...

リルケとロダン

by user

on
Category: Documents
13

views

Report

Comments

Transcript

リルケとロダン
Kobe University Repository : Kernel
Title
リルケとロダン
Author(s)
金子, 瑞穂
Citation
DA,(創刊号):71-100
Issue date
1991
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002007
Create Date: 2017-03-29
リルケ とロダ ン
金子 瑞穂
Ⅰ 物への問い
リルケの多 くの作品 は、その創作過程において、文学以外の芸術分野か
ら深甚なる影響を受 けている。就中、造形芸術が リルケに与えた影響 につ
いては、 もはや議論の余地 はあるまい。 リルケは、あるときは造形芸術家
の現存に深 く関わ り、また、あるときは造形芸術作品 に強烈 に没頭す るこ
とによって、自己の詩人 としての在 り方 を兄いだ し、それを数 々の詩作品
に結実 させたのである。悲歌 の詩人への長 く苦 しい道程、そこには、どれ
ほどの造形芸術作品、そ して巨匠たちの生が、影 を落 としていることだろ
う。なかで も、大 きな存在 はロダンである。詩人にとって、 ロダンは五年
間にわたって賛嘆すべ き模範であり続 けた。師 としての ロダンは、創造の
原理その ものであり、 「
仕事を、仕事だけをや らなければな らない、そ し
て忍耐を持たなければな らない」 という彼のモッ トーは、さなが ら神 の啓
示のように詩人を襲 ったのである。
「ロダン休験」 と一般に言われている リルケのロダンとの避遍の真の意
義 は、 「
物」が深 くかっ具体的に思惟 され、同時に詩作 されたことにある
のではないだろうか。 このころの リルケは、いかばか り物を見、そ して感
じていたことだろう。 ロダンとの出会いを経て彼 は、 これまでただ感覚的
に捉えてきた 「
物」へ と思念を集中させは じめる。 ここで、真の意味 にお
いて、見 ることが始まるのである。
物 とは何であ
では、 リルケの言わん とする 「
物」 とは何であろうか。 「
るのか。
」 この問いはきわめて素朴な問いのよ うである。 だが、その答 え
に至 る道は長 い。果た して答えなるものがあるのだろうかo 「
物 とは何か」
と問われる時、問われているのは物だけではな く、問 うている人間 も問わ
れているのだ。というのは、この問いは、物 の存在を問 うことによって人
間の存在を問 うという本質的でかつ、根源的な問いだか らである。あ らゆ
- 71-
る事物が、物 として存在 している。日常我々を取 り巻いている事物 も、製
品 も、我々の感情 も、神、そ して人間でさえ、物 として在 るのだ。
ここで見ていこうとするのは、物の中で も、造形芸術作品や、詩作品と
呼ばれる芸術事物であるが、芸術事物 と事物 との境界を、現代にいたって
もなお、我々は確定することができないでいる。いや、現代だか らこそま
すます芸術事物への問いは、混迷を深めっっあるのではないだろうか。芸
術事物 とはいかなる物であるのかO事物か ら芸術事物へと、物 は凝集 し閉
じ込められ、そして同時に解放される。この事物の回 りの時間空間は、独
特の仕方で展開 している。その展開の中で、物 と人間、特に芸術家 との関
係 はどのようであろうか。結局のところ、何故人は物を作 るのか。創造 と
は何か。創造する人間 とは誰なのか。そ して我々とは誰なのだろう。我々
はこれ らの問いを発 しつつ、その問いをめ ぐって生 きているといえる。こ
れ らの問いは究極 においては、一つであるのかもしれない。それゆえ、我々
はその問いを生 きる。少なくともリルケという詩人はその問いを生 きたの
だった。
次第に広がる輪の中に、私の生がある。
様々な物の上 にそd)
輪は措かれる。
おそらく最後の輪を閉ざす ことはできまい。
だが私 は試みようと思 う。
1)
物-の問いを発すると、静寂が生まれる。 「
物の回 りの静寂。あらゆる
動 きは静まり輪郭 となり、そ して過去 と未来の時か ら、一つの永続するも
」 2)
のがその輪を閉 じる。空間、無へ追 い詰め られた物の偉大な鎮静。
リルケは、一生涯、物を問い続けた。次の手紙 は、ある若い詩人に宛て
て書かれたものであるが、ここでは、 リルケ自身の問いを生 きる態度が如
実に表 されているといえよう。 リルケ自身が、このようにして物を問い、
かつその問いを生 きていったのであった。特にロダンとのかかわ りにあっ
ては、その問いは、造形作品という事物-の問いとなる。
忍耐をもっ こと。そ してどうかさまざまの問いそのものを愛するよ
うに試みていただきたい。それ らの問いを、閉ざされた部屋のように、
一
一7
2-
全 く未知の言葉で書かれた書物のように、愛す るのです。今 は答えを
探 ろうとはなさいますな。答えは、恐 らく貴方がそれをいまだ生 きる
ことがで きないので、与え られないので しょう。 しか も肝心なのは、
すべてを生 きることなのです。どうか今は多 くの問いを生 きて くださ
い。恐 らく貴方 は、そ うして生 きてお られるうちに、次第にご自分で
は気づかれないで、遠 いある日、答えのなかに入 ってお られることで
しょう。
3)
Ⅱ
「
芸術事物」 と 「
場」
リルケは、 ロダン論において、物を 3種類に分類す る。まず自然物、吹
に「
野性的な労働の中に盲 目的に出来上が るある物」 と表現 される道具の
永続す る物」はいったん出
粗い、そ して最後に 「
永続す る物」である。 「
来上が ると、 「
平静 と密やかな品位」を保つようになって、その永続す る
彼方か らこちらを見つめている。それ らは、「
共 に滅び去 らない物 」「
一段
高い物」であって、その故 に 「
永続す る物」である。 この 「
一つの物」を
作 ろうとす るのが、芸術家である。 こうして作 られた事物 は、他の事物 と
は異なる次元 にその存在を獲得す る。 「
永続する物」は、ロダン論 に於 い
ては、 「
芸術事物」 とも呼ばれ、それはまた、いずれの存在物 よりも確か
な存在を獲得 しているのである。 ロダンの作品の存在の重みは、 リルケを
圧倒す る。彼 は、物にそれほどまでの重みを与え うる強固な芸術意志の存
在を、その背後に見 る。それはまた、無数 ともいえる習作、ノー ト、 トル
ソにも働いていて、作品のどんなわずかな線、量感 といえど、偶然 に生み
物 は確固 としている。芸術事物 は、さ ら
出された ものはないのである。 「
」
に確かであるにちがいない。そこか らはあ らゆる偶然が消えている。
I)
リルケの思惟 は、 「
芸術事物」だけに集中 しない。彼の思惟 は、事物 の
回 りの 「
場」へ と広が り、かつそれを包摂 したうえで、深ま りを見せてい
る。それは、 この論に特筆すべ きことであるといえよう。 しか も 「
場」は、
リルケの言葉 によって、多彩な層 となって立ち現れる。それは、大別 して
3つの 「
楊」である。 この論では、まず第 1に、近代以降、作品が置かれ
-7
3-
ている場の状況が呈示 され、次に、作品が直接触れている空間、そ して最
後に、作品が獲得する歴史的時間空間としての 「
場」が、語 られる。
近代 は、そ してこれは我々の時代をも合わせ考えるべきであろうが、 リ
」「共通の家を持たない時
ルケの言を借 りれば 「カテ ドラ-ル不在の時代
代」である。かってカテ ドラ-ルは、その威容を誇 り、彫刻作品をその回
りに集め、信仰 と芸術の中心 となっていた。そのようにしてカテ ドラ-ル
は、時代の価値観を決定 していたのである。ノー トルダム寺院には、動物
悪魔精霊たちが寺院を装飾する姿 となって集い、ブサックの城内では壁を
飾 るタピス リーが、 しっくりとその場にな じんでいた。 しか し今では、か
っての多 くの作品は美術品 として、歴史の中で設定 された場か ら離され、
美術館の中で保持 されている。いかなる彫刻作品 も、絵画 も、歴史的状況
が決定す る場か ら離れて、完全に孤立 して置かれているのである。かつて
時代が与えて くれた作品にとっての憩いの場 は、今ではもうない。作品は
