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明治学院大学機関リポジトリ http://repository.meijigakuin.ac.jp/

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明治学院大学機関リポジトリ http://repository.meijigakuin.ac.jp/
明治学院大学機関リポジトリ
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
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壬戌学制と北京政府教育部 ―「学校系統改革案」制
定過程の考察を中心として―
世良, 正浩
人間の発達と教育 : 明治学院大学教職課程論叢 =
Human development and education : Meiji Gakuin
University teacher certification program review,
11: 1-34
2015-03-24
http://hdl.handle.net/10723/2350
Rights
Meiji Gakuin University Institutional Repository
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
壬戌学制と北京政府教育部
「学校系統改革案」制定過程の考察を中心として ―
―
世 良 正 浩
はじめに
1922 年 11 月 1 日,大総統教令第 23 号をもって「学校系統改革案」が公布さ
れた。「改革案」という法令に相応しからぬ名称であるが,中央政府の教育行政
機関によって成文化され,壬戌学制の法的根拠となった法令であった。
一方,その公布のおよそ 1 年前,1921 年 10 月 27 日から 11 月 7 日にかけて
広州で開催された全国教育会連合会第 7 回年会において,
「学制系統草案」が議
決された。当時,広州は,孫文によって北京政府に対抗して樹立された「中華
民国軍政府」の所在地であった。そのため,年会の運営や議決案の処理に,広
州の地で開催されたことならではの特徴が認められることになった。
例えば,教育会連合会年会に北京政府の教育部から部員が派遣されることが
慣例になっていたが,第 7 回年会に部員が派遣されることはなかった。また,
開催地の省教育会長が年会の議長を務めることになっていたが,当時,広東省
教育会の会長は汪兆銘であり,彼が議長となって審議が進められた。さらに,
中央政府の教育法令の改正を必要とする議決案であれば,年会閉会後,北京政
府教育部に当該議決案の採用と法令改正の請願が行われることが慣例となって
いたが,「学制系統草案」の場合,そのような請願が行われることもなかった。
しかし,第 7 回年会終了後,少なからぬ省区において,当該地区教育会の提唱
によって,
「学制系統草案」にもとづく学制改革の試みが,教育運動として展開
1
壬戌学制と北京政府教育部
されることになった。
したがって,広州の地において成文化された「学制系統草案」と,北京の地
において成文化された「学校系統改革案」との間に,関係性は存在したのか,
また,存在したとすれば,それは如何なる内実であったのかという問題が,依
然として未解決のままに残されていると思われる。
以上のような問題意識のもとに,本稿は,北京政府の『政府公報』や教育部
の『教育公報』所収の関係記事の分析を通して,
「学校系統改革案」の制定過程
を考察する。さらに,その考察を踏まえ,
「学制系統草案」をはじめとする壬戌
学制改革関係の諸文献と,
「学校系統改革案」とを比較検討し,同教令の制定過
程を改めて考察するとともにその教育制度上の特徴を考察する。
なお,
「学制系統草案」議決直後,各省区において当該地区の教育会の提唱に
よって開始された学制改革運動の考察は,別の機会に行うことにしたい。
1.学制会議の顛末
まず,『教育公報』の刊行目的や誌面構成を検討する。同誌が創刊されたの
は,1914 年 6 月 28 日のことであったが,同年 5 月 25 日,教育部令第 33 号を
(1)
もって「教育公報簡章」
(以下,
「簡章」と記す。)が公布された。「簡章」は,
全 11 箇条からなる。同誌刊行の目的について,「教育法令を公布し,教育関係
の公文書及び事実,翻訳,学説を掲載し,現時点における教育の状況を観察し
て,前途の進展を策励すること」と規定された(第 2 条)。
また,誌面について,1. 命令(教育に関わる大総統令及び教育部の部令),
2. 法規,3. 公文書(教育部の指令や訓令等を含む),4. 報告,5. 記載(国内学事,
国外学事),6. 訳述(各国の教育に関する学説,参考になる各国教育制度)7. 付
録(1 から 6 に該当しない教育に関する事項)という 7 項目から構成されると
規定された(第 3 条)。多岐に分類された誌面構成である。なお,1920 年代前
2
壬戌学制と北京政府教育部
半,教育部の指令と訓令の掲載欄は,公文書欄から命令欄に変更された。
さらに,教育部編審処編簒股によって編集されること(第 1 条),定期的に毎
月刊行されること(第 7 条)なども規定された。第 7 条に規定されたように,
『教育公報』は,本稿の年代的対象である 1921 年 11 月から 1922 年 12 月にかけ
て,ほぼ月 1 回定期的に刊行された(2)。しかし,1923 年以降,定期的に刊行さ
れることが難しくなり,同年 3 月 28 日,第 10 年第 3 期が刊行された後,暫く
刊行が途絶え,同年 10 月 28 日,第 10 年第 4 期が刊行されたようなこともあっ
た。その刊行が途絶えた期間は,
「学校系統改革案」の施行が本格的に開始され
た時期と重なっていた。
さて,全国教育会連合会第 7 回年会閉会後,最初に刊行された『教育公報』
は,第 8 年第 11 期であったが,管見によれば,その誌上に同年会の議決案を含
めて学制改革に関わる目立った記事は見当たらなかった。漸くその記事が掲載
されたのは,第 9 年 2 期においてであった。すなわち,アメリカ人の教育学者
P. モンロー(Paul Monroe)の寄稿を中国語に翻訳した「中国の新学制草案を
(3)
論ず」
という評論が,同期の付録に掲載されたのである。モンローが,実際
教育調査社等の招聘により,1921 年 9 月から 1922 年 1 月にかけて訪中し,中
国各地の教育状況を調査し,その途中,全国教育会連合会第 7 回年会にも出席
し,同年会で行われていた学制改革案の審議に助言を与えたことはよく知られ
ている(4)。
『教育公報』に掲載された評論は,帰国後,寄稿されたものと考えられるが,
そこには,次のように記されていた。
今回,中国教育連合会によって議決された新学制において,小学(の修業年限)は
六年とし,中学(の修業年限)は六年とすると規定された。外国で今日試行されてい
る六三三学制と同じである。小学は,前期四年,後期二年の 2 期に分けられ,中学は
初級中学三年,高級中学三年に分けられた。また,聞くところによれば,凡そ中学を
設けることのできない地域では,高等小学校三年の旧制度を存続することを認めるべ
3
壬戌学制と北京政府教育部
きであると主張する人々がいるとのことである。
引用文中に「今回,中国教育連合会によって議決された新学制」とあるが,
それが,全国教育会連合会第 7 回年会で議決された「学制系統草案」を意味す
ることは明白である。一方,北京政府教育部にとって,その「草案」の存在を
認めること自体が,必ずしも面白いことでなかったことも容易に想像できるこ
とであろう。それだけにこの引用文は,アメリカ人教育学者の評論の翻訳であ
ることを差し引いても,中国以外のどこか他所の国の学制改革について語って
いるかのような雰囲気を漂わせているのではないだろうか。また,学制改革の
当事者であるはずの中央教育行政機関の刊行する公報に,客観的な評論が掲載
されたことに,学制改革に対する北京政府教育部の消極的な姿勢を見出すこと
もできるだろう。
しかし,モンローの評論は,客観的な論調と異なる次のような一文も見られた。
ある地方に三年の高等小学校を経営する能力があるとしても,初級中学を経営する
能力はないかもしれない。もし,新学制のために,現在の七年制の小学を無理に一年
短縮し,新制に符合させるならば,それは最も不幸なことである。中国では,現在,
中学の場合と比べると,小学の教育方法の方が優れている。もし,一年の良くない中
学教育のために,一年の良好な小学教育を犠牲にするならば,おそらく得ることより
も失うことが多くなるだろう。
「学制系統草案」議決後,次第に初級中学に対する関心が高まり,その新設を
試みる動きも見られた。けれども,モンローはそのような動きを抑制しなけれ
ばならないという見解を表明したのである。それは単なる評論ではなく,中国
の学制改革運動に対する助言であった。
『教育公報』にモンローの評論が訳出掲
載されたことは,そのような初級中学に対する関心の高まり(5)を,教育部とし
て放置し難くなってきたことを示唆した出来事でもあった。しかし,それは,
結局,学制改革運動に関心を寄せながらも,自らは何もしようとしない教育部
4
壬戌学制と北京政府教育部
の姿勢を反映する出来事であった。何故なら,その後,1922 年 4 月から 7 月に
かけて刊行された『教育公報』に,学制改革に関係する注目すべき記事は,掲
載されなかったからである。
ところが,同年 7 月 1 日,教育部令第 71 号をもって「教育部学制会議章
(6)
程」
(以下,
