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神通峡かいわいの昔話 - 細入村の気ままな旅人の舘

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神通峡かいわいの昔話 - 細入村の気ままな旅人の舘
企画・編集・挿絵
細入村の気ままな旅人 佐田 保
神通峡かいわいの昔ばなし
目 次
はじめに
2
富山市細入 だらなあんま
じいちゃんたちのトチの実拾いの話 富山市加賀沢 ヘビのタタリ 富山市加賀沢 「蟹寺 籠の渡し」伝説 富山市蟹寺 籠の渡し 富山市蟹寺 狐に化かされた山伏 富山市蟹寺 蟹寺の由来 その一 富山市猪谷 狐の嫁入り
富山市猪谷 狐の嫁入り その二 富山市猪谷 大垣宗左衛門の墓 富山市片掛
大蛇の話 風除けの松林 畠山重忠と丹後の局 富山市楡原
富山市楡原
雨乞滝
畠山重忠公の墓所によせて
富山市楡原 富山市楡原 富山市片掛 片掛銀山発見の逸話 富山市片掛 幻の滝 富山市猪谷 手品師の関所破り
富山市猪谷 飛騨の武将 塩屋秋貞 富山市猪谷 天狗さまの爪 富山市猪谷 七人衆の墓 46
富山市猪谷 カワウソと提灯
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52
67
富山市蟹寺 沼の主 富山市蟹寺 蟹問答 富山市蟹寺
蟹寺の由来 猪谷の古老の話 富山市蟹寺
黒いオバケ 富山市猪谷
白屋秋貞の話 富山市猪谷 狐に騙された 富山市猪谷 35
48
54
71
15
49
73
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55
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23
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44
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18
27
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10
77
2
丹後の局と地神
富山市楡原 畠山重忠伝説「サイの角」
富山市楡原 富山市楡原 雨乞い瀧
狐の嫁入り
富山市岩稲 火吹き竹とケゴシ
富山市岩稲 古銭の出た話
富山市岩稲
黄金の鶏と軍用金の伝説
富山市岩稲 ダラな兄マの話
富山市岩稲
富山市岩稲
辰巻きの伝説
夢を見て宝物を掘りに来た男
富山市岩稲
鯛と鮎と鯒
富山市岩稲
富山市東猪谷 宝樹寺のげんまの松
富山市東猪谷 新「宝樹寺のげんまの松」
富山市舟渡 つきぬ菜
富山市舟渡 川木と山境
富山市小糸 小糸宗左衛門の話
富山市小糸
小糸のお不動様
富山市小糸 尾萩野の首なし地蔵さん
命の水
カッパに教えられた妙薬
富山市小糸
富山市伏木
伝説 吉野籠の渡し場の大蛇
吉野村のことについて
富山市吉野
富山市吉野
坂田金時と薄波のゆかり
富山市薄波 坂田公時
富山市薄波 寺津の河童の話
富山市寺津 127
129
山椒とナンバのおはなし
富山市岩稲 岩稲に伝わるお湯の出たはなし
富山市岩稲 赤池の大蛇
五郎兵衛宮
富山市町長 3
富山市東猪谷 富山市東猪谷 不切山の神
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106
116
122
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89
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109
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97
83
84
95
104 100
富山市布尻 布尻の長者屋敷
勘造地蔵
富山市芦生 富山市芦生 山火事止めのまじない
「弘法の清水」伝説
富山市牛ケ増 いぼとりの水
富山市牛ケ増 塩壁のお告げ
富山市下夕 闘鬼が岩の大トカゲ
富山市下夕
地名の由来
富山市下夕
塩出の池
富山市下夕
池の原の大蛇と怪力和尚
富山市寺家
はたおりの先祖 姉倉姫のお話
富山市寺家
帝竜寺の大蛇
富山市船峅 馬鞍谷の大蛇
富山市船峅 猿倉城あとにのこるとんち話
富山市船峅 母なる川 船倉用水
富山市船峅 姉倉姫
富山市船峅 船峅地区の地名の由来
富山市船峅 きつねの嫁入り
柿の実なります、なります
富山市二松
富山市二松
富山市二松 お正月のお話「一つ転がせば一千両」
長兵衛とお蔵屋敷
古い松と天狗
富山市二松
富山市二松
馬渡る
夢枕に立たれた石仏
富山市二松 富山市二松
富山市二松 火の番丁と夜回り
九万坂
富山市二松 184
188
帝竜寺の三秘宝
富山市寺家 馬鞍谷と大蛇の伝説
168
175
166
180
165 164
179
188
富山市坂本 御前山雨乞岩屋祭礼
富山市船峅 姉倉姫の命と舟倉山
富山市船峅 162 161 159
186
145
153
140
148 147
157
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188
146
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143
150
151
155
182
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万願寺の不動はん
189
194
富山市万願寺 小羽天狗松
富山市小羽 富山市須原・土 御鷹山
富山市土 岡用水
富山市下伏 宮腰用水
下伏の大蛇と蛇骨
富山市黒瀬谷 腹痛をおこす水
富山市黒瀬谷
下伏の大蛇
富山市黒瀬谷
殿様の清水
富山市春日
名伯楽
富山市西大沢
八木山のいわれ
富山市八木山
稲代のともしび
富山市稲代 又兵衛の刀
富山市塩 百足ガ淵
富山市岩木 ガメの石像
富山市岩木 娘が竜になった観音さま
富山市野田 首なしじそう
富山市市場 殿様松
富山市下大久保 大永寺の幼女
富山市大久保 弁山のいわれ
富山市大久保 がめの宮
富山市大久保 塩泉と多久比礼志神社
富山市大久保
とじこめられた天狗
大久保用水
富山市大久保
富山市大久保
大沢野用水
富山市大沢野 5
192
205
213
215
207
212 211
210
214
192
191
197 196
202
204
195
201 200
192 192
192
198
203
だらなあんま
†富山市細入 むかし、 だ ら な あ ん ま が お っ た と 。
ある日、そのうちの法事をするのに、坊さんをよんで来てくれと母ちゃんにたのまれたと。
「坊さん て 、 ど ん な が ね 」
「黒い着 物 き て お る よ 」
あんまは し ぶ し ぶ で か け た と 。
とちゅうで木の枝に烏がとまっているのを見たと。
「坊さん 、 坊 さ ん 、 う ち へ 来 て く れ 」
と、あんまがいうたら烏はカアカアといって飛んでいった。
家に帰 っ た あ ん ま は そ の こ と を 話 し た と 。
「だらめ 、 そ り ゃ カ ラ ス や 」
と、母ち ゃ ん に し か ら れ た と 。
そして、 ま た 、 よ び に 行 っ た と 。
やがて坊さんが来られて、お経も終わって、お膳を出そうと鍋の蓋をとったら、母ちゃんがまたびっくり
6
したと。
「あんまや、あんま、このニシメどうしたがね、何もないぜ」
「ああそれけ、わしがいっしょうけんめい火をたいておったら、何も食べんがに、クッタクッタというので、
どうせならくってしまえと思ってくってしもうた」
母ちゃん は 二 度 び っ く り し た と 。
こんどは 坊 さ ん が 風 呂 に 入 っ た と 。
「あんま、お湯がぬるいとよわるから、そこにあるもん、何でも燃やしてあげられ」
と、母ち ゃ ん が た の ん だ と 。
「はい、 は い 」
といって、あんまはそこにぬいである坊さんの大事な衣まで 燃やしてしもうたと。
「あんま、あんま、ちょっと湯があついで、ぬるしてくれよ」
坊さんが た の ん だ と 。
「はい、 は い 」
といって、あんまは食後のお茶冷ましのことを思い出し、つけものの沢庵を持ってきて風呂の湯をかきま
ぜたと。
坊さんは自分の着物もないし、くさい、くさい、こりゃかなわんと にげていったと。 おしま い 。
ふるさと の わ ら べ う た と む か し ば な し 」
細入婦人学級編より再話
富山市細入
7
じいちゃんのトチの実拾いの話 †富山市加賀沢 「加賀沢、蟹寺、小豆沢、米のなる木はまだ知らぬ」という歌を聞いたことがあるだろう。神通川のずっ
とおくの、山で囲まれて、田も畑もあまりないこの辺りの村では、昔は、米やこくもつが、ほんの少しし
かとれなかったのだよ。よそとの行き来もふべんであるし、今から考えると、笑い話に聞こえそうな話だが、
食べ物に 、 い ろ い ろ と 心 配 と 用 心 を し た も の だ 。
その一つが、村の家の数を決めて、それ以上、家をふやすことができないことにしたのだよ。また、家々
の中で、いらない者は、皆、旅へ出してしまったのだ。もちろん、よそから来た者には、家を建てさせなかっ
たのだよ 。
山のトチやクリの林は、全部「共有」といって、村中の仲間のものにしたのだ。ケヤキのような木は、
全部切って、トチやクリの木ばかりにして、育てたものだ。今になって考えてみれば、トチの代わりにケ
ヤキにしておいたら、ここの村は、金でうまっていたろうにね。
その頃、トチの木を切った者は、バツとして、三年の間、ただで、村の雑役をつとめたものだよ。
トチの実は、今こそ、食べる者も拾う者もいないけれど、昔は、ここの大切な食料だったわけだ。拾っ
てきたものを水につけて、虫を殺し、かわかしてたくわえ、冬になって、つぶして粉をとり、だんごにし
て食べた も の だ 。
まだまだまずい。それでも、
昔は、
実にうまかっ
今なら、とても食べられるものではない。キビだんごより、
8
たのだ。今の者は、口がぜいたくになってしまっているのが、もったいない気がするね。
「お
ところで、このトチの実の拾い方は、なかなかめずらしいやり方だった。お前たちは、これを聞いて、
かしい」と、笑うかも知れないが、それは、おかしくも何ともない、真剣なことだったのだ。
一つ 、 ト チ の 実 拾 い の 話 を 聞 か せ て や ろ う 。
クズの花が紫色に咲いて、馬草刈りに、朝早く、村の上の山道を通ると、トチの実が、黒い顔をして、
道ばたに、クルクルところがり出ているのだ。谷川の小ジャリにしずんでいるものもある。顔を上げて見
ると、口を開いた皮の中から、顔をのぞかせた実が、トチ林の大きな、どの木にも、いっぱいなっている
のだ。
カンカンと日照りにあぶられて、ボサン、ボサンと、草原へも、やぶへも、ぎっしりまいたように落ち
るのだ。山のくぼ地などには、あけたように落ちている所もあるのだよ。
それでも、それを、たった一つであっても、拾われないのが、村のオキテだ。拾ったらたいへん。三年
の村雑役だ。拾う前に、その実を、一ヶ所へ、かためておくこともできないのだ。
「トチ山は、
いよいよ、枝の上のトチの実が、大方落ちてしまった頃を見はからって、村の名主さんから、
何日だ」と、おふれが出るのだ。さあ、村の人々の胸はおどる。カマスを整えるやら、じょうぶな袋を用
意するやら、荷なわを作るやら、もも引きをぬうやら、いく日も前から、家ごとに、その用意に、やかま
しいこと だ 。
さあ、前日になると、お祭りのため、年中食べることのない白いご飯の弁当を作って、カマスに入れ、
特別に、しっかりとくくりつけるのだ。明日の大競争に負けぬようにと、細心の注意で、必要な用意を終
富山市加賀沢
9
え る の だ。 足 ご し ら え に い た る ま で、 す っ か り 整 え て、 昼 の 内 か ら、
皆眠る。働ける者は、子どもも女も老人も、皆眠るのだ。
一家から何人行っても、かまわない決まりだ。家族の多い家は、よ
けいに拾わねば、冬越しができないわけだからね。
「何人行ってもいい」
とは、公 平 に 決 め た も の だ 。
やがて、名主さんから決められた時間までに、村のお宮の石だんの
所を、出発点として、全部がせいぞろいする。名主さんの合図の前に、
その線を越えてはならぬ。ひしめきあい、わめきあって、合図を、今
や遅しと 、 待 ち か ま え て い る の だ 。
せいぞろいした者は皆、もみあううちに、カマスをずり落として、
負 け て は な ら ぬ と、 カ マ ス を、 背 負 い な お し た り、 ワ ラ ジ の ひ も を、
くくりなおしたり、はちまきをかたく結びなおしたりして、手につば
つけて、自分の走るべき道をにらみつけているのだ。だれもが、どの
方向から林へ分け入り、どこへ出るか、胸の内には、十分に作戦がで
きている の だ 。
名 主 さ ん が、 カ シ の 木 の 厚 板 を つ る し て、 今 に も カ シ の 木 を 打 つ 用
意を始め た 。
カン、カン、カン、一度にかん声がわき上がった。
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ころぶ者、つまづく者、押す者、走る者、何とも言われぬにぎやかさ。わきで見ている名主さんは、さ
ぞかしおもしろかったろうが、他の者は皆、真剣だ。またたく間に、クモの子を散らすように、林やヤブ
へはい上 が っ て し ま っ た 。
だれもが、無我夢中で、トチの実を拾っては入れ、入れては拾う。かけずり回って、拾えるだけ拾うの
だ。たちまち、広い林も、すっかり、拾いつくされてしまった。中には、棒きれやカマで、芝やチリまで、
かきさがしている者もいる。そして、もうトチの実はなくなったと思うころには、
大切なえものの袋を背負っ
て、それ ぞ れ が 帰 っ て 来 る の だ 。
てんでの家の前には、大きなおけをいくつもすえて、それに、拾って来たトチの実を入れて、水びたし
にして、どこの家でも、
「何ばい拾った」と、得意がったり、喜んだりしたものだ。子どもたちは、連れ立っ
て、一軒 一 軒 見 て 回 っ た も の だ よ 。
そんな大切な食べ物も、今では、ほんのわずかなモチに入れるために、拾う家が、少しあるくらいだ。
世の中も変わったものだね。 お前たちも、お宮さんの森に、トチの実がたくさん落ちていても、おもちゃ
に拾うのが、関の山だろう。無理もない。汽車が、けむりを上げて、一時間で、富山の町から、かけこん
で来るのだからなあ。 富山市加賀沢
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婦負郡小学校長会郷土読物
「猪谷尋常小学校4年生」 昭
(6 か
) らの再話
ヘビのタタリ †富山市加賀沢 ヘ ビ の 大 嫌 い な 母 は、「 殺 し て は い け な い、 半 殺 し は、 尚 更 悪 い 」
と言い、自分が小さい時に聞かされた話を、何度も話した。
自分の生地から遠く離れた村の男の人が、ヘビを見ると、捕らえて
は殺し、食べていたら、ある時、無数のヘビが集まって来た。
戸を開けていると、そこから入り、閉めると、隙間や節穴から入り、
障 子 の 破 れ か ら も 入 っ て 来 る。 あ っ ち か ら も、 こ っ ち か ら も 入 っ て 来
杉谷和男著「加賀沢村と杉谷」
て、家中ヘビだらけ。そら恐ろしく、気持ちがおかしくなって、最期
には、病 気 に な っ た と い う 。
12
「蟹寺 籠の渡し」伝説 †富山市蟹寺 へいあんじだいの おわり、ぶしたちが、きぞくたちに かわって、しだいに 力を もちはじめたこ
ろの お 話 で す 。
「源氏 げ
( んじ 」)と「平氏 へ
( いし 」)が 一一五九年、ぶしの 中でも 大きな 力を もっていた 大きな たたかいを しました。平治の乱 へ
( いじのらん と
) いいます。このたたかいは、平氏が かち、
まけた 源氏の たいしょうだった 源義朝 み( なもとのよしとも は) 、
みのの国 青墓宿 あ( おはかしゅく )
( んざいの ぎふけん みのあかさか に
) おちぶれて みを かくしました。しかし、いつの日か げ
ふたたび 、 京 き
( ょう に
) 上り、平氏を うちやぶりたいと、かんがえていました。
( なもとのよしひら で
) す。いつもは 悪源太義平 あ
( くげんた
その 義朝の ちょうなんが、源義平 み
と なのって いました。
よしひ ら ) ( だのくに の
) 白川郷 し
( らかわごう か
) ら 高原郷 た
( かはらごう へ
)と
悪 源 太 義 平 は、 飛 騨 の 国 ひ
へいを あつめながら、京に せめ入るための じゅんびを すすめていました。
( えもん は
) 、悪源太義平のいさましさに かんしん
よしだ(かみおか)に すむ ごうぞく 左兵衛 さ
)
し、じぶんの かわいい 二人の むすめ、姉の 八重菊 や
( えぎく と
) 妹の 八重牡丹 や
( えぼたん を
)、
義平の つまに してもらいました。 こ
( のじだいは、おとのさまには たくさんの おくさんが いまし
た。
富山市蟹寺
13
し ば ら く し て、 父 義 朝 が な く な っ た と 聞 き、 悪 源
太 義 平 は、 い ま こ そ 平 氏 を う た な け れ ば な ら な い と け っ し ん し て、 京 へ せ め い り ま し た。 義 平 は、 平 氏 と いさましく たたかいましが、平清盛 た
( いらのきよもり )
に と ら え ら れ 、 つ い に 、 六 条 川 原 ろ
( くじょうかわら で
)
う ち 首 に な り ま し た。 年 は わ ず か に 二 十 さ い で
した。
こ の こ と を 風 の た よ り に 聞 い た 八 重 菊 と 八 重 牡 丹
は、 悪 源 太 義 平 の た ま し い を な ぐ さ め よ う と 思 い 立 ち、
二人だけで 京へ 上ることに しました。
(だ と
)
そ し て、 ち ょ う ど 通 り か か っ た の が、 飛 騨 ひ
「蟹寺 か
越中 え
( っちゅう の
) 国 ざ か い に あ る ( にでら )
の か ご の わ た し 」 で す。 ふ つ う な ら、 村 人 を よ ん で わたるのですが、自分たちの みぶんは 源氏で、しかも、
京へ しのんで 行く たびです。
村人に たのむことも できず、二人で こっそりわた
ることに し ま し た 。
さ き に、 姉 の 八 重 菊 が わ た ろ う と し た と こ ろ、 と
14
ちゅうで あやまって、せんじんのふちに おち、げきりゅうに のまれて しまいました。これを 見
ていた 妹の 八重牡丹は、「自分 一人が とりのこされて、
このよに 何が うれしいことか」と なげきかなしんで 自分も みを おどらせて、このふちに とびこんで しまいました。しばらくして、
二人の なきがらは、かりゅうの 薄波 う
( すなみ の
) 近くで うきあがった ということです。
村人は、京にも 行けず、おっとの あとを おった 二人を、たいへん かなしく おもって、「よ
しだ八重菊・八重牡丹 名をばとどめた この谷に」と うたいました。
その後、村人たちは、どのような みのうえの かたでも、女や子どもが かごのわたしに さしかかっ
た時は、りょうぎしから つなをひくように、もうしあわせたということです。
「細入村史」
富山市蟹寺
15
籠の渡し
†富山市蟹寺 ここは飛越の国境、際立った山々は深い霧に包まれて、川音だけが心に寒く響いています。時雨に濡れ
た細い街道は、やっと紅葉しかけた谷間をぬって見え隠れして続いています。
時は永暦元年、秋の朝明け少し過ぎ、此の飛騨路を越中さして急ぐ二人の年若い女づれ、脚絆草履に身
を包んでの旅姿で、気の毒なほど疲れた様はさも哀れであります。時々、物に脅える様に後ろを振り返り、
振り返り、助けいたわり合ふて急ぐ様子は只人ではないらしく、疲れやつれた旅姿ではありますけれども、
何処とは無しに気品の高さが、くっきり辺りの景色に浮いています。
御姉上様、あんなに騒ぐ音が近づいて参りました。さぁ御急ぎ致しましょう。
折角、此まで人目逃れて落ちたものを、もう越中も間近い所で負手に捕えられなくてはならぬとは、あぁ
情けなや 。
いや御姉上様、そんな不吉な事をおっしゃいますな。もう越中迄は三~四町、籠の渡しを越えたなら、
どうにか逃げおうせる事も出来ましょう。気を落とさずに急ぎましょう。
互いに励まし、よろめきながら、更に気を立て直して急ぎます。
これより先、平治の乱に平家一族の為に散々に敗られた源義朝は、残り少なくなった味方の兵を引き連れ、
都を落ちて尾張の国まで逃げ延びました。義朝は此処で兵を募って、もう一度都へ攻め上ろうと考えたの
です。そこで長子の悪源太義平も父の命令で、北国路で兵を募る事になり、先ず美濃から飛騨の国へ進み
16
ました。間も無く、父義朝は元自分の家臣であった長田忠致の為に、尾張の国で非業な最期を遂げられた
といふ報せが、飛騨路で義平の耳に入りました。義平の驚きは一通りではありませんでした。
その上、折角募りかけた兵も、皆、力を落として散り散
りになってしまいました。さすが平家の人々に鬼の様に恐
れられていた悪源太義平も、最早、兵を募る意気も無く、
最後の手段としてこっそり都に忍び込み、清盛の首を窺お
う考えて、姿を変え、越中を経て都へ上りました。
後に、とうとう運も尽き果て平家の武士に見明かされ、
近江の国で捕えられました。そして天下に聞こえた荒武者
も二十歳を最期として六条河原の露と消えました。
今しも飛騨路を急ぐ女旅人こそは、平家の追手に追われ
て義平の後を慕う妻とその妹であります。漸く飛騨の中山
に辿り着きました。川を隔てて越中の国、蟹寺村です。岸
に立てば、底知れぬ遥か眼の下に宮川の流れが白く渦を巻
いています。藤蔓を寄り合わせた怪しげな綱が細長く向う
の岸に引 か れ て い ま す 。
丁度、籠は岸近くに乗り捨ててありますが、一度に二人
は乗れそうにもありません。急ぐ心に、川向かいの渡し守
富山市蟹寺
17
を声の限りに呼びましたが、川の瀬音に邪魔されてか、心安らかに未だ眠りについているのか、出でくる
様もあり ま せ ん 。
さぁ姉様、急いで先へ御乗り下さいませ。自分で手繰って渡れない事もありますまい。川の上まで出ら
れたらもう大丈夫でしよう。今の内に早く、早く。
だが、お前一人をこちらの岸におくのは・・・。
御心配下さいますな、早く。あれ、あんなに追手が近づきました。
では、御先へ御免、運良く共に渡れる様、八幡様・・・。
籠の懸綱試しもせず、急ぎあわてて乗りました。追手の影は次第に近づいてきます。あやしげな手つき
で綱を手繰ってゆく姉。我が身の危険を忘れて、姉の身を気遣って立つ妹、またしても追手の響き、姉も
妹も只一 生 懸 命 で す 。
あっ、焦りに焦って綱を手繰っていた姉の籠は、綱を離れて宙に舞って落ちて行きます。懸綱の根本が
切れたのです。狂い出した様に驚き叫んでいる妹の声に送られて、姉の姿は宮川の急流深く消えて、再び
見えませんでした。追手はもうすぐです。頼りの姉も今はなくなったこの世に、
敵手に落ちて永らえるより、
冥土の旅も御姉上様と、目を閉じ、合掌しばし、谷底に身を躍らせて、姉の後に続きました。
「細入歴史調査同好会 村の今
昔」
18
狐に化かされた山伏
†富山市蟹寺 む か し、 山 伏 が で か い ホ ラ 貝 を 持 っ て、
昼 も ま だ 早 い の に、 蟹 寺 か ら と な り の 加
賀沢に向 か っ て 歩 い て 行 っ た と 。
と ち ゅ う、 大 坪 谷 の カ ケ ハ シ( 懸 橋 )
に さ し か か る と、 狐 が ひ る ね し と っ た が
い や い と ね。 こ り ゃ 少 し お ど し て や れ と
思 う て、 そ っ と 狐 の 耳 へ 近 づ い て ホ ラ を
プ ー と 鳴 ら し た ら、 狐 は び っ く り し て 山
へにげて い っ た と お 。
そして山伏がちょっと一休みしておっ
たところ、おっかしいことに、まだ日中みたいがに、くらく日が暮れかけてきたとお。 こりゃ、どんながか、
よさる(夜)になったし、いごけん(動けん)ようになった。どこかで泊めてもらわんならん、と思うて、
切込谷ちゅうところに行ったらまっくらになったと。
そこは、村の石灰焼きする仕事場で、山伏はこりゃまあどこか泊まるところがないかと探しておったら、
一軒家が あ っ た と 。
富山市蟹寺
19
「こんばんは」というと、家からおばあさんが出てきた。
「ひとつ今夜は泊めてもらいたい。もう日が暮れていごけんようになったから」
山伏 が 頼 む と 、
「 泊 ま ら れ て も え え け ど、 わ し の お じ い さ ん が 亡 く な ら れ て、 棺( か ん ) に 入 れ て 座 敷 の 仏( ほ と け )
さんの前に飾ってある。わしもここでちょっととなりに用に行きたいがで、それでもよければ泊まってく
だはれ」 と お ば あ さ ん が い う た と 。
「ええ、困っておるで泊めてくだはれ」といって山伏は家へ入ったと。
おばあさんが外へ出ていって、山伏はいろりの縁(ふち)で火をたいておったら、奥からミシッ、ミシッ
と音がし て く る が や と 。
おかしいおかしいと思っていたら、座敷の戸がすっと開いて、棺の中のおじいさんがひとりで出てきた
ちゅがやちゃ。それを見て山伏は「やっ」とびっくりして、いろりの縁でひっくり返ったと。
ひっくり返って、しばらくして気がつくと、コチコチと石を割る音が聞こえてきたと。
それは石灰焼き場の人夫(にんぷ)たちが仕事する音で、辺りはまた明るくなり日がさ してきたと。
そこで山伏も「あんまり生きものにいたずらちゃできんもんだ」と思ったがやと。
民話出典「細入村史」からの再話
※明治四十年ころの蟹寺では石灰岩をくだき、それを焼いて作られる石灰の生産がさかんだった。当時
は田畑の間接肥料などとして貴重なものであった。 「細入村史」
20
蟹寺の由来 †富山市蟹寺 むかし、ここの 谷地に、水草の しげった 小さい 沢が あったので、もとは 小沢村と いって
いた。
ところが、今をさる 二百四十年あまり 前のこと、村の 西方に 大きな 池が あり、ここに 大
きな 蟹の化物を かしらに、三匹の ようかいが 住み、夜な夜な、池を はい出して、村人を くい
ころす。ついには、池の 岸辺に あった 慈眼院という お寺の 和尚さんまで、
くいころされて しまっ
た。
富山の海岸寺の 僧で、元気のよいのが、
「人々の なんぎは すてて おけぬ。しかも、仏に つかえる 僧まで くらうとは、言語道断」と、
月明かりの 神通峡を のぼって、慈眼院を おとずれた。
門を たたくと、
「どうれ…」と 出てきた 僧。
「何用あって まいられた」
「わしは、この寺の 住職の おいじゃが、和尚は 在寺かな」
「ちと 所用が あって、外出中じゃが」
「しらばくれるのも、いいかげんにしろ。和尚は、蟹の化物に くいころされたと 聞いた。あやしい
富山市蟹寺
21
僧め。さしづめ、お前は 化物であろう。正体を あらわせ」
「ワハハ…おじの かたきと いうわけか。ちょこざいな。お前も 僧職に ある身なら、わしの 問
答に こ た え ら れ る か 」
「おお、なんでもこい」
「では…ナンチの リギョとは、これ いかに」
「ぐ問 なるかな。南池の 鯉魚。すなわち 鯉なり。これを うけよ」
は っ し と、 怪 僧 の 頭 に 竹 つ え を と ば し た。 家
鳴 り 震 動。 化 物 は、 い ち じ ん の け む り と な っ て 消えうせ た 。
そ の と た ん、 雷 鳴 と と も に、 バ リ ッ、 バ リ ッ と、
天 井 を や ぶ っ て、 針 金 の よ う な 真 っ 黒 な 毛 が 生
えた 足が、ヌーッと 下りてきた。
「 オ テ に コ テ と は、 こ れ い か に 」 と、 ま た 問
いかける 。
僧は、足の化物を にらみあげて、
「 笑 止 な る と 思 わ ざ る か。 大 手 に 小 手 と は 鎚
なり。なんじ、物品道具の 身にあって、よこしまに、
ねん力を 持ちたるか。カーッ」
22
たちまち 毛むくじゃらの 足は 消え、ゴウゴウたる 大風、雷光を ともなった大暴風雨が、今に
も がらんを くずさんばかり。
暗雲、寺を つつんで うねりくるい、その中から、ランランたる 銀色の 大目玉が かがやいて、
いわく、
「 タ イ ソ ク は ニ ソ ク、 シ ョ ウ ソ ク は ロ ク ソ ク、 リ ョ ウ ガ ン は テ ン に つ う ず。 こ れ、 い か に や、
いかに」
「さては、なんじ、三怪の 頭目なるか。正体 すでに 見えたり。大足二足、小足六足、両眼 天に
通ずとは、みずからを かえりみざる、大たわけ。蟹のごときは、酢の物と なって、人の 腹中に おさまり、万物の ひりょうと 化すべし。おろかものめがッ」
電光石火、僧の 鉄けんが、黒雲の 中へ 飛んだ。ギャツという 不気味な さけび声と ともに、ピッ
タリと 風雨が やんだ。
翌朝、村人たちが、心配して 来てみると、
「大池に いってみてくれ。おそらく、鯉の化物が ういていよう。また、この寺の 天井うらに、大
工が 忘れていった 鎚が あるはず。おそらく、頭が はずれていよう。それから、沢を さがして
みてくれ。蟹の化物が つぶされて いるはず」と言う。
僧の 言った通り、鯉が うき、首のとれた 鎚が あった。沢には、はさみを 石に つぶされた 大蟹の化物が しんでいた。はさみに 石、まるで ジャンケンである。
村人たちは、この 海岸寺の 僧の 勇気を たたえて、慈眼院を 再こう。化蟹退治の寺という 意
富山市蟹寺
23
味を ふくめて、蟹寺と 名づけた。これが、蟹寺の 地名の由来で、
富山市梅沢町にある 曹洞宗「海岸寺」
には、この時の 化蟹の こうらが、寺宝として 由来を 書いて、保存して あったという。
「立山千夜一夜」
民話出典 24
沼の主 †富山市蟹寺 (一)二~三日前から、しょぼしょぼと降り続いていた雨も、どうやら落着いたらしく、狭い川幅いっぱ
いに立ち込めていた朝霧も、どんどん山の頂へ向かって流れ始めました。晴れ間からは、次第に山の麓が
見 え 出 し、 や が て 麓 の 村 が 現 れ ま し た。 す っ か り 秋 ら し く な っ た 池 田 の 森 と 慈 眼 院 の 朽 ち か け た 屋 根 が 見
えます。
ここは、飛騨と越中の国境にある石山村です。段々の小山田が所々にあって、一〇余りの草葺の屋根が
散らばっ て い る の で し た 。
池田の森は、村の後方の高い所にありました。そこの南側に、もう黄ばんで一層高く抜き出ているのが、
慈眼院の大銀杏でした。すでに幾百年経っているかも分からない老木で、村人は、この大銀杏の色付くの
を見ては 、 秋 の 深 ま っ た こ と を 知 る の で し た 。
慈眼院の裏庭には、ひっきりなしに、木の葉が落ちて来ます。その落ち葉を背に受けながら、和尚様は、
菊の手入 れ に 余 念 が あ り ま せ ん 。
上り切った霧の間から、太陽が耀き始めました。狭苦しい裏庭に、ぎっしりと立ち並んだ幾十鉢かの菊
の蕾が、朝露を含んで、くっきりと浮き出しています。ぽっこりと膨れて、花が開きそうな鉢も幾つか見
えていま す 。
このお寺の和尚様は、菊作りの名人でした。辺りの山の頂が、残りの雪で、まだ真白い頃から、菊の根
富山市蟹寺
25
分けに意 気 込 む の で す 。
やがて、池田の森がすっかり青くなって、峡谷の栃の木に小さな花が、こっそり咲き始める頃になると、
畠一面に植えられていた菊苗が、一つ一つ鉢に植え込まれます。
そして、宮川の荒瀬へ鮎が下り始める頃には、慈眼院の裏庭には、勢揃いした菊鉢が、所狭いまでに並
べられる の で し た 。
「お早うございます。和尚様。」一人の村人が、声を掛けました。
「なんと、今年も見事になりましたね。」
村人は、菊鉢の立派な出来栄えに、いかにも感心した様子です。
「あぁ、それ。この鉢を見てくだされ。」
和尚様は、自慢の鉢を抱えんばかりに、得意そうでした。
(二)幾日かが過ぎました。今日もまた良い天気です。森の中では、朝早くから小鳥たちの囀りが聞こえ、
辺りの小藪には、真っ赤な木の実が光っていました。
今朝に限って、あの元気のいい和尚様が、どうしたものか浮かぬ顔で、裏庭の縁に腰を下ろしていました。
何だか、 打 ち 沈 ん だ 面 持 の よ う で す 。
よく見ると、日頃、和尚様が、あれほど大事にしておられた菊鉢の幾つかが、打ち倒され、その側には、
幾つもの 小 蟹 の 死 骸 が 、 転 が っ て い る の で し た 。
「わしのせっかく大事にしていたものを、この小蟹どもが、悪戯にも鋏み切ってしまったから、踏み殺
26
したまでだ。」
そんな風に、和尚様は、自分の心に言い聞かせてはみるものの、小蟹どもの鋏や足がもげて、幾つも幾
つも折り重なっているむごい死骸が、気に掛かります。
和尚様は、何かを思い出したように立ち上がり、森の中へ歩き出しました。大事な菊と、小蟹の死骸とが、
まだ、和尚様の頭の中を、ぐるぐると、渦巻いていました。
森のずっと奥まった山際には、薄暗い沼がありました。
「池田の沼と言って、ずっと昔から、大きな古蟹が、棲んでいるのだ」と伝えられていました。
和尚様は、この沼の近くまで来ました。そして、沼の端の大岩の上に立って、淵べりを、見渡しました。
すると、蕗の赤い茎の辺りに、一匹の黒い小蟹が、目に止まりました。
と、その隣にも、また、その隣にも、同じような小蟹が、ぎっしりと並んでいます。
やがて、それが、沼の周囲いっぱいに広がり、二重になり、三重になり、しまいには、沼一面を覆い隠
すように さ え 見 え ま し た 。
その時です。沼一面の小蟹の群は、少しずつ、静かに回り始めました。かと思うと、今度は、ぐるぐる、
沼全体が 動 き 始 め ま し た 。
ぐる ぐ る 、 ぐ る ぐ る 。 猛 烈 な 速 さ で す 。
やがて、それも止むと、今まで、沼一面を覆い隠していた小蟹の群が、たちまち一匹の大蟹となり、大
岩の方へ向かって動き出しました。よく見ると、和尚様は、いつの間にか、大岩の上に、打ち倒れていました。
富山市蟹寺
27
(三)「早く、治ってくださればよいが。何分にも、御老体のことだから…。
」
数日後の慈眼院の一室です。心配そうに語り合っているのは、和尚様の重態を知って、駆け付けた村人
たちです 。
和尚様が、大岩の上から、村人に担ぎ込まれた時には、もう虫の息でした。あれから三日も命を保った
のが、不 思 議 な 位 で す 。
その時でした。和尚様は、衰え果てた目を、そっと見開いて、
「誠にお手数じゃが、わしの体を、庭の見える所まで、連れ出してくだされ。
」と、つぶやきました。弱
弱しい語勢でしたが、和尚様は、気持ちだけは、しっかりしていました。介抱している村人たちは、すぐに、
和尚様を 、 庭 の 見 え る 座 敷 ま で 連 れ 出 し ま し た 。
「わしの菊の鉢を、枕もとに並べて下され。頼みじゃ。
」と、和尚様が言いました。
一瞬にして、村人たちの顔は、言い合わせたように曇りました。和尚様が、どんなに菊の花を大事にし
ていたか、誰もがよく知っています。そして、菊の鉢を、
和尚様の枕もとへ置けば、
どんなに喜ばれるかも知っ
ています 。
けれども、今は、それが出来ないのです。和尚様が寝付かれた日から、不思議にも立派な菊から、パッ
タリパッタリ倒れ出しました。今では、菊らしいものを、一鉢だって見ることが出来ないようになってい
るのです。けれども、和尚様にそんな話をしようものなら、どんなにか力を落とされるだろうと、村人た
ちは、固 く 口 を つ ぐ ん で い ま し た 。
「和尚様、どれもこれも、みんな見事に咲き揃いましたぞ。
」
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「けれど、和尚様、病気をすっかり治してから御覧遊ばせ。
」
「今年ほど、綺麗な菊を見た事はありませぬわい。早く良くなって下され。
」