自己自身にのみ価値を置 くようになった。いや、そのように見 られること
を余儀な くされたといっていいのか もしれない。それはまた、作品の方か
らすれば、当然のことであったろう。近代的自我を自覚 して以来、芸術家
の現存が、作品をそのように据えることを要求 したか らである。ロダンの
作品 もまた、自らそうした作品の状況を選択 しているといえる。それどこ
ろか作品は、外部か らのいかなる場の提供 も、価値の付与 も拒否 している
。「彫刻が孤独であることは、絵画、即ち画架に載せ られた絵が
のである
孤立 したものであるのと変わ りなかった。 しか しこれは絵 とちがって、も
」
ちろん壁 も必要 とはしなか った。屋根す ら必要ではなかった。
2)
ロダン
の明澄な思考の一片 『
パ ンセ』(
図版① )は、持続す る空間のいっさいを
脱 ぎ捨てている。 この作品には、伝統的な 「
場」は不必要であり、これは
それ自体で存立 しているのだ。この作品のように、現代では作品に固有の
「
場」を作品 自らが作 りださねばな らない。確かな場 を獲得す ることので
きるはどの力を持 った作品を創造 しなければな らないのだ。そうした作品
は「
神聖で犯 しがたく、また偶然か らも、その時代か らも離れていなけれ
ばならなかった。その時代の中に、予言者の顔のように孤独に、また奇蹟
」 3) そ してロダンがそれを為 したこと、
のように肇え立つはずであった。
それを リルケは真筆に世に問 うのであ る。 ロダンの生 み出 した事物 は、
「
朝は目覚めとともに話 しかけ」夜は、 「
置いたばか りの楽器のように長
-7
4-
い間余韻を響かせていた。
」それは、完全に自己を成就 していたのである。
ムー ドンを初めて訪れた リルケは、多 くの トルソを見て驚いたという。多
くの物が、「
手仕事」によって三次元の可視の物 に作 り出され、現存す る
ようになり、把握できる現実 となっている。 「ロダンの作品は、 リルケの
知覚にとって、彫刻の創造 という究極の風景 となった」4
)
のである。
第 2に、ロダン作品の開 く芸術空間が、 「
場」 として問題 とされる。彫
刻作品は、大気と直接触れあっている。そこで作品 は、光 に出会 う。作品
を凝視すれば、大気に出会い、光 と触れ合 うのは、作品の一つ一つの 「
面」
(
Obe
r
f
l
ac
he)であることが理解 される。各々の出会いが、各 々の 「面」
に生命を与え、そのように して、何物かを語 らせ るのであった。 ロダンに
とって彫刻作品の原細胞 ともいえる重要な単位 は 「
面」である。ロダンに
は、 「
面」と大気との関係を探究す る習作やノー トが数多 くある。という
のも、作品の表面は内か ら規定 されると同時に、外側か ら限定 されるか ら
である。といって も 「
面」は単なる表面ではな く、ヴォリュームを持 った
塊であって、またその 「
排除する空間」をも意味する。その 「
面」を作 る
DasHandwe
r
kl
i
c
he
)である。 リルケは、 こ
のが、芸術家の 「
手仕事 」(
うした 「
面」を創造する芸術家の手を詳述する。 ロダンはあたか も 「
百の
手」を持 っているようであって、その手 は飽 くことな く創造 し、その製作
は疲れを知 らない。まるで神の手のような彫刻家の手である。詩人はこの
創造過程を、内部か ら外部へ、想像か ら実現へ と駆 り立てる生 きた媒介作
用 と見ている。またこの過程は、 「
手仕事」 であ って、素材 を征服 し、
Gut
Mac
he
n)を要求する。その際、内的創造 のイ ンス ピ
「
良 く作 る事」(
レーションへの期待は、手堅 い仕事の背後に押 しや られる。 「
彼の芸術 は
偉大な観念に立 っているのではな く、小 さくて も良心的な実現の上に、到
」 5) また、 ロダ ン
達可能なものの上に、能力の上に立 っているのである。
の主張する創作方法、つまり手仕事 の意義 が、次 のよ うに強調 され る。
「
手その ものばか りでなく、手の可能性が、芸術家の行為 と して重要であ
る。芸術家は、霊感や感情 といった才能をい くら持 っていて も、完全に手
段を征服 しておかなければ、何者で もない。」6
)詩人 はこうした手 の無限
の可能性を追及 し、自分自身 もまた絶えず、言語で芸術事物を創造す ると
いう 「
手仕事」を自己の創作方法としようとす る。実際、ロダンの仕事部
屋には、創作するのに一世紀 もかかると思われる無数の習作群が並んでい
ー7
5-
たのだ。 「
驚 くべ き地獄門の習作で満たされた巨大なガラス戸棚」を見遣
れば、誰 しもロダンその人の 「
手仕事」の偉大 さを、思 い知 らされるので
ある。 こうした事物 は確実に 「そこに」(
da)存在す るとい うことで、 リ
ルケを圧倒す る。
さて、 こうして創造 された 「
面」が光 と出会 った時、光 は動 きを余儀な
くされる。それは、 もはや偶然の方向を持 って何処かへ飛散 したりす るこ
とがで きないのである。例えば、 『
パ ンセ』(
図版①) と呼 ばれ る、大 き
な右の塊の上の、栴僻 きかげんの顔がある。その土台 となっている石 は輝
いて、そのために、思 いに耽 っている顔 は、その光 に支え られているかの
ようである。 この輝 きのために一切の影 は溶けさり、その顔 は一種 の透明
な薄 ら明か りへ と移行す る。あたか もその顔が、光を所有 し自分の物に し
たよ うではないか。極 めて変化に富んだ傾斜を持っ一種独特な表面によっ
て、光が動 きを余儀 な くさせ られているのである。光 はもはや作品か ら勝
手な方向へ出てい くことがで きないでいる。即 ち、 この石に射す光 は意志
を失 う。光 はこの石の上 を素通 りして他の物へ行 くことができない。光は
この石 に身 を寄せ、梼曙 い、止 まり、 「
光 はこの石の中に住む」
7)
と言わ
れるよ うになるのである。 このように して、作品は自分 自身の光を持っよ
うになる。石 は直接空気の中に溶か しこまれたように見える。確かにこの
作品 は作品 と しての核をその顔 の部分に持 ってはいるのだが、その輪郭 は、
あたか もその灰明か りの中で振動す る空気その もののように、揺れるので
あった。 この顔 はそれ自体が 「
パ ンセ」即 ち思考の透徹 した輝 きその もの
となっているといえよう。
次 に、作品 『
鼻のつぶれた男』(
図版② )の務を直視 しよ う。 この作品
は先 に挙 げた作品 と同 じく、人の顔なのだが、前者 とはなん という異なる
相貌 を呈 していることだろう。それは、鼻 のつぶれた醜 い初老の男の頭部
である。 しか し、その醜 い顔面か ら、 ロダンは限 りない 「
生命の充満」を
我 々に感 じさせて くれるのである。 リルケはこの作品を手 に取 って回 して
みて、そのプロフィールの多様 な、ほとん ど無限 ともいえる変化に驚いて
いる。 しか もどの面 もどの線 も、偶然 によってできたものではないのであ
る。 ロダンが実際に見なか った ものはなか ったであろうし、彼の製作意志
の決定 に従わなか ったものはなかったのである。顔に幾多の亀裂が入 って
いる。長 い年月をかけて刻みこまれた雛である。その歳月はさぞ苦 しみの
一
・
一7
6-
多いものであったろう。 もっと仔細に観察すれば、その舷の一つ一つの刻
み込まれ方が異なるのが分かる。或 る物 は、ゆるゆると、梼跨いがちに描
かれ、そ して或 る物 は、 「
烏の境によって突っき込まれたように」刻み込
まれたのである。あたか も生命が、作品か ら湧 きあがって くるようである。
実は、美はこれ ら動 く面相互の均衡か ら生 じているのである。一つの芸術
事物が空間に真に受 け入れ られるためには、物の輪郭が、このように見事
な平面の作 る方向に整え られなければならない。こうして、ロダンは芸術
空間という作品に固有の空間を開 き、 リルケの言 うように 「
空間の獲得」
を為 しえたのであった。
最後に、芸術事物の直接触れている芸術空間が、次の大いなる歴史的空
光の征服 と共に 既 に次 の偉大な征服 も
間へとその空間性を拡大する。 「
また始まっていたのである。そのおかげで、尺度を超越 した姿、一種の偉
