Comments
Description
Transcript
二〇一 三年の春から夏にかけて、 辻原登は 東京大学文学部で 「近現代
評 J 近 代 は 小 説 に よ って 作 ら れ た 説家 の話が聞 けると いう ので文系 理系問 わず の学生を対象 にしたも のだ ったが、現役 の小 東京大学文学部 で ﹁ 近現代 小説研究 2﹂と題 した講義 を行 った。主 に ﹁現代文芸論 ﹂専攻 二〇 一三年 の春 から夏 にかけて、辻原登 は そもそも ﹁ 好きなん です﹂と のこと。なぜな ら ﹁啓蒙 した いから﹂。そ し て、振 り返 って 尋 ね てみた。答え は想像以上 に興味深 いも の だ った。まず第 一の答え は、講義 を行 う のが あ った ので、そ のあたり ﹁小説家 である 一方 で、批評活動も行う こと の意義 は?﹂と直接 いか。ある公開 イベ ントでご 一緒する機会 が る。素材 とし ても、た った十 四回 の講義 によ たデ リケー トな著述 であり、啓蒙 と呼 ぶ のも む ろ ん、﹃東大 で文学 を学 ぶ﹄ は田ん ぼ の ﹁ 演説ご っこ﹂をし ていたと いう⋮⋮。 幼 少 期 は、暇 さ え あ れば 田ん ぼ のあ ぜ道 で 也 、ポ ー、 フローベー ル、ナボ コフなど 、さ い った中 心 的 な 話題 のほ か に、中 国古 代 小 説 、柳 田國男 、小林秀雄 、横光利 一、中原中 く盛 り込んだと思えるほど で、ド スト エフス キー、﹃古事記﹄、﹃ 源氏物語﹄、谷崎潤 一郎 と はば かられる ほど先鋭な批評的視点を提供す 独演会 と は比 べも のにならな いほど洗練 され 多 く の聴衆が集まり、特製 の資料なども配 ら れ て通常 とはひと味違う授業 とな った。本書 が︱︱ 幼少 の頃、和歌山 の田ん ぼのあぜ道 で ひとり演説 した経験 にたど り着 く、 と いう。 こ こ には父 と の関 係 が からむ。﹃父、断 章 ﹄ り す る と は限 らな い。定 番 や古典 だ け でな ぐ、汚 れ ていたり、悪を匂 わせるも のも含 ま 時間も とられる。小説執筆 の妨げ にはならな とは いえ、講義 はそれなり に準備 も いるし 小説 である﹂という のもそ のためだ。 辻 原 は こう し た動 機 解 明 のプ ロセ スを、 ては、探偵を街彿 とさせるような推 理 のダイ ナ ミズ ムも働 く。﹁す べ て の近代 小説 は探偵 り、自 ら の身体 にもしみ ついて いた。だ から て説 き伏 せる ﹂ と いう行 為 が ご く身 近 にあ 業的 に演説 をする人だ った のである。そんな 父を見 て育 った辻原 は、幼 い頃 から ﹁演説し し て ﹃エリ シーズ ﹄ を書 いた ジ エイ ムズ 。 ジ ョイ スさ な が ら に、関 西 の地 に古代 ギ リ シャ的な役割をあたえ文芸復興を試 みた。物 必ず しもありがた か ったり、清 く立派だ った れ た のはさまざ まなジ ャ ンルにわたる文章 。 の上手な使 われ方 に気が つくだろう。集 めら まざまな書 き手 の文章が俎上 にのぼる。 おそらく この本を読 み始 めた読者 は、引用 れる。辻原が強調 した いのは、小説 が ﹁ 何で も かん でも利用 し てしま う﹂ こと、﹁方法 だ ﹃罪 と罰 ﹄ のラ ス コー リ ニコフの老婆殺害 の 場面 に フォーカ スをあ てながら、た っぶり紙 語 のす べての創造 の源泉 を ﹁ 恋﹂ に見 ていた 谷崎 にと って、性愛 が政治 と直結 した源氏物 を は じ め と した作 品 にも描 かれ て いる よう に、辻原登 の父 は社会党 の政治家 だ った。職 け ではなく、 ほかのジ ャ ンルのも のをそ っく りそ のまま使 ってしまう﹂ ことな のだ。だ か 数 を使 って説明 し てみせる のだが、精読 を通 し てよ り具 体 的 な 小説 的技 法 も 話題 にな る ンルにおさまりきらな い言葉 の衝動を批評 と らあえ て広範な種類 の文章を持 ってくる。