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日中戦争期における台湾拓殖会社の金融構造

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日中戦争期における台湾拓殖会社の金融構造
2001 年度 財団法人交流協会日台交流センター歴史研究者交流事業報告書
日中戦争期における台湾拓殖会社の金融構造
東京大学
湊照宏
派遣期間(2001 年 7 月 26 日∼11 月 22 日)
2003 年 10 月
財団法人 交流協会
財団法人交流協会日台交流センター
2001 年度歴史研究者交流事業 研究報告書
日中戦争期における台湾拓殖会社の金融構造
1 序論―課題と視角―
2 台拓の設立
3 内部資本市場における資金配分
4 外部資本市場からの資金調達
5 収益性の分析
6 結論―国策への民間資金動員メカニズム―
東京大学大学院経済学研究科博士課程
湊
1
照宏
1
序論―課題と視角―
本稿の課題は、日中戦争期における台湾拓殖会社(以下、台拓)の金融構造を分析し、
台拓の果たした機能とその限界を解明することにある。
台拓は台湾総督府の主導により、1936 年 11 月に政府半額出資を以って資本金 3000 万円
で設立された国策会社である。台湾島内外において複数の事業を展開し、多くの関係会社
を有する事業持株会社であった。この台拓に関する研究は設立過程を中心になされたもの
が多く1、台拓が戦時経済下において具体的にどのような業務を展開していたのかについて
は必ずしも明らかにされていない。台拓の複数の事業や関係会社を取り上げて、これらを
総合的に把握しようと試みたのは久保文克氏であり、氏は台拓を「本格的工業化と『南方
進出』のオルガナイザー」と位置付けた2。しかし、台拓がどの分野に重点的投資をし、そ
れが時系列にどのように変化したのかが充分に検討されないまま、台拓の機能を上記のよ
うに結論付けることには問題があった。
本稿では、台拓の複数の事業や関係会社の展開について、日中戦争期の金融構造を中心
に分析し、台拓の事業展開の総合的な把握を試みる。台拓の金融面からの分析は未だなく、
現在最も詳細な台拓分析といえる Schneider 氏の研究3においても、資金調達及び運用の分
析はなされていない。氏は帝国周辺による帝国主義的拡張欲という Subimperialism の概念
を用いて、仏領印度支那(以下、仏印)及び海南島事業を中心に分析した。しかし、台拓
の事業全体の金融構造を把握しなければ、各事業の相対的な位置付けは困難であろう4。
先行研究に共通する問題点は、台拓の国策会社的性格を強調するあまり5、半官半民会社
の「民」の側面が等閑視されており、半官半民国策会社の特質を把握できていない点にあ
る。本稿では、民間資金を動員して国策を遂行する点に半官半民国策会社の特質を求め、
「国
梁華璜「
『臺灣拓殖株式會社』之成立經過」
(國立成功大學『歴史學報』第六號、1979 年)
、
長岡新治郎「熱帯産業調査会開催と台湾総督府外事部の設置」(『東南アジア研究』18 巻 3
号、1980 年)
、長岡新治郎「華南施設と台湾総督府―台湾拓殖、福大公司の設立を中心に―」
(中村孝志編『日本の南方関与と台湾』天理教道友社、1988 年)
、游重義「臺灣拓殖株式會
社創立之背景(上)
(下)
」
(
『國立中央図書館臺灣分館館刊』第二巻第二期、1995 年、第二
巻第三期、1996 年)
2
久保文克『植民地企業経営史論‐「準国策会社」の実証的研究』第 7、8 章(日本経済評
論社、1997 年)
3 Adam Schneider 『The Business of Empire : The Taiwan Development Corporation
and Japanese Imperialism in Taiwan, 1936-1946』
(Harvard University 博士学位論文、
1998 年)
4
その他、台拓の地域事業を分析したものに、東台湾地域事業の展開を時系列的に分析し
た、林玉茹「國策會社的邊區開發機制:戰時臺灣拓殖株式會社在東臺灣的經營管理系統」
(『臺
灣史研究』第九巻第一期、2002 年)がある。
5
張静宜氏は台拓の組織変遷を分析し、台拓の組織は戦線拡大とともに拡大し、敗戦とと
もに消滅したと論じ、台拓の国策会社的性格を強調した。(
「台灣拓殖株式會社組織推移之
探討」
『臺灣風物』48 巻 2 期、1998 年)
1
2
策性」と「営利性」という視角を導入する。台拓は外部資本市場から調達した資金を内部
資本市場6で配分し、複数の国策性を有する事業に投入していた。ここで問題なのは、国策
性事業は慨して低収益であり、その原資が外部資本市場から調達した資金であることは、
財務構造的に負債利払い能力に制約が生じることを意味していたことである。この問題の
解決には政府補助金の獲得だけでなく、営利性を有する事業を展開することによって初め
て解決する。外部資本市場から資金を調達し、それを低収益の国策性事業に投入するとい
う半官半民国策会社の特質は、展開する複数事業のうちに営利性事業を有することによっ
て初めて成立したのである。本稿ではこの点に関する具体的な事例検証によって、国策に
民間資金を動員するメカニズムを明らかにする。
まず第 2 章で国策への民間資金動員を目的とした台拓の設立法規、及びその目的に適合
的に構築された企業統治構造を確認する。第 3 章では資金運用面から分析し、内部資本市
場における国策性事業への資金配分を明らかにする。第 4 章では資金調達面から分析し、
外部資本市場からの資金調達過程を明らかにする。そして結論では、以上の分析から明ら
かにされる、国策への民間資金動員メカニズムを確認したうえで、日中戦争期の台拓の機
能と限界を明らかにする。
なお本稿の分析においては、台灣省文献委員會が所蔵する『台灣拓殖株式會社档案』を
主なる資料として使用する7。
2
台拓の設立8
1936 年 5 月の第 69 帝国議会で台湾拓殖株式会社法案が成立した。その第 1 条で、台拓
は「拓殖事業ノ経営及拓殖資金ノ供給ヲ目的トスル株式会社」と定められ9、次のような特
