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サンパギータの夜 佐賀県 佐賀清和高等学校二年 河 野 容 子 ヒュ、と頬
サンパギータの夜 佐賀県 佐賀清和高等学校二年 河 野 容 子 ヒュ、と頬に何か固いモノがかすめた。地面に落下したそれは、手のひらに収まる程の 石。当たったら痛いじゃ済まない。 それを投げた三人の少年は、私の前に立ちはだかった。 顔つきはマレー系。年齢は十一から十三だろう。いかにも悪ガキっぽい。 スリか何かだろうか、と思った。フィリピンはそういうことが多い。だけど、私を狙う のは筋違いだろう。私は観光客ではないし、何よりも金目になるようなものなんて殆どな い。金は先ほどの買い物でほぼ使い果たしたのだ。 何とかしてそれを伝えようと思ったけれど、どうやら彼らは英語を話せそうになかった。 何か激しく言っている。罵声だろうか。喋っているのはタガログ語? それとも別の地方 の言葉? 全く分からない。しかし、こうしている間にも私は今にも襲われそうだ。 話は、家族でフィリピンに引っ越したことから始まる。 私の家族朝野家は、全員ろくに英語もできやしない、普通の日本人。なのに、フィリピ ンという南国の島国に来てしまった原因は、父があるフィリピン人と出会った為。昔板前 を目指していた父は、その時自ら作った料理をふるまったそうな。それを食べたフィリピ ン人は、あっという間に陥落。それから何度かの機会を経て、友情を深め、 『是非とも我が国であなたの料理を出してください!』 日本語が達者なフィリピン人の、この言葉がなければ、絶対にこの国には来なかっただ ろう。そして私が高校を卒業したのと同時に、フィリピンに移住、食堂を構えたのである。 その方は、この国だとかなりの有力者だった。通訳者と見習い料理人を数名置いてくれ て、広告までしてくれた。おかげで今、ランチタイムとディナータイムには満員。私も調 理師の勉強をする傍ら、厨房に立って手伝っている。お父ちゃんの楽天さと行動力は、歴 史的人物に数えられてもいいのではないだろうか。 「や、泉子」 初夏の風のような声が、私の名前を呼んだ。私より少し背が高い、黒髪で肌が少し黒い 少年。東洋人の目元の浅い彫と卵型の頬、西洋人のはっきりした鼻筋と長い眉毛を持つ顔。 きっと世界のあらゆる人種の良いところを凝縮したら、こんな顔になるんだろう。それも そのはず、彼は中国人の父と、フィリピンのメジャー民族タガログ族の母を持つ。長いこ とフィリピンはスペインの植民地支配を受けていたから、どこかでスペインの血も引いて いるんだろう。そこからまた別の西洋人の血も引いているかもしれない。 彼は我が父にフィリピン行きを決心させた友人の息子、アルフォンソ君である。 「おはよう、アル君」 「おはよう」ニッコリ笑って、 「早速だけど朝食作って」 とても軽やかに、それでいて有無を言わせない返し。そしていつも、私は彼の朝食を作 らされるのだった。 「はい、どーぞ」 今日のメニューは味噌汁とごはん、キュウリのぬか漬けのみ。別に意地悪をしているわ けじゃなく、朝の彼はこの量が丁度いいのだ。 「いただきます」ちゃんと手を合わせた後、真っ先に味噌汁に手を伸ばした。そしてお椀 に口をつけて飲む。……見事なまでの日本人の慣習。箸も正しく使って、キュウリを安定 した掴みで捕っている。 ぷは、と一息ついたアル君は満足げに言った。 「やっぱり味噌汁は最高だ」 ……二か月前のこと忘れているな、こいつ。箸の使い方は元より上手だったが、味噌汁 のことは知らなかったようで、 「沼の水」と罵倒して拒否したのだ。無理やり飲ませてみた ら、あっという間に虜になったけれど。 「ご飯食べたらすぐ帰るよね?」是非とも帰ってほしい。そう思うのはアル君のことが嫌 いだからではない。 「いいえ。いつもどーり英語の勉強をみてあげるよ」 フィリピン語、英語、それから何故か日本語を喋れるアル君は、無理やり私に英語教育 を施そうとする。 少し説明しよう。日本人である私らは「フィリピンに住む人」ということでフィリピン 人と呼んでいる。