そ うする こと で ﹁とにかく、小説 と いう のは無 し、反対 に悪 の問題 など大きな テー マも扱 わ れ る。ま さ に精 読 な ら で は の話 題 の広 が り 崩壊 し つつあ った。そんな中 で谷崎 は、ホ メ ロスの叙事詩 ﹃オデ ュッセイ ア﹄を下敷 き に 語 の世界 は時空 を超 え て立 ち 返 る べき場 所 く に動機 への興味とし て研ぎ澄まされたジ ャ ンルだ と辻 原 は言 う。本書 の核 とな る のも、 近代小説 とはこうした人間 への関心が、と ら、辻原 は本書 の最終目的地 たる谷崎潤 一郎 へと歩を進 める。あらためて ﹁大谷崎﹂ とい 愛 と政治 が連動 する世界 。そうした古典 の風 景 を いわば準 備 の ステ ップ と し て用 いなが い った作品 に話題 が及 ぶと、より大きな神話 の機能 が話題 になる。光源氏 が生 きた のは性 本書 の後 半 、﹃古事 記 ﹄ や ﹃源氏物語 ﹄ と とも できる。先鋭な議論 のタネをあち こち に 蒔 きながらも、最後 はこうし て谷崎潤 一郎 と し、谷崎 の水路 へのこだわりともあ いま って 上手な水先案内人 の語り にう っとりと酔 う こ 演な のである。だ から こそ読者 は実 になめら 著者 のやり方 は決 し て無骨 な分析家 のそれ で はなく、行 われる のは辻原流 の谷崎世界 の再 葛﹄や ﹃ 夢 の浮橋﹄と い った作品 の読解を通 し、水 の持 つ神話的働 きを解 き明 かし ていく だ った のであり、関西移住 の目的もそ のよう な源 氏 の世界 と出会 う こと にあ った。コロ野 こ のあたり の議論 である。辻原 によれば小説 こそが、人間 は ﹁ 何 かを選択する、そし て行 う呼称 を用 いながら、 いかにこ の作家が スケ ー ルの大 き い書 き手 だ った かが論 じられる。 いう神話 にたゆたうよう にし て締 めくくられ る本書 は、 やはり小説家 と いう顔 を併 せ持 つ におさまるも のではな い。あくま で広 い意味 での人間 への関心 に基 いている のだ。 為 に移 っていく﹂と いう近代 的な人間観を補 強 し正当化する装置 とし て機能 してきた。そ 元 々東京 の出身 だ った谷崎 が関西 に移住 した のは有名 な話だが、それ は ﹁た ったひとり に 啓蒙者なら では の終 わり方をする のである。 ︵ 朝日新聞出版刊 ・税別定価 一五〇〇円︶ か に谷崎 的 な世 界 の心地 へと誘 導 さ れう る もそも現実世界 では私 たち は動機 もわ からず に行為 に移る こと の方 が多 い。しかし、小説 よ って敢行 された ルネ ッサ ンス﹂だ ったと辻 原 は考 え る。第 一次 世 界 大戦 を はさ ん だ時 いう形 で表現 したとし ても不思議 はな い。 限定 でいかがわし い、 つまり近代社会 そ のも ののよう である﹂と示す 。小説 の エッセ ンス で、聴衆/読者 とし てはこうした脱線 の快楽 にも身をゆだねる ことが できる。 期 、世界中 のあらゆる場所 で従来 の価値観 は は、雑多 な文章 の集合 の中 から抽出され てき た のであり、決 して ﹁文学 ﹂と いう聖域 の中 性 の際立 つ作品を書 く作家 が小説 と いうジ ャ 教育者 として の顔 がある。考 え てみれば 、パ ステ ィー シ ュを得意 とし、 アイ ロニーや批評 きた辻原 には、小説家 以外 に批評家 、 研究者 、 長く東海大 の文芸創作学科 で教鞭 をと って みると︱︱ ここからがとく におもしろ いのだ 阿部 公彦 谷崎潤―郎へ」 辻原 登 ドス トエ フスキーから はこの講義 を書 き起 こしたも のである。 「東大で文学を学ぶ はそ の部分を こそ解明 し、描 く。そし て、と き には捏造 しさえする。動機 の解明を めぐ っ 評 書 杏 糞 勇 r授 孝 徴棗 庁 塀 営