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説
教
詩篇 103 篇 1~5 節
マタイ福音書 9 章 1~8 節
「 自由への宣言 」
2014・1・26(説教14041521)
今朝の御言葉に「中風」の人が出てきます。新約聖書のもともとのギリシヤ語では「麻
痺」という意味の言葉です。今日で言うと「脳梗塞による身体麻痺」の状態だったのか
もしれません。ともあれこの「中風」の人、全身麻痺により身動きのできなくなってい
た人が、主イエスにお目にかかりたいと切に願ったのです。否、それは本当にこの人の
願いであったのかどうか、それもよくわからないのです。この人は身体がばかりではな
く言葉も不自由であったかもしれません。それよりもっと根本的なところで、主イエス
を信じる信仰があったのかどうかも、今朝の御言葉からはわかりません。この人には「信
仰」はなかったのかもしれないのです。
しかし、そこでこそ、ただひとつ確かなことがこの「中風」の人を取り囲んでいるの
を私たちは見るのではないか。それはこの「中風」人の、家族であったか友人であった
か、おそらくその両方であったと思われますが、その周囲の「人々」がこの中風の人を
「主イエスに会わせたい」と心から願ったことです。この「人々」は、主イエスが彼を
癒し立ち上がらせて下さると心から信じたのです。主イエスを神の子(キリスト)と信
ずる人々であったのです。言い換えるなら、この「中風」の人は自分自身の中に確かな
ものが何もなかった。あるのは、身動きのできない体と、その身体を縛りつけている「寝
床」だけでした。正岡子規という人が「病床六尺」という随筆の中で寝たきりの闘病生
活の様子を書いていますが、本当に六尺の「寝床」だけがこの人の人生そのものであっ
たのです。
そして、それは同時に、ここに集う私たちのことでもあるのではないでしょうか。私
たちは「中風」ではないかもしれません。しかし自分自身の中に「確かなもの」が何も
ない状態、自分の中に「救い」を持たない状態、それは私たちと同じではないでしょう
か。否、私たちは「自分には確かなものがある」と反論するかもしれません。しかしそ
の「確かなもの」は、私たちという存在に付随する一時的なものに過ぎません。いまは
「確かである」と思っていても、明日には失われているかもしれないのです。なにより
私たちの「死」という限界を超える「確かなもの」を、私たちは何ひとつ持ちえない。
だとすれば、この「中風」の人こそ私たちの姿なのです。この私たちの無力さをギリシ
ヤ語では「麻痺」
(中風)と表現するのです。確かな「救い」を求めつつも、自分では何
もできない私たちです。自分を支える確かなものが何もなく、あるのはただ六尺の「寝
床」という虚しい現実だけなのです。
この人を(まさに私たちを)家族や友人たちが、寝床に寝かせたままで、必死の思い
で主イエスのもとに連れてゆくのです。主イエスはガリラヤ湖畔のカペナウムという町
のペテロの家に滞在しておられました。マルコ伝の 2 章には、その家の内も外も人が溢
れていて「中に入ることができなかった」ので、彼らはこの「中風」の人を屋根の上に
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運び、その家の屋根瓦を剥ぎ取って穴をあけ、寝床ごと家の中に吊り降ろして主イエス
に会わせたと記されています。驚くべき熱意です。人々の主イエスに対する「信仰」は
それほどのものだったのです。
だから、今朝のマタイ伝 9 章 2 節には「イエスは彼らの信仰を見て」と記されていま
す。主イエスはこの「中風」の人の「信仰」のあるかなしかではなく、彼を主イエスの
もとに連れてきた「人々」の「信仰」をご覧になったのです。私たちの教会のある兄弟
が、ご自分のお子さんに幼児洗礼を受けさせたいと願いました。それはこの御言葉から
その願いを与えられたのだと語ったことがありました。この子にはまだ信仰はないかも
しれない。しかしその父母である自分たちの信仰を、主はこのわが子の信仰として「見
なして」下さる。それをわが子の「救い」と見なして下さる。私たちはその主の恵みを
信じます。そこにこそ本当の「確かさ」があるのです。
だから私たちは、今朝のこの御言葉において、人間にとって最も大切なもの、この世
