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津軽弘前藩の武芸(14) : 資料紹介
太田, 尚充
文化紀要. 33(2), 1991, p.107-223
1991-02-28
http://hdl.handle.net/10129/3653
Rights
Text version
publisher
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/
弘前大学教獲部「文化紀要 j 第 3
3母第 2
.1
9
9
1年
1
0
7
よAHF
資料紹介
文 北 六 己 己 八O九)年三月、芦田
律﹄冊子本
lii
る筆写本。
太
回
尚
津軽弘前藩の武主仙
1i
筆写本。原本の作者不詳。
日、長側礼文法﹄
日、小野派一万流出来記巻子本
21a
守リ、司ネペ 4
宝一暦九己 m
七五九﹀年三月、成田保治郎走経による記録。
w
ロ、﹃剣摘心法神妙縁い冊子本
艶子本
寺山家所蔵・武芸関係古文書等制
次
七、緒記録等︿愚前)
内容紹介
まえがき
言
充
弘前大学教養部「文化紀饗 J 第 3
3号第 2,1
9
9
1年
筆写本。旗本の作者不詳。
八、小笠原流輯礼(接)︿承欝)
8、 吋 幕 一 流 之 盟 関 恥 巻 子 本
巻子本
0
後半の破損が大きい。
経宝三乙卯︿一六七五﹀年四月、磯山嘉七諾門茂基より浅利約伊兵衛あて
延宝三乙卯︿一六七五﹀年四月、横山嘉毛布門茂基より竣利伊兵籍あて。
9、指物竿之書巻子本
叩、募締方之書巻子本
磁円五一二乙卯︿二ハ七五﹀年四月、横山嘉右衛門茂基より桟利伊兵衛あて。
延宝一一一乙卯(一六七五)年四丹、横山嘉右語門茂基より浅科伊兵衛あて。
口、驚之品弔問巻子本
o
延宝三乙勾(一六七五)年四月、横山嘉右衛門茂基より浅利伊兵衛あて。
立、箭之欝希子本
口、婚礼持物之書巻子本
延宝⋮⋮一乙卯(一六七五)年間丹、横山嘉右衛門戎慕より浅利伊兵衛あて
廷宝⋮⋮一乙約二六七五)年開丹、撲出蕗右語門茂義より浅科伊兵寵あて。
M、 婚 礼 膳 立 書 巻 子 本
話、饗義務之書巻子本
延宝一一三約二六七五)年四月、横山嘉右衛門還義より浅利伊兵寄あて。
術(承前)
γ内
宝永一一 山
(一七O五)年八月、横山嘉布鑑門武基一より浅利伊兵衛あて。
団、兵法九字之書巻子本
守
、U
一O、弓
1
0
8
弘前大学教養部「文化紀聾J 第3
3
号第九 1
9
9
1年
1
0
9
享保二了務(一七
あとがき
L
七﹀年十ご丹、西館頂恵達雄より浅利伊兵衛あて。
巻子本
吋不動智﹄吋剣街法一時
b
である。ただ
ている仮
の室田と
併と思われる。弘前滞家士戸田環太夫はこれを
吋神妙録﹄吋石火機 b等、さまざまに呼ばれてい
沢庵京彰が櫛全但馬守宗距に与えたと伝えられる﹃不動智神妙録恥である。た
刀流小野訴の流桓小野治部右儒門に関する物語風の由来記で
に、主として朝挺や幕府の要人へ
点を紹介する。
﹀年九月、斎藤新宜兵衛喜傍より八木橋左太夫あて。
小笠原流諸礼︿厳﹀
の瓶典は
一万流出来記(保容)しは、巻子本の体裁で
る。(汗閣時点一段目
筆写し、心法鍛嫌に励んだものであろう。
L
の所克を加えたのが
叶武律恥には﹁本多恵勝授忠男及家臣
思われる。これ
あるので、もともとは﹁本多忠勝しが所持してい
1
J
3
0
. 第九京)﹃剣術心法神妙諒﹄の呼称もその
だし原典には特定の名称がなかった
﹃剣捕、む法神妙録
ある。
き
宝暦ニィス附(一七瓦
4、石堂竹林流弓箭
ーま
今回は、
え
綴の記録である。
、
晶
斗2
会
《
弘前大学教養部「文化紀望書」第3
3
号第乙 1
9
9
1年
1
1
0
困難であった。それ
のをその
ιした。
﹂
と
あてでない伝書が幾っかある。お
り八木構左太夫あてになっ
L
いる。他人あての伝書を浅
﹂の九点は、何れも模山嘉右葡門が浅利伊兵衛に授与した伝書であるが、被損が大きく判読が
一点のうち寸石堂竹林流﹂
文中につ注﹂が必要な場合は(﹀内に示した。
∞特定の人物、特殊な字句等は本文の後に﹁注﹂で示し、全部にかかわる事情等に
相※印のある写真は、本脅む最後に一括して搭載した。
m
w 判読不明な文字は亡で示した。
出読み難い長文の場合には詩音の﹁かな﹂に灘点を打ち、 また設落、句読点をつけた。
いて吋解説﹂で説明を試みた。また、
﹄のない題名は、内容をその鵠から誰して仮りにつけた名称で
ていたのではないかと思われる。
科家が所蔵するようになった経緯は不明であるが、浅利家にはこのように﹁境科
にその題名を記した。可
に関心の深かった浅利家の代代では
内容紹介
表紙片仏外題のある場合誌﹁
伊j
山紙質や縦・撲の大きさ等は、資料紹介として特別必要と恕われない限り省略した。
ある。
ω
凡
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2,1
9
9
1年
1
1
1
写真 山
七、諸記録等(承前)
印、﹃書檀文法 ﹄
往来書状
新春之御慶不可有愚御座候。
日
冊子本
一一日御表出御
書樽文法 l の書き出しの第 1頁
。
写真(1) 『
正
月
日
各 様 被 捧 飛 札 候。 恐憧謹言
公方様益御機嫌能被成御座、年始之御規式如御嘉例、首尾好相済候由承知仕、乍悼目出度奉存候。此段為可申上
一筆致啓上候。
正
月
奉伸御祝儀呈使札候。恐憧謹言
年始之諸御礼首尾好相済申由、乍恐目出度奉存候。為可
公方様益御機嫌能被成御座、元日、 二日
①
②
為年頭之鐸祝儀、以使者御太万一腰、御馬代黄金十両献上之仕候産、
恐檀護雷同
月
日
日
公方様益御機嫌能、去丹十一
正
月
披遊御成、悠々被成御産、及暮被成還郷様由、恐慌奉存繰。困弦棒愚礼儀。
為御祝犠若斯錦産候。謡、水日可申承候。
公方様益鱒機嫌能被成御産、年始之御撞如恒例話毘好相済恐悦至極奉存候。次貴様昨御諮問可為御超年目的脊候。
役属之制御慶賀不可有休期欝座録。
日
三
号
④
e
3
3
母 第 2,1
9
9
1年
f文化紀聖書」第
弘前大学教養部
1
1
2
一筆致啓上候。
存候。
日
此段為可申上捧飛札候。
月
日
核之為御鵡目録之通進上之社椴。可然様鰐披露奉喚候。恐憧謹言
公方様益御機嫌能被成御鹿之宮追々承之、部悦至極奉存候。然者私犠首尾好被下制御暇齢、色々拝領仕難有次第奉
月
今日伏晃致到
公方様強制御輿健被成御盛去月十七日東叡山御宮御社参、同廿日同所鰐悌教江被遊鐸参詣、御機嫌能還御之旨、恐
日
税一品忠雄奉存帳。匙段為可申上呈態札録。
月
公方様議御機嫌能被成御臆之官遂々承知仕、部悦奉存候。然者私犠為参勤去月甘五
ち
ぐ
ゆ
e
2,1
9
9
1年
弘前大学教養部「文化紀饗 J 第 3
3
号第
1
1
3
之社張。
可然様御披露奉頼候。
端午之御祝儀就差上銭被成下御内妻、
為制御礼各様迄如斯鐸産候。
日
品添者私儀今度婚蹴仕候
為御礼知此御焼候。恐
付、為御躍先頃以捜者目録之通致献上之
殊能者時援拝鎖社、
一本之恐悦奉存候。酒以為可奉窺欝様体、以使者申上候。随語翻肴
CCC蔭毘能被遂御披露被成郵奉書、殊使者鯨維子輩物拝領仕、
(原介入のまま)
会方様益御機嫌能被成御座之官、
候壊、
日
日
公方様議御機嫌能被成樹庫之官、
⑩
@
月
月
月
第3
3
号第 2,1
9
9
1年
f文化紀欝 j
弘酷大学教養部
1
1
4
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3
号第 2,1
9
9
1年
1
1
5
葉致一啓上候。
恭仕合御雄候。為御請揮愚札候。
プン
公方様議御機嫌能被成御産、恐悦奉布候。然者私参勤之儀奉伺候処、被達上問、来年四月中参府可仕由捜部出之
い}[口
思
一筆致務上棟。
日
依之呈愚札様。
筆致啓上霞。
日
被為成、天気快晴、及晩景櫛機嫌能被成還御之官、宇樺目
公方様増錦安泰被成御座旨、恐悦至極奉存候。議以為可奉伺御機嫌之御様勢、以使礼申上保。
月
月
月
公方様培欝勇欝能被成御感接、去丹九日小石川鐸殿
⑭
o
弘前大学教養部「文生紐喪J 第 3
3
号第九 1
9
9
1年
1
1
6
月
恐
縮
担
謹
一
一
一
口
日
日
一日披為執御前髪候 α為御祝犠御表
上之揺々、以街太方自録御礼被申上、十五巨街能被伺吋之出及承。
公方様倍鰐機嫌能被成御産、
一筆致啓上銭。
月
腰、御馬代黄金十間進上仕候。明春
依之以使礼申上候。
被成出御、御一一門方諸大名付汁一一一千石以
樺司出度奉存候。国葱ニ各様迄以使札串上候。以御川町可然様御取成奉喚傾。
鍔能被仰付之、首寵残所無調座吉一本、
公方様益御機購能被成御崎旨、恐悦奉存候。黙者為年頭之御祝犠、鰐太万
可紫様御指国頼入存線。
口
一
日
筆致普上候。
丹
公方様議御機嫌能被成御座、一日勅使被成締封顔、
{
③
⑫
9
弘前大学教養部「文化紀要J 第 3
3号 第 九 1
9
9
1年
1
1
7
公方様益鰐機嫌能、去月十八日勅使御酎顔、将軍宣下之御作法、無残所相済、
無之
存候。
先以
以弘犠昨日務内院参、
一円方議大名御旗本之
笠(上野禁裏仙調新読鐸所天盃致演戴、難有仕合冥加至極奉存候。右之趣可然様御披露頼
之言、再簿奏衆之抑護銭。診法皇御取締料理被下之、其上欝煮物御規御文豪等頂戴仕、診新説網所御廃底拝戴
所女僻御方江参内段参仕、首尾好勅謀、院宣被仰出之、被下御暇懐。笠(節調太刀致拝額可被任正四位下左少拝
公方様溢御機嫌能被成御脱出問、恐境奉存候。然者今自継飛脚之使、以懇札申上候。目、禁揮抽調女院御
日
寓御作法残所
面々、御提議之梅雄被申上候岳、目出度御様弊珍重之御事、不通之奉存候。次私名代之使者、御太刀目録首尾好
日
差上之、各様御一整対話柔存候。為制抑制作如是御座候。恐縮問謹一一一一口
月
月
公方機密御機嫌能被成榔倒産候哉、
4
参
⑩
弘語大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2
.1
9
9
1年
1
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8
被下御蝦之旨御盤候問、
日
筆致啓上候。
月
日
議然官金昇進之犠不得上怠南難及御藷之由申上候。明後九日、本龍制御所、女臨御所可
依之各様山内地以愚札申上候。
恐悦奉存様。絞之為御祝儀公方様江
御腰物備前長光目録之通弁御樽肴進上之仕候。可然様御指図頼観。
猶票後事之前可得御意張。
公方様本大形割溝悦可被思召与百出護鐸儀恐悦奉存候。。就夫、為鰐御祝議以使者向上様江目録之通献上之仕
還御之節、井伊掃部顕方江被為成、御機嫌能被成蹄御之旨
若君様被遊御宮参、天気快晴、議御規式梅作法残所無御座相済申由、
一筆致啓上様。
月
委曲盟小田左門申合童保。恐檀謹一一一一日
制御太万馬代、若君様江鐸肢刺一腰、
︿
脇
惜
し
と
公方様御講税乍経奉推模、寒以千秋万議、目出度御犠
若君雄被成御誕生
@
⑫
f
長
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3
号第 2,1
9
9
1年
1
1
9
⑮
月
月
日
日
話
月
話
為御請如斯御鹿候。
家人吾姓以下悉配分仕、
畏奉存綾。私儀内々従是申上御供仕度奉願候露、被仰出難
菌豆、為御礼各様迄以費者申上候。
私領内去年作毛損失付、人民及能鱒之段違上問、
慶太之御掛川悲、
一月、参府可仕之由、
日朝獣一心行幸棺整、錦規式御作法残所無錦座、将軍様御機嫌不大形御事候。誠以公私之
大幸不可過之、目出度御犠奉専設。右之御序宜頼制御披露候。恐慢謹言
筆致害上候。
丹
有仕合奉存候。
@
容
弘前大学教護部下文{t: 聖書」第 3
3
号第ム 1
9
9
1年
*
c
1
2
0
穿
く
一筆致啓上様。
一昨廿日、
勅使院使御艶顔、本坊江波錦、松披室御膳被在
日
昨
御経棋議之鰐法事相接、奥
委
細
預
(参議}
山
御
紀井梧公、
出
御
之
由
今度
次鰐滞留中御奔走仕犠も無之、本意之外奉穿張。
持又参内被有之仰之題、
酒井讃較守泰之、舟越三部四郎、石
之
趣
致
季
知
公方様情御輿健被或御座、去十七日御祭礼毎執行、
に還
解法事公家門跡方着座接拝有之、各進出之後御参詣、
尾七兵智、北様新蔵挙公人候問、可申競皆拳縛其意候。
日
一
日
当地益鶴静議、
御在府中御馳走御構境之由、
月
御
着産、御経奉続之被遊鍔参詣、御拝殿欝着座、
様無
御残
助所
言御
所す機
庶じ嫌
石寄之犠被仰村難有仕合奉存銭。
之
江
錦
月 f
義
奉
日 存
{
設
。打
自績
然靖
御天
序
之購
刻端
癖
時作
然法
錦奉書致揮見様。来年診日光
幾ね能
繰
7
.
;
'
.
