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教会旋法再考 - 青山学院図書館

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教会旋法再考 - 青山学院図書館
教会旋法再考
〜なぜ正格と変格にわけられるのか〜
那 須
輝 彦
序
「教会旋法 modus」とは、中世ルネサンス期の音楽、とくにいわゆるグレゴリオ聖歌に
用いられる音階である。全音階列(ピアノの白鍵の列)上で、それぞれ d, e, f, g を主音と
する4種の音階(順にドリア旋法、フリギア旋法、リディア旋法、ミクソリディア旋法)
(1)
が基本である 。これらの主音のことを教会旋法では「フィナリス finalis
(終止音)
」と呼ぶ。
大半の楽曲は主音で終るからである。
しかし教会旋法ではさらに、
使用音域をフィナリスの上1オクターヴとするものと、
フィ
ナリスの完全4度下から完全5度上までとするものとを区別し、前者を「正格 autentus」
旋法、後者を「変格 plaga」旋法とみなす。たとえば d をフィナリスとする旋法では、音
A─a に取るものがその変格で、
域をd─d’ に取るものが正格のドリア旋法であるのに対し、
それを示す「ヒポ hypo-」の接頭辞を付して「ヒポドリア旋法」と呼ぶ。
調性音楽の場合、たとえば「ニ短調 d-moll」の音階はどこまで上行・下行しようとも、
理論的には「ニ短調」であり、使用音域によって調が区別されることはない。しかし教会
旋法では、
使用可能な音域(これを「アンビトゥス ambitus」という)を原則として1オクター
ヴに限定し、そのオクターヴをフィナリスの上のみに取るか、フィナリスを挟んでその完
全4度下から完全5度上までに取るかによって、正格と変格とを区別するのである。こう
して4つのフィナリス d, e, f, g から8種の旋法が導き出されることになる。譜1で各旋法
を確認されたい。倍全音符が各旋法のフィナリスである。
また各旋法の「ドミナント dominant ( 英 )」
(フィナリスに次いで旋律の上行・下行の足
場・核となる音)も、原則として、正格旋法の場合はフィナリスの完全5度上の音、変格
旋法の場合は長3度上の音と定められており、両者は異なっている。譜1において全音符
(1)
ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディアは、古代ギリシアの旋法名称を受け継いだもので
あるが、ある種の誤解から、ギリシアのものとは異なる旋法を指すことになった。譜1に付記し
たように、ドリアを第1旋法、ヒポドリアを第2旋法というように番号で呼ぶ慣行も普及している。
クヌズ・イェパサン「教会旋法─当初のグレゴリオ旋法から 16 世紀の多声部書法まで」東川清
一『旋法論 楽理の探求』
(春秋社、2010 年)、33 頁注1参照。
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で示したのが各旋法のドミナントである (2)。調性音楽においては、
「属音」と訳されるドミ
ナントは、長短調を問わず一貫して主音の完全5度上の音であり、楽曲がどのような音域
に渡ろうと、その機能が別の音に移ることはあり得ない。
一般に音楽史のテキストでは、教会旋法がアンビトゥスによって正格と変格にわけられ
ること、そしてそれに伴ってドミナントも正格と変格では異なることが解説されている。
しかし多くの場合、記述はその事実の指摘のみにとどまっていて、同一のフィナリスをも
つ旋法をなぜ正格と変格にわける必要があったのか、なぜ正格と変格とでドミナントが異
なるのかについての説明には至っていない。
この小論は、「ドレミ」の階名の創案者 (3) として、また譜線の使用の提唱者としても名
高いグイド・ダレッツォ Guido d’Arezzo(991 頃 -1033 以後)の主著『ミクロログス(音楽
(2)
フリギア旋法のドミナントは、当初はフィナリス e の完全5度上の h であったが、h は f との間に
三全音の不協和音程を作るので避けられ、のちに c’ に上げられた。ヒポフリギア旋法のドミナン
トもそれと連動して g から a に移った。ヒポミクソリディア旋法のドミナントもフィナリスの長
3度上の h が避けられ c に上げられた。
(3)
実際には、
『ミカエルへの書簡 Epistla ad Michaelm』において“Ut queant laxis, resonare fibris, mira
gestorum…”
(
‘Ut’
‘re’
‘mi’がそれぞれ c, d, e の音)と歌われる聖歌の各楽句を歌い込み、各音の
高さや前後の音程関係を覚えて、その音程感覚を未知の曲を歌う際に応用することを勧めている
だけで、各楽句の冒頭のシラブルをウト(ド)、レ、ミと抜き出して階名とするところまでは提唱
していない。校訂版 D.Pesce, Guido d’Arezzo’s Regule Rithmice, Prologus in Antiphonarium, and Epistola
ad Michaelem : A Critical Text and Translation (Ottawa : The Institute of Mediaeval Music, 1999), pp.458475.
