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第6節 鉄道と住宅地開発に係る歴史的風致(PDF:10.9MB)

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第6節 鉄道と住宅地開発に係る歴史的風致(PDF:10.9MB)
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第6節 鉄道と住宅地開発に係る歴史的風致
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JR東海道線の向日町駅は、明治9年 (1876)7 月に京都府内で最も早く開業した鉄道の駅である。
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関西における鉄道敷設は、神戸から東進する形で進められた。京都駅が開業するのは明治
10 年 (1877)
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2月のことで、向日町駅より大阪寄りの山崎駅の開業は、記録によれば向日町駅開業の翌月であった。
1 鉄道と向日町の歴史
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鉄道敷設の準備は、明治5~6年 (1872 〜 1873) 頃から始められ、東部の水田地帯をほぼ南北に直線
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おとくに
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的に通ることになり、用地の測量や買収が進められた。当初は、乙
訓の中心的な町場である向日町の
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JR向日町駅は、西国街道と線路との交差点に作られた。町場に近づけることはできなかったが、
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町場から延びる街道上に設けることで、交通の便を図ったようである。向日町駅は、人と物資の輸送
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の重要地点となった。特産品である竹材やタケノコは鉄道によって大量に、より遠くへ運べるように
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なり、この地域に発展をもたらした。また向日町駅は、西山に点在する古社名刹への参詣の入口とし
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ても賑わった。かつて江戸時代には、京都から西国街道を通って参詣した人々も、鉄道ができてから
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は向日町駅までは汽車に乗り、駅から西国街道を歩いて参詣するようになった。やがて駅の前には、
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人力車や乗合自動車の停留場が設けられるようになったという。
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め、東部の水田地帯を通過させることになった。
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写真
2-6-1-1 昭和
40 年 (1965) 頃まであった向日
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写真 2-6-1-2 現在のJR向日町駅
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2-6-1-3 向日町森本付近を走る機関車(大正
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時代頃)
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写真
2-6-1-4 大正時代頃の向日町駅構内と鉄道員
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183
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写真 2-6-1-5 JR向日町駅前の光明寺道石標
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昭和3年 (1928) には、京都で挙行される昭和天皇の御大典にあわせて、東海道線に併行して新京阪
線(現在の阪急京都線)が開通する。この時、向日市域には東向日町・西向日町の2つの駅ができた。
小さな向日市域に駅が2か所も設けられたのは、市域の南北で駅の立地をめぐって誘致問題が起こり
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結論をみなかったので、時の有力者が一方の駅の周辺に鉄道会社による住宅開発を約束することで、
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2駅設置を承知させたという話が伝わる。西向日町駅の周囲の竹藪を伐り拓いて、農村のなかに郊外
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型住宅地が出現することになった(次項で詳述)
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図 2-6-1-1 新京阪電車沿線案内図 昭和戦前期
184
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写真 2-6-1-6 16mm フィルム・新京阪電車
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写真 2-6-1-7 16mm フィルム・新京阪改札口風景 ( 昭和8年 (1933) 頃 )
( 昭和8年 (1933) 頃 )
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写真 2-6-1-8 16mm フィルム・西向日町住宅地 (
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昭和 36 年 (1961) には、市域東部に向日町操車場ができた。戦争中から計画はあったが、実現した
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のはこの時であった。完成すると、長らく西日本最大の客車・気動車・電車の基地として、列車編成
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が行われた。(現在はJR西日本総合運転所)
