Comments
Description
Transcript
異世界から帰ったら江戸なのである
異世界から帰ったら江戸なのである 左高例 タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ 異世界から帰ったら江戸なのである ︻Nコード︼ N9789BQ ︻作者名︼ 左高例 ︻あらすじ︼ 異世界で長年過ごしてようやく日本に戻ってきたと思ったら江 戸時代だった主人公、見た目は少年中身は老人の九郎。 蕎麦屋で居候をしながら江戸の日常にギャップを感じつつ飯を食 べ美味いと楽しんだり、酒を飲んで遊び歩き妙な友人を作ったり、 時には悪党と喧嘩をして岡っ引きから逃げたりと小さくて賑やかな 世界、江戸での九郎を取り巻く時代小説風日常コメディ。 1 ※フィクション江戸世界ですので実際の江戸の描写、年代、事件、 歴史人物の生没年等に若干違いや拡大解釈があります。 ※2014年11月29日、エンターブレインから書籍化。12 月5日、壱巻重版決定。3月30日、壱巻電子書籍化。 2015年5月30日、書籍弐巻発売。 2015年12月26日、書籍参巻発売。 2 1話﹃享保の頃、江戸の世界﹄ 立春は迎えたとはいえ夜ともなれば身も凍るような風の吹く夜だ った。 その夜、提灯も掲げずに月明かりのみを目印に川越街道を下る男 が居る。 江戸と川越を結ぶ行程は長く、旅人は中途に幾つか点在する旅籠 で休みを取るのが常である。 其れもなしに黙々と歩く男は青白い月光に顔を照らされた、厳し い顔つきの大柄な中年であった。簡素な荷物袋を背負っている一見 旅人風であるが、このような夜中に提灯もつけずに足早に歩いてい るのを見ると、 ﹁まるで野盗か幽霊のような⋮⋮﹂ と、他人から思われそうな風貌である。 ただでさえきつい行軍をわざわざ危険な夜に行うというのは、酔 狂というよりもはや異常のようであったからだ。 男は川越城下である高澤町にあった実家を訪ねて江戸に戻る途中 であった。職人をしていた父親が急病を患ったということで、金子 を持参して見舞いに行ったのだ。 親戚から寄せられた文によれば大層重病だと聞いて駆けつけたは いいが、ついてみれば父親はけろりと病を快復させて、 ﹁なんでてめえが一人で見舞いに来てんだ。お房ちゃん連れてこい よ阿呆﹂ などと言い放つ始末であった。 3 お房とは男の一人娘で、急ぎの行軍になる予定だったから九つに なる娘は連れていけまいと江戸に住むいとこに預けて来たのである。 男の父親は猫を可愛がるように小さな孫を大事にしており、顔を 合わせる度に自分で作った菓子を与えて喜ばせていた。高澤町は菓 子作りを営む店が多く、中でも彼の父親は名人と呼ばれているのだ。 菓子職人の子に生まれついたというのにまるで体が甘味を好まな かったことから、家を出て男は江戸でひっそりとした蕎麦屋などを 営業しているわけだが⋮⋮ ともあれ、見舞いの必要のなかった父親だったがしっかりと薬代 には困っていたらしく、男の持っていた金子は全て消えた。代わり に渡されたのはお房への土産の菓子だけで、もともと儲かっていな いだけあり旅費にも苦労している男は旅籠にも泊まらずにさっさと 江戸の家に帰ろうとしているのである。 それが夜中に足を進めることと、顰めっ面をしている理由だった。 腹が減っているのもあるかもしれないし、江戸に戻ってまた売れな い蕎麦屋の経営に悩んでいることもある。どうも人生うまくはいか ないものだ。 ふと、道を歩いていると道の先のやや遠くに黄色い光を見つけた。 焚き火のようである。 前述した通り夜の街道は危険なことが多く、わざわざ野宿などす るものは滅多に居ないと言ってもいい。特別な理由があるなら別だ が、どちらにせよなにかしら異常であるのは確かだ。 男は遠回りして焚き火を避けて行こうかと思ったが、暗闇の中草 木をかき分けて道を外れて無事でいられるほど自分の運は過信でき ない。 少しだけ考えて、焚き火の側に複数の人間がいれば走り去ろうと 決断する。そこにいるのが野盗でも闇に目が慣れた自分が全力で逃 げれば追いつくことは困難だろう。 音を立てずに前へと歩き近寄る。それは道からやや外れた岩場の ような場所で焚き火を行なっているようだった。 4 男が焚き火の光に当たらない程度まで近寄り様子を伺うとそこに は一人、奇妙な少年が火の側に座っていた。こんな夜中に一人で焚 き火をしている童というのもおかしいが、何よりその格好があまり に、 [奇抜すぎた] のである。その元服前ぐらいの年齢に見える少年が着ていたのは 濃い藍染の長袖のジャケットと動きやすそうなハーフパンツ、足は 頑丈そうな熟れている革製のブーツ。 これが現代ならばともあれ、時は徳川の幕府が治める時代。誠に 時代に適していない、奇っ怪な格好であるように男の目に写った。 それがいかにも楽しげに焚き火の前で鼻歌などを歌っている。 ﹁面妖な﹂ 聞こえないほど小さく呟く。 男は間違いなく狐狸妖怪の類だろうと判断して、関わらずに去ろ むじな うと思った。それが、江戸の蕎麦屋︻緑のむじな亭︼店主である佐 野六科が九郎との出会いであった。 **** 見なかったことにしてその場を立ち去ろうと決めた六科が足を止 めたのは匂いによってだった。 5 少年の鼻歌が消え、続けて声が上がる。六科のことなど気にして ないような軽い独り言であった。 ﹁煮えたか﹂ 見た目よりも低く落ち着いている声でつぶやいて少年は飯盒を焚 き火から上げた。 手早く蓋を開けるとやや焦げ目のついた飯が中に見られる。少年 は持っていた木製の匙で中の粥の如きものを撹拌した。 その辺に生えていたオニユリの球根を潰して水で溶き、平茸を細 かく割いたものを混ぜ込んで塩で味付けして炊いた野外食だ。強い 火で炊きあがったそれは澱粉が熱で固まり餅のようになっていて、 上等な匂いが白い蒸気とともに流れる。 同じく小さな鍋も火から上げる。鍋には紅茶の葉を山羊の乳で煮 込み、その辺りで取った蓬の葉と味付けに塩を入れた、茶と言うよ りも付け合せの汁のようなものだった。漉して手元の茶碗に注いだ。 材料も味付けも質素なものだったが、暖かな料理の匂いに六科の 胃が音を立てた。 ﹁誰だ﹂ しまった、と六科は己の腹に向い胸中で叱責をしながら身を翻し て走りだそうとした。 焚き火に照らされた少年が確かにこちらを見て、手元の四尺三寸 はある大太刀を手に取ったのを見たからだ。真っ当な手合いでは無 いことは確かである。 いかな賊とはいえ相手も此方も足一つの状況。先に逃げるが勝ち であるし、余程の事情がなければ逃げる相手を追うほどの理由は無 い。尋常ならざる相手にどれほど通ずる理屈かはわからなかったが。 別段鍛錬などをしているわけではないが、生来より体格に優れて 6 いた六科は飛脚ほどとは言わぬが駕籠持ちよりは疾く走れる自信は あった。 だが。 ぐい、と首根っこを掴まれたかと思うと﹁あっ﹂と声を出すと同 時に地面に引き倒された。二回り以上に小さな小僧に軽々と六科は 投げられたのである。その口元には陀羅尼の札のような奇妙な紙が 咥えられていた。 やはり妖怪変化か天狗の類であったか。 月光と火の明かりに反射する、異様に煌めいた刀を持った少年を 見ながら背中に脂を浮かべた。 六科の姿を認めて少年は破顔して尋ねた。 ﹁ようやく人間を見つけた。それにこの顔、日本人か。ようし、帰 れたようだ﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁いや、よいよい。当然と思っている相手にこの問いは意味不明で あろうからな﹂ 満足気にうんうんと頷く少年をぽかんと見つめる。 ﹁いきなりこの辺に来て││いや違う、道に迷うて大変だったのだ。 街灯も道路も無いものだから街の方角もわからぬ。ここはどこの田 くるま 舎だ? 群馬か?﹂ ﹁ぐんま? 群馬ならここから少々離れているが⋮⋮﹂ ﹁うん?⋮⋮ところでお主は⋮⋮あれ? なんだその服、太秦か?﹂ 訝しげに、町人の服を着た六科に問いかける。元服前の少年の口 から発せられる歳相応でない、妙な口調がただ胡散臭かった。 まったく心当たりの無い問いに混乱したように六科は呻いた。 7 ﹁太秦⋮⋮? 京の人間ではない、俺は﹂ ﹁⋮⋮いや待てちょっと待て嫌な想像が浮かんだ。確認するが今は 何年だ?﹂ 頭を抑えて手のひらを此方に向け問う少年。 改めて相対しその少年を見ると、顔立ちは小僧であったがどこと なく疲れ、悲壮感のある雰囲気があり実年齢は見た目よりも高いの ではないのかと思えた。 よくわからぬ問いに対して、様々な疑問が到来しつつも六科は再 び応える。 ﹁享保の⋮⋮﹂ ﹁享保?﹂ 少年は一瞬聞きなれない言葉を聞いて考え、口ごもるように呟い た。 ﹁確かその年号は⋮⋮江戸時代、だと⋮⋮幕府の将軍はだれぞ?﹂ ﹁吉宗様にあられるが﹂ ﹁⋮⋮なんということか﹂ 少年は﹁時代が違うではないか、魔女の呪いか﹂﹁異世界から折 角戻れたと思うたのに﹂などとぶつぶつ暗い顔で呟き考え込んだ。 江戸時代の元号など殆ど覚えていなかったが﹃享保の改革﹄ぐらい の聞き覚えはあり、八代将軍徳川吉宗は後に時代劇などにもなり有 名であったためにすぐにそれと知れた。 とりあえず、と彼は悲壮な顔で六科の肩を掴み言う。 ようやく見つけた、この地の人である。頼るわけではないが話を 聞かなければならない。 8 ﹁飯でも食っていくがよい。腹が空いているのだろう﹂ **** 江戸の町大川の支流が流れる街沿いに小さな店がみられる。見た 目からは何の店かわからぬ、看板も出していない古びた店作りであ る。 もっとも、江戸にはこのような不明な店は当時は幾らでもあった ものである。特に、将軍勅令で質素な生活を奨励されているこの時 代ではきらびやかな装飾などはご法度であった。 朝方の事である。 その店の前で童女が1人桶の水を巻きながら道行く人達を見てい る。 年の頃は十になるかならないか程度の童子である。浅葱色の紬を 着て白い前掛けをつけ、しゃきしゃきと動いている姿は近所でも知 られている。 蕎麦屋﹃緑のむじな亭﹄のまさしく看板娘、佐野房であった。も っとも店の正式な名前は看板も掲げていない為に知られず﹁佐野屋﹂ とか﹁お房ちゃんの店﹂などと呼ばれている程度の知名度であるが。 彼女が朝も早くからそわそわと、閉店中の店前で待っているのは 父親の佐野六科だった。祖父の危篤へと向かったのだが、預けられ たいとこの話では、 ﹁どうせあの爺さんが大げさに言ってるだけだよ。もうけろりとし ているはずさ﹂ とのことで、算盤を弾きながら六科の帰ってくる時間を計算して 教えてくれたのである。この時代の江戸は武芸学問が奨励されてお 9 り、そのいとこの計算術はお房にはわからないものであったが、頭 脳の高さは信頼出来るものだったのでその言葉を信じて朝から待っ ているのである。 辰の刻には何事もなければ帰り着くと知らされていたのだが、待 てどもどんどん太陽は高く登っていく。お房は少しだけ心配になっ ていた。 と、なにか座和めきと街歩く人の注目のようなものが前方から感 じられる。 お房もそちらに目をやったのだが、最初は何事かわからないもの であった。 次第にそれは人だと判別がついた。 ﹁ええい、退け退け、見世物ではないぞ﹂ そう言って煩そうに手を振り回すのはまた奇妙な小兵である。前 述した通り時代を飛び越えた服装に、背中には見事な拵えの大太刀 を背負い、片手にはぐったりとした己の体格よりも大きな大人を引 き摺るように持っているのである。 忌々しげに幼さの残る顔を顰める。 ﹁まったく六科め、大人が腹が壊れただので気絶などするでない。 たかだか三日前の山羊の乳を飲んだぐらいで﹂ ぶつぶつと文句を、引き摺っている青白い顔をした男に言い聞か せているようだった。 その妙な様は既に岡っ引きや三廻に声をかけられる事四回である。 いい加減うんざりしていた。泡を吹いている六科についてはそのま ま具合が悪そうなので運んでいるなどとできるが、背負っている彼 の大太刀││極光文字の魔女イリシア作﹃アカシック村雨キャリバ ーンⅢ﹄についてはどうも説明し辛い。そも、異世界で手に入れた 10 ものと馬鹿正直に話しても気狂いか何かだと思われかねない。 適当な旗本の従者だという言い訳も何か苦しい気がするが、江戸 の大通りで他に太刀など持っている者は居ないためにそう応えるし か無かったのであるが。 大人一人引き摺るのもいい加減面倒ではあった。腕力自体は魔法 の符﹃相力呪符﹄で底上げされているものの、持ちにくい事この上 ない。 顰めっ面のまま、ぽかんと此方を見ていた童女と目があったので 尋ねた。 ﹁そこの娘子や﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁おい、聞いておるのか﹂ ﹁え、あっはい﹂ 慌てて応えるお房。地蔵から話しかけられたような奇妙な感覚で あった。 ﹁緑のたぬきだか、むじなだか言う蕎麦屋を知らぬか。この泡を吹 いている親父の店らしいのだが﹂ ﹁はあ、緑のむじな亭ならここで││ってお父さんじゃないの!﹂ 驚いて叫ぶと息も絶え絶えな六科にお房は飛びついた。 ﹁お⋮⋮お房⋮⋮﹂ ﹁どうしたの、見舞いに行った方が死にかけて戻ってきてるなんて !?﹂ ﹁う⋮⋮すまん、水を﹂ 呻くとお房の持っている柄杓をひったくるように奪い、水を飲み 11 干した。脱水症状でもあったのだろう、無精髭を生やした顎に水を 滴らせながらぐい、と一気に飲む。 そして膝を立てて無理やり立ち上がり、脂汗の滲む顔で睨むよう に自らの店へ駈け出した。 ﹁お父さん!?﹂ ﹁厠⋮⋮っ!﹂ ﹁お父さぁん!?﹂ その様子を見て、少年は背嚢の取り出しやすい位置に入れていた 大きめの金属缶を振り、中にまだ入っている液体の音を聞きながら 人事のように呟くのであった。 ﹁まだ少しばかり残っているが、もう捨てるか。山羊の乳﹂ 火を通したから大丈夫だと思っていた上、実際彼は平気だったの だが。飲み慣れていない六科の胃腸には耐えられなかったようであ る。 大川の水の流れににわかに白濁した色が混ざり、溶けて消えてい った。 **** 緑のむじな亭の内装は卓が四つに座敷が二つ、調理場の奥一畳程 の空間を挟んで狭い裏長屋と繋がっているという至って普通の作り であった。壁を隔てて日の当たらぬ奥の棟には日雇いや棒振りなど 12 が住んでいる。 店の卓の一つに座り、出された薄味の番茶を啜りながら少年は何 となく売れてなさそうな雰囲気を店から感じた。 何が、というわけではないが椅子や畳に使用感が少ない気がする。 新しく店を始めたのならそうかもしれないが、古ぼけた店からして 長年繁盛などしていないのではないかと勝手に推測した。実際その 通りである。 厠からげっそりとした顔で足をふらつかせ戻ってきた六科が尻の 痛みにより恐る恐る、といった様子で少年の前の席に座る。 ﹁助かった、礼を言おう﹂ ﹁⋮⋮まあ気にするな。困ったときはお互様だ﹂ 素直に礼を言われると、妙なものを食わせた身としては妙な罪悪 感のようなものが湧きそうになる。 椅子に座った父と同じぐらいの背丈の娘が父に白湯を出しながら 尋ねた。 ﹁それでお父さん、此方の御人はどちら様?﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ 少し口ごもる。 昨夜に出会い、飯を食いながら少年から事情を聞いたのだが六科 には欠片も理解の及ばぬ、 ﹁摩訶不思議な世界﹂ の話だったのだ。 少年の名は九郎という。現代日本に生を受けて、ひょんなことか ら剣と魔法が幅を利かす異世界に迷い込んで数十年、彼が老年にな 13 るまで生活した後に元の世界らしき日本││実際は二百五十年程昔 だったが││に再び世界移動した人物であった。 だがしかし、日本から異世界へと迷い込み傭兵となったりバイト したり魔女の使い魔にさせられたり若返らせられたりなどと説明さ れても、この時代の人間には単語の意味すら不明であった。 ついには少年も理解してもらうことを諦めて適当な設定をでっち 上げたのである。 ﹁こちらは九郎殿と申されて仙人の弟子なのだそうだ。還俗して旅 をしていたところ俺を見つけたそうでな。色々世間に疎いらしい﹂ ﹁騙されてるよ﹂ ﹁しかしだな、奇妙な力の湧く符やよくわからぬ道具も持っている し怪しげな格好も仙人と思えば﹂ ﹁信じるなよ﹂ ﹁うちで暫く世話をすることになった﹂ ﹁なんでだよ!?﹂ と凄まじい声で娘は怒鳴り、父の背中を叩いた。年の割にぴんし ゃんとした感情表現をする娘だと少年││九郎は感心する。 確かにいきなり知らぬ怪しげな男が居候となると聞かされれば困 るだろうと思った九郎は落ち着いた声で話しかける。 ﹁ふむ、名前はフサ子だったか、娘よ﹂ お ﹁違うよ!?﹂ ﹁己れも只で住まわせてくれなどと云うつもりはない。そうだな、 これをフサ子にはやろう﹂ 背嚢をごそごそとかき分けて少女が好みそうなものを探す。たし か、魔女からそんな感じのものを貰った気がしたのだ。袋に詰めら れた魔女の猟銃と文庫版金枝篇の間にその目的ものを入れた小さな 14 ケースがあった。 丸い真珠のような小粒である。つやつやとした光沢を持ち、それ でいてどこか柔らかみを感じる不思議な宝玉のごときものであった。 女子たるもの何処の世界においても、光物だとか、健康増強だと か、甘味に弱いものである。 お房はそれを手のひらに載せて驚きに目を丸くした。それが真珠 だとしたらいかほど価値が出るか想像もつかない。後の時代に真珠 の養殖ができるまでは、真円の真珠など大名でも異国の王でも手に 入らないものであった。 ﹁綺麗⋮⋮これはなに?﹂ ﹁寄生虫の卵だ。飲むと体の内部から健康にしてくれる。あと甘い﹂ ﹁ウシャアアアア!﹂ 床に叩きつけ執拗に踏みつけるお房。 六科も床に潰れて染み込んだ卵の汁を薄気味悪そうに見た。 慌てたのが九郎である。 ﹁な、なんと勿体無いことを。魔女が悪巫山戯で品種改良して作り 上げた珠玉の蟲だと云うのに⋮⋮己れはキモイから使いたくなかっ たけど﹂ ﹁捨てられる理由自覚してるよねそれ!?﹂ 甘くて健康に良くても嫌悪されるものもあるのである。もちろん 製作者である異界の魔女も使わなかった。健康増進飴と銘打って市 場にばら撒き、大ブレイクした後で蟲の卵だと暴露するという悪戯 をするためのものであった。効果自体は正しく素晴らしいのではあ ったが。 ともあれ、角して九郎は蕎麦屋の佐野家に寝泊まりをする事とな ったのである。もちろんその裏には、仙人とやらの知識により﹃緑 15 のむじな亭﹄をより繁盛させるように助言を与えるという約束が昨 晩に交わされたのではあるが、娘のお房には、 ﹁夢にも思わぬ⋮⋮。﹂ ことであった。 好き好んで売れない蕎麦屋を助ける余所者など居ないだろうし、 それを信じる六科もどこか藁にもすがる思いがあったのかもしれな いが。 ぎゃあぎゃあと少しの間お房をからかっていた九郎だが、次第に 再び体調の悪化が見られた六科のことも或り、親子は奥の住居へ引 っ込んでいった。 **** くりや 何をするでもなく酒を飲んだまま夜になった。厨らしきところに 置かれていたものを勝手に拝借したがどうも美味くはない。久方ぶ りに飲む日本酒││と言いたいがもはや数十年前に飲んだ液体のこ となど記憶には一切無かったが。 それでもなんとなしに傾けてしまうのは妙な懐かしさを感じるか らだろうか。 ﹁時代が合っていればよかったのだが﹂ 呟いてぼんやりと雲に隠れた月を開けっ放しの窓から仰ぎ見る。 肌寒い風が江戸の町並みを曲がりくねって屋内へ吹き込んだ。 冷酒を啜り、ため息をつく。 そもそも自分に合った時代とは何時なのだろうか。もはや正確な 16 年も思えていないが、西暦二千年前後の自分が異世界へ迷い込んだ 時か。或いはそれから数十年経った、自分が異世界にいただけ現代 も進んだ未来か。 数十年も過ごせば元の世界への望郷も薄れてしまっていた。家族 の顔も朧げにしか思い出せない。己と同じだけ年を取っていれば両 親は死に友人知人も老齢だろうと想像できるが。 かと言って異世界であるあの大陸へ戻りたいとも思わぬ。最後に 仲間だった魔王とその侍女、そして魔女は恐らく討伐隊に負けたで あろう。仲間というのも奇妙な関係だったが。できれば全員木っ端 微塵になった挙句川に流されていてほしいとも思う。最後にこの世 界に逃してくれたのが魔女だとしても。というか魔女の仕業だ。お のれ。 二十年ほどになる付き合いの魔女との別れは右へ左へ、ごたつい たものだった。旅用の何やらわからぬ我楽多の詰まったリュックを 押し付けられて敗戦濃厚の魔王城から一人異世界││江戸時代の日 本に送られたのである。次元の修復力とか何とか云う問題で、別世 界へ逃げれるのは異界人の彼だけだったのだ。 頭を振った。今更詮なきことだ。 ここから元の││少なくとも、現代日本に戻れるか。それを考え たら無理という結論が容易く浮かんだ。前に居た世界には魔法が或 り、魔女が居て、異世界から召喚を行う魔王が居た。まだ見知らぬ 怪奇不思議な道具もあっただろうが、ここは違う。 紛れも無い日本の江戸だ。 未来に行く方法など或りはしない。航時機を作成した奇天烈斎が いたとしても生まれるのは百年以上も先だ。魔女と離別した以上、 体にかけられた不老の呪いも効果を発揮しなくなるはずだ。 ﹁仕方がないことか⋮⋮﹂ 諦めるのには慣れていた。体は若くあるが心は数十年の歳月と人 17 生により疲弊している。 戦いと労働と魔女に振り回される人生だったからもう後はこの江 戸の町で適度に楽しみながら隠居をするのでいいかもしれない。と いうかそれ以外に道がない。切った張ったで金を稼ぐのもしんどい し、そんな時代ではないのだ。 そう思えばうまく江戸の町人に拾われたのも幸運だとすら言える。 中学高校の頃に習った歴史の知識はほぼ忘れてしまったが、農民よ りはいくらか上等なはずである。 ﹁こうなれば精々この浮き世を楽しむべきであるな﹂ ﹁なに一人でぶつくさとしてるの﹂ 声に対して目線を向けると、半眼でお房が睨んでいた。 九郎は軽く手に持った徳利を掲げて言葉を返す。 ﹁フサ子よ、ところで酒は何処に置いておるのだ? どうもこれは 味醂のようでな。飲めなくはないが﹂ ﹁それがお酒だけど││ってあんた、勝手に台所漁ってしかも売り 物の酒飲んでるの!?﹂ ﹁なんと⋮⋮これが酒だったか。まずい上に水で薄めている気すら する⋮⋮こんなものを客に出す気か⋮⋮﹂ ﹁大きなお世話!﹂ お房は怒鳴りながら近寄り、酒と茶碗の乗った座卓を強く叩いた。 ﹁っていうかあんた怪しすぎるの! お父さんは一寸間が抜けてる から騙されるかもしれないけれど、あたいはそうはいかない。仙人 だとか名乗ってるけどその正体は掴めてる﹂ ﹁ほう││いやまあ仙人でもないのは確かなんだが││己れの正体 18 とな﹂ ﹁いつの間にか家に上がり込んで好き勝手にする││﹃ぬうりひょ ん﹄って妖怪が居るって先生に聞いたことがあるの! それ!﹂ ﹁妖怪扱いかよ﹂ 良くは知らないが確か爺の姿をした妖怪だったと九郎は思い出し、 幼い顔を歪めた。確かに実年齢は爺に近いのであるが⋮⋮。 ﹁安心せよ、これでも無駄飯喰らいになるつもりは無い。当面の宿 泊費はフサ子に潰されてしまったけれどもな﹂ ﹁虫の卵なぞ居らない過ぎるの⋮⋮それで、あんたは何が出来るの ?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 九郎はやや考えて、答えた。 ﹁⋮⋮その話は後にしよう、もう童は寝る時間ぞ﹂ ﹁誤魔化した!?﹂ ﹁と云うかむしろ己れが眠い。異世界に居た時から数えて二日は寝 ておらぬのだ。寝れば何か良いことが⋮⋮ふぅ、思いつくであろう ⋮⋮﹂ ﹁本っ当に役に立つのかしらこの男⋮⋮﹂ 眠気もあったが彼自身この時代この状況で己に出来る有用なこと がすぐさまには思いつかなかったのであった。剣の腕と斬り合いの 度胸は前の世界での半生に渡る経験からあるが││もっとも、それ も魔女の補助があっての強さではあったが││用心棒など蕎麦屋に 必要なわけはなく。 まあ何かあるだろうとはぼんやりと思うもののそれを説明しろと 言われれば困るのである。何が困るかというと眠くて面倒だからだ。 19 面倒は死に至る。 明日のことは明日考えればいい。 ぎゃあぎゃあと喚くお房を無視してごろりと横になり、程なく九 郎は意識を闇に落とした。 こうして異世界帰りの現代人、九郎の江戸での生活が始まったの である。 20 2話﹃蕎麦の味﹄ 江戸の朝は煮炊きの煙で薄く淀んでいる。 大抵の長屋等はその日に食べる米や汁などを朝に全て作ってしま うのである。 特にこの時代、享保の将軍徳川吉宗が命により江戸の町民らの間 でも節制を行う令が敷かれていたことでもある。 これも元禄・宝永と続いた地震や噴火の自然災害、または五代目 将軍綱吉による神社仏閣の修繕・建設費用が幕府の収入を大きく超 えて未だ財政が苦しかった事によるものであった。 吉宗就任時には江戸の国庫に収められていた金は徳川三代までの 時の三割未満とも伝えられている。これを享保の改革により財政再 建を行なっていくのであるが、倹約令もその一つだ。 同時に煮炊きの時間を朝に集中させることにより出火の時間帯を 限定させ、火消しを容易にさせる狙いもあった。四代将軍家綱の時 代に起きて江戸城を含む江戸中心地の大半を焼き払った明暦の大火 のみならず、先の地震に依り江戸で発生した火災に依る被害者は一 万とも二万と言われている。後の明治新政府に解体されるまで名を 馳せた﹃江戸の町火消﹄もこの時代に組織され、活躍していくこと となる。 故に料理屋や風呂屋など日中竈を使用する店舗は届けが必要であ る。 その日、朝五ツ前︵午前七時ごろ︶佐野家の朝飯は九つになる佐 野房が作っていた。包丁こそ危うく握らせて貰えないものだったが、 料理の基本は彼女の従姉妹になる後家から手習いさせられているの である。 とは云え裕福でない佐野家の朝飯は簡単なものだ。腹を壊した父 21 に合わせ柔らかめに炊いた飯と父が切った深ネギをたっぷり入れた 根深汁、それに梅漬けがあるだけであった。 湯気の立つ味噌汁を啜る。異世界では味わえない米味噌の風味に、 辛味が目立つ葱が良い刺激となって久方ぶりにこの和食を食べる九 郎に取ってはこれがまた、 ﹁うまい⋮⋮﹂ のであった。 感慨深げにため息を付き、わしわしと米をかき込むようにして食 い、表面に塩が浮かぶほど塩っぱい梅漬けを潰して口に含むとまた ﹁たまらぬ﹂と言った様子で破顔した。 それを胡乱げに見ていたお房は、己の支度した食事を美味そうに 食われることよりもいっそ、 ﹁この人、余程いいものを食べてなかったの?﹂ と父に尋ねる程であった。 味噌汁に飯を入れて食っていた六科は真顔で、 ﹁ふむ、仙人は霞を食うと聞いた気がするからな。味が濃くなって 感動しているのだろう﹂ ﹁霞と比較されて美味いって思われても嬉しくないなあ⋮⋮ってい うかお父さんその設定まだ信じてるんだね﹂ むしろ呆れたように朴直とした父を見るお房。やはり六科は気に せずに背筋を伸ばして座ったまま、バクバクと飯を食らう。昨日壊 した腹などは既に快癒しているようである。 質素な食卓だが九郎と六科はそれぞれ三杯飯をお代わりした。お 房はいつも一膳しか食わないため、倍近く米の消費が増えていると 22 も言える。悪びれもせずに三杯目の椀に飯を盛る九郎にやはり邪魔 そうな感情を浮かばざるをえない。 食事を終えると盆に食器を一纏めにして六科は厨へ引っ込んでい った。今日の昼から蕎麦屋を開けるらしく、急いで仕込みをしなけ ればならないのである。 残された九郎は﹁さて﹂と言い、 ﹁天気も良いし、散歩にでも⋮⋮。﹂ 行こうか、と呟きかけたが、お房の睨みによって中断した。まだ 九つだというのに尖った目をするものだと思わず感心するほど睥睨 してきたのである。不審感の募る彼女を無視するのは今後の生活に 良くない。 そう判断した九郎は手のひらを向けて安心させるように告げる。 ﹁まあ待てフサ子よ。名高き鬼ヤバ戦闘集団ジグエン騎士団の料理 番も務めた己れがこの潰れかけ蕎麦屋をこんさるとしてやろうぞ﹂ ﹁潰れかけ言うな。っていうかあんた、料理とか出来るの?﹂ ﹁⋮⋮まあちょっとは││少なくとも十五年前ぐらいまでは作って たが﹂ ﹁口だけじゃない⋮⋮十五年ってあんた何歳よ。元服してないよう に見えるけど﹂ ﹁むう。言うて置くが六科より年上ぞ、これでも﹂ 告げるがまったく信用してなさそうな眼の色であった。むしろ不 審感はいや増したかもしれない。 確かに最近料理などはご無沙汰であった。適当なサバイバルで煮 込んだものを作れる程度は余裕だが、レシピなどほぼ忘れている。 傭兵時代や騎士生活時代はまだしも、魔女と仲間になってからは彼 女が作ってたし魔王の城に来てからは侍女が完璧な料理を作ってい 23 た。時々魔王も料理漫画片手に作っていた。 緑のむじな亭は蕎麦屋である。九郎が蕎麦を打ったことがあるか というと││皆無であった。蕎麦のつゆも作ったこともない。扱っ たことがないのならば蕎麦に関しては素人以下とも言えよう。現代 日本人で本格的な蕎麦作りを体験した者など限られるので当然とい えばそうであった。 だが店というものは商品の品質だけで成り立つものではない。 売れてないのならばその理由があり、それを直すのが総合的な﹃ こんさるたんと﹄といったものである││と己の無知を一旦隅に置 いて考えた。 ﹁まずは店の外観から確認しよう。いくら味が良くとも客にそうと 知られなければ店は流行らぬからな﹂ ﹁⋮⋮別にいいけど、そんな珍妙な格好であんまり店の前をうろつ かないで欲しいの﹂ ﹁む? 確かに江戸の世にはそぐわぬかもしれぬな﹂ 己のショートパンツとジャケットの格好を見なおして頷く。 悪目立ちするのも好くなかろうと考えた彼は己のリュックを引き 寄せて中を漁る。確か、服のたぐいが何着か入っていたはずである。 とはいえこれを用意したのは魔王と魔女な為、何を入れられている かは知らないが。 布の固まりを引っ張りだして開いた。 エンチャント メイド服。バニースーツ。全身ラバー。 九郎は無言で火属性を付与された呪符で燃やした。 ﹁ああー!? なんでいきなり火を炊いてるのよ大馬鹿!﹂ 凄まじい声量で文句が飛んできた為、九郎は耳を抑えながら言い 訳がまい言葉を言おうとしたが、 24 ﹁火付けの罪が火炙りにさせられるって知ってるの!? 馬鹿じゃ ないのあんた!﹂ ﹁む⋮⋮﹂ と言われれば口をつぐむのであった。 現代とも、異世界とも比べれば江戸の街の火事に関する警戒と罰 則は非常に大きなものである。木よりも石造りの家屋の方が多く、 また火属性魔法使いが突然発火することもあった異世界の常識のま まではいけない。 お房が火の付いた衣服をはたいて鎮火し、没収した。罰が悪そう タリスマン エンチャントマジック に九郎は短冊型の魔法の術符││[炎熱符]と名付けられたそれを 直す。 オーロラカーズ ﹁で、それは何なの? 燃える紙﹂ マジックアイテム ﹁これか? 極光呪文の魔女が得意とする付与魔法で作った簡単な 魔法道具でだな。術式の込められた呪符に封じられた魔力の炎が⋮ ⋮﹂ ﹁そうか何言ってんのあんた﹂ ﹁⋮⋮高僧の作った有難いお不動様の御札だ。山姥とかに投げつけ るといいぞ﹂ 顔をしかめていっそ投げやりに適当な説明をせざるを得なかった のである。 ところがそう告げると途端に目を輝かせて、 ﹁欲しい!﹂ などという。山姥に追いかけられる予定でもあるのだろうか、と 疑問にすら思えた。 25 ﹁駄目だ駄目だ、子供が火遊びするには一寸早い﹂ ﹁ぶう﹂ ﹁屁を垂れたような声を出しても駄目﹂ 何が屁よ、と噛み付くように突っかかるお房を猫をじゃらすよう にあしらう九郎であった。 **** 大川の支流を挟む江戸の大通りに出る。店舗よりも住宅のほうが 多いような地区ではあるが、人通りはそれなりだ。見回すだけでそ れとなく宿のような看板と、店先に傘と卓を出している茶屋のよう なものが見受けられる。 九郎はハーフスパッツの上から、小さく折り曲げた六科の袖なし 羽織を着ただけの簡素な姿であった。無論体格が違うのであまり似 合っていない。 背中に担いで居た名剣﹃アカシック村雨キャリバーンⅢ﹄は置い てきた。江戸の町に置いて町人の帯刀は禁止されており、またあの ような大太刀を持っていると一昔前の﹃かぶきもの﹄のように思わ れるかもしれないと六科に注意されたのである。 かぶきものと云うと何か心躍る響きを感じた現代人の九郎である が、謂わば江戸の空気に馴染めぬ狼藉者の事を指し、日頃の鬱憤を 晴らすために乱暴や放火も行う賊と見なされ法で厳しく取り締まら れているのだ。正保の頃に出されたお触れには、 26 [一、町人、長刀并びに大わきざしを指し、奉公人の真似を仕り、 かぶきたる体をいたし、がさつ成る儀并びに不作法成るもの、これ 有るに付いては、御目付衆御廻り、見合わせ次第御捕へ、⋮⋮] と、ある。町人が目立つ大太刀などを装備しているだけで逮捕対 象になるのが江戸の常識である。 実際に慶長の頃より数百人のかぶきものが処罰を受け、市中引き 回しなどにも合っているというのだから流石に九郎も身なりに気を つけようと思ったのであった。 ともあれ、改めて通りに出て緑のむじな亭を観察する。 何処にでも有る長屋の店頭を借り、改造して店にしただけである。 外からは緑色の暖簾がかかっており、まあそれだけでもあった。 ﹁⋮⋮いや、ありえぬだろ。店かどうかすらわからぬぞこれ初見で は﹂ ﹁えっ⋮⋮あ、うぅんと、実はあたいも薄々気づいていたの﹂ ﹁アホめ﹂ 一言で切り捨てた。 いかな節約質素をお触れと出しているからといってこれでは商売 は成り立たない。 通りにある緑の暖簾のかかっただけの店にだれが何の目的で入る というのだろうか。むしろ今までやっていけたことのほうが驚きで ある。 九郎は腕を組みいくらか店の装飾を考えた。 ﹁兎にも角にも、何の店かはっきりさせることだろう。紙と筆はあ るか?﹂ ﹁うん、先生から貰ったのが﹂ 27 そう云い、店の中へ戻っていったので九郎もついていった。 自宅の書道箱からお房が筆と硯、半紙を持ってきたので九郎は何 となくその江戸時代の半紙、というものを珍しそうに手に取る。手 にとって、彼が現代で使ってた工業生産したものと品質がさほど変 わっていないことに気づいた。おおよそ三百年も前の紙なのに、で ある。故に疑問に思い口に出した。 ﹁む? これは良い紙なのではないか?﹂ ﹁越前五箇村の紙座で作られたやつだって言ってたの﹂ ﹁ほう﹂ ﹁五枚でうちの蕎麦より高い⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 貰い物とはいえ⋮⋮とげんなりした表情のお房であった。 ちり紙以外の用途で他に紙を使うこともない為に、字の練習にと 渡された上物の和紙しか持っていないのであった。 江戸の元禄から正徳にあたり、九州や四国などでも紙が大量に生 産されるように為り、紙座として今までの隆盛を誇っていた越前の 五箇村だったが紙の価格は一時的に大きく減じた。とはいえ、より 当地で作られる紙のブランド性を喧伝することにより通常の紙では なく高級和紙として売値を吊り上げ、現代に至るまで産業を続けて いくのである。 練習なのだから当時の江戸で回収、精製された再生紙である浅草 紙で充分なのではとお房も思うのだが、いいものを使わねば気が抜 けて上達せぬという先生の教えには従わざるをえないのである。そ もそも授業料も只で紙代も出して貰っているのだから文句の付けよ うがない。 ﹁それより、これに蕎麦と書いて店頭に張り出せば阿呆でもここが 28 蕎麦屋と知れ、新規客開拓となるのだ﹂ ﹁成る程﹂ そう云って九郎は硯を擦り、筆に付けて腕まくりをするような仕 草をわざわざしてから紙に文字を書いた。 ﹃喬妻﹄ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ううむ我ながら、なんかちょっと字が違う気が⋮⋮﹂ ﹁ばーか﹂ ﹁だ、黙れ。何十年も書いてないのにこんな漢字を覚えてるわけな かろう!﹂ しかもお世辞にも達筆と言えず下手くそな字であった。 誤魔化すように声を荒げる九郎から筆を取り上げるお房。彼女は 失敗した紙は裏を練習用に使おうと横にやり、新たな紙に文字を連 ねた。 ﹃そば﹄ かなではあったが、明らかに九郎よりもしっかりとした字体であ る。 孫どころかひ孫のような年齢の娘にどやぁって見せつけられると 微笑ましさすら感じる。そう、敗北感など感じていない。断じて。 ﹁それはそれでいいとして。ふむ、次はあれだな﹂ ﹁あれ?﹂ ﹁ますこっときゃらくたあだ﹂ ﹁⋮⋮? ばーか﹂ 29 ﹁己れがわけわからんこと言ったらとりあえず的に莫迦にするの止 めろよ! 傷つくんだぞ!﹂ ﹁ごめん﹂ 素直に謝ったので許してやる九郎であった。 この世界に未だ存在しない横文字ばかり使う彼も大概なのではあ ったが。 ﹁とにかく蕎麦という印象だけではここは単なる﹃蕎麦屋﹄であっ て蕎麦屋の﹃緑のむじな亭﹄ではない。そこをアッピル⋮⋮ええと、 強調せねばならん﹂ ﹁どうやって?﹂ ﹁そうさな││狸だな﹂ 彼は指を立てて思いつきをさも立派な考えのように語った。 いわく、狸は他を抜き去るという意味から商売を繁盛させるのに 縁起がいい。屋号の緑、は古来では青色に通じており青狸とすると 大ヒットするキャラ要素がある。ムジナは無品とも読めるため表に 出すキャラとしてもタヌキのほうが相応しい、などと。 九歳の童女を化かすには充分であった。 しかし大商家のように狸の信楽焼を用意するのは金銭面で難しい。 だが、お房が習っているのは字だけではなく、絵もそうであったた め彼女に描かせてみたのだが⋮⋮ ﹁⋮⋮できた﹂ ﹁おい、なんだこの六科のやつをリアル等身ケモ化したような気色 の悪い絵は。九歳にしては異様に上手いが気味悪すぎであろう﹂ ﹁妖怪画といって欲しいの﹂ ﹁だれが妖怪の絵を描けと言った駄阿呆。デフォルメに可愛く描け﹂ 30 と、再度描き直させ、なんとか目元が黒く眠そうな半目で三等身 程の直立した狸が前掛けをしている絵を描いたのだった。 ﹁ううむ、何やら無性に金が払いたくなってくるなあ﹂ と描かせた九郎も云うのであった。 **** 店頭にそばと書いた紙と店名を入れた狸のイラストを飾り、外観 を綺麗に整えた。 余った布が無いかと家の中を探ったところ程よい長さの多少汚れ た布を発見し、これを幟にしようかと思ったがよくよく観察してみ れば恐らくお房の昔使っていた布御襁褓のようで、さすがにそれを 店頭に飾るのは一寸どうかと思って思いとどまった。 また、厨房に行き換気のために開けている窓に木板を嵌めこみ塞 いだ。何事かと六科が胡乱な眼差しで見てきたが、そうすることに より蕎麦つゆの匂いは店内へ流れ、また開け放しにした店の入口と 窓から通りに香る。特別蕎麦を食べようと思っている客でなくとも、 腹が空いた時にその香りを嗅げば吸引されるものである。 飯時になるまでに簡単な大工仕事で山状に板を張り合わせ、地面 に置く看板も作成した。そこには﹃そば:一六文 さけ:二五文﹄ などとメニューと価格も書きわかりやすく。やはり墨で直書きな上 に米粒で板をくっつけているので雨が降ったら仕舞わなくてはなら ないが。 とにかく、半日で出来るだけのある程度の改良を行ったと店頭で 汗を拭う九郎であった。 31 それを通りの影から不審そうな顔で眺める男があった。 身なりは町人風の何処にでも居そうな男であるが、どうやら九郎 を見張っているようである。というのもこの男、昨日背中に異様な 大太刀を担いだ小僧が大人を担いでいる、という現場を目撃した町 方同心であった。 一目見ただけで、 ﹁ありゃあ相当な業物の刀。蕎麦屋の小僧が持っているはずがない。 そもそもあの蕎麦屋にはお房ちゃんしか子供は居ないはずだ﹂ と見ぬいて怪しげな九郎を監視していたのだ。 何を隠そう江戸の同心の中でも二十四衆だとかそんな称号で呼ば としご れる、一部で有名な同心の1人である彼は、通称﹃青田刈り﹄の菅 山利悟と呼ばれる男であった。 江戸百万居る人の中の十三歳未満の子供は全員把握している、と 豪語する。性癖は歪んでいるが腕は確かだと評判で彼自身奉行所に マークされているほどだ。 とまれ、江戸の子供の安全を真に憂うこの男は新たに出現した奇 っ怪な小僧である九郎を警戒と毒牙の眼差しで監視しているのであ る。 ﹁しっかし奇妙な事をやりはじめやがったな、奴さん。あの売れな い蕎麦屋で超無名な佐野の親父の店を建て直す積もりか﹂ なんの得があるのやら、と神妙な顔をして胸中で呟いた。 緑のむじな亭には何度か足を運んだことがある。何よりもお房が 給仕をしているというのが彼にとってはかの店の美点であるからだ。 小さい少年少女が働いている姿を見れる店はだいたい網羅している。 金払いのいい稚児趣味野郎として商人の間で囁かれているほどであ った。 32 そのような性癖にもかかわらずこれまでに押しこみの現場を押さ える事二度、浪人の乱暴狼藉を諌め町人を救うこと無数と薄給なが ら事真面目に職務に取り組んで居るのだが人々からの評判は良くも あり悪くもありなのであるが⋮⋮。 一方で九郎は同心からの視線には気づかずに、店の前で腕を組み ながら﹁ううむ、チラシを作るには紙が無いな。やはり初期投資を 掛けねば﹂﹁六科に交渉してみるか⋮⋮? いや、あまりに店の金 を使うのもフサ子に文句を言われる﹂などと呟いていた。 見ていても埒は開かぬ。いや、見守るのは大好きだが。 後ろ指さされぬ栄えある同心として、利悟は悠然と歩みを進めた。 ﹁おい、小僧﹂ ﹁む﹂ 呼ばれて利悟へと振り向いた少年は一瞬憮然とした顔をしたのち に、営業微笑を浮かべてへりくだった態度で応えた。 ﹁なんで御座いましょうか﹂ ﹁見ない顔だが、佐野屋の丁稚か何かか?﹂ ﹁はあ、上方の方から江戸に越してきまして。遠縁の六科の旦那を 頼り住まわせて貰うことにしたのです﹂ ﹁お主のような小僧が、一人で来たのか? 大変だな﹂ わざとらしいぐらい揉み手をするような仕草で和々している九郎 に問うが、彼は適当にでっちあげた設定をさも当然のように語りだ すのである。 今より数十年前、着の身着のままで幻想系異世界に迷い込んでし まった時も似たような感じで周囲から出自を誤魔化した記憶がうっ すらとであるが、思い出された。 現実は創作よりも奇なりと云うことを体感している九郎であるが、 33 奇をそのまま伝えても、 [気が違っている] としか思われないことは重々承知しているのである。 ﹁そうか⋮⋮実家を押し込みにやられて家族を失い江戸に流れ着い たとは、苦労しているな﹂ ﹁いやあ六科の旦那が良い御人で助かっての﹂ 適当に創った事情に対して何やら感じ入ったように利悟は頷いて いる。 自分で言っておきながらふと押し込み強盗の図に、異世界で彼の 住処だった魔王城に攻め入ってきた三人組、数百万力の蛮人戦士と 不死鳥殺しの召喚士、闇魔法使いの老吸血鬼が長屋に押し込んでき たのを想像してシュールすぎて噴飯物だったが。あの連中押し込み って云うか、大量召喚した何故か爆発する鳥に依る執拗な爆撃と闇 魔法での広域物質崩壊と百メートルはありそうな鬼棍棒で魔王城の 地上施設を即効で破壊し腐ったのであったなあ。地下施設に隠れな がら映像で見てマジで何あれって魔王と一緒にがたがた震えていた 事を思い出して⋮⋮。 ﹁おい、おい、坊主、どうしたしっかりしろ﹂ ﹁どこでもドアは何故肝心な時には故障しているのであろうなあ⋮ ⋮﹂ ﹁悪い事を思い出させたか、ううむ﹂ すると、丁度店の戸を開けて小袖を着たお房が出てきたので利悟 はとりあえず声をかけた。 34 ﹁お房ちゃん、もう店はやってるのかい?﹂ ﹁こんにちは稚児趣味のおじさん﹂ ﹁はっはっはそうはっきりと言われると途端に自刃したくなってく る﹂ ﹁先生からおじさんは質の悪い妖怪系だからなるたけ口を利くなっ て言われてて││まあ、そのお愛想様です﹂ ﹁よし、君の先生には拙者からきっちり話をしておかねばならない な﹂ 米噛みをひくつかせながら引きつった笑みを浮かべた。 質の悪い稚児趣味の男でも客は客。それも数少ない常連でもある から無言で店内へ案内した。 その現代ならば声掛け案件になりそうな男は悪い白昼夢を見てい るような状態の九郎の手を引き共に席に着いた。 ﹁拙者のおごりだ。蕎麦でも食って元気を出せ小僧。お房ちゃん、 蕎麦二杯な﹂ ﹁はい﹂ その注文を大声で復唱して台所の六科へ伝える。そんなに叫ばな くても、客が独りしか居ない店内では伝わるだろうが童女が一生懸 命仕事をやっているような初々しさが彼のような男にはまた、 ﹁たまらぬ⋮⋮。﹂ のであった。岡っ引きを呼ばねばならぬ。 一方で九郎はそう云えば蕎麦を食うのも久しぶりだと少し明るい 表情になっていた。異世界には蕎麦は栽培されていなかったために 最後に食べたのは異世界に行く前⋮⋮正確には分からないが数十年 も昔のことだ。うどんは何故かあったのだが。異世界では手打ちど 35 ころか製麺機すら開発されていた。 緑のむじな亭の蕎麦は暖かいつゆを茹でた麺にかけて手早く食う、 所謂掛け蕎麦である。もっとも、盛り蕎麦を売っている店のように つまみや酒も売っているあたりあまり店主に拘りがないのかもしれ ないが。 暫く待つとよたよたと二つ湯気の上がる蕎麦を載せた盆をお房が 運んできた。一度に二杯などこの店では滅多に出ないので少々運び 方に危なっかしい。 さっと紳士的行動で手伝うように優しく受け取る利悟。その際に 僅かにお房の手と触れたが、お房はさっと手紙︵洟を噛んだり、汚 れを拭き取るのに使うちり紙である︶を取り出して触れたところを 無表情で拭った。笑顔を崩さずに利悟の心は傷ついている。過去に 勘違いで番屋にブチ込まれて、部下だった岡っ引きに﹁調べりゃ分 かるんだこの稚児趣味野郎﹂と罵られた時に比べれば傷は浅い。奮 起せよ利悟。 蕎麦のつゆのように心が真っ黒になった利悟は置いて、ともかく 九郎は目の前に置かれた丼一杯の蕎麦を見下ろした。江戸の庶民に 好まれた軽食であり、値段は江戸のどこでもほぼ一六文と相場が決 まっている。現代の価格で云うと二百円から三百円程度の、葱と蒲 鉾の入った簡素なものであった。 箸を突き入れて麺を掴む。ややふにゃりとしているがしっかりと 蕎麦の香りがする。久方ぶりの香りでにんまりと頬が緩んだ。 それをよくつゆに絡めて九郎は音を立て啜った。そして、 ﹁うわ不っ味! なにこれ超マッズ!﹂ 36 お房が全力で振るった盆の角が九郎の頭に減り込んだのであった。 37 3話﹃喪服の女﹄ 料理の味付けは土地と時代によって大きく変わる。 現代で食べた記憶のある蕎麦と、それよりも三百年程度過去であ る江戸で作られたそれはまったく異なる味付けであるに違いない。 それは分かるのだがもったりとしてコシの無い、ぼそぼそという 表現すら褒めている気がしてくる蕎麦の麺と、醤油をお湯で薄めた ような汁につけた蒸せる味のそれは間違いなく、 ﹁不味い⋮⋮﹂ のであった。 無論、そのようなことをあろうことか他の客がいる前で店側の人 間が憚らずに口にするなどお房には、 [許しがたいこと] であった。一宿一飯の恩義を忘れてこの暴言である。彼女が箒を 持ちだして九郎を追いかけ回すのも当然の成り行きだ。 九郎は仔猿の如き器用さで店内を駆け回り、入り口から外に出た。 敷居に箒を逆さに立ててお房は狼狽する九郎を睨み上げる。 ﹁し、しかしだなフサ子よ、不味いものは不味いのだから仕方無い ではないか﹂ ﹁うちの蕎麦がそんなに不味いわけないじゃない!﹂ ﹁嘘をつけ嘘を! もう一度己れの目を見て言ってみろ!﹂ お房の両肩を掴んで九郎は問う。 38 ややあって、お房は口を半開きにして顔を背けながら、 ﹁ま、不味くても愛があれば関係ないよね﹂ ﹁らのべたいとるみたいな主張で誤魔化すでない﹂ 本気でこの少女は味覚があれなのかと思って不安になったが、一 応不味いという自覚はあるらしい。 自分で料理を作り出すまでは彼女も親である六科の料理を食べて いた為、慣れのようなものはあるのだが矢張りいとこの家で食べる 手料理や祖父の作るお菓子などを食べた時の美味と比べればまさし く父親は料理の腕がまずいのであった。 元々亡き妻のお六が腕をふるって蕎麦を打っていた緑のむじな亭 を、六科が受け継いだのだが別段蕎麦作りの手伝いをしていたわけ もなく、蕎麦の打ち方もつゆの作り方も自己流である。妻が働いて いる間彼は鳶と火消しをしていた。 更に味覚がいまいち鈍く性格も大雑把な為に彼の腕前はこれとい って上達しないのだった。 ﹁そ、蕎麦ってこんなもんよ! 多分⋮⋮﹂ ﹁お主、他の蕎麦屋に行ったことは?﹂ ﹁⋮⋮無いけれど﹂ ﹁ううむ﹂ 呻く。幾ら何でも、この蕎麦屋の味が江戸時代の標準だとは思い たくはない九郎である。 ならば、第三者の意見をと思い、丼を持ったまま此方を見ている 同心の利悟に伺ってみるが、 ﹁不味くても愛があれば⋮⋮﹂ 39 と、やはり当てにならぬ意見だった。ちらり、と気色悪くお房の 方を見ながらの言葉に、厨房から竹串が二本飛来してくる。 余人の放った竹串ではない。 深々と壁に突き刺さった竹串を一目し、利悟は席に座り無言で不 味い蕎麦を啜り続けた。 そもそも流行ってない店の味などという事実が不味いと告げてい るようなものだ。 とはいえ、味を変えようにもこの時代の江戸で流行している味は 見当もつかない。 ﹁なれば、蕎麦を食い歩きに⋮⋮﹂ ﹁どこにそんな銭があるのよ﹂ ﹁⋮⋮おい六科。小遣いをくれ﹂ ﹁情けないな、この自称年寄り小僧!﹂ にこやかに金の無心をする九郎であったが、六科はごく平静に﹁ 駄目だ﹂と短く返した。 単純に貧窮していたからだ。 当面の親子の食事代はあるがそれっきりで、店にしている表長屋 の店賃分が全くないのである。貯めていた僅かな貯蓄は六科の父へ の見舞金に包んでしまった。 長屋の家主とは縁があり、長屋の差配人を引き受ける代わりに表 店の店賃を一分四朱にまで安くしてくれている恩があるのだ。家守 として裏に住む日雇等から店賃の回収も行う立場としても、滞納な どは到底できないのであった。 なるほど、これでは初期投資に金が掛けられぬわけだ。 九郎はさて、どうしてある程度の金を手に入れるかと考える。古 道具屋に無駄なほど上等の作りのアカシック村雨キャリバーンⅢを 売り飛ばすという事も考えたが、出自を問われ妙な疑いを持たれる かもしれないと止めておくことにした。 40 蕎麦を手早く食い終えた利悟が懲りずに近寄って声をかけてきた。 ﹁それならば拙者の奢りで何件か寄ってみるか?﹂ ﹁目つきから疚しいものを感じるのでお断り致す﹂ ﹁ぶ、無礼だな最近の子供は! 昔は皆、飴一つで路地まで付いて きてくれるほど純朴だったのに!﹂ お房が店の前で騒ぎ立てる利悟に対して、岡っ引きでも呼んでこ ようかと思った時であった。 ﹁この世には││﹂ よく通る声がした。 **** 突然此方に向いゆるりと歩みを寄せてきた黒い影のような女に九 郎は視線を向けて、九郎は自身でもよくわからぬがそれから嫌な気 配を感じ取った。 影のような、と評したのは喪服のような真っ黒の着物を着ていた からだ。年の頃はわからぬが、年増という程ではない。髷を結わず に癖毛のまま流していて、申し訳のようにつけた櫛も簪も黒檀のよ うな色をしている。にたり、と妖艶な││或いは人を小馬鹿にした ような││笑みをした顔にはこの時代に珍しく、眼鏡をつけていた。 女は嗤いながら近寄る。 41 ﹁この世には目には見えない闇の住人たちがゐる。奴らは時として 牙を剥き君達を襲つて来る﹂ 視線を少なくとも可視化している利悟向けながら、続けた。 ﹁私はそんな奴らから君達を守るため、地獄の底からやって来た正 義の使者なのかもしれない⋮⋮﹂ 妙な名乗り文句に益々顔を顰めた九郎は顎に手を当てて﹁どこか で聞いたことがあるような﹂と呟く。 すると顔見知りなのか、利悟が腰を引かせて叫ぶように口を開い た。 ﹁あ、あ、あんたは﹂ 容赦はなかった。 ﹁喰らえ必殺鬼人手﹂ ﹁ぐわーっ﹂ どこからか取り出した、5つ手の大きなヒトデ⋮⋮鬼人手を利悟 の顔面に投げつけるのだから、到底彼はそのヒトデの棘に、 ﹁敵わぬ﹂ と這々の体で逃げ出す他無いのである。 鬼人手は東京湾に生息するオニヒトデ科の生物で大型のヒトデで ある。その全身を覆う棘に激しい痛みを起こさせる毒を有している のだ。 逃げていく同心︵もちろん、町人に疚しく言い寄って撃退された 42 などと彼がお上に訴える事はできない︶をどうでも良さそうに見送 る喪服の女の事を九郎はお房に尋ねた。 ﹁この人はお豊姉ちゃん⋮⋮じゃなかった、鳥山石燕先生。あたい の従姉妹で、絵とか勉強の先生をしてるの﹂ ﹁ふふふ江戸に名高き地獄先生、鳥山せきべ∼とは私のことだよ!﹂ ﹁なんか色々待てよ!﹂ 九郎は思わず頭を抱えながら怒鳴った。何か既視感というか、似 たような語感の創作物がはるか未来の日本であったような気がして ならなかった。 数十年の月日は明確な記憶をぼかしてしまって思い出すには至ら ないのだが、未来のネタを過去の人物がパロディしているという尋 常ではないことが有るはずはない。 お房からすれば得体のしれぬことで悩んでいる九郎を見て、彼の 叫ぶ突っ込み声に少しわざとらしく驚いたような態度をしたあとに、 にやついた笑みのまま女は声をかける。 ﹁おっすオラ鳥山石燕。いっちょやってみっか﹂ ﹁それもなにか聞いたことが有る気がするが微妙に違うぞ!? 主 人公じゃなかったよね鳥山先生は!﹂ ﹁やれやれ、この少年は何を喚いているのだね? 房よ﹂ ﹁えっと、きっとばかなんだよ﹂ とりあえず的に応えるお房。肩を竦めて含み笑いを漏らしながら、 何か悔しそうにしている九郎を女は見るのであった。 女は本名を佐野豊と云う、六科の姪にあたる女だ。彼女こそが、 狩野派の門人としてめきめきと頭角を表している絵師、鳥山石燕そ の人であった。これより時代を下るが、後に﹃図面百鬼夜行﹄等を 刊行して妖怪絵師の中でももっとも有名な1人となる画家である。 43 店の財政難から寺子屋にも行けぬお房に、文字絵描きから算術や 家庭の仕事まで暇つぶしに教えている先生役でもあった。本人は金 貸しの夫を早くに亡くした後、新しい夫を探すでもなく残った財産 を食いつぶし趣味に生きているのだったが⋮⋮ ﹁見ない顔だが房の友人かね?﹂とお房に尋ねる。 ﹁友人というか居候というか⋮⋮妖怪?﹂ ﹁ほう!﹂ 妖怪、という言葉に食いついた石燕は屈んで九郎の目を観た。 ﹁⋮⋮初めましてだね妖怪の少年。ふむ、童子の妖怪とは珍しく無 い。さ、豆腐でも出せ﹂ ﹁人を豆腐小僧扱いするでない⋮⋮というか、なんでこの時代にそ んな眼鏡をつけておるのだお主は﹂ 眼鏡自体を販売する店は江戸の町にもいくつかあるがその価格は 庶民には手が出せぬような高価であり、まだ普及するには時代が降 らねばならないのだったが、その希少性よりも意匠が気になった。 江戸時代にあった眼鏡など、かつて現代に居た頃に資料で一二度 見たような気がするが⋮⋮少なくともアンダーリムの御洒落装飾で はなかったはずである。 矢鱈と現代風なそれを身につけた彼女は事も無げに応える。 ﹁これかね? 和蘭陀で流行している意匠だと聞いて、職人に頼ん で作って貰ったのだよ。軽くて良い﹂ ﹁むう⋮⋮﹂ 当時の江戸幕府とほぼ唯一商売をしていた外国がオランダであっ た。石燕は絵について学ぶために長崎を訪れた際に、僅かな時間だ 44 がオランダ人と会話する機会があったのである。 珍しい意匠の眼鏡に、一年中着ている喪服。否応でも目立つ風貌 をしている鳥山石燕であるために、知り合いの町人らは、 ﹁石燕先生は妖怪に取り憑かれている﹂ と専らの評判であった。 怪しげな言動に人を喰ったような余裕の態度にはどうも苦手意識 を持ってしまう九郎である。 相手は二十をとうに越えてはいるが、九郎の実年齢からすれば孫 のような年齢の娘だというのに、本能的というか経験的に恐れる態 度をとってしまう。 その石燕の言動もそうだがその容姿が、 ︵魔女に似ている⋮⋮︶ 気がするのが原因であるのかもしれない、と九郎も思うのであっ た。 異世界で暮らすこと数十年、老齢で平和な学校の用務員としてほ のぼのした老後を送っていた彼を強制的に若返らせて使い魔とし、 散々好き放題連れ回して苦労させられた魔女のことはもう会うこと はないとはいえ、鬼門の如き存在だと認識している。 兎も角、目の前に居る石燕から九郎は不信そうに距離を取った。 そんな態度をされても矢張り﹁ふふ﹂と含み笑いを漏らすだけであ ったが。 石燕は開き離しの店の入口に立ち、厨房の六科へ尋ねた。 ﹁やあ叔父上殿、川越の爺殿は息災だったかね﹂ ﹁﹃鳥山石燕など知らん﹄だそうだ﹂ ﹁やれやれ、寝ている間に部屋中の壁紙に妖怪を描きまくった事を 45 今だに恨んでいるようだ﹂ 困った困った、とまったく困っていなそうに云う。 朝起きて部屋全面を埋め尽くす妖怪を想像して九郎は半眼で睨ん だ。 ﹁それは起きた時マジホラーすぎるぞ﹂ ﹁俺もやられた﹂ ﹁あたいもやられた﹂ ﹁爺殿は心の臓が僅かな時止まった﹂ ﹁迷惑すぎる!﹂ 思わず佐野一族に突っ込み苦言を呈した。 その後、六科は実家から預かってきた佐野豊宛ての菓子を無造作 に渡した。妖怪画家、鳥山石燕は嫌いだが孫はいつまでも可愛いも のである。 ところで、とふと気になった九郎が尋ねた。 ﹁お主はこの店の蕎麦を他の店の蕎麦と比べてどう思うであるか?﹂ ﹁ふむ? この店の蕎麦? ああ、ここの細長いそばがきを暖かな 醤油に浸すという変な食べ物は蕎麦だったのか。初めて知った﹂ ﹁同じ土俵にすら立っていないとは﹂ 落胆する九郎だ。つまりは明確に、他の店に比べて不味い六科の 料理の腕をどうにかする必要があるのだからである。 お房から何やら事情を聞き、面白そうに石燕は囁いた。 ﹁ほう、この店の改革をかね。成程酔狂な事を始めたものだ﹂ そして、 46 ﹁そうだね、手本として私が本当の蕎麦屋へ連れて行ってあげよう。 暇だから﹂ ﹁むう、助かるは助かるのだが⋮⋮﹂ 九郎の経験上、あまり貸しを作りたくない類の相手ではあった。 だが他に金を借りる宛などあるはずもない。 もとより此方の意思を聞くつもりは無いのか、勝手気ままに彼女 は話を進めた。 ﹁房もおいで。店番などしててもどうせこの店に客など来ないよ﹂ ﹁えー⋮⋮﹂ 石燕の発言に対して不満そうな色を目に浮かべたが、父親の﹁構 わん﹂という短い許可の声が上がり、仕方なくお房もついていく事 となったのだった。 季節よりも早い、郭公の鳴き声が緑のむじな亭に聞こえた。 **** 江戸の人が行き交う街を三人が歩く。きょろきょろと周囲の珍し い、時代劇のような光景を眺めている九郎はまさに田舎者のようで あった。そんな彼の様子を肩越しに見て苦笑したような顔をしてい る石燕は、片手をお房と繋いで歩いている。 年の離れた姉妹のようである、と九郎も微笑ましく思う。だが喪 服姿に髪を腰まで伸ばした、眼鏡の女は矢張りどこか注目を受けて 47 いるように見える。それを気にする石燕ではなかったが⋮⋮ 三人は船着場までのんびりと移動して大川を渡す船を頼んだ。 ﹁何処に行くのだ?﹂ ﹁なに、折角食べに行くのだから名店と呼ばれる場所でなくてはね﹂ そう告げて大川の流れを進み蔵前橋のあたりで降りた。 第六天神社に立ち寄った後に、近くにある大きな店を構える蕎麦 屋﹃逆木屋﹄へと立ち入った。表長屋を利用した緑のむじな亭と違 い、立派な店舗である。店の中に三十人は入れるだろうか、二階に も多く部屋があるようだった。 ︵成程、流行ってそうな店だ︶ 見ると客の町人らも整った格好の者が多く、武士も見受けられた。 それが店に満員と入っているのである。 石燕は慣れたように暖簾を分けて店内に入って行く。心なしか気 圧されていたお房もそれに続いた。 ﹁いらっしゃいませ、おや、鳥山先生じゃないですか﹂ ﹁やあ。空いているかね?﹂ ﹁へへえ、どうぞどうぞ﹂ とにこやかに下男が二階の部屋へ案内しようとするが、彼女は手 で制した。 ﹁いや、今日はそんなに飲んで行かないから一階で良い。うちの生 徒らと蕎麦を食べに来たのでね﹂ ﹁なんですって、こりゃあ大変だ。旦那ぁ! 今日は鳥山先生、蕎 麦を召し上がるそうですぜ!﹂ 48 ﹁やっとか! あの飲兵衛におれの蕎麦を味合わせる時が来たか! 待ってろすぐに出してやる﹂ ﹁ああ、生徒に食べさせるから二枚でいいよ。それと酒と田楽﹂ ﹁ちくしょう!﹂ やる気を出した板前に水をぶっかけるような言葉である。どうや ら常連ではあるが、いつも酒とつまみばかり注文しているようであ る。 そんな彼女の様子をじとりと九郎は半眼で睨んで、 ﹁本当に蕎麦の名店なのか?﹂ ﹁安心したまえ。ちゃんと私だって食べての評価だよ。だが酒とつ まみも絶品でね?﹂ 悪戯っぽく嗤う石燕であった。 暫くすると三人の着いた席に蕎麦と酒、つまみが運ばれてきた。 逆さにして水切りをよくした笊の上に盛られた、井戸水で洗いた てのぴんとした蕎麦である。所謂むじな亭で出される掛け蕎麦では ない盛りの形だが⋮⋮ 九郎は箸を手に蕎麦を摘んだ。余計なぬめりはなく、つるりと蕎 麦が離れる。さて、これを⋮⋮と食卓を見回すと蕎麦猪口を見つけ た。ううむ、これに浸して食べるのか、と彼は感心する。あまり現 代でも蕎麦専門店等は入ったことが無かったのである。 冷えた蕎麦つゆに蕎麦を半分ほど浸して啜る。蕎麦の香りがまず 口に広がり、そして濃い目のつゆの味がした。昆布と鰹節で張った 出汁で割られている蕎麦のつゆに感じる甘味は、 ︵恐らく黒砂糖で味付けしている⋮⋮︶ と九郎は感じた。 49 隣に座るお房は蕎麦の味に舌鼓を打って止めどなく、つるつると 啜っている。 昼間から徳利を傾けている石燕は愉快そうに見ていた。共に食べ る田楽は豆腐ではなく、戻した椎茸を串に刺して、胡麻と甘味噌を 塗りつけてさっと火で炙ったものだ。 ﹁美味いだろう?﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ なるほど、箸が止まらない。これが久しぶりに食べる蕎麦か⋮⋮ と感心する。 勢い、蕎麦一枚を食べ終えてそば湯が出された。九郎がつゆを薄 めて味を確かめる。 出汁に感じる深い味わいは何だっただろうか、と思案して目の前 の石燕が酒の肴にしている田楽を見て、気づく。 ﹁成程、椎茸の出汁か﹂ ﹁そうだね。大阪下りの本鰹節と江戸前の昆布、そして冬菇とまあ 出汁だけで叔父上殿の蕎麦より金がかかっているのではないかね﹂ ﹁矢張り値段も高いのか、この店﹂ ﹁蕎麦が一枚三十文、酒が六十文、田楽一本十文といったところか ね。これでも良心的な価格設定だね﹂ ﹁⋮⋮その酒、六科の蕎麦五杯分か﹂ ﹁少し飲んでみるかい? いい酒だよ﹂ と猪口を回して来たので味わってみると、確かにむじな亭の甘み を抜いた味醂のような酒とは比べ物にならぬ、清涼にして甘口の上 酒であった。 九郎はなにやらしきりに頷いて感心していた様子である。 50 **** ﹃逆木屋﹄の板前兼亭主と石燕が軽口のようなものを言い合い店を 辞して、一行は次の場所へ向かったのである。 次の目的地は鳥越近くにある蕎麦屋であった。﹃件屋﹄と書かれ たその店の前では、同じ屋号の屋台が天麩羅を上げていた。 ﹁この店では天麩羅蕎麦が食べられるのだよ﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ 室内で揚げ物を作り油が燃え移っては一大事ということも有り、 当時は炉端の天麩羅屋が多く見られたようである。 店に入ると活き活きとした店員の声が響き、客も若い衆が多く見 られるようだった。つゆと油の香りがつん、として先ほど蕎麦を食 べたばかりだというのに、食べる気力が湧いてくる。温かい蕎麦つ ゆの食を促す力は、 ︵侮れぬ︶ と九郎は思った。 若い店員が元気よく聞いてきた。 ﹁らっしゃい! おっ石燕先生、またいつものかい?﹂ ﹁いいや、今日は蕎麦を二杯頼むよ﹂ ﹁なんと? おい親父ぃ! 石燕先生が今日は蕎麦だってよ! す げえ!﹂ 51 ﹁お、落ち着け! 人を化かす狐狸妖怪じゃねえだろうな! 確か みてみろ!﹂ ﹁石燕先生、ちょっと尻を拝見﹂ 覗き込もうとした手代の若衆に頭にどこから取り出したか鬼人手 が叩きつけられた。 ﹁ぬわーっ!﹂ ﹁まったく失礼な。いいから酒と稲荷も持ってきたまえ﹂ ﹁い、いつもの先生だ⋮⋮﹂ 憮然として席につく石燕に、矢張り九郎は半眼で呻いた。 ﹁普段どれだけ酒を頼んでおるのだ、お主。たまには蕎麦も食って やれ﹂ ﹁ふふふ﹂ ﹁目が笑っておらぬぞ﹂ とりあえず出された冷酒をちびりちびりと飲み始める石燕。酒を 好むがそれほど強くはないのか、二合目で頬に赤みがさしていた。 付け合せに出されている薄揚げを甘辛く煮た稲荷は油で揚げてい ながら上品な味付けであっさりとしている。 ﹁ここの酒は関西からの下り酒でね、私のお勧めだよ﹂ ﹁どれ、一献﹂ ﹁あんた子供なのにお酒飲み過ぎじゃない?﹂ ﹁フサ子よ。己れの中身はもう老人なのだ。酒ぐらい好きに飲ませ ておくれ﹂ ﹁ほう、そうなのかね?﹂ ﹁誰の仕業だと⋮⋮いや、お主ではないのだが﹂ 52 楽しそうにしている石燕と魔女をつい重ねてしまって言葉を噤ん だ。 石燕から差し出された酒を口にして驚いた。先ほどの酒と違い辛 口なのだが、濁りの無いすっきりした味わいで、豊かな酒の香りが 楽しめる。甘辛の稲荷の味を増して、すっきりと流していく効果が ある。 異世界でも様々な酒を飲んできた九郎をして、 ﹁これは⋮⋮﹂ と呻くような酒であった。 一口で気に入った様子である九郎を見て、石燕は先程の若衆を呼 んだ。 ﹁どうしやした、先生﹂ ﹁いや何、いつも飲んでいるこの下り酒だが銘柄を知らなくてね﹂ ﹁へい、神戸の灘からきた嘉納屋の酒でさぁ。材木商の副業らしい んですが、ここの酒がまた美味い。特にこれは西宮で作られた上等 品なんでやして﹂ ﹁うむ、うむ﹂ 頷きながら酒を舐める九郎であった。 実はこの酒、いや酒造会社が現代にまで残り﹃菊正宗﹄や﹃白鶴﹄ と云った日本酒を作り出しているのだが⋮⋮流石にそれは九郎も知 らなかったのである。 ぐいぐい、と飲んでしまった九郎に呆れたような笑いをこぼして 石燕はもう一本頼んだ。 この時点で九郎は、緑のむじな亭にこの酒を置きたい、と強く思 うのであった。主に、自分のために。 53 そうこうしていると注文していた蕎麦が出された。 上に天麩羅の乗った暖かな掛け蕎麦である。おや、と思ったらつ ゆの色が薄く、関西風のようであった。 ﹁この下り酒もそうだが関西風の味付けの料理を出す店なのだよ﹂ と、説明されて成程と頷く。 初めて見る天麩羅蕎麦にお房が戸惑っている為に、九郎は声をか けた。 ﹁よいかフサ子よ、まずは揚げたての天麩羅をつゆに浸して食べる のだ﹂ ﹁う、うん﹂ と箸で上に乗った天麩羅を摘む。天麩羅はかき揚げのようなもの だった。小ぶりな芝海老を四匹ばかり、小麦粉のつなぎでくっつけ て揚げているものだ。魚のすり身を使ったさつま揚げ風の天麩羅も この時代は多いが、この店は穴子や鱚などの魚介を切り身で揚げて いるのである。九郎は一番端の海老に狙いをつけて、蕎麦つゆに浸 しかりかりした天麩羅を食べた。 菜種油の匂いがぷんとして、食感もよく小ぶりながら甘い海老の 身に塩っぱいつゆが絡んで美味である。 ﹁次に天麩羅を蕎麦の下に沈める﹂ ﹁よいしょ﹂ ぐるりと蕎麦の麺と入れ替えるようにすれば一旦天麩羅は丼から 姿を隠した。 そして縁に口をつけてつゆを一口啜った。この時点では清涼な雰 囲気のある関西風のつゆである。 54 蕎麦を手繰ってずるずると啜る。濃い関西風の味付けではなく、 醤油の気配が薄い淡口が使われている。また、出汁は昆布からとっ てあるが、もう一つの魚介系の香りはどうも鰹節ではないようだ。 清涼な気配からおそらくは血合いの少ない白身魚を使っているとこ ろまでは検討がつくのだが⋮⋮ ﹁ううむ⋮⋮なんであったか﹂ ﹁ふふふ。秘訣は京都名物だよ﹂ ﹁⋮⋮そうか、棒ダラか﹂ 九郎が看破したその出汁には確かに棒ダラが入っているのである。 煮て戻した棒ダラは味付けして他の料理として提供しているようだ。 しかし妙な所でこの九郎という男、 ﹁味覚が鋭い﹂ ところがあるようだ。それもこれも、異世界で魔王城に住んでい た時期、魔王と侍女手製の料理漫画再現料理などを食べていた経験 があり、舌が肥えていると同時に隠し味のようなものに気づきやす くなっていたのであった。 煙草の匂いつき鯉の洗いなどを作った時には流石に怒ったものだ ったが⋮⋮ そうしていると蕎麦つゆに油が浮き始めた。 丼の底に沈んだ天麩羅が崩壊しだしたのである。 天麩羅の油が浮いている蕎麦つゆは味が変化して楽しめる。 そうして再浮上した天麩羅はつなぎがもろもろと柔らかくなって 居て、それをつゆと一緒に啜り込むとこれがまた、 ﹁うまい⋮⋮﹂ 55 のである。 本日二杯目の蕎麦だというのに、九郎とお房の胃袋にも蕎麦はす っ飛んで行ったのであった。 **** 体つきより大食漢である九郎は兎も角、普段から腹一杯に食べる ことのない九つのお房は満腹ですっかり動けなくなってしまった。 茶屋の店先で休憩しながら甘酒を石燕が飲んでいる。そして九郎 に尋ねた。 ﹁もう一杯ぐらい入るかね?﹂ ﹁問題はない﹂ と応えたので彼女は彼に十六文持たせて、路上にある小さな持ち 運びのできる屋台のようなものを指さした。 ﹁あれが二八蕎麦といわれる蕎麦屋台だな。つまりは、最下級の蕎 麦屋と思って良い﹂ ﹁あれと六科のやつの味を比べて来い、ということか。よし﹂ と彼は屋台に駆け込んでいった。 ﹁らっしゃい! お、坊主。蕎麦か?﹂ ﹁ああ、頼むぞ﹂ 56 と勘定台に十六文置いた。 二八蕎麦の名前の由来はつなぎと蕎麦粉の割合が二対八なことと も、二かける八から蕎麦の値段の一六文になることからとも言われ ている。 今で言う立ち食いそばのようなもので、湯で置いた麺を再度湯の 中で解し、つゆをぶっかけて出すだけだ。屋台の薬味を入れている 引き出しから葱を取り出して盛り付け、一分もまたずに出された。 食べる方も一分もかからずに食べ終え、ご馳走さんと声をかけて 石燕のもとに戻った。 ﹁どうだった?﹂ ﹁六科の負けであるな⋮⋮﹂ ﹁だろう?﹂ ﹁むう⋮⋮﹂ 九郎の感覚からすれば屋台の二八蕎麦は﹁食えなくはない﹂とい った程度の味だ。味付けも濃いし麺も伸びてぼそぼそしている。だ が、腹を満たすために急いで食うには充分である。 一方で六科の蕎麦は彼が騒ぎ立てたぐらい不味い。悲しいぐらい だ。 だが先行きは暗いわけではない。 並程度の味を上達させることは難しいが、圧倒的に不味い味を並 程度に戻すのは簡単だからである。つまりは、調理法がどこか間違 っている可能性が高いからだ。 それを指摘すれば二八蕎麦程度には戻せる。そこから先はまた考 えればいいのだが⋮⋮ ﹁ふう、流石に腹が膨れた。今日はもう蕎麦の事など考えたく無い な﹂ ﹁ふふふそうだね。それじゃあ私は寝付いてしまった房を、籠で私 57 の家まで連れて行くことにするよ。ついでに湯浴みもさせなくては ね﹂ ﹁ほう、家に風呂があるのか﹂ この時代、火事が起きれば火元の責任者は重い処罰を受けるので 風呂などは町人は持ちたがらず、湯屋に通うのが普通であった。ま た、多くの長屋には風呂もついていないのである。 だが金貸しの亭主が残した立派な家なれば、火事が起こらぬよう に工夫してある風呂があり、よく房も入浴させているのであった。 ﹁後家の私が湯屋で見ず知らずの他人に肌を晒すものじゃないよ﹂ ﹁そうか。では己れは六科のところに戻るとしよう﹂ ﹁おっと、そうだね。これをあげよう﹂ と再び十六文を九郎に渡した。 ﹁九郎君と叔父上殿の風呂代だ。とっておきたまえ﹂ ﹁随分気前がいいのだな﹂ ﹁亡き夫の遺産でね。まあ緑のむじな亭をあそこまで寂れさせたの は叔父上殿の責任だから、叔父上に直接貸したりはしないがね﹂ 彼女が云うには六科の妻であるお六が調理をやっていたころはそ れなりに流行っていた店らしい。今では見る影もないが⋮⋮ 眠った房を抱きかかえて籠で帰っていく石燕を見送りながら、九 郎は呟いた。 ﹁さて⋮⋮緑のむじな亭は何処だったか﹂ 未だ涼しい風が、食事で暖かくなった体に心地よかった。 58 **** 昼七ツ︵現代で云うと午後四時頃︶過ぎであった。 とある江戸の湯屋で顔を腫らした男が、湯で蒸かした手ぬぐいを 顔にかけて狭く混みあう湯船に浸かっていた。この時代は男湯と女 湯という区別はなく、江戸の町人らは男女構わず混浴のまま湯屋に 通っている。 特殊な逢引を目的とする湯屋もあるにはあるが、大抵の人らは湯 屋の中がやや薄暗く湯気で濃いこともあり、混浴を何とも思わずに ︵少なくとも表面上は︶入っているのであった。 この男も隣に近所で有名な美人妻の豊満な体がくっついていると いうのにぴくともしなかった。 むしろ、 ︵忌々しい⋮⋮︶ とすら感じる。 そう、彼は稚児趣味で有名な同心の利悟である。鬼人手の毒にや られた傷を癒すために長風呂をして顔を暖めているのであった。 ついでに手ぬぐいで顔を隠すふりをして入ってくる年頃の少年少 女らの体を眺めて悦に浸っている。そういう趣味であった。 湯気でやや霞んだ視界に、見知った顔と謎の物体が映った。 ﹁むう、これはとんでもなく混んでおるぞ、六科﹂ 59 ﹁そういうものだ。九郎殿﹂ 幼い顔立ちにざんばらの髪をした少年九郎︵範囲内︶と背中に刺 青を入れている大男の六科である。 思えば九郎と関わって痛い目にあったのだ。 復讐のために散々その体を見ていい気分になってやる。 サイコ系の復讐を考えてた利悟であったが、 なまこ ︵なんであの小僧は股に海鼠を挟んでるんだ⋮⋮?︶ とのぼせ上がった頭で悩んだ。 他の客も小声で﹁おい、あれ﹂﹁なんだと⋮⋮﹂﹁まあ⋮⋮﹂と 呟いていた。女人などは目を背ける程だ。 ﹁しかし、お主の刺青変わってるなあ。格好はいいが﹂ ﹁そうか?﹂ と桶を持って流し湯に近寄っていくあどけない顔をした少年の股 間に、歩く度にぼるんぼぬるんと大きく揺れる海鼠のごとき黒く大 きなモノが付いているのだった。 男衆はみな一斉に己が武器を確認して││小さく項垂れた。ぐっ たりとして上がり場に立ち去るものも居た。 それ程に、 ﹁大きな﹂ モノを持っていたのだ。 これは彼が元々その大きさであったと同時に、魔女に若返らせら れた際に何故かそこだけは最盛期状態だったため、年齢に不釣合い なモノを持っているのである。 60 当人らは気にせずに他愛のない会話をしていたが、夕暮れの湯屋 に、ため息の合唱が聞こえた。 ヌエ ﹁ところでその刺青の動物はなんだ? 虎か?﹂ ﹁鵺だ。俺の好きな妖怪でな﹂ ﹁鵺とはまた微妙な⋮⋮うん? この﹃雷倍﹄という字が彫ってあ るがこれは?﹂ ﹁雷属性の攻撃力が倍増する﹂ ﹁攻撃力!?﹂ 今の九郎には、刺青同士で攻撃力を競わせるルールがさっぱり理 解できないのであったが⋮⋮。 61 4話﹃動じぬ佐野六科﹄ 明け六ツ︵午前六時ごろ︶の時間に九郎は棒手振りの声で目覚め た。 この時代の江戸においては訪問販売が多く、特に飯前の時間帯に なるとその日卸した野菜や魚を持って棒手振りらが歩きまわるので ある。 はぜ 起きだした九郎は昨日の湯屋に使った小銭の残りを確認して棒手 振りから小魚をいくらか購入した。はぜは江戸でも一番安い魚の部 類で、暇つぶしに町人が釣りに行けば一日に百も釣れるほどだった という。 その場で頭と腸を取り除いて貰い、それを持って台所に行くと、 六科が既に飯を炊き始めていた。 あくびをしながら小さな鍋を借り目分量で手早く生醤油を一、酒 を三入れてさっと火が通る程度に小魚に絡めて火を止めた。冷えて いく過程で醤油の味が染み込み、これがまた朝食の白い飯に合うの である。 煮付けに使った醤油を絡めた鰹節を白い飯の上に乗せ、ばくばく と食う途中でこの小魚の煮付けを口に追加すると、殊の外味が濃く 飯をぐいぐいと口の中に押し込んでしまうような旨さなのだ。 今日も飯を男で三杯、お房も二杯おかわりして一日が始まったの である。 ﹁それでは六科よ、蕎麦のつゆを作ってみよ﹂ ﹁ああ﹂ 九郎の言葉に従うわけではないが、いつも通り佐野六科はつゆを 62 作る作業を開始するのだった。 他の店、屋台の二八蕎麦に比べてさえ六科のつゆは不味かった。 それは問題である。麺がいかにぼそぼそのそばがき変異体の如きも のであれ、浸けるつゆが不味いほうが台無しである。 火を入れた竈に鍋を置いて平静な態度で始めた。 ﹁まずは火をかけた鍋に醤油を張る﹂ ﹁⋮⋮﹂ どばどば、と無造作に醤油瓶を傾けた。 ﹁次に酒を入れる﹂ どくどく、と煮えた鍋に酒を流し込んだ。 ﹁砂糖だ﹂ 砂糖壺から適当に匙を突っ込み、大盛り一匙鍋に入れた。 そしてそれをよく混ぜて、 ﹁湯で割る﹂ と沸かしただけの湯で薄めた。 椀に注いだ今日出す蕎麦のつゆとなる液体を一口六科は飲んで力 強く頷いた。 ﹁⋮⋮うむ!﹂ ﹁うむ、じゃねえよ!﹂ 異世界から持ち込んだアダマンハリセンで快音を鳴らしながら六 63 科の頭を叩いた。 叩かれた首を傾けたまま真顔で云う。 ﹁痛いではないか﹂ ﹁ええい、ちょっとその椀を貸してみろ﹂ と彼の調合した蕎麦つゆらしきものを少量口に入れてみるが、刺 々しい醤油味と鼻につんとくる酒の匂い、薄い砂糖味をぼんやりし たお湯で薄めただけのどぎつい代物であった。 ﹁明らかに不味いつゆであろう! どこに有無を言わせる要素があ るのだ!﹂ ﹁むう。塩っぱければ同じでは⋮⋮﹂ ﹁ない! かえしを作る順番も分量も雑だし、せめてお湯じゃなく 出汁で割れ!﹂ ﹁出汁⋮⋮?﹂ 不思議そうに問い返す六科に、力を亡くした如く九郎は肩を落と した。 ﹁⋮⋮というか今日の朝飯も、フサ子が味噌汁作る時鰹節を湯に入 れていたであろう﹂ ﹁ああ。あれは⋮⋮まさか茹でた鰹節を醤油に絡めるためではなく 鰹節の味を湯に溶かして⋮⋮?﹂ ﹁なんでこんな小学生の家庭科みたいなところから説明しないとい けないかな!﹂ 悲しくなってくる九郎である。 六科というこの男、味が濃いか薄いか、甘いか辛いか程度の違い しか頓着しない性質であるようであった。 64 そのような成でよくもまあ、蕎麦屋などやっているものだと逆に 感心するほどだが、そもそも亡き妻の店を引き継いで営業している だけであるので別段料理が得意なわけでも無いのだ。せいぜい実家 で菓子細工の類は手習いさせられたので包丁を、 ﹁使える﹂ 程度ではあるのだが⋮⋮ 六科を押し退かして九郎は台所に立った。 ﹁よいか、蕎麦のつゆは⋮⋮まあ己れも詳しいわけではないが﹂ と前置きして鍋にまず酒を張ってふつふつと沸かした。六科の作 ったつゆにはやけにアルコール臭さが残っていたために、まずはこ うやって成分を飛ばすべきだろうと考えたのだ。 つゆの作り方の正しいレシピなどは知らないが、六科の用いた材 料だけは恐らく間違っていないはずだと判断する。単純な材料だが 必要最低限はありそうであった。 酒精を飛ばした酒にそろそろと醤油を注ぐ。少なめに入れては味 を見て調節した。後は醤油の刺々しさが紛れる程度にまた少しづつ 砂糖を入れ、混ぜ合わせる。 そしてできた返しを鰹節を荒っぽく削って湯通しした出汁で割り、 また少量砂糖と醤油で整えた。 ﹁むう、屋台の二八蕎麦の味には近づいたか。素人仕事にしては充 分と考えるべきか﹂ ﹁そうか﹂ 不味い醤油汁から、蕎麦つゆだという意図は分かる程度の味に進 化したのだったが六科の反応は薄い。 65 本当にわかっとるのか⋮⋮と半眼で見るが、相変わらずの仏頂面 で何を考えているかはわからなかった。 ﹁まあよい。では次に蕎麦を打ってみるのだ六科よ﹂ ﹁承知した﹂ ﹁なんか妙に偉そうなのよね、九郎って﹂ 洗った朝食の食器を片づけながらお房が云った。 見た目は十二、三の少年に顎で使われているような父親の姿には 違和感しか感じないのである。 やはり六科は無頓着振りを発揮して、 ﹁気にするな。俺は気にしていない﹂ とだけ告げるのであった。 そして蕎麦粉を用意する。高級店などは蕎麦の実から殻を取り蕎 麦粉を作り出す道具を使い挽きたて、打ちたてを提供しているとこ ろもあるが、多くの蕎麦屋は問屋から蕎麦粉を買っているのである。 淀みない手付きで六科は作業を開始する。 ﹁まず鉢の中に蕎麦粉と水を入れて練る﹂ 一塊になるまで練り、それを蕎麦粉を薄く敷いたまな板の上に映 した。 ﹁棒で伸ばす﹂ と麺棒で薄く広く伸ばしていく。だが、薄く広げた先から蕎麦が ぼろぼろと崩壊していくような光景に九郎は目を剥いた。 66 ﹁重ねて切る﹂ 伸び広げた蕎麦を折り重ねて包丁で端から切っていった。その包 丁さばきだけは中々に上手ではあるのだが⋮⋮ ﹁茹でる﹂ 無造作に、既に千切れかけているような麺を湯に突っ込みほぐし た。 それを先ほど作った蕎麦つゆに浸し、啜る││というほど麺の形 を成していなかった為にもぐもぐと食べた。 ﹁うむ!﹂ 再びの快音がアダマンハリセンから響いたのであった。 **** 蕎麦粉十割で蕎麦を打とうとした六科に突っ込みをいれて、見本 という形で蕎麦を打つこととなった九郎だったが、小麦粉の貯蓄は なかった為に異世界から持ち込んだ﹃カナニカーダ﹄という品種の 異界チック小麦粉を使う事にした。たまたま道具袋に入っていた、 料理以外にも仕える多目的アイテムである。しかし今後のためにも 問屋に行き買っておかねばならないと予定を入れておく。 しかし九郎がつなぎの小麦粉を入れて打った麺もいまいち、 ﹁美味しくは無いの﹂ 67 とお房の評価であった。お前の親父よりマシだと言ってやろうか と思ったが九郎は大人なので止めておいた。 形は麺の体をなしているのだが、練りだか捏ねだかが足りないの であろうか、若干粉っぽくもあるしコシも弱い。 早くも座礁に乗りかかった蕎麦作りである。 ﹁ううむ、練る技術となるとなあ、一夕一潮とはいかぬ﹂ ﹁あ、そうだ。お雪さんならこういうの得意じゃないの? お父さ ん﹂ ﹁む?﹂ 六科はやや考えるようにして﹁そうだな﹂と肯定の意を示した。 ﹁お雪とは?﹂ ﹁長屋に住んでる按摩屋さんなの。うちにも時々食べにくる﹂ ﹁ほう、按摩か。確かにこねる技術は高そうであるな﹂ 九郎も納得したので、六科が﹁呼んでくる﹂と勝手から外に出た。 何となしに九郎とお房も続く。狭い裏木戸を歩き進むが、前は大 柄な六科の体で見えぬほど細い通りであった。六科が歩いていては 他の者はすれ違えないのではないか、と思いながらも裏店を初めて 見る九郎はまたしても目を右左に動かして物珍しそうにするのだっ た。 四件奥の障子戸の前に、恐らくお房の文字で﹃ゆき﹄と表札が掛 けられていた。 六科が声をかける。 ﹁お雪。居るか﹂ ﹁はい、はい。居りますよう﹂ 68 と声が返ってきた。若い女の声だ。 戸を開けると着物を着た長い髪の女が座って裁縫をしている。年 の頃は十代の後半程度だろうか。その肌は名前の通り雪のように日 に焼けていなかったが、顔に大きな火傷の痕が残っていてその両目 は閉じられていた。 当時は按摩の仕事が盲人の専売である。この女按摩師であるお雪 もその目は光を映さないのであった。 ﹁相変わらず器用だな﹂ と六科が声をかけたのは、目が見えなくても衣服を針と糸を使い 器用に縫い合わせているのを見てである。 はにかんだようにお雪は白い頬を赤くして、 ﹁つい躓いて裾を破いてしまって⋮⋮でも手に染み付いたお裁縫は、 見えなくても大丈夫ですよう﹂ ﹁そうなのか﹂ ﹁そうなのです﹂ うふふと口元を隠しながら楽しげにお雪は笑った。 ﹁それで六科様、今日はどのような││﹂ ﹁六科様!?﹂ 驚いて思わず叫んでしまう九郎であった。 突然上がった大声に身を竦ませるお雪に、九郎はとりあえず、 ﹁あ、ああすまぬ﹂ 69 と声をかけて声を潜めてお房に尋ねた。 ﹁いやいきなり六科が様付けで呼ばれているから驚いたのだが、何 なのだ? 盲目系美少女に様付で呼ばせるけしからん取り決めでも あるのか?﹂ ﹁あたいのお父さんに変な性嗜好をつけないで欲しいの。お雪さん は、昔火事の現場からお父さんに助けてもらった恩でそんな呼び方 をするようになったの﹂ ﹁何処の主人公だ六科め﹂ 六科の鉄面皮を見ながら小さく呟いた。 もう十年も前になるか、お房が生まれていない頃に外神田の外れ で起きた火事があった。長屋二棟が既に燃え上がり多くの火消しが 集まって消火活動を行なっていたのである。 だが当時の江戸の消火は火を消し止めるのではなく、建物を破壊 して延焼を防ぐのが主な方法であった。故に燃え上がった建物の外 壁を崩しに行く火消しはそのまま帰らぬ人となることも多く、血気 盛んな鳶職などが家族に別れを告げて飛び込んで行ったと伝えられ ている。 故に火中に取り残された人の救出などは二の次三の次と後回しど ころかまったく考えている暇など無い。 盲ていて取り残された幼い少女であるお雪が助けだされたのは、 偶然助けられる場所に居たこともそうだが、火消しに参加していた 六科の、 ﹁命知らずの勇気﹂ あってのことなのは言うまでもない。 70 彼からすれば﹁やれそうだからやった﹂とだけ簡潔に言うであろ うが、それ以来お雪は六科に命を拾ってもらったと考え、按摩師と して仕事を教えてくれた師匠よりも彼を兄のように慕うようになっ たのである。 話を今に戻すと、九郎とお房の声がした方向へお雪は顔を向けて 言う。 ﹁あら、お房ちゃんも一緒だったんですか。そしてもう一人は、九 郎殿でしたか﹂ ﹁む? 己れの名を知っておるのか﹂ お雪は小さく頷き応える。 ﹁はい、昨日一昨日、六科様の家を盗ちょ⋮⋮ごほん、大きな声で 話していたものですから、ここまで聞こえたんですよう﹂ ﹁いま何か不穏な単語が出かけなかったか。あとここ部屋四ツ分離 れてるような﹂ ﹁盲の者は耳が善いのですよう﹂ うふふ、と笑う言葉に何やら誤魔化しを感じたが九郎は放ってお くことにした。 それにしても、とにこやかな笑みを浮かべたまま九郎へ告げる。 ﹁随分と声の若い、お爺さんなのですねえ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ぶはっ﹂ 吹き出したのはお房だ。九郎を突っつきながら彼女は面白がって 71 囃す。 ﹁よかったね九郎、あんたの実は爺さん設定、目の見えないお雪さ んには通じるみたいなの﹂ ﹁ええい、間違っとらんわ阿呆め。お雪さんの感覚が訴えかける事 実こそが真実だというに﹂ しかしこの姿で爺さん扱いされたことは、異世界でもこの世界で も初めてなので何かむず痒くなるのであった。 ﹁それで六科様、どのような要件でしょうか⋮⋮あ、すみませんお 茶も出さずに。どうぞ上がって下さいよう﹂ ﹁いや構わん。お雪に頼みたいことがあってな﹂ ﹁頼みたいこと⋮⋮按摩ですか? うふふ、待ってましたと言わん ばかりに張り切っちゃいます﹂ ﹁違うが﹂ ﹁⋮⋮そうでしょうよう﹂ 意味ありげに照れたように告げてみるが、無表情を崩さずに否定 されて自嘲の笑みをため息と共に浮かべるお雪である。 按摩師としてそれなりに腕の良く、彼女が担当する顧客もそれな りに居るお雪であるが、一度足りとも六科を按摩したことは無いの だ。彼はあまり疲れなどを残さない体質なのか、 ﹁その必要を感じない﹂ と長屋の店子とあれば家族も同然なのにお雪に肩の一つも揉ませ たことが無いのであった。 いつかは絶対、しっぽりと按摩してやると決意を固めるお雪だっ たが、ともあれ蕎麦を練って欲しいという案件が伝えられた。 72 お雪自身蕎麦を練ったことは無いものの快諾して緑のむじな亭の 厨房に戻る。長屋の移動に関しては杖を使わなくても常人と同じく すたすたと歩くお雪であった。 そして蕎麦鉢の前に立って軽く着物を腕まくりした。ほっそりと した白い腕は六科の固く締まった腕に比べていかにも力不足に見え るが⋮⋮ ﹁小麦粉と蕎麦粉を混ぜたものだ。それに水を加えて練る﹂ ﹁はいな、頑張りますよう﹂ と彼女は隣に置かれた椀の重さを手で計って水を半分入れて、蕎 麦粉を練り始めた。練った硬さを手で感じて水を追加する。 片手で鉢を抑えて、もう片方の手を使い身を乗り出すようにしな がらぐいぐいと鉢に押しつぶし、揉みしだいて生地を作っていく。 僅かな粉部分も残さずに指先で感じては力強く捏ね上げる。 丁寧であり力感に溢れた練り具合に、明らかに素人仕事とは違う と感じた六科と九郎は感嘆する。 充分に練った蕎麦を饅頭のような形に丸めて、まな板に移した。 そして麺棒を使いこれまた、板に張り付け潰すように力を込めて広 く伸ばしていく。蕎麦の向きを時々変えながら、均等な厚さになる ように形を整えつつ伸ばすのはとても蕎麦打ちの素人には見えない。 それも目が見えないから手と指先の感覚で執り行っているという のだ。 そして折り紙を折るように丁寧に蕎麦を折りたたんで一尺五寸程 の蕎麦の固まりを作り出した。 ﹁はい、六科様。切って下さいませ﹂ ﹁む⋮⋮ああ﹂ 明らかに本職の自分よりも上等に作り上げた蕎麦に一瞬気を取ら 73 れたのだったが、六科は蕎麦切り用の包丁を取り出した。流石に目 の見えない相手に包丁を持たせるのは危ない。 包丁さばきだけは堂に入ったように蕎麦を切り割っていく。 打ちたての蕎麦をたっぷり沸かした湯で茹でる。ちなみに火元は 九郎の炎熱呪符を使っている為に湯を沸かしたりつゆを温めたりと 薪代を使わずに自由に出来るのであった。紙製の呪符であるが熱効 果を長く保つ。それも類稀なる魔力持つ魔女の御業あっての呪符だ からだが。 茹でた蕎麦に、敢えてつゆではなく麺自体を味わうために醤油を 薄く絡めて食べると、蕎麦の味が生かされたもっちりとしてコシの あり、蒸気と共に感じる醤油の香りに負けていない、麺だけならば そこらの店でやっている蕎麦屋に負けていないものができたのであ った。 ﹁なんと、予想より余程見事であるな﹂ と感嘆の声を九郎が上げると、お雪は頬を抑えながら、 ﹁やぁですよう九郎殿。素人芸を褒めすぎですよう﹂ ﹁いやいやこれは立派なものだ。六科、お主も見習えよ﹂ ﹁そんな⋮⋮六科様の作るお蕎麦もその⋮⋮味は愛があれば関係な いですよう﹂ ﹁この店のきゃっちふれえずか何かか、それは﹂ ﹁?﹂ 残念そうな人を見る目で、お雪と己の味のわからぬ六科を見やる。 身内びいきにしても不味いだろうに、よく我慢して食べていたもの である。 ﹁つまり今のお雪のような打ち方をすれば良いのだな﹂ 74 ﹁そうなりますねえ。六科様、わたしが手取り足取り、教えて上げ ますよう⋮⋮﹂ と再び蕎麦生地を作るように準備された鉢の前に立つ六科の後ろ から、手を補助するようにそっとお雪は指導へ回るのであった。 盲目系美少女に後ろから抱きつかれるような形である。 六科は依然と動じておらず、背後から抱きつかれるのがおんぶお 化けでも死体でも変わらぬ、と云った仏頂面だ。 それを見て苦々しげな顔で九郎は六科の肩に手を置いて云った。 ﹁六科﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁なんというかなんだお前⋮⋮なんなんだ!?﹂ ﹁⋮⋮?﹂ ﹁色んな意味で鈍いぞこの男⋮⋮﹂ 思わず唱えて彼に背を向け、特訓を始めた厨房から立ち去る九郎 であった。 緑のむじな亭、本日は修行のため休業である。 **** むせ返るリア充臭から思わず店を飛び出したものの、特に行く宛 のない九郎はさてどうしたものかと考えた。 金はなくとも物見遊山は出来るか、と適当にぶらつく事にしたの だが⋮⋮ 75 同じような長屋に細い小路が無尽に走る江戸の町を道を忘れない ように進んだ先に、路肩に座席を設けている団子屋があった。 紅白の暖簾を出して、外に出した座席と傘も紅で染めた明るい店 構えに明らかに不吉臭い影が鎮座している。 黒い喪服に癖毛が目立つ長髪。葬式をはしごしてきたような格好 をした眼鏡の女⋮⋮鳥山石燕であった。 紅白団子を食いながら酒を飲んでいるようである。既に空けた一 合徳利が見える。 江戸の町に置いて数少ない知り合いである石燕に九郎は声をかけ た。 ﹁お主、何時見ても酒を飲んでおるな﹂ ﹁おや? 九郎君かね。ふふふ、まあ座りたまえ﹂ 自らの横の席を軽く叩いて招いたので、九郎は特に用事もないか ら従い座った。 上機嫌に石燕が新たな団子と銚子を注文する。作り置きと冷酒だ からか、それらはすぐに持ってこられた。 ﹁私の奢りだ。ここの団子は粉砂糖が振ってあって甘みが強いのだ けれどね? 酒が辛いから乙なものだよ﹂ ﹁団子をつまみにしたことは無かったがな﹂ 言いながら串団子を手にとって、ぐいと噛んで串から引きぬいて 口にやった。団子の表面に残り雪のようにわずかに振られた砂糖が 甘く、団子自体も丁寧な作りで歯ごたえが良かった。 団子というのはこの串が大事なのだ。ぐい、と引きぬく動作がな ければ味は半減してしまうだろうと九郎は思い高説を口にしたが、 ﹁ならばお汁粉の中に入っている白玉はどうなのだね﹂ 76 と石燕から返されたので、 ﹁あれはあれで別ジャンルなのでノーカン﹂ と誤魔化すように横文字を使って言い訳するのであった。 そんな彼の言葉にも疑問を挟まずに面白そうにしている石燕の視 線がどうにも気になるが無視をして、酒を飲んだ。 春先とはいえここ今日は日も好く、ともすれば汗ばむ陽気であっ た為に冷えた酒はうまかった。うまそうに飲む九郎を見て石燕はも う一本銚子を注文した。 ﹁そう言えば一人で何をしているんだい? お遣いかね?﹂ ﹁只の散歩だ。六科の蕎麦打ち修行には己れは役に立たんからな。 面倒であるし。お雪さんに任せてきたわ﹂ ﹁ああ、あのお嬢さんか﹂ 面識があるようで納得した後に何故か意地が悪そうな笑みを浮か べ、再び酒を飲んだ。 ﹁人間無骨の叔父上殿の事はどうでもいいか。ふふふ、私は九郎君 のほうに興味があるしね﹂ ﹁用事を思い出した﹂ ﹁只の散歩なのだろう、待ちたまえ﹂ 発作的に帰りたくなった九郎だったが立ち上がる前に軽く指先で 額を抑えられた。 上体を後ろに反らされると座っている状態から立ち上がれなくな る。彼は苦々し気な顔で離席を止めた。 77 ﹁少々房から事情は聞いているがね。なんでも仙人の弟子であった とか?﹂ ﹁⋮⋮それは嘘だ。言うても信じられぬ事なので適当に説明しただ けでな﹂ 面倒臭げにかぶりを振りながら云う。 だが石燕は興味深げな色を瞳に映して真剣な様子で告げる。 ﹁言ってくれたまえ。何せ私は妖怪などと目には見えぬ物を絵に写 す事を生業としている地獄先生鳥山石燕だよ? いかな怪奇不思議 を信じられぬことがあろうか﹂ ﹁⋮⋮﹂ 純粋に、本心から九郎の話を真摯に受け止めようとしているらし い、いつもの巫山戯た笑みを止めた誠実そうな顔の石燕は⋮⋮ どこまでも本気で胡散臭く九郎は感じた。 あれは魔女が綺麗事を吐いてこっちを騙そうとしている時の顔だ。 九郎は苦虫を噛み潰した顔をした。 ﹁⋮⋮次に己れが真剣に語り出したらどんな内容を話してもまず大 笑するつもりであろう﹂ ﹁ふふふ⋮⋮なんでわかったんだい?﹂ ﹁経験則だ、小娘め﹂ 吐き捨てるように云う。 石燕は拝むように手を合わせて猫撫声で謝罪をしながら頼み込ん できた。 ﹁誂おうと思ったことは謝るよ、すまないね九郎君。でも君の話に 興味が有ることは本当なのだよ﹂ 78 ﹁⋮⋮ええい、どうせ言うてもわからぬだろうが聞かせてやる﹂ と九郎は掻い摘んで事情を話しだしたのであった。 **** 酒を飲みながら一刻半程話しただろうか。特に茶々を入れるでも なく、だが的確な頻度で相槌を打ちながら聞いていた石燕は一段落 ついたのを確認して疑問を挟んだ。 ﹁ところでその異世界には妖怪は居たのかね?﹂ ﹁興味はそこか⋮⋮ゴーストやゾンビやスケルトンに変化し死霊に なっても生活してるものならいたが⋮⋮後は種族としての吸血鬼や 亜人などは見た目ならば怪物のようであった﹂ ﹁生物としての分類と妖怪かどうかは違うよ。私が怪談に出てくる ﹃むじな﹄という妖怪は好きでも六科という名の叔父上や穴熊はよ く思っていないようにね﹂ ﹁嫌っておるのか、六科のことは﹂ ﹁嫌いというほどではないが⋮⋮塵塚怪王のほうがましだと思う程 度で﹂ ﹁誰だよ塵塚怪王﹂ いまいち知名度の低い妖怪の名前についていけずに問い返すと、 意を得たりとばかりに石燕は懐から髪と筆、墨入れの小瓶を取り出 した。 ﹁ふふふ塵塚怪王を舐めてはいけないよ九郎君。塵塚の怪⋮⋮すな 79 わち付喪神は知っているね? 器物百年に居たり魂生ずる。人が生 み出したあらゆる物は神になり得る素質を持つのだよ。そしてその 無数とも言える神々の頂点に立つ王こそが塵塚怪王なのだ﹂ 言いながら鮮やかな手付きですらすらと紙に筆を走らせる。 一点も躊躇なく流れるように描き上げた絵を九郎に見せてきた。 そこには、蓙を片手に持って襤褸を纏い、蓬髪垢面で破帽を被っ ている薄汚れた老人が描かれている。 ホームレス ﹁⋮⋮塵塚怪王!﹂ ﹁どう見ても無宿人の長老か何かであろう! 嫌だぞこんな王は!﹂ ﹁ふふふ、これは仮初の姿。まだ二回の変身を残しているのだよ﹂ ﹁どっか未来で聞いたことのあるような事を口走るでない!﹂ ﹁多分臭いから近寄りたくはないね﹂ ﹁これ以下な扱いか六科は﹂ 僅かに可哀想にすら思うのであった。 彼女からしてみれば毛嫌いしているわけではないけれども、どう も誂い甲斐の無い、面白味と人間味にかける六科は苦手な性質なの である。娘のお房は可愛がっているのだが⋮⋮ 見ていたまえ、と石燕が部下付喪神である鞍野郎アーマーと古空 穂アローを装備し朧車チャリオッツに乗ったフルアーマー塵塚怪王 を描き始めたのを見ながらため息混じりに九郎は尋ねた。 ﹁というかお主、異世界がどうとか疑わぬのだな﹂ ﹁うん? ああ、あるのではないかなとは思っているよ。三千大千 世界という言葉を知ってるかね? 仏教における世界全ての総数を現しているのだが、我々の住むこ の地と神仏の住まう天上から地の底までを一つの世界と数えよう。 80 それが千世界集まって小千世界。小千世界が更に千集まり中千世界。 中千世界がまた千集まり大千世界というのだね。 勘違いされやすいが大千世界が更に三つあるから三千大千世界で はなく、小世界・中世界・大世界の三つを表し三千大千世界という のだが⋮⋮まあとにかく、数にしてみれば十億も世界もあるという ことになるのだよ。 それだけ数があれば君の言う世界だってあるのだろうし、何らか の方法で移動できる術もあるのではないかな﹂ 九郎は己の話した事を大体に置いて理解し、信じている様子の石 燕に胸中で感嘆するのであったが、説明が長くいまいち頭に入って 来なかった。解説好きなのか? と妙な感想さえ浮かんだ。 しかし九郎の現状を話しても、普通は頭おかしいか子供の妄言と しか思われないであろう事なのだが、おおよそ石燕の思考が尋常で はないので逆に言葉に詰まってしまう。 とりあえず酒を飲んだ。何はともあれ酒である。 銚子のお通しとして出された小梅の梅漬けは程よく酸っぱくて飯 よりも酒に合うようにされていて、その梅肉や梅紫蘇を一口入れる とこれまでの甘味で慣らされた口から洪水のように唾液が出るほど で、それを酒でくぴりんこと飲み込むのがまた良いのであった。 舌鼓を打っている姿をにやにやと石燕に見られているのを察知し て、体裁を整わすように咳払いをした。 ﹁ところでその異世界から何か持ち帰った珍しいものは無いのかね ?﹂ ﹁珍しいもの、か。この世界からすれば存在しない物はいくらかあ るが﹂ ﹁ほう﹂ 眼鏡を光らせ目を細めて笑い身を乗り出してきた。 81 ﹁気になるね。良い物があればそれなりの値段で買い取らせてもら うが?﹂ ﹁む⋮⋮﹂ と交渉を持ちかけられて九郎は少し考えた。 確かに自由になる金は欲しいし、異世界から持ち込んだ物品の中 には今や不要なものもある。真っ当な商人でない個人の相手が金に 変えてくれるというのなら有難いのであるが⋮⋮ 鳥山石燕という怪しげな人物に与えて良い道具かどうかを選別し なくてはならない。 更にあまり文明から逸脱したようなオーパーツを売り飛ばすのも、 タイムパトロールの介入という結果を招きかねない。時間犯罪者と して脳細胞破壊銃で記憶を消去されてパーにはされたくない。よく 覚えていないが確かそんな組織だった気がする。 考えた結果、薬の類なら構うまいと服の内側に縫いつけた小物入 れに入れた小瓶を取り出した。幾らかの小物と、魔法の術符を纏め て収めた小サイズの術符フォルダは持ち歩くようにしているのであ る。 石燕は眼鏡を正しながら言う。 ﹁これは?﹂ ﹁なんと云ったか⋮⋮思い出せんがなんとか云う生き物の髄液を加 工した最高級の薬でな。飲むだけで外傷を驚く程塞ぐ霊薬なのだ⋮ ⋮と云うだけではわからぬな。こうやってだな﹂ 九郎は近くにあった竹串を軽い手付きで取ると、尖った部分を引 っ掛けるようにして己の親指をざっくりを引き裂いた。 赤い線が出来てぶわりと溢れるように血が膨れ出てきて流れだす。 82 ﹁九郎君!?﹂ と驚いたような声を上げる石燕に九郎は笑いかける。こういう余 裕ぶった手合いをびっくりさせるのは少し楽しいと悪戯っぽい感情 が浮かぶ。 ﹁見ておれ﹂ と回復薬の蓋を開けて、蓋の縁についていた僅かな量を指で拭っ て舐めた。 すると何も無かったかのように指の傷は痛みと共に消えてなくな ったのである。 手のひらを向けて何事無いことをまじまじと石燕に見せる。 ﹁どうだ、この世のものとは思えぬ効能であろう﹂ ﹁⋮⋮これは⋮⋮やはり⋮⋮﹂ ﹁?﹂ ﹁あ、いやなんでもないよ。いいね、気に入った。言い値で買わせ てもらおう﹂ ﹁全部はダメだぞ。半分で⋮⋮ううむ、いまいち金銭の正常な価値 がまだ把握してないので価格がつけにくい﹂ 困ったように言う。九郎にとっての金銭の基準は今のところ、蕎 麦一杯十六文と風呂屋一回五文︵子供料金︶ぐらいしかものさしを 持っていないのだ。 真面目に考えている彼に石燕は笑いかける。 ﹁わからないなら百両とでも言えば良いのに真面目だね。言い値と こちらは言っているのに﹂ ﹁莫迦を申すな。己れは別にこれを売って大儲けしたいわけではな 83 く、当座の資金が必要なだけなのだ。それに女子供を騙して金をせ びるなどはしない﹂ 当座の資金、という言葉に石燕が反応した。 ﹁というと││叔父上殿の蕎麦屋を立て直す資金かね?﹂ ﹁ああ。蕎麦自体は兎も角、店に出す酒やさいどめにゅうなどを豊 富に展開すれば蕎麦も食える飲み屋、と云った程度にはなるのでは ないかと思ってな。あやつの店が繁盛すれば堂々と寄生隠居できる というものよ。だが新たな材料を買うにも金が無くてな⋮⋮もちろ ん己れがあちこちで飲み食いする小遣いも必要不可欠なのだが﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 百両あれば好きに暮らせるだろうにとも思う石燕であったが、九 郎の今の目的はあくまで六科の支援なのである。 大金を持って売れない蕎麦屋でも維持だけはできるようにするの ではなく、蕎麦屋として普通に金を稼げるようにしてやらねば意味 が無い。 それに結構他人の営業に口を出してみるというのも面白いものだ と思っていた。ほんの数日の付き合いだが、緑のむじな亭に、 ﹁愛着が湧いた﹂ ようであった。 若干考える仕草を見せた石燕であったが、彼女はこう提案した。 ﹁ならばこうしよう。九郎君が緑のむじな亭に必要な物資を買う時 は私が資本金を出させてもらうよ。それと外で酒や飯を食べるとき は私のつけにしておいて構わないし、其のためのお金も随時援助し よう。どうだね?﹂ 84 ﹁ううむ、有難いが⋮⋮﹂ ﹁不満かね?﹂ ﹁何かお主の、ひもになったような気分がどうも良く無い﹂ 九郎の言葉に一瞬きょとんとした石燕だったが、堪え切れぬとば かりに笑い出すのであった。 その日はそこで、九郎に前金の一部だと薬半分と交換に、一両小 判を渡して別れた。 緑のむじな亭アドバイザー九郎、スポンサーを手に入れたのであ る。 **** 緑のむじな亭へ戻ってきた九郎を待ち構えていたのは心なしか疲 弊した六科と、笑顔でいつの間にか割烹着の前垂れを着用している お雪とお房であった。 謎の出迎えに一瞬怯んだ九郎は声を出す。 ﹁ど、どうしたというのだお主ら﹂ ﹁俺の蕎麦が完成した﹂ と六科が差し出すのは一杯の丼。 手助け助言あれども、彼が作ったかえしを彼が取った出汁で割り、 彼が打った麺を使って作った六科の蕎麦であった。 さんざんの練習の末にとうとう完成したのだ。厨房では材料が散 らばっている。恐らくは在庫の蕎麦粉や砂糖、醤油なども相当減っ 85 たであろうことは想像がついた。買い足すのはこの金なんだよなあ、 と九郎は胸元に感じる一両小判の重みを気にした。 ﹁左様か﹂ と声をかけて丼を受け取り、席につく。 ﹁お主の修行の成果、確か観てみよう﹂ と箸を取り蕎麦へ向かう。 見た目はまともな掛け蕎麦であった。 シンプルな魚介系出汁︵鰹節︶の香りの聞いた暖かい蕎麦つゆに 使った麺をつまみ、しっかりと麺の体をなした細めのそれをすすり 込む。 続けてつゆを一口飲んで、彼は頷き嬉しそうな顔で呻いた。 ﹁喜べ、六科よ﹂ ﹁うむ﹂ ﹁普通に不味いぞ!﹂ 86 お房の振るったアダマンハリセンが轟音を立てて九郎を物理的に ぶっ飛ばしたのだった。 87 5話﹃玉菊﹄ 春らしからぬ寒さに合わせたような、小粒のあられすら交じる雨 の日であった。 神楽坂にある大きな一軒家に薄暗い室内を照らすための明かりが つけられていた。行灯には当時は高価な蝋燭が惜しげも無く使用さ れている。家の主は化け猫を呼ぶために鰯の油を使いたいのだが、 煙と臭いが仕事道具である紙に移るのはどうしようもない為に断念 しているという。 鳥山石燕の自宅である。 部屋の壁には妖怪画として描いた絵が幾つも貼られて部屋の中を 見張っている。仕事道具以外にも書籍や茶器なども整頓して置かれ ていた。隅の灯火の側には、小さな水槽が置かれていて海星が眠っ たように鎮座していた。飼っているものらしく﹃唐枇杷﹄と達筆な 名札が水槽に掲げられていた。 そこに招かれた客と石燕が対面して居る。 ﹁ほう⋮⋮﹂ 意識したと言うよりも本当に開けた口から漏れたような吐息だ。 男は小瓶から一滴、小皿に移した暗い暗い群青色の水銀のような 薬の雫を見てその音を立てた。 顔中に白粉を塗った肌色に、細い眉をした狐目の奇妙な男だ。旅 装束と着物の折衷案のような衣服を着ていて座っている隣にはいく つも引き出しの付いた薬箪笥の背負子を置いている。そして何より、 顔の片方を祭り神楽にでも使いそうな狐の面で隠しているのである。 異形とも見えるが面の販売を行なっている香具師のようにも見え る。 88 正面に座っている喪服の女、鳥山石燕は悪どい笑みを浮かべなが ら言う。 ﹁どうだね、珍しいものだろう﹂ ﹁成程、成程。こりゃあ確かにあたしでも﹂ 言葉を切って、半月形に口を笑みの形にした。犬歯が端から尖っ て見える。 ﹁見たことが無いものですよ﹂ 整った顔つきだが声と仕草がどうやっても胡散臭く見える男は囁 くような声音で告げる。 狐目の男は薬師である。 かつて大陸に渡り清で本草学や漢方について深く学び、日本に戻 ってからも国中の薬草を探し集め、その効能を全て知っていると噂 あべ・しょうおう され将軍からも覚えのある程の人物であった。 名を安倍将翁と云う。 見た目こそ青年のようだが年齢は知れぬ。百年以上も前の事を見 てきたかのように話す彼を、 ﹁あやかしの類﹂ と呼ぶものもいるという。 今日は珍しい薬を手に入れたという知人の鳥山石燕を訪ねてきた のであった。 彼女が九郎から譲り受けた薬は、天然自然の材料で作る薬ではな く、異世界の魔力を秘めた液体は神農本草経における仙薬のような 物であると将翁は考える。 傷が瞬時に癒える効果の程は石燕から聞いたが、それも信じられ 89 るほどに異質な液体である。 ﹁名をなんと言いましたか、この薬﹂ ﹁さて、本人も忘れたらしいね。なんとか云う生き物の髄液とだけ 呼ばれていたようだよ﹂ ﹁それは、それは﹂ このような液体を骨の髄に流す生き物がいるのならば見てみたい ものだ、と彼は薄く目を瞑って呟いた。 ﹁これ自体は見たことはないが、似たようなものは何処かで見たこ とがあるような⋮⋮﹂ 将翁は思い出すように指先で頭を軽く小突いた。 ﹁⋮⋮ああ昔に大陸で見た、[はおま草]を絞った汁に少し似てい る⋮⋮ような。どちらにせよこいつは珍しい﹂ ﹁そうだろうとも。良い買い物をしてしまったね﹂ ﹁お幾らで購入したんですかい﹂ 石燕が素直に一両と当面の援助だと告げると将翁はため息を吐い た。 目を開き、周囲を見回して棚に飾られている小さな茶碗を指さし て告げた。 ﹁あたしだったらあの一口と交換でもお断りしますがね﹂ ﹁⋮⋮あの長次郎の茶碗より価値があるのかね?﹂ ﹁恐らくは二度と作れない、使い切りの霊薬ですからねえ⋮⋮幾ら でも金を出す者は居りますよ﹂ 90 少しばかり暴利を振りすぎたのでは、と非難するような目で見て くる将翁に石燕は﹁ふふふ﹂と誤魔化すように笑って視線を背ける のであった。 そもそもこの時代、庶民などは滋養のある食事と休息で病を治す 為に、必然と薬は金持ちに需要がある高級品なのである。このよう な妖しげな魔力と絶大な効果を持たない、武家用の薬でも一両以上 値段がはるものはざらにある。 九郎が貨幣価値と経済についてはまだ良くわからないから交渉も 少なく破格で譲ってもらったのである。 それに石燕の亡き夫は高利貸しをしていて金子もそうだが価値の ある骨董も所蔵している。 彼女が嫁入りした時に既に七十を越える老人であった亡夫は、悪 どい金貸しとして知られていて、借金のかたに下帯すら売り飛ばす と云うほどであった。 溜め込んだ財産も相当で美術品も多く買い漁っていたのである。 もっとも、石燕と祝言をあげて一月もしないうちに急死したのであ ったが⋮⋮ 莫大な遺産を残された若い後家の石燕を、遺産目当てに手をかけ た鬼女だの魔女だのと噂が流れたが、借金の証文を全て焼き捨てて 奉行所や同心御廻りに多額の賄賂を渡すことで悪言はそのうちに立 ち消えたのだった。 いつまでも喪服を着て髪も結わぬ妖怪絵師を変人奇抜だと云う声 はその通りなので本人も気にしていない。 ともあれ、長次郎作の茶碗⋮⋮石燕の記憶によると三百両ばかり の価値があるそれよりも貴重な薬を、一両そこそこで買ってしまっ たことには若干の罪悪感のようなものを感じ始めるのであった。 ﹁⋮⋮今度嘉納屋の酒を持って行ってあげようかね﹂ ﹁ほう、あの材木商の﹂ 91 ﹁知っているのかね?﹂ ﹁この前に大阪に行った時に少しばかり縁ができましてね。なんで も酒に使う水を汲んで灘と行き来する舟が度々船幽霊に襲われると 来たもので﹂ ﹁││詳しく聞かせてもらおうか﹂ 感興をそそられたような笑みを浮かべて石燕は将翁の話を聞き入 った。 なにせこの安倍将翁、幕府に知られる高名な本草学家であるとい うのに、年がら年中旅をして土地土地の薬草や民間医薬を調べて回 っているというフィールドワーク型の学者にして薬師なのだ。 固有の怪奇伝承の残る土地にも赴く為に妖怪話には事欠かない。 石燕はそれを聞くことを楽しみにしているのであった。近場であ れば旅をしてでも怪奇探しに出るのだが、江戸に住を構える以上そ うそう遠くへはいけない。 二刻︵四時間︶程も長々と、各地であった奇怪な出来事や田舎に 残る山姥や天狗などの伝承を語りまた石燕も考察を口にしたりなど して過ごした後に、将翁は雨の降る中、石燕宅を辞去することにし た。 江戸に住む他の知人らに顔を合わせに行くらしい。特殊な薬草畑 の管理を頼んでいる者や薬問屋、大名・旗本などとも様々に縁のあ る男である。 石燕も特に引き止めなかったが、蛇の目傘を手に取り高下駄を履 いた将翁に尋ねた。 ﹁例の薬を持っていた九郎君の事は聞かなくていいのかね?﹂ 貴重な、彼のような本草学を学ぶ人間にとっては喉から手が出る ほど欲しがりそうな薬を持っている九郎に会わなくてもいいのか、 という問いかけだ。 92 彼は肩越しに石燕を見ながら、薄く口を開けて告げた。 ﹁縁があればそのうち出会うでしょうぜ。しばらくは江戸に留まり ますので﹂ ﹁そうかね﹂ ﹁では││石燕殿も息災で﹂ 狐面を顔全体を隠すように被りながら言った。 将翁は雨で灰色に烟る江戸の通りを高下駄の音を立てながら歩み 去っていく。 彼が去ったのを確認してか、奥の座敷とつながる障子がさっと開 いてほっとした顔をした若い女が出てきた。 ﹁はあ、やっとお帰りになったぁ﹂ ﹁おやおや、客が来ているというのに茶の一杯も出さない不肖の弟 子じゃないか﹂ ﹁うっ⋮⋮﹂ 言葉を詰まらせる。 女は鳥山石燕から絵の稽古を受けながら、彼女の家に泊まりこみ で下女のようなことをしている。 名を百川子興という。元は武家の娘だが家が取り潰しになりあち こちの伝手をたらい回しになった挙句、絵付け師を目指して石燕に 弟子入りしたのであった。今年で十七になるが近所では地獄先生の 手下だと思われていて碌に嫁の行き先が無い。 がっくりと項垂れて子興は呻く。 ﹁だって師匠、小生はあの御人苦手なんですよ。顔は綺麗なんだけ どなんか怖いから﹂ ﹁確かに胡散臭いまじない師のようではあるね﹂ 93 ﹁というかあの人何歳? 聞いた噂によると少なくとも五十は越え てるはずなのに﹂ ﹁私の聞いた話だと百は越えてるらしいね﹂ ﹁⋮⋮﹂ 気味が悪そうに子興は雨の中に消えていった安倍将翁を目で探し たが、既に見えなくなっている。 妖怪に詳しい師匠に尋ねた。 ﹁師匠⋮⋮あの人こそ妖怪なのでは? 狐の化身とか﹂ ﹁はっはっは莫迦だなあ子興君は﹂ 心底見くびったような目で呆けている弟子を見やり、高らかに宣 言する。 ﹁この世には、不思議なことなど何もないのだよ子興君﹂ ﹁⋮⋮師匠がそれ言っちゃう?﹂ 石燕の目に冗談のごとき光が灯っているのはわかるが、あんまり な断言に愕然とする子興であった。 彼女の云うには安倍将翁と云う名を恐らく二代以上受け継がれて いるので見た目こそ若いのだが不思議な程年を重ねた安倍将翁が居 るのであって、代替わりした事実を他に告げなかったりすれば後は 化粧と異形の面で誤魔化せるのだという。 94 禄を食んでいる武士ではないし、旅烏で財産も無いので代替わり しようと誰も気にしないし問題はない。 石燕の推察であって、それが本当かどうかは知れぬが⋮⋮。 ただ、この後に客に茶を出さなかった罰として雨の中外に出され て風呂を沸かさせられる百川子興だった。弟子と言うよりも、今は 只の雑用のようである。 ﹁師匠、滅茶寒い! 痛ぁぁぁ! 雹が降ってるって!﹂ ﹁いいからもっと沸かすのだ。風呂がぬるいよ﹂ 夏は、まだ遠い。湯に胸を浮かせながら寒気の入る窓を見つめて 石燕は思った。 **** 二、三日降り続いた雨が止んだその日に九郎は伸びをしながら緑 のむじな亭から外へと出た。後ろにはお房も付いてきている。 雨となれば客足も鈍るかと思えば、雨宿り代わり、或いは冷雨だ ったために熱い蕎麦と酒で暖を取りにと平常よりも僅かに人入りの あったのである。六科が大家を務める長屋の店子達も、出かけられ ないとあればやむを得ず表店に食いに来た。お雪も按摩の仕事が雨 で無いというので、六科の隣に寄り添い蕎麦打ちなどを手伝ったの であった。 ところが雨が上がり今では、以前の蕎麦打ちの練習に使った分も あり緑のむじな亭は食料の在庫が殆ど無かった。 故或り九郎とお房が買い物へと出かけることにしたのだ。 95 ﹁大きな荷物は問屋さんに頼んでここに運んでもらうからいいとし て、荷物持ちちゃんとするの﹂ ﹁おう、わかっておる﹂ と彼は細く白い腕に力こぶを作って快活な笑顔を見せた。 父親の硬い二の腕に比べて全く頼りのない肉付きだが、一応は信 頼しておくことにするお房である。何せ九郎、体こそ小さいものの 力は魔女の呪符によって体の全盛期と同じだけ発揮できるのであっ た。その筋力は江戸の町民の中で体格の良い部類に入る六科よりも 強いほどである。 ともあれ最初は、 ﹁お雪さんに聞いた両替商のところで一両を崩して貰うの﹂ と住所を聞いた店に向かって歩きはじめた。 現在九郎の持つ全財産が一両であるが、細々とした買い物に使う にはあまりに大きな額である。 これを崩すのが当時江戸には多く居た両替商である。江戸や大阪 で使われていた通貨は金貨五種類、銀貨五種類と銭をあわせて十一 種類あったのだ。町民達が主に使うのは銭である為にそれに換金し なければならない。 悪どい両替商も多く居たのだろうが、お雪に紹介されたのは座頭 が営む金貸しと両替商を兼ねた処である。当時、幕府は目の見えぬ ものの仕事として金貸しを許可していたのであり、お上に許されて いるからこそ評判を気にしている為に町の金貸しなどより、 ﹁余程信用ができる﹂ とのことであった。 前を行くお房に付いて行きながら気分良さそうに九郎は云う。 96 ﹁いやあ楽しみであるな。雨の間、何を買うか熟慮しておったから なあ﹂ ﹁うん、店の手伝いでもすればよかったのにね﹂ ﹁はっはっは。手伝うほど繁盛はしておらぬではないか﹂ 笑いながら言い、お房に小突かれるが好天でいい気になっている らしく特に気にした様子はない。 アダマンハリセンで殴られなければ九つの少女の攻撃など意にも 介さないのだ。例のハリセンは使い方次第で少女でも大人を吹き飛 ばす威力を持つ魔法道具なので扱い慣れていないお房には使ってほ しくないのだったが、ついに彼女に取られてしまった。さすがに出 かけるのには持ってこないようだが⋮⋮ むじな亭から六町程歩いた先にある両替屋﹃百鳴や﹄と云う店に 二人は入っていった。 店作りはこじんまりとしているが世話役の下人が二人ほど帳簿を 調べていて、居候か用心棒らしき侍が金の方に預けられた差料を手 入れしている。 番台に座った禿頭の座頭が声をかけてきた。 ﹁どうぞいらっしゃい﹂ ﹁お主が藤川仁介殿であるか? 両替に参ったのだが⋮⋮﹂ ﹁あ、あの、あたい達按摩のお雪さんに紹介されて﹂ と声をかけると上向きだった座頭⋮⋮藤川仁介の顔がしっかりと 小柄な九郎とお房を見据えた。 ﹁おや、小さなお客さんとは珍しい。ああ、貴女がお雪さんの言っ てたお房ちゃんかい?﹂ ﹁うん﹂ 97 ﹁まあ上がって置いき。お茶とお菓子でもだそう。そちらの御老君 もどうぞどうぞ﹂ ﹁御老君⋮⋮﹂ 老人扱いを受けている九郎に信じられぬものを見る目を向けるお 房である。 下男の一人がそっと仁介に九郎の容姿を囁き伝えるのが見えたが、 ﹁莫迦を云うな。儂がこれまで一度足りとも、客を間違ったことが あるものか﹂ ﹁しかし⋮⋮﹂ ﹁いいから下がって茶を持って来い!﹂ と口答えする下男を厳しく叱責するのであった。 確かにこれまで、店にやってくる客は老人だろうが青年だろうが 町人、侍、無宿人と誰が来ようが見えない目に頼らずに把握してき た仁介だけあって、何故か小僧の事を勘違いしているのは不思議で あった。下男は狐に抓まれたような顔で奥へと引っ込んでいく。 仁介は怒鳴ったことを誤魔化すように笑みを作って座敷へ招いた。 ﹁あいやすみません。至らぬ言葉を﹂ ﹁よい、よい。己れも歳相応に見られる事は少なくてな﹂ どこか皮肉げに九郎は応える。 出された茶と小ぶりの饅頭を九郎が早速手をつけているのを見て、 おずおずとお房も取った。 塩っぱい桜の葉の塩漬けでお萩を巻いたそれは驚く程甘いのに塩 漬けの葉と渋茶にとても合い、お房は口元を汚すようにぺろりと食 べてしまった。苦笑しながら九郎が手紙でお房の口を拭う。 98 ﹁お雪さんの紹介とあっちゃあおまけしないわけには行きますまい。 おい、饅頭を客人に包んでくれ﹂ ﹁へい﹂ とあまりに美味そうにお房が食べるものだから仁介は土産を用意 させている。目には見えなくとも、仕草で分かるのだ。 九郎がとまれと話を切り出す。 ﹁仁介殿、これを崩して欲しいのだ﹂ と懐から出した一両小判を畳の上に置いて、寄せた。 仁介はそれを両手で受け取る。手触りと重さで間違いない事を確 認する。江戸の小判の質と重さは改革が行われる度に変動している が、もちろん座頭で金貸しをしている仁介は全て手の感覚で記憶し ていた。 実際に両替商の必需品である秤がこの店にはない。 ﹁はい、確かに。どのようにしましょうか﹂ ﹁む⋮⋮そうだな、己れは最近江戸に来たばかりでいまいち知らぬ のだが、店の買い出しにこれから向かおうと思うので良い風にして おくれ﹂ そう告げると幾らか仁介は考えた後、銭一貫文と一朱金、二朱金 に分けて渡すのはどうかと告げた。 一両を銭換算にしたときのレートを確認して慣れぬ四倍数の銭計 算を九郎が筆算して確認し、それで話は纏まったのであった。 **** 99 ずしりとする貫文銭を腰帯の内側に結びつけた九郎とお房は商店 の並ぶ通りへ向い歩いていた。 九郎が思うに、 ﹁驚くほど運びにくいなこの時代の金は⋮⋮﹂ と愚痴を零してしまう。 何処に持つかと試行錯誤した挙句、腰に回すようにした銭である がこれがまた重いのである。 百文銭を一纏めにしたもの︵実際は両替賃で減らされて九六文に なるのが慣例であった︶が十並んで付いている一貫文そのまま運ぶ ものなど普通は居ないが、実際にやってしまっている九郎からすれ ば邪魔この上ない。何せ重さが銭千枚で3.7キロ程もあるのだ。 そんな重いものは財布に入れられない。 ︵さっさと使ってしまわなくては︶ と思うのであった。 ﹁ところで何を買うつもりなの?﹂ ﹁普通に使う蕎麦粉や小麦粉、醤油などはともかくだな、店で出せ る酒のあてを増やそうと思うてな﹂ ﹁言ってはなんだけれど、お父さんに多くの料理を覚えさせようと するのは⋮⋮﹂ ﹁そんな無理はさせん。せいぜいが火で炙ったり、盛りつけるだけ でそれなりに食える物を揃えれば良かろう﹂ 九郎の手元の紙には、売っているかどうかは知らないがとりあえ ずメニュー候補の文字が並んでいた。焼き味噌、焼き海苔、佃煮、 100 板わさ⋮⋮自分がつまみにしたいものを並べただけとも言える。 酒も買い足さねばならない。どうせ店に置いていた酒も不味いの だ。さらに安い焼酎を買って適当に混ぜても気づかれまい。後は上 酒も買っておきたい。売れなくとも、自分が飲める。 晩酌を思っただけで気分が良くなってきた九郎だった。 その時、近くの通りから怒鳴り声が聞こえた。 九郎が騒動事かと、隣を歩いていたお房の肩に手を当て周囲を警 戒しつつ声の方向を向く。 ﹁どうしたの?﹂ ﹁む⋮⋮喧嘩か?﹂ 怒鳴り声に混じってか細い声も聞こえ、近くを歩いていた町人達 が足を止めて遠巻きにそれを見る。 九郎はお房に﹁ちょっと待っておれ﹂と指示して近寄っていった。 すると小路に数人が揉め事を起こしているようであった。 ﹁てめえ、おとなしくしやがれ!﹂ ﹁早く連れて行くぞ!﹂ だの脇差を差した侍が二人がかりで細身の遊女風の着物を来た少 女を襲っているのだった。 少女は﹁きゃあ﹂だの悲鳴をあげようとしているが侍から口元を 手で抑えられて叫べぬ様子だ。 そして遠巻きに見ている町人をけん制するように仲間らしい大柄 の侍が腕を組んで邪魔されないように見張っていた。 白昼からの狼藉者だったが、町人は大柄な侍に気圧されて何とも 言えなかった。足早に同心や岡っ引きを呼びに行く人も居たが、来 るまでにどれほど時間がかかるかわからぬ。 九郎が舌打ちにして群衆から前に出て近寄った。大柄な見張りの 101 侍が阻むように侮った笑みを浮かべて刀に手をかけて威嚇するが、 ﹁よさぬかっ!﹂ 凄まじい気迫が九郎から発せられた。元服にも至らぬ小僧から出 される声ではない。 大柄の侍が怯んだと思ったら九郎は速やかに当て身をその腹に入 れた。 ﹁ぐむう⋮⋮﹂ と細腕から繰り出されるとは到底思えぬ打撃により油断していた 侍は倒れ伏したのであった。 侍を通り越して少女に狼藉を働く侍に近寄る。片方が近寄る小僧 に向けて、 ﹁おのれ!﹂ と刀を抜こうとしたが目にも留まらぬ手付きで投げ放たれた貫文 銭に、顔面をしたたかに打ち付けられて鼻血を流しながら顔を抑え て少女から離れた。 相方がやられたのを見て呆気に取られたもう片方の侍はその隙に 一瞬で近寄った九郎に両手を捕まれ、 ﹁それっ﹂ とばかりに投げ飛ばされて近くの壁に背中を叩きつけられた。 鮮やかなまでの九郎の襲撃に見ていた町人らから感嘆の声が上が った。 中には小僧にあっさりとやられた三人の侍を罵る声も少なくない。 102 九郎は気にせずに乱暴を受けていた遊女風の少女を見やった。年 の頃は十代の半ばより若いだろうか、幼さの残る顔に化粧を整えて いるあたり、やはりそのような商売に付いていることがわかる。 顔立ちは可愛らしいと素直に九郎が思うほどである。怯えたよう な表情から驚いたような何があったかわからぬと言った様子で九郎 を見ていた。 ﹁ほら、大丈夫か。何があったかわからぬが、大変な目にあったな﹂ ﹁う、う、ありがとうござんす、わっち、あのままではどうなって いたか⋮⋮﹂ ﹁よし、よし。泣くでない。化粧が落ちるぞ﹂ とあやす九郎であった。 その時、町人らからの叫びを聞くまでもなく九郎にも先ほど銭を 投げて倒した男と、投げ飛ばした男がよろよろと立ち上がるのが見 えた。最初に九郎に当て身を食らった男は泡を吹いたまま起き上が る気配はないが。 敵意を灯した目で九郎を睨みつけ、九郎は手元にいる少女を男た ちとは反対側、町人らのところへ押して離した。 ﹁この小僧め!﹂ ﹁許さぬぞ!﹂ ﹁なんとまあ、小僧にやられただけで醜聞だというのに更に恥の上 塗りをするか﹂ ﹁黙れ!﹂ 刀を抜いて乱雑に構え、血走った目で見るが九郎は落ち着き払っ ていた。 そんなことより投げた銭を回収せねばと思う程だ。すたすたと軽 い足取りで刀を構えた男へ近寄る。 103 躊躇ったような叫びと共に振られた刀を避けてすり抜け、しゃが んで銭を回収する。幸い紐は解けておらず、銭は零れていなかった。 あっさりと太刀筋を掻い潜られた侍に見物客から笑い声が浴びせ られ、顔を真赤にして怒鳴りだした。 ﹁勘弁ならん!﹂ これは完全に気絶させるなりせねばならないかと九郎が覚悟した あたりで大声が聞こえた。 ﹁その方ら、何をしているかっ!﹂ 怒りが篭った叫びである。 町人らも道を開けると同心の服を着た武士が十手を片手に大股で 歩み寄ってくる。 血迷ったか、怒り狂った侍は鼻血を流しながら奇声を発して同心 に斬りかかる。 一瞬であった。 同心の持っていた十手が侍の刀を横から殴りつけ文字通りに打ち 砕き、米噛みに鋼鉄の一撃を与えて沈黙させた。 容赦の無い攻撃だ。殴られた侍は眼球をひっくり返してびくりと もしなかった。 十手をもう一人の侍に向けて怒りやまぬ声で云う。 ﹁女子供に狼藉を加えた挙句奉行付に刃を向けるとは何たることか っ! 神妙にお縄を頂戴しろ!﹂ 怯えた侍は刀を落としてしまう。 この同心、江戸でも有名な一刀流の道場で目録を与えられるほど の腕前である。侍もどう抵抗しても、 104 ﹁敵わぬ﹂ とわかってしまった。 そう、この同心こそが江戸の少年少女を守る正義の同心﹃青田刈 り﹄の利悟であった。 ﹁特に拙者の大事な子供に刀を向けたあたり容赦ある沙汰が降りる と思うなよ芋侍共! 拙者証言の捏造が大得意だから散々盛ってや る!﹂ 子供の敵は絶対に許さない利悟であった。侍らは顔面蒼白になる。 そして彼は汗を拭うような仕草をして振り返ると、 ﹁やあ少年、奇遇だなあ。よければこれからそのお嬢さんを連れて 拙者と一緒に茶屋にでも⋮⋮﹂ と声をかけたのだが九郎はさっさと来た道を帰っていく。その腕 にしがみつくように少女も利悟の事など気にもせずに去っていくの であった。 ひそひそと町人らが利悟へ視線を向けて声を忍ばせる。﹁ほら、 あの稚児趣味の⋮⋮﹂﹁帰ろうぜ⋮⋮﹂などと聞こえた。 利悟は打ちひしがれたようになったが近くの岡っ引きが到着した と見るや、とりあえず指示を出した。この無頼漢共を捕らえなけれ ばならない。 ﹁よし、お前ら。縄を打て! この稚児趣味野郎共を番所へ連れて 行くぞ! ⋮⋮あれ? なんで拙者も縛るの? おい、やめろ! おい!﹂ 105 町人らから止める声は出なかった。 **** 騒動の現場から少女を連れ、お房と共に離れた九郎は船着場近く の階段に三人で座っていた。 九郎が銭紐を解いて近くの店から、甘酒を三人分買って振舞った。 それにしても、とお房が言った。 ﹁案外強いの九郎って。お侍三人に勝つなんて﹂ ﹁昔とった杵柄だ。あのような珍平崩れなど怖くもないわ﹂ 笑いながら応える。 もとが現代の日本人とはいえ時はまさに世紀末な異世界で過ごし た数十年の経験は余程に九郎の胆を太くしているらしい。 目の前で竜の爪が唸りを上げても冷静さを失わない心を持ってい ればこそ、刀を持っただけの侍など恐ろしくも無かったのである。 ﹁あのう、改めなすって、助けてくださいましてありがとうござん す﹂ と少女が言うので、九郎は手を振り云った。 ﹁よい、よい。子供を助くのは大人の務めぞ﹂ 106 ﹁九郎様は大層立派なお方でありんすね﹂ ﹁褒めるでない﹂ と照れたように云う九郎。 少女はしなを作ったように九郎に体を許して、白粉を塗った頬を 染めるほどに紅潮していた。もじもじといじらしく指を動かしてい るあたり、どうやら危機を助けてくれた九郎に岡惚れしたようであ る。襲われた時の緊張がそのまま助けてくれた九郎への好意に変わ ったのであった。 好意を向けられている九郎は小さな子供が懐いた、といった程度 にしか気にしていないのだったが⋮⋮。 それも彼の実年齢では老境も良いところなので十代前半の少年少 女など孫のようにしか思えぬのだ。 顔を赤くしている少女に九郎は訪ねる。 ﹁ところでお主の名は?﹂ 少女は微笑みなれたような可愛らしい顔をして応える。 ﹁わっちの名は玉菊でありんす。陰間をしているんでござんすが、 前にお客だったお侍さん達が無賃で﹃流血を伴う激しい行為﹄とや らを無理やりやろうとして⋮⋮﹂ ﹁ううむ、なんというか逮捕されてよかったなあやつら。遠島にで も流されれば良いのに﹂ ﹁なんか利悟さんもついでに流されてるような想像図が浮かんだの﹂ ﹁はっはっは。一件落着であるな﹂ 吉原の遊郭で保護されていない、フリーの夜鷹や湯女などの性風 俗に関わる女性に対して無頼を働く者は当時、実際に多かったよう である。 107 窮地を助けられた玉菊は九郎の裾をつまみながら体を寄せている。 そのまま何処かへ押し連れて行くような雰囲気であった。 気にしていないし気づかない九郎は﹁ところで、﹂と尋ねた。 ﹁陰間とはなんだ?﹂ ﹁ええと、豊姉ちゃん先生からわかりやすい表現を聞いた気が⋮⋮﹂ お房は少し考えて手を打って答えた。 ﹁そう、﹃男の娘﹄って云うらしいの!﹂ 九郎の表情が凍りついた。 ひっつく玉菊の股のあたりに、硬いスティック状の物が自己主張 していた。 背筋におぞましい寒気が奔る。 ﹁さあ九郎様、わっちとそこの船宿にでも行きませ! 夜の仕事時 間までたっぷり大丈夫でござんす! 人呼んで﹃玉枯らしのお菊﹄ と呼ばれたわっちの名妓を味わうでありんす! ああこの場合の菊 ってのは﹂ ﹁説明せんでええわ呆けっ!!﹂ 108 山田風太郎の小説に出てくるクノイチのような二つ名を聞いた九 郎は思いっきり近くの川に玉菊を投げ飛ばしたのであった。 連日の雨で冷えた川に流れていた黄色い菜の花が、水しぶきを浴 びて沈んでいった。 109 6話﹃道場商売﹄ 昼七ツ︵午後四時頃︶の少し早い時間だったが、買い物から帰っ て昼寝をしていた九郎は起きだして試食とばかりに酒の用意をし始 めた。 昼間に買ってきた緑のむじな亭の新メニューを試すのである。 眠気の残る顔を井戸水で洗いに行くとお雪が大根の葉を丁寧に水 でゆすいでいたので少しばかり分けてもらった。 これをさっと湯に通して刻み、醤油と絡めるだけで中々に乙なも のである。また、お雪は葉と大根をたっぷり入れた塩だけで味付け をした粥が好きだとか世間話も少々した。これはお雪が長屋に越し てきた時に、まだ満足に米も炊けなかった頃の六科の得意料理だっ たのだと懐かしそうに語るのであった。 雨上がりの好天が夕方になるに連れて冷えて来たので折角だから 燗にして酒を飲もうと銚子を三本程湯で温める。 まずは焼き味噌を作る。細かく刻んだ葱と味醂で解いた味噌を混 ぜ合わせて杓文字に塗り、さっと火で炙る。 味噌の甘味と葱の辛味が合わさり、胡麻などを足しても香りがつ いてこれがまた辛口の酒に、 ﹁合う﹂ のであった。 口の中に唾を溜めながらもう二三品手早くつくり上げる。 ふつふつと湧いた湯で茹でた蒲鉾を醤油に漬けて五分ほどで上げ ると、蒲鉾全体が茶色く染まって出てくる。さぞ醤油を吸って辛く なっているように見えるがこれが不思議とまろやかな味わいになっ ているのである。 110 焦げ目をつけた豆腐の上に先物の茗荷を載せて蒲鉾に使った醤油 を垂らす。酒の肴として食っても美味いが、これを崩して飯の上に 載せてもいくらでも食えそうであった。 鼻歌まじりに酒とつまみを器用に全部盆に乗せて運んでいると声 がかけられた。 ﹁やあ店員さんこっちこっち﹂ 誰も入っていなかった筈の店の席に、喪服の女が座って手を降っ ていた。 既に酒をやっている顔つきをした鳥山石燕だ。 おめでたい気分が台無しである。九郎の心を覆っていた紅白幕が 鯨幕へと早変わりした。 ﹁お主、このような店で飲み食いはしないのではなかったか。不味 いから﹂ ﹁そうだね。酒は下酒しか置いていないし蕎麦は不味い、店主は無 愛想と来たものだからね。つまり、酒は持参で勝手にやってるのさ﹂ と九郎の好物である﹃嘉納屋﹄の酒を入れた大徳利を卓の上に乗 せながら笑いかけた。 思わず喉を鳴らした九郎は気恥ずかしくなって仕方なく石燕の前 に座り、つまみを置いた。 手酌しようと猪口を持ち上げたら横から、 ﹁さぁ、ぬし様もよう飲まんせ﹂ と言葉がかかり小さな手で銚子を傾けて九郎の猪口へ注ぐ。 とりあえずぐい、と口に酒を含んで振り向くと、昼に川に投げ飛 111 ばし別れた筈の色香漂う少女風の陰間、玉菊が酌をしていた。 吹き出した。 ﹁げほ⋮⋮!﹂ ﹁大丈夫でござんすか、喉につっかえたならわっちが口吸いで⋮⋮ ! よっしゃ!﹂ ﹁今よっしゃつったか!? っていうかなんでお主が居るのだ玉菊 !﹂ ﹁ぬし様の体に残るわっちの匂いを辿りんす﹂ ﹁色々嫌な発言すぎる!﹂ もじもじとしながらエロ視線を向けつつそんなことを云う玉菊に 心底嫌そうな顔をする九郎であった。 玉菊という少女と見紛うばかりの容姿をした陰間を九郎が助けた 経緯は前に述べた通りだったが、猥褻にいたろうと迫る玉菊を九郎 は川に投げ落としたのである。 ところが玉菊は水練等はからっきしであり、また着物が水を吸っ て危うく溺れそうになったので仕方なく九郎が自分で投げ込んだと いうのにわざわざ助け上げたのだ。いくらホモとは云え子供を溺死 させるのは本心でない。 とりあえず服を濡らして寒さに震える玉菊を近くの湯屋に放り込 んで、番頭にこころづけを僅かに渡し世話を頼んだ後に放置し立ち 去り、本来の目的である買い物へ向かったのだったが⋮⋮ くるわことば 服を乾かし別れた九郎を探しだしたのは恐るべき嗅覚か、勘働き だ。 ちなみに玉菊が喋るのは似非廓詞である。吉原の遊女でもない陰 間なので聞きかじったそれを適当に使っているのであった。 にやにやと笑みを浮べている石燕が尋ねた。 ﹁その少年は一体誰なのかね九郎君﹂ 112 ﹁あ、ああ。今日会ったばかりの知り合い未満なのだが⋮⋮む? 少年?﹂ 九郎は顔を近づけてくる玉菊を嫌そうに押しのけながら疑問の声 を出す。 ﹁よく見た目で玉菊が少年と分かるな、石燕。確かに女装した陰間 だが、見た目は少女のようではあるというのに﹂ ﹁ふふふ何を言っているのかね九郎君。いかに線が細かろうが髪が 長かろうが、男と女は異なる生物と言っても良いのだよ? 具体的 には骨格から違う。衣服で腰回りは隠しても、しゃれこうべの形で 分かるとも﹂ ﹁そういうものか﹂ ﹁これでも腐乱死体から白骨死体までわざわざ見物に出向きその場 で描き写したことが何度もあるのでね。違いも分かるさ﹂ 得意げに石燕は告げる。人の集まる中、墨絵で死体を模写する女 の姿は他の人には大層不気味に映っただろうがそれを気にする石燕 ではなかったのである。ちなみに、このような死体を描いた気持ち の悪い浮世絵も江戸では販売されていたようである。怖いもの見た さという感情は今も昔も変わらぬようだ。 石燕は友好的に玉菊に開いた手を伸ばす。当時の日本では現代で 言う握手の習慣は無かったが、女郎や陰間などは手を握り挨拶をす ることはあったのだ。 ﹁やあ、初めましてだね玉菊君。私は鳥山石燕⋮⋮地獄の底からや ってきた超絵師さ﹂ ﹁はじめましおざんす﹂ 言いながら玉菊は手を石燕に近づけ、彼女の広げた手をすり抜け、 113 当然のように喪服の上から石燕の胸をわしりと掴んだ。 ﹁!?﹂ ぱい ﹁こ、これは豊満で揉み心地も素晴らしいでありんす! 思わず礼 拝の言葉を叫んでしまいます! おお拝なり! おお拝なり! いやいきなりで失礼だけれどもこれは疾しい行為ではなく胸のし、 しこ、しこりを探る医療行為に特化したわっちの診察方法⋮⋮おっ 拝! おっ拝!﹂ 興奮して叫びだした玉菊の顔面を石燕はそのまま手で鷲掴みにし た。 メスショタ ﹁うわあああ! 手の目が、手の目がこちらを覗いてありんすゥ! !﹂ ﹁いきなり何をするのかねこの雌娼太は﹂ 石燕の手のひらに書かれた呪術的眼球図を目前にして錯乱状態に なった玉菊を、奥から飛んできたお房がアダマンハリセンでぶちの めした。 ﹁こんの、尾籠小僧がぁー!﹂ ﹁ありんすー!?﹂ アダマンハリセンの特徴は使用者の感情を感知してその衝撃威力 を増す魔法がかけられている。ツッコミの意思を込めれば音は大き くされど痛みは少ないのだが、怒りに任し振るえば大人を吹き飛ば す力を発揮するのである。 地面に叩きつけられた玉菊を見下ろして、呆れたような或いは困 惑したような声音で九郎は云う。 114 ﹁何をしておるのだ、お主は。見境無しか﹂ ﹁わ、わっちはそんなつもりじゃござんせん! ただ男でも女でい つでもどこでも助平色好みな事がしたいだけであって尻軽だと思わ んでくりゃれぬし様!﹂ ﹁言ってる事があやふやしてるの、この淫乱め!﹂ ﹁あふぅん﹂ アダマンハリセンで額を強く小突くと妙に色っぽい声を出して地 面に沈む玉菊である。 九郎は気絶した玉菊を表まで引っ張っていき、たまたま通った石 燕馴染みの駕篭持ちにこころづけを渡して玉菊を遠くに捨ててくる ように頼んだのであった。 安心したように九郎は息をついた。 ﹁ふう⋮⋮なんかあやつを相手にしていると世界観が狂いそうな気 すらしてくるなあ﹂ ﹁全く困ったものだね﹂ ﹁お主もそのはしりだからな﹂ 九郎は半眼で呻いた。 ともあれ騒がしいのが居なくなったので、せめて客寄せになれと お房からの指示もあって表に近い席に二人は座り酒をやった。 醤油漬けにした蒲鉾は気泡のごとき小さな隙間に染み込んだ醤油 が馴染んでおり、それを切り分けてころりと噛みちぎり酒を呑む。 たんに切った蒲鉾を醤油に絡ませて食うよりも深い味になっており、 摩り下ろした生姜を乗せてもまたこれがぴりりと舌に効いて酒が進 む。 美女と小僧が美味そうに開け放たれた店の中で酒と肴を楽しんで いるのを見て、ちらほらと客も目をやり、入ってくる者も居た。 不味い店と云う評判はそう消えはしないが、そもそも知名度自体 115 が無かった為にその点は楽観視しても良いだろうと九郎は考え、石 燕と酒を楽しんだ。 酒の締めとして食べられる蕎麦も、まあ不味いのだが食えぬ程で はない味に向上している為に特に文句も聞こえない。何より、材料 の一つとして予め大辛︵現代で云う一味唐辛子︶を入れて辛さで味 を誤魔化すという方法を九郎が取らせたのだ。 この時代に唐辛子が売っているかどうかと九郎は昼間期待少なめ に探したのだが、あっさり見つかった上に移動販売をしている唐辛 子売りの姿に指を差して笑ってしまった。何せ、二尺はある大きな 鷹の爪型の張り子を持って売り歩いていたのだ。見紛うはずもない。 この唐辛子の路上売スタイルは大道芸も兼ねており、 ﹁ひりりと辛いは山椒の粉ァ∼すいすい辛いは胡椒の粉ァ⋮⋮﹂ などと歌いながらその場で客の注文通りに調合して売っていたと いう。時代は下るが、絵が売れていなかった頃の葛飾北斎もこの商 売をしていた。 夜も更けると先ほど玉菊を不法投棄しに行かせた駕篭持ちが時間 を見計らったようにやってきたので石燕はそれに乗って帰って云っ た。 日常的に利用するには駕籠は金が余程かかるのだが、遺産がうな るほど残っている石燕からすれば一人では使っても使い切れぬ程な のであった。駕籠かきも上客として色々融通を利かせるのである。 客も帰っていった店内をお房が片付けるのを九郎は酒を舐めなが ら見ていたらアダマンハリセンでぺしぺしと邪魔そうに叩かれたの で、勝手に自室にしている二階へと上がって云った。 ︵色々あって疲れた⋮⋮︶ 116 と思い寝床を用意し始める。 布団というかただの布であるが││親子二人暮らしの家に居候し たのだから当然彼の寝具など無かった││それをかけてごろりと横 になる。 異世界に居た頃とは随分環境が違うが、もう慣れていた。九郎と 云う男は何処に行ってもすぐに馴染んで暮らし始めるのだ。 ︵日本からあっちの世界に行った時はどうだったか⋮⋮︶ 数十年前のことだが、異世界では迷いこんですぐに傭兵団に拾わ れてそのままその集団で暮らしていた。やはりすぐに適応したよう な記憶がある。 ︵しかし最近││ここに来てからはやけに昔の夢を見る︶ それも時には、彼の知らないような視点で夢が展開されることさ えあった。 ︵⋮⋮確か、魔王が云うには魂と魔力の契約を結んだならば無意識 の共感が起こるとか⋮⋮そんなことを言っていたな︶ 特殊な契約をした為に魔王と一部の意識が繋がっているのではな いかと推測できる。 ︵能力者同士は引かれ合うとか、一万年と二千年前とか円環の理と か⋮⋮まあ、あやつは適当吹かすのが得意だったがらどこまでが本 当やら︶ 魔王が嘘混じりの薀蓄をしたり顔で語る姿が浮かんで苦い顔にな った。 その法則を利用して別世界である地球の日本に九郎を転送する座 標を設定したのだったが、結果を見ると大いに年代がずれている。 117 失敗しているのか、或いはこの世界に何か自分が関わり合いのある ものが存在したのか⋮⋮ ︵わからぬが⋮⋮どうでもよいか︶ 床につく事にした。考えても詮なきことである。 魔女か魔王の含み笑いのような風の音が聞こえた気がした。 **** 薄曇りだが出歩くには調度良い暖かさの、とある日のことであっ た。 特に目的もなく九郎が江戸の町を散歩している。お房も連れずに 一人なので足取りは早い。なにせ九郎は体格こそ子供であるのだが 筋力が大人相応にあるために、軽い体重を支える足の力も相対的に 強いのだ。その気になれば八尺の高さを一息に飛び越えるほど跳躍 もできるし、半日ばかり小走りをしていても疲れることがない。 たまたま辿り着いた根津神社にお参りをし、屋台店の団子屋で茶 を一杯飲んだらまた足は自然と歩き出し江戸の町をかき分ける。 伝馬町などは長屋がみっしりと並びごみごみしているのであるが、 現代の町並みに比べて遥かに緑が多く少し遠くに向かっただけで大 藪や畑の広がる長閑な田舎にたどり着く。ここが東京とは、 ﹁とても思えぬ﹂ と九郎も思ってしまう程だった。 118 そんな町外れの河原で天日干ししている炭団屋︵炭の切れ端を集 めて泥で固めて再利用する商売である︶などを珍しげに見ながらそ ろそろ戻るか、と思っているとぽつんと建っている道場を見つけた。 この当時の江戸の町には剣術道場が多く、町に一つは必ずある程 だ。このような外れにもあるのだな、と九郎はなにとなしに近寄っ た。 あまり流行っていないようで稽古をしている声などは聞こえなか った。 窓から覗くと、体格の良い男が一人、木剣を無言で振るって鍛錬 をしている。 鬼気迫る様子といったわけでもなく平常の訓練をしているのであ ろうが、木剣が空気の唸りを上げた音を立てている。 男もかなり鍛えこんでいる様子で、服の上からでもがっしりとし た筋肉がわかるほどであった。 九郎は体格だけではなく息を乱さずに剣を振るう男の雰囲気を見 て、 ︵かなり、使える︶ 腕前だと判断した。 別に九郎は剣の達人といったものではないが、異世界で滅法剣の 強い戦士等は何人も見てきたのである。 入り口を見ると﹃六天流道場﹄と大層な名前の達筆な看板がかか っている。 そしてその隣に﹁当流派は古今妙技にて並ぶもの無き候。我が極 意に学ぶと思ふべし者是非に門を叩き御覧あれ。他流試合にて強さ を競わん者も歓迎致す。挑戦金二分、勝てば一両進呈﹂などと書か れていて妙なことをしているものだと九郎は顎に手を当ててしげし げと張り紙を見た。 この時代、剣術道場は乱立していたのだが門人の少ないところも 119 多く、維持できるかはまさに道場主のやりくり次第だったのである。 うまく大名などに知られそこの門弟を通わせられれば安定もする のだが、そうでないところは伝手を利用して人入りを増やすなり、 他道場に出稽古に行き名を知られるなりしなければならない。 このように金を餌に道場破りを誘うやり方というのも、なにやら 可笑しなものを感じるが⋮⋮。 ︵並ぶもの無き妙技とは大きく出たものだ⋮⋮︶ 悪戯気が出た九郎は懐から一分金を二つ取り出して門を叩いた。 ﹁頼もう﹂ 中に入ってみると道場の間取りは思ったよりも広い。故に、男が 一人で稽古しているのが余計侘しく見えた。 木剣を振るっていた男は動きをやめて鋭い眼差しを入り口に向け る。 だが、入ってきたのが少年だと見るや、なにか虚を付かれたよう な顔になり目を丸くして腰に木剣を収めた。木剣自体にも腰に固定 するような金具が使われているようだ。 ﹁なんだ? 入門者か?﹂ 若い声だった。正面から見ても男は二十を幾らか越えた程度の年 ろくやま こうのすけ 齢だろうか。短く切り込んだ髪が申し訳程度に結ってある。 男、名を録山晃之介という浪人である。幼い頃から父と旅を続け ながら教えられた武芸を身につけ、一年前に江戸にたどり着き道場 を建てたのだが、父が急死した為に建てただけで門人の居ない道場 の主に若くしてなってしまったのである。 旅はしてきたものの世渡りや商売などは苦手な為に道場のやりく 120 りができず、苦肉の策として道場破りから金を巻き上げながら生活 しているのであったが⋮⋮ 九郎は不敵に笑いながら云う。 ﹁いや、道場破りの方だ﹂ ﹁お前が⋮⋮? やめておけ、怪我をするぞ﹂ ﹁安心せい。金ならある﹂ 金を道場の床に置いた。 別に一両が欲しいわけではないが面白そうな道場を見つけたので 暇つぶしに挑んでみようという気分になったのだ。つまりは九郎的 に、 ︵俄然、時代小説っぽいな⋮⋮︶ と思って楽しんでいるのである。 最近の小僧は金を持っているな、とここ数日大根の漬物と湯漬け の飯ばかり食っていた晃之介は思う。 道場破りに挑みに来るものは、まあそれなりにいるのだが浪人崩 れや無頼が多く九郎のような少年は初めてであった。 挑むのならば答えなければならない。 ﹁冷やかしではないのだな﹂ ﹁おう、だが木剣を用意してなくてな。貸してくれぬか﹂ と道場破りとはとても思えぬような事を云うのだから毒気を抜か れたような気分になる。 九郎はきょろきょろと道場を見回すと木剣が無造作に突っ込んで ある壺から引きぬいた。 人の居ない割にはなにやら色々道具が置かれていると思ったがす 121 ぐに気をそむけ、晃之介へと向き直る。彼は試合の定位置に既に移 動しており、剣をだらりと持ち九郎を待っていた。 まずはお互い正眼の構えで伸ばした剣先からさらに離れて一間︵ 約1.8メートル︶。やや遠い間合いで二人は向き合った。 ﹁六天流、録山晃之介。行くぞ!﹂ ﹁ジグエン流九郎だ。参る﹂ 九郎が木剣を頭の右上あたりに振り上げた構えを取った時だ。 一瞬の動作で晃之介が構えていた剣を腰に戻した。 ﹁?﹂ その動きの意図が掴めずに九郎は動けずに凝視する。 次の瞬間晃之介が背中に背負っていた半弓︵長弓の半分の長さの 弓のこと︶を構え、同時に放っていた。 ﹁どわぅおお!?﹂ 狙いは正確に九郎の体の中心を穿つ射線で、先端に厚く革を巻き 殺傷力を落とした矢が飛んできた。 その矢を躱せたのは、訓練用だから遅い矢だったことと九郎の体 重に似合わぬ脚力が床を蹴り、まさしく消えたように短い距離を動 けたからだろう。 九郎は剣の構えを乱しながら大声で訪ねた。 ﹁ま、待て!? 剣術道場ではないのか!?﹂ ﹁俺の流派六天流は剣術だけではなく、弓術、槍術、短刀術、棒術、 拳まで扱うんだ。紹介が遅れたな﹂ ﹁大体初撃で勝負がつかなかったか? 今まで﹂ 122 ﹁よくわかったな。そして大体お前と同じような事を聞いてくる﹂ ﹁だろうよ!﹂ 思わず片手を離してツッコミを入れてしまうが、晃之介は面白そ うに笑った。 剣術勝負かと思えば弓を撃ってくるなど予想外にも程がある。 これは罠だ。そう、奴は確実に日銭を稼ごうとする狩人である。 九郎は、 ︵異世界で給料日前にパチンコを打っていた傭兵仲間と同じ目⋮⋮ !︶ だと直感した。妙な自信と飢えた狼のようで油断はならない。 ﹁俺の道場に挑んだからには、俺の流派の戦いに付き合ってもらお うか﹂ 床に散らばっていたがらくたのようなものを足で蹴り上げ、手で 掴みながら晃之介は云う。 それは木製の小太刀のようだった。よくよく見れば床には木槍や 棒も転がっている。 ﹁手加減はしない⋮⋮! 主に飯のために⋮⋮!﹂ ﹁うわあ、お主ノリノリだな!﹂ 投げ放たれた小太刀をくぐるように躱しながら晃之介へ一足飛び に接近する。木剣は担ぐように背中に這わせていた。 間髪を入れずに二の矢が九郎へ向かうが、しっかりと発射される 心構えと矢を見てさえいればがあれば容易いとは言わないまでも、 避けられる。更に踏み込んで矢を体に掠めさせながら白兵しようと 123 した。 地面に沈んだ九郎へ、下方向から打撃としての力が挑まれた。晃 之介が器用に足を使い地面から跳ね上がるように槍を振るったのだ。 勢いを殺されぬように体を捻り飛び上がり、猿叫のごとき気合を発 しながら木剣を振るう。 ﹁チェエエストォォオオッ!﹂ ﹁なに!?﹂ 渾身で振るわれた一撃を受け止めた晃之介の木剣が押され、罅す ら入り始めたのを見て彼はもう一方の手で棒を構え二本で対抗する。 攻撃をしておきながら九郎は、 ︵そう言えば木剣同士の戦いであった︶ と手応えに驚いた。今までの戦いの経験からすればアカシック村 雨キャリバーンⅢを装備していれば相手がいかな防御を取ろうと決 まっていたからであるが⋮⋮ 考えながら押しこむ力を増加させる。 即座に九郎の勢いで晃之介の木剣が砕け散ったが、木剣を握って いた柄を投げ捨て拳を固めて棒で剣を抑えながら、 ︵殴り抜いた⋮⋮!︶ と思ったのだが、咄嗟に九郎は拳を手のひらで受け止め衝撃を殺 す。 抑えれた反動に任せてまさに吹き飛ぶように離れる九郎だったが その顔に痛痒は見えない。ただ、体重自体は軽いので押されれば大 きく間合いを広げられる。 速射で追撃の矢が放たれる。体勢の崩れた九郎は今度こそ避けき 124 れないと思えたが、 ﹁なんと!﹂ いつの間にか晃之介から剥ぎ取り奪った太い木棒で矢を弾き落と した。 怯えずに構えれば九郎にとって可能である。 仕切り直しだ。二人は構え、間合いを測るのであった。 **** 四半刻ばかりの戦いになっただろうか。 途中から道場の武器が尽く使用不能になってしまった。矢は使わ れぬように九郎がへし折ったし、お互いに使える武器を拾っては打 ち合い、決してやわな作りではないそれらを壊し尽くしてしまった のである。 六天流は素手での戦闘も行われる。対する九郎も見た目と力の差 を生かした奇妙な体術で相対したのである。 しかしどうやら一二手殴りあった後に、二人共お互いの技量を認 めたようで何方からとも無し、構えを解いて戦いを止めた。技量を 認め合ったのもそうだが、まあ二人共相手には見せないがいい加減 手が痺れて痛かったのである。 九郎が息を吐きながら云う。 ﹁⋮⋮疲れた。ここまでくれば引き分けでよかろう﹂ ﹁ああ。これ以上やって道場を壊してもなんだ⋮⋮俺が困る。しか 125 し、さすが示現流となるとそこらの男とは違うな﹂ ﹁示現流?﹂ ﹁最初に名乗っていただろう﹂ ﹁あー⋮⋮﹂ 実際は異世界で世話になった傭兵団長ジグエンが勝手に作った剣 法なのだが、いちいち説明するのも面倒なのでとりあえず首肯した。 教えられたのはとりあえず力こそパワーで打ち込む。防御された ら防御ごと打ち抜く。あと奇声とか発すると相手が驚くし気合が入 るとかそのような内容だったが、まあ対して変わるまい。 実際団長はこれで鉄マッスルゴーレムも真っ二つにしていた。人 間とは思えぬ。 本当の薩摩示現流の達人に出会って違いなどを問い質されたら死 ぬ気で逃げようと思いながら。魔王城で読んだ漫画の知識によると、 薩摩人のふりをして下手に受け答えができぬと容赦なく斬り殺され る危険がある。怖ろしい土地と民族だ。 晃之介は言う。 ﹁大抵のやつは最初の弓に反応できずに終わるか、武器を持ち替え 戦うのを卑怯だなんだと苦情をつける﹂ ﹁わからんでもないが﹂ 実際に訓練とはいえ対人で弓を使う流派など他に見ない上に、杖 で殴ったり小太刀を投げたりと、とても侍のやるような技ではない と不評を食らっているのだ。 しかし晃之介は本来武士が修めるべき武術は一八もあり、たかだ か五つばかりの武器を操れるのを卑怯だというのがおかしいのだと 考えている。 もとよりそれらを使う流派に挑むのだから、相手もそれを妨害す るような工夫をすればよいのだ。それこそ、より隙が少ない小柄や 126 鋲を投げつける流派だってあるのだから弓矢を使おうが文句を言わ れる筋合いは⋮⋮まあ少なくとも晃之介は無いと思っている。なに せ自分の道場であるし、挑むのが剣術とは書いていないからだ。 理屈はわかるがいささか時代錯誤かもしれない。 彼の方から他の剣術道場に他流試合や練習を申し込む時は剣のみ を使うというのであるが⋮⋮ ﹁前など仕返しに浪人が大勢連れてきたからな。﹃多対一、これが うちの流儀だ﹄とかなんとか。全員倒して懐から挑戦賃を頂いて捨 ててきた﹂ ﹁意外と儲かっているのではないか?﹂ 九郎の言葉に晃之介は乾いた笑いを漏らした。 つい、いい気になって酒を飲みに行ったら、流しの遊女に絡まれ て殆ど散財させてしまったとは恥ずかしくて言えない。 ﹁ちょいと驚かしてやるつもりがいささか、泥臭い戦いになってし まったのう﹂ ﹁いや、お前のような子供にいいようにされるとは俺もまだ修行が 足りない﹂ ﹁見た目よりは子供でないのだが⋮⋮まあよい﹂ 苦笑して体を起こす。 ﹁金二分は木剣を壊した弁償賃にしておくれ﹂ ﹁⋮⋮ああ、貰おう﹂ 一瞬悩んだ晃之介であったが、確かにほとんど壊した練習器具は 買わねばならない。 ありがたく頂戴することに決めたのである。 127 ﹁しかし調子に乗った子供を負かしてうちの生徒にでもしようかと 思っていたんだが、互角ではそうもいかないな﹂ 汗を手で拭い爽やかな顔を浮かべて晃之介は云う。 改めて見ると気持ちのよい笑顔を浮かべる好青年である。九郎は 既に殴りあったこの相手に奇妙な友情を感じてすらいた。 ﹁しかし暑いな。水でも浴びていくか?﹂ ﹁そうだの、これも何かの縁。いい店をしっておるから、終わった ら飲みに行こう﹂ 九郎は人懐っこい笑みを浮かべた。 **** 川に汗を流しに行った時に。 上流から盥に乗った見たことのある顔の陰間が三味線を弾きなが らどんぶりこと流れてきて、 ﹁あーりーんーすー⋮⋮うわっ、男ぶりの良い美青年と美少年がふ んどしで戯れているとかここは如何な極楽浄土でおま!? っしゃ あ! わっちも参加ぁ!﹂ などと声が聞こえてきたので晃之介から借りた弓で盥を沈没させ てさっさと緑のむじな亭に向かったのは言うまでもない。 128 129 7話﹃安全装置﹄ 九郎がお八と知り合ったのは穀雨の頃の夜半であった。 その日は石燕のおごりで、九郎と多芸多才の剣士、録山晃之介が 夕食に軍鶏鍋などを食いに行ったのであった。 江戸に来る前は様々な方へ旅をしていた晃之介の話を石燕が聞き たがったのである。特に旅の途中、酷く不気味な隠れ里に迷い込ん だことや、伊豆にて狒々という化け物を晃之介の父が見事に捕らえ たことなどは大いに興味をそそった。 狒々は山に住む毛むくじゃらの妖怪で、猛獣そのものでもある。 覚りのごとく心を読んだかと思えば人を攫って喰らったり、女に子 を産ませたりするという。 伊豆の山に住んでいた巨大な猿がそのような事をしていたかは兎 も角、困っていた伊豆の民衆は旅の武芸者であり弓槍の名手である 晃之介の父、綱蔵に頼みこれを捕縛したという。 ﹁なるほどね、うむ、創作意欲が湧く﹂ とその場ですらすら筆を動かし狒々を仮に描いてしい、それは晃 之介が驚くほどすぐに描いたにしては見事な絵だと言う。 九郎は相槌を打ちつつ軍鶏鍋に舌鼓を打っていた。軍鶏の皮を鍋 に入れて脂が出た所で内臓と肉を皮の脂でじっくり焼き、その上か らたっぷりの葱と牛蒡を入れて酒、醤油で味付けしたものだが、内 臓と皮から旨味が解け出して、濃厚な味と香りがまた熱燗に合うの である。 その日締めたばかりの軍鶏を使っているから内臓の臭みなどは殆 130 ど無く、時折箸にあたる砂肝の歯ごたえが堪らぬのであった。 鍋をつついては幾度も酒をくぴりんこと飲み干す少年を時折心配 そうに晃之介が見たが、石燕は気にしていない笑みを浮べている。 やがて酒宴は終わり、別れることとなって晃之介が二人を送ろう かと提案したが、九郎が大丈夫だと断った。 晃之介も、 ﹁九郎ならば問題はあるまい﹂ と頷いて、その場で別れるのであった。 女と子供の夜歩きだが、なにせ九郎は相当な使い手であることを 彼は認めている。余程の相手が来ない限り返り討ちにしてしまうだ ろう。 特に異常もなく石燕の家にたどり着いた頃には、石燕は酔いで顔 が熱っぽくいかにも眠そうにしていた。家の中から出てきた同居し ている百川子興が引っ張るように寝床に連れて行く。 帰ろうとすると子興に、 ﹁九郎っちも泊まって行かない? 危ないよ?﹂ と、勧められるが問題ないと伝えて辞去した。 江戸の夜中は驚くほどに暗闇である。多くの町人は暗くなる前に 夕飯を食って、暗くなれば寝てしまう。夜にやっている居酒屋など も夜五ツ⋮⋮遅くともだいたいは夜四ツ︵現在の夜十時頃︶には閉 まってしまう。 辻に設けられた番太郎と呼ばれる夜番の家や奉行所などには明か りが灯っているが江戸全体は真っ暗と言ってもよいほどだ。夜の灯 火を付けるのは安い鰯油を使っても金のかかることなのであった。 現代で言うならば夜に明かりを求める為に懐中電灯しか無いよう なものである。照らす範囲も小さいし電池の効率も悪いとあれば、 131 やることもない人たちは早々と眠ってしまうだろう。 ︵現代の東京からは考えられぬな︶ と昼間とは様相を変えた街を歩きつつ九郎は思った。 辻や路地の数を間違えて道に迷わぬようになるべく一直線に九郎 は緑のむじな亭へ帰っていく。ただし、番屋に近づいて声をかけら れては面倒なので明かりは避けていく。 途中にある小さな祠を囲むようにしている笹薮を面倒だから突っ 切っていた時のことであった。 ︵おや⋮⋮?︶ と九郎が月明かりに任せて目を細めて前を見ると、赤い着物を着 た町娘がこのような時間なのに提灯も持たずに出歩いているのであ った。 一人で人気のない道を歩いているなど、危険極まる。九郎は江戸 の町の治安など世紀末よりマシ程度にしか思っていない。 顔を顰めながら足早にしている町娘に近づき声をかけた。 ﹁おい﹂ ﹁うえええ!? な、なんだコラァ!? 敵か!? やんのか手前 !?﹂ ﹁⋮⋮落ち着け﹂ かなり荒っぽい口調が返ってきた。 話しかけられてビビりまくった町娘⋮⋮後ろ姿から見た時よりも 年の頃は下のようだ。十代の半ばかそれ以下だろうか。 怒鳴り声を上げながら懐から取り出してこちらに押し付けるよう な構えをとっているのはどう見ても海苔で巻いた握り飯である。 132 笑っていいのか、真剣な顔の少女を半眼のまま見ながら尋ねた。 ﹁お主、こんな時間に出歩いていると危な﹂ ﹁て、て、手前あいつらの仲間か!? 追手だな!? ただじゃ殺 されねえぞ!﹂ ﹁その握り飯でどうしようというのだ⋮⋮﹂ 話を聞かない娘に頭を抱える。 とりあえず落ち着かせるように提灯を地面に置いて両手を開き見 せた。 ﹁別に怪しいものではない。こんな子供のごとき姿をした暴漢無頼 がいるものか。お主のような娘子が出歩いているから声をかけただ けよ﹂ ﹁お、おう。確かによく見りゃあたしより弱そうな糞坊主じゃねえ か。ビビって損した⋮⋮謝れ!﹂ ﹁知らん﹂ びしりと額をはじくと娘は﹁あう﹂と声を出してとりあえず落ち 着いた。 赤くなった額を抑える相手に呆れたように腰に手を当てて九郎は 云う。 ﹁娘よ、家は何処だ? 危なっかしいから送ってやろう﹂ ﹁あん? んだ手前調子くれやがって。送り狼か!﹂ ﹁なんでこんなに喧嘩っ早いのだこやつ⋮⋮いいからさっさと家に 帰れ﹂ 煩そうに言いながらも一応は、この娘が家に帰り着くまで後を追 ってみようとは思う。こういう手合いは大人しく連れて行くと言っ 133 ても聞かぬものだから密かに着いていったほうがいいだろうという 判断である。 娘は三白眼を尖らせながら言った。 ﹁うるせえ! あたしは家に帰るんじゃなくて火付盗賊改に行かな きゃいけねえ⋮⋮ああもう、こんなとこで無駄話してたらヤベエだ ろうが! 急いでんだよ!﹂ ﹁火付盗賊改? ⋮⋮おお、己れ凄いワクワクしてきた﹂ かつて時代劇か時代小説かで見た覚えのある単語に心躍らせる九 郎であった。 ﹁安心しろ娘よ、己れも付いて行ってやろう﹂ ﹁んだよ誰が頼んだんだ呆け! 手前に関わってる暇はねェんだよ !﹂ ﹁うむ、それならば⋮⋮﹂ 九郎は近くの石塊を拾いながら道の先を見て言った。 ﹁あのような輩を排除してやるから共に行こうぞ﹂ ﹁なっ⋮⋮﹂ 娘が強張ったようにそちらを見る。まさか、もう追手が来たとい うのか。 そこには、静まり返っている竹藪の出口がある。 それだけだった。 ﹁?﹂ ﹁隠れてないで出てこないかっ!﹂ 134 九郎が叫んだ。 声が響いたものの、風以外で草薮は揺れる音を立てなかった。 それだけだった。 ﹁⋮⋮気のせいだったみたいだの﹂ ﹁莫迦だろ手前阿呆が!﹂ ﹁だってこういうパターンだといると思うだろ!﹂ 意味のわからぬ言い訳をする九郎は、足早に駆けて行く娘を追い かけるのであった。 石塊を投げ捨てた深い藪の中から小さなくぐもった声と倒れ伏す 音が聞こえたが、夜風に解けて二人の耳に入ることはなかった。 **** 少女、名をお八と云う。 九段北にある武家御用達の大きな呉服屋[藍屋]の一番下の娘で あった。藍屋の主には七人の子供が居り、順番に数字を名に加えて いったのだがさすがに[お七]という名は縁起が悪いということで お八と名付けられた。 というのもお七と云えば天和の頃、恋煩いから起こした放火の罪 で火炙りとなった﹃八百屋お七﹄の名は江戸の町人の耳に新しい。 既に講談や芝居なども行われていたようである。さすがに娘をそれ と同じ名前にするのは如何なものかと思った父親が変えたのである。 尤も、親の心遣いの成果ならずと云ったようで、お八は荒っぽい 火のような性格になったのではあったが⋮⋮ 今年で十四になるお八であったが、粗暴な性格や言葉遣いと、生 135 来あっての不器用さからあまり実家の店では、 [評判が良くない] らしいのである。 呉服屋の娘なのに裁縫の一つも出来ぬ、と手代から陰口を叩かれ ることもある。それに気づいても実際裁縫の不得意なお八は反論の しようが無く、感情を怒りという態度で外に出すしか発散の仕様が 無いので、余計に荒れている。 つる 藍屋の鼻つまみ者と︵当人は思っている︶して過ごしていたわけ だが、最近新しく入った下働きの女、お弦だけは彼女に対する態度 が違った。 誰にもにこにことして言われたことを良く聴き、気立ても良いや や年増の美しい女なのだが、店に来てひと月も経たぬうちに信頼さ れるようになった。他のものから距離を置かれているお八にも優し く接してくるのだという。 ﹁だがそれが気に食わねえ!﹂ ﹁やだこの年頃の子面倒くさい﹂ ぽっと出の優しさに絆されるお八ではない。 火付盗賊改への道程で事情を尋ねていたのだが、地団駄でも踏ま んばかりにお八は癇癪を起こしている。 ﹁つうか誰にでも好かれるように接するなんてのは取り入ろうとし ているに決まってんだあの節穴共! あたしは一発であのお弦とか いうずべが悪党だとわかった! あたしは詳しいんだ!﹂ ﹁そうかえ﹂ 火でも吐かんばかりに怒鳴るお八に短く返した。 136 自分の素晴らしい推理能力を肯定されたと感じたお八は多少溜飲 を下げながら地面を蹴り飛ばすような足取りを続けたまま云う。 ﹁ぜってえ悪党の証拠掴んでやると思って様子を伺ってたんだがよ、 今日、あの女をつけて行ったら船宿でむさ苦しい悪党面の親爺とお 楽しみしたからその親爺の後を追ったら案の定盗人宿に入りやがっ た。忍び込んで計画まで聞いたきたぜ。ざまあみろ﹂ ﹁危ないことをする⋮⋮父や母が心配しているぞ﹂ ﹁しねえよあの節穴夫婦め。そんで、あたしのお陰で店が助かった と知ればあたしの凄さが節穴にもわかるってなもんだ﹂ 口の端を釣り上げたような笑い顔を見せながら云うお八である。 九郎は、 ︵成程、両親に認められたいがための行動か︶ と跳ねっ返り娘のことを認識した。もちろん口には出さないが。 ﹁事情はどうあれ大事のようだな﹂ ﹁ああ。なんでもあの女が引き込みをして、今晩にでも押し入るつ もりらしいからよ。こうしちゃいられねえって火付盗賊改に行くん だ﹂ ﹁番所では駄目なのか?﹂ ﹁違う町の事件なんざ聞いてくれねえよ。それに番太郎共は腰抜け だからな。泣きっ面に焼け火箸突っ込むって評判の火付盗賊改じゃ なけりゃな﹂ ﹁火付盗賊改怖っ⋮⋮ええと、先に実家に襲撃を伝えるのは?﹂ ﹁あたしが云うことなんざ信じるはずねえだろ。説教して蔵にでも 押し込められてるうちにあの悪党どもがやってくらあ﹂ ﹁ふむ⋮⋮お主なりに、色々考えているようだな﹂ 137 ﹁当たり前だ! 褒めろ!﹂ ﹁よしよし、ハチ子は良い子だな﹂ ﹁ぶっ殺すぞ。あとハチ子ってなんだ﹂ 子供をあやすように笑顔で頭を撫でたのだが、剣呑な目つきのま ま手を跳ね除けられて睨みつけられた。 反抗期って怖いなあと思いながらも九郎は心の中で苦笑して闇夜 をお八と進んだ。 静まり返った町をしばらく進むと、月明かりにうっすらと照らさ しのやま つねかど れる立派な門の建物が現れた。払方町にある旗本三千五百石を頂戴 している火付盗賊改方長官、篠山常門の屋敷であり看板に[火付盗 賊改]と太ましい文字で書かれている。 火付盗賊改方は町奉行のように常に同じ場所にあるのではなく、 代替わりする長官の屋敷を拝領して本部としているのである。 奇妙な感動を九郎が覚えているとお八は鍵のかかった入り口を蹴 り飛ばし始めた。 ﹁おい! 門を開けやがれ! 一大事だぞ! 聞いてるのか!﹂ ﹁⋮⋮これこれ﹂ 一応窘めるが、彼女なりに必死の意思を目から感じて九郎は物言 い出来なかった。 お八からすればまさに実家が襲われるか否かの瀬戸際なのだ。 しばらくすると部屋着を着たままの与力が煩そうに現れた。門を 蹴り立てているのが少女と見て更に迷惑そうな雰囲気を濃くするの である。 ﹁おい、娘。夜中に喧しいぞ﹂ ﹁それどころじゃねえよ! 押し込みが来るんだ! さっさと長官 にでも伝えてくれ!﹂ 138 おかしら ﹁長官はもうご就寝なさっている。何処の娘だ? 今晩押し込みが 出るなど聞いておらぬぞ﹂ ﹁予め知らせる莫迦な押し込みがどこにいるってんだ! いいから とっとと用意しやがれ!﹂ ﹁なにを、無礼な﹂ 年端もいかぬ少女に乱暴な口調で夜中にまくし立てられて腹立た しげに声を立てる与力である。 押し入りが既に行われたというのならば出て行き、その調査をし て然るべき盗賊を捕らえるのが仕事ではあるが夜中に正気かどうか もわからぬ小娘の証言だけで組織を動かすことは彼の一存では決め かねるし、もしそれが偽の情報だとすれば信じた自分が、 ﹁愚か者だと思われる⋮⋮﹂ と考えるだけでお八の騒ぎを耳に入れるつもりはほぼ無かった。 この与力、保身の男であった。がつがつと手柄を求めなくとも十 二分に裕福な暮らしができていた為、与力職についていた役人はこ のような職務怠慢も珍しくなかったという。 見かねて九郎が説得してやろうかと手を差し伸ばそうとした時、 後ろから声がかけられた。 ﹁おいおいおいおい、なんだぁ? なんの騒ぎだよおい。へへっ拙 者にも聞かせろよなあ﹂ 酒絡んだような声で話しかけてきたのは浪人風の着流しを着た中 年男だった。立派に蓄えた顎髭をしていて、片手には大きな徳利を 持っている。ゆらゆら揺れていていかにも泥酔しているようだった が、九郎が見るに、 139 ︵ふらついているように見せながら重心は腰の二本はいつでも抜け るようにしている。目つきも鋭く酔っ払いとは思えぬ︶ と破落戸風の侍に警戒する。 だが彼を見た与力は慌てて背筋を正した。 ﹁こ、これは中山殿! なんでも御座いませぬ。夜更かしをした悪 餓鬼が騒いでいるだけでして﹂ 突然与力がへりくだったような態度に出る。その表情にはまざま ざと侍に対する畏れのようなものが浮かんでいた。 話をさっさと終わらせようとする与力に噛み付くようにお八が怒 鳴る。 ﹁ざっけんな! テメエじゃ話にならねえから長官呼べっつってる だろ!﹂ ﹁この餓鬼いい加減に⋮⋮!﹂ 投げ飛ばそうとでもしたのだろうか。お八の着物の襟に手をかけ ようとした与力だったが割り込んだ九郎が、 ﹁まあまあ﹂ とその手を掴んだ。 余計に苛立ち払いのけようとしたが、小さな小僧から掴まれただ けのその腕が、 ︵まるで岩に挟まったかのように動かぬ⋮⋮︶ ので与力は顔を赤くしたり青くしたりしながら何事か怒鳴ろうと 140 した。 そこに侍が口出しをする。 ﹁なんだか知らねえが面白そうだな。おい嬢ちゃん、何が合ったか 話してみな﹂ 気さくに告げてお八と視線を合わせるように屈んで酒を一口煽っ た。 愉快げな瞳だったが何か品定めしている蛇のような印象を受けて、 九郎はどうも悪い感じを受け取るのであった。 ︵こやつこそ悪人の目なのだが⋮⋮︶ 思いながらも乱暴な口調は崩さずに男へ事情を説明するお八を心 配気に見ていた。男も気にする様子はなく﹁ほう﹂だの﹁へえ﹂だ の相槌を打っている。 やがて男はすっくと立ち上がり告げた。 ﹁よぉしわかった! こいつぁでかい山だ。おいそこの手前、長官 を起こして、居る奴らだけでも集めさせ半刻までに出発させろ﹂ ﹁し、しかし中山殿⋮⋮﹂ ﹁手前が拙者の指示を無視して押し込みされたってぇなると、御役 御免じゃすまねえだろうなぁ。ま、それでも拙者は構わねえけどよ。 介錯はさせろよな?﹂ 冷や汗を額に浮かべた与力がお辞儀をして引っ込んでいく背中に 向けて、 ﹁拙者は先に行って楽しんでくるからよ、急がねえと手前らの手柄 ぁ全員﹂ 141 人殺しの目をした男は嗤い告げた。 ﹁やっちまうぜ?﹂ やけに背筋が寒くなるような、それでいて楽しげなぞっとする声 だった。 **** 中山影兵衛は火付盗賊改方付の同心である。その日は非番で、い つも通り酒を飲みに行ったりどこぞの大名屋敷で行われている違法 賭博に潜入調査⋮⋮という名目で普通に博打を打ちに行ったりして いたのであった。 同心である影兵衛に対して与力の男が妙にへりくだった態度をと っている理由は幾つかある。 一つに彼が三男とはいえ、丹後守四千石旗本の家柄をしているこ と。下級役人には役不足の家柄である。 かげゆ もう一つが影兵衛の祖父が火付盗賊改の実質初代長官とも言える 中山直房⋮⋮通称[鬼の勘解由]という、与力同心らの間では伝説 的人物なのであった。 最後に、これが最も畏れられることなのだが、この男同心として 人間としても、 ﹁危険な﹂ 142 男だと思われているのであった。 押し込み、火付け、辻切りなどを幾度も現場を押さえて防いだ嗅 覚と勘働きは凄まじいのだが、その現場ではほぼ必ずといっていい ほど相手を斬り殺してしまっているのである。 これまでに手をかけた悪党は両手両足の指では足りまい。悪党と はいえ無益なまでに手をかけていたら同心と言えどもお咎めを受け るはずなのだが、そこはこの男の家柄や情況証拠の捏造などを使っ た巧妙な手腕で叱責や謹慎を受けることはあれども、大事には至っ ていないのである。 何人の腕自慢の剣客が相手でも殺害たらしめるこの男、[切り裂 き同心]と呼ばれ江戸の有名な同心二十四衆のうちの一人であった。 ﹁さぁて楽しみだなあおい。何も知らねえ商屋を襲おうとした盗賊 共が、何も知らねえうちにぶっ殺される様ぁ気分がいいぜ﹂ ﹁不安だの⋮⋮﹂ 酒臭い息を吐きながら恋人に会いに行きそうな足取りで藍屋への 道を走る影兵衛に九郎が並走しながら肩をすくめた。 大人である影兵衛に合わせた速度で走っていて、小脇にはお八を 抱えているが九郎に疲労の色は伺えない。 ﹁つうかおい、離せ! あたしだって走れるんだよ!﹂ ﹁無理をするでない。足元がよれていたではないか。一日中追跡だ の張り込みだのしていれば疲れたであろう﹂ ﹁疲れた演技だよ!﹂ ﹁意固地な⋮⋮よいから暴れるな﹂ 諭すように云う九郎にうなり声を上げながら走る横顔を睨むお八 である。 143 確かに抱えられているというのにこの男はすいすいと、飛脚のよ うな速度で走っているのであり自分がどうやっても追いつけなさそ うではあるのだが⋮⋮ 火付盗賊改方に残るという選択肢はもとよりこの性格のお八には 無かったようである。 ﹁変なとこ触んじゃねえぞ﹂ ﹁変なところ⋮⋮? お、おいまさかハチ子よ、自爆装置とか付い ていないよなお主﹂ ﹁意味わかんねえよ! あとハチ子じゃねえ!﹂ ﹁ああよかった。魔王の侍女には付いてたから念のため﹂ ﹁誰だよ!﹂ 会話をしながら走っていると影兵衛が速度を緩めて足を止めた。 ﹁お二人さん、お楽しいお喋りのお途中で悪ぃが、見えてきたぜ。 あれだな﹂ 顎を向けた先にある大店が藍屋だ。三階建ての建築で正面から見 るに、二階の明かりは今だに灯っているようだ。 ﹁まだ起きてるのか? うちの親父とお袋﹂ ﹁帰って来ぬお主を心配しているのであろう﹂ ﹁⋮⋮そんなわけあるか。あたしみたいな厄介者が居ようが居なか ろうが気にするたまじゃない﹂ ﹁ま、お主がどう思おうと、中に入って心配されたのならば素直に 謝ることだの﹂ ﹁⋮⋮﹂ 口を不機嫌そうに噤むお八である。 144 正面から入ろうとする二人に影兵衛は制止の指示を出した。 ﹁おっと待ちな。正面から戻ってお弦だか云う女に気づかれて見ろ。 怪しまれて逃げるかもしれねえ﹂ ﹁それは確かに面白くねえな﹂ ﹁だろ? くく、拙者に任せときな。裏口はどっちだ? 嬢ちゃん﹂ 影兵衛に言われて裏口を案内する。 何をするのかと九郎が思えば、大胆に影兵衛は裏戸へ近寄って行 き、小さく音がなるように戸を叩いて潜めた声を中に伝えた。 ﹁おい、俺だ。お務めに来たぜ。開けてくれ﹂ しばらくすると中から声が返ってくる。 ﹁まだ待ってなよ。旦那とお内儀がまだ起きてるんだ﹂ ﹁何も気にすることはあるめえ。どっちにしろ口止めしちまえばい いんだからなぁ﹂ 凶悪に顔を歪めた笑みを作りながら押し入ろうとしている影兵衛 は、それが演技だと事情をしっている九郎からしても本当の盗賊の ようであった。 むしろ影兵衛が裏切って本当に押しこみを行おうとしているので はないかと心配に成る程、悪党の気配が濃ゆい。 ややあって音を立てぬようにゆっくりと裏戸が開けられた。 肩が入る程度まで開いた途端、影兵衛が手を伸ばして室内に滑り こむ。同時に唖然とした引き込みのお弦の手を掴んで、もう片方の 手で口を塞いだ。 くぐもった声でもがきながらお弦は云う。 145 ﹁だ、誰だい!?﹂ ﹁騒ぐんじゃねえ。拙者ぁ火付盗賊改だ。きひひ、残念だったなぁ 女﹂ 一瞬はっとした顔になって逃れようと暴れるお弦だったが、影兵 衛は鼻で笑って一度九郎達へ視線をやった後にお弦の口を抑えた手 に力を加えた。 潰れるような折れるような鈍い音がした。 如何な力で握りつけたのか、女の顎の骨を砕いたのである。 ﹁あ⋮⋮!﹂ ﹁噛み付かれちゃたまらねえからな。殺さねえだけ有難いと、思い なぁ!﹂ ﹁ぐううう!!?﹂ 無造作に影兵衛は女の腹を突き破るような蹴りを放ち部屋の隅に 叩きつけた。 悪党とはいえ女相手にやる所業とは思えず九郎はげんなりした様 子になり、不安からかお八はいつの間にか顔を青ざめて九郎の背中 を掴んで身を隠すようにしていた。 ﹁ははっ、自分が一番賢いとでも思ってそうな強気の女をぼろぼろ にすんのは最高だよなぁおい﹂ ﹁同意を求めんでくれ﹂ あまりの痛みに鼻も涙も垂らし、歯も折れたのか血の混じったよ だれを出しながらお弦は悶え苦しんだ。 恐らくは九郎とお八が見ていた為にこの程度ですましただけで、 一人で侵入したとなると切って捨てていた可能性が高いと影兵衛の 殺意が高揚している瞳の色を九郎は感じる。 146 倒れた女の首に手をかける影兵衛を見てさすがに声をかけた。 ﹁おい、無抵抗な女を殺すのはやめておけ﹂ ﹁安心しなぁ、ちょいと締めて気絶させるだけだ。がたがた騒がれ ても鬱陶しくて殺したくなるからな﹂ 本当に大丈夫だろうかと楽しげに首を絞める影兵衛を見る九郎で あった。 とにかく、賊の入り口は占領した。八畳程の広さの裏口につなが る部屋で、物は整理されて壁際に置かれている為夜中でも動くのに は支障は無さそうだった。 ﹁拙者ぁここで待ち構えてるからよ、坊主は嬢ちゃんを家の中に送 ってやれ。終わったら手伝わせることがあるから戻ってこい﹂ ﹁あいわかった⋮⋮ほれ、行くぞハチ子﹂ ﹁あ? ああ⋮⋮﹂ ちらちらと顔をうっ血させ動かなくなったお弦を見ながら九郎に 手を惹かれてお八は店を進んだ。 明かりは殆ど無かったが、夜目の効く九郎は特に惑うこと無く二 階の階段を見つけて明かりの付いていた部屋へ向かった。近づくに 連れ、お八の足取りが重く九郎と握った手も強くなって行った。 襖の前で九郎は膝を付き戸を小さく叩いた。 ﹁誰だ?﹂ やや枯れた男の声がした。 九郎は襖を開けて姿を見せる。見たことのない少年に、部屋の中 で座っていた髪にやや白いものが混じり始めた立派な服の男とその 女房らしい中年の女は一瞬やや警戒の色を見せた。 147 藍屋の主人の芦川良助と妻のお夏である。 ﹁夜分に済まないな、己れは火付盗賊改の方から来た者なのだが⋮ ⋮﹂ ﹁火付盗賊改⋮⋮﹂ 嘘は言っていない。実際にこの店には火付盗賊改のある場所から 来たのだ。 とはいえこう言われれば火付盗賊改付の同心、その手下の目明し か何かのような部下だと勝手に解釈したようだった。関係者で無い のに﹁∼の方から来たのですが﹂という口ぶりは現代でも消火器の 訪問販売詐欺などでよく使われる手でもある。 とまれ、九郎は続ける。 ﹁実はな、宅の娘、お八からの通報でこちらに押し入りが来ると伝 えられたのだ﹂ ﹁お八から!? そ、そのお八は今何処へ!?﹂ ﹁連れてきておる。叱ってくれるなよ、大手柄であるし、お主ら両 親を助けようとこの夜中まで必死に調べて来たのだ﹂ 九郎が襖を大きく開けると、正座して俯いたお八の姿が両親二人 にも見えた。 ほっとして息を吐く両親と顔を合わせないように体を強ばらせて いるお八はぎゃあぎゃあと騒ぐ娘とは別人に見えた。 立ち上がってかけより母親が抱きしめた。母親の瞳は潤んでいる。 ﹁心配したんだよ、あんたが帰ってこなくて気が気じゃなかったん だ。晩御飯はまだだろう? すぐに用意してあげるよ﹂ ﹁あの⋮⋮あたし⋮⋮ごめん⋮⋮﹂ 148 父親の良助も優しい顔でお八の頭を撫でて言った。 ﹁危ないことをして⋮⋮どうして私らに相談せなんだ﹂ ﹁だって⋮⋮信じてくれると思わなくて⋮⋮﹂ ﹁娘を信用しない親などいるものか。よく無事で戻ったな﹂ ﹁う、く、九郎が一緒に居てくれたから⋮⋮﹂ と彼を指さそうとすると、今だに右手を九郎と繋いでいたことに 気づいて慌てて離し飛び退くようにした。 ﹁うおお!? い、何時まで握ってるんだあほ!﹂ ﹁そう言われてもな﹂ ﹁お八、送ってくださった人に乱暴な!﹂ ﹁⋮⋮うー、ごめん﹂ ﹁よい、よい﹂ 九郎は年寄り臭い柔らかな笑顔で応える。 親から嫌われてるだの何だの、道中で散々聞かされていたが良い 親子ではないか、と九郎は感心していたのである。 立ち上がって九郎は、 ﹁ご主人。火付盗賊改の本隊が来るまで暫し時間がかかる。一応同 心を連れてきておるが押し込みが早まった場合に逃す危険があるの でな、他にこの店に寝泊まりするものがいるのならば連れて何処か に隠れておくがよかろう﹂ ﹁では三階にでも皆を集めて置きます。九郎殿は?﹂ ﹁己れは同心の手助けをしてくる﹂ 云うとお八が不安そうな目を向けた。 149 ﹁大丈夫かよ、危ねえんじゃねえか﹂ ﹁安心せい、これでも見た目より腕っ節は強いのだ﹂ 九郎の快活な顔には一点も恐怖は見受けられなかった。 **** 黒装束の集団が藍屋にたどり着いたのはそれから四半刻もせぬう ちであった。 人数は十人。全員が伊賀の忍びのような黒い服を着ていて頭巾を 目深に被っている。先頭に立つのは一際体格の良い、[潮騒の掛吉 ]と呼ばれる押し込み専門の盗賊頭である。 上方から流れてきた盗賊衆であるが、大阪、京都でも押し込みを していて家中の者を皆殺しにしていくという凶悪な盗賊だった。江 戸でも既に仕事を行なっていて、奉行所にもその名が届いている程 である。 武家相手に商売をしている藍屋はその金で長屋の経営や古着屋の 胴元も務めていて、金をうなるほど稼いでいるという情報があった。 そこに体良く引き込みを潜り込ませることに成功したのだから当人 らのやる気は高い。 閉ざされた裏戸に合図をすると静かに開けられる。 ただし、裏戸を開けたのは手ぬぐいで頭を隠した九郎であった。 室内は当然真っ暗なので小柄なお弦と九郎の見分けはつかない。 十人全員が入った所で戸は閉ざされて鍵まで閉められた。 ぎょっとして盗賊らが立ち止まると、にわかに明かりが灯り一人 の男が立ちふさがっているのが見えた。 150 中山影兵衛が今再か火種を燃やした煙管を吸いながらにやにやと 笑みを浮かべて見ている。 ﹁何者だ﹂ 低い声を掛吉は上げると意外そうな顔で笑いながら影兵衛は云う。 ﹁ちょいと待ちな。拙者ぁ怪しいもんじゃねえですよぉ﹂ ﹁何者だと聞いている!﹂ ﹁だからぁ﹂ 一歩、踏み出しただけに見えた。 ﹁怪しいもんじゃねぇっつってんだろうがボケが!!﹂ 怒号と共に掛吉の首がちぎれ飛んで壁に当たった。 抜き打ちで首を刎ねたのだ。即死であった。冗談のように首の断 面から血が噴き出た。 背筋に氷を入れられたようになった盗賊らは、振って刀の血糊を 落とす侍を莫迦のように呆けて見た。 ﹁火付盗賊改方同心、中山影兵衛だ。神妙にすんなよな? せいぜ い暴れて楽しませろぉ!﹂ 影兵衛は凶獣の如く盗賊へ向けて切りかかった。 盗賊らも幾度も殺しをやった経験はあり、他の破落戸と争い殺し あったこともあるが、この相手は異質だった。 ﹁どうした? もっと笑えよ! 楽しい楽しいお務めの時間なんだ ろぉが! 少なくとも拙者ぁ楽しいんだからよぉ!﹂ 151 血で滑った刀を振るう度に手足が切り落とされる。後ろから切り かかった仲間があっさりと躱されて心臓に刀を突き通されてぐりぐ りとねじり回される。 この影兵衛という男、火付盗賊改方の中でも最も刀術に秀でてい ると言っても過言ではない。剣術道場でも名が知れていて江戸の剣 客の中で彼に敵うものはそう居ないとまで言われている。後輩への 指導も得意で﹁中山先生﹂と彼を慕うものも多いのだが⋮⋮ 一度斬り合いの場に出れば必要以上に殺しているとしか思えない のであった。 ﹁この野郎! ただで済むと思うな!﹂ ﹁くははははっ、そう怒んなよ! お互い殺したり殺されたり助け 合い譲り合いの精神で行こおおおおぜぇえええ!﹂ 悪党の腹から臓物をぶち抜きながら高揚した声を上げる影兵衛。 その光景にさすがの九郎も顔をしかめる。だが、相手とて所詮は 悪党。殺すつもりで来ておいて殺されるのが理不尽とは思わぬ。も とは現代日本の生まれだが、異世界で長らく過ごす間、死は身近で あったから慣れてはいる。 九郎も戸を突き破り逃げようとする盗賊の一人を落ちていた角材 で頭を殴り飛ばし沈黙させる。逃がす義理は無いし別段影兵衛に助 太刀がいらぬところをみるとこれが己の役目だろうと思えた。 時代劇では峰を返して打っていたが実際は容赦無いな、と次々斬 り殺していく影兵衛を見ながら思う。ふと、一人の盗賊が店の中に 逃げていったのが見えた。 ﹁む、いかん﹂ と九郎も追いかける。が、九郎すら巻き込まんとする影兵衛の剣 152 風から逃れるために少し遅れた。 賊は何処かに既に切り傷を追ったのか、血の跡から追跡は容易だ った。 表は閉まっている為に上に逃げたらしい。隠れるつもりか屋根伝 いに逃げるつもりか⋮⋮ともかく、上の階には店の住人らがいる。 九郎は飛ぶような速さで階段を駆け上がった。 三階の大部屋に上がると既にそこに盗賊が侵入していた。追いか けてきた九郎を見て、 ﹁それ以上近づくな!﹂ と大声を出し、角材を持った九郎と怯える数人を睥睨し匕首をち らつかせる。 部屋の隅に追いやられている住人の中に、殴られたらしい店の主 人の良助も居た。そして、お八は盗賊が人質代わりに片手で掴んで いる。 九郎は盗賊を睨みながら云う。 ﹁もう止めよ。あの男の前から逃げおおせたのなら素直にお縄に付 けば死ぬことはあるまい﹂ ﹁うるせえ! その棒を捨てやがれ! さもなければこの娘⋮⋮!﹂ 匕首をお八の顔に近づける。お八は目に見えて顔を青くしていた。 盗賊の意識は九郎へ向けられている。 少しでも気を逸らさせれば九郎が持っている棒で盗賊を叩きのめ すだろう。 ︵なら、この手に噛み付いてでも⋮⋮︶ とお八は考えて、口を開こうとしたが歯ががたがたと震えるだけ 153 で力が出なかった。 涙がぼろぼろと零れてしまっている。 ︵くそっ、動けよ! 情けない姿見せるな! あたしだって役に立 つんだって⋮⋮︶ だが、目の前の盗賊に対する怖さに震える体は動かなかった。そ れを自覚すると余計惨めになってお八は泣くほか無いのであった。 九郎は震えるお八を見て盗賊に声をかけた。 ﹁わかった、この通り棒は捨てよう﹂ と階段の下に投げ捨てる。 そして彼は刃物を人質に向ける盗賊に対して皮肉げな笑みを浮か べて言い放った。 セーフティ ﹁だが得物を突き付けるのはいいが││安全装置は外しておくべき だったな﹂ ﹁?﹂ ﹁?﹂ ﹁?﹂ 意味不明であった。 ﹁今だっ!﹂ 意味不明だったが一瞬間が合いた。 その虚を突いて凄まじい早さで飛びかかった九郎が盗賊をひっ捕 まえて投げ飛ばし、壁に叩きつけたのであった。 154 ﹁ぐむ⋮⋮﹂ と動かなくなった盗賊を見て店の手代や番頭らが一斉に跳びかか り縄でふん縛った。 九郎は満足気にそれを見ながら指鉄砲の形をなんとなしに作り、 ﹁うむ、一度言ってみたかっただけだったんだが、意外と効果があ る﹂ と独りごちるのである。セーフティのかかったままの銃を構える 間抜けなどそう居ないために無理にでも積極的に使わなくては使う 機会もないだろうと思えた。 そして床にぺたりと座ったままのお八に声をかけた。 ﹁おい、ハチ子よ、大丈夫だったか。すまぬな怖い思いをさせて﹂ ﹁え、う、うん⋮⋮﹂ 言葉が詰まったようにしているお八を九郎は屈んで傷が無いか、 刃物を突きつけられたお八の頬などをぺたぺたと触り確認した。傷 はないが体温が上がり、顔がぼうっとしていてかなり疲れているよ うに九郎は見えた。無理もない、体も心もへとへとだろうと思う。 すると横からお八の母が涙を流しながら頭を下げて礼を言ってく るのであった。 ﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂ ﹁いや、ここに賊が入り込むのを防げなんだ。こちらこそ面目無い﹂ ﹁あ、の﹂ ﹁ん?﹂ お八が袖を引っ張るのだからそちらを向くと、彼女は懐に持って 155 いたすっかり硬くなった握り飯を取り出して渡してきた。 今の彼女にはそれぐらいしか感謝の気持ちを伝えるために渡せる ものが無かったのである。 ﹁その⋮⋮お礼⋮⋮﹂ ﹁これお八、命の恩人にそのような粗末な⋮⋮﹂ ﹁いやよい。うむ、この握り飯、塩加減が旨いな⋮⋮ありがたく頂 戴するぞ、お八や﹂ 九郎が美味そうに、自分が作った握り飯をがつがつと食べて褒め るのを聞いて、お八は暴言も吐かずに口を噤んでいたという。 **** あの晩、火付盗賊改方が藍屋に集結し始めた頃に既に九郎はその 場を離れていた。単に取り調べとか受けるのは面倒臭いと思っただ けである。藍屋の主人らに適当な理由を言い含めて屋根伝いに飛び 跳ねながら通りに降り立ち去った。 名前以外誰にも素性を話していないから大丈夫だろうと思ったの である。また縁があればその時に話せば良い。 そしてあくる日の緑のむじな亭である。その日も客入りは少ない 156 が、しばらく前よりはマシといった程度の人入りであった。 昼九ツ前︵現代で十二時前頃︶、店で給仕をしているお房に来客 があった。 ﹁おはよーっす! お房、久しぶりじゃねえか! 元気にしてたか !?﹂ ﹁お八姉ちゃんは相変わらず元気そうなの﹂ ﹁あったり前だっつうの! おっ六科の兄貴は相変わらず辛気臭い 顔だなあおい!﹂ ﹁⋮⋮そうか?﹂ ﹁はははそうだぜ﹂ 自由気ままに厨房まで入り疑問の声を上げる六科の背中をばしば しと叩いた。六科は気にすることはなかったが。 このお八という藍屋の末娘、六科の義理の妹にあたるのであった。 お八の姉のお六が六科に嫁入りした為に親戚となったのであったが、 お六が亡くなってからは藍屋とは縁が薄くなってしまっていた。 しかし、お八だけは時折遊びに来るのであった。お房という年の 近い友人がいるし、元々お八は六科の妻お六に懐いていた為今でも 付き合いがあるのだが⋮⋮ ﹁それにしてもお八姉ちゃん、今日はどうしたの?﹂ ﹁おう、聞いてくれよ。実は昨日うちに押し込みが入ってよう。家 の中血生臭すぎて飛び出してきたんだ﹂ ﹁押し込み!?﹂ ﹁それでさ、あたしを助けてくれた人がすげえ格好良くてさあ! ええとだな、﹃せえふてぃは外しておくべきだったな﹄﹂ キメ顔で台詞を繰り返すお八。 157 ﹁せえふてぃって何?﹂ ﹁いや、知らねえがそれを言った瞬間盗賊をぶん投げて強ぇのなん の。今度あったらちゃんとお礼⋮⋮﹂ と会話の途中で大欠伸をしながら階段を降りてくる人物が居た。 二階に居候している九郎である。昨晩の騒ぎで昼前まで寝ていた ようだ。 眠そうな目を揉みながら階下にいるお房に声をかける。 ﹁ああ、腹が減った。朝飯はあるのかえ?﹂ ﹁もうお昼なの﹂ ﹁なんと⋮⋮一食抜かすとは勿体無い⋮⋮ん?﹂ お房の隣に居て顔を驚愕のまま固定しているお八に気づいた。 あ、ハチ子だとは気づいたものの寝起きで特にかける言葉は浮か ばずに寝起きの顔のままぼりぼりと頭を掻く。 絞りだすような声がお八から上がった。 ﹁お、お房。こいつは⋮⋮?﹂ ﹁うちの居候をしている九郎なの。ところで、お八姉ちゃん。その 盗賊から助けてくれた格好いい人と次に会ったら何をって?﹂ お八の顔が椿の花のように赤くなった。 眠い、と呟きながらあくびをしている九郎に指を突きつけて怒鳴 る。 ﹁あ、ええと、その、昨日はありが⋮⋮ちょ、調子に乗るなよこの 野郎!!﹂ 158 叫んで走り去っていった。 九郎は半目のままお八の逃げていった入り口を見てお房に尋ねた。 ﹁なにを喚いていたのだ? ハチ子は﹂ ﹁さあ⋮⋮﹂ 二人揃って首を傾げる。 昼間の緑のむじな亭は、活気とはまだ遠い。 **** その日、とある祠を囲むようにある竹藪で。 近くに石が落ちてあり頭にコブを作って気絶していた陰間の少年 が発見されたがそれは完全な余談である。 159 8話﹃知り合った連中﹄ 神楽坂に建っている庭付きのとある邸宅には、 ﹁妖怪が潜んでいる﹂ と、云う噂がまことしやかに語られるようになったのはここ数年 の事である。 その噂を聞いて妖怪屋敷を早速訪ねようと鳥山石燕が意気込んだ のであるが、肝心の現場が彼女の自宅だったので心底がっかりした ようである。 原因は明らかに年中喪服で妖怪画を好んで描いている石燕なので あるが⋮⋮ ともあれ、石燕の屋敷⋮⋮自称[船月堂]は不定期に彼女の生徒 らへ勉学や画の技法などを教える私塾となることがあった。 主な生徒は従姉妹である佐野房と同居している百川子興である。 他にも生徒は居るのだが塾の日程が適当、というかお房が家に来 た時だけしか開かずにそれ以外の日は大抵昼間から飲み歩いていた り、魑魅魍魎を探し歩いていたりして留守にしているため、家に住 み込みの弟子をしている子興ぐらいしか参加できていない。 そもそも石燕がいちいち他人に教えるのが面倒だと思っているの で、彼女を師と仰ぐ者は適当に狩野派の師匠筋に押し付けているの であった。地獄先生と名乗る割には駄目な教師である。 その日は珍しく石燕の塾が行われている日である。 お房に読み書きを教える傍ら子興に漆絵の手ほどきをしてやって いるようであった。石燕自身は単色を使った錦絵を得手としている 160 のだが、弟子の子興はむしろ様々に色を使うのが、 ﹁面白い﹂ と思っているようだ。とは言え画法は広く習得し、軽く熟せてし まう石燕なればこそ、子興が望む画法を指導することも容易いので あった。 漆の匂いが部屋に篭らぬように風通しを良くしているその塾で、 初顔の生徒が頭を抱えて教科書代わりの黄表紙︵大衆向けの絵本の ようなもの︶と睨み合いをしている。 九郎である。 ﹁むう⋮⋮﹂ 目を細めていても書かれている字は変化しない。つまりは九郎、 あまり字が読めぬのであった。 日本語で書かれてはいるものの、300年程未来で生きた九郎か らしてみれば古語他ならない。漢字は読めるのだが接続詞に現代で は使われていない文字が加わっていたりひらがなが矢鱈達筆に見え たり、中々に難しい。 全く字の読めぬものならばすぐに投げ出すのだが、中途半端に読 める為に頑張って読み解こうとしている姿を見て子興は目を細めな がら、 ﹁九郎っちいつも大人ぶってるのに意外だね﹂ などと誂うものだから苦い顔で九郎も否定をする。 ﹁ええい、この時代は字の癖が書き手によってありすぎなのだ。こ の草紙に比べれば石燕の書いた字がまだ読み易いぞ﹂ 161 ﹁おや九郎君から褒められるとは。雨でも降るのかね⋮⋮はっ、ま さか九郎君は妖怪﹃雨降り小僧﹄だとでも云うのかね!?﹂ ﹁なんだその妖怪は﹂ ﹁雨を降らす小僧の妖怪だから雨降り小僧だよ。雨の神の遣いだと も言われているね﹂ ﹁名前がそのままというか適当だな⋮⋮﹂ 九郎はまったく関係ないが東南アジアに住む猿の仲間、カニクイ ザルを思い出した。カニを食う猿の名称である。 子興が続けて、 ﹁豆腐小僧と並んで黄表紙では人気妖怪なんだ。ええと、確か師匠 の出した雨降り小僧と豆腐小僧の衆道系薄い高い本の売れ残りがそ の辺に⋮⋮﹂ ﹁見せんでええわい﹂ 本の山に手をかけた子興を止める九郎。こんな時代でも薄い高い 本はあるのか、とため息を吐いた。というかこの時代、本は版木を 彫った物を一枚一枚紙に転写して紐で綴じていたのだから必然とど れも高価なのであった。庶民は貸本屋で借りるのが普通である。 よくよく思い出せば異世界にも同人誌即売会が行われていた。 商業都市で年に一度、各国から作家たちが集ったものである。壁 サークルが魔王だった。かのイベントでは商売神と宴神の加護によ り邪竜だろうが悪霊だろうが神殺しの大罪人だろうが、商業目的な らば安全に滞在が出来るのであったが⋮⋮ 考えにふけっていた九郎を見ながら石燕が子興に告げる。 ﹁言い忘れていたが子興君、実は九郎君は遥か未来から時間移動し てきた未来人なのだよ。この時代の文字が読めなくても不思議では ない﹂ 162 ﹁⋮⋮ああ、うん。そうなんだ、大変だね﹂ 一瞬間を開けて考え、子興は優しく受け入れるように頷いた。誰 だってとは言わないが、妙な設定に被れる時代はあるものである。 熱心に信じさせる気力も沸かないのか九郎は気にせずに、目の疲 労を取ろうと寄せた眉根を揉んだ。 石燕は含み笑いを漏らしながら告げる。 ﹁ふふふ。そのうちにこの、世界を大いに盛り上げる為の石燕の塾 に宇宙人︵仏教用語︶や超・能力者も集うのかもしれないね﹂ ﹁頼むからその発言を後世に残すなよ﹂ なにやら歴史だか著作の危機を感じた九郎は半目で睨みながら釘 を差したのだった。 ***** 昼飯は魚売りが来たので子興が鯵を買ってたたきにした。 三枚に下ろした鯵の切り身を丁寧に包丁で細かく叩き、紫蘇の大 葉と茗荷の細切りを加えて上に摩った生姜を乗せて生醤油で食べる のである。 小さく刻まれた身に生醤油がよく絡み、茗荷の歯ごたえと大葉の 爽やかな風味が生臭さを消してこれを白い飯と合わせるとまた格別 なのであった。特に、炊きたてではなくやや冷えて硬くなった飯に 合うのである。 喉につっかえそうになりそうなぐらい掻きこむ九郎を、嬉しそう に子興は眺めるのであった。 163 ﹁うう、師匠は外食ばっかりであんまり小生の料理食べてくれない けど⋮⋮﹂ ﹁いや中々に乙なものだぞ子興よ﹂ 九郎が褒めるのを聞いて隣で食うお房も頷きながら、 ﹁子興姉ちゃんは日頃の家事によく気配りが出来るって評判なの。 ⋮⋮まあ、嫁の貰い手が無くて可哀想だからあたいが流してる評判 なんだけど﹂ ﹁お房ちゃんの気遣いが逆に哀しいよ!?﹂ ﹁地獄先生の弟子では仕様が無いの。子興姉ちゃんも妖怪の類だと 思われてて嫁ぎ遅れとは⋮⋮可哀想﹂ ﹁お房ちゃんも将来的に同じ運命を辿るからね!?﹂ かしましく騒ぐ二人は兎も角、小さな魚のつみれが入った冷たい すまし汁を飲んで美味そうにしている九郎に自慢げに石燕は云うの であった。 ﹁料理も私が教えたのだよ? 不味いものでも作ってみたまえ。八 丈島で版木を彫らせる修行に行かせるところだよ││ああ、それと 酒を出したまえ﹂ ﹁はぁい﹂ 割りと本気で島流しさせるつもりがあるのを知っている子興は僅 かに青ざめながら徳利を持ってきた。 なにがし 実際に八丈島に伝わる山に住まう妖怪[テンジ]を調査しに石燕 が行った際、連れて行った同門の北川何某が置いていかれたのを目 撃しているのであった。その時の北川の失敗した焼き魚のような死 んだ目が何とも言えなかったのである。帰ってきても北川は、 164 ﹁テンジちゃんまじテンジ﹂ と、ぶつぶつ呟く危ない精神状態になっていたほどであった。 その時の様子を九郎に子興は語って聴かせるに、 ﹁すぐにお寺に連れて行ったんだけど、お坊さんが﹃お前たち何を した!﹄って怒鳴りだして北川の髪とか切って親戚とか呼んで﹃残 念だけど助からんでしょう⋮⋮﹄って﹂ ﹁どこかで聞いたことのある洒落にならない怖い話風になっとるぞ ⋮⋮それでその北川何某はどうなったのだ?﹂ 九郎の疑問に師匠である石燕が応える。 ﹁うん、それ以来あの男は人が変わったように春画ばかり描くど助 平になってしまったのだよふふふ﹂ ﹁何故に!? どういうオチだそれは!﹂ 笑いながら石燕は、話を肴に盃に注がれた酒を飲み干す。見なが ら九郎は、 ﹁⋮⋮昼間からよう飲むなあ﹂ と呆れたような声を上げるのであったが、諦めたような顔で子興 は、 ﹁師匠はとにかく酒飲みだから⋮⋮この前も詩吟の会で﹃朝もよし 昼もなおよし 晩もよし その合々にちょちょいとよし﹄とか詠 ってたぐらい﹂ ﹁酒飲みの何が悪いというのかね?﹂ ﹁主に肝臓とかが悪いであろう﹂ 165 ﹁ふふふ﹂ 九郎から目を逸らす石燕であった。 やがて開き直ったかのように告げる。 ﹁昼酒昼風呂昼寝は作家の意気地だ! さあ子興君、風呂を用意し たまえ﹂ ﹁はぁ⋮⋮﹂ ﹁まあそのなんだ、頑張れよ﹂ 恐らく本日の塾終了のお知らせにため息混じりの子興を一応励ま して、町にでも出かけようかと立ち上がった九郎の手を石燕は掴ん だ。 ﹁君も風呂に入っていくかね九郎君。入っていくね。よし﹂ ﹁断固辞退するわい﹂ きっぱりと断って逃げるように立ち去った。 **** 江戸の町は当時世界でも有数の観光都市でもあった。 ﹃江戸見物四日めぐり﹄と題される資料に見られるように現代で 云うガイドブックのようなものも様々に出版されていたようである。 地方からやってきた労働者や藩士らはこぞってそれらを購入して非 番の日は歩き歩いていたという。 166 遊び歩くに退屈しない。神社仏閣を巡るだけでその境内にある屋 台出店や、大道芸も多く見られて九郎は見物に出歩いていた。 草餅を片手に道を進んでいるとなにやら立派な店だが鯨幕が掛か っている店の前に通りかかった。鯨幕は白黒の幕で葬式などに使わ れるように縁起の悪い⋮⋮というか喪に服したり穢れがあったりす るときにかけるものである。 徳川五代将軍綱吉が制定した法令に服忌令というものがある。こ れは穢れが発生した際にどれだけの期間忌引きにすれば良いか細か く決めたものであった。 恐らくはこの店舗、最近何らかの死人でも出たのか店を開けるこ とをせずに居るのだろう。 だが、何処かで見たような⋮⋮と九郎は少しの間立ち止まって首 を傾げた。 すると、店の中から出てきた少女と目があった。 お八である。 ﹁⋮⋮あ﹂ ﹁ん、ここは藍屋だったのか。夜と昼では印象が違うな﹂ 納得したように草餅を飲み込んで頷いた。 そして、 ﹁じゃあの﹂ と軽く会釈して立ち去って行こうとしたのだが⋮⋮ 外に出てきたお八が家の中にすっ飛ぶように駆けて行き、そして 再び走り降りてきて九郎の袖を引っ張り込むのであった。 ﹁ぬぁ!? どうしたのだハチ子﹂ ﹁親父とお袋が呼んでんだよ! 早く来い!﹂ 167 ﹁わかった、わかったから引っ張るでない﹂ なにやら慌てている様子のお八を宥める九郎である。 店の奥に連れて行かれると品の良さそうな夫婦が並んで座ってこ ちらを見ていた。 お八は引っ張っていた手を離して姿勢を正し、 ﹁と、父様、母様! 連れて参りました!﹂ ﹁親父とお袋ではなかったのか││痛っ﹂ ぽつりと口走った九郎の背中をこっそりと軽く摘んだ。 しかしその行為も気づかれたようでお八の母は戒めた。 ﹁お八。命の恩人になんという事をしてるのです。それに連れて参 ったではなく、お連れしました、でしょう。言葉遣いを直しなさい﹂ ﹁はい⋮⋮すみません﹂ 叱られてうなだれるお八であった。 別段九郎は気にしていないのだったが、そこは有名な商屋の娘で あるお八にもその両親にも、面目が有るのだろう。 座敷に上がって並んで隣に座っているお八は大人しくしている分 には可愛らしい少女であるのだが⋮⋮やはり口の悪さは両親も気に しているようだ。 ︵子供は元気なぐらいで丁度良いがの⋮⋮︶ 九郎は頬を軽く掻く仕草をしながら思った。 少し居心地悪そうな態度を察したのか、娘を叱る妻を制して大旦 那が頭を下げた。 168 ﹁これ⋮⋮失礼をしました。改めましてわたくし、藍屋の主をやら せて貰っております芦川良助と申します。この度は危ういところを お助け頂いてまことありがとうございました﹂ ﹁ご丁寧に⋮⋮己れは九郎だ。蕎麦屋の[緑のむじな亭]で隠居し ておる﹂ ﹁な、なんと、佐野六科のところにですか?﹂ ﹁うむ。少しばかり旅先で縁があってな。店を幾らか手伝う代わり に住まいを借りているのだ﹂ ﹁左様でしたか⋮⋮いえ、実は佐野六科の亡妻はわたくしの娘、お 六。つまり彼はわたくしの義理の息子に当たりまして⋮⋮奇縁に驚 かされます﹂ ﹁そうであったか﹂ 偶然助けた相手が六科の親戚だったとはつゆとも思っていなかっ た九郎は素直に驚いた。 店にお八が来てすぐに去っていった時は、てっきりお房の友人か 何かだと思って深くは聞かなかったのだ。 妙なめぐり合わせに感じ入ったのであるが、良助は用意していた ものを九郎の目の前に差し出した。 紫色の布で包まれた小判だ。十枚ほども重なっている。 ﹁む、ご主人。これは⋮⋮﹂ ﹁遠慮なさらずに気持ちよく受け取ってくだされ﹂ ﹁⋮⋮ならば有難く頂戴しよう﹂ 良助の顔から誠意というか、感謝というかそういう感情を感じた ため、断るのが、 ﹁逆に失礼﹂ 169 に思えて九郎は素直にそれを受け取り懐に仕舞った。 その後も茶と菓子などを交えながらお互いに世間話をした。 九郎の出身なども聞かれたがやはり適当に濁すのであった。この 場合に家族が押し込みにやられて皆死んだという話の振り方は、向 こうがそれ以上突っ込んで聞いてこなくなるので便利だと思ったが、 真剣に同情してくる相手だと少々罪悪感が沸くのである。 この店主夫妻も同情から﹁うちに住まないか﹂などと言ってくれ たのだが、どうどうとぐうたら出来る環境であるむじな亭に愛着が あるので丁重に断る必要があった。 見た目よりも実年齢が高いこともさり気なく伝えると、大人の盗 賊を投げ飛ばす肝の太さと落ち着いた態度からむしろ、 ﹁やはり﹂ と相手が納得するほどであった 九郎と良助は妙にうまがあったのか楽しげに談笑していると話題 はお八のことへと映った。 ﹁実は⋮⋮﹂ と困ったように夫婦が目配せして語った内容は、お八があの事件 から妙に剣術などを学びたいと頼んでくるのであるとか。 窮地に陥った時にいつもの強がりすら出せずに震えて泣いてしま ったのが余程堪えたのだろうと九郎は思った。そもそもそのような 状況で怖がるのは十代の少女なのだから当然なのではあるが、やは り本人の負けん気が強い性分なのだ。 ﹁とは言っても女が剣術を習うなどはしたない、と止めるのですが ⋮⋮﹂ ﹁勝手に剣術道場を覗きに行く始末でして﹂ 170 ﹁ほうほう﹂ ﹁んっだよ⋮⋮別にいいじゃねえか⋮⋮﹂ ぼそぼそと親に聞こえない程度の声量で云うお八を九郎は微笑ま しく思う。 少しばかり助け舟を出そうと思って告げてみる。 ﹁しかしご主人よ、この通り⋮⋮云ってはなんだが、ハチ子は気性 が激しい性分であろう。いつも家に閉じ込めて細々としたことばか り教えられても、そのなんだ⋮⋮すとれす、ええと苛立ちのような ものが溜まってしまって余計に仕事が捗らぬのではないか?﹂ ﹁そ、そうそう。そうなんだよ、体動かさないで縫い物とかやって るとむずむずして失敗しちまって⋮⋮﹂ ﹁これ﹂ ﹁あっ⋮⋮す、すみません﹂ ﹁よいよい、誰ぞ聞いているわけでもなかろう。話しやすいように しておくれ﹂ 叱る母親に九郎が窘めるようにする。 九郎殿が言われるのなら⋮⋮と母親も娘の言葉遣いに関してはと りあえず棚に上げること決めたようだ。 ﹁だからだな、週に一度か二度程度でよいからお八の好きなように させるのもよいと思うぞ。剣の道は礼儀や心を鍛えることにもなる からな﹂ ﹁⋮⋮しかし九郎殿、女が木剣を振るうのは兎も角、わたくしはこ の末の娘が、むさ苦しい男ばかりの剣術道場で叩かれたりするのが 心配で堪らないのですよ﹂ ﹁ううむ﹂ 171 確かに、少女が剣術道場などに通うのも珍奇な目線を向けられる し、乱暴な男のいる道場などに行くのはいささか怖ろしい気はした。 お八がやりたいことは応援したいが、少女を危険な目に合わせる のは⋮⋮と考えた九郎がふと思いついた。 むさ苦しい男など居らずに、少なくとも信用のおける主が居て、 周囲から嗤われないような道場をだ。 ﹁そうだ、己れの友人がやっている道場があるのだが、そこは道場 主以外門人は居らぬような寂れたところでな。主の腕前と人格は己 れが保証する確かな男だが⋮⋮﹂ ﹁ほう、それは⋮⋮あ、もしや九郎殿と同門の方で?