典が台拓に付与された。即ち、株主決議を要しない株式払込金 3 倍額までの社債発行(第 7
条)、民間株配当率が 6%に達するまで政府所有株に対する配当免除(第 13 条)である。前
6
戦前における持株会社の内部資本市場については武田晴人「財閥と内部資本市場」(大河
内暁男・武田晴人編『企業者活動と企業システム』東京大学出版会、1993 年)を参照。
7
中央研究院台灣史研究所籌備處及び中山人文社會科學研究所において、1997 年から
2002 年まで公開されていた副本を閲覧した。副本は第1冊から第 2857 冊にまで整理保存
されており、例えば第 2857 冊に所収されている資料を本稿に引用する場合には、
「台拓档
案 2857」と記されている。資料閲覧の際、鍾淑敏助研究員(台灣史研究所籌備處)
、林玉茹
助研究員(台灣史研究所籌備處)のお世話になった。記して謝意を表す。
8 設立過程に関しては既に多くの研究があるので、ここでは繰り返さず、本稿の課題と視角
に限定して、国策への民間資金動員メカニズムの前提条件を確認することを目的とする。
9 さらに 1936 年 7 月の台湾拓殖株式会社法施行令(勅令)第 5 条で、台拓の事業内容は、
「1、拓殖ノ為必要ナル農業、林業、水産業及水利事業 2、拓殖ノ為必要ナル土地(土
地ニ関スル権利ヲ含ム)ノ取得、経営及処分 3、委託ニ依ル土地ノ経営及管理 4、拓
殖ノ為必要ナル移民事業 5、農業者、漁業者若ハ移民ニ対シ拓殖上必要アル物品ノ供給
又ハ其ノ生産品ノ取得、加工若ハ販売 6、拓殖ノ為必要ナル資金ノ供給 7、前各号ノ
事業ニ附帯スル事業 8 前各号ノ外拓殖ノ為必要ナル事業」と定められた。
3
者は債券発行による資金調達を円滑にし、後者は株式払込徴収を順調にし得る民間株配当
を維持し易くする規定であった。このような特典が付与される一方で、次のような政府に
よる強い規制が定められた。即ち、拓務大臣の認可を経た台湾総督の役員任命権(第 6 条)
、
政府の業務監督権(第 10 条)
、利益金処分、債券発行、合併解散の株主決議に関する政府
による許可制(第 11 条)
、法令や公益に矛盾する場合の政府の株主決議取消権、役員解任
権(第 12 条)が定められた。これらからわかるように、台拓の設立法規には、民間株主の
経営介入を制限しながらも外部資本市場からの資金調達を円滑にする特典と、国策遂行の
ための政府による強い規制が盛り込まれていた。
1936 年 7 月に台湾拓殖株式会社法施行令(勅令)が出された後、9 月に株式募集が開始
された。総株数は 60 万株で、うち総督府現物出資による総督所有株が 30 万株であり10、製
糖会社に 8 万株、内地・台湾の資本家団体に 12 万株割り当てられ、残り 10 万株が一般公
募となった11。設立直後の上位主要株主を確認する資料が無いが、表1で 1939 年 9 月現在
の上位株主構成を確認すると、株式の半数は台湾総督が保有し、民間株においては製糖会
社及び内地財閥が高い比重を占めていることがわかる。このような上位株主構成は日中戦
争期を通じて変化はなかった。
<表1>台拓上位株主
1939 年 9 月末現在
1942 年 6 月現在
株主
株主
台湾総督
株式
300,000
株式
台湾総督
300,000
大日本製糖
18,000
大日本製糖
28,500
明治製糖
18,000
明治製糖
18,000
台湾製糖
18,000
台湾製糖
15,000
三井合名
12,000
三井物産
12,000
三菱社
12,000
三菱社
12,000
愛久澤文
12,000
愛久澤文
12,000
塩水港製糖
7,000
塩水港製糖
7,000
昭和製糖
6,500
住友本社
6,000
住友本社
6,000
東洋拓殖
5,000
東洋拓殖
5,000
台湾銀行
5,000
台湾銀行
5,000
安田銀行
5,000
安田銀行
5,000
総督府の現物出資の内容は、約 1 万 5 千甲歩(1 甲は 1 町歩弱)の土地であった。これ
を財産価格 1500 万円として台湾総督に株式 30 万株を割り当てた。
11 「増資事由書」1942 年 3 月(
『昭和十七年役員会決議事項』台拓档案 2857)
10
4
2868 名
600,000
600,000
出所)台拓『事業要覧』昭和 14 年版、『株主名簿』昭和 17 年 6 月 1 日現在より作成。
こうして台拓は 1936 年 11 月に創立された。創立時の役員を確認すると、社長には元三
菱合資会社理事の加藤恭平、副社長には元台湾銀行(以下、台銀)理事の久宗薫、業務分
掌理事には、元拓務省拓務局長の日下辰太、元台中州知事の高山三平、元昭和製糖取締役
の大西一三が任命された(表2)12。その他に業務参与理事4名と監事 2 名とで構成される
役員会が台拓事業全体を統括する体制であった。表1で確認したように、民間株主におい
ては製糖会社の比重が高かったが、製糖会社からの役員派遣は藤山監事のみであり、大西
理事は製糖業界出身というよりは台銀出身者としての性格が強かった。台拓役員会には民
間株主構成が反映されていなかったのである。
<表2> 日中戦争期の台拓の 役員会
社長
1936 年 11 月 加藤恭平
副社長
理事
監事
久宗薫
日下辰太
寶来亀四郎
高山三平
藤山愛一郎
大西一三
井坂孝
松木幹一郎(38 年 6 月死亡)
原邦造
赤司初太郎
1938 年 12 月 加藤恭平
久宗薫
日下辰太
米村佐一郎
高山三平
藤山愛一郎
大西一三
井坂孝
原邦造
赤司初太郎
1941 年 6 月 加藤恭平
久宗薫
日下辰太
吉田秀穂
高山三平
藤山愛一郎
大西一三
越藤恒吉
井坂孝
12
台拓の役員会人事に関しては、張静宜「臺灣拓殖株式會社董事任用之分析」
(
『臺北文献』
第 131 期、2000 年)を参照。
5
原邦造
赤司初太郎
出所)台拓『営業報告書』各期より作成。
このように台拓は、設立法規によって、民間資金を動員して国策遂行を目的とする株式
会社として特典と規制が盛り込まれ、それに適合的な企業統治構造となっていた。
3
内部資本市場における資金配分
