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マズローの心理学・科学観 - 高松大学・高松短期大学

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マズローの心理学・科学観 - 高松大学・高松短期大学
研究紀要,54・55,231∼273
マズローの心理学・科学観
山 下 剛
*
Maslow s View of Psychology and Science
Tsuyoshi Yamashita
要約
本稿の目的は、Maslowの心理学観、科学観を明らかにすることである。これまで経営
学において、Maslow理論は、「モチベーションの内容論」としての位置づけが与えられ、
その欲求階層説、自己実現論が取り上げられてきた。しかし、それらの扱いは、Maslow
の考えに十分即したものであったとは言い難いものがある。こうした現状を踏まえ、本稿
では、Maslow理論の背後にある彼の心理学観・科学観に焦点を合わせ、その内容を明ら
かにすることによって、Maslow理論を捉えなおす作業を行なう。
キーワード:Maslowの心理学観、科学と価値、科学と経験、客観性、コントロール
(Abstract)
The purpose of this paper is to clarify about Maslow s view of psychology and
science. In the area of business administration, Maslow s theory has been regarded
as content theories of motivaion, Need Hierarchy Theory and the theory of selfactualization have been attracting attention. However, those previous study were not
sufficient to reflect Maslow s foundational thought. In this paper, thus, the definition of
the Maslow s theory is reconsidered by focusing on Maslow s view of psychology and
science that is behind the Maslow s theory.
Keywords: Maslow s View of Psychology, Science and Value, Science and Experience,
Objectivity, Control
提出年月日2010年11月30日、高松大学経営学部経営学科講師
*
−231−
序.
一つの現象として、経営学において今なお衰えないMaslow理論研究がある。
Maslow理論とは一般に、欲求階層説あるいは自己実現論からなるものと解されている
と言っていい。欲求階層説は、様々に理解されうるものであるが、ごく一般的な理解とし
ては、①人間の基本的な欲求は、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲
求、自己実現の欲求の5つからなる、②これらは、低次から高次まで、その相対的優勢さ
により階層をなしており、最も低次の欲求である生理的欲求から順に、より低次の欲求を
満たすことによってより高次の欲求が発現する、③低次の欲求が満たされた人間は、その
欲求から解放される、ということになる。
この欲求階層説は、McGregorによる経営学への導入以来、「モチベーションの内容論」
(e.g. 二村、2004)、あるいはモチベーション論の中の「欲求理論」として位置づけられる
(e.g. Locke, 1991; Latham & Pinder, 2005)。周知のように、モチベーションの問題は、
「何が人を動機づけるか」という問題と、「どのように人は動機づけられるか」という問題
に区別され、前者が「モチベーションの内容論」、後者が「モチベーションの過程論」と
呼ばれる。Maslowの欲求階層説は、第一に、「何が人を動機づけるか」を明らかにした理
論の一つとして、基本的にモチベーションの内容論と規定され、過程論の中では、モチ
ベーションの一連の過程を構成する不可欠な要素たる欲求理論の一つとして位置づけられ
ることになる。
もっとも、欲求階層説の研究は、現在は全く下火であり、それは、Maslowの欲求
階層説を修正したとされるAlderfer(1972)のERG理論の出現によるところが大であ
る。Alderfer(1972)では、欲求カテゴリーの種類、数、カテゴリー間の秩序につい
て、Maslowとは異なる枠組みを示し、Maslow欲求階層説とともに実証して、自らの理
論の妥当性を示した。単に理論の修正だけでなく、ERG理論自体の妥当性も実証してみ
せたことから、モチベーション論においては、Maslowの欲求階層説はAlderferのERG理
論によって修正されたというのがほぼ定説となっている(e.g. 田尾、1991;二村、2004;
Robbins、1996)。
しかしそれにも関わらず、Maslow研究が現在においても盛んである。というのは、
Maslowの自己実現あるいは自己実現人仮説の研究が盛んだからである。今や、Maslow理
論と言えば、暗黙のうちに、Maslowの自己実現論あるいは自己実現人論を指すことが多
−232−
い。かくして、経営学においては近年、Maslowの自己実現論に関する様々な見解が示さ
れている(e. g. 金井、1999、2001;松山、2000、2003;三島斉、2005、2006、2008;三島・
河野、2005、2006、2009;三島重、2009a、b)。これらの詳細は後述するが、これらは一
般的なMaslow理解の影に隠れた部分を明らかにしたという意味で貴重である。
こうしたMaslow研究の進展は望ましいものである。ただし、いずれもMaslow理論の
核心にまでは迫ることができていないように思われる。振り返ってみると、経営学では、
これまでMaslowの欲求階層説や自己実現論は取り上げられるものの、その背景にある
思想部分を把握する作業は十分に行われてきていないのではないだろうか。このことが
Maslow理論の核心に迫ることができない理由の一つであると考えられる。そこで、本稿
では、こうしたMaslowの思想に関わる部分、特にその心理学観、科学観に注目する 。
1)
この考察によって、Maslow理論の基本的な立場、位置づけというものが見えてくるもの
と考えられるからである。
もちろん、Maslow理論に対しては、既に〈第三勢力〉という位置づけが与えられてい
るし、また、Maslowの科学論の紹介も既にいくつかの研究でなされている。しかし、第
一に、第三勢力という位置づけについては、以下で明らかにしていくMaslowの心理学
観、科学観を見たときには、妥当とは思われない面をもっている。第二に、これまでの
Maslow科学論の紹介は、Maslow理論を構成する一領域として、最後に紹介されるか(e.
g. Lowry、1973;上田、1988)、〈第三勢力〉という理解に関わる限りで触れられるか(e.g.
Goble、1970)、いずれかであって、Maslow理論全体を通底する基礎として十分に理解さ
れてこなかった。またこれらの文献では、科学論に触れてはいても、Maslowの心理学観
について触れるものがほとんどない。しかし、この心理学観は、Maslow理論を理解する
上で、不可欠な彼の根本思想を表現しているものである。したがって本稿では、Maslow
の心理学観、科学観をその自己実現論、欲求階層説を通底する基礎と位置づけて明らか
にしていく。そして、こうしたMaslowの心理学観、科学観を踏まえた上で、これまでの
Maslow理解を批判的に検討しながら、Maslow理論の位置づけについて再考していく。
1.心理学の哲学
Lowry(1973)によれば、正統派科学(official science)の批判をMaslowが行い始めた
のは、1940年代初期からだとされている 。Maslowが自己実現について研究を開始して
2)
−233−
いるのも同時期からであり、比較的早い段階から科学論を問題にしていたことがわかる。
ただし、彼が本格的に科学論を展開したのは、すなわち、後に述べるような〈科学概念の
拡張〉を意識的に論じることになったのは、それから約20年後においてであり、著書『宗
教、価値、至高経験(
学(
)』
(1964)と『科学の心理
)』
(1966)においてである。
〈科学概念の拡張〉作業については、後で述べることとして、まずはそうした科学論に
Maslowが踏込むことになった動機、Maslow自身の根本的な思想について見ておきたい。
Maslowは心理学者である。心理学者である彼が、なぜ〈科学論〉という、より根本的な
問題に踏み込むことになったのか。しかもそれが一編の論文などでは済まず、著書として
まとめるほど論じることになったのはなぜなのか。これを見ておきたい。
結論から言えば、この問題については、Maslowの心理学に対する強烈な自負心が背景
にあると言える。それがはっきり表明されているのが、1957年に発表された論文「心理学
の哲学(A Philosophy of Psychology)」である 。この論文は、Maslowの心理学観の表
3)
明であり、Maslowの基本的な考え方の全てが詰まっていると言っても過言ではない非常
に重要な論文である。
この論文は、Maslowの信念の表明から始まる。
「かなり無遠慮に述べるとすれば、私は、世界が心理学者によって救われるか、あるい
は全く救われないかのいずれかであろうと考える。心理学者は今日生きている人びとの中
で最も重要な存在であると思う。人類の運命は、今を生きているどんなグループの人びと
よりも、彼らの双肩にかかっていると思う。人間の幸せと不幸せを構成する重要問題、す
なわち戦争と平和、搾取と友愛、憎しみと愛、病気と健康、誤解と理解という重要問題の
全ても人間の本性(human nature)のよりよい理解という問題にだけは負けるであろう、
と私は考える。医学と物理学と法学と政治学、教育学、経済学、工学、ビジネス学、産業
学は道具立て(tools)に過ぎない。強力な道具立て、強力な手段であるが、目的ではない、
と思う。
私は、彼らが心を傾けるべき究極の目的は、人間的充実、人間的向上、成長、および幸
せであると思っている。しかし、これらの道具立て―産業学、生産性理論、など―は全
て、悪い人間の手にかかれば悪くなり、よい人間の手にかかってのみ、よいもの、望まし
いものとなる。悪い人間の不健康さを治す唯一の道は、よい人間を生みだすことである。
彼らをよりよく理解するために、何が彼らを生みだすのかを知るために、そして悪を治癒
−234−
し、善を開花させるために、我々は、悪とは何であるか、善とは何であるか、すなわち、
心理的健康とは何であるか、心理的不健康とは何であるかを知る必要がある。そして、こ
れこそが心理学者の仕事である」(Maslow、1957、pp. 225 226)。
ここには、Maslowの心理学に対する並々ならぬ自負心を見ることができる。
さらに、Maslowは、心理学者の使命について次のように説いていく。Maslow(1957)
によると、「心理学者には、他の科学者にはないルールと責任がある」(p. 226)。すなわ
ち、今日、我々の最も差し迫った、喫緊の課題は、人間の弱さ、悲しみ、強欲、搾取、偏
見、軽蔑、臆病、愚かさ、ジェラシー、わがままさ、に起因する人間的な問題であるが、
これらはすべて、人間の不健康さであり、したがってこうした問題は、「人間の本性を向
上させれば、全てが改善する」(p. 227)。「しかし、人間を向上させる前に、まずは人間
を理解しなければならない。(中略)我々は、まだ人びとについて十分に知らない。ここ
にこそ心理学者が直面する課題がある。我々は心理学を必要とする。他のどんなものより
もそれを必要とする」(p. 227)。かくして、Maslowは次のように述べることとなる。「心
理学者は、聖職者がもつべきであるということと同じ意味における召命(call)をもって
いる。彼は、ゲームを遊んだり、自分自身を思いのままに満たす権利をもたない。彼は人
類に対する特別の責任を有する。彼は、彼の肩に乗る義務の重さを感じるべきである。そ
れは他の科学者には必要とされていないものである。そして彼は使命の感覚、献身の感覚
をもつべきである」(p. 227)。
こうしたMaslowの心理学に対する考え方は、Maslowが行う〈心理学者〉の規定によく
表れている。次のように述べている。
「私は、心理学者という言葉によって、全ての種類の人びとを意味する。心理学の教授
だけに限らない。人間の本性のより真なる、より明確な、より実証的な概念を発展させ
ることに関心がある全ての人を、そしてそのような人だけを含む。ということは、多く
の心理学の教授とサイコセラピストを除外するということである」(Maslow、1957、pp.
