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技術者と経営能力の養成 - 日本ビジネスソフト開発協会-JBSD

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技術者と経営能力の養成 - 日本ビジネスソフト開発協会-JBSD
技術者と経営能力の養成
このケースは経済産業省によるMOT講座確立のための支援を受けて、2004 年に
服部吉伸が開発したものです。版権は服部吉伸に帰属します。税金によって開発さ
れたケースであり、社会の物であると思います。また広く活用されてしかるべきも
のであると考えます。
MOTのための
研究職・技術職と経営能力の培養について
目次
・はじめに
・河合末男の生い立ち
・成績は良かったが工業高校に入学
・住友化学に 1 年間就職
・河合の大学時代における生活の基本
・大学の寮での河合の生活
・河合が暮らした寮の特異性と部屋の住人達
・河合の大学時代の成績
・大学院修士課程での研究
・日立へ入社
・日立の資格制度
・河合末男の日立内部での職歴、研究歴他
・河合の研究戦略
・現場の声を聞く姿勢を堅持する
・事業部門から高い評価を受ける
・河合の研究姿勢
・研究と学位の取得について
・一つ上の職務が求める能力を開発したものが昇進している
・河合のマネジメント能力開発法
・河合の財務・会計の勉強法
・河合の経営能力養成法
・河合の経営戦略形成法
・河合の機械研究所所長としての戦略
・階層組織を活用
・現在、河合が統括する部門と経営戦略
・河合の人材育成・業務改革法
・本当に大切な知識は?
・終りに
はじめに
河合末男は日立工機の常務取締役を務めている。
河合は私立大学の出身者でありながら、巨大組織の日立製作所にあって、研究者にとっ
て最高の地位である機械研究所の所長を務めた。1
その後、請われて日立工機のマネジメントチームの一員に加わり常務取締役になってい
るのである。2
私立大学出身者が機械研究所の所長となったということは、日立という企業が能力主義
を貫徹しているという意味において、組織の健全性を表していることになる。 しかし、こ
こでは日立の企業体質の健全性を追求することが目的ではない。研究者であった河合末男
1
日立の機械研究所は 1966 年に設立された。所員約 550 名の研究体制を確立している。河合は
この9代目の所長である。
2
日立工機の概要(2003 年9月現在) ①資本金 17,813 百万円、②主な製品は電動工具 77%、
プリンティングシステム 20%、ライフサイエンス機器 3%【海外】59%(2003.3) ③本社所在地 東京
都港区港南2-15-1 ④【従業員数(単独)】941 人(連結)】4,134 人
が、どのようにして経営能力を養成していったかを明らかにすることに目的をおいている。
3
河合末男の生い立ち
河合末男は第二次世界大戦の末期である 1944 年3月6日、兵庫県小野市に生を受けた。
末男という名前が示すように、男女4人ずつの8人兄弟の末っ子であった。父親が 46 歳、
母親が 39 歳の時にできた子供であった。長兄とは 19 歳も年齢に開きがあった。
なお、河合の父親は 63 歳、河合が高校3年生の時に逝去されている。
小野という街
小野はそろばんの街として有名である。隣の三木が金物の街であり、その流れから小野
も金物のメーカーが多い街である。
河合の父親は一時、従業員 300 人を超える金物材料製造会社の共同経営者の1人であっ
た。しかし、戦後の混乱期に原材料の確保に関して闇ルートからの仕入れがあったことに
ついて警察の捜索を受け、経営者が全員、責任をとって退任した。その中に、河合の父親
も入っていた。
河合にもの心がついた頃、金物材料製造会社の重役を退任した父親は家業の刃物、特に
農業用草刈鎌をつくっていた。
成績は良かったが工業高校に入学
河合の中学時代の成績は、250 人の生徒の中で、常に 10 番以内であった。高校は家業を
横目でいつも見ていたためか、地元の小野工業高校機械科(定員 120 人・3クラス)に入
3
経営能力とは、主として経営戦略の形成、戦略の分配、組織の意欲の喚起、組織の活用など
の措置によって形成されるものである。この経営能力の培養について研究することが本ケースの目
的である。
学した。この小野工業高校には地場産業を反映した金属科(定員 40 人・1クラス)という
珍しい学科があった。
日本において大学が大衆化され、急速に進学率が高まったのは 1970 年代の中盤からのこ
とである。河合が高校に進学した 1960 年は、まだ高校への進学率が低かった時代である。
また、この当時、工業高等専門学校(いわゆる高専)は設立されておらず、優秀な生徒が
工業高校に多数入学していた時代でもあった。
住友化学に 1 年間就職
小野工業高校機械科卒業後、河合は住友化学に入社し、1年間を愛媛県新居浜市で過し
た。配属されたのは製造の現場第一線である。現場の修理部門に籍を置き、工場に付属す
る構築物、耐火レンガを敷き詰めた反応炉の設計手伝いといった仕事に携わっていた。好
奇心に溢れた河合にとって仕事はおもしろいものであった。
しかし、住友化学は河合が初めて経験する大きな組織での生勤務であった。そこでは河
合にはまったく理解できない次元で技術の会話をする先輩たちがいた。耳をそばだてて、
会話を聞いていると「研究」という言葉が出る。また「技術開発」という言葉も出てきて
いた。
これらの先輩社員の会話は、入社1年目の河合には、新鮮であったが、工業高校を卒業
したばかりの河合とは次元の異なるレベルでの話であり、河合にとっては驚愕すべきこと
であった。
高校の先生の教えること、教科書を丸覚えすれば良い点がとれた今までの勉強とは違い、
答えを自分で探すことになるのである。さらには答えのない誰もやっていない分野もたく
さんあるのだということに気づかされたのである。
このように答えを自分で探す、答えのない分野に挑むという視角から見ると、自分はあ
まりにも非力であることを河合は痛感した。
さらに、社内の業務遂行状況、職制などから、高校卒業者は係長で昇進がとまり、大き
な仕事、やりたい仕事ができそうにないということも分かってきた。
また、自己の持つ可能性がどの程度のものなのかも、自分で自分の能力を引っ張り出し
てみないと分からないということにも気づいた。
知識欲、好奇心、向上心に溢れ、かつ折から多感な年頃であった河合は、これらのこと
に触発されて大学進学を決意した。
大学の入試について調べると、隣の香川県高松市で、立命館大学が地方試験を実施して
いることが分かった。会社には大学受験は伏せる必要がある。高松なら日曜日1日だけで
受験が可能であった。このことから、立命館大学理工学部機械工学科を受験することとし
た。
大学受験を決意したのは、秋風の吹く頃であった。
当時の私立大学の入学試験は入試の多様化が実施されておらず、センター試験もなかっ
た。英語、理科(物理・化学)、数学という3科目による試験制度が主流であった。立命
館大学理工学部も同様であった。このため、慌てて、英語の参考書などを購入して受験勉
強を開始した。
この当時は「蛍雪時代」という月刊誌が発行されており、まだ偏差値という尺度が存在
していなかった。旺文社が多数の受験生を集めて模擬試験を行っており、これによって志
望大学の志望学部に対する合格可能性が判定されるという時代であった。
しかし、河合は模擬試験を受けられる環境になかった。このため、自分の学力レベルが
ほとんどわからないまま受験することになった。
河合は立命館大学に合格した。一度、就職をしており、1年遅れという形になったので
ある。この時、立命館大学の入学金と初年度の授業料は家業を継ぎ、鎌を製造していた長
兄が、親代りとなり、気持ちよく出してくれたのである。
しかし、入学した後は、自分で学費を稼ぎ、これ以上の負担を兄にかけてはならないと
河合は考えた。河合は厳しい大学生活を覚悟しながらも、新しく始まる大学生活に夢を膨
らませて、立命館大学理工学部機械工学科に入学した。
それは 1963 年の春であった。
河合の大学時代における生活の基本
この当時、立命館大学の学費は私立大学の中では日本一安いといわれた時代であった。
当時の物価は大学生協のカレーライスが 35 円、きつねうどんが 25 円、最も高く豪華な定
食が 100 円の時代であった。また、市電・市バスが 15 円、タクシーが 80 円、清水寺の拝
観料が 20 円、喫茶店のコーヒーが 50~80 円、さらに京都の下宿の家賃相場が畳一畳 1000
円を割る価格であった。家庭からの仕送りの少ない学生に対して大学は寮を準備していた。
東京オリンピックの前年であったが、国民全体がまだけっして裕福な時代ではなかった。
このこともあって、実は、大学の寮に入る倍率が大学入試の倍率よりも高かったのであ
る。寮に入っていた河合は寮費(朝晩の2食付きで 6000 円)を含んで、月間1万2千円程
度あれば、最低限の生活ができるという時代であった。
河合は寮に入る以前の 1 年間を北野神社、平野神社周辺の下宿屋で過した。三畳一間で
家賃は 3000 円であった。また、この頃、大学生協の食堂は、朝食 45 円、昼食 55 円、夕食
50 円、計 150 円で、1 日に必要とされるカロリーを摂取できるように食事が提供されてい
た。河合はこの生協の食堂の定食をよく利用した。昼食が 55 円で夕食が 50 円という価格
には、どうしてだろうと首をかしげるかもしれない。
この当時は夜間に学ぶ勤労学生が多く、それに配慮した価格になっていたのである。
河合は 8000 円の特別奨学金をもらい、また、休暇中は長期のアルバイトを行って、学資
と生活費を稼ぐことになった。
学生時代の河合は
①大学開講中は一切アルバイトをせずに、学業に専念する
②休暇中は長期アルバイトで生活費と授業料を稼ぐ
③寮に入り、生活費そのものを低廉化する
④良い研究テーマを探し、それを追求する
⑤貧しい中でも生活をエンジョイする
⑥健康と交通費節約のために大学は徒歩で通学する(片道 30 分)
といった過し方であった。
河合の通学路は呉服のお召しで有名な「しょうざん」の庭を抜け、鷹ヶ峰の山裾を歩き、
鹿苑寺金閣、堂本印象美術館の前を通るという贅沢な道であった。この道すがらに万葉集
の研究で有名な沢瀉博士の家もあった。
大学の寮での河合の生活
1964 年に新しい寮が竣工し、入寮生を募集した。河合はこれに応募して、京都市北区鷹
ヶ峰の「学思寮」で暮らすことになった。
この寮の名前の由来は、「学びて思わざれば、即ち暗し、思いて学ばざれは即ちあやう
し」という中国の教えから、故末川博が命名したものである。
この学思寮は、弁護士を4~5名、同志社大学の法学部長をはじめとして、大学教授を
4~5名、参議院議員、県会・市会議員といった政治家、国家公務員、都道府県庁幹部、
出版社オーナー、公認会計士、税理士、起業家、河合のような上場企業幹部などを輩出し
たユニークな寮であった。
その当時、立命館大学の学生課職員で寮担当をしていた人物が、後に新展開の名のもと
に立命館大学の大改革を行い、私学経営の模範となるような学園経営を行う立命館大学理
事長川本八郎であった。4
寮は自治が行われていた。学生運動が盛んな頃であり、左翼系の学生が多く、いわば、
寮はその巣窟でもあった。河合は政治主義でも、政党主義でもなかった。
河合はいかなる政治組織にも加盟していなかったが、学生運動の活動家達を向こうに回
して、寮委員に立候補し副寮長になった。そして、寮生の意見を取りまとめつつ、自分の
考えも加味して、大学との折衝などに当たった。
4
川本八郎氏は立命館大学理事長である。石川県の人。立命館大学法学部を卒業後、母校の職員となる。河合
の学生時代、特に寮の副委員長をしていた頃は学生課職員であり、河合と折衝することが多かった。国際関係学
部、政策科学部、社会人対象のプロフェッショナルコース(MBA)、立命館アジア太平洋大学の創設、琵琶湖草津
キャンパスへの進出など、新展開の名の元に大きな改革を推進した。
河合をはじめとする寮委員は川本との折衝を通じて、大学の立場からの意見、考え方と
遭遇し、火花を散らすような激しい論争を行った。しかし、川本の的確な現状分析に基づ
く説得力のある論理展開、示唆にとんだ話、学生に対する愛情に溢れた接し方に対しては
舌を巻くことが多かった。そして最後はいつも雑談を通じて勉学に対する動機付けを川本
から受けていたのである。この頃の川本は寮を訪れる際には、雑誌の「世界」を携行し、
それをよく読んでいた。その姿を河合は何度も目撃している。
また、川本は河合が経済的にけっして楽な境遇にはないということを知り、高校生の家
庭教師のアルバイトを紹介した。 大学の講義開講中はアルバイトをしないと決めていた河
合であるが、川本の紹介であり、また、家庭教師先が大学に近く、週2回、時間程度を要
するだけであることから、これを引き受けた。河合が教えた生徒は後日、立命館大学理工
学部に入学し、一流メーカーに勤務した。
学生時代に寮の委員になることによって、河合は川本という一流の考え方をする人間と
接することができた。と同時に、組織内の多様な考え方を自己の提案する意見を元にまと
めあげ、それを組織の意思として外部に発表するというオリジナリティのあるコーディネ
ート能力を培養する基礎を形成できた可能性がある。
文科系で学生運動をやっている連中が寮委員を形成している中に、理工学部生で、成績
優秀の真面目な学生が1人混じっていたのである。
寮では様々な問題が起きていた。
その一端を挙げると
①女子大の寮の看板、特急・急行列車の看板などをコレクションする学生がおり、その対