為
長
参
⑫
③
弘前大学教養蔀「文化紀要 J 第 3
3
号第九 1
9
9
1年
1
2
1
薪議序之時候。
日
(と)
一筆致啓上候。以武田道安詐五日此地被致下着接。被加上意候故早速被援下難有仕合奉存棟。
月
日
日
迄如是鰐産様。
妙法読欝門勝、毘沙門堂鱒門跡調法事御執行。
今度紅葉山御宮就御造畢、去十六日正遷、十七日公方様御束帯被成御参詣、毅復、段使、奉幣使、自光謂門跡、
丹
之地江着岸仕候共、綱錠水薪等不滞様、
人数書付、従宗封馬守先達可援差謡由、膳部献立別紙被遺之
制御奉書護而致拝見候。然者当八月朝鮮信使来朝付、私領土内罷通候節、高馳走之事可為如去未歳之趣主米朝之
丹
仕与差以辱奉存候。別薬致援用無一部断養生仕候。
@
d
参
@
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2,1
9
9
1年
1
2
2
日
一筆致啓上候。
月
日
日
月
日
之、重畳目出度存候。依之為御祝詞御太万馬令進覧之候。恐惇謹言
一筆致啓上候。貴様御儀今度御字井松平之御称名御拝領、其上被叙四位之役、御宮名且又御腰物御拝領之由承
月
公家衆江御殿引渡申候。来廿日弥被遊御徒移御沙汰御座候。右為可申上捧飛札候。恐憧謹言
公方様倍御機嫌能被成御座付、目出度奉存候。然者禁中御殿之御作事御造畢、去二日、就吉辰博奏衆其外御役人、
一筆致啓上候。
月
至極奉存候。猶以為可奉伺之呈飛札候。恐惇謹言
公方様御宿癌大形被成御収厭商 Y打績御膳被召上、御機嫌残所無御座、天気次第可被為掛御酒湯御様鉢之由、恐悦
⑨
⑧
⑧
日
暇被下之、其上色
知印拙者犠海陸無芸去月廿五
公方様弥毎機嫌能被成御座、
日
自
斯接。語斯後喜一叫得御意候。
月
翌廿六
次貴様御無事可為御在府、
時又能者犠、
開又先頃御
為御謹御者中迄以穫者申上保問、如
道筋措除等被知付、旦又捺描迄御使者殊御肴両種被懸御意、
然者拙者犠、騨路無差致参府、
首尾好遂御目見難有次第奉存候。為御悦預永悉存候。
月
月
イ奈十仔候。為御礼以飛札串入候。猫斯後喜之時候。
@
⑪
第3
3
せ第じ 1
9
9
1年
f文化紀要 J
弘前大学教養器
1
2
3
弘前大学教養部「文化紀要 j 第33
号第九 1
9
9
1年
1
2
4
筆啓上仕候。
日
中御作事手薄衆、
⑩
牧野佐渡守所江
日御表江出御、態都機嫌能藷鰐札相済候由、
其後禁
措更為可
付、可被任少将之皆以樽奏衆
恐檀謹一一一口
然者名議今度御即位之御使相勤続
江上意之趣申渡候合符茂宣︿加至極構存候旨追欝請候。此段為可申上捧愚札候。
扶
被仰渡張。此趣以欝序可然様鰐取成奉頼様。
快
O
筆致啓上候。
月
f
畏御
日
公
方
様
鐸
咳
議
若如単
是一連
御被
鹿或
︿も)
公方様増錦機嫌能被或御鹿候哉、乍恐承慶奉存様。
⑧
議
公方様倍御機嫌能被成御産接旨、
月
月
奉
伺
御
様
日 鉢
御門跡、見沙門堂跡、為蹄寺今朝御護駕之儀様。猶議々可申上候。
日
筆致啓上張。
自
委細従披中誠一吋申上候。
静御黒書
一泣大納言錦任叙之宣旨井正一一一位御按叙御位記御頂戴、
鰐旗本之語々岡上様江御目晃、入御之後紅葉山江大納⋮一一同様被或御社参、
御老中被仰下、乍恐目出度奉存穣。随時費様之事御加冠之御役郵務被任中将、保科肥後守殿理繋之御役勤少将被
院一一一献御祝、紀新太夫御太刀新身藤田部大納言様証一被進之、鰐作法残所無御鹿梧済、公方様御機嫌不大形昔、従
一門方、
勅復御封顔、
其意張。将又彼地為御目付棲井庄之曲、青山善兵荷被知付候由承知仕候。
日之錦奉書致拝見候。小諸域来廿一民
月
月
若君様去一一一日被遊御元服、
@
其節罷越譜取之勤番可仕之官、
公方様益鐸機嫌能被成御盤、奉恐慌候。当御山無 w
m条、御宮、御堂鍔安全、坊舎町等迄替儀無御康候。
む
。
1
2
5
2,1
9
9
1年
弘前大学教養部「文化紀要 J 第 3
3号第
仰付之官、珍重之制御犠存候。
日
筆致啓上録。
月
日
日
丹
去月廿六
月
恐憧謹一一一口
其以後被成下郷条目欝召之御
然者今度私儀不存容街加増致拝領、御椴之節御懇之上意、払が
御維、
先為御礼各様迄以使札申上候。
什汁打枝橘郷銚子提大高檀紙被進之候関、
猶斯後喜之持怯。
御太刀御馬就進献之為上使上杉伊勢守樽奏衆迄罷越道上之幌処、献感不斜之由御康候。
御園縛年自鰐茶被下之、其上四位侍従住叙爵腰物御罵弁
公方様告御機嫌能被成御座候宮、
⑭
⑮
⑮
2,1
9
9
1年
弘前大学教養部「文化紀要 j 第 3
3
時第
1
2
6
公方様縄愛情之段、乍恐奉推察候。思玄、為奉窺御機嫌、以飛札串上候。
月
一筆務上様。紅葉山錦宮、
月
者{病弊為看病被下御暇、
手
狭山鍔序之刻可然様御執成奉頼設。恐檀謹一一一一口
月
殿無期条之旨珍重候。
日
ム
自
ふ寸 J
山山
乍
日
日
恐連議自出度奉存候。依之各様迄呈愚札候。
舎
事
2,1
9
9
1年
弘前大学教養部「文化紀嬰 J 第 3
3
号第
1
2
7
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2,1
9
9
1年
1
2
8
⑩
ω
委曲。詳かなること。
朝到。天皇が太上天皇や皇太后の御所に行幸し、恭敬の
(ちょうきん)
(ほうさつ)
しゅ う よう)
(
凶芳札。他人の手紙の敬称。
巻子本
ω
である。段落を設け、句読点をつけた。
かるがゆへに、士たる者ハ此術をならわずといふ事なし。
(習)
日斗共に昼夜身をはなさざるハ、止事を得ざる為なり。
其奥ハ唯剣戟、弓馬、 万鎗の外を出す。然 万脇差ハ尊
一
一
写真
礼をつくすこと。年頭の恒例の儀と践俳、即位、元服の後に行われる臨時の儀とがある。
収書。 腫れものの表面が乾くこと 。
ω
注
ω
奉得其意候。恐憧謹言
候問、行列之御先江致参上、束帯装束着之御供可仕之旨
御奉書致拝見候。明廿四日増上寺御併殿江被遊御参詣
ω
写真
日
日
日、小野派一万流由来記
前半部切れているので、判読できると
ころから書き記す。
巻子本の形式であるが内容は記録もの
写真(
2
) 『書謹文法』の最後のー頁。
月
月
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1年
1
2
9
M
t h-
斗
4 L胃袋いみもg
必
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3'
寸h
・4bkvιl恥
l
M4R
U
B-t
J i,
問FhT12・
写真(
3
) 「
小野派一万流由来記」の書 き出しの部分。右の方は切れている 。
抑一万流の根元ハ、大和国において、伊藤一万歳と
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
-
そもそも )
(
仕 合)
(
申て剣術名人の威光、世にひろき人あり 0
2 こがみてんぜ ん) 位
愛 ニ又、神子上典膳といふ人、年来剣術を尋て住所を
(
数)
離れ、諸国を武者修行し、国 々所 々 にて真剣のしあひ七
かの住所
十五度におよび、刃びき木万の仕合はあげてかぞへがた
ねがわく)
(
一万斎に封談し、典膳申されたるハ、数年此
一万斎ハ櫨中に有
に、相手の両手を打落され候に、向の万の切土厳仁落
十五度目の真剣の仕合の時、弐尺 三寸の万にて被致候処
此仕合の時より脇差一尺五寸と定 ら れ候 。 文、典膳七
てうやまひ、あつく礼して師弟の約を成し被申候。
(
敬) ( 厚 )
度に及といへ共、典膳一度も勝れざりしかば、則座を去
し薪の焼さし、長一尺五六寸計いるをおっ取て、仕合数
に定し時、典膳ハ木万を以て立向ひ、
万斎も承引し、望にまかせ罷るべしとて、 すでにしあひ
仕 合)
(
ば、御門弟と成て当流の奥義をも承度旨被申候。依之一
術を修行し廻固いたし候 。 願 ハ稽古の程も御覧に入たく
に尋至り
いよノ¥執行し、大和国一万斎を聞及びて
し
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0
れ候。
て少し当りたるゆへに、
寄ルべか
刀斎
まとひ、ぜん
怠りさらになし。
なく相極たり。
万斎付
赦免成がたし。
にして、剣備の執
によっ
万斎被申按ハ
の奥犠両人共
ハ行方知らず。
多年の深望をかなひ、歓
の仕合に、ぜんさうたれ様。別問神子
(差口鬼)
の仕合勝負にのて赦免可有由被申張。依之、揺命も
だしが
刀斎
喜 不 斜 。 夫δ
に縫の告宅
(わずか)
ハ当流天下に流布し、武士の重一宝となさしめ
神田旅篭簡とい
一流一万根一兆神子上典籍、懇望
武州、江戸
住居し、
(看板)︿とくはこならず)
いふ勘判を出し置かれ張。誠成かな、穂不弧とハ
(おりふし﹀
ニて勘兵衛鍍申候は、旅
の懇術を心みむとおもわれ候。折節神田駿河台の小畑勘
︿紙約紋﹀
へ尋、
流の勘判を出し候神子上典膳といふは
て、右
電町に天下
(いずれ﹀
設等宅よれノ程近候題、
へて、
いたさず候、
るよし
られしかば
神聞旅篭町、この宿所を尋行かれ候所に
んと被申繰請に、向も可然出詮犠して、期勘兵衛翌朝米
典膳唯今起た
被申繰得ハ、
いやつれ
ニかくれ無
て、手づからやくわんニ米を入、
して心静一一済して被串けるハ
て候ヘパ、真錦、刃引、木万
刀斎初て輿膳と仕合の
解心次第にまかせ候と被申候。勘兵衛木刀ニて致し可申
とて中太刀おっ敢立れけれパ、
に成可申と約
尺五六寸の木を以て仕合度々に
以後右圏合の索中
(一談)
勘兵衛一度
ごとく、櫨中の壊さし
及ぶといへ
束し
御代は台欝腕秀忠公の御時なれパ、大坂表におゐて武
c
寸
ハ、典膳
︿徳川)
し
亙
ノ¥
小畑勘兵笥兼て盛ハ膳を関及び、序一一も有ば、か
wt
典
轄
i
辻
上
と
の詰まれ有錦旗本大久保彦左禽門、横田沢助兵缶、長
坂血鑓
て
も
、
ノ1
知
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1
(いずれ)
何も師と御たのミしかるべきよし被申候由、此衆中見聞
及たり。大名旗本弟子ニ成て典膳の名天下にかくれなし。
漸々秀る。
11
r
(問
月
十
五
泉
呂
田山
安保
真治
郎
定
(
4
)
経
)に諸説による経歴の概略を述べている
写真(
4
) 「小野派一万流由来記」 の最後の部分。
其頃山上大蔵と申人有。剣術の達人とて世にほまれも
てなしたる人なり。典膳もかねて公方の達上聞にけれパ
為 上 意 と 大 蔵 、 典 膳 両 人 真 剣 の 仕 合 お ふ せ 付 られ、則江
(仕合)
城 の 追 手 下 馬 さ き 一一おゐて 、もがりが﹂置、四方張番を置、
其 内 ニて の し あ ひ 、 典 膳 勝 て い よ / ¥ 世 上 に 誉 高 し 。 則
秀忠公より典膳を被召出奉行拝領し、御簾本にはいくわ
己吉
し、小野治郎右衛門と家名を改られ候。今一万流ノ元祖
年
五
今村嘉雄著﹃日本武道大系・第二巻、剣術士乙 ﹄
是なり。
九E
伊藤一万斎 。伊藤 一万斎景久のこと 。 一万流の流祖。
費
一
が、﹁生園七
、生年、経歴、没年、終鷲の地等、いずれも
信恵すべき史料が見当らない﹂としている。
ω
注
暦(
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2
神子上典躍。のちの﹁小野治郎右詣門志明﹂である。伊藤⋮刀斎景久に学び奥義をきわめ、文様二年五九一一一﹀徳
しい。
ぜんき。普患。伊藤一万斎景久の弟子。神子上典態との勝負については£塑畳一不法﹄(な諸問誇誠一ハ噌)に詳
(一一行部川人材九﹀小野派一刀流の祖といわれる。
川家農に一一百石で召され、徳川秀忠の剣法の姉となり、小野姓に改めた。寛永五年(一六ご八)十一丹七日江一円で没す。
ω
ω
刷機田沢勘兵籍。不詳。
仙大久保彦主衛門。︿一五六O i一六三九﹀
副長坂胤鑓。長坂血鑓九郎のことと患われる。(!一五七二)
的小難勧兵待。小播勘兵鑑景則(景憲)(一五七一一!一六六一ニ)後に小野治部右衛門忠明の弟子となる。
(かみ'ニ
しい人々の簡で尾いられた。
︿
次
﹀
山間紙子。紙で仕立てた衣服。厚手の和紙ι柿渋を塗って乾かし、もみ柔らげたもので詮立てる。安備なので近世では貧
間山上大蔵。一小群。
成由保治部定経。
側もかり。虎落。竹を箭かいに総会せて縄でしばった橋、信一担。
ω
解説
明についての記述を意臨しているようである。ただし内容は、確実な史料に基づいているとは普い難く、むしろ物語性が強い
1、一万流の創始者は伊藤⋮刀斎景久であるが、本資料では、とくに一万斎禁久の弟子・神子上輿膳、のちの小野捨部右衛門忠
記述が多い。
例えば、本資料では、神子上典膳は徳川秀忠に召し出されたとあるが、今村嘉雄は寸文様二年(一五九一ニ)穂川家康に一一百
U
) では、典襲か
石 で きοれ、秀忠の師となり、小野姓に改めた﹂としている。︿町一⋮⋮14一九一一一一一)また吋本朝武芸小伝﹄(叩J
ら剰の指導を受けた秀忠が、その精妙なる剣者賞し﹁詳の字を賜ひ、忠明とはすす Lとしている条を見務している。本資料は宝
に関心のあるものは第⋮に採りあげるべき警と云われているにもかかbらず、これを採りあげていない。
暦九年二七五九﹀の作げであるが、﹃本朝武芸小伝恥は天道流日一息繁高により享保元年二七二ハ﹀の刊行である。当時、武誌
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3
(幡)
2、大久保彦左衛門、横田沢助兵衛、長坂血鑓、小畑勘兵衛は同時代人ではあるが、本資料にあるように四者談合したという記
人であったことは事実で、一万流伝系にこの事が一不されている。(ト削 141
川
崎
。
一1
ι 時﹄)
述の事実は信じ難い。著名な人士を挙げたに過ぎないと思われる。ただし、小幡勘兵衛景憲は小野治郎右衛門忠明の門弟の一
3、伊藤一万斎景久は、自ら寸一万流 Lという流名を使わなかったようであるが、小野治郎右衛門忠明以後、この系列の流名を
ともに門弟中随一と言われ、印可を許されている。この系統を小野派二刀流寸津軽系 Lと称され、笹森順造を経て現在笹森建
とくに寸小野派二刀流 Lと称している。津軽弘前第四代藩主津軽越中守信政は、小野派第三代同治郎右衛門忠訟に学び、心技
L
L
ほしゃと=つこう口ょうごく
が小野派一万流の寸払拾万、高上極意五点、立合抜万
冊子本
授之書写ス
で、寸第一七代宗家・笹森建美
L
の剣技を門弟を従えて
美が継承している。平成元年ご九八九)八月二十七日、弘前市立体育館で行われた寸弘前市市制百周年記念・日本古武道弘
前演武大会
演武披露している。
写真同
ロ、﹃剣術心法神妙録﹄
表紙
文化六己巳年
剣術心法神妙録
一一月吉日
写真(
5
) 『剣術心法神妙録』の表紙。
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1年
l
34
剣術心法津庵之神妙録
⑦本心妄心
⑤電光石火機
③理事修行
①無明住地煩悩
⑩臆無所住而生其心
⑧有心無心
⑥心置所
④間不容髪
②諸悌不動智
写真附
⑨水上打萌童子
⑫前後際断
箇傑目録
⑪覚放心心要放
無明住地煩悩
渡らず、ふり上る太万を見るといなや心を卒度もとゾめずして其僅つけ入て向ふの太万に取っかバ、我方へおっとっ
(振)
万を見るに、見る事ハ見れどもそれに心をとゾめず、向ふの打つ太万の拍子に合せて打ふとも思はず、思案分別にも
パ、向ふの太万に其偉心が止り候て、手前之働がぬけ候て向ふの人に切られ候。是を止ると申べく候。向より打ツ太
心の止るを申候。剣術之上にて申さパ、向より新る太万を一目みて其偉そこに止り、向より伐る拍子に合せんとおもへ
(き)(思)
事候。五十二位之内、毎々心の止るを住地と申候。住ハ止ると申儀理にて候。とゾまると申ハ、何事に付ても其事に
(
止
)
無とハ、あきらかになしと申文字にて候。迷ひを申候。住地とハ、止位と申字儀にて候。悌法修行に五十二位と申
写真(
6
) 『剣術心法神妙録』の書き出しの頁。
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5
出(かえっ)
て還て向ふを切る刀となるべく候。禅宗にハ
(把)しじ
λ
是を還て地鎗頭を鰐に科人を切る
る万を我方へおっ敢て、還而相手を切ると申す心にて録。親衛之上にては、無刀の
からうつも、右からうつも、打つ人にも打太万にも拍子にも卒震も心をとヌめパ
ι、むを取られ接関、
申張。敷に、むを置けパ敵に心を取られ、我身に心おけパ我穿
も
(れ)
て銭。梯法
ハ批の止る心を迷と申候。
にでハ
ハほこにで幌。人
のやうに無性主
って識をくひ出し、眼をいからかし、傍法をさまたげん悪露を降伏
うごかぬと申て
法
ともとゾまらぬ、むを不動智と申候。
弗
イ
あた(じ)
一切の迷ひをはらし、期不動智を明め侍れパ、我身
に見せたるにて候。一向之凡夫ハ見て恐れをなし、傍法に雄をなさん
ι泣き人ハ不動智をを表したると心をきとり、
{穏)
ノ¥
あのやうなる盗なるか。何国の世界にかくれて麗られ競一一てハなく候。形ハ悌法守
智
轄をば此の不動智を排とし
立
さとり
ら
に心を蓋くも初心の関の事なり。太万に心をおけパ太万広心を取られ、
ひ (4)
か耳太刀に、むを置けパ夫に取られ様。これ我心のとゾまり
と
に心をとゾむれパ物切に、むをとられ、物毎に止る心をうごくと申候。物を一目見ても、、むを止めぬを不動と申額。なぜに
(何故)
yめ ぬ 事 な り 。 物
不動明王と串も入の一、むのうごかぬ震を申候。我心を動鋪押せぬ事にて候。動轄せぬとハ物に、むをと -
則不動明王なる程に、此の、む法を能々修行したる人ハ、悪魔もなやまさぬぞと知らせんが為の不動明王にて候。然パ、
お
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なれパ
物に心が止まれパ
f¥に動き候。止まれパ動き止まらぬ心ハ、動いでしかも
の分別が胸に候て、心いろ
(かき)
跡を捨て傑
太万宛太万を入るに、
一太万講読して勝に心を止めず、
動かざるにたとへ八十人して
十人に十度、むハうどけども一人にもとゾめずパ、そこノ{¥へ取合て働きハ欠串
(欠)
人の打太万を諸説べけれ共、二人して
ハミ十人ながらに畿をか﹀ぬに
の前に心が止まらパ
の手が一も
ι立 候 。 観 音 と て 、 身
鉾を持も有、郷を持たるもあり、議々僻入候。若弓を取る手に心が
にもを止めぬゆヘ
てと入にしめさん為
るさ
1、
'.つ
まじく候。若又、
に立間敷候。
ι、弓を持ぬ
ハ手が千御入候
パ、九百九拾九
ひとつに千の予が侭としてあらんや。不動智が開け候得パ、其身に手が千ありても皆用
﹀にて
巌パ一本の木に向て、其内に赤葉管ツを克て岩れパ鈴の葉は見得ぬなり。葉ひとつに目をかけずし
それ
E
とつに心をと
筋に身
ぅ 落
てる
J¥
1:
1
もへ
りたる形に
/¥
マ
ノ
然
を
て只一本の木に仰となく打向見れば、数々の葉残らず見へ
}とか
千
向の凡夫ハ、口ハ
く
お
の観立日に
ぬ!マ
の所に心がとゾまり、人を打んとすればとやかくして、却話人にうたれなどして殊外不自由なり。
ぷの
よび申接。あ
入位
がへ
たる入は
F審
観が何しにあらんと絞る
ま住
に心をとゾめぬといふここ
を
の摂がまします宴に難有と信じ様。又なま物知りなる人ハ⋮身に千
U
し
構て
J¥
不
も甜,
γf
子
へども、極る所
る地
事(])
な
J
にてもなし。破るにもなし。道理を能得心ノ上に
ずの
(
斯
﹀
主権
止の道彼ノ道様々
者二
宮主
宍 i
宅
身持太刀の取様、心の出所、
と フ
じ
れ
ハす事に諸道共にか様の物にて様。神濯など別して其の道理に
よ
物に表し
も部
る事
雪性
︿同級)(悪)
持り
又拝やぶるハ猶あしく候。
の
始 I
はは
身叩
りのま﹀
知
ハセたばかりじて、何の、むもなし。然る所に様々
J
.
