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サルトル『真理と実存』における知と無-知 実存的真理の(不)可能性

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サルトル『真理と実存』における知と無-知 実存的真理の(不)可能性
サルトル『真理と実存』における知と無-知
サルトル『真理と実存』における知と無-知
──実存的真理の(不)可能性について
文学研究科哲学専攻博士後期課程満期退学
前原有美子
はじめに
サルトルの死後刊行となる草稿『真理と実存』は 1948 年に執筆された 1。この草稿の中で、
サルトルは、真理が人間的実存の行為によってのみ暴き出されるものであり、真理知の成立
と共に無−知 ignorance が生じることを示している。本論文では、無−知が VE で真理知の
成立条件とされる点に着目する。なぜなら、無−知は、EN における自己欺瞞と同様の構造
を有しており、VE では自己欺瞞としての無−知が、本来的に自由な人間の行為に内在する
不可避的な意識構造とされているからである。
本論文では、まず、予備的考察として VE における伝統的哲学概念についてのサルトルの
解釈と、彼の真理概念との影響関係について整理しておく(第1章)
。次に、VE における
無−知が EN の自己欺瞞と同様の構造を有していることを確認する(第2章)
。最後に、無
−知が知あるいは真理の成立条件であることを明らかにしていたサルトル的実存主義の提起
する問題について考えてみたい(第3章)
。
1.存在開示と自由
VE におけるサルトルの真理論は、ヘーゲル、ハイデガー、カント、プラトンへの批判と
応答の上に成立している。ヘーゲルとハイデガーに関しては、サルトルは名を挙げ用語の借
用を行ってはいるものの、さほど明確な注釈は示されていないが、本章では、ハイデガー、
カント、プラトンに対するサルトルの注釈について検証する。
A)真理の暴露と自由の自己時間化:ハイデガー真理論の影響
存在開示と、真理の暴き出しが可能となるのは、本来的に自由な人間が実存者として存在
するからである。存在としての真理の暴露というハイデガー的な観念を、サルトルは実存者
における存在の開示へ置換する 2。そして、存在の開示の根拠は存在の側にではなく、存在
─ 59 ─
者である実存者の自由にあることを強調する(VE13)
。存在の開示と、真理の暴露および隠
蔽可能性はともに、自己時間化する存在者の自由に起源を持つ(ibid)
。とはいえサルトル
にとっては、真理の暴露あるいは隠蔽それ自体が必然的なのではない。そうではなく、必然
的なのはむしろ「自由である人間存在 réalité humaine が、真理に対するみずからの責任を
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引き受けなければならない 」(VE13、強調引用者)ことにあり、何が真理となるかは不確定
なものに留まる。もっとも、サルトルの関心事は知の不確定性を示すことにあったのではな
い。むしろ、VE の射程は真理知の成立条件とその存在構造を明らかにし、実存者と真理と
の関わりを論じることにある。
B)真理の時間性:カントとプラトンへの批判
実存者における存在の開示という観念のうちには、自己時間化する存在をめぐる問いが敷
衍されている。実は、そうしたサルトルの了解は、非在から存在への移行という、プラトン
のイデア説やカントの自由概念を貫く一連の問題系に抵触している。
(1)自己同一性の裂開:カント的自由と時間性への反論
「カントのいう非時間的な自由が、ここで我々が考察している自己時間化する自由の代わ
りを務めることは絶対に不可能である。というのも、カント的な自由は現象的世界の外に留
まっているのであり、アプリオリな判断の純粋に総合的な作業は自分自身にとって見通せな
いものであり、みずからの根拠を自己自身の外に有しているからである」
(VE13)
カント的自由の非時間性をサルトルが否定する目論見は、自己同一性の原理にもとづく認
識という説明図式への反駁にある。なぜなら、自己時間化それ自体によってたえず自己を疎
外する実存者にとって、自己同一性は根源的な原理として機能しないとサルトルは考えるか
らである。そして、サルトルにとってはむしろ時間性を有することが人間存在に固有の自由
なのであり、この自由こそ、自己同一性を打ち破るものにほかならない。こうした自己同一
性の裂開は、存在が時間化する自由によって認識可能性を帯びてあるその接点において生じ
る。
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「存在は、認識可能であるということだ。そしてこのことは、存在が合理的であることを
いささかも意味しない(略)合理的であれ、非合理的であれ、存在はその合理性なり非合理
性なりにおいて暴き出されるのだ(略)そして、その原因は存在ではなく、自由の方にある。
自由は先験的な範疇(たとえ同一律であっても)のうちに入り込むものでは全くない。むし
ろ、あらゆる前提から自由なものとして自己を意識し、ひとつの所与からいかなる仮定でも
創出できる」(VE13)
─ 60 ─
サルトル『真理と実存』における知と無-知
サルトルは、カント的自由の非時間性によっては自己時間化する実存者による可能的認識
の説明は不可能であるとする。そこで、可能的認識を同一性より包括的な原理によって規定
するサルトルは予期に重要な役割を持たせる。
「むしろ自由が前提としていることは、ある存在が世界内にある場合、それを同一的では
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ない現実のうちに見ることを可能とするような様々な予期を創出する力を、自分がアプリオ
リに有しているということである」
(VE14)
引用箇所は、