応に困ったこと
②夜間、女子大の寮に押しかけ、「我々は立命館大学学思寮生である」と、自ら明らかに
した上で、演説を行い、塀に小便をかけてくる学生がおり、寮委員が謝罪に走ることがし
ばしばあったこと
③寮費を滞納する者がおり、個人面談を行う必要があること
④寮における勉学環境の確保対策を講じること
⑤寮生の生活支援のためのアルバイト先を確保すること
⑥ベトナム戦争に関する討議を行うこと
といった問題が発生していた。
さらに、寮祭、寮としての学園祭への参加、他の寮との交流、比叡山へのナイトツアー、
寮誌の発刊などの行事、企画があった。これらの仕事をこなしつつ、河合は、論理的に話
をする能力、幅広い知識の習得、自己の意思・考え方の確立、周囲に目をやる必要性など
を感じていったのである。
河合が暮らした寮の特異性と部屋の住人達
河合が暮らした学思寮は、「対話を通じて、新しい人格を形成する」という理念をもっ
た寮であった。5
このため、部屋のドアを開けると、そこは談話室になっていた。左右に
8人分の下駄箱があった。そして、テーブルを囲んで8つの椅子があった。
さらに、この談話室から左右にドアがあり、そこに4人ずつが暮らしていたのである。
机が四つあり、箪笥をはさんで、2段ベッドが2つあった。
つまり、3つの部屋があり、定員8人で一室が構成されていたのである。左右の部屋は
勉学と寝室であり、友人が訪れてきた時、あるいは何か話をしたい時は、真ん中の部屋、
談話室に場を移すことになっていた。
河合が過した部屋は寮の2階にありBブロック2号室であった。
寮からは京都市内を見おろすことができ、夜景がきれいであった。
この寮が定員で一杯になった時、同室には福井県出身の経営学部4回生永井征治がいた。
彼は軽井沢万平ホテルに勤務した。後にフランスに留学してフランス料理を学び、草分け
時代にソムリエの資格を取得した。また、その世界では知られた泥人形の作家でもある。
5
「対話を通じて、新しい人格を形成する」という理念をもった寮であり、談話室、ブロック会議室が準
備されていた。各回生2名、計8名で一室が構成されていた。さらに、学部を可能な限り組み合わせると
いう措置もとられていた。
2回生は和歌山県出身の法学部の萩弘誉であった。後に任天堂に就職。その後、奥さん
の実家の幼稚園経営に転進し、園長となっている。
1回生が経営学部の服部吉伸であった。後に経営コンサルタントから、立命館大学・経
営学部の教授に転進し、さらに経営コンサルタントにカムバックし、社会人教育、ベンチ
ャー企業の支援、IPOなどに尽力した。
同室のもう一つの部屋には、欠員があり4回生がいなかった。
英会話が得意で、その後、鉄鋼商社に勤務した愛媛県宇和島市出身の浅田宇三郎、同経
済学部2回生にスポーツマンの石塚昇がいた。彼は鹿児島に帰り、経済連に勤務した。文
学部東洋史学1回生でディベードに強い熊本県出身の出口義勝がいた。彼はまもなく寮を
出たために、その後の消息を誰も知らない。
河合が大学を卒業し、大学院に進学した後、北海道から法学部生の北潟谷仁がこの部屋
に入ってきている。彼は卒業した年に司法試験を通り、弁護士となった。
学生運動が盛んな時代であったが、学生運動に対しては一定の距離を置くユニークな人
材が暮らすBブロック2号室で、河合は起居していたのである。
なお、この学思寮は 1970 年代の初めに、完全自治を唱えて学生が寮を占拠したが、運営
がうまくいかず、その後閉寮となり、その歴史的役割を終えている。推定であるが 400 人
規模の卒業生を出している。
なお、寮歌は美しく、かつ哀愁のある旋律をもっており、寮生はことあるごとに口ずさ
んだと河合は言っている。
立命館大学寮歌
夕月淡く
梨花白く
春宵(しゅんしょう)花の香を込めて
都塵(とじん)おさまるひと時や
眉若き児こら 相集い
希望の光を一にして
熱き四年(よとせ)を契りたり
河合の大学時代の成績
大学時代の河合は、寮でよく出口義勝と議論をした。また、部屋で魯迅の「阿Q正伝」、
島崎藤村の「夜明け前」などについて、読書会を提案し、チューターとなっていた。
さらに社会科学については、経営学部の服部に読んだ本についてレクチャーさせ、著書
の大意を把握していたこともあった。
河合は機械工学科では材料強度について研究をしていた。
当時、立命館大学の成績評価は、現在のA、B、C評価とは異なり、優、良、可の時代
であった。
河合の成績は4年間を通じて良=Bが2つ、可=C が1つだけであり、他はすべて優=A
で卒業したのである。卒業時、機械科で成績優秀者1名だけに与えられる日本機械学会畠
山賞を受けている。
大学院修士課程での研究
大学院時代の河合は、足利家の菩提寺として有名な等持院の付近に下宿をした。大学か
ら5~6分程度の距離にある。研究や実験で、どれだけ夜が遅くなっても大丈夫な距離で
あった。
当時、藤谷教授の紹介で、花園高校自動車学科において講師を担当した。自動車構造に
ついて教えることになったのであるが、河合は教える難しさをここで学んだという。高校
生を相手に、いかに難しいことをわかりやすく噛み砕いて話すかに腐心したと河合は語っ
ている。
大学院における河合の研究テーマは「金属疲労」であった。6
6
研究者にはセンスが要請される。河合の専門分野は、その後、当時の最先端技術であったIC
パッケージにまで広がることになる。
卒業研究は、関護雄・田中道七研究室の田中助教授に師事した。これは百万遍寮にいた
先輩から「関先生が私のところに来たら」と言っておられると告げられたからである。
関教授が河合を手元に置きたがったのは、外書講読の講義において課題研究を出した際、
河合が翻訳した文章が自分の翻訳と異なっていることに気づいたことにある。よく考えて
みると河合の翻訳の方が正しかったのである。この時から、関は河合に目をつけ、卒業研
究は自分の手元においてやらせようと考えたということである。
また、河合は田中助教授にはよく議論をふっかけたが、なにごとにも情熱的な好漢田中
(後に立命館大学の副学長となる)は、それを受けて立ち、深夜にまで議論が及ぶことがあ
ったという。うまが合ったというのか、田中は河合をよく可愛がった。
日立へ入社
先にも触れたが 1969 年当時、立命館大学には左翼系学生が多かった。現在、立命館大学
のキャンパスには政治的な立て看板は一つもなく隔世の感がする。
この頃の立命館大学の文科系学部には総合商社、メガバンク、生保、損保、メーカーを
はじめとして、いわゆる一流企業からの求職は少なかった。
現在、立命館大学の卒業生は総合商社、金融、サービス、システム、流通、各種メーカ
ーなどの民間企業に多数就職している。また、東洋経済の特集の中で就職の良い大学の上
位に立命館大学がランクされている。これも隔世の感がすることである。
しかし、文科系学部とは違い理工学部には一部の財閥系グループをのぞいて、多くの一
流民間企業から求職が来ていた。
河合はメーカーに入社し、思い切り仕事をしてみたいと考えていた。
粗にして野だが、卑ではないという言葉があるが、当時、野武士と形容された集団が日
立であった。河合は就職に際して、自分の性格とやりたいことを考慮して、日立に白羽の
矢を立てた。
日立の入社試験の面接時に、「何か言いたいことがありますか?」と問われた河合は、
「私は私学の出身です。日立は実力主義だといわれていますが、本当なのでしょうか?
仕
事については、チャレンジする機会だけは平等に与えて欲しい。つまり、一流の国立大学
の連中と同じ土俵で相撲をとらせて欲しいと思います」と言ったのである。
この発言によって、「この男は見所がある」ということで、これが合格の理由となった
と思われる。
この面接の最中である。面接官の1人が、「君は僕が統括している営業部門に来ないか」
と声をかけてくれたのである。内定を正式に出していない段階で、営業部門に来いという
誘いがあったのだ。これは、この時、面接官全員に、この男は採用だという共通の認識が
あったことを表している。
これには河合はさすがに閉口して、「私には追求したいテーマがあります」と言って、
営業部門行きを断った。
河合の日立就職が決定してから、河合の配属先を巡って、関教授が動いた。それは関が
自分の出身校である京都大学のルートを使って、河合を「機械研究所」に送り込もうと画
策したことである。河合は日立で、研究よりも、むしろ、設計をやりたいと考えていたの
である。
日立の機械研究所の加藤主管研究員(関教授が連絡をとった京都大学出身の鯉渕氏の上
長)がわざわざ京都の立命館大学を訪問し、河合との面談を求めてきたのである。その面
談を通じて、関が河合を機械研究所に入れようとしていることが分かったのである。
関から見ると目の中に入れても痛くない河合であったのだ。
その後、河合が日立の機械研究所の所長を歴任することになるのであるが、河合を機械
研究所に送り込もうと運動をした関は、この時点において、河合の研究者としての優れた
素質を見抜いていたことになり、これは慧眼というべきものであろう。
日立の資格制度
ここで日立の組織を理解するために、資格制度を見ておこう。7
7
資格制度は能力主義と年功序列の中庸をとる制度であり、大組織に対して秩序と安定感、躍動感を
与えるものとして広く採用された。日本的経営を陰で支えている人事労務制度である。
大組織には多段階の資格等級があり、5~10 年間に1人の人間が、その頂点を極めるこ
とになる。大組織である日立では、その確率は1万人に1人というものであろう。
日立では入社すると、「研修員」となる。大学院卒は、これを通過するのに1年間かか
る(研修員発表は2年後)。
次に「企画職」となる。これは3段階に分かれているのである。ここを通過するのに、
普通にいっても 10 年間程度を要するといわれている。
次に待ち受けているのは、「副参事(H7)」という資格等級である。これはまだ管理
職ではなく、管理職予備軍である。
「(H6)の副参事」となると、はじめて非組合員で管理職となる。ここに到達するの
は通常では 40 歳半ばを超える。
この後は参事補(H4)が続いている。そして、参事(H3)になると部長クラスとな
る。この資格等級に到達する者はかなり少なくなるというのが現実である。 続いて参与(H
2)があるが、これは研究所の場合、所長クラスに相当することになる。この資格等級は
研究所で1人いるかいないかという希少性がある。 理事(H1)は役員待遇で、この資格
に到達する者は、当時、日立に 11 あった研究所全部を合わせても極めて少数であり1人か
2人という年度が多い。参与で関係会社(関係会社といっても東証一部上場企業が多い)
に転出すると平の取締役が多く、理事の場合は常務取締役が多い。ただし、理事が一般的
には年齢が高く、参与での転出は年齢が若い。
ちなみに河合は、56 歳の参与の時に取締役で日立工機に転籍している。最近の取締役の
任期は1年となり、1年ごとに業績責任が問われる厳しいものとなっている。
河合末男の日立内部での職歴、研究歴他
河合の日立での職歴を見ておこう。
その前に報告をしておこう。河合は日立に入社した直後の5月に和子夫人と結婚をして
いる。
入社と結婚という新しい門出が2つ連続することから、河合の闘志はいやが上にも高ま
っていったのである。 その後の河合の職歴、研究歴他から、どこでどのように能力開発を
行ったのかをうかがい知ることにしよう。
河合末男の職歴、研究歴他
年月
河合氏の職歴等
1944 年3月
兵庫県に生まれる
1969 年3月
立命館大学理工学部修士修了
1969 年4月
日立製作所入社、機械研究所第
コメント
4部配属
1969 年5月
結婚
1970 年1月
最初の研究報告書である「スパ
シャフトが折れることがあり、材質、
イラル継手の開発」を発表
形状などの強度に基づく信頼性を研
究。また限界設計によりコストダウ
ンも実行する
1971 年
最初の社外講演を「溶接学会」
テーマは「高い平均応力下の溶接継
の全国大会で発表
手の疲れ挙動」
1972 年5月
第4部研究員となる
1973 年
この頃、「腐食疲労度の研究」
テレビに使われるパワートランジス
に邁進
ターのはんだ部分が弱く、壊れるこ
とがあった。信頼性向上の研究を担
当した。
1974 年1月
最初の特許である「半導体装置」
を出願
1975 年7月
最初の社外寄稿論文が、溶接学
テーマは「溶接継手の疲れ強さに及
会誌に掲載される
ぼすピーニング効果」
1976 年
日本初の半導体製品の強度信頼
性に関する論文を機械学会で、
連名で発表
1977 年
この頃、半導体関連製品を研究
対象に取り入れる
1978 年
社長技術賞を受賞
テーマは「パワートランジスターの
寿命向上」
1980 年3月
立命館大学より工学博士号を授
「ターボ機械の羽根車及び軸の疲労
与される
度評価に関する基礎的研究」
1980 年8月
第三部主任研究員となる
1983 年8月
第七部主任研究員となる
1983~1985 年
この間、新幹線車両担当となる
1985 年8月
第三部 31 研究室長となる
1988 年
2度目の社長技術賞を受賞
山口県下松市に赴任
テーマは「MOSメモリーの開発と
量産化」
1990 年6月
第三部部長となる
原子力、半導体の信頼性研究をリー
ドする
1991 年 10 月
3度目の社長技術賞で、特賞を
受ける
1991 年 10 月
運動会青集団長となり完全優勝
(仮装大会はディズニー)
1993 年8月
4度目の社長技術賞を受賞
将来の幹部候補生は他部門に出され
戦略特許賞を受賞
るようになった。8
8
経営能力は実際に経営を行ってみないと養成されない分野が多い。また、狭い専門分野の管理職
の任に当たっているだけでは経営能力は養成されない。このため、将来の幹部候補生は積極的に他部