L
島
心の落着に
パつい
、
f
時(8)心
J¥
ノ¥
夫
く拐
少
し
物
銀
箔
九
~、
り
(
7
)
ツ
羽白びぬれば
御
ノ
ミ
て
申扱
メ俗、
i
鹿
{
長
なー
は
子
細
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3
7
一の初の低き一越よりかぞへ候て、上無の高き調子にゆき候へパ、
一と十と
一の下と一の上と隣
一から十迄算へまハせパ、
かぞ
如斯不自由なる事を、 日 を 重 ね 月 を か さ ね 稽 古 す れ パ 、 年 を 経 て 身 の か ま へ 、 太 万 の 取 様 も 皆 し ん あ い に 成 て 、 初 の
写真川
ヒキ(いつこつ)(数)(かみむ)
何も知らぬ何心もなき時の様に成り申候。是始と終とは同様になる心持にて候。
ハ隣に成申候調子なれども
に成り候。
園園
(低)
『剣術心法神妙録』の「十二調
子」の「園図」のある頁。
写真(7)
調
子
無明煩悩と後の不動智をひとつに成候。智恵働きの分ハうせはてて、無心無念の位に落着申候。愚智の凡夫は一向
(慧)
のに成候て、物知とハいへども何も知らぬ人の様に人々見なす程にかぎりも何もなくなる物にて候。故に始の住地の
づっと高きとづっとひき﹀とハ、似たるものに成申候。悌法も、づっとたけ候へパ備も法も知らぬ凡夫にひとしきも
十
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8
なき故に出ぬなり。づっとたげた
石火機
ヘハ、
なま物知りなるによ
パ、人の太万ハ
に心が止り競ヘパ
の出候間ヘハ、
にて様。透問
心に能く納め
さねば成らず候。
にて候。しかれども、事の修行と申ハ銀需の
いらぬになり
重合せ
ヘパ、其ま﹀はしと音出申候。
まらぬ
にも此心あり。欝法にてハとヌまりで物に、むの残る事を嫌ひ串候。故にとゾまるを煩悩と申
た て き っ た る 車 問 へ 手 玉 を 流 す や う に 、 波 に の っ て ぽ つ ノf¥と 流 れ て ち っ と も と
刀たるべく張。
聞が出来候。其の聞に手前の犠がぬけ申録。向の打太刀と我働との問ヘハ
て出るものにでハなく候。批のたとへにて張。入
椴パ手を詰った
ツハ車の一掲輪のごとくたるべく候。
理を知り
てハ何もとり島へず、只一心
へ出申候ておかしく候。
ハ右申ごとくい
総(構)
甲銭。身かまへ一一
(くら)
心
部
く候ても、現の極る所関く候ハゾ成まじく様。
足 身 C稽古いたすべし。
もなく候と用事に
間に髪を容ずとハ、懇衝にたとへて申セパ、聞とハ、物を
の
り
上
ノ¥
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3
9
(心得)(悪)(早)
石火の機と申は、是も前の心持にて候。石をはたと打ツに、打といなや光り候。是も心のとゾまるべき間なき事を
(奪)(思)(設)
申候。かやうに申候とて、又早きとばかりこ﹀ろえ候ハあしく候。心を物にとゾめまじきと申ハ専一に候。はやきと
(設)
申心のとゾまらぬ所を申候。とかくと yまる心ハ敵にうパはる﹀物にて候。又早くせんとてきっとおもへもふけ候へ
(家)
(人)(間)
ば、其思ひもふくる心に心をとられ候。
西行の歌集の内に
(えぐち)(ひとり)(止)
心とむなとおもふばかりぞ
(止)(思)
世をいとふひと﹀しきけパかりの宿に
(田山)
と申歌ハ、江口の遊女のよみし歌なり。此の歌を剣術の極意となして、我と濁得心セられ候ハゾ然るべく候。心とむ
なとおもふばかりぞといふところへ落着あるべく候。禅宗にて、いかん是悌と問候。聾のいまだ終らざるに手をはた
(機)
と打べし。又いかん是禅と問パ、挙をさしあぐべし。 いかん是悌法の極意と問ば、其の聾のいまだ終らざる内に一枚
(移)(移)(尊)
の梅花となりとも、庭前の柏樹子となりとも言べし。云ふ事の吉凶をえらぶにてハなし。止まらぬ心は、色にも香に
(稲光)
もうつらぬなり。此のうつらぬ心の体と神とも悌とも云たつとむなり。禅心とも至極とも申候。くど/¥思案して後
にいひ出し候へパ、金言妙句にても住地の煩悩と成申候。石火の光と申も電光の機と申も、ひっかりとするいなびかり
の際に働くを申候。鍛パ又右衛門とよびかくるに、 おっと答ふる心を不動智と申候。又右衛門と呼かけられて、何用
(迷)(慧)
にてかあるらんと思案して後に何用にて候など﹀いふ心は、住地煩悩にて候。然ば、又右衛門と申者心得様にて、止
(ふたつ)(ふたつ)
りて物に動かされ、まよわされたる心を無明住地煩悩とて、凡夫にて候。又右衛門とよばれ、おっと答るを諸悌の智恵と
申候。然パ、悌と衆生と二なく、神と人と二なく候。此の心の明かなるを神とも悌とも申候。神道、歌道、儒道とて
道多く候へども、皆一心の明かなるを申候。しかれども、 かやうに書付申候事も、只詞にて心を講釈したる分にて候。
弘前大学教磯部「文化紀要 j 第 3
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1
4
0
此の心人と我身
き事ども
のわざにて候へども、此の心いかなるものぞとさと
火を能く説ても
家にはなれ悶をほろぽし
むる人なく張。世中に
の上に出て可申候。
にしたがっ
﹀ろを講釈する人は喜べ
の火を鯖ルでならでハ知申さず候。
く娯へども、明らめ候人ハまれにも有べからず慢と見及申候。たま/¥明らめ知り繰ても、又行ひ候事成りがたく候。
口ハぬ
此の一心の明らめやうハ
といへパ、
も、傷法
の段より見れパ、隣の下に持込て館所へやらぬといふハ
︿何処)
て
によって
の日、我心をとかく斡
に心をとられ、敵を切らんと忌ふ所に心を置けパ我太刀に
人の構我構いづれにも置所にとらる﹀なり。 とかく心
(かまえ)
くに置うぞ。敵の太万に心を置けパ
講釈したるまでにてハ
心をと
尤さもあるべ
へやるといふにも、 はやとゾまるによって、こ﹀ろを腕制下におしこめて絵所へやらぬ様にして、
転化せよとい
べく候。
にあらず。それハ修行権吉の時の位なり。敬の字の位なり。又、孟子が放、むをもとめよといふた
(かさず︾め)
ハ別に書進し候。
いふて、短箔記
もぞ
段低シ。
り。立の詰って向上の段にてハなし。敬の字の心持なり。放、む
(かけ)
る﹀。とにかくに、此の心の置所なきなり。ある人の一一一一口。恕ハ識の内にいづく
全
ハ皆患が腐るなり。然るときハ
ど詰鉢
こぎに
目に、むを置パ
行
渡
り
て
パ右の用が
ばお
ふとすれパ、押込む心記こ﹀ろ
に心を可置。
にもな量そ。どっこにも量か
し)~
携に止るこ﹀
々
る
所
て
も
日 、 口 、 い ふ 所の
な下
しま。
で故
行に
疲りて、心のいた
(力)︿叶﹀
入。
じp
に、りきみもなく働て、即千手観昔、不動明王の位にも我が身かなったぞ。
な有
なて
り大
と心
此
の
d
弘前大学教議部「文也記饗 J 第 3
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1年
1
4
1
限らず嫌ひ中娯。心をどこ
べし。
とゾめぬ
(広)
ハみるこ﹀
にて候。此
れ修行なり。
(回)
かたまり
るや
ハ、右の本、むと同
の心になりて水
にで候。是も、むをとゾめぬにて候。
心にか
に至るまで
に心をとむれば、 見れども見
(止)
何事
れ申さず棟。其の氷解てからハ万
本心は水のごとく
て本、むを
しにつろがりあるなり。妄、心ハ
パ鈴所へハゆかぬものなり。
おもふ、むなけれパ、全斡に入り詰まってあるぞ。敵の働によって、首位々々
、むを身の内
日疋に
一所へか
とゾめぬを申なれソ。とヌめねパ
ふが眼なり。肝要也。可おめ々
へハ諸事の
まりくる心にて候。
にて候。本心と詰
本心妄心
用て総を捨て止むべか
心をどこ
妄心と
り。故
ハ一ツなれども、永になりてハ
になして
ハ、民右申す妄、むと同時にて候。
なるハ
ハあるものに
かふ時出て用を叶るなり。止心ハ脅ぬぞ
に犠心をちゃっノ¥と跡へ捨、⋮児
へず、喰へども其の味を知らず候。伺ても其の思
身に、むを捨置パ、持にでも尾
ところがなければ心に何もなし。例も無けれパ無心
一方へ思びつめたるところあれパ、分別思案が金ずる程に、有心の心と申様。無心
有心
きる詰どに、妄心を能く解かし
たる妄心は永の如くにて張。
にても
にハそ
へず聞けどもさ
﹀つに
時
ハ何となくひと
の位へ至るなり。急に其の心にゆかんとすれパ、もはやそれに心がとゾまりて一一闘に
く
くれパ
ハふくべ
ば
う
AF
の業をするに、 しゃうとお
る事に心がとゾまるなり。然問、此の文ハ止る
ト
へのき、何としても一所にとゾまらぬものなり。本
り
花もみちと見る心が生
のとずまらぬ諸道の名人と申候。領法とハ心の止るところから
ぬなり。又、心を生じてすれパ
て、むを生、ずべしとなり、其の事をしなが
の歌に
輪廻もこれよりおこり候。止る心を生死
そこにとゾまちぬ事肝要と仕接。
柴の⋮pに匂はん花はさもあれよ
詠めてげりなうらめし
ノ¥
いたらぬぞ。歌に
つ
思ハじとおもふも物をおもふなり
ひ
にとゾまらぬごとくなり。
ノt
ヘパまさに柱する所なくしてしか
付け同
)ρhυ
ιふくべの
っと脇へのき、
ノt
おもはじとだにおもハじ
水上に萌童子を打ツ。
へ投て押せパひ
じながら
執着の
もふ心が生ぜねパ
此
心に至りたるハ、此の水上
ρミ
2,1
9
9
1年
弘前大学教繋部「文千七紀要 J 第 3
3
号第
1
4
2
弘前大学教養部「文化紀繋 J 第 3
3号 第 九 1
9
9
1年
1
4
3
(匂)
、執着したる心をうらめしとなり。
ι心をとめぬを至極とするなり。敬の字を主一無遣と註をいたして候。心を一一所に敢り定めて齢所へ
花ハ無、むにに誌ひぬるを、我ハ心を花に止めて詠めけるよと、我身の色
とも関とも
にてハ
(ときたま)
れぬやうにするハ
邸
中
⋮
適
心不乱と説玉ふも、此の敬の字
此の敬白の
勺
え
h︾
、
し
り抜いて切るとも切るかたへ心をやらぬを敬といふなり。尤肝要なり。
るべし。
の、心ハ
にも心ハないぞ。
マ
ノ、
(取)
とらぬやうにす
﹀、なとゾめそ、
久てご
うたる﹀我も空なれパ、人も人に
かりとする内
いぞ。かゃう
ひ
J
さぬやうにし、やらぬやうにして、
のやなり。
不乱と開犠にて候。然れども、梯法にてハ敬
いまだ誇一行種古の位にて様。此の稽吉、年月積りぬれパ自告なる位へゆく事に候。
上至極の位にて候。敬の字の心ハ、心を絵所へやるまい、 ゃれパ乱る﹀とおもひて卒度も油断なく引つめ
て
、
つ
鎌倉の大貫禅師、大唐の乱に接ハれて切られんとする時に、弾訴の須に目、珍重大元三
ノ1
つながれたるごとくぷしてハ、用が心のま﹀になるまじく候。只猫
り。常にかくのごとく吾てハ不岳由なる儀なり。毅ば雀子をとられじと猫の
るに
や
,
>
'
J¥
、
ノ
きぬ
るが憲無所住市生其心の文の心
し
ユ
手をわすれて打て人を切れ、人に、むを重な、人も空、心ハ止められまいぞ。
剣
術
はしりたるとなり。大覚の心は、太万をひらりと振上たるハ電のごとく迄に電の光りとする
いぞ
切止まらぬ心なり。
られたれパ、
く
向
殊
と
と申さ
て候。舞をまふハ、手に扇を取、
セウカウセツ
高河の主しなるに其の心あしき道へ
(あるじ﹀
椴パ犬猫鶏な
とゾまるを伺と
る人を尋求て我身へかへせと申心に
らずしてする新作ハ
(出)
其の手足を能せんと一扇をよく舞んと思び候をわすれ去らねパ上手
に張。
いまだ手足に心がとゾまらパ我面白かるまじきなり。
覚放心、む要放
求放心とハ
へかへすごとく、やは
部康節ト申者ハ、 、む設つべし
ゾまらず、
シ︺ゾ宇品ハノ
尤、求めかへせと申ハ、是いま
物に心が能くしミたがり、
(染)
り獲になりて檎かれぬぞ。物に
し捨量けとい
えつめて室てハつ
断ハ切る
にして、 いづくに
いふたる、むなれソ。
(間)
E
(
染
﹀
もしま
話後のあいだをき
での修行肝要
て誌なせ
﹂﹀ろ
咲出て隠逸なるものにて候。よくみがきたる水晶
去程に、泥の中ト '
U
かへせ
ら
どを放して、齢所へゆけパ
(染)
(問問)
又いたりてハ郁康節が心ハ
入てもしまぬものにで候。かゃう
にて候なり。
す
てかへきぬぞといふ義なり。かやうにあるべき儀なり。
側(使)
るやうに間へ申候。
をとゾめ
前後際断と申す事候。環ハあいだ
の時ハ孟子が
の玉ハ、
だ初、心の位にて候。蓮ハ犯にしまぬものにで繰
(染)
たがりする記よりで、しまするな、とゾまらすな、我身ヘ
(染)
なをうによくつかひなして、いづくへなりともおっ
ノ¥
2,1
9
9
1年
弘前大学教養部「文化紀要 j
1
4
4
2,1
9
9
1年
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3
号第
1
4
5
こ八O九)
文化六己己年三月吉
戸田茂太夫
授之市
書写ス
たもの。順次に十信・十住・十行・十回向・十地・等覚(正
注川五十二位。求道者(菩薩)の修行の段階を五十二に分け
し、智慧がまどかに具わった位)をいう。十信から十回向
しいさとりに等しいさとり得た位)・妙覚(迷いを滅し尽く
までは凡夫で、初地以上から聖者の位に入る。十信を外風
と名づけ、十住・十行・十回向の三十位を内風(または三
¥中村元﹃悌教語大辞典﹄
J
賢)と称する。大乗の、仏たるに至る五十二の位。
L
とある。
i
t
:
E
写真(
8
) 『剣術心法神妙録』の最後の頁。
ω
L
何もとりあへず。原典では﹁何も取あはず
である。
L
としている。﹁取あはず﹂の法が表現が正しい。
側十ニ調子。原典には本資料にあるような﹁円図﹂はない。図で示した法がわかり易い。
川間太万の取様も皆しんあいに成て。,原典では﹁太万の取様も、皆心のなくなりて﹂としている。
術﹂の読は一度も使わずすべて寸兵法﹂としている。
附剣術に申べく候。原典は﹁貴殿の兵法にて申すべく候﹂とある。﹁貴殿﹂とは柳生宗矩のことである。また原典では﹁剣
間千ノ眼が何しにあらんと破るなり。原典は寸千の眼が何しにあるらん、虚言よと破り謙る也﹂と表現が丁寧である。
刷二人しての時ハ。原典は﹁二人めの時は
川間臨をなさんとおもひ。原典では寸仇をなさじと思ひ﹂となっている。﹁躍をなさんとおもひ﹂では意味が通らない。
おっとって。原典には﹁もぎとりて
、
智恵。原典では﹁智慧﹂。惑いを断って、さとりを完成するはたらき。(一刻一⋮トサ教)
/東京書籍・一九 八七
ω
ω
j
i
l
i
跡を捨て跡を捨て候ハパ。原典は﹁跡を捨て跡を捨ひ候はば﹂となっている。
守z
f
ω
.
.
'
.
