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法然 !こ人鍛仰会

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法然 !こ人鍛仰会
争土
A
1166. , 0号 t 毎月 1 固 18 先行i 平成 12 年 10 月 1 日発行昭 ~Dl0 年 5 月初日開3lUSfII!11J可
m~nthly
JモOO
法然 !こ 人鍛仰会
~.j._
2側/10月号目次
目次 …・・…H ・ H ・......・ H ・......・ H ・-…H・H ・...…... .・ H ・..…・・…-・ H・H・-…… H・ H・-… H ・ H・...
講演概録 f 法然の魅力 J … H ・ H ・-…… H ・ H ・ ......・ H ・...・ H ・....・...… 阿満利麿
1.
2
懐かしさ玩具 ・…・・……H ・ H ・-………… H ・ H・ -… H ・ H・..… H ・ H ・..芝崎慶三
13
木綿住生 … H ・ H ・-… H ・ H ・.. .. ..・ H ・...・H ・....・ H ・...…・・・・…一…… H ・ H ・.. 門臨允元
14
連銀法撚上人をめ ぐる人々 … H ・ H ・..…・ H ・ H ・ ....…..........・ H ・- 石丸晶子
18
明j伝大野法道上 ・....・H・... . .......…H ・ H ・...…・…...・ H ・-…. . ..・ H ・..…宮椋昭彦
26
響流十方 …H ・ H ・-… H ・ H ・-…… H ・ H・-… 一 … H・ H ・-…....・ H ・ H ・H ・...・ H ・小村正君事
3
2
連銀つぽ庭日記 ... . ・H ・..・・…… H ・ H ・.. . .. . ・ H ・-…H ・ H ・-・…...・ H ・.... 近薗唖々砂 36
MUSICREV回W ..…… H ・ H・-・…......・H ・...・ H ・-…… H・H ・-… H ・ H ・-… H ・ H・-…..・
40
コラム 「浄土宗と浄土真宗J … H ・ H ・-…H ・ H ・-… H ・ H ・......・ H ・-… H・ H・-… H ・ H ・ -…
4
2
3 フォーラム ……........・ H ・....…・……………………・・…...・ H ・..………・・・
4
3
浄土誌上句会 …・・ H ・H・ . ....・ H ・....・ H ・...… H・ H ・....・H・....・・・選者増田河郎子
4
4
マンガで楽しL 、仏教用語 … H・H・...… H ・H ・ H ・ H ・ . ....・ H ・. .. ..・ H ・.. 醸井ひろし
47
編集後記 ・…・・…… …・ ・・ ー … 一… …H ・ H ・...…・・ H ・ H・......・ H ・.....・ H ・...・H・. . ..・ H ・ .48
表紙題字=浄土門主
中村勝~~先下
型lfIU・ E芸 =Z自由高度三
アートテ・ ィレクション= 近藤十四郎
協力= 迦陵頻伽合
法然の継)J
法然上人のお人柄も大変すばらしかったでしょうが、何といっても法然上人が発見され
。
。
た「専修本嬰必仏」という、この信仰がすばらしいのでどす
うしても今の人間は、法然
上人の生き方とか、あるいは親鴛盟人の生き方とか、それぞれの人格のあり方について、
いわば小説を読むような興味で関心をお持ちになることが多いのであります
また、そう
。
いう議論が多いのであります けれども大事なことは、あくまでも法然上人がすばらしい
。
。
宗教を我 々の前に提示してくださ った だから、我々が讃仰するのは、その教え移設仰す
るということが碁本でなくてはいけません 本当は阿弥陀仏を讃える会というのを聞かな
くちゃいけないんだけれども、阿弥陀仏存讃える会だけでは手がかりがなさ過ぎますから、
法然上人を、あるいは親鴛聖人をということになるのでありましょうが、どうぞ、法然上
。
。
。
。
。
。
人によ って開かれた仏教が大変すばらしい、魅力があるんだという、そ一
の
点だけは大事
にしていただきたいと思うのであります
申し上けるまでもなく、ほとんど同時代の人は、法然上人がどういうすばらし
仏い
教を
発見されたかということを、ちゃんと紹介しておられるので
私す
はその人に従 って、法
然上人の仏教と法然上人のすばらしさをお伝えしたいと思いますそれはどなたかという
と『徒然草』の兼好法師なんです 兼好法市という人は、法然上人の仏教というもの、あ
るいは法然上人のお人柄というものをよくよく見抜いていた人だと思います
その『徒然草』の第m段
mに、法然上人について三 つのことを引用しているんです その
。
三 つが、私から言わせます止、法然上人の仏教の本質だと思います
どういうことかといいますと、あるとき法然上人のお弟子が、お念仏をしなくちゃいけ
ないんだけど、お念仏のときに眠たくなってお念仏が口をついて出ないし、あるいはお話
3
。
を聞くことも難しい どうしたらよかろうかということを法然上人
。
。
。
。
にお尋ねになった そしたら、法然上人が 「
目が党めている閲に念
仏したらいいだろう」 とお っ しゃ った 兼好法師は、 「いと尊かり
けり ょ と措いています
私は、すばらしいと思います 法然上人が「眠たいときには我慢
。
。
。
。
。
。
。
。
することはないんだ
自が党めて機嫌のいいときにお念仏をすれば
これはすばらしいことなんです
よろしい」と言っていることです
こういうことを言う宗教家はいません 多くの宗教家は、「そうい
うときには水でも浴びて気を取り直して話を気かなくちゃいか」
ん
とか、「一所懸命行をしなくちゃいかん」と言うものなんです と
ころが、法然上人はそういうことは一切お っしゃらない およそ苦行ということについて、
法然上人は全否定です
不思議に思うのですが、日本人は宗教というと何か苦行をしなくちゃいかんという、非
常にお っかないところがあるのです 神様や仏様とコミュニケーションをとるためには、
人間の側がそれ相当に努力を重ねて、神様や仏様に許してもらえるような信心をもった体
。
。
や心にならなくちゃいけないという考え方が、ずっと昔からあるんですね
もっと平たく言えば神さまと備さまと人間がギプ・アンド・テイクの関係なんで
人す
間のほうは、これだけの努力をしたから、それとの見合いでいろいろに祈願を聞いてくだ
。
。
。
さるのだというふうに普通は思うわけです しかし、法然上人の仏教はまるで述うんです
人間のほうは仏様に約束多ずる必要もない、何差
もし上げる必要もない いつも申し上げ
4
凶器のU)J
。
。
ることですが、熊谷次郎直実という法然上人の三番目のお弟子さんは、法然上人の門をた
たいたときに、自分の腰の刀を取り出してゴシゴシと研ぐということをした 周囲の人は、
法然上人に会いに来たのに、刀を研ぐというふうな恐しいこと券子'。
る一体これはどうな
るんだと聞くと、次郎直実は、「
自分は武士でたくさんの人を殺してきた たくさんの人
を殺してきた人聞が救われるという宗教がもしあるとすれば、お前の
一本
腕、
の指の 一本
も切って差し出しなさい、そのかわりにあなた務救ってあげましょうと、きっと言われる
。
。
。
。
。
。
。
。
。
。
。
。
はずだ だから、自分は指や腕を切るのに痛くないように、よく切れるように、こうして
いよいよ法然上人に会 って、「自
刀を 一所懸命研いでいるんだ 」 と、こういう話をした
とお尋ねしたら、法
分のような罪悪深重の人聞が救われるには、どうしたらいいです
」か
然上人は 「あなたの罪の軽量は問わない 。一切問題ではないんだ ただ本願を信じて念仏
申すことで救われるのだ
」 とお っ し ゃられた そこで感激屈の熊谷次郎直実はおいおい泣
き出したんです 男泣したのです 法然上人がびっくりされて、
「どうして、おまえはそんなに泣く」
のか
「自分のような悪人が救われるには、それ相当の代償を出さなきゃいけないとっ
思てい
き っと腕の 一
た
本、指の 一本を切り出せと言われるに決ま っていると思 っていた しか
し、何とおまえの罪悪は一切開わない おまえがいかなる悪人であるかということは問わ
ない ただ阿弥陀仏の本願を信じて念仏せよ、それが救いなんだとこんなうれしいこと
があろうかというので、こうして涙が出ているんです」
こういう有名な話があるわけです
つ思
自分が救われるのだったら、それ相当のあがないをしないとだめなんじゃないかと
5
。
。
。
ていたところ、法然上人がそれを問わないとお っ しゃ ったんです これはなかなかの教え
なんですね こういう話をいたしますと、中学生でも感動するんですましてや皆さんは
も っと感動していただけるでしょう 。あるとき、この話を中 学生にしたら、「
あなたはい
そう 言
う
。
ろいろ難しい話をされたけれども、的問合次郎直突の話はよくわかりました」と、ム中堂生が
。
。
中掌生の心をもつかむことができる教えなんですね 法然上人は何とすばらし
い方かということになります
。
。
。
。
。