表3は 1941 年度までの事業別投資額及び 1941 年度の利益額である。ここでは、まず 1941
年度までの島内外の事業別投資額を確認することによって、日中戦争期における台拓の内
部資本市場における資金配分状況を確認する。
<表 3>1941 年度までの事業別投資額と 1941 年度利益額(千円)
投資額
島内 土地
修正額 島内・外の% 全体の% 利益額
16,775
1,775
6.0%
3.8%
1,483
干拓事業
1,647
1,647
5.6%
3.5%
0
開墾事業
2,343
2,343
7.9%
5.0%
0
移民事業
91
91
0.3%
0.2%
0
栽培事業
391
391
1.3%
0.8%
△ 8
鉱山事業
2,995
2,995
10.1%
6.4%
66
7,789
7,789
26.4%
16.8%
168
営林所材販売事業 △ 2,569 △ 2,569
-8.7%
-5.5%
0
特殊事業
嘉義化学工場
支那労働者取扱
0
0
0.0%
0.0%
△ 6
芭蕉繊維事業
284
284
1.0%
0.6%
48
所有有価証券
78
78
0.3%
0.2%
1
1,507
1,507
5.1%
3.2%
99
12,601
12,601
42.7%
27.1%
252
564
564
1.9%
1.2%
23
14
14
0.0%
0.0%
0
44,510
29,510
100.0%
63.5%
2,126
1,359
1,359
8.0%
2.9%
21
4,783
4,783
28.2%
10.3%
0
移民事業
5
5
0.0%
0.0%
0
栽培事業
332
332
2.0%
0.7%
21
貸付金
投資
関係会社勘定 台湾棉花勘定
仮払金
計
島外 広東事業
海南島事業
6
鉱石勘定
0(3,645)
3,645
21.5%
7.8%
187
貸付金
3,007
3,007
17.7%
6.5%
183
投資
6,139
2,494
14.7%
5.4%
20
関係会社勘定 台湾棉花勘定
780
780
4.6%
1.7%
31
開洋燐鉱勘定
155
155
0.9%
0.3%
3
36
36
0.2%
0.1%
4
△ 300 △ 300
-1.8%
-0.6%
0
比律賓産業勘定
印度支那産業
特殊事業
製油工場
93
93
0.5%
0.2%
5
海南島木材
0
0
0.0%
0.0%
0
南方特務費
219
219
1.3%
0.5%
0
344
344
2.0%
0.7%
0
4
4
0.0%
0.0%
0
16,956
16,956
100.0%
36.5%
475
61,466
46,466
100.0%
2,601
船舶
仮払金
計
計
其他 土地投資益
593
海南島向資材販売益
107
営林所材販売益
153
飯塚鉄鉱事務取扱手数料
120
仏印クローム鉱区並設備売却益
500
土地分譲益
3
預ケ金利息
46
国庫補助金
956
雑益
75
合計
5,154
出所)主計課『自昭和 16 年 6 月至昭和 17 年 12 月 会計検査関係』1942 年 6 月 24 日
(台拓档案 2654)より作成。
注)投資額中△印は返還回収額又は預リ金を示す。
注)鉱石勘定中の( )内の金額は仝勘定に関係ある株式投資額。
仝株式よりは配当を受けず鉱石勘定により利益を受ける。
注)営林所材販売事業と海南島木材事業の利益は手数料収入のため其他利益に計上。
注)投資額に島外事業の鉱石勘定と特殊事業海南島木材の額は含まれず。
1941 年度までの総投資額は約 6147 万円とされているが、この中には政府現物出資 1500
万円も含まれている。政府現物出資は元官有地の田畑であったので、島内事業の土地投資
額から 1500 万円を差し引き、修正した総投資額は約 4647 万円となる。すると、この期間
7
の投資総額の 63.5%にあたる約 2951 万円を島内事業に、36.5%にあたる約 1696 万円を島
外事業に割り当てたことになる。
(1)島内事業(カッコ内の%は島内事業投資総額に占める割合)
土地には約 178 万円(6%)配分されている。この事業は、総督府が小作農民から貸付料
を徴収していた官租地を現物出資することにより、台拓が社有地経営として引き継いだも
のである。旧官租地の財産価格 1500 万を加えて当事業資産を 1678 万円としても、利益額
148 万円という数字は相当程度の高収益事業といえる。これら旧官租地からあがる土地収入
が、事業利益の過半を占めていた。
干拓、開墾、移民、栽培事業には計 447 万円(15%)配分されている。干拓事業は台中・
台南沿岸を中心に耕地の造成を目指して展開された。また開墾事業に関しては、1937 年度
以降 10 年間に 6 万 5 千甲歩の開墾を目標とし、開墾後は総督府が奨励する有用作物(棉花
など)を栽培する計画であった13。特に干拓、開墾事業に多額の資金が投入されているが、
これら事業の利益額はゼロであり、極めて低収益の事業であったことがわかる。
鉱山事業には約 300 万円(10%)配分されている。当初は昭和鉱業合名会社に貸付金で
以って資金援助をしていたが、1939 年度から同社所有の炭坑を買収し、台拓が経営する事
になった14。おそらく不採算坑区で民間会社が経営できない坑区を、収益性を度外視して産
出のみを目的として台拓が引き継いで経営したと推察される。
特殊事業の嘉義化学工場には約 779 万円(26.4%)配分されており、重点的投資分野で
あったことがわかる。その経緯は以下の通りである。1938 年 10 月、総督府中央研究所で
研究されていた甘藷を原料とするブタノール(航空機燃料)製造の企業化に見通しがつき、
台拓は工場建設に着手した。1939 年 4 月に竣工し、7 月に操業開始となった。8 月には海
軍秘密工場に指定され、ブタノール増産のための設備拡張が決定された15。以後この化学工
場への重点的投資が不可避になるが、当初台拓はこの化学工場拡張資金に関しては台銀か
らの優遇16を得ようとしていた。台拓社長は台銀副頭取に、化学工場拡張費充当の資金融通
台拓調査課編『事業要覧』(1939 年 10 月、pp14‐16)