2,1
9
9
1年
弘前大学教養部下文化紀要 j 第 3
3
号第
1
4
6
ω
ιてなれば
剣術のよにて場候。﹂純一搬の兵誌
L
L
となっている。
として﹁一、身構。二、手走。一工、太万﹂を挙げ﹁右之一ニケを以初学の門として是より学び入べし
帥三簡九筆。原典では﹃五箇に一宇のいとなっている。吋柳生新絵読兵法によれば、
﹁三学
る
。
L
としてい
また、﹁就一一一学又五ヶ之習しとして﹁一、身を一重になすべき事。て敵の拳を我肩にくらふべき事。一、我拳を楯に
ニシシ
L
としている。
からの引用である。
o
については二、必勝。⋮、逆紛糾。一、十太刀。一、和ト。て捷径。一、小⋮抑制。一、大詰。一、八重握。
︿かはく)
つくべき事。一、在の紘を延すべき事。てさきの膝をもたせ、あとの藤をのばすべき事。 Lを挙げ﹁二一学之初年、是は
L
かまへ也﹂としている。
﹁九欝
レ
挙げ﹁名師弟立相以願之、書語難題之
L
L
剣衝にたとへて串セパ。原典では﹁血草原の兵法にたとへて申せばしとなっている
一、村雲
MW
L
m
w 可秘々々。原典には﹁可秘 の語はない。
お う む Lよ じ 申 う む し よ う ご し ん ま さ
腰無所銭高生其心。躍に住する所無くして其の心を生、ず。﹁金関経
MW-
ιけりな壌めしの世や
がめ
とある。
大覚禅蔚。謀議︿では﹁無学禅師 。
L 鑑小学は号。もと中岡京代の人で祖元という。北条時宗の揺さで弘安一一年
L
ο
L
と称している。これは例えば柳生新陰読の伝書﹃兵法家缶書
L
七九)
間柴の一戸に暫はん花はさもあれよ、一詠めてけりなうらめしの身や。家典では﹁柴の戸に匂はん花もさもあらばあれ、な
MW
の語は一度も使わず、すべて﹁兵法
L
の一拍を用いたのと同様である。﹁兵法
L
L
の他は特にない。しかし
は﹁餅術 Lと阿義一時というより、もっと広い意味を表
吋新除流兵法案F(
月
一AM十時点寸叫んトJ や吋兵法一一一十五舗条恥(一はJ川市待問寸)吋五輪書﹄(一一4J44枠制球一
を用いず﹁兵法
L
⋮⋮一一期大手第九多﹀
来朝、鎌会丹覚寺の開祖とはる。同九年入寂 ぉ益配仏光禅師。(斗品川Lvu
仰すなをうに。諜典、では﹁染ぬやうにしとなっている。﹁すなをうに L では意味が過らない。
で﹁剣楠
わしていたと患われる。
2、本資料では﹁笛条目録 L として項目を挙げているが、距典に泣﹁無明住地煩悩、語仏不動智
べて、本資料では⋮一言葉の覆い方にかなりの禽略化がみられる。その幾っかを﹁住いに示したが、実諜げいはこの
項目を挙げた方がわかり易く、その故か現代の刊本では、みな項目を挙げている。しかし、ただの説明纏に堕すおそれが
ある。
、
ような例がもっと多い。しかし、全体的には原典の去わんとする所在、いかに理解してもらうかという思いやりからの簡
qd
略往と思われる。
・
4、ただし、掠典にあるつ急水上打穂子、念々不停留﹂と﹁水禁上、火酒雲﹂を全く抜いている。
5、この原典は、本資料を含めて様々の書名をもって武芸者に親しみ読まれてきた。内容は﹁剣の至妙の境培は禅のそれと
L(
諮問雄一川一則J
d純 一 人 似 し と な っ 潅 こ の 書 が 寺 山 家 に 所 蔵 さ れ て い た と い う
一致するという、いわゆる嬬禅一如の思想を多くの事例を挙げて説いた心法論であり、剣禅一知、弓禅一如など、あちゆ
律
﹄
写真※川
冊子本
在
エ、末代マデ其
テ窄撃シ、
ニ障リナキヤウニト思召書置カセ
の東関手/室田ふり一
ブヲ、年経而後如鰐
(一四六九⋮
シヲ、文明ノ項、
異国本朝ノ正シキ理
シテ落散シケン、
部ノ国
表紙及び目次なく、また後半の部分は破損大きく判読できない。
ことは弘前藩の武芸者に読まれていたことの証挺となるわけである。
る武芸や芸能の一つの思想的ル!ツ
吋持品
一⋮横一向内守橘正成、
ロ
徳龍源義直公是ヲ秘蔵シ給ヒ、絹川左京太夫源政之ェ被仰付、文武ノ才アル
(足利)
一、天下ノ武功吟味ハ、
1
3
2,1
9
9
1年
弘前大学教幾部「文化紀要 j 第 3
3
号窮
1
4
7
弘前大学教養部「文化紀要j 第 3
3
号第 2
.1
9
9
1年
1
4
8
ス
。
被仰読、鐸軍法ノ内ヘ入レラレシ告。
、天下分自ノ合戦ヲ成ス
モ如此云也。
一番鎗、
(せりあい)
多クシテ七八人
、敵味方互ヒ
ルモノ告。
惣ジテ鵠ノ強キ
ニ
ム
リ
一
一
プ
へ遊サレシヲ、
︿つわもの)
ノゾム兵ハ、 撤味方トモ
是皆在ヨリ諮拠度々有ル
A
付ケ入鎗、城攻鎗、韓域鎗、
ル事也。
ヨリ鎗
Q
ナリ、己
同
ア
、
ヨリ定如此
ニ七ケ条アリ。鎗下高名、
{押)
敵味方互ヒニ棋形
数万ノ大軍ヲ催ス銀処へ推出シ
山原涯高名、場中高名是也。お十九カ条ノ場数ハ、
乗込鎗、脇太月鎗、脇弓是也。
小返鎗、
ルヲ第一トス
其 ノ 習 ハ 不 可 知 。 去 レ パ 、 数 万 人 ノ 中 ヨ リ 抽 キ 、 鎗 ヲ 品川セ勝負ヲ始ムル
︿ならい)︿ぬ)
ヱ候故、
トシ給ブ故、是ア被召上、街秘蔵アリテ大御所様マ
ヱ門尉源患次
夏目五郎兵衛菅箆志氏ト云
{
絞
一
千
﹀
其ノ項御祖父清藤公、武道ノ
大須賀五郎左衛門平褒高、
︿徳川)(中納言)
(まっさき)
秀忠公未ダ黄門ニテ御坐ノ時遣サレシ夕、忠勝ノ亡キ御前に罷有テ拝見仕リ、
ハ、敵味方ノ
如此ノ道培ハ、数度ノ合戦
カセギニハ、
ニ、末代ノ諺
モ
殻ト鎗ヲ合スル兵五人、敷ヲ突崩ス鎗ハ一人一一極ルト
虎口ノ
ニナ小過モノ也。況ンヤ真先カケ鎗ヲ合セ勝負ヲ決スル
︿そなえ︺
事也。故敵味方侍高人モアレ、鏑表へ出ル兵ハ
ツカヘ
ド
人ノ鎗先一一突崩サレ、或ハ先鋒/四人証人ノ勝負ヲ以テ敵味方ノ数万人ノ
ハル也。其ノ外ハ舟人モアレ後欝
J¥
一町ニ攻メ寄り、弓鉄砲ノ迫合始リツ﹀次第々々ニ
スル事也。第一也。
退口高名、
ル働キ、又四ケ条アリ。
二、其ノ品八ケ条アリ。
両側坤ノ称美シテ、
ホド強キカ
鎗脇高名、
合戦勝負ノ始
、
、
ノ
ヒ
虎
口
(
1
)
ノ
鎗
場
レ
ノ
一、
ヱ
:
x
s
A
弘前大学教磯部下文化紀要」第 3
3
号第 2,1
9
9
1年
1
4
9
残リ少ナ一一
ル﹀故
一備二三十ノ内ヨリ一一一人四人
テ始終堅固一一憶ヘルハ、其ノ功
テモ数
(棋)
ハ
一
広
勇メ、話后左右ヲ下知シ
︿いさ)川知
ハ綴ヲ傾ケ顕クブミハ掠ルモノ也。其ノ時、
︿しころ)矧(こらえ)
ンニナリテハ敵味方共弓、死人将葉樹シノ拒クニ重高、見ル
向フル処ナレパ、
如此ニ働ク兵ハ後迄詠ヘルモノナリ。故ニ必ズ鎗ヲスル者也。
jN
一度ノ鎗ヲ誉ルモ千万人不持進所ヲ描テ進ム
(ほこ)
退口ニ不限、敵味方ノ明キ未ダ十五間モ廿間モアル時、味方ノ藷軍ヲ五関モ七間モ離
(しりぞきぐち)
時ニモ
乍去、其ノ品ニヨワ、散ツカヘズシテ崩ル﹀カ、又ハ其ノ兵、矢鉄砲ノ手ヲ長ブカシ
(のあい)
其ノ者ハ鎗ヲ合スル間前也。其ノ子錨ハ、入ノ進ミガタキ憾ヘガタキ場ヲ入先へ出、
ブハ
ヨリ英雄ト号シテ式士ノ棟梁ト云ブ告。
ハゾ鎗合セペキ吏ハ必定ナル故室。去ルホドニ、城へ取寄セルニモ野合ニモ、カ﹀
和漢共一一
ブ也。
惣ジ
モ己ハ敵
一
一
一足二足一炭テ合スルハ鎗トハ不云、
部粉レモナク合スルヲ鎗トハ去ブ也。タトへ鎗合セタリト云へ共、議味方ノ先勢己ニ鉾交ル
ハ退口
シ、
恐レテ、
モノ也。
アトへ取テ炭シ、踏ミコタへ敵ノ迫ヒ来
ワケモ
ノ
、
ヨ
ブナリ。惣ジテ、
テハ、入ミ
/¥
敵ノ来ダ追付キ其ノ関躍りタ
テ紛レモナク合スル
ノ¥
一、弓鉄砲ノ追合ヒ終リ、敷味方己ニ十七八間ホドニ近付キ鉄砲モ抗ツ事不成ホド
一番鎗之事
J¥
ノ¥
ノ¥
一
一
内
レ
/
弘謡大学教養部「文化紀繋 j 第 3
3
母第 2,1
9
9
1年
1
5
0
少シノ
ア
。
眼モ直視無相ニナリ、他夏ヲ忘レ互ヒニ念勢ヲ唱ヒテ足ヲ踏ミ脱ミ合ヒテカ﹀リ兼ルモノナリ。
敵ツカヘズシ
ブ
。
敵味方ノ
叩
プ
一間二間モ遅速アラパ一番二番ト分ル也。是ハ
テモ七八人ニテモ是ヲ鎗ト号シ本ノ鎗ト云ブ告。五六人七八人ド
只鎗トパカリ一五ブモノナヲ。知批、離味方ノ推
進而鎗冴ノ打込ミ合戦ヲ始ムルヲ一五ブ。故ニ一番
ノスハ
向ヒ居ル虎口前ノ鉾ニ診テ、関ノ兵唯一入、味方千二千ノ中ヨリ抽ツ﹀
面モ不震懸リツ﹀鎗ヲ打込ミ合戦ヲ始ムルヲ、
(あきらかなる﹀
ハスヲパ
ノ真先中ニテ醸成鎗合八、潜以テ諜キ鎗也。
一人一一不限、七八人一一テモ
〆,ノ
人トモ
w
ヲ 'F
、、、
ナラパ証人、七人ナラパ七人トモ
惣シテ
カ﹀ル
五人六人
一番ト不一五。乍去、
パ不論、只髄ヲ走出ル所ノ遅速ヲ以テ一番二番ヲ分ル也。勿論一番ニ進ムガ一入ナラバ其ノ一入ヲ
ガタキ故一一、
シ
カ﹀ル
付ア叩ブ
一番一一進ム兵ガ敵一一突返サレテ敗軍スルニ、績ク兵ガ入代リテ、 シカモ二人一一一人一
一人ニテモアレ又ハ鍾モムロハスカシ鎗トハ
番
百敵ヲ支へ止メ、始終踏ミコタ工、鎗ヲ仕リ、惣軍ヲ引付ケ勝負ヲ決スルハ、是ヲ鎗ト号シツヘ
サレテ引退キタル兵ハ
番
ツゾク兵ハ鎗トハ不云。乍去
一番鎗トシテ、績ク兵五六人アリ共、拝合セテ二番トス。若シ一番ニ進ムガ二人トモアラバ、其ノ輩ヲ鎗ト云ヒ、
ハス
ア
ノ¥
シ、
ツ
ヤ
ノ¥
一日一不堪敗軍スルトイヘドモ、足行ニテ遠私セズ返合々々振リ能ク榔退キニシテ
ア
。
シ
レツ﹀、
付ケ、
レ
ラジ合取テ一炭シ、又鑓合スハ
一一進ム
日
ヌ
レ
、
/
モ
一番ニ進ム兵ハ諸人ニ勝レテ難抽、
(綴廿)
手/
レパ、
、
f
リ。又、
アルベシ。
モ、
ア
レ
リ
ノ、
(かかりぐち)
ノ掛口混乱シテ晃分ケガタクパ鎗トハ
モ抽テ絵レモナ
ム
八人ニテモ、
ア
吋
官。ハ尤ナレド
ル吏モ
一人ニテモ
人
七八人ヨリ多キハ
ブ
。
五六人七八人ニテモ一番ニ績テ鑓ヲ走リ出、同勢ヲ離レテ走リ掛ケ鎗ヲ打込ムハ一
五六人ニテモ
モ一五也。
t
コ
ノ
勝
l
レ
如新ノ場
レ
ノ
テハ
人
不
鍍
アリ。
シノ鎗ト
七八人マヂアミナ
へ止メ、惣軍ヲモリ返シテ合戦ヲ始メ、勢ヒ掛ル敵ヲ突キ選シ、大イニ勝ヲ得サスルヲ大返ノ鎗ト
(盛)
一、味方敗軍ニ及ピテ敵ニ手火疾ク前ラル﹀時、味方ノ兵唯壱入取テ返シ、面モ不振跨ミコタへ、追ヒ来ル大敷ヲ支
少
シ
一、己一二番鎗ノ一入進ミ、推績キ又一人ノ兵掛ケツ﹀一番鎗合ハス所へ績キ護キテ鎗ヲ打込ムヲ二番鎗ト云。又、
レ
カネテタメラウ所ヲ抽テ藷人ニ務レテ進出ル者コソ鎗ナレ。大勢進ムハ何ヲ誉トセン。故一一、一
惣ジテ再軍ノ鉾本ノ鎗場ニテ合ハストモ、七八人ヨリ多クハ鎗トハ不云、惣か﹀りと云ブ。子握ハ、互とニ懸リ
故
又
2
.1
9
9
1年:
弘喜立大学教養蔀「文生紀要J 第 3
3号第
1
5
1
弘前大学教養部「文化紀要 j 第 3
3
母第 2,1
9
9
1年
1
5
2
乍去、退口ハ
リツ﹀、シダル
ト違ヒ、味方ハ
ルハ、骨ヲ折ル
二十告セリ。故
ヒ一一詰メ来ル時、唯
日一追返シテモ又モリ返シテ爵
返合スヲモ
ア。担シ
モニ鎗ト云フ。
人味方安ク引取ラスルヲ小返
一番ニ返合スヲモ
ヘト引退ヒテ、数ハ集ニ乗て漉量一ル放
一番ニ返ス
ラレ、己ニ
ナラパ五人トモニ鎗ト去。
、味方敗軍シテ敷
ハ、五人ナラパ
-ア
A口
ヲ
テモ返合セ
一度
l
レ
五人六人七八人
フ
ハセ、
ス
ノ場ニテハ一人
ヲ
!
取
ハ能キ部場ニテ踏ミコタヘ、大返ノ鎗ヲ合セ大敵ヲ摩ハ鎗ノ根本ト云
(いくさば)(なびかす﹀
ン
シ、数度ノ鎗ヲ合スルハ猶以テ古今稀
、ヲ
テ出クカ、又ハ海ク一度
シ方
シテハ退ケ、又敵追ヒ来レパ
惣
返ス兵ノ幾疫鎗合ハストモ
軍其
ヲノ
ヤ後口
シ
Y
レ
成ル強キ鎗官。其ノ変数ヲ算ヘテ何捜ノ輪組ト一五。タトネ幾人返合セ共其ノ一
ノ番
一番一一返ストイヱドモ、
返味
トスル也。
守義隙
リニ
、蕗モ
ノ
也
ド
八モ
人一
ニ不夜、人少シニテ返スホド手柄トス。況ンヤ一人
、鍛リノ五六人
兵~ニ
シ
手
一一云フ通リ
コ 計か返
セ 返旦シ
シタ
ア
踏
リ
ト
モ
コ
少
タ
E
.