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教会旋法再考 ∼なぜ正格と変格にわけられるのか∼
(4)
小論)Micrologus』 の記述の趣旨を読み解くかたちで、上記の問いの説明を試みるもので
ある。
1.
『ミクロログス』における記述
『ミクロログス』は、グレゴリオ聖歌を日々歌う環境にありながら満足のゆく正確な歌
唱ができない歌い手たちに頭を悩ませたグイドが、初学者の初見力や歌唱精度を高めるた
めに著した 20 章から成る音楽理論書である。
「正確な歌唱」とは、前提となる音階の全音
と半音の並び方を音感として会得し、旋律を形作っている各音の音程を正しく取ることに
他ならない。しかし五線譜はまだなく、今日のような黒鍵を備えた鍵盤もなかった当時、
全音と半音の並び方を把握して、譜線のないネウマ譜のみを手がかりに歌うことは、かな
りの難題であったと想像される。
そこでグイドは、まず第1章から第6章にかけて、グレゴリオ聖歌の土台となる全音階
列と聖歌に使われる各音程を解説する。
「トヌス tonus
(全音)
「セミトニウム semitonium
」
(半
音)」
「ディトヌス ditonus(2全音、
長3度)
」
「セミディトヌス semiditonus(短3度)
」
「ディ
アテサロン diatessaron(完全4度)
」
「ディアペンテ diapente(完全5度)
」といった具合で
ある。
続いて著作の核心部にあたる第7章から第 14 章にかけて詳説されるのが教会旋法であ
る。本稿の問い─なぜ4つのフィナリスにもとづく旋法を正格・変格の区別によって8
「4つの旋法を8つにわけ
種にわける必要があったのか─を解く手がかりとなるのは、
ることについて De divisione quattuor modorum in octo」
と題された第12章の冒頭部分である。
Interea cum cantus unius modi, utpote proti, ad comparationem finis tum sint graves et
plani, tum acuti et alti, versus et psalmi et siquid ut diximus, fini aptandum erat uno eodemque
modo prolatum, diversis aptari non poterat. Quod enim subiungebatur si erat grave, cum acutis
non conveniebat; si erat acutum a gravibus discordabat. Consilium itaque fuit ut quisque
modus partiretur in duos, id est acutum et gravem, distributisque regulis acuta acutis et gravia
convenirent gravibus; et acutus quisque modus diceretur autentus, id est auctoralis et princeps,
gravis autem plaga vocaretur, id est lateralis et minor. (5)
ある旋法、たとえばプロトゥス(dをフィナリスとする旋法)の聖歌には、
〔旋律
全体が〕フィナリスに比して低く平板なものもあれば、尖って高いものもある。そこ
で、前述のとおり、唱句や詩編、その他のものは、フィナリスに合わせねばならない
(4)
校訂版 J.Smits van Waesberghe, ed., Guidonis Arehini Micrologus (Corpus scriptorum de musica 4) ([Rome]
: American Musicological Society, 1955), 英訳 C.V.Palisca, trans., Hucbald, Guido, and John on Music (New
Heaven : Yale University Press, 1978).
(5)
Waesberghe, op.cit. pp.147-148.