村人たちは、代わる代わるなだめてみました。和尚様は、一人心の中で肯いていましたが、その顔は曇
るばかり で し た 。
「それでは、あの白い大輪一鉢だけでも…。」
和尚様は、自分の運を試すかのように言いました。
「和尚様、あれは未だ蕾でございます。」
村人たちの答えには、元気がありませんでした。
「いや、今が丁度見頃の筈じゃ。」
村人たちは、とうとう根負けしたように、首をうなだれて、今までのことを、全て、和尚様に語り聞か
せました 。
そして、その中の一人が、白い大輪の枯葉を差し出しました。和尚様は、がたがた震えながら、手にそ
れを取って、切口をジーと見詰めていましたが、急に、突拍子もなく大きな声で、
「蟹、 カ ニ 、 カ ニ 」
と叫んだまま、パッタリ倒れて、再び起き上がることはありませんでした。
その夜、和尚様は、とうとう亡くなりました。
間もなく、誰言うとなく、「池田の沼に棲む、古蟹の祟りだ」と言う風評が、村中に広がりました。
(四)慈眼院の和尚様が亡くなってからは、村には、余りよいことが続きませんでした。この二~三年来
と言うものは、思い通りに作物も出来ず、その上に、悪い病気さえ流行りました。村人たちの元気は、すっ
富山市蟹寺
29
かり衰えて、力のなさそうな顔からは、情けない溜息だけが出るようになりました。
「沼の主の祟りだ。」
「池田の古蟹の祟りだ。」
人々は、それを信じ切っていました。だから、方々の神仏に祈願して、覆いかぶさっている悪霊を、払
おうと考 え ま し た 。
気の毒な村人たちのために、進んで祈願を行われた幾人かの神主や坊様もありました。けれども、祈願
を行なった数日の後には、不思議にも、名も知れぬ病に罹って、神主や坊様は、死んでしまわれるのでした。
雑草の田圃にどっかと座ったきり、
今では、神や仏にさえ見放されたのです。村人たちは働く元気もなく、
雨蛙が雨雲を待っているかのように、あてもない毎日を、ぼんやり暮すのでした。
和尚様がいなくなってからの慈眼院は、荒れ放題に朽ち果てました。裏庭の菊鉢も、雑草と枯葉の中に
隠れるように、幾つかが転がっているだけでした。そんな中で、銀杏の老木だけは、不気味につっ立って、
荒れ果て た 村 を 眺 め 下 ろ し て い ま し た 。
村人たちは、一人去り二人去りして、住み慣れた石山村を離れて行きました。皆、当てもない遠い他国
へ流れて 行 っ た の で す 。
ただ、平和な昔の村を思っている幾人かの村人が、諦め切れず、鍬を振っているだけでした。
このように困り切った石山村へ、ある日、一人の旅僧が訪ねて来ました。見る影もない村の様子を、旅
僧は、瞬きもせずに見守っていましたが、やがて、旅僧の目は、知らず知らずのうちに涙ぐんでいました。
「おお、聞きしにまさる荒れ方だ。気の毒なことじゃ。
」
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旅僧のつぶやく口許にも、何か深く決する所があるようでした。旅僧の足は、あの朽ち果てた慈眼院へ
と向かっ て い ま し た 。
(五)その夜から、慈眼院に篭った旅僧の唱える読経の声は、池田の森にこだまして、石山村にも響き渡
りました。村人たちにとっては、何年来の懐かしい御法の声でした。今まで不安に脅えていた人々の心を
甦らせる よ う で し た 。
それからは、幾晩も幾晩も、この読経の声が響き渡りました。そして旅僧の傍には、村人たちがひれ伏
して、共に念仏を唱えている様子が見受けられるようになりました。
ある晩のことでした。薄暗い庵室に端座した旅僧は、只一人、夜の更けるのも知らず、読経を続けてい
ました。
旅僧のらんらんと光り輝いた眼、固く結ばれた口許、その重々しい様子を見ては、どんな魔物も近寄る
ことは出 来 ま す ま い 。
と、突然、水を打ったような庵室の薄暗い片隅から、異様な呻き声が起こって来ました。
「東馬 の 白 頭 は 、 如 何 に ? 」
旅僧は、キッと、その辺りを睨みすえていましたが、直ちに、
「東はヒガシ、馬はウマ。それは、東の山に棲む馬のしゃれ頭であろうぞ。
」と応じました。
だが 、 魔 物 の 第 二 の 問 は 、 直 ぐ に 続 き ま す 。
「南下 の 巨 木 は 、 如 何 に ? 」
続い て 、
富山市蟹寺
31
「西竹林の三足鳥は?」
「北林の猿古は?」
けれども、旅僧は何の苦もなく、全てをお解きになり
ました。
いよいよ、最後の問答です。
「小足八足、大足二足、両眼は天を睨む。
」
その時です。身揺ぎもせずに、じっと、魔物を睨んで
いた旅僧の眼は、物凄く輝き出したかと思うと、破鐘のよ
うな大音響で、
「それこそ、池田の沼に棲む魔物! 汝であろうぞ…。」
旅僧に固く握られていた錫杖は、ハタと打下ろされました。奇声を発した魔物は、大蟹の姿を現して、
打ち倒れ ま し た 。
慈眼院で、魔物が打ち倒されたという話は、直ぐさま、村人たちに伝えられました。その話を聞き、駆
け付けた村人たちの喜びは、どんなにか大きかったことでしょう。
やがて、村は、再び平和で豊かな里に立ち返りました。
民話出典「猪谷尋常小学校 尋六 (婦負郡小学校長会刊 郷土読物)」
そして、お互いが、あの頃の苦しみを、何時までも忘れないために、村の名前も「蟹寺」と改め、旅僧
の徳を永 く 賛 え ま し た 。
32
その48
蟹寺の由来 猪谷の古老の話
富山市蟹寺 昔、蟹寺部落を石山村と言い、七軒の家がありました。又、
小さな沢が多かったので、この村を小沢村とも言ったそうです。
こ の 石 山 村 に 慈 眼 院 と 言 う お 寺 が 在 り、 お 寺 の す ぐ 横 に は 大
き な 池 が 在 っ て、 常 に 清 い 水 を た た え、 し か も 深 く て 底 無 し と
さ れ て い ま し た。 池 に は 何 百 年 も 年 を 経 た 大 き な 蟹 が 住 ん で い
ると言い伝えられていましたが、村人が時折、池を覗いてみても大きな蟹の姿は見えず、池の縁に小さな
蟹が遊ん で い る だ け で し た 。
或る日、何時も朝には必ず慈眼院の鐘が鳴るのに、その日に限って鐘が鳴りません。不思議に思った村
人が寺へ行ってみましたが、和尚さんの姿が見当たりません。
「近くの山へでも出掛けたのだろう」と待っていましたが、二日経っても、三日経っても、和尚さんは帰っ
て来ませ ん で し た 。
村人達は大変困って、新しい和尚さんを取り敢えず頼み、慈眼院に住んでもらう事にしました。それか
にら二、三日は、朝、いつもの様にお寺の鐘が鳴り、皆安心していましたが、ものの一週間も経たない内に、
又、鐘が 鳴 ら な く な っ て し ま し い ま し た 。
「 き っ と、 何 か 化 け 物 が 出 て 来 て、
お 寺 へ 行 っ て み ま し た が、 新 し い 和 尚 さ ん の 姿 が 見 当 た り ま せ ん。
富山市蟹寺
33
和尚さん を 食 べ た ん だ 」 と の 噂 が 広 が り ま し た 。
この後も、旅の僧や尼さんが、時々泊まりましたが、朝になると姿が消えています。村の人々は恐ろし
くて、寺 の 近 く へ 行 か な く な り ま し た 。
「私が泊まって、
或る秋の日、白髪の和尚さんがこの石山村を通りかかり、そして慈眼院の噂を聞いて、
化け物の正体を見届けましょう。若し明日、寺の鐘が鳴ったら直ぐ来てください。又、鐘が鳴らなかったら、
私は死んだと思って、墓石でも建てて下さい」と、村人に言い残して、夕方、お寺の本堂へ入って行かれ
ました。
和尚さんは座禅を組んで、夜の深けるのを待っていました。夜半、十二時を過ぎると、突然、一人の小
僧が入って来て、和尚さんに向い、「私の問答を解いてみよ」と言いました。
和尚さんが黙って座禅を組んでいると、「一人でも仙(千)とは、これ如何に」と問いかけて来ました。
「一人でも番(万)人と言うがごとし」と答えるや、手に持った錫で、小僧をハッ
和尚 さ ん は 透 か さ ず 、
シとばかりに叩きました。すると小僧は何処へともなく立ち去りました。
「そばに在っても無しとは、これ如何に」と問いかけて来ました。和尚は、
暫くすると、又、別の小僧が、
「買っていながら瓜と言うが如し」と答えるや、又、錫で小僧を叩きました。小僧は、又、何処かへ消えて
行きまし た 。
暫くすると、又、別の小僧が、「水を汲んで使うのに火しゃくとはこれ如何に」と問いかけて来ました。
和尚は、「木で作っても土(槌)と言うが如し」と答え、又、錫で小僧を叩きました。こうして一晩中、次
から次へと小僧が現われ、問答をかけて来ました。
34
「若し、私の問答に答えられぬ
そのうちに東の山が少し白みかけて来ると、今度は大入道が出て来て、
時には、お前を食べてしまうぞ」と今にも打ち殺しそうな形相をして、和尚を睨みつけました。
そして、「小足八足、大足二足、両眼天を睨む、これ如何に」と大きな目をギョロギョロさせながら、われ
んばかり の 大 声 で 言 い 放 ち ま し た 。
和尚は落着いて大喝一番、「お前こそ、隣の池の大蟹であろう」と言うが早いか、力一杯、錫で大入道
を叩きました。すると、大入道は、こそこそと蹌踉(よろ)けながら外へ出て行きました。
和尚は 、夜が開けると、村中に響けとばかりに、鐘を 打ち鳴らしました。村人達がお寺に駆け付け
てみると、寺の横から池にかけて、たくさんの子蟹が死んでいました。そして、池のすぐ横にはね四斗鍋
程もありそうな、大きな、毛むくじゃらの大蟹が死んでいました。
村人達は大変喜んで、和尚に厚く礼を言い、そして、祟りを恐れて、この蟹を慈眼院で厚くほおむりま
した。
和尚は、大蟹の甲羅を剥ぎ取ると、それを持って富山へ行き、海岸寺にほおむったと言い伝えられてい
ます。
その海岸寺も空襲で焼け、蟹の甲羅はその後どうなったのか、定かではありません。一説では、この坊
さんは、海岸寺の住職だったとも言われています。
以来、この石山村は蟹寺村と、又、かの池は埋められて、池田と呼ばれる様になり、池田の田圃からは、
毎年、良 い 米 が 採 れ る そ う で す 。
民話出典 丸山博編著「猪谷むかしばなし」
富山市蟹寺
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蟹問答 †富山市蟹寺 むかし、あるところに寺があったって。そこには、禅坊主一人しかおらなんだって。
それからして、軒に巣を掘って、でかい蟹がおるやつを、知らずにおったって。
ところが、そいつが化けて人になってや、夜さになるってゆうと、坊さんに問答をかけて来るんじゃと。
そして、その問答に「一つのものを饅頭(まんじゅう)とはいかに」といったら、かけられたほうは、
「一
枚のものも煎餅(せんべい)とゆうがごとし」って、解いたが、それが解けんというと、蟹のやつやで、
はさみ切 っ て や 殺 ぇ ち ま い よ っ た っ て 。
そしたら、ある時、一人の偉い坊さんがおって、かけりゃぁ問答解き、かけりゃぁ問答解きしておって、
この最 後 の 問 答 の と き 、
「おのら、この蟹寺の後ろにおる蟹じゃろが」って、坊さ
んが持っとる忽(こつ)ってもので、ピシャーっと叩いたら、
その拍子 に 叩 っ 殺 さ れ て し ま っ た っ て 。
そ い で、 今 で も そ こ の 蟹 に は、 叩 か れ た 跡 が ち ょ い ち ょ い
とあるん じ ゃ と 。
(中切与三)
しゃみしゃっきり鉈(なた)づかぼっきり。 「宮川村誌 通史編下 昔話」
民話出典 36
白屋秋貞の話 †富山市猪谷 都では、桶狭間に勝利を得た信長が、義昭将軍を擁して天下に号令しようとしていた頃である。
幾月かの間は、雪の下に閉じ込められていた飛越国境の山々にも、日の光が暖かくなると共に、一日一
日と少しずつ緑色が加わっていく様に見える。神通川の川淵の断崖の上を、細く長く通っている道も、雪
が解け始めると、それにつれて、つるつると滑りやすいぬかるみになる。その細長いぬかるみの道を、飛
騨から越中へ、白屋秋貞の越中経略の軍勢が、毎年のように、川に沿って攻め入って来たのである。
この年、元亀二年も、一千の軍勢を率いて、西笹津の対岸にある猿倉城を根拠にして、城生城を攻略し
ようとしたのである。多年、彼は、飛騨の山地から肥沃な越中の平野を望んで、機を見て越中全土を攻略
しようと し て い た 。
この城生城攻撃では、川の崖を前に控え、後ろは山続きの堅城も、背後からの攻撃に、城兵が地の利を
占められて危うく見えた頃、上杉謙信の援兵によって、秋貞攻撃軍は遂に退却を余儀なくされた。秋貞は、
この後、 謙 信 に 従 う よ う に な っ た 。
翌年、元亀三年、両岸の山々の紅葉と映発する様な美しい物の具をつけた鎧武者の幾一千騎かが、旗指
物を風になびかせながら、神通川の上流へ上流へと上って行く。
謙信は、幕営に出迎えのためと道案内を兼ねて、飛騨から面会に来た白屋秋貞を招いて、低く雲の漂っ
た山の谷あいを指さしたり、川の上の獣か何かが、うずくまっている様な赤黒い岩に激しくぶち当たって
富山市猪谷
37
は流れて行く紺青の水の色の方を振り向いたりして、傍の秋貞に、戦陣にある大将とも思われないくらいに、
のびのび と 話 し か け た 。
彼、謙信がのびのびとした態度でいるのは、戦いの前途を楽観しているというよりは、こんな危ない山道、
細 い 崖 道 を 通 っ て 進 む 戦 時 行 軍 中 の 間 に も、 彼 の 心 情 の 底 に 潜 ん で い る 自 然 愛 好 の 心 持 の 表 れ だ と 言 え ば
よいので あ ろ う 。
道はいよいよ細く、雲はいよいよ低くなって、騎馬の部隊は、困
難を感じ出したので、一同は馬を下り、兵糧その他は、この地方に
多い牛に負わせて、雨露とも雲ともつかぬ漠々とした中を、絶壁の
ふちを、猪谷から加賀沢へ、更に、小豆沢へと、幾人かの馬を神通
川の川底に犠牲にして、飛騨の白河城に入城した。
秋貞は、その頃、北越の名将と言うよりは、今もうじきに、信長
と 一 戦 を 交 え て、 天 下 を 統 一 し よ う と そ の 意 気 に 燃 え て い た 謙 信 の
先陣として、飛騨へ入国し、その余威を受けて付近の平定に従った。
この時が、一代の得意の時代であったことと思われる。
そ の 後、 幾 年 か は 過 ぎ て、 天 正 六 年 の 春 を 迎 え た。 謙 信 は、 京
都 に い る 信 長 と 雌 雄 を 決 し よ う と し、 領 内 の 武 士 に ふ れ を 出 し て、
六 万 の 軍 勢 を 集 め、 戦 備 を 整 え て、 三 月 十 五 日 を そ の 出 発 の 日 と 決
めたが、その二日前に、病で春日城に没した。そのために、信長は、
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「謙信亡き後の上杉、取るに足らず」と思ってか、佐々成政に越中を攻めさせた。
秋貞は、謙信の死後、自己の身の安全からか成政に従った。成政は、越中平定に従うとは言うものの、
新川三郡には、謙信の子の景勝という武将がいて、魚津城を本拠にして、成政との間に攻防が繰り返された。
秋貞は、猿倉城を拠点にして、佐々のために謙信方に備えた。
天正九年二月、信長は諸州の騎馬を集めて、天子の御覧に入れようと計った。成政もその儀式に参列の
ために京都に上った。この虚をついて、魚津城にいた景勝の武将河田豊前は、ひしひしと猿倉城に攻め寄
せていた。周囲わずかに一里にも足らぬ小城を幾千の軍勢が潅木を伝わり、葉陰に隠れて、城の上まで押
し寄せて 、 一 気 に 攻 落 し て し ま っ た 。
秋貞は、暗闇にまぎれて、二人の子と城を逃れ、敵の気を抜いて、向こう岸に舟を出して渡った。闇を
利用して、逃れるだけ逃れねばならない。ほうき星のように気味の悪い赤い火を噴いては、「ダーン、ダーン」
と、山にこだまする鉄砲の響きを、敵のあげる勝どきを後に聞いて、道の分からぬ草薮の間などを、木の
切り株につますきながら、川上に向かって逃れて行った。
もう何里を走ったか分からなかった。その内、東の山の雲がいやにはっきりすると思っていると、だん
だん夜が白んで来て、川風が、辺りに少し積もった雪をまともに吹きつけたので、思わず後ろを向いた。
とたんに、向こう岸の林の陰から、耳をつんざくような銃声が上がって、すぐ下の堤に二つ三つの砂塵をパッ
パッと上 げ た 。
「事急なり」と思った秋貞父子は、雪を掻き蹴って、傍の木陰に身を寄せた。と、又、魂を奪うような
すさまじい銃声が二、三発響き、秋貞の体を打ち倒した。
富山市猪谷
39
秋貞は、以前は、謙信を案内して、この土地を揚々として飛騨に入り、今度は、敗戦の憂き目をみて、
ここに戦死した。こうした因果な最期について、わが身の上に対しての悔恨の心持で、眼を閉じたのだろ
うか。「自分が佐々方に味方したのは、上杉公に味方した時と同じ表れで、一日も早く信長公の手によって
天下が平定され、尊王の精神によって、上皇様に対し奉り、下万民のため善政を望んだからだ。ここで戦
死しても、何ら悔いることはない」と案じて死についただろうか。
ともあれ、こうして、わが郷土の土地に戦死した秋貞の一生は、戦国時代にありながら悲惨な武士の最
期の一つ で あ っ た 。
(猪谷尋常小学校 高等科生徒の作文教材)
「村の今昔」
細入歴史調査同好会編 40
黒いオバケ †富山市猪谷 子 供 が、 一 人 で 暗 い 夜 道 を 歩 い て い る と、
「負ばりょか、抱かりょか、ザク、ザク、ザク」
「負ばりょか、抱かりょか、ザク、ザク、ザク」
と 言 い な が ら、 真 っ 黒 で、 目 ば か り が 大 き
い オ バ ケ が、 た く さ ん、 体 に 取 り 付 い て 来
るんです 。
し か し、 明 る い 所 へ 来 る と、 不 思 議 な こ
と に、 い つ の 間 に か 、 い な く な っ て い る ん
ですよ。
(加藤あやさんのお話)
「村の今昔」細入歴史調査同好会編 富山市猪谷
41
狐に騙された
†富山市猪谷 この辺りでは、昔から狐が変身したり、人を化かしたりする時は、後足で立ち上がり、木の葉を一枚頭
に乗せて、前足で祈るような仕草をするそうです。
ある晩、夏の頃、隣村にたくさんの用事がたまっていた一人の男が、朝早くから出掛け、仕事を終えた
頃には、 す で に 辺 り は 薄 暗 く な っ て い ま し た 。
「こんな
疲れ休めにと一杯ひっかけて、山道を家へと急いでいると、遠くにほのかな明かりが見えます。
処に家があったかな?」と思いながらも、急いだ上に、背には重荷を背負い、酔いもまわって来て、非常
に疲れを覚えたので、その一軒の家の戸をたたき、しばしの休息を願い出ました。
「ちょうど、風呂を沸かしております。
囲炉裏には、赤々と火が燃えており、うら若き一人の娘が出て来て、
疲れなおしに、一風呂浴びていかれてはいかがですか」と言ってくれますので、
「これはありがたい。では、
さっそく・・・」と、手ぬぐいをひっつかんで、好意に甘えることにしました。
さて、田舎の百姓たちは、毎日、朝早くから晩遅くまで、野良仕事に精を出しています。その日も、朝早く、
一人の百姓が、畑へと山道を上って来ますと、風向きのせいか、何だか、肥の臭いがプンプンします。
「はて、俺より早く仕事に出ている奴がいるのかな・・・」と、立ち上がって周囲を見てみると、前方
の道路そばの肥の溜桶の中で、一人の男が、まるで風呂にでも入っているかのように、気持ちよさそうに、
肥の付いた手ぬぐいで、顔をふいたり、頭から肥をかぶったりしています。
42
いやはやなんの、その臭い、臭くないったら・・・。
百姓は、唖然として、しばらく見ていましたが、やがて、糞
尿まみれの男を、溜桶から引きずり出し、小川の水を打ち付けて、
ようやく 正 気 に 返 ら せ ま し た 。
背 負 っ て き た 荷 は、 近 く に あ り ま し た が、 嫁 さ ん か ら 頼 ま れ
た乾魚や 油 揚 げ な ど は な く な っ て い ま し た 。
男 は、 百 姓 か ら 借 り た 半 て ん を 身 に ま と い 、 軽 く な っ た 荷 を 背
負って、 す ご す ご と 家 へ 帰 っ て い っ た そ う で す 。
(加藤あやさんのお話)
「村の今昔」細入歴史調査同好会編 富山市猪谷
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狐の嫁入り その一
†富山市猪谷 「 狐 に 騙 さ れ て、 暗 い 夜 道 を 歩 き 回 さ れ た 」 と い う
話 を、 子 供 の 頃 よ く 耳 に し ま し た が 、 こ れ は 、 四 ~
五年前の 話 で す 。
孫 娘 が 朝、「 今 日 は 帰 り が 遅 く な り ま す 」 と 言 っ
て 出 掛 け た の で、 そ ろ そ ろ 終 列 車( 二 十 三 時 ) が 着
く頃と、表に出て、猪谷橋の方向に目をやりますと、
蛇 場 見 の 辺 り に、 チ ラ チ ラ と 灯 り が 見 え る で は あ り
ませんか 。
「こんな真夜中に、しかもあの様な高い処で、一体
何 を し て い る ん だ ろ う か 」 な ど と 思 い な が ら、 し ば
らく見ていましたが、灯りはなかなか消えません。
・
・」と聞いていましたので、
何だか薄気味悪くなっ
「狐が人を騙す時は、その人の近くに、狐がいるんだよ・
て、急いで家に入りました。今でも、「狐の嫁入り」なんてあるのでしょうか。
(森川津や子さんのお話)
「村の今昔」細入歴史調査同好会編
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狐の嫁入り その二 †富山市猪谷 田 口 の ば あ ち ゃ ん が、 前 庭 で 孫 と 一 緒 に 十 五 夜 の お 団 子 を
作 り な が ら、 何 気 な く 川 向 か い を 見 る と、 東 猪 谷 か ら 舟 渡 に
かけて、 提 灯 の 灯 が 長 々 と 点 滅 し て い ま し た 。
「ウアー狐の嫁入りだ。見て御覧。ほれ、あれが狐の嫁入り
だよ・・ ・ 」
ば あ ち ゃ ん が、 せ っ せ と お 団 子 を 作 り な が ら、 狐 の 嫁 入 り
を 見 て い る 間 に、 お 団 子 の 数 が、 だ ん だ ん 少 な く な っ て 行 く
のを、そ ば の 孫 は 、 不 思 議 そ う に 見 て い ま し た 。
( 加 藤 あ や さ ん の お 話 ) 「村の今昔」細入歴史調査同好会編 富山市猪谷
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カワウソと提灯 †富山市猪谷 道 路 工 事 で、 地 形 も 昔 と か な り 異 な っ て い ま す が、 国 道
三六〇号線を宮口三郎さん宅から蟹寺方面へ百m程行った処に、
山側に大きく湾曲した場所、「タノンド」が在ります。
当時、「タノンド」の道路下には、小川が流れ、川側は、一間
余 の 石 垣 で、 そ の 下 は 急 な 斜 面 と な り、 樹 木、 雑 木 が 鬱 蒼 と し
ていて薄暗く、道からは、神通川の川面は全く見えませんでした。
広辞苑によれば、「カワウソは、イタチ科の哺乳類で、水かき
が在って、泳ぎに適し、魚等を捕食す。人語を真似て人を騙し、水に引き込む」とあります 但し、
「タノ
ンドのカワウソ」は、蝋燭を好み、提灯を付けて行くと、灯りを消してしまうという、一風変わった習性
がありま し た 。
従って、夕方、
「タノンド」を通る時には、誰しもが、提灯に火を付けず、特に、夜番の子供達は気味悪がっ
て、
「タ ノ ン ド 」 よ り 先 に は 行 か ず 、
「タノンド」前で折り返して、拍子木とチリン、チリンを、次の当番(隣
り)に託 し 、 早 々 に 家 に 帰 っ た そ う で す 。
(森下宗義さんのお話)
「村の今昔」細入歴史調査同好会編
46
七人衆の墓 富山市 猪 谷 今から四百二十年前、永禄年間の頃、武田信玄と上杉謙信の争いがここ、細入谷
にも広が り 、 飛 越 の 武 士 た ち も
七、八年前まで、猪谷の国道線、池内さんの近くに小さなお墓が七つならんでいま
した。しかし、国道拡張のため、どこか(お寺へ)に移されたそうですが、不明です。
これは戦国の頃、落武者が手きずをうけ、ここまで逃れてきましたが、とうとう
七 人 と も こ こ 猪 谷 で 死 ん で し ま っ た の で、 こ の 墓 が た て ら れ た の だ と 言 い 伝 え ら れ
ています。何という武士かわかりませんが、「白屋筑前守秋貞」と、これにしたがう
武士では な い か と 言 わ れ て い ま す 。
(猪谷小学校長 丸山 博)
「官報ほそいり 昭和四八年九月五日号」
富山市猪谷
47
天狗さまの爪 †富山市猪谷 むかし、川向かいの小糸に、たいへん力の強い、大きな男が住んでいました。この男は、力強いのがじ
まんで、ずいぶんわがままでした。自分のきらいなことは、役人の言うことでも守りませんでした。また、
自分の言うことを聞かない者は、ひどい目にあわせて歩きました。
役人たちは、これを聞いて、「困ったやつだ、どうにかしてつかまえてやろう」と思って、大ぜいで、棒
や縄を持 っ て 、 男 の 家 を か こ み ま し た 。
「これはよいところだ」と飛び
そーっとのぞいて見ると、男は、グウグウ大きないびきでねていました。
こんで、 み ん な で 男 の 上 か ら 押 さ え つ け ま し た 。
「たいへんだ」
目をさました男は、役人をはねのけて起き上がりましたが、棒や縄を持っているのを見て、
と、アマへ上がって、ひさしからヒラリと飛びおり、今度は、高いがけから、神通川へザブンと飛びこみ
ました。
役人たちが、ワイワイ見ている内に、こちらの岸に泳ぎ着いて、今の赤岩の上から、ぼくたちの村へに
げ込みました。その頃、ぼくたちの猪谷には、家が三軒しかなかったので、ドンドン、山へ登りました。
そして、深い山の中の岩のかげに屋根を作って、かくれていました。そうして、ユリの根や山いもをほっ
ある晩、ねている小屋の屋根を、バサバサする者がいるので、また、
「役人か」と、飛び出ると、鼻の高
て来て、 食 べ て い ま し た 。
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い 赤 い 顔 を し た 大 き な 者 が、 男 の 首 を つ か み ま し た。 ビ ッ ク リ し
た男は、つかんだ手をふり放して、「お前は誰だ」と、どなりつけ
ました。「俺か、俺は、この山の天狗だ」と言ったので、男は、
「こ
れ が 天 狗 さ ま か 」 と、 思 い ま し た。 よ く 見 る と、 頭 に は 長 い 白 い
毛 を 生 や し、 赤 い 着 物 を 着 て、 手 に は 曲 が っ た 爪 を 生 や し て い ま
した。
「お前は、なかなか強い男だということだが、
天狗さまは、男に、
こ れ か ら は、 仲 よ し に な っ て や ろ う 」 と 言 い ま し た。 男 は、 カ ラ
カ ラ と 笑 っ て、 し り を た た い て み せ ま し た。 天 狗 さ ま は、 こ の 男
の き か ぬ 気 に、 た い へ ん 感 心 し て、 け ら い に な る よ う に、 い ろ い
ろすすめました。そして、男はとうとう天狗さまのけらいになって、
山の中に 住 み ま し た 。
何 年 も た っ て か ら の あ る 日 の こ と、 男 は、 村 が こ い し く な っ た
ので、天狗さまに、
「山を下りたい」と言いましたら、天狗さまは、
毛の生えた大きな爪を一つくれました。それから、
男は村へ帰って、
よい百姓 に な り ま し た 。
( 猪 谷 尋 常 小 学 校 一 年 生 の 作 文 教 材 ) 「村の今昔」細入歴史調査同好会編 よりの再話
富山市猪谷
49
飛騨の武将 塩屋秋貞
†富山市猪谷 織田信長、武田信玄、上杉謙信が戦っていた戦国時代の頃のお話です。飛騨に塩屋
秋貞という武将がいました。秋貞は、もとは商人でしたが、だんだんと力をつけ、武
将となり、丹生川(岐阜県丹生川町町方)の尾崎城を居城としていました。
その頃、武田信玄は、上洛を考え、飛騨や越中を攻め始めました。武田軍の武将、
飯富昌景が、秋貞のいる尾崎城を攻めてきました。秋貞は、必死に防戦しましたが、
城はあっけなく攻め落とされ、秋貞は命からがら逃げのびました。飯富昌景は、さら
に 追 い 討 ち を か け よ う と し ま し た が、 信 濃 川 中 島 で 武 田 信 玄 と 上 杉 謙 信 の 戦 い が 始 ま
り、急遽 、 引 き 返 し て 行 き ま し た 。
塩屋秋貞は、古川の蛤城が空き家になっていることを知り、その後は、ここを居
城とすることにしました。ここで、塩屋秋貞は、上杉謙信の家来となり、飛騨の武将
三木氏に 仕 え る こ と に な り ま し た 。
天正 年、上杉軍が越中に攻め入り、秋貞は、その先兵として活躍し、猿倉城を築
きました。またすぐ近くの舟倉も攻め、舟倉城を築いて、ここを本拠にしました。
しかし、天下の流れは大きく変わろうとしていました。織田信長が、三河長篠の合
戦で武田勝頼を破り、武田軍を滅ぼし、その後、越前に攻め入り、一向一揆をなで斬
4
50
りにしました。越中では、織田対上杉という戦いが始まろうとしていました。塩屋秋貞が仕えていた三木
自綱は、上洛して織田信長に謁見し、上杉と手を切り、織田と同盟を結びました。困ったのは、秋貞です。
上杉につくか、織田につくか。越中では、織田と上杉の戦いが始まろうとしていました。結局、塩屋秋貞は、
上杉と手を切り、三木氏と共に、織田に仕えることにしました。
天正 年、塩屋秋貞は、上杉軍の越中城生城主、斉藤信利に攻め入りました。戦いは攻勢でしたが、上
杉景勝の援軍が到着して劣勢となり、飛騨に退却する途中、西猪谷砂場で、鉄砲に打たれました。瀕死の
重傷になった秋貞は、戸板に乗せられて運ばれて行きましたが、猪谷の塔婆坂で息を引き取りました。今も、
猪谷の旧飛騨街道近くの山の中に、塩屋秋貞のお墓が残っています。
出典不明
富山市猪谷
51
11
大垣宗左衛門の墓 †富山市猪谷 飯村家の裏に小さな五輪塔がある。これは、美濃の国大垣より対岸の
小糸集落へ移り住んだ大垣宗左衛門の墓と言われている。
宗左衛門は、当時の藩主への上納米の負担に苦しんでいた百姓のため、
大罪と知りながら、単身加賀藩の藩主へ直訴し、身を挺しての訴えに感
動した藩主が、上納米を軽くし、また銀納を許されたのであるが、新川
代官が直訴という罪を犯した宗左衛門を召し取るため、
役人を遣わした。
それを予期していた宗左衛門は、うまく逃げ、神通川を渡り、役人が手
を出せない富山藩である西猪谷へ着いたのである。
サメの歯?」なるものがあったが、昭和十六年
・・・
そうして、宗左衛門は、猪谷の森家に身を寄せ、猪谷のために尽くし
たといわ れ て い る 。
森 家 に は 宗 左 衛 門 が 所 持 し て い た と い う「 天 狗 の 爪
の大火に よ っ て 消 失 し た と い う 。
「細入村史」より
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「手品師の関所破り」 †富山 市 猪 谷 むかし、飛騨(ひだ)と 越中(えっちゅう)の 国ざかいに 猪谷(いのたに)の せきしょが あった。
すぐそばを ながれる 神通川(じんずうがわ)には、はしが なかったので、川の むこうへ 行く時は、
かごのわたしに のっていった。
ある時、飛騨から おおぜいの 人が かごのわたしを のりあって、この せきしょへ あつまって
来た。その中に、おやこ 三人の 手じなしが いた。
「そこへ 来た おやこ 三人、おまえら
せきしょの やくにんは、三人の ようすを じろじろ見て、
は、手じなしでは ないか。こっちへ 来い。」と よんだ。
「人の目を くらまして、金を むさぼりとるような 手じなしなら、
この せきしょを とおすわけには いかん。」
手じなしは、「なんという おやくにんさま、わたしらは、ほかの 手
じ な し の よ う な お き ゃ く さ ま の 目 を ご ま か す よ う な、 そ ん な
ことは いたしません。ただ、ありのままの げいを いたします。
」
やくにんは、「そりゃ、どんなことを するのじゃ。ひとつ 見せても
らうか。」
手じなしは、「それでは…一しょう入りほどの すずを 一本 かして
富山市猪谷
53
ください。わたしども おやこ 三人が その すずの 中へ 入って ごらんにいれます…。
」
やくにんは けらいに 木魚より 大きい すずを よういさせて、手じなを する 台までならべた。
いよいよ 手じなしは、「これから お見せする 手じなは、たいへん むずかしいもので、みなさん 十歩ほど さがって くだされ…。」と いうて、黒い 大ぶろしきを 上から かぶせて、
「たねも し
かけも ない。」と いう 話をして、ふろしきを すずの上に かぶせた。
そして、「まずは 子どもから。」と いって、子どもを その すずの中へ おしこみ、つぎに 母親
を 入れた。つぎに、自分が すずの中へ 入って、すがたを けして しまった。
やくにんは たがいに 顔を 見あわせて、これは ふしぎな 手じなだと いっているが、どれだけ
たっても、手じなしは その中から 出てきません。
やくにんは、すずの中を のぞくだけでなく、しまいには、すずの中へ 火ばしを 入れたり、すずを
こわしたりするが、かげも 形もない。 ふしぎなことも あるものと、話しあいを しておるところへ、あきんど(しょう人)が 入ってきた。
役人は、「これ これ、もしかすると お前は、かくかくの 男と 母親と 子どもの 三人の すがたを
見なかったかい。」と 言うと、あきんどは、「そうそう、たしか 三人づれの 親子なら、楡原(にれはら)
の村の 近くで おうたことい。」と 言った。やくにんは、
「あー 手じなしに いっぱい くわされた。」
と、みな あきれた話を しておった という。これが 手じなしの せきしょやぶりとして つたえら
れている と い う こ と だ 。
民話出典「細入村史」
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幻の滝 †富山市片掛 祖母は、いろりで小豆を煮ながら、この地にまつわる昔話をしてくれた。
昔、昔の、その昔、神通川という名も、立山という呼び名もなく、片掛という地名などついていなかっ
た遠い昔 の こ と で あ る 。
片掛一帯に大きな湖があって、長さ南北七里(二十八キロメートル)もあった。もちろん、湖の名も、
湖水から落下していたという、高さ三百メートルにもおよぶ大きな滝のことも、今では知る人もなく、こ
の話を伝えるのも、私が最後になるかもしれない。
原住民と呼ぶか、先住民と呼ぶかは、その道の専門家にまかせるとして、とにかく、わずかだが、人は
すんでいた。山があって湖があり、せまいとはいえ、平地に近い傾斜地もあり、よい飲み水もあったし、
洞穴までもあったのだ。無理に農耕しなくても、わずかな人数なら、生きていくのに、大きな心配をせず
にすんだ の で あ る 。
峠の雪もすっかり消え、若葉が山々をおおい、その緑の中に、山つつじの花がちらほら見える、うらら
かな春のある日のことである。このあたりでは見かけない、年の頃なら十七、八といった娘がただ一人、下
流の方から神通川沿いに、上流の方へ歩いて行った。いつまでに、どこまでたどりつくというあてもなく、
片
( 掛の北隣村)までたどり着いた時、はじめは気のせいかと思っていた音が、歩くにしたがって、
話し合う友だちもいないその娘は、ただ黙々と歩き続けていた。
庵谷
富山市片掛
55
しだいに大きくなり、ついには、轟々と鳴り響く音だけが、耳に入るようになった。それが、滝の音であ
ることを知らない娘は、その音にひかれ、ひとりでに足が滝の方に向い、遠回りするように進んで行った。
しかし、道などあるわけはなく、庵谷峠の山は、行く手に立ちはだかるような形でさえぎり、山は、さらに,
けわしさを増していた。さすがの娘も、しだいに疲れを覚えてきたが、適当な休憩場所はなく、おまけに、
山あいの 太 陽 は 西 に 傾 い て 行 っ た 。
「見えた!