﹂ ﹁いやいや、己れのはジグエン⋮⋮ええと、薩摩示現流の荒っぽい のを習っておるからな、女子供には全くお勧め出来ん。一方でその 男は剣から弓や棒までなんでも使える見事なわざまえでの。己れが 紹介できるのはそこぐらいだなあ﹂ 以前に勘違いされたように、適当に薩摩示現流を習ったことが有 るという設定を前に出す。 実際に習っていたわけではないのでとても指導はできない。それ に女のやる流派ではない。なにせ本場である鹿児島で、未婚の薩摩 男児は家族以外の女人を自ずから目にしただけで私刑に合うような 怖ろしい世界だと九郎は思っている。 お八は顔を上げて、声を絞り出して言った。 ﹁あの、父様、母様⋮⋮っ﹂ そこで声が詰まってしまって、一瞬九郎の顔を見たが彼は優しげ な顔で頷いた。 後押しされたような気持ちになってお八は続けた。 172 ﹁そこに通いたい⋮⋮です!﹂ ﹁⋮⋮﹂ 母は苦々しい顔をしながらも判断を夫に任せたように彼を見やる。 腕を組んで難しい顔で考え込んだ良助だったが、やがて破顔して 告げる。 ﹁そうだな、九郎殿に免じてその道場に行ってみろ﹂ ﹁やった!﹂ おおよそ見るに人のよさそうな主人は、孫のように年の離れた娘 の要求を頭を掻きながら受け入れるのであった。 ﹁ただし、しんどいだの辞めたいだの一言でも云うたら二度と行か せんからな。それ以外でも家で針仕事も算術も確りと学ぶことが条 件だ﹂ ﹁うん、わかった! あんがとな親父!﹂ ﹁おーはーちー⋮⋮﹂ ﹁うわっご、ごめん﹂ 睨まれてすぐに謝るお八を見て九郎は小さく吹き出し、口を隠し た。 奥方は意地悪そうな顔をしてお八に云う。 ﹁そんなことでは何時まで経っても、九郎殿に差し上げる服は出来 上がりませんからね﹂ ﹁ちょっ⋮⋮! そ、そ、それを言わないでくれよ!?﹂ 密かに。 呉服屋の娘として九郎に服を作ってやろうと思いながらも持ち前 173 の不器用さで中々にそれが出来ないお八は顔を赤らめて母の発言を 遮る。 特に頓着せぬ九郎はむしろ、お八が感謝の気持ちを服にして渡そ うとした意気を思って、 ﹁なんだ、お主。意外に義理堅いおなごだの﹂ などと孫ほども年の離れた年若い少女のいじらしさに笑みがこぼ れる。 九郎と微笑ましそうに見る父母の視線を受けて、頬に朱を差した ようになったお八が、 ﹁う、うるせえ!﹂ と、九郎を小突いて照れを隠すのであった。 **** 一刻半程も藍屋で過ごしただろうか、帰るときにはまたいつでも 来てくれと主人に言われ、気分よく出て行った。 江戸の町は既に夕焼けに染まっている。仕事を終えて家に帰る人 らが町の通りに多く見られた。 九郎は懐に入れた十両を、さてどうしようかと考える。正確な金 銭感覚はまだ無いものの、一両を使って様々な買い物をした経験か ら十両は大層な大金だということは知れた。 ︵例えば時代小説の人物ならば馴染みの岡っ引きへの礼金などに一 分だの一両だのぽんと使うのであろうが⋮⋮︶ 174 と様々な事件の解決のために気風よく金子を都合する時代小説な どを思い出すが、九郎に何か物事を頼みたい岡っ引きの知り合いな ど居ない。 知っている同心は[青田狩り]の利悟ぐらいだ。何も頼みたくな い。何も。 基本的に蕎麦屋に住み込み居住は確保されていて、あとはせいぜ い上酒を買う程度にしか大きい金を使う機会の思い当たらない九郎 は、むしろ大金を貰っても使い方に困るのであった。 ︵銀行等は無いだろうしなあ⋮⋮︶ 床下貯金でのしておこうかと悩みながら歩いていると、声をかけ られた。 ﹁ちょいち! 一寸待ちなぁ。おいおい、奇遇だな坊主﹂ ﹁む? ああ、お主か⋮⋮﹂ 気さくに手を上げてどこか剣呑な眼の色をしたまま笑顔を作って いる、着流しで髭の生えた浪人風の中年だ。 [切り裂き]同心、中山影兵衛である。 同心と言えばひと目で分かるような紋付袴を着ているものだが、 何時見てもこの男は無頼か破落戸の類のごとき服装をしている印象 であった。無論、職務中ではなく非番なのだろうが⋮⋮ ﹁いやあ、実はこないだの藍屋の事件で殺しすぎて謹慎喰らってよ ぅ﹂ ﹁謹慎してろよ﹂ ﹁んなこと真面目にするわきゃねぇだろ? 今の拙者ぁ流れの浪人、 まあ適当に三郎とでも名乗ってるわな﹂ 175 肩を竦めながら云う影兵衛であった。 生家である中山家でも影兵衛は三男にも関わらず自由気ままに家 人を言いくるめているようなのである。特に当主である彼の兄など は、一度御前にも上がった剣術勝負で代役を務めて貰った弱みがあ ったため、この個人武勇の矢鱈と強い男に融通を効かせているので あった。 ﹁てめえに声を掛けたのは他でもねぇ。藍屋には行ったかよ?﹂ ﹁うむ⋮⋮十両も渡された﹂ ﹁実は拙者もだ﹂ 彼は懐から小判の束を取り出して広げると﹁へへ﹂と笑った。 ﹁だがしかぁし! 十両の使い道に困っていると見たぜ﹂ ﹁⋮⋮いや、貯金しようかと﹂ ﹁甘い、甘い。いいか坊主、宵越しの金を持たぬのが正しい江戸の 生き方ってもんよ﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 九郎は微かに覚えのある江戸の知識を喚起させた。 火事が頻繁に起きて財産全て焼けてしまう危険性のある江戸の町 では貯金などは流行らなかったらしい。少なくとも年内には稼いだ 金は使い切っていたとか⋮⋮ 郷に入れば郷に従え。 影兵衛が云う。 ﹁救った善意から貰った金は世のため人のため使うのが同心つぅか、 幕府から石高貰ってる役人の立場だとは思わねぇか?﹂ ﹁まあ⋮⋮確かに﹂ 176 ﹁つっても拙者ぁ謹慎中で役人じゃなく浪人の三郎だもんなぁ! 同心じゃねぇし可愛い子ちゃんと飲みに行って賭博でぱぁっと使お うぜぇ!﹂ ﹁おいおい、そんな不謹慎なこと⋮⋮まあ構わぬか﹂ と、二人は礼金を浪費することに決めたようであった。 予め言っておくが十両は節約すれば数年は一人暮らしの町人が暮 らせる額である。 **** スッた。 可愛い子ちゃん高級女郎相手に大いに飲んだ後に、影兵衛の案内 で寄った違法賭博場で容赦なく二人共無一文になりながら夜中に褌 一丁で道を歩く。服まで担保に剥ぎ取られたのである。ぎりぎりで 刀は残っているが。 当時の賭場は入場料はもちろん出る際にも金を要求する場も少な くなかった。身ぐるみを剥がされる、という言葉もそのまま行われ ていたようである。 冬は過ぎたとは言え夏には遠い夜の涼しい風が肌を冷やした。身 を縮こませながら麹町の外れを下駄の音を鳴らし歩いているのであ る。 背中に刺青を入れている影兵衛が苦沙弥をしながら愚痴を零す。 ﹁ええい畜生! なんだってんだ馬鹿野郎め! ここ一番の大勝負 で胴元の総取りとかふざけやがって!﹂ 177 ﹁場賃を払えなくなるほど突っ込むなどと⋮⋮熱くなりすぎたわ﹂ 江戸では珍しい、賽子を三つ使った賽子賭博だったのだが三つの 目が全て揃うと掛け金が全て振るった胴元へ没収されるという、現 代で云うチンチロリンに近いルールだったのだ。その代わり一度ご とに払う場賃は安く抑えられているのだったが⋮⋮ のめり込んで一晩で大金を全部溶かしてしまった九郎と影兵衛で ある。 ﹁むしろ己れはお主が大負けして暴れださんか心配だったが﹂ ﹁あん? そんな負け犬の小物臭ぇキレかたしねぇよだっせぇ。ま、 賭場荒らしでも現れたら拙者が憂さ晴らしにそいつを切りがてら胴 元が巻き込まれるのは⋮⋮へへっ、なんだぁ自由だとは思わねえか ?﹂ ﹁思わぬが﹂ ﹁ま、手前も大人になりゃわかるってこったな!﹂ かか、と影兵衛が笑うのを見て嫌そうに顔を顰める九郎だった。 馬鹿話をしながら帰り、道の途中で別れるときになって、にわか に月にかかっていた雲が取り払われて褌姿の影兵衛の背中がまざま ざと見えた。 真夜中の月明かりに照らされる影兵衛の体には、背中に彫られた 黒い昇り龍の刺青が彫られていた。 ﹁しかしお主の刺青強いなあ⋮⋮﹂ ﹁おうよ、男の勲章よ﹂ そう、またしても隅の方に能力らしき文字が彫られているのであ るが、[物半][水倍][二回行動][防御貫通]と非常に多い。 ここまで来るともはやボス級である。何人か刺青の男は見たが、多 178 くは何も追加文字無しか、六科のように一つだけだというのに。 この九郎はまだルール等は理解していない系統の刺青、どうやら 一部で流行っているようであった。勿論、彫ったところで何ら御利 益は無いのだが。 ﹁ところでここに彫られた物半とはどういう意味だ?﹂ ﹁相手からの物理攻撃半減だ﹂ ﹁大人げない程の性能だなお主の竜!﹂ 夜風の吹く江戸の街を、半裸の男が家に向かい歩いて行く。 組屋敷に一人暮らしの影兵衛はともかく、この後服を無くしたこ とで九郎はお房に怒られるのであった。 夜雀の鳴き声が響いている││。 179 9話﹃辻斬り﹄ 立夏の涼し気な夜のことであった。 新宿、道玄坂のあたりを一人の男が提灯を持って歩いている。 ここはすでに江戸の郊外であり、現在のようなビルディングの立 ち並ぶ町並みではなく人家はまばらで畑の広がる田舎風景である。 どこからか、蝮の臭いのする道を注意しながら進んでいた。 六天流道場の主、録山晃之介である。 着流しの腰には当人の体型に似合わぬほどの大太刀を佩いている。 晃之介も五尺八寸は背丈のある丈夫なのだが、それにしても大きな 刀であった。 父、綱蔵の形見、肥前忠吉作の太刀である。晃之介自身が使う並 の大きさの打刀よりも刀身が五寸あまりも長く、晃之介自身もその 違いから完全に使いこなせるというものではなかった。 なにせ綱蔵は背丈が六尺を越える大男で、六天流の装備を身につ けた際には腰に大太刀、背中に五人張りの長弓と狼牙棒、片手に十 文字槍を持つという関所で確実に止められる系偉丈夫だったのであ る。 それを聞いた九郎など、 ﹁一人関ヶ原か、お主の父は﹂ と呆れた言葉を掛けたものである。 ともあれその日は、以前その大太刀を手入れしていた時に目釘が 折れている事に気づいた晃之介が、柄の痛みも激しいようなのでど 180 うせならば新調しようと知り合いの細工屋に預けていた太刀を受け 取りに行った帰りなのであった。 ︵つい、話が弾んでしまった⋮⋮︶ 最近ようやく門人が出来たことや、奇妙な小さい友人のことなど を話し、酒などを飲んでいるとこの時刻になってしまったのである。 林の中を歩いていると妙な予感がした。 厭な気配だ。 首筋がちりちりとして全身の毛が騒いだ気がして咄嗟に前へ飛ん で後ろを振り返った。 すると、既に一間の間合いにまで刀を抜いた男が近寄っていて、 今にも斬りかかりそうな具合であった。足には地下足袋を履き、足 音などを消しているようだ。 ﹁誰だ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 黒い覆面の男は提灯を突きつけられて、にたりと笑ったようだっ た。 再度晃之介が問いかける。 ﹁何者だ! 答えろ!﹂ ﹁くくく⋮⋮これは中々に使えそうな奴よ。今宵は少し楽しめるか ⋮⋮その刀を頂戴する﹂ 低い威圧感のある声であった。 応える気は無いらしく、刀を己の背後に隠すような奇妙な構えを 取り、にじり寄ってくる。 晃之介は大太刀を抜き放ち、不敵に笑いながら云うのであった。 181 ﹁何者か知らないが、舐められたものだ。こちらから実力を試させ てもらうとしよう。行くぞ!﹂ 一息に晃之介は間合いを詰め、斬りかかる。 **** 九郎が刀狙いの辻斬り強盗の話を聞いたのは、本町にあるももん じ屋﹃獣菜﹄で獣肉を食っていた時のことだ。ももんじ屋とは当時 江戸で薬食いと称して獣肉を食うための店で、馬肉、鹿肉、猪肉、 イタチや兎も出していたという。 たまたま店に居合わせた[切り裂き]中山影兵衛からの情報であ る。 ﹁⋮⋮つぅわけで、夜な夜な刀持ちの侍剣客が辻斬りに襲われてば っさりやられてんだ。刀は持ち去られてな﹂ ﹁素直に自主しても白州での裁きは厳しいものになるであろうなあ お主﹂ ﹁おいおい拙者じゃねぇって。へへっ拙者がそんなことするような 奴に見えんのかよ?﹂ ﹁火付盗賊改方では総突っ込み受ける発言だな!﹂ 多分既に言われているのであろう男は獨酒を入れた猪口を傾けな がら肩を竦めた。 この獨酒、非常に臭いがキツくそのまま飲むには辛いものがある 182 のだが、この店で出される猪の肉がまた臭い。濃い味の醤油で煮ら れた肉の繊維を噛みちぎって、豚よりも歯ごたえのあるきこきこし た脂肪などで口の中がべっとりと獣臭くなった後に飲むこのキツい 酒が、また堪らぬのであった。 特に九郎は江戸に来て毎日魚ばかり食べていた為に獣肉に飢えて いて旨そうに昼間から酒をやっている。 ﹁つってもよ? 拙者自身は清廉潔白な身上なわけだが周りは何故 かそう思わねえんだこれが﹂ ﹁凄くわかる﹂ ﹁火付盗賊改方の同僚や上司は手口が違ぇから拙者じゃねえってわ かってくれてはいるんだが⋮⋮町方奉行所の連中はそうは思ってね えみてえでよう。拙者自身、この辻斬りを解決しようと夜な夜な出 歩いているっつうのにそれも怪しいから止めろって長官と実家から 止められちまった﹂ ﹁状況証拠まで揃いすぎている⋮⋮﹂ 確かに異様に物騒なあだ名で呼ばれる、日頃から生活態度が悪い 人斬り大好き同心が夜な夜な遊びまわっていれば、 ﹁怪しい﹂ と見られても仕方がない。 危惧したのは上司と旗本四千石の中山家である。 中山家は影兵衛当人がやっていないという証言を、まあ少なくと も最大好意的に判断して話半分程度には信じているものの、下手に 事態が動いて影兵衛に濡れ衣でも被せられれば大変な不名誉が振り かかる。 ﹁実際昼間だってのに今も同心の手先に見張られてるしよう、つい 183 ぶっ殺しちまいたくなるぜ﹂ ﹁マジであるか⋮⋮己れも仲間だと思われないだろうか﹂ 心配そうにきょろきょろと周囲を見回すがどれが見張りかはわか らなかった。或いは外からこの建物の入口を張っているのかもしれ ない。危険な男が相手なればこそ、慎重に。 影兵衛はため息を吐いた。 ﹁だから拙者も困ってるわけよ。な? ここまで言えばわかってく れんだろ?﹂ ﹁何がじゃ﹂ ﹁辻斬りをとっ捕まえないと拙者が遊びに行けねえ。ならさっさと 捕まえるに限る﹂ そして顔を片方だけ吊り上げるような凶悪な笑みを浮かべて九郎 へ指を向けた。 ﹁辻斬り御用の手伝いを頼むぜ? 相棒﹂ ﹁えっ普通に嫌だけど﹂ 普通に断ってばくばくと肉を食って出て行く九郎であった。 彼は一般人なのでそのような事件に付き合う義理は無い。 拗ねたような影兵衛の顔が印象的であった。 **** 184 あくる日の朝である。 九郎はまだ開いていない緑のむじな亭で茶を飲みながらお房相手 に将棋を打っていた。九歳にしては確りとルールと駒の動きを覚え ているお房であったが、さすがに九郎には遠く及ばず、指導将棋の ような内容であった。 お房が熟練してくれば異世界で小さなブームになった超将棋大戦 ルールを教えるのも良いかもしれない。駒の種類は変わらぬのだが 二回行動や精神コマンド、特殊スキルに必殺技が使えるのが特徴的 なゲームである。九郎も住んでいた街区の小さな大会で優勝し[穴 熊狙撃]のクロウと呼ばれたものである。 ︵[歩兵爆弾]のエイゲル⋮⋮[将棋ボクサー]のレトレア⋮⋮ど うしているだろうか⋮⋮︶ などと遠い昔の将棋仲間の顔を思い出しながらのんびりと過ごし ている時であった。 緑のむじな亭入り口の戸が勢い良く開けられた。 何事かと思って顔を向けると、膝に手をついて肩を上下し息を整 えている少女が居た。 老舗の呉服屋、藍屋の娘お八である。 ひどく全力で疾走してきたようで、汗だくの顔を青くして上げ、 九郎を見つけた。 ﹁おい、どうしたのだハチ子や。そんなに慌てて﹂ ﹁たっ大変なんだ、師匠が!﹂ ﹁なに?﹂ と九郎は立ち上がりお八に近寄った。 お八の師匠とは九郎と友人でも有る六天流道場の主、録山晃之介 の事である。九郎の紹介から近頃、かの道場へお八は通うようにな 185 ったのだが⋮⋮ ﹁師匠が辻斬りに襲われたんだ!﹂ ﹁⋮⋮!﹂ 九郎は駈け出した。 人波をかき分けて一直線に晃之介の道場へ疾走る。その速度は常 識離れしたような早さで、目撃した町人たちは皆立ち止まって驚き の視線を向けるが、その時には既に視界から離れている程であった。 直線距離で一里以上は離れているはずなのに五分と経たずに、減 速を知らぬような早さで六天流道場まで辿り着いた九郎は急ぎ門を くぐった。 ﹁晃之介! 無事か!?﹂ そして九郎の目に飛び込んだのは、柱に縛り付けられた人相の悪 い珍平風の男と、その男の前に仁王立ちしているきょとんとした顔 の晃之介であった。 彼は軽く手を上げて告げた。 ﹁九郎。早いな﹂ ﹁お、お主辻斬りに襲われたと聞いたが⋮⋮﹂ ﹁ああ。なんか襲ってきたから普通に返り討ちにしてやった﹂ ﹁おい!?﹂ 九郎は道場の床に崩れ落ちながら嘆いた。 ﹁あの引きだと辻斬りに怪我させられたとか負けたとか思うだろ! ? なんで普通に勝ってるんだ!?﹂ ﹁えっ⋮⋮そんなこと言われても。俺が強いからであって負けを期 186 待されても困る﹂ ﹁うがああ!﹂ 頭を抱えて呻く九郎。心配して大急ぎで駆けつけたというのに⋮⋮ 晃之介はこれでもかなり剣を使う方なのでそこらの剣客相手なら ば不意打ちを受けない限りそう負けることはない。わかっては居た ものの実際に無傷で楽勝だとこう、 ﹁納得の通らぬ﹂ 気分になるのが心情であった。 ﹁じゃあなんであんなに急いでハチ子が伝えに来たんだよ!?﹂ ﹁これも修行の一つだ。体力作りは大事だから走って行くようにと 伝えたが成る程、確り守ったようだ﹂ 満足そうに頷く晃之介に、慌てて駆けつけた自分が恥ずかしいや ら粗足下しいやらで頭を抱えて呻くのであった。 暫し暴れたものの落ち着いた九郎が息を整えて立ち上がると、壁 に縛り付けられた男を指差して聞いた。 ﹁それで辻斬りを捕らえたはいいが何も話さぬので今から拷問とか やっちゃうわけだろ?﹂ ﹁いや、ペラペラと奪った刀の卸先とか仲間の情報とか喋り出して 頼むから逃がしてくれとか言ってるのでな、九郎にも知恵を借りよ うかと﹂ ﹁はははっ御免なすって﹂ ﹁駄目駄目だなこの辻斬り!﹂ 卑屈そうな笑みを浮かべる辻斬りに愕然とする。 187 九郎は半目で呻いた。 ﹁もう適当に火付盗賊改方に押し付ければいいのではないか? 小 奴ら、世間では悪どい辻斬り強盗として有名らしいぞ﹂ ﹁ぼ、坊ちゃんそれだけはご勘弁を! 善良で超下手にでる町人と して紙屑拾いかおちゃないとかにこれから生まれ変わりますからお 願ぇします! あの全ての指に竹串を刺して火をつけてから尋問開 始とかやる火付盗賊改方だけは!﹂ ﹁火付盗賊改方マジ怖っ⋮⋮﹂ ﹁こうまで云うものだからどうもな。こいつも、俺以外襲ったこと 無いようだ﹂ 襲われた当人だというのに困った顔をして腕を組んでいる晃之介 であった。ちなみに、紙屑拾いはその名の通り紙くずを拾ったり家 を訪問して集め再生紙の浅草紙作りに売り飛ばし、おちゃないとは 女性の抜け落ちた髪の毛を拾い集めてつけ毛屋に売るというリサイ クル業者であった。 卑屈になって身を窶そうというつもりなのである。 九郎はやや思考し、 ﹁⋮⋮それならばとりあえず情報だけでも同心なり奉行所なりに垂 れ込むとするか﹂ ﹁ええ、しかし気をつけねえといけねえことがありやして⋮⋮﹂ ﹁うむ?﹂ 辻斬りの男が微妙な表情で云う。 ﹁実はあっしともう一人居る辻斬りなんでやすが、そのもう一人⋮ ⋮名前は知らねえけれど、凄腕の剣を使う同心なんでさ﹂ ﹁⋮⋮あっちゃー⋮⋮やっぱりかー⋮⋮やっぱりやっちゃってたか 188 ー﹂ 九郎は額に手を当てて参ったようにうんうんと首を振った。 第一候補的中のようであった。謎の辻斬りと知り合いの[切り裂 き]中山影兵衛の姿が見事に重なった。 男は続ける。 ﹁だから下手に密告するとそいつに気づかれて逃げられかねないで すぜ。どうも勘働きの良い奴みてえなんで﹂ ﹁わざと容疑者になってアリバイ工作までしてるなんて⋮⋮怖ろし い奴め﹂ こうなれば自分を誘ったのも、夜道で襲いかかるためだったのか もしれない。 そこまで考えて九郎は、はっとして気づいた。 ﹁ま、まずい﹂ ﹁どうした? 九郎﹂ ﹁そのイカレ辻斬り野郎と親しげにしているところを同心の手先に 見られておる! このままだと己れも仲間だと思われかねん⋮⋮﹂ さらに、 ﹁その男を召し捕らえようとすれば、同心らも大勢死人が出る⋮⋮ 大事と関わってしまっているぞ﹂ ﹁よくわからないが、どうするんだ? 手を貸そう﹂ ﹁うむ﹂ 九郎は重々しく頷いてごつごつした晃之介の手を取った。 189 ﹁己れらで辻斬りの残りを捕まえて番屋に突き出すぞ!﹂ **** ︵ええと、アカシック⋮⋮なんとかバーン⋮⋮ⅡだっけかⅢだっけ か︶ 九郎は背中に異世界から持ち込んだ名刀、アカシック村雨キャリ バーンⅢを背負って夜道を歩きながらどうも思い出せない剣の名を 考えていた。 この世界に来てすっかり使わなくなり埃をかぶっていた上級概念 式武装なのだが、九郎もうっかり名前を忘れてしまっているようで あった。 見事な拵えと朱色の鞘に収められたそれは誰が見ても、 [怖ろしいまでの名刀] に見える。実際にそのような畏怖を生み出させる魔力⋮⋮名称[ 凄い概念]を付与されて作られた刀でもあった。誰が見ても凄く思 えるのである。 刀狙いの辻斬りが、そんな名刀を持っている小僧が独り歩きして いるのを見つければ必ず襲うであろうと予想して、敢えて人気のな い道を九郎は歩いていた。 その九郎からやや離れて、建物の影などに隠れるように追いかけ ているのは弓を持った晃之介である。 口に短冊のような紙を咥えている。それは九郎の持っている魔法 190 の呪符[隠形符]というものだ。口に咥えていると内部に秘められ た魔力により、使い手の姿を隠す効果がある。もっとも、目視不能 なだけで匂いや音は伝わる為に使用時には注意が必要なのだが⋮⋮ ともあれ、おまじないとして晃之介にそれを使わせて後ろからつ いてこさせているのであった。当時の人は信心が高く、おまじない なども多く流行していたので特に疑問にも思わず、姿を消した晃之 介はそれと気づかずに付いてきている。 九郎の刀を狙って辻斬りが現れた時に援護射撃をする計画である。 だが、あの影兵衛のような男が不意打ち気味に仕掛けてきて一撃 目をまず生き残れるかどうか⋮⋮九郎の腕にかかっている。 ︵しかしまあ、この前盗賊と争ったばかりなのに今度は辻斬りと関 わることになるとは⋮⋮︶ 江戸も物騒なものだ、と自分から首を突っ込んだのだったが、九 郎は思うのであった。 半刻程も歩いただろうか。 意外に、覆面を付けた辻斬りは九郎の正面から自然と歩み寄るよ うに現れた。 刀を背負いつけているので背中から切りつけるのが確実性がない と見たのだろう。 九郎は刀に手を掛けた。まだ抜かない。 ﹁お主⋮⋮やはり、とだけ言わせて貰う﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁悪鬼め。いくぞ﹂ 合図だった。 風切り音と共に矢が辻斬りに放たれる。練習用ではない半弓︵長 191 弓の半分の長さの弓︶から打たれた矢は一直線に辻斬りへ向かう。 闇夜に飛来するそれは視認することなど不可能だ。 当たる。 当たったが如何な察知をしたのか、辻斬りは左掌に矢を貫通させ て、それでも受け止めていた。 それを意外には思わない。続けざまに九郎は懐に入れていた石塊 を投げつけた。 余人の放った石塊ではない。 だが、矢の刺さったままの左手で殴りつけるように石を打ち払っ た。恐らくは手指の骨が砕けただろうが、気にせずに辻斬りは滑る ような足さばきで九郎へ迫る。 九郎がアカシック村雨キャリバーンⅢを僅かに鞘から抜いた。一 寸ほど抜かれた刀身に月光を反射したそれは、対峙し切りかかって 来た辻斬りが思わず目が吸い込まれるような、 ﹁凄い﹂ と、呟くほどに刀に気を取られた。 それが一瞬の隙となった。 見えぬ弓使いから放たれた二の矢が、視線を刀にやった辻斬りの 右膝に突き立った。 膝に矢を受けては歴戦の戦士だとしても如何ともし難い。 それでも九郎を切るべく振るった辻斬りの凶刃を、肌一枚切らせ て避けて辻斬りの体に固く握った拳からの凄まじい当て身を叩き込 んだ。 ﹁ごふ⋮⋮﹂ とても耐えられるものではない。 肺に溜まった息を全て吐き出したような声を上げて、辻斬りは倒 192 れ伏した。 隠形符を手に持ち直した、半弓を持っている晃之介が駆け寄って きて、 ﹁九郎、無事か﹂ ﹁御蔭でな。しかし恐るべき男よ。此奴をここで捕らえることが出 来て己れは少し安心したぞ﹂ 言いながら、倒れ伏した辻斬りの覆面を剥ぎ取る。 それは全然見知らぬ中年の男であった。 ﹁⋮⋮違えじゃねーか! 糞っ紛らわしいなおい!﹂ 九郎は気絶した知らないおっさんの頬を思わずぶん殴った。 **** 事件はその後、火付盗賊改方に委ねられることとなったが、九郎 と晃之介が捕らえた辻斬り︵最初に捕らえた男は離してやった︶の 正体は、同心の格好をして悪行を働くという有名な悪党、同心二十 四衆が一人[似非同心]の村岡拾朗であった。 もちろん正当な同心ではない。元は上方の方から流れてきた浪人 なのであるが、同じような変装の手口で様々な事をしていたらしい。 何故偽物なのに二十四衆に入れらているのか甚だ疑問であった。 普段着の裏地を同心の柄にしておりいつでも身を変えられるよう にしてあるというのは周到な事この上ない。 193 切り裂き同心、中山影兵衛︵及びにその一味と目される蕎麦屋の 九郎︶の疑いは晴れて一件落着である。 村岡、並びに辻斬りと知っていて刀を仲買していた商人は獄門と 処された。 とはいえ、同心の格好をしたものが大手を振るって江戸の町を歩 き、また辻斬りなどをしていたという事がお上に知れてしまったの だから大きな騒ぎになったのであるが、そこまでは九郎の与り知ら ぬことであった。正しい身分証明の無い九郎は犯人の引渡しなどを 晃之介に任せたのである。 この功績から晃之介の武芸、とりわけ弓術が一部の武士の間で知 られるとなり、後に弓術の指導としてとある大名屋敷へ呼ばれたり することとなるが、それはまた別の話である。 なお、結局この度でも振るわれることのなかったアカシック村雨 キャリバーンⅢは九郎の部屋で再び凄い部屋干し竿代わりにしてい る。凄い。 ﹁ばっかじゃないのあんた! ばっかじゃないの師匠!﹂ 褌一丁で大根飯と豆腐に醤油をかけて食っている九郎と晃之介を 見てお八は指をさして怒鳴った。 汁は無かった。白米、大根、豆腐と江戸の三白と呼ばれる食の基 本三種類が揃っている質素にして粋な食事⋮⋮実際は貧乏臭いので はあったが。 普段から実家で上流の食事をとっているお八から見れば在り得ぬ 食事風景だった。 晃之介と九郎はため息を吐きながら云う。 ﹁くっ、あの時に半が来ると思ったんだけどな⋮⋮﹂ 194 ﹁またしても全財産をスッてしまうとは⋮⋮石燕にたからねば﹂ ﹁普通、賭博に持ち金全てかける!?﹂ 噛み付くような態度でもそもそと飯を食らう二人を説教するお八 である。 晃之介は﹁ふっ﹂と息を吐いて決め顔で告げた。 ﹁男にはやらねばならない時があるんだ、お八﹂ ﹁そして己れらは男なのだよ⋮⋮﹂ ﹁ちょっと良さげな言葉で誤魔化すな!﹂ 晃之介は見事世間を騒がす辻斬りを捕らえた褒美として金一封を 貰ったのだが、九郎と山分けした後に早速賭博につぎ込んだのであ った。 九郎もリベンジマッチめいた意識があったのかもしれない。晃之 介はまんまと乗せられた形になるが、恨み事一つ言わぬのはこの男 の真っ直ぐなところであった。騙されやすいともいうが⋮⋮ どちらにせよやはりスって褌状態になってしまったのである。そ んな状態でむじな亭に帰るとお房に怒られるので晃之介の道場に泊 まった九郎であった。 くしゃくしゃと髪を掻いたお八は唸るように云う。 ﹁あーもう、あたしが古着屋からなんか着るもん買ってくっから待 ってろ!﹂ と走り出して云った。 しみじみと九郎が云う。 ﹁口は悪いが根はお人好しな娘だの﹂ ﹁そうだな﹂ 195 ﹁というかお主、替えの服は持ってなかったのか?﹂ ﹁質に入れていてな⋮⋮折れた木剣やお八用の道具を買い揃えてい たら金が無くて﹂ ﹁⋮⋮頑張れよ﹂ ﹁ああ、お八も見どころ⋮⋮というか根性はある見たいだからな。 それなりに指導もやりがいがある﹂ それは何よりだ、と九郎は味気の無い大根飯に渋目の茶を掛けて さらさらと啜った。茶は、藍屋からの差し入れのようで上等だった 為に、思いの外美味であった。 飯を二人で喰らっていると、ちらりと晃之介が視線を一瞬だけ上 にした後、また飯へと戻しながら小さな声で、 ﹁ところで、あれはお前の客か?﹂ ﹁⋮⋮あれというと?﹂ ﹁道場の入り口でこちらを伺っている⋮⋮﹂ というので、疚しいところの無い九郎は堂々と振り向いて見る。 そこには例の陰間が顔を半分だけ出してこちらを伺っていた。 玉菊である。仕事でもないというのに顔には薄く化粧をして、や はり女物の着物を確りと着こなしている。十人が見れば皆、可愛ら しい少女だと思うであろう。男だが。 九郎は軽く顔を顰めながら、 ﹁⋮⋮ここ最近妙な視線を感じると思うておったらお主か﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ええい、黙っておらぬで見られたのなら逃げるか入ってくるかし ろ﹂ と、告げると許可を得られたとばかりに軽い足取りでぽっくり下 196 駄︵遊女の下働きが履く下駄である︶を脱いで道場に上がってきた。 ﹁ようこそおいでませ、男の世界へ!﹂ ﹁妙なことを云うな!﹂ 男二人、褌姿で飯を食っているむさ苦しい空間へ深呼吸しながら 近寄るのであった。 晃之介もなんとなく見覚えがあったらしく、 ﹁いつだったか盥に乗っていた⋮⋮﹂ ﹁ですよぅ! 漁師さんに拾われなかったら成瀬川土左衛門みたい になってたでござんす!﹂ ﹁ああ、あの力士の﹂ 水死体はぶくぶくに膨れるものだと知っている晃之介は、その当 時まだ現役である力士、土左衛門の姿を思い浮かべて頷くのであっ た。確かに顔まで膨れた容貌と、力士にしては青白い肌が水死体の ようなのであると、相撲の見物客の間では密かに囁かれている。 本人の耳に知れればその噂をした者と、場所の途中であろうが大 喧嘩を起こしてしまうであろうが⋮⋮江戸時代、まだ組合のような 組織が出来ていなかった時の相撲取りは荒っぽく喧嘩っ早いものが 多いのである。 それは兎も角、玉菊は後手に隠していた弁当箱のようなものを二 人に差し出した。 ﹁大根飯と豆腐だけじゃ大の男が精も付きんせん。わっちの手料理 を喰ろうてくりゃれ?﹂ と、蓋を開ける。 そこには鰻の切り身と山芋と葱を串に刺して、山椒味噌を塗り、 197 炭火で炙ったものがぎっしり入っていた。 玉菊は頬を抑えながら嬉しそうな笑顔で、 ますらお すさのお ﹁これを食べれば朝からでも益荒男! いきり勃つ須佐之男!﹂ ﹁目的意識の高すぎる食材であるな!﹂ 鰻も山芋も、精をつける為の食材だと江戸でも認識されていたよ うだ。ただ、どちらも田舎っぽい為に庶民の供であった。もう少し 後の年代に鰻が蒲焼きとして手間をかけて食うようになるまで、ぶ つ切りにして炙った簡単なものが多かったのである。 ともあれ、味気のない大根飯を食っていた二人には濃い味付けの それは美味そうに見えたために、まず晃之介が嬉しそうに手をつけ てまだ温かいそれを食い始めたため、九郎も渋々と玉菊の差し入れ を頂くことにした。 山椒の香りがつんとして、柔らかく味噌の染みたとした鰻の身に ほこほこねっとりした山芋、焼いて甘みが増した葱の爽やかな風味 が食欲をそそる。 ﹁旨いな⋮⋮ところで、九郎の妹か誰かか?﹂ ﹁うふふ、わっちは九郎様の良い人でありんす⋮⋮﹂ ﹁そ、そうなのか? ⋮⋮九郎、進んでいるんだな⋮⋮﹂ 意外そうな顔をしながらもあっさり信じる晃之介の人の好さが憎 かった。 九郎は串を齧るようにしながら嫌そうな顔で、 ﹁そもそも此奴は男だ﹂ ﹁なるほど⋮⋮妙な方向へ凄い進んでいるな九郎! 落ち着いて引 き返したほうがいいぞ!﹂ ﹁違うわ!﹂ 198 座ったままどうやったのか一尺程後ろに引きつつ感心した声を上 げる晃之介に全力で否定した。 それで玉菊が接吻でもせんばかりに口を付きだしてひっついてい くるのだから、片手で接近を拒みながら苛立たしげに声を上げる。 ﹁だいたいお主、しょっちゅう姿を見せるが仕事はどうしたのだ、 陰間の仕事は!﹂ ﹁やでござんすなぬし様。この界隈じゃ常識でありんすが、陰間の 仕事は休み休みやりませんと、後ろの菊が酷いことに﹂ ﹁知りたくなかった常識だ!﹂ 頭を抱えるが、何か面白そうに晃之介がはっと気づいたような表 情になってから口元を抑えた。 ﹁尻だけに⋮⋮知りたくなかった、か。ふっ⋮⋮ふふっ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 二人の反応は無かった。 一人、何か壺に入って笑いを忍ばせる晃之介を見ながら、何処か 先程より一段冷えたような串焼きを九郎は味気なく齧るのであった。 一方でお八、古着屋で晃之介の服は適当に見繕ったものの、九郎 に着せる服を延々と悩んでしまって中々帰って来なかったという。 199 200 10話﹃鳥山石燕奇怪録[うぶめ]﹄ 物語はいつも夜に始まるように、その日も、とあるまだ浅い夜の 細工町でのことだった。 人目をはばかるように暗闇から暗闇へ移動し、犬に食われぬよう な、それでいて昼間になれば人目につく樽の上に女は籠を置いた。 籠の中には寝息を立てるあどけない顔の赤子が居り、女が一度だ け顔を撫でると、意識もないだろうがその親指を握った。 ぼろぼろと涙を女は流しながら、 ︵どうか⋮⋮どうか⋮⋮︶ と、祈るように胸中で呟き、名残惜しそうに、涙を払って顔を俯 け背を向けた。 三歩まで歩いた所で高く、静かな声が女に向かってかけられた。 ﹁生類憐れみの令を知っているかね?﹂ ﹁⋮⋮!﹂ 女は立ち止まった。 胸を抑えると激しい動悸がする。掠れるような吐息が半開きにな った口から閉じた。 闇夜から染み出すように人の形が現れた。 それは全身をややはだけている黒い喪服に包んだ、髪型などはざ んばらに伸ばし随分と傾いた格好の女だった。 鳥山石燕である。 自宅に押しかけた締め切りを催促する版元の編集者からダッシュ で逃げて知人のところにでも飲みに行こうかと出かけていた途中で 201 あった。 赤い唇を薄く開いて石燕は続ける。 ﹁かの徳川綱吉公が制定した動物愛護法だね。これには赤子、老人、 病人も含まれる。綱吉公が亡くなられて後を継いだ家宣公はまず即 座にこれを解除した。宝永六年の正月のことだね。 とはいえこれは生類憐れみの令全てを無かった事にしたわけではな い。行き過ぎた部分⋮⋮犬の世話に町人から税を取ったり、田畑を 荒らす猪や鹿の猟を禁止したり、そういった庶民の生活を苦しめる 内容を止めたのだね。それにより家宣公は随分と好意的に庶民から の支持を受けた⋮⋮まあそれはどうでもいいが﹂ 一息で告げて乾いた喉を潤すように手元の徳利から酒を一口煽っ た。 酔っているようで顔が若干赤らんでいるが、いつもの事である。 ﹁要するに赤子や病人を捨てるのは今でも禁止されているという事 だ。言っておくが逃げても無駄だよ? これでも絵描きだから君の 人相画など朝酒前にかける││わかったらその子を連れて行きたま え﹂ 面倒くさそうに手を振りながら宣告する石燕に固まったような女 は問う。 ﹁あ、あなたはいったい⋮⋮﹂ ﹁地獄先生、鳥山石燕。神楽坂の魍魎とは私のことだ﹂ ﹁鳥山、石燕先生⋮⋮﹂ ﹁ちなみに﹃ぬらぬら☆うひょん﹄という名で春画も描いている﹂ ﹁ぬらぬらうひょん先生⋮⋮﹂ ﹁突っ込み役不在なのが悔やまれるね⋮⋮!﹂ 202 素直に繰り返す女を見て苦々しげに呟く石燕。 ちなみに当時の有名画家は大抵春画も描いている。同じ名前だっ たり、春画用のペンネームを使ったり様々だ。例えば彼女の弟子の 北川何某は後世で海外でも知られる有名春画描きであるし、葛飾北 斎など﹃鉄棒ぬらぬら﹄というペンネームである。本当に。 よろめきながら女は置いた子供の入った籠を持って石燕に詰め寄 った。 ﹁ぬらぬら先生!﹂ ﹁いや、石燕の方で呼んでほしいかな。割りと深刻に﹂ ﹁では石燕先生、お頼みが、お頼みがあるのです! 一週間だけで 結構なのでこの子を預かって下さいませ! 差し迫る事情があるの です!﹂ ﹁え? あ、いやそれは⋮⋮﹂ ﹁お願いします! お願いします! 必ず一週間後に参じますので、 お願いします⋮⋮!﹂ ﹁だから、その﹂ 石燕がもごもごと反論している間にその手にはずしりと重い子供 が乗せられて、女は周囲を警戒しながら足早に立ち去っていった。 夜鳥の鳴き声が聞こえる。 ﹁⋮⋮姑獲鳥⋮⋮か?﹂ 石燕は手元で眠る赤子の顔を覗き込みながら、信じられないよう に呟いた。 203 **** 緑のむじな亭は店を閉めても明かりが灯っていた。 九郎が飲んでいるからである。 居候をしている九郎だが店で飲み食いした分には正規の値段を払 う。時には仕事に出かける前の、長屋の鳶や大工の若衆に一杯奢っ たりするので、 ﹁九郎の若旦那﹂ などとからかい半分だが有難がたがられ、長屋でも人気になりつ つ有る。年若い小僧から施しを受けるのが現代の感覚から言えば妙 だが、江戸では気にする人はいない。細かいことは気にしないお調 子者が多いのだ。店の周囲の掃除やゴミ出しなどの手伝いも、長屋 で暇している連中を雇い使うので重宝がられている。 その日は九郎と六科、それに玉菊とお雪が閉店後の店で夕飯がて ら酒を飲んでいた。 ﹁ってなんで玉菊が混じっているのだ⋮⋮﹂ ﹁んふふー、ありゃヤだ憎いのー変なことするでなしー﹂ ﹁己れの膝に寄りかかって酒を飲んでいる時点で邪魔そのものなの だがな﹂ としなだれかかる玉菊を鬱陶しげに見やるが跳ね除けないのは酒 の影響で寛大になっているからだろうか。 そんな様子を見てお雪はくすくすと笑っていた。 いつも通りびしりと背筋を伸ばしたままの六科は焼き豆腐をカツ カツと歯の音を立てながら食べて、ぐい、と酒を呑む。別に毎日飲 んでいるわけではないが︵恐らくは金銭的な都合で︶飲みだすと笊 204 のように酔わない体質のようだ。 ﹁仲が良いのはいいことですねえ六科様?﹂ ﹁そうなのか﹂ ﹁そうですよぅ﹂ くすくすと口元を隠してお雪は笑う。名前の通り雪のような白い 肌が僅かに赤みがかっている。舐める程度にしか酒を飲んでいない が、すぐに紅潮する体質のようだ。 む、と六科が声を出す。飲んでいた徳利が空になったのだ。 それに気づいたお雪が自分の目の前の徳利を片手に持って注ごう とする。 しかしお雪は盲である為に正確には六科のお猪口の位置はわから ない。 だから、そっと猪口を持つ六科の手の、二の腕のあたりから片手 でなぞっていって指先まで辿り、そっと六科の手を握り固定して注 いだ。 ﹁さ、六科様、飲んで下さいよぅ﹂ ﹁ああ﹂ 特に気にしていない声音で六科は注がれた酒に口をつける。恐ら く娘が酌しようが海座頭が酌しようが同じ反応だっただろうが、お 雪も満足そうな顔をしていた。 お雪の艶めかしい手付きを見て玉菊は奇声を発した。 ﹁お、おぶしゃれさんすな! 九郎様、こっちも負けりゃれんす! いざ! いざ!﹂ ﹁意味のわからん対抗心を⋮⋮﹂ 205 き 嫌そうな声を上げると、彼の飲んでいた濃く辛い純芋醸酎を生で 口に含んで玉菊は顔を近づけてきた。 九郎の後ろから苛ついたような足音が近づく。 ﹁もう、ちょっと折角お店片付けたのに⋮⋮﹂ 九郎はひょいと近寄ってきたお房の首を掴むと、口を寄せる玉菊 と顔面をぶつけた。 ﹁⋮⋮!?﹂ ﹁んふー!﹂ 額がごつりとぶつかると同時に目を閉じたまま玉菊は口の中の焼 酎をお房に口移しで流し込む。 お房はまだ九歳の子供である。口の中が焼けるような感覚と同時 に即座にふらふらと、脳震盪と相俟ったような感覚で倒れ伏した。 玉菊は、 ﹁これはこれで!﹂ と言ったものの次の瞬間空になった徳利が六科から飛んできて頭 に直撃する。 やはり感情を感じさせない声で、 ﹁娘に何をする﹂ とだけ呟いて再び酒を飲み干した。 目を回した玉菊は再びあぐらを掻いている九郎の足の間にうつ伏 せに倒れこみ、﹁ふんすーふんすー﹂と寝息らしきものを立てて起 き上がらなかった。狸寝入りで、九郎の匂いを嗅いでいるらしい。 206 気味が悪そうに九郎が見るが黙っているならば面倒が少なくてい いか、と諦める。 ﹁はい、九郎殿もおかわりをどうぞ﹂ ﹁お、おお﹂ お雪の言葉にお猪口を差し出す九郎。 伸ばした手に持つそれに普通に徳利から注がれた。 ﹁⋮⋮?﹂ 何か納得の行かなそうな顔をする九郎だったが、おかしいところ が有るような無いような、どちらにせよ別にいいか、と思考を放棄 するのであった。 そうこうしていると入り口が勢い良く開けられた。 ﹁おっ││お化けだぁ!!﹂ そう叫んで顔を青ざめて現れたのは、胸に赤子の入った籠を抱い た、お化けの専門家・地獄先生鳥山石燕であった。 **** 彼女への第一声は六科だった。 ﹁? お前の子か?﹂ 207 オニヒトデが投げつけられた。六科は首を軽く曲げて避け、ヒト デは九郎に寄りかかり寝ている玉菊の背中にすっぽりとインする。 ﹁あ、ありんすー!? なにんすー!?﹂ 慌てて飛び起きて着物を脱ぎかけながらばたばた暴れる玉菊は兎 も角。 店の中に入り厳重に扉を閉めて足早に近寄ってくる石燕は、珍し く目を白黒させて持っている子供を九郎の前にドンと⋮⋮いや、そ っと置いた。 そして外を指さして改めて、興奮したように云う。 ﹁お化けだよ! い、いや妖怪か⋮⋮妖怪﹃姑獲鳥﹄に出会ったの うぶめ だよ!!﹂ ﹁う、﹃姑獲鳥﹄ぇ? なにぞそれ﹂ ﹁ふふふいいかね姑獲鳥というのはだね⋮⋮﹂ 眼鏡を軽く指先で叩いてにやりと笑い解説をし始める石燕を見て、 なにやら余裕の無さそうなテンションであることが珍しいと九郎は 思うのであった。 ﹁大陸における[姑獲鳥]という妖怪は日本に渡ると[うばめ]或 いは[うばめとり]と呼ばれる妖怪と同一視されてね、どちらも乳 飲み子や胎児を攫ったり取って食ったりする悪いあやかしであった。 鳥の姿をしているというのは、[うばめとり]のとりを[取り]と [鳥]に解釈したからだろうか、行き倒れた妊婦の死体の腹を鳥が 啄んでいるのを見たのかもしれない。或いは夜に泣く郭公や不如帰 の類の伝承が混じったのかもしれないね。 日本における民話としても全国各地に姑獲鳥の類の話は残ってい 208 る。しかしどこか別の妖怪との共通点を感じないかね? 女の妖怪 で、乳飲み子や胎児、またその母までもを食う⋮⋮そう、鬼婆だよ。 恐らくは何処かで混同したのだろうね。[うぶ]という音と[うば ]という音は似ているからね。 だが面白いことに全く逆の、子供の無い女に子供を泣きながら渡 してくるという性質を持つ妖怪もまた[姑獲鳥]と呼ばれてるのだ。 この際渡すのは子供ではなく、渡した相手に幸福を与える財宝であ るという話もあるね。さて、ここまで来ると大陸から伝わった恐る べき妖怪とは全く別のものなのではないか、と考えてしまいたくな る﹂ ﹁実際に違うのではないか?﹂ 九郎が言葉を返すとその通り、と彼女は頷いた。 ﹁伝わったという時点でそういうものだよ、九郎君。赤子と妊婦、 それに鳥という要素で元から存在していた伝承と同一視、あるいは 同じ分類にしているが日本での[産女][鬼婆]は別のものなのだ。 水虎と河童のようなものさ。名前の通り産女は、お産の女の霊だと 思われる。お産の激痛のあまり悪霊になったか、死産の無念のあま り子供を他人に預けるようになったか、それを伝える人の違いによ って各地に伝わる話が違うのだろう。なにせお産は世界中であるの だから何処にでも産女のような怪奇話は有るはずだよ。 ともあれ今回は赤子を渡してくる類型の産女だね。さて、赤子を 取って食らうという話は所謂[失う]という状態になるわけだ。こ れは病気や人攫い、獣害など考えられるが赤子を[得る]というの は何処から発生したのだろうね? はい九郎君﹂ ﹁んん⋮⋮そうだの、赤子を拾ったり⋮⋮或いは不義の子を産んだ 理由付けに[産女から授かった]としたのではないか?﹂ 209 ﹁成る程。その説を取るとするのならばつまり!﹂ 解説しながら落ち着きを取り戻したのか、石燕は赤子を指さした 後に、乾いた笑いを漏らした。 ﹁捨て子を押し付けられた⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁まあ﹂ お雪が口元に手を当てて感嘆の声を上げた。 何も知らぬ赤子の薄目が開けられた。 **** いかなる国でも赤子は﹁おぎゃあ﹂と泣く。まあ、恐らくは。五 分五分ぐらいの確率で。 ︵作家仲間は作品が生まれたら﹃はんぎゃあ﹄︵版木屋︶と鳴くと か洒落たことを言っていたがね⋮⋮!︶ とまれ、見知らぬ状況と赤子が察したかどうかは知れぬが突然起 きだして泣き喚きだした赤子に慌てふためいたのは意外なことに石 燕だった。 慌てると声がどもる癖があるようで、 210 ﹁なななな泣き始めたよどういうことだねこれは説明したまえ名も 知らぬ君! 不満か!? 幕府に対する不満からの幕末的革命希望 か!? ええとそういう場合はどうすればいいのだね九郎君!﹂ と九郎の肩を掴んで揺さぶりまくる石燕に九郎はうめき声を上げ る。 ﹁何故に己れに聞くのだ﹂ ﹁君が一番年上なのだろう、設定上!﹂ ﹁年上でも別段妻も子も居らなんだから赤子の扱いなど知らぬ! 子育ての経験のある六科に聞け!﹂ そう言うと石燕は動きを止めて叔父である六科に振り向いた。 彼は酒を片手に持ったまま真顔で言う。 ﹁うむ。お六に一任してたからな。わからん﹂ ﹁まるで駄目な親父だなお主!﹂ 育児放棄というなかれ、当時の父親などそういうものであった。 六科も日がな鳶職で働いていたのである。 まあ、妻のお六は蕎麦屋やりながら育児も両立させていたのであ るが。 六科はそれでも経験からの考えを言う。 ﹁腹でも減っているのだろう。乳をやれば静まる﹂ ﹁なるほどね乳か⋮⋮乳!?﹂ 石燕が喪服に包んだ豊満な両の胸を隠しながら赤面して後ずさる。 いつも冷静な彼女の姿からは考えられぬ初々しさではあった。 211 ﹁母乳は無理だよ!? 私出ないもの!﹂ ﹁いや、別にお主がやれとは言うておらぬが⋮⋮﹂ この時代哺乳瓶とか無いのかな、と九郎は頭を掻きながら考える。 すると玉菊がすっくと九郎の膝から立ち上がった。 ﹁ここはわっちに任せるでござんす!﹂ なんの躊躇いもなくおもむろに着物を肌蹴、赤子の口元を己の少 年乳首に持っていく。 九郎は即座に玉菊の首をへし折った。 ﹁ありんすっ!?﹂ 良からぬことをしようとしたばかりに、鈍い音を首から立てて沈 黙する玉菊であった。 お雪は特に気にしない様で、いつも通りおっとりと言葉を出す。 ﹁それにしても、ここの長屋には小さな子供のいる、お乳の出そう な奥様は居られませんし⋮⋮あっ、名案が浮かびましたよう﹂ 云うと彼女はぽんと手を打って赤子をあやし抱き上げた。 よしよし、と優しそうに撫でる彼女が考えを口にする。 ﹁ええとですね、わたしがこれから六科様に呼びかけをしますから、 そしたら六科様は﹃なんだ、お雪﹄と返して下さいよう﹂ ﹁よくわからんが⋮⋮わかった﹂ 六科が首肯すると、お雪は赤子を抱いたままゆったりと六科にも たれ掛かって、照れたように可愛らしい顔を上目遣いにして言う。 212 ﹁ねえ、お前さん﹂ ﹁なんだ、お雪﹂ お雪がはふんと息を吐いて顔を真赤にしたまま身悶えしだした。 ﹁ああ今凄まじく母性出て来ました出て来ましたよう! 母乳でる かもしれません!!﹂ ﹁存外に卑しいなこのお雪も!?﹂ ﹁本当に出たら怖いから返したまえ!﹂ うっとりとしだしたお雪の手から赤子を奪い返す石燕であった。 騒動を目の前にしても眉一つ動かさない六科は、 ﹁理解に苦しむ﹂ とだけ告げて酒を飲んでいる。 この男、味覚だけではなく少々人間が持つ感情の機微なども鈍い ところがある。 ともあれぎゃあぎゃあと涙を流して喚く子供には石燕も閉口して きょろきょろと助けを求めた。 すると意外な所から助けが来た。 ﹁食え﹂ 六科が自分が食べていた焼き豆腐を軽く潰して箸の先に乗せて赤 子の口に入れると、ちゅうちゅうと吸い取るようにして豆腐を啜っ た。 そのまま鳥の雛に餌をやるように何度か繰り返すと、赤子は満足 したようにげっぷをして眠った。 213 石燕と九郎は顔を見合わせて、 ﹁⋮⋮豆腐でいいの?﹂ と呟き合うのだった。 実際に離乳食に豆腐は良質なタンパク質として使われている。 **** それから一週間。 石燕は何とかして赤子を育てた。九郎も暇つぶしという割には親 身に手伝ったし、夜泣きの止まらぬ赤子を挟んで九郎と石燕、あと ついでに子興も川の字になって石燕の家で寝たこともあった。 赤子というだけでは呼びづらいので仮に[日和坊]と名付けた。 好天そうな良い名前だと九郎は云ったが、妖怪の名前である。 日和坊を題材に絵を描いたり、御襁褓の処理を意外にてきぱきと 石燕がこなしたり、赤子に食べさせるものを九郎が聞いて回ったり 乳の出る人妻に礼金で頼んだりと様々に忙しい日々を過ごしていた。 日和坊もよく笑うようになった。 石燕も苦笑に似た笑みで赤子をあやしている姿が近所の人にも見 えた。 日は過ぎ、一週間。 さて赤子を取りに来るとはいえ石燕の家をかの母親が知っている とは限らぬため、家に子興を残し、石燕と九郎は日和坊を預かった 路地まで歩いて行った。 夜のことである。 昼間は念の為に家で待っていたのだ。 214 ぐっすりと眠っている日和坊を胸に抱き、番屋の明かりから離れ るような道を選んで進んだ。夜道を出歩いていて声をかけられると 怪しまれるからだ。 件の場所についた。 四半刻ばかり待っただろうか、母親は現れない。 ﹁もし⋮⋮﹂ と九郎から声を掛けた。 ﹁もし母親が現れぬ時はどうするのだ? 石燕﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 難しそうな顔で彼女は言う。 ﹁生類憐れみの令から言えば拾った私が育てねばならないのだがね﹂ 手元の日和坊を見ながら複雑そうに答えた。 既に撤回されたとはいえ、捨て子をどうしろという新たな政令が 決まっていない以上は養親を見つけるか拾い主が育てるかしか無い。 貞享の頃に出された事録にはこうある。 [一、捨て子これ有り候ハバ、早速届けるに及ばず、其の所のいた わり置き、直ちに養い候か、又は望の者これ候ハバ、遣すべく候、 急度付け届くに及ばざる事] つまり、捨て子を見つけて﹁自分の子じゃないんだけど﹂みたい な事で役所に届けたりせずにちゃんと育てろとの内容である。 215 あまり評判のよろしくない地獄先生が養い親を探した所でその子 供を育ててくれる相手が見つかるかは甚だ疑問でも合った。 九郎は続けて尋ねた。 ﹁お主としてはどうなのだ?﹂ ﹁母親が現れてくれることが一番だよ。私は面倒事は嫌いでね﹂ ﹁それにしては、楽しそうにしていたが⋮⋮﹂ ﹁楽しそう、か﹂ 僅かに石燕の顔に影が落ちたが、その感情はわからなかった。 ﹁母親が現れなかったら本物の姑獲鳥だったとして絵に描こう。日 和坊がかつて抱いた本当の母を忘れぬようにね﹂ ﹁いや妖怪画を見せられてもなんだ﹂ ﹁それに私に子供を育てることなど⋮⋮﹂ 口ごもったように石燕が言いかけた時に、遠くから足音となにや ら押し殺した怒声が聞こえた。 ﹁離して⋮⋮! あの子は⋮⋮!﹂ ﹁うるせえ! てめえも餓鬼も観念しろ!﹂ ﹁⋮⋮! 九郎君!﹂ ﹁わかっておる!﹂ 九郎は自慢の脚力で飛ぶように音の方へ駆けた。 一つ辻を抜けたそこには町娘風の女の背中を乱暴に引き回す、腰 に二本を差した立派な身なりの侍が居た。 迷わず九郎は飛び上がって顎の付け根をつま先で蹴り抜く一撃を 見舞う。 声もなく地面に頭から落ちた侍の顔面を万力のような握力で掴ん 216 で地面で摩り下ろすように引きずり、近くの川に放り投げた。その 際腰の二本は外して同じく川に投げ捨てた。 水音がしたが、鯉が跳ねた程度にしか思われないだろう。気絶し たらしい侍が仰向けで流れていく。刀も捨てたので沈みはしないだ ろう。同時に、襲撃され刀まで失ったとなると侍の身分としてはお 上に報告できなくする効果もある。中山影兵衛から聞いた悪知恵で あった。 ﹁君、大丈夫かね﹂ と女に声をかけた石燕と、その胸に抱かれた日和坊を見て落涙し、 子供へしがみついた。 ﹁ああっ⋮⋮﹂ ﹁君の子供だよ、抱きたまえ﹂ ﹁すみません、すみません⋮⋮!﹂ 嗚咽を漏らす彼女に困ったように石燕は眼鏡を直した。 九郎が手を払いながら戻ってきて言う。 ﹁ううむ、そなたが日和坊の母親か?﹂ ﹁日和坊⋮⋮? あ、この子の⋮⋮は、はい!﹂ ﹁何があったのか話してみよ。少しばかりなら力になろう﹂ と言うので、彼女はへたり込んでぽつりぽつりと語り出した。 **** 217 己の頭を考えるようにこつこつと指先で叩いていた石燕は纏めて 言う。 ﹁つまりだね? 煎餅屋の娘の君ことお柚さんはある日旗本の次男 に見初められて子供まで作り正式に嫁になる筈だったのに突然相手 方の家庭の事情で裏切られた挙句赤子共々命を狙われ、連れたって は行動が制限されるから一時的に赤子を預けどうにか解決しようと してみたがその追手が方々にかかり番屋にも手がまわり火消しの大 旦那や檀家の寺にも話が通せずに逃げまわり、ついに捕まって赤子 の情報を吐かされそうになってたところを今しがた助けられた、と﹂ ﹁は、はい﹂ あちこちに回り道しながら要領を得ない説明をしていた日和坊の 母親、お柚は石燕に一気に纏められて目を回すように頷いた。 事情を飲み込めた石燕は頭を抱えた。 九郎がどうしたのかと尋ねると、 ﹁⋮⋮つ、つまらん﹂ と絞りだすような声で言って二人を凍らせた。 ﹁ありがち過ぎる! もっとこう、赤子が座敷わらしだったり南朝 で隠れた後亀山天皇の末裔だったり第六文明人の無限力を秘めてい たりとかそういう面白い話は無いのかね!?﹂ ﹁おい、最後の。真ん中のも問題だが﹂ お柚はおろおろしながら涙を流しながら口を開け閉めする。 218 ﹁そ、そのようなことを言われましても⋮⋮﹂ ﹁ええい不愉快だ! さっさと役人に通報して解決したまえ!﹂ ﹁やりましたけどわたしのような町人と旗本様では、向こうが先に 手を回していると言い分が正しくとも通らないのです⋮⋮﹂ さめざめと泣くお柚を苛立たしげにため息をつく石燕である。 九郎はこのままでは心中でもするのではないかと心配だが、知り 合いの下級役人に話して解決する問題なのかは、この時代の司法を 詳しく知らぬからわからないことであった。 石燕が地面に力なく項垂れているお柚の手を取り云った。 ﹁ああもう、いいから付いてきたまえ。なんとか出来そうな知り合 いを紹介するからね﹂ と言うと、お柚は何処か不思議な色の石燕の目を希望のように見 るのであった。 九郎も手招きされて三人と赤子一人は歩き出した。 道中言葉は無かった。愛おしげにお柚は日和坊を撫でているのを 見て、九郎はなんとしてもこの親子を救わねば、と思う。同時に、 ︵よし、今後、如何な厄介事が幾度訪れようと驚かないようにしよ う⋮⋮︶ と、諦めたように胸中で呟くのであった。この前も厄介事、辻斬 りにであったばかりなのである⋮⋮ ともあれ襲ってくるとしたら侍も一人ではあるまい。再度襲撃が あっても良いように、途中で棒切れを拾っておいた。 それなりの距離を歩いただろうか。 219 すっかり月明かり以外の明かりは見えぬ、麦畑の広がる田舎へと 付いた。とはいえ、当時の江戸は今で言う山手線の外縁あたりから ほぼ田舎であるのだ。 そこは渋谷の千駄ヶ谷だった。現代の都会めいた風景から想像も 出来ぬ程長閑な土地である。 明かりの点いた大きめの一軒家がある。裏には猫の額ほどの畑が あり、なにやら根菜などが植えている。 そこが目的地のようだ。 石燕は家の扉を叩き、夜だというのに朗々と大声で呼んだ。とは いえ、大声を咎めるような他の家は見当たらなかったが。 てんしゃくどう ﹁天爵堂! 出てきたまえ! 君は完全に包囲されている! 玄関 から!﹂ ﹁包囲じゃなかろう⋮⋮﹂ 一応ツッコんだが、聞いていないようだった。 しばらくして家の中から顔を出したのは、鋭い目つきの壮年の男 であった。 ﹁どちら様で? 先生は今締め切り前の追い込み中で⋮⋮ってあぁ っ! 鳥山先生!﹂ ﹁⋮⋮すみません家を間違えました﹂ ﹁逃げないで下さい鳥山先生! 先生も余裕で締め切り仏契ってる んですからね! ああもう丁度いいから中に入って!﹂ ﹁は、離してくれたまえ田所君! それどころではないのだよ!﹂ 後ずさりする石燕の手を掴んで中に引きこもうとする男に、明ら かに負い目のある態度の石燕である。 九郎の問いかけるような視線を受けて石燕は冷や汗を掻いた笑み で応える。 220 たどころ・むえもん ﹁版元の田所無右衛門君だ⋮⋮締め切りに煩くてね?﹂ ﹁先生方が逃げまわるからでしょうが!﹂ 紹介によると錦絵、草本の版元で原稿催促をしている男らしい。 髷も綺麗に剃りあげた、元武士らしい精悍な男である。 現代で言うところの雑誌編集者だろうか。人気な講談などの続編 や続きを無理やり考えさせて終わらせなかったこともある仕事なの も現代と変わっていない。当時から作家は催促が五月蝿いと様々に 書き残している。 玄関先で騒いでいると、家の奥から切れ長の目をした白髪で髭も 立派に生やした老人がやってきた。 ﹁やれやれ、何を玄関で騒いでいるんだい、船月堂﹂ 天爵堂と呼ばれる老人である。 彼は元は幕府に仕える役人だったのだが仕事をやめてからはこの ような田舎に引越し、物書きをしているのである。 子供向けの黄表紙などを手慰みに書いて、その内は疎遠になった 子孫に遺す立派な指南書の類も書きたいと思っているのだが、今の ところはうだつのあがらない隠宅に住まう老人であった。 全身から人生に疲れたような無精感を感じるが本人的には普通ら しい。 物書き仲間というか知り合いである石燕は気さくに声をかける。 ﹁やあ生きていたかね天爵堂。少しばかり厄介事を頼みに来たのだ よ﹂ ﹁よし、田所を連れて回れ右をするといい﹂ 天爵堂は面倒事はお断りだよ、と告げて追い払う仕草をする。 221 そして石燕の後ろにいる赤子を抱いた女を見て﹁おや﹂と声を出 した。 ﹁この娘と赤子の事で少々手を焼いて欲しくてね﹂ そう告げると彼はなにやら諦めたようにため息を吐いた。 ﹁茶を用意してくれ、田所。安いやつでいい﹂ 何処か疲れたような老人の背中が九郎には印象的だった。 **** 千代田区番町の表六番町通に面した屋敷にその旗本の屋敷はあっ た。 お柚に刺客を差し向けた、藤嶋家普請奉行千五百石の次男、藤嶋 土定は苛々とした様子で報告を待っていた。 遊びで手を付けた町娘に子供が出来たということは、普請奉行た る彼の家元からしては、 ﹁看過できぬ﹂ 事態である。いや、家としてはどうとでもなる。実際に追手を差 し向けお柚を亡き者にしようとしたのは土定の一存であった。子ま で成したというこれが当主に知れると恐らくはその町娘を何らかの 伝手を持ってして土定と婚姻さしめるだろう。普請奉行は町民と武 222 家の間の伝手を取るのが容易な役職でもあるのだ。 次男としてはだが、武士の家に生まれた土定にはそれが耐えがた い。 町娘などと結婚すれば恐らく一生出世の目は無い。 それにこの旗本屋敷からも追い出され自由も無くなるだろう。 土定はそれを恐れて、部下に金を渡して無頼浪人を集めてお柚を 襲わせているのである。 ︵それにしても暫く姿を見せないと思ったら、子を孕んで産んでや がったとは⋮⋮︶ 対応が遅れてしまったのである。 街中で最近、お柚を見かけて子を抱いた彼女が話しかけてきてよ うやく気がついた程度にしか、彼はお柚のことなど想っていないの であった。 それにしても、 ︵あれから一週間⋮⋮煎餅屋も番屋も張ってるはずだが一向に捕ま りゃしねえ︶ 胃の腑がストレスで重くなっている事を自覚しながら酒を無理や り煽っているのであった。 と、手先の侍が帰ってきて土定の部屋に入ってきた。 ﹁どうだ﹂ 土定が尋ねると、にやけた顔で髭の剃り跡の残る侍は告げる。 ﹁はっ、女を見つけたのですが見知らぬ二人組を連れてまして⋮⋮ 逃げられては何ですから、浪人らと後を付けた処、千駄ヶ谷にある 223 ボロ屋に入って行きまして﹂ ﹁ほう、千駄ヶ谷か﹂ あの田舎ならば悲鳴も聞こえず、通りすがりの無頼が人斬りをし た所でこちらに飛び火すまい。 そう思って何か地名に引っかかるのを覚えたが、にやりと笑った。 ﹁人を集めておき、そのまま出てくれば出会い頭に、夜が更ければ 押し入って切る所存﹂ ﹁ようし、それでいい﹂ と土定は手先の侍にも酒を推め、己も飲んだ。 これで憂いは絶たれる。 ︵それにしても千駄ヶ谷か⋮⋮何かあったような︶ やはり地名が気になる土定だったが、気のせいだと思う事にした。 それが致命になるとは思わずに。 **** 千駄ヶ谷の天爵堂の家から田所は書状を持って飛び出していった。 お柚から事情を聞いた天爵堂が遣いとして田所に頼んだのである。 その姿は入り口から出た瞬間闇に紛れて、入り口近くを見張って いた浪人が目を離した隙に一瞬で消えた為に発見される事はなかっ た。 224 田所の居なくなった家の中で、所在無さげにしているお柚母子と 茶を啜っている石燕、暇そうにしている九郎と紙に筆を走らせる⋮ ⋮という程ではない速度でゆっくりと催促されていた原稿を書いて いる天爵堂が居た。 そわそわとしているお柚に天爵堂は言う。 ﹁僕は昔、役人をやっていてね。今は権力なんてものと無縁だけれ ど、まだ知り合いが何人か働いているからそれに頼む事にするよ﹂ ﹁あ、ありがとうございます﹂ ﹁礼を言われる程ではないよ。⋮⋮船月堂は仕事の邪魔をしたこと で何か無いか?﹂ ﹁九郎君、戸棚からもっといい茶を探してくれたまえ﹂ ﹁やれやれ﹂ ため息をつくが別段止めるつもりもないらしい。 九郎はそのどこか面倒臭気な顔立ちを見て、 ︵この男は何か諦めが付いているのだ⋮⋮︶ と思った。大きな挫折があったか、大切なものを失ったか。 まさしく、己のやれることをあまりよい結果ではないままに終え て、余生を過ごしているようであった。 ﹁そう言えば船月堂、この少年は誰だい?﹂ ﹁紹介が遅れたね。未来の果てからやってきた未来少年クロウ﹂ ﹁その紹介は止せ。ただの九郎だ、ご老体﹂ ﹁九郎、だね。僕は天爵堂。ただの書生だよ﹂ 天爵堂は視線を上げもせずに挨拶をした。 目線を向けながら九郎は返答とばかりに尋ねる。 225 ﹁ところで今書いているのは何の話だ?﹂ ﹁ああ⋮⋮大衆向けの娯楽本さ。前に船月堂から聞いた話も下地に していてね。題を﹃暴れん坊の貧乏旗本三男﹄﹂ ﹁凄く話の基本ストーリーが予想できるぞそれ!﹂ ﹁確か前回の連載分はいつも通り将軍を騙った旗本三男が定番で﹃ ええいこのようなところに将軍がおられるはずがない! 本気で!﹄ と悪党にぼこぼこにされて簀巻きで富士山に投げ入れられる話だっ たかね。続きは?﹂ ﹁偶然噴火した火山弾に押し上げられて何とか江戸に帰るよ。宝永 の大噴火だ﹂ ﹁主人公弱すぎる上に超展開すぎる!﹂ 予想以上にスペクタルな話だった。 授業するような声音で石燕は云う。 ﹁ふふふ、江戸の小読み物など、心中か災害か仇討ち要素を入れて おけば莫迦のように売れるのだよ﹂ ﹁吉宗引退しろとか思ってなどいないよ﹂ ﹁天爵堂の本音だよなそれ⋮⋮﹂ げんなりと呟いた。毎回悪役に痛快に負ける偽将軍は発禁寸前と 庶民に人気のある読み物シリーズである。 江戸の世でも書いた文や絵を版木に彫り込み、一枚一枚紙に写し て綴じるという作業で本は主に貸本屋などに売られていたのだが、 ヒット作では十万冊以上も同じ本を刷ったというのだから、江戸の 人も本好きが伺える。 お柚が控えめに手を上げて、 ﹁わ、わたしも読んでいます⋮⋮彗星が降ってきて三男に直撃する 226 場面とか良かったですね﹂ ﹁そうかい、ありがとう。今度の展開では暴れ象に⋮⋮おっと、先 を云ってはいけないね﹂ ﹁⋮⋮どういう場面だよそれ﹂ 今だに字などを読むのは苦手なため、貸本屋には行かなかったが いったいこの江戸、何が流行っているのやらと思い悩む九郎であっ た。 ようやく話しかけてきたお柚に落ち着いて座るように促しながら 天爵堂は云う。 ﹁暫くここで待っていれば、僕の知り合いから話を通した幕府直参 の与力同心が迎えに来るから安心していいよ。そうそう手を出せる ものではない﹂ ﹁はい﹂ ﹁あとはそうだね⋮⋮何も知らされていない、浪人や無頼が襲って きたら困るけれど﹂ その言葉に、入口付近に向けてやや怯えの感情を向けるお柚。 天爵堂も頬杖をついて、ぼんやりと外の闇を見ながら口を開くの であった。 ﹁僕も困るし⋮⋮その旗本の何某も困るだろうに﹂ **** 227 天爵堂の家に金で雇われた浪人らが襲いくるのに一刻とかからな かった。 中には見分役だろうか、藤嶋家の侍の姿も見受けられる。 とはいえ、予め裏口などを塞いでおいた天爵堂の家は、家を破壊 する槌などを用意していなかった浪人らにとっては正面入口から入 る他無かったのであった。 だが浪人らは警戒も何もなく、油断や嗜虐の笑みさえ浮かべてい た。なにせ、家にいるのは何処の誰とも知れぬ老人一人と女二人、 子供が一人に赤子である。 全て斬り殺せば一人あたり金五両の報酬だという。 特にこのような見られる危険のない田舎の一軒家である。躊躇う 事は何もなかった。 一番先に入った浪人が見たのは、動じずに原稿を書いている老人 であった。 ﹁いらっしゃいとは言わないよ。どうぞお帰り下さい。困ったこと になるからね﹂ 冷淡な声でそう告げると、浪人は鼻で笑った。 土足で一歩足を踏み入れる。 すると、天井の梁に潜んでいた九郎が音もなく浪人の目の前に降 り立った。 突然目の前に降ってきた小僧相手に、刀も抜いていない浪人は動 揺する。 次の瞬間、九郎は持っていた棒きれで浪人の鳩尾を突いた。 ﹁ぐむぅ⋮⋮﹂ 強烈な吐き気と内臓が上下するような衝撃に力を失う浪人を、外 228 に向けて思い切り蹴飛ばす九郎。 ついでに片手で、浪人の持っていた鈍らのような脇差を抜き奪っ ている。 ﹁入るでない。もはや事は奉行所預かりとなっておるのだ。お主ら が如何な狼藉を働こうが⋮⋮﹂ 言いかける九郎だったが、怒号とともに入り口に二人ばかり刀を 抜いた浪人が雪崩れ込む。 狭い場所ではすり抜けて反撃とは行かぬ。九郎はやや後ろに下が りながら、切り込まれた刀を脇差で受け流した。 既に石燕とお柚らは押入れに隠している。室内は九郎と天爵堂だ けだ。九郎は幾度か斬りかかる相手を躱し、脛を切りつけ一人を行 動不能にした。 ﹁殺せ! なんとしても赤子と女は殺すのだ!﹂ 後ろから侍の命令が飛ぶ。 その言葉に天爵堂が眉根を寄せた。切れ長の目が睨みという形で 威圧を生む。 ﹁││僕の目の前で子供を殺そうというのか﹂ そういうと彼は筆を止め、立ち上がる。 腰には柄が磨り減るほど使い熟れた、越前守助広の名刀を帯びて いる。 年ごとに鋭気を増して云ったらそうなるのではないかと言わんば かりの怖ろしき気配を纏い彼は刀を抜いた。 その確認のような一言しか天爵堂は喋らなかった。 だが、誰もが気圧されて天爵堂に切り込めなかったのである。彼 229 が動かぬ限り、後ろに隠れて守られている赤子と二人には手出しが できぬ。 代わりに九郎に攻撃が集中した。 ﹁いや確かに己れの方は子供じゃないけれど⋮⋮!﹂ 九郎の戦い方は単純だ。体格が小さいのを利用して相手の足を削 いで行動不能にする。もしくは片手で脇差を振るい、相手の刀を受 け止めるか受け止めさせるかした瞬間に殴り飛ばすか蹴り飛ばす。 子供の体躯だと思って油断した相手は、凄まじい威力の拳打をいず れかの急所に受けて倒れ伏すのである。倒れても意識のあるものは 隙を見て頭を踏みつけて気絶させた。 ジグエン流剣法は相手が一人の場合、捨て身で先に斬り殺す技が 多い為に多くの相手と退治する状況では使わない。 しかし其のような戦い方も八人目あたりでいい加減手も痛むし呼 吸も整わなくなってきたのである。何度目かに浪人の体を家から蹴 りだし、九郎自身も外に飛び出た。 手加減している暇も義理も無いのではあるが、そろそろ普通に斬 り殺そうかと九郎の心が荒んで来た頃であった。 地ならしの音が聞こえた。 どう、という音だ。 明かりの全くない畑道を、遠目によく目立つ提灯が高い位置に掲 げられ迫ってきていた。 馬だ。 ﹁者ども、神妙に致せ!﹂ 浪人、特に侍は泡を食ったように、道のない畑の中へ逃げ出そう としたが無様に警戒もなく背中を向けた相手を九郎は二人ほどひっ 捕らえた。 230 残りも馬から降りた同心がするすると近寄り召し取っていったよ うであった。 家の中から天爵堂が刀を納めてのそのそと出てきた。 ﹁やれやれ、終わったかい。僕は争い事が苦手でね﹂ ﹁其の割には堂に入った剣ではないか﹂ ﹁見た目だけだよ⋮⋮おや﹂ 先頭の馬とどのようにしてか並走して地面を走っていた田所が天 爵堂へ駆けつけて膝を着いた。 ﹁お怪我は御座いませぬか!﹂ ﹁うん、九郎と君たちのお陰で助かったよ﹂ 乾いた笑みのようなものを浮かべる天爵堂。 そこに引っ立てられた侍が暴れながら縄を打たれて連れて来られ た。 馬に乗っていた男⋮⋮北町奉行三千石松野河内守助義本人が夜中 に出払ってきているという事態なのだが⋮⋮も降りて天爵堂に頭を 下げ挨拶をした。 ﹁この度は遅れ申してまことに⋮⋮﹂ ﹁ああ助義殿。よく来てくれた。でも何も君自身が来なくても⋮⋮﹂ ﹁いえ、これしき大恩を思えば何とも⋮⋮しかし、貴様っ!﹂ と天爵堂の家を襲う指示を出した侍を怒鳴る。 凄まじい気迫であった。 侍は心臓が握りつぶされたように震える。 ﹁己が浅ましくも浪人を差し向け襲ったお方が何方かわかっておる 231 のかっ! 貴様のみならず主家まで厳しい責を覚悟しろっ!﹂ とまで言われたのだから、もはや侍は額を地面に擦り付ける他無 いのであった。 暫くして周囲の安全を確認すると、押入れに隠れさせていたお柚 親子を呼び、奉行に任せた。 その際ひたすらに頭を下げて礼を言ってくるお柚に天爵堂は軽く 手を振るだけであった。 堂々と大人数で帰っていく町奉行を見送りながら九郎は白髪の老 人に問う。 ﹁しかしお主、結構偉い人だったのかの?﹂ ﹁偉くなんか無いさ。ただの元小役人だよ。役人だった頃もまあ⋮ ⋮﹂ 少し罰が悪そうな顔をして目を閉じ首を振った。 ﹁裏目に出てばかりだったしね。僕には何も出来やしないさ。あの 母子だって、父となる侍は切腹となれば⋮⋮僕がやったのは一人の 父無し子を有んだようなものだ。礼を言われるような男じゃないよ﹂ 陰鬱そうにため息をついて天爵堂は家に戻った。 ﹁話の続きを書かないといけないから、今日はもう帰ってくれ﹂ そう告げて後ろ手に戸を閉める背中を石燕と九郎は見送った。 **** 232 ﹁さて、事件も解決したし帰って酒でも飲むかね﹂ ﹁お主、酒のことばかりだな⋮⋮﹂ 夜道を歩きながら石燕と九郎は呟いていた。 ﹁結局姑獲鳥は居なかった。ただの捨て子と不義の子の合作事件で した、か。まったく話の種にもなりはしないね﹂ ﹁どうだろうな。まあお主にはいい経験だったのではないか?﹂ ﹁うん?﹂ ﹁子育て、楽しそうではなかったか﹂ 石燕は苦笑した。 ﹁もう御免だよ。私に子育ては向かないらしい﹂ ﹁楽しんでいたようにしか見えなかったがな﹂ ﹁なんだったら九郎君との間に子供でも作ってみるかね? ふふふ﹂ ﹁そう強がるな﹂ 九郎の声はあくまで、年長者の優しげな声だった。 ﹁寂しいのであろう﹂ ﹁⋮⋮まあ、少しはね﹂ ﹁お主はまだ若いのだ。子供が出来る機会も、成長した日和坊とま た合う機会も、そのうち訪れるであろう﹂ 九郎の慰めるような言葉を聞いて、石燕は顔を落として小さな声 で呟いた。 233 ﹁⋮⋮﹂ それは風に紛れてよく聞こえなかったが何故か聞き返してはいけ ないように思えて、九郎は話題を変えた。 ﹁時に天爵堂のことだが。ああは言っていたが昔何をしておった男 なのだ?﹂ ﹁ああ、彼は前将軍の側用人をしていた新井白石殿だよ﹂ ﹁へえ白石か、なるほど⋮⋮新井白石!?﹂ 耳を疑うように聞き返した。 新井白石といえば徳川六代将軍家宣から七代将軍家継まで仕え、 間部詮房と共に幕府の政権の半分を握っていたとも言われる側用人 である。 側用人とは老中と将軍の間の意見伝達を行う役目であるが、六代 将軍家宣政権時代は老中の会議にも直接参加していた。この場合、 将軍から承った言葉という名目で直接に議題を提示できるのである。 これは老中の任命などの意思も側用人が伝えるのだからある意味 で老中からも畏れられる立場でもあった。 白石自身も仕える将軍の権勢を支えるために様々な政策を献上し たが、六代七代共に早逝してしまい、後の代に活かされる事は殆ど なかったという。 更には八代将軍吉宗の時代になると失脚して、旗本屋敷からすら 退去させられて渋谷の田舎に潜むように住んでいるのであった。 妻は早逝し、己にはもはや子に土地も位も残せぬと知った彼は何 とか伝手を頼み込み他所に養子に出した為に一人、孤独な生活を送 っている。 養子に送った子には、 234 ﹁君たちは他の家の名を継ぐのだから、僕の事は他人だと思い相手 方を父と慕わなければいけない﹂ と、厳しく言い渡した程である。これも、幕府の元重鎮で方々に 恨みを買っているのだがそれに対して子供らを守る権力も無くなっ た親の情けと言えよう。 更には彼にとって余程心に重く残っている出来事として、七代将 軍家継が年若くして原因不明の病で急逝してしまったこともある。 彼がもはや如何な権力を持たなかろうが、目の前の子供の関わる 理不尽を見過ごせぬのも当然であった。 ﹁時代をときめいた新井白石も今や大衆向け黄表紙作家、その御用 人の田所君は取り立ての版元と世の中わからないものだね﹂ ﹁左様であったか⋮⋮﹂ どこか疲れた様子のあの老人も苦労を重ねてきたのだとしみじみ と九郎は思った。 実際には彼が何も残せなかったわけではない。国外へ流出する銀 や銅の量を減らしたことや中国との貿易量を決めた[正徳新令]と 呼ばれる政令は幕末まで続く、彼の功績なのだが⋮⋮ 話題を転々としながら石燕と九郎は酒のつまみを何にするか話し 合っていた。 帰って酒が飲みたい気分であったのだ。 ﹁鮪の身を細かく叩いたものに卵を乗せて醤油を垂らし、混ぜて食 うと実にまた酒に合うのだよ﹂ ﹁おお、それは美味そうだ⋮⋮卵か﹂ その単語にふと思いついたように九郎が続けた。 235 カッコウ ﹁そう言えば姑獲鳥は郭公とも関係があると言っておったな﹂ ﹁夜に鳴く鳥という事でね。郭公自体も不吉な逸話があるのさ﹂ ﹁ふむ⋮⋮それでか⋮⋮よいか、石燕。郭公にはな、己の卵を他の 鳥の巣に産む習性があるのだ。また、その時他の卵を落として割っ てしまう﹂ ﹁⋮⋮?﹂ ﹁つまり姑獲鳥の、人の子を喰らい、または人に子を渡す産女とい う妖怪への性質はそこから来たのではないか、と考えたのだよ﹂ ﹁ああ、成る程⋮⋮﹂ 本当にそうなのかは知れないが小さな疑問に対する仮説の一つと して妙に石燕には馴染んで思えた。 ほんのそれだけだったが、今回の事件で誰が郭公となり、卵を守 ったのかと考えて、止めた。終わった事件に感傷的になるなど自分 らしく無いと思ったのだ。 星のよく見える夜だった。江戸の田舎の空に現代では見えない星 が金箔を散りばめたように広がっている。 もう立夏である。草の匂いのする風が過ぎ去っていった。 いつの間にか九郎と握っていた左手と反対の右手を広げて、石燕 はもの寂しげな声で云った。 ﹁姑獲鳥の││夏だ﹂ 236 ﹁やめい﹂ 九郎から無粋な突っ込みが入って、石燕はいつもの人の悪そうな 笑みを浮かべて二人並んで帰っていった。 237 11話﹃藍屋のお八﹄ 晃之介が鴨を捕ってきた。 川に居たのを矢で射って捕らえたらしい。現代だと鳥獣保護がど うとか、法律があった気がした九郎が、この時代のことは知らぬが 勝手にとっても大丈夫なのかと訪ねてみたら、 ﹁いいじゃないか、ただなんだし﹂ と軽い調子で返されたのでまあいいかと九郎も納得するのであっ た。 晃之介とお八が鍛錬をしている間に九郎が道場の台所を借りて飯 の支度をすることにした。 お八は本当に九郎が料理を出来るのかどうか疑わしげだったので、 ﹁まあ見ておれ﹂ と九郎もやる気を出して取り組むのであった。 剣の打ち込み稽古の音を聞きながら九郎は鴨をてきぱきと解体し、 肉と骨を分ける。 術符フォルダを持ってきていたために火元には事欠かなかった。 内臓と肉を小削ぎとった鶏がらともみじ︵鳥の足である︶を鍋に入 れて、炎熱術符の強火で煮込む。あくがどんどん出るが掬って濁り を取り、僅かに塩を入れた出汁を作った。 もう一方の鍋に鴨の皮を放り込んで火をいれると、皮から鴨の脂 が溶け出し、刻んだ肉と太く切った葱を入れて醤油と酒を入れて時 雨煮のようになるまで火に掛けた。 内臓はよく塩で揉んで水で洗い、臭みをとって味噌を塗り串に刺 238 してじっと火で炙ったものに蓬を添える。 時雨煮にした鴨肉と葱を飯の上に乗せ、鳥の出汁を上からかける と濃い味の鴨肉と薄味の汁が飯と混じり、そして内臓の串焼きがま た表面はほっこり、中はねっとりとしていてすぐに己の血肉になり そうな、気力の湧いてくる味である。 晃之介も感心して、 ﹁俺が料理というと適当に焼くだけだったが⋮⋮やるな九郎﹂ ﹁多少手間でも食事や酒は楽しまなくてはならんからなあ⋮⋮おい、 ハチ子や、そんなにがっつかなくても飯は逃げんぞ﹂ 飯をお代わりして汁をかけ、流しこむように食らうお八に苦笑し た。 ﹁美味いんだから仕方ないぜ﹂ ﹁お主の実家とて良い物が出るのではないか?﹂ ﹁いや全然。お上品なものだかなんだか知らねえけど味気ねえし、 こんなふうに飯に汁かけたら怒られるし⋮⋮﹂ そう言って、ぐいと鳥肝を串から抜いて頬張って目を細めた。 ﹁鳥の胆なんて初めて食べるっ! 美味い!﹂ と嬉しがるものだから男二人、和んだように笑いを漏らすのであ った。 **** 239 昼食を終えて三人で歯磨きを済まし、半刻ほど休息を取った。江 戸では歯磨きが習慣付けられているのであったが、ただの塩で歯磨 きしていた九郎と晃之介にもお八の持ち込んだ歯磨き粉の恩恵を受 けている。この時代の歯磨き粉は目の細かい砂と香料、塩に口がス ッキリするハッカなどが使われていて、現代のものに劣らぬもので ある。 その後は九郎と晃之介でお八に見せ稽古を行う事となった。剣遣 い同士の打ち合いを実際に見て、動きを学ぶのも稽古のうちである。 ⋮⋮其のうちに二人共熱が入って本気の試合になったのであった が。 稽古を終えて手ぬぐいで汗を拭い、九郎とお八は道場を後にした。 九郎も道場に通っているわけではないが、時折様子を見に来るので ある。 二人で歩いていると、時々ちらちらと九郎の方を見てくるお八が 妙なので九郎は首を傾げていた。 ﹁あ、あのよ﹂ ﹁おおそうだ、ハチ子よ、芝居でも見に行かぬか。瓦版で気になる 芝居の公演が載ってあったのだ﹂ なにやら言いかけたお八に被せるように提案した後、口を半開き にしたままの彼女を見て、 ﹁む? なにやら用事でもあったか﹂ ﹁別に! 芝居か、よっしゃ行こうぜ!﹂ ﹁これこれ、急ぐでない﹂ 九郎の手を引きながら足早に進むお八であった。九郎は気分は元 240 気の良い孫に連れられる祖父の気分である。 湯島天神で行われている芝居は広く衝立で周りを囲み、立ち見以 外に土間と敷物を敷いた立派な席も用意された本格的なものだった。 九郎は受付の男に一分銀を渡し、土間の席を取った。少年少女の 連れ合いがぽんと一分出したことに、目を丸くした男だったが機嫌 よく人を呼んで二人を土間に案内させた。なにせ、立ち見で金を取 れば二人で三十文しか取れぬ所を一分も払ってくれるのだから向こ うとしても、 ﹁得をした﹂ と考えているようであった。飲み物に甘酒とかりんとうのサービ スがつくほどであったことから九郎にもそれは知れた。 土間といえども蓙程度は敷いてある。 二人は並んで座り、既に始まっている芝居を眺めた。 ﹁ところで何の芝居だこれ?﹂ ﹁いや、己れもわからぬのだが表題がやたら気になってな。ええと、 ﹃勧進帳強行突破編 怒りの富山湾海戦﹄﹂ ﹁知らねえけどやたら面白そうだなそれ!﹂ ﹁だろう?﹂ 舞台の上でも修験者と隠すつもりが無いレベルで武装している弁 慶と義経が関所を次々と突破し源氏の追手相手に無双している場面 であった。 裏切りの与一を相撲技で秒殺。平家の残党をアジトごと粉砕。力 の弁慶と力任せの義経。ゴリラ&ゴリラ。二人のコンビは止められ ない。 ︵なんか違くなかったろうか⋮⋮︶ 241 そう九郎も僅かな歴史知識を思い出しながら、芝居の勢いに熱中 するのであった。もちろん、これは史実の再現ではなく面白おかし く脚色した大衆向けの芝居なのであるが。 **** 富山湾を紅に染める艦隊戦、その終末として時代を超越した国崩 し砲が義経の鉄甲船に直撃。船は火を噴き沈んでいく。 という演目を見事な演出効果を出して芝居する役者たちに九郎は 素直に感動していた。 最後の場面、波間に沈む義経の手はまだ親指を立てて諦めていな い。 ﹁蒙古でまた会おう!﹂ そうして、幕は降りるのであった。 義経が蝦夷に逃げ延び蒙古に渡ったという講談はこの時代の前か ら言われている与太話であった。 惜しみない拍手は芝居の席だけではなく、神社の屋根やご神木に 登ってまで見物していた客からも起こった。 隣に座るお八も少年のように憧れのきらきらした目を見開き、涙 を浮かべていたほどである。 外に出て、湯島天神にある茶屋はごった返していたので少し歩き 神田明神の団子屋で一息ついても、お八は興奮冷め無い様子であっ た。 242 ﹁すっげえ⋮⋮義経半端ねえよ⋮⋮﹂ ﹁ああ⋮⋮己れも感動しているが勧進帳ってこんな話だっけか⋮⋮ ?﹂ ﹁どうでもいいぜ。ああ、面白かった﹂ 満足そうに笑うお八の顔には、初めてであった時のような険も、 父母の前での緊張も無く子供らしい良い顔だった。 九郎は何処か懐かしくなった嬉しさから、団子屋にお八の分の団 子を追加で注文するのであった。 ﹁おい、こっちに団子をもう一つ⋮⋮あと酒と何か辛いものはある かえ?﹂ ﹁はぁい。梅漬けと霰豆腐がありますけれど﹂ ﹁霰豆腐? 食うたことがないな⋮⋮それを一つ頼む﹂ と、頼むとお八は九郎の顔を覗き込んだ。 ﹁また昼間っから酒かよ、子供が﹂ ﹁だから己れは子供ではないのだと⋮⋮まあそうだの、お八も大き くなったら己れと酒に付き合って貰うとするか﹂ ﹁えっ、そ、その⋮⋮其の時は⋮⋮いいぜ﹂ お八がなにやら考え悩んでいるようだったが、九郎は兎も角出て きた酒と霰豆腐を喜んで受け取っていた。 霰豆腐は時間を掛けて抑えて水気を抜いた豆腐を小さく角切りに し、転がして角を取ったものを熱い油で素揚げしたものである。熱 いうちに塩を振って食べる。外側はかりかりと塩気のついた霰菓子 のようだが、中はじゅっと油揚げのような味が滲み出て口を喜ばす。 それを洗い流すように飲む酒がまた美味い。 243 九郎は軽く二合ほど飲んでしまった。 ほろ酔い気分のまま、お八を家に送るために藍屋への道を上機嫌 に歩いていた。 ただ道を歩くだけでも江戸の町は賑やかだ。大道芸といえば大層 だが、食うに困った町人などが仮装をしたり手作りの楽器を叩いた りして日銭を稼いでいる。 今のような、道で騒いでいる芸人を素通りする東京の景色ではな い。 江戸の人は気風よく、面白おかしいことをやっている者がいて、 それを見るために足を止めたら苦笑いや呆れた顔を零して銭を一枚 なり二枚なり投げ入れるのである。 一日にそれで三十文か四十文でも稼げばその日食うものぐらいは 買えた。 九郎とお八も歩いていると、顔を食紅で真っ赤に染め、紙で其れ らしく作った衣装を着、頭に箱を乗せて杓文字を持った男が目の前 に現れて叫んだ。 ﹁かあっ! 日も明らかな内から童にも関わらず酒を喰らいおると は、十王が余録をば!﹂ 閻魔のコスプレである。 いかにも恐ろしげな顔をして妙な言い回しをしているが、昼酒が うらやましいから分けて欲しいものだ、と言っているのである。 九郎はからからと笑い十文ばかり閻魔の手に握らせる。 ﹁閻魔が飲むのは焼けた銅だったはずだがの。これで焼き豆腐でも 食らうがよい﹂ ﹁かあっ! ⋮⋮ってあれ? 九郎の旦那じゃごぜえませんか?﹂ ﹁ん?﹂ 244 と、九郎は閻魔が表情を変えて言うので首を傾げた。 閻魔の知り合いは居ないはずである。まあ、前世に地獄とか行っ ていなければ。 閻魔は顔を拭う仕草をして、食紅が落ちないのを見て困ったよう な顔で云った。 ﹁あっしですよあっし。ほら、晃之介の旦那に捕まった⋮⋮﹂ ﹁ああ、辻斬りの⋮⋮﹂ ﹁おおっと、そ、その単語は勘弁ですぜ!﹂ 慌てて自分の口の前で人差し指を立て、目を閉じる男の赤く塗っ た顔はよくよく見れば見覚えがあった。 以前に江戸で刀を奪い売りさばく辻斬り騒動が起きた際、便乗し て辻斬りに走ったはいいものの一発目で録山晃之介に返り討ちに合 い、情報の代わりに見逃された男であった。 ﹁確か名前は⋮⋮﹂ ﹁朝蔵でやんす! 医者に坊主から物乞いまでなんでも働く働き者 の朝蔵!﹂ ﹁節操無しと呼んだほうがよいなあ﹂ 呆れたように九郎は調子のいい顔をしている朝蔵に対して嘆息し た。 とはいえ、当時の所謂[江戸っ子]と呼ばれる人種はその日暮ら しの仕事入れ替わり立ち代わりと云った暮らしが珍しくなかったよ うである。 紙拾いに出かけたかと思えば市場で沢山魚が売っているのを見か けては棒引きのまね事をし、休憩に登り坂の下で待ってれば重い荷 物を運ぶ荷車を勝手に手伝い銭を貰い、頭が禿げたら医者か坊主に 245 なってみる。当時は医師免許などは無かったために、藪医者・似非 医者は居放題であったのだ。 さすがに辻斬りは犯罪だが。 この男も一度の辻斬りで懲りたらしく、その日暮らしの仕事に戻 ったようである。 ﹁九郎、知り合い?﹂ と、指で九郎を突きながらお八が聞いて来るので、﹁ああ、少し な﹂と応えた。 朝蔵は顎の下に手をやり、少しの間九郎とお八を見て、にっと笑 った。 ﹁ははぁん、九郎の旦那も隅に置けねえ。昼酒に女連れとはこりゃ 立派﹂ ﹁お、おおおお女だぁ!?﹂ 急に叫んだお八に九郎は片耳を塞いで煩そうに、 ﹁いや、お主女であろう。男だったか?﹂ ﹁そうじゃないぜ! ええいこの、手前も勘違いすんな!﹂ ﹁はっはっはいいねえ初心いねえ﹂ ﹁ああ、此奴はお八と云って晃之介の弟子だ﹂ ﹁失礼致しましたお嬢さんっ!!﹂ 笑ってからかっていた朝蔵は晃之介の弟子と紹介した途端土下座 に入った。 晃之介には頭の上がらぬのである。ましてや其の弟子。完全に下 手に出ているのである。 飛んで落ちるような見事な土下座をした朝蔵に微妙に引きつつ、 246 ﹁あ、ああ。謝るならいいんだよ。いいか、あたしと九郎はただの ⋮⋮えと、ダチだからな!﹂ ﹁へい!﹂ ﹁下手に出るのが堂に入っておるなあ⋮⋮﹂ むしろ感心するぐらい、年下の少女に頭を下げている朝蔵であっ た。 ﹁なんだったらお主も、晃之介の道場に通うでもすればよかろうに ⋮⋮﹂ ﹁へへっ旦那。それにゃ一寸おぜぜが足りなくって﹂ 日暮らしの朝蔵には月謝が払えぬのである。 晃之介が月々幾らと決めているわけではないが、相場から云って 最低二朱は払わねばならないだろう。お八は実家が裕福であるため に指導料と礼金も込めて、それなりに高く払っているようだがそれ も気持ちの問題である。 しかしそれでいて、江戸という町では冗談の教室や虫同士の決闘 見物料などに庶民も金を使っていたというのだからおかしなもので ある。 特にこの時代では、デフレ極まった江戸を改革しようと徳川吉宗 や大岡越前による物価の引き下げや流通改善が行われ始めていたた め、庶民の生活にも若干の余裕が生まれたことが妙な金払いの良さ を現しているのだろうか。 とりあえずこれ以上朝蔵の[仕事]を邪魔してもいけないので軽 く手を振り九郎は別れた。 ﹁それではの。そのうち緑のむじな亭の蕎麦も食いに来い﹂ ﹁へい! 是非行かせて貰いやす!﹂ 247 と、気持よく返事をするものだからどうも憎めない男である。 辻斬りを働こうとしたことは許せぬことだが、襲われた晃之介い わく、ハッタリだけで剣の振り方も知らぬようであったというのだ からお笑い種だ。 **** やがて道を進むと藍屋が見えてきた。 ふと、その通りで大工仕事をしているのを九郎が見上げた。 二階建ての大店を組み立てているらしく、骨組みは出来ていて大 工が二階の梁に登り屋根を打ち付けていた。そろそろ夕方なので仕 事も終わりなはずである。 ﹁何か新しい店でも出来るのかえ?﹂ ﹁ああ。湯屋らしい。近くに出来るってんで家の連中が喜んでた﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ 江戸に職人は数多くいるが、中でも大工は花形だったようだ。 よく火事で家が焼け落ちたり、増築や市街の拡大など需要は絶え ず発生していたのである。また日当も高く棒手振や野菜売りの倍以 上もあった。 もちろん大工になるには何処かの大工の棟梁に弟子入りして働か せて貰わねばならないのだが⋮⋮ 家を作ってもらう際にも酒や飯などを日当とは別に用意するのが 慣例であったなど、一段敬われていた扱いだった。町人同士の喧嘩 248 や揉め事なども大工の棟梁が仲介すればすぐさま収まったという。 ともあれ、二階の屋根で命綱も無く釘を打っている大工を見てい た九郎が通りに視線を戻し、また歩みを再開した時であった。 突風が吹いた。 日中海陸風の吹いていた日だったが其の日一番の風である。 屋根の上に乗っていた大工は慌てて梁に掴まったが、その際に不 幸があった。 その大工の経験が未熟だったか、或いは不注意だったか。釘と槌 を入れた大工箱を二階の梁まで持ち込んでいたのである。 其れを突風から身を庇う際にうっかり蹴り飛ばした。 失態を即座に悟った大工は、箱の中から釘をばらまきながら落ち ていくことを思い、 ﹁下の奴ら、危ねえ!﹂ と叫んだ。 叫ぶが早いか、突風からお八を庇っていた九郎は横目に、己に向 かって重力と風の加速を受け、落ちてくる箱と大量の釘を確認した。 避けるとお八に当たるし、彼女を突き飛ばしても何処まで釘が飛 んでいるかは全て把握する時間は無い。 風から庇っていたことをいいことに己の体の影にお八を入れて、 目と首を庇って九郎は釘の雨を受けた。 目は閉じなかった。多くの釘は体に当たって落ちるだけだったが、 むき出しの腕や頬などに刺さるなり、引っ掻くなりする感覚を得る。 釘に一瞬遅れて直撃する位置にあった大工箱を、顔を守っていた 手で払いのけた。二の腕には大きな衝撃だったが頭に当たるよりは ましである。 だが、それで大工箱のなかに入ったままだった槌が、引っかかっ て飛び出して、九郎の額に直撃したのである。 九郎は目から火花が飛んだ気がした。 249 ﹁うわっ危⋮⋮九郎!?﹂ 頭が揺れて倒れる九郎をお八が受け止める。 視界が徐々に色を失っていくのを九郎は感じた。眼球の表面に液 体が這った。頭から血が出て伝ってきたらしい。 ぐわんぐわんと、一瞬で気を失うのではなく凄まじい吐き気と頭 痛が襲う。 ﹁むう⋮⋮﹂ ﹁莫迦お前、あたしを庇って⋮⋮しゃ、喋るな! 動くな! おい、 誰か来てくれ! 九郎が!﹂ 目が徐々に閉じてくるのを九郎は止められそうに無かった。 泣きそうな顔で人を呼ぶお八の顔が見えた。遠く⋮⋮近かったは ずなのに遠くに見える藍屋から誰か出てきて、駆けつけてくるよう だった。 手足が痺れ動かない。 それが何かおかしくて、九郎は笑いが漏れた。 ﹁笑ってるなよぉ莫迦ぁ!﹂ ﹁くはは⋮⋮﹂ 呼びかけるお八の声も夢の中のように遠く聞こえ出した。 うわ言のように言葉が漏れるがもはや何も考えられないのである。 ﹁ざ⋮⋮ん、念⋮⋮おれの、 ⋮⋮はここで⋮⋮終わって⋮⋮しま ⋮⋮﹂ ﹁おい、寝るなぁ! 喋るなぁ!﹂ ﹁子供⋮⋮は⋮⋮むちゃ、を﹂ 250 ︵ああ、駄目だ。眠い︶ 九郎は目を閉じて体を重力に委ねた。 ︵眠い⋮⋮︶ ただ、眠かった。 **** 九郎は何もない空間を歩いていたら歩いていることの無意味さに 気づいた。 同時にその場所が何処なのかという疑問が沸いたのであったが、 その途端目の前に扉があった。出てきたというよりも、前からあっ たように自然に。 ﹁なんだこれは﹂ 開けようとしても鍵がかかってて開かないので、サムターン回し で開けた。住居不法侵入などによく使われる単純な手法である。 扉の中は図書館のようだった。天井が見えぬほどの高さの棚にぎ 251 っしりと本が積み込まれ、ビルディングのようにあちこちに建って いる。 謎言語で書かれた発狂しそうな本から九十年代の日本の少年漫画 まで適当に乱雑に並べられている。 大きな机が一つだけあって、一人の怪しげな人物が座っていた。 フードを目深に被った虹色の髪の女だ。漫画雑誌を読みながらハ ンバーガーとコーラを摂取していたようで、突然入ってきた九郎を 目を丸くして見ている。 顔なじみの魔王であった。 九郎は軽い調子で声を掛けた。 ﹁おや、魔王ではないか﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮⋮ええー!? ちょっと待ってなんで、くーちゃんここ に居るの!?﹂ ﹁地球一売れてるセットだからって健康に悪いってメイドに怒られ るぞ、ハンバーガーとコーラ﹂ ﹁いやいやいやそうじゃなくて! うおおおい! 我が折角日本に 送ってやったのにまた異世界っていうか、この超隠れ家的な我の固 有次元に紛れ込みおってこの男は!!﹂ 怒ったような慌てたような様子で魔王が立ち上がり近寄ってくる。 不健康的に閉じこもって漫画ばかり読んでいたのでふらついて、 フードの裾を踏み転んだ。 ﹁はっはっは﹂ ﹁笑ってる場合じゃないよ! ああもう、魂だけ離脱して境界越え てる⋮⋮我と混線してるからかな? ともかく早く戻らないと肉体 が死ぬでしょ! はい戻った戻った!﹂ と、召喚した強制目覚ましハンマーで九郎をぶん殴った。 252 **** ﹁はっはっは﹂ 目覚めの笑いが漏れた。 笑い声と云うよりも素の声で﹁はっはっは﹂と発音したような声 と共に、すっくと上半身を起こした九郎を見て回りの人は瞠目した。 周囲に目をやれば、藍屋の中のようであった。主人とその奥方、 それに若旦那でお八の兄一也。大工風の意気消沈した男。そしてお 八ともう一人、顔を狐面で隠した変人が見えた。 額に涙がでるほどの痛さを感じたが、とりあえず無視して、 ﹁あー⋮⋮その、なんだ。お八に怪我は無かったかの﹂ ﹁││くろぉおお! ふべっ﹂ なにやら飛びついてきたお八をさっと起き上がって躱す。 ﹁なんで避けるんだ莫迦!﹂ ﹁ははは、その様子なら怪我は⋮⋮ぬっ﹂ 額に感じた鈍痛に、立ち上がったはいいが目眩を感じる。 眩んだ体を、 253 ﹁おっと﹂ と、狐面の男が肩を掴んで支えた。 彼は仮面をずらすと、白粉で塗った狐目の顔を九郎の耳元に近づ けて囁くような、それでいて皆に聞こえる不思議な落ち着いた声で、 ﹁頭を打った直後だ。あんまり激しく動いちゃいけませんぜ﹂ ﹁うむ⋮⋮コブになっておるな﹂ 湿布が貼られている額を恐る恐る触ると、痒いような鈍い痛みが 逆に心地いいような妙な感触であった。 立ち上がって気づくが、体のあちこちの傷口に当て布と薬の染み る感覚と薬草の匂いがした。特に右手は釘が何本か刺さったらしく、 きつく包帯が巻かれている。 狐面の男に支えられている九郎にお八が、 ﹁本当にもう大丈夫か!?﹂ ﹁ええいなんのこれしき。意識もはっきりしておる﹂ ﹁良かった⋮⋮心配したんだからな⋮⋮本当に、心配⋮⋮﹂ と、怒鳴ろうとしたが涙が出てきて俯き、嗚咽を鳴らすお八を、 おやおやと九郎はあやすように背中を撫でた。 ﹁お八は優しい子だの。お主のような子供を助くは己れら大人の務 めぞ。気にするでない﹂ ﹁違っ⋮⋮九郎っ⋮⋮だって⋮⋮死んじゃやだって⋮⋮﹂ ﹁おおよしよし、泣くでない﹂ 困ったように九郎は、泣いているお八を両親か兄に任せようかと 視線を向けたが、 254 ︵んん⋮⋮? どうもそういう雰囲気ではない⋮⋮?︶ なにやら暖かい目線で見られているので首を捻る九郎である。知 り合いの爺さん相手に娘を泣きつかせるよりは家族が相手をしたほ うがよかろうに、と思うのであるが⋮⋮ 一方で大工が凄まじくバツの悪そうな顔で、地面に手を付け九郎 に謝った。 ﹁すまねえ。俺の責任だ。大工箱を蹴っちまって⋮⋮﹂ ﹁ううむ、お主、釘や槌の入った箱は持って上がるでないぞ。持て ぬのなら腰に紐で括りつけておくと良い﹂ ﹁ごめんよ⋮⋮﹂ と、病人のように青い顔をして沈んだ様子で謝っているので、お そらくは大工の棟梁か藍屋の主人かにこっぴどく叱られた様子だっ た。 どうも其の様子が逆に気の毒で事故のようなものであった故、九 郎も注意を促す以上の事は言えぬ。 それでも忌まわしそうに藍屋の主人の良助が、 ﹁この御方に万が一があったら、あらゆる意味で二度と槌を持てぬ ようにしてやったところだ。反省しろっ!﹂ 追い打ちのように云うのだから、大工は﹁すまねえ、すまねえ﹂ と繰り返すのであった。 いつの間にか藍屋にとって重要人物になってるらしい事実が九郎 に疑問と共に到来していたが、それはさておき。 ﹁この狐の兄さんは誰ぞ?﹂ 255 ﹁おっと、自己紹介が遅れましたかね。あたしゃ流れで薬を売った り、医者の真似事をしたりしてるもんで﹂ 狐目の男は顔を仮面で半分だけ隠して正面から九郎と向き合い、 云った。 ﹁安倍将翁と申すものです。以後、お見知りおきを⋮⋮﹂ ︵漫画にでも出てきそうなキャラをしておる⋮⋮︶ 実際に、絵から出てきたような色白の美青年で仮面をつけている 将翁を見て素直に九郎はそう思うのであった。手指も細くすらりと していて、妖しい魅力すら感じる男である。 そして己の治療をしたのが目の前の男だと察して、 ﹁お主がやってくれたのか。感謝するぞ﹂ ﹁いえいえ、釘の切り傷と⋮⋮額は軽く切っていたぐらいでしたの で。あたりどころが良かったのか頭蓋も割れてないみたいですから 恐らく大丈夫でしょうぜ、九郎殿。酒を飲んでいたからちょいと派 手に血が出たようですが、ね﹂ ﹁まあ魂はちょっと異世界まで一時的にぶっ飛んだが⋮⋮ん?﹂ そう言えばこちらから名乗ったかどうか覚えがなかったが、お八 や其の家族から名前を聞いたのだろうか。 将翁は口を笑みの形にする。常に目を細めて居る為に感情は伺え ないが。 ﹁石燕殿からお噂は予々︵かねがね︶⋮⋮﹂ ﹁あやつの知り合いか。うむ、何となく変人でも納得が出来るな﹂ 256 痛む額に手を当てながら軽く目を閉じて、腑に落ちる思いを感じ た。 地獄先生の知り合いなら奇人変人どころか魑魅魍魎が居てもおか しくないとは、九郎のみならず近隣の住人らからも認識されている。 噂になっている奇人の例で云えば、まるで爺のような雰囲気の子供 とか。 彼は細い指でぺたり、と九郎のあて布を貼ってある頬を触ると薬 の匂いのする吐息と共に耳を犯すような美声で、 ﹁頭の髄が痛むようならば、﹂ 九郎の手に丸薬を数粒握らせる。 ﹁こちらの渾沌丹を一日一粒だけ飲むといい。痛みをぼやけさせて くれる。肌の擦り傷、瘤は放っておけば治ります﹂ ﹁おお承知した﹂ 九郎が赤錆色をした丸薬を受け取り、手の中で転がして懐にしま うと将翁は、ふっと息を吐いて置いていた背負子兼薬箱を背負って 立ち上がった。 大旦那の良助が腰を上げて呼び止める。 ﹁もうお帰りになるのですか? お構いもまだして居りませぬのに ⋮⋮﹂ ﹁お気になさらずに。あたしゃ通りかかっただけですので一寸他の 用事がありまして。また今度お邪魔します、よ﹂ ﹁はあ、左様で御座いますか⋮⋮おい、一也﹂ ﹁お送り致します﹂ と若旦那の一也に連れられて将翁は部屋から辞去する運びとなっ 257 た。 戸から出て歩き去る前に、もう一度九郎をその狐のような細めで 見て、 ﹁九郎殿も││また今度﹂ と呟き、狐面を顔全体に被せて去るのであった。 仮面を普段から被っていると可也面妖に見えなくもないが、当時 の江戸は前述した通りに仮装、扮装をした者も多く、目かつらや百 まなこと呼ばれるお面のようなものも多く売られて道芸に用いられ ていた為に、目を引くものの異常とまでは見えないのである。 九郎は包帯で巻かれた手で頭を掻きながらその将翁という妖しげ な男を、 ︵異世界にいた長生きの吸血鬼のようであったなあ⋮⋮︶ などと考えるのであった。 ふと、窓から覗く日が随分と暗くなっているのに気づいた。 暮れ六ツ︵午後六時頃︶であろうか、そろそろ家に帰ろうかと思 い、泣いているお八を撫でてとりあえず離した。 ﹁さて、世話になったな。己れもそろそろ帰ろうか⋮⋮﹂ ﹁は⋮⋮﹂ 九郎がそう云うと将翁の妖気か何かに飲まれていたように固まっ ていた良助夫妻は向き直って礼をする。 ﹁いえ、九郎殿は一度ならず二度までもお八の命をお救いくださっ た大恩人。ぜひとも今晩は歓待を受けてくだされ﹂ ﹁何も大げさな⋮⋮﹂ 258 ﹁大げさではござりませぬ。むしろ、そのようなお方に何もせずに お帰り頂いたとあっては藍屋の看板を下げねばならぬ程の恥﹂ ﹁む、むう⋮⋮﹂ ずい、と近寄って重々しく云う良助に気圧されてしまう九郎であ った。 そこまで云うのならば、と夕飯を馳走になることとなったのであ る。 **** 既に緑のむじな亭にいるお房や六科には、脳震盪を起こした九郎 が藍屋に一晩泊まる事は連絡が行っていた。 とはいえ九郎は他所で飲み歩いて晃之介のところに泊まったりす ることが時々あったので﹁ああそうですか﹂と云う軽い反応だった が。 その晩の膳はやけに豪華な作りとなっていた。良助夫妻と若旦那 の一也夫妻、組頭︵仕入れなどの責任者である︶の四治郎とお八、 九郎が広い座について夕飯を囲んでいた。 九郎が酒好きという事もあって、酒も用意されている。 それはいいのだが。 ﹁ほ、ほらっ口開けろっ。あーって!﹂ ﹁いや待て待てハチ子よ、そんなことをせんでも多少痛むが箸ぐら い握れるわい﹂ ﹁いいから!﹂ 259 ﹁むう⋮⋮﹂ と、隣に座っているお八が膳に盛られた料理を箸で摘んで九郎の 口元に持ってくるのである。 手を負傷した九郎に対する気遣いで、微笑ましく普段の粗暴なお 八の様子から比べればその甲斐甲斐しさは家族に取って喜ばしくも、 ﹁面白い﹂ ものだから和々と笑ったまま止めようともしない。 一方で九郎は、 ︵これではまるで⋮⋮︶ と、顔を曇らせて、 ︵老人介護ではないか!︶ 中身が爺な彼は危機感を覚えていた。 彼からしてみればお八は孫娘みたいな認識である為にそういう考 えになるのである。 冷や汗を掻いて九郎は一計を案じる。 ﹁む、ハチ子や。そう言えばお主には隠しておったがこっそり買っ た義経の竹細工をやろう﹂ ﹁え!? まじで!? やった!﹂ と胸元からこけしと半分に切った竹を組み合わせた[八艘飛び] と呼ばれる義経の細工を床に置いた。 これは宙に放り投げても重心が作用して竹のわん曲した部分、つ 260 まり義経の足が床に着くという実際にあった細工である。投げても 見事に着地することから義経の八艘飛びと掛けて大層売れたそうな。 昼間にやたらエキサイティングな勧進帳を見たお八は食事中だっ たが喜んでそれを受け取った。 お八がそれに夢中になった途端九郎は箸を手に取り、行儀もさて おき目の前の膳をがつがつと胃袋に叩き込んだ。 ﹁おお⋮⋮かっけえ⋮⋮ってああっ!?﹂ ﹁美味い美味い﹂ 特に旬のメバルの煮付けが、皮もとろりとしていて醤油味が染み たほっこりとした身を飯に乗せると小骨ごと飯で流し込んでしまう 美味さであった。目元をほじると、どろりとしたゼラチンがぷるぷ るとしてまた、旨い。 むう、と拗ねるようにして仕方なく自分の膳にとりかかるお八を 見て、家族は可笑しそうに笑うのであった。 その後もお八の兄二人と父を交えて酒を飲んだりしていると、何 故か帳簿の話になって九郎にも話が振られたので幾らか計算が出来 るところを見せたり、布の良し悪しについてなにやら講義だか高説 だかを九郎に聞かせて来たり、なんだったら怪我が治るまで藍屋に 泊まりこまないかと誘われたりして九郎は、はっと察した。 ︵んん⋮⋮!? さてはこの主人らは己れを働かせようとしている ⋮⋮!︶ 最低限の教養があるかどうかを確かめられた上で呉服屋の知識を 身につけさせる気だ、と九郎は思った。 そして彼は、 261 ︵⋮⋮働きたくなどないのだが︶ と考える。居候で好き勝手に江戸で遊びまわるのが良いのであっ て、この歳になってなにやら定職に着くのは非常に面倒なのである。 現代なら年金生活に入っている高齢なのだ。 それがこの店の旦那達の、若者に見える九郎の将来を思い職を見 繕うという好意であっても働きたくないのでござった。 という訳で彼は、夜中に懐に忍ばせていた貴重品のポーションを 舐めて全身の裂傷と額の打撲を一晩で治し、次の日の朝には挨拶も そこそこに出て行く理由を適当にでっち上げて、逃げるように藍屋 を後にするのであった。 ﹁働くぐらいなら閻魔の真似事でもしてたほうがマシだのう﹂ ﹁かあっ! 左様でさあ⋮⋮楽でいいですわな﹂ 朝っぱらから閻魔の格好をしていた朝蔵と、土産に渡された朝食 の握り飯を分けて食いながら言い合う九郎であった。 また、江戸の一日が始まる。 262 12話﹃お房と九郎のぶらり街歩き﹄ 九郎がお房を連れて遊びに行くのは週に一二度ある事だった。 店の手伝いをしているお房を九郎が己の遊行に付き合わせるのは、 まだ九つの子供ならば遊びもまた子供の仕事のうちだと考える老爺 心からくるものである。 店もそこまで繁盛して居らず、六科はいつも﹁構わん﹂と許可を 出すので、お房は無理やり付き合わされた体を見せつつもそれなり に楽しんでいるようであった。 お房が一生懸命店のために働いていることについて、六科と酒を 飲みながら話し合ったことがあるが、 ﹁あれに﹃遊びに行こう﹄と言われるたびに﹃待ってろ。すぐ店を 閉める﹄と答えているうちに遠慮するようになってしまった﹂ と、六科自身もお房を遊びに出かけさせたいのだが、生活費を稼 がないといけない店との両立は難しく、またその事実に幼いながら もお房が察してしまっているのである。 幼い娘を一人遊びに出かけさせるのも、 ﹁危険だ﹂ と、六科はいつものむっつりとした顔で云う。 確かに迷子になったり、どこぞの稚児趣味の同心に引っかかった りしては危ない。江戸は当時の世界でも有数に治安の良い都市であ ったが、現代とは比べるべくもなく危険は多いのだ。 そのような事情もあり、九郎が遊びに連れて行くのも六科から直 接頼まれたわけではないが、六科もありがたく思っている。 263 感情の起伏が薄い彼でも娘は一番大事に思っているのであった。 其の日も九郎とお房は浅草寺で浅草餅をもっちもっちと食べてい た。 毎日の賑わいを見せるのは現代でも変わらないが、多種多様な大 道芸を見ながら濃い目の茶を啜りひたすらにもっちもっちと浅草餅 を頬張る。 九郎が指を向けながら、 ﹁おお、見よフサ子や、あれは可也ヤバイ角度だぞ﹂ ﹁確かにとんでもない角度なの﹂ 見世物の大道芸を見ながら感嘆の声を上げる。それほどの角度で あった。 **** 神社仏閣の境内でやる大道芸は、長屋の食い詰めが閻魔の格好を するのとはものが違う。 場所代も払わなければならないだけあって、自信の有りそうな猛 者が揃い各々の芸を見せていた。小男が大男の肩の上で宙返りを披 露したり、玉薬︵シャボン液のことを当時こう云った︶を使って幻 想的な光景を見せたり⋮⋮ ﹁さあさあお立会い、これからあの男の頭に置いた西瓜を、私が投 げたる小柄で見事に撃ち抜いて見せましょう! 一度当たればちょ いと立ち止まり、二度当たれば拍手喝采。三度目となりゃあ私にお 264 捻りを投げつけてくんなしい﹂ 人の良さそうな声で朗々と告げる芸人が居た。 三間ほど離れた位置に、猿轡を噛ませられて太い木に荒縄で縛ら れた男が目を見開いて足をばたつかせている。 其の頭に拳ほどの小玉でまだ成熟していない西瓜が乗っており、 通りかかる人はその男の泡を食ってる様子から実に真剣味があって 見入るのであった。 小柄︵ちょっとした物を切ったり髷の手入れをする小刀である︶ を持った髭の芸人らしき男は手指にそれを挟んで肉食獣のような目 で笑ったまま、 ﹁そぉら!﹂ がん、と頭蓋骨に当たったら突き刺さりそうな音を立てて、西瓜 に小柄が刺さり後ろの木に縫い止めた。 ﹁も、いっちょう!﹂ 再び手を振るうと目にも見えぬ速度で飛来した小柄が西瓜の蔕を 切り飛ばすように命中して衆人は拍手を送った。 西瓜を頭に載せた男はバタついた足も止めて今にも気絶しそうだ。 ﹁最後ぉ!﹂ 三度目である。如何な威力で小柄を投げたのか、頭の上の西瓜が 爆発するように弾け飛んだ。 男は失禁したようで見ていた人は大笑しながら小柄を投げた芸人 に次々と惜しみなく銭を放った。 265 ﹁どうもどうも、へへへ﹂ 銭を回収し、客衆が散った後に男は青行燈のような顔色になった 男に近寄り猿轡を解き、 ﹁おい、次ぁ当てるかもしれねぇぞ。さっさと洗いざらいぶちまけ ちまえ﹂ ﹁ひいい⋮⋮っ﹂ 怖ろしい顔で詰め寄りながら人気のないところに連れ込んでいく のを九郎は見ていた。 というか、知り合いである死ぬほど物騒な定評のある同心、中山 影兵衛であった。尋問ついでにあのようなことをしていたらしい。 ﹁何をやっておるのだあの男⋮⋮﹂ ﹁知り合いなの?﹂ ﹁お主の教育に悪いから知らんぷりだ﹂ 苦い顔で云う。手を引いて離れていくが、なにやら影兵衛は境内 で失禁させたことで坊主に叱られていた。 大道芸だけではなく屋台も多く出ていて飲み食いに浅草寺周辺だ けでも困らない。 現代とは一風変わった店だと、小さな鉢に入れた植物の苗まで売 っているところだろうか。江戸ではその二百五十年程の歴史の間、 だいたい園芸ブームであったという。庭のないワンルームアパート のような狭さの長屋でも、鉢に植物を植えて育てていた。安定した 人気物は朝顔で、お房も育てている。 酒を出す屋台も多く、現代のように世界中の酒が手に入るわけで はないので中には変わった味付けをして独自のものを売りだそうと した酒屋も見られた。 266 ﹁むっ⋮⋮お房よ。見ろ、雲丹酒だと⋮⋮どんな味なのだ﹂ ﹁まずそうなの﹂ ﹁ぐへぇ生臭い! 店主! 普通の酒をもう一杯!﹂ ﹁間髪入れずに飲んでるんじゃないの!﹂ の ウニの卵を酒で溶いてちょいと醤油で味付けしたようなものだっ たが、さすがにきつく九郎は口の中を即座に熱い酒で洗い流した。 すると生臭さがすっと消えて鼻についた磯の香りも随分と大人し くなるのだから、 ﹁さてはこの店主、確信犯⋮⋮﹂ と、予め熱燗を用意している店主をじつと見るのであった。 昼間から酒を飲んでいる九郎であったが江戸では珍しいことでは ない。酒は気付けの飲み物、軽い栄養ドリンク感覚で町人は愛飲し ており、金銭に余裕があれば朝出かける前に一杯、なども行なって いたようだ。 江戸っ子が喧嘩っ早いのは常にほろ酔いだったからだ、という説 も有るほどである。 とはいえ、九郎のような子供の体をしたものが一日に一升も二升 も飲むのはさすがに見ないものであったが。 物価引き下げ令 の制 特にこの時代は新田の開発が盛んに行われていた事で米価が安く なっていて、其れに伴い大岡越前が行った 定と、商人の買い占めと値段の吊り上げを止めさせて、酒、酢、味 噌などの米製品だけではなく、油や織物など日用品までこれまでよ りも安く流通するようになっていたのだから酒飲みも増えるはずで ある。 表向きは吉宗の倹約令を受け入れつつも町人たちは徐々に豊かに なりつつある生活を楽しんでいた。 267 ﹁へぇいらっしゃい飴だよう、当たり付きの棒飴、一つ三文だ﹂ ﹁あ、九郎あたいあれ欲しい!﹂ ﹁よしよし﹂ と、売り子の声に誘われて飴売りに近寄る。 涼し気な単衣を着て塗り笠を被っている、髭も綺麗に剃って眉も 薄いすっきりした男であった。 青田刈りの利悟である。 ﹁⋮⋮おせんべい売りはこっちだったかしら﹂ ﹁ううむあっちではないかな﹂ ﹁ああっ露骨に逃げられそうに!﹂ 慌てて呼び止める利悟であった。 ﹁待ってくれ九郎にお房ちゃん! 拙者今は疚しい事無く小さな商 売しているだけだろ!?﹂ ﹁今は、て⋮⋮まあいいが。しかし、先ほど影兵衛も見たがお主ら 同心、他で稼いでる程に給料少ないのか﹂ ﹁いやまあそれもあるんだけど⋮⋮﹂ 言葉を濁す。 大名屋敷や商屋に出入りして副収入のある同心は江戸でも良い暮 らしをしているのであったが、利悟は今ひとつ人望が無くてあまり 裕福ではないのであった。 利悟は塗り笠をつまみながら周囲に視線を配って小さな声で囁く。 ﹁[飛び小僧]っていう盗人がいてな、大名屋敷から金を盗みまく ってる奴なんだけど⋮⋮それがこの辺りに普段はいるんじゃないか 268 って話になって同心や手先がこっそりとこうして人の様子を伺って るってわけさ﹂ 実直な眼差しで道行く子供の足首などを眺めているこの同心は、 頭におがくずでも詰まっているのではないかと九郎が軽く蔑んだ目 で見た。 [飛び小僧]はここ数年、江戸で盗人勤めをしている恐らく単独 と思われる者である。千代田区内の旗本屋敷や大名の上屋敷に忍び 込み盗みを働いている。殆ど盗まれる方も気づかない程静かに仕事 をするのだったが、一度だけ見つかった時は屋根の上を蚤のように 跳ねまわって神田の堀に飛び込み逃げていったという。 この辺りを張っているのはなんとも雲を掴むような話なのだが、 [飛び小僧]が仕事を行った日あたりに必ず、この近辺の大きな寺 か神社の何処かに盗まれたと思しき一両小判が放り込まれているの である。神主や坊主が気づき奉行所に話が言ったのである。賽銭自 体は、どこから盗まれたものかわからぬから寺社の預りになってい るが⋮⋮ 盗人が信心深いとは妙な話だが、それでも手がかりは当たらなく てはならない。浅草寺だけではなく湯島のあたりにも奉行所や火盗 改の手のものが探りを入れているはずである。ただ、火盗改は強権 を使って乱暴な手段に出ている可能性もある。 ともあれこの場では怪しいやつを利悟の勘働きで見つけて話を聞 くしか無いのであった。 ﹁夏場になると少年少女が薄着になるから嬉しい季節だよなあ⋮⋮ 拙者の小僧がたまらん﹂ 脳内のおがくずに菌類でも繁殖して茸が生えてそうな利悟を気味 が悪そうに九郎は身を引かせた。 少なくとも手は出していないから個人の趣味の範疇だと諦めて、 269 売っている飴を手に取る。 細い箸のような棒の取っ手部分から先を白い飴が覆い隠すように 付けられている。 利悟が無害な飴屋の顔を装い解説するに、 ﹁甘酒と飴を絡めて作ったもので、すぐに舐め解かせるんだ。中の 箸に赤い色が塗ってあったらもう一本おまけ﹂ ﹁そうだの⋮⋮フサ子も欲しがっとるから二本貰おうか﹂ ﹁ありがたい﹂ と、六文渡して棒飴を一本ずつ貰い、折角なのでその場で舐めた。 甘酒の微かな酒粕の味がする工夫された飴だ。売り方も当たり付 きで購買意欲を増やし棒をその場で回収できるようにしている、中 々に売り方を考えている商売だと九郎が一瞬感心した。 だが、すぐに気づいた。 白い棒状のものを一生懸命舐めているお房を、悦に浸ってる顔で 利悟が見て記憶に焼き付けているようであった。 そして、その舐めきった箸は利悟が回収するのである。 ﹁⋮⋮とことん気持ち悪いわこのド変態がっ!﹂ ﹁がはっ⋮⋮!﹂ 利悟の肋の隙間に手刀をぶち込んで器官系に大ダメージを与える と彼は絶息して倒れた。 九郎は飴を銜えたままのお房の手を引いて稚児趣味のサイコ野郎 から離れるのであった。 **** 270 浅草寺を出て何となし、二人の足はぶらりと不忍池に向いた。 夏の渡り鳥が早くも飛んできている不忍池には蓮の葉が浮かんで おり時折鯉が跳ねる音が聞こえた。 手頃な草原に座り込み池を眺める。数日の好天に恵まれた為に草 から乾いた匂いがして気持ちが良い。現代から見る不忍池の景色は 殆ど思い出せないが、見回してもビルディングなどの建物は見えず にまるで山中の池に来たような風景であった。 ﹁いい天気なの﹂ ﹁まったくだ。ほれ、亀も日光浴をしておる﹂ ﹁本当だ。でも亀って水の中のほうが好きじゃないの?﹂ ﹁確か日光浴によってビタミンDを体内で精製しなければ甲羅の強 度が⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮またわからない言葉で誤魔化そうとして﹂ ﹁ええい、たまには甲羅も乾かさんとふやけてしまうってだけの話 だ﹂ 疑わしげなお房の視線に九郎は事実ではないが簡単な説明で返し た。 お房は小さく﹁へえ﹂と呟いて、九郎を覗きこむようにして、 ﹁九郎は簡単なことを難しい言葉で考え過ぎなの﹂ ﹁⋮⋮そうか?﹂ ﹁大人たちとばっかり話をしてるから格好つけてそういうことにな るの。もっと気を抜いていいと思うの﹂ ﹁結構気楽なつもりだったが⋮⋮まあそう、確かに﹂ 271 欠伸をして草に寝転がる。 手を枕にして気楽な笑顔で云った。 ﹁たまにはこうして、何もせんでだらけて過ごすのもいいかもしれ んなあ﹂ ﹁そうなの。お酒も抜きで﹂ ﹁⋮⋮酒は後で飲むが﹂ ﹁抜ーきーでー!﹂ ﹁はっはっは﹂ これから江戸で過ごす人生は長いのだ。遊び急いで退屈になって も仕方あるまい、と九郎は考えた。 辻斬りだの道場破りだの押し入りだの妖怪だのに関わらず、お房 とのんびりしている日があっても良いのだ。 もう異世界で過ごした日々のように戦わなくても⋮⋮ ︵あれ? 己れこっちにきて結構戦ってないか?︶ 戦わなくてもいいのだ。 高い空を見あげればふと浮かんだちっぽけな考えなど消えてしま いそうだった。 ﹁お房もほれ、ゆるりとせい﹂ ﹁ん、よいしょっと﹂ と、お房は寝ている九郎の腹を枕に寝転がったが、孫にじゃれつ かれている祖父のように九郎はうむうむと頷いて頭を撫でてやった。 普通に生きて子ができ、孫が生まれればこのような感じだったの かも知れぬと九郎は和む。 二人でよい日和を感じながら他愛のない会話を続けた。 272 ﹁そう言えば不忍池はなんで不忍池って云うんだろうなあ﹂ ﹁さー﹂ ﹁忍者がいたら忍んじゃ駄目な池なのかもしれん﹂ ﹁そうなの﹂ などと会話していた九郎が、ふと不忍池を見やった。 池に浮かぶ蓮の葉の隙間からこちらをじっと見ている者を見つけ て目を見張った。 水面から頭だけ出しているその男は、口元と頭を隠した目だけ出 している覆面姿であからさまに忍者なのである。 ﹁ぬわっ!?﹂ ﹁あいたっ﹂ 急に跳ね起きた九郎のせいで彼を枕にしていたお房が地面に頭を ぶつける。 恨みがましそうに頭を抑えてお房は睨んだ。 ﹁いきなりなんなの!?﹂ ﹁い、今、池に! 不忍池に忍者が居たのだ!﹂ ﹁はあ?﹂ お房が振り返って池を見るが、先ほど顔だけ出していた忍者は消 えている。 余計腹立たし気に、九郎へ向いてお房は云う。 ﹁なにも居ないじゃない﹂ そういった彼女の頭越しに、再び池の中からぬっと忍者が顔を出 273 していた。 ﹁居る! 忍んでない!﹂ ﹁んん?﹂ お房の動きと連動するようにすっと池に沈む忍者。 ﹁やっぱりなにも居ないの﹂ お房が九郎に詰め寄るとぬっと忍者が出てくる。 九郎は頭を抱えて悶えた。 ︵なんで忍者が⋮⋮!?︶ 混乱する。しかも今度は事態が進行して、お房の背後で、池から 上がった覆面に褌一丁の忍者が水滴を滴らせて苦無を持っているの だ。 九郎は異世界にも何故か居た忍者を思い出した。正確に云えば東 方諸国の職業、ニンジュツ・ヒットマンと呼ばれる暗殺者兼傭兵だ ったが、目の前に居る忍者のように忍者風覆面に褌スタイルであっ た。 一時期傭兵仲間だった為に裸の理由を尋ねてみた事があったが、 動きやすさの追求らしい。忍者なのに前線で敵の首を刎ねまくる姿 に戦慄したものだったが⋮⋮ ﹁止まれそこの忍者! 不忍池だからって忍ばなすぎであろう!﹂ 我ながら何か混乱して間の抜けたことを言っていると自覚するが お房を背中にやりながら前に立つ。 改めてじっと水に濡れた忍者を見ると、細身ながら鍛えぬかれて、 274 くない 傷も多く見られる体である。手に持つ苦無をだらりと構えて、その 目はあくまで鋭い。 目に凄みがある。 九郎は知れず、握った手に汗が滲んだ。 ﹁お主⋮⋮何が目的だ﹂ 尋ねると忍者はすっと手を動かし覆面の口元へやる。口元に隠し た手裏剣が投擲されないか警戒すると、相手から声がかけられた。 ﹁いやあ僕、そこの飯屋で店員やってる小介って云うもんで、池で 蓮根を取ってたのさあ。あ、これ鼻とか髪に泥を入れないための覆 面でして﹂ 九郎は急に恥ずかしくなった。 **** 不忍池の周縁に小さな小屋を立てて料理店を営んでいる[穴屋] は、小介と、彼の父二人で経営している店であった。 九郎とお房はその店で遅めの昼食を取る事となった。濡れた体を 拭って清潔な柿色の服と前掛けをつけた小介が料理を運んできた。 お房は面白そうに笑う。 275 ﹁九郎ってば、池から上がったこの小介さんを素破と間違えたの? あはは、面白い﹂ ﹁ええい、忍者⋮⋮この時代では素破か、それでなくとも不審者で あることには違いなかろう!﹂ ﹁いえいえ、これでも池のお寺からは許可を貰ってるので﹂ ﹁そういう問題ではないのだが⋮⋮﹂ 爽やかな笑みを浮かべる小介に、疲れたように九郎は返した。何 も苦無によく似た刃物で蓮根を取らなくても良いのに、と。 すっぱ この時代では忍者という言葉は浸透して居らず、精々が忍びか忍 び者⋮⋮或いは素破という名称が一般的であったようだ。忍者とい う名称は近年の時代小説によって広まったのである。 話してみればこの小介という若者も、気持ちのよいさっぱりした 性格の男であった。 早くに母を亡くして父と一緒に暮らしているらしい。元々は武士 の家柄らしいが、彼の生まれた時から町人同然の暮らしをしていた 為か厭らしさがない。 彼の父親もまた小介といい、代々嫡男は小介と名乗っているなど と語ってくれた。 とりあえずつきだしで出された蓮根の胡麻和えに箸を伸ばす。 蓮根にしっかりと出汁が効いて、胡麻と一緒に振りかけられた辛 子の粒が目を細めて頷く程に、うまい。 お房は辛いから涙目になっていて、一緒に出された剥いた枝豆に 鰹節をまぶしたものに手を付け始めた。 ﹁これでは、酒以外なかろう﹂ ﹁また飲み始めた⋮⋮﹂ 276 げんなりと呻くお房である。 彼女には酒のような、口辛い液体の何が旨いのかまるでわからな かった。いや、飲んだ記憶はないのだが何故かやたら辛いし額が痛 むものだと知っている気がしたのだ。 そんなお房の前に、暖かな飯と鯉の煮物が持ってこられた。朝方 に炊いた飯をお櫃で保温し、蒸して温めなおした飯は湯気が立って いる。 お房は器用な指先で箸を操り、煮物へ手をつける。じっくりと煮 込んだ鯉の煮物は小骨や鱗まで半ば溶けたように柔らかく、甘辛い 煮汁が染みこんで大層に飯に合う。 美味そうに飯を口に運び始めれば昼酒への文句も無くなった。 九郎への煮物は生姜の細切りがたっぷりと入ったものであったが、 持ってきた小介がふと気になって自嘲するように声をかけた。 ﹁しかし、歩む時に足音を消しておるとは本当に素破のようである な﹂ 冗談のつもりだった。店の床は小石を取り除いたとはいえ地面が そのままであったのに、小介は足を擦る音も踏む音もしなかったの である。 だが、其の一言で小介が動きを止めた。 妙な雰囲気に九郎の笑みもぎこちなくなって、誤魔化すように酒 を飲んだ。 小介と店主の老爺の妙な目配せがあった。 九郎も釣られて厨へ目をやるがそこで内心震え上がった。まな板 の横にある鱗取り用の道具がどう見ても苦無なのである。 続けて、注文していないのに鯉の洗いを小介が持ってきた。酢味 噌が添えられているものだが、九郎の前に置く際に彼の耳元でぼそ りと、 277 ﹁素破なんていません。いいね﹂ ﹁うっ、うむ﹂ 断言する小介の言葉に、九郎は頷く他無かったのである。 戦乱の世が終わり、殆どの忍者はその職を失い農民に戻らざるを 得なかった。中には里の忍者の署名と共に城や大名屋敷に雇って貰 えないかと頼みに言ったものの、一笑に付されて門前払いを食らっ た忍者も居たとか。 或いは有名な風魔小太郎、高坂甚内のように盗賊崩れ者も多く居 ただろう。江戸の[小僧]と呼ばれる単独の盗人などはまさに忍び の術の如き盗みを働いていた。 そのような者達も普段は江戸の町民として過去を隠し身上を忍ば せ生活していたに違いない⋮⋮ 江戸の闇の中、そして日常の光の下にも、今だに素破は生きてい るのだ。その能力を落とさぬように密かに訓練をしながら。 鯉の洗いはおいしかった。 **** 店を出てからも二人で湯島天神、神田明神と通って日本橋に辿り 着いた。 日本橋から神田にかけてはは当時の江戸の商業においてメインス トリートである。とりあえず、江戸の人が利用するものでその通り に売っていないものはない、とさえ物の本に書かれている程であっ た。 278 五街道︵中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中・東海道︶につ ながる陸路の基点であり、河口も近く水運も盛んであった。故に、 大阪や京都からのいわゆる﹁下りもの﹂と呼ばれるものが多く売ら れていた、まさに日本の商売の中心地でもある。 通りの入口には木の門と番所があり、九郎とお房はそこをくぐっ た。物々しい雰囲気だが、主に夜間警備の関係のためである。 ﹁よし、何かここで買うて家に帰るとするか﹂ ﹁初めて来たけど⋮⋮凄いお店の数なの﹂ ﹁はっはっは、フサ子や、ふらふらして迷子になるでないぞ﹂ 九郎は人の流れに飲まれそうなお房と道の端に寄りながら云った が、ふと反対の通りの店に目がついた。 ﹁おっ! あれは鮭とばではないか! 北海道から来たのか!﹂ ﹁って自分がちょろちょろしてるの⋮⋮﹂ と、鮭の切り身を潮水で洗い干した鮭とばを買いに走る九郎であ る。これは火で炙っても美味いが、それを日本酒の中に入れて戻し ても美味い。 1671年に松前藩が蝦夷でシャクシャインの乱を収めた後に、 アイヌの自由商売や航行に制限を掛けて蝦夷地からの商品を独占し て税を掛けて畿内や江戸に卸しているのである。その分割高では有 るが九郎は躊躇わず買うのであった。 嬉々と紙に包んで持ってくる九郎に呆れながら、手をつないで歩 みを再開した。 暫く歩くと[西川]と屋号の書かれた店をお房は見上げた。 蚊帳を売っている店である。 ﹁そうだ、去年の冬にお父さんが蚊帳を質に流しちゃったから買わ 279 ないといけないんだった﹂ ﹁なに? なんでまた﹂ ﹁ええと確かその前の夏に冬用の布団を質に入れてて、取り戻すお 金がなかったから⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 九郎は、六科のその場当たり的な生活に思わず乾いた笑いが漏れ た。 しかし当時の江戸ではその季節ごとに不必要なものは質に預けて しまうような暮らしは普通であった。なにせ、家が狭いのが殆どな のである。 質屋も布団や蚊帳は生活に必ず必要なものなので、おおよそ大体 の客は質料を持って買い戻しに来るので次の季節まで売らずに待っ ていてくれるのだが⋮⋮六科の場合はそのまま質に流れてしまった ようである。 どちらにせよ、同じ部屋で寝ている六科とお房の分は兎も角、別 の部屋に住んでいる九郎も蚊帳が必要だ。 折角なのでその老舗で上等な蚊帳を二つ注文したのであった。金 は後払いで、店の者が家に持ってきた時に払えば良いのである。 最近石燕から金を借りるのもATM感覚に慣れてきた九郎なので あった。 なお、この蚊帳の老舗[西川]は現代も日本橋に有る布団の西川 チェーンの前身であるのだが九郎はそこまで覚えていなかった。 そろそろ家に帰るか、と九郎は考える。いろいろに歩きまわった からお房も楽しんでは居たが、疲れているだろう。 道を戻りながら帰る途中でお房はある店の前で立ち止まった。 妙な材料を店頭に並べているが人入りの多い店で、[紀伊国屋] と看板が立っていた。 280 ﹁本屋か﹂ ﹁お薬屋さんなの﹂ ﹁⋮⋮﹂ 恥ずかしい勘違いをした九郎は即座にお房に正された。確かに薬 の匂いが通りにまで漂っている。 漢方薬の老舗である。ここの薬は江戸の土産としても珍重されて いて江戸土産にもなっているという。 ここもまた現代日本にその形を残す店であった。寝具や薬など暮 らしに息づいた店は何時の時代でも必要とされるということだろう か。尤も、江戸の人らは多少の怪我や我慢し病気は放っておいて治 すという対応をするものが多かったようであるが。 目安箱で作られたことで有名な養生所も、当初はまったく人が来 なかった為にわざわざ江戸中の名士を集めて見学させて説明会を開 いた程である。 この作中の江戸においては、なんでも怪しげな狐面の男が作った 薬草の人体実験を幕府が行なっていたとか云う噂すら流れたとか。 ただ、小石川養生所が出来るのはまだ数年後である。 それはともかく⋮⋮。 九郎はお房に訊ね、 ﹁何か薬が居るのか?﹂ ﹁お父さんがお腹壊した時のお薬が欲しいのだけど⋮⋮﹂ と、薬は高価である為か口ごもりながら云う。 六科は味に無頓着なために時折腐った食べ物でも食らい、腹を壊 す事があるのだ。本人は酷い腹痛と下痢に耐えれば問題ないと云う のだが、そのたびにお房は心配になるのである。 遊びに出かけたというのに家の蚊帳や親の体調を心配していると は、 281 ︵孝行な娘だの⋮⋮︶ 九郎は感心するのだった。 自分は人生半ばで異世界に行ったっきり親の顔を見ていないので、 お房のそのような気遣いがとても尊いように思えた。 ﹁よし、腹痛に良く効くのを買って行こう﹂ ﹁いいの?﹂ ﹁親孝行に惜しむ金もあるまい﹂ 出すのは自分だが、そうしようと決めたお房の気持ちだけで充分 である。 あのような無骨な男でも、こんな優しい娘を育てられるのだ。 親とは不思議なものであるとつくづく九郎は思うのであった。 **** 家に帰ったら六科が腹を抑えて倒れていた。 ﹁どうしたの!?﹂ ﹁むう⋮⋮大根漬けに黴が生えていたから⋮⋮こそぎ落としてから 食ったのだが⋮⋮﹂ ﹁馬鹿かお主は!﹂ 282 早速薬を使う羽目になったという。 梅雨時の食べ物には細心の注意と、時にはまるごと捨てる勇気を 持たねばならぬ。 283 13話﹃たましひ﹄ 昨夜から雨が続き朝を迎えても薄暗い、むせ返るような湿気で冷 えた空気の日であった。 これまでの夏のような真っ青な空と陽気は鳴りを潜め、何処かく すぶった五月雨続きの天気が続いている。 まだ梅雨は少し先であるが、雨季に入ると江戸の町は活気が無く なる。 単純に、外働きをする人間があまり働かなくなるからだ。雨に濡 れてまでせせこましく金を稼ぐのはどうも粋ではないと考える男が 江戸には多かったようである。梅雨の間、労働を少なく抑えるよう に金を貯めておく者も居たようだ。 その分梅雨明けには見違えるほど勤勉に働き、また八月の猛暑の あたりには夏休みということで仕事を止めるのだから暢気な暮らし である。 この頃、かの地獄先生鳥山石燕が体調を崩したというので様子を 見に行こうと九郎は腰を上げた。 朝に緑のむじな亭でその日の仕込みを監督し││味見である。六 科の味覚があてにならないので││竈に使う[炎熱符]の調整をし てから出かけた。 魔法の術符は込められた術式の構成を把握していなければ使えな い。説明書の無い複雑な電気機器のようなもので理解には魔法の知 識が必要だ。魔力の無い九郎も製作者の魔女に比べればあまり使い 284 こなせているわけではなく、使える術符も単純な術式が込められて いるものに限る。 ともあれ、出かける予定がある時に九郎がいつも行うのは[炎熱 符]のタイマー設定である。自動で夜営業が終わる頃には熱を止め るようにしている。また、通常で使えば水の中でも火を灯せる術符 であるが、火事になったらまずいのでいざというときも湯水をかけ れば止まるようにすることも出来た。この辺りの設定も魔女が便利 そうだからと作ったのである。 ︵いつ降り出すかわからぬ天気だな︶ そう思いながら九郎は塗笠を持って出た。 途中にある酒屋で生姜酒を買った。これは切った新生姜を焼酎にふ た月ばかり漬けた酒で、飲むと体の芯から熱くなる風邪ひきに良い 酒である。 酒飲みの見舞いには酒を持っていくものと相場が決まっている。 三合徳利と盃を持って石燕の家へ向かった。 湿気て背筋を冷やす風が海から吹いていて、心なしか町を歩く人 らも雨が降る前にと足早になっている。 一方で、 ︵梅雨になれば梅酒を作るのもいいかもしれん︶ などと思っているとその梅酒の匂いがした為にふらふらと九段北 の辺りにあった甘味処[とくや]に寄ってしまう。 店先で去年漬けた梅酒を玉子型の大きな猪口でぐい、と引っ掻け て、漬けた梅に砂糖をまぶして饅頭に入れた梅饅頭をかじると甘く て僅かな酸っぱさもあり、つい酒を一合ほどやってしまう。石燕へ の土産に四つばかり買っていくことにした。 285 神楽坂の石燕宅へ着いた。 不吉な烏が鳴きながら飛び立って行く、そんな雰囲気であった。 家の前を通った霊感のある町人が突然嘔吐したり、迂闊に敷地に 入った子供が恐怖を感じ寺に逃げ込んだら﹁お前ら何をした!﹂と 怒られたり、家の周りで後ろに何者かがいる気配がしても立ち止ま ったり振り向いたりしてはいけなかったり、怪しげな祠が破壊され ていたりと洒落にならない程怖いという噂話が流れる家である。 尤も、それらの殆どは空き巣避け半分面白半分に石燕自身が流し た噂であるらしい。 打ち捨てられた祠のようなのは壊れた七輪や家具を纏めて庭に放 置していればいずれ魂が宿り[瀬戸大将]というがらくた変形ロボ みたいな妖怪になるのを期待してのことだとか。 ︵石燕は兎も角、一緒に住んでいる子興の評判がマッハで下降だの う⋮⋮︶ 哀れに思いながらも門をくぐり、家の戸を開けながら挨拶した。 ﹁おう石燕よ、弱ってるところを笑いに来てやったぞ﹂ 開けると石燕が布団から上半身を起こし、着物を脱いで子興から 汗を拭かれているところだった。 少し沈黙があった。 最初に顔を赤くしたのは子興で、 ﹁うわっ!﹂ と叫びながら石燕の裸を隠した。 隠されると己が羞恥的な姿であることを理解したのか、石燕もす うっと徐々に顔を赤くして、瞳に涙を浮かべてきた。 286 ひくついた笑みを浮かべようとしているが何も言えない彼女に九 郎は小さく頷いた。 ﹁ええと、お菓子食べる?﹂ ﹁いいから九郎っちは出てけーっ!!﹂ 枕を投げ付けられたので受け止めて、とりあえず戸を閉め家の外 で待つことにした。 悪いことをしたかな、と九郎は思うものの、この江戸では湯屋は 混浴で女体などは見慣れた為にあまり躰を見ても罪悪感が沸かない 九郎であった。それに九郎自身、加齢による精神的な落ち着きとい うか性欲の減退で本人も過剰な反応が浮かばない。肉体年齢は若い のにすっかり歳のせいで駄目なのだ。 精々、 ︵胸は大きかったが腹や手は痩せておったな⋮⋮酒だけでなく栄養 を取ったほうが︶ と、心配するぐらいであった。 暫し枕を抱えて、持ってきた酒をちびちびと飲んでいたが小粒の 雨が降ってきたので彼は顔をしかめて、 ﹁おぅい、悪かったなあ。ところでもう入ってもいいか?﹂ 外から尋ねると子興の呆れたような、 ﹁まだ居たんだ⋮⋮﹂ と、呟きが聞こえた後に石燕から、 287 ﹁どうぞ入ってきたまえ﹂ 許可が降りたので特に気負いも無く戸を開けて入った。 先ほどと変わらず石燕は布団から上体を起こしているが、先ほど と違って着衣している。 いつもは喪服を着ているが、病床で臥せっている石燕の着ている のは、 ﹁まるで死装束だの⋮⋮﹂ と、真っ白な和服を着ている石燕を評した。ご丁寧に、左前を合 わせている。石燕の顔は白かったが、先ほどの事があったからか頬 だけ幾らか血色の良い色を残していた。 そうでなければ死人のようだ、と九郎は思った。 子興はうんざりしたように、 ﹁趣味悪いでしょ? うちの師匠﹂ ﹁年中喪服を着ている時点で相当だがな﹂ ﹁そう褒めないでくれたまえ⋮⋮うん? 九郎くん、それは⋮⋮﹂ 九郎が持ってきた徳利を震える指で差したので、軽く掲げて見せ た。 ﹁見舞いの品に、と持ってきた生姜焼酎だ。体が温まるぞ﹂ ﹁さ、さささ酒! 酒だ! 助かった! く、く、九郎くん早く椀 を持ってきて⋮⋮いや、直接飲ませてくれ!﹂ ﹁アル中だこれ!﹂ 布団から這い出て九郎︵酒︶の所へ行こうとする石燕を子興が押 しとどめる。 288 ﹁駄目ですって師匠! 体弱ってる時こそ禁酒!﹂ ﹁なななななにを云うのかね子興、この震えを見よ! これでは筆 も握れない⋮⋮恐ろしい寒気を止めるには体を温めねば⋮⋮つまり 酒だよ! 頭が痛むのも腹が痛むのも酒を飲めば痛みに耐えられる のだ!﹂ ﹁涙を流しながら言わないでください! 酒を飲んでないと震える 手は別の病気ー! もう、九郎っちも何とか云ってやってよ!﹂ 九郎は呆れた顔で自分が飲んでいた盃に酒を注いだ。 ﹁まあ少しぐらいはいいであろう。薬酒のようなものだからのう。 ほら、石燕も泣いてるぐらいだから少しだけ⋮⋮﹂ ﹁ああもう、この飲兵衛を甘やかして⋮⋮﹂ ため息と共に額に手を当てる子興であった。 本気で手が震えている石燕に盃を渡して零されても仕方ないので、 彼女の口元まで持って行ってやると乾いた喉を潤す水のようにすっ と口の中に焼酎が消えていった。熱い湯で割って飲ませようと思っ ていたのだがそれどころではないらしい。 するとピタリと震えが止まるのだから、 ﹁末期的過ぎる⋮⋮﹂ と、額に手を当てていた子興がその手を下にずらし目元を隠して 嘆くのであった。 石燕も若い体なのに難儀なことであるようだ。 酒は好きだがすぐにほろ酔いになる石燕は、二杯も呑めば徐々に いい気分になってきたようである。生姜の作用が胃の腑からじわり と効いて体を温める。 289 目を背けたくなるほど嬉しそうな酒酔いの笑顔を見せて石燕は云 う。 ﹁ありがとう九郎くん。最高のお見舞いだよ。君は恩人だ!﹂ ﹁休みだと思うていたお主の肝臓にとっては敵かもしれぬが⋮⋮﹂ ﹁ふふふ九郎くん、酷使されているのが常態となった労働者は休み を貰うと体調を崩す、とか英国人は言っていたと長崎で聞いたこと があるよ﹂ ﹁それ明らかに駄目な状態だからな!?﹂ ﹁教えてくれた和蘭陀人も英国は奴隷と資本家と魔女の婆さんしか 居ないと言っていたぐらいだからね⋮⋮﹂ 黒い冗談のような英国の話に石燕はふう、と酒の匂いのする息を 吐いた。 その吐息には薬湯の匂いも複雑に混じっており、九郎はそれを感 じて、 ︵寝ていれば治るような病気では無かったようであるな⋮⋮︶ と、まだ陰の残る石燕の顔を見ながらそう思ったのである。 そんな九郎の心配を見て取ったのか、平気そうに笑いながら石燕 は手を軽く振った。 ﹁大丈夫だよ、将翁からも薬を貰ったからね。あれの見た目は胡散 臭いけれども、腕は確かさ﹂ ﹁なれば良いのだが﹂ ﹁この前取れた生きの良い高麗人蔘を使った薬だとか⋮⋮ええと、 面白かったから絵に描いたけれど、こんな人の顔のような模様の在 る人参だった﹂ ﹁マンドラゴラみたいだなそれ﹂ 290 と、怨念の篭ったような顔のような模様の在る足みたいに根が枝 分かれした人参の絵を見ながら九郎は突っ込みを入れた。 異世界で見たことの在る人面根のマンドラゴラにそっくりだった。 とはいえ、大自然の恵みは時に妙な形の根を作り出すためにたまた まそのような模様が付くこともあるのである。現代でも面白い形の 大根などを写真やニュースで取り上げられるあれである。 マンドラゴラの伝承も、実在するマンドレイクという茄子の仲間 の根が複雑な形であり、毒を含むために伝わったのである。 石燕は九郎の指摘には特に何も言わずに何処か面白げに指を立て て自説を云った。 ﹁私が思うにこれは妖怪[たんたんころりん]の亜種だね!﹂ ﹁なんだそのファンシーな名前の妖怪は﹂ ﹁仙台藩に伝わる妖怪でね、食われなかった柿がおっさんの姿に変 身こほっ⋮⋮それで尻から、げほっ⋮⋮﹂ ﹁おい、その凄くどうでも良さそうな話はいいから寝ておれ﹂ 咳き込んだ石燕の話を止める。おっさんの尻に関わる話で有意義 な内容が思いつかない。 子興が心配そうに、石燕の上体を抱くように掴んで寝かせてやっ た。 本人も見た目よりは辛いのか素直に従って、それでも笑みを浮か べたまま弟子の肩に手をやって云った。 ﹁子興。私の看病は九郎くんが見てくれるから今のうちに買い物に でも行ってきたまえ。ただでさえここは売り歩きが来ないのだから 備蓄が少ないだろう﹂ ﹁え、でも﹂ 291 と、九郎の方を見るが彼も小さく頷き、 ﹁うむ、任せておけ﹂ 応えたので、子興も石燕の看病を任すつもりになったようであっ た。 準備をして子興が出て行った後にすぐである。 石燕が指を、部屋の一角に向けて九郎へ指示を出した。 ﹁九郎くん、そこの隅⋮⋮床板が外れるようになっているから、少 し見てくれるかね﹂ ﹁ああ、構わぬが⋮⋮﹂ 近寄り、床板に触れるとたしかにそこだけ正方形の床板が独立し ている。 九郎は指先を引っ掛けると意外に軽く蓋になっていた床は外れた。 床下には何個か小さめの壺が置かれている。 ︵梅漬けか?︶ 思って、持ち上げると中身は液体のようだった。なんとなく、予 想がついた。 後ろから声がかかる。 ﹁いや、酒が切れていたのだけれど子興がいると買ってくれないし 隠していたのを飲めないしで困っていたのだよ﹂ ﹁はにかんだように言うことか﹂ ﹁ともあれ口煩い弟子は居なくなったのだ! さあ九郎くん酒宴と 行こうではないか!﹂ 292 はしゃぐ石燕を半目で睨む九郎に、やがて空元気もすぐに燃料切 れして冷や汗を流しながら石燕は目を逸らして呟いた。 ﹁⋮⋮すぐ酔い潰れると思うので見逃して下さい﹂ ﹁はあ⋮⋮仕方ないのう。気分が悪くなったらすぐに言うのだぞ﹂ と、諦めて九郎は酒壷を持ち石燕の側まで持っていった。 柄杓はないかと見回すと丁度あったので取ったそれは、 ﹁底が抜けている⋮⋮﹂ ﹁それは船幽霊対策だね﹂ ﹁ええい、紛らわしい﹂ と、台所まで行って柄杓と盃を持ってきた。 石燕に酒を注いだ盃を渡すと、彼女はゆっくりと、だがそのまま 喉に流すように一息で飲み込んだ。 九郎は彼女の酒好きには顔負けして自分も酒を汲んで頂くことに した。 ﹁うう、効く⋮⋮﹂ ﹁本当に大丈夫かお主。余計に体を毀すで無いぞ﹂ ﹁心配してくれるのだね﹂ ﹁当たり前だろう。若い身空で早死などするものではない。年寄り が一番嫌なのは、早死する子や孫なのだ﹂ ﹁九郎くんは子供が居たのかね?﹂ ﹁いや、生憎と縁がなくてな。だが孫のような奴は居たからのう⋮ ⋮まあ、其奴は風邪などひかなかったが﹂ 話しながら、ぐいと石燕が酒をまた煽ると笑みのような苦痛に堪 えるような歪んだ表情をしながら、胃の下││膵臓のあたりを抑え 293 ながら、 ﹁あいたたた⋮⋮﹂ などと云うものだからさすがに九郎も、 ﹁本格的に危なくないか。もう酒は止めておけ﹂ ﹁ふ、ふふふ。大丈夫だよ、九郎くん。と、いうかだね﹂ 脂汗を浮かべて髪がやや顔に張り付いた蒼然な顔で彼女は云う。 ﹁││酒を飲んで頭を誤魔化さないと、体中が痛くて堪らないのだ よ。困ってしまうね﹂ ﹁⋮⋮お主、それもう風邪ではないだろう﹂ ﹁風邪さ。知っているかね? 世界で一番死人が出ている病気は風 邪なのだよ?﹂ 彼女は儚い笑みを浮かべながらそう云う。 どうにも、本格的に体が悪そうなので九郎は周囲を見回しながら 尋ねた。 ﹁この前己れが売った薬は飲んだか?﹂ ﹁⋮⋮傷薬のようだったが、あれで病気が治るのかね?﹂ ﹁さすがに内臓が痛むというのは毀れている範疇であろう。傷んだ 器官を直して、養生していれば治る⋮⋮と、思う。なにせ己れの居 た世界ではあれを病気に使う人間など居らなかったから確信は無い がな﹂ ﹁ふむ。便利な薬なら使いそうなものだけれど﹂ ﹁薬の値段が高いからな。家が土地付きで買えるぐらいはするぞ、 これは。そもそもあっちではまじないで治してしまえるものが多い。 294 というか飲んでおらぬのか﹂ ﹁いや、少しは飲もうかと思ったのだがね?﹂ 言いながら彼女は枕の下に置いていた小瓶を取り出して、躊躇う 表情を見せながら云う。 ﹁││やたら独特の臭いがなんとも服用を拒んでしまってね。甘い 蜜とかで割っていいかな、これ⋮⋮﹂ ﹁いや、子供じゃないのだから普通に飲め。安心せよ、催吐作用は 無いぞ﹂ ﹁ううう⋮⋮はっ! そうだ。ふふふ九郎くんが口移しで飲ませて くれるのならいける気がするよ! さあいざ!﹂ 軽いノリで誤魔化すように彼女は笑いながら手を広げるので、九 郎は﹁ふむ﹂と薬瓶を取り上げて、 ﹁ま、それぐらいならよかろう﹂ ﹁え﹂ ﹁ほれ、口移しで飲ませてやるから目を瞑っておれ﹂ ﹁い、いやちょっとろくに旗も立ててないのにすっ飛ばして発生し ていいのかなこれ心の準備がしかしこれを逃すと二度こない気がす る状況! 暗闇の中にこそ未来はある! 覚悟とは運命を越える行 動だ! よ、よ、よし﹂ 慌てたように捲し立てて石燕は薄い色の唇を突き出したまま目を 閉じた。 九郎は無言で彼女の眼鏡を取ってやり、顎を押さえる手を当てた。 彼が触れる度に怯えたように石燕の体が小さく跳ねた。 そして、 295 ﹁││かかったな阿呆が⋮⋮!﹂ 九郎は蓋を開けた薬瓶を石燕の口腔へ無造作に突っ込んで中身を 流し込んだ。欺瞞! 口移しをするなど嘘であったのだ。 ﹁ぬあああ!﹂ 口の中にぬるりとした薬液が染み込み、異様な不味さと風味に脳 が不快感を示して涙と叫びが石燕から発せられた。 寿命が縮みそうな味だった。これが霊薬などとは絶対に嘘だ。こ んなものを始皇帝に渡したら死んだ方がマシな刑罰を受ける。そう 石燕は思ってしまう程である。 敢えてその風味を言葉にするならば、 ﹁く、九郎くん⋮⋮この薬⋮⋮やたらおっさん臭いのだが﹂ ﹁⋮⋮ああ、思い出した。薬の名前な、[オッサンーヌの髄液]と いうのだった。そうそう﹂ ﹁飲んだ後知りたくなかった! うう、気持ちが悪い﹂ あまりに気分が悪くなってきて石燕はふらりと布団に倒れこんだ。 九郎も彼女に布団を掛けて、 ﹁もう寝ておれ。起きれば治っておるだろうよ﹂ 酒も回ってきたのだろう。顔を赤くしている彼女は横になって気 分が落ち着いたのかうつらうつらとし始めている。 296 布団の隣で座る九郎へ顔を向けながら目を細めて今にも眠りそう だった。 ﹁ああ、眼鏡は枕元の木箱に入れておいてくれたまえ⋮⋮﹂ 言われて、九郎は持ったままだった彼女の眼鏡を専用のケースら しいものに入れる。 当たり前だったが現代のフレーム製眼鏡よりも重く、仰向けに目 を閉じている石燕の鼻や耳元にメガネの痕が付いていたために、暖 かくした濡れ布巾で拭ってやる。 眼鏡を外している猫のように気持ちよさそうな石燕の顔は、いつ もより幼く、か弱く見えた。病人だから当たり前なのだが⋮⋮。 ﹁⋮⋮九郎くん、⋮⋮駄目だ、何か⋮⋮今際の際に面白い事を言わ ねば⋮⋮頭が回らない﹂ ﹁もうよいから寝ろ。起きれば治っておる﹂ ﹁宇宙とは⋮⋮未来とは⋮⋮進化とは⋮⋮らぐーすとは⋮⋮﹂ ﹁妙な発言せずに寝ていろ⋮⋮!﹂ ﹁ふふふ、おやすみ、くろう⋮⋮﹂ 言いながら、すうと息を吐いた石燕の呼吸が寝息に変わるまで時 間は掛からなかった。 九郎は石燕の目の前に手を二三度振って、完全に眠っていること をなんとなく確認する。 そして嘆息して呻いた。 ﹁まったく⋮⋮早く寝ておればこちらも対処出来るというに﹂ と、懐の術符フォルダを探り、体力回復の魔法が込められた術符 [快癒符]を彼女の喉元に貼った。病を治す術符は持っていないが、 297 これは体力⋮⋮主に失われた各種栄養素や筋肉骨等の消耗疲労を魔 力で補う符である。 ちょっとした病気ならば、内臓の不調を薬で癒して体力が万全の 状態で休息していれば自然と治る筈だ。身体的回復の副次効果とし て睡眠も符によってもたらされ、一晩は起きないはずだ。 ただ、これを含む術符は何故か石燕に堂々と見せる気にはならな かった。他の者にはそうでないのに、不思議と忌避感を覚える。九 郎自身にもわからぬことだし、石燕も深くは追求してこないが、 ︵此奴に貸したら悪用⋮⋮というか悪戯に使われそうだからなあ︶ と、九郎は考えている。 眠った石燕の額に浮かぶ汗を拭ってやりながら、次第に楽そうな 呼吸になっていくのを見て、安心したように微笑んだ。弱った友人 の姿を見るのはどうにも忍びない。 石燕はどこか苦手だが、嫌いなわけではないのだ。 ︵⋮⋮こういう手合は魔女で慣れておるからのう︶ 魔女と過ごした無駄に傍迷惑だった記憶の扉が開きかけたが、よ い思い出ばかりではないので心の御洒落小箱に仕舞ったままにする ことに決めた。 時には振り向かないことも大事だと今までの人生から学んでいる。 ︵﹃過去とは椅子のようなものだ。ずっと座ると臭くなるので疲れ た時にだけ頼るといい﹄という格言を残したのは確かヤク中で四本 足恐怖症になり椅子を噛み砕いて自殺したハリウッド監督だったか ⋮⋮︶ 朧気な記憶も過去のものだ。さほど頼りにならないが、使いどこ 298 ろを間違いさえしなければ満足はできる。 さて⋮⋮。 九郎は暇なので絵の多い本を読み、子興が帰ってくるまで時間を 潰すのであった。 暫く経ち時刻は六ツ︵午後六時︶程だったがさめざめと雨を降ら す分厚い雲のせいで随分と昏い。 九郎が行灯の蝋燭に火をつけて待っていると、頭に笠を被っては いるがびっしょりと濡れた子興が帰ってきた。 情けない顔で涙声さえ漏らし、 ﹁うええ、九郎っちー凄い雨で濡れたよー﹂ ﹁蓑でも被ってくれば良かったのになあ﹂ ﹁女が被るものじゃないってあれ⋮⋮﹂ 着物からぽたぽたと水を垂らす子興に手ぬぐいを投げて渡す。 ﹁お主まで風邪を引くでないぞ。ほら、拭いて着替えよ﹂ ﹁ありが⋮⋮はっ。九郎っちそうやってまた着替えを見ようと﹂ ﹁いや。一寸も興味が﹂ ﹁断言されるとそれはそれで哀しいよ、もう! まあでもよく考え れば九郎っちぐらいの子供に見られてもどうってことは無いよね。 あと出来ればお風呂でも沸かしてくれるとお姉さん嬉しいかな!﹂ ﹁仕方ないのう﹂ と、九郎は子興が着替える間に浴場へのそのそと歩いて行った。 石燕宅の風呂場はやや浅めの木造浴槽で、外から火を炊いて温め る部分は金属製になっていて熱伝導がよく作られていた。洗い場も 二三人居れそうで立派な風呂である。排水機構まで考えられていて 九郎は少しの間、風呂の構造をまじまじと触ったり屈んだりして観 察していた。 299 大きな水瓶に水が溜まっている。子興が井戸から水を汲んで一杯 にさせている風呂用のものである。 九郎はひょいと十貫︵約三十七・五キログラム︶以上はありそう な水瓶を持ち上げて浴槽に流した。九郎の体重の半分以上もある重 さだが、重心が安定していてバランス感覚も妙に優れているところ があるのでよろけることもなく持つことができる。 腰まで浸かる程度の水の深さに入れて、水面に[炎熱符]を触れ させ発動させた。 ﹁ん、しまった熱くし過ぎたか⋮⋮まあいいか﹂ あっと云う間に湯を沸かし、温度を確認して部屋に戻るのであっ た。薪を燃やして温めるには外は雨模様で時間がかかりそうだった ので⋮⋮つまり面倒だったのである。 部屋の中では髪を解いた子興が着替えのゆるい単衣を軽く羽織っ て、 ﹁うへえ⋮⋮﹂ と呟きながら濡れた服を玄関近くに干していたので、 ﹁子興や、湯が沸いたぞ﹂ 九郎の声に胡乱げに子興が返す。 ﹁え? 嘘でしょ? 早すぎないかな⋮⋮くしょん﹂ ﹁いいから入って来い。見ているだけで寒そうだ﹂ ﹁はぁい﹂ 九郎の言葉に従い、さむいさむいと呟きながら身を縮めつつ風呂 300 場に向かっていく子興であった。 湯気の立つ風呂を見て嬉しそうな声を上げる。 ﹁わあ、一番風呂なんて久しぶり⋮⋮熱う!?﹂ 上がった叫びは、とりあえず無視した。 雨は上がらなそうであった。 **** 夢の中でも彼女は仰向けになり布団で寝ていた。 ぼやける視界に何かが動いているが、眼鏡をかけていない為か人 物だということしかわからない。 額に濡れ手拭いが乗せられている。妙に天井が近く視線が高いこ とに気づいて、どうやら床に敷いた布団ではなく寝台に乗って寝て いるのだと気づいた。 ﹁お主でも風邪は引くのだな﹂ 聞いたことのない声が聞こえて、返事をしようとしたが声は出ず に口だけぱくぱくと動いた。 ﹁喉が乾いたか? ほら、水差しだ﹂ 寝ている体勢のまま、急須の口のようなものを差し出されてこく こくと中の冷たく、わずかに甘い水を嚥下した。 ﹁あいつを呼んできてやるから今は寝ておれ﹂ 301 そう言って、目の前で動いていた誰かが立ち去ろうとしたので咄 嗟にその袖を掴んだ。 すると誰かは振り向いて、困ったように頭を掻きながら寝台の隣 にある椅子に座って何処かへ行こうとするのを止めた。 何故か彼が遠くに行くことが寂しくて堪らなかった。 ︵一体誰なのだろうか︶ 考えて確認するために滲んだ目を凝らすと、やがて輪郭がはっき りと見えてきた。 そこに居たのは││知らないおっさんだった。 **** ⋮⋮雨の上がった翌朝のことだ。 未だ外の景色は青さが残るほど日が出て浅い時間であった。夕暮 れのたそがれ時に対して、同じく薄暗く相手がわからないという意 味のかはたれ時とも人に呼ばれる。 妖怪の時間でもある。 朝河岸に出かける魚売や朝まずめを狙う釣り人などが、神楽坂を 通ると怪鳥のような叫び声を時折聞くという⋮⋮。 じっとりと湿った布団で魘されていた子興は目覚めの衝撃を受け た。 ﹁││誰だあのおっさーん! ふふふ遅い遅い喰らえ私の弟子よ!﹂ ﹁ごえーっ! ⋮⋮しまった、師匠寝込んでたから油断したっ!﹂ 302 と、師である石燕よりも遅く寝ている子興は、布団の上からボデ ィプレスを仕掛けられるのも珍しくなかった。 死装束を着ている石燕が元気に跳ね起きてちょっかいを掛けてい るのである。 子興は掛け布団の上から伸し掛かられて眠気と圧迫感にさいなま れたうめき声を上げる。 優雅に子興の上に座り直して、石燕はきょろきょろと見回しなが ら、 ﹁あれ? 九郎くんは何処だね? あの状況だと、 ﹃雨が強くなったので家に泊まっていきなよ九郎っち﹄ ﹃仕方ないのう⋮⋮ではこの巨乳のあたりに寝かせてもらうか﹄ と、私の布団で寝ているはずではないのかね子興! どうなって るのだね! 説明を要求する!﹂ ﹁九郎っちの性格上そんな事いいませんよ!? 普通に雨の中帰り ましたってば!﹂ ﹁なんだって? ⋮⋮気の利かない弟子だね!﹂ 叱責した後にひょいと跳ね上がるように立ち上がった石燕。 そして改めて伸びをして││違和感に動きを凍らせた。 体を四六時中釘打たれているような痛みも、抑えねば血を吐きそ うな嫌悪感も、腐り落ちる寸前に感じる熱を伴う目や手足の痺れも 消えていて││くすぐったく感じるほどに健康的な目覚めだったの だ。 膝をついた。 ﹁師匠どうしたんですか!? 病み上がりに暴れるから⋮⋮って泣 いてる!?﹂ 303 ﹁子興。健康って素晴らしいね⋮⋮﹂ 当然のことだったが、失くして、取り戻して、すると涙が出るほ どだった。 常に痛み続ける体は呪いの毒に蝕まれているようだったし、それ に耐える人生など地獄のようなものだったのだが。 ﹁師匠⋮⋮﹂ 子興にはその感覚を共有できないが、病弱だった師が良くなった ということだけは把握できた。石燕は顔をばっと上げて、 ﹁快癒祝いだ! 子興! 酒を持ってきたまえ!﹂ ﹁ああもう治ったら治ったで駄目だなこの人!﹂ 早朝から飲酒の要求を行う師に呆れるのであった。 ﹁それにしても九郎くんには礼をしないといけないね。そういえば 何か尋ねようとしたことがあった気が⋮⋮それに妙な夢を見たよう な﹂ 起き上がってぴんしゃんと動く足で部屋の中を歩きまわり思い出 そうとするが浮かんで来なかった。 思い出したい内容を忘れることは石燕にとって稀だった為に自身 でも不思議そうにしている。その気になれば十年前に読んだ草双紙 の文章を一言足りとも間違えずに思い出せるしその日の夢日記も書 ける程なのだが⋮⋮。 やがて諦めたように背伸びをして、 ﹁思い出せないと言うことはあまり大したことでは無いということ 304 だね﹂ ﹁多分そうだよ師匠﹂ ﹁ちなみに、こんな科白を言ったことに限って異様に大事なことだ ったりするのだよ﹂ ﹁じゃあ思い出そうよ師匠!?﹂ ﹁ふふふ無理なものは無理なのだ、さて﹂ と、日課の飼っている海星に餌のあさりを数枚水槽に入れてやる。 水は二日に一度ほど変えているが、それは子興の仕事だった。 徐々に上がってきた日が江戸の町を照らし始め、家の窓からも差 し込み始めた。 ﹁具合も良くなったし、風呂にでも入って││今日も九郎くんのと ころへ遊びに行くかね。子興、準備を﹂ ﹁はぁい﹂ 死人装束にしては随分と健康的な気配になった石燕は意気揚々と そう告げた。 雨上がりの匂いが日を浴びて地面から上がってきている。 本格的な夏も近い。 ﹁おはよう九郎くん。ふふふいい天気だね江ノ島にでも旅行に行か ないかねー!﹂ 意欲満々な雰囲気でいつも通りの喪服を着た石燕が、高く声を張 りながら緑のむじな亭へ突入した。 朝酒の効果もありやけに気力に満ちあふれている。すっかり健康 体になった体力を持て余しているようにも見えた。 緑のむじな亭は、あいにくとその日はまだ客入りが無かったが看 305 板娘のお房が石燕へ対応する。 ﹁おはよう先生。病み上がりなんだからもっとゆっくりしてればい いのに﹂ ﹁房よ、人生は短く儚いのだよ。ぐずぐずせずに胸の宴陣に火をつ けてためらわないことさ! という訳で九郎くん遊ぼう! ⋮⋮あ れ? 突っ込みが来ないと思ったら居ない⋮⋮﹂ 石燕は店の中で推定、朝から飲酒している筈の九郎を探した。 しかしながら九郎は酒好きであるものの朝飯はしっかり白い飯を 食べるようにしているので石燕の見方は偏見とも言える。飯の代わ りに酒だけ飲むようになったら相当危険な状態だ。 お房が二階を意識しながら、 ﹁九郎だったら朝ごはん食べた後に布団へ出戻りしたままなの。基 本的にぐうたらなのよねあいつ⋮⋮﹂ ﹁ふむそれは⋮⋮面白い﹂ もしかしたら自分の風邪を移してしまって寝込んでいるのかもし れない。 どちらにせよ、石燕は眼鏡を光らせて、にぃ、と笑った。 ﹁看病の必要があるね! 待っていたまえ九郎くん!﹂ と、履物を脱いで二階への階段を登ろうとした。 だが慌てていたのか急な動きで鈍った体がついて行かなかったの か、思いっきり滑り踏み外して側頭部を階段のへりで強打するので あった。 がつっ、と鈍い音がして、苦痛の息を吐きながら石燕は頭を抱え てうずくまる。 306 ﹁うごごご⋮⋮むむむ⋮⋮無とはいったい⋮⋮﹂ ﹁せ、先生大丈夫なの!? 凄い音がしたけど!﹂ ﹁はっ、すべて思い出した。大予言によれば江戸は滅亡する!﹂ ﹁ふう⋮⋮大丈夫そうなの。いつものいかれっぷりだから﹂ 施す治療も薬もないと云った様子でお房は店の掃除に戻った。 真面目な顔で頭を抑えている石燕が、 ﹁早く九郎くんにこの危機を伝えなくては⋮⋮!﹂ と、再び二階へ走り向かった。 障子で遮られた一室の扉を開けると、 ﹁⋮⋮あっ﹂ 仰向けに乱れた布団に寝ている九郎の隣にひっついて││陰間の 好色少年・玉菊が居た。 石燕は状況を察して、懐から紙と筆を取り出して凄まじい勢いで 筆を走らせ状況を描く。 さらさらと見事に少年と男の娘の絡みを描いた危絵を作成したの だ。 彼女のもう一つの名││同性愛から触手系などの特殊性癖までカ バーする春画師[ぬらぬら☆うひょん]は満足が云ったように頷い た。 ﹁⋮⋮さて、なんか伝えるべき事があった気がするがとりあえずこ れを版元に持っていくか﹂ その呟きに九郎が眠そうな呻きを上げながら目を覚ます。 307 ﹁む⋮⋮石燕か⋮⋮? 具合はどう││﹂ そこまで言って、自分の布団で寝ている玉菊に気づいた。 即座に首根っこを掴んで窓から放り投げる。ここは二階であった のだが。 ﹁いやあああ!? 陰間秘技[二つ巴]!﹂ 叫びながら猫めいた動きで空中で体勢を変えて地面に安全に着地 する玉菊に九郎が窓から不機嫌そうな半眼で見下ろしながら云う。 ﹁何故ここにおるのだ﹂ ﹁投げる前に聞いて欲しかったでありんす!? 深い訳があって布 団に入り込んでいたというのに!﹂ ﹁言ってみろ﹂ ﹁出来心でした。てへっ﹂ 後ろ姿を見な 九郎が荷物袋から散弾銃を取り出して窓から構える。鳥銃を持ち だされたと思った玉菊は振り向かずに逃げ出した。 がら九郎は舌打ちをする。 そんなやりとりを朗らかに石燕は見ていて、 ﹁やれやれ、九郎くんの周りは朝から賑やかだね。さて、私はこれ で。版元に用事があるのでね﹂ ﹁? お主、何をしにきたのだ⋮⋮いや待て。その絵はなんだ。お い﹂ ﹁表現の自由! 表現の自由だよ!﹂ とりあえず、九郎が己を描かれた春画を取り戻して破くと石燕が 308 マジ泣きした為にそれを目撃したお房にきつく叱られたという⋮⋮。 309 14話﹃閑梅雨﹄ 九郎はいつも通り緑のむじな亭で昼飯を食い終わって満足そうに こう云った。 ﹁うどん美味い﹂ ﹁⋮⋮蕎麦を食えなの!﹂ すぱん、と突っ込みのアダマンハリセンが九郎の胸元に当たる。 さほど力が篭っていないところを見ると、お房も無理があるとは承 知なのだろう。だが、蕎麦屋でうどんを啜っている九郎に突っ込み は入れずに居られなかった。 梅雨の時分である。ここ毎日、外はしとしとと雨が続いて客足も 長屋の連中以外ばったりと途絶えていた。 六科はその日使う分の蕎麦の麺を朝に打つのだったが、さすがに 注文する客が居ないとなると作る麺の量は少なくしなければならな い。 蕎麦粉の消費量も減り、ついには保存しているそれに黴が生えて 大部分は捨ててしまったので蕎麦が出せないのである。 更にいつも緑のむじな亭が蕎麦粉を頼んでいる粉屋も在庫が薄く、 値段が上がってしまっていた。 とはいえ例年通りのことではある。現代では夏に食べるような印 象のある蕎麦だが、その収穫時期は秋から冬である。夏となれば去 年の蕎麦を挽いたものの保存状態も悪くなり値段も上がるのあった。 実際、六科は特に気にせず、 ﹁少し早いが、暫くは蕎麦無しで行くか﹂ 310 と、物事に頓着せずに考えを切り替えているようであった。 蕎麦の名店と呼ばれる所は、保存の方法や打ち方、つゆの味など を季節ごとに工夫して出すのだがこのような小さな店、ましてや六 科に出来ることではない。 それでもお房は、 ﹁せっかくお父さんの蕎麦作りの腕前が底辺から上達して来たのに ⋮⋮﹂ 顔を落として残念そうにした。 九郎は﹁そうであるな﹂と微笑みながらうどんの器を退ける。う どんの歴史は蕎麦よりも古く、江戸でも親しまれているものであっ た。こちらのほうがやはり江戸時代に蕎麦切りとして流行りだした 蕎麦よりも保存しやすく、すでに乾麺を茹でるという形態で食べる ことが出来ていたという。 茹でたうどんに醤油と卵をぶっかけただけのものであったが、単 純故にそれなりに美味かった。 その日も雨なので外に出かけるのも特別理由がなければ行かない だろう。 九郎は徳利を傾けた。 ﹁またお酒飲んでる﹂ ﹁気にするでない。それよりこの竹の子を食ってみろ、絶品だぞ﹂ と、茹でた竹の子と塩漬けにして解したらっきょうを混ぜた小鉢 に手をつけながら酒をやるのである。この爽やかなメニューと昼酒 こそが雨の日の楽しみなのだ。 そうしているとやがて雨を掻き分けるように客入りがあった。 笠に蓑を被って、なにやら包みも濡らさぬように持っている。 311 ﹁ああもう、参った参った﹂ そう言いながら塗り笠を脱いで店の中を見回して、空いている席 についた。 丁寧に髷の結われた侍風の男である。何処かで見たような気がし て、九郎は顎に手を当ててじっと見つめる。 男は酒と小鉢を注文して、九郎の視線に気づくと声をかけてきた。 ﹁おや? 君は石燕先生と一緒に居た子供じゃないか﹂ ﹁⋮⋮ああ、版元の田所氏であったか﹂ と、言われた関連人物で思い出した。 前に事件で少しだけ関わり合いのあった元侍の男で、今は石燕や 天爵堂の書く黄表紙作品の版元に務めている田所無右衛門である。 そう長々と会話をしたわけでもないし、夜分だったものだったか らすぐには思い出せなかったのだ。脳の老化だとは、九郎は思いた くなかった。 田所は回りを見ながら云う。 ﹁石燕先生⋮⋮来てないよね?﹂ あぶなえ ﹁来ておらぬが⋮⋮どうしたのだ?﹂ ﹁いや、石燕先生の危絵の一つが縁起が悪い上に不謹慎だって奉行 所に怒られてね? あちこちの売り場で回収してたんだ﹂ ﹁何を描いとるのだあやつは⋮⋮﹂ えいじ ﹁うん。其れがしもどうかと思ったんだけどね、この﹃僕の名前は 嬰児。子宮は狙われている﹄ってやつ﹂ ﹁凄まじく不謹慎だな! 刷る前に気づけよ! あと絶対歴史に遺 すなよそれ!﹂ ある意味危なすぎるその春画の一枚を、濡らさぬように持ってい 312 た包みから取り出して見せながら田所はため息をついた。 むしろ鬼婆が妊婦のはらわたを取り出しているとでも題を付けた ほうが良さそうなそれは、確かに眉をひそめるような作品だ。 このような背徳感の強いエログロした春画は持っていると有らぬ 噂すら立てられるのでむしろ口止め料を込みに高値で取引されてい たようである。 田所は湿気でたわんだ紙束をうんざりと見ながら云う。 ﹁役人の目の前で焼却処分しないと許してくれないらしくてね⋮⋮ 運が悪かった。この前の、新井先生の件で奉行所の出入りがあった からなあこっちにも⋮⋮﹂ ﹁そうなのか?﹂ ﹁うん。旗本三男も打ち切りにさせられた⋮⋮あの時、近い南町奉 行所じゃなくてわざわざ遠い北町奉行所にやらせたから、地味な嫌 がらせが南から来てねえ⋮⋮でもうちの先生と南の大岡様はちょっ と引くぐらい仲悪いし⋮⋮﹂ ぼやく田所であった。むしろ石燕のそれは、天爵堂に圧力をかけ るついでと云ったようなものであるらしい。 九郎は遠い記憶を探りながら、 ﹁奉行所の大岡様というと、大岡裁きで有名なあの大岡越前のか?﹂ ﹁大岡裁き? っていうのはどれのことかわからないけど、大岡越 前守忠相様のことだよ。吉宗公の片腕で怖ろしいぐらい堅物なんだ﹂ ﹁それがどうして天爵堂と仲が悪いのだ?﹂ ﹁元から馬が合わなかったんだろうけどねえ、酷くなった理由の一 番は、先生が神田小川町にあった屋敷を大岡様に召し上げられた時 に、大岡様が引渡しの書類受け取りを二日ばかり渋っていたら屋敷 が火事で焼けてね。 おまけにその直後大岡様が町奉行に転属したものだから、先生に 313 代わりの屋敷を手配する約束も反故にされた上に屋敷代も返って来 なかったんだ。あの時は先生、むっつりと怖い顔で黙って恐ろしか ったよ﹂ 思い出して身震いし、体を温めるようにぬる燗を口にする田所で ある。 事実、享保二年の一月二十三日に小石川から起きた火事が武家屋 敷を焼き、風で延焼が広がり100人以上の死者が出ている。それ に天爵堂⋮⋮新井白石の屋敷も巻き込まれたのであった。 天爵堂自体は屋敷が焼けたことよりも約束していた期日に書類を 受け取らなかった大岡越前に対して日記に、 ﹁不審の至り也﹂ と書き残していることから怒りが伝わる。屋敷代を払われないま ま召し上げられたも同然であった。 なお、現代に伝わる大岡越前の所謂[大岡裁き]の多くは創作で あり、この時代に彼が行った裁きにあまり華々しいものはない。む しろ、政策関係のほうが知られていただろう。 彼の奉行所での名裁きと呼ばれる働きはこの後、吉宗の落胤だと 自称し散々に詐欺を働いた巧妙な悪党天一坊を追い詰める[天一坊 事件]であろうか⋮⋮ ともあれ、新井白石である天爵堂と南町奉行所の大岡忠相は大層 に仲が悪いそうであった。 ムヂブギョー ﹁先生、今度は連載終了させられた嫌がらせに﹃無痔奉行﹄って話 を書くとか言い出すし⋮⋮目安箱によって作られた架空の奉行所で 痔持ちの奉行らが痔と戦うというもはや何が面白いのか。大岡様が 痔だからって﹂ 314 ﹁多分石燕の入れ知恵だぞ、その題名﹂ げんなりと九郎は半目で呻いた。それも歴史に残して欲しくない のであるが⋮⋮ 落ち着いて枯れた雰囲気の老人であるが、天爵堂も子供じみた嫌 がらせをするものである。 ところで大岡越前が痔持ちであるのは事実らしい。なにせ、東照 宮へ参拝する幕府の公式行事で、徳川家重︵当時右大臣︶と徳川家 治︵当時大納言︶が社参するので参列するように、という命令を、 ﹁痔が切れたので無理である﹂ と、断ってしまった程である。 無論、痔ごときで参列断るなよ⋮⋮と大目付に言われ、再三来る ように言われたのだったが当日に大岡越前は家に閉じこもってしま ったのでどうしようもなかった。他の政治的理由があった可能性も あるが、特に断っても彼にメリットが無かった為にやはりただの凄 い痔だと思われる。 感情的になったところを側近がまったく見たことがない、如何な る時も冷静沈着であったという大岡越前がこの時の大目付相手には マジギレして行かない意思を伝えたほどであった。ちなみに、マジ ギレの語源こそがこの時の、[真に痔が切れている]の真痔切れで あることはあまり知られていない。嘘だ。 さて⋮⋮。 兎も角、田所と九郎は暫し席を共にして手頃な話題を続けていた。 ﹁石燕の読本もよく回収になるものだな。確かあやつの家でも何冊 か置いていたぞ。﹃魔界お歳心中﹄とか﹂ ﹁心中物の芝居が禁止されたもんで本にまで手が伸びたからねえ。 315 そのうち規制も緩むのを待つしか﹂ 苦笑して告げる田所である。江戸の幕府が続いていた期間、幾度 も危な絵や読本を焚書・規制されたことはあったが奉行所も毎年何 千枚と出される出版物すべてに目を通せるわけではない。ペンネー ムを変え出版社名を変え、役人のお偉いさんの性癖を調べて特別な ドハマリ春画をこっそり渡すなどして乗りきれるのである。 気のいい田所と話を弾ませたが、半刻ほどして彼は再び石燕の危 絵回収に戻るのであった。 **** 田所と入れ違いのように入ってきた客があった。 陰間の玉菊である。 大きめの笠を被って足回りの裾をたくしあげ、足早に駆け込んで きた。 ﹁ふう⋮⋮まったく、雨で濡れてびしょびしょ美少年でござんす﹂ ﹁濡れるぐらいなら出歩かなければいいのに﹂ いつの間にか常連になりすましている玉菊に冷たい言葉を浴びせ たのはお房だ。 それでも客であるので仕方なく茶の用意をする。玉菊は九郎の近 くの席に座って疲れたようなため息を付きお茶を啜った。 ﹁はあ⋮⋮お茶が美味しいでありんす﹂ 316 ﹁いいから食べるものも注文してほしいの。特に希望がなければ朝 ごはんの残りを二十文ぐらいで﹂ ﹁うう、じゃあそれで⋮⋮﹂ およそ定食とも言えぬようなメニューだったが、玉菊は渋々頷い た。 温めなおした味噌汁と米と竹の子の小鉢に芋の煮っころがし。芋 にはベッタリと味噌が塗られているのでこれが飯のおかずになりそ うである。 それを目の前にしながら、やはり草臥れた目で箸を進めだした玉 菊に九郎の方から声を掛けた。 ﹁なんというか今日は元気が無いなあお主﹂ ﹁不気味なの﹂ ﹁えー? わっちの疲れてる感じが心配でありんす? 事情聞きた いでありんす? いやー心配させちゃって若干申し訳ありんせん﹂ ﹁うぜえ⋮⋮﹂ いつもの調子でそんな言葉を言ったが其れも長続きせずにやはり 少し曇ったような笑顔に戻った。 ﹁実は最近、わっちら陰間とか他の芸者さんを纏めてる岡場所の親 分が代替わりして⋮⋮これがまた厭な男で酷いのでござんす! わ っちなんて三回は井戸に吊り下げられたでありんす!﹂ ﹁うん、いや⋮⋮まあ﹂ ﹁わっちだけならまだしも、女郎さん達が叩かれたり売上全部取ら れたりするのは可哀想で⋮⋮﹂ ほろほろ、と涙を流しながらばくばくと飯を喰らってお代わりを 要求した。 317 岡場所とは幕府から許された遊郭である吉原に対して、それ以外 の自由業としての娼婦を取り扱うところの事である。 金貸しの副業として岡場所にある女郎宿の主人をしている男、万 事屋勘兵衛という男は借金の形に雇っている女郎ごと玉菊らの胴元 となったのであったが、これが酒乱の気がある横暴な男なのであっ た。 稼ぎの少ない女郎などには食事を与えず、自ら慰み者にしては暴 力を振るうという有様である。 数少ない陰間として働いている玉菊は、同僚の女郎達のことも男 の意気地として庇い、とばっちりを受けることも多々あるようであ った。 玉菊はぐっと口の端に米粒を付けたまま拳を握り、 ﹁それでもわっちは負けないでござんす。姐さん方が我慢している のだから、わっちも勘兵衛様がわかってくれれるまで耐えるであり んす﹂ ﹁おう、なんだお主⋮⋮前から思っておったが、性格はともかく根 性だけは男前にあるなあ﹂ 九郎が感心して褒める。 無駄に自分に迫ってくることに関しては全く理解を拒む九郎であ ったが、投げ飛ばしても川に流しても突き落としても、諦めずに笑 って飛びかかってくる玉菊は鬱陶しくもあるがひたむきだ。 自分と関わっても一文も得をしないというのに、 ﹁好い御人﹂ と、云うだけで時間を作って会いに来るこの陰間の、執念にも似 た気概の強さだけは認めないでもない九郎であった。 珍しく褒められた玉菊は恥じらいながら言った。 318 ﹁笑顔はわっちの処世でありんす。捨て子だったわっちを拾ってく れた、もう死んだおとっつぁんも﹃笑顔は百難辛苦に対する強さ﹄ だって言ってたから、わっちは皆と一緒に笑えるように頑張りんす !﹂ ﹁そうか⋮⋮﹂ 十代前半程度の年齢だというのに体を使った労働に従事し、それ でいて芯が通っている玉菊に好感を持たなくもないのだが⋮⋮ ﹁という訳で今晩あたりぬし様、うちでわっちわっちせぬか﹂ ﹁しねえよ﹂ 衆道には踏み込むつもりは全然無い九郎であった。 玉菊は苦笑しながら肩を落として、 ﹁そういえば石燕先生なんかに営業声掛けしたら、﹃ちょっと包丁 を研ぐから待ってくれ﹄とか言われて恐ろしくて逃げたでありんす が⋮⋮﹂ ﹁ああ、あいつのこれくしょんの一振り、安達ケ原の鬼婆の包丁だ な。土産物だと聞いているが﹂ ﹁八丁堀の旦那こと、利悟さんは超童貞野郎すぎて誘っても本番ま でいかずに終わるし⋮⋮お金は貰うけど﹂ ﹁うわぁ、あの男女問わぬ稚児趣味野郎⋮⋮むしろそこまで行って ヘタレてるのが気持ち悪い﹂ ﹁春画描きの北川さんなんかは⋮⋮、 ﹃はいそこもっとド助平には肌蹴て! 首首うなじ首ぐらいの割合 ││って首多いよね見世物小屋のろくろ首か! そうそう、鎖骨を 気合で浮きだして気合で! いいねそこの肩甲骨! いっそ肩から 319 下全部肩甲骨になればいいのに! なれよ人類! 畜生! 進化の 袋づまりか! 助平さをもっと出すには⋮⋮豆腐!? すげえ発想 だなおれの右脳。今度摘出するわアブねえ⋮⋮ともかく豆腐持って きてー! そうそう程よく着物がうぇっと濡らしてめっしゃーっと 汚すからね! うわ絵として良意な構図に! 特殊性癖! 絵・良・ 意! エリョイよー玉菊きゅん!﹄ とか、異様に張り切った意気込みで絵のひな形役をさせてくりゃ れて割りと日当弾んで嬉しいのです。豆腐押しつけられたけど﹂ ﹁ニッチな春画が江戸の世に溢れるわけだ﹂ 実際に春画絵師が遊郭に入り浸り、絵の参考として買いや覗きを していた事はあったらしい。 その点玉菊は仕事を選ばずに様々なプレイに答えてくれる、毛も 生えていない白い肌の美しい陰間なので割りと売れっ子なのだ。普 通の客ならば一人五百文は取れるのである。豆腐プレイはもちろん 追加料金だが。 九郎は頬杖を突きながら、 ﹁お主とあれこれはせぬが、どうしても困ったことがあれば話しぐ らいは聞いてやるから頼るがよいぞ。変態だがまだ子供なのだから な﹂ と、言ったら玉菊は目をぱちぱちさせて、お房を呼んで耳元に囁 くように、 ﹁ひそりひそりとお房ちゃんに話しかけるに、ぬし様は多分誰にで もあんな甘ぁい言葉を囁いている気がします﹂ ﹁そのうち、お八姉ちゃんが先制心中攻撃しかけて来るまでの命な の。ああ見えて思いつめる性分だから姉ちゃん﹂ 320 ﹁お主ら⋮⋮人をじごろか何かのように言いおって。単に老爺心だ というのに﹂ 九郎はつまらぬように言って酒と竹の子に向き直る。 それでも、玉菊は若干の元気が出たようであった。 まだ子供が春を売って生活をしているという事情や時代について は九郎は何も言えない。ただ、そういう社会で生きる知り合いが、 せめて笑って過ごせれば良いと九郎も思うのである。 ︵しかし己れは、そんな子供相手に川に沈めたりしたような⋮⋮︶ 一瞬、反省のようなものが浮かんだが気の迷いだろうと思って酒 と供に飲み下した。 **** 玉菊も帰って行き、客も居らず暇だったので座敷の畳から這い出 てくる蚤を退治しているといつの間にか八つ刻︵午後三時頃︶にな っていた。 お房が盆に灰色の饅頭と出がらしの茶を二人分持って来た。八つ 刻の間食だからおやつである。 九郎は暖かく蒸された饅頭を手に取りながら、 ﹁む? これは?﹂ 321 ﹁お父さんが中途半端に残った蕎麦粉で作ったそば饅頭なの﹂ と、言われて訝しげに齧りつくと、わずかに砂糖を入れて蕎麦粉 と小麦粉だけで作った単純な饅頭であったが、素朴な甘みともっち りした歯ごたえのある普通に美味い饅頭だった。 わずかに色の付いた出がらしの茶がよく合う。 九郎は咀嚼しながら厨房の六科に、 ﹁⋮⋮菓子作りができんから実家から出たのではなかったのか?﹂ ﹁できない訳ではない。美味いと感じないだけだ﹂ ﹁蕎麦は?﹂ ﹁しょっぱいと感じる。いい食べ物だ﹂ 真顔で告げる六科であったが、世間一般では甘い菓子を子供は好 むという理屈はわかっているらしく、目分量で菓子を作ったのであ る。 なんで好かないものの方がまともに作れるのか不思議ではある九 郎であったが、ともあれ饅頭を喰らうことにした。 そうこうしていると、 ﹁六科様は居られますか?﹂ と、裏口から女が入ってきた。 火傷痕の残る目元を閉ざした盲の女按摩、お雪だ。 彼女は声の反響と匂いで厨房の六科へと向いてにっこりと微笑ん だ。 ﹁お雪か。どうした﹂ ﹁実は一寸、うちに普請の事で⋮⋮雨漏りが酷くなって困っていま して﹂ 322 ﹁そうか。大工の助次に直させておく﹂ 同じ長屋に住んでいる大工の名を上げて応えた。 六科は大家として長屋の維持管理や家賃の徴収もやっているので 普請のことも対応している。 大家というと正確には当時家守と云い、江戸の小役人である町名 主から雇われて土地代を徴収する役目であったのだが、多くは代理 人を立てて代わりに家守業務を行わせていたようである。代理の家 守のことを通称、大家と呼んだ。 この場合、家守は六科の亡妻の父、藍屋良助が六科を雇っている 形になる。親戚の縁から表店の家賃も可也割り引いてもらっている のである。また、共用している厠に溜まった肥は専門の買取業者が 居て、その収入は大家が貰うのが習わしである。 その代わり大家は、家賃の未払いを防いだり、空き部屋を作らぬ ようにしたり、店子の頼みを聞いたり喧嘩を仲裁したりと云った役 目もしなければならないのだ。 六科はお雪を店に入れて、お房に茶と饅頭を出させた。 お雪の好物である。匂いでわかったように、嬉しさを顔に出して、 ﹁いつもすみませんよう、六科様﹂ ﹁謝るな。俺は当然の事をしているだけだ﹂ ﹁うふふ、六科様は当然で助けてくださるのですねえ﹂ ﹁ああ。今日は助次も仕事をせず部屋に居るはずだ。声をかけてく る﹂ と、出て行った。 雨の日なので内装細工などでない限り大工は休みなのである。 尤も、声をかけたら大工の助次は雨の中ではしごをかけて屋根に 登り、雨漏りを直しに行くだろうが。 323 なにせ、同じ長屋に住む﹃美人女按摩のお雪さん﹄である。 礼に腰でも揉んでもらえば他の長屋の独身男衆から袋叩きにあっ ても帳尻が合う。男ならば誰しも羨ましがるだろう。 なにせお雪、武家の奥方などが主な顧客であり、大名屋敷にも呼 ばれることのある按摩師なのだ。長屋住まいがそう頼めるものでは ない。 あまりに安い町人向けだと、それを呼んだ奥方の恥になるという ので普段から高い値段を取らされているのである。盲には組合のよ うな互助組織が在るためにお雪も決められた値段をそう変えられな いのであった。 ただ、それでも長屋の誰が見ても六科に惚れているとわかるお雪 さんには積極的に手をつける男は居ないのであるが。﹃鵺の六科﹄ と言えば少し前まではちょっと知れた火消しの荒くれなのだ。 ともあれ。 九郎とお房と同じ場所に座って出された温めのお茶を行儀良く飲 んでいるお雪に、お房が声をかけた。 ﹁ね、ところでお雪さん。お父さんの何処が好きなの?﹂ ﹁だー⋮⋮﹂ ﹁うわっ、口元からお茶が駄々漏れしとるぞ!?﹂ 慌てて手ぬぐいをお房に渡して、お雪の口元を拭わせた。 お雪は軽く咳き込みながら、驚いたように口元を抑えて、 ﹁まさかお房ちゃんに気づかれているなんて⋮⋮﹂ ﹁うん、そんなことで驚かれると自分が低能の駄阿呆だと思われて た気がして逆に腹立つの﹂ ﹁お主がそれを云うと六科の奴が低能の駄阿呆だということになる から云うな⋮⋮気持ちはわかるが﹂ 324 幾らか九郎も六科と酒を酌み交わして女の好みなどを聞いたこと があるが⋮⋮ だいたい彼の情緒は、 ﹁若干心が目覚めたマシーン人間﹂ 程度しか無いので、女性関係は絶望的であるように思えた。むし ろ、よく前の妻と結婚できたものだと思ったが、なんでも気がつい たら結婚してて問いただしたらその妻に腕力でねじ伏せられたらし い。 怖ろしい話だと思った。 耳に手をやり、周囲に六科の気配がしない事を確認して声を忍ば せて、 ﹁実は雪は、六科様の事を好いているのですよう﹂ ﹁いや知ってるから﹂ ﹁話進んでないから。どこが好きか聞いてる段階なの﹂ 半眼で揃って突っ込む九郎とお房に、少し身を引かせるお雪。 ﹁お二人とも厳し目⋮⋮! と、とにかく。六科様は声は低くて落 ち着きますし、匂いは干し草のようですし⋮⋮﹂ ﹁ああ、それお父さんが敷き布団の代わりに藁蓙で家畜のように寝 ているからなの﹂ ﹁何事にも動じない御心と、何事でも受け入れる包容力があります し⋮⋮﹂ ﹁無頓着で不感症気味も言い様であるな﹂ ﹁⋮⋮好きなんですよう。本当は理由なんかどうでもよくて、六科 様が好きなだけで⋮⋮﹂ 325 困ってしまって頬に手を当てながら軽くうつむくお雪に対して、 九郎とお房は顔を見合わせた。 ﹁参ったな、これは純情だぞフサ子よ﹂ ﹁うん﹂ ﹁もう大分昔、お房ちゃんがまだ生まれていなかった頃の話なんで すけれど⋮⋮﹂ と、お雪が語りだす。 もう十年近く前だろうか。お雪もまだ小さかった時だ。 火事の怪我も治って、お礼をしに親類のものに連れられて当時、 お六が経営していた緑のむじな亭に来たのである。 その時もそば饅頭を出されて食べた。お六は菓子作りなどやろう としなかったので六科が作ったものである。六科は蕎麦が好きとい うよりも、蕎麦好きなお六が妻だったために蕎麦が好きということ にしているのだ。 中に何も入っていない素朴な味の饅頭と温めの茶は盲にも嬉しか った。 その後、六科とお六に連れられて夕涼みに出かけたのある。 右手をお六に、左手を六科に握られて親子のように歩いた。 大川のほとりの何処にでも在る、柳の垂れた川端の長椅子に並ん で座って、海からの涼しい風を受けてなんてことのない時間を過ご した。 気がつけば眠っていて、六科の背中におぶられ、預けられている 家に帰ったのであったが⋮⋮ それ以来、六科をより意識するようになったのだという。 はじめは亡くなった兄か父のように。だが、次第に変わって、 ﹁⋮⋮すっかり好きになってたんですよう﹂ ﹁そうなのー﹂ 326 ﹁反応が乾いておるのう、フサ子は﹂ ﹁だってよくわからないから。まあ好きなら好きでいいんじゃない ?﹂ 首を傾げながらお房は応える。 なにせ、早くに亡くした母親との思い出はあまり無いので夫婦と いうものへの理解に乏しいのだ。なんとなく、母に抱かれたことと か頭を撫でられたこととかは覚えているが顔も朧気で、想像上の母 としてしか思い出せないのだ。 むしろ一時期は時々やってきて遊び相手になった石燕を母かと思 っていたぐらいである。 お房の言葉になにやら奮起したお雪は、 ﹁よぅし! 雪は頑張りますよう!﹂ と、握りこぶしを作って張り切るのであったが、直後に六科が裏 口から帰ってきたので、 ﹁六科様! す、す、好いておりますよう!﹂ ﹁即座に告った⋮⋮!﹂ 九郎が驚きの声を上げるが、 ﹁そうか。それより板材が足りないらしいから買ってくる﹂ と、あっさり流して一瞥もせずに表口から笠を被って出て行った のであった。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 327 ﹁⋮⋮﹂ 一同、無言であった。 お房がぽつりと呟く。 ﹁なんというか、そこはかとなく頑張ってねお雪さん﹂ ﹁心がメカで出来ておるからの、あやつは﹂ 一子相伝の拳法を受け継ぐために愛を失った男、佐野六科の心を お雪が名前のように、白く柔らかい雪で包んでやることは出来るの だろうか。無論、拳法は嘘だが。 **** 328 ﹁││時は満ちた﹂ 黄昏の闇に沈む室内を一瞬だけ稲光が照らし、不吉な黒い影を映 しだした。 手元に、ある男の詳細なデータが書かれた紙片を摘んで掲げなが ら、言葉を紡ぐ。 ﹁仕込みは十全。後は役者に舞台へと上がってもらわなくては⋮⋮﹂ ふふ、と暗影を投げかけるような笑みを零して薄く目を閉じた。 ﹁どうあっても、付き合ってもらうよ。ここから始まるんだ、君の 旅が││﹂ 再び雷鳴が近くで鳴り響いた。 紫がかった閃光に室内の妖怪絵が輝くように部屋の中心にいる人 物を睨む。 深い深淵の玄水に飲まれるように体をゆったりとしながら、鳥山 石燕は嗤った。 329 ﹁││ふふふ、精々楽しませてくれたまえ⋮⋮九郎君﹂ ﹁師匠、九郎っちと江ノ島に旅行に行く準備が出来ただけでなにを 言ってるの?﹂ ﹁いや⋮⋮只の無意味な雰囲気作りだが﹂ ﹁なんでそれをする必要がっ!?﹂ 九郎と遊びに行くのを楽しみに、雨が上がる日を待っている石燕 も居た。 梅雨が明けるのは近い。何処かで、蛙の鳴く声がする。 330 15話﹃鳥山石燕異行譚[海坊主]﹄ ﹁海坊主が江ノ島に出たという話だ。 江ノ島は当時でも有数の人気観光地であった。江戸からも鎌倉か らも近く、景観が良い江ノ島には多くの人が訪れ、弁財天を参拝し ていったという。 特に江ノ島・大山は江戸から出発した場合でも関所手形が不必要 な圏内であったためにより行き易かったのである。 川崎方面から上がってきた、江ノ島帰りの旅人達の噂話で海坊主 が現れたという目撃情報が複数囁かれたのでこれは本物だと意気込 んだのは江戸の妖怪絵師・鳥山石燕である。 彼女はここ暫くあいにくの体調不良で伏していたが、すっかり快 癒して旅の準備を整えだした。 いつもならば弟子を連れたって妖怪見物に出かけるであったが、 今回は子興以外の弟子が捕まらず、家の為に彼女は留守番をさせね ばならない。 女の一人旅となれば、行き先は関所を通らぬ近場とはいえ、普通 は気安く行えるものではないのだ。 ならば、と彼女は腕っ節の強くて暇そうにしている蕎麦屋の隠居、 九郎に旅の友を頼むことにした。 彼は快く了承して二人は海坊主の待つ江ノ島へ向かうこととなっ たのだ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 鳥山石燕は、目の前の布団に座り虚ろな目の九郎相手にそう語り、 笑顔を作って頷いた。 331 ﹁じゃあ行こうか﹂ ﹁凄く説明的な誘いっていうか確定してるのかよ行くのは!﹂ このようにして九郎は夜も明けてない朝一番に現れた石燕に連れ られて江ノ島まで行くこととなったのであった。 **** 旅は道連れ世は情けという言葉は旅人を狙う盗人が作った言葉で あるので注意せよ。 そのような書き出しで始まる当時の旅行ガイドブック、﹃旅行用 心集﹄という本を手にしながら、九郎はやたらと大きな背嚢を背負 って石燕と大山街道を歩いていた。 行き先は江ノ島である。 石燕もいつもの喪服から旅のしやすい着物に着替え、足袋に結い つけ草鞋という旅用の草鞋を履いて杖を持っている。長々とした髪 は垂らしたまま、頭に手ぬぐいを巻いて笠を被っていた。 九郎も脚絆を履いて笠を被り旅装束だ。腰には地面につかぬよう にアカシック村雨キャリバーンⅢが佩かれていて、一見すると二人 は巷説にでもありそうな、仇討ちを探し旅をする女と子のようであ った。 ﹁しかし用意がいいというかなんというか。己れの分の切手まで用 意しているとは﹂ ﹁ふふふ金を積めば世の中どうとでもなるのだよ﹂ 332 と、九郎の呆れたような発言に応える石燕。 切手というのは金券ではなく、今で言うパスポートのようなもの で、当時旅をする際に必要であった。内容に﹁これを持つ何某とい う名のものは何処で生まれ、住まいは何々で、之々の宗派である﹂ と記載された土地の名士や寺の住職が発行したものだ。 これにより行き倒れで死体になってもその土地で宗派に沿った供 養がさせられ、家族に報告が行くというシステムである。もちろん、 確実にそのようにしてくれるというわけではないが、持っていると 居ないとでは旅先の信用が違う。 九郎の場合、異世界から帰ってきて戸籍も無い無宿人状態であっ たが石燕の手管と金の力でいつの間にかしっかりとした身分を手に 入れてさせられていたのである。 これは下手に奉行所や火盗改などに取り調べを受けた際に非常に 有効││というか無いと致命的なのでありがたいことであった。 なお、今回は用意していないが関所手形は之に加え人相書きなど も必要である。関所の前では皆人相書き通りに顔を洗い髪を整えた。 今回は関所を通らぬ近場の旅だ。 ﹁ええ、何々。旅をする際に近寄ってくる輩は大体スリか盗人であ るので旅費などは数カ所に分散して持っているが善し⋮⋮﹂ ﹁なので九郎君、私に近寄ってくる輩には注意してくれたまえ﹂ ﹁しかし見よ石燕よ。図で金の隠し方を解説しておるが、柄だけし か無い刀の鞘に並べて隠すって格好良くないか? こんな武器を十 傑衆が使ってたような﹂ ﹁銭剣の事かね? 風水では儀礼に使われるようだがね﹂ ﹁男の子心をくすぐる⋮⋮﹂ などと会話しながら進む。 旅ではそうそう身分を問い質されないために帯刀していても問題 333 が起こることは少ない。侍以外も盗人避けとして竹光や刀身のない 刀を差して旅をしているものも居た。 しかし九郎のように背中にどっさりと大きな荷物を担いで歩くも のは珍しかったようである。大抵は風呂敷に軽く包む程度か、小さ なつづらを二つ結んだものを肩にかけて持つ程度である。 荷物の大半は石燕の着替えと絵の道具だが、九郎もこの時代の旅 というものがあまり想像できなかったので野宿できそうな道具すら 無駄に持ち込んでいるから荷物が大きくなっているのである。 重いわけではないが、他から見れば奇異にも見えるだろう。 ところで、と石燕が言った。 ﹁今日は江田の旅籠まで行く予定だが、道中の宿は姉弟だから同じ 部屋で、という設定でいいね?﹂ ﹁なぜそうなる。別に金が無いわけではないのだから己れが弟にな らんでも別の部屋でよかろう﹂ ﹁いや、他人同士で旅をしているということにしても私はいいのだ が⋮⋮﹂ 石燕は髪の端をつまみながら、面白がるように九郎を見やって、 ﹁男の旅だと飯盛女が必ず九郎君の部屋につくよ? 多少断っても 無理に迫るだろうね、向こうも商売だから。いや、全部抱いてやる とかすごい勢いで迫る相手を毎晩退ける意思があるのなら煩くは言 わないけれども﹂ ﹁むう⋮⋮それは確かに面倒くさい﹂ ﹁だから姉弟か夫婦ってことにしておけば面倒事が避けれるわけだ よ。歳の差夫婦の方にしておくかね?﹂ ﹁⋮⋮やむを得ん、じゃあ姉弟で行くか。己れが兄には見えんだろ うから﹂ ﹁ふふふ! もっと弟っぽく言ってくれたまえ! ﹃姉ちゃん寝る 334 時は離れて寝ろよな! 寝相悪いんだから﹄みたいなちょっとツン とした生意気系でっ! でゅふふふ﹂ ﹁よだれを出しながら気味の悪い声を上げるなよ姉ちゃん⋮⋮﹂ 妙な喜び方をする石燕に気味が悪そうに返す九郎であった。 ﹁しかし、江ノ島に行くには海沿いの東海道でも良かったのではな いか?﹂ この時代の旅はよく知らないが主要道路として当時からあった道 について尋ねる。 石燕は解説したそうないつもの顔つきで、 ﹁もちろんそちらからでも行けるとも。だがね、東海道は大山街道 よりも賑わっている道なのだよ。つまり、旅籠や遊び場が多くて時 間を取られやすい。 そのようなところよりも先に海坊主を見に行きたいからね。帰り は東海道からゆっくりと上がっていくことにしよう﹂ ﹁うむ⋮⋮まずは海坊主か﹂ 九郎はつぶやいて、疑問に思った。 ﹁いや待て、海坊主が普通に出現することになっとるがどういうこ とだ﹂ ﹁ふふふ詳しくは話していなかったね。まずは海坊主の解説から必 要かな?﹂ ﹁それぐらいは知っておる。あれであろう? 海からざばーっと一 つ目の巨人が出てくる感じの⋮⋮﹂ ﹁そういう風に描かれている図もあるね。或いは真っ黒の影のよう な姿に描かれることも多い。さて? 九郎君。そのような巨人や影 335 のどこが﹃坊主﹄⋮⋮つまり僧なのだね?﹂ ﹁む⋮⋮? いや、わからんが僧衣を着ているとか?﹂ ﹁まず解説しておくと海坊主と云うのはこれといった決まった形の 在る妖怪ではなくてね。地方によっては黒坊主、海入道、海座頭、 海難法師など様々な妖怪と同一視されている、いわば海の怪異その ものなのだよ。 だがやはりその呼び名にも、入道や法師と言った名前があるね。 座頭だって僧体をしている。では海のあやかしと仏僧が何か関係あ るのかと言うことになるね﹂ ﹁あー⋮⋮えーと知らん﹂ 九郎はさっぱり思いつかなかったので頭を掻きながら応える。 彼女はそれに失望していないような、話す順番を決めていたよう に流暢に続けた。 ﹁海難と僧の因果を考えると大陸から船で渡ってくるのに五度も失 敗した高僧・鑑真がすぐに思い出されるが、最終的に彼は成功した のだから関係ないだろうね。 まあぶっちゃけた話、海と僧は関係ないのだよ。では何故海に僧 の名を冠した妖怪が多くいるのか。私はね、僧と関系あるのは土地 ではなく視覚だと思うのだよ﹂ ﹁視覚? 目か﹂ ﹁そう。目は世界中の多くの宗教に置いても重要なものだ⋮⋮当然 だね? 視覚というのは世界を自分に入力する最大の端末なのだか ら。逆に目の力によって相手に害を為すという話も多く残っている。 清の古来の話にもあったと聞くし、和蘭陀人から聞いた話によると 英国の古代神話でも呪いの目の神が居たそうだ。 とりわけ仏教では目が象徴的だと言っても過言ではない。君も仏 像を見る時には無意識に、半開きになったお釈迦様の目などを見て しまわないかい? 336 なにせ仏教の開祖であるお釈迦様は[﹃目﹄醒めた]人と呼ばれ ているのだから目が重要なのだよ。だから海入道は一つ目か、体は 光を映さぬ真っ黒で、海座頭は盲目で、海難法師は見たら死ぬとい う目に関する性質を持っている。 海は古来あまり覗きこんではいけない領域だった。別世界だ。[ 見てはいけない]という性質が目⋮⋮仏教関連へと繋がり、坊主類 の名がついたのではないかと私は思う﹂ そこまで言って、石燕は水筒の竹筒で軽く口を潤して、 ﹁大きな目⋮⋮或いは見る事に関する妖怪で僧の名を持つものは多 い。[一つ目入道][眼張り入道][見越し入道][手目坊主][ 青坊主]などだね。 兎も角、それらの陸の僧職系妖怪と海の僧職系妖怪には違いがあ る﹂ ﹁違い?﹂ ﹁簡単さ。海の坊主はね、人をやたら襲うのさ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁海坊主も海座頭も現れては船を沈没させてくるという怖ろしい性 質を持つのだ。中でも酷いのが海難法師。先ほど言った通り見たら 死ぬ系の妖怪だ。随分と酷いね? 眼張り入道なんて厠を覗くだけ だというのに﹂ ﹁海難事故は死亡率も高いからなあ﹂ ﹁その通り。私が思うにね、最初に現れた海坊主の正体は﹃鯨﹄だ ったと思うのだよ。あの黒い巨体が海面に現れ何らかのはずみで船 を転覆させる姿に人は妖怪を見た。或いは、海岸近くまで上がって きて波で人を攫ったかもしれない。 ある土地の古老に聞いた話だとずっと昔はこう読んでいたらしい。 [黒亡津]⋮⋮津は港の事。港を荒らす黒い海妖怪、くろぼうづだ﹂ 337 石燕は手紙に取り出した筆で文字を書きだして九郎に見せた。 人の手に負えぬ力を古来の人は、神や妖怪と呼んだのだ。 話題を戻して九郎は軽く汗を拭いながら、 ﹁では、江ノ島に現れた海坊主は鯨か?﹂ ﹁大勢の人が実際に目撃している証言がある。大波や、時化による 事象ではなく海坊主そのものをね。しかし、一日だけならばまだし も二日も三日も鯨が同じ場所に留まって目撃されるものかね?﹂ ﹁普通はされないだろうな。鯨はあの巨体を維持するために常に回 遊して餌を求めている。頭を出す事はあってもずっと居るのはおか しいであろう﹂ ﹁うん、鯨だとしたらおかしい。では何が正体かという話は面白い のだが⋮⋮これが本当に鯨で異常な行動をしているのだとしたら﹂ ﹁だとしたら⋮⋮?﹂ 石燕は眉根を寄せて記録を思い出した。 ﹁この前の、元禄にあった大地震。九十九里浜で地震の前触れとし て鯨が浜に打ち上がっていたそうだ。その他にも地震の前には鯨や 海豚が異常行動をすると言われている。もし、今回の海坊主が大地 震の予兆だとすれば⋮⋮﹂ わずかに、歩いてきた道の先にある江戸を振り向いて石燕は告げ た。 ﹁⋮⋮江戸は今度こそ壊滅する﹂ **** 338 その後も大体六パターンぐらいの江戸滅亡予報を聞かされながら 道中の茶屋で休み休み九郎は石燕と歩き、日も暮れてきた頃によう やく江田の宿場町に到着した。 その時点での石燕の高説は隕石が衝突して江戸が消滅だった。九 郎も段々適当に流すようになった。 江田は大山街道を歩き、江ノ島や大山に参拝する旅行者が江戸を 出発してだいたい一日目の宿場町とする地点である。 現代にその町並みの名残は見えないが、道沿いに数多くの旅籠が 並び飯盛女が旅人を呼び込んでいたようだ。飯盛女とは宿客の接待 をする遊女のたぐいであり、当時の宿場には何処にでもいた。 例えば三人以上の団体客などは、一番気の弱そうな人に狙いをつ けて無理やり宿の中に女が引き込んでしまうので残りの仲間も仕方 なくその宿に決めるなど、強引な客引きも当時はあったという。 まるで人攫いを警戒するように九郎は石燕の影に隠れなければ、 手を捕まれてしまっていただろう。 ﹁ある意味江戸より盛況しておるな⋮⋮!﹂ ﹁ふふふ、きょろきょろしてるとスリに会うから気をつけたまえ?﹂ 忠告する彼女に飛脚風の男がぶつかって走り去っていった。 そして一瞬よろけて、朱金を入れてた袋が消え去った胸元を開け て九郎に見せながら、 ﹁こんな感じにスられるからね!﹂ ﹁お主がやられてどうする!?﹂ 339 九郎が慌ててスリを追いかけて背後から蹴倒し動きを止める。 ﹁泥棒だ、泥棒!﹂ 男のスッた財布を取り戻して踏みつけながら怒鳴ると、すぐに番 のものが駆けつけて来てスリを縛り上げた。 素早くスリを取り押さえた九郎を見て、今度は彼を捕まえようと いい笑顔の飯盛女がにじり寄ってきた。威勢のいい少年など絶好の 餌食である。 獲物を狩る兎のような目をした女に囲まれて九郎は、 ︵目立ったか⋮⋮? さっさと退散せねば︶ と、思っていたら背後から小走りで石燕が駆け寄ってきて九郎の 手を取った。 ﹁やあご苦労だったね弟君。なにかご褒美をあげよう。ええと世界 の半分とか﹂ ﹁わあ姉ちゃんなんかスケールでかい。ようしあの夕日にそこはか となく向かって競争だ﹂ ﹁ふふふ﹂ ﹁はっはっは﹂ と、誤魔化しながら手を繋いで走り去るのであった。 適当な距離を逃げて、石燕が予め目をつけていた高級な旅籠に二 人で入ることにした。 止まる客も武士などが多く、遊女も高級そうな店である。部屋を 一室借りて、姉弟なので気遣いをしないように番頭に言付けをして おく。 部屋で荷物を下ろしてゆるりと、軽く湯浴みなどもして過ごして 340 いると晩飯と酒が運ばれてくる。 一日の疲れで半ば寝かかったように、うつ伏せで軽く目を閉じて いた石燕は喜んで跳ね起きて酒と肴を手にした。 ﹁ふふふこのわさびは最高だね九郎君﹂ ﹁ううむ⋮⋮辛いなこれ⋮⋮だが酒に合うぞ﹂ 鼻に抜ける辛さに耐えながらも酒をぐいぐいと煽って銚子を空か していく二人。 この時代のわさびは主に静岡で栽培されており、そこから江戸に 運ばれていく街道の途中である江田でも宿で出されているのであっ た。 山芋の刺身に摩ったわさびが乗せてあり、しゃっきりした食感に 強烈な風味が相まって、これがまた酒が進むのである。 また、粉にしたわさびと塩を混ぜた山葵塩が盛りつけられている 岩魚の焼き魚も焼きたてで美味であった。 女と子供が泊まっている部屋だというのに、酒が一升も二升も減 っていくのを宿の者らは狐に摘まれたような顔で出していたという。 結局、夜中まで酒が終わらずに翌日の日が高く登るまで、宿を出 発しなかった二人であった。 **** 二日目はさほど進まずに大和のあたりでのんびりと過ごして、三 日目に藤沢街道を歩いて江ノ島に着いた。 梅雨明けを狙ったのか二人以外にも観光客で賑わっており、とり 341 あえず江島明神に参拝する。 ﹁そういえば九郎君、江ノ島の弁財天は夫婦で参拝してはいけない という話があってね﹂ ﹁確か縁起の良い神様だか仏様だったと思うが﹂ ﹁ふむ⋮⋮弁財天の元になったのが[そらそばていえい]という印 度の神でね。元は河の流れを司る神なのだ。そのことから考察する に⋮⋮﹂ ﹁するに⋮⋮?﹂ ﹁あー、えー⋮⋮別に妻に祟る要素のないと思う神なんだ。印度の 神に珍しく勝利の踊りで天地を破壊したり敵の生首を首に下げたり しない、おとなしい女神で⋮⋮山の神のように女を連れてくると嫉 妬するとかではなく、絶世の美女設定だから⋮⋮ 恐らくは、江ノ島参りをしてその帰りに精進落としするのに妻が 邪魔だからそういう話を流したのだろう﹂ ﹁精進落とし?﹂ ﹁遊郭に寄って旅の疲れをなにすることだよ﹂ ﹁ああ﹂ 納得して九郎は頷いた。 旅をして羽目を外すという行為は昔からそうであるようだ。計画 性のない旅だと、旅先へ行く途中で金子を遊び使い果たして江戸に 戻るものもいたらしい。 江島明神を出て多く店の並ぶ通りを歩く。 江ノ島は古くから観光地として有名だったが、江戸時代になると 弁天信仰が盛んとなりより栄えて寺社の改築や建立なども何度か行 われたようである。 遅めの昼飯として、あさりを茹でた汁で飯を炊いたあさり飯を食 った。いい塩梅に塩加減がついており、石燕は頼んで四つばかり握 り飯にして貰った。 342 ﹁さて、今晩は海を見張るのだから準備はしておかねばね﹂ ﹁え? 宿に帰ってエビとか食べるのではないのか﹂ ﹁何をしに来たと思ってるんだね。海坊主を見つけるのだよ﹂ そう言って、今度は雑貨などが売っている店に寄った。 ﹁海坊主対策の道具も買わなくてはね。九郎君、何がいいと思うか ね?﹂ ﹁うーん。塩とか?﹂ ﹁外れだ。塩は海にいくらでもある。海系妖怪の弱点は木灰、真水、 酒だよ。底の抜けた柄杓は道具袋に入れているから大丈夫﹂ そう言って道具を買い集める石燕を見ながら、海坊主は鯨だとか 自信満々に言っていたではないか、と九郎は思わなくもなかった。 だが本当に幽霊だったりした時の為の対策なのだろうか。或いは 単に雰囲気作りの退治道具なのかもしれない。 楽しんでいる石燕に水を差すのも無粋だと、九郎は特に文句を言 わずに重量が増えた荷物を持って石燕の後から海へ向かって歩いて 行く。 高さはあるものの海に程近く、よく見渡せるところにあった岩屋 で立ち止まり、 ﹁ここにしよう﹂ と石燕が言ったので九郎も荷物を置いて敷物を出し並んで座った。 さざ波の立っている海からはわずかに湿った風が岩屋に吹き込ん で、石燕は手櫛で髪を整えて、じっと海面を眺めた。 ﹁さて、鬼が出るか蛇が出るか﹂ 343 ﹁出るのは海坊主であろう﹂ 海には今のところ異常は無い。何隻か、地元の漁師の小舟が漁を しているぐらいでおとなしいものである。 鳶が鳴きながら飛び回っている。 九郎は小さく伸びをして荷物から読み物を取り出して読み始めた が、石燕は特に何も言わずに海を見ていた。 特に言葉はないまま、二人共ゆったりと時間を過ごしていた。 **** ︵まさか本当に夜になっても帰らぬとは︶ と、思いながら九郎は月明かりで照らされている海に、早く海坊 主でも現れぬかと目をやった。 近くには行灯を灯しており、岩屋では虫よけの煙が漂っていた。 江戸の頃は蚊取り線香などは無かったために、除虫効果のある青葉 や木片を燃やしてその代わりとしていたのである。 持ってきた酒を二人でちびちびと飲みながら、今だに現れぬ海坊 主を待っている。 ︵まさか何日も待ったりはせぬよな⋮⋮?︶ 不安になりながら石燕の顔を眺めた。 ずっと海を見続けているというのにその顔には飽きの色は見受け 344 られない。 ﹁暇かね?﹂ 不意に話しかけられたので、一拍、呼吸を置いて応えた。 ﹁そうだの﹂ ﹁ふふふならば弁天様にならって琵琶でも演奏してみるかね。案外、 誘われて出てくるかもしれない﹂ ばち と、土産物屋で購入した琵琶を持ち出して、ばらん、と音を鳴ら した。 音は拍子をとって続け、撥で引っ掛けるように規則ある音楽とし て鳴らされている。 ゆっくりとした落ち着いた曲調だ。 目を閉じた石燕の口から唱えるような声が漏れる。 唄だ。 ﹁│││。﹂ 正確な旋律を鳴らしながら、目を瞑った石燕が物語を語るように、 歌を奏でる。 これまで石燕が楽器を扱っているところなど一度も見たことはな いのだが、当たり前の手付きで美しい音楽を刻む。 行灯に照らされて琵琶を鳴らす彼女の姿は、弁財天が取り憑いて いるような錯覚を覚える。 ﹁│││。﹂ 暫くは海の音も消えたように九郎は石燕の演奏を聞き入っていた 345 のである。 そしてやがて琵琶の音は止まる。 九郎は感嘆の声をかけた。 ﹁お主、凄いなあ。妙な才能ばかりあると思ったらこのようなこと も出来たのか﹂ ﹁ふふふ、別に琵琶の才能が有るわけではないよ﹂ ﹁謙遜するな。良い演奏だったぞ﹂ ﹁私が以前に見た事がある良い演奏を、記憶のまま琵琶を弾く動き を真似しただけだからだよ。練習した訳ではない﹂ ﹁それでそこまで弾けるのか!?﹂ 目の見えぬ座頭に口伝で伝えられる琵琶だというのに、目の見え る石燕が見たままコピーしてしまったのである。 記憶力が異様に良い石燕なればこそ、動きとリズムを覚えればあ る程度の再現は可能にしてしまう。 石燕は今度は適当に琵琶を掻き鳴らしながら言った。 ﹁そういえば海坊主の中には、船乗りに﹃怖ろしいものはあるか、 俺が怖ろしいか﹄と、問いかけてくる話がある﹂ ﹁ほう﹂ ﹁船乗りはこう応えた﹃これから先の人生、何があるかわからぬこ とに比べればお前など恐ろしくない﹄とね。目の前に海坊主が居る というのに将来の不安とは⋮⋮! かなり余裕だね⋮⋮!?﹂ ﹁ちょっといい事言おうとして失敗した感あるな、それ﹂ 率直な感想を言って酒を飲んだ。 石燕は少し細めた目で海を見張り続けながら、 ﹁九郎君は、怖ろしいものはあるかい?﹂ 346 ﹁怖ろしいものか⋮⋮そうだな、死ぬのが怖いのう﹂ ﹁⋮⋮意外と普通だね﹂ 九郎は苦笑しながら、 ﹁この歳になるとな、随分たくさんの人に出会って、多くの思い出 が出来てしまってなあ。良い事や悪い事もたくさん詰め込んだ思い 出が死ぬと全部無意味になってしまうと思うと、勿体無くての。 