数多くの駅員を要する操車場は向日町駅に付属した。そのため向日町駅は、かつては京都・大阪間
の東海道線の駅のなかでも上位にランクされる駅だったという。現在も本市域に旧国鉄マンが多く居
住するのは、向日町駅と操車場の存在により、官舎などが設けられていたためである。
昭和 39 年 (1964) には、東海道線のさらに東側に、東海道新幹線が通過するようになる。高架線路
が市域を南北に貫くように直線的に建設された。
185
写真 2-6-1-9 向日町操車場
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ぶ路線として、東海道線と並んで数多くの旅客を運んだ。2つの鉄道が併行して通過することで、向
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日市域は交通至便なベッドタウンとして、高度成長期以降、宅地化が加速する。
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昭和
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(1972)10 月の市制施行により向日町から向日市になると、阪急の駅名は西向日町駅・東
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向日町駅から「町」がとれ、西向日駅・東向日駅となる。なお、阪急が駅名変更したのに対して、国
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鉄の駅は、
向日市となってからも、
郵便局や警察署などと同様に「向日町」のままであり、
「むこうまち」
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というフレーズが、現在まで本市域をあらわす名称として広く親しまれていることにつながっている。
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平成 15 年 (2003) には阪急洛西口駅、平成 20 年 (2008) にはJR桂川駅が市域に北接して開業し、
コンパクトな向日市とその隣接地に接近して5つの鉄道の駅があるという、
さらに交通至便の地となっ
186
た。両駅周辺の桂川・洛西口新市街地では大規模な開発計画が進行中で、新たなまちづくりが行われ
つつある。5つの駅と何本もの線路が横に並ぶ広い操車場の敷地は、狭い市域の中でかなりの面積を
占める。京都府内で最も人口密度が高いのは、鉄道交通の便利さがもたらした状況である。本市の現
在の景観が形成される上で、鉄道との深い関係性が認められる。
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写真 2-6-1-12 空から見た現在の向日市域右側に操車場、中央から左下にかけて阪急京都線
2 西向日住宅地
(1)新京阪線の開通と郊外住宅地開発
昭和3年 (1928) 開業の新京阪線西向日町駅の周囲は、翌4年 (1929) 頃から田園都市構想にもとづ
く郊外型住宅地が造成され、京都・大阪へ通勤する人々の住宅が建ち並んでいった。
西向日町住宅地の開発のきっかけは、新京阪鉄道株式会社が、昭和の初めに淡路‐京都間を結ぶ鉄
道を計画したことにある。それまで淀川左岸の大阪‐京都間を結ぶ路線を営業していた京阪電気鉄道
株式会社が、新たに淀川右岸に新路線を計画した。新京阪という姉妹会社を設立し敷設したのが、現
在の阪急京都線の原型である。
京都で挙行された昭和天皇の即位式、いわゆる「御大典」に間に合うように工事が進められ、昭和
3年 (1928)11 月に営業が開始された。
新路線の計画では、当初は向日町(現在の向日市)の中に駅は1か所の予定であった。しかし、設
置場所をめぐって町内で対立が起こり、向日町側は2つの駅を置くように、会社側と交渉したという。
一方の駅の周囲に、鉄道会社直営の住宅地を作るという条件で、2つの駅を作ることになり、町内の
対立は収まった。これが現在の東向日と西向日の両駅である。こうして、西向日町駅の周囲が宅地開
発されることになり、昭和4年 (1929) 頃から工事が進められることになった。
西向日住宅地は、本市域で昭和 30 年代になってから本格的に進行するまとまった宅地化の最初の例
で、関西では明治 40 年代の池田室町、大正期の豊中や岡本、千里山などに次いで、計画された住宅地
であった。現在はもっとも大きな規模であった1か所が残るのみであるが、当初は3か所に噴水を配し、
碁盤の目のように道路を通し、上下水道完備の宅地が造成された。意匠を凝らした住宅が並ぶさまは、
187
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当時の周辺の農村とは異質な雰囲気で、多くの学者や実業家、京都・大阪へ通勤するサラリーマンが
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来住し、モダンで文化的な生活を営んだ。現在も草創期の雰囲気を残す個人住宅が数軒残り、良好な
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図 2-6-2-1 昭和4年
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造成風景想像画
写真 2-6-2-1 新緑の噴水公園
「西向日町史」口絵
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図 2-6-2-2 現在の西向日区自治会範囲
(2)西向日町住宅地の変遷
西向日町住宅地が造られた場所は、開発される以前は一面の竹薮であった。江戸時代には、上植野
しょうごいん
村に所領を持っていた 15 の領主の1つである聖護院の領地だった場所である。約3万坪の土地が、当
時の相場の5倍だという坪当たり 10 円 ( 例:当時の人夫日当1円 50 銭~2円 20 銭 ) で買収されて、
竹薮が伐り開かれることになったと、後に地元自治会がまとめた「西向日町史」(1957 年刊行、以下「町
史」) にある。
この場所は、南東方向に延びる向日丘陵の縁辺に広がる段丘上に位置しており、南東に向かって傾
斜する日当たりの良い土地柄で、住宅用地に適していた。
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図 2-6-2-3 大正
11 年 (1922) の鶏冠井南部・上植野北部のちに西向日町住宅地となる付
近の様子
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鉄道開通の翌年、昭和4年
(1929) 早々に、整地工事が進められた。中央に円形の噴水公園を配し、
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噴水の周囲をロータリー、そのほかには碁盤の目のように街路を通し、計画的に造成された。
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急行電鉄五十年史」(1959
年発行 ) には、昭和4年 (1929) の西向日町経営地は総坪数1万7千坪で、
