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貨幣の哲学と貨幣の経済学 (下) イ左 イ白 啓 思

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貨幣の哲学と貨幣の経済学 (下) イ左 イ白 啓 思
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貨幣の哲学と貨幣の経済学(下)
佐 伯 啓 思
前野(「貨幣の哲学と貨幣の経済学(上)」本誌第210号)で述べたのは,ジ
ンメルの「貨幣の哲学」をよりどころとして経済学における貨幣の捉え方,あ
るいは一層包括的な言い方をすれば,経済学的な貨幣や価値の捉え方の背後に
ある思考の枠組みを浮かび上がらせることであった。と同時に,貨幣に関する
哲学的考察,あるいはポラニー風に言えば貨幣に関する「意味論」は,経済学
的思考とは全く異なった経済の見方を可能とするのである。ジンメルの貨幣論
に示唆されたこの捉え方に,理論としての普遍性を主張し得る論拠があるとす
れば,それは,経済世界の構成が,その骨格において人間の認識世界といった
最も精神的活動の範型に対応づけられるという観点だと思われる。本稿ではこ
れを受けて,このような観点のもつ意味を,それが,まず第一に社会という一
般的な概念のレヴェルで,第二に貨幣という特定の論点において持つ意義とい
う形で論じる。もとより,この論文のねらいは,貨幣あるいは貨幣を持つ経済
のいわば論理的な理解をめざす場合,この理解の骨組みとなるであろう論点を
素描することにある。と同時に,そのような理解が既存の経済学の枠組みとど
のように異なるかを,厳密な論証の問題としてではなく,論点の及ぶ広がりに
おおよその輪郭を与えるという意図を持っている。このような性格は前稿と同
様,本稿でも変わらない。
2.ジンメルの「貨幣の哲学」
(2)貨幣と言語一悠意性について
さてジンメルが貨幣論を展開する際,発想の手助けとした枠組みが,認識世
界と経済世界のアナロジーという点にあったと理解できるとすれぽ,このよう
2
なアナロジーが意味するところは何であろうか。勿論このアナロジーの示唆
するところを,様々な領域に横溢する人間活動の諸相を,その横断面を切り取
ってそれらの間に横たわる精神の普遍的な作用を暗示するという方向に解釈す
ることも不可能ではない。カント以来の潮流を貫く先験論的な思考が自己の哲
学的課題の基本におく認識論的関心そのものが,究極的には上のような課題の
基礎作業をめざしていると見ることも出来よう。
だが,ジンメルの議論は,確かに人間科学の統合化への哲学的端初を含んで
いると考えられるものの,また,確かにその相対主義の考え方によって,経済
世界における価値の意味を,労働価値や効用価値といった狭義の経済的価値が
封じ込められた個別科学の先入観より解放しうる視点を含んでいるものの,上
のような哲学的課題の文脈に乗せた場合,認識世界を根底におく人間科学の普
遍的基礎づけという意味に解する限りでは,それはとても充全とは言えまい。
ここで言うアナロジーは,例えばレヴィ:・:ストロースのような構造主義の方法
であるホモロジーと比すれば明らかなように,体系の内部構造の変換や保存を
議論できるほど,明確に仕切られた構造要素によって定義されているわけでは
ないからである。今の段階でむしろ問題とされるべきはこのアナロジーの基礎
となる考え方の方であろうし,二つの体系が言語と貨幣を媒体として成立して
いるという捉え方が指し示す共通の意味を見い出すことであろう。二つの体系
の内部構造の比較よりも,これらの体系を形成しうる可能性の条件の方が問わ
れているのである。あるいは,体系という概念がそもそも,ある特定の視点に
よって構成された観念的構成物であるとすれば,問題となるのは,いくつかの
体系を共通のものとして構成し得るような視点の可能性を問うことであると言
ってもよい。
さて,このような認識と経済あるいは言語と貨幣の位置に関するアナPジー
の基礎という幾分超越的な視点からの問いかけの文脈に従って,ジンメルの貨
幣論が暗示するところをもう一度整理してみよう。しかしそのためには再び,
「自然」と「文化」の対立と結合の関係についてふれておくのが適当であろ
う。ただここで文化というのはジンメルの用語を借用したまでで,社会科学と
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) 3
の接点においてはむしろ「社会」と言うべきかも知れない。少くともこの論文
では,両者を区別せず同義として扱うことにする。
実際上は,人間の衣食住といった日常生活から政治上,宗教上,経済上の社
会的行為のほとんどが常に人聞のもつ自然性あるいは物賦性に関与すると同時
にまた,社会的に規約され形成された諸関係の規範と結びついており,むしろ
両者の分かちがたい結合にこそあらゆる行為のもつ多面的な意義と,従って単
なる機能主義やシステム理論の枠組みに取り込まれ得ない「過剰な」部分が逸
出する理由があることは言うまでもない。しかし,この経験的な事実は,だか
らといって決っして人間活動における自然性と文化性の次元の分離を,分析上
の過度な抽象化として断罪できるものではなかろう。というより,ジンメルが
経済学の価値論に満足し得なかった理由が,この経験科学が自然性の基礎の上
に人間行為の文化的側面,つまり市場交換のような人間の問の様式化された恒
常的関係を装着しようとする態度,あるいはそのような態度を実現する思考の
枠組にあったことを考えれば,問題はこの分離が分析上の概念操作にすぎない
という点にあるのではなく,むしろ逆に,この分離によって形成されるそれぞ
れの世界が描き出すイメージの実在論的な意味づけにある。このような経験主
義的な強引さが,前章で述べたように経済学の理論を逆に経験から引き離す原
因ともなったのである。経験主義的な志向が,市場経済理論を支える諸命題の
真実性を経験の中にではなく,形而上的な観念の中に追いやったと言ってもよ
い。確かに形而上的な観念が理論の中で占める位置:には,たとえ社会科学であ
っても,必然のものがあると言ってもよかろう。にもかかわらずそれが概念と
経験を結びつけるという志向そのものの結果として提出されたとすれば,これ
は一つのパラドックスに他ならない。
ではこのパラドヅクスの原因はどこにあったのだろうか。いうまでもなく,
それは「自然」の概念に含まれた本質的に非経験的性格を認識し弔った点に由
来している。「自然」や「自然状態」といった概念は,決っしてそれ個有の実
在の領域を現実の中に獲得することは出来ないのであって,ジンメルが価値を
論ずるに当ってカント的認識論の伝統を踏襲した事実もこのことと無関係では
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あり得ない。カントのいわゆる「コペルニクス的転回」が明らかにしたこと