・・・
進むにつれて、音は大きく聞こえてくるが、すかして見ても、伸び上がって見ても、木の葉がじゃまになっ
て何も見 え な か っ た 。
「もっと近くへ行って見よう!」娘は、歩きながら、大きく息をして背のびをしたその時
見 え た!」
大きな滝が見えたのだ。娘は、これまでに、このように水量が多くて、こんなに高い滝を見
たことがなかった。娘は、滝のあまりの見事さに、疲れも何もかも忘れて、ただただ、眺めるばかりであった。
その頃、飛騨の山々の雪解け水が集まった神通川は、いつもより水量が多く、滝の音は木々の枝をゆすり、
滝つぼから湧き上がる水煙は、あたり一面に立ちこめていた。
その時である。滝に気を取られていた娘は、足をすべらせ、そのショックで木の枝から手を離してしま
い、崖をすべり落ちたのだ。しかし、幸いにも、転落する途中で、身体が木の幹にひっかかり、一命だけは、
とりとめたのだが、打ちどころが悪かったのか、虫の息になってしまった。
こんな所を通る人もいないその頃のことである。このまま放置しておけば、当然、その夜のうちに、若
い命は、消えたにちがいない。滝は、そんなことを知らないかのように、前と同じ音を立て、同じ響きで
落ちてい た 。
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しばらくして、一ぴきの猿が、その娘に近づいてきた。猿は、娘の様子をじっと見ていたが、娘は、全
然動かない。それで、猿はさらに近づき、おそるおそる娘に触れてみると、娘は、ぐったりしているけれども、
まだ体温はあるし、呼吸もしていることを知った。やがて、その猿は、仲間に知らせるために、その場か
ら離れて 行 っ た 。
「とにかく、
しばらくして、子猿も含めて二十ぴきほどの仲間が集まり、何か相談している様子だったが、
娘を助け よ う 」 と 、 話 が 決 ま っ た よ う で あ る 。
ところが、助けようにも、そこでは水煙にぬれてしまう。どうしても峠の頂上付近まで、運び上げなけ
ればならないことは、猿たちにも分かっていたようだ。しかし、日が暮れかかるけわしい山の中では、全
員の力を集めても、運び上げる作業は、そう簡単なものではなかった。娘の身体を持ち上げる者、押し上
げる者、引き上げる者など、いろいろ試しているうちに、猿たちの力が合わさり始めた。そして、やっと
のこと、猿たちの協力は、実を結び、日が暮れる頃には、ついに頂上まで、運び上げることに成功したのだっ
た。
山の上とはいえ、そこには、少し平らで、風当たりの弱い場所があり、猿たちは、娘をそこまで運んだ。
しかし、悪いことに、先ほどより、娘の体温がだんだん下がっていることに、猿たちは気がついた。それで、
気温が低下してゆく中、一団の猿たちは、娘の体温を温め、別団の猿たちは、食べものの木の芽などを取
りに散ったのだった。それから三十分もたった頃だろうか、娘は、かすかに目を開いた。あたりは、すっ
かり暗くなっているし、まだ、疲れていたので、娘は、再びねむってしまった。しかし、幸いにも、その
夜は雨が 降 ら な か っ た の だ っ た 。
富山市片掛
57
朝になって、娘は、目を覚ました。実に、すがすがしい朝だった。娘は起き上がってあたりを見まわした。
娘は、自分をいろいろ介抱してくれたのは、人間ではなく猿たちであることが分かったが、人の言葉が通
じない猿に、何を言ったらよいのか、お礼の言い方に困っていた。 猿たちは、元気をとり戻した娘を見て、
喜んでいる様子で、「キャッ キャッ」と、あたりを走りまわっていた。娘は、猿が集めてきた木の芽などを、
少し食べてみた。何の木の芽か分からないが、猿が持って来たのだから毒ではないようだ。少し食べても、
身体に異 常 が な い の で 、 娘 は 安 心 し て 食 べ た 。
木の葉の間から見下すと、そこに、大きな湖があることに、娘は気がついた。よくよく見ると、湖面が、
春の陽光を反射して、キラキラ輝いている。そして、その中に、水鳥が浮かんだり、飛びまわったりして
いた。瞳をこらすと、湖面は、はるかに続き、果ては山の影にかくれて、どこまでが湖か分からないまま、
もやに包 ま れ て い た 。
娘は、これからのことを考えた。山の上では、水にも困るし、雨露もしのげない。どうしても、雨や風
に耐えられる所で、水の出る場所を探したい。娘は、そう思いたったらじっとしておられず、少しずつ、
南側へ下り、西の方へ歩き出した。猿たちも一緒について歩いたり、木の枝から枝へとび移ったり、一部
の猿たちは、食べ物探しにも出かけた。歩くといっても、もちろん道があるわけではない。歩き始めてから、
どれほどの時間がたっただろうか。疲れたし、おなかもすいたので、岩の上に腰を下ろし、休憩すること
にした。
しばらく、ひと休みをして、娘は、また歩きだそうと立ち上がり、あたりを見まわすと、岩肌の向こう
に何か黒く見える所を見つけた。「何だろう」と近づきよくよく見ると、
それは洞穴だった。「これは天の助け」
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とばかり、娘は、太陽に両手をあわせて拝んだ。そして、その洞穴に入って行った。
穴の広さは、八畳敷ぐらいで、十分な広さがある。とりあえず、娘は、その洞穴で寝起きすることにした。
猿たちは、友だちになってくれ、食べ物も運んでくれるのだ。しかも、眼下が、広々とした湖畔である。娘は、
当分の間 、 こ こ で ゆ っ く り す る こ と に 決 め た 。
季節は、まだ暖かかったので、着るものは心配なかった。娘は、冬に備えて、藤づるを叩いて、繊維ら
しいものをたくわえ始めた。この村には(村というほどのものではないが)わずかの「人」が、別の洞穴
に住んでいるようだったが、どちらも近よろうとはしなかった。娘は猿たちを友として暮らしているうちに、
弓を作ったが、使うこともなかった。それは、木の芽や食べられる草のほか、幸いにも湖の浅いところに
貝が多かったので、貝をとって食べていたからだ。
いつもの年なら、梅雨時期には雨の降る日が多いのに、その年は、梅雨の季節になっても雨は少なく、
周囲の山々は濃い緑におおわれて、やがて夏が来た。
蝉のなき声が耳に痛いほど聞こえる湖畔である。娘は、毎日のように湖水で汗を流した。洞穴は涼しく、
夜はしのぎ易く、虫の音楽もすばらしかった。山では、猿も狐も狸もイタチもテンも、仲よく、暮らしていた。
また、熊も人も他のけものたちも、動物たちを襲うようなことはなかった。湖の水は、
深い所まで澄んでいて、
貝や魚などもよく見えるほどきれいで、空はぬけるような青さだった。
ある日のこと、入道雲がしだいに鉛色となり、その動きも激しくなって、気温が急に下がり、風が吹き
はじめたのだ。突然の天変異変に驚いた猿たちは、空を見上げてただ泣くばかりである。しかも、猿たち
の動きは、今までに見たことのないものだった。娘は、いやな予感がしたが、見守るばかりだった。と、
富山市片掛
59
その時、 大 粒 の 雨 が 降 り 出 し た 。
は じ め 弱 か っ た 風 も し だ い に 強 く な り、 雨 は ま
す ま す は げ し く な っ て、 湖 水 を 隔 て た 向 う の 山 が
見 え な く な っ た。 そ の う ち、 谷 と い う 谷、 川 と い
う 川 の す べ て が 鉄 砲 水 と な っ て、 濁 流 が 音 を た て
て あ ふ れ る ほ ど に な っ て 来 た。 青 く「 静 」 そ の も
の に 見 え た 湖 面 も、 流 れ 込 む 川 の あ た り か ら 褐 色
に変わって行き、ついには濁流が渦巻くようになっ
てきた。
強 い 風 と は げ し い 雨 の た め に、 あ ち こ ち の 枝 に
な っ て い た 木 の 実 が 振 落 と さ れ て、 す ぐ に 濁 流 に
のみこま れ て 流 れ て 行 っ た 。
これを見た猿たちは、泣き叫んでいる。それは、
悲鳴にも似たもので、直接、生命にかかわる重大事ということを知っているのか、空を見上げたり、木の
実を眺めたりして、悲しみと驚きを顔にあらわしていた。
風は、やがて弱くなったものの、雨は、なかなか止まなかった。濁流は、大きな木を根こそぎ抜きとっ
て流していき、山から押し出された土砂は、小さな谷を埋めてしまった。次から次へと流れてくる大木が、
湖で渦を巻いている。その木の枝に、小さな動物がしがみついているのが見える。しまいには、
山津波が起き、
60
直径数十メートルもの岩までも流され転がり、この世の終わりかと思えるほどの、すごさになった。
このはげしい雨は、連続三昼夜も小止みなく降り続き、まったく小降りになるような気配は見られなかっ
た。これ以上、雨が続いたら、この猿たちは、他のけものたちといっしょに、食べるものもなく、全滅し
てしまうかも知れない。娘は、そのことが心配で、心配で、胸がいっぱいになった。
三日目の夜、娘は、「何とかして、けものたちを救うことはできないものか」と、一晩中考えてみたが、
とうとう、結論が出ないうちに、夜が明け始めた。
そして、四日目の朝が来た。空を見上げてみても、雨はやみそうになく、湖の水位は、前日よりも、ま
た高くな っ て い た 。
つい に 、 娘 は 決 心 し た 。
洞穴を出た娘は、はげしい雨をついて、頭からずぶぬれになりながら、湖へ向かってゆっくり歩き出し
た。そして、湖畔へ着いた娘は、麻のような繊維で織った腰巻き(スカートのようなもの)を脱ぎすて、
真っ裸になり、天に向かって、一心に祈り始めた。長い髪は顔や首にまといつき、ふり乱したその髪からは、
雨のしずくが滴り落ちている。娘の白い肌からは、ぞっとするほどの恐ろしさが、ただよっていた。
祈りが終わり、娘は、ゆっくりあたりを見まわすと、静かに、濁流渦巻く湖へ、一歩一歩入って行った。
はげしい雨が降り続く中、可愛そうに、白い肌は、濁流のために、たちまち汚されてしまった。そして、
渦巻く水に、吸い込まれそうな娘のうしろ姿は、あわれであった。
娘は、しだいに深みに入って行く。ついには、渦巻く濁流のために、娘の頭や顔が、見えかくれするほ
どなってしまった。乙女の生命もこれでおしまいかと思われたその時、娘がニッコリと笑った。
富山市片掛
61
そして、次の瞬間、濁流の上にスクッと立っていた。よく見ると、何と、娘は、下半身がうろこでおおわれ、
大きな尾びれが、はっきり見える、人魚になっていたのだ。
人魚は、しばらく、波間から見えかくれしていたが、突然、水面の上に、その下半身と尾を高く垂直に
上にあげた。しかし、それもつかの間、人魚は、猿たちの泣き叫ぶ声も聞かないまま、濁流の中に吸いこまれ、
再び浮上 す る こ と は な か っ た 。
と、不思議や不思議。それまで降っていた雨はピタリと止み、風もなくなった。そして淡い太陽の光ま
でも見えるようになった。不思議なことに、天候だけでなく、滝の音が、前に比べて、非常に大きくなっ
たのである。どうやら、滝に異変が起こったようである。
大雨による洪水で、滝の音が大きくなることは分かるが、雨が止んで、三日たっても四日たっても、滝
の大きな音はかわらなかった。やがて、湖の水位が下がり、大雨が降る以前の、水位になったが、滝の大
きな音は、あいかわらずそのままだった。さらに、湖の水位が、どんどん下がっていく。どうやら、今まで、
滝口であった所の破壊が始まったようだ。そして、いったん破壊が始まった滝口は、とどまることを知ら
なかった 。
湖の水位はさらに低くなり、やがて、湖底が陸上にあらわれ始めた。何と、それまで湖の中央で、深い
と思われていた所が、予想に反して、砂の台地であったり、岸に運ばれた粘土が、へばりついていたりし
ていた。人々は、湖底の神秘というものを、思い知らされることになった。そして、幾十年の後、神通川は、
滝のない 川 に な っ て し ま っ た の で あ る 。
片掛のこの地に、巨大な滝があったことなど、誰もが信じることができなくなり、いつの頃からか分か
62
らないが、「幻の瀧」と呼ばれるようになった。 語り終えた祖母は、小豆の煮え具合を見てくれと、小皿に入れてくれた。 (完)
文山秀三さんの話 祖母の思い出
私には、弟や妹がいて、母が二人の面倒をみていたので、当然のよ
うに私は祖母の手で育てられ、いろいろの伝説や物語などを聞く機会に
恵まれた。とは言っても、祖母は、平仮名とカタカナを全部知っている
だけで、漢字は、画数の少ない字しか知らなかった。しかし、数につい
ては、驚くほどの速さで計算していたのを、子供心に不思議に思ったこ
とを覚えている。 その祖母から、ずいぶん、日本古来の話や、おとぎ話などを聞いたが、
何度聞いても、正確に話してくれるのにびっくりした。伝説の中に真実
が入り、事実の間におとぎ話が入ってくるなど、その話しぶりは見事だった。まだ、幼かった私には、ど
こまでが伝説で、どこからが真実であるのか判断力がなく、かえって興味深く聞いたものである。
まだ、テレビはもちろん、ラジオもなかったその頃、子供にとっては、いつも家にいて話をしてくれた
祖母は、国語の、歴史の、道徳や伝説・おとぎ話などの この上ないよい先生だったのである。
富山市片掛
63
片
「掛の宿
昔
」 語り『まぼろしの瀧』 文山秀三著
「大昔、わが国に文字がなかった頃、『語り部』がいて、一般民衆に物語や政治のことなどを、言葉を通
して知らせた」と聞いていたが、祖母が、時間のたつのも忘れて話してくれる姿は、
「語り部」の再来かと
錯覚する ほ ど だ っ た 。
飛騨街道
64
片掛銀山発見の逸話
†富山市片掛 今を さかのぼる 三百八十年ほど 前の 天正(一六世紀末)
のころ、この片掛の村へ、とつぜん、くっきょうな 野武士姿の
主従数人が、峠を 越えて やって来て、宿を 求めた。
翌朝、宿を 出た この男衆は、洞谷の 口で、ザルや 長おけで、
谷川の 土砂を かき回しながら、すくい上げ、何事かを 語り
あって い た 。
不思議に 思った 村の衆は、はなれた 場所から、おそるお
そる ながめていると、この大男たちは 大声で、
「あった、あっ
た。出た、出た。」と、さけんだ。
その後、しばらくして、宿へ 帰った 男衆は、宿の 主人に「すぐ 村の衆を 集めてくれ。用件は
見てからだ。」と、息をはずんで、こん願した。主人は、半信半疑で、村中に 伝えたところ、あまりに
急なことでは あったが、そうとう 陽が 昇ってから、村人たちが 集まって来た。
親方様らしい、いかめしい 大男は、
「お前たちに、いいことを 教えてやるから、よく聞け。この山に 金・銀が、いっぱい 出る。これは、
今朝 とってきた その実物だ。すぐ帰って、家にある 銭を みんな 持って来い。村中で 十貫文ほ
富山市片掛
65
ど 集まったら、われわれに あずけることだ。われわれは、その銭で 山を ほり、あとで、その あ
ずかった銭を、何層倍にでもして 返してやる。
金・銀が 山ほど ねむっ
実は、われらは、おそれおおくも、家康公の命で ここへ 来たのだ。ここには、
ているのだ。心配 ご無用。すぐ 家へ 帰って 持って 来るのだ。
」と、谷で 見つけた 金・銀のか
たまりらしいものを 見せて 語った。 これを 聞いた 村人たちは、くめんして 銭を あずけたと
こ ろ、 親 方 と 供 の 者 は、 す ぐ 飛 騨 へ 向 か っ た が、 後 の 二 人 は、 し ば ら く 村 に 残 っ て、 毎 日、
山見を 続けた。
野武士たちは、飛騨の 茂住で、また、片掛と 同じやり方で、かね山を 見つけ、大きな 山師となっ
た。これが、後の 茂住宗貞であった。
当
( 時七六歳
( 六七〇年 の
) こ ろ は、 片 掛 の 下 町 か い わ い に、
そ の 後、 ま ぎ れ も な く 銀 が ほ り 出 さ れ、 寛 文 一
三百戸の 家が 建ちならび、かまどの けむりが、たえなかった。
【昭和二五年の正月、桑山清輝氏が猪谷中学校の社会科歴史教材を収集の際、水戸豊之助氏
が、片掛 銀 山 発 見 に つ い て 語 っ た 内 容 】
伝説出典「細入村史」
)
66
大蛇の話
†富山市片掛 洞 山 の 北 側 に「 入 道 」 と い う 地 名 が あ り、 村 人 全 体 の 共 有 地 で あ る と
聞 い て い る。 村 か ら 遠 く、 山 奥 だ っ た の で 明 治 に な っ て 払 い 下 げ る こ と
になったが、誰も私有地にほしいという希望者はいなかった。当時の(村
での役職などはわからないが)藤井氏の先見の明によって村全体の財産
とすることを条件に申請し、払い下げを受けた。 こ の 入 道 の 樹 木 は そ の 後 順 調 に 成 長 し、 今 で は 非 常 に 大 き な 村 の 財 産
に な っ て い る。 入 道 に い て は 前 に 触 れ た が、 こ の 入 道 に 大 蛇 が 住 み つ い
ていた(今もいるかどうか判らないので過去形にした)
。体長三m、胴の
直径十cm以上という片掛では一寸見られない大きさだった。この大蛇
は 神 の 使 者、 ま た は 入 道 の 守 り 神 と し て、 村 人 達 は 殺 さ な い こ と に し て
いたし、大蛇も村人に危害を加えるようなことはなかった。
この大蛇の話は、遥かな昔の物語を書いているのではない。入道の村有林へは毎年下刈り(雑草やつる
草などがあまり茂らないように刈り取る)に村の人達が一日がかりで出掛けて行っていた。私の兄も毎年
富山市片掛
67
の様に入 道 へ 行 っ て い て 、 こ の 大 蛇 を 見 て い た 。
片
「掛の宿
昔語り 『まぼろしの瀧』
) 文山秀三著
」
「今年も大蛇
この大蛇は蛙は勿論、野ねずみやウサギなどを食べているということで、家へ帰った兄は、
は元気だ っ た 」 と 話 を し て い た の を 想 い 出 す 。
(飛騨街道
68
畠山重忠と丹後の局
†富山市楡原 畠山重忠は鎌倉時代の逸材で、智仁勇の三徳を兼ね備えた名将として有名である。
重忠は武蔵の人であって幼名を氏王丸といった。父が畠山荘司であったので荘司二郎と称した。元来重
忠は平家方の武人であったが、源氏とも大変縁故が深かったので源氏に味方し頼朝に帰属した。
重忠は石橋山の戦いを始めとし、数々の戦功を立て其の行動は、武人の典型とされた。
頼朝の妾に丹後の局という女人があった。局は頼朝の寵愛を一身にあつめ身重になった。
そのとき、妻政子には未だ実子がなかったので、嫉妬にもえる政子は、男の子でも生まれたら後嗣問題
など起こるのを恐れ、局を殺害して後顧の憂を断ちたいと密かに謀を企てた。重忠公は情深い人であった
のでこれを不憫に思い、密かに局に知らせた。局は驚いて諸国流浪の旅路についた。斯くする中に月満ちて、
摂津の住吉神社で人の情にすがり産み落としたのが男の子であった。この子こそ小治郎朝重で、住吉家の
二代目となり幼名を吉寿丸と呼んだ。局は子供を伴い永い年月を旅で過ごした。
ところがその後、重忠も頼朝夫妻や時政にいたく憎まれ、今は鎌倉にいないとの風聞を耳にした。局は
何とかして「一目たりとも御目にかかり厚恩を謝したい」と探し廻る中、楡原に侘住いして居られること
を聞き、なつかしさのあまり、足も地につかぬ疲れた旅を重ねて漸く楡原につくが、慕う重忠はすでにこ
局は悲歎の涙にくれ墓前にささやかな庵を結び、髪をおとして尼となり朝夕の供養を怠らず、子孫を永
の世の人 で な か っ た 。
富山市楡原
69
く こ の 楡 原 に 留 め る こ と に し て 果 て た。 時 に 承 元 三 年 五
月三日であって、住吉家の初祖清光尊尼はその人である。
小治郎朝重は、豊後守の娘を娶り二代目を相続し、そ
の 後 綿 々 と し て 相 継 ぎ、 現 在 の 住 吉 祐 蔵 は 三 十 八 代 目 に
当るとい う 。
重忠は頼朝にうとんぜられて楡原に落ち来りし時、真
言 宗 の 一 宇 を 建 立 し た。 こ の 寺 は 後 に 法 華 宗 に 改 宗 し 寺
号を改め た 。 今 の 不 怠 山 上 行 寺 が そ れ で あ る 。
頼朝が、かつて重き病気に罹れた時、人あり「これに
は犀の生角を削って作った薬を用いれば平癒せん」と。
頼朝、これには勇武にして力量、衆にすぐれた重忠を命じた。公は神通、寺津が淵に棲む犀を苦心の末得
て之を献上した。頼朝は「これは死犀より得たものだ」と言って不興のあまりこれをつき返した。
重忠は甚だ遺憾に思い、この犀角に、三帰明王を刻み常に兜の中に収めて戦場を馳駆した。この仏像は上
また、重忠の墓前祭は、毎年七月二十二日の命日に村人が参詣して供養にあたっている。
行寺の什宝として大切に保存せられ、毎年八月十五日御虫干法要が厳粛に行われている。
「細入村史」
70
風除けの松林
†富山市楡原 風除けの松林は、大昔から楡原の南口にあり、大風の被害から村を
守ってきた。しかし、発電工事のため、今は北陸電力の所有地となって、
その松林も見られなくなったが、「風除け(かざやけ)
」という地名は
今も残っ て い る 。
ま た、 こ の 松 林 は 荷 車 の 休 憩 所 で も あ っ た。 飛 騨 か ら 富 山 の 農 家 に
働きに来た手間馬をつなぎ、ゆっくり食事をしたり、昼寝をしたりす
る場所で も あ っ た 。
当時は目尺二メートルもあったという天狗松も今はなく、飛騨街道
は 国 道 四 十 一 号 線 と 名 称 を 変 え、 往 来 し た 人 や 馬 に 変 わ っ て 自 動 車 の
流れが続 い て い る 。
語部 大上賢治
「細入歴史調査同好会 村の今昔」
富山市楡原
71
雨乞滝
†富山市楡原 数年前までの飛騨街道は、荷車、荷馬車の行列、商いする人、旅する人の二人一人また三人というよう
に、繁華とはいえないが、山村の道路にしては本当に珍しい人通りでしたが、飛越鉄道の開通は、この街
路を今はもう淋しいものにしてしまいました。道の両側にまばらに建ち並ぶ楡原の家並みを離れて、上へ
約二百メートル行くと、その左手に赤松の老樹が鬱蒼と生い茂って、さびれ行く飛騨街道を一層淋しくさ
せていま す 。
その松林の横を谷川に沿って、薄気味悪い細道を押し分けて行くと、この谷川が神通川に落ちるところが、
高さ五十メートルもあろうと思われる大きな滝になっていて、雑木が薄暗いほど茂っている中に、ものす
ごい音を立てている滝の近くに行くと、急に体が寒くなります。この滝を雨乞滝といっています。
雨乞滝の名の起こりは、ちょうど今から五百数十年前のある夏のことです。来る日も来る日も暑い炎天
ばかり、谷川の水は枯れる、田畑は乾する、作物は萎える。遂に飲料水までも欠乏するような状態になっ
てしまいました。村人たちは、ただ「これでは駄目だ、これでは駄目だ」と、天をうらんでばかりで、ど
うする事もできません。そこで、これを見かねた上行寺の住職大徳和尚が考えに考えあげた末、村の滝に
雨乞いする外にないと思い立ち、この滝に八大龍王を祈り祈祷を始められたのでした。祈祷を始めるや否や、
不思議にも晴れに晴れきっていた空は急に曇って一時に大雨が降り出しました。そして、それが二日も三
日も降り続いたので、乾ききっていた田畑は腹いっぱいに水を吸い、萎えちぢんでいた作物は生き生きと
72
茂 り、 今 ま で 望 み を 失 い 、 不 安 な 日 を 送 っ て い た
人 々 は 大 変 喜 び ま し た。 雨 乞 滝 の 名 は こ の 時 か ら
言い伝え ら れ た の だ そ う で す 。
そ れ か ら 後、 雨 の 降 ら な い 年 が あ れ ば、 和 尚 さ
ん が 一 週 間 お 寺 で 雨 乞 い を し て、 そ れ で 降 ら な け
れ ば 八 日 目 か ら 滝 の 側 に 小 屋 を 建 て、 そ こ で 祈 祷
し て、 二 十 一 日 目 ま で ど う し て も 降 ら な け れ ば、
和尚さんが真心をこめて祈祷していないためだと
い う こ と で、 寺 を 追 い 出 す こ と に 決 ま っ て い ま し
た。
二十四代目の天悟院という和尚さんが、ある年雨乞いをし始めたが、一週間経っても二週間経っても少
しも雨が降りそうでないばかりか、かえってお天気がよくなるので、村の人々が大変怒って、追い出す用
意をして待っていますと、二十一日目の夕方、ゴーっと大雨が降ってきたので、その和尚さんが漸く助かっ
たという話もあります。しかし、今ではそんな決まりはありません。
昔はこの雨乞滝の中ごろに大きな穴があいていて、その穴が神通川まで通じ、龍が穴の中から川へ、川
から滝へ、行き来していたという事ですが、大地震のため今ではその穴が砂で埋まって、跡が大きな溝になっ
けれども、龍は今も尚その所に住んでいて、雨乞い祭りには、その龍が天の雲を呼んで雨を降らせると
ています 。
富山市楡原
73
いわれて い ま す 。
毎年七月一日に、雨乞滝の横の八大龍王を祀ってある御堂の前で、雨の降る年はお礼として、又、雨の
降らない年は雨乞いとして、和尚さんの読経によって盛大な祭りが行われます。
「細入歴史調査同好会 村の今昔」
74
畠山重忠公の墓所によせて
†富山市楡原 この高台は「館」といわれ、戦国期の永禄十二年(1569)能登の守護畠山義則が楡原付近一帯を治
める居館のあった場所である。そして、いざ戦乱になると、背後の大乗悟城と南の楡原城に立て籠もった。
重忠墓所について奉行所からのお尋ねに対し、元禄九年(1696)村役人は、
「すでに真言宗であった頃
からを菩提所として弔ってきたと伝え聞き候」と答えている。ちなみに、墓地は昭和十五年までは上行寺
領となっ て い た 。
往時か ら の 言 い 伝 え に よ る と
将軍源頼朝が重病にかかったとき、易者が、「生きた犀の角を煎じて飲むと病がなおる」と言上した。こ
れを聞くや頼朝が忠誠勇武な重忠を呼び、犀角を直ちに用意するように命じた。
重忠は急ぎ、犀が棲んでいるときく神通川の寺津ケ渕にたどりつき、法雲院住職に祈祷を願って水中に飛
び入った。死闘の末、息の根も絶えだえの老犀の角を取り、早速頼朝公に献上した。ところが、かの易者
が角を見るや、「これは死に犀の角なり」と重忠につきかえした。
重忠公はここ楡原の館で犀角に「三歸明王」を彫って自分の守り本尊とし、謹慎の日々を過ごしていた。
このことから、重忠は頼朝の不興をかい、逆臣の身に一転してしまった。重忠は憤まんやるかたなく、悶々
の、情を抱きながら犀角を懐に楡原の里に戻ってきた。
富山市楡原
75
ところが、重忠が楡原にいるということが鎌倉方に知られ、重忠主
従 六 名 も ろ と も 追 補 の 者 の 手 に よ っ て、 館 の 東 - 御 前 山 で 非 業 の 死 を
遂げた。時に元久二年(1205)六月二十二日、重忠四十二歳であった。
注 文献によると、重忠は北条義時の攻めにあい、元久二年の同日、
武蔵二股 川 ( 現 横 浜 市 旭 区 ) で 戦 死 と あ る 。
考えを め ぐ ら し て み る と
一、能登守護職畠山氏の祖先祭礼の一つとして、重忠を弔ったものか、
或いは楡原の地で戦死した一族 の将を葬った塚とも考えられる。
一、 重 忠 伝 説 は 真 言 聖 ら に よ っ て 、 不 運 な 武 将 で あ っ た 重 忠 追 善 供
養 の た め に、 丹 後 の 局 の 話 し と と も に 語 り 伝 え ら れ て き た 可 能 性
がある。なお、基壇の小石塔群は近くから寄せ集めたものであろう。
詳細は「細入村史」参照
「楡原 畠山重忠公墓掲示板」
76
丹後の局と地神
†富山市楡原 楡原の住吉氏邸内に、地神という社がある。鎌倉時代のこと、源頼
朝の妾であった丹後の局はまことに容姿端麗で、頼朝から寵愛を受け
ていた。懐妊のことから暇を与えられ、故郷の京都へ帰る途中、住吉
神 社 の 畔 で 男 子 を 出 産 し た。 丹 後 の 局 は、 両 親 に 会 う の も 面 白 な い と
京 に 行 か ず、 あ ち こ ち さ ま よ い、 つ い に 北 国 に 来 て こ の 屋 敷 に 住 み 着
いて、子どもを育てた、しかし、その後病気にかかり、さびしく世を
去っていった。その子どもこそ、住吉家の先祖にあたり、母親の丹後
の局を祭 神 に し て い る 。
しかし、この屋敷で出産すると神の怒りにふれると言い伝えられ、
現に同家の人が妊娠すると必ず他人の家を借りて出産したという。
「越中伝説集」
富山市楡原
77
畠山重忠伝説「サイの角」 †富山市楡原 建久(けんきゅう)三年(一一九二)源頼朝(みなもとのよりとも)は、鎌倉
ひらいて 、 天 下 の せ い じ を と っ て い ま し た 。
か
( まくら に
) ばくふを
母のようにしたっていた方が、
びょう気になりました。
ある年のことです。しょうぐん頼朝(よりとも)が、
いしゃだの、くすりだのと大さわきをしましたが、やまいは重くなるばかりでした。ほとほとこまった
頼朝は、日本で名の知られた、うらないしをよんで、みてもらいました。
いうのが、
うらないしのことばでした。しかし、
「サイの角(つの)があれば、すぐにもなおりますが」と、
あつい南の国にすむというサイが、この日本のどこにいるというのでしょう。
頼朝は、けらいをあつめて、みんなのいけんを聞くことにしました。この時、畠山重忠(はたけやまし
げただ)というたいしょうがすすみ出て、「越中(えっちゅう)の国に流れる神通川(じんずうがわ)をさ
かのぼると、サイとよばれる、ふしぎなものが、住んでいると聞いています。さっそく、これをたいじして、
その角を、じさんしましょう」と、もうしました。
頼朝のゆるしをうけた重忠(しげただ)は、神通川のおく、東猪谷(ひがしいのたに)の山々ふかく分
け入り、草をまくらに、けわしい山の中を、サイをさがして、くるしい毎日をすごしました。
「こ
今日もまた、つかれた足をひきずって、とある谷あいにふみこみますと、一人のろうじんがあらわれ、
78
の 谷 に す む サ イ は、 今 ま で、 人 に が い を く わ え た こ と は あ り
ま せ ん。 こ の よ う な も の を う ち こ ろ す の は、 し ょ う ぐ ん さ ま
の ご め い れ い で も、 む ご い こ と だ と 思 い ま す。 ど う か 思 い と
ど ま り、 い の ち を た す け て や っ て く だ さ い 」 と、 か な し げ に
かたりま し た 。
「人かげもないこんな山おくに、ろう
重忠は、心のうちに、
じんが一人すんでいるのは、ふしぎだ。このろうじんの正体は、
サイにま ち が い な い 」 と 、 思 い ま し た 。
重 忠 は、 自 分 の 心 の う ち を 気 づ か れ て は こ ま り ま す の で、
う わ べ だ け は、 う な ず い て み せ、 帰 る ふ り を し な が ら、 こ っ
そりと、 こ の 老 人 の あ と を つ け て 行 き ま し た 。
ろうじんは、はっとする間もなく、このみずうみに、みをひるがえしてとびこみました。ろうじんは、
みるみるサイの正体をあらわして、そこふかくしずんでいきます。重忠は、
「しめた!」とよろこび、いそ
いできものを、ぬぎすてました。重忠は、一刀(いっとう)を口にくわえて、ザブンとばかり、サイの後
をおいま し た 。
水のそこでは、ランランと目を光らせて、サイがまちうけていました。しかし、東国一といわれたごう
もの、重忠は、少しもおそれません。たちまち、すさまじいあらそいが、まきおこりました。
けれども、さすがのサイも、重忠の力にかてません。やがて、美しいみずうみをまっかにそめて、サイの
富山市楡原
79
大きな体が、水の上にうかびました。重忠は、サイの角を切りとると、さっそく鎌倉(かまくら)にむかい、
サイの角 を と ど け ま し た 。
しかし、せっかくとどけられたサイの角も、さっぱりききめがあらわれず、びょうにんのやまいは、いっ
そうわるくなり、とうとうなくなってしまいました。
頼朝は、うたがいぶかい人でしたので、重忠がニセのものをもって来たのだと思い、サイの角を重忠に
つきかえしました。それでも、頼朝は、はらの虫がおさまらなかったのでしょう。きゅうに、
うっ手をむけて、
武蔵(むさし)の国の、二股川(ふたまたがわ)というところで、ちゅうぎな重忠を、せめころしてしま
いました 。
重忠の子、六郎(ろくろう)は、うちよせるてきの目をくぐって、越中(えっちゅう)の国へ、のがれ
て来まし た 。
六郎は、父のいこつを楡原(にれはら)にほおむり、父のことばをまもり、だいだいつたわるカブトと、
父がサイの角にきざんだ「三帰妙王」(さんきみょうおう)というほとけさまをもって、楡原にお寺をたて、
これが法雲寺(ほううんじ)といわれ、その後、
このお寺は、
上行寺(じょうぎょうじ)と名前をかえました。
父のれい と 、 サ イ の ご し ょ う を と む ら い ま し た 。
民話出典「猪谷むかしばなし」
80
雨乞い瀧
†富山市楡原 楡原の石繰谷が神通川に出るところに五メートル程の雨乞い
の瀧があ っ た 。
今から五百数十年前のこと、大変に暑い年のことで、日照り
がつづいて水が全くなくなったとき、楡原上行寺の大徳和尚が、
これは、村の瀧に雨乞いする以外にはなかろうと考えた。そし
て 祈 祷 を す る と、 ど う し た こ と か、 急 に 大 雨 に な っ て 田 畑 は ど
う に か 生 き か え っ た。 雨 乞 い 瀧 の 名 は こ の と き か ら 起 こ っ た の
だと伝え て い る 。
こ ん な わ け で、 そ れ か ら 雨 の 少 な い と き は 雨 乞 い の 祈 祷 を す
るように な っ た 。
こ の 瀧 の 中 ほ ど に 大 き い 穴 が あ っ て、 そ れ が 瀧 の 行 き 来 を す
るところ だ と も 伝 え て い る 。
「細入村史」
富山市楡原
81
†
富山市岩稲 狐の嫁入り
時は明治も終わりに近い頃、八尾町黒瀬谷の本法寺本堂再建のため、石
突きが行 な わ れ た 時 の こ と で あ る 。
楡原村はもちろん、岩稲からも奉納米と獅子舞を用意した。八尾から回っ
て 岩 屋 村 の 堀 口 さ ん の と こ ろ が 休 み 所 で あ る。 岩 稲 で は 出 発 は 午 前 2 時
頃であっ た 。
川向こうの下夕村の道路で何やら明かりがチラチラ行き来する。その
う ち に だ ん だ ん 多 く な り、 牛 ケ 増 の 村 上 家 と 旧 お 宮 さ ん の 中 間 く ら い の
ところから船倉用水のあたりまで明かりがチラチラ明滅する。
さらに明かりが多くなり、上から下るもの、下から上に向かって上がるもの、かれこれ五十くらいの明か
りが、上ったり下ったりして明滅する。それは見事なものだった。
やがて車に獅子舞の道具が積まれた。馬も二頭ばかり、立派な鞍が付けられ、手綱が掛けられ、用意が
できたので惜しくも出発したが、居合わせた人たちもこんな光景は初めてだったようだ。人が持つ提灯は
後光がさすのだが、この時は後光もなく、消えたり灯したりであった。向かいの山を見ると、その時のこ
とを思い 出 す 。
「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」細入婦人学級編
82
火吹き竹とケシゴ
†富山市岩稲 消しズミ が
) かけっこしたと。どっちも負けずに一生懸命に走って、ケシゴがころん
火 吹 き 竹 と ケ シ ゴ (
だと。火吹き竹が起こしてやろうかと言ったら、あんたに起こしてもらうと、わたしゃ、ジョウ 灰
( に
)な
ると言う た と 。 お し ま い 。
「細入村史」
富山市岩稲
83
黄金の鶏と軍用金の伝説
†富山市岩稲 むかし、岩稲の八幡さまは、飛騨街道の通りのはしにあったそうな。境内には、スギやカシやケヤキな
どの大木がしげり、昼でも暗いほどで、道ばたのコケむした石垣は、往来する人たちの憩いの場でもあっ
たそうな 。
ところで、この境内のどこかに、ウルシ千杯、朱千杯、黄金の鶏一つがいが埋められているとの伝説が
あるが、 話 の 起 こ り は こ う で あ る 。
時は戦国時代のころ、飛騨丹生川の尾崎城は別名「金鶏城」とも言われた。
この城の城主は、塩谷筑前守秋貞である。秋貞はこの城を中心にこのあたり一帯を治めていた。今でも
このあたりを八賀町と言っているのは、この城下町であったからだ。