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売価は坪当たり 18 円~ 26 円とある。土地 100 坪・建坪 33.25 坪の土地付き住宅の場合で約6千円と
いう例が示されている。
か い で
昭和 11 年 (1936) の地図を見ると、鶏冠井と上植野の昔からの集落の間に、整然と区画された住宅
予定地が出現していることが、明瞭に読み取れる。街路で区画された長方形の内部を8分割した 200
坪が、売り出しの平均的な一区画の広さだったという。
造成・分譲したものの、当時は世界恐慌後の不景気の時代でもあり、販売には苦戦したようである。
駅の西側や円形の噴水公園の近くには建物があるが、そのほかは空閑地が拡がっている。昭和6年
(1931)11 月の段階で、住宅地内の家屋所有者は 34 人であった。またこの地図によると、後に住宅地の
範囲となる北端や南端の部分は竹薮のままであり、宅地造成は段階的に進められたようである。
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189
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図
2-6-2-4 昭和 11 年 (1936) の西向日町住宅地付近の様子
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昭和 14 年 (1939) に西向日町住宅地が鶏冠井・上植
野の両区から行政区として独立し、初めての国勢調査
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となった昭和 15 ጞࡵ࡚ࡢᅜໃㄪᰝ࡜࡞ࡗࡓ᫛࿴ᖺ࡛ࠊேཱྀ
年 (1940) で、人口は 643 人である。
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史」には昭和 18 ᡞ࡜࠶ࡾࠊ₞ḟࠊ
年 (1943) で戸数 160
戸とあり、漸次、
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家数は増加していったようであるが、戦後まもなくの
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の航空写真をみても、駅近くは宅地
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で埋まっているものの、離れるにつれ、なお空閑地が
目立つ状態である。
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西向日町住宅地の先進性を表すものは、上・下水道
の布設である。段丘上に位置する住宅地では、生活の
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写真 2-6-2-2 昭和 21 年 (1946) 航空写真
ために上水道は不可欠の問題であった。周辺の他の集
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落が井戸水に頼っていた昭和初期に、
新京阪の分譲地では、昭和4年 (1929) 3月には上水道が布設され、
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鉄道会社直営で、
住宅地へ給水されることになった。下水道も当初からの分譲地には完備されたという。
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戦後の昭和 26࡟࠾ࡅࡿỈ㐨஦ᴗࡢጞࡲࡾ࡜ࡋ࡚ࠊṔྐ࡟グ㘓ࡉࢀ࡚࠸ࡿࠋ
年 (1951) 9月に、向日町との間に上水道の譲渡契約が結ばれ、以後は町営事業とし
て維持管理されることになる。これまで鉄道会社直営で安定供給されてきただけに、住民の不安は高
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まり、以後5~6年にわたって問題化するが、やがて解消される。西向日町住宅地の上水道は、向日
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市における水道事業の始まりとして、歴史に記録されている。
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昭和 35 年 (1960)
には西向日区の人口は 1,022 人となり、この頃になると西向日町住宅地の全体に
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宅地が拡がるようになる。一部では、本来の一区画に2軒以上の住宅が建っている場所もみられる。
高度成長期に入り、向日市域全体が人口急増期を迎え、宅地開発が進行する時代を迎えていた。昭和
36 年 (1961) の航空写真をみると、西向日町住宅地の家々は、それでもまだゆったりとした敷地の中に
建物がある。東海道線の東側には水田地帯が拡がり、住宅地の周囲には緑が多く、環境に恵まれた都
市近郊住宅地の様子がうかがわれる。
190
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図 2-6-2-5 昭和 35 年 (1960) の西向日町住宅地付近の様子
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写真 2-6-2-3 昭和 36 年 (1961) 航空写真
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昭和 47 年 (1972) の市制施行を経て、昭和 50 年代に入ると人口の増加率はやや収まり、西向日区の
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人口も 1,300 人台後半で推移するようになる。昭和 57 年 (1982) の地図をみると、鶏冠井や上植野な
どの集落との境にも宅地がびっしりと建ち並び、西向日住宅地とまわりとの境界は判別しがたく連続
的になっている。住宅地の内部でも、造成から 50 年以上を経過して、最初に家を構えた第1世代はほ
とんどなく、第2世代から第3世代への代替わりの時期にあたり、それを契機として昭和初年 (1926)
に建築された住宅の解体と敷地の分割が進みつつある。
191
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図 2-6-2-6 昭和 57 年 (1982) の西向日町住宅地付近の様子
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上と同じ昭和 57 年 (1982) の地図を用いて、平成 17 年 (2005) の時点で、昭和前期の建築当時の外
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観を残す建物
( 黒塗りの部分 ) と、かつて1軒の宅地であったが昭和 35 年 (1960) 頃以降に細分され