227 228)。
その上で、心理学者に対して謙虚さを求めている。
「心理学は、科学として幼く、我々が知る必要があることに比してほとんど知られてい
ない―みじめなくらい少ない―(心理学者はわずかにこれがどのくらい少ないかを知るの
みである)し、また責任が心理学者の肩に重くのしかかっているので、よい心理学者は謙
虚な人であるべきである。(中略)不幸なことに、あまりに多くの心理学者が謙虚でなく、
−235−
代わりに傲慢である。」(ibid., p. 228)
以上のように、Maslowは、心理学に対して誰よりも深い意義と重い責任を認めている。
これだけの意義と責任を認めれば、当然ながら心理学のあり方に満足できるはずはない。
したがって、Maslow(1957)は、心理学改善のために14もの提案を行うことになるので
ある(pp. 228 244)。それは要約的に示せば、以下のものである。
① 心理学は、より人間的であるべきであり、より人間性の問題と関わるべきであり、
そしてギルドの問題と関わりをより少なくするべきである 。
4)
② 心理学は、哲学、科学、美学の研究に、しかしとりわけ、倫理と価値の研究により
頻繁に立ち戻るべきである。
③ アメリカの心理学は、より大胆で、より創造的であるべきである。それは、慎重
で、注意深く、ミスを避けるばかりでなく、発見に挑むべきである。
④ 心理学はより問題中心的であるべきであり、手段や手法に吸収されるべきではな
い。
⑤ 心理学は、今よりも積極的であるべきであり、消極さを減ずるべきである。それは
より高い天井をもつべきであり、人間のより高尚な可能性を恐れるべきではない。
⑥ そうだとすれば、そのとき治療(therapy)は、診察室の中から持ち出されるべき
であり、そして人生の他の多くの領域に広めるべきである。
⑦ 心理学は、表面上の行動(behavior on the surface)だけでなく、人間の本性のさ
らなる深淵を研究すべきであるし、意識と同時に無意識も研究すべきである。
⑧ 学術的な心理学はあまりにも排他的に、西洋的であり、東洋的なものを十分に取
り入れていない。それはあまりに多くのものを客観的なもの(objective)、公開さ
れているもの(public)、外的なもの(outer)、行動(behaviour)に向ける。それ
は、内的なもの(inner)、主観的なもの(subjective)、瞑想的なもの(meditative)、
公開されないもの(private)について、さらに学ぶべきである。テクニックとし
て提示される内省が、心理学的研究の中で蘇らせられるべきである。
⑨ 心理学者は、目標(end)に対する手段、つまり実践的なもの、有用なもの、目的
にかなうものだけでなく、最高経験(the end experiences)を、これまで以上に
研究すべきである。
⑩ 心理学は、人間を、単に、無力にも外部の力によって動かされ、そして外部の力だ
けによって決定される受け身的な粘土のようなものとして研究すべきではない。人
−236−
間は、その人生の中で、積極的、自律的、自己統治的な活動者であり、選択者であ
り、創造者である。
⑪ 全ての知識人は、抽象、言葉、概念に取り込まれるようになり、全ての科学の始ま
りである生の経験、新鮮で・具体的で・オリジナルな・真の経験を忘れる傾向があ
る。心理学において、これは特に危険なことである。
⑫ ゲシュタルト心理学や有機体理論の教訓は、心理学に十分には取り込まれていな
い。人間は、少なくとも心理学研究が関わる限りにおいて、単純化できない単位で
ある。彼における全てのことは、多かれ少なかれ、彼における他の全てのことに関
わる。しかしながら、これも技術的な提案である。
⑬ 私は、心理学者は、彼らの偏見(preoccupation)と包括的な人間(the generalized
man)をバランスさせるために、単一の独自な人間の徹底的な研究にさらなる時間
を捧げるべきであり、包括化の能力と抽象化の能力を身につけることに時間を捧げ
るべきであると思う。
⑭ 最後に、我々が、人間が正当に彼の成長、自己充実、すなわち心理的健康のために
何を欲し、何を必要としているのかについてさらに知るようになったとき、そのと
き我々は、健康を育む文化(the health-forstering culture)の創造という課題に我々
自身を向かわせるべきである。
さて、以上が「心理学の哲学」の概略である。この論文からはまず、Maslowが心理学
についてどのように考えていたかを、その根本的な思想の観点から知ることができる。ま
ず第一に、心理学の重要性に対する認識である。Maslowは心理学をこれほど重要なもの
はないと考えていた。それは当時の社会問題を念頭におき、その根本的原因を人間相互の
無理解によるものと捉えたからである。そうだとすると、人間の本性を理解することが、
社会における諸問題の解決の第一歩であり、それこそがまさに心理学の仕事だと捉えたの
である。
第二に、このように捉えたとき、心理学の有する課題も示されることになる。すなわ
ち、まず、手段中心主義からの脱却である。例えば、次のように述べている。
「より率直に言うなら、もしそれが第一に手段(method)として規定されるなら、それ
は科学の外に出た意味のないゲームあるいは儀式となる。もし適切さ(pertinence)、価
値あるもの(worth)、目標(goal)、価値(value)が十分に強調されず、妥当性(validity)
や信頼性(reliability)が排他的に追究されるならば、これは「私は自分が何をしている
−237−
か知らないし、関心もないが、どのくらい正確にそれをしているかはわかっている」と得
意げに自慢しているようなものである」
(Maslow、1957、p. 236)。かくして、Maslowは、
問題中心で心理学に向かうべきことを説く。
問題中心というとき、心理学における問題とは何か。先述のようにMaslow(1957)は、
現代のさまざまな問題が人間相互の不理解から生じていると理解する。そこには、人間の
本性を理解するという課題が見える。そしてここから、課題はさらに広がっていくことに
なる。まず、人間の本性を理解するためには、人間の健康・不健康両面の研究が必要で
ある。また、健康・不健康両面が明らかになれば、今度は、健康を実現していく方法を
考えていかねばならない。そして最終的には、一個人が健康になる方法ではなく、社会
全体として各個人の健康が実現されていかねばならない。Maslowが提言の最後に示した
〈健康を育む文化〉の研究が必要だとの認識には、そうした思いを読み取ることができる。
Maslow理論の意図・目的は、こうした人間の幸福のための諸観点にあるのであり、かく
して、Maslowは後に、予知やコントロールが科学の目的だとする見解に疑義を唱えてい
くことになるのである(e.g. Maslow、1966)。この点は、Maslow理論の性格を把握する
上で、きわめて重要である 。
5)
さて、この論文からは、なぜMaslowが科学論を展開するに至ったか、その問題意識を
知ることができる。すなわち、Maslowは心理学を社会における極めて重要な学と捉えて
いた。心理学は諸個人を、そして社会を健康なものに導くものだからである。そしてさ
らに言うならば、このように捉えることで、Maslowは心理学の負うべき責任を把えるか
らである。心理学が社会のどんな学問よりも重要であり、その影響力が大きいと把握する
ことによって、そうした知識を提供する者の責任が自ずから把握されることになる。しか
し、その一方でMaslowは当時の心理学の現状はこうした最重要の学としての心理学の仕
事に向かえるものではないと考えていた。それは、〈科学〉というものをあまりに狭く捉
えていたからである。そこでは、成功を収めてきた物理学の方法のみを〈科学〉であると
捉えていた。しかし、心理学は物理学とは対象が異なる。したがって、Maslowが自負す
る心理学の視点からすると、科学概念の拡張が必要である。誰よりも心理学の重要性を自
負していた心理学者であるMaslowが科学という根本的な問題に進んだ理由はここにあっ
たと言える。
−238−
2.Maslowの科学観
2.1.科学のあるべき姿
では、Maslowの科学観について見ていこう。正統派科学の科学概念を狭いものと考え
ていたMaslowだが、彼自身は科学に何を求めていたのだろうか。まずは、この点を明ら
かにしておきたい。
一般に、それが科学であるかどうかの規定は、そこにおける客観性が確保できているか
どうかによってなされがちである。正確、厳密で、信頼に足るものかどうかということが
基本的に問われる。しかし、Maslowは、この点から科学を規定しない。少なくとも、こ
の点を最も重要なものとはしないのである。そうではなくて、Maslowは、科学の目的か
ら科学を規定しようとする。したがって、例えば、周知のように、Maslowの科学に対す
る考え方は、まず何よりも科学の手段中心的アプローチに対する批判的な見解から始まっ
ている。例えば、Maslowにおける科学論の最も初期の論文の一つでは、次のように述べ
られている。
「科学への手段中心アプローチは、問題中心志向とは対照をなしている。手段、設備、
テクニックあるいは手続きの過度の強調やそれらへのあまりにも排他的な関心は次のよう
な失敗を生む。
1)活発さや重要性、創造性よりも洗練さや優雅さを強調すること
2)科学における指導的地位が発見者よりもテクニシャンに与えられる
3)定量化のために定量化を過大評価する
4)問いをテクニックに合わせ、その逆ではない
5)諸科学の間に、誤った、非常に有害な階層的な体系をつくる
6)諸科学間の過度に強い区画化
7)科学者とその他の真理探究者(詩人、小説家、芸術家、哲学者)の間の類似性より
も差異を強調すること
8)科学的正統派(scientific orthodoxy)の創出。それは次には、a)科学への献身
(dediction)を妨げる傾向がある。b)科学の管轄から多くの問題を排除する傾
向がある。c)科学者を、挑ませたり、型にはまらないようにさせるのではなく、
「安全」志向にさせる傾向がある。
9)価値の問題の軽視。これには、実験の価値や重要性を判定するための基準が結果と
してぼやける、ということも伴う。」(Maslow、1946、p. 331)
−239−
ここでは、科学は問題中心的であるべきだというMaslowの考えが表明されている。
それでは、科学の目的とは何か。例えば、Maslow(1966)では次のように述べている。
まず、「人間についての知識の究極の目標は、物や動物についての知識の目標とは異な
る」。例えば、物や動物が対象であるなら、予知やコントロールといったものが知識の目
標だということができるのかもしれない。しかし、「人間を知るための我々の努力は、予
知やコントロールのためだということを、真剣に言うことがどのようにして可能だろう
か?」。こう問いかけるMaslowは、人間に対してはむしろ逆だと述べる。「もし人間主義
的科学が人間の秘密や、それを享受することに対して全く魅了されている状態を超えて、
何らかの目標をもつと言いうると言ってよいとすれば、それは、外的なコントロールから
人間を解き放すことや観察者により予知できないようにさせること(人間をより自由に
し、創造的にし、内部決定的にすること)であるだろう。おそらくそれが自分自身にとっ
てはより予測可能になることだとしても、である」
(Maslow、1966、p. 40、訳書、72頁)。
すなわち、「最も広い意味で科学は、人間的な価値であるもの、人間がよい人生、幸せ
な人生を生きるために必要とするもの、その人が病気を避けるために必要とするもの、彼
にとってよいもの、彼にとって悪いものを発見できるし、発見するものである」
(Maslow、
1966、p. 125、訳書、183 184頁)。
科学とは、外部から人間をコントロールするためにあるのではない。むしろ逆である。
人間がよい人生を生きるために、人間をより自由にし、創造的にし、内部決定的にするこ
とが、科学、特に人間を扱う科学では目指されねばならない。そこにおいて、問われるべ
き決定的問いは、「科学は、価値を、人々がそれにしたがって生きるべき価値を発見でき
るのか」ということである(Maslow、1966、p. 124、訳書、182頁)。
Maslowが科学を、いかにして客観性を確保するかという点から規定しなかった理由は、
科学的知識の成り立ちに関するMaslowの考え方にも関連がある。第一に、Maslowの基本
的な考え方は、人間にとっての現実、人間の知識は、知る者と知られるものとの相互作用
の結果だというものである。例えば次のように述べる。
「科学の心理学的解釈は、科学とは自動的にできあがるもの、非人間的なもの、あるい
はそれ自身の固有の法則をもつ〈物thing〉であるよりも、むしろ人間の創造物である、
という決定的な理解で始まる。科学の起源は、人間的な動機であり、その目標は人間的
な目標であり、そしてそれは人間によって創造され、再生され、維持される。科学の法
則、組織、および相互連関は、科学が発見する現実の本性(the nature of the reality)に
−240−
のみ基づいているのではなく、その発見をする人間性の本性(the nature of the human
nature)にも基づいている。」(Maslow、1954、p. 1、訳書、1頁)
第二に、Maslowは、科学のもつ多様な側面について言及する。すなわち、科学に関し
て、少なくとも次のような役割に区分することができる、とする(Maslow、1954、pp.