秋貞は自分の勢力を伸ばそうと信州へ進攻した。そして上杉謙信と通じて飛騨古川に高野城、坂下に塩
谷城を築 き 、 さ ら に 越 中 に 進 攻 し た 。
まずは笹津付近を攻め取り、自分は猿倉城を築き、八賀の尾崎城には少数の兵と妻子を残し、秋貞は諸
蒋と共に猿倉城から広く広がる越中平野を眺めて、上杉謙信と連絡を取りながら、攻略の機会をねらって
いた。
ところが上杉謙信が死去したという知らせが伝わると魚津から椎名越中守の軍勢が攻め寄せた。秋貞は猿
84
倉 城 を 堅 く 守 っ て 容 易 に 城 は 落 ち な か っ た。 し か し 椎 名 の 新
手の軍勢にいよいよ支え切れず秋貞は落城を覚悟した。
秋貞はいつも愛玩していた黄金の鶏一つがいの床飾りを持
ち、 軍 用 金 は ウ ル シ と 朱 塗 り の 箱 に 入 れ て 家 来 に 持 た せ、 闇
夜 に ま ぎ れ て 猿 倉 山 を 下 り、 川 を 渡 っ て 対 岸 の 岩 稲 に 着 い た
そうな。そして岩稲八幡社で小者の姿に着替えて、大切に持っ
て 来 た 黄 金 の 鶏 の 床 飾 り も 軍 用 金 も 境 内 に 埋 め た と の こ と。
岩 稲 八 幡 社 で、 こ の 身 を 無 事 に 守 ら せ 給 い と 祈 願 し、 命 か ら
がら塩谷 の 方 へ 落 ち て 行 っ た 。
し か し 幾 日 か 後、 塩 谷 近 く の 戸 谷 あ た り で、 疲 れ き っ て 一
休みしているところへ椎名の軍勢に追い付かれ、無念や63
歳で討死 し た 。
八賀の尾崎城に秋貞戦死の悲報が届き、三木休庵が攻めて来るとのことで、尾崎城では残った兵も僅か
で逃げ散る者が多く、秋貞の奥さんも子どもも共に自害されて果てた。
「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」細入婦人学級編
朝に興り夕べに亡ぶる戦国時代の常とはいえ、あまりにも悲惨な錦華一朝のはかない夢である。
富山市岩稲
85
古銭の出た話
†富山市岩稲 黄金の鶏や軍用金の伝説がこの地に伝わっているが、現在の岩稲八
幡 宮 の 木 造 鳥 居 の 敷 地 整 理 の 際、 寛 永 通 宝 一 文 銭 が 八 百 数 十 枚 掘 り 出
された。この一文銭で鳥居に形を造り、八幡宮拝殿に飾られている。
現在の八幡宮は、合社以前は岩稲の船着場の見える高台に、渡し場の
神 様 と し て 祀 ら れ た 社 で あ っ た。 渡 し 場 は、 今 の 田 中 家 と 武 田 家 の 下
の方にあ っ た 。
牛ケ増と岩稲とで月半分毎に交代して舟場を使ったという。舟場へ
の道は坂道であったので、最も近くで店をしていたのが、舟坂となった。
舟坂は茶屋とも言った。近くに道標があり、法界様も立ててあったが、
国道工事で今の場所に移された。古い石碑である。
「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」細入婦人学級編
86
ダラな兄マの話 †富山市岩稲 むかしむかし、ある所に、ダラな兄マがござったと。年頃になったので、親たちも、こんなダラの所へ
お嫁に来てくれる人もいないだろうし、困った事だと心配していた。
「ここから五里くらい離れた村に、きりょう
ある時、物売りの商売人が来て、この親たちの話を聞いて、
はよくないが、あの娘なら来てくれるだろう」と話した。それを聞いた両親は、さっそく人を立て、お嫁
にもらう こ と に 話 が 決 ま っ た 。
初対面のあいさつも教わったとおり間違えなくすまし、お膳が出て来て、酒盛りになった。親類の人た
ちも来ていて、酒がまわるにつれてにぎやかになって来た。歌を唄ったり、踊ったり。そこで親類の一人が、
「婿さんにも何か一つ」と云うので、兄マは立ち上がり、
「小便に行って来てから」と外へ出て行った。
兄マは、小便しながら、向こうをひょいと見ると、新しい白いこもと古い黒いこもが、納屋の入口に下がっ
ている。これを見た兄マは、座敷へもどって来た。
「さあ何か一つ」と云われて、「白いこもあり、黒いこもあり」と云うたのだが、みんなは何のことか分
からない の で 、 ク ス ク ス 笑 っ て い る 。
それを見ていた嫁になる娘が出で来て、「みなさん、どなたでもよろしゅうございますから、上の句をよ
んでくださいませ」と云った。しかし、誰もよむ人がいないので、
「それでは私がよみましょう」と、
富山市岩稲
87
一つ木に サギとカラスが 巣を喰えば 白い子もあり 黒い子もあり
と、一首の歌ができ上がった。来客一同は、感心した。
客の中から、「ついでにもう一句」と注文が出た。兄マは
立ち上が っ て 、
「小便して来てから」と、また、出て行った。
し ば ら く し て、 兄 マ は 席 へ も ど っ て 来 た。 今 度 は 何 を 云
うのだろ う と 思 っ て い る と 、
「頭ぶらぶら、しずくたらたら」
と兄マが云ったので、みんなは吹き出して、大笑いになった。
娘さんが、「また、どなたか、上の句をよんでくださいま
せんか」と云うのだが、だれもよむ人がいない。
「それでは、
私 が よ ん で み ま し ょ う 」 と、 娘 さ ん は、 次 の よ う な 上 の 句
よんだ。
水鳥が 羽うちそろい たつときは
あたまぶらぶら しずくたらたら
りっぱな歌によんだ娘さんに、いならぶ客も、感心しな
い者はい な か っ た と い う 話 だ 。
後日談
88
「あんたたちも、
この話は、夜学に通っていた時、蜷川先生が聞かせてくださった。その時に、先生は、
かしこいお嫁さんをもらわれよ」と云われた。後ろの方から、
「ダラな兄マの所へ、そんなかしこい嫁さが
来てくれ る か な あ 」 と 云 う 声 が 聞 え た 。
語りべ 吉田摂津
「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」細入婦人学級編
富山市岩稲
89
夢を見て宝物を掘りに来た男 †富山市岩稲 岩稲八幡社の境内にウルシ千ばい朱千ばい黄金の鶏一ツガイと軍用金が埋めて有るという言う伝説は、
だれでも 聞 か さ れ た 話 で あ る 。
隣の某が幾晩も夢に見た。岩稲八幡社の森の中、二俣谷の落合う所、三つ葉ウツギ千バイ、朱千バイ、
黄 金 の 鶏 一 ツ ガ イ 軍 用 金 が 埋 め て 有 る。 人 に 見 ら れ ぬ 様 に 掘 り に
行けと。
不 思 議 な 夢 だ と 思 う た が、 遂 に 意 を 決 し て、 暗 い 夜 中 に 夢 に 見
た 宝 掘 り に 鍬 を か つ い で し の び 足、 夢 に 見 た 八 幡 の 森 へ 百 メ ー ト
ル 位 で、 不 意 に 横 か ら 婆 さ ん が ヒ ョ ッ コ リ 。 婆 さ ん も 男 も ビ ッ ク
リ。アレッ! ビックリした。
お前早らと鍬かついでどこい行かっさると、声かけられて、し
まったとしばらく言葉も出ない。「実はこんな夢を毎晩見たので、
宝 物 を 掘 り に 来 た が、 だ れ に も 見 ら れ る な と の お 告 げ で あ っ た の
に、 お 前 に 見 ら れ て 、 お れ は く や し い 、 お し い こ と し た 」 と 言 う
て、足の 運 び も 重 く 、 す ご す ご と 戻 っ た と 。
90
この八幡社も明治の末期に合社されて、森の大木も切られて屋敷の一部を残して、水田に開くことになり、
部落の人が全部出て、土を掘る人、運ぶ人、高い所を掘る人に、黄金の鶏はまだ出ないか、軍用金はまだ
見付からないぞ、盛土の下に埋めたのではなかろうか、いつの間にか、だれかがこっそり掘って行ったの
だろうと、話はいろいろ。 只、五輪塔はたくさん出た。昭和二十八年に北陸電力神通川第二発電所建設に伴い、宮の水田も黄金の
鶏も軍用 金 も ダ ム の 底 に 沈 ん で 仕 舞 っ た 。
語りべ 吉田摂津
「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」細入婦人学級編
富山市岩稲
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巻の伝説 †富山市岩稲 辰
現在は岩稲部落の中央で、飛越ドライブインのある所から、
山 下 さ ん の あ た り 一 帯 を 祭 田 と 言 っ て い る。 す ぐ 前 の 坪 岳 の 麓
に湧き水が出て、雑木が生い茂り、藤づるやツタが掛った所で、
村 人 は 祭 田 の 地 鎮 様 と 呼 ん で い た。 付 近 に は 墓 地 も 点 々 と あ っ
て、薄気 味 悪 い 寂 し げ な 所 で あ っ た 。
昔、ここから辰が昇天した。辰は、海に千年、川の功を経て、
天に昇って龍となる。昇天する時は、雲を呼び、風を起して、
付近の木や石、土、水を巻き上げ、体を巻き上げ、体を何者に
も 見 ら れ な い よ う に し て 昇 る。 こ の 時 も、 大 暗 闇 に 地 響 き を 立
てて、も の 凄 い こ と で あ っ た と い う 。
そ の 跡 は、 大 き く 深 い 穴 が で き、 後 年、 村 人 は、 そ の 付 近
を田に広げたが、深い所は、アゼをこしらえて、作っていた。
しかし、現在では、盛り土されて、高山線の用地となり、毎日、その上を列車が走っている。
「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」細入婦人学級編
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鮎と鯛と鯒 †富山市岩稲 鮎 と 鯛 と 鯒 が 仲 良 く 花 見 に 出 か け た と。 お 酒 を 飲 ん だ り、 ご ち そ
うを食べたり、唄ったり、楽しくやっているうちに、鮎が鯛と喧嘩を
したと。
鯛は真っ赤になっておこるし、鮎は青くなって逃げ回りながら、鯒
さん仲わけしてと言ったら、「あい・たいした事こちゃしらん」 語っ
て候 「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」細入婦人学級編
富山市岩稲
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山椒とナンバのおはなし
†富山 市 岩 稲 山椒が ナ ン バ に お 嫁 に 来 て く れ と 言 っ た 。
ナンバは、「わたしがいろむまで待ってください」と言いました。
山椒は「あんたのいろむまで待っておったらわたしゃ目がむける」
「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」細入婦人学級編
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岩稲に伝わるお湯の出たはなし †富山市岩稲 これは、今からおよそ百二十年ほど前に、岩稲にあった温泉の話です。
そこには、
温泉の湯ぶねの跡が残っています。
村の人たちは、そこを「空の山」と呼んでいました。今でも、
いつの頃からか、その「空の山」に、温泉が湧き出るようになりました。そのことは、岩稲の人の秘密になっ
ていたのですが、やがて、近在の村々の人たちにその秘密は、知られることになりました。
岩稲にお湯がわきでていることを知った近在の人たちが、昼、夜を問わず、ワンサワンサと押し寄せて
来ました。その中には、悪い人がいるようで、部落の人が苦労して作った農作物が荒らされたり、毎日の
ように物 が 盗 ま れ た り す る よ う に な り ま し た 。
このままでは、部落の農作物や宝物が盗まれます。これは大変です。岩稲部落の人々は頭をかかえて対
策をねりました。そして、対策協議の結果、大切なお湯を止めることにしました。これは、すごい決断で
したが、部落を守るためには、どうしてもやらなければならないと決断しました。
しかし、自然に湧き出るお湯を止めることはとても難しいことです。お湯を止めるにはどうしたらよい
だろうか?部落の人たちは、四方八方手をつくして、調べました。そして、見つけたのが、次の方法でした。
まずは「あしげうま」、つまり、白い毛の馬が必要でした。しかし、部落には、あしげうまはいません。部
そして、「あしげうま」を、湧き出る温泉の湯ぶねに泳がしたのです。すると、不思議や不思議、見る見
落の人たちはお金を出し合い、一頭の「あしげうま」を買い求めました。
富山市岩稲
95
る うちに、お湯が少なくなり、ついには、一滴も温泉が出なくなってしまいました。見事に温泉は止ま
りました 。
「岩稲のお湯がかれたとさ」たちまちの間に、その話は近在の村々に広がり、ピッタリとお客は来なく
なりました。そして、「昔、岩稲に温泉が湧き出ていた」という話は、伝説として今に伝わっています。
さてさて、これからお話するのは、温泉が出なくなってから百二十年過ぎた、現在のお話です。
部落のある人が、お湯が沸き出た話は、本当か調べてやろうと、思い立ちました。その人は、来る日も来
る日も、部落を流れる谷川という谷川に手を入れて、どこかにお湯が出ていないか探し回りました。しかし、
どこにも 温 泉 は 見 当 た り ま せ ん で し た 。
そ ん な あ る 日 の こ と、 部 落 の 下 を 流 れ る 神 通 川 へ 仕 事
の た め に 出 か け ま し た。 ふ と、 見 る と、 神 通 川 の 崖 の 淵
からかすかに湯けむりが立ち上がっているではありませ
ん か。 不 思 議 や 不 思 議 。 さ っ そ く 、 そ の 湯 け む り に 手 を
入れてみますと、三十℃ほどの温かさを感じました。そ
の場所は、岩稲と楡原の境の高原という所です。確かに、
温 泉 が 今 で も 湧 き 出 て い る の で し た。 あ の 話 は 本 当 だ っ
たのです 。
しかし、残念なことに、神通川第二発電所ダムができ、
96
その場所は水の中になってしまいました。きっと今でも、その場所からは、三十℃のお湯が湧き出ている
ことでし ょ う 。
岩稲の温泉を復活させるには、ボーリングも不用、人力も機械力も不用です。あしげうまを、もとのお
湯の出た口へ連れて行き、その手で三回、「お湯よ再び出てくれ」と、まねけば、たちまちのうちに三十℃
の温泉が 湧 き 出 ま す と さ 。
郷土の伝説 官報ほそいり 昭和三十九年十一月一日発行
富山市岩稲
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赤池の大蛇 †富山市東猪谷 むかし、むかし、そのまた むかし。おおかわの おくの ほうに ちいさな むらが あって、
ひと
びとは かわで さかなを とったり、
やまの はたけで やさいを つくったりして なかよく へい
わに くらして おりました。
む ら の は ず れ に ご ぜ ん や ま と い う お お き な や ま が あ っ て、 そ の や ま に は や ま を ま
もっている きこりの せんにんが すんでいる といわれ、
むらの ひとたちは やまを とても たいせつにして ちかづきませんでした。
「 ぬ ま は そ こ な し ぬ
その ごせんやまの なかほどに うつくしく すきとおった ぬまが あって、
まで だいじゃが すんでいる」 といわれ、むらの ひとびとから おそれられて おりました。だけど
まだ だーれも だいじゃを みた ものが おりませんでした。
その いけで きこりせんにんは いつも かおを あらったり、 たべものを あらったり していま
した。
ところが その いけの まんなか ぐらいの ところで、 ときどき あかーい ちの かたまりのよ
うなもの が う か ん で い る の で す 。
「なん だ ろ ー ? 」
でも、 きこりせんにんは あまり きにしたことが ありませんでした。
と こ ろ が、 あ る あ さ の こ と、 き こ り せ ん に ん が い つ も よ り す こ し は や く い け へ か お を あ ら
98
いに いくと、
ズルルルル・・・・ゾゾゾゾゾ・・・・ ズルル ル ル ・ ・ ・ ・ ゾ ゾ ゾ ゾ ゾ ・ ・ ・ ・
いけの すぐ そばから、
ぶきみな おとが きこえてきます。
「なんじゃ? あれは?」
きこりせんにんは ふしぎに おもって、こかげに かくれました。
しばらくして そおーっと のぞくと、
な・な・な・な・な・・・・「なに?!」
なんと いままでに みたことも ない おおきな だいじゃが、
しかを くちに くわえ、
のみこ
んで しまおうと している ところでした。
「ウアア!!」きこりせんにんが びっくりした はずみに、
おもわず こえが もれました。
だいじゃは ギラリ!!と めを ひからせて、きこりせんにんの ほうに ふりむきました。かおも
ぬまも ちに そまって いました。 それは、それは、みにくく、おそろしい すがたでした。する
と、にわかに、 くろくもが わき、ピカ!!ピカ!!ピカ!! ゴロロロローン!! ゴンゴロロゴロゴ
ロゴーン
とつぜん てんを やぶるような ひかりと かみなりが なり、もりも はやしも まっくらに な
りました 。
だいじゃは ちだらけの みにくい すがたを みられ、すがたを かくそうと、 あれくるいました。
富山市東猪谷
99
おおあ め が 、
みっか みばん、
ふりつづきました。
や が て、 そ の お お あ め で、
ぬまの みずが あふ
れだし、あふれでた みずと いっしょに、
だいじゃ
は く ち か ら ひ を ふ き な が ら、 み に く い す が た
を か く し て 、
さわだんの やまはだを えぐりなが
ら、 お お か わ に む か っ て 、
いっきに くだり はじ
めました 。
い わ を く だ き、
もりや きを なぎたおし、その
おとは 、
ガラ ガラ ガラ ガラ ガラ ・・・・
ドド ド ! ! ド ド ド ! ! ド ド ド ー ン ! !
ガ・ガ ・ ガ ・ ガ ・ ・ ・ ・ ガ ガ ガ ガ ー ン
あっちの やま、
こっちの やまと ひびきわたりました。
だいじゃは あれくるいながら、おおかわに むかったのですが、さすがの だいじゃも つかれて に、 さ ん に ち
しまい、ゆきさきを かえて、つつみを つくり、その なかに すがたを かくしました。
たってから、しずまったように みえた やまはだが、ふたたび ゆれうごき、 つつみ
に ひそんでいた だいじゃが、ふたたび、
あらしを よんで、たにを ふかく けずりながら、すさま
じ い い き お い で 、
いわや やまの きぎと ともに、おおかわに くだり、すがたが みえなくなりま
100
した。
や が て、
あらしが しずまり、
ひがしの そらから あかるくなり、おひさまも でて、 こぜんやま
にも むらにも、もとの しずけさが もどりました とさ。
これは、赤池にまつわるお話です。現在でも「赤池の沼のふちに出る竹の子(スス竹)取りに気をとられて、
一生懸命になって取っていると、底なし沼に足を取られるから、気を付けるように」と言い伝えられてい
ます。 (坂上隆市さんのお話)
民話出展「大沢野下夕南部「野菊の会」紙芝居
富山市東猪谷
101
不切山の神
†富山市東猪谷 昔、大沢野の下夕地区に不切山という山があり、木を切ら
ないので、多くの大木が茂っていた。この村の百姓が、神通
川に流れてきた木偶を拾い上げてきたところ、その晩、夢枕
にたち、「わしは、山神じゃ。早く山へかえせ」というので、
おどろいて不切山のナラの木の祠へおさめてきた。
それから何年もたち、木がますます成長して、木偶をつつ
みかくしたため、どの木が山神の木かわからなくなった。そ
の頃、ある木こりが一本の大木に斧をうちこむと、真っ赤な
血 が 吹 き 出 し た の で、 驚 い た 人 々 が、 こ の 山 の 木 を 切 ら な く
なったわ け で あ る 。
ところが、ある年のこと、ひとりの若者が人々のとめるのもきかず、この山から三本の木を切り取った。
そのとたん、若者の母の顔がみにくくひきつり、口がゆがんだまま、どうしてもなおらなくなった。若
者はいまさらのように、山神のたたりを恐れ、二十一日間お許しの祈りをささげ、満願の日に約束の杉苗
を三本植えて帰ると、ふしぎに母の顔がもとの通りになっていたと。
「大沢野ものがたり」
102
宝樹寺のげんま松 †富山市東猪谷 猪 谷 宝 樹 寺 の 境 内 に「 げ ん ま 松 」 と 呼 ば れ る 老 い た
大 木 が あ り ま す。( こ の 寺 の 開 山 は 永 正 二 年 で、 願 蓮
社栄上人の創寺と伝えられています。)
このお寺の二十五代上人(教誉)のとき、「源太郎」
と い う 小 僧 さ ん が い て、 村 の 人 た ち は「 源 マ 」 と 呼 ん
で親しん で い ま し た 。
あ る 日、 夕 刻 か ら 二、三 軒 の 命 日 回 向 を 勤 め て、 月
夜 の 村 道 を 急 い で い ま し た。 や っ と 寺 の 灯 が 見 え て き
た の で、 ホ ッ と し た と き、 源 マ は 不 思 議 な も の を 見 ま
した。それは、身の毛もよだつ大きな天狗でした。天狗は松の大枝から「源マ」と大喝一声。源マはその
これが今も伝えられている「げんま松」の由来です。
場で気を失って倒れて、数日後、哀れにも死んでしまいました。
猪谷部落を見おろして、悠然とたたずんでいるこの黒松は、四季折々の風情と深い歴史を偲ばせてくれ
ます。
「町報 おおさわの 昭和五十九年八月十五日 No.二二〇号」 富山市東猪谷
103
新「宝樹寺のげんま松」 †富山市東猪谷 私たちが子どもの頃、大木の股から天狗がでるという〝こわい〟話は
よ く 聞 か さ れ ま し た。 ち ょ う ど お 寺 の 黒 松 の 大 木 は 途 中 に 股 が あ る の で
す。
この黒松に何十年も前から住んでいた天狗は、毎日、お寺の様子を高
い所から 見 て い ま し た 。
源マ小僧が朝早く起きて掃除をしたり仏様におまいりしたり、お使い
に行ったり、一生懸命働いているのを見て、何時も感心していました。
ある月夜の晩に、和尚さんに言われた命日回向を勤めて、お寺へ帰って来ましたが、あまり丈夫でない
源マは寝 込 ん で し ま い ま し た 。
心配した天狗は、源マが早く治るよう祈祷しましたが、とうとう治らず死んでしまいました。
この天狗はお寺の番と源マを見守ってきたのですが、可愛い源マが亡くなったので、大変悲しみ、嘆き、
遠い遠い山奥の大木のある所へ引っ越してしまいました。
※「げんま」の話があまりかわいそうなので、別の「げんま」ならいいなあと思いつくりました。 伊藤記 「郷土研究 大沢野下夕南部 野菊の会編」
104
つきぬ菜 †富山市舟渡 ( うぼうだいし が
) 、伏木 ふ
( しき 村
) 、小糸 こ
(い
弘法大師 こ
と 村
) を 通って、なお けわしい道を、上流へと 足を はこん
でいかれました。やがて、飛騨 ひ
(だ の
) 国も まじかい 舟渡 ふ
(
なと の
) 村のはずれに さしかかりました。
冬が もうすぐ やって来る ころでしたので、まわりの 山々
のけしきは、いつもより さびしく、けわしく 見えました。
「雪
の ふらぬまに、高山まで まいらねば なるまい」 大師は、そ
う思っていたに ちがいありません。
い そ ぎ 足 の 大 師 が、 ふ と 足 を と め て、 小 首 を か し げ ら
れました。どこかで 子どもの なき声が したからです。
大師が、声の方へ 近づいて 行かれると、そこには うすぎ
た な い 山 の 子 ど も が な い て お り ま し た。 大 師 が わ け を 聞
かれると、子どもは、「冬のしたくの ために、
やさいを 買いに、里へ 行って来るよう 言いつけら
れて来たが、とちゅうで お金を おとした」と いって、また しくしく なきじゃくるのでした。
大師は あわれに 思われて「この たねを まくが よかろう。これは 年中 食べられる なの 富山市舟渡
105
たねじゃ」と ふところから 五、六つぶの たねを とりだして 紙につつんで わたされました。
「つきぬ菜」
村人たちは、このたねを 大切に そだてました。それが 今では、村中に 生え広がり、
として 年中 食用に されています。
「大沢野町誌」
106
川木と山境
†富山市舟渡 飛騨のおびただしい粗材はいつも、神通川を利用して送っ
ていた。 ま た 雪 解 け に な る と 出 水 と 同 時 に 「 川
木 」 と い う 薪 材 も、 地 方 沿 岸 住 民 に は 重 要 な も の の 一 つ で
あった。
舟 渡・ 東 猪 谷 は 加 賀 百 万 石、 西 猪 谷 は 富 山 十 万 石、 中 山
横山は飛 騨 天 領 で 、 三 ツ 搦 み で 面 白 い 話 も 多 い 。
或 る 時 の 出 水 時、 丁 度 用 材 流 送 中 だ っ た の で 薪 に 拾 っ て も
よ い「 じ ゃ み 」( 比 較 的 細 か い 流 れ 木 ) に 交 じ っ て、 天 領
の用材も沢山流れて出た。舟渡村の百姓は各々拾いに出た。
初 め は 用 材 に 手 を 掛 け な か っ た が、 や が て 一 人 拾 い 二 人 拾
い し て、 先 を 争 っ て 手 頃 な も の を 拾 い 上 げ、 な お 百 万 石 領
を 笠 に 着 て、 舟 を 持 っ て い る の を 幸 い に、 西 猪 谷 十 万 石 側
で 拾 い 上 げ た も の も、 舟 の 後 ろ に 縄 で 縛 っ て 残 ら ず 持 っ て
来た。
と こ ろ が 天 領 か ら「 古 呂 材( 板 を と る た め に 良 質 の 大 き
富山市舟渡
107
いものを四尺から七尺に切ったもの)用材を拾いおる者は、速やかに届け出るべし、私に隠し持つ者あれ
ば重罪に処する」ということになった。慌てて裏の山に埋めたが、天領では余り届け出が少ないので、巡
視に来た 。
西猪谷では仇討ちとばかり「舟渡で沢山隠した」と告げた。さア大変、役人が舟渡村へやって来た。真
直ぐ裏山へ行って「これは誰が隠した」誰も答える者がいない。中の老人が一人進み出て「お役人様、こ
れは東猪谷の持ち山でございまして、手前共は一向に存じませぬ」
「然と左様か」
「はい間違いござりませぬ」
一同の者 や っ と 愁 眉 を 開 い た 。
役人は東猪谷に乗り込み、調べた揚句、早速猪谷から人夫を連れて来て、運び出した。舟渡の人達は罪
にならないで良かったと内心ほくそ笑んでいた。役人は帰り際に「以後この山から南の方を東猪谷の持ち
山とする、わかったか」といった。従来、谷が猪谷との境であったのが、このことがあってから、この山
が境にさ せ ら れ た と い う 。
「大沢野町誌」
108
小糸宗左衛門の話
†富山市小糸 江戸時代、神通川東岸の下夕地区十四ヶ村の人々は、毎日、粟やひえ、そして山や野にある草、木の葉
などを切り刻んでむしあげ、それをまた、乾燥してくさらないようにしながら、少しずつ食べていました。
それでも春から秋にかけては、小鳥や魚、山には食用になる木の実があって助かりましたが、冬になると
わずかな食料を少しずつ食いつなぐというありさまでした。お米も作っていましたが、村の人々は、お米
の味など知りませんでした。加賀藩の役人が、情けようしゃもなくとりたてる年貢米が、おどろくほどた
くさんだったからです。 下夕地区十四ヶ村の人々が、汗と油を流して作ったお米は、全部、年貢米として
納めなけ れ ば な ら な か っ た か ら で す 。
人々は、草を食べ、木の実を食べて、死にものぐるいで、毎年、毎年、この年貢米を納めてきました。
それでも、お殿様のため、ぐちひとつこぼさず働いていたのです。このあわれなお百姓さんたちは、自分
でお米を作りながら、一粒だって口にしたことのないお米の俵を、舟倉や富山の磯部に運び、とっぷり暮
れた夕方、我が家に帰るというありさまでした。 それは、寛文の頃であったといわれています。小糸の村へ岐阜の大垣から一人の男が移り住んで来ました。
男の名前は宗左衛門と言い、たくましく、見るからに強そうな人でした。村人たちはおそろしくて、だれ
も近づき ま せ ん で し た 。
宗左衛門は、そんなことは気にしないで、だれかれとなく、親しく話しかけ、ちょっとした仕事を見つ
富山市小糸
109
けては、かげひなたなく汗を流して働きました。困っている人を見る
と、親切に力になってやりました。それだから、村の人はいつの間にか、
この宗左 衛 門 と 仲 よ く な り ま し た 。
宗 左 衛 門 は「 私 が 生 き て い る の は、 ま だ 私 の 仕 事 が 残 っ て い る と い
うことだ。正しいことはあくまでやり通し、まちがいがあれば、
いっしょ
う け ん め い つ ぐ な い を す れ ば よ い の だ 」 と、 い つ も 自 分 に 言 い 聞 か せ
ていまし た 。
こ ん な 宗 左 衛 門 で し た か ら、 食 う も の も 食 わ な い で お 米 を 運 ん で 行
く下夕の村々の人々をなんとかしてやらねばならないと、考えるよう
になりました。 そして、加賀のお殿様にたのんでみようと決心し、たっ
た一人で 、 ぶ ら り と 村 を た ち ま し た 。
ところが、なんと運のよいことでしょうか。金沢の近くまで行くと、
遠乗りに出たお殿様が、はるかに家来たちをひきはなして、一人、馬
を木につないで休んでおられるのに出会いました。正義のため、おそ
れを知らぬ宗左衛門は、顔いっぱい、真心の気持ちをあらわして、下
夕の村々の人々の苦しみを、お殿様に申し上げました。
命 を か け た こ の 宗 左 衛 門 の 顔 を 見 て、 お 殿 様 も 宗 左 衛 門 の 心 に 感 動
され、「分かった、早く姿をかくせ。家来が来るとめんどうじゃ」と話
110
されるが早いか、さっと馬に乗って立ち去られました。
「ははっ」と地面にひたいをこすりつけていた平伏
していた宗左衛門は、ボロボロ涙をこぼしながら、草かげから草かげへ、たくみにかくれながら家来たち
より遠ざ か り ま し た 。
宗左衛門が小糸村に帰るのを、待っていたかのように、加賀藩から次のようなお達しがありました。
「今後、下夕の村々の上納は銀納とする。」
これからは米を納めなくてもよいというのです。そのかわり銀で収めよというのです。その頃は、銀納
といって、年貢米を銀で納める場合は、米で納める場合にくらべて、おどろくほど安くすんだのでした。
村の人々はおどりあがって喜びました。そして、宗左衛門は、たちまち生き神様のようにあがめられま
した。しかし、そんなことを喜ぶ宗左衛門ではありません。
「村人の一人として、やらねばならぬことをし
ただけ」 と 思 っ て い た の で す 。
紋付衿をつけた宗左衛門は、
村はずれに、
だれかを待っ
平和と喜びのいく日が過ぎました。そんなある日、
ていまし た 。
「こじきのいない国づくり」、これが加賀百万石のお殿様のめあてでした。下夕の村々から、ひどい年貢
米を取り立てていた役人たちは、さんざんお殿様に叱られました。
このことを伝え聞いた宗左衛門は、役人たちが、必ずしかえしに来るだろうと思っていましたが、やはりやっ
て来まし た 。
役人たちは、宗左衛門をやっつけてやろうと、プンプンおこりながら近づいて来ました。
「あなた方をさしおいて、お殿様へじきじ
宗左衛門は、そんな役人たちにていねいにあいさつをして、
富山市小糸
111
きにお願い申しあげたことは、まことに悪うございました。牢屋へでもどこへでも入れてください。私に
は覚悟ができております。どのようにされても、もとといえば私が悪いのですから」と言って、あやまり
ました。そして、「ただ、最後の思い出に、私の家で少し休んでいっていただきたい。私の家を見る最後の
日ですから、よろしくお願いします。」と言って、自分の家に役人たちを案内しました。
「山の中ですから、とても口にあうものもございますまいが」と、宗左衛門はドブロクと川魚で、役人
を もてなしました。役人たちは、思いがけぬごちそうに、すっかりくつろいで、じょうだんをいいなが
ら酒を飲 み 始 め ま し た 。
「酒だけはたんとあります。じゅうぶん飲んでいただかねば」と、宗左衛門は酒を取りに行くようなふ
りをして、二階へ上がって行きました。そして、わら屋根の三角窓からしのび出て、伏木村まで走りました。
それから、今、宗左衛門口と呼んでいる谷を下って、神通川ぶちまで来ると、今度は川上の舟渡村の下ま
で行きました。そして、ちょうで畑の中にあった牛のくらを見つけて、
「しめた」とつぶやきながら、その
くらに乗り、上手に水をかきながら、川向かいの猪谷に渡ってしまいました。
宗左衛門が、二階に上がったまま下りて来ないので、役人たちはやっと、だまされたことに気がつきま
した。役人たちは、村人たちをおどして、宗左衛門のゆくえをさがしましたが、とっくのむかしに、川を渡っ
ていたのです。しかし、川向かいは富山藩の領地ですから、役人たちはどうすることもできません。富山
藩にかけあって、宗左衛門を召しとるには、金沢のお殿様に願い出て、富山のお殿様にかけあってもらわ
ねばなり ま せ ん 。
金沢のお殿様は、宗左衛門を信用していますから、そんなことを願い出れば、こんどはしかられるどこ
112
ろか切腹ものです。悪い役人たちは、くやし涙を流してあきらめるしかありませんでした。
宗左衛門は、今度は、富山藩の村人のためにいろいろと働き、人々に感謝されながら、すばらしい一生を
送りまし た 。
今も、猪谷の飯村家のうらには、宗左衛門の墓が残されています。
安政六年(一八五九年)、下夕の村々の人々は、布尻村に宗左衛門のご恩に報いるために、記念の石碑
を立てま し た 。
この石碑は、今も、小糸公民館のすぐ横に立っています。
「猪谷むかしばなし」よりの再話
富山市小糸
113
尾萩野の首なし地蔵さん
†富山市小糸 はじめ に
しょうわ 30ねんだい、
こめづくりを しやすく するために、
すいでんの こうちせいりが あ
りました。 おおきな きかいが はいり、
れんじつ たいへんな さぎょうが おこなわれました。 のぼとけの さとの ほとけさまたちも だいいどうして、
せいりされた ころの おはなしです。
ちょっと むかしに あった おはなしですが、
「おはぎの」と いう ところで、かいたくが はじまっ
たころの ことです。 そのころの 「おはぎの」は、ひと ひとりが ようやく とおれる くらいの ほそい みちでした。
みちの まがりかどに じぞうさんたちが ならび、 くさが のびると じぞうさんたちを めあてに
あるいた ところです。
そんな のどかな ふうけいが ひろがる 「おはぎの」だったのです。
「おはぎの」では、
よっつの むらの ひとたちが あつまり、
はたけしごとに ごぼうやら にん
じんなどをつくり、 ちかくの むらへ うりにいって、 こずかいかせぎを して くらして おりまし
た。
いちめんに くわのきが あり、
かいこさまを はる、
なつ、
あきと さんかいも かいました。
かいこさまからは まゆを とり、
その まゆから、
やわらかい きぬのいとを とりました。
114
そのころの こどもたちは おやつも ないので、
がっこうが おわると、 いそいで はたけへ いっ
て、 お や つ が わ り に く わ の み を く ち の ま わりが むらさきいろに そまるくらいに たべたもので
す。それが なによりの たのしみの ひとつでした。
そんな 「おはぎの」に だいじけんが おきました。 その くわばたけを おこし、 たんぼにして
こめを つくることに なったのです。
あるひ、ブルドーザーが はいって きました。 おおきな おとで、 ガアー ガアー。 ゴロゴロ ゴロゴロ ゴロゴロゴー。
む ら の ひ と た ち は お ど ろ き、
い そ い で お じ ぞ う さ ん た ち を す こ し は な れ た や ま て の ば
しょへ うつしました。
それから しばらく こうじが つづき、
すこし たいらな ところが できたので、
むらの ひと
たちは あたらしい たんぼを つくる しごとを していました。
すると 、
くわのさきに カッチンと あたる まるい いしに、
おばさんは びっくり!