は,対象の素朴実在論の否定であり,その感覚的把握によりどころを求める経
験論の拒否であり,対象は精神のうちに作用するア・プリオリな形式に基いて
構成されるということであった。この転回によって認識の模写説を仮定するこ
とはもはや出来ず,人間精神の側に属するア・プリオリな形式を乞い出すこと
が認識の認識となる。同様に考えれば,文化の側に属する行為のア・プリオリ
な形式を意い出すことが社会科学の基礎づけになるはずである。まさにこの点
に, 「自然」からいったん切り離された「文化」の中に言語や貨幣の意味が同
定されることの重要性が存在するのである。人間の対象認識が,対象の素朴な
実在性によってではなく,認識主体の側のもつ形式によって根拠を与えられる
ように,経済価値は,物的対象の属性によってではなく,人間社会がそれを取
り扱う形式によって根拠づけられるという考え方は,物財の実在世界を経済の
本質と見なし,価値を物財の自然性のレヴェルで定義する経済学的思考の根本
仮設にとって重要な転回を強いることになる。とりわけ,このことは経済学と
いうものの理解の仕方にとって決定的な意味を持っている。というのは,経済
世界の中心にある貨幣が心血の経済価値を実現すると考えれば,近代経済学の
ように,経済を稀少資源の配分される形式として定義することはもはや意味を
持たず,むしろ,経済学の題目のもとに,貨幣に関連づけられた人間生活の諸
相を包括することになるからである。
これは経済の見方という点に関して言えば,例えばかって左右田喜一郎氏が
唱えた「貨幣中心説」と同じ立場に立つと言ってもよい。左右田氏は新カント
派の認識論に立脚して貨幣の意味を経済的価値の客観化という点に固い出し,
このような客観的価値の世界を「評価社会」と呼んだのだが,ここで彼が「市
場社会」と呼ばずに「評価社会」と呼んだ時,貨幣を市場にのみ関連づけるの
ではなく,より一般的な抽象化されたレヴェルでそれを論じるという意図がそ
こにあったと解してもよいと思うが,この概念そのものは,われわれの文脈か
らそれほど隔っているわけではない。しかし,彼が「愛着価値」という主観の
側から「評価価値」の客観性を導くという試みを論理に乗せた時,この概念は
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) 5
われわれの文脈から双曲線を描いて遠ざかる。
「貨幣中心説」が経済世界の中心に貨幣をおくからといっても,それはいか
なる意味においても歴史的叙述と直接に結びつけられるものではない。これは
「自然」「文化」の概念が何ら歴史的発展のモデルや実在の社会モデルを提供
しないのと同じであり,貨幣中心説は,左右田氏の場合もそうであるように,
あくまで「経済」の意味理解における論理的次元に属するものである。このよ
うな限定に縁どられた枠内で始めて,マリノフスキーやモースあるいはポラニ
ーらが描いた経済人類学の世界における財宝や貨幣の意味を,単なる特異な歴
史叙述以上のものとして理解することが可能となろう。事実,トロブリアンド
のヴァイグアや北米西岸のポトラッチ,またダホメの貝がらのような「限定目
的的貨幣」は,ただ民族誌における一事例に留まるものではない。それらは,
民族誌がわれわれの耳にとどける特異な情報をはるかに越えたものであり,人
間社会の存立の根源へのまなざしをいやがおうなくわれわれに強いる。このゆ
えにそれらは,最も深いところで人間学としての経済人類学の根本課題である
と同時に,特殊科学としての経済人類学をはるかに超えたところでの社会理解
の普遍性の高みに達っしている。それゆえ,吉沢氏がこれらの成果を踏まえて,
あくまで論理的次元の問題として社会の存立自体に貨幣が不可欠であることを
主張する時,その所論には充分な説得力があると思われる。吉沢氏が貨幣をい
わぽ論理的な次元で問題とする場合,それはもはや特定の社会において具体的
に実現された貨幣ではなく「貨幣的なもの」であり,より正確に言えば,人間
に内在する,貨幣を産み出す作用のもつ普遍的な構造なのである。ちょうどソ
シュールが,各国語として実現される言語レヴェルであるラングと区恥して,
それらを産み出す普遍的言語能力の獲得された潜在構造をランガージュと呼ん
だように,ここで文化における一般的メディアであり経済世界の中心を形作る
貨幣の概念は,まさに吉沢氏のいう「貨幣の原型」と同一視してさしつかえな
かろう。
11)左右田喜一郎「経済哲学の諸問題」 (大正6年岩波書店)参照。また武藤光朗「経
済倫理の実存的限界」 (昭46年創文社)も同様の問題を扱っている,
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さて,貨幣をこのような「貨幣原型」あるいは「原・貨幣」と理解した上
で,貨幣が「文化」に属するということは何を意味しているのだろうか。しか
しその前にもう少し認識世界つまり言語に即して論じておこう。
前述のように,直接的知覚に基く実在的な対象概念の否定は,認識の問題を
言語への関心に乗せて文化の側へ,つまり人間精神の作用の側へと移転せしめ
たと一応言ってよかろう。従ってこの意味に限って言えば,正確には転換はむ
しろカントが見落した盲点をついて,言語の問題を正面に捉えようとしたヘル
ダーに負うと言うべきかも知れない。認識世界におけるいわば「言語中心説」
が,さらにフンボルトの「言語相対主義」によって各国語の存在態様と各国民
の精神性の態様とが対応づけられるという半ば必然の道を歩む時,ここに「貨
幣中心説」と同様に,自然の構造から完全に切り離された文化の中心としての
言語観を見ることが出来る。
言うまでもなく言語についてこの思想を一層徹底したのはソシュールであっ
た。言語が文化の世界に属するということは言い換えれば,言語の体系が自然
の側に属する実在系列(ソシュールのいうsubstance)と何ら必然的な結びつ
きを持たないことを意味している。従って,自然の構造というようなものがま
ず最初にあって,言語がそれに応じて分節化されるのではなく,言語はそれ独
自の体系を備えており,人間の外部世界は逆に,この言語の独自の体系性に起
因する意味作用の力によって認識対象として組成されると考えてよい。周知の
ようにソシュールは,言語に関するこの考えをかなり徹底しており,そこで
は,言語記号が表示する所記(シニフィエ)だけでなく,意味を運び表現する
能記(シニフィアン)さえも,例えば聴覚映像のように,人間の精神の産物の
側に置かれているのである。従って,言語体系において語と語の関係が意味を
産み出すとしても,その関係自体は何ら自然と結びつく必然性を持たないとい
う点で,まさに「恣意的」と言ってよい。ソシュールが言語記号の悠意性にこ
そ言語の本質があると考えた時,彼は,言語の,さらに言えば記号一般の非自
然性,つまりそれがsubstanceには属さないという,記号の根本性格を述べた
だけではなく,認識世界が言語に媒介されることによって始めて,人間の精神