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た場所 ( 太線で囲む部分 ) を地元の方が示されたのが、下の図である。これをみると狭いところでも
100 坪以上はあった宅地が、時代とともに建替えや売却・相続によって細分化されていることがわかる。
特に平成7年 (1995) の阪神淡路大震災後に、建て替えが一気に進んだという。
しかし、昭和前期の近代和風建築の外観を残す趣ある住宅もまだまだ残されており、近年に新しく建
てられた現代的な住宅とも調和している。
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図 2-6-2-7 建築当初の外観を残す建物と分割された宅地
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西向日区の平成 26
年 (1951)10 月の人口は、1,305
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人 ( 世帯数 586) で、昭和
50 年代とほとんど変わっ
ていない。
昭和初年
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の造成以来、西向日住宅地の姿は
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少しずつ移り変わってきたが、今日でもなお噴水公
園に特徴づけられる当初からの街区は残されており、
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写真 2-6-2-4 平成 24 年 (2012) 航空写真
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( 3) 西向日住宅地の景観の特徴
造成以来の計画的な街路については前項で述べたため、ここでは西向日住宅地の良好な景観を構成
するものとして、シンボルとなっている噴水公園(①)、特に貴重なものとして注目されている建造物
(②・③)、まちなみの雰囲気を形成する石積みや生垣(④−1• ④−2)、そして桜並木について紹介する。
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③
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西向日区(自治会)
図 2-6-2-8 特徴的景観位置図
① 噴水公園
西向日住宅地を代表する景観が、噴水公園付近である。昭和初期の造成時から、長方形の碁盤の目
のように直角に交わる街路の中に円形の区画が設けられ、中央に噴水を、その周囲をロータリーとし、
今日でも車の通行は時計回りに決められている。地元の方の話では、造成当初、噴水は3か所あり、
噴水公園から西に向かう、中央通りと呼ばれている東西道が線路と交わる踏切付近に1か所、踏切を
渡った角にもう1か所あった。踏切東側は早くに失われたが、西側の場所は昭和 35 年 (1960) の地図
でも確認できる。やがて 1970 年代に西側の噴水もなくなりマンションが建てられ、現在ではもっとも
大きかったこの1か所のみが残されている。
193
円形の区画を中心に据えたプランは、大正から昭和初期、イギリスのエベネザー・ハワードが提唱
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した田園都市の理念にもとづいて日本各地で計画された郊外住宅地開発において、しばしば取り入れ
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られた。関東では大船田園都市
( 鎌倉、大正 11 年 (1922) ~、ただし途中で頓挫 )、田園調布 ( 東京・
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大田区、
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年 (1922) ~ )、関西では千里山住宅地 ( 吹田、大正9年 (1920) ~ )、櫻ヶ丘住宅地 ( 箕
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面、大正
11 年
(1922) ~ )、大美野田園都市 ( 大阪・堺、昭和6年 (1931) ~ ) などで、円形区画から
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放射状に街路が延び、同心円状に環状街路がめぐる構造が多かった。
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西向日では、放射状街路はなく、ロータリー部分以外の街路は直交し、長方形の区画を形成してい
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るところが、他と異なる点である。円形の中央は植え込みであるところが多く、西向日と同様に現在
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は噴水である千里山も、造成当初は花壇であった。当初からという西向日住宅地の噴水の方が、ある
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いは先に設けられたものかもしれない。
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噴水池の水は、昭和
28 年 (1953) 頃から防火用水に利用されるようになり、昭和の終わり頃には全
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体がフェンスで囲われていたというが、昭和
63 年 (1988) 度から平成3年 (1991) 度にかけて噴水をよ
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みがえらせる公園整備とともに、桜の保全や老朽化した側溝の改修などの道路整備が行われた。今日
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ではモダンな郊外住宅地としての西向日住宅地のイメージを代表する景観として、地元住民をはじめ
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多くの人々に親しまれている。
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写真 2-6-2-5 桜の頃の噴水公園
写真 2-6-2-6 新緑の噴水公園とロータリー
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じゅがく
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こうじつあん
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向日庵(寿
岳家住宅)
