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>> 愛媛大学 - Ehime University
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1920年代オランダにおける科学的管理の展開
井藤, 正信
愛媛経済論集. vol.17, no.1, p.1-20
1997-09-25
http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/handle/iyokan/2061
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IYOKAN - Institutional Repository : the EHIME area http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/
愛媛経済論集第ユ7巻 第ユ号(ユ997)
1920年代オランダにおける科学的管理の展開
井 藤 正 信
は じ め に
本稿は,前編ijに引き続いてE.S.A.B1oem㎝の∫cづm榊。舳m螂物mす4m
ル伽1例“900−j9301jに依拠しながら第1次世界大戦後におけるオランダの
科学的管理の動向を,その紹介と導入に積極的役割を果たした技師の活動と,
戦後相次いで設立された科学的管理に係わる諸団体の活動とに焦点をあて経営
の再組織化という観点から分析を試みる。なかでも,この当時オランダ企業へ
の科学的管理の導入に積極的役割を果たしたErnst HijmansとV.W.van Gogh
および∫.G.CH.Volmerの活動,さらには当時オランダ企業の経営近代化に貢献
をしたコンサルタント事務所(Advies Bureau)やオランダ能率協会(Neder−
1andsch Instituut voor Efficiency)などの活動には特に注目したい。むろん,
本稿は,科学的管理導入の担い手の活動に分析の焦点を据えるものではあるが,
戦後の労働側の科学的管理への対応についてもあわせて触れることにする。
分析に先だって戦間期のヨーロッパにおける科学的管理の状況を簡単に概観
しておきたい。一般にヨーロッパの資本主義諸国において科学的管理が経営者
や技師の注目を浴び,その導入が本格化するのは国によって多少の差異はある
ものの,第ユ次大戦後の産業合理化期の頃であるといわれている。それ以前の
ユ〕井藤正信「オランダにおける工場管理と科学的管理の導入一第1次世界大戦前・大戦中の状況
を中心にして一」『愛媛経済論集』第ユ6巻第2号,ユ997年5月。
2) E.S,A.B1oemen、∫c{舳土mc M伽伽g直㎜舳H1{N邊伽れ舳d j900一ユ93αAmsterd3m,1988.
一ユー
1920年代オランダにおける科学的管理の展開(井藤)
ヨーロッパでは「科学的管理を信奉する経営者,管理者,技師,もしくはその
集団の努力は極めて限られ・・・…テイラーの著作の翻訳や信奉者達による出版物
の公刊によって世論に影響を与えようとしたが,成功しなかった」とされてお
り,実際に科学的管理を導入した国も極めて少数であったヨj。ところが,第1
次大戦後の1920年代中頃になると,ヨーロッパ各地で科学的管理もしくは管理
問題についての国際会議が相次いで開催されるようになったことも手伝って,
科学的管理を導入しようとする動きが多くのヨーロッパ諸国で本格化するよう
になった。ユ924年,プラハでのアメリーカの管理専門家50名が出席した科学的管
理に関する国際会議を皮切りに,1925年のブリュッセル,1927年のローマなど
で同様の国際会議が催された。そして,ユ927年9月27日には世界各国への科学
的管理の普及を図る「科学的組織に関する国際会議」(Comite Intemational de
rOrganisation Scientifique:以下,CユOSと略記する)が正式に発足したのであ
る。また,CIOS発足と同じ時期の1927年に同様の目的をもった「国際マネジ
メント機構」(Intematioa川anagement Institute)も誕生している一〕。
むろん,オランダの技師達もこうした国際会議に出席し,世界各国の管理者
や技師達と科学的管理に関する情報交換をしている。とりわけ,ユ932年には科
学的管理の国際会議がアムステルダムで開催され,そこでの成果は,その後オ
ランダの企業経営の近代化に生かされることになる。
さて,オランダでは戦後,戦時下での経験を経て科学的管理がコンサルタン
ト技師(Advies Ingenieur)の指導の下で本格的に導入される。その背景には
第1に,企業規模の拡大と労働力の増大に加えて,技術革新が進展し,企業内
の労働力構成に大幅な変化がみられ,それにより工場組織・管理の早急な改革
が求められたこと,第2に,戦後不況に伴った企業問競争の激化により経営者
の間に原価低減への関心が以前にもまして高まったことなどがあげられる。ま
3) E.S,A.B1oomen,The movoment Ior scientific m邊nミlgement in Europe betw巳en the w且rs,in1J.一C.