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) 7
作用の世界に,つまり「文化」に帰属するという認識論のテーマに一つの重要
ユヨ な視点を与えたのであった。
さて再び経済世界に戻れば,このような意味での「画意性」という概念は,
経済世界との関わりではどのように理解すればよいのだろうか。ここでわれわ
れは,再び,人間の自然性のレヴェルにおける価値の基礎づけという経済学的
思考の拒否という点に戻ってこざるを得ない。そこで拒否されたものは,価値
の源泉を効用に求めるか労働に求めるかという価値の内容に即した問題ではな
く,これらの価値の考え方を支えている単純な構図そのものであった。この構
図は,別の言い方をすれば,社会的な事象の因果論的な説明を可能とする絶対
的基準を含んでおり,経済の世界はこのようなアルキメデスの点に支えられて
いたと言ってもさしつかえない。
経済世界の支柱を「自然」のレヴェルに求めることは,言い換えれば事物の
実在性それ自体から出発することでもある。例えば効用価値論にとっては,財
の社会的配分や生産のプロセスという社会的関係の網の目から独立に個々の財
の意義が確定しているという意味で,それらの実在的性格そのものが体系の支
点となっている。勿論この関係を逆転して,あくまで実在性は物それ自体の性
格にあるのではなく,それに意味付与を行う人間の欲望や評価の側にあると主
張することは出来る。しかし,ここで問題となっている観点からすれぽ,たと
えそうであっても,このような人聞主体の側の能動性があくまでそれを取りま
く社会的関係の渦からは独立して作用すると考える限り,この能動性は,社会
的関係の隅々に侵透して配置される以前の,財のいわば自然的な配列のあり様
に即して主体の刻印を押すと考えざるを得ない。もし詣りに,この能動性の社
会的性格をあくまで強調したならば,それは結局効用パターンの社会的決定論
12) ソシュールに関しては周知のように講義録を編纂した「一般言語学講義」と原資料
のくい違いという問題がつきまとう。しかしここで関わる範囲ではあえてそのテクス
ト・クリティークに立ち入る必要はなかろ’う。F, de Saussure “Cours de Iinguistique
g6n6rale”1916(小林訳「一般言語学講義」昭47年,岩波書店)また,原資料との乖
離の問題も含めて丸口」圭三郎「ソミュールの思想」 (昭56年岩波書店)が参考となつ
た。
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に陥り,このような社会的に決定された主観的価値に基く市場理論は文字通り
の空中楼閣となるからである。従って,ここでは,人間の主体性そのものが,
例えば,生理的メカニズムに服したり,生得的な欲望構造に粘着していたり,
あるいは個体の身体性によって条件づけられる行動パターンに依存したりとい
う意味で自然性の世界に根を張っている。
自然のレヴェルに置かれた存在の様式を,一応,事物の相互に関連づけられ
ない羅列的な配置と見ておけば,社会もしくは文化のレヴェルにある事物の本
質は,事物や人間の実在性ではなく,それらの相互間の関係の方にあると言っ
てよいだろう。一般にシステムを要素と関係から成ると考えるならば,関係か
らいったん切り離したところで要素の実在性のみをふくらませる見方に対し,
むしろその関係の中にシステスの特質を見る立場からすれば,文化や社会を一
つのシステムと考えた場合,それは自然的対象とは全く異った見方を必要とす
ると言ってもよい。仮りに,このような「要素」から出発する立場と「関係」
から出発する立場を区別するならば,経済学の立場は,経験主義という検視鏡
を通すことによってそこに写し出される「要素」の実在性こそが確実な出発
点と考えたわけである。従って,経済はどこか究極のところに,人間の個体性
一人間の生理や身体性や欲望に基く物質代謝一の服する生存の必然の世界
を,つまり簡単にいうと一種のロビンソン・クルーソーの物語りを一つの原型
として想定せざるを得ないのである。勿論,人間の生命活動の維持という人間
存在の最も自然的な側面が厳然として底に横たわっていることはいかなる「文
化の理論」の立場からしても否定し得ないことは事実である。しかし,このよ
うな「物質的」な問題が存在するということと,それを実在論的に取り扱うこ
ととは別のことがらである。「物質的」な問題が「社会的」な過程によって実
現される形式を扱うということは,物的な実在性,人間の服する必然性の世界
から出発するということとは全く別のことだからである。
「恣意性」の意味するところは,まさに要素(個体)の実在性から出発する
必然性の論理を拒否するところにあり,経済世界の支柱は実在性の中にではな
く,関係性の中に求めなければならないという点にあったと解してよかろうQ
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) 9
しかしこのことは経済というものの見方に関して重要な論点を提供することに
なる。というのも,経済世界の理解は,もはや物の実在性に対する人間の直接
的関係というアルキメデスの点に対する信頼によって成り立つのではなく,経
済とは,ただ内的要素の相互の関係がきわどいバランスを保つことによって決
定する構造によって自己をかろうじて支えている体系にすぎないという理解が
成り立つからである。つまり経済を支えるものは,それ自身の外部にはあり得
ず,それ自身の現実のあり方それ自体だとさえ言ってもよいだろう。このよう
に考えるなら,経済が人間の欲望や労働を通して確固たる実在性を持つとする
立場を一種のマテリアリズムが産み出した幻想だとみな:して不都合な理由が果
たして存在するだろうか。また経済は,実体的な支柱を持たない人聞の産み出
した壮大な観念の操作の体系であると考えることが誤りだと果たして言えよう
か。これは経済さえも一種の「共同幻想」と見なす立場だと言ってもよい。し
かし,さらに言えば,このような観念の体系が共同のものとしてそれ自体の論
理を持って動き出した時,このような幻想はもはや幻想とは呼び得ないリアリ
ティを持って迫ってくるのも事実である。レヴィ=ストロースの分析したトー
テミズムのように観念の体系はまさに「実在」するのであり,また,それこそ
がVルクスが「物象化」と呼び,ジンメルが「文化の悲劇」と呼んだことでも
あった。
3, 自然一文化の構図
さてジンメルの相対主義の考え:方から出発して,文化あるいは社会の根底に
ある「恣意性」という考えに到達したわけであるが,ここで次のような疑問が
発せられるかも知れない。貨幣あるいは価値の恣意性によって経済世界が支点
を持たない宙づりの体系だとすれば,経済世界とは実は財の配分,生産を決定
する機械的な装置の総体に他ならず,それは人間生活の自然的基盤を絶対の基
準としては持たないがために,人間にとっての外的所与として扱われる以外に