だが実際、この国にはスペイン人、貿易の為やってきた中国人、その大 昔広い海をカヌーで渡って来たマレー人などなど、様々な人たちがそれぞれの文化を持っ て暮らしてきた。更に色んな民族もいて、タガログ族やらビサヤ族やらなんだか色々いて 多種多様。更に更にそれぞれ別の人種や民族と結婚して子供を産むから一体自分の祖先は なんやらという子供も多い。 その最たるアル君は、三か国語を勉強する機会に恵まれていたのだろう。勿論、習得し たのは本人の素質と努力のたまものだろうけど。 「ねえ、アル君暇じゃないでしょ? 大学生なんだよね? いいの?」 「俺はいいの。頭いいから。それよりもあなたの英語の出来なさが酷い」 彼はもうすぐ十七(フィリピンは十六で大学に入学できる)。既に私は十九。二歳も年下 に、私はいいように言われている。だが仕方ない、彼の方が正しい。何とかして話を逸ら そうと考えを巡らせて、私は一つ、重要なことを思いだした。 「そういえば来週、アル君の誕生日だよね。その日、食堂で祝っていい?」 「え……いいの?」 「勿論。貸切にしてさ、アル君の好きな物いっぱい出すよ。食べたい料理、なんでも言っ てみて」 アル君は顔を綻ばせた。表情を素直に出す所は可愛い。 「寿司!」 「わかった」私は快諾した。ちらし寿司を作ってやろう。決して彼は握り寿司とは言って いない。 「私、アル君のお母さんとお父さんしか知らないけど、他に家族はいるの?」 「沢山いるけど、全員別の国に出てるから」 「それじゃあ、呼び出すのは大変だね」となると、誕生日に呼べるのは二人かな。彼のご 両親も忙しい人たちだから、下手をすると朝野家だけで祝う羽目になるかもしれない。 「お祖父ちゃんお祖母ちゃんとか、いとことかも呼べないの?」 「いとこも全員別の国にいるから。母の祖父母は既に死んでるし、父方の祖父は……」 珍しく歯切れが悪い。何か言い難いことでもあるのだろうか。意を決して、彼は言った。 「ちょっと、母と仲が悪いんだ、祖父は」 「あー……」舅と嫁問題か。何処の国にでもあるんだな。姑と嫁の問題の方が多いけど。 「何?『おれの大事な息子を取るメス猫ー!』みたいな? 昼ドラ的な展開?」 「そんな嫁姑みたいな陰湿さはないよ。……昼ドラってナニ?」 フィリピンにはないのかな。昼ドラ。 「互いに嫌っているわけじゃないんだ。母は祖父を尊敬しているし、祖父も母が良い人だ っていうのは判っている。……判ってはいるんだけど」 「いるんだけど?」 殆ど何も考えずに私は催促した。躊躇いつつ、彼は言う。 「……中国人じゃないのが、じいちゃんにとってダメだったんだ。それだけが、ダメなん だ」 突然、味噌汁の上で揺れる湯気がやけに目についた。湯気は彼の着ているシャツの襟口 まで登って消える。アル君は、俯いていた。 なんだか聞いてはならないことを聞いてしまったと思った私は、一番無難な言葉を選ん だ。 「……それは、難しいね」 アル君は顔を上げない。きっと言葉が見つからないのだろう。私は彼が言いだすのを待 つことにした。 私には、民族的なことは判らない。ただ、彼の祖父のような人は、中国人だけに限らず、 日本にもいるだろう。文化や宗教が違えば、互いに好きあっているとしても、苦労や気疲 れは絶えないだろうし。でも、そういうことよりも、こういうのはもっと本能的な危機感 から来るもののような気がした。 「俺に日本語を教えてくれたのは、じいちゃんなんだ」味噌汁を最後まで啜った後、アル 君は口を開いた。 「両親は多忙だったから、小さい頃はじいちゃんの家で暮らしてた。日本語以外はあまり しゃべらなくて、他に話した言葉は、英語かタガログ語だ」 タガログ語というのは、フィリピン語の元になった言葉。確かアル君のお母さんはタガ ログ族。それを喋っていたということは、アル君の祖父なりの歩み寄り方だろうか。それ とも、自分の孫が母親との会話で困らないようにという愛情からだろうか。いずれにして も、彼の言う通り「悪い人」ではなさそうだ。だからこそ、アル君は言葉を探しているん だろう。家族が誤解されずにすむ方法を考えながら、私に、自分のことを丁寧に説明しよ うとする。 アル君は別の文化を持つ私に歩み寄ってくれる。だからこそ、アル君を育てたおじいさ んが気になった。 