念仏というと、日本人の間には、お葬式のときに死んだ人の前で念仏をするというのが
一
般的なんです しかし、法然上人の念仏というのは、同じ念仏であっても死者のための
念仏ではない 死んだ人の鎮魂慰霊のための念仏ではなくて、自分がどのようにして救わ
れていくのかという、自分のための念仏なんです
自分のための念仏、つまり阿弥陀仏の本願を信じて念仏を申すという教えでございます
法然上人の仏教は、それ以外のことは一切問わないというところがすばらしい 法然上人
にある人 が 、 「
お酒を飲むのは罪でありましょうか
」と尋ねたら、法然上人は、「まことに
。
。
は飲むべくなけれども、この世のならい
」 と汀われた 「
飲んでいろいろ附将を起こすこ
とがあろうから、飲まんぼうがいいかもしれない しかし、この世のならいで仕庄がない
。
と
。
。
。
。
。
。
こと ですね 」 とお っ し ゃっ たんです
普通の宗教家であれば、「
酒などはやめたほうがい
い」 と、き っとお っ し ゃっ たかもしれない 先ほどの 「
眠たいときは無理十'る」
なと同じ
です お洞が飲みたい 飲みたければしょうがない つまり、 宗 教というのは、持通は酒
を飲んじ ゃ いかんとか 言うけれども、法然上人は「好きなものは好きなんだ それはやむ
を得ない」
6
出初魅力
。
。
。
ったお手紙を読みます止、しょっちゅう 「
力及ぱず候」 とお っ し
法然上人のお仲むきにな
ゃ っています 例えば法然上人の教えに大変峨勤して、親しい者にも法然上人の教えを弘
幾ら自分がすばらしいと
めたいと思う人たちがいて、法然上人に手紙をよこしてきます
わ
思 って、ほかの人々にそれを教えようと思っても、ほかの人々はなかなか「うん」
言と
ない ですから、何とかほかの人に信心させたいけれども、どうしたらよろしいでしょう
かと相談してくると、法然上人は、幾ら教えても、勧めても、縁ある人はすぐすばらしい
。
。
とわかるかもしれないけれども、縁の遠い人に無理に信じさせようということは阿弥陀さ
「
力及ぱず侯」 と
んでもで き な い こ と で あ る
。
あるいは当時は法華経という経典が大変力存持 っていた ですから、法然上人の念仏も
すばらしいけれども、世の中で 一番評価の高い法華経
・ というものも念仏とあわせて大事に
したいが、どうでしょうかということ存議然上人に尋ねると、法然上人は、阿弥陀仏の本
願第十八願に、法華経を読んだり、書写したり、持っていたりしなくちでためということ
。
はどこにも書いてない ただひたすら念仏だけする者会通え取ると書いてあるだけだから、
。
。
。
法華経会ャ大事にするということは不必要なんし
だかし、あなたがどうしても大事だと思
うなら仕方がない 私は「力及ぱず候」と書いてある
。
。
。
。
この 「
力及ばず候」というのは、法然上人の仏教で非常に大事なところなんな
でぜ
す
法然上人が 「
力及ぱず候」 という 言 い方をされるのか あるいは苦行を問題にせず、ただ
ひたすら信じて念仏するということだけ生議されたのか
これは私どもが阿呆な存在だからです我々が自分で自分多救う力があれば、賞作も必
。
。
。
要です 苦行も有効性を発揮する しかし、我々は#芦作ができそうで、実はできない例
7
。
。
。
。
。
えば、これから 3年間、毎朝 6時 5分 ilA O時じゃなくて 6時 5分に起きなさいと言われ
たら、どれだけの人が続けられますか
。三 日坊主と言いますから、恐らく 3 日間ぐらいは
続くかもしれない 4日目ぐらいから〈何で 6時 5分に起きなくちゃいかんのか〉という
ことになって、こういうことは統かないものです大体こういうことをして何になるんだ
ろうかというふうに考えるのが、我々の大事なところです つまり伝統的な言葉で言えば、
私どもは九夫だからなんです 苦行ができないのは、苦行をやり過せないのは、我々が凡
夫だからなんです
凡夫という言葉は今は死語ですが、凡夫というのは阿呆を本質にしている人間のことで
。
。
す 普通、我々は自分は平生は賢くて、ときどき阿呆をしでかすと思っているわけです
しかし、法然上人が、たまに賢いことはあるが阿呆を本質にしている、それが人間の本質
。
。
だということをおっしゃったというのは、法然上人のすばらしいところなんです
ですか
ら、阿呆の最たるものは、自分が阿呆であることを知らないということなんです
自分が
。
。
。
。
賢いと思 っているのが最も凡夫たる ゆえんなんです 自分が相当阿呆であるなということ
が少し見えてきていることは、既に阿弥陀さんの力をかりていることなんです
法然上人をして 「
力及ばず」と長嘆息させた凡夫という人間のあり方の本質というもの
を、いろいろと探っていきますと、凡夫というのは自分で自分会主切る存在なんで私
す
どもは、日々の怒らしの中で絶えず自分務裳切って暮らしているのであります
自分で自
。
分会義切ったことがないという方がいらっしゃれば、それは仏様で
すは何かかにか
我々
自分会義切って、自分をごまかして何十年か生きてきて、またこれからも生き続けるわけ
。
です いろいろと弁解をする術は発達しておりますから、自分で自分療薬切ったというこ
8
法t.M職jJ
っている わ け で あ り ま す
。
とでも、裏切っているというとと自体も感じずに、ちゃんと生きていくだけの智恵も備わ
。
現代の多くの人たちは、自分がだれだという考え方会持つことができない
自分が偉い
。
ということについては幾らでも自信が持て るけれども、自分は大した人間ではないんだ、
阿呆な存在だということを自覚するというのは難しいんですこれは法然上人の時代と現
。
。
しか し 、 変 わ る の で す
。
。
。
。
。
。
。
。
。
。
。
。
代との 一番大きな違いです 法然上人のお手紙を読んで驚くのは、自分たちのような愚か
な人間でも、この仏教で救われていくんですよと、必ず自分のことを「愚かな者でも」と
自分のような愚かな者」 ということはだ
いうふうに形容している 今の人 間は、自分で 「
った者から見
れも言わないですね 私のようにちゃんと生きてきて、それ相当の考え会持
ゃんちゃらお かしいと 言うわけです えらい遣いです
れば、法然上人の仏教なんてち
夏目激石の小説の中には、世の中に悪人という人はいません普人が突然に悪人になる
から恐しいんだということ会普いているということを、いつでもお話しいたしま善
す人
が突然悪人に変わるというのは、普人だと思っている人の中にどういう因縁が働くか、縁
そす
うい
次第で我々はどういう生き方券子'るかわからんということを示しているわけで
うことは、ニュースで出てくるいろんな恐しい事件の犯人について、周囲の人たちにうわ
さを聞くと、立派な人だ、大人しい人でしたよとか、いろいろ申します それは我々が自
分で自分がわからなくて、突然変わるんです変わるのはあの人で、私は変わらないと多
くの方は思っておられるでしょう 私も思っているんです 自分は変わらないと思ってい
る
そういうふうに、我々は 一寸先は聞という存在ですから、自分の力で自分会救うという
9
。
。
のは、どうしてもできない そういうことが身にしみればしみるほど、阿弥陀仏の本願と
いう、法然上人のおっしゃった「他左といζ
うとによ ってしか救われていかないことが、
身にしみでわかってくるんです ですから、「
他 力」 というものがわかるためには、自分
が自分を救うととはできないという思いが十分に出てきていないと、なかなか難しいこと
。
です しかも、先ほど申し主けたように、凡夫というのは自分で自分を救うことができな
。
。
いということは、なかなか思えない存在なんです よほどのことがないと自分は阿呆やと
思えないんです だから、「他カ」という信仰はやさしいのだけれども、なかなか難しい
。
と一わ
吉 れるのは、そういうことも含まれてくるわけです
。
。
。
。
。
。
、
法然上人は賀町ということを否定された 苦行によって救われることはできないという
ことを教えられた 同時に、もう 一つ大事なことは道徳によっても救われていくことはで
きないんだというととを教えられた もちろん十 三世紀という時代は、道徳とか宗教とい
う言葉はありません 道徳という言葉も、宗教という言葉も、明治以降につくられ日
た
本
語でありますから、当時はそういう言葉はないしかし 今から思えば、法然上人の説く
宗教というものは、苦行によって人聞は救われないということと同時に、道徳によっても
救われないということを言っているのであります
。
。
世間は道徳で成り立っているわけです しかし、今申し上げたように、我々のあり方と
いうことをよく見極めてみると、因縁によって縛られている存在でありますから、道徳を
守るというととは容易でないということも、またわかってくるわけです
善人としていろ
んな人に褒められて暮らしていきたいと願って、現に暮らしているけれども、思いもかけ
。
ないことがあって、ほかの人からの
叱責を受けざるを得ないようなことも生じるわけです
1
0
出書偽~J
。
。
。
道徳的に 普 人であり続けるということは、凡夫にと っては大変難しいことです しかし、
それでも凡夫というのは善人であろうと努力するものなんです 道徳の問題というのは、