門、関係会社などに出されるようになった。
日本機械学会論文賞
高密度化と高速化に適した半導体パ
半導体事業部パッケージ技術開
ッケージの開発・・・半導体実装技
発部 部長
術の基礎をつくる
1993 年
5度目の社長技術賞を受賞
1994 年
6度目の社長技術賞を受賞
1995 年
社長ソフト賞特賞を受賞
市村賞貢献賞を受賞
1995 年2月
新しい構造をもった Lead
On
Chip パッケージの開発
機械研究所副所長兼第四部長に
就任
1997 年2月
生産技術研究所副所長に就任
1998 年2月
機械研究所所長に就任
1999 年
地方発明表彰
2000 年6月
日立工機株式会社取締役に就任
2003 年6月
日立工機株式会社常務取締役に
発明奨励賞受賞
半導体パッケージ
就任
河合の研究戦略
河合は執筆依頼を受け、日本機械学会論文集、第 69 巻 682 号(2003-6)の研究随想欄に「日
立での私の研究活動」と題した寄稿を行っている。
この中で河合は研究について、実務との戦略的な視点から、注目すべき提案を行ってい
る。
それを抜粋し、箇条書きにまとめると
①研究着手に当っては研究対象をよく知ることが大切である
②基盤系の研究者は対象商品が変ることが多く、意外と対象商品についての知識が少ない
③発注元は設計部門なので、個別の技術について必ずしも明るくないケースがある
④このため対象商品を自分自身(研究者)がよく理解し、より効果のあるテーマを再提案
する方法を採用する
⑤製品開発のキーマンを見つけ、そのキーマンと連携して製品開発を進める
⑥キーマンは年齢、地位(役職)とは関係がない場合が多い
⑦研究成果のタイミングが重要であり、研究の進展が 70%程度であったとしても、最終結
果に対して影響が出てこないという確信があれば実機に採用すべきである
⑧完璧をねらって長々と研究し、成果のタイミングが遅れ、結局は製品に採用されなかっ
た事例も多い
ということである。
河合は対象商品を自分自身(研究者)がよく理解し、より効果のあるテーマを再提案す
る方法を採用する必要性、さらには事業部門のキーマンを探し、そのキーマンと連携して、
もっと言えば、事業部門にいるキーマンに教えてもらいながら、研究を進めることの重要
性を説いているのである。また、研究は製品開発のために、実際に製品を使用する顧客(消
費者、ユーザー)のために進め、技術の進歩を享受してもらうことの大切さを説いているの
である。このためには研究を成果に結びつけるタイミングも重要であり、研究姿勢にまで
言及しているのである。
これは研究者の「マーケット・イン」を説いていると理解することができる。
「工場の情報量の多さに驚きました。新製品開発に限っても営業、設計、生産技術、プ
ロセス部門の人達が、顧客や、同業者から多くの情報を得てきます。膨大な情報量です。
・・・
言うまでもないことですが工場は製品の情報センターなのです。研究者は、工場とのチャ
ネルを太くしてこれらの情報をうまく利用することが大切だと思います。確かな情報を基
に研究者としての独自の判断を加えれば研究開発の重要なヒントが得られます」と機械研
究所内の情報誌である「ひろば」第二二号 1995 年で河合は説いている。
ここでは研究者の主体性を問うと同時に、情報の重要性、工場との太いパイプつくりを
説いているのである。
さらに、河合は「予想以上の成果を出してくれるグループがあるかと思うとほとんど見
るべきものがないケースもあります。当りはずれが大きいのです」と記した後に、「その
原因の一つは・・・研究者の方で、製品開発に対する自分の研究の位置づけが十分でなく、
何のために研究しているのかよく理解できていない、・・・製品開発全体のスケジュール
から自分の研究スケジュールを決めるのではなく、自分ができるスケジュールになりがち
だということです」と指摘している。
このことは、研究者は製品の開発に焦点を当て、それに最大限の柔軟性と価値観をもつ
ことの必要性を説いているのである。
市場で商品がヒットした場合、研究者は隠れた協力者である。あるいは研究者が提供し
た技術があったればこそ、商品が陽の目を見たという視点からすれば、商品開発の本当の
主役は研究者であるかもしれない。
しかし、当の研究者は研究室の片隅で、次の製品のための技術開発を行っているのであ
る。製品が市場に送り出され、技術の進歩を生活者やユーザーが利用してくれている確か
な実感が研究者生活の冥利であると河合は説いているのである。
現場の声を聞く姿勢を堅持する
技術はいかされてこそ価値がある。
ドラッカーは「技術をいかすのは市場のもつダイナミズムである」という表現で、技術
と製品の関係を説いている。9
河合に聞くと、ドラッカーをはじめ、かなりの本は読んでいる。しかし、本に書いてあ
ることを鵜呑みにして実行したことはまったくないと言っている。なぜなら、「私が直面
している現実は、日立という会社であり、日立という組織の持つ文化、慣性、知的水準、
行動、発想、技術などがあるからです」と河合は言う。
9
ドラッカーはアメリカ在住の経営学者であり、経営コンサルタントもこなす。市場から発想して初めて、
技術は活きるということを、『現代の経営』で説いている。同著は経営学の古典といえる存在である。
たとえば、GE、IBMのことが本に書かれているとしよう。しかし、日立とGE、I
BMが置かれている環境、保有している技術、スキル、ノウハウ、企業運営方法などは違
う。日立には日立にふさわしい経営戦略が必要なのだ。ましてや自研究所の都合のよいよ
うにプロダクト・ポートフォリオ・マネジメントを作成したり、受託研究受注に対する努
力を怠り、受託研究の減少を景気の悪化といった外部の理由に求めたりするようなことを
してはならないと説く。10
河合が受託研究を増やすために採用した戦略は、事業部から持ち込まれた案件に真摯に
対応する。また、案件を持ち込みやすい雰囲気をつくることから心がけたと話してくれた。
社内の事業部、開発部門に真摯に対応するということは
①平易な言葉を使う
②誠心誠意、対応する
③持ち込まれた改善点、改良点の周囲をも点検し、期待以上の改善・改良を行う
④以上を通じて現場、特に設計・製造部門からの信頼感を取り付ける
こうすることによって、事業部門から機械研究所に持ち込まれる案件が多くなり、情報
がたくさん集まるようになる。これは商品を現実に販売している得意先、ライバルが現実
10
研究開発部門がプロダクト・ポートフォリオ・マネジメントを悪用することは可能である。
PPMを用いて
①当研究部門の取り扱う製品が市場において劣勢に立っている
②金のなる木の製品が少なく資金が回らない
③スターの製品が多く、関連の研究開発が多く、資金が必要である
④問題児が多く、スターにしていくために資金が入用である
といったことを主張し、本社から特別の資金援助を仰ぐことができるからである。
ただし、他の研究所も同様の分析を行うと、同様の結果が出ることが多い。いつまでも本社を欺くこと
はできない。研究所は本来の研究受託、技術供与によって、現業を支援し、その対価をもって経営を行
うべきである。
に展開している動きなどの情報を1次情報とすれば、社内情報であり、2次情報に該当す
るものである。
1次情報という生の情報を入手することが事実として困難な研究者は、社内からの洗練
された2次情報、つまり、製品を改善・改良すれば、即受注につながるといった受注関連
情報を重視することが求められている。
市場という怪物は誰も正しく把握することができていない。しかし、自分の力の及ぶ範
囲内で市場の実像に肉薄する努力が必要である。
また、「私以外はすべてお客様」という発想があれば、他部門との関係は極めて良好に
なり、多くの情報が持ち込まれるとも河合は語っている。
事業部門から高い評価を受ける
事業部門から
・河合は話をよく聞いてくれる
・河合の言うとおりにやったらうまくいった
・河合は期待以上の資料提出、提案などをしてくれる
という声が彷彿として上がってくる。
このような状態を現出するためには、事業部門の人たちを支援し、売れる商品にしてい
くことが研究所の仕事の一つであるという考え方をもつことである。
こうすることによって、研究委託によって、経費をまかなっている研究所の経営がなり
たっていくのである。
そして、研究所に良質で、具体的な情報が還流されたり、社内の優れた技術、スキル、
ノウハウが結合されたり、さらにレベルアップされたり、新しい研究課題が湧いてきたり
するのである。
河合は若い頃から、このような考えを持ち、楽しく、明るく、気さくに工場と接してき
た。困った時には河合に相談しようという雰囲気、つまり、「困った時の河合詣で」とい
う気分・雰囲気が工場にあったことは確かなことである。
しかし、何もかもがうまくいったわけではない。ある上司と河合はことあるごとに衝突
した。
「河合憎し」が前提としてあるのか、河合が何かを言うと、その意見をつぶそうとする
のである。
仕事上の取り組み課題、研究方法などは組織の上下関係とは無関係なものである。効率
的・効果的な研究方法を追求する必要があり、また、取り組み課題は時代の進歩、生活者・
ユーザーのニーズの変化を導くものが求められている。
河合はこの点においては負けてはならないと必死に、この上司と戦った。しかし、ある
日、この上司の河合に対する態度が豹変した。それは製造現場、開発現場から河合に対す
る高い評価がくだされていることを、この上司が知ったからである。直接の上司からは憎
悪に近い攻撃を受けていた河合が、ある日を境に、上司からの攻撃を受けなくなったので
ある。
組織を味方につけるということは、こういうことなのである。
河合の研究姿勢
河合は研究者としても優れた業績を残している。
というよりも、研究所の所長となる者には
①戦略ドメインを確立し、研究に対する一定の方向と幅を提示する11
11
戦略ドメインは企業が事業範囲を設定し、事業の性格をも併せて明確にすることを指してい
る。
このことによって、
①研究開発の範囲、焦点が定まる
②逆に関連分野の研究が可能となる
③技術と技術の組み合わせが促進される
といったことが行われる。
②研究者として優れた業績を上げている
③研究が企業業績に対して具体的に貢献している
④リーダーシップがある
⑤社内の他事業部との交渉ができる
といった多様な能力が求められているのである。
大組織である日立内部においては、単に研究業績が優れているだけでは所長になれない。
また、ネゴシェーション、交渉ごとに長けているというだけでも所長になれない。まして
や、リーダーシップがなければ到底所長のポストをこなすことはできないのである。また
人格の準備も、所長にとって、必須の条件である。
河合が機械研究所の所長として提起した戦略は、「研究は世界的水準を確保し、応用は
市場とのマッチングを目指す」というものであった。
研究者にもセンスが求められる時代が来ている。勉強ができるということと、センスが
あるということは異次元のことである。どのようなコンセプトに自己の基礎を置くのかと
いうことがすべての研究者に問われている。
河合が留意していたことは
①実績が大切である
②実績には、研究実績と応用(製品開発、製品改良)実績の二つがある
ということであった。
このため、河合は「日本機械学会」「日本材料学会」に所属し、こつこつと論文を書き、
発表を行っていったのである。
論文の数は「河合博士業績集」に収録されているものだけでも 44 本を数える。これ以外
のものを加えると論文は 50 本を超える。河合の論文の多さは研修員時代、多くの研究者が
2年間に研究報告書が 1 本というときに3本を書いていることをもっても、傍証されるで
あろう。
河合の論文は年間2本のペースで論文が執筆されていたことになる。というよりも、論
文となる水準の業績を残し、先端技術の研究・開発に捧げた一生であったということがで
きる。
また、河合が申請した取得特許は 50 本以上ある。
河合は日本機械学会では編集理事、材料学会では副会長を務めている。
研究と学位の取得について
研究者は
・自己の専門分野の研究
・研究成果の製品への展開
・次の理論、次の技術の研究
・次の理論、次の技術によって開発可能な製品の探索
・現場からの具体的な技術開発要請への対応
・コンサルティング
などを行う必要があり、極めて多忙である。
そのような中で河合は学位を取得しており、また、学位の取得を部下に奨励しているの
である。その方法は、現場での製品開発に全力を挙げる傍らで学位取得に必要なブレイン
ワークを行うというものであった。
このためには
①可能な限り学位と現実の業務が同一となるように研究テーマを設定する
②業務最優先である
③日常的に気づいたことをメモに取る
④関連データをこまめに収集する
⑤小さな時間を活用して、問題点、急所などを浮き彫りにする
⑥居残り、休日出勤などを行って学位論文を文章化、形式知化する
というものであった。
学位論文に専念できるように、仕事から外して、数ヶ月間を与えてくれる企業などは存
在しない。学位論文の取得は業務最優先の中で時間のやりくりと創意工夫とによってもた
らされるものである。事実として河合は上記のような形で 1980 年に学位を取得している。
その方法を教えつつ、部下に学位を取得させていたのである。
一つ上の職務が求める能力を開発した者が昇進している
たとえば、次の事業部長を誰にするかと考えた時、明らかに、頭一つ以上抜け出した人
材が存在しておれば、衆目の一致するところとなり、昇格人事は事前に事実上決っている
も同然ということになる。そこには学閥、閨閥、派閥という公正な人事を阻む三閥の入り
込む余地はない。
サラリーマン社会では、人事は最重要事項である。
このため、「次の課長は誰か?
