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佐伯 尤著『南アフリカ金鉱業史 ラント金鉱発見から第二次

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佐伯 尤著『南アフリカ金鉱業史 ラント金鉱発見から第二次
(209) 113
【書 評】
佐伯 尤著『南アフリカ金鉱業史──
ラント金鉱発見から第二次世界大戦勃発まで』
新評論,2003年,viii+337ページ
入 江 節次郎
1
社会的分業の世界的編成を構造的内実とし,世界商品市場と世界金融市場とを資本蓄
積の運動形態である商品経済循環の脈管とする世界資本主義の体制が,19 世紀の 20 年
代に成立して以来,3 つの大きな金鉱の開発に伴うゴールド・ラッシュが発生した.
1 つには,アメリカ合州国のカリフォルニアにおける 1848 年のものであった.これは,
中国から大量の移民が流入する契機になったことから,よく知られているものであった.
2 つには,オーストラリアにおける 1851 年のものであった.この地において労働運動
を経験した白人鉱夫が南アフリカの金鉱山に移住したことにも理由づけられて,次に掲げ
る南アフリカはラントにおける白人労働組合が強固なものになったとされることからも,
この地の金鉱業の発展は重要な意味をもつものであった.
3 つには,南アフリカのラント(Rand. Witwatersrand の略称)における 1886 年の金鉱の発
見に始まるゴールド・ラッシュであった.
このようにして見るとき,カリフォルニアやオーストラリアにおける金鉱業の史的分析
も,無視してはならない研究課題であると考えられるのではあるけれども,専門外の評者
の記述になるが,寡聞にして日本での行き届いた研究成果は知られていない.だから,世
界的な金鉱業史の流れのなかで,南アフリカ金鉱業史を正確に位置づけることができなく
なってしまっているのである.
それはともかくとして,ラントにおける金鉱発見から第二次世界大戦勃発時までの実に
行き届いた実証に裏づけられた南アフリカ金鉱業史が,佐伯 尤教授によってここに世に
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問われることになったことの意義は,誠に大きいといわなければなるまい.
南アフリカのラントにおける金生産は,開発後次第に増大し,1900 年代の半ば以降,
この地は世界最大の産金地になった.
この点は,むしろ評者の思い入れではあるが,このラントにおける金鉱の発見に始まる
南アフリカ金鉱業史が,1880 年代後半という「鋼の時代」といわれる重工業資本主義の
体制が確立した時期にスタ−トしたことに,まず着目しなければならないと考える.この
ことによって,ラント金鉱業発展の歴史的背景を組み込むことができるからである.
この時期は,世界商品市場における通商の多角化の進展に伴い,金本位制の国際的な
普及に条件づけられながら,何よりも世界資本主義の商品経済循環の二大脈管の一つに相
当する世界金融市場において,多角的決済の機能が作動していくことになった.そのこと
は,貨幣金属としての金が,世界金融市場の生命を支える物的な基礎として,よりいっそ
う重要な意義をもつ時代になったことを意味した.
特に 1880 年代は,世界資本主義史における「大不況」の時代であったが,この「大不
況」の時代にもかかわらず,世界金融恐慌が勃発することにならなかったのは,貨幣金属
としての金に裏づけられた金本位制の国際的な普及のお陰であり,この普及を現実化した
のが世界的な金の供給の増大であった.そして,この増大に南アフリカからの金の供給が
大きく寄与したのであった.
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南アフリカの金鉱業の発展が,重工業資本主義の確立期に進展することになったことの
意義は,貨幣金属としての金の役割の増大を背景としたというだけではなかった.
さらに 1 つには,のちの時期になると Rand Refinery というような精錬所が南アフリカ
に設立されて少しだけ事情は変わってくるようではあるけれども,それでもラントで産出
された金鉱石は,ほとんどすべてヨーロッパにおいて精錬されなければならなかったので
あるが,重工業資本主義の時代になるとその輸送の船舶は大型快速鋼汽船となり,運賃
負担を軽減することができるようになったことであった.
2 つには,この金鉱石はその前に積み出しの港まで運ばれなければならなかったわけで
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あるが,これまた重工業資本主義の到来によって,その輸送手段である鉄道を敷設するこ
とが容易になされることになったのであった.