界でいちばん確かなもの、ただそれだけを見いだすのです。それは主イエスご自身、こ
の「中風」の人に「近づいて」来て下さり「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆ
るされたのだ」と告げて下さったことです。この「しっかりしなさい」とは文語訳では
「心安かれ」です。さらに言うなら「あなたの心を私に投げかけなさい」です。この文
語訳のほうが原文の力強さを良く現しています。もとのギリシヤ語を直訳するなら「勇
気を出しなさい」
(慰められてあれ)という言葉です。全身が麻痺して自分からは何もが
できなかったこの「中風」の人に、主は「子よ、心安かれ、汝の罪は赦されたり」とは
っきり告げて下さるのです。
ところで、私たちはここで意外な事実を見出します。それは普通に考えますなら、主
が「心安かれ」と告げて下さる以上、主はこの「中風の人」の「癒し」を保障して下さ
ったのではないか、そう私たちは思うのです。つまり「心安かれ」とは、このあとに続
いて起こるべき「中風」の癒しとセットである“保障の言葉”なのではないかと私たち
は考える。しかし、ここで主がこの人に告げたもうたのは「汝の罪は赦されたり」です。
「私はあなたの病気を治す」ではなく「あなたの罪は赦された。だから勇気を出しなさ
い」と語っておられるのです。この主の宣言こそが今朝の御言葉の中心なのです。
当時のユダヤの社会と同様、今日の私たちの社会にも意外と根強い考えかたがありま
す。それは、人間の病気や障害や不幸は、過去にその人、また先祖がおかした何かの「罪
の報い」であるという考えかたです。これを「因果応報(因縁)の思想」と申します。
主イエスが宣言されたのは、その「因縁」からの完全な自由でした。あるとき主イエス
の弟子たちは、生まれつき目の不自由な人を見て、主イエスにこう訊ねました。
「先生、
この人がこういう障害を持っているのは、本人が、あるいは親が、あるいは先祖が罪を
おかしたからですか?」これに対して主は「本人が罪をおかしたからでもなく、また親
の罪の結果でもない。ただこの人の上に神の御業が現れるためである」と言われたので
す。主イエスは過去という名の「寝床」に人を縛りつけるのではなく、神の祝福と御業
という恵みの生命の中へと、私たちを招いて下さるかたなのです。
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そもそも私たちが「罪」と聞いて思い浮かべるのは、どういう事柄でしょうか。昔流
に言うなら「火付け泥棒人殺し」が「罪」の代表格です。要するに新聞種になるような
「犯罪」のことです。そうすると、特別な少数の人を除いて、自分には「罪はない」と
主張することも可能でしょう。もっとも「罪」を「法に反すること」と定義するなら、
たとえば車の運転をする人は、毎日のように「罪」をおかしているわけです。ただ私た
ちの心が「麻痺」しているだけなのです。それ以上に大切なことは、私たちは「自分に
は罪はない」と考えることによって、すでに立派に「罪」をおかしている存在だという
事実です。罪はいつも自分の中にではなく、自分の外にあると考えること。これを「自
己弁明の大義名分」と言います。あらゆる争いや混乱、殺人、しいては戦争までも、全
てこの「自己弁明の大義名分」から起こります。人を審くことが自分を生かすことにさ
えなってしまいます。そのくせ自分は、なすべきことはなさず、なすべからざることは
毎日のようにしています。その意味では、私たちたちは毎日、罪をおかさない日は一日
もないのです。
私たちにとって、罪の赦しがどんなに大切であり、不可欠なことであるか、それは私
たちの「罪」は、そのいちばん根本をたどるなら、かならず神に対する「罪」に行き着
くからです。人間関係には神経質なほど気を遣う私たちですが、神との関係には驚くほ
ど無神経です。犯罪には「自己弁明の大義名分」を装う私たちも、神に対する根本的な
「罪」にはそれこそ魂が「麻痺」しているのです。神の前に「罪」を負うているのはま
さに私たちなのです。英語で「私は生まれた」という言葉は受動態(受身)です。
「私は
生まれさせて戴いた」つまり「私を存在に呼び出して下さったかたがおられる」のです。
ならば、神との関係なくして私たちは虚しいのです。アウグスティヌスという 4 世紀の