ないのではないかということである。経済世界における財貨の配分や生産の機
構の総体は,個人の心理的水準や意思を越え,それに外在する独自の存在の法
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則を持つという意味で,デュルケーム流に言えば一種の「社会的事実」もしく
は「集合表象」と見なしてよいのではないか。とすれぽ,恣意性の意味すると
ころは,社会の本質は集合表象にあるとする社会学主義と一体どこが違うのだ
ろうか。
ここで,ソシュールが確かにデュルケーム派として出発し,彼のいうラング
を社会学の側から見れば「社会的事実」と見なせなくもない,といった点を強
調してみても仕方がないだろう。むしろそれにもかかわらず,ソシュールは言
語を言語学として扱ったという自明の事実の方が重要である。ラソグが社会的
事実であることと,それを一つの社会に固着した集合的行為準則と見なす社会
学的扱いとは別の事項に属するからである。同じように見れば,貨幣はなるほ
どある意味では集合表象であり社会的事実には相違ないが,しかし逆説的な言
い方が許されるならば,それはあまりに経済的事項であるがゆえに経済学で扱
い切れないのと同様,あまりに明確に社会的事実であるがゆえに社会学主義で
は処理し切れないと言ってもよい。ある現象が社会的事実であるということ
は,社会学的考察の出発点を明らかにするものではあっても,そのことの意味
は社会学の課題とはなり難いからである。
このように,意味理解という次元で個別科学的な処遇が直面するある種の戸
惑いは,言語にしろ貨幣にしろ共通のものがあり,その戸惑いの源泉を言語や
貨幣の画意性に求めれば,それはまた,このような恣意性のみを根拠とする体
系のいわぽ存在証明という問題を抱え込むことになるのである。一層正確に言
えば,恣意性の原理は相互に重なり合いまた対立する二つの問題のたて方を可
能とする。
第一に,自然的な基礎づけなしに,つまりジソメルの言う実在系列が先験的
に持っている構造という考え方を拒否した上で文化体系を見た場合,その体系
の構造の普遍性をどのように主張しうるかという問題が生じよう。確かにこの
ような種類の問いかけがソシュールの思考を過ったからこそ,彼は言語学を記
号学の一部門と言い得たのであり,それが事実,ヤコブソンを経てレヴィ=ス
トP一スの隠された普遍的理性の考え方へと展開されると解してよかろう。そ
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) !1
れにもかかわらずもし構造分析を文化体系を分析する一つの方法としてのみ受
けとめたとすれば,それの表明する思想は根本においてデュルケームのものと
大差はなくなる。恣意性の考え方が表意することは,このような構造主義的な
問題のたて方を可能とする根本的条件についてなのである。レヴィ=ストロー
スが自然一文化の対比によってこのことをきわだたせようとした時,ここで彼
は構造分析そのものの可能性の条件にふれていたのであり,またソシュールが
デュルケームを越え出ているのはまさにこの点においてであった。
しかしながら,まさにこのことが同時に,構造主義の基底にある普遍的理
性,普遍的ロゴスという出発点に対する懐疑へさえも発展する第二の論点の扇
を開くことにもなる。これはこういうふうに述べてよかろう。論理的な次元に
限って言えば,言語体系や経済世界は悠意的である限り,その存立の正当性を
絶対的な意味で,つまり何らかの外部にある絶対的な基点に依って説明するこ
とは出来ない。それゆえそれは,それ自身の説明に関してはトートロジカルな
ものとならざるを得ない。従って逆に言えば,このような体系とは別種の世
界,つまり言語や貨幣に媒介されない人間関係の世界を,同程度の信頼を持っ
て可能的現実として思い描くことが出来ることになる。これは自然一文化の対
比で言えば「自然」に属する世界だと言えよう。文化の体系を成立せしめる恣
意性の原理は,その恣意性のゆえに言語,貨幣等の論理上の論拠を提供するこ
とが出来ないのであり,それゆえ文化世界という仮象と同一の論理的もしくは
仮想的次元で,直接的な人間たちの相互性といういわば自明性の支配する世界
を排除することが出来ないという逆説が成立するのである。
これは例えば,ソシュールがラングに対比させつつ実質上は無視したパロー
ル世界の独自性,あるいはチョムスキーの用語を借りれば言語能力に対する言
語運用の重視という問題とは少し違っている。これらの考えが主張するのは
「構造」に対する「出来事」の重視であり,「構造」を創出する主体の側の個
体性,創発性の契機に対する期待である。しかしここで問題としているのは
「構造」そのものを究極的には仮象でありイデオロギーと見る立場であり,同
時にそれが言語中心説,理性主義への懐疑ともなっているような立場である。
12
こうして恣意性の原理はそれが産出したものを否定する契機をも同時に産出し
ていると言ってよいだろう。しかし本稿の範囲でこの議論をこれ以上続けるわ
けにはいかない。もう一度本筋に話を戻そう。
さて議論のこのような筋道に従えば,「自然」の概念は,必ずしも人間と物
の直接性のみならず人畜と人聞の関係の直接性,非媒介性といった考え方に特
徴づけられていると考えてよかろう。ここにあるのは関係の自明性の世界と言
ってよい。つまりスタロバンスキーがルソー論において述べた,言語に媒介さ
れない「透明なコミュニケーション」,あるいはモアを始めとするユートピア
思想家が描き出した貨幣や権力に媒介されない関係,これらの「透明な」世界
は,もともと感性と想像力の産物たることを自認することによって,r不透明
な」世界を指し示すための陰画であったことはまちがいない。この陰画のおか
げで社会は,ジンメルが「距離」と呼び,レヴィ=ストロースが「禁止の体
系」と呼んだ「不透明な」関係の束として着色されたのである。しかしジンメ
ルやレヴィ=ストP 一一スのいう「自然」と「文化」あるいはルソーのいう「自
然状態」と「社会状態」は,現実の経違の中ではそれぞれの概念を分離され,
それぞれの内実を膨張させることによってその構図は反転し,両者の陰・陽と
役割は逆転することになる。この「自然」と「文化」の逆転した関係はジンメ
ルが「生の自己超越」と呼んだものであり,マルクスで言えば「自己疎外」,
また少し異った文脈で言えばルソーの「社会契約」に対応すると考えてよい。
しかしこれを逆転という意味は,ここではちょうどジンメルの「生」が本来独
自の内実を持たない無定義概念でありながら,むしろその空白さのゆえにいっ
さいの根源たる抽象的な実在性を宣言するように, 「自然」が文化的形象のい
っさいの根源にあり,さらにはそれを産み出す「始源」であるという一種の主
体性,能動性を装屓されるからである。これは確かに一つの始源の神話と言っ
てもよい。しかし神話を蒙昧として事足れりとするのでない限り,神話の成立
にそれなりの理由を尋ねるのが道理であろう。