L
>
、
ブハ、味方ノ惣人数ハ不返、只五
フ。大返ト去ブハ、
講止之鎗之変
ヲ勤ケ、剰へ数度ノ鎗ヲ合セ、
戦ヲ始メ、大敵ヲ迫メカヘスヲ云フ官。
フ也。
方
J¥
ケ
モ
味
弘前大学教養部下文北紀要」第 3
3号 第 む 1
9
9
1年
1
5
3
一、味方ハ
ノ時、
(控)
一テ担ル
ノ備ヨリ一
ル一一、ニ
ヶ、鎗ヲ合セ
シ真黒一一
︿ゆる﹀
一間モ七八人ニテモ
ル時、何ト開ノ者
市
(浅さそなえ)
ハナキモノ輩。其
其ノ理前一一アワ。又、
間三間モ張出シ、敵ノ掛ルヲ待受ケ語鎗
ア(
8
)
七八人一一テモ己カ備ヨリ
日ア追行キ深入りシ
ルヲ、又名付ケ
乍去、
(ならび)
一部ニ立双、
師場ヲ堅メ、踏ミコタへ
いくさば)
一四人拍キ相掛ケ一一掛ケテ鐘合ハ
ヨリ二三人少シモ
同シ。
タル味方千二千ノ欝ノ内ヨリ二三人
ハ宜(ノ
タヘテ鎗合ハスト
ブ。若シ敵
一一大返ニ返サル﹀
ルハ横合ト是ヲ名
間モ三間モ張出シ
敵ノ勢ニ掛テ我ガ先慌ヲ追立テ備掛ルヲ待受
ツ﹀、己カ欝ヨワモ
張
出
シ請止メ
待受ケズシテ我ガ先備ヲ追立テ来ル敵中へ、二ノ議ヨ
メ鎗ト
二関モ三間モ
ブ。七八人迄ヲ鎗ト免ス。夫ヨリ多キハ
モ五六人
ハ鎗ト免ス。
(あっばれ﹀
天晴ナル
スルトハ
レ
カ
付ケ、
コタヘ
人一一テ惣軍ヨ
︿敗)
選キ去ルニ、
又、敵ノ出ルヲ見テ、
歎
ノ
自
テ味方ハ勝テ勢ツ﹀追行ク場ナル故、
トテ北ケナガラタ﹀キ合ヒタルハ
タル場ヲ少シモ
又、敵ノ大勢引取ルヲ味方ノ強者
兵共二三人
ニ返サレ
ヨリ多キハ鎗トハ
、敵門ヲ開テ突子山山ル時、門前へ
日
張出シ、轍ノ出ルヲ待受ケ鎗ヲ合スヅ又鎗ト一五ブ。其ノ吟味、野合ノ愈議
ザア鐘合ハスハ
味方ノ勢、数ノ出ルニ白ミ
テ、出ル
敵
/¥
人
テ敵城ヲ取巻ク
以上一一一段ノ鎗ハ
モ
モ
弘前大学教養蔀「文化紀要」第 3
3
吟第 2,1
9
9
1年
1
5
4
スハ、其ノ遅速ヲ分ケ
レ
i
ヘ
又
、敵ノ内
出
人
ブ
シ、ツメイ
二一プハ
出ツ﹀
モ七八人
シコレ
ント掛
一番鎗ト云ブ。寄手ニ
持
ノ
エ掛入リ議合ハスモ同前
番鎗、
テモ
ハスルヲ、付入鎗ト一五ブ也。敵味方トモニ強キ鎗告。
ノ九
ハセツ﹀、涯と
一
一
タ
リ
シ
モ(
9
)
行ク場ナル故一一知薪。域方ハ退口ナレパ五六人トイへドモ、返合フ大敵ノ付入ルヲ突出シタラパ強キ鎗也。
シ、
鎗心持之吏
ハ 尚クシ
O
龍域之鎗之支
タ
レ
ノ
ブ
J
v
レ
カ
一、味方寵域ノ時、域中ヨリ突テ出ルニモ一入抽テ真先一一出ヲ
次第野合一一向察官。節々突テ出ル
付入鎗之麦
レ
モ
其
ノ
後
レ
ノ
レ
ノ
て味方ノ軍勢数ノ域ヲ取巻ク時一一、敷欝ヲ出シ或ハセ
ノ1
シノ受止メ鎗ト同前ノ鎗告。五六人ヨリ多ク付入ニ追込ミテ、 タトへ鎗合ハス共鎗トハ不云。是ハ追
コタへ
J¥
モ
一
一
カ
レ
ノ
京フ。
ラパ、鎗ノ先ハ
モ
又ハ
ト
一挺ノ鋲寵
モ、定出テ鎗ヲ
ブ。タトヘ
ニ心得ベシ。タトヱ
ノ業ニハ申ス
(理)
及ハズ、故
、
回
一
応
一ハアラズ。只其
ハ大敵ヲ突崩シ、支ノ利一一テ
又弓鉄砲モ十人
テ掛ル
制場居ト云ア。
又域攻ノ持
ハ云ア世。
十人射殺シ打殺セド
ヨリ鎗モ
万ノ大敵一一モ不思ル
ヒ、鎗ト云ブハ
互ヒニ引取タルヲ
スヲ
ヘツ﹀、五
二一ア
一人四人ヲ合子トシ、 夕、︾キ立テ﹀
ノ、
鎗場ナラパ
スル所ノ八
ホ
惣ジテ右ニ
其ノ外ハ、タト
ノ場、鎗場ナラパ
シ。又
云タ
ブリ
O
ト
モ
鎗
ハ欝へ域兵ハ城
万
スヲ鎗ト云
錆又、
進ムハ、
ヨリ一番太刀
只肝要ノ所ヲ
テ先掛ケ、又ハ退ロノ太万討ト一疋ブ。品
功ヲナシ、所速キ成ヲ以一プ鎗ヲシタルト。
ヲハ
万吏如斯ノ所持/能ク吟味スル
鎗場度数之官民
タ突
リ総合
モ
シド
レ、
ド
ス
ナシ
ヒニ鑓ト引別レ、
ニテ敵味方推合ヒ追ヒツ返シ
ツ込出シ追込ミシ
番
セズ、数度ノ鎗仕リタル
ブ
トア
ノ¥
ア
遺るヲ
メツ返シツ鎗一一テタ﹀キ合ブハ
ノ¥
ス
ニを第
強ー
ミト
ノ¥
刀
鎗
ノ
度
数
ス
子、五間六間違ミ環キ、追ヒツ返シツ戦フヲパセ
彼C
愛
三
ワ
リ
I
:
tJレ
/¥
先ム
口 ロ
ぷh
出
、
テメ
後ヲ
ノさ云
一師場居ノ中
ノ
推鎗
2,1
9
9
1年
弘前大学教養部「文化紀襲 j 第 3
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5
5
弘前大学教養部「文化紀要 j 第 3
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1
5
6
其ノ推合ヒ掛ル
シツスルハ
スル
ハセズ
シ
セ
野合、域攻鎗心得之吏
モ
Ib/
/
守
、
、
てア
ブ
。
レ
/
也
ノ¥
ヘドモ、
ノム身モ
テハ
辺ノ内
モ廿間モ引退キ
セパ、何ガシハ幾度ノ
司アハ
来ル時取テ返シ踏ミコタヱ、鎗ヲ合ハスヲ一度ノ数トシテ其ノ数ヲ都合シテ幾慶ノ鎗ト云ブ。
~
一劣レリ。
ハ鈍クトモ
︿ふしどころ)(ほうっき)
コ
ソ
タレ。タトヱ
人前持ノ抽テ手始メヲ仕ルハ、志ハ中々無
/¥
ハ一番、
フ。初度一 ハ 一 番 鎗 ヂ 後 ノ 度 二 番 鑓 ナ ラ パ 、 誰 ハ 初 ノ 慶 合 戦 ニ ハ 持 番 鎗 、 後 ノ 度 ニ ハ 何 鑓
ノ
、
一、敵味方互ヒニ野ニテ構ヲ立テ推合テノ大合戦ハ、
番鎗ト去ブ。域攻メ
ブ
。
幾度ノ
G
ノ¥
'
A
V
、
ザ
フ
ぃ
ノ
鎗脇ヲ詰メタラパ一番ヲ合ハセ、其ノ上二番鑓ノ蕗ヅメノ太万一場一一テ再度ノカ
番ヲ合ハセ、剰エ引取テ落シ
一
ブ
パ
フ也。
一番鑓ヲ合ハス兵ガ其ノ場節所ニテ抱突ニスルカ、又ハ、鎗ヲ切折レナドシテ万ヲ抜テ二番強ノ合ハス時ニ
ノ¥
J¥
ヲ仕リタルト云フ
人
ツヘ又、敵ノ
人
一番鎗ハ手話ニ語合ハスニ二番鎗ハ、深入リシテ敵ノ備ノ掴筋へ入レテ一番鎗ト功ヲ争ブトモ、
、
ル故也。
ノ¥
二番八二番ト定メノ如クニ可分。子細ハ一番鎗ノ進ム
ルトモ
シ
ノ¥
構又、
。
ブ
ノ、
ヒ
鑓下ノ高名セパ
レ
ノ
又
又
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1年
1
5
7
ブ。其ノ外ハ
テ組討ヲ佐リタル
鎗脇ノ太万、
シ諮止リ、
是ヲ名付テ鎗下ノ捉討ト云フ。
第五、瓦ヒ
我レ退ロニ
右ノ六カ条ノ内、物克ノ捉討ヲパ
場中之勝負並ピ
、敵味方相封シニ可始、
ルモノ告。
ベシ。
ル丘(一てア
ニ鎗下へ飛込
ル敵ト引捉ヒ詩吟ノ取ル蔓ヲ退口
ブ
。
ヨリ心掛ノ兵五人六人真中へ
有ル事モ
ヰ鉄砲
ジリ/¥ト推付ケ、
勝負有テ鎗ナキ事モ有ルナ
ル﹀持、
ルベシトイヘドモ、敵コタヘズ故、鎗
一一進テ鑓ヲ合セント掛ルトイヘドモ、敵コタヘズ
ハ勝負ナクシ
々ニ近付キ、互ヒ
日ア弓鉄抱ニテ打倒シ突伏セ首ヲ取ルヲ場中ノ高名ト云フ。
一軒三町隔タ
長万等ノ得道口ヲ持ツ追ムロヲ場中/勝負ト云ブ。ゾコ
(奥)(せりあい)
ブ
y
レ
ノ高名ト云ブ。敵コタヘパ持ホド
ソ
。
出
者トモ踏ミコタヱ腕合ブ内ニ、敵味方儲ヲ立寄セ、
テ鉄砲モ静ワヅ﹀
ニ臨ミ、味方
リ 0・知新ノ品ヲ勘へ、其ノ
、敵味方巴
ニ走丹ケ突伏セ首ヲ取ル
コ
第
情
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5
8
ブ
。
}
一
貯
ハセ、
タラ
不合トモ其ノ志ハ再前告。故一一一位ノ高名ハ追討間前タリト雄モ、真先ニ進出ル意地ヲ称美シ、其ノ者ノ規模ヲアゲ
テ崩涯ノ高名ト云フ。
ガラ
ニテハ謹ガ一番鎗ト一五ヒ、右手先ニテハ誰ガ一番鎗ト云フ。
所
鎗場高名之夏
ニ其ノ首ヲ取リタル
ブ
。
一一立ツヲ一番鎗ト一五ブ。
シ、儲ノ端へ掛ルヲ一一番鎗トス。
テ、しかも同場ナラパ
ヲ
是ニ比スベ
モ
(ほこ)鈴
セ
シ、道蕗カ又ハ端ヲ行テ合ラルヲ二番ト云ブ。
轍ノ議ノ鉾へ掛ルヲ
掛
レ
ノ
一、或ハ懸口、或ハ講止メ、 又ハ付入リ、大返シ、小返シノ場ニ一小限、
如新ノ
J
v
タラパ
/、
合ハス手ヲ突侠セ、鎗会ハ
若
、
或ハ又、
人
其ノカセギ
ノ¥
場ノ高名、
ヱ
王
ノf
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号第九 1
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5
9
ニ伺ノ某、
19
レ
イツ
一一入ハ一一人ナガラ
ソレガシ
何某ハ誰カ組ノ
議鎗ト分ケル也。
ブ法也。
ハスル事ハナ
ル事梧壇。故
ニ鎗ヲ合スル
一備ニナラデハナキ法ナリ。故ニ如期/
以上五人鎗ヲ合ハスルト云ブ
︿いおおかた}
コタヱ
ハセテモ勝負不付、味方ハ尚惣掛ヲ
ヒニ強敵一一ナケレパ
ハ多方惣掛リニナルモノナリ。古ヨリ
シ。ヨク々
ル時ノ心得而日
一備ニテモ、ニ入ノ兵別々ノ組下ナラパ、何ガシハ誰組ノ
ハ一番鎗ヲ
一人共ニ鎗ヲ合スルヲトパ
ヘパ今度向田ニテ
鐘場古例ノ変
ハ一番鎗一
(ゃいば)
フ事ナシ。惣ジテ芳ヲ不接シテ崩
テ、シカモ轍口ヘツ﹀一番二番ノ鎗ハ
アル事ナレパ
番口口ヘツ﹀キテ態勢ヲ出離レ、紛レモナク鎗ヲ合スオノ
レニスル事、度毎
(群﹀川
一度カナラデハモノ也。互ヒ
番鎗マ
モ鎗ト免ス
レ又ハムラ掛リスル故也。去ル
ル場ナラパ
ト
ノ¥
又
ノ、
ル事八百度
番
乍去、味方掛ワ兼テ思惟スル
一一人ニ高走リ出
ツニ或ルワケモナキハ鎗トハ
ソナハリシ時、三番ト難モ
云ブモノ日ロ后
ハ無キ事告。
テ古ムマトモニ
ルハ理告。
ハ鎗ト一声ブホドノ強ニナキカ
マ
シ
鎗
テ誰向へ踏ミコラヘル場ニテナケレパ鎗ハナシ。或ハ
ハナキモノ唱。
左ヤウ
一アコザブユル
/¥強敵一一
ホド
但シ、一一
ベシ。
強
敷
ク
こ
と
キ
モ
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1年
1
6
0
犬鎗之事
(迫)
一、凡ソ鎗一一似テ鎗ニテナキ品十五ケ条アリ。是ヲバ鎗セリ合ヒトモ文ハ犬鎗トモ云フ。
(ぬけがけ)
第一一一、敵間未ダ遠ク三町四町有ルニ、味方ノ兵一人二人マデニ遠掛ケシ、敵ノ備へカ﹀リ、鎗ニテタ﹀キ合ブ
(こ﹀かしこ)
夏、是ヲ抜懸ト云フ也。品ニヨリ法度ニ可行。
第二、 己ニ推合ヒテ追へツ返シツ愛彼一一打散ジテ五人十人タ﹀キ合フ夏。
第二一一一、鎗場ト雄モ七八人ヨリ大勢進ミ出、鎗ヲ入レタ﹀キ合フ夏。
(やざま)
第四一一、敵味方推合ヒ戦フ時ハ備面ニ有リ、兵皆タ﹀キ合ブモノ也。是ヲ入込ミノ鎗セリ合ヒト云フ。鎗トハ不
合也。
(はらいにげ)
第五一一、城攻メノ時、塀下へ付キ、或ハ矢狭越シ文ハ門ノ地伏ノ下或ハ塀ノ上ヨリ突合フ事。
マツサキ
第六-一敵ノ引退クヲ追行クニ、敵ノ振戻リ鎗ニ而梯北ニスルニ合タル事。但シ敵ノ強者二人三人ニテ大返シニ返
シ来ル時、味方ノ真先ニ抜出テ行キ、丘二人二人ニテ踏ミコタへ合スルハ鎗ナリ。是ヲ大返シ請止メト云ブモノナ
(敵)
リ。是ハ大返シ小返シニテモナク、只弱敵カ追詰メラル﹀ヲ難交シテ振戻リ鎗ニテ梯口口巳巳。
(にげず)
第七一一、一番鎗ヲ合スルト難モ、巳一一突返サレテ二番ノ兵巳巳巳其ノ身引キ退ク事。但シ大敵故一日一ハ立ラル﹀
ト雄モ足行一一ハ不北、返合々々振鎗梯退ク一一、二番鎗ノ兵ヲ待付ケ、文取テ戻シ鑓ヲ合スルハ鎗ト云フ也。
第八-一、柵ヲ隔テ幕ヲ隔テテ突合ス事。
第九一一、鎗場一一テ働クト雛モ、馬上ニテ突合ス事。惣ジテ馬上ノ鎗ト云フ事ナシ。
第十一一、夜討、夜込ノ時、敵ト鼻合一一出合テ不及是非ニタ﹀キ合フ事。乍去、夜中一一テモ敵味方間ヲ隔テ、見付
ツ詞ヲカワシ名乗カケ、ジリ/¥ト推合フ時、其ノ先本ノマ﹀ニシテ鎗ヲ入レ、兵一二人ニ不限、七八人一一テモ勝
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1
第十
ラレ、後ヲ突ル﹀故
敵へ掛ルカ、又ハ
ニ立テ己
テタ﹀キ合フ事。
ヨリ一町
一番ノ次第ハ
理至極ニ
テ夕、︾キム口
居リ止マル敵ノ掛リ来ルヲ待テ、
シ、敵へ
スル足軽大将共、散ノ掛ルヲ見テ足軽ヲパ打捨テ自身下
ル﹀故、是非ナ
ル散ヲ待受ケテム口スハ鎗也。
ニ不叶、身ノ火携ブニ振一戻リ、鎗
ハ一番ヲ分ツ鎗ト定ムル事、日中野合ノ作法ニ同前退。
、敵ニ手キッ
間未ダ違キ
鎗
、数ノ間未ダ遠キ時、能キ塩合ヲ克切リ、強者共取テ返
是コソ鎗之椴本ト云ブモノナレ。
、敵味方艶離シ
勿論敵ノ掛リ来ラザルニ、味方
テ物見一一山山、
ハ敵大勢隣ギ居ル故世。
右ニ註ス八ケ条ノ鎗ハ吉ノ良将ノ定メ置ク所也。故
ウノ所
プ
退キニスル事。
掛リツ﹀
、敵ノ間遠キ時、
モニ町モ先一一テタ﹀
第十三
町モ先一一テ夕、︾
犬鎗ト号シ
勝負始己口口口敷味方ノ心掛ノ者開始伴ノ間ヱ出、
、味方ノ物見按掛ノ共共、鞍ノ物見抜掛ト出合ア先二百タ﹀
味方ノ先鑓ヨリ一
第十四
二合戦又ハ
右十五カ条ハ
城登之支
スヲ握リ、浅キ所持ノ早ク乗ルヲ手摂トス。
シテ古今不易ノ律也。
、域ハ
ノ
、
騎
レ
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1年
1
6
2
可有。
ト雛モ二人トモ
J
テハ誰一番乗、
ハ不云。
番乗ト云フ。
番ト云ア。
ル娃へ、彼ノ
番乗ノ丘︿カ、
テ一番鎗ナ
フ
。
(まっさき}
入真先ニ登ルヲ
フ。若
マ要ノ喉
でア
パ、何ガシハ
モ不設匙へ掛ケルハ
ハ或ハ
ニ関ジ。先陣
ルホドニ、是モ
一騎トモ
十七八開
出
ブ
。
デモ吟味セネパ
ナキヲ鎗ト
へノ道筋カ、 又ハ
入荷レドモ門口
一攻入テ鎗ヲ合スオノ
テハ、細々
出ル通リミ
又道第
口ノ一番期チ
番乗ノ兵ガ先一一攻入リツミ敵ハ
又一人揺カ抜出乗ヅ
芥一一番鎗ヲ致ス
人トモ
ハヅレ
(叫桶)
首ノ所ヲ堅ク防ギ{寸ル
ヘドモ
鎗合ス所ハ
其ノ口
ヨリ一人先日一
ハ二陣ナシ。
ニ陣ト去フ。ソレヨリハ乗込ム
番トシテ、二人トモ
ル処へ掛鎗ヲ入ルヲ鎗トハ云
惣テ鑓モ
ブ。船軍法同前。
テハ物ノ吟味セハシク成ル故
レ、ドモ
塀裏へ飛下リ、則チ塀ヲコシテタ﹀キ合ブモ
ハマリヲ敵ハ
ハ云ヘトモ
不叶、犬レ
日ブパ鎗ト不云
ト云ブハ、勝司門口ニ不限、
番乗ノ一人
レ
ヲパ只先登リト
カ
ノ¥
、
ノ
附トハ不云。
ブ。績ク兵ニ
ハニ樟アリ、
レパ只先陣ト名ヅケ
レ乗り崩スヲ一
一人トモ
ノ
ぐ
ノ1
ハニ璽ト不一五。
レ
ノ
ブ
々
一、敵中へ只一一院先一一
乗込メパ
レ
シ
7
ノ1
タ
レ
ノ
域
モ
ト
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1
6
3
引 受 ケ テ 鎗 モ 有 ル ベ キ ホ ド ニ 近 付 ク 時一
一乗込ムヲ
一
陣
、
二陣、先陣トハ名付ケテ称美シスル也。 敵 ノ 間 遠 キ 時 ニ 乗
込ムハ抜ケガケト云フ也。倍又、川ヲ渡ルモ一陣、二陣ノ
一陣ハ一陣、先陣ハ先陣トパカ
作法、先陣一陣ノ分、右同前也。但シ、馬上ニ鎗ヲ持テ突
写真仙
合ヒタリトモ鎗トハ不云
リ云ブモノ也。
鎗脇太万之夏
14bM
L P7d1
y'U
h,
い'三伝
品川
d
バ
川‘
リ'賞、島、
主トn,七&瓜 f・fr-ヘ
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-A
T主うえ z-A汁-一劫lt i、ue仔バ7hh
七唖
主主 ypえ MWえ川司九九E
zhh
‘
、
司
﹄ ,
守,
叫に‘
ny
真
写
)0
鎗下高名之夏
多 ク ハ 又 ナ キ モ ノ 也 。古ヨリ五六人ヨリ多キハ不問。
(
ほこさき)
添ルヲ鎗脇ノ弓ト云フ。但シ、時ニヨリ鉄砲一一テ鎗脇詰ル事モアリ。鎗脇ノ弓鉄砲ハ幾人一一不限ナリ。左云ブテモ
一、鎗合スル兵一一ツゾキ、弓ヲ持テ掛リツ﹀鎗脇二v
一チ、敵ノ勢掛ル枝先ヲ矢次ギ早一一射口カシ、鎗合スル兵 一カヲ
鎗脇弓之夏
鎗脇詰ル兵多ク シテ三人四人一一不過モノ也。子細ハ大方鎗ヲ口口口(以下数行破損甚だしく不詳)
人一一テモ万ヲ抜テ鎗脇ヲ詰メ、力ヲ添ルヲ鎗脇ノ太万ト云ブ。況ヤ鎗下へ飛込ミ敵ヲ切梯フハ大成ル誉シ也。但 シ、
一、懸口、請止メ退口ニ不限、鎗ヲ合スル兵 ニツ ゾキ五人六
『
武律
」 のこの頁以後になると、と
くに左側の方が判読できなし
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4
一、鎗脇ヲ詰ル兵一一テモ、 又ハ後ヨリ走リ績キタル兵一一テモ、
万ヲ抜テ鎗合ス最中一一飛込ミ切伏セテ鎗合ス下一 一テ 首 ヲ 取
ルヲ鎗下ノ高名ト云フ。但シ、味方ノ鎗合ス兵ノ鎗付タル
首ヲ鎗ノ兵討取ルモ同前ニ鎗下ノ高名ト云フ。敵味方少シ
モ不退、勝負ヲ決スル最中一ごア取リガタキ首故一一賞翫スル
也。鎗下ノ功名モ三人四人有ル事モあり。又一人モナキ事
モ可有。但シ、敵モ味方モ惣テ手ノ先ヲ掛ケ虎口へ出テ鎗
写真側
ヲ合スホドノ剛者、唯今ヲ限リト白刃交ヒ死生ヲ一ツ口口
勇め。寸奮い立たせ﹂の意。
録。兜の鉢の下端に設けられ、前面を除き、頚のまわりを覆う防具。
カセギ。命をかけて働くこと。
口で最も守りの堅い区域、攻める方からすれば、逆にここが一番危険の場所で、生命を失う率の高い場所となる。
虎口。虎の口とも云う。一般には非常に危険な場所を指して云う。城攻めのような場合には、守る側からはその城の入
口(以下数行破損甚だしく判読不能)
注
ω
ω
ω
ω
え んぽ く
おも て
ふ らず
側面も不振。寸後ろをふり返ることもなく﹂の意。
間遠北。遠くまで逃げてゆくこと。
0 1ねばり強く﹂の意。
白ミテ。﹁勢いがにぶ って﹂の意 。
倒シタリトモ。とんでもないことであるけれども。
的シダルク
ω
『武律』の後半部分は、和紙が綿
のように「塊」となっている。
写真側
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1
6
5
叫HH
'EEA
nHHV
)
(
内HM
'EEA
'EEA
咽EEA
(
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n
r
“
(
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qd
(
Amv
l
(
)
ι
J
解説
シタリ。﹁よくやった
L
の態。
嘩ト。特裂な読み方で、多くの人の一時に高く両を出す醸の
葉武者。木の葉のようにうろたえる武者。兵。
(群)
鋒。軍勢の先端又は中央。
ムラ捧り。一一団となっての攻撃。
臨針。しおどき。
の所在は不明であるの司近世武道文離詰
M
F
トザ)は、
1、 本 資 料 は 写 本 で あ る が 、 も と も と 誌 が 息 男