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西向日住宅地の南東部、噴水公園から西へ行き2つ目の角を南に折れて少し行くと、英文学者の
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木造で建築面積は
129.8 ㎡、2階建、切妻造、桟瓦葺で、中廊下型の典型的な郊外型住宅である。
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設計は京都帝大で建築学を修めた澤島英太郎、施工は熊倉工務店。設計上の特徴は、換気
・通気の徹底、
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台所・居間・書斎の造り付け家具の工夫など、住環境に配慮した建築装置が充実している点にあると
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評価されている。設計の澤島は、環境工学の先駆者として名高い藤井厚二に師事しており、藤井流の
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住宅建築の特徴が色濃く反映されている。
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かみすき
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寿岳文章は、妻しづとともに、昭和
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これが日本最初のフィールドワークと評されるなど、専門の英文学以外に和紙研究の先駆者でもあっ
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た。文章・しづ夫妻は協力して、上質の日本の紙を用いた美しい私家版の書物を、この家を工房にし
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岳文章が、昭和8年
(1933) に自邸として建てた向日庵がある。
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て製作し、「 向日庵本 」 として出版したことでも知られている。しづも翻訳・随筆の著述を多く残し、
仕事・家事ともに対等の夫婦関係であったといわれており、それがこの建物の設計にも活かされてい
194
るという。
やなぎむねよし
和紙・書誌学に通じた文章は、大正から昭和前期に柳宗悦らが推進した民芸運動とも係わりが深く、
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向日庵には柳や河井寛次郎、浜田庄司、芹沢銈介、黒田辰秋らの訪問や交流を示す話が、多数伝わっ
ている。黒く塗った板張りの外壁や、壁に和紙を使った応接間、木製建具の意匠などに、民芸風の趣
がある。これは施主だけではなく、施工した熊倉工務店の志向でもあるという指摘がある。
文章・しづ夫妻には長女章子 ( 国語学者、元京都府立大学教授 )、長男潤 ( 天文学者、東京大学名誉教授 )
があり、現在ではすべて故人であるが、学者一家として知られた家であった。今日でも、寿岳一家が学問・
文化の探究に励み、日常の美に満ちた生活をおくっていた往時のままに保たれている向日庵は、西向
日住宅地を象徴する住宅建築である。
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写真 2-6-2-7 向日庵(寿岳邸)北西からの外観
写真 2-6-2-8 向日庵(寿岳邸)西側面
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葵園(狩野直喜別邸)
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阪急西向日駅南側踏切から噴水公園に至る中央通りを南に入った東側に、京都帝国大学教授で漢
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学者であった狩野直喜が、昭和
12 年 (1937) に別邸として建てた数寄屋造りの建物「葵園」がある。
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母屋造茅葺、主室縁側と茶室南側間半通りの屋根は本瓦葺、玄関は切
妻造桟瓦葺で、正面の曲木が
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目を引く。正面に
「葵園 昭和庚辰夏日 君山老人」と記された額を掲げる。昭和庚辰は昭和 15 年 (1940)、
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君山は狩野直喜の号。簀
子天井や、はつり仕上げの造作材は民芸調でまとめられているが、漢学者の
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書斎にふさわしく、格調の高さを漂わせている。施工は、江戸時代から京都御所の造営にも参加する
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乙訓地域の大工の伝統を受け継いだ工匠、安
井杢太郎棟梁である。
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熊本藩に仕える学者の家に生まれ、漢学を修めて東方文化研究所長などを務めた狩野直喜は、京都
帝国大学に近い現在の京都市左京区田中に自邸があったが、寒を避けて温暖な雰囲気のある西向日住
ひ ま わ り
宅地に別邸を設けたという。建築当初は向日葵が玄関前に多く植えられていたので「葵園」と名付け
たという話が伝わるが、あるいは向日町の地名にちなんだものかもしれない。狩野はこの建物をしば
しば訪れ、ゆっくりと書物に親しむ時間をもち、また時には京都から学者仲間が訪れ、この地の名産
であるタケノコなどを食しながら、学問の話をすることもあったという。当地の近隣の知識人も多く
集まり、文学談義に花を咲かせたという話が伝わる。地元の小学校で先生をしていた方の家に狩野直
喜の墨跡が残るなど、昭和前期にこの建物を中心にしてさまざまな交流があったことが知られている。
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じょあん
現代においても桂離宮や国宝茶室如庵(愛知県犬山市)の修理などを担当し、日本の伝統建築文化
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を担う安井杢工務店
( 本社は向日市上植野町に所在 ) の、昭和前期における茅葺・数寄屋造り建築と
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195
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写真 2-6-2-9 葵園(狩野直喜別邸)
写真 2-6-2-10 玄関に掲げられた額
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住宅地内の石積みや生垣・塀