この意味で言えば,「自然」の概念はそれ自体が言語的であるというまさに
自明の理由によって,概念の逆転はむしろ一つの必然であるとも言えるのでは
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) 13
ないだろうか。「自然」の概念自体が言語世界に属することによって,それは
何の意味も負担しない空白ではなく,まさに他の概念との関係によって空白を
うめざるを得ないからである。従って,「自然」に付与される主一客未分離な
自明性,相互主観のF距離」によって疎隔されない透明性,始源としての能動
性は,確かに空白をうめる単なる擬人法にすざないとしても,このように意味
づけられた空白はもはや「虚像」ではなく,「文化」を目的論のもとに編成す
るための「実像」となるのである。従って,この転倒のやむを得ぬ必然性を主
張しうる根拠がもしあるとするならば,それは実は,この転倒の本質が,言語
世界の持つジンメルのいう認識論的構造に負うという事実に他な:らないであろ
う。認識世界の構造が,その体系自体の自己正当化の要請つまり「自己原因」
となるものの不断の生産によって,無限に自己自身を対象化するという相対主
義的な意味で次元の梯子を上方へ移行するという点にあるとすれば,それと同
様に「文化」の世界はそれ自身を正当化する基点をそれ自身のうちに取り込ま
なければならない。ジンメルが文化を生の自己超越と言った時,生は絶対的な
意味で文化に対立するものでは決っしてない。従って,生が産み出した文化が
自己に対立してくるという「文化の悲劇」は,概念の発生に従って言えば,文
化が自己に相対立するような形で自己の存在原因である生概念を産み出すとい
う方が正確であろう。しかし,概念のア・ボステオリな構造に従って言えば,
貨幣が経済世界の論理的な出発点であるように,生が文化の基点となるのであ
る。
それゆえ,このような転倒が,その本質において言語世界個有の方式に基く
としても,その意味は例えばラッセルが「言語主義の誤謬」と呼んだ,概念と
実在の混同ということではない。それは,文化が,つまり人聞の社会的あり様
の根本形式が,それ自体に対し認識論的な遡及を適用する中で,ほぼ不可欠に
採用せざるを得ない態度の一一つと言ってよかろう。だからこれはジンメルの相
対主義のほぼ必然の結果であるとも言える。認識における無限の対象化におい
て自己自身へ向けられるまなざしこそがこの世界を支える意味の基準だとする
考え方が採用される限り,この転倒はもはや転倒として意識されないのも当然
14
であろう。
リクールは,社会というコンテクストで生じるこのようなまなざしの不可避
性,つまり社会による不断の自己解釈こそがイデオロギーの原因であるとし
13)
た。このイデオロギー概念は,確かに階級的利害や党派性の裏づけを持ち同時
にそれを隠蔽しつつ一般化するという通常のイデオロギー概念よりは,その包
摂する意味の巾は一層広く,かつ人間存在の社会性の一層の深みにまで潜入し
ている。しかしこれが,社会の産み出す最も普遍的で集合的な「偏見」一ガ
ーダマーが言うような人間の不可避の条件を形作る偏見一であるとするなら
ば,われわれは,この転倒,リクールの言うイデオロギーから果たして逃れう
るかと問うても,もはや何の意味もないのであろうか。勿論だからと言って,
ガーダマーやリクールが言うように,この不断の意識化による隠された意味の
明確化という解釈学的課題こそが実践哲学の究極課題だという説に自動的に同
意することにはならない。
ただここで述べうることは,このような無意識の転倒は,リクールのいうイ
デオPギーにもかかわらず,近代の社会認識の根本形式の一つであったという
ことである。議論の様々な細部にこだわらずに言えば,ある意味で,マルクス
の疎外論それ自体が概念世界における「疎外」に基いているというパラドック
スさえ指摘しうるであろうが,それをほとんど意識する必要に迫られないの
は,まさにそれが概念の世界での営為に他ならないからである。同様のレヴェ
ルで言えば,ユートピア思想は,ジンメル的な「自然」の実体化の,歴史的思
考に場面を譲り渡された始点と終点の入れ換えにすぎない。にもかかわらず,
それを永遠の虚構として無視し去るわけにいかない理由があるとすれば,それ
はカッシーラーが述べたように,ユートピア思想そのものが,人間が現前しな
14)
いものを思い描くシンボル操作能力の産物に他ならないからである。
13)P・Ricoeur“Science et id6010gie”(1977)(久米,清水,久重編訳「解釈の革新」
昭53年,白水社,に所収)。
14)E.Cassirer“An Essay on Man”(1944)(宮城訳「人間」昭27年.岩波書店)参
照。
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) 15
このような転倒した構図は,ジンメルが,「総合編」において貨幣経済を組
成する縦糸と横糸のぬい目に点綴する諸相一貨幣と個人的自由,貨幣経済の
文化価値や生活様式の側面など一をテーマとする時に,「総合編」を一貫す
るとは言えないまでもそこで底止を響かせる一つの基調とさえなっている。ジ
ンメルが貨幣経済の特質を,一方で人間の質的差異を量的次元に縮減して数量
的基準の支配する平面に並べたてるという「平準化の悲劇」に求め,他方では
その意義を,主観性のドグマやむき出しの力関係に囲まれた人格的依存からの
解放によって個人的自由を拡大するという点に求めた時,この相反する議論を
一つの書物の中へ登用する手続きとなっているのは自然一文化に関する逆転し
た構図に他ならない。貨幣経済の意義を,自然のレヴェルに属する人と人の直
接的依存関係からその問接的関係形式への移行,つまり彼のいう「人格の原
理」から「事実性の原理」への移行に照射して論じた時・これらの命題はなに
も「分析編」における貨幣の形而上的考察を経る必要はない。このどちらかと
いえば陳腐な部類に属する命題は,すでにチュルゴーが貨幣の意義を経済的進
歩に関連づけて以来,今日に至るまで経済学者たちは,明示的な言及は省略し
てきたとしても,少くとも彼らの議論の延長上にすぐさま想起出来る態勢で常
備していたと言ってもよい。この点では近代経済学とデェルケーム派の間でさ
え,議論の角度は正反対でもその結論の向かう方向は共通だったのである。
ジンメルは確かに,貨幣,知性,法といった,個人と個人,個人と社会の関係
が集約されるいくつかの焦点で作用する精神の普遍的傾向を見透していたと思
われるが,しかしそれを「文化の悲劇」と呼んだ時,文化形象の中に生内容を
対象化する,彼のいう「客観的精神」は,むしろ文化価値の主観を越えた絶対
性の受勲者とな:り,文化価値の現実の担い手たちの側に残る主観的条件の偏差
さえもほとんど無視し去ることになる。ここでは個人と社会の関係は断絶し,
文化価値体系や社会のダイナミズムをその中から取り出す試みはほとんど絶望