3 つには,この地の金鉱石は次第に表層から深層に掘り進められていったのであるが,
その場合,坑内における輸送や採掘に必要な近代的な手段も,重工業資本主義の発達に
条件づけられて容易に確保されることになったのである.
南アフリカの金鉱業において,機械化が強く求められたのは,深層に掘り進められてい
ったという金鉱石が所在する地域それ自体の地理的な条件のためだけではなかった.そこ
では品位の低い鉱石が掘り進められるようになり,コストを下げていくためにも機械化が
至上命令となったのであった.
このコスト引き下げを達成していくためには,安価な労働力の確保も要請されたわけで
あるが,ポルトガル領東アフリカといった近隣の地域からの労働力の調達ではなお不足
し,1904 年から中国人契約労働者の導入が図られることになっていった.その際にもま
た,重工業資本主義の所産である大型快速鋼汽船の利用によって,この導入の経費負担
を少なくすることができたのであった.
3
南アフリカのラントにおける金生産は,採掘した金鉱石を地上に運び上げるだけで完了
したのではなかった.金鉱石を粉砕してアマルガム処理をしていかなければならなかった.
それまでの工程において,まず,鉱区認可料の支払い,水利権の取得,ダイナマイトや木
材やセメントの購入,砕鉱機の常備や鉱石回収施設の設置のための経費が必要とされた.
労働力導入のための費用も必要とされた.
自然物を採取する産業ではあるが,金鉱業は多額の資本投下を必要とするものであっ
た.特にラントの金鉱の発見から暫くして,この地の金鉱の採掘を行なうには,この鉱山
の地理的条件からして採掘機械への資本投下など多額の資本が必要であることが判明した
のであった.
さらに関連して,ラントの金鉱業を考えていく場合,念頭におかなければならないこと
は,ラントの金鉱が発見される前の 1871 年に,南アフリカのグリカランド・ウェスト
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(Griqualand West)と呼ばれる地方は広大なダイヤモンド埋蔵地帯であることが知られ,こ
の年から,有名なセシル・ローズ(Cecil Rhodes, 1853 - 1902 年)が,この地にあるキンバリ
ーにおいてダイヤモンドの採掘に乗り出し,やがてロスチャイルドから資本を引き入れて
今なお健在なダイヤモンド大企業である「デビアス社」(De Beers Consolidated Mines, Ltd. )
を創設していったことであった.
そして,こうしたローズを先導として,ラッド(Rudd, Charles Dunell) やバイト(Beit,
Alfred, 1853 - 1906年)といったダイヤモンド鉱業の大資本家たちが,まず,ラントの金鉱の
開発に乗り出していったのであった.しかも,彼らの資金ではなお足らず,マーチャン
ト・バンカーなどの資金的な協力が求められたのであった.セシル・ローズがロスチャイ
ルドの資金的な協力を強めたことはよく知られているが,さらに,ローズとラッドの協力
会社であるゴールド・フィールズ・オブ・サウス・アフリカ(Gold Fields of South Africa.
GFSA と略称)社は,ロンドンのマーチャント・バンカーであるアーバスノット・レイサム
商会(Arbuthnot Latham and Co.)などの資金協力をうることに成功したのであった.
ラントの金鉱業開発に資金を投じていくことになった業者は,ロンドンの業者だけでは
なかった.当時ヨーロッパにおける最有力なダイヤモンド商会であったパリのポージェ商
会(J. Porges & Co.)が,ラントにエックシュタイン商会(H. Eckstein & Co.)を設立したの
はその一例であった.このエックシュタイン商会は,さらにドイツ,オーストリア,フラ
ンスのロスチャイルド家の他,パリやハンブルクからも資金の調達を図ったのであった.