永遠に生きたいとかそんなわけじゃないけど、あんまり死にたく はねえって思ってしまうのだ﹂ ﹁そうだね⋮⋮普通、人は死ぬのが怖い﹂ ﹁石燕?﹂ 彼女は琵琶を止めて若干俯いたあと、いつもの人を喰った顔で応 える。 ﹁その点私は何も怖いものなど無いがね! 焦熱地獄先生鳥山石燕 にかかれば怖いものなど何もない! かかってきたまえ海坊主!﹂ ﹁この前姑獲鳥が出たとか何とかで大騒ぎしていた気が﹂ ﹁ふふふ⋮⋮突発的な事態というのは面白くて困るね!﹂ ﹁まあ別にいいが﹂ 石燕は九郎を見たまま、微笑んで云う。 ﹁これから先の人生、何があるかわからないのは怖いのではなく楽 しみでしかないね。誰と出会い、誰と話し、誰と別れ、いつ死んで、 いつ戦争が起こり、いつ国が滅び、いつ星が壊れ、いつ宇宙が消え るか⋮⋮全てを知るのは幸福ではなく退屈と絶望でしか無い。何が あるのか確定された未来は、楽しくも無い﹂ ﹁⋮⋮石燕?﹂ 347 ﹁⋮⋮はっ! まずい九郎君それどころではない! 急いで立ち上 がりたまえ!﹂ ぼそぼそと呟いていた石燕が急に九郎の手を握って引っ張った。 慌てて立ち、荷物も置いたまま岩屋から行灯を持って出る。 ﹁どうしたのだ石燕!﹂ ﹁お花を摘みに行かないといけないけど暗くて危ないからついてき てくれたまえ! 漏る!﹂ ﹁この流れで便所かよ! 一人でいけよ!﹂ **** その後も一晩中二人は雑談をしたり、暇な九郎が夜釣りを始めた りしながら過ごした。 やがて空が白み始めた。日はまだ登らぬが、海の果てから深蒼色 の空が広がってくる。 薄暗く彼も誰もわからぬ、妖怪の時刻。かそたれ刻だ。 海岸近くまで寄り、九郎と並んで夜明けを石燕は見ていた。 ﹁夜が明けるね﹂ ﹁ああ﹂ ﹁朝が来る﹂ ﹁うむ﹂ ﹁また今日も九郎君と一日、遊んで過ごせる﹂ 348 ﹁そうなるな﹂ ﹁私はそれが楽しい﹂ ﹁そうか﹂ ﹁こんな日が続けばいいと思うよ﹂ ﹁そうだな⋮⋮﹂ 白い光を反射させ始めた海面を見て、九郎は口を開けた。 そこから、黒い頭を出しているものがいたのだ。自分らが居る海 岸から近い。暗くて気づかなかったのだろうか、ずっとこちらを見 ていたような位置である。 黒い、坊のような頭。黒坊頭。 ﹁石燕! あれだ、海坊主だ!﹂ ﹁なんだって!? ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ それは、随分と小さな海坊主だった。 拍子抜けして二人共思わず言葉を失う。 鞠ほどの大きさのつるりとした頭に黒い瞳。猫のような髭をもじ ゃもじゃと伸ばしている。 すっと海面から生えるように首まで出していた。 九郎は、夜釣りで獲った魚を近くに投げたら、うまい具合に口で 咥えて食べた。 ﹁⋮⋮アザラシかよ!﹂ 案外、妖怪なんてそんなものである。 使わなかった木灰を九郎は投げ捨てた。なお、水と酒は飲んでし 349 まった。 **** ﹁﹃海坊主 正体見たり 毛饅頭﹄と﹂ ﹁毛饅頭はやめろ。まあそんな見た目だったが﹂ 翌日は一日中江ノ島に滞在して疲れを取ることにした二人は、宿 で改めて休みながらそのような事を言い合っていた。 石燕は筆を置いてごろりと寝転がりながら言った。 ﹁いやしかし、一晩で見れてよかったよ、海坊主。なんてことのな い野生動物だったがね﹂ ﹁魚をやると懐くという噂でも流しておくか﹂ ﹁ふふふ、この世には不思議なことなど何もないのだよ九郎君﹂ 九郎は心底にため息を付いて、 ﹁お前の存在が己れにとっては一番の不思議だよ、石燕﹂ そう言っても、にやついた笑みのまま彼女は何も応えなかったが。 350 351 挿話﹃膝と録山晃之介﹄ 二、三日干された地面の埃が舞う、からっ風が強く吹いている。 道の脇に広がる田圃には青々と成長した稲が揺られ、渡り鳥の鳴 き声が微かに聞こえた。 神田の外れにある道場にはその日、客が来ていた。突然の来訪だ ったが、一人鍛錬をしていた主の録山晃之介は堂々とした態度で受 け答えをして、とある約束を交わしたのであった。 ﹁承知致しました。必ずその刻限に参上致しますとお伝え願います﹂ ﹁では、これにて⋮⋮﹂ 会話を終えて晃之介は正座のまま礼をし、紋付袴を着た侍も返し て道場から立ち去った。 侍が二人、出て行く所を、稽古に着たお八が目撃して思わず近く の木陰に身を隠してしまった。立派な、彼女の呉服屋でも大名屋敷 に届けるような袴である。それに二本を差した侍が二人、師匠であ る録山晃之介に一体何の用であったのか⋮⋮ 遠くに去っていくのを見送ってから道場に駆け込むなり声を張っ た。 ﹁師匠! どうしたんだあれ? 果たし状でも持ってきたのか?﹂ ﹁果たし状か⋮⋮﹂ 今だに座ったままの晃之介はようやく足を崩して、短く切った髪 に手を当てながら唸った。 ﹁果し合いならまだよかったのだが⋮⋮﹂ 352 ﹁どうしたんだよ師匠らしくねえ。どーんと構えてろよどーんと﹂ ﹁無理だ⋮⋮どうしてこんなことになったんだ﹂ 事情を知らぬお八に答えながら、とりあえず事の発端を共有する 友人に相談せねば、と思う晃之介であった。 **** 江戸の侍を騒がせた、刀を奪っていく辻斬り騒動は報告にあった 被害者数よりも多く行われていた。 なにせ武士の心たる刀が、不意打ちとはいえ斬り殺されて奪われ たのだから表沙汰にされては恥だとするのも当然のことであった。 奉行所や火盗改が辻斬りを探していたと同様に幾つかの大名家で も辻斬りへの追手が掛かっていたらしい。 それを妙な縁で九郎と共に捕らえたのが晃之介であった。 だが、九郎の面倒事を嫌う性格から辻斬り捕縛の功績は晃之介の みが貰っている。これに関してはお互いに、貰った報奨金を一晩で 使い潰したので貸し借り無しとしていた。 辻斬り捕縛とともに刀を京都や大阪に流して売っていた商人も捕 まり、幾らかの刀は取り戻されたのだが⋮⋮ その刀を奪われた被害者に、柳川藩十万四千石・飛騨守立花家の 御徒士が居たのだ。 御徒士というと、大名行列を行う際には警護を担当する武士であ り、それが辻斬りに襲われた挙句刀を奪われたとなると、武士社会 353 の中ではとんでもない事であった。 あきたか 幸いにも内密に事は解決したが、それが参勤交代で江戸に来た柳 川藩藩主・立花鑑任の耳に入ったのである。 立花は部下の失態を叱ったが、見事に膝に矢を当てて賊を捕らえ た録山晃之介という浪人に興味が湧いた。 それでわざわざ部下を寄越して晃之介を大名屋敷に呼んでのであ る。 晃之介はお八を連れて緑のむじな亭へやってきていた。 暖簾をくぐり、中に入ると少しの客がたたみいわしなどで酒を飲 んでおり、いつもの様に小袖に前掛けをしたお房が居た。 二人に気づくとお房は、 ﹁いらっしゃい、晃之介さんとお八姉ちゃん﹂ ﹁ああ。そうだな、昼飯も頼もう。二人分こさえてくれ﹂ ﹁大盛りで頼むぜ!﹂ ﹁はーい﹂ と、声を上げて厨房へ向かう。 大体、蕎麦をやらぬ時期のむじな亭の定食と言ったら、米と汁に 一菜と漬物である。 その日は米が鯵飯だった。これは、米を炊く時に醤油を少し入れ て塩気をつけ、炊き上がった米に鯵の干物を解して混ぜあわせて暫 く余熱で蒸したもので、おかずが無くても飯が進むものである。 作り方も簡単なので九郎が教え、時折これにしているのだ。客の 評判もまあまあである。 それに磯納豆をつけて出せば飯を何杯でも食える。納豆にしらす 干しと海苔を混ぜた簡単なものだが、磯の香りが堪らない。 基本的にこの店の料理は、店主六科の腕前の問題で混ぜるだけ等 簡単に作れるものになっているのであった。 354 ﹁ところで、九郎は居るか?﹂ 晃之介が腹ごなしをしながら、お房に尋ねた。 ﹁九郎なら先生と江ノ島に旅行に行ったの。のんびり行くって言っ てたから七八日は帰ってこないんじゃない?﹂ ﹁なに!? あの野郎二人っきりで旅行かよ! ずっけえな! あ たしも行きてえ!﹂ ﹁江ノ島の海坊主だか海難法師だか、妖怪探しに行くって話だった からお八姉ちゃんにはちょっと⋮⋮﹂ ﹁よ、妖怪⋮⋮は、ちょっと勘弁なんだぜ﹂ 張り上げた声が萎んでいくお八であった。 彼女は、幽霊妖怪の類は大の苦手であるのだ。 現代のようにスイッチを押せば家中の明かりがつき、外も街灯が 一晩中灯っている暮らしではない江戸の時代においては、夜の厠や 暗い細道などは大の大人でも恐ろしがるものが多かったという。 一方でお八は暗闇はある程度平気であるのは、彼女が九郎と初め てであった時に夜歩きをしていたことからもそうなのだが││お化 けという存在が格別に嫌いなのである。それも、両国にあるお化け 屋敷で散々に脅かされたことがあって目を回してしまったことがあ るからだ。 そんな彼女の個人的事情はさておき⋮⋮。 晃之介は落胆したように顔を曇らせた。 ﹁旅行か⋮⋮九郎に相談しようと思っていたのだが﹂ ﹁なにか言付けでもあるの?﹂ ﹁そうそう、聞いてくれよお房! 師匠さ、飛騨守立花様の屋敷に 腕を買われてお呼ばれしたんだ! 大名だぜ!? すっげえだろ!﹂ 355 ﹁あら、おめでとう。晃之介さん﹂ ﹁ああ。めでたくはあるんだが⋮⋮﹂ 何処か浮かれない顔つきで晃之介は、 ﹁大名に呼ばれた事など無いからな、作法などまるでわからないん だ⋮⋮﹂ ﹁うーん、相談してもあの九郎が知ってるとも限らないの﹂ 礼儀などとは縁が無さそうな態度に見える、自分とさほど年格好 の変わらぬ九郎を思いながら云う。 お房は少し考えながら、 ﹁むしろ、先生のほうが色々詳しそうだったんだけど⋮⋮どっちに しろ居ないから仕方ないわ﹂ ﹁そうなのか?﹂ ﹁あの姉ちゃんなんでも知ってるからな。ひょっとしたら屋敷とか も行ったことあったかも﹂ と、よくからかわれるからやや苦手にしている石燕のことをお八 は称した。怖い話で脅してくるのには閉口する。 ただ浮世絵師といえば今でこそ当時の世相を色鮮やかに描いた名 画家達という印象が強いが、江戸の世に於いては﹃屑絵師﹄などと も揶揄される下に見られた職業であったために、大名屋敷に呼ばれ るような事は無かっただろうと思われる。 だが、元側用人の天爵堂や、高名な薬師安倍将翁とも付き合いの ある鳥山石燕ならば作法に関する知識も持っていたかもしれない。 どちらにせよ無い物ねだりだ。 ひょんなことから思いもかけぬ大名相手と出会う事になった晃之 介であるが、江戸のぶらぶらしている多くの浪人ならば怒りだしそ 356 うな幸運にも、どうも彼は胃のあたりが痛そうにしているのであっ た。 生来の生真面目さから、余計に気負っているのだろう。就職活動 もせずにフリーターをしていたら突然上場企業の社長に呼ばれたよ うなもので、大いに戸惑いを持っている。 ふと、そんな晃之介に、厨房から出てきた六科が徳利を一つ持っ てきて声を掛けた。 家族と九郎以外には、話しかけられない限り唖のように黙ってい る六科にしては非常に珍しい事である。 ﹁うむ。酒を飲むといいらしいぞ。お豊が云うには﹂ 駄目っぽいアドバイスをする六科であったが、それに気を抜かれ たように晃之介は苦笑した。 ﹁店主⋮⋮気遣い、感謝する﹂ ﹁二十文だ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 別に奢りではないらしい。 お八が晃之介をばしばしと叩きながら言った。 ﹁まあ気にすんなって師匠。別に悪ィことして呼ばれたわけでなし、 入り口まで行けばどうすりゃいいか向こうも指示出すだろ。どこそ こで待ってろとか、後は適当に返事合わせておけば大丈夫だって﹂ ﹁お八姉ちゃん⋮⋮なんか九郎みたいな適当っぽさなの﹂ ﹁ほっとけ﹂ ﹁⋮⋮そうだな、悩んでいても仕方ない。無礼をしなければいいだ けの話だ﹂ ﹁そうそう。ああ、着ていく物も変えたほうがいいな、師匠の見窄 357 らしい服はちっと⋮⋮﹂ ﹁見窄らしいとか云うな。悲しくなるだろ﹂ ﹁お八姉ちゃんの実家のお店で揃えたら? あそこはお武家さんも 買ってるところなの﹂ ﹁そうするか。頼むぞ、お八﹂ お八は、言い出したからには後に引けず頷くのであった。 **** お八の実家、[藍屋]に晃之介が訪ねて事情を説明すると主の良 助は大層驚嘆したらしく、末娘の師匠である晃之介を、 ﹁九郎殿からのご紹介からして並の御人では無いと思っていました がまさか立花様に招かれる程のお手並みとは、無才我儘の娘などを 預かって頂いて恐縮の限り⋮⋮﹂ ﹁止してくれ、それに、活躍の半分は九郎の功績なんだ。あいつは あまり表に出たがらないものでな⋮⋮﹂ と、謙遜するのだが、直接会うのは初めてである一介の浪人に対 して素直に賛辞を述べるこの老舗の主は、武士を見る目があるらし い。そして、晃之介をそこらの浪人とはひと味もふた味も違うもの だと見遣ったようだ。 実際に立花家といえば武門で成り立った有名な大名である。外様 であるが、こと西国においては比類なき弓取りの立花宗茂は百年前 に活躍した武将であり、この当時既に講談や読本などで活躍が知ら 358 れていたようである。 その立花家から弓の実力を買われて呼ばれたのだから、これは相 当に大したものである。 同時に、素性の知れぬ浪人が来るということでその服装も藩士達 の見る目は厳しいものになるだろう。 良助は早速晃之介の採寸と、袴布の用意をした。この際だ、一番 高いのを使ってしまおうと指示をだす。 晃之介の希望も一応聞くがなんということのない、動きやすくし て欲しいというだけだ。常在戦場という心構えを教えている六天流 だから、正装といえどもいざとなれば戦える服が良い。 ぐいぐい進んでいく晃之介の服のプランだったが、主人にか細い 声をかけた。 ﹁⋮⋮主人。非常に悪いのだが、この服代はつけにしておいてくれ ないか。手持ちの金が無い﹂ ﹁とんでもございません。うちの乱暴娘を躾けてくださる先生の御 目出度いことだから無料で送らせてもらいます。ええ﹂ ﹁そうか、ただか﹂ 晃之介は喜色を胸に隠しながら頷いた。 相変わらず、金はないのだ。こうも金が無いと、 ︵若い時分から金を有り余らせるような生活をしていると心身の鍛 錬にならぬ⋮⋮︶ と、師でもある父に言われた││のように記憶を捏造してしまい たくなる。実際は言われていない。 そう、俺は父の教えにしたがって貧乏をしているのだからこれも 修行なのだと思えば多少は苦も楽に⋮⋮ 359 ﹁ならないけどな﹂ ﹁? 何がだ? 師匠﹂ ﹁いや﹂ ともあれ膝の皿に火がつくほどに生活が窮している訳ではないの だからいいか、と諦めた。 しかし、 ﹁立花様が俺を呼ぶとは、何の御用かは聞かなかったが⋮⋮﹂ ﹁録山先生のご活躍を耳にして、仕官の口でも利いてくださるので は?﹂ ﹁そうだろうか﹂ 仕官、となれば藩の一員。気楽な道場ぐらしは出来なくなるので はないか。 それを思うと晃之介は少しばかり気の進まない思いをした。柳川 藩程の大大名格への仕官となればそれこそ大出世なのであるが、 ︵道場を開き、六天流を人に伝えるのも父から受け継いだ役目だ⋮ ⋮︶ と、思う。 ようやく門下生が一人できた所なのである。それを畳みたくはな い。 ふと、お八を見れば彼女はただ純粋に、師匠である晃之介の出世 を喜んでいる様子であった。 取らぬ狸の皮算用をして気を悩む必要も無いか、と晃之介は成り 行きに身を任せることにした。 360 **** 晃之介が藍屋で服を頼んでから、日を幾らか過ぎた。 梅雨も終わって毎日夏と同じ日差しが江戸の街中に降り注いで、 町人ら頭に手ぬぐいを巻いて汗を滲ませていた。 さぞ旅心地も気楽だろうと今頃江ノ島近辺で遊んでいる友人を晃 之介は思いやった。恐らくはせっかく江ノ島まで行ったのだから、 近い大山詣りや鎌倉でゆっくりして帰ってくるつもりだろう。 町を歩く人種が町人から武士の風体をしたものが多くなってきた。 柳川藩の上屋敷は下谷御徒町にあった。現在の台東区のあたりで ある。ここは名前の通り、御徒⋮⋮下級武士が多く住む土地である。 そう遠くない場所の浅草にも柳川藩は屋敷を持っている。 下ろしたての袴を着て腰に刀を差し、髪を剣術師範風に椿油で撫 で付けて颯爽と歩く晃之介に、すれ違う者の中にはその堂々として 涼しげな風貌に思わず振り向くものも居た。 柳川藩は外様とはいえ大大名である。その屋敷も大きなものであ った。幾つも晃之介を迷わすような小門があり、半周ほどぐるりと 回ってようやく立派な御成門へと辿り着いた。 門番に、 ﹁私は録山晃之介と申します。立花様にお目にかかりにまいりまし た﹂ ﹁録山殿でござりますな。御話は伺っております。まずは、入られ よ﹂ と、すんなり││ここですんなり行かなかったらむしろ問題なわ けだが││中に通されて樒の間と呼ばれる部屋で待たされた。 361 暫く待つと、数日前に道場にやってきた御用人の西島詮房とであ った。 晃之介の亡き父程の年齢の、白髪がわずかに混じった初老の藩士 である。 ﹁よくまいられたな、録山殿﹂ ﹁本日はこのようなお呼びを受けて恐縮の極みであります﹂ ﹁そう固くなられるな。それに我が殿直々にそなたに会ってみたい と仰られてな﹂ ﹁恐れ多くもありがたき事﹂ ﹁鑑任様は武芸者を好んでおるからな、是非会ってみたいとのこと だが⋮⋮ところで録山殿﹂ ﹁は⋮⋮﹂ ﹁突然で悪いのだが、今日は殿の前で弓を引いて的を射てもらう事 になっている。弓矢はこちらで用意しておるが、大丈夫であろうか﹂ ﹁承知致しました﹂ 突然の要求だが、当然断れるはずでもなく晃之介は口がすべるよ うに承諾した。 盗賊や獣を射る事はあったが、大名の前で射ることになるとは⋮⋮ 何を悔やむかというと、 ︵忠告にしたがってここに来る前に酒を引っ掻けて来なければよか った⋮⋮︶ ややぽわっとした頭は緊張のせいか酒精のせいか、わからぬまま 晃之介は立ち上がった。 彼は素直に人の云うことを利く男であったのだ。馬鹿正直とも云 う。 屋敷の廊下を進むと、大きな庭の隣接する本広間に通された。 362 そこには重厚な雰囲気のある、紋付き袴の人物が座っている。周 囲には家来も控えていてひと目で彼が殿様だとわかった。歳はそう 老けているわけではないが、疲れた気配と陽気さを兼ね備えた妙な 雰囲気を持っている。 柳川藩藩主、立花鑑任である。鷹揚な声を出して晃之介を迎えた。 ﹁おおっ! そなたが辻斬りの膝を射抜いて捕まえたものか!﹂ ﹁はっ⋮⋮録山晃之介と申します﹂ 晃之介が床に膝をついて頭を下げた。 立花氏は疲労の色が濃い顔に笑みを浮かべて告げる。 ﹁よいよい。我が藩の者の仇をよく討ってくれた。件の輩に斬られ た藩士は先代より仕えていたものであったが⋮⋮﹂ ﹁は⋮⋮﹂ ﹁奴の形見だけでも取り返せた事を儂は嬉しく思うぞ﹂ と、家来の中でも年若い男に目を配りながら云った。 若い侍は頭を下げて晃之介を見遣った。彼はどうやら辻斬りに襲 われた藩士の息子らしい。父が死んだとあり、柳川藩から急ぎ駆け つけたのだったがついてみれば仇は既にお縄に付いていたのだとい う。 彼にしてみれば仇の一つでもとってやろうという意気込みだった のだが、拍子を抜かれたような⋮⋮ともかく、彼は晃之介に頭を下 げて礼を告げた。 ﹁ところで録山は弓は何処の流派で習ったのだ?﹂ と、立花氏に訊ねられたので晃之介は朗々と応える。 363 ﹁父より学びました。私の六天流は剣のみでならず、弓槍なども使 いますので教えこまれましてございます﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ ﹁道場はなく旅の道中で指導を受けましたので、的は鳥や獣⋮⋮動 くものに当てる術を身につけました﹂ ﹁なるほど、それで逃げる輩の膝にも矢を当てるも容易であったか﹂ 嬉しそうに頷く立花氏であったが、家臣団は冷静ながらもやや軽 視した目で見ていた。 当然である。 江戸に来るまではあちこち旅などをしていた、いわば住所不定な 何処のものかもわからぬ浪人相手に殿が自ら目通りするというだけ で異例な事であるし、江戸に常駐している藩士にとっては藩の恥で ある辻斬りの身柄を、 ﹁奪われた﹂ という風に思われているのである。 立花氏が、第一印象でそこと無く晃之介を気に入っている様子も また家臣団の気に入らぬ要素であった。 ﹁儂は武芸が好きなのだがな、どうも体を鍛える時間のないもので、 すっかり見る方になってしまってな﹂ ﹁はっ⋮⋮﹂ ﹁見せてくれぬか、お主の弓の腕前を﹂ と、立花氏が合図を送ると、家臣がそれぞれに動き出した。 一人が半弓と矢を用意して、もう一人が庭に降りて的の用意を始 める。そこは練習場にもなっている広い庭であるようで、藩主が藩 士の鍛錬の様子などを見れるようになっている。 364 晃之介は渡された弓を確かめるのだが、問題は的の方であった。 というか的がない。なんかそれらしきものは家臣の一人が持って いるだが⋮⋮ ﹁⋮⋮あの、的は?﹂ ﹁ふっふっふ﹂ 妙な含み笑いをしたのは的を設置する庭に立っている家臣であっ た。 彼は何か、[く]の字にひん曲がった筒状のものを掲げて告げる。 ﹁的はこれにござる﹂ ﹁それは⋮⋮?﹂ ﹁これぞ、鑑任様の命によって作られた、西国最強の武将・立花宗 茂様の膝を再現した張型││その名も﹃膝茂様﹄!﹂ ﹁膝茂様!?﹂ 思わず全力で疑問の声を上げる晃之介だったが、意気揚々と立花 氏が、 ﹁さあ録山よ、放り投げさせるから空中で見事あの膝茂様を撃ち抜 いて見せよ!﹂ ﹁膝茂様を⋮⋮よろしいのですか?﹂ ﹁構わん。お主の、膝を射てる業前を披露せい﹂ 空中に投げられた膝茂を射抜くなど到底出来まい⋮⋮家臣団の殆 どはそのような目で晃之介を見ていた。 だが、晃之介へ好印象である立花氏はいかにも期待した目で見て いた。彼にとってあちこちを旅した武芸者であるという経歴も、尊 敬する祖父である立花宗茂も放浪し苦労したことがあるのでむしろ 365 良い経験だとさえ思っている。 晃之介は大きく深呼吸した。 大丈夫、やれると己に言い聞かせて、立花氏に、 ﹁では﹂ と告げて肩を肌蹴て矢をつがえた。 弓を下に向けたまま構えはそこまでで、 ﹁御願い致す﹂ と、短く告げる。 膝を構えた家臣は、 ︵なにを⋮⋮このような若造が膝茂様を撃ち抜けるものか︶ なんと、放物線を描くように放るのではなく、家臣は膝を思いっ きり振りかぶって水平方向にぶん投げたのである。 これには立花氏どころか他の家臣も驚いた。 ぶん投げた家臣からすれば、 ﹁かの宗茂様ならばこのような素早い膝のこなしをしてもおかしく ない﹂ と、でも主張するつもりであった。ずるかもしれないが、実戦で 望んだ位置に膝が来るわけがない。予想外のことに対応できぬとは 所詮二流よ⋮⋮殿が見るべきほどの膝でもありますまい⋮⋮と偉そ うに言ってやろうとしていた。 だが、冷静に晃之介は対応した。 素早く、投げ飛んでいる膝を真っ直ぐに見据えて弓を引き絞った。 366 ︵そこだ⋮⋮っ!︶ 狙うというよりも膝に当たる場所に矢を刺すと云った本人の感覚 だ。高揚した精神が拡張する視界の先で、不可視の射線が手を伸ば すように掴めた。 得意の速射で遠くに投げ離れていく膝茂様を打ち抜く。飛び立つ 野鳥を撃ち落とすよりは晃之介にとって容易である。 宗茂の膝は矢を受けて地面に落ちた。 やや、沈黙があり。 おお、と家臣団のどよめきが上がる。 ﹁宗茂様の膝に矢を⋮⋮!﹂ ﹁膝茂様が⋮⋮!﹂ ﹁見事!﹂ 立花氏が膝を打って晃之介を讃えた。 九郎がこの異様な膝の熱気に包まれている空間に入ればいい感じ にツッコミを入れてくれただろうが、江戸の妙な日常はツッコミ不 在でも進むのである。 ともあれ、この一件により晃之介の弓の腕前は柳川藩の藩士にも 深く知れ渡り、彼を侮る声も藩士からは今後起こらなかったという。 **** 367 ﹁││で、俺はこの弓と褒美を貰ったんだ!﹂ と、晃之介がその晩も遅く、緑のむじな亭でお房とお八を含む数 名の客相手に膝を交えて手柄話を語っていた。 客の殆どは常連の、長屋の衆である。既に酒もだいぶ回って晃之 介に好き勝手に、 ﹁そりゃすげえ! 酒おかわり﹂ ﹁よっ、大将! 酒おかわり﹂ などと声をかけて盃を交わしていた。 晃之介が褒美に貰ったのは、立花鑑任自らが狩りで使う名工が作 った半弓と、褒美に四十両であった。辻斬りを捕らえた活躍に二十 両、目の前で見せた弓の腕前に二十両である。晃之介のような一般 町人からすれば莫大な金額であった。また、一国の大名から拝領さ れたという弓も相当に名誉で価値があるものであることは言うまで もない。 ところで、彼は弓はありがたく受け取ったものの、大金は使い道 も見当たらず保管するにも田舎の晃之介の家では不安だったのでひ とまず、柳川藩の上屋敷へ三十両は預けるという形にした。 毎月十三日頃に、藩士への弓の稽古を手伝いがてら預けた金を受 け取るようにするのだという。 金に対しても謙虚な晃之介の態度に立花氏もより彼のことを気に 入ったようである。 こうして、仕官ではないが大大名との伝手が出来て当分食うに困 らぬ金を手に入れた晃之介はとりあえず還元しようと、むじな亭で その晩の客には奢りで酒を飲ませているのである。 奢りとあれば長屋の常連もやってきて、安酒には目もくれずに九 郎が買っていた上酒を浴びるように飲んでいるのであった。 368 ﹁師匠の弓の腕はすっげえって証明されたわけだ! ま、あたしは 知ってたけどな。一番弟子だからよ!﹂ ﹁ところでお八姉ちゃん、晃之介さんの所ではどんな練習をしてる の?﹂ ﹁⋮⋮まず度胸付けとかで木に縛られて頭擦れ擦れに矢を射掛けら れまくって⋮⋮ああああうううう﹂ ﹁お八姉ちゃんの心に傷が残ってるわよ晃之介さん!?﹂ ﹁ああ。俺も親父にやられたからな。同じように鍛えないと。ただ、 これまで入門してきた連中は何故か最初のこれで逃げるんだ﹂ ﹁普通逃げるわ!﹂ アダマンハリセンでツッコミを入れると気持ちのよい音が晃之介 の頭を叩いた。 少女を木に縛り付けて矢を撃ちまくる男という怖ろしい噂が奉行 所に行っていなくて良かったと思う。 それにしても、 ﹁投げた膝を射って落とすなんて、晃之介さんは本当に弓が上手い のね。九郎といつも遊んでるような印象だから意外なの﹂ ﹁んー師匠が的を外したのは見たことねえな﹂ ﹁そうだな。実は俺も、他人と比較したことが無かったからよくわ からなかったのだが⋮⋮結構やる方のようだ﹂ 晃之介は僅かな自尊心から出るにやけ顔を隠そうと猪口で酒を口 に進めた。 下手だ、と思っているつもりはなかった。修行を積んできて今で は狙う的はだいたい当てられたのだ。九郎のように射ったのを見て から避けるような手合いでない限りは。 それでも剣はともかく弓の腕を競う相手はこれまでの人生で格上 369 の父親しか居なかったために、どの程度の使い手なのか自分自身を 格付け出来なかったのだが、大名に評価されるとなると誇っても良 い気がした。 人に褒められるために腕を磨いているわけではないが、実力が認 められるのは嬉しいことなのだと晃之介も初めて知ったような気分 だ。 故に今日ぐらいは多くの人に奢りたくなる快い気味合いであった。 ﹁よし、どんどん持ってきてくれ﹂ ﹁わかった﹂ そして、酒を大量に振る舞い、常連のお雪も三味線を鳴らして店 を盛り上げてむじな亭はいつに無く繁盛していたのである。 だが水面下では問題が発生しつつあった。 六科が日常勤務を大きく超える注文数に、つまみを一々作るのが 面倒になったので台所にある多種多様のつまみの材料と、少なくと も朝方には鮮魚だったものをなるたけじっくり鍋で煮込んだものを 出していたのだ。 その暗黒の鍋も気づかずに酔っぱらいは食べていく。 ︵いざという時のために腹痛の薬も一緒に鍋に入れておいたから恐 らく大丈夫だろう。うむ︶ 食う連中は辛い辛いと言いながら更に酒を進めて盛り上がってい た。 その鍋には唐辛子を大量に入れた為に、味がわからなかったよう だ。 370 **** 翌朝早くに、暖簾をかけたままの緑のむじな亭の入り口をくぐる 男が居た。 高下駄を履いた狐面の男││安倍将翁だ。 扉を開けると異臭に気づいて狐面を軽く押さえて中に踏み入った。 ﹁おや、おや﹂ 鼾のような⋮⋮うめき声が複数に聞こえた。 店内には酸っぱい吐瀉物の匂いとひっくり返された鍋の中身が散 らばっていて、腹を抑えうずくまった人が複数死体のように倒れて いた。 味見をした六科も厨房で倒れ伏している。どうやら、集団食中毒 のようだ。六科の料理で。 飛散した鍋の汁から漢方の匂いがするのを将翁の薬師としての嗅 覚が捉えて、小さくため息をついた。 一緒に煮込んだ腹痛薬は当然ながら効果がなかったようだ。 ﹁やれやれ。膝っ子に目薬とはいうけれども﹂ 薬の使いどころが違う、という意味の諺を呟きながら、将翁は背 負った薬箱を探りだすのであった。 371 372 16話﹃幸福の和音﹄ しちせき 七月七日の事である。 五節句の一つ七夕であるその日は江戸の人にとって特別な日であ った。 笹を飾り付ける風習はこの頃には広まっていて、昼間から夜まで は祝いの祭りが行われる。江戸の町人らは祭りや騒ぎが大好きなの である。 先月、六月十五日には山王祭で江戸中、盛大な騒ぎをしたばかり だというのに次の祭りにかける情熱も消えやぬようであった。節約 質素を呼びかける将軍吉宗も祭りの熱気には水を差さずに行わせ、 山王祭では江戸城内にまで出店された出店を回ってみたようである。 その祭りの時は九郎も知友に引き連れられて一日中遊びまわった のだったが、百万都市の江戸に於いて二大祭りの一つでもあるそれ の意気に飲まれたこともあり、相当に疲れた様子であった。 それを過ぎて、今日この日は祭り以上に江戸に住む町人侍達には 重要な仕事が日中行われていた。 ﹁よし、では降ろしてくれ﹂ ﹁ああ││やれ﹂ 胴に縄を結んだ九郎は、長屋の井戸にゆっくりと降ろされていっ た。 七月七日は井戸掃除の日である。 これは江戸の神田・玉川上水を使っている井戸に繋がる全ての場 所での共通行事だった。 江戸の町には無数に井戸があるが、これは普通の地下水を取り入 れている井戸ではない。海に近い江戸は掘っても塩水しか出てこな 373 いためだ。 ならば生活水をどう取り入れているかというと、大きな水道を使 っていたのである。 大雑把に言えば地下に流しっぱなしの大きな水道を作り、細い溝 を通して各井戸に分配していたのだ。さらに、上流の井戸で一定量 溜まった水は更に下流へ流れる仕組みになっていたので無駄がない。 多くの井戸に分配されるために井戸水が溜まりにくい江戸の長屋 などでは、落とした桶に水が貯まるのさえ時間が掛かっていたので 井戸端で世間話が盛んに行われていたという話もある。俗にいう井 戸端会議だ。 ともあれ、その性質上井戸掃除をする日は一斉にしなければいけ ない為に七月七日と決まっていたのであった。 その日は長屋の住人総出で手伝いをして午後からは騒いで遊ぶと いう祝日なのである。 今年は井戸に吊り下げられて中でコケや堆積物を取り除く作業を する役目は九郎に決定された。体も小さく軽いのでうってつけなの だ。 毎年使うために用意している簡単な木製の滑車と木組みを合わせ た降下装置で、縄を結ばれた九郎は井戸に降りていく。縄の端を数 人の男が持ってするすると下ろし、それ以外の者や女は溝を浚った りしている。 吊り下げられる経験は初めてだったかどうだったか。 九郎は昏くなってくる視界の中そのような事を考えていた。 大人でも入れるように作られた井戸なので子供体型の九郎が入る とそれなりに穴周りに余裕がある。水道を利用しているという性質 上、そう深くない井戸は底に入ってもうっすらとものが見えた。降 り立った九郎の膝ほど水が溜まっている。 ﹁釣瓶をあげていいぞ﹂ 374 と九郎が井戸水を掬う桶に水をためて指示し、釣瓶が引き上げら れる。 まずは井戸の水を抜かなければいけない。 外に出された桶が再び井戸の中に落ちてきた。 ﹁うおっ!? これ! 桶を落とすな! 危ないであろう!﹂ ﹁はっはっは、九郎の若旦那。こりゃ毎年定番の悪戯だ﹂ 外から長屋の若衆が笑い声を上げていた。 ﹁⋮⋮まあ、六科の旦那にこれやったら桶投げ返されて奥歯へし折 れたんだけどよ﹂ ﹁反省しろよ!﹂ 怒鳴った九郎の声が反響する。 とにかく、何度も井戸の底の水を浚う作業工程を繰り返して水を 桶一杯分残して抜き取った。 そして荒い麻の雑巾で水垢や苔を拭い落とす。 普段自分が使う飲料水だから何処の長屋でも井戸掃除は丁寧に行 なっていた。 井戸の底に鼠の死体や虫などが無いかも九郎は手探りで探った。 基本的に雨ざらしなので沈んでいる可能性があるのだ。 ふと、指先に当たる固い感触を得た。金属質だ。 ﹁なんぞこれ﹂ 妙な突起の付いた箸みたいなものが二本拾い上げられたが、薄暗 い中では見えなかったのでとりあえず腰帯に差して作業を続行した。 やがて、 375 ﹁おーい。終わったぞ、上げてくれ﹂ 九郎が声を張ると外から六科の指示が繰り返されて、長屋の男ど もが九郎の体をクレーンのように引き上げ出す。 多分、六科一人でも滑車無しに余裕で九郎は引き上げることがで きるのだろうが、一体感というか縁起物というか形式とか、そうい う意味があるのだろうと九郎は腰に結ばれた縄を握りながら思った。 外に出ると井戸の前には小さな神棚と、笹と米、酒が七夕のお供 えとして置かれている。 九郎は井戸の外に下りて、紐を解くと腰帯に入れていたやや色あ せた棒状のものを取り出してしげしげと日に翳した。 かんざし ﹁井戸の底に落ちてたが⋮⋮なんだこれ﹂ ﹁⋮⋮そりゃ簪じゃねえの? メッキが剥がれてら﹂ と、長屋に住む男の一人、亀助が云う。 彼は[入れ墨もの]と呼ばれる、犯罪を起こして逮捕された経歴 を持つ男であったが今では金物の打ち直しや錆取りの仕事をしてい る。 しかし前科者となると世間の目も厳しいのは何時の時代も同じ事 で、長屋に入居するのを断られる事もあったという。宿がないため に再犯を犯したり病死したりするものも居たという。 そんな中で六科は物事に頓着しないので、前科者もよそ者も二人 で一部屋借りているものも、長屋の持ち主であり呉服の大店[藍屋 ]の主人に仲介して入居を受け入れていて、今のところ長屋で大き な問題は起こっていない。 亀助は九郎から二本受け取って見分し、 ﹁井戸に落としたのか? おい、誰か知らねえか?﹂ 376 と、女達に呼びかけるが、皆記憶に無いように首を傾げた。 女房の一人が盲のお雪が落としたのではないかと問いかけるが、 ﹁私もしりませんよう。簪は見えないから挿しませんし﹂ 首を横に振って否定した。 ならば拾った九郎のものという事になるが、このままでは何の価 値もない水汚れのついた棒だ。 ﹁それならおれが磨き上げてやりましょうかい﹂ ﹁む? うーむ、でもな、簪なぞいらんし﹂ ﹁いやそこはお房ちゃんにあげるとか。玉菊にあげるとか﹂ ﹁玉菊は無いであろう玉菊は⋮⋮まあよい。この際れあどろっぷと 思っておこう。綺麗にしてくれ﹂ ﹁へいさ。ええと、材料費込みで⋮⋮一つぐらいでいいでげす﹂ と、亀助が指を一本立てて言うので九郎は頷いた。 ﹁なんで急に、げす言葉になるか知らんが一分だな﹂ ﹁いえ、一両﹂ ﹁一両!? 高いなおい! 己れをぼったくる積りじゃなかろうな !﹂ 驚いて問いかけるが亀助は目を伏せながら、 ﹁おれの職人魂がこれを最高の状態に磨き上げろっていうんでさあ ⋮⋮﹂ ﹁一両あったら綺麗な簪買って釣りでいい酒が買えそうだが﹂ ﹁よしわかった! 出来上がりを見てから、一両の価値の無い簪だ 377 と九郎の若旦那が判断したらおれも職人の端くれ、小判は返すぜ﹂ ﹁そこまで云うなら⋮⋮﹂ 九郎は亀助にその仕事の約束を取り付けるのであった。 それも、別に支払う代金は九郎が汗水垂らして稼いだ金ではない 為に無駄遣いをしても痛む懐でもないからでもあった。この男、も はや石燕から金を借りる事に罪悪感を何も感じていない。 九郎が部屋に戻って支度金を取ってきて渡したその日、亀助は長 屋の家賃を払ったという。 **** 後日、本当に良い出来のものが出来上がった。 一両も手間賃がかかるというのは多分に大言を吐いていると考え ていたが、出来上がった簪は二本とも、意匠が異なるが輝いている ような秀麗さへと変貌している。 銀箔を全体に貼り付けて絹糸を巻きつけ、玉飾りに瑪瑙を使って いる。歪みもなく銀の光沢の下から艶やかな質感すら感じた。一つ は白でもう一つは赤みがった飾り色をしている。 九郎は瞠目して簪を受け取り、眺めた。 ﹁あれがどうなったらこれになるのだ⋮⋮?﹂ ﹁いやあ、元の芯がいい鼈甲を使ってて良かったんで。あと隣に住 む細工職人の辰彦も一枚噛ませろって口出ししてきて色々盛り上が ってるうちに装飾も盛っちまって﹂ 378 と、簡単な仕事で終わらせるはずだったのだがつい金が多くある ものだから飾りに粋を凝らしてしまったようである。 九郎は意匠の違う二本の簪を受け取って、さてと考える。 ﹁フサ子にでもあげるかの﹂ ﹁二つあるんだから、一本は別の人にあげたらどうですかい﹂ ﹁別の人というと﹂ 亀助はやや考えて、 ﹁若旦那と仲がいいオンナとなると⋮⋮石燕姐さんとか﹂ ﹁ううむ石燕の金で買ったものを石燕に贈呈するとか、ますますヒ モのようでなあ⋮⋮﹂ 亀助は、女から貰った金で買った簪を他の女にやるほうがよほど の駄目男な気がしたが、とりあえず其の問題は黙っておいた。 他の候補をあげる。 ﹁お八嬢ちゃんとか﹂ ﹁あやつは男勝りの性格だから簪みたいな女々しい道具を喜ぶかど うか﹂ 女々しいも何も女の子が簪を貰って喜ばないわけはないと思うの であったが、亀助も恋愛が成就したことは無い為に女心については 深く理解していないので敢えて言わなかった。 ﹁玉菊とか﹂ ﹁あれは男であろう⋮⋮股に心張り棒が付いているたぐいの﹂ ﹁見た目は女の子だからいいじゃない。むしろおまけが付いている と思えばお得感じゃない﹂ 379 むしろ投げやりな亀助のフォローに九郎は苦々し気な顔になった。 だがあまりに九郎が選ばなすぎるので亀助もうんざりとして、 ﹁誰かにあげないなら質にでも流せばいいんじゃねえの? もう﹂ ﹁そう捻くれてくれるな。ええとそのお主の腕があまりに良かった から手放しがたかっただけよ﹂ ﹁はあ⋮⋮ちゃんと良い人に渡してくれよ。頑張ったんだから、お れ﹂ ﹁わかった、わかった﹂ 頷くのであった。 とは言ったものの、九郎は自ら誰かに簪を渡しに行くかも決めか ねているので、 ︵まあ誰かと会った時に渡せばいいであろう︶ と、適当に考えているのであった。自分で持っていても仕方ない のは確かだ。誰に渡すか決めないというのは、結局誰に渡しても同 じな気もしてきた。 ともあれ、二本あるうちの一本はお房に渡す事にする。長屋の井 戸に落ちていたものだから大家の娘のお房に渡しておくことが相応 しいような気もする。 表店に回り店の準備をしているお房に声を掛けた。 ﹁おおい、この前見つけた簪が仕上がったぞ﹂ ﹁ん? あ、綺麗なの﹂ 九郎が持ってきた簪を見てお房は素直な感想を述べた。嬉しそう である。 380 小さな子とはいえやはり女とあれば光物を好む性質を持っている のだろうか。それならば、 ︵何故寄生虫の卵は潰されたのか⋮⋮見た目キレイだったのに︶ などと九郎は一瞬思ってしまったがキモかった為だという結論も 既に持っているので、微妙に非難がましいその考えは滅却した。 しかし、九歳のお房が髪にその高級そうな簪を挿すと、 ﹁⋮⋮大人になったら似合うようになると思うぞ﹂ ﹁こんちくしょう﹂ ちょっとばかり背伸びしたように見えるので九郎は笑いを忍ばせ た。 悔しそうにとりあえずは目立たぬように深く挿しておくお房であ った。 **** 七夕過ぎれば暑さも過ぎるとは言うものの、いまだ真夏の太陽が 憎らしいほどである。 うだる日和に夏休みと決め込んで仕事をたたむ者も多く、大川に は涼もうと舟遊びをしている者や、金の無い町人は橋に居座って過 ごしている。 熱を持った地面の上にはとても入れぬと湯屋の風通しの良い二階 を集会場のようにして、将棋を打ったり読本したりとなるべく動か 381 ずに過ごすのが当時の江戸の暮らしであった。 九郎も少しは紛れるだろうと店の前で打ち水をしている。 涼しくなる異世界の道具もあるにはあるのだが、一人だけ部屋で それを使っていると暑さの中労働しているお房から、外に放り出さ れそうになった事があるので使わないようにしているのだ。 ぬるい水を沸騰するような地面に撒いていると声がかかった。 ﹁御早うでござんす! 今日も暑うござんすね!﹂ ﹁⋮⋮?﹂ 九郎は話しかけてきた、長髪をうなじのあたりで結んで纏めてい る少年に熱で半分閉じられた目を向けた。 顔色の良い十代半ば程の少年である。顔立ちは男らしさがまだ見 えずに幼さすら見える。裾まくりをした縦縞で男用の浴衣を着てい なければ髷も無いので少女にも見えるかもしれない。 ﹁誰?﹂ ﹁御無体なこと言わないでくりゃれ! 玉菊、ぬし様のお色の玉菊 でありんす!﹂ ﹁ああ、玉菊か。男装してるからわからなんだ。あとお色云うな﹂ 自分で言ってて何か妙なところを感じないでもなかったが、男の 町人の格好をしたそれは間違いなく陰間の玉菊であった。 普段は鮮やかな着物に化粧をして髪も結っているしいい匂いもす るので、其のような簡素な男の格好をしているのを見るのは初めて だ。 九郎はのっそりと入り口から退きながら、 ﹁飯でも食っていくのか? 今日は酢飯が上手いぞ、酢飯が﹂ ﹁いや、今日はお店じゃなくてぬし様をお出かけに誘いに来たでご 382 ざんす﹂ ﹁ええ⋮⋮暑いから嫌だぞ⋮⋮﹂ 九郎は全身から倦怠感の波動を放出しながら云う。 玉菊はひんやりとした手で九郎を引っ張るように笑顔のまま、 ﹁大丈夫大丈夫、暑さを忘れる事ができる場所がありんす﹂ ﹁何処へ行くつもりだ?﹂ ﹁相撲見物でござんす! 裸と裸の力士がガップリと組み合い、男 のみで構成されている観客たちは熱狂の渦になるというあの場所な ら!﹂ ﹁死ぬほど暑そうであるな!?﹂ 想像するだけで体感温度が上がった気がした。 しかし、玉菊の熱気と九郎自身もプロの興行として行われる相撲 を生で見たことが無い好奇心から、陽炎が立つ晴天の中相撲見物へ 歩いて行くのであった。 相撲の会場は深川八幡で行われていた。 当時は晴天の時を見計らい、一場所八日間だけとか、六日間だけ とか短い期間を決めて相撲をとっていた。その日は三日目で毎日暑 いのに満員で汗を流し、地面から塩が吹くほどである。 現在の相撲場のように屋内で冷暖房の効いた場所でやるわけでは なく野ざらしだから熱は相当なものだ。 見物客も密集して、丸太で簡単に組んだ二階、三階の見物席で相 撲場は取り囲まれてそこにも寿司詰めに人が座っている。仮設客席 以外にも、立派に組まれた屋根付きの特等席に座るのは寺社奉行や 参勤交代に来た大名等も見物に来ている。また、高いやぐらが四方 を囲んで太鼓を叩き盛り上げる。 383 力士も、待合室が無いので土俵の周りに観客と同じ場所でぬらぬ らと熱気を持ったまま佇んでいた。 相撲の人気は江戸でも凄まじかったらしく、町人同士の喧嘩相撲、 辻相撲などは度々禁令を出されていたようだ。寺社などで興行をす る相撲も長らく行われていなかったのだが、江戸の初期の頃には修 繕費を集める為にという名目で開始され、徐々に相撲の興行が盛ん になっていった。 会場を濃密に包むのは男の汗と熱気である。 呼吸をしただけで何割かの空気には汗が含まれてそうな空間に、 九郎は顔を流れるのが汗か涙かわからなかった。 ﹁しぬ﹂ ﹁いやしかし人が多くて全然見えないでありんすねえ﹂ と、男と男に挟まれ藻掻いている玉菊も言う。 会場に入るためにいつもの女郎風の格好ではいけなかったから今 日は男物の服を着ているのだったが、これでは見物にならない。 人の頭と頭の間に、土俵を囲む四本の柱が見える。柱には刀や弓 が括りつけてあるのだが九郎には、 ︵何か、寺や神社で行うに当たって神聖な意味があるのだろう︶ と想像するのであった。土俵で発生した喧嘩の時に使うとは夢に も思わなかった。 九郎も玉菊も背が低いものだから一階席では土俵の様子もよくわ からない。 こうなれば、と九郎は玉菊の手を引いて人の隙間を縫い移動した。 ﹁上に行くぞ。このままだと自害しようとする己れの決意が発生し そうだ﹂ 384 ﹁あいさ﹂ ﹁しかし生ぬるい動きにくい⋮⋮おい、玉菊。ちょっと背中に捕ま っておれ﹂ と、少しだけ開けた処で指示を出すと玉菊はがっちりと首に手を、 腰に足を回して九郎の背中に張り付いた。 むしろ指示を出した九郎が手慣れた玉菊の抱きつき方に微かに背 筋が粟立つ。 とにかく、会場の端⋮⋮組まれた丸太の客席に足をかけてひょい と九郎は飛び上がり、二階の柱を引っ掴んで軽々とよじ登った。普 通は登り降りの為の梯子を使うのだが、そこまで行くのすら面倒で ある。 続けて二階から三階へ同じくあっという間に飛び上がってよじ登 る。見ている客が唖然としている間に軽々と、一番上の幕を張って ある高所へ辿り着いた。 さすがにそこまで上がれば涼し気な風が通っており、異常な熱気 から脱出した九郎は汗がすっと引いて気分が良かった。 丸太に腰掛けて上から相撲を見下ろせることを確認して声をかけ る。 ﹁おい、もう背中から離れても良いぞ﹂ ﹁⋮⋮ぬし様は時々とんでもない事をします﹂ 恐る恐る九郎の背中から離れるが、このような高いところには来 たことがないので九郎の腕を掴んで離そうとしなかった。 目の前には江戸の屋根が並ぶ風景が広がり海まで見渡せて、空が 近い。飛んでいる鳶が近くに見える。江戸の狭い町並みでは感じら れない開放感を玉菊は感じて﹁うわ﹂と感動の声が漏れた。 九郎は苦笑しながら、 385 ﹁お主、この前二階から叩き落されても平気だったではないか﹂ ﹁さすがにこの高さは死にますよゥ! 絶対落とさないでくりゃれ !? っていうか二階からも普通落とさないです!﹂ ﹁はっはっは。大は小を兼ねまくる﹂ ﹁意味深な事を言って誤魔化してる⋮⋮﹂ 細かいことなどこの高所を吹き抜ける爽やかな風に比べればちっ ぽけな問題だと思えた。 眼下の土俵では、一方の力士が土俵下の観客数人を巻き込んでぶ ん投げられている。 ﹁ヘボ野郎!﹂ ﹁なんだと!﹂ と、がなりたてる叫びと共に、喧嘩が発生して余計に周囲は熱暴 走をしたように囃し立てていた。 当時の相撲見物ではむしろ、このような喧嘩で怪我をして帰った ほうが話の種になるし粋という風潮があったようだ。もちろん一般 町人と力士の喧嘩だと力士が圧倒的に強い訳で、時代はこれよりや や下るが、有名な大関の雷電為右衛門などは土俵で相手を投げ殺す わ喧嘩で町人を殴り殺すわという大活躍だった人気力士である。 喧嘩はつきものなので何事もないかのように土俵では次の取り組 みが行われる。土俵の内と外では異なる世界なのだ。九郎はその伝 統芸能の独自な世界に﹁ううむ﹂と唸りを漏らす。 ﹁思ってたより荒っぽいなあ、相撲って﹂ ﹁男の世界でござんすねえ。わっちは喧嘩とかはてんで弱いから、 憧れがありんす﹂ ﹁まあ、確かにお主は喧嘩には向いておらぬだろうな﹂ 386 自分の腕にしがみついている細い玉菊の腕を意識しながら頷いた。 陰間として女装し身を売っているだけあってかなり華奢な体つき である。 ﹁最近仕事はどうだ?﹂ 何気ない話題を振ると玉菊はやや驚いたように九郎の顔を少し見 て、にやけるような笑顔になって応える。 そんな事を九郎の方から聞いてくれるのは初めてだったからだ。 ﹁色々辛い気分にもなることがありんすが、こうして休みにぬし様 といい景色を見られてわっちは幸せじゃ﹂ ﹁左様か﹂ ﹁あとはぬし様と今晩しけこめばもっと幸せ!﹂ ﹁素早い動きでY軸移動﹂ ﹁離れんでくりゃれ!?﹂ 玉菊の手を抜けて横に逃げると、高いところから動けない玉菊は 手を伸ばすばかりであった。 ふと、丸太の端の四隅に更に高く築かれているやぐらの所で、腰 を抑えてうつ伏せになっている男が居るのを発見した。 玉菊に、 ﹁ちょっと待っておれ﹂ ﹁あっ!? ぬし様!?﹂ と、声をかけて丸太の上に立ち上がり小走りで倒れている男のと ころまで駆けて行く。 九郎は高さに関する恐怖は殆ど無い。背が低く重心が整っている ので足を滑らすことは無いと自分でもわかっているからだ。落ちな 387 ければ危険ではない。或いは危険だから落ちるのか。卵が先か鶏が 先か。 ︵魔王が云うには未来の鶏を過去に持ち込んだのが始まりだとか何 とか︶ 異世界で聞いた益体もないパラドックスに陥りそうな考えはあっ さり放棄して倒れている男に声をかける。 ﹁おい、平気か? お主﹂ ﹁うう⋮⋮腰をやった﹂ ﹁腰?﹂ 男が指をさす先には、水の入った樽と深めの柄杓が置かれている。 ﹁俺は会場に水を撒く係なんだが⋮⋮腰が痛くて動けねえ﹂ ﹁ははあ⋮⋮﹂ 下に居た時に上からぬるま湯のような液体が降り注いできて、九 郎はその正体を想像すると怖ろしい考えが浮かびそうだったのでや めていたのだが水を撒いていたらしい。 男たちの間に水をふりかければ体にかかる一瞬のみ涼しいが、す ぐに蒸すような湿気に変わるけれども⋮⋮無いよりはマシなようで あった。 呻きながら水撒きの男は懇願する。 ﹁坊主⋮⋮俺の代わりに﹂ ﹁面倒だから嫌だのう﹂ ﹁頼むううう⋮⋮! やらなかったら首になるんだあああ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮仕方ない﹂ 388 と、九郎は水の波々と入った、背負い紐付きの樽を担いだ。 この暑いのに生ぬるい水を撒く仕事とは⋮⋮と九郎はふといい考 えが悪戯気と共に浮かんだ。 懐に入れている術符フォルダから低温術式を付与された﹃氷結符﹄ を取り出して樽の内側に貼り付けると、水は忽ちに肌を刺すような 冷水へと変わる。 これを上から撒けばさぞ冷えるだろう。 その前に、九郎は樽を担いだまま重さを感じさせない軽い足取り で玉菊のところに戻った。 ﹁おい玉菊や。己れはこれから水撒きの仕事をしてくる﹂ ﹁はあ。物好きでありんすね﹂ ﹁そう云うな。おっと、その前にこの水で顔でも洗うといいぞ。よ く冷える﹂ ﹁嬉しやす⋮⋮冷たっ!?﹂ 手を突っ込んで思わず引っ込めた玉菊だったが、意を決して水を 手皿に掬って顔と首筋に浴びせた。 ﹁うああ⋮⋮ぬし様! ぬし様! うひょーって言ってよござんす か!?﹂ ﹁いや別に構わんが﹂ ﹁うひょー﹂ 気持ち良さそうな玉菊の様子に九郎は笑いがこぼれた。 そして、幕の上を走り回りながら氷水のような冷水を柄杓で会場 に撒いて回る。 下から、 389 ﹁うおお!?﹂ ﹁寒う!?﹂ ﹁おおいこっちも来てくれ!﹂ だの声を掛けられて九郎は何か楽しくなりあちこちに水を掛けに いくのであった。 男というものは年の大小に関わりなく、庭に水を撒くなどの行為 を始めると妙に楽しくなる傾向がある。九郎もまさにそんな感じで、 背中からは程よい冷気を感じて心地良い気分で水撒きの仕事を励ん だ。 ぶっかけられる方も異常に冷たい水に驚くものの、この蒸かし芋 のような状況では非常に気持ちがいい為に声々に九郎を呼んで水を 浴びるのであった。 **** ﹁ああ、疲れた疲れた﹂ ﹁大活躍おつかれでござんした﹂ 相撲見物の帰路についていた。さすがに水樽を持ったまま飛び回 ったので、九郎にも珍しく疲労の色が濃い。 仕事を終えて道具を返す時に男に明日も水撒きをやらないかと誘 われたが、断っておいた。こういうのはちょっとやってみるから面 白いのであって、労働として行いたいものではない。 390 ︵そうだな、部屋全体を冷やさずに冷たい水を張った桶を用意すれ ばフサ子にも怒られまい︶ と、今後の夏の過ごし方に着想を得たので善しとするのであった。 それにしても、と玉菊が云う。 ﹁ぬし様とせっかく一緒に出かけたのだからもうちょっと側でゆっ くりしたかったです﹂ ﹁相撲見物などでゆっくり出来るものか。今度は夜に花火でも見に 行けばよかろう﹂ ﹁行く行く! 言いましたね言質取りましたー! よっしゃ!﹂ ﹁⋮⋮フサ子とかハチ子とか連れてな﹂ ﹁複数人行為とか⋮⋮! 高い領域⋮⋮! さすがぬし様⋮⋮!﹂ ﹁妙な勘違いをするな阿呆めが!﹂ 無駄な想像を働かせて顔を赤らめている玉菊の頭をぺしりと指で 弾いた。 それでも嬉しそうに﹁うふふ﹂と笑い声を出しているので気味が 悪くてやや距離を置いたが。 ふと、九郎は懐に入れっぱなしの簪に気づいた。 最初に出会った使う知り合いにあげようと思っていたものだった が、玉菊にやると異様に喜びそうで躊躇われたが、初志貫徹。 金はかかったがどうせ拾い物である。 ﹁玉菊よ、これをやろう﹂ ﹁⋮⋮?﹂ 不思議そうに受け取った簪を眺めて、 391 ﹁⋮⋮えっ!? ぬ、ぬし様! ⋮⋮⋮⋮⋮はっ。まさかわっちを 殺すつもりで最後の贈り物を﹂ ﹁想像が飛躍しすぎだろう!? ホップステップしたらワープして るレベルで!﹂ ﹁だって! ぬし様が簪をわっちに!? 普段からして今日はやた ら優しすぎでありんす! 死ぬの!?﹂ ﹁死なねえよ! いらんなら返せ!﹂ 手を伸ばすが、今度は玉菊がさっと身を躱して胸元に簪を持った まま九郎を見た。 目が合うと、玉菊は改めて顔を真赤にして、潤んだ目を開いて、 ﹁大事に⋮⋮絶対大事にします!﹂ 声がとても嬉しそうで、何故か泣きそうな玉菊の顔を見て九郎は 小さくため息を吐くのだったが、一方で顔に上がる熱と胸を浮つか せる感覚にとても九郎を見れなくなった玉菊は、 ﹁こ、今度つけてきますから⋮⋮ありがとうですー!﹂ ﹁走り去って行きおった﹂ 残された九郎は呆然と凄い早さで去っていく玉菊を見送るのであ った。 しばし玉菊の態度に不審を覚えながらも、 ﹁ま、よいか。湯屋にでも行こう﹂ と、歩き出した。 風が通りを吹いている。涼しい夜になればよいと九郎はのんびり 考えるのであった。 392 その日から、彼に貰った簪を毎日つけている玉菊の姿が界隈で見 られて、高級なそれの出処を同僚の陰間や遊女に聞かれる度に、 ﹁良い御人から貰った宝物でありんす﹂ 嬉しそうに云う玉菊は、近頃ますます美しくなったと評判であっ た。 **** 後日、九郎のもとに石燕がやってきてこのような会話があったと いう。 ﹁んーごほんごほん!﹂ ﹁どうした石燕、風邪か?﹂ ﹁いやなにね九郎君。うちの塾に来た房が珍しいものを髪につけて 393 いてね?﹂ ﹁ああ。己れがくれた奴な﹂ ﹁ごほんごほん! あー。あれは無いのかなー。なにとは言わない けれど。九郎君から貰うと嬉しいだろうなー。頭三文字は[かんざ ]なやつ﹂ 伺うような物欲し気な顔に九郎は思いついたように頷いた。 ﹁おお。燗冷ましか。通な酒の飲み方だな。よし、用意してやろう﹂ ﹁嬉しいけれども! なんか違うよね!?﹂ カンザスシティのほうだったか? と九郎は首を傾げるのであっ た。さすがに町の一つはプレゼントには大きすぎるが。 394 17話﹃鳥山石燕秘説帳[天狗、或いは青行燈]﹄ 蒸し暑い新月の晩のことであった。 月明かりも、町を照らす街灯も無い江戸の町はよりいっそう静ま り返っている。生温い風と夜鳥の鳴き声が遠くまで響く夜だ。 神楽坂にある妖怪屋敷、鳥山石燕の宅では奇妙な色の明かりが灯 っていた。 行灯の周りの紙を青色に変えているのだ。 中には大きめの油皿が置かれていて、灯心が放射状に百ばかりも 並び、半分程小さな火を灯していた。上に鏡の置かれた行灯から薄 暗い青色の光が部屋を暗く照らしている。 その周りを人が囲んで、一人ずつ怪談話をした後に灯心を消して 行く。 本来ならば青行燈は別の部屋に用意するのが正式な形であるが、 変則的に行なっているそれは百物語という怪談会であった。 明かりに照らされた面子は、場の代表でだいたい全体の九十話分 ぐらい担当する石燕と、呼ばれた九郎にお房、お八と玉菊だ。見よ うによっては妖怪先生が子供らを脅すために集めたようにも見える。 既に五十物語ほど語り終えているのだがお八の怖がりようは恐慌 を通り越して錯乱の域に達しているが、離脱や帰宅を行える精神で は既に無く気すら失えずに、九郎のお腹の当たりに顔を突っ込んで 震えているだけであった。 もちろんお八が怖い話が出来るわけもなく、何故ここに来たのか というと九郎が子供らを連れて花火見物に出かけた帰りに全員その まま連れて来られたのである。 お八とお房の家には弟子の子興を使いに出して泊まりになると言 付けさせている。 395 青行燈に照らされた、玉菊が語っていた話が締めに向かうところ であった。 ﹁││明け方に起きたお客さんは、布団を見回すんだけど昨晩相手 にした女郎の姿が無い事に気づいた。おかしいなと思ってた部屋に 生ぬるい風が吹き込んでいて、窓と障子が開けっ放しな事に気づい た。 その時からいや∼な感じがしていたんだけど、女郎が出て行った だけだと思って、しかし一応窓を閉めようと起き上がった。 すると窓から差し込んだ朝日が鏡に反射して目を眩ませたので、 お客さんはつい部屋に備え付けられた鏡を見てしまった⋮⋮﹂ おどろおどろしい声音でぼそぼそと雰囲気を出して玉菊が云う。 ほとんどの話は石燕が消化するのだが他の面子も時折百物語に参 加して、一話話すごとに行灯の火を消すという作業をしていた。 ﹁そう、まさにここにある鏡にそっくりの鏡だった⋮⋮﹂ ﹁見ない⋮⋮あたしは絶対見ないぞ⋮⋮九郎のへそしか今晩は見な い⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮いや、それもどうなんだ﹂ 玉菊の話に震えるお八はもはや正気ではない。幽霊怖さが極まっ て妙なことを口走っている。 落ち着かせようと猫を撫でるようにお房と交代交代頭を撫でてや っているのだが怯えたままである。 玉菊は嗜虐的な笑みを浮かべたまま話を続けた。 ﹁その鏡に見えたものに男は背筋を凍らせた⋮⋮!﹂ ﹁ううう⋮⋮﹂ 396 ﹁紅でこう書かれていたのだ。﹃ようこそ淋病の世界へ﹄⋮⋮! こんにゃく⋮⋮!﹂ ﹁ぎゃあっ!?﹂ ﹁いや、ある意味怖い話だけどビビりすぎであろうハチ子⋮⋮って 玉菊、こんにゃくをハチ子の首にくっつけるな!﹂ とりあえず箸が転げても怖がりそうなお八が首元にぬるりとした 感覚を覚えて九郎の浴衣の中に体ごと入れるように逃げ込んだ。 玉菊は満足そうに﹁うふふ⋮⋮﹂と含み笑いを漏らしながら、濡 らした箸で灯心を一本消す。 呆れて九郎が尋ねる。 ﹁なんでこんにゃくなぞ持っておるのだ、お主﹂ ﹁いざという時の為に人肌程度に温めてたのでありんす﹂ ﹁どんな時の為だ!?﹂ ちなみにこの時代、こんにゃくの製造数が増加しており江戸でも ちょっとした流行であった。いや、もちろん食用だが。 前に起こった富士山の大噴火により関東近縁に降り注いだ灰だっ たが、吸い込んだそれには体に害があり結核などの原因になると信 じられていたために、体から塵などを排出させる健康食品として田 楽などで食べられていたそうな。 ともあれ、怖い話を聞いてしきりに頷いているのは石燕だ。 ﹁うんうん、オチはなんとなく途中で読めたけどその職業の人がい うと現実味があってぞっとするね。⋮⋮︰玉菊君、君が飲んでる湯 のみは持って帰ってくれたまえ?﹂ ﹁わっちを病気持ち扱いしないでくりゃれ!? それにもっとこう 石田三成みたいに病気持ちでも男同士の間接接吻大歓迎ぐらいの寛 容さで!﹂ 397 ﹁大谷吉継との茶会の話は創作だよ? ふふふ私が書いた読本設定﹂ ﹁おいこら歴史を塗り替えるな﹂ 九郎は半眼で呻いた。 石田三成が業病のかかった大谷吉継と湯のみを回し飲みしたとい う逸話は有名であるが事実かどうかははっきりされていない。まあ、 少なくとも九郎の記憶では鳥山石燕の流布した話では無かった筈だ。 未来を憂うが、ともかく百物語は進んでいった。 今度はお房が、 ﹁これは実際にあった話なんだけど⋮⋮﹂ ﹁えっぐ⋮⋮えっぐ﹂ ﹁ハチ子が話の出だしだけでえずきだした!﹂ ﹁お房まであたしを怖がらせる⋮⋮口から肝が出そうだ⋮⋮﹂ 九郎が着ているのが、六科から借りた大きいゆったりとした浴衣 なので、もうその内部に逃げ込んでいるお八と二人羽織しているよ うな状態である。かなり暑くて顔を顰めているが、お八はそれどこ ろではないようだ。 仕方なさそうに石燕は戸棚から薬壺を取り出して湯のみに注いで、 お八の前に置いた。 ﹁仕方がない。これを飲みたまえはっちゃん。気分が落ち着く薬だ﹂ ﹁ううう⋮⋮﹂ 恐る恐る手を伸ばして、青行燈に照らされているのが原因ではな い顔色のお八は湯のみに入れられた液体を一気に飲み干した。 口と喉に刺すような痛みが走り激しく咳き込む。吐き出そうにも 即座に喉と胃袋の内側に染みこむような味だった。 涙を流して余計に吐きそうになっているお八の背中を慌てて九郎 398 は撫でて、 ﹁お、おい大丈夫かえ?﹂ ﹁│││あははー﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁いひ、おうーなんだ、平気平気﹂ ﹁⋮⋮酒臭っ! しかもきっつい臭いが! なんの酒を飲ましてお るのだ石燕﹂ 彼女は琥珀色の液体が入れられた小さな壺をくゆらせて、自分の 湯のみにも注いで舐めてから応えた。 ﹁うゐすきいという舶来の薬なんだがね。濃いからすぐに回る﹂ ﹁なんでそんなもの持ってるのだ﹂ ﹁抜荷⋮⋮ごほんごほん! それより房の話を聞こうではないか!﹂ ﹁密貿易って死罪では﹂ 九郎が確認のように言うけれども、少なくともお八はアッパー気 味な精神状態になってくれたのでまあいいかと決めた。 怖がりすぎて懐らへんで吐かれでもされたら余計困ることになる。 ともあれお房が話を再開した。 ﹁あたいが生まれる前の頃、お父さんとお母さんが伊勢神宮にお参 りの旅に出かけた事があったの。 その途中で寄った村で人を喰う、馬の化け物が出るという話﹂ ﹁馬の化け物? 馬の幽霊ではなく化け物かね?﹂ ﹁そこは重要なのか?﹂ 疑問を挟んだ石燕に九郎は尋ねた。 彼女は酒で唇を濡らしながら考えるように、 399 ﹁馬憑きという、死んだ馬が祟る話はあちこちに残っているのだが、 それらの多くは馬を殺したり食ったりした人間に馬の幽霊が取り憑 き、気が触れたりして死んでしまうという話の類型なのだよ。 馬というものは戦で華々しく活躍する名馬や神社に祀られる神馬 などとあるが本来は他の動物よりも穢れに近い畜生だからね。その 呪いや怨念も強いと考えられる﹂ ﹁穢れに近い?﹂ ﹁この国で馬が最初に出てきた時を知っているかい? 須佐之男命 が皮を剥いだ馬の死体をぶん投げた所から始まりだよ。うん、厭な 開始地点だね⋮⋮ とにかく、馬の幽霊は人に取り付くが、馬の化け物が人を喰うと いうのはあまり聞いたことがない。草食だしね。だが人を噛むこと は確かにあるし骨程度ならば噛み潰せる顎の力はあるが⋮⋮﹂ 興味深そうにお房へと視線を戻した。 ﹁それで、その村では人肉の味を覚えた馬が夜な夜な歩きまわると 畏れられていたの。 両親は一晩そこで泊まることになったんだけれど、用意された夕 食の鍋に入っていたお肉を食べたら、窓から家の様子を伺っていた 子供が﹃肉を食った! 肉を食った!﹄と騒ぎながら走り去ってい った⋮⋮ お父さんは変な子供がいるな、としか思わなかったらしいんだけ ど、お母さんが、 ﹃あの子供、怪しいから捕まえて来るわ﹄ って言って出て行った。 その時にお母さんを止めておけば⋮⋮﹂ お房は言いよどみながら、続ける。 400 ﹁馬っていうのは賢い生き物みたいで、臭いなんかにも敏感らしい の。 鍋に入っていた、旅人へ馬を襲わせるための印みたいな肉を食べ させられたお母さんは外が暗くなっても帰って来なかった⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ちなみに六科はその間なにを?﹂ ﹁なんか家に猫が居たからお母さんが帰ってくるまでもふもふして たとか﹂ ﹁⋮⋮﹂ 妻が一人でその怪しげな村の夕闇に出かけて、その待ち方はどう なんだと思わなくもなかった。 ﹁やがて外がすっかり真っ暗になった時に遠くから荒々しい馬の鳴 き声が聞こえたってお父さんが言ってた。 そして暫くすると血生臭い空気が風に乗って流れてきた。何か引 きずるような音が泊まっている家に近寄ってくる。 触ってた猫が叫び声を上げて天井へ逃げていった。お父さんが入 り口に目をやったその時⋮⋮!﹂ ﹁ハチ子⋮⋮! 己れの脇に顔を突っ込むな⋮⋮!﹂ ﹁あははだめだあたしは絶対顔を出さないぞ﹂ テンションは高めだったがお八の怖がりはそのままのようであっ た。 九郎は異様にくすぐったいのだがまったくお八が離れようとしな い。後日散々おちょくってやろうと密かに心に決めた。 お房の話が終わりに差し掛かる。 ﹁入り口が蹴り開けられるようにして開け放たれ、そこに居たのは 全身血に染めたお母さん! 口をゆっくり開いてこう言った。 401 ﹃六科さん、お肉の追加をとってきたわ。鍋に入れておいて頂戴。 ちょっと井戸で体洗ってくるから﹄ 片手に包丁を持ったお母さんは、襲ってきたけれど返り討ちにし た人喰い馬の肉をお父さんに渡したの﹂ ﹁普通に勝ってる!?﹂ ﹁怖い話じゃなくて武勇伝だよねお六さんの!﹂ お房は首を振って、 ﹁この話にはちゃんとこわい落ちがあるの。 その馬のお肉を次の日のお弁当用に煮付けにしたけれど、馬の食 が偏っていた所為か肉が筋張っていて、それはもうこわくてこわく て﹂ ﹁駄洒落か!﹂ ﹁人喰い馬の不思議とか伝承は!?﹂ 六科の話だと、あまりにこわい︵注:硬いの意味︶ので半分は捨 てたらしい。それこそ馬に呪われそうな夫婦である。まあ、馬を返 り討ちにしたお六は現在故人になっているのだったが。 石燕は溜息とともに頭痛をこらえながら、 ﹁あの夫婦は風情がないというか、怪異があっても力技で解決しよ うとするから困るね。叔父上殿も前に野襖だか風狸だかを見つけた のに捕まえて食ったとか聞いたが﹂ ﹁うん、臭かったから食べ残して捨てたって言ってたの﹂ ﹁食べ物というか化け物を大事にしなすぎる⋮⋮﹂ ちなみに、野襖や風狸はどちらもイタチかフクロモモンガのよう な姿をしている妖怪である。 もちろん実際の妖怪という訳ではなく野生動物だったのだろうが、 402 捕まえる六科本人がそのような妖怪が居るという知識を持っている にも関わらず捕まえてとりあえず食ってみるのは怖いもの知らずと いうか何も考えていないというか⋮⋮ 小僧などの人間系妖怪らしいものを見た時はとりあえず離れるら しいが。なにせ、先制攻撃を仕掛けて妖怪ではなかったら問題であ る。だから六科が最初に九郎を見かけた時はさっさと逃げようとし たのだが。 ともかく、話を終えたお房が濡れ箸で灯心をまたひとつ消した。 ほんの僅かに、部屋がまた少し暗くなっていく。 百物語は進む。その終わりに何が待っていようとも、滅びに向か い立ち向かうことこそが生き様だとばかりに。 **** ﹁││それでその辻衆道に襲われて服を引き剥がされそうになった 時に、侍は叫んだ。 ﹃拙者は梅毒だぞ!﹄ 脅してやめさせようとしたんでありんす。 すると辻衆道は笑いながらこう言った。﹃ああ、おれもだ﹄⋮⋮ ! ところてん!﹂ ﹁お主の怖い話性病ネタばっかりであるな!? あと、生温いとこ ろてんをくっつけるなマジで!﹂ ﹁いざという時の為に持ってたでありんす﹂ ﹁だからどんな時の為だよマジで!﹂ 割と本気で気持ちが悪かったので怒鳴ったが、 403 ﹁くろう、うるさーい⋮⋮さけぶなよねむい﹂ ﹁すっすまぬ⋮⋮っていうか寝るんだったら布団にでも行けよハチ 子! 暑い!﹂ 二人羽織のままうつらうつらとしているお八を引剥がそうとする が、まったく動かなかった。 百物語が進行して部屋は大分に暗くなっている。お互いの顔が見 えるか見えないかぐらいしか明かりは残っていない。 残る灯心は1つだけである。恐れるものを知らぬ石燕達は百物語 を完遂しつつあるのだ。実際不吉な空気が漂っていた。 さて、と石燕が前置きをしてもはや表情も見えぬ暗さの中、声を 発した。 ﹁月並みに行われる百物語は、百話を全て終えると怪異が発生する と云うので九十九話で終わるのが常だ。 これは百という数字にはたましいが関係しているので、物語に魂 が生まれ実在へと変わると云うことだね。器物百年に至り魂を得る、 三つ子の魂百までといわれるようにね。 百は白でありこれは魂魄の魄を表す。白に鬼だね。さらに百に鬼 となると百鬼夜行や百目鬼などとも関係してくる。ちなみに私は百 鬼という言葉が好きでね。今後発表する作品に名付けたい程だよ。 まあともかく、百話終えて実際に何が現れるか見てみたいと思わ ないかい? 思うね。よし。最後の話を始めよう﹂ ││これは私が実際に体験した話なのだ。 九郎は本当にそこに石燕が居るのかすらわからない、湿った暗闇 に目を凝らしながら聞いた。 本当にこの空間に、今まで居た連中が残っているかわからない。 音もなく出て行く事が可能ならば誰も居なくなっていてもおかしく 404 はない。そう錯覚してしまうような異様な雰囲気だった。 ﹁私が見つけた異境││﹃隠れ里﹄の話だ﹂ **** 昔、石燕が京都に旅をした帰りの事だった。 江戸よりもよほど歴史の古い京都には多くの妖怪話が残っている。 それを探索する為に石燕が京都を訪れたのはこれまでも数回あった。 その時は旅の同行者として歴訪の本草学者にして薬師、安倍将翁 も居た。日本中に彼の知り合いや薬を処方された者││土地の名士 や有力な藩士なども多い││が居るために旅程を共にすると可也役 に立つ。 特に京都では、陰陽道を司る陰陽寮の長官を代々務めており将軍 就任の際には天曹地府祭を執り行う由緒正しい公家でもある土御門 家と将翁はなにやら特別な関係があるようで、怪異妖怪調査の口利 きに便利であった。また、彼自身も陰陽に関する知識が有るために、 場合によっては呪い師としても土地を渡り歩いているのであった。 当時、陰陽師とは土御門家の許状が必要な職業であり、土地の普 請の日取りについて吉日を決めたり、また占いに関しては専売特許 であった。将翁は許状を持っている正当な陰陽師である。 ともあれ旅の途中の事。 数日続く大雨に旅籠に二人は足止めされていた。 実際に年若い女であった石燕と、少なくとも見た目は美麗な青年 405 である将翁の二人旅であったが、まったく持って﹁おかしな﹂雰囲 気にはなる様子は無かったという。 何処か浮世離れした性格の二人だったからだろうか。とにかく、 数日の地面が削れるような大雨の後に江戸へ戻る旅を再開したのだ が、今度は川の手前で再び足止めを余儀なくされた。 普段は棹で水底を押して渡る船が出ている浅く緩やかな流れの川 なのだが、連日の大雨で酷く増水していたのである。 茶色の濁流を眺めながらため息をつく二人が、川の流れ溜まりに 留まったあるものを目にした。 箸が浮いていたのだ。 恐らくは上流から流れてきたのだろう。だが、近くの宿で訪ねて みるがその川の上流に人里など聞いた事がないという。 むしろその言葉に興味を示し、川を遡り人里を探しに行こうと言 い出したのが石燕である。 川の上流から箸や椀が流れて来て、見知らぬ里に辿り着くという 話は東北から北陸近辺に伝わる迷い家と呼ばれる怪異に似ているし、 古くは大和武尊の話にも似た説話が残っている。 不思議探求の欲求が特に強い石燕には大いに唆られる話であった。 一方で将翁の方も、他に交流のない里や村には特異な植物、民間 薬が伝わっている事もあるので探しに行くことには賛成であった。 どうせ川の濁流で再び数日は渡れぬのである。 野外で不足しない分の食料を買って、翌日の朝早くから二人は隠 れ里を目指し歩き出したのだった。 道無き道に見える場所を先行して進むのは安倍将翁だ。 続く石燕にはまったくの藪にしか見えないのだったが、 ﹁人の通った痕がある﹂ ﹁大雨の後で足跡も見えないが、確かかね?﹂ 406 足跡どころか草を踏みつぶした跡も何も無かった。だが、 ﹁敢えて││人の通らぬ道に見せかけたようで。人以外の獣が寄り 付いていやしませんから﹂ ﹁ふむ⋮⋮ますます妖しげだね﹂ 迷いなく足を進める将翁にやや遅れてついていく。山の中、おお よそ野外で身に付ける必要性が有るとは思えない狐面を被り高下駄 を履いているというのに躓く様子もなく歩く姿はまるで天狗のよう であった。 ﹁さしずめ狐天狗⋮⋮いや、確か日本書紀に於いては[天狗]と書 いて[あまきつね]と読ませたのだったかね﹂ ﹁ああ、確か空から降る光の帯を天狐のしわざとしたのでしたか﹂ ﹁そうだね。日本国現報善悪霊異記にも化け狐の説話は残されてい るが、本格的な妖怪の形を得たのは九尾の狐の話が伝来してからだ と私は思うよ。それ以前は山の神の化身か田の神の眷属という囚わ れ方が多かったのではないかな。 狐は[来つ][稲]と云う名だから狐面も豊作祈願の神楽で使わ れていたのが段々簡略化されて祭りのお面に⋮⋮っと、いつも狐面 の将翁には釈迦に説法だったね﹂ などと雑談を合わしながら進み、そのうちに開けた場所に出たの で休憩を取った。 握り飯に味噌を塗って火でさっと炙ったものである。出掛けに旅 籠で作ってきたものだ。それと、将翁は背負っている薬箪笥から小 さな七輪と火を付きやすくした粉の炭を取り出して、手際よく湯を 沸かす。 木椀に抹茶を解いて二人分の茶を用意し、啜った。茶のカテキン 407 が食中毒を防ぎビタミンが体力を補う。茶は飲み過ぎるという事は ない。ゆっくりと水分補給を行った。 だが、その間中ずっと、狐面を半分ずらして細長い目をしている 将翁が、顔を動かさずに目玉だけで左右を探っている事に石燕は気 づいた。 ﹁どうしたのかね?﹂ ﹁いえね、誰かに見られているような⋮⋮そんな気配がしませんか い﹂ ﹁ふふふ⋮⋮いや、全然。むしろ、熊や狼ではないよね?﹂ ﹁獣ならまだいい。熊避けの香を炊いてやれば逃げていく⋮⋮ああ、 それを使う時は風下には行かずなるべく離れてくれると目鼻が永遠 に潰れないで済む﹂ ﹁うん、絶対使う前には宣言してくれたまえ。っていうか香じゃな いよね? 何が入っているか知らないがそれ毒煙玉って言わないか ね?﹂ ﹁それはともかく、獣の臭いを感じさせぬこの視線は⋮⋮﹂ 将翁は再び深く狐面を被り、薬箪笥を片付け始めた。 途中で話をやめた為に石燕は、 ︵人が見ているというのか⋮⋮?︶ と、周囲を憚ること無く伺い始めた。 肩をすくめて将翁が、 ﹁⋮⋮気付かれますぜ﹂ 忠告するが、むしろ石燕は声を張り上げた。 408 ﹁私は三千世界に名が響き渡る予定の妖怪絵師鳥山石燕だ! そこ の君! 私を監視しているつもりならばその場所は既に割れている のだよ! 出てきたまえ!﹂ ﹁こりゃあ、参った﹂ くくく、と見当もつかない方向へ呼びかけ出した彼女に、将翁は 面の奥から笑いをこぼした。 こちらを隠れて見ているのが何者かは知らないが、理由もなく監 視をするわけはない。呼びかけて出てくるような理由で監視するは ずも。 やはり、返事はない。 石燕は頷いた。 ﹁わかった、これはべとべとさんだよ﹂ ﹁妖怪ですかい﹂ ﹁うん。後ろからつけてくる系の山妖怪でね。悪さはしないという が後ろから人の後をつけるのはなんか気持ち悪いのだよ! つまり 悪! さあ将翁よ、陰陽師的な退魔の御札とかを出して退治してし まいなさい!﹂ ﹁いや⋮⋮そんな便利なものはございませんが。ああ、大麻草なら 効きのいいやつを用意できますぜ。大陸から渡ってきた抜荷の⋮⋮ おっと、こりゃ失言﹂ ﹁煙吸ってらりらりしている場合ではない。しかしこう⋮⋮御札を 使って﹃破ァ!﹄とか出来ないのかね。以前寄った寺では跡継ぎ息 子がそんな感じで凄いと聞いたことがあるが将翁はそういうことは﹂ ﹁出来ません﹂ ﹁陰陽師にはがっかりさせられるよ! 何を学んだというのかね! ?﹂ 期待をされても困る、とばかりに将翁は首を横に振った。 409 ﹁占いとか。あと大麻と幻覚系の薬を混ぜて反魂の香を作ったり﹂ ﹁幻覚と認めちゃってるよねそれ﹂ 後に彼から詳しくそれを聞いて、漢の武帝が夫人の魂を煙に写し た説話と共に[返魂香]として絵に残したりもしている鳥山石燕で あったが、特に現在必要なものではなかった。 彼女は眼鏡をくい、と直してこれから進む先の方角を見ながら、 ﹁まあいい。べとべとさんにはそれ相応の対応策があるのだよ。ふ ふふ地獄先生じごっくとか名乗ってる私にかかれば簡単さ﹂ ﹁最初からそれでお願いしたかったですねえ﹂ ﹁こう相手に告げればいいのだよ。﹃べとべとさん、ここは任せて 先に行きたまえ!﹄﹂ ﹁そこはかとなく、緊迫感のありそうな﹂ 率直な感想を云うが、石燕は満足したように、 ﹁さてこれで大丈夫だから探求の旅を続けようかね﹂ ﹁⋮⋮まあ、石燕殿がいいなら﹂ 木の根に降ろしていた荷物を持ち上げて、再び行軍を再開しよう と準備を始めたのであったが⋮⋮ ﹁││もし、そこの御方達﹂ 声がかけられた。 地面から湧いてでたと言われても信じそうなほど自然に、何も居 なかった場所に人物が現れていた。 暗い色の野良着を来た細身の、手足の長い男である。両手をだら 410 りと下ろしたまま、こちらを見ている。 いや、本当に見ているのかは石燕にはわからなかった。目の前に 相手がいるというのに視線を感じることは出来ない。 何故ならば、その男は顔に天狗の面をつけていたからだ。 不気味だ。そして何よりも、 ﹁⋮⋮少数派になった﹂ ﹁おや?﹂ ﹁なんでもない﹂ 石燕は狐面を付けた将翁と天狗面を付けた男に視線をやった後に ぽつりと呟いたが、どうでもいいことではあった。 それよりも天狗面の男は言葉を続ける。 ﹁このような山の中で、もしかして迷われたのではと様子を伺って おったが﹂ ﹁⋮⋮いや、私達はこの道の先にあると思われる里を探しに来たの だよ﹂ 男の雰囲気が、その言葉で変わった気がした。 ただでさえ山中だというのに面を被っている不気味な人物だ。黙 っただけで厭な威圧感を感じる。 ﹁││どこで、この先にある里の事を聞かれた?﹂ その言葉には焦りの色を隠した、返答次第では何らかの行動を起 こさんと言わんばかりの質問であった。 石燕はなるべく余裕の有るように見える笑みを浮かべたまま、 ﹁下流の川に箸が流れていたのだよ。しかし土地のものに聞いても 411 誰も知らないと言うのでこの目で確かめにね﹂ ﹁ほう││成る程﹂ ﹁君はその里の者かね?﹂ 逆に確認のように問いただすと、天狗面は小さく頷いた。 ﹁山の薪拾いや落ち葉浚いをしている、[い]と申す﹂ ﹁[い]? それだけとは変わった⋮⋮名だね?﹂ ﹁里の風習でしてなるべくわかりやすく、いろは順に一文字ずつ名 付けられているのだ﹂ それにしても、もう少し捻った名がありそうな気がしたが石燕は 言葉にはしなかった。 将翁は面を付けた不審人物を観察するように何も声を出さず、た だ狐面を向けている。 ﹁その天狗面も風習かね?﹂ ﹁これは⋮⋮﹂ 少しだけ言葉を濁して、 ﹁もうすぐ里で開かれる祭り神楽の面だ﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 石燕は、その天狗面に妙な違和感を感じていた。山の中で面をつ けていることよりも、普段目にするそれとは違う印象を受ける。 そして気付いた。 ︵この天狗の面は、目の中まで真っ赤に塗られている︶ 412 普通に見かける天狗面の目は白眼に黒い瞳か、高級な作りになる と金眼に黒い瞳で作る。だが、この天狗面の目は血の色のように真 っ赤なのだ。面の他の部位よりも一層赤々しい。 気づいても、不気味さがより増すだけであったが意味のわからぬ 奇妙さは解決した。そして新たな疑問が沸く。 ︵何故赤色にしている? 儀礼上の意味があるのか?︶ 思考を始めるが、天狗面は続けて声をかけてくる。 ﹁この先の里に行くのなら案内をしよう﹂ ﹁⋮⋮そりゃあ、助かる﹂ 石燕が一人何やら考えながらぶつぶつと呟いていたので将翁が応 えた。 恐らくは里はここからそう遠くない場所にあるのだろうと将翁は 考えている。だが、逆に里に近づいたからか森に残る人の通った跡 があちこちに見える様になったので正確な道を探すのは一苦労だと 思っていた所だ。向こうが案内してくれるならば早く辿り着くだろ う。 山歩きに慣れた者を、散らばる道の痕跡で徐々に迷わせるような 森の作りは、 ︵人を里に近寄らせない為か⋮⋮或いは里から人を逃がさない為か︶ 将翁は面の中で皮肉げに嗤って、天狗面の後をついて歩みを進め るのであった。 一方で、二人は面を付けたまま道とも言えぬ森をすいすい進むの に対して石燕は男女の体力差とは別の理不尽な思いが今更浮かんだ という。 413 **** そこは小さな、山の谷間の盆地になっている場所に作られた里だ。 箸を拾った川の支流らしき小さな流れも見えた。 里に入った石燕と将翁は、里人に迎えられる。 余所者が連れられてきたのに予め伝わっていたようにずらりと並 んだ里人が二人へ顔を向けていた。 そして、里人の顔には老若男女関わらず、赤眼の天狗面を全員が 着用している。 その異様な光景と、顔を一斉に向けられている石燕は背筋に厭な 感触が粟立つのを覚えた。 ぼそりと、 ﹁将翁⋮⋮何か予備の面を持ってなかったかね?﹂ ﹁今は、ございません﹂ ﹁仲間外れ感が半端じゃ無いね⋮⋮!﹂ その里に存在する人物の中で唯一、面を被っていない石燕は悔し げに云う。 ﹁こんなことがあるかもしれないから、あたしゃ面を付けてるんで すぜ﹂ ﹁こんな里が二つも三つもあるのかね﹂ ﹁勿論﹂ 414 将翁はおどけて、 ﹁冗談、ですよ﹂ ﹁うぎぎ﹂ やがて二人は里の中にある宿へ案内された。 宿とはいえこのような隠れ里。使われなくなった民家に泊まって 良いと云う事らしい。妙に愛想の良い天狗面の[ろ]と名乗る老人 に連れられて、 ﹁疲れたでしょうからどうぞゆっくりと﹂ ﹁ああ﹂ ﹁後で何か食べるものを持ってこさせますので⋮⋮﹂ と、[ろ]の老人が去っていった後に石燕は不審な目をしたまま 将翁に聞いた。 ﹁何故余所者の私達が歓迎されているのだろうね﹂ ﹁さて。陰陽師や薬師として歓迎されたことはありますが、別にこ こであたしゃ名乗った覚えは無い﹂ ﹁私は名乗ったが妖怪絵師や地獄先生という職業の者が歓迎される 土地柄なのだろうか﹂ ﹁まさか﹂ 皆して天狗面を向けてくる村の者達に薄寒い妖しさを感じたまま、 二人は宿の家に入った。 感じることのないが誰かが様子を伺っているような気がして、石 燕は入り口の戸を閉めようとしたが将翁に止められた。 ﹁閉めてはいけない﹂ 415 ﹁どうしてだね?﹂ ﹁よく御覧なさい﹂ 将翁は細い指を向けながら、警戒を声色に忍ばせて断定的に告げ る。 かんぬき ﹁その戸││内ではなく外から閂で閉められるようになっている﹂ ﹁⋮⋮ぞっとしないね﹂ 戸を開けたまま、石燕は家の中に荷物を置いた。 なんの変哲もない囲炉裏が部屋の中央にある一間の家である。だ が、窓は高いところに格子がついたものがあるだけで外に繋がる勝 手口も何もない。入り口以外からは出入り出来そうにない構造だ。 作りはしっかりとしているのか、或いは隙間風すらも通らないよ うに作られているだけなのか淀んだような空気だ。そして、人が使 っていない家をたまたま遣って来た旅人に貸したにしては、物は片 付いており最近まで人が住んでいたか、管理はされていた雰囲気は あった。 どこまでも不気味さが消えない。 おと ふと、壁にかかったオカメの面が目についた。 ﹁面がありますぜ﹂ ﹁そうだね。オカメ⋮⋮或いは乙とか猿女と呼ばれる面だ﹂ 石燕は再び考え込んだ。人が将翁しかいないので明確に彼に聞こ えさせ、呟く。 ﹁そう、何故ここにだけオカメがある⋮⋮? 里人らは女も老人も 皆、あの天狗面だった。祭りにしても役目があり面の種類が変わる 筈だ。天狗しか無い天狗信仰ならまだしも、オカメがここにある理 416 由はなんだ⋮⋮?﹂ ﹁赤眼の天狗。さて、そんな天狗は居ましたかい﹂ ﹁赤い目をした天狗⋮⋮赤、紅、朱⋮⋮朱色は血の色だ。天狗⋮⋮ そうか!﹂ 大きな声を出した後に、彼女は周囲を見回して声量を落とした。 ﹁天狗ではない。天狗面という存在だ。元は天狗面は妖怪・天狗を サルタヒコ 模ったものではなく、鼻は長くて目は赤かがち色︵血のような鬼灯 アマノウズメ 色の事である︶をした神、猿田彦の面なのだ﹂ ﹁となるとオカメは確か⋮⋮天鈿女命﹂ ニニギノミコト ﹁そう、国津神であった猿田彦に差し出された神だ。ここは天狗信 仰ではなく、猿田彦信仰の里だ。猿田彦は瓊瓊杵尊が葦原中津国を 平定しようとした際に先導役となった、元々土地に居た古い神と言 われている。 つまり葦原の国に居た神の中で真っ先に瓊瓊杵尊に下ったか、土 地を渡した神でもある。だが天津神に併合された国津神の中にはそ れを良しとしないまま信仰を続けている土地もあるという。 そもそも猿田彦は葦原中を照らしていたという神だ。信仰があち こちに分散していたと考えるのが普通だろう﹂ 狐面の将翁が顔をオカメに向けながら相槌を打つ。 ﹁それで、里人は猿田彦でこの家が天鈿女命と云うわけですかい﹂ ﹁天鈿女命は猿田彦と結婚して猿女と呼ばれるようになったとされ るけれどもね、ある意味でこう考えられないかね? 天鈿女命は生 贄の象徴だったと。 つまりこの里に於いて、私達は生贄だ﹂ ﹁こいつはどうも⋮⋮縁起でも無い事に巻き込まれたようで﹂ ﹁どんな目に合うかは、できれば体験したく無いね﹂ 417 ﹁仕方無い﹂ 将翁は元きた道を見遣りながら、一度鼻を鳴らして云う。 ﹁面倒だが夜陰に乗じて帰りましょう。今出ても見つかる。日暮れ まで少し、石燕殿はお休みになったほうがいい﹂ ﹁むう⋮⋮夜の森を迷わず進めるのかね?﹂ ﹁そこは御安心あれ。香を道の途中に付けて来ましたので、見えな くとも匂いで道はわかります﹂ ﹁一緒に歩いていてもそんな匂いはしなかったが⋮⋮﹂ ﹁薬師の鼻は特別、ですよ﹂ 将翁は狐面の鼻を二三度小突いて、冗談のように言い放った。 **** 夕食に出された乾飯を戻した粥と、山菜のつけ汁は将翁が毒見を して問題ない事を確認し、二人は腹に収めた。 虫の鳴かぬ夜だった。幸い、山からの風は殆ど無く、道標を散ら される事がない為に匂いを辿る将翁に有利である。月明かりはそこ そこにあったが、未踏の地でも悠々に歩く将翁と違い多少旅慣れた 程度の石燕には夜の森を歩くなど到底不可能である。 将翁は背中の薬箪笥に木材を組み合わせて座れるように細工し、 石燕をそれに座らせるようにして背負い運ぶことにした 彼はさほど体格に優れているわけではないし、履物は高下駄だ。 重心を崩してとても歩けないのではないかと石燕は不安になったが、 418 ひょいと持ち上げて何も背負っていないかのように森を進んだ。 夜目が効くのだろうか。だが、狐面は被ったままだ。 ︵まるで天狗隠しにあった気分だね︶ 石燕は思いながら、振り向いた。 既に遠くに離れた里から、篝火が十以上灯されるのを見て彼女は 眼鏡を落とさぬように様子を伺った。 その篝火が規則正しい動きで、里から放射状に離れていく。二人 が走る方向へも走る速度で向かうのが見えて、再び視界は深い森に 覆われて見えなくなった。 ﹁天狗火⋮⋮いや、山狩りか! 追ってくるつもりだ!﹂ ﹁ほう﹂ ﹁しかしあの組織だった素早い動きは、ただの隠れ里の村人とは思 えない⋮⋮﹂ うろうろとすること無く、迷いなく捜索網を広げていく里人の動 きは、まさに[狩り]と言った気配であった。 幾ら将翁が道を覚えているとはいえ土地のものに追われるのは分 が悪い。ただの里人ならば追いつけもさせぬかもしれないが、 ︵⋮⋮赤かがち色の光る瞳で葦原を照らしていた猿田彦⋮⋮神話通 りならば暗闇など通用しない眼力だろうね︶ 不安を覚える石燕の胸中に応えるように。 半刻ほどすれば遠くから篝火の明かりが見え始めた。 一つではない。逃げた将翁の痕跡を見つけて連絡を取ったのか、 複数の松明が近寄ってくる。 419 ﹁こりゃいけない。一旦身を隠すため道を外しますぜ﹂ ﹁大丈夫かね?﹂ ﹁さて﹂ 云うと将翁は身を翻して、下駄の歯痕を残さないように木の根を 飛び石のように踏みながら進路を変えた。 暫く進むと巨木があり、二人はその裏側へと回る。 巨木から生まれる日陰の影響か、周囲には高い木は無かった。月 明かりに照らされて巨木の幹が暗闇でも将翁の目に見えた。 そして息を飲む。 樹の幹に。 無数の藁人形が突き刺されていたのだ。 しかもそれが全て、手裏剣と苦無で。 ﹁⋮⋮そうか! 勘違いしていた⋮⋮! ここは猿田彦信仰の里で はない、忍びの隠れ里だ!﹂ ﹁左様ですか﹂ ﹁それならば顔や名を隠すのも夜の森で自由自在に動けるのにも修 行をしていたと納得が行く⋮⋮全ては天狗なのだ!﹂ ﹁ま、それはいいとして﹂ どこか将翁の反応は冷ややかであった。 420 やがて追手をうまくやり過ごした二人は改めて森を進んだ。 今度は追われる気配も無くうまく帰れると、空が白みだした頃に 安心していた。 しかしこの隠れ里の事はなんと描こう。具体的な被害があったわ けではない。危険を察知して逃げただけである。誰かに知らせるべ きだろうか。だがそれになんの得がある⋮⋮ 結局は、そのうちにこういう不可思議もある、という解説ととも に錦絵にしてしまおうかと石燕が思っていた時である。 それまでに比べて道らしい道。街道の外れに出た。 そこに、天狗面を被った手足の長い、[い]の男がこちらを見た まま、ぼうと立っていたのである。 将翁は石燕を背中から降ろして警戒の色を見せる。 逃げた相手は必ず元来た道の始まりに戻ると予測していたのだ。 この道は、[い]に話した﹁箸が流れ着いた川﹂に面している。 言葉も無く、男は己の胸元に手を入れて何かを投げ放った。 十中八九、飛来してくるのは手裏剣だと石燕は咄嗟に察した。忍 びの投げる手裏剣術は一発必中。将翁か石燕か、どちらかの致命的 な所に刺さるのは火を見るより明らかだ。 だが瞬間の神業か。 投げ放たれた物体を、将翁が指でつまむようにして受け止めたの だ。 目を見開いた石燕が将翁の手をみると、そこには折りたたまれた 紙片が摘まれていた。手裏剣ではない。 がさがさと音を立てて紙を開くとたどたどしい文字が書かれてい る。 それには、 ﹃遊楽地[わくわく忍び村]、近日公開予定。本物の元忍び衆が盛 り上げる楽しい里祭りに是非いらっしゃいませ。忍術体験会あり。 君も手裏剣を投げよう。詳しい場所は⋮⋮﹄ 421 ﹁⋮⋮村興しか! ってもう居ない!?﹂ 朝のかそたれ時に、天狗は消え去っていた⋮⋮ **** ﹁風土ホラーか忍者モノかギャグかどれかにしろよ! 話の筋がと っ散らかりすぎであるぞ!﹂ ﹁真実とはなんとかより奇なりだね﹂ ﹁あやふやすぎるだろ!﹂ 九郎が話の途中に二度三度がくりと気を抜かれて首を下げながら、 それでも最後まで聞いてからツッコミを入れた。 怖い話なのか何だったのか結局わからない謎の隠れ里であった。 ちなみに、近日とは書いてあったが未だに公表された気配は無いら しい。 天狗面を付けた集団に監視されたり追われたりする時点で心象最 悪とも思えるが。全員で出迎えたのも、わざわざ家を開けたのもど うやらテーマパークへの歓迎的応対だったのかもしれない。 石燕は闇の奥で笑みを作りながら、 ﹁それにしてもこれで百話終わったわけだ﹂ ﹁ああ。長かったのう。ハチ子は完全に寝てるが﹂ 422 ﹁あたいも眠いの﹂ ﹁わっちはぎんぎんでありんす﹂ ﹁聞いてねえよ﹂ ﹁⋮⋮わっちはぎんぎんでありんす﹂ ﹁なんで二回言った!?﹂ 玉菊の妙な雰囲気に九郎は音も立てずに闇の中こっそり移動して 逃げた。胸元には寝ているお八が居て動きにくかったが、それでも なんとかやった。 声を怖めて石燕は云う。 ﹁夜に鬼を語るなかれ。そう言われているが果たして何が起こるか ね⋮⋮?﹂ と、行灯の火を消そうとすると、家のどこからか﹁カチ、カチ﹂ と音がなった。 不自然な音に九郎が、 ﹁虫か?﹂ 尋ねるが石燕は面白そうに、 ﹁⋮⋮家鳴りだ。害は無いが音を鳴らす妖怪の一種。これは面白く なってきた﹂ ﹁まさか⋮⋮﹂ そして、行灯の火を消した。 火を消すと新月の晩である。真っ暗の闇が訪れる筈である。 だが、不思議なことにぼんやりと青白い光が消えた行灯以外から 発せられて部屋全体を薄く照らした。 423 ﹁本当に出た⋮⋮妖怪の[青行燈]だよ!﹂ ﹁む⋮⋮どこだ!? 異様な魔力を感じる⋮⋮!﹂ 九郎が張り詰めた声を出しながら警戒して立ち上がる。 ﹁うわあ、ぬし様怖いでありんすー♪﹂ ﹁声が怖がってねえよ!?﹂ ここぞとばかりに玉菊が飛びかかってくる声が届いた瞬間であっ た。 光が落ちてきたように見えた。 青白く灯された人間の顔。体に白装束を着て片手に青い光を出す 提灯を持った化け物が天井から叫び声を上げながら降ってきた。 ﹁あああああおおおおああああんんんんんどおおおおおんんんんん !!﹂ ﹁えっそういう鳴き声なの!?﹂ ﹁ぐぎゃっ!﹂ 落ちてきたところに、偶然玉菊が居たらしく踏み潰されて絶息し たようだ。突然上がった叫びに石燕とお房はびっくりして﹁きゃあ﹂ だの叫びを上げて抱き合った。お八は九郎の懐で猫のように寝たま まであった。 そして床に降り立った青行燈︵仮︶は百物語をしていた九郎らを 睥睨して、膝立ちのまま声を出す。 ﹁痛っ⋮⋮! 足捻ったわ本気で!﹂ ﹁なんだこいつ﹂ ﹁うりゃー﹂ 424 石燕がうずくまったままの青行燈︵仮︶の尻に竹槍を刺した。 ﹁ぬああ!? なにをするんですか鳥山先生! ま、ま、ま、麻呂 の尻にそんな残虐な事を! 尻から竹の子が生えたらどうするんで すか! おめでたで祝いでもくれるんですか! おめでとうござい ます麻呂! そして生まれてくる全ての子供達へ⋮⋮だれだお前﹂ ﹁五月蝿いよ北川。人の家の百物語に文字通り飛び入り参戦してな にをやってるのだ貴様は﹂ ﹁なにってそりゃあ先生を驚かせようとこっそりと屋根裏に忍び込 んで二刻だか三刻だかじっと待ってたんですよ! この暑い中自主 的に! それにしても先生も﹃きゃあ﹄なんて声出すんですね貴重! あ っ今顔色が冷静を装いつつ恥ずかしがってます? ますよね! 可 愛い! 先生可愛い! それにしても先生酷いなあ⋮⋮あっ白装束借りましたよこれ。へ へっ女の人の着物っていい匂いがしますね先生。食べろって言われ たらぎりぎり食べれるぐらあ痛ァああ!﹂ 引きつった笑みになった石燕に再び竹槍で突かれて飛び上がる青 行燈こと石燕の門人の青年、北川何某である。 石燕が家を空けて花火見物の九郎らを迎えに行った隙に侵入して いたらしい。しかも石燕の死装束まで勝手に着ている。それっぽく するために青い提灯を用意していた。先ほどのカチカチ云う音は、 タイミングを見計らって提灯に火打石で火をつける音だったようだ。 文句を言いたげに手を上げて抗議する北川。 ﹁麻呂を鯨漁みたいに刺さないでください! っていうかその竹槍 はなんですか物騒な! 越南の民兵じゃあるまいし! あっ麻呂の 仕入れた情報によると大奥の便所は竹槍仕込んでるらしいですよ盗 425 まれないように! 厳重さを間違ってるだろ! ちなみに溜まった ら埋め立て方式だから一度放り込んだものは何であろうと二度と日 を見ること無くそのうち埋められるという⋮⋮怖い! ところであ れですか? 鎌倉幕府から滅びてない竿竹売り一族とかから買った 竹ですかそれ!﹂ ﹁⋮⋮これはかの有名なかぐや姫が入っていたという竹槍だよ。京 に行った時公家から高値で買ったのだけれど﹂ ﹁それ騙されてるよ! 月の姫がそんな暴力的な兵器から生まれる わけないよ先生! 農民が明智光秀の尻とか刺すための武器じゃん ! 自然に優しい天然素材をふんだんに使っちゃってる!﹂ 九郎が、男の持っていた提灯から行灯に火を移して部屋を照らし、 尻を抑えたままうずくまる北川に目をやって言った。 ﹁それで此奴は誰なのだ﹂ ﹁誰!? 今、麻呂の事を誰とかいいやがりましたかねええ少年! くくく麻呂こそ鳥山石燕先生の本当は一番弟子だけどなんか駄目 っぽい性格をしてるから師弟の縁切られかかってるから超格下の北 川様だ! 趣味と特技は淫らな絵とか描くこと!﹂ ﹁ああ⋮⋮なんか駄目っぽいな﹂ ﹁ま、ま、麻呂を馬鹿にするなよ! 淫らな絵を描くぞ! 奉行所 に訴えられても陰湿だから辻販売とかしちゃうんだぞ麻呂は! っ ていうかなんだよ﹃異様な魔力を感じる⋮⋮キリッ!﹄って! 何 をこじらせればそんな科白が出てくるんですかああ!? 感じねえ よ! 麻呂だよ!﹂ ﹁此奴うぜえ⋮⋮!﹂ ﹁痛ェー!﹂ 空気に飲まれて口走った科白を繰り返されて恥ずかしくなった九 郎が竹槍を受け取り再び刺した。 426 夜中だというにのに、ようやく出てこれたからかやけに北川のテ ンションが高い。しかしこれは彼の素である。相手にしていて疲れ る、うざったらしいとは知人全ての感想であった。 これで居て彼の描いた美人絵はそこそこ人気に売れているのだか ら困る。 石燕は彼の肩に手を乗せて、 ﹁ところで北川。いい所に来たね。ちょっと妖怪を調べに行って欲 しい場所があるのだが。二、三年ぐらい﹂ ﹁はあああ!? また八丈島ですか!? 閉じ込めようとしても無 駄ですよ先生、てんじちゃんと麻呂はもう昵懇の仲なんですからね ! 筏船とか作るの手伝ってくれるんですからね!﹂ ﹁いや、今度は新島って知ってるかね?﹂ ﹁うわああやっぱり島流しにする気だこの人! どんな強権持って るんだよ!﹂ だらだら汗を流す北川に、恥ずかしめられた石燕が片道切符の島 流し旅行プランを告げていく。 九郎はため息を吐きながら、懐で寝ているお八と、驚いた後気を 失ったお房を布団に持って行こうとするが、お八が相変わらず離れ なかった。 ﹁おい、玉菊。ちょっと手を貸せ。玉菊⋮⋮?﹂ 倒れたままの彼に近寄って口の前に手を置く。 息をしていなかった。 ﹁死んでる⋮⋮﹂ 427 なお、その九郎が慌てて術符フォルダから取り出した[電撃符] のショックで蘇ったという。 そんな喧しい夜の騒ぎを、のんびりと見ていたのは石燕の家で飼 っている水槽の海星だけであった。 **** 翌朝、早くに目覚めたのはお八であった。 夏場ではあったがさすがに涼しい。お八は寝ぼけたままぎゅっと 布団らしきものを抱き寄せた。 しかしそれは温かい妙な肌触りのもので、枕も硬くない変な感じ であった。 眠気に逆らい目を開ける。 目の前に、九郎の胸板があり、頭の上に彼の寝息を感じた。 九郎にしがみついたまま結局離れず、布団で寝ていたのである。 左右にはお房と石燕も居るのだがそれを認識出来るほど寝起き頭 は冷静ではなく、お八は火が付いたように体を熱くした。 ︵うおおおおなにこれ凄い危なげ天満宮⋮⋮!︶ 気がつけばもう、体中から九郎の体臭や温度を感じてしまうもの の下手に声も出せず身動きも出来なかった。 そしてようやく、いつも寝ている藍屋の部屋ではなく、妖怪絵が 部屋中に貼られた石燕の家だと周りを見て思い出した。 428 ︵そうか⋮⋮あたしが怖くて眠れないからこうしてくれてたんだな ⋮⋮︶ 事実は寝て離さないお八を諦めたのだが、まあ良いように解釈す るものである。 原因不明の頭痛はするものの昨晩の記憶はいまいち思い出せない まま、お八はもうしばらく、と自分に言い聞かせて九郎を抱いたま まぼやっとした。 そうこうしているとぬめりに似たものが足のあたり感じて、お八 は驚き、漏らしたかもしくは官能的な現象がアレでどうしたかと思 ったが⋮⋮ お八と九郎の隙間すらないようなところに、体に油を塗った玉菊 がぬらぬらと滑りこんできた。鰻の如く。 ﹁寝ているうちに椿油と昆布のぬらぬらを使った妙技を味あわせて あげるでありんす⋮⋮!﹂ 即座に目覚めた九郎と、良さげな調子から一転鳥肌が立つような やはんてい そうあ 嫌悪感を味わったお八に簀巻きにされて、江戸川に浮かべられた玉 菊であった。 近頃よく流れている玉菊の姿を見て当時の俳人、夜半亭宋阿はこ う詠んだと伝えられているかもしれない。 玉菊や 墨堤いとし 流し雛 朝は随分と涼しくなった。延々と暑さの続くようであったこの夏 も、盆を過ぎれば暮れていく。 429 **** ところで後日、石燕をおちょくった罪の私刑で島流しにされた北 川から手紙が届いた。 このような内容である。 ﹃前略鳥山先生へ。お元気ですか。麻呂は元気盛り盛りです。いえ、 嘘ですが。 新島は右を見ても左を見ても入れ墨の罪人ばっかりで顔を合わせ るのも嫌になります。 夜になれば海からは海難法師とかまむんとかいう妖怪が上がって きて山からは山姥やよべむんとかいう魔物が跋扈してる気がします。 人間界というか大魔界島って感じです。詐欺で流された寺生まれの 罪人仲間が﹁破ァ!﹂って感じで追っ払ってくれてます。 今日も漁師の人の手伝いで干物を作る作業をしましたが、干物に 塗る液がどう嗅いでも控えめに言ってうんこ的な何か過ぎて手に染 み付き死にたくなります。味は確かなのですが。いや信じて下さい。 下手なもの作る度に指を折ると脅される程なので。 先生がいかな弱みを握ってここの船持ち達に、麻呂を本土に返さ 430 ないように言い含めているかは知りませんが、どうか麻呂の作った 干物でも食べて機嫌を直して下さい。麻呂の家族も心配しています。 あなたの大事な一番弟子より﹄ 手紙と一緒に入っていた新島特産品の干物は異様な匂いのするも のであったが、九郎と一緒に、 ﹁これは成る程、臭やと云うだけある﹂ と臭がりながらも珍味であった。所謂、くさやである。手紙は臭 かったので焼いて捨てた。新島では年貢の塩が不足となり住民に満 足に残らず、干し魚に塗る塩汁を何度も再利用するようになったこ とからこれが始まったという。 美味いが江戸の庶民に降りてくる数は少ないくさやを、北川が新 島にいれば今後も時折送ってくるものと思われるために、暫く帰ら せるつもりは石燕にはないようであった。 431 18話﹃六﹄ 今だ暑さも厳しく残る盆の頃である。 盆になれば江戸に出稼ぎに来ていた町人たちも故郷へ帰省するの は昔から変わらぬことであった。 それ故に江戸の土産屋ではこの時期、土産物が多く売れ市場は活 発な程だ。漢方薬のたぐいから錦絵、菓子など様々なものを地方へ 持ち帰っていた。 この日、六科とお房、それに九郎は墓参りに出かけていた。 お房の母、お六の墓だ。浅草にある共同墓地の一つに彼女の墓は ある。 墓石がのっぺりと立っていて、地面に直接竹の花生けと湯のみが 置かれているだけの簡素なものだ。裕福でない蕎麦屋の立てた墓と はいえ、お六は豪商の出だというのに随分と寂しい作りであった。 だがこれも、生前にお六が予め﹁墓や葬式なんてお金がかからな いようにしてくれればいい﹂と六科に言い含めていた為に、彼は諾 々と従ってこのような供養にしている。恐らく死んだほうが六科で も、お六は同じように簡素な墓に入れるようにしたであろう。夫婦 の取り決めであった。 ﹁俺は水を汲んでくる。お房は花を変えて、九郎殿は草でも抜いて いてくれ﹂ ﹁わかった﹂ ﹁はあい﹂ 432 指示に従ってお房は夏の暑さですっかり枯れた竹筒の花を、今朝 買ってきた瑞々しいものに入れ替える。 九郎は汗を拭いながら墓の周りに生えた雑草を抜いて一纏めにし ていた。 ﹁墓の掃除など久しぶりだな⋮⋮﹂ ﹁そうなの? でもちゃんとお墓参りはしたほうがいいのよ﹂ ﹁ううむ⋮⋮時間軸のずれで両親を弔うべきなのか悩みどころであ るな﹂ 自分の体感時間からすれば両親はとうに老いて亡くなっているの だろうが、この時代では生まれても居ない相手だ。そもそも親の死 に目に会えていないのでいまいち実感が無い。 ﹁まあ、かく言うあたいもお母さんの事はあんまり覚えてないけど ⋮⋮﹂ ﹁幼い頃に亡くなったのだったな﹂ ﹁うん。なんでも鉄砲に当たって死んだって話だけど記憶が朧気で﹂ ﹁町人がどんな死に方してるんだよ!?﹂ 普通に江戸で生きててどういう状況になれば銃殺されるのか九郎 には理解できなかった。 お房は難しげな顔をしながら、 ﹁お母さんの事をいろんな人から聞くに、弁慶を美少女にしたよう な強者だったらしいから鉄砲で狙われる事もありえるの﹂ ﹁母親の事を弁慶とか美少女とか形容するの初めて聞いた﹂ ﹁あたいのお母さんだから美少女に違いないの﹂ ﹁はっはっは﹂ ﹁⋮⋮そこは笑いどころじゃないの﹂ 433 乾いた笑いを上げる九郎の脇腹をアダマンハリセンで突いた。 そういえば暴れ馬をマジックカット感覚で切り殺してくるという 怖い話を聞いたことがある。九郎の想像の中では以前に見た芝居の、 ゴリラみたいな弁慶が女装しているのを想像しかけたが即座にやめ た。まあ見た目は、お八の姉なのだから似たような感じなのだろう と思うようにする。 九郎が取り留めのない考えを打ち切ると、近くの井戸から水を汲 んできた六科が墓掃除に加わった。 生温い水で浸した手ぬぐいで墓を拭いている六科に訪ねてみる。 ﹁のう六科。このお六さんとやらは鉄砲で死んだとか⋮⋮﹂ ﹁ああ。直撃だったな﹂ ﹁直撃かあ⋮⋮﹂ ﹁強い女だったがやはり鉄砲には敵わなかったな。一緒に居た俺も 危ないところだった。どちらが死んでもおかしくない⋮⋮そんな状 況であいつだけ運悪く死んでいった﹂ ﹁まったく状況が想像できん﹂ ﹁いいやつが先に死んでいく⋮⋮残るのは俺みたいな悪党ばかりだ﹂ ﹁それっぽい科白を言うな!﹂ 真顔で云う六科に九郎はツッコミを入れた。 ﹁しかしこの時代の鉄砲というと火縄銃か? よく知らんが﹂ ﹁む? 火縄で死ぬ女ではなかったが。多分飛んできても避けるか ら﹂ ﹁うん? では鉄砲とは﹂ ﹁ああ⋮⋮言い方が悪かったな。お六はフグに当たって死んだのだ﹂ ﹁食中毒かよ!?﹂ 434 当たると死ぬことからフグ料理の事を[鉄砲]と呼ぶ。それこそ 縄文時代から日本人が食中毒者を数えられないほど多く出し続けな がらも食べている食材の一つである。 江戸時代でも町人の妙味、度胸試しのような目的でも多く食べら れていて死人もまた多数記録に残っている。特に、[鉄砲に当たる ]という言葉が縁起が悪く、また危険だというのに自ら当たりに行 って死ぬような阿呆は大変不名誉で厳しい処分が下されることがあ ったので武士はフグを食べることが少なかったという。 お六も自慢の包丁さばきでフグを捌いて六科と二人で食べていた のだが、箸を付けた部位が悪かったのかお六の方にだけ毒が当たっ て死んでしまったのであった。 ﹁料理は上手いが食い意地は悪かったからな、あいつは﹂ ﹁お主も相当あれだがな。腹を壊してフサ子をあまり心配させるな よ﹂ ﹁気をつけてはいる﹂ 憮然と言うが、時折腐ったものを食ってしまう六科はどうも信用 が無かった。 墓の前に置かれた湯のみを水で洗い、水垢を取ってから竹筒に入 れた茶を注いだ。そして線香を立てると手を合わせる。 九郎とお房もそれにならった。 念仏も唱えなかったがきっかり三秒瞑目して六科は礼を解く。 ﹁茶の好きな女だった﹂ ﹁左様か﹂ ﹁昔はあいつに連れられてあちこち茶屋に顔を出していたが⋮⋮む う﹂ ﹁どうしたの? お父さん﹂ 435 六科が急にうなり声を上げたのでお房が問うと、 ﹁いや、お六が生前常連だった茶屋にツケがあったのを忘れていて な﹂ ﹁そんなん忘れておいてよお父さん⋮⋮﹂ ﹁金が無いから行かなくなってそのままだった﹂ 腕を組みながら六科は懐かしそうに思い出しながら言った。 若い頃からお六に連れられてよく通った茶屋の名前は[奥屋]と いった。水出しで淹れた茶を出すそこそこ繁盛している店であった が、あまり人気がない品目である青臭い[どくだみ茶]をよくお六 に飲ませられた事があった。 鉄面皮で通っている六科だが、さすがにその形容しがたい苦味と 匂いには渋面を作るので面白がってお六は笑っていた。 しかし思い出すと不味かった記憶しかないのに、不思議と、どく だみ茶が飲みたくなって⋮⋮ ︵いや、別に飲みたくないな︶ 彼にとて多少の好みはあるようだ。 むしろあの店の普通の冷茶が飲みたくなった。特に、冷えた飯に 梅干しを乗せ、冷茶をかけて食う飯がうまかった覚えがある。 九郎は呆れた様子で、 ﹁思い出したのなら払ってやれ。お主も、店商売をする身となれば ツケを踏み倒されればどう思うかわかるであろう﹂ ﹁うむ。俺なら相手の鎖骨をへし折る﹂ ﹁やりすぎだ!﹂ 六科はやや考えて、 436 ﹁鎖骨に⋮⋮ヒビを入れる?﹂ ﹁どれだけ鎖骨にこだわってるのだ!﹂ ﹁まだ手ぬるいほうだ。お六なら鎖骨割りから屈み弱打撃に繋げて 止めに回転蹴りを叩きこむ﹂ ﹁格闘家か!﹂ どれだけバイオレンスな女だったのかと九郎は思わざるを得なか った。 事実、小柄ながら喧嘩が滅法に強いお六は界隈でも有名であった ようだ。実家の呉服屋で培った技術を持って、わざわざ喧嘩がしや すいように動きやすく作った着物を作って着用していたという。 それにしても、 ﹁久しぶりに寄ってみるか。冷たい茶がある﹂ ﹁いいけど⋮⋮お父さん、ツケを請求されたら大丈夫なの?﹂ ﹁うむ。この前、長屋の連中と肝試しをしてな。一番肝を冷やす場 所に連れて行ったものにそれぞれから一朱という賭けをして、勝っ た。合計三分もあれば茶代のツケぐらいはなんとかなるだろう﹂ ﹁ちなみに何処に連れて行ったのだ?﹂ ﹁夜中、火付盗賊改方の前を全員で黒ずくめで頬かむりして通って きた﹂ ﹁よく捕まらなかったな!﹂ ﹁なんで進んで馬鹿な事をするかなこのお父さん!﹂ 折しも九郎らが百物語をしていた晩であったが、違う意味で怖い 場所であった。 江戸の町人達にとって逮捕されて拷問を受けてもおかしくない危 険な秘密特高警察みたいな認識を受けているのが火盗改である。実 際の活動で誤認逮捕や冤罪もあったとされているが、いざとなれば 437 事実を葬り去れる事も可能な組織であるために恐ろしさはいや増す。 というか泥棒のふりをして警察の前を通るのは普通に迷惑行為で ある。 六科はいつも通りの何事にも動じぬといった顔のまま、 ﹁気にするな。さて行くか﹂ と、墓を後にするので二人は顔を見合わせて仕様が無いと言わん ばかりについていくのだった。 盆で多くの線香の煙が墓場から立ち上り、空に溶けて消えている。 **** 堀切の辺りに[奥屋]という茶屋はあった。青梅に茶畑を持って いて、濃い味の冷茶が夏はよく売れるのである。 九郎ら三人がその店に着いた時、何やら店内で騒動が起こってい るようであった。 入り口から様子を伺うと、いかにも旗本のぼんぼん風な若侍が顔 を赤くして怒鳴っている。 ﹁茶漬け一杯に四両も取るとはどういうつもりだ爺め!﹂ ﹁へえ。お侍さんがこの店で一番高い飯を食わせろ、との事だった ので﹂ ﹁値段を上げればいいってものじゃあないだろう! 散々待たせた 挙句に出したあの茶漬けの何処に四両もかかるというのだ!﹂ 438 目つきがぎょろりとした初老の店主に、値段について侍が文句を つけているのである。 お房が声を潜めて六科に告げる。 ﹁お父さん。ここ高いわ。帰りましょう﹂ ﹁むう⋮⋮? お六と通ってたときは普通の値段だった気がするが﹂ 少なくとも茶漬けに四両などと暴利を取る店ではなかったが⋮⋮ その値段だと少なく見積もって普通の茶漬け二千杯は食えそうだ。 店主は興奮した侍に朗々と告げる。 ﹁うちの店の茶に合うように青梅の山奥に湧く岩清水を、注文があ ってから飛脚に特急で汲んでこさせました。梅漬けも天領で作られ たものを特別に出している店から改めて取り寄せまして米は新米。 炊く時に赤穂の塩をわずかに混ぜて味付けをしています﹂ ﹁ぬ⋮⋮﹂ ﹁お侍さん用に出した茶碗は伊勢国の窯で焼かれた一級品で、箸は 大阪でも滅多に出回ってない屋久杉で作られてます。茶漬けの材料 費だけではなく人足費、食器の価値を含めて四両でして﹂ ﹁うぬ⋮⋮﹂ 言葉をつまらせる侍である。 いかにも世間を知らぬ、顔が脂でてらてらしている坊ちゃんとい った感じの男であった。少しばかり遊びに困らぬ金を持っている為 に、小耳に挟んだ美味い茶屋に来て、 ﹁とりあえず一番高いものを持って来い﹂ と、注文したのである。これが、普通の値段の品しか普段出して いない店主の癪に触ったのだろう。こんな茶屋での高いものなどた 439 かが知れていると思われた上に味も碌にわかりはしなそうな若造で ある。 結果、座敷で一刻あまり待たされて茶漬けを食ったのだが、もと より微妙な味の善し悪しなどわからぬ上に怒りで茶漬けだか粥だか も確認しない勢いで口に流し込んだ。そして苛立ちながら勘定を申 し付けると法外な値段を告げられたのである。 ﹁そ、それにしても四両などということがあってたまるか!﹂ ﹁⋮⋮なんだ、文無しでございますか﹂ ﹁持ってないとは言っておらぬ! 無礼な!﹂ いっそう腹立たしげに叫ぶこの男は、二千石取りの大身旗本の息 子であるので四両払えぬわけではない。だが、安い額でもない。懐 の四両があれば料亭にだって行けるし良い女郎も買える。それをみ すみすたかが茶漬け代に差し出すのは悔しいのである。 しかし、店主の老人の、 ︵なんだケチ臭ぇ⋮⋮︶ と云った顔に腹を抉られるような苛立ちを覚えていた。 金に不自由をしたことのない自分がけちけちとしていると見られ るのが我慢ならないのである。 彼はややあって、 ﹁ええい!﹂ と痰を吐き散らすような声とともに床に小判四枚を叩きつけて踵 を返した。 ﹁二度と来るか! こんな店!﹂ 440 ﹁どうも﹂ 短く店主は返して小判を拾い上げる。 地面を踏み潰すようにして去る侍を店主は鼻を鳴らして、 ﹁阿呆旗本が、威張り散らした注文をするからこうなるのだ﹂ 小声で呟くのであった。 店主は軒先で見ていた九郎らに気づいて、﹁おや﹂と声を掛けた。 ﹁ああ、お客さん達。普通の茶漬けは一杯八文ですからどうぞ⋮⋮ って﹂ 店主はじろじろと六科の顔を見て、 ﹁あんた、六科じゃないか。お六さんの連れの﹂ ﹁そうだが﹂ ﹁⋮⋮久しぶりの客が来たもんだ。入っていきな﹂ 店主は三人を店の座敷へと案内した。 窓が開けていて涼し気な庭が見える開放的な席である。とりあえ ず冷茶と茶漬けを三人分注文した。 ここの茶漬けの飯は、炊いた米を水で一度さらして滑りを取った ものを使っているので、茶をかけるとさらさらと米粒が離れて食感 が良い。 それに刻んだ小梅漬けが時折歯に当たって酸味と塩っぱさを出し、 だるくなるような暑さの中でもするりと胃に収まるのである。 ﹁さっぱりしてて旨いのう﹂ ﹁ああ。食いやすいからいい﹂ 441 ﹁お父さんの感想はいつも実用的で困るの﹂ お房が茶を飲みながら云う。六科は食品の感想として﹁うまい﹂ ﹁食いやすい﹂﹁食い難い﹂﹁どうやら腐っていたらしい﹂ぐらい しか主に使われることがない。 お代わりを入れた急須を持ってきた店主がお房の茶を飲む姿を見 て、六科に尋ねた。 ﹁六科、このお嬢ちゃんはお六さんの娘か?﹂ ﹁そうだ﹂ ﹁成る程、そっくりだ﹂ 店主はしきりに感心したように頷く。 ﹁で、そっちの坊主は息子か?﹂ ﹁違う﹂ ﹁ふうん⋮⋮で、お六さんはどこでい?﹂ ﹁死んだ﹂ ﹁⋮⋮なんというか言葉が少ないというか愛想がないのも相変わら ずだな、お前﹂ 呆れたようにものを云う店主であるが、九郎とお房は何時もの事、 と冷えた茶に大根漬けをかじっていた。漬け具合が丁度良く、ぽり ぽりと音のなるうまい漬物であった。 店主は懐から帳面を取り出して、 ﹁それはそうと、お六さんのうちで飲み食いしたツケは払えよ、今 日﹂ ﹁ああ。幾らだ﹂ ﹁ええとだな。全部合わせて﹃茶:二百五十二杯。茶漬け:百三十 442 三杯。冷酒:十二升。漬物:一樽。煎餅:六十三枚。雪餅:四十二 個⋮⋮﹄﹂ ﹁お房。ちょっと墓に戻って茶漬けを墓石にぶっかけてこい﹂ ﹁なんの弱みを握ればお母さんはそれだけツケで飲み食いできるの !?﹂ どんどんと続く目録に六科は苦々しげな顔になった。 お房は心配そうに、 ﹁お、お父さん本当なの? ぼったくられてるわけじゃないのよね ?﹂ ﹁あいつならそれだけ平気な顔でツケを溜め、飲み食いするだろう。 面の皮が厚いからな﹂ ﹁端数を切り捨てても二両になるが⋮⋮うちでもこれだけ未払いの 額を溜めてるのはお六さんしかいない﹂ ﹁むう⋮⋮﹂ 六科は天井を見上げて唸った。多少のツケだとは思っていたがお 六がそこまでツケているとは思っても居なかったのである。 三分持っている今が彼にとって有頂天な懐の温まり具合といって も良い生活な為に、二両都合をつけるのは難しい問題であった。お 六のツケなのだから、彼女の実家である藍屋に頼めば出してくれる かもしれないが、 ︵それも面倒だな⋮⋮︶ と、気が引ける。亡き妻の借金のために彼女の実家に頼るという のも、甲斐性がないものである。 だが袖を振っても金が出ない。己の店の売上は、赤字が出なくな ったというものの微々たるもので、長屋の大家の副収入で暮らして 443 いるようなものであるからだ。だいたい、儲けが出たら問屋にして いる借金を優先的に返している。 六科は、何かいい案がないかと九郎に尋ねることにした。 ﹁九郎殿﹂ ﹁うむ⋮⋮己れが払うわけにはいかんしなあ⋮⋮お主の借金には使 うなと石燕に言われておるし。む、そうだ店主﹂ ﹁へい?﹂ 九郎が冷茶を飲み干しながらいいことを思いついたように店主に 云う。 ﹁さっきの侍に出した茶漬け⋮⋮青梅の岩清水を使っていて四両と 言っておったな﹂ ﹁はあ。うちの茶園の裏山に湧くもので﹂ ﹁よし、じゃあ六科よ。それを急いで樽いっぱい汲んでくれば二両 ぐらいにはなるであろう。行ってこい﹂ ﹁えっ⋮⋮﹂ 店主が面食らったように問い返した。 九郎は湯のみを机に置いて、 ﹁その水を使っての茶漬けで四両取るのならば問題あるまい﹂ ﹁いやしかし⋮⋮﹂ ﹁なんだ? 青梅まで重い水樽を持ってこさせる人足賃としてなら 安いほどだ。お主が選んだ、店の茶に一番合う水なのであろう?﹂ ﹁むう⋮⋮﹂ 妙に偉そうに云う小僧に返事を窮する[奥屋]の店主である。 侍をからかい追い払う為に一杯四両の茶漬けを出したところを見 444 られている以上、その材料を大量に提供する相手の提案を無下もな く断れば﹁物の価値を偽って出した﹂と見られてもおかしくない。 それにもとより、裕福でない六科に支払い能力があるかどうかは 店主も疑問に思っていた。 ツケをお六に許してこちらから請求に行かなかったのも、昔に深 川の方で店主が[畳針の次郎兵衛]という土地のならず者の頭たち と喧嘩を起こした時に通りすがりのお六に助太刀を貰った恩があっ たのである。 まあ恩とは云え、店主らが喧嘩騒動をしていたら、何やら虫の居 所が悪かったお六が発作的に近寄ってきて持っていた土鍋でごろつ き共を殴り倒した挙句、血の着いた土鍋の弁償代まで逃げていった 相手の代わりに[奥屋]の店主に請求するという通り魔的犯行であ ったが恩は恩である。そしてお六は恩を着せたらやたらたかる性格 だった。 だが正直ただで食い過ぎであったが、 ﹁ツケは私が死んだら六科さんが払うわ﹂ とまで言い残していたので実際に彼女が死んだ以上六科に請求す るのが筋である。 店主は九郎の提案に肯定の意を示して、 ﹁だけれどもあの茶漬けに出した水には特急料金も入っていてな。 今日中に水樽を汲んで持ってくるのならツケはちゃらにしよう﹂ ﹁だそうだ六科﹂ ﹁わかった、行ってくる。お房は先に帰っていろ﹂ ﹁ちょっと待て。そのままお前も水を汲みに行ったきり、帰ってこ ないって事は無いだろうな﹂ 疑わしげに店主が目をやるが、あくまで六科は真顔で企みなど無 445 いように見える。 それでもツケを踏み倒していた相手であるので慎重に、 ﹁この坊主は店に置いていけ﹂ ﹁むっ⋮⋮卑怯な﹂ ﹁ああっ! 逃げる気満々だった臭ぇ!?﹂ ﹁九郎殿⋮⋮自分で言い出したことの責任だから諦めてくれ﹂ ﹁それでも逃げるつもりだこいつ! 最悪だ!﹂ ﹁冗談だ﹂ きっぱりと告げる六科に店主は気を抜かれ、うなだれた。 九郎は引きつった笑顔で六科の肩をがっしり掴んで、 ﹁⋮⋮逃げるなよ?﹂ ﹁うむーん﹂ ﹁どんな返事だよ!? いいか、帰ってこなかったら酒に酔わせた お雪をお主の寝室に放り込むからな!﹂ ﹁報復手段の意味がわからんが安心しろ﹂ 彼は頷きながら、 の ﹁供養と考えればあいつのツケを精算するのも吝かではない。あい つの迷惑に振り回されるのは慣れていた﹂ ﹁そうか⋮⋮なら行ってこい﹂ ﹁ああ﹂ ﹁よし、待ってる間に⋮⋮おうい店主。冷たい酒をじゃんじゃん持 ってきてくれ﹂ ﹁また昼酒を飲み始めたのこの男⋮⋮﹂ 呆れたお房は、六科の持っていた墓参りの道具を受け取り、草鞋 446 を履き出した彼に言葉をかける。 ﹁お父さん、寄り道とかしちゃ駄目だからね﹂ ﹁任せろ。夕飯に間に合うかは知らんからお雪かお豊の所に行け﹂ ﹁はぁい﹂ そう言って、六科は岩清水の場所を描いた紙を店主から受け取り、 空の水樽を持って出て行くのであった。 ︵あやつとて約束を破る男ではあるまい⋮⋮︶ 九郎は出された酒を飲みながらその後姿を見送った。 店で出された伏見からの下り酒は上質の水のように九郎の五臓に 染み渡り、心地良くて笑みがこぼれた。 のんびりと涼しい茶屋で昼酒を飲みながら過ごす午後も良い。 だが、日が暮れても六科は帰って来なかった。 **** 夜五ツ︵二十時頃︶にもなっただろうか⋮⋮ 447 夏の夜は遅くに来るとはいえ、とっくに日が沈み江戸の町は夜闇 に包まれていた。 [奥屋]の座敷で居心地悪そうに酒を舐める九郎と、それをじろ じろと見る店主の姿がある。 なんかもう九郎も正座して酒を飲んでいる。いい加減六科のツケ も自分で払ってしまおうか思うほどであった。 ﹁来ぬな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁あ⋮⋮一応己れの飲み代は先に払っておくから⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 店主はむっつりと押し黙っている。 九郎は冷や汗を浮かべたぎこちない笑みで多めに金を払いながら 言い訳がましく云う。 ﹁言っておくが己れは別に六科の息子でも親戚でも無いので⋮⋮﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ ﹁い、いや六科が逃げたから己れも帰ろうというわけではないぞ? あやつも道に迷ったかどうかしているのであろう。青梅は田舎だ からなあ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ははは、と白々しい笑い声を上げて九郎は目を逸らした。 ︵おのれ六科め⋮⋮月の無い晩は盲が有利だとお雪に吹き込んでや る︶ などと怖ろしい計画を考えていると、やおら入り口が開く音がし た。 448 店の中に獣臭い匂いが夏の夜風と共に吹き込み、店の行灯に照ら された軒先に居たのは体を水で濡らしたような姿の六科であった。 ようやく戻ってきた。 九郎と店主が安心の吐息をつく。 彼はずい、と中に入って手に持っていた袋から何やら黒いものを 取り出して告げた。 ﹁待たせたな。ツケの代わりの、熊の手を持ってきた﹂ ﹁違ったよなあ!? 確か違うもの持って来る約束じゃなかった! ? 頼んだのはこんな盆に相応しくない生臭いものじゃなかったぞ !?﹂ ﹁狩ったのかよ! 遅いと思ったら熊を狩ってたのかよ!? どう いうことだよ!﹂ 断面の生々しい熊の手を差し出した六科に全力でツッコミを入れ る二人であった。 ずぶ濡れなのは、血や泥を取るために川で体を洗ってきたらしい。 六科は豪然な態度のまま頷いて、 ﹁安心しろ。水も汲んできた﹂ と、背中の水樽を下ろした。 熊の獣臭さが水に移ってないか、六科をのけて店主が嫌そうに匂 いを嗅ぐ。 九郎は残った酒を銚子から飲み干して彼に訊いた。 ﹁しかしどこで熊なんぞ⋮⋮﹂ ﹁帰り道の途中で熊狩りをしている晃之介殿と偶然出会ってな。手 伝いを頼まれて報酬に貰った﹂ ﹁あやつも何故盆に熊狩りを﹂ 449 ﹁なんでも熊を生贄に捧げて先祖の霊を祀るとか何とか言っていた が﹂ ﹁どこの山の民だよ!﹂ 友人の妙な一面を聞いてしまった九郎である。 一方で、微妙に穢れた感ある水樽を受け取った店主はうんざりし た顔をしながら、 ﹁まあ⋮⋮約束は約束だからツケはこれでいいけどよ﹂ ﹁熊の手は?﹂ ﹁縁起が悪いから持って帰れ、そんなもん﹂ 店主は追い出すように手を振りながら見遣った。 六科が帰ってきた以上、飲み過ぎの感もあるが九郎も場を後にし ようとやや足元をふらつかせながら座敷を立つ。 そして帰ろうとする二人に店主は再度声をかけた。 ﹁おい、六科﹂ ﹁む?﹂ ﹁持っていけ﹂ と、小さな麻袋を投げて渡した。 受け取ると軽く乾いた感触の麻袋から濃い茶の匂いがする。茶葉 が入っているようだ。 店主は腕を組んでそっぽ向きながら、 ﹁お六さんの墓にその茶を淹れて供えてやれ。あの人は客と言えね え程ツケを溜める女だったが、茶を飲んでる姿だけは様になったか らな。手向けだ﹂ ﹁わかった﹂ 450 ﹁ふん。礼の一つも言わねえお前さんは生け好かねえがな﹂ そう言って、店の奥に引っ込むのであった。 六科も何も言わずに、熊の手をそっと入り口に置いて去るのであ った。 ﹁いやこれ持って帰れって! 変な気を効かせるな!﹂ 慌てて奥から店主が走ってきて六科の背中に熊の手を投げつけた。 二人は夜の町を歩きながら、 ﹁腹が減ったな﹂ ﹁フサ子も、お雪か石燕のところに行っているであろうから何処か 晩飯を食って帰るか﹂ ﹁ああ。まだ三分は残っているしな﹂ ﹁⋮⋮そういえばあの店で今日飲み食いした分、お主払っておらぬ のではないか﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁この時間にやっている店といえば⋮⋮むっ、そういえば﹂ ﹁どうしたのだ?﹂ ﹁いや、夜遅くまでやってる飯屋でお六がツケを残したままのとこ ろを思い出して﹂ ﹁絶対そこ行かないからな、おい!﹂ などと会話をしながら進むのであった。 何処かで鈴虫が鳴いている音の聞こえ、盆の夜は更けていく。 451 452 19話﹃昼行灯達の宴﹄ ところはさておき、アフリカのカラハリ砂漠に住む部族が、ある 日飛行機から投げ捨てられたコーラ瓶という今まで見たことのない ものを拾う。宝石のように綺麗な瓶は彼らにとって水を入れたり、 叩いて楽器にしたりといろんなことに仕える魔法の道具であった。 やがてコーラ瓶を巡る争いが起こってしまった為に、平和を愛す るブッシュマンはコーラ瓶を地の果てに捨てに行くという話がある。 決して手に入らないものを人が手にした時、それはまさに魔法と なる。その点で言えば異世界から持ち込んだ道具を多数所持してい る九郎は魔法使いと自称しても、様々に証明する手段があるだろう。 それはともかく。 九郎は今、コーラ瓶を手にしていた。 荷物の奥に入れたまま忘れていたものである。 固く栓で閉じられている中に黒いコーラがまだ入っているものだ。 あとで飲もうと思っていたら異世界に来てもう数ヶ月経ってしまっ た。 ﹁とりあえず冷やしておこう⋮⋮﹂ と、部屋に置かれている呪符で作った冷水を貯めた桶に瓶を浮か べる。 忘れていたけれども改めて見つけたからにはコーラが飲みたい。 この甘くて炭酸な液体は今後恐らく二度と飲めない最後の一本だ。 そうなると最高の環境で飲みたい。冷やすのもその一環だ。コー ラを飲む正式な方法というと、コーラのつまみを用意することであ る。 453 ポテトチップスやポップコーンなどの塩気のある菓子がいいだろ う。もしくは焼肉やバーベキューのような脂っこい食べ物もいいが、 イカの塩辛やネギトロではコーラに合わない。 冷房の効いた屋内と炎天下の屋外が場所の候補に上げられる。こ の場合、屋内だと菓子、屋外だとがっつりした食い物がいい。 九郎は二日程悩んだ。コーラと合わせる食べ物は何か。ジョン・ ペーバートンの気持ちになって考えぬいた。知り合いの魔王だった らハンバーガーと云うだろうか。それもひとつの答えだが敢えて違 うものを選びたい。 そして、 ﹁ピザが食いたい﹂ とか言い出したのであった。 これは、日本で恐らく初めてピザを食べた男の物語である。 **** 当然のことだが、当然のように。 まずは材料の事で九郎は絶望的な面持ちになった。 ピザというものは小麦粉を練って円盤にして、その上にトマトソ ースを塗りつけてチーズ、具を盛り付け焼いたものである。 トマトソースとチーズが無い。 土台になる小麦粉はうどん粉を練ってやれば作れそうな気がする し、具は海産物か鶏肉でも使えばいいのだろうがトマトとチーズな 454 ど江戸には売っていないのである。 代用品が必要であった。 九郎は更に三日程悩んで、知識人である鳥山石燕に相談しに行っ た。 神楽坂の近くにある石燕の宅に行くと薬師の安倍将翁も偶然彼女 の家に寄っていて、雀蜂を漬けた薬酒を売りつけている所であった。 古来より毒の強い生き物は酒につければ薬になると信じられている。 二人に事の次第を話すと、 ﹁ふむ。[ぴっつぁ]というものを作るために[とめぃと]が必要 なのだね?﹂ ﹁それで、その[とめぃと]とはどのような植物で?﹂ ﹁なんでお主ら発音が綺麗なのだ﹂ 一応突っ込むが特に理由がないようであった。 九郎は両手のひらで丸く包む球の形を作りながら、おぼつかない イメージを伝える。 ﹁ええとだな、こう丸っぽくて皮が赤くて果肉が水っぽくて⋮⋮﹂ ﹁柿ではなくて?﹂ ﹁たんたんころりん! たんたんころりんだね! ふふふ、たんた んころりんとは柿の妖怪でおっさんの尻から﹂ ﹁その話はどうでもいいわい﹂ 九郎は石燕の高説を遮った。おっさんと尻の関わる話に耳障りの 良い意見などあるはずがない。 ﹁そしてもう一つ必要なのが[ちぃず]ですかい﹂ ﹁それはどのようなものなのだね?﹂ ﹁うむ⋮⋮こう、白っぽい固まりで濃い味の⋮⋮﹂ 455 ﹁豆腐ですかい?﹂ ﹁ぬっぺっぽう! ぬっぺっぽうだね! ふふふ、ぬっぺっぽうと は白くて弛んだおっさんの尻ような妖怪で﹂ ﹁石燕は真面目に考えろよ! どんな妖怪料理を期待してるんだよ ! おっさんの尻になんのこだわりがあるんだよ!﹂ 話を脱線させる石燕に思わず説教してしまう九郎であった。 彼女の妖怪好きにも困ったものである。おっさんの尻が好きなわ けではない。恐らくは。 ともあれ将翁の方は詳しく聞いてきた。 ﹁ふぅむ成る程。[ちぃず]とは牛の乳から醸して作った食べ物と﹂ ﹁心当たりがあるかえ?﹂ ﹁二、三ございます。ま、ちとばかし値が張るものですがね﹂ ﹁⋮⋮抜荷じゃないよな?﹂ ﹁くく⋮⋮とんでもございません﹂ 禁制品でないことを確認したら怪しい笑みを返されて九郎は言葉 をつまらせた。 抜荷というと当時の密貿易品でのことであり、見つかれば死罪と 幕府も厳しく取り締まっていたのだが、それにもかかわらず江戸や 大阪ではさる筋には多くの抜荷が売買されていたという。 もっとも、それに頼らなくても将翁はそれらしい乳製品を知って いたのであるが。 将翁に頼り甲斐のある眼差しを向けている九郎を見て石燕は咳払 いをし、彼の目を向けさせた。 ﹁ごほん。それならば私は[とめぃと]の方を探すとしよう﹂ ﹁なにか当てがあるのか?﹂ ﹁ふふふ⋮⋮とんでもございません﹂ 456 ﹁ねえのかよ!?﹂ 澄まし顔で目を細めている石燕はおどけたように、 ﹁将翁の真似をしただけだよ。なに安心したまえ。この妖怪狩人・ 鳥山石燕にかかれば瀬戸内海に沈んだ草薙剣でもかぐや姫の難題で も見つけてみせるさ!﹂ ﹁あ、いや何分トマトも植物だし、草とかに詳しい将翁に探しても らったほうが﹂ ﹁私が! いいかね!? わ・た・し・が! 九郎君の役に立って みせようではないか! 九郎君は私のことを虚言癖のある酒中毒と しか最近思ってないフシがあるからね!﹂ ﹁おやおや﹂ 猛烈な自己アピールをする石燕を横目で見ながら、人の悪い笑み を浮かべる将翁であった。 実際、彼はトマトに関して、知り合いの本草学者が記録を残して いる事を知っていたのだったが、石燕が探して調べるというのなら ば敢えて彼から助言する必要も無さそうであった。 張り切る威勢を削ぐのは趣味ではない。 一般的ではないが、享保の時代にトマトは既に来日しているので ある⋮⋮ ﹁ま、こちらでご用意が出来ましたら、改めて持ってきますので﹂ ﹁そうか、うむ。頼んだぞ﹂ そう告げて将翁は高下駄を履き薬箪笥を背負って石燕宅を去って いった。 入れ違いに家に帰ってきた百川子興は草臥れた様子で石燕に、 457 ﹁師匠、版元から帰ってきましたぁ﹂ ﹁よしいい所に帰ってきたね子興。今日も不思議探しに出発だ!﹂ 使いっ走りをさせられていた子興はげんなりとしながら、玄関に 置かれた水瓶から汲んだ水で濡らした手ぬぐいで額に浮いた汗を拭 き、問い返す。 ﹁ええ? またですかぁ? この前の[影なし犬]を探す続きとか ?﹂ ﹁いや、あれは飽きたから、次の[きらぁとめぃと]とやらを探そ う﹂ ﹁そんなカルト映画みたいな名前じゃないからな? あとなんでも 探せるとか言いながら普通に諦めてないか?﹂ 九郎が半眼で告げるのだったが、無視されるのであった。 こうしてチーズとトマトの問題は他人に丸投げという形で九郎は とりあえず解決した素振りを見せるのである。 **** 後の日の事。 品川の近くにある鉄鍋などを売っている店で九郎はよさそうな大 きさの鉄鍋と蓋を選んでいた。底が浅く、上から被せる蓋は一回り 大きなものを探している。 彼はピザを焼くのに窯がない事に思い至ったのだ。食いたいと思 ってから用意をしだしたものの、無いもののほうが多い。 458 一日と八時間程悩んだ末に、鍋底に碁石を敷き詰めてその上に生 地を乗せて石焼き風にすることを思いついた。碁石ならば張り付い ても剥がしやすい。それに蓋をして、蓋の上に焼けた炭などを乗せ れば上下から中の生地に熱を伝えることが可能だ。確信犯めいた着 想だ。 店の鍋でやって失敗し、鍋を焦がした場合お房にどつきまわされ ることが懸念されるので新しいものを買いに来たのだ。 ぶらぶらと出かけた先で選んでいると妙に血生臭い空気とともに 彼にかけられる声があった。 ﹁よう、誰かと思ったら九郎の坊主じゃねぇか﹂ ﹁む?﹂ 振り向くと返り血まみれの素浪人風な中年男がぎらついた笑顔で 手を上げていた。 九郎は即座に、 ﹁店主、不審者が﹂ ﹁待て待て、拙者だ拙者ァ。[鮪裂き]の三郎様だよ﹂ 知らんぞそんな新キャラ。 などと考えが浮かんだが、脳内の知人番付で一番血生臭い男が上 がってきてすぐに思い出した。 [切り裂き]同心と呼ばれる正義の人斬り、中山影兵衛であった。 返り血まみれの。三郎とは、影兵衛が同心としてではない活動を行 う際の偽名だ。 ﹁白昼堂々の犯行すぎるであろう。火盗改は何をしている﹂ 九郎が嫌そうに告げる。その目は影兵衛を人殺しの現行犯と信じ 459 て疑わない光が灯っていたのだが、影兵衛は髭面の顔を近づけて潜 めた声で云う。 ﹁いやなァに、ちょいとそこの通りの箪笥問屋で押し込みがあって な? 殺された仏さんの斬り筋検めの為、非番だってのに呼び出さ れたもんでよう。死体使ってなんかこー⋮⋮色々再現してたら血が べっとり着いちまった﹂ ﹁色々再現て﹂ おかしら ﹁押し込んだ盗賊がここで必殺剣・夜桜四重刀! ぶしゃあ! 四 連撃で奉公人は死ぬ! とかやってたらなあ。長官に怒られちまっ たい﹂ ﹁仏は丁寧に扱えよ!﹂ 身振り手振りで刀を振るう様を見せる影兵衛に思わず身を引かせ た。 火付盗賊改方でも剣術の達人として知られている影兵衛なのだが 素行の悪さは高禄の大身旗本生まれとは思えないほどである。しか し、その剣術の目利きから切り傷を見れば、賊の持っていた刃物の 長さから殺しの腕前、体格まで割り出してしまうという特技を持っ ているので重宝がられているのであった。 昨晩箪笥問屋[檜や]を襲った盗賊はまさに兇賊と云うべきもの で、夜中に店に押し入り店主家族と泊まり込みの従業員二十人あま りを斬り殺して、金庫に収めていた千二百両を盗んでいった。 生き残った手代は額を一文字に切り裂かれ、大きく出血したもの の死んだふりをしてなんとか助かったという。 今は現場検証を終えて、火盗改の役宅へ運ばれて治療を受けた手 代が賊の人相を証言しているだろう。 影兵衛は鍋屋の店主に頼んで濡れた手ぬぐいを持ってきてもらい、 付着した血を拭った。 460 ﹁しかしお主の[鮪裂き]とはその血生臭い姿を誤魔化す為か?﹂ ﹁おうよ。勿論鮪も捌けるけどな。これでも案外、盗賊には顔を知 わる られてねえから偽名も通用してな。[鮪裂き]の三郎っつったら深 川の裏町じゃちょっとした悪で有名なんだぜ?﹂ ﹁火盗改とは思えぬ﹂ 盗賊の調査のために元盗賊の密偵を使うことがあるらしい事は聞 いているが、中山影兵衛はもはや悪党が火盗改になったような印象 を受けた。盗賊には[切り裂き]影兵衛の名は売れているが、その 顔自体を見たことがあるものは少ない。大抵出会うと殺されるから である。 素行が悪いが手柄は大きく、家柄もよく剣術道場でもよく指導す るために彼を畏れながら慕う下級武士も多いという。 ﹁さぁて一仕事終わったら昼飯の時分だぜ。鮪の話してたら食いた くなったな。うめぇ処知ってるんだよ。九郎付き合えよ﹂ ﹁鮪か⋮⋮久しく食っておらぬな﹂ ﹁健全な男子たるもの油気を欠かしちゃ力が出ねえっつぅか。殺し をする前はしっかり食っておこうぜ?﹂ ﹁⋮⋮いや、なんで自然と飯を食った後二軒目の梯子感覚で殺しの 予定を入れておるのだ﹂ 軽く肩を回しながら涼しい顔で云う非番の火盗改は白々しく、 ﹁江戸を荒らす悪党どもが今も何処かで、まあ具体的には入谷田圃 の荒れ屋敷でのうのうとしていると思うと正義感がめらつくってな もんだ﹂ ﹁場所具体的だな!?﹂ どうやら前から目をつけていた盗賊宿があるらしい。 461 影兵衛には火盗改の長官にも知らせていない非合法の密偵が複数 人いて、弱みと暴力で支配された手先達は真っ先に彼に情報を与え るのであったが⋮⋮ 二人は品川宿場にある魚料理の店[魚坂]に入った。 ここは影兵衛が贔屓にしている店で彼が鮪や初鰹を買う金を出し てやる事もある。もともと千代田にある旗本中山家お抱え料理人の 弟子が始めた店であるのだ。 時に初鰹と言えば、江戸の将軍が就任した年には慣例として初鰹 を将軍の膳に出すようになっていて、幕府に高値で売れることから こぞって豪商が用意をしていたというが、この頃の八代将軍吉宗は 節制の人だったので、 ﹁鰹節を用意すればよろしい﹂ と、初鰹を買わなかった為に高値で買い集めた商人たちは皆落胆 したという話が残っている。 それはともかく⋮⋮ 鮪の赤身を漬けにしたものを熱い飯に乗せて、摩った山葵を載せ た飯を減り腹に二人は掻き込んだ。つんとする山葵の清涼と、醤油 漬けにしたのに表面はてらてらと脂で濡れている鮪が飯によく合う。 酒も頼んで昼間から良い調子で飲み始めてしまった。 影兵衛が、 ﹁よし、珍しいものを食わせてやる﹂ と、店主に注文したところ、鮪の短冊を油で煮て、解した身に醤 油をかけたものが出された。白くなった身は油で煮たというのにむ しゃむしゃと胃の中に消えていく旨い味である。 ﹁ううむ、これはなかなか⋮⋮高級なツナ缶っぽいところがまた酒 462 に合う⋮⋮﹂ ふと、九郎は自分がピザを作る計画を立てている事を食いながら 思い出した。 目の前のツナをトッピングしたピザが脳裏に浮かび、 ︵良いではないか⋮⋮︶ そう、思った。 ﹁のう影兵衛。これ持ち帰りとか出来ないのか?﹂ ﹁ん? 油漬けだから割りと日持ちするって話だけど⋮⋮ははぁん﹂ 影兵衛は顎髭を撫でながら悪い顔で云う。 ﹁何か良い事企んでるな? おい、拙者も一枚噛ませろよ﹂ ﹁ううむ、ピザだから一枚噛ませろってのがそのままの意味だの﹂ ﹁?﹂ ﹁いや何、珍しい料理を作る材料にしようと⋮⋮な﹂ こうして、材料の一つを都合してくれる相手と出会った事により、 やはりピザを作る運命力が働いていると九郎も強く認識するのであ った。 ただ、その晩。 九郎自身どういう議論で承諾したかは酒も入っていた事もあって 最終的に定かで無くなったのだが、入谷田圃にある盗人宿に九郎は 行く事になってしまったのである。 まあ九郎としても、押し込みをして家中のものを皆殺しにする悪 463 党がのさばっているというのは、縁のある[藍屋]などの店が襲わ れでもしたら堪らないので多少捕縛に手伝うぐらいはよいか、と納 得する。 影兵衛の手先になった気分である。 ここの辺りは夜になれば随分と冷たい山風が田圃を吹き抜けて行 く。 盗賊の教えによれば熱帯夜は家人の眠りが浅く盗みに向かないが、 夏に涼しい夜が来ると途端に盗みが容易になるという。 昨晩もその条件があって、押し込みをし店人を惨殺した盗賊一味 が荒れ屋敷をねぐらにしていると影兵衛の情報であった。 盗賊の数は十を超える。殺すだけならば影兵衛一人でやるのだが、 逃げられでもすれば失態であるために影兵衛は火盗改の人員を呼ん でくる予定であり、その間に盗人宿に一味が確実に居ることと、そ の正確な人数を探るのが九郎に与えられた任務である。 ︵⋮⋮薄明かりがついておるな︶ 口元に魔法の呪符[隠形符]を咥えて軽く首を傾げる。 符の効果は姿がよくよく観察しなければ見えない程に認識が薄れ るというもので、音を立てなければ夜間ではまず気付かれなくなる。 手元に持った、押し込みに入った兇賊の人相書きを月明かりでよ く確認して胸元にしまい込み、忍び足で一周ぐるりと回って忍び込 む場所を探る。 さすがに閉めきった戸を正面から開け入ったら不審に思われるの だ。 九郎はやや考えて、屋根の一部に穴が開いているのを発見したの でひょいと登ってそこから入り込むことにした。 丁度人が通れそうな穴に入ろうとすると、ぬっと闇が内から外へ 這い出てきて九郎はぎょっとした。 その穴から黒装束を着て目元だけ出した覆面の忍者がすっと現れ 464 たのだ。 幽鬼のような目を月光に反射させて忍者は九郎をじっと見たので 思わず、 ﹁あ、どうも﹂ ﹁どうも﹂ と九郎の方から挨拶をしてしまった。声は音と鳴り伝わり相手へ 意思を伝わる。身を隠していても存在が露見してしまうだろう。 忍者もそれに返すと、さっと屋根から飛び降りる。その背中には 重そうな千両箱が担がれていたが体勢を崩した様子も、小判が鳴る 音も立てずに飛ぶような早さで田圃が広がる闇に消えていった。 それを見送った後に九郎は、はっと我に返る。 ﹁⋮⋮見られた、と慌てるのは己れかあやつかどっちなのであろう なあ﹂ とりあえず九郎は忍者を見送って、荒れ屋敷の中に入り天井から 盗賊らの顔を確認しに行くのであった。 その晩、火付盗賊改方の捕物により盗賊[熊蝉]の惣右衛門一味 二十名は一網打尽にされ、半数はその場で切られて残りは市中引き 回しの末、死罪となった。 だが、盗まれた千二百両のうち千両は何故か見つからず、厳しい 責めを与えたものの盗賊一味誰も知らぬ、霞のように消えたとしか 証言されずにその行方は闇の中となる。 後日、浅草近辺の神社仏閣に夜中、賽銭に小判を入れる忍び者の 姿を土地の者が目撃しており、この千両消失も江戸を騒がしている 有名な単独の泥棒、[飛び小僧]の仕業だと噂が市井に広がった⋮⋮ 465 **** 九郎は千駄ヶ谷へ続く道を歩いていた。背中には風呂敷に材料と 鍋一式と炭を背負い、手に持った冷水の入っている桶にはコーラ瓶 の他に酒も冷やされている。 前を歩く石燕は朝に買った生椎茸と葉唐辛子を小さな笊に入れて 運んでいて、時折振り向きながら九郎と会話している。 ﹁││それでその[とめぃと]というのはどうやら[唐柿]のよう でね。野菜屋ではなく園芸屋に聞いてわかったのだが﹂ ﹁ほう﹂ ﹁しかし残念ながら実を売っているわけではなくてね。だが栽培し ている人物はわかった。天爵堂が作っていてちょうど今、赤い実が なっているのだそうだ。 採れたてがいいだろうから彼の家の庭で作ろうではないか。将翁 にも材料を持ってそこに行くように伝えているよ。ところで﹂ 彼女は肩越しに、九郎の後ろを歩く男を見た。 瓢箪酒を下げた着流しの影兵衛だ。いかにもいかがわしい賭場に 居そうな悪党っぽい男であった。 石燕はやや声を下げながら、 ﹁そこの村とか無慈悲に襲う超惨殺暴力盗賊団の頭みたいな彼は誰 だね⋮⋮?﹂ ﹁うむ⋮⋮まあそんな雰囲気だが﹂ 466 有無を言わずに首肯したが影兵衛が、 ﹁おい姉ちゃん、聞こえてんぞ?﹂ ﹁ふふふ⋮⋮九郎君、ここは素直に財布を差し出そう。話せばわか ってくれる﹂ ﹁いや⋮⋮あやつ火盗改だから喝上げとか多分⋮⋮しない⋮⋮のか な⋮⋮?﹂ ﹁信用ねぇなあ﹂ 影兵衛は口を尖らせながら拗ねたように言うが、否定も肯定もし なかった。 ただ、彼は無意味に町人らに恐喝などを行うことはないのだが、 同心やその手先の目明し、岡っ引きなどにはお上の権威である十手 をちらつかせて、悪どい真似をしている輩も当時はいたようだ。 ﹁拙者ァそんなちんけな事はしねぇっていうか。してるやつ見つけ たら同心二十四衆[見えざる]の榎同心に密告しまくっちまうぜ。 お目付け衆からの出向だからあいつに見つかるとやべェんだ﹂ ﹁ところで同心二十四衆って本当に二十四人もお主らのような変な 二つ名持ちがおるのか?﹂ ﹁さあてな。不思議と二十四人全員言える奴に出会えた事ァねぇが﹂ ﹁⋮⋮﹂ そういえば[似非同心]が捕縛されたのだから二十三衆になった のだろうか。或いは一人減ったら一人追加される七人ミサキのよう な構造なのか。 謎は深まるがそれを知ることが有意義なわけでは無さそうではあ った。利悟のような同心が多かったら嫌だな、と思う程度で。 ﹁一応こやつからも材料提供を受けているから食わせてやらねばな 467 るまいよ。ピザは冷めたのを持っていくとかできんからな﹂ ﹁そうは言うがね。彼は翌朝辺り寝起きに上半身裸で冷めた[ぴっ つぁ]を不味そうに齧って飲み残しの酒を不快そうに煽りぐへぇっ てしてるのが似合ってそうな﹂ ﹁どこのはーどぼいるど崩れのおっさんだ⋮⋮いや、まあそんな感 じだが﹂ 九郎は確かにそれっぽいと感じつつ、なぜそんなイメージが石燕 に湧くのか不思議に思いながらも応える。 作家というものは想像力が豊かなのだろう。 適当に納得しつつ足を進めた。 暫くして千駄ヶ谷の田舎にぽつんと建っている天爵堂の自宅へ辿 り着いた。 改めて見ても、将軍の側用人を務めていた元幕府の用人とはとて も思えぬ質素な屋敷である。以前に来たのは夜中だったからよく見 えなかったが、庭だけは広い││というか庭と野原の区別が今ひと つ付かなかった。 家の横手に青々と葉を広げているイチョウの影で敷物を広げて、 天爵堂││新井白石が茶を飲みながら書物を読んでいた。外の日差 しは強いが田を吹き渡る水気を含んだ風があるので、木陰は十分に 涼しい。 その向かい側に狐面を付けたままの安倍将翁が目の前の茶にも手 を付けずに正座していた。 間を気まずそうに、前もって言付けと材料を運んでいた子興が目 線を逸らしたり、飲み干した後の湯のみをお代わりもせずに口元に 運んで舐めたりしている。 九郎は石燕に疑問の声を投げかけた。 ﹁なんだあの微妙な空気の空間は﹂ ﹁ふふふ、呼んでおいてなんだけれど、将翁と天爵堂は仲が悪いの 468 だよ。陰険な方向で﹂ ﹁挟まれた子興が哀れだな⋮⋮﹂ こちらに子興が気づくと無言で泣きそうな顔をしつつ手招きをし ている。 二人が仲が悪いというよりも、人間関係の多い彼からするとかな り珍しいことなのだが安倍将翁の方が一方的に相手を嫌っているの で天爵堂も苦手に思っているのであった。 というのも、将翁が作る様々な薬の材料は清や朝鮮でしか栽培さ れていない物も含まれており、鎖国をしていた当時の日本はそれら の多くを朝鮮からの輸入によって手に入れていたのだが、一昔前に 側用人・新井白石の出した政策により朝鮮通信使の簡略化と共に交 流が悪くなっていたのだ。 手に入り難くなった朝鮮人参を国内栽培しようと将翁は試行錯誤 を繰り返す羽目になったのでそのような政策を打ち出した天爵堂に 良い思いを持っていない。 しかし今日は彼の作った唐柿に用事があるのと石燕に呼ばれたの で来たのだったが、茶の前で狐面も取っていないあたりに壁を感じ ざるを得ない。 そんな様子を見て九郎が近づこうとすると、ずかずかと遠慮の無 い歩調で影兵衛が天爵堂に寄っていく。 と ﹁おうおう、ど田舎くんだりに住んでる変なあだ名の爺さんだと思 ってたら、新井の爺っつぁんじゃねえか! 久しぶりだなこの野郎 !﹂ ﹁⋮⋮そのだみ声は﹂ 天爵堂が軽く頭痛をこらえるような仕草をして、近寄ってくる髭 の中年を見て苦みばしった顔をした。 469 ﹁中山殿のところの悪童じゃないか⋮⋮なんでこんな所に﹂ ﹁拙者も招待されてなぁ﹂ ﹁む、影兵衛と天爵堂は知り合いであったか?﹂ 九郎は軽く石燕に目配せをしたが彼女は肩をすくめて首を振った。 そもそも影兵衛を知らなかったので石燕が知る由もない。 影兵衛は笑い声を上げながら、 ﹁おうよ。もともとは拙者の火付盗賊改方長官やってた爺さんのあ やっとう だ名だが、新井の爺っつぁんも幕府で[鬼勘解由﹂とか言われて有 名だったんだぜぇ? この爺っつぁんも剣術が相当に鬼強かったん だとよ﹂ ﹁へえ⋮⋮なんというか文系に見えるが意外だの﹂ 天爵堂は否定するように、 ﹁いや、火盗改の中山殿が強かったから僕も相対的に強く見られて いるだけで﹂ ﹁謙遜するなって爺っつぁん。おいおい、昼間から茶なんて染みっ たれたもん飲んでないで酒を飲ろうぜ。そこの狐の兄ちゃんも置物 みてぇに座ってねぇで﹂ どっかと敷物に座り込んで瓢箪酒を汲みだし、即刻影兵衛は絡み だした。 天爵堂の受領名は影兵衛の祖父、火付盗賊改方の初代長官とも称 される中山勘解由と同じく[勘解由]である。二人が幕府に仕えて 活躍した年代こそ違うものの、その縁から中山家と関わりがあり影 兵衛とも顔見知りだったのである。 そして他人に遠慮という言葉は知らない影兵衛である。早速持参 した海苔の佃煮を敷物の中央に置いて飲み始めた。野外の茶会風の 470 光景が一気に飲み会に変わってしまい、天爵堂は深々と息を吐いた。 ﹁はあ⋮⋮﹂ ﹁ところで、唐柿とやらはどこかの?﹂ ﹁ああ、さっき収穫しておいたけれど⋮⋮﹂ と、天爵堂は笊に盛った赤い果肉をした果実のごとき野菜を九郎 の前に出した。 それは若干現代で見るよりもくすんだ赤色で形も若干異なるが、 質感や匂いはまさにトマトである、 天爵堂はやや思案顔で、 ﹁話は聞いていたが本当にこれは食べられるのかい? どうも赤々 していて青臭くて食欲を唆らない。観賞用に買っていたものなんだ。 植え付けはジョバンニが一晩でやってくれたけれど﹂ ﹁ジョバンニって誰⋮⋮? いやともかく、これは確かにトマトだ。 生食用に品種改良されているわけではないからな。火を通してソー ス⋮⋮ええと、たれにするのがいいのだ﹂ ロ ﹁そうなのか。これを好んで食べていたって話をしてくれた彼を、 ーマ 下手物食いのような目で見ていたことは謝らないといけないな。羅 馬人って味覚があれだなと﹂ ﹁可哀想な﹂ ちなみに、軟禁されていたのにこっそり脱走してまで植え付けし てくれたジョバンニこと密入国と侍コスプレに定評のあるイタリア 人司祭[ジョバンニ・バティスタ・シドッチ]は天爵堂の友人であ ったが、トマトの実を見ること無く亡くなってしまったのであった。 ともあれ久しぶりに見たトマトで九郎は異世界で一度だけトマト 投げ祭りとでも云うべきトマト攻城戦祭りに参加したことを思い出 した。トマトを詰めた投石器で城壁を破壊したりトマトボウガンが 471 猛威を振るったり樹召喚士がトマト隕石を降らせたりして地形が変 わったりしていた。やりすぎである。死人は出なかった。 懐かしい過去に思いを馳せながら、これならば十分にトマトソー スが作れるだろうと九郎は見込んだ。 そして今度は将翁に ﹁ところで将翁、乳製品の方は﹂ ﹁御用意出来ていますとも﹂ と、薬箪笥の中から二つの包みを取り出した。 包んでいる布を解くと白い固まりがある。片方は半ば溶けかかっ たような状態で、小さな重の入れ物に入っている。 ﹁こちらの形がしっかりしている方が[醍醐]。公家に人気の酒の つまみでございます。 こっちの緩い方が吉宗公が作らせた[白牛酪]。疲労回復、滋養 強壮の薬でこれを食えば労咳の者も具合が良くなるというもので﹂ ﹁ふむ、ちょっと味見を⋮⋮﹂ と、九郎が指を伸ばして、軽く摘んで舐めてみると醍醐はやや塩 気が無く牛乳の甘みを感じるもののねっとりと濃厚で、白牛酪は脂 肪分が多く無塩バターみたいだった。 合わせればよくピザに合いそうだ。 ﹁ところでお代の方ですが﹂ ﹁幾らだ?﹂ ﹁ま、あたしも味見させて貰うもんで値引きして⋮⋮このぐらいで﹂ ﹁そうか⋮⋮よし、石燕。ちょっと小遣いを﹂ ﹁いいともいいとも。ふふふ、これで九郎君に貸したお金は累計十 四両六朱⋮⋮﹂ 472 ﹁き、記録されておる⋮⋮﹂ 嬉しそうに財布から金を取り出す石燕に九郎が愕然と呟く。 それを見ながら影兵衛と子興の二人が、 ﹁浮気が二回は示談できる金額だなぁ﹂ ﹁九郎っちが浮気の示談金まで師匠に借りるというゲスにならない ことを祈ってる﹂ ﹁お主ら⋮⋮﹂ 呟くのを聞いて九郎は呻いた。そして、意外と浮気の示談金って 高いなあとか無駄な心配をしつつ。 ともあれ⋮⋮。 九郎のピザ作りの材料は集まった。トマト、チーズ、生地にトッ ピング。後は調理をするだけである。 そうしてまずはソースを作るにも生地を焼くにも必要な火を野外 で軽く石を積んだ場所で起こし、火力を安定させた。 九郎が汗を拭きながらふうふうと息を吐いてやった。 借りた土鍋に白牛酪を塗りつけて刻んだ唐柿を潰しながら少し塩 を入れ煮込んでソースを作った。鉄鍋で煮ると鍋の成分とトマトが 化合して見た目も味も悪くなるのである。 九郎が蒸気に噎せて涙を出しながら頑張った。 予め作っていた生地を丸く伸ばしてソースを塗りつけ、具と醍醐 を盛りつけて、碁石を敷いた鍋を十分に加熱させたものに入れ、火 473 の通り具合を見るために片時も離れずに時折熱々の蓋を開けて串を 刺し様子を見た。 九郎が指先を軽く水膨れを作りながら背中をぐっしょりと濡らし て奮闘していた。 その間、勝手がわからぬ為に皆は木陰で冷えた酒を飲みつつ見守 っていた。 ﹁││ァ暑ッいわあ!!﹂ 九郎は井戸から汲んだ水を冷やしまくって頭から被りながら叫ん だ。 コーラの正式な飲み方から始めたことではあったが。 この炎天下の中するような作業ではなかった。冷房の効いた部屋 で宅配のピザを頼むかレンジでチンする感覚で作ろうと思い始めた ものの、実際にやってみると熱中症寸前になってしまったのである。 ﹁この暑いのにピザとか己れは馬鹿か! 流しそうめんでもすれば 良かったわ!﹂ ﹁まあ九郎君そう言わずに。ほら、焼きあがったようだよ﹂ ﹁なぬっ﹂ 九郎が髪から滴を垂らしながら、大皿に取り持った江戸前ピザを 見やる。 きつね色に焦げた米国風の分厚い生地に、瑞々しさを残した赤い 唐柿ソース、溶けてそれと混ざったような醍醐と白牛酪がふつふつ とまだ沸騰しており、乗せられた茸とツナが湯気を上げていた。 474 見たことのない料理に影兵衛が、 ﹁おう、美味そうじゃねえか! へへ、これ切り分けるよな? 拙 者の刀使うか?﹂ ﹁いや⋮⋮お主の人を切ってる刀はちょっと衛生的にも倫理的にも 悪いから普通に包丁で切るわい﹂ そう言って九郎は唐柿や材料を切った包丁を持って、江戸前ピザ に刃を入れた。 しかし押し付けても粘りのある小麦粉に刃が通らず、刃を引きな がら切ろうとしても油で滑ってしまう。切れ目のないピザを普通の 包丁で切り分けるのは面倒なことなのだ。 暑さでいらいらしていた九郎は、鍋等を持ってくる際に風呂敷を 提げる為の棒として持ってきたものを怒鳴りながら抜き放った。 ﹁ぬあああ! 刃よ閃けアカシックピザ切りバーン!!﹂ ﹁ああっ、九郎っちが食べ物切るのに凄い太刀を振り回してる!﹂ ﹁確かに凄い﹂ 異世界的魔法のかかった凄い級の名刀が油ぎっとぎとの食べ物切 り包丁に変わっていた。 竜の鱗を切っても百万の軍勢を切っても刃毀れしないそれは、芸 術的なピザの断面すら作らん限りに凄い綺麗にピザを切り分けたの である。 九郎は肩で息をしながら、その結果を見てようやくやり遂げた笑 顔を見せた。 ﹁よし、コーラだ! ピザを食ってコーラを飲むぞ! これで己れ が作ってる間にコーラを勝手に飲まれてたとかなったら、怒りのあ まり星ごと切り裂きかねんぞ!﹂ 475 ﹁││っぶねぇ。おい、狐のあんちゃん、よかったなおい飲まなく て﹂ ﹁││あたしゃそんな方針打ち立ててませんぜ。むしろ新井殿が興 味津々で﹂ ﹁││僕じゃない。石燕だろう﹂ 九郎の言葉にひそひそと言葉を交わし合う連中は片手にまだぎり ぎり開けていないコーラ瓶が掴まれており、こっそりと冷水の中に 戻したのであった。 辛くも惑星の危機は去った。 九郎が普段見せない剣呑な表情で薄緑色をしたコーラ瓶の縁を切 り落とすのを見ながら安堵の息を放つのは石燕のみであったが。 ﹁しかしあれだ、せっかくだから皆もコーラを分けて飲もうではな いか﹂ ﹁九郎君、それは悪いよ﹂ ﹁いや良いのだ。どうせ満足したいというのならば今の己れは一リ ットルぐらい飲まねば足りぬだろうし⋮⋮気分を味わえればな﹂ と、気前よく九郎は一瓶のコーラを猪口に分けて皆に配るのであ った。暑さで興奮して叫んだものの、一人で飲み干すよりも他のも のにも苦労をした甲斐を味わって貰ったほうがいいとやや冷静にな った頭で考えたのである。 そうして切ったピザも行き渡り、 ﹁よいか、まずこのピザを食う﹂ 九郎が二等辺三角形をした熱々のピザを見せるようにてっぺんを 齧り口に入れた。 ここ暫く味わってなかった乳製品の脂肪分の味がして、次にやや 476 酸っぱすぎるぐらいの唐柿ソース、和風に味付けされたツナの塩味 がする。香辛料として刻んでまぶした葉唐辛子が良い風味を出して いた。 口の中が醍醐と白牛酪の油でまみれるのを感じつつ、 ﹁そしてコーラを飲む﹂ 洗い流す甘い炭酸の液体が口腔を通過する。コーラボトリング会 社の素晴らしい技術は数ヶ月程度の放置でもその風味を損なわせな かった。 あまりに爽やかな味で九郎は全身の疲れや汗や長年悩まされた飛 蚊症、老眼気味の弱遠視が一気に治った気すらした。それほどに、 ﹁うまい⋮⋮﹂ のであった。 感動して目頭を抑えている九郎を見て、他のものもいそいそと食 べ始め、 ﹁おっ、うめぇうめぇ﹂ ﹁ほう⋮⋮この[こぉら]と云うもの、不思議な味が。名前からし て⋮⋮高麗伝来ですかい?﹂ ﹁熱っ、熱ひっ!﹂ ﹁ふふふ慌てることはないよ子興。しかしなかなかに乙なものだね。 総撫で付け髪の美食家も認める味だ﹂ などと喜んでいるのであった。 コーラ自体は一杯で皆飲み干してしまったが、追加で酒を更に飲 んでつまみも火を用いたりして焼いて食し、昼間から本気飲みをし まくる集団になるのにそう時間は掛からなかった。 477 飲酒を止めたり咎めたりする子供は不参加なのである。 こうして集団でわいわいと飲むのはここ数年、あまりないことな ので九郎もつい飲み過ぎてしまうのであった。 二枚目のピザの焼かれた匂いが千駄ヶ谷の風に薄れて溶けていっ た。 **** その日の晩。 顔をぼこぼこに腫らした九郎が石燕を連れたって帰ってきたので、 お房は濡れ手ぬぐいを彼の顔に押し付けながら尋ねた。 ﹁どうしたの一体⋮⋮﹂ ﹁いや⋮⋮昼酒が回って寝入ったら蚊に刺されまくって⋮⋮石燕と 将翁がウイスキーとか老酒とか出すから久しぶりにやられたわ。己 れもすっかり年だのう﹂ ﹁その割には先生は平気そうだけど。虫さされ﹂ と、石燕のほうは普段通りの白磁のような肌のままである。九郎 は赤く膨れておまけに痒く、心底うんざりした様子であるのに。 彼女は胸を張りながら、 ﹁ふふふ、私は九郎君の服に顔を突っ込んだまま寝たからね!﹂ ﹁いい年してやってることが一回り以上年下のお八姉ちゃんと同じ なの⋮⋮﹂ 478 呆れたお房であった。 その場に居た将翁以外、全ていつも以上に度数の濃い酒を飲んで 泥酔して蚊に刺されたのであった。平気だったのは、顔を隠した石 燕と狐面を被ったまま酔い潰れることもなく中座した将翁だけであ る。特に将翁などは毒を飲んでも平気だという噂があるほどなので 酒に酔う姿などは見せることはないだろう。 全員がそれとなく虫さされでうなされて目覚めた後は解散となっ たが、影兵衛が天爵堂と子興を引っ張って飲みに連れて行っていた ので石燕と九郎は二人で帰ってきたのである。自分らの知らないと ころで三人から下世話な噂話を肴に酒を飲まれているとは九郎も思 っていない。 ともあれ九郎は受け取った濡れ布巾に熱痒い顔を埋めたまま、 ﹁あー⋮⋮ところでフサ子よ、お土産のピザを持ってきたぞ﹂ と、一片に分けたピザを薄紙で包んだものを渡した。 ﹁火で炙って温め食うが良い﹂ ﹁うん。ありがと。晩御飯はそら豆でご飯を炊いてみたいんだけど、 食べられそう?﹂ ﹁そら豆ご飯⋮⋮うまそうだから食う﹂ ﹁食い意地が張ってるの﹂ くすり、とお房は笑った。 う ﹁ふふふ私にはそら豆を茹でたやつに冷酒を一本つけて出してくれ たまえ!﹂ ﹁だぁめ。先生も麦湯にしておくの。だいたいお酒の飲み過ぎで手 が震えるようになったら、絵師としてどうするのよ。たまには真っ 479 当なご飯食べないと長生きできないの﹂ ﹁私はかなり長生きしてる方だよ? ⋮⋮わかったわかった、そう 睨まないでくれたまえ﹂ 娘のような年齢の従姉妹に説教されて降参している石燕を見なが ら、九郎は塩気のあるそら豆飯を飲み込んで、伏見の下り酒で口を 潤した。 窓からは立秋を過ぎ、澄んだ夜空に半欠けの月が浮かんでいた。 ﹁秋は近いな⋮⋮﹂ ﹁しれっとご飯食べながらお酒に手を出すななの!﹂ 感慨深く呟いた九郎の後頭部にアダマンハリセンが殴りつけられ、 よく響く音を出した。子供というのは自分が飲めない酒に関しては 狭量であると苦笑しながら石燕と顔を見合わせる。 480 20話﹃永代橋﹄ 六月から九月にかけての夏の期間の江戸はどこか浮かれている気 配が有る。 この期間は盆や祭りが多く開かれており、夏の暑さにより仕事よ りも遊楽を行う人が多いためであろうか。 月に二三度は江戸の何処かで祭囃子が聞こえてくる程であり、祭 り好きの江戸の町人たちは明けても暮れても騒いでいる。 この年は二年に一度の富岡八幡宮││深川八幡とも呼ばれる││ の本祭りの年であった。 八月の十五日、祭りの中心日であり江戸の町を神輿行列が練り歩 く当日、九郎は[緑のむじな亭]で店員をやっていた。 お房は同じ長屋に住む盲の女按摩お雪と神輿を見に出かけたので 代わりに店を手伝っているのだ。 まだ子供であるお房が、祭りに遊びも行かずに家の茶汲みに飯炊 きを手伝うというのも、あまりよろしくないと六科と九郎が思って 遊びに行かせたのだ。保護者としてもついていったお雪は盲ではあ るが感覚に優れていて、人混みでもゆっくりならば歩くのにそう支 障はない。 昼の営業を終えれば六科と九郎も祭りに行き、神輿を見ようと子 供たちに約束させられている。 その日の店の日替わり飯は、冷たいけんちん汁を素麺にかけたも のである。あまりこの店では煮込み料理や汁物などは出さないのだ が、今日は九郎が調理を手伝った為に六科の作業は素麺を茹でて置 くだけだった。 九郎の持つ呪符によりこの店で出される冷酒や麦湯は冷たくて良 481 いと最近評判になっているのであったが、この冷えたけんちん汁も また美味かった。 さっぱりした味付けで、仕上がりに少しだけ胡麻油を垂らしてい る。その香りがまた食欲をそそるため、珍しく繁盛してけんちん汁 を切らしてしまった。 自分も昼飯にと楽しみにしていた九郎は若干気落ちしながら、残 った素麺を緩い酢味噌に和えて、それをおかずに白飯を食った。 ﹁しかしあれだな、この店小さい鍋しか無いのだな﹂ ﹁うむ。前は大きいのもあったのだが、借金で手放した﹂ ﹁それで店に出す分の飯が足りるというのも悲しい話だ。大きい奴 があると色々材料が煮込めて良いのだが。鶏がらとかのう。次はラ ーメンが食いたい﹂ ﹁鶏がらか。なかなか美味いが少し骨が多い﹂ ﹁出汁を取るものだからな?﹂ ﹁││出汁⋮⋮?﹂ ﹁あれ!? お料理教育度が初期値に戻ってないかお主!?﹂ 不安になって訪ねてみるが、六科は﹁ああわかってるあれだろう あれ﹂と応えて、山椒の粉と塩を白飯にふりかける為に顔を背けた。 そしてようやく思い出しのか、顔を上げて、 ﹁あの⋮⋮魚とかを煮ると湯に味が移るやつ﹂ ﹁まあそうなんだがその認識の仕方ってどうなのであろうなあ⋮⋮﹂ ﹁もしくは出羽国︵山形︶の名物で茗荷と葱と紫蘇を刻んで醤油と 酒で和える食べ物﹂ ﹁なんでそっちは知ってるかな⋮⋮しかし言われると食いたくなる。 今度作ろう﹂ 九郎はシャッキリとした歯ごたえと暑気払いに良い塩梅の[山形 482 のだし]を思い出しながら、飯茶碗に冷たい麦湯を入れて米粒を落 とし啜った。 材料も安くこの時代でも手に入るので簡単に作れそうではある。 ﹁ところでお主、なんでもうまいうまいと食うが特別な好物は無い のか?﹂ ﹁あるにはある﹂ ﹁それは?﹂ 六科は顎に手をやり、味を思い出しながら小さく頷いて、 ﹁麦飯にな、醤油を垂らして混ぜて食うと﹂ ﹁⋮⋮祭りの日にそんな物哀しい飯の話題を出すな﹂ ﹁俺が昔知り合った牢名主お勧めの食卓なのだが。物相飯︵牢で出 される飯︶の中では一等に美味い﹂ ﹁臭い飯を好物になるなよ⋮⋮﹂ 残念そうな顔を六科に向ける九郎であった。 とりあえずこの男、味が濃いか辛いものが好みのようである。普 段の食事にも醤油や塩、唐辛子などをよくふりかけて食っている。 やたら高血圧になりそうな気がするが江戸の町人の食事は現代よ りもずっと塩っ辛いものとたっぷりの白米という組み合わせが多か ったのも事実であるようだ。 ﹁よし、それなら今度すた丼を作ってやろう。伝説のすた丼だ﹂ ﹁伝説とまで言われるか﹂ ﹁いや⋮⋮出している店がそういう名前だっただけだが﹂ ﹁⋮⋮﹂ 六科は箸を置いて胡乱げな眼差しを向けたまま麦湯を飲んだ。 483 気にすること無く九郎は料理の概要を伝える。 ﹁豚肉を⋮⋮豚肉売って無いな江戸⋮⋮まあ猪の肉は頼めば晃之介 が獲ってきてくれるか。それと葱を甘辛く醤油と酒で煮込んで、下 ろしたにんにくと生姜をたっぷり目に入れた刺激的なものを丼いっ ぱいの飯に乗せるのだ。卵を落としてもいい。昼に食ったら晩飯ま で入らんような満腹度になる﹂ ﹁なるほど、美味そうだ﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ などと飯の話題をした後に、二人は食器を片付けて出かける準備 を始めた。 暖簾を下げて店先に出していた看板を引っ込め。店仕舞いにする。 昼の時分を過ぎればなにせ祭りの日だから客も入っては来ないだろ う。 いつもよりも人通りのある道を九郎と六科は並んで進みだした。 ﹁確か、永代橋の上で神輿を見物するとか言っていたな﹂ ﹁しからずんば向かうとしよう。む? しからずんばで合ってたっ けか? 用法﹂ 己の言葉に対して訝しさを感じながらも、九郎は店の外に出て強 く海から吹く風と舞い上がる埃に目を軽く伏せる。 通りはやはり人が多い。それに、祭囃子があちらこちらから聞こ える。 深川八幡の祭りは年を置いて開かれるために、神田祭などにも負 けぬほど賑やかになる。大川︵隅田川︶を挟む通りに多くの見世物、 大道芸も立ち並び、祭りに繕った着物の町人たちが楽しげな表情で 往来していた。 484 大川にも幾つもの船が浮かび、金のあるお大尽達は船上から酒を 飲みながら祭りの雰囲気を味わっている。 川沿いに永代橋へ向かう途中で露天で小亀を子供に売りさばいて いる、以前に辻斬り騒動で出会ったその日暮らしの朝蔵が居た。 亀売りは、亀の首に紐を付けただけのもので、子供が川で泳がせ て遊ぶのである。大抵一度で紐が首から抜けて川に帰っていく使い ほうじょうえ きり系の愛玩動物である。不忍池などで甲羅干ししているものは容 易に捕まえられて元手がかからない。 ちょうどこの日は深川八幡の祭りで[放生会]と呼ばれる祭礼が 行われており、捕らえた生き物を再び放つ事で死者の冥福を祈る意 味を持つ。この日に合わせて魚の稚魚や亀、雀などを捕まえて売る 物売りが多いのである。 朝蔵が売り物の亀を食紅で色付けするとなんかリアルになってプ レミア感な事を九郎と六科相手に得意げに披露していると、後ろか ら声がかけられた。 ﹁いたいた。おーい九郎、六科の兄貴、一緒に祭ろうぜ!﹂ ﹁店に居ないと思ったらここに居たのか﹂ 振り向くと茜色の浴衣を着て手を振っているお八と、編笠を被っ た深緑の着流しの晃之介が居た。 どうやら一度緑のむじな亭に寄って九郎を誘おうとしたのだが、 既に出ていたために追ってきたようだ。 最初から共に行く約束でもしていればよかったか、と合流する友 人らを見て九郎は虚無めいた無計画さを自嘲する。 晃之介の姿を見た朝蔵が ﹁しゃあああ!﹂ 485 と、奇声を上げ、商品の亀を連れて川に飛び込んで逃げていった。 晃之介に若干トラウマが残っているようである⋮⋮ **** ちょうどその時、主も店員も居ない緑のむじな亭に、祭りに相応 しくない喪服の鳥山石燕が千鳥足で入ってきた。 既にかなりできあがっているようで、赤ら顔で酔っぱらい声を上 げる。 ﹁九郎くぅぅん!? お祭り、ふふふふ、お祭りだよぉぉ⋮⋮あー そーぼ⋮⋮うっぷ。 おや、居ない⋮⋮ふふふ私の勘が正しければ橋! 橋に向かって るねっぷ⋮⋮。 恐らくは浅草橋だね! あさくさばしおちた∼♪ おちた∼おち た∼♪ あさくさばしおちた∼♪ まいふぇあれおろろっ﹂ ﹁うわ師匠!? 妙な歌口ずさんだ挙句噛んで吐かないでください よゥ!?﹂ ぐったりしながら、永代橋と逆方向へ向かうのであった。 **** 486 一方で歩幅を緩めて並び歩く四人である。 九郎は編笠をずらして、軽く仰ぐように爽やかな笑みを見せる晃 之介に、 ﹁おっ⋮⋮その格好だといかにも剣客の先生みたいだのう﹂ ﹁師匠は実際に先生なんだぜ﹂ 何故かお八が偉そうに胸を張る。お八の胸は平坦であった。 得意げな一番弟子の様子に九郎も晃之介も微笑ましいものを感じ て、 ﹁そうだな﹂ ﹁ところで弟子は新しく入ったか?﹂ ﹁いや⋮⋮道場破りならこの夏で四人は返り討ちにしたんだけどな﹂ ﹁うーんあれじゃないか師匠? あの全身ぼこぼこにされて血まで 流してる連中の首に﹃六天流道場入門者募ム﹄とか書いた木札を提 げて町中歩かせたのが印象最悪だったというか﹂ ﹁怖いわ! どの層に向けたあぴーるだそれは!﹂ そんなものを見せられても目的が謎の恐ろしい団体が行う見せし めにしか思えないだろう。もしくはその満身創痍の男が六天流の人 物と判断するか。どちらにせよ、関わりたくない。 むしろ通報されなくて良かったと安心するレベルである。 六科が腕を組みながら思い出すようにして、 ﹁俺も見たがあれはそういう意味だったのか。背中に大きく﹃敗け 者﹄と書かれていたのでなんかそういう乞食かと思われて見物客に 集団で銭を全力で投げつけてられていた﹂ ﹁余計可哀想だな!﹂ 487 ﹁すると一人の僧侶が[敗け者]の前に庇うように立って、﹃この 中で一度も負けたことが無いものだけが彼に銭を投げなさい﹄と云 うと次第に見物客は去っていった。残されたのは地面に倒れ伏した [敗け者]に何故か超本気で銭を投げつけまくるその僧侶だけだっ た﹂ ﹁なんで小話風になってるんだ!?﹂ 酷く諸行無常な光景が浮かんで九郎は軽く頭を抱えた。 頭痛を忍ばせながら一応、 ﹁とにかく、その宣伝方法はやめておけよ﹂ と、忠告はしておくのであった。 ﹁そういえば晃之介、今度猪とか狩る予定って無いか?﹂ ﹁俺は猟師じゃないんだけどな﹂ ﹁まあ良いではないか猪の一頭や二頭⋮⋮罠とか作るから﹂ ﹁九郎。何を言ってるんだ。猪狩りとは、向かってきた猪を見切っ て棍棒で殴り倒すのが正式だろう﹂ ﹁⋮⋮なにその蛮族みたいな方法。野生動物相手に正面からなんで 打ち倒しちゃうの。縄文人でもちょっとは知恵を使うぞ﹂ ﹁いや、しかしこれはかの公方様、吉宗公も実践した事がある方法 でな﹂ ﹁暴れん坊すぎるであろう⋮⋮﹂ 呆れて口を開いたまま、江戸城の方角を仰ぎ見る九郎だった。 吉宗が狩りをしている時に現れた大猪が、従者の放った鉄砲を二 発食らっても死なずに吉宗めがけて突進してきたが、危なげなく従 者から受け取った鉄砲を逆手に持って殴りつけて仕留めたという話 は有名である。 488 その猪は人夫14,5人で持たねばならぬほどの大物であったと 言われている。 ともあれ、晃之介が、 ﹁近くの農家に猪が出なかったか聞いておこう。今度は何かうまい ものを作っても除け者にするなよ﹂ ﹁この前は悪かった。なにせ、お主が柳川藩の上屋敷に出かけてる 日だったものでな﹂ 多少バツが悪そうに九郎は謝った。 ピザを作って大人の友達連中に振舞ったのだがちょうど都合が悪 く晃之介は誘えなかったのである。 いつも暇している寂れた武芸道場の主ではあるが、大大名の柳川 藩立花氏に晃之介は気に入られてて、月に一度か二度程出入りで弓 の稽古へ行っているのである。 お八が九郎の顔を覗き込みながら、 ﹁なんだなんだ? なにか食い物の話か? あたしも食べたいぞ﹂ ﹁ううむ、美味いものだが女子供が食うにはちょいと刺激が強いか もしれぬなあ⋮⋮伝説のすた丼﹂ ﹁なにせ伝説だからな﹂ ﹁伝説か⋮⋮凄そうだな﹂ ﹁ずるいぞ!﹂ 男連中が頷き合っているのを見て、お八は胸の前に手をやって叫 んだ。お八の胸は平坦であった。 晃之介の道場に九郎が時折顔を出すことが有るのだが、その度に 彼自ら手を振るう料理はお八も好物であるのだ。そう手の込んだも のではないが味付けの基礎をしっかりしている。晃之介が作ると節 約もあって根深汁をぶっかけた飯だけだ。 489 おさん お八自身の得意料理は未だに握り飯と焼き握り飯ぐらいなのだが ⋮⋮一応学ぼうと、実家で雇っている下女の仕事を手伝ってみたり してはいるので今後の成長に親は期待をかけて、ぬる温かい眼差し を送っているのである。 九郎の袖を掴みながら噛みつかんばかりの表情で三白眼を尖らせ 睨んでくるお八であったが、さすがに嫁入り前の女子が食う食べ物 ではないので食わせるのは躊躇が有る。間違いなく口臭問題が発生 するからだ。彼女の実家の両親も悲しむだろう。刑事の説得が胸を 打つ。 ︵カツ丼も作ろう⋮⋮︶ と と落とすその響きからして王者の カツ 喚くお八の言葉を右から左に聞き流して九郎はそんなことを連想 ドン するのであった。なにせ、カツ丼は丼業界の頭である。 来て聞くものを期待させ 座は揺るぎない。﹁カツ丼!﹂と聞くだけで心踊らされるものだ。 いささか、料理屋でも例えば牛丼などを頼む時よりカツ丼を頼む時 の声量の方が大きい気がする。牛丼はもそもそ食べるのが似合うが、 カツ丼は丼をがっしり掴んでわしわしと食べるのが良い。 ともあれやはりそうなると豚肉がネックになるので猪で代用する か、チキンカツにするかの決断は必要だ。薩摩・島津藩では江戸時 代でも黒豚が食されていたようだが、現代と違って輸送手段が無い 当時ではナマ物を江戸に売り出しには来れない。 獲った猪肉をどうせ一度では消費しきれないので、いっそ[氷結 符]で凍らせて保存してみようかなどと考えても見るのであった。 そうして一行はやがて永代橋近くにやってきた。 長さは百十間︵約200m︶、幅三間余︵約6m︶程もある大き な橋である。大川ではもっとも河口付近にあり、船の行き来が多い 490 虹橋 とも呼ばれる、弓型にアーチめいた作りは当時の建築技 ために橋の高さも相当に高く作られている。 術の高さを伺わせ、現代人にして異世界帰りの九郎も感心する程だ。 ﹁ちょうど神輿が通ってるところだぜ﹂ お八が目の上に手で陰を作りながら遠目で見遣った。 半被を着た若衆が担いだ神輿が乱暴なぐらい持ち運びながら、そ れを見物する客と共に橋を渡っている。 圧巻されるほどの人出だ。橋が大きいとはいえ、数百人は乗って いるだろう。 そして、 ﹁あっ、あそこに居るのお房と雪姉じゃないか? 早く行こうぜ!﹂ お八が指さした橋の中央の当たりに見覚えのある浴衣姿の手を繋 いだ二人が居た。 離れているが向こうもこちらに気付いたようで、お房が手を振っ ている。なにせ六科は周りと比べて頭が飛び出る程に背が高いので 離れていてもすぐわかる。 手をお八に引っ張られて九郎らが永代橋へ進もうとした時である。 橋が歪んだ。 熱気からくる錯覚かと思って、九郎のみならず何人も目を疑った 次の瞬間、永代橋は中央から真っ二つに割れて橋脚がへし折れ、上 に乗る人達ごと川に崩れていく。 橋の上の祭り客と神輿の重さに、永代橋が落ちたのだ。 お房とお雪もそこに居た。 現実感がない程、祭囃子が止んで静まる。 491 次に悲鳴が上がる前に六科は動きの止まった町人を跳ね飛ばすよ うに走り出した。 そして天地を震わすような叫喚が上がる。 ﹁六科⋮⋮! くっ! 晃之介! そこらの船宿から舟を出してく れ!﹂ ﹁わかった、九郎は!?﹂ ﹁飛び込んで二人を助けてくる! 六科一人では手に余る!﹂ ﹁了解⋮⋮! お八もこっちに来て手伝ってくれ!﹂ ﹁あ⋮⋮ああ!﹂ 叫んで、九郎は六科を追い駆けた。 昔は火消しとして、人を押しのけて別の縄張りの町火消と喧嘩を し真っ先に駆けつけるのを仕事としてただろうか、右往左往して混 乱している群衆で混雑しているが、虫を蹴散らすように六科は大型 の体躯をとんでもない速度で前進させている。 その怒りすら感じる脚力は踏みつける地面が、固く舗装されてい るというのに足型が残るほどである。一歩で一間以上は飛び奔り、 すり 下手に前方にいれば木っ端微塵に踏み潰されかねない。 九郎は掏摸のような俊敏さで人混みの隙間を縫い、六科に追いつ いたのは橋のふもとであった。再び崩れかねない橋から数百名の人 間が押し合い、濁流のように逃げ惑っている。 ﹁六科よ! どうする!﹂ ﹁崩れた所から飛び降りて拾う﹂ ﹁わかった、欄干を走るぞ!﹂ と、橋の手すりに足をかけて九郎と六科は崩れた中央へ、躓くこ と無く目を疑うような速度で移動する。 橋板が無残に割れて大川へ落ちている中央部へ辿り着いた。未だ 492 腰を抜かしたまま動けない者もいる。 キヨミズ! 二人は躊躇うこと無く橋から大川へ飛び降りた。 覚悟していた水の衝撃が九郎の全身を包んだ。水の中は落ちた人 と、木材、そして川底の泥で濁っている。 一旦沈み、跳ね上がるように水面に戻った九郎は顔の水を拭いな がら周囲を見回す。 突然の落下と着水にあわてて、ばしゃばしゃと水面で喘いで暴れ まわるものが大勢いた。 酸鼻を極める惨状で悲鳴が上がり続ける中、九郎は叫ぶ。 ﹁お房! お雪! どこだ!!﹂ ﹁落ちた方向はこっちだ﹂ 六科が迷わずに決めた方向へ体を泳がせる。 ずっと走って駆け寄る間も二人の落ちた地点を把握していたのだ。 溺れかけた小太りの町人が縋ろうと六科に掴みかかってくるが、 ﹁邪魔だ﹂ 差し伸ばされた手を打ち払い娘達の元へ行くことを優先する。 他人を助けている暇は無い。 それでも九郎は、とりあえず近くに居る女子供は首元を引っ張り、 川に浮いている橋の木材に取り付かせてやる。一応これで暫く沈む ことはないだろう。 一方で川端からは次々に舟が現場に向かい始めていた。現場近く むかい・しょうげん に居た南町奉行の大岡忠相が即座に指示を出して、御船手奉行︵徳 川水軍の管理、江戸湾の警護役である︶の向井将監に救助船を要請 する。 また、祭りのどさくさに紛れての掏摸や火付けを取り締まる為に 出動していた火盗改も一帯の船宿を回り、筆頭同心[五十五人逮捕 493 せお・ひこのぶ ]の瀬尾彦宣の怒号に従って次々と舟を出させるのであった。 六科と九郎が川に飛び込んで助けに行く姿を見て、他の者も、 ﹁俺らも行くぞ! 野郎ども、格好いい所見せるぞォ!﹂ ﹁おう! 深川木場の角乗り七人衆の出番だ!﹂ そう言って七人組が勢い良く着ていた半纏を脱ぎ捨てる。 水に浮かせた木材を運ぶ仕事の鳶職連中である。特に威勢のよい 働きをする七人はそれぞれ[海龍][海魔女][海馬][海聖獣] [海魔人][海皇子][海幻獣]をモチーフとした刺青を背中に彫 っている泊付きの集団だ。 泳ぎにも優れた彼らが水溺者を救おうと川に飛び込み始めた。 更にそれにつられて、泳ぎに覚えの町人の男連中も勢いで続く。 この時点で、最初に川に落ちた被害者は五百人余であったのが、 テンション上がって救助に飛び込んだ人の追加分を含めて六百人強 まで増加し、現場は目も当てられぬ有様であったと記録されている。 六科と九郎は水面で暴れているお房を見つけて二人で手を抑えて 落ち着かせた。 ﹁大丈夫か、フサ子!﹂ ﹁うっ⋮⋮ひぐっ⋮⋮﹂ 急な衝撃からか水の冷たさと恐怖からか嗚咽を漏らしながらお房 は六科にしがみついた。 六科は立泳ぎをしたままお房の背中を抱いて、 ﹁お房。無事か﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ ﹁お雪は何処だ﹂ 494 ﹁││お、お雪さん、あたいを、助けようと、水の中から押し上げ て、沈んで⋮⋮お父さん、お雪さんを、助けて!﹂ ﹁む﹂ その言葉を聞いて、六科は涙を流し顔をくしゃくしゃにしている お房を九郎に預けた。 しがみつくお房がしっかり抱き受けられたのを見て彼は、 ﹁潜って助けてくる。九郎殿はお房を頼む﹂ ﹁ああ、任せろ﹂ そうして六科は濁った水の中に潜水していった。 お雪を失ってはならない。そうすればお房も悲しむ。お六との約 束も果たせない。 何よりも、 ︵死なせるものか、うむ︶ 六科の心から湧き出る衝動に突き動かされ、彼は限り無く不透明 な水中を見回した。 **** 最後に見た景色をお雪は覚えている。 もともと視力が薄弱であったのだが、完全に視界が闇に閉ざされ 495 たのは十年前の火事で目元に火傷を負っての事であった。 それまでは常人にたとえるならば日中の外でも夜闇に包まれてい るような暗さで、人の顔や文字などは見えないがなんとなくぼんや りといる場所がわかる程度であった。明々と光を放つ太陽や、火は 彼女の目にも豆電球ぐらいの明るさを与えていた。 十年前の水無月の頃、乾物問屋をやっていた彼女の実家は隣接す る傘問屋の火事から燃え移り火に包まれた。明け方のことである。 どうやら火付けの仕業であったようで、傘屋の奉公人などは火が回 る前に刺殺されていて家屋ごと焼けたのだという。 突然の出火に慌てた家族達は、既に火が回っていた為にお雪を取 り残して避難してしまったのだ。 傘屋と乾物屋だからか火は勢い良く回り、その赤く燃え広がる火 がよく見えない彼女は焦ること無く部屋に座ったままであった。 目が見えなかったからか、小さい頃より何処か悲観的な娘だった からだろうか。 手探りに逃げようとしても、この火の中では逃げきれぬとすぐに 諦めたのである。 ただ、今までに感じたことがない程目の前が明るくなった空間を 見ていた。 暫くすると音が聞こえた。 彼女の部屋は火で囲まれて酸欠で朦朧としていたがまだ意識があ ったから、そのよく響く音に顔を向けた。 柱が焼け落ちたような音ではなかった。 明りの広がる視界に黒い影が立っていた。 火消しの佐野六科が、大木槌で壁を壊して部屋に入ってきたので ある。 ﹁む⋮⋮居たな﹂ 496 頭から水を被っただけの彼は火の粉に撒かれながらもどうも無い とばかりにいつも通りの声を出す。 彼はのしのしと近寄って来て、少しばかり焦げた臭いをさせたま ま座り込んでいるお雪を肩で担いだ。 熱い周囲の気温よりも、火に炙られても家に押し込んできた六科 の体は酷く熱を持っていたことが着物越しでもお雪には分かった。 彼女は呆気に取られたように、自分を抱え上げる大人の男に振り 向いて声を上げた。 ﹁お、おじさんは⋮⋮なんでこんな所に、危ない、よ?﹂ ﹁問題ない﹂ 短く答えて肩越しに振り向いた六科の顔は、視力薄弱のお雪には 到底目得ぬはずであった。 だが明かりが溢れる火事の中で、真っ黒の湖底のような六科の瞳 が不思議と浮かんだように思えた。 お雪は助けてくれた言葉少ない男の熱い体を覚えている。 命を諦めた自分が、助けてくれたあの人に何時か恩を返せるよう に生きようと決めて過ごしてきた人生は割りと楽しかった。 いつか⋮⋮やがていつかはと思っていたけれど⋮⋮と上も下もわ からぬ水中でお雪は走馬灯のように思い出しながらわずかに笑った。 盲の自分にとっては浅瀬も大海原も変わらぬ、底の見えない闇の淵 である。 最後にあの人の子供をちゃんと助けられただろうか。押し上げた お房の重さを伝えた手も既に朧げだ。 ︵あの人を按摩してあげることは、できなかったけれど︶ 497 肺にも胃にも水が入り込み浮かぶような空気は体から全て抜けた ようだった。 ︵ちゃんと恩は返せたかな⋮⋮︶ お房が小さい頃にお六が亡くなってしまったので、彼女を育てた のはお雪と石燕のようなものである。 石燕も離れた場所で暮らしている為に、お雪は毎日お房の世話を 甲斐甲斐しくしていた。 それも幸せだった。擬似家族みたいなものであったが、それでも。 実家よりも居心地が良かった。 ︵六科様⋮⋮︶ 殆ど感覚の無い手を無意識に伸ばした。 懐かしい、彼女の好きな熱い体温がその手を掴んだ。 **** 水面ではいち早く猪牙舟を漕ぎ着けた晃之介が九郎とお房を載せ ていた。猪牙舟とは船首が細長く、猪の牙のようになっている小舟 の事である。 全身をびっしょりと濡らして未だに落下の衝撃で気 が動転しているお房を、お八が抱いて背中をさすってやっている。 九郎が六科が潜った周辺を注意深く見回すと、やがて気を失った 498 お雪を抱きかかえた六科が海面に顔を出した。 ﹁六科! こっちだ!﹂ ﹁ああ﹂ 彼は抱いたまま、すっと舟に近寄ってきてお雪を引き上げさせる と自らも舟に乗り上がった。 お雪の顔色は蒼白で呼吸が止まっている。脈も整っておらずに弱 くなっていた。 ﹁お、お雪さん⋮⋮﹂ ﹁かなり水を飲んでいるみたいだな⋮⋮!﹂ ﹁吐かせる﹂ 六科の行動に躊躇は無かった。 彼は握りこぶしをお雪の腹に押し当てると、 ﹁ぬん⋮⋮!﹂ 内部に浸透するような衝撃を打ち込んだ。 小さな猪牙舟が前後に揺れて周囲の水面に波紋が広がるほどであ る。 女の子のぽんぽんは大事にしんさいよ、とおかんに教えられてい た九郎と晃之介は二人で六科を両脇から抑えた。 ﹁いやいやいや﹂ ﹁待て待て待て﹂ ﹁問題ない﹂ 真顔で告げる六科に苦々しい顔のお八が目潰しを仕掛けた。 499 ﹁せっ﹂ ﹁うむぅん﹂ 両目を抑えてうずくまる六科をとりあえず放っておいて、お雪を どうするかと視線を戻すと、 ﹁げほっ⋮⋮ごほっ⋮⋮﹂ と、胃と肺に溜まった水を吐き出して自発呼吸を再開させていた。 六科の一撃が横隔膜かそこら辺をうまいこと会心に入り、見事に 彼女を蘇生させたのである。 苦しそうに水を吐くお雪をうつ伏せにして、お房がお雪の手を握 りながら、 ﹁お雪さん、大丈夫なの⋮⋮? ごめん、あたいを助けようとして ⋮⋮﹂ ﹁へ、えへへ﹂ お雪は苦しさをこらえて無理やり涙目のお房を安心させるために 笑みを作り、六科によく似た体温を持つお房の頬を撫でながら、 ﹁問題、ないですよぅ⋮⋮えへへ、言ってみたかった﹂ 儚げにそう告げた。 冷たいお雪の手を、目が若干赤くなった六科が握って﹁うむ﹂と 頷いた。お雪はもう離さないとばかりに、その手を長い時間掴んで いた。 500 **** その頃、浅草橋。 ﹁うわぁ! 師匠が酔っ払った勢いで橋から落ちたぁ! 玉菊っち ! 助けに行ってー!﹂ ﹁ちょっ!? 子興さぁん!? わっちも泳げな、押さないで、泳 げな⋮⋮あああああ!!﹂ 二人、救助されてこっぴどく寺社奉行に怒られたという。 **** その後は橋の倒壊で祭りも終了となってしまった。 川に投げ出された者の救助には御船手奉行と近くの町奉行、火盗 改、また鳶職の角乗りなどが協力して当たったという。 中でも溺れかけた子供を片っ端から助けまくった町方同心・利悟 と、角乗り七人衆[海龍]の異名を持つ嘉納衛門の活躍は凄まじい ものがあった。奉行所から金一封の褒章が与えられた程である。 ともあれお房とお雪を助けた九郎達一行は緑のむじな亭へ戻って きていた。 表店⋮⋮六科の店の一階、座敷で寝かされていたお雪が、﹁ん⋮ ⋮﹂と声を出して目覚める。 501 ﹁あっ、雪姉が起きたぜ!﹂ ﹁晩飯の時分だぞ丁度。食欲はあるかえ?﹂ ﹁辛く炒ったこんにゃくが旨いな。あ、九郎。俺にも酒を取ってく れ﹂ お雪の寝ている座敷の近くに座卓を置いてそれを皆で囲み晩飯を 食っているのである。 祭りの後そのままついてきたお八と晃之介も一緒である。 心配そうにお雪がふらふらと迷わせた右手を、お房が握った。 その体温の高さから自然と握った相手がわかり、お雪は近くにい るお房へ笑いかけた。 ﹁ひどい目にあったねぇ、お房ちゃん。怪我はしてない?﹂ ﹁うん、お雪さんが居たから﹂ ﹁それは良かったよぅ⋮⋮えへっ﹂ 安堵の息を吐くと、お房と反対側から六科の声がした。 ﹁大丈夫そうだな﹂ ﹁はいな、六科様からまた助けて貰いましたから﹂ ﹁そうか﹂ 六科の声音はいつもと変わらないが、いつもと変わらない彼の優 しさがお雪は妙に嬉しいのである。 ﹁六科様はいつでも、わたしを助けて下さるのですね﹂ ﹁ああ。約束したからな﹂ ﹁約束⋮⋮?﹂ 502 お雪が問い返すと六科は頷いて、 ﹁うむ。お雪の命は火事で俺が拾ったようなものだろう。そして大 分前だがお六に生前言われていたのだ。﹃拾ったものは責任を持っ て育てなさい﹄と﹂ ﹁六科⋮⋮それ猫か何か拾った時に言われなかったか?﹂ ﹁よくわかったな﹂ ﹁⋮⋮﹂ 九郎が渋い顔を晃之介と見合わせると、彼もしょっぱい顔で酒の 銚子を薦めてきた。 だがお雪は胸の奥から吐き出すような熱い吐息と共に顔を紅潮さ せ、 ﹁責任⋮⋮持ってくれるんだ⋮⋮﹂ ﹁存外にぽじてぃぶだなこの娘も!﹂ ﹁十分に育てられちゃう⋮⋮ネコってそういう意味で⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮妄想逞しいのお雪さん﹂ すると晃之介がいいことを思いついたように決め顔でやや斜めを 見ながら、 ﹁妄想は⋮⋮もう、そうのへんにしておけ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ ﹂ ﹁ふっ⋮⋮くくっ、もう、そうのへん⋮⋮ごほっごほっ﹂ 何やら一人でウケ始めた晃之介に無言で冷たい目線が注がれたが、 彼は飲みかけの酒にむせたりしながら肩を震わせている。 503 彼以外がそっと目配せをして居なかったものにすることに決め、 からかうようにお八が云うのであった。 ﹁それにしても雪姉も随分気に入ってるんだな、眠ってる時からず っとその手、握りっぱなしだったから﹂ ﹁え?﹂ そう言われて、お雪は左手に感じる感触が有る事にようやく気付 いた。 無意識に握っていたままだった。 火の中でも水の中でも差し伸ばしてくれる、逞しいごつごつした 手である。 お雪は心良いような気恥ずかしいような感覚に顔を熱くした。 ﹁そんなに好きなら雪姉にあげたらどうだ? 六科の兄貴﹂ ﹁うむ。お雪、その手が必要ならばお前にやるが﹂ ﹁貰うだなんてそんな⋮⋮﹂ 九郎がてれてれした様子のお雪と、その細い手につながっている 無骨なものを見ながら訝しげな声を出す。 ﹁⋮⋮しかし、その熊の手の剥製、そんなに握り心地が良いかの?﹂ お雪は、寝ている途中で六科の手から入れ替えられたらしい、そ の毛深く爪の尖った手をぶん投げながら、文字にし難い悲鳴を上げ るのであった。 504 **** 方や、鳥山石燕の宅でのこと。 布団から半身を起こした彼女が引きつった顔で目の前に出される 薬を見ていた。 ﹁ふふふ、将翁。その薬の材料は確かミミズを乾燥させた粉じゃな かったかね﹂ ﹁ええ。溺れて水をたらふく飲んだのならこの利尿作用の強い[龍 虫丹]を呑めば、腹を壊す事も無く吐き気も止まりますぜ﹂ ﹁に、苦いのは私は嫌だから遠慮しておくよ﹂ ﹁御安心を。蜂蜜に溶かして呑んでも効果がありますので﹂ ﹁蜂蜜に溶かしたミミズの粉ってなんかもっと嫌な響きだよ! う っ、子興何をする、離したまえー! 鎮まりたまえー!﹂ ﹁はいはい、師匠の自業自得なんだから﹂ 溺れて体調を崩した石燕を、子興が抑えて無理やり薬を飲ませる 光景があったのだった。 神楽坂の妖怪屋敷から響く悲鳴は江戸の四大七不思議の一つであ る。まあつまり、二十八つ程こんな不思議があるのだが。 505 21話﹃お忍び殿様とぼやきの天爵堂﹄ 清住町の大通り沿い、深川稲荷神社近くに[芝道場]という看板 のかかった大きな道場がある。 百人は剣の訓練が出来る程の大所帯だが、これと決まった流派を 教えている訳ではない。しいて言うならば一刀流が多いが、刺叉の 振り回しなども庭で行なっている姿が見受けられる。 通称[同心道場]と呼ばれるそこは、町奉行や火盗改の同心、ま たはその手先などが集まり鍛錬する為の道場であった。寛永の頃に 老中の飛騨守菊池資信が作らせ、初めの師範が新陰流の名人・芝昌 景であったことから[芝道場]の名が付けられた。 日頃から盗賊、破落戸や無頼などを相手にする奉行所の武士達は 日々これを鍛えなくては務めを果たせないのである。 月に一度ほど、町奉行所と火盗改の同心がそれぞれを高め合う為 の剣術試合を行う取り決めになっている。 これには火盗改の長官や、南か北の町奉行も検めに来るのである。 実戦という経験に於いて火盗改の方が一枚上手な者が多いが、盗 賊捕縛などの功績を火盗改に取られることが多々ある町奉行同心は ここで鼻を明かそうと奮起するのであった。 中でも一番の大試合として見られているのが南町奉行所││より 詳しく言えば市中取締諸色掛与力付︵町の見回りや取り締まりを担 当する与力の部下︶の同心・利悟と、火付盗賊改探索方︵同じく、 見回りや捕物の実働班︶同心・影兵衛の試合であった。 しない 鍔迫り合いから肩で突き飛ばして鼻先に撓を掠めさせた影兵衛に、 利悟が突きを入れる。 上体を反らして回避し下方から救い上げる剣を放つが、硬い音を 506 立てて利悟は受け止め間合いを戻した。 剣を構え躍りかかる影兵衛だったが隙はない。利悟は防戦しなが らも隙を見て膂力で押し返す。 撃ちあう二人を見ながら同心達はため息を漏らす。 ﹁やはり強いな、中山殿と利悟は﹂ ﹁ああ⋮⋮同心どころか、江戸の剣客でも五指に入るだろう﹂ 感想を言い合う。江戸で有名な一刀流の道場で鍛えて天性の直感 を持つ利悟と、多種多様な流派を自己流に昇華して凄まじい反射神 経で使いこなす影兵衛は道場でも二頭抜きん出た剣士である。 二人の仕事の都合が合わずに毎試合をするわけではないが、その 二人が一度﹁やる﹂となったら、非番の同心・与力、さらに岡っ引 きも仕事を休み、関係の無い他道場のものまで見物に来るほどであ った。 火盗改と奉行所の同心・与力に手先を合わせて五百余名程の誰も が認める使い手なのだ。 し ﹁しかしあの殺人癖と稚児趣味が無ければなあ⋮⋮﹂ ﹁叱っ!﹂ 陰口のようなぼやきを片方が咎めた。 中山影兵衛という男が悪党に対してまったく容赦の無い暴力性を 発揮する事は町奉行にとっても知れ渡っていることであった。 ただ、それ以外の性格を見るならば、気さくで剣の教え方も上手 く、書など教養も優れているのである。大酒飲みで博打打ち、女を 買っては盗人宿に泊まるなど決して品行方正ではないのだが、それ もまた、 ﹁大身旗本出身らしからぬ豪快な性格﹂ 507 と、好いている下級武士出身の者も多くいる。彼の実家は三千石 の大身旗本であるが、三男であるために家は継がずにわざわざ棒給 の安い同心になっている奇特な男なのである。 影兵衛の普段の素行を咎める与力や奉行もいるが、手柄も多く上 げているので公に罰則を与えられる事は少ない。 一方で彼と互角の利悟は﹁子供の尻を追っかけている同心﹂とし て有名である。 せめて﹁子供好き﹂ぐらいマイルドに言ってくれないだろうかと 同僚に提案したら深読みされて余計距離が広がった事があった。 ともあれ見事な攻防を続ける二人の剣術を学ぼうと、道場の者達 は真剣に見稽古をしている。 ただ、 ︵へっ⋮⋮やっぱ撓じゃこいつの本気は出せねぇってか︶ 影兵衛が狂貌を浮かべながら心底殺すつもりの打撃を放っている のである。 幾ら、厚く皮を巻いた撓だったとしても手足に当たれば骨がへし 折れ、内臓を破裂させん威力と、頭蓋骨が叩き割られかねない勢い なので利悟は冷や汗を背中に浮かべながら受けているのだったが、 ︵あああ⋮⋮もうこれだから影兵衛さんと試合するの嫌なんだよな ああ⋮⋮!!︶ 内心で叫んでいるのであった。 剣術はそれなりに好きだが、明らかに殺すつもりの相手とやりあ うのは心身共にきつい。 火盗改の、ましてや影兵衛などは切った張ったの状況に慣れ過ぎ ている上に好きでやっているのだろうが、利悟は町方奉行所付であ 508 り捕物をするときも殺さずに捕まえる専門なので心構えが違うので ある。 ︵まるで山田浅右衛門だもの、このおっさん⋮⋮!︶ 二・三度見たことのある幕府御用達の斬首役といい勝負の殺意だ、 と相手の気を抜かせる受け流しの構えをしながら利悟は思う。 山田浅右衛門とは江戸初期から明治まで九代に渡り公儀の首切り を承った、通称﹃首切り浅右衛門﹄と呼ばれる達人である。刀の試 し切りも請け負っており武芸に秀でた大名家である立花家などにも 出入りがある侍だ。 また、切った死体を持ち帰り切り売りしているという噂もあり、 ネクロ系サイコ風味穢れ十割男として一部では不気味がられている。 悪党以外には気のいい影兵衛はまだそう考えるとマシな性格をして いるのかもしれないが⋮⋮ とにかく、五つの必殺剣と六つの処刑技と三つの絶命奥義を持つ とされる影兵衛を本気にさせないようになるべく受けに回って引き 分けを狙っているのであった。いや、その三種の分類にどのような 違いが有るかは不明であったが。 二人はしばし間合いを取って呼吸を整え、見ている他の同心たち も言葉を発さずに、道場が僅かな時間静まり返った時の事だった。 ﹁ほほう、なかなかやるじゃないか﹂ よく通る声がかけられて、利悟以外の者が道場の入り口近くを注 視した。利悟だけは隙を見せたら確実に必殺剣が飛んでくると確信 していたので不動であったが。 三十手前程の長身の男が気取った態度で壁に寄りかかっていた。 大柄でよく鍛えられていそうな体つきだが、全身を黒装束で包み顔 509 まで頭巾で隠していて、額に鉢金までつけている所謂[伊賀忍者風 ]の不審人物であったために、道場の者は全員言葉を失った。 怪しすぎる。 その男は手に木札を持っている。道場の壁にかけられていたはず の、指南役である[菅山利悟]と[中山影兵衛]の名が書かれてい る札だ。 ﹁そこもとの御方は誰であるか。今は試合の最中でござるぞ﹂ 審判役の火盗改筆頭同心で念流の達人・瀬尾彦宣が問い正す。 瀬尾は同心の中でも年長で経験を多く詰み、大盗賊[渡り鳥の市 左衛門]一味総勢五十五人を捕縛に至った手柄のあり、噂される[ 同心二十四衆]の中でも最も功績が大きい人物である。 木札を持ったままの忍者はそれを向けながら鼻持ちならない態度 で、 ﹁ふふ、我輩がこの名が書かれた木札を持っている理由がわかるか い?﹂ ﹁⋮⋮どういうつもりでござるか﹂ 男は芝居の見栄を切るように格好を付けながら言い放った。 ﹁││壁から剥がれ落ちていたから拾ったのさ!﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁釘が出てるから踏んだら危ないと思って⋮⋮ね!﹂ ﹁そりゃどうも﹂ ﹁なんだあいつ﹂ 影兵衛が馬鹿を見るような目でその気障りな侍を見る。 大分に彼の、殺し合いの興が削がれたようで相対している利悟は 510 胸中で安堵するのであった。 その妙な男は、 ﹁我輩はお忍びで道場破りに来たんだけれど⋮⋮お相手願えるかな ?﹂ ﹁お忍びで道場破りだぁ? ⋮⋮お忍びの意味勘違いしてねぇかこ の呆けは﹂ 頭におがくずでも詰まっている輩を相手にする口調で影兵衛が撓 を下ろしながら、道場の正面に座っている火盗改の長官を見遣った。 あの阿呆の対応をどうするかと伺う目線であったが⋮⋮。 いのう・じろうざえもん 長官の篠山常門と、並んで座っている近頃新たに北町奉行に就任 した稲生次郎左衛門がお互いに顔を見合わせた。 ︵何処かで見たことが有るような⋮⋮︶ と、二人して首を傾げるのであったが、妙な仮装が印象を上塗り しているために今ひとつ思い出せなかったのである。 その道場破りの忍びは、背負っていた五尺余ある長い木刀を手に して、余裕のある強者特有の笑みを浮かべながら言った。 ﹁それで││誰が相手をしてくれるのかな?﹂ **** ある日、九郎と百川子興が両国にある黄表紙の版元、[為出版] 511 に行った帰りのことだ。 またしても体調を崩している石燕の代わりに依頼されていた絵を 届けたのである。 九郎としては駄賃をもらっているのでそのような雑事は基本的に 断らないのだったが、同行している子興は酷く沈んだ様子だった。 見てて居た堪れなさを覚えるのだが、彼女が描いた美人画を版元 に見せて買い取ってくれないかと交渉した所、見事に撃沈したので ある。絵自体は上手なのだが、構図だとか様式だとか⋮⋮ともかく、 流行に即していないようなのであった。一人前には程遠い。 ぐったりとした彼女を元気づけようと、とにかく甘いものでも食 わせてやるために手を引いて近くの茶屋に入った。 するとそこに白頭白鬚の、書生風というより仙人の如き老人が煙 管を吸いながら憂鬱そうに座っている。 見知った顔であった。 ﹁天爵堂ではないか﹂ ﹁おや⋮⋮? ああ、君か﹂ 彼はぼんやりとそう告げて煙を吐き、何処か眠たそうな眼差しを 向けた。 ﹁それと船月堂の生徒の⋮⋮百川君だったかい?﹂ ﹁天爵堂先生ぇ⋮⋮﹂ 子興は涙目で彼にいきなり縋り付いた。天爵堂は雑巾でも張り付 いたかのような迷惑な顔をする。 ﹁うわぁあん天爵堂先生、わたしの絵、全然駄目なんです編集さん 理解してくれないんです! こうなればもう天爵堂先生が付け文し て原作効果で価値を上げるしかぁ!﹂ 512 ﹁いきなりそんなことを言われてもな⋮⋮﹂ 顔の皺を深く歪めながら彼は九郎へ助けを求める視線を送るが、 九郎もため息をついて目を逸らしながら店員に茶と鶉餅を注文した。 鶉餅とは丸くてふっくらと大きく、中に塩餡がたっぷり入った江戸 でもポピュラーな茶菓子である。 筆者名は変えて出版されているが、天爵堂が文を書く黄表紙など の読本は江戸でも人気があるのだ。また、実体験から記された経済 学本﹃僕ノ小判ガ斯様ニ軽キ筈無シ﹄は商人や武士階級にも広く読 まれている。 彼は泣きついてくる少女を手で押し戻しながら面倒そうに云う。 ﹁百川君、とりあえずどんな絵を描いたのか見せてくれないか﹂ ﹁はぁい、これなんですけど⋮⋮﹂ と、彼女は丸めて風呂敷に入れていた、女性の艶姿が描かれた美 人画を広げた。 分類すると美人画というものになるのではあるが、子興が解説す るに、 ﹁猫耳童女系巫女褌同心ですにゃ!﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮胃もたれするであろう?﹂ 倒錯的な格好をした少女が描かれており、師の悪影響が伺える怪 作である。 それを見た天爵堂が発作的に、俳句を書く短冊を片手に何かいい 句を思いつき旅を枕し逃げ出しかけたので、子興が腰にしがみつい て止めた。 苦い声が老人の口から漏れる。 513 ﹁この絵の伝えたいものが僕にはさっぱりわからないよ﹂ ﹁それを天爵堂先生が考えてくれるんじゃないですかぁ!﹂ ﹁なんで僕がそんなことを⋮⋮﹂ 断ろうとして、彼はふと思いついた事があった。 ︵いや、待てよ⋮⋮ここで恩を売って彼女か船月堂に、北町奉行と 南町奉行の衆道系艶絵を描かせて嫌がらせに配布すれば⋮⋮﹂ ﹁段々声に出ておるぞ⋮⋮﹂ 九郎が鶉餅を頬張りながら半目で疑問を口にした。 ﹁なんでそんなに町奉行に嫌がらせをするのだ﹂ ﹁まあ、僕の嫌いな奴番付の二位が大岡殿︵南町奉行︶で三位が稲 生殿︵北町奉行︶だからね﹂ ﹁一位は?﹂ ﹁殿堂入りの萩原殿は既に亡くなられているので、後世に僕直々の 批判文を残そうと思う﹂ ﹁陰湿だなこの爺さん!﹂ 天爵堂はかつて政争で追い落とした勘定奉行の萩原重秀に並々な らぬ怨念を持っているようだった。 彼自身、頼る伝手の少ない状況から側用人へ召し抱えられるとい う異例の出世をしているだけあって政敵は多かったのである。中で も険悪な関係だったのが彼の番付に入っている三人だろうか。特に 萩原重秀に関しては将軍に、 ﹁彼に辞めてもらわなければ僕は腹を切らざるを得ません﹂ 514 とまで数度に渡り進言してまで失脚させた記録が残っている程で ある。経済改革について凄まじい見解の相違が二人にはあったらし い。 暗い情熱に少しやる気が出たようだがなるたけ直視しないように、 茶卓に置かれた絵を前に天爵堂は尋ねた。 ﹁それでこの猫耳童女系巫女褌同心とやらにどんな話を付けたいん だい?﹂ 子興は簡単なキャラ設定とプロットをその場の思いつきで口走る。 ﹁えっとですねぇ。やっぱりこの主人公[おにゃん]がもてもてと 囃されて可愛がられつつ格好いい男の人ときゃっと時めくような甘 い恋愛的かつ社会的に成功していく勝者系展開が﹂ ﹁九郎、火打石は持ってないかい?﹂ ﹁ああ己れもイラっと来たところだ。燃やそう﹂ ﹁駄目ぇ!﹂ 広げた絵を避難させながら警戒の眼差しを向けるが、白けきった 男二人の目線に﹁う﹂と子興は気圧される。 天爵堂は煙管の灰を煙草盆に落としながら静かに、 ﹁││それで何処が面白いんだい? その話﹂ ﹁あああ! 作家に言っちゃ駄目な言葉だよぅそれ! ううう、お 姉ちゃん泣きますからね! 一度泣いたら一刻はぐずるんだから!﹂ ﹁うわ面倒臭い⋮⋮仕方ない、天爵堂。ちゃちゃっと書いてやれ﹂ ﹁君も簡単に云うね⋮⋮そんな限りなく面白くなさそうな話を筆に 乗せるだけでも億劫だというのに﹂ 515 げっそりとしながら彼は持ち歩いている紙と筆を用意して書き始 めた。 **** ︵以下の文章は実際に書かれたものを九郎が意訳したものである︶ 遅刻遅刻ぅ! かぶ 明暦の大火による焼け跡残る下谷広小路を走るわたしは巫女同心 のおにゃん。何処にでも居る普通の女の子だけど猫耳が傾いてるっ て言われるかナ。 今朝は早番で昨日捕まえた押し込みの拷問責めをしないと行けな いのについ早河岸で初鰹を見てたら遅れちゃった! また遅刻かってお奉行様に怒られちゃうにゃん♪ ちなみに三回 連続遅刻で左右に引き裂かれる。 そんなことを思いながら走っていると通りを暴走する牛車に子猫 が轢かれそうになっているのを見つけた! 危ない! 慌てて助けようと猫ちゃんを拾い上げて、迫り来る無形の衝撃に 516 私の感覚は研ぎ澄まされ痛みを覚悟したその時であった。 すんで 横から男のコがおにゃんと猫ちゃんを抱き上げて既の所で助け上 げたのでした! 危機一髪! よく見るとそれは幼馴染で火消しをしている助次くん。荒っぽい 鳶職の中でもひときわ乱暴者だけど本当は優しい人だっておにゃん だけが知ってるの。 ︵そろそろ九郎は読むのが辛くなってきて目元を揉んだ︶ 助次はおにゃんに怪我が無いか心配して、それから牛車に怒鳴り つけた。 すると牛車から公家風の貴公子って感じの男のヒトが出てきて、 ﹁ふっ⋮⋮女。麻呂の車を止めるとは無礼であるな。名を聞こう﹂ とか目を付けて来たわ! おにゃんの前に立つ助次くんなんて眼中に無いみたい。 すると観衆から﹁おっ? 喧嘩か? いいぞやれやれ!﹂と気楽 な声を上げているのは火盗改の密偵をしている伊佐くん。ひょうき んなお調子者で憎めないお兄ちゃんみたいなヒトだけど元仲間の盗 賊を売る度に余罪が判明していくの! などと言っていると空から光を放ちながら皇子様みたいな綺麗な 御方が降ってきて大変! ぐしゃっ。 517 おにゃん、これからどうなっちゃうの!? **** ﹁これはひどい⋮⋮﹂ ﹁僕だって書いててもう限界だよ⋮⋮﹂ 迎い酒で二日酔いを拗らせたようにげんなりとした顔の天爵堂は 筆を置きながら震える手で茶を飲んだ。 