的とならざるを得な:い。従って,ウァインガルトナーが「宇宙的喜劇(COSInic
comedy)」と呼んだマルクスの疎外論や唯物史観と「人間的悲劇(human tra−
gedy)」と呼んだジンメルの生の哲学の間には,議論の場面を取り換えれば相
16
ユの
互に変換できるような,ある種の共通の基本構図が存在すると言ってもよい。
さらに言えばこの基本構図は,自然科学的思考を基礎に持つ近代経済学にもあ
てはまると考えてよかろう。
自然一文化の概念の意味の転倒あるいは自然概念の実体化という事態は,歴
史的認識と実践的活動を結び合わせるユートピア思想の姿をとろうと,あるい
は社会契約論のように社会の論理的発生を説明する創設の神話を与えようと,
いずれにしろ,それが現実の社会を認識する中でその意味を解読する解釈三婆
を自然の側に求めるという形式を借りる限り,やはり自明性というアルキメデ
スの点をどこかで仮定していることになる。「自然」系列の諸属性の社会への
取り込み,つまり社会の自己解釈の試みは,それが人間社会のあらゆる事象の
時間的推移の因果的理解に適用された場合には歴史主義の形を取るのに対し,
自然系列の実在的弓関係が,いわばその相互聞の空間的因果もしくは機能的関
係において把握される時,それは自然科学主義へといっきょに駆け登ることに
なる。近代経済学の採用した要素論的方法それ自体がそのような傾斜を濃厚に
現わしていることは言うまでもないが,要素論的見:方の社会への最初期の適用
において例えばホッブズが,解剖学や生理学を念頭に置きつつ,因果的科学の
方法を援用して社会契約論を展開した時,自然系列の諸属性,つまり物的対象
にしろ個々の人間にしろ,思考対象の実在性とそれら相互のあり様の基本的な
自明性は疑い得ないものとされていた。認識するとは,これらの実在を写し取
ることであり,それゆえに認識は客観的であると主張し得たのである。従って,
社会を認識するとはこのような実在の基本的な自明性へ因果的論理を追って還
元することに他ならなかった。リクールの言う本源的な:意味でイデオロギーと
いう言葉を使えば,歴史主義がイデオロギーであるように,上のような認識態
度は自然科学主義イデオロギーとでも言うべき楽天的な先入観と無縁ではない
のである。
ls) R. H. Weingartner “Experience and Culture, The Philosophy of Georg Simmel”
(1960. Wesleyan University Press)
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) 17
4. 貨幣の機能論と象徴論
歴史主義や自然科学主義がリクールの言うような意味でのイデオロギーであ
るとしても,それが本質的に言語的現象である限り,カッシーラーの言う人間
の象徴作用能力という観点からして,そのイデ1“・Pギーの依って立つ基本構図
から逃れうるか否かは容易に答えられる問題ではない。しかし少くとも,人為
や人間の意思に左右されない人間の条件を与える自然概念の自明性もしくはそ
の実在性への無反省な信奉が社会理論の中へ持ち込まれた時に,社会科学にお
ける自然科学的方法の優位が決定づけられたと考えてよかろう。自然科学的な
ものの見方の優位性それ自体が,先に述べた自然一文化の転倒と,表面には現
われない下層で何らかの脈絡を保っているとするのはおそらくそれほど奇妙な
想定ではあるまい。
かつて新古典派経済学の比較体制論が,例えばハーウィッチに代表されるよ
うに,いくつかの経済的資源配分のやり方を数学的最適計画問題の特性を持つ
形式化されたいくつかのプロセスの形で表現した時には,比較のベースとなる
数学的最適計画そのものが,経済的な意味づけに関しては暗黙のうちに一社会
集団の物的な生存や満足を最高基準に設定する以外にないような仕方で定式化
されていた。簡単に言えば,人為的な社会的諸制度の合理性は,それ自体ある
いはそれが形成されてきた習慣や伝統のうちに見い出されるのではなく人為的
なものの背後にある生得的,自然的なものへ向かう何らかの価値基準に誘導さ
れて,社会の外部にある自明なるものに結びつくことによって説得力を保って
いたのである。
これに対し,上述のように「貨幣の哲学」が教えるところは,まさにこのよ
うな経済学上の価値論が自然一文化の転倒形式に基づい七いるということであ
った。従って経済活動の意味理解は,例えばウェーバーの「理念型」のような
ものに基づいてその動機理解をめざすやり方で経済主体の行動を決定する因果
を追い,その基点を見い出そうとしてもうまくいかないということになる。事
実,ここで失敗するのは,逆に言えば転倒した形式に順応するのは,やはり自
!8
理科学的な思考に源泉をもつ因果論的な追求なのである。
では「貨幣の哲学」が教えるポジティブな側面は何であろうか。少くとも
「分析編」が示唆するのは,社会はもはや何ものにも還元の出来ない独自の形
式の体系だということであろう。これが社会学主義と一線を画するのは,その
独自の形式を,社会あるいは文化が包み込む複合したいくつかの体系一例え
ば経済,認識,法,宗教画の世界一に潜在する構造の相互比較というおぼろ
げな視点を含んでいるからである。
また同時に「貨幣の哲学」が,カッシーラーの言うように文化とは人間の産
み出す象徴形式だという点をほとんど先取りしているにもかかわらず,それが
例えば芸術作品や想像力の産物つまりランガーが「顕示的」と呼んだあらゆる
シンボル,あるいはイメージやイコンの総体を対象とする最広義の,そして実
際には最:狭義の象徴理論とも一線を画するのは,「文化」の世界の中心に言語
的,認識的世界が置かれることによって,例えば命題の正当性や自己自身の基
礎づけといった幾分言語哲学的,超越論的認識論的な問題が文化体系の根幹を
貫いているという点である。つまり一種の論理的なもの抽象的なものが核にあ
るという確信である。それゆえジンメルの貨幣論は決っしてアルトマンが言う
ような心理的分析などではなく,いわばその最も深層にある論理の問題なので
ある。
概括的に述べれば「貨幣の哲学」の積極的な意味はこのようなものだと言っ
てよいだろう。しかしより具体的に集約的に見れば,これらの議論の全体はま
さに貨幣に焦点を合わせていたことからわかるように,社会の独自の形式とは
経済に即して言えば,貨幣が何よりもまずこの世界の中心にあるということで
あった。従って貨幣をこれ以上の何ものかによって説明することは出来ない。
というよりこのような「原・貨幣」あるいは「形式としての貨幣」そのものが
具体的な貨幣の説明になっているはずである。
従って,貨幣の成立根拠をクナップのように国家や法に帰属したり,またメ
16) S. P. Altman “Review Article of Georg Simmel’s “Die Philosophie De”s Geldes”,”
Ame. Jou. of Socio. 1903.