」 8) ここでは、単なる空間関係が指示 されてい るので
大さが付与される。
e
i
nObe
r
Ei
ne
mSe
i
n)の可能性が、示唆され
はなく、神秘的な 「
超越 」(
ているのである。 ロダンは何よりも平面を整えることによって、物が空間
に受け入れ られ、字音的独立を勝ち得 ることを悟 った。彼の平面は天球に
属 し、無限へと続 いていく。確かに、ロダン作品が、その優れた平面の存
在によって、直接触れている空間に、独 自の世界を打ち立て、その存在を
確固たるものにすれば、作品の芸術空間は無限に拡大 し、宇宙的規模にま
で及ぶであろう。 しか もその拡大 は、作品の影響す る範囲が漸次広がって
いくというものではない。それには、 「
超越」が伴 っているのである。
我々は、群像 『カレーの市民』(
図版(
卦)
を見て、それを感 じ取 ることが
できる。なるほど、エ ドワー ド3世のカ レー攻略 という悲劇 は、歴史的事
件である。 しか し、ロダンはそこに、歴史や名前に拘わ らない或 る 「
単純
なこと」を、見たのである。彼 は、6人の人質の今まさに出発 しようとす
る瞬間に全神経を注いだ。それは、 6人の各々が、心を決めて歩み始める
瞬間である。死を決意 した彼 らに、その生涯のすべてが、その一瞬に立ち
昇 って くる。この一瞬、彼 らは自分なりに生 き、自分の魂で これを祝祭 し、
そ して、いまだ生命に縫 っている肉体を悩んでいる。その肉体 こそが、問
題 となるのである。肉体 とは、姿態である。拒絶、別離、諦念の姿態 は、
また、我々のものでもあり、我 々の記憶に潜む もので もある。それどころ
か、およそ人類は、太古より無数の姿態の記憶を持 っているのである。 ロ
-7
7-
ダンはそうした記憶の中か ら、 6人の姿態を作 った。腕を垂れて重い歩み
を始めようとする老人、征服者に渡 さなければならない町の鍵を持った男、
垂れた頭を両手に抱えた男、そ して二人の兄弟。一人が振 り返 る。誰に振
り返 るのだろうか。その人は誰に別れを告げようとす るのか。町でも、共
に行 く人で も、泣いている人にで もない、とリルケは言 う。 「
彼は振 り返
る、自分自身に振 り返 るのである。彼の右腕が上がる、曲がる、揺れる。
」
手が空中に開いて何かを放っ、人が鳥を放っように。 ○)このよ うに、 ロ
ダンは人々の最後の姿態のうちに、一人一人の生命を与えたのであった。
それがかえって、その人のすべてを表現することになった。それだけでは
ない。この作品は、人の生 というものを語 っているだけではないのである。
あらゆる時代の中に、常 にこのような重苦 しい出発が迫 っているというこ
とが、我々に伝えられるのである。そのため、群像 『カレーの市民』は、
時間的空間的に束縛 されている場を超越する。
それには、大気が、深 く関わっている。まず、大気は、彼 ら6人の孤立
像を、緊密に結び付ける。 リルケは語 る。 「
波打 っている輪郭の中か ら、
純粋に 6人の姿態が立ちのぼり、奪え、 じっと立 っては又、巻 き下ろす旗
のように全体の塊の中へ落ちて行 く・
--」1
0
)面に対する大気の関与 は、
更に高め られる。それは、幾多の面を、より激 しい動 きで包みこむ。まこ
とに リルケの言 うように、作品が大気の中に据え られているというよりは、
む しろ空間の方が、作品を自分の方へ引き棲 うかのようである。それはロ
ダンの願望で もあったのである。彼 は、巨大に膨 らむ造形空間を、自分の
中で窒息させたり、作品が空間の中で埋没することを拒否 し、空間を支配
し、天空をも獲得することを決意 した。そのことによって、空全休とも思
われる空間に包まれている作品を、据えることがで きたのである。彼の作
品には、かつてカテ ドラ-ルの動物たちの個々のものに見 られるのと同 じ
ことが起 こった。伽藍を飾 っている作品は、数世紀 にわたって、大気に曝
されてきた。その大気が、それ らの作品群に行なったのと同 じことを、ロ
ダンの作品に行なったのである。カテ ドラールでは、大気は塵を沈澱させ、
雨や霜、日光や嵐でこれ らの物を育て上げて、一つの生命を得させた。つ
まり、肇え立っことのうちに、そ して闇 と永続 との内に、滅び行 くことの
一層ゆるやかな生命を育んだのである。
リルケは、 しば しばこうした作品 と空間の関係を宇宙的関連において叙
-7
8-
述 している。そこでは、空間の獲得は、天体の比職で語 られる。 「まるで
我々を超え、宇宙の中へ、星々に伍 して広大な狂 うことのない天体の運行
の中へ、据え られたかのようである。
」l
l
)このように リルケは、 しば しば
宇宙的な形象を用いることによって、芸術作品 とその創造過程における神
的なものとの関係を言い表そうとす るのである。
誰が、この作品を引き受ける勇気をもつだろうか。作品の作用は天の啓
示のように暴力的な力を持つ。ロダンは、 「
生 きた面で もって、鏡で捉え
るように、彼方を捉え、動かす ことができた。そ して彼は自分に偉大 と思
われる姿態を作 り、空間をそれに関与するように強いることができた。」12)
こうした芸術空間の獲得 こそ、芸術事物に固有の存在意味である。つまり
作品は直接触れる空間に完全な存在を定立することによって、真に歴史的
時間空間に存在す るようになるのである。 しか も作品の持てるカは、それ
を変容 させることに成功する。それはそこに在 るということで、充全に空
間を変容する。つまり作品は、人間の歴史的現存をも変貌 しうる可能性を
内に秘めているのである。
皿
トルソ
リルケは、ロダンとの避蓮によって、彼の詩を しっか りと構築するよう
になった。即ち、彼の詩的形象 もまた、美術論 『ロダン』において十分に
思惟 され、 「
芸術事物」にまで高められることになったのである。まこと
に、ロダン論において、ロダンの作品が 「
芸術事物」として凝視 され、か
つ解釈されたことは、 『
新詩集』にまとめ られた詩群へ、大 きな影響を及
ぼ しているといえよう。ここでは、絵画、風景、動物、花、等々が、事物
か ら、 「
芸術一事物」へと無数の成就を遂げている。 しか も、そうした詩
的創造の内的過程に影響を与えたのが、他な らない彫刻作品であるという
ことが、 『
新詩集』の詩的形象に独特の性格付けを行 うことになった。
特筆すべきは、詩人の トルソ体験である。 ロダンの トルソは、ロダンの
諸作品のうちで も、特別な評価をうけている。それどころか、近代美術史
-7
9-
において も、ロダンの トルソは一つの事件であった。さて、 トルソは、二
つのグループに大別 される。一つは、研究 と草案のための破片であって、
無数の手足、胴体、その他身体の一部か ら出来ているoその中にはもちろ
ん、後に彫刻家によって ブロンズに鋳造 された物 もあるO もうーつは、 ト
ルソであって も、それで完結 した芸術事物 となっている物である。それは、
「自らに閉ざされた価値」 として、完成 された作品であ る。後者 の トルソ
に対 して、 リルケは次のような感想を抱いている。
いずれの塊 も、一つの [
・
-・
・
]卓越 した感動的な統一を成 している。
ただの一部、 しば しば異なった身体の一部であることを忘れさせる。
それは熱情的に互いに関連 しあっているのだが、突然に次のことが感
じられる。即 ち、 これは身体を全体 として捉える学者の扱 う事象では
な くて、む しろ、部分か ら新たな結合、それ もより新 しい偉大で規則
に叶 った統一を創造す る芸術家の扱 う事象であるということを。
1)
そ うい う物 は、それだけで全体であ って、 自己完結 し、仕上 げ られた
「モデュレ」である。芸術的全体 と自然 の全体 は必ず しも完全 に呼応 して
いなくて もいいのではないだろうかO芸術家 は作品において形式を統一 さ
せ、作品に自然 とは異なる固有の自律性を与える。 このように、作品にお
いて 「
形式優先の もとでの、対象の従属」が生起す る。 こういった トルソ
は、内容を持っ語 りである。部分のように見 られた物 は、試作品ではな く、
始 めか ら意識的に トルソとして作 られた ものである。
したが って、腕、足、肉体の一部 は、ロダンにとって一つの全体であ