台拓調査課編『事業要覧』(1939 年 10 月、p27)
15 この経緯については、三日月直之『台湾拓殖会社とその時代』
(葦書房、1993 年)pp23
−27、pp35−36、pp61−65、pp116−119、pp100−102 を参照。そこでは、海軍徳山燃料
廠におけるブタノール変性イソオクタン製造技術開発の成功と関連していたことが記され
ている。
16
台北在勤海軍武官は台銀頭取に「台湾拓殖株式会社嘉義ブタノール工場ハ海軍用ノ極メ
テ緊要ナル燃料資材生産工場トシテ重要視致居候処此種燃料ノ需要ハ今後益増加ノ傾向ニ
有之就テハ同工場ノ増産拡張ニ際シテハ貴銀行ノ使命ヨリシテ本件ノ国策的緊要性ニ鑑ミ
融資等ニ関シ特別ノ御配慮相成度」
(「融資ニ関スル件照会」1939 年 8 月 15 日、主計課『昭
和十五年度 借入金関係書類 二冊ノ内第一号』台拓档案 772)と要請し、「当時台銀ニ於テ
ハ之レヲ了承」
(在京副社長発 総務部長宛「事業資金借入申請ニ関スル件」1940 年 3 月 29
日、台拓档案 772)した。
13
14
8
を要請する際に以下のように語っている。
嘉義化学工場ハ御承知ノ如ク海軍ノ指定工場ニシテ海軍ガ力溜ヲ入レ居リ従ツテ現在ノ
中間工場ハ近々非常ニ大規模ノ拡張ヲ要シ…、而シテ其ノ損益関係ハ…何レニシテモ事
業全体ニ対シ相当ノ利益ハ確保セラレ以テ本事業ノ完成ヲ期待セラレ居ルモノニ有之、
吾社トシテハ本事業ヲ将来独立会社ニ建直シ株式払込金又ハ其ノ社ノ借入金ヲ以テ返済
スベキニ付工場建設中ノ所要資金ハ台銀ヨリ融通願度ト思フガ如何…17
この台拓の要請に対し、台銀副頭取は「一向差支ナカルベシト引受内意ヲ18」表したとい
う。このように、台拓は化学工場拡張で多額の資金が必要になったにもかかわらず、この
事業の国策上における緊要性の高さから、台銀からの資金融通の見通しが立っており、資
金調達面での憂いを抱く必要はなかった19。それだけでなく、先の台拓社長の台銀副頭取へ
の言葉から分かるように、台拓はこの化学工場事業には営利性をも期待していた。1941 年
度の利益額は約 17 万円であり、営利性のある事業とはいえないが、少なくとも化学工場拡
張決定時点では、台拓役員は将来の化学工場事業に営利性を見出しており、この化学工場
事業を基盤にして、台拓全体の事業を発展させていけると認識し、当事業を島内事業の基
軸に位置付けたのである20。
貸付金には約 151 万円(5%)配分されている。1937 年 4 月公布の台湾拓殖株式会社資
金供給規則(総督府令)で、貸付や株式引受等による資金供給が可能となっており、台拓
は拓殖資金の資金供給を行なっていた21。1941 年度末における島内の主要貸付先は星規那
社長発 在京副社長宛「嘉義化学工場建設資金借入ノ件」1940 年 4 月 5 日(台拓档案 772)
同上
19
ただし、台拓社長が「本事業ハ島内ニ於ケル吾社ノ金看板トモナリ、既ニ世間周知ノモ
ノニシテ昨秋シンジケート団一行ノ台湾視察ニ於テモ特ニ本事業ノ将来性ヲ印象付ケ居ル
事実モ有之、吾社トシンジケート団トノ関係ニ於テ全面的ニ吾社事業ノファイナンスヲ懇
請スルシンジケート団ニ対シ吾社事業中ノ金看板タル事業ヲ削除シテ之ヲ台銀一行ニ持チ
行クコト果シテ如何」
(社長 在京副社長宛「嘉義化学工場建設資金借入ノ件」1940 年 4 月
5 日、台拓档案 772)と懸念していたように、有望な化学工場事業の資金融通を台銀1行に
依頼することは、基本的な資金依存関係にあるシンジケート団との関係を悪化させる恐れ
があった。結局、化学工場拡張充当の借入については台銀からではなく、シンジケート団
からの 850 万円借入が 1941 年 2 月に総督府から認可された。
20
Schneider 氏は、太平洋戦争勃発前においては、台拓の島内事業の中心は農業及び土地
開発であり、太平洋戦争勃発後に鉱業及び燃料中心の事業を展開し、嘉義化学工場への重
点的投資がなされるようになったと論じた(前掲『The Business of Empire』Chapter Three
Conclusion、p133)。しかし、表3から確認できるように、1941 年度までの島内総投資額
における土地、干拓、開墾、移民、栽培事業への各投資額よりも、嘉義化学工場への投資
額の方が多かった。
21 ここでの拓殖資金供給とは「農業、林業、水産業、畜産業、移民事業等本来ノ拓殖ノ字
義ニ当然含マルベキモノノミナラズ工業、鉱業、運輸業、商業迄モ拓殖ノ為必要ナル事業
トシテ之等ニ対スル投資」
(
「台拓事業概況説明会」1944 年 1 月 10 日『台拓事業説明会記
17
18
9
産業、台湾石綿、移住組合等であった。
島内で最大の資金配分がなされているのは投資である。これは株式引受額で、1260 万円
(42.7%)も配分されている。1941 年度末時点での島内株式投資額においては、日本曹達
系子会社への投資の比重が高い。中央政府の工業塩五ヵ年増産計画にそって 1938 年 6 月に
設立された南日本塩業会社22、苦汁を原料としてマグネシウム・塩化加里製造を目的に 1939
年 10 月に設立された南日本化学工業会社がそれである23。両社への株式投資額は約 467 万
円に達し、1941 年度末までの島内株式投資額の約 37%に相当する24。この最大の資金配分
がなされている株式投資からあがる利益額は、1941 年度ではわずか約 25 万円であり、配
当収入は少額であった。
(2)島外事業(カッコ内の%は島外事業投資額における割合)
広東事業に約 136 万円(8%)
、海南島事業に約 478 万円(28.2%)配分されており、華
南事業への優先的な資金配分がなされている。特に海南島事業への資金配分が多く、島外
事業において最大の資金配分がなされている。海軍による海南島占領は 1939 年 2 月である
が、その前年 9 月、台湾総督府は『海南島処理方針(未定稿)25』を作成している。そこで
は、
「海南島の原料資源は原則として台湾に於て之を処理するの方針を採り台湾の工業化を
図る」とされ、
「台湾拓殖会社を投資会社とし全体的統制を行はしむ」という構想があった。