さきのバイトは,ポージェ商会のパートナーであったが,ポージェの引退後,もう一人
のパートナーであったウェルナー(Wernher, Jurius Charles)などとともに,ウェルナー・バ
イト商会(Wernher, Beit & Co.)を設立したのであった.この商会の活動について詳しく述
べることはできないが,この商会も,金鉱株ブーム崩壊後の 1903 年 11 月,ラントの金
鉱業の金融を目的としたアフリカン・ベンチャー・シンジケート(African Venture Syndicate
Ltd)を設立するが,ウェルナー・バイトのパートナーやロスチャイルドの他,2,000 株中
の 1,296 株 に つ い て は , Disconto Gesellschaft, Dresdner Bank, Bank für Handel &
Industrie, Nationale Bank für Deutscheland などドイツの 6 銀行と金融業者,フランスの 4
銀行と金融業者や株式ブローカーなどが応募したのであった.このことからも,ラントの
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金鉱業は,国際的な資金の供与にいかに多く支えられていたかが判るのである.
アフリカン・ベンチャー・シンジケートの事業は,1905 年 5 月にロンドンで登録され
たセントラル・マイニング・アンド・インヴェストメント・コーポレーション社(Central
Mining and Investment Corporation, Ltd. CM と略称)によって引き継がれるが,この CM 発足当
時の株式 30 万株(額面 20 ポンド)の株主について見るとき,イギリス系(南アフリカ系を
含む)が 40.3%,フランス系が 48.9%,ドイツ系が 10.0%,その他,オーストリア,ベル
ギー,スイス系が合計して 0.9%というように,この鉱業金融商会も国際金融資本の性格
を体現していたことが知られるのである.
関連して,ここについでながら,20 世紀に入るとこうした鉱業金融商会は,ラントの
金鉱業以外の世界各地の鉱山事業などにも資本を投下していくようになることを忘れては
ならないのである.
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以上は鉱業金融商会の少数例を掲げたにすぎないが,ラントの金鉱業は,その地理的な
特殊性もあって,少なくない傘下会社に対して発起,発行,金融,管理,支配の一体化
した集中機能を営む 9 つの主要鉱業金融商会グループ支配の体制に,1890 年代を通じて
仕上げられることになるのである.1899 年の数字では,こうしたグループに属する鉱山
会社の金生産は,ラントの全金生産の 85.5%を占めるにいたるのである.なかでも,ラン
ト・マインズ社(Rand Mines, Ltd. RM と略称)鉱山グループと称されるものと,エックシュ
タイン商会鉱山グループとを総称したコーナーハウス(Corner House)鉱山グループ傘下の
鉱山会社の金生産は,同じ年の数字で 44.6%に達したのであった.
鉱業金融商会が,傘下の鉱山会社の株式を操作することによって多額の金融利益を取得
したことについては,あえて説明するまでもあるまい.
1900 年代に入ると,鉱山会社の合同運動が進展していくことになるが,当然なことな
がら,この合同は同じ鉱業金融商会傘下のグル−プ内で行なわれていくことになるのであ
る.
そして,これらの鉱業金融商会相互は,対立と競争というよりもむしろ,協調と競争と
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いう関係を保ちながら,特に資本調達の面で協力しながら活動を展開していったのであ
る.
また,たとえば,1908 年に政府採掘権貸与制が導入されて,その権利の入札が行なわ
れた際にも,鉱業金融商会のいくつかがシンジケートを組織して入札に応じるようなこと
もなされたのであった.
すでに,具体的な事例を掲げたように,これらの鉱業金融商会に対して,イギリスやフ
ランスやドイツからだけではなく,オーストリア,ベルギー,スイスなどからも資金が動
員されたことは,世界金融市場を構成する地域的金融市場にとっても貨幣金属としての金
が重要な意味をもつようになった重工業資本主義時代の展開を背景としているということ
ができるであろう.
このように鉱業金融商会は,世界企業ともいいうるような性格をもつことになるのであ
るが,そのグループに属する金鉱山会社が活動する場は,1830 年代にオランダ系移民の
ボーア人が建設し,1852 年にはイギリス政府によって認められたトランスヴァール共和
国という国の内部にあった.この国は,ボーア農民を主体とした国家であり,その政策基
調は必ずしもこの地の金鉱業の期待に充分に添うものではなかった.