Speηder&Hugo J,KijnE ed,∫c加判f仰仁M伽伽五例帆m‡Fmd直れ。后W伽sjoωTα〃。㍗1∫(;ヴ=わ肋召W〃jdア,
K1uwer Academic Pub1ishers,Boston,Dordrecht,London,1996,p.113,
4){d肌p.122、ただし,この機構は短命で,1934年には解散している。
一2一
愛媛経済論集第ユ7巻 第1号(ユ997)
た,それに加えて,前編で指摘したように,アメリカの経済発展に刺激されて
アメリカの生産技術のみならず,同国の管理手法を具体的に取り入れる姿勢を
オランダ企業の経営者や技師達が示すようになったことも指摘できよう。
第1節 第1次大戦後オランダにおける科学的管理の動向
第1次大戦後におけるオランダの科学的管理は,戦前とはまったく違った様
相を呈することにまず,注目すべきであろう。具体的にその違いを3点述べる
と,第ユに,戦前には差別出来高賃金制度にのみ経営者,管理者,技師達の関
心が集まっていたのに対し,戦後は賃金制度よりもむしろ時間・動作研究や計
画部などの工場組織の編成方法などに彼らの関心が移ったことである。第2に,
科学的管理への関心が戦前とは比較にならないほど高まり,科学的管理の導入
を促進する様々な団体がオランダ国内に誕生したことである。第3に,精神工
学の誕生にみられるように,科学的管理を発展させた新しい科学が生まれたこ
とである。
そこで,このような戦後オランダの科学的管理の展開を支えた技師の活動を
最初に紹介したい。
1.技師による科学的管理の普及活動
アメリカやドイツの技師と同様,オランダにおいても技師の本来の任務は,
工場内の機械の保守・点検・整備などであったが,工場が大規模化し,労働力
編成が複雑化してくるとともに彼らに新たな役割が要請されるようになった。
デルフト(Delft)高等工業専門学校において工具設計の授業を担当していた
I.P.de Vooysの言葉は,その点を端的に指摘している。彼は,19ユ7年に行った
講演において経営内での技師の重要一性を指摘し,「経営技師は(経営の:著者注)
あらゆる面での先駆者であり,……経営内で欠くことの出来ない存在になって
いると自覚している」と述べているEコ。Hijmans自身も,経営の近代化に果た
5) E.S.A.B1oomen,∫c{酬圭炉。 M伽一α雛m削一f,pp.147−148.
一3一
ユ920年代オランダにおける科学的管理の展開(井藤)
す技師の役割について言及しており,そうした技師を特別に「組織技師」
(organiSatie−ingenieur)と呼んでいる6〕。
まず,「オランダのテイラー」(Neder1andse Tay1or)ヲ〕と称されたHijmans
とvan Goghの活動をみると,彼らは組織コンサルタント事務所(Organisa士ie
AdviesBureau:以下,OABと略記する)という名称の事務所を開設し,科学
的管理を用いたオランダ企業の再組織化に着手している。この若い二人は,オ
ランダにおいてテイラーの手法に従って工場経営の近代化を図ろうとした最初
の技師であった。彼らは機械の速度を労働者に適したように決定し,工具を最
適な状態で使用できるよう改良・工夫し,原価を正確に算定しうる原価計算制
度の確立に努めた。さらに彼らは,個別経営において労使双方が納得する賃金
水準を確定することにも精力を注いだ呂〕。
しかしながら,彼らは,全面的にテイラーの手法に依存して経営の近代化を
図ろうとしたわけではなかった。この点についてHijmansは,テイラーの長所
を取り入れながらも我々は国ごとの種々の違いを考慮すべきであって,テイ
ラーの考え方すべてをまねているわけではないと強調している臼〕。
以上gようなコンサルタント活動とは別にHijmansとvan Goghは,ユ920年
代からユ930年代にかけて自らの経験に基づいた数多くの論文を発表している。
そのなかで,二人は生産過程の統制に関する分析や計画票(テイラーの指図票
に相当するもの:筆者注)の効用について述べたり,さらには簿記技術の改善
についても語っている。二人の論文に共通する興味深い点は,実践面でのテイ
ラーの影響を否定するのと歩調をあわせるかのように,理論面でもテイラーの
影響を意図的に避けている姿勢がみられるため,ほとんどの論文にテイラーの
名前が登場していない。その理由はHijmanSの言質からある程度推測できる。
6)1d舳,P.152,
7)肋舳,P.185.
8〕{d舳,P.190.
9)mm,P.120.
一4一
愛媛経済論集第ユ7巻 第1号(1997)
彼は,戦前のオランダで科学的管理の第一人者であったVo㎞er以上にテイ
ラーを新しい科学(nieuwe wetenschap)の創始者として評価していたが,テ
イラーの死後,「テイラー・システム」に対する評価を変え,次のように述べ
ている。「『テイラー・システム」という言葉を用いるのは正しくないし,誤解
さえ生じかねない……例えば,それはあらゆる蒸気機関の装置を「ワットの機
械』と一括して呼ぶようなものだ」と川コ。そうした彼の発言の真意は,オラン
ダの科学的管理が必ずしもテイラーの考えに従ったものではなく,自分達
(Hijmansとvan Gogh)の創意と工夫に基づいていることを強調したかった
からに他ならないと,筆者はみている]]〕。
元々,Hijmansは,テイラーの理論をその全体の枠組みについては肯定して
いた反面,テイラーのイデオロギー的側面や科学的管理の諸要素に関しては一
定の距離を保ち,批判さえしている。まず,それは労働組合に対する見方にあ
らわれている。テイラーが労使双方の繁栄のためには労働組合の存在は障害に
なると考えていたのに対して,Hijmansは,労働組合を積極的に評価し,労働
組合が技術発展の原動力になっていると述べている1!コ。つまり,Hijmansによ
れば,強力な労働運動が存在しない場合,雇用主は賃金の抑制によって利潤の
増大を図ろうとする。しかし,労働組合が存在すれば,経営側の賃金抑制措置
に対して労働側がストライキなどの具体的な行動にでるため,経営側が賃金を
抑制するのは容易ではない。そこで雇用主は企業間競争に対処するためには経
営組織の改革や技術革新を強いられるというのである。もう1つテイラーとの
違いは,科学的管理の登場によって雇用主の権限が未曾有に拡大したことに対
する認識の違いである。テイラーはこの点を容認しているのに対し,Hijmans
はその危険性を危惧している。さらに彼の批判は,時間測定係にみられる「科
学的傲慢さ」(wetenschappe1ike p・etenties)にも向けられ,科学至上主義に陥
ユO〕 .ErnstHijm3ns,Organisatie3Iswetenschap,in=D壇ル身刎{舳τ38.1923,pp.22−23、
ユエ) E.S.A.別。emen,∫c士舳士ψcM側1α叔伽舳’,p,152.