台拓による海南島事業は占領直後から開始されたが、この構想はほとんど実現することは
なかった。鉄鉱石開発事業に主力が注がれた海南島において26、台拓の事業は自動車、建築、
煉瓦、畜産、製氷、農園などを内容としており、周辺的な業務にしか携わることができな
かった27。このように重点的投資がなされた海南島事業の 1941 年度の利益額はゼロであり、
低収益の国策性事業の典型といえる。1941 年 3 月の台拓内の予算委員会で国庫補助金の申
録』台拓档案 1794)も広義のそれと解せられた。
22 「中央政府ニ依リテ樹立セラレタル我邦勢力範囲内ニ於ケル工業塩五ヵ年増産計画ニ則
リ大日本塩業株式会社、台湾製塩株式会社並ニ我社ノ協力ニ依リ新会社ヲ設立スル予定ニ
シテ新規塩田開設ノタメ台南高雄両州ニ亘リ五千七百余甲ノ土地買収ノ手続キ進行中」
(
「昭和十二年度事業報告書(自昭和十二年四月一日至昭和十三年三月三十一日)」
(経理課
『昭和十三年度 監理官関係書類』台拓档案 2463)
23 これら電力多消費産業の勃興は、戦間期の台湾電力会社による大規模電源開発が前提に
あった。戦間期台湾の電源開発については、拙稿「両大戦間期における台湾電力の日月潭
事業」
(
『経営史学』第 36 巻第 3 号、2001 年)を参照されたい。
24 冫余照彦氏は、1930 年代後半の内地財閥による対台湾投資積極化の背景で台拓が活躍し
ていたと指摘したが(『日本帝国主義下の台湾』東京大学出版会、1975 年、p349)、この
指摘は日本曹達の対台湾投資に関してのみ妥当する。
25 『現代史資料(10)日中戦争(三)
』みすず書房、1964 年、pp451−463
26 太田弘毅「海南島における海軍の産業開発」
(
『政治経済史学』199 号、1982 年)
27 台拓の海南島進出に関しては先行研究が共通して注目しており、そこでは国策南進を遂
行する台拓の国策会社的側面及び南進性が強調されている。しかし海南島進出の日系企業
における台拓の重要性は、日本窒素会社や石原産業会社に比して、より限定的であった。
10
請や見通し等について話し合われているが、そこでは、海南島管轄の南支第二課から海南
島事業への国庫補助は台拓の 40 万円の申請に対し 10 万円になる見通しが伝えられた28。大
西理事の「海南島事業ノ損失ハ如何」との問いに、担当者は「十五年十二月ニ於テ約五十
万円」と答えている。それに対し、大西理事は「海南島ニ於ケル事業ハ何時迄モ占領直後
ノ頭デ行ツテハイケナイ
即チ何時迄モ損バカリシテ居テハ困ル」と述べ、拓務省に援助
を要請するよう指示している。島外事業において最大の資金配分がなされた海南島事業は
赤字事業であったうえに、国庫補助金も申請通りに受け取ることも出来ず、日中戦争末期
には台拓の重荷となりつつあったのである。
海南島事業の次に優先的な資金配分がなされているのは鉱石勘定であり、約 365 万円
(21.5%)配分されている。これは注にあるように、この勘定に関係ある株式投資額であり、
主に仏印の関係会社への株式投資額である。1941 年度末時点では、印度支那産業会社(1938
年 1 月設立)に 255 万円、印度支那鉱業会社(1940 年 3 月設立)に 99 万円投資されてお
り29、これら仏印関係会社への株式投資額が島外株式投資総額 614 万円の約 58%を占めて
いる。印度支那産業会社は、仏印の現地法規により鉱業権者としての資格がなく、採掘権
を有していなかった。その後、印度支那鉱業会社を設立することにより採掘権を獲得し、
後者が鉱業開発を担い、前者が買鉱輸出を担う体制となった。この仏印鉄鉱石事業に関し
ては、1944 年 1 月に大西理事が次のように回想している。
(仏印―引用者)事業ニ着手シテ見ルト案外成績ガ良ク初年度鉄鉱一〇万屯出シタ、
当時ノ日本ノ情勢トシテハ兎角鉄鉱ヲ必要トシタ為儲ルベカラザルトキニ儲カツタ、
偶然ニ儲カツタワケデアル、其ノ内(1938 年 9 月―引用者)仏印政府ノ鉄鉱輸出禁止
トナツタガ除外例ヲ認メテ貰ヒ(同年 11 月―引用者)輸出ヲ続ケタ、其ノ利益デ一、
二年台拓ノ経理ヲヤツテ来タ30
このように仏印鉄鉱石事業は、日本が戦時経済を遂行する上で不可欠な鉄鉱石資源を獲
得するという意味で国策性を有する事業であった31。仏印政府による鉄鉱石輸出禁止などの
障害が一時的にあったが、仏印政府に例外措置を認めさせることにより、対日輸出を継続
「第八回予算委員会議録」1941 年 3 月 14 日(主計課『予算委員会関係 自昭和十六年
二月至昭和十七年九月』
、台拓档案 2656)
29 その他この鉱石勘定に関係する株式投資は比律賓産業会社 10 万 5 千円と思われる。
30 「台拓事業経営ノ概要ニ関スル大西理事説明要旨」
(
『台拓事業説明会記録』昭和十九年
一月、台拓档案 1794)
31
ただし、戦時日本帝国経済にとって仏印経済が有した最大の意義はその米穀輸出にあっ
た(田淵幸親「
『大東亜共栄圏』とインドシナ−食料獲得のための戦略」『東南アジア―歴
史と文化―』10 号、1981 年)
。なお、台拓の仏印事業に関しては、Adam Schneider「The
Taiwan Development Company and Indochina」
(
『臺灣史研究』第五巻第二期、2000 年)
を参照。
28
11
させた32。創立後1、2年間はこの対日鉄鉱石輸出は予想外に収益をあげるものであり、営
利性を有する事業であった。しかし、積荷設備の不備や労働力確保がうまくいかず、また
海上輸送力の制約もあって鉄鉱石の対日輸出が困難になり33、収益性のあがらない農林等の
事業のみを抱えるかっこうとなり、日中戦争末期に至ると収益性を喪失していった。1941
年度の利益額は 18 万 7 千円であり、投資額に対してそれほどの営利性は有していない。
貸付金の割合は島内に比して多く、貸付額は約 301 万円(17.7%)に達している。1941
年度末においては、飯塚鉄鉱、開洋燐鉱、広東省市政府(広東水道)34への貸付が目立って
いた。
以上から、島内外に展開された事業のうち、営利性事業は総督府現物出資による土地経
営のみであり、外部資本市場から調達した資金のほとんどが低収益の国策性事業に投入さ