自分はいつも道徳的に安全地帯にいるものだと思いがちであります
道徳的に過ちを犯す
。
。
のはあの人であって、私は道徳
的に過ちを犯すこ とはないと 、将通はそう思 って暮らして
品・し上げたように、普人は突然悪人になるということが、また
いるわけです しかし、 ふ
人生の真相なんです ですから、生涯善人としてお暮らしの方は、法然上人の仏教と縁が
。
。
。
。
。
ったのかということにな
ってしまう
。
。
。
なくて終わられるかもしれない それはめでたいことであります しかし、我々は毎日暮
らしているうちに、どうしても自分存裳切って、普人であり続けることができないことが
あるわけであります
道徳の世界で十分に道徳的に満たされて暮らしている人は何とも思われないかもしれな
いけれども、 一たび道徳に破れた人間にとれば、道徳の先の救いの世界がなければ、これ
はもっ生きていけないですよ ですから、宗教というのは、議仙に破れて初めて早える世
界と言って もいいかもしれない 道徳というもの、普思というものに破れてもなおかつ救
われる世界がある これは悪人にとっては大変な救いです そうでなくちゃ、自分の人生
は何のた め に あ
。
。
法然上人の仏教というのは、先ほどの熊谷次郎直実の例のように、たくさんの人間を殺
してきた武士であっても、その武士が 一たび救い多求めてきたときに、その罪の軽量は問
ゃっ た これはすばらしいことです おまえがどれ
わないと、きっぱり法然上人はおっし
。
だけの普を積み、どれだけの悪を犯してきたかということ閲
をわな い 開魔さん の前で、
。
これは
はかりを設けて 一々問われて、恐のほうに傾いたからおまえは地獄行きであると
1/
若いときはそんな話を聞いても何とも思わないけれども、だんだん何か向うの風が強くな
。
。
。
ってくると、それはなかなか深刻な話でありますそういう意味で、法然上人のすばらし
さは、道徳の世界を超えたところに
立成
してい る
もう 一つは、道誌の世界や苦行の世界を悶わないということは、少し話が飛ひますけれ
ども、カリスマという人間のあり方からは速い宗教なんですつまり、法然上人の仏教と
。
。
。
。
いうのは、阿弥陀仏の本願を信ずるということが中心である
それを信じたら、どんな人
間でも救われるというのが法然上人の仏教でありま条
す件がないんです 一切無条件な
んです ところが、普通の日本の宗教では、特別に苦行し修行して、世間で言う霊力のあ
。
。
る偉い方の力をかりで救われていこうとする道が違うんです ですから、「最高ですか、
量高ですか」というような話に引きずり込まれると、たくさんのお金を授け出して教祖と
。
。
。
いう人の力によって救われていこうとすることが起こってくるんでも
す、法然上人の
仏教は、そういう特別の霊力のある人の力は不必要なんです
これはすばらしいことです
。
ひょ っとしたら世界じゅうの宗教で法然上人の仏教だけかもしれません
阿弥陀仏の第十八番の本願という法によらずに、特別の鐙力っ多
て』
い持
る人の力によっ
て救われていくという宗教は、その軍力のある人のいわばわがままによって、自分の大事
。
。
4 ヒ川阿
年
・
u. 法然
t人
-m仰会・姐げ
t~
小1
縫合側究所共催
a油酬会}
。
な人生を左右されてしまう しかし、法によって救われていく宗教は、法を信じるか億じ
ないか、それだけが問われる そこに大きな迎いが出てくるわけであります (つづく)
{平
成卜
1
2
@表紙.
被彰
芝崎慶三
制僕の遊びは古くからあります.
初節句を迎える男児に相撲人形を
贈る風習があるのは費株. 角界の元
鎖、吉岡南省誌がある土地だけに樹擦
が盛んだったのです. 土人形から型
をとって張り子製に変えたものカ吸
ってい ます。
大阪糊僚が盛んな頃は、閥般名入
り有阪の鮒色縛をした力士一対を取
り組んだ形に向かい合わせて陥るし
たm人形が大人気, 手で動fかすと
相模をと っている ように見える玩具
です.
厳の上にのせ仮を叩いて勝負する
タイプは四天王寺の鹿内で売ってい
るのが有名でした.
綱の簿板二枚で耐力士を作った板
相撲、揮を籾僕lま明治中期まで春夏
両場所の臨銭蜘l昔、 健天で売ら れて
いたといいます.
-,」シ
||』
門脇允元
J4
本品続性
それは、昭和六十 一年九月 二十七日にさか
に、その指導者の推煎移永め、一家をあげて
たられたいきさつと、先生と生徒の域を越え
福井県から移り住んだ外村先生がその任に当
。
。
のぼります そのお方は、倉敷民芸館長の外
村告菜ハ先生です
え、二百人ほどの方が全国から事菌際ホテ
ばらくシ lンと静まり耳をそぱ立てて聞きい
なく親子のようであると述べられ、会場はし
た愛情と信頼の篤い関係はいまも変わること
ルに集まり、先生がとくに愛された沖縄の
っていたのです
その日、先生は満八十一議のお誕生日を迎
方々の歌や踊りでお祝いしたのです 祝辞は
したが、お 二方のお話があまりに感動的で、
。
。
そのあと私も祝辞を述べま
知事さんが、世界の優れた民芸を紹介した功
何多品申し上げたか全く党えておりません
。
績と、自宅を開放して本染手織の扶値幅承指
宴が終わりに近づいたとき、外村先生は司
会の方に、 「ひとこと、お礼を述べさせて下
導に挺身された生涯、さらに倉敷の町並保存
に尽くされた功績が讃えられたそして沖純、
さい 」 と申し出られ、淡々と、しかし 一宮の
。
芭蕉布の人間国宝 ・平良敏子さんは、第 二次
ムダもなく、ご生涯のお話をなさいました
。
大戦中、挺身隊として倉敷紡紛にきていて、
果てていたのを、倉敷紡級の社長大原惣
一郎
の生き方を具体的に学ばれ、木綿のように人
工芸の道』を読まれて、人
柳宗悦先生の 『
間
それは、先生が牧師をしておられたとき、
氏が沖縄の復興につながる技術は芭蕉布など
びとの生活の中で役立つ人間になろうと染織
終戦多迎
w えた灰胞と化した沖純に帰れず自り
の染織がいいと日本民営語会創立者柳宗悦氏
1
5
宴が終わり、先生は見送られ車イスでご退
。
木綿は肌着に適し、
の道をえらばれたこと
場されたあと、お世話の方々に私も礼を述べ
ってまわりましたが、そのよ
おむつになり、最後には雑巾になってパケツ
ましたか 」 と伺
て、 「
さき程の先生の謝辞は録音をと ってい
河野先生という方の詩
。
の中で様まれ絞られ汚い所を拭き、ポロにな
って往生いたします
仙台に戻ってからも、あの浄らかなお姿と
。
うな手配がなされていないのでした
困った時に思い出され
お話は、ぜひ後世に残したいものだと慨憐の
を引用され、
用が済めば忘れられる
念が止み難く、東京で映画製作をしている友
人に、つい話したところ、その時の状況を再
ぞうきんになりたい
と話され、道元禅師は雑巾多品陥と称せられ
現してもういちどお話を頂ければ録画しまし
。
あれ程盛大なお祝いをして頂いたのですか
。
「いんげんさん、その心配はいりませんヨ
と会ぶ申し上げてしまったのです
話をしていただけませんかと、失礼千万なこ
よばれされなか った友人達に、もういちどお
私はすぐ電話で、私の心情を訴え、当日お
。
た ζとにふれ、キリストは伝道と治癒の生涯
ょうとなったのです
。
の終わりに十字架に架けられ、罵られ辱しめ
って
られ苦しみの死を遂けられ、その死によ
万人の罪を浄める蛾いを全うせられました
。
まさに滞巾の姿であります
と、神との出会い、柳先生との出会い、ひ
。
とびととの出会いに感謝されたのでございま
す
1
6
A待相当ミ
ら、失礼があ ったら申し訳ないので、苫面に
い生活用 口
」を作り、使い、守 って行く在り
問
「
木綿往生」、それは木綿のように人生を
。
認め、五、六回読んでみて、消子高様)に 方が、 宗教のワクを越えて伝わってくるもの
聞いてもらい直して、これで失礼はないだろ があり、私の座右の本とな っているのです
うかと確かめたのですから、原稿はちゃんと
。
。
てくださる念仏唱名でありましょう
残っているので差し上げましょう」と、やさ 使い切りましょう、と先生が温かく語りかけ
しくおっしゃられたのであります
。
早速地元の方に連絡して、タイプで打って
頂き、先生多桑う多くの方々にコピーを差し
上けたことでした
ってしまうからと話
そのうち、何人かの方から、コピ!の紙で
はそのうち分からなくな
がまとまり、「木綿往生
』と題して小冊子 に
。
して官邸城県営
民古
田央云で発行させていただきま
した
その内容は、何度読んでも、人間の生き方
の根本が説かれていて、信仰の土台の上に、
照民の用に耐え、健康的で美し
民芸という 「
1
7
[-を唱。ろし遺麗小型
式子内親王の生涯(第二部)
第九回残された人々
依然 k人をめぐる人々
二十五
っている京の町
夜が ま だ 聞 け き ら ぬ そ の 翌 日 早 暁 、 う
すあか り の な か に ま だ 眠
。
を、東山の草庵の庭に立つ法然は見おろ
していた
ゐさげ
。
っているのは、
こん な 早 く か ら 、 朝 倒 を 炊 く ら し い け
むりが い く つ か 立 ち の ぼ
源氏の 侍 た ち の 屯 所 で あ ろ う
った姿をさら
西八条や六被縦に出形をかまえた平家
。
の屋敷 跡 が 、 焼 野 原 に か わ