12) {d邊舳,p.120.
一5一
ユ920年代オランダにおける科学的管理の展開(井藤)
る危険一性を指摘している’ヨj.
mjmansとvanGoghとの共通点は,テイラーに対する捉え方ばかりではな
い。彼らはともに,科学的管理をその考え方=方法的側面と具体的手法=技術
的側面の両面から統一的に把握しようとしている。実際,彼らの努力は,科学
的管理の方法と技術を有効に利用すれば,膨大な利益が得られることを経営者
に納得させることに向けられた14〕。
2.科学的管理普及団体一コンサルタント事務所一の設立
さて,Hijmansとvan Goghによって設立されたOABに続いて,ユ925年には
経営組織コンサルタント事務所(Adviesbureau vbor Bedrijfsorganisatie)が
Jan Louwerseによって設立された。彼は1923年から短期間ではあったが,Hij−
mansやvanGoghと手を組んで経営コンサルタントとして活躍した人物で
あった。しかし,彼は2年後にはHijmansやvan Goghと挟をわかって独立し,
同事務所を開設したのである。
この他のコンサルタント業務を請け負った組織としては,van GoghがJ.
Rentenaarと手を組んでOABと似たような助言サービス事務所(Raadgevend
Advies Bureau)を開設しているし,他方,Hijmansも協力者,H.Oppenheim−
erの助けを得て,一
¥率アドバイザー技師事務所(Raagevend l㎎enieursbureau
voor Efficiency)を設立しているユEj。このように技師達の努力によってコンサ
ルタント事務所が相次いで開設されたことからも判断できるように,ユ920年代
の企業における組織改革=再組織化がオランダでは技師主導で進んでいたこと
が理解できる。
以上のようなコンサルタント業務を引き受けていた事務所が具体的にどのよ
うな活動をしていたかを逐一詳細に述べることはできないが,Hijmansとvan
Goghによって設立さ札たOABの活動についてここでは簡単に紹介したい。
Hijmansとvan Goghは,OABを設立した1920年に総計ユ7のコンサルタント
13〕肋例,P.!20.
且4){d舳,P.152.
15)肋例,P.115、
一6川
愛媛経済論集第17巻 第1号(1997)
業務を請け負った。OABの活動領域をみると,金属産業などの製造業に限らず,
鉱業やサービス産業といった分野にも及んでいた’日コ。最初のコンサルタント業
務は,アペルドーン(Apeldoorn)機械工場の再組織化であった。そこでの再
組織化の課題は既存の生産設備で生産量を増やし,生産費を削減することで
あった。また,造船業のデ・シェルデ(De Sche1de)社の場合,部門職長(afdeling
voorman)が職場で絶大な権限を有する親方(職長)統括制(Meister−Wjrtsch3ft)
が存在したため,ライン管理機能は完全に無機能化していた。同事務所はこの
問題に手をつけ,親方(職長)支配の解体に成功したのである1”。
ウトレヒトのヤーファ(Jaffa)機械工場における再組織化は,Hijmansと
van Goghが手がけた最も典型的な科学的管理適用例であった。この工場では
運搬機械や建設機械が製造され,300人から500人の労働者が雇用されていた。
ところが,戦後製造原価の高騰により経営が悪化し,その立て直しを図るため
に経営側はOABに工場管理の改革を求めたのである。Hijmansとva・Goghは,
遠心ポンプ部品の製造原価を調べ,労働者にどの程度の賃率が支払われている
かを調査した。その結果,大都分の賃率があまりに高すぎることが確認された。
その原因は,作業場の現場管理者が十分な科学的知識をもたないことなどがあ
げられた。Hijmansとvan Goghは,職長などの負担を軽減しかつその権限を
削減する仁ともに,作業を科学的に遂行する手段として作業手順を記した計画
プレート(planbord)の導入に取り組んだ。さらに彼らは,工場組織の改革に
も着手し作業を計画的に進めるための計画室(plankamer)を設置した。結果
的には,ヤーファ機械工場では計画プレートの導入によって生産過程を職長な
16)1d舳,P.132
ユ7)Meister−Wirtsch3ftは!9世紀後半までのドイツの現場管理体制を的確に表した言葉で,DMVの
職制を勤めた技師ヴォルト(R.Woidt)は,これについて次のように述べている。「1日来の大経営
の経営者は職長に工場管理のほぼ全責任を委ねた。職長は原材料の調達,倉庫管理,製造工程の
統轄,出来高単価の決定,作業方法・工具の改善,そして時には経営簿記をも担当しなければな
らなかった。中世キルト的な徒弟制度の伝統は,機械化が進展している直接雇用形態の大企業に