「章程」と記す。)が公布され,8 月 8 日に刊行された『教育公報』
第 9 年第 7 期に掲載された。その頃から,教育部の学制改革に対する姿勢は,
一変することとなった。「章程」にもとづき,教育部によって学制会議が開催さ
れ,その前後,同部において,学制改革の法的根拠となった「学校系統改革
(7)
案」
の成文化に向けた作業が開始された。すなわち,学制改革に関する教育
部案が作成され,その案が学制会議において審議されたのであった。さらに,
学制会議の閉会から「学校系統改革案」の公布までに要した時間は,2 箇月足
らずであった。したがって,
『教育公報』も,第 9 年第 7 期以後,学制改革に関
する重要記事が少なからず掲載されることになった。まず,
「章程」を検討して
おこう。
「章程」は,全 9 箇条からなり,学制会議の目的に関わる条項は見られない
が,「学制会議は教育総長が,召集することとする」(第 1 条)と規定され,そ
の審議事項として 1. 学制系統,2. 地方教育行政機関,3. 学制に関するその他の
事項の 3 項目(第 2 条)が掲げられた。したがって,学制会議は,学制改革に
関する教育総長の諮問機関に位置づけられていたといえる。その際,学制改革
と地方教育行政組織改革とが相互不可分な関係にあると認識されていたのであ
り,その点にも注目すべきであろう。
次に,学制会議の構成員について,1. 各省及び特別区の教育行政機関から派
遣される各 1 名,2. 各省及び特別区の教育会から派遣される各 1 名,3. 国立の
専門学校や大学の校長,4. 内務部民治司長,5. 教育部の参事及び司長,6. 教育
総長が招聘或は指名する者と定められた(第 3 条)。この規定で注目されるの
は,各省教育会から代表を派遣すると規定されたことである。何故ならば,当
5
壬戌学制と北京政府教育部
時の学制改革運動が全国教育会連合会第 7 回年会の議決に端を発したものであ
ることを,教育部が事実上認めていたことを意味する規定であるからである。
また,国立大学の校長が構成員に加えられているが,そのこと故に,当時,北
京大学校長であった蔡元培も,学制会議の会員に名を連ねることになった。一
方,国立の高等教育機関の校長を会員に加えることが規定されたにもかかわら
ず,国立以外の高等教育機関の校長,中等教育や初等教育の諸学校の校長を加
えることが規定されなかった点に注目すべきであろう。
さらに,主席と副主席各 1 名を置き,会員が互選すること(第 4 条),幹事長
1 名と幹事及び書記数名を置き,教育総長が派遣し事務を担当すること(第 5
条),学制会議の開会期日は,教育総長が定めること(第 6 条),学制会議の議
決事項は,主席から教育総長に報告すること(第 7 条),教育部が学制会議議事
細則を定めること(第 8 条),「章程」は公布日に施行し,閉会後廃止すること
(第 9 条)と定められた。
ところで,前述のように「章程」が公布されたのは,1922 年 7 月 1 日のこと
であったが,当日の教育部の責任者は,交通総長として教育総長代理を兼務し
た高恩洪であった。高恩洪が,大総統令をもってその職に任命されたのは,黎
元洪が,直隷派の支持を得て,再度,大総統に就任した直後の同年 6 月 12 日の
ことであった(8)。けれども,当日の組閣で教育総長に任命されたのは,黄炎培
であった。黄炎培は,当時,教育界において絶大な名声を馳せていたばかりで
なく,江蘇省教育会代表として全国教育会連合会第 7 回年会に参加し,
「学制系
統草案」の議決に重要な役割を果たした人物(9)であったが,結局,教育総長に
就任することはなかった。北京政府としてもそのことを見越して,高恩洪をそ
の代理に任命したのであろう。また,高がその職を解かれたのは,同年 8 月 5
日のことであった(10)。なお,交通部は当時,交通関係の大学を所管し,交通総
(11)
長として「交通部直轄大学通則」
を制定したこともあった。したがって,高
が教育総長代理を務めたのは 2 箇月足らずに過ぎなかったが,教育事務にも一
6
壬戌学制と北京政府教育部
定の経験があった。
思うに,
「章程」は,彼の教育総長代理在任中,起草され公布されたのであっ
たが,そのことは,彼が黄炎培の代理としてこの職に就いたことと関連してい
たのかもしれない。当時,教育界に絶大な名声を誇っていた黄炎培を教育総長
に任命したことは,北京政府教育部に対する教育界の歓心を買うためであった
かもしれないし,そうであれば,当時,教育界の焦眉の課題であった学制改革
に対し,教育部として,何らかの対応を迫られることになったのではないだろ
うか。
1922 年 7 月 6 日,教育部から各省区長官宛に学制会議開催に関する文書(12)
が発せられ,その冒頭に「本部は,本年 9 月 15 日,部において学制会議を開催
することとした。意見を徴集し,学制改革の標準を作成することに意がある」
と記された。すなわち,先に見た「章程」第 6 条の規定にもとづき,早速,学
制会議の開会期日を 9 月 15 日とする旨が告知されたのであった。また,各省区
の教育行政機関と教育会から各 1 名の派遣を要請する旨,及び旅費など派遣に
必要な費用は各省区の負担とする旨が記されていた。後者について,このよう
な場合の当時の慣行は定かではないが,中央政府機関が緊急に開催する会議で
あるから,地方から代表を派遣する費用は中央政府が負担すべきものと思われ
るが,それだけ教育部の財政は逼迫していたのであろう。さらに,上の引用文
中に「学制改革の標準」と記され,
「標準」という用語が使われた点に,特に注
意すべきであると思われるが,その理由は後述する。
7 月 20 日,同様に「章程」第 5 条の規定にもとづき,教育部編審員の陳容を
幹事長に充てるなど学制会議事務方の人事が,教育部令第 81 号をもって発令さ
れた(13)。
これまでに検討した「章程」を含む 3 文書は,いずれも高恩洪の教育総長代
理在任中に発せられたものであるから,胡適が示唆したように(14),高の教育総
長代理在任中,学制会議開催に向けた軌道が敷かれたことになり,後任の教育
7
壬戌学制と北京政府教育部
総長は,その軌道に沿って進むことを余儀なくされたのであろう。
7 月 24 日,附属中学校の修業年限を四年から,六年に延長し三三制に変更す
ることを申請した北京高等師範学校に対し,修業年限の延長を認めるものの,
三三制に変更することを認めない旨の記された教育部指令第 1464 号(15)が発せ
られた。すなわち,
「学制系統草案」によって提起された初級中学三年,高級中
学三年の中学校制度を試行することが申請の要点であったが,教育部は,修業
年限の延長について,学生の程度を向上することであり,附属中学校は実験学
校であるからそれを認めたのであるが,三三制への移行については,学制会議
が,9 月に開催されることになったので,その議決を待つべきであることを理
由として認めなかった。したがって,教育部が,中等教育を三三制に変更する
「学制系統草案」の提案に反対であり,学制会議で他の提案を用意する意向で
あったことがわかる。
8 月 5 日,組閣が行われ,新たに王寵恵が教育総長に任命され(16),9 月 19 日
の組閣まで在任した(17)。なお,高恩洪は,上記 2 回の組閣で交通総長に重任さ
れ,閣内に止まったのである。
9 月 5 日,「章程」第 8 条にもとづき教育部令第 92 号をもって「章程」第 8
条にもとづく「学制会議議事細則」(以下,
「細則」と記す。)が公布された(18)。
「細則」は,全 16 箇条からなり,
「章程」より条項の数が多くなっている。主な
条項は,学制会議の期間は 1 週間とするが,必要な場合,1 週間延長すること
ができることとする(第 1 条),全会員の過半数の登録を得て開会することと
し,会議は登録した会員の 3 分の 2 以上の出席を得て開催することとする(第
2 条),教育総長の提案議案を優先的に議決するものとする(第 5 条 1 項),審
査に付すべき議案は,初読後,主席が宣告して,これを行うこととする(第 11
条),審査委員は,主席が臨時に指名することとする(第 12 条)等であった。
また,議事録を作成することが定められ,その記載事項として,1. 開会と閉
会の年月日時刻,2. 会員の氏名及び選出機関,3. 日毎の出席者数,4. 提案議案
8
壬戌学制と北京政府教育部
及び審査案件,5. 会議における各会員の発言,6. 議決事項,7. 採決の可否数が
掲げられた(第 14 条)。さらに,毎回,会議を開始する前に前回の議事録を会
場に陳列し,共同して点検するものとする。発言記録に違いがある場合,発言
した本人が訂正を求めることができることとする(第 15 条)と規定された。全
体的に,教育部の意向を優先して議事を進める志向の強く認められる「細則」
であった。
日付は付されていないが,「本部学制会議は 9 月 15 日に開会されることに
なっている。会員各位は,今月 11 日より,毎日午後 2 時から 5 時までの間,西
単牌楼手帕胡同の本会議事務局に出向き登録を行って頂きたい」と記された教
育部通告が,9 月 9 日に刊行された『政府公報』に掲載された(19)。
ところが,9 月 15 日までに登録を済ませた会員数が,「細則」第 2 条に規定
された定数に達しなかったため,開会日を 5 日延期することとし,未登録の会
員に対し,9 月 15 日から 20 日までに登録を済ませる旨を要請する教育部通告
が,9 月 16 日に刊行された『政府公報』に掲載された(20)。さらに教育部は,同
日,大総統に対し学制会議の開催に当たり訓示を寄せるよう依頼した(21)。会員
の集まりが悪く,開会日を延期せざるを得なくなったので,急遽,大総統の威
光に頼ったのであろう。