り、一つの統一である。なぜな ら、彼 は腕、足、肉体を考えているの
-] (それは彼にはあまりにも素材的す ぎる)そうでは
ではない [ ・
-
な くて、自らを閉ざ し、ある意味で仕上が ってお り、完壁なものとな
るモデュレを、考えているのである。
2)
『内部 の声』(
図版④ )はこうした トルソの一つであ る。 この トルソに
は脱がない。右 の支え足は伸ばされ、左の足 は土台が高 くなっているため
に曲げ られて、その上に載 っている。額か ら左の膝へ円が描かれ、その集
-8
0-
申 した同心円の動 きによって自分自身に閉 じこもっている形態 となってい
る。それは、よ く内部に集中する姿態を表 している。 この表現 は閉ざされ
た眼によって更に強め られる。腕の欠落によって、身体曲線が打 ち切 られ
ることがないために、滑 らかな動線を描 く。それは、 「内部に身を屈め、
s
i
°
hmac
hi
nne
nBi
e
ge
nHor
c
he
n)姿勢である。この身振 りに
聴 き入 る」(
は、 『ェヴァ』(
図版⑤) 『
隈想』(
図版⑥)のポーズとの繋が りが認め ら
れる。
これほど、人間の肉体 というものが、内部に集め られたことはなか っ
た。これほど、自らの魂によって曲げられ、自らの血の弾力によって
引 き戻 されているものはかつてなか った。深 く横に曲げられた身体の
上に、項が相 自らを接げて差 し延べ、遠い生の騒めきに聴 き入 る頭を
支えている様子、それは余 りにも強烈で偉大な感銘を与えるので、人
はそれ以上に感動的で、それ以上に内部化 された姿態を、想起す るこ
とができないほどだ。.3)
『
内部の声』 というトルソの最終的表現が生 まれた系譜 は以下のようで
ある。そもそもその像 は、 『ユーゴーの記念像のための塑像』 (
図版⑦ )
に由来する。それは、悲劇的復讐の ミューズの形姿 と並んで、抒情的静観
的 ミューズの意味で、取 り入れ られている。 リルケはユーゴー文学に因ん
で、 「
怒 りの声の下に隠されている微かな声」と表現 している。 この像の
第一案の左の像の腕 は丸 く円を描 いていた。それは後に独立 して、 『
偉大
な幌想』(
図版⑧)となった.後で出来たユーゴーの塑像では左側の ミュー
ズは左手を左の胸の上に掛けているo これは、 『幌想』(
図版⑥ ) と同 じ
ポーズである。ところが、1
896
年か ら97
年にかけて、ロダンはユーゴーの
記念像における左の像か ら左手を取 って しまって、それを独立 させた。こ
のモティーフは、一つの像 となり、 トルソ 『内部の声』(
図版④ ) にな っ
たとい う 。ここではロダンは既に トルソを破片 とは見ていない。腕を取 っ
て一つの完成作品を創造する過程には、 トルソへの意識的移行段階が示 さ
れている。彫刻は、抽象的内容を作品化す る文学 とは異なり、可視的 シン
文学 は、その逃げ場を像に求めず、観念を表現 しうる
ボルを創出する。 「
という固有性を所有 している。 [ -・
・
]そのためにどんな動 きの可能性 も
-
- 81-
持たない婦人を表現す る必要 もない。
」4
)ところが、彫刻では、身振 りに
すべてが現れ るのである。例えば、 『ェヴァ』の象徴的な姿態 は、 「
燃え
る紙のように縮み こむ。
」首 は寒 さに震える女のように、胸 の上で組 み合
わされた腕の抗暗 さに沈み、 「自らの内に屈む」姿、 「自らの内に聴 く張
I
n
s
i
ch
s
e
l
b
e
r
Hi
i
l
l
e
n)姿 を、
り詰めた」姿、 「自らの内に包みこまれた」(
同時に示 しているのである。そのためその姿態 は、人間の肉休の中心、身
。『内部の声』 は、腕
振 りの中核、即 ち、肉体 と動 きの統一体に到達する
がないために、エヴァの内面性をより強 く表現 していると言える。 「自ら
包み こまれている」姿態を、 リルケは ドゥ-ゼの動 きに比 している。固定
された作品の動 きを他の動 きか ら解釈す ることによって、自律的、閉鎖的、
造形的統一的 トルソの本質を見ようとす るのである。 ドゥ-ゼの動 きには、
腕 は余計であって、過剰であるとまで言われる。それはまるで 「ロダンの
必要な
腕のない トルソにおけるように」それ自体で完成 しているのだ。 「
物 は少 しも欠 けてはいない。何 の補足 も許 さない全体性、完全、 [ --]
-
単 に眺めることか らは、未完成の感情 は起 こらず、む しろそれは、詳 しく
」 5) 『
歩行す る人』(
図版⑨ )の場合 もまた、
考える所か ら来 るのである。
同様である。 ここで も、腕 と頭部 のない部分が、それ自体で全体 となって
いる。そればか りか、 「
歩行」 という動 きが中心へ と集中 して、部分がそ
。『歩行す る人』は、こうし
れ自体で記念碑的存在 となっているのである
た トルソという高め られた形式を採 ることによって、歩行の絶対化を行 う。
「この歩行す る人 は、あなたがたの感情の語嚢に、歩行 に対す る新 しい言
葉のように立 っている」
6)
として、 リルケは、 トルソ創造を、必然的最小
の形の部分への集中、また一つの身振 りの核への還元の展開 として経験す
るO 詩人の トルソとの緊張 した関係 は、ロダンに捧げ られた詩 に現れるo
この詩 には、詩人のモデュ レと トルソの深い理解が詩的に表現 されているO
リルケはある時突然、 トルソを意識す る瞬間を印象深 く描写 している。
-]長い間それ らにさ して注
「[ -]断片や破片が数多 くある。 [
-
意を払わずや り過 ごして きて、あるE
]
、一つの物が己を開 き、示 し、一番
」 7) それはロダンの トルソにおいて も、また古代 の発掘
星のように輝 く。
品において も同 じように経験 され る。 トルソについての熟慮が始まる。
"
Ar
c
h
a
i
s
c
h
e
rTo
r
s
oAp
o
l
l
o
s
") は、1
9
0
8
『
古代 アポロンの トルソ』 (
年初夏パ リで書かれており、そのモデルは、ルーブル美術館所蔵の 「ミレー
一
一8
2-
トの トルソ」(
"
Tor
s
oa
u
sMi
l
e
t
")であるとされている。この作品には、
頭部 も手足 もない。 リルケは、それに先立 って、1
9
0
6
年 7月1
1日、やはり
パ リで、 『
早期のアポロン』(
"
Fr
i
i
h
e
rAp
o
l
l
o") を書 いてお り、 その作
品は、前者 と対 になっている。そのモデルは、紀元前5
3
0
年ごろのアッテイ
カ風の作品、ルーブル美術館所蔵の青年の頭部であるとされる。但 し、 リ
ルケはこうした造形作品の言葉による再現をめざしてはいない。プラッ ド
レイの言 うように、彼 は現実の所与にはなん ら拘束されてはいないのであ
る。とはいえ、 リルケは、 『
早期のアポロン』では、目、こめかみ、眉、
口を備えた頭部を、それが眼前に在 る物 として、具体的かつ印象的に語 っ
ているのに対 して、 『
古代アポロンの トルソ』では、その頭部 は欠落 した
ものとして語 っている。
さて、前者のアポロンは、若 く、またそれに対応す るかのように、 リル
ケの詩人 としての態度 も若々 しい。
なぜなら、彼の視には、いまだなんの署 りもな く、
彼のこめかみは、月桂冠を戴 くにはまだあまりに
冷ややかだ、
8)
ここでは、成熟 したアポロンを思い描 きなが ら、アポロンの詩的成就が
「いまだ」(
n
o
c
h)遂げられていないことを、彼 の 「冷ややかな」 こめか
みや、撃 りのないまなざしに事寄せて歌 っている。いずれは、その眉か ら、
バラの花園が生い育ち、その花びらが彼の口に-ひら-ひら舞い落ちるで
あろう。若いこめかみ、口、眉を持 ったアポロンの頭部 という事物か ら語
り出されているのは、将来起 こるであろう詩的成就の時間である。 ここで
は、詩的成就を予感 しつつ、現存 している事物が描かれているのである。
その口は今はまだ無言のまま、一度 も使われたことがなく、輝 き
ただ微笑 してなにものかを飲み込むようだ、
8)
他方、この作品 と対応する 『
古代アポロンの トルソ』では、頭部 も手足
もない トルソが語 られている。ここでは、目もこめかみも、眉 も、それど
ころか、およそアポロンと認識できる根拠である東部が欠落 しているOそ
