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第 2 章 コレットにおけるキリスト教的人文主義 —聖書解釈を中心にして

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第 2 章 コレットにおけるキリスト教的人文主義 —聖書解釈を中心にして
第 2 章 コレットにおけるキリスト教的人文主義—聖書解釈を中心にして—
本章及び次章においては、キリスト教的人文主義者と言われるコレットの思想的特徴を明ら
かにする。彼の思想的特質を考察するにあたっては、人文主義的側面と哲学的側面とに分けて
論じることが適当であろう。
そこで本章では、コレットがオックスフォードで行ったパウロ書簡に関する聖書解釈講義を
中心に、彼独自のキリスト教的人文主義とはいかなるものであったのかについてみていくこと
とする。これまでの先行研究において聖パウロ学校とは、コレットとエラスムスが共に抱いた
キリスト教的人文主義教育の理想を具現化ならしめたものと捉えられてきた。しかしながら、
共に人文主義運動の下で行われた彼らの聖書研究には、
聖なる言葉に対するアプローチの仕方、
すなわち聖書解釈の方法論における相違点が認められるのである。したがって、こうした点に
留意しながら検討することによって、エラスムスとは異なったコレット独自のキリスト教的人
文主義、引いては彼が理想としたキリスト教的人文主義教育の在り方が導出されるものと期待
される。
そこで第 1 に、ルネサンス期にみられたギリシャ、ラテンの古典作品に対する価値的再興の
知的・文芸運動とされる人文主義について、その発祥地であるイタリアを中心に押さえる。
第 2 に、イタリアより以北の、いわゆる北方ヨーロッパでみられた宗教的傾向の強いキリス
ト教的人文主義の特質について言及する。
第 3 に、イギリス人文主義ついて、オックスフォードの改革集団と呼ばれた、コレットを始
めとするテューダー初期の人文主義者らの活躍を中心にみてみる。
第 4 に、コレットにみられた人文主義思想の特質を明らかにする。そのために、彼がオック
スフォードで行ったパウロ書簡に関する聖書研究とはいかなるものであったのかを分析し、同
時代の聖書研究者との解釈上の比較・検討を行う。
最後に、コレットがその独自の聖書解釈の上に立って導出したキリストの教えとはいかなる
ものであったのかについて、彼の解釈にみるパウロの教説を取り上げながら明らかにする。
第 1 節 ルネサンス期の思想的潮流—イタリアの「市民的人文主義」umanesimo civile ; civic
humanism
伊藤博明によれば、ヨーロッパにおいて「再生」を意味する「ルネサンス」Rinascimento;
Renaissanceと言われる時代は、14 世紀から 16 世紀にかけてイタリアに始まったとされ、また
それは、全ヨーロッパを巻き込んだ文化的・社会的運動の総称でもある(1)。この新しい知的思
潮の起点は、
イタリアで活躍したペトラルカFrancesco Petrarca(1304-1374)による、
古代ギリシャ、
ラテンの古典作品の再興に求められよう。
人文主義とは、このルネサンス期の思想的傾向の一つである。そもそも「人文主義」humanism
という言葉自体は、1808 年にドイツの教育学者フリードリッヒ・ニートハンマーFriedrich
Immanuel Niethammer(1766-1848)が「フマニスムス」Humanismus として作り出したものだった。
彼は、実用主義的で、科学的訓練に重きを置く当時の高等教育の在り方と対峙させる形で、全
人格的な人間形成を目指したギリシャ、ラテンの古典教育を念頭においてこの語を用いた。
さてラテン語でhumanistaと書く「人文主義者」の方は、中世イタリアの「書簡記述者」dictators
31
に由来する。職業としてのこの書簡記述者たちは、そもそも古典作品を研究する学者ではなか
った。原典は長い時を経て、記述者たちによって自分本位に改変されたり、原典とは無縁のあ
る観点から原典の言葉を曲げて用いたり解釈されていったのである(2)。しかし、上述で示した
ルネサンスと言われる時代になると、イタリアの修辞学的伝統を発展させた書簡記述者たちは
文章をより一層上手に書き、また上手に話すために、ギリシャ、ラテンの古典作品に一定の価
値を認め、それらを研究対象とし、更には模倣するようになっていった。書簡、文書、公開演
説などは、そのような作品を手本として作り上げられていったのである。このような作業は、
極めて実用的な技術として確立していき、そして教授されていくようになった。ここに古典作
品を対象として研究するという新たな一つの職業が登場したのである。したがって、人文主義
の知的運動は、哲学を生業とする者の手によって始められたのではなく、こうした書記、歴史
家、倫理学者、政治家などによって始められたものであった。
15 世紀末から 16 世紀には、
「人文主義者(ヒューマニスト)」という言葉が、
「古典文学の教授、
(3)
教師もしくは学徒」の意味として用いられ 、その用法は 18 世紀に至るまで広く人々に理解さ
れるようになった。彼らの扱う学問分野は、文法学、修辞学、歴史学、詩学、道徳哲学として
明確化されていき、そこにはギリシャ、ラテンの代表的な古代著述家の作品を講読し、解釈す
るということも含まれていた。また人文主義者たちは、古典研究へのアプローチとして歴史学
的・言語文献学的解釈という方法を採っていくようになった。古典作品の模写、編集に加え、
原典批評及び歴史的批評といった技術的発展がみられたのである。彼等は批判的精神の下、原
典を同じくするも、中世を通じ手書きによって改変された様々な作品同士を比較検討すること
により、原典本来の姿を追求していった。それは「古代学問の再興」(4)というスローガンで表
されるように、古典世界をあるがままにで受け入れ復元すること (5)、そのような古典研究によ
って初めて、
「ある原典の意味を、その著者の意図通りに理解し、古代の人々が理解していた通
りの意味に理解すること」(6)なのである。それまでの中世においては「古典作家たち自身が、
その語彙に与えていた本来の意味や彼等の語法を忠実に理解しようとする配慮」 (7)が欠落して
いたのだった。
人文主義者の中には、そうした古典作品を模倣した典雅な文体を研究するだけでなく、その
ような作品に含まれた「生き方」をも模倣する者もあった。すなわち、文学そのものが教訓的
な意味合いをもつものとして捉えられたのだった。そこには、古代ギリシャ、ラテンの文芸作
品から導出されるところの、実際的な道徳上の規範意識「黄金の叡智」auera sapientiaを汲み取
って、実生活を送る都市市民としての責務ある生き方を求める姿勢が打ち出されていったので
ある。特にイタリアの自治都市で展開された「市民的人文主義」は、政治的関心と深く結びつ
いて考えられ、自治都市の公益と市民の自覚を希求する姿勢がみられたのである(8)。なかでも
ギリシャ作品に比してラテン作品は実学的・実践的性格が強く、キケロMarcus Tullius
Cicero(B.C.106-43)などが最もよく取り上げられた。彼の修辞学的著作は、修辞上の理論を、演
説、書簡、対話などは散文文学用の実例的範例を、哲学的著作はギリシャ哲学を研究する各学
派の資料や、折衷主義的思考の範例を示すこととなった。とりわけ彼の『義務について』De
officiisは、修辞学上、文体の模範として高く評価された古典研究の代表的な作品だった。また
ペトラルカが、キケロの中に、雄弁家は哲学を学ばなくてはならないという「修辞学と道徳哲
学の統合」の姿勢を発見したように、キケロにみる修辞と哲学の統合は、雄弁と叡智の結合を
知らしめることとなった。この点について石坂尚武は次のように説明している。ペトラルカは
32
「古典作品に優れた表現を学び、自ら文章を創作する修辞学、自らの表現力と説得力をもって
弁ずる雄弁術、この学芸とともに徳と叡智の学芸たる哲学とを、キケロに倣って結びつけた」(9)
と。それは、伝えようとすることの技術的な表現と、その道徳的内容は一体としてあるべきと
いう立場なのである。
先にも若干触れたことではあるが、P.O.クリステラーPaul Oskar Kristellerは、
「フマニタス(人
間性)研究」
」studia humanitatis或は「より人間的な学芸」とされる、
「文法学」grammatica、
「修
辞学」rhetorica、
「詩学」poetica、
「歴史学」historia、そして「道徳哲学」ethicaを学問分野とす
るギリシャ、ラテンの作品を講読し、そこに解釈を加え、研究する者、或はそれらに通暁する
者を「ヒューマニスト(人文主義者)」と呼んだ(10)。特に道徳哲学との関連でみるならば、そう
した人文主義者らはギリシャ、ラテン語で書かれた、人間を人間たらしめる人文学研究を通じ
て、
「良き学問(学芸)」bonae literaeと「良き生活」bona vitaとの密接な関係性に気づき、知と徳
との結合を強調し、人々を賢慮に満ちた有徳な生活へと導き勧めるような学問・有徳なる生活
を目指す実際的学問を追求したと言える(11)。またそこでの教育は、人格の陶冶、教養を意味す
る「パイデイア」paideia、或は「フマニタス」humanitasの形成を目指して、こうした学問に基
づき行われた。
このような人文主義の知的運動は、哲学とは分けて捉えるべきであるが、ルネサンス・人文
主義がルネサンス哲学に与えた影響として、
例えば次のような点が挙げられている。
一つには、
人間、人間の尊厳、宇宙における人間の特権的地位が強調されたこと。二つには、個人の感情、
意見、経験および環境について一層具体的に表現され、或は表現されうるに値すると考えられ
るようになったこと等である。このような人文主義の影響の下で哲学的思惟においては、人間
自身に対してその持てる本性の新しい可能性を切り開く事となったのである。それは人間性の
尊厳・卓越さとして認められるところとなり、
人間が自らの意志によって自らの人生を決定し、
また社会をも改革していけるであろうとの期待を抱かせるものとなった。この点については、
コレットの思想とも関連があるため、次章以降において詳述することとする。
やがて「人間と古典文学の価値に対する確信、及び古代学問の復興に対する確信」(12)と言い
表される、イタリアで起こった広範な文化的・文芸的思想上の潮流は、15 世紀の中頃からイタ
リアよりアルプスを越えて北方ヨーロッパへと広がっていくにしたがい、宗教的視野の中で新
しく意味付けされていくこととなった。しかしながらこのことは、イタリア人文主義が、キリ
スト教を否定していたということを意味するものではない。先にもふれたように、世俗に生き
る共和国市民、都市市民の生き方には、それ以前にキリスト教徒であるという事実が前提とし
てあり、その前提の上に立って、とりわけ社会的・政治的な面から捉えた生き方が模索された
のである。更には、キリスト者でありながらも、世俗の共和国、都市市民としていかに都市的
共和体の中で生きるかということを道徳哲学の問題としても取り上げていたのだった。こうし
てイタリアにおいては、ギリシャ、ラテンといった言わばキリスト教の側からみれば異教的古
典作品そのものを主軸とする研究が行われたのである。
他方、北方ヨーロッパでは、一市民でありながらも、キリスト者としていかにキリスト教的
共同体の中で生きるかということに力点が置かれた。したがって、イタリア人文主義と北方の
それとの相違は、人間の生き方における世俗的側面と宗教的側面の強調の違いとも解釈するこ
とが可能であり、どちらかを否定するというものではないことに注意しなければならない。そ
のためアルプス以北のヨーロッパでは、古典研究は広く聖書研究にまで及び、かえってギリシ
33
ャ、ラテンの古典作品などは、キリストの教えとはいかなるものであるかを、人間の生と共に
探求するための補完的・副次的な役割をもって研究されることとなったのである。
そこで次に、
北方ヨーロッパでみられた「キリスト教的人文主義」Christian Humanism についてみていきた
い。
第 2 節 北方ヨーロッパのキリスト教的人文主義
ルネサンス期における人文主義者の関心の対象は、古典作品全般を指す。しかしながら、先
にも述べたように、北方ヨーロッパではギリシャ、ラテンの古典作品のみならず、アウグステ
ィヌスや他の教父の著作、そして聖書そのものの価値が再評価された。
量義治(1999)が論じているように、広い意味でルネサンス期に起こった文芸再興を定義する
ならば、それは聖書をも含めた古典一般の再生を意味する(13)。そのため北方ヨーロッパの人文
主義は一般に「キリスト教的人文主義」と言われているのである。根占献一によれば、
「キリス
ト教信仰が異教古典思想との間に調和を保っている場合、ルネサンス思想にはキリスト教的人
文主義の名称が積極的に付与され、これを成し遂げた者」(14)を、またP.O.クリステラーによれ
ば「宗教的・神学的問題を自分たちの著述の全体または一部の中ではっきりと議論した、人文
主義的・古典的・修辞学的訓練のある学者」を「キリスト教的人文主義者」humanista Christiana
と呼ぶ(15)。
キリスト教的人文主義者の代表たるエラスムスは、ギリシャ、ラテンの古典、及び聖書の原
典批判を行いながら、キリストの教えと異教的古典作品との融合を図り、福音書を中心とした
キリストの教えが、そうした古典的諸作品にも等しく語られていることを知った。キリスト教
的人文主義者の多くが、
「聖書や教父たちを補うものとして、古典作家のもつ倫理的価値」(16)を
認めたのである。そこでは、古典的作品の中に通底する正義、思慮、堅忍などの実践的な道徳、
或いは日常の倫理的価値といったものを補助的に使用しながら、聖書の中で語られる「信仰、
希望、愛」といったキリストの中心的教えが、キリスト者としての生きた指針、
「キリスト教(的)
(17)
哲学」 Philosophia Christianaとして捉え直されたのだった。
ここにはまた、ルネサンス期特有の新しい思考方法が認められる。それは、人は直に人間を
見、直に神を見、直に世界を見るようになったということである。16 世紀という時代は、事象
の捉え方という哲学的思考の方法に関して「人間中心主義ないし主観主義」(18)とも言われる。
なおまたクリステラーによれば、キリスト教的人文主義者が、
「宗教や神学を取り扱う際のも
っとも重要な要素は、スコラ的方法への攻撃と古典への復帰の強調で、古典とはこの場合キリ
スト教の古典、すなわち聖書と教父の著作を意味した」とされる(19)。よって宗教的・神学的関
心を強くもった北方ヨーロッパの人文主義者に共通する批判的精神は、
「カトリック教会による
(20)
福音の『歪曲化』に向けられ、聖書原典への回帰を志向させた」 のである。
ルネサンス期のキリスト教的人文主義者が研究の対象とした「聖なる学芸」は、中世の大学
の神学部に伝統をもつ学問領域だった。
中世の大学ではカリキュラムが固定化されていたため、
神学部においても自由なテキストを選択することなく、まず聖書、次にペトルス・ロンバルド
ゥスPetrus Lombardus(1100-1160)の『命題集』Sentencesの注解書が学ばれた。また授業では、教
師がこうした権威あるテキストを用いながら「講義」lectura, lectioを行っていたのである。そこ
では「聖書から恣意的に切り取られた引用のかたちで、それも勝手に定立された命題の論証の
34
ために、文脈と関係なく聖書を用いる」(21)という方法論が採られていた。それは、ある「命題」
quaestioに対して、是と否sic et nonの論拠をそれぞれに提示し、そのどちらが正当なのか「討議」
disputatioを重ね、合理的な根拠を示して神を弁証しようとするものである(22)。中世末期になる
とこうしたスコラ神学は、極端なアリストテレス主義的弁証学に陥って「討議」そのものが重
要視され、本来平易であるはずのキリストの教えが、そうした難解な解釈によって、原典の文
脈からはかけ離れたものになってしまった。
これに対して人文主義的方法による新たな聖書研究においては、
「聖書をキリストの教えを記
(23)
した書物として文脈に即して精読する姿勢」 がみられるようになる。言わば、討論によって
神とは何かを突き詰めていくことから、原典に即してキリストの教えとは何かを導き出してい
くことが目指されたのである。かくして聖書に書かれたキリストの教えというものは、教会に
よって聖書から遠ざけられていた平信徒さえも理解できる、平易で簡潔なキリストの教えとし
て再生され、
「学識ある敬虔(信仰)」(24)として求められていくこととなったのである。このよう
な新しい聖書研究は、次章において扱うように、神理解や人間の捉え方、神と人間との関係性
といったキリスト教そのものに内在する様々な変化を引き起こす一つの要因となった(25)。
さて北方ヨーロッパでは同時に、宗教の内面化を求める精神的運動が起こっていた。 ルネサ
ンス期に特有の聖書解釈方法によって導き出されたイエスの教えは、この個人の内的信仰を唱
える「新しい敬虔」Devotio Moderna運動と相まって実践的倫理規範となったのである(26)。
この「新しい敬虔」運動とは、もともとは 14 世紀のオランダの説教師ヘーラルト・ホロート
Gerard Groote(1340-1384)が提唱したものだった。彼は、平信徒向けの説教活動を行い、瞑想を
中心とする内面的な信仰と禁欲的で敬虔な実践生活を勧め、それに共鳴する人々が「新しい敬
虔」として運動を起こしたのである。彼はまた、後にエラスムスが入ることとなった「共同生
活兄弟」Fratres Communis Vitae; The Brethren of the Common Lifeをも設立している。ホロートは、
その波乱に満ちたその生涯の内に、中世オランダ語方言で多くの霊的書き物を残したが、それ
らを編纂しラテン語訳したのが、トマス・ア・ケンピスThomas a Kempis(1380?-1471)による『キ
リストに倣いて』(27)De imitatione Christiだった。ケンピスのそれは、やがてヨーロッパ全土に広
く普及したのである。
この著書の一般的特徴として、神秘性、広い平信徒性、詩的美の 3 つが挙げられる。中でも
ホロートの「新しい敬虔」運動は、平信徒の救いと聖化を最も重視していたのである。以上の
3 つの大きな特徴に加えて、訳者の由木康によれば、更に次の 4 点を特徴に加えている。1 つ目
は、厳しい自己批判であり、2 つ目は、学問的、知識的なものではなく、倫理的、宗教的な純
粋性の追求であり、3 つ目は、罪を克服しようとする禁欲性の表われとしての世俗と自我への
挑戦であり、
そして最後の 4 つ目は、
最大の特徴であるキリストとの霊交を唱えた点であった。
最後の、このイエスとの交わりは、空想や幻覚によってなされるべきではなく、現実の苦難の
中で行われるべきであるとの立場をとるのである。そうしたこの精神的運動のうちに、厳しい
自己反省から出発して、霊の純化を求めてやまない巡礼者は、自己克服の厳しい戦いを経て、
キリストとの霊交のうちに最後の平安を見いだすということになるのである(28)。このような文
脈の中で捉えうる「キリストに倣う」或は「キリストを真似る」との意味は、聖書の原典に示
されたキリストの教え、つまりキリストが身をもって示した教えを実践にしていくことと言え
るのである。
35
第 3 節 テューダー初期にみるイギリス人文主義
ダグラス・ブッシュDouglas Bush(1979)は、フィレンツェ人文主義が、16 世紀初期のイギリ
ス人文主義に強く影響したことを指摘している(29)。フィレンツェ人文主義とは、アカデミア・
プラトニカAcademia Platonicaを主宰するフィチーノによって展開された新プラトン主義思想
を中軸とする宗教的性格を帯びた人文主義である。
それは、
イタリア全土というよりもむしろ、
北方ヨーロッパへと伝わり、強化されていったのだった。
ところで、
イングランドにおいてイタリアからの人文主義思想を本格的に受け入れる素地は、
すでに 15 世紀のオックスフォードやケンブリッジといった大学を中心に整いつつあった。R.