4 5、訳書、5頁)。
① 問題の探索、疑問の提起、予想の促進、仮説の設定という役割
② テストし、チェックし、確認および否認し、実証する役割。仮説を吟味・テストし、
実験を繰り返してチェックし、事実を積み重ねていき、事実をより信頼できるもの
にする役割
③ 組織化し、理論化し、構造化していく役割。より普遍的な一般化の探究。
④ 歴史的な事実を収集する学術的な役割
⑤ 技術的側面。道具、手法、テクニック。
⑥ 管理、執行、組織的な側面。
⑦ 公表すること(publicizing)、教育という役割
⑧ その人間的な使用に向けた応用
⑨ 鑑賞、楽しみ、賛美、賞賛
以上をまとめれば、科学は、人間がよい人生、幸せな人生を生きるために必要とするも
のを発見するものであり、それはそうした事実がただあるのではなく、人間の主体的な介
入によって発見されるものであり、そうした人間が「知る」という行為には、いくつもの
役割がある。続いて、Maslowは、こうした様々な意味において科学は包括的なものでな
ければならないということを強調する。Maslowは「科学の何らかの基本的なルールがあ
るとすれば、それは私の意見では、現実の全て、存在する全て、その通りである全てのこ
とを認め、述べる義務を引き受けることである」と述べる(Maslow、1966、p. 72、訳書、
115頁)。
ここで言われている包括性とは次のことである。「それは、それが理解できないもの、
説明できないもの、理論が存在しないもの、測定、予測、統制、あるいは秩序化されえ
ないものであってさえ、その守備範囲に入れなければならない。それは、矛盾、非合理
性、神秘性を受け入れなければならないし、そして、伝えることの難しい存在の漠然とし
た、曖昧な、原始的な、無意識の、そしてその他全ての側面をさえ、受け入れなければな
らない。最も良いのは、それが完全にオープンで、排除するものがない状態である。そ
−241−
れは〈入場資格(entrance requirement)〉を持たない」(Maslow、1966、p. 72、訳書、
115 116頁)。
Maslowは、科学をその目的の観点から規定しようとした。科学は人間の幸福のため、
人間をより自由にし、創造的にし、内部決定的にしなければならない。そこにおいては、
科学は測定・予測・統制できるものに限定していてはいけない。そして、その視点をもち
つつ、それに資するものについては、矛盾、非合理、神秘的なものであってさえ述べる、
そうした包括性をもたなければならない。かくして、Maslowが科学概念の拡張を図った
のは、その対象と方法の両面においてであった。Maslowは、いわゆる正統派の科学に対
して、2つの点で科学概念の拡張を図ろうとする。すなわち第一に、科学の対象の拡張で
あり、〈価値〉をその中に含めるということである。なぜなら、よい人生を生きるために
価値が不可欠だとMaslowは考えたからである。第二に、科学の方法として〈経験〉の活
用を含めるということである。この点に関しては、これにともなって新たな〈客観性〉の
概念が提起される。順に見ていこう。
2.2.科学と価値―科学概念の拡張①―
Maslowはまず、科学対象の拡張を図ろうとした。すなわち、価値を科学に含めようと
したのである。Maslowは価値を非常に重視している。それは、第一に、Maslowは現代社
会の根本的な問題を没価値性であると見たからである。例えば、Maslowが編者となった
『人間的価値についての新知識(New Knowledge in Human Values)』(1959)の序文で
は次のように述べられている。
「本書は次のような信念から生まれている。まず第一に、現代の究極的病弊は没価値性
(valuelessness)にある。第二に、この状態は史上かつてないほど決定的に危険である。
そして最後に、人間自身の理性的努力によって、それに関する何らかのことをなすことが
できる」(Maslow、1959、p. ⅶ)。
ここでは現代の没価値的状況に対する危惧が表明されている 。Maslowは、先述のご
6)
とく科学を、その手段によってよりは、問題あるいは目的によって定義する。Maslowは
現代社会の問題の根本を価値の問題と捉えたがゆえに、例えば、それが手段的には正確で
信頼性のある把握が難しいものだとしても、科学に含ませようとしたのである。
また第二に、Maslowは、科学を真理の追求と考え、真理が価値と密接な関係にあると
考えていたからである。次のように述べている。
−242−
「科学の全体的な仕事は〈真理〉とかかわっている。これこそが科学の全てである。真
理とは、本来的に、望ましいものであり、大切なものであり、美しいものであると考えら
れる。そしてもちろん、真理は常に究極的な諸価値の一つとみなされるものである。いわ
ば、科学は価値に服しているのであり、全ての科学者がそうなのである。
そして、もし私が望むならば、この議論に他の諸価値を巻き込むことができる。それ
は、十分な、究極的な〈真理〉は、最終的に、他の究極的な諸価値によってのみ定義でき
るように思われるからである。すなわち、真理は、究極的には、美しく、善く、簡潔で、
包括的で、完全で、単一的で、生き生きして、独特で、必要で、最終的で、公正で、規則
的で、骨の折れない、自己充足的な、楽しいものである。もしそれがこれら以下であるな
らば、それはまだ真理の最も十分な程度や質に達していないのである。」(Maslow、1966、
p. 123、訳書、180 181頁)。
さて、没価値性が現代社会の重要課題であるとすれば、それは心理学をはじめとする社
会諸科学においての重要課題であろう。しかし、例えば、経営学においてもSimonが価値
を入れては科学にならないと主張したように、科学は没価値性を求める傾向がある。そう
した傾向の中で、Maslowは、科学に価値を取り込もうとした。しかも、Maslowは単にロ
マンチスト的な発想で、それを述べたのではない。
Maslowの発想は、ある意味で非常に現実的である。Maslowは、その著『宗教、価値、
至高経験(Religions, Values, and Peak-Experiences)』(1964)の中で、価値を論じるた
めにはどうすべきかも指摘している。その指摘は非常に興味深いものであり、そこでは、
現代において価値が失われた理由として、宗教と科学の両者が二分化したからだと指摘し
ている。次のように述べる。
「科学も、宗教も、これまであまりにも狭く考えられてきたし、あまりにも互に相いれ
ないものとして、二分され分離されてきたため、あたかも相互に排斥しあう二つの世界
の観を呈してきた。簡単にいえば、この分離こそ、十九世紀の科学が、あまりにも機械
論的、あまりにも実証主義的、あまりにも還元主義的になり、遮二無二価値抜き(valuefree)になろうとすることを可能にしたのである」(Maslow、1964、p. 11、訳書、14頁)。
Maslow(1964)は、価値が科学から失われたのは、科学と宗教が二分されたからだと
述べている。この説明からすると、科学が事実のみを扱い、宗教が価値のみを扱うこと
になったから、事実のみを扱う科学は価値を扱えなくなったのだと考えられそうだが、
そうではない。価値を扱っているはずの宗教もまた、実質的には価値を扱えていないと
−243−
Maslowは指摘しているのである。すなわち、宗教に関しては次のように論じている。
「知識と価値とをこのように二分することは、また、組織化された宗教(organized
religions)を事実と知識と科学から切りはなし、そうした宗教を科学的知識の敵とさせる
にいたるほどの病的状態に陥れた。結果として、この二分が、宗教および自分たちに学ぶ
べきものは何もないという気を起こさせている。」(Maslow、1964、p. 12、訳書、15頁)
結果として、そうして組織化された正統的な宗教は、むしろ、至高経験や超越的経験を
経験できなくなっているとMaslow(1964)は述べる。
Maslow(1964)によれば、宗教の遵法的・組織的形態(legalistic and organizational
versions)は、自然主義に立つ至高経験、超越的経験、神秘的経験、またその他宗教の核
心となる経験を抑制し、そのような経験が起こりそうにないようにする傾向がある。した
がって、皮肉なことだが、「宗教の組織化の程度は「宗教的」経験の起こる頻度とネガティ
ブな相関にある」(p. 33、訳書、42頁)。
つまり、宗教は、自らを遵法的に組織し、事実や知識と切り離してしまったことで、い
わば典礼墨守に陥り、宗教的経験という最も重要な価値的側面を経験できないような存在
になってしまったとMaslowは説明しているのである。
こうした事情は逆もまた然りである。Maslow(1964)によれば、科学も自らを宗教と
はっきり区別してしまったことにより、宗教から摂取すべきものも摂取できなくなってし
まったと言う。すなわち、宗教が提出した解(answer)は、上記の事情で今日では役に
立たないことも多いが、しかし、宗教が発する問い(question)自体は、未だ有意義であ
り続けている。にもかかわらず、科学者はと言えば、宗教的解答(religious answer)と
ともに、宗教的問い(religious question)まで捨ててしまった。実際には、宗教的問い自
体は、科学的にいってまったく尊重されるべきであった。なぜなら、宗教的問いは深く人
間の本性に根ざしているからである。そうした問い自体は、科学的方法で研究し、記述
し、検討できるし、またそれは、まったく健全な人間的問いであった、とMaslow(1964)
は指摘する(p. 18、訳書、24頁)。
宗教と価値の分析から明らかになることは、価値は、事実だけを扱おうとしても、十分
に扱い切れないことは言うまでもないが、同時に、価値だけを扱おうとしても価値を扱う
ことはできないのだ、ということである。経営学においても価値を除いたSimonが批判さ
れるが実は、価値を扱うには事実を除いてもいけないということがここにおいてわかる。
事実を扱わずに価値だけを扱おうとすれば、Maslowがまさに例示したように、そこには
−244−
典礼墨守が生まれるだけだからである。価値を扱うということは、その時点において価値
を実現するにはどうしたらいいかを真剣に考えることを必ず含んでいる。それは、かつて
考案された手法をいつまでも踏襲することではない。したがって、価値を扱うためには、
その時点におけるありのままの事実を捉えることを避けて通ることはできない。価値だけ
を扱おうとすると、この点が疎かになるということをMaslow(1964)は宗教組織を例に
して示したのである。
2.3.科学と経験―科学概念の拡張②―
事実を扱うというとき、何をどのように扱う必要があるか。これは科学の方法の問題と
なる。一方において、科学対象の拡張を図ったのが『宗教、価値、至高経験』であるな
ら、他方において、科学の方法という点で科学概念を拡張しようとしたのが『科学の心理
学(
)』(1966)である。これは具体的には、経験的知識の活用
を、科学の方法に含めようとしたものである。
Maslowは、『科学の心理学』の内容について、次のように表現する。「本書は、まず何
よりも、心理学の枠内で、人間(persons)、とりわけ十分に育成され、そして十分に人間
的な人間を扱うことがより一層可能なように、科学の概念を拡張しようとする営為であ
る」(Maslow、1966、p. 5、訳書、24頁)。
さらに、本書では次のことを問うとする。「人間的な人間の性質について―例えば、あ
なたについて、あるいは、ある特定の人間について―さらに知りたいと考えるなら、それ
についての最も見込みのある、最も実り多い方法は何なのか。古典的科学の仮定、手法、
概念化がどのくらい有効なのか。どのアプローチが最も良いのか。どのテクニックがいい
のか、どの認識論がいいのか、どのようなコミュニケーション・スタイルがいいのか、ど
のようなテストや尺度がいいのか、知識の性質についてのア・プリオリな仮定のどれがい
いのか。〈知る(know)
〉という言葉によって我々は何を意味しているのだろうか」(p. 8,
訳書、29 30頁)。
正統派科学は、正確さ、信頼性などを求め、そのために実証可能な知識のみを科学とす
る。実際、それは非常に役立つ。ただしその場合には、仮に人間にとって価値ある重要な
知識であっても、正確さ、信頼性が証明できない知識は除かれることになる。典型的に
は、経験的知識がそれである。Maslowは、この経験的知識に対し、その科学における位
置づけを与えること、および新たな客観性の規定を見出すことによって、それを科学概念
−245−
の中に含めようとする。
経験的知識について、Maslow(1966)は、傍観者的知識や抽象的知識と対比して、そ
の特性を表そうとする。まず、傍観者的知識とは第三者として何らの感情移入もせずに対
象に接する方法であり、これに対して経験的知識は自己の主観が対象認識に影響を与える
ことを自覚し、対象と同一化することで、対象のありのままに接しようとする方法と言え
る。また、抽象的知識が経験の秩序づけ、解釈、整理によって得られるものであるのに対
して、経験的知識は、経験のありのままの知識である。Maslow(1966)は、経験的知識
について様々に説明しているが(pp. 45 65、訳書、78 106頁)、ここでは、科学に関わる
限りで、その特徴を挙げておくと、次の2点となる。第一に、経験は全ての知識の基礎で
あるということ、第二に、多くの哲学者が考えているように、本当の意味で経験的知識は