- 83-
れは、いわばごろんとした醜 い石にす ぎぬ ものであるが、それを、 リルケ
はロダン作品 を見 るよ うに、完全 な芸術事物 と して見ているのであ る0
『
早期のアポロン』か ら、 『
古代 アポロンの トルソ』へ と想念 を繋 ぐ詩句
は、 「あたか も自らの歌が、内部 に流 し込 まれて行 くかのように」ではな
いだろうか。後者の詩作品によって、今度 は内部 に流れ込んだ ものが、自
らの歌 を歌 いだすのである。そ して、 「
頭部の非在」か らは、内部 と詩的
空間 との根源的関係が、自らを明 らかにするのである。
古代 アポロンの トルソ
我 々は彼の比類のない頭部を知 らなか った、
そこでは眼が林檎のように熟 していたという。だが、
彼の トルソは今なお燭台のよ うに燃えている、
そこでは彼の視線 は、ただね じ戻 されただけで、
保 たれてお り、輝 いている。
そうでなければ、胸の隆起がどうしておまえを魅了 しよう、
腰の微かな捻 りに潜む微笑が、
どうして生殖を司 るかの中心へ と流れよ う。
さもなければ、 この石 は醜 い石、
両肩の透 き通 ったま ぐさの下に
置かれた石 にす ぎないだろう、そ して、
猛獣の毛皮 のよ うにきらめ くこともないだろう、
あ らゆる縁か ら、星のように
溢れだす こともあるまい。 というのは、いずれの部分 も
おまえを見ていない箇所 はないのだか ら。
おまえはおまえの生を変えねばな らない0
9)
この トルソには頭部がない。 しかるに、 この詩 はその失われた頭部を、
「比類ない」(
une
r
hGr
t
e
s) という形容詞を用いることによって、そのた ぐ
-8
4-
いまれな偉大 さを称えているのである。その語 りによって、現実に存在 し
ない物が眼前に据え られる。 しか も、表現の垂心 は、 トルソよりもむ しろ
欠落 している頭部、特にその日に置かれることとなる。彼の目は、 「
林檎
のように熟 し」た目であることか ら、ただちにそれは、太陽のもとに熟す
果実を連想 させる。目の光は、太陽の光を呼び起 こす ことによって、その
暖かみを増 し、同時に太陽のような強烈な光線である印象を我々に与える
のであった。そのような頭部に対 して、 「トルソは、今 もなお燭台のよう
wュ
e
)の形で持 ち出される 「燭台」 は、
に燃えている。
」ここで 「ように」(
光が増 していく頭部に対 して、詩的に作 りだされた対形象であるといえよ
う。眼光、太陽の光線に続いて、 トルソもまた 「
燭台」のように、輝 くの
である。ただ し、 トルソは、アポロンの視が 「ね じ戻 された」場であって、
自らもそれを受けて燃え輝 くことによって、アポロンの視 は 「
保たれてお
り、輝いている。
」 (
s
i
°
hhal
tundgl
anz
t
) このように、 アポロ ンの頭
部、特にその日が失われていることによって、彼の視線の放っ光は、かえっ
て増すのである。いやむ しろ、 トルソこそが、アポロンの 「
視」 というも
のを語 りうるといえよう。 トルソは、けっして不完全な事物ではな く、詩
的言語によって形象 となった芸術事物である。
ところで この第-節における トルソと頭部 という一種の分離構造 は、最
終節になって、新たな統一を獲得す る。それは、前節の 「さ もなければ」
(
s
ons
t
)構文を受けて、次のように始められる。 「あ らゆる縁か ら、星 の
ように溢れだすこともあるまい。
」 ここで一気に、今 まで問われなか った
アポロンの有する内在的、潜在的力が顕在化する。この力によって こそ、
アポロンは光輝を放 っていたのであった。その際 もはや、 トルソとその対
型 としての頭部 とい う図式 は解消 して、新 たな統一 ともいえ る 「原像 」
(
ur
bi
l
d) として、 「
星」(
St
e
r
n)が光彩を放 っ 。 「とい うのは、 いずれ
の部分 もおまえを見ていない箇所 はないのだか ら。
」 この二重否定 の文 に
おいて、 「おまえ」(
du)を見ている目の存在が露わにされる。 そ して、
否定文においては未だ隠蔽 されたままの 「おまえを見 る」 (
di
c
hSe
he
n)
力が、最後に直接法 という強い形で顕在化する。それは、あたか も神託の
ように響 く。 「おまえはおまえの生を変えねばな らない。」 ここで は完全
にアポロンと語 り手が重なり合 っている。この語 りは、 トルソの語 りか ら、
いわば移調 されたともいうべき次元の変化を経過 している。最後の一声 は、
一8
5
一
我々に 「
存在形式」(
Se
i
ns
f
or
m)の変更を要求す る。 リルケは、石か ら
作 られた トルソを見 ることか ら出発 して、アポロンという神の属性を喚起
Kuns
t
Di
ng)に変容する、という詩
しつつ、最後にそれを 「
芸術事物」(
的成就を遂げたのである。 このように、事物が 「
芸術事物」に変容する時、
我々は現存の変更を要求 される。物への問いを始めれば、同時に、答えを
求めようとする苦闘が始まる。物を問 うとは、結局、我々自身を問 うこと
に他な らない。物が徹底的に問われ、芸術事物 となった時、それは、逆に
物の側か ら我々に答えを突 き付 ける。 「おまえはおまえの生を変えねばな
らない」と。
Ⅳ
「
芸術事物」と時間
一般の通念に従えば、造形作品は空間芸術で、詩作品や音楽 は時間芸術
である。ところが、芸術作品 と空間、時間の問題 は、そうした図式では捉
えきれない。 とりわけ、ロダンとリルケの作品か らは、 「
芸術事物」と時
間、特に瞬間の問題の無限の多様性が浮かび上がって くる。
リルケの 『ダナイー ド』 (
図版⑲)の光に関する叙述は、短いものでは
あるが、ロダン論の中で も、特 に印象的な箇所である。一瞬の姿態へと固
定する彫刻作品が、動 きを持つ こと、つまり固有の時間の流れを持っこと
を、 リルケは感 じとった。そもそも彼がそれを学んだのは、古代ギ リシャ
9
0
2
年以後、彼 はそうしたギ リシャ彫刻を凝視するよ
の彫刻か らである。1
うになった。 しか もその凝視には、明 らかにロダンの影響が認め られる。
それは、自然の中には、動 きだけがあり、その動 きが彫刻作品に移 される
ことによって、無限の動 きを獲得す る、という認識である。そのため、彫
刻 という不動の個物が動 くのである。例えば 『ニケの像』は、ただ単に恋
人の方へ歩いて行 く美 しい娘のポーズを表 しただけではない。それは同時
に、ギ リシャの広 さと輝か しさを、身体の動 きに表現する永遠の像なのだ。
彼女の歩みは、ギ リシャの風、大気、きらめ く太陽の光を含み持 った動 き
そのものなのである。そ うした彫刻作品の動 きは、器に湛え られた水の面
-8
6-
のような、絶えまない動揺によって認め られる。そ して、その面の動 きは、
光によって多様なものとなるのであった。ダナイー ドの背筋に射す光 は、
まるで幾時間 も殆 ど前に進まないかのようにたゆたっている。作品を見 る
人は、彼女の背筋に射す光に誘われるままに、視線を動かす ことによって、
彫刻作品の開 く空間の中で、その空間の含み持つ内部時間の中に浸 ること
になる。この作品の回 りの時間はゆるやかな光 とともに、波打 って流れて
いる。その傍には、物の回 りで、物 とともにそうした時間の揺れに身を任
せている リルケが仔んでいるのだ。
豊かに広がった背の丸みを巡 り、ついに泣 いて泣いて涙に溶けて しま
うように石に消え行 く顔、最後の一輪の花のように、永遠の氷の塊の
中に深 く、だが もう一度微かに生命について語 っている手への長い道
程 1)
このような造形作品においては、時間は、光の作用により、ゆるやかに
流れ続けるのである。ところが、こうした事物の回 りに広が り巡 る時間の
在 り方を語 っていた リルケが、数年後には、「腹的には時間芸術 と考え ら
れている音楽に対 して、逆に次のような詩の言葉を投げかけている。
音楽 [ -]我々の消えて行 く心の方向に垂直に立つ時間よ、
-
2)
どこかで、音楽が立 っている。どこかで、この光が、遠 い響 きとなっ
て、耳に落ちるように---
り
「
音楽が立 っている。
」(
Mu
s
i
ks
t
e
h
t
.
