...

越地弥和「ラーンナー絵画とチェンマイ」

by user

on
Category: Documents
18

views

Report

Comments

Transcript

越地弥和「ラーンナー絵画とチェンマイ」
EHRP NOVEMBER 1, 2010
NEWSLETTER
Environmental History NL No.9
今回は現在チェンマイ大学大学院地
域研究専攻に在学されている越地弥和
さんからのチェンマイレポート第一弾
を掲載します。
チェンマイ大学と香川大学とは長い
交流関係を有しています。特に農学部
は長い交流実績を有しており、2007年
には、工学部ならびに医学部も加わ
り、チェンマイ大学において、第1回
の合同シンポジウムを開催し、2008年
にはさらに人文社会系学部も加わり、
第2回合同シンポジウムを香川大学に
おいて開催しました。その際、爾後、
二年に一度、チェンマイ大学そして香
川大学において交互にシンポジウムを
開催し、交流を深めていくことになり
ました。
三人の王様像(チェンマイ)
そして2010年には、8月24日から26
日にかけて、第3回目の共催
シンポジウムをチェンマイ大
学において開催しました。その
際、越地さんはタイの日本
人会に関する研究報告を
されました。
なお、著作権は
執筆者にありますので、本稿
の無断転用はお断りします。村山記
Rocky Mountains, Colorado, USA,
October 04, 2007
Environmental History Research Project
(EHRP)
PAGE 1
EHRP NOVEMBER 1, 2010
ラーンナー絵画とチェンマイ
チェンマイ大学 大学院 地域研究専攻 越地 弥和
タイの人々にとって北部の
アユタヤ、ビルマとの戦争で
術品や絵画、壁画は失われつ
町チェンマイは、有名な観光
弱体化し、ビルマにあっけな
つある。その中で、北タイの
名所でもあり、古い歴史を
く征服されてしまう。その後
中でも小さな町パヤオ(地図
も っ た 町 と して も 有 名 で あ
もビルマとアユタヤ、ビルマ
1を参照)に、ラーンナー絵
る。そして、チェンマイはか
とサヤーム(シャム)王朝と
画(写真2を参照)が現在も
つてラーンナー王国の首都と
の戦乱に巻き込まれ、チェン
残っている。
して仏教や文化が栄えた都市
マイ は 廃 墟 と 化 して し ま っ
この事を最初に知ったの
である。
た。 復興が図られるもシャ
は、「パヤオの街中に埋もれ
チェンマイの歴史は、チェ
ム王朝に支配され、シャム王
たラーンナー絵画」という日
ンセーンで1259年に在位し
朝がタイ王国と名称を変える
本語北タイ情報誌の中の記事
たメンラーイ王から始まる。
とともに、チェンマイもタイ
であった。この記事を書いた
メンラーイ王は、ラオスの境
の一部として発展し、現在に
小和田佐重氏は、北タイのあ
界から当時モン族が興した王
至る。
らゆる寺院を巡り、その寺院
国のあったラムプ−ンまでを
現在、ラーンナー王国の名
の特徴などをまとめて、この
支配化に置き、ピン川沿いに
残は主にチェンマイ市内に残
情報誌に毎回記事を載せてい
位置するチェンマイに新首都
る城壁、又は寺院の壁画で見
る方である。
を設立した(1296年)。これが
ることができる。しかし、そ
小和田氏の記事によると、
ラーンナー王国の始まりであ
れも 数 少 な く な って き て い
北タイのなかでも小さな町パ
る。 ラーンナー王国は200年
る。新しいもの好きのタイの
ヤオ県に、
間以上栄え、次々
未だに残る
と領土を拡大し、
ラーンナー
15 世 紀 の 中 頃 の
絵画がある
ティ ロ コ ラ ー ト 王
という。パ
時代にはラーン
ヤオ県は北
ナー芸術・文学も
タイのなか
ピー ク を 迎 える 。
でも極めて
チェンマイがタラ
小さな県
ワーダ仏教の第8
で、観光名
回世界教会会議開
催地として選ばれた
写真1:ワット・ルワンラーチャサンターン
所といえ
ば、北タイ隋一の湖
のもこの頃であった。
人々の性格のため、多くの寺
ク ワ ン. パ ヤ オ が あ る 程 度
ティロコラート王の死の後、
院 は 改 装 、 再 建 さ れて し ま
で、その他はこれといった見
ラーンナー王国は内部衝突や
い、古くから残されていた美
PAGE 2
EHRP NOVEMBER 1, 2010
所はない町である。有名な寺
ので、古いもので使えるもの
げ、パヤオ王国の歴史上最大
院も、主にワット・スィー
はそのまま使ったという。
の版図を築いた。
コーンカム、ワット・スィー
パヤオ県の歴史を少し説明
しかし、この三カ国間の同
ウ モ ーン カ ム の 二 つ の 寺 院
するとパヤオの歴史は1096
盟は国王間の信頼関係に基づ
で、その両寺院も既に新しく
年にチョームタム王によって
くものであり、王たちの死
建 て 替 えら れて し ま って い
パヤオ王国が建国されたとこ
後、三カ国同盟は実質的にそ
て、古い歴史を大切にした寺
ろから始まる。当初は小さな
の意味を失った。その後パヤ
院は少ない。
ムアン(部族国家)であった