学制会議は,延期後の予定通り 9 月 20 日に開催された。
『教育雑誌』の報道(22)
によれば,
「章程」第 3 条による会議の会員総数は 98 名であり,そのうち 58 名
が登録を済ませたことにより,定足数に達したことになったのであった。しか
し,広東,貴州,新疆の各省区から参加した会員はいなかった。
当日,10 時 15 分,教育部において開会式が行われた。蔡元培が臨時主席に
選ばれた後,大総統代理の劉春霖が挨拶を述べ,蔡元培が演説を行った。続い
て,会員による主席の互選が行われ,蔡元培が 37 票を得て主席に選出され
た(23)。各地から会員を集め学制会議の開催に漕ぎ着けたのも,蔡元培の存在に
よるところが大きかったのだろう。また,王家駒が 31 票を得て副主席に選出さ
9
壬戌学制と北京政府教育部
れた。王は,当時,北京法政専門学校長であった。
学制会議開会の前日,組閣が行われたことは既に述べたが,その組閣で,湯
爾和が,新たに教育総長に任命された(24)。そのため,20 日の時点において,湯
は教育総長に就任していなかったので,開会式で挨拶することができなかった
とのことである(25)。
また,湯も,1916 年 8 月から 1922 年 4 月まで北京医学専門学校長の職にあっ
た。さらに,学制会議開催に向けて軌道を敷いた高恩洪が,交通総長として交
通部の所管する高等教育機関の運営に関わっていたことも既に述べた。しか
も,高と湯との中間で教育総長を務めた王寵恵も,政治家としてだけでなく法
学者としても活躍した人物であり,1910 年代半ば,復旦大学の副学長を務めた
こともあった,したがって,高等教育機関の運営に携わった経験を持つ人物が。
学制会議の開催や議事進行に深く関わったことになり,そのことによって,学
制会議の審議が高等教育関係の議題に集中するようなことはなかったか,今
後,検証する必要があるだろう。
さらに,湯は,北京医学専門学校長当時,同専門学校の大学への改組を進め
たことで知られていた。そのため,陶知行によれば,学制会議開会当初,会員
の間に,
「高等専門学校」が廃止されることになるだろうという見方が広まった
とのことである(26)。
9 月 20 日,午後 2 時 30 分,第 1 回会議が開かれ,蔡元培が議長を務めた。ま
ず,前日の組閣で国務総理に任命された王寵恵が挨拶を行った。次に,教育部
参事の鄧萃英によって教育部提出の「学校系統改革案」の説明が行われた。続
いて,山西省の李尚仁によって同省提出の「学制系統改革案」の説明が行われ
た。その後,袁希涛,李建勲,沈歩洲,杜燿箕,王卓然,陳宝泉,孫樹勲,武
紹程等が発言し討論が行われた(27)。
上に述べたように,学制会議では,教育部によって「学校系統改革案」が提
出され,その案が審議されたのであった。その案は,教令 23 号をもって公布さ
10
壬戌学制と北京政府教育部
れた「学校系統改革案」と同じ名称であるが,後に検討するように,内容に相
違がある。(以下,学制会議に提出された「学校系統改革案」を,「教育部案」
と記し,教令の「学校系統改革案」と区別する。)
9 月 21 日,午前 9 時,第 2 回会議が開かれ,再び,午後 2 時 30 分,第 3 回
会議が開かれた。2 回とも蔡元培が議長を務め,経享頤,張鶴浦,黄炎培,楊
汝覚,郭葆珍,鄧萃英,李建勲,袁希涛,張伯苓,張佐漢,秦汾,王卓然,武
紹程,兪同奎,陳任中,杜耀箕,王義周,呉樹楠,王震良,程時煃,陳宝泉,
王家駒,陳啓修,戴応観,許寿裳等が発言し,
「教育部案」の継続審議が行われ
た(28)。上の発言者の中に江蘇省教育会代表として「学制系統草案」の審議に加
わった袁希涛,黄炎培の両名(29)が名を連ねていることに注目すべきであろう。
その存在が全国教育会連合会第 7 回年会と学制会議とを結び付ける紐帯となり
うるからである。さらに,黄炎培が,6 月 12 日の組閣で教育総長に任命された
ものの,就任しなかったことは,既に述べたが,そのような人物が,学制会議
に出席して発言することが許されたのである。学制会議を成立させるために,
黄炎培の協力を得ることも不可欠であったのだろう。
9 月 22 日,午後 2 時 50 分,第 4 回会議(30)が行われ,蔡元培が議長を務めた。
まず,戴応観の提案した「大学の年限を定め,高専を廃止する案」が審議に付
され,この提案を「教育部案」と併せて,第 1 審査委員会に付託することになっ
た。
その後,9 月 23 日,午後 2 時 40 分,第 5 回会議(31),9 月 26 日,午後 2 時 55
分,第 6 回会議(32),9 月 28 日,午後 3 時,第 7 回会議(33)が開催され,その 3
回とも蔡元培が議長を務めたが,いずれの回においても「教育部案」の審議は
行われなかった。審査委員会に付託されていたからであろう。
9 月 29 日,午前 10 時 15 分,第 8 回会議が開催された。蔡元培が所用のため
出席できなかったので,王家駒が議事進行を行った。黄炎培から第 1 審査委員
会で行われた「教育部案」の審査経過の報告があった後,直ちに,その審議が
11
壬戌学制と北京政府教育部
開始された。同日,午後 2 時 45 分,第 9 回会議が開催され,蔡元培が議長を務
めた。「教育部案」の継続審議が行われ,一部修正が施された上,正式に議決さ
れた(34)。(したがって,その議決案は,
「教育部案」と区別すべき文書であるの
で,以下,「学制会議議決案」と記す。)
9 月 30 日,午前 10 時,第 10 回会議が開催され,蔡元培が議長を務めた。そ
の後,11 時 15 分,学制会議の閉会式に移り,蔡元培の求めにより教育部次長
を兼務した鄧萃英が閉会の辞を述べた後,直ちに散会した(35)。簡素な閉会式で
あった。
上で提案から議決までの経過を述べた「学制会議案」の他,
「県教育行政機関
組織大綱案」,「特別市教育行政機関組織大綱案」,「省区教育行政機関に参議会
を設立する案」,「蒙古とチベットの教育振興辦法」,「教育部に教材要目編集審
査会の組織を請願する建議案」,「省視学員を充実する建議案」等の議案が,学
制会議で議決された(36)。特に,「県教育行政機関組織大綱案」等の県級の教育
行政機関に関わる議案は,激論を経て議決された(37)。勧学所を教育局に改組す
る案件であったからであろう。
また,
「教育部に教材要目編集審査会の組織を請願する建議案」(以下,
「教材
要目建議案」と記す。)は,教育部提出議案でなく会員提出による建議案件で
あったが,学制改革が実施されれば,不可避的に生じることになる教育課程改
革に関わる建議案であった。そのような建議案が提出され議決されたことは,
学制会議に参加した人々の間に,学制改革の実行に向けて断固とした決意が共
有されていたことを如実に物語る出来事であった。
2.「学校系統改革案」の公布
ところで,前述の「教材要目建議案」に,
「学校系統が議決された後,教育部
から各地方にその結果を通知するとともに,議決された系統にもとづく教材要
12
壬戌学制と北京政府教育部
目を,教育部が起草することとする」と記されていた。その記述によれば,当
初,学制会議の議決を受けて,直ちに,学制改革に関わる法令が制定される手
筈であったと考えられる。しかし,そのような手筈が整えられていたとすれば,
それは,新任の教育総長によって変更されることになった。すなわち,湯爾和
が,学制会議閉会直後,山東省済南で開催されることになっていた全国教育会
連合会第 8 回年会に対して,
「学制会議議決案」への「同意」を取り付けようと
したのである(38)。そのため,第 8 回年会で,再び,学制改革に関わる議案が審
議されることになった。
同年会における当該議案の審議経過については,胡適による詳細な記録(39)
が残されている。その記録に即して,その経過を検討しておこう。
同年会は,第 7 回年会で予定されたとおり済南で開催された。期間は,1922
年 10 月 11 日から同月 21 日までであった(40)。教育部からも,陳容,胡家鳳の
両名が派遣された。胡適は,
「北京教育会代表」として年会に参加したのである
が,陳容,胡家鳳と列車に同乗し済南に向かったのであった。
10 月 11 日,午後 2 時,第 8 回年会の開会式が行われたが,それに先立ち,教
育部員が携帯してきた学制会議の「教育部案」と「学制会議議決案」の 2 冊子
が,年会の議長から参加者に配布された。その「教育部案」の添書きに,
「民国
元年,教育会議が開かれ,学制が定められた。現在,それから既に十年を経て,
改革を行う必要が生じているので,この学制改革案を提出することとした」と
記載されていたことが問題となった。第 8 回年会の参加者によれば,学制会議
は,第 7 回年会で「学制系統草案」が議決されたことを受けて開催されたので
あり,
「教育部案」の添書きにそのことが何も記されていないことが問題であっ
た。
開会式では,教育部員によって教育総長の挨拶が代読された。その中に,
「学
制会議議決案」を「心を尽くして討議して頂きたい」と述べられていた。しか
し,第 7 回年会の学制改革に関わる議決が無視されたことにより,年会参加者
13
壬戌学制と北京政府教育部
の間に,そのような教育総長の要請に応じる機運はほとんど見られなかった。
また,胡適によれば,「心を尽くして討議して頂きたい」とはいうものの,「学
制会議議決案」をあまり修正して欲しくないというのが,教育部の本音であっ
た。彼は,その意向を済南に向かう車中での教育部員との会話で察知したとい
う。
通常であれば,教育総長の要請によって,
「学制会議議決案」を「心を尽くし
て討議した」結果,同案に同意の意が示されることになるのではないだろうか。
けれども,第 8 回年会の場合,それとはかなり違った展開となった。その年会
