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e-dream-s通信最新号
e-dream-s 通信 No.171 発行:2015 年 12 月 13 日 特定非営利活動法人 イー・ドリームズ 目次 1. 大阪が結構国際化している件について 辻 荘一 p. 2 2. Pray for Paris: パリへのオマージュ 井川 好二 p. 4 3. 仕事で磨かれるスキル 塚本 美紀 p. 15 カンボジアの Batheauy High School の生徒 (クラウドファンディング READYFOR のサイトに掲載中の写真のひとつ) 1 大阪が結構国際化している件について 辻荘一 休日に思い立って映画を見るのは結構難しい。見たい映画が見たい時間帯にやっているか どうかわからないからである。先月はその困難をなんとか克服し、なかなか結構な映画を 見ることができた。それはよかったのだが、午後の中途半端な時間に映画が終わったので 昼食場所に困った。ちょっといきたいような店はすでにランチタイムが終わっている。仕 方なしに辺りで適当な店を探すのだが「適当」の基準が難しい。その日は「適当」を限り なく低く設定して映画館のすぐそばの回転寿司に入った。回転寿司チェーン店だと思われ る店で、聞いたことのない片仮名の店名だ。もちろん入る のもはじめてである。 妻と私はここでInternational Osakaを経験することにな る。 中国人観光客による「爆買い」が流行語になるほど、大阪 のみならず日本全国で外国人観光客が急増していること は承知している。実際梅田に出れば一見して外国からの観 光客と分かるキャリーバッグを引きずる人々に会わない 日はない。その大部分はアジア系だ。もちろんその日も何 組も見かけている。 また観光客のみならず日本で働く外国人も多数いる1こと も頭では分かっている。とはいえ、郊外の住宅地に住んで いるとアジアからの観光客にもたまに目にする程度だし、 外国人が働いている飲食店もあまりない。 さて映画の後の話にもどる。回転寿司店に多くを期待してはいけないのだが、案の定ごち ゃついた感じの外観と店内でもちろん高級感はない。回転するベルトに沿って並べられた 六人がけの席に座ると、テーブルの上にはごちゃごちゃとレイアウトされた分かりにくい メニューと、触るとちょっとべたつく醤油瓶などが置いてある。こりゃ期待できんな、さ っさと食べて出ようと妻と話しながら、昼食時間を過ぎて空いている店内を見回すと、回 転ベルトの向こうには中国人観光客と思しき親子連れ3人がいる。隣のテーブルにも客が いるようだが仕切りで見えない。 1 グラフは Asahi.com による。 http://www.asahi.com/strategy/0829a.html 2 まもなく飲み物の注文を取りに来たのは、おばちゃんと呼ぶにはちょっとあれで、まあお ばあちゃんと言っても失礼ではないかもしれないぐらいの年格好の店員である。「生中2 つですね。」さすがの年季というかにっこり笑ってとても感じがいい。もう一度店内を見 回すと数名いるウェイトレス(と言っていのか?)は皆同じ年格好だ。 さてビールを待つ間、寿司を握っている兄ちゃんに握りの3種盛りセットを注文すると「承 知しました!」とこれまた愛想よく受け答えするが、明らかに言葉は中国語訛りである。 「3種盛りです!」と渡してくれた寿司は、ネタも新鮮で思いの外、旨い。ちょっとうれ しくなってさらに寿司を注文し日本酒も呑むことにした。 しばらくすると、隣の客に注文の品を持って行ったウェートレスのおば(あ)ちゃんが、 中国人寿司職人に「**君、こっちのお客さんに、天ぷらは天つゆに薬味入れて、それで つけて食べるってゆったげてんか。」はい分かりました、と兄ちゃんはベルトの外に出て きてなにやら話しかけている。しばらくすると「なんや、中国の人とちゃうかったんか」 と聞こえてきて二人で大笑いしている。どうも韓国からの観光客だったらしい。 なんだか面白くなってきて、そのウェートレスに「英語やったらちょっと分かるかもしれ んから言うたげましょうか」と申し出て、席を立って隣のブースを見ると体格の良いアジ ア人の若い男性6人がきちきちに腰掛けて、山程注文した料理を一心不乱に食べている。 天つゆのことなんかどうでも良い様子なので、とりあえず「Is everything OK?」と聞くと 「This is our first day.」ときた。「大丈夫みたいですわ。今日が日本の初日らしいですよ。」 