀行と在来企業とを単純に対抗関係にあったと捉えてはならない,両金融帝
国主義の支配する金融市場に基本的にはこうした在来企業は組み込まれたと理解すべきで
ある,と説かれる.
これは一例であるが,総じてトゥマニャンツ社を先頭とする代表的な在来企業 14 社に
ついて,存続期間,設立地,資本金,事業分野,破綻の原因などを組み込んだ一覧表が
掲げられ,それぞれの企業体の勃興と活動の状況について,かなり立ち入った考察をして
いるのも,本著の功績というべきであろう.
さらに,帝国主義権力にとって,従属地域の政治支配を円滑に進めていくには,国民
議会の設立はむしろ望ましいことであり,その開設も,1906 年 10 月には実現することに
なるのである.さらに,この年の 11 月には,国民議会は,他国からの借款にもっぱら依
存している態勢を脱却するために「国民銀行」設立の布告を発表したのであった.
けれども,国外在住のイラン人にまで呼び掛けた設立の資金募集が行なわれていったに
もかかわらず,資金管理が杜撰であったことや銀行設立に伴って銀行が入手する利権に対
して反対の声があがったこと,また,帝国銀行や割引貸付銀行が妨害したこともあって,
1908 年の初めには,「国民銀行」設立の夢は崩壊してしまったのである.
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ところで,イラン政府の財政が,他国からの借款に頼らなければ解決しないという状態
の続くなか,1907 年 8 月,イラン,アフガニスタン,チベットにおけるイギリス,ロシ
ア両帝国主義の勢力圏の分割を定めた「英露協商」といわれるものが,締結されたのであっ
た.
この協定の締結は,この両帝国主義が拮抗しながらも,協調的な対イラン支配の態勢を
成立させたことを表徴するものであった.金融帝国主義下のイランの様相変化の外的な契
機にこの協定の締結はなったのである.
事態は,次のように進展した.
1910 年 2 月,イギリスとロシア両政府から 40 万ポンドの借款がえられる認可をイラン
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政府は与えられたが,それには苛酷な条件が付けられた.そこで,イラン政府は,イギリ
スやロシア以外からの資金調達を試みるに至るが,両帝国主義によって阻止されたのであっ
た.
ところで,ロンドン金融市場の金融業者たちは,この新事態に反応したのである.サミ
ュエル商会,クリスプ商会,ボールトン商会,インターナショナル・オリエンタル・シン
ジケート社などが,まず対イラン借款に乗り出す姿勢を示したのであった.だが,イギリ
ス政府は,これを抑止した.
とはいえ,ロンドンを中心とした金融業者のすべてが,このイギリス政府の措置を是認
したのではなかった.1910 年 6 月,さらに有力な,本店をニューヨークに置くユダヤ系
の金融業者のセリグマン商会が,120 万ポンドの借款供与をイラン政府に申し入れたのであ
った.それにもかかわらず,またもやこの金融業者による対イラン政府借款についても,
イギリス帝国主義政府はこれに横やりを入れて阻止したのであった.そして,1911 年 5
月,結局,帝国銀行が対イラン政府借款を実施していくことになるのである.
それだけにとどまるならば,金融帝国主義下の新しい様相の展開を云々することはでき
ないかもしれないが,さらに事態は進んでいくのである.イギリス政府が帝国銀行による
対イラン政府借款を認可したのに対応し,ロシア政府は,割引貸付銀行に対して同様の認
可をするのであるが,その際注目すべきことに,割引貸付銀行は借款に応じるに当たり,
資金的な援助をさきのセリグマン商会に求めるといった動きをするのである.そしてさら
に,パリのパリ=オランダ銀行も,この資金援助に参加するという動きが現われてくるの
である.
結局,イラン政府借款が,帝国銀行と割引貸付銀行の 2 行を通じてのみ行なわれてい
くことになったという基本線は,もちろん重視されなければならない.けれども,より重
要な点は,この市場で活動している他のイギリスやドイツやフランスなどの金融業者が,
イラン政府借款に係わっていこうとする動きをしていったにもかかわらず,この基本線に
落着いたところに,矛盾を内包した金融帝国主義の特質がある点が強調されなければなら
ないと思う.事実は叙述されているにもかかわらず,指摘は控え目に過ぎている思いがす
るのである.