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南東方向に傾斜する段丘に立地する西向日住宅地では、宅地はひな壇状に造成された。開発当初、個々
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のりめん
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の宅地の法
面には玉石の石積みが施され、それが今日でも所々に残されており、住宅地全体の景観に
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独特の趣を与えている。安井杢太郎の次男で、自身も数寄屋建築の第一人者であった安井清によれば、
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これら住宅地の石積みは、乙訓に隣接する大阪府島本町を流れる水無瀬川の名石「尺代石」を用いて、
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のづらづみ
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「野面積」という古い石積みの工法で積まれた見事なものであるという。
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緑の生垣やさまざまな素材で構築された塀も、住宅地内の町並み景観を特徴づけている。西向日住
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宅地内には、生垣で敷地を囲む住宅が数多くあり、宅地内の樹木の多さと相まって、他の地区に比べ
て圧倒的に豊かな緑を構成している。それぞれの家庭が建物とのバランスを図りながら木々を配し、
丹精込めて手入れを施すことで作り上げられた景観である。
生垣と組み合わせて宅地を区画する塀も、昭和前期からの風情を残す板塀や土塀、レンガ積みなど
がみられる。近年造り替えられたブロック塀なども、洗練されたまちなみの雰囲気を壊さないよう配
慮され、調和のとれたデザインが施されているものがみられる。
前項で触れたように、昭和前期の住宅建築は建替えが進行し失われているところも少なくないが、
今なお残るこうした石積みや生垣が続くまちなみが醸し出す雰囲気は、歴史ある住宅地の景観を維持
するのに大きな役割を果たしている。
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写真 2-6-2-11 藤井厚二設計の住宅があった敷
写真 2-6-2-12 住宅地造成時に現地事務所で
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地の石積み
あったという建物の石積みとデザインが施され
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たレンガの塀
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196
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⑤ 桜並木
西向日住宅地の景観を特徴づけるものとして、現在もっとも広く知られているのは桜並木である。
昭和4年 (1929) の開発当初、時代の先端をいく住宅地のイメージにふさわしい街路樹として、鉄道
会社が植えたのが、ソメイヨシノの苗木だった。
現代日本の桜の名所を席巻するソメイヨシノは、古くからの伝統種であるヤマザクラなどと違い、
江戸時代の末に品種改良で作られた比較的新しい品種である。明治の終わり頃から公園などに盛んに
移植されるようになったソメイヨシノの並木は、昭和初期の人々にとってモダンに映るものであった
ため、近代的な住宅地にふさわしいものとして選ばれ、植えられた。ソメイヨシノの並木は、乙訓地
域における大規模で計画的な開発の先駆けである西向日住宅地を象徴する景観といえる。
桜並木について、「西向日町史」(1957 年 ) には次のように記されている。
つが
「最初は全道路に両側に同一間隔で小さい苗木を電鉄会社が植え、中央道路だけは桜と栂を交互に植
えたのが今日のようになったのであるが、或時は施肥をしたり害虫駆除をして愛護した。( 中略 ) 落葉
の為に掃除に閉口ではあるが、吾が住宅地の年齢と同じ年輪を加えつつ育って来た此の桜並木は、記
念としてでも愛して育てたいものである。」
新興住宅地のモダンなイメージと、現在の桜並木の見事さを重ね合わせて、つい桜だけをクローズ
アップしがちであるが、地元の方によるこの記述では、桜とともに栂が植えられたとあり、住宅地が
できた頃を直接知る方々にとっては、栂やアカシアなど他の樹木も、桜と同様に印象に残るものであっ
たことが知られる。ソメイヨシノは、鉄道会社によって当初から植えられたものであるのは確かなこ
とであるが、現在のように卓越するようになるのは、むしろ戦後になってからのことかもしれない。
みち
噴水公園が整備された 1990 年代から、桜並木についても人々の関心が高まり、「桜の径」と名付け
られて、行政も景観の維持に特に力を入れるようになった。地元住民も桜並木には格別の思い入れを
持って管理してきたが、近年特に桜並木を中心にしたまちづくり活動が展開されるようになってきて
いる。詳しくは次項で述べる。
現在、西向日住宅地内の街路樹となっているソメイヨシノは約 270 本ある。開発当初からの、樹齢
約 80 年以上を経ていると推測される桜もあり、倒木の危険が高い桜の伐採と植え替え、再生の可能性
のある桜の手当など、きめ細かな管理が施されている。
大正から昭和前期に計画的に開発された住宅地には、西向日と同様にソメイヨシノが街路樹として
植えられたところが多かった。しかし、今日ではごく部分的に残るのみで、当地のように、なお街路
樹としての桜並木の景観が維持されている場所は、たいへん珍しいといわれている。
197
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図 2-6-2-9 西向日桜の径
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写真 2-6-2-13 西向日住宅地のまちなみと桜並木①
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写真 2-6-2-14 西向日住宅地のまちなみと桜並木②
2-6-2-15 街路樹の桜と宅地の生垣・庭木
198
(4)住民の自治的な活動と景観の維持管理
西向日住宅地の景観の維持管理は、地域住民による自治的な組織が、大きな役割を担ってきた。住
民組織の結成は、昭和初年 (1926) の開発後、まもなくのことである。
西向日の南に接する上植野地区の区有文書の中に、新たに設立された西向日町住宅地組合が作成し、
当時の上植野区の事務所に届けた記録が残る。昭和6年 (1931)11 月付けの住宅地組合規約と会員名簿、
同年 12 月付けの昭和6年 (1931) 度組合費歳入出予算報告の3点である。昭和6年 (1931) 度の歳入出
報告書をみてみると、当時、住宅地内に家屋を所有しているのは 34 人で、所有する家屋の規模に応じ