とウェートレスに声をかけながら店内を見渡すと、店内にはおばあちゃんウェートレスと 中国人職人、客は私たち夫婦以外に、件の中国人家族と6人の韓国人の若者たちしかいな いのであった。ウェートレスに「中国人の寿司職人とは珍しいですね」と聞くと、「ええ 子ですよ。前は韓国の子もいたんですけどね。帰ってしまいました。」「どうしたんです か?」「徴兵ですわ。」 遠からず日本もこの店のように、アジアからの観光客と高齢者と外国人労働者で回るよう になるかもしれない。その時はやっぱりこの店のおばあちゃんと中国人のシェフのように 和気あいあいと行けばいいよなあ、などと感慨にふけりつつ勘定を終えて雨の難波へでた。 3 e-dream-s.come.true Pray for Paris: パリへのオマージュ 井 川 好 二 Pray for Paris2 始めてパリに行ったのは、1971 年。大学生の夏であった。 ヨーロッパがいまだ、世界規模のパワーハウスの一つとして現役で、若者文化にも強力な インパクトを与え続けていた時代であった。中でもフランスの、おしゃれで知的なイメー ジは、東アジアのミーハー大学生の心にもしっかり刻まれていた。 しかし、60 年代の「政治の季節」をくぐり抜けた日本の大学生が、その頃抱いていたパリ のイメージは、エッフェル塔やシャンゼリゼ大通りの華やかさでではなく、1968 年の「五 月革命3」、学生運動に揺れたカルチエ・ラタン4であり、カフェのテーブル越しに過激な思 2 https://dribbble.com/shots/2354089-Pray-For-Paris 五月革命 Evnement de mai 1968: 1968 年 5 月パリの学生運動に端を発し,フランス全土に 広がった社会変革を求める大衆運動。発端はパリ大学の学生が大学制度の改革を求めたの に対し大学側は拒否し,5 月 3 日大学に集った学生を警官隊が実力で排除したことから, パリ市内で学生と警官隊が激しく衝突し,地方大学にも波及して市街戦の様相を 1 週間も 呈した。[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008] 4 カルチエ・ラタン(Quartier latin)セーヌ川左岸、5 区と 6 区にまたがる区域で、カルチ エは「地区」、ラタンとは「ラテン語」のことであり、「ラテン語地区」を意味する。これ 4 3 想を語る、ゴダール5の描く女たちの姿であった。以来、パリに滞在したのは、夏に2回、 冬に2回。夏冬どちらのパリも気に入っている。 5月革命:カルチェ・ラタンをデモする学生たち6 今回は、かつてパリを訪れた日本人文筆家が、パリについて記した文章を紹介し、パリの 魅力を復習したい。突然パリを襲った IS7(イスラム国)による連続テロ事件から一ヶ月。 この許されない残虐行為の傷跡から、パリが一日でもはやく立ち直り、その本来の美しさ を取り戻して欲しいと思う気持ちで、これを書いている。私のパリへのオマージュ、“Pray for Paris”のつもりである。 はフランス語が未統一であった時代、ヨーロッパ各地から集まった学生たちが当時の学問 や教会における国際共通語であったラテン語で会話したことに由来する。パリ大学をはじ め、高等教育機関が集中しており、昔から学生街として有名である。1960 年代、特に五月 革命のときに、様々な反体制学生運動の中心地であった。パンテオン、サン・ミシェル広 場、サンジェルマン大通りなどの観光名所も多く、リュクサンブール庭園もほど近い。 (Wikipedia) 5 ゴダール【Jean-Luc Godard】フランスの映画監督。ヌーヴェル‐ヴァーグの旗手。作「勝 手にしやがれ」「気狂いピエロ」「中国女」など。(1930~)[株式会社岩波書店 広辞苑第六 版] 6 https://errepublikaplaza.files.wordpress.com/2014/02/paris-mayo-68-estudiantes-en-la-calle.jpg 7 ISIL(アイシル、英語: Islamic State in Iraq and the Levant:イラク・レバントのイスラム国) とは、IS(英語: Islamic State:イスラム国)と名乗り、イラク・シリア間にまたがって活動 するイスラム過激派組織である。(Wikipedia) 5 司馬遼太郎8は、1980 年代初めにパリを訪れている。