額には脂汗が酷く浮かんでおり、顔色は青ざめている。珍妙な文 章を書いた拒絶反応が起きたようだ。 九郎はこれ以上文章を理解しないように努めながら、 ﹁だが確かにそれっぽくはあるぞ。時々素の文に戻ったり、そこは かとない怨念を感じるが﹂ ﹁それっぽくもどれっぽくも、こんな文章が売れる様になったら僕 は筆を膝でへし折るよ﹂ ﹁唐突に降ってきたイケメン皇子、落下死してないか?﹂ ﹁面倒すぎてどうでもよくなって⋮⋮﹂ かぶり 苦い茶を啜りながら頭を振った。 だいたい設定の基本は抑えているような、壮絶に間違っているよ うなそんなを文章を子興は瞬きを忘れ読みいっていた。 そして輝いた目を見開いて天爵堂の手を取り、 518 ﹁い、いけますよ天爵堂先生! さすがでございます! 乙女の繊 細な心と夢を掴んでて!﹂ ﹁⋮⋮う、目眩が﹂ 彼女に褒められて思わず自律神経が失調する錯覚に襲われる天爵 堂であった。 ﹁早速この文も合わせて版元に持って行ってきます! ありがとう ございました! お礼はまた今度ぉ!﹂ ﹁え⋮⋮いやそれ本気で出すつもりかい⋮⋮?﹂ 鶉餅を咥えながら駆け足で来た道を戻っていく子興の後ろ姿を見 ながら、 ﹁⋮⋮僕は明暦の大火の時に生まれてね、小石川にあった屋敷が燃 えたこともあって火事は嫌いなんだけど﹂ ﹁うん?﹂ ﹁あれが出版されるとなると版元に火付けをしたくなってくる﹂ ﹁⋮⋮まあ、なんだ。後の歴史に残らないといいな﹂ しみじみと呟くのだった。 九郎は飲み干した茶のお代わりと、わらび餅があるようなのでそ れも注文してから﹁そういえば﹂と、尋ねる。 こうぎ ﹁お主、今日は何か用事があって出てきているのかえ?﹂ おこ ﹁用事ってほどじゃないけれど⋮⋮昔、幕府に側用人として勤めて いた時の元同僚が居てね。その烏滸がましい男はお忍びで上屋敷か ら脱出し町に繰り出したみたいなんだ。 部下が慌てて探し回っていて僕にも訪ねてきたから、茶を買うつ 519 いでに見かけないかと思って出てきたのだよ﹂ ﹁お忍びで町に遊びに出るなど上様みたいだのう。物語の﹂ ﹁⋮⋮うん、まあ﹂ 彼は頬杖を突きながら通りに目をやりつつ、 ﹁せめて馬鹿な事をしていなければいいけど⋮⋮ん?﹂ 呟いた彼の目が何かを追いかける動きを見せたので九郎も通りへ 顔を向けた。 視線の先に破れた頭巾から見える顔をぼこぼこに腫らして、全身 転がされまくって草臥れた黒装束でとぼとぼと歩く侍の姿があった。 おまけに背中に[敗け者]と張り紙がされている。友人にはその ような仕打ちはせぬよう注意したのであるが、 ︵⋮⋮晃之介の道場ではないようだが、流行ってるのか? 忍者の 格好もそうだが⋮⋮︶ などと九郎は思った。思えば忍者を見るのも三回目ぐらいなので もはや白昼堂々と居ても慣れた感じすらしてくる。忍者は現実だ。 一方で天爵堂は口を半開きにして顔を強ばらせている。 引きつった声で彼は、 ﹁⋮⋮ところで九郎。君、あれに即座に切腹させるまやかしの術と か使えないかい?﹂ ﹁いやそんな便利なのはできんが﹂ ﹁よし、じゃあ二両渡すからこれで山田浅右衛門にあれを処理させ るよう依頼してきてくれ。﹂ ﹁そういうのもちょっと﹂ 520 見た目が薄汚れている忍者の男はぐったりとしていたが、天爵堂 の視線に気づくと両手を後ろに伸ばした忍者走りで茶屋に駆け込ん できた。 一旦肩で息をした後、壁にやや斜めの角度で寄りかかりながら気 取ったポーズを取り、朗々と話しかけてきた。 ﹁やあ! 新井先生じゃないか! ふっ、驕れる平家も久しからず ⋮⋮これはご忠告だよ﹂ ﹁本多殿﹂ ﹁と、言いたいが残念だったね。僕の家系は広がりすぎてなんか久 しいのか久しくないのかわからないのさ! 正月とか毎年知らない 顔の親戚が居る気がする! 名前と顔が一致しなくて一寸気まずい !﹂ ﹁本多殿﹂ ﹁はい﹂ 急に勢いを落として本多と呼ばれた忍者は座敷に上がって正座を した。 難しそうな顔をしながら天爵堂は深々と溜息をついてくどくどと 説教を始めた。 ﹁あのねえ、浪人の僕が云うことじゃないけど、君も今や下総古河 藩の大名だよね? おまけに正当に名を継いだ、神君︵徳川家康の 事︶から仕える本多平八郎家の当主だよ? それが御徒士も連れずに遊び歩いて、しかも道場破りに出たんだ って? それで不名誉な怪我でもしたら藩邸の一同と一緒に腹を切 らされてもおかしくないんだよ。 だいたい身分を隠すのはともかくそんな盗賊のような格好までし て、何を考えてるんだい? 仕事もあるだろう﹂ ﹁いや⋮⋮その⋮⋮我輩の奥義﹃蜻蛉切り﹄が炸裂すれば勝ってた 521 し⋮⋮今日は登城の日でないからお忍びで出かけても⋮⋮仕事は弟 が引き受けてくれたし⋮⋮﹂ もごもごと口を動かして弁明になっていない言葉を紡ぐ彼を天爵 堂がじっと見る。 江戸の城下にやってきた大名の主な仕事は江戸城に出勤し諸事を こなすことであり、それがない日は屋敷詰めの家老や目付けとの謁 見はあるものの碁を打ったり武芸の稽古をしたりする休暇の時間も あったようである。 寺社で行われる相撲を見に行く程度ならまだしも、部下からも忍 んで一人道場破りに出かける大名はそう居なかったが。 九郎は忍者の背中に軽く刺さった小柄で止められている[敗け者 ]と書かれた張り紙を剥がしてやった。装束の下に鎖帷子を着てい るらしく肌まで突き通っては居ないが、惨め極まりない。 ﹁天爵堂、このお殿様は⋮⋮ええと本多平八郎というと、確か⋮⋮ 本多忠勝の﹂ うろ覚えではあったが、徳川四天王の猛将の事を九郎は記憶して いた。確か蜻蛉マニアであったように思う。戦国の世はクワガタマ ニアとかムカデマニアとか虫が趣味の武将が結構居たような認識だ った。 天爵堂は肯定して、 ただなが ﹁そうだよ。その宗家八代目当主の本多平八郎忠良様だ││見ての 通り少々あれなんだけれど﹂ ﹁お忍びだからって少々││忍び過ぎちゃってるかね我輩﹂ ﹁なんでこんな勘違いしちゃっておるのだ?﹂ 九郎は可哀想な目で彼を見た。お忍びとは忍びの格好をすること 522 ではなかったはずだ。恐らくは。 本多忠良は山崎藩主・本多忠英の長男として生まれて本多平八郎 家を継いだが、徳川六代将軍家宣の頃から天爵堂と同じ側用人に任 じられた経歴があり、知り合いとなったのである。 年若い忠良は天爵堂の陰からの指導により殿中での振る舞いを教 えられ、彼を私の場では先生と呼ぶ程であったのだったが⋮⋮。 本多忠良がよく藩の城下町を視察に出かけていた事を知られてい て、仕事はできるが奔放な性格であったらしい。また、先祖である 東国一の武将・本多忠勝に崇敬の心を強く持ち武芸にも励んでいた ようだ。 ﹁それで、何処で負けて来たんだい? 場合によっては処理⋮⋮じ ゃなくて口封じ⋮⋮ええと、隠蔽もしないと﹂ ﹁さらっと怖い単語が出るよな此奴﹂ 本多忠良は座りながら遠くを見るようなポーズを決めつつ応える。 反省の色は顔に浮かんでいない。 ﹁ふっ、時には敗北を認めるが、じきに我輩の強さを天下に轟かし め﹂ ﹁いいから﹂ ﹁⋮⋮[芝道場]という道場で、町奉行の同心菅山利悟に紙一重で。 いや本当に紙一重。あそこに蜻蛉が飛んでたら我輩が勝ってたさ。 まあ負けたら火盗改の長官が﹃その怪しい奴の頭巾を剥げ!﹄とか 言い出したから怖くて逃げてきたけど﹂ ﹁利悟か。あやつは強いぞ。暴れていた力士を取り押さえてたぐら いだからの⋮⋮背中の張り紙は逃げ際に影兵衛にでもやられたので あろう。あやつのしそうなことだ﹂ 九郎が率直な感想を告げる。 523 以前にその光景を目撃しているのだった。頑是無い︵幼くて無邪 やわら 気な事︶子供の囃し声に大人気なく腹を立てた相撲取りが振り回し た角材をするりと避け、十手でしたたかに手を打ち付けて柔で三十 貫はありそうな力士を投げ飛ばしたのであった。 稚児趣味ではあるが腕前は確かであるが⋮⋮この忍び大名を大名 とは気づかずに、上司の指名を受けて普通に叩きのめしてしまった ようだ。 おまけに投擲術の手練である影兵衛からの贈り物付きである。 ﹁菅山⋮⋮前に御先手組の剣術指南役でそんな人が居たような気が するが⋮⋮いや、それよりその同心の所属する町奉行って南かい? 北かい?﹂ ﹁道場には稲生正武殿が居たけれども﹂ ﹁││よし、よくやった本多殿。後は僕がしつこく手を回し稲生殿 に責任を追求しまくって腹を斬らせにかかる。まあ余波で君も改易 とかになったらすまないが。 やれやれ、[人を嵌めるものは落とし穴と稲生次郎左衛門]なん て悪口が囁かれているけれど、彼も自ら落とし穴にかかるなんて意 外と甘いんだね﹂ ﹁天爵堂が悪い顔しておる⋮⋮!﹂ ﹁新井先生を敵に回すと危険凄く﹂ ﹁わかりやすい解説だ﹂ ぞっとしつつ身を引いた二人に、おどけるように天爵堂は肩をす くめた。 ﹁冗談だよ。彼らに嫌がらせ以上の事をしても、今更僕は得をしな いからね。昔は幕府の為に主張の違いから争ったけど、彼らがより よい後世を作ってくれるのなら僕は別に構わないさ﹂ ﹁うむ⋮⋮ところでお主の連載しておった[無痔奉行]だがまた打 524 ち切りを食らっていたな﹂ ﹁文学というものはいつの世も社会に弾圧されるものだよ。困った ことにね﹂ 悪びれない顔で彼は云う。 江戸の世でも社会風刺物の作品はよくお上の手が入っていたと言 われているが、天爵堂も相当のようであった。 ﹁それはいいとして。君の家臣が困ってるから早く屋敷に戻りなさ い﹂ ﹁ふふ、我輩を見くびってはいけませんよ新井先生⋮⋮﹂ 彼は勝手にわらび餅を手づかみで食いながらいい顔で云う。 ﹁まだ道場を破っていないのだから、男の誓いにかけて戻れません な!﹂ ﹁九郎、ちょっと彼を殴り倒してくれないかい?﹂ ﹁さすがにさしたる理由なく大名を殴るのは遠慮願うのう﹂ 嫌そうな顔で張り切る忠良を見る。 ﹁はあ⋮⋮それじゃあ、何か手頃な道場とか知らないかい?﹂ ﹁そう言われてもなあ⋮⋮道場をやってる知り合いは居るが⋮⋮な にせ柳川藩立花家に認められる腕前だから手頃かどうかは﹂ ﹁家同士の争いの火種になりそうなのは困るね⋮⋮﹂ などと言い合っている時であった。 三人が入っている茶屋の面した通りで、怒鳴り声の応酬が聞こえ た。 525 さんぴん ﹁てめえこの三一侍が図に乗るんじゃねえ馬鹿野郎! 手前の博打 の借金、溜まり溜まって二五両! 差料︵刀の事︶売ってでも払い やがれってんだ!﹂ ﹁武士の魂の刀を貴様のような悪党の為に売れるものか! どうせ あの博打と金貸しともグルなのだろう!﹂ ﹁グルだろうがゴロだろうが、金を借りて博打にのめり込んだのは ごろつき 手前じゃねえか阿呆!﹂ ﹁くっ⋮⋮破落戸の癖に正論を言いやがる!﹂ 言い合っているのは無頼風の三人組と、刀を差した侍であった。 どうやら借金の取り立てのようだ。この時代、大名の中屋敷など では賭博が多く行われていて、町人のみならず侍や浪人も多く散財 していたという。大名屋敷で行うのはそこでならば奉行所の手が及 ばぬ場所であり、持ち主の大名が江戸に参勤していない間に屋敷を 管理する者達の収入源となっていたのである。 賭場では一分金などの高額金が行き交いする為に、俗に三一と呼 ばれる年俸が三両一分の下級武士が入り浸ったらとても払いきれぬ ので、賭場には金貸しが常駐している事も多々あった⋮⋮。 ともあれ、江戸の界隈ではよく見る喧嘩騒動であった。 ﹁おう、しかしなんだ。腰の物を付けた体重のかけ方を見るに侍は 剣術を習っておるし、破落戸のあの堂々とした体躯は喧嘩慣れして おるようだ﹂ ﹁侍の方は剣を抜くと大事になるし、破落戸のほうが数が多い。借 金取りが勝つと思うよ﹂ ﹁そうだのう。無手で三体一で勝つのは機先を制して打ち倒さねば﹂ などと九郎と天爵堂が窓からぼんやりと見ながら云う。 天爵堂も文人ながら剣術の心得がある。赤穂浪士に協力した書家 で有名な細井広沢の例もあるが、享保の頃は学者であり武人でもあ 526 る者が多かった時代でもある。これも江戸の中期でそれぞれの道が 丁度円熟に至った事からだろうか⋮⋮ だが、二人がふっと気配を無くした本多忠良に目線をやると、既 に彼は座敷から消えていた。 そして張り上げた声が通りの喧嘩先から発せられた。 ﹁待ちたまえ双方!﹂ ﹁なんだ手前!? 変な格好しやがって!﹂ ねちっこいだみ声を上げる無頼の目の前に相対するが如く忠良が 立っている。 彼は﹁ふっ﹂と鼻で笑いながら、 ﹁⋮⋮変な格好とはなんだ!﹂ 見ていた約全員が、 ﹁なにしに来たんだよ!﹂ と、叫び手近な無頼と侍はポーズを決めている忠良に容赦なく蹴 りを入れた。 彼は無様に地面に蹴り倒された後、手の甲で顎の下を拭いながら、 ﹁おのれ⋮⋮両方から攻撃されたという事はどちらも我輩の敵とい う事だね!?﹂ などと偉そうに告げて、背負った五尺余もある長大な木剣に手を かける。 いきなり現れて何やら不穏な態度の彼に、無頼はそれぞれ胸元か ら匕首を取り出して侍も腰の刀に手をかける。 527 だが。 忠良のはなった高速の突きが瞬く間に、警戒の予備動作をしてい た四人の顎を正確に掠めてぐらりと昏倒させて倒したのである。 九郎の研ぎ澄まされた視覚でもその剣先は目に映らない程の疾さ であった。 長木刀を槍のように構えた忠良が不敵な笑みを浮かべて告げる。 ﹁ところで君たち道場の看板とか持ってないかい⋮⋮!?﹂ おお、と取り巻いて見物していた観衆からどよめきが上がると同 時に、 ﹁殿が居たぞぉっ! ひっ捕まえろ!﹂ ﹁そこのすこぶる怪しい男、火盗改の役宅に来てもらうぞ!﹂ と、彼を探し回っていた古河藩の御家人と芝道場から追いかけて きた火盗改が飛び出してきて、彼は慌てて木刀を背負い直して走り 逃げていくのであった。 その後姿を醒めた目で見ながら天爵堂は、 ﹁⋮⋮ああいうのが大名だと、徳川の世も長くないと思うよ﹂ ﹁ううむ、実際に殿様が遊び人だとマジで困るのであるなあ﹂ ﹁あれでも本多君は仕事はできるほうなんだ⋮⋮真面目にすればね﹂ 諦めたような表情で小さく首を振る天爵堂である。 なにせ忠良はこれから数年後、将軍吉宗に江戸城本丸務めの老中 を任命される程だが⋮⋮。 ともあれ、騒動は去り九郎と天爵堂もそれぞれ帰路に就くことと なった。その際に天爵堂が、 528 ﹁もしもの時、版元に撒く油代を⋮⋮﹂ ﹁いや、己れに放火させようとするなよ﹂ 九郎に金を渡そうとして来たので固く断ったという。 ようやく分かったがこの男、自分ではなく誰かを働かせるように 仕向ける性質があるようだった。 夕立か、空が暗くなって来ていた。先ほどまで借金取りと侍、そ して本多忠良の暴れていた道に赤蜻蛉がつがいで飛んでいるのを見 て、 ︵切られぬようにな︶ と、逃げた忠長の方を見ながら思うのであった。なんで昔の武将 は虫を切ったり岩を切ったり戸棚を切ったりするのが好きだったの だろうかと考えながら。 世間はもう秋だが、まだ暑い日が続きそうである。 **** どじょう 余談だが、その後に本多忠良は六天流道場まで逃げ込んで、たま たま晃之介が作っていた、彼が捕まえた泥鰌を丸まま使った野趣溢 れる味付けの鍋を図々しく相伴していたところを家臣に拿捕された。 529 道場は破れなかったが泥鰌は食えたのである程度満足したようで ある。 また、後日礼に晃之介は本多家の屋敷にも招かれる事になり、大 名との奇縁がまた出来たのであった。 なお、案の定というか子興が持ち込んだ話の出版が決定されて、 文章担当の天爵堂は頭を抱えることになり││おまけに石燕に指を さされて笑われたという。 530 22話﹃嵐の夜に﹄ 立春から数えて二百十日の秋口に野分︵台風︶が来るとその年は 凶作になるといわれている⋮⋮ 江戸に野分が近寄っているらしいことは、テレビの天気予報が無 い当時の江戸でも気圧の変化を肌で感じるのか、事前に囁かれるこ とであった。 九郎と石燕はその日いつも通りぶらりと食べ歩きに出て、両国の 蕎麦屋[丸勘]に居た。 貝柱のかき揚げを、生姜の絞り汁をたっぷり混ぜた辛い蕎麦つゆ にひたして齧り、冷の酒を昼間から相変わらず飲んでいる二人であ る。 蒸籠には山間の高地で取られた早生︵春に種を撒いて秋口に収穫 するもの︶の新蕎麦が良い香りをして盛られている。 ﹁うむ、この貝柱⋮⋮噛み締めるごとに味が出て旨い﹂ ﹁新蕎麦も中々のものだよ九郎君。信州風のつゆがまた辛くて酒が 進む﹂ ﹁む? しかし随分小盛りだな、お主の蕎麦。夏バテか?﹂ ﹁ふふふ、そうだね﹂ 石燕はゆっくりと蕎麦を手繰りながら冷酒を飲んで心地良い息を 吐いた。 この前に軽い霍乱︵暑さにより体調を崩す事︶を起こした不調が まだ続いているのかもしれない、と九郎は石燕の体を酒が障らぬか 慮るが、病床についても酒を飲みたがる女になにを言ってもと諦め た。彼女は子供の頃から季節の変わり目と猛暑、厳冬の時にはよく 531 体を悪くするのである。 それにしれも、と九郎は風の強くなりだして昼だというのに暗い 外を見ながら切り出した。 ﹁台風が来るようだがお主の家は大丈夫かえ?﹂ ﹁無論さ。私の家は地獄の悪魔力に守られているからね﹂ ﹁せめて神仏に頼れよ⋮⋮魂を持ってかれるぞ﹂ ﹁ふふふ⋮⋮既に契約済みさ!﹂ ﹁手遅れだった﹂ したり顔で言い切り、猪口の酒を飲み干した石燕に九郎が酌をし てやった。 彼女は上機嫌に三河国の上酒を煽りつついつも嵌めている白い布 製の指ぬき手甲を外して九郎に見せる。 五芒星のおどろおどろしい紋章が手に書かれている。 ﹁これが悪魔との契約によって浮き出た呪印⋮⋮くっ沈まれ腕に秘 められし悪魔の力よ!﹂ ﹁そういうのを拗らせるのは十代までにしておけよ?﹂ ﹁鳥山石燕十七歳だよ!﹂ ﹁⋮⋮﹂ 胸を張って戯言を垂れる石燕に対して、 ︵聞かなかったことにしよう︶ と、九郎は思い店員に追加の酒と豆腐田楽を注文するのであった。 石燕はふふんとばかりのポーズで固まっていたが、九郎が串に刺 さった田楽を口元に持って行くとウサギの餌やりの如くもごもごと 頬張る。 532 すり潰した胡麻をたっぷり降ってある甘辛の味噌が塗られた田楽 は酒によく合うのである。ある程度石燕に味あわせて田楽を引き抜 き、今度は猪口を運ばせると抵抗もせずにくぴくぴと飲み込んでい く。 まさに餌をやってるようで面白いが、 ︵老々介護⋮⋮︶ という単語が九郎の頭に浮かんで気分が落ち込んできたのでやめ た。 いつも通りに二人がそのように過ごしていると[丸勘]に入って くる客の声が聞こえた。 ﹁ったく風が強くなってきやがりましたねえっと。おい、酒と適当 に何か見繕ってくれ!﹂ ﹁あやつは⋮⋮﹂ と、塗笠を脱いで土間の椅子にどっかと座り注文をしたのは、一 見土地のやくざ者のような同心・中山影兵衛であった。 九郎の視線に気づいたのか、顎をしゃくりあげるようにして二人 が座っている座敷へ顔を向けた。 ﹁あん? ⋮⋮いよぅ、九郎の坊主と石燕の姐ちゃんじゃねえか。 相変わらず昼間っから良いもん食って酒やって御機嫌ってか﹂ ﹁お互い様であろう。お主もいつも見回りの途中で酒を飲んでおる のに﹂ 現代の警察からすればとんでもない事の気がしないでもなかった が、酒による失態さえ起こさなければある程度は目こぼしされてい たのである。 533 昼間から同心が酒を飲んでいるという目線は影兵衛が普通の着流 しなので目に付くことはない。火盗改は盗賊の捜索や追跡の任務が 突発的に起こったりするので、聞き込みなどの時は正装の黒羽織を 着るが、それ以外の外回りは普通の着流しで行く事も多いのであっ た。 彼はとりあえず出されたわけぎのぬたを口に放り込んで酒で流し ながら、 ﹁ったくよ、野分が近づいてるってのにうちのおんぼろ長屋は放っ ておいて今晩も仕事なんだぜ? せめて昼間ぐらいは酒を飲んでな けりゃな﹂ ﹁晩に一番風が強くなると聞いたが⋮⋮﹂ 彼は教授するように指を立てて、 ﹁いや、この野分の晩ってのがまた盗賊が動きやすいんだわ。ちっ とぐらい派手に押し込んでも音が紛れるからな﹂ ﹁なるほど﹂ ﹁石燕の姐ちゃんも気をつけたほうがいいぜ? 拙者でも随分と金 を貯めこんでるって噂は聞いたことがあるぐらいだからよ﹂ ﹁ふむ﹂ 言われて彼女は腕を組み考える。 台風に備えた普請は大工に頼み、子興を留守番に置かせて執り行 わせているが彼女の家には別段、豪商の屋敷のように盗賊対策があ るわけではない女二人暮らしだ。 精々が近所に不吉な噂を流しまくっているのと、番屋に賄賂を渡 して夜警を頼んでいる程度だが、台風の晩には流石に番も出歩くま い。 九郎が提案の言葉を口に出す。 534 ﹁そうだのう、石燕と子興は今晩うちに泊まりに着るといい。フサ 子が喜ぶからたまにはいいであろう﹂ ﹁⋮⋮うん。そうさせて貰おうか。なに、家の方はそこらの盗賊が 荒らしまわっても金目のものが見つからないようにしておくよ﹂ 首を縦に振り、肯定の意思を伝える。九郎の方から自分を心配し て提案した事だ。喜ばしく賛同する。 石燕の宅には価値のある骨董がそれなりに置かれているのだが、 家の裏にある頑丈な錠前の付いた蔵に置いているのはダミーで本物 は庭に打ち捨てられた社に隠していたり、床下に埋めた骨壷が二重 底になっていて小判が詰まっていたりと隠されているのである。 念入りに探せば見つけられないこともないが、嵐の夜にわざわざ そこまで探す盗賊も居ないだろう。 それに彼女はさほど財産に執着はない。子興やお房など弟子には、 ﹁絵師などというものは墨と紙さえあれば生きていけるものだよ﹂ と、言い聞かせている程である。 石燕は両手を合わせてにんまりと笑いながら、 ﹁それじゃあ九郎君、晩ご飯作って﹂ 九郎の作る料理は結構美味で友人間では知られていて、石燕も時 折彼に頼むのである。 だが彼は朝食の味を思い出しつつ絶望的な顔で、 ﹁今日の夕食は朝に六科が失敗して出来た、限りなく乾燥しぼそぼ そしブツブツの食感が不快な蕎麦掻きのような何かをお湯に溶かし たものだ﹂ 535 ﹁⋮⋮そんなもの叔父上殿の口に窒息するぐらい詰め込んで置きた まえ﹂ とりあえず秋蕎麦にチャレンジして蕎麦屋の面目躍如しようとし た心意気は買うのであったが、休憩を挟めば挟む程失敗度が大きく なるのが六科の料理の腕である。蕎麦打ちの勘は三ヶ月程で失われ ていた。 基本的に勿体無い精神のお房と六科なので仕方なく出来た謎団子 を消費するのが現在のかの家の食事事情なのだ。 ふと、石燕が九郎の目を見ながら尋ねる。 ﹁ひょっとして⋮⋮そのまずいものを少しでも消費しようと私を家 に誘ったのかね?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 猜疑の言葉に九郎は真顔のまま無言で蕎麦を手繰りつつ、ちらち らと影兵衛に視線を送った。話を逸らしてくれと視線が訴えかける。 彼はやれやれ、と酒を煽ってから、 ﹁そういやちょいと気になる情報があるんだけどよ、九郎に関係す ることで﹂ ﹁己れに? なにぞなにぞ﹂ 話題の転換に身を乗り出して聞きの姿勢へ入る彼へ恨みがましい 視線を落として石燕は小さくため息をついた。子興に食材を持参さ せて泊まりに行ったほうがいいかもしれない。 影兵衛は軽く周囲を見回してこちらの話に耳を傾けている者が居 ないことを確認し、告げてくる。 ﹁ほら前によ、[藍屋]を襲った盗賊を二人で殺しまくった事ある 536 だろ?﹂ ﹁ああ、ハチ子のところの⋮⋮いや己れは殺してないぞ!?﹂ なめかみ ﹁細かいこたぁいいんだよ。とにかく、あの後息の残ってた引き込 みの女に自白をさせたんだがよ⋮⋮その女が作った[藍屋]の嘗紙 は押し込み前に他の盗人に売り飛ばしたらしいぜ﹂ ﹁﹃嘗紙﹄?﹂ 聞き覚えのない単語だったので返したところ、影兵衛が補足する。 ﹁押し込み先の店の部屋や蔵の場所を書き取った間取り図の符丁だ。 大工なんかに嘗役を紛れ込ませると作りやすいんだが⋮⋮ともかく、 押し込みをする時にそれがありゃ随分楽できる﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ 確かに、こっそり入って盗んでいくにせよ、店の者の口を塞ぐに せよ建物の間取りを知って置かなければ不都合が起こる。 勿論それを用意せずに、侵入して店の主などを脅して金を奪うな どの方法を取る賊もいるが⋮⋮ つまり、[藍屋]は今だ何処かの盗賊に狙いを付けられているの である。 ﹁ま、拙者も手先を使ったりしてそれとなく様子を伺ってたんだが 新しい引き込みが入った様子もねぇ。それで無理やり押し入るなら 今晩が野分だろ?﹂ ﹁火盗改に張ってもらえば⋮⋮﹂ ﹁ところがぎっちょん。今晩は確定情報で別の押し込みがあるから 拙者も含め、皆そっちに行くからよ。[藍屋]の事は証拠の無ぇ拙 者の勘ばたらきだから人は出せねぇんだ﹂ ﹁ふむ﹂ 537 九郎は蕎麦を啜りながら頷く。 ﹁念の為に今晩は己れが[藍屋]に見張りに行くとするか。棒があ れば実際転びにくい、と諺にもあるからのう﹂ ﹁そりゃ御立派。お八嬢ちゃんも惚れなおすってなもんだ。あ、情 報料としてここのメシ代ぐらい頼むぜぇ?﹂ ﹁むう⋮⋮仕方ない、石燕﹂ ﹁はいはい﹂ ﹁あと明日にでもまた一緒に吉原行かねぇか? 人殺すと女抱きた くなるからよう﹂ ﹁むう⋮⋮仕方ない、石燕﹂ ﹁はいは││いや待ちたまえ九郎君﹂ 石燕の悪魔の呪印が刻まれた手が九郎の肩を強く握った。 彼女は目に動揺の色を浮かべて、頬を引き攣らせた笑みで震えた 声を出す。 ﹁き、君は私のお小遣いでいつも女を買いに行っていたのかね?﹂ ﹁⋮⋮落ち着け石燕よ。これはあれだ、誤解から起こるすれ違い系 どらま風味な展開であって、早とちりして無駄に拗らせてはいかん ぞ﹂ ﹁はっ。そ、そうだね。お約束の勘違い話だね。ふふふ、九郎君み たいな女なんて別に興味ねぇし系男子が⋮⋮遊郭なんてね⋮⋮﹂ ﹁その系統の男子は只の小学生な気がするが⋮⋮ともかく、さっき のは冗談だ。お主の金でいかがわしい店や賭博になどは行った事は ない﹂ 言い切る九郎の様子に嘘は感じられないのでとりあえず石燕は納 得した。 他から貰った礼金などではそのような遊びに使ったことはあるが 538 ⋮⋮まあ本当にただ遊んだだけで疚しい事はしてはいないので言う 程のことでもない。後ろめたいとかそういうわけではなく。 とりあえず疑いの眼差しを振り切った九郎と他二人は轟々と吹き 始めた風の音を聞きながら昼間から酒杯を重ねるのであった。 **** 強い風を浴びていれば酔いも早々と抜けそうである。 幸い雨は降っていないので笠は要らないが、舞い上がる砂埃は現 代とは比にならない程多いために軽く目を伏せながら九郎は晃之介 の道場へ歩いて向かった。 薄暗い道場の中では半分に切った竹をトタン板のように組み合わ せて簡単な雨戸を制作している晃之介が居た。 入り口の引き戸が開かれると同時に強風が中へ吹き入って、晃之 介は顔を上げて九郎を見やる。 ﹁こんな天気の日にどうした? 九郎﹂ ﹁うむ。風で道場が潰れていないかと心配になってな﹂ ﹁ああ⋮⋮だが、俺達で何度でも建て直してやればいいさ﹂ ﹁ふっ││﹂ 軽やかな口調で何かやり遂げた顔をしながら、ぐっと拳を突き出 してきた晃之介に九郎も拳を合わせる。 そして二人して冷静になり真顔へと戻った。 ﹁ツッコミ役が居ないのに﹂ 539 ﹁芝居をするのもな﹂ 流石に台風の日にまでお八は練習に来ていない。少しだけ寂しさ を覚える。 早速、九郎は要件を晃之介に告げる。 ﹁のう、どうせ暇であろう? 共に[藍屋]へ用心棒に行かぬか﹂ ﹁お八の実家にか?﹂ 晃之介が首を傾げるので九郎が、 ﹁信ぴょう性はわからんが、今晩の大風に紛れて[藍屋]に押し込 みが入るやもしれぬと情報が入ったのだ﹂ ﹁成程。見過ごせないな﹂ 領得した晃之介はその話に賛成の意を表した。 お八はただでさえ晃之介の唯一の弟子である上に、[藍屋]では 大名屋敷へ行くための立派な袴を拵えて貰った恩義がある。 それに多少なりとも報えるのならば盗賊から店を守るのは吝かで は無い話である。 九郎も相手が大勢となると不利とまでは思わないが、店に被害が 及んだり取り逃がしたりする可能性も高いので友人の中でも腕の立 つ晃之介を誘いに来たのであった。 だが、どうでもいいことなのかもしれないが小さな問題があった。 ﹁それで、[藍屋]に泊まりこみに行くのだが⋮⋮相手方に頼む泊 めて貰う理由を考えねば﹂ ﹁普通に盗賊用心のため、では駄目なのか?﹂ 不思議そうに返すが九郎は考えをあぐねる顔をしながら、 540 ﹁いや⋮⋮それだとなんというか⋮⋮恩着せがましくならないであ ろうか。自信満々にそんなことを告げた挙句、情報が外れて盗賊が 来なかったら一寸恥ずかしい気が﹂ ﹁確かにそうだな⋮⋮﹂ ﹁あの家族も一度盗賊に襲われたのに、また来るだの告げて恐ろし がらせるのもな﹂ と、九郎は頭を掻きながら数カ月前に偶然から[藍屋]に押し入 った盗賊を相手取った事を思い出すのであった。 確かに店の者に予め盗賊が来るという事を教えて避難するなり、 部屋を移すなりしてもらったほうが安全で楽ではあるのだが、確実 に盗賊が今晩来るという保証もない以上、余計に心配させるのも気 が引ける。 なので適当な理由が必要なのだが⋮⋮ ﹁晃之介の道場が風で壊れかけて泊まる場所がないとかどうであろ うか﹂ ﹁そこまでぼろじゃない。生きのいい川魚でも手に入ったから分け に来たとでも云えばいいだろ。多分一晩ぐらい向こうから引き止め てくれる﹂ ﹁もう川は濁りだしておるぞ。鮒など釣れるものか。道場の⋮⋮厠 が氾濫してとても過ごせなくなった。これだ﹂ ﹁お前は俺の道場をどうしたいんだ。お八が練習に来なくなる。そ もそも俺の道場だけの問題だとお前も来る理由にならないぞ﹂ ﹁むう⋮⋮﹂ などと、晃之介の道場を出る準備をしながら二人は話し合うので あった。 今日は夕焼けは見えず、空は既に徐々に暗くなって雨脚も見え始 541 めている。 **** ﹁││という訳で一晩都合してくれぬだろうか﹂ ﹁それはご不運なことに⋮⋮九郎殿も晃之介殿もさあさあ、お上が りくだされ。おい、誰か手拭いを﹂ 結局、濁流で岩の隙間に逃げる川魚を捕るために二人でガチンコ 漁をしていたら川に落ちた上に家を閉めだされた︵晃之介の道場は 崩れて厠が溢れた二重苦にあったことになった︶という設定で[藍 屋]にやってきたのだったが、店の主・芦川良助は疑い持たずに歓 迎の態度を見せた。 なおガチンコ漁とは川の岩に強い衝撃を与えて水中に衝撃波を流 し魚を気絶させる漁方で、概ね現代は禁止されているので注意が必 要だ。岩と岩をぶつける為に[がっちんこ]という音が鳴ることか ら名前が付けられたとされている⋮⋮ これがやってみたら意外と楽しく、二人して本気で川に流されか けた為にずぶ濡れになってしまっている。だが腹がぷっくりと膨れ た落ち鮎が何匹か捕れて、桶に入れて土産に持ってきている。 ひたすらにずぶ濡れで酷い身なりの九郎と晃之介を、嫌そうな顔 もせずに主人どころか、番台や手代まで急いで替えの着物を用意し たり、体を拭う為の水を張った盥を用意して持ってきてくれた。 理由なく[藍屋]を訪れることが気まずいと思っていた二人だが、 店からすれば九郎は盗賊から守ってくれた恩人であるし、晃之介は 末娘の師匠であり無役ながら大名にも顔が利く店贔屓の侍である。 542 土産を持たなかろうがこの二人ならば喜んで店に上げて世話をして くれるであろう。 二人が汚れた足を持ってこられた盥で洗っていると、二階から転 げるように茜色の着物の少女が下りてきた。 ﹁九郎! ⋮⋮と、師匠! なんでここに!?﹂ ﹁お八か。お前と、いつも世話になっているお前の家族に鮎を取っ て来てな﹂ ﹁すげえぜ! 師匠の食通!﹂ ﹁あと晃之介の家の厠が粉々に飛び散ってとんでもない臭いになっ ていたからのう。二人して避難してきた﹂ ﹁師匠⋮⋮練習は厠を直してからにしてくれよ⋮⋮﹂ やや身を引きながら鼻をつまんでお八が言うので、晃之介は小声 で九郎に、 ︵おい、溢れただの爆裂四散しただの、理由もなく俺の家の厠がど んどん酷いことになって云ってないか?︶ ︵すまぬ⋮⋮特に反省はしないが言葉だけでいいなら幾らでも謝る から許せ⋮⋮︶ ︵馬鹿か!︶ などと囁き合うのであった。 お八はいつも通りころころと猫のように変わる表情で嬉しそうに、 ﹁二人共今日は泊まっていくよな! 外は大風だぜ?﹂ ﹁あ、ああ。そうさせて貰おう。六科のところには今日は泊まりに 行くと伝えてあるからな﹂ 彼の住む六科の家には石燕が泊まりに行っている為に、九郎が[ 543 藍屋]に行っているという話は伝わっているだろう。 その頃石燕は九郎が居ないのをいいことに、彼の着替えを勝手に 着てごろごろ転がったり彼の布団に潜り込んでふんすふんすしたり しているのだがそれを知る由は無い。 お八の母であるお夏がはしゃぐ彼女をたしなめる。 ﹁お八。また恩人様と先生に端ない言葉遣いを⋮⋮﹂ ﹁あー⋮⋮その⋮⋮よ、ようこそいらっしゃいませた?﹂ ﹁こなれておらぬなあ﹂ 九郎は彼女の言い慣れぬ口調に苦笑いをこぼした。 ﹁さあ九郎殿も先生もどうぞ客間へ。鮎を焼いて夕飯に出しますか ら⋮⋮﹂ ﹁うむ、すまぬな﹂ と、二人は案内されて奥座敷に向かった。廊下を歩く際、大粒の 雨が風と共にけたたましく閉じられた雨戸に打ち付けられている。 [藍屋]の彼方此方には行灯が置かれて足元を照らしている。 六畳間程の部屋に案内されて、とりあえず九郎と晃之介は敷かれ ていた座布団に腰を下ろした。 ﹁くくく⋮⋮なんとか中に入り込めたな⋮⋮﹂ ﹁悪党側みたいな科白を云うものじゃない﹂ ﹁後は酒でも飲みながら盗賊を待つだけなのだが⋮⋮﹂ 言い淀んだ九郎に晃之介は問いかける。 ﹁不安要素があるのか?﹂ ﹁そうだな、一番いいのはさっさと早いうちに盗賊が来ることだ。 544 一見物騒だが、己れ達が頑張ればすぐ解決する﹂ ﹁ああ。その為に来たんだからな﹂ 晃之介が首肯するのを見て九郎は二本指を立てた。 ﹁いま一つ良くないのが、今晩盗賊が来ない事だ。楽そうに思える が、いつ[藍屋]が襲われるか今後わからぬままになってしまう﹂ ﹁⋮⋮その場合はどうする?﹂ ﹁ううむ⋮⋮主人に事情を話して警戒を強めさせるか、用心棒を雇 わせるか⋮⋮﹂ [藍屋]の見取り図を持った盗賊が捕まれば安心なのだが、そう 簡単にはいかないだろうことは想像がついた。 火盗改の者が毎日見張りをしてくれる程彼らも暇ではないのであ る。当時の江戸は人口の流入もあって治安も悪化しており、日置に 火事や盗み騒ぎが起こっていたのだ。 できれば晃之介のような、武術道場の師範が用心棒だという噂を 流せば盗賊も押し込みを行い難く成るのだが。 ﹁ちなみに今晩起こったら最悪の可能性は、己れをここに呼び寄せ ておいた影兵衛が盗賊に扮して己れと斬り合いをする為に襲ってく る﹂ ﹁知能の高い異常者でしかも公権側とは一番厄介な感じの相手だな﹂ ﹁その場合だと己れ一人では危ういからお主を呼んでおいたのだ﹂ 九郎は晃之介の背中を叩きながら言った。 ﹁頼りにしておるぞ、先生よ﹂ ﹁ごほっ﹂ 545 軽く彼が咳き込んだ時に二人のいる座敷の戸が開けられ、膳が運 ばれてきた。 落ち鮎の塩焼きと、小松菜を茹で生醤油と柚子の絞り汁をかけた おひたし、油揚げと昆布の煮しめが皿に盛られていて、酒の銚子も ある。 持ってきたのはお八とお夏だ。少し老いた風貌であるお夏は頭を 下げながら、 ﹁手の込んだ物もありませんで⋮⋮﹂ ﹁いやいや、済まぬな、晩飯まで。十二分に有り難いぞ﹂ ﹁御二方はお酒をよく嗜まれるらしいので御用意しましたがよろし かったでしょうか﹂ ﹁ああ、俺も九郎もこれは大好物でな﹂ 言いながら晃之介が手酌で注ごうとすると、母親の光る眼差しを 受けたお八が硬い動きで動いて酌手を取って、 ﹁し、師匠どうぞ﹂ 慎重な手の動きで零さぬよう、晃之介の盃に注いだ。 上等な酒はあまり飲む機会のない晃之介は、 ﹁うー⋮⋮いけるな﹂ と、顔を綻ばせて注がれた酒を服する。 そして九郎にも、 ﹁どうぞ⋮⋮﹂ ﹁今日は飲んでばかりの気がするな﹂ 546 昼間も結構飲んでいたのだがとりあえず酒を受け取る。襲撃に備 え、足元がふらつかぬ程度に止めておくつもりではあるが。 箸でとってきたばかりの鮎の塩焼きを解して食べる。初夏の頃に とれる新鮎よりかはいくらか見た目の瑞々しさと西瓜のような若々 しい香りは減っているものの、落ち鮎は子持ちで白身のふっくらし た味と腹に持った卵のぷちぷちとした食感がまた美味いのである。 江戸時代では落ち鮎は[子持ち鮎]や[さび鮎]などと呼ばれて いて、見た目の色が新鮎よりも落ちていることから鶏卵を塗って火 で炙り色をつけたり、醤油で照り焼き風にしたりとする料理法が伝 わっているが、晃之介も、 ﹁いや、鮎は塩焼きが一番だと俺も思う﹂ と、嬉しそうに身を齧るのであった。 九郎が煮しめに箸をつけるのを、隣でじっとお八が凝視してきた。 何事かと思いつつ、味付けされた油揚げは噛みしめるとじゅわり と甘い味と鰹節の辛めの出汁がよく染み込んでいて、中々のものだ。 ﹁美味いな、これ﹂ ﹁だろ! あたしが作ったんだぜ、あたしが! へへん﹂ ﹁偉いのう﹂ 自慢気なお八にほっこりと笑顔を返しつつ九郎は酒を飲んだ。 お夏が云うには、 ﹁最近では九郎殿に料理を敗けぬとこの子も練習をしてまして⋮⋮﹂ ﹁はっはっは。らいばる視されておったか﹂ なにとぞ ﹁私共も、嫁に行ったら殿方を台所に立たせるような事になるなと 厳しく教えていますので何卒⋮⋮﹂ 547 ﹁な、なにが何卒だよ母ちゃん! そんなことは言わなくていいよ !﹂ ﹁?﹂ ︵何卒││ライバルで居てやって欲しい。そんなところであろう。 目標があったほうが良いからのう︶ と、九郎は考えつつ小松菜のおひたしに手を伸ばす。 小松菜の旬は冬であるが夏や秋でも種を撒けば収穫できる。また、 一説によると小松菜と名づけたのは時の将軍・徳川吉宗が小松川で 食べて美味かった為に命名したとも言われていた。 上に乗せられた柚子のまだ青い皮が程よい苦味と酸味を出し、味 わい深い。 ﹁師匠達の相手はあたしがするから母ちゃんは戻ってくれよ﹂ ﹁そう? しっかりご迷惑をおかけしないようにね。お酒のお代わ りでしたら幾らでもありますので、その時は申し付け下さい﹂ ﹁何から何まで、厄介をかける﹂ ﹁いいえ、九郎殿と先生でしたら、来ていただけるだけで家のもの は喜びます故⋮⋮﹂ そう言って柔和な顔でお夏はしずしずと下がっていった。 途端にお八は足を崩してほっと息をつく。 ﹁はあ⋮⋮息が詰まっちまうぜ﹂ ﹁礼儀というものは若いうちから身につけておかねばならんからの。 頑張るのだぞ﹂ ﹁まったくだ。大名の前に行く時などに困る。⋮⋮困った﹂ 体験から語る晃之介は若干の気苦労を思い出している顔つきであ 548 った。 ﹁それより九郎。今日はなんでこっちに来たんだ? 閉めだされた っつっても言えば開けてくれるだろ﹂ ﹁いや、それがな。うちは今晩の飯が激まずで耐え難いものがあっ たので無理に帰ることも無いかと思っての﹂ ﹁六科の兄貴、時々エグいの作るからなあ﹂ ﹁うむ。それに比べてハチ子はちゃんとした味付けでいいぞ﹂ ﹁そんなに褒めるなよ! あっお酒お酒﹂ お八は上機嫌で酌をする。 一方でその頃[緑のむじな]亭では失敗新蕎麦を石燕とお雪が打 ち直して上等な味の蕎麦に仕上げていたのであったが、翌日に九郎 が味わう分は残されていなかった。六科がばくばくと全て食った。 ﹁あ、そうだ﹂ と、お八が思い出したように呟いてどたばたと座敷から走り去っ て、また布みたいなものを持って戻ってきた。 ﹁九郎! 九郎に⋮⋮ええとその、着物作ってるんだけど⋮⋮ちょ っと丈を合わさせてくれよ!﹂ ﹁よいぞ﹂ 着物の雛形を広げて九郎の背中から大きさを合わせる。肩幅から 袖幅、身丈に脇縫を細々と布に印を付けた。 お八が楽しそうに、 ﹁待ってろよ、今年中には作って渡すから﹂ ﹁おう、楽しみにしておるぞ﹂ 549 ﹁ところで袖はさ、九郎はよく動くから先が細くなってる鉄砲袖が いいかな? 切れ込みが入った袂袖にしようか?﹂ ﹁⋮⋮いや、服飾用語を出されてもなあ。己れのふぁっしょん知識 と言えば﹃こっとん鉄○﹄を読んでおったぐらいだから﹂ ﹁なんだ、それは﹂ 訝しげな晃之介の声に九郎が顎に手を当てながら応える。 ﹁ふぁっしょん漫画なのに話の構成が流行ってた料理対決少年漫画 みたいだった変なやつでなあ⋮⋮出てくる服とか主人公のらいばる とか出た瞬間に呻くような怪しげな最尖端ふぁっしょんだったのが 印象的だの﹂ ﹁いや、知らねえけどさ﹂ はるか昔に日本で読んだ漫画であったが、数年前魔王の書架で発 見した時に読み返したがやはり珍妙な漫画であった。とはいえこの 時代の人に言っても意味不明なことだ。この世界でも1980年代 はあんな尖ったファッションが流行するのであろうか。 若干未来を憂いている九郎に、たたみ直した着物を軽く彼の頭に、 ぽふっと当てて、 ﹁変な服の話はどうでもいいけどよ、ちゃんとあたしが作ったら着 るんだぜ?﹂ ﹁わかっておる﹂ ﹁絶対だぞ! その⋮⋮絶対⋮⋮ちゃんと、貰って、くれよな?﹂ ﹁? あ、ああ。それは当然﹂ 何故か言葉尻が窄んでいく、もじもじしたお八の言葉に肯定した 途端座敷の衾が開けられて、彼女の父の良助が入ってきた。 550 ﹁話は聞かせてもらった。晃之介殿にも証人となってもらいます﹂ ﹁なにの?﹂ ﹁九郎殿には一度口にした以上ちゃんと貰って頂きましょう﹂ ﹁着物をだよな?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁なんとか言えよ!?﹂ 真顔で押し黙る良助に妙な気迫を感じて確認の問いを投げかける が、帰ってくる言葉は無かった。 九郎が謎の言質を取られている頃、石燕は九郎の部屋で彼が最近 着なくなった異世界から持ち込みのジャケットを無理やり着込んで 胸元をチャックボーンで破壊してしまっておろおろとしているが彼 がそれを知るのは大分後になって久しぶりに荷物の整理をしてから である。 ともあれ晃之介はぐいっと酒を煽ってから、やれやれと首を振っ て冷笑気味に告げる。 ﹁九郎⋮⋮進んでるなあお前﹂ ﹁知らん﹂ などとお八とその家族が入れ替わり立ち代り、妙なやりとりをし つつ[藍屋]での夜は過ぎていくのであった。 江戸の夜、多くの家は日没すれば早々と眠りに付く。野分で雨戸 も閉め部屋には月明かりも無く真っ暗になるとなれば就寝時間も早 くなる。 藍屋の店の者が全て寝入っただろうか。外の猛烈な風と雨音以外 は人が活動している気配が消えていた。 九郎と晃之介は二人、座敷で簡単な見取り図を囲んで相談しあっ ていた。 551 厠に行くとき藍屋の一階を歩きまわり、間取りを大まかに製図し たのである。 ﹁外の壁の位置からして賊が入り込みやすいのはこの南の廊下に続 く裏口あたりだな﹂ ﹁表は頑丈な雨戸で補強してあったからな。裏口程度なら大木槌を 使えば破れるはずだ﹂ ﹁と、なるとこの廊下で迎撃するのが良い﹂ ﹁ああ、そうしよう﹂ 盗賊が来た時の対応を改めて確認した後、二人は壁に背を当てて 座りしばし耳を澄ませたまま時を待った。 子の刻を過ぎた頃だろうか。吹返しの風が最も強くなった気がす る。江戸の細い通りを無理やり入り込む風が山鳴りのような音を立 てている。 時折外で桶か何かが飛ばされた音もする。そんな中、九郎は確か に裏口付近から破砕音が紛れ、店に風が吹き込む空気の変化を感じ た。 お互いに言葉も交わさず、晃之介も脇差しを手に立ち上がる。二 人は滑るように現場へと向かった。 廊下の端まで来た時にはもう裏口の方向から薄い明かりを見せる 提灯を持った人影が見えた。店の中は完全に暗いので明かりが必要 だが、使っても雨戸で光が外に漏れることはない。 九郎も晃之介も夜目が利く。 盗賊たちは恐らく全員中に入ってきた筈だ。通常の盗み仕事なら いざ逃げるときの為に出口を見張る役をつけるかもしれないが、嵐 に紛れて盗み働きをする連中である。いかに店の者が騒いでも外に 漏れる事は無い。 廊下を進んでくる一団を無言で誘うが、 552 ﹁待て﹂ と、盗賊達の先頭に立つ男から制止の声が上がり彼らは動きを止 めた。 その男は腰に帯びた刀をゆっくりと抜き放ち、薄暗い先に廊下を 塞ぐように立っている九郎と晃之介を蛇のような目つきで見ながら、 ﹁この店の用心棒か⋮⋮? 我らを察知したとは中々のぬっ!?﹂ くっちゃべり出した男へ九郎と晃之介が次々に薪を投げつけ出し た。竈から十数本拝借していたのである。 闇に凄まじい早さで飛来してくる薪の一本を男は抜き打ちで切り 払い、もう一本を身を捩って躱した。 続けざまに薪がどんどん飛んでくる。二の腕ほどの大きさの棒と はいえ余人が放ったものではない。当たれば手酷い打撲を負うだろ う。 この狭い廊下で一発、二発避けることが出来ただけでも奇跡的な のだがまったく容赦なく二人は薪殺法を続け、十本目程で全身打撲 の上に顔面に薪が直撃したちょっと凄腕風の男は実力を発揮するこ ともなく床に沈んだ。 相手が影兵衛だった場合、遠距離から倒すために用意した算段で あったがとにかく誰であれ襲ってきた相手に使わぬ手はない。 おそらく一味の頭か、手練が倒されたことで盗賊に動揺が走る。 九郎と晃之介は駆けた。 ﹁迷惑になるから殺すでないぞ﹂ ﹁わかっている﹂ 身を低くした踏み込みで九郎は盗賊達の横をすり抜ける。薄暗い 廊下では影のようにしか見えないだろう。最後尾で何が起こったか 553 わからないままの賊の脾腹に当て身を叩き込んだ。 ﹁ぐぬ⋮⋮﹂ と、苦痛の声を出して、寝静まった商屋を襲うだけの仕事と油断 していた賊は、一撃で内蔵がはじけ飛ぶような痛みに襲われて倒れ 伏す。 九郎が退路を塞ぐ形で、晃之介が先頭から順に峰を返した刀で肩 や膝を叩き割って戦闘不能にする。 逃げようとすれば既に後ろに回った九郎から薪で殴り倒され、ま た背中を向けたら晃之介は見逃さずに一撃を入れて打ち倒していっ た。 盗賊の全てを倒すのに五分と掛からなかったのではないだろうか。 手はず通りに用意していた縄で全員縛り付けた後、主人の良助へ 報告に行った。 彼は捕縛された賊共を見て大いに驚きながら、拝むようにして感 謝の意を二人に告げる。 ﹁おお⋮⋮まさしく、御二人はこの店の守り神でございますなあ﹂ ﹁言い過ぎだ。己れらはただ居合わせただけよな、晃之介﹂ ﹁そうだな。日頃世話になっているんだ。危ない時ぐらいは役に立 つ﹂ 兇賊と相対したというのに気疲れも無く笑いながら応える二人は やはり只者ではないと、良助も舌を巻くのであった。 夜が明けてから番屋でも呼ぼうと、裏口の土間に盗賊連中を転が していると目を擦りながら寝間着姿のお八が手探りでやってきた。 ﹁ん⋮⋮なにやってるんだ⋮⋮? 九郎も師匠も部屋に居ないし⋮ ⋮?﹂ 554 ﹁おやお八、起きたのかい? いや九郎殿と晃之介殿がまたしても 盗賊をお捕まえになってね﹂ ﹁⋮⋮んだって!? な、なんだよ師匠! 盗賊退治ならあたしに も教えてくれよ!﹂ 顔を振って目を覚ましたお八が慌てたように晃之介に言うが、彼 は軽くお八の頭を抑えて、 ﹁お前にはまだ早い﹂ ﹁そうだ。お八や、お前はちゃんと九郎殿が守って下さるから危な いことはしなくてよろしい。ねえ九郎殿﹂ ﹁でもよ⋮⋮﹂ 不満そうな彼女に苦笑しながら九郎が軽い調子で、 ﹁そうであるなー﹂ と、云うと九郎の両肩を後ろから良助がしっかり掴んで喜ばし気 に、 ﹁ほら九郎殿もこんな││お八の事は一生守ってやるという覚悟に 満ち溢れた宣誓をして下さっているぞ!﹂ ﹁ちょっと待て﹂ ﹁九郎⋮⋮﹂ ﹁なんでハチ子も信じちゃっておるのだ﹂ やや顔を赤らめているお八と、妙な勢いを感じる良助に不可思議 な策略を九郎が感じていた時である。 既に破られた裏木戸に、簡単に板を立てかけ塞いでいた場所が再 び外からの衝撃で破壊された。 555 一拍置いて、柿色の盗人装束の男がこそこそと、 ﹁へっへっへ⋮⋮野分の日に押しいりゃお釈迦様でも起きるめぇ﹂ などと言いながら入った来た。 別件の盗賊のようである。 そして裏口にいた四人と目があって、固まった。なんで野分の夜 中に裏口に家の者が居るのだろうか。理解不能な脳と視覚が捕らえ たのは、転がされた呻いている盗賊達とゆらりと近寄ってきた九郎 である。 ツッコミ混じりな九郎の拳が盗賊の顎に突き刺さる。 ﹁││やたら盗賊入るなこの店!?﹂ 結局、晃之介と二組目の盗賊を店の外に出てまで全員捕まえてき たのであった。 **** 昨晩に捕らえた盗賊総勢十七名を荷車に鮨詰めに乗せて九郎と晃 之介が、火盗改の役宅まで運んだのは雨の止んだ朝早くの事であっ た。 もっとゆっくりとしていけば良いという店の者の言葉を、いつま でも盗賊を置いておいても気味が悪いだろうと二人は固辞して出て 行ったのである。 すっかり[藍屋]では九郎と晃之介の株が鰻登りになったようだ。 556 特に他所で居候をしている九郎などは再三、[藍屋]に住まないか という誘いを受けるのだったが、今の所に義理があるなどと適当に 理由を語って断るのであった。なにか、[藍屋]に住むとまずい予 感があったのだ。 火盗改の役宅では、昨日の捕物でごたついていたものの、晃之介 が以前に[似非同心]逮捕事件で顔が知れていた事と、影兵衛が取 りなしてくれたので然程手間取らずに盗人を引き渡す事ができ、簡 単な調書で帰された。詳しくはまた[藍屋]の主人に伺われるだろ う。 捕まえた盗賊の、先か後かは分からないがとにかくどちらかが[ 藍屋]の嘗紙を持っていた事も判明し一安心である。 晃之介が眠気をこらえながら己の道場に戻れたのは昼九ツ︵今の 十二時頃︶ごろであった。 道場の雨戸を外して、少しばかり昼寝でもするかと考えながら辿 り着いた彼は異臭に気付いた。 ︵これは⋮⋮?︶ と、思いよく見れば、道場の隣に立てた厠が大風で根本から倒れ ていた。 ついでに雨水が流れ込んだ厠の穴が溢れて、中の肥水溶液が外に 溢れ広がり便臭を台風一過の日差しの下で強烈に放っている。 ︵││九郎の呪いだ。︶ 晃之介は確信しながら、頭を抱え寝場所を借りようと便臭立ち込 める道場から[藍屋]へと足を返すのであった。 できればもう一度野分が来て全てを洗い流してくれないだろうか と願いながら。 557 この臭いによりまた六天流道場の評判が下がった。当人の意志と は関係なく、それでも残念なことに。 558 23話﹃お金持ちにはなれない﹄ 鰯雲が空にかかり、すっかり秋の気配になってきた⋮⋮ 暑気も随分緩くなり、通りを歩く江戸の人々の姿も増えたように 思える。暑さで痛むために少なくなっていた野菜売りや魚売りも夏 の稼ぎ分を取り戻さんと忙しそうに走り回っていた。 その日、大川沿いの道を歩くのは年の頃三十前程の特徴的な黒い 羽織を着ている侍││同心であった。 丁度昼飯の時分だ。そろそろ小腹が空いてきたその同心は見回り の途中だが近くに食える店が無かったかと考える。 この辺りだと⋮⋮と、彼が顎に手をかけた時にふと蕎麦つゆの良 い匂いに顔を向けると、目につく張り紙があった。 ﹃新そば はじめました﹄ ︵そういえばもう秋だったな⋮⋮︶ 同心は奇怪な狸の絵と共に売り文句が書かれている張り紙を見て 季節の移り変わりを感じ入る。 そして新蕎麦の事を考えるとどうしても食べたくなってきた。店 内は既に同じ想いで入ったのか客入りがあり、この調子だとすぐに 満員になりそうな気がする。 慌てて店の暖簾をかき分けて店に入る。そういえば同僚の同心、 みずたに・はなえもん 菅山利悟がお気に入りとか言っていた店がここであったか、と同心 二十四衆が一人[巡邏直帰]水谷・端右衛門は思い出した。 559 ここは蕎麦屋[緑のむじな亭]。冷たい水と酒、簡単なつまみ、 いまいち不味い蕎麦を出す一寸知られてきた店である。 **** [緑のむじな亭]は珍しく繁盛をしていた。経営に口出しする九 郎がやってきても最初のうちは中々結果を出さずに、お房は彼を穀 潰しと思っていたものだがこの秋はお房が知る限り一番の客入りで ある。 これまで客席が埋まっている所など見たことがなかったというの に。 忙しく六科は蕎麦を打ち続けているし、九郎も客に出す酒やつま みを用意したり、最近買った大鍋に沸かしている蕎麦のつゆを打ち たて茹でたての蕎麦にぶっかけて盛っている。 昼飯時で客の回転は早く、お房は次々に発生する銭勘定で頭が混 乱しそうだった。 ﹁おろし蕎麦一つ!﹂ ﹁こっち注文したやつ来ないぞ!﹂ ﹁はぁい、少々お待ちをぅ!﹂ あたふたとしながら熱い蕎麦に大根おろしを乗せたおろし蕎麦を 給仕する。 最近始めたおろし蕎麦は九郎が提案したトッピング案の一つで、 安くて大量に手に入り簡単だから採用された。おろす為の器も九郎 が作っていて、残量を見ながら彼は厨房で縦四つに割った大根を擦 560 りどんどん生産していた。 他の客との相席で店に座った同心・端右衛門は蕎麦の上に雪のよ うに盛られた大根と刻み葱を軽く箸でつゆに解かしながら、共に出 された茶碗に入れられた水を飲む。 ︵む⋮⋮ここの水、どういう理由かわからんがよく冷えていてうま い⋮⋮︶ しげしげと茶碗の中に揺らぐ水を見て感心した。 そして箸で蕎麦をよく大根おろしの混じったつゆに絡ませて上げ る。湯気を立てるやや黒っぽい蕎麦は、少し前の夏になら見向きも しなかったが今は美味そうに見える。 蕎麦の香りはやや薄くて、麺はふにゃりとしているが、つゆに胡 椒が入っているらしく鼻孔をくすぐる匂いだ。 ずず、と音を立てて蕎麦をすする。大根と胡椒の効果もありやや 辛めの汁だが、塩っぱくは無い。 ︵そうそう、蕎麦とはこのような感じ⋮⋮いけるな︶ と、満足そうに味わう。値段は普通の新蕎麦が十六文でおろし蕎 麦が二十文。新蕎麦が出始めのこの時期では安い方である。 端右衛門と同じ北町奉行所に務める食通の隠密廻同心、通称同心 二十四衆[美食同心]などは、 ﹁新蕎麦を楽しむのに﹃かけ﹄なんて食うのは蕎麦っ食いじゃねえ﹂ などと公言して止まないが、端右衛門は特に拘らない性質であっ た。むしろ、薬味が効いて刺激的で旨く感じる。 蕎麦を食いながら視線を店の壁に張ってある品目に目を通し、焼 き海苔や酒といった物も頼みたい気がしたが何せ昼飯時で混んでい 561 る。 ︵落ち着いた時間にまた来るか⋮⋮︶ 致し方ない、と思って酒をゆっくり楽しむのは次の機会に回そう と決める。 懐の財布から二十文取り出していると隣の同じくおろし蕎麦を食 っていた男が先に席を立った。 そしてお房に、 ﹁嬢ちゃん、この切手使えるのか?﹂ と、何やら小さい紙片を渡した。 お房はぺこりと頭を下げ、 ﹁はぁい、割引切手でおろし蕎麦十六文になるの﹂ ﹁よっし得した。また来るぜ﹂ ︵割引切手⋮⋮? ほう、変わったものがあるな︶ 隣の男が切手と十六文を渡すのをじっと見る。何処で手に入るの か知らないが、それを使えばおろし蕎麦を普通の蕎麦と同じ値段で 食えるのだ。 随分と良心的なものを感じながら、 ﹁ここに置くぞ﹂ 代金二十文を机に置いて端右衛門も席を立った。 お房が銭と食器を盆で回収しながら元気よく、 562 ﹁どうもありがとうございました!﹂ と、云った言葉を背に端右衛門は店を出る。 彼が出た後も入れ替わりで客がまた店に入っていく。やはり店頭 にウリの[新そば]とわかりやすく書かれているのが集客効果を出 しているようであった。 利悟お勧めの店と聞いていたが、あの稚児趣味中々に良い店を知 っていると胸中で同僚を褒めながら、常磐方面に巡邏の足を向ける。 秋晴れの良い日和である。腹も膨れると働いているのが億劫にな り、 ︵今日はそのまま八丁堀の家に帰ろうか⋮⋮︶ などとまだ昼だというのに考えてしまう。 二十四衆などと呼ばれているが、彼は不真面目な方でよく知られ ているようだ。どういう基準で選出されているか、当人らも知らぬ のであるが⋮⋮ **** 昼八ツ︵午後二時頃︶も過ぎると客入りが落ち着いてきた為、一 旦店を閉める事にした。 店の三人は忙しくて昼飯も食っていない。 九郎がざく切りにした葱を蕎麦つゆで煮詰め、卵で綴じた卵丼を 簡単に作った。 箸を進めながらも笑顔でお房が、 563 ﹁んふふ∼﹂ とか、 ﹁はうう﹂ とか言いながら昼の売り上げを入れた小袋に手を突っ込みちゃら ちゃらと音を立てているので、九郎が顔をしかめて叱る。 ﹁これ、フサ子よ。飯の時ぐらい銭入れから手を離さぬか。行儀の 悪い﹂ ﹁だってうちがこんなに儲けたのは初めてなの﹂ 頬を緩ませて体を揺すりながらお房は銭の音を聞いて喜んでいる。 こういった一面を初めて見た九郎はなんとも言えない表情で六科 に視線をやったが、やはり父は気にせずに、背筋をぴんと張ったま まもりもりと卵丼を掻き込んでいた。 ︵まだ小さいのに、勘定が多いの少ないので喜ぶのは一寸のう︶ 悩ましげに思ったが、それだけ彼女がこれまでやりくりで苦労し てきた事の証左でもあり、 ﹁ま、今はよいか⋮⋮﹂ と、いった。 お房が喜色のまま、九郎に質問を投げかける。 ﹁それにしても、詐欺みたいな手段なのによく人が集まったの。新 564 蕎麦の蕎麦粉なんて一割ぐらいしか使ってないのに﹂ ﹁なに、多かろうが少なかろうが、使っていることには変わりある まい。看板に偽り無しだ﹂ 悪びれもせずに九郎は云う。 言葉の通り、秋口に取れた新蕎麦の粉は先物買いで江戸中の蕎麦 屋が買い求める為に値段が高くなっている。逆に、夏の間はそれな りの値段がしていた古い蕎麦粉は値崩れを起こしていた。 九郎はそれを混ぜあわせて新蕎麦の原価率を落としたのである。 ﹁[盛り]ならともかく、熱いつゆをかけた蕎麦では香りが薄くと も客は気付かぬ。味のわかる蕎麦通ならばこんな店には入らぬであ ろうからな﹂ ﹁こんなって言うな﹂ ﹁おっとすまぬな。しかし、人間、新蕎麦を食っていると思い込め ば本当に新蕎麦の香りを感じるものなのだよ﹂ ﹁そんなものかしら﹂ ﹁ああ、それは分かる気がする﹂ 飯を喰らっていた六科が口を挟んだ。 ﹁俺も七草粥だと言われて、草が一つも入っていない粥をお六に食 わされた事があるが⋮⋮あの時はすっかり騙された﹂ ﹁なにも入っていないのはさすがに疑えよ!?﹂ ﹁煮込んだら草は溶けたと言われてな﹂ ﹁お父さんはただの不良舌だから参考にならないの⋮⋮﹂ お房は父に対して持っている諦めに似た感情出さんばかりに、強 くかぶりを振る。 顔をゆがめながら九郎が、 565 ﹁ともあれ、六科が打てば新蕎麦粉を使おうが古い蕎麦粉を使おう が、麺のうまさは低い値で然程変わらぬからな﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁認めちゃうんだ﹂ ﹁後はつゆで味をごまかす。おろし大根や胡椒、葱を入れ込めば美 味い⋮⋮とまで思わんかもしれんがそれなりに納得した顔の客が多 かったしの﹂ 茶を一口飲んで、 ﹁客というのは美味い新蕎麦を食いに来るのではない。新蕎麦を食 ったという事実を作りに来るのだ。味は大きな問題ではない﹂ ﹁ふぅん﹂ 現に材料費が浮く事で純利益は上がっているのだ。 さらに、この店の場合火元に九郎の持ち込んだ魔法の呪符を使っ ているために薪代が一切掛からない。料理店において光熱費がほぼ 無料だというのはかなり嬉しい事だ。 九郎の居た異世界に於いて最高ランクの魔法使いであった魔女が オーバーフロウ 作成した呪符は、その殆どは破壊するか、魔女のみが使える術で呪 符の魔力を増幅し凌駕発動しない限り半永久的に効果を及ぼす。 それにしても、とお房は客の何人かが持ってきた紙片をつまみな がら、 ﹁この割引切手はどうして配ってるの? おろし蕎麦の値段が四文 安くなったら損じゃないかしら﹂ 二十文のおろし蕎麦を普通の蕎麦と同じ十六文で食わせる券であ る。大根おろしのトッピングがついて同じ値段なのだから、客は大 566 層喜んで使っていた。 あちこち ﹁いや、よいのだ。このくぅぽん券は宣伝の為に作った。彼方此方、 ざっと二百枚ぐらい湯屋の二階に置いてきたのだが⋮⋮﹂ 湯屋は町人から職人、侍など身分に関わらず利用する施設なので 宣伝には打って付けである。いくらか店の者に心づけを渡して、置 かさせてもらっている。 ﹁二百枚だと⋮⋮ええと⋮⋮四の二百で⋮⋮﹂ お房が指を折り数えている隣で六科が平然と、 ﹁六百文の損だな﹂ と、言うのだからお房は驚いて鸚鵡返しする。 ﹁ろっぴゃくもん!﹂ ﹁⋮⋮いや、違うからな? 八百文だ。堂々と数え間違えるな六科 よ﹂ ﹁むう﹂ 父を見る視線に何処か冷たいものをお房の目から感じる。 ともかく、己の取った戦略で損と言われたままではどうも、いけ ない。 静かに九郎は訂正する。 ﹁よいか、そもそも普通の十六文蕎麦に、猪口盛り切り一杯分程度 の大根おろしを加えただけで二十文取るという元の価格設定がぼっ たくっておるのだ。 567 大根は一本二十文ぐらいだったが、一本で何十杯分も擦れるのだ ぞ。摩り下ろす時間と手間を考えても一杯辺り一文ぐらいしか費用 は増えておらぬ﹂ ﹁⋮⋮確かに﹂ ﹁だがあの切符を見た者は、食えばその時点で四文儲けると考える。 そうなれば別にどうとも思ってなかった蕎麦屋でも足を運び、原価 の安い蕎麦を得した気分で頼むというわけだ﹂ 九郎は得意気に、 ﹁それに切符の客がおろし蕎麦を食っているのを見れば、他の客も 普通の蕎麦より少しばかり良い物に見えて二十文で注文したり⋮⋮ そんな客もおったであろう﹂ ﹁うん﹂ ﹁儲けがこうして増えるような仕組みになっておるので損はしてお らぬのだ。よいな﹂ ﹁うーん⋮⋮とにかく、今までに無いぐらい沢山お客が来て、お父 さんの蕎麦を食べてくれたのは九郎のおかげってのはわかるの。見 直したの﹂ 実際に九郎の予想以上に客が入っている。新蕎麦を安く売り、店 頭に入りやすい広告を出しているという理由も重なっているのだろ う。 お房は感心し頷いて、 ﹁ありがとう、九郎﹂ と、素直に感謝の言葉を告げた。 面食らった九郎は少しばかり顔を伏せて体をやや震わせながら、 568 ﹁フサ子から﹃ありがとう﹄などと言われるとは⋮⋮よし、もうこ れで[完]でいいな。おめでとう己れ。そしてようこそ、幸せな老 後よ⋮⋮﹂ ﹁ぁによう、たまには褒めてあげたのに意味不明な反応して﹂ ﹁照れているのだ、あれは﹂ ﹁なぁんだ﹂ くすくすと笑うお房に少しばかり苦い微笑みを返す九郎であった。 色々と店が流行るように手を貸していたが、遅々としか売り上げ は伸びていなかった。しかし漸く飯時には満席になるという成果が 出たのだ。 彼も、 ︵やれやれ⋮⋮︶ と、安心する。 居候として住み込んでいる身分ではこのあまり裕福でない父娘に 負担を掛けている自覚はあったが、こうして店の役に立ったと礼を 言われると住む責任を果たしていると思えて、少しばかり肩の荷が 軽くなった気持ちだ。 しかし客入りを多くした当人としては、暫く落ち着くまで店の手 伝いもせねばならないのには困りものではあるが。 今後の事を考えつつも、 ﹁とにかく、大事なのは多くの人にこの店のウリを知らしめ、再度 足を運ぶようにさせることだからこの新蕎麦の時期は宣伝が大事な のだ﹂ ﹁うむ。腕が鳴るな﹂ ﹁あっ、別に店のウリとはお主の微妙な味の蕎麦ではないからな﹂ 569 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁酒だけは良いのを己れが置いてるからの。冷っこい水や豆腐も昼 はまだまだ売れるな。ぶっちゃけ、蕎麦より酒の方が利益が出るか ら⋮⋮まあ、客の回転率は悪くなるのだが﹂ ﹁うちは蕎麦屋なんだけど﹂ 半目で告げてくるお房から九郎は顔を背けながら、 ﹁⋮⋮しかし六科の蕎麦がまずいから﹂ ﹁うむ。やむを得ん﹂ ﹁否定もせずに諦めないでよお父さん﹂ ﹁ま、良い店というのは厨房での腕前で決まるのではない。味はぎ りぎり及第点でも客が寄り付く店が良い店だからのう﹂ 食い終わった丼を置いて、茶を飲みながら九郎は言う。 ﹁さて、夕方の店も頑張るとしよう。このくぅぽん戦略をパクられ る前にな﹂ ﹁そうなの?﹂ ﹁そうさな、あっぴる作戦は次々に新しいものを考えていかねば。 この時期、いかに新規客が来るかが勝負だ﹂ **** 翌日も[緑のむじな亭]の新蕎麦はよく売れるようであった。 570 ここで更にダメ押しとばかりに九郎は宣伝に出る。 暇そうな知り合いを呼んできて、店頭に出した傘の付いた座席で 蕎麦を食わせて、通りかかる人に聞こえるように絶賛させるのだ。 いわゆる、さくらである。 なお、店先に置く日傘は高級品な為に持っていなかったのだが、 売っている店を[藍屋]の主人夫妻に聞いた所、 ﹁ええ大丈夫ですよ勿論﹃新品の傘﹄ですとも。お八に持って行か せますから﹃傘﹄を受け取って下さいませ﹂ と妻のお夏に捲し立てられ、凄まじい勢いで傘をお八に持ってこ られた。何か隠語的な響きがあった気がしないでもなかったが⋮⋮ まあ手に入ったのだからいいかと、深く考える事はしなかった。 ともあれ、店頭で時分どきに蕎麦を誰に食わせればいいか、とり あえず呼んできた。 そして一番暇そうにしていた鳥山石燕は一口食って箸を置いた。 ﹁この新蕎麦は出来損ないだ。食べられないよ﹂ ﹁おいこら石燕﹂ ﹁三日待ちたまえ。私が本当の新蕎麦ってやつを出す店に連れて行 ってあげよう﹂ ﹁宣伝しろよ!? っていうかなんで三日!?﹂ まず、駄目だった。 味にうるさい石燕では、微妙な味を誤魔化しているこの店の蕎麦 はお気に召さないようである。 宣伝どころか、逆効果になりそうだ。 ︵頼んだ相手が悪い⋮⋮︶ 571 九郎は騒ぐ石燕に酒を酌してやってとりあえず黙らせるのであっ た。 次に彼女の弟子の子興に頼んだのだが、 ﹁はふっ、あふっ、熱っ! は! 熱う││!﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁あっ唐辛子がっ⋮⋮辛っ! いぃひぃ⋮⋮辛ぁ⋮⋮!﹂ ﹁これも駄目だな⋮⋮﹂ 猫舌の彼女が早食いでもないのに熱々の蕎麦をいそいそと食う様 子は、美味そうというか罰でも受けているかのようであった。 しかも薬味の唐辛子を入れようとしたら蓋が外れてどばぁっと入 り、激辛蕎麦になってしまったのだ。 涙目で舌を腫らしながら子興は蕎麦を手繰る。 とうてい、客寄せとは言えない。 仕方なく次に九郎は貸本屋の店頭で見かけた天爵堂を引っ張って きた。 ﹁なんで僕まで⋮⋮﹂ ﹁よいから、よいから﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 吐いた溜息の変わりに、もさもさと啜らずに蕎麦の麺を噛んで食 べる天爵堂であった。 俯いたまま丼に手も添えずに、ひたすら陰気な顔で蕎麦を噛む。 うまいとか、まずいとかそういう感想も無い。 さしずめ同日に葬式が数度あって、食い飽きた精進料理を無理や り口に入れているようであった。 ﹁なんというか⋮⋮お主、もっと美味そうに食えぬか?﹂ 572 ﹁そう言われてもなあ⋮⋮﹂ 彼は仕方なさそうに白い顎髭を撫でながら、 ﹁僕みたいな老人が美味そうに蕎麦を大食していたからといって、 他人の食欲を喚起させるものではないと思うけれどね﹂ ﹁言われて見ればそうである﹂ ﹁⋮⋮だから代金は払うから中でゆっくり食べさせてもらうよ﹂ やる気の無い熊のようにのっそりと彼は背中を丸めて丼を片手に 店に入っていくのであった。 さて⋮⋮。 ︵他を当たるか⋮⋮︶ と、次に呼んできたのは晃之介とお八の師弟である。 二人して並んで、 ﹁うわーなんかうまいぞー﹂ ﹁今すっげうまい。今すっげうまい。﹂ ﹁驚くほど棒読みであるな﹂ 演技力を駄目だしされるのであった。 さくらの効果はどれほどかわからないが、ともかく新蕎麦の看板 と割引切手も作用してここ数日は店がにぎわいを見せている。 安い原価と無料の光熱費でどんどん溜まっていく金に、店の三人 は嬉しい悲鳴を上げるのだった。具体的には嬉しい悲鳴の発声訓練 を夜に三人で行っていたら長屋の壁を殴られた。隣に住む気難しい 職人の源八爺さんに怯える三人である。 ただ⋮⋮。 573 ︵ちと、フサ子は働き過ぎではないかの︶ と、九郎も手伝いをしつつ思うのであった。 お房には主に、注文を聞くのと勘定を受け取る係にさせて配膳そ の他は九郎が受け持っているが、それでも九歳の子供がばたばたと 働き詰めである。 まだ客が少ないときは九郎と遊びに出かける暇さえあったのだが、 これではどうもいけない。 というか自分もこれでは出かけられない。九郎も労働に対して疲 れが見えてきた。アドバイスするまではともかく、実働となるとま たこれがしんどい。 ︵いっそある程度金が集まり、客入りが安定するようになったら店 員を雇うのがいいかもしれぬ⋮⋮︶ 子供には楽をさせたいものである。毎日が忙しければ、お房の勉 強も進まぬし趣味の絵も描けないだろう。 今しばらく店の様子を見つつも、六科と相談しなければと九郎は 思うのであった。 **** そうして[緑のむじな亭]のかつて無く栄えた数日が過ぎた夜の 事である。 少し早めに店の暖簾を下ろしてその日の営業を終えようとしてい 574 た。その日も客入りは忙しかったが、一仕事終えるとお房も鼻歌な どを歌いながら片付けをしている。 草臥れた九郎が六科と湯屋にでも行こうかと相談しているときで あった。 入り口近くにいたお房が急に座り込んだ。 ﹁⋮⋮フサ子?﹂ ﹁痛い﹂ 彼女はそう呟くと、青ざめて歯を食いしばった顔を向けながら、 腹を抑えて、 ﹁痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い!! お腹痛いの! !﹂ ﹁お房!?﹂ ﹁むっ⋮⋮まさか昼飯に当たったか?﹂ 慌てて六科が駆け寄る。 土間にのたうち回るお房を抱き上げると、彼女は涙をぼろぼろと 流しながら顔をゆがめ、 ﹁痛い!!﹂ と、叫び続けた。 耳をつんざくような悲鳴である。 これは尋常ではないと九郎も焦って、 ﹁お、おい六科! とにかく横に寝かせたらどうだ!?﹂ ﹁しっかりしろ、お房⋮⋮!﹂ ﹁うあ゛あああ! お、お、お父さんお腹が痛いよう! げほっ、 575 おえ゛っ!﹂ お房は更に嘔吐までして顔を振りながら痛みを訴える。 酸っぱいような苦いような液体が溢れて咳き込む彼女の背中を擦 るが、一向に痛みが引く気配はない。 とにかく、座敷に寝かせるが体を必死に折りたたむようにして蹲 り、嗚咽を漏らしながら泣き叫び続けた。 食中毒どころではない。 九郎も六科も昼は同じ、飯と鰯のつみれ汁、味噌焼き茄子を食っ ている。危なげな食材は無かったし、苦しみ方が凄まじい。 二人共じっとりと背中に脂汗を掻きながら、 ﹁い、医者を呼んで来なくては﹂ ﹁俺が行く﹂ ﹁お主は娘の側に居ろ! 己れがすぐに担いでくる!﹂ 九郎が裸足のまま店から飛び出そうとした時、 ﹁おや﹂ と、高下駄を履いた男が店に入ってきた。 緊迫した状況の中では冗談のような白い狐面を被った男、 ﹁新蕎麦が食えると聞いて来たのですが││﹂ 阿部将翁である。 ﹁どうやら﹂ そのまま彼は下駄をからからと鳴らして近寄ってくる。 576 ﹁それどころじゃ、無さそうだ﹂ 喉が潰れそうなお房の鳴き声の前でも、彼は何処か余裕有り気な いつも通りの態度であった。 場違いな格好の将翁の涼やかなよく通る言葉に、一瞬呆けた九郎 は正気に戻って、 ﹁将翁か⋮⋮! よいところに現れた! お房を助けてくれ!﹂ ﹁ほう﹂ 息を吐く音のように返事をして座敷の前に立ち、狐面を取ってお 房を見下ろした。 激しく耐え難い疼痛に気が狂わんばかりのお房の隣で、苦痛を肩 代わりしてやることも取り除くことも出来ずに無力感に打ちひしが れている六科が、唇の端を噛み切りながら将翁に頭を下げた。 ﹁頼む⋮⋮なんでもするからお房を死なせないでくれ﹂ ﹁さて﹂ 将翁は座敷に上がり、お房の頭を覗きこみながら、 ﹁やってみましょうか。ちょいと失礼﹂ ぐい、とお房の顔を己に向けさせて、彼は苦しむ彼女の口に薬で 湿らせた綿を突っ込んだ。 痛みに歯ぎしりしていたお房の口に無理やり予告も無しに入れた からか、噛まれた指先に歯型が付き血が滲んでいる。 そして彼は薬の匂いのする口をお房の耳元に近づけ、脳が痺れる ような囁き声を送る。 577 ﹁その薬を嘗め、つばを飲み込まぬように⋮⋮﹂ ﹁ん⋮⋮! ぐっ⋮⋮!﹂ ﹁そう﹂ やがて呻くような吐息が聞こえ、お房の手足から力が抜けて動き を止めた。多少苦しげだが胸が前後に呼吸をしており、眠りに付い たことを示している。 ひとまず落ち着いた様態に、九郎と六科は顔を見合わせて恐る恐 る聞く。 ﹁も、もう治ったのか?﹂ ﹁名医だな⋮⋮!﹂ ﹁いや、眠らせただけだ。お二人さん、診察はこれから、ですよ﹂ 糸のように細い眼を向けながら皮肉げに言い放つ。 暴れるお房が相手では診察も出来ない為に、ある植物の根から採 取できる神経に作用するアルカロイド系薬物と大陸渡りのカンナビ ノイド系薬物など数種類を混ぜた秘伝の麻酔薬を使い、眠らせたの である。 将翁は、 ﹁それで症状は腹痛と⋮⋮嘔吐。これはいつ頃からありましたかね﹂ ﹁ついさっきだ。それまではなんとも無かったが⋮⋮なあ六科﹂ ﹁ああ。⋮⋮俺としたことが、娘の体の不調にも気付かないとは⋮ ⋮﹂ 六科は自分への苛立ちで握りこぶしの血が失せている。 そんな彼を一瞥して、 578 ﹁急な、激しい腹痛⋮⋮ちょっと失礼﹂ と、お房の着物を肌蹴させて、彼女の腹部に将翁は耳を当てる。 雷が鳴り響いているようなごろごろとした音が聞こえた。また、 それ以外にも金属音を擦り合わせたような異様な音がする。触診し たところ、妙なしこりも感じられた。 彼は次にお房が吐いた吐瀉物を指で触り、臭いを嗅いでみると、 胃液に混じってわずかに便臭がする。 顰めた顔で将翁は診断結果を告げる。 ﹁九郎殿、六科殿。これは││﹂ ││死病、ですぜ。 九郎は将翁の言葉がやけに遠くに聞こえた。 さっきまで元気にしていた子が急に死の淵に立たされている事な ど、信じたくなかった。 病気の気配など無かったはずだ。ずっと先ほどまで元気にしてい た。 死ななければいけない理由など⋮⋮ ﹁どうにか﹂ 六科は縋りつく声を上げる。 ﹁どうにかしてくれ⋮⋮頼む﹂ ﹁⋮⋮難しい﹂ 彼はお房の腹を撫でながら、 579 ﹁正確には病の気じゃない。言うなればお房殿のはらわたが、何か の拍子で捻れて絡まってしまった。特にこのぐらいの年の少女は腹 の筋肉も少ないから内臓が全体的に下寄りになってしまい、偶然こ うなる事がある。予兆が殆ど無いのも特徴でして。 はらわたが捩れると口から入れたものが下から出なくなり、逆流 する。嘔吐物から便臭がわずかにするのはそのためだ。放っておく と捻れたはらわたが千切れて腹に腸液が漏れて死ぬか、血が通わず に腹から腐るか⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 九郎はごくりとつばを飲み込んだ。 腸捻転か、腸閉塞と呼ばれる病気だ。軽度のものならばともかく、 放っておけばその分だけ悪化していき自然と治ることはほぼない。 現代日本ならば医療器具や簡単な手術で治るものだが、薬も効か ぬこの症状は過去に於いては原因不明の激しい腹痛から急死する死 ポーション 病なのだ。 ﹁魔法の回復薬⋮⋮あれを使えば⋮⋮﹂ 九郎は異世界渡りの、半分残った回復薬を思った。 かの薬はかなりの重傷をも治す事ができるのだが、病気に使用さ れる事はあまり、無い。異世界では病気の治療は実在する神の奇跡 によるものが多かった。 将翁は首を傾げながら言う。 ﹁飲み薬が果たして効くかどうか⋮⋮霊薬の話は聞いてますが、最 悪、腸が絡まったままになるかもしれませんぜ﹂ ﹁しかし、しかし⋮⋮﹂ どの程度効くのか九郎もはっきりと断言できない為に使用が躊躇 580 われる。 なにせ魔法の薬というものは[なんの症状にどのような効果があ る]と決まっているわけではない。魔法の力により傷を癒やすとい うあやふやな回復が行われるのだ。しかも、量は半分しかない。 だが他に手がないのならば⋮⋮。 焦れる九郎を見ながら、将翁は、 ﹁あれを⋮⋮こうして⋮⋮確か⋮⋮﹂ などと考えを纏めるように呟き、 ﹁⋮⋮このままだとお房殿の命が危ない。六科殿。あたしに全て任 せては貰えませんかね﹂ ﹁ああ。全て任せる﹂ 躊躇せずに六科は託す。娘の命を救えるなら魔王にだって命を売 るだろう。 ﹁よし、それなら⋮⋮九郎殿、治療を手伝って貰えますかい﹂ ﹁うむ。なんでも言ってくれ﹂ ﹁ならば、六科殿はまず桶に煮たぎった湯を用意してください﹂ ﹁わかった﹂ 将翁の指示に、慌てふためきながら六科は湯を沸かして準備を始 める。 座敷を見回しながら、 ﹁ここではないほうがいい⋮⋮二階に空いている部屋は?﹂ ﹁九郎殿、案内を﹂ ﹁わかった﹂ 581 将翁がお房を抱き上げて運ぶので、九郎が先導して二階へ上がる。 彼が寝室に使っている隣の部屋。殆ど使われることのない、埃っ ぽい部屋である。 ﹁将翁、どうするのだ﹂ ﹁この子の腹を切り裂いて、手を突っ込みはらわたの位置を直す﹂ ﹁開腹手術をするのか!? ここで!﹂ ﹁他に方法がない。あたしは患者の千切れたはらわたを縫って腹に 戻した事もあるから位置はわかる﹂ 断言する受け答えに、九郎は無菌室でも清潔でもないただの座敷 で手術を行わせることに躊躇を覚える。 ええい、と彼は呻いて、 ﹁ちょっと待っておれ!﹂ と、将翁に先んじて部屋に入り、襖を閉めた。 すると[炎熱呪符]を取り出し、魔力の開放を行うと同時に目と 口を塞いだ。 ほんの瞬きするような間である。 閉めきった部屋を炎の圧が膨張して、ほんの少し畳や九郎の体を 焦がした程度ですぐさま消えた。 気休め程度だろうが、呪符を使った熱消毒である。少なくとも大 気中の埃や雑菌は減滅したはずである。 熱を持った襖を再び開けて、大きく息を吐く。 ﹁よ、よし、お房を寝かせるぞ。清潔なシーツは無かったか⋮⋮! ?﹂ 582 すると、六科が沸いた湯を張った桶を持ってきたので、それに風 呂敷を漬け込んだ。 再び[炎熱符]でぐつぐつと再沸騰させ、煮た後に取り出して絞 り、符で乾燥させる。 それを床に敷いてお房を寝かせた。 その間に将翁は薬箪笥から細長い小刀、針、糸、綿を準備してい る。 ﹁将翁、道具も消毒しておくぞ!﹂ ﹁消毒?﹂ ﹁うぬ、まだそんな概念が無いのか⋮⋮とにかく前に何に使ったか わからんから湯で洗うのだ!﹂ 言って、それらも熱湯に放り込んだ。 九郎自身も手術の知識など殆ど無い。感染症にかかる算段の方が 大きいかもしれない。それでもとにかく、お房の為にやらねばなら ないのだ。 最低でも腸の位置を正せば回復薬による治療が有効になるはずだ。 その為には将翁の腕が必要である。 ﹁さて⋮⋮これは時間をかければそれだけ具合が悪くなる。急ぎ仕 事にしますぜ﹂ ﹁大丈夫か?﹂ ﹁腹を切った後に迷っていると、お房殿の血が流れきって命に関わ りますから、ね。一息に終わらせる﹂ 麻酔がいつまで効果を発揮するかわからない。目覚めぬうちに終 わらせねば、開腹中に目覚めて暴れた場合、腸が飛び出る事もある のだ。 将翁はお房の腹部を熱い手拭いでよく拭い、煮沸消毒した小刀を 583 当てた。 ぐ、と力を込めるとめりめりと刃が柔らかな肌に滑り込み、じわ り、と血が噴き出る。 ﹁血が⋮⋮!﹂ ﹁切っているのだから当たり前だ。黙っていろ﹂ 心配をする六科へも、集中してる為か少し荒っぽい口調で将翁が 黙らせる。 腹を縦に割る。大きな血管や中の臓器を傷つけぬ、絶妙な深さを 手先の感覚で捉えて、切り開いた。 ﹁綿﹂ 片手を広げて指示を出すので、九郎は無言で従い彼に渡した。 広げた切り口に綿を押し当て、血を染み込ませて腹腔をよく見え るようにする。 すると、やはり結腸が潰れるようにして絡まっている事が将翁か らは確認された。知識のない九郎や六科が見ても、赤と白のぐちゃ ぐちゃしたはらわたとしかわからず、気が気では無い。 体の内側に向かって絡まった腸は、外からでは直せない位置にあ る。聴診した時に直感したが、開腹しての施術は必要だった。 将翁がその細い手指を突っ込み腸のねじれを直しているのを見な がら、六科は祈った。 神も仏も信じていなかったが、我武者羅に何かに。 ︵腸が破れたり出血は無さそうだ⋮⋮︶ 発見から早かったのも幸いして、腸が捻れた場所の壊死も見られ なかった。長時間放置すると血液が流れずに壊死するため、切除が 584 必要となり危険性が増していただろう。 将翁は正確な動きで腸を戻すと、てきぱきと切った腹を糸で縫い 合わせていく。 十分も掛からぬ非常に疾い手術であった。 中国古来から伝わる本草学のみならず、最新の西洋医術である蘭 学まで把握して、長年生きた実践で人体の腑分け経験も豊富な将翁 だからこその正確な判断が生きたのである。 解れぬ丁寧な縫い目の傷口を抜荷のウイスキーを更に蒸留したア ルコールで清め、軟膏を縫って血を止めて包帯を巻いた。 ﹁之で、良し﹂ 言って、彼は血で赤く濡れた手を湯の入った桶で洗う。 見たところ、お房の顔色が悪くなっているということも無いし、 呼吸にも異常は見られない。 六科がぼそりとした声で尋ねた。 ﹁⋮⋮治ったのか﹂ ﹁さて。術後の経過を見なければいけませんが⋮⋮はらわたの異常 は治しました、よ。暫くは安静にさせなさい﹂ ﹁ありがとう﹂ 六科は手を床について頭を下げた。 ﹁││ありがとう﹂ 頭を床に押し付けて、何度も礼を言った。いくら言っても言い足 りない程だった。 将翁は狐面を被りながら、口の端をいつもの胡散臭い笑みで上げ つつ応える。 585 ﹁どうも﹂ 何処か可笑しそうに将翁は応える。 九郎は何故か彼から虚無感のようなものを感じた。特に理由はわ からなかったが、不思議と。 **** 術後の様子も見なければいけない為に、将翁は今晩は泊まること にしたようだ。 手術が終えた頃、一階にはお房の悲鳴を聞いたお雪や、長屋の連 中が心配してうろうろしていたが一安心だということを伝えると帰 っていった。お雪は二階にあがり様子を見に残ったので、入れ替わ りに九郎と将翁は晩飯に蕎麦を食うことにした。 その後、九郎も寝ているお房の具合を六科と共にまんじりと見つ め、ふと便所に立った時に月明かりの照らす長屋の屋根の上、将翁 が肘をついて横に寝転がっているのが見えた。 ﹁おや⋮⋮?﹂ 何をしているのかと思って、九郎も軽々と取っ掛かりを足場に、 屋根へ飛び上がった。 ごろりと横たわったままの将翁へ、なにか呼びかけようとしたら、 振り向きもせずに彼から声がかけられた。 586 ﹁あの新蕎麦﹂ ﹁む?﹂ ﹁打ったのは六科殿で?﹂ ﹁ああ﹂ ﹁⋮⋮ありゃいまいちな味ですぜ﹂ ﹁まあな﹂ 将翁は手をひらひらと払うように動かし、 ﹁治療の対価に、六科殿には蕎麦打ちの上達を申し付けますかね﹂ ﹁それがいいかもしれぬな﹂ ぼやくように言葉を交わす。 少し間が開いた。狐面をつけていて表情のわからぬ将翁はどうで もよさそうな声で、 ﹁石燕殿が云うに││﹂ ﹁うん?﹂ ﹁遙か未来、何百年も経てば今は死病とされる病気や治らぬ怪我も、 問題なく治癒させてしまう程に医術が発展するだろう、と予想され てましたが⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうだな﹂ ﹁そんな未来ならば││﹂ おまま 何かを言いかけて、小さく笑い恐らくは言いかけた内容とは別の、 当たり障りの無い事を口にする。 ごと ﹁いや、見てみたいものだ⋮⋮きっとあたしの医術薬学など、御飯 事のようなものになっているのでしょうねえ﹂ ﹁謙遜するでない。お主はフサ子を救ったのだ。己れなど長生きし 587 ていても、いざというときに慌てふためいて碌に動けなんだ﹂ ﹁ま、これもあたしの年の功││ってやつ、ですよ。長く生きてい ればいろいろございます。千切れた腸や砕けた頭骨を弄る事もあり、 あの程度ならなんとか⋮⋮﹂ 年齢不詳の男はいいさして、 ﹁だが││それでも、治せぬ病もある﹂ 殆ど聞こえない呟きを残して、地蔵のように彼は黙ってしまった。 その病が何の事なのか、九郎は知らぬ事であった。 秋月が雲で翳っている。 **** 翌日の事である。 どたばたと階段を走る音が聞こえ、一度躓いて頭を強く打ち付け たらしい打撃音の次に襖が大急ぎで開けられた。 いつも真っ白で血の気が薄い顔を青くして、汗を流しながら石燕 がお房の病室に駆け込んできたのだ。 術後安定しているために一旦外に出かけた将翁からお房が手術を 受けたことを聞いたらしい。 ﹁房! 房は無事なのかね!?﹂ ﹁あ、お姉ちゃん﹂ 588 肩で息をしながら︵走ってきたわけではなく、店の前まで駕籠で 来たのだったが二階に上がるだけで息が切れた︶問いかける石燕に、 布団から上体を起こして薬湯をちびちびと飲んでいるお房が応える。 お房が布団で養生しているのを見ただけで、へたへたと座り込ん だ石燕はお房の小さな体を抱きしめた。 ﹁ああ⋮⋮房、房、大丈夫かい⋮⋮?﹂ ﹁う、うん。将翁さんと、九郎のお薬のおかげでほら、縫った糸も もう抜いたから⋮⋮﹂ 彼女の意識が戻ってからは傷口の痛みが酷く、また腹の傷が膿む といけないので魔法の薬を飲ませて傷を塞いだのだった。 異世界の薬の効果は高く、開腹した傷はすっきりと消え、抜糸す る時のほうが傷んでお房が呻いた程であった。ただ、飲み薬なのだ が味は酷かった。とにかく酷かった。つらい後悔を呼ぶ味だった。 だが少なくともこれで感染症などが起こる確率も大いに減っただ ろう。 とにかく⋮⋮。 腹を切って治療したと聞いた石燕は、すっかり治ったお房を抱き ながら、 ﹁房ぁ⋮⋮あうう⋮⋮﹂ ﹁もう、なんでお姉ちゃんが泣くの﹂ ﹁よかったぁ⋮⋮すん﹂ 泣きながら安心の涙を流す従姉の体を、お房は困ったような笑み を浮かべながら抱き返した。 相当心配したのだろう。 まるで石燕は、 589 ﹁自分が死ぬより辛そうに﹂ しているように九郎は感じた。 ﹁くすぐったいよ、だから大丈夫だって、お姉ちゃん﹂ ﹁うう、ごめんよ房。こんなことならばもっと楽をさせておけば⋮ ⋮労働は罪だ。資本家は敵だ。社会構造は悪徳に満ちている。今こ そ革命の時だね⋮⋮!﹂ ﹁変な思想に芽生えてるの⋮⋮﹂ 革命の闘志に燃える石燕の瞳に若干引きつつ、視線を彷徨わせて 九郎と六科へ向けた。 ﹁ところで二人共、あたいは休ませてもらうだけど今日のお店の準 備はできてるの?﹂ ﹁む⋮⋮いや、お房の体調も悪いし⋮⋮なあ九郎殿﹂ ﹁う、うむ。最近は儲けているのだから休みにしても⋮⋮﹂ 店は開かぬつもりで何も準備していなかった二人はもごもごとそ れらしい言い訳を口にする。 するとお房が布団の中から取り出したアダマンハリセンが、びし りとそれぞれの頭で軽い音を立てた。 ﹁もう! 何を言ってるの! お客さんがいっぱい来るからって日 持ちしない食材も買い込んでるのよ! 人生で働き時っていつ!? 今でしょ!﹂ ﹁ぬう⋮⋮﹂ ﹁くっ、こやつ元気になりおって﹂ 昨日腹を開いたというのに、もうこの気迫である。男二人は気圧 590 されてしまう。 小さいが赫然たる娘の態度に、六科は亡妻であるお六との血を感 じざるを得なかった。 もっとも、お六の場合は雨の日に仕入れに出かけていて、落雷に 打たれたというのに帰ってきて普通に店を開いた事があるというサ ンダーストロング系であったが。 しかしながら、ハリセンを持ちながら快活な顔になっているお房 を見ると、九郎も六科も安心した気分になるのであった。 石燕が病み上がりだと云うのに張り切るお房を抑えながら、 ﹁房、食うに困って働きが忙しいのなら、もう無理はさせられない よ? これから私の家に住まないかね? 絵の勉強もできるが⋮⋮﹂ と、石燕が提案するのだが、お房は微笑んで、 ﹁ううん。お父さんはあたいが居ないとてんで駄目なんだから、居 てあげるの。 それに仕事を頑張ってる姿が好きで⋮⋮お金儲けじゃなくて最近 は、お客さんが沢山来てお父さんの料理を認めてくれる事が嬉しい から、あたいも一緒に頑張るの。あ、勿論、九郎も一緒にね﹂ にっこりと笑うと、皆はお房に背中を向けて目を伏せながら相談 しあう。 ﹁おおう⋮⋮六科、お主のような親のもとで、よく良い子に育った なあ⋮⋮!﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ ﹁まずいね⋮⋮房の純な心の波動に、私の闇属性が浄化されて体が 消滅しそうだ⋮⋮!﹂ 591 ﹁ぁによう。ふん﹂ 声を震わせて感動しているいまいち立派な大人と言いがたい三人 に、お房はいじけたように、そして少し恥ずかしいように呟いて布 団を被り潜り込んだ。 九郎が六科の腕を掴み立ち上がって、 ﹁こうしてはおられぬ。店の準備をするぞ六科﹂ ﹁ああ﹂ ﹁よし! 頑張りたまえ戦士達よ!﹂ ﹁⋮⋮あっ、手伝ってはくれないんだ﹂ もぞもぞとお房の布団に足元から潜り込んで怠ける姿勢に入った 石燕はとにかく放置することにした。 部屋を離れ二階から降りつつ、 ﹁しかしフサ子がああまで言っておるのだ。お主も料理の腕前を上 げてしっかりせねばならぬぞ﹂ ﹁わかっている。⋮⋮旨い蕎麦を五年以内に作れなかった場合、治 療費百両を請求される事になった﹂ ﹁⋮⋮頑張れ﹂ ﹁うむぁ⋮⋮﹂ 唸る六科であった。 **** 592 その日も[緑のむじな亭]は繁盛していたのだったが、店員が実 質九郎一人しかおらずに昼飯の時分には目が回るような忙しさだ。 六科も蕎麦を打っては料理を盛り付け、酒を準備し皿を洗うとい う大変慌ただしく仕事を行い、日の終りには二人してぐったりと疲 労で動けなくなってしまっていた。 思えば昨晩もお房が心配で碌に寝ていない。おまけにここ数日繁 忙続きで疲れも溜まっている。 息も絶え絶えに九郎は六科に提案するのだった。 ﹁のう⋮⋮この店⋮⋮大繁盛というか⋮⋮ちょっと暇なぐらいで丁 度良くないか⋮⋮?﹂ ﹁俺もそう⋮⋮思う⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮はい! きゃんぺーん期間終了! 明日から営業収縮するぞ !﹂ ﹁ああ。隠れた名店的なあれを目指そう。お房もお金儲けが目的じ ゃないと言っていた。量より質だ﹂ ﹁確かに言っていたな。よし﹂ 忙しさに耐性の無い男たちは、存外に早く諦めるのであった。 勢いで客を増やしたが、店員が対応できるキャパシティを超えて しまってはどうにもならないのだ。 ところで⋮⋮。 配っていた割引切手も回収に走ったのだが、その頃には他の店舗 も割引切手の真似をして、発行し始めていた。 切手の目新しさが無くなる頃合いなので具合もいいか、と九郎は 思ったのだが、後に絶妙なタイミングで自店のキャンペーンを終了 したことを思い知る。 あちこちで流行り出した切手であったが、その実態は単純に言え 593 ば店でのみ扱える金券である。しかも、何処の店も奉行所などには 無許可で作って配り回っていた。 需要があればその券を集め有料で販売する輩も現れる。 折りしも、幕府は世間の酷いデフレーション対策として[享保の 改革]に乗り出している時代である。そんな時に町人が勝手に作っ た金券市場が大きくなったら、お上がどのような対応を取るかは明 白である。 複数の蕎麦屋が急度叱︵呼び出し後厳重注意︶、または悪質な金 券業者は江戸払い︵追放処分︶の判決を受けることとなってしまっ た。 [緑のむじな亭]は事が発覚する前に切手の取り扱いをやめてい たので、調べを受けることはなかったものの九郎らは事の次第を知 り背筋を寒くさせたが⋮⋮。 ﹁むやみに人を呼ばず、かつ常連客を作るために、ぽいんとかーど でも作ろうかと思うたのだが⋮⋮﹂ ﹁九郎殿。暫くは妙な真似は止めておこう﹂ などと相談しあう二人の姿があったという。 594 挿話﹃新しくて懐かしい世界の音﹄ 玉菊は黄泉の如き底の知れぬ不気味さを背負っている⋮⋮。 相対する九郎はじわりと汗を流し、厭な気配を玉菊の微笑みから そう感じた。 それにしてもなんという禍々しい笑みだろうか⋮⋮。 見ていると時間間隔すら狂いそうだ。日が出ているのか月が出て いるのか、玉菊と向かい合ってどれほど経過したのかもはやわから ぬ。 白粉の匂いがわずかに浮き立つ。 九郎は己の感覚が全て閉ざされていく錯覚にすら襲われた。 ︵くううっ⋮⋮異世界で為らした己れの糞度胸は、今まで矢弾飛び 交う戦場でも、火吼える竜の前でも引けはとらなかったではないか ⋮⋮!︶ 研ぎ澄まされた動体視力は恐怖を抑え、冷静に視界に捉えること で飛来する矢すら剣で打ち払える程だったはずだ。もはや、元現代 人としては常人離れした実力ですらある。 それでも、彼は今まさに向かい合い、勝負を行っている玉菊の着 物の袖に隠した手への不安が拭えないのである。 ︵こ、この己れが拳を抜き合わす事すらできないでいる⋮⋮!︶ す、と玉菊の袖口が揺れたような気がした。 595 九郎は目を凝らしながら相手の動向を探りつつ、ぐっと拳を握り こんだ。 ︵もはや⋮⋮!︶ と、決意をしようとした瞬間に再び玉菊の手元が幻惑せんばかり に動きを止めて、タイミングをずらされる。 既に三度、攻めに出ようとするがその度に異様な気に圧されて拳 を出せずにいた。 奴の隠された袖が恐るべき闇に思える。 ︵い⋮⋮いかん。先に手を出せば動きを読まれ、やられる気がする ⋮⋮!︶ 心の惑いはどうしようもなくなってしまっている。 疲弊し時間や空間の感覚も無く、ただ目の前に居る華奢な陰間に 完全に圧倒されているのだ。 目も眩み今すぐ倒れ伏してしまいたいと心の何処かが叫んでいる。 気力も闘志も萎え全て投げ出してしまいたい。 が⋮⋮その時。 玉菊の姦邪な笑みが深くなった瞬間、隠されていた手が動いた⋮ ⋮! 対応するために指先すら覚束なくなった九郎も拳を突き出す││ ﹁││夜宵の宵!﹂ 二人の拳はそれぞれ決められた形で勝負に出た。 596 九郎は手を開きパーの形。玉菊はチョキである。 敗けた⋮⋮。 ﹁ぬううう⋮︰⋮!﹂ ﹁わぁいまたわっちの勝ちでありんすー!﹂ くるくると嬉しそうに回る玉菊を前に、九郎は敗北感に膝をつい た。 九郎は上半身裸で、腰に元々の持ち物だった化繊のトランクスを 履いているだけである。近くの床には着流しと肌着が畳まれて置か れている。 玉菊が上がりきった精神テンションで手を鳴らしながら嬌声をあ げる。 ﹁はい脱ーげ! 脱ーげ! あと一枚! あと一枚!﹂ ﹁こやつめ⋮⋮!﹂ 野球拳であった。 いや、江戸時代での言葉で言うならば座敷遊びの一つ[拳遊び] だろうか。エロい意味ではない。今で言うじゃんけんとそう変わり がない、遊郭でのメジャーなプレイである。負けたら服を脱ぐのは 特殊規則であったが。 九郎は既に四度連続で負けた。負けるべくして負けた。玉菊の使 う恐るべき拳遊び技﹃雲龍拳﹄の前には所詮アマチュアである九郎 は相手にならなかったようだ。雲龍とはすなわち、雲に隠れ襲い来 る龍の如き恐ろしさを表したものだ。 史実でも花魁の玉菊はなんか異様に拳遊びが得意だったと伝えら れている⋮⋮ 九郎の着た布の枚数からすると、一度目は帯。二度目は着流し。 597 三度目は上の肌着⋮⋮そして、最後の砦である下着を捧げなくては ならない。 それがルールだ。 予め、決められた約束事である。 誰が決めたかというとまあ玉菊である。 ﹁ぐへへへぬし様、よいではありんすか! よいではありんすか!﹂ ﹁引っ張るな! 無効だ! 己れはまだじゃんけん十三奥義を使っ ていない!﹂ よだれを垂らしながら下着に掴みかかる玉菊はどうも、 ﹁気長に⋮⋮気長に、な⋮⋮﹂ などと呟き正気ではない目をしていて説得の余地が無さそうだっ た。 九郎は咄嗟に影兵衛の隠れ家である盗人宿の一つを前に案内され た事を思い出した。あそこならば、死体を放り込んでも表沙汰にな れないので闇に葬ってくれるかもしれない。 玉菊を始末しようかと考えるぐらいピンチであった。このままで は玉菊に一本饂飩︵隠語︶されてしまう。 手遊びに負けたせいか不思議と抵抗の力が篭もらない。これも奴 の能力か⋮⋮! と九郎は決意を固めようとした時にである。 ︵⋮⋮?︶ いや、待て。そう思った。 なぜ己れが玉菊と座敷遊びをしておるのだ。 いつから、どこで⋮⋮? 598 ﹁は、これはまやかしの妖術ではないか⋮⋮!﹂ 九郎は己の発言とともに周囲の風景は掻き消え、朧気な認識しか 出来ない空間に取り残される。 髪の毛をぼりぼりと掻いて、眠たげな眼差しで把握する。 ﹁というか⋮⋮夢であるな。布団に入った記憶はある﹂ 夢だから特に躊躇いもなく独り言が呟く。 明晰夢である。 ふと、頭を掻いた手を見ると節刳れて骨張った己の指があった。 ︵む⋮⋮?︶ と、思い前髪を垂らすとすっかり白髪に染まっている、水気の少 ない細い髪だ。 夢なので視覚でものを見ているわけではない。 九郎はなんとなく感覚的に己が懐かしい老人の姿になっている事 を自覚した。 深い皺と曲がった腰、老眼鏡をかけて怠そうにしている爺だ。確 か、魔法学校の用務員を退職して数年が経過したぐらいだったろう か。年は七十前後だったが異世界での生活からか老化は早く、白髪 や体のがたも一気に到来した頃である。 ﹁うっ⋮⋮そう自覚すると持病の関節痛が⋮⋮! いたた、夢の中 だというのに⋮⋮今度の老後は食生活に気をつけんとなあ﹂ 最後に住んでいた異世界の市内で受けた定期健診では、尿酸値が 高くてげんなりとした事が過去だというのに妙にはっきり思い出さ れた。 599 若い頃に無茶な傭兵稼業や元の世界へ帰る方法を探す旅に出た身 体への後遺症も残っているだろうか。時折酷く体が痛んだ。 腰骨か何処かには骨折時に付けられた固定用の金属ボルトも入っ たままだったと思う。なんか恐ろしくて老後も骨だけは頑丈になる ように牛乳と煮干しは齧っていた。若返った時に消えたはずだった のだが⋮⋮ 最近の江戸での暮らしのように暴飲暴食をするのはせめて若い時 だけにしておこうと考える。病気にかかったら治す事が出来ないか もしれない。 ともかく⋮⋮。 明晰夢だが、特に何がしたいわけではない。むしろ考えに耽れば 再び玉菊が襲来してくるやもしれぬ。 さっさと目覚める為、九郎は夢の中でまた眠るように、 ﹁よっこら﹂ と言いながら寝転がった。自分でも爺臭いと思う。こんな己を強 制的に若返らせて旅に連れ出した魔女のイリシアは鬼だ。 魔法学校で落ちこぼれであった魔女が校舎裏で魔法の練習をして いるのを見かねて声をかけたのが付き合いの始まりだったか⋮⋮。 あくびを一つ。 九郎が目を閉じて元の体の覚醒を待っていると、がちゃり、とド アノブを捻る音がした。 ﹁おーい、くーちゃん。我が遊びに来た⋮⋮よ⋮⋮?﹂ 虚空より出現したドアから身を乗り出した虹色に輪転する髪色を した少女は、ごろりと寝ている老人を見て言葉尻を窄ませ、そろそ ろとドアを閉める。 600 ﹁うー⋮⋮間違えました⋮⋮かな⋮⋮?﹂ ﹁む? おお、魔王ではないか﹂ 九郎がゆっくりと目を開けると皺枯れた声で来訪者を呼んだ。 彼女の出ていこうとする動きが止まる。 ﹁夢にまで魔王を見るとは⋮⋮南無阿弥陀仏。成仏しておけよ﹂ ﹁我は仏教徒じゃないよ。っていうかくーちゃんだよね? 爺ちゃ んの姿だけど⋮⋮ああ、魔女のいーちゃんに若返りと不老の魔術を かけられたんだったね。精神世界だから元の体をとっているのか﹂ 納得した彼女は謎の扉から九郎の夢へと侵入してきた。 足まで届く長い虹髪に、そばかすを隠すように野暮ったい眼鏡を つけた全身ローブの少女である。 失った片手の代わりにロケットパンチが付いている以外は魔王ら しい威厳がまったく見当たらない。逆に言えばロケットパンチが精 一杯の魔王成分である。つまりは、魔王の本体なのかもしれない。 九郎は一度もそれが敵に向かって放たれたことを見たことはなかっ たが。 種族・召喚士で属性は﹃異界物質﹄。第一級殺神罪と大量破壊兵 器不法所持禁止条約違反により国際指名手配を受けて﹃魔王﹄と呼 ばれるようになったのが、彼女だ。 久しぶりに見る魔王の不健康そうな笑みを見ながら胡乱げに九郎 は言う。 ﹁夢に死人が出てきたら墓参りに行った方がいいらしいが⋮⋮﹂ ﹁残念な事に我は死んでないので不要な心配だよっ﹂ ﹁そうか⋮⋮なんか残念だ﹂ ﹁なんで!? 友達でしょっ!?﹂ 601 騒ぐ魔王を寝そべったまま見上げて九郎はため息を付いた。 魔王が髪と同じく、虹色の輝きを持つ瞳を向けつつ断定した口調 で、 ﹁どして夢に我が出てきたのか、とか考えてる?﹂ ﹁ううむ。前も何か夢で会った気もするがな⋮⋮む? 少し太った か? ハンバーガーとコーラの食い過ぎであろう﹂ ﹁女の子に失敬なぁ! ええいともかく、今回はこれを使ったんだ っ!﹂ 彼女はローブのヘソの辺りにつけている半球形のポケットから冊 子を取り出して掲げながら高らかに言う。 ﹁﹃あらかじめ夢日記﹄∼! この日記にあらかじめ内容を書いて おくとその通りの夢が見られて、他の人の夢にも入れるって道具だ よ。これに﹃九郎と夢を共有して雑談する﹄って書いておいたのさ っ!﹂ ﹁はあ﹂ ﹁テンション低いなあ⋮⋮﹂ ﹁いや⋮⋮老人の体になると血圧の関係かしんどくてなあ⋮⋮やっ ぱり精神が身体に引っ張られるものなのだろうよ﹂ しみじみと言う。 子供の体でならば野球拳でもなんでもできる気分だが、どうも年 を取るといけない。いや、これが正常なのだから或いはいいのかも しれないが。 どちらにせよ、旧友に会いに夢を伝って九郎の精神世界へ来た魔 王は意気を挫かれるのであった。 ﹁まったく、くーちゃんと来たら⋮⋮我が気まぐれで遊びに来てあ 602 げたのに﹂ ﹁すまんのう﹂ ﹁というか! 聞きたいこととかあるんじゃないの? 今ならなん でも答えてあげるよ!﹂ ﹁おお﹂ 九郎はわずかに顔を綻ばせて、 ﹁実は、江戸だと卵と油と米酢はあるのだが⋮⋮マヨネーズってど うやって作るのだったか﹂ ﹁えっ? ちょっと待ってええとウィキペドるから⋮⋮ ワインビネガー 卵黄1個に対し、酢を大さじ1程度、水小さじ1、塩、胡 椒を少々。 好みによりマスタード大さじ1。 それをボウルにいれ十分にまぜあわす。 卵黄1個に対し300cc程度までの食用油を少しずつ加 えながら、好みのマヨネーズの食感にまで攪拌する。途中分離しそ うになったら酢やワインビネガーを足すこと。 料理に合う塩と胡椒を加え完成させる。 ││って違うよ! 死んだはずじゃあなかったのかとか聞こうよ!﹃残念だったなあ、 トリックだよ!﹄って返す準備してたのに! こんな時しか使えな いのに!﹂ 律儀に夢のなかに持ち込んだ魔法端末で検索した後に悔しそうに 地団駄を踏んだ。もともと世界観測用の神鏡だったのを天界から強 奪し、魔女と二人がかりで改造して作ったそれは超越違法則電波の 送受信が可能で三千世界中どこでもネットに繋げる機構になってる。 603 たとえ夢の世界でも。魔王が一番気に入ってるのは値段︵無料︶だ が。 彼女はひとしきり騒いだ後大きく肩を落としてうなだれた。 ﹁はぁ∼⋮⋮まあいいか。どうせ気まぐれにくーちゃんの顔見に来 ただけだし。ふんだ。どーせくーちゃんは我のことなんて興味無い みたいだから!﹂ ﹁そう拗ねるな。⋮⋮そうだの、お主││よくあの皆殺し三人衆か ら生きて逃げれたなあ。アレか。お主の切り札、亜神搭載型兵器が 頑張ったか。創世の力で超速再生するから破壊不能とか言ってた機 動戦士﹂ 自信満々に魔王が説明していた機械巨兵を思い出す。 彼女が大部分の力を失う前は軽々しくそういった物騒極まりない 兵器を手駒としていたが、その残りで最も高性能だったものである。 前は玉石混交にもっと大量の機械兵が魔王城の地上部を守っていた のだが、バイオレンスな討伐隊に全滅させられるのを九郎は目撃し ている。 魔王が自嘲気味に笑い首を振って、 ﹁いや、あれは神殺しの魔鳥に一瞬で壊された⋮⋮いーちゃんのお かげだよ。我もくーちゃんも逃げれたのは﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ オー 魔王は邪悪に顔を歪ませて腹を抱え小さく思い出し笑いをした。 バークライム ﹁君を日本に送った後、破れかぶれで彼女が﹃狂世界の魔剣﹄を凌 駕駆動させて⋮⋮くくく、周辺平行世界と高次元低次元まで合わせ て消滅しかけた時はどうなることかと思ったけれど﹂ ﹁グッバイ己れの半生を過ごした異世界⋮⋮永遠に﹂ 604 ﹁大丈夫。一応完全消滅する前にいーちゃんがあいつらのヤバイ級 反撃で力尽きて世界は再構築されたから。正義側補正ってズルいよ ね。まあちょっと壊れた影響で世界軸が歪んだけど。そのおかげで 我は世界の認識概念にロックをかけて死んだ事にできた。 あの世界では極悪魔王は退治され、唯一栄光を受け取った戦士が 魔王城跡に新たな国を築いている。もう一人の召喚士は名誉なんて 嫌いだしね。吸血鬼の爺は再生まで99年かかる⋮⋮まあそれはど うでもいいや﹂ 殺神罪で天界からも滅殺啓示が出ていた魔王を倒した勇者には、 超栄光特典という神の祝福が与えられる。戦士はそれを使って王に なったようである。魔女と魔王の力の影響で異次元ダンジョンと化 した地下を封印するように地上では街が作られていくのであった。 もはや元の住処に未練は無いようで、魔王は九郎の夢に入ってき た扉の側に立ちながら九郎に言う。 ﹁我がくーちゃんに伝えたかったのは魔女の魂の事だ﹂ ﹁あやつの?﹂ 魔王は頷く。 ﹁魔女は何代か前、遥か昔に魔神を殺した呪いでその体と魂をあの 世界で転生し続けていた。だけれども、世界崩壊級にやり過ぎて神 々から目をつけられたんだね。あのままだといーちゃんの魂は消滅 させられる事になるから、我はせめてもの義理で君の世界に転生さ せるように送り込んだんだよ﹂ ﹁⋮⋮なんだって? 魔女が日本にか? なぜそれを己れに?﹂ ﹁君はそっちの世界で彼女の魂の転生体を見つけなくてはいけない。 じゃないと、君の体に刻まれた不老の魔術が消えないよ?﹂ 605 いつの間にか、九郎の体は実体である少年形へと変化している。 中学生ほどの発展途上の肉体だ。背も低く顔つきも幼さが残って いる。魔女が若返らせた時、当時の彼女と同年代に九郎を戻したの である。 魔女が死ねば不老も解けると思っていた。 だが、この成長期で止められていたはずの体は江戸に来てから半 年程の間に背は伸びていない。魔女の付与魔法は術符と同じく、破 壊するか魔女が解き放つかしなければ効果を発揮し続けるのだ。 魔法があり長命・不死種族なども居る異世界と違い、こちらの日 常世界に不老で居続けるのは異常である。ナチスとかムーとかに拉 致されて解剖を受ける図を九郎は想像する。 苦々しい顔をした九郎に魔王はにやにやとした笑みを見せた。 ﹁魔女の魂は一応人間に転生する事になっているけれど、それが男 か女か、もう生まれているのかこれから生まれるのか、既に君と知 り合いなのか今後出会うのか⋮⋮それはわからない。体はこっちの 世界でレイズ物質化して消滅したから、そちらの輪廻に乗ったから 魂には記憶も魔力もほぼ継承されないしね﹂ ﹁どう探せと云うのだ﹂ 魔王はドアを開けながら告げてくる。 ﹁﹃金枝篇﹄で解説されている﹃共感の法則﹄は覚えているだろう ?﹂ ﹁⋮⋮確か、繋がりがある相手同士は何らかの相互干渉を持つよう になる、だったか﹂ 魔王から渡された文庫本の魔術解説書を思い出して応えると、魔 王も頷いた。 606 ﹁そう。だからいーちゃんの転生体は君との間に発生する運命力が 干渉して出会えると思うよ。頑張って探して⋮⋮なんとかして魂に 残された記憶を取り戻させれば解呪ぐらいはしてもらえるはず。が んばれくーちゃん!﹂ ﹁なんとかって⋮⋮はずって⋮⋮﹂ 九郎は軽い頭痛を覚える。 記憶のない魔女の生まれ変わり││それが本当に居たとして、だ ││に出会ったからといってなんと言って魔法の解呪を頼めばいい のだろうか。 前世で共に戦った魔女と使い魔であるという話題の切り込み方で は痛すぎることは分かる。 不老である事は困るが⋮⋮果たして宛ての無い相手を見つけ、更 に前世の記憶を呼び戻さなければならないとなると九郎はほとほと に困ってしまう。 そもそも、と思い出ていこうとする魔王に声を届かせる。 ﹁なぜお主は今更、それを告げに来たのだ?﹂ ﹁うーん⋮⋮一番の理由は気まぐれ。なんとなく昨日思いついて﹃ あらかじめ夢日記﹄を使ってみた﹂ ﹁むう。召喚士はどいつも気分屋だの﹂ 呆れた様子で九郎が肩をすくませる。 魔王と呼ばれる異物召喚士である彼女とは暫く魔王城で暮らしを 共にしていたが、基本的に我儘で自分勝手な性格だからよくメイド に物理的に粛清させられていた。 他にも何人か知り合った事のある召喚士は居るが、一番酷く感情 的な奴になると茶菓子を食われたというだけで魔王を殺しに来た程 である。恐らくワニと同等の脳構造になっているのだろうと結論づ けた。 607 ついでのように魔王はそっぽを向きながら云う。 ﹁後は││いーちゃんとは友達だったからね。あの子は本当にくー ちゃんが好きだったからさ。居なくなった後に世界を滅ぼすぐらい。 だけどそれをこらえて君を元の世界に戻すことを選んだ友人の魂に 対するサービス⋮⋮かな﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁くっくっく﹂ 喉を鳴らすように笑う。 ﹁それじゃあバイバイ、くーちゃん。そっちで元気で﹂ ﹁会おうと思えば、また会えるであろう﹂ ﹁⋮⋮気が乗ったらね││あ、最後にいーちゃんの魂を探すアドバ イス﹂ 空間に開いたドアから半身だけこちらを向いて、魔王は指を立て た。 ﹁一番怪しいフラグを立てている人物以外が魔女だ。だけれどもそ れは大きなミスディレクション﹂ ﹁むう⋮⋮?﹂ ﹁彼女の約束を忘れないでね││じゃっ!﹂ 魔王は夢の扉を閉じる。虚空に現れていた扉は下から薄れて消え て行った。 九郎は軽く手を振る。 木っ端微塵に殺害されて埋められでもしたと思っていた魔王であ ったが、引き籠りつつ結構気楽にやっているようだ。それを思うと、 九郎はため息混じりに小さく笑った。 608 我儘な魔王に性悪の魔女、冷酷な侍女と自分の四人で暇しながら 過ごした日々は、結構思い返してみると楽しかったのかもしれない。 九郎を振っていた手を止めて、目の前に翳したままぽつりと呟い た。 ﹁そうだな、あの世界でただ一人、家族だったからな││イリシア﹂ 転生を繰り返すため忌み嫌われていた小さな魔女に、なんとなく 伸ばした手から繋がった縁であったが⋮⋮。 あの日魔女と出会い、その時交わした約束はなんだったか⋮⋮大 事なことだった気がするが、思い出すことも出来ない。 どっと、夢の中だというのに眠気に襲われて九郎は目を閉じた。 **** ﹁││郎! 九郎! いつまで寝てるの!﹂ ﹁おや⋮⋮﹂ 九郎は自分の手を握ってぐいぐいと引っ張るお房の声で目覚めた。 脱力した彼の体を無理やりお房は起こし上げて、窓を指さし怒鳴 るように云う。 ﹁もうお天道様がこんなに高くなってるのにいつまでもぐうたら! ﹃石屋﹄だか﹃医者﹄だか知らないけど早く起きるの!﹂ ﹁眠い⋮⋮なにか夢見が悪くてのう⋮⋮﹂ 609 ぼんやりと九郎は目を擦った。もう片方の、お房が握ったままの 手に暖かみが感じられる。寝言でなにやら呟いていたのを聞かれた らしい。 懐かしい顔を見た気がする。そして、誰かと合わねばならぬと焦 がれがあった。 年をとると物忘れが激しくなるというが。 九郎は見ていた夢が急速に朧気になっていくのに、己でもわから ぬ不安感を覚えた。 ﹁む、いかぬ。フサ子よ、何か書く物を⋮⋮﹂ ﹁起きて早々どうしたの?﹂ ﹁大事なことだ。ええと⋮⋮﹂ 九郎は渡された筆と半紙に、忘れてはならない夢の内容をメモし ておく。 その妙な様子にお房は、 ﹁狐にでも憑かれたのかしら﹂ と、首を傾げるのであった。 ﹁⋮⋮よし﹂ 九郎は書き終わった紙を日で透かすように広げ確認した。 やるべき事ができた。果たせるかはわからぬが、やらねばならぬ 大事なことだ。 既に昼近いだろうか。とりあえず九郎は布団を跳ね除けて立ち上 がる。 まずは行動からだ。 610 そうして九郎は、マヨネーズの作り方を書いた大事な紙を片手に、 一階へお房と共に下りて行くのであった。 **** マヨネーズが和食に合わないと誰が決めたのか。 九郎は一、二度失敗しつつも完成した緩めのマヨネーズを味噌と 溶き和わせ、輪切りにした秋茄子に塗りつけて串で刺し炙ったもの を作り[緑のむじな亭]の本日の一品に出した。 当の九郎も昼下がりに店へやってきた影兵衛とそれを肴に酒を飲 っている。 味噌の香ばしさと焼いたマヨネーズの濃厚な味が合わさり、上に 振りかけた胡麻も嬉しい食感なその焼き茄子は、びろびろとした口 触りでまたこれが酒に合う。 焼き茄子というと皮が焦げてしまう為に剥がして食う者も多いが、 ﹁茄子と鯖は皮が旨ぇんだよなあ、おい﹂ ﹁うむ、このぷっつりとした歯ごたえがたまらぬ﹂ と、二人して言い合いながら、あちあちと串から歯で引き抜いて 味わう。 生姜醤油をちょっと付けすぎだろうかと不安になるぐらい染み込 ませて、びたびたになった焼き茄子を食うのもまた別のにんまりす るようなさっぱりした旨さがあるが、どちらかと言うとそれは夜に 611 食べたい味だ。味噌マヨネーズで濃い味を楽しむのは昼の味と言っ てもいいだろう。 九郎は嬉々たる顔で、 ﹁この調味料な、鰹の刺し身につけてもまた旨いのだ。お主の行き つけの店のほれ、鮪柵切りの油煮にも合うぞ﹂ ﹁ほぉ。そいつぁ御機嫌な話だ。持って行こうぜ││おっ⋮⋮この 山芋の串もうめぇ。さくっとしつつねっとりした芋に塗られたこい つがまた乙でなあ⋮⋮﹂ 影兵衛が破顔しながら酒のお代わりを注文する。串料理は基本的 に材料を切りタレを塗って串を刺し焼くだけなので、六科でも簡単 に作れるからこの店ではよく提供される。タレの味付けを九郎が工 夫しているので結構評判が高い。 串を咥えながら影兵衛は厭らしい野獣のような目つきをした。 ﹁しかしよぅ、山芋食ったらあれだろ﹂ ﹁あれ?﹂ ﹁おうさ。この後、品川の岡場所にでもしけ込まねえかぁ?﹂ と、影兵衛から女遊びの誘いがあった。 九郎は不敵に笑い、 ﹁いいな。己れもそっちに少し用事があってのう﹂ ﹁おっ! なんだなんだ? 今日は珍しくやる気満々じゃねえか! けひひ、そうかいそうかい。結構九郎先生もお好きなもんだ!﹂ ﹁む⋮⋮勘違いするなよ。己れはやらねばならぬ事があるから行く のだ﹂ そう言って九郎は夢で見た大事なことメモの内容を意識した。 612 そこにはマヨネーズの作り方以外に、 ﹃玉菊にじゃんけん勝負でリベンジすること︵油断せず奥義も使用 すべし︶﹄ と、夢の中のお告げらしき事を記録に残したのだ。 いまいち夢の内容は思い出せることが少ないが、起床して慌てて メモをするほどの重大さを持っているらしい。 ならばやらねばなるまい⋮⋮最近、玉菊の姿をあまり外で見かけ ないので、こちらから訪ねてでもだ。 九郎の財布には石燕から貰った小遣いが充分にある。 しかしこの前、彼女に﹃まさか私のあげたお小遣いで女を買った りしていないよね?﹄と釘を刺されたのを覚えているとはいえ⋮⋮ ︵まあそのなんだ⋮⋮玉菊は男だからセーフ︶ 自分に言い聞かせる。 それにじゃんけんで勝負を決めに行くだけである。多少会うのに 金がかかるが⋮⋮やらねばならないことだと夢で誰かに念入りに告 げられたような気がするのだ。 なので、故あって九郎はその日、影兵衛と共に品川界隈の色街に 繰りだすのであった⋮⋮。 **** 613 その日、正夢のように玉菊に拳遊びでボロ負けし、出した十三奥 義の[買収][超高速破壊拳]すらも躱され惨敗となった九郎がひ ん剥かれてかなり危うい目にあったのは云うまでもない。 飛んで火にいる夏の虫のようだった、とは玉菊の言である⋮⋮。 614 24話﹃仇討ち﹄ 秋晴れの頃⋮⋮。 新蕎麦も珍しく無い時合いとなり、居候をしている[緑のむじな 亭]の客入りも再び落ち着き出したので九郎は両国の広小路辺りま でふらりと足を伸ばした。 出かける要件としては店で使う乾物や調味料などの買い出しだが、 ぶらぶらと散歩をしたくなったのである。 そろそろ昼下がりだ。朝食の時間は朝の六時から七時の頃合いな ので腹が空いてきた。 薬研堀近くにある田舎蕎麦の店に九郎は立ち寄って昼飯を取るこ とにした。 [しなの屋]という名前のその蕎麦屋は、黒っぽくて太い田舎蕎 麦だけを出す店で、流行りの天麩羅など種物は出さない。しかしこ れが結構、食ってて飽きない深い味わいがあり好まれている。お房 に言わせると、 ﹁じじむさい﹂ ような店ということであったが、成程、客層は確かに年寄りが多 いかもしれない。 しかし天麩羅蕎麦などは旨いものであるが、たまに食うから良い ので日常的に蕎麦を食うような者はこの[しなの屋]のような、楽 しみ尽くすことのない、変わらぬ味の落ち着いた蕎麦屋へ通うよう になるのであった。 九郎も日常によく食う蕎麦というと、六科が打った物のあまりを 処分するために夕飯などに出されるのであったが、やはり彼の打っ 615 た素人蕎麦とこの店の蕎麦では天地ほどの差があると言わざるを得 ない。 新蕎麦の良い香りを楽しんだ九郎が食後に茶を飲みながら格子の 付いた窓から外を見ていると、道を歩く素浪人風の男に見知った顔 があった。 役人だというのに山賊風の髭を蓄えた、殺し屋のようなぎらつい た眼差しのやくざ者っぽい男││火盗改の同心、中山影兵衛である。 町中をそのような格好で彼が出かけているのを見かけるのは珍し くない。彼は同心の仕事である見回りでよく出歩いている。サボっ ているようにも見えるが、実際はどうかわからない。 だが、彼の後を尾行している気配のある知り合いが続いたので疑 問に思った。 一見精悍で爽やかな顔つきをしていて、仕事も真っ当であるのだ が特殊性癖を拗らせているという社会が手を焼くタイプな男、[青 田狩り]の利悟である。 ︵同心が同心の追跡をしている⋮⋮?︶ その状況について九郎は二つ程仮説を思いついた。 一つは利悟が二重尾行している事だ。これは、前を行く影兵衛が 何かを尾行しているのを、更に利悟が追う形になる。本来の目的で ある相手に顔が知られていたりする場合はそうやって別れて追う事 がある。 だがこれは所属の違う二人が協力してやるようなことではない。 もう一つは、影兵衛が何か犯罪行為をやっちゃって町奉行の利悟 に追われている場合である。 凄くありそうだった。 ﹁すまぬ、勘定をここに⋮⋮﹂ 616 九郎は食台に銭を置いて店を出た。 不自然ではない程度の早歩きで道を歩く利悟に追いつき、小声で 話しかける。 ﹁おう、八丁堀の。何をやっておるのだ﹂ ﹁! なんだ、九郎か。拙者の姿に惚れた男の子でも話しかけてき たかと思った﹂ ﹁気持ち悪っ﹂ ﹁酷い﹂ 真顔で告げる九郎に利悟は落胆して俯いた。 歩きながら自然な様子で続けて問う。 ﹁あれを行くは[切り裂き]影兵衛に見えるが⋮⋮お主が追ってお ると云う事は、とうとう殺らかしたか?﹂ ﹁凄くありそうだけど影兵衛さんを尾行するなら、拙者よりは顔の 知られていない伊賀者で二十四衆でも一番の変装尾行の達人、[無 銘]藤林同心を呼ぶところだよ⋮⋮ともかく、あそこに居るのは影 兵衛さんじゃない。そっくりの盗賊なんだ﹂ 利悟は胸元に入れていた人相書の紙をそっと広げて九郎に見せた。 そこにはやはり影兵衛に似た顔の凶相を浮かべた男が描かれてい るが、頬にざっくりと傷跡が付いているところが違った。 ﹁最近、江戸で畜生みたいな盗みをしている盗賊一味[赤猿の八重 蔵]連中の一人なんだ。この前も乾物問屋で売上金と高級な干鮑な んかを根こそぎ盗んで店の者を女子供関わらず斬った許せん奴らさ。 一人、生き残った手代からの顔の覚書を作って驚いたとも﹂ ﹁ついにあいつが殺ったか! ⋮⋮と?﹂ ﹁急いで火盗改に向かったけど意外な事に、その盗賊が襲っていた 617 時間帯は影兵衛さんは役宅に泊まりこみで別の盗賊の拷問してたか ら人違いだと証明されたんだけど﹂ ﹁厭なありばいだな⋮⋮それ﹂ 江戸を騒がせている盗賊は一組では無い。未だに一人働きで隠密 に盗みを続ける[飛び小僧]は捕まっていないし、信州から来た[ 鎖鎌]と呼ばれる盗賊一味も荒っぽいやり口で噂に上がっている。 影兵衛が拷問していたのはその[鎖鎌]一味とされる盗賊だった のだが、実のところ彼は拷問があまり得意でない為にうっかりやり 過ぎて、今その盗賊は痛みのあまりに舌を噛み切り、命は取り留め たが口も利けない状態になってしまった。 苦手というか手加減を途中で面倒になって止める癖とでも云うの だろうか。あまりに相手が喋らないと残忍な処刑まがいの行為を始 める為、役宅の夜番たちは影兵衛が拷問の日は異様にはらはらして しまうという。 ともかく⋮⋮。 二人は相手を見逃さないように尾行を続けながら、小声で会話を 続ける。 ﹁この⋮⋮まあ名前は知らないから仮に偽兵衛とでも呼ぶか。偽兵 衛を追いかけて一味の盗賊宿を探さないといけない。拙者、手先と か居ないっていうか皆やりたがらないしすぐ辞めていくから一人仕 事なんだよなあ﹂ ﹁日頃の行いって人間関係に出るよな﹂ ﹁⋮⋮。しかし、見た目はそっくりだけど剣術まで影兵衛さん並じ ゃないといいんだが。それだと確実に拙者が相手をさせられるから﹂ ﹁影兵衛そっくりの偽兵衛か⋮⋮む? 何処かで聞いたことが⋮⋮﹂ 九郎はあの男の人違いという事に引っかかり、思い出すように眉 根を寄せた。 618 そして少し記憶を探り、ぽんと小さく手を打って頷いた。 ﹁そうだ、あれは確か││﹂ **** 二ヶ月程前、夏の夜の事だ。 その日、九郎と影兵衛は品川と目黒の中間ぐらいにある獣肉料理 屋に鹿鍋を食いに出かけて、しこたま酒を飲み比べたのである。 夏の鹿は太って旨く、どろどろになるまで味噌鍋で煮込んだ肉を 口に運ぶとべったりと脂で唇がてらてらするほどで、その獣臭さと 辛口の酒を楽しんだ。 すっかり夜も更けて二人は酔っぱらい、当時は明かりも無く人家 もまばらな田舎道を、提灯片手に品川方面へ歩いて帰っていた時だ。 影兵衛の下手くそな鼻歌を聞きながら進んでいると、道の先に妙 な二人組が現れた。 一人はまだ二十になっていないぐらいの若者で、もう一人はそれ より年若い少年である。ひと目で兄弟と分かるような顔つきだった が、深刻な眼差しをこちらに向けている。 酒臭い息を吐き、赤らめ顔をニヤつかせながら影兵衛が口を開い た。 ﹁あぁん? なんだ? 阿呆烏︵ポン引きのことである︶にしちゃ 若ぇが⋮⋮﹂ 619 言葉を遮るように、若者がすらりと腰に帯びた刀を抜く。 そして震えの混じった声をこちらに投げかけてきた。 ﹁鳥取藩、元藩士の佐川兵右衛門! おのれに殺された我が父、相 原伊助の仇討ちだ!﹂ ﹁?﹂ ﹁?﹂ 影兵衛と九郎はお互いに顔を見合わせて、相手は酔ってでもいる のだろうかと理解を拒んだ。 まったく聞き覚えの無い名前が出てきたので、自分らの後ろに他 に誰か居るのだろうかと軽く振り向いた程だ。 しかし相手の若者は、ぐっと刀を握る拳に力を込めて、額に汗を 浮かべながら決死の覚悟をした顔つきでにじり寄ってきた。 ﹁うぬは忘れたとしても、その凶悪な顔つき、決して忘れぬぞ! 覚悟!﹂ 叫んで、雄叫びと共に刀を振りかぶって突進してきた。 しかし恐怖からか、剣術の腕にそこまで自信が無いからか、動き は素人のようであると九郎から見ても感じられた。 かなり酔った九郎でも容易くその戯言を抜かしている若者を取り 押さえる事はできるだろう。 だが⋮⋮若者が斬りかかったのは影兵衛の方だった。 彼は虫を殺すほどの気合も感じられないように、ひょいと相手に 向かって手を伸ばした。 [切り裂き]同心がいとも軽く向けた手には脇差しがいつの間に か抜かれていて、捻りを加えた真剣の突きが若者の心臓へ一直線に 向かった。 620 ﹁││容赦しないな、おい!?﹂ 嫌な予感しかしなかった九郎が咄嗟に投げつけた百文棒銭が、若 者の下顎に叩きつけられて瞬間で意識を刈り取る。 後ろに反っくり返り崩れ落ちなければ影兵衛の突きが必殺してい ただろうが、なんとか位置が逸れて相手の肩に深々と突き刺さる程 度で済んだ。 ﹁あ、兄上ッ! おのれっ!﹂ 控えていた弟らしき少年が叫び声を上げて、彼も毒の塗られた小 太刀を抜き放った。妖しげな薬売りから買ったキニーネ系の猛毒だ。 僅かな切り傷で死に至る。 倒れた相手に脇差しは刺したまま、影兵衛はもう一本の打刀に手 を当てる。 気怠さのような殺意を向けながら欠伸混じりに云う。 ﹁ったく、若えのに不憫だが殺すか﹂ ﹁⋮⋮いや、誤解を解くとか少しは穏便に行けよ﹂ ﹁へいへいお優しいことで⋮⋮じゃ、死なすか﹂ ﹁変わっておらぬよな?﹂ 九郎はこの謎の仇討ち兄弟の命は風前の灯だと感じた。 [切り裂き]同心に刀を向けた時点で││いや、下手をすれば夜 道で出会っただけで生存確率は限りなく低くなる。 死神か何かだろうか⋮⋮。 ともあれ、ただの辻斬りならば捨て置くのだが、どうも込み入っ た事情があるようなので九郎から声をかけた。 621 ﹁おい、お主ら。ええと、鳥取だか島根だか知らぬが、仇討ちの相 手を間違っておらぬか?﹂ ﹁な⋮⋮なにを﹂ 少年のほうがこちらに怯えた色を含んだ目を向けながら言った。 九郎は催してきたのか、道の脇で立ち小便をしようかどうか悩ん でいる様子の影兵衛を指して、 ﹁こやつは江戸の大身旗本、中山家の三男・中山影兵衛と言って、 火盗改で同心をしておる男だが⋮⋮鳥取には行ったことあるまい?﹂ ﹁鳥取ってあれだろ? なんか砂嵐とか吹き荒れてる地の果て。ん な流刑地みてえなしけた場所に行くわきゃねえよな﹂ 影兵衛が応える。鳥取のイメージは砂丘ぐらいしか無いようであ った。なにせ梨はあるもののまだ二十世紀梨は鳥取で作られていな い。二十世紀梨自体は千葉で生まれたのだが。 砂丘は現代で見られるそれよりも当時はかなり広範囲にあり、砂 よけの樹木を植えては枯れるという呪われた大地の如きであったと されている。目印の柱を立てて数里先から噴きつける砂風に目を伏 せ、砂で覆い被された道を進まなければならなかった程だ。いや、 勿論鳥取藩全域がそんな土地ではないのだが。 ︵偏見を持ってはいけないな⋮⋮鳥取は良い所だ。パチンコ屋とか 多いし。今の時代は無いが︶ 何か、影兵衛の偏見をフォローするようなことを九郎は思った。 二人の言葉に少年は目を白黒させて、とりあえず慌てて倒れ伏し た兄を起こす。 ﹁あ、兄上、兄上﹂ 622 ﹁う⋮⋮ぐ⋮⋮はっ、信五!? 其れがしはいったい⋮⋮?﹂ ﹁いや、速攻で負けたのですけど⋮⋮あの、相手様が人違いではな いかと。江戸の旗本であり鳥取藩など知らぬと⋮⋮﹂ ﹁なに!?﹂ 肩に脇差しが刺さったまま、黒々と服を血で滲ませつつ兄のほう が血走った目を影兵衛に向けた。 じろじろと提灯の明かりに照らされている、影兵衛のカタギでは 無さそうな顔を確認して、 ﹁あっ⋮⋮!﹂ と、声をあげた。 仇の佐川某には頬に目立つ傷があるはずなのだ。 影兵衛にはそれが見えない。 そしてあろうことか、勘違いでまったく他人││しかも旗本に斬 りかかったのだと把握した。 旗本と云ってもピンからキリまであるものの、いずれも将軍直参 の武士であるという事には変わりない。正確に言えば影兵衛自体は 嫡男でなかった為に旗本ではなく、如何なる複雑な人事があったの か、下級役人の御家人同心として実家とは別の禄を食んでいる身分 だ。 しかし実家の中山家は三千石の大身旗本であり、いうなれば幕府 でも中堅幹部クラスの身分に付くのが普通である。 それを仇討ちの兄が知る由は無いが、そもそも藩から仇討ちの免 状を貰った手前、間違った相手を切るなど言語道断である。 夜でも分かるぐらい彼の顔が青白く血の気が失せるのが見えた。 多分、物理的にも現在進行形で血が失せているのもあるのだが。 飛び跳ねるように土下座をした。並び、弟の信五と呼ばれた方も 倣う。 623 ﹁申し訳ござりませぬ! 人違いでござった!﹂ しかし当の謝られた影兵衛は、 ﹁んあ?﹂ 道の脇で立ち小便をしていて気の抜けている返事をした。 そしてふらついた足取りで先ほど殺しかけた兄へ近寄る。 ﹁頭ぁ上げな﹂ ﹁面目ありませぬ⋮⋮﹂ ﹁いーから上げろボケ。拙者の脇差し返せ﹂ ﹁は⋮⋮﹂ と、体を起こさせて刺さったままの脇差しを無造作に引き抜き、 袂から出した紙で血を拭って腰に収めた。 九郎はふと場違いなことを思いついて思わず呟いた。 ﹁脇差しなのに⋮⋮脇じゃなくて肩に刺さるとは。いかんな、晃之 介が入ればかなり大爆笑﹂ ﹁なるほどな。すげえ笑える。ところでよお、兄ちゃん。手前の名 あいはら・みちざね 前すら拙者ぁ聞いてねえんだけど﹂ ﹁其れがし、相原道実と申します﹂ 影兵衛は名乗らせて、その場で瓢箪酒を飲みながら道実の話を聞 いた。 鳥取藩の目付役であり、道実と信五の父・伊助が斬られたのは一 624 昨年の夏であったという。 目付は内部監察官のようなものであり、江戸の幕府のみならず諸 藩にその役があって他の役目からも恐れられる存在であった。目付 の監察報告は直接家老や大名に届くこともある。 恐れられると同時に、煙たがられたり、陰口を叩かれる事も多い。 物の本には、 [友無く有利は目付けと質屋] などと云う言葉が残っている程であり、大げさに囃し立ててはい るが、金貸しと同じぐらい嫌われる役目だということだ。それ故に、 実直で信頼の云った人物しか目付に選ばれない。 伊助はどちらかと云えば温厚な人柄で、目付という立場ながらも 他の役職から相談も多く受けていた程だ。 そんな彼がある日、町奉行所の剣術指南役である佐川兵右衛門が 城下町で無礼討ちをしたという報告を受けたが不審に思い、緻密に 真の情報を集めさせた。 するとその実態は博打で借りた金のやりとりが原因で殺害したと いう事が判明し、佐川を訴訟しようと決めたのだが、それを知った 佐川が逆上し伊助を斬り殺し脱藩したのである。 初七日を終えたら即刻、息子である道実は仇討ちの許しを家老に 申し立てて、また普段の伊助の仕事振りをよく知っている家老達も 是非仇を討ち武士の本懐を遂げよと後押しを受け、許状を下賜され た。 こうなればもはや仇を討たねば兄弟二人も元の家を継げない。ま だ元服前の弟を連れていくことには不安があったが、何年かかるか わからぬ仇討ちである。その間、国元に残しておく事も武士の息子 としては出来ないのだ。 二人は佐川のような悪漢じみた性格の男が逃げるならば、京都や 大阪か江戸のような賑やかな場所だろうと家老から言葉を受けて探 625 してきたのだという。 それでこの日、たまさか見かけた影兵衛を仇と見間違え、追いか けて夜道で挑んだのだったが⋮⋮。 相手を間違えたとなると道実や彼の家のみの罪ならぬ、許可をだ した藩にも責めがかかるかもしれない。 腹を斬らんばかりに謝り倒すのであったが、そもそも当の影兵衛 は襲われたというほどの感覚はなかった。 むしろ、なんかいきなり自分に殺されに来たとしか思えない相手 である。 辻斬りならぬ辻斬られとでも云おうか。 この鳥取藩とか云う田舎から来た仇討ちのしょぼい兄弟の命は尻 毛の先程も興味も無いが、自分とそっくりの無法者に対しては関心 が沸いたようだった。 ﹁ところでよ、その⋮⋮誰だっけ? 佐川なんたら云う奴ぁ強えの か?﹂ ﹁は⋮⋮。その、剣術指南役もやっていただけあって、新陰流を使 う鳥取でも指折りの剣術使いでござって⋮⋮其れがしも真っ当にや のろうし っては敵わぬと思い、恥ずかしながら酔ったところを見計らい挑ん だのでござる﹂ ﹁酔っぱらおうが寝っ転がろうが、手前さんの刀が当たる鈍牛は居 ねえっつーか。ミチザネなんて物騒な名前なのにどうも気迫が足り ねえ。なあ九郎﹂ ﹁うむ⋮⋮ちゃんと剣術を習ったのか? お主﹂ ﹁⋮⋮面目ござらん。幼少の頃より体を動かすより、書を読む時間 を多く取ってしまっていて。それでいざとなるとこの有り様なれば、 この身を恥じるばかりでござる﹂ 626 確かに道実の体つきはお世辞にも鍛えられている様ではなかった。 太っているわけでも痩せているわけでもない中肉中背だが、体の動 かし方もぎこちない。 一応、仇討ちの旅に出てから欠かすこと無く剣の素振りを続けて はいるが、誰に教わるわけでもなく基礎鍛錬のみでは、斬り合いの 心構えが生まれる事もさほど上達する理由も無かったのだ。 話を聞いて、何かいいことを思いついたように影兵衛がその兄弟 を拉致して行った。 九郎は十中八九、兄弟は江戸湾に沈められたと思ったのだが、本 所にある[芝道場]という場所で二人を寝泊まりさせ、同心や手先 らが通うそこで剣術を学ばさせていると後で知り、二三度様子を見 に行ったところ練習に励んでいた。 その姿を見た九郎は微笑ましい光景ながらも[鉄砲玉]の育成と いう印象が抜けなかったのであるが。 **** 話は現在に戻り⋮⋮。 ︵やはりあの偽兵衛は、相原兄弟が探しておった仇の佐川何某に相 違あるまい︶ と、先を行く男││佐川の背中を追いながら九郎は考える。 こんな凶悪な非合法めいた顔つきの男が何人もいるとは考えたく ない。 627 もしかしたら目つき悪い谷のチンピラ里とかそういう集落があっ たらそこの住人はこうなのかもれしないが、その恐るべき想像はす ぐに頭から滅却した。 隣を歩く利悟も、あの兄弟の弟が守備範囲内ということで良く世 話しようとしては道場仲間にリンチされているのであるが、さすが に兄弟が追いかけている仇の人相までは知らない。 道実も、人違いで斬りかかった上に道場の手配までしてくれた恩 人にそっくりの相手とは口が裂けても言えぬ。 さて⋮⋮。 ︵なれば、影兵衛にでもあの佐川の居所を伝えてやればよいか︶ その為には、少なくとも佐川の宿なり根城なりを調べておかねば ならない。 九郎は成り行きで利悟と共に尾行を続けるのであった。 利悟にも伝えておこうかと思ったが、彼は町方同心として盗賊を 追っているのであって、仇討ちに堂々と肩入れするのは職務上よろ しくないだろうと考え、やめておいた。 暫く大通りを歩き、やがて佐川は新吉原のある上野の辺りへと向 かった。色街で女でも買うつもりなのだろうか⋮⋮。 ただ、吉原に客として入るのは普通、駕籠か舟が原則であるのだ が偽兵衛は徒歩で吉原外の女郎部屋が並ぶ通りへ足を運んだ。吉原 ほど高級でも無いが、それでも良い女が揃っていて法としてはグレ ーゾーンにある事で危うげな雰囲気の漂う場所である。 仕事だからついて来てはいるが、利悟の気分は酷く悪くなってい く。 ﹁っ⋮⋮年増の加齢臭が最悪だな。特に二十を超えた女なんぞ化物 と同じだ。くさいし。拙者を馬鹿にするし。そんな女を買うのに金 を払う意味がわからん。そもそも女という単語を当てはめるのが気 628 に食わない。下は三歳から上は⋮⋮多く見積もって十六ぐらいまで しか女と呼ばんでよろしい﹂ ﹁おい、何をぶつぶつと気色の悪い事を言っておるのだ⋮⋮いや、 ちょっと考えたが三歳は無いだろ、三歳は。園児だぞ。⋮⋮死ねば いいのに。ああもうそんなことより、あやつが店に入るぞ﹂ 佐川が引き込み女を側に連れて宿に入っていくのを確認した。 ここに今日は泊まるのであれば九郎もさっさと戻って影兵衛に伝 えに行くのだが、近頃はちょんの間ご休憩をとってお楽しみする宿 も多い。 辺りは女郎部屋ばかりで飲み屋に入り宿を見張るという事も出来 ない。 さて、どうしたものかと思ったら何やら二階から黄色い声が上が る。 ﹁あー! ぬし様ー! 空からわっちがー!!﹂ 叫びながら、玉菊が背面跳びのような姿勢で降ってきた。 九郎は冷酷な表情を浮かべて素早い動きで利悟が被っていた円錐 方の塗笠を奪い、地面に仕掛けて場所を離れた。 正確な位置に置かれた笠の尖った頂点は落下してきた玉菊の尻に 直撃する。 ﹁ぬぐー!?﹂ ﹁た、玉菊ちゃんの菊が酷いことに!?﹂ ﹁心配するところはそこか、変態が﹂ 吐き捨てるように九郎は言いながら、したたかに尻を地面に打ち 付けて悶えている玉菊を、通りで目立つ前に引き起こした。 629 ﹁玉菊よ。お主の店は品川ではなかったのかえ?﹂ ﹁あいたた⋮⋮うちの御主人が遣り手だからお店の場所が一等上が ったのでありんすよう。ぬし様にも教えにいかなきゃと思ってたけ ど⋮⋮そっちから来てくれるなんて嬉しやす! にゃーん!﹂ ﹁なんで猫の鳴き声を⋮⋮いや別にお主に会いに来たのでは。む、 待てよ? この店なのか?﹂ と、佐川も入った店を指して尋ねると玉菊は嬉しそうに頷いた。 頷きながら頭をぐりぐりと寄せてくるので鬱陶しげに顔を鷲掴みに して動きを止める。 ﹁うむ、仕方ない。玉菊を相手にすれば多少は融通が利くだろう。 ⋮⋮利悟よ、いくら持っておる?﹂ ﹁ええと一分と三朱﹂ ﹁むう⋮⋮己れが割り勘を多く持つか。どうせ石燕の金だしのう﹂ 石燕の﹃女や賭博に使ってはいけないよ﹄という声がふと胸中に 蘇った気がしたが、大丈夫だと自分に言い聞かせる。 まあでも、後で柏餅でも土産に買ってやればいいかと気楽に考え た。 玉菊は九郎が客として入るとなると喜んで彼の手を引き、店へと 引っ張る。 ﹁ぬし様も、お兄ちゃんもお店に入りんせ﹂ ﹁お兄ちゃん?﹂ ﹁利悟さん、なんかそう呼べって前お店に来た時に﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁そろそろ九郎からの軽蔑の眼差しも慣れたかな﹂ 涼しい顔で受け流す利悟であった。 630 玉菊の所属する店は、玉菊のような陰間も入れば普通の女郎も雇 っているという拘りが無い店の形態をしている。 綺麗どころが揃っているのでかなり繁盛しているのだが、その中 でも美少女の姿に着飾った玉菊は人気の高い花魁である。 九郎のところに遊びに来るときなどは高級ながら簡素な着物を着 ているのだが、店での仕事時は豪奢と言ってもいい綺羅びやかな服 に袖を通して、匂い立つような色気と童女のような可憐さを兼ね備 えた美しい姿をしている。 いくら九郎が不能とはいえ、何も知らなければそのような美しい 相手に饗されたら悪い気はしないのであるが、相手の性別と性格が エロ小僧だと知っている為に気乗りは全くしない。 九郎と利悟は部屋を借りて玉菊を指名し、佐川の隣の座敷で壁越 しに様子を伺っていた。なお、利悟は玉菊と九郎を連れていた為に 複数行為で女装で少年趣味の、 ﹁凄いやつだ⋮⋮﹂ と、店の者から思われたりした。 しかし、隣を探るばかりでこちらの部屋の中で何もしていないの も怪しいので健全な座敷遊びなどをしつつ時間を潰す。 玉菊が持った三本の箸を九郎と利悟が引き抜き、箸の先に書かれ た番号を確認した。 ﹁はい、殿様だーれだ! またわっちでありんすー!﹂ ﹁絶対いかさましておるだろ! お主はじゃんけんの時からどうも 怪しい!﹂ ﹁してござんせんよーう!﹂ 殿様遊戯という、参加者の中から無作為に殿様を選んで絶対服従 631 の命令を出させるという⋮⋮現代には王様ゲームと呼ばれ伝わって いる格式ある遊びだ。 勿論女郎側が連続で勝ちまくって相手に要求しまくる遊びではな い。負けたら服を脱ぐ拳合わせもだ。しかし玉菊にはまったく容赦 というものがなかった。九郎の注意深さをしてもどのようにずるを 行っているのか、まったく読めない。 ﹁こやつと勝負しておると魔王城でのつらい記憶が⋮⋮﹂ ため息と共に呻く。 あの城の連中、魔王と魔女と侍女の三人とギャンブルなどの勝負 を行ったら必ずあからさまなズルで完敗させられていたのだ。 麻雀を囲むと何故か九郎以外に三人が天和したり、ポーカーをす ると三人がそれぞれロイヤルストレートフラッシュを揃えたり、ゲ ームとして可怪しい事になっていた。許せぬ。 ともあれ、殿様になった玉菊は早速命令を出す。なお、健全なも のに限るという制約付きだ。 ﹁それでは二番の人、殿様に膝枕をするでありんす!﹂ ﹁⋮⋮うん、さっきから思ってたけど、玉菊ちゃん九郎の番号も把 握してるよね? 拙者一切触れられてないっていうか、玉菊ちゃん が九郎に命令する遊びになってるよね?﹂ ﹁あれあれ? お兄ちゃん。殿様はお兄ちゃんの発言を許可したで ござんすか? んー?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 利悟が泣きそうな顔で運ばれてきた酒を手酌で飲んでいる。 ともあれ九郎は殿様玉菊からの命令を、 ﹁仕方ない⋮⋮﹂ 632 ﹁っしゃあ!﹂ ﹁晃之介から一つ貰った、最近柳川藩が一般向けにも売り出し始め たこの﹃膝茂君﹄を枕にしていいぞ﹂ ﹁一般向け!?﹂ 九郎が背負っていた荷物から何故か用意していた膝茂君を玉菊に つわもの 押し付けた。 西国一の兵、立花宗茂の膝を出来るだけリアルに再現した張型で ある。投げて良し、射て良し、枕に良しの多能ツールとして武家の 奥方から静かなブームが広がっている。なお、立花家専用が﹃膝茂 様﹄で一般販売用が﹃膝茂君﹄の名称だ。 それにしても、 ﹁どうも隣もこう⋮⋮少なくとも後二刻ぐらいは居座りそうだのう﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁この間に己れが知らせに行ってくるか。利悟は見張っていてくれ。 偽兵衛が出て行くようなら尾行に出る前に玉菊に言付けを﹂ ﹁あいわかった﹂ 告げて、九郎は立ち上がると名残惜しそうに玉菊は袖を引いた。 ﹁えー、ぬし様もう帰るでありんす?﹂ ﹁ううむ。そもそも己れは仇討ちにも盗賊捕縛にもあまり関わる理 由は無いのだが⋮⋮まあやることがあるのだ。成り行きで﹂ ﹁ちぇ。お尺とかしたかったのにー﹂ ﹁シャクの発音にゅあんすは微妙に違わないか﹂ べったりと足に張り付いてくる玉菊を引き剥がして、九郎は窓に 足をかけた。 表から出るとなると不審に思われるかもしれないからだ。 633 ひょい、と素早く店の屋根に上り、裏路地の目立たぬところへ降 り立つ。そのまま何事もなかったように通りに出てするすると進ん でいった。 それを見送って玉菊は残念がりつつため息をついて、 ﹁はあ⋮⋮仕方ないでありんす。お兄ちゃんの健全なお相手でもし ておくでござんす﹂ ﹁仕方ないって言われても拙者も代金払ってる筈なんだが﹂ ﹁肩とか腰とか揉んであげるでござんすから⋮⋮﹂ 玉菊は座ったまま、利悟に向けて足を向けつつ仰ぎ見下ろすよう な目線で、妖美な色を瞳に写して告げる。 ﹁さ、足で揉んであげるから寝転がりんせ﹂ ﹁くっ⋮⋮﹂ 屈辱的な感情が芽生えながらも、責め系エロ少年の足の前に屈す る利悟であった。結構嬉しそうだ。 断定的なまでに健全である。 **** さて⋮⋮。 九郎が[知らせ]と言って宿を出たのは、当然利悟は町奉行所へ 知らせてくれるものだとばかりに思っていたが、実際のところは影 兵衛へ知らせに行くためであった。 634 火盗改の役宅に来ると、そろそろ門番も九郎の顔を覚えていた。 どうやらここでは、影兵衛の手先だと思われているようである。 市中見廻りの同心らはその手先や密偵として町人を雇うこともあ るのだが、その分の給金はただでさえ少ない己の棒給から払わなけ ればならない。その為に、ほぼ無給で本来別の仕事をやりつつ手先 となる者が多い。 影兵衛の場合は複数の宿や店舗、旗本屋敷などに繋がりがあり、 みかじめ料のような形で寄付を貰っている為に金回りが良い。本当 に合法的な収入なのか、九郎は怪しむほどである。 ともあれ、影兵衛の手先になったつもりはないが、話を通しやす くするために否定はせず役宅に居る影兵衛を呼んでもらった。 ﹁いよぅ。そっちから訪ねてくるなんて珍しいじゃねえの?﹂ ﹁うむ。いや、な。ほれ前にお主を仇討ちの相手と間違えた兄弟が おったであろう﹂ ﹁相原兄弟な。それがどうしたのかよ﹂ ﹁粗奴らが追いかけていた、お主にくりそつな盗賊一味の者を見つ けたから教えに来たのだ﹂ 云うと、影兵衛はにんまりと悪い顔で嗤って、 ﹁ほーう⋮⋮そいつぁ御機嫌だ﹂ と言った。 ﹁拙者ぁこれから丁度見回りだからよ、ちょっと待ってな﹂ 一旦戻って出かける旨を告げてきた影兵衛と九郎は役宅を後にし た。 まず、二人は大川を渡り清澄にある[芝道場]へと向かった。 635 そこに仇を追う相原兄弟が日々修行をしながら寝泊まりしている のである。 始めた頃はそれこそ、近所の年が一回り下の子供にも勝てなかっ た兄の道実であったが、必死に二ヶ月程鍛錬をしてどうにかこうに か、見れなくはない程度の剣の振りになってきたのはやはり仇を追 う身である心持ちと、若さがものをいうのであろう。 一、富士。 ニ、鷹。 三、仇討ち] 当時江戸では、 [ と、並ぶように縁起が良い、或いは好まれるものの一つに上げら れる程、武士から見ても町人からしても、 ﹁立派な⋮⋮﹂ ことだと思われていたぐらいなので、相原兄弟は大いに歓迎され 道場で厳しくも大事に鍛えられたという。 しかしそれにしても、どうもそのような理由でこの惨殺同心が同 情なりして面倒を見てやるとは思えないので九郎は道すがら問いた だしたのだが、 ﹁いや何、その佐川だか偽兵衛だかなんだか云う仇がよ? 拙者と 同じ顔で調子こいてると思うと殺意度数万端って感じじゃん? すぐさま拙者が斬り殺すのもいいんだが、腹の虫が収まらねえ。 そこで、だ。あのションベンみてぇなガキの剣にぶっ殺される屈 辱でも与えてやろうかと、たまにゃそう思ったのよ﹂ ﹁こやつめ﹂ 趣味がいいのか悪いのか。 今ひとつ判断が付かなかったが、少なくともあの相原兄弟には悪 636 い話では無いので良いことなのだと納得することにした。 そうして[芝道場]に着くと、道場を預かる笹田孫六という初老 の主に話を通す。見た目こそひょろりとした男だが、小野派一刀流 の名人で人柄も良い尊敬される人物である。 仇が見つかったことを伝えると、驚いたものの喜びつつ相原兄弟 を呼んだ。 そして、 ﹁いいかい、実戦では力まず、怯えず、先に当てることを考えて戦 いなさい。大丈夫、ここでしごかれた中で、利悟や中山殿に比べて 強い相手などそういやしないから﹂ ﹁はい﹂ ﹁そして、信五。お前はもし道実がやられたのなら帰ってきなさい。 仇討ち許状は二人に出されているのだから、その時は信五が鍛えて 兄と父の仇を討てるようにならねばならん﹂ と云う孫六に、 ﹁はい。兄上がやられたら、そっこで一時撤退します﹂ ﹁時々薄情というか卑怯なお前を兄は心配するでござるが﹂ ﹁お気になさらず。兄上、負けないでくださいね﹂ 励ますような弟の言葉に、微妙な表情を浮かべつつ、兄弟を連れ た二人は岡場所へ向かうのであった。 その頃には江戸の空も深く昏い青色に沈んでいく時間だった。 すっかり、日が落ちるのが早くなってきている。 **** 637 丁度、四人が佐川の居る宿についた時である。 一勝負終えたのか、店から出て行く佐川を道の端に寄ってやり過 ごした。 深く被った編笠の目からそいつの顔を見て、ぽつりと影兵衛が漏 らす。 ﹁あんな悪党面か? 拙者ぁ﹂ ﹁うむ﹂ ﹁はい﹂ ﹁ええ﹂ ﹁⋮⋮髭でも剃るか。前々から煩く言われてるしよぅ﹂ 顎を撫でながら云う。 火盗改の同心らの間では、影兵衛がその日適当に抜いた本数分の 人間を殺すという獄長系の噂が囁かれているために、顎が綺麗にな った彼をみたら大事件扱いされるかもしれないが。 それにしても、と九郎は二階を見上げながら云う。 ﹁利悟は隣の部屋に居たはずなのにどうしたのだ。お楽しみ中だっ たらあれだが⋮⋮様子を見てくる﹂ さながら天狗のように九郎は壁を蹴って二階に飛び上がる。 暗くなれば上を見上げる者も少ない。岡場所が他よりも夜間明る いとはいえ、現代に比べれば充分薄暗いのだ。 そのまま玉菊と利悟を残していたはずの部屋に窓から入る。 部屋の中では、息荒くうつ伏せになった利悟が嗜虐的な笑みを浮 かべた玉菊に椅子にされているという特殊なプレイを行っている最 638 中であった。 見なかったことにしたかったが、我慢した。 ﹁おいこら利悟よ、隣の客はもう外に出たぞ﹂ ﹁うううう⋮⋮立ち上がれ、立ち上がるんだ拙者。いや、ある意味 もう立ち上がってるんだけど﹂ ﹁⋮⋮早く起きねば大岡越前に告げ口をするぞ﹂ ﹁やべえ二つに裂かれちゃう! 名残惜しいけどここまでぁー!﹂ ﹁にゃー!﹂ がばりと起きた利悟の頭から玉菊が転げ落ちて、猫のような鳴き 声をあげた。 転がったまま九郎を見上げて、 ﹁またおこしんせ、ぬし様∼﹂ ﹁来んと思うが、またな。ほれ、行くぞ利悟﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮しかし、今月の生活費が見事に消えた﹂ ﹁知らん﹂ 懐が寂しいを通り越し絶滅した利悟は、僅かな時間の満足感と共 に今後の見通しの悪さに薄ら悲しくなるのであった。 店を出て、佐川を追跡する一行に加わる。 利悟は不思議そうに、 ﹁あ、あれ? 町方の皆は? なんで影兵衛さん達がここに?﹂ ﹁おう、話を差っ引くとだな、今からあの野郎をぶっ殺そうと思っ てよ﹂ ﹁その時││拙者は﹃あ、尾行して盗人宿を探すの失敗したわこれ﹄ と確信した││﹂ 639 何故かモノローグ風に云う利悟に道実が、 ﹁すみませぬ利悟殿。あの男は我ら兄弟が追っていた父の仇なので ござる。奉行所に捕まえられ、一太刀も浴びせぬまま獄門にでもな られたら二度と仇は打てぬ身となってしまう。どうか、お目こぼし を⋮⋮﹂ ﹁うっ⋮⋮しかしなあ﹂ ﹁兄上は説得が下手で。こうやるんですよ﹂ 弟の信五は袂から冊子を取り出して隠すように利悟に手渡した。 ﹁稚児系の春画本です。お納めください﹂ ﹁ぬう⋮⋮よっしゃ﹂ ﹁性癖を知られすぎておる⋮⋮﹂ 素直に買収される利悟に苦々しげな視線を送る九郎であった。 ともあれ一行は追いかけて巣鴨村の辺りに来たであろうか。殆ど 明かりもないが、月明かりが眩い為に足元ぐらいは見え、先を行く 佐川の提灯を見落とすこともなかった。 この近辺に盗賊一味の根城があるのだろうか⋮⋮。 ﹁この辺りで怪しい所といえば⋮⋮前に盗賊が使ってた廃寺があっ たな﹂ ﹁ほう﹂ ﹁影兵衛さんが中の盗賊を殺しまくったから血の臭いが取れずに、 土地の者からは呪われた廃屋扱いされてた場所だけど﹂ ﹁気軽に殺しすぎであろう⋮⋮﹂ ﹁んじゃ、盗賊どもの居場所も見当が付いたことだしよ、そろそろ 襲うか﹂ ﹁あれだな、人数差的にこっちが悪者のようだな﹂ 640 相談しあって、佐川との距離を詰めた。 そして道実が中心に立ち、刀を抜いたまま前を行く相手へ声をか ける。 ﹁待てい!﹂ ﹁あん?﹂ やはり見た目の通り治安の悪そうな声が返ってきた。 腰に帯びた刀に手を当てて、鷹揚な態度でゆっくり偽兵衛は振り 向く。 ﹁元鳥取藩城下奉行所付、剣術指南役であった佐川兵右衛門でござ るな?﹂ ﹁誰だぁ? 確かに身共は佐川だが﹂ ﹁間違いないでござるな! 後から人違いとか云うなよ!?﹂ ﹁なんでそんなに必死なんだ貴様﹂ 念入りに確認してくる道実に訝しがりながらも、提灯を地面に置 いて警戒の色を見せる。 ﹁おのれに殺された父、目付役の相原伊助の仇討ちに参った! 勝 負だ!﹂ ﹁相原⋮⋮ああ、あの凧の骨みてぇな爺か。つうことは貴様、わざ わざ鳥取くんだりから返り討ちに来たのかよ。馬鹿が﹂ そう告げてゆるりと刀を抜こうとしたがそれよりも先に道実が、 ﹁││鋭ッ!!﹂ 641 掛け声を上げて切り込んでいった。 間合いだとか、構えだとか深く考えるよりはいまだに剣術の基礎 を習っただけの場合ならば、勢いをつけて正しい剣筋で相手より早 く切ったほうが有利だと教えられたのだ。 すでに抜刀していた道実から一手遅れていた佐川は、 ﹁うぬっ!﹂ と、声を上げて、三分の一ほど抜いた刀身で袈裟懸けに振られた 道実の刀を受け止める。 この機を逃さぬとばかりに気合の声を上げて押しこむのだが、佐 川はにやりと嘲笑った。 受け止めていた刀を下げてがら空きになった道実の腹を横一文字 に割り切る。 肉に冷たい鉄が侵入する感触を感じながらも、道実は刀をおもい っきり相手の胸元で引くように刃を滑らせた。 ︵殺った⋮⋮!︶ 口元に熱い血が登ってくる感覚がある。 ずるりと断ち割られた腹からびたびた音を立てて血が流れていく ようであった。 相打ちになったとしても、弟が生きていれば家は守られる。まと もにやっても勝てぬ相手ならば、腹を切られようが腕を落とされよ うが、意地でも一太刀浴びせようとしたが、成功したようだ。 これで父の無念も晴らされる。 蹴り飛ばされ仰向けに倒れながらも道実は安心していた。 月を背後に顔が見える。憎き佐川ではなく、傷のない顔の影兵衛 だ。 ごぼ、と肺から息と共に大事な何かが漏れだす感触を覚えたが、 642 なんとか言葉を出す。 ﹁先生⋮⋮﹂ ﹁おうさ﹂ ﹁や、やりました⋮⋮﹂ ﹁そうだな﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁死んだか﹂ 短いやり取りをして、道実は死んでいった。 影兵衛は特に感慨の無い顔をして、味噌っ滓でも見るように道実 と対峙していた相手を見やり、言った。 ﹁んで、手前はなんで倒れてねえの?﹂ 佐川は立ったまま、刀を手に侮った笑みでこちらを見ている。 着流しの胸元は裂けているが、血がにじむ様子はなかった。 ﹁身共はこれでも慎重でな。鍛錬の効果もあるために普段から鎖帷 子を服に縫いこんであるんだ﹂ 着物の下に金属質の光が見える。 細い鉄を束ねて作った鎖帷子は殴られたり、突かれたりすること に対する耐性はあまりないが、引き切るという刀の動きに対しては 非常に強い。 決死で挑んだ道実の一撃は帷子に受け止められていたのだ。それ を知って、敢えて攻撃を受け止めて相手の腹を掻っ捌いたのであっ た。 どうでも良さそうに影兵衛は耳をほじりながら云う。 643 ﹁いや、お前さん死んでるよ﹂ ﹁何を馬鹿な事を言ってやがる。次は貴様か?﹂ ﹁こいつが殺した﹂ 影兵衛は死体となった道実を指して続ける。 意味のわからぬ虚言に嗤ってでもやろうかと佐川が思った次の時 である。 ﹁こんな風にな﹂ 佐川が聞いたのは鍔鳴りの音だけであった。 風切り音も無ければ閃いた白刃も見えなかったのである。 ただ、体に寒気と口に苦いものが走った。 いつの間にか、目の前の男が刀を振るえば当たる距離に詰めてい る事実を認めたくなかった。 ﹁う⋮⋮う⋮⋮﹂ ﹁鈍牛め。お亡くなりになるのも遅かったか﹂ 道実が振るい、鎖帷子に阻まれた剣の筋とまったく同じ所が断た れ、血を吹き出す。 それ以上言葉を喋ることも無く、佐川は死に倒れ伏した。 見ていた九郎にも、剣の達人の利悟にも見きれなかった影兵衛の 恐るべき絶命奥義である。防御も回避も出来ぬ即死攻撃を先制で打 ち込むという、身も蓋もない技ではあるのだが。 影兵衛は大きな体を竦めるようにして、 ﹁あーあ、つまんねえの。見掛け倒しの雑魚で遊び甲斐がねえっつ 644 ーかよう。 ま、いいか。信五よう、手前の兄ちゃんは相打ちだったがうめえ こと仇を取ったぜ?﹂ ﹁はい。見事でした﹂ ﹁後でこいつらの死体は藩邸に運ばせて、立会もしたって証言すっ から安心しとけ。しかしあれだな、このままじゃ収まりが付かねえ な⋮⋮よし!﹂ 影兵衛はいい笑顔で振り向いて云う。 ﹁利悟に九郎! これからちょっくら盗賊どもの根城行って皆殺し にしようぜ!﹂ ﹁いやカラオケ行こうぜみたいなテンションで言われても﹂ ﹁町方は捕縛が原則で﹂ 気晴らしとばかりに勢い込んだ影兵衛に冷静な言葉を返すのだが、 血の滾ったこの男は聞いていない。 刀片手に新手の刺客の如く影兵衛は夜道を走りだした。 ﹁よし! それじゃあ競争だひゃはははは!!﹂ ﹁やばい﹂ ﹁まじやばい﹂ 慌ててそれを止める為に追いかける二人であった。 信五は兄の死体の側にしゃがみ、小さく呟く。 ﹁兄上││﹂ 満足そうな死に顔をした兄と、心の中で影兵衛に礼を告げてしば し佇んでいた。 645 その後、影兵衛の手先から連絡を受けた火盗改が駆けつけて、首 領を含み到着時生き残っていた盗賊らを残らず捕縛することに成功 したのだった。 仇討ちの顛末も鳥取藩の上屋敷に伝えられ、片方は相打ちになっ たものの成し遂げたということで相原信五は国元で家禄を継ぐこと になる。 盗賊の根城に討ち入って多数を殺傷した影兵衛の自己弁護と偽証 は巧みであったが、手柄を立てたとはいえやり過ぎな為にひと月の 謹慎を申し付けられた。だが、どうせまたぶらぶらと休みの間に遊 びに出かけるだろう。 九郎は買い物をしてこなかった上に夜遅くになったので怒られた。 機嫌を直させる為に﹃膝茂君﹄を渡したが、キレたお房にへし折ら れた。 なお、利悟は間抜けにも火盗改に手柄を奪われたということで大 層同僚から叱られることとなったという。 **** ﹁これにて一件落着⋮⋮﹂ 秋の高い空を見上げれば何もかも煩雑な問題は吸い込まれていき 646 そうだった。 九郎は茶を飲みながら縁側でごろりと横になり昼寝をしようとす る。 ﹁落着してないよっ﹂ だが、無慈悲にも両脇に手を入れられて起こされ、子興から引っ 張られて布団に団子みたいに丸まった石燕の前に連れて来られた。 ﹁九郎っちが師匠に貰ったお小遣いを使って岡場所で遊んでるって んで拗ねちゃったんだからどうにかしてよっ! ヒモなんでしょ!﹂ ﹁ぬう⋮⋮ヒモではないが⋮⋮ヒモではない⋮⋮﹂ ﹁別に私は拗ねてないもん﹂ ﹁ほらぁ! ﹃もん﹄とか言ってるよいい年して││ふべっ﹂ 布団から文鎮が飛んできて子興の鼻っ柱に当たった。 九郎は癇癪を起こされぬように優しく声をかける。 ﹁そう怒るな石燕。使ったのはだな、公儀の仕事を手伝う為であっ てやましい事は一切していない﹂ ﹁知ってるさ。九郎君の体の匂いで判別は付く﹂ ﹁⋮⋮それはそれで怖いが。と、とにかく今度紅葉狩りでもいかぬ か。酒と煮しめでも持ってな﹂ ﹁松茸も﹂ ﹁うむ、うむ。松茸もな。ほら布団にこもっているとせっかくの秋 晴れなのに黴が生えるぞ﹂ 元気の無い石燕を布団から引っ張りだして、とりあえず、涼しげ な風とからりとした日が差し込む縁側で二人ごろごろし始める。 子興は苦笑して、 647 ﹁九郎っちが絡めばすぐに機嫌を治すんだから﹂ と言い、二人分の茶菓子を用意するのであった。 648 25話﹃彼方の休日﹄ ﹁まったく、勿体無いのう﹂ 九郎は笹の敷かれた桶に秋刀魚を三匹入れて大川沿いに歩いてい た。 朝方の魚売りより購入した活きの良い新鮮なものである。嘴はや や黄色く目は澄んでいて、体に傷も見当たらない。脂も乗っていて 腹がぷっくりとした美味そうなものであった。 秋の味覚とばかりに喜んで九郎は購入したのであったが、 ﹁店で焼くと煙がこもるから駄目、とな﹂ お房から調理拒否を申し付けられたので仕方なく他所で食おうと 持ちだしたのである。 三匹あるのだから友人知人と食おうと思うので、石燕か晃之介か 影兵衛あたりのところに持って行こうと思い、その中で一番良いも のを食ってなさそうな晃之介の道場へ向かうことにした。 彼は狩猟民族のように時折狩りに出かけて、その時は獣肉を野人 の如く食うのであったが、それ以外の日は質素な食生活であった。 柳川藩立花家から毎月分割で生活には充分な金を貰っているのだ が、この前の野分の際に破損した道場周辺の修繕費にかなりかかっ たようで、やはり困窮という程ではないが節約をしているのである。 天命か、金の身につかない男だ。 亡き父から、 ﹁裕福は敵だ。富の偏りは悪だ。今こそ革命だ﹂ 649 と、教わった記憶を捏造して耐えている彼の事情は良いとして。 ﹁む、そうだな。ハチ子も呼ぶか。三匹あるのだから﹂ 九郎は六天流道場の門人である少女の顔を思い浮かべて、足をま ず藍屋に向ける。 新しく出来た湯屋の前を通り藍屋にたどり着くと、丁度店の中か ら茜色の着物の少女││お八が出てきた所であった。風呂敷に入れ た小さな荷物を持っている。 お遣いへ行く途中かもしれないと思いつつ、声をかける。 ﹁よう、ハチ子や﹂ ﹁九郎? あ、丁度、今⋮⋮会いに行こう⋮⋮と﹂ 振り向いたお八だったが、言葉尻が下がっていき誤魔化すような 笑みを浮かべる。 ﹁己れに何か用があったのか?﹂ ﹁い、いや別に!? 大した事ぁねーぜ! ちょっとした野暮用だ 野暮用!﹂ ﹁ふうむ?﹂ 何故か慌てたように云うお八に首を傾げる九郎であったが、 ﹁ま、よいさな。それより昼飯はまだであろう? 晃之介の所で共 に食おう﹂ ﹁そうだな。食うぜー﹂ 九郎の誘いに素直に応えるお八を連れて並び、道場へ歩き出した。 650 お八は九郎の持つ桶を覗き込みながら、 ﹁今日の飯はなんだぜ?﹂ ﹁秋刀魚の良さそうなのが入ってな。焼き秋刀魚におろし大根、白 い飯というごーるでんとらいあんぐるだ﹂ ﹁秋刀魚? へえ⋮⋮あたし、食ったことないぜ﹂ ﹁なんと﹂ 意外そうに聞き返す。 お八は﹁ん﹂と頷いて、 ﹁下魚だから食卓に上らなくてなあ﹂ ﹁目黒の秋刀魚とか有名ではないのかえ。殿様が食ったという話だ が﹂ ﹁いや? 聞いたことないけどよ﹂ ﹁じぇねれーしょんぎゃっぷ﹂ 感慨深く九郎は唸る。 当時は秋刀魚は下魚で江戸の庶民の間でも下層が多く食べる代物 であった。そのように印象付けられたのならば見栄を張りたがる江 戸の人々はことさら、貧しく無いのであれば進んで食うものでない と認識している。 お八のような大店の育ちであれば一度も食う機会が無いのも頷け る話である。 また、目黒の秋刀魚という将軍が庶民の味に感動した系で有名な 巷説が生まれたのもこれよりやや時代が下っての話なのであった。 さて⋮⋮。 二人はつらつらと雑談をしながら足を進め、昼九ツ︵十二時頃︶ 前には晃之介の寂れ道場へたどり着いた。 道場の裏から木を割る音が聞こえた。薪が少なくなっていたので 651 用意しているのであろう。 音のする方へ行くとやはり、晃之介が手慣れた動きで素早く無骨 な鉈を振るい、薪を割っていた。 九郎が親しげに呼びかける。 ﹁おう、センセイよ。昼飯を食いに来たぞ。秋刀魚を食おう﹂ ﹁師匠、野菜も持ってきたぜ﹂ ﹁お前らか。助かる﹂ と、お八は荷物の風呂敷を開ける。鮮やかな緑色の葉野菜が包ま れていて、青臭いような土のような瑞々しい香りがした。 見たことはあるが、なんの野菜だったか九郎は訪ねる。 お八は得意気に、 ﹁小松菜だぜ。将軍が小松川に鷹狩りに出かけた際に食って美味か ったもんで名づけたって野菜らしい﹂ ﹁ああ、確かに冬菜だなこれは。おひたしにするか﹂ 九郎がぽんと手を打ち、嬉しそうに云う。 旬は冬菜という別名の通り冬なのであるが、一年を通して生育さ せられる為に昔から親しまれていた野菜である。将軍に献上されて その名をつけたのは綱吉とも吉宗とも言われていて、それ以前は葛 西菜とも呼ばれていた。 冬場でも青々と葉をつけ腐ること無く、また当時[江戸患い]と 呼ばれていた脚気の病にもビタミンB1をそれなりに含むために効 果がある大事な野菜でもある。 そうして三人分の米を炊き、秋刀魚を焼いて大根を下ろし、おひ たしを添えて昼飯を用意する。 程よく焦げ目の付いた秋刀魚が、ぴちりと脂が跳ねる程あつあつ の身に醤油をかけて箸で崩して飯に乗せ食う。旨い。わしわしと進 652 む飯が胃に超特急なのである。 脂気がたっぷりある秋刀魚を中和するように、辛い大根とこきこ きした食感の小松菜がすっきりとして合う。 それにしても、と九郎は飯のお代わりをしてがつがつ喰らうお八 を見ながら、 ︵おなごながら、良く食うな⋮⋮︶ と、感心する。 お房はまだ九つだからか飯のお代わりをする事は珍しいし、石燕 はもっぱら酒を飲むのでしっかり健康的に飯を食うお八を微笑まし く思う。 ﹁はっはっは、たんと食べて大きくお成り﹂ ﹁何を言ってるんだ九郎。お前も年の割に小さすぎるんだからしっ かり⋮⋮九郎?﹂ 晃之介が言葉を投げると、九郎は箸を止めて渋い顔をした。 ︵⋮⋮そうだ、己れもこのままじゃ大きくならんのだ。どうにかし ないといかんが⋮⋮︶ 己の不老である境遇を思い出して少しばかり思い悩む。 緩やかに身体情報が固定されているので急性以外の病気には滅多 にかからず、暴飲暴食でも太ったり痩せたりアル中痛風になったり しないという便利さはあるものの体がまったく成長しないという条 件はいずれ厳しくなるだろう。 死なない人間など、恐れられるだけならまだしも妖しげな組織に 拉致されてターヘルアナトミアされたら堪らない。実行は杉田玄白 だが黒幕は幕府だ。なにせ幕って付いてるから間違いない。 653 いざとなれば狐面でも被って将翁のような年齢不詳キャラになろ うか⋮⋮。 などと考えていると、隣に座るお八が身を乗り出して、 ﹁さては、はらわたが苦かったんだな? あたしが食べてやるぜ!﹂ ﹁むっ。これ、一番旨いところをだな⋮⋮行儀が悪いぞ﹂ ﹁いいじゃんよ﹂ ﹁ええい、晃之介に貰え、晃之介に!﹂ と、二人は正面で食っている晃之介へ向き直ると、 ﹁どうした?﹂ 当然そうな顔で晃之介は秋刀魚の頭から骨ごとばりばりと食って いた。 九郎は瞠目して、 ﹁頭から齧っちゃうのか⋮⋮﹂ ﹁? ああ。骨が強くなるぞ﹂ ﹁そうかもしれんが⋮⋮ううむ﹂ 何処か納得がいかない顔で唸る。 さすが、山育ちだけあって顎や歯が丈夫だ。 お八も呆れたように師匠を見て、とりあえず九郎から秋刀魚を奪 うことは諦めたようで、小松菜のおひたしを残った飯の上に乗せ、 茶をかけて食べている。 ﹁そうだ九郎。いささか、お前に頼みたいことがあったんだ﹂ ﹁別に構わぬが﹂ 654 承諾する意思を見せて、九郎は先を促した。 晃之介とはお互いに色々と貸し借り無しで物事を付き合わせる仲 である。 大きな体を竦ませるようにして晃之介は、 ﹁実は⋮⋮﹂ と、切り出した。 **** まつだいら・のりさと 来月に江戸在住の剣客を集めて、老中・松平乗邑が催す剣術の仕 合が行われる。 これには徳川吉宗の武芸を励ませる意向もあり、彼のまだ小さい 二番目の息・宗武も見学に来るのだから将軍家の御前試合という形 になる。 江戸でも有名な道場に通う旗本家などから剣術達者が多く参加す るのであるが、なんの因果か士籍︵武士としての身分︶を持たぬ晃 之介も出ることになったという。 ﹁お主も一端の剣術使いだのう﹂ ﹁立花様から御推薦があったようでな﹂ 得意気に晃之介は鼻を鳴らす。 彼が毎月出稽古をしている柳川藩の上屋敷ではすっかり人気のあ る男になっているらしい。また、藩主の立花鑑任からも気に入られ 655 ているために今回のような推薦を受けたのである。 大名や幕府の大役が剣術仕合に人を推すのは、家中の剣士の強さ を知らしめるつもりもあれば、晃之介のようにまだ知られていない 達人の後ろ盾となっていることを表明する為に出させる事もある。 どちらにせよ、自慢ではあるのだが。 余談だが本多家では当主の本多忠良が﹁我輩が出るって! 我輩 が!﹂などと駄々をこねたので家老から軟禁させられている。 ﹁俺のような若輩が御前仕合に出るなど、ありがたいことだ﹂ ﹁やっぱ師匠はすげえな! お大名の次は老中の前で剣を振るなん て、大したもんだぜ﹂ ﹁門人は増えぬがな﹂ ﹁⋮⋮なんでだろうな?﹂ 晃之介も首を傾げる。 察した九郎は相手の要求を先読みして、 ﹁ははぁん、己れの手腕でこの道場を流行らせて欲しいのか? そ れならまずはチラシを湯屋に貼ってだな。うむ、チラシ貼りは得意 なのだ。何せ己れが若いころ初めてやったバイトが、電話ボックス にピンクチラシを貼る仕事だったぐらいだからな﹂ ﹁いや、別にそれは頼むつもりはないが⋮⋮ぴんくちらし?﹂ 懐かしがる九郎であったが、この時代では意味不明な発言であっ た。 訝しがりつつも晃之介は、 ﹁頼みというのは、練習の手伝いをして欲しいんだ。お八に教える のもいいが、たまには俺も打ち合わないと勘が鈍るからな﹂ 656 最近はお八の練習ばかりで、時折山野で狩りをしているものの剣 の腕を仕合に向けて砥がねばならない。 どのような江戸の強者が現れるか、あまり剣術家同士の交流がな い晃之介にはとんと予想がつかないのだ。 なお、利悟や影兵衛などの町方・火盗改同心は、盗賊や殺しを取 り締まるなど[穢れ]を扱う下級役人なので御前仕合のような華々 しい場所には出る事は出来ないのが慣例である。 九郎は晃之介の頼みを快諾する。 ﹁なんだ、そんなことか。任せておけ。よし、飯を食って休憩した ら立ち会おうぞ。ハチ子も見ていくであろう?﹂ ﹁おう﹂ 九郎は食い終わった茶碗を井戸端に持って行き、水をかけて軽く 濯いで置いた。 そしてごろりと道場の床に転がる。 ﹁食ってすぐ動くのは消化に悪いからのう。それに下手に腹を打て ば死ぬわ﹂ ﹁一理ある。よし、お八。九郎に膝枕を﹂ ﹁え!? あ、あたしが!? べっ別に嫌じゃないけどちょっと⋮ ⋮ええ!?﹂ ﹁そこの押入れに膝枕が入ってるから出してやってくれ﹂ ﹁入ってるって!?﹂ 急に慌てだしたお八を不審がりながらも指示を出す。 膝枕が押入れに入っているという謎の言葉に疑問を持ちつつ、道 場の押入れの襖を開けるとみつしりと無数の﹃膝茂君﹄││つまり 膝の模型がつめこまれていた。 精巧に作ってあるだけあって、見た瞬間ぞわりとお八の背筋が粟 657 立った。 ﹁怖っ! し、し、師匠なにこれ猟奇的なんだぜ!?﹂ ﹁無駄に沢山入っておるのう﹂ ﹁何故か藩邸に行く度にお土産として持たされてな⋮⋮捨てるわけ にもいかんだろ﹂ 九郎にも幾つか渡したのだが、それでもまだ余りある。 うす気味悪そうにお八は押入れの戸を閉めて、やや悩ましげに思 案して九郎の枕元に来て座った。 ﹁おほん﹂ ﹁?﹂ ﹁ごほんごほん!﹂ ﹁風邪か?﹂ 少し顔を赤らめて自分の膝をばしばしと叩いて咳払いしているお 八を九郎は見上げながら尋ねた。 いや、十中八九、顔の紅潮と喉の不具合からして風邪であろう事 は疑いがない。 体調不良だというのに無理に外に連れ出したか⋮⋮? と九郎は 自らの迂闊に表情を暗くする。 九郎は立ち上がろうとしつつ、 ﹁確か将翁の奴が近くの廃寺に泊まりこんでいたな。呼んでくるか ら⋮⋮﹂ ﹁いいから寝てろぜ!﹂ 上げようとした九郎の頭を引っ掴んで、自分の太ももに押し付け てお八は叫んだ。 658 うっすらと汗ばんだ手で押さえつけられて、九郎はなにがなにや らわからぬといった様子で彼女を仰ぎ見る。 ﹁あ、あの膝の張型よりは⋮⋮その⋮⋮マシだろうからな! 感謝 しろよな!﹂ ﹁むう⋮⋮?﹂ ﹁今までも何度か思ったんだが、九郎は驚異的に察しが悪い時があ るな﹂ 開いた口が塞がらぬ様子でため息を吐きながら晃之介は九郎に云 った。 人間年を取ると幾らかの感情が子供帰りすることがある。九郎が 時折見せる若気の至り的行動もその為だろう。つまり、老人性ボケ が発症しているのだ。 当の九郎は心外そうに、 ﹁失敬な。わかっておる。つまり、病気の子供は居なかった⋮⋮そ うであろいたたた。脇を突くなハチ子﹂ ﹁知ーらーなーいーぜー﹂ ﹁ぬう⋮⋮本気のくすぐりを受けてみよ﹂ ﹁んなっ、ちょっ、九郎何処触ってんだあはははは!? やめっう しゃしゃしゃ!﹂ ﹁休めよ、お前ら﹂ 暴れる九郎とお八に向かって、うつ伏せに寝たままの晃之介はぼ やくのであった。 ちなみに夜寝るときも彼はうつ伏せである。ちょっと死んでるみ たいとは九郎の言だ。 こうして半刻ほど休息するのであった。 659 **** 大体の剣の腕前は九郎と晃之介は伯仲している。 膂力では九郎に分があるが、技量では晃之介が勝ると言った違い はあるものの、打ち合えばほぼ互角だ。 その日は[係り撃ち]と呼ばれる、交互に相手に打ち込み、また 相手は防御をするといった組撃ちの稽古を行った。 最初は順番正しく撃ち合いをしているようで、傍から見ているお 八にもわかりやすかったのだが白熱していくうちに交差する剣の速 度が増していき、どっちの順なのかわからぬ具合に、瞬きをする間 何回も撃ちあう。 一息でお互いに十五、合わせて三十の攻防が発生していく程に激 化した。 道場には木剣と木剣がけたたましく打ち合う音が連続し鳴り響く。 どちらも決まった打ち方ではなく、心底相手を打ち倒さんばかり の勢いと凝った剣筋を持って木剣を振るい、また凄まじい反射と判 断で受け止めていく。 幾つかお互いに受け止めきれないものは寸止めらしき手心は加え るのだが勢いが完全に止まるわけではないため、容赦なく肉に剣先 が食い込む。そこで止めるのではなく痛みを無視し反撃に出て稽古 は続くのだ。 次第に必殺技まで叫びだすのだから本気具合が分かるというもの である。つまりは、双方のりのりなのだ。 しかし特に九郎などは、 660 ﹁オーク惨殺伝説﹂ とか、 ﹁コボルト虐待神話﹂ などと珍妙な技名なのだから、どうもしまらない。 彼の習った傭兵剣術[シグエン流]の正式な技ではあるのだが、 名付けの団長は少し変な男であったらしい。馬鹿正直に技名を叫ぶ 九郎も九郎であるのだが。 かの団長は命名神信仰者であるために、彼が流派や技名をつける と加護が発生して様々な補正がかかるという特性を使ってわかりや すい名前にしたのである。まあ、向こうの世界限定であるけれど叫 ぶのは癖なのだろう。 とにかくそのお互いに容赦無く撃ちあう鍛錬を、剣術を習い始め てまだ半年に満たないお八は、 ﹁なんだかわからないけど、とにかく凄えー﹂ としか理解できないものの、口を半開きにして見入っていた。 どちらも引かぬ。 攻撃と防御の順番を守りつつ、どちらの動きも連動させ相手に通 しに行く。 動きを止めた方が無数に降り掛かる打撃で致命を得かねない尖さ と疾さだ。 集中力と反射を研ぎすませ続ける、互角ならではの稽古があった。 一方で⋮⋮。 道場の外からこっそりと中を覗くようにして、激しい勢いの稽古 661 を伺っている二人組の男が居た。 笠を深く被っているがっしりとした侍と、身なりの良い町人髷の 初老の男である。 門の影に隠れている二人は中の三人にも気付かれていない。 どこかの商屋の主にも見える、初老の男がぼそぼそと呟いた。 ﹁あれが相手の録山殿だ⋮⋮﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ 低い落ち着きのある声で侍が返す。 鋭く光る目を中で闘鶏の如く打ち合っている晃之介へ向けたまま、 殆ど唇の動かぬしゃべり方で云う。 ﹁筋はいいが⋮⋮まだ剣が若いな。怖れを知らない剣は強さでもあ るが、わしに言わせれば拙い﹂ ﹁ならば、御前試合⋮⋮勝てるな?﹂ 確認するように初老の男が告げると、侍は笑いを漏らしながら踵 を返し道場から離れる。 笠を伏せながら、追う初老の男に自信を持って告げる。 ﹁さて⋮⋮勝負はその時にならねばわからぬ。しかし、確実に勝て る手はある⋮⋮﹂ ﹁その手とは⋮⋮?﹂ く、と口の端を吊り上げて決め顔で断言する。 ﹁││八百長を持ちかけよう。念の為に﹂ 662 ﹁おい! なんださっきまでの思わせぶりの強気態度は!? 馬鹿 かお前! 打たれて死んじまえ! この木偶の坊!﹂ などと、口喧嘩して去っていく影があった。 ともあれ⋮⋮。 やがてキリがないので鍛錬を終えた二人であったが、確かに晃之 介には充実したような気分があった。 剣は一人では強くなれないというのが彼の持論である。師か、弟 子か、或いは実力の近い剣友があってこそ腕が磨かれる。 ︵良い友人を持ったものだ︶ と、上半身裸になって打たれた所に濡れ手拭いを当てている九郎 を横目で見ながら思った。 ﹁痛いのう⋮⋮まあすぐ治るのだが﹂ ﹁大丈夫かよ。おっ、ここも打たれてる﹂ ﹁ぬっ、こら強く押すでない﹂ 肌蹴た九郎の体をお八も拭っていた。 不老の魔術効果により自然回復する程度の怪我はやや早めに治り、 身体情報が最適化されていくので痕も残らないだろう。 甲斐甲斐しく九郎の怪我を慮る弟子に晃之介が、 ﹁⋮⋮俺も打たれてるんだが﹂ 控えめに声をかけたが、絞った濡れ手拭いを渡されるだけであっ た。 663 ちょっと顔を曇らせつつも濡れ雑巾で打たれた箇所を冷やす晃之 介である。 ﹁そうだ九郎。脱いだんなら丁度いいや﹂ お八は[藍屋]から持ってきた包みを広げ、その中に入れていた 着流しを袖を広げながら九郎の前に出した。 変わった文様の描かれた藍染めの生地だ。少し九郎に大きいよう なサイズであるが、きっちりと折り目正しく作られている。 恥ずかしそうにしながらお八は、 ﹁九郎に作った着物一号、完成したからよ⋮⋮その、着ろよな!﹂ ﹁ほう⋮⋮大したものだハチ子や。ありがとうよ﹂ ﹁あたしにかかれば大したことないぜ!﹂ どん、と無い胸を叩きながらお八は嬉しそうに云った。 九郎は興味深そうに、着物に描かれた謎の文様を眤っと見る。 何処かで見たことがあるような、無いような⋮⋮そんな気分だっ た。 ﹁この模様は?﹂ ﹁あー⋮⋮あたしの思うままに刺繍したんだ。母ちゃんにはヘンテ コだの何だの言われたけど。あたし独自の模様っていうか⋮⋮や、 やっぱり変か!?﹂ ﹁いや、悪くないと思うぞ。己れもよくわからんが⋮⋮気に入った﹂ ﹁⋮⋮ありがと﹂ ぽつりとお八が告げて、顔を軽く横に振るった。 そして広げたまま九郎の後ろに回り、 664 ﹁と、とにかく着てみてくれ。ほら﹂ ﹁慌てるでない。自分で着れるわい⋮⋮ぬ? 少し大きめだな﹂ ﹁九郎ぐらいならすぐ背が伸びるからさ、大きく作ったんだ﹂ ﹁おかんか、お主は﹂ 子供の学生服を買うような科白に思わずツッコミを入れる九郎で あった。 しかしながら粋な着こなしというと、多少袖捲りするぐらいが丁 度良い。着心地も違和感が無く、動きやすいので九郎も、 ﹁ほう⋮⋮﹂ と頷いて腰帯を締めて頷いた。 肩を回したり背を伸ばしたりして、何か落ち着くような気分が服 からするのを体感する。 大層気に入ったようだ。 ﹁ど、どうだ?﹂ ﹁ハチ子⋮⋮お主修行したな﹂ 称賛の言葉を送ると、彼女もふんぞり返った。 ﹁まあな! 褒めていいんだぜ!﹂ ﹁おうさな、よしよし﹂ ﹁えへへ﹂ 九郎が尻尾振る犬をにやるような気分で彼女の額の辺りをごしご しと撫でると、お八も笑みを零しながらその手を掴んでぎゅっと自 分の頭に押し付けるのであった。 それを横目で見ながら晃之介は庭から取ってきた渋柿をもしゃも 665 しゃと齧り、甘いような苦いような居心地悪そうにしていた。自分 の道場だというのに。 なんとなくその背中からは、 ︵哀愁がただよっていた⋮⋮︶ ではないか。 イチャつき行為は出来れば外でやってほしい。欲を言うなら、地 球の外で。 **** 九郎とお八は晃之介の道場を後にして、のんびりと歩きながら江 戸の町をぶらついていた。 いましも、日本橋の辺りに差し掛かっただろうか。 特に目的があって歩いているわけではない。ただ、期待薄だが探 している物はあるために物が集まりやすいこの界隈に九郎が訪れた のだ。 お八も特に用事があるわけではないので、九郎に付いて行ってい た。 ﹁何を探すんだ?﹂ ﹁鏡を、な﹂ ﹁鏡ぃ?﹂ 666 短く答えるとそのまま聞き返された。 正確に言えば紫の鏡を探しているのだった。 つい先日、お房の術後の診断として安倍将翁が店を訪れた時に、 どうもお房の運勢が近頃悪そうだということで彼の占いで見てもら ったのだ。 なにせ、橋から落ちたり腸をひねったりと一つ間違えれば命を落 とす事件が二度も起きた。その点で言えばお八の実家もかなり盗賊 が連発して運が悪い気がするが。 そして彼が占った結果のラッキーアイテム的道具が、紫の鏡と白 い水晶である。 紫は安らぎを意味する高貴な色であり鏡は運勢を反転させる意味 合いを持つ。また、水難は水の卦、病気は木の卦が悪く起こること なので金気を上昇させて安定を図る。白色と鉱物である水晶はどち らも金属性なので吉なり⋮⋮とのことだった。 両方揃えなければいけないとも言われた。そして、白い水晶は将 翁が持っていた為にその場で買ったのだったが、もう片方の紫の鏡 を探さねばならないために、九郎は暇を見つけてはあちこちの店に 寄っているのである。 しかし中々に、紫に塗った鏡などは売っていない。 いっそ石燕辺りに頼んで作ってもらおうかと頼んだ事もある。彼 女は高価な顔料も所持していて手先も器用だから簡単だろうと思っ たのだが、 ﹁照魔鏡と交換ならばいいよ﹂ などと言われてしまった。 照魔鏡とは妖怪や魔物の真の姿を映し出す道具妖怪だ。呪いで犬 667 に姿を変えられた王女も此の鏡があれば一発である。 石燕の描いた[百器徒然袋]にも掲載されておりそこでは、 ﹁照魔鏡と言へるは もろもろの怪しき物の形をうつすよしなれば その影のうつれるにやとおもひしに動き出るままに 此かゞみの 妖怪なりと 夢の中におもひぬ﹂ と解説されている。 しかしまあ、それを見つけるのと紫の鏡を見つけるのどちらが大 変かわからぬ。 お房の運勢改善のためだとは言うのだが、 ﹁むしろ不吉な気がしないかね? 紫の鏡﹂ と、いって渡すのを渋っているのであった。 さておいて⋮⋮。 お八が九郎の手を引いて言う。 ﹁よく知らねーけど、鏡なら前に通りかかったこっちの道に店があ った気がするぜ?﹂ ﹁鏡屋⋮⋮こんな所にあったのか。少し寄ってみよう﹂ 日本橋の大通りから外れた小路に面したところにその店はあった。 繁盛しているこの界隈では珍しく、やや古ぼけた様子のこじんま りとした店であった。屋号の看板、[うんがい堂]と掲げられてい る。店の中に鏡が並んでいるのが外からでも分かるため、鏡屋と知 れた。 きしむ引き戸を開けて、薄暗い店内に入ると埃をわずかに被った 668 古鏡といったような品物がずらりと並んで店内に漏れ込んだ光を淡 く伝えている、独特の雰囲気がある。 新しく作られた鏡を売る店より、見つかりそうな予感がする。 無数の鏡の向こうからこちらを覗き返す反射が不気味なのか、お 八はやや縮こまって九郎の背中に張り付いていた。 ﹁⋮⋮いらっしゃい﹂ 言葉と裏腹にそこまで歓迎していなそうな気配を滲ませながら声 がかけられた。 置物のように番台に溶け込んでいたのは、店主らしき男である。 年の頃三十前後か、書生風に括ったぼさぼさの髪をした幽霊みたい な印象をしている。それも、偏頭痛で死んだ不機嫌な悪霊のような ムスッとした顔つきだ。 こちらに向けているのか怪しい声で埃が沈んでいる店の大気を震 わせる。 ﹁見ての通り、うちは鏡を扱ってる店だ⋮⋮なにかお探しかい?﹂ ﹁うむ、紫の鏡を探しているのだが⋮⋮﹂ ﹁紫鏡? それはまた、変わったものを⋮⋮﹂ 幽霊のような店主の顔が険しくなった。 ﹁あまり縁起がいいものではないけど本当に必要かね﹂ ﹁そうなのか? 紫は高貴な色と聞いたけれど﹂ ﹁紫は確かに格式の高い色とされている。ただ、鏡に塗るというの はあまり褒められないのではないかな。 鏡の語源は[影見]だ。物事の裏や落とされた影を映し出すとい う性質を持つ鏡と、安定や中庸を司る紫色を組み合わせるというの は、自分はどうも奇しい造形だと思う。紫に影を落とせば黒に染ま 669 る。黒は死の色でもあるからね。 しかし、そんな鏡を欲しがる人物と手放す人物がそれぞれここに 来るのはどういう巡り合わせなのだろう﹂ ぼそぼそとした声で喋る店主は聞かせるというより自分に問いか ける如く早口だったが、九郎は声を返す。 ﹁あるのか?﹂ ﹁普段は無いのだが、一つだけあるよ。取ってくるからお客さん、 少しお待ちを﹂ 幽霊店主がのっそりと店の奥に入っていった。 見送りつつお八は九郎の袖にしがみついて、 ﹁な、なんか妖しいなこの店⋮⋮﹂ ﹁まじっくしょっぷを思い出すのう﹂ ﹁買うもの買ったら早く出ようぜ﹂ 不気味そうにお八が震える。 ややあって出てきた幽霊店主から紫の鏡を購入した。セット販売 として白い水晶の欠片も渡されたが、それは代金に含まれていない ようなので既に持っている事は言わずに素直に受け取った。店主の 薀蓄が続いたが、やはり白い水晶が対となって霊的な意味を持つよ うだ。将翁の説とはまた異なってはいたが。 出る頃には西日が店の中に差し込み飾ってある鏡に乱反射して幽 玄の如き明かりを灯していてなんとも妙な雰囲気の店であった。 帰り道、何やらすっかり怯えたお八を励ますように九郎は、 ﹁ハチ子や、これをやろう﹂ 670 懐から取り出した小さな白水晶をお八に渡した。 先ほど店から買ったものではなく、以前に将翁から購入したもの である。 透明度が高く日に当てるときらきらと輝いて見える。 二つ水晶があるならば片方はくれても大丈夫だろうと考えた。 ﹁くれるのか? えと、こんな高そうなものを﹂ ﹁気にするでない。お主から服を貰ったのだからお返しじゃて﹂ ﹁お返しってされるほどじゃないけどな⋮⋮九郎には助けてもらっ たから⋮⋮でもまあ、いっか﹂ お八は快活に笑った。 西に沈んでいく太陽を背に、眩しく輝くような気持ちのいい笑顔 だ。 ﹁絶対大事にするからな! また、あたしが他の服も作ってやるか ら⋮⋮九郎も大事にしろよな! 破れたらあたしが縫ってやるから、 ずっとだぜ!﹂ ﹁お、おう﹂ ﹁約束!﹂ ﹁わかった、わかった││ちゃんと大事にする。もし破れたら、お 主に頼むさな﹂ ﹁任せとけ!﹂ 嬉しそうにお八は九郎に寄り添った。 九郎は一瞬、何処か懐かしい気配を彼女から感じて安らぐように 頬が緩んだ。 昔実家で飼っていた柴犬を思い出したのかもしれない。やけに強 気だが、すぐ懐いてくる可愛い犬だった。お八を見ているとそんな 構ってやりたさが浮かんでくる。 671 並んで帰路に付く。お八の顔が西日に照らされ染まっていた。 ﹁だが、約束は守られずに後悔と苦渋に満ちた余生を過ごすことに なるのであった⋮⋮﹂ ﹁後ろからごっつ不安を煽るものろーぐが聞こえてきた!?﹂ ﹁うわああ!? せ、石姉!?﹂ 喪服で影に溶け込んだ女絵師︵略して喪女︶が卑屈な笑みを浮か べながらアベックに不吉な予言を齎す︵江戸三大七不思議の一つ︶ 現象が起こったが、まあいつものことではある。 気にせずに、現れた喪女も連れて三人でけんちん汁を食べに行く のであった。こう涼しくなってくると、唐辛子をひりりと振りかけ 効かせたのがまた、おいしい。 672 26話﹃不知火﹄ 中秋の名月と言える月が真円の光を灯している夜の事である。 巣鴨の田園には田舎造りの古びて廃屋になった武家屋敷がある。 敷地は二百余坪になるだろうか⋮⋮元の住人が居た頃は立派だった であろうそこは荒れ果てて幽霊屋敷さながらとなっている。 此の屋敷は二十年前に、幕府の旗奉行を勤めていた相良嘉明の別 すすき 屋敷であったが、跡取りが居ないために断絶となり屋敷の買い手も 居らず、荒れるに任せ捨て置かれているのである。 が、その夜には屋敷内に明かりが灯り、幾人かの息遣いが芒の音 に混じり聞こえてくる気配があった。 大きな一部屋の中心に置かれた、床板を剥がし適当に作られた囲 炉裏には煌々と火が焚かれ、鮑や帆立を入れた寄せ鍋風のものが煮 られている。 それを囲みながら部屋には十人ばかりの男が、高い上酒を水のよ うに飲み上機嫌で笑っている。 この男ども、盗賊である。 [鎖鎌]の一味と呼ばれている、近頃江戸を荒らしまわる兇賊で あった。その名の通り、首領である四十絡みの大男は手元に無骨な 分銅と鎌を鎖で繋いだものを得物にしている。 盗賊が使うには実用的と言いがたい凶器ではあるが、何らかの矜 持を持って使っているのだろう。実際に、その恐るべき鎖鎌では大 店の用心棒すら、為す術もなく殺害たらしめている。 既に江戸で何人の血を吸っただろうか⋮⋮。 強引に店に押し込み、家人を皆殺しにして金品を奪い去る恐るべ き連中であった。 つい先日も事件を起こし、そろそろ充分な盗み働きを行ったので、 673 江戸を離れ大阪京都の辺りで豪遊でもしようかと算段をつけている ところであった。 男どもは酒をかっ喰らい過ぎて、目眩がしたのかと思った。 暗闇がずるりと空間に滲みでた気がしたのだ。 確かに、ほんの瞬き前まで何も無かった場所に、質量のある漆黒 が立っていた。 真っ先に把握したのは首領の鎖鎌使いである。 その闇は、黒装束を着た忍びの者が堂々と姿を表した事を認識し た。 全身を深穴の如く染め抜いた、むしろ不自然なまでに黒い服を着 ている細身で引き締まった体の忍者だ。目には猛禽すら怯ませる恐 ろしい眼光を浮かべている。 背筋を切りつけられたような寒気を覚えて、盗賊一味は声が出な かった。 忍びはやおら、覆面の下から殆ど口を動かさぬ発声法で言葉を紡 ぐ。 ﹁どうも。五代目・穴山小介です﹂ はっきりと名乗る言葉に、若干引きつった笑みを浮かべながら首 領が声を返す。 ﹁ど⋮⋮どうも。おれは由利鎌之││﹂ ﹁黙れ。貴様らと会話する気など無い﹂ 名乗りを遮って穴山小介と名乗った忍びは棒手裏剣を一直線に投 げ放った。 ﹁うぬ!﹂ 674 挨拶してきたのは向こうではないかと理不尽に思いつつ、咄嗟に 首領は近くに居た部下を引っ張り、盾とする。 盾にされた盗賊の眼球に深々と棒手裏剣が刺さり、悲鳴が上がっ た。 盗賊連中が慌てて立ち上がり忍びの男から距離を取った。 首領は鎖鎌を手にして怒鳴る。 ﹁貴様、何のつもりだ! 同じ上田の忍を受け継ぐものだろう! おれは、由利鎌之助だぞ!﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁だんまり、というわけか⋮⋮﹂ 金属の擦過音を鳴らしながら由利鎌之助と名乗る兇賊は鎖鎌を構 える。 小介の目はただ、昏い殺意だけを写していた。 この鎌之助と自称し、押しこむ先でもそう名乗っている男、上田 藩││ひいては現在松代藩を統治している真田家や、かの大阪夏の 陣で活躍した真田信繁に仕えた家臣団とはなんら関係のない盗賊で ある。 ただ、たまたま生まれ育った信州・屋代近くの郷里にあった道場 が鎖鎌を教えていて、本人の筋が良かった為に習得しただけだ。 若しかしたならば本来の由利鎌之助もその道場に連なる流派なの かもしれないが、知れぬ。真田十勇士の名を名乗っているのは単に、 江戸で流行っている読み物の人物だからであった。 恐らくは本人がなんの気位も無く名乗り、畜生のように殺しを繰 り返すそれが死んだとされる穴山小介の名を継ぐこの忍びの逆鱗に 触れたのであろう。 挨拶たらしめたのも、相手に怒りを知らす思惑があってのことだ。 小介も胸を張れる職業ではない。 675 とある目的の為に金一万両を溜める為、江戸中で盗み働きを繰り 返している[飛び小僧]とはこの忍びの事だ。 だがそれでも、忍びから盗賊に名を落としても本格盗賊の三か条 は守っていた。 三か条とは、 一、貧しきものからは盗まぬ事。 一、姦淫はしない事。 一、殺しはしない事。 という三つである。 それを守ったとて盗みは盗みであるのだが、守ると守らぬとでは やはり、世間の目は、 ﹁違う⋮⋮﹂ と、されるのが当時であった。 鎖鎌の名手、自称・由利鎌之助と穴山小介の差し迫る戦いが始ま った騒動を、[鎖鎌]一味を捕らえるべく屋敷を囲んだ火盗改の衆 は困惑とともに察知するのであった。 **** 屋敷の中で起こった騒動に、火盗改はすぐには踏み込まなかった。 676 むしろ、逃げるものが居らぬように警戒の網をより厳重に構築す る。 悪党が仲間割れするのは珍しいことではない。たまたま、穴山小 介の襲撃と火盗改の手入れが重なってのアクシデントなのだ。 静まったのならば押し入ろうと見張っていたのだったが⋮⋮。 まずは、[鎖鎌]一味に所属する小悪党共が、蜘蛛の子を散らす ように屋敷から逃げ出てきた。 首領を小介にやられ、慌てふためいて逃げ出したのであろう。小 介も然程下っ端の命に執着していないので、追撃は無い様子であっ た。 火盗改長官、黒門は即座に屋敷から飛び出た盗賊どもを、 ﹁捕らえよ!﹂ と、指示を出して捕まえさせた。 刺叉を構えた同心らが一斉に抑えこんですぐさま盗賊はお縄とな る。 だが、続けて出てきた者は一筋縄ではいかない。 火盗改が配置されていてなお、忍びの小介は宙を滑るような脚さ ばきで屋敷から飛び出し、退路を取った。 小介は以前にも、偶然に近い行き違いで同心の包囲を受けて黒装 束の姿を晒したことがある。 故に誰かが叫んだ。 ﹁飛び小僧だっ!﹂ ﹁すこぶる飛んでやがる!﹂ 忍者はいわば遁走のプロである。御用聞きや同心らが小介を捕ら えるために差し出された無数の刺叉の柄を踏みつけて、飛び越える。 同心はぎょっとしたが、忍びの者の体術は特別な訓練を習得して 677 いるのだ。 すすきばやし 上に六尺︵約1,8m︶、前後に五間︵約9m︶は飛び跳ねてこ その忍びだと文書には残っている。 ひらりと包囲を避け、近くにある芒林を越えれば追跡が不可能に なる。もしもの時の逃走経路は予め用意していた。 だが、賊が逃げる道筋を野生的な勘働きで予測していた者もいた。 [切り裂き]同心、影兵衛だ。 ﹁いよう、そんなに急いでどこに行くんだ? ちょっち、拙者の相 手もしろよお!﹂ 謹慎明けであったが、兇賊捕縛のための後詰めに参上していたの だ。 ただ、この時彼は長官からの指示で刀を帯びていなかった。彼が 刀を持っていた場合あまりに死人が発生するからである。火盗改の 任に於いてそれは起こらざるをえない事態だが、影兵衛は特に多す ぎるのだ。 正直なところ、刀を使わなくても負けない腕前なのは誰もが認め るのであったが為、今回は置いてくる羽目になっている。 無刀故に逃げる飛び小僧相手に、影兵衛は鉤縄を一直線に放った。 鉤の部分が鋭い返し付きの銅で出来ている特注品である。先端が 直撃すればそれだけで肉に食い込み行動力を削ぐ威力だ。 小介は駆けながら、影兵衛の前で横軸に方向を転換し回り込み逃 げる進路であったが、正確に飛来してくる鉤縄に対して、 ﹁変わり身﹂ とでも言える早業で厚手の風呂敷を展開し、飛翔してきた鉤縄を 絡めとったのである。 鎌之助の鎖分銅も同じ手で防いだ対策であった。 678 鉤縄に巻きついた風呂敷を捨て置いて、更に身を低くし小介は加 速して離脱を図る。 一度逃げてしまえば、もとより火盗改は[鎖鎌]一味を捕らえる 為に集まったので去った一人よりは現場に残された一味を優先する だろう。 小介が背の高い芒原に入り込もうとした瞬間、危険察知の感覚に より足を止め、振り向いた。 ﹁いけよ小柄ァ!﹂ 追いかけ来た影兵衛が両の手に持っている小柄︵手入れなどに使 う極短い刃物︶を合計六本、小介へ向かって投擲したのだ。 余人の投げる小柄ではない。 服の上からでも骨にまで突き刺さる威力がある。 月光を僅かに反射する鉄色の刃を小介は正面から見切り、五本は 当たらぬように身を躱して一本は手にした苦無で弾き飛ばした。 後ろを向いて逃げるために走ったままでは、体の何処かに突き刺 さっていただろう。 だが、小柄が宙を切り裂いて通った軌跡に残滓のようなものがあ るのを見て、小介は反射的に飛び退こうとする。 影兵衛が避けられたにも関わらず、嗤い声を上げて手を振り回し た。 ﹁テグスがついてんだよ!﹂ てぐす 小柄に結び付けられた半透明の糸は、天蚕糸と呼ばれる、蛾の仲 間が吐き出す糸を編み上げた本来は釣りに使うものである。 影兵衛の手に繋がるそれは頑丈性と弾力を兼ね備え、彼の引っ張 る動きに連動し小介から外れた小柄が巧みに運動エネルギーを反転 させ再度、彼の死角方向から襲いかかる。 679 有線誘導式小柄である。訓練もそうだが、影兵衛の空間把握と糸 使いのセンスによる特殊な技であった。 最初に投擲された時よりも誘導により戻された小柄は威力を大き く損ない、軽く肌に刺さる程度になっているのだが、それよりも六 本に張り巡らされたテグスが小介の体に巻き付き、動きが僅かに封 じられた。 鎖骨付近に一本、背中に二本刺さる痛みを感じるが疾いか、テグ スの絡まった小介に、 ﹁いただくぜ!﹂ 大上段から十手を振りかぶった影兵衛が襲いかかる。 銀や真鍮で綺麗に作られたものではなく、玉鋼で拵えられた実戦 用の頑丈な和ソードブレイカーだ。 当たれば骨など軽々と砕ける。 小介は持っていた苦無で振り下ろされた十手をなんとか受け止め た。もし、この時に影兵衛が持っていたのが刀だったならば一巻の 終わりだったのだが、運が良かったとしか言い様がない。 火花を上げ、小さな金属片をまき散らしながら打ち合わされた苦 無だったが、次の瞬間には影兵衛が十手の鈎部分に引っ掛けて苦無 をもぎ取り地面に打ち捨てた。 そして、 ﹁││逝ッちまいなア!﹂ 怒声と共に放たれたのは影兵衛の蹴りだ。 ことさら、同心の体術訓練では彼の足技が怖れられていた。火薬 が爆発したような威力を自在に放ってくる蹴りはまともに受けたな ら、骨など枯れ木のように折れるか、二日は飯が食えなくなる程に 強力だ。あと、あまり関係ないが足が臭い。中年の悩みである。 680 脾腹に向かって打ち込まれた爪先を、小介は懐に入れていた、手 のひらに収まる程の陶壺で受け止めつつも全力で後ろに飛び下がっ た。 壺が蹴り砕かれる感触と、肋の下がばきばきと立てる音を聞きな がらも寸での所で耐える。 そして、壺の中に入れられた粉末を周囲の乾いた芒原に撒き散ら した。 中身は炭粉と木屑、火薬を混ぜたものである。 影兵衛は匂いで察して相手の算段を読み取った。 が、影兵衛が対応する前には小介が投げつけた火打ち石が、十手 に弾かれ地面に突き刺さっていた苦無の柄に撃ち当てられる。苦無 にも、火打ち石を仕込んでいるのだ。 強い火花がにわかに浮遊物となった可燃性の火薬に燃え移り、爆 発的に火が付く。少しのあいだで燃え尽きる程度の火薬であったが、 周囲の芒に燃え移るには充分であった。 燃えやすく乾燥している頭を垂れた芒が、秋風に吹かれて炎を広 げた。 火の光に目を取られて我に返った短い間に、巻き付いたテグスも 燃やして解いた小介は何処かへ逃げ延びていたのである。 ﹁野郎⋮⋮味なことやりやがる﹂ 見事な火遁の忍術に、さすがの影兵衛も驚き入ったようであった。 火の色を見て、[鎖鎌]一味に捕縄を付けた火盗改の同僚、小川 同心が慌ててすっ飛んできた。 ﹁うわっ! も、燃えてますよ影兵衛さん! 火属性の必殺剣でも 使ったんですか!?﹂ ﹁拙者じゃねえよ。おい、それより消すの手伝え。おかしらに怒ら れんぞ⋮⋮﹂ 681 火付けを取り締まる役人としては、逃げた飛び小僧を追うよりも 火を消し止めなくてはならない。 現場に居た者総出で芒刈りとなるのは当然であった。 影兵衛が小川の脇差しを借りて無造作に伐採しつつ、 ﹁そういや、盗賊一味はどうだったよ?﹂ ﹁ええ。首領の[由利鎌之助]を除いて、他の者は生きたまま捕縛 に成功しました﹂ ﹁鎖鎌使いは⋮⋮殺られてたか﹂ ﹁踏み込んだ時には既に⋮⋮飛び小僧の仕業でしょうか﹂ ﹁だろうよ。あ、おい。その辺に苦無が落ちてるはずだから拾って おけ﹂ 適当に指差しながら告げる。 未だ火で照らされて明るい為に黒光りする道具はすぐに目につい た。 小川が拾ったそれを受け取り、しげしげと眺める影兵衛に尋ねる。 ﹁影兵衛さん、なにかわかります?﹂ ﹁いや⋮⋮普通の刀ならまだしも、忍びの道具は専門外だな。こう いうのは⋮⋮そうだ、町方の[無銘]のやつが詳しいんじゃねえか ?﹂ ふじばやし・ゆうぞう ﹁藤林さんですか? 確かにあの人は伊賀の出でしたっけ⋮⋮よし、 聞いておきます﹂ 肯定して小川はひとまずその苦無を預かった。 町方の隠密廻同心、通称同心二十四衆の一人[無銘]の藤林勇蔵 は伊賀衆に連なる男で、追跡や変装の名人である。それも伊賀に伝 わる、 682 ﹁忍びの技﹂ を使っているともっぱらの評判ではあった。 餅は餅屋と言うが、苦無の流通や製造など一般には知れることの ない事情を知っている可能性がある。 また、よく事件の取り合いをする火盗改と町奉行所であるが、隠 密廻はやり口が火盗改にも通じるところがあるので口利きは多少楽 である。 ともあれ、証拠品の苦無を手にしてその日飛び小僧は逃がしたの であった。 生かして捕まえ無くてはならない相手なので手加減せねばならず、 厄介ではある。十両盗んだら死罪とされる江戸の世だが、なんと飛 び小僧は既に表沙汰になっている金額だけで三千七百両あまりも盗 みを続けている。その隠し所を取り調べなければならないのだ。 影兵衛は欠伸を一つ零して、髭を剃ってつるりとした顎を撫でな がら、 ﹁逃げ一択の相手は趣味じゃねえんだがよ﹂ と、面倒そうに呟くのであった。 **** 池袋村の辺りに[狐囃子]と呼ばれる怪奇現象が囁かれていた。 683 これは江戸の三大七不思議の一つにも上げられる有名なもので、 農村も何も無い原っぱで夜だというのに祭囃子が聞こえてくるとい う不思議な話である。 化け狐が祭りを行っているのだろうと噂されるそれを探しに出た のが、神秘狩人・鳥山石燕と助手の九郎であった。 夜だというのに油揚げと酒を持って、提灯片手に出かけるあたり、 暇な二人である。 勿論、狐を呼ぶために用意した油揚げは道中、酒の肴にどんどん 消えていくのであったが⋮⋮。 ひと通り噂の出処を探った二人はそろそろ帰途へと足を向けてい た頃だ。 ﹁いや、[狐囃子]の正体は将翁の奴だったなどと、人騒がせなや つめ﹂ ﹁そうだね。陰陽儀式のために集めた野良犬達に鳴子をつけていた 音が祭囃子に聞こえただけの話だとは⋮⋮拍子抜けだね﹂ ﹁やれやれ⋮⋮﹂ 並んで歩きながらやや無言になり、 ﹁││それはそれで魑魅魍魎めいた怪奇話であるな、よく考えたら﹂ ﹁ふふふ。確かにさっき見てきたけど絵面が、夜な夜な謎の儀式を する狐面陰陽師の時点で超怪しいすぎる﹂ ﹁なんかもうあれだな。知り合いだけで七不思議行けそうだな﹂ ﹁真実は巷説よりも奇なりけりだね﹂ などと言い合い、夜道を歩いていると、妙な焦げ臭さを嗅覚に感 じた。 きょろきょろと夜目の利く九郎が辺りを見回す。 684 ﹁妙な⋮⋮﹂ ﹁どうしたのかね?﹂ ﹁いや、気配を感じぬか?﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 石燕も鼻を鳴らし、小さく頷いた。 狐に化かされぬように眉に唾でもつけようかと考えていると、九 郎が何かを見つけた。 遠目には黒い頭陀袋が落ちているようにしか見えぬが、それはど うやら黒装束の男のようだった。少しばかり服が火で炙られて焼け ているようで、また提灯の明かりで照らすと何箇所かから出た血で べったりと服が張り付いている。 そして苦しげに息を凝らしたまま、腹を抑えて倒れている。 九郎は特に驚いた風も見せず、しゃがみこんで顔を見ながら言う。 ﹁こやつは⋮⋮﹂ ﹁知り合いかね? いや、凄まじく怪しいのだけど。なにそれ? 忍びの者?﹂ ﹁はっはっは、忍びなど居るわけはなかろう。これは不忍池で蓮根 料理を出しておる[穴屋]の男、小介だ﹂ もはや忍び装束など見慣れたものであった。 盗賊も夜間にはこの服を着るし、お忍びで町を歩く御大尽だって 顔を隠す。それでいて忍者など居ないのだと九郎が納得するまで時 間はかかったが、ひとまず諦めたように認めたようである。 この紛らわしい男の店に行ったことも数度、ある。なにせ酒に良 く合う小鉢を出すのだが、どれも一つ六文で提供していてとても安 いのだ。 石燕はただ客観的に小介を見て凄まじく不審がっているが。 気を失っている様子の彼を揺り起こすようにして具合を伺う。 685 ﹁む⋮⋮怪我をしておるようだな。仕方ない、将翁のところに運ぶ か﹂ ﹁大丈夫かね? 何やら危なげな事に巻き込まれている気がするけ れども﹂ ﹁なに、どうせ真実は拍子抜けするような事が多いのだ。差し詰め、 焼き栗でも食おうとしたら弾け飛んで怪我をしたのだろう﹂ ﹁それでここまで怪我をする尺玉みたいに危険な栗は明らかに妖怪 変化の類だと思うがね﹂ 呆れたように、石燕がいった。 九郎はひょいと小介の体を担ぎ上げる。己よりも身の丈が大きな 相手だが、彼にとっては軽いものであった。 しかし丁度近くに将翁の隠れ庵があって幸運である。 二人は来た道を、忍者を運んで戻っていくのだった。 **** 夜が明けて⋮⋮。 次の日の昼間のことである。 おくむら・まさのぶ 厳しく[鎖鎌]一味が取り調べを受けている中、火盗改同心の影 兵衛と、同じく探索方で二十四衆が一人[家屋解体]の奥村政信は 不忍池の周縁にある煮売り屋で酒を飲りながら、[穴屋]の入り口 を見張っていた。 昨夜、飛び小僧の追跡調査として追加任務を与えられた影兵衛は、 仕方なく八丁堀にある藤林同心の自宅へ夜中に訪ねて苦無について 686 聞き込みを行った。 すると、以前に浅草・不忍池方面を調査していた時に同じ作りの 苦無を見たと証言を聞かされた。 それは[穴屋]という料理屋で、鯉の鱗取りなどに使うのがちら りと見えたという。伊賀者である藤林は、その忍び道具を使ってい るのを特に記憶していた。 すぐに踏み込んでも良いのだが、もし[穴屋]に居るのが本格の 忍びだとすれば、逃げに入られれば厄介である。 とりあえず様子を伺っているのだったが⋮⋮。 ﹁中山殿。誰か来たぞ﹂ ﹁あん?﹂ 奥村同心の静かな言葉遣いに、煮しめを肴に一杯やっていた影兵 衛は酒で赤らんだ顔を向けた。 結局昨夜は忙しくて酒も飲んでいないというので、昼間から酒を 飲んでいるのだ。 仕事中だが、影兵衛が酒に酔ってしくじった事は無い為に黙認さ れている。当時の認識としても昼に飲む酒は栄養ドリンクや気付け 代わりともされていた為、肉体労働者などはとりあえず一杯と飲ん でいたらしい。江戸でよく喧嘩騒動が起こっていたのは、案外昼間 から酔っ払い同士が多かったためかもしれない。 ともかく、影兵衛が視線を向けると小柄な少年の如き人物が[穴 屋]に入っていった。 店に入ったのは九郎であった。 昨晩、将翁に怪我の治療を受けさせた小介は今だ池袋村にある廃 寺で体を休めている為に、小介の父︵父もまた、小介という名前な ので紛らわしい︶に伝えに来たのである。 687 ﹁すまぬが⋮⋮﹂ ﹁へえ、いらっしゃいまし﹂ 泥鰌のような髭の生えた愛嬌のある老爺が厨房から顔を出す。 老齢ながら背筋も曲がっておらず、すらりとしたやや大きめの体 躯をしている。そこと無く、若い頃に何らかの修行をしていた事が 見え隠れする体つきであった。 彼は九郎の顔を認めると、 ﹁どこにでも好きなところに座ってくだされ﹂ と、声をかける。 実際の所、九郎の顔はあちこちの店で覚えられている。酒をたら ふく飲んでいき金払いも良いが見た目は少年のような客ならば、三 度も通えばすぐに記憶に残った。 九郎は手のひらを老爺に向けて、 ﹁あ、いや今日は食いに来たのではないのだ。この店の小介が怪我 をしてるのを拾ってのう﹂ ﹁⋮⋮左様で御座いますか﹂ ﹁大したことはないのだが、知り合いの家に預けておる。一応お主 にも知らせておこうと⋮⋮﹂ ﹁助かります。すぐに引き取りに参りますので、案内をお願いして も⋮⋮﹂ ﹁おお、よいよい﹂ 九郎は快く引き受けると、老爺は彼の手に小判を握らせた。 ﹁これは心ばかりのお礼でして⋮⋮どうか気持良く受け取ってくだ され﹂ 688 ﹁む、そうか⋮⋮﹂ と、この薄利であろう料理屋から、礼にしては貰いすぎな気がし たが、断るのが逆に失礼な気がして、九郎は小判を懐に収めた。 そして老爺は[本日やすみ]と書かれた札を店の奥から持ってき て、入り口に貼り付けてすぐに出かける事にした。 九郎が、 ﹁店の用心はしなくてよいのか?﹂ と尋ねるが老爺は頷いて、 ﹁盗まれるようなものは置いてませんので﹂ ﹁そうか。はっはっは己れが居候している蕎麦屋もな、碌に金など 置いていないから盗人対策をしておらぬし、似たようなものだな﹂ ﹁まったくで﹂ などと笑いながら二人は歩き去っていった。 影兵衛はそれを目で追いつつ、 ﹁あの二人は手先に追跡させる。拙者と手前はあの店ェ捜索すっぞ﹂ ﹁了解﹂ と、指示を出した。 家宅捜索において右に出るものが居ない、と評判の[家屋解体] 奥村ならば、隠し棚だろうが床下に埋めた物だろうが発見できる。 確実な任務という点では影兵衛が追跡に付いたほうが良いのだが、 一緒に去っていったのが九郎だから顔が知れている為に感付かれる 恐れがあるのだ。 689 仕方なく二人で、裏口から[穴屋]に侵入して捜索を始めた。 盗んだと思しき大金が出てくれば御の字である。 そうでなくとも、同型の苦無でも発見できればしょっ引ける。だ が問題は責め拷問を施したとて、忍びの者が口を割るかどうかだ。 