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た組合費を負担していた。土地のみ所有している組合員からは、雑草刈取費の支出時期が来年度にな
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算報告で、土地
・建物とも5か月分の組合費が賦課されていることから、組合の結成は昭和6年 (1931)
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8月であったと推測される。1年につき1坪当たり一等地で3銭5厘、一等戸で
17 銭の組合費が徴収
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され、寄付金と合わせて
180 円 37 銭の歳入 ( 5か月分 ) があった。( 昭和6年 (1931) の物価:郵便料
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金葉書1銭・封書2銭、豆腐1丁4銭、コーヒー1杯
10 銭 )
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表 2-6-2-1 昭和6年 (1931) 度の西向日住宅地歳入出報告(部分)
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(1931) 度の組合の支出項目には集会費、事務費などがあり、もっとも高額だったのは塵芥
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運搬車購入の
45 円であった ( 昭和6年
(1931) の物価:小学校教員の初任給 45 円~ 55 円 )。注目され
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るのは土木風致費で、18 円が支出されており、支出全体の 10 分の1にあたる。その中に街路樹手入費
5円があり、鉄道会社によって植えられた桜などの管理にあてられていたようである。
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組合が結成されても、住宅地が所在する鶏冠井区と上植野区との関係は従来とさほどかわらず、各
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戸からの区費の納入が、組合でとりまとめて鶏冠井・上植野両区へ納めることになった程度であった
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ため、やがて西向日町住宅地組合を、
区制による西向日区とすることが住民間で議論されるようになる。
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当時の向日町は京都近郊の純農村地帯であり、サラリーマンや学者などの都市生活者が集住する西向
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日町住宅地の住民にとって馴染みにくく、むしろ住宅地内だけでの組織作りが急がれた。
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そして昭和
14 年 (1939) には、向日町のなかで物集女・寺戸・向日・森本・鶏冠井・上植野と並ぶ
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7つ目の区として、西向日区が誕生した。
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第2次世界大戦中と戦後しばらくまでは、周辺農村とは事情が異なり、西向日区民はとりわけ食料・
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燃料の確保に苦労するようになる。西向日町駅構内の空き地を借り受け区民共同で開墾・耕作したり、
西山山地から薪炭を共同で買い入れ配給したりした。この頃、開発当初からの街路樹であった桜やア
カシアを伐採したという話が伝わる。
戦後になると、戦前までの地域の仕組みは解散を余儀なくされる。周囲の農村部では、農家組合や
消防団の組織、伝統的な行事など、変わらない地域活動が続いたが、西向日住宅地の住民組織は空白
期を迎える。やがて、住民相互の団結による戦前のような住み良い住宅地の復活が望まれるようになり、
新時代にふさわしい住民本位の民主的団体として、昭和 25 年 (1950) に西向日自治会が発足した。全
住民の親睦と福祉が主目的で、自治精神を基盤として施設の改善や共同生活の合理化を進めることが
規約にうたわれ、委員会、役員会が設けられ、生活部、厚生部、文化部などの部会も設置された。そ
して自治会が中心となって、住宅地内の道路の整備、下水改修、街灯の増設、駅前放置自転車問題な
どの解決にあたり、時には行政当局と交渉するなど、さまざまな取組みがなされてきた。 ちなみに、
「西向日史」によれば、戦後の昭和 33 年 (1958) の自治会費は1世帯月額 80 円である。(昭
和 33 年 (1958) の物価:郵便料金葉書5円・封書 10 円、豆腐1丁 15 円、コーヒー1杯 33 円 )
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西向日自治会の活動は、
自治会編集・発行の「西向日町史」(1958 年 )、
「西向日史」(1976 年 ) によっ
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て詳しく記録されている。また年4回ほど発行の「さくらなみき」という自治会誌もあり、生活環境
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向上や住宅地の景観維持に努めてきた住民の活動を知ることができる。
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街路樹の管理について
「西向日史」の年度ごとの自治会の活動記録をみると、
戦後の昭和 37 年 (1962)
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には桜
250 本が植樹されており、昭和 44 年 (1969) には桜の樹齢が限界にきているので、危険な古枝
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の整理と苗木の補充をし、安全のため噴水公園の街灯を増設したとある。昭和
49 年 (1974) にも街路
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樹の枯木整理、桜
20 本植樹の記述がみられる。平成に入ってからの「さくらなみき」では、住宅地の
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かつての様子を知る高齢の方から、地域づくりの歩みに関する記憶の掘り起こしを行っている。