してい る の も 見 渡 せ た
。
草庵 で は 今 、 基 親 父 子 が 帰 っ て い っ た
ところである
法然 の 朝 が 早 い こ と を 知 っ て い る 基 親
早ければ今
。
日 の畳まえにも、法然を迎
えに義経の使有が市施をおとずれるだろ
うという
「信空」
法然は 一歩さが ったところに立って、
。
同じく京の町をながめている弟子をふり
返った
「三
位殿がおられる摺川の御堂は、あれ
ではないかの」
。
法然が指さすかなたに、口先じも視線を
明け方の空に、 一条の煙が 立 ちのぼり、
むけた
。
視線をとらすと、侍たちがたむろしてい
るらしいようすもうかがえる
「八条南、堀川東でございますから、お
。
に転じたところが六披即純である
野原が西八条、そして自を東 山 ぞいのよ問
。
視線をむけたまま信空は答えた
そらく、そうでございましょう」
山崎をたずね、軍衡が南部焼亡の罪を法然
その細 川 の御堂の、すぐかたわらの焼
は、夜 が 明 け き ら ぬ う ち に 父 と と も に 草
に儲悔するゆるしを、八条K 院の艇願に
。
よ って法皇が下した、としらせてきたの
だ
1
9
かつ て 平 家 に あ ら ず ん ば 人 に あ ら ず と
早暁の静寂をやぶって、すぐ北隣りに
ある背蓮院から、憎たちの読経する声が
師と弟子はそのまましばらく説経の声
。
倣語した 一門が屋敷をつらね、御機嫌う
きこえてくる
だが、今
かがい に 参 ず る 公 卿 た ち の 車 が ひ き も き
。
に耳をかたむけていたが、
らずに 往 来 し た と こ ろ で あ る
や焼け 落 ち た 瓦 機 の あ い だ を ぬ っ て 、 そ
然がいった
。
「大仏
も、大仏殿も尊い 」
「はい 」
。
そういって弟子は、法然のつぎのこと
ばを待った
。
しかし、大仏や大仏
「もとより、南部を焼亡させた 三 位殿の
罪はかるくはない
殿の造営にまさって、持いものがある
。
目線を眼下のながめにおいたまま、法
「信空」
士たち の 、 あ る い は 屯 所 と な り 、 あ る い
ムレスたちのねぐらとなっている
。
こは幾万ともしれずに駐屯する瀬氏の武
l
は戦乱 で 家 を 失 っ た 人 々 だ た む ろ す る 、
ホ
堀川の御堂から西八条へ、そして東山
きびしい世に生をうけました」
。
。
つましく弟子は答えた
念珠をもっ手を組みあわせたまま、つ
然はひ と り ご と の よ う に 、
ぞいの六波縦へ、と自を転じていった法
「
現世はすべて夢まぼろしというが、わ
「しかし、人の手が造 ったものは、いつ
かは焼失、破損をまぬがれぬ」
いくばくもせぬうちに、
れら末法の世には生をうけた者はみな、
。
「はい」
たではないか
まこと、夢まぼろしの世のさまをみてき
人も世も移りかわった」
。
「まことに、
師仰の仰せのとおりでご
います
低く 、 岐 く よ う に 侭 空 は 答 え た
2
0
滋波長よ人をめ ぐる人々
わかるか、信空 」
。
配下の侍たちをともな
み
って同席している
。
って、直実がお
庵の前に 立っ たのは、同じ自の巴の刻す
糸w 。
ひ eL
っている実平ら
捕虜とな
。
ってト目、この則、不安と恐
直実も廟にちかいところに控えてい
護にあた
・
のは義経、弁慶、そして御堂で重衡の警
対面の次第をみまも
。
「
念仏にございます
ぎである
念仏にまさるカも、
尊いも の も 、 世 に あ ら ず と 師 僧 は わ れ ら
川 の御堂の 一室で並衡と対座していた
わ
そして午の刻には、法然は掘
にお教えくださいました」
「
そうだ、念仏よ」
。
ふり返って信空をみつめる法然の頬
。
一変した
に、微 笑 の か げ が 宿 っ て い る
「人も世も変り、京の町は
れらは こ の 乱 世 に 生 き る 人 々 に 、 み だ の
。
本願と念仏往生の辺をのべつたえねばな
、
怖に責められてきた由衡は、それまでの
この内乱の世に、希望の灯をとも
らぬ
。
っとばかりに小袖 で
顔をかくして泣きに泣いた
をみるやいなや、は
黙張がとつぜんほぐれたのか 法然の姿
。
さねば 」
草庵 へ の 坂 道 ぞ い に 咲 く 春 の 花 の 香 り
を、あるかなしかの朝風がはとんできた
「
南都を焼きはらい、大仏をはじめ諸々
う憤悔しはじめた
。
の前に両手をつくと、深く顕をさげてそ
やおら袖から頗をあげた盤衡は、法然
老若男女多数を焼き殺しました 」
その 香 り の な か に 倖 ん で 、 法 然 と 信 空
。
の仏像、そして御僧たちをはじめ罪なき
むけていた
は明け ゆ く 京 の 町 に 、 い つ ま で も 視 線 を
二十六
21
「
地獄 に 堕 ち る は 必 定 な れ ど 、 こ の よ う
。
。
念仏による往
な私 に も 仏 の 救 い は あ り ま し ょ う か 」
「みだの本願があります
生の道が約束されております」
落着 い た 語 調 で 法 然 は 答 え た
「その本願とは何でありましょう」
自分 を み つ め る 法 然 の ま な ざ し に 、 深
。
いい た わ り が こ も っ て い る の を 感 じ な が
ら、必 死 の 思 い で 重 衡 は た ず ね た
「して、念仏による往生の道とは 」
| |
」
「みだがまだ法蔵菩躍と申しあげたとろ、
法蔵菩離は世自在 王 如来の前で
法然は 一一
品 一語、かんでふくめるよう
。
に、あ み だ 仏 の 四 ト 八 願 と 、 わ け で も 節
卜八本願について説きはじめた
市一
衡はもとより、 一座の人々は咳ばら
っ ている
。
い 一つせず、魅入られたように法然をみ
つめ、 そ の こ と ば に 聞 き い
法然が説くほどに、語るほどに、重衡
はもは や 袖 で 頗 を か く す こ と も 忘 れ て 、
涙を頬にったわらせていた
。
「
御房は叡山第 一の 学 的であ
っ た、と
聞
きおよび申したが、なぜ山をおりられた 」
みだの本願をめぐり、法然が説き去り、
。
説き来たるなか、ふと 一座に沈黙が落ち
た、とそのとき、義経がたずねた
「叡山では、格別の修行を二十五年の長
きにわたってなされたというが、山をお
りて市井の型となられたのは何ゆえぞ」
「
法然は愚鈍の者にございます 」
一切経をひもとくこと五度
法然は視線を義経にむけて、
「たしかに、
。
しかし、どこからも光は
って
の道に迷い、迎会』求めて長きにわた
苫しみました
ささず、聞のなかを、寝食もままならぬ
哉月をすごしました 」
「ほう、御房ほどのお方が 」
。
観経疏
って往生をなさん
「そのとき、向力には限りがある、思鈍
の身にして、自力によ
とする愚かさに気づいたのです
22
出生上人をめ ぐる人々
の 一文が、私の目をひらかせてくれまし
「三位殿」
そのとき、床に手をついたまま法然の
ことばに聞きい
た」
「・・・」
・・・
よびかけて、
。
し
法然は
「いかなる型者といえども、限りある人
「
南部蛾亡の罪、軽くはありませぬ
、
間の身なれば、自力で往生をなさんとす
かし、いかなる罪にまして、みだの本願
ζ の御本願にすが
。
しか
し て重衡
ひ た すら 念 仏なされますように 」
。
っていた重衡に
るは、弓なくして空の鳥をとり、木にの
、
の力はつよいのです
り
ぼらずして高い梢に咲く花を手折ろうと
」
ょ う
「あり が たく存じます 」 ひれ伏
するにひとしいでし
まな思いが去来してきた
。
道に迷い、道を求めて岬吟し
まが入
ってきたであろう
。
も目にも、どれほど多くの平家盛大のさ
と今の草庵に住してからは、法然の耳に
歳月、そしてとくに、夜明けを迎えたあ
つづ けた
法然の胸にも、万感といいたいさまざ
た」
し、 今 この捕われの憂き目に遭われまし
「一
度は栄華をきわめられた御身
。
は答 えた
」
私はこの道をひろく述べった
「念 仏 他 力 の 道 は 万 人 に ひ ら か れ た 易 行
。
「いかにも、のう 」
の道です
。
ったような静けさがあたりを配
えるために、山を下りました
水を打
していた
と、その静けさの底から、感動の披が
重衡へ、義経と弁慶へ、実 平 へ、そして
。
端ち か く に い る 直 実 の と こ ろ へ も 、 被 紋
とな ってったわってきた
二十七
2
3
。
むず崎
安徳天皇の誕生
。
消盛 の 女 徳 子 の 高 倉 天 皇 の も と へ の 入
丘い
内
c ­
「
されば、この世は厭わしいところとお
思い捨てになり、ひたすら、浄土を念じ
千人が千人とも、百人が百
。
人とも、いかなる人といえども、みだの
なされませ
六十余ケ同にわかれる日本の困の半分は
本願によ
山城 、 丹 波 、 摂 滞 、 美 作 、 武 蔵 等 々 、
すべて平家の持ち国になり、 一門 に所属
す」
。
。
その法然に、重衡は無 言 のまま何度も
衡をみつめた
法然は慈愛のこもる深いまなざしで重
って、必ず、必ず往生いたしま
する公卿、殿上人の数はかずしれず、東
。
山の草庵からでさえ、平家の屋形へ同候
する貴 族 た ち の 牛 車 の 列 が み わ た せ た
それが、ここにきてわずか数年のうち