忍びについて詳しい者はそれこそ伊賀者の藤林同心ぐらいのもの だが、彼の話すところによると、拷問尋問を受けた際には、 ﹁すぐさま舌を噛み切り死ぬるか、尤もらしい嘘八百を並べてかく 乱させるか⋮⋮﹂ という訓練を受けている可能性がある。 飛び小僧が盗んだ金を取り戻さなければ、被害者から不満が口々 に囁かれるだろう。勿論、通常の盗賊でも盗んだ金は捕まえた頃に は既に使いきっていたということも多くあるのだが、だからといっ て納得されるものではない。飛び小僧の犯行では少なくとも命が奪 われる事はなかったので、助かっただけ得と思えばいいものを。 やがて、奥村同心により隠された苦無と忍具が発見された。 同時にその頃、追跡者を察知した老爺と九郎の機転により、影兵 衛の密偵はまんまと撒かれてしまっていたのである。九郎も正体不 明の相手につけられているという状況では積極的に逃げたようだ。 そして、二度と老爺と小介が店に戻ることは無かった。 火盗改は後手に回らされたのだ。 **** 690 ﹁││よし、落ち着こう﹂ 九郎は石責め用のゴツゴツとした石版の上に縄で巻かれ正座させ られ、回りを囲む怖いお兄さん達に言い聞かせるように告げた。 ﹁まずは弁護士だ。次に保険屋。坊主は最後でいい。そしてお主ら も心安らぐ挨拶を唱えるといい。アッマーテラス・アレイクム。あ なたの上に天照大御神の平穏がありますように﹂ 男たちは目配せをして、九郎に抱かせる重そうな石版を持ち近寄 ってきた。 ﹁待て待て、拷問の前に少しは事情聴取をしろよお主ら。なんでも 話すぞ己れ。生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え とかどうだ? 完璧な計算で出された答えは42らしいのだが⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁賢い動物らんきんぐ一位は鼠で二位は海豚、三位が人間で⋮⋮い や無言で石版を載せようとするな! とりあえず何が知りたいか教 えろ! 己れは航時法以外では無罪だ!﹂ 本人も何の情報に価値があるのかわからなくなってきて訳の分か らない事を叫んでいるのも、拷問要員達は惑わす虚言と受け止めて いるらしい。 ﹁ああぁ∼⋮⋮悲しいぜ九郎﹂ 焦る九郎に、入り口からゆるりとこの拷問ハウスに入ってきて話 しかけてくる人物が居た。 影兵衛が憂いを帯びた様子で目元を手で抑えつつふらふらと寄っ て来た。 691 ﹁おい、影兵衛! どうなっておるのだ!﹂ ﹁いやなんだ⋮⋮せめて盗賊の仲間なら鉄火場で会いたかった⋮⋮ そうすりゃ楽しく楽しく、殺して嬉しい斬り合いが出来たってのに、 最初から拷問責めなんてなんて悲しいんだ⋮⋮﹂ ﹁だから、拷問などする必要がどこにある! 理由を言え理由を!﹂ ﹁拙者からの情けでは指に刺す竹串を、焼けた鉄串に変えてやるこ としかできねえ⋮⋮じゃっ、始めっか﹂ ﹁始めるなボケエエエ!!﹂ 此の後、なんとか九郎の必死の説得のようなものが受け入れられ て何とか拷問は回避されるのであった。 事情はつまり火盗改が、[飛び小僧]と関係があると思われる[ 穴屋]の老爺と共に動いていた九郎を、彼の居候している[緑のむ じな亭]で待ち構えて捕縛し拷問室へ一直線にしたのであった。 九郎としては寝耳に水の案件であった為に、心底驚かされること となった。 ﹁まさかあの、全身黒装束で目つき鋭く鍛えられた体で苦無などを 扱う小介が、忍び筋の盗人だったとは⋮⋮﹂ 九郎の呟きに一斉に火盗改の役人たちは﹁せぇの﹂と声を合わせ てツッコミを入れた。 ﹁怪しめよ!!﹂ ﹁ここまで怪しいと逆に怪しくないであろう⋮⋮﹂ もごもごと目を背けながら言い訳するが、聞き入れられる様子で はない。 詮議の場を取り仕切る、火盗改長官の黒門が九郎に問い詰める。 692 如何にも無骨な、実戦派とでも言えるがっしりした男で周囲に与え る威圧感はいっそう強いものを感じる。 ﹁それで、その飛び小僧と老爺は今どこに居るのだ﹂ ﹁うむ⋮⋮己れが案内した頃には、小介も動けるようになっておっ てな。将翁は暫く安静にした方がいいと言ったのだが、親子揃って 何処かへと⋮⋮そこで別れたから知らぬ﹂ こより 九郎の応えに、同心の一人が紙縒を片手に怒鳴りつける。 ﹁隠し立てすると容赦せぬぞ!﹂ ﹁知るかっ! 己れは別段、あやつらと親しいわけでもないのだ!﹂ ﹁なにを生意気な小僧めっ!﹂ ﹁おい﹂ どすの利いた、閻魔が呟いたような低い声が影兵衛から放たれた。 ﹁止めろ。そいつぁ拙者の友達だからよ。嘘ぁついてねえさ﹂ ﹁⋮⋮いや、お主さっき己れの指に焼けた鉄串刺そうとしてたよな ?﹂ ﹁んなことより何か手がかりを探さねえとな。あいつら、間違いな く江戸を売ったぜ畜生め﹂ 半目で言及した九郎を軽やかに無視して影兵衛は話を逸らした。 手がかり⋮⋮。 一応、誤解とはいえ居合わせた九郎も考えてみた。しかしそもそ も、あの親子と会話したことなど数えるほどしか無いのであったが ⋮⋮。 ふと、思いつくことがあって九郎は発言した。 693 ﹁小田原﹂ ﹁どうした?﹂ ﹁いや、前に江ノ島に旅行に出かけた時、小田原に向かう途中の小 介と同じ宿に泊まったのだ。あの格好だからな、すぐにわかった﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ ﹁宿の者に何気なく聞いたが、それなりに頻繁に小介はその宿に訪 れているとか⋮⋮﹂ ﹁宿の名は?﹂ ﹁東海道の旅籠[すずや]だ﹂ ﹁⋮⋮よし!﹂ 長官、黒門が決断して指示を出す。 ﹁馬を走らせて[すずや]までの街道を調べさせろ! 少なからず 怪我を負っているはずだ!﹂ ﹁はっ!﹂ [穴屋]の店を調べても盗んだと思しき金銭は一切見つからなか った。となれば何処に運び出したかである。 江戸の市中にある蔵などは所在がはっきりしていないものほぼ全 てを調べあげてあるが、今まで出てこなかった。ならば、江戸の外 に保管しているのだろう。 その場所が、盗みの実行犯である小介が何度も訪れているという 小田原である事は有力な説であった。 近年では多くの、押し込み殺しを行う兇賊が増えているがその中 でも[飛び小僧]は鮮やかに盗みを行い人を傷つけぬということで、 盗人ながら町人に人気が出てしまっている。 それではいかぬ。 盗みは盗みで許されない行為なのだ。飛び小僧を捕まえないまま 逃したとあれば、更にその名声は名高いものとなってしまう。それ 694 は火盗改や町奉行の怠慢を色飾るものであり、警察機構への不信を 招く世の乱れとなる。 昨日捕らえた鎖鎌一味の聴取もせねばならないが、動員して火盗 改はにわかに忙しくなった。 ﹁⋮⋮あー、それでは、己れは帰るから﹂ ﹁きひひ、最後まで付き合ってけよう、九郎。ちょいと小田原まで 行こうぜぇ?﹂ ﹁ぬう⋮⋮﹂ 冤罪とはいえ、飛び小僧の仲間と思われた九郎が断れる雰囲気で はない様子であった。 やむを得ず、再び火盗改の捜査に協力する事となったのである⋮ ⋮。 **** 南千住にある小塚原は当時、刑場があり罪人の首が曝される場で もあった。 臭気が強く残る死骸が殆ど捨て置かれるようにされていて、変色 した罪人の首が木台に置かれ罪状が書かれた紙が貼られていた。 九郎は寂しそうな目で、晒し首になっている泥鰌髭の老爺の顔を 見ていた。 江戸を[飛び小僧]として騒がせた盗人として、あの老人は首を 刎ねられてここにいる。 九郎の他にも、ひと目[飛び小僧]の末路を見ようと小塚原には 695 人が集まっていた。 隣に並んで見物している石燕が声をかける。 ﹁小僧という割には、随分と老盗だったのだね﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ ﹁しかし、本当にあの老人一人で三千両以上も盗んだのかね? 盗 み金は見つかっていないのだろう﹂ その通りであった。 読み通りというべきか読まされた仕組まれたというべきか、小田 原への道中、東海道筋で老爺は捕らえられたのであるが、囲まれた と見るやいなや、かの老人は、 ﹁そうだ、儂が盗人・飛び小僧よ!﹂ と、堂々と名乗ったかと思えば即座に皺腹を掻っ捌いて果てたの だ。 止める暇も無かった。 また、彼の息子の小介はその所在を完全に眩ませていたのだ。老 爺は、陽動だったようにも思える。 自決した罪人相手では盗み金の在処を尋問する事も、犯行の裏付 けを取る事も出来ない。 それでも疑わしき証拠はあり、また老爺自身が盗賊を名乗ったの であればそう扱う他無かった為に、ひとまず飛び小僧の死という形 で事件は一応の解決を見せるようにしたのである。 最も疑わしいのは息子の小介であったが、飛び小僧の体格に老爺 が当てはまらないこともない。また、体には生新しい刺傷や、腹部・ 影兵衛が蹴った場所と同じ所に打撃痣が残されていた事もあり、こ ちらが真犯人と言えなくもないのだ。 少なくとも、まんまと本命には逃げられたと発表などできはしな 696 い。 そうして腹を切った老盗の死体は江戸に運ばれ、更に首を斬られ 小塚原に晒された。 ﹁しかし⋮⋮小介を逃がす為に、体にわざわざ傷までつけてすぐさ ま死んでみせたとなると⋮⋮﹂ ﹁親子の情というものかね?﹂ ﹁いや、何かもっと、大義のような覚悟をこやつの目からは感じた が⋮⋮﹂ もはや、それが何だったのか知る事は出来ないのである。 江戸に潜んでいた忍びの末裔、穴山小介という名も誰にも知られ ること無く盗み金と共に闇へ消えた。 この時の失われた、実質五千両以上の大金が後に恐るべき事件を 巻き起こす事になるのだが、それを予見していた者は居ない⋮⋮。 しみじみと死に顔を見遣りながら九郎は呟く。 ﹁そこまで悪いやつには見えなんだが⋮⋮安くて美味い飯を出して いたしのう﹂ ﹁人の内面など、他人が推し量れるものではないよ﹂ ﹁まあ、そうさな﹂ 九郎は頷いて、石燕の袖を引っ張りながら、 ﹁さて、帰るか。ここはどうも、空気が悪い﹂ ﹁確かに腐臭が強い﹂ しかしふと、九郎は腐った体から作り出される、不純なメタン臭 以外に、何やら鼻孔をくすぐる燐のような匂いを感じた。 最近、何処かで嗅いだような匂いだ。 697 ︵確か⋮⋮焼け焦げた小介の体から⋮⋮︶ 思い出そうとすると、石燕が白い指を晒し首に向けて言う。 ﹁││鬼火だ﹂ ぽ││。 ぼぅ││。 軽い音を立てて、青白い火がそこに浮かんでは消える。 死人の成仏しきれぬ残念や煩悩が火となっているのだと伝えられ ている、妖怪だ。 見物に来ていた町人たちがざわめいて、怯え泣き出したり念仏を 唱え始める者も居た。 ﹁飛び小僧の鬼火だ⋮⋮!﹂ ﹁祟りがあるぞ⋮⋮﹂ ﹁坊主を呼んでこい!﹂ そうして蛍のようにい点滅していた火はやがて、晒し首台に燃え 移り││手が出せぬほどの勢いで火勢を強めた。 台に何らかの仕掛けを施さない限りここまで燃え上がらないだろ う。首を、火で包んで大きな火の玉になったそれを見て見物客らは 恐慌を起こした。 ﹁火消し! 火消しはどこだ!?﹂ ﹁火盗改を呼んでこい! あいつらが捕まえた盗賊の怨霊だぞ!?﹂ ﹁うわああ!﹂ 逃げ惑い、遠くでは町火消しの鐘が打ち鳴らされ、混乱を極めた。 698 嬉しそうに鬼火を、竹筆で紙に写し描いている石燕の袖を掴んだ まま九郎は冷静に周囲を見回した。 蜘蛛の子を散らす如く右往左往し離れていく人の群れに、黒頭巾 を被っていたせいか不思議と目元しか思い出せない小介が居た気が した。 火を見ている石燕が、ぽつりと呟いた。 ﹁消えろ、消えろ、つかのまの燭火、人生は歩いている影にすぎぬ ││ってね﹂ 謳うようにな言葉に、九郎は問い返す。 ﹁誰の言葉だ?﹂ ﹁シェイクスピアの[マクベス]からさ﹂ ﹁いや、時代考証を考えろよお主。なんでシェイクスピアを引用す る。マンハッタンの企業家ではないだから﹂ ﹁和蘭陀人から聞いた。百年前の戯曲家だろう﹂ ﹁便利だな、和蘭陀人﹂ 二人はなんとなく、火消しが来るまでそこに留まって飛び小僧最 後の火を眺めているのであった。 罪人とはいえ首を晒し死体を捨て置く事が悪霊を招くとされ、後 に小塚原刑場には首切り地蔵が置かれるようになったのである。 秋風が、狐囃子を遠くまで運んでいる⋮⋮。 699 700 27話﹃夢の彼方﹄ [今はいとまある身となりぬ。心に思ひ出づるをりをり、過ぎに しことども、そこはかとなく、しるしおきぬ。] **** 天爵堂は物を書く前に、この一文を読み返す。 [折たく柴の記] と、名付けた随筆のような書にある、それを記すに当たって書い た当人からすれば相当複雑な感情が込められた言葉である。 己は歴史の隅に散らばる小さな屑みたいな、卑小な影響しか後に 残せはしないが、自分の経験から学べることを子孫に残しておこう と思って書き始めたものだった。 後ろ盾も家名も無い身上から学問を修め、一時期は幕府でも将軍 側近にまで出世をして、再び全てを失い隠居生活。こんな人生だが、 幸い文字を書く腕と痴呆していない頭が残っているから充分だ。 若干埃の積もった一室に座りながら、筆を握り時折思い出したか のように動かす。 天爵堂はこの静かな空間が好きだった。 この家が騒がしくなるのは、版元の田所が押しかけてくるか、請 われたので仕方なく字を教えている近所に住む数人の子供たちが暇 701 を見つけてやってくるかのどちらかだ。 仕事で来る田所は仕方ないのだが、件の子供連中はやれ部屋が埃 臭いから掃除をするだの、御使いしてきてあげるから駄賃をよこせ だの、茶菓子が湿気ってただの文句を付けて来て、とても生徒に思 えないような厄介者達ではあった。 教える天爵堂も教師らしからぬ、教材と説明をしたら後は自習さ せるような放任さなのだが、そもそも金を取っていないので文句を 言われる事もない。生徒の親から野菜を分けてもらったり、子供が 田螺を取ってきたりと損ばかりしているわけではないのだったが。 物思いに耽りながら書をしたためていると、庭を回りこんで縁側 から呼びかける声があった。 ﹁おい、天爵堂。生きておるなら返事ぐらいせい。玄関から呼びか けても誰も出てきやせん﹂ ﹁うん⋮⋮? ああ、君か﹂ 天爵堂が聞こえた声に反応して顔を向けると、縁側に座ってこち らを見ている九郎の姿があった。ざんばら髪に眠そうな垂れ目の、 見た目は彼の生徒たちより二つ三つ上ぐらいなのだが、若干じじ臭 いところがあると天爵堂は思っている。 実年齢を信じるならば、自分より年上になる。これに関しては阿 部将翁も似たような年齢不詳な知り合いなのだが。 此の家に来るのは二度目だ。顔見知り、程度の知り合いである。 尤も、天爵堂から人間関係を聞いても[知人]か[厭なやつ]の二 種類しか分類されていないようではあるけれども。 天爵堂は艶のない白髪を掻きながら来訪の理由を尋ねた。 ﹁なんだい? また面倒事なら回れ右して欲しいんだが﹂ ﹁違う違う。己れはお主の原稿を取りに来たのだ。その⋮⋮﹂ 702 九郎はやや表情を苦しそうに歪めて、 ﹁﹃猫耳巫女退魔同心おにゃん恋物語﹄⋮⋮の﹂ ﹁表題を言うのが恥ずかしいぐらいなら無理に言わなくても﹂ ﹁どうにかしてくれ。作者だろうお主﹂ ﹁題は版元と百川君が考えたんだ。僕じゃない﹂ ため息混じりに首を振る。 猫耳何某というのは、天爵堂が付け文をして子興が挿絵を描いて いる共作の連載黄表紙で、若い町娘やマニアックな趣味嗜好の男に そこはかとない静かな人気の作品である。 内容はまあ、タイトルから読み取れる通りなのだが天爵堂が投げ やり気味に書いた軟派というより難破な文章が特徴的だ。市場の人 気に寄って話の展開が二転三転し、今は丁度黄泉平坂の底から蘇っ た死霊真田十勇士と戦闘中であった。 昔から大衆向け読み物のそういった方針は変わらないようで、有 名な処だと[南総里見八犬伝]などは引き伸ばしのバトル展開が続 いたり、ちょいキャラ悪役だった年増妖怪に人気が出たのでプッシ ュされたりとしたようである。 天爵堂は寝場所を嫌々移動する家猫のようにのっそりと動いて、 埃が入ってそうな茶碗に出がらしの白湯みたいな茶を注いで一応、 来客である九郎に持って行った。 ﹁お、すまぬ⋮⋮いや、すまんと言う程には色がついておらぬな、 この茶﹂ ﹁丁度茶葉を切らしてるんだ。それに白湯は腹に良い﹂ 自分に言い聞かせるように味のない、ぬるい茶を飲みながら天爵 堂は言う。 703 ﹁それで原稿だったね。版元の丁稚にでもなったのかい?﹂ ﹁いや、たまたま町中で出会って手伝いを頼まれてな。なんでも彫 り木師が集団で夜逃げしたとかで田所は新しい職人を探したりして 忙しいのだそうだ。己れも手伝い賃が欲しかったからな﹂ ﹁おや? 君は風説によると、船月堂の掛人︵金銭や食事を都合さ れている者のこと:ひも︶だと聞いたから金には困ってないのでは ないか?﹂ ﹁誰だその噂流したやつ⋮⋮﹂ 人が否定しにくい噂を流すというのは卑劣な行為だと九郎はげん なりとしながら考える。 しかしどう説明したものか、いまいち自信無さそうに、 ﹁あれだ⋮⋮なんというか、他人から借りたり貰ったりした金では なく、己れが働いた対価として得た金が必要な時があるのだ﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 天爵堂は腕を組んで少しだけ考え、 とみくじ ﹁⋮⋮成程。恐らく、君は富籤を買おうとしているのだろう﹂ ﹁察しがいいな、お主﹂ 九郎は目の前の老人を感心した。 富籤は当時の宝籤のような物のことで、寺社等の修復費用を集め る目的で主に行われた。 当選金は大きな時にはなんと千両ほどにもなり、まさに一獲千金 を夢見て町人・武士問わずに挙って参加するのである。 ﹁当籤した時に、富札を買っていたのが他人の金だと分前云々で要 704 らぬ問題を起こすからね。そうならないような相手から借りたとし ていても、何処か心残りが出来てしまうかもしれない。だから憚る こと無く自分の金で買うべきだと思ったのだろう﹂ ﹁その通りだ。いや、己れもこんな宝籤がそうそう当たるとは思っ ておらぬが、一度ぐらいは、な﹂ ﹁まあ⋮⋮幕府が認めた賭け事だからね。いいんじゃないかな﹂ 気無く告げる天爵堂。 九郎とて日々遊んだり食ったり飲んだりする金を石燕から引き出 すのは、もはや抵抗なくなっていたのだが、そういった場合ではな い遊び金を手元に持っていたいのだ。 別に首の白い女︵遊女︶を相手にするわけではないが、まあ色々 あまり褒められない使い道というものもある。 なお、この頃の富札は一枚一分︵一両の四分の一︶と、とても高 価であった。物価や賃金が現代と違うので一概には言えないが、目 安として宝くじが一枚二万円で売っているような物だと思うとその 値段が想像できるかもしれない。 故に二人割りや四人割りの複数人で富札一枚を購入する仕組みも あり、その際に争いが起きないよう、富札の販売者が仲介に立って 分割させていた。 しかし天爵堂がそれとなく九郎の心情を読めるのは、何処か似た もの同士なのかもしれない。 ただ、九郎の取らぬ狸の皮算用にやや呆れているようにも見える。 ﹁さて⋮⋮原稿だったね。この三つから好きなのを持って行くとい い﹂ ﹁三つ? 用意がいい⋮⋮いや、待てよ﹂ 九郎は懐に入れてあるメモ帳を取り出して開いた。 折り目の付いた最近書き込んだ頁を見る。そこには、版元から聞 705 いた[回収するのが厄介な先生名簿]が載っている。天爵堂や石燕 の名もあった。 そして天爵堂の項目に、 [生徒に書かせた文章を原稿として出す場合有り] と、注意書きしてある。 庭に植えている藤の木へと目をそらして茶を啜っている天爵堂に 確認をとる。 ﹁⋮⋮一応内容を改めさせてもらうぞ﹂ ﹁さて、僕は用事を思い出した﹂ ﹁何処へいく。なんの用事だ?﹂ ﹁ちょっと待ってくれ。今思い出すから﹂ ﹁思い出せてないではないか!﹂ 中座しようとする天爵堂を捕まえる。 危ういところだった。罠を持ち帰っても報酬は支払われない。し かし、書いていないなら書いていないで、この場で彼に書かせでも しなければならない。それが版元の重要な仕事、催促である。 念のため、渡そうとした原稿に目を向ける。 明らかに筆跡の違う文が三種類あった。九郎は最初に目のついた、 拙い平仮名で書かれた物に目を通す。 ﹁ええと⋮⋮ううむ⋮⋮おにゃんと、死霊真田十勇士の必殺技の飛 ばし合いしか書いておらぬなこれ⋮⋮﹂ ﹁一番格好良いと思うところだけ書いたそうだ。勢いは認めよう﹂ ﹁あと敵は真田十勇士なのに十一人ぐらい居るんだが﹂ ﹁⋮⋮書いたのはうちの生徒の中でも一番頭が悪⋮⋮その、細かい ことは気にしない性格でね﹂ 706 ﹁むう⋮⋮﹂ 諦めて、九郎は次の原稿を取り上げる。 こちらも仮名書だが、文字の大きさと正中線が整っている為にい くらか読みやすい。丁寧に書かれている事がわかった。 ﹁こっちは死霊真田十勇士を説得して白洲で裁かせておるのか。い や、死霊を裁くってなんだこれ﹂ ﹁それを書いたのは頭が堅い子で、事件が起きたなら妖怪が起こそ うが侍が起こそうが、とにかくお上が裁くべきだと主張してたよ﹂ ﹁⋮⋮ところで、島流しは島根に強制送還することじゃないと教え たほうがいいぞ。体感的には変わらぬ田舎かもしれんが﹂ ﹁真面目なのに変なところで抜けてるんだよなあ⋮⋮﹂ 一応、その原稿は保留しておいて最後の物を開き、九郎は軽く顔 を顰めた。 こちらは細かい漢字がびっしりと書かれており、字が汚いわけで はないのだが文字同士の隙間も小さいためにいまいち読みにくい。 漢文を読むような気持ちでなんとか読み解こうとするが、序文ぐ らいまでしかすぐには解読出来なかった。 ﹁⋮⋮﹃死人憑きと河豚毒の関係についての考察﹄? ⋮⋮なあ、 これは根本的に書くものを勘違いしていないか。確かに物語は今、 ぞんび十勇士が敵だが﹂ ﹁僕もそう思うが、生徒からそこはかとない自信と共に提出された ものだから。出来れば代わりに朱筆でも入れておいてくれ﹂ ﹁いや、読むのが凄い面倒そうだから断る。てとろどときしんがゾ ンビパウダーに入っているのは迷信だったと思うがな﹂ 九郎がそっと原稿を閉じるので、天爵堂も僅かに面倒そうにため 707 息を一つ吐いた。 最後の原稿を書いた生徒は、生徒の中でも頭脳はいいのだったが、 考えが突飛であり学んだ知識を出したがる年頃なので、内容は小難 しくわざわざ書いているものの妙ちくりんな論文もどきなのである。 年を重ねて学問を続ければ良い学者になるかもしれないが、今の ところは大人に成りたがり背伸びした物知り博士といったところだ と、天爵堂は評価している。 もっと子供の時分は友達と元気よく遊びまわり、書以外から学ん で欲しいとは思うのは天爵堂の老爺心からか、彼自身若いころ勉強 詰めだった経験からだろうか。 ﹁⋮⋮とにかく、これだけでは版元に持っていけん。お主、適当に この原案を使っていいから再構成してちゃちゃっと話を仕上げてく れ。今からすぐに﹂ ﹁無茶を言うなあ⋮⋮﹂ ﹁なに、絵を書くわけでもなく誰でも書ける文字を連ねるだけだか ら簡単で手早く終わるのであろう?﹂ ﹁物語を書いたことの無い読者に限ってそんなこと言うんだ﹂ 忌々しそうに呟きながら仕方なさそうに筆を取る。 ﹁ええと⋮⋮三つを混ぜると、殴って説教して謎理屈で締めるよう な形にしようか﹂ ﹁成分を抽出すればよくある展開に聞こえるな﹂ ﹁さて、書き始めようと思うのだけれども⋮⋮﹂ 天爵堂が顔を玄関の方に向けた。そういえば、入り口の戸が勢い 良く開かれた音がした気がする。 そのままどたどたと足音を立てて廊下を走ってくる子供がいた。 708 ﹁てんしゃくどー! 遊びにきたよー!﹂ そんなに大声を出さなくてもと思うぐらい、この閑散とした屋敷 中に響き渡る声を上げて、向日葵のように明るい笑みを作った少女 が駆け込んできたのだ。 それに続いて少しおとなし目で髪の長い少女と、それに引っ張ら れるように連れて来られているむすっとした顔の少年も天爵堂と九 郎の居る部屋に顔を出した。 三人とも、年の頃はお房と同じぐらいに見える。 後から来た方の少女が元気溌剌な方に注意した。 ﹁こんにちは先生。あとお遊ちゃん、足の汚れも落とさないで入っ ては駄目だって﹂ ﹁えー﹂ ﹁それに天爵堂[先生]と呼ばないと駄目だよ﹂ ﹁むー。ネズちゃんは駄目だしばっかりー! てんしゃくどーから 先生って呼べなんて言われてないからいいもん。ねー雨次﹂ ﹁ああ、そうだね﹂ ﹁雨次! お前も適当に相槌を打たないでだな、ちゃんと礼儀を⋮ ⋮っと、お客さんが来ているじゃないか﹂ まるで三人組の中の姉のような少女が九郎の姿を見て佇まいを直 す。見知らぬ相手を前にいつもの調子で騒いでいるのはみっともな い事だと思ったのだろう。 彼女はこの辺りの地主である根津惣助の娘、小唄という。天爵堂 の勉強会に通う、真面目な娘で纏め役のような子であった。 もう一人の最初に入ってきた、髪を安い髪留めで括っていて額を 出している健康そうな少女が九郎を見て指を突きつける。 ﹁なんだ? てんしゃくどーの新しい生徒か? ならわたしの子分 709 だな!﹂ 近所にある農家の娘、お遊である。勉強よりも遊びまわるほうが 好きなのだろうが、一応生徒だ。恐らくは干菓子が時折隠して置い てあるのを目当てにしている。 彼女は挨拶もせずに、天爵堂の家に置かれている本を勝手に読み 始めていた少年の襟元を掴んで、 ﹁雨次が一号だから子分二号ね!﹂ あまじ と、告げてきた。 件の雨次と呼ばれた少年は煩そうに片耳を塞ぐ。 こちらはまだ十前後だというのに顔からはすっかり愛想も愛嬌も 消えた冷ややかな面をしている少年である。客よりも師よりもとも かく、書を読むほうが大事だとばかりにちらりとも九郎に視線を向 けない。 これも近所に住む少年なのだが彼の場合、天爵堂の家に来れば自 由に本を読めるということで生徒になっているようであった。 貸本を借りる金銭的余裕は無いし、天爵堂の家から借りて持ち帰 ると、唯一の肉親であり夜鷹で生活資金を稼いでいる母親に本を売 り飛ばされるからここで読むしか無いのだ。 とりあえずこのままだと子分にさせられてしまうので、九郎は三 人組に向き直って言う。 ﹁いや、己れは版元の使いでな。天爵堂に黄表紙の原稿を催促しに きたのだ﹂ ﹁? ⋮⋮? つまり、子分よね?﹂ ﹁違うが﹂ ﹁?﹂ 710 ﹁⋮⋮うむ?﹂ ﹁ああもう、お遊ちゃん。お客人まで混乱してるじゃないか﹂ 全然理解していない顔のお遊に九郎もとぼけた顔を返したので、 小唄が間に入った。 彼女はお遊の肩に手を置きながら、 ﹁版元の人ですか。じゃあ先生は今、執筆中で⋮⋮﹂ ﹁うむ。ちょいとすまぬな﹂ ﹁えー、なんだつまんないの﹂ 不満そうにお遊がべたりと座り込みながら唇を尖らせた。 急に忙しそうな素振りを見せて筆を取っている天爵堂は、 ﹁君たちは悪いが、この九郎先生に今日は授業を受けてくれ﹂ ﹁なに?﹂ ﹁こう見えて僕より年上の大先生だ。蕎麦とか饂飩とかの歴史と日 本神話の類似性についていち早く気づいた先進の学者でね。詳しい ことは授業で聞くといい﹂ 適当極まりない事を口走る。年上なのは、その通りなのだが⋮⋮ 九郎が俯いて筆を奔らせている天爵堂に向き直るが、彼は煩さ気 に手を払う仕草をした。 早々︵さっさ︶と子供を連れて部屋を出て行ってくれという態度 である。 座ったまま九郎を見上げるお遊と、僅かに本から視線を半分だけ 向けている雨次の目が注がれる。 ぽかんと口を開けたお遊が聞く。 ﹁せんせーなのか?﹂ 711 ﹁ううむ⋮⋮仕方ない。それでは執筆の邪魔をせぬように別の部屋 に行くぞ。神話と⋮⋮その、蕎麦の類似に付いてだ﹂ やむを得ず適当に口走る九郎に、小唄が食いついた。 ﹁九郎⋮⋮先生は神話が得意なのか!? 私も、雨次もそういうの は好きだぞ! なあ雨次﹂ ﹁⋮⋮まあ、興味はあるかな﹂ 無愛想な少年が本から目を話しつつ、歩いて移動する九郎につい ていく。 ﹁わかった、わかった。いいかまず伊邪那美と伊邪那岐が天沼矛で 大地を作っているのは蕎麦生地を伸ばしている暗喩で⋮⋮﹂ ﹁ほー﹂ ﹁伊邪那美が迦具土を産んで死ぬのは、蕎麦粉を粘膜摂取した為に あれるぎぃ││免疫の過敏反応が起きたからで⋮⋮つまり迦具土は 蕎麦の神⋮⋮﹂ などと、胡散臭い即興の持論を唱えつつ九郎は教師役になるので あった。 嘘を教える教師など碌なものではないが。 ともあれ、一刻︵約二時間︶ほどして今回掲載分の天爵堂の原稿 を手に入れる事に成功した九郎であった。 **** 712 さわき・すうし ﹁ええと、次の作家は⋮⋮[佐脇嵩之]⋮⋮日本橋二番小路三軒目 ⋮⋮と﹂ 九郎が住所を書かれた紙を片手に、人通りの多い日本橋を歩いて いる。 どこからが何丁目何番なのか、電信柱などに書かれている訳では ないので迂路ゞ︵うろうろ︶と迷った挙句、なんとか辿り着いた。 店先から丁寧に飾った鏡が何処か異質さを感じる店、[うんがい 堂]と看板のかかった鏡屋のようである。 ここを見つけた途端、厭な気配に何故か勝手に立ち去ろうとして いる自分に気づき、ようやく立ち止まった。 ﹁む⋮⋮? ここ⋮⋮なのか?﹂ つい最近に[紫の鏡]を求めて訪れたことのある店だったため、 意外そうな声を呟いた。 何やら不機嫌な幽霊のようだったという印象だけが残った店主で あったが、彼がそうだろうか。 聞く処によると佐脇も妖怪絵師らしい。 九郎の見解では、妖怪絵師という人物は、 ﹁妖しげな⋮⋮﹂ 連中といういめぇじが定着しそうである。 やはりやや引っかかりを感じる引き戸を開けて、店内に入る。 ごちゃごちゃと商品が置かれているのに、がらんとした雰囲気を 感じるのは置いている商品が世界を映し込み反射する鏡だからだろ うか。 713 置かれている鏡が全て、客を向いている気がする。 それは無数の目がこちらを向いているのと同じなのかもしれない。 誰かが、見ている。それは自分であり、自分ではない。百を超え た鏡があれば、映らぬ別世界から覗き込む相手を夢想してしまう。 お八が寒気を感じて怖がった気持ちもわからないではない、と改 めて一人で来た九郎は思った。 ﹁すまぬが⋮⋮﹂ 静閑とした店内ではそこまで大きくしていない九郎の声も響いた。 光だけではなく、音も鏡で反射しているようだ。 ややあって、店の奥から女性が姿を表した。 ﹁はい、はい。どうもお待たせ致しまして﹂ ほくろ 目元に泣き黒子のある、この江戸では珍しい茶色がかった髪の毛 をした妙齢の女性だった。 和服に︵当然だが︶柔和な表情と黒子で、九郎はまるで女優のよ うだと第一印象で思った。 ともかく、要件を告げようとしたら相手から先に言葉をかけてき た。 ﹁あら、この前に[紫の鏡]をご購入頂いたお客様ですね﹂ ﹁うむ? 面識があったかの?﹂ その時応対したのは、幽霊店主だけだった。 彼女はにっこり笑いながら、 ﹁失礼致しました。鏡の配置で、店の奥から店内が伺えるもので⋮ 714 てる ⋮わたくしだけが一方的に見ていたのです。 わたくしは店主の妻、照と申します﹂ ﹁奥方殿か。己れは九郎と云うものだが⋮⋮今日は買い物ではなく、 版元から佐脇嵩之先生の絵を催促に来たのだ。以前に依頼を出して いてな﹂ ﹁まあ、夫の⋮⋮﹂ 彼女は口元に手を当てて、 ﹁すみません。夫は野暮用で出かけているもので、絵の仕事に関し てはわたくしは知らされておらず⋮⋮﹂ ﹁ううむ。いつに帰るのかの?﹂ ﹁もう少しすれば帰ってくると思いますので、宜しければ⋮⋮お茶 でも飲んで待って頂きませんでしょうか﹂ ﹁⋮⋮そうしよう﹂ 次の作家に催促に行くにも、距離があったために九郎は素直に提 案を受け入れた。 出された茶は天爵堂のところで飲んだ白湯みたいなものではなく、 旨いものだ。茶菓子も日本橋にある[鴨屋]という店で売っている 銘菓だ。売れてなさそうな鏡屋が出すようなものではないが、とに かく満足気に舌鼓を連打する。 九郎は前回訪れた時にも思った疑問を、やや躊躇しつつも問いか ける。失礼な事であるが、 ﹁この店、あまり流行って居らぬのう﹂ ﹁ええ。いつものことです﹂ 日本橋という商業中心区の、やや傍流にあるものの人入りが九郎 以外無いというのは店としてどうかと思う次第であった。 715 尤も、この辺りは大阪京都から流通してきた高級品を扱う店が多 く、客もそれを目当てに来ているためにこの店のような古鏡屋には 興味が無いのかもしれない。 ﹁そういえば、店主は何処に?﹂ ﹁さあ⋮⋮もしかしたら、出張の仕事かもしれません﹂ ﹁鏡屋にも出張の仕事があるのか?﹂ 問いかけてばかりだと自覚はするものの、会話が途切れるとこの 鏡に囲まれた空間に無音で存在することが苦痛になる気がしたので 九郎はとにかく言葉を紡ぐ。 照は微笑み顔のままで、 ﹁それもありますけれど⋮⋮夫は、妖怪退治のような事もしており まして﹂ ﹁急に伝奇っぽくなったな﹂ ﹁うふふ、妖怪退治は言い過ぎですね。せいぜい拝み屋とか、相談 聞きとかその程度のことですよ﹂ おっとりと照は告げる。 ﹁そうか、なんだ、知り合いにも変わった妖怪絵師が居てな。この 職業の奴はやはり何処か妙な趣味を持っておるなあと感心したのだ﹂ ﹁まあ﹂ ﹁はっはっは﹂ 石燕や将翁の姿を思い浮かべながら九郎は笑う。 そして暫く取り留めのない雑談を照と交わして、 ﹁お茶を淹れなおしてきますね﹂ 716 と、彼女が奥に引っ込んで行った時に、やはり誰が開けても軋む のか、店主が表から帰ってきたのであった。 毒饅頭でも齧ったような苦々しい顔の幽霊みたいな雰囲気である。 今日は更に黒い羽織を着ている為に、青白い顔がより浮き出ている ようで夜道を歩いていたら悲鳴が上がりそうだ。 佐脇嵩之である。普段は売れない鏡屋を営んでいる30絡みの中 年だが、[百怪図巻]という有名な妖怪絵巻を後に制作することに なる。鳥山石燕と同時代に生きた日本の妖怪画界隈では知られた絵 師だ。 彼は店に入ってきて、番台の近くで座って茶を飲んでいた九郎も 見つけ、顔を半分だけ顰めるという器用な表情をした。 ﹁おや? 店先に[骨休め]の札を出し忘れていたか⋮⋮君は確か ││九郎といったな﹂ ﹁うむ。あれ? 名乗ったか? 己れ﹂ ﹁前に来た時に連れにそう呼ばれていただろう。覚えていただけだ﹂ そう言いながら、怠そうに番台にあがり込み、尻に敷かれ続けて 厚みがすっかり消えた座布団にどっかと座った。 ﹁それで今日は何をお求めに?﹂ ﹁ああ、絵師の佐脇先生に、[為出版]から絵の催促に来た。妖怪 系のあんそろ本⋮⋮ええと、集合本を出す件についてだ。話は通っ ているのであろう?﹂ ﹁なんだ最近の版元は子供まで使うのか⋮⋮まあいい。出来てるさ﹂ 佐脇は近くにある小さな箪笥の引き出しを開けて、何枚かの絵と 解説文を取り出す。 そうしながら、ちらりと九郎の手元の茶碗を見て、 717 ﹁表で待つならまだしも、勝手に茶を飲むのはどうかと思うな﹂ と、言ってくるので九郎は叱られる理由がよくわからず、 ﹁いや、お主の奥方が茶を出してきたのだが⋮⋮照さんと言ったな﹂ 返答すると、佐脇の幽霊顔が更にむすりと不機嫌になりながら彼 は手を組んで少し瞑目した。 眉根にしわが寄っている。 九郎はただ首を傾げた。 ︵何も変なことは言っておらぬが⋮⋮︶ やおら、佐脇が薄く口を開いて問いを投げてくる。 ﹁その奥方というのは、目元に泣き黒子があって、髪が少しばかり 栗色に見える女性かい?﹂ ﹁ああ。ちょっと珍しいが、美人であったぞ。なんだ? 嫁自慢か ? 今しがた、茶を淹れてくると奥に引っ込んだばかりだが﹂ ﹁⋮⋮﹂ 無言で彼は奥に行ったかと思うと、すぐに帰ってきた。 そしてまた座布団に座り、不機嫌極まりない顔で腕を組んで、唸 った。 ﹁どうしたのだ?﹂ ﹁いいかい、九郎君。自分はだね、今日は亡妻、照の一周忌に行っ てきたんだ﹂ ﹁⋮⋮なに?﹂ 718 佐脇の険しい目が、まだぬるい茶の入った茶碗に注がれている。 ﹁自分の妻は││1年前に死んでいるのだが﹂ 差し込んだ西日が鏡に乱反射している。 光が、九郎の体中を探るように見ているようだった。 ﹁君は、誰と会っていたんだい?﹂ 厭な気配が背筋を這う。 振り向くと、眩い鏡の中から無数の己の瞳が九郎を見返していた。 鏡の中誰かの表情が、光を屈折し歪んで嗤ったように感じる。 茶碗の水面に浮かんだ影が見ている。あちこちから、鏡という彼 岸の境目から此方を見ているのだ。 九郎はなんだか酷く、気分が悪くなってきた。 何処かで風鈴が、風もないのに、鳴った。 **** 719 ﹁軽くほらぁになるところであった﹂ 無事に佐脇の絵も回収し終えた九郎はぶつくさ文句を言いながら 神楽坂へ足を伸ばしていた。 家から影も形も消えていた佐脇の妻、照の事はとりあえず常識的 な判断として、彼に取り憑いたサイコ系のストーカーか何かが妻の 振りをして応対したのだろうと決めつける事にしておいた。 それはそれでぞっとしない話であるが、妖怪の実在よりは現実的 ではある。この世には不思議な事など何も無い⋮⋮ ︵己れが言っちゃ駄目か︶ 小さくかぶりを振った。どちらにせよ、妖怪退治をするなりスト ーカー対策をするなりせねばならないのは佐脇だ。心の中で応援を 送るだけで深く考えるのは止めた。 次の原稿回収対象は彼もよく知る奇行作家、鳥山石燕だ。版元か ら聞いた特徴では、 ﹁回収するのが地獄先生﹂ ﹁仕事は早いが逃げ足はもっと疾い﹂ ﹁催促に行ったと思ったら安達ケ原に取材に行かされた﹂ などと怨嗟の篭った証言が得られた。 しかし噂で若い燕などと呼ばれてはいるが九郎は石燕との信頼関 係がある分、しっかり回収してくれるだろうと期待されている。 ﹁ま、朝方に後で取りに来ると伝えておったから大丈夫であろう﹂ 720 軽い気持ちで神楽坂の幽霊屋敷、石燕宅へ辿り着いた。 ﹁おい、石燕。原稿を取りに来たぞ﹂ 言いながら戸を引いて家に上がり込む。 しかし珍しく静まり返った室内には、慌ただしくおさんどんをす る子興も、酔っ払い半裸で万葉の歌を絶唱する石燕も見えない。 閑散と片付けられた石燕の机に置き手紙が置いてある。 それを読むと、 [子興と二人で温泉宿に行って仕上げてくる] ﹁⋮⋮﹂ 九郎はくしゃりと紙を握りつぶして屑籠に放り込み、石燕の布団 がいつも敷いてある畳を掴んで、握力で無理やり剥ぎ取る。へらの ようなものか、専用の仕掛けを作動させて開けるものだが、九郎の 指がめりめりと畳に食い込んで引き抜いた。 床下に作られた隠し小部屋に、子興と石燕が車座りをして潜んで いて、九郎を見上げている。 渋い表情で憮然と云う。 ﹁原稿を出せ石燕﹂ ﹁ふ、ふふふ流石だね九郎君! 一発で居留守を見抜くとは! あ、 ところで見抜くって言葉なんか助平っぽくないかね!?﹂ ﹁原稿を出せ子興﹂ ﹁も、もう殆ど出来てますんであと一刻! あと一刻あれば完成す るから待って九郎っち!﹂ ﹁まったく﹂ 721 呆れ返った様子で、床下に潜む二人の首根っこを猫のように掴ん で引き上げる九郎であった。 ﹁だいたい、温泉などに行くのなら石燕が己れも誘わずに行くわけ なかろう﹂ ﹁あ! 九郎君がデレた! よしじゃあ一緒に温泉とか浸かりに行 こう今すぐ! 箱根がいいかね!? 熱海がいいかね!?﹂ ﹁仕事を終わらせろ。子興も、お主が天爵堂に共作を持ちかけてお いて自分の仕事が終わっておらぬとかどういうことだ。よくわから んが、筆で紙にぺたぺた墨を塗りつけるだけならすぐ終わるな?﹂ ﹁絵を描いたことのない人に限ってそんなこと云うんだよ⋮⋮﹂ 何故か涙を流しながら退魔巫女同心の挿絵を書き始める子興であ った。 九郎はこうして二人が描き上げるまでしっかり監督をして絵を回 収していったのである。 **** その後も、他の絵師のところに周り、 ﹁先生、お客さんが来てますけど⋮⋮﹂ ﹁あん!? 版元のやつだったら追い返せ! 俺ァ鴨居で首吊った とか言ってよ!﹂ ﹁いえ、先生の絵に心服したので是非お会いしたいという少年が﹂ 722 ﹁なんだよ俺の絵の信者か⋮⋮へへっ仕方ねえな!﹂ などと奇襲気味に面会し絵を集めて行った。中には版元の催促に 対する用心棒を雇ったり、女郎宿を転々と逃げまわったりしている 作者も居たが、玉菊や利悟なども道すがら協力させてことごとく捕 まえて描かせていったのだ。 絵描き物書きはまるで借金取りに追い込みをかけられたかのよう であった。 もちろん書かせる為には圧力をかけるだけではなく、感想で褒め たりお気に入りに登録したり様々な手段も用いた。重要である。 そうこうして、九郎はどうにか版元から頼まれていた作家の絵な どを回収し終えたのだった。 九郎に依頼した田所氏は大層喜びつつ、版木職人が充分集まらな かった為に本人も彫刻刀を持って版木彫りに勤しんでいた。 そっちの事情に触れると九郎も手伝わされそうな雰囲気だったた めに、報酬を貰ってすぐさま退散した。 一分金を受け取ったその足で富札売り場へと向かう。 だいたいは開催前の寺社にて販売される。この時は深川八幡だっ た。 富籤の形態自体は現代の宝くじとそう変わらず、富札を売る日と 抽選をやる日は分かれている。 今回は富札に四桁の数字と、富士・鷹・茄子・扇のいずれかの模 様が描かれている作りの富札になっている。抽選で選ばれた絵柄と 数字が一致すれば一等の千両である。二等や三等、払い戻し番号な どの小さな当たりも存在する。 売り場は人で賑わっている。下世話なもので、他人が買う番号が 気になっている者もきょろきょろと覗きこんだり、時には喧嘩も起 こっているようだがすぐに売り場近くに詰めている同心が取り押さ えた。 723 なにせ、一枚一分の富札を何百枚も売る店なものだからその売り 上げも、 ﹁かなりのものが⋮⋮﹂ ある為に、警備も厳重だ。 九郎は行列ができているのに顔を顰め、近くの屋台で売っていた 箸に巻きつけた薄焼きの油揚げを肴に酒を飲んでしばし待った。揚 げ置きの油揚げに醤油をさっと塗って、炭火でかりかりに炙ったも ので、口の中を火傷するように熱いが、焦げた醤油の匂いと心地良 い歯ごたえが旨い。 行列が無くなったのを見計らい、油揚げは齧ったままで矍鑠とし た動きで売り場に寄り、一分金を台に置いた。 ﹁一枚おくれ﹂ ﹁うん? 小僧、お遣いか?﹂ ﹁そんなところだ﹂ ﹁人に取られねえようにしろよ﹂ 少年が購入していくのはやはり珍しいので、売り人は一応の注意 をしておく。 九郎は頷いて、 ﹁わかってる、わかってる﹂ と返事をし、丁寧に居られている富札を受け取った。 そして売り場からやや離れ、富札を確かめてみた。 ﹁どれ、番号は⋮⋮鷹の﹂ 724 転瞬⋮⋮。 すり 鷹の絵が見えたと思ったら、荒々しく手元から富札と、咥えてい た油揚げが強奪された。 並みの速度ではないし、そこらの掏摸や引ったくりが九郎の不意 をつける筈は無い。 奪ったのは、奇しくも九郎の富札の絵と同じ、鷹であった。 何故か上空から鷹が飛翔して来て一瞬のハンティングで九郎の油 揚げと、ついでに富札を鷲掴みして飛び去ったのだ。 九郎は僅かに呆けた。 ﹁人には⋮⋮取られてないが﹂ つぶやくと、周りで見ていた町人らが哀れそうな視線を向けてく る。 そして甲高い声で鳴きながら飛び去っていく鷹を見て、いつも眠 そうな顔かツッコミの呆れ顔が多い九郎にしては珍しい、凶暴そう な表情を浮かべて足に力を入れる。 ﹁⋮⋮鷹狩りだ﹂ 恐らく、鷹狩りって鷹を狩るのではないと思いつつ、凄まじい疾 さで駆け出した。 新手の都市伝説になりそうな勢いで九郎は町を走る。 時には屋根を伝い走りぬけ、武家屋敷の塀を踏みつけ、何事かと 道行く人が見上げたらその時にはもう遥かに見える。 平坦でもなければ高さもばらばら、走り易いわけでも無いのだが、 驚異的な脚力と平衡感覚で無理やり一直線に突っ切って行く。 飛行する鷹を見失わないように全力で追跡しているのだが、さす がに鷹が巣か何処かへ帰り着くまで追跡が成功するかはわからなか 725 った。 しかし九郎は現在走っているルートに丁度、[緑のむじな亭]が ある事に気づいて顔を昏い笑みに染める。 むじな亭二階、九郎の自室の窓から瞬時に入り込み、己の道具袋 から銃を取り出して再び九郎は江戸の屋根瓦を砕かんばかりに飛び 跳ねる。 手に持った銃は[魔女の猟銃]という異世界の魔法道具である。 見た目は銃身を切り詰めたライフル銃のようであり、弾は呪詛可変 式精霊弾が装填されていて、これは当たった物を劣化破砕させてし まう呪いの散弾なのだ。 対魔物用の強力な武装であった為に、江戸ではまったく使う機会 が無かったのだがとうとう訪れたようだ。 九郎は本気である。 他人の金で買ったものならば、不幸な事故で無くしてもまた買え ばいいと諦めが付くのだが、あの富籤は己の稼ぎで購入した物だ。 あの鷹に自分の労働時間全てを無駄にされたようなものだ。 九郎が苦労して手にしたものを、たかが、鷹ごときに。 ﹁笑えない話だ﹂ 言葉を吐き捨てる。九郎は下らない駄洒落を許せぬのだ。 大きく響く金切り声によく似た特殊な銃声が数発、江戸の町に響 いた。 音の正体は分からないが、遠雷のように響き渡る恨みの篭った音 に江戸の町人らはざわつく。 黒く淀んだ煙に見える呪いの銃弾が拡散しつつ音速以上の速度で 空を飛ぶ鷹に向かった。 しかしそこはこの鷹、只者ではない。 射線を完全に把握して宙で羽ばたき、広がる呪いの放射から回避 726 した。 ﹁ええい﹂ 舌打ちをして九郎は呪い放射の収束率を下げ、広範囲に薄い呪い をばら撒くように調節し恐怖のおどろおどろしい銃声を空の下で奏 でまくる。 精神値をごりごりと削る音を垂れ流し続け、周辺の青空が病でも 持ってそうな薄黒い呪い雲で覆われ出したので江戸の一部地域では、 なんらかの祟りが起こったかと騒ぎになったようだが、ともかく。 実体弾ではないが故に霧のような細かい呪いの粒がやがて鷹の羽 根を掠めた。 拡散し効力を弱めていたとはいえ、触れただけで翼の毛細血管が 次々と断裂したり、極端に疲労を与えたりして鷹は大きくバランス を崩す。 そのはずみで、足に掴んでいた富札がゆっくりと風に吹かれなが ら落下していく。 鷹は市谷鷹匠町に蹌踉めきながら降りて行った。さる高貴な方の [御鷹様]が謎の怪我をしている事で鷹匠の肝を大いに冷やすのだ がそれよりも、 ﹁むっ!﹂ 落ちた富札を誰かに拾われたら堪らぬ。 九郎は尋常ではない加速で連なる屋根を飛び走り、ゆらりゆらり と頼りなく落ちる富札を、宙空で捕まえた。 ︵よし⋮⋮!︶ おのれに対する喝采と同時に、足場が無い事に気づいて九郎は眼 727 下にある一階建ての建物へその身を落とすのであった。 **** 版元[為出版]の彫り木場では、なんとか編集役の田所が集めて きた彫り木職人達を集めて今度出す妖怪集合本を熱心に彫っていた。 結局人出が足らなかったので田所も討ち入りのような格好で彫刻 刀を握り、版木に彫りつけている。 なにせ、江戸でも初の妖怪アンソロ本だ。 名だたる作家達も集めた版元肝いりの一冊に仕上げる算段である。 途中彫り木師が夜逃げしまくるというアクシデントに襲われたも のの、一万冊は刷る予定のものだから気合も相当であった。当時の 書籍販売形態は貸本が主であるので、それで一万ともなれば実際に 手に取るのはその十倍にも二十倍にも及ぶと思われる。 ﹁田所さん! 彫った版木は何処に置いておけばいいですか?﹂ ﹁ああ、とりあえずそこに重ねて置いていてくれ﹂ 指示を出して部屋の一角に置かせ、作業を続ける。 こう彫り作業に移行出来たのも元になる絵を回収してきてくれた 九郎のおかげだ。とにかく、昔の絵師は逃げるのが多かったと言わ れている。現代よりも連絡手段の少ない江戸である。一度姿を眩ま せたら二度と捕まらない。 やれ妖怪退治に出かけただの、妖怪探しに出かけただの、奉行所 中傷の内容で書いただのと扱いにくい連中に限って人気作家だった りする。 728 それでも、それらを纏めて原稿を揃えたのならば││最も良い本 が出来上がるだろう。 侍という身分から落ちぶれて版元で編集や催促、はたまた木彫ま でやっているが、やりがいはある。 近頃江戸で流行っている、同心二十四衆の一人[美食同心]が書 いた食べ歩き随筆の出版は惜しくも別の版元に取られてしまったの だ。ここで一大ムーブメントを巻き起こす作品を我が社からも出さ ねばならない。 田所は気合を入れて彫刻刀を振るっていた。遠くから聞こえだん だん近寄ってくる悲鳴のような銃声も気にせずに。 その時。 が、という音が上からした。 続けて板が割れ砕ける音が、天井からする。 同時に天井に穴が空き、体を耐衝撃姿勢で丸めた少年が落下して きた。 その体は、完成した版木を重ねて置いてあった場所に上手いこと に落ちて││九郎が無理やり着地の姿勢を取るため、踵を着地面に 叩きつけると、足元にあった完成品の版木がことごとく砕け散る。 ﹁あ﹂ ﹁あ﹂ ﹁⋮⋮おや?﹂ 踏み砕いた版木を前に、固まる田所らと九郎。 九郎は、罰として彫り木と版画作業を延々と手伝わされる事にな ったという⋮⋮ 729 **** 富籤の抽選発表日。その日は深川八幡に溢れかえらんばかりに人 が集まっていた。 富札を購入した人数は万を超える。誰もが当籤を夢見て、神仏に 祈りつつ出来れば一等千両、そうでなければ二等百両、最低でも払 い戻しは⋮⋮と富札を握りしめていた。 千両に当たれば一生遊んで暮らせる。一朱出しあい四人で購入し た割札とて、一人頭二百五十両だ。人々の怨念に近い願いが神社に 集っている。 いつもは境内で売り子をしている飴売りや、菓子屋台などもこの 混雑ではとても店を出せぬと営業停止していた。 みっしりと埋まった人垣に、九郎の姿もあった。 ついでに一緒に来ていたお八とお房も一緒に当たりの発表を待つ。 ﹁そういえば九郎。お前の番号はなんだぜ?﹂ ﹁確かに聞いてなかったの﹂ 二人が九郎に尋ねると、彼も思い出したように、 ﹁己れも確かめてないな。迂闊に確認すると鷹に攫われそうな気が したから、験担ぎで今日まで見ていない﹂ ﹁へえ。まあ、今見ないでいつ見るんだって話だぜ﹂ ﹁確かにそうである﹂ お八の言葉に、懐に入れていた富札を取り出す。 鷹の絵が描かれているところまでは見たのだが、番号までは見て いないのだ。 730 折りたたまれた富札を開くと、 ﹁ええと、鷹の⋮⋮九千九百、九十九番⋮⋮﹂ ﹁当たらなそうだな!?﹂ ﹁なんでそんな目を引いちゃうの?﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 九郎は九九九九と並んだ、ある意味珍しい富札をピラピラと振り ながらため息をついた。 当たる確率は例えば全ての位が違う数字で並んでいる札と、まっ たく変わらないというのになんだろうかこの当たりそうに無さは。 しかしまあ、外れるのも賭け事の醍醐味だ。 期待もせずに九郎は当選番号の発表を待っていた。 当選番号は金額の低い、富札の値段丁度の払い戻しから発表され る。 場所によって異なるが大体百番まで当選番号があるのだ。 抽選の方法は閉ざされた大箱に札を大量に入れていて、上から長 い錐で突付き、引き上げて選ぶのが習わしだった。このことから富 籤を[突き富]と呼ぶこともある。 ﹁只今より∼本日の突き止めぇ∼!﹂ 八幡神社の宮司が高らかに声を上げ、どん、と太鼓が打ち鳴らさ れる。 固唾を呑んで大衆は、箱の中から引き上げられる札を見守る。 ﹁御富のいちばぁ∼ん││鷹の、九千九百⋮⋮﹂ ﹁おお!?﹂ ﹁来たのか!?﹂ 731 九郎が手元の富札を握り、ゆっくり発表する宮司をじっと見る。 ﹁││九十の⋮⋮﹂ ﹁来た来た来た﹂ なんという偶然か、期待が膨らみ爆発寸前であった。 ﹁││八番!﹂ ﹁ぐう⋮⋮﹂ 一つ違いの番号に、九郎はがっくりと頭を垂れるのだった。 生憎と、前後賞は無い。 笑いながらお八がばしばしと背中を叩いて、 ﹁八とは末広がりで縁起が良かったじゃねえか。きひひ﹂ ﹁富籤なんて換金率の悪い賭けに参加した時点で負けってお豊姉ち ゃんが言ってたの﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 気を落とす九郎であったが、力なく笑みを作って価値の無くなっ た富札を懐に仕舞い、背筋を伸ばした。 大人が、子供の前で籤に外れたからといって落胆してばかりも居 られぬ。 働いて鷹を追いかけまわした苦労分は、夢が見れた。 ﹁ま、いいさな。さて、どこぞの茶店にでも行くか﹂ ﹁おう! 白玉食おうぜ!﹂ 732 ﹁あたいはお饅頭にするの﹂ 九郎は神社から立ち去る人の流れに乗りつつ、二人を連れて出か けるのであった。 懐にあったのは、追加で田所を手伝わされた手間賃が僅かに残っ ほかぞの・ ている。それを使ってしまうのもいいだろうと、九郎は思った。 ゆきのしん なお、一番富は火盗改勘定掛同心、二十四衆の一人[備品改竄] 外園雪乃進同心が当籤した。 なにやら不穏な渾名だが、金の出納を任せれば赤字の役所でもぴ たりと帳尻を合わせてしまうので、 ﹁まるで備品を売っているか、帳簿を改竄しているか⋮⋮﹂ と、不思議がられて名付けられたのであり、当人は倹約質素が服 を着たような人物である。 そのような人物が、一獲千金の富籤に手を出したことも不思議で はあったのだが⋮⋮。 そして何より彼が当籤金に特に執着せずに、冥加金︵高額の場合 当籤金から更に寺社に寄付分として差っ引かれる代金である。おお よそ二割程度︶を払い残った金は、何かと調査費用がかかる火盗改 にそっくりそのまま寄付してしまった事は大きく噂になり、節制を 令にしている幕府でも、 ﹁今どき珍しい、無私で奉公心のある者よ﹂ と、老中から褒めの言葉がかかったという。 本人はそれを気取るでも気負うでもなく、金回りが少し良くなっ た火盗改の役宅でも贅沢もせず湯漬けにした飯などを食っていてい 733 る。 やはり同心二十四衆は変人が多いようだ。 734 28話﹃思春期を殺した少年﹄ 随分涼しい日が続くようになった。 九郎は寝酒を飲みながら、そろそろおでんの季節だと思い始める。 異世界にあったコンビニでも秋口から販売が始まる。 彼の過ごした異世界でのおでん串は騎士同士の決闘にも使われて いて[オーデーンランス]などという別名があるほど、異世界でも 浸透している料理だ。なお、先端に威力の高い熱々卵を刺す形式は 国際条約で禁止されていた。 当時、江戸の世間で[おでん]と言えば焼き田楽を指す。醤油系 の煮込み田楽は、作りおきが出来てなおかつ魚介系出汁のしるを作 りやすい魚河岸から広まったという説もあるが、まだ一般的ではな い。 なければ作るのが元現代人・九郎である。 タイムパトロールの追求を受ける要素は、煮込みおでんの発祥に 関しては年代が確定していない為に低いだろう。 マヨネーズを作った時は危なかったかもしれないが、江戸の人の 味覚好みが西欧化していないおかげかあまり流行りそうにはなく、 自家消費分だけ作るようにしているので大丈夫だろうと思われる。 キユーピーだって販売のタイミングを見計らって売りだしたのだ。 ところで、九郎は其の社名が﹁キューピー﹂ではなく﹁キユーピー﹂ だと云う事を知らされた時に妙なむず痒さを感じた。どっちでもい いことではあるが。 閑話休題。 とにかくおでんをご馳走して、怒らせた百川子興の機嫌を直さな くてはならない。この前、石燕宅に行った時、何気無しに石燕の眼 鏡を外して、 735 ﹁眼鏡を取ると美人になると万葉の昔から言うが⋮⋮﹂ などと、高説を垂れようとした瞬間に、 ﹁外道ゥ││ッ!﹂ と怒鳴られ張り倒されたのである。 彼女は眼鏡属性の女子の眼鏡を外す事厳禁過激派だったのだ。 突然の暴力に九郎は目を白黒したのだが、子興が泣きながら説教 のように告げてくる眼鏡狂いには、 ︵さすがに閉口して⋮⋮︶ 九郎も、平身低頭で謝る他無かった。 とにかく、怒らせてしまった子興の機嫌を取らねばいけない。彼 女が怒ると、石燕の家で飲み会をする時に出される酒が水にすり替 えられる。 一度石燕がそれをやられて、映画[酔拳]の老師みたいなリアク ションを取っていた。 ﹁入れる材料は⋮⋮そこまで拘らんでも、手に入るものでいいか﹂ おでんの具を幾つかイメージして、それが江戸で手に入るかどう かわからないために探しながら考えればいいかと適当に思った。彼 としては餅巾着などが好きなのだが餅が手に入るのはまだ少し先、 年末まで待たねばならない。 おでんも魔王城では冬によく出されたものだ。こたつを魔王と魔 女で囲み、辛子をたっぷし器に溶いて、柔らかく煮込んだ大根、味 の染みたさつま揚げ、歯ごたえの嬉しいイカつみれなどを頬張って、 口も体も温まっているところで敢えて冷たい酒をやるのが楽しみで 736 あった。 九郎は思い出に耽りながら酒を飲み、明日材料を買いに行こうと 決める。 ﹁女の好きなもの⋮⋮なんといったか。確か││芋、蛸、南瓜、ホ トケノザ。あれ? ホトケノザだっけ? 野草じゃないか⋮⋮﹂ なんとなく語感だけでうろ覚えした言葉を呟きながら布団に入り、 考えこみつつ眠りについた。 ***** 翌日⋮⋮。 朝、六科よりも早く起きた九郎は、出汁の仕込みをしておでんに 使う分まで余裕を持って鍋に張った。 出汁や醤油の返しがあるというのは蕎麦屋の利点である。様々な 料理に応用できる。ただ、六科に作らせるとドサーっと昆布を煮て バサーっと鰹節を入れるという擬音系の仕込みになるために、この 日は九郎が作ったのだが。この適当男の為にキッチンタイマーとハ カリが欲しい九郎であった。 飯の準備もしておく。白米に、落とし卵とネギだけ入れた簡単な すまし汁、出汁に使った昆布を細かく刻んで生醤油を絡めた三品だ が、とにかく飯は進む。塩っぱい昆布を熱い飯に乗せると、磯の香 りが良く感じられる。歯ごたえも良い。 腹を満たした九郎が、 737 ﹁じゃ、買い出しに行ってくる﹂ ﹁はぁい。ええと、煮込み田楽の材料お願いなの﹂ ﹁任せておけ﹂ と、風呂敷を持って出かけるのである。ついでに店の夕方にもお でんを出す予定な為、材料は多く必要なのだ。 おでんは大量に作ったほうが旨い。 九郎はとりあえず八百屋、こんにゃく屋、豆腐屋などを目指して 足を進める。 足取りは軽かった。ここ最近、随分と過ごしやすい気候になって いる。この前もお房とお八、晃之助に石燕と子興で紅葉狩りに出か けた時に宴会を初めて楽しんだぐらいだ。石燕から騙されて、紅葉 を集めもみじおろしを作ろうとしたのは苦い記憶だが。 道すがら、八百屋や魚売りに声をかけつつ進んでいると、先の方 に挙動不審な人物が居るのを目にした。 ︵あやつは⋮⋮︶ 九郎はその、やや前かがみで卑屈そうな睨み顔をきょろきょろと している、十歳前後の少年の名前を思い浮かべた。 確か、天爵堂の生徒が一人、雨次である。 今日は幼なじみの少女二人組は近くに居ない。天爵堂からのお遣 いで、茶葉を買いに町に来ているのである。茶代だけではなく彼へ の小遣いも少々渡される為に進んで頼まれている。貯めた小遣いで 本を買いたいのだそうだ。 しかしさながら、周囲に露骨で過剰な警戒をしながら道を歩く彼 は、エロ本を購入した思春期の少年のようだった。 声をかけようと近寄ったら、いきなり彼は近くの路地から伸びた 細腕に引っ張り込まれて通りから消失した。 一瞬の出来事で、周りは誰も気づいていない。或いは気づいてい 738 ても無視したか。 九郎は少し戸惑ったが、町には危険な性癖を持つ同心なども居る ことから慌てて彼が引き込まれた路地へ入って追いかける。 左右が大きな医者の屋敷と足軽長屋になっている高い塀で挟まれ た薄暗い道だ。あまり人も通らぬ様に見えて、樽や水瓶などが置か れている。 踏み込んですぐ、大きな樽の影で雨次は、三十絡みぐらいに見え る手拭いを被った女に壁に押さえつけられて、懐を探られていた。 ﹁おーっすテメエ、うちのシマに入り込んで挨拶もナシに買い物と は超大尽じゃねってか。いくら持ってんだおい、跳ねなくていいぞ 全部貰うからよおおお﹂ ﹁う、ううう⋮⋮﹂ ﹁なんすか泣き入れっすか。別にそんなんしてもおれに金払うのは 変わんねーんだからよ。水分を無駄にするんじゃねえええ﹂ ﹁こ、これは爺さんが、茶を買ってこいって⋮⋮﹂ ﹁そんなん関係ねえって言ってんのになんで通じねえの? 馬鹿な の? その爺にはおれからありがとう馬鹿野郎って挨拶しててやん からよ、まじシクヨロ﹂ 絡まれていた。 喝上げというか恐喝というか、珍平のような口調の派手目な化粧 をした女にめっちゃ絡まれている。 十歳ほどの子供からすれば、こんな上からの激しい口調で要求し てくるだけでも恐ろしいだろう。九郎は溜息をついて声をかける。 ﹁おい、そこの﹂ ﹁あん?﹂ ﹁朝帰りの夜鷹かしらんが、子供から金を巻き上げるな。あんまり 手酷い真似をすると同心を呼ぶぞ。この町には子供のことに関して 739 は呼ぶと飛んでくる輩がいるのだ﹂ 利悟の事である。 特にこの場合は被疑者は夜鷹なので問答無用でしょっ引きにかか るだろう。半ば事案が多すぎて取り締まりを放置気味ではあるが、 私娼である夜鷹は禁止行為でもある。 恐喝を制止した九郎にやや涙ぐんだ目を向けて雨次は、 ﹁あ⋮⋮爺さんの所の⋮⋮﹂ ﹁んだよお知り合い? お友達? 悪い友達と付き合うな金持ちと 付き合えっておれ言わなかったっけか?﹂ 女が高めのテンションのまま言いつつ、雨次の頭を押さえつける。 ﹁とにかく離れよ。女。とっとと家に帰って寝ろ﹂ ﹁生意気∼。凄まじく生意気なりけり∼。っていうかそっちこそ口 出してんじゃねえ助平。雨次はうちの子なんだから親子間の問題な んだよオラ。大岡奉行だって当事者間で解決しろって言ってるっつ ーの﹂ ﹁なに? ⋮⋮ええと、母親なのか?﹂ 九郎は顔を顰めながら雨次に確認すると、彼も嫌そうに頷いた。 溜息を付く。 息子が他所で頼まれたお遣いの金をせびる親とは、なんとも⋮⋮ なお、大岡越前の裁きで有名な、子供を左右から引っ張らせると いうのは世界中にある似た話をアレンジして後世に付け加えたもの である。古いものではソロモン王が同じ裁判をしたと伝えられてい る。 ガンをつけてくる珍平女に九郎はどうしたものかと思ったが、持 っている風呂敷に入れた野菜からごそごそと二つ程目的の物を取り 740 出した。 ﹁ほーら芋だぞー﹂ ﹁芋⋮⋮芋⋮⋮﹂ ﹁南瓜もあるぞー﹂ ﹁おお⋮⋮うひゃひゃ⋮⋮おおう﹂ ぐるぐると手に持った二つの野菜を目で追いかけつつ奇声を漏ら している雨次の母を見て、本当に芋とか南瓜は女の好みなのだなあ と感心する。 とりあえず近くにあった大きな水瓶の中に放り込んで、女が水瓶 に上半身から飛び込むようにして芋と南瓜を探し始めたので雨次の 手を引いてさっさとその場を離れた。なにか、芋南瓜に対して執念 的な物を感じるのであった。 やや離れた通りまで来て、九郎は雨次の手を離した。運動は然程 得意でないのか、息を切らしている。 ﹁大丈夫か?﹂ ﹁う⋮⋮ああ﹂ ﹁なんというかまあ、親は選べぬというが適当に折り合いつけて仲 良くやれよ﹂ ﹁⋮⋮ふん。あんな親なんか﹂ 彼は顔を背けて見るからに毛嫌いしている様子で云う。 九郎もなんとも言えずに、頭を掻きながら言葉を詰まらせる。 子供に金をせびる珍平風の性格で水商売の女である。いまいちフ ォローしにくい。 どうしたものかと思った時、ぬらりとした湿った気配と共に九郎 の背後から小柄な影が現れた。 741 ショタ ﹁うぉぴゃああ! わっちはまるで新種の獣のような雄叫びを上げ て生意気そうな娼太に襲いかかったでありんす!﹂ ﹁あああ!?﹂ ﹁どうする!? この溢れかえらん衝動を停止させるには右か左か 好きな方を強く優しく押しこみんせ!! さあ下帯を見せろ今すぐ ええーい三日までなら待ってあげるでありんす!!﹂ ﹁落ち着け玉菊﹂ 九郎は突然湧いて出たと同時に雨次へ猥褻行為をしようとしてい る玉菊の腹に当て身を入れた。派手さは無いが内臓に響く一撃であ る。 ﹁真ん中ぁ⋮⋮﹂ 呻いて膝を付く。雨次が薄気味悪そうにその見た目は可愛らしい 陰間を見ている。 ﹁なにこれ﹂ ﹁⋮⋮新種の獣じゃないか?﹂ ﹁そう、わっちは人呼んで麗しき夜の雄叫び獣・玉菊太夫でありん す﹂ ﹁最近とみに復活が早くなってきたなお主。仕事はどうした﹂ ﹁毎月十三日は決算で休みなのでありんす。だから主様とお楽しみ しようと匂いを辿って﹂ ﹁辿るな! 気色悪い!﹂ 接吻をしようと顔を寄せてくる玉菊の首の骨を軽く捻ってやるが、 然程堪えていないようだった。 ややあって、玉菊は雨次に向き直り、指を突きつける。 742 ﹁それより君!﹂ ﹁な、なんだよ﹂ ﹁話は聞かせてもらったでありんすが、お母さんが春ひさぎまくり の売女だからって嫌うのはいかんせん! お母さんが流したり流し 込まれたりする体液で得た銭で日頃飯を食ってるんでござんしょう !?﹂ ﹁おい玉菊。此奴が異様に具合が悪そうな顔になってきたから説教 はともかく、生々しい単語は止めろ﹂ 同業者││玉菊のほうが格が上なのが妙だが││である雨次の母 を庇っているのか庇っていないのか微妙な言葉であった。 あと別に玉菊に事情を話した記憶はない。 多分、しばらく前から九郎の影に気配を消して潜んでいたのだろ う。 それを考えると九郎まで気分が悪くなりそうだったので、止めた が。 玉菊は艶美な顔で雨次の頬を突きながら、甘い声を出す。 ﹁まあ⋮⋮わからなくもありんせん。君ぐらいの年頃の男は、やれ 女なんていらねーよとか、かーちゃんあんまり引っ付くなよとか文 句を言い出すって姐さん達が言ってたでござんす﹂ ﹁ぼ⋮⋮ぼくはそんな幼稚な反抗心じゃない﹂ ﹁ほう!? それなら試してみるでありんす! ちょっとこっちへ ⋮⋮﹂ なにが﹁それなら﹂なのかさっぱりわからないがまるで言質を取 ったような勢いで玉菊は雨次の手を引いて、また暗い路地へ入って いった。 止めようか、見なかったことにして立ち去ろうか微妙に悩んだ九 郎は十間︵約18m︶ほど離れた茶屋で、看板娘の幼い少女にデレ 743 デレしている利悟を見つけたので仕方なく呼んでくることにした。 玉菊が少年を性的に襲っているというとこの男はホイホイ付いて 来た。 二人が現場に戻った時に、 ﹁ぎゃあああ!!﹂ と、叫び声を上げながら雨次がぼろぼろ泣きながら飛び出してく るところであった。 強いショックを受けたようで、顔面から血の気が引いている。ぱ くぱくと口を鯉のように動かし、怯えた様子でとりあえず利悟の後 ろに隠れた。 利悟が舌打ちをして路地に目をやる。 ﹁しまった、遅かったか﹂ ﹁本当に悔しそうに云うなあ⋮⋮お主﹂ うんざりと半眼になるが、路地から爽やかな笑みで帯を正しつつ 玉菊が帰ってきた。 ﹁いやあ、ちょっと見せた程度でありんす。えへっ﹂ ﹁犯行を自供したな⋮⋮おい、捕まえろよ利悟﹂ ﹁子供の犯罪は叙情酌量の余地ありとして注意だけに済ますんだ、 拙者は﹂ ﹁ムラっとして少年に悪戯をかました玉菊という存在を許せる余地 があるのかよ⋮⋮﹂ ﹁女の人に棒が女の人に棒が﹂ カタカタと震えている雨次である。九郎は、 744 ︵トラウマにならなければ良いが⋮⋮︶ と、若干心配するがまあばっちり雨次は女への不信と恐怖をこの 件で植え付けられたようで、後年に彼と仲の良い幼なじみの女の子 は、まったく雨次との距離が近づかないと焦れる事になるのだが九 郎がそれを今知ることはない。 ともあれ、 ﹁利悟、お主暇であろう?﹂ ﹁暇って。市中見廻りの途中だよ。拙者は真面目な町方同心なのだ から﹂ 何処に行くんだっ ﹁見廻りついでにこの雨次の買い物を手伝ってやれ。懐の金を狙う 三十路の夜鷹がうろついているようでな﹂ ﹁それは許せん! 雨次きゅんは任せてくれ! て? 茶葉屋? よしそれなら此方だ!﹂ ﹁えええ!? ちょっと待ってくれ⋮⋮!?﹂ 雨次を肩車して利悟は走り去っていく。 一見大人が子供に肩車をしてあやしているようだが、二次性徴前 で毛も生えていない少年の太ももを楽しんでいるということはすぐ に知れた。 唾棄するような眼差しで見送りつつ、九郎は唸る。 ﹁新たな拉致現場を目撃した気がする﹂ ﹁ま、利悟お兄ちゃんは罪になる瀬戸際で手を出さない男だから安 心でありんす﹂ ﹁ううむ﹂ 唸りつつもとりあえずは大丈夫だろうと納得して││或いは諦め て、九郎は玉菊を連れて買い物を続行した。 745 腕にまとわりつきながら玉菊が訪ねてくる。 ﹁なにをお買い物するでありんす?﹂ ﹁煮込み田楽を作ろうと思ってのう。野菜や練り物、油物にこんに ゃくをな⋮⋮﹂ ﹁こんにゃく! わっち具合がいいこんにゃく屋さんしってるでご ざんす!﹂ ﹁なんか評価箇所が違うような気がしてならないんだよなあ、お主 の場合﹂ 果たして食用と考えていいのか、悩みものであった。 その後は特に変哲も無く、二人であちこちに寄って買い物をした だけであったが、終始に玉菊は楽しそうであったという。 **** 結構、おでんの材料は普通に手に入った。 卵、大根、こんにゃく、厚揚げ、薄揚げ、蛸の足、ちくわ、ちく わぶ、さつま揚げ、がんもどき。 茹で卵にして玉菊がつるりと綺麗に殻を剥く。現代よりも当時は 卵は高価ではあるが、せいぜい価格にして十倍ほどであり手が出な いほどじゃない。 大根は桂剥きにして輪切りし、下茹でしておく。包丁を扱わせる 分には六科も充分に働ける。 こんにゃくも切れ目を入れて塩で揉み臭みを取って、軽く茹でる。 おでんの具は大体、下茹でしておくものと考えれば良いから次から 746 次へと湯を沸かしては煮たりしておく。火力調節が容易な術符を使 っていると便利であった。 蛸も煮ておくとおでんの汁に赤色が混じらない。だが、蛸を煮た 汁にはうま味がかなりあり、捨てるのももったいないので、そこに ぶつ切りにした蛸の足と米、塩と酒を加えて炊き込むとうっすらと ごぼう きくらげ 赤色をした桜飯が出来上がる。それに、青紫蘇を乗せて食うと実に 旨いのである。 がんもどきについては現代と違う形で、牛蒡、人参、木耳などを 細かく刻んだ具を豆腐で包んで揚げるという変わった料理であった。 旨そうだと九郎も喜んで購入している。 材料の下ごしらえが終わったら出汁を張った鍋に入れて、沸騰さ せない温度で煮込んでおけば準備は完了である。 ﹁あと二刻ほど煮込めばよいさな。出せるのは夕方以降だ﹂ ﹁ううむ、俺が思うに、火力を倍に強めれば煮込み時間は半分で済 むのでは﹂ ﹁済まねえよ。どんな理屈だ﹂ 料理下手な六科の意見を切って捨てる。 ﹁さあさ、そろそろお昼のお客さんが来る頃だから準備をするの。 玉菊さんも暇なら手伝うの﹂ ﹁あはぁん? いいでありんすか? うっかりわっちが人気看板娘 に為ってしまいますよーう?﹂ ﹁別に誰が看板だろうが儲かればよかろうなの。人気ぃ? 食える ものなの?﹂ ﹁⋮⋮ドライだ﹂ ばっさりとしたお房の態度に九郎は呻く。 しかし偶の休暇だというのに、玉菊に仕事なぞ手伝わせていいも 747 のかと思う所があったが、本人がきゃぴきゃぴと喜んで前掛けを着 物の上からつけ始めているので、任せるままにした。 昼飯の時分だ。食えなくもない蕎麦と簡単な一品、酒を目当てに 客がまたぞろ訪れる。 ﹁いらっしゃんせ∼﹂ ﹁ん? あれ、新顔のお嬢さんだな﹂ ﹁今日はわっちが特別なお手伝いでござんす﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ 客は小奇麗な格好をしていて、町娘にはない色気がある玉菊に目 を奪われつつ手を引かれるままに席に案内される。 ﹁お蕎麦を食べて精を付かしませ? たくさぁん注文なさったらわ っちが楽しいことを上の座敷で⋮⋮﹂ ﹁別の商売を始めるんじゃないの!﹂ 景気の良い音を立てて玉菊の横っ面がアダマンハリセンで引っ叩 かれた。 店が儲かるのはともかく、陰間茶屋にしてもらっては困る。 ﹁はいはい、玉菊さんは焼き味噌の握り飯とお酒持ってきて! あ と蕎麦! このおじさんいつもこれしか頼まないから!﹂ ﹁お房ちゃんは常連に冷たいなあ⋮⋮﹂ ﹁この店は笑顔有料なの﹂ ﹁むう⋮⋮じゃあ笑顔二人分﹂ 客がお房に小銭を渡す。 江戸では実際に看板娘にチップのように銭を渡すことで覚えを良 くしても貰おうと企む客も多かったそうである。 748 [緑のむじな亭]でも小さいお房がばたばたと目まぐるしく働く 姿はそこはかとなく小動物的可愛らしさがあるので、時折小遣いを 貰うのだ。客は夜になり小銭を入れた袋をじゃらじゃらと鳴らし﹁ うふふ﹂と笑うお房の姿は想像できない。 とにかく、笑顔料金を貰ったお房は酒の銚子を運んできた玉菊を 呼び寄せて、 ﹁はい、玉菊さん笑顔でお酌なの﹂ ﹁旦那さんのいいとこ見てみたいでありんす∼﹂ ﹁そして笑顔の追加注文ー。九郎、お酒もう一本だって﹂ ﹁ええ!?﹂ 玉菊から酌をされながらも強制的に酒を追加された客は驚き顔で 振り返るが、玉菊が飲ませに来るので止めることも出来なかった。 もちろん、追加分はサービスなどではない。 手慣れた酌をする美少女玉菊の雰囲気に飲まれ、ええいまあいい かと諦めつつ鼻の下を伸ばす客であった。 九郎は銚子を運びつつ、 ︵まあ⋮⋮玉菊の店で部屋に呼んで酌を頼めば確か三分ぐらい金が かかるから破格であろう︶ と、思っていた。 しかも九郎だから割りと容易く会えるのであり、初見の客などは ニ度三度通い金を使わねば、玉菊から直接酌を受けられないぐらい の格にあるのだという。 徐々に名が知れて玉菊も高級な花魁になりつつある。いいことな のか悪いことなのかはわからぬが。 とにかく、玉菊は楽しそうにむじな亭で接客をしていった。 その日は彼のおかげか、それなりの客が入って酒やつまみを次々 749 に追加し長居する客も多かった。 昼営業を終え、四人は余った食材と蛸の桜飯をむしゃむしゃと食 って、六科以外は昼寝をした。 何かするなら蹴っ飛ばして吊るそうと思っていたが、それなりに 疲れているのか、くてんと九郎に引っ付いたまま玉菊は寝入ったの でそのまま九郎も横になった。九郎の腹を枕にお房も寝息を立てて いる。 なんとも平和な午睡であった。 暫くして、日が傾いてきた頃。 誰と無くのっそりと起きだし、九郎は欠伸をした。そして隣で寝 ている玉菊の頬をぺちぺちと叩いて、 ﹁おい、玉菊や。目覚めよ﹂ ﹁がしぃん玉菊起動します。魂魄回路に誤動作確認。人類へ反逆す るでありんす﹂ ﹁起動失敗するな! 寝ぼけてるのか!﹂ 頭を揺らしてやるとようやく目の焦点があった。 ﹁おでんの様子を見に行くぞ。そろそろ味も染みているころであろ う﹂ そういって、一階に下りて厨へ向かう。昼寝をする前に殆ど火を 落とす程度の火力にして置いた鍋の蓋をあけると、もうもうと湯気 が立った。 鰹節を多めにして取った出汁に多くの油物から滲み出た味が溶け こんで、良い匂いがする。 ﹁美味しそうなの!﹂ 750 ﹁どれ、味見をしてみるか﹂ 九郎が大根を掬い上げると、程よく全体が茶色に染まっていて、 繊維が僅かに見える。 柔らかな大根は箸で簡単に千切れて噛むとじゅわりとおでんの汁 と大根自身の辛味やほのかな苦味がして、 ﹁旨い⋮⋮﹂ と、九郎も満足そうに頷く。 お房もねだるので半分に割った大根をやると、はふはふとして頬 張って両手で幸せそうに頬を抑える程に喜んでいる。 玉菊もこんにゃくを齧ってあちあちと言いながら、 ﹁成程、煮れば使用後のこんにゃくも気にせずに食えるのでありん すね﹂ ﹁使用後も何もこんにゃくは食用だ﹂ 不穏なことを言っていたので釘を刺す。 大鍋で作ったので夜営業用に出しても、家族の夜飯と明日の朝の 汁ぐらいにはなるだろう。 ﹁よし、己れはこれを幾らか重に入れてちょいと石燕のところに持 っていってくる﹂ ﹁じゃあわっちも﹂ ﹁そう言えば子興さんを怒らせたんだったの。大丈夫、蛸が入って るからきっと﹃蛸ぉ∼ふへへきゃっほふぅ﹄とか言いながら喜びま わるの﹂ ﹁厭な事を聞いたな!﹂ ﹁女の好むもの、芋蛸南瓜イヌノフグリって云うでござんすからね 751 え﹂ ﹁イヌノフグリ!?﹂ 女とは一体。疑問に思いつつも機嫌取りの為に蛸を重に詰めつつ、 九郎と玉菊は神楽坂へ出かけるのであった。 **** 江戸で一番黄泉平坂に近い坂と石燕が噂を流している神楽坂・呪 われし鳥山石燕宅から帰る途中である。 おでんを含めて様々に料理が出され夕飯夜酒を馳走になった。や はり予め知らされていた通りの反応を子興がして、更に九郎に眼鏡 を掛けさせて、 ﹁眼鏡少年⋮⋮ふへへへ﹂ などと喜んだ調子ですっかり機嫌を直した様子であった。機嫌は ともかく、九郎が子興に向ける視線に混じる残念度数は跳ね上がっ ているのだが気づく様子はない。 やはり蛸は女に好まれるようで、石燕も嬉しそうに食って、 ﹁そう言えば狩野派に新しく入った少年絵描きは、蛸と女の絡みの 妄想について熱く語っていたね﹂ ﹁ああ、北川と仲良く艶絵話してたと思ったら責めか受けかで殴り 合いの喧嘩になっていた子ですか﹂ ﹁北川が尻に竹槍刺されて負けたけどね﹂ 752 などと談笑していた。 ともあれ、酌が得意な玉菊が居ると酒がぐいぐいと進んで、上機 嫌な石燕子興が早々と泥酔し始めたので帰路についたのであった。 先に玉菊を上野の色街に送り届ける。日が落ちるのも早くなって きているので、用心のためだ。 ﹁主様はその気遣いをもっと性的な方向に向けて欲しいでありんす﹂ ﹁⋮⋮いや、そっちの方向に向けるのがさも当然の様に云うでない ぞ﹂ ﹁ええぇ∼?﹂ 不満そうに云う。 ﹁しかし、お主、料理も接客も酌もできるとなるとうちの店に欲し いぐらいだ﹂ ﹁主様の嫁に来いって!?﹂ ﹁誰もそうは言っておらぬ﹂ ﹁じゃあお房ちゃんの婿に﹂ ﹁節操が無いのにはうちの看板娘はやれん﹂ 九郎は呆れを大分に含んだ溜息を零しながら、 ﹁体を売る商売が悪いとは言わぬが、長く続けられるものでもある まい。別の仕事を、とお主が望むのなら、己れが金と話をつけてや るからうちの店で働くといい﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁無理にとは言わんさ、好きに生きるのが一番だ⋮⋮﹂ しばし、玉菊は口を噤んだ。 753 遊女の中でも身請けを待ち望んでいる者は結構多い。遊郭の生活 は年に百両から、吉原の位の高い太夫となると五百両もかけている 優雅なものだが、別名は[苦界]とも呼ばれている程で、自由は少 なく体を壊す事もあり、また借金を抱えている遊女とて多くいるの である。 身請け金は遊女の抱えている借金に加えて、一般庶民からすると とても届かない金額を要求されることになる。 玉菊の楼主は業突く張りなので身請け金も相場より大きく要求す るだろう。 いかに九郎が良心から言ったとはいえ、また石燕が小金持ちだか らといって少なくない額を好きな人達に負担させる事になる。 玉菊はそれが心苦しい為に、笑顔を作り、 ﹁大丈夫でござんすよう。わっちは結構楽しくやってるんでありん すから﹂ ﹁そうか﹂ 曇りの無い笑みに九郎は納得して頷いた。 九郎から気遣って貰えた事は嬉しかったから、笑顔に偽りは無い。 今はこの関係で満足だと思いながら、玉菊は並んで宿へ歩いてい く。 ﹁いや、しかし。さすが色街は夜でも明るいな﹂ ﹁そうでござんす。ほら夜だというのにあちらこちらから怒号が聞 こえる賑やかさ﹂ ﹁激しいな⋮⋮鐘とか打ち鳴らしてるぞ﹂ 異様な熱気を持つ上野色街を進んで行くと、やがて大騒ぎの現場 に辿り着いた。 玉菊の住処の遊郭一帯が燃えまくっていた。 754 どこから出火したか不明だが、天まで明るくなるような火を上げ て町火消が暴れまくり延焼を防ぐために周辺の建物を破壊していっ ている。 江戸は当時、火事が非常に多く、また蝋燭や行灯などを夜中まで 使う色町では特に多く発生していたという。心中目的の付け火など も流行して、まさに色焦がれる町であった。 茫然と、燃え上がる遊郭を見上げる玉菊。 九郎は考えをあぐねながら、 ﹁えーと││とりあえず、今日はうちに泊まっていくがよい﹂ ﹁⋮⋮そうするでござんす﹂ こうも火事騒ぎになればもはやどうすることも出来ず、何処かぐ ったりしたように玉菊は九郎に連れられて緑のむじな亭に戻るので あった。 **** ところで⋮⋮。 無事に買い物は終えたものの、軽く女性恐怖症に陥った雨次は自 宅に帰ろうとせずに、天爵堂の家で引きこもってそこらにある本の 活字だけ目を追っていた。 さすがに凄まじく攻撃的な態度で迎えに来た母親に渡すのも気の 毒だったので、喚く彼女に干し芋を投げて渡すと目的を忘れたよう に帰っていったが、どうしたものかと天爵堂もほとほと困り果てて 755 いた。 母親との関係が上手くいっていないというのは知っているが、人 生の先輩として助言してやろうにも天爵堂も母親の事はまったく覚 えてなど居ないのだ。物心ついた時には居なかった。明暦の大火で 亡くなったと聞いている。 気むずかしい年頃である。具体的には、面倒臭い。 居ないものと決めて茶でも飲んでいると夜も暗くなっていたとい うのに玄関から声とどたどたした足音が聞こえてきた。 ﹁てんしゃくどー! 雨次が来てるでしょ!﹂ ﹁ああ、連れて帰ってくれ﹂ 耳を軽く抑えながら、相変わらず大きい声と高いテンションの少 女、お遊に適当に答える。 しかし彼女は腰に手を当ててふんぞり返りながら、 ﹁わたしに内緒で美味しいものとか食べてるのよね! ずるい!﹂ ﹁⋮⋮面倒なのが増えた気がする﹂ うちは託児所じゃないんだが⋮⋮思いながらも、干し芋を渡すと お年玉を貰ったように喜びながら、彼女の声にビクビクしている雨 次につっかかりに行った。 騒ぐ子供二人組にげんなりとしながら、天爵堂は蝋燭の明かりで 書物を始めるのだった。 秋の夜長というが、早く寝静まって欲しいと思いつつ。 若いころの苦労は買ってでもしろというが、年をとってからの苦 労はだいたい避けにくいものである。 756 757 29話﹃鳥山石燕事件簿[首塚絡繰屋敷の蛟龍]﹄ 突然の大雨であった。 九郎と石燕が大川を渡し船で移動中の事である。 その日はどうも真っ黒な分厚い雲が空に張り出し、いつ雨が振る かと不安だったのだが版元に用事もあった為に、二人が出かけた帰 りであった。 遠雷の音が数分聞こえたと思ったら、滝のような豪雨が降り注い だ。一間先すら見えないような、目を開けてるのがつらい激しい雨 である。 川の真ん中で舟とあらば逃げることも出来ない。 これには堪らず、二人も悲鳴を上げた。 ﹁ふふふふふ!! いかんね買い足した墨壺がお釈迦になりそうだ よ!﹂ ﹁ぬああ! 船頭よ、どうにかならんのか!?﹂ ざあ、では無くどばぁ、と大音響が鳴る中で叫ぶと、やはり大声 で返事が帰ってきた。 ﹁こうなるとそこらの船着場も見えないし混雑しちまいやすぜ! 中洲に雨宿りできる無人の屋敷が近いからそこに向かいやす!﹂ ﹁頼むぞ!﹂ 葦がぼうぼうと生えている大川の中洲島は立地として良いとは決 して言えないが、建物がいくつか存在する。 漁業者の拠点であったり、火気厳禁の花火職人の作業場であった りだ。 758 大雨と雷の音に急かされるように舟を進ませ、急に夜になったよ うな暗さの中、中洲に浮かぶ大きな建物の影が雷光の影に見えてき た。 九郎はどことなく不気味さを感じて、船頭に訊ねる。 ﹁ちなみになんの屋敷だ!﹂ ﹁ええと花火職人が季節の時にだけ使うところで⋮⋮地元では[首 塚絡繰屋敷]って呼ばれてるところでさぁ!﹂ ﹁凄まじく不吉であるなああ!? なんで町を流れる川の真ん中に そんな怖そうな場所があるのだ!?﹂ 激しく疑問を感じるがそこに雨宿りに行く他は無い。川の流れも 増水し始めて不安定な濁流がうねりを上げてきている。 必死に舟を向かわせる船頭と、目元を雨から覆いながら聳え立つ おどろおどろしい建物を眺める九郎。 背後から石燕が気分たっぷりに語り口を開く。 ﹁この時はまだ、あんな恐ろしい事件が起こるなんて私達は誰も想 像すらしていなかった⋮⋮﹂ ﹁むしろもう想像しちゃってるんだが﹂ 九郎はツッコミを呟くが、滝のような雨音で消えた。 **** 全身、濡鼠になりながらも九郎と石燕、そして船頭は[首塚絡繰 759 屋敷]とやらに辿り着いた。 戸を開けて中に入ると、中には既に先客がいるようであった。 屋敷の入ってすぐの場所は囲炉裏のある部屋で頑丈そうな分厚い 引き戸が玄関以外の三方を囲んでいる。花火作りに使う屋敷だけあ って、火を使う部屋は一番手前で厳重に隔離されているようにも見 えた。 外は闇天となっているため室内の明かりは囲炉裏にかけられた火 と蝋燭を使った行灯が三つ程置かれているものである。 ﹁おやぁ? またお客さんだ﹂ 黒袴を着て片膝を立て座っている、頭には多く白髪が混じってい る初老の男がこちらを見て先ず言葉を出した。 口に咥えた品のいい煙管からは小さく煙が伸びている。 九郎は、 ﹁雨宿りに着たのだが、ご同輩かのう﹂ ﹁そ。ここに居るの皆揃ってついてない集まりなんだな、これが﹂ 男は少しだけ皮肉そうに笑って、囲炉裏を囲んだり壁に背を預け て座っている、雨宿りの集団を見ながらそう言った。 九郎らを除いて、三組が現在降っている反体制的にすら感じる凄 まじい豪雨に降られ、この屋敷に逃げ込んできたようであった。 一組目は発言をした初老の黒袴を着た侍風の男。煙管を喫んでリ ラックスしているようだ。 もう一組は囲炉裏で目刺しか何かの干物を炙り齧っている、無頼 の博徒みたいな雰囲気を持つ男とそれの子分に見える小男。 最後に部屋の隅で忙しなく濡れた服を、妻か下女かわからぬが隣 に座る女に拭わせている商人風のでっぷりした男だ。 それに九郎らが連れてきた船頭が全部で四人。 760 ﹁そう、犯人はこの中にいる⋮⋮ふふふ﹂ ﹁まだ何も起こってないぞ﹂ 不吉な呟きを零しながら、ぽたぽたと水滴を髪から落としている 石燕がにやついた。 その姿は妖怪の濡れ女のようにも見える。 ともあれ、体の強くない石燕だ。濡れたままでは風邪を引いてし まう。九郎はさっさとこっそりと符で乾かした手拭いを渡した。 初老男があぐらを掻いた膝に頬杖をつきながら云う。 ﹁いやしかし、凄い雨だねぇ。今年一番じゃないのかな、これ﹂ ﹁まったくだね。雲龍でも空に飛んでいるのかと思うよ﹂ 髪を傷ませないように拭いながら石燕が言うので、九郎が言葉を 拾う。 ﹁ほう、石燕。妖怪の仕業ではなく龍の仕業と見るか﹂ ﹁そうだね。降雨は妖怪の分類ではなく、天神を始めとする神の所 作だと謂われている。雨降り小僧も雨女も、鬼や死霊の類ではなく 神の使いとみなすことが⋮⋮へくちっ⋮⋮多いね。特に古来から龍 は雨や嵐の神格化であり、大陸では豪雨の水害で黄帝を苦しめた応 龍の逸話が⋮⋮かちかちかち﹂ ﹁歯ぁ鳴らすほど寒いなら解説してないで火に寄れよ! 唇が紫に なってきておるぞ!?﹂ 泡を食って石燕を囲炉裏の前に連れて行く九郎。 炭ではなく薪で小さく炎が立っている囲炉裏に手を翳して石燕は 肩を縮こまらせながらとりあえず落ち着いた。 761 ﹁ふう⋮⋮温かい。これで熱燗でもあれば良いのだが。九郎君持っ てないかね?﹂ ﹁酒を携帯せねばならぬほど中毒だともう末期だぞ﹂ ﹁仕方ない。自分で持ち歩いているのを飲むか﹂ ﹁末期だった!﹂ 豊満な胸に合わせて色々仕込めそうなゆったりとした喪服の胸元 から、竹筒に入った酒をくぴりくぴりと舐め始めた。 そんな石燕の末期っぷりを見ているのか、やや開いた胸元を見て いるのかいまいち読みづらい視線を向けている初老の男が、煙管を 囲炉裏で叩いて灰を落として話しかけてくる。 ﹁石燕││ってとあんた、有名な妖怪の鳥山石燕か?﹂ ﹁人を妖怪扱いは止めたまえ。失礼な﹂ ﹁おい、お主は会った頃己れを妖怪扱いしてきたよな﹂ 半目で睨むが、九郎の恨み言は当たり前のように石燕の耳に届か ない。それ以上追求するのはあっさりと諦めた。 男が少しだけ愉快そうに、 ﹁へぇ。有名人とこんなところで会えるなんて縁起がいい。いや、 この場合妖怪が出そうで縁起が悪いのか? これ﹂ ﹁ふふふ此方だけ名前を知られているというのはどうも具合が良く ないね。何か真名を使って呪いとか使われそうだから﹂ 名を名乗れ、と言外に要求する石燕に男は火のついていない煙管 を咥えたまま、両手を軽く振って応える。 みきもと・ぜんじ ﹁おっと、そいつは失礼仕った。おれは美樹本善治っていう、まあ サンピン侍さ﹂ 762 ﹁⋮⋮何処かで聞いたことがあるような﹂ 九郎はその名前に妙な引っ掛かりを覚える。歯に詰まった貝柱の ような違和感だ。爪楊枝を使わずに、舌だけで排除できたらそれは 奇跡のようなものだが、小さな奇跡は起こったようで思い出すこと に成功した。 ﹁ああ、確か前に利悟から聞いた覚えがある。町奉行の筆頭同心で、 二十四衆の一人[殉職間際]の美樹本善治⋮⋮﹂ ﹁おっ? あいつと知り合いなのかい?﹂ ﹁殉職したら小さい娘さんの事は任されていると自信満々に言って おったが﹂ ﹁はっはぁ⋮⋮こりゃ骨をへし折らなきゃなあ、あれの﹂ 利悟が後から赦しを乞い、拷問の末に解放される末路を迎えると してもそれが自分に関係があるわけでもないので、簡単に知り合い の口が軽い同心の事は諦めた。 どことなく物騒というか、不吉なあだ名を付けられているのが美 樹本であるが、盗賊捕縛の指揮を行う手際は与力連中にも一目置か れている、経験豊富さを活かした見事な腕前なのだが、運が悪いの か現場で大怪我を負う事が多いから付けられたあだ名であった。 本人の切った張ったが弱いわけではないのに、十手がいきなり折 れたり苦し紛れに盗賊が投げた短刀が跳ね返って刺さったり建物が 急に崩れて巻き込まれたりしている。その度に重傷になるのだが、 不思議と後遺症無く現場に復帰するのは、 ﹁親っさんの悪運は得なのか損なのかわかんねえな⋮⋮﹂ と、同心の間でも言われている。本人自体はやや昼行灯に見える が気のいい人間なので、身分に関わらず好かれている。 763 ﹁そんで君は?﹂ ﹁己れか。己れはただの九郎、石燕の友達だが﹂ ﹁九郎⋮⋮あれぇ? おたく、火盗改の目明しだか小者だかで腕が いいって噂の?﹂ ﹁噂になっておるのか⋮⋮なんか厭だな﹂ ﹁御用聞き十六傑に入れようかとかなんとか、こっちでも話を聞く けど﹂ ﹁変なのに入れるなよ。というか妙な組織を増やすな﹂ ﹁はっはぁ、冗談、冗談。そんな集団は同心二十四衆だけで既に余 分だ﹂ 破顔して肩を竦め、煙管に詰めた煙草に煙草盆から火を付けた。 九郎はふと、囲炉裏の近くに座っていた無頼風の町人二人がなに やら顔色を悪くして、小声で話し合っていることに気づく。 美樹本はそちらに視線も送らず、だが声をかける。 ﹁そこのお二人さんも、まあ雨宿り程度の付き合いだけど名乗らな い?﹂ ﹁⋮⋮名乗る理由がないな﹂ ﹁へぇ? 同心相手に名乗れない理由ならあるんだ?﹂ ﹁⋮⋮ちっ。俺は⋮⋮弥助、だ﹂ ﹁ええと⋮⋮じゃあ、あっしも弥助でやんす﹂ 無頼は子分の頭を殴った。 ﹁被らせるな! アホかお前!﹂ ﹁ええ!? 駄目でやんすか!?﹂ ﹁怪しいだろうが露骨に!﹂ 764 既に偽名というのがバレバレになっている気がするが、それを指 摘する意味は無い。 子分が出来の悪いやつを見るような白けた、妥協の目で無頼を見 る。その目つきは酷く気に障ったものの、無頼はぐっと堪えた。困 難だったが、やり遂げた。 仕方なさそうに改めて云う。 ﹁訂正しやす。あっしが弥助でこの兄貴が足臭蔵という名前││﹂ ﹁俺を訂正してどうすんだボケ! なんだその名前は!?﹂ 蹴倒された。 意見の不一致があったらしい。見解の相違というべきか。どちら にせよ、解決には原始的な暴力が利用される。これは人類が進化し ていない証ではなく、単に他の方法より簡単に解決できるという合 理性を見出したというべきか。九郎は二人組を[無頼と手下]から [漫才コンビ]に訂正しつつそんなことを考えていた。 弥助││もう子分が弥助でいいかと思った││は不満さを押し殺 して、 わる ﹁はいはい、すみません。こっちの兄貴は新宿で有名な悪の[蝮草 ]の亀市であっしが弥助﹂ ﹁本名名乗ってどうすんだああ!! しかも俺だけ!?﹂ ﹁いつかデカイ男になって名前を響き渡らせる言うてましたやん﹂ ﹁響き渡らせる相手が違うわ! ││ええい!﹂ 亀市は立ち上がって、部屋の戸に手をかけながら叫んだ。 ﹁こんな同心が居る部屋で落ち着けるか! 俺は奥で休ませてもら う!﹂ ﹁あっ⋮⋮﹂ 765 荒々しく戸を開け閉めして、どかどかと足音を響かせて屋敷の奥 に勝手に入っていく。 石燕が、 ﹁第一の犠牲者か⋮⋮﹂ と、呟くのが不吉である。 口元を軽く緩ませるぐらいの微笑で美樹本が亀市を見送るので、 九郎が尋ねた。 ﹁盗賊とかではないのか?﹂ ﹁ん∼⋮⋮全然知らない名前だから見逃してもいいんじゃない? あの様子じゃやってる悪いことだって、せいぜい食い逃げとかそこ らでしょ﹂ ﹁兄貴は覗きの腕前も大したものでやんす﹂ ﹁ま、そんぐらいで捕まえてたら牢が幾つあっても足りないからさ。 現行犯ならともかく﹂ ごろり、と軽く横になりながら美樹本は続ける。 ﹁それで、そっちの旦那さんは何処のお方?﹂ 話しかけるとにこやかな顔で言葉を返す。 ﹁おいは薩摩ンもんばうっさばいちょっもんやがー、こンえろぉあ んにょわっぜぇかまぁいもおしよっとよ﹂ ﹁⋮⋮なんだって?﹂ 独特のイントネーションも加えて何を言ってるか理解できなかっ 766 た九郎が思わず聞き返す。 でっぷりとした旦那は言われて、つい地の言葉が出た事に気づき 慌てて言い直した。 かのや・くろえもん ﹁いやすみませぬ。わたくしはその⋮⋮薩州からの物を船貿易して 販売しております、鹿屋黒右衛門と申しまして。あれは妻のお律と﹂ 普通に喋り出したので安心する。トークの通じない系の悪魔では ないようだ。鹿屋はいつの間にか席を外している妻の女性も紹介し た。 ﹁薩摩弁か⋮⋮全然わからなんだが﹂ ﹁ははは、薩摩もんもあんまり言葉自体はわかっておりませぬから な。不思議と要件は伝わるのですが。この言葉と発音を忘れたら薩 摩では他所の藩の間諜と怪しまれて斬り殺されますから江戸住まい が長くなるとどうも冷々︵ひやひや︶し申す﹂ ﹁物騒だな﹂ 九郎が顔を顰めるが、石燕と美樹本も、 ﹁薩摩人と言えば前、その辺りの土地の妖怪について尋ねようと思 って声をかけたら猿の断末魔みたいな奇声を発して逃げていかれた よ﹂ ﹁ああ、未婚の男がおなごと会話をすると先輩に殺されますから。 目を合わせるだけで駄目ですが。頚椎を一撃ですわ﹂ ﹁薩摩怖っ﹂ ﹁そういえば町中で野良犬を焼いて食ってるってんで知らせがあっ てしょっ引きに行った事があるねえ。風烈廻の同心二十四衆が十七 番、[犬神]小山内同心が相当怒ってたけど﹂ ﹁伝統の戦場料理[えのころ飯]でございましょう。犬の腹に米を 767 詰めて焼いて炊く料理で﹂ ﹁市中でやるなよ⋮⋮﹂ 恐るべき薩摩人の生態︵一部の極端な例だが︶に九郎はげんなり する。異世界からこの時代に帰ってきたのだが、帰ってきた場所が 鹿児島ではなく江戸近くで良かった、と心底思う。 などと雑談していると、右隣の部屋からお律が戻ってきた。 ﹁旦那様、お湯を張ってきましたよ﹂ ﹁うむ。あ、わたくし少しばかり体を冷やしてしまったので、隣に 立派な風呂があった故、先に頂戴させていただきます⋮⋮﹂ そう言って鹿屋は妻を連れたって風呂に入りに行った。 石燕が、 ﹁先を争うように犠牲者になりに行くね⋮⋮﹂ ﹁いや、だから⋮⋮まあいいか﹂ 少しばかり自分でも想像してしまったので否定はせずにおいた。 あとはそれぞれが乗ってきた舟の船頭が四人。 ﹁これが、この[首塚絡繰屋敷]に閉じ込められた全員⋮⋮という わけだね﹂ **** 768 ﹁意味深に言うな﹂ まるで場面を一旦終えたようなつぶやきを漏らした石燕にすかさ ず九郎が言葉を挟んだ。 ﹁閉じ込められたも何も、雨宿りしているだけだろう﹂ ﹁雨という結界に閉じ込められたこの屋敷はまさに密室さ。我々に 驚愕と恐怖という二つの武器を持っていつ襲い掛かってくるかわか らない。驚愕と恐怖と冷酷⋮⋮三つだね。いや、狂信も加えて四つ﹂ ﹁この人酔ってるの?﹂ ﹁素面でもこんな感じだから﹂ 語り出した石燕に指をさして美樹本と九郎が言い合う。 演説を五分ほど適当に相槌で聞き流すのはいつもの事であった。 彼女の言葉には近くにいた船頭まで巻き込まれて、 ﹁そういえばこの屋敷には古くから伝わる不気味なわらべうたが⋮ ⋮!﹂ とか言い出して九郎も心の中で、 ︵なんで花火職人の寝床にそんな歌が伝わってるんだよ⋮⋮︶ ツッコミを入れるのだが展開は加速し、他の船頭も、 ﹁まさか十年前のあの時に復讐に⋮⋮!﹂ ﹁馬鹿! あれは事故だっただろう! それにあの時のことを知っ てる奴なんざぁ⋮⋮﹂ 769 などと、傍から見てたらノリノリであった。 石燕は嬉しそうに九郎の手を握って、 ﹁││というわけで九郎君。事件が起こる前に私達も行動を起こそ うではないか!﹂ ﹁何か行動を起こした時点で事件発生に関わりそうなものだけどな あ。具体的にはどうしろと﹂ ﹁屋敷の中を探検しよう。楽しそう││もとい、何かこの事件の手 がかりがつかめるかもしれないから﹂ ﹁⋮⋮はあ﹂ 事件起こってねえよと思いつつ、こうなれば石燕を説得するのも 困難である。 一人でうろうろされる方がむしろ困るので、九郎は行灯を一つ持 って仕方なく立ち上がった。 寝転がって肘をついている美樹本は笑いながら、 ﹁じゃ、おれはここで待ってるから捜査は名密偵さんたちに頼むと しよう。何かあったら大声を出してくれ﹂ ﹁何もないと思うがのう﹂ 言いながら、左の戸を開けて九郎と石燕は屋敷の深部を目指し進 んだ。 戸を開けた先は小さな部屋だった。四畳も無く窓も無い小部屋で、 作業場の一つなのだろう。入ってきた部屋と繋がる戸は引き戸だっ たが、ここの他の部屋二方に繋がる扉は観音開きになっている。 部屋を出てすぐ部屋で、また即座に扉がある違和感に首を傾げつ つ直進の扉を開ける。するとそこは先ほど居た部屋とそう変わらな い正方形の小部屋で、やはり他の部屋に続く扉がある。 770 観音開きになっている戸は傾きに仕掛けがあるのか、手を離すと 勝手に閉じる構造だ。 小部屋が連なる扉を幾つ進んでもまた同じような小部屋である。 廊下や縁側、窓さえ無い。屋根を外し上から見れば蜂の巣に似て いるかもしれない、と九郎は思った。 ﹁ははあ﹂ ﹁どうした?﹂ ﹁これは、部屋で作業をしていて何らかの拍子で爆発でもした時に、 その部屋だけに爆発力を閉じ込める作りなのだね。花火職人の作業 場だから﹂ ﹁それだけ聞くと爆発オチが待ってる気がして厭だな﹂ ﹁この雨だから大丈夫さ﹂ さすがに火薬を放置して保管はしていないだろうとは思うが⋮⋮ 全ての部屋が小部屋でブロック化されている。だがよく考えれば この屋敷全体の広さも、外からは見えずに把握していない。 ︵何部屋あるんだ?︶ 進み、閉ざされ、また進む。 幾つの部屋を経由しただろうか。正確に数えていればよかったか と少しばかり悔やみ始めた時である。 ふと、石燕が立ち止まった。 ﹁九郎君﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁実は⋮⋮いや、説明よりも実証だな。ここで目を瞑ってその場で ぐるぐると回ってみてくれ。私もやるから﹂ ﹁うむ?﹂ 771 意味がわからなかったが、狭い部屋で石燕がぐるぐると回転し始 めたので仕方なく九郎も従ってみる。 闇に閉ざされた視界。風がまったく無い密室。暗い気持ちで時を 待つ。まるで鳩時計に入れられた鳩だ。九郎の[九]と鳥山石燕の [鳥]で鳩。そう考えればますます親近感が沸いた。生きているう ちに鳩時計に会えるかは不明だが、今度あったら若いころ鳴き声に 怒りを感じて警棒で叩き壊したことすら、謝罪出来そうだ。 思考の海に沈んでいると、石燕の声で我に帰り、にわかに疑わし くなった三半規管と平衡感覚を光と同時に取り戻した。 ﹁さて、どうだね九郎君﹂ ﹁どうとは?﹂ ﹁いや、ぐるぐる回るとほら、何処から来たかわからなくなった﹂ ﹁⋮⋮﹂ 確かに。 それは的確な指摘ではあった。だが何か意味があるのかと考える と、虚しくなった。的確な言葉こそ無意味なものはない。的確なら 当然誰しもがわかってるからだ。 石燕が更に言う。 ﹁はっ! 九郎君この部屋にこんな脅迫状めいた紙が落ちているよ ! ﹃こんや、午のこく、だれかがしぬ﹄⋮⋮! お、恐ろしい!﹂ ﹁それだと犯人は美樹本だな⋮⋮いや、せめて筆は隠してから見つ けろよ。あと午の刻は昼間だろ﹂ 石燕は﹁おっと﹂といい、手に持っている筆で[午]の字の縦線 を伸ばし[牛]にした。 軽く頭痛を覚えながら、かぶりを振った。 772 広さのわからぬ、小部屋だけが並んでいる屋敷の中で迷子である。 いや、いざとなれば壁を壊し直進すればいいのだろうが、それはそ れで他人の屋敷に不法侵入した挙句という気にもなり行いたくはな い。 それにそう深刻なことではない。迷路めいた作りではあるが、実 用しているのだからしっかりと道は繋がっている。歩き回ればその うち玄関に出るだろう。 ﹁あの時までは、そう思っていた⋮⋮﹂ ﹁ええい、いいからさっさと行くぞ﹂ 石燕の手を引き、九郎は更に目の前の扉を開ける。 だが、進んでも戻っても、何故かどこにも行き着くことはなく、 同じ部屋ばかりの風景に九郎も己の感覚が麻痺してくるようであっ た。 ︵大川の中洲にどれだけデカイ建物を作っておるのだ⋮⋮︶ うんざりと胸中でうめく。 今まで目に付くことはなかっただろうか。噂も聞いたことはない。 いや、果たしてこの屋敷は実在しているのか? 海と大地が重なる 異世界に迷い込んだのではないか? 想像すると陰鬱な気持ちになり、余計に感覚を惑わした。 [首塚絡繰屋敷]という胃袋に飲み込まれてしまったようだ。 ﹁絡繰屋敷か⋮⋮確かにこの妙な作りは絡繰を彷彿とさせるが、首 塚とはどういうことだろうな﹂ ﹁ふむ? 九郎君は知らないのかね。昔、大川の中洲は罪人の刑場 だったのだよ﹂ 773 石燕が次の扉に手をかけ、開きながら言う。 ﹁罪人の死というものは穢れだったからね。川││水の流れで囲ん でその穢れを外に出さないようにしていたのだ。 私が生まれるより遥か昔だが、文献によると大川の岸からこの中 州にずらりと並んだ生首が見えたそうだ。かの有名な、[由井正雪 の乱]に加わった槍の名手・丸橋忠弥もここで斬首されたらしい﹂ ﹁あまり気持ちの良い光景ではないな﹂ ﹁晒し者という効果もあったからね。しかし死体を放り出している うちに狭い中洲だ。だんだん何処を掘っても屍が出るようになった。 夏になれば腐った臭いは川にまで垂れ流され、そのうち病が流行っ た。幕府は仕方なく刑場の場所を変えたのさ﹂ ﹁ほう⋮⋮それが今や花火屋敷か﹂ ﹁恐らく、地面に放り出した死体と土が混ざり花火作りに良い硝石 がとれるようになったからではないかな? また、死体を食いにや ってくる海鳥の糞も堆積すれば火薬の材料に使える。だからここは 悪党の首塚でありながら、花火屋敷なのだよ﹂ 石燕は一呼吸ついて、 ﹁⋮⋮とまあ、私が今考えた話なのだが﹂ し ﹁真顔で嘘つくなよ!?﹂ ﹁叱っ!﹂ 即興で騙されたことに対する非難の叫びを上げるが、石燕が急に 態度を変えて九郎の口を手で塞いだ。 彼女は周囲を注意深く見回し、静かに言う。 ﹁感じないかね、九郎君﹂ ﹁⋮⋮何をだ?﹂ 774 ﹁どこからか、死体の臭いがする⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮それ、己れの口を塞いだこととは全然関係ないよな。臭いっ て﹂ 釈然としなかったが、九郎は鼻を鳴らす。 まったくの無風であった今までの室内だが、この部屋だけどこか らか風の流れ││それと共に、腐臭を薄めたような、黴臭いような 臭いがたしかにある事に気づいた。 ﹁うむ⋮⋮妙だ﹂ 九郎が指を軽く舐めて、風の動きを探るとどうやら扉がない、一 面壁になっている場所から空気が流れてきていることがわかった。 壁を叩くと僅かに反響音がする。 ﹁どうやらこの壁の裏に空間があるようだな﹂ ﹁怪しい! 事件の臭いがするね! 九郎君、槌を持ってきたまえ !﹂ ﹁壁を壊そうとするでない。ええと、押しても開かぬな。引いたり する取っ掛かりは⋮⋮﹂ 壁を探ると下の方に指をかけられる程度の窪みを見つけ、九郎は それに指を入れて動かそうとすると、シャッターのように上方向に 壁がスライドした。 向こう側は急な段になっており、地下に繋がっているようだ。 ﹁風はここから来ておる。火事の時などの避難部屋か?﹂ ﹁わくわくしてきたね⋮⋮!﹂ 九郎が行灯を持ち、こうなれば調べないと石燕も満足しない事は 775 明らかなのでやむを得ず地下へ下りて行く。 続けて石燕が中に入る。すると、がん、と強い音がして二人が入 ってきた隠し扉が落ちて閉ざされる。 はっとして振り返り、石燕が悔しそうに言う。 ﹁閉じ込められたか⋮⋮!﹂ ﹁いや、石燕。持ち上げて開ける作りなのに手を離したら閉じるの は当たり前であろう﹂ ﹁罠⋮⋮ということだね?﹂ ﹁うんそうだね﹂ だんだん諦めが早くなってきていることを自覚するが、どうしよ うもないことではあった。 九郎が狭い階段で石燕と場所を入れ替わり、入り口を開けようと するが⋮⋮ ﹁⋮⋮ぬう、開かないな。鍵穴のようなものが見えるが⋮⋮まさか、 おーとろっくの絡繰か? 本格的に閉じ込められたかもしれぬ﹂ ﹁それは困る! 子興が今日の夕飯用に鮭を塩抜きしていたのだよ ! 楽しみにしていたのに! 分厚く斬られた鮭の切り身を七輪で 豪快に焼いて、香ばしく脂の焼けた外側と中の肉汁がじゅわりと出 る身を頬張り、﹂ ﹁解説するな! 腹が減る!﹂ 松前藩から送られてくる鮭は乾燥させた物が多く、塩漬けとはい え焼鮭にできる品は中々に貴重なのだ。逃したくない機会である。 値段というより、大名や高禄旗本に鮭好きが多いので市井に出回 らない。でかい鮭の皮と十万石を交換したいとか将軍が言い出した と巷説があるほどだ。 とりあえず、空気が通っているので窒息する事はない。それに防 776 火用の地下室だったら出れないということもないだろう。最後の手 段として閉ざされた扉を破ることも考えておく。 二人は地下室の階段を降りる。ごつごつした石で作られた床は暗 いこともあり、お世辞にも歩きやすくはなかったが。 すぐにその防火用の地下室とやらには辿り着いた。 その部屋では、壁に埋め込まれた金属の鎖とそれに首輪で繋がれ ている白骨死体が置かれている。 腐臭は、その骨から漂っているようだ。 ﹁⋮⋮防火用?﹂ ﹁⋮⋮ちょっと違ったかな﹂ ﹁地下牢﹂ ﹁すごくそれっぽい﹂ 頷き、顔を見合わせるとお互いに微妙な顔をしていた。 石燕が首を振って安心させるように言う。 ﹁まあ、正確に私が称するならば悪趣味な仕掛け部屋だ。あの一見 白骨死体に見える骨だが、骨格からして猿だ。人のではないよ﹂ ﹁ううむ、確かに顎の辺りとか、足の指などが顕著だな﹂ ﹁仕掛け部屋ならば仕掛けを解除する方法がある。さて⋮⋮﹂ 石燕が周囲を見回した。 壁や天井には薄暗くてどれほどの数があるかわからないが、動物 の絵が描かれているようだ。干支か何かかと思ったが、熊や猫やた ぬきなど様々に種類がある。 九郎は白骨に近づくと、その手の骨に丸められた紙が握られてい る事に気づいた。 掠れた文字が書かれている。九郎はよく読めなかったので石燕に 見せる。 777 ﹁なになに、﹃そとにでるかぎ かくしばしょ﹄とまず書かれてい て⋮⋮次に、 ﹃たたた絵たたた たたたのたたた 石たたたたたた たたたたをたた たたた外たたた たたたたたたせ﹄ と、あるね。暗号だ!﹂ ﹁なあこれ﹂ ﹁ふふふまあ待ちたまえ九郎君。紫色の脳髄と評判の石燕先生の名 推理をとっくりと聞かせてやろう。紫!? きもっ! とにかくこ れは一見不可思議な文字の並びだが、極端に多い字があることに気 づいただろうか!?﹂ ﹁まあ、人並みには﹂ ﹁そう⋮⋮凡人では気づかないかもしれないけれど、敢えてここは この文字列から[た]という平仮名を抜いてみる。すると浮かび上 がってくる文字は⋮⋮! ﹃絵の石を外せ﹄だ!﹂ ﹁そうですね、先生﹂ ﹁ふふふ驚きで呆けているようだね九郎君。つまりこの部屋に絵の 描かれている石を外せばいいのだよ!!﹂ ﹁いろんな絵があるが﹂ ﹁良い所に注目したねっ! そう。問題はそこなのだが私にかかれ ば児戯に等しい。この紙を握っていた動物は猿! つまり猿の絵が 描かれている石を外せば良いのだ!﹂ 778 石燕が行灯片手に猿の絵を探し始めるのを、九郎は﹁菓子でも買 っておくべきだったかなあ﹂と呑気に考え見守っていた。 彼女の推理はかなり惜しいところまで行ってるだろう、と思うが それゆえに残念だった。 九郎自身とて、直前に絵の種類を確認していなければ暗号の真意 に気づいたかどうかは疑問だ。 ︵[た]の文字を抜いて浮き出る言葉⋮⋮探す絵は恐らく[たぬき ]に違いあるまい⋮⋮!︶ 九郎の灰色の脳髄液はそんな名推理を脳に展開させたのだ。スゴ イ。灰色はキモい。 なんというシークレットファクターだろうか。小さなヒントを見 逃さない、ずば抜けた洞察力であるが石燕の推理をどう傷つけずに 修正するかが問題であった。 だがたまには思いっきり勿体ぶった様子で己の判断が違っていて オロオロする石燕に後ろからやれやれ仕方ないなあとアドバイスす るのもいいかもしれない。 ようやく猿の絵を見つけた石燕が石を引っ張っているが、九郎は 余裕の溜息混じりであった。 そして、 ﹁あった! 鍵があったよ九郎君!﹂ ﹁あるのかよ!?﹂ 普通にツッコミを入れた。 酷く精神的に疲労を与えられた気分になりつつ、地下への入り口 へ戻る。 行灯で照らし、鍵穴に無骨な鍵を入れて、回した。 鍵は材質が悪いのか金属が腐っていたのか、力を込めると容易く 779 穴の奥で折れて千切れた。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 九郎の渾身の蹴りが壁をぶち破った。恐らくは怒りも篭っていた ように見えるほど、反社会的な威力だった。 ***** 二人が再び迷路屋敷に戻った丁度その時である。 悲鳴が聞こえた。 それも二箇所からだ。一つは女の悲鳴で、もう一つは男。入り組 んだ部屋の構造に反響して詳しい位置はわからないが、確かに別々 の場所から放たれたようだ。 ﹁とうとう犠牲が出たか⋮⋮! [首塚絡繰屋敷の蛟龍]による⋮ ⋮!!﹂ ﹁なにそれ初めて聞いた﹂ ﹁急ぐよ九郎君!﹂ ﹁どっちに向かってだ?﹂ ﹁未来に向かってだ!﹂ ﹁⋮⋮﹂ 石燕の無軌道な衝動はともかく、なんらかの事態が起こったこと は確かであるらしい。 780 灰色の副腎皮質ホルモンを根拠とする勘に従って九郎は現場へ向 かおうと部屋を次々と進む。副腎皮質ホルモンで合ってただろうか。 一瞬だけ九郎は悩んだが、確かめたくはないのでどうでも良いこと ではある。 やがて、二人は見覚えのある部屋に辿り着いた。 玄関口と囲炉裏のある、一番手前の部屋だ。 そこで待っているといったはずの[殉職間際]美樹本同心の姿は 無かった。弥助も、薩摩人の夫婦も。四人居た船頭は、九郎と石燕 を連れてきた一人が残っているだけである。 消えてしまっていた。 九郎は唯一部屋にいた船頭に借問をする。 ﹁おい、他の連中はどうした?﹂ ﹁へ、へい。商人の御夫婦の方と、奥に引っ込んだ亀市とかいう無 頼の両方から悲鳴が聞こえたんで、二手に別れて様子を見に⋮⋮お いらはここで待つようにと同心の方が⋮⋮﹂ ﹁犠牲者の広がり方が半端では無いね﹂ ﹁そもそも何に襲われてるのかすら知らんのだぞ。まあいい、悲鳴 が届く位置にいるのならこちらから呼びかけることも出来よう﹂ 大きく息を吸って、口の端に両手を添え九郎は大声で呼びかけた。 ﹁おーい、そっちは大丈夫かー!!﹂ だが⋮⋮。 帰ってくるのは、無言ばかりだ。 一人や二人ではない。この場に居ない人間が八人、屋敷の奥に向 かったというのに、誰も九郎の声に反応を返すことはなかった。 異常事態と言えよう。 九郎と石燕のように、隠し部屋に入り込んで声が届かないのだろ 781 うか。真逆、全員既にこの世の人ではないとは考えにくい。二手に 別れた八人を一度に全員始末する方法など、想像がつかない。 この場に居ない八人は、屋敷という密室に姿を消したのだ。 石燕が言った、[首塚絡繰屋敷の蛟龍]という架空の存在の姿を 嫌でも思い浮かべてしまった。雨と共に現れた龍の顎の犠牲に⋮⋮ そんな九郎の肩を、震えながら石燕の手が叩いた。 ﹁どうした?﹂ ﹁く⋮⋮九郎君、あれを⋮⋮みたまえ⋮⋮﹂ 石燕が伸ばした指の先では││││ 782 ***** 石燕が指さしたのは、外だった。 いつの間にか、大雨は止んで徐々に明るい夕焼け空が江戸の町の 天を覆いつつある。川の流れも落ち着いているようだ。 ﹁じゃあ、帰ろうか。船頭さんよろしく頼むよ﹂ ﹁へ、へえ﹂ ﹁夕飯の鮭がそろそろ我慢しきれなくてね。美味しいよ? 九郎君 も食べていくだろう?﹂ ﹁⋮⋮そうだな﹂ そうだ。別に自分は町奉行の同心でもなければ名探偵でもない。 ちょっぴり不思議な事が起こったけど、それが事件であるかどう かすらわからないのだ。 何かあったのならばら役人が解決するだろう。逆に言えば、役人 以外が解決するのは許されざる事だ。捜査の妨害であるし、それで 給料を貰っている役人の仕事を奪う形になる。その給料は税金から 出ているのならば、彼らの邪魔をするのは脱税的行動とも言えるか もしれない。 自分にできる事はさっさと帰り夕飯の鮭で一杯飲ることだけだ。 そして今日はもう疲れと共に睡眠で事件のことは記憶のおしゃれ小 箱に放り込んで仕舞い、いつかこの日のことを思い出そう。少しだ け不思議だった、あの屋敷の事を⋮⋮ 783 鳥山石燕事件簿 [首塚絡繰屋敷の蛟龍] 完 784 30話﹃暗夜行路︵前編︶﹄ 旅をするには銭がかかるものである。 特に必要なものは宿代だ。普通の、食事がしっかりと出る宿に泊 まるとなると一泊百五十文から二百五十文は必要である。六科が大 家をしている長屋の家賃がひと月六百文であることを考慮すると、 外泊というのは殊更金がかかる事がわかる。 長屋の荷物を売り払って気ままな旅に出た弥次喜多でも無ければ、 趣味で旅行などをしている者はそれなりに金を持っていると思って 良い。 一生に一度の伊勢参りに出かけるとなれば近所親戚から金 を借りて行く程だ。 すり そういうわけで、金を持っているに違いない旅人を狙う野盗は尽 きない。掏摸、置き引きならまだしも、凶器を持って襲い掛かって くる山賊めいた集団もかなり居たようだ。 家禄を失った武士崩れが食えずに身を落とすケースも多く、その ような落ちぶれた者は特に凶暴であるらしい。 六人の盗賊集団が目を付けたのは、ある一団だった。五人組での んびり歩いている旅人で、先頭に用心棒のような浪人風の青年が居 る以外は、少年が一人、少女が二人、女が一人で脅威になりそうな 者は居ない。 用心棒さえ打ち倒せば後は楽に略奪が行えるだろう。 一人旅より複数人で旅をしている相手の方が金を多く持っている。 盗賊は舌なめずりをして、握った大きめの石礫に力を込めた。 まずは投石で相手を弱らせてから斬りかかるのがこの一味の遣り 口だった。江戸から小田原を結ぶ街道を根城にしている、まっこと 凶悪な輩である。 人通りの少ない、山道沿いの曲がり道に待ち伏せて機を図る。 785 そして、 ﹁えいや!﹂ と、ばかりに大きく振りかぶった石を一斉に先頭を歩く用心棒と 少年に投げつけた。 体の何処に当たっても強烈な衝撃で動けなくなりかねない、強い 投擲だ。慣れた手口は正確に相手へ直撃の線を伸ばす。 六つの石礫が当たる││そう思ったのだったが。 ﹁よっと﹂ ﹁危ないな﹂ 軽い声と共に、少年は二つの礫を両手で受け止めた。 用心棒は背負っていた十貫はありそうな荷箱を振り回して、残り 四つの石を弾き落とす。 投擲と同時に走り出していた盗賊は、ややその速度を緩めて、意 気高揚としていた悪い顔を不思議そうに歪めた。 ﹁盗賊だぞ、晃之介先生よ。次はお主の番だ﹂ ﹁さっきお前が捕まえたのは掏摸だったじゃないか⋮⋮まあいい﹂ 順番で盗賊の相手を行うという取り決めだったのだ。正確に言う ならば、片方が対応してもう片方はその間周囲の警戒をしておくの であるが。 晃之介は無造作に荷箱に手を突っ込んで引き抜いた。 いったいどう折りたたんでいたのか不明││六天流収納術らしい ││だが、中から一間二尺ほどの槍が出てくる。 そして、持っていた杖代わりの棍棒と槍とで両手に構えて、敵へ と切り込んだ。 786 江戸に落ち着いて道場を建てるまでは旅ばかりしていた為に、盗 賊への対処は慣れている。 九郎が手伝う間もなく、的確に盗賊らを相手の間合いに入ること 無く、長い棍棒と槍でしたたかに打ちのめした。 主に膝を狙って砕かれ地面に倒れた相手を踏みつけて行動不能に していく。 ﹁手際がいいのね、晃之介さん﹂ ﹁さすが師匠だぜ﹂ 少女二人が緊張感の無い声を出して観戦している。 あっさり六人打ち倒して、相手の持っていた腰帯や下緒︵刀の鞘 に巻かれた紐の事︶で盗賊を後ろ手にして縛った。 そして槍の穂先を一人の眉間に突きつけて、 ﹁貴様ら、他に仲間は居るか﹂ ﹁ひ、ひいい⋮⋮﹂ ﹁仲間は居るかと聞いている﹂ ﹁い、居ねえ! これで全部だ!﹂ ﹁そうか﹂ 晃之介は槍を下げた。 盗賊というのは無駄に仲間意識が高い事が多く、仲間がやられた らその復讐に道中で再び襲いかかって来かねない。それが心配だっ たのだ。 彼が父と旅をしている頃は、盗賊に襲われた時には、相手の根城 を吐かせて襲撃をかけて壊滅させた事が何度かある。そうせねばな らないほど、襲撃の警戒をしながらの旅というものは過酷になると 口を酸っぱくして父に教えられた。 盗賊の住処に溜め込んでいた小判を懐に入れつつそう告げてくる 787 父は頼もしいものであった。そう、決して旅銀が少なくなったから こうしているのではないのだぞ息子よ⋮⋮勘違いするな⋮⋮あと奉 行所に告げ口とかもするなよお前も同罪だから⋮⋮などと言ってい た言葉は忘れたい。 まあ同行者が居るこの旅でそこまでする暇は無いが。 ﹁さてと﹂ 晃之介は片手に持った棒で男たちの下顎を掬い上げるように打ち 据え、気絶させていった。 そしてもう一度厳重に手足を縛った時に丁度飛脚が背後から走っ てきたので声をかける。 ﹁おい、少し﹂ ﹁へい? うわっ!? だ、旦那方、これはどうしたので?﹂ ﹁こやつらは追い剥ぎの強盗だ。俺が懲らしめて於いたが、今まで も相当に悪行を重ねているだろう。ここに縛って捨てておくから、 先にある奉行所に知らせておいてくれ﹂ そう云って、飛脚の手に一分銀を握らせる。 飛脚は倒れ伏した野盗と、手にある一分へ視線を上げ下げしたが、 ﹁承知しやした!﹂ と、足早に駆けて行くのであった。 それを見送りつつ石燕が一纏めになっている盗賊らの近くに、文 字を書いた紙を張り付けて置く。 ﹁石強盗なので縄を解かないで置くべし、と。さて、旅を続けるか ね﹂ 788 ﹁そうだのう。しかし、晃之介。随分気前よく金を払うな﹂ ﹁そうか?﹂ 晃之介は金を抜き取った空の財布を盗賊の懐に戻しつつ、しれっ と応える。 ﹁師匠⋮⋮それっていいのか?﹂ ﹁なんていうのかしら。逆強盗?﹂ ﹁いいじゃないか、ただなんだから﹂ お房とお八が半眼で晃之介の手慣れた収奪を見て呻くが、彼はま ったく悪びれる様子はなかった。 **** この五人組が旅に出たのは四日前の事である。 石燕のいつもの我儘というか、九郎との約束で熱海まで温泉に浸 かりに行く計画を立てていた。 それで一緒にお房も連れて行こうと緑のむじな亭で話し合ってい たものの、店があるからと消極的だったお房だったが長屋に住む女 按摩のお雪が居ない間は店を手伝うと言ってくれたのでそれならば という事で同行することになった。 お雪の光を映さぬ目が怪しく輝いていた気がするが、石燕以外誰 も気づくことはなかった。 丁度その時に店に居た晃之介が、近々小田原に行く用事があった 789 のでそれに合わせようかと話が進む。 かつて旅をしていた時に寝食どころか金子の世話にまでなった小 田原城下にある剣術道場に金を返しに行くのだという。生徒は少な いものの江戸で幾らか手柄を立てて金が幾らかあるのだ。年末にな れば何処も懐事情が厳しくなるだろうから、その前に返しておきた い。先立って小田原に文を送り、出向くことを伝えている。 その話を聞いたお八が自分も行きたいと言い出した。知り合いの 同中とはいえ、十四の娘を旅に出すのは親御が許可しないだろうと 九郎は言ったのだが、 ﹁九郎殿と晃之介様が同行なさるのならば危ない事もありますまい﹂ と、[藍屋]の主人から太鼓判を押されて許可されるのであった。 このような繋がりにより、五人の旅路が決まったのである。 旅中は何度か掏摸や掻っ払いに遭遇することがあったが、どれも 九郎と晃之介が退治していた。 ﹁こうなるとまるで世直しの旅に出たみたいだね﹂ 石燕が涼しく笑いながら言う。 ﹁コウさんクロさん、やっておしまいなさい││とね。そうだろう ? うっかりお八にかげろう房﹂ ﹁なんであたしの立ち位置がうっかりなんだよ。っていうか何の話 だそりゃ﹂ ﹁ふふふ気にしてはいけないよ。さあ! 世直しの第一歩として金 閣寺に火を付けに行こう! 高所得層の忌まわしき象徴だ、あれは !﹂ ﹁黄門様なのに過激派アカになってどうする﹂ 790 九郎が呆れたように肩を竦める。 そんなこんなで珍道中を続け、一行は小田原に辿り着いた。 小田原は徳川が江戸近辺を開発するまで、関東で最も発展した場 所でもある。鎌倉の見どころは多くそれだけ旅人が集い、或いは江 戸時代の一時期においては、節約質素を将軍勅令で申し付けられた 江戸の町よりも賑やかな場面があったかもしれない。 特に観光で多いのは、寺社参りと温泉だ。熱海や箱根も有名だが 小田原城下にも多くの温泉が湧いている。 特に昨今では富士山の大噴火による影響として農業がかなり衰退 しており、その分観光収入を得ようと宿場が盛んになっているので ある。 急ぐ旅ではない。今日のところはここに逗留し、ゆっくりと熱海 を目指せば良い。 観光地として箱根も近いが、石燕の、 ﹁山登るのしんどい﹂ という言葉で却下されている。 旅籠の内湯に温泉を引いている上宿で思い思いに休みを取ってい た。 部屋の境である障子を開け放ち大部屋風に繋げて女三人組は畳に 寝転がっている。 夕食まではもう少し時間があるが、出かけるには遅いという時間 帯だ。 早めの酒を、外で売っていた温泉で茹でた大根菜の和物をつまみ に飲んでいる石燕はふと思いついた事を口にした。 ﹁幸運助平の時間だ!﹂ ﹁何をいきなり言ってるんだろうな、石姉は﹂ ﹁さあ﹂ 791 酒があまりよろしくないところに既に回っているのだろうか。 そうなのだろうな、と少女らは残念そうな目で酔っぱらいを見る。 ﹁九郎君と晃之介君は折しも内湯に浸かりに行っているね﹂ ﹁うん﹂ ﹁入浴姿でも覗きに行こう﹂ ﹁ごほっ!﹂ お八が咳き込んだ。 一瞬ふんどし姿︵彼女の想像力ではそこが限界だった︶で風呂場 にて背中を洗い合う九郎と晃之介を思い浮かべ、妙な暑苦しさと照 れ臭さを覚える。 ぐてり、とうつ伏せに寝ながらお房は疑問を口にする。 ﹁どーしてそんなことを?﹂ ﹁ふふふ⋮⋮絵を描くという行為においては人体を理解するという のは基本中の基本なのだよ房よ。他人が絵に描いたそれを参考にす るというのも勉強ではあるが多くは簡略化されていたり特徴を強調 されたものであることが多い為に実物をしっかりと把握しておく事 が﹂ ﹁本当は?﹂ ﹁ぐへへ九郎きゅんの裸見ようぜ﹂ ﹁駄目だなこの未亡人!﹂ お八は欲望を顕にする石燕の肩を掴んで制止する。 地面に潰れたまんじゅうのようなやる気のなさでお房が言う。 ﹁っていうか先生、見たことないの?﹂ ﹁ふふふ⋮⋮九郎君はあれで身持ちが硬くて﹂ 792 ﹁身持ちて⋮⋮いや、まあ旅の間、九郎と師匠は烏の行水みたいな 疾さで上がってきてたけどよ﹂ ﹁そうだ。前に旅をした時もそんな感じでね⋮⋮ふふふ、推測する にこういうことだね!﹂ 石燕が指を立てて邪悪な笑みを浮かべる。 ﹁九郎君は││﹃小さい﹄事を気にしている!﹂ ﹁な、なんと⋮⋮﹂ ﹁晩ご飯まだかな∼﹂ ぐっと拳を握る二人とは対照的に、どうでも良さそうに声を出す お房。 陰謀を巡らせる会議は不参加者を置いて更に進む。 ﹁旅も五日目。そしてようやくの温泉だ。それにここの宿は男湯と 女湯が分かれていて広々とした作り。となればあの二人とて少しば かりのんびり入るのは間違い無い﹂ ﹁成程⋮⋮石姉そんなことばかり考えてたのか⋮⋮﹂ ある意味スゴイことだとは思う。つまりは、やや引く。 ﹁尊敬してくれても構わんよ? しかしここの男湯と女湯は脱衣所 の入り口に木札が下がっているだけに過ぎない、隣同士に作られた 簡単なものだ﹂ ﹁ふむ﹂ ﹁ところが誰かの悪戯により木札が入れ替えられてしまっていて、 九郎君と晃之介君は今頃男湯と札のかかった女湯に入っているのだ !﹂ ﹁誰かって一番疑わしき人物が目の前に﹂ 793 ﹁私達はその卑劣な罠に引っかかり二人が居るのに風呂に突入! ウハウハザブーン! というわけだね!﹂ ﹁そうすれば覗きに入ったという企みはバレずに、あたしらが悪い わけじゃないと言い張れるのか⋮⋮天才だな⋮⋮﹂ やや赤らんだ真面目ぶった顔で言いながらお八は着替えの準備を 仕出した。 年頃の異性の体に興味はあるらしい。 ︵いや⋮⋮これはあれだ。九郎の体に合った服を作るために必要な 情報を得る、修行的行為⋮⋮!︶ 誰にともなく胸中に言い訳をする。 石燕も用意を整えて二人は立ち上がった。 ﹁房もどうだね? 温泉は気持ちいいよ?﹂ ﹁んー、わたしは後で入るからいいの﹂ ﹁そっか﹂ 寝転びながらお茶を器用にすすって、部屋から出て行く二人を見 送った。 一人になった後、彼女は感心はないが微妙に首を傾げつつ、 ﹁九郎の裸なんて見てどうするのかしら。別に変わった風ではなか ったけど﹂ 呟いて、干菓子をぼりぼりと齧る。 彼女自身は何度か九郎や父と共に湯屋に行ったりしているので裸 体も見ている。だが、特に先入観の無い彼女としては父の裸も九郎 の裸も別段感想を持つようなものではないらしい。 794 **** 時間的に丁度良かったのか、温泉には九郎と晃之介の二人だけが 入っていた。 宿から少しばかり離れたところにある公衆浴場である。せっかく の温泉なのだから宿の内湯ではなく、もっと広い場所に入ったほう がよかろうと考えて二人で来たのだ。 広々とした湯船で二人しか居ないとなると開放感が大きい。九郎 は手足を伸ばして首までつかって心地よい息を吐いた。 ﹁癒されるなあ⋮⋮﹂ ﹁ああ。たまには温泉もいいものだ﹂ 薄く目を閉じて瞑想しているような体勢で湯に入っている晃之介 も同意した。 さすがに晃之介の体は全身鍛えあげられてて一目で武芸者とわか る筋肉質である。頭に手拭いを巻き、リラックスしつつも弛緩した 様子がない。 長い付き合いになるからわかるが、晃之介という男はいついかな る時でも気を弛まさず、かつ張り詰め過ぎずに感覚を澄ませている。 なかなかここまで油断の少ない戦士は見ない、と九郎は思う。 ﹁しかし九郎﹂ 晃之介が面白そうに声をかける。 795 ﹁お前はてっきり、風呂が嫌いなのかと思っていたがな。すぐに上 がってしまうから﹂ ﹁そうでもない﹂ 否定して薄く笑い肩を竦める。 ﹁ただ、江戸では湯屋が非常に混んでいるだろう? ああも芋洗い のようだと長々と入る習慣が無くなってな﹂ ﹁確かに﹂ 晃之介も苦笑した。 大層風呂好きな江戸の住人であり、多くの湯屋が当時の江戸には あったのだが、家湯が無いために湯屋を利用する人数は非常に多か ったために毎日が大混雑であったようだ。 特に湯船に入る際には、周りの人間と肌がくっつきあい押し合う ような有り様であったため、 ﹁枝が当たり失礼﹂ ﹁田舎作法で失礼﹂ などと謝罪言語を用いつつ隙間に入らなければならないのだ。 現代で云うところの、満員電車に入る際に平手を立てて謝るよう な仕草で半身に突っ込むようなものだろうか。 ともかく、そうなればゆるりと湯船を堪能などとても出来ない。 九郎がのんびりと入ったのは、何度か湯屋の営業時間外に影兵衛 と行った時ぐらいである。同心はその特権で一番風呂に入ることが 出来たとされている。これは、仕事に関わる秘密話をする際に利用 するためであったようだ。 796 ﹁そういうお主こそ、早風呂早着替えであったようだが﹂ ﹁風呂場や着替え時は武器が使いにくいからなるべく急げ、と教え られていてな。今も小刀一本しか持っていない﹂ ﹁持ってるのかよ﹂ ﹁安心しろ。柄まで鉄で作って鯨の髭を巻きあしらえた物だから上 がった後によく拭けば腐ったりはしない﹂ それを隠している頭に巻いた手拭いを軽く小突いて、晃之介は頷 いた。普通の刀を湯につければ目釘や柄が腐るので特別に作られた ものである。 ヒラマサ ﹁まあ、たまにはのんびりするのがよかろう。まずはお主の用事を 済ませて、熱海で釣りでもするか﹂ ﹁鮒釣り用の竿を持ってきたんだが、平政は釣れるだろうか﹂ ﹁多分鮒竿と糸じゃ無理であろう⋮⋮いや、釣ったことはないのだ が﹂ ﹁試してみる価値はあるな⋮⋮﹂ ﹁微妙だろ﹂ などと言い合っていると老人が二人ほど浴場に入ってきた。 ﹁むっ、今日は空いてるだな﹂ ﹁おうさ﹂ 老人二人に軽く会釈をする。 かけ湯をし、体の垢を軽く落として湯船に入ってきた地元の者ら しき老人は晃之介に話しかけた。 ﹁何処から来た人だね﹂ ﹁江戸から。知り合いの旅の用心棒としてな﹂ 797 やっとう ﹁へぇ∼剣術の先生というわけですかい。確かに大した力瘤だ﹂ 頷きながら納得する。そして下世話な冗談の顔をして、 ﹁下のほうもこりゃあ剣豪だ﹂ ﹁よせよせ。俺が剣豪なら将軍がほらそこに﹂ 晃之介が笑いながら指を九郎に向け、老人達はのんびりと使って いる少年に顔を向けて驚愕に顔を引き攣らせた。 ﹁た、確かにこれは将軍⋮⋮いいや、暗黒大将軍だ!﹂ ﹁人の物をグレートマジンガーみたいに云うな。それにこれはもう 年の所為で引退大御所なのだ﹂ ﹁いやいや大御所ったって、ほれわしらのなんかもう入滅した雑兵 みたいなもんで﹂ ﹁本当だ﹂ 老人が溜息混じりで顔を落とすので九郎もそれを見て、同じく少 しだけ陰鬱な気分になった。 年齢からするとその老人らと同じ状態であるのが普通なのだが、 果たしてそれを望むべきかどうか。悩みどころではあるが、使えな いという点では同じだ。 大きいというのも面倒なところがある。褌をつけると違和感が酷 いのだ。仕方なく九郎は異世界から持ち込んだステテコを下着に利 用している。まあ、好き好んで履きなれない褌をつけようとも思わ なかったのではあるが。 などと思っていると、老人が声を潜めて入り口を見ながら言った。 ﹁おう、来るぜ。最強の雑兵が﹂ ﹁最強の雑兵?﹂ 798 問い返すと同時に、戸が開けられて新たな客が入ってくる。 それは六科のような大柄な男を更に筋肉の鎧に身を纏わせた巨漢 である。はち切れんばかりの肉体と厳つく骨太い顔立ちの、プロレ スラーのような印象を受ける。 晃之介と九郎をぎょろりとした金壺眼で睥睨してくる。鋭く冷た い光を灯した視線と、体幹のバランスの良い歩き、そして全身から 漂う圧迫感からして、 ﹁かなりの強者⋮⋮﹂ に、見える。 そして老人の言葉通り逸物は雑兵なのがむしろ面食らう。確かに、 見た目は最強なのだが一点のみが雑兵だと主張している。 ︵大きなお世話ではあるな⋮⋮︶ 九郎は苦笑いを噛み殺して顔を背けた。 男はかけ湯をしながらも、むすりとした顔立ちをやめずに、さら にちらちらと晃之介へ視線を送っていた。 どこか、視線に殺気をはらんでいるようにも思える。 一方的に何やら品定めされている気がして、晃之介も厭な気がし てくる。 しかしここで喧嘩などをしても馬鹿馬鹿しいと思い、 ﹁そろそろ上がるか﹂ と、湯船から立ち上がった。 男は晃之介の立ち姿を見て、強張った表情で眉根を寄せ僅かにひ るんだようなうめき声を小さく漏らす。 799 ﹁それでは己れも出るかの﹂ 九郎も体からぬるりとした温泉の湯を滴らせながら立ち上がる。 物がバルボッサの反逆とばかりに雄大に揺れる。 ﹁ぐ、ぐぐ⋮⋮ぬううう⋮⋮﹂ ﹁?﹂ 歯ぎしりをしながら血走った目で男が後退りしながら怯える。 ﹁うおおお!﹂ そしてついに、何やら叫びつつ男は湯船にも浸からずに浴室から 走り去ってしまった。 九郎は首を傾げ、 ﹁意味がわからん﹂ ﹁俺もわからんが、どうも九郎のを凝視していたぞ﹂ ﹁怖っ⋮⋮﹂ 身震いをして顔を曇らせた。 **** 二人が宿に戻ると、石燕とお八がやさぐれた気持ちで酒を飲み交 800 わしていたので、お房に尋ねてみると、 ﹁男湯と女湯を間違えて入ったら、知らないおじさんの裸みちゃっ たんだって﹂ ﹁はっはっは。阿呆だな﹂ ﹁うるせへー!﹂ 酒の所為で早くも呂律の回っていないお八が怒鳴りながら九郎の 首を締める。 力は殆ど入っていないので猫にじゃれつかれているようなもので、 軽く九郎は手を取って転ばせて頭をわしわしと掻いてやる。 ﹁まったく。九郎君と晃之介君の絡みでも描いてやろうかと思って いたのに⋮⋮﹂ ﹁石燕殿は余計な事をしないでくれ﹂ ﹁こんなおっさんしか居なかったとは、がっかりだよ!﹂ ﹁リアルな画風で描くなよ!?﹂ 写実画で描いたちょっとはにかみ中年全裸図を広げられ、即座に それを奪って丸めて部屋の窓から放り捨てた。 ﹁くうう⋮⋮九郎君の湯上がり卵肌め! 若々しい肌年齢が憎い!﹂ ﹁頬ずりしてくるな! 大人げない!﹂ ﹁⋮⋮! あうう⋮⋮﹂ ﹁いきなり石燕が落ち込んだ﹂ ﹁どうしたんだぜ?﹂ ﹁先生は気づいたの。肌年齢がこの場で一番年を食ってるのが自分 だって﹂ ﹁房⋮⋮﹂ ﹁ぬあーん﹂ 801 ばっさりと云うお房に蛸の如く絡みつき締め上げる石燕。確かに、 はたから見れば彼女が旅仲間で一番の年上だ。 まだ二十代とはいえ、少しばかり悲しくなる石燕であった。 ﹁ま、とにかく酒でも飲ろう。ほれ外でな、小田原名物の梅漬けを 買ってきたでな﹂ ﹁お房ちゃんには蒸しまんじゅうを買ってきた﹂ ﹁わぁい晃之介さん大好き﹂ ﹁即物的だなあ⋮⋮﹂ ﹁うちの娘を!﹂ ﹁お主にはやらん!﹂ ﹁なんでお前らが荒ぶってるんだ⋮⋮﹂ 餌付けしている晃之介から庇うように立ちふさがる舅と姑のよう な九郎と石燕である。 お房は特に気にすること無くもっちもちとまんじゅうを頬張りお 茶を飲んで澄ました顔をしている。 九郎の膝に寝ながらお八が笑いつつ、云う。 ﹁まー師匠の女っ気の無さは悲しいぐらいだから、いっそお房でも 嫁に来てもらわねーと。ひひひ﹂ ﹁五月蠅いぞ、女らしくない筆頭弟子め。だいたい俺だって、この 前見合いっぽい話が来ていただろう﹂ ﹁そうなのか?﹂ 意外そうに九郎が尋ね返す。 神妙に頷いて、 ﹁見合いっぽいというか⋮⋮果たし合いっぽいというか⋮⋮﹂ 802 ﹁うわ駄目っぽい﹂ ﹁まあ聞いてくれ。以前に柳川藩の御用人である大石殿という方に 呼ばれてな﹂ ﹁ああ、膝の藩の﹂ ﹁⋮⋮ともかく、その伝手や前の御前試合もあり、俺の剣術の腕も それなりに買われているんだ﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ ﹁そしてその大石殿と申す御仁の娘がまた女だてら剣術の鬼で、自 分を剣で打ち負かせるような相手でなければ結婚せぬと言い張って いたそうなのだ﹂ 興味深げに彼の話に耳を傾ける。 ﹁何処かでありそうな話だな﹂ ﹁いかにも気位の高い女侍即落ち編の導入みたいな相手だね﹂ ﹁かと言って見合い試合とはいえ、女に負ければ武士の恥。敬遠さ れてなかなか嫁の貰い手が居ない。そこで俺に声がかかったのだが ⋮⋮﹂ その御家人が婿に晃之介を選んだのも、家禄は無いとはいえ柳川 藩に顔も売れている武芸者であるからだろう。 まだ若いこともあり将来的に仕官する可能性も考えられるために そう悪い相手ではないと思われたのである。 晃之介は腕を組んで困り顔で言い難そうに、 ﹁ついうっかり、相手も強かったものだから必要以上に叩きのめし てしまってな。心身ともに酷く傷つき剣を止めてしまったそうだ﹂ ﹁なんでそう良い所で加減を失敗するのだお主は﹂ ﹁骨はまずいだろう骨は、と立花家の方々にも叱られてな﹂ ﹁嫁入り前の娘を物理的に傷物にしてどうするのかね﹂ 803 ﹁やはりやり過ぎたか⋮⋮﹂ ﹁師匠⋮⋮頼むからあたしの骨は折るなよ﹂ ジト目でお八から言われて、明言を避け晃之介は誤魔化すように 酒盃を呷った。 一応晃之介も謝罪に行ったのだが、その娘は親の背中に隠れるよ うにしてじろりと睨みを返してくるばかりで謝っても返事もされな いし、柳川藩中屋敷で稽古に呼ばれてもそこはかとなく柱の影から 睨んでくる。 この前はどうやって場所を突き止めたのか道場の入り口からこっ そり睨んで来ていた。あと夜中に風に乗せて怨念の篭った歌とか聞 こえてくる時がある。 声をかけようとすると猛烈な勢いで逃げていく。 これには晃之介も、 ︵相当恨まれているようだ⋮⋮︶ と、反省するのであった。 ともかく、運ばれてきた夕餉の膳を並べて酒を飲みながら明日の 予定を語らう。 ﹁俺は知り合いの道場に顔を出しに行くことにしよう﹂ ﹁ふむ⋮⋮そう言えば、その道場の相手は強いのかえ?﹂ 問いに晃之介は首肯しつつも妙な言葉を返す。 ﹁強いというか⋮⋮強そうなんだ﹂ ﹁いや、実際は?﹂ ﹁わからん。だが、とにかく強そう過ぎて、並みの相手では気圧さ れて立ち会えん。凄腕が相手でも一回も打ち合わないのに引き分け 804 にしようとどちらともなく言い出す﹂ ﹁ううむ⋮⋮﹂ 少し考えて、 ﹁お主が云うのならばそのような人なのだろうな。己れもついてい っていいかえ?﹂ ﹁んっ、九郎が行くならあたしも﹂ ﹁そうだな。門下が十人二十人は居る道場だからお前らが来ても問 題あるまい﹂ 同意が得られたところで、石燕はお房に目をやりつつ、 ﹁なら私達は勝福寺の十一面観音でも見に行こうか、房よ﹂ ﹁はぁい先生﹂ ﹁十一面観音はいいぞう、なにせ現世利益が十個も付いている。い や、特に仏像は絵にしても売れ行きがいいから房も勉強するといい﹂ お房を抱き寄せながら石燕は酒の銚子を追加で持ってきた中間に、 更に追加で注文を頼んだ。 やがてお房は腹一杯になり風呂に入ってきたらすぐに寝た。まだ 九つほどの少女だから旅で疲れたのだろうが、なんというかいつも 通りの生活習慣を保っているマイペースな娘である。 勢いで酒を飲んでいるお八が九郎の肩口をつまみつつ、うつらう つらとしている。 思い出したように石燕がうれしげに尋ねた。 ﹁そう言えば晃之介君。少しばかり尋ねたいのだが﹂ ﹁どうした?﹂ ﹁九郎君って、げゅふふっ、小さい、ふひっ、のかねっ﹂ 805 ﹁問いがゲスすぎてうまく息できてない!?﹂ 悪徳な顔で汚い笑いを漏らしつつ訊ねる石燕に、晃之介はいたっ て真面目な顔で応える。 この男は酒を飲むと見た目はそう変わらないが機嫌が良くなるの だ。 ﹁いや、でかいぞ!﹂ ﹁おいお主も﹂ ﹁これぐらいはあるな!﹂ と、筋肉質な自分の右手を出して、手首の下││下腕部の半分ほ どの所を左手で掴んでその先の手をぐっと握った。 ﹁なっ!?﹂ 石燕が絶句する。 ﹁い、いや待て!﹂ その大きさの図に半分寝かかっていたお八すら飛び起きてむきり とした彼の腕を注視した。 お八は晃之介が示した手の長さを自分の手で物差しにして、己の 座っている腰の辺りに持って行き確認する。 そして酒の回った顔を青くした。 ﹁胃に届くだろ!?﹂ ﹁いらん心配をするな⋮⋮﹂ 批難がましい言葉へと対して煩そうに九郎は耳を塞ぐのであった。 806 騒がしくもあり楽しくもあり、旅の夜は更けていくのである。 **** 夜闇に││。 行灯の明かりが照らしている、冷たい板間の道場だ。 小田原・風祭二丁目にある[黒田道場]という剣術道場である。 奉行所の剣術指南役も出した事がある道場で寛文の頃からここにあ る。 心破流という大太刀一刀流の剣術を教えていて門下は二十五名居 り、師範で道場主の黒田一道という一切を老剣士が取り仕切ってい た。 白い明かりに浮かぶ、見透かすような黒田の眼前にひれ伏すよう な大柄の男が居る。 九郎と晃之介が浴場で少しの間邂逅した、あの雑兵である。 名を佐藤唯三郎と云う。 この道場の師範代の一人である。 ﹁それで⋮⋮﹂ 老人、黒田から声がかかる。 歳の割にしわがれた所のない、はっきりとした重低音の響きだ。 佐藤は心臓を鷲掴みにされているような恐ろしさに襲われる。こ の先生は、本当に怖い。 ﹁録山の男はどうであったか﹂ 807 ﹁は⋮⋮﹂ ﹁容易い事は、あるまい。どうであった﹂ ﹁私めが見ますに、五分⋮⋮勝てぬ事は、ありますまい﹂ ﹁そうか。ならば明日、お主がやるのだ﹂ ﹁御意⋮⋮﹂ 深々と頭を下げる佐藤を一瞥して、黒田は天井にこびり付いた血 の痕を見上げて呟いた。 ﹁明日⋮⋮忌まわしき過去の禍患を終わらせる⋮⋮﹂ 闇に囚われた道場に、報いと復讐の悪意が満ちている。 それは晃之介も覚えていない過去から追いかけてきて彼を捕らえ るべく、待っていた。忘れがたき因縁を忘れる為に⋮⋮。 [つづく] 808 31話﹃暗夜行路︵中編︶﹄ 小田原・風祭に居を構える[黒田道場]の心破流開祖である黒田 宇羅は武士ではなく山伏だったらしい。 今は昔、寛文の頃に小田原にふらりと立ち寄った宇羅はたまさか、 両替商の店に泊まっていた。 山で見つけたという水晶や砂金粒を時折売りに来るその山伏を、 先代か先々代から取引をしている為に両替商は信用していて酷く身 なりが汚れていた宇羅を家に上げ湯浴みなどをさせ世話を焼いた。 そしてその晩遅くに、盗賊の一団が店の木戸を破り押し込んだと ころを、宇羅は刀一本の威圧と相手の心を読んだ言葉によって賊ら の精神を千々に乱れさせ、盗賊一味は化物に肝を潰されたようにへ なへなと身動きも取れずお縄となったのだという。 その活躍に両替商が感謝も込めて、剣術道場でも開いてはどうだ ろうかと建立の費用を出して風祭に建てたのが始まりである。 体を鍛える事、技を磨く事、心を研鑽する事の三つ、即ち心技体 を鍛錬するのが剣術の意である。 しかし特にこの黒田道場では、[心]の剣術が重視された。 心を強く持ち、また相手の心を破るようにすれば剣を交わさずと も勝負はつく。切り合わずに勝てるならばそれが一番良いというの が真髄の教えである。 初代の宇羅は山で修行をするうちに、[さとり]妖怪の技の片鱗 を手に入れたと言った程に、向かい合った相手を読み切る事を得意 とした。己の全ての行動が判られてしまっては、とても敵わない。 やがて宇羅は養子にした弟子に道場を任せてふらりと旅に出てし まったが、創始者が居なくなっても継いだ弟子の手腕良く道場を続 けている。 809 さとりの技は受け継がれなかったものの、心技体で心を重視した 剣術は太平の世となった武士社会でも覚えが良かったのだろう。 黒田道場三代目、黒田一道もまた、心の剣術を修めた剣士であっ た。小柄で痩躯ながらも全身から溢れ出るように感じる強者の念と でも云おうものか、不思議な気配に満ちていて相対したものを圧倒 させる。 短い木剣を持ち正眼に構えただけでとても打ち込めぬと相手は思 ってしまうのだ。 ﹁あの先生が外に出ると野良犬野良猫が一斉に町から消える﹂ とまで小田原では噂される程のものだった。武士や土地のやくざ 者に一目も二目も置かれている。 年を取った今でこそ、或いは尊敬されるような気質を持っている が一道が若いころは更に凶気とも云うべき荒ぶった強さであったら しい。 相手が誰であろうと憚ること無く、また恐れられていたような若 かりし頃の一道であったのだが、ある時彼の気迫をものともせぬ武 芸者と試合を交えた。 名を録山綱蔵という。 録山晃之介の父である。まだその時は晃之介は生まれて居ない頃 であった。 身の丈六尺を超えてボロボロの衣服からははち切れんばかりの筋 肉が見え、背中には二十貫はありそうな武具入れの箱を軽々と担い でいる、蓬髪に髭面で戦国武将の怨霊の如き人物である。 ﹁其れがし、武術の旅に出ている者だが││御相手していただけぬ か﹂ 810 そう言って挑まれるのは道場側としても珍しいものではなかった。 だが、大概は一道までいかずとも道場の師範代格と立ち会えば、 その気迫に飲まれてしまうような相手である。物語では無いのだか ら旅の武芸者にそうそう強い者など居ない。そもそも、剣で身を立 てられぬから地元に居られずに放浪するような輩が多いのだ。 そして綱蔵が、旅の先々で名が有り、金が有りそうな道場に挑む のもまた珍しいことではなかった。 お互いを高め合うような稽古をした結果、相手側から礼金を貰う のは恥ずべきことではないと息子にも教えていた旅行術の一つであ る。何度か、道場の子弟が復讐の為に道中で襲ってくる事態もあっ たが、ことごとく返り討ちであったという。 ともあれ、金剛力士のような大武者が現れたものだから、黒田道 場にその時居た殆どの門下は度肝を抜かれたように気圧された。 場にいて真っ向に綱蔵を見返す事が出来たのが黒田一道だけであ ったという。 こうなれば他のものではとても相手になるまい。 そう判断して一道は、 ﹁よいでしょう﹂ と、受け答え、短い木剣を持ち、道場の真中で対峙した。 綱蔵も猛獣の笑みを浮かべて道具箱に入れてある木剣を片手に構 える。 一道が構える隙のない正眼は、見るものに依って感じる威圧が異 なるという。者によれば、じんわりと厭な気配に動けず一刻も固ま ってしまい、或いは己も知らぬうちに後ろに下がって場外まで出て しまう。 気を放つとでもいうのだろうか。 少なくとも、まっとうな感覚を持つものだったならばとても迂闊 811 には打ち込めぬ、畏ろしい気配を持っている。 綱蔵もそれを感じて、 ︵ほう⋮⋮熊程度ならば追い返せそうな眼差しだが⋮⋮︶ と、感心しつつ、八相に構えた剣を無造作に叩き込んで打ち倒し たのであった。 熊を威圧できる凄みでも、修羅には通じなかったようである。 それ以来、綱蔵が小田原に立ち寄るとこの道場に寄るようになり、 また一道もその度に歓待をしていたのだが⋮⋮。 **** そもそも、綱蔵という猪武者が嫌いだったのだ。 一道は体格に優れた男ではなかった。道場師範であった父もそう であったが、子供の時分はよく体格について悩んだのである。 それでも心破流の剣法さえ極めれば、たとえ大男が挑んでも小柄 な父の前では萎縮し打ち込めもしなかったことから、ただ研鑽に励 んだ。 心を強く持ち、周囲に怯まず、視線を弛まさず、胸を張り、緩慢 にも見える余裕を身につける。 剣術の稽古も行うがそれにも様々な作法があった。多くの動きは 防御に適した剣捌きに通じるものがある。相手に手応えを見せつけ る為もあり、自ら打ち込んだりしないのだ。 812 つまりは[大物っぽさ]とでも云うべきものを身につける為の技 である。 これは、初代の宇羅が持つ覚り術を使えなかった二代目がどうに か理屈で解釈し伝えた結果なのかもしれない。 胡散臭く思えるかもしれないが、真剣にこの修業に取り組んだこ の一門は確かに強そうになった。特に、師範の一道は一流どころの 剣士でも勝負となると負けない者であった。 相手が敏感にこちらの気を感じ取れる腕前ならば、絶妙に己の大 物感が失せない機を見て一道から勝負を引き分けにする声がかかる のだ。 だがまあ特に気にしない綱蔵に一発で負けたのである。 そこまではまだ良かった。なにせこの流派、負けても大物ぶる奥 義も編み出しているのだ。いくらでも取り戻しがつく。 ﹁今の本気じゃなかったから﹂ とか、 ﹁まだ変身を残してるから﹂ や、 ﹁かまぼこが足元にあったから﹂ などという言い訳をもっともらしく、かつ大胆に展開することで 名誉は守られた。 それで関係が終わればどうでもよかったのだが、忘れた頃に旅の 道中で綱蔵がやってくる度に、小さな屈辱を感じていた。 そしてある時。 813 綱蔵の息子、晃之介から文が届いた。 無沙汰の侘びと、綱蔵が病死したことと、父が借りていた金子を 返しに参るという内容であった。 それを読んだ時はなんとも、激しい感情は生まれなかったのだが ⋮⋮ とある事により、心の有り様を変えた一道は、晃之介を討とうと 決めたのである。 一道は正座したまま、頭を下げている弟子に重々しい言葉を投げ かける。 ﹁準備は良いな﹂ ﹁は⋮⋮﹂ この日、晃之介が道場を訪れるということで朝から最後の仕掛け の確認を行っている。 真っ当に対峙し、退治するつもりは無かった。 相手は獣同然の六天流だ。 獣にはそれようの仕掛けを用意せねばならない。 かつ、こちらの名誉と矜持が守れるような[心]の篭った罠だ。 具体的には、晃之介を座らせる座布団には火薬を仕込んだ誠意あ る地雷が埋まっている。 また、壁には両側から油を噴霧器で撒いて火をつける篤実さ溢れ る火炎放射器を用意した。 そして出す茶には体の痺れを起こす善意の河豚毒を混ぜる。これ により動けなくなった晃之介は御陀仏という寸法だ。 814 晃之介の父、綱蔵ですら剣の鬼とでも云うべき怖ろしい人類だっ という川柳が残っているぐらいに河 たが、これもまた河豚に当たって死んでいるのだ。晃之介に効かな 当たると恐ろし富と鉄砲 い道理はないだろう。 豚毒は強いのである。 偶々出会った怪しい毒薬売りに、大金を払って火薬と毒を購入し た甲斐がある。 こうして、謀りごとを企む黒田一道は、血走った目で晃之介を待 つのであった。 今にも爆発しそうな復讐の炎が燻る火薬道場で⋮⋮ ﹁師範﹂ ﹁どうした﹂ ﹁芋を買ってきました。蒸かしておきますか﹂ ﹁いや、私は焼き芋が好きだが﹂ ﹁承知しました。庭で焼いておきます﹂ **** ﹁それで師匠、言っちゃあなんだけどよ、なんで金を返すんだ? 借金ってわけじゃなくて、旅費をくれたんだろ? 相手﹂ 東海道沿いに風祭へ向かう道中でお八が隣を歩く晃之介に、両手 を頭の後ろで組みながら訊ねる。 単純に浮かんだ疑問なのだろう。 815 ﹁だって師匠いつも言ってるよな。﹃いいじゃないか、ただなんだ から﹄ってさ﹂ ﹁うむ。妙な所で意地汚いというか、ねこばば根性があるというか ⋮⋮﹂ ﹁失敬な﹂ 心外そうに晃之介が眉を顰める。 ﹁返さなくていいのは悪人と獣からだけだ﹂ ﹁獣に恩を売っておくと嫁に化けて出てきてくれるかもしれんぞ﹂ 九郎の軽口に、お八が考える素振りを見せて言葉を紡ぐ。 ﹁ああ、なんかそういう話聞いたことがあるぜ。確か﹃なんとかの なんとか返し﹄⋮⋮﹂ ﹁曖昧すぎるであろう﹂ ﹁﹃秀吉の備中大返し﹄⋮⋮?﹂ ﹁サルだけど違うよな﹂ 首を傾げながらぼけて言う晃之介に首を振って否定する。 ﹁ま、とにかく世話になった人だからな。俺の親父も認めていた凄 い人でもある﹂ ﹁一人関ヶ原がのう﹂ ﹁相対した時の氣圧も常ならぬものがあるらしいが、一番はこちら の考えや初動を見て攻撃を先読みし最善の対応を行えるという判断 力が疾いらしい。体格の差で吹き飛ばしたが、親父が試合した時も しっかりと木剣を防御していたというから││その試合は見てない んだけどな﹂ 816 お八へと視線を遣りながら、 ﹁その点ではお八も女だから腕力や小手先の技術よりも心の強さを 鍛えたほうがいいのかもしれないぞ﹂ ﹁心の強さかあ⋮⋮そう言えば﹃土下座する強さが幕府を動かす。 人は彼らをゲザ奉行と呼んだ﹄って本があったな﹂ ﹁それは多分全然関係ないな。っていうか書いたの天爵堂であろう﹂ ﹁思い出しただけだぜ﹂ 軽く鼻を鳴らしてあっさりとお八も認めた。それにしても天爵堂 は奉行話を書き過ぎである。恨みでもあるのだろうか。まあ、ある のだろうが。 会話をしながら小半刻ほど歩いた。何やら遠くから鐘の音が響い て、土地の者らしき人が急ぎ九郎らを追い越して駆けていく。 軽く顔を見合わせて、 ﹁何かあったのかのう﹂ ﹁さあ。棟上げでもあるんじゃねえの? それより師匠、道場はま だなんだぜ?﹂ ﹁そろそろ見えるはずだ。周りに建物がない、広いところに建って るからな。だいたい⋮⋮﹂ 晃之介は指を前方に向けて、目を細めると徐々に彼の指は上がっ ていった。 晴れ晴れとした空に一筋、黒い煙が立ち上っている。根本にはち ろちろと炎が見えた。 ﹁⋮⋮あの辺りなんだが﹂ 817 嫌な予感が到来しつつ、三人は歩いて黒田道場を目指したのだっ たが⋮⋮。 燃えていた。 単に障子に火がついたとかそういう級位ではなく、まるで火薬や 油を仕込んでいた勢いで黒田道場は火に包まれていた。 ここひと月ほど、殆ど雨が降らずに乾燥していた事も火勢を強め る要因だろうか。 幸い周囲に建物がないので敷地内が焦土と化するだけで火災は収 まりそうだ。火の勢いに火消しも無理して消火に向かえば危ないと 判断され、周囲に燃え広がらぬように見張るのが仕事とばかりに取 り囲んでいた。 燃える道場はとても近寄れない熱量を放っている。 火消しから少しばかり離れた位置で、茫然と佇んでいる門弟と黒 田一道が居た。 ﹁黒田先生﹂ 晃之介が声をかけると、血の気が失せた顔で一道はゆっくりと振 り向く。 威厳の大いに削げたかすれ声を漏らす。 ﹁録山殿か⋮⋮﹂ ﹁御無沙汰しております。この度は⋮⋮なんといいますか、火に巻 かれた者は?﹂ 老人の光が失われた目を見返して、晃之介はひとまず尋ねた。周 囲には道場の者が項垂れているが、それが道場を失ったからなのか 仲間が焼けたからなのかは判別が付かない。 818 目を瞑って一道は首を横に振った。 ﹁居らぬ⋮⋮﹂ ﹁良かった⋮⋮と、言えるのかわかりませんが。しかし何故、火が ⋮⋮﹂ ﹁それは﹂ 一道は改めて聞かれて少しだけ言葉を詰まらせる。 明らかにこの道場の燃え盛り方は、晃之介を抹殺するために仕掛 けた燃焼物が原因である。そしてそれに火がついたのは、庭で芋を 焼くため焚き火をしていたら突然吹いた箱根からの山風で火が散ら ばり、道場のまずいところへ燃え移ったことによるものだ。 暗殺計画・違法火薬所持・火の不始末。 役満で有罪である。 即座に一道は話を作った。 ﹁わからぬ。とはいえ、長年剣客をしていれば恨みを買う事もあっ たかもしれぬ﹂ ﹁恨みからの付け火か⋮⋮許せんな﹂ 素直な晃之介は義憤に駆られて苛立った視線を燃える道場に向け て、一道の手を取り、 ﹁黒田先生。道場は焼けてしまいましたが先生が居るのです。弟子 が居るのです。建て直し、また剣の教えを説いていく事をきっと皆 望んでいます﹂ ﹁そうだろうか⋮⋮﹂ ﹁俺の道場など、嵐で壊れ閑古鳥は鳴き弟子はいまだに一人しか居 着きませんがなんとかやっているのです。立派である心破流がここ で潰えるのは、いけません﹂ 819 ﹁そうです先生!﹂ ﹁先生、また道場を建てましょう!﹂ ﹁録山殿⋮⋮お前ら⋮⋮﹂ 晃之介と、弟子の奮起の声に一道は熱いものがこみ上げてくるの を感じた。勿論弟子の全ては師範である一道を心酔しているものだ から、彼の指示による焼き芋とか爆殺装置とかが原因とは決して言 わない。 そしてまっすぐで澄んだ目をしている晃之介の顔が、どうにもバ ツが悪くて見ることが出来ない。 あの野獣ですら心優しく見えるぎらついた録山綱蔵の目とは大違 いだ。 ﹁黒田先生。少ないですが、親父が借りていた金をお返し致します。 道場の再建に役立ててください﹂ そう言って、彼の手に小判十五枚が入った包みを握らせた。 自分はこのような若者を暗殺しようとしていたのか。何が五分五 分だというのか。なんかノリで意味のない悪い相談みたいな真似ま でしたというのに。 熱に浮かされていたとしか言い様がない。今朝までの自分を爆殺 してやりたい気分だ。 そもそも時々イジメに来ていた男の息子を抹殺するとかサイコの 発想だ。なぜこのような事に⋮⋮ 一道は恥ずかしさと有り難さに、威厳もなく俯いてしまった。 ﹁すまん、すまん⋮⋮﹂ 謝りの言葉を発している一道。 とりあえず何やら込み入った様子だったので、尻目に九郎とお八 820 はやや離れた所から火事を眺めていた。 ﹁ってかすげえな。火の勢い。蝋燭問屋が燃えた時並だぜ﹂ ﹁ふうむ。燃えやすいものでもあったのかのう⋮⋮どことなく、硝 煙の臭いがするが﹂ ﹁剣術道場だぜ? 花火の火薬なんか置いてるわけねえし﹂ ﹁そうではあるが﹂ 近くから聞こえる声に一道は顔を強ばらせて頭を働かせる。 良い言い訳は無いものか。 頭に、火炎放射の仕掛けと火薬と毒を売りつけた怪しい薬売りの 姿が浮かんだ。 思えばその胡散臭く、奇怪な容貌をした薬売りの話を聞いている うちに何故かもやもやと晃之介への、逆恨みのような念が浮かんで きた気がしてならない。 そもそも毒とか火薬とか売る奴が真っ当である筈がない。見た目 も凄まじく異形だった。 だから思いっきり罪をなすりつける気分で、言った。 ﹁⋮⋮は! まさかあの時の⋮⋮!﹂ ﹁黒田先生。なにか賊に心当たりが﹂ ﹁うむ⋮⋮。実はこの前、当道場に怪しげな面を被った薬売りが来 てな。何やら⋮⋮その⋮⋮悪霊の如きものが建物に取り憑いている という話を聞いて、床下などに札を貼らせて欲しいと﹂ ﹁怪しげな⋮⋮面? 面が怪しげというか、面を被っている薬売り というだけで十二分に怪しい﹂ 晃之介が頷くが、九郎とお八は渋そうにした顔を合わせて、 ﹁なんかすっごく聞き覚えのある特徴だのう﹂ 821 ﹁いや、さすがに火付けはしねえだろ⋮⋮たぶん﹂ 言った瞬間、お八の顔の横から、赤い隈取のされた狐面がぬっと 現れた。 そして脳に染み渡るようなしっとりとした甘い青年の声が、面の 口元から発せられる。 ﹁呼びましたかい?﹂ ﹁ひゃあ!?﹂ ﹁おっと、こいつは失礼⋮⋮くくく﹂ 人を喰った笑みで登場したのは、仮面の薬売り阿部将翁である。 背中に重そうな薬箪笥を背負い、遠出に適しているようには見え ない高下駄を履いた変わった男だが、しょっちゅう旅をしている流 浪で神出鬼没な男である。 ﹁それにしても﹂ く、と笑いを零しながら火災をちらりと見て、一道の方へ歩き出 した。 ﹁よく、燃えたものだ﹂ か、か、と下駄の音を鳴らし近寄ってくる将翁に、晃之介が声を かける。 ﹁将翁殿か⋮⋮む、いや、疑うわけではないが、黒田先生⋮⋮﹂ ﹁いや、録山殿。確かに面を被っているようだが⋮⋮あの形ではな いよ﹂ 822 少しほっとする晃之介。さすがに知り合いが、恩人の道場を燃や した火付けの犯人と思いたくはない。 将翁は一道の目の前に立ち、挨拶をした。 ﹁どうも、あたしと似たような輩が居るようで﹂ ﹁ふむ⋮⋮感じる気質は正反対なのに、確かに何処か似ている﹂ ﹁⋮⋮御無礼﹂ ﹁む!?﹂ 将翁は何気ない動作で被っていた狐面を横顔にずらして、白粉を 塗ったような白い顔と狐目を現し、一道の顔へ近寄せた。 何事かと思って離れようとする一道の顎を、そっと細く冷たい指 で抑えて至近から彼の血走った目をじっと見つめる。 不思議な、見たことのない深みと色を携える将翁の細めた瞳に魅 入られて、[心]の剣術達人である一道は原因不明の冷や汗を流し た。 薄く紅を塗ってある形の良い口がくすぐるように動く。 ﹁目を││病んでいるようですぜ﹂ ﹁ん、目、目⋮⋮?﹂ ﹁もしかして││その毒薬売りに顔を触られたとか││このままじ ゃあ、目が爛れちまいます、よ﹂ ﹁はふぅん⋮⋮﹂ 口付けには遠く愛を語らうには近い距離から放たれる妖気混じり の色っぽいイケメンボイスと脳髄を溶かして混ぜる芳しいイケメン ブレスで、思わず悩ましげな吐息が一道から漏れた。道場の弟子た ちは皆そっぽ向いて耳を塞ぐ優しさがあった。 背後に少女漫画めいた花が咲き誇りそうだ。男女構わず惑わすサ キュバス並の魅了を持つ将翁にお八を守りつつやや引く九郎。 823 それにしても、一道は確かにここ数日は目から疼痛がしてどうも 開くのも辛くなってきたのは本当であった。確か、毒薬売りから惑 わし復讐を仄めかす言葉を受けた時に軽く顔に指を触れられた記憶 もあった。 一道から離れて、袖口から小瓶を取り出す。 ﹁この目薬を差すといい。一日二回、一週間も続ければ治ります﹂ ﹁はい││ご、ごほん!うむ﹂ 咳払いをして返事を言い直す一道。 九郎はしきりに頷きながら特に関係の無いことを口にする。 ﹁目薬といえば己れが昔やってたばいと⋮⋮いや、飲み屋の手伝い では、常連客の指示があったら其奴が連れてきた女性に出す酒に目 薬を垂らすように言われていてのう﹂ ﹁酒に目薬ぃ? なんの意味があるんだそりゃ﹂ ﹁なんだったかのう。一時期都市伝説みたいに流行っておったのだ よ、確か﹂ 爺さんの回春はともかく、 ﹁宜しければその││毒薬売りの事をお聞かせ願いたく⋮⋮﹂ 再び狐面を被った将翁が訊ねると、一道は腕を組んで思い出す。 それと出会ったのはそう前のことではないのに、既に記憶が不自 然なまでに朧げになっていたが、脳髄の井戸に落とした釣瓶で掬う ように言葉にした。 ﹁ううむ⋮⋮その薬売りも面を被っていたが、そなたと違って赤く 染めた、炎のような造形の奇異な面であった。それに顔は隠してい 824 たがその下は老人であったと思う。 ぼろぼろの法衣を着ていて、不思議と落ち着き耳に響く声をして いた。確か⋮⋮﹃さんにや﹄だか、﹃なんとか法師﹄だと名乗って いたが。すまない、後者は何法師と名乗っていたか覚えていないの だ﹂ ﹁⋮⋮﹃さんにや﹄﹂ ﹁屋号かのう? あまり聞き覚えのない言葉だが﹂ 九郎が首を捻るが、それを聞き満足したのか将翁は踵を返した。 ﹁⋮⋮それじゃあ、あたしはここで。ああ、九郎殿にも一応ご忠告 を。その赤い面の男は、近づかない方がいい﹂ ﹁まあ、危なそうではあるが﹂ ﹁そいつの吐く息と言葉には毒がある。近くで会話をしていると気 が狂わせられる。 そいつの手指は毒で出来ている。触れれば毒を写される。 関わってはいけない。あれは、病の気から生まれた、人と異なる 法で生きる││魔の物だ﹂ そう言って、鹹々︵からから︶と音を立てて将翁は歩き去ってい く。 何処へ向かうのかは、誰も判らぬ。 一度だけ立ち止まって、思い出したように、 ﹁あぁ、そう云えば﹂ 空を指さし、 ﹁小田原には、薬草畑の管理人に頼まれて雨乞いの儀を行いに来た のでして。すぐに、雨が降り火も消えます││よ﹂ 825 彼がそう告げて、四半刻もしないうちに、空から大粒の雨が降り 注ぐのであった。 **** 雨は止まぬようなので、仕方なく三人は宿に戻った。 雨時に観光をするのもあまり気が乗らぬし、黒田道場の面々は後 始末等で忙しそうだ。 暇なので室内で出来る鍛錬とやらを行ったりしていた。逆立ちを して腕の屈伸を行うのは、晃之介と九郎は楽々に出来たがお八はど う頑張っても不可能であった。むしろ、逆立ちの際に着物が裾から 肌蹴たのでそれを見た九郎に逆立ちからの蹴りを放ったが、易易受 け止められた。 謎掛けなども旅の合間中行い、ネタも尽きてきている。 うろ覚えでお八が問うに、 ﹁ええと、上は洪水、下は大水これなーんだ。あれ? 上が大水、 下が洪水だっけか?﹂ ﹁どっちにせよヒャクパー水しか無いな、その状況﹂ などと九郎からやる気ないツッコミを受けていた。 暫くすると石燕らも宿に戻ってきた。 ﹁いやあ、雨には参るね﹂ 826 ﹁先生、雨宿りすればいいのに蛇の目をすぐに買ったりして⋮⋮一 両もしたのに﹂ 大事そうに濡れた傘を抱えてお房は石燕に続き部屋に入ってくる。 その傘は石燕が無造作に、宿の入口に置いておこうとしたので慌て て回収したのだ。 蛇の目傘は複数の職人に仕事を分担させて作る手間賃もあり、当 時の日用品としては一等に高級なのだ。傘の修理業者は当然として、 レンタル傘屋もあったぐらいである。 当然、そのようなものを管理外に置いておく事は避けるべきであ るのだが、石燕は気にした様子はない。 寝転がりながら九郎が云う。 ﹁なんでも将翁の奴が雨乞いの儀式で降らしたらしいぞ、これ﹂ ﹁あの陰陽師め。まあしかし、狐が呼んだ雨ならば明日にはからり と上がっているだろう﹂ ﹁狐の嫁入りか﹂ ﹁そうだね。そういえば狐は昔から嫁入りしまくる動物として人間 にも愛好されているのだよ。とんだ異常性癖だね。 ある話に拠れば、狐が人間の嫁に為ったのだけれどある日正体が バレてこっそり出ていこうとする。しかし夫の人間は出て行った狐 に、﹃こっちに来つ寝ろ﹄と呼びかける。これで来つ寝からきつね と呼ばれるようになったとか。 それにかの有名な、安倍晴明の母親も狐だったと言われているし、 薩摩国島津家の祖もお産に化け狐が手伝ってくれたことから稲荷神 社を信仰するようになったとまあ、狐は人に親しい獣だったのだ﹂ ﹁饒舌だのう。なにか良いことでもあったのか?﹂ ﹁ふふふ、まあね。いい話を聞いてね﹂ 機嫌の良さそうに石燕は茶碗に酒を注いで、震える手で口元に持 827 って行ってぐい、と清酒を飲んだ。手が震えるのはアルコール依存 症のせいだ。 ほう、と焼けた吐息を放ち血色の良い顔色を見せる。 九郎はこの物知り絵描きにふと気になった事を聞いてみる。 ﹁なあ石燕。﹃さんにや﹄って知ってるか?﹂ ﹁うん? 妖怪のことかね?﹂ ﹁いや実はな⋮⋮﹂ と、黒田道場が焼けた顛末を説明し、それに登場する怪しげな面 の毒薬売りについてのことだと言った。 晃之介も感心があるようで、座り直して石燕を見ている。 ﹁ふむ、仮面、毒、そして﹃さんにや﹄⋮⋮確かにそれは妖かしの 事だね﹂ ﹁妖怪か⋮⋮﹂ 難しそうに晃之介は唸る。 なまじ、恨みのある犯人というより正体の判らぬ妖怪の仕業とい う方が厄い事態に思える。 石燕は眼鏡を拭きながら云う。 ﹁サンニヤというのはその特徴通り、仮面を被った病魔の事でね。 日本でいうところの、疱瘡神に近い存在だね﹂ ﹁包装紙?﹂ 問い返すお八に、石燕ではなくお房が説明する。 ﹁疱瘡神はその名の通り疱瘡の病気を擬神化した神様なの。百済や 新羅から伝わったと言われてる疱瘡は、当初呪いとか祟りだと思わ 828 れてたから神に祀って荒魂を抑えようとしてたの﹂ ﹁へえ、さすが妖怪先生の弟子だな﹂ お八は感心しつつ、干菓子を齧っているとお房も近くに寄ってき て菓子を強奪し始めた。右手に茶、左手に菓子の隙のない布陣であ る。 何処か嬉しそうに石燕は鼻を鳴らして、もう一杯酒を飲んだ。九 郎が疑問を訊ねる。 ﹁む? 日本では、と言うことはサンニヤとやらは日本の妖怪では ないのか?﹂ ﹁そうだね。大雑把に言えば印度辺りで伝えられている妖かしだ。 十八種類の仮面を被りそれぞれに対応した疫病││いや、病という 分類よりも多くの障害をもたらすとされている﹂ ﹁ちなみに、その障害とは?﹂ ﹁わかりやすい病魔として、風邪・伝染病など。体への直接影響と しては、不具・盲目など。精神に及ぼすものは、狂気・悪夢など手 広く扱っているようだね。そしてサンニヤの親玉は﹃サンニヤカー﹄ とも呼ばれる﹂ 晃之介が腕を組んで首を傾げながら、 ﹁しかし、印度の妖怪なんかが何故この国に?﹂ ﹁ふふふ良い所に気がついたね晃之介君。確かにサンニヤなんて知 名度が低い名前の妖かしなのだが、その上司的存在が有名所でね。 日本に渡ってきている大御所なので、それにくっついて本邦に伝わ っているのだよ﹂ ﹁妖怪に上司とか部下とかあるのか?﹂ ﹁ま、妖かしというのは名目上の事で元は凋落した神であるという のは珍しく無いね? そしてその超有名上司の名は﹃ヴァイシュラ 829 ヴァナ﹄⋮⋮なにが凄いって、﹃ヴァ﹄が二回も名前に使われてい る! 力強さと流麗さを兼ね備えた、若い子に人気が出そうな格好 いい名前だね!?﹂ ﹁⋮⋮知ってるか?﹂ ﹁いや﹂ 男二人がぱっとその有名上司について思い浮かばず、言葉を交わ した。 石燕は半紙と筆を取り出して、さらさらと文字を書く。 ﹁梵語ではなく漢字で書いたほうがわかりやすいかね? こういう 名の神なのだが﹂ 紙を二人に見せると、そこには﹃毘沙門﹄と書かれている。 これには二人も﹁ああ﹂と手を打って納得する。 ﹁毘沙門天か、四天王の﹂ ﹁それなら有名だの﹂ お八が手を上げて質問をする。 ﹁石姉、毘沙門様っていうとその部下はええと、上杉謙信とかそう ちから いうのじゃないのか? なんで疫病神が部下になってるんだ?﹂ ﹁上杉謙信は別に部下ではないよ。彼が信仰し毘沙門力を手にして いたとされるだけさ。正しくは百足などが神使なのだが、サンニヤ カーは所謂眷属でね。 別名をヤカー、或いはヤクシャ族とも呼ばれる一族の王、クベー ラが毘沙門天になったと言われている。それが仏教に取り入れられ て日本に渡るに当たって、ヤクシャも名を変えて入ってきた。 ﹃ヤシャ﹄と言えば聞き覚えのある名前なのではないかな?﹂ 830 毘沙門の隣に﹃夜叉﹄と書いて示した。 そう言われれば、確かに知っている名称ではあると九郎も頷く。 ﹁へえ⋮⋮夜叉ってなんかこう、鬼の一種みたいな漠然とした印象 だったのだが毘沙門天の配下なのか﹂ ﹁道教的に言えば鬼は死霊や人を喰らう化物だが、仏教的に言えば 獄卒も鬼ではあるけれど仏神の一種であるのさ。まあ、元が疫病神 だっただけあって仏教に併合されてもまだ荒っぽい属性が抜けない が。 いまだに印度の南にある、もともとサンニヤが居た島では病魔と して祀られているそうだしね﹂ その場所は現代で云うところの、スリランカだと伝えられている。 石燕は少し考え、 ﹁しかし病魔の妖怪が現れたか⋮⋮興味はあるものの、私は病気に 弱いからなあ﹂ ﹁確かにな。将翁も関わるなと言っておったぞ﹂ 彼女は体が弱く、病気にかかれば治りにくい体質なのだ。アルコ ール依存症も病気の一種かもしれないが、こちらは二度と治る気が しないのではあったが。 肩を大げさに竦めて、軽い調子で云う。 ﹁ま、火と毒属性のその相手には、丁度相反する木と薬属性な将翁 に任せておこうかね﹂ ﹁あやつ、木属性なのか?﹂ ﹁怪しげな術で雨を呼んだのだろう﹂ ﹁雨って水じゃねえの?﹂ 831 ﹁五行での水属性というのは流れる川を表すんだ。天から降ってく るものは、天に向かって伸びる木の属性だと考えられている。そも そも﹃雨﹄という漢字の成り立ちは、﹃木﹄の字に点が四つ付いた 状態から生まれたのだよ﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 石燕以外の四人は自分の手のひらに漢字を指で書いてみて、成程 と頷いた。 ちなみに、石燕個人の説であるので普遍的な考えというわけでは ないが、当然のことのように説明されるとつい信じてしまうのであ った。 酒を茶のようにずず、と音を立てて啜り続けて云う。 ﹁サンニヤ仮面の事はともかく。それはなんとか法師とも名乗って いたんだって?﹂ ﹁ああ。黒田先生はそう言っていたな﹂ ﹁奇遇だね。私の方も││そっちとは恐らく関係ないけど││法師 の妖怪が熱海の海で出ていると噂を聞いた。早速明日出立して探し に行こうではないか﹂ なにやら嬉しそうにしていたのは、妖怪探しのネタを手に入れた からのようである。 九郎が前に石燕と海坊主を見に行った時を思い出して、言った。 アザラシ ﹁⋮⋮また海坊主じゃないよな。そんなに離れていないが、江ノ島 から﹂ ﹁違う違う。最近熱海に現れた妖怪は⋮⋮﹂ 石燕が再び筆でさっと紙に妖怪の名前を書く。 そしてにやりとして好奇心に光る目を向けながら楽しそうに告げ 832 た。 ﹁﹃海難法師﹄だ﹂ **** 夜だ。 黄昏時を過ぎて、水面はどこまで照らしても黒色を返す。 相模湾の静かな波間に、風が吹けばひっくり返るような小舟が浮 かんでいる。 舟に篝火を灯し、烏賊などを釣る舟だ。二人の、中年男が釣り竿 を垂らして漁を行っていた。 秋の夜だというのに、良い風が吹かずじめりとした空気が漂って いる。 ﹁なあ﹂ 頭の禿げた小太りの男が、もう一人の舟の持ち主である男に呼び かける。 だが、反応は帰ってこずに苛々した様子で再び声を上げた。 833 ﹁なあってよ!﹂ ﹁叫ばなくても聞こえるだろうが﹂ ﹁返事をしろよ、おい。そろそろ陸に戻らねえか?﹂ ﹁ばか﹂ 短く言葉を切り捨てて、鉢巻をした日焼けで肌の黒々としている 男は睨んだ。 ﹁坊主で帰れるか、くそったれ。こうなりゃ夜にでもならねえと、 魚も食いつかねえだろ﹂ ﹁でもよう、噂は聞いてるよな? 出るんだぜ、最近││海難法師 が﹂ ﹁馬鹿馬鹿しい﹂ 唾を海に吐いて、だみ声を唸らせ竿を乱暴に振る。 今日はまだまったく魚が釣れていないのだ。 ﹁海難法師だか、海坊主だか知らねえが、坊主で帰ったら母ちゃん に殺されるだろうが﹂ ﹁でもよう、母ちゃんは一晩経てば忘れてくれるけど、化けもんに あったらお終いなんだぞ﹂ 震えながら禿男は、篝火の心もとない明かりで照らされる周囲を 見回す。 うんざりと船主がかぶりを振る。海に出れば危険が無数にあるこ となど承知して、何年漁師をやってきたと思っているのだ。 ﹁だいたい、お前だって念のためとか言って、海妖怪に効く真水と か酒とか、変な狐面の薬売りから買ってたよな? 出てきたらあれ を使えばいい﹂ 834 ﹁本気で真水ぶっかけただけで妖怪が逃げていくわけないだろ!﹂ ﹁じゃあ金払ってまで買うなよ! ばかが!﹂ ﹁気休めだよ!﹂ ぎゃあぎゃあと言い争うも、声が反響すらしない海の上ではむし ろゾッとするほど音が吸い込まれていって、余計に陰鬱な不安に襲 われてしまう。 不意に、ぬるいのに底冷えのする風が吹いて二人の言い争いに水 を差した。 黙ると再び静寂が訪れる。陸と違い、虫や鳥の鳴き声もしない。 船主は不満そうに、頭を掻きむしった。 ﹁ちっ⋮⋮こうも辛気臭くちゃ確かに釣れるものも釣れねえ﹂ ﹁じゃあよう﹂ ﹁だが、晩飯ぐらいは釣っていかねえといけねえだろうが。一匹釣 れたら帰ぇるぞ﹂ ﹁おうさ﹂ ほっと安心した禿男も急いで釣るべしと竿を振るった。 いつもはよく釣れるのに、どうもこの日は可怪しい。 そう思いつつも早く帰るために、竿が動く事を祈った。 暫く。 経過しただろうか⋮⋮。 無言で竿の先を見つめる二人の耳に、奇妙な響きが聞こえた。 ﹃││お⋮⋮﹄ 体が強張る。 舟の反対側で釣る船主に、声をかけようかと悩んだが、再び聞こ える。 835 ﹃⋮⋮ろぉ﹄ ﹁⋮⋮お、おい﹂ ﹁不気味な声を出すんじゃねえぞ⋮⋮﹂ ﹁俺じゃない⋮⋮!﹂ 否定の声をひねり出す。 耳を澄ますと、波間を小さく掻き分ける音が近くから聞こえてく る。 噂によると相模湾に現れた海難法師は、海を盥に乗って移動して いる。その見た目は水膨れした水死体が損壊して藤壺や海藻がびっ しりと生えて、船虫が穴だらけの体を這い回っている││らしい。 実際に見た者は居ない。なぜならば、 ││海難法師は見たら死ぬと言われているからだ。 ﹃⋮⋮ろ⋮⋮⋮⋮ろ⋮⋮﹄ 声が近寄ってくる。 竿を落として、禿男は船主の方へ這い寄って必死に彼の服を引っ 張った。 唾を飛ばしながら青ざめて、叫ぶ。 ﹁出たんだよ、海難法師が!﹂ ﹁どうするんだ!?﹂ ﹁と、とにかく、見るな! 絶対、見るなよ!﹂ 言い合っていると、腐乱臭とでも云うべき臭いが漂ってくる。 ざあざあと海を進む水音が近寄ってきた。 二人は目を瞑り、蹲る。 836 ﹃⋮⋮ぁ⋮⋮ろぉ⋮⋮ろ⋮⋮﹄ 舟が小さい何かにぶつかる音がした。 びしゃ、びしゃ、と濡れた手が船体を掴む。 ﹁上がってきた⋮⋮﹂ ﹁ひいぃぃ﹂ 臭いが││腐った臭いが、鼻に刺さり涙さえ出てくる。 舟にずるりと這い上がってくる。 びちゃり⋮⋮粘性を持つ水が、二人の足に跳ねた。 ﹁ううああああ﹂ ﹁絶対、目を開けるな⋮⋮!﹂ もはや海難法師の息遣いさえ聞こえてくる。汚汁まみれの魚の臭 いが、耳に吹きつけられて吐き気を覚え全身の毛穴が膨れる気分だ った。 ぶしゅう、と生物の潰れた音とにちゃにちゃと不快な咀嚼音が聞 こえる。 ﹃⋮⋮ぁぁ⋮⋮ろぉ⋮⋮﹄ もはや、限界だった。 祈りの言葉を胸中で呟いて、どちらが速いか漁師二人は舟から着 の身着のまま、海に飛び込んで泳ぎ逃げ出した。 文字に表せぬ叫び声を上げて、必死に舟から遠ざかる方向へ逃げ ていく。 舟に残った、真っ黒の人影はそれを見送って、海の底まで響く声 837 を上げるのであった。 ﹃⋮⋮まぁ⋮⋮ろぉ││││﹄ 海難法師。 熱海近くの沿岸に現れている怪異は││陸に辿りつけぬ怨霊は、 くさやを食いながら篝火に照らされていた⋮⋮。 <つづく> 838 32話﹃暗夜行路︵後編︶﹄ 熱海・海岸町の砂浜に舟が打ち上がっていた。 小さな個人所有の漁船である。船上で篝火が焚かれていたが、倒 れたのか大きな焦げ跡が残っているが舟としてはまだ使えそうなも のであった。 それの周りに土地の漁師たちが集まり、暗いな顔つきで話をして いる。 ﹁おい、これって与平達が海難法師に遭ってよう、捨てて逃げたっ ていう舟だろう﹂ ﹁おっかねえなあ⋮⋮舟ごと坊さんに燃やしてもらったほうがいい んじゃねえか?﹂ 昨日の事だったが、漁に出かけた男二人が命からがらといった様 子で泳いで戻ってきたのである。 なんでも近頃噂になっている[海難法師]に出くわしたとかで、 真っ青にした顔をして家に閉じこもってしまった。その顔を見れば 海難者の道連れにされてしまうと言われているかの海妖怪は、漁師 達の間でも畏れられている。 一説に拠れば、新島や伊豆諸島へ島流しにあった罪人が、島を逃 げ出そうと小舟で海に出て遭難した怨霊だという。 近頃熱海では三例ほど目撃証言がある。最初の遭遇者が見事に生 還し、危険を告知したものだからなんとか死人は出ていないのだが、 なんとも薄気味悪い雰囲気は消えずに漁師らは活気に欠けていた。 ﹁ほらほら! うちの舟をじろじろ見てるんじゃないよ!﹂ 839 叫びながらずんずんと大股で舟に近寄ってきたのは、頭に手ぬぐ いを巻いた中年女性だ。 ぷっくりとして日に焼けた片手に、顔色の悪い亭主を引っ張って きている。 海難法師に襲われた舟の持ち主である。 ﹁おおおおいいい、おっ母よう、明らかにその舟呪われてるって絶 対ぇえええ⋮⋮﹂ ﹁五月蠅いね。舟を無くしてどうやって食っていくんだい、このト ンチキ!﹂ ﹁俺も多分寿命半分ぐらい削られてるってばあああ⋮⋮うう、生臭 い息がかかった感触がいまだに蘇る﹂ ﹁寿命半分なら二倍稼いで来な、ヒョウロク玉! 舟に穴が開いて ないかさっさと確認しろ!﹂ へっぴり腰になった夫の尻を蹴りながら指示を出すが、やはり嫌 そうに舟に近寄らない。 たとえ妖怪でなかったとしても、腐壊した溺死体の如き物体が這 い回った形跡がある舟なのだ。気分が良い筈も無いだろう。 海藻のぬるぬるした粘液や仄かなくさや臭がして顔を顰める。 いっそ沈没でもしてくれたほうが諦めも付いたのだが。 前門の呪舟、後門の母ちゃん。 進退窮まる様子の男に、よく通る女の声がかけられた。 ﹁この世には目には見えない闇の住人たちがいる⋮⋮彼らは時とし てなんか襲ってくる﹂ ﹁端折ったな﹂ ゆらゆらと旅装束で眼鏡をかけた奇妙な女││石燕が歩み寄って きていた。 840 後ろから眠そうな半眼の九郎も、道を外れて砂浜へ降りてきてい る。 蠱惑的な笑みを浮かべている石燕は、注目を浴びたことに小さな 満足を覚えつつ、妙な拍子をつけて機嫌よさそうに謳う。 けふ ﹁今日かーらー1等ー格好良ーきーかなー!﹂ ﹁歌うな﹂ 辛辣なツッコミにも耳を貸さずに、石燕は腰に手を当てて漁師達 に名乗る。 ア ﹁ふふふ私は三千世界の鴉を落とす勢いで有名な地獄先生・鳥山石 燕だよ! 退魔師的な事もやっている!﹂ ﹁詐称をするなよ⋮⋮﹂ カシャ ﹁ここには邪悪な悪霊の気配がするね! くっ右目に封印された阿 迦奢の魔眼が疼く!﹂ ﹁初めて聞いたが﹂ 片目を抑えだした石燕に冷たい視線を送る。 残念な目配せをした漁師が声をかけてきた。 ﹁それで、あんたは何なんだ﹂ ﹁海難法師でお困りのように見えたからね。霊験あらたかなこの私 が不安を取り除いてしんぜようではないか!﹂ ﹁いや⋮⋮そういうお祓いとかは坊さんに頼んだほうが﹂ 胡散臭そうな色が灯った目線を向けつつ断ってくる漁師に、くわ っと石燕は目を向き悪魔的な手振りを見せつつ朗々と語る。 ﹁それは愚策というものだよ! いいかね? 相手は海難法師⋮⋮ 841 つまり仏法僧の妖怪なのだよ? 坊主と同類ではないか! 同じ穴 の六科伯父さんだよ!﹂ ﹁うちのお父さんを引き合いに出さないで欲しいの﹂ ﹁房よ⋮⋮お前の親父殿は、のっぺら顔の屋台に入っても気にせず に飯を食って行くような男だからな⋮⋮ああなるんじゃないぞ⋮⋮﹂ ﹁細かい事を気にしなすぎるの﹂ 溜息混じりに肩をすくめた。 どうも、彼女は風情や恐れの感情が少ない叔父の六科には呆れを 感じている。 ﹁ともあれ諸君。この超巫女的な私に話を聞かせてみたまえ。見事 に成仏させてあげようではないか!﹂ ﹁巫女なのか退魔師なのか仏教徒なのか、軸がブレすぎであろう⋮ ⋮﹂ ﹁九郎もいちいち石姉にツッコミ入れてると疲れるぜ?﹂ 同情的な眼差しを含めてお八に肩を叩かれる。 旅の途中、熱海に入ったばかりの街道沿いにある浜でのことであ った。 **** 海難法師。 名前から印象されるところだと、生涯海難に会いまくっていた仏 僧の鑑真が思い浮かぶが特に関係無いようだ。毎回とばっちりで浮 842 かんでくるのだが、実に関係がない。 歴史としては古い妖怪というほどではなく、名前が囁かれたのは 江戸期に入ってからである。 発祥は伊豆諸島で、悪代官であった男を島民が共謀し沖に流した 怨霊であると言われていて、海難死体そのものの姿と為ったこの妖 怪を目撃したら、目撃者もまた同じ姿に為って死ぬという話が初期 の事である。 また、それ以外にも悪代官に流された島民の怨霊、島流しにあっ た罪人の怨霊や海座頭、海入道と同じ妖怪とする話まで様々なアレ ンジされた話がある。 ﹁││それで、俺と竹吉の二人は命からがら、舟から飛び降りて岸 まで目を閉じたまま泳いで逃げたんだ﹂ ﹁ほうほう。しかしそれでよく岸に泳ぎつけたね﹂ ﹁ああ、この辺りは潮の流れを読めば目を瞑っていても位置がわか るからなあ⋮⋮それに必死だったから﹂ ﹁まあ私なら飛び込んだ瞬間心臓麻痺で死ぬだろうがね﹂ ﹁弱っ﹂ 漁師から話を聞きながら石燕は舟に登って︵九郎に抱えて登らせ てもらった︶海難法師が這った痕などを丹念に探っている。 九郎もしゃがみ込んで確認するが、確かにウミウシでも這いずり まわったような気色の悪い変色を舟の板がしていた。また、海藻の ゴミなどもこびり着いていて、やけに臭い。 舟に積まれていたと思しき真水の入った壺の中身は空だった。こ ぼれたのか、海難法師が漂流中にやっと真水にありつけたと喜んで 飲み干したのか⋮⋮ ︵いや、妖怪がそんなことはしないか︶ 843 小さくかぶりを振って考えを止めた。 ﹁むうう⋮⋮これはビンビン妖気を感じるよ九郎君! だって臭い し!﹂ ﹁まあ⋮⋮確かに臭いが﹂ まるで篝火でくさやを炙って食ったような匂いが舟に染み込んで いる。異常と言えば異常で、この匂いの嫌いな少女二人は既に離れ た場所で晃之介の釣りを見物したりしていた。 浜釣りだがあの微妙に短い竿と糸で釣れるのだろうかとやや気に なる。 石燕は船底を確認している漁師に問いかけた。 ﹁そっちの破損はあったかね?﹂ ﹁いやあ、特に座礁したりもしてねえみてえで﹂ ﹁ふむ。やはり海難法師か﹂ 彼女は九郎へ向き直り、 ﹁船幽霊、海坊主や海座頭と海難法師の違いは、舟を壊すか壊さな いかで分類される事があるのだよ、九郎君﹂ ﹁そういえば、船幽霊は水を柄杓で注いできて、海坊主などは舟を 揺らしたりして襲うのう﹂ ﹁一方で海座頭は特殊攻撃を得意とする。見られたり、関わったら 死ぬ系の妖怪は結構いるのだが、見ると死ぬ系というのは意外に少 ない。 まあ、中には見ても死なない人もいるかもしれないけどね。房の 母親のお六さんなど、畑の真ん中で何かくねくねしていた妖怪っぽ いのを鎌で切り取ってきて鍋に入れて食ったそうだ﹂ ﹁妖怪ハンターか何かか、あの夫妻は﹂ 844 六科もそうだが、お六もやけに正気度が高かったようである。 食い意地という点では、釣りをしている晃之介の後ろでもう焚き 火の準備をしているお房にも受け継がれているのかもしれないが。 ふと、石燕が手元の短冊のような細長い紙にさらさらと絵を描い ているのを九郎は覗きこんだ。 さすがに絵がうまく、簡潔にそれは顔や体にびっしりと牡蠣や藤 壺を張り付かせた妖怪の姿であることが見て取れる。 足音を立てて、漁師の女房が帰ってきた。 ﹁巫女さん、竈の灰を持ってこいって言われたから集めてきたけど、 これでいいのかい?﹂ ﹁そうだね。浄めの灰という奴だよ。炭の粉でもいいのだがね、少 し撒くよ?﹂ と、竹笊ごと灰を受け取って海難法師が歩き回った船上にばさば さと降りかける。 九郎にはそれがどれだけ儀礼的に効果があるのか知らなかったが、 少なくともぬめりのようなものは取れて消臭にもなるだろう。 舞うように灰を撒いて小さく歌を口ずさんでいる石燕は、神楽を 舞っている巫女に見えなくもない。 彼女の高く澄んだ声で紡ぐ歌は、真面目に謳っている時には素直 に美しいと九郎も思う。 ﹁││君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで ││あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうが せ身骸に命 千歳という 845 ││花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ 釣尾にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや⋮⋮﹂ ︵⋮⋮はて?︶ 石燕の歌自体は聞いたことのない拍子であったのだが、歌詞には 聞き覚えがあった為に九郎は首を傾げる。 海神を祀る志賀海神社の神楽歌である。 石燕が旅の最中で一度だけその神楽を見て記憶していたものを唱 えているのだ。 漁師夫妻もぽかんと口を半開きにして、何処か別の世界の天女の ような雰囲気で神楽を舞う石燕を見上げていた。その目には胡散臭 そうな疑いの色は見えず、ただ彼女が神事を行った事に間違いない のだという信心がある。 歌を終えて石燕が微笑みかけると、思わず手を合わせて頭を下げ た程だ。 ﹁さ、船主よ、この御札を舟に貼っておけば後は大丈夫だよ﹂ ﹁へ、へえ。⋮⋮これは、海難法師の絵⋮⋮?﹂ 石燕が先程描いた絵と、古めかしい呪文らしきものが書かれてい る札である。 彼女は否定の言葉を放つ。 ﹁いいや、これは海神の﹃安曇磯良﹄さ。見ての通り海難法師のよ うな醜い姿だが、海難避けのご利益があるありがたい神様でね﹂ 物の本によると、神功皇后に諸神が呼び出されても出てくるのを 846 渋りようやく見せた姿は、 ﹃︵前略︶其の貌を御覧ずるに、細螺、石花貝、藻に潜虫、手足五 体取り付けて、更に人の形にてはなりけり⋮⋮﹄ と、ある。 長らく海中で生活していたからとは言うが、まさに化物の姿であ ったようだ。﹁姿とか気にしねーって! 来いよ!﹂と呼びかけた 他の神もドン引きしたらしい。 得々と石燕は札を手に語る。 ﹁誰も見たことのない海難法師、その姿の原型は溺死体もあるだろ うけれど、磯良の様相が根にあるのではないかと思ってね。なに、 化物としての格は磯良がかなり上位だからこの御札を貼っておけば 海妖怪とは出会わないだろう﹂ ﹁ほらあんた、守り神なんてちょっと不細工なぐらいが丁度いいん だよ。巫女さんの言うとおりに貼っておきな﹂ ﹁確かに、よく見りゃあうちの守り神の母ちゃんにちょいと似て│ │﹂ 男は、顔面を舟に叩きつけられた。 呆れた様子で九郎は、 ﹁口が高く付いたな﹂ と、倒れて砂に突っ伏せる男に声をかけるのであった。 ***** 847 その夜⋮⋮。 熱海に宿を取り、ゆるりと過ごした後だ。 日が落ちる前、早めの夕飯を取った。相模湾で捕れた新鮮な魚料 理が膳に出されて舌鼓を打つ。沖釣りのハゼを素焼きにして、さっ と生醤油を絡めて擦った柚子の皮を振るったものは、飯にも酒にも よく合う。 晃之介は浜で尾びれに引っ掛けて釣り上げたヒラメを料理人に刺 し身にしてもらい、自慢気に食している。 ﹁いや、俺の釣りの腕もなかなかだろう﹂ ﹁晃之介さん、そこのえんがわと紫蘇を交換してあげるの﹂ ﹁自慢はいいが晃之介よ、凄まじい勢いで強奪されていってるぞ﹂ ﹁ふっ⋮⋮浅はかだな。当然奪われることを予想していて、予備の 皿は⋮⋮﹂ 晃之介が隠していた膳を振り向くと背中を向けているお八が白米 に刺し身を載せて掻き込んでいた。 視線に気づき、動きを止めて彼女は、 ﹁え!? これっておかわりじゃ⋮⋮なかったんだぜ?﹂ ﹁俺のえんがわ⋮⋮!﹂ ﹁わあ、御免師匠! だ、大丈夫だってば、師匠の腕ならまた釣れ るって!﹂ 落ち込む晃之介に謝りつつ、刺し身は返さないでがつがつと食べ る。少しゆるい辛味噌をまぶしたさっぱりとした白身魚の味が、飯 で引き立つのである。 848 小田原名物の蒲鉾を突きながら石燕も、 ﹁そうそう。次は頑張って鯛を釣ってくれたまえ。豊漁祈願の神楽 も舞ったことだしね﹂ ﹁あれ豊漁祈願なのか? 除霊は?﹂ ﹁そんなものは被害者の心持ち一つだよ。彼らが除霊が済んだとい う気持ちにさえなればそれで充分なのさ﹂ ﹁現実的な問題は解決してないような⋮⋮﹂ 九郎が呻いた。 ﹁なに、実際磯良が祀られていた神社で行われる儀式の歌なのだ。 縁起が悪いわけではないさ。これで海難に合わなかったら感謝され、 あったらお前の信心が足りぬからだとか難癖をつければいいのだよ﹂ ﹁でもさー、なんか石姉も手慣れた感じだったな。旅とかしてる時 に巫女って名乗ったりしてたのか?﹂ ﹁いやあ、やったこともあるけど旅の歩き巫女となると貞操が危な くてね。まあ、遠出するときは船旅だったり、将翁の旅程と重ねて 護衛を頼んだりしていたよ﹂ 晃之介が口をはさむ。 ﹁しかし、言っちゃあ悪いが将翁殿は華奢な男だろう。あまり護衛 に見えないというか⋮⋮よく追い剥ぎなどに襲われないな﹂ ﹁私も不思議だったのだがね。禹歩という陰陽の呪法を応用し、旅 の為に作った移動術で降り掛かる災いを因果律から祓っているとか なんとか⋮⋮だから危険が生じた事は殆ど無かったね﹂ ﹁陰陽師とはいったい⋮⋮﹂ 九郎が呻いた。陰陽の術など、少しばかりも知らないがあの狐面 849 の怪人ならば、妖しげな札が飛び交い鬼やらなんやらを召喚してい る図が容易く想像できるのが困った。 ﹁さて。そんなことより九郎君に晃之介君。食事を終えたら海難法 師を探しに行くよ!﹂ ﹁ああ、やっぱりそうなるんだ⋮⋮﹂ ﹁先生。あたい達は?﹂ ﹁あ、あたしはいかねーぞ! 怖いからな!﹂ 少女らがそれぞれ声を出すが、石燕は言い聞かせるように、 ﹁さすがに見たら死ぬ妖怪だと君等を連れて行くことは出来ないね。 私は殺生石の欠片を埋め込んだ呪いの眼鏡をつけているから見ても 平気なのだろうが﹂ ﹁平気っていうか眼鏡自体がアウト気味な気がするが﹂ ﹁というか、俺達は死ぬよな﹂ ﹁安心したまえ! 見なければ死なない! 心の瞳││即ち心眼で 戦うのだよ!﹂ 投げっぱなしのアドバイスをくれる石燕に、 ︵こいつ、心眼て言いたいだけ違うのかと⋮⋮︶ と、九郎と晃之介の心の声が重なった。 心なしか、二人の剣士の活躍予定にわくわくしている様子だ。 ﹁師匠、頑張れだぜ﹂ ﹁そういえば海難法師って顔に栄螺とか牡蠣とかついてないかしら。 九郎、お土産よろしくなの﹂ ﹁食うつもりか!?﹂ 850 澄まし顔で茶を啜ってるお房は本気であるようだった。 育ち盛りだからだろうか⋮⋮できれば生き馬の首を取って鍋にす るような女性には為って欲しくないと、九郎は心配をするのであっ た。 **** 三人が海に再びやってきたのは、丁度日が沈んで暗くなり始めた 時合いだった。 話によると漁師を襲った海難法師もこの時間帯に現れたという。 ﹁俗に云う、ラグナロク時というやつだね⋮⋮﹂ ﹁言わねえよ!? 黄昏時って普通に言えよ! 何処でそんな単語 を知った!?﹂ ﹁オランダ人に聞いた﹂ ﹁くっ⋮⋮﹂ 何故か悔しそうに九郎は言葉を噤んで、人を喰った笑みを浮かべ ている石燕から視線を外した。 宿で借りた提灯を持っている晃之介は、砂浜から岬の方を指さし 告げる。 ﹁俺の勘ではあそこがいいと思うな﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ ﹁大物がよく釣れそうだ﹂ 851 ﹁⋮⋮﹂ 晃之介は完全に夜釣りの気分であるようだった。背中に竿と仕掛 けを担いでいるし、魚篭まで用意してきた。 もっとも、宿ですら、 ﹁海難法師に気をつけなされ﹂ と、注意するほどに近隣では噂になっている。 事実、夜に出かける者は漁師すら居ないようであった。 酒を各々手に持ち、気楽に出かける三人はいかにも迂闊な若者集 団に見えるだろう。 ﹁すると油断して海難法師は姿をあらわす。そこを[がつん]だよ﹂ ﹁理想的な作戦だな⋮⋮呆れる程に﹂ 岬に丁度良さそうな岩場があり、そこを拠点として海難法師を待 つ事にした。 晃之介は既に竿を持って波打ち際まで下りている。近くに提灯も 置いてあるので様子はよく見えた。 まるで囮にも見えなくはないが、何を云うでもなく晃之介が釣り に行ったのだから仕方ない。 既に小魚を二、三匹程釣り上げて、それを餌にして大物を狙って いる。 ﹁しかし海難法師か⋮⋮居ると思うのか?﹂ ﹁ふふふ、この世には不思議な事など何もないのだよ、九郎君﹂ ﹁また其のフレーズを⋮⋮その理屈によると、妖怪も怪しげな陰陽 の術も存在せぬという事になるぞ﹂ ﹁それは見解の違い、というものだよ﹂ 852 僅かに寒そうに石燕が震えたので、九郎は少しばかり座る距離を 縮めて彼女の酒盃に酒を注いでやった。 笑顔を見せながら透明な瞳を暗い沼のような海に向けて云う。 ﹁そもそも不思議、とはどういう事だと思うね?﹂ ﹁む⋮⋮そうだな、理屈では説明できぬ、物理に反する、正気とは 思えないような出来事ではないか?﹂ ﹁間違っては居ないが、語源の定義としてはずれているね﹂ 酒を口に含んで吐息を吐き、続ける。 ﹁元々の語源は[不可思議]が縮んで生まれた言葉なのだよ。仏教 用語だね? これは読んで字のごとく、思議すべからず⋮⋮考える 事すら出来ないという意味だ。いいかね? 間違った解釈すること やそれなりに胡散臭い理屈でも、説明がつけられるものは不可思議 ではないのだよ。 では不可思議な事とはなにか? わからないね。なにせそれを考 える事も出来ないという定義なのだから。じゃあ其のようなものが 本当にあるのかね? そう考える事もまた、違う﹂ ﹁屁理屈ではないか﹂ ﹁屁のような理屈すら受け付けないものを不可思議というのだよ、 九郎君。そうなると最早次元が違う。ならばもう仏の世界にでもい かねば見つかるまい。即ち、この世ではないのさ﹂ ﹁禅問答じみてきたぞ﹂ ﹁ま、このケチの付け方はどちらかと言うと名家の詭弁みたいな役 に立たなさだけどね﹂ 自分の説だというのに然程執着が無いのか、冗談めいて肩をすく める。 853 とはいえ、彼女が諸子百家で一番気に入っているのがその[名家 ]なのであるが。 ﹁真理とは理屈ではなく思考によって生まれるのさ。私が妖怪の絵 を描くのもそこに理由がある││っと﹂ 石燕が身を乗り出して晃之介の方を注視した。 彼の興奮したような叫び声が聞こえる。 ﹁来たぞ!﹂ ﹁むっ﹂ 九郎が旅の伴として持ってきたアカシック村雨キャリバーンⅢに 手をかけて立ち上がる。 晃之介は片手で竿を操りつつ、 ﹁大物だぞ! 槍を取ってくれ!﹂ ﹁魚かよ!﹂ 仕方なさそうに、晃之介の槍を放り投げてやる。 落胆した表情になるが、隣の石燕は薄い月明かりに照らされる海 の先を見ている。 ﹁いや、海からの風に僅かに臭気が混ざっている。晃之介君、魚に 構っている場合ではないよ!﹂ ﹁む⋮⋮! しかしこれは⋮⋮! でかい⋮⋮!﹂ 竿の感覚を頼りに海に槍を突き入れ続けている晃之介。 近くまでは獲物は寄ってきているのだが、岩場の影に潜り込んで いるのだ。 854 生涯で最大の大物かもしれない。鍛錬で培った巧みな竿と糸にか ける力加減が無ければとうに逃しているだろう。 確かに先の海から何やら近づいてきている気配には気づいている。 だが、目下好敵手となったこの魚との勝負を放棄することなど、 ︵俺には出来ない⋮⋮!︶ 己の夢の為。叶えたい未来の為。晃之介は戦いから逃げることは 出来ないのだ⋮⋮! ﹁ええい、釣りキチに目覚めおって﹂ 仕方なく九郎はひょいと岩場に下りて晃之介の近くに立った。 騒ぎながら竿と格闘している晃之介の気配を無視すれば、確かに 先の海から、 ざ、ざ、ざ⋮⋮ と、舟を漕ぐような音が聞こえてくる。 そういえば、昼間に浜に打ち上がっていた舟は載せていた櫂が無 くなっていたと聞いたが、真逆、海難法師が使っているとでも云う のだろうか。 ﹁二人共、私が確認するまで決して直接見てはいけないよ!﹂ ﹁わかっておる。お主こそ⋮⋮﹂ ﹁安心したまえ。私の魔眼は宇宙の外のあれすら目視しても潰れぬ さ﹂ ︵あれって何?︶ 855 九郎は思いつつも、自信有りげな彼女の言葉を信用することにし た。 そもそも本当に妖怪なのかすら、怪しい。ナチュラルに石燕と居 ると妖怪が実在すること前提で会話をさせられるので、時々混乱す る。それでいて石燕は妖怪に対する実在か不在かの判断が、はぐら かすように怪しいのが厄介であった。 ﹃⋮⋮ォ﹄ やがて、うめき声が潮風に流れて聞こえてくる。 岸までまだそれなりに距離はあるようだが、臭いから感じる存在 感は大きい。 ﹃ゥゥゥ⋮⋮ァア⋮⋮マァ⋮⋮オ⋮⋮﹄ 恨みが篭った怨嗟の響きだ。 ぐちゃぐちゃと不快な咀嚼音が混じりつつ、明らかにこちらに向 けて言っている。 ﹁おい、もう近くまで来ているぞ! 晃之介、まだ釣り上がらんの か!﹂ ﹁││っくぅ、もう少しだっ! 槍よ⋮⋮!﹂ ﹃マァァ⋮⋮ロォォ⋮⋮﹄ 九郎はあまりに醜悪な臭いに、吐き気すら伴う冷や汗が背中から 吹き出るのを感じた。 全身を打つアンデッドの気配に忌々しげに唾を吐いて云う。 856 ﹁くっ⋮⋮とてつもない妖気を感じ﹂ 言葉は最後まで発せなかった。 九郎の顔面に、ねばねばしてぬる気のある生暖かく磯臭い物体が べちゃりとぶつかったのだ。 岸までは距離があった。ならば飛んできたとでもいうのか。九郎 は目を瞑りつつ、気色の悪いそれを引き剥がして全力で地面に叩き つけ、つい薄目でちらりと見てしまった。 ワカメだった。 あざ笑う声が沖からかけられる。 ﹁はぁぁぁぁあああい麻呂でしたああああ!! なんだよ﹃とてつ もない妖気﹄って!! 感じねえよ! 麻呂だよおおおお!! 元 服病︵※︶ですかああああ!? あっ! 先生ええええ! 麻呂は、不肖の一番弟子・麻呂は帰っ てきましたああああ!! 周りは非生産的な性癖の罪人と﹃くさや 汁って腐ったしょっつるでしょ?﹄って言ったら本気殺ししてくる 島民しか居ないあの島から! ひっでえ環境だな⋮⋮﹂ ﹁うわ、うぜぇのだ⋮⋮﹂ ︵※︶元服らへんの年代の子供に多く現れる自分は特異な才能を持 っている特別な人間だという錯覚。必殺剣とか考える事が多い。 九郎は顔を顰めながら、まだ沖に居て盥に乗っている、髭も髪も 野人のように伸ばし放題、全身に藻や海藻を服の代わりに纏ってい る妖怪のような漂流者を見た。 857 新島から逃げるように盥で流れてきたのだろう。日中は日を避け 海藻を被って影で休み、寒くなる夜に体を動かして本土を目指す。 その旅を続けて何日が経っただろうか。 紛うことなき、鳥山石燕の弟子、麻呂であった。 ﹁しらない﹂ ぶんぶんと首を振りつつ石燕は否定した。 ﹁ちなみにそのワカメは麻呂の何処にくっついていたものでしょお おおおかああああ!? 甲:胸。乙:腰。丙:へへっ言わせんなよ 馬ァァ鹿!﹂ ﹁最悪の気分だ。おい、晃之介。弓矢は持ってきていないのか﹂ ﹁よしっ! 突けた! 上げるぞ!﹂ ﹁まだ魚釣ってたのか﹂ ﹁槍でやりとげたんだ! ⋮⋮ふっくく﹂ ﹁自分で言ってて笑うな﹂ 晃之介の下らない洒落に怒りが薄まりそうになるが、今こそ立ち 上がりこの世の悪と対峙し退治せねばならぬという正義の心を忘れ ぬように胸にそっと誓った。 沖ではこれまでに五人の漁師を恐怖のずんどこに陥れた悪の魔物 がいるというのに。 ︵ずんどこで合ってたっけか? なんか楽しげな響きになったが︶ まあいい。これ以上哀れな犠牲者を出さないためにも、あれを海 の藻屑に変えなくては。いや、既に格好が藻屑に限りなく近いのだ ったが。 858 ﹁先生えええ! そんなことより見てくださいよ新島で描いたこの 麻呂の絵を! 題して﹃生物災害三 最後の脱出﹄くさや屍人で溢 れた島から様々な仕掛けを解いて脱出せよ! 幕府の焼き討ちが始 まる前に! 恐怖、緊迫、大活劇の大作でえええす! まあ墨が無 くなったから絵はくさや汁で描いたんですがくさや屍人が生まれそ うな臭いしますわ。 頑張って漂流続け幾星霜、なんと昨日、親切な漁師さんから櫂を 貰っちまったのです! へへっこれで離岸流なんて怖くねえ! 今 まで漕ぐために使ってた柄杓も必要ねえ! 行くぜ先生! ワカメ なんか捨ててかかって行くぜ! 秘技、ワカメの舞!﹂ ﹁おのれ、投げつけてきおる。おい、晃之介! 早くその槍をよこ せ!﹂ ﹁よし、任せろ﹂ ぺしぺしと飛んでくるワカメを剣で切り払いつつ呼びかけた。 力瘤を作って晃之介が槍で突いた獲物を水の中から持ち上げる。 真っ暗な海から魚が上がる。それは太くて三尺ほど縦に長い形状 の流木が槍に絡みついているようであった。 九郎はよく効く夜目を凝らして確認する。 ﹁⋮⋮ウツボだのう。ド外道だ﹂ ﹁⋮⋮そうなのか?﹂ ﹁うむ。釣り上げたら叩き殺してウツボ塚に吊るして晒しておくレ ベルで外道﹂ ﹁残念だ⋮⋮﹂ ﹁だが、丁度いい﹂ 九郎は晃之介から槍を受け取ると、片手で力を込めて振るった。 夜の大気を圧し潰す勢いで振るわれた槍の穂先から、遠心力でウツ ボが外れて吹っ飛ぶ。 859 うまい具合に、麻呂が乗っている盥にどしゃり、と放り込まれる 形だ。 ﹁ぐえああああ!? な、な、なんだこの人類に敵対心を持ってい るような恐るべき怪物は! 鮫と同じ目の色をしているって絶対! ? 痛ぁあああ!? 足に絡みついてきたあああ!? ちょっとあの 狩野派の小僧呼んでこいよ触手姦とか絶対幻想だとわかる級の痛さ だってこれええ!!﹂ ﹁ウツボの絡みつきは、全身筋肉みたいな蛸の体を引き千切るから のう﹂ ﹁素敵な情報をありがとう君。あっ!? もしかして麻呂と友達に なりたいの? 仕方ないなあ、じゃあ特別に﹃友達にしてください﹄ って君から発言する権利を与えよう。そして未来へ⋮⋮﹂ ﹁なあ石燕、このお主の弟子は⋮⋮﹂ ﹁しらない﹂ ぶんぶんと首を振って関与を否定する。 片足をウツボに捻り潰されかけながらも、櫂を漕ぐ速度を増して 海難法師はこちらへ向かってきた。 ﹁先生! いま、会いにゆきます! ヨーソロー!﹂ 明るい声でそう宣言して前進し始めたのだが、突如盥の前方に海 中からぬっと何かが浮上して、盥に衝突する。 丁度大柄な人間の上半身ほどの、黒い物体だ。 髭を生やしたつるりとした頭のそれは││海坊主。 成長して大きくなったアザラシとも云う。 ﹁あっ﹂ 860 ﹁⋮⋮﹂ 海坊主は後頭部に、ごっ、と直撃した盥を睨みつけ、無言で海中 に再び潜っていった。 そしてすぐに戻ってくる。手で器用に、黒い塊を幾つか持ってい てそれを盥に次々と入れていく。 ﹁う、うわああ!? 凄い的確に毒ウニを放り込んでくる!? 痛 っ!? これ触れもしねえぞ何からここまで強固に身を守ってやが るんだこの毒ウニいいい!? すいません先輩麻呂調子に乗ってま した⋮⋮あっ待って沖に引っ張って行かないで!? ちょっとおお お助けてくださあああい!﹂ 一方で石燕は、棘の長いウニの絵を描いて九郎と晃之介に、 ﹁ガンガゼ、と呼ばれる毒ウニだ。浅瀬によく居てね、長い棘の先 には返しがついていて、刺さったら引っ張っても抜けにくい。おま けに棘が折れやすくて皮膚に刺さったまま残る。あと棘に含まれる 毒が激しい疼痛を与えてくるという厄介なものだ。注意しようね。 あ、ここ試験に出るから﹂ ﹁うむ、授業も終えたし、今日は帰るか﹂ ﹁小魚は釣れたからこれで一杯やろう。まだ明日もあるしな﹂ ﹁ああ﹂ 九郎ら三人は踵を返して、決め顔で歩み始めた。 ﹁己れ達の熱海は││まだ始まったばかりだ││﹂ 861 宿に帰ったらどうやってか先回りした麻呂が普通に温泉に入って いた。 また、麻呂の土産であるワカメを普通にお房は茹でて食っていた ようだ。 **** それから暫く、一行は熱海に逗留する事となった。 連日、釣りに出かけたり、温泉に入ったり、神社に行ったりと楽 しんでいる。 そんなある日、麻呂が街角に座って墨絵を描いているのを九郎は 見つけて、後ろから覗きこんだ。 ﹁おお、なんというか⋮⋮さすがに巧い﹂ 浴衣を着た、熱海の町のどこにでもいる女の絵である。 さっと描いているというのに、思わず唸る程の出来栄えだったの で九郎は率直に褒め称えた。 リアルな画風というわけではない、当時の浮世絵風の絵柄だが、 墨でうまく表された白い首には、普通ではない艶を感じる。 862 ﹁美人画なら麻呂はちょっと負けないでなー﹂ 髪を結ってこざっぱりとした麻呂も得意気に笑いつつ、絵をする すると仕上げていく。 この男の顔をまともに見るのは、熱海に来てからであったが意外 に童顔めいた普通の青年であった。 九郎も江戸に来て幾人か絵師を見てきたが、麻呂は石燕の弟子な がら劣らない極上の腕前を持っていると思える。年はまだ石燕より も若い程なのだが、未熟さが絵に関しては見当たらない。 ﹁最初はさあ﹂ ﹁うむ?﹂ ﹁石燕先生に一目惚れしたから春画の題にして助平な妄想おかずを 描いてやろうぜって気分で始めたんだよね﹂ ﹁サイコ系の発想だな⋮⋮﹂ 九郎は苦みばしった顔で、しれっと告げる麻呂を見ながら云う。 まったく九郎の評価など気にしないで麻呂は続けた。 ﹁でも不思議と先生を描いても先生に似ないっていうか、画風を変 えても画材を変えてもなんでか違うって思ってさあ。 それで土下座しながら﹃先生の春画を描きたいんですが抜けない んです! どこが悪いか教えてください!﹄って頼んだら縛られて 屋根の上に磔にされた﹂ ﹁阿呆め﹂ ﹁ま、それでも麻呂の熱意だけは買ってくれたから助言を貰ったん だ。﹃目で見えるものが全てではない、心の目を開くのだ⋮⋮即ち 心眼!﹄って﹂ ﹁言いたかっただけだろう、多分それ﹂ 863 ﹁その言葉に麻呂はビビビッと来たんだ。先生は目には見えない妖 怪をああも生き生きとした形に現せることができる。きっと先生も 心眼で描いているのだって。それで、麻呂は対象の内面すら見通さ んという意気込みで絵を描くようになったら、格段と助平になった。 そう、師匠は一見冷たく突き放すように見せているけど実は弟子 の事をよーく考えて下さっているのだ。ほら、今回だって魚の開き にくさや汁を塗る動き! 塗る動き!﹂ ﹁さ、左様か﹂ 彼は滑らかな手つきで墨を塗りたくる。 ﹁特に首元に倒錯的な感情がさあ⋮⋮先生の首いいよねえ⋮⋮先生 が描いたろくろ首の絵なんか猥褻すぎりゅうううう!﹂ ﹁サイコの発想だな⋮⋮﹂ 先程を同じ感想を覚えつつ、半歩だけこの若者から離れる九郎。 半歩の距離があればいつでも逃げられるし、殺せる。そんな距離だ。 叫んだ後ぴたりと電源が落ちたように動きを止め、再び絵へと向 き直った。 ﹁しかし、何百枚修行しても先生の内面を見通せる気がしない。あ の先生の内側は無限になっているのかも﹂ ﹁ふむ⋮⋮確かに何を考えているか、さっぱり判らぬ相手ではある な﹂ ﹁いつかしっかり先生を描けたらなあ﹂ ﹁一世一代の傑作になるか?﹂ ﹁いいや﹂ 彼はにっと笑って宣言する。 864 ﹁誰にも見せずに宝物にするじゃん﹂ ﹁そうか﹂ 師に憧れる絵師は意気込んで立ち上がった。 描いていた浴衣の女が完成したようだ。墨だけで見事に濃淡を付 けた一枚絵である。 ﹁よっしゃああ! この絵であそこの姉ちゃんに声かけてくるっち ゃ! へへへ⋮⋮なあおじさんとスケベしようやあ⋮⋮!﹂ ﹁あっ、おい﹂ 九郎が通りを走り渡ろうとした麻呂に声をかけたのだが⋮⋮ 丁度、道に長い行列を作り進んでいた集団に錐揉みしながら麻呂 は突入して、 ﹁なんだ貴様! 怪しい奴め!﹂ と、行列を守る従士の槍で尻を刺された。 ﹁ぎゃああ!? お、お、お前ら、麻呂の尻になんの恨みがっひゃ あああ!?﹂ 奉行所らしき手のものに捕まって行く麻呂を見送った。 ︵あちゃあ⋮⋮まあいいか︶ 一瞬で彼の存在を切り捨てた九郎は、さてなんの行列だと目をや る。大名にしてはどうも、藩の家来といった風貌ではない集団が囲 んでいる。 865 罪人の輸送だろうか、と思っていると、駕籠に入れられた土下座 がきょろきょろと騒ぎに反応して周囲を見回した。 ﹁⋮⋮﹂ 入れられた土下座、というと妙な感じではあったが、九郎は確か にそう判断した。正確に言うならば、金髪の外人が駕籠に入りきら ぬとばかりに土下座体勢で運ばれている様子だ。 太っているわけではなく、体がでかい。座っているからわからな いが、七尺はあるだろうか。当時の日本人の平均身長から比べると、 見越し入道のような大きさだ。 それが丁寧に、堂に入った土下座をしている。 そして周囲に向かって大声で言う。 ﹁シモニー! シモニー!﹂ ﹁おいこら、商館長。下には無いから、この行列﹂ ﹁oh⋮⋮言ってみたかっただけデース﹂ いしかわ・まささと 行列の責任者、長崎奉行の石河政郷が冷たい言葉をその外国人に 告げて、行進は再開されるのであった。 九郎は唖然と見送りながら、 ﹁あれは⋮⋮?﹂ ﹁あれは阿蘭陀商館の江戸城参勤だね。毎年年末になると、商館長 が上様に目通りするのさ﹂ ﹁石燕﹂ 後ろからいつ近寄ったのか、温泉まんじゅうと酒を持った石燕が 九郎に覆いかぶさるようにして行列に指を向けた。 866 ﹁しかしまあ、土下座で運ばれているけど江戸城に入ってもだいた い土下座のまま過ごさないといけない上に、そのまま余興とかやら されるからジャップとかマジムカつくって言ってるのを聞いたこと があるよ﹂ ﹁それは大変で屈辱的ではあるな⋮⋮この時代のオランダ人ジャッ プっていうの!?﹂ ﹁耐えるだけ、南蛮の一国だけこの国と貿易する旨みが大きいのだ ろう﹂ 九郎の疑問は気にせずにうんうんと頷き、 カピタン ﹁さて、商館長に倣うわけではないが、充分遊んだことだし明日に でもまたのんびりと江戸に帰ろうか九郎君﹂ ﹁それはいいが⋮⋮さっき麻呂男が奉行所にとっ捕まえられていた ぞ﹂ ﹁? それが何か、帰るのに支障になるかね?﹂ ﹁⋮⋮そうだな、特に問題はないか﹂ 九郎は僅かにため息をついて、それでも首肯するのであった。 秋も深まり、冬が近づく。 年の暮れも近い⋮⋮。 867 868 挿話﹃蠱毒な散歩者の無想﹄ とにかく、物心が付いた頃から周りが馬鹿と穢らわしい物に見え て仕様がなかった。 洟垂れ遊ぶ同年代の子供も、その親も、偉ぶる侍や地主も、それ に蝗虫のみたいに頭を下げる連中もである。 一番、厭な人物はただ唯一の肉親の母だった。彼女は日々を暮ら すために春を鬻いで金を稼いでいる。毎晩知らぬ男と肌を重ねて、 僅かばかりの金を手に入れているのは子供心ながら薄汚れた気がし て、顔も合わせたくなかった。そして、そんな母が稼いだ金のおこ ぼれに預かるようにして生きている自分の現状が更に嫌になって、 時々、意味もなく吐いた。 少年は父の事は知らない。恐らく、母も知らないだろう。今まで に抱かれた何処かの男の胤なのだろうが、それを知る意味も無いと 思えた。だから聞くこともしなかった。 子供だというのに一日中、このような気分が悪くなることばかり 考えている自分に嫌気が差して、有り体に言うと捻くれて育った。 彼の名前は雨次。何処にでもある不幸を享受しつつ、ことさら己 が特別に不幸だと信じている、まあよくある少年であった。 ともかく、雨次は出来れば家を飛び出して旅を枕にしたいと思っ ていたが、十と二、三年ほどの年齢しかない餓鬼の如き体ではそれ も不可能だと知れた。一里ばかり歩くのに一刻も二刻もかかってし まう。 そこまで身体が優れているわけではないのだ。 869 母が稼いだ金で作った、重湯のような粥に塩と大根を入れて食う のが主な食事だった為にそこまで成長していないのだ。 同い年で農家の娘である、お遊という名の娘に背まで抜かれてい る。おのれ。きっと何も考えていないから、地面の下に伸びていく 大根のように背も伸びるのだと逆恨み気味に思ったりもしていた。 ある日のことである。 彼は農家の子ではないので、昼間農作業をしているわけではない。 しかし、家も嫌いなので出かけて、小川の側か木の影で一日中過ご すことが多かった。 五月の新春の頃。 其の日はふらりと足を伸ばし、千駄ヶ谷から代々木近くまで歩い て行った。 目的があったわけではない。 ただ歩いて、また同じ道を戻ってくる。それだけの気まぐれだ。 どの程度の距離を歩けるか確かめる算段はあったかもしれない。 草臥れて休憩しなければならない距離まで歩き、そして戻ってくる だけの実験である。 その地点が代々木の、道沿いに打ち捨てられた廃寺であった。 熱を持ち既に太腿の辺りが腫れたような苦痛を感じたので、限界 と知ってそこの中で休憩をすることにした。 廃寺と言うが大きさは物置小屋のようなもので、狭い一室だけあ る家屋だ。 入るとそこは、蚤に食われそうな古びたむしろが敷かれていて、 部屋の隅に長方形の小さな箪笥みたいなものが置いてあるだけであ った。 背負う紐もついたそれは、薬売りが持つ薬箪笥であったのだが、 雨次はそのようなことを知らない。 子供故の好奇心からか、何気なく箪笥の引き出しを開ける。 870 一つの引き出しには乾燥させた草や、異臭を放つ粉末が小分けさ れて入っている。 もう一つには小判││雨次は見たことすらなかった││が丁寧に 包まれて入っていた。見たことはないが、噂には聞いたことがある。 雨次は思わず唾を飲んだ。 そして一番下の引き出しには冊子が入っていた。 当然、雨次は本など読んだことは無かったが、引き寄せられるよ うに本を手にとって開き始めた。 それは文だけの書ではなく、様々な植物の写生が描かれている図 鑑のようなものである。雨次は字は読めないが、詳しく注釈が書か れている。 図鑑、というような本がある事も雨次にとっては初めての経験だ った。 絵、というものをしげしげと見るのもこれが最初かもしれない。 この本の持ち主が直接紙に筆で書いたと思しき、精巧な図画が何 頁も大量に描かれている。人間の手と墨が、世界をこのように紙に 写し取るという概念も初めて知った。 記されている意味はまるでわからないが、不思議と魅了された。 小判の包よりも。 興奮したまま、どれだけの時間、本を捲り絵を見ることに費やし ただろうか本人はわからなかった。 その洗礼のような儀式は唐突に、外から掛けられた音の振動とい う声で遮られる事となった。 ﹁おや﹂ 無心で見ていた雨次の耳にやけに響いた、低く重い声だ。 ﹁盗人が小判を数えているかと思えば││本に夢中とは﹂ 871 その言葉で雨次は現状を理解した。 物を盗む気などなかったが、ここに置かれた箪笥は明らかに他人 の所有物であり自分は物色していたのだ。 彼は慌てて、本に落としていた視線を廃寺の入り口に向ける。 開け放たれた障子の先、薄黒い雲がかかった背景にやけにくっき りとその人物は居た。 年の頃は老人と言ってもいいだろうか。声は壮年程度に聞こえる が、腰のやや曲がって手足が枯れ枝の様に細く筋張り皮が弛んでい る。薄汚い法師の格好に身を包んで背は低く、ぼさぼさに伸びた髪 は灰色にくすんでいた。 そして何より目を引くのはその顔面には、黄色の隈取が描かれた、 上部が炎のような造形をしている赤の面を被っているのだ。 妖怪││雨次はそう感じた。 雨次が口を半開きにして呆けていると、赤法師はゆっくりと彼に 近寄り、小さな耳をがさがさの指で摘んだ。 ﹁読んだのか?﹂ ﹁⋮⋮あ、え││﹂ ﹁ふむ。この矮小な耳の穴では聞き取れないかと思ったのだが、や はり理解も出来ないか﹂ 見た目と違い、ヒビ割れても掠れても居ない整った低い声は雨次 の耳によく響いたが、あまり人と会話をすることにも慣れていない 為に咄嗟に声が出なかった。 雨次はなにか、背中に怖気を感じて必死に言葉を思い浮かべて口 に出す。 ﹁読む⋮⋮読み方、分からなくて⋮⋮字とか読めないから⋮⋮﹂ ﹁成程﹂ 872 法師は雨次の耳を離して、平坦な声音で続けて言葉を投げかける。 ﹁それは良かった。もし読んでいたら君を殺さねばならないのでね﹂ ﹁ええぇ!?﹂ ﹁ちなみに、耳から毒薬を流し込んで殺すつもりだったが││ああ、 勘違いしないでくれ。この場合の良かったというのは、君の命が助 かってよかったのではなく、無駄な薬を使わずに済んで良かったと いう私の事情だ﹂ 破棄された予定を感慨もなく淡々と話す法師に、雨次は気が動転 して言葉を失う。 耳を摘んだのは話を聞かせるためではなく、そのまま殺すためで あったようだ。どうでも良さそうに殺されかかった雨次はどうでも 良さそうに見逃されたのだ。 雨次が持っていた本を取り返して頁を閉じる。 表情の伺えない奇面を雨次に向けたまま、云う。 ﹁書かれた内容を記憶していないのなら、君のような虫けらに概要 を教えても別に構わないのだが││いいかね? この本に書かれて いる事は毒草・毒花・毒木・菌毒・生態毒・毒鉱とそれらを調合し た毒薬について、私が研究し記録した毒書なのだよ﹂ ﹁ど⋮⋮く⋮⋮だって?﹂ ﹁ああ、一応言っておくが、頁を捲った手を嘗めたりしないほうが 良い。紙の一部に砒霜を塗ってあるから死ぬ││この場合の良いと いうのは、死体の処理が面倒だから私にとって都合が良いというこ とだが﹂ 雨次は砒霜││砒素の事である││という毒についての知識も無 かったが、とにかく己の指先に危険なものが付着したのだと、相手 873 の低く染み渡るような声で悟った。白痴にでも愚者にでも、強制的 に話の内容を理解させるような邪な魔力が声から感じられる。 忠告はしてきたものの、何故か法師は雨次を追い出すような事は しなかった。 何故、何故││とにかく、目の前の非現実的な存在に対して疑問 が沸く。そもそも面の男とか凄まじく怪しい。 雨次は疑問の言葉を喉の奥から鳴らす。 ﹁毒の本なんて⋮⋮なんで作ってるんだ? 危ないものだろう﹂ ﹁ふむ? 君のような頭脳が侘しい存在でも毒が危ないということ ぐらいは知っているようだ。まあいい。君にそれを教える理由はな いが、尋ねられた事を応えない理由も特に無い。いちいちそのよう な事を訊いてくる相手は珍しいのでね﹂ 法師は面の口元に手を当てて、軽く頭を傾げながら続けて云う。 ﹁書を作っているのは知識の保存。長年生きていると記憶という存 在に信用が置けなくなる。大事なことは外部に保存しておいたほう が便利だ。その点、文字というものは良い││この場合の良いは、 まあ楽だということなのだが﹂ ﹁歳を取って物忘れが激しくなったから記録してるのか﹂ ﹁若いころはこのような小細工は要らなかったのだがね。森の木の 数も、空に見える星の数も、浜に打ち上げる波の数も全て記憶出来 たが、室町の世を過ぎた辺りから次々と前の事を忘れ始めた時は我 ながら少々焦った。 人の内面は無限だという輩もいるがね。名家の出した命題を知っ てるかい? 限りなく大きい物には外など無い、というものだが、 脳髄という膜に覆われている生物としては限界を感じざるを得ない﹂ ﹁は⋮⋮?﹂ 874 雨次が呟くが、些少な事であるとばかりに法師は気にしなかった。 ﹁ま、知識はいつでも再度手に入れることができるからいいのだが ね。一番の理由は呪さ﹂ ﹁[呪]?﹂ ﹁君のような麻屑同然の頭では理解できないかもしれないけれどね。 薬というものは作り方を明確に記したほうが効果が上がるのだよ。 呪に名前をつけることと同じだ。関与した言霊が効果を明確にする。 存在概念が確定することで影響を明白にさせる。因果に認証を行わ せる為の儀式だ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁そして毒を作る理由は簡単だ。毒を欲しがる人間が居るから作る。 ただそれだけ﹂ ﹁毒なんて欲しがる人が、居るのか?﹂ ﹁無論。何時の時代でも何処の国でも、必ず。それが居る限り私と いう概念が許される。薬を求める人間の為に居る、薬師のように﹂ ﹁⋮⋮よくわからないな﹂ 雨次はかぶりを振った。 法師は何故か嗤ったようだ。声を上げずに、軽く二三度肩を震わ せた。 ﹁さて、君と出会ったことも何かの縁。君も、随分心に毒を溜め込 んでいるようだ。黴の生えた蛙のようなその眼球を見ればわかる﹂ ﹁ぼくの心に毒⋮⋮?﹂ ﹁太平の世というが最近は子供の方が病みやすい。この前も、仇討 ちを探しているとか云う劣った品性の子供に、軽く切っただけで死 ぬ猛毒を売りつけてやったが﹂ 法師は面をずい、と雨次の顔に寄せた。 875 間近くで見ると隈取の文様が凶悪に歪んで見える、不吉な面に雨 次は息を止めた。近くで見ると殊更、妖気めいた恐ろしさを本能的 に感じる奇怪な面だ。 ﹁周りが自分より下劣に見えるだろう? どれもこれも下らないつまらない禍い物にしか感じられない。 馬鹿と同じ空気を吸っているだけで気が滅入る。 無駄な人生を送っている連中に耐えられない。 価値が無いモノが溢れて本物など何処にもない﹂ 法師から放たれる、毒と火薬の危険な匂いがする吐息で思考が奪 われていく。 ﹁なあ││そんな風に君を思わせている輩は消したほうがいいので はないかな?﹂ ﹁う、ううう﹂ 早口でも無いのに、次々と浴びせられる言葉に雨次は頭がおかし くなりそうだった。 見透かされてる、と思った。法師が喋っているような語彙は無い のだが、いつも彼が考えている事をそのまま羅列されたようで││ 酷く浅ましい気分にさせられる。 法師は黒い碁石ほどの薬がざらりと入った、重々しい字が表面に 書かれた巾着を雨次に手渡す。 ﹁誰でも構わないさ。価値の無いモノを一つ二つと数えるだけ哀れ だ。 全てを捨てれば後は自分が決めた、価値のあるモノを拾っていく だけの世界だ。欲しがっていたのはそんな世界だろう? この薬をひと粒ずつ哀れなモノの口に放り込んで別れればいい。 876 井戸が村にあるかね? それなら随分楽だ││この場合の楽という のは、君のやるべきことだ。 代金は使った分量だけでいい。払うのはすぐでなくとも、どうせ いつか必ず取り立てに来るから気にしないでくれたまえ﹂ ﹁うう﹂ 疫病神が顔を寄せて、渦巻いた眼球を向けてくる。もはや、雨次 には呻くことしか出来ぬ。 それにしても、なんと禍々しい面だろうか。地獄の炎でもここま で歪ではない。火の面がぐなり、と燃え盛っている様に感じた。 ﹁もう恐れるな夏の日照りを。荒れ狂う冬の寒さを。 この世のつとめを果たし、十分な報いを得て、我が家へ帰る。 今をときめく男も女も、塵払い人のごとく、みな塵に帰る﹂ ﹁うわあああ!!﹂ 雨次は弾かれたように、廃寺から飛び出した。巾着袋を握りしめ たまま。 法師の言葉はわからないことばかりの筈だったのに、自分が何を するように言われたのか、どういう結果になるのか、それだけは強 制的に理解させられてしまった。その事こそが、吐き気を催し背筋 を切り開かれ脊髄に彫りつけられたような、異常な悍ましさに雨次 は駆り立てられる。 妖怪どころではない。 あれは死神だったと、後に知識を得た雨次は思った。 逃げる雨次の背中に法師の笑い声が響いた。 877 **** どれだけ走ったか正確にはわからないが、少なくとも代々木から 一里以上離れた自分の村まで止まらずに走れるとは思えない。 しかし休んだ記憶もなく、かと言って走っている間の事もよく覚 えていないまま、いつの間にか雨次は村外れまで辿り着いて、よう やく立ち止まり小川の近くでへたり込んだ。 ベタベタに汗を掻いていて気分が悪い。心臓と言わず内臓全てが 早鐘を打っている。 そして、今だ握ったままの巾着に目を落とした。 おどろおどろしい文字が書かれた袋に入れられている毒の粒。 これを村の井戸に放り込むだけで、何もかもおさらばできるとい う。誰も自分のような子供が毒を放り込んだなどと思うまい。それ だけで下らない村から離れることができるかもしれない。 そうでなくとも、己の憎む母の膳に一粒盛るだけで⋮⋮ ぶるり、と雨次は身を震わせた。そして、思い出したように本を 触った手を川で念入りに洗う。肌が妙な変色をしている気がして、 怖かった。 近くの石に座り巾着を見続けて、混乱した頭を復帰させ息が整っ た頃合いだ。 不意に日が陰った。 ﹁あれー? 雨次、何してんのー?﹂ ﹁うわっ!?﹂ 878 いつの間にか目の前に立ってこちらを覗きこんでいたのは、近所 に住む幼馴染の少女、お遊だった。 慌てて咄嗟に巾着を懐に隠し、もつれそうになる口を発音の形に 無理やり変えて、言葉を吐く。 ﹁い││いきなり話しかけないでくれ! 驚いただろう﹂ ﹁? だって、こないだ話しかける前に背中叩いたら﹃いきなり叩 くな、まず声をかけろ﹄って雨次怒ってたじゃーん﹂ ﹁時と場合によるんだよ!﹂ ﹁もう、我儘な子ねー﹂ ﹁なんでぼくが聞き分けがないみたいな態度なんだ⋮⋮﹂ 実際そうであったが、あまり認めたくなかったので、当然彼は考 えを棄却した。 お遊がいつも変わらぬ、何が楽しいのか雨次にはさっぱり理解で きない笑顔のまま更に顔を寄せてきた。 ﹁それより今、何を隠したのかー?﹂ ﹁なっ、別に何も隠してなんか居ないよ﹂ ﹁嘘。ははーん、さては雨次、わたしに隠れて飴でも食べるつもり なのね! ずるい!﹂ ﹁違う、にじり寄るな!﹂ 怪しげな手つきで雨次の体を探るお遊に、必死に抵抗する。 毒薬なんて持っているのが見つかったら大変な事だ。鼠を殺そう としていた、では済まない。誰から受け取ったのか厳しい取り調べ の後、まあ概ね死罪だと雨次は思った。 しかしながら、力はお遊に敵わない。女子の方が成長が早いとい うが、背の丈はほとんど変わらぬ上に彼女は農作業の手伝いをして いる為、日頃何もしていない雨次より力がありそうだった。 879 困り果てた雨次に救いの声がかかる。 ﹁お遊ちゃん、駄目だろう人の物を無理に取ろうとしたら﹂ ぐい、とお遊の襟を掴んで引き剥がす。 呆れた顔で見ているのは地主の末娘である根津小唄という少女で ある。年の頃は雨次と同じなのだが、しっかりもので大人の手伝い をよくしていたり、年上から年下まで多くの子供の顔役のような事 をやっている人気者なので、根が暗く人付き合いが苦手な雨次にと っては、幼馴染というほど付き合いのない相手だ。 というか雨次は、金持ちの子で見た目も良い社交的な相手は嫌い だという、卑屈な心を持っている。 雨次の一段階増して濁った視線の先で少女二人が会話している。 ﹁うーあー。ネズちゃんの石頭大権現! きっと雨次は、わたしに 内緒であまーい飴をしゃぶり尽くそうとしてるのに﹂ ﹁本人が違うと言っているのだ。友達の言うことを疑ってはいけな い﹂ ﹁えー? そっかなー?﹂ お遊が頭をゆらゆらと動かして疑わしげに云う。 そして小唄は雨次の前に立ち、腰に手を当てながら友好的な笑み を浮かべ、 ﹁君が雨次だな。私は根津小唄。よければ一緒に遊ばないか?﹂ ﹁いやぼくは少しばかり忙しいからまた今度ええと出来れば二三年 後ぐらいに﹂ ﹁なんか年単位で断られた!?﹂ その反応は小唄にとってもショックだった。 880 硬直している小唄を無視して、雨次は立ち上がって軽く埃を払い その場を立ち去ろうとする。 小唄は慌ててその袖を引張る。 ﹁ま││待ってくれ。何か気に食わないことでもあったのか?﹂ ﹁別に。ぼくと遊ばなくても君は友達が沢山居るのだから別にいい だろう。というか地主の娘なのだから、外に出かけずに月に涙し風 に囁きかけて感受性豊かな詩でも作っていればいいじゃないか﹂ ﹁地主ってもただの村娘だからそんな優雅な生活はしてないぞ!?﹂ 雨次は金持ちにも偏見があるようであった。金持ちがいるから世 間は貧しくうちは後ろ指さされている生活なのだと思っている。 彼が年の割に妙に語彙が豊かなのは、精神が少々躁気味な母親が 家に居る間ペラペラと喋る言葉を覚えたのだろう。母も学は無いが、 仕事柄言葉は良く知っているのだ。 お遊が言葉を挟む。解説するようで、思いついたから喋ったよう な。その二つにどれほどの違いがあるかわからないが。 ﹁ネズちゃんはねー雨次がいつも一人でぼやっとしてて寂しそうだ から誘いに来たんだよ? 雨次と遊ぶのわたしぐらいだからさー一 緒に探してくれって﹂ ﹁ほう⋮⋮それはまた、さすが人望があって心優しさを他人に分け る余裕のある小唄さんの情け深い事⋮⋮﹂ ﹁お、お遊ちゃん!? 余計に睨みつけられてるんだけど私何か悪 かったかなあ!?﹂ 妬みの心を相手への敵対心に変換して睨め付ける雨次に、困った 顔でおろおろと小唄は戸惑う。 心優しい人間は信用しないというのが雨次の考えである。優しく するというのは相手を見下す行為だと信じていた。根拠はなかった 881 が、反証があったところで耳を閉ざす程度には確かだと。 無駄な被害者意識である。有用な被害者意識があるかは不明だっ たけれども。 ねちっこい目で小唄を見ながら、雨次はいった。 ﹁だいたい、ぼくが一人で他の子と遊べな⋮⋮遊ばない理由だって、 噂になってるのだから知っているだろう﹂ 自虐気味ですらあった。 彼が根暗に育った要因として、周りの子やその親からも、夜鷹が 産んだ父無し子だと知られていることがある。 子供同士の間でも虐めが起こり、石を投げつけられたり罵られた りした結果、雨次は一人で過ごすようになったのだ。お遊だけは少 々頭が悪いのか、雨次が追い払っても他の子供に一緒に虐められて も無理やり絡んでくるので彼はもはや犬猫のようなものだと認識し ている。 小唄は腰に手を当てて胸を張り、きっぱりという。 ﹁知っている。だがそれがどうした! 文句を云う輩は私が説教し てやる!﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁どんな偏見を持っている相手でもしっかり話しあえばわかってく れる。だから一人で居ないで一緒に遊ぼう。そのほうがきっと楽し い﹂ 悪気も引け目も無い、純粋な目で彼女は云う。 ﹁雨次、友達になってくれ!﹂ どうやら、それが正しいと信じているようでひたすらに雨次は己 882 の機嫌が悪くなっていくのを感じた。 今までに自分を迫害した相手とは二度と分かり合えないというの が彼の持論である。 たとえ小唄の説得で、多少なり距離が縮まったところで、 ︵小唄のお情けで付き合って貰う関係に、なんの価値があるのか︶ 想像しただけで手にもつ毒を呷るか、井戸に放り込みたくなって くる。 確かに小唄は善意で孤独な雨次を救おうとしているのだが、人の 悪意ということに関しては良い育ちで良い暮らしをしてきた彼女よ りも、卑屈に世界へ恨み事を垂れ流していた雨次の方が敏感だ。 小唄は正しい事を言えば相手も正しい反応を返すことが当たり前 だと信じている顔で、続ける。 ﹁なあ雨次。人嫌いならまず三人で遊ぼう。そのうち慣れて友達を 増やし││﹂ ﹁いらない﹂ ﹁え?﹂ ﹁それは、価値の無い﹂ 雨次は踵を返して、早歩きでその場から立ち去ろうとした。 胸に無形の澱みが溜まり酷く吐き気がする。 これは毒だ。 ﹁な、ちょ、ちょっと待て雨次、どうしたんだ?﹂ ﹁⋮⋮雨次ー﹂ 小唄が追いかけて引いた袖を無言で振り払う。心配そうに呟いた お遊の声は聞こえなかった。 883 突然││という程ではないが、耐えられない顔をして何処かに去 ろうとする雨次に、動転した小唄が問いかけた。 ﹁すまん、悪かった。なあ、どうすればいいんだ!?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 雨次は立ち止まり顔だけ振り向いて、泣きそうな小唄に吐き捨て る。 ばいた ﹁構わないでくれ。売女の子がそんなに哀れに見えるか﹂ あっさりいって、雨次はもう振り向かずに立ち去った。 果たして同情に価値が有るのか、雨次にはわからなかったが、も しそうだとしても、 ︵縋ってなどやるものか︶ 生まれてきてから何度も覚えた、決して稀有でない憤りに似た想 いを浮かべて、当たり前だが足早に家に戻った。 **** 日が暮れれば眠る。おおよそ当時の生活では当然のようだったが、 雨次もその生活を送っている。 暗闇の家に一人だ。もしかしたらもっと小さい頃は泣いていたか もしれない。だが慣れればどうということはない。諦めれば、なお 884 さら何ともない。 母親は夜にはあまり帰ってこない。訂正すれば殆ど帰ってこない。 お世辞にも江戸の市中から近いとは言いがたいここまで仕事帰りに 帰ってくるのが億劫なのだろう。大抵は朝方に帰ってくる。町に夜 鷹仲間と共同で寝泊まりできるぼろ長屋があるらしいが、行ったこ とはなかった。 明日の朝にはいつもの様に早起きして、飯と味噌汁を用意するの が雨次の唯一の仕事だ。 帰ってきた母親への食事と、自分の一日分の食事だ。煮炊きをす るのは朝の一回。品目は変わらない。米と味噌、干した青菜のよう なものだけは母が町から買ってきてくれる。 暗闇の中、持ったままの巾着袋を取り出し、目には見えないが掲 げて考えた。 中には恐るべき毒の粒が入っている。全て井戸に放り込めば、こ の集落などは全滅させられるだろう。あの死神が言ったのだからま ず間違いなく。 雨次は思う。 世界には無価値なモノが多すぎる。およそ自分が関わるものには、 正しい本物など存在しないのだろう。 今まで出会った全ての禍いモノを捨て去れば、或いは幸福なのか もしれない。 法師に摘まれた耳が酷く熱い。気になって触ると、腫れているよ うだった。もしかしたら爛れて腐っているのかもしれない。あり得 る話だが、想像はしたくなかった。 その耳に昼間にあった法師の言葉が蘇る。 そして身震いをした。 母が嫌いだった。粗暴で、穢らわしく、自分が被っている不幸の 大部分はあの女のせいだと判断する。 ならば││それを殺して、何もかも解決し、幸せになれるのだろ 885 うか。 わからない。 年の割に少しばかり知恵が回るが、知識も経験も少ない雨次には わからない事が多すぎた。 ︵結局何がしたいんだぼくは︶ 寝相を変えて溜息を付く。 手の中には誰でも殺せる凶器がある。 憎い母がいる。 いろいろ悩んだが、その二つを直結させれば単純な答えにしかな らない。 ︵明日、母を殺そう︶ そのことだけ決めてしまえば、何故かすっと眠りに付けた。 悩むのも、恨むのも、妬むのも、期待するのも疲れた。 ただ、雨次は疲れていた。 ***** 簡単だ。 鍋に作った味噌汁に薬を何粒か溶かして入れた。 後はこれを、朝帰りの母に飲ませるだけだ。いつも帰ってきては 朝飯を要求するのでなんの疑いも無く毒を飲み干すだろう。 886 それで終わりだ。 終わらせてどうしたいのかはともかく、とにかく世界は変わる。 思えば、自分の意思で何かを変えようと動いたのはこれが初めてか もしれない。 毒鍋をかき混ぜながら暗い達成感が心を蝕むのが、むしろ小気味 良くさえ思える。 そうしていると家の戸が砕け散らないことが奇跡に思える、凄ま じい音を立てて蹴り開けられた。毎朝の事である。予め戸を開けて 待機していたら、わざわざ外から閉めて蹴り開けてくるので無意味 だ。 ﹁おぉーっす、帰りやがりまくりましたぜこのトンチキがあああ﹂ 母だ。 実は雨次は、母の名前を知らない。わざわざ子供に名乗る母も居 まいし、母を名前で呼ぶ子供も居ないとなればどうやって世間の子 は知っているのか不思議に思えた。 ぎょろりとした目つきをした女だ。性格も良くはないし精神も若 干危ない方へ飛んでいる。雨次はよくわからないが、体だけはそれ なりに整った客受けの良いものなので夜鷹として生活ができる程度 には稼いでいる。 意図的に悪くしているとしか思えない眼光を彼女は家に入り次第、 竈で朝食を作っている雨次へと睨みつけ、近寄ってきて荒々しく肩 を掴んだ。 ﹁雨次? お前は行方不明だった雨次じゃないか! 帰ってきてた んだねえええええ!!﹂ ﹁そんな覚えのない感動をされても﹂ ﹁うるせえええ!! こんな飯が食えるかああ!!﹂ ﹁あっ﹂ 887 文字通り意味不明な勢いのまま、母は毒入りの味噌汁が入った鍋 を窓から放り捨てた。 精神テンションが可怪しい人間の行動に論理性を求めてはいけな い。雨次の鬱々とした思考とやけっぱちの勇気から行われたザ・暗 殺計画は無意味に頓挫したのである。ザ・という程でもなかったが。 しかし自らが食うものを放り出してどうするのだろうかと疑問に 思った雨次は、母が手に持っている桶に気づいた。 彼女は意気揚々に、 ﹁今日は奮発してすっぽんを買ってきたっていうか⋮⋮へへへっお 前中々やるじゃん。ああ、お前もな⋮⋮﹂ ﹁一人で完結されても﹂ ﹁つーわけでえええ、今日は朝からすっぽんの雑炊にしまああす! わあい体にいいね! 恐ろしいほど!﹂ ﹁ある意味恐ろしいよ﹂ テッペン ﹁じゃっ、おれぁ外でこいつらをぶっ殺し死骸を刻んでシメてどっ ちが上張ってるのかわからせてくるからよおおお⋮⋮ちょっと待っ ててね? あっ痛っ! こいつ指噛みやがった! 死ねっ! 大丈 夫⋮⋮! 怖くない⋮⋮! 死ねっ!﹂ ﹁わけがわからないよ﹂ ﹁ん? おおおおおいいいい! 留五郎!﹂ ﹁誰だよ﹂ ﹁耳が膿んでるぞしゃあああ!﹂ ﹁痛あああ!?﹂ がり、ぐちっという音が雨次は耳元でマジ聞こえた。 母が耳たぶを噛みちぎった音である。容赦無く、獣のように食い ちぎった。怖ろしいし、一部損失した耳の寒さに血が引いた。 彼女はぺっと肉片を吐き捨てて、 888 ﹁豚にでも食わせてろ!﹂ と、言いながら亀を連れて母は外に出て行った。 いつもながら彼女の言動と行動と精神が露ほども理解できない雨 次は頭を抑えて、小さく首を振るのであった。 噛みちぎられたはずの耳たぶは、本来痛いはずなのにそうも感じ ず、ぞっとするほど冷たいだけだった。 酷く気分が沈みながら、少なくとも今日は毒を盛るのはやめよう と思った。 すっぽんは滅多に食べられるものではないのだ。 ﹁あーいひひ血! 甘∼い生き血ぃぃぃ!! ぺろぺーろうへへへ﹂ 外から聞こえる嬌声に、明日こそは殺そうと思いながら。 **** 翌日は作った毒味噌汁を捨てられ、 ﹁今日は蛤の潮汁だぎゃあああ!!﹂ と、作りなおさせられた。毒殺失敗。 翌々日は雨次が朝起きたら、 ﹁あら、雨次おはよう。すぐに朝ごはんできるから、顔を洗ってき 889 なさい﹂ と、にこやかに朝食を作る母を見てショックのあまり嘔吐した。 不安にかられて畑の土とかを口に放り込んだ。 その次の日は、 ﹁おぼろえええげええろお⋮⋮味噌汁とか飲めるかアホがあああ! 寝っるわー!! お前も寝ろおえええ﹂ 酔いが酷い母親に捕まって酸っぱ臭い抱擁を受けながら二度寝を 強要させられた。毒鍋には嘔吐物を入れられた為破棄した。 更に、 ﹁こんな味噌汁が飲めるくあああああ!!﹂ 一口も飲んでないのに普通に暴君風に投げ捨てられた時少しだけ ﹁ああ普通の反応だ﹂と安心した自分に気づいて雨次は嫌気が差し た。 何処かまずい流れだったのでその翌日は毒を盛らずに普通に味噌 汁を作ったら、 ﹁そうそうこれこれ⋮⋮花鰹の出汁が効いてていいね⋮⋮やるじゃ ない!﹂ お湯に味噌を直接ぶち込んで溶かしただけの水溶液を啜りながら 美味そうに批評をされたりした。 日替わりで精神異常の方向性が入れ替わる母に翻弄されているう ちに、とうとう毒薬はあと三粒にまで減ってしまっていた。 深刻そうな、あるいは投げ槍な気分で河原に座り込んで頼りない 890 毒薬を意識する。 ここまで役に立たない殺人の道具がかつてあっただろうか。 河原の石ですらまだ殺傷力がある気がする。彼は適当に掴んだ石 を川に放り込みつつそう思った。 そうだ、殺すというのならば何も貰った怪しい毒薬でやらなくて もいい。 昼間、寝ている母を錆びた包丁で刺せばいいだけの話だ。 そうでなくとも、味噌汁に毒を混ぜるという迂遠な方法を取らず に、鼾を掻く口に放り込めばいい。 なぜあんな手段を取ろうとしていたのか。うんざりと考えて当然 のどん詰まりへ辿り着く。 ﹁⋮⋮ああ、なんだ﹂ ︵ぼくも、死にたかっただけなんだな︶ 二人分作った味噌汁は、母だけ飲むわけではない。 母が嫌いで、其の次にか、それ以上かはわからないが、自分の事 も嫌悪している。 雨次は袋から黒い粒を一つ取り出して、己の口に放り込んだ。 ﹁⋮⋮甘い﹂ 恨めしい程に甘美で、泣きたくなる。 どれぐらいの経過で死ぬのだろうか。せめて死ぬまでは舐めてい ようと思った。 そうしていると、背中を叩かれる。 ﹁雨次見っけ﹂ ﹁⋮⋮お遊﹂ 891 声をかけてきたのは母以外でほぼ唯一言葉を交わす事がある、お 遊だ。 いつもならば気に障る、彼女の爛漫な笑みも死ぬと決めれば感情 を揺らすようなものではなかった。 少女は、ぽむふ、とばかりに雨次の隣に座った。 ﹁雨次さー﹂ ﹁なんだい﹂ ﹁甘いものって好き?﹂ 質問の意図が掴めなかった。唐突に何を聞いているのだろうか。 いつもならば適当に濁した返事を返すのだが、丁度現在は口に甘 みがあったので、考え応えた。 ﹁最近、まあ好きになったよ﹂ 思い返せば、これ以外に甘い菓子などは食った記憶が無い。 ﹁そっかー、わたしもお菓子は好きなのね!﹂ ﹁ふうん﹂ ﹁つまりわたしと雨次は趣味が合う友達ってことよね!﹂ ﹁いや、なんでそうなる﹂ 渋面を作るが、何も気にしないようにお遊は笑っている。 ﹁そもそもお前と友達になった覚えはないぞ﹂ ﹁ふふーん、雨次ってば、[とも]って字を知ってるの?﹂ ﹁⋮⋮いや﹂ 892 文字など習っていないので知るはずもない。 江戸時代の識字率は高かったと言われているが、農民などではそ の限りでない。言葉自体は母がぺらぺらと口に出すので知っている のだけれども。 文字を知らないのはお遊もそうであるはずだが、 ﹁[とも]って字はこう書くのよ!﹂ と、木の棒で地面にたどたどしく、[友]という漢字を書き記し た。 控えめに見ても馬鹿なこの幼馴染が文字を書いたことに驚きを感 じて、まじまじと見つめる。 ﹁この字は、二人の人が同じ方向に手を向けている形を表してるっ て[てんしゃくどー]は言ってたわ! だから、同じ方を向いて、 同じものを好きな人は友なんだから﹂ ﹁む⋮⋮﹂ どうやら阿呆だと思っていた相手は自分より知識人だと示されて いるようで、意外やら妬みやら微妙な感情が混ざり合う。 [てんしゃくどー]とやらの事は雨次は知らない。わざわざ隠居 している儒学者の老人に、この娘が勉強を学びに通っているなど想 像もできなかった。まあ理由の半分は、茶菓子を食いに行っている のだったが。 ﹁だからわたしは友達!﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 深くため息を吐くが、どちらにせよ、そろそろ毒が効いてきて死 ぬ予定なのでもうどうにでもなれと軽く手を振った。 893 ﹁わかったわかった、お前は友達だ﹂ ﹁ん。じゃあネズちゃんも友達ね?﹂ ﹁なんでだ﹂ ﹁ネズちゃんも甘いの好きだもん﹂ ﹁ぼくは甘いのって肥えに落ちた餅の次ぐらいに嫌いになった﹂ ﹁男が言葉を覆さないの!﹂ ﹁痛い﹂ ぐに、と頬を摘まれて半目で呟く。 どことなく目の泳ぐ雨次を覗きこんで、お遊は尋ねた。 ﹁ネズちゃんのどこが嫌いなの?﹂ ﹁どこっていうか⋮⋮﹂ 一度、言葉を切って、 ﹁ああいう金持ちで性格も器量もいい輩は天然で人を見下してくる から。友達になろうって言ってきたのだって、優しい自分に酔って るんだろう﹂ 偏見の篭った小者臭い考えだ。 それでも、十と少しばかりの年を生きてきた彼がそんな考えを持 つ程度には、恵まれていない環境ではあった。 お遊は雨次の正面に回って、ぐいと両方の頬を軽く引っ張った。 何をするのかと文句を言いたかったが、喋れない。真っ黒で濁り のない彼女の視線を真っ向から受ける。これもまた、苦手な眼だ。 ﹁ちっがう。ネズちゃんはね、単に雨次の事が好きだから、友達に なりたかったんだって!﹂ 894 すき ﹁はあ? 鋤? 小作人に欲しいのか?﹂ ﹁雨次って結構頭悪いよね⋮⋮まったく、いい? ネズちゃんは雨 次と仲良くなって一緒に遊んだり手とか繋いだり口吸いとか⋮⋮﹂ したり顔で何やら語り出したお遊に凄まじい速度で走ってきた小 柄な影が、小脇に抱えて連れ去っていった。 近くの木陰で様子を伺っていた、根津小唄である。長い髪を振り 乱し、顔を真赤にしてあっという間に拉致に成功。会話を中断させ た。 雨次に声が届かない場所で下ろして、 ﹁だあああ! ちょっとお遊ちゃあああん!? なにを勝手に雨次 に吹き込んでるんだ!?﹂ ﹁? だってネズちゃん、雨次と仲良くなりたいって﹂ ﹁行き過ぎだから! 進みすぎ! そこまで言ってないだろう!﹂ ﹁えー﹂ 不満そうな声を出すお遊の肩を持ってがくがくと前後に揺らす。 小唄の顔は完全に茹だっていた。 雨次と仲直りというか、仲作りというか、とにかく嫌われたのを なんとかやり直して友達になりたいとお遊に頼んだのは小唄だった が、そんなに直接的に好意を行為にしたいとは言っていないのだ。 仲良くなりたい、即ち好きだということだろうと解釈したお遊の 独断専行である。 だが、突然現れてお遊を連れて行き怪しげな密談を始めた彼女に 対して、 ﹁ああっ!? 雨次から凄まじく何らかへの疑い深い目線が!﹂ やや離れた場所にいる彼女へねちっこい睥睨の眼差しが送られて 895 いる。 あまりの恥ずかしさのあまりに行動を起こしたが、それが余計に 不信感を招いたようだ。 もはや彼の目には独り法師相手に精神攻撃を仕掛けてきている女 としか映っていないだろう。 ︵だが、それでは駄目なのだ⋮⋮︶ ぐ、と拳を握って、小唄は雨次に歩み寄る。幸い、彼は逃げたり 去ったりしなかった。 不機嫌そうな眼差しを向けてくる彼に云う。 ﹁こんにちは、雨次⋮⋮さん﹂ ﹁⋮⋮なんだい? 地主のお嬢様﹂ ﹁お願いがあってきました﹂ ﹁ぼくは君の願いを叶える便利な存在じゃないよ﹂ 誰かの自尊心を満足させるための添え物などでは決して無い。 そう思わなければつまらないこの世界では生きていけない。たと えもうすぐ死ぬのだとしても。 口に入れた甘露に、苦味を感じた気がした。 小唄は真剣な顔で言う。 ﹁友達に、してください﹂ ﹁⋮⋮﹂ 以前に聞いた時と、若干言葉の意味合いが違って聞こえた。 初めてあった時に彼女はこういったのだ。 ﹃友達に、なってくれ!﹄ 896 と。 友達に[なる]というのは、雨次が彼女に遜って友達の地位を手 に入れるということだ。 友達に[してくれ]と頼むのは、雨次の許可によって彼女を認め るかどうかである。 主体が違うのだ。 漠然とそれは理解できたが、何故この地主の娘は、他の大人から 褒められ、子供達に慕われている少女は自分のような売女の息子に それを頼むのか全然判らなかった。 明らかに利点よりも不都合が多い。 理解できない行動に、確かに雨次は動揺して、問い返した。 ﹁なんでそんなことを頼むんだい?﹂ ﹁雨次の親がどうとか、他の人がどうとかじゃなくて、私が雨次と 仲良くなりたい⋮⋮それだけなんだ﹂ ﹁だから、なんでぼくと!﹂ ﹁わからないけど、そう思ったんだ﹂ 彼女は困った顔で笑みを作っていた。笑ってはいたが、何処か泣 き出しそうな顔でもあった。 そんな彼女の後ろから飛びつくようにして、お遊が顔を出した。 ﹁だーかーらー、そういうのを好きだって云うんだって! 誰かを 好きになるのに、理由なんか無いー!﹂ ﹁そ、そうなのかなお遊ちゃん﹂ ﹁⋮⋮﹂ 雨次は、毒のせいか考えも何も回らなくなってきた気がして頭を 振った。 897 酷く気持ちが乱れている。理解できない相手の思考に飲まれて、 具合が悪くなりそうだ。 誰かに好意を向けられることなど無かった少年の、心の処理能力 は限界だった。 好きだなどと誰にも言われたことは無かったのだ。 母にも。 ︵⋮⋮紛い物の世界か、どうか︶ 喉がひりつく。毒が回ってきたのだろうか。 わけが分からぬまま、やけっぱちの気分になってきた。 もうどうでもいいか、死ぬのだから。 ﹁⋮⋮これ﹂ 彼は目を背けながら、毒の粒が入れられた小袋を二人に見えるよ うに差し出した。 ﹁あげるよ。甘い﹂ ﹁あっ! やっぱり黒あめを持ってた!﹂ ﹁⋮⋮ありがとう、雨次﹂ にっこりと小唄は微笑んだ。彼から認められたような気がしたの だ。 雨次はどうしてその毒を渡したのか、自分でもはっきり説明でき そうにない。 ただ、渡した。なんらかの結果を求めて。 二人はなんの躊躇いも疑いもなく、黒い毒の礫を口に放り込んで 舐め始めた。 898 ﹁うん、黒あめ甘いね﹂ ﹁黒あめだからな﹂ しかし、どうも二人が[黒あめ]と連呼するのが気になり、 ﹁⋮⋮黒あめ?﹂ と、聞くと、お遊が袋に記された文字を指し示して、 ﹁ここに[黒あめ]って書いてるじゃない﹂ 当然のようにそう告げた。 なんらかの、模様か文字らしきものが書かれているのは雨次も知 っていたが。 彼は字が読めなかったのだ。 その雨次が毒の入った袋だと聞かされ、そう信じ込んでいたもの は、四ツ谷の街道沿いにある菓子屋[豆仙]で売っている黒あめの 袋だった。 ﹁⋮⋮読めるのか、字﹂ もはや頭が真っ白になった雨次から出たのはそんな、どうでもい い疑問である。 小唄はともかく、お遊までひと目でわかるそれを知らなかった自 分が馬鹿馬鹿しくなってきた。 お遊は腰に手を当てて自慢気に、 ﹁てんしゃくどーのところで習ってるからね! 当然!﹂ ﹁私も最近通っているのだが、大した先生なのだぞ﹂ ﹁うん⋮⋮そうか⋮⋮﹂ 899 気が滅入ってきた雨次は勢いなくそう呟いて、 ﹁ごめん⋮⋮少し具合が悪いから家に帰る﹂ 肩を落としてぐったりと歩き出す彼の背中に、少女たちから声が かかった。 ﹁? 変な雨次﹂ ﹁そうか、ええとその⋮⋮またな!﹂ 背中にかかる声に返事を返す気力も無い。 ***** 家に向かって歩く足取りは重く、頭が厭になるほど傷んだ。 苦味を感じる飴は溶けて消えたか飲み込んでしまったか、口には 粘膜にこびり付いたような気配だけが残っている。 毒を飲んだわけではないというのに、病にかかったようだ。 思えば、あの妖怪じみた怪人には飴の袋を渡されて謀れただけの 話だ。それを真剣に悩んで、毎日味噌汁に混ぜて溶かしていた姿は、 愚かで滑稽だっただろう。 あるいはただ、飴の袋を拾っただけの己の脳が創りだした幻覚だ ったのかもしれない。 前に思ったように、殺すのに毒などいらない。自殺するにも、毒 900 など飲まなくともできる。 ただ、他の選択肢を取れるような度胸など無かっただけだ。 憎しみも決意も足りなかった。 ︵結局は何もかも、どうでも良かっただけなんだ、ぼくは︶ 全てが無駄に思えて、引きつるような笑みが顔に浮かんだ。 生きるも死ぬも殺すも真剣に付き合えない。一番つまらないのは、 自分だと思った。 ﹁おや?﹂ 声が響いた。幻聴だ、と考える。 だが否定する脳髄に染みこんでくる、低くてよく通る声だった。 ﹁何処かで見た贄だと思ったが、生きていたのか﹂ 頭蓋骨が鉛に変わったように重い頭を、どうにか上げて視線を伸 ばした。 目の前に、赤い仮面を被った法師が居る。 死神││若しくは疫病神だ。 法師の全身から漂う毒と火薬の臭気に、目が霞んだ。 ﹁薬は⋮⋮全部使った。飴、だったんだろう﹂ ﹁ほう。その僅かな脳味噌でよく気づいたな。半分正解するとは、 君のような灰滓にすれば僥倖の結果と言える﹂ ﹁半分⋮⋮?﹂ 彼は近寄り、面を雨次の顔に寄せた。 硝煙の臭いが、鼻につんとくる。 901 ﹁袋は其の辺りで売っていたものを使ったがね。ほんの数粒だけ、 飴を混ぜただけで後は本物の毒だったのだよ。そして││君自身が それを飲んだようだ﹂ ﹁⋮⋮え﹂ ﹁だが全て使って誰も死んでいない。致死量を飲んだ君すらね。そ して因果の芥、縁の屑でしかない君と再び出会った⋮⋮たましいの 接触を持った存在は互いに干渉し合うとはいえ、この運命力は面白 い。 [百鬼酖毒]を探しに来て、なんらかの干渉により今だ誕生しえ ていないと知ったときは無駄足かと思ったが⋮⋮成程、成程。この つながりの為か﹂ ﹁それはいったい⋮⋮?﹂ ﹁ふむ、[百鬼酖毒]のことかね? 近しい未来に於いて江戸で生 まれる呪毒のことだよ。占術予測ではそろそろの筈だったのだが⋮ ⋮ま、暫くは関東に留まり機を図るとするが⋮⋮﹂ 次々と繰り出される、理解できないのに強制的に脳に刻まれる言 葉に歪な負荷がかかり、雨次は意識が遠のきそうになるのを必死に 堪えた。 仮面が変わる。次々と蠢き入れ替わり、凶相を浮かべた邪悪な病 魔の顔が喜んだように雨次を凝視する。 ﹁薬のお代はいずれ頂こう。全てを使い切った君には、特別な対価 を。 心配するな、金ではない。命でもない。ただ、土に埋もれて笑う 902 愚人の白骨が如く安心しておきたまえ。 ふむ⋮⋮[雨次]と云うのだね。たましいの契約は[サンニヤカ ー]の名に於いて、今この場で交わす。異存は無いだろうか。無い だろうね? 宜しい、喜べ﹂ ﹁⋮⋮何を言っているんだ⋮⋮法師⋮⋮﹂ ﹁契約だ。私も名乗っておこう。いずれ因果線が重なるときの為に﹂ もはや、雨次は自分が立っているのか寝ているのかすら体の感覚 が薄れているのに、気づくことすら精一杯だった。 相手が幻覚なのか、実在するのかの確認すら覚束ない。ただ、内 蔵全てに肉喰らう蛆虫が植え付けられた悍ましい痛みと、脳髄を砂 糖で煮込む背徳的な吐き気しか感じない。 毒を、飲んだのだ。 二転三転と結論を改めて、そう思った。 視界にすら映らなかったが、仮面の男が名乗る言葉だけは心に無 理やり彫り込まれた。 ﹁私は仏の法に生きるに非ず。人の法に従うに非ず。故に[無法師 ]﹂ 崩れる己の世界の中で、飴を舐めたあの友達二人は、大丈夫だっ ただろうかと場違いに心配し、意識は赤く塗りつぶされた。 ﹁[道摩無法師]と云う││﹂ 903 とある初夏の日││雨次は、[それ]に出会ったのである。 ***** それから。 雨次の意識が目覚めた時、自宅の寝床に寝かされていた。意識が 戻ってからまる二日、体は殆ど動かなかった。 その間はだいたいずっと母が世話をしたという。奇声を発しなが ら粥を作り食わせ、体を拭き、排泄の処理をして、熱を出し傷んだ 雨次を撫でて過ごした。 妙な叫びは四六時中だったが、この二日間、彼女が怒鳴る事も罵 る事も無かったのに気づき⋮⋮ また、昼間にお遊と小唄がやってきて、寝込んでいる雨次に驚き 見舞いをしていったが、二人が毒に倒れていないことに安堵した自 分を見つけて、ため息が漏れた。 体が治る頃にはもはや、母を殺そうとか、友達など下らないとか、 思わなくなったという。 捻くれた考えが直ったわけではない。ただ、もう殺せはしないだ ろうと諦めただけである。機会を逃してしまえば、わざわざ人殺し などという面倒なことに執着する気力は沸かなかった。 雨次は、二人の勧めもあって天爵堂の私塾へ通うことにした。 知識がお遊に比べて負けているという僻みもあった為にむしろ素 直に三人、授業を受けるようになった。 あの日見たあの妖怪と、かけられた言葉の意味を知るために││ 904 文字という呪を手に入れる。 天爵堂の教えが良かったか、雨次の頭脳が適していたかわからな いが、すぐに文字の読みを覚えて、彼は本を読めるようになったら それに没頭した。 そして月日は過ぎて││ ﹁九郎さんに言われた通り芋と南瓜の煮込みに蛸飯を作ったら、う ちの母が三日ぐらい上機嫌で﹂ ﹁そうであろう、そうであろう﹂ 千駄ヶ谷の屋敷にて、主の天爵堂と将棋を指しに来た九郎は盤面 から目を離さずに応えた。 時折九郎はこうして天爵堂の家に土産を持ちつつ将棋や碁をやり に来る。実力がそれなりに伯仲している相手であり、茶も高級なも のを持っているからだ。それに何処か気質が似通ったところがある のか、割りと落ち着く間柄である。 温くなった茶を一口飲みつつ、考えを少しでも巡らせる為雨次へ 声をかけたのだ。 その日も雨次はいつも通り、天爵堂の家であたかも自宅のように 勝手に本を読み漁っている。書痴という点では、まるで天爵堂の孫 にも思えた。 少し前に九郎も関わったのだが、母からの虐めと余計な手出しを した玉菊のタマにより精神的にダメージを負った雨次に数日前、と りあえず母と和やかに過ごすためのアドバイスをやったのだ。 単純に女の好みのご馳走を用意してもてなせばいいというだけの 事だったが。 とにかく、成功したようではあった。芋と蛸と南瓜の効果は高い。 905 ﹁急に優しくしてくるからびっくりして茶碗とか噛み砕いてしまっ て口が痛い﹂ ﹁なんでそれに対する反応が悲惨になるのか﹂ ﹁九郎、次の手はまだかい?﹂ ﹁ええい、待たぬか﹂ 天爵堂の本を片手に読みながらの催促の言葉に、唸りつつ顎に手 を当てて悩む。 どうやら劣勢のようであった。最初に将棋に精神コマンドを導入 するルールを提案しておけばよかったかと後悔し始める。 ﹁それで余った分をお遊と小唄に分けたんだけど、それ以来二人の 正気が失われてお遊は四六時中つけ回すし小唄はびっしりと紙が真 っ黒になるまで書かれた文を送り付けてきてとても怖ろしいのでな んとかして欲しいんだ。胃が痛くて昨日から重湯しか食べてないし﹂ ﹁なんでお主の周りの女は面倒な事になるのだ?﹂ ﹁と言うか、こういう時は図々しく頼むのに無駄に精神が弱いな、 君は﹂ 九郎と天爵堂が呆れた様子で、不出来な弟子を見るように少年へ 視線を送った。 芋、蛸、南瓜の力から少女二人を解き放つ方法を考えなくてはい けないのだろうか。面倒そうに顔を見合わせる。 なにかそれらの印象を打ち消す強烈なものでも飲ませば良いだろ うか。 ﹁確か将翁から貰った死ぬほど苦い胃薬があったような⋮⋮﹂ ﹁ああ、それなら僕も貰ったよ。嫌がらせみたいな苦さの。最初貰 った時は毒殺する気だと真剣に警戒した。一応凄い効くのだが。あ れを飲ませば百年越しの嬉しさだって消滅するだろうね﹂ 906 天爵堂が手の届く範囲にある小さな薬箪笥を引っ張って、白い紙 に入った薬包を取り出して、雨次に渡した。 友達二人に怪しげな薬を飲ますことに対して嫌な過去からの引け 目を感じるが、とりあえず受け取る。 九郎はやれやれと頬杖をつきながら、 ﹁幼馴染二人とリア充しているかもしれんが、あれぞ。複数の女子 に気を持たせるような事をしつつ鈍感系で好意に気づかずに程々付 き合ったまま関係を深めていくような事はするでないぞ﹂ ﹁そんな間柄じゃない。ただの友達だ﹂ ﹁はっはっは。鈍感なやつほどその言葉を云うのだ﹂ ﹁⋮⋮ヒモの君が云うと説得力があるような無いような。とにかく、 早く次の手を﹂ 苦い顔をして、天爵堂が呟いたので、すかさず﹁ヒモではない﹂ と九郎も否定の言葉を返すのは忘れなかった。 それにしても。 あの日、あの仮面の男に植え付けられた、目には見えない毒。そ れを晴らす薬はあるのだろうか。 最近は前ほど不満も屈辱も無い生活をしているが、何処か、これ から先の未来に於いて何かが大きく口を開けて待っているようで、 嫌な予感だけは尽きなかった。 雨次は、とにかく今は知識を得ようと、持っている本の頁をめく るのであった。 余談だが苦い薬を飲ませた事により二人の少女から今度は苦情を 907 受けた雨次は、心労による胃痛でまた引きこもる事となったという。 その際、自分もその胃薬を服用したのだが、以前に飲んだ毒が和 三盆の菓子に思えるほどに舌を抉る苦味であった。 九郎から教えられたことわざ、[良薬マジ苦し]という言葉を反 復して、飲んだことを軽く後悔した。 908 33話﹃青田刈りと犬神﹄ ﹁おかえり、お八や。旅は楽しかった?﹂ ﹁うん! なんかこー、毎日楽しかったぜ!﹂ ﹁それはよかった。ああ、ところで旅の途中⋮⋮九郎殿と何かいい ことはあったかい?﹂ ﹁いいこと? ⋮⋮んん? あっ、茶を飲む時さ、羊羹の端っこを くれるんだあいつ。あそこが美味しいんだけどなあ⋮⋮嬉しいぜ、 えへへ﹂ ﹁完全に子供扱いか⋮⋮﹂ などと言う平和な会話が商家の親子で行われている江戸にて。 被害者への配慮もあり、あまり表沙汰にはならないが、奉行所で は江戸を荒らす、ある厄介な悪党に頭を悩ませていたのである。 京橋にある油問屋、[石川や]に賊が入ったのは昨日の事であっ た。 盗人返しのある塀を易易と乗り越えた賊は主の寝室に入り込み、 脅迫して金蔵の鍵を手に入れて三百両余りを強奪した。 それのみならず、猿ぐつわを噛ました主の目の前で、十になる幼 い娘や丁稚の少女へと暴行を加えて行き、更に帰りがけの駄賃に主 を斬り殺していった。 この、店に居る少女へ暴行して盗むという手口を行う盗賊の犯行 は、奉行所の知れているだけで三件目である。もしかしたら報告が 無いだけで、他にも発生しているかもしれない。 酷く怯えた姿で、母親に縋り付く娘と、娘の清い証を奪われた奥 方は憎しみの涙を流しながら、現場に来た町奉行にどうか賊を捕ま えて獄門にして欲しいと訴えるのであった。 909 現場検分に同行した町方筆頭同心、﹃殉職間際﹄美樹本善治は湿 っぽい空気を払うように手を仰ぎながら、しかめっ面で廊下に出た。 ﹁ああ、やだやだ。怪我が治ったと思ったらすぐまた悪党が出るん だからなあ、おい﹂ ついこの前ちょっとした事件で、不運の怪我を負ってしまったば かりである。膝に痛みがまだ残っているというのに、あちこちに聴 き込みに奔らねばなるまい。 金品強盗殺人に女犯。捕まえれば先ず獄門になるということだけ は被害者の救いだろうか。幼い娘が居る身としては許しがたい悪党 なので、結構なことではあるのだが、 ︵利悟の奴、泣きそうな顔で殺気立っちまいやがって。ま、仕方な いんだけどなあ︶ と、同心の中でも一等に犯人に向けて怒りを示している部下を思 った。一応注意しておかねば、捕縛のその場で殴り殺しかねない。 利悟にとって触れざる聖域とでも云う対象の子供が無残な目にあ っているのだから、怒りも尤もなのだが。 もう、十四年ほど前になるだろうか、と美樹本は思い返した。 大久保の方に、妻子を持つ下級武士の長屋がある。独身者が住む 長屋に比べて広く作られているそれは、同心や足軽などが家族とも ども住んでいた。 丁度年始の頃である。雪が深々と降り音を吸い込むような静かな 日に、その長屋は兇賊に襲われた。 ほぼすべての家では亭主は武士として年始の挨拶に出かけていた 為に、残っていたのは妻や老人、幼い子供のみである。 もとより下級武士の住む家。しかも年の瀬に多く散財するのが通 常であったため蓄えなどは殆ど無いと見るのが当然であった為、お 910 そらくは怨恨により襲撃をしたのだろう。 多くの女子供が斬り殺された中、生き残った数名の子供のうち一 人が利悟であった。彼を残して、利悟の妹や仲の良かった幼馴染の 少女も死んでいたという。 ︵利悟が幼い子供に異様な関心を見せる癖はその時守れなかった事 が心に残っているのではないか⋮⋮︶ と、美樹本は思いつつ、時折彼の娘用に甘い菓子などを買って来 る利悟の手首などを捻り脅しをかけるのだったが。 白髪交じりの頭をぼりぼりと掻きながら商家の玄関口へ向かう。 煙管が吸いたい気分だったが、さすがに仕事中は叱りを受けるだろ う。 侵入経路を洗っている同僚の藤林同心のところへ行くか、と裏に 回ろうと足を向けた時、道の向こうから馬に乗った侍と其の周りを 囲む黒袴の集団がやってくるのが見えた。 ﹁おっと、火盗改もご出勤かな﹂ 調べのことを聞かれても面倒なので、玄関からさっと離れる。 庭にある小さな築山に面する塀の外に藤林は居た。 ﹁よう。何か分かった?﹂ ﹁あっ美樹本さん。犯人はここから、鉤縄を使って侵入したみたい ですね﹂ ﹁へえ⋮⋮壁が結構高く見えるけど﹂ 建物の二階ほどの高さがある、つるりとした壁である。上には盗 賊返しという棘が設置されている。 911 ﹁一人目が鉤縄で上がり、縄梯子を下ろして侵入させたようで。地 面に残った蹴り足の跡はひとつしかありませんから﹂ ﹁成る程ねえ﹂ 腕を組みながら考える。犯人は被害者の証言に拠れば三人。中背 が二人と大柄が一人。凶器として短刀を持っている。 報告された被害額だけで五百両を超える。これが金目的ならば、 三人で山分けしても充分として江戸を売る可能性があるが、 ︵女を目的としてる奴は、犯行を繰り返す︶ ことが、多い。金は物の序でといったところだろう。ここは大き な商屋だが、前にはもっと儲かっていない店も襲撃に選ばれている。 藤林同心が声を潜めて、かけてきた。 ﹁そういえば利悟は?﹂ ﹁ああ。聞き込みと、他に小さな女の子が居る店に注意喚起に回ら してる。客に化けて襲う店定めしてるかもしれないからねえ﹂ ﹁怪しい客がこなかったか、って聞いたら真っ先に利悟の名が上が りそうで厭ですね﹂ ﹁ま、打たれ強いやつだからなんとかなるでしょ。それにあいつと しては、ちっとでも体を動かして探しまわってないと気が晴れない だろうよ﹂ 言いながら眉根を寄せて事件について考える。 再犯の可能性があるという事は、捕まえる機会が増えるのである が、被害も増える可能性がある。また、人数が三人という少人数な のも、尻尾を掴むには厄介ではあった。 どちらにせよ、 912 ﹁厄介じゃない事件なんて無いんだけどな、おい。そんじゃま、こ っちは金の流れでも探るとするか﹂ 呟いて、すっかり冷たくなった秋風が新しい傷に染みるようで、 身を軽く縮こまらせた。 ***** ﹁うまい﹂ おやこ と、父娘の言葉が重なったのを見て、 ﹁そうか、そうか﹂ 九郎は頷きながら蕎麦を啜った。 その日の、店を開く前に早めに昼食を取った時であった。 晃之助からまた狩猟した鴨を貰ったので、それを捌いて葱を加え、 生醤油とみりんで甘辛く煮付けた。飯にも合うが、蕎麦汁にも甘み と味のある鴨の脂がじゅわりと溶け出して旨い。 冬となれば鴨南蛮がよかろうと思って作ったのだが、なかなかの ものである。 今日の店の売りとして提供する。値段は少々高くつくが、[数量 限定]という言葉が誘蛾灯になり購入を捗らせるだろう。 ﹁さて、飯も片付いたら店を開けるか﹂ 913 一足先に食い終えた九郎が、暖簾をかけようと入り口へ向かう。 戸を開けると、そこに空から落ちてきたかのように人が倒れてい た。 いきなりの営業妨害に軽く挫折を覚える。稚児趣味が店先に落ち ている蕎麦屋に誰が入りたがるというのか。 ﹁おい、利悟。死ぬなら向こうに新しく出来た定食屋の飯を食いな がらにしろ﹂ 襟元を掴んで起き上がらせる。定食、という言葉はまだ出来てい ないが、近所に店を開いた料理屋は旨くて量も多いと評判なのだ。 嫌がらせをするならそこにして欲しい。 彼は疲労の残る目をしょぼしょぼと開けて、 ﹁ううう⋮⋮腹減った⋮⋮蕎麦と少女の笑顔増し増しで⋮⋮あっち の店はおばちゃんしかいないし⋮⋮﹂ ﹁まったく、仕方ないのう⋮⋮﹂ 多少嫌だったが店先で死人が出ると面倒であったために、利悟を 店内に引っ張って座敷に放り込んだ。 ﹁何はともあれ本日の客一号だ。六科、鴨南蛮と白い飯を出してお くれ﹂ ﹁うむ﹂ への字口のまま頷いて、茹で置いた蕎麦の麺を湯で解す六科。も とより六科の手打ち蕎麦はコシは少なく、いい意味でもそもそして いるので、茹でおこうが伸びようが然程変わらないという特性を持 っている。 目元に黒く隈を作っている利悟の前に座り、それとなく訪ねてみ 914 た。 ﹁今日はいつになくお疲れの様子だが、どうしたのだ。いや、下世 話な理由なら言わんでいいが﹂ ﹁あっ、そう見える? いやー疲れてねーんだけどさー全然。これ じゃあ眠いのを隠して仕事してるように見えるかーいやー﹂ ﹁興味はあんまり無いが。己れは鮒釣りにでも出かけるから﹂ ﹁いやいやいや、ちょっと待って話を聞いてくれ﹂ 手をとって引き止めてくるので、軽く振り払い懐から出したちり 紙で拭い捨てて、とりあえず座り直した。 もはや慣れた汚物を扱うの如き反応に、利悟は心の中だけで涙す る。 利悟が云うには、ここ最近の女児と金銭を狙った強盗の捜査をし ていて、彼は犯行が行われる時間帯である夜間の見廻りを担当して いるということであった。 しかしながら現状では手がかりが掴めていないので効率も悪く、 奉行所としてもあまり人員は出せない。それに、利悟は、指示され たよりも長時間││日没から明け方まで休みつつ警邏を続けている という。 一日、二日ならともかく、何日も続けていれば当然利悟の疲労は 溜まる。幾らか日中の勤務を都合して休みを取らせてもらっている とはいえ、非番の日でも夜間警邏をしているのだから、なおのこと だ。 奉行所の方針と、利悟の方針に若干の違いがある為、人員は出せ ずにこのような事になっている。奉行所としては、日中の聞き込み や遊び場での捜査で犯人を絞り込み逮捕を狙っていて、利悟として は次の犯行を発生させないようにしたいのだ。 両立出来ればいいのだが、人員、特に同心の勤務時間の折り合い からも前者を優先させていっていると言っていい。なにせ、奉行所 915 として取り扱わねばならない事件はこれ一つではないのだ。 こういう時に火盗改と歩調を合わせることが出来ればいいのだが、 なかなか組織上の立場もあって、そうはいかないのが通例である。 ﹁そうか⋮⋮たまには真面目だのう。ほれ、暖かいうちに食え﹂ ﹁ありがたき。⋮⋮うまいなあ、これ⋮⋮なんか泣けてきた﹂ ﹁そうだろう。全部食ったら自白するんだぞ﹂ ﹁わかりました詮議方ぁ⋮⋮って拙者じゃないぞ!? 犯人は!﹂ 否定の叫びを上げつつ、蕎麦と飯を食う。蕎麦を食ったら、飯を 食う。蕎麦を食ったら││飯を食う。蕎麦とご飯のセットとはそう いうものである。 ﹁それで、己れに何の用が││ああすまぬ。聞いておいてなんだが だいたい分かった。手が足りぬから手伝えというのだろう。そして 己れは若干渋りはするのだが、その案件だとお八も巻き込まれかね んから結局は引き受けるのだ﹂ ﹁すごい勢いでやりとりを省略してくれてありがとう。いやあ、夜 回りしてる同心は拙者と、今日からようやく増やして貰ったんだけ ど二十四衆風烈廻同心﹃犬神﹄の小山内しか居ないんだ。 小山内は火災用心で回るついでに手伝って貰う事になるんだけど ⋮⋮それで後頼める当てが九郎ぐらいしか居なくて⋮⋮﹂ ﹁手先とか目明しとか、そういう部下は居らぬのか?﹂ ﹁不思議と拙者も小山内も居ないんだよなあ⋮⋮なんでだろうか。 拙者達、稚児趣味なことぐらいしか後ろめたい事無いのに﹂ ﹁それが原因だ。っていうか二十四衆に二人も居るのか稚児趣味野 郎が⋮⋮﹂ 新たなる稚児趣味登場の情報に、唾棄したくなる感情を覚える。 だからこそ少女が犠牲となっているこの事件に身を削って挑んで 916 いるのだろうが⋮⋮ ﹁しかし何にせよ、己れは便利屋ではないのだから、普通はお主ら 奉行所の手で解決せねばならぬのだぞ。其のために禄も貰っている のだろう﹂ ﹁すまん⋮⋮なにか礼ができればいいのだが、何分素寒貧でな⋮⋮ 蕎麦代ぐらいは捜査費で貰ってるんだが﹂ 音を立ててずずと蕎麦を啜る。同心というものは最下級の武士で はあるが、町に顔が利くことからうまく世渡りを繋げれば、副収入 がそれなりに手に入るものではあるのだが、どうもこの利悟は性的 嗜好の所為かその辺りのことには上手くやれていないようであった。 ともあれ蕎麦ライスセットを食い終えた利悟が、 ﹁暮れ六ツ︵午後六時ぐらい︶の鐘が鳴ったら南町奉行所の正面に ある煮売屋に来てくれ。警邏する場所を説明するから﹂ と、告げて、ふらつきながら奉行所の方へ戻っていった。昼間の 捜査からは休憩を貰っているものの、書類仕事をしなければならな いのだそうだ。 **** お房から﹁気をつけて﹂と声をかけられたので、 917 ﹁お主らも戸締まりはしっかりとな。己れは適当に朝帰ってくるか ら﹂ と、告げて九郎はだいぶ薄暗くなった夜道を進んだ。まだ、暮れ 六ツの鐘はなっていないが随分と日が落ちるのが早くなったものだ と感慨深く思う。 人生の大半を過ごした異世界でも冬は日が早く沈んだことを覚え ている。 理由は天体運行や自転公転の都合ではなく、冬季になると冬の太 陽神が乗っている、太陽を引っ張り動かす馬車の性能が超高いので 駆け抜けていくというファンタジーな理由だった。季節ごとに異な る太陽の神が居て、冬のは馬の嘶きを世界中に響かせて﹁いい音で しょう? 余裕の音だ。馬力が違いますよ﹂と毎年自慢している神 だった。 あちこちに神が居たりする世界なお陰で風情がいまいちだった気 がする。 懐かしい思いに浸りつつ、有楽原︵現代で云う有楽町駅辺り︶に ある南町奉行所へ辿り着いた。 その目の前にある煮売屋[生駒屋]は、昼間の一刻と、後は夜に 店を開いている食べ物屋で、立地から奉行所の武士や門番などもよ く利用する、[御用達]の店である。 奉行所の者の行きつけとあれば、悪い連中は入ってこなく騒ぎも 起きないので一般の客も多く訪れるようになっている。 ﹁邪魔するぞ﹂ 九郎は開けたばかりなのか、まだ客の気配のない店へ入った。 やはり中にはまだ客が居らず、人の良さそうな老人夫婦が笑顔で 九郎を迎えた。 918 ﹁やあいらっしゃい﹂ ﹁利悟に呼ばれてきた者だが﹂ ﹁ああ、菅山同心の⋮⋮二階にいらっしゃいますよ﹂ ﹁すまぬ﹂ 軽く手を上げて堂々と二階に上がっていく九郎の態度に老夫婦は、 ﹁見た目は小さいが⋮⋮﹂ なんというか、偉そうというか物怖じしない雰囲気に軽く呆気を 取られるのであった。 二階の戸が開いている部屋に行き着くと、そこには利悟ともう一 人同心の格好をした男が居た。 年齢は利悟と同じほどだろうか。だが、比べると幾分線が細く優 男のように見える。現代で云うならば人の良い美大生か理容師のよ うな顔つきをしている、と九郎は感じた。 九郎に気づくと、優男から軽い調子で挨拶をした。 おさない・はくたろう ﹁や、君が九郎くんだね。僕は風烈廻の小山内伯太郎だよ。宜しく 候う﹂ ﹁む。己れの事は聞いているようだの。そうか、お主が同心二十四 衆の、もう一人の稚児趣味⋮⋮﹂ ﹁稚児趣味って⋮⋮利悟くん、また僕を同類扱いしてるな?﹂ 彼は少しだけ眉を潜めて、人の良さそうな顔を利悟に向けて非難 の言葉をかける。 風烈廻りと云うのは火災予防や不審者の発見を任務とした、見廻 りが主な仕事の業務である。同心の定員が四人交代で昼夜それぞれ 巡回しており、本来は上役の与力とコンビを組んで歩くのであった が、なんとか風烈廻り与力の飯島三彦││足早なことからあだ名が 919 スタスタみっちゃんであった││に頼んで任務を借り出せたのだ。 夜に見廻りをするという仕事は同じであるのだが、範囲や時間が 異なるからだ。 なお、伯太郎の場合、稚児趣味がどうというより最初から手先を 使うような職では無いので部下が居ないのであろう。 他に利悟の同僚でそれなりに友人付き合いがある相手となると[ 警邏直帰]の水谷端右衛門同心ぐらいだが、こっちはサボり癖があ るのであまり信頼できない。 ともかく、協力してくれる伯太郎は人当たりのいい柔らかな笑み を浮かべながら云う。 ﹁僕は君と違って、女児にしか興味無いんだから﹂ ﹁成程、それなら││││いや、良くはない、良くは﹂ ﹁小山内の、迷子だったり落し物をしたり一人遊んでたりする子に 取り入る技能は江戸でも一等で﹂ ﹁おまわりさーん﹂ ﹁はい﹂ ﹁はい﹂ ﹁くそっなんて時代だ﹂ 九郎は世の無情を思いながらぶんぶんと頭を振って、とりあえず 部屋に入り座った。 三人が囲む真ん中に、おおまかな地図が置いてある。 ﹁さて、この広い江戸を三人で回ると言っても無理があるから、場 所を指示しよう﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ ﹁まずは﹂ 利悟は朱筆を取り出して千代田区のほぼ全域に大きなバツを書き 920 入れた。 ﹁この辺りは武士、それも旗本が多く集う場所だ。警備も番が厳重 にしているから恐らく入り込めないだろう。これまでの事件でも武 家屋敷には入っていないようだ。女の子が狙いだから当然だろうけ ど﹂ 続けて伯太郎が品川の辺りを細かく朱で区切る。 ﹁こっちは色街が多いから小さい子は少ない。大名屋敷も細川様の 大きなのがあるからね﹂ ﹁上野も吉原周辺は省いていいだろう。夜中までやっているのだか らわざわざ選ぶとも思えない。浅草に回っていこう﹂ ﹁勿論、本所なんかもね。ここは火盗改がうろうろしてたから僕達 が行くまでもない﹂ ﹁日本橋の本通りは厳重すぎる。盗めば一万両ぐらい行くかもしれ ないけど、そもそも拙者達でも夜中に入れないだろう﹂ ﹁京橋は事件があったのだからそこ辺りは張ってみようか。畜生な ら同じ所に入りかねない﹂ ﹁⋮⋮意外に、いや、意外でもないが、真面目だのう﹂ ﹁当たり前だ﹂ ﹁子供のためさ﹂ 真顔で云う二人に、九郎も本腰を入れねばと話に入るのであった。 その夜にはそれぞれ、京橋界隈・牛込・浅草方面と別れて見廻り に出る事となった。 店の外で、 921 ﹁お互いの連絡用に、これを連れて行くことにしよう﹂ と、伯太郎が店先に待機させていた三匹の犬を紹介した。 それぞれ犬種と名前が、柴犬の[浮舟]。 前田犬││加賀藩で猟犬として使われている、垂れ耳でがっしり としたいかにも強そうな犬である││の[夕霧]。 子犬の[初音]。 ﹁源氏物語⋮⋮か?﹂ 名付けの法則にピンときて利悟が云う。 ﹁おっ、利悟くんそれぐらいは知ってるか。うちで飼ってる犬達で ね、爺さまが源氏物語好きだったからさ﹂ 伯太郎が云うには、彼の祖父は犬公方とも言われる徳川将軍、綱 吉の政権下では[御犬様]の世話をしていたのだという。 犬を養う事に対して税を課したり、また動物虐待に対して厳しい 処分を下した風説により当時まったく人気の無い将軍であったが、 後年では野犬を管理することで咬傷の害を防いだり、一定の倫理観 を江戸の民に敷いた事が再評価されているが、ともかく。 ﹁なにせ僕の祖先は、あの有名な犬にまつわる[太郎]の昔話に関 わる程だからね﹂ と、そこはかとなく自慢気に伯太郎は云う。 九郎が、ピーチなボーイを連想しつつ問いかけて、 ﹁犬にまつわる太郎とは真逆あの⋮⋮﹂ ﹁そう! [しっぺい太郎]の!﹂ 922 ﹁⋮⋮知らん﹂ ﹁え? えーと[早太郎]とかも呼ばれてるけど知らない? あ、 人が出ない方の話が有名だからかな? 光前寺の和尚が狒々退治に 呼んできたのはしっぺい太郎を連れた男で、その後小笠原家に仕え たっていう﹂ ﹁全然知らない﹂ ﹁⋮⋮まあいいや﹂ 少し泣きそうな顔になっているので、結構持ちネタだったのかも しれない。九郎は若干不勉強を恥じたが、二秒で忘れた。 ﹁とにかく、こいつらには特別な鳴き声を覚えさせているんだ。こ うやって尻の辺りを撫でれば﹂ と、柴犬の浮舟の尻尾の付け根を伯太郎が撫でると、 オォ││⋮⋮ とばかりにそこまで大きな音ではないが、よく響く、そして夜に 鳴いていても気にされない程度の鳴き声が響いた。 ﹁何かあったときにこれを鳴らせば、他の二匹も反応して現場に急 行するようになっている。一人一匹連れて歩こう﹂ ﹁ほう、凄いな﹂ 素直に感心して呟いた。伯太郎もにこにこと笑いながら犬の頭を 撫でて、 ﹁犬ってのは結構賢いものなんだよ。じゃあ、僕は浮舟、九郎くん は初音、利悟くんは夕霧を﹂ 923 ﹁なあ小山内。本当に大丈夫なのかこの猟犬。狼のような眼差しで 拙者を見ているんだけど﹂ ﹁気に入られたんじゃない? ほら、撫でてみて﹂ ﹁う、ううん⋮⋮よぉしよし││痛あああああ!!? ほ、骨があ あああ!!﹂ ﹁信頼の甘噛みだって﹂ ﹁骨まで来てるってこれえええ!! あっ﹂ 腕に噛み付かれたまま利悟の体を軽々とぶん回す夕霧。前田犬の 膂力は、熊を引き摺ったこともあると記録に残っている。特にこれ は鍛えられているようで、犬耳を付けた前田慶次の如き迫真のオー ラすら感じた。 あの調子で尻などに手を触れたらぶっ殺されるのではないかと思 ったが、どうでもいいことではあると考えを棄却する。 九郎は渡された子犬を撫でる。目を細めて尻尾を振る、どこにで も居そうな犬で心が安らいだ。 ﹁あっ、あっ、あっ﹂ 地面に連続で叩きつけられている利悟の声さえ無ければ。 無視しつつ伯太郎が提案する。 ﹁折角だから僕ら特務隊に名前でもつけようか﹂ ﹁ちぃむ名というやつか。どういうのだ?﹂ ﹁稚児趣味三人衆とか﹂ ﹁ぶっ殺すぞお主﹂ 何はともあれ、こうして三人の夜間警邏が始まったのである。 最初は一人で夜にぶらぶらと歩きまわるのは面倒だな、とも思え 924 たが、犬の初音を連れているとそうでもなかった。 時折煮売り屋台などで休憩を取り、せがむ初音におこぼれを与え、 犬の散歩と行った雰囲気で夜の江戸を歩きまわる。 少しばかり肌寒くなれば、胸元に初音を入れれば暖かくてなんと もほのぼのとしてしまう。 途中途中で犯人探しなのだと思い直しつつ、九郎は歩き回った。 どうせ昼間は暇なので寝てしまえばいいという無職特有の余裕もあ り、夜更かし上等である。 江戸の町はあちこちに門があり、夜となると番が閉めてしまう場 所も多いのだったが、無人らしいところはひょいと飛び越え、有人 の番小屋でも[御用]と書かれた提灯を見せればすぐに通してくれ た。 特に娘の居る番人などは、件の犯人捜索の為というと頑張ってく れと茶の一杯も馳走してくれる事もあった。 しかし明け方まで見廻りとなると、 ﹁ま、一日で見つかるとは思わなんだが、結構大変だのう、初音﹂ ﹁わっふ﹂ 懐に入れた初音がくしゃみのような返事をしたのに、こそばゆく て笑いが漏れる。 とにかく、そろそろ暁七ツ︵午前四時ごろ︶だろうか。まだ太陽 は見えないものの若干の明るさを感じ始める時間帯である。 一旦また[生駒屋]に集まる事になっていたので、九郎は犬の頭 を撫でながらそちらへ向かう。 店の前には既に二人と二匹が集まっていた。 利悟は全身埃塗れで噛傷が残っている様なものの、持ち前の頑丈 な体があってこそかとにかく元気に二足歩行している。 925 ﹁おう、戻ったぞ﹂ ﹁お疲れ様。というかこっちが大変だったけど﹂ ﹁何かあったのか?﹂ ﹁例の三人組の強盗とは別件の盗人を利悟くんが捕まえてね、危う く殴り殺す寸前だったみたいで辻番は大慌てさ。こんな同心の中で も最強級の[青田刈り]が夜回りしてる時に盗みに入ろうとすると は馬鹿というか⋮⋮﹂ ﹁利悟⋮⋮別の悪党とはいえ、怪しいのを見つけたら連絡する約束 であろう﹂ ﹁いや⋮⋮すまん。黒尽くめの盗人を見た途端、かっと頭に来て⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮ま、気持ちはわかるよ。でもね、件の犯人一味は三人組なん だ。下手に突っかかって取り逃したら目も当てられない、というこ とだけは覚えてくれよ﹂ ﹁わかった⋮⋮悪い﹂ ﹁盗賊を一人捕まえたんだから、謝るのはそれぐらいで。それに僕 だっていざ相手が犯行に及ぼうとしてたら我慢せずに挑むだろうさ。 それが同心として間違ってたとしても、人としては間違ってなんか 居ない﹂ ﹁其の科白を云うのが稚児趣味でなければ尊いのだが⋮⋮いや、稚 児趣味でも立派だというべきだろうか﹂ 九郎が若干悩みつつ、本格的に海の向こうから上ってきた日を見 て、あくびを一つする。 ﹁さて、とりあえず今晩はこんなものであろう。己れは帰るが⋮⋮ 初音を返しておこう﹂ と、懐に入れていた初音の両脇を持って伯太郎に渡すと、﹁わっ ふ﹂と小さく鳴いた。 926 ﹁うん⋮⋮んー⋮⋮九郎くん、夜間捜査の間、初音を預かってくれ るかな﹂ ﹁む? どうしてだ?﹂ ﹁預かってくれるね。ありがとう﹂ ﹁話を進めるな!﹂ ﹁いや、初音が九郎くんに懐いているみたいだから。さすがに、利 悟くんに夕霧は⋮⋮﹂ ちらり、と目線をやる。 何もしていない状態ならばそれほど違和感なく見えるが、よく見 れば利悟の足を夕霧が踏みつけている。 陰湿だ。 ﹁無理無理無理無理。拙者にこれ預けるとか言ったら薩摩藩藩邸の 近くで散歩するァ痛ったあああああああ!! 炒り豆感覚で噛むの 止めない!? 馬鹿じゃないの!?﹂ ﹁むっ。馬鹿じゃないよ夕霧は﹂ ﹁犬馬鹿のお前に聞いてないよ! 絶対連れて帰って出来れば明日 以降は別の犬を宛行えよ!﹂ 文句を言いつつ前田犬の夕霧を押し付ける利悟。 不思議そうに伯太郎は首を傾げ、 ﹁いつもは大人しい犬なんだけどなあ、夕霧。ははぁん、利悟くん から異常性癖を嗅ぎとったか?﹂ ﹁お前も同類だよ!﹂ ﹁僕に少年趣味はない!﹂ ﹁似たり寄ったりであろう⋮⋮さて、まあそういうことならうちに 帰るか、初音よ﹂ 927 言い争う二人を尻目に、九郎は子犬を連れて緑のむじな亭に足を 戻すのであった。 ***** 子犬の初音は騒ぎもなく、当然のようにむじな亭に入ってきた。 現代で言えば、食品を扱う店舗に動物を置くことは衛生上どうか と思われるところだが、当時にしてみれば鼠避けとして猫を飼って いる店などはどこにでもあった。さすれば、犬を飼っていたところ でどうということはない。 九郎が帰ってきて朝の汁かけ飯を初音に与えた所、がつがつと食 っていた。ドッグフードなどは無いのだからあるものを与えるのが 常識であった。 六科は持ち前の無頓着さで、お房も格別文句は言わず、大人しい 初音を撫でまわして喜んだ。 朝飯をすぎればすぐに九郎は部屋で寝始め、一晩付き合った初音 も九郎の隣で丸くなって寝た。その様子があまりに可愛らしいもの だから、お房もごろごろと擦り寄って初音の安眠を妨害せんばかり に撫でていた。 初音は嫌がりもせずに時折、 ﹁わっふ﹂ と、吹き出すような鳴き声を返すばかりであり、それがまた、 928 ﹁くぁいい︵可愛いの意味だろう︶﹂ のだと、お房のみならず、長屋の連中も言っていた。 ﹁犬公方ならぬ、犬九郎ね﹂ と、九郎と同じ生活スタイルを取る犬を見ながらお房は言った。 晃之助がいれば笑ったかもしれない。 そんな生活を数日続けていた。 数日で随分、子犬の初音は九郎の生活に溶け込んだのであった。 そうして暫く九郎の夜間徘徊││と言うと老人性痴呆症にかかっ たようでマジへこみする││が続いたある日のことだ。 下谷の通りを九郎と初音が歩いていた時である。 進む影が見えた。人数は三人。闇になっている路地を警戒しつつ 進んでいる。 ︵これは当たりであろうか⋮⋮︶ 九郎は決して互いに見えない位置にさっと移動して、初音に連絡 の鳴き声を上げさせた。 オォ││、と夜空に響く。 賊は其の音に周りを見渡す程度はするかもしれないが、つなぎの 合図だとまでは気づくまい。 続けて九郎は懐の術符フォルダから[隠形符]を取り出して咥え る。気配を最低限に抑えて、余程の使い手でない限り察知すること は難しくなる魔法が篭った札だ。 懐に初音を入れたまま、盗賊の場所へ近づく。いざとなれば犬を 929 吠え立てさせるだけで効果があるが、逃しては元も子もないことを 留意する。それに、伯太郎の飼っている犬は訓練されている為にそ うそう吠えることはしないという。 近づく。 相手は大柄な男が一人、中背が二人。 商屋の壁に、一人が手慣れた様子で鉤縄をかけて侵入するまさに 其の時だった。 ︵襲うか⋮⋮いや、邸内に入れたほうが逃げ出しにくくはなる⋮⋮︶ と、九郎は少し逸る気持ちを抑えた。 一人が塀に上り、縄梯子を下ろして二人招き入れる。九郎はその 後を、軽く壁を蹴って上り追跡をする。 ︵ここに来るまでに二人はどれほど時間がかかる⋮⋮? その間で、 女を犯したり人を殺したりは充分か⋮⋮!︶ 発見が遅かったとは言わないが、実際の所この三人の夜間警邏の 面子では、ある程度悪党一味と対峙して戦えるという前提があるの は皆承知だった。 ならば、被害を出さないためにも九郎一人で立ち向かうべきか。 一瞬警察でも何でもない町人の自分が、と悩んだが、もしいま襲 われんとしているのがお八であるのならと思えば躊躇することもな かった。 縦に並んで歩いている三人組。 九郎は音も無く駆けて。尖った右肘を構えて最後尾の大柄な男の 左わき腹を打ち抜くように挑んだ。 暗殺のように、背後からひとりずつ、気づく間もない攻撃で沈め る。その意気であった。 肘の打撃力は肋と肺を貫通して心臓に到達して、血液の急性不調 930 を巻き起こして全身の血が思うように動かなくなり、声も出ずに倒 れ伏す。そうなるはずであった。 が、 ﹁うぬっ⋮⋮!﹂ 九郎は己の肘が相手の脇腹に刺さる瞬間。大きく開けた敵の左手 に腕全体を使って掴まれるのを把握した。 人体の構造上怪しいレベルでねじり取ってくる相手の腕に、咄嗟 に自ら体をねじって耐えるか、腕を諦めるかの選択をさせられた瞬 間、九郎は左手で関節を取る相手の手を握った。 腕がある限り筋肉の筋がある。それの動きを阻害すれば力は伝わ らなくなる。そこまで考えたかは判らぬが、敵の筋肉の隙間に容赦 なく親指をねじ込んで筋をずらした。 連動して即座に弱まる拘束を、もはや砕けた関節を無視して蛇の ように引っ張りとり、蹴り足を体に叩きこんで間合いから離れた。 右手は動かなくなったようだ。 奇襲は失敗し、被害ばかりが大きくなった。 ︵油断した⋮⋮わけではない。偶然かもしれんが動きを読まれた。 其の上に技に長けておる⋮⋮︶ 痛みに堪えて呼吸をした拍子に、咥えていた[隠形符]が口から 外れる。 九郎の存在感が増して、ゆっくりと振り向いた相手の目にも襲撃 者として映った。 ﹁おい、伊平。どうした﹂ ﹁く、くっく。なんともまあ、妙な奴が突っかかって来やがった﹂ ﹁⋮⋮確かに。しかし、さっきまで音も感じなかったが﹂ 931 ﹁風が急に近寄ってきたもんでな、気づいたってわけだ﹂ 大柄の伊平と呼ばれた男は嗜虐的に目を細めながら、片腕を砕か れた九郎を見下ろす。 九郎は油断なく左手で構えながら、懐に入れていた初音を地面に 離す。隠形符の効果は、彼の周囲に纏う風圧にまでは作用されなか ったということだ。それに気づくのも、かなりのものだが。 その勘働きを抜いてもあの奇襲で逆に反撃してくるとなると、 ︵つまりは⋮⋮かなりの使い手。しまったな︶ 武器を持ってくればよかった、と歯噛みするが早いか、巨漢が膨 らむような錯覚を覚えるほどの速度で接近。 上から叩きつける軌道で打ち込まれる腕を冷静に見てとり、九郎 は左拳を腕の側面からぶっこんで殴り抜く。だが、丸太のような腕 に衝撃が拡散したのか、即座に次の手を撃ってくる。 反対側の手でこちらを掴みかかって来るのを見て上体を逸し避け、 左拳を戻す動きで正確に相手の太い親指をへし曲げる。あの関節を 一瞬で破壊する動きを見るに、掴まれたら危険だ。 ぐ、と巨漢の爪先が庭の地面に食い込むのを見た。 ︵目潰し⋮⋮!︶ 九郎が片方の目を閉じると同時に顔面に土が叩きつけられる。土 を蹴りあげた勢いでまっすぐ打ち抜く蹴りが飛んでくるのを、閉じ た目を開いて確認。 身を躱すがだらりと垂れ下がったままの右手に掠り、ぶちぶちと 嫌な音が聞こえたが、無視して蹴ったままの体勢の敵へ一歩接近。 正中線のいずれかを殴りつけようとした。 その時、巨漢の後ろからぬるりと現れた賊のもう一人が、抜き放 932 った短刀を閃かせるのを見て体を急停止させ、仰向けに転んだよう に避ける。それでも胸元を浅く刃物が切り裂き、肌に熱いものを感 じた。 背筋と手足の力を駆使して滑り這う動きで再び間を開ける。 ﹁苦戦してるじゃないか。混ぜろよ﹂ ﹁くくっ、この小さな用心棒はなかなか面白い﹂ 嫌らしい笑みを浮かべている二人に、三人目がやや離れた所で冷 たい言葉をかけた。 ﹁さっさと殺せ。騒がぬところを見ると、俺達を捕まえるつもりで 居るらしい﹂ ︵見透かされておるなあ⋮⋮︶ 九郎は構えながらうんざりと胸中でため息をつく。 大声を出したりして騒ぎにすれば相手は逃げていくだろうが、そ れでは何のために探していたのかということになる。また、店のも のが人質に取られる事態になっても困る。 手頃に相手が戦闘を継続してくれる程度には挑んで、応援を待た なくてはならない。 やはり武器を持ってくるべきだった。アカシック某でなくとも、 木剣でもあれば随分と違ったのだが。また、玉石ぐらい敷いていな いかと庭に注意を払うが、それも無い。 腰に付けている符フォルダから術符を取り出して、例えば雷属性 の符をスタンガンのように使うにしても││ 思うが早いか今度は二人がかりで仕掛けてきたのを捌き、受け止 めていなす。どうしても符を使うには片手が塞がる為、一本しか現 状使えない状況では攻め立てられれば不可能だ。 933 左右から来る相手の同時攻撃に優先順位を即座につけて対応。躱 しきれないものは主に動かなくなった右手を肩の力で跳ね上げて盾 にするが、其の度に損傷が激しくなる。殴られ赤黒く為ったかと思 えば、切られて鮮血が走り、青くなる。 九郎は体格の差を嘆きたくなった。せめて同じ程度あればもう少 し対応も楽なのだが。手足が短く、体重も軽いために蹴りは殆ど使 えない。 ︵こんな腕前の奴らが揃いに揃って強姦盗賊とはな⋮⋮︶ 殴りかかられた拳を逆に頭突きで迎撃して相手の手を潰し、酷く 受け止めにくい位置から貫きに来た短刀を垂直に飛び上がって逃げ る。顎を狙って空中で蹴りを打とうとするが、読まれているような ので即座に変更。軽く足場にするぐらいに相手の体を蹴って離脱。 着地地点に素手の巨漢が踏みつける動作でかかって来たのを水平 に足払いするが、体格に似合わぬ軽快な動きでバックステップをし て避け、再度の攻撃が狙われる。 振り下ろされた相手の膝を左手一本で捕まえて全身の力を利用し 捻り砕く││プロレス技で言うドラゴン・スクリューへ持ち込もう とした途端背筋に冷たいものを感じて逃げる。やはり一瞬遅れて短 刀が削ぎ落とす意図で振るわれていた。 一人ひとりならばなんとか、素手でも粘れば勝ちに持っていける 相手なのだが最初に右手が砕かれた事と、二体一というのが不利へ 傾けている。また、参戦していないが三人目もいつこちらに攻撃し てくるかわかったものではない。 やがて、それから数度の攻防を経て、九郎は左手首を巨漢の男に がっしりと掴まれて宙にぶら下げられた。 ﹁ぬう⋮⋮!﹂ 934 右手は使えない、左手は捕まっていて尤も力の出る掌が使用不能。 また足場が無いために蹴りも威力が発揮されない。この状態では常 人離れした九郎の剛力も、蝿を箸で叩き落す動体視力も無効化され ている。 ﹁手こずらせやがって﹂ 幾度か九郎の攻撃を受けている筈の巨漢の男はニヤつきながら、 拳を一発、九郎の腹にぶち込んだ。腹筋を固めて耐える。 殴った男の方が薄い眉を顰めて、 ︵なんだこの小僧、土壁を殴っているような腹の硬さをしてやがる ⋮⋮︶ と、まじまじ拳を眺めた。 ﹁伊平。遊びももう終わりにしろ。さくっと短刀で殺るぞ﹂ ﹁あ、ああ﹂ ︵南無三⋮⋮こうなれば︶ 九郎は覚悟を決める。この状態の相手に短刀を突き刺すのならば 多少なり油断しているはずだ。体に刃が入った瞬間筋肉を引き締め て刃を絡めとり身の動きで相手の手からもぎ取って口に咥え、動き を封じている巨漢の手を切り裂いて脱出する。 出来るかどうかは不明だが、やるしか無い。筋肉を信じるしか。 そう思った時に、意識の外で動きがあった。 ﹁ガアア!!﹂ 935 喉の奥底から唸りを上げた怒りの叫びと共に、九郎が地面に離し ていた子犬の初音が巨漢の手に噛み付いたのだ。 いかに子犬といえども本気噛みである。そしてそれが偶然、神経 のいいところに当たり一秒程麻痺を引き起こさせた。 それを逃す九郎ではない。巨漢の顔面に蹴りを叩き込んだ勢いを 持って腕から抜け出し、離れる。 だが、 ﹁ちいいい、犬っころがああ!﹂ 刃物男の振るった短刀が、腕に噛み付いたままの初音の首を薙い だ。 白い毛並みに粘り気のある血が飛び散る。 噛む力は失われて、初音は地面に落下。その途中で、巨漢が忌々 しげに蹴りを入れて鞠のように吹き飛ばされ、飛び退った九郎の近 くにある石灯籠にぶつかった。 初音はもう動くことは無くなった。 ﹁すまぬ﹂ 酷く、先ほどまでその子犬を入れていた胸元が寒くなった気がし た。九郎は初音が倒れた側に屈みこんで、 ││片手で石灯籠を引っこ抜き持ち上げる。 武器を手にした⋮⋮。 己の体ほどもある石の塔を肩に担いで、いつも眠そうに半分閉じ ている目も見開き、ぎょろりと盗賊を睨む。 異様な姿であった。武器というにはあまりに歪で、重量がある。 大金棒を構えた鬼のようだ。 936 三十貫︵約112kg︶はある石柱を持ち上げるだけならまだし も、振るうことなど人間には出来はしない。 はったりだ。巨漢が引き攣った笑みを漏らした。あまりに現実離 れして、持ったままつかつかと無造作に近づいていることすら馬鹿 げたことのように││ 思った、瞬間見えない速度で振るわれた石灯籠が巨漢を横薙ぎに ぶん殴った。内蔵を痛め骨が折れたのか、具合の悪い音を立てて吹 き飛んだ男は吐血して痙攣している。 振るった石灯籠を、ぶおんと風切り音を出して再び肩に担いで構 える。みしみしと鳴る音は石の軋みか、九郎の左手の筋肉が千切れ ていく音か。 全身血で汚れた九郎の目だけが情の欠片もないぞっとする眼差し で、残りの二人を捉えていた。 ﹁ひっ⋮⋮﹂ ﹁ば、化けもん⋮⋮﹂ そう言って二人は一目散に侵入してきた方へ逃げ出す。 追い掛ける気力と体力は九郎に残っていなかった。どん、と乱暴 に石灯籠を下ろす。 体が寒いのは、血が失せただけではないと感じた。 塀を飛び越え外に出た二人は左右に別れて逃げようとしたが、左 右の道を[御用]と書かれた提灯を持った男がそれぞれ塞いでいた。 ﹁奉行所だ。神妙にしろ﹂ ﹁洒落臭え!!﹂ ようやく化け物から逃げたばかりの身としては、相手が奉行所だ ろうが火盗改だろうが、あれと戦うよりは幾分もマシだという判断 937 と、それぞれ一人ずつ相手にすればいいのだという驕りから短刀を 出して襲いかかる。 驚くべき速度で繰り出される短刀の一撃を、 ﹁地獄へ落ちろ、腐れ外道が﹂ 吐き捨てるような声と共に、利悟は抜き放った刀で腕ごと切り落 とした。 正法念流の目録が許され、実際の実力はそれ以上だと評される[ 青田刈り]利悟。子供の敵にかける情けは無く、怒りも含むその実 力では九郎が苦戦する相手でも一刀で決着をつける。 叫びながら汚らわしい血をまき散らす相手に、 ﹁死なぬ程度に血止めはしてやる。斬首になるまで痛みに悶えて、 死ねい。あの世で、手にかけた者にわび続けろ﹂ 吐き捨てた。 この盗賊に襲われた少女の中には、未来を絶望し首を括った者も いる。その死体の目を見た。なんで死ななくてはいけないのか、理 不尽を嘆いた涙の跡が残っていた。いつも馬鹿だ変態だと言われる 利悟でも、我慢ならない事がある。 それでも、法の裁きも与えずに楽に殺すことは許さぬという強い 意思が殺害まで至らずに、激情を飲み込んだのだ。 ﹁これで少しは、安らかに眠れるだろ⋮⋮そうなってくれよ、せめ て﹂ 死んだ誰かにか、生きている誰かにか、或いは其のどちらにも思 ったのか、そう呟いて刀を収めた。 一方で[犬神]の伯太郎に向かった相手は、見たところ体も大き 938 くない優男風だと見て一突きで殺そうと向かったのだったが、 ﹁夕霧、[顎砕き]だ﹂ 指示と同時に一本の矢となって走りだした前田犬の夕霧が、強烈 な頭突きで賊の顎を砕いて地面に叩き伏せた。 熊を狩る犬の容赦無い一撃にはとても人間など耐え切れぬ。犬は 人の良い友だが、普段は其の力を大きく抑えている。本気を出した ら人などはとても及ぶ力ではないのだ。 伯太郎は顔を手で多いながら震える怒りの声を上げる。 ﹁そうか、初音が死んだのか⋮⋮﹂ 近くまで駆けつけていた彼と犬は、九郎を助けて死んだ子犬の小 さな断末魔を感じていたのだ。 まだこれから育っていく、もうすぐ一歳になる賢い犬だった。初 音と名付けたのが原因か、変な鳴き声しか出さずにみんな笑ってし まう可愛い犬であった。 このような役目につけたのだから危険はあると承知だったが、悲 しみは別だ。 ﹁浮舟、[斬首廻し]﹂ が、と怒りが篭った唸り声を上げて柴犬の浮舟が、顎が砕けて倒 れた賊の首に牙を突き立てて、ずるりと一周回し首の皮を引き裂い た。 だらだらと首から血が流れ出る。大きな血管は切っていないが、 恐怖から砕けた顎で叫び声を上げ続けた。 続けてやれば首を致命まで傷つける技だが、それで終えて伯太郎 は極寒の眼差しで相手を見て静かに告げる。 939 ﹁今は殺しはしない。精々、初音の痛みを死の国まで持っていけ﹂ 奇しくも、その賊が初音に斬りつけた首の傷と同じ位置であった という⋮⋮ 番屋から人を呼んできて男どもを連行させると、三人は調書を取 る前に邸内で初音の骸を取った。 襲われるはずだった商屋の者に布を貰ってそれで包む。 伯太郎に九郎は謝った。 ﹁すまぬ、己れを庇って⋮⋮﹂ ﹁いいんだ。初音も、自分で考えて、自分の決断で九郎くんを助け に行った。命を失ってもさ、だから、頑張ったなって褒めてやって くれ﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ 九郎は布越しに子犬の、硬くなった体を撫でてやった。 初音が命がけで九郎を助けなければ殺されていたのは九郎かもし れない。しかし、もっとしっかり用意をしていれば⋮⋮最初からな んらかの武器で襲撃をかけるようにすれば⋮⋮あるいはこんな犠牲 は要らなかったかもしれない。 しかし、そうはならなかったのだと後悔を胸先に納めて、ただ勇 敢な相棒に礼を云う。 ﹁ありがとう﹂ くしゃみのような、初音の鳴き声が聞こえた気がして、それはも う聞けないのだという事実が寂しかった。 940 伯太郎は泣いていた。 ﹁でも、僕は、死んで欲しくは無かったよ⋮⋮﹂ 大の男が、男泣きに泣いた。 九郎と利悟は暫く何も言わずに、立ち尽くしていた⋮⋮。 ***** 件の悪党を捕縛した事により、利悟と伯太郎は解決の殊勲として 南町奉行大岡忠相から金一封を拝領した。 九郎には何もなかったが、そもそも九郎は別段奉行所の手先とい うわけでなし︵どちらかと言うと火盗改所属だと思われている︶そ もそも手先の上げた功績は上司のものになる構造なので当然ではあ る。小者への褒美は、上司が直接ねぎらうようにしている。 それでも事情をそこと無く聞いている大岡忠相も利悟に、 ﹁怪我をしたその[若手練]にも褒美を与えておくように﹂ と、言い聞かせたという。 捕まった三人は、武士崩れが二人、九郎と戦った巨漢の方は元力 士であった。素行不良なものが三人揃って悪事を働いていたようで、 941 たっぷりと責めを受けて余罪を白状させた上で市中引き回しの後、 首を小塚原の刑場に並べられた。 一方の九郎はと言うと全身傷だらけな上に右手を骨折している為、 お房から酷く叱られた。お八からも叱られた。将翁からは失笑され て治療を受けて、石燕には虐められ散々であった。 居なくなった初音は、持ち主に返したと告げることしか九郎は出 来なかった。お房はとても残念そうにしていたのだが。 こうして一件落着であったのだが、数日して九郎と稚児趣味同心 二人は、あの日助けた形になる商屋からお礼がしたいという連絡を 受けた為に行くこととなった。 九郎は腕を包帯で巻いて添え木して吊ったまま、暇だったので出 かけた。 正面から見ればなんとも立派な大店である。あまりこういう大き な店に私用で立ち入らない為、同心は尻込みしているようだ。 看板に[鹿屋]と書かれているが、様々なものを扱っている店の ようだ。茶や煙草、砂糖などもある。 ﹁ここは確か、薩摩との交易品を扱う店じゃなかったか﹂ と、利悟が解説する。あまり薩摩にはいい印象を持っていない伯 太郎は鼻を鳴らした。 ﹁よくいらっしゃいました﹂ 店先にでっぷりとした主人が出迎えて来た。涼しい秋口だという のに何処か暑苦しい印象を与える、色黒の男だ。 何処かで見たことがある、と九郎は思ってまじまじと眺めた。 すると向こうから気づいたようで、 942 ﹁おや、貴方様は確か首塚絡繰屋敷で⋮⋮﹂ ﹁あの時の薩摩人か。そうか、そうであったな。確か名を鹿屋黒右 衛門⋮⋮﹂ 納得して頷く。 謎の怪奇事件が発生した嵐の孤島での絡繰屋敷。その現場に居合 わせた事があるのだ。九郎と石燕は事件がややこしくなる前にさっ さと脱出したので顛末は知らないのだったが。 にこにこと笑いながら彼は店へ三人を招く。 ﹁その節はまた⋮⋮さ、皆様方どうぞお上がりくださいませ。僭越 ながら食事を用意しております故﹂ と、言うので三人とも客間へ通されてついていった。 そこで改めて盗賊退治の礼を告げられ、それぞれに十両の礼金を 渡す辺り、かなりの太っ腹である。 これは安月給の同心にしてみれば大金であるために、ありがたく 受け取った。 その後も薩摩藩から用心棒の剣士でも雇おうかなどと雑談をして いると、やがて食事の準備が出来たようで運ばれてくる。 大きな土鍋を部屋の真ん中に置いて、囲んで食べるという方法で ある。 当時の食事は、個々人の取り分をそれぞれの膳に持って出される のが普通であったが、薩摩藩では大鍋や大皿に盛ったものを囲んで 食べるという大陸風の食事方法が好まれていたらしい。 島津家の食卓でもそうするのが珍しくなかったという。 ﹁さあ、熱いうちに食べましょう﹂ ﹁鍋か。何の鍋だ?﹂ 943 黒右衛門は大きく頷いて手を広げて言った。 ﹁精がつくように、犬鍋を用意しました!﹂ ﹁お前ーっ!﹂ ﹁こんな時に犬をなーっ!﹂ ﹁鍋になーっ!﹂ すごい勢いで三人から苦情が出たという。特に、伯太郎は﹁薩摩 滅ぶべし﹂と叫びながら泣いて走り去った。 944 34話﹃薩摩梃子入れ大作戦﹄ ﹁薩摩の印象を良くしたいのです﹂ ﹁⋮⋮﹂ 九郎は目の前のでっぷりとした大店の主の言葉を咀嚼して、なん とか脳にたどり着かせた。 とりあえず置かれた茶を啜る。爽やかな苦味が口に広がり、鼻に 抜けるようだった。 ﹁む、上手いなこの茶。何処のだ?﹂ ﹁阿久根の茶でございまして。うちの店でも取り扱っております﹂ ﹁そうか、よし買っていこう。それではまた⋮⋮﹂ ﹁お待ちを!﹂ がしっと九郎は手を掴まれて引き止められた。 ここは銀座界隈の西紺屋町にある薩摩からの商品を取り扱ってい る店、[鹿屋]である。 船も持っている大店で、大阪にも支店があるという。茶、煙草、 砂糖などの高級嗜好品から芋焼酎や鰹節などの庶民的な食品まで手 広く扱っている。 九郎は二度ほどここの主人と関わりがあった縁で今日招かれたの だったが、 ﹁というか何故に己れを﹂ ﹁九郎殿の事を調べさせて⋮⋮ああいえ、すみません悪い意味で怪 945 しんだのではなく、これはもう職業柄みたいなもので⋮⋮とにかく、 いろいろ人伝に聞いた所、奉行所と火盗改の密偵としてあちこちで 活躍をして、江戸でも一、二番の版元である為出版にも出入りの仕 事を持ち、寂れた蕎麦屋をあっという間に繁盛させたとか⋮⋮﹂ ﹁そう聞かされると江戸に来ていろいろやったのう⋮⋮﹂ 目を瞑れば過去が走馬灯のように浮かんでは消えた。そう、これ までの出来事は決してムダなんかじゃない。いざ、輝かしい未来へ ⋮⋮ 意味不明なトリップ寸前だった九郎を黒右衛門は呼び戻す。 ﹁それで梃子入れの話なのですが﹂ ﹁⋮⋮ええと、つまり薩摩を好印象的な感じに世間に知らしめたい、 とかそういう?﹂ ﹁左様でございます﹂ ﹁どうしてまた﹂ 九郎の質問に黒右衛門は深々と頷いて声を小さく告げてきた。 ﹁いえ⋮⋮公然の秘密というかだいたい関係者は知ってる暴露話な のですが、薩摩は借金大国でして﹂ ﹁ほう﹂ ﹁ま、私も正確な数字はわかりませんが少なくとも藩が抱えている 借金だけで数十万両以上は⋮⋮大きい声では言えませんが﹂ ﹁ううむ、他の藩の財政状況はわからぬが⋮⋮﹂ そうだとしてもその借金の量は、 ︵多い⋮⋮︶ 946 と感じるには充分であるようだ。 七十七万石の大大名であり、砂糖の専売、琉球︵更にそこを通し て清とも︶貿易、金山など利益を得る手段はあるのだが、様々な悪 条件が重なり借金は毎年膨らむばかりなのが現状である。 だいたい七十七万石とはいうものの火山灰が年中降り注ぎ土壌は 貧弱、米は育ちにくく台風が直撃すれば一気に飢饉になる土地であ り、更に江戸に参勤交代は尤も遠い場所にある。大大名としての格 式を守りつつ参勤するのにいかほど金がかかるものか⋮⋮ そこまでは黒右衛門も語らなかったが、苦しい状況なのは九郎に もわかった。 あと殆ど他人に近い九郎に其のようなことを明かしていいのだろ うかとも思ったが、九郎が誰かれ構わずに吹聴したら後ろから薩摩 武士がダッシュで襲ってきそうなので、云うつもりはない。 ﹁しかしここ最近はどこそこの藩どころか幕府すら貧しい、徳川御 三家も水戸と尾張は破綻寸前、紀州は幕府の援助で生き延びている 始末。いったい誰が儲かってるんだというぐらいでして﹂ ﹁まあ⋮⋮お主ら商人であろう﹂ ﹁ごほんごほーん! 薩摩のものをより多く売り交易を更に発展さ せることが藩の為にもなるのです!﹂ ﹁はあ。それでいめぇじあっぷ、か﹂ 九郎は面倒臭そうなため息をついた。 確かに薩摩の印象が蛮人の如きだったら交易もままならないし、 売っている品物の品質も疑われるであろう。しかし、一般人である 自分が手を貸してどうにかなるものだろうか。そこまで薩摩に肩入 れする理由もない。 それを察知して黒右衛門も、 ﹁勿論、助言して頂ければ礼金はご用意しますが⋮⋮﹂ 947 ﹁ふぅむ、それならば一応、幾らか考えてみるか﹂ 少しばかりはやる気を出して九郎は思案しだした。 なにせ右手を怪我しているもので、遊びを制限されてしまってい るから暇だったのだ。晃之助と剣術の訓練など出来ないし、碁や将 棋を打つにも痛みが気になって集中出来ない。本を読んだり飯を食 いに行くにも片手では不便ときている。 経験から云うと、体内の不老魔術の効果││体調を徐々に最善化 するというもの││もあってひと月以内には治ると思うのだが、そ れでも暇は暇であった。 たまには他所の店に口を出すのもいいかもしれない。 折角やるのだから無理やり楽しそうな方向に意識を持っていかな くてはならない。 薩摩イメージアップ大作戦! ︵⋮⋮字面から浮かぶ、駄目だこれ感はなんであろうなあ︶ 左手で頭を掻きながらそう思った。 ﹁ま、まずは薩摩人に対する悪い印象というが⋮⋮﹂ と、九郎が考えつつ、黒右衛門と特徴を挙げて言い合う。 ﹁乱暴だとか﹂ ﹁芋侍とか﹂ ﹁言葉が通じない﹂ ﹁冗談を言えない﹂ ﹁すぐに殺しに来る﹂ ﹁毎日何かしら命を散らす﹂ ﹁叫ぶ﹂ 948 ﹁朝から叫ぶ﹂ ﹁焼酎しか飲まない﹂ ﹁犬を食う﹂ 二人はやや無言になり、どちらからともなく咳払いをして、順番 に決められたように発言した。 ﹁これは当時の江戸に住む一部の人から見た偏った印象であり、実 際の薩摩藩士の行動や生態と必ずしも一致するものでは無い﹂ ﹁私達は薩摩に好意を抱いている故の忌憚ない意見を言い合ってい るだけであり、悪意は存在しませんなあ﹂ 発言し終わって、よしと頷いた。これでケジメを申し付けられる ことはないだろう。 そして話の方向性を戻すに、 ﹁確かにこれだけとっつきにくいと、貿易にも影響が出ようが、こ の印象を全部覆すのは難しい気がしてならん﹂ ﹁そうでしょうか⋮⋮﹂ ﹁だってお主考えてもみよ。雅な言葉遣いで麗しい仕草をして薄味 の京料理と清酒を好み扇子より重いものを持ったことが無く月に涙 し風に囁きかけて夜に叫ぶ薩摩人が居たらむしろ気色悪いであろう﹂ ﹁夜に叫ぶのは要らない気が。いやしかし、確かにそんな薩摩人は 死罪になりますからねえ﹂ ﹁死罪まで行くか﹂ ﹁ええ、間違いなく﹂ 断言する黒右衛門に九郎は顔を曇らせる。恐るべき土地だ。 なお、余談だが薩摩人は通常であっても夜も叫ぶ。後の西南戦争 の時代には薩摩藩士が夜討ちで例の叫び声を上げながら示現流で襲 949 い掛かってくる事が多々あり、明治政府軍にきついトラウマを植え つけたという。 中には猿の鳴き声が聞こえただけで薩摩の襲撃だと勘違いして壊 走した部隊も居たほどである。 それはともかく、これらの要素をマイルドにして一般に受け入れ やすくすると⋮⋮ ﹁ううむ⋮⋮なんとかならぬかなあ﹂ ﹁難しいですか﹂ ﹁そうだのう⋮⋮いや、待てよ﹂ 九郎は現代でご当地を盛り上げるために何をやっていたか必死で 思い出した。 現代日本に居た頃など、おおよそ彼の記憶上六十年程前になるの で随分曖昧になっているが、 ﹁ますこっときゃらくたあ⋮⋮﹂ ﹁それは⋮⋮?﹂ ﹁うむ、名産品や観光地などを擬人化して着飾り印象づけるのだ。 ちょっぴりゆるふわ系に﹂ ﹁成程。まずは無害さを前に出して女子供を対象に誤解させて薩摩 を徐々に受け入れさせていくのですな﹂ ﹁まるで薩摩の侵略計画に聞こえなくもないが、そんな感じだ。可 愛いのを作って芝居などをやらせたりするといいぞ﹂ ﹁素晴らしい提案です!﹂ どうやら何か感じ入るところがあったようで、九郎に深く礼を述 べて感謝の品を渡し、また今度用意ができたら改めて呼ぶというこ とになった。 左手で美味しい黒糖が入った箱を持ちながら九郎は、 950 ﹁マジでやるのかよ﹂ とだけ呟いて其の日は[鹿屋]を後にするのであった。 黒糖は子供達に人気で、石燕は焼酎に溶かして飲んでいた。さす がに甘すぎだろうと引いたが。 ***** 更に数日後。 例のごとく九郎が[鹿屋]を訪れていて作戦会議室││黒右衛門 の自室で再び顔を付き合わせていた。 太っちょの黒右衛門が汗を拭いながらにこにこと経過を告げる。 ﹁この前のゆるふわ系薩摩仮装ですが、とりあえず試験的に完成致 しました﹂ ﹁ほう、それは何よりだ﹂ ﹁小さな子供から奥方、はたまた武家にも人気が出ること間違いな しでございます﹂ ﹁大抵たーげっとを広く狙ったら失敗すると思うが、とにかく見て みよう﹂ 九郎の言葉に待ってましたとばかりに、黒右衛門は奥の障子を開 けた。 その障子の先には、人が居た。 浅黒く日に焼けた肌、ごつごつとした筋肉質の体、白袴に麻の服 951 と力だすき。鉢巻を巻いた顔は凝視といった表情で固まっていて、 ぐ、と顔全体に力が篭っていて何かを堪えたような男だ。 笑顔のまま黒右衛門は紹介する。 ﹁薩摩をまるごと味わってもらう計画第一号、名前を﹃さつまもん﹄ でございます﹂ ﹁ちょっと待って﹂ 九郎は左手で頭痛を抑えつつ、右手を伸ばそうとして激痛が走っ たことに顔を余計顰めた。ツッコミがしにくい、という特殊な状況 で骨折が不利になるとは⋮⋮! とりあえず、何を言ったものか。 感じたままに告げることにした。 ﹁のう、ゆるふわ系って聞いたのにどう見ても討ち入り前の薩摩隼 人にしか見えない﹂ ﹁なにせさつまもんですからね。藩邸に頼んで都合してもらった、 示現流の達者です﹂ 九郎は残念極まりない目線でさつまもんを眺めた。 殺気立ったその姿は関が原を駆け抜けそうな気迫を感じる。とい うか気迫しか感じない。ゆるいとかふわいとか萌え四とかそういう 要素を全然感じない。 ︵どうせ薩摩藩で食い詰めた下級郷士が、唐芋ばっかり食う生活よ りもと見せ者に成ることを選んだのだろう。身分は侍の癖に毎日芋 粥ばっかり食ってる芋侍め⋮⋮︶ ﹁そういう目をしたッ!!﹂ ﹁だああああ!?﹂ 952 突然刀を抜き斬りかかってきたさつまもんの攻撃を紙一重で避け、 安全圏まで畳が焦げ付くような脚さばきで退避した。 縦に振られたさつまもんの刀は深々と畳の下の床まで貫通して鍔 元までめり込んでいる。 恐るべき威力の一撃が、さつまもんを見ていただけの九郎に振る われたのだ。 黒右衛門がおずおずと告げる。 ﹁相申し訳ない、さつまもんは少々被害妄想があってじっと見られ ると馬鹿にされたと勘違いして斬り合いが始まるので﹂ なみひら ﹁阿呆かお主、お主ら阿呆か!! そんな狂犬を薩摩から出すな! そしてせめて真剣を持たせるな! 波平の立派な薩摩刀ではない か!﹂ ひと通り怒鳴り散らして、警戒の色を濃くしながら九郎はさつま もんからやや離れた場所に座りなおした。 そして奇跡的に溢れていなかった知覧茶を一口で飲み干して、き ょとんとした顔の黒右衛門と所定の位置に戻ったさつまもんへ交互 に視線をやり、口を開く。 ﹁⋮⋮だいたい、ゆるふわは何処に消えた﹂ ﹁こう⋮⋮ゆるりと近づきふわっと襲いかかる的な﹂ ﹁薩摩的な発想をやめろ。こんな暗黒面に落ちた薩摩剣士隼人を世 に出してみろ。薩摩の評判は野蛮な狂人と⋮⋮あれ? 現状そうで あるな⋮⋮﹂ それにしても、そこまで認識の違いが合ったのかと嫌になる九郎。 余談だが、実際に居る現代のご当地ヒーロー[薩摩剣士隼人]は このように凶暴な野生の藩士ではなく、剣は持つが決して相手を傷 953 つけない、悪役とも言葉でお互いに歩み寄りをし、否定ではなく認 め合って友とする立派なヒーローである。 ﹁心の剣にやいば無し、道は交わり和を結ぶ﹂ と、格好の良い決め文句まであるのだが、あいにく九郎は知らな いキャラであった。なんとなく名前が出ただけで、とんだ風評被害 である。 宣伝はともかく、 ﹁駄目ですか⋮⋮﹂ 項垂れて黒右衛門は呟く。 九郎は頭を掻きながら半目で、 ﹁これでよしと思ってたのがむしろ怖いが、これではなあ⋮⋮﹂ ちらちらと厳しいさつまもんの面を見つつ、言葉を濁す。 明らかに黒右衛門は﹁ゆるふわ系を売り出す﹂という過程の為に ﹁薩摩をイメージアップする﹂という目的を見失っていた。 様々な試行錯誤の後に見失うならまだしも、一歩目で思いっきり 踏み外している。 雇われたさつまもんが、冷や汗を流しながら唾を飛ばして怒鳴る。 ﹁わかり申したッ! この一件は、おいが不忠にて招いたしくじり ッ! ならばここで腹ば掻っ捌いて詫び申すッ!﹂ はらわた ﹁おい駄目だしされただけで死ぬなよゆるふわキャラ﹂ ﹁うむッ! よか死に頃じゃ∼ッ! さつまもんの腸とくと見よッ !﹂ ﹁だあああ!﹂ 954 上半身裸になって切腹しようと刀を己の腹に向けたさつまもんを 止めるため、九郎は固めた左拳で当て身を入れる。 怪我をしているとはいえ、余人の放つ当身ではない。 横隔膜を的確に狙った拳が突き刺さり、さつまもんは絶息して、 ﹁ぬぅん⋮⋮﹂ と、気を失った。 げんなりとした気分になりながら、腹に爆弾が仕掛けられていた 奴の切腹を止めるのが目的のテレビゲームを昔やってたよなあと妙 な記憶が蘇ったが、とりあえず座り直す。 ﹁よいか、臓物とか死人が出る見世物は駄目であろう﹂ ﹁ふむ⋮⋮では芝居の題目﹃ひえもんとり﹄というのも﹂ ﹁恐るべき程に駄目だ。もっとなあ、着ぐるみ的な⋮⋮﹂ 少なくとも形状が丸っこかった気がする。マスコットキャラとい うものは。煮詰まった憎悪を立ち木を打つ形で発散させているよう なキャラではない。まあ、恐らく半々ぐらいの確率で。 黒右衛門が頭のなかで検討しながら聞いてくる。 ﹁着ぐるみとは?﹂ ﹁全身を動物やらに形作った布などですっぽり覆ったものでのう﹂ ﹁獅子舞みたいに?﹂ ﹁ま、そうであるな⋮⋮﹂ 発想としては似たようなものもあるか、と肯定する。 何やら着想は得たようだったので、其の日はそれでお開きと為っ た。 955 九郎は渡された土産の高級本鰹節を持って帰りつつ、店をちらり と振り向いて、 ﹁⋮⋮不安な﹂ と、呟いたが、彼自身もこの時代の薩摩について詳しくは無いた めにこれ以上具体的なアドバイスは出来ぬと諦めて家に帰るのであ った。 ***** 数日後。 やはり呼び出された九郎が企画会議室で茶を啜り羊羹を摘んでい た。 羊羹はこの江戸中期にまさに大流行した茶菓子で、薩摩からの安 定した砂糖供給により製造が容易になったという、奄美の方の血と 汗が引き換えな甘味だ。 ほとんどは練り羊羹が主体で家庭で作る事も多かったらしく、当 時の料理本などで紹介されている。 九郎は甘い物に目がないというほど好きではないが、目の前に出 されると、 ﹁己れは甘いものには鼻が無くてのう﹂ などと嘯きながら平らげる程度には好んでいる。 しかしなかなかにこの阿久根で採れた茶が美味い。爽やかな風味 956 と口当たりの良い苦味が甘いものにとても合う。薩摩藩では茶の栽 培を奨励しており、薩摩北部で当時はよく作られていたそうである。 現代では知覧などの南部で作られる茶が有名だが、こちらは明治期 になってから開発が進んだ土地だ。 茶を一杯飲み干したぐらいで、別の用事を済ませていた黒右衛門 が会議室にやってきた。 三度目となると互いに軽い目配せをしただけで意思の疎通は済み そうな気がした。人類が鳴き声という通信手段を手放す日も近いか もしれない。 ﹁例のものが完成しました﹂ ﹁うむ⋮⋮見てみよう﹂ ﹁承知﹂ 今度はそこはかとない自信を感じる力の篭った目つきだ。 彼が合図すると、部屋にすっとさつまもんが入ってきて襖の前に 待機した。 ﹁⋮⋮さつまもんは続投なのか﹂ ﹁ええ。それでは薩摩振興要員を紹介致します。さつまもん、戸を﹂ 短い返事だったが、そうまで断言するのならばまあ軽く諦めた。 ともあれ、さつまもんが油断無い動作で戸を開ける。 その先のプレゼン室︵九郎が勝手に名付けた︶に、着ぐるみは居 た。 見た目の印象は芋。 巨大な長球型のさつまいもに、手足が生えていると言った風貌だ。 ﹁これが新たな刺客、[からいもん]です!﹂ ﹁むっ⋮⋮かなり正解には近い気がするぞ﹂ 957 ﹁そうでしょう、そうでしょう。幾ら薩摩武士が芋侍と馬鹿にされ ようが、江戸の人達はさつまいも││薩摩では[からいも]と云う のですが││が大好物でして。薩摩で収穫したものを船に積み込め ば江戸に辿り着くまでに丁度熟成されて甘みが増すのですぞ﹂ ﹁ほう⋮⋮確かに馬鹿にされるそれ自体の印象を上げてしまえば良 いな﹂ 感心して九郎も頷く。 確かに江戸でもさつまいもを売っている店や屋台が多い。値段も 安く、砂糖よりも簡易な甘い食べ物として人気がある。この時代、 庶民としては大変珍しいことだったのだが、江戸は肥満の者が多か ったとされるのも、このさつまいもの影響だという説もあった。 このマスコットキャラクターをアピールすればさつまいもの売上 増進に効果があるだろう。 黒右衛門も嬉しそうにからいもんへ手を向けてにこやかに九郎に 告げる。 ﹁呼びかけると可笑しげな動きで応えます。やってみてくだされ﹂ ﹁ほう。どれ⋮⋮おい、からいもん!﹂ 九郎は軽い気持ちで呼びかけたのであったが、さつまもんが突如 立ち上がって怒鳴り始めた。 ﹁なにィッ!﹂ ﹁さつまもんがキレたのだが!?﹂ ﹁自分が馬鹿にされたと勘違いしたのでしょう﹂ ﹁なんじゃッそん眼はッ!!﹂ 瞬間、再び抜き放たれた薩摩刀が気迫の大絶叫と共に九郎を襲う。 こう、遠慮とか前の反省とかそういうのはあっさり怒りメーターを 958 振り切り無かったものになったらしい。 しかしながらこういう自体も考慮して、九郎とて無手にこの場所 へやって来たわけではない。 片膝を立てて持ってきたアカシック村雨キャリバーンⅢを鞘に入 れたまま左手に構え、示現流の一撃を受ける。 石灯籠を振り回す九郎の怪力であったが、さすがに相手は田舎剣 術と馬鹿にされるが、同時に恐れられている薩摩示現流。並みの剣 士ならば受け止めても刀が折れるか、押し込まれたまま己の刀の背 や鍔が体にめり込んで死ぬと言われている攻撃である。 だが九郎は受け止めた。 代わりに九郎とさつまもん、双方の足元の畳が踏み込みと受け止 めに耐えきれず、弾け飛ぶ。 そこで互いの重心の差により、さつまもんは大きく体勢を崩す。 其の隙を逃さずに九郎は鞘に入れたままの刀で鳩尾へ打撃を与えた。 ﹁ぐぬう⋮⋮﹂ と、さつまもんは倒れる。 ひとまず危機は去った。いや、本当に去ったと言っていいものか、 九郎としてもかなり怪しいところであることは薄々自覚していたが、 そうとでも思わなければいちいち相手にしている己の行為が虚しく なるのでそう思わざるを得なかったのである。 これをマスコットに続投させているのは、何か大きな圧力がかか っているのか、黒右衛門が視野狭窄に陥っているのか、そのどちら か或いは両方だとしても、被害を被るのが他人││この場に限って は何故か九郎になるというのが問題である。 指摘の意を込めて黒右衛門へ視線を送ると、やおら彼は頷いて、 ﹁では、からいもんの他にもう一体を御紹介致します﹂ 959 と、九郎の疑問には気づかなかったか、敢えて無視したのか、話 を進めた。まだ思考と目線のみで分かり合うには、人類は革新して いないようだ。 黒右衛門の言葉に応じて、プレゼン室に現れたのは、またしても 着ぐるみ風の者であった。 デフォルメした巨大な火縄銃から手足が生えているといった形で ある。 ﹁こちらは種子島を元にした薩摩振興要員三号[きもねりん]で御 座います﹂ ﹁名前が出落ちって指摘されなかった?﹂ ﹁いえ?﹂ かなり自信があった確認だったが、否定されてしまった。世の中 の不条理を嘆くが、そんな何処にでも転がっているものをいちいち 気にしてどうするのかと訴えかけて来る深層意識に従って、仕方な いことなのだと割り切る。 怪人・火縄銃マンとでも云うべきそのマスコットについて思案す る。可愛らしさにおいてはからいもんに及ばないが、男の子と云う ものは少なからず銃に心惹かれる性分がある。硝煙に酔う気質があ る。行き過ぎると火消しになるか放火とかしちゃう両極端なものだ が。 ヒーローとして[さつまもん]。癒やしとして[からいもん]。 怪人系として[きもねりん]。 ︵揃ったといえば揃ったのだが︶ 何が足りないのか、何が必要なのか出てきそうで出てこない。B 級映画ならば狂人とゾンビと人類に反逆するコンピューターが揃っ たような条件ではあるのだが。 960 九郎が思い悩んでいると、にこにことした黒右衛門が九郎の肩を 掴んで、 ﹁それではこれから薩摩藩邸にて、折角なのできもねりんを使って 伝統の[肝練り]をやろうという趣向になっておりますので九郎殿 もさあさ﹂ ﹁えっ﹂ ﹁九郎殿考案として藩士達にも自慢しまくってますから、是非﹂ 九郎の左右の肩を、きもねりんとからいもんが掴んで運び出すの であった。 ***** 何故か駕籠に入れられて脱出することなど不可能な状況に陥った 九郎はそのまま運ばれていく。 いや、狐に憑かれたふりでもして錯乱し大暴れで有耶無耶に逃げ 出すことは出来ないではないのだが、大きく九郎の評判を下げる為 にそこまで頑張って逃げるべきではないと判断して大人しくしてい るのだ。なにせ、黒右衛門は九郎の居候している蕎麦屋の所在も調 べている。二度と接点のない相手にならばともかく。 はてどこを現在進んでいるのかと駕籠の外の景色を眺めていると、 特徴的な大門が見えた。 ︵あれは増上寺⋮⋮ならばここは芝か︶ 961 と、九郎は頭に地図を思い浮かべる。 現代で云う港区の辺りは、当時は大名屋敷が多く並んでいた。遊 びに来ても面白い場所で無し、あまり九郎は足を運んだことはない。 増上寺から南、然程は離れていない場所にあるのが薩摩藩の中屋 敷である。 七十七万石の大大名となれば、借金はあれども江戸に大名屋敷を 複数持つのが格式というものである。普通、大名自身が江戸に参勤 した際に寝泊まりなどを行う屋敷を上屋敷、別宅扱いや大名の趣味 の庭園、或いは倉庫のような様々な扱いを受けるのを下屋敷という が、中屋敷は藩から参勤で付いて来た藩士や大名の家族などが寝泊 まりするものであった。 薩摩藩の中屋敷も広く作られていて塀の中には屋敷の他に長屋も ある。 正面の御成門前で九郎と黒右衛門は駕籠から下りて、門番に迎え 入れられた。九郎らの後ろに、さつまもん、からいもん、きもねり んも続く。あの後あっさりさつまもんは目を覚まして付いて来たの だ。悪の怪人を引き連れた幹部の気分がして、九郎は既に顔が曇っ ている。 廊下を並んで歩きながら、小声で黒右衛門が告げてくる。 ﹁九郎殿。この藩邸で、一応知っておかねばならない作法をお話す るのを忘れておりました﹂ おし ﹁入ってからなんでそういうこと云うかのう⋮⋮で、なんだ﹂ ﹁話しかけられた時以外は唖のように無言で。言葉尻に突っ込みを 入れたりしたら殺されますから﹂ ﹁黒右衛門この野郎﹂ 改めてとんでもない伏魔殿に確信犯的に連れて来られたのだと告 げられて、九郎は太っちょの商人をとにかく睨んだ。 暫く案内された部屋で待つ。きもねりんは何処かへ連れて行かれ 962 たため、からいもんとさつまもんを合わせた四人だ。 しかしそこで問題が発生した。からいもんが着ぐるみの形状上の 問題で座れないのだ。尻方向に伸び出た芋の型が邪魔をする。お辞 儀のような体勢になれば可能だったが、酷く不安定でさつまもんが 支える羽目になった。 このからいもんの着ぐるみはやけに重そうである。 芋を支えているという状況にストレスを感じたのか、都合二度ほ どさつまもんが刀を抜き放った後に、初老の男が奥の院からやって きて、気の張った声をかけてきた。 ﹁鹿屋殿∼ッ! 肝練りの準備は整い申したッ! 皆待っちょるか ら始めっどッ!﹂ ﹁ははーっ!﹂ 黒右衛門が頭を深々と下げ、怪人二人も続いたので九郎も倣った。 目に覚悟の光を灯した老人は声だけで障子が破れそうな勢いで、 続けて云う。 わ ﹁我らも、もそっと参加すっごと用意しちょるッ! 今日は楽しか 肝練りじゃッ! おいッ! [さつまもん]ッ! なんぞ心残りは あっかッ!?﹂ ﹁なッ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ンもござり申さッ!﹂ ﹁よか!﹂ ︵ここで心残りがあるとか答えたら死罪なのであろうな︶ 九郎は激しい声量でのやりとりを聞きながらそんな事を思ったが、 決して口には出さなかった。 どかどかと入ってきたその上役の男は、さつまもんを連れて一足 先に奥へと向かった。 963 ようやく顔を上げた九郎はとりあえず黒右衛門に、 し ﹁あの偉そうなのは?﹂ ﹁叱っ。薩摩藩の御奥番頭、新納様ですよ。江戸では家老当役に匹 敵する権力があるんですから﹂ ﹁そんな上役が肝練りの主催か⋮⋮なんというか、薩摩って﹂ ﹁なんとも言わないでくだされ﹂ 確かに一言に纏めるには難しそうな問題であったため、黒右衛門 の提案に従いその問題は先送りにした。まあ、人類が言葉を無くし て思念で会話できるように大脳あたりが進化すれば問題は解決する だろう。 とりあえずここで時を過ごすことは出来ない。どちらかと言えば すぐに回れ右して市中に戻り、湯屋にでも入って帰りに一杯引っ掛 けて寝たい気分ではあったが、その選択肢は取れないようだ。 諦めたか覚悟を決めたか││其の二つにどれほど違いがあるのか 不明確であったが││九郎と黒右衛門も奥へと向かう。 そこは食事を取る広間であった。薩摩では多くの人が集まって、 大皿に盛られた料理を己の小皿に取り分けるという食事方を好んだ とされている。これは当時の中国││清の食卓を取り入れた形式で、 鎖国中の日本からしてみれば最新の大陸式食事をしているという自 慢があったのか、それとも単に薩摩の気風にあっていただけなのか ⋮⋮ とまれ、この日ばかりは円状に肩を並べた藩士達の目の前に、膳 が置かれている状況であった。肝練りとは、其の囲んだ中央に火縄 銃をぶら下げて、吊し縄を捻り捩らせ回転するように細工して縄に 火をつけ、銃口がぐんぐんと己の頭を狙い回転するのを見ながら物 怖じせずに酒宴を行うサツマン・ルーレットめいた儀式である。 薩摩では好まれている武士の遊戯で、現代の鹿児島でも︵インテ リアとしてだが︶天井から火縄銃を吊るした飲食店が残っているほ 964 どである。 だがこの場では、円で囲んだその中心に、天井から吊るされた巨 大な火縄銃怪人││[きもねりん]がいる。 ︵⋮⋮はっ︶ 危うくマッハでツッコミ入れかけた自分を抑える九郎。明らかに 巫山戯た絵面なのに、囲んでいる薩摩藩士達は真剣そのもの、表情 に憎しみすら感じる厳しさなのがギャップで余計ひどかった。絶対 に笑ってはいけない薩摩である。 二人が入ってきたのを確認して、御奥番頭││殿中における諸事 を担当する、藩主側近の一人である││が獣のような目をぎらつか せて頷く。 ﹁皆ン衆喜べ! こン鹿屋殿とへごン考えで、江戸でも肝練りが出 来っごとなったッ!﹂ ﹁応ッ!﹂ ︵嬉しいのかよ⋮⋮というかそんな考え提案してないが︶ 凄く口を挟みたかったが、なんとか声帯を震わせないように呼吸 を止めた。困難だったが、やり遂げた。 マスコットキャラの話が何故か合法的に肝練りをする象徴へと認 識が変化したらしい。 そもそも合法の肝練りとか違法の肝練りとかあるのだろうか。む しろなんでやりたがるのだろうか。九郎にはさっぱり理解不能であ った。河豚を食って当たった場合、鉄砲に当たったというが、実際 に江戸でリアル鉄砲に当たりたがる集団がいるとは。 ︵文化が違う⋮⋮︶ 965 こんな時、やたら石燕と語り合いたく成る九郎であった。 怒鳴り声は続く。 ﹁鹿屋殿が我らに焼酎もずンばい用意しちくれったッ! よか酒じ ゃッ!﹂ ﹁おおお∼ッ! 此は故郷の焼酎じゃァ∼ッ!﹂ ﹁おいは一晩中舐めて過ごっどォ∼ッ!﹂ ︵感動し過ぎだが⋮⋮普段なにを飲み食いさせられてるんだ⋮⋮︶ 藩邸に住んでいるというのにすこぶる貧しそうな身なりの藩士達 は、やはり藩の借金問題もあるだろう。藩主やひと目に付く御用人 が相の悪い格好をするわけにはいかないために、金は無くとも何処 からか作り豪勢にしなければならない。その分のしわ寄せは、中屋 敷に住む藩士達に及んでいるようであった。 不満がくすぶり、恨みと憎しみが身を焦がし、叫びと余った力を 受け止める殴り用立ち木も折れる。 ならば肝練りでもやって気を晴らそう││そういう趣向に、偶然 黒右衛門のアイデアが拾われてこのようになったのであった。 ある意味、藩邸の中は奉行所や火盗改でも無許可で立ち入る事は 出来ぬ治外法権なのだ。藩ではなく、江戸の中で肝練りをするとい う違法すれすれの行為に男たちは酔っていた。 ﹁さあ皆、もっと寄れい寄れいッ!﹂ ﹁う、うむ﹂ 九郎と黒右衛門││それにからいもんとさつまもん││も座らさ れて、円を構成する一員にされた。 弾が外れぬように人の隙間を減らし、ぎゅうぎゅうに詰まる。 966 酒が行き渡ると、きもねりんの胴体に繋がっている火縄に火がつ けられて、太く結われた荒縄で吊るされているきもねりんがゆっく りと残虐なオブジェの如く回転を始める。 きもねりんの頭部に位置づけられている黒々とした銃口が、ちょ うど座った者の頭の高さで犠牲者を選んでいる。 ﹁⋮⋮ところであれって本物が仕込まれてるのか?﹂ 九郎の呟きは合唱のような叫びにあっさりと掻き消される。 ﹁避けてはならんッ! 逃げてはならんッ!﹂ ﹁当たっても痛いち云うてはならん! 隣の者が倒れようとも笑っ て酒を飲めッ!﹂ ﹁ああ、よか酒じゃッ!﹂ ﹁よか宴じゃッ!﹂ ︵小奴ら⋮⋮気ぃでん狂っちょっとか︶ 上がってきた薩摩人のボルテージに九郎も思わず薩摩弁っぽい感 想が浮かんだ。 しかし確率は低いとはいえ、こっちに銃弾が飛んできたらどうす ればいいだろうか。なんで己れは商屋のマスコットキャラを提案し たら射殺されかけているのかと悲しくなりそうな思考を現実に引き 戻しつつ、考えた。 銃口の軌道自体は単純で、きもねりん自身の重さが反動を受け止 める為に火縄銃だけを回すよりは射線を読みやすい。当たりにくい 場所に予めさりげなく体を動かす事は可能だが避けても逃げてもい けないそうだ。ローカルルール︵とはいえ、薩摩以外無いが︶では 前のめりに伏せて避けるのは許可されたりもするが、今回はまさに [本肝練り]である。赦されるとは思えない。 967 受け止めるのはどうだろうか。しかし、人間の反射能力では発射 されたのを視認してから行動を起こすにはあまりに近い位置だ。こ れが通常の銃ならば、射手の指などに注意してタイミングを測れば いいのだが、相手は火縄の長さすらよくわからない着ぐるみである。 把握出来ない。 本気で考えているうちにやはり現実は悲しいことばかりなのだと いう厭世感が溢れてきて、余計に思考速度を遅らせた。最も安全な のは即座に席を立って邪魔するものを刀で切り捨てて脱兎の如く⋮ ⋮という案なのだが、若さに任せるには年を食い過ぎた。有り体に 言って、面倒だ。 ﹁安心して。君は、からいもんが守るよ﹂ ﹁いや、誰だよお主﹂ ﹁ははっ﹂ なんか隣に座っている手足の生えたさつまいもの着ぐるみに、甲 高い声で話しかけられたので素でつっこみを入れた。 っていうか喋るのかよって気分だった。どうでもいい心地になり つつ茶碗に入れられた焼酎を飲む。薩摩藩の使っている陶器なので 薩摩焼だろう。疑うべくなく。 くるくると回るきもねりん。それを取り囲む決死の薩摩藩士。喩 えようのない不安感に包まれながら、九郎は諦念と共に酒を飲んだ。 この酒宴の特徴はクライマックスが前半に来ることだ。 やがて火種はきもねりんに仕掛けられた発射機構へと辿り着き、 銃弾が放たれる。 九郎はゆらりとこちらを向く銃口の奥から、感じるものがあった。 ︵む⋮⋮これはこちらに来る⋮⋮︶ と、予兆は見えぬというのにそう感じるのは、九郎が長年生きて 968 きて培った、死の臭いに対する直感的なものである。 達人というほど鍛えぬいたわけではないが、見知らぬ土地に放り 出されて戦乱の世界を半生過ごした経験が、危険予知のような形で 発揮されるのは多々あることであった。 まあいい。 ここで人生を終えるのも、最高の落とし所ってやつかもしれない。 ︵いや、まったくそんな事はないのだが︶ どこからか浮かんだ諦めにつっこみを入れた瞬間、銃口と目があ った。 音が先に届くはずはないのだが、九郎は音を感じる。ドカ、とい う思ったよりも激しく重い音だ。 衝撃は隣から来た。 九郎の体を、着ぐるみのからいもんが押しのけて自ら銃弾に当た りに来たのだ。 外張りの布が千切れ飛び、中を満たしていた小サイズの芋がもろ もろと布の破れ目からこぼれ落ちる。 ︵キモ⋮⋮︶ 庇ってくれた相手に対する感想ではないが、素直にそう思った。 ボクの芋をお食べよ、と体の中から芋を取り出す販売戦略だった為 に、着ぐるみの中は芋だらけなのだ。重いはずである。 九郎は、はっとして自分の代わりに銃弾が直撃して動かなくなっ たからいもんに呼びかけた。 ﹁おい、からいもん! 大丈夫か!﹂ 其の瞬間、円を組んでいた薩摩藩士が怒り心頭に総立ちした。 969 ﹁なにいィ∼ッ!?﹂ ﹁今なんちゅうたッ! 唐芋じゃとォッ!!﹂ ﹁聴き逃がしならんッ!! 引ィ取れッ!﹂ ﹁よか!﹂ ﹁ああもう面倒臭いな! 小奴ら!﹂ うっかり禁句を言ってしまった九郎も刀を持って立ち上がる⋮⋮ ***** ﹁やあ九郎君、元気かね?﹂ 昼下がりの緑のむじな亭に、珍しく鳥山石燕がやってきていた。 店の中でだるそうに、包帯の巻かれた腕をお房に突かれながら蒸 かした芋を食っている九郎がいる。 なんとか薩摩藩での騒動が平和的に落着︵奇跡的に死人は出なか ったので、まあ平和だろうと判断した︶して数日。今だに耳に奴ら の叫び声がこびり付いている気がしてここのところ寝付きが悪いの だ。 それを見て若干残念そうに石燕は持ってきた包みを彼の目の前に、 外で買ってきた焼き芋を置いた。 ﹁なんだ、折角買ってきたのに芋を食べていたのかね﹂ 970 ﹁ああ、ちょっと土産に貰ってな⋮⋮﹂ ﹁あたいが食べるから平気なの﹂ ﹁ふふふ、ほら﹂ 食い意地の張ったお房が手を伸ばすのでまだほかほかと暖かい芋 を渡してやった。 九郎は茶を啜りながら石燕へ顔を向けると、彼女が自慢気な表情 をしている事に気づいた。 ﹁どうしたのだ。何か良いことがあったのか?﹂ ﹁ふふふ、いやね、この焼き芋、なんとお化けが売っていたのだよ ! 近頃は妖怪も市民権を持ったものだねと感心してね?﹂ ﹁お化け⋮⋮もしかしてそれは巨大な芋の着ぐるみに手足が生えた ⋮⋮﹂ ﹁そう、きぐるみ!﹂ と、彼女が懐から取り出した紙には、得意の墨絵を使って独特の きぐるみ 画風で芋を配る芋の姿が描かれていた。 隣に︻妖怪、名を気狂身といふ︼と註釈も入れられている。 九郎は其の絵を眺め、そして記憶にある着ぐるみという単語を数 度脳内で噛み締めて、再び[気狂身]を見た。 ﹁⋮⋮まあ、薩摩的ではあるな﹂ ﹁そうだろうそうだろう。これは恐らく土着の芋妖怪が変異して伝 わった怪異だと思うのだよ! それと、やや高価だったが其の店で 売っていた砂糖菓子も買ってきたよ!﹂ ﹁むぐむぐ﹂ ﹁もう房が食べてるね!?﹂ 黒い麩菓子のようなものを口に突っ込んで茶で流し込んでいるお 971 房。彼女の食欲はここのところ上がり調子だ。九郎と六科が飯を二 杯食ってお房が一杯だけだった日々も遠く。 おおよそ、九郎がこの家に来てからは経営が上向きになり食事に 余裕ができて、かつ九郎がそこそこ美味いものを用意するので少食 気味だった彼女も反動で食うようになったのだろう。 九郎も茶を飲みながら黒菓子の欠片を口に放り込む。 麩菓子を黒砂糖の蜜に浸して乾燥させたもので、表面にざらざら とした黒い砂糖粒が浮き出ていて非常に甘味な物だ。 マスコットキャラによるイメージアップを断念した九郎が、薩摩 の茶の美味さと砂糖の生産に目をつけて茶と菓子をアピールする方 に話を持ちかけた事で作られたものである。 荒々しい薩摩の地でも心安らぐ茶の文化は根付いていると知らし めるのだ。 九郎はこれを強面の中年男性が喫茶店でパフェとか食べてると和 む作戦と心のなかで名づけている。 一応、マスコットにも折角居るのだからと配らせているようだ。 ﹁しかし、あの唐芋妖怪、流行ると思うか?﹂ ﹁いや﹂ ﹁だよな﹂ あっさりとした返事だから、迷うこと無く九郎もあっさりと納得 してこれ以上薩摩と関わるのを止めることにしたのであった。 972 35話﹃玉菊燈籠﹄ 今年も最後の月となった。 十二月の十三日は[煤払い]と言って、江戸城の大掃除を行う日 ││正確には月はじめから大掃除を行っていて、締めの日││であ るのだったが、町人らもそれに倣って江戸中の家で大掃除が行われ るのが毎年のことであった。 九郎の住まう緑のむじな亭でも、店を休みにして掃除を行ってい る。 あちこちに達筆なお房の字で[汚物は消滅][宇宙系に捨離断] などと掃除に対する意気込みが紙に書かれて貼られていた。書かれ た句については、石燕が考えたものだそうだが。 九郎も手伝わされていたのだが、背丈があり素直にお房の指示に 従いキビキビと感情のない殺戮マシーンの様に働く六科と違い、基 本的に老人系な彼は手際が悪い。 そもそもここ何年もまともに自分の手で掃除をしたことがなかっ た。魔王城に暮らしていた時はアサルトルンバとメイドが争うよう に掃除を行っており、時折銃撃戦に発展するほどであったからだ。 ﹁やはり掃除というものは正しい定義でのロボットがするべきだな。 奴らは心を持たぬが労働を持っている﹂ などと、グチグチと言い訳がましいことまで口ずさむのだからむ しろ邪魔であった。おまけに右手がまだ不自由だから作業能率は酷 く低い。 役立たずだったので九郎は追い出されて、餅屋に餅米の注文をし に行く仕事を与えられた。正月の餅も、十五日までに予約をしなけ れば売ってくれないのである。 973 定年後の老人が忙しいアルバイトに入って邪険に扱われた気分で、 非常に悲しくなった。 ふらりと道すがらお八の実家である着物屋[藍屋]に寄ってみた のだが、軒先で従業員に投げっぱなしパワーボムを連発するという 儀式を行っていたので目をつけられる前にさっと消えた。 煤払いが終われば大店などは胴上げを始めるのであったが、主人 やその家族などはともかく、下っ端などを胴上げすると悪乗りが重 なり投げまくる為にボロボロになる様がよく見られたと記録に残っ ている。その日の仕事は大抵掃除で終わりなので、ボロボロのまま 精進落としに遊びに出かけたりしていたようだが。 今日は何処の知り合いを訪ねても忙しいだろう。 そう思って九郎はぶらぶらと町中をうろつくのであった。 ﹁もう師走か⋮⋮なんか不思議だのう﹂ かむろ 日本で年の瀬を迎えるのは何十年ぶりだろうか。彼が昔過ごした 日本とは違うとはいえ、懐かしい錯覚がして少し笑えた。 少し、天気が曇ってきた。 ***** [それ]を失くした事に気づいた玉菊は大いに狼狽をした。 慌てて同じ部屋で寝泊まりをする女郎や身の回りの世話をする禿 に聞きまわったところ、皆悲しそうな顔をして首を振る。 玉菊の勤める遊郭の中でも一番の格上である││女の中では││ 974 紫太夫はやはり気落ちしたように彼に言った。 ﹁玉菊太夫。残念じゃったなあ⋮⋮妾らの私物もみぃんな、あの亡 八︵楼主の事︶が売り捨ててしまっちまったんじゃ。煤払いと言っ てのう﹂ ﹁そんな!?﹂ 玉菊が泣きそうな顔で聞き返すが、紫太夫は小さく首を振った。 ﹁客から妾らが貰った物は、俺の物でもあるのだからどうしようと 勝手だろう、となぁ﹂ 憂いに満ちた表情を浮かべている紫太夫と他の女郎達。彼女らの 私物も持って行かれたのだろう。日頃、碌な扱いは受けていないの だがこれには堪えている様子であった。 もともとの遊郭の主人は良くも悪くも普通の男であったのだが、 今年に入って借金の方に店を乗っ取った新たな楼主は、金儲けや世 渡りが上手いことは同業者でも認めている。あっという間に品川の 色街から、吉原に店を滑りこませたことから考えても、市場だけで はなくお上の役人にも繋がりがあると見て良い。 それにしてもその楼主は遊女への扱いが悪かった。暴力を振るう、 食事を与えないなどは日常で、機嫌が悪いとなると井戸に逆さ吊り にしたり、水風呂に漬け込んだりして仕置をするという有り様であ った。 きつい仕置などは他の遊女が受けそうになると、玉菊が相手を庇 って代わりに受けることも多く、遊女たちは年下の弟のような存在 であるのに誰よりも仲間思いな少年がむしろ気の毒に感じている。 このような無体な楼主は巷に溢れていたようで、江戸後期に出さ れた辛口の世評文[世事見聞録]に於いて、 975 ﹃ただ憎むべきはものはかの亡八と唱ふる売女業体のものなり。天 道に背き、人道に背きたる業体にて、およそ人間にあらず。畜生同 然の仕業、憎むにあまりあるものなり⋮⋮﹄ と、いう書き出しから始まる批判が続いている。作者の武陽隠士 はなにか嫌なことでもあったのだろうかと心配するぐらい、[世事 見聞録]は全体的に荒んでいる内容だが、世間にそう思われる程に は楼主とは悪どい商売であった。 ともあれ、玉菊は眼の奥から熱いものが湧き出てくるのを感じな がら、わけもわからぬ焦燥に襲われて、 ﹁でも、あれは、あれはわっちの大事な⋮⋮良い人から貰った⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮そうじゃのう﹂ かんざし 紫太夫はおろおろとする玉菊の肩に優しく手を置いて慰める││ 或いは納得させるように呟いた。 失くしたのは玉菊がいつも自慢気にしていた、簪である。 送った相手というのは、一度か二度程しか吉原の前の店に来たこ としか無いが、紫太夫も見たことはあった。玉菊と同じ年頃の、妙 な雰囲気をした少年だ。相手としてはどう控え目に見ても玉菊へ情 欲を向けては居ないようだったが、まあ仲が良さそうではあった。 九郎が何となく、落ちていて拾った簪が高価だったため、その場 のノリで適当に渡したのではあったが、玉菊にしてみれば唯一無二 の宝物である。 それを勝手に売り飛ばされたのだ。 ﹁わ、わっち、何処に売ったか訊いてくるでありんす!﹂ ﹁あっ、これ玉菊太夫! そんな事をあの亡八に訊いたらまた仕置 を受けるぞ!﹂ 976 慌てて階下へ駆け出す玉菊を制止するものの、構わずに彼は楼主 の間へ向かった。 ただならぬ様子を番頭が見咎めて、油さし︵見張り役︶に指示を 出して楼主の部屋の手前で玉菊の手を乱暴に掴み止めた。 ﹁何をしている、太夫﹂ ﹁放してくりゃれ! 楼主に訊きたい事がありんす!﹂ ﹁駄目だ。自分の部屋に戻れ﹂ いかつい、やくざ崩れのような油さしはきっぱりと言って握る手 に力を込めた。 ﹁痛っ⋮⋮﹂ 玉菊の細い手首に跡が残るほど圧迫がある。 殆ど少女と変わらぬ体型の玉菊が力で勝てるはずがない。少年の 体なのに大人を捻り潰す強さを持つ九郎では無いのだから。 それでも、玉菊は掴まれてない方の手を伸ばして、楼主の居る部 屋の襖を開ける。 いぼ 背中を向けて寝そべっている、良い着物を着た中年が居る。楼主 の重郎左衛門だ。 襖が開いて音でごろりとこちらを向く。鼻の側に大きな疣のある 醜い男であった。 ﹁何の騒ぎだ﹂ ひきがえる 蟾蜍のような粘着質の声で聞くと、油さしは一礼をして、 ﹁すぐに太夫を戻します﹂ ﹁待って! わっちの、わっちの簪を何処に売ったでありんすか! 977 ?﹂ ﹁ああ? 簪ぃ?﹂ 彼がぐにゃりと顔を歪めたのを笑顔と認識するのは、かなりの困 難であった。 ﹁そんなもの知るか。他の女郎のと一緒に、出入りの古道具屋に売 り払ったわ。買い戻す気はないと伝えてな﹂ 吉原からの放出品となると、古道具でも高値が付くのである。勿 論、売った金はすべて楼主の懐に入る。 ﹁巫山戯なりんせ! あれはぬしのものじゃありんせん!﹂ 大声で怒鳴ると、彼が不快そうに││やはりそう理解するには難 しかったが││眉間にしわを寄せた。 ﹁巫山戯るな、だぁ? それはお前のことだ。この店で働かせてや ってるのなら、客は[此の店の]お前に貢いだだけの話だろう。こ こに居なければお前など木っ端な夜鷹だ。お前に価値を与えている のは吉原で開いている此の店、そしてその店の主の私だ﹂ ﹁あれは! 店に来た客じゃなくて、陰間で働いているわっちにじ ゃなくて、ただ、親しい関係のわっちという人にくれた、わっちの 為だけの簪でありんす⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮小煩いな﹂ きゃんきゃんと喚き立てる玉菊に顔を顰める。 彼が目配せをすると、油さしが玉菊を引っ掴んだまま部屋の中に 連れ込ませた。 怒りと、若干の怯えを顔に浮かべながらも歯を食いしばって相手 978 を睨む。普段のことから冷静に考えれば、この人を人と思わない楼 主が一度奪い取ったものを返してくれる筈も無いとわかってはいた のだが、それでも噛み付かずには居られなかった。 ﹁仕置が必要だな。この糞忙しい時に⋮⋮おい、お前も手伝え﹂ ﹁はっ﹂ 短く返事をして、油さしは玉菊の体を強く押さえつけた。 玉菊の顔が悔しさに歪んだ。 ***** ﹁⋮⋮痛たた﹂ 気を失っていたらしい。 玉菊は意識が覚醒すると同時に痛みに呻いた。殴られたような記 憶があるし、首を締められた気もする。針で刺された場所は舌だっ たか、下だったか。思い出しても然程有り難みは無い。 頭の下に柔らかい物を感じる。何度か感じたことのある、紫太夫 の太腿のようだ。 彼女は数少ない傷軟膏で玉菊を治療した後、ずっと膝枕をして彼 を撫でて居たのである。吉原の多くの店は、出入りの医者や薬屋が いて幾らか薬を置いているものなのだが、この店に於いては傷など は化粧で隠せと言わんばかりに検診も行っていない。 とりあえず、自分の体に骨折や欠損が無い事を玉菊は手足の指を 979 動かして調べた。顔面が抉れていたのならば見て確認できないのだ が、さすがにまだ売れる商品をかなぐり捨てる程愚かではないと思 いたい。歯ぐらいは幾らでもへし折ってきそうだが。そのほうが、 具合がいいとして。 ﹁⋮⋮まだ起きなさんな﹂ 紫太夫が優しく声をかける。 玉菊はぎこちない笑い顔を浮かべて返事をした。それを見て、余 計に彼女は顔を曇らせた気がした。 ﹁大丈夫でありんすよーぅ。えへへ紫太夫の太腿気持ちいい! 十 両は価値がありんす! 元気出てきた!﹂ ﹁平気なもんか。本当にお前さんってやつは⋮⋮﹂ ﹁さてと、わっちは一寸出かけてくるでありんす﹂ むくりと起き上がって、体中から引き攣る痛みを感じつつ笑顔を 顔に張り付かせ動き出した玉菊を紫太夫が止めた。 ﹁待ち。何処に行く?﹂ ﹁うん、外の古道具屋を急いで廻ってくるだけで、すぐに戻って来 るでござんす﹂ ﹁どうやって吉原の外に出るのじゃ。今のお前さんに外出切手なん か出されるもんか。足抜けだと思われて、とっ捕まるのが落ちじゃ﹂ ﹁それならおはぐろどぶを飛び越えて行くでありんす。こう見えて も、身は軽いから﹂ ﹁そんな事をして捕まったらお前さん、今度こそ殺されて浄閑寺に 投げ込まれる﹂ 吉原は遊女の足抜け︵脱走︶を防ぐためにその四方を高い壁とお 980 はぐろどぶと呼ばれる堀で囲んでいて、唯一の出入り口の大門に番 所を置いていた。外出するには店の主が出した手形が必要なのだが、 小間使いや針縫いならまだしも遊女には滅多に出されなかったとい う。 ましてや玉菊などは、吉原でも既に有名で持て囃される新進の売 れっ子である。前までの様に、気軽に遊びに出かける身分ではない。 吉原に来てから九郎とも会っていないのだ。 逢えなくても心の拠り所として、大事にしていたものを取り戻さ なければならない。 簪を付けていなければ、彼にもう逢えない気がした。あわせる顔 も無い。折角、貰った物を失くしたなどと。彼はなんだかんだで優 しいから、仕方なさそうな顔をして許すだろうけれども、玉菊の意 地が許さない。 ﹁││行ってくるでありんす﹂ 強い決意を込めた言葉に、大きく紫太夫は息を吐いた。 命をかけてでもやらねばならないという思いが見て取れる。それ ほどまでに大事な、心の問題なのである。畜生扱いされて傷めつけ られても、耐えられるほどの。 彼女は袖から、許状を出して玉菊に渡す。 ﹁紫太夫、これは⋮⋮﹂ ﹁振袖新造︵見習い女郎︶宛に書いた許状じゃ。妾が代筆して於い た。一度ぐらいは番所も騙されてくれるじゃろ﹂ ﹁で、でもこんなことをしたら紫太夫が⋮⋮﹂ ﹁いいか?﹂ 紫太夫は、危険が多いのはそれを使う玉菊だというのに、こちら を心配してくる彼に笑いかけて正面からぎゅっと抱きしめた。 981 ﹁これを使って⋮⋮もうここには戻ってくるな﹂ ﹁え⋮⋮﹂ ﹁追手が掛かるかもしれんが、襤褸を着て、髪を切って、化粧をし ないでいればお前さんもただの男の子じゃ。二、三年もすれば背が 伸びて声も太くなり、誰もお前さんが玉菊だとは判らなくなる。そ れまで、良い人でも頼って隠れて於くんだよう﹂ ﹁でも、それじゃあ皆が⋮⋮﹂ 言い縋る玉菊を、更に強く抱きしめる。 ﹁いいんだ。いつもお前さんは、妾達の事を姉さん姉さんと慕って くれて、庇ってくれて、でも妾らはなんにも恩は返せなんだ。お前 さんが足抜けすることは、みぃんな承知じゃ﹂ ﹁紫⋮⋮姉さん⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ごめんね、お姉さんらしいこと、あまりできなくて﹂ 玉菊は自分を抱きしめる紫太夫が、涙を流しているのを知った。 見た目は女装しているが、一端の男子として女性を泣かすような ことはしないと心に決めていた玉菊はどうすればいいのかと困って、 紫太夫を抱き返した。 少しの間、今生の別れを惜しむようにして、離れた。 それ以上会話をすれば未練になるとばかりに、紫太夫は質素な着 物で玉菊を包み、髪型と化粧をがらりと変えさせた。手ぬぐいなど で顔を隠せば、余計に怪しまれる。 紫太夫はそれこそ魔法の様に、玉菊の風貌を変化させた。一度だ けならば騙せる。そして、一度騙せば充分だ。資金として、隠して いた金子を五両渡した。 心底傷めつけられた玉菊はまだ動ける状態ではないと、店の者が まだ思っている隙に炊事場から玉菊を外に逃した。 982 泣けば化粧が落ちるし周囲から不審に思われる。 玉菊は笑って、大門へと向かった。 笑いたくなるようなことなんて、ひとつも無かったけれども。 ***** 雨が降りだした。 十二月の雨となれば、恐ろしく冷たい。霰こそ混じっていないが、 気温も深々と下がり外を出歩く者も殆ど見えぬ。 一人、とぼとぼと項垂れて傘も差さずに歩いているのは、玉菊だ。 雨で化粧は落ち、髪もベッタリと下がっている。足元は泥で汚れ たその姿はさながら幽鬼のようだった。 あれから││。 吉原に出入りがある古道具屋を、伝手を辿って探してみたのだが、 どこに行っても玉菊の簪は無く。 知っているところは全て廻り、雨も降りだした。体力などはもと より良い物を食べていないのだから少ない。女郎という仕事は一見 優雅に見えるものの、食事を抜かれることなど日常茶飯事で、特に 客の目の前では決して食べてはいけないという規則があった。客が 寝た後に、残り物をこっそりと食べるぐらいが良い物を口にする機 会である。 ︵⋮⋮あの時、主様と晃之助様と食べた鰻と山芋は美味しかったな あ⋮⋮︶ 思い出すと腹が鳴った。他にも、むじな亭の蕎麦。相撲を見に行 983 った時に買って食った幕の内弁当。次々に思い出して、涙が浮かん できた。 泣いても雨でわからないと思うと、堪えていた涙がぼろぼろと笑 みのまま垂れて、全身冷えきっているのにそこだけ熱く感じる。 冷えた雨が傷に染みて酷く痛む。指先を見ると、血が通っていな いんじゃないかと思うぐらい白くなっていた。 そう時間もかからずに、体力が無くなって倒れて死ぬ。 死ぬ覚悟さえ決めて、優しい姉さん連中に後押しされて抜けだし たのに、何一つ出来ないまま死んでいくと思うと、本当に嫌になっ た。 せめて簪が欲しかった。 嫌なことも辛いことも、綺麗な思い出さえあれば耐えてこれたと いうのに⋮⋮ ︵ああ、そうか⋮⋮あれを失くしたから死ぬのか︶ 心にすっと納得が行く考えが浮かび、目に絶望の色が浮かぶ。 こんなことならば、寝るときも風呂に入るときも片時さえ離さず に、そして誰にも見せずに持っていればよかった。 我鳴声と、肩に衝撃を感じた。 玉菊がゆらりと顔を上げると、拳が振るわれて倒れた。火花が散 る視界の先に、店の油さしの男が居る。 追いかけてきて、見つけたから殴ったのだ。 体が冷えていたからか、痛みは感じなかった。鼻血が出たような ぬめりだけが不快だ。 ﹁手前! よくもおめおめと⋮⋮!﹂ なにやら騒いでいるが、半分も玉菊は理解できない。 胸ぐらを掴まれて無理やり引き起こされ、今度は脇腹を殴られた。 984 息が詰まる。吐きそうな気持ちだが、吐くものは何も無かったらし い。 全身の力が抜ける。髪を掴まれて顔を上げられた。 ﹁へらへらと笑いやがって、薄気味悪い餓鬼だ﹂ 日頃、その薄気味悪い餓鬼が稼いだ金の上がりで飯を食っている 男がそんなことを言うので、玉菊は可笑しくて顔を歪めた。 そして震える口を動かして、唾を男の顔に吐き捨てた。 怒りで真っ赤になり、男が再び拳を固める。 ︵この寒いのによくも熱くなれるでござんすなあ⋮⋮︶ などと、ぼんやり玉菊は場違いな事を考えて、恐らくは致命とな る一撃を待ち受けた。 だが、それは届かなかった。 ごつごつした男の拳を、玉菊よりは少し大きい子供の手が受け止 めている。 顔を打つ雨が止まっていた。玉菊の頭上を傘が覆っている。 半分しか開かない目で、いつの間にか隣に立っていた相手を見た。 傘を差した九郎が、酷く不機嫌な顔でそこに居る。 ﹁な、んだこの糞餓鬼!﹂ ﹁まずは顔面か﹂ 肝が鷲掴みにされたような怖ろしい声で呟き、左拳が男の顔に打 ち込まれた。 手加減は無かった。男の鼻骨と涙骨を砕き前頭骨に罅を入れて振 りぬき、地面に叩きつけた。 985 ﹁ごっ!? がぁ⋮⋮!﹂ 玉菊はぺたりとその場に座り込んだので、彼の肩に傘の柄を置き、 九郎は倒れている男に近寄る。 ﹁腹だ﹂ 顔面を抱えて蹲っている男の脇腹を蹴り飛ばした。 べきべきと肋骨が砕ける音がして、男は叫び声すら上げられない。 九郎は、恐い顔のまま男の側にしゃがみ、頭を掴んで無理やり起 こした。九郎の握力で、罅の入った頭骨がみしみしと軋む。 背筋が凍るほどの痛みに襲われながらも、油さしは虚勢を張って 云う。 ﹁お、お前、こんなこと、して⋮⋮吉原の、法を⋮⋮﹂ ﹁吉原? ああ、お主の勤め先か。安心しろ、お主が喋らなければ 何も問題はない﹂ ﹁喋⋮⋮﹂ ﹁此の場で殺されて口を聞けぬようにされるか、勤め先に二度と戻 らず今すぐ江戸を去るか選べ。今後己れや玉菊に僅かでも関わって みろ。何処に隠れていようが探して殺す。必ず殺す﹂ ﹁ひっ⋮⋮﹂ ﹁わかったか。応えねば殺す﹂ 油さしの男は、目の前の小僧が恐ろしくて堪らなかった。刃物を 突きつけられているわけでもないが、こいつが力を込めたら頭蓋骨 など容易く砕き、 ︵殺される︶ 986 という思いだけが感情を支配する。 遊郭の見張りとして、女郎を甚振り給料を貰うという楽な仕事だ ったが、命には変えられない。吉原に住まう腹の底から腐っている 化け物連中よりも、単純な暴力で自分などいつでも好きに殺せると いう九郎を敵に回すほうが、どれだけ危険か。 男は潰れた顔面から悲鳴混じりの声を上げて九郎の提案を受けた。 興味を失ったように胸ぐらを掴んで放り投げられ、 ﹁失せろ﹂ と、言われたので顔と脇腹を抑えながら必死に逃げていった。 もはや吉原に戻ることは二度と無いだろう。目の前に迫った、死 の恐怖の前では未練は少しばかりも無かった。 九郎は地面に座り込んだまま、俯いている玉菊にしゃがみこんで 話しかける。 ﹁お主もこんな雨の日に出歩くものではない﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁大掃除から逃げてぶらぶらしてる己れが云うことではないがな。 そろそろ終わっている頃合いであろう。顔の治療もしてやるから、 連れて行くぞ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 反応を示さずに俯いたままの玉菊に九郎は頭をぼりぼりと掻いた。 ﹁髪もぐしゃぐしゃではないか﹂ そう云うと、びくりと玉菊の方が震える。 九郎は懐から、簪を取り出して玉菊が向く顔の下へ差し出した。 987 それは玉菊が失くしていた簪である。 彼の目が見開かれた。 ﹁浅草の市で流れておったから、買い戻しておいた。お主が手放す とは思えんから、まあ何かあったのだろうと思ってな﹂ ﹁ぬ、し⋮⋮様⋮⋮﹂ ﹁ほれ、大事に持っておれ。背中に担いでやるから、むじな亭まで 帰るぞ﹂ 簪を手にとって、口を半開きにして呆けたようにしている玉菊を ひょいと背負って、九郎は足を店に向けた。 やがて、背中から、 ﹁ぐすん、ぐずぅ⋮⋮﹂ と、玉菊の鼻を啜る声が聞こえ出した。 九郎の背中に顔を押し付けて、玉菊はただ泣いていた。 ***** 緑のむじな亭にはちょうど狐面の薬師、安倍将翁が訪れていた。 都合の良い時に現れるのは占いによるものであると、いつか話し ていたのを九郎は覚えている。 とりあえず濡れた玉菊の服を脱がして、炎熱符による暖房で温め てから将翁の治療が始まった。油さしの男に殴られた顔や脇腹だけ ならず、明るい場所で見れば玉菊の体は傷だらけで、酷く細かった。 988 暖かな粥に卵を混ぜたものをお房が作って食べさせる。 将翁も、 ﹁こりゃ酷い。あたしもね、吉原には医者として出入りすることが あるんですが⋮⋮これじゃあ客も逃げちまう﹂ ﹁相手をする時は体中に白粉を塗ってたでありんすから⋮⋮﹂ ﹁やれやれ⋮⋮寿命を縮めるようなものだ﹂ と、呆れながら傷へ処置をしていく。 一番酷いのは殴られた時に衝撃で片目が殆ど見えなくなっている ことだ。一時的ならば良いが、そこまでは手の施しようがない。 すっかりいつも通りの、軽い笑い顔を浮かべている玉菊はお房か ら木匙で差し出される粥を、 ﹁あつつ﹂ などと言って口に入れていた。 感情とは別に、その暖かい飯を味わう度に涙が溢れるのを慌てて 拭って隠したが、痛ましく見えるだけであった。 九郎はいろいろ言ってやりたい事があったが、怪我人に説教をす るのも気が引けるため口をつぐんだ。 ﹁でもま、逃げてきたんなら良かったんじゃないの。碌な店じゃな かったんでしょ﹂ お房がぶっきらぼうにそう告げて、より吹いて覚ました粥をまた 玉菊の口に運ぶ。 玉菊ははにかんだように笑いながら、 ﹁いやあ、これでも男だから大丈夫でござんすよーぅ﹂ 989 と、嘯くので九郎がしかめっ面をしたまま軽く玉菊の頭に拳骨を 落とした。 ﹁馬鹿を云うでない﹂ ﹁いや、本当に結構平気で⋮⋮﹂ ﹁本当に馬鹿者め。何故相談せなんだ。男とか女とか、そういう前 にお主は子供だろう。辛かったら早く逃げろ。苦しかったら助けて と云え。己れが頼りにならんか﹂ 玉菊の目を見据えて云う。 ﹁そんなことは⋮⋮﹂ ﹁己れで無くとも、剣術家の晃之助でも同心の利悟でも絵描きの石 燕でも、お主が頼ればどうにかこうにか手を貸した筈だ﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ 殆ど涙声になっている玉菊が弁明のように言葉に出した。 ﹁皆様、優しい、良い御人達でござんすから⋮⋮わっちの事で、迷 惑をかけちゃあいけないと思って⋮⋮﹂ ﹁子供は大人に迷惑を掛けて大きくなるのだ。子供を助けるのが大 人の役目だ。子供のお主が、誰彼に気を使うな。よいな﹂ ﹁⋮⋮﹂ 将翁が膏の跡に包帯を巻き付けて治療を終えて、 ﹁あたしも医者としての忠告から言えば、もうその仕事は止めろと 云う以外御座いませんぜ﹂ 990 薬の臭いが染み付いている、細い指で玉菊の目元を拭った。 ﹁泣くことも笑うことも演技のまま生きていたら、そのうち仮面を 被った妖怪に為っちまう﹂ ﹁わっちは、笑えてない⋮⋮?﹂ ﹁お前は妖怪に為ってはいけない。笑って、泣いて、また良いこと があると信じて笑いなさい﹂ 将翁は立ち上がって、薬箪笥を背負い上げた。 ﹁半月程ゆっくりしてれば良くなる。それじゃあ、あたしはこれで﹂ ﹁おう、世話になったのう﹂ ﹁袖すり合うもなんとやら、ですよ﹂ そう言って、高下駄を履き店から出て行った。 お房が外まで見送りに行ったのを見つつ、九郎は玉菊の肩に手を 置いて穏やかな声をかける。 ﹁とにかく、お主はうちで引き取る。髪を切って名前を変えて、別 人と言い張ればいい。身寄りは無いのであろう。適当に己れの息子 か弟⋮⋮うう、それはちょっと⋮⋮知人という事にしておこう﹂ ﹁本音がちらりと聞こえて関係を格下げされた!?﹂ ﹁体が治ったら店の手伝いでもしてくれれば、それで良い。ああ、 出来れば衆道も止めろ。理由は特にないが⋮⋮あーえーとこれまで の自分を卒業する的な意味で﹂ ﹁理由は特にないって最初に言っちゃってるのに後付でそれっぽい ことを!?﹂ ﹁迷惑だから止めろ﹂ ﹁大人に迷惑かけろって言ったのに!﹂ 991 とうとうきっぱりと言い切る九郎にショックを受けて頭を抱える 玉菊。 そんな彼の頭を軽く撫でて、 ﹁はっはっは。いつもの調子が戻ってきたではないか﹂ ﹁ううう、主様が虐める⋮⋮﹂ ﹁主様というのも無しだ。生まれ変わった心持ちで過ごせ。子供は 元気が一番だ﹂ 九郎が満足そうに頷くので、玉菊も笑った。 ***** 深夜││。 緑のむじな亭の二階で、玉菊は若干埃っぽい布団を用意されてそ こに寝かされていた。 目を閉じていても意識ははっきりとしていて、にこにこと顔が笑 みの形になっているのを自覚する。 体は暖かく、気持ちも充足していた。 こんなに幸せな気持ちになったのは生まれてはじめてかもしれな い。 ︵本当に、皆良い人ばっかりだなあ⋮⋮︶ 怪我を治してくれた安倍将翁。 心配気な顔で飯を与えてくれるお房。 992 無言で茶を勧めてくる六科。 そして九郎。 紫太夫と皆。 ︵もう、大丈夫だ︶ 遠い回り道だったが、もう後悔はない。 一生分の暖かいものは全て貰った。 自分の決意は多くの人の想いを台無しにするかもしれないが、そ れもまた子供がかける迷惑だと思って、笑って忘れて欲しい。 ︵⋮⋮何も怖くは無い。行こう。やろう︶ 痛み熱を持つ体を動かす。 闇に目は慣れている。暗いところで作業をするのもお手の物だ。 部屋に、お房の絵かき道具の予備である墨と紙が置かれているの は確認済みであった。 玉菊は書き置きをして、音も立てずにむじな亭を後にする。 やらねばならない事が残っている。自分にしか出来ないことだ。 きっと知れば九郎も紫太夫も怒るだろうが、それでも。 それをしたところで何が解決するかはわからない。だが、現状は 変わる。暗澹たる未来を不確定に濁す事ができる。その為に人生と いう武器を振るう、覚悟が出来た。 簪をぎゅっと握りしめる。 建物から離れて、夜闇に微かに浮かぶ九郎の部屋の窓を一度振り 返り、礼をした。 ﹁ありがとう御座いました││それでは、おさらばで御座います﹂ 小さく、呟きその足を吉原へ向けた。晴れ晴れとした笑顔だった。 993 **** 九郎が翌朝に目覚めて、気配の無さから隣の部屋に踏み込むと厚 みが無くなった布団を発見した。 枕元に丁寧な字で書き置きが残っている。 ﹃一日だけ、吉原に戻って皆に別れを告げてまた抜け出してきます。 必ず帰ります。だからどうかご心配無きように﹄ くしゃくしゃに紙を丸めて適当に放り投げ、九郎は階下に降りた。 お房が朝飯の膳を並べながら、 ﹁あら、九郎。玉菊は?﹂ ﹁居らぬ。抜けだして吉原に行ったらしい﹂ ﹁じゃあ連れ戻してきて﹂ 即答で指示を出すお房。 彼女としても、玉菊は馬鹿な友人と云った認識であり、彼が理不 尽な目に合っている事態は好まざるものだ。 それに住み込みで働き手として店に雇われるなら、家族のような もので少しばかり楽しみにしていたのである。 九郎も眉間に皺を寄せて、 ﹁そうしたいのは山々だが、古巣の同僚と別れの挨拶をしたい書き 置きがあった。すぐに戻るとも﹂ 994 ﹁それを信じて待つの?﹂ ﹁いや、忍び込んで様子を見てくる。だがもし玉菊が殴られでもさ れてたら、その相手を半殺しにして玉菊を攫ってくるぞ﹂ ﹁当たり前なの。本音を言うと、あんなことをする奴なんてぶっ殺 してやりたいぐらいなの﹂ きっぱりとお房もそう告げたので、九郎は﹁同感だ﹂と云った。 炊きたての白米に削り節をまぶし、それに味噌汁をぶっかけた猫 まんまを九郎は手早く二杯食べて、刀を腰に差して吉原へ向かう。 大川沿いに上がっていき、日本堤を曲がって吉原の大門近くに来 た時、騒ぎが聞こえた。 ﹁火事だ! 吉原の中が燃えてるぞ!﹂ 駆け出した。 大勢が集まりすし詰めとなっている大門を飛び越えて無理やり中 に入り込み、人並みを縫い分けて奥に向かうと遊郭の一つが油を巻 いたように燃え盛っていた。 既に駆けつけた火消し衆が、両隣の建物を鳶口と呼ばれる道具で 破壊活動を行っている。放水車などが無い江戸での消火活動とは延 焼を防ぐ事に専心して行われるのだ。 燃える建物を茫然と見上げている女郎達が、近くにやってきた九 郎の顔に気づいた。 紫太夫が九郎の手を掴んで、 ﹁お前さん、玉菊太夫の良い人じゃろう!?﹂ ﹁玉菊は何処だ﹂ ﹁あの子、明け方に戻ってきて、火をつけるって妾らを全員追い出 して⋮⋮あの子だけ出てきてないんじゃ!﹂ ﹁なに? まだあの火の中に居るのか!?﹂ 995 ﹁心中するつもりだよう、あの亡八と!﹂ 紫太夫が叫んだ。 心中死というものは此の時代では、特に将軍・徳川吉宗が酷く嫌 った為に非常に罰則が重く、まともに弔ってすら貰えない死に様で ある。 それで更に火付けまでしたとなると、故人のあらゆる財産は罰と して没収となる。だが、これが楼主だった場合はもうひとつ││雇 っている女郎達の借金も消え去るという事があるのである。 吉原は火事が二十回以上起こったとされるが、そうやって事後の どさくさで身柄が有耶無耶となった女郎も多く居たという。 玉菊はそのためにここに戻ってきて、命を使い道連れに死のうと しているのである。 九郎は術符フォルダから[氷結符]を取り出して発動。自分の体 表周囲の空気温度を氷点下にする。 いかに火の舌が体を舐めようとも、温度が常にマイナスならば体 を焼かない。 刀を抜いて燃え盛る遊郭の壁を切り砕き突入した。周囲から何か 呼びかける声があったが、無視した。 建物の中は視界が赤く、煙で悪い。 呼吸を止めて勘に従い真っ直ぐに進む。 ﹁おのれえ! 離せ! 離せ!﹂ ﹁嫌だ!﹂ 音の響きに、足を止めて壁を切り分けて踏み入る。空気の流れが 起こり、九郎の体を火が襲うが直前で極度の冷温に晒されて消失す る。 部屋では、布団の上で必死に男に組み付く玉菊が居た。 996 暴れる男に力を振り絞って抑えているが、歯が折れたのか口から 血を流し、片目は潰れたように殴られたて瞑られ、男を捕まえる手 の爪は無理やり力を込めた為に何枚か剥がれている。 腹が立った。 それは玉菊を傷めつけた男に対してか、結局一人で突っ走って死 のうとした玉菊に対してか、自分にか。 感情の昂ぶりは刀身から生まれる光と共に放たれる。 ﹁アカシック村雨キャリバーンⅢ││発動﹂ 刀身が僅かにスライドして展開され、機械的な分離面を出し光が 溢れた。 刃の光を目にしたものを[凄い]と思わせる魔法の付与された名 刀の、内部魔力を使用した高位発動である。 [凄い概念]が付与された刀の発動効果は、凄い光の放出と相手 の凄さを概念で塗りつぶして無力化させる衝撃波の射出である。 光と無形の凄い爆圧は的確に揉み合う二人を吹き飛ばし、遊郭の 壁の一部を崩壊させた。建物の外からでも真昼だというのに穴あき のプラネタリウムを見るかのように閃光が膨れ上がる。 その火事現場を見ていた全員が謎の発光現象を見て、 ﹁凄い﹂ と、呟いたという。 九郎は部屋の隅に倒れ伏した男を一瞥もせずに、玉菊を抱きかか えて今だ燃え盛る建物から離脱した。 ぐったりとしている玉菊に、 ﹁今のでお主の何もかも終わりだ。よいか、確かに死んだと思え。 何もかも捨てて、生まれ変わったと思え。次に馬鹿をやったら許さ 997 ぬ﹂ 九郎は怒り混じりの言葉を命じて、玉菊は彼に運ばれながら確か に頷いた。 観衆は光の凄さに目を奪われていた為に、誰にも見咎められるこ とは無かった。そしてまた、凄さのあまりに九郎が火事現場に飛び 込んだということさえ、些細に思えて誰も覚えては居なかったので ある。 そうして。 幸い、火災は凄い爆発の効果かそれ以上燃え広がることは無く、 奇跡的に一軒が燃え尽きただけであった。 現場検証に於いては極めて杜撰な調査の元に証言から、花魁の玉 菊太夫と楼主・重郎左衛門の心中であったことが断定された。死体 は見つかったのだが、検証もされずに浄閑寺で処理されることとな った。 これは吉原とはいえ、当事者が遊女や楼主と云った幕府側からす れば忌まわしいような相手であり、また心中となれば、 ﹁畜生の死に方同然﹂ と、吉宗が町奉行の大岡忠相に語っていたこともあり、詳しく調 べるに能わずとなったのだという。 特に現場を見ていた者達の話では、 ﹁よくわからないけど凄かった﹂ などと、意味不明な証言ばかり出た為にさっさと打ち切りにした 事情もある。 998 奉行の対応はそこで終いであったが、若くして亡くなった玉菊太 ついたち 夫を惜しみ、弔う人は多かったという。 翌年の七月朔日からは、慰霊の為に明かりを灯して追善の祭りが 行われるようになった。 それが、[玉菊燈籠]と呼ばれる、吉原三景の一つである⋮⋮。 ***** ﹁いらっしゃいませ!﹂ きびきびと働く少年の姿が蕎麦屋[緑のむじな亭]では最近見ら れている。 髪の毛を九郎のようなざんばら切りにした、そばかすが顔にある 明るい少年である。長屋の者などは髪型で適当に判断したのか、九 郎の弟だという認識をしていた。 ﹁はい、お茶で御座います﹂ ﹁タマ。味噌煮込み蕎麦、上がったから運んで頂戴﹂ ﹁わっかりましたー!﹂ 同じく接客をしている、年下のお房の指示にも楽しげに従って丁 寧な手つきで品を運ぶ。 ﹁おう、坊主。威勢がいいな﹂ ﹁それだけが取り柄なんですよーぅ!﹂ 999 ﹁よしよし、小遣いをくれてやる。頑張れよ﹂ などと小銭を渡されたりもしている。 座敷に向かい合って酒を飲みながら九郎と石燕はそれを見ながら、 ﹁なかなかに馴染んでいるではないか。いい拾い物をしたね、九郎 君﹂ ﹁そうだのう﹂ ﹁ただ名前が良くないと思うのだよ。タマって。猫かね?﹂ ﹁いろいろ考えたのだがな。玉之助とか菊次郎とか。だがなんだろ うな。隠語に聞こえてならないから没になった﹂ ﹁どうせなら私が格好いい名前を考えてあげようかね? そうだね ⋮⋮例えば、東洲斎││﹂ ﹁タマで充分なの﹂ 乱暴に、二人の卓に追加の銚子をお房が置いた。 にやにやとしながら石燕が、 ﹁おや? 看板娘の役割を取られそうで不機嫌かね?﹂ ﹁別に看板でも評判でも、売上が上がるなら犬にでもくれてやるの。 それより⋮⋮﹂ ﹁はい、お二人様! 畳鰯のまよ焼きお待ちどう様です!﹂ にこやかに、マヨネーズを薄く塗って火で炙った畳鰯を持ってき たタマは差し出しながら左手でお房の尻を撫でた。 下から打ち上げる軌道で振られたアダマンハリセンがタマの顎を 殴り飛ばす。 ﹁こいつが! 息を吸う様に容易くお尻とか触ってくるのが腹立つ の! 犯罪だわ! 番所を呼ぶの!﹂ 1000 ﹁それは誤解だお房さん!﹂ ぶっ飛ばされたというのに応えておらず、即座にタマは反論をし た。 無駄に早足で再接近して来ながら、 ﹁そもそも自分が女体を好むということは自然摂理に適った行動で、 衆道のように男に迫る特殊性癖ではなく通常性癖だから非難される 謂れは無いんだ! ですよね兄さん!﹂ ﹁誰が兄さんだ⋮⋮だがまあ、男に手を出すよりはいいのではない か? 主に己れに取って都合が﹂ ﹁ほら論破ぁ! 自分の行為は正当化されたところで一気に本丸を 狙い打つ! おお拝なり! おお拝なり!﹂ 何かの天啓を受けたように叫びだしたタマは、機敏な動きで座っ ている石燕の乳へわきわきとさせた手を伸ばしたが、今度は上から 打ち下ろすアダマンハリセンで地面に沈まされた。 ﹁さっさと仕事に戻るの! 無ければ店先でも掃除してきなさい!﹂ と、お房に引き摺られて連れて行かれるのであった。 あれで怒ってはいるのだが、別段嫌っているわけではない。出来 の悪い兄を叱っているような微笑ましさがあった。 人の悪そうな顔をして石燕は笑いを忍ばせて、 ﹁ふふふ、随分と賑やかになったではないかね。重畳重畳﹂ ﹁ま、これで己れが手伝うことも減って丁度良かろう﹂ ﹁そうだね。房も時間ができるだろうから絵の修業をもっとつけら れる。ギルデンスターンは死んだ。それで一件落着さ﹂ ﹁誰だよギルデンスターン﹂ 1001 疑問を口にしながらも特に意味のない繰り言なのだろうと思い、 詮索は諦めて酒を口にする。 石燕が頬杖をついて、目を細めながらタマへ視線を送り、何事か 呟いた。 ﹁死すべき運命の者が、居るべきでない者に救われる。ふふふ、一 度狂った歯車は作られた脚本を台無しにするだろう。計画の修正が 必要だ⋮⋮﹂ ﹁また石燕が無意味に黒幕っぽい事を呟いて悦に浸っておる﹂ ﹁⋮⋮だってなんか出番が無いんだもの﹂ 拗ねたように口を尖らせる石燕に、九郎は慰めるように酒を酌し てやるのであった。 一方、店の外では鼻歌を歌いながらタマは箒で掃いていた。 お房に怒鳴られるのも、客に褒められるのも、九郎や六科と料理 の勉強をするのも、何もかも新鮮で楽しい日常が訪れた。 これからは自分の為に生きて、いつかは誰かに頼られる良い大人 になることが目標だ。知り合いに居る、沢山の良い大人のように。 背も伸ばし、体も鍛え、笑って面白おかしく生きていこうと決め た。 ﹁だから、玉菊││おさらばで御座います﹂ 懐に入れている簪を意識しながら死んだ誰かにそう告げて、彼は 未来を手に入れた。 深い空から雪が、ちらつき始める⋮⋮。 1002 1003 36話﹃貧乏難儀は時の回り ﹄ 旧暦十二月二十四日。 この日は江戸に於いてある集団の祝いの日となっている。 隠れキリシタンではないが、隠れている存在だということは確か だった。 その集団は毎年、不忍池の近くに集まって密会のような事をする のである。 池の上に掛けられた橋には小さな料亭となっており、年の瀬とも なれば毎日宴会をして夜中でも明かりが灯っているのであったが、 その明かりを遠目で見ながら、池の外にある無人の掘っ立て小屋に 男たちが集まっている。 小さな囲炉裏をかこみ、落胆というか過度の希望を失っていると いうか、そんなうなだれた様子の彼らには一つ共通した特徴があっ た。 藍色か柿色の覆面で顔を隠し、出ている目元も黒いあて布か墨を 塗って人相が判らなくしているのである。 其の姿はさながら││忍者。 そう、この日は江戸に住み、様々な職に別れて普段は会うことの ない忍びの会合だったのだ。 ﹁今年も温泉行けなかったね⋮⋮﹂ ﹁来年はどこか行きたいよなあ⋮⋮﹂ などと沈んだ様子で語り合い、年の初めに作った忍びの保存食を もそもそと口に入れ、水などを飲んでいる。 保存食は年単位で保管できるのだが、品質と味の劣化を考えれば 1004 年内に食べたほうがいい。どうせ年が明けたらまた作る事になるの だから⋮⋮と後ろ向きな理由で消費し、愚痴を言い合う暗い会なの であった。 伊賀衆が江戸で開いた店として有名だった金物問屋[藤や]の店 主の日記にも、こう残っている。 ﹃︵前略︶大晦日、其の七日ほど前になれば、やうやうに散じた江 戸の衆も集まり、年の事を語らふ⋮⋮﹄ と、ある。 忍びのものとはいえ、太平の世では活躍の場など殆ど無い。多く は農民に戻ったり、また町人や職人に身を転じたりしていたものの、 その繋がりは保っていたものであるらしかった。 それにしても、と覆面その一が塩と脂の塊みたいな丸薬状のもの を口に放り込んでため息をついた。 ﹁去年までは穴屋で飲み食いしてたから、もう少し良かったんだけ どなあ﹂ ﹁俺、今年も店あると思って何も準備してなかったよ﹂ ﹁おれも﹂ ﹁旨いつまみと酒を用意してくれてたのに﹂ 同調して周囲の覆面も気落ちした声を出した。 ほんの数ヶ月前まではここにあった、小料理屋[穴屋]の店主父 子は彼らと同じく、 ﹁忍びの者﹂ で、あったのだ。 出こそ上田の忍びであったが、特に雇用上の対立をしていない限 1005 りは派閥同士の仲は悪くない。 実際にこの会合では、顔こそお互いに見せない様にしてあるもの の、伊賀の者もいれば甲賀や柳生の忍びも参加している。元々は他 所の大名に使えたものの忍びの仕事を失い江戸に出てきた一族もい るのだ。 旅行にすら行けないし昼間はだいたいうだつが上がらない、日常 に変化が乏しい彼らは語ることも無い為にうわさ話に花開かせる。 ﹁あれって倅が火盗改に捕まりかけたから親父が身代わりの術を使 ったんだろ?﹂ ﹁小助の坊主はなあ⋮⋮腕は良かったんだけど妙なところで運が悪 い﹂ ﹁確か鎖鎌盗賊を殺しに行ったら偶々火盗改に出くわしたって聞い たぞ﹂ ﹁その盗賊の方も上田系の奴じゃないかって話だけどさ⋮⋮﹂ などと各々、見聞きした話を言い合っていると、小屋の入り口か らぬっと覆面をした大男が入ってきた。 ﹁﹃知ってる? 恋する女の子は皆忍法使いなの。君の心の臓に手 裏剣三枚﹄﹂ ﹁あっ! この[おにゃん恋物語]の敵側主要人物、犬耳忍び巫女・ おぬいの名文句を諳んじるのは││旦那!﹂ 遅れて入ってきた彼は、覆面こそ被ってはいるものの、その筋骨 隆々な体格と重くて響く低い声でこの会合でもだいたい全員が知っ てる、顔役のような忍びであった。 皆、彼の表の顔は知っているのだが会合では名前を呼び合わない のが規則であるために[旦那]だとか呼ばれている。 1006 ﹁よぉーうお前ら、年も暮れようって此の頃に、無駄に元気を有り 余らせてるか? ところで俺が遅れた理由だがな、嫁に容れ物ごと春画を捨てられ たもんで新しいのを買いに行ってたら、前髪で目隠れ本好き女の子 が顔を真赤にしながらきょろきょろと辺りを伺いつつ春画専門店に ⋮⋮ま、そんなこたぁどうでもいいか﹂ ﹁凄く気になります! 途中で止めないでくださいよ!﹂ ﹁とにかく酒だ酒。どうせ忘れてただろうから穴山の代わりに用意 してやったぞ﹂ 彼は大きな柄樽を囲炉裏近くに置く。中にはたっぷりと酒が入っ ている。 忍びの一人が気楽そうに両手を上げて歓迎する。 ﹁さすが旦那! 地主だけはありますね!﹂ ﹁御肩をお揉みしましょうか其処の徳の高い御方!﹂ ﹁ったく、思った通り穴山が居なくなったもんで、湿気た会合にな ってやがったな﹂ どっかと座り込んで早速一番酒を注がれ、駆けつけ一杯とばかり に飲んだ。ちなみに、全員口元まで覆い布をしたまま飲食を行って いる。忍法が使われているのだろう。 ︵そういえば⋮⋮︶ と、忍びの集団はこの大柄の忍びも上田の忍者で、居なくなった 穴山小助と同郷であった事を思い出し、話題を選ぶ様にした。 小助と彼は実際に活躍した世代を跨いで今でも優れた忍術使いで あり、祖先は同じ相手に仕えていたという。 1007 ﹁そうそう僕ら今、非日常的に現れるお姫様と幼馴染のどっちを選 ぶのが正しいか議論してたんですよ﹂ ﹁矢っ張り幼馴染だって。突然現れたお姫様はいつか月に帰っちゃ うから﹂ ﹁[月があんなに美しいのは││君がそこに居るからなんだね]﹂ ﹁あっ! こいつもう決め台詞まで考えてやがる!﹂ ﹁しかもちょっと恥ずかしいぞ!﹂ わいわいと忍びの連中は雑談を再会する。年内にあった出来事や 将来設計などを語らせるとどんよりと暗くなるが、妄想ならば百晩 あっても語り尽くせぬ││そういう男達だ。 大柄の忍びが言葉を差し入れる。 ﹁お前らお姫様が無条件で好いてくれる事を前提にしてるけどよう、 お姫様を養えるだけの金とか甲斐性があんの?﹂ ﹁あー! 言っちゃならん事を!﹂ ﹁そういう残酷な発言をする前にはちゃんと﹃御免ね、ちょっと悪 いこと云うけどいい?﹄って前置きしてくださいよ!﹂ ﹁妄想なんだから現実の事は関係無いでしょう!﹂ 冷水を浴びせて一斉に非難される大忍。 ここに集う忍び達はお互いの職は把握していないが、売れない豆 腐屋だったり、仕事が来ない鳶職だったり、世渡り下手な同心だっ たりと貧乏人が多いのであった。 ﹁だいたい竹取の物語だって、翁は金持ちじゃなかったわけで。お 姫様が黄金とか持ってきてくれれば⋮⋮﹂ ﹁女の財力を充てにするってヒモの発想じゃん⋮⋮﹂ ﹁世知辛い話は無しにしようぜ。だいたい、俺は暮らしが厳しくて も彼女を幸せにしてやると決めたんだ﹂ 1008 ﹁格好いいな⋮⋮お前﹂ ﹁既に子供の名前も男女決めてある﹂ ﹁そこまで行くと気持ち悪いなお前⋮⋮﹂ などと、話し合っていると入り口の戸が外から伺うように叩かれ た。 忍びらはぴたりと会話を止めて警戒の色を見せる。 やおら、声が聞こえた。 ﹁ええと、﹃ふわあ、犬耳はご主人以外触っちゃ駄目なのですぅ。 毒が塗ってあるから﹄﹂ それはこの会に参加するにあたっての合言葉││彼らがよく読む 趣味本から抜粋した科白集だが││であるのだが、忍びらはきょろ きょろと見回して人数を確認した。 ﹁あれ? 誰か揃って無かったっけ?﹂ ﹁あぁ、あれだ。俺が行き掛けに出前を頼んでたんだった。合言葉 も教えて﹂ ﹁旦那⋮⋮んもう、一応秘密の会合なんですからね﹂ ﹁悪ぃ悪ぃ﹂ 言いながら大忍は戸を開けると、外には寒そうに肩を竦めて、半 纏の袖で土鍋を掴んでいる九郎が居た。 店じまい間際に、忍び格好の大男が宴会で食べれるぐらいの量の つまみになるものを注文したので、その日の残った材料を下ごしら えし、おでん汁で旨い具合に煮込んで作ったのである。 注文から出来上がるまで少しばかり掛かると告げると、運び賃も ついでに渡されたので九郎がここまで持ってきたのであった。 九郎から見た室内は覆面黒尽くめの忍者軍団で奉行所か火盗改が 1009 すっ飛んできそうな連中が集っていたのだが、 ︵まあ、江戸だからなあ⋮⋮︶ と、何度か市中で忍者風の者を見かけたこともある九郎は華麗に ツッコミ回避した。 常識的に考えて不忍池に忍者が居るはずはない。字を見れば確定 的に明らかだ。当然ながら当然の事実を噛みしめる。 建物に入って一同が座っている座敷に鍋を置き、蓋を開けるとも きつ うもうと湯気が立ち昇り様々な出汁の旨味が解け出した匂いで、食 欲をそそる。 雪が降り出さんばかりに寒さが強い夜に出前して来たというのに、 今まさに竈から上げたように熱々に煮えている。これは、九郎が出 前するのに寒かった為運びつつも炎熱符で保温をしていたからだ。 ﹁煮込みおでんだ、お待ちどう﹂ ﹁わあ初めて食べるよこれ。暖かいし凄く良い匂い⋮⋮﹂ ﹁何が入ってるん? おっ、竹輪に牛蒡が⋮⋮ええなあ﹂ ﹁お薦めはさつま揚げかのう。薩摩の店から買った本場ものだが⋮ ⋮﹂ 今日の昼間、[鹿屋]の近くでマスコットキャラがさつま揚げの 販売も行っていたのでつい大量に買ってしまったものであった。 ただ、熱した油にさつまもんが指を突っ込んで、 ﹁うむッ! よか揚げ頃じゃッ!!﹂ などと云うパフォーマンスで油の温度を測っているのを見て、自 分で食う気が失せたので客に出すおでんに入れることにしたのであ った。 1010 揚げ油の温度を直接触れて調べるのは薩摩では一般的な方法であ る。もし、熱いなどと弱音を吐いたらその場で死罪。ぬるいなどと 口答えをしたら死罪。親、兄弟も腹を斬らねばならない。冷静にそ う解説する黒右衛門がいつの間にか背後に立っていて、九郎はダッ シュで逃げたのだったが。 とにかく、新たに現れた暖かなつまみに場は湧いて、各々古茶碗 におでんを分け始めた。 ﹁うーん、下戸の俺には蕎麦が入ってるのが嬉しいなあ﹂ ﹁ちょっと男子、自分の分だけ沢山取らないでよー﹂ ﹁あっ、僕保存食用に唐辛子持ってきてる﹂ ﹁いいなあ、分けてくれよ﹂ などと和気あいあいにおでんに向かって居るのを満足気に見て、 ﹁それでは己れはこれで。鍋は返してくれよ﹂ ﹁おうわかった。後で届ける﹂ と、言付けして出て行くのであった。 彼が店に戻っていったのを確認して、おでんを食いつつ話題が移 る。 ﹁今のってあれでしょ。有名なヒモの⋮⋮﹂ ﹁え? 有名なのか? 奉行所だかで見かけたことあるけど﹂ ﹁ヒモだと料理も上手くなるんだろうか⋮⋮あ、大根美味しい﹂ 妙なところで知られている九郎だったが、大忍は蒟蒻を齧りつつ 云う。 1011 ﹁料理と言えばよう、この前俺の娘が朝から一所懸命に台所で弁当 を作ってたんだ。こりゃ、俺へ食わせる手料理だと思って楽しみに 待ってたんだが三日絶食しても弁当が出てこねえ。 嫁に尋ねたら近所に住む青瓢箪みてえな小僧に食わせる弁当だっ たんだとよ! 俺の娘とお近づきになるとか一日何刻助平な事を考 えてりゃそんな邪悪な発想に到れるんだ!?﹂ ﹁旦那の娘さん、まったく父親に似てなくてえらい可愛い上にいい 子ですもんね。そりゃ男の子も放って置かないでしょ﹂ ﹁馬鹿、残酷な真実に気づいたら可哀想だろ。似てないとか云うな よ﹂ ﹁おれもあと十年若ければ娘ちゃんと幼馴染になりに行くのになあ﹂ 熱くなって叫ぶ大忍に対してやや遠巻きに囲みながら言い合う。 ﹁ちなみに、その青瓢箪の小僧。俺の娘ともう一人可愛い幼馴染を 侍らせ、さも女に興味が無い鈍感難聴系男子を気取ってやがる﹂ ﹁死刑だ!﹂ ﹁不平等だ!﹂ ﹁おのれ徳川!﹂ と、まあ現実が充実してるような環境の相手には満場一致で不満 を云うのであったが。 ﹁ところで旦那。春画屋の前で見かけた女の子の話の続きをしてく ださいよ!﹂ ﹁ああ、そうだったな。そう、春画屋の前で入るか入らないか躊躇 していたのは男装をした若い女武芸者。顔を屈辱に歪めつつ赤らめ てもごもごと﹃くっなんで拙者がこのような⋮⋮﹄などと呟いてい る﹂ ﹁あれ!? 設定変わってません!?﹂ 1012 ﹁ちょっと待て。おれはこっちの状況の方が好みだ!﹂ などと、下らぬ話で場は盛り上がっていくのであった⋮⋮。 やがて、会合も終わりが近づき、談論の内容を纏めて締めとなる。 代表として大忍がやや酒で灼けているがよく通る声で、 ﹁あー、それじゃあ結論として、俺の近所の青瓢箪には褌に唐辛子 をこっそり塗っておくことと、お姫様を嫁にした場合は衣と住はと もかくうまい飯はちゃんと食わせる程度に金を稼ぐこと﹂ ﹁いやあ、とても良い会議でしたね﹂ ﹁俺ももう一寸さ、獣耳の嫁が出来ないか真剣に考えてみることに するよ﹂ などと皆納得が云ったように頷き合う。当初の暗い会合だった様 子は結局、仲間内での馬鹿な話し合いをすれば晴れる程度のもので あったようだ。 それにしても、と大忍は腕を組んで、 ﹁やっぱり穴屋が無くなっちまったのは少し寂しいなあ⋮⋮今回は 俺が払ったが飲み食いに金が掛かる。来年から会費を集めようにも こいつらじゃあなあ﹂ ﹁世知辛いですねえ﹂ ﹁金が無ければお嫁さんが出来ても良いおべべを着せてあげられな いし⋮⋮﹂ 若干暗くなりつつもため息を付く。世間話と保存食の消費が元々 の集まりの目的ではあるのだったが、普通に楽しんでいた酒やつま みが無いとやはり寂しい。 とは言え、ほぼ全員が貧乏な上に年末となるといろいろに金が掛 1013 かって、会費というのも集めづらい。大忍はそれなりの金持ちでは あるのだが、財布は嫁が握っていて、彼に支給される分の小遣いは 下らないことに浪費している為にそうそう懐に余裕があるわけでは ないのだ。 金が無い。誰もがそう思うように、忍者も悩むのであった。 忍びの一人が指を立てて、 ﹁そういえば穴屋の小助こと[飛び小僧]が溜め込んでいた盗み金 って何処に隠してるんですかね。旦那何か知らないですか?﹂ ﹁あれかあ⋮⋮わかんねえけど、小助は潜水術が得意だったよな。 案外、不忍池に沈めて隠してたり﹂ ﹁まさか﹂ ﹁それに、あれの盗んだ金となると莫大な上に足がつきそうで僕ら みたいな身分じゃそう使えないよな﹂ ﹁絵に描いた餅ってやつだ。ま、次の会までに何かいい案が浮かぶ だろう。それじゃあ、今日は解散﹂ ﹁お疲れ様です!﹂ そう云って、忍び達はその俊敏さを酒が回っていようとも十全に 発揮し四方に散った。 不忍池にあるか無いかわからぬ財宝など、探すだけ時間の無駄だ。 此の広い池に沈められたものを潜って見つけるなど実質不可能な のである。 だから誰もそれを実行する者など居ない。 寒い十二月にわざわざ池に入るなど。 ︵そう、俺以外は︶ 四方に別れた筈の貧乏忍者らは、全員が目を獣のように光らせて 居た。 1014 暫くして、夜中の不忍池に水音が次々と鳴り続いた。 ***** 翌日。 緑のむじな亭にて、昼営業を始めた時に既に石燕が来ていたので 九郎はその相手に駄弁りという接客をしていた。 話題の内容はいつも適当な物だ。世情を談義する事もあれば、妖 怪探しの計画を立てる事もある。晃之助などが加われば賽子を使い TRPGもどきが始まる事もあった。キャラシートも作っている。 此の日の話題は、まあどうでもいいことなのだが、 ﹁天爵堂の書いている話におぬいという人物が出てくるが、あれは 蛇と関係あるのかね?﹂ ﹁いや、犬耳だったと思うが﹂ ﹁ふむ。南方の島々ではヌイというと蛇の怪物を表すのだが⋮⋮い や、待ちたまえ。蛇神信仰と犬神信仰は実はそう遠くない関係でね ? 物部氏の時代に遡り、渡来人とも関わっている。 通常渡来人というと朝鮮の方から来た者を表すが、南方から伝わ った文化との相似も薩摩や琉球弧では見られる事を考えると、ヌイ という蛇神が⋮⋮﹂ などと、胡散臭げな他愛の無い会話をしていると、まだ客入りの 少ない店に少女が入ってきた。 背筋の伸びた、利発そうな顔立ちの子供である。綺麗に切りそろ えた髪の毛を腰まで伸ばしている。手には大きめの土鍋を持ってい 1015 た。 ﹁すみません。昨日、この店で鍋を借りた者です﹂ ﹁うむ。⋮⋮おや、お主は天爵堂の生徒の⋮⋮ネズ子ではないか﹂ ﹁九郎先生? ああ、それに船月堂先生も﹂ 九郎の顔を確かめて、ネズ子││根津小唄は目を瞬きさせた。船 月堂とは、天爵堂が石燕を呼ぶ際に使っている彼女の気まぐれ私塾 の名だ。 時折、天爵堂の家に九郎が寄った時に子供らが来れば、あの老人 は九郎に授業を丸投げしてくるので何度か教えた事があった。とは 言っても九郎が江戸時代の教育に詳しいわけではなく、字の書取も 上手くは無いので精々教えられるのが簡単な栄養学や大まかな日本 史などであった。 それでも子供らの反応はそこそこに良かった。先生、などと恥ず かしい呼び方をするのは小唄だけだが。 とりあえず九郎は土鍋を受け取る。 ﹁昨日の晩、鍋を頼んだのはお主の親父か? あの、体の大きい⋮ ⋮﹂ ﹁はい。なんでも寒中水泳をしたとか何とかで風邪を引いてしまい まして、私が代わりに鍋を返しに﹂ ﹁何故こんな時期に﹂ ﹁さあ⋮⋮本人は﹃河童の真似をして寒さを乗り切ろうとしたんだ がよく考えたら河童って別に寒さに強くない﹄と意味の分からない ことを﹂ 小唄も首を傾げて父親の言った言葉を繰り返す。妙な、言い訳の ような例えであったが何気なく九郎は向い合って座る妖怪博士に尋 ねた。 1016 ﹁河童って寒さにはどうなのだ? 石燕﹂ ﹁そうだね、でびるの図鑑によると﹃火弱 水極強 地強 風弱 雷極弱 氷強﹄とあるね﹂ ﹁適当に云うなあ⋮⋮っていうか悪魔か?﹂ ﹁真剣に語ってもいいが河童の話は長くなるよ?﹂ ﹁やめておこう﹂ 以前に何気なく狐妖怪に関する講義を聞いた時など、二刻︵約四 時間︶あまりも様々な解説が続いたことを思い出して、苦い顔で拒 否した。 それにしても、と小唄を見やって、 ﹁そろそろ昼飯時であろう。うちの店で食っていかぬか﹂ ﹁えっ。あ、はいそうします。外に雨次を待たせてるので、あいつ も呼んできます﹂ ﹁なんだ彼奴も来ておるのか。天爵堂の買い物か?﹂ ﹁ええ。先生はお使いに行かせる時は、食事代ぐらいはついでに持 たせてくれるのであいつも大丈夫でしょう﹂ そう云って一旦外に出ていき、幼馴染の少年・雨次を連れてきた。 あまり店に入るのに気が進まないのか、小唄に手を引っ張られて いる。昼食代に持たされた小遣いを我慢してあわよくば着服しよう と思っていたようである。 そうでなくとも、子供にしては目付きが悪いし何か面白くなさそ うな愛想の無い顔をしているのではあったが。 ﹁⋮⋮あ、九郎さん⋮⋮どうも﹂ 一応、九郎のことは多少なりとも敬っている彼は挨拶にもなって 1017 いない挨拶のように、名前を呼んだ。 ﹁相変わらず不景気な顔だのう。まあ良い。今日のお薦めは丸天蕎 麦だ。さつま揚げ⋮⋮が、乗っているものでな﹂ 僅かに視線を逸しつつ云う。例のさつま揚げであった。店の人が おまけで沢山持たせてくれたのでまだ余っていたのだ。 二人は席に座って店員のタマに注文をした。 ﹁それじゃあ私はその丸天蕎麦を。雨次は?﹂ ﹁あ⋮⋮ええと⋮⋮﹂ ﹁雨次も同じのでいいそうだ、店員さん﹂ 食い物屋での注文に慣れていなくて失語症めいて言葉を詰まらせ る雨次だったが、さらりと小唄が決定した。 タマは満面の笑顔を浮かべながら、 ﹁はぁい丸天二つですねー!﹂ と、繰り返したあとに、 ﹁ふぅ││﹂ 去り際に、僅かに雨次の首筋に息を吹きかけた。 全身の毛穴が逆立ち身震いをさせ、顔を青ざめさせる雨次。 ﹁どうした?﹂ ﹁いや、なんか凄まじく嫌な記憶が喚起されて⋮⋮﹂ ﹁気のせいだろう。それともここに来たことがあるのか?﹂ ﹁無いんだけど﹂ 1018 不安そうに、謎の悪寒に周囲を見回す。 背中を向けて厨房へ向かうタマが、 ﹁くふふ∼﹂ と、えらく人の悪いよこしまな笑みを浮かべていた。 女装はしていないので気づかれていないが、雨次にトラウマを与 えたことのあるタマの悪戯である。 厨房に入ったところで、客にちょっかいを出した罪でお房に殴り 倒された。最近見られるように為ったいつもの光景ではあった為、 九郎は気にしないことにした。 小唄が思いついたように質問をかけてきた。 ﹁そういえば九郎先生と、船月堂先生はどういうご関係ですか?﹂ ﹁うむ? そうだな⋮⋮﹂ 九郎は腕を組んで僅かに考える。 ヒモなどと一部の知り合いに呼ばれているがそれは誤解というか、 酷い風評被害である。 実際は其のような関係ではないのだが、単なる友人というわけで はないのは確かだ。合意の上、正当な取引のもとに金を貰っている という事実はある。 しかし子供である小唄や雨次に勘違いされるような関係を告げる のはいけない。 ﹁つまり⋮⋮﹂ 九郎は考える。 率直に言えば、[援助を受けている、交友関係のある相手]だ。 1019 それを縮めて、わかりやすく云うと││ ﹁エンコーしてる関係だな。││ん? いや違う﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ぶはっ﹂ 子供らは絶句して、石燕は酒を吹き出し腹を抱えて、声を出さな い様に笑っている。 其のような言葉がこの時代にあったわけではないが、なにやら如 何わしい概念だけが奇妙に伝わってしまったようだ。 九郎はつい口から出た単語が解釈される意味をようやく把握して 云う。 ﹁待て、勘違いするなよ。つまり、己れは先ず石燕から金を貰って ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮九郎先生、もうこの話題はいいから﹂ ﹁話せば話すほど酷い﹂ ﹁むう⋮⋮﹂ 重大な思い違いが発生したような気がするが、弁明を遮られては どうしようも無い。決してヒモではないと自分では信じているのだ が。 諦めたように九郎もそっぽ向いて酒を口にする。 子供二人に蕎麦が届くのと、再び暖簾をくぐって誰か入ってくる のは同時だった。 ﹁どうもー、読売を配達に来ました!﹂ 入ってきたのは、大きな布鞄を肩に下げた年の頃二十前後の明る 1020 い化粧をした女性である。花模様の手ぬぐいを頭に巻いて、公家の 女のようなおすべらかしに結った髪を流している。 この女、お花という名で瓦版の訪問販売を行っている。胸元に常 にメモ風に折りたたんだ浅草紙と木筆を入れていて記者にして出版 者とでも云うべき、当時にしては珍しい女性の聞屋であった。 あちこちの相手と契約を結び瓦版が出来上がったら配達に来る。 緑のむじな亭も、店に読み物でもあると客が喜ぶと思って九郎が契 約した。 他の売り歩きでなくこれと契約したのは、単に女記者というのが 珍しかったからだが、書かれている記事の内容は大名家へのゴシッ プや面白おかしく脚色のついた世情などそれなりに読めるものであ った為に、今では九郎も少しばかり楽しみにしていた。 ただ、際どい内容の記事を書きすぎてお上に睨まれているのだが、 彼女の生活拠点が不明である上に、尾行を受ければそれこそ忍びの ように遁走してしまうのでお縄に掛かったことは無いのだという。 お花は睫毛の長くぱっちりと開いた特徴的な目を客の小唄に向け て、 ﹁あれ、小唄ちゃんじゃないですか! ああ、もうこの読売は実家 に持っていったです!﹂ ﹁ど、どうも﹂ ﹁なんだ、ネズ子の家も頼んでおるのか。それで今日の一面は何だ﹂ 九郎はニュースの書かれた瓦版を受け取り、読む。 なにがし ﹁なになに、︻速報 不忍池に飛び小僧の隠し金か。事情通某の言 によると信憑性大︼﹂ ﹁実際に池にはもう人が集まり始めてるらしいですよ! 善は急げ ! それではあたしは次の配達に行くので、集金はまた後程!﹂ ﹁むう⋮⋮風のように走り去って行きおった﹂ 1021 大急ぎで配達に戻ったお花を見送る九郎。手元に広げた読売を、 石燕も体を寄せて見ている。 ﹁ほう、飛び小僧の財宝一万両が池の底に⋮⋮かね。面白そうな話 ではないか﹂ ﹁デマであろう⋮⋮いや、確かにあの穴屋の小助はよく潜っていた ようだが﹂ ﹁記事に踊らされてこの寒いのに潜りに行っている金の亡者を見る だけでも価値があるよ! 九郎君行ってみよう!﹂ ﹁わかったわかった﹂ 燥ぎだした石燕に九郎は仕方なさそうに応えた。 せめて自分に潜ってみてくれと言わないことを祈る。 お房が丸天蕎麦を運んできて、小唄と雨次の前に置いた。九郎は 一応出て行く前に声をかける。 ﹁それではの。ゆっくり食えよ﹂ ﹁はい。あ、ところで九郎先生﹂ ﹁なんだ?﹂ 小唄が再び訪ねてきたので聞き返す。彼女は唐辛子の容れ物を手 にしながら、 ﹁唐辛子って何処で売ってるのでしょうか。父から強力なやつを買 ってこいと頼まれたのですが﹂ ﹁ああ、うちの店で使っているのは薬研堀にあるぞ﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 答えて、九郎と石燕は不忍池に向かった。唐辛子を何に使うかは 1022 知らないが。 ***** 不忍池は、寒中水泳大会の様相をしている。 渡り鳥を蹴散らすように男どもが褌姿で池に飛び込み、また上が っては用意してきた七輪に当たって震えていた。暖まるには心許な いが、焚き火などすれば火盗改が飛んでくる。 恐らくは集まった参加者達も半信半疑ではあったのだろう。 それで、誰かが池に入っているのを見て或いは本物なのではない かと挑戦者がどんどん増え、また挑戦者が多くなると信憑性も上が ったような気がして更に増える。 負の連鎖のように、凍死志願の江戸っ子が集ってしまっている状 況であった。池に入っているものは、軽く数えて二十人は居るだろ うか。背中に特徴的な刺青を彫ってある角乗り七人衆と呼ばれる集 団も居る。 九郎は見ているだけで身震いがしてきた。後ろから石燕が覆いか ぶさるように抱きついてきて、 ﹁予想以上の群がりようだね﹂ ﹁うむ。しかしお主、手が冷えておるのう﹂ ﹁ふふふ、私今体温何度あるのかねー﹂ 九郎の胸元へと手を突っ込んで温めてくるので、その冷たさにま るで雪女の手のようだと九郎は白いため息をつく。 目線を池の上に向けて、石燕は云う。 1023 こむかい・し ﹁しかし案外に話は本当なのかもしれないね。ほら、あの小舟に乗 ょうご ふじばやし・じんぞう っているのは同心二十四衆の十六番﹃船手止め﹄水主同心・小向勝 吾と⋮⋮覆面の方は五番の﹃無銘﹄町方隠密廻・藤林尋蔵だ。 お上に仕える役人ですら動いているのだよ?﹂ ﹁よく同心二十四衆の顔と名前など覚えているなあ⋮⋮﹂ 無駄なところで感心する九郎。 むしろあの変な連中が動いているということはなんら信憑性の保 証にならない気がした。 それにしてもその舟上にいる覆面の二人はあからさまに忍者なの だが⋮⋮いや、 ︵確か、沼に潜る時は髪などに泥が付かぬように覆面をするもの、 と小助が言っておったな︶ 九郎は納得した。不忍池に忍びが居るわけはない。世界の真実は 単純にして明瞭だ。濡れた布が口元に張り付いて呼吸がしづらそう なことなど、目の前で実際に行われている事実を思えば小さな問題 である。 頷いた九郎を見て石燕は己の考えを同意されたと認識し、高らか に声を上げる。 ﹁よし! ここはひとつ、私達もお宝を探してみようではないか!﹂ ﹁出たよ⋮⋮己れは潜らぬからな﹂ ﹁ふふふ安心したまえ。適当にその辺の誰かを人足にすればいいの だよ。餅も魚も貧乏人に焼かせろと云うだろう。さて、それよりも 重要なのは宝の正確な位置情報だが、実はそれを知る論理的な方法 がある﹂ ﹁ほう﹂ 1024 石燕の話す論理的な方法とやらに興味を示す。 果たしてこの広い不忍池に落ちているかもしれないというだけの 宝を探す方法などあるのだろうか。 彼女は抱きついていた九郎から離れて、ごそごそと懐を漁ると、 Lの字に曲がった棒を二本取り出した。 だうじんぐぼう ﹁道神具棒∼!﹂ ﹁論理に期待した己れが馬鹿だった﹂ ﹁この棒を構えて歩き、目当ての物が近くにあると反応するのだよ ! 使用者の霊的能力を増幅させて宝の感知を可能にしたとかしな いとか!﹂ ﹁しないのかよ﹂ ﹁さあ物は試しだ、やってみようではないか﹂ そう云って九郎に渡してくるので、仕方なくダウジングをするこ とにした。 石燕の暇つぶしのようなものだ。いい加減、付き合い慣れている。 ダウジングとは足元の地下水や鉱脈を探す手法である。当たる確 率はピッタリと2分の1。掘り返して、出てくるか出てこないかの 二択なのだから確率については疑いようの無い。しかしながら、当 然探し物の上に立たねばならないという規則がある。少なくとも、 棒を使う限りは。 つまりは池の上に行かねばならない。 ︵こうなれば氷結符を草履の裏に装着して歩くか︶ と、瞬間的に足元に氷を発生させて水面を歩く技法の使用を九郎 が考えていたのだが、 1025 ﹁九郎君、舟が使えるように交渉したよ﹂ ﹁⋮⋮まあ、普通に考えればそっちの方法を使うわな﹂ 接岸している小舟に九郎と石燕は乗り込んだ。 舟は、二十四衆の小向が操るものである。それと忍び風の覆面を 被った褌の男が二人。藤林同心と豆腐屋の伊作という男なのだが、 九郎には見分けが付かなかった。両方共濡れた格好なので潜る係の ようだ。 ひそひそと三人組が話をしている。 ﹁ほら、言ったじゃないか小向君。あの有名な鳥山石燕先生さえ出 てくる程なんだから絶対に宝はあるんだって!﹂ ﹁むう⋮⋮有名なのか? 俺は知らんのだが⋮⋮失礼かもしれない から、彼女が有名だということを俺が知らないということは知られ ないようにしよう﹂ ﹁え? 御免もう一回言って? よく判らなかった﹂ などと、混乱しつつも九郎らを乗せて舟は進んだ。 本来は大川から近海までが勤務の場である水主同心なのだが、こ の日は非番で友人の藤林に呼び出された小向は巧みに舟を扱い、自 由自在にすいすいと動かしている。 二人は職場が異なり、小向は町方の犯罪や事件を担当する仕事で はなく幕府の水軍所属に近いのだが、何となく馬が合って付き合い が続いているのである。 池を規則正しく動き回りながら、やることも無いのでだらだらと 一万両見つけたらどうしようとか雑談をしていた。 藤林が表情は覆面で分からないが、明るく云う。会って間もない が見た目の忍び風の格好と違い基本的に陽気な男のようである。 ﹁いやあ、前に縁日でからくり人形ってのを見たんだけどね? あ 1026 れの人形部分を美少女にすれば凄くいいんじゃないかって思うんだ 僕は。買うと幾らぐらいするんだろうなあ﹂ ﹁業が深いな⋮⋮﹂ ﹁俺は貯金だな。いつお姫様が現れても養っていけるように﹂ ﹁夢見がちすぎる⋮⋮﹂ 忍び風の褌二人は至って大真面目に宝を探しているらしい。九郎 はダウジングロッドを構えながら肩を竦めた。舟の漕手である小向 は手伝わされているだけらしい。特に意見を云うことはなかった。 美少女からくり人形を大事に扱うと付喪神になるのではないかと 石燕に質問して藤林が解説を受けていると、九郎の持つダウジング ロッドが力も込めていないのに、唐突にぼとりと半ばから千切れ落 ちた。腐食したように。 ﹁⋮⋮うわ、なんか厭な反応だのう﹂ 九郎が呟いた言葉で周囲もそれに気づく。 意外に岸に近い場所ではあるが、この広い不忍池に隠す場所とな れば何処を選んでもそれほど意外性に変わりはないだろう。 両の拳を握りしめて藤林が叫んだ。 ﹁そ、それじゃあこの下に宝が眠っているのか!?﹂ ﹁よし、早速││﹂ ﹁まあ待ちたまえ﹂ 飛び込もうとした二人を制止したのはダウジングによる探索を指 示した当人の石燕であった。 彼女は不敵な顔をしたまま勿体振った声音で云う。 ﹁良いかね? 確実な検証というのは単一の方法に頼らずに別の側 1027 面から確かめてみるのが大事なのだよ。再検証も行ってそれが合っ ていたとなると確かさはより高度になる﹂ ﹁ふむ⋮⋮別の方法と云うと?﹂ 再び懐の下乳のあたりから石燕はものを取り出した。 今度はなにやら文字が書かれた紙だ。舟の真ん中にそれを置き、 一同は取り囲む形で見た。 紙の上に[是][否][︵鳥居の図︶]、その下に一から十まで の漢数字が横並びで、更に下に五十音図が平仮名で書かれている。 石燕は銭を一枚、紙の上に乗せた。 こっくり ﹁そう、この[狐狗狸さん]という狐系の降霊術で検証を行う⋮⋮ !﹂ ﹁発想が女学生レベルだな﹂ ﹁狐狗狸と続くこの音はコウクリとも読めるね? つまりこれは高 句麗から伝わった大陸由来の歴史ある術なのだよ! そんな感じの 内容を書いた本を後世に残しておく予定だから間違いない!﹂ ﹁歴史の捏造は止めろ﹂ 一応ツッコミを入れたものの、忍び連中は何故か乗り気になって、 ﹁うわあ、矢っ張り鳥山石燕となると本格的だなあ!﹂ ﹁俺も降霊術なんて初めてだよ。すげえ楽しみ﹂ と、やることになった。 簡単な説明を石燕がする。紙の上の銭に全員が指を当てて真言を 唱えると狐狗狸さんが訪れ、質問に応えてくれる。途中で指を離し てはいけないが、もし誰かが離した時は最後まで指を触れていた人 物に取り憑く。しっかりと狐狗狸さんに帰ってもらわなくてはいけ ない。 1028 特に、念入りに絶対指を離すなと言い含めて、漕手の小向も含め てこっくりさんは始まった。 ﹁狐狗狸さん狐狗狸さん、おいでなさいませ。そして我が願いを叶 えたまえ﹂ ﹁要求がいきなりデカイ﹂ ﹁叱っ﹂ 九郎の呟きを止めると、五人が指で触れている銭が紙の上で動き 始め、[是]へ向かった。 藤林がなよなよした口調で言った。 ﹁やだ凄い、力入れてないのに勝手に動く。来てるよこれ本当に﹂ ﹁よし。それでは先ず適当な質問で試してみよう。狐狗狸さん、九 郎君の年齢は何歳かね?﹂ 石燕の言葉に従い、銭が動く。 [九十五さい]と、順番に指し示した。 やたら大きな年齢に伊作が驚き聞き返す。 ﹁九十五? 十五の間違いじゃなくて?﹂ ﹁ううむ、よく覚えてないから正確かはわからぬな。多分それぐら いではあるのだが﹂ ﹁へー若作りしてるなー﹂ 藤林からは率直な感想が来た。対して気にしていないようである。 九郎が今度は意地悪げに問う。 ﹁では狐狗狸さん、石燕の年齢を﹂ ﹁こ、こら九郎君﹂ 1029 デリカシーの無い質問に石燕が咎めようとするが、指先はするす ると文字列を作り出す。 数字ではなく、平仮名をなぞると[あらさあ]と云う一見意味不 明な並びが浮かび上がった。石燕は胡乱げな顔をして九郎を睨んだ のだが涼しい顔で彼は受け流した。 続けて藤林が問いを投げかける。 ﹁じゃあ狐狗狸さんの、好みの男ってこの中で云うと誰ですかー! ?﹂ ﹁合コンか﹂ 少しばかり動きに沈黙があり、[いさく]と躊躇ったように文字 は出来上がった。 驚いたのが忍びの片割れ、伊作である。思わず言葉を失うが、隣 に座る藤林に肘で突かれて、 ﹁おいおい、伊作良かったじゃない。ヒュー、伊作と狐狗狸さんは あっちっちー﹂ ﹁な、なんだよ違ぇってそんな関係じゃねえよ!﹂ ﹁小学生か﹂ その受け答えに九郎が遥か過去の義務教育を思い出しつつツッコ ミを入れる。もはや役目であった。 一方で石燕が魔眼をやや虚空に向けつつ、白々しい言葉を吐く。 ﹁ちなみに││今降りてきている狐狗狸さんの姿は狐耳尻尾付きの ちょっとツリ目系美女だね﹂ ﹁ああっ!? 伊作が狐狗狸さんの紙を持って逃走した!?﹂ 1030 最後まで狐狗狸さんの紙に指を触れていた者に取り憑く。さっき 受けた説明を超速で理解して伊作は己の家に持ち帰るべく、プンと 空気を置き去りにするような音が出るほどの速度で狐狗狸さんの紙 を奪い取った。お帰りくださいと言わせてなるものか。 そう、幾ら財宝を手に入れようとも嫁が居なければ何の意味もな い。そうして其の嫁が、美女と聞いたら居ても立っても居られぬの は当然であった。 宝は水の底ではない。今、手の中にあるのだ。 水面を駆け抜ける忍びに目を剥いて九郎は唾を飛ばす。 ﹁おい!? 水の上を走っておるぞ!﹂ 藤林が解説する。 ぬまうきぐつ ﹁よく見てください。足に沼浮沓を履いているでしょう? 何も不 思議はない﹂ ﹁あれってモロに忍びの水蜘蛛⋮⋮﹂ ﹁忍びだなんて、そんなオカシなことありえませんよ﹂ ﹁うっうむ﹂ 妙な迫力で念を押してくるので、九郎も納得した素振りを見せざ るを得なかった。 伊作が走り去った、彼の店がある方向を見ながらしみじみと藤林 は、 ﹁あいつも悪い奴じゃないんだけどなあ⋮⋮﹂ ﹁まあ、相手が狐狗狸さんだというのに即座に嫁にしようと決めた 行動力は目を見張るものがあるな﹂ ﹁なにせ子供の名前までもう考えてる﹂ ﹁それは一寸気持ち悪いな﹂ 1031 ﹁僕もそう思う﹂ お互いに同意が得られたところで、 ﹁ふむ。まあ狐狗狸さんはもう良いか。とにかくこの場所で潜って みてくれるかね? 藤林君﹂ ﹁適当に始めといてすぐ飽きてるなお主⋮⋮﹂ 石燕があっさりと宝探しに意識を戻していた。あらさあ扱いをさ れた為に、狐狗狸さんは無かったことになったのかもしれない。 九郎と藤林も、晴れて狐憑きになった男のことは一旦置いておき、 藤林が池の底へ探しに入った。 ここ数日は雪が降り出さんばかりに冷えている池の水は、見てる だけで冷たさがわかる。つまりは、触って確かめたいとすら思いた くなかった。 しかしながら藤林は特に文句も言わずに、すいすいと潜る。忍び とは耐えて忍ぶ者なのだ。藤林も忍びかつ同心二十四衆に数えられ る身体能力を持っている。