次の部長は誰か?」といったことが、職場や、会社帰
りの居酒屋などでしばしば語られているものである。
頭一つ以上抜け出した人材とは
①研究等各種の実績が優れている
②企業業績への貢献度が高い
③人に対して公平である
④戦略(指示・命令)が適切であり、リーダーシップがある
⑤多くの人の期待が集まっている
⑥事実として一つ上の役職が求めている能力水準に達している
ということを表している。
企業経営上、最終的に求められる能力は経営能力であるが、ここに至るまでに、初級の
マネジメント能力、中級のマネジメント能力、そして上級のマネジメント能力の具備が求
められることになる。12
中級のマネジメント能力は、部門の戦略を形成し、その解決を通じて部門の現在抱える
問題、将来発生するであろう問題などについて事前ないしは並行して解決を行う。また、
現在と将来に対して積極的な芽を植えつける。
さらに高度なマネジメントとは企業経営に対する戦略とその実現を表している。
これらを平たく言えば、係長の時代に課長、課長の時代に部長、部長の時代に所長・取
締役に求められる能力を養成しておくということである。これは言葉で言えば簡単なこと
であるが、多くの人ができていないことである。
たとえば、部長の就任あいさつで、「ガンバリマスのでよろしくお願いします」という
言辞をはかれたとしたら、それは無能を証明する以外のなにものでもないのである。誰も
がガンバッテいるのである。少なくとも、部長クラスには、何をどうガンバルのかが問わ
れているときに、抽象的な意思表示であるガンバリマスでは、どうしようもないのである。
河合は常時、継続して次のような課題に取り組むことによって、一つ上の職務が求める
能力を準備していたように思えるのである。
河合のマネジメント能力開発法
河合は入社3年目の 1972 年には半導体パッケージの開発に取り組んでいた。この当時、
半導体パッケージは重要な戦略課題であった。このため、河合には1人の部下がつけられ
た。河合はこの部下と一緒に仕事を進める中で、この部下のもつ能力を最大限に引き出す
12
管理職者の現実的な識別基準は、人事考課を行っている人かどうかということがある。初級のマ
ネジメント能力は適切な人事考課ができる、上位職からの戦略等を正しく伝えられる、自分の担当
しているセクションの予算・目標数値などを達成するための戦略を形成・実現することにある。
ことに腐心した。これが、その後の河合のマネジメント能力の養成に役立つこととなるの
である。
この部下との共同研究の過程で、河合はマネジメントとは
①管理・監督することではない
②共通の目的を達成・実現するための共進者である
③指導・援助・アドバイスすることが大切である
④仕事を任せて、やり切るように導くことが人を伸ばす
といったことを学んだという。
河合が行った一つ上の能力の準備は
①重要な課題(戦略)を割り出し、それをプロジェクトに分配する
②自分もどれかのプロジェクトを率い、率先垂範する
③プロジェクトがうまくいくように指導・援助・アドバイスを継続して行う
④部門間にまたがる課題が多いことから、他部門の仕事を請け負ったり、手伝ってもらっ
たりという関係をつくる
⑤上司に提案し、承認をもらい、一部は上司の代行をも務める
⑥特許戦略を明確にする
といったものであった。
実務上で指導的な立場に立つ。その前に、効果のある戦略、課題を割り出し、それを部
下に分配していく。
その分配方法は、プロジェクト、個人的な研究課題として分散配置する、特命で分配す
るというように、様々なものがある。
手本を見せる必要から自分もプロジェクトを担当する。このことによって、現場感覚、
市場動向、部下の成長、顧客への接近なども果せると同時に、マネジメントポイントのツ
ボ・コツ・ノウハウ・勘所も習得していくことができるようになるのである。
現場と密着し、そこで適切な戦略、方向を明示し、重要な課題を割り出し、それをプロ
ジェクト、個人、特命、チームなどに分配する。そして、その全体の進捗について、マネ
ジメントを行っていくのである。
トップになる以前のジャックウェルチが行ったように、マネジメントにおいては、「上
空支援」という形で上司の支持をとりつけることが重要である。さらに、大きな組織のマ
ネジメントについては、ビジネスの全体を俯瞰しつつ、他部門との関連付けの中で、有効
な戦略を割り出し、それを適切に分配し、その実現について、最大限の労力、努力を注ぎ
込むということが求められるのである。13注 13
また、上司が判断を求められる事項について、「自分だったらどうするか」を考えるよ
うにしていたことも役立っている。
これらが河合の経営能力の培養につながっていったのではないかと思われる。
河合の財務・会計の勉強法
営業部門、管理部門にも言えることであるが,財務・会計に強い研究者、開発者、技術
者は少ない。
企業は管理会計制度を導入し、事業部、研究所、支店など企業内の組織の多くに「採算」
「収益」のメスを入れている。役職が上になればなるほど、財務・会計の知識が必要とさ
れる。注 14
ある意味で財務諸表は事業部、研究所、支店などに対する通知簿である。この通知簿が
読めない、あるいは理解できない幹部、管理職者がいるとすれば、その組織は財務・会計
13
河合はみずから積極的に上司にプレゼンテーションを行い、上司の支持を取り付けていた。上司か
ら見ると河合は自分が知っていることを行っているのであり、極めて安全な存在である。また、自分が承
認してやったから、今のテーマに取り組めているのだという認識になる。これによって業績が向上するの
だから、極めて有用なテーマだから支援してやろうという気持ちにもなるのである。
から見た自己に対する正しい評価、反省に基づく改革の芽を失ってしまうことになるので
ある。
日立では課長研修、部長研修のカリキュラムの中に財務・会計の講座を準備している。
さらに、副事業所長の教育カリキュラムの中に財務・会計中心の研修を2週間規模で設定
している。この役職クラスになると、関連会社の経営に参画するケースが多くなるためで
ある。
河合は「きつい研修でした」と述懐している。
しかし、日立が実施する研修は一回のみでなく、継続して教育を行っている。続いて所
長クラスの長期計画審議、各事業所での長期計画立案講座等が待ち受けている。これらの
講座は財務や会計の知識がなければ乗り切れない講座である。
しかし、「研修その他で得られるものはほんの一部であり、各人の創意・工夫があって
はじめて生きるものです。MBAなど経営の知識を持った人が必ずしも成功しないのは、
このためだと思います」と河合は述べている。
「日立が学ぶ機会を設定してくれたと理解し、単に講座を受講するだけではなく、その
後、自分は何が弱いかを明確にして、自学自習する。つまり、自分で納得できるまで勉強
することによって、能力は向上すると思います。せっかくの学ぶ機会なのだから、中途半
端にせずに、その時点で徹底して、習得してしまうことが大切だと思います」と河合は述
べている。
河合の経営能力養成法
続いて河合に対して、これ以外に経営能力をどのように養成したかを尋ねた。し
かし、河合からは、これという明確な答えが返ってこない。
そこで、「どの学部を卒業していても、最後は経営学を勉強しなければならない
のですが・・・」と言いつつ
①ドラッカー(マネジメント)
②ポーター(競争戦略)注 15
③アンゾフ(製品戦略、市場戦略)注 16
④ハメル、プラハラッド(コア・コンピタンス)注 17
⑤コリンズ(ビジョナリー・カンパニー)注 18
⑥ピーターズ、ウォータマン(エクセレントカンパニー)注 19
⑦マイケル・ハマー(リエンジニァリング)注 20
⑧コトラー(マーケティング)注 21
⑨アーカー(ブランドマーケティング)注 22
⑩野中郁次郎(知識創造経営)注 23
⑪ミンツバーグ(戦略サファリ)注 24
などの名前を挙げてみたが、そのほとんどの人を河合は知らないという。
このため、アプローチ法を変えて
・分析型経営戦略注 25
・資源依存型経営戦略注 26
・コア・コンピタンス
・エクセレントカンパニー
・ミッションに基づく経営
・暗黙知・形式知
・アントレプレナ―
・ゲーム論的経営戦略注 27
・ポジショニング注 28
・ベンチマーキング注 29
・ブランドエクイティ
・組織学習・ラーニング
・ミドル・アップダウンマネジメント
・セグメンテーション
・ターゲティング
などの用語について質問を発した。
すると、以上の用語について、河合の造詣が極めて深いことが理解できたのであ
る。特に資源依存型戦略形成法に属することになるが、河合は形式知を「明白知」
と呼び、組織内で頻繁に使用しているというのである。
読んでいる単行本について質問すると
・歴史書
・小説
が多いということであった。
しかし、新聞については
・日刊工業新聞
・日経産業新聞
の2誌をていねいに読んでいるということであった。
つまり、工業系の新聞を通じて技術のみならず、製品、市場にウェイトをおいた
スタンスで知識、情報を獲得しているということである。
そして、新聞の紙面に散見される経営上の諸課題、経営戦略、マネジメント、マ
ーケティング戦略、ブランド戦略、サプライ・チェーンマネジメント、市場におけ
るポジショニング、ジャスト・イン・タイム、市場・流通の変化などに関する用語
を摂取し、自己への内面化をはかっているという構図が浮かび上がってきたのであ
る。
つまり、工業系の新聞をマーケティング、経営戦略などの視角から読んでいると
いうことである。
これらのキーワードから、自らのおかれている立場、日立の現場の現実に対して
あるべき未来というイメージを描き、河合は戦略を形成してきたように思えるので
ある。
河合の経営戦略形成法
経営者は自己の経験、研鑽の中から自分なりの経営戦略に対するアプローチ法を
採用している。河合も同様に河合オリジナルというものを考案している。
それは暗黙知という用語を使用し、かつ形式知を明白知と呼び変えて、組織に提
案していることをもって、その一端を理解することができる。注 30
研究所に在籍している者は直接市場と対峙していないことから、分析的アプロー
チから来る「ポジショニング戦略」は出てきにくい。ポジショニングアプローチは
主として大きな環境変化がないことを前提に、経営企画、マーケティング部、営業
部が行う戦略形成法である。
研究所が行うことは、社内・研究所の保有・開発中の研究成果をふまえた資源的
アプローチによる
①学習の蓄積とコア・コンピタンスの創造戦略
②ラーニングアプローチによる戦略
③創発的戦略
を創造することである。
事業部、製造現場からの要請にこたえるためには、技術の全体系を把握し
・直ちに使える技術の提供
・技術と技術の結合による新技術の提供
・ストレングス、ウィークネスの発見と強化 注 31
・日本様式経営の一つといわれる冗長性、つまり、まだ実用化には一定の期間を要
するであろうが、有望な理論についての先行研究を行う注 32
・コア・コンピタンスの創造と発見