確かでありうるし、おそらく唯一の確かさである(p. 58、訳書、94頁)、ということであ
る。
まず第一の点について、Maslow(1966)は、知識の段階あるいはレベルの存在を指摘
する。
「知識は、程度の問題である。知識や信頼性(reliability)の増大は、ないよりはあった
ほうがよい。事例も一つでもないよりはあった方がいいし、一つよりは二つの方がいい。
一般的にいえば知識、あるいはとりわけ信頼性は、単純にあるかないかの問題ではない。
知識の陸を知識ならざる海から隔てる鮮明な海岸線はない。
〈科学的〉知識は、明確、明快で、一義的に定義され、明白で、証明可能、反復可能、
伝達可能で、論理的、合理的で、言葉で表現でき、かつ意識的でなければならない、とい
うことを強調する者がいる。もしそれがこうしたものでないとしたら、そのときそれは
〈科学的〉ではない、他の何ものかである、と。しかし、我々は、そのとき、知識の第一
段階、これらの最終形態の先駆的形態、我々の各々が自分自身で容易に十分に経験できる
その発端について、何を言うのだろうか」(p. 128 129、訳書、188 189頁)。
このような知識の階層的理解は、経験的知識とある意味では対照的な、いわゆる傍観者
的知識、抽象的知識もまた重要であるし、科学を構成する上で不可欠なことを示してい
る。実際にMaslowは、傍観者的知識の重要性にもまた言及するのである(e.g. Maslow、
1966、p. 49、訳書、82 83頁)。ただ、ここで言いたいことは、傍観者的知識、抽象的知識
と同時に経験的知識も重要であるのに、それを軽視する風潮があるということである。次
のように述べている。
−246−
「実験室の科学者がこの全て(経験的知識:引用者注)を批判するのは簡単である。し
かし、最終的には、これらの批判は、知識の最終状態に未だ到達されていないという告発
になるしかない。これは、初期の知識がずさんであいまいになりがちな理由である。これ
は、知識が必ず通らねばならない道なのだ!」(Maslow、1966、p. 130、訳書、191頁)。
かくして経験的知識は、知識の最終段階に達するまでに必ず通らねばならない道とし
て、それゆえ不可欠なものとして位置づけられるのである。
また、経験が全ての知識の基礎であるということは、抽象的知識を理解するためには経
験的知識が土台になければならないということでもある。Maslow(1966)は、そもそも
知識とは知る者と知られるものとの相互作用であると指摘する。この考え方に立てば、知
識は単に客観的に在るものではなく、常にそれを把握する者の主観の作用が不可欠なので
あり、この意味で経験的知識は全ての知識に、否応なく必ず入っていることになる。なお
かつ、経験的知識には、現象のありのまま(suchness)の意味、ありのままの理解を与え
るという意義がある(Maslow、1966、pp. 93 94、訳書、142 143頁) 。こうした経験的知
7)
識があってはじめて、抽象的知識もその意味が理解できる。どんな抽象的知識も、その背
後には経験的知識があるし、またなければならないのである。
ただし第二に、このように経験的知識を知識の初期段階と位置づけてしまうと、経
験的知識は単に稚拙なものであり、妥当性のないものであるかのような印象を与える。
Maslowによれば、それは必ずしもそうしたものではない。なぜならMaslow(1966)は、
経験的知識に〈客観性〉を認めるからである。Maslowにおいて、科学とは真理の追求で
あり、真理には、個人的な感情や偏見に左右されないという意味での客観性が求められる
ことになろう。Maslowは、一般的には主観的と目される〈経験〉に客観性を認めるので
ある。
そ も そ も 知 識 を ど う 考 え れ ば よ い か。Maslow(1966) は、〈わ れ − な ん じ 〉 知 識
(I-thou knowledge)のうちに、知識の本質を見る 。これは、〈われ−それ〉知識(I-it
8)
knowledge)と対照的なものであり、一言で言えば、先述の、人間にとっての現実とは、
知る者と知られるものの関係によって創り出されるものだとする考え方である。
〈われ−なんじ〉知識について、Maslow(1966)は次のように説明する。「彼は、知識
の対象に対して、感情移入し、直観的洞察をもっている。すなわち、彼は、その対象との
共鳴を感じ、それと同じことを感じ、ある程度まで、そしてある意味において、それと同
一であると感じる」(p. 103、訳書、156頁)。
−247−
こうした〈われ−なんじ〉知識は客観性を有する、とMaslow(1966)は述べる。言う
までもなく、客観性には様々な定義が可能であるが、Maslow(1966)に従えば、知識の
客観性には2種類がありうるという。すなわち、〈科学的客観性(scientific objectivity)〉
と〈配慮から生まれる客観性(caring objectivity)〉である。科学的客観性とは、何より
も「事実として見えることが重要」と考えるものであり、〈没価値的科学〉と呼べるもの
である。それは〈配慮しない客観性〉である。これは物理学などでは大きな成果を挙げる
が、しかし、科学が人間や社会の領域に入ってきたときには、こうした態度では問題があ
る(Maslow、1966、pp. 114 118、訳書、170 175頁)。
これに対して、配慮から生まれる客観性とは、存在愛、至高経験、合一的な知覚、自己
実現、シナジー、道教的な受容、創造的態度、存在認識などの結果として得られる客観性
である(Maslow、1966、p. 116)。次のように述べられる。
「もし、あなたが何か、誰かを存在のレベルで十分に愛するならば、そのとき、あなた
は、それ自身の自己実現を享受できる。それは、あなたがそれがそれ自身においてあると
きそれを愛するがゆえに、あなたはそれに干渉したくないであろうことを意味している。
あなたはそのとき、非干渉的方法でそれを認識できるであろう。それはそのまま放ってお
くことを意味している。これは次には、あなたの利己的な願望、期待、要求、心配、先入
観によって汚されることなく、ありのままにそれを見ることができることを意味する。あ
なたは、それがそれ自身においてあるように、それを愛するので、それを判定したり、使
用したり、改善したり、あるいはそれに自身の価値を投影する何らかの方法を用いたりす
る傾向はない。これはまた、より具体的に経験し、証明することを意味する傾向もある。
つまり、より抽象的でなく、単純化せず、組織化せず、知的操作をしないのである。それ
をそれ自身であるがままに放っておくことは、より全体的、包括的な態度を含意し、積極
的な解剖を意味しない。それは結局次のことを意味することとなる。すなわち、あなた
が、誰かを十分に愛していれば、あなたはその人をまさにその人であるままに恐れずに見
ることができる。もしあなたが何かを、それがそうである様式で愛するならば、あなたは
それを変えないだろう。それゆえ、あなたはそのとき、それがそれ自身の性質においてあ
るように、つまり触らず、害さず、いわば客観的に、それを見ているのである。あなたの
その人への存在愛(Being-Love)が大きければ大きいほど、あなたを盲目にする欲求は
少なくなる」(Maslow、1966、pp. 116 117、訳書、173 174頁)。
ここで示されていることは、きちんと実験して証明できるという意味での客観性ではな
−248−
く、偏見なくありのままに見ており、配慮が行き届いているという意味での客観性であ
る。その客観性は、証拠を提出することが難しい。しかし、人間にとってのより全体的・
包括的な物事を捉えているという意味で、客観性を有しているのである。
Maslowはこのような知識に〈真理〉を見る。次のように述べている。「無碍で、受容的
な、道教的知覚が、ある種の真理の知覚にとっては、必要である。至高経験は、奮闘、干
渉、積極的コントロールが減少し、それによって道教的知覚が可能となり、したがってま
た知覚対象への知覚者の影響を少なくする状態である。だからこそ、(ある事物について
の)より真なる知識が期待されているし、またそのような知識の存在が報告されてもい
る」(Maslow、1964、p. 80、訳書、107頁)。
3.Maslow理論再考―Maslow科学観を踏まえて―
3.1.経営学とMaslow理論
以上、Maslowの科学観を概観してきた。この科学観に基づいたとき、いかなるMaslow
理論の全体像を見ることができるだろうか。
まず、これまでの経営学におけるMaslow理解を振り返ってみよう。Maslow理論の理解
は近年、再び研究が始まっているが、ここに至る以前の理解を決定付けたのはMcGregor
(1960)とAlderfer(1972)の主張であったと考えられる。
経営学におけるMaslowの肯定的評価を生み出したのがMcGregorだと言っていいであ
ろう。McGregor(1960)は、周知のようにMaslow理論を援用しつつ、X理論‐Y理論を
提起した。ここで、明らかになったことは、人間は様々な欲求を持ちうる、ということで
あり、自我(ego)や自己実現などの高次欲求の欲求をもつ存在でもありうる、というこ
とである。この高次の欲求を有している存在として人間を理解するものがY理論であり、
そこでは、人間は、怠けるよりは働きたい存在であり、創造性を有し、責任を忌避しない
存在として理解される。このY理論の理解が、一つの自己実現的人間のイメージを形成し
ていると言っていいであろう。
これに対してMaslowの否定的な評価を決定づけたのが、ERG理論を提起したAlderfer
(1972)である。Alderfer(1972)は、自身の理論の目的を次のように述べている。
「概念的には、それはMaslowやその他の概念に基づいて、新たな理論的方向性を提供す
ることである。この視点から、私の狙いは、欲求理論を研ぎ、拡張し、その価値を高める
ことである。このアプローチは、欲求理論は人間のモチベーションの理解という役割を
−249−
果たしうるし、既存の欲求理論を乗り越えた改良の可能性をもつERG理論を提供しうる、
と考えている」(Alderfer、1972、p.4)。
ここには、モチベーションの理解に資する欲求理論を精錬しようというAlderferの意図
が読み取れる。Alderfer(1972)は、そのために、Maslowの欲求階層説と自身の提起す
るERG理論を対比した。比較に際して、Alderfer(1972)の着目するポイントは、欲求の
カテゴリーの種類と数、カテゴリー間の秩序の2点であり、それを踏まえて、次のように
説明されることになる。
「Maslow理論は欲求の5つの組合せを扱」い(Alderfer, 1972, p. 24)、また「Maslowの
基本的な仮説は、より低い階層の欲求のある程度の充足は、より高い階層の欲求の発現の
ための前提条件だということである」(ibid. , p. 28)。
これに対して、Alderfer(1972)は異なる欲求カテゴリーを示し(図表1)、異なる欲
求移行プロセスを示し、なおかつ、その実証的な支持を示して、自身のERG理論の妥当
性を示したのは周知のところである。
いずれにしても、こうした欲求階層説の理解はこれ以降も、基本的に変わっていないと
言える。例えば、Robbins(1996)のMaslow理論の説明をまとめれば次のようになる(pp.
213 214)。第一に、すべての人間の中には、生理的、安全、社会的、承認、自己実現の5
つの欲求の階層がある。第二に、これらの欲求の各々は、大体において満たされると、次
の欲求が支配的となる。図表2のように、個人は階層の段階を登っていく。第三に、欲求
が十分に満たされていないとしても、大体において満たされていれば、その欲求はもはや
動機づけとならない。第四に、それゆえもし誰かを動機づけたいなら、その人が現在階層
図表1 マズロー理論とERG理論の概念比較
マズローのカテゴリー
生理的
安全(物質的)
図表2:Maslowの欲求階層説
ERGのカテゴリー
生存
安全(人間関係)
愛(所属)
関係
尊敬(人間関係)
尊敬(自尊)
自己実現
成長
(Alderfer、1972、p. 25)
−250−
出所:Robbins(1996、p.214)
のどのレベルにいるかを理解し、そのレベルかそれ以上の欲求を満たすことに焦点を合わ
せる必要がある。第五に、5つの欲求は、高次(自己実現、承認、社会的)と低次(安全、
生理的)に分けることができ、高次欲求は内的に(その人間内で)満たされ、それに対し
て、低次欲求は外的に(給料、組合契約、終身的地位によって)満たされる。第六に、た
だし、Maslow理論には実証的支持がない。
欲求階層説は、Alderfer(1972)の影響を受け、以上のように結論される。すなわ
ち、上記のように実証的支持のないことが指摘され(e.g. Campbell & Pritchard、1976;
Kanfer、1995;Locke、2008)、実証的支持のあるERG理論によってMaslow理論は修正さ
れたとされるのである(e.g. Campbell & Pritchard、1976;田尾、1991;Robbins、1996;
二村、2004)。
次に、自己実現の欲求について見ておこう。図表1のように、Alderfer(1972)は、自
己実現の欲求を成長の欲求というカテゴリーの中に含めた。成長の欲求は次のように説明
される。
「成長欲求は、しばしば観察される事実であるが、人間がその環境と相互作用し、彼ら
は彼らの能力と学習を用いうる、という事実を説明するために仮定されたものである」
(p.