初日,浙江省代表の許倬雲という人物が,浙江省出身であった湯爾和と同じく
同省出身で教育次長であった馬叙倫とを,ひとしきり罵る局面も見られたので
あった。その際,壇上にいた田中玉山東省長と 2 名の教育部員も,その罵詈雑
言を静聴していたとのことである。当時の教育会連合会の実力を誇示したエピ
ソードであった。
胡適は,そのような全国教育会連合会第 8 回年会に充満した教育部に対する
反感の解消に乗り出し,次のような発言を行った。
教育部は,学制会議を開催した際,完全に官僚的な口ぶりで,広東の学制草案に
まったく言及しなかった。連合会第 7 回年会で新学制が議決されたことを知らないか
のようである。教育部が官僚的な口ぶりで,連合会をとりあわないならば,連合会
も,本来,官僚的な口ぶりをして,学制会議のことを知らないふりをすることができ
る。教育部による民国十一年の学制会議が,民国元年の教育会議に直接つながるので
あれば,われわれの第 8 回連合会も第 7 回連合会に直接つながるのである。しかし,
このように互いに官僚的な口ぶりをすると,結局,何事もなしえない。われわれは,
中華民国に最も適合した学制を制定しようではないか。互いに意地の張り合いをする
のではない。だから,私は,連合会の同人が,決して,再び,官僚的な口ぶりをしな
いことを望んでいる。広州での議決案に誠実に依拠して,学制会議の議決案を参考比
較して,長所を選び従い,第三の草案を決定しようではないか。学制問題に最終的な
決着をつけ,教育部に頒布施行を請願しようではないか。
14
壬戌学制と北京政府教育部
上では,まず,
「中華民国に最も適合した学制を制定しよう」と,国家的な観
点が強調されている点が注目される。また,「広州での議決案に誠実に依拠し
て,学制会議の議決案を参考比較して」と,教育部の意向に必ずしも沿わない
大胆な発言を行っているが,そのような発言をなし得たのは,胡適が,当時の
王寵恵内閣の発足に深く関わっていたからであろう。
1922 年 5 月,蔡元培(国立北京大学校長),王寵恵(国立北京大学教員),羅
文幹(国立北京大学教員),湯爾和(医学博士),陶知行(国立東南大学教育科
主任),王伯秋(国立東南大学政法経済科主任),梁漱溟(国立北京大学教員),
李大釗(国立北京大学図書館主任),陶孟和(国立北京大学哲学系主任),朱経
農(国立北京大学教授),張慰慈(国立北京大学教員),高一涵(国立北京大学
教員),徐宝璜(国立北京大学教授),王徴(アメリカ新銀行団秘書),丁文江
(前地質調査所所長),胡適(国立北京大学教務長)という 16 名の共同提案によ
る「我々の政治主張」という 4 月 13 日付の文書が,胡適を主編とする『努力週
報』という週報に掲載された(41)。
前述した同年 9 月 19 日の組閣は,「我々の政治主張」に署名した王寵恵が国
務総理に,羅文幹が財政総長に,湯爾和が教育総長に任命されたのであった。
その内閣は,その文中に「好政府」という言葉があったので,
「好人政府」と呼
ばれる。
「好人政府」は,北京政府の実権を握っていた直隷派の双璧の一翼であった呉
佩孚の支持を得て発足した内閣であった。しかし,そのことがもう一方の一翼
であった曹錕の反発を招き,倒閣運動が引き起こされることになった。すなわ
ち,同年 11 月 18 日,羅文幹が汚職容疑で逮捕された。後,彼の無実が確定し
たのであるが,閣僚逮捕の影響は甚大であり,同年 11 月 29 日,羅文幹は閣僚
を罷免され,「好人政府」も退陣に追い込まれた(42)。けれども,11 月初め,そ
の内閣に,まだ勢いがあったものと思われ,上述の胡適の発言にある「請願」
が実を結び,「学校系統改革案」が公布されることになったのであろう。
15
壬戌学制と北京政府教育部
さて,第 8 回年会における学制改革に関わる議案の審議経過の検討に戻ろう。
胡適によれば,10 月 12 日午後,第 2 回全体会議が開かれ,学制,教育課程,地
方教育行政制度に関わる議案を甲組審査会に付託することが決まった。その
際,前日,教育部首脳に罵詈雑言を浴びせた許倬雲も,
「学制会議議決案」を参
考の一つにしたいと発言し,甲組審査会の書記に選ばれた。議長には,袁希涛
が選ばれた。全体会議終了後,胡適,もう一人の北京教育会代表であった姚金
紳,教育部から派遣された陳容,胡家鳳の 4 人が,北京教育会代表の宿舎で落
ち合い,精神面で,大方「学制系統草案」を用い,語句の面で,多く「学制会
議議決案」を採用するという方針のもとに,夕方 5 時から深夜 1 時まで時間を
かけて,審査会で審議するための議案を書き上げたのであった。
甲組審査会は,17 日までに 8 回開催され,胡適等の起草した議案をもとに学
制改革に関わる審議が行われ,全体会議に提案する「学校系统草案」が議決さ
れた。その際,最も激論が交わされたのは,中等教育の修業年限に関わる問題
であった。また,胡適は,記録文中に,甲組審査会の「学校系统草案」を掲載
するとともに,18 名の同審査会員の氏名も紹介している。その中に,前に記し
た胡適,袁希涛,許倬雲の他,黄炎培,経亨頤,金曾澄等の名が含まれている。
袁希涛と黄炎培のことは,既に述べたとおりであり,彼らは,学制改革に関わ
る 3 つの重要な会議の審議に加わったことになる。金曾澄は,広東高等師範学
校長であり,広東省教育会の副会長であった。また,
「広東学校系統研究会議決
案」という学制改革案が,第 7 回年会に先立ってまとめられ,「学制系統草案」
は,その議決案をもとに作成されたのであった。金曾澄は,その「広東学校系
統研究会議決案」の起草に中心的な役割を果たした人物でもあった(43)。
1922 年の秋,広東の政情は,孫文と陳炯明の対立による内戦状態にあり,広
東省教育会は,第 8 回年会に代表を送れなかったと考えられている。しかし,
胡適の記録によれば,金曾澄は,第 8 回年会に出席したことになっている。ま
た,
「学制系統草案」議決に当たっての広東省教育会の功績を称えて出席できな
16
壬戌学制と北京政府教育部
かった人物の名前を書き加えたことも考えられる。しかし,その場合,会長の
汪兆銘の名前でなく,副会長の名前が記されたことになるのである。
10 月 18 日,第 3 回全体会議が開かれ,甲組審査会の「学校系统草案」の審
議が行われた。同草案は,条項ごとに審議議決が行われ,19 日と 20 日も継続
審議が行われ,20 日,最終的に「学校系統案」として議決された。連合会に
とって,再審議の議案であったが,開会日から閉会前日までの長い時間を費や
して議決されたのであった。
(以下,第 8 回年会で議決された「学校系統案」を,
「第 8 回年会議決案」と記す。)
さらに,同年会において,新学制が実施されることを見越し,その学制に準
拠した教育課程標準を起草するために,
「新学制課程標準起草委員会」を組織す
ることが議決された。同委員会の「簡則」が定められ,第 8 回年会で選出され
た 5 名によって,委員会を組織し,その委員会によって委嘱された専門家に
よって,教育課程標準を起草すること,4 箇月を目途として,教育課程標準を
完成すること,費用は,各省教育会が,それぞれ 50 元ずつ負担すること等が規
定された。また,袁希涛,金曾澄,胡適,黄炎培,経亨頤の 5 人が委員に選出
された。ここでも,新学制に準拠する教育課程標準の起草に携わった委員の中
に,金曾澄の名前が見られたことに注目すべきであろう。
なお,
「新学制課程標準起草委員会」によって,
「新学制課程綱要総説明」,小
学の国語,算術,衛生,公民,歴史,地理,社会,自然園芸,工用芸術,形象
芸術,音楽の各教科の「課程綱要」,初級中学の公民,歴史,地理,国語,外国
語,算学,自然,図画,手工。音楽の各教科の「課程綱要」,「高級中学課程総
綱」,高級中学の国語,外国語,人生哲学,社会問題,文化史,科学概論の共通
必修教科の「課程綱要」などの文書が作成された(44)。なお,体育の「課程綱要」
は,小学,初級中学,高級中学のそれぞれが起草されることになっていたが,
実行されなかったようである。全国教育会連合会の学制改革に対する並々なら
ぬ熱意とその行動力が如実に示された事実であろう。
17
壬戌学制と北京政府教育部
一方,北京政府教育部は,前述のように学制会議において,「教材要目建議
案」が議決されたにもかかわらず,新学制実施にともなう教育課程改革に対し
て,ほとんど何もなそうとしなかった。むしろ,「新学制課程標準起草委員会」
の成果に便乗するようなこともあった。例えば,同委員会によって,
「修身」に
代えて「公民」という教科が設けられ,早速,商務印書館や中華書局等の出版
社によって公民教科書が刊行されたのであるが,同部成立以後,必要に応じて
度々実施されてきた「教科書審定」において,その公民教科書を合格させたの
であった(45)。
また,第 7 回年会における「学制系統草案」の議決を契機として,各地で学
制改革運動が開始されたとすれば,
「第 8 回年会議決案」の場合,教育課程改造
運動が引き起こされたことになるだろう。教育運動の焦点が,学制問題から教
育課程問題に転化したことになるだろう。
ところで,
「第 8 回年会議決案」は,
「学校系統改革案」の成文化に,
「学制系
統草案」のそれと勝らぬとも劣らぬ影響を及ぼしたはずである。しかし,
「第 8
回年会議決案」は,当時の教育関係の報道においても,後の歴史的回顧におい
ても無視された傾向が認められ,その点において,議決後,脚光を浴びた「学
制系統草案」と異なっていた。その無視された状況について述べると,前者は,
例えば,商務印書館の『教育雑誌』に見られた。同誌において,「学制系統草
案」ばかりでなく,その叩き台となった「広東学校系統研究会議決案」,しかも
「学制会議議決案」までが掲載されたが,
