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酒井, 中 Citation 金大考古, 31: 1-2 Issue Date 1999-11-11 T
Title パラオ共和国におけるケズの調査 Author(s) 酒井, 中 Citation 金大考古, 31: 1-2 Issue Date 1999-11-11 Type Departmental Bulletin Paper Text version URL http://hdl.handle.net/2297/2813 Right 金沢大学文学部考古学研究室の許諾を得て登録 *KURAに登録されているコンテンツの著作権は,執筆者,出版社(学協会)などが有します。 *KURAに登録されているコンテンツの利用については,著作権法に規定されている私的使用や引用などの範囲内で行ってください。 *著作権法に規定されている私的使用や引用などの範囲を超える利用を行う場合には,著作権者の許諾を得てください。ただし,著作権者 から著作権等管理事業者(学術著作権協会,日本著作出版権管理システムなど)に権利委託されているコンテンツの利用手続については ,各著作権等管理事業者に確認してください。 http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/ 金沢大学考古学研究室 1999 年 11 月 11 日 金 大 考 古 パラオ共和国におけるケズの調査 酒井 中 (福井県教育庁埋蔵文化財調査センター ) ミクロネシアの南西の隅に位置するパラオ 諸島は、安山岩系の火山島であるバベルダオ ブ島と、その南北に延びる隆起珊瑚礁からな る島々の総称である。総面積 489平方キロメー トル、人口は 14000( 1987年)を数える。気候 は 高 温 多 湿 で 年 平 均 気 温 27度 、 年 平 均 降 水 量 3700ミリに達する。 5− 10月は南西風、 11− 4月 は北東風が卓越する。パラオ諸島の存在がヨ ーロッパ人によって知られるようになったの は 1579年にドレイク船長率いる Golden Wind号 によるものである。しかしパラオ社会にヨー ロッパ人が接触したのは、ウィルソン船長率 いるアンテロープ号がパラオ沖合で座礁した 1781年 が 最 初 と な っ て い る 。 こ れ は マ ゼ ラ ン によってグアム島およびロタ島が発見( 1521) されてから 260年もあとのことである。 パラオ諸島における最初の考古学調査は、 1954年に 行 わ れた D .オ ズ ボ ーン 氏 によ るも の である。オズボーンは、ほぼ全諸島を網羅す る形で遺跡踏査を行い、 1ケ所で発掘調査を実 施している。同時に 160以上の遺跡で 15000片以 上の土器片を採取している。オズボーンは遺 跡踏査・土器研究の他、ケズの研究もすすめ、 これを自然丘を利用し頂上から麓まで階段状 にテラスを築いたもので、防御機能を持つ山 城であったと解釈している。一方、ベルウッ ドは「防御と農業の双方の機能を兼ね備えたも の」と推測している。しかしながら、ケズに関 する年代的位置付け、制作者、遺跡の性格な どに燗して十分な調査は行われていないとい うのが実情である。 1994年 か ら 開 始 し た ミ ク ロ ネ シ ア 文 化 調 査 会(日本)による調査で、次のような結果が 出ている。航空写真の判読によって、バベル ダ オ ブ 島 内 で 24個 の ケ ズ を 確 認 し て い る 。 そ れらは海岸線もしくは河川沿いに分布し、内 陸の山岳地には見られず、南部、西部で確認 されたケズは規模が大きいのに対し、東部の 第31号 ケズは規模も小さく、数も少ないという特徴 を持つ。そして、アイメリーク州エレウイ ( Elechui) 地 区 で の 発 掘 調 査 か ら は 以 下 の 結 果 が 得 ら れ た 。 地 表 下 約 25・ の と こ ろ で 配 石 遺構を確認し、この配石遺構面を第1文化層 上面とした。発掘区のほぼ中央から石皿が 3点 出土している。遺物は黒色・薄手のものが主 を占める。配石遺構を外し、さらに掘りすす めると、集石炉 3基、ピット1基、土石流の痕 跡を検出した。集石の下には掘り込みが見ら れ、この掘込み面を第 2文化層上面とした。同 面から、階段状の溝を1条検出している。第 2 文化層を掘りすすめてゆくと、ケズの最初の 構築面を確認することができた。この面より、 建物跡と思われる柱穴を4基確認したほか、 ケズの構築時に削平された形で土坑を1基確 認 し て い る 。 