132)
。「Maslowの自己実現の欲求とERG理論の成長の欲求は多くの点で等しいが、概念
レベルで異なる点もある。成長欲求は、人間を環境と相互作用するオープン・システム
と見ることから生ずる。環境からのインプットは、ある能力を発展させるための刺激と、
ある能力を用いる機会を人間に与える。環境が変われば、成長への願望の性質も変わる。
Maslowの概念は環境からの様々な影響に関する強調をあまり置かない」(p. 133)。
ここでの成長欲求とは、環境に適応していく能力を発揮する、あるいはそうした能力を
身につけていく、そういった欲求を指していることがわかる。自己実現が、通常一般理
解される際には、こうしたAlderferが提起したような成長欲求として理解される場合が多
い。
以上のようなMcGregorとAlderferのMaslow理解は大枠において受け入れられてきたと
言える。すなわち、矛盾するようだが、Alderfer(1972)の否定的評価もMcGregor(1960)
の肯定的評価も受け入れられていると言っていい。理由は簡単である。Maslow理論には、
大きく言えば欲求階層説と自己実現論があり、前者は否定的に評価されるが、後者は未だ
に肯定的に評価されているということに他ならない。近年、急速に、Maslow理論は経営
学において適切に援用されてきたのか、ということが問題視されるようになってきた。そ
−251−
こにおいて問題となっているのは、Maslowの自己実現概念をどう理解したらよいかとい
うことである。つまり上記の後者の立場からするMaslowの研究が進展している。
まず第一に、金井(2001)は、「Maslowの自己実現はモチベーションの問題ではない」
と主張した。金井(2001)は次のように説明している。まず第一に、マズローにとって、
適応というのは否定的な概念であり、これではマズローの自己実現概念を捉えることはで
きない。第二に、マズロー自身が信じるところ、モティベーション(動機づけ)とは、自
分たちに欠けている基本的な欲求を満足させるために努力することを指すのであり、それ
は非自己実現者の世界でのみ成り立つ概念である。モティベーションの概念は、承認まで
の欲求には成り立つが、自己実現者には成り立たない(金井、2001、423頁)。以上の理解
は、Maslow理論はモチベーション論であると考えられてきた経営学においては非常に画
期的な主張であったと言えるであろう。
第二に、松山(2000、2003)は、「Maslowの自己実現概念は自己中心的なものではな
い」、という主張を行った。例えば、松山(2000)は、「Maslow自己実現思想に対する最
も強い批判は、この思想があまりに自己中心性を帯び、非社会的であるというもの」だ
と述べ(106頁)、しかし、Maslowの自己実現がそのようなものではないことが語られる。
すなわち、彼の言う自己実現は、Adlerの言う「共同社会感情」と正の相関を示すような
ものであるし、自己実現的人間は「民主的性格構造」と呼ぶべき特徴を有することが示さ
れている。自己実現的人間とは、強烈な自己主張の持ち主とは対極にある、謙遜ともいえ
るような性質をわかちもつ存在である、とするのである(同上、107頁)。そこにおいて
は、「Maslowの考えでは、自己の内には、自然に裏付けられた全てのものが内包されてい
るわけだから、その本来の自己の要求は自然及び世界からの要求でもある。したがって、
この地点では、自己の要求と義務とはなんら区別される必要がない」(同上、110頁)。た
だし、松山(2000)では、こうした自己実現的人間の描写が、孔子の言う「七十にして心
の欲する所に従って矩を踰えず」という境地であり、非現実的、理想主義的に過ぎる、と
批判している。
松山(2000、2003)で述べられているように、未だに、「自己実現」という用語から連
想して、自己実現というのは利己的、自己中心的なものだという誤解が絶えない。この点
は、Maslow自身も嘆いていた点である。しかし、実際には、Maslowが述べた自己実現と
は、利己的なものではない。それは、欲求階層説を正確に理解すれば、明らかである。欲
求階層説における「低次」とは、「利己的」であることを指しているのであり、高次であ
−252−
ればあるほど、それは「利他性」を含むことになる。したがって、最高次の自己実現は、
利己的ではなくむしろ最も利他的な段階にあるのである。ただし、理想主義的に過ぎると
いう松山(2000)の批判は当たらない。この点については後述する。
第三に、三島斉(2006)では、Maslowの自己実現概念が最初から全く同じものでは
なく、その当初から徐々に変化してきたものであることを指摘し、その時期を初期・中
期・後期に区分した。これに基づき、経営学におけるMaslowの自己実現概念は、例えば、
McGregorのそれに代表されるように、その初期の概念を取り込んでしまったものだと批
判した(e.g. 三島斉、2008)。
これとほぼ同じ主張をしたのが、三島重(2009a,b)である。これもMaslowの自己実現
概念が時期によって変化してきたと捉え、1955年までの時期、1959年までの時期、それ
以降、という3つに区分した上で、McGregor、Argyris、Herzbergらの自己実現概念は、
1955年までの概念を適用したものだと批判した。
では、Maslowの自己実現概念の核は何か。三島斉(2006)と三島重(2009a、b)の見
解は、見事に一致している。すなわち、両者とも存在価値(B価値〔B-Values〕)こそが
それであるとするのである 。
9)
さて、以上のように、McGregorやAlderferによって、Maslow理論理解の基本的な方向
性が定まり、近年その見直しが始まっている。それらは主として、従来のMaslow理解に
対して、その自己実現概念の理解に疑義を唱え、よりMaslowに即した理解を示そうとし
た。具体的には、自己実現の欲求とは他人に動機づけられるものではなく、また自己実現
と言うと一見利己的なようだが、それは利他的な視点も入った段階であるということ、さ
らには、そうした自己実現人はB価値を有する、ということが近年、強調されるように
なってきたのである。これらの一つ一つの指摘は全く正しく、Maslow研究にとって大き
な貢献であると言える。
しかし、これらの理解が深層的理解なのかと言えば、そこには若干の疑問がある。それ
は、まず第一に、これらの研究が〈自己実現の内容論〉というMaslow理論の一側面に限
定したものだということ、また第二に、これらの研究はMaslowの問題意識にまで踏み込
んだ理解がなされていないという点にある。最も重要なのは後者の点であり、これが欠け
ているがゆえに、Maslow理論の分析も全体に及ばないのだと言える。そして、Maslowの
問題意識を真の意味で知ろうとすれば、Maslowの学問観・科学観を知ることは不可欠で
ある。
−253−
Maslowの学問観・科学観を知る上で、重要なポイントは3つである。第一に、Maslow
の思想、特に彼が心理学に求めていたものは何であったか、ということ、第二に、価値に
対する考え方、そして第三に、客観性に対する考え方、である。
第一に、経営学におけるMaslow研究では、Maslowが何のために、欲求階層説や自己実
現論を展開したのか、その目的を理解しているものがほぼ皆無であると言っていい。経
営学では、「Maslow理論はモチベーション論」だという見解を何ら疑うことなく持ち続け
ている。モチベーション論とは一般に、人間行動の方向づけ、強度、持続性について説
明し、コントロールすることとして規定されるものである(e.g. Campbell & Pritchard、
1976;Kanfer、1995;Locke & Latham、2004)。しかし、Maslow理論は、少なくとも今日
言うところのこうした〈モチベーション論〉ではない 。
10)
このことは、Maslowの思想部分、心理学に対する想いを理解したときには、明白なも
のとなる。先述のように、彼は「人間がよい人生、幸せな人生を生きるために必要なもの
を発見する」と述べている。すなわち、Maslowが自らの心理学を展開するにあたって込
めた最大の意図は、〈諸個人の心理的健康を実現する〉ということである。それは、それ
こそが社会の諸種の問題に対する根本的な対応であると考えたからである。そして、そ
のために人間を理解しようとしたのである。またもう一つ注意すべきことは、Maslowは、
人間を外部からコントロールすることを科学の目的とは認めなかった。この点も重要であ
る。
Maslowの〈心理的健康の実現〉という理念と、モチベーション論の発想は、その意味
が180度違う。モチベーション論とは、先ほどの定義から明らかなように、〈人間から行動
を引き出す〉ことを意図するものであり、それは基本的に外部からのコントロールを志向
するものに他ならない。すなわち、手段たる人的資源から、組織にとって必要な活動をい
かにして引き出すか、そしてそのような活動が提供される限りにおいて、諸個人に満足を
提供しようとするものである。これに対して、諸個人の心理的健康を実現するとは、諸個
人がよい人生を送る基礎をどう作るか、という問題である。それは、モチベーション論の
発想とは逆に、〈外的コントロールから人間を解き放す〉ことを意図するものである。
Maslowの根本的な意図を理解するかどうかはきわめて重要である。何故なら、同じよ
うに心理的に健康な人間を考察すると言っても、その目的如何によって、考察の結果は
異なるからである。第一に、Maslowと異なる目的で、自己実現人を分析しても、Maslow
が述べた自己実現人の全体像を描くことにはならない。〈心理的健康の実現〉という発想
−254−
以外では、その概念は矮小化されることになる。例えば、モチベーション論の発想を踏
襲して、自己実現人を扱うことももちろん可能である。しかし、その場合には、〈自己実
現人をコントロールする〉という発想に陥ることになる。例えば、三島斉(2005)は、
Maslowの主張を経営管理に援用する場合には、健康人モデルに立たねばならないと主張
した。Maslow理論と健康を結びつけて把握している点は見事だが、結局、次のように述
べてしまっている。
「このようにして形成されたマズローの欲求理論は、正常人ないし健康人を基礎にした
社会改良観を示すものと考えられる。そこで、マズロー理論を経営管理のなかに取り込み
援用しようとする場合には、従業員を能動的な健康人とみなすという認識が了解されなく
てはならない。言い換えれば、マズロー理論は普遍的な「健康人モデル」に依拠するもの
であるゆえに、管理者が他の人間モデルを措定するときには有効性をもたないことにな
る」(三島斉、2005、215頁)。
ここでは、心理的健康を実現するのではなく、既にそもそも人間が健康人であると仮定
されてしまっており、この場合、先を考えると、心理的に健康な人間をコントロールす
る、という発想に向かわざるをえないであろう。
第二に、心理的健康についても同様であり、心理的健康を問題にすれば、それだけで、
Maslowの発想に則っているかのようにも見えるが、そうはならない。実際、こうした発
想では、Maslowが述べた全体像を語ることができない。例えば、三島斉(2006)や三島
重(2009a、b)は最終的にB価値の重要性を述べることになるが、なぜB価値だったの
か、という問題がある。というのも、Maslowが挙げた自己実現者の特徴は、B価値以外
にも、B認識やB愛情、自己実現者の創造性などがあり、そして私が読む限り、Maslow
が自己実現を論じるに当たって、B価値が最も重要であると述べている箇所はないし、著
書などの構成上でも、B価値を第一とした構成にはなっていないと思われるからである。
それにも関わらずB価値に目が向いたのは、何故だったのか。モチベーション論の観点か
らMaslow理論を見たのではないだろうか。Maslowの意図を理解しなければ、Maslow理
論の全体像を把握することはできない。
Maslowの全体像が把握されていないという意味では、もう一つ、欲求階層説も正当な
評価が与えられているとは言い難いが、この点については後述する。
さて、第二の点に移りたい。Maslowの価値の考え方についてである。まず、自己実現
の分析とは、一面において、価値の分析だと考えることができる。すなわち、それはま
−255−
だほとんどの人が実現していない理想として、〈当為〉を表しているからである。まず、
Maslowは、こうした自己実現=価値を科学の一つの対象として分析できるものと考えて
いた。またしかし同時に、Maslowは、価値は事実と切り離して考えてはならない、とい
う発想を持っていた。その場合には、組織宗教のように、役に立たないものを典礼墨守す
るより他なくなってしまうからである。
Maslow理論は、この考えを背景にして成り立っている。したがって、Maslowの理論
は、価値だけを考えるということはしていない。例えば、価値としての自己実現人の分析
だけを行ったのではない。現実を把握して、価値を実現する方途を探っているのである。
その一つが欲求階層説である。諸個人の心理的健康を実現しようとすれば、まずは心理的
健康の中身、つまり自己実現人を分析する必要がある。到達する目標が明らかにならなけ
ればならないからである。しかし、次には、自己実現人を分析するだけでなく、どのよう