も継承され,ときには,部門管理者一職長一労働者という技能序列に拠る企業内昇進制を形成し
たのである。職長は経営面においても大きな役割を演じた」と(R.Woldt,D〃伽舳赦{舳G伽∫一
凸助r加凸,Stuttg3rt,191ユ,p,58.)。
一7一
ユ920年代オランダにおける科学的管理の展開(井藤)
どの現場管理者がすべて掌握する旧来のシステムは完全に終わりを告げたので
ある。組織面について敷術すれば,計画室のなかに賃率部門(tariefafdeling)
と計画部門(p1anafdehng)が設置され,そこにおいて作業に係わる基本事項(労
働者の配置,作業方法,賃率の設定など)が決定された。こうした改革に伴い,
多数の現場管理者が解雇されたが,それに対する労働側の抵抗は鋳造部門の現
場管理者のそれにとどまった。なおHij舳nsは,1925年にブリュッセルで開催
された国際科学的管理会議でこの工場改革について「機械工場への科学的経営
組織の適用」というタイトルで報告している]剖。
第2節 オランダにおける精神工学の誕生と会計学の発展
1.精神工学の誕生
第ユ次大戦後のオランダにおける科学的管理の動向を語る際に欠かせないの
が,その手法を取り入れて誕生した精神工学についての検討である。戦前に宗
教の立場から科学的管理を批判したJac.van Gi㎜ekenは,大戦中からオラン
ダの文化的・社会的状況,とりわけキリスト教の精神に適合した科学的管理の
導入を主張したが,その考えに賛同する者は少なく,しばらくの間科学的管理
に対して消極的な態度を示すようになった。しかし,戦後彼は,オランダ国民
経済の発展にとって科学的管理の導入が不可欠であることを再認識した。その
結果,彼は,労働者の精神・肉体両面の健全さを重視する精神工学に傾倒して
いったりである。。an Gimekenは,その具体的な手段として職業選択を指導
する労働者のための事務所,中央精神学職業事務所(Centraal Zie1kundig
Beroepskantoor)を19/8年9月開設し,彼白身がそこの責任者を務めた。コン
サルタントとして同事務所で重要な役割を担ったF.Roelsは,1925年には実験
心理学の教授になり,van Gimekenの仕事を手伝い,オランダにおける精神
18)E.S.A.B1oemen,Sc{洲炊M伽m坦舳砿pp−136皿140.OABは,賃金面でも時間研究に基礎をお
いた差別出来高賃金制度を積極的に試みだといわれているが,その実態については明らかにされ
ていない。
一8一
愛媛経済論集第ユ7巻 第1号(ユ997)
工学の発展に貢献した]引。
ところで,van Gimekenは,当時精神工学の第一人者であったH.M伽ster−
bergの影響を受け,テイラーとは一線を画しながら彼独自に精、神工学の研究
を続けた。彼は,テイラーの労働者の選択に対する非科学的(onwetenschappe−
lijk)な側面をMunsterbergに倣って批判する。さらにvan Ginnekenは,ユ9ユ8
年から続けた労働疲労(a・beid ve・moeit)の研究において,疲労現象に対する
テイラーの安易な理解を批判している。続けてギルブレス夫妻の疲労研究につ
いてもその有効性を認めながらもやはり非科学的な側面に対して「粗野な
(Vulgaire)素人療法」だと批判している珊」。ただ,精神工学をしてオランダ
の心理学者がテイラー・システム(Taylor−ste1sel)の後継,もしくは科学的な
経営管理の新たな形態だと認めていたことには注意を払う必要があろう!エコ。
オランダで最初に精神コニ学の手法を採用したフィリップス(Philips)社は,
1922年に精神工学の実験室を設置した。ユ924年以降,同実験室の指導にあたっ
た心理学者のJ.L.Prakは,労働者を雇用する際に短期間で選抜するシステム
を開発した。ユ924年には3,OOO名の採用候補者がそのシステムによって選抜さ
れた呈!コ。
2.オランダ会計学の科学的管理への貢献
さらにここで我々は,精神工学とともにオランダの科学的管理の発展を支え,
経営の近代化に少なからず貢献したオランダ会計学の発展についても触れる必
・要があろう。周知のように,標準原価言十算の基礎はテイラーによって築かれた
といわれるが,オランダでも会計学,とりわけ原価計算制度の発展に貢献した
多くの研究者は,テイラーないしは科学的管理の信奉者であった。その代表的
な人物がVo1merであり,以下彼のオランダ会計学への貢献を中心に戦後のそ
の動向を検討したい。
19)1d舳,P.ユ49.
20)Jac,vanGimeken,ルb洲〃舳虐仏Amsterdam,ユ9王8.,p.ユOおよびp.69.
2ユ) E.S.A,B珪。emen,∫c{舳げ{c M伽畑螂伽舳f,p.ユ50.
22) {d百舳,p.160.