・次にどのような要請が現場からあるかを想定した、次世代技術の理論的枠組みの
想定と研究指示
・研究所内に潜んでいる隠れた技術の工場への提案
などが重要な仕事となるのである。
これらのすべてが経営戦略論でいうところの「資源的アプローチ」となることは、
言を待たない。
これらを河合は長期計画策定時などに実行してきた。ミドル層を集め、その創造
性を発揮させるために、一定の方向性を打ち出し、それに基づいたミドル・アップ
ダウンマネジメントを採用していたのである。
河合の採用しているミドル・アップダウンマネジメントとは、トップと現場の結
節点に位置するミドル層から幅広く戦略提案を行わしめるというものであった。そ
の時に、現場にある暗黙知を「明白知」に換えよと指示していたのである。
しかし、戦略形成は資源的アプローチからのみ行われるものではない。これ以外に、河
合は河合オリジナルである「河合ミッション」を提案していた。
それはすでに紹介をしたが、「研究は世界的水準を確保し、応用は市場とのマッチング
を目指す」というものである。研究水準を究極にまで高めつつ、かつ、市場とのマッチング
を目指すというコンセプトは、研究者に明確に方向を与えるものである。大組織の経営に
は「戦略ドメイン」、つまり、事業領域を明確にする場合が多い。これは戦力の集中の基本
となるものである。これと同様の役割を「河合ミッション」は果たしていたのである。
また事業部、製造部に対して「期待以上の仕事をする」という河合の方針は
①現場情報の還流
②垣根・境界のない組織
③次世代技術の理論的枠組みの発見
④SWOTによる強みの創造、弱みの克服、事業機会の発見、襲い来る脅威への対応
などを促すことになったのである。
戦略家を河合は志したわけではない。意識的に多数の経営戦略の著書を読了し、それ
を活用しようとしたわけでもない。しかし、研究所と他部門との関連という組織枠組みの中
で、現実にも対応でき、将来においても必要とされる考え方は何かという視角から、研究所
のあるべき姿をイメージし、そこから、現実との格闘の中で割り出されたものが、河合の戦
略であり、河合ミッションであり、垣根・境界のない組織論であったのだ。
河合の機械研究所所長としての戦略
河合が機械研究所の所長になった次の年の年頭にまとまった形で研究所の戦略を運営
方針として掲げている。
まず「タイムリーに成果を出そう」という全体スローガンを提起している。この全体スロー
ガンは、「タイムリー」にというところに河合の苦心と期待が折り合わさっている。
いかに優れた理論に基づいた技術であっても、たとえば、微細なところにまで実証の手
足を伸ばすと、研究者としては満足ができる結果が獲得できたとしても、製品開発につい
てタイミングを逸してしまえば、技術が利用・活用されないまま死蔵され、研究者の研究成
果は水泡に帰してしまうのである。このような事例をいくつも見てきた河合は、製品開発に
歩調に合わせて、全力を挙げて技術開発を行っていくことと、また、他社に先んじることの
必要性を力説しているのである。
研究者の真の満足は、他社に先んじること、製品開発のスケジュールに自己の研究開
発活動を同調させ、売れる製品をつくることによって達成されると説いているのである。
そして、続いて、河合は5つの戦略(運営方針)を挙げている。
5つの運営方針は
①基幹製品の革新
②新事業製品の先行開発
③基幹技術の育成強化
④知的所有権の獲得と活用
⑤業務改革の推進
というものであった。
河合が優れていたのは、これらの戦略(運営方針)の背後に
・「定量目標の設定」注 33
・「研究者の競争心の喚起=自尊心の尊重」
・「新規テーマの設定」
・「報われる研究活動とは何か」
・「マーケットと技術開発」
という考え方をもっていたことである。
これら5つの戦略(運営方針)について、河合はマネジメントを行い、大きな成果を上げる
ことになったのである。
戦略の成立要件は
①組織にとって今まさに、そして今後何年間についても的確であること
②組織構成員の納得を引き出せること
③組織構成員が戦略実現に向けてやる気になること
④成果に対して、実行者・解決した者が正しく評価されること
⑤解決・実現のための良いプロセスが設計され、具体的に成果が出ること
という5項目である。
事実として機械研究所は
・製品化の数
・製品の売上高
・機械研究所への引き合い数
・論文数
・特許申請数
・特許取得数(率)
・利用される特許数
・表彰数
・特許等のライセンス料
などが大きく伸びることになったのである。
日立では、研究所の経費は、その予算の4分の1を本社が負担し、4分の3については
社内に対する技術提供によって稼ぎ出すことになっていたのである。
この考え方の背後には、技術は社会に貢献すべきものであるという強い意識が働いて
いるのである。この社内ルールにのっとって、機械研究所は社内の管理会計において黒
字を計上している。そして、河合が植えつけた研究に対する定量化、研究者の満足と製造
現場の満足の同時的実現という思想は、その後も、機械研究所の一つのしくみとして受け
継がれることになったのである。
また、このことが、河合には経営能力があるという認識を日立グループ内にもたせることと
なり、日立工機に取締役として迎えられる契機ともなったようである。
階層組織を活用
最近、文鎮型組織、フラットな組織などが求められるようになっている。
ところが、河合はこれらの流れに疑問を呈している。むしろ、階層組織を活用することに
よって、効率的な組織運営ができると説くのである。注 34
それは所長である河合が
①直接、従業員(研究者)に伝える情報
②階層組織を通じて伝える情報と吸い上げる情報
という二つを使い分けることによって、効率的で効果的な運営ができるというのである。
正しい戦略を提案することによって、組織的な意欲を喚起する。そして、受注情報と研究
テーマとの刷り合わせによる具体的な開発スケジュールの策定、次の技術開発のテーマ
発掘と担当者の決定、特命テーマの申し渡し、事業部門に対する新たな提案の取りまとめ
などについて、階層組織をフルに活用したのである。
階層組織は、責任者が存在しており、責任者がその責任を果たすことによって、極めて
機動的になると河合は言う。
組織が動くのは、正しい戦略の提案と、それに基づく明確な定量的評価基準と定量的
目標を共有することにあるというポイントを河合は押さえており、このことによって組織は自
律的に作動するようになるのである。
その一方で、河合はアメリカの超優良企業である3Mのように、研究者が個人的に独自
に取り組んでいるテーマの発掘を積極的に行ったのである。3Mでは密造酒つくりという言
葉があるように、研究者、技術者が正規の取り組みテーマ以外に個人的な関心からすば
らしいアイデアを保有している場合がある。
河合に聞くと、3Mの社内事情については、まったく知らないといっていたが、機械研究
所でも、3Mと同様のことが行われていたのである。
つまり、河合はつとめて、気さくに若い研究者に接近し、彼らと雑談をもっていたのであ
る。そして、密造酒がないかを探していたのである。このことによって、陽の目を見た研究
テーマはいくつもあったのである。これはまた、若い研究者の研究意欲をおおいに喚起す
ることとなった。逆に、河合に対して若手研究者からのアプローチが増えることになった。
それは上に立つ者に自分が研究していることを理解してもらいたいという気持ちの現れで
ある。これを河合は引き出したということである。
現在、河合が統括する部門と経営戦略
日立工機は電動工具市場で、マキタと覇権を争っている。
現在、日立工機のシェアは 35%、マキタのそれが 37%程度であり、若干マキタが日立
工機を上回っている。
常務である河合が現在統括しているのは、日立工機全体に対しては
①開発研究所(これは改革を終え、部長に委譲)の改革
②知的財産権の管理・活用
③シックスシグマの推進(シックスシグマセンター長)
④品質管理の高いレベルでの推進(品質保証担当)
⑤ISO14000 シリーズの推進・定着(環境本部長)
といった部門と機能である。
河合が楽しみにしているのが、「ライフサイエンス事業部」(遠心分離機を活用した機器
の開発・製造・販売)の成長である。これを河合は直接、統括しているのである。
以前、日立工機には 10 人を超える取締役がいた。
現在は会長、社長、専務、常務、平取締役2名の計6名で経営の舵取りを行っている。
畢竟、取締役の担当部門は多くなる。
河合は約 100 名の研究者がいる開発研究所の改革を行った。
その具体的な内容は
①研究のダブりをなくす
②仕事を定量化する
③貢献度を明確にする
④研究と製品開発との関係を強くする
⑤研究員の意欲を引き出す
⑥市場と研究という視角を強く持つ
⑦その他不必要な機器の廃棄とレイアウト変更による研究環境の改善
⑧特許、論文等の申請・取得の飛躍的な増加
⑨明白知のナレッジ化
といったものであった。
この開発研究所の改革を終え、所長(部長クラス)に業務を引き継いでいる。
これから、おもしろくしていくのは、河合が統括しているライフサイエンス事業である。これ
を当面、月間売上高3億5千万円規模の事業にし、近い将来に年間 60 億円規模の事業
にすることによって、事業部の基礎を構築し、後輩に引き継いでいきたいと語っている。
そのためには、経営戦略の形成が重要であり、資源的アプローチ、特にミドル・アップダ
ウンマネジメントを展開し、ミドルの活性化もかねながら、オリジナリティのあるダイナミックな
戦略を形成していくと述べている。
河合の人材育成・業務改革法
河合の人材育成法は
・分かりやすく話す
・理解させる
・優しく接する
・誉める・怒らない
・自分ならここまでできると思う半分くらいができれば上出来と考える
といったことを行っていると語っている。
河合のイメージは
①ひょうひょうとしている
②明るい
③笑顔でいることが多い
④躁も欝もなく精神的に安定している
⑤洒脱である
⑥親しみやすい
⑦気の良いおじさん
⑧はったりを言ったり派手な言動がなく、むしろ地味である
という感じである。
研究者というとインテリ臭いところ、あるいは一種の頑迷さを感じさせるといった場合があ
るが、河合にはそのような雰囲気は微塵もない。
しかし、インタビューで質問をすると、じっくり考えて答えるところと、瞬時に結論を出すと
ころとの二つがあった。これは頭脳の長い思考回路と短い思考回路とを使い分けているよ
うに感じられた。
河合の人に対する姿勢は、人の力を最大化する。仕事を定量化し、生産性を測定でき
るようにする。そして、知識は共有するためにナレッジ化するというところにある。
ドラッカーは、「職につく前から人格は準備しておく必要がある」と述べている。
河合と接していると、このような上司の下で働きたいと思わせるものがある。それは河合
の鋭さ、クレバーさ、分析力、演繹力、帰納力などの卓越した能力を包み隠してしまう人格
の洒脱さ、気さくさ、幅の広さなどから由来しているように感じられた。
本当に大切な知識は?