カント認識論に対する概観のもとに記されている。サルトルの解釈に従えば、
同一性によっては把握不可能な現実を見るためには、予期を生み出す能力があらかじめ実存
者の側にアプリオリな型式として備わっているのでなければならない。では、こうした予期
はどのような機能を果たしているのだろうか。サルトルは、予期が<ヴィジョン vision >
と次のような関係にあるという。
「予期は見方/展望 vision の主導的な基準と図式の役目を果たしている。なぜなら、
(略)
見方/展望は受動的観想ではなく、運動/オペレーション opération だからである」
(VE18)
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人間存在は、世界のうちにあってそこで現実を見る。ヴィジョンは「見る」という方向性
を有している語だが、多義的である。サルトルが<ヴィジョン>と言うのは、現実について
の「見方」
、あるいは、現実に向かいそこに可能性を「展望」するという意味においてであ
ると思われる。なぜなら、何をどのように見なすかという「見方」や「展望」として<ヴィ
ジョン>を意味づけすれば、おのれの実存をもアプリオリに規定する予期の創出それ自体の
もつ力が見えてくるからである。サルトルの真理論があくまでプラトン主義に反するもので
ある以上、VE で積極的な意味合いを含ませてサルトルが使用する<ヴィジョン>という語
に、プラトン的な意味での「幻影」
、すなわち「感覚的視覚としての擬似的で劣った認識」
という消極的意義を重ねることは整合性をなさないだろう 3。
真理の「見方/展望」というヴィジョンは必然的ではなく、可能的である。それは、予期
から検証への持続可能性としてたえず真理が存在するべく求められる。開示された存在に対
しては、可能性の創出をつうじてたえず真理検証がなされ、そうした真理検証の不断の継続
こそが、真理の絶対性を守るのである。こうして、実存的真理の非同一的同一性は可能的予
期の不断の創出によって保たれるほかない。ここに、実存者にとっての実存者の真理は同一
性の原理とは結びつかないというサルトルの主張(VE14)が整合する。可能性としての真
理は動的であるが、誤謬は静止であり(VE22)
、サルトルが真理に関わる認識を行為として
了解するのは、こうした意味においてである。
─ 61 ─
「真理は行為 action に対して開示される。あらゆる行為は認識であり、あらゆる認識はた
とえ知的な場合でも行為なのである」
(VE12)
(2)反プラトン主義的真理
この節では、VE でサルトルが示したプラトンのイデア説への批判を軸に、サルトル的真
理が有するふたつの性質を明らかにする。第一は、真理の非在性である。第二は、無−知と
真理の時間性である。
① 非在としての真理
真理は、現実存在に先立つ根拠(イデア)としてではなく、現実存在のひとりである人間
存在という実存によって存在として開示される。この場合、現実存在に先立つのは真理では
なく、真理は、存在の開示を通じて実存によって認識されたかぎりで真理となる。したがっ
て、真理は暴露以前においてイデア的実在であったのではない。プラトン以来、イデアを真
理存在とし、誤謬を非在とした真偽解釈をサルトルは次のように批判する。
「実際、プラトン以来、真理を存在と見なし、誤謬を非在と見なすのが常になっている。
そこから終わりなきアポリアが生じる。なぜなら、存在する真理の本性と、存在しない誤謬
の本性との間にある異質性は余りにも大きいため、どうしてこのふたつを取り違えるなどと
いうことがありうるのかを理解することができなくなってしまうからである」
(VE17)
非在から存在への架橋という問題をどのように解決するか。サルトルの了解は、イデア説
の伝統的な継承に対する一般的な問題提起、すなわちイデアとその似像との差異問題に重な
真理は実存する主体の無化という時間化のうちにあって、
たえず
「未
る 4。サルトルにとって、
だ−ない」ものとして存在する。真理は、たえずこの「未だ−ない」という欠如を含む。そ
の意味で、真理はある種の非在であるとサルトルはいう。しかし、その非在存在は現実の時
間や空間を超越したイデア的実在としてあるのでもなければ、空虚な志向によって充足され
るのでもない。
そもそも存在の開示は、実存者による存在の時間化によって生じる。そしてそれは、実存
者による投企としてのかぎりでの予期でもある。こうした予期は、つまり実存することの可
能性にほかならない。そのことは、EN という「現象学的存在論」でサルトルが対自存在を
即自存在との関係性として、即自 - 対自存在という価値を目指す絶えざる無化作用として規
定していたことと整合する。
─ 62 ─
サルトル『真理と実存』における知と無-知
② 無−知と真理の時間性
プラトンの真理存在が非時間的かつ超越的なイデアであるのに対し、サルトルの実存的真
理は時間化する存在である。真理が生起するのは、人間存在による有限性の内面化によって
自由が生じ、自己時間化が人間の自由を裏付けているかぎりにおいてだからである。このと
き、「未だ−ない」という欠如、いいかえれば、ある種の非在としての真理が無−知という
様相を伴って現れる。そうした事態をサルトルは次のように示す。
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「これを知ることは、これをしか知らないことである(略)地として、つまり無差別な存
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在充実(無−知)として思念された世界の残りの部分の上に、
これを現出させることである」
(VE52)
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これの認識は、なにものかの所与をつうじてこれとして成立するという構図を持つ。これ