帝国銀行や割引貸付銀行のような一般に「国際銀行」とか「海外銀行」と称される銀
行の活動の特徴は,すでに触れたように,金融業務に限定しないで,鉄道の建設といった
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利権を獲得することに求められよう.1913 年 2 月に割引貸付銀行にイラン北部のジョル
ファー=ダブリーズ鉄道建設の認可が与えられたのに続いて,帝国銀行が中心に加わって
設立されたペルシャ鉄道シンジケートにイラン南部のモハンマレ=ホッラマーバード鉄道
建設の利権が与えられたことは,こうした銀行の特徴を示しているといえよう.
こうした鉄道利権の取得の展開について,さらに注意しなければならない重要な点は,
イギリス=ロシア両金融帝国主義のイランにおいて実現した協調の態勢に即応するかのよ
うに,イランを横断しロシアとインドの鉄道網に連結するトランス= ペルシャ鉄道の建設
が,イギリス=ロシア両帝国主義国の協調のもとに行なわれていくことが第 1 次世界大戦
前に決定したことであった.
そして,第 1 次世界大戦前の時期になると,イラン政府は,外国借款を重ねてきたが
ためにといったほうが妥当と思われるが,さらに深刻な財政危機に陥った.そこで,イラ
ン政府は,イランの貨幣単位で表現すれば 300 万トマーンの共同前渡金の引き渡しをイ
ギリス=ロシア両政府に要望したのであった.
これに対し,両帝国主義国政府は,信用供与の対価としてイラン政府に領土の譲渡を
公然と要求し始めたのであった.金融を帝国主義の道具とする金融帝国主義下のイランの
到達点が,ここにきわめて明瞭に現われてくるにいたったのである.
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以上,1830 年代から<西洋の衝撃>を受け,さらに,1870 年ころから「ヨーロッパ人
への利権供与などを通じて,ヨーロッパの『帝国主義的進出』を被った」イランの姿を躍
動的に捉えたこの書物の概要を紹介した.
すでに触れたように,この<西洋の衝撃>とは,評者の表現によれば,「世界商品市場」
と「世界金融市場」という脈管への組み込みを媒介としたイラン経済の「世界資本主義
体制」への編入の過程を意味するものであった.また,「ヨーロッパの『帝国主義的進
出』」とは,具体的には,イギリスとロシア両国家権力による「帝国主義的進出」であっ
た.この場合,進出のもっとも大きな道具となったのが,イギリス帝国主義系のペルシャ
帝国銀行とロシア帝国主義系のペルシャ割引貸付銀行であった.
この両銀行は,対立関係にあったというよりもむしろ,提携と競争の関係を維持しながら
活動していったのであった.そこで,大きな問題が提起されていることに気付くのである.
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重ねて述べることになるが,第 1 次世界大戦前におけるイランにおいて,イギリス=ロ
シア両帝国主義は協調の態勢に傾いた姿勢を取り続けたのであった.では,こうした帝国
主義的協調態勢に規制されて,この 2 つの金融機関は提携と競争の関係を維持し続ける
ことになっていったのか.
そもそも,世界金融市場を足場にしなければならない金融機関の場合,国境を越えた提
携と競争の関係というのが本来の姿である.特にイラン金融市場において,どちらかとい
えば,帝国銀行は政府借款にむしろ重点を置き,割引貸付銀行は,マーチャント・バンカ
ーのように委託荷貿易も行なったが,金融活動では貿易金融により重点を置いたのであっ
た.こうした面では,特に分業的な協調関係が明瞭であった.地理的にはどちらかといえ
ば,割引貸付銀行はイラン北部を,帝国銀行はイラン南部を活動の重点を置いた舞台とし
たのであった.要するに両銀行の活動の主軸は,排他的というよりもむしろ協調的な関係
を保ちながら行なわれていったのである.
だから,イギリス=ロシア両帝国主義が金融に媒介された活動をしていったイランの場
合,この「金融」という条件に大きく規制されて,この両帝国主義は対象地域において
協調政策を取らざるをえなかったのではないか.
評者は,基本的には「金融」という条件による規制を重視する立場を取りたいと思う.
そこに,本書のテーマを「帝国主義下のイラン」ではなく,「金融帝国主義下のイラン」
とするのがベターではないかという評者の見解の根拠がある.そしてまた,こうした問い
に対する解答を与えてくれるすぐれた実証研究になっているところに,本書の何よりも大
きな今日的意義があると考える.
読者に考えさせるという意味合いからであろうか,著者は,誠に慎み深くこうしたこと
を「結び」に相当する章を設けては叙述していない.甚だ差し出がましい指摘になること
を懸念するのではあるけれども,評者は,著者に代わってここに,本書の「結び」に相当
するところで記さるべき内容のなかで,もっとも重要であると考えられる問題の一端を記
述することにした.
(2003. 8. 1)
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