れたことが確認できた。
4
外部資本市場からの資金調達
表4は 1942 年 3 月末までを日中戦争期とした台拓の貸借対照表である。資産においてこ
の間変化が激しいのは、株式投資(1874 万円増加)、特殊事業(616 万円増加)、南支事業
(614 万円増加)であり、このことは第 3 章の分析で確認したことと整合性がある。また未
払込資本金減少額、即ち株式払込金は 1125 万円となる。負債においては、拓殖債券(2980
万円増加)の比重が高い。つまり、日中戦争期の事業展開を支えた主なる資金調達手段は、
株式払込徴収35、と拓殖債券発行であったことがうかがえる。
1937 年 1938 年 1939 年 1940 年 1941 年 1942 年
<表4>日中戦争期の貸借対照表(千円)
3月
32
3月
3月
3月
3月
3月
印度支那産業会社の設立経緯、仏印政府の鉄鉱石輸出禁止、その対日輸出除外などの経
緯については、安達宏昭「1930 年代日本のインドシナ鉱物資源進出−鉄鉱石を中心に−」
(
『日本植民地研究』第 10 号、1998 年)を参照。その後、1939 年 2 月の海軍による海南
島占領、3 月の日本政府による新南群島日本領編入通告を受け、仏印政府は 4 月に除外例に
よる対日鉄鉱石輸出許可を中止したが、8 月には再び輸出を許可した。
33 「その(仏印鉄鉱石輸出量―引用者)減少は十六年度に至つて更に甚だしく、日本への
輸出は採鉱量の半ばにも達せず、辛うじて輸出し得た量も十三年度の三分の一余りであっ
た。それは大東亜戦争に突入した下半期に於ては一層甚だしく、十七年になつても事態好
転せず、十八年度に入つてからは一層輸送上の難関に逢着した」
(台拓調査課編『事業要覧』
1944 年 3 月、p32)
34 広東水道事業は 1940 年 10 月に広東省市政府に返還されたが、台拓からの貸付金は省政
府への借款として残り、経営は台拓に委託されていた。
(「第八回定時株主総会質疑応答資
料」『昭和十九年六月三十日 第八回定時株主総会書類』台拓档案 1810)
35 第1回払込は 1936 年 10 月、第 2 回払込は 1939 年 3 月、第 3 回払込は 1941 年 4 月に
行なわれている。
12
資産(借方) 払込未済資本金
11,250 11,250
土地
7,500
7,500
7,500
3,750
15,219 15,273 15,080 15,600 16,067 16,775
干拓事業
開墾事業
48
移民事業
栽培事業
281
212
451
848
1,647
192
514
1,323
2,343
12
71
96
96
271
379
500
724
401
2,995
1,739
3,682
6,160
5,441
4,513
6,142
24
78
鉱山事業
特殊事業
742
南支事業
所有有価証券
投資
1,101
3,631
8,285 12,404 18,740
1,061
2,516
2,033
4,796
4,514
79
659
1,385
1,635
1,234
3,328
1,920
7,712
2,119
1,845
4,465
6
155
305
357
921
1,618
未収金・仮払金
335
631
1,817
1,193
1,623
962
設立費・調弁費・社債発行費等
244
194
144
278
371
468
101
114
139
183
165
貸付金
66
関係会社勘定
預ケ金
所有物及什器・土地建物・貯蔵品
現金
総計
30,448 32,094 40,908 47,483 58,732 72,876
負債(貸方) 資本金
30,000 30,000 30,000 30,000 30,000 30,000
積立金
13
133
拓殖債券発行高
253
373
493
10,000 20,000 29,800
借入金
保証金
職員積金
未払金・仮払金
6,080
2,746
3,696
8,500
202
1,144
1,260
1,274
1,246
1,259
1
10
24
54
100
169
70
231
674
187
582
1,531
1,946
1,936
1,759
台桧会勘定
諸税公課引当金
91
160
239
239
156
65
前期繰越金・当期純益金
84
535
552
792
820
1,059
出所)台拓『営業報告書』各期より作成。
注)特殊事業には、嘉義化学工場、芭蕉繊維事業、船舶勘定、鉱石輸入勘定、
ジャワ製油事業を含む。
注)南支事業には広東事業、海南島事業を含む。
ここでは主に台拓債券の検討を行なう。台拓債券の発行は、当然内地起債市場において
13
なされるものであったが、1939 年 9 月の第2次世界大戦勃発を契機に、起債市場は萎縮し
ていた。これに対して政府は起債統制の強化を図り、1940 年 12 月には特殊会社債の消化
を円滑にすることを目的に、大蔵省、企画院、日本銀行、日本興業銀行(以下、興銀)を
メンバーとする起債計画協議会が大蔵省内に設置された。そこでは起債の調整を図り、政
府系金融機関引取分、シンジケート団親引分、公募分に 3 分して消化するように計画され
た36。日中戦争期の台拓債券の発行は、このような起債市場の統制強化過程のもとで行なわ
れていった。
<表5>日中戦争期の台拓債券の発行年月、発行高(万円)、利率、引受先、下引受先
発行
発行
年月
高
政府保証 1939 年
1回
利率
引受先
1,000 4.2% 興銀、台銀、第一、三井、三菱、 預金部(500)、簡易保険局(250)、
9月
安田、第百、住友、三和各銀行
政府保証 1940 年
2回
11 月
政府保証 1941 年
3回
下引受先(万円)
証券業者其他(250)、
預金部(500)、簡易保険局(200)、
1,000
〃
〃
1,000
〃
〃
10 月
証券業者其他(300)
預金部(250)、簡易保険局(200)、
シンジケート(200)、証券業者其他(350)
預金部(250)、簡易保険局(200)、
政府保証 1942 年
1,000
〃
〃
海軍共済組合(150)、
産業組合中央金庫(100)、