「街道をゆく」シリーズの「南蛮のみ ち I」で、日本にキリスト教を伝えたバスク人、フランシスコ・ザヴィエルの足跡を辿り、 ザヴィエルが学んだ「聖バルブ学院9」があるパリのカルチェ・ラタンに来ている。 「カルチェ・ラタンの青春」と題した章のなかで司馬は、16世紀のパリ市の人口が40 万人であったのに比して、カルチェ・ラタンでは4千人もの学生が学んでいたことに注目 し、その若者比率の大きさに感心している。そして、 その街はいまも存在し、四百数十年前とおなじように世界中から学生があつまり、学生 がいるかぎりはおなじく青春がつづいているわけで、青春という意味においては永遠に 何ごとかが継承されてゆく区域(まち)といっていい。(p. 48) パリ大学や高等師範学校などの高等教育機関が集中するカルチェ・ラタンは、セーヌ川の 左岸(Rive Gauche)10にあり、古くからパリの学生街として発達した。中世ヨーロッパにおけ る学問の共通語はラテン語であり、そのラテン語を話す学者・学生たちが集まるエリアと して「ラテン語区」(Latin Quarter)と呼ばれた。 The area gets its name from the Latin language, which was once widely spoken in and around the University since Latin was the language of learning in the Middle Ages in Europe. (Wikipedia) 8 しば‐りょうたろう【司馬遼太郎】小説家。本名、福田定一。大阪生れ。大阪外大卒。乱 世・変革期の群像を描いた「国盗り物語」「竜馬がゆく」「坂の上の雲」などの小説や、紀 行「街道をゆく」で司馬史観と呼ばれる柔軟な歴史解釈を示す。文化勲章。(1923~1996) [株式会社岩波書店 広辞苑第五版] 9 パリ第 2 大学図書館(旧聖バルブ学院)パリに留学したザヴィエルはここで 11 年間学び 教えた。カルチェ・ラタンの一角で、パンテオンの北側に位置する。 http://publications.asahi.com/kaidou/22/index.shtml 10 La Rive Gauche (French pronunciation: The Left Bank) is the southern bank of the River Seine in Paris. Here the river flows roughly westward, cutting the city in two: looking downstream, the southern bank is to the left, and the northern bank (or Rive Droite) is to the right. (Wikipedia) 6 須田剋太11『キャベツ型の箱レストラン』12 スペインのバスク地方からやってきたザヴィエルや同郷の盟友イグナチオ・デ・ロヨラ13が 学生だった 1520~30 年代、学生運動のエネルギーが充満した 1960 年代、そして今も「青春」 が次々に継承されて行く街。若者は、ヨーロッパ各地から、アフリカから、アメリカから、 アジアから、世界の各国から引き込まれるように、パリのカルチェ・ラタンに集まってく る。 こうした世界中から若者を招き入れるカルチェ・ラタンの魅力を、司馬は魚が好んで集ま る魚礁14にたとえている。 11 須田 剋太(すだ こくた、1906 年 5 月 1 日 - 1990 年 7 月 14 日 )は、日本の洋画家。埼 玉県生。浦和画家。当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949 年以降抽象画へと進 む。力強い奔放なタッチが特徴と評される。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵 を担当し、また取材旅行にも同行した。道元の禅の世界を愛した。(Wikipedia) 12 http://www.kokuta.com/09-kaigai/01-paris.html 13 イグナティウス‐デ‐ロヨラ【Ignatius de Loyola】スペインの宗教家。戦争で重傷を負い、 病臥中回心、同志とともにイエズス会を創立。(1491~1556)→イエズス会 [株式会社岩 波書店 広辞苑第六版] 14 ぎょ‐しょう【魚礁】海底の隆起部で、水深が浅く、漁場として利用される場所。海水 の循環が活発で、栄養塩類に富み、太陽光線も届くので、魚類が集まる。