ワイスRobert Weiss(1941)によれば(30)、ヘンリー5 世HenryV(1387-1422,在位 14131422)の弟にあた
り 、 イ タ リ ア 人 文 主 義 者 の 庇 護 者 で あ っ た グ ロ セ ス タ ー 公 Duke of Gloucester
Humphrey(1390-1447)(31)の元には、プルタルコスPlutarch(46-120)の『対比列伝(英雄伝)』Paralle
Livesを始めとするギリシャ古典が入ってくるようになっていたとされる。ワイスは、15 世紀の
イギリス人文主義が、概してギリシャの文芸作品というよりもプラトン、アリストテレス、そ
して教父らの著作が扱われていたものの、ギリシャ研究に目が向けられ、その価値が認められ
るようになっていたことを明らかにしている。イングランドでは、中世よりラテン語を知る者
の多くが聖職者に限定されていたことから、聖職にありながらも人文主義的関心によって収集
される古典作品が、自然と神学的なものが多かったという傾向もまた伝統的に認められる。
やがてコレットが在学していた 1480 年代前後には、 ロレンツォ・グリエルモ・トラヴェル
サーニLorenzo Guglielmo Traversagni やカイウス・アウベリヌスCaius Auberinusらが「新修辞学」
Nova rhetoricaをケンブリッジに置くようになっていた。他にもキングス・コレッジの学長で新
プラトン主義者であったジョン・ドジェJohn Dogget(?-1501)が、1473 年から 1486 年にかけて、
ブルーニLeonard Bruni(1369-1444)のラテン訳やピエール・カンディード・デチェンブリオPier
Candido Decembrioを用いながらプラトンの『パイドロス (パイドン)』Phaedoを注解したのだっ
た(32)。
このように大学を中心にしたイタリアからの新しい学問的気風を受け入れたグロシン、リナ
カー、そしてコレットと言ったテューダー初期の人文主義者たちは、イタリア留学を経て、特
にフィレンツェの宗教的雰囲気をもつ人文主義をイングランドに持ち帰り、最初の成熟したイ
ギリス人文主義を開花させたのだった(33)。彼らには共通して、フィチーノの主著の一つである
『キリスト教論』De Religione Christiana;La religione cristiana(1476)の中にあるような、宗教は人
間にとって自然本性的なものであるとの姿勢がみてとれるとされ(34)、それは端的に述べれば、
人間は獣と異なり、快楽などを犠牲にしてでも崇高なる存在、永遠なるものを求めるものなの
である、という人間の本性に関する捉え方なのである。このような新プラトン主義の流れを汲
む人間に対する見方は、彼らの人文主義の土台を築くものではあったが、様々な形で吸収され
ていった彼らの人文主義思想というものは、それぞれにおいて消化され、展開されていったの
である。
すでにコレットの生涯を扱った章で述べたように、テューダー初期を代表する長老格のグロ
シンは、オックスフォードで初めてギリシャ語によるギリシャ研究を開始している。それに続
くリナカーは、フィレンツェでグロシンと共に学んでいたが、後にボローニャで医学を修め、
帰国後は医師の道に進んだ。
しかし、
その思想的源泉にはキリスト教的人文主義が流れており、
36
エラスムスをはじめ、ビュデ Guillaume Budé(1468-1540)など北方ヨーロッパの人文主義者とも
親交を持っていた。
イタリアから帰国したグロシンやリナカーらの講義をケンブリッジで聞き、
その後にイタリアへと渡ったとも一説には言われているコレットもまた、ヨーロッパ大陸から
の帰国後、オックスフォードでそれまでにない新しい聖書研究を開始し、彼の聖書解釈はエラ
スムスの思想にも多大な影響を与えた。グロシンの名付け子であり、聖パウロ学校の校長リリ
ーもまた直接ギリシャ人から教えられたイングランド初のギリシャ語教師となっている。この
ようなテューダー初期に活躍したイギリス人文主義者の中で最も若かったモアは、唯一イタリ
ア留学の経験はないが、グロシンやコレットらとの思想的交流を経て、特に政治の世界でキリ
スト教的人文主義を展開させていったのだった。
イギリス人文主義は、当初「新学問」New Learning としてオックスフォードから発信された
が、彼らがロンドンへと活動の場を移すことで、次第にその地を中心に現実の社会生活の中に
おいて実践的な形で適用され展開されていった。コレットに関して述べるならば、彼が影響を
受けたフィレンツェの人文主義は、オックスフォードでの聖書研究の中に取り入れられた後、
ロンドンでの説教活動と教育事業の中で実践化されることとなった(35)。イギリスの人文主義者
たちは、大学といった知的世界の中において研究するに留まらず、それぞれが説教師、政治家、
弁護士、医師などの役割を担って実社会の中に入り込み、そのような活動を通してキリスト教
的人文主義の精神性を発揮していったのである。そのため、イギリス人文主義は、宗教的・倫
理的側面が強かったにも関わらず、それは神学研究を中心とした大学や聖職界の中においてみ
られたものではなく、むしろ、ロンドンを中心とした都市市民の、市井の人々の生活の中で根
付くことになった。そのため、キリスト者であり、且つ一市民としてのとるべき態度、生き方
が追求されたのである。
第 4 節 オックスフォードにおけるコレットの聖書解釈
4-1 原典主義に立つ新しい聖書研究
コレットはイタリアからイングランドに帰国してまもなく、オックスフォードでパウロ書簡
Pauline Epistlesの「ローマの信徒への手紙」Enarratio in Epistolam B.Pauli ad Romanos及び「コリ
ントの信徒への手紙 1」Enarratio in Epistolam Primam S.Pauli ad Corinthios)に関する無償公開の
聖書解釈講義を行った(36)。それは、1497 年(30 歳)から 1503 年(36 歳)の 6 年間にわたった。本
節では、コレットの聖書研究を中心に取り上げながら、そこにみる彼のキリスト教的人文主義
とはいかなるものであったのかを明らかにする。
これまでも述べたように 15 世紀から 16 世紀のイングランドでは、イタリアで起こった学芸
復興の影響を受けて、ギリシャ、ラテンの古典一般作品や聖書に対する新しい研究が起こって
いった。このようなイギリス人文主義の特徴について、E.カッシーラーErnst Cassirer(1993)は、
イギリスにおける文芸復興の知的方向性・矛先が、イタリア人文主義とは異なって、キリスト
教の倫理や生活様式に反対するというものに向けられたのではなく、むしろキリスト教という
宗教のために積極的に、前向きに向けられたと論じている(37)。イタリア人文主義にみる宗教性
の扱い方については、それを異教的であったととるか、否かという見解によって立場が分かれ
るところではあるが、イギリス人文主義に関しては、強く宗教性を帯びていたということだけ
37
は明確に断言できよう。
こうしたイギリス人文主義の宗教性を裏付ける最たる証拠に、コレットのオックスフォード
における聖書研究が代表例として挙げられる。それは、スコラ神学によって難解に解釈され、
身動きのできなくなった硬直したキリストの教えを、解きほぐして一から編み直すような聖書
研究でもあった。
さてコレットは、オックスフォードにおけるスコラ哲学の講義運営上の規則に反して、自ら
何らの神学上の学位も有さない身にも拘らず、聖書の題目を取り上げ、講義を開始した。それ
は彼が、この中世伝来の聖書釈義の形式を壊したのみならず、聖書解釈の方法論や、ひいては
そこから導き出されるキリストの教えに至るまで、それまでのスコラ神学者が行っていたもの
とは全く異なる勇気ある試みだった。すでに彼がオックスフォードでこうした新しい聖書研究
を展開する以前に、15 世紀に活躍した先達らによって自由な精神が発揮できる素地が整ってい
たことも彼の試みを大いに助けたには違いない。
シーボームF.Seebohm(1913)は『オックスフォードの改革集団』において、コレットが人文主
義的方法論を取り入れて聖書研究を行い、そうした「新しい学問」New Learningが、やがては
社会そのものを変革する力となったと指摘している(38)。要するにコレットは、パウロ書簡を中
心とする聖書そのものに対して、来世の事柄についての理論的、教義的な知識を教える類いの
ものとして解すことをせず、キリストが人々の心に伝え残そうようとした、本来ならばもっと
単純でそして実践的な宗教的態度が示されているものと捉えたのであった。キリストの教えと
は、人間に対してその「生の改革と刷新をもたらさんとした」(39)ものであったとの見方が、彼
の解釈するパウロの言葉を通して一貫して語られるところとなった。
こうしてコレットを通じて平易に語られる使徒パウロの言葉は、あたかもパウロ自身がオッ
クスフォードの聴衆を前に話しているかのようだと評された。1499 年にオックスフォードを訪
れたエラスムスは、コレットのこの講義を聴講することによってギリシャ語版聖書校訂を志す
きっかけを得たのである。イタリア留学の後に、数年間を聖書研究に打ち込み、その後オック
スフォードで展開された、コレットによる神と人間との新しい接し方の提唱に、年を取った威
厳ある博士を含め多くの者が魅了されたのである(40)。この功績によって、彼の名は広く知られ
るところとなり、また後世にも名を残すこととなる。またここにイングランド・テューダー初
期を代表する人文主義者としての出発点をみることができよう。
パウロの言っている事に対するいかなる注釈をも取り上げる前に、パウロの言った
事そのものに対してまず注意深く当たらなければならない。
このコレットの言葉に彼の聖書解釈上の特徴の一つである原典主義が認められる(41)。
デュアメルP.Albert Duhamel(1953)によれば、コレットのこの講義は、まさに中世後期のスコラ
神学的伝統を打ち破るものであるとされている(42)。それまで聖書の意味は、逐語訳、寓意、比
喩的、神秘的意味に分けて解析されていたのであったが、コレットにおいては、聖書の意味す
るところは統一した一つのものであるはずだという信念の下に、調和のとれた完結したもので
あるとみなされたのである。すなわちコレットは、それまで断片的に扱われて来た聖書を一つ
の連続するものとして捉え直したのである。それは中世においてスコラ的方法(43)とは大きく異
なるものだった。またコレットは歴史的の文脈に照らし合わせるという歴史的解釈に基づきな
38
がらも、そこに霊的解釈が加えたのである。つまり、スコラ神学者からの引用を避け、パウロ
といった初期の教父や、ディオニュシオスやフィチーノといった代表的な新プラトン主義者か
らの引用を折り込みながら、そのような新しい聖書解釈を試みたのであった。
このようなコレットの革新的な聖書解釈については、フェルドメスもまた、史的な立場から
高く評価する(44)。フェルドメスは、16 世紀前半のヨーロッパにおける聖書解釈の実践的な試み
が劇的な変貌を遂げた一つの要因に、
コレットの聖書解釈講義にみる人文主義の発展を挙げる。
ここでは、コレットの解釈と伝統的な解釈を鋭く対照化しながら、聖書に示される意味の平易
さへの追求姿勢をコレットの中に捉えられている。要するにコレットは、スコラ神学者の弁証
学に依拠した難解な聖書解釈を捨て、聖書そのものに書かれているキリストの本意を直接的な
形で、平易な形での理解を目指したのだった。コレット自身「この書簡が読み手にとってより
理解がしやすい」lecta epistola facilius intelligiturように、16 章から成るパウロ書簡の「コリント
の信徒への手紙 1」を 8 つに分けて要約し、工夫した、と述べている(45)。こうした彼の聖書
解釈講義は、聖書解釈史上においても大きな転機となった。
コレットの採った新しい聖書解釈上の方法論は、アリストテレス主義の弁証学を極端に援用
し神を認識の対象とするスコラ神学とは対峙していたため、当時の知識人には大きな衝撃を与
えた。また個々人の内的信仰をも重んずる彼は、 (彼の聖書解釈を特徴付けることになる)霊性
の導きによって言葉の背後にある神の真意を伝えたのである。
それは、
神を知識の対象にせず、
信仰の対象とするものだったと言える。
4-2 神秘的感覚による霊的解釈
これまで述べてきたように、ルネサンス期においてはキリスト教的人文主義者に共通してみ
られたところの、原典主義の下での新しい聖書解釈方法が採用された。このような観点からみ
れば、なるほどカールトンが捉えているように、コレット、ロレンツォ・ヴァッラLorenzo
Valla(1407-1457)、エラスムスも一様に新しい方法論をとった人文主義者という範疇に入れるこ
とが出来る(46)。しかし、彼らの聖書解釈方法を詳細に検討すると、そこには解釈上の判断基準
という点で、差異が認められるのである。まず、伝統的に聖書解釈において用いられていた判
断基準を以下の 4 つに示す(47)。
1)字義的な判断 literal sense、或は語源的判断 etymological sense で行う解釈
2)寓意的な判断 allegorical sense で行う解釈
3)道徳的な判断 moral sense、或は比喩的な判断 tropological sense で行う解釈
4)神秘的な判断 anagogical sense で行う解釈
グリーソンは、これらの判断基準を踏まえた上で、コレットの聖書解釈が、これら全ての要
素を取り入れながらも、とりわけ神秘的・霊的解釈を重視しているとみる(48)。4 番目にあたる
神秘的・霊的解釈は、一般的には稀な解釈法であり、人間の魂と神との関係性において「神と
の神秘的な霊交、そうした宗教的な法悦の領域に読者をいざなうもの」(49)と言われている。
以下、木ノ脇悦郎(1986)による、ヴァッラ、エラスムス、ルフェーブル・デ・タープルLefèvre
d’Etaples(1450/55-1536)らの聖書解釈方法論上の比較・検討に依拠しながら、コレットの聖書
39
解釈上の特徴を明らかにしてみることにする(50)。
まず、コレットについてみてみる。木ノ脇悦郎が明らかにしているところによると、コレッ
トの解釈方法は、予備的作業としての、原語による正確な原典の確立と正確な翻訳といった言
語に関わる緻密な研究、すなわち字義的・歴史的解釈を大前提としている。テキストを全体的
に捉え、文脈上の関係性を分析しながらそれぞれの聖句の持つ意味が注意深く解釈されていく
作業は必須条件だった。しかしなお、コレットの聖書解釈の実際には、霊的導きは欠かせない
のとの態度が示され、進められていったのである。そのため、彼の聖書解釈は、結果として道
徳的教授を含み、説教術的要素が濃い仕上がりとなっていた。コレット自身、聖書解釈につい
て「道徳的目標を有していない言語文献学的、そして歴史学的補説などあるはずがない」(51)と
さえ言っていた。それは単に文献学や歴史学というような視点からのみ聖書を研究対象とする
のではなく、そのような作業を通じて最終的には人間の道徳性を高めるためのものでなければ
意味がないとの立場の表明なのである。従って、彼はオックスフォードでの講解時代の後は教
会に活動の場を移して説教活動に終生従事し、以下に述べる聖書解釈者とは異なって、新しい
聖書などを世に出す事などはしなかったのである。
第 2 に、ロレンツォ・ヴァッラであるが、彼は 1440 年代に『新約聖書の対照』Collatio Novi
Testamenti(聖ヒエロニムスのウルガータ聖書とギリシャ語写本選集との比較)を書き著してい
る。彼の聖書解釈上の立場は、言語的研究を中心に据えており、その上で原典の写本の比較照
合による聖書本文の校訂を行った。言わば、ヴァッラは辞書編集者のような文法家としての側
面が強く、教義や道徳的教えや新約聖書の解釈には関心を示さなかった。
第 3 に、エラスムスであるが、彼は 1516 年にギリシャ語版新約聖書の校訂を行っている。彼
の聖書解釈上の立場は、言語文献学・歴史学的視点からの聖書解釈への試みである。
「すぐれた
学芸」bona litteraと言語に関する知識を基盤とし、ギリシャ、ラテンの異教的古典作品にも価
値を置いた。この点で、コレットとは立場を大きく異にする(異教の古典作品に対する両者の態
度の相違については、第 7 章で詳細に取り上げる)。エラスムスの解釈上の特徴は、まず聖書の
文字的意味解釈にあった。それは聖書の中に出てくる動植物等に関する自然的知識や場所につ
いての地誌的理解が、聖書の内容理解を豊かなものにしてくれるからであるとみなしていたか
らである(52)。更に、文法上の問題を取り上げ、その上で適切な解釈するのである。要するに書
かれた本文の背景や歴史から、寓喩や比喩の解釈を成立させたのだった。この言語文献学・歴
史学的方法は、伝統的聖書解釈法とは異なり、1516 年にエラスムスがギリシャ語版聖書を校
訂・出版して確立されたものである。
その彼においても霊的解釈は重要な位置を占めていたが、
それは科学的なテクスト批判の後に初めて成り立つものであった。このような解釈方法に立脚
しながら、最終的には全ての者が「キリスト教の哲学」(53)philosophia christianaを実践すること
の重要性を説いたのである。
第 4 に、ルフェーブル・デタープルであるが、彼は 1523 年にフランス語版新約聖書を世に送
り出している。彼の聖書解釈上の判断基準は、言語文献学・歴史学的方法に立脚して教父や聖
書の研究を進め、必要最小限に異教作品を許容しつつも、同時に神秘主義的傾向をも持ち合わ
せていた。すなわち、真の聖書解釈とはキリストによってしかなされず、恩寵に依存するもの
であるとの立場にあった。彼は、形式的儀式よりも信仰とそれに基づく実践を重視するという
考えにあり、この点ではコレットと似ている。
以上、コレットと同時代のキリスト教的人文主義者との比較・検討をして明らかとなったこ
40
とは、コレットが文法学的、言語文献学的手法によるところの意味解釈に徹して訳すことはせ
ず、より霊的な解釈を重視したということである。そのため、コレットは生涯において新たな
聖書を作り出すということよりも説教師という立場に身を置き、他の者とは異なって彼の聖書
解釈の中に道徳的教示が目的として認められるのである。
ここで、今一度キリスト教的人文主義者たちに共通する聖書解釈的特徴というものを整理す
るならば、そこにはまず聖書そのものを扱うという原典主義的態度が認められる。それは、注
解書を解釈し、或いは引き合いに出された断片的聖句を教義と照らし合わせて整合性を吟味す
るという、中世のスコラ的方法論とは全く異なる。
しかし一方で、キリスト教的人文主義者たちにおける相違点もまた明らかになった。特にコ
レットの聖書解釈における方法論は、スコラ的手法のみならず、聖書の原典にあたりながら言
葉の意味するところを第一に、より客観的に正しく捉えようとする他のキリスト教的人文主義
者とも異なっていた。すなわちそれは、ある事象を検証しようとする対象と人間との間を直接
的な関係として捉えながらも、主知的な科学的批評と主意的な霊的解釈とのどちらに比重を置
くかという違いであった。
神学者ハントも指摘しているように(54)、霊性さを重んじるコレットの解釈法には新プラトン
主義的神秘思想の強い影響がみてとれるのである。コレットは、新プラトン主義的神秘思想を
展開したマルシリオ・フィチーノの考えを援用し、聖書と直接向き合う時、そこに教会教義と
いう外的なものを介在させず、霊性の導きによって神の言葉を捉えるという作業を行ったので
ある(55)。
コレットの行ったパウロ書簡に関する講義は、
「神の存在や力の証明はどこにでもある」とい
(56)
う論旨から出発している 。すなわち、彼の聖書解釈は、まず神の啓示は万物の至る所にある
との考えから始まり、そうした神性さが宿る万物の一つに聖書を位置付け、また聖書に示され
る啓示・神の真意とは、神的な実在devine realitiesであり、解釈上の歪曲や誤解から守られるた
めに、一見すると見えない、隠された状態にあるとしたのだった。それ故、聖書に書かれた言
葉の背後にある隠された神の啓示は「霊的な人間」のみが捉える事が可能であるとの姿勢をと
る。
「聞く耳」と「見える目」をもつ人のことを語ったイエスの言葉(「マルコによる福音書」4
章 10 節)は、コレットが好んで講義の中で引用した教えである(57)。神の啓示とは、単に耳や目
があっても聞けない、見えないものなのである。そこには、霊魂soul ; spiritの媒体が必要され、
それをもってして神の啓示を受け取ることができるのである。
こうした講解の中でコレットは霊魂というものを、肉体を高潔な行為に導くような態度をも
って統治すると解釈していた(58)。そこでは聖書解釈という行為においては、知識は従属的なも
のにすぎず、神の恩寵に頼り、霊魂に導かれながら解釈をすすめ、真なる解釈者とは、一般の
「生きている霊魂」(60)vital
人々に「生きた言葉」(59)pictorial termsで語りかけるものなのである。
spiritは、知られざる聖書の真の教えを一層実践的な道徳に変えられるものとされると期待され
た。換言するならば、霊的解釈によって、パウロを通じたキリストの教えが、読み手の心、伝
えを聞いた人の心の深部にしっかりと根付き、
「生きた英知」(61)viva sapientia ; living wisdomにな
るのである。このようにコレットにとっての真なる聖書解釈とは、
「霊的意味合い」を掴むこと
であった事が分かる。人間と神との中間に霊的なものを位置づける神秘主義思想の影響の下で
彼は、キリストの教えを受けるために、
「霊的な」人間をあるべきキリスト者の姿をして求めた
と言えよう。
41
実際コレットは、フィチーノの言葉を引用しながら、コメンテーターとしての「文法家」
grammaticusと、解釈者としての「インタープリター」interpresという用語を使用して聖書解釈
者を分類している(62)。グリーソンは、コレットが区別した両者の中身を次のように説明する(63)。
コメンテーターとは文法家、或はそのような作業を土台として注釈する人であり、或いはまた
言葉を細分化して吟味する人を意味する。よって、コメンテーターとしての文法家とは、テク
スト全ての部分について論じなければならない。一方でインタープリターとは、漠然とした文
中から道筋を見いだし、そこからエッセンスを抽出し、更にそのエッセンスに向けて読者を方
向付ける人である。後者のインタープリターこそが、コレットの理想とする聖書解釈者なので
ある(64)。但し、コレットは文法的な研究に対する価値をも必ずしも完全に否定したわけではな
かった(65)。
さて、コレットはパウロによる「ローマの信徒への手紙」の解釈の中で、聖書解釈に関する
読みの進め方に関して次のように具体的に述べている(66)。
私は自分の解釈を、一層容易に理解してもらうために、必要に応じて、該当箇所か
ら離れ(筆者註;本筋から離れることで)一旦は道に迷うとしても、実際には決して
パウロの言わんとしている事から離れているわけではないのです。パウロの言わんと
している道筋を一層明瞭にさせる、そのような道に再び戻ってくるのです。
このような文脈の中でコレットは、
「インタープリター」とは、森の中を自在に歩き回る「狩
人」hunterのようなものであると捉えていた。狩人は、完璧に隠された神の形跡を追い求め、
それらに光をともす世界である深い森にいる。コレットは同様の主旨を、彼がフィチーノの『書
簡』を書き写した際の傍注においても記している。それは「横道を選び、横道を知るようにな
り、そして何が隠れているのかを探り当てる人は、嗅覚の鋭い人間である、との記述である(67)。
彼は狩人を「賢い(思慮深い)」sage ; sagax人と表現していた。コレットにとってパウロのメッセ
ージは、
「鋭い眼力」keen-sightedを備えた狩人のようなインタープリターによって、ゆっくり
と見分けられ、判別されていくべきものとされていた。このような見方は、明らかにフィチー
ノからの影響だった。
上述のメモ書き以外にも、コレットが聖書解釈の方法論に言及した史料が残されている。そ
れは、ウィンチコーム大修道院長Abbot of Winchcombリチャード・キッダーミンスターRichard
Kidderminster(1461-1533/34)宛ての書簡である(68)。この大修道院長は、その聖書解釈法を教授し
てもらうべくコレットの元へと訪れたことのある人物である。
この書簡に示されているコレットの考えによれば、使徒が伝えようとする真意は、書かれた
言葉の表面下にあり、霊的ではない目からは隠されている状態にあると言う。聖書解釈者がな
すべき事は、まず伝えるべき内容、或いは意味を有する何かを漠然とした状態の中から見極め
つつ、じっくりと探し出し、掘り出すという作業である。そこではコレットの求める聖書解釈
者とは、霊性の導きの下で、賢さとも言い換えられる鋭い眼力によって、多種多様な言葉や表
「引き出
現の中から、その伝えようとするところを、
「掘り出す」effodere、
「引き抜く」eruere、
す」depromere、
「打ち出す」excudereという作業によって探り当てていかなければならなかった。
すなわち、
霊的な解釈によって、
聖書から取り出されるパウロの
「すぐれた考え」
aureae sententiae
は、いま一つはっきりとしない不明瞭な「響き」ringのような状態から、もっと鮮明な形とな
42
って人々の胸の内に伝えられるべきものとされた(69)。
したがって新プラトン主義的神秘思想を基部にもつコレットの聖書解釈的方法論は、中世に
おいて支配的だった、アリストテレス主義的スコラ神学とは明らかに対峙するものだったと言
えよう。トミズムが主流のスコラ的神認識においては、神とは何かを弁証学によって定義付け
るというもので、そこから導かれる教義は、敬虔さといった信仰のあり方を実践的に示してい
くこととは直接結びつくものではなかったのである。コレットは、フィチーノが論ずる霊魂の
あり方を問題に取り上げて、パウロの言葉を介しながら、キリスト教を生なる信仰へと生き返
らせたのである。神を認識する、神を知ろうとする事は、人間には不可能だとコレットは捉え
る。そのような事を神は人間に要求していない。我々人間がなせることは、神を知ろうとする
のはなく、ただ愛することのみなのである。ここに彼が受けた聖アウグスティヌスの影響をみ
ることができる(70)。神の愛は我々の霊魂に内在されている。愛の力に導かれた霊魂の働きによ
って神の啓示を受けるとされた。
さて、コレットの聖書解釈に影響を与えたとされる新プラトン主義についての哲学上の考察
は、次章で取り上げることとし、次にコレットがパウロの教説の中でいかなるキリストの教え
をもっとも導き出そうとしたのか、彼の解釈そのものを具体的に取り上げ考察する。
第 5 節 蘇生されたパウロの愛の教説
オックスフォードにおいてコレットが聖書解釈を試みた使徒パウロ Saint Paul(?∼67?) とは、
周知のように初期のキリスト教における最大のユダヤ人伝道者である。正確な出生年代は不明
であるが、イエスとほぼ同年代と言われ、パウロが生前のイエスに出会った形跡は認められて
いないものの、イエスの死後 2,3 年には回心したとされている。以後彼は、半世紀に渡る大伝
道旅行中に多くの教会を設立したのだった。
現在、新約聖書の多くの部分を占める 13 のパウロ書簡は、それらの教会に宛てて出されたも
のである。言うなればパウロは、教義のような規則によってではなく、現実的な諸問題に直面
し、より具体的な状況に身を置かれた中で受ける光の下での御霊によって我々人間は導かれる
ものである、とする実生活に即した福音理解を有しているのであった(71)。コレットが主たる関
心をパウロに向けたのも、実社会に生きる人々が直面する現実問題に対して真っ向から取り組
んでいたという姿勢に共感を覚えたのかもしれない。なおまたこれら諸教会に出されたパウロ
書簡は、新約聖書に収められているものの中でも最も古い文書である(72)。
総じてパウロの信仰上の特有としては、その信仰がイエス・キリストと結合している、言わ
ば「イエス・キリストにおける信仰」Faiths in Christという形式を採った点にある(73)。イエス
をキリスト、すなわち救い主と信じ、その死と復活を信ずる者は、神の愛の内にある恵みよっ
て、一切の罪が取り除かれ、新たなる存在となることが出来るのであるとみなしたのだった。
彼は信仰の本質に愛を置き、不義なる者でさえも義とされると説いたのである。その結果とし
て、全ての者に恩寵が与えられることとなる。しかし、彼にとって信仰とは、受動的感受性に