たとえば,この政府は,金鉱業にとっての重要な物資であるダイナマイトについて特定
の大企業の独占的供給を認めたり,その他資材の輸入についての関税についての改善を認
めようとしなかったり,金鉱石の鉄道運賃の引き下げに応じようとしなかったり,アフリ
カ人労働力不足への対応を満足のいくように果たしていない,と鉱山の事業者たちは不満
を抱いたのであった.金鉱業関係のイギリスからの移住民に対して,トランスヴァール議
会への選挙権が制限されたことも,金鉱業主側にとっては好ましいことではなかった.
鉱山事業者側が,トランスヴァール政府側への対応のために国家権力に対する国家権力
としてイギリス帝国主義国家権力に依拠することになっていったのは,悲しむべき現実で
あった.もちろん,イギリス帝国主義国家権力の発動を実践したのは,この国家権力の政
治家であり,官僚であり,軍人たちではあった.ともあれ,鉱山金融商会と深い関係にあ
ったマーチャント・バンカーを主導する地位にあったロスチャイルドが,このイギリス帝
国主義国家権力発動の頂点を意味するボーア戦争を支持することになっていくのである.
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なお,この研究では,世界資本主義史の観点から南アフリカの金鉱業を捉えるように心
掛けられているばかりでなく,この産業が所在する地域の経済全体の発達史のなかで果た
した役割についてもしっかりと考察されている.この点,バランスのよく保たれた分析に
なっていることを指摘しておきたいと思う.
また,南アフリカは,1990 年までこの地の人口のうち最多数を占めるアフリカ人が徹
底的に抑圧されるアパルトヘイトと呼ばれる人種差別の体制となるが,この体制の基礎と
なったのが,金鉱業において歴史的に確立された人種差別的な権威主義的労働システムで
あったことを,実に詳しく分析しているのである.
この問題については,まず,ラント金鉱業では,ほとんど常にアフリカ人労働者に対す
る需要が供給を上まわる状態が続いていったにもかかわらず,何ゆえに労働者モノプソニ
ー(買手独占)を確立することができたかが考察される.
詳述することはできないが,この目的に添って,安価なアフリカ人労働者をいつも大量
に確保できるようにするために,1889 年,エックシュタイン商会の主導のもとに設立さ
れた鉱山会議所の労働対策の実践の過程が分析されていく.特に近隣のモザンビーク人労
働者を確保するためのモザンビーク政府への働きかけは,重要な意味をもつものであっ
た.しかも,こうした労働者は逃亡しないようにする必要があった.そのため,鉱山会議
所は,トランスヴァール政府に働きかけて,1895 年,アフリカ人労働者にパスの所持を
義務づける「特別パス法」と称される法律を制定させたのであった.
また,鉱山会議所自身が主体的にアフリカ人労働者の募集を行なうことができるように
(Rand Native
するための組織である「ラント・ネーティヴ・レーバー・アソシエーション」
Labour Association. RNLA と略称)を,この会議所は 1890 年代に設立したのであった.この
組織は,1900 年 10 月には,Witwatersrand Native Labour Association Ltd(WNLA)に改
組されるが,この新しい組織のもとで,南アフリカとポルトガル領東アフリカのモザンビ
ークでの労働者募集が一元的に行なわれていくことになったのである.
とはいえ.ラント金鉱業のアフリカ人の労働力は,なお不足した.ここに,1904 年 5
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月から中国人契約労働者の導入が開始されることになるのである.この中国人労働者が,
ラント金鉱業におけるアフリカ人労働者の不足を埋める重要な役割をいかに演じたかは,
1905 年から 1907 年にかけて,この鉱業における中国人労働者の非白人労働者総数のなか
で占める割合が,30%を越えていたことに何よりもよく示されるのである.
囲い込み構内での劣悪な居住施設に強制的に住まわせられ,働いているときもそうでな
いときも厳重な監視下に置かれたこの中国人の労働体制は,奴隷制度の帝国主義的な再編
成を象徴するものであったといわれるが,この労働体制の採用もまた,この鉱山業におけ
る人種差別的な労働体制の保持・強化に寄与することになったのである.
この中国人労働者については,1904 年に議会が制定した「トランスヴァール労働者輸
入法」
(Transvaal Labour Importation Ordinance)によって,その就労する職種のリストが定め
られ,熟練労働はいうまでもなく,半熟練労働の分野からも彼らは排除されたのであっ
た.