ほりおこして みて、
おばさんは にど びっくり!
「ありゃ りゃ りゃ! これはたいへん! おじぞうさんの あたまかも しれんよ!」
くさのなかに あった おじぞうさんが、 こうじのときに ブルドーザーに とばされたのかも しれま
せん。
お ば さ ん は、
まわりに どうたいが ないかと、
あっちこっち さがしました。 ありました! く
びのない お じ ぞ う さ ん が 、 み つ か り ま し た 。
富山市小糸
115
あ た り を キ ョ ロ キ ョ ロ み わ た す と、
い っ し ょ に し ご と
を していた おじいさんが みえました。
よぶと 、
おじいさんも とんできて びっくり!
「これは これは もったいない。 おじぞうさんの あたま
は、
おれが つけてやろう」と おじいさんは、 たいせつに いえに もちかえりました。
き れ い な み ず で あ ら っ て み る と、
な ん と も か わ い い
おかおの おじぞうさまでした。 おじいさんは ていねいに コンクリートを ねり、
あたまと どうたいを つけてあげました。
し ば ら く し て、
もとの すがたに もどった おじぞうさまを、
きれいになった だいちに そっと かえして あ げ ま し た 。
やはり、 もとの だいちが うれしいのか、 おじぞうさまは、にこやかな すがたになり、 しずかに
ながいあいだ
てを あわせて いらっしゃいました。
それか ら の ち 、 ふ し ぎ な こ と が お き ま し た 。
あたまが いたくて おばさんは こまって おりましたが、 もとの すがたに なら
れた おじぞうさまの おかげで、 ずつうが すっかり なくなりました。 おしまい
民話出典
「下夕南部野菊の会
紙芝居」
116
小糸のお不動様 †富山市小糸 小糸集落の中央より、案内の看板に沿って山沿いを五百メートルほど行った所に、不動谷があります。
道を右に曲がり、その不動谷を三十メートルほど登った左手に、大小二つの不動滝があり、その反対側の
岩窟を利用したコンクリート建の御堂の中に不動尊がお祀りしてあります。言い伝えによると、この不動
尊は次のようにしてここに祀られたということです。
「私は、今、川に流されて困っている
明治の中頃か、尾島家の先祖の老主人の夢枕に不動様が立たれ、
ので助けてください。加賀沢の上の川原にいる。助けてくださったら、
小糸の村をお守りしてあげます」と。
尾島さんは村の衆に相談して助けることになり、数人でお迎えに行きました。
加賀沢の上流を探して行くと、半分ほど砂に埋まった不動様を発見しました。さっそく掘りあげて交代
で背負い、また、荷車の通る所は荷車で運び、西猪谷に着きました。その後は、また背負って村まで運び、
現在地の 祠 に 祀 っ た と 云 わ れ て い ま す 。
その後、村には何事もなく、平穏無事が続いています。
「郷土研究 大沢野下夕南部 野菊の会編」
富山市小糸
117
命の水 †富山市小糸 弘法大師が、八二〇年ころ 日本の国を めぐりあるいて、人々を おしえ、池や 沼を つくって しゃ
かいのために つくされたことは、みなさんは 聞いたことが あると思います。
この弘法大師が、越中から 飛騨へ、神通川に そった けわしい道を あるいて、やがて、小糸の村に
入られま し た 。
大師は、一けんの 家に たちよられ、
「水を 一ぱいおくれ」と もうされました。
この家の おばあさんは、日ごろから しんせつな人で ありましたので、
「これは、これは。たびの おぼうさんですか。すぐ さしあげますから、しばらく おまちください。」
といって、おくへ 入りました。すがたは みすぼらしいが、なんとなく 仏さまのように ありがたい
おぼうさんに 見えましたので、家に くんである 水では もったいないと、手おけを もって、出
かけまし た 。
ようやく、もって来た 水を 大師は うまそうに 飲みながら、
「たいへん 時間が かかったようだが、この水は どこから くんでくるのか」と たずねました。
おばあ さ ん は 、
「はい、はい。おそくなりまして、あいすみませんでした。
118
じつは、六ちょう(六百メートル)ほどの おくの 谷間
ま で ま い り ま せ ん と、 お い し い 水 が わ い て お り ま せ ん。
それで ずいぶん おそくなりました。おゆるしください。
」
と こた え ま し た 。
大師 は 、 た い そ う よ ろ こ ば れ 、
「村人の なんぎを すくうことに なろうから」といっ
て、 ひ し ゃ く に の こ っ た 水 を 、 そ の 家 の に わ に そ そ ぎ
ながら、なにかを となえられました。
すると、ふしぎなことに、しみずが こんこんと わき出
て まい り ま し た 。
この泉は、今でも、「命の水」とよばれ、小糸村で ただ一つの 泉として、
たいせつに つかわれて
います。
民話出典「大沢野ものがたり」
富山市小糸
119
カッパに教えられた妙薬 †富山市伏木 昔から、伏木の 山下家(屋号はアイス屋)に 伝わる お話です。千五百年も 続いた 旧家ですが、
いつのころからか、アイス屋と 呼ばれるように なったそうです。
昔、アイス屋に、お爺と お婆と 一頭の馬が 住んでいました。お爺が、朝早く起き、馬の草かりに、
深い山まで 出かけていきました。
一荷の草を 背おって 帰り、「どっこいしょ」と、草をおろし、いっぷくして、草をやろうと、馬小屋
を のぞいてびっくりぎょうてん。カッパが 馬に つなをかけ、外に 引き出そうと しているのです。
お爺 おこり、カッパを 引き出し、つなをかけ、土間の柱にしばりつけて おきました。
やがて、カッパは、だんだん弱り、ぐったりして しまいました。お婆が、ごはんの用意に、土間 下
りたところ、カッパは、
「キュウ キュウ」と、悲しそうな 泣き声を あげて、泣いていました。お婆が、
カッパに、「お前が 悪いことをした。馬なんか 引き出そうと するからや」と、手に 持っていた ぬ
れたシャモジで、頭の皿を たたいたところ、皿に シャモジの水が 入ったためか、カッパは、いっぺ
元気になり、つなを 引き切って、いちもくさんに、にげていきました。
んに
120
「この間は、いのちを 助けてくれて ありがと
何日か 過ぎてから、カッパは、お婆の所に 現れて、
うございました」と、ペコンと おじぎをして、帰って 行きました。その後ろすがたは、山ぶしに、に
ていたと 伝えられています。
ある日、お婆が、家の仕事で くたびれて、ねむりこんでいました。
そ の 時、 ゆ め ま く ら に、「 私 は 飛 騨 か ら 流 れ て き た 仏 ぞ う だ が、
谷川に いるから、助けに来てほしい」と呼ぶ声に、ハッと われにか
えり、谷川に 行ったところ、川岸に、木ぼりの 仏ぞうが、うかんで
いるのに、おどろきました。お婆は、仏ぞうを ひろいあげ、
「もった
いない」と、大切に 家に 持ち帰り、おまもりしていました。
「夜、とめてもらいたい。どこにでも よいから ある日のこと、山ぶしすがたの 行者が 来られ、 今
休ませてほしい 」と、もうされたので、お婆は、やさしい声で「どうぞ どうぞ」と、ろばたに あんないし、
ごちそうを 作って、もてなしました。行者さんは、
「あなたの家に 仏ぞうが あるはず。私に おきょ
うを となえさせてください」と言い、おきょうを となえられました。よく朝、出発ぎわに、
「一夜 と
めていただいた お礼に」と言って、草木を 使っての 薬の作り方を 教え、
「あなたの家が、生活に
こまった時には、この薬が あなた方を 助けて くれますから」と言って、立ちさられました。
富山市伏木
121
教えられた草木で 作った薬を「アイス」と言い、多くの人々に りようされました。山ぶしさんに 言われたように、家が こまった時には、「アイス」が よく 売れたそうです。
その時の 仏ぞうは、伏木の 神明社に ごうひ されています。それから、伏木ぶらくの 人たちは、
きゅうれきの 五月五日になると、朝めし前に、一荷ずつ、ヨモギ、アオキ、スイカズラなど、それぞれ
の 薬草をせおい、アイス屋の 薬草小屋の 前に おいたものです。そのお礼に、ショウブぶろに 入
れてもら い ま し た 。
アイス屋では、薬草を かげぼしにし、一年中 使用できるほど、作っていました。ぶらくの人たちは、
アイスを ひつようとする時は、むりょうでもらって 使用したそうです。また、近ごう、近ざいの方も、
アイスを もとめに 来られたそうです。
民話出典「ふるさと下夕南部 野菊の会」
122
伝説 吉野篭の渡し場の大蛇
†富山市吉野 私が十才頃聞いた話です。
吉野の篭の渡しの場所は現神一ダムの下にあります。
六軒位の家があったじぶんのお話です。
今から百七十年位前のころでしょうか。村に丗五、
茂 住 の 住 人 で 柿 下 と い う 人 が、 吉 野 銀 山 の 鉱 夫 と し て 吉 野 へ 稼 ぎ に 来
て定住し て い ま し た 。
柿下という姓で名前までわかりませんが川での漁猟が盛んな頃のある
日、柿下さんが川へ鮎か鱒かわかりませんが、魚を捕りに行きました。
篭の渡しの下の川原で流れを眺め漁場をどこにしようかと川上を見た
り、川下 を 見 た り し て 思 索 し て お り ま し た 。
虫の知らせか、フト上流の大岩の方を見るとアーラー恐ろしや、大き
な大蛇がその岩に幾重にも巻きついて、こちらをにらみ、赤い舌をべら
べらと出して形相物凄く今にも飛びかからんばかり、柿下さんは余りの
恐ろしさに身体がこわばり、心臓が止まったかの様に動かれず、顔は青
ざめてしまいました。後日その事を他人に語ったということです。
本人は今迄、山や川で生き物を殺生したことのたたりであると悟り、
今後一切、猟を止めることを決心したとのことです。
富山市吉野
123
現在吉野橋近くの六地蔵のそばにある舟型のお地蔵様は、本人が後世までもと、願いを込めて建立した
と伝えら れ て い ま す 。
その後、柿下家の人が佛心厚く「六字名号塔」を建立されました。 苔むした側面に天保十二年巳亥五月
當村施主 柿 下 源 五 郎 と 古 字 が 残 さ れ て い ま す 。
笹川慶治 翻刻 平井一雄
郷土研究大沢野町「ふるさと下タ南部」野菊の会
124
吉野村のことについて
†富山市吉野 吉野村は天正以降年と共に発展し、その最後の頃は、千軒もの採鉱夫の小屋建があったと伝えられる。
これは吉野だけでなく小糸・伏木・舟渡を含めたものであろう。また鉱山開発後、今の吉野部落の東方俗
称「くさり山麓字下反甫」の屋敷地帯から、どん坂にかけても吉加禰部落があったが、鉱山の衰退と共に、
天保年代吉野に合併した。また、吉加禰部落には、鉱山全盛期において、その守護神として山王社があっ
たが、布 尻 氏 神 に 合 祀 さ れ た 。
この地方は古くから飛騨地方との交通があり、同地方との縁組も多く行われ、文化の交流もあって、そ
の影響を受けることが大であった。然し旧吉野の家屋の構造は、越中様式に能登・飛騨の風を加味した一
種独特な も の で あ っ た 。
明治三十三年、金沢横山男爵によって鉱山が再開させられたとき、能登方面より大工・木挽等がやって
来た。たまたま吉野では第三回目の大火の後であったので、
これらの大工が主となって建築したわけである。
現在全戸数改築のため当時の模様を偲ぶよすがもないのは残念である。これ等の職人の中、この地に定住
したもの も あ る 。
天正の鉱山開発に伴い、寛永・明暦に至り多くの他国者が入り込んで来たので、自然喧嘩口論はもちろん、
旧吉野の交通は、笹津を起点とする県道が狭いながらも部落の中央を通っていた外、三井浪岡鉱山用軌
道馬車が 部 落 の 上 段 を 通 っ て い た 。
富山市吉野
125
数々の恋物語も生まれ、刃傷沙汰もあったらしいが、種々の秘話
を包んで 吉 野 は 湖 底 に 永 遠 に 沈 ん だ 。
廃 藩 置 県 後 放 置 さ れ て い た こ の 鉱 山 も、 明 治 三 十 三 年 九 月 に 至
り、 元 加 賀 藩 家 老 で あ っ た 、 横 山 男 爵 の 手 に よ っ て 再 開 発 せ ら れ
た。時に吉野では第三回全焼後の悲惨な折柄でもあり、この再開
発 は 部 落 民 に と っ て は 天 来 の 福 音 で も あ っ た が、 や は り 思 わ し く
な く、 最 後 に は 採 算 が と れ な く な り 、 三 年 後 に は ま た ま た 廃 坑 に
な っ て し ま っ た。 こ の 再 開 に 当 り、 間 歩 坑 と い う 大 き い 方 が 四 坑
同時に採鉱せられたということである。その後明治三十七年には、
神 通 鉱 山 と い う の が 採 鉱 を 試 み た が、 こ れ も 採 算 が 取 れ ぬ ま ま 一
年後には中止し、ここに全く廃坑となって現在に至ったのである。
吉 加 禰 鉱 山 発 見 よ り、 実 に 三 百 八 十 有 余 年、 様 々 な 多 く の 物 語
を 秘 め た、 こ の 吉 野 も 昭 和 二 十 八 年 十 月 三 十 一 日 午 後 三 時 二 十 四
分、永久 に 帰 ら ぬ 水 底 へ 沈 ん で い っ た の で あ る 。
「大沢野町誌」
126
坂田金時と薄波のゆかり †富山市薄波 坂 田 金 時 さ ま は 幼 名 を 怪 童 丸 と い い 大 力 の 持 主 で し た。 天 延 四 年
(九七六)という大昔のことです。金時さまは当時、武勇の誉の高い
源 頼 親 さ ま の 家 来 に な り、 渡 辺 綱・ 碓 貞 光・ 卜 部 季 武 等 と 共 に 四 天 王
といわれ る よ う に な り ま し た 。
そ の 頃、 平 安 の 都 で は 大 江 山 の 酒 呑 童 子 と い う 鬼 が 夜 な 夜 な 出 没 し
て あ ば れ 廻 り、 都 の 人 を 苦 し め て い ま し た。 朝 廷 で は 頼 道 さ ま に そ れ
を退治するようお命じになりました。頼道さまを御大将とし、家来の
四天王と平井保昌さまの六人で酒呑童子の征伐に向かわれ、遂に成功
し日本中 に そ の 名 を 響 か せ ま し た 。
そ れ か ら 後、 金 時 さ ま と 渡 辺 綱 さ ま た ち が 協 力 し て 近 江 国 の 飯 ケ 峰
で賊と戦い、越中国に引き揚げました。綱さまは八尾の布谷に、金時
さまは大沢野の薄波に落着かれてこの地を治め、長く栄えられたとい
うことで す 。
現在、薄波の部落は転居して無人の里となっています。代々の坂田家には、鎧、兜、刀、槍などが伝え
られてきたそうです。今は「金時像」と称する掛け軸しか残っていないということです。
富山市薄波
127
〝はるか平安の昔をいろどった坂田金時のいさぎよい魂と夢は、この山里の何処に潜んでいるのだろう
か。長棟 川 の 流 れ は 満 々 と し て 去 っ て 還 ら ず 〟
平成七年七月吉日 大沢野観光協会
富山市吉野に接地してある大沢野観光協会案内板より
128
坂田公時 †富山市薄波 菅原道真(すがわらのみちざね)の死んだあと、藤原氏はますます栄え、藤原道長の代にその全盛期を
迎えまし た 。
道長は
この世をば わが世とぞ思う もち月の
かけたることも なしと思えば
と、自分の望みが何一つとしてかなわぬことがないことを十五夜の満月にたとえた歌をつくって得意がっ
たほどで し た 。
このようなありさまですから政治も次第にそっちのけになり、日夜遊びたわむれることが日課のように
なりました。春は花見、秋はもみじ狩り、月をながめ、雪を賞し、酒さかなをならべて笛だ太鼓だと大さ
わぎです。こうしたぜいたくなくらしが、いつはてるともなく続けられたのです。その下にいる役人たち
も心の底の底までゆるみました。中央の政治がゆるめば、地方の政治もまたみだれます。
地方の役人たちも藤原氏をみならって税を高くしたり、人々の土地や財産をとりあげたりして、ぜいた
くなくらしをするようになっていきました。生活に困った人たちは次第に気が荒くなり、まじめに働くよ
富山市薄波
129
りも盗みをはたらいたり、力まかせに乱暴したりする人もでてきました。袴垂(はかまだれ)や鬼同丸(き
どうまる)などという恐ろしい盗賊がぞくぞく現れてきました。
このようになってきても、ぜいたくになれた藤原氏や役人たちは、もはやこれらの盗賊をしずめるだけ
の勇気や 力 が な く な っ て い た の で す 。
そこで、地方の有力な人々が親類どうし一団となり、多くの家来を養って、武芸にはげみ自分たちを守
りました。そのような団体が幾つも現れると、おたがいに武力をほこり、勢いを示そうとするため、ます
ます力が強くなっていきました。このような世の中になってきましたので、都にいても藤原氏におさえら
れて出世のできなかった血筋のよい人の中には地方にくだり、これらの団体の大将となるものもでてきま
した。のちの世にさかんになる武士というものは、こうして生れてきたのです。
一条天皇の御代、さかんになってきた武士団の一つである源氏の大将に源頼光という人がいました。こ
の頼光が相模の国、足柄山のふもとを通りかかると、はるかな谷あいに五色の雲がたなびいていましたので、
不思議に 思 っ て 山 奥 深 く 分 け 入 り ま し た 。
そして、山うばに育てられていた、たくましい子どもを見つけました。この子どもの名は怪童丸といって、
おとぎば な し で 名 高 い 足 柄 山 の 金 太 郎 さ ん で す 。
「まさかりかついだ金太郎 くまにまたがりお馬のけいこ はいしどうどう はいどうどう はいしどう
どう は い ど う ど う 」
130
とか、ま た
「あしがらやまの金太郎さん くまとおすもをとりました くまはころりと まけました」とうたわれてい
るあの金 太 郎 で す 。
頼光は金太郎を一目見て、これは立派な武士になるぞと思いましたので、成長したら自分の家来になる
よう約束して、都へのぼりました。天延四年、金太郎は都へのぼり、坂田公時と名をあらため、頼光につ
かえまし た 。
公時はもともと怪力のもち主でしたので、たちまち源頼光の四天王のひとりとして、都の人々の人気者
になりました。頼光には、学問にすぐれた平井保昌という参謀がおり、それにくわえて、渡辺綱・卜部末武・
臼井貞光・坂田公時という、いずれ劣らぬ四天王がそろったわけです。
その頃、都に近い大江山に酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼がすみつき、夜ともなると都へ大勢の
手下をひきつれて、おしよせ、たいへんな乱暴をしていました。
源頼光は酒呑童子を退治して、人々を救おうと思い、四天王をつれて、大江山にのぼりました。この時、
山育ちの公時は、小さな頃から山道になれていますので、見えない道でも、すぐさがしだしたり、酒呑童
子の見張りを先に見つけて、敵の目をかすめて、どんどん進みましたので、頼光はじめ四天王たちは、た
いへん助 か り ま し た 。
富山市薄波
131
やがて、道なき道をふみわけていくと、ひとりの老人が立っていて、「私
は、この山をまもる山神である。酒呑童子を退治するには、ひとつの方
法しかない。一夜の宿をたのんで、この酒を飲ませなさい。こちらの酒
を飲めばからだの力がぬけるのじゃ。またこちらの酒は、飲めば飲むほ
ど強い力がわいてくる酒だから、お前たちはこの酒を飲めばよい」といっ
て、いくらついでもつきないという、徳利を二つ渡しました。
頼光たちは勇気百倍にして、道を急ぎました。やがて、大きな洞窟に
鉄の扉をたて、酒呑童子の手下が門を守っているのが見えてきました。
頼光は「道に迷った山伏どもです。一晩泊めていただければ、いくら
飲 ん で も つ き な い、 不 思 議 な 酒 徳 利 を さ し あ げ ま す 」 と た の み ま し た。
山伏に変装しているとも知らず、酒呑童子は徳利がほしかったので、頼
光たちを 泊 め る こ と に し ま し た 。
やがて、酒呑童子をはじめ大勢の手下たちは、よいつぶれて、ぐっすり寝こんでしまいました。
さっそく酒呑童子は手下を全部集めて、飲めや歌えの宴会を開きました。頼光は、力がなくなる酒を、
酒呑童子や手下たちに、どんどんついでまわり、自分たちは力のつく酒ばかりを飲んでいました。
頼光たちは、今だとばかり、酒呑童子の首をうちとって、めでたく都へ引き上げました。
132
四天王のうちでも、渡辺綱と坂田公時は、とくに仲のよい友だちでしたが、ある日のこと、源頼親(み
なもとのよりちか)という人に、あざけり笑われたことがあります。ふたりはたいそう怒って、頼親のい
た越前の国に攻め込みました。頼親は、たぶん攻めて来るにちがいないと思っていましたので、本陣の霧
ガ城から栃ガ峠まで、長い橋をわたし、弓矢や石をたくさん準備し、大勢の家来を伏せて待ちかまえてい
ました。
綱と公時のふたりは、そんな計略があろうとは夢にも考えず、頼親ぐらいはひとつぶしにしてみせると、
ただ、ただ勇ましく攻めこんだだけでしたので、たちまち頼親の計略に引っかかってしまいました。さす
がの豪傑も家来の多くを討たれてどうすることもできなくなり、越中の国へ逃げてきました。綱と公時が
危ないということを聞いて、平井保昌と卜部末武とが急いでかけつけてきましたが、勢いにのった源頼親
にさんざん攻められ、このふたりも、公時と綱のあとを追って越中へ逃げ出しました。
越中に来た四人は、有名な人たちでしたので、たちまち人々からおされて、あちこちの村々の政治をま
かせられて、そのまま代々、村々をおさめていきました。
平井保昌の子孫は上市町に、渡辺綱の子孫は、大沢野の新村にながく住んでいましたが、そののち八尾
の布谷にうつりました。卜部末武の子孫も八尾の栃折に栄えています。
坂田公時の子孫は、下夕道の薄波に住んで、代々、村の役人をしながら現在も脈々と続いています。
「大沢野ものがたり 大沢野工業高等学校 社会研究部編」
富山市薄波
133
寺津の河童の話
†富山市寺津 むかし、この寺津の村に、ひとりのおじいさんがすんでいました。一日のしごとをおえたおじいさんは、
かわいがっていた馬のからだを、ゴシゴシ、川原であらってやったあと、しばらく夕すずみをさせていま
した。
やがて、日は西の山へしずんでいきます。「さあ、今日もごくろうさんだったな。家にかえって、どっ
さりうまいものを食べさてやるぞ。」と、おじいさんは馬のたづなをとりました。たづなのさきは、川のせ
の方にの び て 、 ゆ ら ゆ ら と ゆ れ て い ま し た 。
「おやっ。
」と思
おじいさんはたづなをひょぃとたぐりよせましたが、いつもと手ごたえがちがいます。
いながら、こんどは力一ぱいたぐりよせますと、たづなといっしょに河童の子どもが「フンギア。フンギア。
」
と泣きながらひきよせられました。きっと馬を川ぞこにひきこもうとしていたにちがいありません。
河童はずいぶん長い間、水から頭だけ出して、馬をねらっていたらしく、力のもとになる頭のさらが、
からっぽになっていました。そこをおじいさんにふいににひっぱられ、たづなにからだのどこかが、もつ
れてしま っ た ら し い の で す 。
! 」とばかり、こらしめのために、台所のはしらへ、てつのくさ
お じ い さ ん は「 こ の い た ず ら も の め !