網羅した文戴目録であるが、﹃武律﹄という書名は載っていない。
あったのかも知れない。
の説明がある。
独身のかせぎは鑓を合ずるそ第一とす。総じ
来伐の諺に去ふ、其の品川端あり。所謂一番
われる。
またよ品律
L
であれ
でなく別の饗名で
)司軍師高名﹄の項に次
事
ν
ι授けた童一一回となっている。ただしこの栗本
や家間
ヘ故実叢黍編集部恒職、
/吉川弘文館、一九五一
L
であれ、この欝の内窓には吋申鶴粛鑑抜欝前集恥
域攻の錦、
としている)の各名称は、本資料とほ
ぼ同じである。このことから揖察すれば、史民律﹄とい﹃軍師高名﹄で涜和していた軍法の書であったとも思
右の八条、四条、七条(鑓脇高名が抜け﹁似て高名﹂が本資料では﹁退口高名
叡て高名、捉討高名、山朋謹の高名、場中高名、凡そ縄問に叡て鑓にてなき品十五カ条あり。祖しイスヤリと訟ふ。
鑓。是にさし続きたる鋤き倒梨あり。一番乗、乗込鑓、蕗太刀鑓、脇弓。
の強きを静めて呼ぶ事は、古より鎗法ど強きかせぎはなき故に、
ちなみに、伊勢貞丈(ぽ時計一刊誌土手一一j
I批 o ) の﹃安藤月麓筆・巻之十八﹄
と
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3母第 2,1
9
9
1年
1
6
6
が参考にされたのではないかと思われる。それは次の一館があるからである。
が不明である。
3、本多忠勝。天文一七日(一五四八 i 一六一 O)H慶長一五。一ニ湾生まれ。本多恵高の長男。徳川家康に仕え、永禄一⋮一年(一
) 一三議で拐薄。蔀川の戦、長篠の戦などで抜群の戦功をみげ、酒井忠次、櫛原康政、井伊直政とならび徳川の四
五六O
L
となっている。また第⋮一興ぷ﹁浅
ι傷痕をとどめなかったという。六六歳没。
天王と云われた。拐揮捺額五七回の合戦を経験し、身
ι ﹁塊
4、本資料は﹁表紙﹂がなく仮綴の冊子本ではあるが、後半の部分が﹁綜﹂のよう
利文嘩﹂の印が持されている。このことは、浅利家には相当日現一爪ていたと思わせるのであるが、今まで紹
介した資料に法この印がなかった。かなり散逸したと思われる。
ら、本資料の内容は、おける下級武士の武功の評価
武器として、な状況のもとにお
L
る
せ者
わな
しり
一錆にての侍衆簡の誉定九ヶ条の事
布
施
2、 JA律﹄の著者については、本文中に﹁私の所存ヲ書キ加ブ Lとるり、﹁本多忠勝 Lの間近の一人と思われるが、その﹁払
は
懸
号i
互
一 場中の高名。
ι
(以下略)
多
衆
一に一番鑓・一一番鑓・鑓脇⋮一一様は刀錨脇・弓脇鑓・鉄砲鑓接。
口の高名大智なり。或は後れ退き引に、味五
ての犠きゅへ静なりと被定。
敵
一一に場出?にて手負を引懸本の場に一牒りて、戦瀞聞の一帯。
開くして、味五返事一場にで、幾度も有之なり。
ιA
五小返の叫官、或小選際の高名、戒は小選の場中
/、
おのような﹁持衆しの合戦におりる評価は、本資料に少なからず影響していると考えられる。
的問
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2
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9
1年
巻子本
ザ小三九仔ソ
幕一流之書』 の書き出しの部分。「臨」の字の次に書くべき字
写真(
1
1
) 『
があった筈である。
八、小笠原流諸礼(態)(承前)
写真仙
8、﹃幕一流之書 ﹄
幕一流之書
夫幕者、天照太神大六天摩王御取合之時、摩王小神達
ヲ悪眼ニテ奉見、 其眼之光ニ小神達驚キカナシミ給フ時、
太神ノ御袖ヲ小神ヲ﹀イ給ふ。﹁之眼ノ光ウスクナッテ
小神達タスカリ給フ。其時天照太神不可負被仰ケリ。其
摩利支天党天
大将軍之幕串者表加勝字也。臨
一流之次第井圃
幕田町之夏
ヨリ以来幕と云也。恭モ秘夏穴賢々々。
1
6
7
弘前大学教磯部「文化紀要j 第 3
3号第 2,1
9
9
1年
先護身法。
シ
(遜)
々
。
、幕ノ大古文次第。
一叫漏ヲ西ツ
東ニ向テ鱒ハ
秘吏ナレハ
ワリテ、
(
及
﹀
一
向
、
ルヘシ。五
一ヲヨハス。
一ツハ
ツハ膏ク色ナルヘシ。相或ル一ツハ
ツ
ヤリ万ニタツヘシ。
向テタツへシ。ヒ
ツ
口一博ス。
摩利支天究百返唱一ア暗々如葎令ト唱ヘシ。千金莫縛
拠、柁宅待、そ柁も創刊何絵、た
次ニ九字頬吊ヲ以テ幕ヲ加持ス。
汚
I
j
リテ乳スヘシ。
白ク、
ノ
、
、縫事ハ手ノ競ノ役ナリ。布長サ三十尺ナリノ。告陰陽
口博。
ヲ平縄
ニテ可用。
スヘシ。
ハシシカキ布ヲ本
ハ幕布作夏、男ノカ夕刊ブイナキ女、不然ハ不
生ノ女、不祭ハ
ヘシ。
数、廿八者天ノ廿八荷ヲ表ス。対六ハ品川ムハ禽ヲ
トス。幕ノ
テウニ
、幕串尋常八本也。
時、本尊一一八幡摩利支夫、又入
勝軍本ヲ尤立、洗米、香炉一一
リ我氏
ルヘシ。比内
昆布引渡シナリ。
其後銀吊ヲ
NM
ル
、
心
モ提モ蝶形成ヘシ。肴ハ一番
へシ。主人ト幕ノ問瓶子二
呉ヲ蝶形一一
一番ニ栗、一一
一、師匠ハ授ヨリ前ニ護身法、次
問者、 五皆、
テ一ノ幕串ヲ乳ノ本
語、二兵、
持、打テ勝テ境ト取ヘシ。
ノシ、
ヲ象ル。尺ハ九八尺攻。
一、乳ノ吏、廿八語表儀若ハ法華廿八品ヲ表す。
表ス。依之大将ノ廿八用也。
…、
東
カエテハ関神
ノ
、
ノ
、
1
6
8
摩川主義夫
何百円割矧干川
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同
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-長毒及川一又吉可ZF
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γ 一位向。有勺でゆげ¥
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室乙一?にいれ山﹂肘一北町
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見
夕
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余主
弓雨量ラ不、勤瑚正
一
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乱弘、'苧デいさハ下ハヘロ侍
変神手
一
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議議ペ持者宇持2
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愛情え
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ぞ事門泰寺
六棟、
持スルナリ。
、氏ナクシ
ル人ニ氏
九三郎、鈴ハ勝字ヲ以惣幕一ブ加
ルヘカラス。
ヲユルサレウツヘシ。恋氏アル入幕ヲウチ申タルハ
一事アルヘカラス α 可ね徐々々。
モ
人
I工E
ト同前ナリ。乳ノ麓
シニスル也。
ハ上ノ横
シ
内幕洋環之次第
一、田町ノ数十一 ナリ、
回軒ノ付様間前。
モ付ル
{
旦
五尺告。又ハ六尺
ニヨルヘシ。
スヘシ。
、椴子ノ時ハ乳モドンスナルへシ。
ニモスルナリ。伺モ
、一阿武サ縫タケ上ノ横田釘トモ
可然様也。伺モ
モ
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ハ外暮間前也。
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日
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第3
3号第 2,1
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弘前大学教養部
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ハ、中ヨヲ
ナリふ田町ノレンハ
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一、小旗仕立議。大小之儀ハ
リテヨシ。偉そ
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吉時ヲ可撰。
上ニ付設ハ、少シチイサク候テモ晃能様一一可付。土ロ丘
肝要ナリノ。同
リ。但シ小頴ノ大小ニヨ
ニアルヘ
一、加持之支、外幕ト同前、条々可為
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ノ
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クモスルナリ。
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一、
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弘前大学教養部「文化紀要 J 第 3
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1年
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右此 壱 巻 当 家 別 而 為
秘事之問夢々農相他言
他見有之間敷者也
(一六七五)
延費三 乙卯
卯月吉日
右近太夫
甚之丞
朱印・花押
中怠子信広崎
幕一流之書」の奥書き。
写 真(
12
) 『
七兵衛尉
玄之
左衛門尉
吉孝
好五郎左衛門尉
茂基
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貞
貞
横山嘉右衛門尉
浅利伊兵衛殿
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9、 指 物 竿 之 書
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巻子本
写真。3
) 「指物竿之書 J (仮称)の書き出し。右の方は切れている。
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弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3
号第 2,1
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大指物竿
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義 ト し 物 、 竹 、 家 一ヨリ 三間齢も有、定候寸ハ
来院一
甚之 丞
七兵衛尉
玄之
吉孝
好五郎左衛門尉
写真(
14
) r:j:旨物竿之書 J (仮称)の奥書 き。
右尺也。
。
一、大勢小勢之分限 ニよ って五本或ハ六本八本
右日疋も定候通ハ五本也 。竹のわ寸ハ竹によるヘシ
写真帥
金 ニて竹のこ口う つく しくなるほとてきわにはるなり。
小笠原大膳太夫
池
右近太 夫
長
時
慶
成
貞
貞
鹿瀬三左衛門尉
岩間
同
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一、長サ二間半、但其家之望有、又 ハ大将之望、或ハ古
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1
7
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右此一巻当家別而為秘
事之問夢々農相他見
他言有間敷者也
二 六 七五 )
延 賢 三乙 卯
四月吉日
写真回
浅利伊兵衛殿
目、幕縫方之書
巻子本
朱 印 ・花押
横山嘉右衛門尉
茂基
て口幕田町連幕共ニフセ縫ナリ。
て縫サシハ布幅ト同前。
て口口口口口長サ羽幕ト同前。
て幕口口時ヲ常ノコトク可行。様鉢何モ同前。秘事口
停重々有之。
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写真(15
) 「幕縫方之書 J (仮称)の部分。この右の方はかなり切れている
と思われる。
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弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2,1
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右此一巻当家別而為秘
事之間夢々負相他見
他言有問敷者也
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延費 三乙卯
小笠原大膳大夫
右近大夫
甚之 丞
写真 岡
玄之
鹿瀬三左衛門尉
吉孝
貞
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好五郎左衛門尉
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仮称)の奥書き o
写真(
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) 「幕縫方之書 J (
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貞
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弘前大学教養部「文化紀要」第 3
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写真(17
) 「鷹之書 J (仮称)の書き出しの部分。
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浅利伊兵衛殿
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口、鷹之書
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茂基
朱印・花押
巻子本
、小鷹ハ三くさり、
へて春鷺
ヘハ二わけほと
のへて渡へし。
へ成通ハ
一、四季其外月見花見又ハ
こ己ほこなとし
一、兄鷹八五くさり、一男の次第志向し。
ナル。口簿なくてハ合点有関敷候。
ηノ﹀﹂中広 hhJ
、鷹渡申段、大緒品上中下事、
ス。同輩へハ
ふ
つなき様、
一、
て様々有之候へ共難記。口侍なくてハ合点不参候。
治
貞慶
在近太夫
小笠諜大膳太夫
間
第3
3
号第 2
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9
1年
f文化紀要 J
弘前大学教養部
1
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弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2
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1年
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七兵衛尉
玄之
朱印・花押
8
) 「箭之書 J (仮称)の書き出しの部分。
写真(1
鹿瀬三左衛門尉
茂基
,
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右此一巻雄為秘事別而御
貞
成
巻子本
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横山嘉右衛門尉
熱望停達早努々農相他
見他言有問鋪者也
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浅利伊兵衛殿
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弘前大学教養部「文化紀要 j 第 3
3号 第 九 1
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右此壱巻当家賠寵為秘事
之間夢々集梧他見他一一百
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弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2,1
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) 「合昏礼持物之書 J (仮称)の書き出しの部分。
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弘前大学教養部「文生紀要」第3
3
号第 2,1
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知何トモ
(飾)
かさり楼、重
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弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2,1
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1
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4
(飾)(小笠原)
一、目︿桶請取渡しの夏。渡ス者目ハ桶を
右之脇に置、為一種地目ハを前江直し
?え)
右かさり様、宗長之息女武田甲斐守殿
得御祝言有し時、如斯かさり上候。
貝桶を蓋の上に置。其次に外家を
(蓋)
数ハ定れる例有之といへとも、大かたしるし
相手の右のかたに直し申時、請取者
(出)凶
(方)
霞候。乍去、当代ハそのもやうによりて
家を少右へょせ、関目︿桶を入右へ直し
(模様)
かさるへし。何も五色をかたとり候而
候所へ、 又たし貝を如右之渡し右之
(ひろぶた)印
B
大事条々口停有之也。
,
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.