そんな会話があった後、私は買い物に出かけた。 私たちはマニラに隣接したムンテンルパに住んでいる(ここら一帯を含めて「メトロ・ マニラ」と呼ばれるのだけど) 。場所はラグナ・バイ・ベイと呼ばれる大きな湖の近く。良 く使うアラバン駅の近くには、ショッピングモールなどの商業施設が沢山ある。けれどゴ ミは周辺に散乱しているし、排気ガスはすごいし、電車の窓には投石避けの金網がついて いる。色々つっこみたいが、やっぱり一番のツッコみどころは線路にトロッコを載せてい るところだろうか。 彼らにとっては重要な交通手段なのだが、日本の常識だと線路に立っていたら危険だと、 ハラハラした時期もあった。意外にも事故は起こっていないと聞いた後、どちらかという と日本の投身自殺の方がよっぽど深刻だと気づいた私は、たまにこのトロッコに同乗させ てもらっている。アル君にはバカにされるが、簡単な英会話ぐらいなら出来るのだ。 ともかく、私はそんな感じで適当な買い物を済ませ、家に帰ろうとしていた。 ――という所で、現在に至る。 人通りの多い場所を選んだ道が、今は誰一人通っていない。誰かに助けを呼ぶ希望はな さそうだ。というかさっきから悪ガキは石ばっかり投げてくる。 「ちょ、お前らひょっとして私を電車だと見間違えてない!? 私には窓もドアも車輪もつい てないぞ! お前らの目は節穴か!?」 いいから石投げるのをやめてー! そう切実に訴えても日本語なので相手に伝わるハズ がない。私の声は悪ガキ三人組の罵声によってかき消された。 業を煮やした彼らがとうとう鉄パイプのようなものを持ってきた時、私は八百万の神様 にひたすら祈った。ああ神様仏様、誰でもいいので誰か助けてくださいー! 頭の上に腕をのせて身体を縮める。せめて急所だけは守らねば――そうして鈍い金属の 音と激痛が来るのを今か今かと待って覚悟した。 が、聞こえたのは誰かが拳骨をかました音と、悪ガキどもの泣き声だった。 顔を上げると、白髪で焼けた肌のおじいさんが、握り拳をかざして説教している(よう に見えた) 。悪ガキどもは号泣。どうやら、あのおじいさんが助けてくれたようだ。私の祈 りは届いたのだ。 お礼言わなきゃ、そう思って声を掛けようとした時、おじいさんがこちらを見た。 「君、怪我はないか」 飛び出したのは日本語。私はビックリした。こちらを見た顔は、東洋系だった。 「は、はい。ありがとうございます。本当に助かりました」 「礼はいい。ここはあまり治安はよくない。すぐに立ち去りなさい」 「わ、わかり……」 ました。その言葉は、突如降って来た豪雨の音によってかき消された。 ……フィリピンの今の時期、日本と同じ雨季と呼ばれているが、梅雨とはまた異なる。 一日中雨が降ることは稀で、短時間の豪雨が時折やってくるのだ。そう、こんな感じに。 おじいさんも私も悪ガキも、皆揃ってビッショビショ。 「……」 「……私の家に来なさい」 何処か諦めたようにおじいさんは言った。お言葉に甘えることにする。 おじいさんの家は簡素なものだった。そこら辺の木を使って簡単に建てたような家。そ う、ここら一帯はそんな家ばかりだ。スラム街、と呼ばれる場所なのだろうか? と私は そこまで考えて止めた。住んでいる人がそれを聞いたら、気を悪くするような気がした。 しかし、出されたタオルは清潔だし、必要最低限の家具は揃っている。生活に窮してい る人には見えない。 「緑茶でいいかな」 「あ、はい。お構いなく」 しまいには緑茶も出された。この国でお茶が出されるのは滅多にない。輸入しなければ 買えないものだ。実はお金がある人と見える。 「君は、泉子ちゃんだね」 おじいさんは私の名前を口にした。私は逆に聞き返す。「ひょっとして、アルフォンソ君 のおじい様ですか?」 おじいさんの驚きの表情は、アルフォンソ君によく似ていた。 「目元がそっくりだったし、ついこないだ、アルフォンソ君のおじい様は中国人だと聞い たので」 「……孫に聞いていた通りのお嬢さんだ」 一体何を話した、アルフォンソ。今度問い詰めなければならない。 「ありがとうございました。色々お世話になっちゃって」 「いいや。むしろ、謝らなければならないのはこちらの方だ。私の教え子たちが、失礼し た」 「先生をなさってるんですか?」 