)「音楽」が、あたか も造形的事
不可視のもの」「流れ行 くも
物の存在を主張 しているようではないか。 「
の」である音楽 という時間芸術が、 「
芸術事物」 として、確かな存在を確
保 し、かつ現前 しているだけでな く、吃立 しているのである。 しか もそれ
は、 「
我々の消えて行 く心の方向に垂直に立っ時間」となって、立 ってい
るのである。水平に消え失せる心に対 して、 「
垂直に立っ」時間は、その
一瞬が、特別な一瞬であることを示 しているOそこに生起するのは、 「
瞬
間」(
Au
g
e
n
b
l
i
c
k)である。先に引用 した詩 『音楽によせて』 は1
9
1
8
年、
-8
7-
又、後に引用 した詩 『
音楽』は1
9
2
5
年作品である。これ ら両作品の詩句の
水脈を リルケの過去に遡れば、ロダン作品を前に して成熟 していった 『
芸
術事物』の時間を巡 るリルケの想念に辿 りつ く。というのもロダンの彫刻
作品においては、まさにこうした 「
瞬間」が、定立 しているからである。
ロダンは彫刻作品に、見事に一瞬を固定す るOだがその一瞬のポーズは、
すべてのポーズで もあるのだ。だか らその一瞬に、時は永続するO即ち、
動 きがポーズに集中するという具合に、空間の中に以前 と以後の時間 もま
た、凝集するのである.例えば 『エヴァ』 (
図版⑤)のポーズは、過去か
ら未 来へ と流れる時間を一つに取 り集めて、 しか もその一瞬は永続 し、そ
の一 瞬に、彼女の内部の出来事が、割れて流出 してくるのである。
あるいは、 『カレーの市民 』(
図版③ )群像にも、 このことが言 えるで
あろう。彼 らの中の一人、振 り返 っている人の像に、 リルケは、過去 と未
来を同時に見ている。その人は、今や自らを犠牲にして、町の人々を救お
うと、侵略者に我が身を引き渡すために歩み始める。名目は人質ではあっ
たが、明 らか に処刑が予想 されていた。彼 は別れを告げるために振 り返 る。
町に別れを告げるためで もなく、共に行 く人々にでもない。 「
彼は振 り返
る、自分自身に振 り返るのである。
」4
)これは、 リルケの解釈であるが、
それによって、彼はこの一瞬のポーズに、一瞬が開 く彫刻の内部時間を洞
察 したのである。確かに、振 り返 るポーズは、別れを意味する。自分自身
への別れとは、過去への別れである。その別れは、 「
すべての不確かな物
か らの別れ」で もある。そ して同時に将来身に起 こるであろう事か らの別
れで もある。それは、次のようである。 「いまだなかった」(
no
c
hni
c
h上
)
幸福 か らの別 れであ り、 「今や空 しく待っで あ ろ う」 (
nunums
on
s
t
war
t
e
nwi
一
d)苦悩か らの別れであり、 「どこか知 らない所に住む、恐 ら
明日と明後 日のすべての可能
く一度出会 ったことのある人か らの別れ」「
性か らの別れ」であった。そして、最後に、 「
遠いものと考え、穏やかな
静かなものと考えていた死からの別れ」であった。以前 と以後がその瞬間
の 「
振 り返 る」という姿態か ら、割れて流れるのであった。このように、
時間が物 として捉えられ、固定されることによって、その一瞬に、物の内
なる出来事が流れ、それを見ている人に、過去 と未来が同時に開示される
のである。つまり、一瞬が直ちに永遠を獲得することになるのである0
さて、 『
斯詩集』には、 「
瞬間」に詩的時間を昇華させている優れた作
-8
8-
品が多 く収められている。詩における 「
瞬間の定立」である。それは、詩
世界における驚博の、あるいは、時が突然 「
垂直に立っ」ような瞬間であ
るo詩人は突然の変身、啓示に驚 き、それを詩句に凝集 させる。あるいは
詩人は、物の内部にこめ られたものが外部に不意に流れ出す一瞬を感動的
に表現 したのかもしれない。とにか く、そこでは時が、詩句に固定 される
ことになる。物語のように流れている時が突如停止す る、ということが、
詩の世界では起 こっているのである。
詩作品 『オルフォイス オイ リュディケ-
ヘルメス』
5)
は、標題 に
も名を連ねている三者が黄泉の国か ら細長 い道を登高する場面か ら語 り出
される。回 りには 「
魂の奇妙な鉱山」が襲えている。暗闇の中を、彼 らは
「
静かな銀の鉱脈」のような道を辿 って行 った。木の板の間か ら血が噴 き
出 し、人の元へと流れて行 く。それは暗闇の中で重々 しく見える赤だった。
「
影のような森J「
空虚に懸 る橋」「
灰色の盲 目の池」 とい った風景が措 か
れる。先を歩むオルフォイスの五感は引 き裂かれ、視覚 は先走 り、聴覚は
後ろの二人の足 もとまで届いたかのようだった。
けれども、彼はつぶやいた、確かに彼 らは来ている、と。
それを声高に言い、その声の木霊 しつつ も、消え行 くのを、聞いた。
彼 らは確かに来ている、ただ二人 は、
恐ろ しくひそやかに歩いているのだ。
しか し、オルフォイスはそれを信 じることができない。振 り向 くという
運命の時が来る。
そして突然、
神が彼女を引き留め、痛ま しい叫び声で、
彼は振 り向いた、と言葉を発 した時彼女は何 も分か らず、 「
誰が」 とそっとっぶやいた。
ヘルメスはオイ リュディケ一に言 う。 「オルフォイスは振 り向いた」と。
死者であることを果た したオイ リュディケ-は、何 も分か らず、 「
誰が」
8
9-
と問 う。それほどまでに彼女は 「
根」であり、 「
大いなる死に溢れている」
者だった。ところがオルフォイスは、オイ リュディケ-がそれほどまでに、
「己に報 っている」死者であり、またそうした死者 として音 もな く後 ろに
従 っていることが分か らない。その段階では、詩人は、オルフォイスに対
す るオイ リュディケ-の側か ら語 りだ している。つまり、オルフォイスは
遠 くにいる人 として、その顔の見分けられない人 として記述される。
だが遥かに、明るい出口を背にして、暗 く、
誰かが立 っていた、その顔は、
見分けられなかった。
運命の瞬間に、その構図は逆転 して、オルフォイスの立 っている場か ら
彼の眺めた様子が描かれる。
彼 は立 ったたまま、見たのだ、
細 い帯のような草地の道を、
悲 しい眼ざ Lで、使命を帯びた神が、
黙 って向 きを変え、
長い死装束の帯に練れる足で
覚束な く、穏やかに、
焦 ることな く、
同 じ道を既 に戻 りかけていた姿を
追 うのを見たのだった。
「
突然」(
al
sp1
6t
z
l
i
c
hj
ah)瞬間は、割 れてそ こか ら物の内なる出来
事が流れ出る。そこでは過去 と未来が同時に現在に集め られ、 「
振 り向い
た」 という取 り返 しのつかない事実のみが重 く、かつ厳然 とそこに存在 し
ているのだ。それが、この詩作品に表された 「瞬間の定立 」であった。
-9
0-
Ⅴ
「
芸術事物」 と空間
「
芸術事物」とは、空間の中で、どのように存在す るものだろうか。 リ
ルケは、 「
芸術事物」という在 り方をす る物はすべて、 「
小 さい領域にお
) と語 っている。それは、 『
栄
いても大 きな領域においても中心 となる」 l
光の中の仏陀』の中で、既に 「あらゆる中心の中心」というふ うに、歌わ
れている事物である。そ してその回 りには、厳かで静護な空間が、広が っ
ているのである。そのように生み出された空間は決 して日常的空間ではな
い。 しっかりと固定 された作品か ら広がる空間は、現実の周囲の空間か ら
は何 も奪わず、日常的時間の流れか らも完全に独立 して存在 している。即
ち、日常の時間 というものを超越 し、日常空間に座を占めず、 しかも固有
の芸術空間を作 りだすのである。こうした芸術空間の中で持続する彫刻作
品と同様に、詩において成就 した芸術事物 もまた、そうした空間を生み出
しているといえよう。そのような芸術空間 と芸術作品には、いかなる関係
があるのだろうか。