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) 19
ンガーのように慣習に解消したりするわけにはいかない。これらの論者は,確
かに貨幣の経済的な機能の理解以前に,それが依って立つ社会学的次元への適
切な目くばせを与えている。例えばかつて傍島省三氏が貨幣の経済学と貨幣の
社会学を区別して後者の考察を力説したように,貨幣の制度的あるいは発生的
ユ ラ
側面は近代経済学の市場分析の限界をあらわにする。しかし,かと言って貨幣
国定説や貨幣習慣説をそのまま受け入れるわけにもいかないだろう。確かに現
実に即して言えば,現実の貨幣はこれらの論者の主張にそれぞれ重なり合い関
わっていることはまちがいないところであるが,その次元で言えば,それらの
どの主張にもそれなりの妥当性は存することになる。しかし論理的な問題とし
て言えば,貨幣を国家や法や習慣に帰すことによって,そのレヴニルを経済学
から社会学へあるいは要素論から有機体論へ移し換えてもあまり意味はない。
貨幣が言語と同様,記号体系であり,また吉沢氏の主張するように「夕虹」で
あるということは,貨幣が慣習や国家によって作り上げられた社会的事実であ
るとナることとは何ら必然的な関係はない。むしろ問題は貨幣がそれ自身のう
ちにすでに持っている経済学的次元と社会学的次元なのであり,さらに言えば
そのような貨幣の持つ多面的な意味そのものが貨幣の象徴性によってもたらさ
れるということである。傍島氏が,国家的貨幣制度は実は,貨幣に内在する管
理的契機の顕在化にすぎないとして,超歴史的で貨幣概念一般に通ずる「管理
貨幣」と歴史的で具体的な「管理通貨」を区別した時,このような視点が無意
識のうちに採用されていたと言ってよかろう。
このような観点からした場合,フランケルがジンメルの貨幣論の結論を,貨
幣の通用性の基礎に人間の相互間のあるレヴェルでの「信頼」が存在するとい
う点に見て取ったとしても,そのことの意味は少し注意深く受け取らねばなら
ユお ない。貨幣の基礎に信頼がある,あるいはより正確に言えば貨幣は,金属のも
つ超自然的属性やコインに印された王侯の肖像によって権威を表象するのでは
なく,それらを通して背後にある社会の紐帯=信頼を表象するというのがこの
17)傍島省三「貨幣本質の分析」 (昭23年,東洋経済新報社:)を参照。
ls) S. H. Frankel “Money; Two Philosophies” (1977. Basil Blackwell)
20
考え方である。簡単に言えば貨幣が象負するのは社会そのものであるとさえ言
ってよかろう。
経済学における貨幣の理解について言えば,クナップ流の国定説にしろある
いは近代経済学における機能主義的な貨幣観にしろ,経済学的思考は一般に,
貨幣を技術的問題すなわち経済活動の水準を操作する上での管理,運営上の問
題として捉えてきたと言ってもよい。貨幣数量説をめぐる輿論においてさえ
も,その初期にロックやヒュームが議論の背後に時おり垣間見せていた貨幣の
意味理解への姿勢をこともなげに放棄して,シュムペーターやまた現代のマネ
タリストのように経済運営のルールの問題と当然のごとく見なされたのであ
る。フランケルがジンメルに無い出した論点は,確かに貨幣の技術主義的理解
の死角をついたものと言えよう。貨幣の技術主義的な理解は,政府が貨幣を自
由にコントP一ルし得るという意味で人間の主体性の貨幣経済に対する絶対的
優位,つまりそれを工学的なシステムと同様のものと見なして人間にとって好
都合なように設計,操作出来るという極端な理性主義へ向かう傾向を内在して
いることは言うまでもない。貨幣の「信頼」という側面は,このような理性主
義のよりどころである技術的合理性ではいかんともしがたい,社会そのものの
持つ集合的な慣性,フランケルに従えば「公共的確信(public certainty)」と
でも呼ぶ以外にないもの,しかしその社会的安定性の核となる慣性が作’り上げ
てきた紐帯を保障する何かが,技術的合理性と部分工学の精神の容易に手の届
かない社会の深層に横たわっている事実を否定しえないことを示している。
しかしながら奇妙なことに,これに続けてフランケルが「信頼」とは社会的
コミュニケーションの複:雑性を編成し,相互間のその形式を単純化するメディ
アであると言った時,彼はむしろ「信頼」も含めて貨幣に関わる諸要因の全体
を逆に,再び高度に機能主義的なコンテクストの中へ押し戻してしまうのであ
る。
確かに,貨幣の現代的意義を見失なうまいとすれば,このような方向転換に
もそれ相応の説得力はある。現代社会に錨を降ろす限り,対面的な形で,つま
りジソメルのいう「人格の原理」に基いて「信頼」が形成されるとは容易に主張
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) 21
し得ない以上,貨幣に象徴的意義を与える信頼のよりどころは貨幣自体ではな
く,貨幣的システムの全体へ向けられるという方が確かにより現実的であろ
う。「信頼」は人格的つながりに基く社会の紐帯の糸ではなく,システムの問
題処理能力の方に向けられる。フランケルは,このようにジンメルの貨幣論の
中から「信頼」という要因を引き出してきて,これをシステムの複雑性の縮減
という文脈に乗せることによって,意図的にルーマン流の機能主義の考え方に
接合しようとするのである。システムの複雑性の縮減ということは,経済にお
いては,物的のみならず情報伝達の意味をも含めた効率性の概念に置き換えら
れると思われるが,そうだとすれば,ハイエクのように,貨幣の意義を,価格
メカニズムを通して効率的な情報伝達を可能とすることによってありうべき膨
大な数の生産プPセスと資源配分のパターンの組み合わせの中から一つの体系
を選択するという点に求めるのと同じことである。同様に「信頼」は,それが
どのように獲得されたかは別として広い意味でシステムに関する既知の知識と
等置出来るとすれば,それは必然的にシステムの取りうべき一つの方向をあら
かじめ決定する要因と見なされるのである。このようなレヴェルにおいて,貨
幣にしろ信頼(あるいは広義の知識)にしろ,それらは例えば権力と同様に,
システムの取りうるほとんど無限の多様性の中から,それらの果す機能遂行の