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向
、
,、
慶蓋之園
演丞﹁闘
-
﹂とくに請取、有一礼て立退。色何も
(蓋)
その外別可有候。下かへを上ゑ可懸条々。
一
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一
、
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口
停
貝有
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)之
次な
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弘語大学教護部「文化紀要 j 第3
3
号第 2,1
9
9
1年
1
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一、鹿蓋之長弐寸五尺、横一一尺七寸三歩、何も
内のりなり。ふちめんより高サこす壱歩
か﹀ミともにふちのかた迄三寸なり。か﹀
のつけきわに壱歩のきちゃうめんをとり、
同
治
有間敷者也
二六七五)
延費三乙卯
四月吉日
任
地克地言
横山嘉右宮内尉
朱印・花押
女子が香呉、元結箱、櫛箱、爪切り箱など手まわりの道呉をのせる。
甚之丞
貞慶
右近太夫
する
か﹀ミ内をくるなり。はたより内のくり
県棚。慰問漆で塗一つ
長
時
貞
成
なりのふちはたに、
。
(
1
)
弘前大学教礎部下文化紀要 J 第 3
3
吟第 2,1
9
9
1年
1
8
6
婚主の持ちもた。
地員。貝合せで場に伏せ
出員構。見合せの貝を入れ
ス
。
巻子本
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34EJ
、
右大形薬批。
A
、
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刀
﹀d
必
、 問問
重
一
々
。
にした
には不可定。
池
た
。
長時
右近太夫
二罷で一組となる。近世には嫁入り遊間紘一の第一の謁度とな
刷出し良。貝合せの際、各自が持って場に出し、増員に合せる貝。
ω
ツ三方
間 衣 装 着 の ふ 昔 、 衣 を 人 に 与 え る 時 、 れ に の せ て い ね えたと去むれる。
日、婚礼繕之欝
て盃ハ
のますへし。
口をなすへし。
此時食ヲ可出。男も座敷へ出るへし。
かひ、其人の
へし。此時轄にて
七兵衛尉
貞
成
﹂ころにまかすへし。
、引物い
かんのすへし。匙詩盃を出すへし。
蓋にて
方
同
震
瀬
時
弘前大学教養部 「
文化紀要」第 3
3号第 し 1
9
9
1年
1
8
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婚 礼膳之書 J (仮称)の書 き出 しの部分。右の方が相当切れている 。
写真。。 「
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弘前大学教養部「文佐紀要」第3
3
号第九 1
9
9
1年
1
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4
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此
巻当家別問為秘
地一一一一口有関敷者也
損山嘉右衛門尉
朱印'花押
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3
号第 2,1
9
9
1年
1
8
9
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面画
写真(
2
D r饗膳鋳之書 J (仮称)の書き出しの部分。
目、饗膳鋳之書
写真 仰
巻子本
弘前大学教護部「文化紀要」第 3
3
号第 2,1
9
9
1年
1
9
0
・
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右之鋳物如織留之。置合ハ
寸五歩、
同フチノ高サ二寸、
O
ノマハリ
ニ洩ユマ
一す宛捜ユ
ハ折敷ノゴワ
三方ニサマアリ。
スルナリ。
ごす宛、
間二重盛様之事
尺一寸四歩。
同折敷
(縁)
ブチト岡高サ
是モ四方
ヲ立ル告。
へ成ル様
ウ~テ
結ミヲ上へ
スベシ。
かめ﹁)
F
川アカザブ
サシ、嘉一立
一テ平サマ
是不苦ナリ。
方ニ白キ大豆ヲ
ハ、権ノ一貫ヲ細方ヲ上ヘシテ糊
ハ、青大豆
枚目ノ餅ノ皿
、上ノ餅ノ皿
首代ハ
一ハゼヲ鏑ナリ。
方一一向セ立ルナリ。
一、北回ハ
O
結、頭ノ
ニ官同立ヲスル
ノ也
手
先
何
一枚克合壁ナリ。
合様ニスル
立結
、構老頭ヲ上へソ口へ、捜ヲ上ニ或シ串
カごとニ
シテ折敷四一所之角ニ置ベシ。部一シ髭ヲ唐糸
、
、
、
、
、
シ
中ヲ水引一一テ
り
ル也。同
重ヌルナリ。
向上ノ
ハ三重
一
包
、 口ヲ
ッ、柿三ツ量ナワ。
、鰯ニツ腹ヲ合、
一
松
→
ナ
マ
セ
2
.1
9
9
1年
弘前大学教養部「文生紀要望 J 第 3
3
号第
1
9
1
土器ノ内ノ方
少大キニスルナワ。
箸之方一一
ハ杉鉢三ツ
潟月土器
ニマケルナリ。
入手本ニ置。
ウシユノナリニシテ、
一一結目有也。
帯結ゼニスベシ。
hU
。
へハ亜 シ
ベシ。其上ヲ紙芝ツ
サマ有ルへシ。
盛ナリ。
一、食ノ上
一
一
入
、
ツ腹ヲ合セ
、汁ハ鰹也。梅干一
手掛
二寸五歩。
頭ヲ樹干ノ方ヘスルナリ。
ニ入中ニ
方
折敷ノ巌
サ一尺四方、同ブチノ高サ一
但シ向モ
ハ鳥ナリ
ルナリ。但シ杉鉢
阻ニサシ、
ハぜヲ鎮ナリ。
マケサセルナリ。
す程ニ盛、
一、下
一尺
羽ガへ
侭切目ニ付ルナリ。
置鳥ノ事
一、喜一之高サ
古河サ
サセベシ。
日ヨリ串ヲ指
ナリ。
高サ八
ナリ。
同足ノ
ヨリ外へ出ス
ト
ケ
串
抱
コ
て下之墓/
同折敷ノ蹴サ一尺五歩四方、間アチノ高サ
、上ノ宙空締結ノ高サムハす五歩。但シ
シ
ワ
一、
シ
糊
リ
2,1
9
9
1年
弘前大学教養部「文化紀要 J 第 3
3号第
1
9
2
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2,1
9
9
1年
1
9
3
置鯉之事
一、蓋ノ高サ四寸、同長サ一尺二寸、同慶サ五寸、同足
ノ高サ三寸。但切目ニ足ヲ二所一一付ルナリ。
査之事
一、土器三ツ、 ク ギ ヤ ウ 小 角 ニ 据 テ 置 ベ シ 。 三 方 ニ サ マ
ヲ明ベシ。口惇重々有。
右近太夫
甚之丞
貞成
二好五郎左衛門尉
右此一巻当家別而為秘
在判
写真帥
朱印・花押
横山嘉右衛門尉
事之間夢々農相他見
他言有間敷者也
ご六七五)
写真回
浅利伊兵衛殿
四月吉日
延賓三乙卯
目、兵法九字之書
成隆
宮内太輔氏隆
伊橡守
口軍監小笠原太膳太夫頼氏
茂
基
小笠原大膳太夫
同
鹿瀬三左衛門尉
玄之
七兵衛尉
池
長
時
貞
慶
貞
成
吉孝
在
判
在
判
同
同
間
左
ゴ
巻子本
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2,1
9
9
1年
1
9
4
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写真白) r兵法九字之書 J (仮称)書き出しの部分。上部が大きく切れている。
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写真白) r兵法九字之書 J (仮称)の伝系の部分。
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弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3
号第 2
.1
9
9
1年
1
9
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執右
し、一
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小笠原大膳太夫
玄之
芳25
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め 写
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貞
慶
右近太夫
也々
言御
同
池
七兵衛尉
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秘
事
種
鹿瀬三左衛門尉
候
条
令
惇
授
者
ニ好五郎左衛門尉
横山嘉右衛門尉
の市進覧之
二 七 O五)
賓永二乙酉
八月吉祥日
武
基
也
農相勿論他見他言堅有間敷
者
長
時
朱印・花押
・
-
4
写真(
2
4
) 「兵法九字之書 J (仮称)の奥書き。文言が他と異なっている。
弘前大学教養部下文化紀要 j 第3
3
号第わ 1
9
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1年
1
9
6
解説
議利伊兵捕殿
l、最後む﹁兵法九字之書
L
の名称は俊弥であるが、この﹁九字
L
から採摺した。
L
とは﹁臨兵関者皆陣列前行
L
の九字である。もと陰隣家
が用いた護身の袋詰で、後に兵法家にも用いられ、唱えることによって神秘の威力をあらわずと官じられていた。本文中
の寸九字之文七遍巧唱天道無競也
之警
L
のみが寸宝永⋮⋮乙西日二七O 五)八月﹂である。前回の分と合せると、
φ廷宝一一一年四月(一六七五)の年記のあるも
2、前開ι引き続いて今回紹介した 8から日までの伝書の年記は﹁延宏一一一乙卯年(一六七五)四月 Lで、同の復称﹁兵法九字
J
一弘義﹂に問題が
の一一巻、参元禄五年二六九二)一一一月の年記のあるもの一一巻、命輩、氷二年二七O 五)八月の年記のあるもお三巻と
合計一六場となる。すべて﹁横山嘉右衛門 Lより桟科研兵備あての伝書では為るが、﹁横山嘉右衛門﹂の
巻子本・
L
とな
ているところから、改名したも
の⋮巻がとなっていることである。
L
て︿以下コ一行、欠損のため不詳。)
一九トゆ集及び)等には寸武基
の一⋮巻と﹁宝永二年しの一一巻及び今関の J手水一一年
ある。それは今回の﹁延窓五年四月 Lの八巻と、前聞の間年記む一巻は﹁武基﹂でなく﹁護幕 Lとなっており、話聞の三元
L
真※川W券煎)
禄五年
写室内総
この事は叶津軽藩旧記法類・巻之八﹄
のと考えられる。
弓
3、吉田流雷何涼弓術
、うつほをつほといはぬ事
て弓はりおろすといは
一、弦巻にまく弦数の事
、弦一かけ二かけといふ事
てうつほを人に可渡事
一、
構
弘前大学教養部「文化紀要 J 第3
3号 第 わ 1
9
9
1年
1
9
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勾愉
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写真(罰) 「吉田流雪荷派弓術」書き出しが切れている。所々 に穴があき、
その部分の判読は出来ない。 1
0項目毎にまとめている。
一、白弦一張といふ事
一、うつほの各所の事
一、(以下二行欠損のため不詳。)
一、三つゆかけといふ間敷事
一、的射る遊かけ一っこつと云 へき事
つるの上せきの事
一、つるの中せきの事
一、四半以下立様の事
て木草口口口口口ゃうの事
二十
一、苑以下立様の事
一、立間敷物の事
一、大的こと葉の事
て小的にことはの事
一、丸物にこと葉の事
一、笠懸の的詞の事
・
固
固
・
十
弘前大学教養部「文生紀要」第 3
3号 第 わ 1
9
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1年
1
9
8
に弓と矢を一度に参らする事
、ふしぬりたる矢敢あっかひ援の事
一、貴人の議日弓張様の事
の時張かへ出す様の事
一、弓と太万折紙の奏者仕様の事
、弦巻に弦巻様の事
、矢代矢頭の事
事は
、大後に立弓も落弦切る事
一、式の的に大前に立弓も落弦切の事
一、握革巻様の事
、﹀つつほ
、しこの謂の事
てませはきの羽付る次第の事
とく
いと
ふい
、弓と太刀折紙にで御使に参様の一帯
く
午
、銭を取へき人の事
一、
一、筈こミの犬の事
弓
、矢代可接人の事
に懸る時の事
、弓を北と商に台かびではらぬ事
員五言か
5
棄がけ
か立を
たき
一、貴人の矢代振てをかぬ
、下趣のしっ
一、切弦上下に残る時の事
ておれ矢の事
、おれ弓かたち
事
一、射放っ時弓を取はつしてう
四
一
、
、取落す弓の事
一、弦きれ
明
学
張ぬ集の事
残
る
詩
の
、かへり弓の事
切折
弦τ弓
本E
十
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3
号第九 1
9
9
1年
1
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9
一、矢代振人に矢代渡す時の事
一、射付の小的にしろむと言事
て徒立の時弓矢を一度に可為参様の事
一、的問うちゃうの事
一、矢を人に可渡事
一、矢印する所の事
一、御主より給弓取様の事
一、主へ袋に入たる弓為参様の事
一、主へはらぬ弓為参様の事
一、主江弓をよこに為参様の事
一、主人へ弓を立て参らする事
一、うつほの矢のこと葉の事
一、ゑひらの矢の調の事
一、馬上のゆかけ一具といふ事
一、四半の大さの事
一、はさミ物静様の事
一、はさミ物立様の事
一、弦くゐしめすかたちの事
一、徒立の時かいそへの弓持の事
一、弓はつして弦添えて為参様の事
一、貴人江替矢をまいらせ様の事
一、矢筒の中へ的矢入間鋪事
一、矢つまよるともいふ事
一、貴人江矢筒為参様の事
一、同輩の人へ弓可渡事
一、矢筒より矢取出しゃうの事
一、貴人江何矢にても可為参様の事
一、等輩の人に矢可出様の事
九
十
一、かけかへの矢といはぬ事
一、的射時乙矢たはさむ切穴の事
一、貴人徒立の時矢を為参様の事
J
¥
十
一、貴人に矢代持て出て置様の事
十
七
十
弘前大学教養部「文北紀撃を J 第 3
3号第 2,1
9
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1年
2
0
0
百十
、うつほにかりまた五枚の事
、うつ誌のほかハといは
、小的の地婚のいたし様の事
、うつほにかふらさすゃうの事
てをし出してからと一一言矢
、あっち
一、夜的に立つくろふへき事
いふ矢の事
、ゑひらのかふちとい
一、的射時甲矢返り
、同乙矢射持
の事
、小手のかふら
一、誌さ
一、式
、闘物的廃速さの事
の事
、乙矢のきミ
ててい/¥所勢の事
の持ていノ¥に射させ様の事
、車鹿的庭遠さ
一、気らくつをいな事
一、第陰の根元
、矢の筈さす事
一、うつほに狩長わたくりさす事
一、的矢に付る羽の事
、笠懸
十
、入選て二つあたりの時の事
てあひてしりとい
す事
枚の事
一、罵上のゆかけの大事の事
一、うつ誌
、矢数十一の時狩慎一
、矢数九枚
、矢数七枚の時かりまた二枚の事
一、矢数七枚の時狩俣三枚の事
B
百
弘前大学教義部「文化紀要」第3
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号第わ 1
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2
0
1
一、数つかっくへき様の事
、手失をつきとをすといふ事
の拐りの事
一、犬追物つなまハ
一、日本の約の拐まり
一、富藷をあやめ
一、出醸の酒肴組の事
一、環揮の酒肴懇の大事
百四十
一、診合戦濯を結作法の事
一、的の始り摂本の事
一、正月に弓可射始日の事
し
五
一、征矢弓の握革の事
一、人の宿所にて弓しこ
一、むかはき一束二そくといふ関敷事
一、的庭にて弓矢筒置所の事
、征矢の節なとのおほき節名所の事
、さか羽のうちゃうの事
と組合たる時さか翠うちゃうの事
つぼの征矢の羽たけ
りまたの棋をとの
、矢代をと
て矢代可掻替協の事
一、中ハあたりて地の不付持矢伐の事
一、中なき時の矢代の事
一、貴人の弓堂に可持様の事
百六十
一、入の矢代を自然と我弓のうらにて打地らしたる時の
一、矢代矢頭角にてもする事
て的なと射時矢代の事
てくつむかはき拭きぬく事
一、失のしつ有時期の矢を持て出す事
の超の事
一、ふ串の立物に矢の中外の事
、くつ巻の本節の事
百八十
一、くし的なとの時弓矢笥敷皮持ていする時の事
一、ほうかしはの葉をうつ
(朴)(柏﹀
一、あわひ其の立様の事
︿総)
一、膏のたてゃうの事
、はな紙の立援の事
一、弓をほっして置様の事
の本節の事
て矢すりかふち藤長さの事
一、ぬり弓に矢摺かふち藤の事
一、弓に陰陽の事
一、弦の起の事
一、三所藤の号鮮様の事
っと云へからさ
一、軍陣なとιて弓農務様の事
、射手のけい
一、野かけにて何にても当て物の事
、我か後の人にし
一、弓矢にかきらす我か前の人にしつ有時の事
一、弦摘
一、出離の時大将の錦前へ一しゅくかためて被召出候時
、夜的にうつ
一、村重藤の事
、頼政轄を射ちれたる時の弓の藤のつかワゃうの事
(ぬえ)
一、
つ
3
3
号第 2,1
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1年
F文化紀要」第
弘前大学教養部
2
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弘前大学教養部「文化紀要」第 3
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.1
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1年
2
0
3
、くし的と申射様の事
、式のくし約の時矢代ふり様又号立に可立様の事
、主あかりに射るやう
、あたりといは
一、半的のくしの事
一、式の時射時の替鎮の事
へ強替為参様
、調物にあたり誌つれの事
二百
、徒立
かたちの事
、大約の時かいそへの矢可出様の事
一、大的のせミの付様の事
、射手の敷皮
、数探若射手のくつ
一、かすっかこしらへ様の事
、笠懸にさくりより的までの遠さ
、大的の串の事
一、丸物の寸法の事
一一百十
、矢代ふるへき時ふせ
一、ふせ鳥の矢所の事
、丸物射る矢頭の事
、弦楠寸法の事
一、弦に 一張弦五張弦と一士一口事
、矢うるし
一、しゅ阿弥矢うるしの事
て十二東の矢かっかうの事
手矢頭をつれたるものに
一、射手方の寸法かねの事
一、山議の引尾羽取様の事
、左の手を弓手と申おの手をめて
の事
、うつほの時分の事
十
一、
一、
の弦切る時の事
弘前大学教礎部「文化紀饗J 第 3
3号 第 わ 1
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1年
2
0
4