→人工魚礁 [株 式会社岩波書店 広辞苑第六版] 7 さまざまな学生たちがそこにいるということで、いっさいがザヴィエルのころとかわら ない。建物自身も、変わるまいと努力している。魚たちが、古来、岩場の入りくんだ藻 の林に好んであつまるように。青春もまた、永劫からきて永劫へつづくといった装置を 欲している。このまちには、どの壁や隅角、くらい凹室、緑色にもりあがったふるいペ ンキの扉といったところに、遠い時代から継承してきた良質の微生物が歴世棲みつづけ てきて、それが、よき文化の遺伝をつくるべくつねに発酵しているらしい。(p. 49) カルチェ・ラタンは、青春が永遠に継承されていく街であり、そのダイナミズムが世界中 からやってきた若者たちによって支えられているところに、パリの都市としての広さと深 さがある。その魚礁のようなカルチェ・ラタンは「よき文化の遺伝をつくるべくつねに発 酵している」と書くあたり、司馬のミューズ15も若々しく羽ばたいている。 ちなみに、司馬の「南蛮のみち I」は、1984 年に発表され、その年の「日本文学大賞16」を 受賞している。 司馬遼太郎と須田剋太:パリのカフェで17 1971 年 7 月、随筆家の須賀敦子18はパリを訪れている。泊まっていたカルチェ・ラタンに 15 ミューズ[Muse]ギリシア神話で、文芸・音楽・学術などの知的活動をつかさどる女神。 一般に九人とされる。[明鏡国語辞典 第二版] 16 日本文学大賞(にほんぶんがくたいしょう)は、1968 年から 1987 年まで、新潮文芸振興 会が三大新潮賞のひとつとして設けていた文学賞である。(Wikipedia) 17 週刊朝日増刊「司馬遼太郎が語る日本」1996 朝日新聞社 8 あるホテル・ド・ラ・カリフォルニー 19の部屋からの景色を語る。ノートル・ダム大聖堂 が窓から見えるのである。 すぐそこ、といっていい距離にパリの大聖堂ノートル・ダムが、まだ昼間の青が残った 夜空を背に、溢れるような照明の光をあびて、ぽっかり宙に浮かんでいた。それも、セ ーヌ河沿いの花やかな南面を惜しげなくこちらに向けて。… 宇宙にむかって咲きほこる、 神秘の白い薔薇。… 精神の均衡と都会的な洗練の粋をきわめるパリの大聖堂が目の前に あった。 (「ヴェネツィアの宿」20pp. 133-134) 「すぐそこ、といっていい距離にパリの大聖堂ノートル・ダムが」と云う表現が、須賀の 驚きと感動を表している。新鮮なパリである。 ノートル・ダム大聖堂21 「なんでもないふつうの窓と思いこんで、力まかせにあけたものだから、その分だけ驚 きは大きかった。ついさっきまで暮れなずんでいた背景の空には、もう暗い夜がいっぱ 18 すが‐あつこ【須賀敦子】随筆家・イタリア文学者。芦屋市生れ。作「ミラノ 霧の風景」 。 (1929~1998)[株式会社岩波書店 広辞苑第六版] 19 現在は California Saint Germain Hotel Paris 20 須賀敦子(1993)「ヴェネツィアの宿」東京:文芸春秋 9 いにひろがって、光のなかの薔薇窓は神秘に酔いしれて、いちだんとまばゆくきらめい た。十六年目のノートル・ダムは、もったいないほど美しかった」(p. 134) 須賀は、この年、長年住みなれたヨーロッパから一旦帰国することとなり、日本へ帰る前 に是非ともと住まいのあったミラノからパリへやってきた。1950 年代に留学生として二年 間パリ大学で学んでいる。 須賀は、自分のパリ留学時代を、「枠をおろそかにして、細部だけに凝りかたまっていたパ リの日々」(『図書館の記憶22』p. 98)と、あまり幸せではなかった青春の日々として振り返 るのだが、そのパリを再訪し「力まかせにあけた」ホテルの窓から視界に飛び込んできた、 「すぐそこ」にあるノートル・ダム大聖堂の美しさを、ありがたいと感じる。永遠のパリ の魅力であろう。 須賀敦子がパリで通ったサント・ジュヌヴィエーヴ図書館23(左手) 明治 45 年生まれの吉田健一24は、父吉田茂25が当時外交官だったため、幼い頃からヨーロ 21 http://sites.psu.edu/foxpassionblog/wp-content/uploads/sites/16559/2015/03/notre-dame-2.jpg 須賀敦子(1998)「時のかけらたち」東京:青土社 所収 23 https://www.facebook.com/atsukoriccasuga/?fref=photo 24 よしだ‐けんいち【吉田健一】評論家・小説家。東京生れ。茂の長男。ケンブリッジ大 中退。