よるものではなかった。我々に降り注がれている神の恩寵、啓示を能動的にして意志の働きに
もって用いることこそ信仰とされた(74)。
このようにパウロ書簡には、
「信仰と希望と愛」(「コリントの信徒への手紙 1」13 章 13 節)
というキリスト教の信仰基盤が示され、また「不信心な者を義とする神への信仰」(「ローマの
43
信徒への手紙」4 章 5 節)という信仰上の中心問題の他、教会の実際問題、異教との関係などあ
らゆる当時の生きた問題に対する指示、教示が示されており、後のキリスト教神学の歴史に多
大な影響を与えたのだった(75)。
コレットが新約聖書の中で特に取り上げたパウロの「ローマの信徒への手紙」と「コリント
の信徒への手紙 1」には、霊肉二元論に立ったパウロ自身の教説が示されている(76)。それらは、
例えば「信仰による義」(「ローマの信徒への手紙」3 章 21-31 節)、
「信仰によって義とされて」
(「ローマの信徒への手紙」5 章 1-11 節)、
「霊による命」(「ローマの信徒への手紙」8 章 1-17
節)、
「神の愛」(「ローマの信徒への手紙」8 章 31-39 節)、
「隣人愛」(「ローマの信徒への手紙」
13 章 8-10 節)、
「自分ではなく隣人を喜ばせる」(「ローマの信徒への手紙」15 章 1-6 節)、
「一
致の勧め」(「コリントの信徒への手紙 1」1 章 10-17 節)、
「聖霊の住まいである体」(「コリン
トの信徒への手紙 1」6 章 12-20 節)、
「霊的な賜物」(「コリントの信徒への手紙 1」12 章 1-11
「愛」(「コリン
節)、
「一つの体、多くの部分」(「コリントの信徒への手紙 1」12 章 12-31 節)、
トの信徒への手紙 1」13 章 1-13 節)などの解釈からも理解されよう。
さてコレットは、
「ローマの信徒への手紙」について、解釈の本題に入る前に、まず次のよう
に要約を行っている。すなわち、この「ローマの信徒への手紙」とは、使徒パウロがキリスト
の名を関した都市に住む多種多様な考えを持つ人々の平和と調和について助言しているもので
あり、そこには「謙虚さ」humilitas、
「忍耐強さ」pacientia、そして「愛」caritasの 3 つの必要
(77)
性が説かれている、と 。
この「ローマの信徒への手紙」に関する簡潔な要約に比べて、
「コリントの信徒への手紙 1」
の方は、やや詳細な要約となっている。それは、内容に即して便宜的に 8 つの部分に分けられ、
以下のような要約がなされている (78)。
1)第 1∼4 章;パウロがコリントの信徒の信念と誇りを確認し、彼等に神への服従と神
をまねることを思い起こさせている内容。
2)第 5 章;パウロが、罪の購いへの怠慢さや教会或いはキリストの体から離れている状
態にあるコリントの信徒を戒めている内容。
3)第 6 章;信仰のない人々にコリントの信徒が裁きを願い出てはいけないとする内容。
4)第 7∼8 章;パウロがコリントの信徒から質問された「結婚」と「偶像に備えら
れた肉」の扱いについて答えているもの。結婚は、しない方を勧めるが許さ
れるものであるということ、また肉は口にしてはいけないとは言わないが、注
意しなければならないという事。
5)第 9 章∼11 章;まず、パウロ自身には福音的使命がある等、自分自身の事について
の事。次に深い神秘性が隠れているという礼拝時のかぶり物の事、更には、主
の晩餐やパウロが同じような会を開いた時への集いについての内容。
6)第 12 章∼14 章;霊的なこととは、どのようなことか。キリスト教社会の中で霊的な
働きをするということについての事。多くの、多様な構成員は、それぞれが必
要とされ、愛のうちに共に一つとなるということ。使徒とは、このようなキリ
スト教的愛にふれることによって、神の素晴らしい力を証明しながら、次に言
うべき多くの偉大なことを有しているのである。使徒はコリントにもっと熱心
にそれに従うように、そして聖霊を得て、それを保持するために最大限働くよ
44
うに諭すのである。すなわち彼等の全ての行いや言葉が、神的霊に沿っている。
使徒は多くの言葉を伴った話術に託すものである。すなわち、それは霊的なも
の、啓示を通じて神的意味から引き出されるものであり、やがて使徒は予言者
となりうるであろうという内容。
7)第 15 章;キリストの復活、死者の復活、復活の体について。
8)第 16 章;エルサレム教会の信徒のための募金についてと結びの言葉。
ジーズラーJ.Ziesler(1987)は、この「コリントの信徒への手紙 1」(12 章 4 節-11 節)を手がかり
に、パウロの倫理的基礎付けについて、聖霊による共同体は共通の益のために様々な聖霊の現
れをもっているといった信仰観、或は同じく「コリントの信徒への手紙 1」(12 章 31 節から 13
章 1 節)にみられるところの、教会における賜物の中で最も重要なものは愛(アガペー)であり、
それは獲得するものではなく、与えるもの、自分と同様に他を思いやることによって特徴付け
「コリントの信徒への手紙 1 」は、神
られるとの信仰観を、その特徴として指摘している(79)。
の愛の力によるところの、共同体としての教会の一致、キリスト教世界の一致を奨励し、イエ
ス・キリストと神と聖霊による祝福にみる「一致の勧め」で終わっているのだった。
信仰的礎を見失い、神から離れた社会において、その構成員たる市民に対して神の愛に連な
る一致を求めるパウロの教説に対してコレットは、次のように解釈している。
「パウロの哲学に
おいて、人間同士を仲間のように一つに強く結び付けている霊魂とは、神性であり、神ご自身
でさえあられるのです」(80)Anima autem copulans homines coactos in unum, quasi membra (ut Paulus
philosophatur), divinus est spiritus, Deusque ipse. と。このようにコレットもまたパウロ書簡を解釈
しながら、人々が精神的なつながりを失った状態で、社会の一致に必要なキリストの教えとし
て、神の愛の力を最も重視していたと言うことが出来る。
ラプトンは、コレットがパウロに対して、神の言の受肉たるキリストが歩んだ軌跡を辿なが
ら、いかなる困難をも溶解するキリストの愛を賞賛した人物であるとの見方をしていた、と指
摘する(81)。コレットは、パウロの教説を通じて愛の実践的行為が何よりも神の義とされるもの
であるとみなしたのだった。よってパウロの教説を扱うコレットの聖書解釈には、神を論じる
というよりも、或はまた客観的な判断をもって字義の精査にあたっていくというよりも、むし
ろ社会倫理的方向性をもって人々を方向付けていこうとする道徳的側面の方が全面に強く押し
出されることとなったのである。
パウロは「コリントの信徒への手紙 1」(13 章 13 節)の中で、キリストの教えの基盤に信仰、
希望、そして愛を置き、更に「その中で最も大いなるものは、愛である」とした。それに対し
てコレットもまた、
「コリントの信徒への手紙 1」の要約を行うにあたって、この 13 章を含ん
だ部分を他の章に比べてより丁寧に扱っており、コレットが愛を論じたこの章に一目置いてい
たことが分かる。
そこで、パウロが愛について述べた「コリントの信徒への手紙 1」の 13 章Prime epistole ad
corinthios ; Caput tertiumdecimumを取り上げ(82)、それに対するコレットの解釈をみていくことと
する。コレットがキリストの教えの中で最も重視したパウロによる愛の教説を、コレットの解
釈に沿って辿っていくことにより、彼が聖パウロ学校の子どもたちに伝えようとしたキリスト
の教えとはどのようなものであったのか、彼自身が最も大切にしたキリスト者としての在り
方・生き方とはいかなるものであったのかという点を明らかにしていきたい。以下、コレット
45
の愛の捉え方(83)を、神からの愛、人間からの愛、そして人間同士の愛という 3 つに分けて整理
した。
① 絶対的な恩寵としての神の愛
まずコレットは解釈を始めるにあたって、この章で語られている内容を次のように簡潔にま
とめ上げている。それは、パウロがこの書簡において何よりも神性を根源とする霊的事柄につ
いて述べて、神より出でし愛が他のいかなるキリスト教の教えにも先んずるものであると捉え
ていた、というものである。難解なスコラ的解釈とは異なり、努めて平易さを心がけたコレッ
トの解釈は、最初に聞き手に向けて要点が述べられ、話の全体的な方向性が示されている。
続けてコレットは、この章で指し示すところの霊的事柄とは、愛を意味するものなのである
とし、更にはギリシャ語を用いてその語源を辿りながら、愛という言葉についての説明を若干
加えているのであった。
「この言葉の意味をみてみましょう。ギリシャ語でχαριζο〈μαι〉は、
『与える、恵
みを与える』という意味です。ですから、χαριςは、
『恩寵』という意味でありますし、
χαρισμαは、
『賜物』ということになります。したがいまして、χαριτοωとは、
『恩
(84)
寵に満ちあふれる』ということになるのであります。
」
このように、ギリシャ語を用いて聖なるテキストに書かれた内容についての説明を試みてい
た点から、ルネサンス期に特徴としてみられた原典主義に立ち返った人文主義的手法が認めら
れよう。そしてこのわずかなギリシャ語の説明の後に、愛は最も大切なキリストの教えである
との結論が述べられ、パウロの言葉を土台にした愛についての彼独自の解釈が展開されていく
のであった。
コレットによれば、愛は次のように説明されている。
「完全さとは、実際のところ、愛であります」(85) Perfectio quidem est charitas.「愛は、私たち
を完成へと燃え上がらせるのです。完成するということは、我々が神を賛美するということな
のです。
」(86)Charitas inflammat in perfectionem, ut perfecti grati simus Deo.「愛は全てのものを完全
なものにし、用い尽くすのです。すなわち神によって承認されたもの、それが愛なのでありま
す」(87)Complet et consummat omnia charitas, que approbatur a Deo.と。
コレットは、ディオニュシオスの注解の際にも捉えていたように、愛に対して熱をもった温
かさ、明るさとみなしていた。愛によって人間は照らされ、温められることで、その創造主、
流出源である神へと上昇していくものと捉えられていたのである。彼によれば、人間が愛に向
かっていくということは、神に近づくことであり、それは神を賛美するということにもなると
される。このように、愛によって人間がより高次の存在へと上昇していくという存在位階論に
立った考え方、そして宇宙を統括するダイナミックな愛の捉え方は、フィチーノやディオニュ
シオスといった新プラトン主義的神秘思想の影響がみてとれるのである。
では、神の愛に導かれて最高位の段階へと向かう人間存在を、コレットはどのように捉えて
いたのか。彼は言う。
「人間は、言わば、形の定まっていない(筆者註;どのような形にでもな
れる)存在なのであります。人間は霊性さに欠ける状態にありますが、聖霊のように形作られる
ために、本性的に聖霊へと向かう傾向にあるのです。人間はその本性において内部にある神性
さを引き出すのです。
」(88) Homo quasi materia rudis est, spiritalis forme expers, idoneuso tamen ut
46
formetur a Spiritu.Qui ipse homo suapte natura privatur deitate.
この人間に対するコレットの見方は、まさしくフィチーノやピコなどと言った新プラトン主
義者たちに共通する人間観であった(89)。この点については、次章で詳細に扱うこととするが、
ここで端的に述べるならば、それは、人間が本性的に「神の似姿」imago Deiをもって生まれ、
或はまた、神は自らの姿を人間内部に置いた形でこの世に人間を創造し、そのような神性さを
有する人間は、本来の姿へと戻ろう、帰還しようと努めるものである、とする捉え方である。
さて、このような人間に対する見方は、コレットが子どもたちの中に神性さを認めた上に、
神との霊的合一を果たさんとする霊性さを鍛えることによって、あるべき姿をその内部より引
き出させることが教育の役割であるとみなしていたと言うことが出来るであろう。またその意
味で聖パウロ学校の教師とは、子どもたちの中に本性的に備えている善を内奥より削り出し、
掘り出していく彫刻家のような者であったとも言うことが出来る。
またコレットは、次のようにも述べている。
「しかし、肉である人間を霊的な存在へと形を変
えていく、その直接的で根源的要因は、神ご自身の聖霊そのものなのであります。それは、神
ご自身の力によって形作るものであり、それ故、結局のところ、人間はそれを受け入れうる存
在になるでありましょうし、また輪郭を整える神の自由な選びのままに(神の意志としてそれぞ
れに与えられるように)、人間は変わっていくのであります。柔らかい蜜蝋を形付けるように、
形を整え、鋳型を作る神の手が、人間を霊的、神的な形にさせる以外にはありえないのであり
ます。これこそが、御業なのであります」(90)Causa autem transmutans hunc carnalem hominem in
spiritum et efficiens, Spiritus ipse Dei est, qui tractat quasi materiam vi sua, ut fiat demum homo quod
potest esse, transformeturque pro arbitrio tractantis Spiritus, qui dividit singulis prout vult, non aliter
atque mollis cera manus ductu et tractatu, in aliqua[m] figuram spiritalem et divinam, cuius gratia agit
Spiritus.と。
このコレットの解釈から察するならば、人間がより良き存在になるには、神のみの力しか必
要がないという見方をしていたのではないかと思われる。
「完全さとは愛であり、御業の花なの
であります。それは、それ自体で自立していて、神の愛の中に存在しているものなのです。一
方で、我々人間の中にある愛とは、神によって創造された、(筆者註;神の愛に比すれば)後続
するものであり、先んじて存在する神の愛なしには存在しないものなのです。
」(91) Perfecto vero
est charitas, flos operum, per se in charitate Dei.Que, ut posterior perfectio, non potest esse in homine
sine prioribus. 「愛なしには、聖霊によるいかなる業も存在しないということを理解しなければ
なりません。なぜならば、聖霊のない御業などなく、聖霊は愛だからです。
」(92)Intellige nulla esse
opera Spiritus sine charitate, quia non sunt opera Spritus sine Spiritu:Spiritus autem est charitas.
このように、パウロ書簡を通じたコレットの聖書解釈をみてみると、そこには人間の意志よ
りも恩寵にみる神からの愛の強さを感じずにはいられない。
「神性は、物、肉である人間を取り
扱う時、完成という存在位階へと上昇させんとする明らかな意図をもってなされるのです。
」
(93)
Nam hoc consilio plane agit Spiritus Dei, versat materiam carnalemque hominem, ut is ad perfectum
forme habitum perducatur.「この放出されているもの (筆者註;神の意図)が、愛なのであります。
そこから御業の実が結ばれるのです。なぜなら、パウロがいつもこれらの御業を果実と呼んだ
ように、それは愛の花から放出されるからであります」(94)Hec florens forma charitas est, unde
fructus operum procedit, que opera Paulus sepe fructus vocat, quia ex charitatis flore prodeunt.と。
なるほど、神の愛は疑いがなく絶対的なものではある。肉にも霊にも成りうる我々人間は道
47
徳的に弱い面を持ち、絶対的な存在なしには真なる道を見失う危険性がある。
「人間の内にある
神の愛は、全ての希望を持っているのです。というのも、神の愛は(筆者註;私たちが)たじろ
ぎ、くじけ、ぐらつくことのないように、神の希望において心が固まるように、まず一つに結
束することを私たちに教えてくれるからです」(95) Omnia etiam sperat charitas Dei in homine,
siquidem que serenat prius cogit in unum, ut spe stent in Deo, non fluctuantes vocillent et titubent in
desperatione.と、コレットは述べている。
だが、地上において御業の実が結ばれるためには、神の恩寵が何よりも不可欠とされるも、
神の愛を感じ、またそれに応答しようとする人間の主体的な意志と、それに伴う行動の必要性
もまた、コレットの解釈から認められるところであった。人間は、ただ神からの救いを待つば
かりの存在ではないのである。この点については次節で扱うこととする。
② 人間の意志;神の愛に対する応答
コレットは、万物に降り注がれる神の愛というものを、人間自身が自覚するように戒め、人
間が神の愛に応えて実践的行動を通じて完成されたものとなることを期待していた。
「聖霊があ
なたを希望の中に置いたので、あなたは希望の中に立つことが出来るのであります。聖霊があ
なたを信じているので、あなたは信じることが出来るのであります。聖霊があなたを動かすの
で、あなたは業を行うことが出来るのであります。聖霊があなたに示すので、あなたは知恵と
知識と預言をもって話すことが出来るのであります。端的に述べるならば、神性の下でしっか
りと立ちなさい、そして驚嘆に値する事柄について信じ、話し、行動しなさい。(中略)愛のな
い状態では、あなた自身は不完全なままであり、全き神を喜ばすことは何一つ出来ないのであ
ります。完全さ以外には、神を喜ばすことなど何もないのです。
」(96) Potes stare in spe ut Spiritus te
statuit; potes credere ut Spiritus te facit;potes operari ut Spiritus movet;potes loqui sapientener et scienter,
et prophetare, ut Spiritus te illuminat; poetes potes denique et stare tecum, et credere, et loqui, et operari
mirabilia ex Spiritus Dei.,,,qui ipse sine charitate imperfectus es, perfecto Deo minime gratus, cui non est
gratum quicquid nisi perfectum. 「仮にあなたが神によって愛されているように、愛することをす
るならば、それはあなたが神を喜ばせていることなのであります」(97) Si amas ut amare a Deo, Deo
gratus esと。
コレットの解釈からは、神がしているかのように、何らの見返りをも期待しない無償の愛を
人間もまた真似するならば、それは神に喜ばれ、神に認められることなのだとする義認に対す
る考え方がみてとれよう。神が地上に遣わしたキリストによる愛の倫理的実践行動こそが、彼
の信仰理解における根幹部分であった。
したがって、完成された状態に近い、より良き人間となるためには、神の恩寵のみを手だて
とするだけではなく、
人間自らが神の愛と出会うべきことに気づかなければならないとされた。
善なるものを秘めながらも、肉にも霊にもなりうる人間を天上界へと引き上げんとする神の力
が無条件に働いている中で、人間は霊的感覚を研ぎすませて神の愛を鋭敏に捉え、キリストが
地上において成し遂げたような愛を実践することによって、人間は上位の段階へと昇華できる
と見なしたのである。
次のコレットの言葉の中には、善なるものを求めようとする人間の意志の本性的傾向が確か
に捉えられており、そのような本性をもつ人間は神と一つにさえなりうるのだ、といった人間
48
の可能性、尊厳性というものが認められている。
「仮に聖霊と共にあるとしたら、その人は神と
密着して神と一つになるということでありますし、その人は聖霊において実のある豊かさとも
たらし、神と共に良き業の始まりであるということなのです。良き業とは、聖霊にのみ割り当
てられるものではなく、聖霊における人間にも割り当てられるものなのであります。そのよう
な人間は、神に愛され、また神の愛に応える者であり、神に密着して霊的に神と一つになる者
なのです。
」(98)Quod si quando coeat cum Spiritu, cumque eo evadatunum, illi adherens, tunc fecundates
ipse homo quoque in Spiritu, una cum eo parens est bonorum operum, que non solum Spiritui sed homini
in Spiritu attribuantur, qui amatus, redamans et adherens Deo, unus est spiritus.
こうして神の啓示・恩寵・愛の導きの下で、意志ある人間と神が霊的合一を果たし、一体と
なりうることの素晴らしさが繰り返し述べられたのであった。コレットにおいて、その本性か
らみて尊厳ある存在である人間は、地上に置かれたキリストと神の御業を分担する者とみなさ
れたのである。
「愛は、私たちをキリストの精神と共に、共に助ける者、共に働く者とさせるの
です。愛は、私たち自身を生ある実を付ける花、キリストの正しさの中にある実とさせるので
(99)
Charitas autem facit non coadiutores cum Spiritu Christi et cooperatores, ipsos vivos, florentes, et
す。
」
fructificantes insticiam in Christo, arbore fructifera iusticie.
神から愛の芽を与えられた人間のみが、神との応答関係の中で信仰の花を咲かせ、地上にお
いてキリストの教えとしてその実を結ばせることができるとみなされたのである。このコレッ
トの見解は、寓意的解釈によって繰り返し述べられたのだった。
「愛は信仰の花であり、行動と結ばれた愛の実であります。
」(100)Charitas est flos fides, operatio
fructus charitatis.「預言、言葉、知識などは、死すべき運命にあり、それらはいつかなくなるも
の、終わりを迎えるものであります。しかしながら、私たちがキリストへと連なる愛は、私た
ちが育てることによって、永遠の花を咲かせ、永遠の実を付けるのです。
」(101)Prophitia, linguae,
scientia disperire potest, et perent, que sunt dumtaxat huius vite que finietur.At charitas, qua radicamur in
Christo, crescimus, floremus, fructificamus in vitam eternam, qua vivimus uni et simplices, fortes et nitidi
fide, qua sumus quasi connaturales et homogenii cum Christo immortali, nunquam excidet.と。
仮に人間が誕生の時より有している芽に気づくことなく、愛を降り注ぎ、手を掛けて育てな
ければ、地上に善をもたらす実などは付かない。このように、一人一人の人間が、主体的意志
をもって、愛に基づく行動を起こした時、永遠の命は約束されるとされたのであった。コレッ
トによれば、知は消滅する運命にあるが、愛は不滅のものであると捉えられていた。愛に生き
る人間の霊魂は、神と共にあって、滅びることはないのである。人間は、キリストの愛がなけ
れば、
身体と共に死ぬ運命にあるとみなされたのだった。
コレットにおいて人間の運命の鍵は、
半ば人間自身の手に委ねられたのである。
ところで、このようなコレットの解釈にみる信仰理解から、(第 4 章で扱うところではあるが)
彼が子どもたちを「コモンウェルス」Commonwealth をもたらす種であるとみなしていたこと
が理解できるのである。この世に、信仰という愛の芽を持たされて生まれた彼らの本性を、見
事に芽生えさせ、その伸びゆく芽を摘む事なく、神に向かってまっすぐ育て、やがて社会にあ
ふれるほどの信仰の愛の実が結ばれることをコレットは教育によって成し遂げようとしたのだ
った。
③ 隣人愛に支えられた慈善行動
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コレットの聖書解釈には、実社会に生きる人々に目を向け、より現実的な視点からキリスト
の教えを説こうとする姿勢がみられた。13 章に関する聖書解釈の終わりの部分で、神の愛に応
えるということ、神の愛を真似るということの、実際的で具体的な行動指針が示されていた。
彼によれば、人間には、この地上においてキリストを通じて示された神の御業を真似るとい
う本性が与えられてはいたが、全能なる父の全てを真似ることは不可能であるとされていたの
である。人間は、
「神の智慧」sapientia や「力」potentia を真似ることはできないが、他人に寛
大な施しを行うという点においてのみ、神を真似ることが出来るのだと述べられている。
「神の善、愛という聖霊を私たちが真似ることが出来るということは、惜しみのない施しを
することなのであります。
」(102) bonitatem illius, et amoris Spiritum, in liberalitate et eleemosinao
possumus imitari.コレットは、キリストの愛のない、自分に益なだけの施しは無に等しいとし、
反対に真の愛に導かれるところの、隣人に対する寛大で惜しみない奉仕は、人間が地上におい
て神のようになれる業であると説いた。
このように現実社会においては、キリストが行ったように、隣人愛に基づいた慈善的精神を
発揮することこそが、神の愛に応えるものと解されたのである。それによって人間の魂は霊的
に高められ、天上界と地上界の中間にあった人間は、完全なる者・永遠なる者になり、肉体が
滅びた後も不滅であるされたのだった。
次のような言葉で 13 章の解釈は、結ばれている。
「それ故、私たちは、神に愛されているように、互いに愛し合いましょう。そうしなければ、
私たちは信仰から離れてしまうのです。愛をもって隣人のためになりましょう、そうしなけれ
ば、私たちは神の愛に背くことになるのです。私たちを通じて隣人を富ませるということは、
私たち自身が豊かになるということなのです。あなたが隣人を最大限に愛している時、そして
あなたが神やキリストにおいて隣人の優位さを探し出そうとしている時、あなたは自分自身を
最大限に愛しているということであり、そしてあなた自身を最大限に探求しているということ
であります。
」(103)Ut amamur ergo amemus, ne cadamus non amantes.Amore prosimus aliis, ne ipsi
deficiamus. In aliorum per nos abundamus ipsi maxime.Quum alios maxime amas, aliorumque comodum
queras in Deo et Christo, tum tea mans ipsum maxime, tibi queris maxime.