そして,多数の中国人労働者は,手動ドリルによる採掘と,地上における選鉱作業に
従事させられたのであった.実に,中国人労働者の導入によって,低品位鉱業であるラン
ト金鉱業の収益性確保の基礎固めがなされたといいうるのである.
中国人労働者に対するこのような措置は,それから確立していくことになった南アフリ
カ金鉱業における「永久的な」「人種的差別賃金体制」と「ジョッブ・カラーバー」(人種
「人種差別的権威主義的労働システム」形成の決定的な契機となっ
的職種差別),つまり,
た.このシステムが,第二次世界大戦後,南アフリカの他の産業分野にも拡大し,ここ
に,この地の社会全体がアパルトヘイトの体制へと組み立てられることになるのであるけ
れども,その原形は,当初は,金鉱山の安全を期するという目的の絡んだものであった
が,1904 年の中国人労働者の導入を決定的な契機として,作り上げられていくことにな
ったのである.
とはいえ,このジョッブ・カラーバーは,金鉱業内部で一貫して矛盾を孕むことなく作
動したのではなかった.特に第一次世界大戦勃発に伴う白人労働者の不足という状態が生
じてくるようになったため,半熟練労働の分野から非白人労働者を排除することは,鉱業
主にとって不利となり,困難となった.特に,1920 年代に入ると,2 人の操作で手動ハ
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ンマ−による場合よりも 15 - 20 人分の作業量をこなす最新のウェット型ジャック・ハン
マー・ドリルが導入されることになるが,そのためにもこの制度の維持はいっそう困難に
なってきたのであった.この制度は動揺することになった.
もっとも,こうした動揺が生じたにもかかわらず,この制度それ自体は,基本的には,
つまり,「ジョッブ・カラーバーが収益性を維持する範囲に留まるかぎり」,現地の国家権
力に支えられながら金鉱業主によって擁護・維持されたのであった.著者は,こうした経
緯にもかなり立ち入った考察をしているのである.
6
以上,本著の分析に導かれながら,南アフリカのラント金鉱業史の概要を紹介したが,
では,この研究の意義は,具体的にはどのような点にあると考えたらよいであろうか.
まず何よりも,この鉱業の経営の構造は,いくつかの鉱業金融商会が傘下の金鉱山会社
を支配していくという,換言すれば鉱業金融商会が南アフリカ金鉱業支配の「中核」をな
しているという事実をきわめて具体的に明らかにしたことであった.繰り返すようになる
けれども,ラント金鉱業は,しっかりとした金融資本の形態に統括・支配されている特徴
のある構造をもっていることが,ここに明確にされたことであった.
この鉱業金融商会は,トランスヴァールの現地に拠点を置いて鉱山会社を統括する活動
をしただけではなく,ヨーロッパの金融市場にも金融活動の拠点を置くものであった.し
かも,ヨーロッパにおける調達資金の供給者は,イギリス系の金融業者たちだけではな
く,フランス系やドイツ系などの金融業者たちも動員されたのであった.
だから,ラント金鉱業が,まさしく国際的な金融資本の支配下に活動していったこと
が,この著書によって克明に分析されたのであった.
ところで,1889 年にはローデシアにおいて,イギリスの特許植民会社であるイギリス
南アフリカ会社(British South Africa Co. BSAC と略称)が,デビアス社と GFSA の資金を支
柱として設立されることになる.こうしたことから,ラントの金鉱業の金融に深くかかわ
ったロンドンのシティと,鉱業金融商会,デビアス社に代表されるダイヤモンド資本,そ
れにイギリス南アフリカ会社の相互の関係が問題になってくる.
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この問題について,ホブスン(Hobson, John Atkinson, 1858 - 1940 年)をはじめとして,生
川栄治教授や井上 巽教授などは,ロスチャイルドを先頭とするロンドンのマーチャン
ト・バンカーによる南アフリカ金鉱業に対する「重層的連結的支配」の関係として捉えて
いる.こうした理解に対して,著者は,タレル(Turrell, Robert Vicat)やファン・ヘルテン
(Van Helten, Jean Jacques)などの研究成果を汲み込んで,先に述べた南アフリカ金鉱業支配
の中核に鉱業金融商会を置く見解を打ち出されるのである.