一9一
ユ920年代オランダにおける科学的管理の展開(井藤)
さて,前編において,第1次大戦前のオランダでは会計制度の未整備が科学
的管理の導入を遅らせた要因の1つであったことを指摘したが,戦後急速に同
国の会計制度は整備されるようになった。その萌芽はすでに第1次大戦中にみ
られた。ユ915年にはロッテルダムのオランダ高等商業専門学校において会計学
の専門講座が開かれ,会計士の養成が始まった。Vo1merはユ908年以降,デル
フト高等工業専門学校で経営学を担当していたが,オランダ高等商業専門学校
に赴任後は会計士の養成に尽力した。その後,彼はアムステルダムのGemeente−
1ijke大学に移り,1931年にはテイルブルクのR,K.高等商業専門学校で同様の
仕事に従事しながら企業の原価計算制度の整備に尽力するなど,オランダ会計
学および会言十制度の発展に寄与した。
この他に当時,オランダで最も有名な会計士であったTheo Limpergも同国
の会計学の発展に少なからず貢献をしている。彼は,1922年にアムステルダム
大学に新設された経済学部で経営経済担当教授として会計学の指導にあたっ
た1割。
雑誌「会計学」(ん。舳舳例。ツ)が1920年には経営経済に関して多くの頁を割
いているように,会計学の立場から組織や管理の問題に関心を寄せる人々も多
数出てきた。その代表がJ.P.deHaanで,1928年の講演において,作業の能率
化を図るためには組織・統制上の諸問題に関する指導は会計士に委ねられなけ
ればならない,という考えを表明している。あくまで彼は,技師の任務は機械
の保守・点検等の職務に限定されるべきだと考えていた。彼の仲間のLimperg
も企業内での会言十士とコンサルタント技師との役割の違いに関心を持ってい
た。Limpergは,コンサルタント技師があまりアドバイザー的職能を身につけ
ておらず,経営の近代化に貢献していないという考えであった。HaanとLim−
pergはともにコンサルタント技師の活動に疑問を持っていたため,企業の経
済性や管理領域の面で会計士の立場からアドバイスをたびたび与えた別j。
23)肋㎜,P.151.
24)肋m,P,151.
一10一
愛媛経済論集第17巻 第ユ号(ユ997)
このようなHaanやLimpergの考えと一線を画していたのがVo㎞erであり,
彼自身技師として,また時には会計士として活動していたこともあって,技師
のコンサルタントとしての能力を評価するとともに,会計士に?いてもその能
力を認めていた。特に彼は,次節で述べるようにギルブレス(Frank Gi1breth).
と交流を重ねるうちにアメリカの技師の能力の高さに驚き,オランダでも技師
と会計士との頻繁な交流の必要性を痛感したのであった。
第3節 ギルブレスのオランダ科学的管理への貢献
一Volmerとギルブレスの交流一
第1次大戦後のオランダにおいても科学的管理の普及・啓蒙活動に多大な貢
献をしたVolmerは,その手段として「無名会社」(Nααmlo惚γ舳。o亡sc1冊ψ)
という雑誌を精力的に活用した。その雑誌の協力者にはギルブレスの名前が
あった。Volmerは,何度もアメリカを訪れるうちにギルブレスと親交を結ぶ
ようになり,次第にギルブレスの考え方に共鳴していった。オランダの国民が
豊かになるには科学的管理の導入以外にないとかたく信じていた彼は,第1次
大戦申にはやくもギルブレスの考え方に共鳴するようになっていたが,その
きっかけはギルブレスがユ914年に著した『科学的管理入門』(P伽eγげ∫c{m一
榊。 Mα例αgmm1)であった。そういった意味では彼にとってギルブレスは科
学的管理を学ぶうえで欠くことができない存在であり,むしろテイラーよりも
影響を受けた人物であったといえるかもしれない拓コ。
Volmerの影響を受けた工具設計技師のPieter Persant Snoepもギルブレスの
著作を通じて科学的管理を研究した一人であった。彼は文献研究に満足せず,
ギルブレスの方法を検証するために動作研究の有効性を実際に確認しようとし
た。なお,この時代のオランダにあってはこの種の実験が一般に承認を得るま
25)1d舳,P.144.
一ユ1一
ユ920年代オランダにおける科学的管理の展開(井藤)
てには至らなかったが,この後もSnoepは,リールダム(Leerdam)ガラス工
場の取締役の許可を得て誰にも妨害を受けずに実験を続行した。ギルブレスに
基本的に依拠した彼の作業研究は,結果的にオランダのガラス産業に莫大な利
益をもたらすことになり,科学的管理の議論に新たな道筋をづけることになっ
た朋〕。
むろん,オランダの科学的管理の発展といった面からみれば,ギルブレスの
影響は,VolmerやSnoepなど技師達への間接的な影響にとどまらなかっ㍍
1921年2.月にギルブレスは,ヨーロッパに旅行しており,その際オランダでは
アムステルダムの企業で講演を行っている。ユ922年にも彼は,アムステルダム
やハーグで作業動作に関するフィルムを用いて講演を行い,多くの人々の関心
を集めた星7j。すでにこの頃にはオランダの管理者や技師達もアメリカ機械技師
協会と頻繁に連絡をとりあうようになっており,そこから科学的管理のみなら
ず,様々な経営に関する情報が入手できる仕組みが出来ていた。その点でギル
ブレスは,アメリカの管理技術(主として科学的管理)をオランダのみならず,
ヨーロッパ各地に伝える伝導師的役割を担っていたといえよう。実際,ギルブ
レスは,オランダの隣国ドイツにおいて科学的管理に関する著書を数冊出版し
ており,それらはすぐさまオランダに持ち込まれ,オランダの科学的管理研究
者に渡っている宣副。
ギルブレスの眼にオランダの工場管理がどのように映っていたかは明らかで
はないが,オランダ企業の視察にたびたび訪れていることやVo1merとの交流
の深さなどからして,同国の工場管理の実情や経営学の発展動向に並々ならぬ
26)伽例,p.145、オランダの能率増進運動に多大な貢献をしたJm Goudri朋n jr。もギルブレスの影
饗を受けた技師の一人であった。
27) V.W.v3n Gogh,Geschiodonis van de efficje11cybewegjng in Nod巳rlaηd.inl Tψ5c伽蛎‡五mc土mc〃例
Doo側舳邊例地‡加29.!959,p.538.