4回
8月
証券業者其他(200)
出所)日本興業銀行『社債一覧』(1970 年、pp575-576)、台拓档案 2653 より作成
1939 年 3 月、第 70 帝国議会で台拓債券 2000 万円に対する政府の元利支払保証が認可さ
れた37。そして、台拓は大蔵省や厚生省との交渉で、台拓債券の預金部と簡易保険局による
下引受の内定を取り付けている38。このような経緯の後、表5に示されるように、1939 年 9
戦時期の資本市場については、(社)公社債引受協会編 志村嘉一監修『日本公社債市場史』
(東京大学出版会、1980 年)第3章を参照。
37
台拓債券の発行は 1938 年 9 月から準備され、シンジケート団幹事である日本興業銀行
は台拓に「社債発行ニ付テハ政府ノ保証ヲ得ラル丶様工夫相成度シ」
(「社債事務ノ経過」
1939 年 4 月 21 日、経理課『昭和十四年度 社債関係書類』台拓档案 358)と政府保証を要
求していた。
38
「…大蔵省預金部トシテハ兎ニ角当社々債五百万円引受ノ原議ヲ内定シタル趣ニテ…」
(東京支店長発 社長宛「預金部引受請願ノ件」1939 年 5 月 11 日、台拓档案 358)、
「…同
局(厚生省簡易保険局―引用者)景山課長トハ大体金三百万円程度引受願フコトニ了解ヲ
得…」
(東京支店長発 社長宛「簡易保険局ニ対スル社債引受請願ノ件」1939 年 5 月 22 日、
台拓档案 358)
36
14
月に第 1 回 1000 万円が発行され、予定通りこれをシンジケート団が引き受け、預金部や簡
易保険局による下引受が行なわれた39。
1940 年 9 月、興銀においてシンジケート団各行代表者との間で第2回債券発行条件が決
定された。そこでは、
「預金部及ビ簡保ノ引受ニ関シ為念確認ヲ求メタルトコロ預金部引受
五百万円ハ既定方針ニ何等変更ナキモ簡保引受分二百五十万円ニ就テハ…此際減額スルカ
乃至ハ全然取止メニスルカ目下興銀ト簡保ノ間ニ於テ折衝中…40」であった。しかしその後、
「本日簡保箕輪資金係長ヨリ電話ニテ『台拓社債ハ興銀ト種々打合セノ結果従来通リ簡保
ニ於テ一部引受ノ事トシ、…』トノ通知アリ…但シ金額ノ点ハ他社ノ振合モアル事故或ヒ
ハ二百万円ニ減額セラルルヤモ不知トノ事41」となった。このように、1940 年 11 月の第2
回 1000 万円に関しても第 1 回債券と同様な経緯が見られ、やはりシンジケート団による引
受、興銀の仲介による預金部と簡易保険局による下引受が行なわれている(表5)。
その後、1941 年 3 月、第 76 帝国議会で、台拓債券に対する政府保証額は 2000 万円から
4000 万円に改定され、更なる政府保証債券発行が可能になった。そして 1941 年 10 月、第
3 回債券 1000 万円が発行され、これもシンジケート団による引受、預金部と簡易保険局に
よる下引受が行なわれている(表5)。
以上から確認できるように、台拓債券発行に関しては、台拓債券に対する政府保証がま
ず国会で認可され、その後シンジケート団による引受け、預金部及び簡易保険局による下
引受けが同時に交渉され、その交渉が成った後に債券発行の運びとなっていた。この経緯
において台拓債券に対する政府保証の意味は大きかった。即ち、
「政府御保証社債ニ依ルト
キハ所謂一流社債トシテ発行シ得ルヲ以テ低利ナル資金ヲ得ラルルノミナラズ募集ニ当リ
大蔵省預金部、厚生省簡易保険局等ノ大口引受アリ極メテ円滑ナル発行ヲ為シ得ラルル42」
のであった。つまり台拓債券に対する政府保証は、預金部や簡易保険局等の政府筋による
下引受を可能にし、シンジケート団引受けによる債券発行を円滑にしていたのである。
5
収益性の分析
<表6>日中戦争期の損益計算書(千円)
1936 年度 1937 年度 1938 年度 1939 年度 1940 年度 1941 年度
利益 総益金 土地収入
400
39
1,512
1,474
1,522
1,490
戦時の興銀による軍需金融については、伊牟田敏充「日本興業銀行と戦時金融金庫」
(伊
牟田敏充編『戦時体制下の金融構造』日本評論社、1991 年)
、預金部及び簡易保険局の資金
動員については、迎由理男「預金部・簡易生命保険資金の動員」
(同上)を参照。
40 在京社長発 総務部長宛「社債発行条件ノ件」1940 年 9 月 20 日(主計課『昭和十五年度
第二回社債関係書類 三ノニ』台拓档案 763)
41 東京支店長代理発 経理課長宛「社債簡保保険引受ノ件」1940 年 9 月 21 日(台拓档案
763)
42 「社債政府保証ニ関スル御願書」1942 年 5 月(台拓档案 2857)
15
1,483
貸付金利息
4
投資及事業益
79
242
280
348
340
864
1,659
2,242
95
23
32
3
土地分譲益
所有有価証券利息
預ケ金利息
1
26
76
49
77
28
46
160
162
373
956
88
6
34
35
75
426
1,679
2,203
2,924
3,898
5,154
1
5
208
476
918
1,003
4
1
6
国庫補助金
雑益
総計
損失 総損金 支払利息
支払手数料
営業費
201
777
966
1,269
1,480
2,164
諸税公課
141
369
391
343
359
492
3
5
2
1
201
498
636
3
16
土地貸下料
諸償却金
50
195
雑損
15
38
342
1,215
1,801
2,299
3,260
4,318
84
464
402
625
638
836
総計
当期純益金
利益金処分(当期純益金と前期繰越金の処分)
欠損補填準備積立金
7
80
80
80
80
80
配当平均準備積立金
3
20
20
20
20
20
職員退職給与積立金
3
20
20
20
20
20
役員賞与金
40
40
40
27
27
株主配当金
225
226
450
450
675
6%
6%
6%
6%
6%
150
167
182
223
237
払込資本利益率
2.5%
1.2%
2.1%
1.2%
-0.5%
総資本事業利益率
1.5%
1.2%
2.1%
2.2%