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のであるが、
ひとつの同じ旋法で続けても、
〔音域の〕
相違に合わせることができなかっ
た。なぜなら、あとに続けられるものが低いと高い音にはそぐわず、高いと低い音と
調和しなかったからである。そこで各旋法を2つに、すなわち高いものと低いものと
にわけ、整えられた規則によって、高いものは高いものに、低いものは低いものに合
わせることが考え出された。そしてそれぞれの高い旋法は正格、つまり正であり第一
義的なもの、低い旋法は変格、つまり副であり第二義的なものと呼ばれたのである。
記述は具体性に欠け、要領を得ない。しかし少なくとも、ある「聖歌 cantus」のあとに
「唱句 versus」や「詩編 psalmus」などを続けるような状況があり、音域の観点からその接
続の良し悪しを論じているらしいことはわかる。
ある聖歌に詩編が続く端的な例としては、
聖務日課と呼ばれる典礼で行なわれる詩編唱が考えられよう。
2.詩編唱とアンティフォナ
かつてローマ・カトリック教会では、聖務日課において旧約聖書の詩編(全 150 編)を
一週間ですべて朗唱した。おおむね単一の朗唱音で唱えてゆくのであるが、その朗唱に際
しては、詩編の前後に「アンティフォナ antiphona」という一種のリフレインを歌うのが
慣例であった。図示すると以下のようになる。
アンティフォナ─詩編の朗唱─アンティフォナ
前章の『ミクロログス』の引用において、あとに唱句や詩編などが続くことが想定され
ていた「聖歌」とは、まさにこのアンティフォナに他ならない。詩編 150 編は一週間で一
巡するわけであるから、ある曜日のある典礼で唱えられるものは固定している。たとえば
主日(日曜日)の晩課で唱えられる詩編は、原則として第 109、第 110、第 111、第 112、
第 113 編の5編であった (6)。その一方で、
各詩編の前後に歌われるアンティフォナは一定し
ておらず、毎週変わることもあり得た。アンティフォナの歌詞は当該の詩編中の一節が引
かれることもあったが、詩編とは関係なく教会暦上のその日にちなんだ内容であることも
多かった。つまり、ある曜日のある典礼で唱えられる詩編は年間を通して変わらないのに
対し、その前後に歌われるアンティフォナが教会暦に応じて入れ替わってゆくことで、詩
編の朗唱に季節感が添えられていたとも言えよう。
アンティフォナもグレゴリオ聖歌であるから、どの楽曲もいずれかの教会旋法によって
いる。当然、アンティフォナに続く詩編の朗唱もそのアンティフォナの旋法に相応しい音
型で行なわれるべきであろう。詩編の朗唱定型は旋法ごとにひとつずつ備えられているの
(6)
詩編番号はヴルガタ版による。
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教会旋法再考 ∼なぜ正格と変格にわけられるのか∼
で、たとえばアンティフォナがドリア旋法であれば、続く詩編の朗唱定型もドリア旋法の
定型を使うことになる。
具体例で示そう。譜2は主日や祝日の晩課で最初に唱えられた詩編第 109 編の朗唱例で
ある。三位一体祭の場合を引いているので、
前後に歌われるアンティフォナも《栄光あれ、
汝に、三位一体よ Gloria Tibi Trinitas》というように、
その祝日に相応しい内容になっている。
このアンティフォナは、楽曲が d で終っており、アンビトゥスがその d から1オクターヴ
上の d’ に渡っているのでドリア旋法である。したがってそれに続く詩編の朗唱にもドリ
ア旋法の朗唱定型が使われている。その定型について見ると、発唱部と中間部と終止部に
若干の音の動きはあるものの、詩編各行の大半は a の音で唱えられていることがわかる。
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この朗唱音の部分(保持部)で、
散文時である詩編各行の長短の差が調整されるのである。
しかし、たとえば公現祭の晩課では、同じ詩編第 109 編の前にアンティフォナ《暁に先
立ちて生まれ Ante luciferum genitus》が歌われる(譜3)(7)。やはり d をフィナリスとしてい
るが、アンビトゥスを見ると上は a までにしか達しておらず、その一方で下は A まで沈
み込んでいる。このアンティフォナに続けて、先ほどのドリア旋法の朗唱定型で詩編を唱
え出すとどうであろう(譜3a)
。決して無理ではないが、やや唐突に高音域に飛躍した感
がある。 d をフィナリスとするアンティフォナでも、旋律が f までしか上行せず一度も a
に達しない例もある。その場合、a による詩編の朗唱が続くと、音楽的に自然なつながり
はいっそう損なわれ、唐突の感は免れない。グイドが『ミクロログス』第 12 章において、
聖歌と後続する詩編とが音域を異にするので合わないと問題視していたのは、まさにこの
点なのであった。そこでフィナリスを同じくする旋法を、アンビトゥスによって「高いも
の acutus」と「低いもの gravis」に二分し、実際に、アンティフォナの音域が高ければ後
続する詩編も高い音で歌い、アンティフォナの音域が低ければ詩編も低い音で歌うことに
なったというのである。
そして
「高い」
旋法が正格、
「低い」
旋法が変格と呼ばれたのであった。
実際のプロセスがそうであったかはさておき、アンティフォナと詩編唱を滑らかに接続
させたいという要求が正格・変格の区別を生じさせた要因であることは間違いないであろ
う。何らかの不都合がなければ、フィナリスを同じくする旋法をアンビトゥスの取り方に
よって二分するという作為がなされる必然性がない。
したがって A から a をアンビトゥスとするアンティフォナ《暁に先立ちて生まれ》は
ヒポドリア旋法に分類され、実際には、このアンティフォナに続く詩編第 109 編は、保持
部に a ではなく f を用いたヒポドリア旋法の朗唱定型(譜3b)で唱えられるのである。
ここで確認しておくべきは、ドリア旋法の朗唱定型の保持部の音 a とヒポドリア旋法の
保持部の音 f が、それぞれの旋法のドミナントに他ならないということである。この「詩
編を朗唱する音」という働きこそ教会旋法におけるドミナントの機能なのであり、その意
味では、「テノル tenor(保持音)」や「レペルクシオ repercussio(反復音)」という別称の
ほうが的を射ている。先行するアンティフォナのアンビトゥスに合わせて詩編の朗唱を滑
らかに接続させたいがために、正格と変格でドミナントの音は異なるのである。
3. さらに音楽的な接続を求めて
すでに述べた通り、詩編唱の朗唱定型は旋法ごとにひとつずつ定められていたわけであ
るが、朗唱定型の「終止部」のみについては、
旋法によって複数の選択肢がある場合があっ
た。その選択肢が「終止部異型 differentia」である。現代の聖歌集の一例では、ドリア旋
(7) ‘Ante luciferum genitus, et ante saecula, Dominus Salvator noster hodie mundo apparuit.’