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の選択はこれ以外のことの捨象に依拠する。こうした構図に基づく認識において、無−知は
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知の成立条件となる地となり、これの認識を知という図として浮かび上がらせる。このよう
に無−知は知の対立項としてではなく、むしろ真理知を成立させる地あるいは条件として機
能している。
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人間存在による無−知の内面化と共に成立してもいる。このことは、
これとしての認識は、
存在の開示と同義である。存在の開示は真理の暴露へと、文字通り開かれてある。存在の開
示において穿たれるべき通路に非在から存在への移行が生起する。ここにも非在から存在へ
架橋問題が見出される。
以上、イデアリズム一般に対する批判的検討が、サルトル的真理概念の形成を促す一因と
なっていることを確認した。
プラトン的解釈によっては誤謬や非在とされるはずの無−知が、
サルトルにあっては非在から存在への架橋問題を解消する鍵概念となる投企として機能す
る。無−知の内包は、真理を投企する原動力としてたえず働く。そのことが実存的真理の絶
対性を保証する。人間存在はみずからを時間化する存在であり、それは対象の無化を伴って
しかなしえない 5。こうした時間化の下で、真理は「未だ−ない」欠如としての無−知を内
包しつつ、非在という存在を可能性として抱え込みつつあり続けるのである。
2.自己欺瞞と無−知
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「我々は無−知の中に、自己欺瞞の引き裂かれた世界を再び見出すことになる。 要するに
無−知とは、存在と関わっていることを拒否することである。このことが意味するのは、自
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分を存在と結びつけ、存在によって巻き込まれたあり方でのみ実存させるような内的否定の
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関係を、無−知が否定する ということである」(VE33、強調(斜体傍点)引用者、太字はサ
ルトルによる)
─ 63 ─
無−知はここで、EN における「自己欺瞞」と同様の内的否定の否定という相貌を呈して
現れる。本章は以下、2つの節で EN における自己欺瞞の概念を検討し、VE の真理論にお
ける無−知概念の射程をさらに明らかにしたい。A 節では、EN における自己欺瞞の概要を
示す。続く B 節では、EN における自己欺瞞概念の理解をもとに、VE における無−知につ
いてさらなる考察を行うことにする。
A)意識存在と自由:『存在と無』における自由と自己欺瞞
EN 第一部第一章「無の問題」で「否定の起源」について論じた後、サルトルは続く第二
章では「自己欺瞞」について論じている。
「自己欺瞞」の章は3つの節から成る。以下、本
節ではテキストを順に追って自己欺瞞という概念の意義を明らかにしたい。
Ⅰ 自己欺瞞と虚偽:フロイト精神分析の<事物化>された意識
「意識とは、それの存在がそれとは別の存在を巻き添えにするかぎりにおいて、それにとっ
てはその存在においてその存在が問題であるようなひとつの存在」であり、
「意識とは、そ
れにとってはその存在のうちにその存在の無の意識があるようなひとつの存在」
である。
「可
能性の無化としておのれ自身を構成する」私の意識は、
「ひとつの「否」として、世界の中
に出現する」(EN81)
。こうした意識が、その否定性をおのれ自身に向けるような一定の態
度が、自己欺瞞である(EN82)
。サルトルによれば、自己欺瞞はしばしば虚偽と同一視され
る。
自己欺瞞が虚偽の一種であるとすれば、意識がおのれ自身を欺くことはいかにして可能と
なるのか。サルトルは、精神分析が対象とする意識のあり方が、この虚偽と擬似的な構造を
有していることに着目する。サルトルによる自己欺瞞概念の創出には、精神分析の意識概念
に対する批判が土台のひとつとなっている。サルトルによれば、精神分析では、ともに自己
であるような欺く意識と欺かれる意識という二元性のかわりに≪エス≫と≪自我≫との二元
性を置いている(EN86)
。無意識的なものと意識への現れとしての現実という、二元性のも
とに見出されるふたつの意識のあいだには、患者自身にも未だ知られることのない真実が潜
んでいる。患者の知らない患者自身の真実は、精神分析医の治療を経なければ明らかとなら
ない。この知られざる真実こそ、患者を抑圧している≪検閲≫された事柄にほかならない。
以上が、サルトルによるフロイト精神分析についての理解である。フロイト精神分析に対す
るサルトルの解釈と批判は、次の点に集約されている。
「もし抑圧された傾向のうちに、第一に抑圧されているという意識、第二にそれはそれが
あるところのものであるがゆえに拒否されたのだという意識、第三に偽装の企てが含まれて
いないならば、
この抑圧された傾向はいかにして≪みずから偽装する≫ことができようか?」
─ 64 ─
サルトル『真理と実存』における知と無-知
(EN88)
サルトルによると「心的なものの意識的統一を捨て去った」フロイトは、無意識の衝動と
意識の現れとの結びつきを「魔術的な仕方で呼び起こす」
(EN88)
。また「意識の現れはこ
とごとく象徴的な意味によって彩られる」とし、このことをもってフロイトは「自己欺瞞を
<事物化>」したのだという(ibid)
。サルトルによるフロイト精神分析批判は、意識現象
が象徴性を帯びた事物のようなものとして定位されること、そして衝動と意識への現れの結
びつきに対して科学的な解明が行われないことに向けられているのである。
実は、意識現象を<事物化>することへのサルトルの嫌疑は、初期の想像力論にも既に表