いわば形象化に固有の促 しというものがあって、それが作品をある領
域へと差 し入れるのである。そこでは、形象は我々のはかなさか ら独
立 して持続する見込みを持っ。私 は次のようなことを懸命に観察 した
のだ。芸術作品のこの持続 はどれほど純粋であるのだろうか。という
のは、表面を見 ることと開かれた空間性を見 ることは同一のことなの
だ、ということを作品自身に固有な空間が、確証するか らである0
2)
こうした記述か らも分かるように、 リルケは、作品か ら 「
開かれた空間
性」へと思念を広げっっ、内部 と外部の問題に目を向け、更 にその芸術空
間に変答を成就する可能性を問 うのである。実際に、 リルケの詩作品の中
に、いかにこの 「
芸術事物」が作 り上げられていったかは、次の 『
水盤の
バラ』の散文草稿 と見 られている手紙に、如実に表 されている。 この手紙
は、バ ラという 「
芸術事物」を作 りだす詩人の心的過程を解明する手掛か
りを与えて くれる。バラというものには秘かな促 しのようなものがある。
庇護 しっっともなって くれるも
更に詩人は、バ ラに、 「
優越 したもの」 「
の」を感 じている。バラは、 リルケにあっては、ますます内に寵 った姿 と
-91-
なり、内面的なものとなってい く。
そ こにはある深い休 らいがあ ります。バ ラはその名の根底に休 らって
います。バ ラ (
Ros
e
) という完全に暗 くなっていく場 にあるのです。
この言葉 に含まれた、すべての動 き、来ては去 って行 く追憶、慌ただ
しく起 こって来 る憧悼、その一切がバ ラの上を流れていきます。上の
方だけです。花にはもはや触れることな く。けれどもその中にある垂
いもの、運命だとか、天または地、星空の夜、静寂そして孤独、 ・
-・
花に宿 るそ うした名状 Lがたい もの、我々か らは、決 して奪 いえない
もの、で もやはり我 々にとって失われ ることのないもの、それがバ ラ
の中に留 どまっていたわけです。 もはや危険に曝 されることな く、確
かな ものとして、さなが ら護符 の中にさまざまな力がひっそりと寵め
られているように、そんなふ うに、我々が心の中に集中されているよ
うに、そのように集め られ、なに ものによって も引 き留め られること
な く、 しか しまた情愛を流 しきることもな く、いわば、自分の均衡を
味わい楽 しむ ことにかか りきっているといった様子で、そのすべてが、
保たれているのです。
2)
この思念 は、後に作品化 され、 『
水盤のバ ラ』
3)
となる。その第 1節 に
おいては、現実の敵対的情況が捻 りを上げてお り、それは極めて激 しい調
子で語 られている。そこでは、怒 り狂 った者 たちや 「
狂奔す る馬」が弾劾
される。疎外感情が喚起 され、 a音の不協和音の連続 も効果的である。そ
れに対 して 2節では、完全に異 なった静かなもう一つの現実が歌われる。
だがそれ もなんと速やかに忘れ去 られてい くことだろ う。
というの も、おんみの前 に豊かに盛 られた水盤のバ ラがあるか らだ。
「
忘れ難 い」 ものとして、この ものの 「内部的な こと」 (
I
nne
r
l
l
C
he
s)
「
永続的な こと」(
Bl
e
i
be
nde
s
)が示 され る。 バ ラの空間は具体的 な空間で
あ り、かつ調和 の とれた空 間であ る。 「深 くしまわれた もののよ うに」
(
wュ
eAus
ge
s
par
t
e
s
)現存す るので、現実の空間にはないように見え る。
それはまるで内部ばか りでで きているよ うであり、 「
縁まで自らを照 らす
92
光に満ちたもの」である。詩人は、この完全にバ ランスのとれた調和、即
ちこの内的現実を開示する調和を、水盤のバ ラで表そうとしたのである。
音 もない生、終わりなき開花、
物が回 りを狭 くしている空間か らは
何 も奪わず、
大切に しまってあるかのように、
ほとんど輪郭 も持たず、
内部ばかりでできている、
希なる繊細さ。
花の中心は、精神的創造、精神的直観の場であり、詩人はバ ラの空間を
芸術の現実 として明 らかに し、その中心にバ ラを置いている。内部の精神
的芸術空間は、このような世界を内に含み、変容 した姿で表現 される。 こ
の空間は、人間に、直接体験では決 して得 られないことを、体験可能に し
て くれる。つまり詩の世界を開 くのである。続いて、バ ラの幾多の身振 り
が歌われ、動 きが純粋な動 きそのものとして表 される。花び らと花びらが
触れ合 うたびに、何か一つの感情が生まれ、あるいは、ひとひらの花びら
が険の内に開 くとき、その下では幾重にも険が重なって十いろの眠りを眠っ
ている。
そ してこのバ ラの中に、なんという
動 きの在ることだろう。見よ、
あんなにもささやかな揺れる傾 きに、身振 りが在 り、 もし花の光が、
宇宙の中に散 り行かなければ、
その身振 りも見えないままであろう。
白い花 も、黄色い花 もそれぞれ色が独特の身振 りとなってひっそりと仔
んでいる。バ ラは何にでも変身する。色 も輝 きも多彩である。あるバ ラは
「オ レンジの赤みをおびて果汁になり」、また別のバ ラは 「リラの後味 を
ひきず り」、そ して 「オパールの ミルク色を した陶器のように」壊れやす
いもの も在 る。こうした詩句からは、バ ラが内部 となっていること、いや
-
93 -
む しろバ ラの存在自身が、内部そのものであることが、理解される。詩人
は、次に作品 『
バ ラの内部』4
)
で、内部 と外部の根源的関係を詩作する。
どこにこのような内部をつつむ
外部が在 るだろう。どのような傷に
このような亜麻布を載せるのだろう。 この咲 ききったバ ラの内湖に
どんな空が映 っているのだろう、
この憂い知 らぬ空が、見てごらん、
どんなにバ ラは咲きこぼれているか、決 して
懐える手に崩されることなど
ありえぬように。
バ ラはもう殆 ど自らを保ちえない。
多 くの花は、
満ち溢れ、内部空間か ら日々へ と
流れ入 る、
その日々はますます満ちて自らを閉ざ し、
ついには夏全体が一つの部屋、夢の中の部屋 となるまでに。
バラの内部が外部 に、一方外部が内部になるという、事物 と空間の関係
が歌われている。バ ラの満ち溢れんばか りの十全な存在が部屋を完全な夏
にするまで変容 させている。それは例えば 『
第 7の悲歌』、夏が夜の姿に
なる歌 と同 じ含みを持 っているのだ。まず、 「
柔 らかな亜麻布」の詩句で、
触覚が喚起 される。そ してバ ラの内部 は、 「内湖」 となって、外部を己に
映す。そこに映 った外部世界は、内部に転化 された空間ではな く、 リルケ
の詩に固有の鏡空間となっている。その世界は外部 と常なる均衡を保ちっ
つ、存在の中心 となるのである。そうした内部空間からは内部が豊かさあ
まって溢れだ し、夏の日々という時間空間へと広がっていく。即ち、バラ
の開花 という 「日々」(
でage
)が、完全に 「
夏」という 「
部屋」(
Ze
i
t
r
aum)
へと変容 したのである。詩人は、かつてどこにも存在 しないような想像的
空間を触覚、視覚、動 きの感覚を媒介 して創造 したのである。と同時に、
。『水盤の
バラという芸術事物 は空間にたい して、 「中心の中心」となる
バラ』 と 『
バ ラの内部』の両作品か らは、バ ラという芸術事物に結晶化さ
-9
4-
れた物が、 「まだ誰 も踏み行 ったことのない内部にある道」を指示 してい
ることが読み取れるのである。内部へ分け入 ると同時に、その事物 は芸術
空間を変容 させる。その拠 り所 となる箇所の前節はこうである。
壊れやすい平たい陶器、
光 る小さな蝶の羽で一杯 -
5)
最後のダッシュは、次に深い意味のある詩句を導 くための大 きなポーズ
であると、考え られる。バ ラは、 「懸命 に我が身を支えてい る。
」(
di
e
ni
c
h上
se
nt
hal
tal
ss
i
c
h.