東京・御茶の水に日立本社がある。
この近くのホテルで、このケースについて最後の読み合わせをやっていた時のことであ
る。突然、河合は「経営能力の開発というテーマであり、このテーマに焦点を当てて、私の
経験上の話をしてきました。しかし、本当に私を活かしてくれた知識は歴史や文学であっ
たかもしれない」と急に言い出したのである。
「私は山口県、東京都府中市などに転勤した。また、事業部を超える異動も何度か経験
した。さらに、各地に出向いて多くの顧客、関係者とも接してきた。この時に私は短期間に
組織に受け入れてもらったり、顧客、関係者とも親密になれたりすることが多かった」と河合
は語り出した。
「府中に転勤になったとき分倍河原という古戦場があることを思い出した。山口県に転
勤した時は、ここは長州であり吉田松陰、高杉晋作をはじめ話題には事欠かなかった。
また、各地に出向いたときは、その地方にある古墳、伝承、風土記、合戦、城郭、史跡、
その地方の文学上の話題、その地方が生んだ歴史上の人物、文学者などについて質問
をした。このことによって、多くの場合、話が弾み、私は無理なく人々から受け入れられるこ
とが多かったように思うのです」と河合は言葉を続けた。
そこで河合に今までどのような本を読んでこられましたかと質問をすると、ほとんどの著
作を読んだ作家として、松本清張、島崎藤村、谷崎潤一郎、森鴎外、夏目漱石、三島由
紀夫、高橋和己、吉本隆明、司馬遼太郎、井上靖、石川啄木、与謝野晶子、北原白
秋、・・・などを挙げてくれた。さらに、歴史については、古代ローマ、ナポレオン治世から
のフランス革命、産業革命期からのイギリス、ヨーロッパの近代史、夏、殷、周、春秋戦国、
秦、漢と続く中国史、縄文、弥生、古墳時代からの日本史などに範囲が及んでいると語っ
てくれた。
このような河合の読書遍歴が何をもたらすのかを考えてみた。それは幅広い教養、高い
水準の一般常識、歴史的視点・視角の保有、特定の地方・地域に対する知識、文学的な
見地などがあることが推察される。
河合に「地方に行かれた時に、これらをレクチャーされるのですか?」と質問すると、「イ
ヤッ、逆ですよ。私は一言質問するだけです。すると、多くの人が、その地方の歴史につ
いて語ってくださるのです。私は聞き役であり、耳学で、さらに、知識が豊富になり、またビ
ジネスもスムーズに進行していくことが多いのです。このような場合、昼食も、その地方の
料理、食材、調理法などについてレクチャーされる方が多いですよ。食べ物の知識はほと
んど耳学です」と笑いながら語ってくれた。
終りに
なお、河合には、この他に
①河合個人の優れた研究論文
②研究と製品化による成果との関係
③学会活動
④ロータリー活動による地域貢献
⑤趣味のゴルフの上達法
⑥大学の評価委員
⑦大学教授招請
など、まだ、いくらでも、ケースの中に盛り込みたい実績、活動、エピソードなどがあるが、
研究者と経営能力という課題に焦点を当てていることから割愛させていただく。
ティーチングノート
ケース開発の目的と狙い
本ケースは技術者・研究者がどのようなプロセスを経て、経営能力を習得していったかを
学ぶことに目的をおいている。
経営能力とは総合的なものである。このため、経営能力はここで養成されたと断定するこ
とは困難である。あるいは、徐々に少しずつ養成されているのかもしれない。また、管理者
能力の養成とほぼ同様のプロセスをもって養成されるものであるかもしれない。
このため、ケースは取り上げた河合氏について、高校卒業後からの姿について、時系
列で網羅的に描写している。
河合氏から学ぶべきこととして少なくとも
①生き方・信条
②現場との接し方・提案の仕方
③マネジメント能力養成法
④研究姿勢
⑤上司との接し方
⑥部下の学位取得促進
⑦研究と製品開発との関係
⑧経営戦略形成能力の養成
⑨独自の創意工夫
⑩組織の運営法
などがある。
経営能力とは、これらのすべてを学び、実践することによってもたらされるものであると思
われる。しかし、これは河合氏の方法であった。
このため、『解』については、受講生一人一人の結論に委ねざるをえないと思われる。
なぜなら、人にとって能力とは、現実にできているレベルであり、現在保有している能力
からあまりにもかけ離れたことを『解』にすることができないからである。
何かに触発され飛躍的に能力を向上させる人材もいれば、着実に一歩一歩進歩を遂げ
る人材もいる。このため、一定の積極性を有する『解』であれば、正解とすべきである。
経営能力とは自己に対して持続的・継続的にイノベーションを行うことによって、自己の
体内に育むことになるのであろうか?
ケースの開発方法・調査方法
ケース開発については
①現地訪問
②工場見学
③オフィス見学
④有価証券報告書
⑤河合氏関連の新聞記事
⑥河合氏の論文集
⑦日立社内の河合氏関連特集
⑧機研ニュース(機械研究所で発刊されている)
⑨学生時代の友人
⑩学会資料
⑪日立社内の河合氏評
などの情報を収集した。
経営能力の養成というテーマであり、叙述方法としては、河合氏の成長の軌跡をたどると
いう視点から時系列とした。
叙述展開したいことはこの他にもいくつもあったが、ケースには、原稿の大きさという限界
があり、A4サイズ 30 ページ規模で集約した。
河合氏は日立工機の常務取締役として在任中であり、社内の協力も得やすかった。また、
日立製作所には、所長クラスの人材の個人的業績、論文などを整理して保存するという文
化があり、資料はまとまった形で存在していた。
このため、資料面からの苦労はなく、ケース開発者(私)のインタビュー能力と叙述能力
が問われるという案件であった。
解答の求め方
すでに冒頭の「ケース開発の目的と狙い」のところで触れたが、技術者の方々は様々な
条件下で業務を遂行している。また、経営能力というものは範囲が広く、一朝一夕に獲得
できる能力ではない。
このため、解答は一つではない。ましてや、答えを押しつけてはならないということに留
意してもらいたい。
ただし、この一点だけは拒否すべきである。それは「河合氏は経営者となる素質を元々
保有しており、それを開花させただけであり、私達とは比べ物にならない次元の人である」
という誤解である。
たとえば、寮の副委員長をしてリーダーシップを磨いた。これについては、クラブ活動、
学級活動、ゼミなどで極めて多くの人がリーダーシップを発揮しているとして否定する。
外書講読で先生を上回る翻訳をしたということについては、多くの人が一度や二度はす
ばらしいアイデアを抱いたり、良い結論に達していたりしているはずであると言って否定す
ることが必要である。
むしろ、「人の3倍は働こう」「偉いのは現場だ」「本に書いてある通りに実行したことは一
度もない」「研究は製品にならなければ報われない」「研究活動を製品の開発に合わせる」
「通常の業務をこなす一方で、学位論文を書く時間を捻出する」「せっかくの教育であり、
これを機会に完全に、この分野を理解しておこう」といった河合氏の思い・創意工夫などに
注目するように議論を導くことが重要である。
このことによって、自分の努力との違いを認識し、自分を変革していこうという道が生ま
れてくると思われる。
努力し、創意工夫する自分をつくることが、経営能力養成の第一歩となるのであるという
考え方をもって受講生に臨んでもらいたい。
設問事例と解答に対するサゼッション
Q 学生時代、河合氏は寮の副委員長をした。この時にどのような能力が養成されたかを、
河合氏の過した寮の理念を加味し、また自分の学生時代のクラブ活動、ゼミ活動などの経
験を踏まえ、想像を交えて論じなさい。
A 『解』は多様に存在する。
一応の『解』としては
①ネゴシェーション、交渉力
②他人の気持ちを理解する
③相手の立場を理解する
④演繹力
⑤帰納法発想
⑥リーダーシップ
⑦自分の考えの構築力
⑧説得力
⑨時代の認識力
⑩再度、調査が必要な問題という認識
⑪他学部の学生がおり、複合的な知識を入手することができる
⑫競争心が芽ばえる
⑬議論ができる
⑭反対意見にさらされ、思考能力が高まる
などが挙げられる。
これとは逆に悪意のある発想として
・白を黒という
・詭弁が上手になる
・状況が不利な場合は事態をあいまいにして、それを結論とする
といったことが挙げられる場合がある。
しかし、ここでは、経営能力というものは、顔をのぞかせることはない。
結論としては、可能性の高い学生が暮らしていたという程度である。
Q 河合氏は学生時代に関、田中先生にかわいがられ、その線から藤谷教授の知己
を得て、花園高校・自動車学科の講師をしたり、田中助教授とは夜を徹した議論をし
たりしている。
河合氏が教授たちからかわいがられた理由を自分の経験も織り交ぜ、ケース中の河
合氏の性格、イメージから想像を交えて議論しなさい。
A 河合氏が教授たちからかわいがられたが、その理由には以下のものがある。
①関教授は河合氏の翻訳に感心し、自分の手元におこうと思った
②しかし、このような、才能の片鱗を見せる学生は教授から見ると年間に何人もおり、そう
は凄いことではない
③折から、アメリカがベトナム戦争を行っており、原子力潜水艦の佐世保寄港、全共闘(全
学共闘会議)運動による古い価値観の打破、大学の大衆化(1970 代に進学率が急激に
高まった)などがあり、新しい社会のあり方について議論する材料が多く、若い田中助教
授と河合氏はよく議論をした。ということは、社会的な問題について河合氏が関心を抱い
ていたことが推察される
④河合氏は単なる技術屋・機械屋ではなく、広く社会・経済的なことにも関心を払っていた
⑤金属疲労という河合氏が取り組んだテーマはまだ解明が進んでおらず、金属の種類が
増えていくことも考えると、豊かな可能性をもった分野であるという認識が教授側にあった
⑥ひょうひょうとして、ざっくばらんで、インテリ臭さがなく、明るい性格が教授たちから愛さ
れた
⑦テーマが明確であり、少なくとも学生時代の研究目的を明確にしており、研究・勉強に
対して熱心であり、安心できる学生であった
⑧父親が逝去しており、自分で学費を稼いでいるという事情があり、これは一肌脱ぐ必要
があると教授側は思ったのではないか
この反対に悪意のある意見として
・絶対に教授たちに取り入ろうという行動があったはずだが、それはケースの中では触れら
れていない
・こんなにしっかりした学生がいるはずがない
・良いところばかりを並べたケースである
といったことが提出されるかもしれない。
この場合は、良いところを学ぶのがケースの目的であり、「強みを活かし、弱みを意味の
ないものにする」ということが大切ですと説く。これはちなみにドラッカーの言葉である。あ
わせてドラッカーを読むことを勧めてください。
Q 河合氏は当時、能力主義を標榜していた日立製作所に入社した。入社試験の面接時
から好感をもたれた。入社直後に結婚し、研究者生活に入った。その後の研究生活で河
合氏が秀でていたと思われることを挙げなさい。
A 河合氏の研究者生活での秀でていたことには次のものがある。
①現場のキーマンを探し、そのキーマンと共に製品開発を行った
②設計からの指示を鵜呑みにせず、周辺の研究を実施し、新たな提案を行った
③製品開発のスケジュールに自己の研究活動を合わせた
④世界的レベルを標榜し、学会活動を行った
⑤論文数が多い
⑥ICパッケージは先行研究であった
⑦表彰数が多い
⑧みずからに定量的目標を掲げていたことが推察される
⑨機械研究所への社内発注を増やした
⑩他の範となる研究活動を行った
⑪学位を仕事のかたわらで取得した
⑫50 にのぼる特許を取得した
⑬50 にのぼる論文を書いた
⑭学位論文を部下に、時間をやりくりさせて書かせた
⑮専門分野を広く設定し、多くの製品の継手、半導体パッケージ、新幹線車両などに適
用を拡大した
⑯市場の大切さ、顧客の大切さを知り、現場にみずからを適合させようという努力を行って
いた。
⑰すべては市場から教えてもらう姿勢を確立すれば、研究者・技術者は相当な柔軟性、フ
レキシビリティを獲得することができる。
⑱市場の将来×自己の研究範囲でテーマを割り出すことになる。この場合、自己の研究
範囲を狭くとらえるか、広くとらえるかによってその研究者の将来が決る。
⑰たとえば、河合は金属疲労の研究をしていたが、金属疲労とだけとらえておれば、ICパ
ッケージの研究に取り組めなかったかもしれない。金属疲労の研究には、材質の研究も含
まれていた
結論としては、研究者にもセンスが求められている。センスは取り組みテーマによって基
本的に表現される。さらに研究速度、製品開発への応用などもセンスとなる可能性があ
る。
Q 河合氏が行った一つ上の職能等級が求める能力の開発について、自己の経験をも織