このように、無償の隣人愛という慈善的精神に対するコレットの考えは、彼が現実社会に生
きる人々や子どもたちに最も伝えたかったキリストの教えであり、なおまた第 5 章で扱うとこ
ろの、自身の遺産を寄付した聖パウロ学校設立の動機を支える信仰基盤としても導き出される
ものなのである。
以上、コレットがパウロの言葉を通して解釈した愛について考察してきた。神学者のハント
によれば、コレットの説教の本質は、個々人の霊魂が揺さぶられて、善なることを愛し、求め、
それを具現化するように仕向けるところにあった、とされる(104)。彼の聖書解釈方法には、新プ
ラトン主義的神秘思想の影響とみられる解釈方法が散見され、また歴史的解釈や寓意的解釈を
織り交ぜながら、
最終的には現実社会に即した実践的倫理規範が示されていたのである。
また、
愛を巡る考えにおいては、神の愛の力によって、人間はより上位の位階へと引き上げられるも
のとする神の絶対的な強さが主張されていた。
しかしながら神の愛と同時に、
人間自身もまた、
恩寵に頼るだけではなく、神に愛されているという自覚に立って、その愛に応え、キリストの
教えを実現させる力を有しているとする、新プラトン主義者に共通するルネサンスの新しい人
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間観に立った彼の見解もまたみてとれるのだった。更には、キリストを真似るということの意
味が、無償の愛に裏打ちされた見返りを期待しない慈善的奉仕行動と解され、コレット自身が
何よりも実践を伴った信仰を重視したことの現れであったことも分かった。
このように、コレットの新しい聖書研究によって蘇生されたパウロの教えは、聖パウロ学校
のキリスト教教育の軸となり、
あるべきキリスト者の生き方として、
学校内の礼拝堂の中で日々
説教されたことであろう。そしてまた、子どもたち自らが高まっていこうとする意欲を削ぐ事
のないように配慮された教育の中で、愛に生きたキリストの精神が流れる宗教的文芸作品を題
材に、文法・修辞教育が行われたのである。
第 6 節 瞑想と禁欲的信仰生活
ところで、コレットにおける愛の実践には、禁欲的態度をもって恩寵の導きと共に実践的行
為として臨まなければならないとされた。人間が、天より下ったキリストのごとく、慈善的愛
を実践し、この全き人間へと昇華するということは、そこに禁欲的態度をもって真似るとされ
たのである。
コレットの捉えたキリストには、
弱さとは決別した神性さのみが表出されており、
したがって人間に対して、キリストのごとく道徳的堕落を一切脱ぎ捨てた姿が求められた。
コレットは「コリントの信徒への手紙 1」に関する講釈の中で、
「真実は神の恩寵によって
理解され、神の恩寵は祈りによってもたらされ、そして祈りは、瞑想や断食によってかなえら
(105)
Veritas autem intelligitur gratia;gratia comparatur
れる。他の方法に頼ることは妄想にすぎない」
audita oratione;oratio auditur exacuata devotione et fortificata jejunio.Alio si te devertis deliratio estと述
べている。すなわちコレットによれば、真の聖書理解とは祈りの中にあるとし、そうした祈り
は献身や克己といった禁欲的信仰体験と共になされるべきであるとしている。
カトリックの神秘思想は、ギリシャ語のθεωρια、ラテン語でcontemplatio、つまり瞑想
による神との霊的一致を意味する(106)。瞑想を通じて得る神秘的体験は、霊的な人物の努力と祈
りに応えて、神の側から超自然的、神秘的な体験を与えられる(107)。コレットは神秘思想的霊的
解釈には、瞑想を伴った禁欲的信仰生活が欠かせないとし、霊的解釈のために、瞑想による神
との直接対話へといざなう禁欲的で厳格な信仰の実践生活を重視する。彼自身、生涯を通じて
そのような信仰生活を貫いている。以下に紹介するエラスムスの書簡には、コレットのそのよ
うな生活実態が詳細に描写されている(108)。
(筆者註;聖パウロ教会首席司祭の任にあたる)コレットは人を歓迎する時、贅沢な
暮らしぶりの巧みな口実となっていた司祭主催の食事を質素なものへと下げました。
数年前にはそのような晩餐会でさえも完全に廃止し、余興なしの単なる夕食会になり
ました。また開始時刻のやや遅い夕食会の時などは、人数を制限しました。なぜ少人
数にしたのかと言いますと、余興は致しますが、それは下品なものにはならず、食事
の時間も短くでき、一方でその際に交わされる会話とは教養ある真面目な人たちにし
か合わないものとなるからであります。食前と食後の感謝の祈りの後、少年たちが大
きな声でパウロ書簡やソロモンの箴言を読み上げるのです。その中から、コレットが
一節を選び出して繰り返して読み上げ、その後の会話の主題にいたします。それは、
そこに出席している学識ある賢い人々に、或いは教育を受けていない人に対してさえ
51
も、この表現、あの言い回しは何を意味しますか、などと質問しながら行われます。
彼(筆者註;コレット)はそのような会話を取り仕切り、それは宗教的で真面目ではあ
りますが、決して退屈で気取ったものなのではありませんでした。
食後に再び、つまり客人が必要な食べ物をある程度取り終えた時、それは仮に彼等
が取りたい物全てを取り終えた時という訳ではありませんが、彼は別の話を持ち出す
のです。そのようにして彼は客の心身を大変心地よいものに致しますので、客人は来
た時よりも良き人間となっており、食べ物などでお腹が満腹になって帰るということ
は決してありませんでした。
コレットは高位聖職者の身にありながら慎ましく質素な暮らしを実践し、また彼の主催する
夕食会は、厳格な宗教的雰囲気に包まれていた。説教師としての立場を鑑みれば、そのような
私的な場においてさえも、自らの態度を示すことによって、周辺にいる人々の心さえ真に変え
たいとする意図があったとみてよいであろう。あたかもコレット自身が、イエスが開いていた
ような食事の時をもっていたのである。更に続けて、エラスムス書簡をみてみよう(109)。
コレットは友人と会話をすることに最高の喜びを感じていました。それは時として
夜更けにまで及びことがありましたが、彼の話は本の内容か、キリストに関するどち
らかでありました。仮に彼が話したいと思う人に出会えなかった時などは、つまり彼
が訪問客に満足しなかった場合には、少年が聖書の中のいくつかの箇所を読み上げて
いたものでした。私自身は、聖地巡礼を一緒に行きましょう、と誘われたものでした。
巡礼の時、彼は上機嫌な仲間でありました。彼は常に本を手に携え、キリストの話以
外にはいたしません。彼は乱れた事全てに耐えられない人でした。文法を無視したり、
誤用で汚い言葉に耐えることが出来なかったのです。
彼は、自身の調度品、文具、衣服、書籍全てに簡素でなければなりませんでした。
なぜなら、彼にはこのような物が豪華でなければ困るということがなかったからであ
ります。この国(筆者註;イングランド)では、聖職者や神学者などは紫色の衣服を着
用していたにも関わらず、彼は黒い色の物しか纏いませんでした。彼の外套はいつも
羊毛から作られた、飾り一つ付いていないものでありました。寒い日などは毛皮の肌
着で暖を採っていたくらいです。
気の置けない友人との会話は、人文主義者らしいコレットの人柄を表している。エラスムス
によれば、
コレットは常に宗教性に満ちた時と場に自分の身を置く努力をしていたようだった。
それは、オックスフォードで解釈された、真の聖書理解のためには厳格で禁欲的信仰生活が欠
かせないものであるとの信念に支えられていよう。肉体をまとい、人間の弱さを認め、そこに
いかんともしがたい不安を覚えるコレットの信仰生活は、一寸たりとも堕落の気配さえも感じ
させない厳格なものだった。このことは、霊的解釈のために必要とされた実践的行動であり、
更には霊的解釈によって導かれた信仰を実践した結果だったとも言えるのである。
おわりに
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以上、オックスフォードで行われたパウロ書簡に関する講解を中心に、コレットの思想的特
徴、すなわちコレット独自のキリスト教的人文主義を考察してきた。
ルネサンスと言われる時代に、イタリアではギリシャ、ラテンといった古典の学芸復興の気
運が高まった。人文主義者らは「古代学問の再興」というスローガンの下で、古典の文芸作品
を研究しながら
「人間として如何に生きるべきか」
という道徳的主題にも着手する者もあった。
こうした人文学研究においては、古代の異教作品に通底する知と徳との結合が目指されたので
ある。
やがてイタリアで開花した人文主義の潮流は、元来宗教的関心の高い北方ヨーロッパにあっ
ては、宗教的側面が強く押し出される形で受容されていくこととなったのである。そうした中
で、イングランドにおいてはコレットらのテューダー初期に活躍した人文主義者によって、キ
リスト教的人文主義が開花した。それは、北方ヨーロッパのキリスト教的人文主義が、古典作
品の研究対象としてギリシャ、ラテンの古典のみならず聖書にも及んだことを意味する。そこ
では人文主義の影響を受けて新しい聖書研究が行われたのである。
中世以来、神学者たちは権威ある注解書に依拠しながら討論を重ね、神について弁証学的に
理解しようとしていたのだが、キリスト教的人文主義者達は、聖なるテキストそのものを手に
とり、文脈を押さえながら精読するという方法を採った。このように人文主義的聖書研究は、
スコラ神学とは対峙するものなのである。
こうして、書かれた言葉の定義付けのために論議をすることから離れ、書かれた内容そのも
のが意味するところ、キリストの哲学を引き出す作業が行われていったのだった。そうした聖
書研究の射程には、世俗の世界に身を置きながらもキリスト者として如何に生きるべきか、と
いう道徳的問題が含まれ、人間のあるべき姿が追求された。キリスト教的人文主義者は、聖書
の原典批判の中から、キリストに連なる一つの共同体の中で、一市民としてのキリスト者の、
信仰態度とそれに伴う実践的な生き方を研究したのである。
さて、この点からみるならば、同時代に生きたキリスト教的人文主義者らは、原典主義に基
づいて聖書本来の姿を求めようとする点で共通項をもつ。しかしながら、原典批判として展開
された聖書へのアプローチの仕方、聖書研究における方法論的側面からみてみるならば、各人
において差異が認められるのであった。すわなち、聖書に書かれた神の言葉を理解する手段と
して用いられた解釈上の判断基準は、各キリスト教的人文主義者によって異なっていたのであ
る。したがって、聖書解釈的方法論という視点からみるならば、キリスト教的人文主義という
ものをより狭い意味で捉え直す必要が出てくるであろう。
共にキリスト教的人文主義者と言われ、聖パウロ学校の教育のために協力関係にあったコレ
ットとエラスムスもまた、聖書解釈法という点においては異なるアプローチをしていたのだっ
た。
ドミニコ会とつながりのあるエラスムスは、
人間に内在するところの理性の働きを重んじ、
多くの知識の中から客観的な判断力をもって選び出し、何か真なのかを見極めるという、言語
文献学的方法に依拠した聖書解釈を試みていたのである。彼は、祈りという形での聖書との対
話の重要性をも認識していたが、同時に多くの文献や言語に当たり、比較検討しながら純正な
る原典としての聖書とはいかなるものであったのか、そこで語られる神の言葉の意味の確定に
努めたのである。
他方コレットの解釈とは、聖書が書かれた歴史的文脈や背景というものを考慮し、文法上の
正しさと正確な言葉を必要と認めつつも、恩寵の導きの下で神の啓示を受け取ろうとする霊的
53
方法論を重視した立場を採る。彼は、人間の生き方を問うことと直結しないスコラ神学的方法
論を排除し、霊性さを重んじる方法論によって、使徒パウロの言葉の背後にある神の真意とい
うものを、人々の霊魂に触れさせたのだった。パウロ書簡の中で、コレットが最も大切にした
章の一つに「コリントの信徒への手紙 1」13 章があった。この解釈には、混迷する現実社会の
中で、愛に生きる人間の姿、あるべきキリスト者像が示されていたのである。コレットの信仰
理解の中には、何よりも先んじて存在する神の愛の力に対する賛美と、そうした神の愛に応答
していこうと励む人間への信頼感が込められているのだった。
次章では、そうしたコレット独自の人文主義を特徴付けることとなった思想的影響について
扱うこととする。
註
(1) 伊藤博明「ルネサンス」(廣松渉、子安宣邦、三島憲一、宮本久雄、佐々木力、野家啓一、
末木文美士編『岩波 哲学・思想事典』
、岩波書店、2006 所収)p.1706f..伊藤博明「人文主義」
(同書、所収)p.1332f.
(2) エウジェニオ・ガレン、近藤恒一訳『ルネサンスの教育—人間と学芸との革新』
、知泉書館、
2002、p.92.
(3)P.O.クリステラー、渡辺守道訳『ルネサンスの思想』東京大学出版会、1977、p.11.
(4)同書、p.26.
(5)ニコラ・アッバニャーノ、天野恵訳「ルネサンス 人文主義」(フィリップ・P・ウィナ
ー編『西欧思想大辞典 4』
、平凡社、1990 所収)p.536.
(6)エウジェリオ・ガレン『ルネサンスの教育—人間と学芸との革新』前掲書、p.92.
(7)同書、p.92.
(8)イタリア人文主義の定義を巡るハンス・バロン Hans Baron や J.H.シーゲル Jerrold E.Seigel
らの見解については、次の文献を参照されたい。石坂尚武『ルネサンス・ヒューマニズ
ムの研究—「市民的人文主義」の歴史理論への疑問と考察—』晃洋書房、1994、pp.1-46.
またイタリアの市民的人文主義については、伊藤博明責任編集『哲学の歴史 4』(中央公論
新社、2008)も併せて参照されたい。
(9)同書、p.14f.
(10)クリステラーは、1300 年から 1600 年までをルネサンス期と位置付け、そこに見られた人文
主義運動に関して、明確に定義付けを試みている。P.O.クリステラー、前掲書、p11.他にも
P.O.クリステラー、佐藤三夫監訳、根占献一、伊藤博明、伊藤和行訳『イタリア・ルネサン
スの哲学者』みすず書房、1993、p.6 を参照されたい。
(11)クリステラーが示した「人文学」を示す 5 学科についてであるが、彼は次のように説明し
ている。第一の学科である「文法」は、言語の使用を支配する形式的規則を学ぶと共に、あ
らゆる学問の予備的道具としてのラテン語の初歩を包含している。ここでは、ラテン語を読
む事、書く事、話す事が学ばれる。古来より標準的なローマの詩人、散文作家が読まれてい
たが、14 世紀以降は、より初歩的な学習に特化するようになった。
第二の学科である「詩」は、古典ラテン詩人を読む事と、古代ラテンの模範の綿密な研究
と模倣を通じてラテン詩を書く事という双方が目指された。このため、15 世紀において「ヒ
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ューマニスト」は、詩人と同等と捉えられていた。
第三の学科「修辞学」は、雄弁術と同じ意味で、人文学を構成する学科の内でも上述の「詩」
と共に重視されていた。したがって、ヒューマニストという時には、詩人と演説家の両方を
指していたのである。修辞学とは、散文文学の研究を意味し、古代ラテンの散文作家、特に
彼らの書簡や演説が重要なテキストとして取り上げられた。
そうした作品を読解すると共に、
範として模倣しながら作文し、実際的且つ応用的に学んだ。ヒューマニストとは、このよう
により良く書く、話す事によって、大学での職のみならず書記官長、外交使節大使を始め国
家の要職に就いたのである。
第四の学科「歴史」もまた、雄弁術と密接に関係していた。テキストとされた古代の歴史
家たちは、散文作家の中に分類され、彼らの歴史的叙述を模倣し、書き方を学ぶのである。
かくしてヒューマニストは「伝記作家」
・
「修史家」として、君主、政府、都市の歴史を書く
様に依頼されるのである。第五の学科である「道徳哲学」は、唯一哲学の領域に属し、ある
意味で最も重要であった。
ヒューマニストの大部分の仕事は、
哲学とは無関係ではあったが、
彼らには道徳的および人間的問題について、すなわち道徳哲学に対する関心があった。そし
て、若者への教育には知的訓練と共に道徳的訓練が必要であると主張したのである。ヒュー
マニストたちは自分たちの演説や著作の中に、幸福、最高善、義務、美徳、悪徳等を論じた
古代哲学者の論文から道徳的格言を引用した。そのため彼らは、新たに体系的な思想を生み
出すことはなかったのだが、道徳の分野に影響を与えたのだった。
なおまたギリシャ研究について付け加えるならば、それはラテン研究に比べて範囲も影響
力も限定的ではあったが、中世において見いだされなかったギリシャ研究にこそヒューマニ
ストの功績の大きさを認めざるを得ないのである。彼らはラテン研究と同じような方法で、
ギリシャの諸科学、アリストテレスはもとよりプラトンといった哲学者、詩人、演説家、歴
史家、教父を取り上げることに成功したのである。P.O.クリステラー、
『イタリア・ルネサン
スの哲学者』前掲書、pp.228-236 参照。
(12) P.O.クリステラー『ルネサンスの思想』前掲書、p.27.
(13)量義治『西洋近世哲学史』放送大学、1999、p.18f.
(14)根占献一「フィチーノ」(伊藤博明責任編集、前掲書、所収)p.182.
(15) P.O.クリステラー『ルネサンスの思想』前掲書、p.116.
(16)石川正之助、ピーター・ミルワード『英国ルネッサンスと宗教—モアからミルトンま
で—』荒竹出版、1979、p.48.
(17) 木ノ脇悦郎『エラスムス研究—新約聖書パラフレーズの形成と展開』日本基督教団出
版局、1992 参照。木ノ脇悦郎は、
「キリスト教(的)哲学」Philosophia Christiana と「キ
リストの哲学」Philosophia Christi を明確に区別する。
「キリスト教(的)哲学」と言った
場合、それは「神学的生」Vita Theologica と同義であり、キリストの教えが、人間の生へ
の在り方、或は実践性と結びつけて考えられる時に用いる。他方で「キリストの哲学」と
言った場合、それは単純に、イエスの山上の説教にみるような簡潔な福音、教えそのもの
を指す、という。
またマッコニカは、
「キリスト教(的)哲学」を、いつくしまれるキリストの知恵、或
いはまた、聖書の中に見いだしうる人生の指針としてのあじわい深いあふれんばかり
の知恵と定義している。J.マッコニカ、高柳俊一、河口英治訳『エラスムス』
、教文館、
55
1994、p.102f.
(18)量義治、前掲書、p.16f.
(19)P.O.クリステラー『ルネサンスの思想』前掲書、p.101.
(20)八代崇他『宗教改革著作集 11 イングランド宗教改革 I』教文館、1984、p.363.
(21)月村辰雄「エラスムス」(伊藤博明責任編集、前掲書、所収)p.327.
(22)川添信介「スコラ哲学とアリストテレス」 (中川純男責任編集『哲学の歴史 3』中央公論
社、2008 所収) p.415
(23) 月村辰雄、前掲書、p.327
(24)メランヒトン研究者である菱刈晃夫は「学識ある敬虔」を、フマニタスの伝統である
「人文学(文字)」 littera による「教養」humanitas がキリスト教の「敬虔」pietas に収斂
されるという考えであると説明している。菱刈晃夫「メランヒトンのカテキズムー『再
生』への準備教育として」
『教育哲学研究』第 88 号、2003、p.1 参照。
(25) P.O.クリステラー『ルネサンスの思想』前掲書、p.101.
(26)エラスムスは、オランダにおいて幼少期を過ごし、
「新しい敬虔」運動の強い影響を
受けて育った。岡田渥美によれば、エラスムスの手による『キリスト教兵士必携』
(1504)Enchilidion Militis Christiani は、もともと夫の不道徳な行状に悩むある婦人のため
に書かれたものであったが、結局はエラスムスの道徳的改善の基本的精神である「キリ
ストをまねる」imitatio Christi ことを教示することを主旨としていたとされる Cf.,岡田渥
美「イギリス教育史より見たエラスムスとその『キリスト教的ヒューマニズム』
」京都
大学紀要 XXVIII、1982、p.97。
事実、エラスムス自身も、コレット宛ての書簡の中で、この著書の主旨について次
のように伝えている。
「そこには、儀式に縛られながら信仰を作り上げている人たち、
そのような人たちは真の良さを伴った行動をすることに無頓着であり、そのような人た
ちに道徳を教えるために本著を書いた」と。Cf., Erasmus, trans.by R.A.B.Mynors and
D.F.S.Thomsom, annot. by Wallace K. Ferguson, , The Correspondence of Erasmus, Univ.of
Toronto Press, Vol. 2(letter no.181),1975.
また、イギリス人文主義者の一人トマス・モア Thomas More(1478-1535)の精神にも、
この「新しい敬虔」Devotio Moderna 運動の影響がみられた。彼は晩年、獄中の中で教
養ある信徒向けに「イエスの受難について」De Tristitia Christi の講話(イェール版モア
全集第 14 巻)を書いているが、澤田昭夫によれば、モアの最後の作品となったこの講
話にはもはや、自身の苦しみといったものに関心はなかく、死にゆく状況の中で、自分
以外の人たちに対する信仰の立ち返りという点に関心を示していたとされる。澤田は、
この講話を原始教会の精神を復興させようとするエラスムスの「新しい敬虔」運動をモ
アが表現したものであると捉えた。澤田昭夫「
『キリストの悲しみ』における受難」
『ルネッサンスニュース』no.25、ルネッサンス研究所、2006、p.5 参照。
(27) ヘーラルト・ホロートの生涯及び、彼が書き残したものの英訳は、次の文献に詳しい。Cf.,
Geert Gtote, trans. by John Van Engen, preface by Heiko A.Oberman, Devotio Moderna Basic
Writings, Paulist Press, 1988, 331p. リューベック写本に基づいたオランダ語原本からの英訳本
には、Gerard Groote, tr.by Joseph Malaise, The Following Christ, the Spiritual Diary of Gerard
Groote(1340-1384), 中央出版社、1946(筑波大学所蔵)がある。また我が国においても、多く
56
の邦訳が出ているが、本論文では次の文献を参照した。ヘーラルト・ホロート、由木康訳『キ
リストにならいて イミタチオ・クリスチ』教文館、1984.
原著者であるホロートは、神の恵みを説き、人々の悔い改めを促すと共に、教会の規律の
弛緩と聖職者生活の頽廃を主張した。またスコラ的方法論に立つ神学に反対して、聖書を読
むことを勧め、詩編を自国語に訳し、聖書を筆写する同志を集めた。
訳者の由木康によれば、
「新しい敬虔」Devotio moderna という語は、Doctorina moderna, Via
moderna 等と同じく「内的敬虔」を意味し、フランス語の vie intérieure(内的生活)と
照応する。従ってこの運動の意味するところは、
「内的交わり」と深く結びついている
のである。この著書は、次のような内容となっている。
第 1 巻:霊的生活のための有用な勧め
第 2 巻:内的なものについての勧め
第 1 部 内的対話について
第 2 部 忠実な魂へのキリストの内的な語りかけについて
第 3 部 内的慰めについて
第 3 巻:聖餐にあずかる者への敬虔な勧め
(28) ヘーラルト・ホロート、同書、p.266.
(29) ダグラス・ブッシュ、赤川裕、大場健治訳『ルネッサンスとイギリス・ヒューマニズ
ム』
、南雲堂、1979.