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自治会発行の町の歴史を記した冊子からは、開発当初から脈々と受け継がれてきた、良好な住宅地
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の景観を維持するための高い住民意識をうかがうことができる。また自治会誌からは、落ち葉掃きな
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ど日々の清掃活動に苦労しながらも、桜並木を大切に思う住民が多いことも見受けられる。
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図 2-6-2-10 「西向日町史」と「西向日史」
図 2-6-2-11 自治会誌「さくらなみき」
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このような開発当初からの住民の自治的な活動の中から、住宅地内のマンション建設問題が契機と
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なって、従来の自治会活動とは別に、住民有志が集まり新しく組織されたのが「西向日の桜並木と景
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観を保存する会」である。平成 21 年 (2009) からまちづくり協議会が結成され、特色あるまちなみの
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桜並木をはじめとする景観を守り、歴史・文化資源を大切にする住民憲章を「西向日桜並木のまち憲章」
としてまとめ広く発信するなど、特色ある活動が続けられている。
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写真
2-6-2-16 桜ライトアップイベントの様子
図 2-6-2-12 「西向日の桜並木と景観を保存する会」
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が発行する「西向日まち物語」
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図 2-6-2-13 西向日桜並木のまち憲章
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写真 2-6-2-17 桜並木植樹祭の様子
写真 2-6-2-18 桜並木まちなみウォーク
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201
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3 まとめ
大正時代から昭和期の初めにかけては、都市近郊へ私鉄の路線が延びていき、沿線に郊外型住宅地
が造られていった時代である。西向日町住宅地は、まさにその時期に誕生した、時代の先端をいく住
宅地であった。それまで京都近郊の農村地帯といえる場所であった向日町の中に、京都・大阪へ通勤
する実業家やサラリーマン、学者などが多く居住する都市的生活者の住宅地が出現した。
1軒あたり 100 坪から 200 坪ほどの余裕ある分譲地に、個人住宅では最も良質の建築が建てられた
といわれる昭和初期の材料と大工の技術により、和風・洋風さまざまな設計の家々が建ち並ぶ様子は、
周辺農村の人々からすれば、かなり目立つ存在であったと思われる。
西向日住宅地の人々は、自らの生活スタイルを守りながら、周囲の人々とも溶け合い、協調して、
現代の向日市域の中でも、個性あるまちなみを育ててきた。住宅地の開発から 90 年近くの年月を経て、
世代交代や屋敷地の分割など、当初の景観と比べて変貌を遂げつつも、本市を代表する美しい住宅地
景観を維持してきている。
それを象徴するのが、造成時から計画的に配された街路に、整然と植えられたソメイヨシノの桜並
木である。住民による組合や自治会は、結成当初からその維持管理に必要な経費を支出し、個人の家々
では日々の掃除などに努めて、開発当初から都市としての計画とともにあった桜並木の景観を、90 年
近くにわたって今日まで守り伝えてきた。
西向日住宅地と同じ頃、大正末から昭和初期にできた郊外型住宅地は、関西のみならず全国的に存
在するが、他所がその後の開発に埋没して現地を歩いても明確にわからないのに対して、西向日は現
在なお当初の区画が維持され、まとまりのある景観を保っている。また、開発当初に移植されたソメ
イヨシノの桜並木も、戦前に創り出された桜風景が生きた景観として現代に残っている点で希少であ
る。
西向日駅周囲に桜並木で彩られた街路が延び、昭和初期の趣を残した住宅が点在する西向日住宅地
において、開発当初から今日に至るまで住民自らの手で良好な居住環境と景観を大切に守ってきた様
子は、伝統的な都市近郊地として古くから発展を遂げてきた本市を代表する歴史的風致である。
202
コラム① JR向日町駅前の竹材店
現在もJR向日町駅前には大きな竹材店の敷地が拡がるが、もと明治時代に東京の大森から
そ だ
来た竹の仲買商で、海苔製造用粗
コラム 向日町駅前の竹材店 朶に使うため良質な竹材を各地に探し求め、向日町にやって
現在もJR向日町駅前には大きな竹材店の敷地が拡がるが、もと明治時代に東京の大森から
きたのだという。この地で良材に出会い、当地のモウソウチクの竹材を大量に搬出するため、
来た竹の仲買商で、海苔製造用粗朶に使うため良質な竹材を各地に探し求め、向日町にやって
きたのだという。この地で良材に出会い、当地のモウソウチクの竹材を大量に搬出するため、
移住して駅前に店を構えた。駅前の竹材店のある風景は、向日市域の竹産業と鉄道がもたらし
移住して駅前に店を構えた。駅前の竹材店のある風景は、向日市域の竹産業と鉄道がもたらし
た歴史的な景観である。
た歴史的な景観である。
駅前まちなみ模型接写
(昭和 35 年 (1960) 頃)
図2-6-3-1 駅前町並み模型接写・大塚竹材店と東洋竹工
図 2-6-3-1 駅前の商店街の様子(昭和
30 年 (1955) 頃)
203
コラム② 笹部新太郎と桜苗圃
水上勉の「櫻守」のモデルとなり、岐阜県 御母衣(みぼろ)ダム建設に伴い、水没の危機に
あった「荘川桜」と呼ばれる2本のエドヒガンザクラの移植を始め、全国のヤマザクラやシダ
レザクラなど日本固有種の桜の保護に力を尽くした笹部新太郎は、昭和 10 年(1935)に向日町
に 3,000 坪ほどの土地を購入し、桜苗圃をつくった。
本格的な桜の苗圃として苗木の育成や接ぎ木の実験が行われ、向日町で育てられた桜の苗が、
滋賀県近江舞子の湖岸や奈良県橿原神宮の参道に植えられるなど、今も親しまれている各地の
桜の名所を支えることになる。
桜苗圃は、昭和 36 年(1961)、名神高速道路建設工事のため、道路盛り土の採取地として日
本道路公団に買い取られることになり、姿を消したが、近年、市民によって、笹部がかつてつくっ
た桜苗圃を「桜の園」として蘇らせようという活動が始まっている。
図 2-6-3-2 水上勉『櫻守』
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