(暁に先立ちて、
世に先立ちて生まれ、われらの救い主なる主は、今日、世に現われたり)というように、やはり
公現祭に相応しい歌詞になっている。
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教会旋法再考 ∼なぜ正格と変格にわけられるのか∼
法の朗唱定型に 10 種類もの終止部異型が用意されている。譜2の朗唱定型の終止部の下
(8)
に列挙した通りである 。なぜ終止部だけこのように多様化したのであろうか。
じつはこれらの終止部異型は、単に、旋法ごとに一種類しかない朗唱定型に変化をつけ
るというような安易な意図で生み出されたのではない。ここで想起すべきは、詩編唱のあ
とに、ふたたびアンティフォナが歌われるということである。聖歌の編纂者たちは、今度
は、詩編唱とそのあとに繰り返されるアンティフォナとの音楽的な接続を求め、さまざま
な音型で始まるアンティフォナに柔軟に対応するために、詩編唱の終わり方に幅をもたせ
たのである。
その事実を端的に物語るのが「トナリウム tonarium」という聖歌集である。当時、聖務
日課は一日に8回行なわれ、一回の聖務日課で唱えられる詩編は3編から9編に及んだの
で、聖堂にもっとも長時間響いていたのは、詩編唱とその前後に歌われるアンティフォナ
であった。おびただしい数のアンティフォナの旋法を正しく認識し、それに適切な詩編の
朗唱定型を接続させることは典礼音楽をつかさどる者にとって最大の関心事であった。彼
らが、毎週のように入れ替わるアンティフォナの旋法の特定とそれに合う詩編の朗唱定型
の確認に追われていたであろうことは想像に難くない。
そこで旋法ごとに、アンティフォナのレパートリーを分類し、それらの冒頭楽句を列挙
した便覧が作られた。それがトナリウムである。旋法ごとに、まず典型的なアンティフォ
ナの模範例と詩編の朗唱定型が記され、その下に、そのカテゴリーに分類される一連のア
ンティフォナの冒頭楽句が歌詞とネウマ譜によって列挙される。しかしなかには、ひとつ
の旋法の章においても、接続させるべき終止部異型ごとにさらにアンティフォナを細分
類して、グループ化しているものもある。ここではルッカのトナリウム(12 世紀初頭)(9)
の実例を引こう(譜4)
。ドリア旋法の章から、第1、第3、第9の3つの異なる終止部
異型、それぞれに属するアンティフォナのグループを掲げた。‘EUOUAE’の文字が付さ
れた上部の譜が各終止部異型である。これらの文字は詩編唱の結びに唱えられる「栄唱
doxologia」の末尾「世々に。アーメン saeculorum. Amen」の母音のみを抽出した略記で、
この‘saeculorum. Amen’という歌詞で終止部異型を、すなわち詩編唱を歌い終えたあと、
当該のグループにあるアンティフォナを続けることになる。
一見して、グループごとに、そこに分類されているアンティフォナの旋律の骨格が共通
していることが明らかであろう。トナリウムの編纂者が、譜5に示したような詩編唱から
アンティフォナへの旋律的流れを意図していたことが手に取るようにわかる。仮に第1の
終止部異型に第3の異型のグループのアンティフォナを続けてみると、確かに音楽の必然
的な流れが損なわれ、本来のグループのアンティフォナに比して、進行が朴訥になる。
(8)
Liber Usualis (Tournai, 1953/R1997), p.113 に掲げられているものを引いた。定型本体の終止部と合わ
せて異型は全部で 10 種類になる。
(9)
Lucca, Bibliotea Capitolare Feliniana e Biblioteca Archivescovile, 601. ファクシミリ版 Antiphonaire
monastique, XIIe siècle:codex 601 de la Biblioteque capitaire de Lucques. Paléographie Musicale IX (1906/R).