ところで、国教会樹立以降のイギリス人文主義者らも射程においたエルトンによれば、イ
ギリス人文主義を特徴付けるものとして「社会善を目指した改革精神」を挙げている。Cf.,
Geoffrey Elton, ‘English Humanism’, in The Impact of Humanism on Western Europe (ed.,Anthony
Goodman and Angus Mackay, Longman, 1990), pp.259-278.
(30) Robert Weiss, Humanism in England during the fifteenth century, Basil Blackwell, 1941, p180f.他に
ワイス論に言及している我が国の研究としては、植村雅彦『テューダーヒューマニズム序説』
(創文社、1967)があるので、それも併せて参照されたい。
(31) Susanne Saygin, Humphrey, Duke of Gloucester(1390-1447)and the Italian Humanist, Brill,
2002.
(32) J.B.Trapp, An English Late Medieval Cleric and Italian Thought:The Case of John Colet, Dean
of St Paul’s(1467-1519) , in Essays on the Renaissance and the Classical Tradition, XII, Variorum,
1990, p234.
(33)ダグラス・ブッシュ、前掲書、p.58.
イタリア人文主義のイングランドにおける学問的影響は、註(25)で取り上げたワイス
の指摘している通り、すでに 15 世紀の中葉から認められるところである。しかし、ダ
グラスや或はケケウィッチ Lucille Kekewich が論じているように、その後の思想的系譜
を形成するといったインパクトの強さという点で、はっきりと認められるようになった
のは、16 世紀を境に活躍したグロシンやリナカーらを待たなければならないという見
方もある。Cf.,Edited by Lucille Kekewich, The Impact of Humanism, Yale Univ. Press, 2000,
p.83.
なおまたムアマンによれば、既に 13 世紀初頭において「当時としては異例」とも言
えるギリシャ、ヘブライ語による聖書本文批評が、ロバート・グロステストによって行われ
57
ていたことを明らかにし、やがて 14 世紀初頭のフランシスコ会士コストシー・ヘンリー
Henry of Costsey を経てエラスムスやコレットへと続いているとみている。J.R.H.ムアマン、
八代崇、中村茂、佐藤哲典訳 『イギリス教会史』聖公会出版、1991、p.192f.参照。
(34) Frederic Seebohm, The Oxford Reformers : John Colet, Erasmus, and Thomas More, AMS
Press, 1913, p.11.
(35) J.B.Trapp, ‘From Guarino of Verona to John Colet’, in Essays on the Renaissance and the
Classical Tradition, XIII, op.cit., pp.45-53.トラップは、イタリア人文主義がいかにコレット
の教育の中に流れていたのかについて明らかにしている。この点については、聖パウロ
学校の言葉の教育を扱った章において言及することとする。
(36) ラプトン J.H.Lupton は、コレットのパウロ書簡(「ローマの信徒への手紙」Enarratio in
Epistolam B.Pauli ad Romanos 及び「コリントの信徒への手紙 1」Enarratio in Epistolam Primam
S.Pauli ad Corinthios)に関する聖書解釈をラテン語原典から英訳し『コレット全集』Opera の
一巻、二巻として出版している。
(37) エルンスト・カッシーラー、花田圭介監修、三井礼子訳『英国のプラトン・ルネサンス』
工作舎、1993、p.33.
(38) Frederic Seebohm, op.cit, 551p.
(39) エルンスト・カッシーラー、前掲書、p.33.
(40) Translated by R.A.B. Mynors and D.F.S. Thomson, Annotated by Wallace K. Ferguson, The
Correspondence of Erasmus, Vol.8(letter no.1211), University of Toronto Press, 1988.
(41) Kenneth Charlton, Education in Renaissance England, Routledge and Kegan Paul;Univ.of
Toronto Press, 1965, p.58.
(42) P.Albert Duhamel, The Oxford Lectures of John Colet:An Essay in Defining the English
Renaissance, Journal of the History if Ideas, Vol.14. No.4(Oct., 1953) ,p.493f.
(43)スコラ的方法論については、本文中においても言及しているが、次の文献を参照されたい。
川添信介「スコラ哲学とアリストテレス」 (中川純男責任編集、前掲書、所収)
(44) N.F.Feldmeth, The Development of the exegetical method in England, 1496-1556,Univ. of
Edingbrough,1982.
(45) John Colet, Opera, Vol.2, op.cit., p.159.
(46) Kenneth Charlton, op.cit., p.58.
(47)クリストファー・ド・ハメル、朝倉文一訳『聖書の歴史図鑑<書物としての聖書の歴
史>』東洋書林、2001、p.184.
(48) John B.Gleason, John Colet, Univ.of California Press, 1989, p. 152.
(49)クリストファー・ド・ハメル、前掲書、p.184.
(50)木ノ脇悦郎「16 世紀人文主義者たちの聖書解釈」(出村彰・宮谷宣史編『聖書解釈の
歴史—新約聖書から宗教改革まで』日本基督教団出版局、1986 所収)pp.279-310.
(51) J.B.Gleason, op.cit., p.153.
(52)木ノ脇悦郎『エラスムスの思想的境地』関西学院大学出版会、2004、p.40.
(53)木ノ脇悦郎「キリスト教社会への風刺から改革へ:改革思想家としてのエラスムス」
、
上智大学ルネッサンス研究所、2006 年度総会講演、2006.10.1.
(54) Ernest William Hunt, Dean Colet and His Theology, S・P・C・K, 1956, p.8.
58
(55) Leland Miles, op.cit., p.87
(56) John B.Gleason, op.cit. ,p.148.
(57) Ibid., p.158.
(58)マイルスによれば、コレットはパウロにおいて特徴的だった spirit や flesh というヘブライ
的用語よりも、プラトンが使用した soul や body というギリシャ的な用語を好んでいたと指
摘する。Cf.,Leland Miles, op.cit,p.86f.
(59) John B.Gleason, op.cit., p.152.
(60) Leland Miles, op.cit, p.87.
(61) John Colet, Opera, Vol.2,op.cit., p.203.
(62) John Colet, Opera, Vol.1,op.cit., p.222.
(63) John B.Gleason, op.cit.,p.167.
(64)サイモンは、エラスムスが聖書解釈に必要な要素として、
「文法家」としての役割を
強調している、と論じている。この点においても、コレットとエラスムスとの聖書解釈上
の相違というものがみてとれよう。すなわち、恩寵に導かれる霊的な判断に依拠するか、
客観的知識を伴う言語文献学的手法に依拠するかの、比重の置き方が異なっていたみる
べきなのである。Cf., Joan Simon, Education and Society in Tudor England, Cambridge at the
Univ. Press, 1966, p.70.
(65) John B.Gleason, op.cit.,p.153.
(66) John Colet, Opera, Vol.1,op.cit., p.175.
(67) Marginalia in Colet’s copy of Marcilio Ficino, Epistolae(Venice, 1495), in Sears Jayne,
op.cit. p.99.
(68) Samuel Knight, The Life of Dr.John Colet, Dean of St.Paul’s in the Reigns of K.Henry VII. and
K.Henry VIII. and Founder of St.Paul’s School:with An Appendix, Oxford at the Clarendon Press,
1823, pp.265-268.
(69) John B.Gleason ,op.cit., p.175.
(70)アウグスティヌスの影響を受けたコレットの道徳的神学については、次のカウフマン
の文献を参照されたい。Cf., Peter Iver Kaufman, Augustinian Piety and Catholic Reform,
Augustine, Colet, and Erasmus, Mercer Univ.Press, 1982.
(71) J.ジーズラー、森田武夫訳『パウロの福音理解』ヨルダン社、1987、p.199.
(72) 13 の書簡の内、ロマ書 I 及び II、コリント書、ガラテヤ書、ピリピ書 I、テサロニケ書、
ピレモン書のみが疑問の余地なく真正とされている。青野太潮「パウロ」(『キリスト教
人名辞典』
、日本基督教団出版局、1986 所収)p.1074f 参照。
(73) 山谷省吾『パウロ』弘文堂、1947、p.118f.
(74) 吉崎彦一『使徒パウロの研究』新生堂、1929,p.474f.
(75) 村田四郎「新約聖書」(『キリスト教大事典 改訂新版』
、教文館、1983 所収)p.581.
(76) Donald R.Kelly, Renaissnace Humanism, Twayne Publisher, 1991, p.64.
(77) John Colet, Opera, Vol.1,op.cit. p135f.
(78) John Colet, Opera,, Vol.2, op.cit. p.159f.
(79) J.ジーズラー、前掲書、p.197.
(80) John Colet, Opera,, Vol.2, ,op.cit., p.162.
59
(81) Ibid., p.iv.
(82)「コリントの信徒への手紙 1」13 章(『聖書』新共同訳、日本聖書協会、1993、新約聖書 p.317.)
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使た
ちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、た
とえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そ
うとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せ
ず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知
識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れ
よう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のよう
に考えていた。成人した今、幼子を棄てた。わたしたちは、今鏡におぼろに映ったも
のを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、
今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知
るようになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その
中で最も大いなるものは、愛である。
(83) 所謂「三様の愛」と言われる 3 つの愛(「神への愛」dilectio Dei、
「自己愛」amor sui、
「隣人愛」dilectio proximi)という、愛についての3種の捉え方とその秩序については、
「ア
ウグスティヌス以来の伝統」として金子晴勇によって説明されている。そこでは、神へ
の愛によって自己愛も正しく、間違いないものとなり、この正しい自己愛に基づいて隣
人愛も実践可能になるとされ、神から遠ざかっている人はまず自己の救いを愛し、求め
ることから開始しなければならないと説かれ、16 世紀においてこれが「愛の秩序」と
して定着したと論じられている。詳細は、金子晴勇『
「愛の秩序」の思想史的研究』(創
文社、1982、p.59)を参照されたい。
(84) John Colet, edit., Bernard O’Kelly and Catherine A.L.Jarrott, John Colet’s Commentary on
Firs Corinthians, A New Edition of the Latin Text, with Translation, Annotations, and
Introduction, Medieval & Renaissance Texts & Studies, Binghamton, 1985, p.256.
(85) Ibid., p.258.
(86) Ibid., p.256.
(87) Ibid., p.258.
(88) Ibid., p.258.
(89) Roy W. Battenhouse, ‘The Doctrine of Man in Calvin and in Renaissance Platonism’, Journal
of The History of Ideas, Vol.9, No.4 (Oct.1948), Univ. of Pennsylvania Press, pp.447-471.
(90) John Colet, op.cit p.258.
(91) Ibid., p.262.
(92) Ibid., p.264.
60
(93) Ibid., p.258.
(94) Ibid., p.258.
(95) Ibid., p.268.
(96) Ibid., p.258.
(97) Ibid., p.258.
(98) Ibid., p.264.
(99) Ibid., p.266.
(100) Ibid., p.256.
(101) Ibid., p.268.
(102) Ibid., p.266.
(103) Ibid., p.271.
(104) Ernest William Hunt, Dean Colet and His Theology, S・P・C・K, 1956, p.84.
(105) John Colet, Opera, Vol. 2, op.cit., p.110f.
(106) 生地竹郎「中世イングランドの神秘思想と文学」(生地竹郎、ピーター・ミルワード監修
『ルネッサンス期の神秘思想』荒竹出版、1978 所収) p.11.
(107) 同書、p.12f.
(108) Translated by R.A.B. Mynors and D.F.S. Thomson, Annotated by Wallace K. Ferguson,
op.cit.,Vol.8(letter no.1211), p.235.
(109) Ibid., p.235f.
61
第 3 章 コレットと新プラトン主義の思想的接点—コレットの教育観の哲学的源流—
前章で考察してきたように、キリスト教的人文主義者コレットの聖書解釈は、中世以来のス
コラ神学的方法論とは大きく異なっていた。すなわちスコラ的方法論とは、トマス・アクィナ
ス Thomas Aquinas(1225?-1274)の
『神学大全』
Summa Theologiae(1266-未完)に代表されるように、
ある問題 quaestio に対して、是と否 sic et non の論拠をそれぞれに提示し、そのどちらが正当
なのか討議を重ね、合理的な根拠を示して神を弁証しようとするものである。またそうした作
業は、聖典を細々と分割していくことでもあり、結局のところ、神の教えとは本来何であった
のかが見失われることにもなったのである。
一方コレットの聖書解釈では、
原典主義に立って、
権威的注解書に解釈の論拠を求めず、神学上の難解な議論が排除され、聖典を神の真意が通底
する一つの流れの中に捉え、キリストが民衆に語ったであろう平易な言葉の理解を目指したの
である。また、現実的問題に目を向け、聖なるテキストが真に人々の心に息づく生ある道徳的
教説として導き出されていた。実践的宗教家であるコレットの聖書解釈においては、実社会に
生きるキリスト者としてのあるべき姿を人々の心の内奥、霊魂に訴えかけようとする姿勢がみ
られ、そこに霊的解釈に依拠する彼独自の解釈上の方法論が認められたのだった。
このコレットのキリスト教的人文主義を大きく特徴付ける霊的解釈には、当時フィチーノに
よって再興された新プラトン主義的神秘思想が大きく影響している。よって本章では、彼のキ
リスト教的人文主義を大きく特徴付けることとなった霊的解釈の思想的根拠を明らかにしたい。
そこでまず、プロティノスが創始したとされる新プラトン主義について概略する。
次に、コレットに直接的に影響を与えたフィチーノにおける新プラトン主義的神秘思想につ
いて考察する。
第 3 に、フィチーノとコレットとの往復書簡を読み解きながら、彼らの間で交わされた思想
的交流というものをみてみる。
最後に、新プラトン主義の影響を受けたコレットの神理解、人間観、神と人間との関係性を
整理し、その上で、このようなコレットの思想的立場が、いかに彼の教育観に関わっているの
かという点について言及する。
第 1 節 フィレンツェで復興された新プラトン主義
これまでも繰り返し述べてきたことではあるが、コレットのオックスフォードにおける聖書
講解釈には、フレンツェで展開されたフィチーノによる新プラトン主義的神秘思想が強く認め
られた(1)。コレット自身が、どのような経緯で、フィチーノからそうした思想的影響を受けた
のかについては、これまでの先行研究においても明確にはされていない。そもそも、フィチー
ノが主宰したプラトン・アカデミーはおろか、フィレンツェ自体へもコレット自身が足を踏み
入れたかどうかについて、現存する史料から検討するならば、何らの確証も得られないのが現
状なのである。
しかし、彼がプラトン・アカデミーで実際に学んだかどうかという事実を問うよりも、オッ
クスフォードにおける聖書講解の中で、確かにコレットがフィチーノの言葉を頻繁に引用し、
解釈していた事実(フィチーノの主著である『プラトン神学—霊魂不滅(不死)論』
、プロティノス
訳、
『書簡集』から)や、イタリアからイングランド帰国後に交わされたフィチーノとの 4 通の
62
往復書簡(2)を手がかりとして、彼とフィチーノとの思想的交流を捉えていくこととしたい。
なお、フィチーノから受けたコレットの新プラトン主義の影響に関する先行研究としては、
すでに言及してきた通り、マイルスやジェインらの著書が挙げられよう(3)。
本節ではまず、プロティノスによって創始されたとされる「新プラトン主義」Neo-platonism
とはどのような思想であるのかということについて、その概略を述べることにしたい(4)。
新プラトン主義とは、3 世紀頃から 6 世紀にわたる古代ギリシャ最後の哲学学派に始まると
され、
『エネアデス』Enneadesを著したプロティノスPlotinos(205?-270?)を創始とする。プロティ
ノスの思想には、次のような独創的で明らかな特徴が認められる。すなわち、彼はプラトン的
伝統が受け継がれてきた思想に、神秘的要素を一層加え、その思想的根本には、唯一の者は多
数のものの原因であり、永遠であるとのプラトン的イデア論が継承されながら、全てのものが
その根源である「一なるもの」の発出によって存在すると見方がなされているのである。この
ため一般的には、プラトン主義者と区別されるところの新プラトン主義者とは、万有の根源を
「一者」と捉え、それを善のイデアと捉えていると言われているのである(5)。
ところでプロティノス以前の、いわゆる新プラトン主義と言われる前の、プラトン主義とい
うものについても若干触れておく必要があろう。そもそもは、アスカロンのアンティオコスな
る者が、
プラトンの創設したアカデメイアにおいて教育を始めた時に遡るものである。
それは、
紀元前 1 世紀から紀元後 1 世紀の間にみられた初期プラトン学派とも呼ばれ、そこでは、プラ
トンの部分的著作の講読、或はプラトン継承者の解釈を学んでいたとされる。彼らは、すべて
現実に存在するものの根源として考えられた「超越的一者」を教説として捉えたのだった。
やがて 1 世紀から 3 世紀においてみられた「中期プラトン学派」では、これまで想定されて
きた「超越的一者」に対し、
「神」Theos という名を用いて、単一なる最高存在者という、一神
論的性質が付け加えられたのだった。それは、多々ある神々を一つに統括する神概念であり、
そのため中期プラトン学派に属する人々が、プラトン自身よりも明らかに「一神論者」と言わ
れる所以なのである。こうしてプラトンの形相ないしイデアは、最高の神の思惟として受け止
められていったのだった。イデアは、神の精神の中に永遠の存在をもち、神が世界を創造する
時の「型」とされたのだった。こうして、最高神の超越性は強調されていくようになるのであ
る。
長い歴史的過程を経て変遷していったプラトン的伝統の思想的系譜を定義付けていくことは
極めて困難な作業であると言わざるを得ない。しかしながら、3 世紀に入って、そうした系譜
を継ぎながらも、新プラトン主義というものを創始したとされるプロティノスの思想は、それ
までの中期プラトン主義者たちが捉えてきた種々の考えをまとめ上げ、深化させていったもの
なのである。
プロティノスの弟子であるポルフュリオスPorphyrios(232?-305?)が、師匠の著作『エネアデス』
を公刊したことで、後代に広くその思想的影響は及ぶところとなったのだった。そこには、万
物の根源として捉えられてきた神的一者に向けて我々人間は帰一するべきものであるという、
人間の善的神への帰還が提唱され、知性的面と倫理的側面における人間の生き様への努力が求
められたのである。また宇宙がダイナミックな動きの中で捉えられ、人間は「一」なる源泉か
ら「流出」emanatioし、下降していくに従って劣化していくが、やがては根源的存在へと帰一
するべき動きの中にあると見なしたのであった。すなわち、彼の考えの中では、人間の魂は、
その創造主から発出したものであるから本来的には神的、永遠なるものではあるが、肉体に宿
63
ることでそうした要素が損なわれており、それ故、魂は本来の姿に戻るために浄化(カタルシス)
「内観」(8)を説く姿勢が
されるべきであるとされた(6)。そこには「清浄の意識」(7)が強くみて、
読みとれるのである。
このようにプラトン主義から新プラトン主義へと、後年の研究者によってあえて名称が変更
されるに至ったプロティノスの思想の最大の特徴としては、
それまでのプラトン学派に比して、
知性的努力と倫理的努力の意味が人間の生そのものへの意味として大きく取り上げられ、こう
した哲学的思索の内に我々人間は、真の自我を発見し、その根源的存在である善へと至るもの
とされたということがあげられよう(9)。
水地宗明は、このような新プラトン主義の定義については、歴史的経過の中で、それぞれに
受容され、
多義的な用いられ方をした事によって、
曖昧さを拭うことは出来ないとしながらも、
(10)
次の 4 条件を挙げているのであった 。1)超有的超知性的な最高始元の設定、2)直知界での
知性と魂の区別、3)発出論の承認、4)我々の魂の最高始元との合一の可能性の承認。
プロティノスの提唱した新プラトン主義の考えは、その後の時代においても決定的権威とい
うものにはなりえず、コレットの生きた時代に至るまで多くの展開と変容をみた。そのため、
コレット自身の受けた新プラトン主義というものがどのようなものであったのかという点に移
って論じていかなければならないであろう。彼が直接影響を受けた新プラトン主義思想とは、
中世においては一部の著作しか知られていなかったプラトンの全ての著作をラテン語訳したフ
ィチーノによって伝えられた哲学的営為なのである。そこで次に、ルネサンス時代に代表的な
哲学者の一人として挙げられるマルシリオ・フィチーノについてみてみることとする。
第 2 節 コレットに与えたマルシリオ・フィチーノの哲学
マルシリオ・フィチーノとは、先述したようにプロティノスによって確立された新プラトン
主義が中世を通して断片的な捉え方をされてきた中で、プラトンの全著作Platonis opera ominis、
プロティノスの『エネアデス』をギリシャ語原典からラテン訳するなど、ルネサンスの時代に
入って新プラトン主義の復興の機運を作った立役者である(11)。
1433 年にフレンツェ近郊のフィリーネで誕生した彼は、フィレンツェ共和国の事実上の支配
者メディチ家の侍医を務めていた父親の縁もあって、メディチ家庇護を受け別荘を貸し与えら
れ、そこで知的サークルたるプラトン・アカデミー(実際にはメディチ家の別荘を借り、またそ
の実体はよく分かっていない)を主宰した(1462 年か 1463 年頃)。しかしながら 1494 年にメディ
チ家がフレンツェを追放されると、30 年に及んだその活動もまた衰えていくのである。
そうした間に行われたフィチーノの主立った諸活動をみると、プラトンやプロティノス以外
にも、(偽)ディオニュシオスの全著作のラテン語訳を手掛けた他、主著である『プラトン神学
—霊魂不滅(不死)論』Theologia Platonica de immortalitate animorum(1482)や『キリスト教論』De
christiana religione(1476) 、『愛の書(プラトンの響宴註解)』In convivium Platonis de amore
commentarium(1469)を上梓している。
司祭職にあった彼は『プラトン神学』からも分かるように、プラトン哲学とキリスト神学の