1.4%
資本コスト
1.8%
2.2%
2.5%
2.7%
3.3%
配当率
後期繰越金
71
出所)台拓『営業報告書』各期より作成。
注)払込資本利益率=(当期純益金−国庫補助金)÷当期払込資本金平均額×100
注)総資本利益率=(当期純益金−国庫補助金+支払利息+諸税公課)
÷当期総資本平均額×100
注)資本コスト={(有利子負債÷総資本×年利)+(払込資本金÷総資本×配当率)}×100
有利子負債、払込資本金、総資本はそれぞれ当期平均額で算出。
社債は年利 4.2%、借入金は年利 6.0%、配当率は 3%で算出。
16
表6は 1941 年度までを日中戦争期とした台拓の損益計算書である。これを基に日中戦争
期の台拓の収益性を分析する。
1937 年度から政府現物出資地からの土地収入が毎年度平均して約 150 万円あがっている。
他の国策性事業がほとんど低収益事業であったことを考慮すれば、この政府出資の高収益
事業の存在意義は大きい。この土地経営収入の意義については、黒瀬郁二氏による東拓の
研究が示唆的である。黒瀬氏によれば、移民事業を主要事業とする構想で設立された東拓
は、移民事業の原資を債券発行に依存する計画であり、土地(韓国政府出資地)経営がそ
の担保の役割を果たす構造とされていた43。台拓の土地経営もこの構造において位置付ける
ことが可能であろう。つまり、低収益の国策性事業の原資を債券発行等によって外部資本
市場に求め、その元利払い負担を土地経営からあがる収入で支える構造である。よって、
この土地収入の意義は、外部資本市場からの資金調達コストを負担した点に求められ、特
に投資及事業益が増加する 1940 年度以前の決算においてその意義は大きい。この高収益事
業が国策への民間資金動員メカニズムの必要条件となっていた。
また注目すべきは、配当率 6%が維持されていることである。民間株主への配当維持が前
提となり、順調な株式払込徴収を可能にしていたのである。台拓法第 13 条の特典による民
間株配当率 6%まで政府所有株への無配当という特典により、総株式の半分である民間株式
への配当率 6%を維持するためには、払込資本利益率を 3%以上に維持することが指標とな
る。しかし利益から国庫補助金を差し引き、払込資本利益率を算出して見ると、1940 年度
まで 1∼2%台に低迷している。総督府現物出資による土地収入のみでは、払込資本利益率
3%台を達成できず、国庫補助金によって配当を可能にしていたことが分かる。
この間、社債発行額が増加しているので、有利子負債の利払い負担能力を維持できる財
務構造であったかどうか検証するため、まず株式・債券発行・借入コストを足して資本コ
ストは算出したうえで、総資本事業利益率を算出し、両者を比較してみた。総資本事業利
益率が資本コストを上回っていれば有利子負債の利払い能力を維持できる財務構造にあっ
たと見なすことができる。資本コストは有利子負債の増加にともなって年度ごとに逓増し
ているが、台拓の総資本事業利益率は日中戦争期を通じて資本コストを下回っていた。つ
まり、台拓には負債利払い負担能力のない財務構造のまま、外部資本市場から資金を調達
し、国策性事業に資金を投入していたのである。
1941 年度には国庫補助金額が当期純益金を上回り、払込資本利益率はマイナスに落ち込
み、総資本事業利益率も資本コストを以前よりも大きく下回った。低収益の国策性事業の
展開は資本コストの増加をもたらし、それは総督府現物出資による土地収入によって支え
続けられるものではなく、国庫補助金による補填にも限界が生じ始め、国策への民間資金
動員メカニズムは崩壊し始めていたのである。
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黒瀬郁二『東洋拓殖会社―日本帝国主義と東アジア―』日本経済評論社、2003 年、p26
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結論―国策への民間資金動員メカニズム―
台拓の機能は、資本市場から資金を調達し、それを国策に投入していた点に求められる。
具体的には、外部資本市場から、製糖会社及び内地財閥等からの株式払込徴収、また内地
シンジケート団による引受と、預金部及び簡易保険局等の政府筋による下引受とに依存し
た債券発行を通じて資金を調達し、その資金を内部資本市場で国策性事業に配分していた。
重要な点は、国策性事業は慨して低収益であり、増加する負債利払いを負担できるもの
ではなく、営利性事業である旧官租地からの土地収入と国庫補助金が、負債利払いを負担
する構造となっていたことである。しかし 1941 年度にはこの構造に限界が生じつつあり、
国策への民間資金動員メカニズムは崩壊し始めていた。
このメカニズムを再構築するには、土地経営以外の営利性事業を獲得することが不可避
であった。1942 年度に行なわれる台拓の倍額増資はこの文脈において位置付けなければな
らない。1941 年 6 月には、台拓内には特別委員会が組織され、極秘裏に増資準備作業が行
なわれていた。そこで、
「増資ハ資金構成ヨリモ寧ロ会社収益ヨリ見テ新ニ二五〇万円乃至
三〇〇万円ヲ得ルコトニ重点ヲ置クコト44」と指示が出されたことから明らかなように、こ
の増資は営利性事業の獲得が目的であったことは明らかである。国策への民間資金動員メ
カニズムの再構築には、新たな政府現物出資による営利性事業の獲得が必要であった45。
(付記)本稿は財団法人交流協会日台交流センターの 2001 年度「歴史研究者交流事業」に
よる研究助成を受けた成果の一部である。訪問学員としての受入を快諾して下さった劉翠
溶主任(中央研究院台灣史研究所籌備處)、受入指導教官になっていただいた陳慈玉研究員
(中央研究院近代史研究所)に謹んで感謝申し上げる。
「特別委員会」1941 年 6 月 26 日(文書課長『増資特別委員会関係書類』台拓档案 859)
増資後の太平洋戦争期を含めた戦時の台拓の金融構造の時系列的分析については、現在
別稿を準備中である。
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