表現の重要性を唱えて日本近代文学を批判。評論「ヨオロツパの世紀末」、小説「瓦 10 22 ッパの各地を転々とした。 吉田は、『昔のパリ』26と題するエッセイのなかで、1930 年代のパリを語り、時を経ても変 わらぬその魅力を語る。 併しそれならば例えば戦前の一九三〇年代のパリと今ではどうだろうか。戦争が終って 間もない頃にシャンゼリゼーの通りがアメリカの観光客の車で埋まっていると聞いてそ のような所に戻って行くものかと思ったことがあった。今はこの考えが少し早合点に過 ぎたという気がしてアメリカの観光客が日本のに変ってもパリはやはりパリであること を失わないでいるらしい。併しそのことを確めに行っていないのでこれは一九三〇年代 の既に半世紀近く前のことになったパリの話である。(p. 34) 冬のシャンゼリゼ27 アメリカ人、日本人、そして、最近ではアラブ系、中国人など、さまざまな「余所者」が 大挙してパリへやってきて、シャンゼリゼを埋め尽くす。Aux Champs-Elysées!28 礫の中」など。(1912~1977)[岩波書店 広辞苑第六版] 25 よしだ‐しげる【吉田茂】外交官・政治家。東京生れ。東大卒。奉天総領事・外務次官・ 駐英大使などを歴任。第二次大戦後、外相。1946 年日本自由党総裁、次いで首相。48~54 年連続して首相となり、戦後政治の基本路線を定め、親米政策を推進。51 年サン‐フラン シスコ講和条約に調印。(1878~1967)[株式会社岩波書店 広辞苑第六版] 26 吉田健一26(2006)「旅の時間」東京:講談社文芸文庫 所収 27 Photo by Koji Igawa, December 2007. 28 オー・シャンゼリゼは、シャンソンまたはフレンチ・ポップスとされる歌曲 Les 11 そうなってもしかし、「パリはパリであることを失わない」のがパリであると吉田は云う。 そして、パリの冬を語っている。 その頃のパリは灰色をしていた。併しこれから自分の話を始めるのではない。村山とい うロンドンの会社に事務の見習いに寄越された日本の貿易商の息子が年末の休みにパリ に来ていて冬なので村山にはパリが一層眼に灰色に映ったということも考えられる。パ リは冬の朝でも何となく外に出たくなるような町だった。これは村山がパリに来た最初 ではなくて二年ばかりヨーロッパにいるうちに冬のパリを知ってその季節にはこの町と 決めていた、別に何の当てがあるのでもなくて好きなように一日が過せる程度にフラン ス語も勉強していて又そうなればパリはいい町だった。(pp. 35-36) 最近では、英語を話すパリジャンが増えたようだが、フランス語が多少話せるとパリは、 「いい町」なのである。そして、寒くて暗いパリの冬だが、「冬のパリを知ってその季節に はこの町と決めていた」と、吉田も云うように、パリは冬が良いのである。あるいは、冬 も良いのである。 そして、冬のパリには旨いものがたくさん。街角で「マロンショー!」と呼び声をあげて 売っている焼き栗。レストランで出される熱々のオニオン・グラティネ 29。どちらも口が 火傷しそうになるが、旨い。 そして、生牡蠣。こちらは、ひんやりとしてプリッとした食感がたまらない。冷えた白ワ インといただくのが至福である。 Champs-Élysées (フランス語発音:レシャンゼリゼ)の邦題。歌詞はパリのシャンゼリゼ通 りをモチーフとしている。1971 年に発売されたダニエル・ビダルのレコードが日本でのヒ ット。(Wikipedia) 29 耐熱性の器にスープを注いでからフランスパンを浮かべ、チーズをふりかけてからオー ブンに入れ、焼き色がつくまで焼くとスーパ・ロワニョン・グラティネ(soupe à l’oignon gratiné)となる。フランスでは二日酔いに効くと言われる。(Wikipedia) 12 マロン・ショー30 (marrons chauds)と呼ばれる焼き栗31 最後に、ヨーロッパ中世史の研究者、増田四郎32の文章を紹介する。増田は、「パリの大き さ」と云うタイトルのエッセイで、パリの魅力を新旧の融合にあるとする。 パリはたえまなく新しいものをつくり出すが、実はつねに古いものをかかえている。そ して新しいものと古いものとが、パリという大都会のもつ不可思議な「文化」の力によ って、渾然と調和のある一体に融合されてしまうらしい。エッフェル塔ができた当初は、 おそらくずいぶん不調和なものと思われたに相違ない。ところがそのエッフェル塔でさ えも、いまでは「パリ」に融合されてしまった。だから新しいものがよいのでもなけれ ば、古いものがよいのでもない。