「第 8 回年会議決案」は掲載されなかっ
た。また,全国教育会連合会の年会に関しても,第 1 回から第 7 回までは詳細
に報道されたが,第 8 回年会はまったく報道されなかった。その上,教令とし
て公布された「学校系統改革案」の条文自体が掲載されなかった。
さらに,教育部の『教育公報』の場合,
「学制系統草案」を含めて第 7 回年会
に関しては,何も取り上げられなかった。しかし,第 8 回年会については,
「二
重学年制案」という旧学制から新学制への移行措置に関わる提案を含めて,教
18
壬戌学制と北京政府教育部
育部に請願された議決案の多くが,掲載されたにもかかわらず(46),肝心の「第
8 回年会議決案」に関しては,一切,掲載されなかった。
歴史的回顧に関しては,例えば,1930 年代に刊行された『歴届教育会議議決
(47)
案彙編』
という書籍に,その事例がみられる。同書は,同年会の議決案が 8
件収録され,その中に「二重学年制案」も含まれていたにもかかわらず,同年
会で最も時間をかけて審議された「第 8 回年会議決案」に関しては,何も掲載
されていない。
このように,壬戌学制の法的根拠となった「学校系統改革案」の制定過程に
おいて,
「第 8 回年会議決案」が介在しことは,見落とされがちであるが,同案
の議決が行われたのは 10 月 20 日のことであり,そのわずか 12 日後の 11 月 1
日,「学校系統改革案」が,教令第 23 号をもって公布されたのであった。その
わずかな日数を考慮すると,
「学校系統改革案」の成文化作業に及ぼした「第 8
回年会議決案」の直接的な影響を無視することはできないはずである。
さて,大総統教令第 23 号の本文は,「ここに学校系統改革案を制定し,これ
を公布する。このことを命令する」と記され,その左に大総統印が押印され,
またその左に,国務総理の王寵恵と教育総長の湯爾和の副署が施され,末尾に
「中華民国十一年十一月一日」と日付が記された。『政府公報』の場合,教令本
文に続いて,「学校系統改革案」の全条文が掲載された。『教育公報』の場合,
教令は命令欄に,「学校系統改革案」の条文は法規欄に,それぞれ掲載された。
この「学校系統改革案」は,繰り返し指摘するように,末尾に「案」という
漢字が付与された奇妙な名称の法令であるが,そのことと関連すると思われる
もう一つの特徴がある。それは,条文中に公布日と施行日が記載されていない
ということである。管見によれば,当時,北京政府によって公布された教育法
令は,そのほとんどに公布日と施行日が記載された。
例えば,学制会議において,「学制会議議決案」の他,「県教育行政機関組織
大綱案」,「特別市教育行政機関組織大綱案」等が議決されたのであった。前者
19
壬戌学制と北京政府教育部
(48)
にもとづき,1923 年 3 月 29 日,教令第 10 号をもって「県教育局規程」
(全
15 条)が公布されたのであるが,その条文中に「この規程は,公布の日から施
行する」(第 15 条)と明記された。また,後者にもとづき,同日,教令第 11 号
(49)
をもって「特別市教育局規程」
(全 11 条)が公布されたのであるが,その条
文中も,同様に,
「この規程は,公布の日から施行する」(第 11 条)と明記され
た。
他の法令においても,ほとんどの場合,条文の最後に「公布の日から施行す
る」と明記された。その際,その法令を公布した大総統教令や教育部令の末尾
に公布の日付が記された。しかし,
「学校系統改革案」の場合,教令本文は,慣
例の通り記されたものの,条文中に,
「この規程は,公布の日から施行する」と
いう記述は見当たらない。記載漏れということは考え難く,何らかの理由を
もってそのような書き方がなされたのであろうが,その理由に関しては,現在
のところ明確にされていないのである(50)。
1922 年 11 月 7 日,教育部は各省区長官に文書を発し(51),「学校系統改革案」
公布に至る経過を説明するとともに,その実施方法を指示した。本稿のこれま
での記述と重複するところもあるが,その主な箇所を掲げておこう。
民国の学制は,民国元年,本部が招集した臨時学制会議が議決し,本部が査定し公
布施行したものである。以来,既に十年を経て,世界の文化は日々一新され,教育規
程は古い轍を踏襲することが難しくなった。近年,教育界の人々は,皆,旧制を改め
るべきであると提案している。本部も,また,新制に更新する必要を認め,本年 9 月
20 日,特に学制会議を開催した。各省区の教育行政担当者,教育会員,本部の参事,
司長,直轄学校の校長,教育専門家を招集し,共同して討議を行い,学校系統改革案
を定め,図表と説明を列挙し教育部に報告した。また,全国教育会連合会第 8 回年会
において,心を尽くした討論を行い,査定し決定するよう教育部に請願を行った。再
び,本部において詳細な議論を行い,長所を取り入れた草案を作成して,国務会議に
提出し議決をみた。大総統に上呈し,教令をもって公布した。
各省区は,教育行政機関において,当該地区の財政,教育,人材,学校沿革,その
他の特別な事情を考慮して,準備期間と施行標準を定めることとする。準備期間は,
20
壬戌学制と北京政府教育部
この文書の到着日から起算して,一年を限りとする。早く施行できる地区は,その希
望のとおりとする。延期が必要な地区は,期限近くに延期を願い出ることができるこ
ととする。要するに,新制に依拠してそれぞれ推し進め,内容を重視し適切に処理し
て,教育革新の効果をあげることである。
上記引用の後半によると,教育部は,各省区の教育行政機関に対し,
「学校系
統改革案」施行のための準備期間とその「標準」を定めることを指示したので
あった。各省区毎に,その地区の状況に応じた異なった施行の準備期間が定め
られるのであれば,そのことが,条文中に施行期日が明記されなかったことの
理由の一つになるはずである。また,「標準」に関しては,この引用文だけで
は,その内容が明確にならない。しかし,後に各省区から教育部に提出され,
その認可を受けた「標準」が,管見によれば,
『教育公報』に 12 件掲載された。
それらの「標準」を一瞥すると,それは,
「学校系統改革案」の施行規則という
べき内容であった(52)。
また,
「標準」という用語に関して,既に述べたように,学制会議開催に関す
る 7 月 6 日付文書で,
「学制改革の標準」という表現でこの用語が使われたので
あった。11 月 7 日付文書で使われた「標準」は,私見によると,「学校系統改
革案」の施行規則というべき意味合いの用語であったが,このことなどを踏ま
えて,「学制改革の標準」の意味を考えると,それは,「学校系統改革案」自体
のことを指し示す語句であったのではないだろうか。要するに,
「学校系統改革
案」は,「学制改革の標準」として公布された教令であったことになるだろう。
また,1912 年に公布され各省区で画一的に施行された「学校系統令」との違い
の強調された名称であったとも考えられるだろう。なお,上記文書と同じ内容
の訓令が,各省区教育庁,京師学務局に発せられたとのことである(53)。
21
壬戌学制と北京政府教育部
3.学制改革文献の比較検討
(54)
これまでの検討から,
「学校系統改革案」
は,全国教育会連合会第 7 回年会
(55)
において「学制系統草案」
が議決されたことに端を発し,学制会議に教育部
(56)
(57)
によって提出された「教育部案」
,「学制会議議決案」
,同第 8 回年会で議
(58)
決された「第 8 回年会議決案」
という主要な中間項を経て,成文化されたも
のであることが明らかになった。最後に,これら 5 つの文献を比較検討するこ
とによって,「学校系統改革案」の制定過程とその特徴を考察しておきたい。
⑴ 全体構成
各文献の構成を概観する。
学制系統草案
教育部案
学制会議議決案
第 8 回年会議決案
学校系統改革案
標準:6 項目
学制系統図
説明:40 項目
標準;4 項目
学校系統図
説明:18 項目
標準:7 項目
学校系統図
説明:22 項目
注意:4 項目
標準:7 項目
学校系統図
説明:27 項目
附註;4 項目
附則:2 項目
標準:7 項目
学校系統図
説明:27 項目
附註:5 項目
附則;2 項目
上表によれば,各文献の構成は,すべての文献に「標準」が設定されるなど,
類似している。しかも,「学制系統草案」と「教育部案」とは,「説明」の番号
の付け方に後述する相違があるが,構成は,基本的に同一である。さらに,
「第
8 回年会議決案」と「学校系統改革案」とは,項目数に 1 つ違いがあるが,構
成自体は同一である。すなわち,全国教育会連合会年会において学制改革案が
議決された後,教育部によって学制改革に関する文書が作成されたことが 2 回
あったが,いずれの場合も,教育部の当該文書は,先行した年会議決案の構成
が踏襲されたことになる。
さて,
「学制系統草案」の「説明」は,
「総説明」(6 項目),
「初級教育段説明」
22
壬戌学制と北京政府教育部
(8 項目),
「中等教育段説明」(11 項目),
「高等教育段説明」(8 項目),
「師範教
育説明」(7 項目)の大項目が設定され,各大項目に属する項目毎に,それぞれ
1 から始まる番号が付けられている。
また,「教育部案」と「学制会議議決案」の「説明」は大項目が設定されず,
各項目に通し番号が付けられている。
さらに,「第 8 回年会議決案」と「学校系統改革案」の「説明」は,ともに
「初等教育」,「中等教育」,「高等教育」の大項目が設定されたが,「附則」に属
する項目を合わせて,項目毎に 1 から 29 までの通し番号が付けられている。
「附
註」に属する項目は,別に 1 から始まる番号が付けられている。
⑵ 「標準」