教父はこう語っています「神よ、あなたは私たちを、ただあなたに向けてお造りになっ
た。だから私たちは、あなたのもとに憩うまでは決して平安をえることはない」
。
この“存在の根源”であるまことの神との関係なくして、私たちの存在と人生は虚し
いものに過ぎないのです。そのとき人生は不確かな偶然の支配するものでしかなくなっ
てしまうのです。偶然が支配するということは“有っても無くてもどうでもよい”とい
うことです。そこには何の意味もありません。私たちはただ偶然この世に生まれ、ある
日また偶然に死を迎えるだけの存在に過ぎなくなります。この「虚しさ」
(虚無)から私
たちを救う力は、ただ神の御子キリストにのみあるのです。まさに十字架の主が私たち
に宣言して下さった福音が大切です。
「子よ、心安んぜよ。汝の罪は赦されたり」
。偶然
という名の「寝床」に縛られて「麻痺」している「無力」な私たちのもとに、ただキリ
ストのみが、近づいて来て手を取って下さり「子よ、勇気を出しなさい」
(慰められてあ
りなさい)すなわち「わたしがあなたと共にいて、あなたの全ての罪を贖う」と語って
下さるのです。
すでに主が、私たちを「子よ」と呼んで下さいました。私たち人間の最大の喜びは、
神を「わが父」とお呼びする、そのような生命の関係へと招かれることです。それなら、
主はそれをご自身の十字架への歩みの中で、私たち一人びとりに「確かな恵み」として
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与えて下さったのです。だから私たちを「子よ」と呼んで下さったのです。私たちの「罪」
を十字架において贖われ、私たちを「神の子」
(御国の民)として下さったのです。
「罪
の赦し」の恵みを満たして下さったのです。そこにこそ、変わることのない平安がある
のです。その平安において「心安んぜよ」と告げて下さる主の限りない愛と祝福におい
て、この「中風」の人は、私たちは立ち上がり、今まで自分を縛りつけていた「寝床」
を(人生を)背負って、平安の内に立ち上がり、主と共に歩む者とされているのです。
3 節以下の律法学者たちの問いはどうでしょうか?。主は彼らの企みを見抜いて大切
な質問をなさいます。
「あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、
どちらがたやすいか」と。私たちならどう答えるでしょうか?。この「中風」の人に対
して「あなたの罪はゆるされた」と言うのと、
「起きて歩け」と言うのと「どちらがたや
すいこと」でしょうか。普通に考えるなら、ただ言葉だけで「あなたの罪はゆるされた」
と言うほうが「たやすい」と思われそうです。しかし主イエスの答えは違いました。
「起
きて歩け」と言うことは、ただ肉体の癒しを与えるだけです。主イエスはそれよりも、
私たちの「病い」の根本原因である「罪」を赦す(贖う)ことのほうが遥かに難しいと
言われるのです。肉体の癒しなら人間にもできるかもしれません。しかし「罪の赦し」
は神のみが与えうることです。どちらが「たやすいか」は明らかなのです。
神の独り子である主イエスが、人となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て御
自身に引き受けて十字架にかかって死んで下さった、この主の身代わりの死によって、
私たちの「罪」は神の御前に赦されたのです。これが「救い」です。本当の癒しはただ
この「救い」にあります。神が独子イエスの命をも与えて、私たちの罪を赦したもうた
ということは、神が私たちを「かけがえのない」ご自分の「子」として限りなく愛して
おられるということです。神のこの愛を受け「わが子よ」と呼ばれて生きるところに、
本当の平安、安心、勇気と慰めに満ちた人生があるのです。
主イエスはこの救いの恵みを(自由への宣言を)私たちに与えるために十字架を担っ
て下さいました。神と私たちの交わりの回復は、主イエスが私たちの罪を背負って御苦
しみを受け、十字架にかかって死なれることを通して実現されたのです。だから「汝の
罪は赦されたり」との宣言には、主イエスの十字架の重みがかかっているのです。そこ
に私たちの永遠に変わらぬ「確かな唯一の救い」があるのです。
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