明されていた。それだけでなく、初期サルトル哲学を構築する出発点であり、現象学的方法
論へみずからの思想形成の活路を見出す原動力ともなったのだった 6。サルトルによるフロ
イト批判の中核は、厳密には、無意識概念それ自体を否定することにあるのではない。そう
ではなく、意識概念やそれにまつわる現象が無意識という名のもとに<事物化>されてしま
うことへの危惧にある。意識ないし意識現象の<事物化>を回避することの上にたってはじ
めてサルトルの「現象学的存在論」は成立しうる。このように解釈することによって、初期
サルトル哲学についての整合的な読解が可能になると本論文は考える。
Ⅱ 自己欺瞞的な行為:人間存在の二重性もしくはもう一つの可能性
フロイト精神分析は、自己欺瞞的構造を有する意識を無意識的なものと意識的なものとの
二元性として措定する。ただし、これら相互の結びつきについての説明は意識現象の<事物
化>にすぎず不十分である、というのが EN 第二章第Ⅰ節での批判であった。続く第Ⅱ節で
は、自己欺瞞としての意識構造にもとづく人間存在の「行為」もまた自己欺瞞であることが
示される。
自己欺瞞的行為とはどのようなものか。この問いに対して、サルトルはいくつかの例を挙
げて説明している。ここではそうした現実の具体例には立ち入らず、VE における真理と無
−知の問題に抵触するかぎりでの、行為としての自己欺瞞をめぐるサルトルの考察について
意味づけを行うことにする。
「事実性であると
サルトルにとって、人間存在の性質は二重性にある 7。その二重性とは、
ともに超越である」
。自己欺瞞は、この二重性という「両者の差異をそのまま保存しながら、
両者の同一性を肯定する」
。それは、
「一方をとらえるその瞬間に、突然他方に直面しうるよ
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うな仕方で、事実性を超越であるものとして、また超越を事実性であるものとして肯定する
のでなければならない」
(EN91)
。
事実性と超越とのこうした両義性は、実存者である人間存在特有の存在様態にほかならな
い。人間存在は意識を有する存在であり、対自存在と即自存在の関係性として即自−対自存
─ 65 ─
在への果てなき止揚のうちにしかあることのない実存者だからである。だが、サルトルが示
す自己欺瞞的な行為はこうした人間存在のあり方を否定する。それは、人間存在が逆説的に
もおのれを即自存在として凝固させるがごとくに振る舞う可能性を有していることに由来す
る。人間存在には、いわば偽の可能性としての自己欺瞞的存在に留まろうと行為することが
可能なのである。無化において実存するという、いわば「実存は本質に先立つ」存在様態に
もかかわらず、人間存在は、まさに人間存在であるがゆえに、自己欺瞞的な存在としてみず
から振る舞うことも可能なのである。
とはいえ、自己欺瞞的に存在することは必然性にかたどられているわけではない。なぜな
ら人間存在が自己欺瞞的に振る舞うことは、人間存在のひとつの可能性にほかならないから
である。実存者の存在することそれ自体にしてからが偶然であり、しかもそうした実存者が
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自己欺瞞である ことは、対自存在と即自存在の無化という関係性においてのみありうるひと
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つの可能性にすぎない。自己欺瞞である こと、いいかえれば、自己欺瞞としての存在 もまた、
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人間存在がそれである という可能性のひとつでしかない。
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「もし人間が自己欺瞞的でありうる はずだとすれば、人間はその存在においていかなるも
のであらねばならないか?」
(EN89、強調引用者)
自己欺瞞という存在は、いつでも可能的なものにすぎない。一方、実存者である人間存在
は、無化をつうじての投企という可能性も有しているので、たえざる超越をも即自存在とし
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て凝固させ、みずから即自存在である かのように演技することへと置換する可能性で(も)
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あ(りう)る (カフェのギャルソンの例)。存在の二重性、もしくはもうひとつの可能性を
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纏い、自己欺瞞的な行為が為される。そのとき主体は、そのような存在としてありうる もの
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としての存在なのである 。サルトルにとっては、自由という本来性にはたえず非本来的な自
己欺瞞が可能性として内包されている 8。
こうした自己欺瞞の条件、それはサルトルにとっては無意識ではない。サルトルは、それ
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を反省以前的コギト と名づける。演技や振る舞いがひとをそれのあらぬところのものである
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存在にする。人間存在は、即自存在であろうと振る舞い、演じることができる 。そうした可
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能性によって、それのあらぬところのもので(も)あ(りう)る 。