28〕そのうち,代表的な文献を以下に記しておく。F.B.Gilb・eth,ル螂舳刊伽石伽〃冊旦∬‡加d伽,Ber−
lin,/920.およびγ鮒ωαπ刎榔鋼ツ。ho正。葺加_伽α伽舳〃∬舳∫c地口∫H{o拘mG舳〃α皇直列仰γ肋互舳伽舳g
洲d E仰肋舳惚田。児y砺αh榊,舳d酬苫柵s士舳 W榊側刊g∫脚d減 9邊伽則舳κ吻舳伽md
邊固㎜δg尻。此百例_,BerHn,1922.
一12一
愛媛経済論集第ユ7巻 第1号(ユ997)
関心を抱いていたことは想像に難くない。事実,ギルブレスは,オランダの種々
の組織に作業標準の考え方を定着させることを狙いにした機関(Nomalisatie
Bureau)の活動やデルフト高等工業専門学校の管理者教育に対してかなり高
い評価を与えている舶〕。
他方,ギルブレスに対するオランダ側の評価は,必ずしも好意的なものばか
りではなかった。前述したごとく,van Gimekenが彼の疲労研究を辛辣に批
判しているように,精神工学の立場から彼の理論に対して多くの疑問や批判が
出されたのである。
第4節 オランダにおける能率増進運動の展開
1.オランダにおける能率増進運動の始まり
オランダにおいて能率(efficiency)や経済性(be居uiniging)といった言葉が
一般に普及するのはユ920年頃であったとされている冊j。もちろん,それは戦後
不況からの回復を図り,経済発展を押し進めようとする国家の政策的意図が能
率や経済性という言葉となって,一般に浸透していった結果であることはいう
までもない。しかし,具体的にオランダの国家機関や企業において能率問題が
意識されるようになるのはしばらく後のことであった。そめきっかけは,1923
年4月17日から3日間に渡ってアムステルダムで開催された経済性(能率)会
議【Bezuinigings(Efficiency)一Congres】であった。この会議の中心的殺害帷担っ
たのがオランダの科学的管理の発展に極めて大きな貢献をしたHijmans,van
Gogh,Volmer,Goudriaan,そしてLimpergといった人々であった。
Vo1merは,会議の冒頭で挨拶してテイラーの偉大さを強調し,オランダ企
業が抱える問題を3点指摘している。ユつは企業経営者の経済に対する洞察力
の欠如,2つめは不十分な経営管理,3つめは作業方法に関する知識の欠如で
29) E.S.A.B1oemen,∫c{醐fmc Mα舳雛m舳兵p.ユ44.
30) {d例刊、p.143.
一!3一
1920年代オランダにおける科学的管理の展開(井藤)
あった。そうした問題を解決するために,彼は自分の経験を語り,科学的管理
導入の必要性を力説したのである。つまり,Volmerは,具体的にはデルフト
高等工業専門学校などの援助を受けて作業方法に関する系統的で,かつ科学的
な研究を促進する必要性を論じたのである。
この会議には多くの個人参加者や71の私企業の他に,6ユの自治体と31の公共
機関から参加があったという事実に示されるように,能率増進が当時のオラン
ダにおいて国民的課題になっていたことが容易に想像される。とりわけ,同会
議では企業以外の能率が問題になり,経営コンサルタントとの共同研究や協力
態勢を築く必要1生が強調された。また,最も大きな関心を集めたのが能率増進
策として科学的管理を具体的にどのような組織にどのような形で適用するのか
という問題であった31j。
続いて1925年12月ユ2日にはオランダの能率増進運動の推進母体となるオラン
ダ能率協会(Neder1andsch Instituut voor Efficiency)がアムステルダムの産業
クラブ内に設立された。むろん,この協会の誕生には経済性(能率)会議にお
ける議論がかなりの影響を与えており,結果的に同会議が組織した委員会のメ
ンバrが主導権を握ることとなった。会長J.L.C.van Meerwijkは,この時同協
会が科学的知識に裏付けされ.た能率の増進に努力し,あらゆる場面で指導力を
発揮する必要性を力説している3割。この協会は,会長のvan MeerwijkがC㎝一
traa1Beheer社の取締役で,事務局長がアムステルダム市の経理担当の責任者
であったH.Keegstraが務めていることからも明らかな占うに,官民一体となっ
て組織された団体であった。1926年7月8日にオランダ能率協会最初の会合が
開かれ,組織コンサルタント6名,会計士8名,そして経済性担当の検査官5
名など計67名が参加したヨコ〕。
その数カ月後,van Meerwijk会長は,協会の目標の明確化を訴え,企業の
31) {d埋伽,pp.ユ66一ユ67.
32) id埋例,p.165.