オは、周辺諸国からの侵攻を
しかし、その中で、大
繰り返され、
通りから少し外れた所に
1338年、パヤ
あるワット・ルワンラー
オ は ラ ーン
チャサンターン(写真1
ナー(チェン
を参照)は他の寺院とは
マイ ) の カ ム
少し異なっている。この
フー王に占領
寺院は、未だに古来の
さ れて し ま
ラーンナー絵画(壁画)
う。1439年に
(写真2を参照)を大切
は今度はス
に 残 して い る か ら で あ
コータイに攻
る。小和田氏の記述によ
写真2:ワット・ルワンラーチャサンターンの壁画
る と 、 壁 画 は 約 150年
前 、 ラ ンパ ーン か ら 来 た タ
イ・ユアン族によって描かれ
た。内容は仏伝(仏陀の伝
記)とマハーチャート・
められ領有さ
れてしまう。
が、徐々に勢力を南へと広げ
て い き 、 タイ の 歴 史 の 中 で
も、最も初期に属する国で
あったとされている。
そ して 遂 に は 、 1558年 、
チェンマイがビルマに占領さ
れると、パヤオもまたビルマ
のタウングー王朝の軍に占領
時代は過ぎ、ポークン・ガ
されてしまい、パヤオの町は
ムムアン(在位1258∼1298
廃墟と化した。しかし近代に
行を集めた説話)である。壁
年)の時代になると、チェン
入り、1897年にチェンラー
画をよく見ると、剥がれ落ち
マイのラーンナータイ王朝の
イ権の領域となったが、
ている部分も多く、色もぼや
マンラーイ王や、スコータイ
1977年8月28日に県として
けてしまっているので、はっ
王国のラームカムヘーン大王
独立した。
きりとは分からない。しか
と同盟してその勢力を確立し
し、踊りや仏陀の説法の図も
た。この同盟は主に、雲南・
あることが見てとれる。壁画
ビルマ方面から窺っていた元
は寺院のウィハーン(仏殿)
朝モンゴル帝国 の侵攻に備
の中にあり、現在のウィハー
えたものと考えられている。
ンは1984年に再建されたも
そして、ガムムアン王は北東
チャードク(本生経又は本生
譚:釈
が前世で修めた菩
小和田氏の記述によると、
ワ ッ ト ・ ルア ン ラ ー チ ャ サ
タ ーン が 建 設 さ れ た の は 、
1482 年頃とされている。パ
ヤオがスコータイに占領され
ていた時期である。壁画は、
に向かって更にその勢力を広
PAGE 3
EHRP NOVEMBER 1, 2010
18世紀前半ラムパーンから
ウィハーン(仏殿)の方は
ではなかった。しかし、美術
戻ってきた住民コン・ムアン
というと、1984年の暴風で
館でも博物館でもなく、パヤ
(タイ・ユアン族)によって
一度崩壊してしまった。しか
オという北タイでも小さな町
描かれた。
し、その後崩壊したウィハー
小さな寺院で、今もなお従来
しかし、それ以前のパヤオ
ンの木製の飾りなど、従来の
のままで保管されているラー
はほとんど住民のいないゴー
物をできるだけ用いて再建さ
ンナー絵画(壁画)があると
スト・タウンと化していた。
れた。
いうのは、本当に貴重で珍し
なぜなら、17世紀後半、ラ
チェンマイに居ると、ラー
い事である。このような寺院
ム パ ーン 領 主 ガー ウィ ラ は
ンナーという言葉を耳にする
が他にもある事を願いたい。
シャムの力を借りて、200年
事が多い。主に、「北部タ
に も 及 ぶ ビル マ の 占 領 か ら
イ 」 を 意 味 して い る 事 が 多
参考資料
ラーンナーを奪
『ジャールパッ
還しようとし、
ト・ウィムセーツ ラーンナーの地
パヤオ県の全て』
はビルマ軍と
チェンマイ
シャム軍が互い
に領土を我が物
にしようと奪い
合い、混乱状態
「フア・ハリピ
タック博士の備忘
録」
パヤオ
に陥った。その
ため、パヤオの
い。例えば、店の名前、料理
(1966年:フ ァ 博
士が1966年に研究
のために残した備
忘録。タマサート
大学からチェンマ
イ大学へ寄付されたも
のを閲覧した。)
の名前、お茶の名前などに使
『ワット・ルワンラーチャサ
用されているが、これらは全
ンターンの歴史』(パヤオ県
人々は安全を求
めて、ラムパー
ンへと移住して
地図1:チェンマイとパヤオ
しまったからである。
住民のいないパヤオの町は
廃 墟 と 化 して し ま い 、 ワ ッ
ト・ラーチャサンターンも森
に 覆 わ れて し ま っ た 。 しか
し、18世紀前半、30年にも及
んだ戦乱が収まると、かつて
の住人がラムパーンから戻っ
てきた。絵画が描かれたの
は 、 住 民 が ラム パ ーン か ら
戻ってきて寺を再建したこの
時期となる。
(フア・ハリピ
タック博士、ド
キュメンタリー
出 版 、 2007年)
て「北部タイ」を意味してい
る。ラーンナー王国時代から
残されているもの、または受
け継がれているものという意
庁、1998年)
『タイの歴史』英訳版(アサン
プション大学)
ウィキぺディヤ:パヤオ県
(2010年11月1日参照)
味とはまた、少し異なる。私
が今まで見てきたラーンナー
絵画も、実際は再生された
チェンマイ発 日本語北タイ情
報誌「CHAO」ちゃーお
ラーンナー・スタイル絵画で
あり、本来のラーンナー絵画
PAGE 4
Fly UP