合致を説き、キリスト教神学をプラトン主義によって基礎付けようとした。したがってフィチ
ーノは、プラトン主義を復活させ、キリスト教との調和を図ろうとしたという点からみれば、
「敬虔なる哲学と学識ある宗教の内的証明に努めた」(12)と言えるのである。そこには、全ての
64
哲学的営為が最終的には神へと向けられるべきものであるとする立場がみてとれるのであった。
そこで、この異教哲学とキリスト教の融合というフィチーノの哲学について、コレットに与
えた影響という点から鑑みて、特に世界の根本原理に対する捉え方と、愛の捉え方の 2 点に絞
ってみてみることとする。
まず、世界の根本原理という形で捉えられるところの創造の順序、或は世界の形成に対する
考え方であるが、彼は『プラトン神学』の中で、次のような 5 つのレヴェルの階層構造(ヒエラ
ルキア)を想定した。それは、最高位に値する神 Deus から順に、天使 angelus、霊魂(人間)anima、
質 qualitas、そして最下位に属する物体 corpus までの存在の諸段階であった。
このような宇宙における「存在階層論」Hierarchy of Being をもってして、世界の根源である
創造主を完全に一者たる神 penitus simplex とし、なおその上で「一致の概念」concordantia と言
われる多様なものの調和を強調し、
統一への方法をダイナミック且つ神秘的に示したのである。
また、そうした 5 階層にあって人間(霊魂)というものが、諸存在の中間に位置するものと捉
えられ、
宇宙が統一体として形成されるために、
最高位と最下位とを連綿とつなぐ人間の役割、
霊魂の働きというものが強く意識されることとなった。すなわち、霊魂が最高位と最下位とを
つなぐ媒介的存在、結合部、
「世界の絆」mundi copulaとして捉えられ、その霊魂は、永遠なる
もの、善なるもの、美なるものを求めて、超越者へと向かって上昇することによって、人間は
神との霊的合一が図られると考えられたのだった。彼の考えにおいては、多様な存在である人
間は、善のイデアたる「一なるもの」へと向かう高次の霊魂の働きによって、物質世界を支配
し、単なる獣とは異なって、霊的世界と繋がることができると見なされた。そのため、神と一
体となりうることで、天使をも上回る人間の本性に対して、尊厳性と卓越性が認められること
となったのである。また、このようなフィチーノの哲学的思索において、神と一体となった霊
的存在たる人間の不死性が保証されたのだった(13)。
次に、愛の捉え方についてみてみることにする。フィチーノは、プラトン的愛の概念である
「エロス」Erōs とキリスト教的愛の概念である「アガペー」Agapēとが相反する関係にないこ
とを論じていた(14)。それは、プラトン的エロスをキリスト教化しようとする試みでもあったと
解すことができよう。
さてプラトン的愛とは、人間的欲求に発する自己愛とも言うべきもので、キリスト教的愛で
ある神への全面的献身とは対立すると捉えられがちである。これに関してフィチーノは、独自
の解釈を行い、霊魂に世俗的愛と天上的愛の 2 つの愛の両相をみてとった。人間は天上的愛に
よって神を愛し求めようとするが、世俗的愛によっても永遠なるものを産出する事ができるの
である。その上で、彼は獣的愛に堕する世俗的愛の誤用に注意を促し、人間の霊魂にとって天
上的愛こそが重要であるとしたのだった。
人間の霊魂が永遠なるもの、善なるもの、美なるものに向かった時、そこに内在していた世
俗的愛はキリスト教的愛caritasへと昇華するのである。元来万物の創造主たる神から流出した
「偉大さ」magnitudo、
「有益さ」utilitasが本
人間的な愛であるエロスには、
「高貴さ」nobilitas、
(15)
質的には認められるとされたのだった 。また神の愛によって結合された人々は、互いに兄弟
として一つの精神的共同体を形成するものであると見なされた(16) 。一者より創出された多様
なるもの、すなわち神より創造された人間が、現世においてその始元である神との合一を目指
すには、神的愛が必要とされたのである。
このように、異教哲学とキリスト教神学との融合という点から愛に対するフィチーノの捉え
65
方を簡潔にみてきたが、実のところ後述するように、愛そのものについて、或は知性との関係
において彼が愛をいかに捉えていたのかを論じることは、本論の域を越えた極めて困難な作業
であると言わざるを得ないという点を付記しておく。
さて、上述のフィチーノの新プラトン主義思想は、基本的にはプロティノス派の流れを汲み
ながらも、中世においてそこに神秘思想を加えたキリスト教思想家(偽)ディオニュシオスから
も影響を受けていた。コレット自身もまた、アンブロジオ・トラヴェルサーリAmbrogio
Traversari(1386-1439)がラテン訳したディオニュシオスの『天上位階論』De caelesti hierarchiaや、
『教会位階論』De ecclesiastica hierarchia、またルフェーブルが訳したディオニュシオスの著作
を読み、それらに関する注解書を出している。この、一者なるものと多様性をもつものとの関
係性については、新プラトン主義の根本思想をなすものとして、伝統的に取り上げられてきた
問題でもあった(17)。
コレットのディオニュシオスに関する解釈をみてみるならば、ディオニュシオスは「一者」
unityの概念を善性、或は神性と置き、他方で「多なるもの」multiplicityを悪と捉えた上で、愛love
すなわちキリスト教的愛charityは、人間の霊魂が到達することのできる最も高い次元のもので
あるとみていたのだ、とされている(18)。コレットによればディオニュシオスが、父なる神から
発出される光である恩寵は、人間の霊魂を照らし、その明るさと温かさをもって、人間が分裂
や弱さといった状態から統一や調和の状態へ、キリストの愛に満ちた世界へと引き上げられる
とみたと捉えていたのである。このようにディオニュシオスの影響を受けて、コレットもフィ
チーノも、一者と多様なものとの神秘性を帯びた関係性を捉えていたのである。
また、こうした思想的影響を考慮すればこそ、ディオニュシオスの神秘神学を受け入れたコ
レットや、或は、ルフェーブルなどは霊的解釈を重視する傾向にあったことが理解され、エラ
スムス、ヴァッラなどは、ディオニュシオスから距離を置き、文献学的解釈を重視していたこ
とも理解されるのである(19)。
以上、異教哲学とキリスト教神学の融合というフィチーノの哲学的営為を、特に世界の根本
原理に対する捉え方と、愛の捉え方という 2 点に絞る形で考察してきた。そこには彼が「霊魂
の問題を論ずる学問ほど、人間の生き方を教えるものはない」(20)と述べていたように、霊魂の
問題を中心に、復興せしめたギリシャ哲学をあてがいながら、神へと向かって人間の精神(霊魂)
が浄化されることで、神を認識するに至るのだとする彼の哲学上の姿勢を見いだすことができ
よう。後述するようにコレット自身、フィチーノに宛てた書簡の中で、
「あなたの書簡は、単に
生きるためのものではなく、よりよく生きるためのものであると私には思われます」(21)Tua
epistola non solum vivo, ut videor, sed bene vivo.と書き送っているのである。
熱烈なフィチーノ賛同者であったコレットは、このようなフィチーノにみる新プラトン主義
的神秘思想に強く感銘を受けた。
「古典的根源に帰れとの標語のもとにプラトンとパウロが結ば
れ、古代哲学とキリスト教信仰の間の障壁」(22)を取り除こうとしたフィチーノ自身が、心なら
ずも未完成に終わらせたパウロ書簡における聖書研究をコレットが受け継ぐ形で、
「イングラン
(23)
ドに初めて本格的に新プラトン主義を持ち帰った」 のである。そこで次に、フィチーノとコ
レットとの直接的な関係性について、実際に彼らの間で交わされた往復書簡を中心にみてみる
ことにする。
第 3 節 往復書簡にみるコレットとフィチーノとの思想的交流
66
オックスフォードの図書館でコレットとフィチーノとの往復書簡を見つけたジェインによれ
ば、彼らの間で交わされた書簡は、1498 年から 1499 年までの計 4 通と推測されている(24)。そ
こでまず、書簡そのものを取り上げる前に、その背景にある両者の思想的関係性にふれておく
ことにしたい。
コレットが 1467 年に誕生した時、フィチーノはすでに 34 歳となっており、フィレンツェの
プラトン・アカデミーを主宰していた。その後、司祭職に就いたフィチーノであったが、その
活動はイタリア国内にとどまり、生涯自国から出ることはなかった。他方で大学を卒業したコ
レットは、少なくとも 1493 年(26 歳)から 1495 年(28 歳)の間、イタリアを中心としたヨーロッ
パ大陸を巡遊したのだった。この間、60 歳代となっていたフィチーノの方は、かなり名の知れ
た学者となっており、多くの著作物を出している(25)。
結局コレットは、フィチーノと一度も出会うことなくイングランドに帰国したが、同年に出
されたフィチーノの『書簡集』Epistolae(1495)を、イタリアかフランスか或はイングランドのい
ずれかの国で手に入れたとされている。コレットがフィチーノのどの本を読んだのかについて
ははっきりされていないが、この『書簡集』と、先に出版された『プラトン神学』の 2 冊につ
いては少なくとも読んだであろうと言われている(26)。
イングランドに帰国して 2 年後の 1497 年(30 歳)には、
コレットはオックスフォードにおいて、
『プラトン神学』や『書簡集』にみられるフィチーノの言葉を多く引用しながら、パウロ書簡
に関する聖書解釈講義を開始している。
この聖書解釈には、
幾度も繰り返し述べているように、
フィチーノの新プラトン主義的神秘思想の影響が強く認められるのであった (27)。
翌 1498 年になってコレットは、フィチーノに宛てて初めての書簡を送っている。こうして両
者の間で計 4 通の書簡のやりとりが行われたのだった。以下、その書簡の内容をみていく事と
するが、残念な事にそれは長くは続かなかった。というのも、コレットから初めて書簡が出さ
れた翌 1499 年には、フィチーノが 66 歳でその生涯を閉じてしまったからである。
このように、二人の間で交わされた 4 通の往復書簡は、聖書解釈講義を始めたばかりの若き
聖書研究者と、
晩年の偉大なる老哲学者との間で交わされたものだったということが分かろう。
コレットは、イタリア滞在中にフィチーノ自身には会わなかったが、帰国後に(結果的にはフィ
チーノ最後の仕事となり、途中で止まってしまった)パウロ書簡の解釈を手がけ、自身の聖書解
釈に大きな影響を与えたフィレンツェの偉大なる哲学者に対し、書簡をしたため送っていたの
である。この書簡自体は公刊されることを前提には書かれていなかったと思われる。コレット
側の手元に残っていた手書きのままの書簡、以下それらを実際にみてみることにしたい(28)。
書簡 A—1498 年? コレットからフィチーノに宛てられた書簡
書簡 A は、現存していない。しかし、翌年のフィチーノが書いた書簡 B は、コレット書簡に
対する返事の内容となっていたため、最初にコレットから書簡が出されていたと推測されてい
る。次に述べる書簡 B の内容を察するに、書簡 A の内容とは、コレット自身が聖書解釈をする
にあたって参考にしたフィチーノ自身に対する敬愛の念を示すものであったことが想像される。
書簡 B—1499 年 2 月 フィチーノからコレットに宛てられた書簡
67
書簡 B には、まず「フィレンツェのフィチーノより。あなたこそが賞賛されるべきあるとこ
ろの、私を賞賛してくれる、ジョン・コレットへ」Marsilius Ficinus Florentinus Johanni Colet colenti
pariter et colendo.という言葉で始まっている。このことから、先述したように書簡 A がコレッ
トからフィチーノに対して賛美の辞を送ったものであったことが分かる。
さて、フィチーノはコレットに対して次のようなことを書いている。
「愛の力は、愛されてい
る者を驚くべき仕方で変容するだけではなく、愛されている者の姿を自らの中により良く再構
築するものなのであります。
」Vis enim amoris est non solum amantem transformare mirabiliter in
amatum, sed etiam amati formam apud se in melius reformare.と。更に「私の最も愛するジョンよ、
月が水に光輝いて映っているかのように私の精神が私の書いた書物の中に光輝き投影されてい
るのをあなたが見るやいなや、あなたはそれが自身の精神性と類似する光であるとみて、恋に
落ちたのであります。それ故、この突然の愛によって圧倒されたために、あなたは私を月では
なく、太陽であると捉えたのでありました。そのために、あなたは私のことをいつも太陽に例
えるのであります」Tu igitur, amantissime mi Joannes, quum primum spiritus nostri lucem in scriptis
ferme sicut lunam in aquis lucentem intuitus es, quasi tuo spiritui congruam ardentius amavisti et amore
captus subito solem accipisti[sic]proluna.Itaque me solem sepe vocas. と。
書簡 B には、おおよそこれ以上の内容のことは書かれていない。すなわちこれは、フィチー
ノが自身への熱烈な一ファンに宛てた、一種の返礼のようなものなのである。彼は自分への賛
同者を「愛する者たち」と呼んでいた。コレットをはじめとする多くのフィチーノ賛美者が、
愛 amor の力によって、実物以上にフィチーノを良く受け止めてくれて嬉しく思う、というよ
うな趣旨のことを書き送っていたのである。
書簡 C—1499 年?4 月 コレットからフィチーノに宛てられた書簡
書簡 C には、2 つの草稿が現存している。コレットとフィチーノとの間で交わされた書簡は
すべて、コレット自身が書き写した形でコレットの元に残されていたものである。公刊される
ことを前提として書かれたものではなかったため、綴りや文法上の誤り等の不備が多く、全体
的に不完全なものとなっている。書簡 C の最初の草稿は、僅か数行で途切れており、ほぼ同じ
文言が第 2 の草稿として残されていた。ここでは草稿 2 のみを扱うこととするが、この書簡自
体文面が途中で切れてしまっている。
書簡 C の草稿 2
書簡 C の草稿 2 の冒頭は、次のようなコレットの言葉で始まっている。
「私によって慕われ、
讃えられるべきマルシリオよ、あなたの本を読んでいる時、私は生きているという実感がもて
ます。もしあなたに実際に会うことが出来るのであれば、私は生きていることを一層実感とし
て強く感じることでしょう。あなたの書簡によって、私は単に生きるのではなく、より良く生
きているように思われるのです。
」Tuos libros legens, ut videor vivo, quanto magis te videns viverem
vidende et colende Marsile.Tua epistola non solum vivo, ut videor, sed bene vivo. 或はまたコレットは、
「あなたに会うという希望によって私は生き、あなたに一目会うことを期待しながら、死んで
68
い く の で あ り ま す 。」 Spe vivo videndi tui spem[sic]morior, expectans(ut videor)nimium
contemplationonem tui.など、フィチーノへの熱い思いを綴っているのである。
このように書簡 C もまた、コレットからフィチーノへの熱烈なファンレターのようなもので
あったことが分かる。最後には、フィチーノが生きている限り、自分も生かされ、また生きて
いけるという主旨の文章が書かれ、その途中で切れてしまっている。
書簡 D— 1499 年?7 月 フィチーノからコレットに宛てられた書簡
書簡 D は、
「知性」intelligentia と「愛」amor の相違について書かれた、言わば「知性と愛の
問題」に関する内容となっている。そのため、先の書簡 C の後半部分で、コレットがこの問題
に関して何らかの質問を行ったと考えられる。
さて、フィチーノは、まずこの書簡の冒頭において「知性と愛の間には次のような違いがあ
ると、私には思われます」と切り出し、
「それは、知性とは何よりもまず先立つもので、愛とは
その後に続くものであるということです。
」Hoc inter intelligentiam et amorem interesse puto;quod
Intelligentia parit amorem:amor funditor in Intelligentia.と述べている。また「知性は愛を生み出し、
愛は知性へと注がれるのです。知性はむしろ内に向かい、愛は外へと向かっています。知性は、
結局のところ、より純粋で、より鮮明で、より真なるものです」とし、愛よりも知性の方が善
なるものに近いことを示唆しているのであった。
更には、愛と意志を同定とするフィチーノは、
「知性は純粋なもので、意志を純化するもの」
Intellectum autem serenam et liquidam voluntatem.であるとし、知性より生ずる意志、或は愛とは、
知性に比べて「慎重さに欠け」minus considerata、
「無分別なもの」temeraria であり、また「粗
野」crassum なものであると書いている。
結局のところ、
「煙に巻くような言い回し」(29)the smoke of his(Ficino’s) terminologyを使ったこ
の書簡D全体からは、知性というものが愛や意志に勝るとするフィチーノの主張を読み取るこ
とができるのである。しかし、この見解は、それまでの彼の見解とは異なるものであった。
そもそもフィチーノの中には、人間は魂を構成する「知性と愛」の両翼をもって神に向かっ
て飛ぶものなのだとする基本的な考えがあり、その上でこれまでは、1495 年の『書簡集』にも
みられるように、一なるものへと近づくには、愛の方が知性を上回るのだとする見解を有して
いた。しかし、神の把握には霊魂の内の知性か愛か、そのどちらがより必要とされるかの問題
は、フィチーノ自身が揺れ動いていた困難な問題だったのである。
フィチーノ自身、書簡Dの中でこのような結論付けを、
「不可解なもの」mysteriusであろうと
しながらも、愛の優位を信じてきたコレットに対して理解を求めているのである(30)。そのコレ
ットは、書簡Dに対する返事を送っていない(見つかっていない)。また、知性と愛に関して述べ
たコレット自身の体系立ったテキストもない。従って、このフィチーノの知性優位説に対して
コレットがいかなる見解を持ち得たかについては、これ以上直接には知ることはできないので
ある。
フィチーノとコレットとの思想上の関係性を論及してきたジェインは、この書簡 D を手がか
りに、その背景に潜む両者の人間観に対する相違を明らかにしている。ルネサンス期に特徴と
してみられた彼らに共通する新しい人間観については詳述するが、ここではジェインの言葉を
借りながら述べることとする。
69
書簡Dで下された知性優位の結論には、人間が知性によって天上界へと上昇、或は地上界へ
と下降することを自由に選択する存在なのだとするフィチーノの楽観的人間観がみられるとさ
れる(31)。そこには、後述するように、神の捉え方においてさえ、真、善、そして美を追求する
ギリシャ哲学を加えながら、常に哲学的思索の中に置いた知性派の哲人司祭フィチーノの思い
を感じることが出来よう。
他方コレットであるが、この書簡を受け取った後も、愛を重視するその姿勢を崩すことは生
涯なかった。その背景には、コレットの中には、人間の霊魂は下降し、堕落する危険性を孕ん
でいるため、より道徳的な働きかけ、愛を必要とする存在なのだとする悲観的人間観があると
される(32)。
しかしながら、コレットの多くの諸言説をみる限りにおいては、ともすると下降しがちな魂
を内在する人間であるが、それでもなお、善なる天へと向かって自らを上昇せしめる可能性を
も秘めているものであるとする人間に対する信頼を彼の中に感じることができるのである。こ
うした点は、前章においてコレットが行ったパウロ書簡「コリントの信徒への手紙 1」13 章に
関する解釈からも十分に確認される見解であろう。
実践的宗教家であるコレットにとっては、哲学者フィチーノのような「知性に対する熱烈な
思い」intellectual enthusiasmとは対照的に、神の恩寵に導かれるところの、神からの愛、人間か
ら神への愛、そして人間同士の、他者との関係性に重きをおいたところの愛の実践という、
「道
(33)
徳に対する熱き思い」moral zealが強いのであった 。
以上、コレットとフィチーノとの間で交わされた 4 通の書簡を基に、彼らの思想的交流をみ
てきた。ここで今一度整理してみるならば、最初の 3 通の書簡は、若きコレットがいかに老哲
学者フィチーノを敬愛していたかが分かる内容だった。そして最後の 4 通目は、フィチーノが
最終的に導き出した知性と愛を巡る知性優位という結論を、コレットに理解してもらおうとす
る内容だったと言えよう。後のコレットの諸言辞をみる限り、彼がフィチーノの晩年のこの見
解に表立って賛同の意を示すことはなかったが、人間は身体と霊魂から成り、その霊魂が身体
を支配し、諸存在の根源たる創造主へと昇華するのであるとする、神との霊的合一を説くフィ
チーノの霊肉二元論的人間観は、最後までコレットの中に生き続けたのであった。
ところで、知性優位か、愛優位かという点で揺れ動き、この書簡を見る限りでは知性優位と
も捉えられるフィチーノ自身においても、結局のところは総じて、知性によって神を認識し、
意志、或は愛によって神を模倣するという、言わば知性と意志との双方をもって人間は善なる
神の高みに近づかんとする見方を堅持した点は、書き添えておかなければならないであろう。
いずれにせよ、神の高みへと人間が近づくために、換言するならば、キリストの徳を感受す
る人間となるために霊魂の内でも知性よりも愛の重要性を説いた、特にフィチーノの初期にみ
られた考えは、コレットの聖書解釈方法や、或は後述するように、聖パウロ学校の教育の在り
方においても表出されていったのである。
以上、コレットの聖書解釈に影響を与えた新プラトン主義的神秘思想についてみてきた。次
節では、そうした思想的特徴をもつコレットの信仰理解を今一度整理し、それが彼の教育観の
中にいかに反映されたのかについて論じることとしたい。
第 4 節 コレットの新プラトン主義にみる教育的展開—神理解と人間観を中心にして
70
4-1 「善・美・一者」なる神—向かうべき教育目標
コレットの聖書解釈におけるプラトン的伝統という観点から分析したマイルスによれば、次
のような神に対するコレットのプラトン的見方が明らかとなっている(34)。それはすなわち、
「美」(36)pulchritudoそして「一者」(37) unumなどである。
「善」(35) bonitas、
更にコレットは、プロティノスの流出説を想起させるところの、
「善から善がくる、したがっ
て善からきたものは善であり、神からきたものは善である。なぜなら、神ご自身が善だからで
ある」(38)For it is from the good that good comes;and what comes from the good is good;and whatever is
from God is good, foe He is Goodness itself:Nam bonum ex bono est, et ex bonobonum;et a deo quicquid
est, bonum est, qui ipse est bonitas.とも述べていたのだった。また、すでに前章のパウロ書簡「コ
リントの信徒への手紙 1」
13 章に対するコレットの聖書解釈を考察した中でも指摘したように、
コレットは「キリストを通して人間の本性を一体となる愛に満ちた存在」(39)としての神を見据
えたのであった。
聖パウロ学校では、子どもたちが向かうべき究極の対象に神を置いていた。そこで、コレッ
トの捉えた神概念というものから、必然的にこの学校での理想的教育目標、或は彼独自の教育
観といったものが導き出されてくる。
まず、コレットが神概念の中に善を捉えたことに注目するならば、彼は聖パウロ学校の子ど
もたちに対して、罰を下す、恐るべき神というよりは、自分たちが向かうべき善なる対象とし
ての神を定めたと言えるのである。善そのものとして受け取られた神自身が、積極的に向かう
べき倫理規範として示され、教育目標として据えられたのだった。このようにして、コレット
の学校の子どもたちは、恐れ多い権威者の下で、その圧力にひれ伏し、あるべきキリスト者と
ならざるを得ないという状況ではなく、善へ積極的に、自律的に導かれることとなったのだっ
た。
また神を美なるものとして捉えた点に注目してみてみるならば、コレットにおいて美を愛で
るということは、神を礼賛することであった。その意味で聖パウロ学校では、美なるものへの
礼賛の場であったと見なすことが出来るのである。
修辞教育を例にとるならば、
典雅な書き方、
優雅な話し方を修得することで人間が神へと繋がっていくという言葉の教育として見なされる
ものであり、他方で彼が厳しく糾弾した乱れたラテン語などは、言葉の教育を通じて神へと人
間性が高まっていくとする場合には、全くそぐわないものであったのである。よってコレット
の理想として求める言葉の教育とは、単に表面的で、衒学的な性質の強い古典語学習という類
いのものにとどまるものではなく、神を讃えるという意味を内包して、聖パウロ学校規則にお
いてコレット自身の案で示されたように(聖パウロ学校規則で定められた教育内容については、
後の章で詳述する)、純粋なラテン語や教父らが使用した聖的で、純粋なラテン語の修得が目指
されたのであった。こうして、美なる神が座すにふさわしい、虚飾を排した内面的な美が醸し
出される教育が行われたのである。
そして神を「一者」と見なした点についてみてみるならば、彼はあたかもピラミッドのよう
に、その頂に単一の神を置き、下方へと下がってくるにしたがって、より多様なものが存在す
るとする存在位階論に立っていたことが理解される。その上で、多様性の統一にみる単一性へ
の回帰という考え方を有していたのだった(40)。コレットが「三位一体」という時、それは「善、
美、一者」(41)と表現され、或は「神は善そのものである、それは統一と美と完全さである」(42)
71
などど表現されるのである。
したがって、聖パウロ学校の子どもたちもまた、精神的に統一されていない多様な存在と位
置付けされ、一つの規範に向かって霊的に一体となることが本来の人間のあるべき方向性とし
て見定められたのであった。フィチーノが主宰したアカデミア・プラトニカもまた、精神的な
つながりを何よりも重視した「霊的共同体」(43)としての役割を担っていたのだった。こうした
姿勢は、コレットが学校用に作成した子ども向けの祈り文の中でも確認できるのである。