各文献の「標準」に属する項目に記載されたすべての項目を,以下に掲げる。
学制系統草案
教育部案
学制会議議決案
第 8 回年会議決案
学校系統改革案
1.共 和 国 の 国
体にもとづき,
平民教育の精
神を発揮する。
2.社 会 進 化 の
需要に即応す
る。
3.青 年 の 個 性
を 伸 ば し, 選
択の自由を得
させる。
4.国 民 経 済 力
に注意する。
5.各 地 方 に 伸
縮の余地を多
く留める。
6.教 育 の 普 及
を容易にする。
1.教 育 原 理 に
も と づ き, 世
界の趨勢を参
酌 し て, 教 育
の進化を図る。
2.地 方 の 実 際
状況に即応し
て, 教 育 の 普
及を容易にす
る。
3.伸 縮 の 余 地
を 多 く 留 め,
各地方が斟酌
して行うこと
を都合よくす
る。
4.旧 制 に 配 慮
し, 教 育 の 着
手を容易にす
る。
1.平 民 教 育 の
精神を発揮す
る。
2.個 性 の 発 達
に注意する。
3.教 育 普 及 を
強力に図る。
4.生 活 教 育 に
注重する。
5.伸 縮 の 余 地
を 多 く 留 め,
地方の状況と
需要に即応す
る。
6.国 民 経 済 力
に配慮する。
7.旧 制 に も 配
慮 し, 教 育 の
着手を容易に
する。
1.社 会 進 化 の
需要に即応す
る。
2.平 民 教 育 の
精神を発揮す
る。
3.個 性 の 発 達
をはかる。
4.国 民 経 済 力
に注意する。
5.生 活 教 育 に
注重する。
6.教 育 の 普 及
を容易にする。
7.各 地 方 に 伸
縮の余地を多
く留める。
1.社 会 進 化 の
需要に即応す
る。
2.平 民 教 育 の
精神を発揮す
る。
3.個 性 の 発 達
をはかる。
4.国 民 経 済 力
に注意する。
5.生 活 教 育 に
注重する。
6.教 育 の 普 及
を容易にする。
7.各 地 方 に 伸
縮の余地を多
く留める。
23
壬戌学制と北京政府教育部
既に,教育部文書において,法令という意味合いで「標準」という用語が用
いられた事例があることを指摘したが,上記の「標準」は,それとは異なる意
味合いで用いられた用例であり,この場合,学制改革の基本的理念という意味
合いであろう。管見によれば,
「学制系統草案」の審議過程で初めて登場した用
例であり,「学制系統草案」独自の用例であった。そうであれば,「教育部案」
に「標準」が設けられたことは,第 7 回年会とその議決案は,教育部によって,
表面上,等閑視された如くであったが,実際は,
「学制系統草案」を下敷きとし
て,「教育部案」が起草されたことを如実に物語っているのではないだろうか。
しかし,理念の内実において,両者に際立った相違の認められることも確か
である。すなわち,「学制系統草案」は,「共和国の国体」と謳われ,国家意識
が強調されていたが,
「教育部案」は,
「世界」といわれたものの,
「国」とはい
われず,国家意識が希薄であるという特徴が認められる。同案は,もっぱら北
京政府教育部の官僚の手によって起草された文書であるが,その文書に上記の
ような特徴が認められるのであった。なお,他の 3 文書は,
「学校系統草案」の
用例が復活されたものと思われるが,いずれも「国民経済力」という用語が見
られ,国家意識に関しては,
「学制系統草案」と「教育部案」の中間に位置づけ
られる。
また,本稿で依拠した史料によれば,
「第 8 回年会議決案」と「学校系統改革
案」との場合,「標準」7 項目の記述は,すべて同文であった。
⑶ 小学校の修業年限,入学年齢等
各文献の「説明」,「附注」に属する項目に記載された小学校の修業年限,入
学年齢等に関わる記述を,次ページに掲げる。
24
壬戌学制と北京政府教育部
学制系統草案
教育部案
2.小 学 は 一 級 1.小 学 校 の 修
制 と し, 名 称
業 年 限 は, 六
を国民学校と
年 と し, 初 級
高等小学校に
と高級の二級
分 け ず, 総 べ
に 分 け る。 初
て小学校と称
級の修業年限
する。
は,四年とし,
3.小 学 校 の 修
高級の修業年
業 年 限 は, 六
限 は, 二 年 と
年 と し, 満 六
する。だたし,
歳から十二歳
地方の状況に
ま で と す る。 依 っ て, 初 級
た だ し, 二 期
を単独で設置
に分け得るこ
することがで
と と し, 第 一
きる。
期 は 四 年, 第 2.義 務 教 育 年
二期は二年と
限 は, 六 年 と
す る。 も っ ぱ
する。だたし,
ら第一期を設
地方の状況に
置することを
依 っ て, 暫 定
認める。
的 に, 初 級 の
5.義 務 教 育 年
修業年限を義
限 は, 四 年 と
務教育年限と
す る。 各 省 区
することがで
は, 義 務 教 育
きる。
が普及した後,
これを延長す
るものとする。
6.義 務 教 育 の
入 学 年 齢 は,
各省区におい
て, 地 方 の 状
況 に 依 っ て,
独自に定める
ことができる。
学制会議議決案
第 8 回年会議決案
学校系統改革案
1.小 学 校 の 修
業 年 限 は, 六
年 と す る。 た
だ し, 地 方 の
状況に依って,
七年とするこ
と が で き る。
(七年を卒業し
た も の は, 初
級中学第二学
年に入学する
ことができ
る。)
2.小 学 校 は,
初級と高級の
二級に分ける
ことができる。
前四年を初級
と し, 地 方 の
状況に依って,
初級を単独で
設置すること
ができる。
3.義 務 教 育 年
限 は, 暫 定 的
に, 四 年 を 標
準 と す る。 各
地 方 は, 適 切
な 時 期 に, 延
長することが
できる。
1.小 学 校 の 修
業 年 限 は, 六
年とする。
附註 1.地方の
状況に依って,
暫 定 的 に, 一
年延長できる。
2.小 学 校 は,
初級と高級の
二級に分ける
ことができる。
前四年を初級
と し, こ れ を
単独で設置す
ることができ
る。
3.義 務 教 育 年
限 は, 暫 定 的
に, 四 年 を 標
準 と す る。 各
地方において,
適切な時期に,
延長すること
が で き る。 義
務教育の入学
年 齢 は, 各 省
区 に お い て,
地方の状況に
依 っ て, 独 自
に定めること
ができる。
1.小 学 校 の 修
業 年 限 は, 六
年とする。
附註 1.地方の
状況に依って,
暫 定 的 に, 一
年延長できる。
2.小 学 校 は,
初級と高級の
二級に分ける
ことができる。
前四年を初級
と し, こ れ を
単独で設置す
ることができ
る。
3.義 務 教 育 年
限 は, 暫 定 的
に, 四 年 を 標
準 と す る。 た
だ し, 各 地 方
に お い て, 適
切 な 時 期 に,
延長すること
が で き る。 義
務教育の入学
年 齢 は, 各 省
区 に お い て,
地方の状況に
依 っ て, 独 自
に定めること
ができる。
なお,上の表で,
「学制系統草案」に記された項目番号は,
「初級教育段説明」
の項目番号であり,それ以外は,「説明」の通し番号である。
「学校系統改革案」の公布以前,初等教育の学制は,袁世凱の教育改革及びそ
の後の修正を経て,国民学校,高等小学校の 2 種類に分けられ,修業年限は,
国民学校四年(59),高等小学校三年(60)とされ,満 6 歳から満 13 歳までが学齢(61)
25
壬戌学制と北京政府教育部
とされ,国民学校四年が義務教育(62)とされた。そのため,初等教育を小学校に
一元化し,その小学校の修業年限を義務教育年限とすることが,学制改革の本
質的な課題であったのではないだろうか。
そのような視点から,前ページの表を見ると,初等教育の一元化については,
「学制系統草案」の第 2 項目において,その点が最も明確に規定されている。し
かし,第 3 項目において,小学校を第一期と第二期に分けることが認められ,
国民学校と高等小学校に分けられた実態との妥協が図られた。また,初等教育
の修業年限と義務教育年限とを一致させる課題に関しては,
「教育部案」の第 2
項目の前半で規定されたが,その後半では,初級小学の修業年限を義務教育年
限とすることが,暫定的に容認され,実態との調和が図られた。
一方,壬戌学制は,従来,六三三制を導入した学制改革として注目されてき
た。確かに,「学校系統改革案」では,「小学校の修業年限は,六年とする」と
明記され,初等教育の年限が七年から六年に短縮されたのであった。しかし,
初級四年と高級二年に分け,前者を義務教育とすることも明記された。さらに,
初等教育の年限を一年延長できること,すなわち,高級三年とすることもでき
ることが明記された。したがって,壬戌学制における六三三制の「六」は,か
なり流動的であって,日本の戦後教育改革における六三三制の画一的な「六」
と相当に趣を異にするものであった。また,小学校の修業年限を六年にするこ
とに,明確な根拠がともなっていたわけではなかった。その意味で,必ずしも
学制改革の本質的な課題ではなかったのではないだろうか。また,そのために,
逆説的ではあるが,各文献とも,初等教育の年限を六年に短縮することに関し
て基本的に一致していて,その記述に重大な差異が生ずることもなかったので
あろう。
さらに,義務教育の入学年齢に関する「学制系統草案」,
「第 8 回年会議決案」,
「学校系統改革案」の記述は,大差がない。しかし,「教育部案」と「学制会議
議決案」には,その記述が見られない。ただし,この問題に関して,後者の行
26
壬戌学制と北京政府教育部
間に,前者の記述とまったく異なる発想が存在したとは考え難い。要するに,
小学校の修業年限,年齢等に関わる記述は,5 つの文献に大差は認められない