りでしば っ て お き ま し た 。
そのばんのことです。おばあさんがごそごそおきてきました。水が飲みたくなったのです。
134
「お前は、また、ばかなやつじゃ。
」
おばあさんは、台所で水を飲み、
と い っ て、 な に げ な く、 ひ し ゃ く で コ ツ ン と 河 童 の 頭 を た た き ま
した。
さ あ た い へ ん で す。 そ の 時、 河 童 の 頭 の さ ら に、 ひ し ゃ く の 水
が 入 っ た の で す。 河 童 は た ち ま ち あ ば れ だ し、 く さ り を 切 っ て、
いちもく さ ん に 、 に げ て し ま い ま し た 。
し か し、 こ の 河 童 は、 な か な か れ い ぎ 正 し く、 ご お ん を し る 河
童 で あ っ た ら し く、 こ れ か ら の ち 毎 年 の よ う に サ ケ や ア ユ な ど、
きせつの魚を、台所のかけ木にかけていきました。
お ば あ さ ん は、 だ ん だ ん と、 よ く ば り に な っ て、 せ っ か く 持 っ
てきてくれるのだからと、大きなてつのカギをいくつもかけ、もっ
と、もっとたくさん魚をかけることが、できるようにいたしました。ところが、河童は 、前にてつのくさ
りでしばられたことがありましたので、てつをみると、びっくりして二度とあらわれなくなったとさ。
民話出典「大沢野ものがたり」
富山市寺津
135
五郎兵衛宮 †富山市町長 町長村の山頂に相当な平地(ダイラバタケ)がある。人呼んで「五郎兵衛宮」と称している。先人代々
からの言い伝えやら過去帳等により、元禄の末期頃より明確に記録されている。
五郎兵衛三兄弟がダイラバタケに住んでおり、兄は五郎兵衛、弟の二人は清助と三右ヱ門との事、兄弟
三人は次々と、このダイラバタケから下山、現在の町長の地に住み着いたとのこと。このダイラバタケは
町長村発 祥 の 地 と 言 わ れ て い る 。
湧き水を利用しての水田が一反ばかりあった。山肌には、昔畑をしていた跡が見受けられる。屋敷の廻
りにあったらしい柿の木も二~三本、大きな梨の木、五抱えも
ある栃の 大 木 が あ る 。
その辺にお宮の跡の石らしき物があり、今の野崎隆義家(野崎
五郎兵衛)では、大正の末期まで鏡餅を持って、正月二日には
どんな大 雪 で も 初 詣 に 出 か け た も の だ そ う だ 。
そ の 後、 昭 和 二 十 年 代 の 食 糧 難 の 折 り、 町 長 の 田 中 秀 治 家 の
方たちがそのダイラバタケの荒れ果てた田畑らしき所を一反余
り 開 墾 し、 小 屋 を 建 て、 水 稲 及 び 陸 稲 を 三 十 年 代 頃 ま で 耕 作 し
ていた。
136
当時、梨の木の梢に卵より大きい梨がなっていて、村人たちが田中さんに梨をもらって食べたとのこと
だ。また、湧き水が流れ出ている谷間にわさびが生えており、少し上には「ナシノキダイラ」と言って広々
した山面に、萱、ススキが生え、テンポナシ、ワラビ、ゼンマイ、ススタケ等の山菜に恵まれていた。
時代の流れと共に林道が造られ、杉等が植林されて、昔を偲ばしてくれていた栃の大木や山菜等が姿を消
した。それでも、町長の野崎隆義家の嘆願により、大きい梨の木のみ姿を留め、当時を物語っている。
野崎隆義家(野崎五郎兵衛)の田植えには、どんなに「晴天の日」であっても、二日間の田植え中には、
必ず「二粒」か「三粒」の雨が降ったという。雨が降って来ると、大勢の早乙女衆が声を揃えて「あっ、
またダイラバタケの神様がござった。今年も、五郎兵衛さは平穏安泰であった」と叫び合うそうだ。
「大沢野町 下夕北部のあゆみ」
富山市町長
137
†富山市布尻 布尻の長者屋敷
布尻(ぬのしり)の南、下夕平(したたいら)と いう所に、「ふるみやあと」と よばれる ところがある。
西孫左衛門(にしまござえもん)と いう者の やしきあとで、おくまんちょうじゃで あったらしい。
しゅういに ほりを めぐらし、東の方に お宮をつくり、東ざしきの 戸を 開ければ、いながらにし
て朝の お日さまとともに、お宮もうでが できるしくみに なっていたという。
今の 布尻神社(ぬのしりじんじゃ)は、この長者の やしきで あったのを、安政(あんせい)年間に
げんざいちに うつしたものだと いうことである。
この長者の家に、ふつうの馬と、目の色のちがった「ジョウン馬」と いう馬も 五、六頭 かってあっ
たという。今なお、町長(まちなが)との さかいの谷を、
「ジョウメン谷」といい、ほりの あったとこ
この
やしきあとに ついては、こんな話も のこっている。
ろを、「ほりの田」と いっている。
布尻の とうふ屋で、しかも、何代目かの あととりむすこに 文右衛門(ぶんえもん)と いうもの
がいた。身分のよい家の このむすこは、はたらくことが 大きらいで、朝から 酒ばかり 飲んでいた。
家の人は、「これでは どうにも ならんぬ」と こまりはて、田んぼを 見回る 仕事につかせ、ここ
に家をたてて、よめさんを 見つけて けっこんさせた。
138
しかし、文右衛門は、いっこうに はたらこうとせず、目の回るよ
うに いそがしい 五月のころにも、よめさんには おめかしをさせ、
自分は 酒を飲んで、歌え おどれの 生活を 続けていた。
この文右衛門が、ある夜のこと、たいへん よっぱらって うたた
ねを したそうだ。その時の ゆめまくらに、ぼんやりと あらわれ
たのが 白衣白髪(はくいはくはつ)の老人。 ( んばい の
) うるしと、千両(せんりょう)の
その老人が、「千杯 せ
小判(こばん)と、この世で 一番の 黄金(おうごん)の鳥が、朝
日と夕日に かがやく所、三つ葉うつぎの 下にあるぞ。お前一人で
来て さがすがよい。けっして 人には言うな」と つげた。
文右衛門は、パッと はねおきて、「これだ。長者やしきの ひほうと つたえられているのは…」と
ばかり、くわを つかんで 飛び出した。しかし、夜明けには、まだ 早い 寅の刻(とらのこく 今の
午前四時ごろ)。あたりは まだ まっくらだった。
文右衛門は、根が おくびょう者だから、引き返して、よめさんを つれて 行くことにした。そして、
このあたりだろうと 思われる所へ やって来た。
「あったぞ。三つ葉ウツギが あったぞ!」
一かぶの 三つ葉ウツギを 見つけた 文右衛門と よめ
さんは、くるったように 土を ほり返しては すすみ、 ほり返しては すすんだ。そして、ようやくに
して ほりあてたのは、えたいの 知れないほどの 大きな 岩ばんだった。
富山市布尻
139
文右衛門と よめさんは、ついに せいも こんも つきはてて、そこへ へたばって しまった。そ
して、空を見上げると、すっかり 晴れ上がった 東の空から、すがすがしい 太陽が のぼっていたのだっ
た。
「お前一人で…」との おつげに、よ
文右衛門は、その時に なって やっと気づいたのだ。それは、
めさんを つれてきた ことだった。
そして、文右衛門は、もう一つ、大事なことに 気づいたのだ。それは、
「おれも、はたらけるのだ」と いうことであった。文右衛門は、「これからは しんけんに はたらこう」と けっしんし、その足で、田
んぼの あ ぜ 道 作 り に 向 か っ た 。
朝めし前に、いっしんふらんに ふり上げる くわのかるさと 心地よさ。そして、文右衛門が 生ま
れて はじめて あじわったのが、自分の あせの あじだった。
その時である。くわさきに ガサッと 手ごたえが あった。と、同時に、バタバタバタと 金色をした
わけの わからない鳥が 神通川(じんずうがわ)をわたって、楡原(にれはら)村の 竹やぶの方へ
飛んでいった。そして、その鳥が いたあとには、いつ作られたのか 分からない古いつぼがあったそ
うだ。
民話出典「大沢野町誌」からの再話
140
†富山市芦生 勘造地蔵 牛ケ増と芦生の境、俗にいう境松に「南無阿弥陀仏」と書いた地蔵がある。これは、昔、東猪谷村善造
の弟に勘造という者がおり、下夕道の村々で、食わして貰うだけで一日働くというに日稼や、貰い物等を
して生活 し て い た 。
ある年の師走の夕刻、笹津の村へ用足しに行った。牛ケ増村八右衛門
方で夕食をご馳走になって、「早く帰らんと山犬が出るぞ」との声を後
にして出 た 。
同じ頃、布尻村肝煎善右衛門は、呼び出しがあって、天正寺村の金
山十村へと、この街道を急いでいた。境松の角を曲ってヒョイと出ると、
前の土橋の上におよそ十数匹もおろうか、狼の群が「グオーグオツ」と
うごめい て い た 。
善 右 衛 門 は ギ ョ ッ と し た が、 こ こ で 怖 れ て い て は お 上 の 御 用 が 勤 ま
らぬと、「やいっ 獣物共、今日の善右衛門は、いつもの善右衛門と訳
が違う。お上の御用で急ぎの道じゃ。邪魔立てすると用捨はせぬぞっ」
と、
大 音 声 を 発 す る と、 狼 共 は 気 押 さ れ て、 何 か 黒 い 物 を 咥 え て 橋 の 下 に 引
きずり込んだ。翌朝、村人たちが見つけた頃には、見るも哀れな勘造の
富山市芦生
141
姿であっ た と い う 。
追悼のため、塔を刻んで建てたのが翌年の正月二十七日のことである。今、この塔が三つに割れている
のは、ある時の洪水で流失したのだが、神岡軌道建設の際、石工が河原で石垣石を採取中、あまり大きい
ので三つに割って、裏返して見た所、仏塔であったのに驚き、現地に安置したものだという。
「大沢野町誌」
142
山火事止めのまじない
†富山市芦生 芦生の焼野、川向いの楡原に焼倉というところがある。
昔、毎年のように霜月 十
きまっ
( 一月 の
) 巳の日になると、
て 山 火 事 が 起 き た。 付 近 の 村 々 の 人 た ち は 山 の 神 様 の た
たりだと た い へ ん 恐 れ て い た 。
あ る 年、 旅 の 六 部 の 僧 が、 ち ょ う ど そ の こ ろ こ の 村 に
泊まり合わせ、村人のおびえている様をみて、「麦のいり
粉 を ふ り か け れ ば、 た ち ど こ ろ に 消 え る で あ ろ う 」 と 教
えてくれ た 。
百姓たちは半信半疑だったが、いり粉作って待っていたところ、案の定、火の手が上がった。そこです
かさず火をめがけていり粉を投げかけたところ、火勢はみるみる衰え、とうとう消えてしまった。
それからは、毎年霜月の巳の日には必ずいり粉をつくり、いろりの隅に供えるまじないをするようになっ
た。その 後 山 火 事 は 絶 え て な い と い う 。
「大沢野町誌」
富山市芦生
143
「弘法の清水」伝説 †富山市牛ケ増 神通峡には、牛ケ増にも、「弘法の清水」といわれる 湧き水
が あり ま す 。
伝わっている 牛ケ増の民話は 次のとおりです。
越中から 飛騨へ、神通の 清流に そった道は、しだいに けわしさを ましてくる。弘法大師は今日も また 人々を お
しえさとすため、つかれた足を はこんでいた。
今 の 大 沢 野 町 牛 ケ 増 ま で き た と き、 一 軒の 百姓屋が あったので、「お湯を いっぱい ごちそうになろう」と思った。
と こ ろ が、 こ の 家 の お ば あ さ ん は 名 高 い け ち ん ぼ う だ っ
たので、「あんな こじき坊主に お湯なんて」と思い、お米の
とぎ汁 を 大 師 に 飲 ま せ た 。
それ以後、牛ケ増の水は、いくら 天気のよい日でも、白く にごっているという。 「大沢野ものがたり」
144
いぼとりの水
†富山市牛ガ増 笹津と牛ガ増の村境に平岩という大きな岩がある。むかし、対岸の
西 笹 津 が 大 火 に な っ た と き、 弁 慶 が 馬 に 乗 っ て こ の 岩 の 上 へ 駆 け 上
がって眺めたといい、今も馬の蹄跡が残っている。また、この岩に直
径60センチほどのくぼみがあって、いつも雨水が溜まっている。こ
の水を「いぼとりの水」といい、いぼにつけると効き目がある。
「大沢野町誌」
富山市牛ケ増
145
カ
( ベは岩壁のこと
塩壁のお告げ
†富山市下夕 下夕地区の芦生の南、村はずれに塩壁
と い わ れ る 砂 岩 層 が 露 出 し て い た。 昔、 白 髪 の 老 翁 が 川
下から上ってきて、「この砂を水で洗い、その洗い水を釜で
煮 れ ば、 よ い 塩 が と れ る で あ ろ う 」 と、 村 人 に 教 え て 姿 が
消 え た。 そ の 後、 こ の 砂 を 舟 で 大 久 保 の 塩 村 へ 運 ん で 塩 を
煮 た と い う。 こ の 層 も、 神 通 第 二 ダ ム が で き た と き、 そ の
姿を消し た 。
)
「大沢野町誌」
146
闘鬼が岩の大トカゲ
富山市下夕 下夕地区の芦生の神通峡に発電所ができない前、闘鬼が岩とい
う伝説の 大 き な 岩 が あ っ た 。
あ る 年、 こ の 村 の 太 兵 衛 と い う 者 が、 水 神 を 刻 ん で こ こ に 祀 っ
た。以前から八月十四日にこの水神様の前で導師を招いて、村の
男たちで川施餓鬼を行っていた。いつの祭りでのときでも、この
岩のどこから来るのか四十センチくらいの大きなトカゲが現れて
読 経 の 間 は ま ば た き も せ ず ジ ッ と し て い て、 お 経 が 終 わ る と 姿 を
消すので 、 村 の 人 た ち は 岩 の 主 だ と い っ て い た 。
「越中伝説集」
富山市下夕
147
塩出の池
†富山市下夕 ( 七二 四
) 月 の こ と、 砺 波 地 方 に 住 ん で い た 弥 鹿
大昔の白鳳元年 六
岐 み
( ろき と
) い う 人 が、 大 沢 野 の 芦 生 に 用 事 が あ っ て 舟 を 急 が せ て
いた。
た ま た ま 塩 村 の あ た り で、 朝 も や の 中 か ら 白 髪 の 気 品 高 い 老 人 が 現
れ
「お前をなかなかの人物とみこんで、仕事を頼みたい。このあたりの人々は塩がなくて困っている。とこ
ろが、このすぐ近くにきれいな泉が湧き、美しい池をつくっている。この池の水を煮つめれば、よい塩が
とれ、人々も喜ぶのだが、大変な仕事なので、めったな人間に頼むわけにゆかんのじゃ」といったかと思
うと、老人はハッと光を放ちながら南の空へ姿を消していった。
弥鹿岐は、これは尊い神のご支持に違いないと、さっそく教わった通り、たけなす草をわけていくと、
まもなく美しい池のふちにでた。弥鹿岐は、人々を集めて一部始終を話し、力を合わせて塩を焼いてみると、
すばらしいよい塩がたくさんとれた。人々は喜んで、この池を「塩出の池」と名づけ、塩神である塩土老
翁命をまつる多久比礼志神社をたてて、神の恩にむくいた。
「大沢野ものがたり」
148
地名の由来
†富山市下夕 東猪谷 細 入 村 の 猪 谷 と 同 地 名 が 東 西 に あ る の で、 区 別 す る 意 味 か ら 東
猪谷と呼 び な ら わ さ れ た も の で あ る 。
舟渡
神 通 川 を 挟 ん で、 猪 谷 と の 交 通 連 絡 上、 舟 の 渡 し 場 が あ っ た こ
とから来 た も の で あ る と い う .
薄波
長棟川の水が薄く山肌を洗うていたところから出たものといわ
れる。
牛ヶ増
飛騨入りの諸物資を運搬するのに、この辺りより険しくなるので、牛を増して運搬したところより起こる。
富山市下夕
149
笹津・今生津・寺津・舟津と、津の地名が多い。津とは舟着場を意味し、往時陸運不便の折、水量豊かであっ
たろう神通川が、貨物輸送の最大至便の交通路であったことを古老が証している。
古い家の呼び名「た
下夕地区の側に津が多いところからみても、当時の世相の様子が偲ばれる。寺津には、
や」の呼称からも、由緒ある家があったと思われるが、火災等による資料の散逸のために確証はない。
吉野部落は明治二十七年・三十年・三十三年の前後三回の部落全焼という猛火に見舞われ、これがため
文献も見当たらず、その起因沿革は、村人の口伝によってしか知ることができない。吉野は天正年間鉱脈
が発見されたことにより、一躍世に知られるようになった。この鉱脈発見の魅力により、葦の生え茂った
この土地に因んで「葦野(吉野)」と名付けたものといわれている。
「大沢野町誌」
150
池の原の大蛇と怪力和尚
†富山市寺家 むかし、むかし、船くらの寺家というところに、京の都から帝の命によって建てられた貴賓のあるそれ
はそれは 大 き な お 寺 が あ り ま し た 。
その頃大きなお寺は「帝立寺さま」と呼ばれ、何百とあるお寺の本
山として 栄 え て い ま し た 。
毎 日 お 参 り す る 人 や 旅 人 で に ぎ わ い、 た く さ ん の お 店 や 宿 屋 も あ り
ました。
そ の 寺 家 の 山 奥 に 大 き な 池 が あ り ま し た。 そ の 池 に は む か し か ら 大
蛇 が 住 ん で い ま し た が、 な に す る こ と な く の ん び り と 日 暮 ら し を し て
いました 。
ところが、寺家がたくさんの人でさわがしくなったせいでしょうか、
大蛇は怒 っ て 人 を 襲 う よ う に な り ま し た 。
人間の味を知った大蛇は寺家にあらわれ、人間だろうが馬だろうが、
かたっぱ し か ら 食 い 散 ら す よ う に な り ま し た 。
「村人や旅人
帝立寺の和尚さんは、力持ちでやさしい方でしたが、
の 命 と は か え ら れ な い 」 と お 思 い に な り、 あ る 時 暴 れ て い る 大 蛇 を 見
富山市寺家
151
つけて、寺の本堂にある大きな鬼瓦を「よいしょ」と持ち上げ、大蛇の頭に命中させました。
もう片方の鬼瓦も「よいしょ」と持ち上げて、大蛇の尾に命中させました。
さすがの大蛇ものたうちまわり、やがて力がつき、ながながとその死体を横たえたのでした。
村人はこの力の強い和尚さんを「怪力和尚」と呼ぶようになりました。
大蛇の死がいは山奥の池に沈め、このようなことが再び起こらないようにしようと、ねんごろにとむら
いました 。
そして、この池を埋め立ててしまいました。それが今の池の原ということです。
帝立寺さまはそんなことがあってから帝龍寺と改名されました。
帝龍寺さまは長い間法灯が続いて、今の和尚さまは、七十五代目にあたられるそうです。
県の文化財指定の十一面千手観音さまや虚空藏菩薩(姉倉姫)さまがあります。
吉田律子「たずね歩いた民話 大沢野」
152
はたおりの先祖 姉倉姫のお話
†富山市寺家 とんと 昔 あ っ た と さ 。
舟倉山というところに気持ちのやさしい姉倉姫という姫がおられたと。
ちかぢか、姫と結婚の約束をかわした男神さまがおられたがやと。
ところが、その話を聞いた根性の悪い女神がおられて、むらむらと腹を立てて、じゃましてこませにゃ
と考えた が や と い ね 。
それからというものは、ありったけのだてこいて、男神さまの所へせっせと通い続けたと。
そのうちに男神さまもだんだんと悪い女神が好きになって、姫のことなどすっかり忘れてしまったと。
そんなことが姫の耳にもとうとう入ってしもうたがやと。
姫は、友たちの山鳩にさぐらせたら、やっぱりそうだったといね。
姫は、毎日さめざめと泣いておられたと。これを知った村の神さまたちは、ぞくぞくと集まってこられ、
いよいよ 戦 が 始 ま っ た と 。
でかいと石をなげさくったので、舟倉山には石のかけらもなくなり、つべつべの泥だけが残ったそうな。
その頃、出雲の国に大国主命という偉い神さまがおられたと。
越中では、ものすごい戦が起きていることがわかって、早くやめさせようと、五色の旗を五本作り、舟
倉山へず ん ず ん 進 ま れ た と 。
富山市寺家
153
日頃から大国主命を尊敬しておられた姉倉姫は、五色の旗を
見るなり 戦 を や め さ せ ら れ た と 。
少 し お ち つ か れ た 姫 は、 山 の 上 の 鏡 の よ う な 池 に 自 分 の 姿 を
映されて び っ く り し た と 。
まるで 鬼 の よ う だ っ た と い ね 。
心 の や さ し い 姫 が 泣 い て い る と、 仲 よ し の 蝶 々 か ら と ん ぼ か
らうさぎから、小川のしじみまでなぐさめてくれたといね。
も ち ろ ん、 根 性 の 悪 い 女 神 や 男 神 さ ま も、 大 国 主 命 に よ っ て
ほろぼさ れ た そ う な 。
そのあと、大国主命の命によって、姉倉姫は、はたおりの仕
事に精を出し、広く村人にすすめていかれたがやと。
今でも 、 村 の 行 事 に は 、 船 峅 音 頭 と な っ て 、
「とんとからりと、はたおりなさる、姿やさしい姉倉姫の・
・
・」
と、唄 と 踊 り で に ぎ わ っ て い る と 。
これで よ ん つ こ も ん つ こ さ 。
話者 悟道伊三郎
「船峅のむかしがたり」
154
帝竜寺の三秘宝
†富山市寺家 船峅山(せんべんさん)帝竜寺は、大宝2年(702)文武天皇の御血縁の真福親王が建立されたと伝
えられて い る 。
帝竜寺の本尊虚空蔵菩薩は、姉倉姫の本地仏で、代々の住職は、社僧として司っている。神仏混肴の名
残を今も 留 め て い る 。
虚空蔵菩薩は、右手に利剣、左手に宝しゅ持つ坐像である。
虚空蔵とは宇宙の太陽や地球等全てのものを包容す
るように そ の 知 恵 は 計 り 知 れ な い 。
知恵を さ ず け る 仏 様 と し て 信 心 さ れ て い る 。
昔、寺家に八郎右エ門という信心深い人がいて、あ
る夜、夢の中で「我は嵯峨野の虚空蔵菩薩である。越
中 は 船 峅 山 に 行 き た い か ら、 美 濃 の 大 垣 ま で、 お ま
え に 迎 え に 来 て ほ し い 」 と お 告 げ が あ り、 そ の 通 り
丁 重 に 帝 竜 寺 に お 運 び し、 安 置 し た と い わ れ て い る。
富山市寺家
155
三十三年 に 一 度 ご 開 帳 さ れ る 。
十一面千手観音像は、帝竜寺の秘仏であり、木彫寄木作り、総高三尺三寸、腰幅八寸、腰の奥行七寸。
お顔は玉眼と白毫には水晶を入れ、材質は檜で頭上には十体の化仏いただいた十一面観音の姿である。
内 側 正 面 に 千 手 仏、 内 側 背 面 に 北 六 道 越 前 国 坂 南 郡 春 近 御 庄 南 郷 太 堂 寺 住 侶 讃 岐 房 覚 乗 同 弟 子 薩 摩 房 定
応所弐人 之 作 也 と 墨 書 銘 が あ る 。
千体仏絹本着色軸は、県指定文化財であり、縦五尺三寸五分、横四尺五分大軸画面中央に月輪を描き、
蓮台の上に過去仏を描いて周囲一面に小仏像に金箔を押し、千体並べたもの。
同じ形式で現在仏と未来仏が他寺にあり、三幅併せて三千仏といわれる。
「大沢野町 ガイド」
156
馬鞍谷と大蛇の伝説
†富山市坂本 昔、とんと昔、大きな川の近くに、広い広い台地があったと。
台地は、いくつかの山をとりまくように広がっていたと。
台地には、古い武士のやかたや百姓屋が点々とあったと。
台地に行く時は、険しい谷や坂を越さねばならなかったと。
昼でも暗いでこぼこした道は、細くて、くねくねと曲がって、しかも赤土でよくすべってころんだといね。
夜は、きつねやたぬきが出て来て、よーくばかされたもんだと。
美女になったり、馬のふんがまんじゅうに化けたり、明け方まで同じ道を往ったり来たり、またきつね
火にもお う た と い ね 。
この豪族は、前々から宝物の馬の鞍がほしいと思っていたと。
ところが、同じ台地に勢力の強い豪族が住んでいたと。
さて、台地にある武士のやかたでは、へいぜいは、田んぼや畑をたがやして、平和に暮らしていたと。
この家には、先祖代々から伝わった馬の鞍があったと。何よりも、大切に床の間に飾ってあったと。
ある日、とっぷりくれた闇の晩に大ぜいの手下を連れて、この武士のやかたへ乗り込んで行ったと。
一方、何も知らずにぐっすりねこんだこの武士のやかたの人たちは、だれ一人、馬の鞍が盗まれたこと
に気づく 者 は い な か っ た と 。
富山市坂本
157
ま ん ま と 自 分 の も の に し た 馬 の 鞍 を、 豪 族 た ち は 近
くにある 大 き な 池 に 投 げ 込 ん だ と い ね 。
すると、池の水がにわかに吹き出し、それは、天に
もとどく よ う な 勢 い で 上 が っ た と 。
その時、一ぴきの大蛇がとびはねて、やがて、うね
う ね と 赤 い 舌 を ペ ロ ペ ロ 出 し な が ら、 山 の 木 や 草 を 押
し 分 け て 進 ん で 行 っ た と。 大 蛇 の あ と を ぼ う よ う に、
池 か ら た く さ ん の 水 が 流 れ て い き、 や が て 大 き な 川 と
なったと い ね 。
こ れ を 見 て い た 台 地 の 人 た ち は、「 こ ん な に 水 が あ
れば、お米がたくさんとれるぞ。大蛇は神様のお使いかもしれない。ありがたや、ありがたや」
と、み ん な 両 手 を あ わ せ て 拝 み 続 け た と 。
また、この険しい谷を人々は馬鞍谷と呼ぶようになったと。
参考資料「大沢野町ガイド」
「船峅のむかしがたり」
158
御前山雨乞岩屋祭礼
†富山市船峅 御 前 山 頂 上 か ら 急 な 坂 道 を 下 り、 沢 つ た い に 三 十 分 程 度 歩 く
と巨大な岩がある。眼下に神通川、飛騨街道が一望に見渡せる。
この岩屋のあるところは尾根筋より二分下がりのところで、寺
家 集 落 の 領 域 に 入 る と い わ れ て い る。 こ の 大 岩 の 基 部 に は 大 き
な洞窟があって、その中に祠があり不動尊が祀ってある。昔か
ら 雨 乞 い を す れ ば 大 変 霊 験 が あ り、 旱 天 続 き に な る と こ の 雨 乞
い を 心 待 ち に し た と い わ れ て い る。 昔、 何 十 日 も 日 照 り が 続 い
た と き、 こ こ に 不 動 尊 を 祀 り、 雨 乞 い を す る と 六 月 十 三 日 に 初
め て 雨 が 降 っ た と い う こ と で、 今 で も 毎 年 六 月 十 三 日 に 雨 乞 岩
屋 祭 礼 を 行 っ て い る。 平 成 十 七 年 か ら は 十 三 日 前 後 の 土 曜 日 に
するとい う 。
帝龍寺 が 社 僧 と し て 祭 礼 を 行 っ て い る 。
平井一雄 船峅山帝龍寺「年間諸行事表」のこと
富山市船峅
159
†
富山市船峅 姉倉姫の命と舟倉山
舟倉に鎮座する姉倉姫神社にまつわる物語である。
昔、 上 新 川 郡 の 東 南 に あ る 舟 倉 山 に 、 姉 倉 姫 の 命 と い う 女 神
が住んでいた。この女神の夫は伊須流伎比古といって、越中と
能 登 の 国 境 に あ る 補 益 山 に 住 ん で い て、 二 人 の 神 は 仲 む つ ま じ
く心を合わせて国内の政治にあたっていた。ところが、隣の能
登国の杣木山にいた能登姫という心のよくない女神は、越中の
領地がほしくなり、男神の比古をうまくだまそうとした。この
事 を 知 っ た 姉 倉 姫 は、 使 者 を 出 し て 改 心 さ せ よ う と し た の で あ
るが、意地悪な能登姫は全くそれを聞きいれず、ますます伊須
流伎比古 に 接 近 し た の だ っ た 。
このような能登姫の態度に怒った姉倉姫は国中の兵を集めて
能 登 姫 征 伐 の 軍 を お こ し、 そ れ に 対 抗 し て 能 登 姫 も ま た 防 戦 の
構 え を み せ た。 こ の 両 者 の 戦 い は、 氷 見 市 宇 波 山 に は じ ま り、
敵味方入り乱れた争いに発展し、なかなか収拾がつかなかった。
こ ん な む ご い 有 様 を み て、 大 変 心 配 し た の は 天 地 の 神 々 で あ っ
160
た。 まもなく神々は使者を高天原におくり、高皇産霊神にこのことを注進したところ、尊は大変驚き、
出雲の大国主命に越の争いをしずめるよう命ずることになった。大国主命は出雲をたって越路に入り、越
の神々といろいろ軍議をなし、姉倉姫の立て籠もる舟倉山の城を攻めた。
( 十八キロメートル も
) ある大きな池があって、とても攻め登れそうに
し か し 、 舟 倉 山 に は ま わ り 七 里 二
もなかった。そこで山を掘って池水を切り開くと、水はせきをきって大急流となり、あっという間に流れ
出てしまった。これにびっくりした姉倉姫は、柿梭の宮に逃げのびることになった。それも大国主命の軍
に襲われ、とうとう生け捕られてしまった。そして姫は呉羽山の西麓の小竹野に流され、その地で布を織っ
て貢物となし、また越中の女たちに機織りの仕事を教えることになった。
いっぽう、能登姫と伊須流伎比古も大国主命の攻撃に必死に抵抗したけれども、まもなく捕えられ、海
辺 で 殺 さ れ て し ま っ た。 大 国 主 命 に よ っ て 越 に ふ た た び あ か る さ が と り も ど さ れ た こ の 姉 倉 姫 と 伊 須 流 伎
比古の話は、越中の初めを物語る神々として、今も語り伝えられている。
「越中伝説集」
富山市船峅
161
帝竜寺の大蛇
†富山市船峅 富山市発寺家行きバスの終点が、名刹帝竜寺前である。この
寺 は も と 退 竜 寺、 ま た、 帝 立 寺 と い わ れ、 古 く 奈 良 朝 の 大 宝 元
年 7
( 01 の
) 創立を伝えている。
同寺の縁起に、昔寺の奥地の池原に大蛇が棲んでいて、人畜
を害することがひどかった。当時この寺の住職がこれを退治し、
その害を除いて、寺を退竜寺と改めたものといわれる。
寺 は、 は じ め 文 武 天 皇 の 勅 使 に よ っ て 建 て た の で、 そ の さ
きは帝立寺であったが、のちいまの帝竜寺となったものである。
な お、 大 蛇 の い た 大 池 は 、 退 治 と と も に 水 が 涸 れ て 原 と な っ
たので、池原と呼ばれるようになったのだといわれている。
「大沢野町誌」
162
馬鞍谷の大蛇
†富山市船峅 馬鞍谷もやはり大沢野町の船峅地区である。昔、この付近の大
沢の池のほとりに、地方きっての豪家があった。ところがある夜、
ともに近隣の仇同志であった豪農の夜討ちを受けた。家の子郎党
力をあわせてよく防ぎきったが、ついに破れさった。
そのときのことである。家伝来の家宝であった「馬の鞍」を大
沢の池に投げ捨てた。すると一天にわかきかき曇り、天地鳴動し
て大暴風風となりみるみるうちに池の水があふれ、堤が切れて大
洪水となった。鞍はいつのまにか一匹の大蛇となり、渦巻く水と
ともに川から海へと流れ入ったと伝えられている。
の ち こ の 谷 は 馬 鞍 谷 と い わ れ、 池 だ っ た と こ ろ に 水 神 と し て 諏
訪 社 が 祀 ら れ た。 な お 毎 年 九 月 一 日 の 祭 り に は、 豊 作 を 祈 っ て 地
方まれな 大 草 ず も う が 行 わ れ る よ う に な っ た 。
「越中伝説集」
富山市船峅
163
猿倉城あとにのこるとんち話
†富山市猿倉 むかし む か し の は な し や 。
と な り の 国 の と の さ ま が、 た く さ ん の 家 来 を つ れ て 猿 倉 の 城
をせめて き た と 。
と の さ ま は「 こ ん な 小 さ な 城 は ひ ょ う ろ う ぜ め に し た が よ か
ろ う。 み な の も の 、 ま わ り を と り か こ ん で ひ ょ う ろ う は こ び を
とりおさ え 」 と 命 令 し た と 。
しかし、いくにちたってもいくにちたっても、小さな城はこ
うさんす る け は い が な か っ た と 。
それは、この城はいっぽうはだんがいぜっぺきで、みおろす
と、底には大きくて深い川がながれていたし、川のよこては、
高い高い山にかこまれていたと。高い山のつづきには、低い山
がいくつもかさなっていて、ひとびとは道にまよって、なかな
か高い山 に の ぼ れ な か っ た と 。
ところがこの山のとどころにほらあながあって・お城にいく
秘密のつ う ろ が 、 い く つ も あ っ た と 。
164
敵がせめてきても、この秘密の通路から、水やお米をはこんでいたと。
しびれをきらしてまっていたとのさまや家来たちは、じっと城をみていると、お城のてっぺんから「ゴー。
ゴー」とてっぽう水がながれだしたと。家来たちは、
「大水だ。大水だ」といって、いっせいにたいさんし
たと。とのさまも「あんなに水がほうふにあるのなら、ひょうろうぜめはできないぞ」といって、となり
のお城に か え っ た と 。
この小さなお城には、もうひょうろうがわずかしかのこっていなかったと。みんなでいい知恵はないも
のかと相談したと。そしたら、めしたきのばあさまが「みずいろの長い長いきれをするするとたらして、
その上か ら の こ っ た 米 を な が し た ら ど う か の 」
みんな は さ ん せ い し た と 。
みずいろのきれは、おりからの風にふかれていかにも滝のように見えたと。
また、ながされたお米は「ゴー。ゴー 」と、大きくひびき、まるで、てっぽう水のようだったと。
話 横内友次郎 再話 吉田律子
「たずねあるいた民話 大沢野」
富山市船峅
165
母なる川 船倉用水
†富山市船峅 春、雪が解け始めると、田んぼのまわりに、透き透きのきれいな水が流れてきます。この用水が、田ん
ぼ一面に 入 っ て く る と 、 田 植 え が 始 ま り ま す 。
苗は日増しに大きくなって、やがてお米になります。用水はお米を育ててくれる母なのです。
さて、この用水は、どこから、どのように流れて来るのでしょう。そして、用水にまつわる悲しいお話が
いくつも あ り ま し た 。
用水のふるさとは、険しい山を次から次へと越えた川の上流にあります。
そこから水路を開くためには、たくさんの岩石を割っていかなればなりませんでした。しかも、むかし
は、機械もなく、人の力しかなかったので、命がけの仕事でした。岩石を割るのに、山から草木を切り集め、
それを岩の上にかぶせて焼き、山の冷たい水をぶっかけると、岩がもろくなるという方法がとられました。
このように苦労を重ねてつくられた船倉用水は、毎年、春には船峅の各地から、人々が集まって用水のご
みざらいや、いたんだ所を直す作業が行われています。
明治四十四年五月の終わりごろに、片路地内で用水路が八メートルこわれたとの知らせがあって、ただ
ちに出動 の 命 令 が 出 ま し た 。
さっそく船峅の各地区から、六名の人たちが、土俵やむしろを背負って、真夜中の午前零時に直坂のお
宮さんの 前 に 集 ま り ま し た 。
166
「ごく ろ う さ ん 」
「おー 。 あ ん た も か 」
「さー 、 出 発 ― 」
た が い に い た わ り の 言 葉 を 掛 け 合 い な が ら、 こ わ れ た 用 水 路 へ 急 が れ
たのでし た 。
よ う や く 現 場 に 着 い た こ ろ に は、 空 が し ら じ ら と 明 る く な っ て い ま し
た。
眠 ら ず、 休 ま ず、 作 業 を 続 け、 か つ い で き た 土 俵 や む し ろ を 三 重 四 重
に打ち込んで、水路のようすを見ながらやっていたその時、
「ゴー、ゴー、ドドドー」と川上から地ひびきを立てながら、雪どけの
水があふ れ 込 ん で 来 た の で す 。
突然のことなので、どうすることもできません。六人はあっという間に土俵といっしょに谷川へまっさ