「ここでね。勉強といっても、文字を教える程度だが」 ほほう。彼から聞いた時はどんな因業じじいか気になったけれど、お年寄りには見えな い姿勢の良さと言い、社会に貢献する行動といい、清々しい人だ。 「どうやらあの子たちは、口の悪い大人たちから聞いた話を、真に受けているみたいでね」 「真に受ける?」 「日本人は、この国を植民地にした敵だと」 ポチャン。 急須の口からお茶の雫が落ちた。悪ガキどもがあの時何を言っていたのか。 『出て行け!』そう言い続けていたのだ。 「……確かに、そうですね」 悪ガキどもと言葉が通じていたら、私は何も言えなかった。日本がどのようなことを他 国に強いてきたか。私たちは、何も勉強していない。私なんか、ついこないだ、東南アジ アの島々を支配していたことと、日本軍がマニラに爆弾を落としたことを知った。きっと、 もっと酷いこともしている。戦争とはそういうもので、そういうことをしていたのは日本 だけじゃない。けれど日本では、原子爆弾が落とされた事実は語られるのに、自分たちが してきたことは口を閉ざしている。 別に私が戦争を始めたわけじゃないので、私が恨まれる道理はない。けれど、そうやっ て『日本』そのものを憎んでいる人がいるのは仕方がない。そして、その恨みが子へと伝 えられるのも、当たり前だ。 「素直で純粋な子たちなんですね」私はそう言った。別にあの子たちは悪い子ではない。 あのような行動は、私自身にも身に覚えがある。石は投げなかったし、鉄パイプも振り回 さなかったけれど、友達が言っていた人の悪口をそのまま受け止めて、会ってもいないそ の人を悪く思っていたことがある。あの時は正義感も働いていた。友達に酷いことするな んて、今度なにかあったらとっちめてやる。と思っていたけれど、実際、その人と話して みると、人からの情報で作り上げたイメージと違っていて、その後は人の噂をあてにしち ゃいけない、と心に刻んだ。 「全然怪我とかしてないんで、謝罪とかはいいです。でも一つ、聞いてもいいですか」 おじいさんの整った眉が上がった。 「おじい様は、私を怨まないのですか?」 ――全然非のないアル君のお母さんと上手くやれないのは何故? 本当に聞きたいことはそのことだったけれど、それを聞くのは失礼だと判っていた。だ から、あえて意図を隠すような言葉を選んだ。日本人の曖昧さ加減がここで出る。聞きた いけれど、相手を怒らせたくない。その気持ちの表れ。 おじいさんの目は黒かった。私と同じ目だ。同じような顔をしているのに、彼は中国人、 私は日本人。同じ国に住んでいるのに、名乗る民族は全く違う。 「私は、元々台湾の方で暮らしていて、親も兄弟もいないまま、日本人の家族に引き取ら れたんだ。だから私は、日本語を話す。……本当に優しい家族だった」 おじいさんもまた、記憶と共に流れてゆく言葉を探しているようだった。 「けれど、どうしても私は自分のルーツが知りたくて、戦後、フィリピンに自分の親族が いると聞いてこの国に向かった。……日本を怨む親族は多かったよ。思わず彼らの憎しみ に流されたこともあった」 家族さえも疑った、酷い息子だ。そう言って鋭く息を吐いた。 「だが、すぐに台湾は中国の領土になり、日本が支配していた時よりも過酷な状況になっ た。私たちと同じ中国人が、私が生まれ育った国を締め殺そうとする。そう思うと、恨み や憎しみが主張する正当性は、あまりにもアテにならないと思った」 じゃあどうして、息子さんのお嫁さんは中国人じゃなければならなかったの? 言葉にしたつもりはなかった。なのに、おじいさんは答えた。 「……頭では判っている。それでも、それが自分の身近なことになると、拒絶してしまう んだ」 室内の湿気が、しつこく手のひらに纏わりつく。けれど、唇は乾燥していた。 雨が止んだ時には、太陽は沈みかけていた。夜の道は危ないと、おじいさんが車で送っ てくれることになった。 ゴミや排気ガスの臭いは一旦雨に流された。どこからかサンパギータの匂いがする。 サンパギータ。別名、マツリカ、アラビアンジャスミン。フィリピンの国花だ。その白 く小さな花は、金木犀のように強い匂いを漂わせる。