にしたら人びとをそうした健康状態に導くことができるか、そのプロセスを現状に基づい
て考える必要が出てくる。Maslowにあって、その最大の成果が欲求階層説だと言ってい
い。
一般にMaslow理論は、〈モチベーションの内容論〉と評される。しかし、これは全く
誤っている。Maslow理論は次のように理解する必要がある。すなわち、まず、自己実現
論は、心理的健康とはいかなる状態であるのかを表す〈心理的健康の内容論〉である。こ
れに対して、欲求階層説とは、そうした心理的健康に至るためにはどのようにしたらよい
のか、その経路を示す〈心理的健康実現の過程論〉である。
Maslow理論は、松山(2000)が述べるような理想主義ではない。それは非常に現実的
である。理想主義的だという評価は、自己実現論だけをMaslow理論だと捉え、欲求階層
説を正当に評価しないために生ずるものである。もちろん、自己実現論だけならば、そ
れは確かに理想主義的であるし、事実それは理想なのである。しかし、Maslow理論は理
想主義にとどまってはいない。何故なら、Maslow理論には、そうした理想をいかにして
実現するかを考えた〈欲求階層説〉があるからである。現在の経営学におけるMaslow研
究は自己実現論の分析に偏っているが、これではMaslow理論の十全な理解には至らない。
Maslow理論を全体として把握しようとするならば、両者を切り離してはならない。両者
は常に表裏一体である。
なお、「自己実現が価値である」ということは、「自己実現とはB価値を有することだ」
とする理解と同じではない。何故なら、B価値は、自己実現の中身としては、その全体像
−256−
を表すものとは言えないからである。B価値をただ持つだけならば、それは自己実現者で
なくても可能である。真理が大事だと思ったり、善や美が重要だと思うことは思おうとす
るだけならば、誰でも思うことができる。しかし、そうしたB価値が現実のものであると
感じることや、そのB価値を実践に移すことは容易ではない。そこに、自己実現者とそこ
まで達していない者の違いがあると見るべきであろう。
したがって、このように考えると、本来的に自己実現の根本にある概念は、B価値より
もB認識(存在認識)や創造性であると考えられる。それは一つには、存在(Being)に
対する価値を見出すためには、まずその存在自体を認識できなければならないからであ
る。この意味でB価値はB認識あってのものである。また同時に、個人的な視点からして
も、社会的な視点からしても、心理的に健康と言いうる基礎は、世界の認識の仕方にある
と考えられるからである。すなわち、まず、存在を把握すると、そこに真理や美などB価
値を感得し、B愛情が生まれる。そして、そうしたB価値・B愛情を感得するというとこ
ろに至高経験を得る。そこにおいては自己正当化も生じてくる。ここには、個人的な心理
的安定を見ることができる。同時に、存在認識をするということは、自己の利己的な欲求
に囚われず、他人に依存しない、より客観的な(この場合の客観性は言うまでもなく〈配
慮から生まれる客観性〉)認識を得るということでもある。これは、社会的に見て、より
適切な意思決定・行動を採ることができることを意味する。つまり、B認識に基づいたと
き、その個人の視点と社会の視点の両面からなる、心理的な健康をそこに見ることができ
る。この意味で、心理的健康の源はB認識にあると言えるのである。
こうしたB認識を可能にし、あるいはこうしたB認識に基づいて意思決定を行おうとす
るとき、そこには創造性が不可欠である。もちろん、創造性を有するのは、自己実現者
に限らないが、ここで言う創造性とは、Maslow(1968)が指摘する二分法の超克を可能
にする創造性であり、これこそが自己実現者の創造性である。モチベーション論において
は、その人間の創造性の有無は問題となるが、その創造性の種類は問題とならない。心理
的健康の分析においては、創造性の種類が問題となる。
こうして得られるB認識は、それが繰り返されると、その理解が一層豊かになってい
く。その中で、B価値が見出されていくのである(Maslow、1968、訳書、105-106、112
頁などを参照)。いずれにしてもこうした意味で、B価値はB認識に依存しているし、自
己実現者の最大の特徴、あるいは自己実現の基礎がB価値である、とは言えないのであ
る。
−257−
さて、第三の点に移ろう。Maslowは心理的健康の実現を企図して自らの理論を構築し
たが、その際に重視したのは、科学的客観性ではなく、〈配慮から生まれる客観性〉で
あった。それ故に、Maslowは、欲求階層説や自己実現論に相当の自負をもちつつも、そ
れで事足れりとはしなかった。そのことは、例えば、満足の病理に対する言及や、あるい
はB認識の危険性についての言及として表れていると見ることができる。
従来の欲求階層説の理解には問題がある。すなわち、そこでは、欲求の種類・カテゴ
リーとそれらがどのように移行していくかについては語られるが、そのように移行してい
くことは何を意味しているのかについては、言及されることがほとんどないからである。
言い換えれば、基本的欲求満足の意味についての言及がないのである。
欲求充足の意味は、単に、より上位の欲求に対する願望の出現としてのみ捉えられるの
が一般的である(e.g. Wahba & Bridwell、1976)。しかし、Maslowが述べたかったのは、
そんなことではない。主著『動機と人格(Motivation and Personality)
(
』1954、1970)では、
基本的欲求充足の意味を述べるためにわざわざ一章を割いている。そこでは、上記を指し
て「価値の変化」であると指摘するとともに、そうした価値の変化は認識能力の変化が伴
うとする。つまり、そこにおいては、注意点、認知、学習、記憶、忘却、思考の全てが変
わるとするのである。しかもこれは、ただ変わるのではなく、より高次への変化を意味し
ている。ここでより低次であるとは、より利己的であることを含意しており、より高次
の変化とは、利他的な視点が取り入れられていく過程である。以上の意味において、そ
れは、性格形成、しかも、健康な発達に向かうそれを含意している(Maslow、1954、pp.
108 116)。
さらに、1970年の第二版になると、Maslowはそこに「満足が生む病理」に関する説明
を付け加える。次のように述べている。
「基本的欲求の満足は、もう少し注意深く定義した方がよい。何故なら、それは容易
に、とどまるところのない放縦、自己否定、全くの黙認、過保護、事大主義に陥るからで
ある」(Maslow、1970、p. 71)。「満足が生む病理は、部分的にメタ病理と呼ばれるもの、
すなわち、人生における価値、意味、充実の欠如であることもまたわかっている。多くの
ヒューマニストや実存主義心理学者によって考えられているように―しかしながら、確か
であるという十分なデータがあるわけではまだないが―、全ての基本的欲求の満足は、ア
イデンティティや価値体系、人生における召命(calling)、人生の意味、といった問題を
自動的に解決するものではない」(ibid.、1970、p. 71)。
−258−
従来は、欲求充足によって、次にはどのような欲求が発現するのか、ということばかり
が問題となっていた。そこにおいては単線的により上位の欲求が発現するとしたMaslow
が批判されることも多い。しかし、Maslowが問題にしたのは、「欲求充足によって次にど
のような欲求が発現するのか」ということではなかった。繰り返しになるが、彼が問題に
したのは究極的には「諸個人の心理的健康の実現」である。したがって、欲求充足もそ
の観点からのみ問題とされる。欲求充足によって次のより高次の欲求が発現するとした
のは、それが心理的健康に至る道と把握されたからである。したがって、その欲求充足
の意味は、Maslowにあっては、まずは学習であり、性格形成であった。先述のAlderfer
(1972)は、Maslow理論にある欲求の移行過程のモデルを批判しているが、そこでは、そ
もそもこうした学習や性格形成という意味合いすら把握されていない。しかも、より真摯
に心理的健康の実現について考えていたMaslowは、欲求充足ばかり強調することの危険
も悟ることになる。それ故に、1970年の第二版では、満足が生む病理を指摘することに
なった。簡単に言えば、甘やかしてばかりでは、人間は自己実現に向けて成長できない、
ということをMaslowは改めて指摘しているのである。
次に、Maslowの指摘するB認識の危険性について概観しておきたい。B認識は、一般
常識に囚われないで、現実を認識できるということである。しかし、そうであるが故に、
そこには一般常識に囚われる人びととの間にギャップが生じることになる。また、場面に
よっては素直に一般常識に囚われたほうがいい場面もあろう。したがって、そこにはいく
つかの危険性がある。Maslowは、B認識の危険性として以下の8点を指摘する(Maslow、
1968、訳書、149 158頁)。
① B認識の主な危険は、行為を不可能にするか、あるいは少なくとも決断できないよ
うにすることである。
「認識がD認識に移行したときにのみ、将来に対する行為、意志決定、判断、処罰、
非難、計画が可能となる。」(149頁)
② B認識や瞑想的理解の別の危険は、とりわけ他者を助ける場面で、我々をより無責
任にさせることである。
③ 活動の抑制と責任の欠如は、運命論に導く。すなわち、「なるようになるだろう。
世界はあるがままである。それは決定されている。私はそれについて何もしえな
い。」(152頁)
④ 非活動的な瞑想は、そこから被害を被る他者によってほぼ間違いなく誤解される。
−259−
⑤ 純粋な瞑想は、上記のような特殊な事例に見られるように、記述することも、助力
を与えることも、教えることもできない。
⑥ B認識は、無差別的受容に導き、日常の価値を不明瞭にし、眼識を失わせ、寛大す
ぎる結果になる。
⑦ 他人に対するB認識は、彼を「完全である」と認識することになるが、これは相手
に容易に誤解を与えてしまう。
⑧ 例えば、人生に対する芸術的見方は、実践的、道徳的反応と根本的に対立すること
が多い、というようなことが過度の審美主義には起こり得る。
Maslowは最も健康な人間の特徴の一つとして、B認識を述べるわけである。それにも
関わらず、そこにもある種の危険性を見て、それを指摘する。これは、まさに問題中心
に、〈心理的健康の実現〉ということのみを真摯に追究しているからに他ならない。そこ
では、配慮から生まれる客観性が貫かれていることがわかる。理論を提出して、後は利用
者の責任である、とする考え方はそこにはない 。それが実際に使用されたときに考えら
11)
れる様々なことに対する配慮にこそ、心理学の責任を自負するMaslowの真骨頂を見るこ
とができる。
従来の経営学、モチベーション論では「Maslow理論には実証的支持がない」というこ
とが主張されてきたが、以上の〈配慮から生まれる客観性〉をMaslowが重視してきたこ
とを考えると、このことはある意味で当然であるし、的の外れたものである、ということ
がわかる。
Maslowが科学的客観性もさることながら、配慮から生まれる客観性を重視していたの
は、実証の重要性はもちろん認めながらも、そこに至る前段階もあるという事実、そして
それは必ず通らねばならないものだという事実を重視していたからである。そして、さ
らに言えば、実証には、それが容易なものばかりでなく、簡単に実証できないものがあ
る。例えば、先述のように満足するということの意味を多面的に考えていたらどうであろ
うか。経営学でMaslow理論の実証ということが言われるが、それは「欲求階層が本当に
あの5つであるのか」、「下位の欲求を充足したら本当により上位の欲求が発現するのか」、
ということにばかり集中している。「欲求の階層が上がることが心理的に健康であること
を含意するのか」あるいは「満足の病理は本当に生じるのか」といったことは何故か実証
されようとしていない。しかし、Maslow理論においては、配慮から生まれる客観性を志
向した多面的な吟味にこそ、その最大の魅力があるし、Maslow理論の深さはそこにこそ
−260−
表れている。それを無視して、「実証できていない」と述べることにどれだけの意味があ
るだろうか。そして、このように考えてみると、Maslow理論がAlderfer(1972)のERG
理論によって修正されたという議論はあまり意味がない。Alderfer(1972)は、こうした
多面的な意味でのMaslow理論を実証したわけではないからである。
両者はそもそも問題意識がまったく異なっていた。Maslow理論の目的が〈心理的健康
の実現〉であるのに対して、Alderfer(1972)の目的は、先述のようにモチベーション理
解のための欲求理論の精緻化である。そこには、Maslowの科学観に対する理解もない。
ERG理論とは、Maslowの問題意識と理論を矮小化した上で、それを実証したものと評価
せざるをえないのである。
Maslow理論は、McGregor(1960)以来様々に理解されてきた。それらの理解は、あ
る意味においては間違ってはいるわけではない。しかし、決して正確なものとも包括的
なものとも言えないものである。それらは、Maslowの心理学観、科学観を踏まえたと
き、3つの点において、Maslow理論の全体的な・深層的な理解とは言えないものであっ