実はその計り知ることのできない調和力が尊いのであ る。新しいものと古いものとが、てんでんばらばらに雑居しているのではない。両々相 俟って一つのパリをかたちづくっているのである。(「ヨーロッパの都市と生活33」p. 170) 30 だんだん空気が寒くなり、空が澄んでくるとフランス・パリに冬がやってきます。冬に なると、街の至る所に「マロンショー」と呼ぶ声が聞こえてきます。マロンとは栗、ショ ーとは熱いという意味で、焼き栗を売る声なのです。焼いた栗を袋に入れて売ってくれま す。この声を聞くと冬を感じるというパリジャン・パリジェンヌも多いです。 http://ryugaku.kuraveil.jp/detail_experience_1093/ 31 http://images.monmenu.fr/images/40541839f7d13e9de1ceace2e9770e3a15bf06ec31779960_full.j pg 32 増田 四郎(ますだ しろう、1908 年 10 月 2 日 - 1997 年 6 月 22 日)は、日本の歴史学者。 一橋大学名誉教授。専門は西洋史、西洋経済史。西洋社会・経済史の変遷を、実証研究と、 比較社会史・地域史の方法論を用いて研究した。日本学術振興会会長、国立大学協会副会 長、日本学士院会員等を歴任。文化勲章受章。(Wikipedia) 33 増田四郎(1975)「ヨーロッパの都市と生活」東京:筑摩書房 所収 13 このような力をもっている町は、ヨーロッパ、いな、世界広しといえども、パリの右に でるものはなかろう。(p. 170) 冬のエッフェル塔34 明治生まれで、奈良の山村の出身の歴史学者増田の、真面目すぎるとも思われる言葉だが、 この平凡なオマージュを、今の私のパリに対する素直な気持ちを示すものとして、この稿 を終えることとする。 いますぐ、パリへ飛びたくなった。(Saturday, December 12, 2015) 34 Photo by Koji Igawa: December 2007 14 仕事で磨かれるスキル 塚 本 美 紀 今年の春から高校の英語の教員として勤め始めた卒業生がブログで、博多駅で学ランの第 一ボタンをとめずに着用していた見ず知らずの少年に、「ボタンとめなさい!」と思わず言 いそうになったというエピソードを紹介していた。本人は疲れ過ぎが原因かと分析してい たが、私は「それは教師あるあるですね。」と返信した。皆さんも、似たような経験がある のではないだろうか。私は電車に乗る際、今でも「入口付近にとまらない!」「もっと奥に つめなさい。」「急いで!」などと言いそうになる。 転職して、それまで当たり前のようにやっていたことが、別の場所では当たり前でなかっ たり、逆にみんなが普通にやっていることが私にはできなかったりすることに気づいた。 置かれた場所で、必要とされることを淡々とやってきただけでも、23年もやっていれば、 少しはできるようになるものもあるものだと思ったりした。 先月、北九州市で持続可能な社会をテーマにしたミュージカルが実施された。市民が立ち 上げた実行委員会は全員が女性で、私も末席ながら参加させていただき、学生もお手伝い をさせていただいた。市内で一番大きな劇場で開催する大規模なもので、一部は市民の合 唱団も参加するという形式がとられていた。この合唱団を率いるのが、小学校の教員を2 0年以上前に引退なさった女性である。小さな子供から高齢者までいる合唱団を見事にま とめ、素晴らしい歌声でミュージカルに花をそえていた。大連生まれの彼女は、退職後合 唱団を立ち上げ、国内でコンサートを実施するだけではなく、毎年大連の合唱団との交流 を続けているそうだ。業務には厳しい態度で臨む反面、温かい包容力を感じる彼女はきっ と、厳しくても生徒に慕われ、保護者にも信頼された先生であったにちがいない。 市民による実行委員会には、長年公民館での活動に熱心に取り組んできた主婦や資金面で の協力を申し出た経営者たちなど、さまざまな人たちが参加していた。それぞれの人たち が、これまで身につけたスキルや培ったネットワークを活かして、この大きなイベントを 成功へと導いたことをいろんな場面で見ることができた。頼もしい先輩方の姿を見ている と、私も今ある場所で精進し、少しでも力をつけることができたらと思う。 編集後記:12月になると1年が過ぎたことを実感する。自分の環境が大きく変化することはなかった が、一緒に仕事や活動をする人たちから、たくさんの刺激を受けた。そのことに感謝したい。 (岡田) 15