程度に従属する限りでの複雑性をもって,一つの方向を指示することになる。
このような極端な機能主義的理解は,システムの潜在的な無限の可能性を想定
しながらもその実,事後的にはむしろ決定論的な解釈に可能性を開くという意
味では,パーソンズ流のいわゆる「因果的機能主義」の枠組みを完全に脱け出
しているとは言えないと思われるが,しかしこの機能主義的な思考は,パーソ
ンズが実際上はそれほど重視しなかったコミュニケーション・メディアの作用
をシステム概念の中軸に置くことによって,われわれの文脈からしても無視し
得ない一つの論点へと突き進んでしまうのである。これを無視し得ないのは,
極端な機能主義の方向は次のようなところまでわれわれを運ぶことになると思
われるからである。
フランケルが言うように,経済を支えるのがもはや:貨幣という特定の「部
22
分」ではなくシステム能力という一般的な「全体」に対する信頼であるとすれ
ば,また同時に,まさにこの信頼という要因が,逆に,様々な無駄や不安定要
因を自動的に除去することによって貨幣経済のパフォーマンスの達成に決定的
役割を引き受けているとすれば,これはいわば,自己自身の作用による自己自
身の正当化であり,また自己自身の正当化を目的とした無限の作用と言うべき
ではないか。つまり,貨幣経済とは,この意味での信頼を軸として無限に自己
自身を忠信しつつ回転し続けるシステムと考えざるを得ないのではないだろう
か。信頼という要因を経済システムの外部へいったん放り出し,それを基点に
経済システムを意味づけようとしたならば,せいぜい経済の背後に習慣や集団
的共有価値を見い出すという程度の議論に終始することになる。しかしこの極
端な機能主義的理解はその範囲には留まり得ない。そこでは,貨幣経済の秩序
とは,社会的共同性や慣性に求められるのではなく,それ自身のパフォーマン
スの追求がそれ自身に対する信頼を産み出すことによってまた逆にそのパフォ
ーマンスを高めるという,絶対的支点を持たない無限の循環の中にかろうじて
保たれるバランスの中に求められることになる。結局自己自,身を追い求めるこ
とになるような循環のうちに均衡を保つという,回転木馬を連想させる世界が
貨幣経済の本質だとすれぽ,一体その存立の根拠といったものをどこに求めれ
ばよいのだろうか。
確かに絶対的な意味ではそれは存在しないと言うべきであろう。だがさらに
っきつめれば次のように考えることも出来る。上で述べた「信頼」という要因
はこのような機能主義的なシステム論の構成の中では,もはや例えばスミスの
いう「同感」のような道徳的内実を持った相互了解の媒体とは考えられず,む
しろシステムの表面を流動する「情報」と見なすべきだと思われる。なぜな
ら,システム全体のパフォーマンスを向上させるには,機能主義的理解の極限
で要求されるものは,実体を持ったメディアの実際の動きではなく,それが動
いたとする観念上の約束だけだからである。確かにここまでくれば,このよう
な信頼あるい情報を充分に一般化されたメディアと見なしうるか否かが問われ
なければならないだろう。しかしいずれにしろ,信頼という媒介をこのように
貨幣の哲学と貨幣の経済学(下) 23
理解すれば,それはシステム全体の機能的意味と個々人の意思決定を結びつけ
るだけの操作可能な手段的媒体と化し,同時にシステムは,奇妙なことに何ら
の公共的意思を代表することなく自動的にシステム効率を最上の目的とした形
で目的論的に編成されることになる。しかも,このようなシステム概念の目的
論的編成の彼方では,システムに意味を与える正当性の基盤iは,例えば貨幣の
うちにある論理性,シンボル形式ではなく,またシステムに内蔵された公共的
意思決定の回路でもなく,システムが全体としてもつ機能遂行の形式性,つま
りシステムを形作る諸関係や個々の意思決定の半ば儀礼化された相互適合性そ
のものと言うほかない。新古典派理論にしろパーソンズ理論にしろ,まだそこ
まで極端化される一歩手前に産んでいるものの,思考のヴェクトルの向いてい
る方向はこのような方向だと思われる。
機能主義的なシステム理論の極限がこのようなものだとすれば,そこでの経
済の理解は,それ自身を支える絶対的な支点をその外に持たないという意味
で,それはジンメルから出発した経済世界の理解と奇妙に類似してくる。 「貨
幣の哲学」の示唆する方向が貨幣の記号論心あるいは象徴論的理解だとすれ
ば,貨幣が貨幣たるゆえんは,それが貨幣として承認されているからという自
明の理以外にはない。その意味では確かに,貨幣経済の自己充足理由は,極端
な機能主義理論が提示するのと同様,貨幣それ自体へのファナティックな神格
化に基いていると言ってよい。しかしこれが信頼に基く場合と異なるのは,貨
幣観念はもはや信頼やまた慣習といったそれ以外の何ものかには解消されない
からなのである。吉沢氏の言い方を借りれば次のようになる。
社会が無意識にもせよ,シンボル的思考によって構成されている以上,シ
ソボル体系としての高高世界にも必ずや貨幣の観念が存在せざるを得な
コ ラ
い。信頼が貨幣を生むというより,貨幣観念が信頼を強制する。
しかし,この点にこそ,機能主義的思考の行く果てと象徴論的思考の向く方
位が決定的に異ってくる分水嶺がある。すなわち,機能的分析においては,貨
19)吉沢英成 前掲書p.98.
24
幣の意義は体系内におけるその問題処理能力,全体的目標へのパフォーマンス
という観点から評価されるために,貨幣の持つ独自の意味内容はしだいに薄れ
てゆき,終局的に残るのは儀礼化された手続きに従って回転する形式のみとい
うことになろう。これに対し象徴論的理解に立つなら,貨幣経済の体系は貨幣
によって産み出される様々に複合した意味の重なり合いと言ってもよい。奇妙
なことに,「貨幣の経済学」の方が例えば新古典派の均衡理論がすでに貨幣の
実質的意義を剥脱しているように,機能論的方向に傾くことによって,その思
考のヴェクトルの向く方向に加速して駆け出せば,それに応じて貨幣の意味は
もはや加速的に稀薄となるような地点に立っているのに対し,「貨幣の哲学」
の方がむしろ,人間の象徴形式という一層普遍の範型に近づくことによ.って貨
幣の意味を充満させうる地平に位置しているのである。
(完)
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