のである。
しかも,
「第 8 回年会議決案」と「学校系統改革案」との場合,記述は,ほぼ
同文であり,
「ただし」という文言の有無という形式的な相違が一箇所だけ見う
けられる。
⑷ 中学校の修業年限等
各文献の「説明」に属する項目に記載された中学校の修業年限,
「選科制」に
関わる記述を,以下に掲げる。
学制系統草案
教育部案
学制会議議決案
第 8 回年会議決案
学校系統改革案
・ こ の 系 統 は, 7.中 学 校 の 修 8.中 学 校 の 修 8.中 学 校 の 修 8. 中 学 校 の 修
業 年 限 は, 六
業 年 限 は, 六
業 年 限 は, 六
業 年 限 は, 六
中学三三制を
年 と す る。 初
年 と す る。 初
年 と し, 初 級
年 と し, 初 級
採 用 し, 初 級
級と高級の二
級と高級の二
中 学 四 年, 高
中 学 四 年, 高
と高級の二期
級 に 分 け, 初
級 に 分 け, 初
級中学二年と
級中学二年と
に分ける。(中
級 三 年, 高 級
する。ただし, 級 三 年, 高 級
する。
等教育段説明
三 年 と す る。 三 年 と す る。
地方の状況に
10 より)
た だ し, 学 科
た だ し, 学 科
依 っ て, 初 級
の性質によっ
の性質によっ
三 年, 高 級 三
て,初級四年, て,初級四年,
年とすること
高 級 二 年, 或
高 級 二 年, 或
ができる。
いは初級二年, いは初級二年,
高級四年と定
高級四年と定
めることがで
めることがで
きる。
きる。
13.中等教育は, 13.中等教育は,
9.中等教育は,
選科制を用い
選科制を採用
選科制を採用
ることができ
することとす
することとす
る。
る。
る。
まず,修業年限について検討する。当時,中学校の修業年限は,1912 年に公
(63)
布された「学校系統令」と「中学校令」
において四年と定められ,以来,
「学
27
壬戌学制と北京政府教育部
校系統改革案」の公布に至るまで,変更されたことはなかった。また,その四
年間は,同一の学校において教育が施されることになっていた。
前ページの 5 つの文献の当該記述は,修業年限を二年延長し,六年とするこ
と,また,初級中学と高級中学に分割することでは一致していた。しかし,初
級中学と高級中学の修業年限に関し,三三制,四二制,二四制の相違があった。
「学制系統草案」では,三三制が提案され,中国に三三制が導入される端緒を開
いた文献であったと考えられる。しかし,上の表に掲げた文言に続けて,次の
ように記されていた。
六年間の第三学年を一段落とするに過ぎない。かつ,児童の生理と心理によれば,
12 歳から 15 歳までは,少年発育期であり,15 歳から 18 歳までの心身の発達段階と
異なる点があるので,教授に便利なように,区別すべきである。学科の性質により,
四二制,或は二四制が適している場合,考慮して変更することができることとする。
すなわち,「学制系統草案」における三三制の提案は,かなり限定的であり,
四二制または二四制も容認されていた。おそらく,同案の議決後に展開された
学制改革運動において,三三制が注目され実験が開始されることになったので
あろう。その動きは,前述したように,教育部の膝元にあった北京高等師範学
校の付属中学校にまで波及したのであった。それに対する教育部の当初の反応
は,既に述べた。その教育部によって独自に作成された「教育部案」では,四二
制が単独で採用され,三三制と二四制は認められなかった。したがって,北京
政府教育部の本意は,画一的な四二制であったと考えるべきであろう。しかし,
教育部は,その理由について何も語っていない。むしろ,理由が不明確なまま
に,物事に囚われると,ますますそのことに固執せざるを得なくなるという傾
向が認められるのではないだろうか。この傾向は,
「学校系統改革案」公布後の
教育部の施策に,実際に見受けられたのである。
けれども,
「学制会議議決案」では,三三制が四二制の補完として復活し,
「第
28
壬戌学制と北京政府教育部
8 回年会議決案」では,再び,三三制が基本に位置づけられた。そして,
「学校
系統改革案」は,
「第 8 回年会議決案」の文面が,そのまま用いられたのであっ
た。学制改革の実施に当たり,教育部は,とりあえず自説に拘らない柔軟な姿
勢を見せたものと思われる。
次に,「選科制」について検討する。
「選科制」とは,生徒が科目を選択履修する教育課程上の制度のことであると
考えられるが,
「学制系統草案」で最初に提案された。しかし,
「教育部案」は,
「選科制」に関わる記述が,一切見受けられない。したがって,教育部が,この
制度に否定的であったことがわかる。さらに,
「学制会議議決案」で,この制度
が再提案されることもなかった。しかし,「第 8 回年会議決案」において,「学
制系統草案」の当該項目と同一文面が復活し,
「中等教育は,選科制を採用する
こととする」と記述された。その文意は,
「選科制」を全面的に実施すべきであ
るということであろう。
しかし,「学校系統改革案」において,当該項目の文面は微妙に修正された。
「教育部案」の行間に表現された「選科制」に対する教育部の否定的な意向が反
映されたものと考えられる。それは,教育部が三三制に否定的であったことと
表裏一体の関係にあったものと思われる。要するに,同部において,中等教育
の学制改革を行う意欲よりも,旧制度を維持する惰性の方が,格段に強かった
ということではないだろうか。
結びにかえて
壬戌学制は,1910 年代後半から 1920 年代前半にかけて中国で展開された新
文化運動の教育の分野における一つの帰結であった。「学校系統改革案」は,そ
の学制改革の法的根拠となった大総統教令であるが,本稿は,その教令の制定
過程やその特徴を考察した。
29
壬戌学制と北京政府教育部
第 1 に,
「学校系統改革案」の制定過程に関して,その教育事務は,当時,交
通総長であった高恩洪が黄炎培の代理として教育総長代理を兼務した期間,及
び湯爾和が「好人政府」の閣僚として教育総長を務めた期間に集中的に行われ
たことが明らかになった。その二人の人物が中央教育行政の責任者に任命され
た経緯と,その教育事務が集中的に行われたこととの関係性をより実証的に解
明することが今後の課題となるだろう。
第 2 に,
「学校系統改革案」の特徴について,同教令とその制定前に作成され
た 4 つの文献とを比較検討することによって考察し,初等教育の改革に関して
は,教育会連合会の提案と「学校系統改革案」の当該項目とに大差は認められ
ないこと,中等教育に関しては,
「学校系統改革案」の関係項目は,旧制度を維
持する傾向が強かったこと等が明らかになった。
「学校系統改革案」の施行過程
において,これらの特徴は顕在化することになったが,その過程を解明するこ
とが今後の課題となるはずである。
註
( 1 )《教育公报简章》1914 年 5 月 25 日教育部令第 33 号,《教育杂志》第 6 卷第 4
号,1914 年 7 月 15 日,法令,第 1-2 页。
( 2 ) 1921 年 11 月から 1922 年 12 月までの間に刊行された『教育公報』について,
その号数と刊行年月日を以下に示す。なお,『政府公報』は,休刊が予告されたこ
ともあったが,その休刊日を除き毎日刊行された。また,『教育公報』,『政府公
報』など当時の刊行物は,年月日が,中華民国の成立した 1912 年を紀元とする
「中華民国暦」によって表記されたが,本稿は,それを西暦に換算して表記する。
第 8 年第 10 期
1921 年 10 月 30 日
第 9 年第 5 期
1922 年 6 月 8 日
第 8 年第 11 期
1921 年 11 月 30 日
第 9 年第 6 期
1922 年 7 月 8 日
第 8 年第 12 期
1921 年 12 月 30 日
第 9 年第 7 期
1922 年 8 月 8 日
第 9 年第 1 期
1922 年 2 月 16 日
第 9 年第 8 期
1922 年 9 月 8 日
第 9 年第 2 期
1922 年 3 月 8 日
第 9 年第 9 期
1922 年 10 月 8 日
第 9 年第 3 期
1922 年 4 月 8 日
第 9 年第 10 期
1922 年 11 月 8 日
第 9 年第 4 期
1922 年 5 月 8 日
第 9 年第 11 期
1922 年 12 月 8 日
30
壬戌学制と北京政府教育部
( 3 ) 孟禄著,徐则陵译:《论中国新学制草案》,《教育公报》第 9 年第 2 期,附录,
第 1-3 页。
( 4 )
陈宝泉,陶知行,胡适编:《孟禄的中国教育讨论》,中华书局,1922 年 6 月。
( 5 )「学制系統草案」議決後,江蘇省などで初級中学に対する関心の高まりが見ら
れたのであるが,そのことに関しては,次の兪子夷の調査研究などが参考にな
る。
俞子夷:《江苏新学制草案讨论会关于小学一部分各方面意见的汇集研究》,《教
育杂志》第 14 卷号外,《学制课程研究号》。
( 6 )《教育部令第 71 号》1922 年 6 月 30 日,《教育公报》第 9 年第 7 期,命令,第 3
页。《教育部学制会议章程》,《教育公报》第 9 年第 7 期,法规,第 1 页。
また,『政府公報』によれば,「教育部学制会議章程」は,1922 年 7 月 1 日に
公布された(『政府公報』第 2275 号,1922 年 7 月 3 日,第 3-4 页)。『教育公報』
に記載された公布日と『政府公報』に記載された公布日とは,1 日のずれがある。
本稿は,『政府公報』の日付にしたがう。
( 7 )《大总统令》1922 年 11 月 2 日,《教育公报》第 9 年第 10 期,命令,第 2 页。