かさまに落ちていき、とうとう亡くなってしまいました。尊い命の犠牲者が出たのです。
長い歴史をもつ船峅には、命をかけて働かれた人々がいたことを忘れてはいけないと思います。
話者 高道笑子・西川久子
「船峅のむかしがたり」
富山市船峅
167
姉倉姫
†富山市船峅 むかしむかし、みどりの美しい舟倉山に姉倉姫という女神さまがいました。その姫にはいいかわした補
益山の伊須流伎比古命という神さまがあって、近く結婚する約束でした。ところが、能登の柚木山に能登
姫という心のよくない女神がいて、たえず人のじゃまになるようなことばかりして、喜んでいたのでした。
「伊須流伎比古命が姉倉姫といっしょになれば、それだけ強い国がとなりにできることになり、わたしの
領地がおびやかされることになる。これは、すてておけぬ一大事だ。何かよい考えはないものか」と、い
つしょうけんめいに考えたすえ、能登姫はありったけの美しい着物をえらんで身をかざりたて、山をおり、
補益山の 伊 須 流 伎 比 古 命 の 御 殿 へ と 急 ぎ ま し た 。
能登姫 は 胸 の 中 で 、
「姉倉姫と伊須流伎比古命が結婚する前に、伊須流伎比古命をだまして、わたしがお嫁さんになってやろ
う」と考 え て い た の で す 。
能登姫はそれから何回となく伊須流伎比古命の御殿へ出かけ、美しくて、やさしい親切な女神のように
ふるまい、いろいろと伊須流伎比古命の世話をしたのです。
すると、はじめは心をゆるさなかった伊須流伎比古命も、しだいに能登姫にかたむいていきました。と
うとう伊須流伎比古命は、姉倉姫のことをすっかりわすれてしまい、朝から能登姫と、遊んでばかりいる
ようにな っ て し ま い ま し た 。
168
舟倉山 で は 、
「伊須流伎比古命が能登姫と親しくていらっしゃるそうな。姉倉姫をさしおいて、ご夫婦になられるそう
な」といううわさが広まり、姉倉姫の耳にも聞こえてきました。
姉倉姫は、伊須流伎比古命を心から信じていました。けれども、毎日のように二人のうわさが伝わって
きますので、もうこれ以上たえられなくなってきたのでした。
そこで、ある日、伊須流伎比古命のほんとうの心を確かめるために、ヤマバトを使いに出しました。ヤ
マバトは、日ごろから姉倉姫を心からなぐさめてくれる友だちでした。
ヤマバトは羽音高く、伊須流伎比古命の御殿へ姉倉姫の真心をこめた手紙を持って、飛んで行きましたが、
思いもかけないことに、三時間ばかりたったころ、血だらけになって帰って来たのでした。
「これ、ヤマバトよ、どうしたのです。その血は」
姫が走りよってヤマバトを抱き上げますと、ヤマバトは苦しい息の下から、
「姉倉姫様、二人のうわさがほんとうであることを、この目ではっきり見てまいりました。私が、姫さま
からの手紙を差し出しますと、伊須流伎比古命さまは、ろくに見もしないで、能登姫の前でいきなり引き
さいてしまい、あげくのはてに、私は矢をかけられて追い払われてしまったのです。伊須流伎比古命さまは、
お心がかわりました。まったく残念でございます」
ヤマバトはそう言い終わると、がっくり首をたれてしまいました。
「これ 、 ヤ マ バ ト よ 。 死 ん で は い け な い 」
と、姫はヤマバトを抱きかかえて、励ましましたが、ヤマバトのからだはだんだんと冷えていきました。
富山市船峅
169
それからの姉倉姫は、御殿に引きこもって、さめざめと泣いていましたが、やがて、あの二人がにくく
てたまらなくなり、とうとう爆発してしまいました。
舟倉山と補益山との間に、たちまちはげしい戦争が始まりました。
どちらもはげしく石つぶてを投げて攻めあいましたから、やがて山にあった石という石は一かけらもな
くなって し ま い ま し た 。
そ の う ち に、 こ の 戦 争 の よ う す を 見 て い た と な り
の 布 倉 山 の 布 倉 姫 が 姉 倉 姫 に 深 く 同 情 し て、 味 方 に
なり布倉山の鉄を使って勇ましく補益山を攻めまし
た。
越 中( 富 山 県 ) の 天 地 は ひ っ く り か え る よ う な さ
わぎとなりました。家も田も畑もめちゃくちゃになっ
てしまい ま し た 。
そ の こ ろ、 こ の 宇 宙 を つ く っ た 高 御 産 日 神 が、 御
殿 を 出 て、 ぶ ら ぶ ら と 雲 の 池 の ほ と り を 散 歩 し て い
ま し た。 す る と、 ど こ か ら か 聞 き な れ な い 音 が 聞 こ
え ま す の で、 ふ と 池 の 中 を 見 る と、 気 味 の 悪 い 煙 が
底の方か ら 立 ち 上 っ て い ま し た 。
高 御 産 日 神 が じ っ と 見 て い る と、 は る か 越 中 で、
170
ものすごい戦争が巻き起こっていることがわかり、急いで出雲の国(島根県)をつくった大国主命に、た
だちに戦 争 を 中 止 す る よ う に 使 い を 命 じ ま し た 。
そこで、大国主命は二通の手紙を書いて、両方とも今すぐ戦争をやめて仲直りするようにすすめました。
しかし、戦争はちょっとやそっとのことでは、やみそうにもありませんでした。
(アサの一種)で、旗を五本作り、五つの色に染め
おだやかな大国主命もとうとう決心し、「からむし」
あげて、立山の手力王比古命ら五人の神さまを先頭に、まず姉倉姫の舟倉山へ進みました。
姉倉姫は、五色の旗を見ると、急いで軍を舟倉山に引きました。姉倉姫は日ごろから尊敬していた大国
主命の軍勢とすぐわかり、いままで自分のやってきた戦いのことを悔やんだのです。
姉倉姫は山の上にあった池に自分の姿をうつしてみました。すると、血やどろによごれた自分の姿がうつっ
ていたの で び っ く り し て し ま い ま し た 。
やさしい姫の胸は、後悔でいっぱいになりました。
「ああ、これがわが姿か。心がかわれば姿までこんなにみにくくなるものか。いったいどうしたらよいの
だろうか 」
と、姉 倉 姫 は 身 を ふ る わ し て な げ き ま し た 。
大国主命の軍勢は、舟倉山のふもとに着きました。そして、オキコヒメを山に登らせ、ようすをさぐら
せました 。
「姉倉姫は、山の上の池に身をひそめています。きっと水を利用して攻めかかる計画と思われます。です
から、池の水をなくせば、きっと降参すると思いますが」と、報告しました。大国主命は、すぐ釜生彦に、
富山市船峅
171
山に横穴 を く り ぬ く よ う に 命 じ ま し た 。
舟倉山の上の池はぐんぐん減っていきました。姉倉姫は、
「わたしが、もともといけなかったのだから、いっそここで降参してしまおう」と、大きなため息をつい
て思いま し た 。
ところが、味方になる人たちが、下夕や八尾や呉羽の村から、姉倉姫の一大事とばかり、ぞくぞくと舟
倉山に集まって来て、大国主命の軍と戦いました。
しかし、大国主命の軍勢には勝てませんでした。姉倉姫は、柿梭の宮(上市町)まで逃げた時、もうこ
れまでと 地 面 に 泣 き 伏 し て し ま い ま し た 。
柿梭の宮で降参した姉倉姫は、罰として呉羽の小竹野(八カ山・富山市)の山すそに流されて、機織り
を広める よ う に 命 じ ら れ ま し た 。
姉倉姫といっしょになって戦った布倉姫に対しても、大国主命は、
「あなたの気持ちはわからぬでもないが、同じように姉倉姫を助けるのなら、機織りの仕事を助けてあげ
なさい」 と 命 じ ま し た 。
続いて大国主命は、補益山の伊須流伎比古命と能登姫を攻めて、とうとう亡ぼしてしまいました。
まもなく姉倉姫は、許されて舟倉山に帰されましたが、ここでも熱心に機織りを広めたということです。
文 吉田律子
「たずねあるいた民話 大沢野」
172
船峅地区の地名の由来
†富山市船峅 船峅は、古代文化の発祥の地といわれ、「船峅」の初見は正安三年(一三〇一である。
小黒 寺家、直坂と共に開拓が早く、神子田、神鋤などの信仰名の小字もあり、小黒となった。
松野 昔は広い松林があり、大久保や塩の移住者によって開かれ、松林と塩野が合併して松野になった。
万願寺
昔 は 相 崎 村 と 呼 ば れ、 五 ~ 七 百 年 前 に 万 願 寺 と い う 寺 が あ っ て 霊 験 あ ら た か に 仏 像 が お い で に な り、
千万の願いも聞き届けられたので寺の名を残したいと名づけた。
万願寺の東方の高台に昭和二十一年七月から入植が開始され、万願寺開拓とその通りの村名となった。
万開
富山市船峅
173
二松
大きな松の木が二本あった。一本は元の船峅支所前にあり、
もう一本は万行寺の境内にあったが、第二次大戦の際、松根
油を採るために伐採された。二本の松がなくなってから、二
本松の地 名 が 二 松 と な っ た 。
野田
開墾地 名 で 、 野 沢 は も と 野 沢 田 開 と い わ れ た 。
坂本
昔、 明 覚 寺 が 坂 本 開 拓 の 下 に あ っ た 。 そ こ へ 行 く の に 西 か
ら行っても、東から行っても坂があったといわれた。
昔は広々とした野原だった大野と、沼地が多くあった沢が合併して大野となった。
大野
船倉用水がでる前、寺家の大池から樋を使って水を引いたことからつけられた。
(原長田用水)
横樋
174
市場
昔、船峅繁盛の頃、物品売買の市が立ったところ。帝竜寺が三百余の寺坊を束ねていた頃であろう。
直坂
判然としない。縄文遺跡発掘地であったり、町屋敷、鍛冶屋敷などの小字名があり、狐塚の信仰名もあっ
て、寺家 と 共 に 早 く か ら 開 け た と こ ろ で あ ろ う 。
寺家
帝竜寺をはじめ多くの寺坊があり、帝竜寺がその本山であった。寺家は中世の寺領につけられた遺名で
ある。
船峅の地名も時代によって変化しています。いつごろこんな地名ができたのでしょうか。また、これら
の地名には、それぞれに歴史上深い意味があり、祖先のロマンも秘められています。私たちの五感を働か
せながら、意味や五感に迫っていこうではありませんか。
船峅の大地には、美しい山や川があり、肥沃な田園風景が広がっています。
また、東西南北には、各地区を結ぶりっぱな広い道路が整備されています。
今日、精神的にも物質的にも豊かで便利になり、生活が向上してきました。
富山市船峅
175
これは 、 一 朝 一 夕 で は で き な い と 思 い ま す 。
船峅の地域で、また、遠くから古里を離れた方々の中にも、命をかけ努力を惜しまず、郷里の発展のた
めに尽力 さ れ た 方 も 多 く お ら れ ま す 。
こうした地名から、祖先の姿が浮かび、息づかいが聞こえてくるようです。
「船峅のむかしがたり」
176
舟倉用水 †富山市船峅 大むかし、神通川の下流流いきがもち上がって、船峅の台地ができました。今から180年ほど前、そ
こは松や雑木の林、そしていばらやくまざさのしげる荒野でした。この地には、御前山のふもとから流れ
出る二つの川(虫谷川と急滝川)といくつかのため池があるだけでした。そこに住んで田や畑や少しの田
をつくっていた人々は、「用水さえあればここにたくさんの新田を開くことができるのになあ」と考えてい
ました。
そのころ、と波で十村役(村長さんにあたる)をしていた五十嵐孫作という人が、舟倉野を開こんする
計画を立て、1796年(寛政八年)に加賀藩より開こんの許しをもらったので、孫作が測量・設計・工
事の責任をもつことになり、その子のあつ好が父を助けました。
また、算数学者の石黒伸由は用水のかたむきや水量を考える仕事、十村役の金山十次郎と十左衛門が会
計と事務、大工の庄蔵は水準測定の見取図をつくる仕事にあたりました。
太田薄波(下夕地区)というところを流れる長棟川から水を取り、神通川右岸の山腹を通って十四キロ
メートルの水路を引くという大仕事です。たくさんの村人が、たいまつをかざして山の中腹にならび、そ
れを対岸からみてかたむきを計算したりしました。測量と設計だけで13年かかり、
1810年(文化七年)
山がけわしいので、岩場をほりくだき、幅5尺(1.5メートル)深さ3尺(1メートル)の石身の水
からよう や く 工 事 に 入 る こ と が で き ま し た 。
富山市船峅
177
路 を つ く る 仕 事 は な か な か は か ど り ま せ ん。 た が
ね や か な づ ち な ど、 道 具 は た っ た 3 種 類、 巨 大 な
岩 石 に ぶ つ か る と、 そ こ に 草 木 を 集 め、 燃 や し て
熱 し、 水 を か ぶ せ て い だ い て い く と い う 方 法 を
と っ て、 工 事 か 進 め ら れ ま し た 。 近 く の 山 村 か ら
多 く の 人 々 が か り 出 さ れ ま し た。 中 心 に な っ た 人
た ち は、 昼 も 夜 も 睡 眠 を 忘 れ る く ら い な っ て 働 き
ました。
7 年 の 年 月 が 流 れ ま し た。 そ の 間 に も 5 人 の 死
者 と た く さ ん の 負 傷 者 が 出 ま し た。 費 用 も た い へ
ん な も の で し た。 計 画 の 3 倍 以 上 の 費 用 が か か っ
た と い わ れ て い ま す。 そ の た め、 後 に な っ て 用 水
の計画者は加賀藩から罰せられたという話も伝
わってい る く ら い で す 。
1 8 1 7 年( 文 化 十 四 ) 用 水 に 初 め て 水 が 通
り、 少 し ば か り の 田 に 植 え つ け が さ れ ま し た 。 秋
に な っ て り っ ぱ な 稲 が 実 り、 大 き な お 祝 い の 宴 会
が 直 坂 で 開 か れ ま し た。 工 事 に 参 加 し た 人 た ち の
178
喜びはど ん な だ っ た で し ょ う 。
旧船峅村のうち、舟倉新・横どい・直坂・中野・二松・万願寺新・大野・松林・小黒新・沢の10部落の田を、
このかんがい用水がうるおします。水を分けるに当っては、分けへだてなく公平にということがまず考え
られます。直坂地内の風宮不吹堂のわきに三つの分水があり、ここから寺家方面、二松・万願寺方面、横
どい・大 野 方 面 へ と 用 水 が 分 か れ て 流 れ ま す 。
不吹堂は1890年(明治二十三)に風害をおさめる神をまつって建てられたものですが、後の人々が
ここに舟倉用水の記念碑をつくりました。その碑は、用水完成に力をつくした人々に対する、農民の永遠
の感謝の気持ちを表したものです。また、工事のぎぜい者をとむらう石碑もできています。
舟倉用水は何度か災害に会い、改良されてきました。1851年(嘉永三年)の大災害の時には椎名道
三が活や く し ま し た 。
1914年(大正三年)の大洪水には、その害を元にもどすのに、5800人の人夫と4万びょうの土
だわらを 使 っ た そ う で す 。
現在では、船峅土地改良区の人たちが用水を管理し、水路は全部コンクリートでかためられました。そ
こを流れる豊かな水は、 400
ヘクタールもの水田をうるおしています。
「大沢野町誌 上巻」
大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」
富山市二松
179
きつねの嫁入り
†富山市二松 むかし、二松が二本松といわれた頃、たくさんの狐が住んでいた。
山が近くにあって、二本松からは細い道が続いていた。
二本松のまんなかにひっそりとお寺が建っていて、そのまわりに
は 古 く て 大 き な 木 が う っ そ う と し げ り、 と き ど き「 コ ン コ ン 」 と、
狐の鳴き 声 が 聞 か れ た 。
湿っ ぽ い 梅 雨 の 晩 の こ と だ っ た 。
山すその方に豆つぶのようなあかりが一つ見えた。つづいてまた
一 つ、 ま た 一つ、 や が て 五 十 くら い 見 え た こ ろであろうか。そのあ
か り が 並 ん で 二 本 松 に 向 か っ て 動 い て 来 る。 ま る で ち ょ う ち ん 行 列
のようだ っ た 。
そ の 行 列 は お 寺 の 森 深 く 入 っ て 行 っ た。 村 人 は お そ れ て そ の 行 列
に近づかなかったけれど、だれいうとなく「きつねの嫁入り」といっ
たと。
吉田律子「たずね歩いた民話 大沢野」
180
柿の実なります、なります
†富山市二松 むかし、お正月の頃にゃ、大雪になって、どの家もどの家も、
すっぽり と 雪 の 中 に 沈 ん で お っ た と い ね 。
それでも、子どんたちは、みんな元気で、かんじきをはいて、
雪をかきわけかきわけ、近くの山にかけのぼって、若木を折っ
て、いっぱい束にして、藁でしばって担いできたもんだと。
その若木を焚きもんにして、小豆や餅米を長いことかかって、
ぶつぶつ と 煮 た も ん だ と 。
どの家からもどの家からも、わら屋根のすきまから、白い煙
が立ち上って、村の通りはこうばしいかざ(におい)で、いっ
ぱ い だ っ た そ う な。 そ の 頃 山 に は い っ ぱ い 珍 し い か ざ の い い 木
があった と 。
それから炊けた小豆ご飯をでかいと桶に詰めて、あんちゃん
がそれを持って、その後から弟や妹が、ぞろぞろくっついて、
そして あ ん ち ゃ ん が 大 き な 声 で 叫 ん だ が や と 。
うちのかいにゅうにある大きな柿の木の前に並んだと。
富山市二松
181
「おい、柿の木よ、実がなるかならんか、返事しろ。返事せにゃ、ぶっ切るぞ、ぶっ切るぞ」
そしたら、後ろにおった弟や妹たちは、いっせいに声をそろえて、
「はい、なります、なります」と、大声でまじめに答えたと。
あんちゃんは「よおしー」といって、腰にあった鉈で、柿の木の皮をはぐって、小豆ご飯をべったりくっ
つけてあ げ た が や と 。
それから、どの柿の木にも、どの柿の木にも、小豆ご飯をどっさりあげたと。
西野久一
それで、昔は、あまい、あまい、柿の実がどっさりなったと。
これで お し ま い 。
話者
「船峅のむかしがたり」
182
お正月のお話「一つ転がせば、一千両 」
富山市二松 ち ょ っ と む か し、 お 正 月 に な る と、 い ろ い ろ と か わ っ た 旅 芸 人
や、越前万歳、恵比寿大黒、福の神、お稲荷、猿まわし、福俵な
どが、こ の 二 本 松 へ き た ん だ よ 。
きょうは、福俵のことを話してしんぜよう。
美しい米俵(長さ三十五センチ 直径二十センチ)の両端に
き れ い な 金 の 鈴 を つ け、 そ の 俵 に 六 メ ー ト ル く ら い の な わ ひ も を
つけて、福俵を持ったおじさんは、万歳師の服を着て、わらふか
ぐつをはいて、背中に俵をかついで、家を一軒一軒まわって、そ
のあとを、子どもたちがくっついて歩いたもんだ。
その頃の二本松には、一軒の家に子どもが五、六人うまれておっ
て、それ は 、 に ぎ や か だ っ た 。
福俵のおじさんは、家の玄関木戸口に立って、大きな声で、
「あーめでたいなあー。めでたいなあー」といって、自分で木
戸 口 を 開 き、 広 間 の 入 口 の 戸 を あ け て、 米 俵 を 広 間 に 二 メ ー ト ル
ぐらい投 げ 、 も っ と 大 き な 声 で 、
富山市二松
183
「一つ 転 が せ ば 、 一 千 両 」
今度 は 一 番 大 き な 声 で
「三千両のおん俵、福はこの家にどっさりー」
と、神 棚 の 下 ま で 投 げ る 。
「空き俵、こちらへ」と引きもどす。
そのお礼として、餅を五切れか七切れもらっていった。
その芸人たちは、もらった餅を町へ持って行って、一切れ二銭で売り、みんなで五円の収入があったそ
うな。この五円を今のお金にしたら、二万五千円ほどのもんかな。
「もういーくつねたらお正月ー」
お正月を待ちこがれる子どもたちの元気な声が聞こえてきそうだよ。これでおしまい。
話者 西野久一 再話吉田律子
「船峅のむかしがたり」
184
長兵衛とお蔵屋敷
富山市二松 今から二百年ほど前、たくさんの米俵を積んで、舟倉野か
ら 東 岩 瀬 野 の 海 沿 い に あ る お 倉 屋 敷 へ と 運 ぶ、 長 兵 衛 の 一 行
が あ っ た と。 石 こ ろ の 多 い で こ ぼ こ 道 を、 大 き な 車 輪 の 音 を
ひびかせ な が ら 、 舟 倉 米 を 積 ん で い か れ た と 。
やっと 半 分 ほ ど 来 た と き 、
「 さ あ、 飯 だ、 飯 に せ ん ま い け 」 と 言 っ て、 一 行 は 梅 干 し
の入った大きな焼き飯(おにぎり)をさっさと食べたと。そ
れ か ら、 ボ ロ ボ ロ に 破 れ た 草 鞋 を 脱 ぎ 捨 て て、 腰 に 吊 る し て
お っ た 新 し い 草 鞋 に は き か え た と。 腰 に ま だ 一 足 残 っ て い る
のは、帰 り の 分 だ と い ね 。
「さあ 、 あ と 半 分 だ 、 元 気 出 そ う 」
みんなは、お互いに声を掛け合ったと。ようやく、東岩瀬
野 へ 着 い た の は、 お 日 さ ま が 海 の 水 平 線 に 沈 む 頃 だ っ た そ う
ところ が 、 東 岩 瀬 野 の 番 人 た ち は 、
な。
富山市二松
185
「舟倉米は品質が落ちている」と言って、値段を下げたといね。長兵衛たちは、
くやしくて残念に思ったと。
舟倉野に帰った長兵衛たちは、毎晩村人たちと語り合ったと。
「もっと良質のお米をたくさん採れるようにするには、どうしたらよいかの」
村の人たち全部で考え、知恵を出し合われたと。それからというものは、まじめで人情のあつい舟倉野
の人たちは、戸口に行灯をともして、おそくまでよう働いたといね、
その甲斐あって、一年一年、たくさん良質のもちもちしたお米がとれるようになったと。舟倉米はおい
しいという評判が、加賀の殿様の耳に入ったので、その頃繁盛していた二本松に、お蔵屋敷と番屋敷が建
てられた と 。
千三百坪の敷地内に、お蔵屋敷の広さは、およそ五百八十坪、番屋敷の広さは、三百九十坪と伝えられ
ているそうな。お蔵は四方が土塀で囲まれていたと。お蔵が近くなって喜んだ舟倉野の人たちは、長兵衛
を神様の よ う に あ が め 、 う や ま っ た と 。
明治時代の初め頃まで、長兵衛をまつる「大長祭」が盛大に行われていたんだと。お蔵屋敷、番屋敷の
あと地は、二松のお宮さんの西側にあったと。現在は、大毛利俊夫さん一家が住んでおられると。
参考「二松のあゆみ」 話者 大毛利俊夫
「船峅のむかしがたり」
186
古い松と天狗
富山市二松 む か ー し、 二 本 松 の お 寺 の 前 に、 で っ か い、 で っ か い、
古 い 松 の 木 が あ っ た と。 木 の 根 っ こ が、 あ っ ち に も こ っ ち
にも、広 が っ て お っ た と 。
そ の 木 の 根 っ こ が も り 上 が っ て い る の で、 ま る で 小 高 い
山の頂上 に 、 松 の 木 が あ る よ う に 見 え た と 。
そ の 松 の 木 の 上 に、 い つ か ら か、 天 狗 が 住 み つ い て い た
といね。天狗は、人に悪さするでもなし、いつものんびりと、
昼 寝 を し て お っ た と。 か く れ み の を 持 っ て い る の で、 天 狗
に気づく も の は 、 だ れ 一 人 い な か っ た と い ね 。
あ る 暑 い 朝 の こ と だ っ た と。 お 寺 の 住 職 が、 お 参 り か ら
帰る途中 、
「暑くて、暑くて、たまらんわい。ことしの暑さは、かく
べつじゃ 」
と ひ と り ご と を 言 い な が ら、 で っ か い 松 の 木 の 下 を 通 っ
たと。
富山市二松
187
すると、涼しい風が、吹いてきて、思わず大きな声で、
「おーい、さわやかな風が吹いて来るのー。気もちよいわいー」と言いながら、松の木の上を見上げたと。
そこには、でっかい、でっかい、いちょうの葉っぱと、もみじの葉っぱがまるで、プロペラのように、
回りさく っ と っ た と い ね 。
お寺の 住 職 は 、
「あれは、きっと、天狗のしわざにちがいない」と思ったと。
それからは、どんなに暑い日でも、松の木の下だけは、涼しかったと。
、 き、
ちょうど、そのころ、大きな松の木の前に、寺子屋があって、おおぜいの寺子たちが、手習い(読み 書
ソロバン)を習っていたと。おもに、お寺の住職が教えておられたそうな。
古い大きな松の木は、多くの寺子たちの遊び場であったと。寺子たちは、手をつないで、松の太さをはかっ
たり、松 の 皮 を め く っ て は 、
「これは、馬だ」「牛だ」「ねこだ」「えんころだ」
と言って遊んだり、また、松ぼっくりや緑の松葉をたくさん拾ったりして、遊んだと。
やがて、笑い声がたえなかった寺子たちに、古い大きな松の木との別れがやって来たと。ある年のこと、
松根油(松の根にある油)をとるため、松の木は切られてしもたがやと。
参考資料「二松のあゆみ」
「
「船峅のむかしがたり」
188
夢枕に立たれた石仏
†富山市二松 昭 和 1 9 年、 二 松 万 行 寺 の 門 徒 で あ る 富 山 市 総 曲 輪 の 市
田三郎さんの夢枕に立たれて、「二松の寺へ連れて行って、
安置して ほ し い 」 と お 告 げ が あ っ た 。
言 わ れ た 所 へ 行 っ て み る と、 そ こ に 石 仏 が ち ゃ ん と あ っ
た。誠に不思議な石仏が、今、万行寺に安置されている。
「船峅編 ガイド」
富山市二松
189
九万坂 †富山 市 二 松 九万坂の地名の起こりは不明であるが、熊が出るような
恐ろしいところ、また淋しいところという意味からではな
いだろうか。それがいつか九万坂というようになったとも
考えられ る 。
掘割の中間、野田道付近から両側とも山で、杉松雑木が
生え茂り、昼でも薄暗く、本当に淋しいところであって、
子どもの頃からの伝説では、夕方や朝早く通ると、野田道
付近の地蔵さんのところに、きれいな姉さんが立っていて、
声を掛けられたとか、東大久保の石碑の近くからきれいな
女の人が後から着いて来て、いつの間にか前の方から手招
をした話、狐や狸に化かされた話、火魂が飛んでいた話、
首を吊って死んだ人が化けて出る話など、恐ろしい話や淋
しい話に は 事 欠 か な い 。
「開村百七十周年記念 二松のあゆみ」
190
馬渡る †富山市二松 二 松 と 坂 本 の 中 間 地 帯 を 流 れ る 川 を 古 田 川 と 呼 ぶ が、
古 い 記 録 に よ れ ば 中 沢 川 と あ る。 こ の 川 の 流 域 が 坂 本 古
田とも赤 田 割 と い い 九 万 坂 ま で 続 い て い る 。
馬渡るというのは、中沢川に架けられていた土橋、つ
まり田んぼの畦より少し高いくらいの道路があり、土橋
が架けられてあった。雨が降ればよく橋が流され、あと
に石を二つ三つ置いて、その上をトントンと渡った。馬
渡 る と い う 言 葉 は、 い つ 頃 か ら 言 わ れ て い た か は 明 ら か
で は な い が、 相 当 古 く 千 年 以 上 も 前 か ら 言 い 伝 え ら れ た
も の で あ ろ う。 村 の 北 の 入 口 に 当 る 切 立 橋 の と こ ろ も 似
たような こ と で あ っ た 。
「開村百七十周年記念 二松のあゆみ」
富山市二松
191
火の番丁と夜回り
†富山市二松 文 政 年 間 か ら 町 屋 敷 と い わ れ た よ う に、 道 の 両 側 に
家が並び、市街地並に整理されていた船峅地区は、特
に 南 風 が 強 く、 鶏 の 鳴 か ぬ 日 が あ っ て も、 風 の 吹 か ぬ
日 は な い と 言 わ れ た く ら い で、 そ の た め、 火 災 に は 特
に注意をはらい、大火の発生しやすい南風の強い晩は、
夜 回 り を か ね て、 火 の 元 の 用 心 に つ と め ら れ て い た。
それが火 の 番 丁 で あ る 。
いつの頃から始められたものかは不明であるが、共
同で村を守ろうという精神から始められたものである
と思う。
拍子木をたたき、錫杖を鳴らし、南は役場前(現土
地 改 良 区 )、 北 は 急 滝 川 の 橋 ま で 回 り、 終 わ れ ば 隣 家
に 申 し 送 り、 風 の 止 む ま で、 ま た 必 要 が な く な っ た と
認めた時 は 、 各 自 の 判 断 で 切 り 上 げ た 。
「開村百七十周年記念 二松のあゆみ」
192
万願寺の不動はん
富山市万願寺 万願寺の南、小高い山の真ん中にひっそりとかくれるように小さな不動はんの堂があるといね。
そ の 堂 の 中 に は、 大 岩 の 日 石 寺 の 石 工 が ほ っ た と も い わ れ て い る び っ く り す る よ う な 大 き な 不 動 岩 が あ
るがだと。その石の表には、当主の丸岡善太郎ほか家族の名前や、裏には門弟百七名の名が刻まれている
といね。
今からやく百五十年前のこと、不動はんの西側に住んでおられた丸岡善太郎という人は、兵法四心多久
間見日流 ( 忍 術 ) の 免 許 皆 伝 の 先 生 だ っ た と 。
さて、兵法四心多久間見日流とは、鎌倉時代少し前のこと、小栗判官中納言源頼将が鎌倉の山奥で、天
狗に襲われたた兵法(忍術)で、全国を回って広めたのが最初といわれていると。
時 は 流 れ、 江 戸 時 代 の 終 わ り ご ろ、 越 中( 富 山 ) の 殿 様 の 家 来 で 広 田 村 中 島 に 住 ん で い た 佐 々 井 和 左 衛
門が忍術の伝をつぎ、大きな道場を開いて多くの門弟を出したと。
あ る 時、 万 願 寺 の 丸 岡 善 太 郎 が 中 島 を 通 り か か っ た 時、 馬 に 乗 っ た ひ げ を は や し た 佐 々 井 和 左 衛 門 に
ひょっこり会ったと。その時、善太郎は和左衛門の乗った馬の尻をたたいたといね。それを知った和左衛
門は、
その後、自分の家の近くで道場を開いたら、たくさん来られたといね。
「その方は、たいへん度胸がある者じゃ。わしの門弟にならぬか。ハッハッハ」と。
富山市万願寺
193
門弟の中には、丸山憲三氏、池田鶴次郎氏、赤坂竹次郎氏など、
すぐれた 人 が た く さ ん お ら れ た と 。
こ の お 堂 は、 明 治 三 十 五 年 ご ろ、 門 弟 や 近 く の 村 人 が 総 出 で
万願寺山の岩谷から、冬雪の上を「そり」に、 大きな岩を乗せ
て、「つな」で引っ張って来たがやと。
「つな」は、村人の手で、わらをうち、竹をわり、女の人の髪
の毛や馬の尾の毛をよりあわせて、切れない強い「つな」を作っ
た が や と。 大 岩 を 運 ん だ 時、 み ん な の 掛 声 が 遠 く の 村 ま で 響 き
渡ったそ う な 。
ま た、 丸 岡 善 太 郎 よ り 二 十 年 前 に、 同 じ 佐 々 井 和 左 衛 門 の 弟
子 と な っ て、 免 許 皆 伝 と な っ た 丸 山 順 一 郎 重 則 が お ら れ た と。
丸岡善太郎にとって、丸山順一郎重則は先輩であり、相談相手
だったと 。
忍術は、あくまでも護身のためであるという思いから、手裏
剣 の 受 け 方、 天 井、 畳 の 下 の は り つ き 方、 空 中 の と び 方 な ど、
それはみ ご と な も の だ っ た そ う な 。
話者 丸山俊一
「船峅のむかしがたり」
194
小羽天狗松
†富山市小羽 小羽小学校裏手の高台に生えていた大老松のこ
とを、地域の人は「小羽天狗松」と呼んでいた。地
域の人に話を聞いたところ、「親から、遊んでいて
帰りが遅くなると、小羽天狗松の天狗にさらわれる
ぞ」とよく言われたと話してくれた。残念ながら天
狗にかかわる話は残っていない。今は大老松はなく
なり、二代目の松が「清水記念公園」に植えられて
いる。
清水記 念 公 園
清水家五代目にあたる清水康雄氏が巨費を投じて当地に建設したものである。清水建設の創業者・清水
喜助は富山市(旧大沢野町小羽 )の出身。幼少のころから器用で、彫刻や大工の技に秀でた人物だった。
長じて江戸に出、神田鍛冶町で大工業を創業した1804年が清水建設の創業年である。喜助翁の生家跡
は清水建設発祥の地であり、その跡地が「清水記念公園」として整備されている。
編 佐田 保
富山市小羽
195
御鷹山
†富山市須原・土 富山藩十万石領内には室牧村の御鷹山と、須原・土との境に
あ る 御 鷹 山 と の 二 つ が あ っ て、 共 に 藩 公 の 鷹 狩 り に 当 た ら れ た
ところで あ る 。
藩 の 家 臣 が 鷹 狩 り に 当 地 を 来 遊 す る と き は、 土 の 中 川 家 に 休
息したもののようで、数年前に後ろの山の地すべりで、中川家
の家屋が押しつぶされた。そのとき家屋の平物には、前田公の
定 紋 梅 鉢 の 彫 刻 が し て あ っ た。 ま た、 こ の 藩 の 家 臣 等 の 土 産 と
し て 持 っ て き た 湯 飲 み そ の 外、 文 書 の 貴 重 な も の が 所 蔵 さ れ て
い た ら し い が、 し ば し ば 火 災 に 遭 っ た の で、 今 は 当 時 の 文 書 は
ないそう で あ る 。
土から御鷹山までの藩公の道筋は、土の部落で芝刈り、道作
り を し て、 常 用 に 服 し た ら し い が、 何 し ろ 何 里 と あ る 遠 い 道 程
なので、六郎平というここから先は、隣りの下伏・小羽をも誘っ
て一本の道筋を縦に三等分して作業に従事したらしい。後にそ
れが下伏と小羽が元部落から遠くはなれて、飛び地を持つに至っ
196
た由来で あ る と の こ と で あ る 。
御鷹山は当時の最高の峻峰で、頂上は喬木類は少なく、灌木がわずかに茂るのみであるが、東には立山
連峰が見え、北には日本海に白帆の去来するを眺め得る絶景の地で、南には飛騨の連山が肩に迫る仙境で
ある。冬季にはスキーを楽しむアルピニストもたくさん押し寄せて、時ならぬ繁昌をみせている。
「大沢野町誌」
富山市須原・土
197
富山市土
†岡用水 岡 用 水 は、 1 8 6 3 年( 文 久 三 年 ) に つ く ら れ た と い
われてい ま す 。
土 部 落 を 流 れ る 土 川 の 下 流 を せ き 止 め て、 北 の 方 か ら
南へ向か っ て 流 れ て い ま す 。
土川には、宮腰用水のおち水が入っているので、その
水利権の あ ら そ い が 近 年 ま で あ り ま し た 。
大沢野町教育センター「
わたしたちの郷土 大沢野町細入村」
198
富山市下伏
†宮腰用水 取 り 入 れ 口 は、 八 尾 町 桐 谷 部 落 の 川 尻 と い う と こ ろ で、 九
婦 須 川 か ら 引 い て い ま す。 八 尾 町 の 桐 谷、 宮 腰 を 通 っ て 大
沢 野 町 根 の 上、 土、 下 伏 ま で つ づ い て い ま す。 こ の 用 水 は、
1848年(嘉永のころ)に取りかかり、1863年(文久三年)
に宮腰まで通しました。その後、八尾町の北谷・岩屋・かし尾・
井 栗 谷 ま で 引 か れ、 1 8 6 7 年( 慶 応 三 年 ) に 分 水 さ れ て 大
沢野下伏 ま で 引 か れ ま し た 。
根 の 上 村 の 半 助、 土 村 の 六 平、 下 伏 村 の 九 左 衛 門、 そ の ほ