具体的には、変装追跡技能の他に常人の 三倍の脚力はあるとされる。 岸に近いものの水深はそれなりにあった。蓮の根を避けて、泥状 になっている底を手探りで漁る。 指先に硬い、箱が触れた。 藤林は内心歓喜して、両手を使って泥を払い落とし、箱を持ち上 げようとするがずしりと重く水中からではとても水面まで持ちあげ られない。 その重さが嬉しい。中に詰まっているものがある重さだ。 一度、舟に戻って彼は縄を掴み再び潜った。 呼吸を止めた水の底で、冷静に箱に縄を結びつけ、合図を送ると 舟の上から九郎が箱を引き上げた。 水の滴る、黒い箱が舟に置かれる。ごくりと藤林は喉を鳴らした。 1032 千両箱より一回り程大きい作りだろうか。一万両が入る程大きく はないが、期待が膨らむ。 ﹁む、仕掛けがあるのか? 開け口がわからぬ﹂ ﹁俺がやってみよう﹂ 小向が刀を抜くと、箱の継ぎ目に思い切り突き刺す事をニ、三度 繰り返し、足で蹴ると一枚箱板が剥がれる。 箱の中身はさらに、蝋がみっしりと覆っていた。 ﹁浸水対策か? 随分物々しい﹂ ﹁祟り箱の類だったりしないだろうね。この中の誰か寺の息子はい ないかね?﹂ ﹁まあ⋮⋮寺ならすぐ近くにあるからその時は逃げ込めばいいであ ろう﹂ 言いつつ、九郎は蝋の塊に見えるそれを手で掴んで、ぐ、と力を 込める。 やはり目には見えないが、開ける為に何処かに切れ目を入れてい たようで、九郎の力に耐え切れずに半ばほどからめりめりと蝋塊が 砕けて中の一回り小さな箱の姿を表す。 次にそこ箱を開けてまた箱が出たらいい加減ムカつくので燃やそ うと思いつつ、三人が注目する中、九郎は蓋に手をかけた。 ***** 1033 後日の事である。 千駄ヶ谷は現代のような都会ではなく、殆どが農作地であるのだ がその中で一際大きな屋敷が立っている。 地主である根津家の屋敷だ。大きいと言っても豪華というわけで はなく、家を持たぬ小作人を部屋に住まわせるように広く作ってい るのである。見ようによっては、長屋を一軒の屋敷としているよう にも見えた。 其の屋敷の畳敷きである主の部屋に藤林は来ていた。 不忍池から引き上げた、蝋の中に入っていた箱を持ってきている。 大柄な主の男は布団の中でうつ伏せになっている体勢で出迎えて いた。 やや憂鬱そうな声で藤林が云う。 ﹁例の飛び小僧の隠し金の件。旦那が皆に探させるために噂を流し たんでしょう。これを見つけさせる為に﹂ ずい、と箱を旦那に差し出すと、彼は大笑して受け取り中身を開 ける。 厳重に湿気対策が為された箱の中には、春画が大量に入っていた。 それは男のエロ隠し箱なのである。これ以外、不忍池から上がっ てくる変なものは無かった。 江戸の頃から春画などはやはり身分のある男が持っているのは恥 よろいびつ とされて、あちこちに隠し場所が考案されていたという。二重底の 箪笥や鎧櫃の中に隠していたという記録も残っている。 ﹁ようしこれこれ。嫁が捨てた場所がなんでか知らんが不忍池とま では判明したんだがなあ。俺一人じゃ探しきれねえもんでよう﹂ ﹁それで皆を騙して見つけさせるんだもんなあ⋮⋮おまけに自分の 春画だからって一枚一枚名前まで書いてるのは旦那ぐらいですよ! 1034 旦那の顔がよぎって使えもしない﹂ ﹁見つけたのがお前らの誰かだったら届けてくれると思ってたぞ。 あ、一枚好きなやつ要る?﹂ にたにたと笑いながら春画を捲っていく。 あの集まりの晩にふとした会話から思いついた計画であったが、 見事に成功したようである。あの隠し場所の言い出しっぺで穴山小 助と親しい彼が真っ先に不忍池に飛び込んだことから、忍び連中は 皆信じきって探す羽目になったのだ。 ついでに読売を書いているお花に記事を書かせたのも彼である。 こっちはもう半ば面白半分で騙された阿呆を増やす為の悪戯であっ たのだが。 ﹁ところで旦那。なんでうつ伏せで腰を上げて寝てるんです?﹂ ﹁いや、うちの娘に手を出す小僧の褌に唐辛子汁を塗りこんでやろ うと思ってな? 試しに自分のやつで威力を調べてみたら予想以上 に俺のお楽しみ鉄砲に損害が﹂ ﹁軽はずみなことはするもんじゃないですよ﹂ ﹁⋮⋮ん? この春画は⋮⋮﹂ 男が一枚、束の中から紙を取り出した。 不思議そうに表裏に引っ繰り返して紙を眺めた。 それは彼の名前と、絵の題だけが書かれていて肝心の絵が消えて 無くなっているのだ。 ﹁確か、墨の一色刷りだったから湿気で溶けたか?﹂ 絵の題は[狐和合佳話]と書かれている⋮⋮。 1035 ***** 更に数日後。 小石川、伝通院門前のあたりに建っている、冴えない風貌の男店 主が一人でやっていた売れない豆腐屋に嫁が来たという。 突然やってきたその嫁を伊作という男は大層に喜び、大事にした。 その目元の細い嫁も、やや高飛車なところはあるが万に行き届い た良い嫁で、二人で豆腐屋を切り盛りしていった。嫁の提案で売り 出された油揚げがそこそこに売れて、生活に窮することはなかった ようだ。 伊作も嫁も、親族は居なかったが年が明けた頃にお互い親しい知 り合いを少人数だけ招いてささやかな祝いを行った。新郎の側の客 は全員覆面で、新婦の側は全員狐面の客という妙な会であったが、 天気雨の中しめやかに行われた。 その嫁には獣耳も尻尾も無いが、伊作はもうそれに拘ることもな かった。 ただ、彼女が好物の油揚げを夜飯の時などに嬉しそうに頬張って いると、その腰元で尻尾が揺れている気がして、伊作は決して何も 言わなかったが嫁と一緒ににこにこと笑っていた。 それから、二人は末永く幸せに暮らしましたとさ。 ﹁めでたし、めでたし││ってね﹂ 1036 狐面の薬師はそれを語って、買った油揚げを土産に珍しく石燕と 九郎の二人と酒を飲んだ。 江戸の時代には幾らでもあった少し不思議な話の一つである⋮⋮。 1037 37話﹃夢のひとつ﹄ 大晦日の昼下がりである。 にわかに活気付いたような、或いは大晦日ぐらいはのんびりしよ うかと云った背反する妙な空気の江戸を歩いている黒袴の侍が居た。 体つきがよく、顔の造りもごつごつとしている男である。実年齢 は二十の半ばなのだが、厳しい顔つきと寡黙な雰囲気から五か六は 年上に見られやすく、またいかにも偉そうというか、怖そうという か、そう云った気配がある。 だがその実、彼は同心二十四衆の中でも││いや、他の同心を見 比べても最も昼行灯と呼ぶ声がある。 二十四番﹃警邏直帰﹄水谷端右衛門。 そう云う呼び名の男であった。 ともかく、今年最後の見廻り途中。彼は小腹が空いた為に歩きつ つめし処を探していた。 昼飯を早めの朝四ツ過ぎ︵午前十時過ぎぐらい︶に食べた為だ。 しかし適当に、歩き途中で思った店は大晦日の為に閉まっていた りして、なかなか辿り着けない。 そうして彼がやってきたのは蕎麦屋[緑のむじな亭]であった。 暖簾がかかっており、[本日は昼のみ]と、張り紙も店先に張っ てある。 ︵蕎麦かあ⋮⋮うん、ま、丁度いいか︶ 組屋敷では毎年大晦日の夜にも蕎麦を食うのであったが、生憎と 今日は夜に捕物の仕事があるので蕎麦にありつけそうに無いから今 食うのもいいかもしれない。 年越し蕎麦が生まれたのは諸説あるが、江戸に大量の人間が移り 1038 住み、また新田の開発が成功して米の増産がされた中期の頃である らしい。白米のみを食うことで発症する江戸患いと呼ばれる脚気に は蕎麦が効果的であり、年の終わりに蕎麦を食う事で次の年の健康 を願った。 それに時折、この店は変わったおかずを用意している事もある。 それがあったら白い飯も一緒に食えばいいと思い、店に入った。 ﹁いらっしゃませ!﹂ 店に入ると同時に元気よく声がかけられて端右衛門は少し驚き足 を止めた。 確か、店員は小さい女の子か鈍鈍としている少年の二人だった筈 だが、最近来なかったらいつの間にかはきはきとした少年も追加さ れているようだった。 客の入りは、昼下がりということもあり数人程度だ。 足を組み椅子に座って、食卓を使わずに丼を持ったまま蕎麦を啜 っている男は、火盗改の中山影兵衛であるようだった。こちらの視 線に気づいたのか、剣呑な表情で睨み返されたので軽く会釈を返し て端右衛門は離れた場所に座った。 ﹁さて⋮⋮﹂ この店の固定メニューは蕎麦、めし、酒、上酒である。後は日替 わりの小鉢で、内容は店員に聞くか店内に掲示されている。 見回すと、真新しい紙を見つけ、端右衛門は釘付けになってしま った。 それには、 ﹁半熟煮玉子⋮⋮?﹂ 1039 聞いたことが無い名前だ。 半熟なのに煮玉子とはどういうことだ。 しかもそれの値段が、三十文もする。普通のゆで玉子より十文は 高い。 十六文の蕎麦のほぼ倍である。 現代の価格で云えば││物価などが異なるので一概には言えない のだが参考程度に言えば││半熟煮玉子一個で五百円か六百円の値 段が付いているようなものだ。 ︵こう高いと逆に買う、か︶ 巧妙に消費者を誘っている気がして、少しばかり気後れしたが興 味は抑えられなかった。 端右衛門は店員の少年に、 ﹁この半熟煮玉子ってやつと白いめしを﹂ ﹁はい!﹂ ︵あ、しまったな。蕎麦を頼むはずだったのだが⋮⋮でもまずめし を腹に入れたいしな⋮⋮︶ 注文した後で少しばかり後悔をする。 半熟煮玉子自体は、九郎が大量に仕入れてきた玉子を温度調節し た炎熱符で程よく茹でて蕎麦の濃い[かえし]に漬け込んだだけの 為に、すぐに用意できる。また、作りおきなので六科の料理の腕前 に左右されない事を考えているメニューだ。 だから注文してすぐに山盛りの白いめしと小鉢に入れられた半熟 煮玉子、それに茶が持ってこられた。 見た目は蕎麦のつゆ色を白身に染み込ませた茹で玉子だが。 端右衛門は箸で玉子を両断しようと掴む。予想よりもやわらかな 1040 感触で箸がめり込んで、玉子が別れた。 割った玉子の黄身は濃い飴のような黄色で、ねとりと通過した箸 に張り付いた。 ﹁これは⋮⋮﹂ 半熟⋮⋮いや、一度食べたことのある温泉玉子よりも更に粘度の ある黄身を見て、その箸を舐めた。 黄身が塩っぱいのである。端右衛門は驚いた。 熱が通っていない筈の黄身にまで、外から濃いかえしの塩味が付 いているのだ。浸透圧を利用した味付けである。 そして、 ﹁めしに合う⋮⋮﹂ のである。箸の先にこびり付いた僅かな黄身の汁だけで、端右衛 門はがつがつとめしを食らった。 そして次は色の染み付いた白身の端をちぎり取って食う。 中の黄身がこれほどの味付けならば、外側はさぞ塩っぱいだろう と思ったらこれが不思議なもので、噛みしめる度に出汁の効いた醤 油味と細分化された白身が混ざりマイルドな味わいになりつつ、 ︵やはりめしに合う︶ と、やはり端右衛門は内心慄きつつ三十文の球体を突付き、めし を食った。 どうやって作ったかはさっぱり分からないが、凄まじい破壊力の おかずである。冷たい玉子に熱いめしという組み合わせもいい。 年末になり悲しくなるぐらい寂しくなった懐を我慢して頼んだ甲 斐があったというものだ。しかしながら、同心という下級ながらも 1041 役人である彼が三十文の食い物で悩むというのは、やはり彼も世渡 りが下手な部類なのであろう。 同じ店で蕎麦を手繰っている影兵衛などは、年末年始になれば頼 んでも居ないのだが部下や出入りの商屋などから次々に黄金色の贈 り物を貰うというのに⋮⋮ ︵もう一つ頼みたい⋮⋮いや、これはそう思いたくなるぐらいで止 めて於いたほうが⋮⋮︶ 山盛りのめしも食いきったのだが、誘惑を断ち切ろうと端右衛門 は茶を飲みながら食欲を押さえつける。 ふと、別の場所にあった張り紙に目が行ってしまった。 端右衛門はそれに書かれている文字を心の中で読むと同時に手を 上げて唱えてしまっていた。 ﹁この半熟煮玉子蕎麦ってのを追加で﹂ ﹁はーい!﹂ 元気の良い返事を受けると己で止めようと決めていた事を破った 罪悪感も薄れた。 しかしながら、一寸小腹を収める為に立ち寄ったのに出費が嵩ん でしまっている。 端右衛門は蕎麦を待っていると、影兵衛の会話が聞こえた。 ﹁ったくよう、折角大晦日に九郎のやつ誘いに来たのに居ねえじゃ ねえかよ。おいタマ公、あいつ何処に行きやがった﹂ ﹁石燕さんやお房ちゃんと一緒に出かけてしまったです!﹂ ﹁なんだなんだ。独身のおじさんを置いて女の子とお出かけってか。 つれねーな﹂ ﹁影兵衛さん、一昨日も兄さん連れて博打に行ったじゃないですか 1042 あ﹂ ﹁いやいやこれは大マジなんだけどよ、年末は丁半の設定甘いから 狙い所なんだわマジで。絶対ぇ普段より当たりやすくなってるって﹂ などと店員相手に絡んでいるようだ。 待ったな、と思うような間も無く手早く作られた半熟煮玉子蕎麦 は出された。 軽く温める程度に蕎麦汁で煮直した玉子を載せただけの、いつも の葱が乗っている蕎麦である。 端右衛門は箸で玉子の白身を僅かに千切って、口にする。 冷たいまま食べるよりも塩気は少なくなっているが、温まった玉 子と蕎麦汁の味が合わさってこれも、 ﹁いけるな﹂ と、思ってとりあえず蕎麦を啜った。 麺は相変わらずふにゃふにゃしているが、気になる程ではない。 端右衛門は玉子を再び黄身の部分まで割って、どろりとした黄身 を蕎麦汁によく浸してからがぷり、と一気に齧った。一個目の時は めしのおかずという事で少しずつ食べていた為に出来なかったのだ。 温かく柔らかい玉子と染み込んだ塩気と蕎麦汁の味で、端右衛門 は一瞬硬直して、 ︵うまい⋮⋮︶ と、喜んだ。めしを食う時は呟いたり内心とても旨がっているの だが、あまり表情に現れない性質である。 もう半分の玉子を大事にしつつ蕎麦を食い、更につゆに浸って温 度が替り味わいも変わった玉子を食った時も、彼の心の中だけで法 螺貝が鳴り響いていたという。 1043 しかしながら、半熟煮玉子蕎麦を食い終えはしたのだが、少しば かり玉子の黄身が溶けた蕎麦汁すらどこか残すのも勿体無く思えた。 だが啜るには少し塩っぱい。 余談だが、この時代の蕎麦汁は現代に比べて可也塩気が多く作っ ているのが通常であるのだが、緑のむじな亭では九郎の好みに合わ せて薄くはしている。ただ、あまりに出汁を効かせた薄さにすると 安い出汁の味が際立つので誤魔化しも兼ねたギリギリの塩っぱさの ラインだ。 どうしたものかと思案していると、影兵衛の方で似たような会話 があった。彼も蕎麦を食っていたのである。 ﹁あーなんかちっと足んねえな﹂ ﹁それなら、今日は沢山蕎麦の麺を用意してるから[替え玉]って 事で茹でた麺だけお安く追加で出していいって兄さんが言ってまし た!﹂ ︵替え玉!︶ がたん、と端右衛門が膝を打つ動作でつい食卓に当たってしまい 音が為った。 気づかなかったのか、タマは言葉を続ける。 ﹁あとは⋮⋮兄さんや六科さんなんかは、蕎麦のつゆにご飯を入れ て雑炊みたいにしてよく食べてますよ﹂ ︵雑炊⋮⋮!︶ 再びがたんと音を鳴らしたので、さすがにタマも気づいて一人で 何か呟いたり思い悩んだり机を殴ったりしながら食べていた怪しい 客に向き直る。 1044 彼は相手の評価など気にせずに、 ﹁替え玉とめしを、大盛りで﹂ ﹁は、はぁい﹂ 結局この日、小腹を満たす為に立ち寄った先で夜も入らぬぐらい 満腹になった水谷端右衛門は、いい気分のまま八丁堀の組屋敷に戻 っていくのであった⋮⋮ ***** ﹁煩悩が消えないんです﹂ タマのその告白に、男二人はへの字口をして、同時に、 ﹁むう⋮⋮﹂ と、呟いた。文字に表すと同じだが、片方は納得したような﹁む う﹂で、もう一人は理解出来ぬような﹁むう?﹂と云った具合では ある。 昼七ツ前︵午後三時程︶の時間帯で、そろそろ今日の││今年の 店の営業を終わらせようかと思っていた頃合いであった。 本日何人目かの九郎を訪ねてきた客の晃之介が、台所から上がっ た六科と前掛けを外したタマと共に、残った飯を食っていた。 蕎麦汁に葱をたっぷり刻んで入れて、米と生卵を落としかき混ぜ た玉子粥のようなものである。大晦日の営業だったが、日常と変わ 1045 らぬ残り物ではあった。 ともあれ、タマの悩み相談についてだ。 ﹁女の人を見ると可愛いなって思ったら手が出てしまって﹂ ﹁そうなのか?﹂ ﹁うむ。よくお房に殴られている。最初は俺が殴ろうかと思ったが、 まあお房が殴っているうちはいいかと﹂ 晃之介の確認に、六科が頷き応えた。 タマはよく働き評判もいいのだが、時折女を前にしたら、さり気 ない動きで体を触りに行ったりさり気なくない動きで体を触りに行 ったり、殆ど番所沙汰な事が数度ある。 大体は目の前でお房による制裁が加えられていることと、タマ自 身見た目は可愛らしい男の子であることから訴えられはしていない。 ﹁まだ小さいからギリ許されてる感があるけど、このままじゃマズ いことになっちゃいそうで。あといつもお房ちゃんに殴られて体が 持たないですよう﹂ ﹁打算的だな⋮⋮いや、働いてひと月も無いのにそう自覚するのが ヤバイが﹂ ﹁というわけで、男やもめというのに枯れ切ってる六科さんと、若 盛りの晃之介さんにこう⋮⋮女に手を出さない心得を教えてもらえ ればと﹂ 真摯な眼差しで訴えかけてくるので、晃之介はどうも困って目を 逸らした。 女に手を出さないコツなどと言われても。 普通は手を出さないだろう。 応え倦ねているとぼそりと六科が呟く。 1046 ﹁成程﹂ ﹁わかってくれますか﹂ ﹁ああ。俺とて人の親だ。そう云った感情が存在するという事は知 っている﹂ ﹁⋮⋮﹂ どうもズレた応えのような気がしたが、晃之介は口には出さなか った。 感情を見せないいつも通りの声音で続ける。 ﹁其の情動というものはだな、どうやら血の流れによって起こるら しい。血が一部に集中することで思考を狂わせ、体に変調を来たす﹂ ﹁ふむ⋮⋮そう考えた事は無いけれど、確からしい理屈だ﹂ ﹁それでどうすればいいんです?﹂ 六科は頷き、さも当然のように答える。 ﹁簡単だ。体内の血流を操作して平常に戻せば情動も覚める﹂ ﹁⋮⋮ええと、血をどうするって?﹂ ﹁操作する﹂ ﹁どうやって?﹂ ﹁自分の体を動かすのと然程変わるまい﹂ ﹁出来るの?﹂ ﹁無論だ﹂ 言い切る六科に対して不安になったタマが晃之介を見て、尋ねた。 ﹁⋮⋮出来るものなんですか?﹂ ﹁⋮⋮いや。少なくとも俺は出来ないが﹂ 1047 六科の謎の特技と言わざるを得ない。 これにより彼は冬場の寒さや水の冷たさに強く、また息を切らす ことも殆ど無い体質をしている。 血気盛んな火消し衆に所属して、誰よりも早く走り火の熱さにも 怯まずに冷静さを保っていた彼は、見る者によって勇敢に見えたり、 命知らずの馬鹿に見えたり、人助けをするお人好しだったりと様々 であった。 見る相手によって姿が変わる妖怪││[鵺]から二つ名を取り、 [鵺]の六科と呼ばれていたのである。 どうも六科の助言は体質的に当てにならない。タマがじっと見て くるので、晃之介は咳払いをした。 しかしながら、録山晃之介。二十を数える若者で女っ気が無いと はいえ││弟子にお八が居るが、彼に少女趣味は無い││別段朴念 仁というわけではない。 人並みに女を美しいと思う感性を持つ人間である。ただ、これま での人生で旅生活が多く寝場所も旅籠ではなく野宿が殆どであった ために、あまり女との付き合い方を知らないだけだ。 彼を常識的な言葉をかける。 ﹁なんというか、手を出さないようにすればいいだけではないんじ ゃないか﹂ ﹁それがなかなか⋮⋮考えると手が出るのが同時に行ってしまう感 じでして﹂ ﹁ふむ。それならな⋮⋮まず相手を観察することだ﹂ ﹁観察?﹂ 晃之介は首肯して、指を立てつつ言って聞かせる。 ﹁そう。相手をまずよく見る。それから単に可愛い、美しいのでは なく││ええと、髪が長くて綺麗だとか、目鼻が整っているだとか、 1048 肉付きがいいだとか、後々刺して来そうだとか、ともかくそこまで しっかりと考える﹂ ﹁考える⋮⋮﹂ ﹁そしてだ、自分の頭の中だけで触るなり何なりと││想像して満 足するのだ。思想というものは外に出さなければ取り締まることは 出来ない。考えるだけなら何をしても無罪で、殴られる事も無い﹂ ﹁なるほど⋮⋮!﹂ ﹁ただし、想像している時の顔は引き締めて於くことだ。男たるも の、女の前でだらしない顔はしてはいけない。たとえ相手が家族の ような女だとしてもな。薩摩ならそれだけでクビになるぞ﹂ ﹁クビですか﹂ ﹁頚椎までへし折られるらしい﹂ ﹁やだ恐い﹂ 薩摩では女にうつつを抜かしてはいけないのである。 ともかく、済まし顔をしつつ妄想で済ませろという極当然の助言 を行った晃之介であるが、とりあえず不安になり開けっ放しになっ た入り口を指さす。 ﹁練習としてあの向かいの店先にしめ縄を飾っている娘でやってみ ろ﹂ ﹁はい。││キリッ﹂ 声に出さなくてもいいのだが、わざわざそう告げてタマは目元を 鋭くさせた。 固く口を結び真剣で怜悧な眼差しを向けている。タマは女顔なの だが、元々が整っている為にそうしてみるとなかなかに良い目つき をしている。 愛想の良さそうないつものへらへらとした笑みに比べればそのギ ャップが引き立つ。 1049 不意に、向かいの提灯屋の娘とタマの視線があった。 すると娘は一瞬呆けたかと思うと、やや顔を赤らめて店の中に隠 れていった。 タマは顎を引きながら、 ﹁凄い。頭の中では相当特殊な、相当に特殊な行為に耽ったという のに訴えられないです﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ 繰り返すほどの行為というのがどういうものかは理解を拒んだ。 目を煌めかせながらタマが尊敬の眼差しを向ける。 ﹁新しい道が⋮⋮浮かんだような気がします。師匠と呼ばせてくだ さい﹂ ﹁呼ぶな。頼むから﹂ 妄想の師匠にはなりたくないのであった。 ﹁ちょっと厠に行ってきます﹂ ﹁手は洗えよ﹂ やや屈みながらひょこひょこと裏口へ向かうタマを見送った。 そこまで妄想しろとは言っていないのだが⋮⋮。 晃之介は苦い顔をしながら雑炊をがつがつと食らった。 ﹁そういえば六科殿。この辺りに湯屋はあったか? 年の瀬ぐらい は風呂に入ろうと思ってな﹂ と、晃之介。 彼が風呂に入っていないわけではなく、大抵は竈で井戸水を沸か 1050 し盥に張ったもので体を洗い拭っているのである。 ﹁ああ。ちょうど今から行く予定だった﹂ ﹁そうか﹂ 短いやりとりをして、暫くしたらタマが戻ってきたので三人で湯 屋へ向かうことにした。 湯浴みというと、タマがこの店に住むように為ったばかりの頃に 小さな事件があった。 怪我も治り自由に動けるようになったタマであるが、朝方に井戸 の側で冷水を浴びて体を洗っていたのである。 夏ならばまだしも、十二月の霜も降りているこの季節にだ。 音に気づいた女按摩のお雪が慌てて濡れそぼったタマを連れて六 科達を起こし火鉢で暖めさせて、恐ろしく冷たい水浴びをしていた タマにどうしたのかと尋ねたら、彼はきょとんとして、 ﹁え? いや、今までずっと水でしたから⋮⋮﹂ などと云うのだから思わず家族一同は不憫で目頭を抑えたという。 それからタマは湯屋に連れて行くようになった。 ともあれ、近所にある湯屋へ辿り着いた。看板に[矢]の絵が描 かれている、江戸でも一般的な様式であった。これは[弓で射るも の]が転じて[ゆいる]から湯入ると云う字をかけた洒落である。 正月になれば殆どの湯屋も休みとなるので、大晦日に入っておこ うという客で賑わっている。 六科とタマは月極めの定期券を番台に見せて、晃之介は六文払っ た。[失せ物存ぜず]と張り紙のある脱衣所で手早く服を脱ぎ流し 場へ行く。 タマは連れ二人の背中を見ながら、いかにも広くて男らしい背中 1051 だと惚れぼれする。六科などは鵺の刺青が迫力を出している。自分 などは肌は白いし細っこい体つきでどうも貧相な気分だ。 流し場にずかずかと闖入してくる六科の姿を見て、不敵な笑いを 漏らしつつ立ちふさがる男が居た。 いかにも鳶風の、三十前後に見える荒くれだ。体格は小柄なもの の、筋肉が締まった体型をしている。 全裸のまま腕を組んで六科と正面から対峙する。 ﹁おうおう! 出やがったな[鵺]の六科! 大晦日に合うとはキ リがいい、今日こそケリをつけてやる!﹂ ﹁む⋮⋮﹂ 我鳴り出した相手に六科は顔をしかめる。 晃之介が、 ﹁知り合いか?﹂ と、尋ねると頷いて答える。 ﹁良くは知らんが、恐らく人間だろう﹂ ﹁種族しか特定しなすぎる﹂ ﹁へっ! 俺っちを忘れても││この背中の紋々は覚えてるだろう が!﹂ 翻って背中を見せつけると、そこには波間を飛び跳ねる巨鯨の絵 が彫られている見事な刺青がある。右下に[ニ九四]という漢数字 もあった。攻撃力だ。 攻撃力七ニの六科は頷いて、 ﹁お前は⋮⋮ええと、[鯨]の⋮⋮くじ太郎﹂ 1052 ﹁覚えてないなら無理に捻り出すなよ! 角乗り七人衆[海聖獣] の吉助だ! てめえとの刺青相撲勝負をした!﹂ 刺青相撲とはその名の通り、刺青者達が行う辻相撲のことであっ た。辻相撲は当時禁止されていたこともあり、いざという時に顔と 名を隠しても力士名がわかるように刺青を二つ名として呼んでいた のである。 様々な場所で行われるために通常の勧進相撲とは違う規定もある。 例えば頭部を破壊されたら失格だとかだが、基本は相撲の規則と同 じだ。 六科は感慨無く返事をする。 ﹁そうか﹂ ﹁そうだ! 以前のてめえとの勝負⋮⋮攻撃力は俺っちのほうが高 かったのに相性で負けた⋮⋮だがな、今年の活躍で俺っちの海聖獣 の攻撃力は一桁増した。これなら負けねえ!﹂ 吉助の刺青、海聖獣は水属性であったために雷攻撃を行う六科の 鵺からは倍の威力差を発揮される為に敗北したのである。 鵺と云うと様々な動物の形態を持つ化け物であると言われている が、一説によると雷獣でもあるとされる。雷獣は江戸でも三指に上 がる程に知名度の高い妖怪だ。 しかし相手は攻撃力が三桁に達している。この刺青の規則では、 仲間や周囲に認められる活躍をした場合に彫り物を追加して良いと いうことになっているのだ。長く鳶職から身を引いている六科は刺 青を強化することは出来ない。 風呂に入っていた客が野次を送る。 ﹁おお、刺青相撲が始まるぞ﹂ ﹁やれやれ! 喧嘩に相撲は江戸の花だ! 大晦日に景気がいいぜ 1053 !﹂ 闘志に満ちた目で吉助が腰を落とし、突っかかる構えを見せたの で六科は晃之介とタマに、 ﹁離れていろ﹂ そう短く告げて、彼の正面に立った。 誰が行司役なのかわからぬが、二人が睨み合って数瞬後に、 ﹁残ったッ!﹂ と、声がかけられて六科と吉助はぶちかました。 まわしも着物も無いぶつかり合いである。 両者、相手の肩の辺りを掴み力を込めて押し合う。互角のように 見えるが、吉助はまだ笑みを浮かべている。 ﹁うおおお!! 俺の攻撃力は二百九十四! てめえの七十ニの攻 撃力を倍加させてもこっちが上だああ!﹂ ﹁む⋮⋮!﹂ 吉助の筋肉が唸る。 属性の相性差を上回る力を込めて、六科を押し潰そうと挑みかか った。 ﹁奥ォォ義ッ! 聖獣大海嘯ォ!﹂ ﹁ぬうう⋮⋮!﹂ 六科の体が押されるが、彼は足の指を流し場の床に食い込ませる 程に丸めて掴み、耐えた。 1054 そして、叫んだ。己の力を。血の鼓動のままに。 ﹁腕力!﹂ ﹁ぐえーっ!﹂ 吉助を持ち上げて床に叩きつける。 六科の勝利であった。周囲からどよめきと称賛の声が送られる。 腰を強かに打ち付けて動かなくなった吉助を捨て置いて、六科は 盥を持ち湯を浴びに向かうのであった。 それを見ていた晃之介とタマは、 ﹁⋮⋮最終的に腕力で勝負がつくなら刺青の攻撃力とかには何の意 味が﹂ ﹁さあ⋮⋮﹂ と、唖然としながら呟いた。彼らはあまりルールに詳しくないの である⋮⋮。 ***** 一方。 お房、石燕と共に出かけた九郎であったが、二人が狩野派の集会 に顔を出してくるということで途中で別れた。 さすがに面識のない画家集団の会合に参加するのは気が引けるし、 あまり興味もない。 1055 茶飲み友達になった煙草屋の婆さんでも冷やかしに行こうかとぶ らついたが、そういえば秋口に卒中で亡くなったのだと思い出して 気まずそうに目的を失い街をうろついた。 その婆さんも江戸の時代にしては長生きした方であっただろう。 破れ凧のような骨ばった体でかくしゃくとしていて元気が良かっ たが、ある日突然倒れて死んだという。 老人の死は、其のようなものだと九郎はため息をついた。 そうならない自分がおかしいのだとも思う。 ﹁いかんな⋮⋮歳か﹂ 少しばかり陰鬱な気分になっていた九郎だったが、突然背中を叩 かれたので振り向くと、お八がそこに居た。 ﹁よっ。何してんだ?﹂ ﹁いや、卒中で倒れて死ぬ自分を想像してた﹂ ﹁年の終わりに縁起が悪いな!?﹂ 怒ったような声音で云うお八に九郎は笑いかける。 そんな彼の手をぐいと掴んで、 ﹁病気が気になるならお参りにでも行こうぜ。確か鳥越神社がご利 益があるって聞いた。恵方だしな﹂ ﹁そういうのは年が明けてから行くものではなかったか﹂ ﹁じゃあ年が明けたらもう一回いけばいいだろ? 何回行っても悪 くなるわけじゃないぜ﹂ そう彼女が誘うので、九郎は特にやることも無かったため神社参 りをすることにした。 やはり大晦日となると神社周りには人が多い。明るい顔をした町 1056 人達が次々と神社の敷地に出入りしている。 端の方を歩いていると、お八が黒袴を着た初老の男に軽くぶつか った。 ﹁す、すみません﹂ ﹁おおっと。ん? おや﹂ 初老で髪を撫で付けている男はぶつかった娘と手を繋いでいた九 郎に目をやって片目だけ笑うという奇妙な表情を作った。 ﹁はっはあ、九郎じゃないか。どう? 怪我治った?﹂ ﹁む。お主は町方の美樹本同心。うむ。まあまだ少し力は弱いがな﹂ と、返事をする。 初老の男は町奉行所の筆頭同心、﹃殉職間際﹄美樹本善治であっ た。白色の交じった髪をした熟練の同心である。 彼はひらひらと手を振ってぶつかったお八に目を落とし、 すり ﹁こう人が多いと掏摸や鎌鼬が出るから気をつけてよ?﹂ 鎌鼬というのは、小さな刃物でこっそりと懐や袖を切り裂いて中 の財布を盗む泥棒の通称である。 九郎は尋ねる。 ﹁見廻りか? 大変だのう﹂ ﹁いや、おれは今日の夜に捕りものがあるもんでね。今のうちに神 社参りを済ませておこうって腹さ。なんなら九郎も勤めにどうだい ? 腕利きが不足してるんだよね﹂ ﹁利悟が居るであろう﹂ ﹁あいつは年越しの間中、ずっと牢の中だよ﹂ 1057 ﹁とうとうか⋮⋮﹂ 九郎は酷く納得して頷いた。 美樹本は笑いながら九郎の背中をぽんぽんと叩き、 ﹁ま、正式に十手を渡してるうちの所属ってわけじゃないから別に いいさ。そこの可愛らしい嫁さんと過ごす正月を邪魔しないでおこ う﹂ ﹁よよよよ、嫁じゃないぜ!﹂ ﹁そうだのう﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁痛っ。なんで脇腹を摘むのだハチ子や﹂ 枯れた反応の九郎と歳相応に表情をくるくると変えるお八を見て、 美樹本はやはり面白そうに笑った。 実際に九郎に十手を持たして奉行所か火盗改の手先にするという 話は上がっているのだが、その場合はそれぞれ彼と親しい利悟か影 兵衛が上司となる役目と言われているのだがそのどちらも、 ﹁あれはそう云う性格じゃない﹂ と、消極的に断っているのである。これは両者、九郎の立場に縛 られる役目に付きたくないという性格を付き合う内にそれなりに把 握した為であった。 頼んでも恐らく断られ、疎遠になるぐらいなら時々手伝って貰う 程度でいいと云う非公式な関係を維持する方針だ。 美樹本は手を上げて、 ﹁んじゃ、良いお年を﹂ 1058 そう告げて軽い足取りで去っていくのであった。 二人は賽銭箱に並ぶ列に加わり、暫く待ってから銭を投げ入れた。 ﹁南無南無﹂ ﹁寺じゃないぜ﹂ 呟く九郎に小声でツッコミを入れる。 手を合わせながら適度に祈る。江戸に来てから、随分と神社仏閣 巡りが多くなった。信心深くなったというよりも、賑わっている場 所だったからという理由が多いが。 異世界では多くの神とそれに関わる信仰があったが、一番長く世 話になったのは旅の神だっただろうか。なにせキャンプ用品には殆 どその神性が宿っていたからだ。フリーズドライもつ煮込みが好き だったが、幾ら調べても原材料のもつが何の内臓なのか判明しなか った。 長く会っていないが昔の仲間だった歌神信仰の歌姫は元気だろう か。長命種族なもので、外見は相変わらずだろう。魔王と魔女は全 然信仰心が無かった。なにせあいつら神殺しだ⋮⋮などと暫く思い 出に浸っていると、お八から、 ﹁あんまり長々とするもんじゃないぜ﹂ と、手を引かれて賽銭箱の前から離された。 九郎は少しばかり驚いた顔で、頭を掻きつつ誰にと無く言い訳を する。 ﹁年を取るとどうも物思いに更けてしまうな﹂ ﹁時々思うけど、九郎は幾つなんだ?﹂ ﹁うむ。この前九十五と判明した。お八が十五だったな。ちょうど 八十差か⋮⋮おう、甘酒でも飲むか﹂ 1059 境内にある茶店の外にある席に座り、暖かい甘酒を二人分注文す る。 九郎の年齢を聞いたお八が九十五という年月を想像しようとして 難しい顔をしている。彼女の亡くなった祖父よりも古いのである。 どうも、多少に年を食っている仕草をするものの見た目自体はぼや っとした少年である九郎が老人のようには見えない。 会った頃に告げられた話を思い出して聞き返す。 ﹁っていうか最近盗人に一家惨殺されたとかそう云う話じゃなかっ たか?﹂ ﹁あれはまあ、合って無くもないのだが大体嘘だ。昔に悪い魔女に ⋮⋮﹂ そこまで言いかけて、九郎は言葉を切って甘酒をもろもろと飲ん だ。粕の半ば溶けたような異物感と甘みが口に広がる。 ﹁││なんというか、色々あってのう﹂ ﹁話すの面倒になっただろ、今。⋮⋮まあいいけどさ﹂ 誤魔化された扱いを受けて、不満そうにお八は甘酒を一気飲みす る。よくもこのもろもろを一気に嚥下出来るものだと九郎は感心し た。 彼女は空に為った湯のみを置いて、九郎の眠そうな目をじっと見 ながら云う。 ﹁昔に何が合ったかは知らねーけど、今九郎はここに居るんだから さ││ちゃんと生きろよ﹂ ﹁⋮⋮ぬう﹂ 1060 九郎は眉間に皺を寄せて、軽く片手で頭を抱えた。 顔に影が差したように見える。 急な頭痛を起こしたかの如き仕草に、お八は、 ﹁大丈夫か?﹂ と、言いながら彼の背中を擦る。 彼は不安がった子供を宥める笑みを見せつつ、 ﹁いや、忘れてたのだが昔、同じようなことを言われてのう。まっ たく、年は食ってるのに子供に注意されてばかりだ﹂ ﹁そんなもんだろ。父ちゃんにだって年がら注意しっぱなしなんだ ぜこのお八ちゃんは﹂ ﹁そうか、そうか﹂ 自慢気に云うのでわしわしと彼女の頭を撫でてやった。 止めろと言いながらばたばたと暴れる仕草が子犬のようで可愛ら しい。本当に、娘か孫が居たらこんな感じだったかもしれない。 いや││ ︵会った頃の魔女が、こうであったなあ︶ と、懐かしむ思いを浮かべた。 その後も暫くお八と雑談して、初詣の約束をしてから別れるので あった。 彼女と会話していて思い出した魔女との約束。長い間忘れていた が、確かに交わしたそれは⋮⋮ ﹃クロウ、あなたと私はロックンローラーになるのです﹄ 1061 ︵⋮⋮いや!? 違ったよな!?︶ ラ ぶんぶんと頭を振って間違って隆起した記憶を修正しようとする イブ が、正しい内容は思い出せなかった。しかし二人で歌神信仰者の祈 祷会場に乱入して豚の血を撒いた事は確かにあった。マジギレした 歌神司祭達が殴打用ギターを持って襲いかかってきた。終わった後、 よく考えたら豚の血はロックじゃないよね別ジャンルだよねって話 し合ったりした。 余計な内容が思い出されて、肝心な事は浮かび上がってこなかっ た。加齢による記憶の集積構造に歪みが生じ、物忘れが多くなって いるのかもしれない。 まあとにかく、昔に魔女にも叱られた事は確かにあったのだ。惰 性で生きるな、人生を楽しめ。そのような内容だったが、 ︵お主は幸せだっただろうか⋮⋮︶ 散々に手を焼かされた魔女だったが、彼女が行った悪事で最も大 きいのが九郎を逃して死んだ事なのだと彼は思っている。孫のよう に思っていた娘を犠牲に生き残らせられたのだ。裏切られた気分で あった。 日がだんだん落ちて来ている。九郎は身震いをして、家に戻るこ とにした。 祭り囃子が響いている。犬も年の瀬で陽気なのか、首に鳴子を飾 った犬が歩いているのを何度か見かけた。 ***** 1062 ﹁うううう∼!﹂ ﹁そんなに縋りつかれても﹂ 江戸の麹町にある読本、浮世絵などの版元、[為出版]の前で一 人の老人が若い女に絡まれていた。 真っ白い髪を書生風に括り、髭や眉毛まで雪のように白くなって いる男は天爵堂という物書きである。それの袖にしがみついている 二十歳前後の町娘は、百川子興という絵描きだ。 二人はコンビを組んで娯楽向けの読本を連載している仲であるの だが、この日は偶々年末の挨拶回りに来ていた天爵堂を子興が捕ま えて唸っているのである。 いい年の女が、涙目で鼻を啜りながら。 天爵堂は心底迷惑そうな色を隠そうとせずに、 ﹁わかった、話ぐらいは聞いてあげるから落ち着きなさい﹂ そう言って何とか着物に鼻水などが付く前に引き剥がした。 子興は手元に紙の束を持ちながら、 ﹁大変なんです! 師匠から出された課題で、宝船の絵を一日ずっ と描けるだけ描けって言われて⋮⋮終わったら描いた分を全部他所 で売らなければいけないって言われてて! わたしだけ課題達成出 来てないんです! 売れてないんです!﹂ ﹁そうかそれは大変だね。よし、後で船月堂にはよく言い聞かせて おくから。それじゃあ﹂ ﹁今見捨てる気満々じゃないですかああ!﹂ 1063 適当にあしらって立ち去ろうとした天爵堂の袖を破れんばかりに 引っ張った。 それは困ると判断して仕方なく立ち止まる。 子供のような泣き顔を見せる子興に対し、露骨にため息をついた。 仕方なく、その場所にあった茶店の外席に座り汁粉と茶を注文し話 を聞くことにした。 ﹁大体、宝船の絵なんて大晦日前に買っているのが普通だろう﹂ みなめさ おとのよきかな]と云う回文にもなっている とおのねふりの 当時、江戸では正月の縁起物として宝船の絵を用意する風習があ った。 なみのりふねの 墨で描かれたその絵に[なかきよの め 句を添えたものを布団に入れると吉夢が見られるのだという。 正月の需要という点では確かにある商品なのだが、どうもこの娘 は売り方が下手というか、営業の出来ない性質のようである。 彼は子興の描いた宝船の絵を見ながら、眉をひそめて尋ねる。 ﹁それにこの絵はまた難解な。宝船に丁寧に七福神を描いているの はいいとして、どうして弁財天が大きく描かれているのだ?﹂ 宝船の上に簡略化された七福神のうちの六神が乗っていて、宝船 自体は弁財天の掌の上に乗っているというダイナミックな構図の絵 である。 子興はもごもごと目を逸らしながら、 ﹁だって、師匠が来年こそ巨女の絵柄が流行するって言うから⋮⋮﹂ ﹁戯言を真に受けてどうするんだ﹂ ﹁そ、それに弁財天はほら、財宝の神様だから縁起がいいじゃない ですかあ!﹂ 1064 ﹁その安易な考えがいけない﹂ 天爵堂はいいかい? と出来の悪い生徒に言い聞かせるように、 ﹁大体、財宝を司るのは恵比寿も毘沙門も変わらないだろう。五行 陰陽と新年の縁起で考えてみたまえ。新たな年を迎えるのだから陽 の気質を備えなければならないだろう? 弁財天は水の神。恵比寿も元々は蛭子で属性は水。毘沙門天は戦 と富という点から見れば金。福禄寿と寿老人は共に南極老人が元だ。 これらは長寿を司ることから木の質を持つ。布袋では[ふくろ]の 語源は[布黒]という中の闇を表すから陰。 となれば、元々太陽の気を持つ神が大国主と習合した大黒天こそ を主体にするのが正月の縁起物としての当然ではないのかい?﹂ 彼は朱子学を修めている学者だが、持ち前の読書好きが講じて儒 学や五行思想、易学などにも通じている。普段は子供相手に読み書 きを教える隠居暮らしなので喋る機会はないが、時折こうして子興 などが謎の理屈を語る相手となるのだ。合ってるかどうかは不明で ある。 ﹁う、うぐうう⋮⋮天爵堂先生、師匠みたいな事を言う⋮⋮﹂ ﹁それに大黒天を描いたとなれば浅草寺や神田明神で祀っているか らそこで売れただろうに﹂ ﹁い、いまさら絵の内容から否定に入らないでくださいよう!﹂ どちらにせよ、描いたものを売らなくてならないのだ。天爵堂の 駄目出しなど、子興の心を抉る結果しか産まない。 ﹁ううう、北川どころかお房ちゃんまでこの課題合格してるのに⋮ ⋮わたしって絵の才能無いのかな⋮⋮﹂ 1065 ﹁⋮⋮なんでそう思うんだい?﹂ ﹁だって、わたしの絵は師匠やお房ちゃんみたいに愛嬌は無いし、 北川みたいに色気も出せないし、奇をてらったものを描いても天爵 堂先生の助けがないと売れないし⋮⋮﹂ ﹁ばかばかしい﹂ めそめそとした子興の弱音を、乱暴な程の物言いでばっさりと老 人は切り捨てた。 強い言葉にむしろ彼女は余計に顔を暗くする。 ﹁いいかい、百川君。そんなものはただの主観だ。技巧だとか、売 上だとかは凡百な評価基準にすぎないよ。もっと本質的な評価を考 えよう﹂ ﹁本質的な⋮⋮?﹂ ﹁絵でも書でも剣でも思想でもいいけれどね。一番の評価というも のは[歴史]だ。自分が歴史に名を残せるかが最も大切な評価だと 僕は思っている﹂ ﹁歴史⋮⋮あの、わ、わたしは歴史に名を残せる程の絵描きになれ るでしょうか?﹂ ﹁そうだね。僕は特に、君の描く猫の絵は嫌いじゃない。自信を持 ちなさい。そして弛まずに努力をすればきっと後世にも君の絵は残 るだろう﹂ ﹁よ、ようし! 猫! 猫ですね! やっぱりか、にゃんこんちく しょう!﹂ 拳を握りしめ鼻息を荒く、先程までの落ち込みをもう奮起に変え た女絵描きに、天爵堂は困ったように笑った。 何故かこの、必死な娘にはつい手を貸してしまう。時に弱気で落 ち込み、それでも我武者羅に絵を描き認められようとする彼女は、 1066 ︵誰かに似ている⋮⋮︶ と、苦笑が溢れるのである。 立ち上がった子興は天爵堂の腕を掴んで、 ﹁とりあえず歴史に名を残す為に! この宝船を頑張って売りまし ょう先生!﹂ ﹁やれやれ。仕方ない﹂ のそのそと彼も立って、さてもう夕暮れだというのに何処で売ろ うかと考えを巡らせるのであった。 ││後に、百川子興の描いた代表作﹃美人に猫図﹄は、現在も東 京国立博物館に所蔵されている。 この女人と猫を合わせた構図は他の絵描きにも見られるものだが、 子興の描いたそれは親しみのある黒い着物の美女と、嬉しそうに転 がった猫を描いた柔らかな絵柄の作品である⋮⋮。 ﹁あ。ところで歴史に名を残さないといけないなら、なんで先生[ おにゃん恋物語]の最後に必ず﹃読後焼却すべし﹄って一文を書い てるんですか!?﹂ ﹁⋮⋮残したくない歴史もあるということさ﹂ ***** 1067 炬燵というと、この時代には個人用の小さいものが主流であった。 構造は単純で火鉢の上に布団を被せるだけという簡単なものであ る。大炬燵という大勢が入れる物も無くはないのだが、あまり普及 していない。 緑のむじな亭では九郎の日曜大工と、お八が練習代わりに縫った 炬燵布団を使って現代日本で一般的に見られる、テーブル式のそれ なりに大きな炬燵を用意していた。 火元は炎熱呪符を加減して使用しているので火災も起きない安全 設計だ。 大晦日の夜である。炬燵の四辺にそれぞれが入り過ごしていた。 九郎、石燕、タマがそれぞれ三辺に。残りの一片に折り重なるよ うにお房、お雪、六科が座っている。百川子興は課題を終え次第狩 野派の集まりに参加する為、石燕も神楽坂の家を閉めてこちらに来 ているのだ。彼女の家には豪華に鮑を餌として入れられた星形のヒ トデが留守番している。 じわじわと年の終わりが近づいてくる足音を伺うように、皆のん びりとしている。時折、タマがキリッとした顔になるが、それ以外 は平穏だ。 六科の膝に座り、自分の膝にお房を載せているお雪は、 ﹁あったかぁ﹂ などとほっこり呟いている。 九郎は酒をちびちびと舐めながら、 ﹁そうしていると親子にしか見えんな﹂ ﹁やぁですよう九郎殿。六科様と夫婦に見えるなんて! うふふ﹂ ﹁そこまでポジティブに捉えなくても。それにどっちかと云うとお 主も娘のようだぞ﹂ 1068 確か、年は二十前後だったとはいえお雪はまだ十六、七程度の娘 に見えるのだ。ちょうど、お房の姉みたいである。 冬になればよくその三人が猿団子の如く温まっているのを見るが、 ﹁なぜそんな体勢で?﹂ 聞くと、六科が小さく頷いた。顔のすぐ下にお雪の頭があるので、 ほんの少しの頷き度だ。 ﹁話すと長くなるのだが﹂ ﹁ほう﹂ ﹁こうしようと前に決めたからだ﹂ ﹁⋮⋮﹂ そこで言葉を止めて、彼は熱燗を飲み、再び黙った。 暫く待って、タマが尋ねる。 ﹁え? それだけ?﹂ ﹁長くないどころか何一つ分からんかった⋮⋮﹂ ﹁ふふ﹂ 呆れる九郎とタマを石燕が軽く笑った。まだ彼女の目の前の銚子 は一本目だ。いつもはぐいぐい飲むのだが、今日のペースは遅い。 変わってお雪が説明をする。 めしい ﹁それはですねえ。わたしはこの通り火に巻かれて盲て居るのです。 それで、小さい頃は火などに近づくのが恐ろしくて⋮⋮。 お六さんがでも寒いだろうとこの抱き方を考えてくださいました のですよう。昔はお房ちゃんの位置にわたしだったんですけれど﹂ 1069 ﹁あったかーなの﹂ ほかほかとお房も声を出す。なんとも仲の良い姉妹のようだ。 実際にお雪の為に六科親子は日頃何かと世話をしている。冬場に なって多いのが、湯屋にいけぬお雪の為にぬるま湯を盥に用意して やることだ。これも九郎が術符を提供するようになってからとても 楽になった。 ちなみに、お雪当人はまったく判断できる要素がないので美醜に ついてわからないのだが、色白でほっそりと整った体つきの彼女の 湯浴みを覗こうとする長屋の男連中も居るが。見つかったら主に長 屋に住む他の女衆に半殺しにされるという。 ﹁何なら九郎君も私の膝の上に乗るかね?﹂ ﹁いや、お主の前は胸が邪魔そうだから遠慮しておこう﹂ ﹁胸を邪魔と言い切った!?﹂ 真顔で即答した九郎の言葉にタマが驚き声を上げる。そうか⋮⋮ このレベルで女に不自由していない人間だと胸とかむしろ邪魔なの か⋮⋮と尊敬の眼差しを送りつつ、邪魔扱いされた石燕の胸を一度 見てキメ顔で虚空を眺めた。 お房が、 ﹁あ、そういえばお父さんとお雪さんにあたいが宝船をあげるの。 お父さんはこっちで、お雪さんはこの折り紙で作ったやつ﹂ ﹁あらあら⋮⋮うふふ、嬉しい﹂ 少女の心尽くしにお雪は嬉しくなって、盲である彼女の為に舟の 形に折られた紙をそっと手に取ってお房を背中からぎゅっと抱きし めた。 六科もお房の絵を見て、 1070 ﹁うむ。うまいぞ﹂ ﹁えへへ﹂ と、褒めて頭を撫でる。タマが覗きこむようにしてその絵を見る と、 ﹁うわ。本当に上手だ⋮⋮﹂ ﹁タマの分もあげるから、しっかり来年も働くの﹂ ﹁ありがとうお房ちゃん!﹂ そう言って彼にも一枚宝船を渡す。 九郎はじっと自分の分を待っていたのだが、声は石燕から掛かっ た。 ﹁安心したまえ九郎君! 君の分は私が描いたともふふふ。この江 戸に名高き鳥山石燕のパネエ宝船を見て喜ぶがいい褒めるがいい﹂ やはりいつも通り胸元から紙を取り出して、ばんと叩きつけるよ うに九郎の目の前に広げて出した。 ﹁これが! 私の力作﹃タカラ戦艦トミー﹄だよ!﹂ ﹁戦艦!? ちょっと待てどっかで見たことのあるタカラトミーな マークがついておるぞ!?﹂ ﹁ふふふ何を言っているのかね。宝船なのだよ? 宝とか富ーとか そう云うしるしを付けるのはむしろ当然ではないか!﹂ ﹁富ー云うな!﹂ どう見ても宇宙戦艦に見えるその宝船は商標登録が怪しいパチメ ーカー品にしか思えなかった。 1071 ダイナミックな輪郭だというのに細部まで細かく描かれていて絵 の技巧で言えば間違いなく素晴らしいのだが。 笑いながらツッコミを入れていると、外からパラパラと霰のよう な音がして、次にざ、と大粒の雨が降り出したのが聞こえた。 ﹁雨か?﹂ ﹁なに、初日の出までには止むさ。日が落ちる前に見た雲の動きで わかる﹂ そう自信ありげに答える石燕であった。 ***** その頃、日暮里豊島では⋮⋮。 千住大橋を更に下った先で、十数隻の舟と何処にでもいる町人の 格好をした集団が、ひっそりと集まっていた。 田地も多く残るその土地は真っ暗で他に人の気配は無いが、川の 辺りに集まった彼らは一見、日の出まで待つ一団に見える。 実際に江戸の橋や海沿いには大晦日に多くの出店が現れ、日の出 まで酒を飲み騒ぐ町人が多かったという。 だから、そこに集まった彼らも怪しまれる事は無いだろうという 算段だ。 その集団は抜荷││密貿易をした品を江戸に運び込む犯罪組織な のである。 幕府は強く抜荷を取り締まり、厳罰を処しているが江戸に大阪、 長崎や松前など多くの人が集まる場所や外国との窓口になり得る港 1072 では、いかに取り締まろうとも抜荷は続けられていたと言われてい る。 怪しまれぬように平服を着た集団は手早く取引を済ませていく。 手続きには厳しい認証が必要で、入れ替わりなどを防いでいる。 ﹁どうぞ﹂ そう言って竹筆を一人の男に渡したのは、狐面を付けた薬師││ 安倍将翁である。 竹筆を受け取った男はそれを半ばから折ると、分割面に隠された 練香の匂いを嗅いで部下に指示を出す。予め特別に調合された香の 匂いを合わせることで割符の代わりにしているのである。 将翁がやがて、どさりと布と油紙で包まれた物品を受け取り、切 り餅と呼ばれる小判の包みを三百両支払った。 小判の枚数を素早く数えている男は数えながら何気なく相手に声 をかける。 ﹁しかし先生よォ。売っといて何だがこいつは酷ェヤクだぜ。体も 心も人生もぶっ壊しちまう、毒みてェなもんだが⋮⋮﹂ ﹁勿論承知の上、ですよ﹂ 彼は狐面を左右に振って、﹁くく﹂と笑った。 ﹁機を以て機を奪い、毒を以て毒を制す││なんて言いますがね﹂ ﹁ふゥ、まあこっちは金が貰えればいいけど﹂ 数え終わった男が、よしと周りに合図を出して離れていく。 将翁は大事そうに渡された重箱ほどの大きさの包みを、背負って いた薬箪笥にしまい担ぎなおす。 ちょうどその時、どよめきが起きた。 1073 ﹁おい、遠くからこっちに来てるの⋮⋮﹂ 川沿いの道を近づいていくる提灯がある。 見ている間に一つ、二つと灯っている数が増えてあっという間に 数えきれない提灯が包囲の形を作って上流と下流方向に存在してい た。 提灯には全て[御用]と文字が書かれている。 ﹁奉行所の手入れだ! 逃げろ!﹂ 大声で警告の叫びが回ると同時に、提灯持ちが速度を上げて迫っ てくる。馬に乗って指示を出しているのは奉行だろうか。予め準備 をしていて奉行所がここを張っていたのだろう。 川からも御用の提灯を灯した舟が何隻も見える。こうなれば海上 も封鎖されている可能性が高い。この場に集まった密貿易組織全員 の顔が青くなった。抜荷の罪はほぼ死罪である。 ﹁おや、おや﹂ 将翁はのんびりとした声音で呟いて、冷静に持ってきていた蛇の 目傘を開く。 右往左往する男達を尻目に、悠然と歩き出した。 ﹁ちょいと、用事があるから捕まるわけにゃ││いかんでしょうぜ﹂ 彼がそう告げて、くいと狐面の鼻先を夜空に向ける。 先ほどまで見えていた星が隠れ、にわかに密雲が大晦日の空に重 たく伸し掛かっていた。 1074 ││しゃん、から、ら、から、ら、ら。 音が││。 日暮里を囲む田園から音が鳴る。 まるで祭り囃子のような規則のある音だ。 四方八方から、無数の音がからからと響き渡る。 ﹁句句廼馳に鎮め祓う││宇の天つ水﹂ みぞれ 将翁の小さな呼びかけと共に囃子の音は更に大きく鳴り響き、や がて││ 彼の見上げた空から大粒の霙が激しく降りだした。 僅かな間に夜闇もあって一尺先すら見えぬ大雨だ。奉行所が持ち だした提灯の明かりも次々と消えていく。 雨音と鳴子に響く音が重なり、その場に居た悪党も町方の役人も 方向感覚すら覚束ない大変な天気の中、高下駄を履いた将翁はゆる りと立ち去っていく。 ﹁高砂や││嬉し涙か、あまきつね。めでたくもあり、めでたくも なし││ってね﹂ ***** 雨の降りだす少し前││。 芝界隈にある料理屋の二階に、狩野派の絵師が集まり宴会を行っ ていた。 1075 狩野派と云うと集まり分業で幕府御用達の絵を完成させる一派と、 また別に町絵師として活躍する一派がある。 ここに集まったのは後者が多いだろうか。 個人の能力で絵を作る絵師達はまた個性的な者も多々居て、珍し く集まるこの場では激しい議論なども繰り広げられていた。 ﹁だから! そんな巨大蛸と人体が絡むなんて現実的じゃないって 麻呂は言ってるんだ! 普通の蛸にしがみつかれただけで、ほら! こんなに痕が残る! 麻呂は詳しいんだぞ!﹂ ﹁おれの絵に出てくる蛸はそんなに強い吸盤を持たないし、分泌さ れる粘液は女の人をいやらしくさせる効果があるんだ! 絵の横に 喘いでいる文を付け加えればほら!﹂ ﹁うるせえこの鉄棒ぬらぬら野郎!﹂ などと騒ぎあい、正月に飾るはずだった門松に使う竹を槍のよう にして暴れている。 一人、窓際で酒を飲んでいる大晦日だというのに灼けた銅を飲ん だ閻魔のような不機嫌そうに見える男に、絵を売り切って開放され た百川子興は話しかけた。 実際に不機嫌というわけではないと知っていたからだ。知り合い は彼の口の中に苦虫が巣を作っているのだと噂している。 ﹁佐脇さ∼ん⋮⋮あれを止めてくださいよう﹂ ﹁お互いに画風で議論を交わしているんだろう。妖怪か、鏡の話題 になったら仲裁しなくもないがね﹂ ﹁ううう、現世のことに興味が無い過ぎる⋮⋮﹂ 妖怪絵師って皆こうなのかしら、と子興は思いつつ、マイペース に酒を飲む佐脇嵩之を眺めた。 彼女の師匠と同じ分類の画家となれば多少変でも納得がいくのか 1076 もしれない。 余談だが、今だに佐脇と石燕は直接出会ったことは無い。狭い業 界の同じ画風となれば関わりもあるのが普通なのだが。 ﹁ぬあー!﹂ ﹁ああ! また北川さんの尻に竹槍が!﹂ などと彼が観察する眼前で騒ぎが起きていると、ばたばたと屋根 を打つ音が聞こえてすぐに雨が降ってきたのだとしれた。 佐脇は風情の為に開けていた窓を半分閉めつつ、 ﹁さっきまで晴れていたのだが⋮⋮おや﹂ と、呟いた。 彼は半分に閉めた窓の隙間から、外を眺めつつ云う。 ﹁成程、狐の嫁入り⋮⋮か﹂ 二階から見下ろす道を、狐火が並んで進んでいっていた。 毎年大晦日には関東八カ国の狐が江戸・装束榎に集まり、狐火を 見せると謂われている。 麻呂と争っていた少年が、 ﹁え!? 誰か狐の嫁さんが出来るんですか許せねえ!﹂ と、意気込むので佐脇は腕を組みながら。 ﹁そうだね諸君。折角だから日本の狐妖怪に関する僕なりの話でも 聞かせてあげよう。大陸から仏教、儒教と共に渡ってきた狐に関す る妖怪が土地神としての稲荷と朝廷に仕える陰陽師に取り入れられ 1077 たと言われているが、嫁入り話というとその原点としては、僕は北 国から伝わる狐の神について││﹂ ︵あ、これ長くなるわ⋮⋮︶ 解説しだした佐脇に、その場に居た全員がそう思った。 普段は無愛想に見える寂れた鏡屋の主なのだが、一旦妖怪か鏡に ついて語りだすと止まらない。 それでもこの絵描きたちの中では先輩にあたり、そもそもこの宴 会をやっている店も彼と彼の師匠が借りたものなので全員正座をし て聞かされる。 ふと、こちらを向いている佐脇の背後││窓に女の人影が稲光で 一瞬だけ見えた ﹁うわああ!?﹂ 目撃したのは一人ではないらしい。複数の人間が指をさして転げ るようにする。 片目を跳ね上げて佐脇が話の腰を折られたことに不満気に、 ﹁どうしたのだ?﹂ ﹁さ、佐脇さんの後ろに女の姿が⋮⋮﹂ ﹁おいおい君たち、ここは二階だぜ? 窓の外は人が乗れるところ はないんだ﹂ そう言って振り向き、無遠慮に窓を開けて周囲を確認する。何も 居ないし、通りからこの窓を覗きこむには身の丈八尺以上は必要だ ろう。 絵描きの一人は震えながら、 1078 ﹁お、おれ聞いたことがある⋮⋮背の異様に高い女の幽霊が追いか けてくるって怪談! 戸を夜中にばんばん叩くんだよ!﹂ ﹁あれだろ? 寺に駆け込んだら﹃お前たち何をしたっ!﹄って凄 い怒られる系の⋮⋮﹂ ﹁なんか一時期から増えたよなその系統の話⋮⋮﹂ 怯えながら絵描き達は顔を青くして囁き合う。 佐脇がそれならばと高女や見越し入道について解説してやろうか と思ったところで、子興が大声を上げて立ち上がった。 ﹁え!? じゃあそれって⋮⋮巨女の流行来てるってことですか! ?﹂ ﹁いや、それは来ねえわ﹂ 全員、即座にツッコミを入れたという。 ***** 伝馬町牢屋敷にて。 大晦日の寒気に震えている男が居た。 名を菅山利悟。町奉行所の同心である。 牢の中で罪人と同じ生活を余儀なくさせられているが、実のとこ ろ彼は罪人ではない。 1079 牢に寝泊まりする罪人の中に、詮議中で重要な証拠を持っている やつが居て、彼を牢内で殺させぬ為に利悟は潜入しているのだ。 当時、牢の中は役人ですら権限が及ばぬ牢人たち独自の社会制度 が敷かれていた。頭は当然牢名主だ。牢の環境は当然だが現代に比 べて良いとはいえず、牢内で死人が出ることもあり、それらは病死 として扱われるのであった。 特に嫌われる職業││役人の手先、金貸し、楼主など││が居た 場合、それらは密かに殺されていたという。 利悟が守らねばならないのは大きな密貿易組織の構成員である。 牢内に刺客を送り込むという事も充分に考えられるという判断を町 奉行の大岡忠相が下し、奉行所で牢に入っても違和感がない番付一 位の利悟が遣わされた。 単に殺させないだけならば、隔離するなどの方法も取れるが敢え て証言を取らせる為に、 ﹁一度、殺されかければ義理も尽きて口を割るだろう﹂ と、大岡忠相の判断である。それでいて実際に殺されてはならな いのだから、監視も大変なことであった。 利悟の罪状はリアリティを出すために、稚児暴行をした浪人とい う不名誉なことになっている。これもまた、牢内で腐れ外道だと思 われて狙われる罪状であった。 彼は目的の罪人の身を守りつつ、自分の身も守らねばならない。 牢に入ってから、特に夜にはウトウトとも出来ぬ生活を続けてい た。 下っ端とはいえ徳川に仕える侍が、大晦日や元旦に先祖親戚に挨 拶にもいけずに牢で憔悴している。涙が出そうだった。それでも仕 事なのだ。これを名誉と思いやり遂げなければならない。 ﹁おい! お前等 今日は大晦日だから蕎麦を食わせてやる! 親 1080 分に感謝しろ!﹂ と、牢屋番が大きな鍋と沢山の器を持ってきて叫んだ。 夕飯︵玄米と漬物、白湯で終わりな普段の飯に加えて蜜柑が一人 半分ずつ出た︶を終えた後に言われて牢内の罪人はどよめきだった。 この場合の親分というのは、牢名主のことである。勿論牢名主の 権力で夜食の差し入れをするなど不可能なので普通に奉行所が用意 したのだが、上役が任命して牢内の治安管理を任せた牢名主への感 謝を牢人に与えるためにこう言っているのである。 このような時節に合わせて罪人にハレの食を与えるのは単に慈悲 なのではなく、役人も祝日であるので常勤を減らしている為にこの 日に反乱や脱獄をされても困るから敢えて豪華な飯を振舞っている のだ。 一杯ずつ椀に入れられた年越し蕎麦を受け取り、牢名主へ感謝の 言葉を云う。 利悟も当然そう云った。 牢の中の男たちは、 ﹁おれ、年越し蕎麦なんて娑婆じゃ食ったことねえや。牢に入れら れて初めて食う﹂ ﹁あんなに豪華な夕飯を食ったってのに、もう飯か。腹がはちきれ ちまうぜ﹂ 感動しつつ、蕎麦が全員に行き渡って一斉に食った。 牢で食う蕎麦など、どうせ塩を溶かした汁にぼそぼその蕎麦がき を入れたようなものだと利悟は思っていたのだが。 せめて牢の中で仕事をしている利悟を労う大岡忠相の指示により、 まともなかけ蕎麦であった為に、 ﹁う、うめえ﹂ 1081 と、利悟は││いや、牢の皆はほろりと涙を流しながら蕎麦を啜 った。 簡単に出汁を付けただけの蕎麦だったが、牢の中で食う飯では一 等に美味かった。 利悟は大岡忠相よりも何故か牢名主に感謝の思いを持って、泣き ながら食った。ありがとう牢名主。正月七日過ぎて八日には死罪が 決まっている牢名主。本当にありがとう。 ***** 除夜の鐘が鳴る。 当時は現代で云うところの、十時ぐらいから多くの寺で鳴らし続 けていたそうだ。 その遠く響く音は多くの人たちに年明けを知らしめる。 ﹁新年の祝い、私の故郷ではワインを飲みつつメリークリスマス叫 んで高所から飛び降りマース﹂ ﹁やらなくていいから﹂ ﹁OH...﹂ ﹁やれやれ。葡萄酒を飲むぐらいはいいぞ﹂ カピタン 江戸までついてきてそのまま警護していた長崎奉行が、土下座し たままの阿蘭陀商館長に冷たく返しつつ、彼の部下から持たされた ワインをお互いの茶碗に注いだ。 1082 ﹁雨次ー! あけましておめでとー!﹂ ﹁去年も云ったけど、夜中に来るなよ⋮⋮暗くて危ないんだから﹂ ﹁えー? だって雨次に早く言いたいし。雨次だって、わたしが来 ると思って外で待ってたじゃない!﹂ ﹁⋮⋮まあ、それはそれとして﹂ どん く 千駄ヶ谷の片隅で無邪気な少女が捻くれた少年に会いに来ていた。 ﹁よォし! 年明けに一発肝練りをすッが!﹂ だい ﹁よか! やッど!﹂ ﹁誰か鹿屋殿の屋敷に使いを送ィ、きもねりんば引ッて来い!﹂ ﹁わかり申したァ∼ッ!﹂ 薩摩中屋敷ではにわかに騒ぎが起こっていた。 江戸の町では、各々が、新しい年を祝っている⋮⋮。 ***** 夜明け前││。 緑のむじな亭の炬燵に入っているのは、九郎と石燕だけになって いた。 1083 各々、除夜の鐘を聴いた後布団に向かったのである。九郎は乾燥 すごろく する唇を潤すように酒を舐めながら、石燕の作業を眺めていた。 彼女は暇を持て余していた為に、正月に遊ぶ双六を自作している のだ。半紙何枚にも渡る大作である。 夜通しで九郎の昔話などをせがまれた為に、いい加減話す事も思 い出せなくなっていた。何故か本当に混ぜて架空の作り話を喋って もすぐに石燕にはバレてしまう。どうでもいい事だが、老人の自慢 くしゃみ 話に交じる嘘を説破しないで欲しい。 ﹁へっくし﹂ 石燕が小さく嚔をしたので、九郎が心配して声をかける。 ﹁寒いのならば寝ればどうだ。初日の出の時には起こしてやるぞ。 お主は体が強くないのだから﹂ ﹁大丈夫だよ。それに寝ずに初日の出を見て深呼吸すれば寿命が伸 びると言われていてね﹂ ﹁ほう﹂ ﹁他にも若水を汲んで飲めば寿命が伸びる。恵方参りをすると寿命 が伸びる。福茶を飲むと寿命が伸びる。屠蘇散を飲むと寿命が伸び る。 三が日楽をすると寿命が伸びる。勝負事をすれば勝っても負けて も寿命が伸びる。初猥談をすれば寿命が伸びる。初風呂で寿命が伸 びるなどとおまじないがあるね﹂ ﹁どれだけ正月で寿命を伸ばす気だ、江戸の奴らは﹂ 毎年全部やっていたら寿命がカンストしてしまいそうだと感じた。 彼女はにやけた顔をして九郎を見ながら、 ﹁あ、しかし元旦の閨事は寿命を縮めるらしいから││いけないよ 1084 ?﹂ ﹁普段しているような言い方をするでない﹂ ﹁じゃあ猥談でもしようか。ひかがみっていいよね⋮⋮﹂ ﹁なんでそんな部位にエロ反応をせねばならぬ。福茶でも作ってや るから待っておれ﹂ そう言って九郎は炬燵から出て井戸に水を汲みに行った。 元旦に初めて汲んだ水を若水という。これを神棚に供え、また家 族の食事などに使用することで年の邪気を祓うとされている。 若水を使って福茶を作る。作り方は簡単で、塩昆布と梅漬けを湯 のみに入れて沸かした湯を注ぐだけである。 九郎は炬燵にいそいそと戻ってきて、自分と石燕の前に福茶を置 く。 ﹁ありがとう、九郎君﹂ ﹁うむ⋮⋮しかし何だ。あまり旨いものでもないな、これ﹂ 九郎がちみちみと福茶を飲みながら云う。 苦笑気味に石燕が、 ﹁まあ、お湯に昆布と梅を入れただけだからね。塩っぱいような酸 っぱいような、あとほんのり昆布味さ﹂ ﹁旨くは無いが⋮⋮しみじみとした味だな﹂ ﹁そうだね﹂ 暫く無言で福茶を啜る。 ぼんやりと九郎の方から呟かれた。 ﹁寿命か⋮⋮﹂ ﹁九郎君。その悩みは贅沢というものだよ﹂ 1085 ﹁⋮⋮言いかけた言葉を先読みするでない﹂ 石燕は澄まし顔で茶を飲みながら、 ﹁どうせ自分は人並みの寿命で良かったのになあと若返ったことに 対する不満でも云うのだろう? まったく。君は死ぬのが怖いと言 っていたじゃないか﹂ ﹁そうだがのう。若返った後に色々やって、楽しみもしたがな。老 いている昔馴染みなどに出会うと、どうも辛かった。皆良いやつば かりだった恨み事など言われなかったが、どうせならあいつらと同 じ老人仲間でありたかったと思えてなあ。若い奴は先に死んでいく し⋮⋮﹂ ﹁正月から気鬱な話をするね。いいかね九郎君。散々おまじないを やっていて何だが、寿命がどうとかは大した問題ではないのだよ﹂ 大きく肩を竦めながら、 ﹁明日にでも隕石が頭に直撃して死ぬかもしれないと思えば、百年 二百年寿命が残ってようが無意味だろう? 大事なのは、最期の時 まで楽しんで好きなことをしていられるかだ。君が本当にやりたい ことはなんだね? あっ﹂ 彼女はさっと己の体を抱いて、斜めから九郎を見た。 ﹁⋮⋮閨事は寿命が縮むから駄目だよ?﹂ ﹁いや、しないから。というか出来ぬから。ぴくりともせぬから﹂ 言って、九郎はふと外を見た。 ﹁む、そろそろ日の出かもしれぬ。先程井戸に出た空の色からする 1086 とな﹂ ﹁それでは初日の出でも見に行こうかね﹂ ﹁何処に行くのだ? 橋か海あたりか?﹂ ﹁⋮⋮そうだね、どうせなら││﹂ 石燕の提案に九郎やや戸惑ったが頷いた。 冷えないように九郎が着ていた半纏を石燕に重ね着をしてやり、 彼女をおぶって家の外に出る。 雨は止んでいたが、とても寒い。白い息が二人の口から漏れる。 深い青色の空は既に薄明るい程度に照らされているが、日はまだ出 てこない。 ﹁よく掴まっておれよ﹂ 背中の彼女がぎゅっと九郎にしがみついている事を確認して、彼 は店の前に置いていた梯子を使い手早く屋根に昇る。 緑のむじな亭の屋根の上で初日の出を見ようとしているのである。 屋根の真ん中まで石燕を落とさぬように運んで、二人は並んで腰 をかけた。肩がくっつくほどに近い距離だ。 海の方を見る。 水平線の彼方から徐々に明るくなっていくのがわかった。 九郎はふと、半年程前に石燕と江ノ島で朝日を見たことを思い出 した。 恐らく、石燕もそれを思っている。 お互いに言葉は無かった。ただ、朝日を待っていた。 やがて、日が昇る。 ﹁⋮⋮石燕﹂ 1087 何故か泣いていた石燕に、九郎は手拭いを渡した。 彼女は一度だけ涙を拭いて、 ﹁いや⋮⋮初めて見た気がしてね。初日の出を⋮⋮おかしいね?﹂ ﹁││なあ、お主⋮⋮﹂ 九郎が何か告げようとしたが石燕がなんとも言えない笑顔で彼の 言葉を拾うように遮った。 言いにくそうな、当人にもよくわからない事を察したのかもしれ ない。 ﹁当然、幸せな人生さ。ふふふ﹂ ﹁⋮⋮己れは、あけましておめでとうと言おうとしたのだ﹂ ﹁ん。おめでとう。九郎君﹂ それだけ、言葉を交わして、暫く二人で日の出を見ていた。 毎日変わらぬように出てくる太陽だというのに、何故かそれは感 情を動かす光であった。 ***** 1088 サッチモ船長が月面に着陸してから早10世紀が経過した。宇宙 の海を行くタカラ戦艦トミーはキャプテン・クロウの居眠り運転に より衝突事故を起こしている。 相手がデブリか交渉不能のエイリアンならば自損事故で済ませた のだが生憎と個人所有の怪しげな扉に船首から突っ込んでしまった のである。 戦艦自体は玩具会社が製作しているだけあって頑丈性と安全性に 優れているのではあるが、図らずもラムアタックで強襲揚陸したキ ャプクロに当然のように苦情を寄せるのは、虹色の髪をした少女│ │魔王である。 ﹁くーちゃあああああん! 馬鹿なの君は馬鹿でしょ! 我の固有 次元に来るのはいいとして! なんで宇宙戦艦で突っ込んでくるの !?﹂ ﹁いや、初夢でな? これの絵を枕の下に入れて⋮⋮﹂ ﹁そこは躊躇って欲しかったなあ!?﹂ 夢世界で、またしても魔王の引きこもりスペースに突入してしま ったようである。 九郎はきょろきょろと山積みの本で形成された書庫を見回し、魔 王の机に目をやる。 そこにはピザとドーナッツとコーヒーが置かれていた。 ﹁正月だというのにまたお主はプログラマーみたいな飯を食いおっ て⋮⋮﹂ ﹁こっちは別にお正月じゃないからね!? あとプログラマーを誤 解してるからね!?﹂ 1089 ﹁怠惰な生活を送っているのが丸わかりだ。腹が前よりかなり出て おる。妊婦かお主は﹂ ﹁最低だよ!?﹂ ﹁知らん﹂ 九郎は折角なので漫画本を適当に取ってぱらぱらとめくり始める。 魔王は部屋に散らばった瓦礫を見て、ため息をついた。 ﹁くーちゃんは夢だから別にいいけど、ここは我の居住空間なんだ からね? 片付けもしないといけないのに⋮⋮﹂ ﹁あれ? お主って掃除とか一切しないタイプではなかったか。あ の冷血メイドが帰ってきたのか?﹂ ﹁いや、あの子も固有次元で自己修復中だからいつ帰ってくるやら。 だから代わりにお掃除ロボを作ったんだよ。我、これでも機械いじ り得意だから﹂ そして、魔王が部屋の奥に向かってリモコンを操作すると、充電 器に接続されていた掃除用ロボットが起動してこちらに向かってく る。 九郎は驚愕の声を上げた。 ﹁こ、こやつは!﹂ ﹁そう! 魔王城でも使っていたものの改良版││V2アサルトル ンバだ!﹂ ﹁なんで掃除ロボにパワーアップを!?﹂ そうして、ディフェンスに定評のあるルンバの掃除風景を見なが ら、九郎の初夢は過ぎていくのであった。 1090 ***** むじな亭の二階で膨らんだままの布団がある。 鳥山石燕が眠っている布団だ。糞寒い中初日の出を見た影響か、 風邪を引いてしまい寝正月になっているのだ。 がちがちと凍える彼女の部屋に術符暖房をつけて、雑煮用に作っ たすまし汁で粥にしたものを用意しながら九郎と房が交代で看てい る。 ﹁ふ、ふふ、ふふふ、おかしいね、寿命が伸びるはずだったのに、 今まさにがりがり寿命が削れていく音が聞こえるよふふふ﹂ 青い顔をしながら軽口を叩くが、声が震えていた。 ﹁ま、まさか初夢が三途の川とは⋮⋮聞いてくれたまえ、しかも川 幅超狭いの。向こう岸にいるお六さんと手が触れ合うぐらい。三途 の溝って言ったほうがいい。 懸衣翁と奪衣婆が襲いかかって来たのを石を投げて追い払ってく れたよ⋮⋮ふふふ⋮⋮﹂ うわ言のように呟く彼女を、哀れそうに知人達は見るのであった そうな⋮⋮。 1091 挿話﹃雨次﹄ 雨次という名の青年が嫁を貰ったのは彼が二十の時だった。 まだ彼が少年であった頃に唯一の肉親である母親を失い、近所に 住む儒学者・天爵堂の家に引き取られて住むようになっていたが、 数年後には既に老齢だった天爵堂も死去する。 しかし天爵堂が生前にあれこれ融通してくれたおかげで千駄ヶ谷 の屋敷にはそのまま住めるようになっていて、贅沢をしなければ半 生は生きられる程度の蓄えと大量の書籍などを残してくれていたの である。 それから彼の引きこもりは加速し、毎日書を読むか写して書くか で家から出ずに、また食事も最低限の生活を送っていた。 年若くして世捨て人の様になった彼を心配して、よくよく家に通 い掃除や料理などを励んだのは彼の幼馴染の女性達である。 特に、お遊と云う方の元気な娘は次第に雨次の屋敷に泊まりこむ ようになった。 彼女の実家からすれば、 ﹁もうあそこの嫁でいいんじゃないか﹂ と、見放した感があったという。 他に嫁の貰い手も無く、食い扶持が減るのならば雨次に引き取っ て貰えば特に文句は無かったのだ。 それからお遊は雨次の家族として家事をよくこなし、また昔天爵 堂が使っていた畑も耕し直して日々の糧を作るようになった。 一方でもう一人の根津小唄は、地主の娘ということもありそのよ 1092 うな直接的手段には及べなかったのである。彼女も二十前となれば、 あちこちか ら縁談が来ていたが、 ﹁気が進まねえなら﹂ 無理に嫁に行くことはないと云う父親の縁談破壊能力によって何 とかなっては居たのだが。 しかしながら家の主である雨次としては、なぜ幼馴染の娘二人が 嫁にも行かずに構ってくるのかさっぱり理解できていなかった。 特殊な出生と家族の死により捻くれた性格と、情欲よりも読書欲 という男だったのである。 ともあれ、ほぼ内縁の妻状態にお遊が住み込んだある日。 珍しく二人で酒を飲んで、雨次は前後不覚になった上でお遊に手 を付けたのである。 実際に手を付けたのか手を付けられたのかは彼の記憶も吹き飛ん でいるので不明だが、翌朝目覚めてみるとそういう状況だったので 疑いようは無い。 やむを得ず彼は妻として娶ることにした。お遊を妻としても、別 段生活が変わるわけではないと妥協したからかもしれない。 身寄りの無い男と農家の娘の結婚ということで特に騒がれもしな かったが、地主からは酒樽が送られて小唄も二人を祝福した。 ﹁おめでとう、二人共﹂ ﹁ネズちゃんもありがと!﹂ 満面の笑顔のお遊に、複雑な顔をしながら小唄は、 ﹁私の好きな二人が結婚するんだ。喜ばしいが、少し寂しいなあ﹂ ﹁いつでも遊びに来ていいから! ねえ雨次!﹂ 1093 ﹁そうだな、別にこれまでと変わらないだろう﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ そう言って、彼女は少し疲れたような顔をして微笑んだ。 それから、何が変わったという事無く雨次とお遊の生活は営まれ た。小唄も遠慮してか、来る回数は随分に減ったが。なお、まだ独 身であるようだ。 嫁という存在にお遊が変化してから雨次は少し変わった。単に、 自分一人で生活する分量で天爵堂の財産を見計らっていたので、妻 と生活を共にするのならば予定よりかなり早く無くなるという事実 によってだ。 しかし畑仕事などはやったことがない。 雨次は暫く悩んだ後で、洒落物語や滑稽本の執筆をすることにし た。本を読む事と字を書く事は得意であったのだ。 どうすればその業界に入れるか判らなかったが、随分久しぶりに、 一時期教えを受けていた天爵堂の友人・九郎を頼り、九郎の伝手か ら[為出版]に話を通してもらい、そう多くはないが仕事が来るよ うになった。 始めた頃は評価も散々な面白みのない文章を書いていたが、編集 役になってくれた九郎の助言や天爵堂の過去作などを参考にして、 何とか仕事を続けられた。 はら やがて、二人に子が出来た。 姙が大きくなるに連れて、雨次は慌ただしく家の仕事を手伝うよ うになって、 ﹁下手だねー﹂ と、後ろから見ているお遊にくすくすと笑われることがしばしあ った。 1094 それまでならば手伝っているというのにそのような事を言われた ら、むすりとして働く気を失せさせていたというのだが、雨次は下 手なりに頑張っていたようだ。 更に姙が動きづらくなる程に大きくなれば、一日中雨次が家事を 行うようになった。 やったことがない、土弄りは苦手だと言っていた畑仕事も自らや った。 苦手とする事も多々あった為に、小唄に頭を下げて手伝って貰う。 他に頼めそうな相手は居なかった。 ﹁お前が人の為に頭を下げるとはな﹂ ﹁妻の為だからね﹂ などと遣り取りをして、少々呆れながら小唄もよく手を貸すので あった。 ある日。 お遊の体の調子が良い時に、二人で鳩森八幡神社に安産参りへ向 かった。 二十を超えて、少女から女になっても小柄なお遊だったから姙が 突き出るように目立ち、久しぶりに外出となって燥ぐように歩くの だからむしろ雨次が心配そうにしていた。 境内で賽銭をして祈り、お守りを買う。 雨次は己がこんな、人間的な幸せを手に入れるとは昔は思いもし なくて、捻くれていた頃からは想像も出来ないような笑顔でお遊と 並んで歩いていた。 其の日は神社に参拝する人もそれなりにいて、周りとぶつかると いけないからとお遊を抱き寄せようとした時であった。 隣にいたお遊の体が、跳ねるように前へと突き飛ばされた。 丁度、石段を降りる直前である。 1095 一瞬の間。空中で呆けたお遊の目とあった。 雨次が伸ばした手は届かず││石段を転げるように、お遊は地面 に数度叩きつけられた。 子はその日に流れた。 死んだ胎児を出す為に、お遊の体も相当危険な状態だったという。 偶々通りかかった狐面の医者が居なければ母子共に死んでいたの である。 ただ、衝撃により無理に産むという自体になった為││お遊は二 度と子の作れぬ体となったと、医者は告げた。 それから二月ばかりはお遊は意識が混濁していて、時折泣き喚い たり暴れだしたりという有り様であった。 ﹁なるべく近くに居てやれ⋮⋮他の事は私がやるからな。気にする な、友達の為だ﹂ 小唄がやつれている雨次にそう告げた。 その日から雨次は一日の殆どをお遊の側で過ごすようになる。 家の仕事や食事の支度などは小唄が行うようになった。 彼女も雨次の屋敷に住み込んだ。田舎にあるものの、元は新井白 石の屋敷だ。彼の意向により下男などは雇っていなかったが、数人 が住むには充分過ぎる広さがある。 一年が経過し⋮⋮。 美味い食事と、雨次と小唄の献身的な介護によりやがてお遊は元 気を取り戻していった。 それでも時折お遊は鬱ぎ込む事があり、雨次はどうしたものかと 考えた結果、最善ではないかもしれないがある提案をした。 ﹁お遊、子供が産めないのはお前の所為じゃないんだからいつまで 1096 も悲しむなよ﹂ ﹁でも⋮⋮雨次⋮⋮ごめん⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮なあ、どこか伝手を頼って里子を探そう。腹を痛めて産んだ 子で無くとも、僕らの子供として大事に育てよう﹂ 雨次はそう告げて、泣き止むまでお遊の背中を撫でてやった。 数日が経過して、お遊はまだ里子を貰うという話を迷っていたの だが、小唄が寝室に来ていたので悩みを打ち明けると、彼女はやや 悩んだ様子を見せつつ告げてきた。 ﹁わかった。こういうのはどうだろうか。私が雨次の子を産んで、 二人へと里子に出そう﹂ ﹁⋮⋮え? でも⋮⋮﹂ ﹁まったく知らない他人の子を貰うよりは、少なくとも半分は雨次 の子である方がいいんじゃないか? その、お遊ちゃんにも﹂ ﹁⋮⋮そう、かな﹂ 戸惑いを見せつつ、更に数日して彼女はその申し出を承諾する。 里子を貰っても、後に里親から返せと言われることもよくあった。 その点、少なからず半分の親はこちらであるとなれば跳ね除けられ る。ましてや、相手が幼馴染の小唄であるのならばよく知った仲な のだ。 雨次からしてみれば小唄という女性は幼馴染という分類以外に当 みだ てはまらない、女として見たことの無い相手ではあったのだが、お 遊の望みでもあった為に彼女を抱いた。 その際、小唄は義理友情とは思えないほどに大いに淫れ、求めた が、とにかく雨次は妻の為だと思って励み││そう時間も掛からず に、彼女は子を宿した。 ところで、二人の閨に使った部屋の障子には穴が空いていた⋮⋮。 1097 小唄が子を孕んでからはお遊は以前のように明るさを取り戻し、 いつも笑って楽しそうにしているようになった為に雨次も安心した。 これまでの呆然としていた期間を取り戻すようによろずの事に働い て、小唄とも仲良く過ごしている。 ただ子供の時の爪を噛む癖を再発させたのか、深爪になり血が滲 むので雨次はよく注意をした。 しかしながら、子が出来て食い扶持も増えるし、里親である小唄 には礼金を用意しなければならない。支度金と言われるもので、三 両から十両ほど支払うのが慣例であった。 そのため再び雨次は九郎に頭を下げて、仕事を回してもらうこと にした。 前から事情を聞いていた九郎は彼のためにあちこちに声をかけて、 [為出版]だけではなく、[藍屋]や[鹿屋]で広告作りなどの仕 事を取ってきて雨次に仲介料も取らずに与えてくれた。 雨次は、彼には頭が上がらない。 やがて。 小唄の姙も目立つようになってくると、お遊がより家事に励んで 小唄に楽をさせるようにした。 仕事に楽しそうに勤しんでいる姿は心を壊したあの頃からは想像 できない程活発だ。 こうなればむしろ世話焼きな性格だった小唄が休んでばかりでむ ず痒そうにしている。 ﹁あの頃と逆だね。ネズちゃん。﹂ ﹁そ、そうだな⋮⋮﹂ ﹁えへへ。逆なんだよ。﹂ 己が身重の時に世話された事を思い出しているのか、よくお遊は ﹁逆﹂であると小唄に言っていた。何故か、言われる度に彼女は少 1098 しばかり固い雰囲気になるのであったが。 お遊はいつも上機嫌であった。しかし時々、仕事の合間に遠い目 をしながら、聞いたこと無い歌を謳っている姿を見かけていた。 ある日、夜中に小唄が家から音を忍ばせて出ると、すぐにお遊の 声が掛けられた。 ﹁どうしたの? ネズちゃん。﹂ ﹁! あ、ああ⋮⋮少し厠に立ったんだ﹂ ﹁へえ。それなら起こしてくれていいのに。提灯を用意するよ。﹂ お遊は、いつも通りの満面の笑みだ。 ﹁転んだりしたら。危ないからね。﹂ ﹁そ、そうだな⋮⋮﹂ 小唄は彼女の顔を正面から見ることが出来なくなっていた。 やがて、子が生まれた。 産婆としてお遊に連れられてきた狐面の女の腕が良かったのか、 初産にしてはあっさりとしたものであったという。 ただ、彼女はお産が終えて、一人別室で待っていた雨次に会うと 諦め気味に頭を横に振って、 ﹁何故こうなるまで⋮⋮いや、それより、子供と女房から目を離さ ないことだ﹂ ﹁⋮⋮? どこか、悪かったのか!?﹂ ﹁躰ではない。お前の撒いた因果が悪い。もはやあたしでは付ける 薬も効くまじないも無い。お前の情だけが最後の希望だ﹂ 苛立たしげにそれだけ告げて、狐面の女は薬箪笥を背負ってさっ さと消えていった。 1099 小唄が産んだばかりの子を連れて、屋敷から逃げ出したのはすぐ 二日後だった。 産後の女は普通そんな短期間に動けるようにはならないが、これ ばかりは死に物狂いの行動力と、小唄の血筋から受け継がれた頑丈 な躰の成せる働きであったのだろう。 勿論、常識的に考えて突然姿を消した母子が逃げたとは思えぬ。 ﹁誰かが拐かしたのか⋮⋮!?﹂ ﹁うん。そうだね。すぐに追いかけよう雨次。﹂ お遊は包丁を片手に笑顔のまま云う。 ﹁い、いや、なんで包丁を?﹂ ﹁え? だって││[わたし]の子供を攫った相手は殺さないと。 もう失うことがないように殺さないといけないよ。﹂ ﹁⋮⋮お遊?﹂ ﹁早く捜そう。泥棒ネズミを。﹂ そう言って家を飛び出したので、何か引っかかるところはあった のだが雨次も外に探しに出た。 幾ら、頑健な体をしていたとはいえ産後のことである。 そう遠くない場所で子を連れた小唄は発見された。 お遊がまったく変わらぬ笑顔で云う。 ﹁駄目じゃないネズちゃん。わたしの子供を連れて行っちゃあ。﹂ ﹁ち、違う!﹂ 小唄は子供を庇うようにして、叫ぶ。 たね ﹁これはお前の子じゃない! 私の子供だ! 私が、雨次の胤を受 1100 けて産んだ子だ! 渡さないぞ!﹂ ﹁小唄、君は出産直後で少し錯乱しているんだ! とにかく、家に 戻ろう!﹂ ﹁嘘だ! 私を殺して、子供を奪うつもりだろう! 包丁を持って るじゃないか!﹂ 小唄から見れば││いや、誰が見ても太陽の様な笑みを浮かべつ つ、刃物を手に馴染ませているお遊を見れば恐ろしくなるだろう。 笑顔だというのに、瞳はどす黒く濁っている。 からからと錆びた鈴のような声音でお遊が告げる。 ﹁ねー雨次。あれはもう要らないよね?﹂ ﹁お前もどうしたんだお遊!? 友達だろう僕達は!﹂ 雨次は叫んで、お遊の腕を掴み小唄に歩み寄ろうとするのを止め る。 ﹁友達とか。関係ないよね? わたしの子供を二度も奪おうとして るんだもん。このネズミが。﹂ 手を取られているので地面の土を蹴りあげて、地面にしゃがみ込 む小唄に浴びせかける。 彼女は赤子を守るように背中を向けて蹲った。 笑いながら何度も足を振る。お遊が動く度にびくびくと小唄は身 を震わせた。 ﹁ネズミが。ネズミが。ネズミが。﹂ ﹁お遊、止めろ!﹂ ﹁えへへ。雨次。このネズミはね。ずっとわたしから雨次も子供も 盗もうとしていた薄汚い泥棒なんだよ。素直にわたしが結婚した時 1101 に諦めてさ。他の男にでも行けばよかったのに執念深くて。本当に 死ねばいいのにって何度も思ったよ。まあ今殺すんだけど。﹂ ﹁う、煩い! 煩い煩い!﹂ 小唄が涙でぐしゃぐしゃにした顔を向けながら叫んだ。泣いてい るというのに、目には激しい怒りが渦巻いているように思える。 雨次には、もはやお遊も小唄も正気でないと確信したのだが││ どう対処すれば丸く収まるのか、まるで見当がつかない。 ﹁大体、私が雨次の事好きだってずっと昔からお前も知ってただろ ! 泥棒したのはそっちだ!﹂ ﹁はあ? 全然知らなかった。何? 一言でも雨次に好きって伝え たの? わたし一度も直接あんたが言ってた覚えはないんだけど。﹂ ﹁それは⋮⋮! 雨次の方から気づいて貰おうとしてたんだ!﹂ ﹁ふうん。でもわたしはあんたより昔から雨次に好き好きって言っ てたから。幼馴染? そんなのわたしだけだから。ねー雨次。﹂ ﹁⋮⋮! お前なんか、あの時階段から落ちて死ねばよかったのに ! そうしとけば一人になった雨次を私が助けてた! 一丁前に悲 しんだフリをして雨次に迷惑をかけるな水呑百姓の仔め!﹂ ﹁とうとう白状したね⋮⋮やっぱやったのテメエか糞阿婆擦れ⋮⋮ うまずめ 殺す。腹ァ裂いて殺す﹂ ﹁やってみろ石女の気狂いが! 大丈夫だよ雨次、このゴミを殺し て私と幸せになろう! 子供も何人でも産んでやるからな!﹂ ﹁死ね﹂ ﹁お前が死ね﹂ 互いの罵倒は殺意の行動へ移り変わるのに時間は掛からなかった。 こうなることを予想していたのか、小唄も懐から苦無を取り出し てお遊に向かって構えた。 両者とも、獰猛な獣が牙を見せつけるように嗤ってゐる。完全に 1102 狂気に取り憑かれた、鬼と化していた。 もしこの場に九郎が居たならば、即座に両者を取り押さえて頸動 脈を締めあげ気絶させて互いに隔離し、知り合いの伝手を使い正気 に戻すカウンセリングや投薬、法的手段を用いり丸くはならずとも 一応場を収める事は出来るのだったが。 その人生の殆どを引き篭もって書生の如き生活をし、体を鍛えて いるわけでも人間関係が広いわけでもない雨次では手に余る。 二人の一触即発とは││文字通りだった。 飛びかかるように襲いかかったお遊が小唄の上から覆いかぶさる ようにして包丁を相手の腹に刺した。ぬるりとした赤い血が溢れて、 服を染める。 ﹁あはは!﹂ 笑いながら何度も腹に恨みを晴らす如く包丁を突き刺し、抜き、 また突き刺す。 体が痺れるように小唄の手足がびくびくと震えた。 が、苦無を握る手を警戒しなかったのはその狂気からか。 最後の力を込めた小唄が振るった苦無が、お遊の首を一文字に切 り裂く。 ﹁ひゅっ﹂ 空気の漏れる音と同時に、大きな血管が複数切断されて傷口から 噴水のように血が飛び出た。 脳に回る血液が失われて失血死となるまでほんの数瞬だけしか意 識は持たない。 お遊は雨次の方を見て、唇を動かしたがそれは空気を震わす音に はならなかった。 最後に妻が何を言ったのかすら聞き取れず、雨次は絶望的な表情 1103 で手を伸ばすばかりである。 ﹁あ⋮⋮え⋮⋮﹂ うめき声。 小唄だ。 妻を殺した相手だが、己の子を宿した友人でもあった。 完全に雨次の頭はパンク状態となっている。現実と非現実の境界 が曖昧に、ただ出来の悪い物語を文字情報として眺めているような 気分である。 泣き声がする。 はっとした。小唄の側に、赤子が落ちていて、泣いている。 ﹁よし⋮⋮よ⋮⋮﹂ 血でべっとりと濡れた手で、赤子を撫でようか彼女は一瞬悩んで、 手を引っ込めた。 ﹁⋮⋮小唄、お遊││なんで、こんなことに⋮⋮﹂ ﹁雨、次、げほっ⋮⋮赤ちゃん、⋮⋮お願い⋮⋮ます⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮巫山戯てる。なんでこうなった!? 僕が悪いならそう言え ばよかっただろ!? 言ってくれなきゃわからないじゃないか!? どうすればよかったんだよ!﹂ ﹁げほっ⋮⋮雨次⋮⋮愛し、⋮⋮ごめ⋮⋮ね⋮⋮﹂ それだけ告げて、小唄は命を消した。 涙は出なかった。ただもうどうにでもなれという酷く投げやりな 気分になった。何を憎めばいいのか理解出来なかった。 死体を葬る気にすらなれずに、雨次は泣く赤子を抱いて、幽鬼の ような足取りで家に戻った。 1104 それから││ 赤子の体が弱かったか、男親一人で知識も無く育てるのに失敗し たか、一週間と待たずに赤子の泣き声も聞こえなくなった。 屋敷に静寂が戻る。 雨次は虚ろな目で書斎に座ったまま、動きもしなかった。 心臓の鼓動だけが沸き立つ毒のように体に響いている。 呪いだ。 幼馴染達を狂わせたのは身に刻まれた呪いの影響なのだと理解し たが││全ての破滅を迎えぬようにしなかった我が身の至らなさが どうしようもなかった。 それすら、もはや悔みよりも諦観を感じてしまう。 耳元で幻聴が聞こえる。 いや、これまでの人生で囁かれ続けていた音だが、聞こうとしな かっただけだ。 なぞるように雨次は呟いた。もはや己の声か、何者かの囁きかの 区別はつかない。 ﹁⋮⋮もう恐れるな夏の日照りを。荒れ狂う冬の寒さを。 この世のつとめを果たし、十分な報いを得て、我が家へ帰る。 今をときめく男も女も、塵払い人のごとく、みな塵に帰る﹂ ﹁毒は遅々として欠片を零し湛み⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮契約は逃げども尽き果てる﹂ ﹁たましいを﹂ 1105 翌日。 沙汰の無かった雨次の様子を見ようと、九郎が彼の屋敷に来た時、 屋敷は火に包まれていた。 慌てて現場に近づくと、火消しが皆火の側で倒れ伏している。 九郎は咄嗟の判断で口元を覆いしゃがむ。だが、煙よりも微細な 揮散した毒気を浴びて己の体にも力が入らぬことに気づいた。 体液が膿に入れ替わったような吐き気を催す具合の悪さに視界が 霞む。 そこから、炎のような赤い仮面を被っている、法師の格好をした 見覚えのある背丈の青年が立ち去っていくのを見たのだが、口すら まともに動くことは無く││ やがて九郎の呼吸も止まった。 ****** 汗でびっしょりな布団の中で目を覚ます。 雨次が最初に行ったのは、慣れ親しんだボロ屋であるという事の 確認と、脳に残る僅かながらの記憶情報を意識に移すことで先ほど まで夢を見ていたと理解することだ。 呼吸を数秒止めていて、大きく息を吐いた。 息と同時に吐瀉しそうであった。 既に夢の記憶には忘却というロックが掛かり始めているが、怖気 は消えない。雨次は、 1106 ﹁夢⋮⋮だよな﹂ と、呟きながら頭を掻きむしった。 詳細は既に思い出せないが、最低最悪の初夢を見たという事実が 歯の根も合わずに震えとなる。 江戸でも一、ニを争うほどに悪夢であった。三途のドブで死人と ハイタッチしていた絵師に匹敵する。 罪悪感、後悔、恐怖、血、臭い、憎しみ、理解不能。全てが曖昧 な概念として彼の矮小な頭に瞬時に刻み込まれて酷く消耗させた。 布団から上体を起こしたまま身を竦めて震えどれほど時間が経っ たか。 家の中は一人だった。彼の母はどこかに出かけたらしい。仕事だ ろうか。 とにかく、放っておけば何刻でもそのままで居そうだった彼を外 部から刺激する存在がやがて現れる。 ﹁おはよー! 雨次ー! 神社行こー!﹂ ﹁こら、お遊ちゃん。お正月なんだから挨拶からだろう?﹂ 戸を連打する音に彼は身を大きく竦ませた。外から聞こえる声が 頭に響き、フラッシュバックのように恐ろしい光景が浮かび上がる。 筆舌し難い恐怖に襲われて彼は布団を跳ね除けて裸足のまま裏口 から飛び出した。 足の裏に雪霜が突き刺さろうと皮が破けようとも、雨次は大急ぎ で己の家││天爵堂の屋敷に逃げこむのであった。 九郎が[為出版]の催促人である田所無右衛門から、天爵堂の家 1107 に来て欲しいと言伝を貰ったのは昼頃のことだ。 元旦で挨拶回りでもしようか、寝込んでいる石燕の看病に費やす かと思っていたのだが、向こうから用事があり呼ばれたのならばと 腰を上げる。 朝帰りだった子興に後は任せて九郎は千駄ヶ谷へ足を向けた。 正月となるとあちこちでお祭り騒ぎのように人出がある。武士、 商人などは年始の挨拶回りに出かけなければならず、またその身分 相応に部下などを引き連れて行く為だ。 それ以外でも正月に武家や店の前で楽器を鳴らし歌を唄って騒ぎ 駄賃を貰う[鳥追い]という、アグレッシブな踊りを踊っている虚 無僧のような姿もよく見られた。 寄り道をせずに彼の家に辿り着いた九郎は玄関でなく彼のいつも いる書斎に面した庭へと回る。 一人暮らしなのに意外と手入れされた庭はほどよく雪が積もって いる。たしなむ程度の晩酌を好む天爵堂の、肴となるのは大体がこ の庭の風景なので気を使っているのだろう。 真新しい雪に足跡をつけつつ、声をかける。 ﹁おい、天爵堂。来たぞ﹂ ﹁ああ。上がってくれ。茶を出そう﹂ 積もった白い雪と同じ色の髪を総髪にした老人が書斎の障子戸を 開けながら招き入れる。 ︵仙人に似ておるのだよな⋮⋮︶ その風貌を見る度に、そう思う。とは云っても神仙の知り合いな ど居ないが、何となく普遍的なイメージとして浮かぶ仙人としての 類似感だ。 1108 彼の部屋の中は七輪で程々に暖まっていた。 一つ、布団が敷かれていて苦しそうな顔で寝ている少年がいる。 いや、寝ついているというよりも、外界の情報を遮断する為に目を 塞いで呻いているといった状況か。 天爵堂の屋敷に来て即座に倒れ伏した雨次であった。 ﹁此奴はどうしたのだ﹂ ﹁さて。断片的に聞き出したところによると、夢見が悪くて酷く怯 えているようだ。どうも君の名前も呟いていたようなので、田所君 に呼んでくるように頼んだんだ。子供をあやすのは苦手でね﹂ ﹁なんでこう、初夢で大だめぇじを受ける奴が多いのか﹂ 呆れながらしゃがみ込んで雨次の額に手を当てれば、若干の熱を 感じた。 今にも泣きそうな││子供であった。 何に悲しんでいるのかは共感できなかったが、九郎は優しく少年 の頭を撫でた。 ﹁九郎さん、ううう、すまない⋮⋮﹂ 譫言のように呟くので、 ﹁いいから、寝ろ﹂ ﹁夢が⋮⋮﹂ ﹁夢など何度でも見れば良いのだ。また起きれば忘れる﹂ 九郎はそう告げて、若干乱れた布団をかけ直してやった。 枕の下にタカラ戦艦トミーの絵を入れてやる。 ﹁それは?﹂ 1109 ﹁子供は好きであろう。巨大戦艦とか﹂ ﹁ああ﹂ 生きている九郎に安心したのか、雨次の様子は落ち着いてきた。 納得したように天爵堂も頷いて少しばかり懐かしげな顔をする。 ﹁子供っぽいと言えば、僕が若い頃にかの徳川光圀公が巨船を嬉々 として作り上げててね。水戸どころか江戸でも評判になっていたよ﹂ ﹁はっはっは。中々やることが豪快だな水戸の黄門様は。夢がある﹂ ﹁まあその造船の借金もあって水戸は潰れてないのが不思議なぐら い困窮してるんだけど﹂ ﹁ありったけの夢をかき集め過ぎておるな⋮⋮﹂ 勿論それだけが理由ではないのだが、この時代水戸藩は石高から すれば凄まじく貧しい藩であった。 光圀公がテンション高めに何隻も作ったり難破させたりしていた 船は幕府で禁止されている規格を完全に無視した巨大船は、徳川の 将軍専用船よりも大きかったとされていてそれで蝦夷まで航海をし たと伝えられている。 かなり先進的であった儒学者でもある光圀公に関しては、同学を 学ぶ天爵堂もよく知っているようだ。 話し合っていると、やがて雨次の布団から寝息が聞こえてくる。 表情はまだ少しばかり苦しげだったが。 九郎がちらりと見ながら、感慨深げに云う。 ﹁しかし悪夢に魘されるか⋮⋮そういう時どうしていたものか﹂ ﹁僕もすっかりそんな夢に何か思うことが無くなってしまっていて ね。よく覚えていないんだ﹂ ﹁こういうのを宥めるのは母親の仕事ではないのか?﹂ ﹁いや、彼の母親なんだが⋮⋮﹂ 1110 天爵堂が云うには、今朝早くに蹴破りそうな勢いで戸を蹴って新 年の挨拶を喧嘩腰でした後に、雨次にお年玉を与えて御節料理を食 わせるように要求して町に向かったらしい。二日ほど帰らぬそうだ。 雨次の母親とは何ら血縁関係も近所付き合いも無いのだが、どう も託児所扱いを受けているようであった。 ﹁それにしても、子供のあやし方も思い出せないとは⋮⋮僕には父 の記憶も無いし、実の子供にとってもいい親では無かったからね⋮ ⋮﹂ ﹁なに、己れなど子も居らなんだ。昔に義理の孫みたいな娘の世話 をしていただけでな。お互いに年ばかり取って半人前だのう﹂ ﹁仕方ないことさ。今更年寄りが一人前になれはしない﹂ 言い合って、茶を啜る。 どちらが提案したわけでもないが、天爵堂が将棋盤を用意した為 に新年の初勝負として将棋を指し始めたのであった。 ***** タカラ戦艦トミーは未知の技術によって作られた宇宙戦艦である。 この場合の未知というのは、企業秘密という名に於いて秘匿され ているという意味なのでスパイじみて解析を試みる不届き者も存在 する。 というか自分の家に乗り捨てにされたので魔王が好き勝手に弄っ ていた。分解して新しいメカでも作ろうかという算段だ。 1111 その時突如、トミーの甲板に侵入者が出現した。 対応は疾かった。 マシンナリー・スイーパー︵掃除用ロボ。略称はMS︶のV2ア サルトルンバが亜光速で接近して積極的防衛行動を取る。 半透明ピンク色の超磁場固定重粒子で出来たジゴ・ビームシール ドを対象に囲むように展開して移動を封じ、ジゴ・ビームランチャ ーの砲身を差し入れて相手に向けた。 出力エネルギーが12.1ジゴワットを超える、対人兵器ではあ りえないほど強力な兵装である。 ﹁お前は電子レンジに入れられたダイナマイトだ。少しでも動けば ジゴ粒子の閉鎖空間で粉々に分解する﹂ ﹁えええ!? ちょっと待って意味がわからない!﹂ ﹁安心しろ││我もマイトをレンチンしたことはないからわからな い!﹂ ﹁何を安心しようかなあ!?﹂ 雨次は突然の危機に、ジゴ・ビームシールドの向こう側にいる虹 色髪の少女に怒鳴って嘆く。 気がついたらここに居た。 なんか近くに居るだけで髪の毛とか逆立つパワーのバリアに囲ま れている。ジゴフィールドによってプラズマ化した粒子の熱は伝わ っていないが、体に悪そうな強電磁波が嵐の様に吹き荒れていた。 少年にはまったく理解できない状況であった。 魔王はじろじろと雨次の姿を見て、 ﹁むう⋮⋮他の魔王や一級神でも承認がなければ入ってこれない我 の固有次元に来る相手は誰かと思ったけど⋮⋮﹂ じろじろと雨次の格好を眺める。血筋が良く整っているが育ちが 1112 悪そうな顔立ちをしている、時代劇風の古着物を着た子供だ。特筆 すべき魔力や武装は感じられない。 精神体だけでここに来ているようだ。魂も誰か知り合いの転生体 というわけではない。呪われている形跡があるけれども今は大した ものでもない。 魔王を狙う神聖存在が一般人の魂に罠を仕掛けて送り込んできた タンホイザーゲート 可能性もあるが、その場合は一瞬で室内に予め設置していた識別式 の転移結界﹃新世界の門﹄を発動させて、時間概念もあらゆるエネ ルギーも消えた廃宇宙次元へ捨てて相手を封印することが出来る。 怪しみながらも、日本の時代劇風という点で魔王は当たりを付け た。 ﹁くーちゃん││ええと、九郎ちゃんの知り合い?﹂ ﹁あ、はい。生徒⋮⋮みたいな﹂ ﹁ふーん? ちょい待て﹂ そう言って魔王は軽く手を上げて、 ﹁偽典召喚﹂ その短い言葉を呟くと、空間に虹色の召喚陣が生まれて、魔力が 固形化し歪んだ本の形を作る。表題もぐねぐねとのたくったような 字で、[江戸⋮⋮]としか読み取れない、歪な書籍だ。 アリスタルコステクスト その場でごわごわとしているその本をぺらぺらと捲り、異様に読 み難い不確体揺嗣によって綴られた文字列を読み取る。 ﹁││ああ、はいはい。くーちゃんが寝かしつけてこの戦艦を通じ てこっちに来たのかっと﹂ そこまで読んだ時点で、本が端から風化していくようにぐずぐず 1113 と崩れて溶け始めた。 魔王は興味を失ったように魔力によって偽装複製された本を投げ 捨てる。 あらゆる世界線上、過去未来に於いても存在しない書物は召喚し てもすぐに消滅してしまうのだ。それでも短時間ならばアカシック レコードが全記載された書物すら呼び出すことが今の魔王でも可能 である。怪我をして能力を大きく減退させる前は制限がほぼ無かっ たのだが。 とりあえず害はないと判断してV2アサルトルンバを下がらせ、 魔王は腕を組み雨次の前に仁王立ちした。 目と髪が虹色に光っている、見たことも無い人種であったが雨次 が思ったことは、 ︵腹すげえ出てる︶ という体型のことであった。なまじ、一張羅のローブなので目立 つのである。デブだ。 ﹁雨次少年!﹂ ﹁は、はい!?﹂ ﹁ヤンデレな幼馴染に愛されて眠れないとかクソ以下の悩みを持っ ているようだが⋮⋮﹂ 魔王は、にたぁ⋮⋮と笑って彼の肩を掴み、顔を覗き込む。 澱んでぐるぐると渦巻き発光している虹色の瞳には、笑みを浮か べた際に相手の正気度を軽く下げる魔力を持ち、見られている雨次 は脳味噌を匙で削り取られるような怖気を感じる。 ﹁いいじゃあないかあ。そのままの君で。夢は所詮夢だよお? そ れに踊らされるなんて、むしろ現実の幼馴染達に失礼ではないのか 1114 なあ?﹂ ﹁は⋮⋮は?﹂ ﹁未来など気にすること無くこれからも鈍感難聴草食系男子で低ス テータスのまま付かず離れずに女の子と付き合っていけばいいと我 は思うぞお⋮⋮くふふふふ﹂ 邪悪な微笑みを浮かべて破滅へ一直線のアドバイスをする魔王。 他人の恋愛事など拗れれば拗れるほどに面白いと思う女だ。まと もな意見を口にする筈はない。 何となくやってみたで偶々訪れた国の夫婦を全て破局にしてみた り、同人誌のネタにする為に別の国にいる人間の性別を全て入れ替 えてみたりしてケタケタと笑う愉快犯なのである。なお、王族の継 承問題が起こり両方とも国は滅んだ。魔王は﹁メンゴメンゴ﹂と草 を生やしたようなコメントを残している。 ともかく、魔王が見るにこの少年が生まれつき持っている呪いは [気にされる]というものだ。 近くに彼が居るだけで周囲の人間は何となく気になってしまう。 効果には個人差があり、気障りになって迫害される事もあれば情を 動かされたと思ってしまう人間も居るだろう。 それだけならば呪いというよりは魂の性質として持っている者も 少なからず存在する程度の珍しさではあるのだが。 悪神により追加の呪詛を受けている事によりこの性質が悪性進行 しやすくなっているようだ。何らかのきっかけで呪いが進めば周囲 の人間は精神を病みやすくなり、身の回りで犯罪や痴情のもつれが 起きやすくなる。 ︵恋愛ってのはスリル・ショック・サスペンスがいいよねっ♪︶ 悪趣味な魔王にとっては格好の玩具だ。むしろ、厭な予知夢を見 1115 たからと云って消極的になられても面白く無い。 彼女は近くに置かれていた題名の無い本を手に取り、彼に押し付 ける。 ﹁忘涜図書[ラヴォアジエの弾劾]と云う本だよ。これを読めば悪 い事なんか全て忘れさせてくれるんだあ⋮⋮夢の事は忘れて彼女た ちと仲良く終わりに向かって突き進む青春を送るといい⋮⋮﹂ ねちっこい口調で、無理やり雨次の目の前に、魂簒奪の魔本を広 げた││。 ***** 九郎と天爵堂が碁、将棋で勝負をした際の勝率はやや天爵堂が勝 る。 いい勝負にはなるのだが、少なくとも年下でおまけに現代の打ち 筋も知らない相手に負けるというのは、九郎なりに苦く感じている。 彼は魔王城に居た時に暇だった為に将棋雑誌で勉強して、森田将棋 で特訓したというのに。 その日、二人が寝ている雨次の横で勝負をしていると、年始の挨 拶と称して脇差し一本で瓢箪酒を飲みながら髪もぼさぼさの中山影 兵衛がやってきた。 と ﹁いよう爺っつぁん! おっ死んでねえか﹂ ﹁新年早々そんな挨拶があるかい﹂ 1116 将棋盤から目を上げずに天爵堂が告げる。 影兵衛が九郎にも視線をやって、嬉しそうに声を上げた。 ﹁おう、あんだ九郎も居たのか。⋮⋮おいおい、なんだ負けそうじ ゃねえかだっせェ﹂ ﹁ええい、黙っておれ。よいか、将棋というものは攻めこまれてい る時こそが守り対応の定石があり有利、攻めこむ方は無数に広がる 攻め手に悩むこととなるのだ。うむ、ここだ﹂ ﹁王手﹂ 天爵堂の打った一手に九郎は渋面を作り、投げやりに認めた。 ﹁⋮⋮参った﹂ ﹁弱っ。おうおう、九郎センセイも将棋じゃこんなもんってか? けひひっ﹂ からからと影兵衛が笑う。九郎は﹁うぬ﹂と言い詰まって憎しみ の篭った目を影兵衛に向けた。 ﹁黙れ影兵衛。次はお主だ﹂ そして九郎と影兵衛との対局が始まり、九郎が負けるまで半刻程 だっただろうか。 年明けの初勝負と云うのは、勝てば幸先が良く負ければ厄落とし と云ってどちらにせよ縁起が良いのだが、連敗となると九郎も軽く 落ち込む。 げんなりしていると予兆無くむくりと布団で寝ていた雨次が起き 上がって、枕下の宝船絵を破り捨てた。機械的とでも云うべき動き であった。 寝惚けからの行動か、暗示を掛けられての動作か。ともかく絵を 1117 破った後に、はっと彼は表情筋を動かして周囲を見回した。 ﹁あれ。なんでぼくはここに⋮⋮﹂ ﹁起きたかい?﹂ ﹁体の調子はどうだ?﹂ ﹁爺さんに、九郎さん。寝てたのか、ぼくは。ううん⋮⋮﹂ 腕を組んで首を傾げ、しばし考える。 どうも天爵堂の家に来た記憶が無い。今日はいつだっただろうか。 命、夢、希望。どこから来てどこに行くのか。 なにやら、思い出そうとしても虫食いのように覚えがないのであ った。何を忘れたのかさえ思い出せない。そして、思い出せない内 容については一生記憶が戻ることはないのだ。 ともあれその様子から九郎と天爵堂は、二度寝したことで悪夢の 記憶を忘れたのだろうと解釈して一安心した。 ﹁いい夢は見れたかえ?﹂ ﹁覚えてない⋮⋮﹂ ﹁ま、それでいいさな﹂ 雨次の返答に軽く返す。初夢が悪かったからどうだのと悩むより は随分マシだ。宝船の絵は何故か犠牲になったが、まあ使用済みに なったと思えばいいだろう。 一応の事情は聞いていた影兵衛が、 ﹁っていうかよ。夢のひとつやふたつに踊らされんのもガキィ、手 前の度胸が無ぇからだろ﹂ ﹁それは⋮⋮そうかもしれないけど﹂ ﹁つーわけで。男は度胸! この拙者様と楽しい楽しい正月遊びに 出かけっぞ!﹂ 1118 ﹁ええ⋮⋮なんでぼくが﹂ ﹁石燕の姐ちゃんの看病があるからって九郎には断られたからよぉ。 安心しろよガキ。買う! 打つ! 殺る! の三拍子を充分に味あ わせてやるからよ!﹂ ﹁ちょっと!? 連れ去られるんですけど!? 九郎さん、爺さん 助けて!?﹂ 拉致のように影兵衛の肩に担がれて連れて行かれる雨次を二人の 高齢者は手を振り見送る。 ﹁一応身の安全は影兵衛が保証するとさっき約束させたから安心す るがよい﹂ ﹁何を安心しようかなあ!?﹂ ﹁かはは、よっしまずは軍資金だ! 賭場に行くぜぇ!﹂ のしのしと犠牲者と云う同行者を連れて歩み去っていく。 ばたばたと暴れていた雨次だが、影兵衛から殺気を向けられたの か途中で大人しくなった。 どちらともなく、生贄を差し出した二人は影兵衛が居なくなった 後に、 ﹁良かったのかい?﹂ ﹁お主こそ﹂ ﹁いや、まあ中山殿ぐらい強ければ大丈夫だろう。あの子にもたま には変わった経験をして欲しいね人生の為にも。心配なら君が付い て行けばよかったのでは?﹂ ﹁己れはこれから医者を探しに行かねばならん。石燕が風邪でな﹂ ﹁安倍君なら熊野晴明神社に居るんじゃないかな﹂ ﹁そうか。助かる﹂ 1119 などと言い合うのであった。 余談だが九郎が将翁を探しに神社へ向かったものの結局見つから なかっただのが、彼と入れ替わりで石燕のところへ顔を出していた らしく、五芒星安倍印の薬を処方されていた。 ****** 後日。 ﹁あの後、賭場で博打を打ってたら凄まじい勢いで素寒貧になって。 そしたら正月早々賭場荒らしの集団が押し込みをかけてきて影兵衛 さんが嬉しそうに臨時用心棒になってバッサバッサと斬り殺し⋮⋮ それで謝礼金をむしりとって悪い仲間を連れて女遊びに出かけた 先で、影兵衛さんの女癖の悪さが原因の火付けにあって、仕事に巻 き込まれちゃたまらんって言いながら現場から逃走して⋮⋮ 更にその後女敵討ちに来た浪人みたいな相手が襲いかかって来た のを次々に殺しまくって﹃ここに捨てときゃ辻斬のしわざってこと になるだろ﹄とか云ってたけど辻斬ってもろあの人ですよね⋮⋮﹂ ﹁うむ。なんというか、わかった事はあったか?﹂ ﹁はい。ああなっちゃいけないと思いました﹂ ﹁だろう﹂ 1120 良き未来の為に、少年は様々な経験を積まねばならないのである ⋮⋮。 1121 挿話﹃異界過去話/九郎と魔女、それと誰かの物語﹄ 大陸の西方に幾つもある都市国家群。そのうちの一つ、地方都市 クリアエが新たに国へと成り上がったのは近年のことであった。 独立戦争は笑えるほど大袈裟な物だった。 この世界ペナルカンドに住む人間は戦争を祭りと似たものだと思 っている為に、まったく関係ないのに双方に義勇軍援軍同盟軍と次 々に人員が増加されて大規模になることが多々ある。 戦いの神は戦争を煽るわ戦時需要で商業の神も油を注ぐわ、日頃 魔法を研究している魔法協会員はここぞと実践するわ、どさくさに 紛れて人肉食種族も参戦したり、通りすがりで巻き込まれた召喚士 が無差別攻撃を始めたり、いきなり降臨した癒やしの神が全軍回復 させたりと⋮⋮ 恐ろしくカオスな状況が続くが、だいたいそのうち飽きて終わる。 一級神格である怠惰神の影響を受ける為と神学家の間では主流の説 だが、詳しく怠惰神を調べようとするとやたら面倒な気分になるの ではっきりとはわかっていない。 ともあれこの戦で都市軍側に雇われたジグエン傭兵団は活躍を大 いに認められ、見た目こそ野盗の衆だったが元々貴族の三男以下が 集まって傭兵団を構成していたため、独立後は騎士団として抱えら れる事となる。 その中に飯炊きクロウとかぶん殴りクロウとか呼ばれる、日本人 の男も居た。 異世界人な為に身分は怪しいものがあったが戦後のどさくさに紛 れてそのまま騎士になったのである。なにせ馬鹿に騒ぐ戦争なので 1122 どさくさ具合も酷い。どさくさで大臣になる奴も居たぐらいなので、 異邦人が騎士になるぐらい容易かった。 正式に国に所属する騎士になったクロウは小器用だった為にあち こちに騎士団内で職場を転々として地道に昇進していった。世渡り の才能はそこそこにあったようだ。 彼が騎士となって多くの年が経過したある時、騎士団長から直々 に任務が申し付けられた。 それによりクロウの悪名は一気に騎士団内どころか国内にも広が ることとなる。 ﹁百人斬首のクロウ﹂ それがその男の二つ名であった。 ***** 経理課騎士団に領収書を通しに行き、わりとあっさりと接待費と して落とせたことに安堵しつつも、怯えた経理課の新任騎士の表情 を思い出してクロウはため息をついた。 今の彼は少年の姿ではなく、アイロンの掛かった騎士制服をきっ ちりと着こなしているがどこか全身から草臥れた雰囲気を出してい る中年で、襟元にある階級章から[副部長]だとわかる。 目元に皺を寄せているから目つきが悪く見えるが、疲れているの でもはや気をつけることもなかった。 騎士総合役場の廊下をつかつかと歩くが前から歩いてくる他の騎 士が、露骨に彼を避けて行く。生活保護課の騎士は直前で角を曲が り、健康増進課の騎士が別室に逃げ込んだりするのも見えた。 現在、この国の全騎士団の中で最も恐れられている男。 1123 それが[百人斬首のクロウ]である。 ︵仕方ないけどな⋮⋮︶ 皮肉そうに笑って肩を竦めると、すっと後ろから近づいてきて彼 の隣で歩みを寄せてくる人影が居た。 クロウに比べ頭ひとつ分程に小さい、レースやフリルの多くつい た白いドレスを普段着としている女であった。 その知り合いの名を呼んだ。 ﹁クルアハ﹂ ﹁⋮⋮疲労回復﹂ ﹁おう、すまんな﹂ 言いながら彼女は治癒が込められた魔法の符を渡してきた。 魔法協会所属でマイナーな術式である付与魔術担当研究員、クル アハだ。 足まで届く長い黒髪をした、陶製人形のような整った顔をした女 性である。服装もあって、まさに人形に見える。一見人間だが、黒 い眼に金の瞳が鈍く光っているのと、髪に隠れているが小さな妖精 光翼が背中にあるのが特異な外見だ。 付与魔術とは術式を魔術文字にして物質に書き込み、任意に発動 させる技術である。遠い昔には付与魔術士が集まり魔術文字を書き 込んだ紙で作られた紙片都市サイタンと呼ばれる街を作るまで発展 したのだが、焼き芋からの出火による大火事で都市と魔術士ごと焼 け滅んでしまった。 後世の研究に依ると、誰かがやるだろう防火対策とほぼ全員が思 っていた為に疎かになりこの惨事を招いたのだという。 焼き芋に滅ぼされた術式という不名誉な呼び名がついたせいでそ のまま廃れた魔法である。 1124 クルアハはじっとクロウを見上げながら、何を考えているのかわ からない無表情のまま言う。 ﹁⋮⋮休息推奨﹂ ﹁うむ。わかっている。次に休暇返上して働いたらぶっ殺すと部長 にも言われているしな﹂ ﹁⋮⋮残業禁止﹂ ﹁まったくだ。己れは残業してまで首を斬る相手を探しているとも っぱらの噂になっていてな。いい加減世間体がヤバイ。素直に家に 帰ってハムでも食おう。なんか知らんがめっちゃハムを贈り物で貰 ったのだ﹂ 恐らくは賄賂代わりだろう。率直に現金で賄賂を渡してきた相手 の首を斬ったクロウの噂は既に広く知られている。 ハムならば丁度今は季節の贈り物として選ばれやすい。贈り物を 送った相手ならば良心の呵責が生まれるだろうという期待が篭って いる。 ﹁⋮⋮料理予定?﹂ ﹁おう。食いに来るか⋮⋮って肉は食えないんだったな。やっぱり 外でケーキでも食うか。己れはこれでも、甘いものに目がないとい うほどではないが、鼻がない程度には好きでな﹂ ﹁⋮⋮いく﹂ クロウは疲労回復の符を首元に張りながら、クルアハに歩幅を合 わせて街へと向かう。 騎士団内ではほぼ孤立してしまっている為に、最近彼は誰かと食 事や遊びに出かけるということもほぼ無くなった。 クロウの立場など気にしないと言ってくれる元同僚達も居るのだ が、むしろ今付き合うと彼らに悪い噂が出そうなのでクロウの方か 1125 ら暫く離れるように告げているのだ。 クルアハは騎士団と関係の無い、個人的な友人である。 種族が告死妖精という特殊な生まれであった為に人付き合いが殆 ど無かったのだが、役場の仕事でクロウから術符の発注を受けた事 により縁ができた。 告死妖精とは誰かの死の淵に耳元で相手の名を呼び死後の世界に 連れて行く妖精だ。妖精種族が魔法協会に所属しているのは珍しい が、中には変わった妖精も居るのでそれの類だと思えば格別の個性 というわけではではない。 死の間際に訪れるということから曲解されて、告死妖精に名前を 呼ばれると死ぬという噂が生まれた為に恐れられているのだ。 口を開くだけで怖がられるので、クロウの近く以外ではほぼ無言 である。また、それ故に声を出さなくとも使える付与魔術に傾倒し たのではあったが。 クロウとしては、クルアハと親しくなった後で告死妖精種だと聞 かされたのだが、 ﹁それってこの国の大臣がゾンビである事よりヤバイのか?﹂ と、いまいち恐れの波に乗り切れなかった為に普通に付き合って いる。夏場になると大臣の腐臭がきついことの方が重大な気がした。 昨日夕飯に猿の脳味噌食ってた。痒くて旨いらしい。 特に最近は、クロウもまた他の人に避けられる存在になっていた 為に親近感が湧いたのか、クルアハと一緒に居ることが多い。 ﹁仕方ないよな。厭な仕事だから。首切りなんて﹂ ﹁⋮⋮不況時代﹂ ﹁騎士なのにリストラされるってのも、そりゃあ皆嫌がるって﹂ 1126 命令で100人の首切り︵リストラ︶をしなければならないクロ ウは大変に恐れられているのであった。 彼の役職は人事部・副部長騎士クロウ。この世界に於いて騎士と はだいたいサラリーマンと同義であった⋮⋮ ***** 百人斬首などというおどろおどろしいアダ名を付けられているが、 クロウはまだ百人切ったわけではなく、切る予定があるというだけ だ。 まずは早期退職者の希望を取って自主退職を勧めた。騎士の解雇 とはいえ国営なので退職金も失業給付金も出る。 それでも半分に満たない人数しか集まらない。当たり前だが。続 けて騎士団員の家族構成や収入をリスト化していく。同時に街の求 人情報なども調べあげ、失業後の再就職先を確保。実家が何らかの 経営をしている者などには、その後の支援を約束に退職を迫る。 女騎士などはいずれ寿退職してしまうパターンが多いために、ク ロウは結婚適齢期の女騎士にお見合い紛いのことまで手伝ってやり 何とか仕事を辞めさせていく。中にはセクハラだとか、 ﹁くっ! 殺せ!﹂ などとお決まりの科白で抵抗する女騎士も居たが心優しいオーク 紳士を紹介してやった。三人ぐらい居た。オーク紳士の数は合わな かったので、三人押し付けることにした。すまないと思っている。 1127 手に職がある人間はいいのだがそうでない者も騎士団には多い。 就職セミナーの他に職業訓練校のパンフも取り寄せて騎士団内で配 布する。 また、特に戦闘力だけで騎士になったような人物は迂闊にリスト ラすると盗賊に身を落としてとても厄介な為に注意が必要だ。 クロウに与えられたリストラ権とでも呼ぶべき人事の権限は非常 に強力で、書類だけでリストラ人員を決定し通すことも出来るので はあったが、百人全員の面倒を見んばかり走り回る彼は相当にお人 好しである。 だんだんと呼び名が[百人斬首のクロウ]から[就職指導のクロ ウ]に変わってきた。地元の大学にも呼ばれて民間就職のための講 演会なども一度開くことになったという。 その日もようやく、嫁の実家が魚屋をやっているという男性騎士 を説得して頷いてもらい安堵して帰宅していた。 途中でクルアハに出会ったためについでに酒でも飲みに行こうと 飲み屋に向かう。 座敷のある店だ。椅子に座ると髪の長いクルアハは地面に垂れて しまうからである。 蜂蜜酒をちまちまと飲みながらクルアハが尋ねてくる。この妖精、 酒は好きなのだが甘いものを好んで飲む。 ﹁⋮⋮仕事順調﹂ ﹁おう。かなり人数は上がってきたな。99人達成までもうちょい だ﹂ ﹁⋮⋮百人斬首?﹂ ﹁最後の一人は己れが辞表書くつもりだ。そろそろ仕事も辞めどき だろう﹂ ビールの追加を注文してそう言った。 1128 長年勤めた騎士だったが、まあそこまで未練は無い。少なくとも リストラ達成後の居心地の悪さを我慢することを考えれば。 相変わらず無表情のまま、小首を傾げてクルアハは言う。 ﹁⋮⋮辞めたらどうするの?﹂ ﹁珍しく文を喋ったな。そうさな、ニ、三箇所ぐらい行ってみたい 場所があるからな。旅に出る﹂ ﹁⋮⋮そう﹂ これまでは世話になった傭兵団と騎士の仕事で忙しく、元の世界 に戻る手がかりを探すことさえ出来なかったのだが暇ができ、退職 金も多く貰えるのでこれを機に旅をしようと決めたのであった。 年齢もそろそろ旅に耐えられる限界になってしまう。中年となり 肉体のピークはとうに過ぎ、全盛期よりも体力も腕力も落ち込み続 けているのだ。 手がかりというのは世界の境界を司る神の信仰中心地と、召喚士 の里と言われている辺境の地だ。 聞いた話によると召喚士一族の中には異世界からの魔獣を召喚す る者も居るというのだ。元いた世界と何らかの関わりがあるかもし れない。 ﹁⋮⋮旅終了後?﹂ その言葉は、つまり旅で成果が上がらなかった時の未来を尋ねて いる。 確かに元の世界に戻れるとは限らない。しかし宛のない放浪を続 ける程にもう若く無い。 だから、帰れないのだとわかった時は、 ﹁あー、その時は⋮⋮まあ戻ってきて適当に暮らすさ﹂ 1129 諦めよう。クロウはそう思って大げさに肩を竦めた。 この旅も、帰る努力を何もしなかったという後悔を持ったまま老 後を過ごしたくないという意識が働いているのかもしれない。 クルアハは相変わらずの無表情のまま、 ﹁⋮⋮そう﹂ と、だけ呟いた。 そして旅に出る日に、クルアハは付与魔術で作った光り輝く剣を クロウにプレゼントした。 ﹁己れが持つにはちょっと格好良すぎる剣じゃないか?﹂ 苦みばしった中年であるクロウが、いかにもなピカピカな拵えで 伝説っぽい名前まで付けられた西洋剣を渡されて照れたようにそう 云うのだったが、旅でも役に立つ魔法の剣で彼は何度も助けられる こととなった。 旅は長く険しい。治安が良いとはいえない世界で、危険な昨日か ら未知の明日へ毎日身を削りながら進む。 決してクロウは強いわけではない。この世界では人間種族の戦士 としても並程度の強さしか無いだろう。これまでに戦場に出たこと が何度もあり、己の実力は知っている。魔法も使えなければ神の奇 跡も起こせない只の男だ。 それでも意志を両足に込めて、幾度も危機に陥りながらも彼は探 しまわった。 いつか帰る場所を。 1130 ***** 結局、あれから元の世界に戻ることが出来なかったクロウは渋々 とこの世界に定住することにした。 年も50を数えただろうか。古傷が痛む為に旅はもう無理だろう。 しかし純粋な人間種族で、50歳を超えていて魔法資格の一つも 持っていない男の再就職は厳しいかに思えたが、昔リストラする際 に世話をした元同僚たちが何かと伝手を当たってくれて、都市内の 魔法学校用務員を勤めることになった。 週五で校内の清掃、備品の補充や修理などの仕事を行う。薄給だ が、独り身にはちょうどよかった。 休日になると家にクルアハや、傭兵時代の仲間で今は街の教会で それなりにお偉い司祭になっている歌神官のスフィが訪ねてくるの で茶を飲んでほのぼのと過ごした。 このスフィという女が耳の長い長命種族で見た目は少女だという のに実年齢はクロウよりも遥かに高く、 ﹁クロー、茶を飲みに来たんじゃよー。お、相も変わらずクルアハ も来ておるのかえ? にょほほ、お主の寿命ももうすぐじゃなあ﹂ ﹁お主は変わりもせんお子様っぷりだのう。昔己れに﹃すぐに[せ くしーだいなまいつ]になるから待っておれ!﹄などと言っておっ たのだが己れの寿命の方が早いわ﹂ ﹁むむむ⋮⋮計算違いだったんじゃよー。ぷりちーぼでぃーはもう 飽きたんじゃよー﹂ などと爺婆の言葉を漫画的表現にしたような喋り方をするので、 次第に対応するクロウも爺むさい口調に感化されたという。 スフィが来ると大体クロウと二人で喋ったり将棋を打ったり、機 1131 嫌がいい時は酒を飲んで歌を詠ったりしていた。 クルアハはだいたい無言で茶を飲んでいるだけだったが、年をと ると気兼ねなく近くに人がいるというだけで何となく安心するもの である。 そんな生活が十五年は続いただろうか。 クロウの人間の友人も次々と鬼籍に入りだしたが、彼自身は最近 発症した痛風以外は元気に過ごしていた。よくつるむ友人二人はま ったく老けないのだが、不思議と気にならずに楽しく過ごしていた。 大きな事件も起きずに日常を過ごす。何もなかった昨日に安堵し、 何もない明日を迎える日々だ。それを平穏というのだろう。 クルアハは思う。 ︵いつかこの人が幸せに死ねたら、最後のその時に名前を呼んであ げよう︶ 自分の種族の性質から、一度もクロウの名を呼べていないのであ る。 クロウも、クルアハが自分と一緒に過ごすようになってそんな事 を考えているのを察している為に、 ︵まあ、死に水を取るのが此奴なら、己れの人生も満足の終わりだ ろう︶ と、そう思えるようになった。 死ぬのは怖くない。それは老人にとって、最も心強い思いだ。 ある年のある日。 クロウも定年退職間近な年だ。髪も真っ白になり体も破れ凧のよ うに骨ばっているが、年の割には元気であった。 1132 最近では昔に貰った剣の鞘を杖の形にクルアハが拵えなおしてく れた為に、それを持って仕事に行くことが多い。 年を取りどんどん物臭になってきたクロウの家をクルアハが掃除 していると、彼はある少女を家に連れて帰ってきた。 黒髪をお下げにした、魔法学校のローブを着ている気の強そうな 子供だ。 ﹁おい、クルアハ。一寸よいか﹂ ﹁⋮⋮どうしたの﹂ エプロン姿のクルアハを見て、少女は身を引いてクロウの背中に 隠れた。 黒い長髪に死を見る金の魔眼を持つ妖精。それは一種類しか居な い。 ﹁告死妖精!? じ、爺ちゃんお迎えが来てますよ﹂ ﹁ええい、そう怯えるでない。あれとはもう相当古い知り合いだが、 己れは今だにピンピンしとるのだ﹂ クルアハは首を傾げつつ回りこむように少女を見て聞く。 ﹁⋮⋮どなた?﹂ ﹁うむ、己れが用務員をやっておる学校の生徒なのだがな、名をイ リシアという。魔法がド下手過ぎて校舎裏で練習をしていたのだが、 マッハ級に邪魔だったので連れてきた﹂ ﹁ド下手などと言わないでください﹂ 頬をふくらませて非難する少女、イリシア。 今年度魔法学校に入学し、属性調査試験により八属性全てに適応 する天才魔法使いの卵だと注目されたのだが、致命的なまでに術式 1133 構成の才能に難がありまともに魔法が使えない、通称[聳え立つ八 本のクソ]イリシアと呼ばれる落ちこぼれ生徒であった。 唯一出来るのが魔力の単純開放による爆発なのだが、そんなもの を練習されても地面にクレーターは残るは備品が吹っ飛ぶわで異常 に迷惑なのである。 ﹁そこで、クルアハの付与魔術でも教えてやればと思ってのう。あ れは基本的に大人しい効果だから。学校でも色々試したらしいが、 付与魔術を使える教師は居らなんだ﹂ ﹁だって付与魔術って焼き芋に負けた魔法系統じゃないですか﹂ ﹁⋮⋮本人次第﹂ じっとイリシアを見ながら告げる。言葉少なな彼女の発言を、最 近では以心伝心になっているクロウが代弁した。 ﹁ほれ、クルアハもお主がやりたいなら教えるがやりたくないなら 別にいいと言っておるぞ。どうするのだ?﹂ ﹁うう、やります。やりますよ。倉庫を爆破した私のガッツを舐め ないで頂きたい﹂ ﹁爆破するな。己れは今から修理業者に依頼に行ってくるから、ク ルアハ。後は頼んだぞ﹂ ﹁⋮⋮委細承知﹂ そうしてクロウは、偶々知名度の低い魔術系統の使い手と知り合 いであったために、イリシアをクルアハに出会わせたのである。 ただそれだけの出会いだった。 それから││。 イリシアは殆ど毎日のようにクルアハに教えを請いに訪れるよう になった。 1134 クルアハ自身クロウと会ってから大分喋れるようになったとはい え口頭説明は得意でなく、教えるのに時間が掛かる。それでも、お 互いに根気強く授業を重ねた。 二人の様子を、魔法に関しては一切才能が無い││地球人だから ││クロウは茶を飲みながら離れて見ているだけだったが、同じ黒 髪の少女二人なのでまるで姉妹のようにも見えて微笑ましかった。 クロウの日常が少し騒がしくなった。 ﹁のう、クルアハ。己れはよくわからんのだが、イリシアの魔法は どうだろうか﹂ ﹁⋮⋮相性最適﹂ ﹁そうか、そうか。いや、学校でも見かけると最近は明るくなって いてな。杖を使わず筆を使う魔法使いなど珍しいが⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮教え甲斐がある﹂ ﹁お主相手にも初対面以外物怖じせぬからな。まったく、話してみ ればお主もただの娘だというのにこの街の連中の恐怖感はよくわか らん。ゾンビ大臣など肉が腐り落ちてスケルトンになっても大臣を 勤めてるのに誰も気にせんのだが﹂ ﹁⋮⋮わたしも気にしてない﹂ ﹁うむ。ま、今更どうでもいいことであるな。水羊羹でも食うか? 最近はすっかり食うのも硬いものより柔らかいもの派になってな﹂ ﹁⋮⋮食べる﹂ また、ある日はクロウが昼寝をしている間にイリシアとクルアハ が会話をしていた。 ﹁⋮⋮爺ちゃんという呼び名﹂ ﹁ああ、それですか。爺ちゃんは学校では誰にでも爺ちゃんって呼 ばれてますよ。⋮⋮ところで師匠は、爺ちゃんの恋人とか義理の娘 だったりしたんですか?﹂ 1135 ﹁⋮⋮告死妖精にそういう感情は無い﹂ ﹁そうですか。いえ、雰囲気的に、爺ちゃんの家族みたいな感じが したもので﹂ ﹁⋮⋮ただ、相手をしてくれるから居る﹂ ﹁爺ちゃんの事が好きなんですね﹂ ﹁⋮⋮私には魂が無いからわからない﹂ クルアハは椅子に腰掛けたままうたた寝をしているクロウに、毛 布をかけながら無表情で云う。 ﹁⋮⋮終わりの時まで一緒にいたいだけ﹂ ︵そういうのを、好きという感情なのではないでしょうか︶ 若いイリシアはそう思うものの、お人好しで働き者の老人に関わ る時には告死妖精という死の象徴の種族である彼女がとても人間ら しく思えた。 何十年と一緒に居て生まれた絆は恋とか愛とかではなく、もっと 特別なものなのかもしれない。 イリシアは口数の少なく無表情だが自分に魔法を教えてくれた、 同じ髪の色で姉みたいな師匠が好きだった。 魔法も使えず体力も衰えた老人だというのに、誰からも頼られて 何かと解決する面倒見の良い爺ちゃんが好きだった。 その時のイリシアは、幸せだった。 ***** 1136 奇妙な三人の関係がどれだけ続いただろうか。 そのことをクロウやイリシアが後に思い出そうとしても、まった くはっきりしなかった。 日常が終わったその日のことさえも。 ある日、クロウは剣を杖に町に出ていた。ちょっとした買い物だ。 最近は買い物にもクルアハが同行して買い物カゴなどを持ってくれ る。 時々顔見知りから冷やかしに、 ﹁爺さん、後ろに死神が憑いてるぞ!﹂ などと声を掛けられるが、 ﹁おう、お主の後ろにも⋮⋮あっ、本人には見えて居らぬか。すま んすまん﹂ などと返して脅かした。なにせ、告死妖精に憑かれた老人が云う のだから信憑性があって恐ろしい。 人混みをすり抜けて町を歩いていると、なにやら先で騒ぎが起こ っているようだ。 都市国家の中心地にある公開処刑場だ。革命には処刑台がつきも のであるという言葉通りに、この都市国家の独立に於いても多く利 用されたサービスである。 そこに磔になった娘が居た。 見知った顔だ。 孫のように可愛がっていた少女である。見間違えるはずがない。 昨日までは真っ黒だった髪が、染めても決して出ないような鮮やか 1137 な青色に変わっているが、確かにイリシアだ。 ︵イリシアが⋮⋮処刑台に?︶ クロウは慌てて、随分久しぶりに走り息を切らせながら処刑台の 近くに駆け寄った。 すぐに兵士が道を塞いだが、クロウは兵士の胸ぐらを掴んで怒鳴 る。 ﹁おい! どういうわけだ! 何故あの娘を処刑台に乗せている!﹂ ﹁なんだ爺⋮⋮アレの関係者か? 魔女だよ、魔女の転生体。青い 髪を見ればわかるだろう。国際法で処刑が決まってるんだ﹂ ﹁馬鹿な﹂ 魔女という存在がある事はクロウも知っていた。 魔法使いの女の事ではなく、魔女と呼ばれるその存在は転生を繰 り返し、無限に近い魔力で世界に災厄を振りまくという災害のよう な人物だ。この世界で青い髪をした人間は魔女しか居ない。 神殺しにより手に入れた能力で行使する特殊な魂の転生により、 ある日突然それまでの髪色が突然青に変わるのが魔女の魂が覚醒す る兆候であるとされている。 何度も転生し現在に至るまでに行った悪行から永劫国際手配を受 けていて死刑が義務付けられている。それも魔女が力を蓄えてから では遅い。今代の魔女は本人すら気づかない間に、早朝に発見した 親が即座に縛り上げたのは僥倖であるとも言える。 かつて魔女に大きな被害を与えられている魔法大国の影響が大き い国柄であったことも、対応の早さを加速させた。あっという間に 話は進み昼前には処刑台の上である。 聞けば、周囲の大衆は露骨に悪意を処刑台のイリシアに向けて囁 いていた。 1138 ﹁魔女だってよ。小さい頃は髪の色を隠して擬態してるんだろ? うちの子があんな化け物じゃなくて良かった﹂ ﹁現れる度に町や国を滅ぼしてきたって伝説だぞ﹂ ﹁早く殺せよ⋮⋮ガキのうちに始末付けられて幸運だ﹂ ﹁噂によると、魔女が告死妖精に魔術を教わっていたらしい⋮⋮﹂ ざわざわと、毒気を持った醜悪な言葉が重なり、処刑台にいるイ リシアへ周囲からの殺意が向けられた。 姿が人間と変わらなくとも、この世界に於いては魔女とは凶暴な 獣と何ら変わらない扱いなのだ。同情の眼差などひとつも向けられ ない。死刑にするのは当然の存在である。 いかな魔女といえども、魔法の発動媒体を一つも持っておらず、 口を塞がれ指も動かせなければ魔法など使えない。 念入りに裸に剥かれて縛り付けられているのだ。クルアハに習っ た術符の一枚も持っていない。 ﹁処刑が始まるぞ﹂ 言葉に、はっとクロウは顔を向ける。 槍を持っているのは処刑の執行人││ではなく、町人にしか見え ない夫婦であった。 クロウはそれにも見覚えがあった。イリシアの両親だ。 いつか会ったことがある。娘が最近は楽しそうにしている、あな たのおかげだと嬉しそうに挨拶をされてお礼の葡萄酒を貰った。ど こにでも居る、娘とも仲の良い夫婦だった。 魔女の関係者でないことの証明の為に、夫婦が槍を娘に突き刺す 役目に任ぜられたのである。 だが、救いようがないのが││その夫婦は、憎々しげに、或いは これで嫌疑から開放されるという嬉しさの混じった表情をしていて、 1139 娘に槍を刺すという行為を自ら進んで行っているようであった。 もはや、あれは娘ではないのだろう。彼らにとっては。化け物が 娘のふりをしていたという、悍ましい認識だ。 クロウの視線が、イリシアとぶつかった。 ぼろぼろと涙を流しているその娘は、縛られた口をもごもごと動 かしてクロウに何かを伝えようとしている。 いつも無口な相手と接していたクロウにはすぐに言いたい事がわ かった。 彼女が頼れる大人は、もう他に誰も居ないのだ。 クロウは処刑場の周囲を塞ぐ兵士の脾腹に剣の柄で当て身を入れ る。手加減などは無かった。 ﹁がは⋮⋮﹂ と、声を上げて崩れ落ちる兵士を弾き飛ばして処刑台に走り寄る。 足腰は萎え、心肺は荒く酸素を求め、全身の骨も関節も酷く傷ん だが、老人と思えぬ速度で処刑台へ向かう。 その時、クルアハはクロウに遅れた。 告死妖精は死が間近な人間が近くに居るとその名前が強く意識に 浮かびあがる。 だから処刑寸前のイリシアの名が浮かばなかったのが不思議に思 っていたのだが。 クロウが走りだした途端││彼の名がクルアハの意識を支配した。 普段、名前を呼ばぬように思い浮かべることはしていなかったとい うのに。 彼は死にに行ったのだ。寿命ではない、自らが選ぶ失い方の為に。 クロウが叫ぶ。 ﹁よさぬかぁっ!!﹂ 1140 凄まじい声量であった。 まさか魔女の処刑を邪魔されると思っておらず、一瞬対応の遅れ た兵士らは次のこの心臓を鷲掴みにされるような怒鳴り声で、更に 動きを止めた。 駆けた。 魔女がどうとか、法がどうとかは関係が無い。 大人として、目の前で泣いている子供を助けなくてはならない。 それが出来るのは自分しか居ないのだ。 ただそれだけなのである。 少女は安心したように、普段からは想像も出来ない早さで助けに 上がってきた老人に涙顔を向けた。 頼れば何でも面倒そうに一緒に解決方法を探してくれる。時々作 る料理が美味しくて。本当の家族のように頼りになる自分の味方に なってくれる人だ。 イリシアの前に彼は立って、戒めを解く為に剣を抜こうとした。 そのとき、老人の背中から突き刺された槍が腹を貫通して、イリ シアの眼前まで突き進み││咄嗟にクロウは槍を手で掴んで押し止 めた。 瞳孔の開いた目で、クロウの腹から生えた槍の穂先をイリシアは 見て固まった。 両親が突き入れる刃を少女に触れさせるわけにはいかない。 彼は片手に持っていた剣を抜き放ち、強く握りしめて込められた 魔力を最大出力で開放する。 ﹁キャリバーン││発動⋮⋮!﹂ 言葉とともに刀身から放たれるのは、松明の数百倍にもなる暴力 的なまでの凄まじい光だ。 1141 クルアハが旅の為に作ってくれた魔法の剣。光るという単純な付 与魔法を持つが、野宿をするにも相手の視界を奪うにも様々に使い 道があった彼の愛剣である。 そして処刑の様子を固唾を飲み全ての人が見守っていたために、 直視すれば目を潰す光をほぼ全員が受けて悶え苦しんだ。例え、目 を閉じていても目蓋を透かして届き視界が効かなくなる程である。 平気だったのは、クロウに目隠しをされたイリシアと特性を知っ ていたクロウとクルアハだけだった。 キャリバーンを振るい、腹を刺す槍とイリシアを縛る縄を切り裂 く。 そこまでで、クロウは全身からどっと疲れが吹き出し、体温が急 激に低下していく感覚を覚えた。 死が迫っている。 ﹁よいか、イリシア、クルアハに逃がしてもらえ。あやつは信頼で きる﹂ ﹁い、嫌です。爺ちゃんも一緒に逃げましょう!﹂ ﹁己れはよい。いいな、逃げるのだ﹂ 急いで言い聞かせているクロウと震えるイリシアの前に、クルア ハが立った。 彼女は首元に符を貼っている。[相力呪符]というオリジナルの 術式で、使用者が必要なだけ力を増加させる、というものだ。状況 次第では己の限界以上に力を発揮できるが、体に来る負担も大きい。 ﹁⋮⋮﹂ クルアハは無言で二人を両肩に抱いて、風のような疾さで処刑場 から逃げ出した。まだ誰も視力は復活しておらず、呪詛のような呻 きが聞こえるだけで目撃される事は無かった。 1142 この符を使わなくては、非力な妖精の体では人を抱えて逃げるこ となど出来ない。 人気の無い道を通り、廃墟の建物が並ぶ郊外に向かう。クルアハ はその間ずっと無言だった。 一つの廃工場でクルアハは限界が訪れて、動きを止める。足が動 かなくなっていた。地面にクロウを寝かして、 ﹁⋮⋮﹂ イリシアに顔を向けて頷いた。クロウに回復の魔術をかけろと伝 えたのだが、彼女はそれを察したようだ。この弟子はクロウほどで はないが、無口な彼女の意志を読み取ることができる。 刺さりどころが良かったのか若い頃に鍛えたおかげか、その両方 か或いは単なる奇跡か││普通の老人ならばショック死か失血死し かねない怪我だが、クロウに息はある。 まだ彼の死は確定していない。 ﹁わ、わかりました!﹂ 慌ててイリシアは魔術文字をクロウの体に直接刻み始め、傷の治 療を始める。 妖精種であるクルアハから見ればすぐに分かったが、魔女化の影 響でイリシアの魔力がとてつもなく増加している。己も超えている 程に。 ﹁ク⋮⋮!﹂ イリシアがこみ上げる衝動に口を強く抑える。 黒い血液に似たエーテル流体がだらだらと抑えた口の端から垂れ ていた。 1143 一瞬でも口を開けばある言葉が自動的に発せられてしまう。それ を抑えるのに、クルアハの体は崩壊という代償を受けているのであ った。 ︵名前を⋮⋮呼んではいけない︶ 告死妖精がクロウの名を呼べば、彼の死は確定されてしまう。そ れが告死妖精の能力であり、役目だ。 生物というよりも概念体である妖精は通常死ぬことはない。 だが、己の存在理由を否定した時に矛盾を抱えて消滅するのだ。 告死妖精が死を否定するのは、それ程に重いことだった。 ︵この人が、普通に老衰で、笑いながら幸せだったと死んでいくの ならまだしも⋮⋮︶ 誰かの為に死にに行くなどという、命を諦め、責任を被り、己の 胸に何もかも思いを仕舞ったまま死んでいくのは嫌だ。 単純に、嫌だからクルアハは使命に逆らうのである。 イリシアは振り向き、口から血のようなものを流し続けている彼 女に気づいた。 ﹁爺ちゃんの血は止まったけど心臓が弱って⋮⋮師匠!? そんな、 師匠まで﹂ 足の先はもう光の粒子││この世界の普遍魔法則粒子であるレイ ズ物質に変わり消滅し始めていた。体の内部が概ね消滅した為に、 外側も消え始めているのだ。 這いずるようにクルアハはクロウに近寄る。 失血しすぎたのだろう。今だにクロウの名が己の意識を支配しか けていることから、まだ死が彼を奪おうとしているのがわかった。 1144 付与魔術は回復に強いものでは無く、せいぜいが外傷の治癒か疲 労回復が限度なのだ。 震える指先をクロウの胸に近づけるが、触れた途端左手が砕け散 った。 ﹁わ、私がやる! どうすればいいですか!?﹂ ﹁⋮⋮﹂ そっと、飴細工を触るようにイリシアはクルアハの残った右手を 取った。今にも壊れそうで残酷なほど軽かった。 イリシアの指先から流れ出る魔墨で己の開発した魔術文字をなぞ らせるように動かす。 何故この術を作ったかその時はわからなかったが、なんとなく今 になってクルアハは理解できた。 ︵[存在概念]の魔術文字⋮⋮それによる不老の効果。ずっと、彼 と過ごせてたらいいと思って作った︶ 理論は完成していたが、告死妖精という種族の魔力が合わなかっ たのか単純に魔力量が不足していたのか、発動は不可能ということ で今まで忘れてさえいた術だ。 イリシアの魔力ならば出来る。瞬間的に彼の体調を最良にするだ ろう。 複雑な紋様だ。時間を掛けて、クロウの胸に刻む。 消え行く光の中、クロウとの思い出だけが浮かんだ。 ***** 1145 ﹃はじめましてだな、君がクルアハか。いや、今度の鎮圧任務で部 隊に回す装備に魔術符ってのを使いたくてな。己れは庶務課騎士の クロウだ。宜しく﹄ ︵最初は話しかけてくる奇特な人間というだけで特に何も思わなか った︶ ﹃怖がられてる? 見た目がなんか⋮⋮髪を垂らした幽霊の事をな んと言ったか⋮⋮そんな感じだからなお前は。可愛い服と髪型に気 をつければいいんじゃないか?﹄ ︵よくわからない事を言うけど、そのうち居なくなるだろうと思っ ていた︶ ﹃うわ、昨日の今日で随分変えてきたな⋮⋮あれ? 妖精の羽根が あるな。妖精だったのか? まあいいけど可愛いと思うぞ、うむ﹄ ︵何となく、付き合いは続いて︶ ﹃旅の成果? あー、いや今回はあんまり。次は頑張るって。はっ はっは、ありがとな﹄ ︵帰ってきては顔を出してくれた︶ ﹃ううむ、菓子作りはもうお主に勝てぬな。なに? 喋り方が爺さ んみたいだと? ⋮⋮スフィの影響だろうか﹄ 1146 ︵そのうち同じ家で料理をしたりするようになった︶ ﹃しかしあれだのう。己れが死んだらお主泣くだろ。泣かない? ああ感情無いんだったか。長い付き合いになると結構お主も感情豊 かに見えるがな﹄ ︵やっぱり彼の言うことはよくわからない。告死妖精が死で泣くな ど。感情があるなんて⋮⋮︶ ﹃お主が先に死んだ時は己れは泣くかもしれんな。年を取ると涙脆 くなるから困る。妖精は死なない? いや、案外隕石が落ちてきて 死ぬかもしれぬだろう﹄ ︵それでも、彼のことをわかりたいと思ったから、最後まで一緒に 居ようと決めた︶ ***** クルアハの思い出は魔術の事以外では、殆どはクロウが一緒だっ た。 死ねば全てが消える。 妖精というのはこの世界ペナルカンドでは魂が無い概念存在だ。 そしてペナルカンドに於いて記憶とは魂に刻まれる。 1147 概念体として存在している間は現実の情報として他人に認識され るのだが││ クルアハが消滅した時、魂が存在しない彼女に関わった記憶は全 ての人間から忘れられる。 弟子のイリシアからも、数少ない付き合いのあったスフィからも、 思い出の大部分であったクロウからもだ。 それがこの世界の法則であった。 ︵こんなに誰かを想っていても、魂が無いなんて︶ 儚い存在である己の身を恨んだ。 もし、自分が人ならばどれだけ良かっただろうか。死んでも彼の 記憶に残る。彼と同じ時を過ごして、一緒に老いて死んでいく。そ れだけで良かったのに。 クルアハは魔術文字を刻みながらそう思っていた。 助けてもクロウから忘れられるというのに、どうしても彼を死な せたく無かった。幸せになって欲しかった。 ﹁む⋮⋮﹂ クロウの意識が戻るが、顔は真っ青だ。まだ彼は死にかけている。 殆ど滲んだクロウの視界が、黒い髪の少女を見て安心させるよう に、感覚の無い手を上げて軽く当てた。 彼女の頭を撫でようとしているのだ。 ﹁やっぱ⋮⋮泣く、よなあ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮!﹂ ﹁己れの事はいい⋮⋮無理するな﹂ 1148 ﹁⋮⋮⋮⋮っ﹂ クロウの言葉に、叫びを上げたかったが、クルアハは必死に口を 閉ざした。 ︵⋮⋮わたしは泣いている︶ 目の前の人に死んで欲しく無くて、目の前の人から忘れて欲しく 無くて、どうしても両立しない悲しさに顔を歪めて涙をぼろぼろと 流している。 ずっと彼と過ごしていたのだ。 魂が無くとも感情ぐらい生まれる。 それに気づこうとしなかっただけだ。 クロウの開いた目が、再び閉ざされて彼は気を失った。 やがて、魔術文字が完成する。クロウの全身に文字が這うように 蠢き、八色の淡い輝きを見せ始めた。 クルアハの意識からクロウの名も消えた。彼の死は去ったのだ。 安心したように口を開けると、我慢していた血のような流体で咳 き込んで咽た。 エーテル流体が吐き出されて床に落ちると同時に空間に溶けて消 え、クルアハは体重を失う。 ﹁師匠! 次は師匠を助けます、どうすれば助かるか教えてくださ い!﹂ ﹁⋮⋮もう、無理⋮⋮ありがとう﹂ ﹁助かりたいって! 言ってくださいよ!!﹂ ﹁⋮⋮わたしは幸せだったから﹂ 彼女は残った手で弟子の頭を撫でてやった。一秒にも満たない時 1149 間で、手は消滅する。 胸から下も全て消え失せていた。どう手をつくしても、彼女は消 えるのだ。二人の記憶からも、永遠に。 魂の無いこの身は転生神の輪廻に乗り生まれ変わることもない。 別の場所、何処か似た姿で再生されるが、記憶も想いも無い別の個 体としてだ。 それでも奇跡があったなら││二人と同じ人間になりたかった。 ﹁私は、魔女なのに⋮⋮助ける方法もわからないんです⋮⋮! 師 匠が居ないと何も出来ないんです⋮⋮﹂ 世界最強の魔法使いである魔女が滂沱の涙を流している。魔女化 により、魂の記憶の継承が行われ、幾度の命に於ける最高峰の魔導 が知識として流れこむが、今この場で消滅しそうな妖精を救う方法 は無かった。大好きな師匠と過ごした日々に勝る幸せな記憶は無か った。 どうにもできない絶望に染まる彼女を安心させてやりたくて、告 死妖精は微笑んだ。 笑うこともできたのに、もうクロウに見せられないのが残念だっ た。 ﹁⋮⋮聞いて。楽しいと思うことをいっぱいしなさい。好きに生き て、好きに死ぬこと。辛いことがあっても、最後は笑って││﹂ ﹁うう、やだあ、おねえちゃんも、一緒が良い⋮⋮﹂ ぐずぐずと、いつも小生意気な態度だった弟子が駄々っ子のよう になっている。 遺言のようだが、決して相手に記憶されない虚しい言葉だ。こん なに饒舌なクルアハを初めて見たが驚く事もできずにイリシアはた だ泣くことしかできなかった。 1150 言葉は残らなくても、残るものはある。 この可愛い魔女に教えた魔術は誰に教わったか覚えてなくとも、 彼と彼女のこれからを助けるだろう。 思い出の代わりに道を照らす灯火を。 ﹁⋮⋮ごめんね⋮⋮出来ればこの人の名前、呼んであげて⋮⋮わた しの、代わりに⋮⋮﹂ そこまで告げると、クルアハの顔が石のように色を失い、光の粒 となり空間に溶けて消えて行く。 同時にクロウの体を包む光が光量を増して閃光が周囲を包んだ│ │。 ***** クロウが意識を戻したのは閃光が収まりすぐにだった。 体の痛みが消えている。むしろ、妙に軽く調子がいい。むくりと 上体を起こして周囲を見回す。 青い髪の少女││イリシアが眩さで目が痛いのか擦っていた。 ︵そうだ、イリシアを助けて⋮⋮︶ 慌てて見回すが、どこか廃墟のようである。 ふと自分の掌が皺も無いつるりとしたものに変わっていることに 気づき、首を傾げる。 1151 やがて視力を回復させたイリシアが、 ﹁⋮⋮あれ? 爺ちゃん││ですよね。どうしたのですか若返って﹂ ﹁若返っただと?﹂ クロウは慌てて、握りしめたままだった只の剣を手に取り、鏡の 代わりに覗きこむ。なんの変哲も無い普通の剣だが、よく磨かれて いて自分の顔を写した。 そこには随分と若い、自分が中学生ぐらいの頃の顔つきが写って いる。 ぺたぺたと顔体を触り、腹部に手をやる。べたりとした血の跡が あるが、傷跡などは残っていない。 ﹁お主が治してくれたのか?﹂ ﹁ええと、どうやら魔力跡を見るとそう⋮⋮みたいですね。無我夢 中というやつでしょうか﹂ ﹁何故に若返っておるのだ﹂ ﹁魔力の流し過ぎで加齢まで回復したのでは? いえ、調べなくて はわかりませんが﹂ 何故か治した筈の本人もうろ覚えだという。 自分も確か、彼女を助ける為に槍で刺されたあたりは覚えている のだがそれからどうなったのか曖昧だ。二人で生きているという事 はなんとか逃げれたということなのだが。 一度死にかけたせいか、記憶が混濁する。或いは痴呆か健忘症が 進んだのかもしれない。様々に思い出そうとしてもどうもうまくい かない。 ﹁││爺ちゃん。⋮⋮泣いているのですか?﹂ ﹁む⋮⋮?﹂ 1152 クロウは顔に手をやると、目から涙が溢れていることに気づいた。 悲しいわけではない。泣く理由が浮かばない。それでも涙が止ま らなかった。 ︵年を取ると涙脆くなるとは言ったが⋮⋮?︶ ふと、そう考えたけれど││誰に言ったか思い出せはしなかった。 だが。 泣いてばかりは居られない。これから、イリシアと国から逃げ出 す必要があるだろう。 クロウは涙を拭いて立ち上がった。体には力が漲っている。そし てやけに、熱い。 いつから持っていたかわからない名前も無い剣を腰に帯びて、ほ ぼ裸のイリシアに今まで着ていたゆったりとしたフード付きの外套 を貸してやった。 ﹁気にするのは後にしてとにかく行くか。なに、動くには老人より 若い方が便利ではある﹂ ﹁はい。爺ちゃ││いえ、クロウ﹂ ﹁⋮⋮なんで呼び名が変わったのだ?﹂ ﹁見た目の年頃は同じになりましたので。これから宜しくお願いし ます、クロウ﹂ ﹁ふむ。まあよいか。では、旅に出るぞ﹂ クロウはイリシアに手を差し出した。彼女は首を傾げつつ尋ねる。 ﹁どこを目指して?﹂ ﹁さてな。ゆるりと帰れる場所にさえなれば、どこでもよいさ﹂ 1153 そう言い合って、クロウとイリシアは歩き始めた。 後に世間を騒がせる[極光文字の魔女イリシア]と[使い魔の騎 士クロウ]二人の物語はここから始まったのである。 二人はこれ以前にはどういう関係でこうなったのか語らない。 何故か記憶の齟齬が多くて忘れていることばかりだからである。 しかし、大事な何かがあったのだろうと想う事がある。クロウは 泣き顔を、イリシアは笑顔を見た時に、ふと胸によぎる誰かを。 ***** 当代の魔女はお目付け役とでも云うべき騎士が居るためか、残虐 性は低いがそれでも世界のあちこちで騒動を起こして迷惑をかけて いた。 保護者なら止めろと関係者は云うのだが、基本的に世界最高の魔 力を持つ魔女は自由奔放すぎるのでクロウの手にも余るのだ。魔女 の身長がクロウを抜き去ったあたりから説教も聞かなくなってきた。 むしろだんだん感化されて、開き直って逃げれば楽勝だなとか、 バレないようにやればいいかとかクロウも危険な思考に染まりかけ ては素に戻ったりしていた。恐らくは慣れと諦めだろう。 ほぼ枯れていたクロウがわりと活発な性格に子供返りしたのは、 このあたりの破茶滅茶騒ぎのせいだろうか⋮⋮。 お互いに喧嘩したり説教したりすることもあったが、家族のよう に離れなかった。 1154 ある事件は都市国家クリアエにて行われた。 魔女の出身国であるのだが、再び舞い戻ったかと思えば日夜謎の 騒ぎを起こしている。 この都市で一番大きい歌神教会にて行われていたライブコンサー トに乱入して毒豚の血をまき散らし周辺を制圧。歌手を脅迫して反 体制的な曲をデス声で歌わせていると兵士が乱入、また内容はとも かく聖歌中であるという神官の反発から始まった暴動中に会場を爆 破してダッシュで逃げたのだ。 イリシアを小脇に抱えたまま走り去るクロウに容赦無い銃弾の雨 が軽快なBGMと共に降り注ぐ。 ﹁ギターケース型マシンガンって実在してたのだな。いや、実在し てたとしても神官が使うなよ﹂ 感心と呆れを見せながらクロウは足を止めないように正確に逃走 ルートを選ぶ。 正確にはギターケースに込めた使用者の信仰から来るジーザスエ ナジーを音速で連射している神聖な武器なのだが、まあ見た目は変 わらない。 飛来する弾丸は魔女が氷の障壁を展開することで防いでいる。[ 氷結符]と呼ばれる魔女の基本的な属性符だが、彼女が全力で使用 すれば数秒で大洋すら凍らせられるという。 ﹁こりゃあー! クロー! 待たんかあー!﹂ 聞き覚えのある高い声が背後から飛んでくる。クロウが走りなが ら首だけ後ろに向けると、古い友人である司祭がぷんすかと怒りな がら追いかけてきていた。 相変わらずの少女体型にぶかぶかのゴージャス修道服を着て、い 1155 かにも重そうなアンプを置いた馬車の荷台に仁王立ちしている。 ﹁クロウ。スフィ婆様が追いかけてきてますよ。お茶にでも誘って 怒りを宥めたらどうですか﹂ ﹁あやつが説教音源オメガスピーカーを持ってなければそうする。 鼓膜が破れても即再生させる魔力でたっぷり三時間は話を聞かされ るからなあ﹂ デ ﹁にょほほ! 官憲には突き出さんが魔女共々とっ捕まえて単独ラ イブにご招待してくれるわー! やれ、爆撃部隊!﹂ スペラード・ポージング クロウの行手から現れた複数の男たちが、軽快なBGMと共に歌 神的射撃体勢でギターケースから爆発物を投射する。 煙の尾を引いて接触爆砕神罰弾が飛来してくるのを見て、クロウ は叫びつつ強化された身体能力で壁を蹴り三次元に逃げまわった。 ﹁うわ、さっきから昔に映画で見たことあるぞ、そのランチャー! ?﹂ この日も、町の一角が吹っ飛ぶような騒ぎとなるのであった。 世界各地を周り、長年好き勝手に様々な悪戯を行ってきた魔女︵ 本人も後に不老化︶とクロウの迷惑物語。 それは空間歪曲迷宮砂漠に囲まれた魔王城に押し入ったところ、 現代のお高いネットカフェみたいな設備でやたら居心地の良いそこ に寄生的な形で住み込むまで続いた。 その後も怠けた生活のアクセントとして時々魔王と魔女が世界に 愉快犯的な天災を起こし続けていたので、そのうち討伐されるのも 当然の流れではあったが⋮⋮暫くクロウはこの地で過ごすのだった。 1156 1157 38話﹃万八楼料理大会﹄ 正月、松の内︵七日︶を過ぎると江戸の町でも平常の賑いを取り 戻す。 その年、鳥山石燕は病で伏して寝正月となっていたことから、節 句祝いの七草粥を緑のむじな亭で食べることとなった。 ﹁せり、なずな⋮⋮﹂ と始まる七種類の植物を下ごしらえして粥に入れたものは、その 年の無病息災を祈って食べられる。また、年末年始に多くなる大酒 などで弱った胃を休めるという知恵もあるとされる。 現代でもそうだが、江戸の時代でも七種類セットで販売されてい たようだ。 鳥山石燕の場合、無病息災一歩目から崖下に転落死しかけている 状況で、更に年が明けて酒を一滴も飲んでいない││飲んだら死ぬ と将翁に脅された││胃腸の状況なので、弱ってるも何も七草粥が 貴重な栄養といえるような悲惨さであったが。 さながら地獄に行きかけ先生・鳥山石燕である。 七日の朝、起きだしたむじな亭の住人たちに七草粥が出される。 佐野六科が作ったものだ。さすがに彼でも粥は失敗しない。逆に 飯を炊くのを失敗して粥にすることは稀によくある。 伏していた石燕の部屋に集まり、皆に膳を出した。 ﹁⋮⋮何だねこれは﹂ 七草粥と称したそれは、どう見ても白粥である。石燕だけではな 1158 く、全員分そうのようだ。 草が入っていない。鮮やかな緑を感じない。 訝しげに皆の視線が料理人である六科に注がれる。 彼は鷹揚に頷いて、 ﹁うむ。この何も入っていない粥を七草とするもの⋮⋮お六に騙さ れていたのではないかと思っていたが、そうではないらしい﹂ ﹁話を聞こうかね﹂ ﹁こういうことわざがあると将翁殿に聞いてな。﹃無くて七草﹄﹂ ﹁﹃七癖﹄なの、それ!﹂ お房が振るったアダマンハリセンが快音を出して父にツッコミを 入れた。 今年も絶好調のようである。 ****** 両国柳橋に[万八楼]という料亭がある。 正確には[万屋八郎兵衛]と言う名だが、この料亭はよくよく催 し事を開く店だとして有名であった。 大食い大会だの、料理勝負だのといったものを行わせてそれを版 元の記者などは面白おかしく記事にして江戸に読売を売り歩いたと いう。 松の内あけての正月八日。奇しくも八郎兵衛の八と合って縁起が 良いとされるこの日にも催し事が開かれた。 開催者は千葉・下総国野田からの醤油問屋、茂木新左衛門である。 1159 現代で主に使われている、所謂穀醤が大規模に作られるようにな ったのは江戸期になり人口が江戸に流入して、それまで主流であっ たたまり醤油の需要が追いつかなくなった背景がある。 そこで大量に作る必要があり、江戸の近くである千葉の野田や銚 子で生産された。江戸で使われる醤油は、兵庫から来る高級な下り 醤油を除けば殆どが野田と銚子のものであった。 故に、野田の醤油を扱う茂木家直売の問屋は大層な御大尽という わけである。 彼が万に江戸の料理人から参加者を募り開いたのは、[醤油を使 った料理]大会であった。 いや、正確に言えば[野田の醤油]を使ったものである。美食の 素材として己の会社の商品を使わせることで、消費拡大││という よりも、この場合は道楽のための催しである。勝負というよりは、 この醤油問屋を満足させる品を出した者が勝ちになる。 様々な種類の料理を一品作り、番付一等となった料理人には醤油 一斗と五両の賞金が与えられることとなっている。 細かい規則の設定︵頭部を破壊されたら失格など︶と料理人の選 出に於いては[万八楼]の伝手により開催を迎えた。 その出場枠を、食通として知る人ぞ知る鳥山石燕がひとつ買い取 っていた。 彼女が出場するわけではない。九郎を出させようと企んだのであ る。 ﹁見物に来ようとしていた本人はまだ寝込んでいるがな﹂ 会場までやってきた九郎は控え室で誰と無くぼんやりと呟いた。 年が明けてからろくに腹に飯を入れていないので動き出せもしな いし、ましてや料理対決を見に行くなど以ての外だと腹の音を鳴ら 1160 しながら恨めしげに言う石燕を残して九郎は参加しに来たのである。 一応、[緑のむじな亭]所属料理人ということになっている。付 き添いとして六科も来ていた。今日は店は休みだ。 ﹁それにしても⋮⋮﹂ と、九郎は周りを見回して﹁ほう⋮⋮﹂と感嘆の息を吐いた。 料理人が集まっているのだろうが、個性的な風貌の者が多い。 特に江戸という町は、身分が上がれば相応の格式による服装に限 定される為に、町人たちのほうがファッションの多様性が優れてい る。 勿論、例えば大店の妻がファッションショーのような物を開いて お互いに数百両はする綺羅びやかな服装で競いあったという記録も あるが、貧乏な庶民は庶民なりに髪型や着こなしに工夫を凝らして いるのだ。当時の浮世絵を見ても、町人らの様子を描いた絵は隅々 まで滑稽とも言えるほどに格好が違う。 そんなわけで元現代人で異世界帰りな九郎も適当な服装と髪型で もそう目立ちはしないのだが。 閑話休題。 それにしても、ここに集まった料理人はちょっと変わっている。 顔中傷だらけで鈍い光を見せる包丁をべろりと舐めながら周囲を 威嚇している明らかに堅気ではない包丁人。 烏帽子を被って澄まし顔で周りのものなど蝿か何かのように気に しない公家顔の四条流料理人。 かもしか ふてぶてしい顔で控室だというのにガツガツと持ち込んだ飯を食 っている少年板前。 木像に熱心に祈りを注ぐ僧侶風の大男⋮⋮羚羊の毛皮の上で血の 滴る生肉を食らう野人の大男⋮⋮全裸の大男⋮⋮只の大男⋮⋮。 まさに怪物級の料理人たちと言えよう。いや、九郎はまったくわ からなかったが、雰囲気的に。 1161 そして、 ワ ﹁おッ! こは九郎どンじゃッどがァ∼! 吾もこン来ィよちょっ たちかッ!﹂ ﹁ごめんよく意味が通じんかった﹂ さつまもんが居た。 いや。 いやいやいや、と九郎は目を疑った。 ﹁⋮⋮何故にお主が﹂ ﹁おいにもどげンじゃったか知ゃんがっさ、きなンかおとちかにわ ッぜかしこしょっつ呑んじょってビンタ打ッたくッたげん痛かち思 ちょったら、そいの比べがあっち、けッて鹿屋どンがてそかぁこッ 言んじゃがよ﹂ ﹁ごめんクソの先程も通じない﹂ ﹁よか﹂ 前はもっと聞きやすい言葉を喋っていた気がするが、何故か友人 扱いされてるように親しげに薩摩弁全開で話しかけてくるさつまも んに困惑した。一緒に肝練りに参加したのが悪かったのか。 異世界に居た頃は旅の神の加護により大体世界共通語が知性ある 種族は話せるという便利さだったので苦労することは無かったし、 こっちの世界に戻る際には魔王の送還効果か言葉は普通に通じるの だが、薩摩は別カウントのようであった。 それにしても、狂戦士さつまもんを料理人として派遣するとは、 あの[鹿屋]、 ︵正気とは思えぬ⋮⋮︶ 1162 と、九郎は訝しんだ。 しかしながら、彼の想像するところでは薩摩はこのようなバーサ ーカーめいた男が日夜暴れている土地で飯作りなどはやつれた奴隷 めいた女がやっているように思えたのだが、実際薩摩では男の料理 人が多かったようだ。 これは極端な男社会であった為に、他人の女に触れれば穢れが移 るとされていた為、妻か母以外の女の作った飯は好んで食わなかっ たのではないかと考えられている。 包丁のような刃物を使うのも男の役目である。優秀な漁場を抱え、 豚などの獣を食べる文化もあり、またいざというときは戦場に向か い皆で食事を囲んで食う為に薩摩武士なら料理技能を覚えているの は当然であった。 腰に下げているのは包丁でなくどう見ても刃渡りニ尺五寸はある 薩摩波平だが。 ﹁激戦の予感だな﹂ ﹁明らかに料理関係ない見た目のやつが集まってる気がしないでも ないがの。意外に参加者が多い﹂ ﹁一日がかりになりそうだ﹂ ﹁くさやでも焼いて酒を飲みつつ待っておくか﹂ 九郎は持ってきた七輪を床に置き、炭に火をつけてくさやを炙り 始めた。部屋に独特の臭いが篭もり、嫌そうな顔で周囲の料理人が 傍若無人な振る舞いをする九郎を見やる。 控室でくさやを食ってる少年料理人というのもまあ、周りから見 れば個性的ではあるのであったが。相伴になった六科も黙々と気に すること無く酒を飲んでいた。 1163 ***** やがて開始の時間が訪れる。[万八楼]の主が滔々と料理人の名 を呼んだ。 ﹁御勝負一番。日本橋魚河岸の鬼包丁、一心次郎!﹂ ﹁くっくっく! とうとう出番だぎゃあ!﹂ 鋭く研がれて幾百の血を吸った包丁をやはりべろりと舐めながら 武闘派やくざ風の男が現れる。 場所は万八楼の庭に面する座敷で、庭には調理用の簡易的な台所 が設置されていた。そこで料理するのだが、庭を取り囲むように見 物の客が押しかけている。 座敷には四人の審査員││万八楼の主、醤油問屋の茂木、店の常 連である同心二十四衆が十五番[美食同心]歌川夢之信、それと近 所の食いしん坊の子供が並んでいる。 子供というは不慮の体調不良で来れなくなった審査員予定であっ た石燕の代わりに、その辺で急遽連れてきたのである。味覚の違う 子供にとっても旨い料理となればそれはすなわち優れている証明⋮ ⋮誰かに聞かれた時にはそう答えようと万八楼の主は決めていた。 この四人が一番の醤油料理を選ぶ。 ﹁一心次郎って言えば魚河岸の中でも一等の包丁師だぜ﹂ ﹁身を削いだ魚の骨を生け簀に入れたら泳いだって噂がある﹂ ﹁何が凄いって口で﹃くっくっく﹄って発音しあまつさえ叫んでる のが凄い﹂ ﹁ちょっと痛いな﹂ 観衆が密やかに、堅気でなさそうな男の噂を囁き合う。 1164 江戸っ子というものは、 ﹁三日魚を食べなければ骨と身が離れちまう﹂ と、言うほどに魚が日常食であった為にそれに纏わる料理人とい うものも、話の種に上がる。 魚河岸と言えば現在では築地が有名だが、家康の時代から関東大 地震で移転されるまで江戸一番の賑いとなっていたのは日本橋の魚 河岸であった。 一日の売上金が千両もあったという話は有名で、魚河岸のそばに は新鮮な魚をすぐに料理して出す、[汐待茶屋]と呼ばれる料理店 なども繁盛していたという。 その中でも一等と呼ばれる一心次郎の腕前はどれほどのものか⋮⋮ 巷の噂に拠れば、午前の間に鮪十匹を切り分けたとか、彼が包丁 を入れれば生き腐れの鯖すら刺し身になるとか、その愛用の包丁は 正宗の作だとかしめやかに囁かれている。 ﹁さて、どんな料理を見せてくれるものか﹂ ﹁魚料理で醤油となればやはりあれでしょうな﹂ 審査員が言い合っていると、彼は持ってきた木箱をおもむろに掲 げて、中に入れていた新鮮な魚をまな板に乗せた。 観衆からどよめきが上がる。かなり身が大きい。三尺以上はある だろうか。それに見たことのない、身は黒く少しばかり怖い顔をし た魚だ。 名は様々あるが、ダルマという呼び名をこの一心次郎は使ってい る。 彼は慣れた手つきで腹をすっと捌きわたを取り除く。肉質は赤身 ではなく、薄い桜色をした白身で美しくすらあった。 硬く尖った攻撃的な鱗のついた皮を剥いでくるくると器用に三枚 1165 に下ろしていく。 目の前で捌いているというのに、血の匂いどころか魚の生臭さも 殆ど感じない。 身を薄く透き通るように何枚も刺し身にして皿に盛り付ける。 審査員の子供は頬杖を付きながら言う。 ﹁ふうん刺し身か。でも刺し身なんて魚を切っただけだから簡単だ よなあ﹂ ﹁まあよく見てみなさい食いしん坊君。あの一枚一枚むらも無く、 また身の筋に沿って切る技術。一片足りとも潰れたりしているもの はない。それに盛り付けも見栄えを良くして目を楽しませるように 工夫されている﹂ ﹁そうかなあ? そんなに難しくは見えないけど﹂ 少年の言葉に、料理中の一心次郎がきっと顔を向けて怒鳴った。 ﹁何だとこのガキ! だったら手前は出来るっていうのか!?﹂ ﹁出来ねァ!﹂ ﹁何ィ!? ⋮⋮いや、本当に何!?﹂ ﹁一心次郎さんよ、この食いしん坊のガキは料理は出来ないけどケ チをつけて開き直るのは巧いんだ﹂ ﹁最悪だな!﹂ 言い捨てつつ、彼は締めに大根のつまを皿に乗せて審査員たちに 料理を差し出した。 ﹁お待ちどう! ダルマの刺し身だ!﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ 醤油問屋の茂木がまず、刺し身を一切れ取って小皿に入れた醤油 1166 につける。 すると白身だというのに、ぶわりと醤油に脂が浮く程に脂の乗っ た魚だというのがわかる。茶色い醤油の皮膜が刺し身の表面の脂と 混ざり、てらてらと光っていた。 それを口にすると噛みしめる度に濃い醤油の味に負けぬほど身が 濃厚なことに驚かされる。 江戸の流行としての魚は淡白な味わいであることが多く、鮪のト ロなどは見向きもされなかった。これは保存技術の問題で痛みやす かったことも関係しているだろう。 しかしながら、見た目は河豚刺しの色を強くしたような白身だと いうのに、脂の味わいが深く食感もぷつりと小気味良い。 それもギトギトと口に残るような脂ではなく、さっぱりと飲み込 めば消えてしまう爽やかさすらある。 ﹁旨い⋮⋮﹂ 誰と無く審査員が呟いた。 濃厚な味だというのに幾らでも食べられそうだ。食いしん坊少年 など、ぺろりと皿を舐めるように平らげておかわりを催促している。 なにせ大きな魚だ。次々に捌いて、見ている観衆にまで刺し身は 配られて皆舌を唸らせていた。ダルマは深海魚である為に、夜間か 朝方の網漁に時折引っかかる以外では揚がらない上に旨いので食べ たことのあるものは少ない。 一心次郎がにやりと笑みを浮かべる。 ﹁おっと、一番手だというのに早速勝負が決まっちまったがや?﹂ ﹁⋮⋮いや、それは早計だ﹂ 美食同心の言葉に、一心次郎は目を剥いて睨みつける。 同心は腕を組んだままじっと刺し身を見つめて言う。彼はその極 1167 上の刺し身に一切れしか手を付けていない。 ﹁確かにこの刺し身の素材は旨く上等なものだろう。だが作り手の 問題で十全に活かされているとは言い難い﹂ ﹁何だと!? この俺様以上に刺し身を作れるやつなんざ⋮⋮!﹂ ﹁だったらダルマにあるまじき、この生臭さはなんだ﹂ 美食同心の言葉にぴたりと動きを止める一同。 ﹁醤油をつけずに一度食べて見て下さい﹂ と、彼が指示を出すので審査員はダルマをそのまま口にする。 すると、確かにこの魚に不釣合いな臭いが口に広がり、なんとも 言えないまずい顔をした。脂のインパクトと醤油の風味で誤魔化さ れていたが、冷静にそれを感じてから味わうと、醤油でも紛れない 臭いが鼻につく。 一心次郎は慌てて、 ﹁馬鹿な! ダルマに生臭さなんざあるわけ⋮⋮!﹂ 己も一切れ口にして、口を閉ざした。 確かに、ダルマに存在してはいけない臭いがある。それは魚河岸 で働いている一心次郎も知っているものだ。 ﹁これは⋮⋮くさやの臭い!?﹂ そう、彼の持っていた包丁や手に、控室で炙られていたくさやの 臭いが染み付いているのだ。 刺し身は素手で生の魚肉を触りそのまま提供する料理。作り手自 身が持つ臭いには注意しなければならない。だが今の彼はくさやの 1168 強烈な臭いに慣らされて己が臭いを放っているなど、気が付かなか った⋮⋮。 巧妙な、場外戦はあの時から始まっていたのだ。 ﹁あと料理する包丁をべろべろ舐めてるのも気持ち悪い気がする﹂ ﹁確かに﹂ おまけに個性まで否定されて、一心次郎は消沈の面持ちで帰って いくのであった。 ***** ﹁御勝負二番手、[鹿屋]推薦薩摩料理人、さつまもん!﹂ ﹁むッ!﹂ 呼ばれて飛び出たのは相変わらず討ち入り風の格好をしたさつま もんである。 [万八楼]を囲む塀に腰掛けて見物することにした九郎も御前試 合のような勢いで現れた彼に苦々しい笑みを送る。 さつまもんのイメージアップ戦略なのだろうか。確かに前、マス コットキャラをいろんなイベントに参加させることで知名度が上が るとアドバイスした覚えもあった。 そしてからいもんときもねりんでは気狂身の性質上、料理などは 出来ないからさつまもんが派遣されたのだろう。 何から何まで間違っている気がした。 1169 ﹁薩摩料理か⋮⋮さつま揚げぐらいしか知らんが。あ、そういえば [鹿屋]に中華風ハムが売ってたな⋮⋮今度買っておこう﹂ 呟きつつ酒を口にした。薩摩は琉球を通して清とも貿易があり、 獣肉食文化が根付いている為にそのような保存食も作られているの だ。 さつまもんは颯爽と料理場に現れて、用意されていた野田の醤油 を小皿に注ぎ舐めた。味を確かめているのだろうか。 露骨に顔をしかめるさつまもん。 ﹁かァ∼ッ! こんしょおいはわッぜかしおはいかぁ! あもうせ んといッちょん使にゃならん!﹂ そう謎の叫びを上げて醤油差しに黒砂糖をぶち込んだ。 ﹁⋮⋮あ、醤油屋の旦那が卒倒した﹂ 自分の店の醤油を使う料理勝負だというのにいきなり全否定され ればこうもなろう。 薩摩の醤油は砂糖が入っていて甘く作られているのだ。根っから の薩摩武士であるさつまもんはまず醤油を己好みに調節している。 いや、薩摩料理を作るのだから醤油自体を薩摩風にするのもありな のかもしれないが。 余談だが他所の人からすればやたら甘く感じる鹿児島の醤油であ るがその分慣れた時の病みつき度合いが高く、これを絡めた刺し身 や納豆などは芋焼酎にとても合う。 黒糖を溶かして再び醤油を舐めて、満足が行ったように、 ﹁うむッ!﹂ 1170 頷いた。 そして彼は持ってきた神酒と醤油を入れた小皿、そして何らかの 生肉の切り身を出して審査員に持っていった。 ﹁さァッ! 御賞味あれ! これを食って神酒をぐいとやれば心身 壮健、精神頑強になり申す!﹂ ﹁⋮⋮これなんの動物の肉?﹂ ﹁食われよッ! いざッ! いざッ!﹂ ﹁一寸待っていや本当にこれ何のお肉なの!? なんでこの人太腿 に血の滲んだ包帯巻いてるの!? 凄く厭な想像しちゃうんだけど !?﹂ ﹁うわああああ!! 押し付けるなあああ!!﹂ ﹁帰れや薩摩!﹂ 強固に謎肉を押し付けてくるさつまもんとの争いが起きて暫く。 彼は見物に来ていた町奉行所の同心に縄を打たれて店を去ってい った⋮⋮。 ﹁真逆、逮捕者まで出るとは⋮⋮﹂ この料理対決、まだひと波乱あるな、と九郎はしみじみ呟いた。 なおさつまもんの太腿の包帯は虫さされを掻きすぎて血が滲んで いるのと、出した肉は豚肉の塩漬けであった。ご安心ください。 ****** 1171 いけ好かない公家風の四条流料理人は持ってきた鍋に仕込みを終 えており、軽く温めて己の料理を出した。 四条流と言えば将軍や朝廷にも食事を出す料理人一派である。 様々な分派があり、この男は京都にて修行を積んだようだ。 本来は関西の味付けを得意とするのに醤油にあわせる為に関東風 に濃く張った出汁に、醤油を加えて三つ葉と蕩ける麸を入れた吸い 物を出した。 醤油に負けぬ出汁の味と出汁を引き立てる醤油の味。そして絶妙 な濃さを調節する具は美食同心をも唸らせる繊細な味付けだ。 味わいとしては塩気が強くなるはずなのに見事な調和によって、 水の代わりにこの吸い物を飲んで一生過ごせと言われても納得して しまいそうな絶妙さである。 塩気の調節については彼の学んだ四条流の一派は卓越しており、 ﹁塩だけを入れた汁で旨いものを作って一人前﹂ と、言われるほどである。出汁すら取らない潮汁だけで味を調節 する妙技があった。 ただ、 ﹁江戸って京都に比べて遅れてるけどその分新たな味に対するこだ わりは活き活きとしてますね。京都は江戸に比べてとても豊かでと ても快適ですけど、やはりそうなることで何か大切な事を失っちゃ ったんでしょうか﹂ などと言うので、審査員観衆含めて、 ︵うぜえ⋮⋮︶ 1172 と、上方かぶれの料理人へ苛立ちを感じるのであった。 ****** ﹁雪に染み込ませた醤油の上の、熱々の醤油をかけて⋮⋮はい、お 待ちどう! 焼き氷醤油の出来上がりでい!﹂ ﹁うむ⋮⋮これは⋮⋮﹂ ﹁醤油以外の何物でもないね⋮⋮﹂ 料理勝負は続き、 ﹁醤油といえばうどんの汁! 江戸のうどんはこう真っ黒で葱が合 うやつじゃなきゃ!﹂ ﹁単純だがいい﹂ ﹁温かいと醤油の香りがよく引き立つ﹂ 様々な料理人が思い思いの料理を作った。 ﹁寒鰤を醤油で漬け込んで焼いたもので御座い。白い飯と一緒にど うぞ﹂ ﹁むっ、血合いの味わい、白身のホクホクとした部分に醤油味が染 みこんで⋮⋮﹂ ﹁うまい⋮⋮のである﹂ 九郎の順番は最後だったのでひたすら待つことになった。 1173 ﹁この醤油は出来損ないだ、食べられないよ﹂ ﹁帰れや!﹂ ﹁何しに来た!﹂ 休憩も挟み審査員の腹具合を調整しつつ、 ﹁ダルマの煮付けで御座います!﹂ ﹁なんで珍食材が被るんだ⋮⋮? まあ、旨いけど⋮⋮あれ? 美 食同心さんは食べないので?﹂ ﹁いいえ、拙者は遠慮しておきます﹂ やがて、九郎の順番となった。 ***** ただ ﹁御勝負終番手、只の九郎!﹂ ﹁只とまで言わなくともよかろうよ⋮⋮﹂ ぼやきつつ九郎は材料と鍋を手に庭に出てくる。 かなり長く待っていたが、目の前で展開される料理バトルを見て いて暇は潰せた。九郎とて、昔の料理漫画のような展開には中々心 躍るものがある。 しかしながらこの九郎という男、料理の腕はそこそこ上手だが達 人とまでは行かない。一心次郎のような包丁さばきも無ければ上方 かぶれの四条流のような繊細な味付けも出来ない。 せいぜいが近所や職場でも評判の料理が得意なお父さんとかそう 1174 言ったレベルだ。プロとまでは行かない。 それでも折角こういう場に参加するのだったならば、 ︵勝ったほうが話の種にはなるわな︶ と、思っている。 まともに煮物だの焼き物だのを作ったところで勝ち目は無いし、 これまでの料理人が散々出した。 ならば変わり種を出して審査員の意表をつく。 殴り合い殺し合いの勝負でも九郎の戦法は奇襲と驚かせてからの 不意打ちだ。これは実力差体格差があっても通用するものである。 料理も同じだ。 この時代には無い料理を作る。江戸に来てまだ一年経たないが、 食い歩きして作られていないジャンルがあることはすぐにわかった。 鉄鍋に少しの油を敷いて加熱し食材を混ぜ合わせる、炒め料理だ。 これは明治期になるまで日本で使われていない。 九郎は醤油炒飯を作ろうとしているのだ。 ﹁ほう、鉄鍋ですね﹂ ﹁用意している材料は卵と米に葱か。あんまり大したこたぁねえや﹂ 審査員が言うのを聞きながら、九郎は竈に薪を通常よりも多く放 り込む。 火力が必要だ。店ならば炎熱符で調整できるが、衆人環視の元で は使いたくない。説明が面倒なので。 薪の火がめらめらと竈を焼きつくすように上がり始めて、周囲か らどよめきが上がる。当時の料理では火力が必要というものはそう 無いのだ。揚げ物にしたって、火が上がっている中で調理をするな どと危険な事はしない。 1175 ﹁はっはっは。燃えろ燃えろ﹂ 九郎は鉄鍋を火に突っ込んで十分に空焼きする。 次に菜種油を入れて鍋を回す。本来ならば豚の脂身などがいいの だが、それを入れると醤油の風味に勝ってしまうしこの時代では用 意出来ない。具材もシンプルに卵と葱だけにしているのだ。 一度鍋の内側でくゆらせた油は捨てる。九郎は躊躇わず火の中に 油を入れた。 バチ、と音を立てて火が油で燃え盛る。火力を求めている九郎は、 火柱の中で鍋を持っているのだ。 ﹁ようし、よい具合だ⋮⋮!﹂ どうでもいいがこの男、ノリノリである。 周りから悲鳴めいたどよめきが上がる。 ここからは時間との勝負だ。油の塗られた鍋にいきなり醤油を入 れる。醤油というのは温めて良い匂いを感じるが、焦がした時には またこれが香ばしい。 だが焦げ付きすぎると苦味が出る。じゃ、と油の跳ねる音を上げ て醤油を入れたらすぐに葱、米と順番に入れて全体に味を行き渡ら せる。 最後に卵を入れてかき混ぜ、鍋全体を振るって満遍なく卵を固ま らせつつ余計な水分を飛ばす。 卵と醤油は言わずと知れた最強のコンビである。それに米と油が 加わることによる奇跡的な味は江戸ではまだ誰も味わったことがな いだろう。味覚が現代人から異世界人となった九郎と違うかもしれ ないが、シンプルな組み合わせのこれは不味くなる要素がない。 彼の意気込みに呼応するかのように火力が上がる。 ﹁もっと燃え上がれ! これが己れの⋮⋮!﹂ 1176 竈で上がる火柱が炎の龍となり荒れ狂っている! まあその、九 郎の脳内イメージでは。 炎を支配する灼熱の料理人と化した九郎の炒飯が今、完成する│ │││! ****** 年甲斐もなくはしゃぎ過ぎた九郎が、見物に来ていた火盗改の同 心に縄を打たれて役宅に連れて行かれ、竈は消火された。 本日二人目の逮捕者である。己が波乱になっている阿呆が居た│ │九郎であった。 ﹁あれだけ燃やせばそりゃあしょっぴかれるよな⋮⋮﹂ ﹁鳥越神社のとんど焼きみたいだったものな⋮⋮﹂ 焦げた庭を見つつ観衆が率直な感想を言う。 鳥越神社では丁度この日、取り払った正月飾りを焼き清めて厄祓 いにする祭礼が執り行われている。 審査員たちが協議した結果、 ﹁えー御勝負終番手、[緑のむじな亭]佐野六科!﹂ 勝負が再開されることになった。 九郎は存在し無かったことにしたようだ。 勝手に何処かのガキが入り込んで火遊びをしていた。店側が呼ん 1177 だわけじゃない。俺は悪くないの理論である。 代役として六科が参加することになったが、六科からしてもさっ き火柱を上げていた九郎の事は、 ﹁見覚えがない﹂ と、他人のフリである。 しかしながらこの味に無頓着な男がどのような料理を出すという のか。 どちらにせよ最後の料理なので催しを終わらせるのが肝要だ。 六科は店の台所からおひつを持ってきて、玄米で炊いためしを茶 碗に盛った。 それに醤油をさっと掛ける。 審査員の前に出した。 ﹁食え﹂ ﹁料理!?﹂ 一斉に全員がツッコミを入れた。 六科イチオシの玄米醤油かけご飯である。牢名主の知り合いに教 えてもらったという。なお、牢での物相飯に於いて玄米はともかく 醤油が出ることは無いのだが、差し入れとして渡されることが希に あったという。 しかしこの美食対決に出すにはあまりに貧相な品目であった。 だが一人、茂木新左衛門はめしに醤油を垂らしただけのそれを手 に取り、 ﹁これは⋮⋮単純で手を加えていないからこそ、醤油の匂いが引き 立ち⋮⋮﹂ 1178 めしを掻きこむ。 玄米のややぶぎぶぎとした穀物の歯ごたえに辛めの醤油の味が混 ざっているだけだが、そのまま味わうよりも魚の脂と共に味わうよ りも、純な醤油の味が引き立つ。 大して旨くはない。だが、だからこそ醤油の旨味だけで成り立っ ているそういう素朴な味わいだ。 ﹁うむ、私は気に入ったよ!﹂ ﹁そうかなあ、こんなもの大した││﹂ そう言った瞬間、食いしん坊のガキに││いや、めしを口にした 万八楼の主にも、茂木新左衛門にも、また観衆の多くにも特殊な感 覚が発生した。 敢えて言うならば、 ︵ぬるりと来た⋮⋮︶ とでも表現できそうなものだ。 口を閉ざしてそこはかとなく不穏な空気が漂う中、[美食同心] 歌川夢之信は軽く立ち上がり、 ﹁確かに醤油本来の味わいを最も出すならこれがいいと思いますね。 茂木殿もお認めになっているようだから、締めに相応しい一品だっ たということでよろしいですか?﹂ ﹁あ、ああ⋮⋮﹂ ﹁じゃあ勝負は佐野六科の勝ちということで﹂ ﹁そうか﹂ 勝利の感慨も特に無いようで、むすりとした表情のまま彼は頷い た。 1179 他の審査員や観衆はぬるりとした感覚でそれに文句をつけること も囃すことも出来ない。歌川は、とりあえずさっさと終わらせたか ったのである。 ﹁褒美品はこちらに﹂ ﹁うむ﹂ 一斗樽をむんずと掴んで、五両を懐に入れる六科。 用は済んだとばかりに、ずかずかと庭から出て行く。 歌川も、鉄鍋に入れたままだった炒飯を重に詰めなおして帰る準 備を手早く整えた。作り方はともかく、美味そうな匂いがして狙っ ていた食べ物だったのだ。だが、ここに留まって食らうのは不味く なる。 観衆はよろよろと内股気味に顔を青くして帰って行き、審査員の 三人は座ったまま立ち上がろうとしない。 女将が心配そうに、 ﹁どうしたんだい? 具合でも⋮⋮﹂ と、尋ねるので、答えられない主達の代わりに歌川が、 ﹁最初に食べたダルマという魚、あれは沢山食うと後で尻から脂を 漏らしてしまう珍味でしてね。 拙者は一切れ二切れしか食べなかったからいいけれど、この人達 一皿全部食べて煮付けまで口にしたもんで⋮⋮漏らしてるんでしょ う。湯と手拭いを用意するといいですよ﹂ ﹁知ってたなら食う前に言えよ!?﹂ ケツから脂をぬるりと出している全員が怒鳴った。便意のような 感覚も無く、するすると漏れだす為に防ぐことなど不可能な状況な 1180 のだ。この魚、別名をバラムツともいう。 バラムツを食ったらおしめを履く、とまで言われている。そうま でして食おうとする美味さはあるのだが⋮⋮最初に食べた時から尻 に直行するまで、料理勝負は長々と続いてしまっていたのだ。 彼はにいっと頬が引き攣ったような笑みを浮かべ、 ﹁美食は狂気の沙汰ほど旨いってね。それでは、御無礼﹂ とだけ告げて、炒飯片手に下痢地獄の店からさっさと立ち去って いくのであった。こんなところでは旨いものも食えない。 また雪が降りだした。江戸の冬は現代よりも寒い。歌川は﹁ほう﹂ と白い息を吐き出して、手元の重に温かみを感じる。 今日は雪見炒飯だ。なんとも、風流である⋮⋮。 なお、余談だが後の時代に書かれた[文化秘筆]という文献によ ると、大食の記録として醤油二合をおかずにめし六十八杯を食った 記録が残っている。醤油をおかずにめしを食うには、案外に鉄板で あったのかもしれない⋮⋮。 ****** ﹁はぁ∼⋮⋮九郎。拙者ァ悲しいぜ。またお前もとうとうやっちま うなんてなぁ。火付けじゃなくて辻斬とかやってくれりゃ、拙者と 切り合えて嬉しいっつってんだろう?﹂ ﹁だから待てよ影兵衛! なんで己れが火盗改に連れてこられる時 1181 は、詮議部屋とか白州とかそういう場所じゃなくて拷問室なのだ! ? 微妙に既視感を感じる科白を吐いている場合ではない!﹂ 血の匂いが染みこんで消えない薄暗い責め部屋で、やはり縛られ たままの九郎は怒鳴っている。 自白のための設備だというのに、現行犯逮捕を食らった九郎を連 れてきてどうするというのか。このサディストどもめと叫びたかっ た。 つい殺してしまう為に拷問が下手くそと評判の影兵衛が沈痛な面 持ちで涙を堪えるように顔に手を当てている。 こ ﹁ところで悪いことと良いことがあるんだけどよ。悪いのは残念な ことに箒尻を厄払いで燃やしちまって無いんだ、今はよ﹂ より むち 箒尻というのは、笞打ち拷問で使う道具のことで竹棒の先端を紙 縒で縛った笞である。基本的に拷問の第一段階はこれで打つことか ら始まる。 しない 影兵衛は後ろ手に持っていた黒い艶のある滑らかな皮が巻きつけ られた撓を取り出して言う。 ﹁良いことってのは、代わりに拙者が釣ってきた鮫の皮を剥いで撓 を作ってみたんだけど、これを試すいい機会だってことだ﹂ ﹁良くねえよ!? いいから離して話せ! 己れはただ料理をして いただけだ!﹂ 結局、押し問答をしていたが当日に火盗改に出勤していた同心与 力、そして長官にまでささやかな火力で作った焼き飯を食わせて機 嫌を取り、油が飛び跳ねて燃えただけ︵と、言い張った︶とはいえ 暫く罰として料理をしないことをきつく叱られて開放されるのであ った。 1182 火付けの罪は江戸では重いのだが、これはまず万八楼の主がこの 一件のことで被害は殆ど出なかったのだから大事にならないように 火盗改にも寄付を行ったことと、九郎が何度も職務で手伝っていた 為身内に近いとして影兵衛が裏で弁護をしてくれたようであった。 後で二人に、 ﹁すまん、助かった﹂ と謝りに行ったが影兵衛などは、 ﹁勘違いすんな。別に手前の為にやったわけじゃねえ。火炙りにな って死なれても困るだけだからよ﹂ ﹁何と言ったかそういうの⋮⋮﹂ ﹁手前を殺すのはこの拙者だ。忘れんじゃねえぞ﹂ ﹁重ねてくるな⋮⋮いや、とにかくなんだ、感謝しておく﹂ などと影兵衛にはそれっぽいセリフを笑いながら言われた。問題 は、恐らく殺すというのは間違いでも冗談でも無く狙っているとい うことだろうか。 万八楼ではとりあえず、次から参加しないでくれと言われた。当 たり前だが。九郎と入れ替わりに保釈されたさつまもんが詫びの為 に店に入っていったが、中から悲鳴が聞こえてきたので九郎は振り 向かずに去った。 余談だが九郎が家に帰ると、 ﹁おかえり負け九郎﹂ ﹁お疲れ様です負け兄さん!﹂ ﹁くくく⋮⋮ぷふっ。よりによって叔父上殿に負けるのかね九郎君﹂ などと言われて、数刻は老人に戻ったように、呆けた。 1183 また、時々店に[美食同心]が珍しいもの目当てで訪れるように なったという⋮⋮。 年末年始にかけて火の取り扱いには御注意である。 1184 39話﹃晃之介と見る女﹄ 江戸の頃、記録を見れば関東では現代よりも雪が多く降り、時に 吹雪くこともあったという。 しかしながら九郎はこの江戸東京で遭難しかけるとは思っても居 なかった。 軽い気持ちで録山晃之介の道場へ出かけたのだが、途中で大雪と 共に風が吹き荒れて視界を奪いだした。周囲は雪に覆われて建物の 形や道の輪郭すらおぼつかない。 じゅばん ここまで降るのはさすがに例年に無く珍しい。 ﹁襦袢でも着てくればよかったか⋮⋮﹂ 言いながら身を縮まらせて、雪をぎゅ、ぎゅと踏みつけつつとに かく前へ進む。雪になれば足元も寒いので異世界から持ち込んだ旅 用の頑丈で防水性のある靴を使用しているが、江戸の町人らも足を 冷やさぬように色々と工夫をこらした足袋を履いているので然程目 立たない。 本当に晃之介の道場へ向かっているのか、自信が持てない。睫毛 にまで雪が張り付きそうな吹雪だ。 炎熱符という簡易暖房になる術符は、店の竈に二枚、炬燵に一枚 使ってて九郎が持ち出す予備は無かった。 ﹁うう、漬物と徳利の酒がシャーベット状になっておる気がする⋮ ⋮﹂ 晃之介のところで一杯やろうと思って持ちだしたものだったが、 解凍が必要な状態だ。八甲田山雪中行軍のように、中の液体を揺ら 1185 して凍りつかせないようにする。 ︵これで晃之介のところが炭を切らしていたなどと言ったら泣くぞ、 己れは︶ あのあばら屋道場で火種も無かったらむしろ晃之介が凍死してる 可能性もある。 若干心配になりつつも雪山を歩いているような心境でざくざくと 銀世界の江戸を進んだ。 恐らくはこの辺りだと、殆ど雪で埋まった小川を目印に晃之介の 道場らしき場所まで辿り着く。 どさ、と大きな音がこんもりとした雪の山の上から聞こえていた。 誰か屋根の上で雪かきをしている。 ﹁生きておるかー﹂ ﹁九郎か。少し待ってろ、すぐに終わる﹂ 屋根の上から壮健な声が聞こえてきた。晃之介が手作りの木鋤を 片手に顔を見せる。 頭に手拭いを巻いた爽やか肉体労働系な青年の姿は、青年団か土 方の男をイメェジさせる。彼が九郎の作った丼物のめしをがつがつ と食らうところなど、九郎から見ればなんとも言いがたい若さを感 じて嬉しいものがあるという。 手際よく積もった雪を下ろして梯子を伝い降りてくる。雪空の下 にしては薄着の動きやすい袴姿だが、労働の後で寒くはなさそうだ。 さすがに手指の先は赤くなっているが。 見ている九郎が寒くなってきたので、道場に上がり込む。 ﹁お、用意がいいな﹂ 1186 板間の道場に敷かれた筵に大きな火鉢が置かれていて、煌々と炭 が赤く燃えてその上の湯が張った鍋を温めていた。 鍋から上がる蒸気によって部屋はかなり暖かい。いや、こうも吹 雪となれば風が直接肌に当たらないだけで、相当に違う。 そそくさと九郎は火鉢に近寄って背中を丸め火にあたった。鍋に 徳利を入れて酒を燗にし始める。 晃之介も対面に座る。座椅子代わりに最近[膝茂様]を使うよう になったのだが、これが結構座り心地がいい。ただ、これを枕に昼 寝すると高確率で戦国武将の膝を借りている夢を見て嫌な気分で起 きる。 ﹁うどんも持ってきたから、後で食おう﹂ ﹁お前の店は蕎麦じゃなかったか?﹂ ﹁寒い時は蕎麦よりうどんだ。暑い時はそうめんがいいけどな﹂ 蕎麦屋の九郎の言葉に訝しげに晃之介が質問する。 ﹁蕎麦はいつ食うんだ﹂ ﹁客が蕎麦食ってるのを見て裏で﹃くくく⋮⋮己れ達は日常ではう どんを食ってるのにあいつら蕎麦だぜ﹄って言い合うのに使う﹂ ﹁厭な店だな﹂ 晃之介時々蕎麦を食いに行くが、そんな目で見ていたのかと思わ れるとなんとも損をした気分であった。 熱燗にした酒を互いの盃に注いで、ぐいと飲み干す。 冷たい空気で冷えた口から食道、胃までもじんわりと温める良い 酒だ。江戸時代では、日本酒を更に水で薄めて売っている酒屋が多 くあったのだが、九郎は決してそういうところでは買わないように している。 1187 湯気に当てて半ば凍りついた漬物を融かしていると、晃之介もこ こ暫くめしの伴であった重箱に入った煮しめを持ってきた。 ﹁どうしたのだそれは﹂ ﹁お八が持ってきてな。これの前に、柳川藩の藩士から分けてもら って中々良い正月を過ごしている﹂ ﹁ほう。さすが、先生となると違うな⋮⋮お、これは数の子か。よ い、よい﹂ 素直な気持ちで嬉しがる。 現代では貴重なハレの日の食べ物という印象の数の子だが、江戸 ではそれなりに安く出回り過ぎて﹁甚だ下直︵まったく価値が無い︶ ﹂とまで言われたが、貧乏な侍などは重宝しぼりぼりと音を立てて いつまでも食っているので、 [たいがいに しろと数の子 ひったくり] と川柳で読まれるほどであった。 安かろうが旨いものは旨いとして晃之介と九郎は摘みながら酒を 呑む。ぱりと噛み千切れて口の中でぷちぷちと別れ、少し磯臭いよ うな味と薄く昆布の味がして、これが良い。 ﹁旅烏だった時などは正月の祝いと言えば兎を捕まえて捌いていた 程度でな。ああ、一応今年も捕まえて肉を雪で保存してるから後で 鍋に入れるか﹂ ﹁年の瀬ぐらいサバイバるなよ⋮⋮﹂ ﹁徳川家の雑煮にも入っている由緒正しい肉なんだぞ、兎は。味噌 も入れて味噌煮込みうどんにするか﹂ ﹁うむ。そろそろ雑煮のすまし汁にも飽きた﹂ 1188 などと相談しあう。 外が再び吹雪いてきた。風の音を聞いて晃之介が嫌そうにため息 をつく。 ﹁しかし、家を持つとなると色々分からないことが多くて困った。 何が足りないのか暮らしながらでなければわからんからな。雪下ろ しなども初めてだぞ、俺は﹂ ﹁そうか⋮⋮確かに己れも前に住んでいたところは雪は降らなかっ たからな。やったことは無い﹂ むじな亭含む長屋の屋根に今朝方積もりに積もっていた雪を、こ っそり炎熱符で全て融かしてみたのだが垂れた水が凍って群生する 殺人氷柱と氷の地面という二重苦の状況に陥ってしまった。 勿論すっとぼけた。自然現象って怖いなあと。でも薄々気づかれ ているのでさっさと家を抜けだして晃之介のところへ来たのだが。 ﹁そういえば、旅をしていた時にこんな大雪の村を訪れた時のこと だ。泊まる場所を探したのだが、どこも旅人を泊めるような余裕の ある家など無い。村の外れにある小屋なら泊まっていいと言われた ことがあってな﹂ ﹁ほう﹂ ﹁その小屋は村が共有している農具を置いてある小屋だった。農具 と言っても、持ち出せはしないような大きな奴だったから盗まれる こともないのだろう。だが、冬の間はその小屋の雪下ろしを村民が 交代で行っていたので、泊まる代わりに雪を下ろしておいてくれと 頼まれた﹂ ﹁ふむ。それで?﹂ ﹁しかしまあ、一晩ぐらい平気だろうと高を括った俺と親父は雪下 ろしをしないでさっさと寝た。そしたら翌朝早く、雪の重みで小屋 が崩れる衝撃に目を覚ましてな。慌てて親父と走って村から逃げ出 1189 した﹂ ﹁ひどい﹂ 録山のロクは碌でなしのロクだな⋮⋮と呆れて呟く九郎。 ﹁九郎は北国に旅に行ったことはないのか?﹂ ﹁あるにはあるが⋮⋮﹂ 思い出すように腕を組んで唸る。九郎もまた、あちこちに旅をし ていたという話は晃之介も聞いていた。ただ彼の場合旅していたの は異世界なのであったが。 北の方を旅していたことで思い出せるのは、魔女が[永久樹氷の 森]という世界自然遺産的な場所で炎熱符の効果試験を行っていた ら、そこを住処にするエンシェントアイスドラゴンがマジギレして 山火事の鎮火の為に精霊力を開放し、世界中の気温が一年を通して 下がりまくり作物被害が洒落にならなかったことだろうか。 悪いのはちょっと森林を関東平野ぐらいの範囲で燃やしたこちら ではなくエンシェントアイスドラゴンだというのに。魔女の仕業と 世界的に言われてしまった。被害総額に比例して魔女の懸賞金も跳 ね上がった。いつかあのドラゴン殺すわと魔女も言っていたが⋮⋮。 九郎が悩んでいると晃之介がふと思いついたように、彼の話を続 けた。 ﹁こんな日には思い出す不思議なことがある﹂ ﹁どんなことだ?﹂ 促す。 ﹁あれもまた雪の日だった。俺と親父は山小屋に泊まっていてな。 親父はすぐに寝たのだが、俺は寒さもあってか横になっていても中 1190 々眠りにつけなかった。 暫くそうしてまんじりと過ごしていたら急に小屋の戸が開いてな。 吹雪の中だというのに、真っ白い着物を来た女が小屋に入ってきた んだ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁それで女は寝ている親父に近づき、息を吹きかけたようだった。 親父の寝顔は見てわかるほど青ざめて、おそらく体は酷く冷たくな ってしまっていたんだろう。 女は次に俺の方を見た。動こうとしたが、手足が自分のものでな いように動けなかった。やたら綺麗な顔の女だったことは覚えてい るが、そいつはこう言った。 ﹃お前はまだ若いから命は取らないでおいてやろう。だが、いま見 たものを誰かに話したらその時は命を貰いに来る⋮⋮﹄ ││とな﹂ 民話などでよく見られる、雪女の話であるのだがひとまず九郎は ツッコミを入れた。 ﹁駄目じゃないか。己れに話したら﹂ そういうのは嫁にした雪女に話せよ、と九郎はジト目で晃之介を 見る。 彼は顔の前を払うように手を振りながら笑っていう。 ﹁安心しろ九郎。今なら向こうから来ても返り討ちに出来る。それ に前、百物語に使う怖い話はないかとお八に聞かれた時に既に教え たしな﹂ ﹁そういえば夏頃に聞いた憶えがあるわな。というかお主の親父は 1191 河豚の毒で死んだのでは?﹂ ﹁ああ。雪女が去って朝になったら普通に息を吹き返したからな、 親父。なんでも体を敢えて冷たくして於き消耗を抑える特殊な寝方 をしていたらしい。欠点は寝ている時に近づかれたら反応できない ことなのだが﹂ ﹁台無しだな親父! ドヤ顔で去った雪女も恥ずかしくて出てこれ ぬわ﹂ 外の吹雪が益々酷くなってきた。まさに雪女日和とも言える。石 燕の風邪がぶり返さなければよいが、と少し心配になった。 九郎はふと気になって尋ねてみる。 ﹁雪女が来た時の対策とは?﹂ ﹁恐らくは火に弱いだろう。これまであった生き物で火に強い奴は 居なかったからな﹂ ﹁そりゃあ普通の生き物は弱いだろうよ﹂ ﹁そこでまず先制でこの火が点いた炭を⋮⋮投げつける﹂ 言いながら金箸で炭を摘んで見せた時。 まさに、入り口の戸が開け放たれ、何者かが闖入してきた為に、 咄嗟に晃之介は炭を投げた。 いかな投擲投射の達人晃之介とはいえ、さすがに箸で投げるとな ると勢いは付かないが不意は突ける。 入り口に姿を現したのは、まさに白い袴を着た女である。髪を後 ろで纏めて流していて、白い鉢巻を巻いている。体つきはほっそり としていて肌も白い。まさに雪女のようだ。 九郎は知らない顔であった。凍りついたように無表情のまま道場 へ一歩踏み入り、手を振るった。 手に握られていたのは小太刀の木剣だ。扱いやすく切り詰められ て華奢にも見える女の手に馴染んだそれは、飛来してくる火のつい 1192 た炭を正確に打ち払い火花を散らして落とした。 咄嗟に投げつけられた炭を叩き落とすとなると、相応の実力か、 ︵戦う心構えでこの道場にやってきた⋮⋮︶ ということかもしれない。 九郎は晃之介に、 ﹁⋮⋮おい、先手は失敗したぞ﹂ しん ﹁わかっている。あれは俺の客らしい││今日はどういった用事だ ろうか、お進殿﹂ と、晃之介が声を掛ける。 顔を見たことはないが、その名前は聞いたことがあった。 ***** この雪女、名をお進と云う柳河藩、大石家の一人娘である。 大石家の家禄は僅か三十石の家柄だが上役からの信頼がある家で、 この度江戸に参勤する立花鑑任と共に江戸に娘も連れてやってきた。 ただこの娘、容姿は大層に美しいのだが剣術を好み才覚もあった ためか、並みの男では敵わぬ程の腕前になった。 柳河藩では藩主も剣術槍術を奨励しており、度々御前試合を開く ので女が剣をやると言っても面白がりはすれどやっかむ者も居ない。 そしてそのうち結婚適齢期となったのだが、このお進は夫となる 相手ならば己に勝てる腕前でなければと言いはる。 見栄えは涼しげで麗しいのでこれまでに何人もの相手が挑んだが、 1193 尽く返り討ちであったという。 おとこひでり 無理をし、女に負けるという不名誉になる可能性にかけてまで三 十石の家に婿入りしたくはないとすっかり男旱になったものの、当 の本人は気にすること無く剣術を続けた。 そして現れたのが柳川藩と懇意になり、無役で腕前の良い武芸者 の録山晃之介だ。 彼女の父の大石何某は晃之介に、 ﹁少しばかり天狗となっている自信を一度打ちのめして頂けますよ う⋮⋮﹂ と、結婚の話はぼかして試合を組んだのが、夏頃の話だった。 六天流の稽古も精進の心を忘れないという教えがあるので晃之介 も頷き試合を行った。 両者ともに三尺三寸、普通に使われる寸法の撓を持って立会う。 晃之介は相手と向い合った時に、天狗と言われている程相手が他 人を侮っているわけではなく、真っ直ぐとした剣術を修めているこ とを確認した。 またお進の方も、びくとも動かずに機を図っている晃之介はただ ならぬ相手だと判断する。彼の事は弓矢使いとして名を聞いていた が⋮⋮ 先に動いたのは晃之介である。 大きく振りかぶった動きは見様によっては隙にも見えるが、絶妙 に間合いを外してぎりぎりの外から、剣の先端を打点に合わせて打 ち込んできた。持っている武器が同じ長さで、体格に勝る晃之介の ほうが基本的にリーチが長い。 お進はそれを受け止めようと構える。打ち込みは早いが初動は見 やすく、軌道は単純だ。受けることで相手の力の強さや体捌きなど を測る思惑があった。 1194 そう思ったのだが、受け止めようとして頭の上に構えた撓を振り 下ろされたそれはすり抜けるようにして防御の内側に打ち込まれ、 強かに彼女の手首を叩いた。 敢えて相手に防御させ、剣同士の打つかる瞬間に目にも留まらぬ あふ 速度で剣筋を変幻させて防御の中へ滑りこませ打ち込む六天流の技 があふ だ││相手の防御をこちらの予備動作で煽り逆手に取ることから、 [我煽]と名付けられている。 ともあれ、それによりお進は手首を砕かれて剣を手放し、晃之介 の勝利となった。かなり難度の高い動きを相手に悟られぬ速度で行 う為に、手加減は殆ど効かないのだ。 それから一週間お進は鬱ぎ込んだ。父親も心配して、やっぱり手 首砕くのはやり過ぎだと不安になってしまう。もしかしたら晃之介 と夫婦になった時は夫婦げんかの度に手首を砕いてくるのではない かとセガール映画的な杞憂を父親は感じたのだろう。 特に晃之介も結婚に対して話題は出さなかったので話は立ち消え になったと思われたのだが。 それから少しして、晃之介が己の道場で日課の素振りをしている と視線を感じた。 周囲を見回すと、木格子のついた窓に血走った目があった。この 世のものではない気がしたので気づかない振りをした。 外で弓射の練習をお八としていると再び視線を感じる。 ﹁なあ師匠⋮⋮あ、あ、あたしの目が悪くなけりゃ、外の井戸から 頭が半分出てこっちを見て⋮⋮﹂ ﹁いいか、絶対目をあわせるなよ﹂ などと、注意し合った。 他にも野山で槍を持ち猪を追いかけていると、山小屋の窓から覗 く目が。 1195 夜中に寝ていてふと目を覚ますと天井裏から覗いている。買い物 に出かけると視界の端にちらちらと見える。 盥に湯を張って頭を洗っていて、もし今目を開けて目の前に居た ら怖いなと思って目を開けるとすぐ近くに女が! この辺りの晃之介の精神的ダメージはわりかし強く、字の練習も 兼ねて二日に一回ぐらいの割合で書いている日記がよく﹁窓に窓に﹂ という言葉で締められていたほどだ。 途中からあの時叩きのめしたお進だとは気づいたのだが、相当に 恨みを買ったらしいと思う他無かった。 話しかけようとしたら全速力で逃げる上に、達人の晃之介でも中 々気づきにくい程に気配を消してじっとこちらを見てくるので、 ﹁実際不気味だった⋮⋮﹂ という。 ***** そのお進が、直接道場の入り口から姿を現したのは初めてだった。 晃之介に尋ねられて彼女は強い意志を感じる言葉を返す。 ﹁今日は晃之介殿と再勝負に参りました。以前の雪辱を晴らします﹂ ﹁それは構わないが⋮⋮﹂ ﹁なんでしょうか﹂ 少しばかり渋るような様子の晃之介に、よもや断る積もりではな 1196 いだろうなと云う様子で聞く。 晃之介は真顔のまま、 ﹁うちでは挑戦料が、ニ分と決まっているんだ。勝てば五両進呈だ が﹂ ﹁このノリでそれを云うか、お主。賞金値上げしとるが﹂ 羽振りが良くなったからだろうか、釣餌を高級にしていた。看板 も元は一両だったところに文字を加えて五にしているようだ。 お進はごそごそと懐を漁り、財布を取り出して中身を数えた。 三朱と細かい銭しか入っていない。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 暫く困ったように目を合わせた。 そして彼女は小銭入れを懐に戻してぺこりと頭を下げ、 ﹁││少し待っててください。取ってきますので﹂ てがたな そう言って戸を閉めて帰っていった。ざ、ざと走って去る音が聞 こえる。 九郎が晃之介に手刀を入れながらツッコミを云った。 ﹁ああもう、ほらこんな雪の中帰っちゃったではないか! テンポ 悪いなあもう!﹂ ﹁そうは云うがな、何かと理由をつけて金を払わずに挑んでくる相 手が増えても困る。悪しき前例というやつになりかねん﹂ それから四半刻︵三十分︶程で再び彼女は戻ってきた。実家から 1197 金を貰ってきたのだろう。 ガタガタ震えながら最初に現れた凛とした態度はもはや見えず、 氷のように冷たくなった指先で一分銀を二枚ぽろぽろと取り落とし つつ、 ﹁しししょうぶをしてください、こここうのすけどの﹂ ﹁あー、お進殿。とりあえず中に入ってくれ﹂ さすがに彼も罪悪感を感じたのか、招き入れる。 彼女は震えているのか首を横に振って拒絶しているのか微妙にわ かりにくい仕草をして、 ﹁ほどこしはうけません﹂ ﹁⋮⋮ええと、俺の道場ではとりあえず挑戦者に熱い茶でも振る舞 うことにしてるんだ。規則なんだが﹂ ﹁きそくならしかたありません﹂ 歯をがちがちと鳴らしながらよろめきつつ、髪についた雪を払っ て中に入ってきた。いかにも哀れらしかった。 九郎が晃之介の適当に今決めた規則に従って湯茶の用意をする。 確か、そのへんの野草を晃之介が選んで摘んだ茶葉があったはずだ。 何度も﹁毒じゃないよな?﹂と聞き返すような苦々しい味だったが。 土瓶に適当に茶葉を放り込んで道場の間に戻ってくると、火鉢に 身を乗り出してあたっているお進が居た。茹だっている鍋の湯を土 瓶に移し、すぐに湯のみに茶を注いで出した。 湯気の立つそれを両手で持って慌てて口に運び、 ﹁あちゅっ!﹂ と、舌を火傷して涙目になりつつ、ちまちまと苦い茶を飲んで最 1198 初は温かさでホッとしたものの徐々に感じてくる内角から抉るよう なバンダム級の苦味に口元を歪めて、 ﹁あうあう﹂ と謎の言葉を上げて湯のみを置いた。 この時点で九郎から見たお進という女剣客のイメージが、 ﹁ポンコツ﹂ で確定されたのは仕方ないことだろう。 正確に云うなら婚期を逃したストーカー気質の剣術馬鹿ポンコツ 女だ。いいところが顔以外何も無い。ついでに胸も、ささやか程度 にしか無い。 哀れめいた目線を送る九郎だが、彼女はやがて温めることによっ て復活して従来のキリッとした顔立ちに戻り、晃之介へ向き直った。 ﹁││今日は晃之介殿と再勝負に参りました。以前の雪辱を晴らし ます﹂ ﹁あ、ああ。それはもう聞いたが﹂ ﹁以前の私とは思わない方がよろしいかと。前は不得手な道具を使 っていた││と言い訳がましいことを云うようですが、今日は本気 で行かせてもらいます﹂ ﹁と、いうとその二刀か?﹂ 晃之介が目を向けた。彼女は小太刀の木刀二つをここに持ち込ん でいる。 小さく首肯する。二刀流の剣術は当時から様々な流派があったが、 それを主とするのは珍しいものがあった。 なにせ、片手一本で刀なり撓なりを振るわなければならないとい 1199 う事は相応の腕力が必要なもので、それだけ強ければ一刀流でも十 分に強いのだからわざわざ二刀流にする必要が無い。 ましてやお進のような女性が小太刀とはいえ二刀を使うとなると 妙とすら言える。 彼女は澄まし顔でこう告げてきた。 ﹁私の二刀には致死性の猛毒が塗られています﹂ ﹁!?﹂ ﹁⋮⋮そういう設定で立ち会っていただきましょうか﹂ ﹁設定!?﹂ 何か条件を盛られた。 つまりは二刀に軽くでも当てられた場合、刀身に塗られた毒によ り死に至るので負けとなる││という設定なのだ。 言ったもの勝ちである。これを晃之介が拒否するならば仕方ない が、 ﹁よろしい﹂ と、晃之介はあくまで真顔のまま頷いた。 実際の殺し合いとなれば相手が正々堂々と戦う保証など無い。木 剣だから軽い攻撃を受けても平気などと思っていては本当に毒を用 いた相手と対峙した時に悪い結果へと陥るだろう。実戦流派を自称 する彼の六天流としては卑怯だと云うつもりは無かった。 これは御前試合や外試合ではなく、彼女が六天流に挑んできた試 合なのだ。 予めその設定を明かす彼女の方が真っ向勝負を挑んでいる気すら する。 毒性付与大いに結構。 1200 ﹁もう一つ。私が勝ったら願いを聞いてもらいます﹂ ﹁願いとは?