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詩編唱の朗唱定型において、終止部のみ異型が派生したのは、決していたずらに変化を
求めたからではない。後続するアンティフォナとの接続に際して、旋律の運動エネルギー
がもたらす上行・下行への志向、あるいはドミナントからフィナリスへというような機能
的欲求がおのずと変形を必要としたからなのである。
グイドは、正格・変格の分化を論じた『ミクロログス』第 12 章に続き、第 13 章では、
旋法ごとに、アンティフォナの開始音として認められる音高を規定してゆく (10)。ことさら
に開始音を限定するのも、先行する詩編唱の終止部との音楽的な連続に留意しているから
に他ならない。
まずアンティフォナとそれに続く詩編唱の接続を滑らかにするために旋法を正格と変格
にわけ、さらに詩編唱の結びとアンティフォナの再現に音楽的な流れを作るために終止部
に異型を派生させ、それらに応じて 1,000 を超えるアンティフォナのレパートリーを分類
し、グループ化していった、その「音楽美」への飽くなき執念とエネルギーは、人間の本
能的な営為とはいえ、はやり驚嘆に価しよう。
(10) Waesberghe, op.cit. pp.154-156.
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教会旋法再考 ∼なぜ正格と変格にわけられるのか∼
しかし、前述のとおり、中世の聖堂にもっとも長時間響いていた詩編唱とアンティフォ
ナという二つのアイテムを滑らかに音楽的に接続させることは、我々の想像以上に、当
事者たちにとって極めて大きな関心事なのであった。その実情を色濃く反映した後代の
一例を紹介しよう。図1は、リュート歌曲の大家として名高いダウランド John Dowland
(1563-1626) が英訳したことでも知られるドイツの音楽理論家オルニトパルクス Andreas
Ornithoparcus (1490 頃 -?) の『実践音楽小論 Musice active micrologus』
(1517)第1巻第 12 章
の冒頭部である (11)。教会旋法を扱った章で、当然ドリア旋法から解説が始まっているが、
そこに掲げられている譜例は、今日の音楽史テキストのように─あるいは本小論の譜1
のように─フィナリスとドミナントを明記した1オクターヴに渡る抽象的な音階列では
なく、ドリア旋法の詩編唱朗唱定型の終止部と、それに続くアンティフォナの開始部2種
類を連記したものなのである (12)。そしてアンティフォナの開始音として許容される音が列
挙される。
図1
朗唱定型の終止部
アンティフォナの開始部
別のアンティフォナの開始部
このあと旋法ごとに解説されるのは、
当該の旋法おける詩編とマニフィカトの朗唱定型、
そして詩編唱と同様の構成をもつレスポンソリウムと入祭唱の唱句(やはりリフレインに
はさまれる)の朗唱定型であり、オルニトパルクスは、ひたすら各旋法の具体的な朗唱定
型を紹介することに徹しているのである。
(11) フ ァ ク シ ミ リ 版 Gustave Reese and Steven Ledbetter, A Compendium of Musical Practice (New York,
1973). 第1巻の日本語訳と考察に、
高久桂「J. ダウランド訳『オルニトパルクス ミクロログス』(1609)
について」
(修士論文、青山学院大学、2013 年度)がある。
(12) ただし、オルニトパルクスの譜例では、ルッカのトナリウムにおける同一の(第9)終止部異型
のグループとは異なるアンティフォナの旋律が接続されている。
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結び
グレゴリオ聖歌による典礼が日々の現実であった中世の当事者たちにとって、教会旋法
とは、聖歌を形作る前提となる音階列というような抽象的な概念ではなく、詩編唱の朗唱
定型と膨大な数のアンティフォナに直結し、二つのアイテムを接続させる営みにおいて必
然的に生み出されてきた、きわめて具体的な旋律の類型群なのであった。
彼らが日々歌っていた詩編唱、カンティクム、レスポンソリウム、ミサ固有文聖歌など
の具体的な旋律類型や歌唱慣行を把握せずに、フィナリスとアンビトゥスによって規定さ
れた1オクターヴに渡る音階列のみを認識しても、正格と変格をわけざるを得なかった当
事者たちの思いを十全に理解することはできないのである。
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