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「自己欺瞞の可能性 の条件は、人間存在がその最も直接的な存在において、すなわち反省
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以前的コギト の内部構造においてそれのあらぬところのものであり、それのあるところのも
のであらぬ、ということである」
(EN102、強調引用者)
こうした自己欺瞞的な行為を EN の定式「即自存在の無化として、対自存在はみずからの
─ 66 ─
サルトル『真理と実存』における知と無-知
うちに<無>を生じさせる」ことに沿って再度整理してみよう。自己欺瞞という可能性は、
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無化という意識のあり方のうちに、すでにして反省以前的な仕方で取り込まれている。反省
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エ
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ゴ
以前的コギト という自我−コギトについてのサルトル独特の解釈は、デカルトのコギトおよ
びカントの統覚に対する批判の上に成り立っている。
デカルトに対しては、方法的懐疑といった反省を行う以前の仕方での自己意識であるコギ
トをサルトルは主張する。カントに対しては、意識表象は自我が成立するための必然的な条
件ではなく、対象への非措定的(な)意識として、必ずしも意識表象を俟たずとも、自己(に
ついての)意識は存在するとサルトルは主張する 9。自己欺瞞的な行為が人間存在のもうひ
とつの可能性であるとすれば、サルトルにとっての≪無≫とは、人間存在に備わる存在可能
性という余白であるともいえるだろう。
Ⅲ 自己欺瞞という≪信仰≫:凝固する自我と抗いとしての自由
「自己欺瞞の本質的な問題は、信念の問題である」
(EN103)
意識にとって、自己欺瞞は必ずしも意志的なものであるわけではない。主体の認識、ある
いは行動にそれとして現れはするものの、自己欺瞞的意識主体はそのことをそれとして知っ
ている、にもかかわらず知っているということを知らないままにし、なおかつ、それを知ら
ないのだと信じ込む。それが自己欺瞞(直訳は「悪しき信仰 mauvaise foi」
)の意味するこ
とにほかならない。
したがって自己欺瞞的主体は、その知らないことにしたはずの事実を意識の表象として一
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応は有している。しかし、その表象をいわば、見ないことにする 。自己欺瞞とはそれゆえ、
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自己意識が表象を見ないことにする 、あるいは、ないことにする 認識行為であるといえる。
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いいかえれば、無にする ことを意図的にではなく、自由な意識の構造それ自体が有している
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可能的な認識のありようとして、あたかもである がごとくに自分に思い込ませ、信じ込ませ
る行為なのである。欺くものと欺かれるものがともに自己自身であり、そのことが自己意識
の反省以前的な構造のうちに潜在的可能性として敷かれている。こうした意味で、自己欺瞞
とは≪信仰≫であるとサルトルは述べるのである。
実際、自己意識と表象の問題は初期サルトル哲学が掘り下げた重要な問いのひとつであっ
た。TE でサルトルはすでに、一切の表象に伴うべき統覚における表象としての自我という
カントの概念を批判している。サルトルによれば、自我はカントのいうようにあらゆる表象
に伴うのでなければならないのではない。むしろ、意識の対象として世界と同時に措定され
るべき対象である。
こうして解体された自我は、初期サルトルの実存哲学と共鳴しながら、その行く末に投企
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され続ける未完の主体として見出されることになる。EN においてサルトルは、こうした自
我による自我における欺き、すなわち自己欺瞞という根源的な投企が、人間存在という実存
者の存在へと、自由とともに、自由それ自体が孕む≪信仰≫として現れることを証立てる。
欺かれているかぎりでは疑いの余地のないほど歴然とした事実性として、欺いているかぎり
では不穏な可能性として、自由な実存者である人間存在の自己意識において、自己欺瞞は完
了し凝固した自我を生じさせようと自由な自己に抗う。その抗いは、だが、たんなる≪信仰
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≫にすぎない。自己欺瞞は、おのれが即自的な自己であると信じ込む ことによってのみ成り
立っているにすぎないからである。
ところで、TE では意識が措定する対象としての自我が示されていた。一方、EN では自
我の成立に関わる自己欺瞞が明らかにされている。これに対し、自由な人間存在のひとつの
存在可能性にほかならない自己欺瞞的相貌を呈して VE の無−知概念は示されている。凝固
した自我を装うこと、そしてそのように信じ込み続けようとすること、そうした行為とそれ
によって成り立つ存在様態は、
抗いとしての自由に備わるもうひとつの可能性に端を発する、
二次的な抗いなのだ。自由に内包する自己欺瞞のこうした抗いは、真理知に内包する無−知
の存在構造に重なる。次節では、自己欺瞞と無−知との接点について論じていく。
B)リスクと自由:『真理と実存』における無−知
本論文は、すでに次の二点を明らかにした。第一は、VE において無−知が知の可能性と