33) {d直伽,p.172、
一ユ4一
愛媛経済論集第ユ7巻 第1号(ユ997)
発展にとっては科学的な管理(wetenschappe1ijke1eiding)と人間的な共同体
(mense1ijke gemeenschap)の両立が前提であるという考え方を示している。
要するにこれが意味する具体的内容は,科学的な作業方法を導入して労使一体
となって高い生産性と高利潤を導くというものであったが,彼は決してそれに
満足したわけではなかった。彼にとって究極の目標は,「人間性の向上,社会
的な諸関係の改善,そして相互平和の促進」であったヨ引。彼がこのような考え
に至ったのは,ユつは第ユ次大戦後の社会的混乱がオランダでも著しかったこ
と,もうユつは科学的管理に対する期待がオランダでも極めて強かったため,
必要以上に科学的管理を美化して捉えるようになったことなどが微妙に影響し
ている。
ともあれ,オランダ能率協会の設立が国民生活全般に科学的管理の手法を応
用し,能率増進運動がオランダにおいても広範に展開されるきっかけとなった
のは間違いない。
2.能率協会とClOSとの結びつき
最初に述べたように,科学的管理の普及をめざした国際会議は,ユ924年のプ
ラハ大会に始まり,その後,第2次世界大戦前まではブリュッセル(1925年),
ローマ(1927年),パリ(1929年),アムステルダム(1932年),ロンドン(1935
年),ワシントン(1938年)といったように世界の主要都市で開催された。オ
ランダからは1927年のローマ大会にGoudriaanとHijmansが参加し,オランダ
能率協会の活動について報告している。この大会参加を契機にオランダ能率協
会は,CIOSの会員となり,ユ932年7月の第5回アムステルダム会議を主催す
ることになったのである㈲。
34)倣肌p,173.オランダ能率協会以外の能率増進運動に貢献した団体としては,一種の「経営調
査集団」(business rosearch group)ともいうべき機関がすでにユ927年にはスタートしていた。こ
の機関の名称は「近代事務処理技術のための研究サークル」(StudiekringvoorModeme
K3ntoortec㎞iek)で,通称St/1mok日と呼ばれていた。メンバーは主として大企業や公共機関の管
理者および簿記担当王任クラスで構成され,事務機構の合理化をテーマに研究し,企業や国家機
関の組織の合理化に貢献した。(舳肌p.178、)
35〕{d舳,P.179.
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1920年代オランダにおける科学的管理の展開(井藤)
ところが,当初からCIOSとオランダ能率協会との間にはアムステルダム会
議それ自体の目的や理念に大きな隔たりがあった。具体的にその隔たりは,
CIOS事務局を代表していたEdmond Landauerと能率協会指導部との間の対立
という形になって顕在化した。正統的なテイラー主義者(orthodoxTay1orlist)ヨ制
を自認していたしandauerは,もはや科学的管理を宣伝する時期は終わったと
いう見方をしていた。彼は,1929年時点において様々な国家機関による科学的
管理に関する調査結果から,主要な西ヨーロッパ諸国では会議の基本目的であ
る科学的管理の実践というテーマにすでに取り組んでおり,問題は後発の東
ヨーロッパヘの導入であると認識していた。それに対して,会議の動議を受け
入れつつもオランダ能率協会指導部は,会議がめざす科学的管理の実践につい
ては極めて懐疑的であった。同能率協会指導部は,そもそもこの会議を同能率
協会を宣伝するための手段という見方しかしていなかった。特にLimpergは,
会議が科学的管理の実践を強調するあまり失敗に終わるのではないかと恐れて
いた帥j。
結論からいうと,アムステルダム会議は,Landauerを代表とするCIOSより
もオランダ能率協会にとって大成功に終わったとみることができる。会議参加
者が700名以上にのぼり,同協会の名前は世界各地に浸透した。加えて,協会
のメンバー数も増加し,オランダ国内における科学的管理への理解も進んだ。
ここにおいて,オランダ能率協会は,同国の最も強力な能率増進運動の担い手
になったと自他ともに認めるところとなったのである。
第5節 第1次大戦後の科学的管理への労使の反応
すでに前橋で述べたように,第1次大戦前のオランダでは1903年の大規模な
鋳造エストライキが勃発して以降,労働運動が盛り上がり,出来高労働に対す
36) E.S.A.B!oemon,The movemeηtfor sciontific m3n且gement,p.119.
37) E−S,A.Bloemen,∫c伽砿mc Mα仇αg直m釧砿p.180.
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愛媛経済論集第ユ7巻 第1号(1997〕
る労働者の抵抗が根強くみられた。ただ,この時期においては科学的管理がオ
ランダ企業に本格的に導入されたわけでもなく,しかも一部の人々(経営側労
働側双方ともに)に差別出来高賃金制度が知られているにすぎ牟かったため,
科学的管理全般に対するオランダの労働組合の取組みもはっきりと定まってお
らず,アメリカやドイツの労働組合からめ情報が労働組合側の唯一の判断材料
であった。ところが,第ユ次大戦が勃発した翌年のユ9ユ5年にはホクシー報告が
出され,それがすぐさまオランダに伝えられると,一労働組合側から科学的管理
に対する批判的な意見が聞かれるようになった。しかし,それら批判の多くは,
オランダの労働組合自らの考えというよりはドイツ自由労働組合の幹部であっ
たヴォルト(Richard Wo1dt)による労働組合機関誌における科学的管理批判
に追随したものであった3割。とはいえ,キリスト教系の労働組合には科学的管
理が「もたらした結果は労働者を利用し尽くし,『彼らから思考を奪い取ること』
であった」といった科学的管理の本質をついた批判もみられたヨ引。
これに対して第1次大戦後,科学的管理の企業への導入が本格化するにつれ
て労働側の見方には大きな変化がみられるようになった。まず,労働組合の対
応についてみると,科学的管理に反対する動きは,個別企業レベルにおいても
全国的な運動のなかでも一切みられなかった。その理由をB!oemenは,「科学
的管理は(オランダ国内で:著者注)実践に際して過去何も破壊していない
・組織的・技術的改革はスムーズに実行されており,『科学的管理』という
ラベルを貼り付けることなく実践されている」≒述べ,労働側からも概ね好意
的にみられていたと結論づけている柵〕。事実,・社会主義政党の指導者達も「労
働者の生産性の向上によってのみ彼らの生活水準が高められる」といった認識
で一致していた]〕。
38)肋m,P.96.