うなずき、涙にかきくれている
。
。
」
御 一緒に、念称十念をとなえて、み
。
しか念称の仰は、義経に、弁慶に、
重衡が戸をあわせた、と思うや、
げて十念をとなえはじめた
法然は念珠をもっ手を胸のところにあ
だの御力におすがりしましょう
す
が身を委ねる、このことにつきておりま
「
肝要の 一事は、みだの本願を信じてわ
その重衡をひたみつめて法然は、
に、主ゆきがあやしくなり、内乱の様相
。
「
三位殿」
il
をふか め 、 昨 年 秋 に は 木 町 の 大 軍 に 追 わ
った
ってさえ、夢をみているので
れて西 海 に 部 ち て い
法然 に と
。
。
。
はないか、と思いたくなるような人の世
の移りか わりである
、
だが、 これが人の世なのだ
浄土 な ら ぬ 、 人 の 世 の 現 実 な の だ
。
った
やは り 万 感 胸 に せ ま る な か で 、 法 然 は
語をついだ
務者 い た 、 静 か な 語 調 で あ
そい
しつ
2
4
泣記r.~二人をめぐる人々
て実平 や 直 実 に も ひ ろ が
っ てい っ た
。
なむあみだぶつ、みだよ、助け給え
。
法然の祈りに和して称える男たちのそ
。
の戸は、 一つになって立ちのぼっていっ
た
二十人
法然が去ったあと、その場にいた人々
は、容易にそこを立ち去りかねるおもい
。
で、法然がのこしていった余削のなかに
とりの こ さ れ て い た
やがて、
光でございましたな、御山口司」
「
。
弁股 が 感 動 さ め や ら ぬ 面 持 ち で 義 経 に
たれましたぞ 」
(第二部終了)
石丸・子 (いしまるあきこ )
東京令芸れ、東京大学大学院人文科
。
学研究科修了 現在東京経済大学教
授 二九九 一年、『式子内線王伝|面
影びとは法然』で第一回紫式部文学
貨を受賞 著書は他に、『法然の手
括りかけた
東国にも声望たかき僧侶はおりました
「
お手紙から見る法
人文・院)『
紙』(
。
が、法 然 崩 の ご と き 御 僧 を 、 わ れ ら は は
然さま』(浄土宗出版室)『現代語訳
。
朝日新聞社)など多数
蛸蛤日記』(
。
じめて見ました
そのみ教えもありがた
きことながら、御憎のみ姿にわれらは打
2
5
維露 『
浄土 』 を支えた人々
大野法道上人
イム
念働読本
』 執筆者たちの足跡
宮林昭彦
タl伝
ある と き 、 夏 の 暑 い 日 鎌 倉 大 本 山 光 明 寺 を
がら、決して愚痴を仰せられるととなく、良
。
。
三宿県の桑名に出生された
。
生ま れつき蒲
父は建設、母は
。
先生は明治十六年( 一八八 三)九月 三 日に
足跡を辿ってみたい
生としての思い出が強いので、先生としての
大僧正と申し上げるより、小生としては先
るのである
き点のみをとらえて消貧に甘んじ、知足の生
ご法主の大野大僧正の在寺を尋ねようと
訪ねた と き 、 支 藁 帽 子 を か ぶ り 浴 衣 を 端 折 っ
。
活を口いた 一生であられたお姿が尊く偲ばれ
。
て草むしりをしている老人の姿が目に入っ
た
思って 近 づ く と 、 法 主 台 下 ご 白 身 で あ ら れ た
わし は 、 収 む し り は 小 附 時 代 か ら し て い る
「
から草むしりをしていると、心が安まるのじ
。
そのころの堂宇は処々破煩し老巧化し
円で
ゃよ」と迎えられた 大野法道大間正が鎌倉
。
本山に晋賞されたのは、昭和 二卜九年 六
ある
ており 、 雨 漏 り も 多 く 、 本 山 と い い な が ら 荒
しかし、大附正は「ここは気
家で瀬戸物商売を営んでいた
。
f になることをすすめら
。
れ守で あ っ た
た
大野法昔上人は、当時総本山知恩院の山下
。
れ、松阪の樹敬寺の大野法音師の門に入られ
組時より阜のお弟
柳の質であられた 信仰の厚い土地柄であり、
。
し
候がよく、盆栽を育てるのは楽しみだよ」と
いわれ 、 決 し て 愚 痴 は い わ れ な か っ た
大僧 正 は 晩 年 も 、 「 人 生 に は さ ま ざ ま の 峨
。
一生が学生だと信じて生きてき
所があ り 、 若 い 時 は 再 び め ぐ っ て 来 な い
かし、わしは
現有大僧正に次いで、多数の弟子を養われた
。
たよ」ともいわれた いつも柔和なお顔で、
その数は八十名にのぼるといわれ
方である
。
話を聞かれるときは「ホlホ!」といわれな
27
。
る
先生は「師匠は枯れ木も山のにぎわいと
。
正しい生活が、私の体を丈夫にしたと思いま
す
今も暇があると草むしりをしますが、そ
言われていましたが、弟子をたくさん育てれ
のときいつも八十年前の師恩の温かさとおお
。
ば、仏法興隆に尽くすものもでるであろうと
ご自身は、無妻、菜食、勤
らかさを思い起こしますよ」と微笑みを浮か
。
いう意 味 で し た
べて諮られた
。
倹、持律堅固であられ、弟子の教育に全力を
。
ささげられて 一生を終えられた方です」と目
を細め て 往 時 を 懐 か し ん で お ら れ た
阪の大 火 で 焼 け た あ と で 、 本 堂 も な く 仮 建 物
そのとき今間違音(当時松井)先生に綬業を
第四教校(のちの東海中学)に入学された
先生は明治 三十二 年( 一八九九)名古屋の
であったが、法音上人は復興の 一念に挺身さ
うけ、講本は 『有宗
七十五法記 』 であったが、
。
れ、弟子達には、 一掃除、 ニ勧行で、ことに
。
烈々たる講義にひかれ、のちに仏教学研究の
ったという
焼け跡 の 草 む し り の 作 業 に は や か ま し く 、 念
先生がのちにその
きびしさと、進路の扉が聞かれた心持ちにな
。
師匠の法音上人の勧めで 三年後、上京され
て浄土宗高等学院に入られた
伝通院の義にあ
明治 三 十五年
を廻っ て 集 め た 思 い 出 も あ る が 、 自 然 に そ こ
(一九 O 二)のことである
。
に寺の 生 活 の あ り 方 を う か が う と と が で き 、
った、俗に「プタ小 屋」といわれる貧弱な建
。
このお寺に来て良かったという喜びが、忙し
物であったが、良き師や普き友に恵まれた充
。
い骨の折れる環境に導かれました 寺の規律
当時の思い出を、「本堂再建の月掛けを槽家
を弟子 達 が 続 い た と い う
仏しながら境内の草むしりをし、上人のあと
先生が入山された当時の樹敬寺の様子は松
。
2
8
実した 時 期 で 、 そ の 中 に の ち の 林 隆 碩 勧 学 も
れていることを誇称しているが肝心の円戒そ
。
いいか
のものの教義や性格が明確ではない
研究科に進学されたころ、そごに
おられた
えると円は取り上げられでも、戒そのものが
。
は著名 な れ 同 地 大 等 先 生 が お ら れ 、 天 台 学 を 学
。
戒律という 苫誕は、
しかし本来戒と律は別の言葉で、戒は経
っている
見失われてしま
。
び本枯的に学問の道に人られたという 白地
中国、日本 では 一つの術語として抜われ、と
。
先生の 学 風 は 宗 孜 に と ら わ れ ず 、 資 料 を 綿 密
先生はその後滞
る
くに戒律と言えば、律蔵中心に考えられてい
。
に取り 扱 い 、 学 問 の 厳 し さ と と も に 、 研 究 者
として の 態 度 を 教 え ら れ た
。
先生は大乗仏教にお
積極的に生きるための
蔵を貫いているものであって、単に律蔵の禁
二年間勉学されたの
心を育てるものである
。
土宗の内地留学生として
倶
欲隙文だけではない
。
ち、白地先生の推挙で明治四ト四年( 一九 一
こ に天台宗西部大学の講師に就任した
ける戒の本義を明かすために先駆的な研究の
その大著がの
合、唯識、華厳等の一般仏教教理の講義を担
。
大正十四年( 一九 二五)、当時の宗教大学
されたのである
ちに学位論文『大乗戒経の研究』として上梓
。
立場を鮮明にされたのである
一九 二 ハ)に望月信亨先生に招
。
当し、 そ の 頃 に が む し ゃ ら に 研 究 活 動 が な さ
れたようである
大正五年(
。
かれて、宗教大学教授となられた 担当講座
粋されるのであ
った
。
あるとき、師匠本音上
正大学教授に移行され、教育と研究に畳夜尽
と天台宗大学、盟山大学が合同して新生大正
改めて
は 「
円頓戒」であったが、先生は 一般仏教や
。
大学が誕生した、先生は宗教大学教授から大
「
円戒 」 の専門家ではなか った
天台学について研究を重 ねられたが、必ずし
も
「
円減」の資料を縮いてみると 「
円戒」の峰
2
9
。
そのため松阪の樹敬寺の住職と
人が京 都 の 本 山 滑 沖 華 院 の 法 主 に な ら れ る こ
ととなった
生は謹厳実直で、決して無駄なととはいわず、
黙々と資料を読み耽る日々で、学生が雑談し
」と
。
び本山において拝謁をうけたが、生活の姿勢
。
『
統高僧伝』をテキストに
自坊の智願寺で 一対
l
ていると、にこにこしながら「ホ
ホ
して先 生 が 嗣 ぐ は め に な っ た
いわれるだけであった
l
けたい と い う 思 い と 育 て て い た だ い た 師 匠 の
一の演習のときも
自身学問を統
あとの法灯を護持しなければならないという
しながら講ずる姿勢は律師であられた 昭和