たと言える。第一に、何のために心理学に取り組んだのかというMaslowの根本的な思想
を汲んでいない、という意味において、第二に、価値と事実を両面において重視している
Maslowの発想を取り入れておらず、したがって、欲求階層説の真意を汲んでいないとい
う意味において、第三に、配慮から生まれる客観性を重視するMaslowの発想を把握する
ことなく、結果として満足が生む病理やB認識の危険性など、対象に対する多面的な理解
を汲むことができなかったという意味において、である。
以上から、Maslow理論の全体像を次のようにまとめることができる。Maslow理論は、
様々な社会問題の根本的な対応として〈心理的健康の実現〉を企図したものであり、理想
としての自己実現論と、そこに至るプロセス論(欲求階層説に代表される)からなってい
る。そこでは、心理的健康の実現という問題を中心として、配慮から生まれる客観性が貫
かれている。
3.2.「第三勢力」という位置づけは妥当性か
以上のようなMaslow理論はどのように位置づけることが可能だろうか。Maslow理論に
ついては、周知のように、心理学の領域において〈第三勢力〉という位置づけが既にある
(e.g. Goble、1970;Lowry、1973;上田、1988;DeCarvalho、1991)。これはMaslow自身も
そのような評価をくだしている場合があるものである(e.g. Maslow、1968)。まずは、こ
−261−
の〈第三勢力〉という位置づけについて考えたい。
〈第三勢力〉とは、Maslowに代表される人間主義心理学を指し、ワトソンによって代表
される行動主義とフロイトによって代表される精神分析学という二つの大きな心理学の勢
力(第一勢力、第二勢力)に対して、両者の「もつ欠点ないし限界を克服し、心理学に新
しい突破口を開こうとする試み」である(上田、1988、10頁)。
行動主義とは、ワトソン『行動主義の心理学』の説明によれば次のようなものとなる。
「行動主義者がもっている物差、あるいは測量桿は、つねにこうである。すなわち、私
が見ている行動のこの一片は、「刺激と反応」ということばで記述できるかと」(訳書、21
頁)。
「行動主義者は、物理学者が自然現象を支配し、操作するように、人間の行動を支配し
たい。人間の活動を予言し、支配することは、行動主義心理学者の仕事である。これを行
うためには、実験的方法で、科学的なデータを集めなければならない」(同上、28頁)。
こうした行動主義に対する批判は、上田(1988)がまとめている。第一に、行動主義の
方法である科学自体に対する反省がないこと、第二に、人間心理の研究において動物の行
動に依拠していること、第三に、人格の部分領域のみの分析研究が際限なく進められるこ
と、である(上田、1988、2 5頁)。
フロイトの精神分析学とは、上田(1988)によれば、「精神分析は、まさに精神生活に
おける衝動の推進力と抑止力との力動的相互作用を論ずるものと断言することもできる。
しかもこの両者の分裂葛藤は、人間と社会との対立抗争を象徴するものでもあることに留
意する必要がある」(6頁)。こうした精神分析学に対して、Maslowは、ノイローゼ患者
や精神病患者など、精神的に不健康な人間ばかりを研究し、それをもって一般の健康な人
間を把握していたことに疑問を感じていた、とGoble(1970)や上田(1988)は指摘して
いる。
かくして、以上の行動科学・フロイト精神分析学の限界を克服しようとしたのが
Maslowをはじめとする第三勢力だというのが、〈第三勢力〉という位置づけである。一見
すると、この位置づけでMaslowの根本的な考え方、思想が説明されていると考えられな
くもない。実際、Maslowもこの分類に乗っている部分がある。しかしそれにもかかわら
ず、私はこの位置づけではMaslow理論の本質を説明できないと考える。
まず気をつけなければならないのは、〈第三勢力〉という位置づけは、主として心理学
という研究領域内の、研究対象の違いからMaslow理論の位置づけを示そうとするものだ
−262−
ということである。しかし、研究対象の違いをもって、根本的な考え方の違いを表してい
るとは必ずしも言えない。むしろ、根本的な違いは、何のために研究を行い、そのために
どのような方法を認めるかの違い、この意味で、心理学観、科学観の違いとして表れてく
ると考えられる。
こうした違いを考える上で、Maslow理論を行動主義と対比して位置づけることは意味
がある。両者の立場は両極にあると言ってもいいものである 。ただし、第三勢力という
12)
位置づけは、行動主義だけでなく、フロイトとも対比しており、この点がはたして妥当な
のかという点に若干の疑問が残るのである。もちろんフロイト精神分析とMaslow理論は
異なる。しかし、その違いは行動主義との違いと同列に並べられるものであろうか。実
際、第三勢力について説明する際、上田(1988)やGoble(1970)は、行動主義との違い
は明瞭に打ち出しているが、フロイトとの違いを出すことには非常に苦心している。例え
ば、上田(1988)は、行動主義に対してはその批判的見解を大きく取り上げているのに比
して、フロイトに対しては「行動主義と比べても、よりよく人間の本質に迫るところが認
められる」として(9頁)
、むしろその理論の意義を高く評価をしている。そして、最終
的には「結局、彼の立場に飽き足りない点は、方法論にあるのではなく、研究対象の限定
からくる理論内容の一面性、偏狭性にあるといえよう」と述べることになる(9頁)。つ
まり、上田(1988)は、Maslowとフロイトの間には、研究対象の違いこそあれ、立場に
ついては大きな違いはないことを認めているのである。また、Goble(1970)も、行動主
義に対しては、多くの批判点を挙げ、Maslowと対比しているが、フロイトについての批
判はわずかであり、Maslowとはほとんど対比できていない。上田(1988)もGoble(1970)
もMaslowとフロイトとの間に対照的と言えるほどの違いを見出すことはできていないの
である。
唯一両者が認め、万人が認めることができる対照性は、上田(1988)の言う〈研究対
象〉の違いである。すなわち、フロイトが精神的に不健康な病人を研究対象としたのに対
して、Maslowは、心理的に健康な人間を研究対象としたということである。しかし、研
究対象の違いをもって、対極的な研究とみなすのは無理がある。というのも、Maslowの
心理学観、科学観から考えると、Maslowとフロイトはむしろ重要な点で一致していたと
考えられるからである。具体的には、両者は、その目的において一致していたと考えられ
る。すなわち、人間の心理的健康の実現という目的である。またその方途についても非常
に近いものがあったのではないか。例えば、フロイトは次のように述べている。「精神分
−263−
析はまず自分自身について、自分という人間を研究することによって習得されるのです。
もっとも自己観察と呼ばれているものがすべてそうだというのではありませんが、とりあ
えず自己観察という言葉で、この方法を一括しておいていいでしょう」(フロイト『精神
分析入門』訳書(上)、18頁)。Maslowの欲求階層説も要するに、自己を理解していく過
程であるし、また彼は、科学の方法の一つとして経験に基づく科学を入れることを重視し
ていた。両者は、研究対象は違ったが目指すところは同じであった。フロイトは、不健康
な人間の研究を通じて、この心理的健康実現の方途を探ろうとしたのに対して、Maslow
は、健康な人間の研究によって心理的健康実現の方途を探ろうとした、と言えるであろ
う。
以上のように、Goble(1970)や上田(1988)は、Maslowと行動主義の違いに比して、
Maslowとフロイトの根本的な違いを見出すことに苦労しており、また実際、Maslowの心
理学観、科学観から考えても、Maslowとフロイトを対極に位置づけるのは難しい。以上
から、第三勢力という分類には若干無理があるように思われる。Maslow理論は心理学で
ありながら心理学を超えている。その理論の位置づけを見極めるには、社会科学として、
Maslowをどう位置づけるかを考える必要がある。
このことに関しては、三戸公教授の議論が参考になる。例えば、三戸(2002)では、主
流と本流と言う分類をしている。ここで主流とは次のようなものである。
「主流の研究は、科学の特徴に従がって対象を限定し・細分化し・専門化し、そして対
象把握の方法を限定し厳密にして限りなく進む。そして対象を構成する要素を分解し、
次々に新たな要素を科学の対象とし、新たな方法を生み出しつつ成果をあげ、その成果は
技術として対象化し物化し、合目的的な結果を着実にあげてゆく」(三戸、2002、6頁)。
ここで言う科学は、Maslowの拡張された科学ではない。行動主義などが採る一般的な
意味での科学である。まさに現在の主流は、こうした意味における〈科学的接近〉である。
これに対して本流とは、こうした〈科学的接近〉を踏まえながらも同時に〈哲学的接近〉
を意図する研究であると位置づけられる(三戸、2002、26頁)。哲学とは何か。「科学が要
素分解・要素還元的に接近してゆくのに対して、哲学は全体と部分を統合的に把握しよう
とする。(中略)統合は何らかの立場、何らかの価値体系を前提としなければならない」。
さらに、「価値の問題は人間の問題である。全体と部分とを統合的に把握するとき価値に
立脚するということは、全体と部分との位置関係をたしかめ意味を与えるということであ
る。」(同上、23 24頁)。
−264−
さらに、「哲学的接近による学問にとって、〈概念〉はまさにキーワードであり」、「科学
において、概念に対応する言葉は法則・規則」であること、「科学が対象たる事物をあく
まで〈事実〉として把握してゆくのに対して、哲学的接近は価値として、位置・意味とし
て把握するものである」ことが指摘されている(同上、24頁)。
この本流において重要なのは、随伴的結果の概念である。科学的接近は、「対象を限定
し・細分化し・専門化し、そして対象把握の方法を限定し厳密にして」接近していくが故
に、きわめて限られた範囲での因果関係の真偽を明らかにしていくことになる。つまり、
目的があり、その目的を達成する範囲で手段を厳密に調べていく、という意味で目的的結
果の追究を旨とする。しかしその場合、逆に言うと、その限られた範囲の外で何が起こる
かは問題としない。つまり目的的結果のみを追究するということになる。しかし、現実に
は、その限られた範囲の外では、様々な問題が起こる。つまり随伴的結果が生じている。
哲学的接近が、価値に基づいて全体と部分とを統合的に位置・意味を把握するというとき、
それは、知識が現実に適用・応用されることを想定し、そこに生じうる随伴的結果に思い
をめぐらせるということに他ならない。
Maslowが行った科学概念の拡張という作業は、まさにこの哲学的な接近を科学に含め
ようとした作業だったということができる。まず第一に、Maslowは現実の可能な限り全
体を意識して理論構築をしようとしていた。それが表現されているのが、「心理学の哲学」
で表明された彼の心理学に対する自負である。心理学が現代において何よりも重要だとい
う認識は、彼の自負であると同時に、彼の意識の高さの表れである。知識というものが、
人間の幸福に資するものでなければならず、また知識を提供するものには責任があると考
えていたからこそ、彼は社会を意識し、社会全体の成否を左右するものとして心理学を位
置づけたのである。
したがって第二に、Maslowは、言葉こそ違えども随伴的結果を常に意識していた。す
なわち、随伴的結果という問題は、彼の言葉で言えば、〈配慮から生まれる客観性〉とい
う言葉に表現されているものと言える。欲求階層説を打ち出しておきながら、満足の病弊
について思い直したり、B認識を健康の要素であると把握しながら、同時にB認識の危険
性を指摘するなどは、まさに随伴的結果の考慮であり、〈配慮から生まれる客観性〉の実
践であって、人間を幸福にするという視点からの対象に対する真摯な姿勢が如実に表れて
いる。Maslowが〈配慮から生まれる客観性〉を述べるために、〈われ−なんじ〉知識を強
調したことも、〈哲学的アプローチ〉そのものだと言いうる。〈われ−なんじ〉知識とは、
−265−
様々な知識が知る者と知られるものとの相互作用であることを認め、対象と一体化する
ことで、その対象における様々な意味の理解を得ることと言えるからである。Maslowは、
この〈配慮から生まれる客観性〉を重視するが故に、科学から価値と経験を排除すること
を認めることができなかった、むしろこれらを科学に含めて、科学概念を拡張すべきを主
張することになったのである。
Maslowの時代も既に、行動主義に代表される科学的接近が主流であった。Maslowもか
つてはその立場におり、その優れた点を熟知しながらも、その立場でよしとはせず、自ら
の心理学観に基づいて、科学概念の拡張という作業を展開した。それは、〈哲学的接近〉
を科学の中に取り込む作業であったと言うことができる。Maslowの心理学の目的に対す
る考え方、価値を入れ、配慮から生まれる客観性を重視する科学観は、まさに機能性とと
もに人間性を捉え、随伴的結果に配慮するものであり、この意味でMaslow理論はまさに
本流に位置する理論だと言うことができるであろう。
結.