甘い香りは今日のことを整理するの に役立ってくれた。 おじいさんは、ただ、家族として迎えることが嫌だったんだ、と、何となく私はわかっ た。中国人じゃないからという理由は、人種差別といわれるものだろうし、社会で問題に されていることだろう。でも、差別問題を殆ど真面目に考えたことがない私が、何を偉そ うに語れるだろう。現代社会の教科書や、新聞に書いてあっても、注意深く読まなかった。 勉強は、好きじゃなかったし。差別問題とか、そういうのはもっと遠くの出来事のように 思っていた。――日本でも差別問題は溢れているのに、無関心のままで、高校を卒業した。 身近に感じているおじいさんの方が、よっぽど「いい人」だ。 一つ、思いついたことがある。今朝の会話で、おじいさんがアル君のお母さんを認めな いのは、理屈ではない、 「本能的な危機感」からじゃないかと思った。だけど、もっと別の 言葉で当てはめたくて、ずっと考えていたのだ。 「食わず嫌い」 、 「好き嫌い」 。これだ。 小さい子が酸っぱいモノや苦いモノがダメなのは、それが危険だと味覚が訴えるからだ という。それと同じで、他の文化を受け入れなかったのは、自分たちの文化を守る為、警 戒心を強く持たなければならなかったからじゃないだろうか。自分たちの領土を侵略され たり、支配されたりする危険があるから。 「好き嫌い」はダメだというのは簡単だ。だけど、その壁を乗り越えるのは中々厳しい。 同じように、 「差別はダメだ」と言うのは簡単だけど、どこかで上手く受け入れられない部 分がある。私だって、この国に来た時、どれほど日本との相違点を探しただろう。 空気のきれいさ、治安のよさ、衛生面。――その度に、日本の方がよかったと無意識に 思っていた。これだからフィリピンは、と思ったかもしれない。どれだけ考えないように しようと、差別しようとする心が出てくる。私は悪意なくとも、この国の人にとっては酷 いことを思ったり、言ったりしたかもしれない。自分も当事者なのだ。 でも、私は悪意を持って、この国の人を傷つけたいわけじゃない。仲良くなりたいのだ。 アル君が日本語で、この国のことを教えてくれたみたいに。この国が、私たちの食堂を歓 迎したように。私も、この国を受け入れたい。 自分と違うものを排除する心も、受け入れる心も、人は持っている。 でも、 「好き嫌い」は、ある日突然治ることもあれば、一生治らない人もいる。しかし、 やってやれないこともない。 「あの、おじい様。実は来週、家の食堂でアル君のお誕生日パーティーを開く予定なんで すけど」 アル君だって、最初嫌がっていた味噌汁を好きになれた。ならきっと、おじいさんだっ て好きになれる。 「良かったらいらしてくださいませんか?」 不安で揺れる私の心を、そっとサンパギータの匂いが慰めてくれた。 アル君の熱心なリクエストとあって、うちの両親は高級寿司店で寿司を買って来た。ネ タはマグロ。我が家の台所事情も厳しいので、寿司はアル君の分だけだ。 というわけで、我々はもう少し手の届く和食メニューを出す。寿司は寿司でもちらし寿 司、野菜と鶏肉の天ぷら、おから、麩を浮かべたお吸い物。更に。 「え……これレチョンじゃん!」 アル君が驚くのも無理はない。フィリピンのお祝い料理、レチョン!すなわち子豚の丸 焼き! この料理は滅多に食べられない。 このレチョンを出してくれたのは彼の兄姉たち。直接祝うことが出来ないからと、アル 君のお父さんを通じて運ばれたプレゼントである。そして焼き上げたのもお父さんが雇っ た業者の人たちだ。陰で働いてくれたアル君のお父さんはただ今出張中。けれど、アル君 のお母さんは来てくれた。鼻の付き方が彼にそっくりである。 「アル君、これ。プレゼント」 忘れないうちに、サンパギータの首飾りを彼の首に掛けた。 「サンパギータって、願いを叶えてくれるらしいね」 ここに来た時を思い出す。私たちは歓迎の意を込められたサンパギータの花飾りを首に かけて貰った。私にとって、サンパギータは、フィリピン人のあたたかさの象徴だった。 「これ、泉子が?」 「うん、手作り」 誕生日、おめでとう。そう告げると、ありがとう、と掠れた声が返って来た。 「きっと、近いうちに叶うよ」 「そうかなあ」彼は不器用に笑った。 