して位置づけられていること。第二は、EN において自己欺瞞は自由のひとつの可能性であ
ること。そこで次に、自己欺瞞を鍵概念として、VE における無−知の位置づけを明らかに
したい。
サルトルは、無−知を次の二つに区分している。無−知の位置づけが自己欺瞞に類比され
ていることは以下から明らかであろう。
(1)自己欺瞞にして投企という意味での無−知:EN の自己欺瞞の定義が無−知の定義
に重なる(cf. VE62)10
(2)知らないということが知の条件として機能するという意味での無−知:真理に潜む
根源的無−知(cf. VE67)
では、(1)と(2)の無−知の区別をどのように理解すべきだろうか。EN の自己欺瞞
概念からふたつの無−知を類比してみると次のことがわかるであろう。すなわち、
(1)で
は人間存在の根源的投企に内包される構造、もしくはひとつの可能性として無−知が位置づ
けられている。他方、
(2)では真理知の成立条件として無−知が位置づけられている。以
上からわかるのは、無−知が真理知という本来的な認識のうちに潜在的に含まれざるをえな
─ 68 ─
サルトル『真理と実存』における知と無-知
い、真理の成立条件として機能する事が示されているということである。
さらに、サルトルは知と無−知の関係を次の三つに示している(cf. VE53 − 67)
。
Ⅰ.知の根拠は自由である。一つの真理を開示する選択は、つねに無−知の内面化である
(VE53)
。
Ⅱ.無−知は行為に依拠する(VE61)
。
(α)真理は、行動/オペレーション opération の結果として現れるから。
(β)存在は、存在−して−いない目的によって明るみにだされるから。
(γ)対自は存在ではなく、即自に関わる意識が即自を存在させるのではないから。
Ⅲ.いかなる無−知も、自己時間化する無知、すなわち無−知から知への移行する無知であ
る(VE67)
。
自己欺瞞としての無−知であれ、真理知の成立条件としての無−知であれ、実存的主体に
とって、その無−知が知に内包されることは不可避的である。しかも、サルトルの問いの地
平は一貫して人間存在が実存する際の世界、いいかえれば<世界−内−存在> l'être-dansle-monde の<世界>という領域に画定されている。当然、VE で真理の問題が扱われるの
もこの地平の内側においてである。ところで、<世界−内−存在>の「世界」とは、実存す
る世界、あるいは実存者の世界にほかならない。では、サルトルの想定している実存的世界
とはいかなる世界なのだろうか。VE から引用すれば、それは「真理を不可能にすることが
できる世界」である。
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「真理は、真理を不可能にすることができる世界 という地の上で現れる。みずからの不可
能性というこの可能性に抗って真理は闘い、おのれの実存そのものによっておのれの存在を
主張する。いま見ているこのものを見ることで、私は可能性を出現させる」
(VE67、強調引
用者)。
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真理を不可能にすることができる のはなぜなのか。引用箇所には、可能性を出現させるの
は「私」だとある。そして、みずからの「不可能性という可能性」に抗って真理は闘うのだ
という。ということは、不可能性という可能性の出現は、<私>に端を発しているというこ
とになる。この不可能性としての可能性の出現は、真理の成立にとっては脅威である。もし
かしたら、真理は見出せないかもしれない。つまり、真理は不可能かもしれない。そうした
真理の不可能性としての可能性は、真理への脅威であるとともに、一方では、真理がおのれ
の存在を主張する契機ともなるのだ。
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サルトルは、こうした不可能性という可能性ないし真理への脅威を<リスク risque >と
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呼ぶ。ここで再度、先ほどの問いに戻ってみよう。真理を不可能にすることができる のはな
ぜなのか。端的にいえば、それは世界がリスクに満ちているからである。では、それは何の、
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何に対するリスクなのか。そもそも、なぜサルトルはそれを<リスク >と呼ぶのか。
「現実的なものに対して、それが敵対的/逆境 adverse となるかどうかを知らない可能性
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というものがあり、それが無−知である(あるいは、行為 action に関する用語でいえば、
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リスク なのである)。みずからの存在における自由は、このリスクへの要求であり、自由によっ
てしかリスクは存在しない。そして、結局のところ、リスクに身を晒すのは自由自身なので
ある」(VE64、強調引用者)
引用箇所には、リスクが行為に関する用語であるということが記されている。そして行為
は自由に言いかえられている。リスクとは、現実において自由を阻む逆境が存在する可能性
にほかならない。サルトルにとって、自由は自由であろうとするためにこそリスクを要求す
るのでなければならないのである。リスクは、真理の必然性や同一性を回避する障壁として
働くのだともいえるだろう。
「このように行為 l'action は、ある目的によってすでに存在する現実を明るみにだすこと
を要請する。そしてこの現実は、乗り越えるべき障碍や遅延や苦境として開示されうる。こ