。
ことに大変悩まれたという そのとき樹敬寺
二十五年( 一九五 O) に増上寺執事長に就任
。
の大栂越の原田 二郎氏が法道師を松阪に帰す
され、昭和 二十九年( 一九五四)には鎌倉大
「このことをあとで聞いて原
。
ること は な い 、 と し て 学 問 を 続 け る よ う 法 道
本山光明寺の法主として晋輩された たびた
。
上人に申し入れたので、弟弟子が師籍を嗣ぐ
ことになった
田さん も 、 わ た し も そ の こ と は 話 し た こ と は
ないが、見えない縁にまもられて、いまの自
。
分があることを実感して感謝で 一杯でした」
と先生は述懐されておられた
。
た先生 よ り 直 接 ご 指 導 を ・ つ け た 研 究 室 の 先
九四八 ) 頃 よ り 仏 教 学 研 究 室 の 主 任 で あ ら れ
わたしは戦後の混乱期、昭和 二十 三年ご
。
3
0
やがて、
。
先生の戒名は、民蓮社徹営通阿であるが、
先生はつねに「戒名のようにものごとは貫き
はかわ ら ず 消 貧 に 甘 ん じ て お ら れ た
昭和四十六年( 一九七 こ に大本山噌上寺の
先生は生涯学生求道者の心で消貧に
。
.ill-'i遊園ru轟~
。
。
世舟満百 二段
。
{
大正大学敏織・大光院住量輯
}
安祥として浄 上往 生された
昭和六十年( 一九八五)十 一月二十八日、
涯であられた
甘んじ、決して不足を 言わず悠々と知足の生
ていた
通すととがもっとも大切だと思う」と仰言っ
。
ご法主になられるがそれは、記主禅師ご入寂
の八十九議であられた
。
戎給夫'堅持i)
帰後まで、浄土宗の伝法をまちがいなく相
」といわれた
i
I
trHf~世1J'i~
伝されるお姿、伝曹を緬きながら、われわれ
、そうじゃな、そうじゃ
縮小 l~ iU~ 1It
に質問されるお姿は、真撃にしかも学生のよ
1
I註西..-幅野*
うに目 を か が や か せ て 、 納 得 さ れ る と 、 「 ホ
ホ
ル川ウ 4e
矢吹副官園町
附情凶州総険
一
au改量.喧 】
絞泌
中野書英
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守IIJi 寅京.忍g芝公・'-N 明憲章冨内
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l
『
Ree--E
品
教正法賢郷里持
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JÞJfJU属材 lé
れ対UU
完全 俊
れがる
一 一刻浄土 』昭和土年十一月号輯
念偽議本
念仏者也氏携の
f曾
{
特別 頒 価 二 千円
3
1
t
l
石iIt大{主, ',
。
(
乗願上人伝説の詔)
吋
人目をかざらずして 、往生の業を相続すれば、自然に 三心は 具 足す
るなり
。
人目を気にして自身を飾り立てることなく、往生のかなうお念仏を
称え続ければ、自ずから
三心は具わるのです
「かたち」と「こころ」
人間の行いを仏教では 三 つに分ける
。
。
総称して
つての行動(身) と 言 動
。
身」によるもの、
一つには 「
要するに体を使
意」によるもの
二 つには 「口」 によるもの、 三 つには 「
「
身口意の 三業」という
。
「かたち」と 「こころ 」 である
。
ここで身口意の 三 業が 二 つにくくれるであろうととが予想され
。
(口)、そして心での思考(意)というととだ
る
」
。
その人の表面に現れ出るもの、 つまり身業と口業を「かたち」と
。
し、表面的にはわからない意業を「ことろ」とする
っかりしなければ何をや ってもダメさ
「こころ」で考えたこと (意業)がもととな って、そ
J 」ころ
H をし
そして、そのどちらを先決とすべきかが論じられるととがある
。
大方は「まず
と主張する
。
れに順じた身業、口業(かたち)が現出することからすれば確かに
正論ではある
l
三心
ー
を通して教えてくれる
。
この論に対して法然上人は、念仏を称える際に具えるべき心のあ
りさま
3
3
阿弥陀仏による救い、浄土への往生を真撃に願 って念仏を称える
「まこ
。
ここにおいては念仏を称えることが「かたち」に、救い、往生を
願う内心が 「〒」ころ」 に相 当 しよう 。三 心とは、その内心が
つまり、 「
こころ」と 「かたち」が相反
。
。
その上で口業として現れる念仏( 三心具足の念仏)
っていなくては往生はかなわ
(深心)、往生を願う(廻向発願心
」)というこ
との心で(至誠心)、自身のいたらなさをよくわきまえ、阿弥陀仏
の救いを深く信じ
。
となのだが、これら 三 つがすべて具わ
ない、と説く
。
「まこと 」 であることが望まれるのである
はまことの念仏であろう
することなく、共に
しかし、そのこ者が裏腹であることが少なくないのが人間である
っ てし
世の流れを穏やかにするためにば、時にはその裏腹も宵んじられる
。
「一ニ
心具足 」 と「 三 心を具えてから 」
と
「あくまで 三 心を具えてから
処世方ではあるかもしれないが、上人の説示に反する性を持
ま っているのが実際の姿なのだ
。
だからこそ、なのだろうが、上人は
念仏せよ 」 とは 言 わない
3
4
響流十方
。
は以て非なる大きな違いと 言 わなければなるまい
盾でないのである
。
矛盾のようで矛
って「こころ」が確立
1
スもあれ
とれは信仰におけることだが、他にも、たとえば好き
。
肉親の死が、 一気に揺らぎない信を 立 たしめる
どんな面においても、人間は何が契機とな
。
するかわからない
こともある
で好きでどうしょうもなくその仕事に就いた、というケ
った、とする談もよく耳にする
。
ば、好きでもなく始めた仕事が、永年を経てみるとそれなくしては
私の人 生 はなか
えを
。
示 してくれた法然上人
。
「かたち」と 「こころ 」 そのいずれを先とすべきかの論に、 「い
ずれでも 」 の答
ジ
。
「
人目を飾るととなく継続する」
。
「・:でなければならな
」いを標務する割りには、それができない
。
レンマに陥る人間の性を見つめた、 上 人ならではの明解だ
が、いい加減では困るのである
謙虚さが 「
いずれにも」必要であることは上人の
言葉に明白である
(
小村正掌)
3
5
つぽ庭日記
【月の客】
つぽ縫臼Je
。
子どもの傘ほ
どもある大きな葉が幾重にも重り合い、グイ
の葉を見るのが楽しみだった
裏庭に蝉時雨が降りそそぎ、入道雲の立ち上
グイと延びてゆく
夏休み、生徒たちのいなくなった小学校の
った青空を銀色の飛行機が光りながら、こって
ザワと大きく揺れ、まさに
。
炎天下、 黒 々と影を落して重なり合う
った
った
。
「芋
嵐」 の風情だ
風の日などは、葉がザワ
ゆく 。二 階の窓から見おろす小学校のイチョ
った
。
ウの木の下にはウサギの墓があって、子ども
葉を見るのも好きだ
うに嶋く
。
キンモクセイの葉裏で空脚がカラ
残暑の庭に立つと足もとから虫の声が沸くよ
その葉影にも秋気を感じるようにな
。
たちが花を手向けたり、手を合わせたりして
。
いたが、それも今はオシロイバナの群生にう
もれて所在もわからなくなった
黄昏どきには決まって池のあたりで蚊柱が
こぼれ種で芽をふいた
カラと吹かれている
。
立ち 、 そ の 生 ま れ た て の 小 宇 宙 は 、 何 か の 決
アサガオが、前向定の終ったアジサイの幹につ
。
。
何かのお知らせ
「
トルコ行進曲」が軽
からお畳の放送が聞こえる
夏休みも終り、 子どもたちの戻 った 小 学 校
の花を咲かせた
かまりながら蔓を延ばし、毎日 一輪づっ紫紺
まり に 従 う よ う に 膨 張 し た り 収 縮 し た り し な
。
ったのか、花屋に出る小
っとひとつ実をつけたも
がら、人気のない簿聞に消えていった
畑のカボチャはや
のの追肥が足りなか
さな 飾 り カ ボ チ ャ の サ イ ズ の ま ま 、 竹 の 皮 を
残りの一株はつ
の後、ベートーベンの
。
座ぶ と ん に 寝 そ べ っ て い る
っ かり
クから帰る友人を待っ
気持ちのいい午後、私は
ーヨー
。
やかに流れてきた
。
。
ピンポンの音にドアを開けると、 す
ていた
五年ぶりにニュ
るボケで畑いっぱいに黄色い花を咲かせたが
雄花ばかりで実を結ぶことはなかった
私はサトイモ
。
サトイモは熱帯の植物らしく灼熱の太陽を
好み 、 日 増 し に 丈 高 に な っ た
3
7
キ
た
ャ
リアウーマンにな
った彼女が
立っ てい
「お土産の月餅を別送したら行方不明に
っとじ)
』
。
そ
と書いた
f
一時州凶したとい
中国の大連で 一ヶ月ほど仕事をして、ニ
。
。
ューヨークにもどる途中、
う
っこなのか、さして気にもとめない様
な っちゃ っ た」 と、もうそんなトラブルには
似れ
げ
『丹兎耳 (
で、 「かわりに 」 と小さな鉢を机に置いた
鉢のふちに
小さな札が 立 ててある月のウサギの耳
。
の名の通り識は ぷつ くりと肉 一
作でウサギの耳
の形をして白いうぶ毛に被われていた
私たちは、その李白のおの 一片のような名
「
来年の今頃、私たちどうな
っ てるだろ
。
っ
カ
.