り交ぜ、想像も加味して、明確にしてください。
A 河合氏はマネジメント能力の養成に対して次のような努力を行ったと思われる。
① ここでは通常の人事考課、営業管理、業務管理ではなく、研究者・開発者としてみずから範を
垂れることによって、また、有効な戦略、指示・命令を出すことによって、部下を管理していたと考
えられる。
②また、通常は一つ上の職能等級が求める能力水準を満たすことが求められているのであるが、
実は、もう一つの能力がある。
職位・職階を超えて求められる能力には
①研究方法
②時間創出法(多忙克服法)
③戦略確立法
④部下の満足・納得の引き出し
⑤部下に対する優れた課題・戦略の分配
⑥技術の製品への適用法
⑦情報収集法
⑧情報分析法
などがある。
これについて、河合は秀でたノウハウ、方法をもつていた。
つまり、下位の職位にある河合がやっていることを、上の職位にある者が見習わなければならな
いという側面を有していたことが強調されるべきである。
③論文をみずからが書き、学会活動と日常の研究業務とを並列させ、部下にもやればで
きるという勇気を与えた
④世界的水準の研究と同時に市場にマッチングした製品開発というコンセプトを確立して、
部下の研究者としての誇りと開発者としての道の並存を説いた
⑤定量的目標を掲げ、研究に生産性の概念を持ち込んだ
⑥みずから製造現場のキーマンに接触し、マーケットインの製品開発を行った
⑦機械研究所への発注が増えるように、開発者として製品開発に協力した
⑧現場に対して有用な資料、提案を行った
⑨専門分野を広く捉え、応用分野を広げた
⑩他部門(新幹線、IC事業部)への派遣を経験し、部下に範を垂れた
⑪学位論文を部下に書かせ、学位取得を促進した
Q 研究所の改革をどうすれば実現できるかを河合が行ったこと以外の要素をも加味して
展開せよ。
A ケースの中では日立製作所の機械研究所については河合の戦略を優先して掲載
している。このため、日立工機の「開発研究所」の改革を事例にひくことになる。
改革については
・良好な研究環境
・事業ドメインによる開発方向の明確化
・研究に対する生産性概念の導入
・ムダ・ムラ・ムリの排除
・研究者としての誇り、開発者としての市場密着
・研究成果のナレッジ化
などが重要な理論的背景となる。
これらの原則を踏まえて河合が日立工機の開発研究所において展開した改革の要素は
①研究のダブリをなくす
②仕事を定量化する
③貢献度を明確にする
④研究と製品開発との関係を強くする
⑤研究員の意欲を引き出す
⑥市場と研究という視角を強く持つ
⑦その他不必要な機器の廃棄とレイアウト変更による研究環境の改善
⑧特許、論文等の申請・取得の飛躍的な増加
といったものであった。
Q 河合氏が経営戦略形成ノウハウをどう習得したかを考え、また自分ならこのように経営
戦略形成能力を養成するということを踏まえ、経営戦略形成能力の習得について自分の
考えを述べよ
A 河合氏の経営戦略形成ノウハウの習得は
①研究員であった頃の製造現場との密接な関係つくり
②製造現場のキーマンに教えてもらうという姿勢
③製造現場のキーマンから教えてもらいながら倍返しのように再提案を行い、より市場に
密着した製品をつくるというプレゼンテーション
④研究者は開発者として製品開発のスケジュール、タイミングにあわせて研究成果を出す
ことが重要であること
⑤本に書いてある経営のハウ・ツーを鵜呑みにせずに、みずから問い直したこと
⑥日立の社内教育の後、このような短期間で習得できる分野ではないということを認識し、
みずから書籍を購入し、自分が納得できるまで勉強したこと
⑦「今何が重要か」、「これからは何が重要か」という二つの物差しで
・次世代技術、応用技術、基礎技術、技術の結合、次の技術の理論
・研究体制
・研究者の姿勢
・研究環境
・学位の取得法
・研究所の受注のあり方
・研究の生産性
・新製品の上市方法
・新製品の売上高に占める割合
などについて、関心をはらっていた。
Q 河合氏の機械研究所所長時代の戦略を検討し、自分ならどのような戦略を提案する
かを考えなさい。
A 河合氏の機械研究所所長時代の戦略は次のものであった。
河合は、まず「タイムリーに成果を出そう」という全体スローガンを掲げた。
続いて、河合氏は5つの戦略(運営方針)を挙げている。
5つの運営方針は
①基幹製品の革新
②新事業製品の先行開発
③基幹技術の育成強化
④知的所有権の獲得と活用
⑤業務改革の推進
というものであった。
戦略の成立要件は
①組織にとって今まさに、そして今後何年間についても的確であること
②組織構成員の納得を引き出せること
③組織構成員が戦略実現に向けてやる気になること
④成果に対して、実行者・解決した者が正しく評価されること
⑤解決・実現のための良いプロセスが設計され、具体的に成果がでること
という5項目である。
この結果、機械研究所は
・製品化の数
・製品の売上高
・機械研究所への引き合い数
・論文数
・特許申請数
・特許取得数(率)
・利用される特許数
・表彰数
などが飛躍的に伸びることになったのである。
結論としては、一定のまとまりがあり、これ以外の戦略としては何があるかを問う。
まったく視点を変えた一まとまりの戦略提案が必要であり、河合氏の戦略については当
を得たものであるということが結論となる。
Q このケースでは戦略の実現・解決に対するマネジメントは描写されていない。しかし、も
し、あなたが経営職となり、戦略の実現・解決に責任を負う立場になった場合を想定して、
戦略実現についてのマネジメントをどうするかを議論し、一定の結論を導きだしてくださ
い。
A マネジメントとは指導・援助・アドバイスである。
河合氏のマネジメントはケース中に具体的には触れられていない。しかし、優れた経営
者・管理者は
①的確な課題(戦略)の割り出し
②適正な課題の分配
③管理点(マネジメントポイント)としての設定
④管理点に対する点検点(チェックポイント)の明確化
⑤定例議題としての設定
⑥分配した課題に対する指導・援助・アドバイスの実施
などを通じて課題(戦略)の解決・実現をはかろうと努力する。
管理者は
・監督者
・指導者
の二つに分かれる。
必要とされるのは指導・援助・アドバイスができ、共に戦略を解決・実現しようとする姿勢
をもった指導者である。
また、戦略を明確にすることは
・組織目標の設定
・経営資源の集中
などをもたらし、リーダーシップの中枢となる。
Q 出世と指導者という概念の違い
A 河合氏に出世は望んでおられましたかという質問をした
すると、「出世という概念がよく分かりません。ともかく好きなことを研究し、製造現場の人
たちの意見をどう取り入れるかを考慮していたら、私なりの開発スキームができ上がってい
ました。
研究者、開発者という概念を明確にして、研究成果を製品開発のスケジュールに合わ
せて、研究成果を出そうと努力してきた。つまり、開発者という立場で現場と一体となる。学
会活動、学位の取得、多分への出向などやることが一杯あるので、それを一所懸命やって
いたら、いつの間にか、組織の上位の職についていたというのが、実態です」と河合は語
ってくれた。
河合は常に指導的役割を果してきた。それは随所で主となれという禅の教えがあるが、
河合は、最大限に自分と仕事とを向き合わせ、自分の能力、研究成果をどうすれば生か
せるかを考え、行動してきたのではないだろうか。
また、金属疲労というテーマが、様々な製品の継手の改良、製品の寿命の延長につなが
り、新幹線の車両、ICといった形で、いわば、花形分野へと応用が広がり、いやが上にも、
河合の存在感を高めた面があることも否めない事実であろう。
この意味において、研究者は研究テーマ、分野において、将来を見通したセンスの良さ
が求められるのである。
この点について、河合に質問すると、「そのような長期的視点を持てるはずがありません。
機械屋になる前に、金属の材質について研究しておけば、優秀な機械屋になれるかもし
れないと思って、このテーマに大学・大学院で取り組んだまでですよ」と説明してくれてい
る。(本文は、ここまで深められていない)
いわゆる、出世をしている人には
①派閥に入り、ボスの言うことを忠実に履行し、それを通じて高い実績を挙げ、ボスによっ
て引き上げてもらうタイプ(能力があるから派閥に入ることができ、高い実績を挙げるという
意味で有能である)
②派閥などとは無縁なところで、真面目に仕事を行い、高い実績を挙げ、上の役職に引き
上げられていく
という二つのタイプがあるように思える。
競争が激しく、イノベーションを次々と実施することが求められている電機メーカー業界
にあっては、次々と実績を挙げてくる人材が目白押しになっていたはずである。そこには
学閥、派閥、閨閥などが入り込む余地は少なかったのではないだろうか。
河合は、次々と実績を挙げてくる人材の中でも、出色の実績を挙げた人材であったと思
われる。
Q 多くの場合、企業内教育を嫌々受講しているように見受けられる。能力の養成と企業
内教育との関係を議論しなさい。
A 企業内教育の受講姿勢として
多くの場合、「あぁ、また教育か」「缶詰になるのか」といったことが囁かれている場合があ
る。
また、会社がほとんど徹夜に近い状態で教育カリキュラムを設定したり、大きな声を出さ
せたり、やり直しを何回も行ったり、精神的に追い詰めたりという非日常的な状態を故意に
作り出して、それが教育だと思い込んでいる場合もある。
研修を請け負った経営コンサルタント会社は、深夜までカリキュラムを組むことによって、
真剣にセミナーをやっているという演出を行っている場合もある。
しかし、経営上の実務研修は、非日常的な状態を作り出すのでなく、逆に日常的な状態
の中で、優れた『解』」を創出することが求められているのである。
このことを、まず、理解しておくことが重要である。
河合は管理者能力、経営能力を養成するために
①財務・会計講座
②経営方針確立と実現講座
などを受講している。
もちろん、これ以外にも日立には、階層別×職種別を基本に様々な講座が準備されて
いる。
河合が能力を向上させたのは
・これらの講座を真剣に受講する
・受講を機会に徹底して身につけるようにする
ということであった。
つまり、受講後が重要なのである。
受講するだけでは、完全に身についていない可能性が高い。このため、受講後に、理解
が不十分な箇所、自分自身で応用ができない箇所、部下にどのように説明するかの研究、
過去に習得したマネジメント能力との結合(正しい人事考課と人事上の登用、人材評価と
プロジェクトチームへの登用)などが求められるのである。
身につけた能力は、発揮する必要がある。
この点に河合は腐心して、講座受講後、引き続いて、その分野の勉強をしたのではない
だろうか。
このことは、これを機会にまとまった勉強をしようという河合の述壊よって裏付けるのでは
ないだろうか。
Q 報われる努力と報われない努力がある。その理由と原因を追求しなさい。
A河合氏は機械研究所の所長に就任し、さらに日立工機に迎えられ、常務に就任すると
いう軌跡を歩んでいる。
それは卓越した経営能力にもたらされたものである。多くの企業が天下りを嫌う。東証一
部上場企業である日立工機には天下りという概念は存在しない。
必要な時に、必要とする人材が日立工機内に育っていない場合に限って、人材をグル
ープ内で探すのである。
日立製作所も、この場合は、単なる候補企業の一つでしかない。
取締役の数は激減しており、多様な分野の統括が求められている。それは品質管理、IS
O、知的財産の管理・活用、研究所の改革、遠心分離機事業の新展開というものであった。
白羽の矢がたったのが、河合末男であった。
河合の努力が報われた理由は
①応用可能な分野の研究に取り組んだ
②製造現場のキーマンを探し、その接触を通じて製品開発の急所をつかんだ
③周辺をも掘り下げ、より次元の高い提案を行った
④研究成果に対して、時間をつくり出し、学会活動を積極的に行うと同時に、学位論文へ
と仕立て上げていった
⑤世界的水準の研究、市場とマッチングした研究とを同時に実現した
⑥研究者と開発者という概念を明確にし、製品開発については開発者の立場で取り組ん
だ
⑦タイミングを大切にし、製造現場のニーズに自分の研究活動を合致させた
⑧上司の戦略、判断などに対して、私ならこうするという形で、常に、自分に置き直して事
態を考えた
⑨研修は大きな能力開発のチャンスだと捉え、その時期に徹底して勉強し、能力を向上さ
せた
⑩論文の叙述、特許申請など具体的な形にした
といったことにあるのではないだろうか。
☆このケースは、経済産業省によるMOT講座確立のための支援を受けて、服部吉伸が作成したも