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のように、自由の要請は、現実が私の意図に反するものとしてつねに開示されうるというこ
とである(略)みずからの存在における自由は、このリスクへの要求であり、自由にとって
しか、そして自由によってしかリスクは存在しない」
(VE64)
自由とリスクの関係を明らかにした後、サルトルは真理の歴史化という問題に取り組んで
いる。実存する自由な他者存在もまた、私の自由を限定しうる。それはある意味で私にとっ
ての脅威でありリスクでもあるのだが、他方、他者や時代といった外部、私の知り得ない限
界を<無−知(無視/知らぬこと)>とすることで人間存在はもうひとつの可能性として真
理知を凝固させることも可能である。そうした事態こそ、真理論の地平での自己欺瞞的行為
だといえるのかもしれない 12。
3.結語:実存的真理の(不)可能性
ハイデガーによる真理の暴露や存在開示といった概念から着想を得たサルトルは、存在開
示の根拠が人間存在の自由にあることを重視し、実存的真理概念を構築しようと試みた。
サルトルによれば、人間存在の自由は自己時間化に依拠すると共に、真理に時間性を付与
する。こうした了解の下では、カント的な自己同一性の原理はもはや真理知の成立条件とし
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サルトル『真理と実存』における知と無-知
て十分ではない。そこで、
自己時間化する人間存在による認識は「見方/展望」としてのヴィ
ジョンを有し、可能的予期を不断に創出する。そうした予期から真理検証への持続可能性こ
そが、実存的真理の絶対性を保証することになる。
時間性に依拠する真理の持続可能性は、行為としての認識という観念を喚起している。時
間化の下に生起する真理存在は「未だ−ない」という欠如として無化され続け、たえずある
種の非在存在として無−知を内包し続ける。行為の時間性という観念を、サルトルは非在か
ら存在への架橋というプラトン以来の難題解決に適用している。
ところで、無−知は EN の自己欺瞞と密接な関係にある。自己欺瞞は、抗いとしての自由
に備わるもうひとつの可能性にほかならず、
凝固した自我への抗いである自由を源泉とする。
自己欺瞞とは、いわば凝固した自我への抗いによる、その抗いそのものに対する反逆である。
こうした自己欺瞞のあり方は、実は真理と無−知の関係に類比されうる。というのも、無−
知は自己欺瞞と同様の構造を有し、
真理に内包し真理の成立を条件付けさえするからである。
自己時間化する実存的主体にとって、可能性を脅かすのは不可能性ではなくリスクにほか
ならない。なぜなら、行為者としての実存者の可能性を阻むのは、
「それはできない」とい
う不可能性ではなく、上手くいかないかもしれないというリスクがある、ということにすぎ
ないからである。サルトル的実存の主体にとっては、不可能性さえも可能性なのだ。こうし
た了解から導き出されるのは、リスクをおのれの可能性を脅かすリスクとして認識するか/
しないか、どのように乗り越えるか/乗り越えないかということがすでに、主体における未
知の可能性のうちにある主体の選択、投企に根ざしているという事柄である。リスクという
観念によって、サルトルは必然性や同一性が真理知の成立条件となることを回避しようと試
みる。
リスクに縁取られ実存的現実という地平においてしか存在しえない実存者にとって、「そ
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れは何であるか?」という真理の探究は「私は何を知りうるか? 」という私の可能性の投企
となる。しかも、実存者がみずからの投企をなしうるのは、もとより実存的現実の地平に巻
き込まれている engagé かぎりにおいてでしかない。この私の可能性の賭けが、実存的現実
の地平に巻き込まれているかぎりでの私の、私による選択となり決断となる。サルトルはこ
の選択を投企としての行動とみなす。こうして、
実存者の認識が行動と同義であるがゆえに、
実存者にとって、真理の探求は現実を「いかに生きるべきか?」という倫理的問いかけに対
する絶えざる投企となる。それゆえ、実存的真理の問題は、実存的倫理への問いへと収斂さ
れていくのだろう。
実存者の投企は、賭けにも似て、その結末についてそれを為してみなければ誰にもわから
ないという無−知(わからなさ)や偶然性を根源的に有している。このわからなさ、保証の
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なさとしての無−知こそが、賭の正当性を支える。この結果のわからなさ 、すなわち無−知
であることこそが真理の成立条件となる。はじめから結果の分かっている賭は、真の賭では
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ない。だから、サルトルは行為とその自由を論じる際、正義より真理の成立を巡る問いをこ
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そ築こうとするのだろう。自由な賭けに興じる実存者にとって、賭けの正義とは、結果のわ
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からなさ としての無−知にこそある。この無−知を条件として結果の真偽(当たり/外れ)
という真理/真実が成立する。サルトル的実存の主体は、原理的に予測不可能な結末をあて
にするほかない賭けにおいて、結果とそれに対する判断もまた、終わりなきさらなる賭けの
うちで検証し続けるのである。
本文中のサルトル著作からの引用は、以下の略記号によりページ数のみを記す。
VE:Vérité et existence, Gallimard, c1989. 本文中の数字は、草稿の何葉目であるかを示して
いる。
EN:L'être et le néant, Gallimard, c1943.