.
一 '..
守
.
前の愛らしい縞物をはさんで、まずお互いの
。
ーヨー
、.
五年間について話し、そして思い出話に耽
た
ュ
うね 」二 十年来、私たち 二 人は 会 うたび口癖
のように乙う 言 った。「女ひとりニ
と 言 うと、彼女は「結婚はどちらでもいいけ
クで諮らすなんて、とても私にはできないわ
」
ど子どもはほしいのよ」と指で月兎耳のうぶ
.
.
.
.
.
.
.
'.
、-・
..・,
3
8
毛をなでながら 苫っ
た
。
って来た
。
った
皆で食事し、
夕方、仕事帰りに保育園のお迎えに行
夫が息子と賑やかに帰
。
。
。
遊んだ 彼女は 「
この子をもらって帰りたい」
と何度も何度も息子を抱いた
私は 三 日後ニューヨークに帰る彼女のため
に『月の宮殿で遊ぶウサギ』 の絵を描いた
ウサギは四才の息子をモデルにして、 二本足
描き上げて、明日渡
してきた
。
。
私は狐につままれたようなポカン
とした気持ちで、しばらく空を児ていた
。
畳間まだ暑い日があ
っても日が容
月見が近くなると夜、畑をのぞくのが日課
になった
。
れると秋の気配がした 秋草が咲き、虫の音
。
月明りという訳にはいかないが、
も夏のそれとは遣い、澄んだ声が静かにひび
いてくる
十五夜の目、ニ
。
星 影も涼しく、日増し
。
ューヨークから小荷物が届
。
添え
包みをひらくとサーカスのテントのよ
。
。
った
。
カンをあけるとム
l
ンフ
トが行儀よく並ん
ッ
トを食べた
ッ
。
食
夜、満丹を見ながら、家族三 人でダ
ィッ
クな夜だった
。
った顔の満月がカンの中に
ぎっしりとあるルナテ
べても食べても笑
ンゴではなく、満月ビスケ
でいた
ェイスを型ど ったビスケ
が古かれであ
状には、彼女の字でお礼と息子にあてた J襲
うに派手な模様の丸いカンが出てきた
いた
美 しい
った
秋の燈に照らし出されたサトイモの葉を見て
いると心が静ま
。
で跳ねる様子を描いた
そして小さな
ガパと起きると
。
絵のウサギが跳ねもせずヒタヒタと歩い
。
f をあげるわけでもな
ってゆく月も
に肥
。
すその絵を枕元に置いて眠りにつくと夢をみ
た
本 当 の息
と 汀っ た
てきて ぺ コリとおじぎをした
。
戸で 「サヨナラ 」
枕は涙の海
。
って
っしょに海
いのに、と夜中ひとり 泣 き笑いをした
帰る日が来て、私はその絵とい
。
彼女の乗った飛行機
苔、梅干し、日本茶と思いつくものを持
った
っていくような気が
っていくのをぼんやり見ていた
彼女を見送りにい
が小さくな
ら、まるでそれが月に帰
39
M
U
S
I
CR
E
V
I
E
W
ベートーベン/受響曲鱒六番f田園J
ブルーノ・ワルター指縄
コロンビア受響楽団
色即 是空 と 空 即是 色
岡圏第 3 楽章 と第 5楽 章
ベートーペン交轡曲第 6 番
f 図置J &M4 番
録音1958年ハリウ ッ ド
ソニーME ¥ 1 .800 (税込)
直木賞作家にして無類のクラシ ッ ク好き 、
宮城笹昌光氏か著かれた 『 クラシ ッ ク千夜一
曲j という本があります。 ここにワルター盤
についての興味深い解説がありますので、抜
すい引用させていただきます 。
一一第三楽章と第五楽章の調和はなにがちが
うのか。 それは逃避した人聞が田園の生気と
息吹のなかで自分をとりもどすことと 、 いち
ど死のうとおも っ た人聞がたちなおることの
ちがいなのですーー として紀野一義著 rr 般
若心経J 講義J (
PH P 文庫) の言葉を紹介し
ながら色即是空と空即是色の「空j の遣いを語
ります。一一人間というのはむなしい、人の命
というのはあてにならない、それがこの世だ
という認識が最初の「空j です 。 ところが、
クラシック子夜一図
っきつめて考えていくと、どうやってもその
書械谷・光・筆
っ て生きていくことが、 つぎの「空J になる、
ということなのです。 f それは大空のごとき
その根源を生きている自分なのだな、と、しみ
じみありがたくな っ てゆくのである j もちろ
ん紀野さん自身の考えかたですが、わたしは
これとま っ たくおなじことを「田園j の第三
楽章と第五楽章のちがいで感じたのです一一
-晶&←'a -m
広がりである 。根源のいのちそのものでるる 。
クラシック千復 ヤ曲
存在がは っ きりと感じられる 。 その認識に立
集爽主士新・.¥ 680(+税}
前回唱
.H
ハ克
「空J のなかでしか生きられない自分という
シルバー・アンド・コールド
ニール・ヤング
①再会@ シルバー・ア ンド ・
ゴールド@父の面彫@バ ッ フ
ア
コ
ス
ア ロー・スプリングフィール
ド・アゲイン⑤ ザ ・グレイ
ト ・ ディパイド⑥ ホースシュ
ー ・ マン⑦ レ ッ ド ・サ ン他全
10曲ワーナーミュージ ッ ク
¥2,520 (総込j
ア
イ
ツ
ク
な
サ
ウ
百五邑
r
60 年代後半 、 戦後世代のまき起こした潮
流は 、 ヨーロ ッパ、 アメリカ、日本と国境を
越えて 、 政治も文化も含んだ大きなうねりと
なる 。 アメリカではこの世代の大統領か冨註
しているわけだ。 その時代のひとつの象徴と
して f ウ ッド スト ッ ク」という 3 日間、 40
万人を集めたコンサートがあ っ た。 この出来
事は「ウ ッ ドスト ッ ク j という 曲 になり、ク
ロスビー ・ ステ イ ルス ・ ナ ッ シュ&ヤングに
よ ってう たわれた。 名前を連らねただけのそ
ス
のバンド名は個々の独立性をいわずもがなに
伝える 。
と
二一ル ・ ヤングはバンドと ソ口 の活動を並
行して行 ってい るが、 その多彩な音楽経歴の
なかでも、アコ ー スティ ッ クな作品は一本の
背骨である 。 アルバム f ハーベスト j から
『 ハーベスト ・ ムーン j を経て 、 30 年を費し
たアコースティ ッ ク 3 部作の最終章。 ここで
彼は友との再会や 、 父の面影とその死をうた
う 。 表面的でない慈しみの'L"I'青は死を見つめ
ていることと無関係ではない。
彼の音楽、歌を聴いていると 、 この人には
うたうべき必撚があるのだと思わされる 。 ど
の曲 でもどのアルバムでもそうなのだが、 こ
の作品では静かに優しくそれが伝わる 。
ゃ
寄席や漫才、またはマンガな
どで、人が亡くなることをち
限
「ツ」を省略することはあっ
「
称名A
符仏
」
ても、それ以上の省略は通常あ
と
古島法ゑ恋
しょ う
。
浄土宗法衣専門
っているといえるで
浄土真宗では往生するための
阿弥陀仏への感謝の意
、
。
。
と
いわゆる
ても説かれています (つづく)
者の生活態度を定めた教・えとし
です 。それは「四修
」という念仏
プリlズの念仏といわれる由縁
ことを根本 とします
て一遍でも多くの念仏を唱える
ているうちの我々の「行
」 とし
拝念仏、百万遍念仏など、生き
また
りません
ことは
すから、お念仏を唱えるという
いわゆるサンキ
。
って阿弥
「行」は、凡夫にかわ
ってい
かす場面では、必ずとい
それほど人々はお
。
、
、
して声を出して唱えることを特
。
昧となります
す 。したが って多く唱えるとか、
。
えるとかという言い方は
何回pp
ま ったくありません
浄土宗 で は 「ナムアミダブ
」
、
陀仏が修しているとしています
。
いほど、 「ナマンダブ、ナマン
。
この「ナマンダブ」と
発音するお今径は、浄土真宗に
うです
「ナマンダブ」になっているよ
っていても、音で聞くお念仏は
仏』 とい・フ{そたということを知 ユウの念仏といわれる由縁で
客仏が、漢字では『
南無阿弥陀
いそうです
「ナマンダブ」と言われてしま
一般的にお念仏と言えばこの まわる真実心のこととしていま
ダブ」と言 って笑わせます
に強調し、土芯 念仏 一会 礼
お念仏
有限
会社
し、「
信心」も阿弥陀仏からた
その 8
古き伝統位
三代にわたる信頼
浄土宗と浄土真宗
4
2
FORUM
の広場
-晩 夏光
れ
て
。
。
伊藤尚子
細田初枝
。
る
長尾子浪
この頃外で遊ぶ子をあまり見かけなく
。
ほどけても気がつかない そんなことはおか
まいなしで、親に呼ばれるまでは帰らないだ
ろう
な ったが、こ ういう 子を見るのはうれしい
名を知らぬ人と挨拶晩夏丸
油絞浮く運河ピろリピ晩友光
〈佳作〉晩夏丸風やわらかに物乾く
桃
子
が
走
走り回って遊んでいるのだろう 靴ひもが
晩
夏
光
靴
紐
•
う
。
ており、そのたびに大人はとまど っ てしま
欲をいえば取り合わせに、もう少し飛躍
この頃ゆ牛の犯罪がしきりに世間を騒がせ
白桃やさずっき易き少年期