遺 物 は 石 斧 2点 、 石 核 2点 、 薄 片 石器 3点、フレーク 20数点、褐色もしくは赤褐 色の厚手の土器百数十点が出土している。こ の厚手の土器には混和材に砂を使用したもの が多く見られる。調査により得られた炭化物 を名古屋大学年代測定資料研究センターにて C14年代を測定した結果、ケズの使用時期がお およそ9世紀から16世紀頃に求められるこ とが明らかになった。 すでに述べたとおり、ケズの発掘調査はこ れが初めてであり、調査面積も極めて限られ たものであるため、遺跡の全体像を掴むには いたっていない。さらに今回の調査によって 新たにいくつかの問題を挙げることができる。 1.出土遺物中に骨角器、貝製品が1点も見られ ないこと。従来、パラオでは火山島であるに も関わらず、石器が発達せず、貝製品を主に 利用していたといわれていたのであるが、発 掘調査では、それとは異なる結果が出ている。 遺跡の性格によるものなのか、時期的なもの を反映しているのかを検討する必要がある。 2.第1文 化層と第 2文化層 の土器 を比較してみ ると、色・厚み・胎土に違いが見られること。 さらに、同一層の土器でも混和剤が異なるも − 1 − のが見られること。これまで、パラオの土器 は 過 去 1000年 以 上 も の 間 に わ た り 、 同 一 型 式 の土器を作り続けており、遺跡の時期決定に は土器はあまり役に立たないと見られてきた。 しかし、今回の調査では、層位的にその変遷 が見て取れる。さらに民族誌を見ると、ヨー ロッパ人との接触時及びそれ以降の時期には パラオでは特定の集落でのみ土器づくりが行 われ、それらは交易によって他の集落へもた らされていたようである。もちろん先史時代 にもそれがそのまま当てはまる保証はない。 しかし生産地を特定することで、生産地の集 約化と交易網の形成時期・変遷を復元できよ う。 3.第 2文化層 で検出し た柱穴に は、い ずれも柱 の下に据えたと思われる石が残っていた。し かし、現存する伝統的建築にはこの工法は見 出せない。ケズが使用された時期にのみ見ら れるものなのか、またこの工法はパラオで自 発的に生まれたものなのか、それとも他地域 より伝えられたものなのか。 ( 1999年 5月考古学大会発表要旨) 穴住居が三十棟余りと多数の掘立柱建物跡、 土器片、若干の石器と金属片が見つかってい る。石川考古学研究会によれば、同時代では 県内でも最大規模の住居趾群で、地域の拠点 集落だった可能性が大きいとか。そんな貴重 な遺跡を、素人同然ともいえる我々が掘って よいのか。さっそく不安に駆られたが、聞け ばこの遺跡、取り壊しを年内に控えており、 夏場はとにかく人手がほしいのだという。学 生の手をも借りようというのはそういう訳か。 現場に向かう前から、急激に進む開発と、開 発に追われるように行われる行政発掘の現状 をかいま見た気がした。 高松町遺跡発掘報告 多 正芳( 金沢大学文学研究科 ) 高松町は石川県のほぼ中央にする。むしろ、 能登半島の根元にある小さな海辺の町といっ たほうがわかりいいかもしれない。町の面積 のほとんどは盆地と砂浜に占められており、 盆地の中には宝達丘陵からちぎれ出たような 丘が海に浮かぶ小島のように点在する。この 「平地の中の小島」には、弥生時代の高地性 集落・大海西山遺跡など、人の生活の痕跡が 数多く残されている。今夏、金大考古学教室 のメンバー約四十名が発掘に参加させていた だいた通称「ハカド」遺跡も、ぶどう畑に囲 まれた「平地の中の小島」の一つであった。 発掘報告の前に、酷暑の中、現場まで足を 運びご指導頂いた佐々木・藤井・中村・波頭 の四先生と、経験、知識とも不足していた我 々学生を最後まで見捨てずに、時には町内の 遺跡見学まで企画して頂いた高松町教育委員 会の折戸靖幸氏に深く感謝申し上げたい。 「ハカド」遺跡は弥生時代末期から古墳時 代初頭の大規模集落跡で、楕円形や方形の竪 発掘させていただいた地区の一部を、遺跡の南側か ら撮影した写真。柱列跡と思われるピットの列が何 ヵ所か見られる。 我々が実際に取り組んだ作業は、表土を取 り除いて遺構が含まれる文化層を検出する「精 査 」、精査によって見つかったピットや土壙の 掘り出しと断面図の実測、そして遺構の位置 を示す平板実測といったところが主であった。 まずは精査である。文化層を含む明るい赤 土は、黄色い表土を数センチほどはぎ取れば 現れてくる。中でも遺構面は濃い紫と黒がな いまぜになったような色調で、実に見分けや すい。しかし、夏の強烈な陽射しは、地表の 水分をあっという間に吸い取り、ひび割れを 作ってゆく。こうなってしまうと遺構がどこ にあるのか、いや、どこまで精査したのかす ら判然としなくなる。油断するとせっかく検 出したピットや土壙が行方不明になり、水を − 2 −