貸切の札が掛けられたドアが、開かれた。そこに立っていたのは、老年の男性と、少年 三人組。一番初めに気づいたのは、アル君のお母さん。呆然と立ち尽くしていた。驚きの あまり、他にリアクションをとれなかったのだ。 「じいちゃん!?」その次に気づいたアル君の声が裏返る。元々低い声ではないので、女の子 の叫び声と勘違いされてもおかしくない。 「ようこそ、おじい様」私はニコニコと笑みを浮かべて近づく。おじいさんの表情は緊張 のあまり強張っていた。このままだとお地蔵さんと化して立ったままパーティーを過ごし そうだ。 「おじい様、どうぞ席に。さあさあさあ」無理やり背中を押して、アル君のお母さんの隣 に座らせる。アル君のお母さんはおっかなびっくり、おじいさんは額に汗を垂らす。 だが、私はそちらの二人を気にする前に、一緒についてきた少年たちと話さねばならな かった。あの時私に石を投げてきた悪ガキ三人組だ。出来れば彼らも呼んで欲しいと、お じいさんに頼んだ。彼らは一応悪いことをしたと思ったのか、怯えと戸惑いの表情が浮か んでいる。 「ちょっとアル君、通訳して」 席に座っていたアル君を入口まで連れていき、私は彼らの前で仁王立ちになった。 「おい、クソガキども」 いつもなら絶対に言わない言葉である。さすがのアル君も「泉子さん!?」とぎょっとした 顔をした。しかし私は気にせず喋る。 「メシが食いてーか、クソガキども」 アル君は渋々ながら彼らに通訳した。肩を寄り添って、首を振る。どうやら、イエスと 答えているようだ。 私はニヤリと口角を上げて言った。 「Let's eat!」 彼らは目を見開き、互いにアイコンタクトを取った後、とても嬉しそうに笑った。 食事が進んでゆくと、茹でる前の貝のように固く口を閉ざしていたおじいさんが、アル 君のお母さんに話しかけていた。私には会話の内容が判らなかったけれど、判るアル君は 思わずくわえていた天ぷらを落とした。 何て話しているの、と聞くと「じ、じいちゃんが家に遊びに来るって言った」彼は答え た。 「泉子、一体どんな魔法をかけたの!?」 その言葉があまりにも面白すぎて、ご飯粒が鼻の方に入ってしまった。いや、彼は本気 で言っているんだろうけれど。中国人の血を引いて、日本語をマスターしている人の言葉 とは思えない。 「 『和む』って漢字はね、穀物を口に含んだ状態なのよ? 打ち解けて当然」 語学で初めて勝った、と思うとそれがおかしい。暫く笑いが止まらなかった。 笑い声が絶えない食卓。好き嫌いを直す極意は、皆と楽しく食べること。それを繰り返 し続けること。 だから私は、こんな風に劇的に変わることを期待していたわけではなかった。ただ、ア ル君のお母さんは本当にやさしい人だし、この間のことで、おじいさんも思いやりのある 人だと確信した。この楽しい空気を悪くすることは絶対ないと思ったのだ。そして、この 二人が揃えば、アル君が喜ぶことも。 おじいさんを、無理やり誘う気はなかった。来たくないと思ったなら、招待されても来 なかったはずだ。来たということは、歩み寄ろうとする意思があったということ。 どこかで、アル君のお母さんに悪いと思っていたのだろうか。息子の選んだお嫁さんだ と、認めなかったことを。引っ込みつかなくて、ずっと避けていただけかもしれない。そ れは本人のみぞ知る。だけど、おじいさんだってずっとこのままがいい、とは思わなかっ ただろう。 「頭では判っている」あの人はそう言った。苦しそうな表情で。……ずっと、受け入れら れない自分を責めていたのだろう。本人に自覚はないかもしれないけれど。 二人の会話を見ていると、アル君のお母さんが涙を流して、はにかんだ。ずっと続くと 思っていた状況が、ようやく終わったのだ。 そう、ちゃんと終わるのだ。どんなに悪いことも。そして新しいことが始まる。 それはこれから先の私にも、希望を持たせてくれるものだった。 悪ガキたちは他の誰にも取られないように必死にレチョンの肉に齧りつく。大人たちは 酒を飲んで上機嫌。 窓からお月さんが覗いていた。そうか、今日は満月なんだ。サンパギータも咲いている だろう。 サンパギータの夜。何だかとても、大きな願いが叶いそうな気がした。