〈
霊〉
浄土誌上句会
谷しげ子
金谷友江
4
4
-
。
が欲しいような気もするが、白桃は、少年の
心の傷つきゃすさを代弁しているのである
新 島 美都
嶋 田喜代子
桃飾る枕辺退院間近なリ
石原
。
機ぎた T の桃の産毛の呑リ立つ
〈佳作〉野仏に供?水察桃ニつ
自 由題
風鈴に風の漣海の駅
。
いかにも海
海からの風に、駅に吊った風鈴が鳴るさ
ざなみ立つ波のように、風鈴の音も風にさざ
なみ立っていると見るのである
。
新
薗田郁子
江蘇時生
河合 冨 美枝
。一
辺の駅にふさわしいとらえ方なのが良い
わ ってくる
読海風の涼しさが伝
〈
佳作〉 一陣の
風に構えし羽抜鶏
T見る龍の絵天井
おにぜリはおかか九月のゆるい風
堂涼し寝
小久保草臥
1
5
〈特選〉
選者=漕白河郎子
編集部選
晩夏光
味夏見眠丸東リっくオ ラトリオ
健康穂子
桃
…
"桃の毒や鼻孔にやさし甲斐盆池
…御構が終の旅立ら桃一つ
E
R尾子演
中島富士子
河合富美綾
上野明逮
細田初綬
位置康雄帽子
中島 一子
…かリかリピ桃噛むひピの若き顎
…水弾〈産毛のい?友の桃
伊盲
腸尚子
永弁智宏
浜口佳響
…水はじき産毛に似たる
水
・ 袋挑
憎唱団信子
…仏よリもらいし桃の尻乎ら
…穐か好きそれよリ屋根の上が好き敷島美恵
加際政男
江蘇時生
水野公太
石原新
浴田信子
大村和代
晩夏光避けて一息維の幹
風鈴のならずに終る晩夏光
晩夏沌路地よ叫議えし老夫婦
氏名を必ずお書き下
・
糊固さ浴衣滑るどさ骨が鳴る
父の忌の僧に団扇の風送る
山口信子
小久保すずな
去リが erf
去るや姥過の蝉・曹舟 嶋田喜代子
中島一子
方霊の途安かれと金の月
長尾子浪
第骨静かなる妙変過ぎにけリ
山本美代子
A7
に夏の旅
朱雀門逮〈会
細回初校
夏草に沈みて見えぬ妓の影
上野明遼
灯範会主ふ灯寵の波匂ふ
夏の痩れみじん4見せ子僧の背な 金谷友江
門火消え τよリ燃え上がる思ひかな中島富士子
木代孝子
窓の外風鈴鳴・与'夜の南風
健康綾子
… 自由掴
名
明照会館内
.
北川弘子
3
41714
トンネル会主る件。捻るる山帽子
翼船のみるみる速し晩夏光
1
名・佳作各
- いずれの題とも数の制限はありません
締切 ・十月二十日
発表 ・ 『
浄土 』 十二月号
選者 ・旭国河郎子 (南
『風 』主宰 )
応募方法
. 特選各
。
東 京都港区芝公園
何句でも可 )と、住所
葉書に俳句 (
さい
-
月刊 『
浄土 』箆上句会係
〒 m'oo -
宛先
。
駒ヶ缶追はるるごとく去る境夏 岨周囲喜代子…行儀よく箱入放桃姉妹
中島一子
せぜら H
さの水冷たかリ桃の里
人影も疎な渚境友光
…
了
A
7
放といささかに
言 ひあらそひし晩夏か佐山本美代子
日
忌
目
白
桃
供
ふ
仏
前へ
洗ふ ごピ
河合軍量実績…桃洗ふみピリ児の肌
金ハ合友江 …桃の地に逝きしまあリ童ベ敬
白販機の彰伸びて会り晩夏光
みピリ児の産毛匂へる晩互先
ふ長の夫ピ歩寸道晩夏光
船内の料理楽 Lむ晩夏光
浄土路上旬舎の
お知らせ
華麗
野菊
夜長
自由題
悠々ピ湾 ゆく后 Fd支光
…
…
・
参加作品 ・
4
6
ょ
『
(
ノ
マンガ で 楽 し い 仏 教 用 語
。
漏断 」とい・
尋 問葉は浬一然経に
「出1 \
てくる揃話を甑にしています
油断
王が臣下に命令します 。油の一
入 った鉢存持 って捗き傾けたり 一してたな!
FIlil111
こぽしたり す れ ば 命 を 断 つ 、 と
いうのです。「
油」 という 言 葉 一
雨降るの
。
。
。
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。
。
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m使う軽いニュアンス
。
こうい った程度のこと
。
気多許す 注意
の言葉になってしまいました
。
たかをくくる
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引くれぐれ先制断大敵
酬
油
断
漫 画 ・薦井ひろし
ポク置きガサ
してるから
予備のを
貸して
あげるよ
でもこ れ 意 外
ぬ れ ないだろ
と
編集後記
これはどういうことかというと、私
過去に酔い未来忘れる秋の暮れ岱潤
ひろさちゃ氏がまたおもしろいこと
。
か っているというのです 現在は過去
たちの牛活は常に明日のことが気にか
。
っ
時間の
多脅いていら っしゃいました
流れに閲して仏教ではちょっと変わ
とれこれのことがあるから、今日中に
。
では、過去、現在、
未来と時聞は流れ
これだけや ってしまおう」 というのは
。
。
。
的時間の倒撃で考えられるようになり
(長)
たいものです
六上ハ巻十
1111
長谷川岱潤
華強鑑
村田洋 一
佐山哲郎
問川彬道
大室 了時
制刷価六百円
年会 貸 六千 円
円号
1
ティ
1 41
真野槙海
世丘
朴昭彦
持悼式会社シ
罪人
||
lill1
血活躍 法然上 人鎖 仰会
干 -O五 'uO 一東京 m 港区芝公 問問・ じ ・開削 照会館 内
印刷所
.要
ト年五 日 二十日第 一士
械郵便物 認可
附削刊
平 成十 二年九 月 三 十 日
印刷
発行
平成ト 二年 卜川 一 日
浄土
編集チ l フ
編集スタ ッ フ
から規制されると同時に、未来からも
た認識があるというのですというの
「明日
は、普通私たちの物理的な時間の観念 規制されているというのです
ているのですが、仏教では迷 っている
。
も「去、来、現」 と世いているという
。
。
確かに我々が日常考えることです
人間は、過去、未来、現在と時聞が流
明日ありと思・?心のあだ桜
古歌に 「
れているというのです インドで作ら
枝半に嵐の吹かぬものか」
はは有名で
れた仏教暫では 「過去 、朱来、現在」
の順序で苦かれていますし、道元禅師す 明日のことは仏さまに任せ、物理
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お ,J11
川
川li けする、このマ一クです。 保険 の ことは、あなたの街にある 陀反 ìfri 1 '0 代即J山へ 。
。住友海上
〒 104 8252 米);O:r.!I ' I ' ~と [x]JiJI12
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72TEL:03 - 3297 - 1 J11(大伏ぷ)
一=a'
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一
一
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N3C3・-(} 発行人/奥野飽海
一
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ホテル 「 スキラ伊豆赤沢」
林 昭彦
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由開築チーフ/長谷川岱澗
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':'・土曜、体飼日‘ト yプシースンC~ご利用に IJ れまぜ A( たたい土曜・体制日て空曹がある.. 告 C~l 畠極地5∞門の優待 料 金 τζf'llIIに砧杭ま
す).,>ご予 約 I五 2カ 月 前より受付いたします
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縄問問 ・
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メノ で
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....~...・. .,'---1::窓口:n:I
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F一一 ...,,-~ 判J
....,...._.
l 州 24,000円21 酬}
' 室4名樋利用平日宿泊、 平aプレイの11合
長谷工の会員制 I)~ノートホテル
ご予約(Hスキラ伊豆赤沢 j 予約係
・ご予約崎に { 浄土10月号 プランj とお申し出 〈だ在い
0557-53・4890 (宮川)
TEL
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