39)1d舳,P.110.
40)1d舳,P.185,
41〕 {d邊例,p.117.
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1920年代オランダにおける科学的管理の展開(井藤)
この他にレーニンによる社会主義社会への科学的管理の適用可能・性の議論も
オランダの労働組合が科学的管理を支持する1つの根拠となっていると思われ
る。もちろん,この点.もドイツの労働組合からの影響が大きかった。戦後のド
イツでは社会改良主義の立場をとる労働組合首脳部や社会民主党多数派と,独
占資本との妥協の産物としてのワイマール体制がユ919年8月に成立し,社会民
主党の政権参加により,科学的管理をめぐる状況は一変した。とりわけ,ユ919
年から翌年にかけての労働者の強い社会化要求は,労働組合側が生産力発展の
観点から科学的管理を受容する呼び水の役割を果たすことになり,政権に参加
していた社会民主党多数派もその動きに同調した。このような隣国ドイツの動
きはオランダにもすぐさま伝わり,「社会化」が大義名分になり,労働組合の
科学的管理への見方も概ね好意的なものに変わった”〕。
他方,一般労働者は,科学的管理をどのように評価し,反応を示したのであ
ろうか。少なくとも「より生産性の高い機械を導入して賃率を低くするという
経営者側の願望が労働者の反対にあった」ことは間違いない事実であり,労働
者が労働強度の増大や賃率の切下げを伴うような形での科学的管理の導入に反
対したことは容易に想像される一3〕。
以上のような労働側の反応に対して,経営者側は科学的管理にどのように対
応したのであろうか。Bloemenは「『オランダの雇用主」が科学的な経営管理
(wetenschappelijk bedrijfsbeheer).面での発展をほとんど追い求めていない」
と述べながらも,雇用主が行動の自由を与えられた時には,彼は経営管理をで
きるかぎり合理的なものにしようとした,と主張している州。ところが,その
一方でB1oem㎝は,個々の雇用主が科学的管理(scientific management)が提
供した手法についてどれほどの関心を示したのか,また,彼らが科学的な経営
42) この点については,井藤正信『ドイツにおける科学的管理の導入と展開』愛媛大学経済学研究
叢書8.1995年,79頁を参照されたい。
43〕 E.S.A.Bioemoo,∫c{榊士mc M伽伽叙伽舳土,p.190.
44) {d宙伽、p.157.
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愛媛経済論集第17巻 第1号(ユ997)
管理の諸方法や技術を実際に自分達の企業にどの程度適用したかどうか,この
2点についてはなお疑問が残るとしている。
お わ り に
第ユ次大戦後のオランダでは能率増進運動が展開され,科学的管理を導入す.
る企業もOABなど多くの経営コンサルタント事務所の精力的な活動によって
飛躍的に増加した。そうした科学的管理の普及に貢献したのがHijmans,van
Gogh,Volmerなどの技師達であった。van Goghは,ある企業管理者に宛てた
手紙のなかで作業研究が賃率の設定においては最も重要なものであると述べて
いる。彼の主張は,以前は経験と勘に基づいて親方(baas)の主観的な判断で
決められていた賃率が作業研究の導入によって客観的かつ科学的に決定される
ようになり,その結果,労使関係の安定がもたらされたというのである北コ。
もちろん,このような見方は科学的管理導入を進める側の一方的な見方であ
り,ある程度割り引いて考える必要があるが,第1次大戦後のオランダ経済の
逼迫した状況を考えれば,科学的管理の導入に対して労使双方が「城内平和」
を締結したとしても不思議ではないであろう。それほどオランダ経済はヨー
ロッパのなかで経済的地位を低下させていたのである。第ユ次大戦の敗戦国ド
イツがやはり経済再建のために「産業合理化運動」を国民的合意の下で積極的
に推進したように,オランダでも「産業合理化」に対して国民的合意が成立し,
その手段として科学的管理が市民権を次第に獲得していったのである。その推
進母体となったのが能率増進運動の実質的担い手であったオランダ能率協会で
あった。Hijmansとvan Goghの尽力によって設立されたこの協会は,国際的
に科学的管理の普及をめざすCIOSとも手を結び,オランダ企業への科学的管
理の導入を推進するのみならず,自治体や国家の諸機関にも科学的管理の導入
45〕{d舳,P.185.
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1920年代オランダにおける科学的管理の展開(井藤)
を図った。本稿の分析では,それらの試みがどの程度成功したのか,それを検
証するまでには至っていない。しかしながら,大戦後のオランダでは様々な国
家機関や自治体の責任者,そして革新的な経営者達が能率増進,さらには経営
組織の「科学化」ないしは管理の「科学化」に対しては並々ならぬ関心を抱い
ていたことは間違いない事実であり,そのための手段として科学的管理を積極
的に利用しようとしたのである。次稿では,具体的にどのように企業や国家機
関に科学的管理が導入されていったのか,実態に即した分析を予定している。
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