従来から経営学の分野においてMaslow理論は大きく取り上げられてきた。本稿では、
Maslowが心理学についてどのように考えていたのか、科学についてどのように考えてい
たのかという点からMaslowの理論を捉えなおしてみた。
Maslow理論は、心理学であって、心理学を超えている。心理学に誇りをもっていたが、
それは彼の独自の心理学観に基づいたからであって、既存の心理学に囚われることはな
かった。それは、真の心理学者とは、人間の本性を追求する者全てだと述べていることに
よく表れている。そして、このような心理学観をもつに至った背景には、知識を提供す
る者の責任に対するMaslowの考えがある。すなわち、こうした責任を意識するがゆえに、
その責任を果たしうる心理学のあり方を思い描いたのである。
かくして、科学としての心理学の現状を憂えたMaslowは、心理学の領域にとどまらず、
科学論を展開せずにいられなかった。したがって、Maslowが考える科学は、非常に広義
のものであった。その特徴を大きく捉えるとすれば、次の3点を挙げることができるであ
ろう。
第一に、科学を「人間がよい人生、幸せな人生を生きるために必要なものを発見するこ
と」と捉えていたということである。Maslowは、何のための科学かというところでブレ
−266−
がない。初期のころから一貫して手段中心でなく問題中心というところにこだわってい
た。それゆえ、先述のように、心理学者とは、心理学の教授やサイコセラピストのことで
はなく、「人間の本性のより真なる、より明確な、より実証的な概念を発展させることに
関心がある全ての人」を指すと明言するのである。
第二に、現代社会の根本問題は「無価値状態」ということであり、問題中心的に科学を
構築していくとすれば、科学は価値の問題を探究していく必要があるということである。
科学は、包括的である必要があり、それが例え、測定できないもの、予測できないもので
あっても、その守備範囲に入れなければならないのである。
第三に、経験的知識も科学に含める必要があるということである。一見すると、経験的
知識には客観性がないようにも見える。しかし、客観性には2種類あり、経験的知識は、
〈科学的客観性〉には欠けているかもしれないが、〈配慮から生まれる客観性〉を有してい
る。
こうしたMaslowの科学観を踏まえると、Maslow理論の全体像も、これまでとは異なっ
た姿が浮かび上がってくる。第一に、経営学において、Maslow理論とは、何よりも「行
動の方向性、強度、持続性」を問題とするモチベーション論であった。しかし、これは全
くMaslow理論の全体像ではない。それどころか、Maslow理論の一部と述べることさえ憚
られるものである。Maslowは、モチベーション論の基礎である外部コントロールを意図
していないし、そのような理論構成にもなっておらず、逆にそれぞれの人の自分自身のコ
ントロールに人間の幸福の基礎を見出していたからである。また、Maslowの立場は、行
動主義の批判によって成り立っていたということも想起されねばならない。行動主義の延
長線上に把握される行動科学・モチベーション論に、Maslowを位置づけるのは、Maslow
の真意を全く汲んでいないものと言っていい 。
13)
第二に、近年、自己実現論のみをMaslow理論として研究する向きがあるが、自己実
現(心理的健康)の内容論だけをもってMaslow理論の全体像だとするのは適切ではない。
Maslowは価値を重視したが、価値を価値のみで分析しては、価値の研究として不十分と
考えていたからである。自己実現という価値に対して、それをいかにして実現するかとい
うプロセス論は不可欠であり、Maslowにとって、欲求階層説はその代表である。
第三に、こうした心理的健康実現の研究において、Maslowは、〈配慮から生まれる客観
性〉を貫く。それは、自らの欲求階層説に対しても常に自省を加えさせるものである。
かくして、Maslow理論の全体像は次のように整理できる。
−267−
それは、人間一人ひとりの幸福を目的とするものであり、社会が一人ひとりの個人から
成り立っていることを考えるとき、そこで求められるのは、諸個人の心理的健康の実現で
ある。したがって、その中身は、心理的健康の内容論と、その実現のための過程論から構
成される〈心理的健康実現論〉である。その際、その内容は、〈配慮から生まれる客観性〉
によって貫かれている。
さて、Maslowの科学観は、通常一般よりもかなり広義のものである。彼が行った科学
概念の拡張という作業は何だったのか。一言で言えば、それは、哲学的接近を科学に取り
込むことであったと言える。「対象を限定し・細分化し・専門化し、そして対象把握の方
法を限定し厳密にして」接近していく科学に対して、全体と部分を統合的に把握し、した
がって対象の位置・意味を把握し、その結果、目的的結果に対する随伴的結果を常に意識
することになる哲学の発想をそこに含めようとしたのである。
Maslowは、行動主義という科学的アプローチが隆盛する中で、知識を提供する目的を
「人間の幸せ」ととらえ、そのために知識の種々の随伴的結果に目配りする〈配慮から生
まれる客観性〉の重要性を主張した。この意味で、Maslow理論は、科学的アプローチを
超えて、哲学的アプローチをもって構成されているものである。
さて、こうした科学観を背景に持つMaslowの議論は、心理学を超えて展開されており、
それゆえに、経営学に対しても重要な示唆を有していると言える。Maslowの科学観は、
次の点において、現代の経営学においてもより一層重要性を増しているように思われる。
第一に、それは経営学が採るべき方法と方向性において示唆を与える。周知のように、
Simon(1947)によって、「価値を入れては科学にならない」ことが指摘され、経営学に
おいて、価値の問題は取り上げられなくなってきた。こうした事実重視の科学観を受け
て、実証研究重視の傾向は近年ますます顕著である。またS-O-R図式に基づく〈人的資源〉
という発想で管理が捉えられてもいる(山下、2007;2010a)。しかし、Maslowは、Simon
のような科学観を採らない。価値を積極的に科学に取り入れるべきを主張するし、人間の
コントロールを科学の目的とは認めない。人間の理解については、Maslowがまさに行っ
たように、様々な立場からする多面的な理解が不可欠なように思われる。それは、人間の
道具的な機能性の観点に関わる範囲での多面性だけではなく、人間に関わる様々な問題の
多面的な把握である。こうしたことは、心理学だけでなく経営学においても同様に必要な
ことである。何故なら、自然的・社会的環境が破壊されつつある中、現代の経営において
求められているものは、随伴的結果を視野におさめた複眼的管理であると考えられるから
−268−
である(三戸、1994;2002)。そして、現在、経営学においてもMaslowの言う科学的客観
性ばかりが志向されているように思われるが、随伴的結果を想起するには、Maslowの言
う経験的知識、〈われ−なんじ〉知識、そしてこれに基づいて生まれる〈配慮から生まれ
る客観性〉という発想がどうしても不可欠なように思われる。
第二に、Maslowによって、自己実現、心理的健康についてのより深い知見を得ること
ができる。この問題については、さらなる理解の深化が必要であるが、現時点で、少なく
も次のことが言えるであろう。欲求階層説は、ある意味において、利己的な低次の欲求か
らより高次の、より利他的な視点を含んだ段階への人間的な成長を含意している。した
がって、心理的健康とは、第一に、利己性とともに利他的な視点の受容であり、両者の統
合である、と言えよう。それは価値観として、そのようなものをもっているということで
あると同時に、そのように思えるだけの現実に対する認識力(B認識)と、その認識から
B価値を実践できるだけの創造力を必要とする。対象のあるがままを捉えて、またそうし
たB認識を繰り返すことで理解を深め、そこに基づいて「他者にとっても自分にとっても
良い」という認識と意志決定をその都度見出していくというところに、心理的健康を見出
すことができると考えられる。自己実現というと、何かと個性やオリジナリティが強調さ
れることも多いが、それは、第一義的に重要なものではない。もちろん、常識的な発想を
超えねばならないがゆえに、自己実現的人間は、個性的で、ユニークな存在となる。ただ
それは、結果として、そうなるというにすぎない。それは、個性や独自性を求めた結果で
はないのである。また、経営学においても、メンタルヘルスが言われるが、それは、病気
に対する対処として語られるものである。もちろんそうした対応が必要なことは言うまで
もないが、そもそも病気に至るような状態を作らないということ、積極的に心理的健康を
育むということも、経営学において求められる課題であると考えられる。
以上、Maslowの心理学観、科学観を明らかにし、それに基づいて、欲求階層説と自己
実現論が本来どのように理解されるべきなのかを示した。経営学と科学の問題は深い問題
であり、今後さらに考えていく必要がある。また、Maslow理論に関して言えば、もう一
つ考察しなければならない対象が残っている。Maslowの経営論である。この問題につい
ては、別稿にて論じたいと考えている。
注
1)以下で述べていく「科学」とは、あくまでもMaslowの考えるそれである。Maslowの言う「科学」
は、後述するようにかなり広義のものである。
−269−
2)Lowry(1973)は、1945年に発表された Experimentalizing The Clinical Method をはじめ3
本の論文を挙げている。なお、 Experimentalizing The Clinical Method は、臨床的方法と実験
的方法の統合を図ろうとした論文となっている。
3)各書のBibliographyによると(e.g. Maslow、1987)、この論文が初めて発表されたのは1956年で
ある。ただし今回入手できたのが、1957年のFairchild編による
に収録された同論文であったため、本稿はそれを用いている。
4)Maslowがここで述べている「ギルド」とは、外の世界から孤立した心理学の研究者仲間を指し
ている。
5)1950年代半ばに書かれたとされる未発表論文「心理学が世界に貢献すること」では、次のことが
述べられている。
「あらゆる時代の中で今のこの時代に、完全な破局の可能性が人類全体に脅威を与えている。そ
れでも、ユートピアはよりにこやかに手招きをしてくれているように思える。それ故、私は、最
も厳格で、威厳に満ちた献身の気持ちで、真面目に、皮肉やおざなりの言葉、自意識なしに、「人
生の意味とは何か」、「われわれはどうすれば幸福や静謐を最もよく達成できるのか」、「われわれは
どうすれば素晴らしい人間―真面目で、正直で、善良な―になれるのか」、「われわれはどうすれば
できる可能性のあることを達成できるのか」、「われわれは、人間の本性に適切に何を問うことがで
きるだろうか。そして、何がそれにあまりにも大きすぎる重圧を加えるのか」、「人間の本性は社会
に何を要求できるのか」、「こういったことすべてを可能にするために、社会をどうやって変えた
らいいのか」と、再度尋ねてみることに、これまで以上に正当性を感じている。」(Maslow、1996、
p. 121、訳書、160頁)。
なお、以下で参照している文献について、訳書のあるものは、訳書も参照しているが、若干、異
なる訳を当てている個所もある。
6)なお、没価値状態になった理由としてMaslow(1959)は2点を挙げている。第一に、人類にこ
れまで提供されてきた伝統的価値体系が、失敗であると結果的に証明されてしまったからであり、
第二に、機能していない旧い価値体系と、まだ生まれていない新しい価値体系との間の、空位時代
に現代があるからである(Maslow、1959、p. ⅶ)。
7) suchness について、Maslowは、鈴木大拙を引用しつつ、次のように説明する。「 Suchness
とは、日本語の〈そのまま(sonomama)〉と同義語である」
(Maslow、1971, p. 251, 訳書、297頁)。
さらに続けて、「事実上、それは、物事の as-it-isness を意味する」とされる。 as it is は「あ
るがままの」と訳される語であり、suchnessとは、「そのまま」とか「あるがまま」ということを
意味していると言えよう。
8)Maslow(1966)によれば、〈われ−なんじ〉と〈われ−それ〉はブーバーの概念である。本稿では、
その概念の中身については、ひとまずMaslowの述べるところに従う。
9)三島重(2009b)では、Maslow(1967)で提示された15のB価値が紹介されている。それは以下
の通りである(Maslow、1967、pp. 108 109)。
① 真 理(Truth)、 ② 善(Goodness)、 ③ 美(Beauty)、 ④ 統 一(Unity)・ 総 体(Wholeness)、
④A.二分化の超越(Dichotomy-Transcendence)
、⑤活力(Aliveness)
・過程(Process)
、⑥独自
性(Uniqueness)
、⑦完全性(Perfection)
、⑦A.必然性、⑧完成(Completion)
・究極(Finality)
、
⑨正義(Justice)
、⑨A.秩序(Order)
、⑩単純さ(Simplicity)
、⑪豊かさ(Richness)
・全体性
(Totality)
・包括性(Comprehensive)
、⑫無努力(Effortlessness)
、⑬遊び心(Playfulness)
、⑭自
足(Self-sufficiency)
、⑮有意味さ(Meaningfulness)
。
10)この点に関しては、山下(2008、2010b)でも若干論じている。
11)対照的なものとして、例えばMcGregor(1960)にはそうした発想があった。この点については、
別稿にて論じたいと考えている。
12)上田(1988)は、Maslow(1971)を引用しつつ、第三勢力を第一勢力、第二勢力と対立するも
のではなく、それらを包括するものであると指摘している。本稿でもこの見解を否定するものでは
ない。ただし、第一勢力、第二勢力、第三勢力と3つに分けるということは、その三者は同じもの
ではなく、相互に相違点があるということであり、その相違点がどのようなものであるかという点
−270−
に本稿では注目している。特に、その理論の根幹をなすのは、その目的であり、それが違うという
場合には、いかにそれ以外の部分を〈包括〉していようとも、包括しているとは言い難いであろう。
13)改めて言うまでもないと思われるが、行動主義が新行動主義に越えられているという議論は、
本稿においては、大きな問題ではない。Bertalanffy(1967)が指摘したように、SとRの間に、Oが
介在しようとも、その意図は全く変わっていないからである。この点に関するBertalanffyの議論の
詳細は、山下(2009)を参照。
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