「どうか、この学校を日々前進させ、自ら学ぶことが出来るよう導き、教えたまえ。そして
全き神の子であるイエス・キリストを通じて、あなたを私たちの中に通じさせたまえ。最も恵
み深きイエスよ、あなたもまた、あなたの父、私たちの父と共に、あなたのすばらしい魂を、
あなたの子どもたちの中に為させたまえ。またイエスよ、私たちをこの世において学び、真似
させたまえ、やがて幸福の内に、あなたと共に一つになるでしょう。
」(44)
新しい聖書解釈によって打ち立てられたコレットの神理解において、聖パウロ学校の子ども
たちは、近寄り難い、決して到達することの出来ない存在者の絶対的な支配の下で、その権威
と抑圧にひれ伏し、強制的な形であるべきキリスト者へとならざるを得ないという状況から脱
すこととなった。この新しいキリスト教教育の中では、むしろ、彼らの内にある自発的態度を
もって善性を有する神へと向かわんとする力を教育によって強めさせようとする方向性が示さ
れたのである。実際に、聖パウロ学校では、当時の文法学校では珍しく体罰に依らない教育が
行われ(45)、子どもたちが進むべき道を自覚していくような教育が周到に整えられることとなっ
たのだった。
聖パウロ学校の子どもたちは、天を仰いで善なる神を讃え、受肉とされたイエスの御業を真
似ることを学ぶのである。そうした学びを通して、キリストの徳というものが子どもたち一人
一人の内に血肉となり、喜びをもって受け入れられ、やがては生きる糧として身に付いた時、
多様な存在だった人間が神と一つになり、愛に生きる精神的な統一体が形成されるとみなされ
たのだった。
4-2 本性の内に神を求める尊厳ある人間—意志ある主体としての生徒像
コレットもフィチーノ同様、その根本においてプラトン的伝統を受け継ぐ霊肉二元論を有し
ていた。コレットは、人間存在について次のように述べていた。
「我々人間は、霊魂と感覚をも
(46)
った身体を有している」 、
「人間は、身体と霊魂という分けられた本性から成り立っている。
」
(47)
と。その上で、身体に包まれた霊魂の在り方を次のように捉えているのであった。
「我々人
(48)
間は、貧弱で澱んだ身体の中に包まれている」 poor murky bodyと。
このような解釈は、彼が人間存在というものを身体と共にある霊魂、身体に包まれた霊魂と
見なしていたことを意味するであろう。また、身体に閉じ込められた霊魂という形で語られる
ところの、人間に対するコレットの見方においては、人間が本来あるべき姿としての霊的人間
となるために、肉的部分から何としてでも脱していかなければならないという強い意志と、同
時にそうした生の人間の在り方を見据えた上での、もがきうろたえる悲観的視点が伺えるので
ある。
72
しかしながら同時に、道徳的に堕落し、肉の世界へと属する危険がありながらも、そこから
這い上がろうと苦しむ姿には人間が本性的に良き存在へとなろうとする意志が働いていること
を認めざるをえないのである。コレットが強く影響を受けたフィチーノの存在位階論において
は、天上界から地上界までを繋ぎ止める、宇宙の絆としての人間の霊魂の役割が強調され、そ
こに人間の尊厳性、卓越性が認められていた(49)。そうしたフィチーノの考えに強く共感したコ
レットの人間の見方においては、神の恩寵の働きを前提としながらも(50)、霊的存在である人間
が本源的で、一者なる、創造主へと帰還するべく、上昇していこうとする主体的本性が確認さ
れるのである。つまり、人間は生まれながらにして、善、美、永遠なるものを欲し、愛し、志
向する存在なのだとされ、身体、肉をまといながらも、その深部にある霊魂が鋭敏に働くこと
によって、神の高みへと近づくことが出来るものなのだとする、ルネサンス期に特徴的な新し
い人間理解が導出されるのである。
コレットは言う。
「小宇宙(ミクロコスモス)たる人間は、全宇宙の縮図である。(中略)肉や最
も下位にある物的世界を一層純化させることにおいて天界のようになる」(51)と。或は、また前
章で扱ったところの、 「人間は、言わば、形をもっていない存在である。人間は霊性さに欠け
る状態にあるが、聖霊のように形作られるために、本来的に聖霊へと向かう傾向にある。人間
「あなたが隣人を最大限に愛している
はその本性において神性を引き出すのであります」(52)、
時、そしてあなたが神やキリストにおいて隣人の優位さを探し出そうとしている時、あなたは
自分自身を最大限に愛しているということであり、そしてあなた自身を最大限に探求している
ということであります」(53)と。
上述のコレットの言葉から、ルネサンス期の特徴的な人間の捉え方とも解されている、霊的
世界と肉的世界という全てを内包するミクロコスモス的な人間像が浮かび上がってくる(54)。バ
ッテンハウスRoy W. Battenhouse(1948)によれば、フィチーノ、コレット、ピコなどといった新
プラトン主義者が捉えた人間観とは次のようなものであった(55)。それは、神が「自らの似像」
imago Deiを人間内部にもたせて人間を創造したため、人間はその始源であるところの、一者な
る創造主へと帰還、或は戻ろうとする本性的傾向があるとされるものだった。また人間は、元
来どのような位階にも属する可能性がある、形の定まらない存在ではあるが、人間のみに神よ
り与えられたその本性によって立つことによって、いかなる存在よりも抜きん出て神に近づく
事が出来るのである。結局のところ、良き人間になろうとすることは、自分自身の内にある神
的部分、善を見つけ出すことに他ならないということでもあるのだ。
ここに、ピコの『人間の尊厳についての演説』Oratio De Hominis Dignitateから一部を抜粋し、
紹介する(56)。
そこで造り主は人間を、不定な姿をした作品として受け取り、世界の中心において
こう話しかけられた。
「われわれは定まった座も、固有の姿形も、おまえ自身に特有な
いかなる賜物も、おおアダムよ、おまえに与えなかった。それというのも、おまえの
願い、おまえの意向にしたがって、おまえが自分で選ぶその座、その姿形、その賜物
を、おまえが得て、所有せんがためである。他のものたちの限定された本性は、我々
によって規定された法の中に抑制されている。おまえは、いかなる制限によって抑制
されることもなく、その手のなかにわたしがおまえを置いたおまえの自由意志にした
がって、自分自身に対して自分の本性を指定するであろう。(中略)おまえは、獣であ
73
るところのより下位のものにも堕落することもできるであろうし、おまえの意向しだ
いでは神的なものであるところのより上位のものに再生されることもできるであろ
う」
このピコの演説には、人間がその自由意志をもってしていかなるものにもなりうるものだと
する、
自律した人間の力に対する強い思いがみてとれる 。
ここで人間は、
世界の中心に置かれ、
いかなる存在ともなれるその決定権が人間の自由意志に委ねられたのである。詳細に検討する
ならば、先述したようにコレットが神の恩寵を絶対的なものとして捉えた点では、ピコとの思
想的相違をみるであろう。また小林博英(1983)が言及しているように、こうしたピコの人間の
自由意志に対する信頼は、エラスムスの教育思想に流れているとの見方もあるのである(57)。コ
レットの中では、神の恩寵と人間の自由意志とのバランスの上では、神の愛の働きに重きを置
いていたことが十分に認められ、
その点ではピコ、
或はエラスムスとも異なる点なのであろう。
では、ピコにとって人間が良き存在へとなるための条件として、神の恩寵を無視し、人間の
自由意志にのみそれを委ねたのかという点からみれば、クリステラーも指摘しているように(58)、
ピコの中でさえ表立っては強調されていなくとも、恩寵を与える神の働きが認められているの
である。それはエラスムスについても同様であり、
『キリスト教兵士必携』に見られるところの
「祈りと知識によって悪と戦う」とした彼の姿勢には、両者の比重の掛け方の違いはあれ、恩
寵を求める信仰心と理性との必要性は十分に認められるところなのである。
このように本論では、フィチーノ、ピコ、そしてコレットに共通してみられた、ルネサンス
の「人間の尊厳」dignity of manに対する新しい主張という点に着目して考察してきた。彼らに
類似し、それぞれの思想の基底部に有する新しい人間に対する捉え方というものを、今一度こ
こで端的に整理するならば、人間とは宇宙の中心に位置すると同時に、霊的部分も肉的部分の
どちらも含み、宇宙を取り込んでいるミクロコスモスなる状態にあるとする点であろう。フィ
チーノにおいて、宇宙を内包する人間の尊厳性は、その「中心性と普遍性」(59)という言葉で表
現され、神的な似像と下位の諸事物の概念と範型を所有する人間(=霊魂)は、
「全て」ominiaな
のであった。そこでは「世界の絆と結び目」として霊魂(人間)が捉えられ、そこに尊厳ある存
在としての人間が強く意識され(60)、また神を求める意志ある主体者として人間に、創造主へと
自らを高めていかんとする本性的志向性も認められるのであった。
したがって新プラトン主義の影響を強く受けたコレットの人間観から、彼が如何に子どもと
いう存在を捉えていたのかも導出されよう。エラスムスは書簡において(61)、コレットが子ども
たちを豊かな実りをもたらす穀物の種であるとみなしていたと記していた。またコレットは子
どもに向かって、その「白い手」を天に向かっておあげなさい、と言っていた(62)。このように、
コレットは子どもというものを、誕生したその瞬間から善ある性を有し、本性的に天に向かっ
て伸びゆく、汚れを知らない尊厳ある存在とみなしていたと言うことが出来るのである。聖パ
ウロ学校では、善に向かって本性的に伸びていこうとする芽を子どもの内に認め、霊性さに導
かれながらも、それに応えようとする芽を摘むことのないよう、その主体性を否定することの
ないよう配慮されたのだった。
コレットは、
聖パウロ学校へ入学を希望する保護者に向けて次のような規約を提示していた。
「仮にあなたの子どもに学習する意欲があるならば、十分に勉学が身に付くことが出来るよう
になるまで、この学校で学び続けることにあなた方は賛同するべきであります」(63)と。彼は、
74
何よりもキリストの教えを学びとろうとする子どもの主体性を重んじ、親の都合によって勉学
が中断されないよう、入学前に約束させていたのである。
また聖パウロ学校では、教育の門戸を特定の階層に限定することなく、出自を問わず入学を
希望する者に対して広く開いた。その規模は、ウィンチェスターやイートンなどの既存の他の
文法学校を大きく上回る。教育の本質が単なる文法教授にとどまらず、キリストに関わり、そ
こに向かうものである以上、聖パウロ学校は普遍性を有していなければならないのである。
4-3 宇宙における人間の位置ー存在位階制に立つ教材論と教師論
これまではコレットの人間観を理解するために、人間の本性に注目し、彼がいかにそれを捉
えていたのかという点を論じてきた。ここでは、宇宙における人間の位置、神と人間との関係
性からみていくこととする。
フィチーノの存在位階論によれば、霊的魂を内在する人間は、最高位の神から最下位の物質
に至るまでの宇宙の中間に位置し、知性と意志(或は愛)の両翼をもって神の高みへと上がると
されてきた。コレットの場合、知性と意志の双方の働きを認めつつも、神の愛に導かれるとこ
ろの、愛そのものの働きを重視する傾向にあったのだが、基本的立場としてはフィチーノのこ
うした存在位階論を受け入れていたことは確認してきた。
したがって、霊と肉との媒介役であると同時に、霊的世界へと浄化しうる可能性をもった人
間観を有するコレットの視点に立って、聖パウロ学校で試みされた教育実践というものをみて
みると、次のようなことが導出されるのである。それは例えば、
「学級」form の設置である。
初級から上級へと学級毎に学習進度が進み、それに相当する教材が据えられたことは、内在す
る霊性さをいかに表出させていくか、より高次の霊的人間へと上がっていくかというコレット
の存在位階に依っていたとみなすことも出来るのである。各学級での言葉の学習においては、
余分な知識が剥ぎ落とされ、子どもたちをいかに本質的なものに近づかせ、神の言葉を彼らの
中に生きた信仰として受け止めさせるかが求められていたのである。
具体的には、まず書かれた文字としての言葉を正しく理解するために、換言するならば聖な
るテキストに対して字義的解釈が出来るようになるために、ラテン文法の基礎と初心者向けの
カテキズムが学ばれるのである。初級段階でのラテン語文法書の草稿(64)及び初心者用のカテキ
ズム(65)については、コレット自らが執筆している。
次に、文法を修得した生徒は、修辞学習へと進むことになる。言わば中級段階としての言葉
の学習である修辞教育では、キリスト教的著作を中心とする模範文より多くの金言、格言が引
用された。またそれと並行して中級者用のカテキズムが用意されたのだが、修辞用テキスト『言
葉と内容の豊かさについて』(66)と中級者用カテキズム「キリスト者の手引き」(67)は、エラスム
スが作成したものだった。
最後に、上級段階へと進んでいくことになるが、ここでは宗教的著作を霊的解釈にしたがっ
て読むということが目指された。読解に使用されるテキストは、聖霊が宿る、霊性さを高める
ものと見なされ、子どもたちは聖性さを帯びた言葉と共に抽象的な表現によって書かれた文脈
を捉えながら啓示を感受するものとされたのである。あたかもコレット自身が行ったオックス
フォードでの聖書解釈を修得するかのように、聖パウロ学校の生徒は言葉の訓練を通じて神の
愛を鋭敏に捉える感覚を養っていくのである。こうして低次から高次へと段階的で体系立った
75
学習が実践され、それに伴って子どもたちもまた、より霊的人間へと高められていくものと期
待されたのだった。
さて、他にも存在位階論的な教育実践が散見される。聖パウロ学校では、
「頭の子」principal
childと呼ばれる生徒が教師の補助役や少年司教式での司教役を務めた。彼は、フィチーノの説
く「学識と内的な霊性さ」(68)の双方正に兼ね備えた者だった。そうした子は、より神の高みに
近い子と見なされたと言え、他の子どもたちの模範的存在とされたのである。一人一人の生徒
が神と直接つながっていることが理想とされつつも、現実的にはそのようにはいかないもので
あるということもコレットは知っていたであろう。
「少年イエス」の様な、子どもたちにとって
の身近な手本を彼らの眼前に置いて、具体性をもたせ善なる存在を示しながら導いていこうと
したのであった。
したがって聖パウロ学校の教師も、より神に近い霊的指導者としての立場にあることが求め
られた。コレットが作成した「聖パウロ学校学校規則」(69)に明記されていたように、教師らは、
単なる言葉を教えるだけの教師として役割を負うのみならず、キリストの精神性を伝えるだけ
の資質も同時に要求されたのである。子どもたちの聖霊を呼び覚ます、或は彼らが生まれなが
らに内在しているはずの神性さを削り出すことが出来る、言わば彫刻家のような教師像が理想
として定めされたのであった。言葉の教育を通じて善ある者へと人間性を高めるという任にあ
たる者は、言葉の表面的・技術的な指導者の枠を越え、言葉の背後にある神の愛を伝達する者
でなければならないのである。
子どもたちを霊的人間へと引き上げるとされた霊的魂。この人間的本性たる霊魂の働きを支
える知性と愛の双方が、神へと向かう価値ある学びの中に意識されたのである。無条件に下さ
れる神の恩寵に対して人間は懸命に応えるべきとの立場から、コレットにおいては、知性より
も愛の役割が強調されることとなった。それ故、聖パウロ学校においては余分な知識が削ぎ落
とされ、本質を見極めんとする真に必要な知識と愛を学びとらせるよう計画されたのである。
こうした教育理念を理解出来る者のみが、
聖パウロ学校の教師として迎え入れられたのだった。
後述するように、
コレットはウィリアム・リリーという人物を初代校長として直接任命した。
彼は、
文法教師として卓越したラテン語、
ギリシャ語のセンスを持ち合わせていただけでなく、
コレットの志向するキリスト教教育の在り方を十分に理解し得た人物だったのである。神の言
葉を伝える教師とは、あたかも生きたキリストの見本として子どもたちの前にその姿をさらけ
出すことになろう。内面にある自らの神性さが表出され、子どもたちに伝わらなければ、彼ら
もまた十分にはついて来ないのである。ペテロが海から 153 匹の魚を救い出したように、この
学校教師は「153」人と定められた聖パウロ学校の生徒を引き上げることが期待された(70)。彼
は聖なるテキストを通して、ギリシャ語とラテン語の知識を教え、神の啓示にふれられるよう
注意深く模範文を選び出し、
子どもたちの主体的意志を尊重しながら導き教えていくのである。
しかしながら、教師の役割は教科教育にとどまるものではなかった。それは日常生活全般を
通して遂行されるべきものとされたのである。自ら堕落に陥ることなく自己を律し、そうした
自身の姿を示しながら厳しさの中にも愛情をもって子どもたちと向き合い、魂と魂とを直接つ
きあわせるのである。価値あるものを教えるということは、霊的魂をもって自ら実践的態度で
示し、相手の霊魂とのふれ合いを通じて、その内奥にある善性を目覚めさせ、揺り動かするこ
となのである。
76
4-4 神との直接対話—瞑想・観照体験
コレットもフィチーノも神の真の把握には、
「瞑想」contemplatioによる霊的合一という神秘
的体験が欠かせないという立場をとっていた。フィチーノは『プラトン神学』において「人間
にもっとも大切なことは、この人間霊魂の本質を自覚することであり、それを介して永遠なる
存在に触れることであり、そのためには瞑想が重要である」(71)とし、究極的には精神的体験で
ある瞑想が人生の主要目的とさえみなしていたのであった(72)。そのため、彼が主宰したプラト
ン・アカデミーは「瞑想の神殿」とも呼ばれ、年齢や職業に関係なく知的交流を望むあらゆる
者に開放され、一つの普遍性ある教育の場として提供されていた(73)。
こうした瞑想を重んじるフィチーノの考え方は、コレットの中にも同様に認められた(74)。彼
は聖書解釈講義の中で、禁欲と瞑想が神の啓示たるキリストの言葉の解釈には必要であると述
べており(75)、また平信徒である市民向けに書いた祈祷文においても、瞑想を伴いながら祈りを
捧げるよう戒めているのであった(76)。
世俗において修道院的な瞑想の体験を勧めるという、言わば「瞑想的生活」Vita comtenplativa
の推奨は、聖パウロ学校の子どもたちの日常生活においても励行されている。彼らは、断食と
共に瞑想の習慣を幼い内から自然を身につけるよう、コレットの下で指導されていたのであっ
た(77)。このようなコレットの、幼い子どもたちに厳しい霊的生活を求める立場に理解を示さな
かったエラスムスではあったが、瞑想の内に神との霊的一体性を持とうとするフィチーノから
の思想的影響を受けたコレットの立場からすれば、当然のことであったと言えよう。
霊性さを重んじるという立場はまた、次のような教育的展開もみせた。聖パウロ学校の子ど
もたちは、詩編を読むために、まず聖霊に語りかけることから始められ、暗記や討論を避けて、
そこに書かれてある聖なる言葉の背後を読み解くよう教えられたのである。聖なる書物の中身
を議論の対象とすることは、スコラ神学者に任せておけばいいとされ、文法学校間で行われた
弁論術の競い合いなども禁止されていたのだった。
「人間は、神を観照し、自己を観照するとい
(78)
う瞑想行為を通じて、神の愛を感じるものです」 と、コレットは述べている。霊性さを有す
る人間、神の愛を感知することが出来る人間の育成に主眼が置かれたコレットの教育的立場か
ら鑑みれば、知識とは霊的合一を図るに至るまでの下準備として認識されたのである。
これまでも「コリントの信徒への手紙 1」に対するコレットの解釈の中で言及してきたよう
に、彼によれば、人間は最高位の天上界より発出される神の愛によって霊的魂へと引き上げら
れ、より高次の存在とされるのである。愛は、結びつきを強め一つになる力をもっている。こ
「温
のことは同様に、
「ローマの信徒への手紙」に対する解釈においてもよく示されていた(79)。
かさと明るさ、これら二つの原理は共に最も高いところから最もも低いところへと秩序よく発
せられるのです。また下方に下っていくにしたがってそうした明るさと温かさは失われていく
ものなのです。しかしながら、明るさと温かさが到達したところでは、可能な限りにおいてそ
の効力は保たれるのであります。その効力とは、明るさと温かさが内部にまで染み通った、多
種多様なものが一つになった時に、閉じ込められ、保持されるものなのであります。隣人とい
う、言わば自分の近くにいる弱き者と一つになり続けるということは、高次にある者の絶え間
ないケアということなのです。そしてそれはまた、高い所にある者の役目として、より下位に
ある者に対して気を掛け、思いを尽くしてあげるということでもあり、そうしたことによって
統一と命が保たれるのです」(80)と。愛の観照よって多様なる人間は神へと一つになり、地上の
77
実社会においては調和と平和が保たれるとされたのである。コレットが作成した、聖パウロ学
校の子ども向けのカテキズム(81)には、神が愛するということ、人間が神を愛するということ、
そして人間同士が愛するということの 3 つの愛の形が書かれていた。子どもたちは、常に神を
欲し、己自身の内にある神性と向き合い、そして他者へと霊魂を向けるという祈りという瞑想
体験が、教育の中にも組み込まれていたのである。
このように、俗人子弟が通う聖パウロ学校では、
「禁欲」ascetismus という形での実践的信仰
生活が教科教育と並行して進められたのであった。このことはフィチーノが、フィレンツェ市
民の生活の中に、
「活動的生(活)」Vita activa のみならず、
「瞑想的生(活)」Vita comtenplativa を導
入しようと試みていたという点と共通しており、新プラトン主義的神秘思想の影響を受けたコ
レットの教育的特徴の一つと言えるであろう。
おわりに
以上、霊性さを重んじるコレットの特徴たるキリスト教的人文主義に影響を与えた新プラト
ン主義について考察してきた。特に本章では、人間の生に対して知性的努力と倫理的努力とを
謳ったプロティノスの新プラトン主義をコレットの思想的源流としてみながらも、より直接的
な形で影響力を与えたフィチーノの新プラトン主義的神秘思想を中心に検討してきたのである。
霊性さに導かれる霊的人間のみが神の真意を解釈しうるというコレットの聖書解釈上の立場
は、
人間に対して霊魂を内在する存在とみたフィチーノの存在位階論に依拠しているのである。
人間を宇宙の中間に位置するものとみなし、霊的世界と肉的世界をつなぐ媒介役と捉えたのだ
った。フィチーノとコレットに共通する見方においては、我々人間は、神性、或は神の似像と
しての善が本性の内に神より与えられて、創造されたとされるのである。したがって、神に向
かって人間性を高めるということは、霊魂を構成する知性と意志(愛)の双方をもってしてなさ
れると捉えられたのだった。
往復書簡の中で、コレットは人間が神に向かって高まるには、換言するならばキリストの言
葉を知解するには知性と愛のどちらが優位に置かれるべきかという問いをフィチーノに投げか
けていた。この点について、最終的にフィチーノは、その両翼をもって霊魂は上昇するとの見
解を示したのだが、コレットの方は知性に先んじて愛の必要性をみたのである。なお知性と愛
の問題に関しては、エラスムスもまた知性優位の立場を採っていたことが散見されてきた。こ
のような点で思想的差異がありながらも、人間にのみ与えられ霊魂によって、肉的世界はおろ
か霊的世界へも到達することのできる、その人間の本性に対する尊厳性、卓越性を認めたこと
は彼らに共通する人間観なのである。特に、ディオニュシオスの神秘思想に傾倒していたフィ
チーノとコレットにおいては、自らの内にある神性を直視するという瞑想を通じて神と直接対
話し、霊的合一を果たすことが求められたのだった。
また前章でもみてきたようにコレットの立場からすれば、神の恩寵の下で、パウロの言葉を
解しながら、人間にのみ内在する知性と愛の働き(コレットは後者の働きを重視したのではある
が)をもって引き出された神の教えとは、イエス・キリスト自身が隣人のためになしてきた愛、
すなわち慈善的精神の実践なのであった。このように、地上界において我々人間は、キリスト
を真似ることによって、万物の流出元である一者へと帰するとされ、霊魂の不滅へと繋がるの
である。このようにコレットのパウロ書簡に関する解釈は、異教哲学とキリスト教神学の融合
78
を図った新プラトン主義をもって行われた。
したがってコレットにとって子どもという存在は、霊性さを備えているものの、未だ形の定
まらないものとして解され、そこに教育の必要性が認められたのである。彼らを霊的人間へと
高めさせるためには、神の愛の下で生来的に備えているはずの霊性さを彼ら自身に気づかせ、
肉に包まれたその霊的要素を内奥から引き出し、より全面に押し出させていくしかないのであ
る。ものの本質を捉えるために、神の恩寵を鋭敏に感知できるように、肉的な余分な知識は排
除され、霊的魂が鍛え上げられるとされた。そのため聖パウロ学校の子どもたちは、日常にお
いては、瞑想を伴った厳格で禁欲的な信仰生活が推奨され、学校では、愛情深い霊的教師の下
で、聖性さが流れる言葉と作品と対面し、そこからキリストの精神を汲み取るような教育が施
されたのである。
フィチーノを介してコレットが有した神理解、人間観、そして神と人間との関係性は、いず
れもルネサンス期に特徴的な思想なのである。フィチーノ、ピコ、エラスムスに比べると、コ
レットは、神の恩寵に人間の運命を委ねていた傾向は強い。しかしまた一方で、人間が自らの
意志で自らの人生を決定し、社会をも変革できるとする、人間の意志の主体性、可能性を信じ
ていたのも事実なのである。コレットが聖パウロ司教座教会にあった教会付属の既存の学校と
は異なる、新たな文法学校「聖パウロ学校」を設立した思想的背景には、こうした新プラトン
主義的神秘思想の影響があったのだった。そこで思想的根拠に裏付けられたコレットの教育的
試みについては、聖パウロ学校の実際を扱った後の章で具体的、個別的に検証していくことに
し、次章では、16 世紀初頭におけるロンドンの社会的状況と照らし合わせながら、このコレッ
ト独特のキリスト教的人文主義の考えがいかに説教を通じて実社会の生活の中に現出されてい
ったのかをみてみたい。
註
(1)トラップが明らかにするところによれば、コレットはフィチーノの主著である『プラト
『書簡集』Epistlae からフィチーノを理
ン神学』Theologia Platonica、プロティノス訳、
解し、またピコ・デラ・ミランドラの『ヘプタプルス』Heptaplus、
『弁明』Apologia に親
しみ、アンブロージョ・トラヴェルサーリとルフェーヴルのディオニュシオス訳を使用して
いたとされ、そうした点からコレットに流れる新プラトン主義をみている。Cf., J.B.Trapp,
An English Late Medieval Cleric and Italian Thought , Essays on the Renaissance and the
Classical Tradition, XII, op.cit., p235.