のです。このケースは、MOT講座の教材として作成したものであり、経営の優劣等を例示することを目
的とするものではありません。
版権 服部吉伸 2004 年
注1 日立の機械研究所は 1966 年に設立された。所員約 550 名の研究体制を確立してい
る。河合はこの9代目の所長である。
注2 日立工機の概要(2003 年9月現在) ①資本金 17,813 百万円、②主な製品は電動
工具 77%、プリンティングシステム 20%、ライフサイエンス機器 3%【海外】59%(2003.3)
③本社所在地 東京都港区港南2-15-1 ④【従業員数(単独)】941 人(連結)】4,134
人
注3 経営能力とは、主として経営戦略の形成、戦略の分配、組織の意欲の喚起、組織の
活用などの措置によって形成されるものである。この経営能力の培養について研究するこ
とが本ケースの目的である。
注4 川本八郎氏は立命館大学理事長である。石川県の人。立命館大学法学部を卒業後、母校の職
員となる。河合の学生時代、特に寮の副委員長をしていた頃は学生課職員であり、河合と折衝すること
が多かった。国際関係学部、政策科学部、社会人対象のプロフェッショナルコース(MBA)、立命館ア
ジア太平洋大学の創設、琵琶湖草津キャンパスへの進出など、新展開の名の元に大きな改革を推進し
た。
注5 「対話を通じて、新しい人格を形成する」という理念をもった寮であり、談話室、ブロッ
ク会議室が準備されていた。各回生2名、計8名で一室が構成されていた。さらに、学部を
可能な限り組み合わせるという措置もとられていた。
注6 研究者にはセンスが要請される。河合の専門分野は、その後、当時の最先端技術で
あったICパッケージにまで広がることになる。
注7 資格制度は能力主義と年功序列の中庸をとる制度であり、大組織に対して秩序と安定感、躍動
感を与えるものとして広く採用された。日本的経営を陰で支えている人事労務制度である。
注8 経営能力は実際に経営を行ってみないと養成されない分野が多い。また、狭い専門
分野の管理職の任に当たっているだけでは経営能力は養成されない。このため、将来の
幹部候補生は積極的に他部門、関係会社などに出されるようになった。
注9 ドラッカーはアメリカ在住の経営学者であり、経営コンサルタントもこなす。市場から
発想して初めて、技術は活きるということを、『現代の経営』で説いている。同著は経営学の
古典といえる存在になっている。
注 10 研究開発部門がプロダクト・ポートフォリオ・マネジメントを悪用することは可能である。
PPMを用いて
①当研究部門の取り扱う製品が市場において劣勢に立っている
②金のなる木の製品が少なく資金が回らない
③スターの製品が多く、関連の研究開発が多く、資金が必要である
④問題児が多く、スターにしていくために資金が入用である
といったことを主張し、本社から特別の資金援助を仰ぐことができるからである。
ただし、他の研究所も同様の分析を行うと、同様の結果が出ることが多い。いつまでも本
社を欺くことはできない。研究所は本来の研究受託、技術供与によって、現業を支援し、
その対価をもって経営を行うべきである。
注 11 戦略ドメインは企業が事業範囲を設定し、事業の性格をも併せて明確にすることを指してい
る。
このことによって、
①研究開発の範囲、焦点が定まる
②逆に関連分野の研究が可能となる
③技術と技術の組み合わせが促進される
といったことが行われる。
注 12 管理職者の現実的な識別基準は、人事考課を行っている人かどうかということがあ
る。初級のマネジメント能力は適切な人事考課ができる、上位職からの戦略等を正しく伝
えられる、自分の担当しているセクションの予算・目標数値などを達成するための戦略を
形成・実現することにある。
注 13 河合はみずから積極的に上司にプレゼンテーションを行い、上司の支持を取り付けていた。
上司から見ると河合は自分が知っていることを行っているのであり、極めて安全な存在である。また、
自分が承認してやったから、今のテーマに取り組めているのだという認識になる。これによって業績
が向上するのだから、極めて有用なテーマだから支援してやろうという気持ちにもなるのである。
注 14 管理会計とは、企業独自の基準に従って、工場、事業部、研究所、支店などについて月次
決算、四半期決算、半期決算、年度決算などを行い、企業内組織の収益、在庫、資産の増減、経
営の優劣を見ようとするものである。
注 15 ハーバードの教授。競争戦略論の第一人者。
注 16 1960 年代に活躍した民間(ボーイング)出身の経営学者。製品の市場戦略を中心に経営戦略の
展開を論じた。
注 17 コア・コンピタンス経営』を著し、その中で、ソニー、ホンダ、シャープなどをケースとして扱い、日
本的経営の本質を明確にした。
注 18 経営コンサルタント出身のスタンフォードの経営学者。『ビジョナリー・カンパニー』を著し、非凡な
分析方法とミッションに基づく経営の優秀さを明確にした。
注 19 マッキンゼーの経営コンサルタントだった時代に、『エクセレントカンパニー』を著し
た。「共通の価値観に基づく実践」「顧客に密着する」「小さな本社」といった優れた企業が
持つ経営要素を抽出した。
注 20 経営コンサルタント。『リエンジニァリング革命』を著し、業務プロセスの抜本的な改革
を説いた。
注 21 マーケティングの世界の第一人者。
注 22 ブランドマーケティングの世界の第一人者。
注 23 野中郁次郎は『知識創造経営』を著し、ミドル・アップダウンマネジメントを提唱し、日
本的経営戦略形成法を解き明かした。一橋大学の教授。
注 24 ミンツバーグは『戦略サファリ』を著し、世界の経営戦略の学派を分類した。
注 25 分析的経営戦略はポーター、経営コンサルタントに代表される経営戦略形成法で
ある。主として市場におけるポジショニングを明確にし、そこにいたる方策を確立する形で、
分析・思考を展開する。
注 26 分析的経営戦略アプローチとは異なり、主として社内に存在する資源を発見し、そ
れを活かしたり、組み合わせたりして経営戦略を形成する。日本的経営はこれに属すると
いわれている。
注 27 ゲーム論的経営戦略形成法は、自社だけの経営戦略の形成・展開だけではなく、
業種・業界のライバルとの相互作用の中で、戦略を形成しつつ、かつ展開していくこと表し
ている。
注 28 ポジショニングとは主として市場における地位、評価を表している。最初に市場にお
ける地位・評価を設定すると、その後の経営戦略の形成が簡便になり、かつ形成が促進さ
れることになる。
注 29 自社の遅れている部門・機能などに対して、優れた企業を想定し、目標数値を設定
して追いつき、かつ追い越すことを目指したものをいう。
品質管理、生産性などの分野で広く取り入れられたことがある。
注 30 暗黙知・形式知は野中郁次郎の提案であるが、河合は「明白知」という用語を使っ
ている。これは形式知の概念に加えて、分析され、実証されたものであり、基本的な知識と
して参照すべきであるという性格も有している。
注 31 SWOT分析はハーバードの開発した分析手法である。ストレングス、ウィークネス、
オポチュニティ、スリティの頭文字をつづり合わせて略称としている。
注 32 冗長性とは、効率だけを追わずに一見無駄であるかに見える研究開発、技術開発、
機能開発などを行うことを指している。たとえば、花王はダイエット茶を発売した。これは医
薬部外品、日用品、化粧品など花王の従来の製品ラインナップから外れるものである。し
かし、花王は物質の研究を行う会社であるというドメインから見ると不思議なことではない。
日用品以外に食品についても研究させるといったことが冗長性になる。
注 33 営業部門に対しては、商談数、締結数(率)、売上高、その伸張率、粗利益額(率)、在庫額、在
庫回転数、受け取りサイト平均日数といった形で、定量的に目標数値を設定したり、結果を評価したり
することはたやすい。
この考え方を河合は研究所の経営・運営に持ち込み、特許申請数、製品開発数、特許のライセンス供
与数(受取額)、論文数、学会発表数、被表彰数などを明確にし、効果と効率の概念を確立した。
注 34 戦略とその分配を中心にすえて、マネジメントを行う。また、現場にある暗黙知を吸
い上げることによって、ミドルを活かした経営ができる。
注 14 管理会計とは、企業独自の基準に従って、工場、事業部、研究所、支店などについて月次
決算、四半期決算、半期決算、年度決算などを行い、企業内組織の収益、在庫、資産の増減、経
営の優劣を見ようとするものである。
注 15 ハーバードの教授。競争戦略論の第一人者。
注 16 1960 年代に活躍した民間(ボーイング)出身の経営学者。製品の市場戦略を中心に経営戦略の
展開を論じた。
注 17 コア・コンピタンス経営』を著し、その中で、ソニー、ホンダ、シャープなどをケースとして扱い、日
本的経営の本質を明確にした。
注 18 経営コンサルタント出身のスタンフォードの経営学者。『ビジョナリー・カンパニー』を著し、非凡な
分析方法とミッションに基づく経営の優秀さを明確にした。
注 19 マッキンゼーの経営コンサルタントだった時代に、『エクセレントカンパニー』を著し
た。「共通の価値観に基づく実践」「顧客に密着する」「小さな本社」といった優れた企業が
持つ経営要素を抽出した。
注 20 経営コンサルタント。『リエンジニァリング革命』を著し、業務プロセスの抜本的な改革
を説いた。
注 21 マーケティングの世界の第一人者。
注 22 ブランドマーケティングの世界の第一人者。
注 23 野中郁次郎は『知識創造経営』を著し、ミドル・アップダウンマネジメントを提唱し、日
本的経営戦略形成法を解き明かした。一橋大学の教授。
注 24 ミンツバーグは『戦略サファリ』を著し、世界の経営戦略の学派を分類した。
注 25 分析的経営戦略はポーター、経営コンサルタントに代表される経営戦略形成法で
ある。主として市場におけるポジショニングを明確にし、そこにいたる方策を確立する形で、
分析・思考を展開する。
注 26 分析的経営戦略アプローチとは異なり、主として社内に存在する資源を発見し、そ
れを活かしたり、組み合わせたりして経営戦略を形成する。日本的経営はこれに属すると
いわれている。
注 27 ゲーム論的経営戦略形成法は、自社だけの経営戦略の形成・展開だけではなく、
業種・業界のライバルとの相互作用の中で、戦略を形成しつつ、かつ展開していくこと表し
ている。
注 28 ポジショニングとは主として市場における地位、評価を表している。最初に市場にお
ける地位・評価を設定すると、その後の経営戦略の形成が簡便になり、かつ形成が促進さ
れることになる。
注 29 自社の遅れている部門・機能などに対して、優れた企業を想定し、目標数値を設定
して追いつき、かつ追い越すことを目指したものをいう。
品質管理、生産性などの分野で広く取り入れられたことがある。
注 30 暗黙知・形式知は野中郁次郎の提案であるが、河合は「明白知」という用語を使っ
ている。これは形式知の概念に加えて、分析され、実証されたものであり、基本的な知識と
して参照すべきであるという性格も有している。
注 31 SWOT分析はハーバードの開発した分析手法である。ストレングス、ウィークネス、
オポチュニティ、スリティの頭文字をつづり合わせて略称としている。
注 32 冗長性とは、効率だけを追わずに一見無駄であるかに見える研究開発、技術開発、
機能開発などを行うことを指している。たとえば、花王はダイエット茶を発売した。これは医
薬部外品、日用品、化粧品など花王の従来の製品ラインナップから外れるものである。し
かし、花王は物質の研究を行う会社であるというドメインから見ると不思議なことではない。
日用品以外に食品についても研究させるといったことが冗長性になる。
注 33 営業部門に対しては、商談数、締結数(率)、売上高、その伸張率、粗利益額(率)、在庫額、在
庫回転数、受け取りサイト平均日数といった形で、定量的に目標数値を設定したり、結果を評価したり
することはたやすい。
この考え方を河合は研究所の経営・運営に持ち込み、特許申請数、製品開発数、特許のライセンス供
与数(受取額)、論文数、学会発表数、被表彰数などを明確にし、効果と効率の概念を確立した。
注 34 戦略とその分配を中心にすえて、マネジメントを行う。また、現場にある暗黙知を吸
い上げることによって、ミドルを活かした経営ができる。
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