、矢開の包γ の事
、矢代おほき時分て讃て可振護所の事
一、矢代可揺人弊の事
、二日勺立有時立様の事
、おちにさ
、小的の時も矢取ハ
の事
一、矢申しゃうの事
一、ざかり矢の矢中の事
、小的の時
る入の椙手かさ持事
、小的の時貴人の弓弦甲矢にて切れハ其下
一、的の時弓震にて酒ありて被召出時すわうゆかけ
人あて
一、矢代かミより取時の事
、所勢なさ時の矢代の事
、景入おちの時申矢にてしつ有時前の射手の事
、貴人おちの矢代にてあたりたる時の事
の鶴間議にてあたりの事
一、かみらし蝦の弓持時鮪の事
ぬかずして射る鳥の事
いられ綾を誉様の事
つはしり物射目付の事
二
百
一
一
、的なと見物する時敷皮しく事
、あっちを的山といはぬ事
一、数塚をはつくと云くっすと云へき事
一、十人に鈴れは数塚くっすへ
、小的なとの時に入ましハりて射らる﹀時
、的に持へ
かたく出す事
、野かけの的躍なくにたけをふする事
一、矢代に一
番に援はしむへき入の事
、風吹なとの時矢代の矢の事
、矢代
、観的射手持東の事
る
人
一
、
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1年
2
0
5
一、かへり弓の静かい
一、折弓の時拾添の張かへ
一、御的弓の事
、矢数的矢の事
〆¥
ての次第の事
一、雨雪の日の敷変の事
て射果て選出の事
、ゆか
、御的ゆかけ
一、出仕の次第の事
一、馬上より下て査をはく事
二百八十
一、射果て諸手と向て贈の事
に可付次第の事
、小あかりの産に付へき事
、式
一、数つかのたかさの事
、数っか
一、雨雲の告の矢の事
、ひとり弓
一、弓場に可立様の事
一、乙矢鍔免の事
一、あめ蜂の諜の事
一、敢落す弓に
つあらハ
一、射果て引足の事
一、前後の弓足ふミの事
てひた﹀れの紐可納様の事
、ひもへおされ Uへ
J¥
J¥
弘前大学教養部下文色紀要」第3
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9
1年
2
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6
、むちの長さ
一、むちのとつかの革の事
、御的おんしゃう
二一白九十
一、何鞭ιてもあれとつ
一、行騰起り
めかふ
一、矢顕の矢節数の事
、矢頭すけふしとすけきわの翠らひ
の許様の一事
て行騰を鞭に相懸て出る事
、むかはきのこし
かはきの事
、むか誌き長さ
一、紫竹の鞭をはた﹀
百十
一、鞭の緒をうてにぬ
一、犬射時射手の鞭の事
、竹の援のむち
一、ゆかけのゆひをつ
と宜平にてつ
、ゆかけにぬふましき革の事
てゆかけ
の前へ出る時
一異諜指て費人の前へ出る時
一、犬追物の時こてさし
、かち立を射る時お諜の事
一、馬上にてハいつも諜可指事
てやふさめの時
、軍離のゆかり
かけをさし罵B下てはさミ物なと射
はいへとも一手ゆかけとはいはぬ事
一、何にてもあれ徒立にて射る時諜さし様の事
、ゆかけ
一、罵上にて
一、むちハくま柳本たる事
十
百
弘前大学教養部「文化紀要 j 第 3
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1年
2
0
7
一手四自の事
一、小笠懸の矢の静様の事
一、とかり矢の搭様の事
、そやの
て四自の寸又吉の事
三百盟十
一手矢頭を草に葬る事
一、常の四目の事
一、小笠掛のからにふし陰の事
一、小笠懸ひこ自の事
一、山鳥
しらへ
てかふらの矢つかの事
一、笠懸からの羽の事
一、笠懸柄の事
、矢束まくといふ事
一、萎目赤漆の事
、鏑のなかさ
、狩復のから
、征矢の許ゃうの事
一、征矢の羽本館の事
一、矢に一一一つ付る羽名本説
、小人なと
一、蕃自の矢四羽の事
、かふらのからをふしをさハしてする事
一一一百三十
一、かふら矢にしゃうすへきふし
一、四足の矢はき
カ
ユ
カ
五
やり羽ト云
、うるし矯をして可持矢の事
一、幕日の本説の事
、犬射柄の箆の事
、犬射柄はき
一、鉾天征矢百矢なとのふし
いふ事
、大的串笠懸・問中丸物串の本の事
百六十
一、大約串木色の事
、折かけくし
一、﹁却を
、二人張三
て矢束何東引と吉事
一、弓懸に号をか
へき事
つほ付て弓可持様の事
、うつほの上
﹀する詩の事
一、鞭と矢一践をさす時の事
、矢頭我さす
一、小笠懸の表し物の事
一、大的丸物草鹿笠懸なとも探といふ事
、弓返し
一、矢頭を射るといはぬ事
一、うつほ広ひかゆるとニ一一口事
疋の物をは射ぬ事
、かれノくら
めがと可言事
、犬むれと言事
'-
の矢といふ事
の事
カ=
,
、
、すかりまたとい
に書産にはり
一、つねの引出物の車場
一
一、
一、
弓
2,1
9
9
1年
弘前大学教義部「文化紀主主 J 第3
3
号第
2
0
8
2,1
9
9
1梓
弘謡大学教養部「文色紀婆 J 第 3
3
号第
2
0
9
け
の
事
写真錨
矢
栢山善太夫許印可有之
一町田軍兵衛尉許印可有之
川口又左衛門野許印可有之
禅問角兵衛与名乗時数松斎相偉
津田宮内少輔許印可
武田毅松斎印可富簿
本間流子孫印可取
許印可返誓紙迄極
吉田八兵衛手前
吉田雪待子
の
、大事の物を射に射中んと思ふ時の事
島
射
時
、しかきにたっ
(
1
)
カ
瓦
四百五ヶ篠
五ふ
ケせ
篠馬
一、弓を射かへきぬ事
四
てさかない馬にのり
つるもの
て尾をこすもの
、麗笛の事
一、まき日の鹿といふ事
一、おほっ
、矢こたへにて馬を出す事
てあらと失こたへ
、 鹿 ζあたりた
て鹿に関し様にごきもさきも矢を射付てやる時
の物とい
、前置の物を射ても矢こたへをして罵の足を可出事
一、話震の物射矢の事
、前置の物を纂日四自矢頭なとにて射時の事
一、街の鹿の矢所の事
百
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3
号第 2,1
9
9
1年
2
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圃副圃
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戸・凶.
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写真。6
) 「吉田雪荷流弓術」の奥書の部分。
(一七一七)
享保二丁酉
十二月
苗
必
ω 写真※ω
頂
朱印・花押
館
トルに及ぶ。
)頃の津軽藩
川口文左衛門。慶長││寛永(一五九六1
一町田軍兵衛。一町田森季のこと。通称軍兵衛。同家四
ていたものと思われる。
(持費時県)軍兵術に三子あり、即ち八郎左衛門(五
石山喜太夫。名は朝久。津軽第四代藩主信政の時の家
代を継ぐ)、四郎兵衛。刑部建雄。
ω
増、弓足軽頭、目付を兼ねた。明暦三年(一六五七)没。
代。津軽第三代藩主信義の寛永二O年(一六四四)家督二
0 0石を相続。その後新田を開発し、このため一 OO石加
ω
高八O O石。(諸問一一円一長伊)本流派の寸許印可﹂を受け
なめた。半左衛門父子はようやく下馬して通ったという。
藩士の出迎えを受けても下馬しないので、その無礼をたし
たが、信義に随行してきた江戸抱えの船橋半左衛門父子が
江戸から弘前へ入部したとき、又左衛門は大目付役を承っ
士。寛永一 O年(一六三三)津軽第三代藩主信義が始めて
ω
注 川 四 O五ケ条に及ぶ伝書である。長さも八四0 セ ン チ メi
浅利伊兵衛尉殿
西
建
雄
弘前大学教養部「文化紀要」第 3
3号第 2,1
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1年
2
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31
之侍
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﹄
友人
松
晶司・渇之侍
.
写真仰) 「石堂竹林流弓術」の書き出しの部分。右端が切れている。
士。世禄三O O石。吉田流雪何派の弓術師範。津軽藩物
ßi~
られ、享保二年(一七一七)切腹させられた。(以下略)
(
1一七二三)。刑部建雄の
巻子本
村嚇
頭。無調法あって正徳三年こ七一三)岡半兵衛に預け
崎
県)
(諸説制¥一
一
仙川西館頂恵建雄。? l享保八
の取立を命ぜられ五O石加増、天和二年(一六八二)八
こと。津軽藩家老。津軽第四代藩主信政の時、広須新田
月用人となる。第五代藩主信寿の時、正徳元年(一七一
二 四 月 四O O石加増、家老となった 。同二年三OO石
までは一町田理兵衛建雄)正徳五年(一七一五) 三月御
0石となり西館刑部と改めた 。(それ
加増、合せて一 0 0
役御免、翌享保元年(一七二ハ)一一月隠居して頂恵と
写真 仰
口曲
口尺
浅利伊兵衛に与えた伝書は隠居してからのものである。
改めた。(岡崎制一一一一 L
一
一円鵬出)
4、 石 堂 竹 林 流 弓 術
口之
口妹之曲尺
、
1
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直
弘前大学教護部
f文化紀要」第
3
3母第 2,1
9
9
1年
2
1
2
弓
窮
構
ヨ
i
打
取
断之弓懐
繋態弦選
文
猿轡之射
十
闇夜之曲尺
遠近之曲尺
自溝之薄
矢倉之薄
烏兎之榔
楯
反
樟
弘前大学教養部「文化紀要」第3
3号第 2,1
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9
1年
2
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豊
…
一一一一一一一一
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格克句
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安
定
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写真倒) 「石堂竹林流弓術」の奥書 きの部分。
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島
荷
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四部之離
左
衛
門
(
1
)
附切梯別券
ω写真閣
嬰鵡之離
新五兵衛
由
建
離
三生之離
勘
解
藤
右依有嘗流弓道之志
而許輿初勘之巻畢
=*
弥可被童精意者也
斎
七五二 )
賓一
暦
(二壬申歳
笹
不本
以
上
弘前大学教養部「文化紀要」第3
3
号第 2,1
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9
1年
2
1
4
八木橋左太夫殿
ω
朱印写真※
偉花押
笹森勘解由左衛門。津軽第四代藩主信政の時の石堂竹林流弓術の師範。本間民部左衛門匡隆の高弟。寸本間民部左衛門
喜
-A一一類﹄)高弟として二戸三之助、中畑孫兵衛、笹森勘解由左
のを元禄一五年(一七O 二)二月津軽第四代藩主信政に禄五百石で召し抱えられ、後に二百石加増して七百石となる。
三国神秘弓道の達人と云われる。(一ゴ一一段t醐耕一一見詰一唯一一
で朝日奈宗源師について修行した人ではあるが、南宗寺の参禅会では、例年、埼玉県野火止にある平林寺の円臆老師
年会に入門し、 ほぽ一 0 年 間 、 禅 の 手 ほ ど き を 受 け た 。 田 口 氏 は 京 都 花 園 臨 済 宗 大 学 卒 業 後 、 鎌 倉 円 覚 寺 の 専 門 道 場
かつて八戸市在住のとき、旧八戸藩の菩提寺・月渓山南宗寺(師同⋮都府)住職田口豊洲氏(故人)の主唱する仏教育
あとがき
この伝書の年記が宝暦二年(一七五二)であるので隠居後の伝授であるが、 まだ寸射祐﹂を名乗っていない。
ヘ青森県文化財保護協会福﹃津軽 J
戸藩旧記伝類﹄三九四頁、既出、
かねてから石堂竹林流弓術の皆伝が済んでいたので師範となった。明和五年(一七六八)一一月八日病死。
越後の浪人斎藤掃部介助則の七代の孫。斎藤小左衛門喜澄の二子。享保二年(一七四二)八月隠居して寸射祐﹂と改名。
斎藤新五兵衛喜傭。笹森勘解由左衛門の高弟で石堂竹林流弓術の師範。慶長年間津軽藩初代為信に抱えられた、もと
衛門が数えられる。
ω
匡隆﹂はもと寸木村典膳﹂と云って紀州候に仕え禄三千石。子細あって同士を打果し浪人、松浦鎮信候の客分であった
注
ω
九
月
弘前大学教養蔀「文化紀望書J 第 3
3
号第九 1
9
9
1年
2
1
5
を招き指導をいただいていた。指導をいただいていたと去えば問えは良いが、自分の場合は、実は魂が欝いるがる程
一年自にして瀬く老師から﹁拘子無仏悲しの﹁公案しを盟されたが、疑著のまま弘前市に転註となっ
e
鉄槌を被っていたのである。参禅とは、 独り独り者揮のもとに勢じ、心の在り様を按摩し、厳しく点検を受けること
であった。
武藤の﹃五輪番恥広取り組
禅入門の前から出八戸藩の武芸古文欝告解説していたが、兵法と心法の接点に得心できず苦渋の日が腕いていた。
刊本として沢崎の通称﹃不動智神妙繰へ耕生宗矩の
免
人物として新免
8
とたへて申せばしというよ
如性の関践を期待する方法?ある。これは吋不動智
この方法は注意しておかなければならない。確かに柳生宗短誌、沢山崎
を書き残した。以来この書は﹁柳生新陰流しの典範となった。
度も接することなく、 ひたすら兵法の韮極を
に﹁(議絡﹀
⋮十を越えて跡をお
︿歳)
-心法の融合 如に開援し、自由話連な心境に達した兵法家もいる。その代表的
式譲を挙げることができる。武蔵は司五輪書﹄﹁地
求めて、 その果てにおのずか
しかし、例えば右の次第のように禅僧を師とし、露草と説く心法に
を師として兵法と心法に関根し、
神妙録﹄の特織といってよいのかも知れない
うに兵法の在ち様を例示し、 そのことによって両者の融合性・
ず心の在り様を、次いで﹁貴殿(欝生宗矩﹀ の兵法にて申すべく設しとか﹁貴殿
いて、繰り返し繰り返し、懇切丁帯広場み砕いて説いている欝と受ザ止めている。ただしこの説き方は、仏道から先
いま自分にとって﹃不動智神妙録﹄とは、兵法と心法の接点を説く欝というより、兵法と心法の融合の在り様忙つ
動智神妙録﹄に再び相対し、 また棺接することとなった。
今問、弘前藩士、当回流太万の修行者と思われる戸田茂太夫の筆写本﹃剣街、む法神妙録﹄を判読し、その原典﹃不
しは明るくなったという荒がしていた。
む日目でるった。しかし未だ来だ殆ど得心できなかった。八戸市から弘前市に移る頃、その接点の模様について、少
薪
弘前大学教幾部「文化紀要 J 第 3
3
母第 2,1
9
9
1年
2
1
6
もひ見るに、
なる所に
(
勝
﹀
てかつにはあらず
0
・をのづから滋の器用ありて天理をはなれざる故か、又は他流の兵法不足
その後なおもふかき道理を得んと続鍛タ鍛してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の比な
の現にまかせて
い。彼は﹁兵法の期一にまかせてし警に親しみ絵を書き、仏像を彫った。
武議の﹃五輪書﹄の年記は正保二年(一六四五)、 そして同年没。祭矩の﹃兵法家伝書﹄の年記試正保一一一年︿
の
ム
ハ
四
った開時代人である。しか
円札せよ、問者は兵法・心法の融合一如を
をひとつの契機として関娘し、武議誌野に下りなが
六)、そして同年没。両者とも死線をのり越えた実戦の経腫をもち、兵法をもっ
し、宗矩は徳川家兵法師範となり、部・沢臓の
ι身を沈めることによって遂に開眼した。そ
の解説の一簡を引用し
べた。このこ
いとし
にまた
説いた法論であり、剣禅一如、弓捧一如など、あらゆ'る武装や芸能の一つの思想的ル lツしであると、
﹃不動智神妙録﹄が﹁剣の至妙の境地は禅のそれと一致するという、 いむゆる難禅一如の思想を多くの事例を挙げて
極めた天下の双壁であった。
L
いわば心法の深
り。夫より以来は噂入るべき道なくして光陰を送る。兵法の理にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事におゐて我に
師匠なし。(以下略ごと書き残した。
兵法はもともと、命の断涯に立って始めて生み出すことのできる街技の体系であり、ぞ
一体在なす。ぞれ故に、武臓の﹁を
と
てもよく、これは武臓の融合一如を示す貴重者一一諮と云わなければならな
の
に凝視する必要のあることにも触れておなければならないだろうと思う。
し3
また、吋不動智神妙録﹄が京矩の兵法開眼の契機となり得たのは、宗矩自身に沢轄の説く心法の真意を受りとめるだ
つ
弘前大学教養部「文化紀要」第3
3母第 2,1
9
計年
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1
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ご九九O年
一月五呂﹀
の諒典、通称叶不動智神妙録﹄をとりあげ、弘事を濡えて期晃の一端
けの高い術技と、それを更に高めながら自分の工夫開発した術技をも含めて、柳生新陰読の全体系掠りに日夜腐心し
ていたという実態があったから北外ならない。
今聞紹介した資料のうち﹃剣術心法神妙録
を述べてあとがきとした次第である。
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文化 紀要」第 3
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-第 2, 1
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帯芯︽、史的司令、飢えも
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命寸刊誌ざす今仙川・
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・A737 字
持ヲ故事、 司
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手!火之 τ4H・え私匁宅、必吋し凶作、イ誌なわ守寺-K
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妻、しですま今、宮支え
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'訟 J
志え味付品、之、・械伶ルp
丸山耐え﹃ハ抑草紙、レ待に 制
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背え事守治苦 J芸品川
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その上の 印文 は 読 み 難 い。
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