TE:La transcendance de l'ego, J. Vrin, c1937.
注
1
VE の編者は、この草稿をサルトルによる倫理への探求として位置づけている。cf. A. ElkaimSartre, Contextes in VE.
2
cf. J. Simont, Les fables du vrai, à propos de Vérité et existence, in Les temps modernes,
octobre à décembre 1990, No 531 à 533. 当時サルトルは、ハイデガーを引き合いに出して「本
来性」の過剰な道徳的意味づけを拒否していた。また、ハイデガーからのインスピレーショ
ンがサルトルの真理論の形成を促したことは事実ではあろうが、この点を裏付けるサルトル
による注釈は抽象的である。それゆえ本論文では、ハイデガーとサルトルの真理論の類比に
は重点を置かず、あくまで初期サルトルが何をもって<真理>としたのかという点に的を絞っ
て論を進めることにする。
3
一方、
シモンは「いかなる真理も寓話である」という見解を VE から導出している。「ヴィジョ
ン」をプラトン的な意味での「幻影」と解釈するならば、そうした見解に行き着くだろう。J.
Simont, op.cid. p. 200.
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同一律によっては、その差異問題を解消する基準として十分ではないことは前節で論じた。
5
こうした事態をサルトルが事実性の次元で語るとき、それは<アンガージュマン>という名
で呼ばれる。
6
cf. J.-P. Sartre, L'imagination, Paris : Presses Universitaires de France, c1936.
J.-P. Sartre, L'imaginaire : psychologie phénoménologique de l'imagination, Paris : Gallimard,
c1940.
7
こうした人間存在の二重性に関わる世界の両義性については次の論文を参照されたい。前原
有美子「サルトル『存在と無』における世界の二重性」日本現象学会研究年報第 14 号、p.233
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サルトル『真理と実存』における知と無-知
‐ 236、1998 年 .
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自己欺瞞はあくまで人間存在の自由に内包されているひとつの可能性なのであり、本来的な
自由に対置すべき非本来性ではない。というのも、自己欺瞞は本来的自由に内包されてはい
るものの、場合によっては自由すら超越しうる可能性もあるからである。
9
このようにサルトルの意識概念はいくつかの哲学史的注解の上に成立しているのだが、その
点の詳細を論じるにあたっては別の機会に譲ることにする。
10 実際、(1)の自己欺瞞的な無-知の実例についての記述は、EN での自己欺瞞の記述が非常
に饒舌であったことに類似している。
11 1.B)において、ヴィジョンを「見方/展望」として解釈すべきことを本論はすでに確認した。
12 このいわば真理の外部としての無−知をめぐる議論については、別の機会に譲ることにする。
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La connaissance et l'ignorance dans Vérité et existence
de Sartre : L'(im)possibillité de la vérité existentielle
MAEHARA, Yumiko
Sartre écrivit Vérité et existence en 1947-48. Dans ce texte, l'auteur traite de la condition
ontologique de la vérité. Pour Sartre, la vérité, ainsi que l'ignorance, constituent une
connaissance de la réalité humaine. Or, entre l'ignorance et la mauvaise foi, il y a la même
construction inévitable de la liberté humaine provenant de sa propre néantisation. Si la
réalité humaine, en tant qu'existence, forme une vérité, c'est parce que l'ignorance est une
possibilité de la connaissance. Aussi, la formation de la vérité se réfère à l'ignorance en
tant que mauvaise foi. Nous mettrons en lumière le fait qu'en l'occurrence, la mauvaise foi,
notion révélée dans L'Être et le néant(1943), attache de l'importance à la notion de
l'ignorance dans Vérité et existence. Dans la vérité sartrienne, l'ignorance et la connaissance
se tiennent. D'où provient l'(im)possibillité de la vérité existentielle.
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