さらに,著者は,それにもかかわらず,南アフリカ鉱山業に対するロスチャイルドのか
かわりと影響力とが決して小さなものではなかったことを説いていくために,広く世界各
地における鉱山会社の発起や証券取引に取り組むことを目的として,ロスチャイルドをは
じめとする一団の金融業者が,1886 年に設立した鉱業金融の媒介機関である The
Exploration Company の創業の経緯や活動の態様についての実証分析の成果を組み込んで
いくのである.
また,さきのファン・ヘルテンなどの研究成果を汲み込みながら,金については,その
市場価値を実現していく上で,運輸や保険や精錬に支出される部分を考慮しなければなら
ないが,その部分の事業に対してロスチャイルドが大きな影響力をもっていたことに注目
すべきであるとされる.それに,カリフォルニアの金鉱発見直後から金の主要な輸入業者
であったロスチャイルドが,ロンドン金市場において中軸的な支配的地位を占めていたこ
とは,よく知られた事実でもある.
だから,総じて南アフリカの「金鉱山会社の持株や発起業務におけるロスチャイルドの
かかわりを決して過大視してはならない」し,「ロスチャイルドを南アフリカ鉱山支配財
閥集団の統括的な支配者と把握する見解には無理がある」とされながらも,それにもかか
わらず,ロスチャイルドは,南アフリカ産金の精錬・販売に必要とされる資金力と信用を
もっていたのであり,鉱業金融商会とも深い関係を保っていたことを忘れてはならないと
されるのである.
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ともあれ,南アフリカの金鉱業を統括・支配した鉱業金融商会は,イギリスの金融業者
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ばかりではなく,ヨーロッパの金融業者とも結びついていたことに何よりもよく示される
ように,まさしく国際的な金融資本を体現しているものである.この点からもこの金鉱業
は,世界資本主義の頂点に立つ国際金融資本の支配下にあり続けたことが,この著書によ
って確認されたのであった.
ここに,南アフリカ金鉱業史は,一国経済史的に捉えることができないものであるし,
また,そのように捉えてはならないものであることが,この著書によって教示されている
ように思われるのである.
とはいえ,世界金融市場を支配する地位を占めているこの国際的な金融資本は,国家権
力の発動を要求するとき,手近なイギリス帝国主義国家権力に依存したのであった.この
国家権力も,金の世界的な安定的な供給の確保を守るという点で,この国際金融資本と
利害を共有していたのであった.そして,これに依存しながら,この金鉱が所在していた
地域の政府に対して帝国主義的侵略戦争であるボーア戦争が仕掛けられたのであった.
このように,南アフリカ金鉱業史は,とどのつまり,他ならぬ金融帝国主義史の展開と
いう世界経済史のきわめて重要な局面を刻みつけたものであることが明らかにされたので
あった.この点こそ,実に南アフリカ・ラント金鉱業史研究の今日的意義を内意するもの
であり,評者がこの著書から学んだ最高の教訓であった.
本著は,南アフリカの金鉱業史に本格的に取り組んだ最初の日本における研究成果であ
るが,かなり細やかな分析であり,多数の人物や企業体が複雑に登場する込み入った内容
のものであった.専門外の評者など,正直にいって楽にはなかなか読み進めていくことが
できなかった.しかしながら,誠に不充分ながらも一応読み終えてみるとき,広い視野に
立ちながら,しかも最高度に綿密な分析がなされていることを痛感させられたのである.
「大胆にして細心である」と推察される著者の人柄が偲ばれるような研究成果になってい
るかに思われる.バランスのよく取れた分析がなされている点については,すでに触れ
た.この著者による学界への貴重な貢献を心から讃えたいものである.
(2003. 11. 1)
(著者の佐伯 尤[さえき・もと]氏は,1939 年,愛媛県生まれ.1973 年,一橋大学大学
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院社会学研究科博士課程中退.現在,関東学院大学経済学部教授.専攻,世界経済史・
アフリカ経済.
)
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