《学校系统改革案》教令第 23 号,《教育公报》第 9 年第 10 期,法规,第 1-4 页。
また,『政府公報』によれば,「学校系統改革案」は,1922 年 11 月 1 日に公布
された(《政府公報》第 2393 号,1922 年 11 月 2 日,第 1-5 页)。この場合も,
『教育公報』と『政府公報』とに,1 日の日付のずれがあるが,本稿は,『政府公
報』の日付にしたがう。
( 8 )《大总统令》1922 年 6 月 12 日,《政府公报》第 2255 号,1922 年 6 月 13 日,第
6 页。
( 9 )《第七次全国教育会联合会会员录》,汪兆铭署:
《第七次全国教育会联合会会务
纪要》,第 16 页。
全国教育会連合会第 7 回年会の審議経過,その審議における黄炎培の役割等に
ついては,下記文献に詳しく記録されている。
高语罕:《广州纪游》,亚东图书馆,1922 年 2 月。
(10)《大总统令》1922 年 8 月 5 日,《政府公报》第 2308 号,1922 年 8 月 6 日,第 1
页。
(11)《交通部直辖大学通则》,
《政府公报》第 2353 号,1922 年 9 月 20 日,第 7-9 页。
(12)《咨各省区请转饬教育科教育会派员加入本部学制会议文》第 837 号,1922 年 7
月 6 日,《教育公报》第 9 年第 7 期,公牍,第 11 页。
(13)《教育部令第 81 号》1922 年 7 月 20 日,《政府公报》第 2293 号,1922 年 7 月
22 日,第 3-4 页。
(14) 胡适:
《记第八届全国教育会联合会讨论新学制的经过》,《新教育》第 5 卷第 5
31
壬戌学制と北京政府教育部
期,1922 年 12 月,第 1034-1043 页。
(15)《教育部指令第 1464 号》1922 年 7 月 24 日,《教育公报》第 9 年第 7 期,命令,
第 36 页。
(16)《大总统令》1922 年 8 月 5 日,《政府公报》第 2308 号,1922 年 8 月 6 日,第 1
页。
(17)《大总统令》1922 年 9 月 19 日,《政府公报》第 2353 号,1922 年 9 月 20 日,第
1 页。
(18)《教育部令第 92 号》1922 年 9 月 5 日,
《教育公报》第 9 年第 8 期,命令,第 5
页。《学制会议议事细则》,《教育公报》第 9 年第 8 期,法规,第 3-4 页,《政府公
报》第 2341 号,1922 年 9 月 8 月,第 9-11 页。
(19)《教育部通告》,《政府公报》第 2342 号,1922 年 9 月 9 日,第 14 页。
(20)《教育部通告》,《政府公报》第 2349 号,1922 年 9 月 16 日,第 12 页。
(21)《呈大总统具报本部酌定章程筹开学制会议届时恳颁予训词文》第 49 号,1922
年 9 月 16 日,《教育公报》第 9 年第 9 期,公牍,第 1-2 页。
(22)《教育部召集之学制会议及其议决案》,《教育杂志》第 14 卷第 10 号,1922 年 10
月 20 日,教育界消息,第 1-6 页。
(23) 高平叔撰著:《蔡元培年谱长编》中册,人民教育出版社,1996 年 11 月,第
558-559 页。
(24)《大总统令》1922 年 9 月 19 日,《政府公报》第 2353 号,1922 年 9 月 20 日,第
1 页。
(25) 註(23)と同じ。
(26) 陶行知:《教育部学制会议经过情形》,南京高等师范教育研究会:《教育汇刊》
第 5 集,1923 年 6 月,见华中师范学院教育科学研究所主编:《陶行知全集》第 1
卷,湖南教育出版社,1984 年 1 月,第 303-307 页。
(27) 註(23)と同じ。
(28)《蔡元培年谱长编》中册,第 560-561 页。
(29) 註( 9 )と同じ。
(30)《蔡元培年谱长编》中册,第 561 页。
(31) 同上。
(32)《蔡元培年谱长编》中册,第 563 页。
(33) 同上。
(34)《蔡元培年谱长编》中册,第 563-564 页。
(35)《蔡元培年谱长编》中册,第 564 页。
(36) 註(22)と同じ。
(37) 註(32)と同じ。
32
壬戌学制と北京政府教育部
(38)《学制会议之经过》,见璩鑫圭,唐良炎编:中国近代教育史资料汇编《学制演
变》,上海教育出版社,2007 年 4 月重版,第 1001-1003 页。
(39) 註(14)と同じ。
(40) 胡適の記録に,第 8 回年会の開会日は記されているが,閉会日は記されていな
い。そのため,閉会日は,下記の記載によった。
中央教育科学研究所编:
《中国现代教育大事记》,教育科学出版社,1988 年 12
月,第 59 页。
(41)《我们的政治主张》,《努力周报》第 2 号,1922 年 5 月 14 日,第 1-2 版,《东方
杂志》第 19 卷第 8 号,1922 年 4 月 25 日,第 138-140 页。
(42)《大总统令》1922 年 11 月 29 日,《政府公报》第 2421 号,1922 年 11 月 30 日,
第 1 页。
(43) 金曾澄:《广东提出学制系统草案之经过及其成立》,《新教育》第 4 卷第 2 期,
1922 年 1 月,第 175-186 页。
(44) 全国教育联合会新学制课程标准起草委员会编:
《新学制课程标准纲要》The
Outline of New Curriculum Standards,商务印书馆,1925 年。
(45)《本部审定教科图书第 81 次公布》1924 年 2 月 20 日教育部布告第 3 号,《政府
公报》第 2846 号,1924 年 2 月 23 日,第 3-5 页。
(46)《全国教育联合会第八次议决案》,《教育公报》第 10 年第 6 期,1924 年 1 月 20
日,附录,第 1-6 页。
(47) 邰爽秋等合选:教育参考资料选辑第五种《历届教育会议议决案汇编》,教育编
译馆,1935 年。
(48)《县教育局规程》1923 年 3 月 29 日教令第 9 号,《教育公报》第 10 年第 3 期,
1923 年 3 月 28 日,法规,第 1-3 页,《政府公报》第 2535 号,1923 年 3 月 30 日,
第 11-13 页。
(49)《特别市教育局规程》1923 年 3 月 29 日教令第 10 号,《教育公报》第 10 年第 3
期,1923 年 3 月 28 日,法规,第 3-4 页,《政府公报》第 2535 号,1923 年 3 月
30 日,第 13-15 页。
(50) 1923 年 10 月 10 日,
「中華民国憲法」が「公布」された。この憲法は,歴史上,
「賄選憲法」という不名誉な名称が与えられ,1925 年 12 月 11 日,「中華民国憲
法案」が作成されたことにより,事実上,失効したため,ほとんど有名無実の憲
法であった。しかし,その中に,国家と地方の権限関係が見直され,地方に国家
の権限を移譲することが試みられた条項があり,その条項に注目すべきであろ
う。すなわち,第 24 条において,「左の各項目は国家が立法を行い並びに執行す
る,或は地方に執行を命じることとする」と謳われ,その左に当該事項が 13 項
目列挙され,その第 2 項目に「学制」が掲げられた。さらに 13 項目列挙の後,
33
壬戌学制と北京政府教育部
「上に列挙した各項目は,国家の法律に抵触しない範囲において,省が単行法を
制定できることとする」と記された。必ずしも分かり易い条文ではないが,地方
に国家の権限の一部を移譲する意図の込められた条文ではないだろうか。そのよ
うな当時の国家構想の文脈において,「学校系統案」の実施過程の解明を行うこ
とによって,この教令の名称に「案」が付けられた理由,及び公布と施行の年月
日が明記されなかった理由を考察する必要があると思われる。
《中华民国宪法》1923 年 10 月 10 日,《教育公报》第 10 年第 5 期,1923 年 12
月 15 日, 法 规, 第 1-16 页,《 政 府 公 报 》 第 2728 号,1923 年 10 月 18 日, 第
1-17 页。
(51)《咨各省区改修学校系统案业经教令公布应饬遵行文》第 1369 号,1922 年 11 月
7 日,《教育公报》第 9 年第 11 期,公牍,第 4-5 页。
(52)『教育公報』に掲載された 12 件の「標準」について,他の原稿において,その
一覧を記すとともに分析を行う予定である。
(53) 註(51)と同じ。
(54) 註( 7 )と同じ。
(55)《学制系统草案》,《第七次全国教育会联合会会务纪要》,第 41-46 页。
(56)《学校系统改革案》,高平叔编《蔡元培全集》第 4 卷,中华书局,1984 年 9 月,
第 255-258 页。
(57)《学校系统改革案》,《教育部召集之学制会议及其议决案》,《教育杂志》第 14 卷
第 10 号,教育界消息,第 1-3 页。
なお,上記の『教育雑誌』所収の「学校系統改革案」に,「学校系統図」は掲
載されていないが,省略されたものと考えられる。
(58)《第八届全国教育会联合会议决学校系统案》,《新学制课程标准纲要》,第 131135 页。
(59)《国民学校令》1915 年 7 月 31 日教令第 31 号,第 12 条。
(60)《高等小学校令》1915 年 7 月 31 日教令 30 号,第 7 条。
(61)《国民学校令》1915 年 7 月 31 日教令第 31 号,第 23 条第 1 项。
(62)《国民学校令》1915 年 7 月 31 日教令第 31 号,第 23 条第 3 项。
(63)《中学校令》1912 年 9 月 28 日教育部令第 13 号,第 8 条。
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