)
そ して、結局すべてがそうなのではないだろうか、自分白身だけを
内に持 っているのではないか。
もし自身を内に持 って、それを捧げるということが、
外部を、
風 と雨 と春の忍耐 と、
罪 と不安 と仮装 した運命 と、
夕暮れの大地の灰暗さと、
雲の静かなまた荒々しい動 き、
遠 くの星々のおぼろげな影響までを、一握 りの内部へ と変えて しまう
ことであるな らば。
今や外なる世界が内に変容 したものが、なんの くった くもな く開いた
バ ラに、成就 している。6
)
開花 したバ ラは、外部をたった一握 りの内部に変容 させ、隠れなき領域
として際立たせる。また、 『
バ ラの内部』においては、バ ラと空間の関係
に託 して、詩作するという行為が歌われている。この詩においては、バ ラ
を始めとして、どんな事物 も具体的に記述 されてはいない。詩の言葉 は事
物を具体化 したり、概念 として把握 しやすいように言い換えたりは しない。
経験界に存在す る題材が、詩に固有の領域に入ると、どんな事物 も、芸術
事物 となるのである。特に詩人はこの詩で、詩作 とは何なのか、を明 らか
-
95
に している。つまり詩人は詩の空間を成就することにより、バラという芸
術事物に、神秘的な詩の本質的特徴を見たのであった。
彫刻作品においても、外部を 「
一握 りの内部」に変容するのは、こうし
た芸術事物に固有の性格であるO 『
鼻のつぶれた男』(
鼠版②)の表面は、
あ らゆる外部を表現 していてどれ一つとして同 じものはない。この生命に
打ちのめされた顔には、鋭い溝や長い年月をかけて刻まれた敏があるが、
多 くの重 く 「
名状 Lがたい生命」が沸き上がって くる場でもある。 「それ
は自らの正 しさを、自らの内に担 っているように思われる。自らのすべて
の矛盾の和解を、自らのすべての重 さに耐え得るだけの大 きな忍耐 とを、
」 7)
自らの内に備えているように思われる。
このような彫刻作品の自己自身に専心する性格が、歴史的時間空間を変
s
i
°
he
nt
hal
t
e
n)餐
容する。この記述には、バラの 「自分を内に保 つ」(
に通 じるものがある。その意味するところは、己を開 きだ し、微かな影響
をも 「自らの内に含み入れ」(
s
i
c
ki
ns
i
°
hbe
wahr
e
n)あるいは 「自ら満
た し」(
ni
ts
i
c
hs
e
l
bs
te
r
f
i
i
l
l
e
n) 「遠 ざ け」(
s
i
°
hf
e
r
nhal
t
e
n) 「外部
に対 して節度を守 る」(
e
nt
hal
t
s
am s
e
i
nvorde
n Aus
s
e
n) 「自己を見
s
i
c
kni
c
h上dar
anve
r
l
i
e
r
e
n)等々である。つまり、そのよう
失わない」(
に自己を抑制 しつつ外部を内部に取 り収め無限に変容するということであ
る。この姿はまた、あらゆる真の芸術事物の存在様態でもある。
注
I
I SW I S.
2
53
2 SWV S.
2
0
8
3 ande
nDi
c
ht
e
rbe
iBr
e
me
r
,am 1
6.
Jul
il
g
O
3Z
.
Zt
.
Wor
pus
we
de
Ⅲ
1 Br
.1
9
0
2
0
6S.
1
2
6
2 SWV S.
1
4
8
3 SWV S.
1
4
9
4 Kr
i
e
s
s
bac
h,
M.
;
Ri
l
keundRodi
n.
Fr
ankf
ur
tamMai
n,1
9
8
4,
S.
1
1
1
1
4
5
5 Br
.1
9
02
0
6S.
6 Kr
i
e
s
s
bac
h,
M.
;
Ri
l
keundRodi
n.Fr
ankf
ur
tam Mai
n,1
9
84,S.
3
0
7 SWV S.
1
9
9
-9
6-
8
9
SWV S.219
SWV S.191
10 SWV S.192-193
11 SWV S.275
12 SWV S.194
ill
1
2
3
4
5
6
Br. 1902-1906 S.29
Br. 1902-1906 S.34
SWV S.162
Rodin,A.; Die Kunst. Zlirich,1979,S.149
SWV S.163
SWV S.214
7
8
9
Br. 1902-1906 S.124
SW I S.481
"Archaischer Torso Apollos" SW I S.557
IV
1
2
3
4
5
SWV S.174
S.111
swn
swn
S.267
SWV S.191
SW I S.542-545
V
1
2
3
4
5
6
Br. 1921-1926 S.34
Br. 1921-1926 S.172-173
"Die Rosenschale" SW I S.552-554
"Die Roseninnere" SW I S.622-623
SW I S.554
SW I S.554
7
SWV S.157
Samtliche Werke,Bd. I -VI,hg.Ernst Zinn.Frankfurt am Main.
Inse1,1955-1966
-97-
1
Auguste Rodin, "LA PENSEE" 1886
Auguste Rodin, "L'HOMME AU NEZ CASSÉ" Bronze. 1864
Auguste Rodin, "LES BOURGEOIS DE CALAIS" Bronze. 18841888
@ Auguste Rodin, "LA VOIX INTERIEURE" Gips. um 1896/97
@ Auguste Rodin, "ÈVE" Bronz. 1881
@
éù
Auguste Rodin, "LA MÉDITATION" Bronze. 1885
Auguste Rodin, "LE MONUMENT DE VICTOR HUGO" Gips.
1883
@
Auguste Rodin, "LA GRANDE MÉDITATION" Bronze. nach
1890
CID Auguste Rodin, "L'HOMME QUI MARCHE" Bronze. 1900
®
Auguste Rodin, "DANAIDE" 1885
-98-
-9
9-
-1
0
0-
Fly UP