か、 八 尾 町 が わ の 地 主 た ち が 、 富 山 藩 主 の 前 田 氏 に 何 回 も お
願 い し て 開 発 に あ た り ま し た。 山 や 谷 の 多 い と こ ろ で の 工 事
は、 農 民 に と っ て は 大 変 な 負 担 で し た。 中 に は、 家 財 道
具 を 売 っ て も、 土 地 を は な れ ず 開 こ ん に 力 を そ そ い だ 人 も い
ま し た。 そ の お か げ で、 山 の 頂 上 ま で 水 田 に な り ゆ た か に な
りました 。
大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」
富山市下伏
199
下伏の大蛇と蛇骨
†富山市黒瀬谷 神通川の対岸黒瀬谷地区の下伏部落に田池というところがある。昔
ここは湖で周囲は二キロメートルぐらいあった。そこは大蛇が棲んで
いて、つねに濃霧を吐いて付近は昼なお暗かった。
( 五五九 の
) 秋、 こ こ か ら ほ ど 近 い 城 生 八
( 尾杉原 の
)城
永禄二年 一
主に斉藤長門守がいた。家来に大蛇の出現をたしかめさせて、
その翌春、
弓の名手の奥野というさむらいに退治するよう命じた。奥野は勇躍して下伏におもむき、大蛇の出現を待っ
てみごとに射殺してしまった。同時に濃霧も四散して、それ以来すっかり明るくなった。長門守は大いに
その功を 賞 し た 。
その後富山の城主神保氏張、佐々成政が兵を合わせて城生城を攻めたとき、怪しい雲が城中にたちこめ
て守るすべがなく、間もなく落城した。これはひとえに大蛇を討ったたたりだといいはやされた。
その後この池はかれて田になった。いまもその真ん中に深い深い溜まりが残されている。なおこの付近
一帯に貝の化石が散布する。これを付近の人たちは、そのとき退治された大蛇の骨だと信じていた。蛇骨
といってこれを粉末にして煎じて飲むと、オコリや淋痛に特効があるといわれていた。
またこの説話から城生はひとつに蛇尾と書かれたこともあった。
「越中伝説集」
200
腹痛をおこす水
†富山市黒瀬谷 戦国のころ、八尾町にある城生城は、代々斉藤氏が守っていた。この
城は飛騨勢の越中侵攻に対しては、地の利もよく、善戦健闘し連戦連勝
していたが、天正十年 一
( 五八二 か
) ら翌年にかけて、佐々成政の軍勢に、
越中側か ら 攻 め ら れ た た め 遂 に 落 城 し た 。
しかし、この合戦での斉藤勢の戦いぶりはめざましく、一時は佐々の
大軍が敗退して、富山で軍勢のたてなおしをせねばならぬほどであった。
従って、城生城のまわりには激戦地のあとが多く、
中でも葛原の井戸山は、
佐々勢が飲料水を得た場所であるが、これが斉藤勢に襲撃され、最大の
激戦地となり、佐々・斉藤両軍の戦死者がうらみをのんで数多く倒れた。
そのため、その血が今もしみこんでいるといわれ、このあたりの清水を
午前十時依然に飲むと、腹痛がおこるといわれている。
「大沢野町誌」
富山市黒瀬谷
201
下伏の大蛇
†富山市黒瀬谷 むかし、黒瀬谷下伏に大きな池があり、年老い大蛇がいた。
あ る と き、 大 蛇 は 城 生 城 の 殿 さ ま の 愛 馬 を ま ち が っ て の
み こ ん で し ま っ た。 お こ っ た 殿 さ ま は あ や ま る 大 蛇 を 射 殺
し、湖を う め て し ま っ た 。
そ の 年、 城 は 佐 々 成 政 の 軍 に 囲 ま れ た。 す る と と つ ぜ ん
城 は 真 っ 黒 な 雲 に つ つ ま れ、 だ れ 一 人 か ら だ を 動 か す こ と
もできなくなった。そして火薬庫が爆発し、城が燃え上がっ
た と き、 わ ら い 声 の よ う な 音 が ひ ろ が り、 大 蛇 の 白 骨 が 空
から落ちてきた。白骨はやがて貝がらにかわったという。
吉田律子「たずねあるいた民話 大沢野」
202
殿様の清水
†富山市春日 笹津駅から西へ五百メートルほど行った所にある春日公園の東の
一角に「 殿 様 清 水 」 が あ る 。
江 戸 時 代、 こ の 地 に は 富 山 藩 の 塩 蔵 が あ り、 飛 騨 へ 塩 を 運 ぶ 時 の
中 継 要 所 と な っ て い た。 そ の 御 蔵 番 の 殿 様 が 好 ん で こ の 湧 水 を 飲 ん
だことから「殿様清水」と名付けられたといわれている。殿様は湧
水 の お か げ で 一 生 無 病 息 災 で あ っ た そ う だ。 こ の こ と か ら 今 で も 守
られ地域 の 人 に 親 し ま れ て い る 。
夏は冷たく冬は暖かいこの清水は、水質分析の結果「穴の谷の霊
水」 全
( 国 名 水 百 選 の 一 つ、 上 市 町 に
) 似 て い る と い う こ と で あ る。
昭和60年には「とやまの名水」に指定され、万病に効く霊水として、
多くの人 が 汲 み に 訪 れ る 。
遠く石器時代の遺物が一時盛んに掘り出され、出土品の所在地と
しても有 名 で あ る 。
「大沢野町誌」
富山市春日
203
名伯楽
†富山市西大沢 む か し 、 あ る 年 の 正 月 の こ と 、 富 山 藩 主 が 自 分 の 愛 馬 に 正 月
の餅を与えたところが、馬は翌日から食が細り、元気なく日に
日に衰えるばかりであった。まさか餅を食わせたともいえず、
藩 内 の 伯 楽 を 召 し 出 し 見 立 て さ せ た が、 皆 首 を か し げ る ば か り
で あ っ た。 尋 ね 尋 ね て 天 下 に も 有 名 な と い わ れ る 滑 川 の 某 伯 楽
に診せた。伯楽が思案の末申すには、「恐れながら私にも相分
か り 申 さ ず、 聞 く と こ ろ に よ り ま す と 何 で も 笹 津 近 在 に 山 本 某
という伯楽、この者に見立てさせては・・・」という。
藩 公 さ っ そ く 早 馬 を 立 て 召 し 出 さ れ た。 そ れ は 二 月 一 日 の こ
とである。山本という伯楽は馬の腹を二、三度なで、
「殿、これ
は餅気のものを与えられたと見ますが・・・・」と即座にいい
当てた。
「はい手易
殿 は ひ と 膝 乗 り 出 し「 し て い か な る 薬 で こ れ を 」
い こ と で ご ざ い ま す。 明 日 と い わ ず 今 日 か ら、 一 食 に コ ン ニ ャ
ク十枚あて、一日三回与えますれば・・・・」と申し上げた。
204
さっそく富山中の店々を買い集めたが、わずか五枚であったので、金沢城下まで毎日早馬を立ててコン
ニャク買い役が始まった。二、三日頃から回復が目に見えてきた。そして七日目には元のようになってしまっ
た。藩公はことのほかのお悦び、褒美をとらすと申され、西大沢付近に数万坪の土地を与えられた。伯楽
は大邸宅を構えて「様」付けで呼ばれるようになったという。
「大沢野町誌」
富山市西大沢
205
八木山のいわれ
†富山市八木山 舟倉山に陣取った大谷狗の一隊と大若子命の率いる美麻那彦・沢
古舅・大路根翁・猿田舅等の一隊とが激戦を重ねた。遂に大谷狗の
陣地から猛火攻めの手が打たれ、風は舟倉山から吹きおろし、大若
子命の一隊は逃げ場を失った。手の施しようもなく、命は大国主命
から賜った霊剣を抜いて、丈なす草をなぎ払って、地に伏し一心に
神を祈っ た 。
す る と 風 向 き が に わ か に 変 わ っ て、 大 谷 狗 等 の い る 舟 倉 山 に 向
か っ て 燃 え 進 ん だ。 命 の 一 隊 は 命 か ら が ら 猛 火 を く ぐ っ て 小 竹 野 の
本陣にたどり着くことができたが、その山は燃え続け、焼け尽くし
てしばらくは草木も生えなかった。人呼んで焼山といい、のち八木
山と書か れ る よ う に な っ た 。
「大沢野町誌」
206
†富山市稲代 稲代のともしび
むかし、大沢野は葦や草の生い茂った大きな野原であった。
その頃は道といえばわずかに稲代から八尾に通じる田んぼ道があるばか
り。 そ の ご つ ご つ し た 道 は 高 く 高 く 盛 ら れ 、 人 々 は ひ だ お ろ し の 強 い 風 が 吹
いてくると、道のかげにかくれて、しばし時を待ったものだ。
そ の 道 の 近 く に ぽ つ ん ぽ つ ん と、 あ ら か べ に む し ろ を つ る し た 家 が 建 っ て
おった。家の前に灯されたたったひとつのランプは、家の中も照らし、外も
照らした 。
人々 は 夜 も 昼 も な く 働 き 続 け た も の だ よ 。
しかも 堀 で 囲 ん で あ っ た 。
そ の 頃、 稲 代 の 南 に 代 官 山 が あ っ た。 代 官 山 の ち ょ う ど 真 ん 中 に 大 き な ほ
ら穴があって、中にはむしろがしかれ、鉄格子がはめられていた。
そこは大沢野を開拓するために、準備された囚人たちの宿舎だったとか。これはおじいさんの子どもの
頃の話だ よ 。
話 小幡太一 再話 吉田律子
「たずねあるいた民話 大沢野」
富山市稲代
207
又兵衛の刀
富山市塩 むかし塩村に「ゴーライ又兵衛」といお侍がいた。この人の持っ
ていた脇差しは由緒ある銘刀であったと伝えられている。この銘刀
の目抜きのところに、巧みな雄鳥の彫り物がしてあった。又兵衛が
所用に出て、帰りが遅くなって夜中の八幡野を通っていると、妖怪
に 出 会 い、 迷 わ さ れ そ う に な っ た。 す る と 何 処 か ら か 一 番 鶏 の 鳴 き
声 が 聞 こ え て 来 た。 妖 怪 は 夜 明 け が 近 く な っ た と 気 づ い て あ わ て て
消え去った。しかしまだ夜は深く、実は目抜きの鶏が急を知って「と
「大沢野町誌」
き」のに声を挙げたので、危うく難を逃れることができたという。
208
百足ガ淵
†富山市岩木 大沢野町の岩木の上に百足ガ淵という淵があった。神通川が底
深く、うずを巻いて大変気味の悪いところであった。
こ の 淵 に 十 メ ー ト ル も あ る む か で の 精 が 棲 み、 夏 の 日 射 し を 好
み、しばしば川原へはいあがって日なたぼっこをしていた。そん
な 時、 真 っ 黒 に 光 る 背 中 と 真 っ 赤 な 腹 が 鎧 の よ う に 輝 い て い る の
がよく見えた。水に沈む時は神通川が黒光に光ったという。
ある年のこと、神通村きっての水練の達人河原覚浄という人が、
この淵に綱を投げたが、どうひいても綱があがらなくなった。さ
て は 例 の む か で の 化 け 物 だ な と 思 い、 水 潜 り し て で も 見 参 す る ぞ
と広言すると、たままち一・八メートルほど舟を盛り上げた。覚浄は負けずに
「やい、
いい怪物、
卑怯であろう。
姿を見せい」と怒鳴った。すると淵の東の崖下に天女のように美しい女が現れたので、覚浄はなんと優し
い化け物もいるものかと感心して、思わず舟端を叩いて誉めそやすと、女の姿がすっーと消えて、綱はス
ルスルと 上 っ た と い う 。
屑竜
「伝説とやま」
富山市岩木
209
ガメの石像
富山市岩木 大沢野の岩木にガメの石像をまつった「ガメの宮」がある。
それは、むかしむかし、大沢野に用水をつくる名人がいた。
ある日この男の家に「あんたの命は残り少ない。今のうち
に よ い こ と を し て お く こ と だ 」 と 警 告 し た。 男 は と て も 元 気
で、 病 気 ひ と つ し ち こ と が な か っ た の で 、 笑 い 飛 ば し て 信 じ
なかった 。
ある日のこと、男は息子をつれて舟で乗り出し、岩木のあ
たりの淵にさしかかった。突然、息子が足をふみすべらしあっ
と い う ま も な く、 水 中 へ ド ブ ー ン。 男 は 息 子 を 助 け よ う と、
続 い て 飛 び 込 ん だ が、 二 人 と も 沈 ん だ ま ま 再 び 帰 る こ と が な
かった。
人 々 は ガ メ の 仕 業 と い っ て、 再 び こ の よ う な こ と が な い よ
う、ガメ の 石 像 を 刻 ん で ま つ っ た も の で あ る 。
「伝説とやま」
210
娘が竜になった観音さま 富山市野田 すこしむかしのおはなし。
野田にそれはやさしくて、思いやりのある娘さんがおられたと。
うちのじいさまは、たいそうかわいがっておられたが、縁あって、水橋の大きな店屋へお嫁に行かれたと。
もともと、からだが弱かったので、まもなく亡くなったと。
うちのじいさまが、娘の供養にと、自分の田んぼのかたすみに、観音さまを建ててあげたと。
あ る 日 の こ と、 坂 本 の 新 聞 配 り の じ い さ ん が、
い つ も の よ う に 観 音 さ ま の 前 で お 参 り し と る と、
にわかに 桜 の 木 が ゆ れ だ し た と 。
ふ っ と、 あ お の い で 見 た ら、 な ん と 美 し い 色 を
した竜が、からだを丸くくねらせて、天高くのぼっ
ていった と い ね 。
新 聞 配 り の じ い さ ん は、 ま る で 天 女 の よ う な 竜
に、 夢 で も 見 て い る よ う で 、 開 い た 口 が ふ さ が ら
んまんま 、 ど っ と 座 り 込 ん で し ま っ た と 。
このよ う す を 聞 か れ た う ち の じ い さ ま は 、
富山市野田
211
「それは、娘が竜になって、みんなを守ってくれているのだろう」
と言っ て 、 う な づ い て お ら れ た と 。
そんな こ と が あ っ て か ら 、
「大病をわずらった時、助けていただいた」とか、
「縁談 が よ く ま と ま っ た 」 と か 、
口から 口 へ 伝 わ る よ う に な っ た と 。
近所の人をはじめ、遠くからも参拝者が来られたと。じいさまの家にも、一歳になったばかりの孫が、
角棒の磁石(長さ四センチ)を飲み込んでしまったが、五日目にお尻から出て来て助かったと。
じいさまも、脳梗塞で入院したが、早く退院でき、その上、後遺症も出なかったと。
このように、病気や事故の災難にあっても、助けてくださる観音様を建立された野田のじいさまは、
「病気で苦しんでいる人や、災難にあった人や、心の安らぎを求めている人があれば、この幸せを分かち
合いたいもの。信は力なり」と、語っておられたと。
話者 西田 勇
「船峅のむかしがたり」
212
首なしじそう
†富山市市場 むかし 、 む か し の は な し や 。
三方山にかこまれた平和な村があったと。そして、村のはずれに、草むらの中にかくれるようにたってい
るおじぞうさまがあったと。そのちかくに、長者どん夫婦がすんでいたと長者どん夫婦には、かわいいむ
すめさん が い た と 。
むすめは村いちばんのはたらきもので、朝早くからうら山にのぼり、そこにあるたくさんの薬草をとる
のがしごとになっていたと。そして、病気でねているとしよりたちに、薬草をせんじてのませてあげたと。
その薬草 は 、 ふ し ぎ な く ら い よ く き い た と 。
ある秋のはれた日のこと、むすめはふと足もとのたにまをみると、みたこともきいたこともない薬草が
あったと。ぐーんと手をのばしたら、やっととどいたと。
そのとき、あしもとのどろがくずれはじめて、むすめのからだは、くらい谷そこにおちたと。やっとう
ちにたどりついたむすめのすがたをみた長者どんはびっくりしたと。むすめの首が横にかっくんとまがっ
長者どんもむすめもそれを気にして、どっとやまいのとこについてしまったと。
たきり、 元 に も ど ら な か っ た と 。
さ あ ー、 こ れ を き い て い ち ば ん こ ま っ た の は、 村 の と し よ り た ち だ っ た と。 あ し た か ら、 薬 草 が 飲 め
な く な っ て し ま う。 そ こ で、 だ れ が さ そ う と も な く 村 は ず れ に あ る お じ ぞ う さ ま に、 願 を か け る こ と に
富山市市場
213
な っ た と。 う ち で と れ た 野 菜 や く だ も の や、 色 の か わ っ た ろ う そ く な ど を 持 っ て、 雨 の 日 も 風 の 日 も
三七、二十一日間の願かけまいりがつづいたと。
そして、満願の日、みんなはぞろぞろと長者どんの家にいったと。きっとむすめの首がなおっているだ
ろうと思 っ て や っ て き た と 。
ところが、むすめの首はなおってなかったと。村のとしより
たちは、 か ん か ん に な っ て お こ っ て し ま っ た と 。
「 こ れ だ け お 願 い し て も、 ち ょ っ と も、 い う こ と を き い て く だ さ
らねえ。こんなおじぞうさまは、こうしてしまえ」というので、
み ん な で ぐ い ぐ い ゆ さ ぶ っ た と。 す る と、 お じ そ う さ ま が 台 座
か ら「 コ ロ ン 」 と こ ろ が り お ち た ひ ょ う し に 、 首 が ゴ ロ ゴ ロ と
はなれて し ま っ た と 。
「 わ あ ー、 お ら あ、 知 ら ね え ぞ 」 と、 み ん な は ク モ の 子 を 散 ら す
ようににげたと。そのあとには、首のおちたおじそうさまだけが、
さびしそ う に よ こ た わ っ て い た と 。
そ の ば ん の こ と、 ぐ っ す り ね て い る 長 者 ど ん の ま く ら も と で
だれかが、「長者どん長者どん」とゆりおこしたと。はつとおもっ
て お き て み る と、 お ち た 首 を し っ か り か か え た お じ ぞ う さ ま が
立っていたと。そして、こういったと。「長者どんよ、わしは首
214
がないとこまるんじゃよ。だれかになおしてもらえんだろうか。わしの首をなおしてくれた者には、代々
いしゃとして栄えるようにめんどうをみましょうぞ」といって、すーと消えてしまったと。
長 者 ど ん は、 よ る の あ け る の も ま ち き れ ず、 村 い ち ば ん の 正 直 も の と い わ れ て い る 茂 平 ど ん と こ ろ へ き
てたのむと、きもちよくひきうけてくれたと。そして、おじぞうさまの首をなおすと、あれやふしぎや、
むすめの 首 も ぴ ょ こ ん と な お っ て し ま っ た と 。
村の人たちはほんとうによろこんだと。また、むすめのとってくる薬草がのめるからだと。そして、村
の人たちは、「市場の薬師様」といったり「首なしじぞう様」といって、だいじにしていると。首をなおし
た茂平どんの子孫も、代々りっぱないしゃとして栄えていると。
話 悟道伊三郎 最話 吉田律子 「たずねあるいた民話 大沢野」
富山市市場
215
殿様松
†富山市下大久保 下 大 久 保 の 中 心 部 に そ び え て い る 老 松 は、 飛 騨 街 道
の 並 木 松 の ほ と ん ど 唯 一 の 生 き 残 り で あ る。 い わ ゆ る
殿様松で あ る 。
こ れ は も と 飛 騨 街 道 両 側 に 植 え ら れ、 雪 中 の 目 印 と
さ れ た も の で、 戦 の と き は 切 り 倒 し て 敵 の 進 行 を 妨 げ
る 防 塞 と な り、 ま た 用 材 と し て の 用 意 を 兼 ね た も の で
あ っ た。 い つ の 頃 か( 明 治 十 五 年 頃 ) 飛 騨 街 道 の 拡
張、 修 繕 の 行 わ れ た と き 、 不 要 の 街 道 松 を 伐 採 し て 道
をまっすぐにしようと県より係員が出張検分に来たと
き、この老松を眺め、その下に小さい灰納屋があったのを祠と見間違えて、
「あれは祠か」と問うたところ、
傍の人が「そうだ」と答えたため、「それならば伐る必要がない。その祠のものとせよ」と言い去って、そ
のまま伐採の憂き目にあうことなく、いまだに勇姿をとどめている次第であるという。
(この松は伐採され
今は見る こ と が で き な い )
「大沢野町誌」
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大永寺の幼女
†富山市大久保 大 久 保 の 塩 の 大 永 寺 に、 七 歳 の 子 ど も が あ っ た。 ほ う そ
うをわずらって養生していたが、病気は悪くなるいっぽう。
母は死 期 も 近 づ い た と 、
「おまえが死んだらどこへいくだろう」というと、その子
どもは目 を 開 き 、
「死ねば極楽へ行く。阿弥陀様がごちそうして待ちかねて
おられる 」 と い っ た の で 、
母が 、
「その 極 楽 へ ど う し て 行 く の だ 」
「阿弥 陀 様 に 負 わ れ て 行 く 」
「どうして阿弥陀様が負うて行かれる」というと、
その子 ど も は 、
「わしはわからんが、阿弥陀様は、わしが可愛ゆうてならんそうな」というと、皆涙を流してその心に
感心した と い う こ と だ 。
「大沢野町誌」
富山市大久保
217
弁山のいわれ
†富山市大久保 い ま は そ の 山 の 跡 形 も な い が、 上 大 久 保 と 中 大
久 保 の 間 は 小 高 い 丘 で あ っ て、 そ の 東 側 に 池 が あ
り、児童 た ち の 遊 び に よ い 所 で あ っ た 。
あ る 日 一 人 の 子 守 女 が 主 人 の 幼 児 を 連 れ て、 こ
こ で 遊 ん で い る 中 に、 山 犬 狼
( が
) 忍び寄って幼
児 を 食 べ よ う と し た。 子 守 女 は 気 づ い て 大 声 で 救
い を 求 め た が、 付 近 に 人 影 は な く、 と い っ て 幼 児
を 棄 て 去 る こ と も、 と も に 逃 げ る こ と も で き な
か っ た。 子 守 は と っ さ に 自 分 の 身 体 で 幼 児 を か ば
い、 自 ら 山 犬 の 牙 に か か っ て 血 み ど ろ に な っ た。
後ほど、人たちは知って、あわてて助け寄った時には、子守はすでに息が絶えていたが、その腹の下にか
ぼうていた幼児は、しっかりと守りつづけられていた。
( イ山 」)といった。いつかなまって
人たちはその子守女のけなげな行をたたえて、この山を「女中山 ベ
「ベン山」となったが、ベイとは、ところでは女の子 主
( として女中のこと を
) いう方言である。
「大沢野町誌」
218
塩泉と多久比礼志神社
†富山市大久保 大久保地域の塩に鎮座する多久比礼志神社は、延喜式神名
帳 に も み え る 古 社 で あ る。 大 昔、 天 武 天 皇 の 白 鳳 年 間 七
(世
紀後半 、)弥鹿岐という人が利波浦から船出して蘆生笹津につ
いた時、見知らぬ一人の翁が現れて、「この磯の裏側に池があ
る。水は塩分を含んでいる。すぐ行って検べてみよ」
というや、
姿を消し て し ま っ た 。
弥 鹿 岐 は 今 の は 気 の せ い か と 思 い な が ら、 磯 の 裏 に 出 て み
る と、 驚 く な か れ 清 水 が 地 上 に 湧 き 出 て い た。 翁 の い っ た
池であった。水をすくって口にもっていくと非常に塩っ辛い。弥鹿岐は先の翁が唯人でなかつたことを知り、
これはきっと神が自分に授けてくれた教えにちがいないと信じ、新しい社殿を作り祭神と崇めたのであっ
た。後の 塩 村 と い う 字 も 、 こ こ に 由 来 す る 。
「越中志微・越中伝説集」
富山市大久保
219
がめの宮
†富山市大久保 大久保用水の上流岩木付近、神通の清流が足下に渦巻き、青
黒 い 淵 を な す と こ ろ に、 が め の 宮 が あ る。 用 水 の 下 を 掘 っ た 深
い淵で、奥行きも知れない洞になっていてものすごく、いつし
か 魔 の 場 所 と 見 ら れ る よ う に な っ た。 こ こ は 用 水 の 損 傷 が 多
かったので、「がめ」の石像を祭ったところ、その後あまり被
害がなくなった。用水関係者は毎秋この祭りを行っている。
「大沢野町誌」
220
とじこめられた天狗
†富山市大久保 大 久 保 地 区 の 法 林 寺 の 境 内 に、 一 本 の 大 き な 松 の 木 が そ
びえていた。夜になると、このあたりの名物の風が吹いて、
ゴ ウ ッ ー と う な り を あ げ、 バ サ ッ、 バ サ ッ と 大 き な 枝 を ゆ
す り、 今 に も 襲 い か か ろ う と す る 構 え を み せ る の で、 人 々
はここを さ け て 通 っ た 。
こ の 松 の 大 木 に、 い つ の 頃 か ら か 天 狗 が 住 み こ み、 真 夜
中 に バ ラ バ ラ バ ラ ッ ト と 屋 根 に 小 石 を 降 ら せ た り、 寝 て い
る う ち に ふ と ん を ぐ る り と ま わ し て お き、 朝 起 き た 人 が 変
な顔をして首をかしげているのに興じたり、子どもをさらっ
て二、三日かくしておいたり、とにかく村中が大さわぎする
明治の中頃、法林寺では寺のまわりに石垣をめぐらした。
ような事 件 を 起 こ し て は お も し ろ が っ て い た 。
すると 、 そ の 晩 、 住 職 の 枕 元 に 天 狗 が 現 れ
「わしの住んでいる松をどうして石垣でとりかこんだの
か。とじこめられてきゅうくつでたまらん」というので
富山市大久保
221
「石垣をつくろうが、つくるまいが、寺の勝手だ。お前がああこういう筋のものではない。かえってこち
らが家賃をもらうのがあたりまえだ。だがお前の出方ひとつで、松だけ石垣の外にでるようにしてもよい」
と答え た 。
天狗は よ ほ ど 困 っ て い た と み え て
「どのようなことでもするが、一体その出方というものを教えてくれ」と、
さもさも弱りきった様子だった。
住職は 今 だ と 思 っ て 起 き 上 が り
「お前はいたずらばかりして村の人を困らせてはおもしろがっている。これからは一切いたずらはやめる
ことだ。今後一回でも悪いことをすれば、石垣どころか、松の木を切り倒してしまうからそう思え」と声
を荒げて 叱 っ た 。
天狗は
「もう決していたずらはやらぬ。後生だから石垣の外へ出してくれ」と何度も頭を下げて消え去った。住
職は翌日、さっそく石垣を積みかえて、天狗の松が外に出るようにしてやった。
「大沢野ものがたり」
222
大久保用水 †富山 市 大 久 保 大久保の土地は、ずっと大むかしは荒れはてた川原でした。今からおよそ1100年ほど前に松本武太
夫の一族が住みつき、小さな村ができました。大久保の土地が開発されだしたのは、今からおよそ200
年ほど前(江戸時代の中ごろ)からです。そのころ、大久保一帯は小石まじりの荒れ地で、草かり場、た
きぎとり場でした。江戸時代に入り、人も住みはじめました。こうして大久保の土地に住む人々は「飲み
水と、田畑をうるおす水がほしい」という願いをもつようになりました。そんな時、富山藩は、ようやく
仕事にとりかかり、新田開発と用水を引くことになりました。
用水を引くには、神通川の水を引くしかなく、笹津より水を取り入れれば、大久保に1000石の米が
とれるようになるとみこまれました。しかし、すぐに工事にとりかかれませんでした。そのころ、笹津は
加賀藩の土地でしたので、富山藩十村と加賀藩十村との話し合いがおこなわれ、笹津へ入ることが許され
ました。
工 事 は、 は じ め に 用 水 口 を き め る こ と か ら 手 が け ま し た。 お 金 は た く さ ん か か る が、 大 久 保 へ の 水 引
は で き る と い う こ と が 分 か り ま し た。 1 7 4 1 年( 寛 保 六 年 ) よ り は じ め ら れ た 大 久 保 用 水 の 工 事 は、
1765(明和二年)片口喜三郎が加わり、工事もさかんになりました。しかし、がけくずれが起こり水
もうまく流れなかったようです。藩の努力と農民の努力によって、ようやく1777年(安永五年)田畑
に水が入るようになり、任海村(新保)岡崎孫治郎が500石の新田開発願いを出しました。孫治郎は、
富山市大久保
223
全 財 産 を つ ぎ こ み が ん ば り ま し た が、 用 水 を 思
う よ う に つ く る こ と が で き ま せ ん で し た。 そ の
上、 干 害 、 水 害 、 強 風 の た め 、 作 物 も 実 ら ず 生
活 も で き な か っ た の で、 大 水 で こ わ さ れ た 用 水
の修理も あ き ら め て し ま い ま し た 。
こ う し た 悪 い 条 件 で し た が、 将 来 の こ と を 思
い 藩 主 前 田 利 謙 は、 大 久 保 開 発 を 強 化 し ま し
た。 ち ょ う ど 、 そ り こ ろ ひ だ 街 道 を 通 っ て 運 ぶ
塩 荷 が 多 く な り、 大 久 保 一 帯 に 人 が 多 く 住 み つ
き、 開 発 田 も 多 く な り ま し た 。 そ の た め 用 水 を
広 げ る 修 理 を し な け れ ば な ら な く な り ま し た。
1 8 0 6 年( 文 化 三 年 ) 富 山 西 町 の 商 人 岡 田 屋
嘉 兵 衛 が、 東 大 久 保 の 広 い 土 地 に 目 を つ け、 大
久保用水 の 改 修 に 力 を 尽 く し ま し た 。
嘉 兵 衛 は た く さ ん の 財 産 を も っ て お り、 自 分
の 財 産 を 使 っ て 改 修 し ま し た。 こ の 改 修 は 取
り 入 れ 口 を 岩 木 か ら 長 走 に 移 し、 新 し い 用 水
路 を つ く る 大 工 事 で し た。 そ の た め 働 く 人 は
224
4000人ほどかかるので、大久保だけでは足りないので、他の郡からも2000人ほど出すように命ぜ
られました。また、大工事でたくさんお金がかかるので、そのお金をつくる方法が考えられました。まず、
はぜ(ろうそくの原料)の木を植えたり、ひだ街道で運ぶ塩を10000俵ふやして、その利益を用水路
工事に使 い ま し た 。
工事は、じん次郎(嘉兵衛の子)が、日夜、寝食を忘れて働きました。工事は、決して楽ではなかった
ようです。ひだおろしの寒風、日照り、大水などの自然災害は、財力と気力をなくさせました。また、大
石まじりの土地は、かんたんな道具(つるはし、もっこ、石割のみ、たがねなど)では、なかなかはかど
りませんでした。また、トンネルを掘る時、ちょうちんを照らし高低を測りましたが、大変むずがしいも
のでした。しかし、嘉兵衛にとっては「1000石の美田にしたい」という気持ちが強く、やめるわけに
はいきません。一方、寒風で働く農民たちは「苦しいめにあって、ちっとも楽にならない」と、あちこち
不満の声があがりました。じん次郎の小屋、西町岡田屋へのうちこわしなどがあり、大変困難をきわめま
したが、1813年(文化十年)に、幅6メートル、長さ7600メートルの大久保用水が完成しました。
のちに、明治時代に入り、大久保用水の水は塩の発電に利用されました。大正から昭和のはじめには、
ひだから切り出されたひの木や松を運ぶための流水も利用されました。
「神通川 たえぬ流れを 引き入れて 志おのの里に 千町田」これは、岡田屋嘉兵衛(のちの三輪日顕)
の孫、為敦が読んだ歌。今のきばん整備された田が広がる大久保の土地も、むかし川原であったことを思
い浮かべると、このような美田にするまでの人々の苦労がしのばれます。
大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」
富山市大久保
225
富山市大沢野
†大沢野用水 今から180年ほど前、大沢野は砂や石まじりの土で水も少なく、作物も実らない荒野でした。人びとは、
水さえあれば、広々としたこの土地にたくさんの新田を開くことができるのになあ・・・と考えていました。
すぐ近くには大きな神通川の流れがあります。しかし、川底が大沢野より低いので、遠くはなれた上流か
ら取って、長い用水路をつくらなければになりません。
1819年(文政二年)ここをおさめていた富山藩は、寺津村(下夕地区)から水を取り入れ、神通川
の東岸の山腹を通って約 キ
8 ロメートルの水路をつくり、大沢野町を開こんする計画をたてました。しか
し、水路のと中に加賀藩領があり、笹津村・布尻町長など、七つの村を通ることになるので、1865年(慶
応二年)に工事に入りました。と中の村々にめいわくをかけないように、水路が村を通るときはトンネル
にしたり、こわれないようにふちを大きな石でかためたりするむずかしい工事でした。苦労のすえ、よう
やく1868年(明治元年)に用水ができ、新しい田畑が少し開けました。工事をした人も住みつき、大
沢野に初 め て 部 落 も で き ま し た 。
ところが、開こんもこれからという時に、1870年(明治三年)の大雨によって、用水がこわれてし
まいました。用水をなおすにはまたたくさんの人と力とお金がかかります。それにむずかしい工事もしな
ければなりません。工事をしようとする人が何人かいましたが、思うように工事が進まず、と中で中止す
るしかありませんでした。世の中も新しくかわったこともあり、長い間用水はそのままでした。
226
こ の よ う す を 見 て、 富 山 市 に 住 ん で い た 内 野 信
一は、自分の財産をなげうって、1902年(明治
三十五)に用水の改修工事と開こんの仕事にのりだ
しました。内野信一は、五十嵐政雄・田村次六・碓
井又司次などといっしょに、大沢野開こん配水株式
会社をつくり、開こんする人たちの家を建てたり、
その人たちの心を養うために神社や寺を建てたり、
開こんに必要な機械をかいいれたり、技術をたかめ
るための講習会を開いたりしました。努力の結果、
用水もだいたい掘りかえされ、少しずつ開こんも進
みましたが、用水の水の量が少ないために開こんが
思うよう に で き ま せ ん で し た 。
豊富な水を流す用水にするためには多くの費用
がかかります。そこで国や県から助成金をうけ、よ
うやく1924年(大正十三)に、りっぱな用水に
改修できました。その後開こんはどんどん進み、む
かし作物も育たなかった荒野は、見わたすかぎりの
田畑にかわりました。開こんに参加した人たちの喜
富山市大沢野
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び は ど ん な も の だ っ た で し ょ う か。 高 内 の 広 場 に は 大 沢 野 の 発 展 の も と を き ず い た 内 野 信 一 の 銅 像 が 立 て
られてい ま す 。
(寺津からダムまでの水
現在用水の取り入れ口は、神通第二発電所ができたため、第二ダムにうつされ、
路は、神通川にしずんでいます)水路は全部コンクリートになり、笹津・春日・下夕林・稲代・加納・西塩野・
高内・長附・上大久保の田をうるおします。西大沢の神明宮のわきに三ッ分水があり、ここから、春日方面、
稲代・加納方面、高内・長附方面、へと用水は流れています。用水の管理は大沢野土地改良区の人たちが
していま す 。
大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」
228
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