(2) フィチーノとコレットとの往復書簡(コレットからフィチーノへ;1498?年 12 月付け、フィ
チーノからコレットへ;1499?年 2 月付け、コレットからフィチーノへ;1499?年 4 月付け、
フィチーノからコレットへ;1499?年 7 月付け)や、コレットがフィチーノの『書簡集』を注
記した際のメモなどが残されている。Cf., Sears Jayne, John Colet and Marsilio Ficino, Oxford
Univ. Press, 1963, pp.81-131.
(3) ` Leland Miles, John Colet and Platonic Tradition, George Allen and Unwin LTD., 1961.
a Sears Jayne, op.cit.
(4) 新プラトン主義思想を概略するにあたっては、以下の文献を参考にした。
①水地宗明監修『新プラトン主義の影響史』昭和堂、1998、p.296.
79
②R.T.Wallis, Neoplatonism, second edition, Gerald Duckworth, 1995(1972), p.xi.
③伊藤博明『神々の再生—ルネサンスの神秘思想』東京書籍、1996、p.91.
④エルンスト・カッシーラー、花田圭介監修、三井礼子訳『英国のプラトン・ルネサ
ンス』工作舎、1993.
⑤P.O.クリステラー、佐藤三夫監訳『イタリア・ルネサンスの哲学者』みすず書房、1993.
⑥上智大学中世思想研究所編『中世研究 第 2 号—キリスト教的プラトン主義』創文社、
1985.
⑦ A.ヒラリー・アームストロング(A.Hilary Armstrong)、熊田陽一郎訳「新プラトン主義」
(フィリップ・P.・ウィナー編、荒川幾男編『西洋思想大事典 2』平凡社、1990 所収)
pp.591-598.
(5)水地宗明、前掲書、p.10.
プラトン Platon(B.C.427-347)は、永遠の実在、真実在、或は事物の本質をイデア idea
と名付け、それを超越的なものとした。新プラトン主義では、このイデアを宇宙にお
ける諸存在の根源的実在と捉え、中世においては一般的に、神の内にある諸万物の原
型とし、イデア論を基盤において、精神と物質という二元論 dualism 的視点をもって
世界の根本原理を説明したのだった。
(6)根占献一、伊藤博明、伊藤和行、加藤守通『イタリア・ルネサンスの霊魂論』三元社、
1995、p.38.
(7)同書、p.38.
(8)同書、p.39.
(9)プロティノスが主張した新プラトン主義思想について端的に説明されたものについて
は、A.ヒラリー・アームストロング(前掲書)を参照されたい。
(10) 水地宗明、前掲書、p20.
(11)フィチーノに関する文献としては、次のものを参照されたい。根占献一「フィチーノ」
(上智大学中世思想研究所編『ルネサンスの教育思想』上、1995 所収)pp209-235.根占献
一「イタリア・ルネサンスにおけるプラトン哲学とキリスト教神学」
『新プラトン主義
研究』第 7 号、2007、pp.31-38.根占献一「マルシリオ・フィチーノ」(『イタリア・ル
ネサンスの霊魂論』前掲書、所収)pp17-59.根占献一「フィチーノ」(P.O.クリステラー『イ
タリア・ルネサンスの哲学者』前掲書、所収)pp.55-80.特にコレットが受けたフィチー
ノからの思想的影響と、両者の思想的相違について論じたものには、根占献一「フィチ
ーノ」(伊藤博明責任編集『哲学の歴史』中央公論社、2008、所収)pp.179-212 がある。
(12) 伊藤博明『神々の再生—ルネサンスの神秘思想』前掲書、p.91.
(13)チャールズ・B・シュミット、ブライアン・P・コーペンヘイヴァー、榎本武文訳『ル
ネサンス哲学』平凡社、2003、p.150.
(14)ギリシャ的愛の観念とキリスト教の愛の観念については、次の文献を参照されたい。
ニーグレン、岸千年・大内弘助訳『アガペーとエロース I』新教出版社、1963.
(15) 酒井紀幸『ルネサンス思想の旅—美しい世界と人の探求』早稲田大学、2003、p.65f.
(16) 伊藤博明、前掲書、P.107ff.
(17) 水地宗明、前掲書、p.286.
(18) John Colet, Opera, Vol.2, op.cit.,p.xiii.
80
偽ディオニュシオス(希;Dionysios ho Areopagites、羅;Dionysius Areopagita;6 世紀)とは、
プロクロス Proclus(412?-485)の時代における新プラトン主義から影響を受け、神秘的霊感
を汲む系譜を継ぐ中世のキリスト教神秘思想家である。彼は、
『神名論』
、
『神秘神学』
、
『天
上位階論』
『教会位階論』
、
の 4 篇のギリシャ語著作と、
現存する 10 通の書簡を書いている。
彼のギリシャ語の著作は、9 世紀にはラテン語訳された。
そのディオニュシオスは、次のように愛の哲学にみる形而上学的意義を述べている。
「善
と美とはあらゆるものによって求められ、愛され、また愛されんがために選ばれる。この
理由によって、またこの目的のために、低い秩序にあるものは、高い秩序にあるものにお
のずとひかれて、それに愛を感じ、同じ秩序に属するものは互いに愛を分かち合い、高い
秩序にあるものは、深い思いやりをもって慈しむ。また各々は首尾一貫することによって
自分自身を愛する。
、
、
、万物の根源者が、万物を愛し、創造し、完成し、結合し、かつ根源
者のいます方向に向かわしめ給うのは、まさに善が根源者のうちに溢れ出るが故なのであ
る。
」C.ドウソン、野口啓祐訳『中世のキリスト教と文化』新泉社、1983、p.63 参照。
本論の中でも言及しているように、フィチーノ、コレット双方共、ディオニュシオスの
(『天上位階論』
、
『教会位階論』)注解を行っている。これら両著の著者「ディオニュシオ
ス」は、
「使徒行伝」(17 章 34 節)に登場する人物であると当時は信じられていたのだが、
ヴァッラの文献学的な原典批判によって異なる人物であることが証明され、
「偽ディオニュ
シオス」Puesudo-Dionysius と呼ばれるようになった。
なお、グリーソンによれば、コレットは「使徒行伝」に出てくるディオニュシオスであ
ると信じ、彼の隠された意味や寓意的解釈への探求は、パウロの教えを反映し、それを実
行するための正しい方法だと判断していたとみていた、
と指摘している。
Cf.,John B.Gleason,
John Colet, Univ.of California Press, 1989,p.153.
(19)チャールズ・B・シュミット、ブライアン・P・コーペンヘイヴァー、前掲書、p.131.
既に註(1)にも示した通り、コレットはルフェーブル訳のディオニュシオスを読んでいた。
(20) ダグラス・ブッシュ、前掲書、p.57.
(21) Sears Jayne, op.cit., p.82.
(22) 根占献一「フィチーノ」(伊藤博明責任編集『哲学の歴史』前掲書、所収)p.185.
(23) ダグラス・ブッシュ、前掲書、p.78.
(24) Sears Jayne , op.cit., pp.81-83.これらの往復書簡は、フィチーノの『書簡集』には収められて
おらず、1960 年代までその存在がは、明らかとなっていなかった。そのため、高い研究的価
値を有するものであると言えよう。
(25) フィチーノは、1462 年にコシモ・デ・メディチの庇護の下で、体系的なプラトン研究
を開始した。その後、1471 年には Hermetica Pimander を出版、1472 年には司祭職に就き、
1474 年には Della religione cristiana、1476 年には De christiana religione、1481 年には
Contro la pestilenza、1482 年には Theologia Platonica、1484 年には Platonis opera、1489
年には De vita、1492 年には Plotinus、1493 年には De sole et lumine、1495 年には Epistolae、
1496 年から 1497 年にかけては Dionysius、1497 年には Iamblichus、1498 年には
Athenagorae de resurrectione 等を世に送り出した。
(26) Sears Jayne, op.cit, p.43. また、註(1)でも示したように、ジェインの論に加えてトラップ
は、コレットがフィチーノによる『プラトン神学』Theologia Platonica、プロティノス訳、
81
『書簡集』Epistlae の 3 点を読んだことを明らかにしている。
(27) マイルスは、すべてのコレットのテクストにフィチーノの影響を認めている。その
一方で、ジェインは 1499 年を境に、コレットのフィチーノへの関心は薄れたとみてい
る。このような先行研究を受けてグリーソンは、ジェインの論に疑義を呈しながら、コ
レットの思想を特徴付ける聖書解釈に与えたフィチーノの影響を明らかにしているの
である。
(28)オックスフォードの図書館で、コレットとフィチーノの往復書簡を発見したジェイン
は、これらの書簡に A から D まで記号を付けている。本論文においても、このジェイン
の記号に対応する形で書簡を紹介する。
(29) Sears Jayne, op.cit, p.57.
(30)クリステラーでさえも、フィチーノ独特の主張は、
「複雑で、難解で、必ずしも一貫して
いるとは限らない」と言っている。Cf., Paul Oskar Kristeller, Marsilio Ficino and His Work After
Five Hundred Years, Leo S.Olschki Editore, 1987, p.15.また神の直接的認識、見神、至福直観に対
する「知性と認識」或は「意志と愛」の問題は、後者に優位性を置くとしても、フィチーノ
にとって、最終的には霊魂の観想的上昇、瞑想体験への表裏一体をなす二面にすぎず、した
がって、それ程重要視された問題ではなかったとされている。Cf., P.O.クリステラー『イタリ
ア・ルネサンスの哲学者』
、前掲書、p.66f.
(31) Sears Jayne, op.cit., p.57.
(32) Ibid., p.57f.
(33) Ibid., p.77.
(34) Leland Miles, op.cit., 239p.
マイルスは「プラトン的伝統」Platonic Tradition という言葉の中に、次のような諸概念
を内包させている。
1)プラトンの『対話集』を中心にした初期のプラトン主義
2)プロティノスや偽ディオニュシオスと言った新プラトン主義
3)フィチーノやピコらを中心にした 15 世紀フィレンツェのプラトン主義
そして、このようなプラトン的伝統が、コレットの聖書解釈の中にみられたことをマイル
スは明らかにしている。
(35) John Colet, Opera, Vol. 1, op.cit., p.65, p.180.
(36) John Colet, Opera, Vol. 3, op.cit., p.20, p.177.
(37) John Colet, Opera, Vol. 2, op.cit., p.32, p.181.
(38) John Colet, Opera, Vol. 4, op.cit..,p.15, p.174.
(39) John Colet, Opera, Vol. 2, op.cit., p.20,
(40) Ibid., p.26, p.131.
(41) John Colet, Opera, Vol. 3, op.cit., p.115.
(42) John Colet, Opera, Vol. 1, op.cit., p.32.
(43)P.O.クリステラー、佐藤三夫監訳『イタリア・ルネサンスの哲学者』みすず書房、1993、
p.63f.
(44) John Colet, Cathecyzon, in J.H.Lupton, A Life of John Colet, Burt Franklin Reprints,1974, p.290.
(45)オルムによれば、既に 13 世紀の初めより認められる、学校内での厳しい体罰に対する緩和
82
措置について、ウィンチェスターやイートンでは、
「節度ある」体罰が求められ、他の学校にお
いても最終手段として用いるべきであるとの規則が定められていたとされる。またエラスムス
は、手に負えない子どもたちに対し、体罰を下すよりは、むしろ学校から追い出してしまう方
が良いと考えていたとも言われている。いずれにせよ、こうした見解は当時の諸学校が、如何
に厳しい体罰を子どもたちに課していたかを示唆するものであろう。Cf., Nicholas Orme,
Medieval Schools ; from Roman Britain to Renaissancw England, Yale Univ.Press, 2006, p.146.
(46) John Colet, Opera, Vol. 1, op.cit., p.16.
(47) John Colet, Opera, Vol. 2, op.cit..,p.63.
(48) John Colet, Opera, Vol. 4, op.cit..p.26.
(49) P.O.クリステラー『イタリア・ルネサンスの哲学者』
、前掲書、p.65.
(50) コレットが絶対的な神の恩寵を唱えていたことは、前章において言及した通りである
が、他にも次のようなコレットの解釈をもって同様の視点が伺える。
「仮に、統一を図
り秩序を与えるような、言わば高次の力がなければ、事物を構成する諸要素間で対立が
起こるでありましょう。霊的魂のない構成要素であるならば、それは勝手にそれぞれ属
性のままに機能するのです。それは人間も同じ事です。霊と肉とのままでいるならば、
無秩序になり、美とは異なる変形を来たし、歩むべき道を見失うのであります」
、
「仮に、
人間に対して、美なるもの、良き行い、相互の結びつきという点で秩序を回復し、再形
成させ、再統一するための高次の力がなければ、それはあたかも指導者を失った兵、魂
を失った体のように、ばらばらになるのであります。
」Cf., John Colet, Opera, Vol. 4, op.cit..
p.34.
(51) John Colet, Opera, Vol. 2, op.cit..p.133.
(52) John Colet, edit., Bernard O’Kelly and Catherine A.L.Jarrott, John Colet’s Commentary on
Firs Corinthians, A New Edition of the Latin Text, with Translation, Annotations,
and Introduction, Medieval & Renaissance Texts & Studies, Binghamton, 1985, p.258f.
(53) Ibid.,p.270f..
(54)人間をミクロコスモスと捉える思想的系譜は、すでにルネサンスの始まりに位置する、
ニコラス・クザーヌスにまで遡ることが出来る。伊藤博明によれば、クザーヌスは『推
測について』において、人間が感覚、理性、知性を自らの一性の中に内包し、それら
によって、いかなるものにもなりうる存在であるという、ミクロコスモス的な人間像
を有していたとされる。伊藤博明「総論 世界と人間の再発見」(伊藤博明編『哲学の
歴史 3』前掲書、所収)p.40、参照.
(55) Roy W. Battenhouse, op.cit., p.454.
(56) Igitur hominem accepit indiscretae opus imaginis atque in mundi positum meditullio sic est
alloquutus:《Nec certam sedem, nec propriam faciem, nec munus ullum peculiare tibi dedimus,
o Adam, ut quam sedem, quam faciem, quae munera tute optaveria, ea, pro voto, pro tua
sentential, habeas et possideas.Definita ceteris natura intra praescriptas a nobis leges
coercetur….Tu, nullis angustiis coercitus, pro tuo arbitrio, in cuius manu te posui, tibi illam
praefinies.Poteris in inferiora quae sunt bruta degenerare;poteris in superiora quae sunt divina
ex tui animi sententia regenerari.》
ここで抜粋したピコの『人間の尊厳』については、次の原典翻訳集を参照した。佐
83
藤三夫訳編『ルネサンスの人間論—原典翻訳集—』有信堂、1984、p.206f.
またラテン語原文については、次の文献を参照した。G.Pico Della Mirandola, De
Hominis Dignitate, A Cura di Eugenio Garin, Scuola Normale Superiore, Pisa, 1985 .
なお、P.O.クリステラーによれば、ピエトロ・ポンポナッツィ Pietro Pomponazzi
(1462-1525)においてさえも次の言葉において、新プラトン主義者たちに共通してみら
れた人間観がみてとれるとしている。
「人間は単純ではなくして多様な、固定したもの
ではなくしてあいまいな、本性をもっている。そして死すべきものと不死なるものと
の中間に置かれている」P.O.クリステラー「ルネサンスにおける人間の尊厳」(佐藤三
夫訳編『ルネサンスの人間論—原典翻訳集—』前掲書、所収)p.265.
(57)小林博英「エラスムスの幼児教育論」(中野光・志村鏡一郎編『教育思想史』有斐閣新
書、1983 所収)、p.8f.
(58)P.O.クリステラー「ルネサンスにおける人間の尊厳」(佐藤三夫訳編『ルネサンスの人
間論—原典翻訳集—』前掲書、所収)p.259.
(59)同書、p.256.
(60)根占献一、伊藤博明、伊藤和行、加藤守通、前掲書、p.82f.
(61) Trans.by R.A.B.Mynors and D.F.S.Thomsom, Annoted by Wallace K. Ferguson, Collected
Works of Erasmus, The Correspondence of Erasmus, Vol.2,(letter no.237) Univ. of Tronto Press,
1975.
(62) John Colet, Cathechyzon, in J.H.Lupton, op.cit., p.290f.
(63) Ibid., p.285.
(64) John Colet and William Lily, “A Short Introduction of Grammar”, ed.by R.C.A. Alston, English
Linguistics;1500-1800, A Colletion Facsimile Reprints, no.262, Scolar Press, 1970.
(65) John Colet., Cathechyzon, in J.H.Lupton, op.cit., pp.286-290.
(66)ウィリアム・リリーが執筆し、エラスムスが改訂した「八品詞構文について」De
constructione octo partium orationis、及びエラスムスが執筆した「言葉と内容の豊かさに
ついて」De copia verborum ac rerum を指す。Cf., Edit. by Thompson Craig R., Collected
Works of Erasmus, Vol.24, Literary and EducationalWritings 2, (De Copis, De Ratione Studii),
Univ.of Toronto Press, 1978.
(67)コレットの英語によるカテキズムを、エラスムスがラテン語訳したもの「キリスト者
の手引き」Institutum Christiani hominis を指す。Cf. Edit.by John W.O’Malley, Collected Works
of Erasmus, Vol. 66, Spiritulia, Univ.o f Toronto Press, 1988, p.xxxvii.and LB V.
(68)チャールズ・B・シュミット、ブライアン・P・コーペンヘイヴァー、前掲書、p.159.
(69) John Colet., Statutes of St. Paul’s School, in J.H.Lupton, op.cit., pp.272-274.
(70)「ヨハネによる福音書」(21 章 22 節)に登場する 153 匹の魚を引き上げたシモン・ペテ
ロの話から、コレットも聖パウロ学校の定員数を「153」人と定めていた。Cf., J.H.Lupton,
op.cit., p.276.
(71)清水純一「フィレンツェ・プラトン主義—その発祥と展開—」(近藤恒一編『ルネサン
ス 人と思想』平凡社、1994 所収)p.94.
(72)P.O.クリステラー、渡辺守道訳『ルネサンスの思想』東京大学出版会、1977、p.175.
(73)根占献一「フィチーノ」
『ルネサンスの教育思想(上)』上智大学中世思想研究所、東洋
84
館、1985、p.215.
(74) コレットの瞑想を重んじる精神的態度に関しては、多くの先行文献がフィチーノとみ
なしているものの、1984 年に発表されたファサンの研究は、コレットの神秘主義思想
のルーツを、イングランド固有の精神性という新たな視点から説明している。Cf., Vada
Belshaw Fasan, John Colet’s Christian Humanist Spirituality and the English Contemplative
(England), The Univ.of Nebraska-Lincoln, 1984. また、ムアマンも、中世のイングランド
に与えた、フランシスコ会の修道士たちによる神秘主義を述べ、特にその代表的な神秘
主義者として、
『愛の炎』The fire of Love を著したリチャード・ロール Richard Rolle
(1300?-1349)、ディオニュシオスの『神秘神学』Mystical Theology を訳し、また『不可知
の雲』The Cloud of Unknowing を著した氏名不詳の著者、
『完全の尺度』The Scale of
Perfection 及び『混合生活についての書簡』An Epistle on Mixed Life を著したウォールタ
ー・ヒルトン Walter Hilton(-?1396)、キリストの十字架と受難と愛の究極の勝利への確
信をもって「神の愛の啓示」Revelations of Divine Love について書き残し、イングラン
ド神秘主義の顕著な性格を示した隠修女ジュリアン The Lady Julian(1342?-1413)の 4 人
を挙げている。J.R.H.ムアマン、八代崇、中村茂、佐藤哲典訳 『イギリス教会史』聖
公会出版、1991、pp.165-167 参照。
(75) John Colet, Opera, Vol. 2, op.cit., p.110.
(76)「日々の祈り。または、キリスト者の朝夕の捧げー各曜日と、他の機会に行う、祈り
と瞑想のために整理された、信心深い生活のための短い方向付けとして」John Colet,
introduced by Dr Fuller , Daily Devotions. or the Christiaans Morining and Evening Sacrifice.
Digested into Prayers and Meditations, for every day in the Week, and other occasions. with
some short Directions for a Godly Life, J.H.for Edw.Evvete at Green Dragon in St.Paul’s
Church-Yard, 1693. (早稲田大学マイクロ資料室所蔵)
(77)コレットの教え子であるトマス・ラプセットの証言から、コレットが子どもたちに奨
励した禁欲的な信仰生活の様が明らかにされている。Cf., Trans. and annot. by Craig
R.Thompson, Collected Works of Erasmus, Vol.39, Univ. of Toronto Press, 1997, pp.88-108.
そのラプセットであるが、
「声色は他の人と異なり、目つきも違い、表情や身振りは霊
的なものによって強められ、照らし出されていた」と言われるほど、コレットが最も
気に入った生徒だった。Cf., Trans. by R.A.B.Mynors, annot. by Peter G.Bietenholz,
Collected Works of Erasmus, Vol.8, p.286f.
(78) John Colet, Opera, Vol. 1, op.cit., p.90.ibid., vol.3, p.128
(79) このように、そもそもパウロ書簡自体にも神秘主義的傾向が認められるのである。高
橋亘『西洋神秘思想の源流』創文社、1991、p.88 参照。
(80) John Colet, Opera, Vol. 1, op.cit., p.73f.
(81) John Colet, Cathechyzon, in J.H.Lupton, op.cit., p.285.
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