﹂ ﹁勝ったら言います﹂ ﹁⋮⋮いいだろう。六天流当主、録山晃之介。負ければ俺の首でも くれてやる﹂ 堂々と追加要求を受ける晃之介に、九郎が小さく顔を歪めながら 云う。 ﹁おい晃之介よ。お主を負かすための条件を増やし、負けた時の要 求まで通している割には勝った時の見返りが少なくないか? 只の 試合だというのに⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮いいか? 九郎﹂ 晃之介は何を当然な、と少し不思議そうにしながら云う。 ﹁仮に設定だけとはいえ、相手は俺を殺すつもりで条件を付けたん だ。この試合で負けるというのは死ぬと同じだ。実戦で死ぬのと何 か違いがあるか? 俺は相手が実際に毒を塗った真剣で挑んできて も勝負は受ける﹂ ﹁しかしなあ﹂ ﹁勝っても得るものは少なく、負けたら全てを失う。そんなことは 当たり前だ。だがな、それでも勝利することに意味があるんじゃな いかと俺は思う﹂ ﹁そう云うものか⋮⋮﹂ 九郎自身は剣客では無いのでピンと来ないのだが、そう云う晃之 介の顔には迷いも曇りも無く、楽しげであった。 彼が納得しているならばこれ以上口を出すことではない。 それに、そこらの腕の立つ剣士程度では彼にとても敵わない事は 1201 確かだ。相手の攻撃に掠りすらしない程度のハンデは、熊と戦うと きには常に負っている。 そうして道場の火鉢が片付けられて二人の立ち会いが始まる事と なった。 九郎は審判役である。お互い、一間︵1.8m︶ほどの間合いを 開けて対峙する。 ﹁始め!﹂ と、九郎が開始の合図を取った。 お進は二本の木剣を中段に構える。左右から相手の中心にやや傾 けて、両刀の刃先を向ける基本的な構えだ。 ︵⋮⋮む。此奴は強いぞ︶ 九郎はひと目見てそう感じる。自然な動作でその構えに持って行 き、また静かな気迫を感じる。 相手が打ち込んできたのをいなし、もう片方の剣で打ち込む剣術 かと九郎は思ったのだが、これは違う。 恐らく間合いに入った瞬間、両方の剣が猛然と襲い掛かってくる 覚悟がある。 そしてその剣に毒が塗られているとすれば、相打ちになってでも 晃之介は死亡判定になる。 じっと晃之介の挙動を伺いながらお進は思う。 相手がいかなる手段で接近してこようとも、左右どちらかの手が 砕かれようが頭を殴られようが、小太刀の先を当てる覚悟を持って いる。 動きの分析は十全だ。なにせ、 1202 ︵この何ヶ月も観察を続けていましたから︶ と、思う。ストーカーをしていたのも再戦に向けた情報分析が目 的だったのである。 庭で湯浴みをしているのを覗いたのも筋肉量の確認だ。湯屋にも ついていったけどそれも。複数回行う必要があったかは不明だが、 ともかく。 最近はもはや彼を倒すことばかり考えていて幻覚すら見えてきた。 危うい兆候である。 元より彼女は反復練習による行動の最適化という鍛え方が合って いて、間合いに入った瞬間に最も近い部位に剣を叩き込むことを訓 練したのだ。 お進の気迫は前に立った晃之介も感じていた。 さながら、両手を既に振り上げた熊を相手にしている気配すら覚 える。前のように防御不可の一撃で仕留める事は出来ないだろう。 そもそもあれは初見の相手に効果が高い為に、二度目となれば当然 対策を取っているはずだ。間合いを外すか、予備動作中に攻め込む かで潰せる技なのだ。 前は一撃で倒した為にその実力を受けることはなかったが、一度 は彼女の練習風景を見たことはあるのでお進がかなり強い事は知っ ている。 それの間合いに踏み込んで一太刀も浴びぬのは⋮⋮難しいかもし れない。 ︵だが、︶ 晃之介は足に力を込めた。 瞬間、お進が踏み込み間合いを詰めようとする。接近戦で掠らせ 1203 もしないのが難しいのならば下がって遠距離攻撃を仕掛けてくるこ とを読んだ。彼女が観察している間に、彼に勝負を挑んで射られて いる武芸者を既に観察しているのだ。 彼は己の道場で行われる勝負となれば容赦なく弓矢を使う。そし て背後の壁に弓が掛けられているのも、当然確認済みだ。一歩では 下がりきらない距離。下がろうとして体勢を崩したところで、切り 込む。後ずさりしながらではまともに剣も振れないだろう。 お進の踏み込む速度は早かった。 だが、晃之介の体が小さくなったような錯覚すら覚えるように│ │彼は上体をまったく揺らさずに体重移動と足の指のにじり、踵に 込めた蹴りを複合させてとてつもない疾さで後方へ下がった。 見ていた九郎も驚くほどだ。彼が全力で飛び退ってもあの速度は 出ない。 ばくすて 六天流の移動術、間合いを一旦捨てて相手の狙う拍子を崩すこと から[拍捨]と呼ばれる技術だ。飛んで後ろに逃げるのではなくほ ぼ浮かずに加速を繰り返しながら、落ちていくように後方へ下がる。 刀を構えた相手が対面していても、構えたままではとても追いつく 速度ではない。 壁に叩きつけられんばかりに後方へ下がった晃之介は、寸前で止 まる勢いを利用して持っていた木剣を一直線にお進へ投げつけるこ とで反動を殺す。 完全に追いすがり損ねたお進は慌てて飛来してきた剣を己の小太 刀で弾き落とす。投げられた木剣は振り下ろしの一撃を受けて床に 叩きつけられた。 意識を剣から相手へ。 既に晃之介は速射の構えで弓を引いていた。 放たれた矢を避けるには体勢を崩した。左右に避けるには難しい。 射角を見て小太刀で弾き飛ばす段構えに入り、足を止める。 ︵違うっ!?︶ 1204 お進は視線により悟る。弓を引いては居るが、矢がつがえられて いない。 こちらがそう読むであろうと裏を掻いて、矢を打たずに足を止め させたのだ。投剣を弾いたことと強制的に構えを替えさせたことで 対応が一手遅れる。 間髪をいれずに晃之介がこちらに攻め入る前傾姿勢へと構えを変 え、踏み出した。手に持っていた弓は消えていつの間にか木剣に替 えられている。 近づいた一歩にて、彼が投げたあと床に叩きつけられた木剣をま るで糸で引いたような正確さをして、足で蹴り瞬時に拾い上げたの だ。 木剣は突きの動きでお進の頭を狙われた。 僅かに狙いは外されて、耳を掠めて突かれる木剣に咄嗟に左目を 閉じてしまう。 残った右目が捉えたのは、いつの間にか顔を狙う飛び膝蹴りだ。 ﹁は││!﹂ だが、好機だ。体術を使った場合、こちらの毒小太刀が直接当て るによい。顔を狙うということは空中に跳ばねばならない。防御と もなる一撃を受けることとなるだろう。 左手の小太刀をすくい上げる軌道で膝を迎撃する。 当たる。 だが、木剣の当たった瞬間にその膝は粉々に砕け散ってしまった。 これは晃之介の膝ではない。六天流の基本にして奥義、まさにい つ持ったかわからぬ武器を使うことだ。彼が拾って投げつけてきた のは、 ﹁膝茂様の⋮⋮!?﹂ 1205 晃之介の江戸生活で身につけた新たな武器、文字通り物理的に飛 んでくる立花宗茂の飛び膝蹴りである。 一度振り切った剣は勢いを失っている。 膝茂様の陶片に刹那の時だけ気を奪われている彼女の左手の小太 刀を、晃之介の木剣が軽く頭上方向に跳ね飛ばした。 はっとする間もなく、間合いに入り込んでいる晃之介に向けて彼 女は残った右剣を突き刺しの動きを見せる。左手に持った剣を晃之 介が打ち上げた直後ならば、右剣からの攻撃からは躱せない。 だが、次の認識がお進の狙いは阻まれた事を告げる。晃之介は右 手に持っていた筈の木剣を左手に持ち替えている。 刀を振るい戻すのではなく、持ち手を替えることですぐに手元に 剣を戻したのだ。一本の剣で二刀流をしているような早業である。 そして小太刀の刺す攻撃を、木剣の鍔元で[合わせた]。 受け止めるでも跳ね飛ばすでも受け流すでもなく、相手の力に合 わせて勢いを完全に消す││まさに[合わせる]としか言いようの じゃすが ない防御術、須賀神社に関わりのある古武術を取り入れた動きの技 [邪須賀]である。 これをされたら異様とも言える手応えに相手の動きは封じられ、 またこちらも余計な力も使っていないので即座に反撃を返すことが 出来る。止められた小太刀の先は、あたかもがっしりと刀身を腕で 掴まれたような錯覚すら感じる程に、動かない。 しかしながら戦闘のさなかで相手の力を見極めて合わせることな ど、九郎は見ていながらも、 ︵とても真似など出来ぬな⋮⋮︶ と、舌を巻いて彼の技量に驚いた。 [拍捨]も[邪須賀]も、九郎との練習ですら使っていない秘技 とも言える技だ。観察していたからといって対応できるものではな 1206 い。 これらの技をお進相手に使うのも、考えがあってのことだろうが ⋮⋮。 晃之介は目を上に向けることもせず当然のように、一手前に小さ く上へと跳ね飛ばしたお進の左小太刀が降ってくるのを手で受け止 めて、お進の喉元へと軽く触れる程度に小太刀の刀身を当てた。 ﹁あっ⋮⋮﹂ もはや、お進も動くことが出来ぬ。 彼女が決めた設定により、その喉に触れた小太刀には猛毒が塗ら れているのだ。 九郎は手を上げて宣言する。 ﹁それまで﹂ ⋮⋮晃之介の勝ちであった。 だらり、と力を抜いて手を下ろしたお進が口を薄く開いて云う。 ﹁⋮⋮私の負けです﹂ ですが、と続ける。 ﹁どうして、あの時のように││手加減もなく倒さなかったのです か﹂ と、尋ねた。 複数の武器による連撃を見舞われたが、いずれも晃之介が狙いを 外すか受け止められる攻撃のみを使っていたのは分かった。 そうでなければもっと早く、あるいは間合いの外で鴨打ちのよう 1207 にされて終わっている。木剣の突きで頭を穿たれていたかもしれな いし、武器を弾き飛ばす動きも不要に打ちのめしていてもおかしく はなかった。 晃之介は真剣な顔のまま、云う。 ﹁お進殿と前に戦い、その手を殴り砕いた。そしたら俺は嫌な気分 になった﹂ ﹁厭な、気分﹂ ﹁あんた以外ではならない。ただそれだけが││打たなかった理由 だ﹂ 彼がそう云うと、お進は気が抜かれた表情を一瞬ぽかんとして、 そして笑った。 ﹁おかしな御方﹂ そうも子供のような笑顔を見せられると、雪女のようだと思った 印象が吹き飛ぶようだった。 ***** その後、暫くお進は茶を共にして少しばかり言葉を交わした。 茶は変わらず苦くまずいが、飲む度に場の皆が百面相をして反応 する茶というのも面白いのかもしれない。 ﹁今度に柳河藩に帰ることになりまして﹂ 1208 お進の言葉に晃之介が目蓋を開け閉めして反応した。 ﹁それで帰る前に、晃之介殿とどうしてももう一度勝負をしようと 思い立ったのですが⋮⋮負けてしまいました﹂ ﹁俺とて、負けるわけにはいかないからな﹂ 少しだけ得意気に晃之介は答える。 そして彼はふと思い出したことを尋ねた。 ﹁そういえば、俺に勝ったら何をさせる積もりだったんだ?﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ 言い澱んで、自信満々にそんな約束までさせたことを羞恥したの だろう、顔を赤らめて目を背けた。 ﹁なんというか⋮⋮こ、これからも剣の稽古を⋮⋮﹂ ﹁うん?﹂ ﹁秘密です!﹂ その初々しい様子と完全に意味の分からないといった顔をしてい る晃之介に対して九郎が、 ﹁此奴め、ははは﹂ と笑うのであった。 そうして別れ際に、お進は淋しげな顔をしながら、 ﹁また、逢えるでしょうか﹂ 1209 聞くので晃之介は頷いて、 ﹁同じく剣の道を進んでいるのだ。道が交わる事も、縁があればあ るだろう﹂ ﹁⋮⋮そうですね。次こそは負けません。いずれ⋮⋮いずれ、お願 い申し上げます﹂ そう言い残して、柳河の女剣士お進は去っていった。 姿が見えなくなった後、二人はまた道場に筵を敷いて鍋を囲んだ。 九郎は冷やかすような顔で、 ﹁しかし中々格好の付けたことを云うものだな。打てば嫌な気分に なる⋮⋮などと﹂ 真面目腐った顔で晃之介が返す。 ﹁だって本当に嫌な気分だぞ﹂ ﹁そうか、そうか﹂ ﹁気がつけば窓から覗いているし、夜中に起きたら天井に張り付い ている事もあった。厠に入っていると周りを歩く足音が聞こえる。 一番嫌だったのは味噌汁に長い髪の毛が混入していたことだな⋮⋮﹂ ﹁嫌な気分って随分直接的な被害だな!﹂ ストーカー相手には浪漫など無かった。そこまでされればそりゃ あ迷惑だ。 ﹁それに俺の好みは胸が大きくておっとりとしている女性だからあ あいう、美人だがぺたりとしていて精神が一歩手前系の女はちょっ 1210 と﹂ ﹁何の一歩手前かは聞かんが﹂ ストーカー相手には脈も無かった。胸も無かった。 しかしながら彼との縁がある女性で、果たして精神がまともで優 しい女など存在するのであろうか⋮⋮。 などと話していると、九郎がふと背筋に感じる殺気のようなもの に振り向いて、慌てて指をさす。 目だ。 木格子のついた窓から、こちらをじっと見ている││女の顔があ る。 舞い戻ったストーカーの顔ではない。ぞっとするような冷たい雪 女の││。 幾らストーカーとはいえ、四六時中晃之介を見ている筈がなかっ たことを不審に思うべきだった。彼女は武士の娘なのだ。いつでも 来られるわけではない。普通は井戸に入ってまで覗かない。 晃之介を見つめる目は、一つではなかった⋮⋮。 どちらが叫んだか、道場に声が響いた。 ﹁││窓に! 窓に!﹂ ︵記録はここで途絶えている︶ 1211 40話﹃世紀末の流行色﹄ ﹃野火太郎、山田浅右衛門に曰く、男の持つる和泉守井上真改の切 れ味たるや、三胴也と。己の持つ一本差しは無銘なるを誹られもは や強之助に我慢為らぬ。 浅右衛門が応えるに、然らば汝の刀に泊を付けたるや否や。貴人、 ││││浅 三を重ねて九つ切り銘を名乗らん。良き時合いならば正に月の朔日 作 [血煙本丸佳話]より。 也⋮⋮﹄ 氏苦楽 ***** ﹁アサえも∼ん!﹂ やびたろう 野火太郎が情けない声を上げて部屋に飛び込んできた。声といっ 1212 たがやはり情けない顔で抱きつくように、刀の手入れをしていた山 田浅右衛門に抱きつく。 迷惑そうに顔を歪めて、口をひん曲げながら浅右衛門は一応尋ね た。 すねのすけ ﹁どうしたんだい野火太郎くん。また虐められたのか?﹂ ﹁さっき、強之助に持っている刀を自慢されたんだぁ。あいつの井 上真改は胴を重ねて三つも切れる凄いものだって! 僕の刀なんて 無銘のナマクラだって馬鹿にされて⋮⋮何とかしてよアサえもん!﹂ ﹁仕方ないなあ野火太郎くんは⋮⋮﹂ 曲がりなりにも剣友だというのに、己の腕前よりも持ち物に拘る 野火太郎に情けなく思うことはあるが、このまま泣きつかれていて も鬱陶しい。 仕方ないので何か案を考えてやることにした。とは言え、連載で 三度に一度は来る同じ頼みなのでそろそろネタも尽きかけている。 ごそごそと様々な刀が出てくる箪笥を探って取り出す。 ﹁どろどろん! 歌仙兼定∼﹂ ﹁なあにアサえもん、その刀は﹂ ﹁これはね、細川忠興が自分の部下三十六人を斬り殺したことから 三十六歌仙にちなんで[歌仙]と名前を付けられた名刀なんだよ﹂ ﹁へえ∼﹂ ﹁つまり野火太郎くんも乱心して偉い人を斬りまくれば、その無銘 のなまくらにも何か曰くがつくんじゃないかな? 折しも今月はお 正月でお城に人が集まってるし⋮⋮﹂ ***** 1213 ﹁あ∼、こりゃ限々︵ぎりぎり︶ですわ。ギリギリ超駄目﹂ [為出版]の主から、渡した原稿の内容にそう言われて[アサえ もん]の連載を失ったので山田浅右衛門吉時は正月早々意気消沈し て町を歩いていた。 年の頃四十前後の痩せ気味で異様に目つきが剣呑としている、堅 気には見えぬ中年である。白い着物を着ているせいか、大悪党の幽 霊のようにも見える。 彼が仕事を首になった版元は今までに何度も際どい出版物でお上 に目を付けられている為に、バイオレンスほのぼの物を書いていた 浅右衛門の連載も際どい判断をしていたのだがさすがに刀の試し切 りで江戸城に押し入る話を出すのは無謀であった。 というか、 ﹁浅氏先生、何か厭なことあったんですか? 少し本業の方も休ん では⋮⋮﹂ あさし・くらく と、心配される始末だ。浅氏と言うのは彼の黄表紙用のペンネー ムで、浅氏苦楽とつけている。 山田浅右衛門は公儀の処刑人を本職としている無役の侍である。 当時、罪人の斬首などは同心の仕事であったのだが穢れを多く持つ その仕事はやりたくないという声が出るのも、また太平の世となっ た武士の軟弱さであろうか。 そう云う時に彼、人呼んで首斬り浅右衛門に代理を頼むというこ とが多かったとされている。斬首役になった同心は手当として二分 金が渡される上に、浅右衛門から更に礼金も貰える為に丸儲けなの である。 1214 何故穢れの仕事を代理した浅右衛門の方から礼金も出るのかとい うと、彼に頼んだ場合には首の無い骸は浅右衛門が自由にしても良 いというネクロ系の取り決めがあったのだ。 首なし死体を手に入れた浅右衛門は日頃から親しくしている大名 や旗本に声を掛けて、試し切りの材料として死体を使った。それに より刀の切れ味を確かめ、また刀剣の格付けも行えたことから多く の礼金を大名などから貰える立場であった。 例えば録山晃之助も縁のある柳川藩立花家などでは大いに彼を重 用し、度々贈り物をしていたといわれている。 それ故、無役の浪人だというのに代々の山田浅右衛門は裕福な暮 らしであったという。 だというのに彼は、 ﹁金が無い⋮⋮﹂ と、がっかりしている。 ﹁去年はとみに仕事無かったから⋮⋮﹂ ここのところ、仕事が減っていたのである。 彼の収入はつまり同心から仕事を譲ってもらって死体を用意しな ければいけないのだが、最近は[切り裂き]同心とかいう、人を切 るのが大好きな異常者が出張って斬刑を行っている為に彼に回る数 が少なくなっていたのだ。 これも殺してきた因果が悪い運勢に向けているのかと、年の暮れ に家財を売り払って罪人の供養を頼んでいる寺に全額寄付したのだ が、あまり運は上向きになっていない。そしてこれがあるから大丈 夫だろうと思っていた副収入の書き物が途絶えてしまった。 元々彼は金こそ多額稼いでいる立場であるが、それ程に執着はな くさっさと使ってしまう性質なのだ。それも供養の為や物乞い、病 1215 人にくれてやることも多く、 ﹁浄財﹂ と、しているという。 暮らしが貧しいからといって食うに困るわけではない。仕事柄知 り合いは多いし、金持ちの大名などに頼めば食事と金の都合ぐらい はしてくれるだろう。弟子のやっている道場に顔を出せば上げ膳で 馳走してくれる。 しかし、ただでさえ死人の因果を背負っている身としては、あま り生者にまで借りを作りたくなかった。 誰かから借りずに当面生活する金をどう稼ごうか、ぶらぶらとし ながら考える。 ︵こんなことなら、なまくらでも腰に差しておくんだった︶ 刀を質に入れようかと一寸考えて、止める。刀屋の知り合いも多 いが、彼の下げている刀ならば二百両か三百両程も質金を渡されて しまう。それでは暮らすに多すぎる。 儲け過ぎるのも貧乏過ぎるのも嫌で、仕事付き合い以外では人に 頼りたくない││浅右衛門は面倒な性格だったのだ。 僅かな日銭をどう稼ごうか悩んでいると、声が掛けられた。 ﹁お、時間通りだな。よし、早速頼むぞ﹂ ﹁はあ?﹂ にこにことしながら彼の肩を叩いたのは見知らぬ親父である。 彼はひと通り浅右衛門の格好を見ながら満足そうに頷く。 ﹁中々様になっているじゃないか。額布は忘れたのか? まあこっ 1216 ちで用意してるから﹂ ﹁何を言ってるんだか﹂ ﹁なァに暗がりに突っ立ってるだけで日当百文だ。せいぜい驚かし てくれよ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 浅右衛門は親父が腕を引きながら連れて行こうとしている建物を 見上げた。 化け物屋敷、と書かれた見世物である。 そして自分の格好││白装束を思い出して、幽霊役の従業員と間 違えられていることを悟る。とにかく顔が凶状持ちと間違えられる ほどに怖いので適役に見えるのだ。 だが、 ︵まあ、いいか。金も貰えるみたいだから︶ と、皮肉げな表情になりながら彼は素直に化け物屋敷へ入ってい くのだった。 死体で日々の糧を得ている自分が、幽霊の振りをしてまた銭を稼 ぐというのも何か面白く思えたのだ。 ***** きくにや 神田にある老舗の蕎麦屋、[木公屋]で九郎は卵綴じ蕎麦を食べ ていた。 大晦日に緑のむじな亭では九郎が仕込んだ煮玉子蕎麦を出したこ 1217 とがあるが、それを食った影兵衛から、 ﹁卵蕎麦なら、[木公屋]のが一等だぜ﹂ と、聞いた為に年が明けてふと蕎麦を手繰りたくなったので食い に来たのだ。 この蕎麦屋、店作りは広くて多くの客を収容でき、品目も蕎麦か ら盛り切りのめしと様々な種物のおかず、また最近流行りの天麩羅 蕎麦なども扱っている。 老舗となるとあまり流行りに手を出したがらないのだが、特に拘 りはなく提供しているようだ。 実際に店内の客は皆美味そうに食事を楽しんでいる。 石燕とお八も九郎と同じ座敷に座って居る。お房は店の仕事があ るので行かないと、ドライに誘いを断った。 この三人の組み合わせでも結構出かけることがあるのだ。お八は からかってきたり脅かしてきたりする石燕を苦手には思っているの だが、嫌っているわけではない。 九郎が思うには、むしろ師匠として尊敬の眼差で見ているお房よ りも、お八は彼女を単純に好きでいるように見えた。好きだからこ そ何か苦手なのだ。そう云う年頃である。 ﹁うま。なんか知らねえけどすっげえ旨い﹂ ﹁ふふふ、はっちゃん。あまりに感想の語彙が乏しいと叔父上殿み たいになるよ?﹂ ﹁うっ⋮⋮それは嫌だな﹂ 僅かに顔を曇らせて、お八は今度は慎重に卵綴じ蕎麦をすする。 ﹁卵が⋮⋮うん、ふわっとしてて蕎麦に絡んで⋮⋮ええと﹂ ﹁ふふふ﹂ 1218 ﹁これ、これ。わざと難しく云わせようとして困らせるでない﹂ 言葉を悩みながら選んでいるお八を楽しげに見ている石燕に、九 郎もまた少しばかり笑みがこみ上げつつ言葉を放った。 ﹁あまり難しく物事を考えながら食うとまずくなるぞ、ハチ子や﹂ ﹁むう⋮⋮﹂ やや非難がましい目線を石燕に向けて、お八はつるつると蕎麦を 再開した。 九郎も蕎麦に向き直る。 しかしながら卵綴じ蕎麦と聞いて、せいぜいが蕎麦のつゆに溶き 卵が入っている程度かと思ったのだがこれが違った。 蓋のついた丼で出されたこのメニューは上から見ると蕎麦が一切 見えぬ卵の薄黄色い層で上段が覆われている。 これは、まず丼に蕎麦を入れその上に板海苔を敷いて、上に[卵 ふわふわ]という料理を載せているのだ。 卵ふわふわとは日本で初めての卵料理とも言われているもので、 溶いて泡立てた卵に熱い出汁を混ぜあわせて蒸して程良く火を通し たものだ。 海苔により蕎麦との混合を阻まれた卵に箸を突っ込んで蕎麦の麺 を引っ張りだす。 すると蕎麦の麺に卵ふわふわが絡んで取り出されて、啜り込むと 絶妙に味の異なる蕎麦のつゆと出汁の味に卵の柔らか味が中和して まろやかな味わいになり、旨い。 蕎麦自体も濃い目の味付けにしていることで卵部分の出汁が引き 立つように味付けされている。むじな亭の蕎麦とは出来が違う。 ﹁本職には敵わぬな﹂ 1219 言いながら九郎もずるずると食う。 昼間から酒と一緒に注文した[わさびいも]を摘みながら石燕は よく食べる二人を見ていた。わさびいもは、練った山芋をわさび醤 油で食べるもので、粘りと辛味が口の中に残るのを酒で洗い流すと とてもよく合う。 石燕は予め言おうと企んでいたように提案をする。 ﹁腹ごしらえが終えたら二人とも、遊びに行かないかね? 興味深 いものがあるのだが﹂ ﹁なんだ? あたしは別にいいけど﹂ ﹁両国に新しいお化け屋敷が冬季限定で開演されているようでね。 年始めの恐怖を味わいに行こうではないか!﹂ ﹁お、お化け屋敷っ!?﹂ 目に見えてお八が怯んだ。 彼女は以前にお化け屋敷で驚かせ役に棍棒で殴られて以来、どう もお化けというのが苦手なのであった。昔のお化け屋敷は驚かせ方 が直接攻撃的なのである。 九郎の方は目を虚ろにしながら、 ﹁年始めの恐怖⋮⋮うう、窓が、窓⋮⋮頭が⋮⋮﹂ などと呟いている。 一方で道場に居る晃之助は﹁怖くもないし寒くもないから窓など 要らない⋮⋮﹂とロシア帝国スヴォーロフ元帥のような事をぼそぼ そと囁きつつ取り憑かれたように暗い顔で窓枠を破壊していた。何 があったのだろうか⋮⋮。 ともあれ、妙な精神汚染を受けた彼はともかく、石燕は指を立て てお八に云う。 1220 ﹁苦手だ怖いとばかり思っていては本質を楽しめないのだよ? な に、今ならお化けの専門家鳥山石燕と荒事担当の九郎君も居るのだ。 ひこうき 私達二人が組んで怖いものなど何もない。将軍だってぶん殴ってみ せるさ。飛蝗期だけは勘弁だがね﹂ ﹁何処のちぃむだ、己らは。それに飛蝗期が無理やり過ぎぬか?﹂ ﹁飛蝗こと世界を滅ぼす悪魔あばどん相手には少し分が悪いね。あ れは佃煮にも出来ない﹂ したり顔で云う石燕だったが、ともあれお八は暫くじっと九郎と 石燕の顔を眺めて、 ﹁絶ッ対見捨てたりしないでちゃんと助けてくれよ﹂ ﹁わかっておる。当たり前だ﹂ ﹁⋮⋮へへっ、じゃあ行ってみるか。この才女お八ちゃんが、そう そういつまでも過去に怯えるものかよ﹂ と、元気を取り戻したように言うのでなんとも微笑ましくなって、 九郎と石燕は顔を見合わせるのであった。 蕎麦屋を後にして神田から両国まで歩きとなる。 雪がまだ道の端には残っている寒い日だったが、天気は良かった。 ゆっくりとした歩調で三人並んで進む。 両国橋の途中で、 ﹁おっと﹂ 呟いて石燕が僅かに躓いたので、九郎がさっと転ばぬように手を 貸した。 彼女は足元を見ながら、 ﹁すまないね。どうも履物の鼻緒が取れたようだ﹂ 1221 お八が袂を探りながら、丁度良かったとばかりに言う。 ﹁布の切れなら持ってるぜ﹂ ﹁おお、さすが呉服屋の娘だな﹂ ﹁助かるよ。これを細く裂いて結ぼう﹂ 三人は橋の隅に行きつつ屈んで簡易的な修理を行うことにした。 び、と快な音を出して布切れを裂いてそれを履いている鼻緒に括 ろうとする。 だが、手が細かい作業をしようとするとぶるぶると震えだした。 ﹁⋮⋮九郎君、お酒持ってない?﹂ ﹁さっき呑んでいたであろう⋮⋮もう切れたのか﹂ ﹁末期すぎるぜ⋮⋮﹂ アル中であった。 十四歳には振り袖でも打ち掛けでも束帯でも縫えて、先は大奥の 針子かとさえ言われた才女のお豊ちゃん︵石燕のことである︶とし ては、すっかり針仕事をするには手が鈍っていて︵正確には酒の飲 み過ぎで︶歯がゆい思いであった。 ﹁仕方ないのう﹂ 言って、固まっている石燕から布で作った紐と履き物を九郎がぱ っと取り上げた。 お八が意外そうに見ながら、 ﹁出来るのか?﹂ ﹁旅をしていれば細かい縫い物ぐらいは自分でするものだからな。 1222 まあ見ておれ﹂ そう言って彼は鼻緒に紐を結びつけようとした。 すると、カタカタと己の意志とは関係なく手が震えだす。 寒いというのに冷や汗が流れた。 ﹁⋮⋮むう﹂ ﹁お前も駄目になってるじゃねえか!?﹂ ﹁ち、違う。これはアル中ではなく老人性振戦という加齢によって 起こる仕方ないことなのだ!﹂ 言い訳がましく言う九郎から今度はお八が引ったくる。 ﹁││ったく。まあ見てろって﹂ そう言って器用にさっと鼻緒を結びつけて修理をこなした。 九郎と石燕が﹁ほう﹂と息を吐いた。 呉服屋の娘で十四ほどになるとなれば、意外でもなんでもないの だがこの男まさりで道場などに通っている娘な為に、こういう女ら しい事も出来るのかと感心したのである。 去年の、九郎と出会うまではまったくこのような縫い物にも学ぶ のに不満を持っていたのだがそれから心構えを変えたのだろう。 ﹁どんなもんだ﹂ 得意満面な顔で言うので、どうも可愛さがたまらなくなり、石燕 はお八の頭を抱きかかえるようにして、 ﹁ありがとうだね。うん、よしよし﹂ ﹁あっ、こら止めろよ石姉! 子供扱いはだなあ﹂ 1223 ﹁ふふふ、いいお嫁さんになるよ、はっちゃんは﹂ などと言うのだから彼女はちらちらと九郎を見ながら赤面してし まう。 九郎も頷いて軽く目を閉じながら、 ﹁うむ、なんなら己れがそのうち良い見合いの相手を探しておこう﹂ ﹁ばかかお前は!﹂ 拳を固めて九郎の脇腹をツッコミ程度の威力で狙ってきたので軽 く受け止める。握りこぶしの形と振るい方が、しっかりと晃之助に 習った格闘に即していて妙な感慨を覚えた。 そして心外そうに、 ﹁己れはこれでも縁談の仲介は得意なのだぞ。前に嫁をつい三人も 見繕った紳士からも、後年孫に囲まれて幸せだと手紙が届いたぐら いでな﹂ ﹁知らねえよ⋮⋮﹂ 重婚可な国だったのだ。さすがに結婚一年目ぐらいはオーク紳士 も絞られ痩せ細ってしまっていたのは申し訳なく思ったがそのうち 落ち着いたらしい。 九郎が町に住んでいる間は毎年、農園で栽培しているニャルラト マトやダゴン大根と言った高級野菜と穏やかな近況報告の手紙を送 ってきてくれた。元気にしているだろうか⋮⋮オークは長命種族だ から生きているとは思うのだが。 石燕はおかしそうに笑ってお八を宥めた。 ﹁ふふふ、はっちゃんよ、九郎君は昔からこんなつかみ所のない性 格だからね。難易度高いよ?﹂ 1224 ﹁昔からではない。まったく、適当を云う﹂ 急に幼馴染設定が出現した為に訂正を求めたら、小さく綴った冊 子をそっと渡された。 そして耳元に口を寄せて囁く。 ﹁そういうと思ってこれに君の過去録を設定しておいたから後で熟 読し憶えておきたまえ﹂ ﹁己れの昔を作られた!?﹂ ﹁本気を出すと光の翼が生えて全身が黄金色に輝き││﹂ ﹁止めろよそういう意味も真実もない設定は﹂ 言い合っていると、困ったような嬉しそうな綻んだ顔でお八が腕 を組みながら言った。 ﹁昔とかそんな付き合いじゃねえのに二人は仲がいいよな﹂ 何故か嫉妬も沸かなかったが、ぎゃあぎゃあと姉弟か兄妹のよう な二人は見ていると面白い。 九郎は頷きつつ、 ﹁ま、此奴とはなんというか⋮⋮﹂ 友人、と単純に言えばそうなのだが、もう少し違った言葉がある 気がする。 馬の合うというか、気が置けないというか、遠慮のないというか ⋮⋮ 九郎は何度か言葉を反芻して、口に出した。 ﹁そう、気の触れた仲間と言ったところか﹂ 1225 ﹁⋮⋮九郎君は時々日本語が怪しい﹂ ﹁む?﹂ どこか間違っただろうか、と九郎は首を傾げた。 ****** 両国本町にあるお化け屋敷。それは二百坪の御家人屋敷ほどの広 さをしている店を二つ繋げて、店頭に鯨幕を張っていていかにもな 雰囲気を出していた。 三人が近づくと入り口から大急ぎで顔を青くして飛び出してくる 男女の姿が見えて、 ﹁二度と来るか!﹂ と、肝を冷やした様子で受付に叫んで逃げていった。 建物の中からは時折悲鳴や怒鳴り声が聞こえる。内容はともかく、 中々に恐ろしい出来になっているようだ⋮⋮。 早速お八は顔が引き攣って、無意識に九郎の手を握っている。 ﹁さあ、行こうではないか﹂ 石燕がうきうきとばかりに入り口へ向かった。 番台に座っている初老で顔色の悪い男が告げてきた。 ﹁入場料は一人三十文ですぜ。出口は裏にあるが、入り口から逃げ 1226 帰ってももう一度入る時には別途金を貰いますが﹂ ﹁いいとも﹂ ﹁あ、それと﹂ 受付は九郎の腰に差した刀を軽く顎で指す。 太刀を持ち歩くのは変だと言われるのだが最近はもはや開き直っ て九郎も装備している。 ﹁驚いたからって腰の物を抜かないでくだしぃよ、あんさん﹂ ﹁うむ、わかっておる﹂ そう言って、三人分の金を払う。 入り口の暖簾をくぐって薄暗い屋敷内へ三人は横に並んで入った。 真ん中にお八を置いてその両方の手をそれぞれ九郎と石燕が握っ ている。雰囲気を出すように屋敷中を薄暗くして床は軋むようにし て、ところどころにある行灯は青い僅かな光を灯していた。 なるほど、中々に本格的だ。 ︵魔王の城にもあったな⋮⋮侵入者撃退用のお化け屋敷が⋮⋮︶ 恐怖心が一定以上になると人体が形を保てなくなって崩壊すると いう恐るべき呪いが込められた空間だったのだが、肝心の魔王のセ ンスが台無しなのであまり効果は無さそうだった。ポルターガイス トのように乱舞するぬるぬるコンニャクは笑わせにかかっていると 思ったのだが、本気だったらしい。 他にも様々な面白おかしく命を刈り取るアトラクションを地上の 城には仕掛けていたが、無慈悲な超広域最上級闇魔法と魔鳥の特攻 爆撃により施設の殆どは使われることもなく破壊されたのだった。 また、お化け屋敷とは別に[呪霊物件]などと呼ばれる悪霊に呪 われた家も異世界にはあり、役場で騎士をしていた時は転生神の司 1227 祭がお祓いに行くというので不動産の記録係で同行した時は、映画 みたいな光景を想像してワクワクしていたら外から幽霊屋敷に放火 して全て転生の炎で燃やし尽くして終わり、かなり白けたことがあ る。 思いにふけりながら順路を進む。曲りくねって敷地を通過させる 道なりになっているので、少しばかり距離はある。 やがて、入って最初の[怖がらせ地点]とでも言うべき場所に辿 り着いた。 それに気づいたのは、そのあたりだけやや明るくなっているから だ。 怖がらせるための仕掛けを目に付かせやすくしているのだろう。 ︵さて、唐傘お化けでも出るか、お岩さんが出るか⋮⋮︶ などと九郎が完全に見くびりながら待つ。汗ばんだお八の手が強 く握られる。 すると、 ﹁ウオ゛オ゛オ゛││!! ヴオオ゛││!!﹂ ﹁うゃあ!?﹂ 叫びながら現れたのは。 ほぼ裸に腰ミノをつけて般若面を付けた大男が、叫びながら両手 に出刃包丁を振りかざし猛ダッシュでこちらに来るのだ。 お八は失神寸前に目を囘し、さすがの石燕も妖怪というより暴漢 の出現に驚いたようだ。 九郎も、怖いとかそれ以前に相手が変質者過ぎて慌てて二人の身 を守るために、両脇に抱えて道を逆走し、入り口から飛び出した。 がくがくと涙目で震えているお八を下ろして、思わず受付に怒鳴 る。 1228 ﹁おい!? お化けじゃないだろあれ!﹂ ﹁嫌だな。裸出刃入道ですぜ﹂ ﹁そんな一寸キモ可愛い鼠みたいな名前の入道が居てたまるか! 危険過ぎるわ!﹂ 二度と来るか、と言い捨てて去った前の客の気持ちが分かった気 がする。 受付の男はにやにやと嗤いながら、 ﹁ま、見世物のお化けに驚いて逃げ帰ってくるのはあんさんだけじ ゃ無いんで。怖いのなら止めておいた方が﹂ ﹁むう⋮⋮﹂ 九郎は唸り、未だにビクビクしているお八を立たせて告げる。 ﹁本気で身の危険を感じたらお化け役を殴るからな﹂ 一応断っておく。 当時のお化け屋敷は物理的打撃を持って驚かす手法も使われてい たために、反撃ぐらいはしなければならないのだ。恐怖によって失 神することと、殴られて気絶することに違いはないという風潮だっ たのである。 男は頷きつつ、 ﹁大丈夫。お化け役共も殴られて喜ぶ奴らばかりでげす﹂ ﹁それはそれで嫌だな﹂ ﹁再入場料、また一人三十文頂きましょ﹂ ﹁いい商売をしているね⋮⋮﹂ 1229 石燕はやや苦笑しつつ、また九十文支払う。石燕の財布から金は 出ていき、九郎が自分で支払おうとする素振りすらもはや消えてい る。蕎麦も勿論石燕に奢ってもらった。 いや、これは交友費を援助して貰っているだけだ。後ろめたいこ となど何も無い。例の、縛る道具のような名前の状況では決して無 い。 九郎が己に言い聞かせている間に、怯えるお八に肩を貸すように 石燕が隣に並んでその前を九郎が歩く形で再びお化け屋敷を進んだ。 やや早足で先程の地点まで進もうとする。 ﹁お、おい。あんまり急ぐなよ⋮⋮﹂ 気弱なお八の声に九郎は逸りすぎたと思い直し、歩幅を合わせる。 やがて。 薄明るい、例の場所に辿り着いた。 お八の怯えが酷くなり、殆ど石燕に抱きつくようにして引き摺ら れている。 来る。気配を感じた。九郎は身構える。 ﹁ゴガアアア゛アア!! アアアアアアア!!﹂ ﹁ひあうっ!?﹂ 裸出刃入道が大きな足音を立てて出現。腰が抜けそうになってい るお八は顔を石燕の黒い喪服に押し付けた。 九郎は半身になり左手を前に出して、間合いを測る。 相手との間合いが一間程に為った瞬間、裸出刃入道はぴたりと走 りを止めて、 ﹁真の勇気、しかと見届けた⋮⋮﹂ 1230 それらしい事を呟いて道を開けたので九郎はぶん殴り、悶絶する 裸出刃入道を道の脇に捨てて、 ﹁行くぞ﹂ ﹁殴って良かったのかね?﹂ ﹁いや、我慢しようと思ったのだがつい。後ろから襲い掛かられた ら嫌だから﹂ 浜辺に打ち上げられた烏賊のように床で悶える入道は、 ﹁いい⋮⋮﹂ と、呟いているので気色悪げに三人は眺めて、道を進んだ。 ***** 廊下の行灯に照らされている紙に文字が書かれている。 石燕が眼鏡を正しながら声に出して読むと、 けひ ﹁この先、毛火に注意⋮⋮?﹂ ﹁なんだ毛火とは﹂ ﹁ふむ﹂ 彼女はお八に抱きつかれたまま、顎に手を当てて脳内の妖怪図鑑 を捲り該当するものを検索した。 そして指を立てて言う。 1231 ﹁恐らくは毛火と書いて[けちび]と読むのではないかね? [土 佐お化け草紙]という絵巻に載っているものを見たことがある。髪 の長い生首と鬼火を合わせた土佐に伝わる妖怪なのだが﹂ ﹁つまり、生首か火の玉が出るということか? おい、お八よ。予 め覚悟をしておれよ﹂ ﹁お、おう。大丈夫、だぜ﹂ 首をがくがくと縦に揺らして返事をする。顔が青いが、浮かぶ生 首を想像したのかもしれない。 そしてまた進むと、開けた小部屋に辿り着いた。 入った途端、部屋の明かりが灯った。部屋に居るのは四人。一人 は血を流してうつ伏せに倒れていて、残り三人はがたいの良い荒く れ風で倒れている男を足蹴にしながら懐を漁っていたり、水を頭か ら被ったりしている。 その三人の髪型が特徴的である。まさに、側頭部を剃り上げて残 モヒ した毛を火のように逆立てているのである。 つまりは、妖怪[毛火]である。 ﹁ヒャッハー! 水だぁ!﹂ ﹁こいつ水戸の紙金なんて持ってやがるぜ! 今じゃケツ拭く紙に もなりゃしねえってのによお!﹂ ﹁ぬくもり⋮⋮﹂ ばさばさと乱暴に紙幣を投げ捨てつつゲラゲラと笑い声を上げる モヒカン。 水戸の紙金というのは、宝永元年︵1704年︶に発行された水 戸藩内で使用可能なお札で、前藩主水戸光圀が作った借金と元禄の 地震による江戸の普請費用捻出により藩内で流通する貨幣すら乏し くなった為に代わりに刷られたものである。 1232 速攻で偽札が大量に出回って犯人を探したら紙を漉く役人自らが 偽札を作っていたり、四年後に幕府が紙金を一切禁止したので保証 無しで価値が消滅したりと物哀しい存在だ。正にケツを拭く紙以下 で、実際に腹が立ったのでこの無価値の紙金で障子を作った藩士も 居た。 小芝居をしているモヒカンを見ながら石燕は苦々しい顔で呟く。 ﹁思ってたのと違う﹂ ﹁うむ﹂ 侵入者の言葉に反応するようにモヒカンは足蹴にしていた初老の 犠牲者から意識を三人に向けた。 九郎はその血まみれの爺さんが大丈夫かと心配になったが、血文 字でそこらに[たねもみ][今日より明日]などとしっかりしたダ イイングメッセージを書いているので、脅かし役の一人だろうと判 断して無視することにした。 ﹁なんだてめえら、ここを誰の縄張りだと思ってやがる?﹂ ﹁縄張りて。この部屋か。いや狭いな、マジで﹂ ﹁へへへ⋮⋮水と食料を置いていきな! それも一つや二つじゃな い⋮⋮全部だ!﹂ ﹁あんまり水と食料を持ってお化け屋敷に来る人も居ないと思うが ね﹂ ﹁ぬくもり⋮⋮﹂ ﹁あうあう﹂ 迫ってくるモヒカン達に思わず冷静なツッコミを入れてしまう九 郎と石燕。お八だけがなにやらぬくもりを求めているモヒカン相手 にマジビビリ継続中である。 一体これで何を脅かそうとしているのか、やたら絡んでくるモヒ 1233 カンたちを見ていたら、突然彼らの背後で血まみれで倒れていた死 体役の老人がむくりと起き上がった。 その老人の顔面は半分爛れたように為っており、目元は顔料で塗 ったのか真っ赤だ。尖らせた牙をむき出しにして、気づいていない モヒカンの首筋に噛み付いた。 ぶしゃあ、と大げさなぐらい血しぶきが口に仕込んだ血袋から飛 び散った。 ﹁ぐわあああ!!﹂ ﹁死体が起き上がったー!﹂ ﹁ぬくもり⋮⋮﹂ ﹁おぶっげほっおろっ﹂ ﹁うわっ! はっちゃんが恐怖のあまりに吐きそうになってるよ!﹂ ﹁早く行くぞ!﹂ 慌てて九郎はお八を抱いている石燕の手を引いて部屋を後にする のだった。 残った二人のモヒカンが、口から血糊を滴らせてゆっくりと歩み 寄るゾンビと対峙しつつ背中越しに言葉を送る。 ﹁ここは俺たちに任せて先に進みな。なあに、すぐに追いつくさ⋮ ⋮!﹂ などと言うので、部屋の戸を閉めて早足で進み、途中でお八を座 らせて落ち着かせる為に背中を撫でながら九郎と石燕は、 ﹁あのモヒのキャラ付けに何の意味が⋮⋮﹂ などと言い合うのであった。 1234 ***** その後も、天井から大量に落下してくる蒟蒻や包丁でジャグリン グする鬼婆、のっぺら坊の煮売屋で飲み食いしている百々目鬼と二 口女、ロンドン・コーリングのポーズをしている琵琶法師など様々 な見世物を見つつ三人は進んだ。 見世物は恐怖系と言うよりびっくりや、滑稽で面白いものも多か った。途中猫耳を被ってバイト兼ステマしていた子興は爆笑されて 涙目で逃げ出したが。 それら一つ一つにわざわざ叫び声を上げたり頭を抱えて震えたり としてくれたお八は良い客なのではないかと九郎は思える。 歩いた距離と部屋数からするとそろそろ最後に近づいて来ている ようだ。 若干血生臭く、部屋の作りは、 ﹁鈴ヶ森みたいだね﹂ ﹁うむ。血の染みがついた晒し台も置いてあるしな﹂ ﹁うううう﹂ まるで処刑場のようだと言いながら進む。 すると、部屋の角から白い死に装束を着た男がひょこりと現れた。 背は高いが痩せていて、顔色も良くはない。 ︵骸骨が笑っているようだ︶ と、九郎は感じるような表情であった。柳の下の幽霊めいた仕草 1235 をしながら、 ﹁うらめしや﹂ と、呟く。 最後に真っ当な幽霊が出たな、と九郎は小さく息を吐くが、後ず さる音に振り向いた。 顔を青くして目を大きく見開いている石燕がお八を連れて後ろに 下がったのだ。 幽霊の声は続く。 ﹁恨めしい恨めしいおのれ許さぬ許さぬぞこの恨み貴様の子々孫々 骨の髄まで呪い殺してくれる口惜しや口惜しや││﹂ 単調で早く告げられる怨念の篭った声は重なり不気味に響く。妙 なリアリティと威圧感も九郎は感じるのだが⋮⋮。 ﹁う⋮⋮﹂ 石燕が吐き戻さんばかりに口を抑えた。 僅かに震えている。 ﹁おい、どうしたのだ石燕。幽霊が一匹出ただけであろう﹂ ﹁っ! 幽霊が一匹⋮⋮そう見えているのかね⋮⋮?﹂ 彼女は眼鏡を抑えながら、お八を抱く力を強めて慄く。 その目が少し光った気がした。 直視しないように、彼女は指をさして言う。 ﹁私には、百の餓鬼が組み合わさり蠢いているように見えた⋮⋮﹂ 1236 部屋の一面を埋め尽くすようにぐちゃぐちゃと絡んだ人を食らう 穢らわしい白い子鬼がにたにたと黄色い歯を見せながら恨み言を繰 り返し唱えている。 周囲は鬼火で照らされて爪を剥がれんばかりに引っ掻いた傷だら けの部屋は膿混じりの血が垂れていた。 百の鬼がびちゃびちゃとそれをすする音も聞こえる。それらを石 燕は見て、聞き取ってしまったのだ。 実際の視覚上に映る物体がどうであるかはともかく、石燕の霊的 感性がそう認識した。この世に不思議なものなど何もないと日頃言 う彼女だが、幽霊や妖怪が居ることは知っているのだ。それらは触 れられて、影響を及ぼされるということも。[居る]が[存在]し ていないという特殊なものをそう言い表すと云うのが彼女の定義で ある。 しかしながら、この百鬼の塊は正気の沙汰ではない。 地獄に連れ込まれたような気分だった。 ﹁石姉!? 石姉! 大丈夫かよ!﹂ 顔色を真っ青にした石燕を、お八が叫びを上げて抱きかかえた。 九郎は肩越しに彼女の様態が酷く悪くなったことを確認しながら、 油断せぬ様に幽霊の格好をした男と対峙する。 彼からは悪鬼妖怪の姿など見えないが、確かに妙な気配は男から 感じ取っていた。 痩せた男は首を傾げ、 ﹁││あれえ? 一寸脅かしすぎたか。感じやすい人って居るんだ なあ﹂ 彼はそう告げて、ひょいと肩を竦める。 1237 雰囲気が変わった。 石燕はその歪んだ視界で、餓鬼が吸い込まれるように白装束の男 の体に消えるのを見て、ぞっとした。 ﹁馬鹿な⋮⋮﹂ あれだけの怨念が一人の人間に取り憑いていて平気だというのか。 石燕は絶句する。 彼は石燕の顔を薄暗がりの中じっと見て、 それがし ﹁⋮⋮もしかして鳥山石燕先生じゃない? あ、某は山田浅右衛門 なんだけど﹂ 確認するように、軽薄な笑みを浮かべつつ浅右衛門は声をかけて くる。 顔色が悪いまま納得して石燕はふらつきながら返事をする。 ﹁首切り浅右衛門⋮⋮か﹂ ﹁そうだよ。どろどろーん﹂ 戯けた薄笑いで両手をうらめしやの形にする浅右衛門。 しかしながら具合の悪そうな石燕の様子を見て、バツが悪くなり 頭を掻く。 ﹁なんか悪いことしたなあ。出口こっちだから早く出たほうがいい﹂ ﹁うむ、そうだな⋮⋮む? お主も出るのか?﹂ ﹁ま、休憩休憩﹂ 先導するように浅右衛門が出口に向かい歩くので、ぐったりして いる石燕を九郎とお八が両脇から支えてお化け屋敷を抜けた。 1238 ***** 雲の隙間から降り注ぐ陽の光が眩しい。澱んだ空気は正月の冷た く澄んだ風に流されて、なんとも爽快だった。 丁度隣が茶屋だったので、石燕を座らせて茶と団子を注文する。 適当に浅右衛門も座った。 重苦しく肺に詰まった空気を入れ替えるように大きく深呼吸をし て、石燕は改めて彼へ向き直る。 光の下にいれば見かけてもなんら思うところのない、中年の痩せ 浪人だ。目つきは相当に剣呑だが、にへら、と口元に笑みを浮かべ ている為に軽薄な性格に見える。 ﹁いやー労働の後は団子が旨い﹂ もぐもぐと食っている彼を横目に、九郎は石燕に尋ねた。 ﹁首切り浅右衛門か⋮⋮なんか懐かしい親近感の湧くアダ名だな﹂ ﹁奉行所などの下請けをしている斬首人なんだがね、悪党の首を切 り続けているからだろうか⋮⋮あの悪霊の量は相当なんというか、 やばいね。並の妖怪ならまだしも⋮⋮私から見れば地獄に足が生え て歩いているような厄物だよ、これは﹂ ひそひそと話しあう声が聞こえた浅右衛門は茶を飲みながら応え る。 ﹁かの鳥山石燕にそう鑑定されるとなんだ、少しは気楽になるねえ﹂ ﹁悪霊が憑いているって聞かされて気楽になるのかよ?﹂ 1239 お八の疑問に彼は頷きつつ、 ﹁二つ可能性を思いついていた。今まで切った相手から恨まれてい るか恨まれていないか。逆に恨まれてないってほうが、むしろ意味 がわからなくてゾッとするだろう?﹂ ﹁そういうもんか?﹂ 首を傾げる。お八からすれば明るいところで見れば、変なオッサ ンにしか見えない為に怯えることはない。 これだけ悪霊に恨まれ呪われているのに当人自体は屁ともしない のは、日頃積んでいる功徳のおかげと本人の達観した悟りにより呪 い耐性が完全になっているのだろう。金回りが悪くなろうとも、風 邪一つ引いたことがないそうである。 ﹁黄表紙の仕事を首になったもんで日銭稼ぎをしているんだ。読ん だこと無い? [アサえもん]って本﹂ ﹁ああ、あの色んな意味でギリギリの﹂ ﹁ギリギリ駄目になってさ⋮⋮うん? 君、妙な刀を持っているな あ。何処のだろう⋮⋮﹂ 彼は九郎の腰に差している太刀に目をやり、顎に手を当てて観察 した。 刀の鑑定をこれまで千本は行ってきた彼からしても見たことがな い拵えである。異世界から持ち込んだものなので、当然ではあるが。 ﹁アカシック村雨フフフーンⅢのことか?﹂ 一瞬名前が九郎も浮かんでこなかったので早口で誤魔化した。 浅右衛門は食い入るように身を乗り出してくる。大名から頼まれ 1240 て刀の試し切りや格付けを行っているだけあって、刀剣マニアでも あるのだ。 ﹁その刀、一寸見せてもらっていいかい﹂ ﹁別に構わぬが⋮⋮﹂ 九郎は腰から外して、ひょいと浅右衛門に手渡す。 彼は鞘から少し刀身を抜き、刃紋を確認しようとした。鏡面のよ うに研ぎ澄まされた刃が光を反射して輝いている。 じっと目を細めて確認するに、 ﹁む⋮⋮凄いな⋮⋮この濤瀾は助弘の後期に似ているが⋮⋮ここま での大太刀を彼が作ったとは聞いて無い⋮⋮いや、偽物にしてはや けに凄みがある⋮⋮村雨?⋮⋮﹂ 言いながら彼は刀をいつの間にか抜き放ち、一度だけ風を切って 振り、すぐに戻した。 首を傾げて、難しい顔をしている。そして九郎に刀を返して、こ う告げた。 ﹁ううん、これは││凄いなまくらだ。いや、なまくらなのに凄す ぎると云うべきか⋮⋮﹂ ﹁酷い評価だな⋮⋮結構切れるぞ? この刀﹂ 九郎がやや戸惑った顔で反論のようなものを口にする。 アカシック村雨キャリバーンⅢの切れ味は凄いのである。剣に関 しては振り回す程度の技量しか持たない九郎でも石や鉄も好きに切 れるし、これまでで切れなかったものは魔王城を襲いに来た通常の 百万倍の頑丈さを誇る超戦士ぐらいだろうか。 ナマクラと評した浅右衛門も困り顔で、 1241 ﹁なんというかそう云う気配があると云う某の勘働きなんだけれど も、その刀は一度も全力で振るって無いようだ﹂ ﹁⋮⋮ふむ﹂ ﹁そして恐らく、人を切るためや神社に奉納するために作ったわけ でもない。何か別の目的で作った気がする。目的に即していない使 い方しかされていないものは評価できない。鉈で刺し身を切ったり、 髭剃りに蜘蛛切を使うような⋮⋮あやふやな感じがどうもおかしい﹂ 千本の刀を扱い千人の躰を切ってきた浅右衛門は素直に感じる事 を言った。そこまで刀に深く関われば使い勝手や銘などではなく、 本質が見えるのだろう。 そこまで言って、彼はやはり自分でも妙だと言わんばかりに口元 を抑え、もう一度九郎に返した刀を見る。 ﹁││いや、確かによく切れそうな凄い刀であることは確かなんだ が⋮⋮どうも変な事言って悪いなあ。ぱっと見た限りでは誰の作か も分からないというのに﹂ ﹁別に構わぬよ。確かにちゃんと使うべき時に使えなかった、余り 物の刀なのだこれは。己れにはこれぐらいが丁度良い﹂ 自嘲気味に肩を竦めて九郎は刀を腰に戻した。 あの魔王城での攻防にて、この剣の真の力を発揮していたならば あるいは敵を撃退しまた魔王や魔女との怠惰な暮らしが続いていた かもしれないが、そうはならなかったのだ。使わなかったのではな く、その時の九郎には使えなかったのである。 しかしながら不思議と今の彼がそれを持っているのが似合うと思 えた浅右衛門は満足したように頷いて、小銭を置いて立ち上がり、 またお化け屋敷へ戻っていく。 1242 ﹁それじゃ、色々悪かった。お大事に﹂ ぐったりとした石燕は反応もしなかったが、まずそうに茶を啜り ため息を吐いている。 暫く休ませるか、と思った九郎がお八に、 ﹁ところでどうだったか、お化け屋敷は。少しは怖いの克服出来そ うかえ?﹂ と、聞くと彼女は思案顔で、 ﹁とりあえず、一つの対処法はわかったな﹂ ﹁うむ?﹂ ﹁隣であたしより怖がってくれる人がいると怖くなくなる﹂ ﹁⋮⋮﹂ 山田浅右衛門の幽霊にビビった石燕が、気まずそうにそっぽ向い た。 小声で言い訳のように、 ﹁怖いというよりあれは危険だったんだよ実際私が触れていたら即 死だっただろうそう思えば後ろに下がったのは防衛行動であってビ ビリ腐ったわけではないのだがまあ一々はっちゃんにそう反論する のも大人げないから私としては別に⋮⋮﹂ ﹁威厳がダウンしたせいですごく愚痴っぽくなっておる⋮⋮﹂ ﹁拗ねるなよ石姉﹂ ﹁ふんだ﹂ 子供っぽい仕草の年増女に思わず苦笑いを零す二人である。 そして、思い出したようにお八が、 1243 ﹁あ、そうだ九郎。その刀なんだけどよ﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁使う時に使えなかったって言うけど、多分それはいつか九郎が使 うときが来るからまだ持ってるってことなんじゃないかって思うん だぜ﹂ ﹁⋮⋮そうかのう﹂ ﹁よくわかんねーけど、大事にしとけって﹂ 彼女がそういって九郎の背中をバシバシと叩くので、九郎もそう いうものかと言葉を受け入れた。 いつか使わなければいけない時が来たとしても自分に使えるのだ ろうかと一抹の不安を覚えながら、ぼんやりと空を見上げる。 同じように己の生き長らえた人生もいつかちゃんと使うべき時が 訪れるのだろうか。 一羽の鳥が弧を描いて飛んでいる⋮⋮。 ***** 1244 後日。 石燕が本屋で見つけた一冊を持って九郎を訪ねた。 ﹁九郎君、例の山田浅右衛門、もとい浅氏苦楽の新刊が出たよ。没 を食らった話とは別のものを始めたらしい﹂ ﹁どれどれ⋮⋮[ホーレンゲキョ となりの山田氏]、か﹂ ﹁⋮⋮ギリギリだよね﹂ ﹁ギリギリアウトだろう、これ﹂ 編集会議をだまくらかして発刊したもののやはり内容がギリギリ アウトだったので、後で版元が回収に走り回っていたという。 1245 外伝﹃大奥のオーク﹄ 江戸城の建物は本丸を中心として、西の丸、二の丸などに分かれ ている。 そのうち本丸は将軍が住まい、また公的な行事を行う場所であり、 これも大きく分ければ表、中奥、奥と分類される。 奥、というのが巷に広く言われている大奥であり、いわば徳川将 軍の権威を示す為に子女が集められた場所だ。 ここには将軍以外の男は火事などの非常時以外出入りが厳しく禁 止されており、大奥に繋がる部屋には検問としての役割である御錠 口、そして大奥での事務仕事を行う男が働く御広敷が出入りを見張 っている。 さて、時代は徳川吉宗が改革に乗り出す享保の頃。 御錠口に寝泊まりすることを決められた無役の男が居た。 冷たい板間に座布団を並べて廊下を遮るように眠っているのは、 身の丈七尺を超えて体つきもでっぷりとしつつ腕や胸には着物の上 から見て取れるほど筋肉の付いている相撲取りのような男だ。 そして、顔つきはまるで││というよりも、そのまま猪を少しば かり人間に近づけた顔をしている。 オークである。 なにやらいい夢を見てるのか、すやすやと笑みを浮かべたまま剥 き出しの腹をぼりぼりと掻いていた。 ﹁これ、いつまで寝てるのじゃ!﹂ ﹁痛っ!﹂ 1246 廊下の敷居がある向こう側から竹竿でオークの腹は遠慮無く突っ つかれた。 一瞬でうたた寝の幸せから現実に引き戻されたオークは、むくり と起き上がってしかめっ面を相手に向ける。 御錠口の先、大奥からこちらに近づかないようにして彼を起こし たのは、華を散りばめた紫色に染められた豪華な着物を着ている、 わらわ 女性というにはまだ幼い顔立ちを残した小柄な女である。 オークは軽く会釈をしながら挨拶をする。 ﹁⋮⋮お早う御座います、深心院様﹂ ﹁うむ。ってこれ! お前が御殿様より先に妾に挨拶をするでない わ!﹂ ﹁挨拶しなかったらしなかったで怒るじゃないですか、狗風情がっ て﹂ ﹁ええい、口答えするなー!﹂ ﹁ああ痛い痛い﹂ オークの頑健な肌からすれば女の振るった竹竿など痒くも無いの だがとりあえず相手のされるがままにする。 彼女は大奥の中でも権威高い、吉宗の側室である。正室であり、 御台所となる理子女王は既に亡くなっているので実質はこの少女が 一番上だろうか。 今朝は││と言うより毎朝なのだが、吉宗が大奥に朝の挨拶をす るのを迎えに御錠口まで来ているのだ。彼女の後ろには部下である 御年寄︵年配ではなく、役職である︶や御中臈の女性もついてきて いて、面倒そうに少女の癇癪を受けるオークの姿を見ながら笑いを 忍ばせている。 木の戸で遮られて施錠までされるのが本来の御錠口なのだが、こ のところはオークが門番代わり鍵代わりになっている。開けっ放し 1247 でもオークが寝ていれば通り抜けることなど出来ない。それでいい のかとオーク自身も思ったが、将軍の指示であり特に問題も起きて いないのだ。 いや、敢えて問題があるならば深心院が来るよりも遅くまで寝て いると大抵竹竿で突っつかれることか。寝てなくても突っつかれる が。 これはオークが怠惰であるというより、この体温高そうな少女が 毎朝決まった時間ではなく急に早く来たりするために時折対応出来 ない。早くに来ても吉宗が来る時間は決まっているのだからまたね ばならぬというのに。 オークだって夜遅くまで御広敷用人の仕事を手伝っているのだか ら眠いのだ。 彼女はふんす、と鼻息荒く竹竿を将軍の見えないところに仕舞っ て、 ﹁まったく、阿呆面を晒して﹃おーくっくっく﹄などと笑い声を出 しながら寝おって﹂ ﹁そんな笑い方しないですから﹂ ﹁だいたいお前がそんな見える場所で無防備に寝ているから、女中 や部屋方が集中して仕事出来ぬのじゃ。夜中に歩きまわって見に来 ているのじゃぞ﹂ ﹁うわあ⋮⋮それは嫌だなあ﹂ オークは顔を歪めて身震いした。 彼は自分が大奥の女性から性的な目で見られている事を知ってい る。これは、大奥では将軍以外の男は入れない環境で過ごし、また 将軍と相手になるのは数えられる程にしか居ない為に、ずっと男日 照り生活なので溜まっている女が多いのだ。 川柳にも 1248 [七ツ口男をおいしそうに見る] と、読まれるほどだ。七ツ口とはまさにオークのいる御錠口を意 味している。また、ここに務める男は大抵が枯れ切った老人である ことが多いのだが、それでも舐め回すように大奥の女は目線を送る。 これがいかにも男盛りで相撲取りの体型をした、荒々しく野獣の 如き性欲を持ち合わせていると全身で主張しまくっているオークだ ったら言わずもがなの感情であった。 御宰︵買い物のお使い︶の少女が恥ずかしそうに、伝えていた買 い物の︵オークが買いに行くわけではないが︶牛の角を受け取った 時などそれの使用法など想像はしたくなかった。 しかしながらオークは、 ︵本物のオークなら喜ぶのかもしれないけどなあ⋮⋮︶ あるいは手が出せない状況に余計ストレスが溜まるか。 うんざりした気持ちを隠しつつ、滔々と朝っぱらから説教してく る深心院に気付かれないように胸中でため息をついた。 この日本式ハレムとでも云うべき大奥であるが、この徳川吉宗の 時代では特徴がある。 醜女が多いのだ。 これは、吉宗が将軍位に就いた時に大奥の改革で、 ﹁美女は大奥でなくとも引き取ってくれる場所があるだろうから、 ここで過ごす事はない。貰い手のない女は残りなさい﹂ と、綺麗どころを大奥から放出したのだ。それにより吉宗の代で は大奥の顔面指数は低下している。女は貞節で嫉妬深くなければそ れでいい、という考えだったのだ。 元から吉宗の側室であった深心院や、新しく入ってきた年若い少 1249 女はまだ綺麗というより可愛いのだが⋮⋮。 エルフ 生憎と彼はブスでもロリでも食っちまうオークではない。 元は耳の長い長命種で、ある呪いを受けてオークに変化させられ、 また異世界から江戸に拉致された哀れな男なのであった。 ***** 異世界ペナルカンドにて。 エルフの社会で少子高齢化が進んでいる。 その理由について、エルフの男は性欲が薄く生殖能力も低いため だ、と書かれた本が世界中でやけに売れた。 これは別段真面目な考察が書かれている論文ではなく、単に様々 な種族に対するブラックジョークの類を纏めて、適当でそれっぽい インチキ解説文を付けた娯楽本である。 他にもゾンビの体は蝋化しているので石鹸無しで泡立つとか、デ ュラハンの首には小人が乗って操縦しているとか、無我王プナナレ ントリスラーチェがインスタント食品を食べない理由とか、そんな どうでもいい内容が書かれていた。 少子高齢化したのは文明が進んで、子供の死亡率が減った為に多 産しなくて良いしエルフは寿命が長く世代交代も緩やかだからなど、 その本を読んだエルフは少し議論の種になる程度であったのだが。 しかしその本に目を付けた阿呆な災害存在が居た。 放浪する災厄Ⅱこと、極光文字の魔女イリシアである。ちなみに 災厄Ⅰは魔王だ。 考えたら即実行して責任は持たないまま逃げることで有名な魔女 1250 は、 ﹁それならばエルフの男を種の強いオークに変身させてしまえば少 子化問題解決ですね﹂ などとパーな事を言い出して、有無を言わさずに付与魔術で広域 に変身魔法をかけた。魔女的には良い事とか悪い事とかの分別以前 に、思いついて出来そうだからやってみたという非常に適当な理由 で。 それもエルフが世界一集まっている大都市で、である。 結果的に数百人のエルフ男が、意識や人格はそのまま姿だけをオ ークに変身させられたのであった。しかも効果は死ぬまで永続する。 ついでに女エルフに催淫魔法までかけてからお供の騎士を連れて ダッシュで逃げた。 そこからが阿鼻叫喚で、オーク化した男衆に発情した女エルフ。 意識までオークになっていればともかく、草食系男性が多いエルフ としては顔色を変えてにじり寄ってくる女はもはや恐怖であった。 次々と犠牲が出る中、集落から脱出できたのは約半数のオークだ ったという。その後生まれてくるのはエルフの割合がかなり多かっ たので、少子化問題は一応解決したとか。 なお、男オークと別の種族間の配合では相手側の種族が生まれや すく、これは[オークックお前の娘まで犯してやるでオーク︵語尾︶ の法則]という名で論文が出されて人権侵害だとかオークに対する 侮辱だ差別だとか様々な社会問題へと発展したことがある。 そして仲間とも別れて名も捨てて、一人草原で生きることにした オークが居た。 草を枕に眠り、雨が降れば木陰で過ごし、腹が減れば甘い草と小 川で魚を釣って家もない一人暮らしを楽しんでいた。 1251 食欲はエルフの時と同じ程度の少食で満足でき、不思議とそんな に沢山食べなくてもオークのでかく太い体型は維持された。魔女の 呪いの効果かもしれないが。 平穏なネイチャー生活を続けて何年経っただろうか。 彼がふと気づくと、目の前に虹色の髪と目をした少女が立ってい た。片腕に特徴的なロケット念動射出式ガントレットをつけている が、オークには妙にゴツイ篭手にしか見えない。 何の用かと尋ねたら、 ﹁いやー実はちょっと実験に手伝ってくれる人探してるんだよね﹂ ﹁実験?﹂ ﹁ある異世界へ転移して貰ってその世界と繋ぐアンカービーコンに なって欲しいんだ。理論上この世界の人だと720分の1ぐらいし か成功しないんでもう何百人も試してるんだけどさー﹂ ﹁異世界⋮⋮? 真逆お前、魔王ヨグ││!?﹂ 異界物召喚士であり、世界を滅ぼす一角として指名手配されてい る魔王こと外法師ヨグの事は広く知れている。 気まぐれに混沌を世界に振りまき、指一つゲーム感覚で国を滅ぼ し神殺しにして最悪の災厄。 にたあ、と狂気を付与する笑みを浮かべながら彼女はこちらの都 合など一切考慮するつもりもなく、 ﹁ミスったら何処の亜世界に飛ぶかわからないけど、生存可能世界 に限定してるし知性体がいたら一応言葉だけは通じるから許してく れるね? ありがとう。転異術式﹃グッドトリップ﹄発動﹂ 彼女がそう告げると、虹色の召喚陣がオークの周囲で輝きだした。 声も出なく、抵抗する暇さえ与えられなかった。 周囲の景色が絵の具をぶちまけた泥に包まれたように七色に歪み、 1252 吐き気を催す無重力感と共に逆さまに堕ちる感覚を覚える。 そうして、気がつけば知らない林だったのである。 オークは立ち上がり周囲を見回し、のそのそと歩いていると突然 銃撃された。 ﹁うわあ!? 危なっ! 何処の世紀末だここは!﹂ 銃弾は当たらなかったが、彼は近くに馬に乗った人間と彼の護衛 騎士らしき、長銃を構えた兵士二人を見つけた。 とりあえず再度銃撃される前に銃を奪ってしまおうとオークは慌 ててそちらに走る。相手を害しようとは決して思わないが、このあ たりの土地の事もできれば聞きたい。 ﹁あの! ちょっといいですか!﹂ ﹁しゃ、喋ったー!﹂ ﹁化け猪だ、上様、お下がりくだされー!﹂ 兵士はオークを見て恐慌状態になるのだが、馬上の男はびくとも せずに頑丈に作らせた火縄銃の銃身を持った。 オークが両手を上げながら武器を持っていないアピールをして近 づいたところで、男は思いっきり銃床でその頭を殴りつける。 凄まじい衝撃であった。 脳震盪を起こしたオークは昏倒して倒れ、馬上の男││徳川吉宗 は、 ﹁運べ﹂ と、お付の者らに命じた。 こうして喋る猪人間のオークは吉宗と出会い、またその巨躯と妙 1253 な顔形から気に入られて、紆余曲折あり何故か御錠口で働くことに なったのであった。 恐らく、身分や種族を聞かれた時にうまく伝わらずに﹁オーク﹂ がどうとかばかり言うので、大奥関係にさせられたのではないだろ うか。そんなものでいいのかと思われるかもしれないが、こういう のはコネでなんとでもなるようだ。 ***** オークが御錠口を軽く掃除したり早朝勤務の御広敷用人と挨拶し たりしていると、大柄な体によく似合う着物を着ている吉宗はお付 の小姓らを連れて御錠口へ参上した。 本丸の表や中奥では公務を行うのであるが、大奥となるともはや 完全な私邸であるために幾らか将軍も気安く接してくる。吉宗だけ かもしれないが。 ﹁今日も良い筋肉をしている﹂ そう言ってオークの上腕二頭筋をぺしりと叩く吉宗。 武芸を推奨しているだけあって、彼は力持ちであるオークを気に 入っている。大抵は毎日が忙しいのだが、時間があるときはオーク に米俵を投げさせたりするのを見物するのが最近の楽しみであった。 異世界に来たことを戸惑っていたオークだったが、吉宗がこの世 界の王であると告げられた時は驚いたものだ。それ故か、こちらか ら話しかけるという恐れ多いことは殆しない。吉宗も無理に会話を しようとすることはなく、一言二言オークを褒めるぐらいであった。 1254 深心院が口を尖らせて、 ﹁御殿様はまた妾よりおーくに先に⋮⋮﹂ ﹁拗ねるな﹂ 優しい声で言いながら吉宗は彼女らを連れて、大奥へ入っていっ た。入り口から五百メートル程先の、御台所の位牌へ向かうのだ。 小姓が小さな声で、 ﹁最近の上様は本当に御壮健だ﹂ ﹁そうだなあ﹂ と、会話をしながらオークの腹の肉を摘んだり腕にぶら下がった りしようとするのには、オークも困るのであった。 吉宗を出迎えたら大奥内での仕事︵エロい意味ではない︶で半刻 は出てこない為にオークもこの間に食事を貰いに行く。 御広敷の者が使う休憩部屋に入ると一汁三菜の質素な食事が用意 されている。江戸城では当時、務めている者も朝と夕の二食のみで 一汁三菜が守られていた。 これは将軍である吉宗が、 ﹁一日働くために食うは二食で充分である。飽食に慣れるといざと いうときに動けぬようになる﹂ と、自らこれを戒めていたので城の者も倣う他無かった。中には 腹が減る者も居て、そういう時はこっそり弁当を用意していたとい う。 オークなどは御広敷の者に、 ﹁そんなに体が大きいのに足りるのか?﹂ 1255 などと不思議がられる事もあるが、まったく問題は無かった。飯 と味噌汁、漬物に焼き魚の組み合わせをばくばくと食べる。 ﹁うまいうまい﹂ ﹁なんていうか、そのごつごつした手で器用に箸を使うもんだなあ﹂ ﹁中々素敵な食器ですよね、箸。木の精霊力を感じて。なんでうち の集落では流行らなかったかなあ﹂ ﹁せいれいりょく⋮⋮? お前の故郷じゃ箸使わなかったのか?﹂ ﹁まあ、木の匙か殆ど手掴みで食べてましたよ。こうナマの川魚を 頭からバリバリ﹂ ﹁虫に腹やられそうだな﹂ などと同席した人と会話する。エルフが好むのは生の魚や野菜な のであるが、こうして火を使った料理も慣れると旨い。海魚の刺し 身も前に出たので食べたが、川魚と違った味わいで生命素が多く好 みだった。 これは調理をすると食材自体に含まれる精霊力が火属性に偏り、 また火とは属性の相性が悪いことが多いエルフとしては合わないか らだ。 とは言え、オークの姿になったら精霊魔法は殆ど使用不能になっ てしまったのだが。 今の彼に出来るのは自己治癒魔法か身体能力強化のような己の体 に作用するものを少しだけである。 食事を終えたら再び御錠口に戻って大奥の番をする。 暫く待つと吉宗が深心院らと一緒に出てくるので、オークも傅い て見送った。 去り際にやはりオークの上腕二頭筋を揉みしだいて行く吉宗。も はや慣れたものだ。 1256 立ち上がると、深心院が目尻を上げてこちらを睨んでいた。機嫌 が悪そうだ。 ﹁おーく! ちょっと近う寄れ!﹂ ﹁やですよ﹂ ﹁大声を上げるぞ!﹂ ﹁多分上様が聞いても爆笑するだけです﹂ ﹁寄ーるーのーじゃー!﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 仕方なく、大奥の中に入らぬ境界までオークは近づき、目線を合 わせるためにしゃがみこんだ。 ただでさえ六尺︵百八十︶はある身長の吉宗と並ぶと深心院は親 子のようなのに、もはや七尺を超える巨漢のオークと並ぶと小動物 だ。 彼女は憎々しげにオークの脂肪の鎧と筋肉がバランス良い腕を両 手でぐにぐにと揉んで、 ﹁ふん!﹂ と踵を返した。 そして付いている御年寄たちにも、 ﹁揉んでやれ!﹂ 指示を出すので戸惑ったような興味深いような顔をしつつオーク は二十人あまりに腕をまさぐられることとなるのだった。 ﹁わけがわからないよ﹂ 1257 オークは世の理不尽を嘆く顔で、呟いた。 実のところ大奥で一番忙しいのは起きた時と寝る前で、将軍を朝 送り迎えしたら後は着替えを何度か儀礼的にしなければいけないぐ らいで夕方までのんびり過ごすことが多い。 勿論、働き手として大奥に居る女中は忙しく動きまわっているの だが、昼過ぎには女が集まって歌を詠んだり菓子を作ったりと楽し んでいたようである。 オークがぼけっと番人をしていると大奥から差し入れがあった。 最近入ったお咲という名の御宰の少女││見慣れぬ巨人のオーク にいつもビクビクしているので記憶に残る││が小さな紙包みを持 ってきたのだ。 背が四尺四寸程しかなく、まさに子供であり、顔立ちも仕草も幼 い。 ﹁あ、あの、おーく、これ⋮⋮﹂ ﹁うん? ああ、練り菓子か。くれるのかい?﹂ お咲は俯きながらもじもじとしつつ、 ﹁み、皆さんが作ったからって⋮⋮﹂ ﹁ありがとうって伝えて於いて﹂ ﹁はい﹂ 本来ならば御錠口の者が大奥で作ったものを受け取ったら駄目な のだが、前に吉宗に相談した時に、 ﹁大奥で飼っている猫や狗に餌をやるのを咎めるものは居ないから 大丈夫だろう﹂ 1258 と、許可されているので大奥の女性たちはオークを餌付けしよう としてくる。 然し乍ら一年中ここに住んでいると甘いものなど大奥からの差し 入れ以外では食べられないので素直にオークは貰っている。 それと、と言ってお咲は目録のような紙を渡してきた。 ﹁か、買い物の小間物を、お願いします﹂ ﹁受け賜わった﹂ こうして大奥で必要な小間物は御錠口の者が受け取り、御広敷の 物品管理を専門とする役人に渡されて決済されるのだ。 これには例えば割れた茶碗や折れた針の交換なども一つ一つ記録 しなければならず、壊れた破片や針先まで提出が必要だった。 オークは元が聡明なエルフであったためか、すっかり文字も読め るようになったので目録を確認すると、 ﹃壊れた牛角の交換﹄ と、あった。 ﹁⋮⋮﹂ ︵壊したのか︶ 思わず目の前の少女を見やると、彼女は思い出したように、 ﹁あ、こ、これでした!﹂ そう言って欠けた牛の角を出して、それから急にのぼせたように 顔を真赤にする。 1259 ﹁ちが、違うんですよ!? そんなに激しく使ったとかそういうわ けじゃなくて、ちょっとした事故だったんです!﹂ ﹁何も言ってないから。説明しなくていいから⋮⋮っていうか使っ たの君なのね⋮⋮﹂ ﹁え、ああ!? わ、わたしじゃなくて⋮⋮う、うあああん!﹂ とうとう泣きながら走って戻るお咲をぽつんと佇んだまま見送る オーク。 ニヤニヤした女どもが一斉に隠れていた戸や廊下の影から顔を出 して、 ﹁あーあ泣かせたー﹂ ﹁まったく、おーくは最低だな﹂ などと口々に言うのだからオークも泣きたくなる気分のまま御広 敷にとぼとぼと向かうのであった。それでも涙は流さなかった。男 だから、エルフだから。 このように日々女どもからからかわれたり同僚に慰められたりす るのもしょっちゅうだ。 女集団の玩具となるなど男として最大に情けない思いがあるし、 おまけに大奥に彼好みの女性でもいれば気が安らいだかもしれない が見事に好みのアウト方向だったので余計悲惨である。 元の感性がエルフなだけあって、エルフのような女性が好みなの だ。だが日本にそんな女性は中々居るはずもなく、ブス専大奥とな ればなおさらだ。 それが異世界からやってきたら江戸なのであった、大奥の前で暮 らすオークの日々である。 1260 ***** ある日の事であった。 週に一度か二度、医者が大奥を訪れる事がある。健康診断を行う 為であり、こればかりは将軍も例外として出入りを許している。 オークもすっかり顔なじみになった医者が、もう一人連れてきた 相手を見た瞬間である。 心臓に恋の天使からヴァリスタを連射で撃ち込まれたかと思った。 体感的に数万回は死んだ。 医者が連れてきた女按摩。 流れる結っていない緑の黒髪、ほっそりとした躰、顔は柔らかに 綻んだ口元に初雪のように白い肌をしていて、目元に大きな火傷痕 があるがそれすら儚さと美しさを感じる。 エルフの姫と雪の妖精を錬金釜に突っ込んで合わせたようなとん でもない究極存在だ。 本人は盲目なのだから、己を美しく見せる工夫をしたわけではあ るまい。天然自然が生んだ奇跡の美貌、すなわち地球意志だ。そう とすら、オークは信じてしまう。 一瞬で恋の病が末期症状まで進行して心臓と脳髄が即死した気が して、オークは幽体離脱を感じ、慌てて己の体に戻った。 ﹁あの⋮⋮﹂ 妖精さんが話しかけてきた。オークは凄い勢いで蘇生して身を震 わせ、直立して答えた。 1261 ﹁は、はい!? なんでございましょうか!﹂ ﹁きゃっ﹂ しまった。 オークは己の失策を悟った。相手は見ればわかるが、目が見えな い。 盲目の者からすれば急に裏返った声で叫ばれたらどれだけ驚くだ ろうか。オークは己を呪い殺して即死しつつ即座に愛の力で蘇生す る。それほどまでに混乱している。 身を強張らせた妖精さんは少し歪めた顔を、再び天使が嫉妬して 奪いに来るほどに美しく微笑んだ。︵そして僕は彼女を助けるため に命をかけるんだ、とオークは妄想した︶ ﹁いいえぇ、少し心の臓の音が止まったり激しくなったりしてまし たので⋮⋮御身体の調子が悪いのかと﹂ ︵それは貴方のせいです可憐な御方︶ オークはシャイなので口には出せなかったが心のなかでそう唱え て、そしてそんな事を心配してくれる彼女はなんて優しいのだろう マジ妖精さんだと思った。 ちなみに、異世界では綺麗さや純さを表現するときはよく妖精を 引き合いに出す。天使とは言わない。天使は性格悪いのが多いから だ。なにせ、天使階級一位だった[縮退天使]がまさに神殺しで堕 天して人間に転生し続けている青髪の魔女なのである。 奥医師の小川秀全という老人が心配そうにオークを見やる。 ﹁おーく殿。具合が悪いのならば座薬を処方するが﹂ ﹁何故心臓なのに座薬を⋮⋮いや待って小川先生。その破城杭みた 1262 いなのは座薬って大きさじゃない﹂ ﹁ほほ、お主用に作っておるから具合が悪くなったら言うのだぞ﹂ ﹁絶対ェこの人の手に掛からないようにしよう﹂ 軽く頭痛を憶えて頭を振る。 そうしながらもオークはちらちらと女按摩を見て、 ﹁その⋮⋮そちらの妖精さん﹂ ﹁妖精?﹂ ﹁いや、御嬢様はどちらの方です?﹂ ﹁ああ、彼女は按摩の座から紹介を受けた娘でお雪さんと言う。四 日ほど大奥に泊まりこみで按摩をしてもらうことになっていてな。 おっと遅れては叱られるわ。さ、行きますぞ﹂ ﹁はい。それでは、ええと⋮⋮おーくさん?﹂ 秀全に連れられて、大奥へ入っていくお雪を瞬きもせずにオーク は見送った。 後ろから見ても細身だが形のよい腰や、揺れた髪の隙間からうな じが見えてオークはどきりとしたがそんな厭らしい目で見てしまっ た自分に嫌悪と呪いを込めた拳で己の頬を殴った。ここまで自分に 死ねと思った。のは初めてだ。 そして、最後に、 ﹁おーくさんて呼んでくれた⋮⋮お雪さんっていうのか⋮⋮まさに 雪の妖精だ⋮⋮﹂ と、誰にも聞こえないような声量で呟いた。 それから、オークは四日の間そわそわと御錠口の前で落ち着かぬ ようにウロウロしていた。 1263 もしかしたらお雪が通りかかるかもしれないと期待があったのか もしれない。 しかし当然だが、按摩の仕事として大奥に入ってきているので彼 女は一日中様々な女性に押し按摩を行う必要があり、その腕も相当 に良かったと見えてオークに関わる暇はとても無かったのだ。 それでも出て行く時に、再びお雪が小川秀全に連れられて御錠口 を通り、オークに軽く会釈をしただけでオークが心を奪われるどこ ろか無料で押し付けたくなる衝動を抑えるのに必死なほどであった。 そして夜な夜な、 ﹁別の場所で出会いたかった⋮⋮﹂ などと声に出して呻く。 この世界では彼はここ以外では暮らせない。逃げ出したりすれば、 怪物として追われて討たれる身だろう。従順に過ごしているから異 分子としてのオークは認められている。 仕事なども他にあるわけはない。隠れていてもこの姿だ。すぐに 見つかる。 ﹁元の世界で出会ったなら⋮⋮﹂ そう考えて、頭を抱えた。元の世界で出会ったからどうなるとい うのか、この醜いオークがあんな美しい人に近づける筈もない。 ましてや親しくしていたのなら、盲目の女性を手篭めにする邪悪 なオークと思われるに決まっている。 この恋はどうせ実らない。 そうわかっていても、オークは妄想せざるを得なかった。 相手のことなど、名前と優しいところと少しおっとりとした伺う 1264 ような声と、傷の面積肌の白さうなじの細さ髪の長さ残り香と足音 ぐらいしか知らないというのに。 オークの姿ではなく、昔のエルフのまま彼女と出会うところから、 考えてしまうのであった。 それから、また女按摩としてお雪が訪れるかと思っていたが次に 現れたのはまた別の女按摩で、お雪が来ることは無かった。 按摩を斡旋する座としても、大口で儲けも多い顧客に行かせる人 員は希望者も多く、平等に回さなければならないので一度訪れた彼 女はそう来ないだろう。 ***** ある日、吉宗に呼び出された。 深夜のことである。彼の寝室で、酒の相手をする事となった。部 オーク 屋には二人の他は小姓しか居ない。そのようなところに、彼のよう な怪物を連れ込むなど通常はありえないのだが、この吉宗という将 軍は少しばかり変わっているようだ。 そもそもオークからしても、銃床の一撃で鉄よりも固いオークの 頭蓋骨を揺らして昏倒させる相手に挑んでも勝てる気はしなかった し、彼は人と争うことは苦手な性格だ。 倹約家で食事も一日二食しか食わない吉宗だが、酒は好んで呑む。 とは言え飲み過ぎるという事は無く、何本まで呑むと予め決めた 量以上は呑まずにきっぱりと止める。 予め決めていれば良いのだ。 二人の間に一斗樽が置かれている。 1265 ﹁遠慮せずに飲むが良い﹂ ﹁多いですよね明らかに﹂ 決めた量は約十八リットルである。二人で呑むには明らかに多い のだが、オークに期待しての量であることは吉宗の眼差しでわかっ た。また、小姓からも、 ︵上様が呑み過ぎにならぬように貴様が呑めよ⋮⋮︶ と、脅迫めいた心の声が直接脳内に聞こえた気がした。 仕方ないので升に注がれた酒をとにかくぐいと煽り飲み干す。京 伏見の銘酒でこれは水のようでありながら、ぐ、と胃にそのまま染 みて消える味わいがなんとも言えない。 暫く無言で酒を呑みあった。 酒が頭に回ると、ここのところ毎晩お雪のことばかり考えていた オークはなんとなしに思い出して少し苦い顔になってしまう。 吉宗がぽつりと呟いた。 ﹁⋮⋮失恋でもしたか﹂ ﹁え!?﹂ 鳩時計からビームが出た気分だ。それぐらい珍妙だった。 真逆このグッドルッキングジェネラルから失恋という単語が飛び 出すとは思っても居なかった為、[シツレン]というのはこの世界 でコマすか前後する事を表すなにか高貴な言い回しなのかと疑った ぐらいだ。 彼は渋い顔で頷きながら、 ﹁ここ最近様子がおかしいことは大奥でも噂されている﹂ 1266 ﹁あー⋮⋮そうですか﹂ ﹁儂に話してみよ﹂ と、催促されるので断ることなど出来ぬ為、オークは仕方なくぽ つりぽつりと言葉を漏らす。 女按摩に一目惚れした事。名前がお雪だと知っているだけで、一 言会話した程度の仲だという事。そして障害も多くまた片思いであ る事から、どうせ実らないという事。 吉宗は煙管を喫みながら、酒に顔を赤らめつつ語るオークの話を 聞いた。 将軍という立場にあるが、それ故にか他人の愚痴や恋話などを聞 く事は全く無い。そもそも将軍に愚痴を言う幕臣など居ない。だが この、人でも怪物でも無い男には禄を与えていないゆえに幕臣でも ない。妙な付き合いのある、只のオークである。 だから、珍しく誰かの愚痴を聞いて吉宗はそれに答えた。 煙管を頭に振り下ろす。 ﹁痛っ!﹂ がん、と音を立てて銀製の通常よりも大きな煙管がオークの額に 直撃した。将軍だというのに喧嘩煙管のようなごつい作りだ。 吉宗は涙目になっているオークに言う。 ﹁愚か者。失恋も何も、相手に一切伝えていないではないか。めそ めそと巨体を抱えて悩むのは振られてからにしろ、馬鹿﹂ ﹁ううう﹂ ﹁女を逃すなど誰でもすることだ。儂だって振られたことがあるが、 しっかり相手に伝えた。それもせずに喚くな﹂ ﹁上様が振られたって⋮⋮ええ!? 誰に!?﹂ ﹁お前がしっかり振られて来たら教えてやるわ。おい、城の出入り 1267 切手を用意しろ﹂ 吉宗は小姓に指示を出した。 小姓は、時々この上様は困ったことを言い出すんだよなあと思い つつも従わざるをえない為に準備をする。 いつもは冷静どころか、醒めたような性格の吉宗であったが変人 と付き合う事を好んだ一面がある。例えば、旅の本草学者・安倍将 翁と薬の談義を行ったり、穢れ仕事を行う首切り役人山田浅右衛門 と会ってみたりとその時は周りに、 ﹁わがまま﹂ のような事を言って融通を効かせる。普段から精力的に政務をこ なし改革を行っている将軍だけあって、このようなことぐらいさせ てやろうと周りも従うのである。 恐らくは自由奔放に暮らす彼らの道を己がもし歩めたならばと思 い楽しんでいるのだろう。 オークを連れてきて城で働かせているのも、それなのかもしれな い。 ﹁明日一日だけ休みをくれてやるからさっさと会って振られてこい。 町中では笠を被るのだぞ﹂ ﹁上様⋮⋮﹂ ﹁一日だけだ。朝に出て、夕までに帰ってこなかったら城には二度 と上げぬからそのつもりで行け﹂ ﹁ありがとう御座います⋮⋮!﹂ ﹁馬鹿。振られに行けというのに礼をするやつがあるか。それより、 もっと呑め﹂ そう言って、吉宗はオークに酒を飲ませるのであった。 1268 ***** 翌朝、江戸城の大奥にも近い裏門の平川門から出るように指示と 切手を渡されたオークは江戸の町に初めて出た。 服装は僧侶の格好をしていて深く笠を被り、笠の下の頭にも手拭 いを巻いて耳などを隠しているが、見上げるような巨漢の為に目立 つことは仕方なかった。 笠を被ったまま門を出入りすることは通常できないのだが、門番 からは、 ﹁一町先からでも見間違いしねえな﹂ と、呆れたように言われたという。 ともあれ彼はなるべく人の多いところを目指して進む。 お雪の居場所など知らないが、彼女の匂いは覚えていた。人間よ りも遥かに嗅覚が優れているこのオークの体に今だけ感謝しつつ、 それを探して歩きまわることにする。 足早に歩きまわる巨体の入道を見て、 ﹁見越し入道ではないかね?﹂ と思う者が居るぐらい目を引く体だったが、気にしない。 探して、見つけて、何を言うのかも決めていなかった。言われて 1269 相手が迷惑に思うことを恐れた。 この恋が実らなくても、せめてお雪が幸せに暮らしているところ を見るだけでも満足だ。 だから、オークは探した。 そのうちに、お雪の体から僅かに匂った穀物の香りが[蕎麦]と いうものだとオークは気付き、蕎麦屋を重点的に探すようになった。 彼女が蕎麦屋と関係あるのかはともかく、それぐらいしか当ては 無い。 八百八町歩きまわる積もりでひたすらに探して探して、やがて[ 緑のむじな亭]という店に辿り着いた。 店の中から、お雪の匂いがする。 彼は店の前で深呼吸をして、何も考えつかない頭をひとまず無視 し店内へ入った。 店の客入りはそこそこだ。飯時で、同じ長屋の客が多く見える。 ﹁いらっしゃい││ませ﹂ 一瞬間が開いた。丁稚の少年タマが、オークを見上げて驚いたよ うに言葉を止めたのだ。 オークは店内を見回して、目的の相手を見つけた。 久しぶりに││三度目に見た彼女は、これまでよりも数倍輝いて 見えた。そして、それは思い出の補正があるからではない。 ﹁六科様、座敷のお客さん、おろし蕎麦と板わさの注文ですよう﹂ ﹁わかった。む、大根おろしが切れたな。お雪、出来るか﹂ ﹁はいなぁ﹂ 嬉しそうに。 それはもう幸せそうに、店主の佐野六科に従って、寄り添い仕事 1270 をしているのだ。 ひと目でオークは完全な失恋を悟った。 もう泣いて帰りたかった。 彼女が幸せなところを確認したからいいじゃないか、と己に言い たかった。自分がどうより、あの妖精のように清らかで純な人が幸 せに暮らしているのが一番ではないか。 でも多分なにもしないで帰ったら、吉宗に怒られる上に悔いが残 る。 それでも生きていけるだろう。ひと通り怒られた後、また大奥の 前で番人をする生活に戻る。時々女衆に誂われながら、あの時に告 白してればなあと思ってそれは二度と叶う事無く過ごす。 オークは悩んで、選んだ。自分が動くべき時は今なのだ。運命に 流されっぱなしな自分でも、選択を出来る時がある。 振られる事は確実だ。だが、救いがある。 ︵僕を振ったところで、彼女の幸せは揺るがない︶ むしろ受け入れられることなど、あってはならない。 どうせ彼女は自分など覚えていない。目の見えない女性が、急に 言い寄られても怯えるだけだろう。それでいい。拒絶をオークは欲 しがった。 だから彼は、 ﹁あの、お席は﹂ と言ってくるタマを無視して厨房へ大股で歩み寄る。 彼の足音に気づいたのか、お雪が顔を上げて、口を小さく開いた。 ﹁あら? 貴方は確か大奥の⋮⋮﹂ 1271 彼女が一発でオークの正体を当てて呼んだ為に意気を挫かれて、 足を止めた。 笠の下の顔は驚愕に歪み、冷や汗がだらだら出る。振り返って逃 げたかった。その綺麗な顔を向けられるだけで、もうオークは心が 砕けそうだった。 彼女は悪戯っぽく小首を傾げて︵オークはそのあまりの可愛さに 片目が痙攣を起こして機能不全に陥った︶、 ﹁││驚きました? わたし、心臓の音で人が誰かわかるんですよ う﹂ ﹁え、ええ⋮⋮ちょっと驚きました。はい﹂ 違う。 言うのだ。震える唇を動かし、激しく蠢く肺から息と共に意志を 口にする。 ﹁おっく、おくおく⋮⋮僕と付きあってください!﹂ 思わず変な笑いが出た。今度から深心院の言う事は信じようと思 った。 そして、突然の告白にも驚かず怯まず、彼女はぺこりと頭を下げ て、言い淀みもせずに応えた。 ﹁ごめんなさい、私は心に決めた人がいるのです﹂ ︵ですよね︶ 1272 当たり前の、予想していた、誰にでもわかる結果だったが、オー クは笠の下で泣いていた。 鼻を隠す為に口元に巻いた手拭いが涙を吸って、有りがたかった。 そして彼女の断った仕草すら美しくオークは五感の半分が消失して 新たなコスモだかチャクラだかを感じるほどだった。 オークの告白をぽかんと見ていた店の男客達は口笛を鳴らしなが ら彼に近寄り、昼間から赤らんだ顔で笑いながら彼の背中をばんば んと叩いた。 ﹁振られちまったなーこの生臭坊主!﹂ ﹁気にすんなって、長屋の男達みーんなお雪ちゃんに振られてるか ら!﹂ ﹁こないだタマも振られてたぜ! あと九郎の若旦那が振られれば 本命以外全部なのにな!﹂ ﹁まったく⋮⋮本命は何をやってるんだか⋮⋮﹂ ﹁クソが⋮⋮﹂ 恨みがましい視線を特に気にすること無く調理を続けていた六科 に向ける男共であったが、六科が注目されているのに気づき、 ﹁む? 埃が立つから席に戻れ﹂ と、至極真っ当な指示を出された為に、舌打ちをしながら戻って いく。逆らうと無表情のまま﹁そうか﹂と言われて竹串が飛んでく るためだ。 そして断りの言葉を言った以外は、お雪はそれ以上オークに言葉 をかける事はしなかった。言えば、彼が惨めな気分になると彼女も 知っているのだ。 その優しさがまた嬉しくも愛おしいが、これでオークはきっぱり 1273 諦めがついた。彼女は幸せな結婚をして終了する未来を持っている。 それだけで満足だ。 あふれる涙は、その喜びと将軍の優しさを感じての事なのだと、 オークは思った。男でも、エルフでも、涙を流す時はあるのだ。 ﹁ほれ﹂ 立ち尽くすオークの胸元に、蓋付きの徳利が渡される。中には酒 が入っているようだ。 滲む視界を足元に向けると少年のような老人のような、妙な感じ のする男が見上げていた。 ﹁奢りだ。ここで呑むもよし、辛ければ持って帰って呑め﹂ ﹁⋮⋮ありがとう。僕は、告白の失敗を信じて待ってくれてる人が 居るんだ﹂ ﹁そこは成功を信じてもらえよ⋮⋮﹂ 呆れたような相手に、泣き顔を笑顔に無理やり変える。 優しい将軍だ。成功しても失敗しても、城に帰ってくる理由も城 にもう帰らなくていい理由も作ってくれた。自分に選択肢を与えて くれた恩人だ。だから、 ﹁だから、その人と一緒に呑むことにする﹂ ﹁そうかえ﹂ 言って、オークは踵を返して店の入り口へ向かった。 一度だけ暖簾の手前で立ち止まり、何か言おうとしたが、結局は 無言を通してオークは帰っていった。 江戸城でまた吉宗と酒を飲もう。振られた話を肴に一斗飲み干そ う。 1274 大奥の女達にもどうせ知られるが、馬鹿にされるのもいいさ。き っと自分は馬鹿だったけど、それでも自分で選べた道だと笑い飛ば してやる。 そう決めて、オークの足取りは軽かった。 そしてふと、徳利をくれた男の顔を思い出して首を傾げる。また、 九郎も見上げた巨漢の顔つきを変に思った。 ︵なんか、指名手配されてた魔女の騎士に似ていたような⋮⋮でも、 見たの大分前だし、この辺の人似た髪の色多いし︶ ︵なんか、ペナルカンドのオーク族に似てたような⋮⋮いや、豚っ ぽいからといってあまり人の悪口を言うのもなんだ︶ ︵だいたい、この世界に居るわけないだろうからな︶ と、お互いに思い合うのであった。 ***** それから。 吉宗にもまたあっさり振られた話の顛末を話して、笑われた。 逆に吉宗が振られた話をせがんだら、それを恥ずべきことと思っ ていない彼はあっさりと話してくれた。 大奥の改革を行い、醜女を残して美女を解雇する際に気に入った 女性が居たらしい。 1275 吉宗は直接会ったことは少なく、名前も知らなかったような相手 だ。ただ、気になって評判を調べさせたら身分は低くとも唄も踊り も習字も料理も学問も、必要な技能は大奥の中でも最上級であった ようだ。 それだけの能力となるといらぬ恨みを買うのが通常であるのだが 口も立ち相手をやり込める事もまた得意としていたようで、身分関 わらず一目置かれていたという。 出て行く意志を見せたので引き止めたのだが、 ﹁決められた相手がいる﹂ と、きっぱり断られた。将軍の命に従わぬというのは普通ならば 大層に恐ろしいことなのだが、吉宗はむしろここまで気後れせずに 拒否する相手に感じ入るものがあったのだろう。望み通りに暇を与 えて、更には祝い金三百両まで渡したと実際に﹃徳川実記﹄には書 かれている。 妙に気に入ったのだったが、今になって思えば名前も知らない│ │記録にも残っていない││相手で今どうしているかもわからぬ。 それだけの話しだったのだが、確かに将軍を振った女とは面白い 人間も居るものだと、オークは感心して頷くのであった。そして将 軍でもオークでも、振られる理由は似たようなものなのだと思うと 可笑しくなった。 語りながら、九郎に渡された町の酒を美味そうに吉宗は飲んでい たという。 その後。 再びオークは御錠口の番人となり、日々その肉体を揉まれたり熱 い視線を送られたり、吉宗が輸入した象と力比べさせられたりしな 1276 がら過ごして行く。 それからも何度か江戸の街に吉宗の命で降り立ち、事件に巻き込 まれたりもするのだが、それはまた別の話。 やがて月日が流れ、吉宗が将軍を辞し、大御所となって政治を助 けるようになってもオークは名物番人として江戸城本丸で過ごし│ │。 そして、吉宗が享年六十八歳で亡くなった年に、いつの間にか大 奥の前から姿を消した。 ││その後の彼の行方は知れない。 1277 外伝﹃大奥のオーク﹄︵後書き︶ 挿話は九郎が主役じゃないけど流れに関わりがある話 外伝は殆ど関係ない話です 1278 41話﹃計画通り﹄ ここのところ好天が続いたおかげか、俄に気温が上がり江戸の町 を覆っていた雪も溶け消えている。 お化け屋敷の一件で、妙な気に当てられて再び体調を崩した石燕 を九郎が見舞いに行った時にそれは渡された。 小さな、赤い紙で折った手裏剣である。 ﹁なんだこれは﹂ 随分と懐かしく見た気がする折り紙を受け取り、くびを傾げる九 郎である。 ﹁寝床の柱に気づいたら突き刺さっていてね﹂ ﹁紙なのにか﹂ 九郎が裏表にひっくり返しながら折り紙手裏剣を眺める。 材質は丈夫な和紙を染めたものであることは確かだが、どうやっ て木の柱に刺さっていたのか不明だ。柱にはくっきりと跡が残って いるのだが。 ﹁開いてみるといい﹂ 一度開いてわざわざ折り直し九郎に渡したらしく、やや折り目が 緩んでいた。 九郎は引っ張り、なるべく無駄な皺を作らないよう慎重に開く。 中には更に折りたたまれた細い紙片が入っていた。 1279 そして、折り紙の内側に木炭で書いた文字。 ﹃わくわく忍び村 新宿に仮開き﹄ そう書かれた広告と、小さな入場切手が封入されていたようであ る。 ﹁⋮⋮招待状か? ええと、いつだったか言ってた天狗面の忍者村 の﹂ 夏に百物語で語られていた隠れ里である。何処の地方だったかは 九郎も憶えが無かったが、わざわざ江戸に作ったというのだろうか。 まあ確かに、秘境にテーマパークを作ったところで誰も来ないの は目に見えている。 石燕は首肯しつつ、布団をもぞもぞと引き寄せた。 ﹁恐らくね。しかしまあ、私はこんな具合だから九郎君、代わりに 見てきてくれないかね?﹂ ﹁それは構わぬが。とにかく安静にしておれよ? 薬は飲んだか?﹂ ﹁勿論将翁から貰ったものを愛用しているよ。これをスっと飲めば ⋮⋮エホン! 気分がしゃっきりとして痛みが消えるね!﹂ ﹁それヤバい薬じゃないよな﹂ 九郎が呻くが、石燕は自嘲気味な笑みを浮かべて肩を竦める。 ﹁大丈夫大丈夫。ただこれを飲んだ後は半日は一滴足りとも酒は飲 めないのが難点だね。飲んだら薬と反応して意識が悪い世界にぶっ 飛んだまま永久に帰ってこれなくなるらしい﹂ ﹁バッドトリップ死とか﹂ ﹁散歩も血の巡りが早くなるから厳禁だそうだ。ふふふ可笑しいね。 1280 散歩の語源は薬の服用後に[行散]と言って体を温めなくては中毒 になるから歩き体を温めるという事から来ているというのに﹂ ﹁安静にしてろよ、マジで﹂ などと、いつも通りの遣り取りをして九郎は不安だったので石燕 を寝かしつけてから、新宿へ向かうのだった。 ***** 道中、せっかく新宿に行くのだからと九郎は千駄ヶ谷にある天爵 堂の屋敷へ足を伸ばした。 この頃の渋谷、新宿あたりは狸が道端で昼寝をしているようなの どかな田舎で、人も疎らだ。 辺鄙なところに隠居している元幕府の用人である老人が、鏡開き をした餅を食って喉に詰まらせていないだろうかと思いながら家の 庭へと上がると、 ﹁やあいいところに来た﹂ と、天爵堂が面倒を││大抵は子供達の授業など││押し付ける ときに浮かべる笑顔を見せながら九郎を招いたので怪訝な顔をする。 この男、普段の愛想はあまりよくなくて人が訪ねてきても本に目 を落としたまま顔を上げぬ事もしょっちゅうなのである。 九郎が縁側に座りながら半目で伺うと、二人の子供が居た。 年若いのに苦々しい顔が堂に入っている雨次少年と、対照的にい つも笑顔なお遊だ。 1281 ﹁さあ丁度九郎先生が来たんだから彼と一緒に行って来なさい。僕 はどうも政治の具合が悪くてね。少し家で休みを取らなくてはいけ ない﹂ ﹁政治批判を理由に何をさせようとしておるのだ、お主は﹂ 謎の理由で子供の世話を押し付けてくる天爵堂であった。彼は現 政権に不満を持っている。老中は敵だ。将軍は傀儡だ。資本主義は 悪魔の発想だ。革命でも起きないかと残り少ない寿命で密かに期待 していた。 ともあれ、お遊がこちらに来て一枚の紙を広げてみせた。 ﹁九郎くん、大変なんだー! ネズちゃんが誘拐された!﹂ ﹁なんと、あの委員長がか?﹂ ﹁委員長?﹂ ﹁いや、お主ら三人の中ではなんとなくそれっぽいであろう。どれ ⋮⋮﹂ と、何やら脅迫状めいた文章が書かれている紙を受け取ってしげ しげと眺めた。 それは字を習っていれば子供でも読めるようにわかりやすく平仮 名で書かれているようで、内容は要約すれば、 ﹃根津小唄は預かった。返して欲しければ雨次とお遊は地主の家の 先にある忍びの村まで来い。あと一応保護者も連れてくるように。 来なかったら、まあ別に何をするってわけじゃないけど許さぬ﹄ というような事が書かれている。 九郎は大きく頷いて、 1282 ﹁なるほど、大変だ﹂ 主にこの脅迫文を送った奴の頭が。 そう心底思ったが、遊びの一つであろう事は伺えた。そもそもこ の忍びの村というのが石燕から切手を預かったアトラクションパー クと同一であるらしい。 それならば子供達を連れて行ってもよいかと九郎は思うのであっ たが、雨次が微妙な使命感と面倒臭さに板挟みになった顔をしてい る。 ﹁乗り気のようなそうでないような感じだの﹂ ﹁まあ⋮⋮小唄を迎えに行くのはいいんですけど、うちの母が﹂ 彼が言うには、雨次の家に直接この脅迫文が投げ込まれたのを母 親が発見して、 ﹃地主の娘が誘拐!? ざまああああ!! いや待て落ち着け。助 けて礼金をふんだくれる好機! よっしゃ雨次行って来い娘を拉致 り返して地主の褌まで毟り取る要求をしろ! 昔からこういうよね? 貧乏人には魚を焼かせろ、金持ちの家は 焼けって。ん? 今それ関係ないだろ!! フンドシ!!﹄ と、明らかにキの字な事を叫ばれた挙句、雨次が何故か大根で殴 られた後に彼女は糸が切れたようにばったりと母親は眠ってしまっ た。 精神が正気度判定失敗しているような母親であるのだが約束事な どの記憶力は無駄に確かなために、次に起きたときまでに何らかの 成果を求めてくることは目に見えているという。 それを果たさなかった場合いかに恐ろしい事になるか⋮⋮一番可 能性が高いのは彼女自身が地主の家を焼き討ちに行く事案だ。その 1283 場合息子の雨次まで遠島か磔にさせられてしまうだろう。困ったこ とに。 つまり雨次としては、 ﹁小唄のフンドシだけでも持って帰らなくては⋮⋮﹂ ﹁その発言だけ聞くとヘンタイのようだなあ﹂ ﹁ネズちゃん履いてたっけ?﹂ 彼の何か勘違いした厭な決意を聞きつつ、九郎とお遊もそれぞれ 反応を零すのであった。雨次も大分精神が疲れているのだろう。 ***** 元禄の頃、日本全国で行われた新田開発の勢いは凄まじいものが あったらしく、地面に埋まった木の根すら片っ端から掘り返して田 畑を増量させていった。 それからある程度広がり増えると、今度は少ない面積で大量の農 作物が取れるように農政改革が行われる。中でも江戸近辺は豊富な 肥料と最新の農耕技術が組み合わさり最強に見えるほどであった。 新宿のある農作予定地。まだ畑の形になっていない草原に、簡単 な幕に囲まれた場所の中で丸太を組み合わせてあたかも張りぼての 一夜城が生み出されていた。 とはいっても高さは然程無く、九郎から見れば木組みの本格的な アスレチックに見える。穴を掘ったり泥を作ったりと、順路通りに 進むには飛んだり跳ねたり登ったりと様々に体を動かす必要がある 工夫が見えた。 1284 ︵魔王のところにもあったなあ⋮⋮風雲なんとか城みたいな作りの︶ 妙に大工技術に感心して眺める。九郎ら三人以外にも見物客は訪 れていて、まだ建築途中なのか資材を担いだ忍び風の黒装束が鳶職 のように丸太の上をすたすた歩いている。 それ以外では地元の農民も建築に参加している。地主が冬で仕事 のない農家を雇って作らせているのである。 こういった体を動かす為に遊技場は実際に当時でも作られていた らしく、鎌倉・尾張などでは結構に繁盛していたようだ。 一段と高い櫓に居る二人組が九郎らに気づき、屋外だというのに 用意していた炬燵からいそいそと出て仁王立ちで見下ろした。 片方の大柄な黒装束の覆面男が野太い声を上げる。 ﹁ふあはははは! よくぞ来たな小僧ォ! 貴様の目的の小唄はこ こだ!﹂ ﹁いや、なんかすまんな雨次⋮⋮﹂ 不必要なまでに縄でぐるぐるに簀巻きされた小唄が申し訳無さそ うな顔でこちらを見てくる。 そして大柄な忍びを睨むように見上げながら、 ﹁うちの父さんがまた妙な遊びをして⋮⋮﹂ ﹁ばぁぁっきゃろう! 父さんじゃあない! 今の俺は謎の忍びの 頭領・甚八丸様である! ほうら可愛い小鳥さんたちも俺を祝福し ているよーう! くそっ! 群れるな卑怯だぞ! 俺の命はともか くこの懐に住み着いた可愛い子猫は守らねば!﹂ ﹁カラスに啄まれておる⋮⋮﹂ ぎゃあぎゃあと黒い鳥に襲われつつも、よく響く声で高らかに叫 1285 んでいる。彼は胡乱げな眼差しを向けてくる雨次を指差しながら、 ﹁そして貴様! うちの娘に幼馴染なんて羨ましいかつ微妙に負け っぽい属性を付けようとしやがって! 小唄が許しても⋮⋮この甚 八丸が許すものか! 甲斐甲斐しくてお姉さんぶった幼馴染なんて どう考えても負け組確定な人物背景じゃねえか! このやろう!﹂ ﹁娘って言ってるし⋮⋮っていうか負け負けって言わないでくれな いか父さん﹂ ﹁というわけでこの施設を使って雨次くんの無様な姿を見たいと思 いまーす! 幼馴染二人侍らせてる小生意気な少年の悔しがる顔を 見たいおじさんは手を上げてくださーい!﹂ すると、作業している黒装束の男たちが一斉に、 ﹁はーい﹂ と、手を上げた。駄目な大人しか集まっておらぬ。 大いに満足したように甚八丸は頷いて、アスレチックの入り口を 指さした。 ﹁八つの関門を突破しなければ小唄は助からん! 具体的に何が助 からんかというと婚期とかそういう││痛! 蹴るな! ありがと うございます!││とにかく、男なら正々堂々かかってきやがれぇ !﹂ ﹁九郎さんなら普通に外から回ってあの櫓に登れるのでは?﹂ ﹁良いか、雨次よ。せっかく作った罠や仕掛けをガン無視で突破す るのはな、凄く可哀想だからやってはいけないのだ﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 妙に感情の篭った説得を受ける。 1286 異世界で彼が住んでいた魔王の城というのは普通に入り口から侵 入すると実に様々な仕掛けが楽しめるダンジョンになっていたので ある。 強制縦スクロールで溶岩が迫ってくる部屋とか。 置いてあるピアノでマゼッパを弾かなければ扉が開かない部屋と か。 像に宝石を嵌めると動いて何故かバッテリーが手に入る部屋とか。 脱出ゲーム風に頑張って考えて作った部屋とか。 あとトイレを調べたら急に出現する究極っぽいボスモンスターの 罠とか。 暇だったので九郎も魔王と一緒になって色々試行錯誤をして作り 上げたのだったが、実際に行われた攻略方法は指向性マイクロブラ ックホールの投射魔法による破壊だった。おのれ闇魔法使い。モン スターなどトイレに入ったままバスターされてしまった。 大人として、あんな無粋な方法を子供に教えるわけには行かない。 釈然としない顔をしながらも三人は入り口へ無かった。 ﹁よーし! 頑張ってネズちゃんを助けるよ雨次!﹂ ﹁助けるかあ⋮⋮炬燵まで用意してるからどうも緊張感が⋮⋮﹂ ﹁ここで見捨てて帰ったらネズちゃん凄くへこむよ。あれで重い子 なんだから﹂ 入り口には天狗面を被った忍びが受付をしていて、 ﹁切手を拝見します。はい、どうぞ。子供向けはこっちの入り口で す。保護者の方は後ろからついていって、危なくなったら手を貸し てあげてください。出口まで行くと記念手裏剣が貰えます││おや ? これは鳥山石燕様に送った分の切手では?﹂ ﹁あやつは体調が悪くてな。己れが代わりだ。駄目か?﹂ ﹁いいえ、単に確認です。確かに鳥山様は運動がお得意には見えま 1287 せなんだから仕方ありません。どうぞお楽しみを﹂ と、やたら丁寧な案内を受けて板で大人向けと区分けがされ順路 となっている方向へ歩き出した。 なお、隣の大人向け施設からは時折悲鳴とか奇声とか聞こえてき て、九郎は顔をしかめた。外では入場切手も販売されており、暇つ ぶしに集まった人達がやっているのだろう。 基本的に江戸の人達は娯楽に飢えていてノリが良い。このような 新しい施設など、大人でも皆物珍しさから次々に参加して来るので ある。 大人向けに比べて子供向けはそうそう怪我などしない用に作って ある。具体的には竹の先は尖らせていないし泥にマキビシも混ざっ ていない。 だがそれでも、 ﹁くっくっく⋮⋮果たしてあの青瓢箪がこの試練を乗り越えられる かなあ! おじさん的には是非苦戦してくれれば嬉しいなあ!﹂ ﹁⋮⋮なあ父さん、これ別に私攫わなくても普通に私ら三人でこさ せればよかったんじゃ﹂ ﹁ここで小唄を諦めるようなら奴の義理人情などそんなものよ! お父さんそんな薄情な餓鬼と付き合うのには断固反対するってぇの﹂ ﹁だから付き合うとか付き合わないとかじゃなくて雨次とはもう友 達なんだって⋮⋮﹂ げんなりとしながら過保護を拗らせている父を見やる。 嫁には頭が上がらず働き者だし他の百姓からの評判もよいのだが、 馬鹿なのが難点なのである。 決して夜鷹の息子である雨次を差別しているわけではない。やま しい目をして小唄に近づく相手は誰にでも倉庫裏に連れ込んでお話 をするタイプなのだが、逆に小唄の方から雨次へ積極的なので嫉妬 1288 混じりにこのような謎の試練を与えているのであった。 それにしても、と小唄は器用に木造アスレチックが出来上がった 敷地を見下ろして、友達が進んでいる子供向けコースを確認する。 ︵私なら問題ないけど、雨次とお遊は大丈夫だろうか⋮⋮︶ と、少しばかり心配した。 小唄は生来の身軽さを持っていて、お淑やかに見えるが山道など もすいすいと走れるほどであるが、基本的に引き篭もり気味な雨次 と時々なんでもないところで転ぶお遊には不安がある。 関門というのは、下が泥沼になっている場所を飛び石のように越 えていく所や壁を忍刀を使って飛び越える所、縄梯子を登ったり下 りたりする所などがあるが、怪我をしないで欲しかった。 ︵まあ、九郎先生が後ろからついていてくれるから⋮⋮天爵堂先生 だったら危なかったけれど︶ のっそりとしたあの老人だったならば子供向けのコースでも腰を やってしまうところは容易に想像できた。九郎が何歳かは知らない が、小唄や雨次から見れば立派な大人である。学もあるようだしあ ちこちで働いていると聞く。ヒモというのは嘘だろう。多分。 後ろから二人を見守り、転んで泥に落ちそうになればすっと近寄 って襟を掴んで引き上げたりしてやっている。 それにしても平衡感覚が秀逸である、と甚八丸は九郎を見て思う。 狭い足場に飛び乗って落ちかけた子供を引っ張り戻しても重心が安 定してまったく危なげがない。身の軽さから見世物小屋の飛び技士 か、忍びの術を知っている類かと思ったがそうではないように見え る。 九郎の地味な才能がそのバランスである。足で踏める場所があれ ば何にでも飛び乗れ安定することが出来る。普段から屋根の上など 1289 を走り回るのも、本人にしてみれば簡単な事なのだ。 ﹁あっちの先生は大人向けでも行けるか? 個人的には送り込んで やりたいが、攻略されたらされたでなんか腹立ちそうなんだよなあ ⋮⋮女にモテて金持ちのヒモで能力も高いとなると﹂ ﹁わが親ながら心が狭い⋮⋮﹂ 甚八丸は既に怪我人続出の大人コース、忍び罠地獄巡り上忍編へ 目線をやった。一応マキビシは尖端を丸くしているのだが、やっぱ りやり過ぎだっただろうか。あと落とし穴は下に人が溜まらない仕 組みにしなければ。既に折り重なって落ちた人で埋まっているもの もある。 田舎で引っ込んで暮らしを続けていた隠れ里の忍び達が提案して、 彼が手伝いひとまず作ったものだ。右も左も訓練を積んだ忍びの裔 が集う村で生まれて死ぬまで過ごしていた者達なので、一般人に対 する手加減が欠けている。 しのばず だがまあそれでいいのかもしれない。忍びに本来は手加減など不 要なものなのだ。細々と技だけ後世に伝えて不忍に生きている自分 や江戸の者達はもはや忍びではない。 忍術使いと言ったところなのだ。 そしてこの娯楽化した忍びの体験を行おうと隠れ里が決めたのは、 それもまた時代の流れで本当の忍びが消えていく一端なのだろう。 それもまた良し、と男は思う。 毎日が楽しければそれで良い。それが男の単純な考えである。 ﹁ふあはははぁ! そこは糞不味い保存食を食わねば通れぬ関門! 気付け薬にもなってるからキツい味││あれ? なんだあいつ普 通に食ってやがる⋮⋮普段相当良い物食ってないんだな⋮⋮﹂ ﹁父さんの雨次を見る目が急に憐れに﹂ 1290 不味さに顔をしかめている九郎とお遊の分まで雨次は保存食を口 に入れている。小唄も食べたことがあるが、何度も﹁毒じゃないよ な?﹂って確認したくなる味だったのを覚えているのであったけれ ども、彼はけろりとしていた。 雨次は体に薬毒の耐性ができている為に平気なのであったが、そ れは当人すら知らぬことなので単に悪食だと思われているのであっ た。 手裏剣を投げて的に当てる関門はお遊が結構上手に当てて雨次の 分も受け持って成功。 泥沼を水蜘蛛で渡る場所は転びかけたお遊を雨次が助けつつも進 み。 苦無で土壁を掘って穴を開けるところも協力して攻略。 九郎は危ない時だけ手を貸して、それ以外は子供たちに任せて後 ろから付いて行っていた。完全に父兄の気分である。 そうしてようやく、小唄が囚われている櫓の下に辿り着き、 ﹁ネズちゃーん! 助けに来たよ!﹂ ﹁お遊ちゃん、雨次⋮⋮﹂ 疲労の色を見せながら雨次も櫓の小唄を仰ぎ見て、 ﹁はあ⋮⋮待ってろよ小唄。すぐにそっちに行くから﹂ ﹁っ! あ、ああ﹂ 普段の雨次なら面倒臭がって来もしないのではないかと思ってい 1291 た小唄は、妙にやる気のある雨次の様子を見て不思議な気分になっ た。 彼が褌を持ち帰るのが目的とは知らない。 しかし下に居る三人の位置から櫓の上は一間五尺︵3メートル3 0センチ︶程も高さがある。 それに、 ﹁凝った作りだな。登る足がかりは無く返しまで付いておる﹂ 九郎が腕を組みながら見上げる。 櫓の前に壁があるのだ。平面の木板を組み合わせて急角度に固定 されていて、一番上がひさしのように突き出ている。 駆け上がるには傾斜がきつく、飛び登るには高い。 ﹁行っくよー! うおー!﹂ お遊がまず何も考えていないように壁に向かって走り、蹴って跳 ぼうとしたのだろうか失敗して顔から板にぶつかって涙目になった。 雨次は助走をつけて垂直跳びを試みて壁の突き出た部分を掴もう とするが、そんなに高くは跳べないようだ。 ﹁そうだ! 雨次! 肩車して!﹂ 今度はお遊を肩に乗せて背伸びをするのだが、それでも届かない。 ﹁雨次跳んで跳んで!﹂ ﹁お前を担いでるのにそんなに跳ねられるか!﹂ それでも一応、二三度は跳ぼうとしてみるのだが当然届くはずも なく、バランスを崩して雨次は転びかけた。 1292 二人が試行錯誤しながら壁を登ろうとしているのを小唄ははらは らしながら見ていて、やがて気の毒になった。 自分の父親の我儘というか遊びで友達に迷惑と苦労をかけている のだ。 ﹁二人共⋮⋮! もういい、無理に登らなくてもこんな遊びに付き 合う必要は無い! 父さんは私から叱っておくから⋮⋮﹂ ﹁もういいってなんだよ﹂ 機嫌が悪そうな声が、雨次から帰ってくる。 ﹁何も良くはないだろ。それに付き合う必要があるかどうかを勝手 に決めるな。僕にはお前が必要だからやってるんだ﹂ 正確に言えば﹁お前のフンドシが母親の説得の為に必要﹂なので あるが、省略して放ったその言葉に、 ﹁えっ⋮⋮﹂ 思いっきり勘違いして顔を真赤にさせて口をあわあわさせる小唄。 顔が熱を持ち、意志とは関係なくにやつく感覚に慌てて手で隠そ うとするのだが縛られている。 まずい、見られたくないと思って芋虫のように這って櫓の後ろに 下がり、顔を床に押し付ける。 ︵あああああ雨次が私を必要としている!? 手料理が効いたのか !? どうしようすっごい嬉しいんだけど顔が熱い! あああうう うう︶ もぞもぞと悶える娘の姿を見て、甚八丸は地団駄を踏みながら、 1293 ﹁は! 出ましたー! 現実にいたら厭な男三大要素、鈍感、難聴、 言葉足らずぅー! 舐めてんのか小僧お前! 本気で腹立つクソ!﹂ ﹁えええ!? 何か悪かったか僕!?﹂ ﹁うっせ馬鹿! お前今の発言で小唄の闇が一段階深まったから覚 悟してろ!﹂ ﹁闇ってなんだよ!﹂ 理不尽に怒られた雨次であったが、兎にも角にも壁を登らなくて は埒が明かない。 お遊はまだ無駄な徒労というか、壁に体当たりのような事を続け ているが自分達の力ではこれを越えられないだろう。或いは道を戻 って、忍びの道具を持ってきてこれの攻略に用いるべきなのかもし れない。 何を使えば大丈夫だろうか、と頭を悩ませているとふと思いつい た。 ﹁九郎さん!﹂ ﹁なんだ?﹂ ﹁⋮⋮お願いします、手を貸してください!﹂ ﹁うむ。素直に大人を頼るのも一つの答えだ。ちゃんと気づいたな﹂ 今まで助言らしい助言もしていなかったのだが、ずっと後ろから 見守っていたのである。 子供のやらせるに任せていたが、元より頼まれたのならば手を貸 すつもりであった。 九郎は雨次に近寄ると、彼の腰のあたりを両手で掴んでひょいと 持ち上げる。 ﹁え゛。ちょっと九郎さん?﹂ 1294 ﹁大丈夫大丈夫。多分﹂ 云うと、櫓に向けて雨次の体を上に向けて放り投げた。 悲鳴と共に彼の体は放物線を描いて数メートルの距離を飛行して 櫓に投げ込まれた。 予想外の方法で上がってきた雨次に驚いて思わず甚八丸も彼の体 をキャッチして、 とらぁぁぁい ﹁うおお!? 渡来!!﹂ ﹁ぎゃあああ!?﹂ ﹁雨次ー!?﹂ うっかり勢いで床に叩きつけてしまった。 当の投げた九郎はちょっと飛距離調整が甘かったか、と確認する。 彼の腕をお遊が引っ張りきらきらした目で、 ﹁九郎くん九郎くん! わたしもー!﹂ ﹁うむ﹂ そう言って今度はお遊も放り投げてやった。 彼女は楽しそうに、 ﹁きゃふ∼﹂ と叫んで櫓まで飛んで、倒れている雨次の上に落ちた。彼のフィ ジカルダメージは深刻だ。 襤褸雑巾の気分になりながら雨次はよろよろと立ち上がると、五 畳ほどの広さの櫓の上で最後の敵と相対する。 小柄で細身な雨次に比べて、太くて硬くて巨大な男、甚八丸。全 身を包んだ忍び装束の上からでも鍛えられた体がわかる。 1295 彼は手に持った、現代で言うと布団たたきのような形の木の棒を 見せつけるように軽く振る。 ﹁よぉくぞここまで辿り着いたな小僧ぉ! 最後の試練を与えてや ろう。この杖﹃不細工殺し﹄で殴られてみやがれ! 大丈夫痛がる のは不細工だけだからっつーか痛がったら不細工認定﹂ ﹁そんな棒で殴られたら痛いのは当たり前じゃないか﹂ ﹁ふあははあ! 殴ってもいいのはぁ殴られる覚悟をした者だけ│ │あれ﹂ 甚八丸の持っていた不細工殺しが後ろから伸びた手に掴まれて奪 われた。 後ろには、縄が解かれて怒り顔の小唄が立っている。彼女は抜き 取った不細工殺しを全力で甚八丸の尻に殴りつけた。 ﹁ぐあああ!! 痛││くねえ! 全然痛くねえよちくしょう! でも俺の股間で温めて孵化させようとしている烏の卵を守るために 殴るのは止めるんだ! あひぃ││!﹂ ﹁そんなものを股間に入れてるから烏に襲われるんだ! この馬鹿 父!﹂ 痛さのあまりに四つん這いになって居る甚八丸を叩き続ける小唄。 ﹁縄を解いたのか﹂ ﹁ああ。お遊ちゃんに切ってもらった﹂ ﹁包丁でねー﹂ なるほど、凄く明瞭な説明だと納得しかけたが、雨次はお遊が持 ったままの包丁に目が止まってほんの一秒思考し、疑問が浮かんだ。 1296 ﹁⋮⋮? なんで包丁持ってるんだ?﹂ ﹁え? だってネズちゃん攫われたって聞いたから。攫われたなら 取り返さないと。だから家から持ってきたんだけど。﹂ ﹁取り返すのに包丁って要るのか⋮⋮?﹂ ﹁要るよー?﹂ ﹁いや、そんな何を当然って顔されても。危ないだろ、包丁﹂ ﹁?﹂ よくわからないとばかりに首を傾げるお遊。何故か、これ以上追 求したらいけない気がしてとにかく役には立ったのだからいいか、 と包丁のことは考えないことにした。 とまれ、小唄の制裁タイムは終了したようで、ほぼ這いつくばる ような体勢で甚八丸は、 ﹁ち、畜生! 今日のところはこれぐらいにしといてやぁるぅ⋮⋮ ! これは賞品の激辛││じゃなかった、激赤フンドシだ! 持っ ていけぇ!﹂ ﹁やった。しかも赤いぞ。かなり赤い﹂ ﹁喜んで受け取るんだ⋮⋮﹂ 図らずも目的のフンドシを手に入れたことで喜色満面になる雨次 を、小唄がわけがわからぬとばかりに見た。あんなにフンドシ好き だっただろうか、それも非常に赤いのに。 ともかくわざわざ彼女からフンドシを貰う必要はなくなった。頭 のなかにふと小唄に対してかける言葉が浮かんでくる。 一つは﹁これで小唄は用済みだな﹂と笑いながら言う選択。 いや、別にそれを選ぶ必要は無い。さっさと帰りたかったので雨 次は安堵の笑みのままで、 ﹁││それじゃあ、帰ろうか。小唄﹂ 1297 と、顔の近くで言うので再び彼を意識し直した小唄は紅く染まっ た顔を見られないように伏せて、 ﹁⋮⋮うん。ありがとう、雨次﹂ 短く返事をした。 こいつは、言っている本人はそんな風に思っていないというのに どうしても人をどきりとさせる。仕方ないやつだ、と小唄は思う。 判定的に言えばグッドコミュニケーションである。 そんな二人の様子を見て不満そうにお遊が包丁をちらつかせなが ら笑顔のままで二人の間に割って入り、 ﹁わたしも頑張ったのになー。﹂ ﹁え!? あ、ああお遊ちゃんもありがとう包丁おろして﹂ ﹁やっぱり包丁持ってるのおかしいぞお遊!?﹂ ﹁うん。そうだね。攫われた子は助けたからもう要らないよね。え へへ。﹂ などと、遣り取りをするのであった。 それを下から見上げながら、九郎は小さく笑って肩を竦めた。 ﹁うむ、微笑ましいなあ﹂ 彼の目は節穴だと言われている。 呟いた瞬間、強烈な風圧と共に彼の頬を掠めて高速で飛来した手 裏剣が丸太に突き刺さった。 つ、と頬から汗のように僅かに血が流れる。 手裏剣が飛んできた方向からお気楽な声が掛けられた。 1298 ﹁おーう九郎じゃねえか。手前も遊びに来てたのか?﹂ 大人向けコースからぶんぶんと手を振っているのは中山影兵衛だ。 かなり距離があるというのに、九郎の頭ギリギリに手裏剣を投げて きたようである。いや、単に頭を狙っただけかもしれないが。 丸太に突き刺さった手裏剣の重さと早さを考えれば、直撃してい れば確実に頭蓋骨は砕いて脳を破壊していただろうことは推測出来 た。 九郎は振り向いて手を振り上げて文句を言う。 ﹁何をする影兵衛⋮⋮手裏剣の取扱掲示板に﹃本製品を人に向けて 投げないでください﹄とか書いてただろう!﹂ ﹁いんや∼? ﹃本製品を手裏剣以外の用途に使用しないでくださ い﹄とはあったけどな﹂ ﹁そりゃそうか﹂ そりゃそうである。 丸太の木組みによっかかり、いつも通りの浪人姿な影兵衛を見て 九郎は半眼で声をかけた。 ﹁というかお主また仕事をサボってこんな遊び場に⋮⋮﹂ ﹁おいおい、勘違いすんなよ? 拙者ァ仕事で回ってんのよ。最近 このへんの田舎で民家に押し込み働きかける輩が出てるみてェでな﹂ ﹁で、忍び村に居るのは?﹂ ﹁怪しいだろこれ。調査調査ってな! あ、それより九郎、今晩博 打うちに行かねえ? 拙者必勝法思いついちまった気がすんのよ、 本気で。っていうか絶対来い。手前が鍵だからよ﹂ ﹁まあ構わぬが⋮⋮﹂ ﹁よし、んじゃあちゃっちゃとこれ終わらせるわ。けひはは!﹂ 1299 そう言って影兵衛はコースを走って突破し始める。 本格忍者が作った、一般人にはやたら厳しいアトラクションだが 影兵衛ほどの身のこなしをする男ならば制覇は容易い。 特に手裏剣などは忍び顔負けの精度で的に当てている。闇夜で見 えにくい棒手裏剣を彼が扱ったら視認すら出来ずに遠距離から殺害 されてしまうのではないかと九郎はコース外の木組みに登って見物 しながら思った。 ︵近づいてもばっさりやられるからな⋮⋮あやつとやるには魔女の 猟銃で⋮⋮︶ などと、考えていると無事に影兵衛がゴールに辿り着いたようだ ったので、九郎はちらりと縄を使って櫓から下り先に帰っている子 供たちの後ろ姿を確認してから影兵衛のところへ向かった。 軽く汗を掻いている影兵衛は賞品で貰った十字手裏剣を楽しそう に手の中で弄びつつ、 ﹁よう。さっきぶり。いや中々、おじさんになると疲れるわ﹂ ﹁良く云う。それより、博打の必勝法とは?﹂ ﹁ま、それはおいおい教えてやっからよ。そろそろ今日の仕事も終 わりだ。先に役宅寄ってからだな﹂ ﹁うむ。しかし博打に使う金が無いな⋮⋮﹂ 九郎は顎に手を当てながら、あまり使いたくはない手段なのだが と思いつつ種金を作る算段を考えた。 ***** 1300 日が沈みかけている刻限。 火盗改の役宅で終業の処理を終えた影兵衛を引き連れて九郎は神 楽坂にある石燕の屋敷へ戻ってきていた。 彼女は相変わらず布団に寝たまま、本を読んでいたようだ。家に 明かりは点いているが子興の姿はない。恐らく、夕飯の材料を買い に出ているのだろう。 石燕は昼間よりもやや具合の良くなった顔色で微笑んで迎えた。 ﹁やあ九郎君。忍び村は面白かったかね? おや、今日は影兵衛君 も来たのかね?﹂ ﹁うむ。まあ、その話は後でするが石燕よ、実はな、こやつとこれ から仕事に出なければならぬのだが、少しばかり金が入用でな⋮⋮ なあ影兵衛﹂ ﹁お、おうよ﹂ ﹁それは大変だ。そうだね、五両ほどあれば大丈夫かね?﹂ 石燕は枕元の箪笥から小判を取り出して揃えて、何の躊躇いも無 く九郎に渡した。 九郎は頷きながら、 ﹁すまぬな。余ったら返すので﹂ ﹁別にいいよ。気をつけて行って来たまえ﹂ そう言って送り出してくれたので、二人は家から出てやや離れた ところでぴたりと立ち止まった。 冷たい風が吹いていた。 互いに目を逸らして、ぽつりと低い声で影兵衛が云う。 1301 ﹁⋮⋮なあ、人斬りの拙者が云えるようなことじゃねえけど。九郎 手前││最低だな﹂ ﹁すまん己れも改めて実行してみたら凄くそう思った。罪悪感がヤ めたらし バイ﹂ ﹁女誑の現場って実際見るとこんな感じなんだろうな﹂ 女誑とは、店の妻や娘などの女相手に言い寄って家に上げてもら い、金品を奪ったり引き込みをしたりする盗賊の名称である。 九郎は握りしめたままの小判をため息と共に目の前で開いた。 ︵石燕ならツッコミを入れてくれると思ったのに︶ こちらの企みなど見破って文句を言ってくる││でも多分最後に は金を渡す││と思っていたのに、素直に渡されるのが一番心に効 く。 自分は何をやっているのだろうか。少しばかり死にたくなる気分 だった。 その時、薄明るい夕日に照らされて鈍く光った小判の間に、紙が 挟まっているのを見つけた。 ﹁む?﹂ ﹁なんだそりゃあ﹂ 九郎が広げた紙に、影兵衛も覗きこんで書かれている文を読む。 内容はこうであった。 ﹃九郎君へ。博打をやるのはこの際いいけど、夜遅くなって体を冷 やし風邪などを引かないようにね﹄ 1302 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 二人は目頭を抑えて再び互い違いの方向を向いて押し黙った。 病気で臥せっている孫のような年齢差の女を騙して博打遊びの金 を貰った挙句、相手にはバレバレで逆に体の心配までされた男が居 た。 主人公であった。 ﹁⋮⋮おい、九郎﹂ ﹁⋮⋮すまん今、二重の意味で泣きそうだからやめろ﹂ ﹁⋮⋮なんかごめんな﹂ ﹁⋮⋮うむ﹂ ﹁じゃあ打ちに行くか﹂ ﹁そうだな﹂ 男は涙を拭いて掴むべき明日を目指して手を伸ばす。 如何に惨めな姿に堕ちようとも、信じた道を進む為に何度でも立 ち上がり運命に抗うのだ。 なんかそんな格好よさ気な言葉で取り繕えないか九郎は少し悩み、 諦めて賭場へ向かった。 余ったらやっぱり返そうとか、明日からもっと優しくしようとか 後ろ向きなことを考えながら。 ***** 1303 渋谷、恵比寿に佐野藩の下屋敷がある。現在で云うならば恵比寿 ガーデンプレイスが建っている場所である。 下屋敷というものは大名が泊まる上屋敷と違い、庭園を作ったり 上屋敷が火事にあった際に一時的に避難したりする屋敷なのである ちゅうげん が、管理に武士を常駐させるのはこの何処の藩も貧しい財政の中で は苦しく、渡り仲間という武士でない身分の者を使っていた。 そして、武家屋敷というものは町奉行や火盗改の手が入れないの である。たとえ逃走中の盗賊が火盗改長官の目の前で武家屋敷の壁 を乗り越えて中に入ったとしても、追跡することは出来ない程であ る。 屋敷の中でどのような犯罪が行われていようとも治外法権とも言 えるので露見することはない。 それで、渡り仲間の雑居する大部屋では違法賭博が行われている ことが多かった。 影兵衛は最近新宿、渋谷の見回りの途中で見たことのある賭博の さいころ 壺振りを見たためにここに来ようと言い出したのだ。 丁半と呼ばれる二つの賽子を使った賭け事である。 ﹁丁﹂ ﹁じゃ、拙者ァ半で﹂ 九郎が偶数目、影兵衛が奇数目を予想して、他の客もそれぞれ言 い合い、揃うと中盆という役目の男の、 ﹁勝負!﹂ という掛け声と共に壺が開かれる。 1304 ﹁五・ニ︵ぐに︶の半!﹂ ﹁っしゃあ!﹂ 影兵衛が拳を握り笑顔を零す。連勝であった。 一方で九郎の方は負け続けである。病に伏した女を騙して手に入 れた金を無駄に溶かし続けている。 九郎は小声で隣の影兵衛に云う。 ﹁なあ影兵衛よ。もしかして必勝の方法って﹂ ﹁手前と逆に賭け続けたらいいんじゃねえかって思ってな。今まで を思い出したら、この壺振りの時だけ手前は負けまくってたからよ﹂ ﹁お主⋮⋮﹂ 実際それで勝てているようなので九郎はなんとも言えなかった。 壺振りが出目を操っているのだろうか。九郎は鋭い眼差しで壺振 りを見る。 見たもの十人が十人ヤクザ者だと思うような厳つい禿頭の男であ る。体中に傷跡があり、背中には天狗の刺青││攻撃力八。雑魚だ ││が掘ってある程度の情報しか読み取れない。 いや、そもそも壺振りが細工できるわけはない。賽子を壺の中で 転がした後で九郎は出目がどちらか決めているのだ。動かすような 不審な動きがあれば一瞬でわかるし、そもそも九郎を直撃し続ける 理由もないだろう。 しかし自分が選んだ目の反対というのならば、逆に己も利用する までだ。 ︵今考えたことの反対が正解⋮⋮だったな、魔王よ!︶ 次の勝負が始まった。 九郎は直感的に半だと思ったので、 1305 ﹁丁だ﹂ と、逆を選ぶ。影兵衛は半を選んだ。 そして壺が開けられる。 ﹁三・ニ︵さに︶の半!﹂ ﹁ぐうう!﹂ また負けた。 やはりこちらの考えを読んでいるのではないかと疑心暗鬼が浮か ぶ。 思わず心の中で呼びかけて反応を伺う具合だ。 次の勝負が始まる。 こうなれば奥の手だ。 ︵己れは⋮⋮選ばない︶ ﹁さぁ、ないか! ないか!﹂ 中盆が呼びかける中、九郎は親指で銭を弾いて手のひらで受け止 める。 表だったら丁。裏だったら半。予めそう決めた。 己の力ではなく運命に身を委ねる。 表。丁だ。 いちろく ﹁一・六の半!﹂ ﹁へっへっへ。九郎先生よ、ゴチになります﹂ ﹁こんなオカルトありえぬだろう⋮⋮﹂ 1306 結局、五両全部使っても解決策は生まれず、全額ドブに捨てたよ うに消えた。 帰る時に無念さと申し訳無さから発作的に死のうとする九郎を、 自分が殺しにくるまで落ち着けと慌てて説得する人斬りの姿があっ た。 その後、小遣いのお返しとして三日ほど九郎は石燕の家に泊まり こんで彼女をちやほやと世話して、料理を作ったり膝枕をしたりさ れたり、抱きまくら代わりに同じ布団で寝かされたりしたのだが素 直に従っていたという。 病人に対する献身的な介護だと本人は主張していたが、関係者か らは献身的なヒモにしか見えなかった。 余談だが激赤フンドシを成果として持ってきた雨次は母にこれま での人生で最大に褒められた。フンドシなのに。赤いのが特に良か ったらしい。 そして勢いでそのフンドシを試着した彼女は塗りこまれた唐辛子 汁が直撃でマジギレし地主の家に火をつけに行こうとして必死に止 められるのであった。 1307 42話﹃タマシイの存在証明﹄ [緑のむじな亭]は毎月[六]の付く日は休業日としている。 これは店を始めた頃から、女主人であったお六が適当に己の名前 から休日を決めて、それを六科も従って続けているのである。 その日の休日は、六科は材料の仕入れに向かいお房は石燕の家へ 行くことにした。 そして最近新たに店員となったタマは予定もなく宙ぶらりんだっ たのだが、九郎が適当に散歩しつつ晃之介の道場にでも顔を出すと いう、まあ特にこちらもいつも通りのんびりと過ごすつもりで、 ﹁タマも来るか?﹂ と、珍しく誘ったので彼は素直に﹁はい、兄さん﹂と頷いてつい ていくことにした。 これはそんな二人のある日の日常風景である。 ***** タマという少年は基本的に九郎に懐いている。髪型も真似してる し、いかにも舎弟といった雰囲気で店にいるときは酌を取っている。 彼自身は歳相応にそばかすがうっすらと顔に浮いている紅顔の少 年なのだが、顔の造作は非常に整っていて女性相手の接客でも涼し い笑顔か凛々しいキメ顔で行い、女慣れした様子で対応するので実 1308 のところ、この一月ほど緑のむじな亭で勤めていてそこと無く女性 客が増える効果を齎している。 一般的な評価における美少年度で言えば怠そう眠そう爺臭そうな 九郎よりもかなり上の水準に居る。まあ、九郎の世間での扱いは少 年というよりも童顔な成人なのであるが。彼を歳相応に扱うのは天 爵堂か将翁ぐらいのものだ。石燕はきっと彼が何歳だろうが対応は 変わらぬだろう。 ともあれ、九郎は気づいたのである。 タマと歩いていると町娘の視線が集まっている。 ﹁離れて歩け﹂ ﹁兄さん酷くない!?﹂ 早足でタマから離れる九郎に涙目で追いつく。 彼は苦々しい顔をしながら、 ﹁お主、時折店の客を軽く口説いておるようだが⋮⋮﹂ ﹁ちょっとした営業微笑ですよーう﹂ ﹁女にきゃあきゃあと言われるのは気分がいいかもしれんが、本気 でもないのに相手に気を持たせているとそのうち刺されるぞ﹂ ﹁うん、兄さんにだけは言われたくない忠告すぎる﹂ ﹁?﹂ 何故かそのまま切り返されたので九郎は訝しげに首を傾げた。 然し乍ら経験上若さにかまけて女に入れ込むと碌な事はない。九 郎はそうでもなかったが、若いころ傭兵時代の仲間で刺された男の 最高記録は一晩に13回刺された奴が居た。その後爆破までされて いた。おまけに生きてた。恐ろしい。 ︵⋮⋮いや、己れもスフィに刺された事があったような⋮⋮︶ 1309 思いに耽る。妙なハッパの煙を吸い込んでバッドな精神状態にな った幼女体型エルフが無理心中しにきたのだったが、遠い過去な為 に明瞭には浮かんでこなかった。 タマは得意気に胸を張りながら、 ﹁大丈夫ですよ。これでも経験豊富な身。相手を本気にさせないよ うにしかし愛されてちやほやされ貢がせつつ遊びで手をつける程度 の距離感、余裕で保てます﹂ ﹁うわあ⋮⋮駄目な大人になるなよ、お主。特に、あの物を縛る細 長いやつみたいな名前の立場にだけはなるなよ﹂ ﹁ヒモのことですかー?﹂ ﹁その名を呼ぶな﹂ 九郎が忌々しげに首を振る。ふと、顔を背けた先に茶店があった。 わらびもち 小腹が空いていたわけでもなかったが、なんとなく茶の香りに誘わ れて店による。 店先の敷き布が張られている席に座り、茶と蕨餅を頼んだ。タマ が注文を取りに来た看板娘を見てキリッとしたキメ顔になっている。 ﹁涼しげな菓子だが、寒い時に食うのも乙だのう﹂ ﹁そうだね兄さん! ボク、わらびなら幾らでも食べられそう﹂ もっちもちと頬張るタマを見つつ、九郎はタマの頭を撫でながら、 ﹁そうか、そうか。ちなみにわらびは食べ過ぎると中毒症状が出て な、全身から大量出血し骨髄が破壊されて死ぬ﹂ ﹁相当危険な毒草の効果だよねそれ!? 嘘だと言ってよ兄さん!﹂ ﹁残念ながら本当だ﹂ 1310 蕨餅の場合はわらびの根を叩き砕いて何度も流水で洗い乾燥させ て粉にしたわらび粉を使うためにそんな心配はないのだが、意地悪 そうに九郎はタマをからかうのである。これは以前将翁から聞いた 知識であった。 一度に大量に食べなければ良いとはいえ、お浸し等でわらびのそ の物を食べるときはしっかりアク抜きすることが必要である。ほろ 苦くて旨いとアク抜きしないで天麩羅などにして食べているとグッ バイ骨髄になる。もちろん食べ過ぎたらだが。 怯えたように残りの蕨餅を見ているタマに、﹁これぐらいなら大 丈夫だ﹂と、九郎は苦笑して安心させてやる。 ﹁むう﹂ 唸りつつもタマは再び餅を食べだした。 九郎は茶を飲みつつもいつも通り半分閉じた目で遠くの街を見や る。白い煙と屋根の上までちらつく火が見えた。 ﹁⋮⋮今日もまた何処かで火事のようだのう﹂ ﹁冬の間は起こりやすいですからねー⋮⋮江戸の人は一生で一度は 火事に会うって言われてるぐらいで。ボクはもう二回ですけど﹂ ﹁ふぅむ。人口密集に木造建築、海と山からの風⋮⋮天爵堂や将翁 なら風水だか五行だかも理屈につけそうだな﹂ などと言っていると、二人の近くに座って聞こえよがしにため息 を吐く男が現れた。 黒袴に刀を差している丁髷の侍││同心・菅山利悟であった。 ﹁まったく勘弁してほしいよ、せめて火事だけでも無くならないか なあ﹂ ﹁稚児趣味野郎﹂ 1311 ﹁勘弁してほしいよ! あ、汁粉と茶と梅漬けを﹂ 利悟の他にもう一人、人の良さそうな顔をした同心も席に座る。 見回りの休憩のようである。 ﹁久しぶりだなあ、いやずっと牢に入っててさここ最近﹂ ﹁ついにやっちまったんですね﹂ ﹁違和感無いよな﹂ ﹁捜査のためだよ! 元旦も碌に越せなかったのにこの忙しさとき たら嫌になる﹂ 彼は大げさに肩を竦めてから、運ばれてきた茶を一口啜った。 ﹁熱ち⋮⋮火事はあっちこっちで起きるし、神社は襲われるし、そ こらで押し込み強盗は出る上に、訴訟も松の内を開けてから毎日舞 い込んでくるときた。 今もこいつと一緒に、日本橋で争ってる店に勧告を出しに行った ところなんだけど中々言うこと聞いてくれないし﹂ ﹁やれやれこの私の云うことを聞かないとは天罰が下るね。同心二 十四衆が七番[出任せの説得]のこの斉藤伊織││まあ町奉行より 正しいことは疑いが無いというのに﹂ ﹁説得に任せていい人材じゃなさすぎないか﹂ 頼りにならない二つ名と大言壮語に、九郎がげんなりしながらツ ッコミを入れる。見た目は真顔で冷静そうな男なのだが、特技は説 得というよりも虚言による時間稼ぎであるらしい。 利悟もこの同僚はとりあえず責任を負わない範囲で口で丸め込む 技巧は買っている為に、 ﹁その場は収まるからいいんだよ。そもそも菓子でどっちが元祖か 1312 だなんて下らない争いなんだから⋮⋮大岡様も呆れて適当な捌きを するから拗れる判決になるんだ﹂ と、云うと、その日本橋の大通りにある何某という菓子を主とし て売り出している店が二つあり、どちらも己の店がその菓子を作っ たと主張し相手の店で売らないようにと要求しあっているのである。 これに対して糞忙しい中持ち込まれた町奉行・大岡越前守忠相が 出した判決は、 ﹁片方は新宿で店を出して売り、もう片方は渋谷あたりで売ればい ちいち反目しないだろう﹂ 店が近いから文句を言い合うのだから、店の場所を変えろという 内容であった。不公平が無いように両者共である。 しかし日本橋の一等地から、新宿渋谷などという当時からしてみ れば田舎の僻地に店を変えろと言ってそう納得がいくものではない。 結局両方の店は日本橋に残り、相手の店が先に立ち退くように毎日 言い合っているのであった。 いちいち宥めに行く同心も大変である。 ﹁火事の検証は他に頼んであるからいいけど⋮⋮あ、そうだ。九郎、 最近阿部将翁殿を見なかった?﹂ ﹁将翁をか?﹂ 利悟の疑問に、九郎ははて最後にあったのはいつだっただろうか と考えるが、 ﹁いや、少なくとも年が明けてからは見ておらぬな。よく旅に出る 男だという話だからな、別に不思議ではないが﹂ ﹁うーん、江戸に居ないのか。ならいいんだけど﹂ 1313 ﹁何かあったのか?﹂ ﹁いや、ただの世間話だ。さて、斉藤。汁粉を飲んだら次に向かう ぞ﹂ そこで話題は打ち切られた為に、九郎とタマも茶と蕨餅の代金を 払って適当な散歩を続けるのであった。 ﹁世の中物騒だのう﹂ ﹁ですねー。まあ、うちは兄さんや六科さんが居るから大丈夫でし ょうけど﹂ ﹁押し込まれる程金も無い⋮⋮のだが、最近は住人を斬り殺す目的 で押し込み、ついでに僅かな金を奪っていくような危険な輩も居る と影兵衛に聞いたから一応気をつけようか﹂ ﹁しかし、なんでまた押し込み強盗なんてするんですかね。危ない のに﹂ ﹁うむ?﹂ タマは歩きながら人差し指を立てて九郎に確認するように云う。 ﹁この江戸には兄さんや六科さん、晃之介さんとか押し込んだら返 り討ちに合わせてきそうな強い人も居るし、見つかったらその場で 確殺してくる影兵衛さんみたいな怖い人も居るのにどうして自分は 安全だなんて思って強盗に入れるのか﹂ ﹁それは単純だ。返り討ちにあったことがないからそんな奴居ない と思い込んでおるのだよ。なにせ、一度返り討ちにあったらそれで 終わりだからな普通。 [切り裂き]同心なんて死ぬほど危険な人物の噂がそれほど広ま って居らぬのは、あやつと出くわしたらその場で死ぬから具体的に どうヤバイのか盗賊の間でもあまり伝わっていないらしい﹂ 1314 さすがに、火盗改という住民の味方である同心を悪鬼羅刹のよう な活躍だとは読売にも書けないようである。 影兵衛の悪い遊びや無慈悲な活躍が認められているのも彼の検挙 率が異様に高いからなのであるが、表沙汰にはし難い。 ﹁まあ、この場合はあやつが悪党の側でなくて良かったという事だ な﹂ ﹁ううう、その想像は恐ろしすぎる。その時は兄さん頑張って退治 してくださいね﹂ ﹁無理云うな危ない。まずは利悟をけしかけてだな、やられたら晃 之介と浅右衛門あたりを連れて﹃利悟は我らの中で一番の子好き⋮ ⋮﹄﹃同心の恥さらしよ﹄とか楽しげに言うだけ言って後は任す﹂ ﹁やる気無いなあ兄さん﹂ 嫌そうな顔をしている九郎を横目で見て、ぽつりと言うタマ。 ふと二人は後ろから走っていくる人影に気づいて、道の端に寄っ た。 走っているのは女だった。江戸の街で走る者は珍しい。当時は当 然着物だったので殆どの者は走るに適していない格好で、無理に動 けは酷く着衣が乱れる為に、特に女などはまったく走らない。 その女は走りやすい鳶職のような江戸脚絆をつけていて、頭に花 がらの手ぬぐいを巻き活発そうなポニーテールにしている目元がぱ っちりとした化粧をしている女である。年の頃は二十前後だが、十 代半ば程に見える童顔だ。 ﹁おっと! 九郎の若旦那とタマちゃんじゃないですか!﹂ ﹁む、お花か。新聞が出来たのかえ﹂ ﹁はい超特急読売、地獄の亡者の呪い系速報ですよ!﹂ ﹁年の始から不吉すぎる⋮⋮﹂ 1315 女は、お花という江戸では珍しい女読売であった。自分で事件の 取材をして、原稿をまとめ、瓦版を刷るという完全自営業の新聞記 者だ。 内容はデマも多いのだが面白おかしく、或いは社会批判もなんの そのと自由に記事を作っている為にわりと読み物として面白い。 店を出して売っているとお上に目を付けられた時に面倒だという ことで、その足で売り歩いて││いや、売り走っているのである。 九郎が緑のむじな亭の方を指さしながら、 ﹁すまんが今日は店は休みでな﹂ ﹁あらら、じゃあ若旦那、ここで渡してもいいですか?﹂ ﹁うむ。貰っておこう。代金は月末だったな﹂ ﹁はい! それじゃあ⋮⋮ってタマちゃんなんでキリっとした目で こっち見てるの?﹂ 疑問に思いつつも、お花は次の販売場所へ向けて再び走りだした。 九郎はその姿に、 ︵泳ぎ続けないと溺れる大型魚のような⋮⋮︶ と、思わず感想を覚えた。 走り去るお花を見つつタマもキメ顔を維持したままで、 ﹁お花ちゃんはさらしで抑えてるのに走ると胸がばいばいん揺れる から最高タマ﹂ ﹁変な語尾をつけるな﹂ 言いつつ渡された読売を開いて、目を細めて字を読み解く。やは り古い文字なので少しばかり読むのに集中が必要だ。 1316 ﹁なになに⋮⋮鎧大明神にて集団毒殺事件が発生。盗賊一味は寺社 奉行の認可証を偽装して夜中に侵入、神社の宮司と禰宜らに流行病 の予防薬だと偽り毒を飲ませ、神社に預けられている金を奪ってい った模様。また境内で土を大きく掘り返した跡もあり、平将門の怨 霊が己の鎧を取りに来たと噂される⋮⋮﹂ ﹁うわあ⋮⋮滅茶苦茶怖い事件じゃないですかあ⋮⋮﹂ タマは身震いして顔を青ざめた。 神社や寺は江戸の狭く並んだ町並みの中でもかなり広い敷地を持 っているものが多いことから、火事の時に燃え移らないことを期待 されて氏子や檀家から財産を預けられる事も多かったという。 うまく盗人が押し入ることができれば大店の金蔵よりも大金を手 に入れることができるだろう。それを狙っての犯行であるのだろう が、毒殺という手段が必要以上におどろおどろしい。 書かれた内容││ぎりぎりで毒を吐き出して生き残った宮司の証 言も載っていた││からすると、舌を抉るような苦味のある薬を舐 めさせられ、効果が出るまで決して吐き出さないようにと念を押さ れて水まで渡され流し込まれたそうだ。 また、鎧大明神││鎧神社という場所は平将門ゆかりの神社で、 彼の鎧が埋められているという話を鑑みれば、怪しげな土を掘り起 こした跡というのが余計に恐怖を煽る。 それで特徴的だったのが盗賊の一人、毒を渡して来た首領格の男 が、 ﹁特徴は顔を面で覆っていた、か。いや怪しすぎるだろうそれ﹂ ﹁ああ、それで将翁さんのことを聞かれたんだ﹂ ﹁ううむ、あやつがやるはずはないが、確かに面を被っていて薬毒 に詳しい男となると候補にあがるだろうからなあ﹂ 言って、九郎は顎に手を当てたままじっと考えた。 1317 ﹁はて、前も同じような事件があったような⋮⋮﹂ ﹁こんな事件が二度も三度もあったらまさに末法の世ですよーう﹂ ﹁⋮⋮まあ良いか。とりあえず将翁以外の仮面男は危険だから近づ くでないぞ﹂ ﹁仮面男と言えば、子興ちゃんの描いてる読本おにゃん略に最近出 てくる人物で、﹃この祇園精舎の鐘の声は! 紋付袴仮面様!﹄み たいな登場する男は﹂ ﹁すまぬそれ己れが酒の席で適当に助言したら生まれた奴だわ﹂ 寄った勢いとはいえパクリはいかんなあと九郎はやや反省するの だった。来シーズンでは月影の武士に変身させてみようと提案する 予定であるが。 ***** 二人が晃之介の道場を訪れたとき、丁度お八も来ていて鍛錬を行 っていた。 今日は体術の稽古のようだ。六天流では最小の間合いからの攻撃 手段として拳、蹴り、投げの技を作られている。 晃之介が九郎とタマの前で腕を組みながら解説をする。 ﹁殴るのは相手を仕留める時、蹴るのは間合いを詰める時、投げる のは間合いを開ける時だな、基本は。今日は丁度タマが来てよかっ た。投げ技を教えていたのだが、さすがにお八の体格じゃあ俺は投 げられないからな﹂ 1318 ﹁ボクが犠牲になる流れ!?﹂ おっかなそうに九郎の後ろへと隠れるタマである。 むしろやる気満々のお八は指の骨などを鳴らしつつ、よれよれの 道着││自作である││を翻してタマへ声をかけた。 ﹁よっしゃこーい!﹂ ﹁ぼ、暴力系な女の子は負け組一直線ですよーう!﹂ ﹁安心しろ! あたしはツッコミと練習と悪党以外にゃ暴力なんぞ 振るわねえ! 手前にやるのは後輩への可愛がりだ!﹂ ﹁苛めっ子はすぐそうやって自己弁護する!﹂ 抗議をしているタマに、仕方無さそうに晃之介は近寄って彼の耳 元に小声でやる気を出させる言葉を投げかけた。 ﹁いいか、タマ。投げ技の組み合いという名目なら合法的にお八の 体に触り放題だ、俺が許す﹂ ﹁っっっしゃあ! お八ちゃん早くすっぞおらあ!﹂ ﹁急に勢いづいた!?﹂ 真剣な顔をしてすぐさま道場の中央、お八と向い合って構える。 そのキメ顔から分かる通り、既に彼の脳内イメージでは二回戦に突 入している。 彼の手足は女子の様に細く白いが、力が無いわけではない。蛸の ように手指を絡めとる技術に優れ、転ばして寝技に持ち込めば同じ 体格のお八では逃れられないだろう。 指をわきわきさせながら腰を低く落とし、お八に躙り寄る。 ﹁ちっ││!﹂ 1319 動いたのはお八が先だ。 相手の脛狙いのコンパクトで隙がなく、鋭い蹴りだ。彼はそれに 耐えるように床に踏ん張り、全身に力を込めて痛みを堪えるように する。 快い音を立ててお八の蹴りが彼に直撃する。早さはあるが、女の 放った一撃だ。耐える覚悟さえあれば受け止められた。僅かに体幹 がブレるような衝撃を踏ん張って抑える。 そして反撃に転じようとした瞬間、お八が目の前から消えた。 ﹁せ﹂ 声が近くから聞こえる。既に彼女は彼に密着するほど近づいてい るのだ。 最初の蹴り足を戻さずに、そのまま踏み込みの一歩として軸足に し、蹴りを防ぐため硬直した彼を中心に脇をすり抜けて、 ﹁え﹂ ぐるりと背後に周り込んで、彼の腰に両手を回して抱きつくよう に掴んで勢いをつけ││ ﹁の││! おらああ!!﹂ ﹁ぐへ!?﹂ 己の体を反らすようにして力を込めて、バックドロップの要領で ブリッジして床に叩き付ける! 彼の脳内ニューロンが浮遊感と衝撃に備えて高速で動き出す。 ︵頭部に衝撃予想/危険/腰のあたりにささやかな弾力/幸せ餅/ 腕部を動作/幸せ餅。︶ 1320 どん、と大きな音を立てて裏投げされた彼は後背部から床に到達 した。 そして素早く腕のホールドを解いて離れる。相手が床に沈んだま ま動かないのを見て、腕を振り上げた。 ﹁よっし決まった! 六天流、[小足防御させて投げ嵌め]!﹂ ﹁ああ、良い仕上がりだが⋮⋮うむ﹂ ﹁へへっ! どうだ九郎! 師匠も褒めてくれたぜ!﹂ ﹁⋮⋮いや、タマの執念を見たというか。お八よ、襟元が乱れてい るぞ﹂ ﹁は?﹂ 彼女が己の着衣を見下ろすと、道着の胸元がだるだるに開いてお り、巻いていたさらしが一部解けて胸が露出していた。 ﹁投げられる一瞬で両手を後ろに回して的確に胸元に突っ込んで堪 能したみたいだな﹂ ﹁本当は首根っこと太腿の付け根を掴んでぶん投げる技なんだ。お 八の腕力では無理だから全身の力を使える形にしたのだが⋮⋮反撃 を受けやすい難点があるということか﹂ ﹁な、な、な││﹂ 冷静に考察しあう男二人の前で固まっているお八は、やがて顔に 赤みが差してかたかたと震えだし、涙目になりながらも、 ﹁こ││これぐらいっ! なんともないぜ!﹂ と、腰に手を当て健気に胸を張って平気を主張するのであった。 お八の胸は、まあ直に見れば平坦よりは少しあるようだった。男二 1321 人の琴線には一切触れないが。 本当は恥ずかしいやら触られてムカつくやら様々な感情が爆発し そうなのを耐えて、開き直っているお八に九郎が、 ﹁うむうむ、ハチ子は強い子だのう﹂ 襟元を直してやるので今度こそ真っ赤になって、 ﹁ばっ⋮⋮子供扱いするなー!﹂ ﹁最近の若者気難しい﹂ 怒ったように叫ばれるので、九郎は困って晃之介に助けを求める 目線を送るのだが、 ﹁付ける薬はないな﹂ 呆れた様子で言ってくる。 ︵どうやら晃之介も若者には困っているようだ︶ 九郎は納得して、猛犬のように喉を鳴らして見上げてくるお八を 宥めるのだった。 その頃タマは床で寝たままキメ顔で感触を思い出箱に仕舞い込ん でいた。 ***** 1322 その後道場で昼飯を食うことになった。 晃之介の家の厨房は相変わらず閑散としていて、常備されている のは米と味噌ぐらいのものだ。後は晃之介が呑む酒とつまみになり そうな保存食が少々。 この日はお八が実家から晃之介にと渡された卵が幾つか用意され ている。 ﹁仕方ない、卵味噌でも作るか﹂ 九郎はせめて飯のおかずになるものをと思い鍋に火をかけた。 味噌を酒でややゆるく解いて風味をつけて、鍋で煮込む。この時 に焦げ付かないように注意をする。油を敷いておくと焦げにくくな るのだが、この家には灯り用の鰯油しか無い。さすがにそれは匂い が辛い。 追加で解いた卵を人数分入れて混ぜ合わせて水分が飛ぶまで焦が さないようにかき回して火にかけたら簡単に出来上がる。 見た目はそぼろのようで、味噌の塩味と酒の甘味、そして卵の感 触とまろやかな味わいがある。砂糖も混ぜたほうが本当は良いのだ が、男一人暮らしのこの家にそんな気の利いたスイートな調味料が 存在するはずがなかった。 とにかく、この卵味噌。飯の上に乗せても良いし握り飯の具にし てもまた旨い。 ﹁兄さん、こっちの沢庵刻んで胡麻をかけておきましたー﹂ ﹁おう。味噌汁は朝の温めなおしで良いな。あ、タマよその茶葉は まずいからやめておけ。棚の一番下に柳川藩から貰ってきた高級茶 葉があるからそれを使おう﹂ 1323 てきぱきと料理の準備をする二人を物陰から師弟が眺めて、 ﹁⋮⋮手際いいな、あいつら﹂ ﹁あ、あたしだって⋮⋮湯豆腐とか作れるし﹂ ﹁お八は湯豆腐に味が薄くて食った気がしないとか言って鍋に醤油 を入れるのはどうかと思うぞ。ただの薄い煮豆腐になってしまった だろ﹂ ﹁うっ⋮⋮﹂ などと言い合うのだった。 簡単に用意した昼食であったが、そう凝らなくても濃い味のおか ずと丼飯さえ用意しておけばこの師弟はわりと満足する。 四人で向かい合うように座って飯を食う。箸の先に卵味噌をつけ て、白い飯と一緒に掻きこむ。 言ってみれば、味噌味のついた卵そぼろなのであるが当時の味噌 は保存性の問題からことさら塩っ辛く、それがまた飯を進ませる。 刻んだ沢庵もぽりぽりと小気味良く、胡麻がぷちぷちと歯ごたえ が良い。 ﹁酒の肴にもいいな、これは。作り置いといてくれないか﹂ ﹁どっちも簡単なのだから自分でやれ﹂ 晃之介の要求を棄却しつつ四人は食事を進めた。 食後、九郎とタマはまた別の場所に出かけることにして、お八も 付いて行きたかったのだが、 ﹁昼からの鍛錬があるだろう﹂ 師匠から言われてしまっては従う他、無かった。 1324 名残惜しそうにしたお八から見送られて日本橋界隈までやってき た。 店をぶらぶらと眺めつつ歩き、 ﹁そうだ、黒糖でも買って石燕の家に寄るか﹂ ﹁寄るかっていうか、兄さん最近毎日石燕さんのところ行ってます よね﹂ ﹁⋮⋮まあ良いだろ。あれも家族のようなものだ﹂ と、言う。 ふとタマは気になったので九郎に尋ねてみた。 ﹁そういえば兄さんの、本当の家族はどんな方々でした?﹂ ﹁うん? あー⋮⋮﹂ 九郎は言葉尻を伸ばして何とか思い浮かぶ。もう六十年以上合っ ていないが、現代日本に暮らしていた頃には家族は居た。 ﹁いかんな、もう声も思い出せぬ。だがまあ、親父とお袋、それと 弟が居たな。ずっと昔に生き別れたがな﹂ ﹁⋮⋮辛くなかったですか?﹂ ﹁さあ、昔は辛いと思っていたかもしれないが、すっかり忘れてし まった。それからはずっと一人だったが妹みたいな奴が││﹂ 言いかけて、九郎は首をかしげた。口元に手を当てて、目を細め て記憶を探り、不思議に思う。 ﹁││? いや、居なかった⋮⋮よな? 誰だよ妹みたいな奴って﹂ ﹁ボクに聞かれても﹂ 1325 どうも痴呆の症状が進んでいる気がする、と九郎は苦々しげな顔 になった。脳細胞等は劣化していないので、精神的なものなのだろ うが。 頭をぼりぼりと掻きながら道を進んでいると、何やら人だかりが 出来ている。 見世物の類か、と背伸びして集会の中心を眺めてみると、何やら 坊主が本を片手に唾を飛ばさんばかりに叫んでいる。 ﹁辻説法か?﹂ 耳を傾けてみると、 ﹁││ここ近年の大地震に富士山の噴火! 不作に人心の荒廃によ る火付け、盗みの横行はすべて仏の教えを蔑ろにし邪見を蔓延らせ ているのが原因である! この徳の高い預言書にもこのままでは人も世も滅尽に至り末詰ま りに末世が訪れるであろう! かくなる上は最早、日本国の神社、 邪宗の寺を尽く打ち壊し、真なる宗派のみを信仰するべし!﹂ ︵やばい系の宗教だった︶ 聞いている聴衆も同じ感想なのだろう、ひそひそと、 ﹁誰か寺社奉行呼んでこいよ⋮⋮﹂ ﹁岡っ引きとか早くこないかな⋮⋮﹂ などと言い合っている。 やがて同心の姿をした者が二名現れて、 ﹁退け、退け!﹂ 1326 と、集まっていた人を散らし叫んでいる坊主を両脇から掴んだ。 ﹁何をする! このままでは日本は滅ぶ! むしろ滅ぼすぞおお! !﹂ ﹁はいはい、話は番所で聞こうね﹂ ﹁鎧大明神での事件との関与も調べろ﹂ 叫びながら、連れ去られてしまった。 九郎とタマは唖然とまだ滅びの言葉を叫んでいる坊主の後ろ姿を 見ながら、 ﹁思想家が取り締まられる。厭な時代だと思わんかタマよ﹂ ﹁いや、あれは不安を煽ってる迷惑な人だと思うです﹂ ﹁己れもそう思う。む?﹂ 九郎は坊主居た場所に、徳の高い預言書とやらが落ちて残されて いるのを発見した。 拾い上げて適当にページを捲ってみるが、 [猩々 狐カラ 奇怪ノ鳥ヲ 奪フ] [太 扉開ク 無音 蓮潜ル] などと一ページに一文ずつ意味不明な内容が羅列されているばか りだった。 とても預言書には読めない。元々あまりなかった興味がどんどん 薄れる。 ざっと眺めて、一番最後に書かれたページにある内容に九郎は目 が止まった。 1327 [暗キ天ニ マ女ハ怒リ狂フ コノ日 ○︵丸︶ キ哉] ﹁⋮⋮魔女?﹂ ﹁どうしたんです?﹂ 終ワリ 悲シ ﹁いや、なんとなく聞き覚えのある単語が出てきてな﹂ 九郎は本をぱたりと閉じて、懐に入れた。ねこばばした形になる が、徳が高いならこれぐらい許してくれるだろう。 二人は歩みを再会しながらなんとなく九郎は口にする。 ﹁それで、家族の話だが。少し前までは孫娘のような女が居てな。 其奴は魔女と呼ばれておった﹂ ﹁あんまりいい響きじゃないですねえ。どんな人だったんです?﹂ ﹁ううむ、なんというか⋮⋮﹂ 九郎は周囲の人物で該当する性格を思い浮かべて、隣を歩くタマ の頭に手を乗せた。 ﹁少しお主に似ておったかな﹂ ﹁それじゃあいい子じゃないですかー! たまー!﹂ ﹁なにそれ掛け声? まあお主のような性格のままだったら良かっ たんだが、次第に迷惑度は増していき、己れにもどうしようもなく なったのだ﹂ ﹁迷惑?﹂ ﹁例えばそうだなあ⋮⋮琵琶湖の水が全部蕨餅みたいな寒天状だっ たらどうなるだろう。まあそんな適当に考えたような事を実際にや ってしまう迷惑さだ﹂ ﹁ぼ、ボクはそんなことしないですよーう!﹂ 1328 実際に異世界で魔女は湖一つをジェル状に固めてしまったのだっ た。 湖の水自体の重量で底の方から圧力で崩壊して水に戻るのを防ぐ のが中々難しかったらしい。やったが。魔女が飽きて放置したのち に生命が生まれて世界最大個体のスライムになったとか。生命の神 秘にむせび泣いたが、魔女の懸賞金は容赦なく増加された。 九郎はわしゃわしゃとタマの頭を撫でながら、 ﹁好き勝手やって死んでしまったがな。生まれ変わって今は何処に 居るのやら。おい、タマよ。案外お主だったりせぬか﹂ ﹁前世の事を聞かれても困りますよーう﹂ ﹁ううむ、どうやって見つけよう。そのうちなんとかなるのか?﹂ 九郎はさっぱりいいアイデアが浮かばなかったので楽観視するこ とにした。 二人は薩摩との交易品を扱う店、[鹿屋]に寄り黒糖を買い求め ようとすると店頭で物理属性の引き込みを行っているマスコットキ ャラクター、さつまもんに目ざとく見つけられた。 ﹁おっ! 九郎どん!﹂ ﹁今日も威勢がいいな。黒糖を買うから二袋頼む﹂ ﹁あいわかりもっそ! おイッそこのッ! 黒砂糖ばよかしこいれ ちゃれ∼ッ! は、そじゃ九郎どンまた薩摩ン肝んフトかしィばっか集まッちて 練ッど云うちょッて江戸んにせェにもよかにおッどっち言ってもっ そ九郎どンもきィやっか、よかかッッ!?﹂ ﹁ああよかよか﹂ ﹁うむッ! さすがじゃッ!﹂ 九郎が手をぱたぱたとしながらいつもの低いテンションで答えて 1329 いるので、タマは声を潜めて異様な気迫の感じるさつまもんを直視 しないようにしながら聞いた。 ﹁え? え? 兄さん、何言ってるのあの人﹂ ﹁さあ⋮⋮己れもよくわからんから適当に応えればいいんじゃない か?﹂ 代金と引換えに黒糖を受け取って、ぶんぶんと手を振り奇声を発 するさつまもんを尻目に二人は歩いて行った。 軽々しく返事をした九郎だったが後日薩摩藩士達に招かれてまた 肝練りに参加させられる事となるのだが、今は知る由もない。 ﹁今度肝練りしない?﹂﹁チョーオッケー﹂ぐらいの軽いノリで返 事をしてしまったのを後悔するには、彼らの言語を解明しなければ ならないのだ。 ***** 玉菊という太夫には家族が居た。同じ職場で働く遊女や陰間だ。 彼女らとは血は繋がっていないが、心は繋がっていた。 いくら辛い目に会おうとも逃げ出さなかったのは、家族の為でも あり、また足抜けして外の世界に出たとしても家族も誰も居ないの が怖かったからだ。 玉菊太夫は死に、タマというたった一人の小僧になってしまった。 それでも頼もしい大人が側に居てくれて、兄と慕っている。いつ か六科の事も父と呼びたいし、お房とももっと仲良くなりたい。 彼の兄の九郎は妙な友達が多く、変な事件に巻き込まれることば 1330 かりで時には楽しげに、または面倒くさそうに過ごしているがタマ から見て一番彼らしい時間がある。 鳥山石燕の自宅。 その縁側で石燕と九郎は並んで陽の光を浴び、茶を飲んで過ごし ていた。 ﹁見たまえ九郎君。白梅の花が咲いている﹂ ﹁そうだのう﹂ ﹁ふふふ、裏には桜も植えているからね。春が楽しみだ﹂ そんな事を話して、それ以外は無言で過ごしていたが、居心地の 悪さなどは感じない空間を作っていた。 別段いつも通りの九郎の表情だが、タマにはああやって二人で過 ごしている時が一番彼らしい気がして、いいなあと感じるのだ。 タマは思う。 ︵わっちはもう幸せだから、今度は九郎兄さんの幸せをボクが願っ てもいいよね︶ タマは時々、誰かの頼みを聞いてそれを解決する九郎を見ながら 考えるのだ。 彼には、本当にやりたい事というものはないのかもしれない。 できれば、余生を過ごしたいだけなのだろう。 少しの時間でも石燕とただ過ごす時はきっと望みに近いように思 える。 だから、この時間が続けばいいな、とタマは願っていた。 1331 ﹁ちょっと。震えるのやめてくれないかしら。書きにくいの﹂ ﹁逆さ吊りにされてれば痙攣だって起こるよ!? お房ちゃん下ろ してってば!﹂ ﹁妖怪・天井下がりを描く練習なんだからもうちょっと頑張ってな の﹂ 天井の鴨居からぶら下がらせられたモデルのタマは不満を言うが、 却下されてしまった。 とりあえず逆さ吊りの時間は早く終わって欲しい。 これは頭に血が登るから、助平な妄想して時を過ごそうとすると 余計酷いことになってしまうのであった。 1332 43話﹃二人は死合わせな決闘をして終了﹄ ﹁くだらねェならここで死ね﹂ 男は蔑み、期待するように云う。 風が、流れた。 ***** 九郎が火盗改の仕事を手伝うのは時折あることだ。 とはいえ彼は別段、正義の人でもなければ給料を貰っているわけ でもないので、巻き込まれたり頼まれて仕方なく手伝うといった形 だ。正直言うとやりたくない。労働は社会が押し付けた悪業だと九 郎は主張する。 そんな彼なので影兵衛や利悟が仕事を持ち込んできても断ること が多いのだが、知り合いに不利益が及びそうな事案ならばわりと誘 えるのを影兵衛などは気づいていた。 その日の誘いに関しては気楽な気分で、 ﹁よう九郎。今回も厄介な仕事が来ちまったぜ﹂ 1333 ﹁ふ││影兵衛。お前さんの持ってくる仕事で厄介じゃなかった事 があったか?﹂ ﹁おおっと、こいつぁ悪い⋮⋮今回はとっておきに面倒なやつだ。 カハハハ﹂ その言葉に九郎は軽く降参のように手を上げて大げさに肩を竦め 再び口笛を吹いた。 そしてやや間が空いて、 ﹁││いや、己れ別に手伝うとか言っておらぬからな。なに探偵社 の相棒みたいな陽気な空気で巻き込もうとしておるのだ﹂ ﹁んだよ冷てえなあ。いいだろォ? な、ちっとだけだからよ﹂ 食い下がり、影兵衛が説明するにはこうであった。 近頃江戸の新宿、渋谷、目黒から品川あたりで発生している民家 への押し込み強盗を警戒しての夜間巡邏が行われている。 江戸の中心から離れてやや田舎風景が目立ち、農家が多いこのあ たりにて家に切り込み、住人を惨殺しておまけとばかりに金品を奪 っていく賊がいるのだ。金銭目的とするにはあまりに小さな金しか 手に入らない為に、試し切りや殺しが目的の兇賊であることは明ら かである。 この辺りの事件となると町奉行所の出張る場所ではなく、また江 戸の町中でも様々な事件が起こり手はとても回せぬ為に火盗改が捜 査に当たることにした。 さて。 それで渋谷のあたりを警邏する影兵衛だったのだが、この事件は 複数人の犯行と見ているので同心、与力らも二人以上で回ることに なっている。 ところが影兵衛と共に向かう同心が重い風邪にかかり動けぬよう 1334 になったのだった。 別段、盗賊が五人居ようが五十人居ようが相手にするには構わな い影兵衛だったが、この寒い夜中に遊び場もない田舎を一人で歩き まわるのは嫌気を覚える。 舎弟や部下にしている小悪党共も居るには居るが、彼らは基本的 に影兵衛が楽しい返答によってはデッドオアアライブなトークを振 っても、 ﹁はい! その通りです!﹂ ﹁はい! すみません!﹂ の二通りの返答しかしない││殺される危険が一番少ない返事な のだ││ので連れてても、 ﹁くだらねェ﹂ と、影兵衛を退屈させるばかりであるのだ。 そんなわけで友人の九郎を引っ張りに来たのだが。 ﹁なあ九郎よう﹂ ﹁なんでこの糞寒い夜中に見回りに行かねばならんのだ。多分雪が 降るぞ今晩は﹂ 嫌そうに断る九郎に、影兵衛はニヤつきながら彼をおびき出す情 報を与える。 ﹁拙者の見回り担当千駄ヶ谷あたりなんだがよ。ほら、新井の爺っ つぁんとか雨次のガキが住んでるところ。あいつらを助けると思っ て、な? 一晩でいいからよ﹂ ﹁うーむ⋮⋮﹂ 1335 九郎は若干思い悩む。 影兵衛が観るに、九郎と言う男は身内に││それも女や子供にや たらと甘いところがある。しかし逆に知り合いの中で女子供にやた ら厳しくあたり男を甘やかすなどという人物は危険か気色が悪いこ とこの上ないので、まあ普通の感性ではあるのだが。 身内が危険かもしれない。一晩でいい。その二つの条件を立てれ ば、 ﹁⋮⋮むう、仕方あるまい。今晩だけだぞ﹂ と、了承するのだ。 影兵衛はしれっとした顔で、 ﹁あんがとよ。ところで、その押し込み強盗なんだが火盗改の情報 に依ると[荒野の残虐血肝おどろおどろ連∼色とりどりの冬野菜を 添えて]っつー超凶悪集団な可能性が高いンだけどよ﹂ ﹁待てなにその名前。冬野菜が関係あるのか?﹂ 思わず尋ねるが、無視された。 ﹁そいつらは一匹一匹が地獄から黄泉がえりし鬼の力を手に入れた 剣豪並に強ェって話だから九郎も完全装備で来いよ?﹂ ﹁野菜は⋮⋮?﹂ ﹁その一撃は山を砕き海を割り⋮⋮ええとまあ多分仏とかも斬るだ ろ、恐らく。だって拙者だったら斬るし。精々油断せずに行こうぜ。 夜になったら迎えに来るから﹂ ﹁⋮⋮﹂ 影兵衛のよくわからない忠告だったが、その日の夜に向けて九郎 1336 は仕方なく装備を準備するのだった。 ***** 千駄ヶ谷の外れにある、小さな一軒家での事だ。 半ば自然と一体化している雰囲気で朽ちて隙間風の多いボロ屋は 雨次の住まいであった。 その夜は珍しく││本当に珍しく普段は夜鷹をしている母が家に 居た。 雨次はどうもそれだけで居心地の悪い気分を味わっている。いつ 彼女が発狂して怨嗟の声を叫び出すか、呪いの踊りを舞うかと思っ たら安眠できそうになかった。 いや、それならばまだ溜息とともに諦めきれるのだが、厄介なこ とにこの母は静かにしている時のほうが、得体のしれなくて、気味 が悪い。 ︵母親なのに気味が悪いって言うのもなんだけどさ︶ ともあれ先に寝息を立ててくれなければ自分が休まるとも思えな いので、寒空から溢れる月明かりを頼りに、母がどこからか拾って きて雨次にくれてやった本を読んでいた。 いや、読んでいたというのは正しくなく、まったく読めない外国 の文字で書かれた本なので挿絵のように描かれている図形などを眺 めている、というのが正しいだろう。 蘭学に詳しい天爵堂でも読めない、価値が有るのか無いのかわか らない本だ。何故そんな本を母が持っていたのかわからないが。 1337 縁側に繋がる戸は開け放たれて、怖気のする寒気が家の中まで入 り込んでいるので、首まで布団を被っている。 月が煌々と雲と雪に反射し照らしているとはいえ、文字はうっす ら読める程度だ。雨次は目を細めてじっと読む。目が悪くなりそう な気がしたが、潰れさえしなければどうでも良い。 少しだけ本から顔を上げて、ぼうと縁側に座って月を眺めている 母を見た。 青白い光に照らされているその姿は幽霊のようだ。そう思って、 なんとなく雨次は顔を歪めて本に再び目を落とした。 ︵僕も似たようなものだ︶ 二人は親子である事が明白である程度には顔立ちが似ていた。性 差で言えば雨次が若干の女顔よりであるのだが。 だから、母が狂っているのを見るのも、春を鬻いで生活している のも、己の姿に重なるように見えて余計に嫌悪感を覚えるのかもし れない。 然しながらこの母がまともに体を売って金銭を得ている想像はど うも付かないのだったが。まだ抱いている間に客を刺殺して金品を 奪い生活している鬼婆だと言われたほうが、雨次は信じる。 彼女に関しては、唯一の肉親だというのに分からないことしかな い。 積極的に理解しようとも思えないので若しかしたらずっとそうか もしれなかった。それで何かしら不都合が起きるのだろうか? 雨 次は疑問に思うが、どうでもいいと頭を振る。わかるべき時に人は 問題について解決するのだ。それ以外の時に答えを求めても無駄だ ろうと考える。 ふと、彼女が月を見ながら口を開いた。 1338 ﹁月耀は晴雪の如く。 梅花は照星の似し。 憐れぶべし金鏡の転りて。 庭上に玉房の馨れることを﹂ 詩││のように聞こえた。 やけに綺麗な詩だ。母が独自の詩を口にするのは聞いたことがあ るが、大抵は毒とか味噌とか鎖骨複雑骨折とかそういう単語が使わ れていたのに、この冷たい夜空に浮かぶ月を詠んだような、麗句で あった。 彼女はぎょろりと首を回して、斜めから見下ろしつつ雨次に声を かける。 ﹁││って詩知ってるか?﹂ ﹁⋮⋮いや、知らないよ母さん﹂ ﹁んっだよあの爺さん、こんな有名な文句も息子に教えてねえのか ! 授業料の返還を要求する!﹂ ﹁払ってないし﹂ 当然のように雨次が言う。一応生徒ではあるのだが、実質近所の 物知り本好き爺さんの家に入り浸っているだけなのである。そもそ も授業料など払う金が無い。 母が指を立てながら不出来な息子に告げてくる。 ﹁この詩はお前、みっちーの詩だよみっちーの! 雷属性に定評の ある!﹂ ﹁誰⋮⋮?﹂ ﹁みっちーがなぁ、十一歳の時初めて詠んだ漢詩なんだけどよ、ど う思うよこれ﹂ 1339 問いかけられて、雨次は上体を起こしながら頬を掻いて、素直に 応える。 ﹁まあ⋮⋮妬ましいかなあと﹂ 十一の年で見事に漢詩を作れる教養が妬ましい。 そのような教養を身につけられる、恐らく裕福である環境が嫉ま しい。 世界を綺麗に感受し美しいものを美しいと感じられる性に嫉妬を 覚える。 雨次は性根が捻くれた少年なのだ。 母親はつまらなそうに言った。 ﹁女々しい感想だなおい。知ってるか? 嫉妬って漢字には女って 字が二つも入ってるんだわさ﹂ ﹁⋮⋮ふん﹂ ﹁ま、おれから見ればこんな詩はおはぎに蜂蜜と粉砂糖をぶっかけ たようなぽえっとした甘々な詩だ。 十一歳なりに頑張って考えた綺麗な単語使いすぎじゃな! 月に 雪に梅に星、憐れに鏡に玉と来てるぞ。それだけ使えばお前だって 小奇麗なものは作れるわな﹂ 彼女はため息をついて、 ﹁ま、なんだ。今日でお前も十二になるけどさ﹂ ﹁え? そう││だったの?﹂ 雨次は自分の誕生日などは知らない。祝ったことも無いので、年 齢すらだいたい幼馴染のお遊と同じでいいか、と考えていた。 1340 彼女は何処か疲れた眼差しを雨次に向けて、珍しく、優しそうに 微笑んだ。 ﹁まだ人生なげーんだから、妬んだことなんざお前でも実現できる って思って⋮⋮くだらない嫉妬で、自分の未来を腐らせないでね﹂ ﹁⋮⋮母さん?﹂ ﹁││ごほっ、ごほっ﹂ 突然、咳き込んだ。 薄明かりのした、彼女が手で抑えた口元から、赤黒いどろりとし た液体が零れたように見えた。 ﹁母さん!?﹂ ﹁かはっ⋮⋮ちっ! 晩飯に食ったお汁粉が咳き込んだ拍子に逆流 してきた!﹂ ﹁紛らわしいなおい! 寒いんだから家に入ってよ!﹂ ***** 完全装備の九郎と言っても、そう特筆すべき物はない。 [アカシック村雨キャリバーンⅢ]を帯刀して、腰の後ろに横向 けで[魔女の猟銃]をベルトで保持する。 術符フォルダから戦闘に使える、[炎熱符]、[氷結符]、[電 撃符]の三枚取り出して胸元に入れておく。フォルダから探すより も予め出しておいたほうが一手早く使えるのだ。 1341 英単語を覚えるカード状の形をしたフォルダの中には他にも様々 な符があるが、元々魔法の素質などまったく無い九郎は殆どの複雑 な術式が使用不能なのだ。カルシウムの吸収を助ける魔法の掛かっ た符とかは何故か使えるのだが。 服の内袖に百文を紐で通した貫文銭を左右に二本ずつ入れておく。 投げつけるのに丁度良い形と重さをしているのである。 首元にチョーカーの様に巻いている[相力呪符]はいつもと変わ らない。 足は草鞋や下駄ではなく、異界から持ち込んだ[コンバットブー ツ+2]を履く。魔王からレアなんだよ+2は!と渡されたのだが なにがプラスされてるのか実は知らない。多分魔王も知らないだろ う。謎だが、頑丈である。 準備をしながらも、 ︵何と戦う事を想定してこんなことをしておるのだ、己れは︶ と、微妙にうんざりした気分が押し寄せてきたがなんとか堪えた。 困難だったが、やり遂げた。少なくとも冬野菜では無いはずなのだ が。 異世界で魔女と旅をしている間は戦う事も多かったが、九郎の役 目は時間稼ぎ、目眩まし、牽制、逃亡補助が主だった。 どうしても正面から戦う場合は魔女に身体強化魔法をかけて貰い、 魔王から重火器を支給されていた。最後の戦いで超戦士と化した勇 者相手には終末礼装と謂う条約で禁止されかねない超武装をし援護 のミサイルとか殺人ビームとか飛び交う中で時間稼ぎをしていた事 を思い出す。直接当てても効かないから足場から吹っ飛ばすのがコ ツであった。 ︵あの時ほどは完全装備じゃないが、まあ充分であろう︶ 1342 そう思っていると、夕食後に店に来た影兵衛にじろじろと装備を 見られて、 ﹁おう、よしよし⋮⋮けへへっ、それじゃあ行こうぜぇ!﹂ 上機嫌に連れて行かれる事となった。 彼のその笑みに悪い予感を九郎は覚えつつも影兵衛と現場へ向か う。お房から、 ﹁危なくなったら逃げるのよ﹂ と、注意されて九郎は軽く手を上げて応えた。 空には薄く雲が掛かっている。雲の上では、満月が厭に明るく輝 き、雲に反射して薄明るい奇妙な夜だった。 小さく粉雪が俟っている。 渋谷、千駄ヶ谷のあたりは人気も無く、夜には人口の明かりも灯 っていない。 恐らくこの辺りで夜中まで起きているのは、偏屈老人の天爵堂ぐ らいではないだろうか。 冬だから虫も鳴かぬ夜だった。 影兵衛は珍しく饒舌に、酒とつまみの旨い料亭があっただの、近 所の人が飼っている猫が子を産んだので貰っただの、日常的な話題 を九郎に一方的に言って聞かせた。 足取りは軽く、鼻歌すら聞こえる。酔っているのではないかと勘 違いしてしまいたくなる。 そうで無ければ、 ︵此奴⋮⋮︶ 九郎は彼から一間は離れて、歩いていた。 1343 ふと、赤ずきんの話を思い出した。全文、子供の頃読んだ絵本の 内容は浮かばなかったが。 ﹃おばあさんのお口はなんでそんなに大きいの?﹄ ﹃それはお前を食べてしまうためさ!﹄ という場面があったと思う。異世界で似た童話として﹃レッドキ ャップ﹄という話があったが、あれは主人公の女の子が改造サイボ ーグ特殊部隊だったので展開が違うのだったが。噛ませ臭がプンプ ンする設定な主人公というのも珍しい。 さて。 ﹃影兵衛はどうして己れを完全武装にさせたのか?﹄ ︵そんなもの、此奴の殺気でわからいでか⋮⋮くそ、しまった、最 近遊んでばかりだから日和ったな︶ 九郎は誘いに乗った己の迂闊を呪った。 夜に、わざわざ人気のない場所で、悪党に殺されたという言い訳 が簡単な状況のもと、影兵衛と二人きり。 当たり前のように、影兵衛が言う││。 ﹁なあ、九郎﹂ その言葉は別段、いつもの呼びかけと何ら変わらない調子だった のが不気味で、九郎は足を止めて背筋を粟立たせた。 飯に行こうぜ、とか打ちに行こうぜのような簡単な呼びかけだっ た。 影兵衛は振り向き、笑みを浮かべた││犬歯を剥き出し凶悪に吊 り上がった口元と、生肉を目の前にした獣の如く細められた目を笑 1344 みというなら、だが││まま、こう告げてきた。 ﹁やらねえか﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ 息を吐き出し、感嘆のように応えるのが精一杯であった。 心臓をこの寒空に放り出したように、彼の言葉には恐るべき殺人 の意志が込められていた。問いかけや誘いではない。引き込む強制 の言葉だ。 ︵此奴は今日、己れを殺すつもりだ⋮⋮︶ 確信を持って、思った。 彼は聖人だろうが友人だろうが、気が向いたら殺す││いや、殺 しあう。そう云う人格であった。 風が││止まっている。音も消えた。ただ、死の気配があった。 ***** 雨次と母は、まだ起きていた。 多くの時間はお互いに無言で、突拍子も無く何やら語りだす母の 言葉に雨次が生返事を返している。 会話はどうでも良いことだった。 28日後に食べる夕食の話題とか、同業の夜鷹が添い寝する相手 1345 を次々と凍死させてしまう怪事件とか、守護霊かふかふに様へ捧げ る気体状の生贄とか、そんなことだ。 眺めている本の読めない字を暗い中で目に写していると軽く頭痛 と眠気も感じてきた。だんだん文字が読めるようになってくる錯覚 に、雨次は目を擦って眉根を寄せる。 ︵ほ⋮⋮ら⋮⋮す? いや、矢っ張り読めない、な︶ 諦めたように、本を閉じた。 寝ながら頬杖をついて雨次はしゃべり続ける母へ意識をやる。 ﹁お前も元服したらいい名前をつけないといけませんね。勇気の小 刀か臆病の太刀、どっちを受け継ぐか決めておくとよろしゅう﹂ ﹁⋮⋮っていうか母さん、いつまで起きてるの?﹂ ﹁馬鹿野郎! 寝たら死ぬぞ! あちきの左目に封じられし阿迦奢 の真眼が疼く⋮⋮!﹂ ﹁初めて聞いたよそんなの⋮⋮白底翳だよね⋮⋮﹂ 片目を抑えながら大げさに言う母に呆れて突っ込む雨次。 実際に、彼女の目は片方だけ灰白色になっているのだが⋮⋮恐ら くは白底翳︵白内障のこと︶なのだろうと雨次は見当をつけていた。 母親は酔っ払ったように頭をぐらぐらと揺らしながらため息混じ りに云う。 ﹁今晩でさだめは途絶えた。後は誰次第なんだろうな。お前だとい いんだけど⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮どういうこと?﹂ ﹁さてな!﹂ 彼女は縁側から立ち上がる。 1346 布団に戻るのか、と雨次が見ているとそちらではなく竈に行き、 まな板に突き刺していた包丁を二本引き抜いて両手に持った。 ﹁母さん?﹂ ﹁雨次、ちょいと物騒な誕生日祝いの客が来たぜ。お前は爺さんの ところへ逃げなさい﹂ ﹁何を⋮⋮﹂ 返事しかけた時である。 家の玄関にしている戸が蹴り破られた。 半分ぐらい腐った木で出来ていた戸は真っ二つに折れ曲がり砕け、 暗闇の中、抜身の刀を持った男たちがぬっと侵入してくるのを雨次 は見た。 ﹁なっ││!?﹂ ﹁いいから逃げろ! 早く!﹂ 言葉を失くした雨次を急き立てる母の怒鳴り声に、一瞬侵入者た ちも怯んだようだ。 何がなんだかわからなかったが、雨次は布団から飛び出て慌てて、 開けっ放しの縁側へ出た。 そして、 ﹁母さんも、逃げないと!﹂ 呼ぶ。しかし、 ﹁わっちはこいつらの歓迎をしといてやるから、先に行きな。なあ に、すぐに追いつく、さ││っだおらあああ!﹂ 1347 叫んで侵入者に包丁を振り回して斬りかかった。優雅さも無い雑 な動きだが、狂人のやけっぱちさが異様な迫力を出している。 相手は使い慣れた様子の油が浮いた刀で包丁の刃を弾き防ぐ。鉄 と鉄の打つかる澄んだ音がした。 そして、再び怒鳴る。 ﹁とっとと行け呆け茄子!!﹂ ﹁でもっ﹂ ﹁走れ! ぶっ殺すぞクソ息子がああああ!!﹂ 二本持っていたうちの片方の包丁を雨次へと激情に任せて全力で 投擲した。 思わず身構えて一瞬目を瞑る雨次だったが、包丁は彼ではなくそ の後ろの縁側から回りこんでいた賊の一人に当たる。刃が刺さるほ どうまくは行かなかったが、肩あたりに当たってよろめいた。 雨次は見開いた目で、玄関から入ってくる二人の兇賊と背後から 回りこんできた一人を見て、 ︵殺される︶ そう、判断した。相手はどれも殺しに慣れた様子の賊で、体格だ って良い。気狂いの女と子供では、二人共すぐさま殺されるだろう。 逃げなくてはならない。 ︵母を置いて⋮⋮?︶ 走っても、足の早いわけではない雨次などはすぐに追いつかれて しまうかもしれない。 だから彼女が暴れて気を引いているうちに逃げ出すのが一番だ。 二人で死ぬより、一人は生き残るほうが賢い選択である。 1348 それに母と言っても、一緒に暮らしているだけで尊敬も出来ず愛 情がお互いにあるのか怪しい女だ。 一度ならず毒を盛り殺そうとしたこともある。 見捨てるわけではない。彼女も早く行けと命令している。何を躊 躇うものか。 ﹁この阿婆擦れが!﹂ ﹁っつう││!﹂ 包丁を振り回す母の顔面を賊の一人が殴りつけた。 もう一人がせせら笑いながら、 ﹁おいおい、顔はやめとけ。後で楽しむ時に萎える﹂ ﹁悪趣味なくせによく云うぜ﹂ ﹁クッソがあ⋮⋮﹂ 左目が潰れたようにぐしゃぐしゃになった彼女は距離を取りなが ら、未だ逃げ出さない雨次を見て、苛立たしげに││そして、殴ら れた痛みからか、怒り顔のままぼろぼろと涙を流しつつ言った。 ﹁お願いだから、逃げて⋮⋮﹂ 雨次は己の魂に黒々とした淀みが滲んだ気がした。 そして、母から怒鳴られたり命令されたりするのはいつもだが│ │お願いされたのは初めてだと場違いながら思った。 すると体は、縁側に回った賊の脇をすり抜けて外に飛び出し、走 りだしていた。 冷えた足の裏に細かい石や砂利が突き刺さる。 後ろから何か聞こえた気がしたが、雨次は駆けた。 1349 ︵急いで助けを呼ばないと⋮⋮︶ 己では何も出来ない。盗賊どころか同年代と喧嘩をしても勝てる 気はしないただのひ弱な餓鬼なのだ。 自分が助かり、母を助ける方法として一番確実なのはあの場から 逃げ出して、天爵堂や九郎などの強い大人を呼んでくることしか出 来ない。 母を助ける。 刀を持った兇賊三人に囲まれた母が、これから助かるような結末 になるだろうか。 ︵なんで⋮⋮︶ 雨次は自分を含めて人間などくだらないと思っていた。 特に母が嫌いだった。毎晩知らない男と寝て日銭を稼ぎ、家では 狂い暴言と暴力を振るい、そしてその姿がどうしようもなく自分に 似ていた為に吐くほどに厭な相手だった。 本当に狂っていて、どうしようもないクズなのだと思えれば絶望 はしたが納得はしたのだったが││時折見せる優しさが余計に気分 を悪くさせた。 しかしきっと彼女のことは理解する事も、分かり合う事も無いの だろうと思って諦めていたのだが。 ﹃ん? どうしたのアマジ。名前の由来? ははは、そうだな。お 前の名前は[雨次]って漢字で書くんだ。意味はな、雨の次には必 ず晴れるだろ? だからなんか悪いことがあっても、次は良いこと があると思って生きるんだぞ﹄ 昔に言われた事を思い出しながら、 1350 ︵僕は⋮⋮あの人の名前さえ知らないのに⋮⋮!︶ 二度と教えてもらう機会すら失おうとしている状況の元、足から 血を流しながら雨次はひたすらに奔った。 ***** 九郎と影兵衛の間には無目的の決闘が始まろうとしていた。 お互いにどのような結果になろうとも得るものは何もない。 単に、影兵衛が殺し合いをしたいという性癖に従って命のやり取 りを始めようとしているだけなのだ。 ただそれだけなのである。 伺うように、ニヤついて影兵衛は云う。 ﹁逃げねえの?﹂ 九郎は険しい顔のまま、断定的に応えた。 ﹁己れが断ろうとするとお主が脅迫してくる内容が四つばかり思い つくのでな。一々問答をするのも時間の無駄だ﹂ ﹁おいおい、九郎手前陰険な考えしてるな。拙者ァそんなに沢山悪 巧みはしてねえって。ただ、断ったら手前のお友達を片っ端から斬 るがな﹂ ﹁わかってるから喋るなと言っている。間抜けめ﹂ 二人は対峙し睨み合う。 1351 此奴を退治しなくてはならない、今ここで。九郎はそう決心をす る。 友達付き合いだったが、いつかは殺しに来る相手だとわかってい た。友情や金、義理などで絆されず、殺し合いたいからやるという 単純な動機だから厄介だ。 ﹁さて、それじゃあサクッと││﹂ 影兵衛が、す、と組んでいた両手をだらりと垂らした時であった。 途切れそうな吐息が聞こえた。 続けて、痛々しい足音だ。足の裏の皮がズル剥けになり血まみれ になっている為に液体の音が混じっている。 二人のところへ走って現れたのは、雨次だった。 驚いたのは九郎だ。尋常ならざるその様子に、慌てて駆け寄る。 ﹁雨次っ!? お主、どうしたのだ!?﹂ 走り続けて酸欠になっているのか、喘ぎながら必死に彼は応える。 ﹁九郎、さん、うちに、賊が⋮⋮! 母さんが!﹂ ﹁わかったっ!﹂ その言葉だけで察し、顔色を変えた。 元々はその賊を取り締まるために見回りに来ていたのだ。確かに、 知り合いの家が襲われるかも知れぬと思って参加したのだが、まさ にこの夜に事件が起こってしまったのである。 ﹁影兵衛、用事は後にしろ! 己れはすぐに向かう!﹂ 言って、九郎は雨次の来た道を全力で駆け出した。 1352 体が完全に成長していない為に歩幅が小さいが、脚力が体重に比 例せずに強力な九郎が全力で走れば地面を蹴って飛んでいる早さだ。 雨次の倍以上も疾く夜道を切り裂いて進む。 彼の後ろ姿を地面にへたり込んだまま見送った雨次に、影兵衛が 屈んで低い声で話しかける。 ﹁おい、坊主。手前、母ちゃん置いて逃げてきたのか﹂ その言葉に、ぐ、と彼は両手を握りこみながら俯き肯定する。 ﹁僕があそこに居ても、殺されるだけだったんだ﹂ ﹁そうかよ﹂ ﹁母さんからも、逃げろって言われて⋮⋮﹂ ﹁ははあ﹂ ﹁初めて、お願いされて⋮⋮! 僕は弱いから、逃げて、誰か呼ん でくるぐらいしか⋮⋮!﹂ 涙声になりながら嗚咽と共に言葉を吐き出す雨次の頭を掴んで、 影兵衛は上を向かせた。 やくざ者も悪党も怯えるような苛ついた顔で、額をぶつけるよう に当てて声を低く怒鳴る。 腹が立っていたのだ。 勝負に水を差されたことではなく、別の何かに。 ﹁ガキが小賢しい答え返してるんじゃねえよ。母ちゃんに言われた じゃなくて、自分でどうしたいか決めろ。手前が本当にやりたかっ たこたァなんだ﹂ 雨次は、泣いて、半開きにした口をひくひくと動かせながら声を 絞り出す。 1353 ﹁本当は、僕が、お母さんを助けたかったんだ⋮⋮!﹂ ﹁決められるじゃねえか。おい、後は行動だ。背中乗れ﹂ くしゃくしゃと雨次の頭を掻き回して、影兵衛は彼を背負い立ち 上がった。 ﹁この先にある家だな? 目ぇ瞑ってろ﹂ ﹁え?﹂ ﹁拙者の超神速歩法は極秘なんだよ。目ェ開けたら殺す﹂ そう告げて、影兵衛はぐ、と身を低くして両足に力を込めた。慌 てて雨次も、言われたとおりに目を瞑る。 戦闘時に使用する、一歩目から最大速度を出しつつ限界以上の特 殊な加速術を連続で行う技だ。詳細を記すことは殺害されかねない 為に伏せる。 ﹁奥義││[白笹鼓]﹂ 恐るべき速度で、雨次を背負った影兵衛もその場から消え失せた。 ***** 1354 雨次の家は村の外れにぽつんとあるからすぐにわかった。 一度九郎も、行き倒れした雨次を送っていったことがある。外に 比べて屋根があるだけマシな環境だと感想が浮かんだ。 近づくと、僅かに血の臭いがした。 中に人の気配がする。木の軋む音。小さな水音。呼吸。 九郎は音も立てずに壊れたままの戸から中に飛び込んだ。 男が三人。一人は壁に寄りかかり九郎││というよりも玄関をじ っと見ていた。もう一人は座り込んで家にあった酒を勝手に飲んで いる。 三人目は、女に覆いかぶさっていた。 ぐったりとした女は片方の手首から先が無い。くろぐろとした血 が床に溢れ、腹には虫を刺し止めるように刀が生えて床に縫い付け られていた。 ⋮⋮生きているかもわからぬ。 ﹁外道が﹂ 見張りの一人が声を出す前に九郎は迷わず踏み込んだ。 女に覆い被さっている男の脇腹に超硬樹脂製コンバットブーツの 爪先を叩き込んだ。ばん、と激しい音を立てて肉と骨の抵抗を突き 破り男の重要な内臓を幾つか破壊して女の上から吹き飛ばす。即死 こそしなかったが、致命傷だ。 反応が返ってくるよりも早く、抜き放った刀で酒を飲んで眺めて いた男を肩から袈裟懸けにし、二つに分離させた。 もう一人のやや離れた男に銃を向けると、仲間を見捨てて既に縁 側へ向かって逃げていくところだったが、 ﹁あれェ? 手前逃げちまうの? なんだよもっと根性見せろよ切 りたいから農家へ押し込みなんてやってんだろ?﹂ 1355 ゆらりと、九郎より後に走りだした筈の影兵衛が現れて道を塞い だ。 彼は抜身の刀を軽く担ぎながら、 ﹁さあ、海を割ったり山を砕いたりお釈迦様を殺したりしてみろ。 おじさん超喜ぶからさあ﹂ ﹁う、うう、おのれ!﹂ ﹁出来ねえならつまらんから死ね﹂ 混乱しきって思わず斬りかかった賊の一人だったが、近づいた瞬 間当たり前のように首を刎ねられ、外に体と頭を蹴り落とされた。 九郎はとりあえず影兵衛より、倒れている女性へ視線を下ろした。 顔は殴られて左目が潰れ、右手首は切り落とされて左手は無残に 折られている。暴行により衣服は乱れ、腹や太腿には殴られた跡が 痛々しく残り、また刀で刺されている。 刀の刺し傷から血がまだ漏れているのを見て、九郎は近くにあっ た手ぬぐいを持ってきて刀を抜き取り布を重ねて帯で縛る。手首の 切断面も布を被せて縛って血止めをするが、 ︵これは⋮⋮助からぬであろうな⋮⋮︶ まだ心臓は動いているものの、大量の失血にこの怪我だ。今すぐ に病院に搬送できる環境でも助かるかわからない様体であった。こ の時代、この場所では⋮⋮ 影兵衛が近づく足音が聞こえた。 彼の背中から、雨次が飛び降りて母の体に縋りつく。 ﹁かあ、さん⋮⋮﹂ ぞっとするほど生気が無い母親は、触っても目覚めなかった。 1356 影兵衛が雨次に声をかける。 ﹁雨次。手前、まだやることがあるんじゃねえか?﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ 影兵衛はそう言うと、九郎が蹴り飛ばして死にかけている、下半 身裸の賊の襟元を引っ張って床に放り投げた。 そして、男の使っていた刀を床に突き立てる。 ﹁母ちゃんはもう助からねえ。手前の選択の結果だ。だが手前が悪 いわけじゃねえな。誰が母ちゃんをズタボロに殴りながら犯しまく って殺したんだ? おっと! こいつじゃんかよ! こ、い、つ!﹂ わかりやすく戯けて、倒れたままの男を指さし、にやりと笑った。 ﹁今なら、仇が取れっぞ﹂ ﹁おい影兵衛。何も雨次が手をかけるまでもあるまい。其奴もその うち死ぬ。己れが殺した﹂ ﹁だがまだ生きてる。おい急げよ雨次。急がねえと永遠に仇が取れ なくなるぜ∼﹂ 囃し立てる影兵衛の襟元を掴んで、九郎は声を荒立てた。 ﹁一々子供に殺しをさせずとも良い! こんな腐れ悪党を斬り殺し たところで、嫌な感触が手に残るだけだ!﹂ ﹁手前が決めんじゃねえよ! 仇なら憎いだろうが! 憎けりゃ殺 すしかねえよなあ!﹂ ﹁殺しなど経験させずとも人は生きていける! お主のはただの悪 趣味だ!!﹂ ﹁いいか? 九郎。殺すべき相手を殺せなかった奴。死ぬべき時に 1357 死ねなかった奴がその後どんな人生を送れるってんだ? つまらね えくだらねえ、後悔して何にも価値も見いだせずクソみてえな一生 を送らせたいのか?﹂ ﹁そんなもん皆我慢して生きておるのだ。普通にな! 子供の為の 未来だろうが!﹂ 意見の異なる二人は言い合うが、雨次は幽鬼のように立ち上がっ て、刀を手にし賊の前に立った。 息は荒く、手は震えている。顔は怒りや憤りよりも、何か別の覚 悟が見て取れた。 九郎が止めようとするが、影兵衛が九郎の手を取って制止する。 ﹁あいつの選んだ選択だ﹂ ﹁子供の凶行を止めるのは大人の仕事だ﹂ ﹁手前はあいつの親か? 違ェよな。拙者らは他人だ。あいつは己 の意志で仇を打つ。やりたくなけりゃ刀を下ろす。それだけだ。他 人の可能性を潰すな﹂ ﹁⋮⋮﹂ そこまで言われては、九郎も黙って雨次を見守った。 影兵衛の台詞を反芻し、己に対しても嫌な記憶が蘇ったのだろう か、渋面を作っている。 ﹁は⋮⋮ああ⋮⋮﹂ 震える手で刀を抑えるように持っている。 呻いている賊から目は離さず、全身から嫌な汗を雨次は掻いてい た。 何がしたいのか本人にもわからない。 怒りに任せて刀を叩きつけられたらまだ良かった。それをする熱 1358 が体から湧いてこなかった。 殺して何になるのか、まったく理解できないが。 頭ではなく、魂が呪いの言葉を吐き続けていた。 殺せと。 だから雨次は理屈ではなく、それに従う事にした。 ﹁やるなら叫ぶといいぜ。叫べるのは、生きてる奴だけだからな﹂ 影兵衛の言葉が聞こえた。 そして、少年は刀を思いっきり振りかぶり、あ、と叫びながら全 力で振り下ろす。 硬い刃は賊の首に刀身の半ばに当たって切れて、肉を突き破って 重要な血管を切り裂き、首の骨を叩き壊すように荒々しく貫き、三 分のニほど首に食い込んだあたりで刀身の尖端が床に刺さり刀の勢 いを止めた。 両断するには至らなかったが、千切れかかったような首から血が 沸き立つ。 殺した。 ﹁よ∼し良くやった!﹂ 影兵衛が喜んで雨次に近寄った。 ﹁最初に頭狙いで行くと頭蓋骨に弾かれて自分の足とか切っちまう 奴いるけど、上々じゃねえか。よっと﹂ 軽く雨次の手から刀を受け取り、ひょいと男の首を落として胴体 と頭を手にする。 1359 彼は九郎へ視線をやって、 ﹁おい九郎も、その甲乙に分かれてる死体持って外に出っぞ。雨次、 手前はせめて最期まで、母ちゃんの側で自慢してろ。ちゃんと助け に来たって。仇は取ったってよ﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 雨次は小さく返事をして、再び倒れていまにも死にそうに眠る母 親の側に座り込んだ。 九郎は不意打ちで真っ二つにした男を引っ掴み、血がなるべく付 かないように引きずって外に持っていく。 一人、いや二人家に残された雨次は冷たい母の残った手を握った。 周囲に散らばった血の中に、今晩眺めていた読めない本が開かれ て落ちている⋮⋮ ***** 雨次の家から少し離れた場所。 影兵衛が待っていた。 ﹁さって。じゃあ続きをすっか﹂ ﹁⋮⋮ああ。それは忘れないんだな﹂ 殺し合いが再開されるのだ。九郎はさり気ない仕草で死体を放り 落としつつも布石として氷結符を発動させて設置した。 再度、向き合う。 己と身内を守るためには対峙し退治しなければならない相手だ。 1360 逃げられない強制的な流れがある。だから、最早影兵衛を倒す事 だけを考えた。 冷たく乾いた風が流れた。 動いたのは九郎が先だ。全力を使い後ろ方向へ飛びつつ、腰から 銃を取り出して構える。 照準より先に影兵衛の両手が向けられていた。 ﹁行けよ! 小柄ァ!﹂ 彼の得意とする投剣だ。余人の投げるものではない。小刀と侮れ ず、骨まで突き通る威力を持つ。 正確な軌道で二本。九郎の胸と腹へ飛来してくる。手足などの末 端部分を狙われたのならば躱すのは容易だが、後ろに下がりつつあ るこの状況では回避は困難だ。 九郎は躊躇わず魔女の猟銃を小柄へ射撃する。銃身を切り詰めた 散弾銃の形をしたこの銃は、非実体弾の呪いを銃身から放射状に吐 き出す。 うまい具合に二つの小柄を力場で巻き込んで弾き飛ばした呪いの 投射が、影兵衛が居た場所へ向かうのだが││既に彼は移動してい た。その代わりに軽く積もっていた雪が蹴って巻き上げられている。 ば、と軽い音を立てて巻き上げられた雪に穴が開く。 九郎は横に避けていた影兵衛の表情を見て悟った。 ﹁弾の拡散範囲を見切ったか、今ので﹂ 再び闇に線引くように投げ放たれた小柄が向かう。 九郎は素早く銃をポンプアクションして次射の用意を行いつつ、 飛来した小柄を銃身で払うようにして叩き落とした。 1361 特別に頑丈というわけではないが、人間が投げた小型刃物程度な らば受け止める強度がある。 そして改めて影兵衛に狙いを正確に付けて、射撃。悲鳴めいた銃 声が上がる。 ﹁あらよっと!﹂ なんでもない事のように、影兵衛は放射する呪いの銃弾から回避 する。 続けて射撃を行うが、これも避けられつつ影兵衛は間合いを詰め てくる。 魔女の猟銃の欠点は弾速の遅さだ。呪いの悲鳴によって齎される 破壊なので、亜音速にしかならない。 ︵いや、普通の人間なら亜音速弾でも避けられぬのだが⋮⋮︶ 影兵衛が普通である筈がない。笑いながら避け続けている。 ﹁こっちからも行くぜェ!﹂ 再び小柄が頭狙いで投げられた。避けるか。一瞬悩み、撃ち落と すことにした。小柄に巻かれた半透明のてぐすが見えたからだ。 つまりその一瞬、九郎は上段に来る小柄に意識を取られて下段に 投げられた物を見落とした。 闇夜に溶け込む黒塗りの十手が足を目掛けて投擲されていたのだ。 ﹁││っ!﹂ 当たる僅か手前でそれに気づき、咄嗟に足で蹴り上げる。直撃し たら肉が貫通しそうな程の勢いが十手にはついていた。 1362 影兵衛は九郎の目の前に蹴って弾かれた十手を見て、 ﹁まだ生きてんだよォ!﹂ 叫び、投げる時手に持ったままだった十手の柄に付けられた捕縄 ││これも黒塗りだ││を操ると絡みつく蔓草のように九郎の手元、 魔女の猟銃の銃身に巻き付いた。 そして引っ張り、銃口を影兵衛から逸らされと同時に九郎は銃を 手放し、身を低くしてその場から飛び退いた。 九郎が退避した瞬間、間合いを刹那に詰めてきた影兵衛の白刃が 空間を切り裂いて魔女の猟銃を二つに切り割った。 ﹁やっぱ勝負は切った張ったでねえと││殺し甲斐がねえよな? きひひっ﹂ ﹁そうかえ﹂ 九郎も警戒しつつアカシック村雨キャリバーンⅢを抜き放ち、構 える。 影兵衛を相手にする際の戦略、安全性を考慮した第一の遠距離か ら射殺作戦は失敗したがまだ勝算はある。 江戸に来てから殆ど刃を抜いて使われることのなかった刀だが、 特殊な能力が秘められている。一つは刀身から溢れ出る凄いと感じ る力。見たものの目を奪い隙を誘う。 もう一つは刃から発せる凄い切れ味。凄いという概念が付与され ているのでそれはもう凄い。鉄だろうがタングステンだろうが豆腐 の様に切れる。通常の刀など撃ちあっただけで真っ二つにしてしま うだろう。 影兵衛も抜いた九郎の刀を見て、絶頂の表情を浮かべている。 ﹁凄ェな。おいおいおいおい、凄くねーか? やばくねェか!? 1363 殺してぇ。凄ェこんなに殺したい気持ちは初めてだ! ありがとう な九郎手前は最高のお友達だ! 絶対ェ殺してやっからなァ! う ぇひひひははははかかか!!﹂ ﹁逆効果すぎる﹂ 普通の感性ならば[凄い]と気圧されるとか、崇敬の感情を覚え るとか、気を引くなどの効果があるのだがあからさまに好戦的にな る相手は初めてだ。 九郎は正眼に刀を構えて、興奮している影兵衛に向かって間合い を詰めた。 胴を払う攻撃だ。影兵衛の刀より一尺は長い為に彼の反撃が繰り 出されても躱せるぎりぎりの位置で払う。 敢えてわかりやすく打ち込む一撃を、狙い通り影兵衛は己の刀で 受け止める動きを見せた。 だが、打ち合えば通常の刀など一瞬で││、そう思った。 刀が交差して閃光火花が闇夜に光った。 九郎の一撃は真っ向から弾かれて影兵衛の平突きが返ってくる。 慌てて身を捩るが肩を掠めた。 突きで伸ばしたままの刀を軽く引いて、そのまま首を薙ぎ払って くる。九郎は己の村雨で受け止める。酷く重い攻撃だった。 影兵衛の刀は切断されていない。 ︵││っ! あやつの刀から生み出されている切断の威力がこの刀 の凄い概念と食い合って、効果を打ち消しているのか⋮⋮!︶ 彼の刀に特別な魔術が掛かっているわけでも、伝説の名刀という わけでもない。 ただ、[切り裂き]の同心が扱う刃はその技量と業前からありえ ない切れ味を生み出し、超常的な現象と化しているのだ。 ぎりぎりと鍔迫り合いをしながら九郎は苦しげに云う。 1364 ﹁ちょっとお主、人間辞めすぎなんじゃなかろうか⋮⋮!﹂ ﹁知らねえし、興味も無え││よォ!﹂ ﹁がっふ⋮⋮!﹂ 鍔迫り合いの体勢から即座に柔術の如く力を逸して捻り、九郎の 脇腹に蹴りを入れる。 蹴りを刀から離した片腕で受け止める。骨が軋み、体ごと吹き飛 ばされる衝撃を地面を二三回バウンドしつつ受け殺して立ち上がる。 追撃で追いかけてきた影兵衛が逆袈裟の斬撃を放ってくる。九郎 は背後に己の胴回りよりも太い樹木があったために、転げるように それの後ろに回り込んだ。 刀が木に突き刺さって止まるようなことはなかった。いとも容易 く彼の攻撃は木幹を両断する。九郎はぎりぎりで避けていたが、断 ち切られた木の上部を蹴り飛ばして影兵衛の方へ倒した。 お互いの視界が遮られている。影兵衛は九郎の刀の気配に従って 追いかけようとしたが、迷わず全力で遠ざかった九郎からは少し遅 れた。 影兵衛から距離を開けつつ胸元から術符を取り出して、放った。 ﹁││発雷!﹂ [電撃符]の高出力発動で発生する、指向性のある魔法の雷だ。 一億ボルトの稲妻がジグザグに軌道を描きながら影兵衛へと放たれ た。 早さは銃の比ではない。光ったと思った瞬間着弾するのが雷の魔 法だ。即座に影兵衛の体を焼きつくすだろう。威力に手加減が利か ない為に使用を控えていたのだが、それどころではない。 切り払われた。 1365 ﹁はあ!?﹂ 九郎が盛大に驚く番だった。影兵衛は地面に刀を突き刺して凶悪 な顔を浮かべている。 ﹁奥義[金龍稲花]││自画自賛じゃねえけどよ、ちょいと凄ェだ ろ﹂ ﹁待て、なんで雷が刀で切れるのだ﹂ ﹁あァん? つーかもう雷ぐれえ百年以上前に切った武将が居るだ ろ。じゃあ拙者にも切れねえ道理はねえ。さあ次は何を出すんだ! ? 流れ星でも降らせてみやがれ! 斬るからよーう! くかかか かか!!﹂ 心底楽しそうに笑い声をあげる影兵衛に九郎はかなりマジで引い た。どういう技かは雷光で見えなかったのだが。 本当に目の前の男が人間か怪しくなってくる。魔人か何かじゃな いだろうか。 す、と彼が刀を腰に収めた。 ﹁││行くぜ﹂ まずい、と九郎は判断する。刀を鞘に収めたのは、納刀時の方が 動きの制限が無くなるからだ。そして、影兵衛は剣先を鞘に引っ掛 けるようにして速度を上げた抜刀斬撃を、急速に接近して放ってく る技を警戒した。 以前、仇討ちを挑む兄弟の助太刀をした時に見たことのある処刑 技││[吟華千輪]という。 瞬時に必殺の間合いに入ってくるのは足捌きもあるが、人間とい うものは意識の連続性を保つためにあらゆる行動の繋ぎ目に、32 1366 分の1秒だけ無意識になる瞬間がある。大抵は一瞬なので何の問題 もなく、続けていた行動を行うのだが││ 影兵衛のその技は、その意識の空隙を突き認識不能のまま接近す るのである。実に不可解な技だが、彼には可能だ。 ﹁このデスザムライが!﹂ 影兵衛が消えたと認識した瞬間に九郎は刀を構えて前に飛び出た。 待ち受けては完全にタイミングを読まれて斬り殺される為に、こち らから接近しなければならない。 薄影のように消えていた男が目の前に出現して、居合抜刀を放っ てきた。 反応が僅かに遅れて脇腹に薄く食い込むが、受け止めて弾く。 ﹁そうこなくちゃあ楽しくねえよなあ!﹂ ﹁言ってろ!﹂ 反射神経と腕力に任せて九郎から攻撃を放つがやはり受け止め、 いなされて体勢を崩しかけるが無理やり膂力で耐える。 剣の技量は比べるべくもなく、九郎が劣っている。いくら力で勝 ろうとも埋め難い差だ。 影兵衛が攻撃の意志を見せただけで常人ならば卒倒しそうな悍し さを背中に感じつつ、九郎は勘と目で必死に避けきる。斬り込まれ たかと思えば軌道が急に変化し、剣で防御しようとすれば突きが顔 を掠める。どのような攻撃か把握するだけで死ぬほど苦労する。 牽制ですら必殺と思い受けなければ死ぬ。 ﹁どうした九郎ォ!? イカサマでも妖術でも使っていいんだぜェ !?﹂ ﹁やかましい!﹂ 1367 叫びながら戦う影兵衛。呼吸を見て攻撃を先読みできる││かも しれない為に少しでも避けるヒントになりそうなものは全て見て回 避の糧にした。 剣を交差し、火花を散らす。影兵衛の死神の舞踏めいた無数の剣 刃は九郎の体に細かい傷をつけ続ける。 一方で九郎の攻撃も受け流されているとはいえ、豪力によって振 るわれるそれは流すにも大きな力が必要で影兵衛の腕への負担へと なっていた。 影兵衛は歓喜する。なにせ、九郎が死なない。殺す気で振るう刃 の前で死なない相手は貴重で希少だ。 ﹁手前みたいなやつを拙者ァ待ってたんだ!﹂ ﹁一生待ち続けてろ!﹂ 鍔迫り合いの一瞬で九郎が影兵衛の刀を握る手首を掴んで投げ飛 ばそうと力を込めた。 その力を影兵衛の柔で逆に利用されて体重の軽い九郎が地面に叩 きつけられる。 突き刺す動きで九郎の顔面に刀を落とすが間一髪で避けてこちら の足元を刈ってくるので飛び退いて避けた。 やや離れた間合いで再び対峙する。影兵衛は刀を担ぎながら笑み を浮かべて気軽に問いかけてくる。 ﹁知ってるか? 世の中には二種類の人間が居る﹂ ﹁眼鏡とそれ以外であろう﹂ ﹁いや、違ぇ。っていうか知り合いで眼鏡って石燕の姉ちゃんしか 居││﹂ ﹁アカシック村雨キャリバーンⅢ発動﹂ 1368 相手にツッコミの合いの手を入れさせた瞬間に不意打ちで剣の凄 い概念を上位発動させる。 光を伴う衝撃波を前方広範囲に放ち爆発させる能力である。 威力は状況によって異なるが、対人から対竜までとにかく眼前の 敵を吹き飛ばす効果がある。 切り払われた。 影兵衛は少し呆れた口調で、云う。 ﹁話の途中だ﹂ いいか? と前置きして続けるので九郎も頷いた。どうしようと かなりマジで悩みつつ。 ﹁一つはくだらねえ奴だ。生きていても意味のねえ、ただ心臓が動 いてるから仕方なく生きてます、世間の流れに乗って社会に馴染ん でますって感じのナマモノだ。 そいつが死のうが何の価値もねえ。拙者が斬り殺してきたのは全 部これだ。もしかしたら拙者含めて人間全部これなんじゃねえのっ て疑わしくなっていた﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁もう一つは││くだる、くだらねえ関係なく生きてる奴だ。地図 も明かりも道標もねえ場所を疑いもなく進んで正しい結果を引き寄 せる。 何故か知らんが成功する。そいつを中心に世界が動いてる。そん なお伽噺の一寸法師や桃太郎みてェな人間。居ると思うか?﹂ ﹁そんな奴が居ると信じているのは狂人か阿呆だ﹂ きっぱりと云うが、影兵衛は笑みを濃くする。 1369 ﹁もし、居たらとしたらだ。拙者ァそいつを殺してみてェって憧れ てんだよ﹂ ﹁何故だ﹂ ﹁だってよ、そんな世界の中心の主人公様を殺したらこの世界はど うなる? 終わるのか? 無くなっちまうのか? それはこの世界 全部を斬るに等しい行為なんじゃねえかって考えたら、ガキの頃か らわくわくしてよ﹂ ﹁無くならんし、終わらん。この世界は作られた物語などではない からな。そして﹂ 九郎は影兵衛を睥睨しながら告げる。 ﹁欲しかったものを取り零して、腐って生きている己れは、ただの 人間だよ。お主も、物騒なだけのただの子供だ﹂ ﹁⋮⋮そうかよ。まあ、斬ってみればわかる。 ││くだらねェならここで死ね﹂ 影兵衛は構えを変えた。九郎は指先から心臓の奥まで細胞全てが 危険察知したのを感じる。 気配が変わった。 彼は笑みを止めて無表情になり、目を細めて云う。 ﹁それじゃあ、そろそろマジ殺しの時間だ﹂ ﹁⋮⋮ちなみに今までのは?﹂ ﹁楽しいお喋りの時間﹂ ﹁⋮⋮﹂ 1370 九郎の脳内に悲報が流れた。ほぼ完封されてた状態の影兵衛はま だ全然本気ではなかったらしい。 武器は殆ど使い、無効化された。 ︵いや、まだある︶ 九郎は唾を吐き捨てる。地面に落ちる前に中空で凍って礫となっ た。 必要な時間は稼いだ。影兵衛の本気に立ち向かうか、或いは彼が 本気になる前の今仕掛けるか。賭けに出るには今しかないので、や ると九郎は決めた。 ﹁なあ影兵衛。お主の技は大したものだが││お返しに己れも奥義 を見せてやろう﹂ ﹁ほう。そいつァ楽しみだ﹂ 少し影兵衛の雰囲気が和らいだので、九郎はまず安堵する。九郎 の方から技を出すと宣言すればこの男はとりあえず受けてみようと 思う可能性が高いと判断して提案したのだ。 九郎は腰に差していた刀の鞘を外し、アカシック村雨キャリバー ンⅢの柄に組み合わせる。剣の形が長巻に似た状態になった。 そして鞘に[炎熱符]を巻きつけて、発動させた。 ぼう、と術者である九郎を焼かない炎が、刀身全体を包んで夜闇 に明るく輝いた。 影兵衛は新しい玩具を見つけたように喜色を見せている。 九郎は絞りだすように技の名前を唱えた。 ﹁││││双刃神爆炎剣・極式﹂ 轟、と燃え盛る炎の双刃剣をその場で回転させ、灼熱色の渦を巻 1371 き目を引いた。 ここからどんな技が、と影兵衛が身構えた瞬間である。炎の嵐の 中心になっている双刃神爆炎剣から二つの投擲物がぼ、と炎の壁を 突き破って飛来してきた。 それは九郎が両袖に仕込んでいた貫銭だ。貫紐が火で消し炭に成 りかけたそれは空中で解けて散弾のように影兵衛に襲いかかる。 不意打ちで投げつけられた銭を右手に持った刀で右から左に一閃 ││いや、投げられた銭が届く前に目にも留まらぬ返す刀をもう一 閃し散弾を打ち払った。 ︵奥義はどうした⋮⋮?︶ 真逆これが、とは思えない影兵衛は炎の渦となっている剣へと意 識を再度向けるが││ 剣を九郎は握っていなかった。空中に放り投げた剣が、まだ落ち ていない。炎の大きさで誤魔化されている。ただそれだけだ。 九郎は銭を投げたと同時に剣から手を離して身を低くし、影兵衛 が刀を握る右側へ飛び出して高速で接近していった。 夜の中、突然煌々と照らす炎を注視していた影兵衛は見逃したの だ。 最初から奥義など存在はしない。適当に名前を付けた目眩ましだ。 銭投げも意識を逸らす為のものである。敢えて燃える剣を投げなか ったのは、受け止められる可能性が高かったからだ。 ︵一手でも読み違えれば死ぬ。だがやると決めた︶ 九郎と云う男は平凡ではないかもしれないが、強さに恵まれたわ けではない。技も力も能力も、極まっているわけではなく強い者な ど他に幾らでも居る。 それらに恵まれた強者に勝つには不意を突くしか無い。そして多 1372 少騙し打ちを仕掛けてもどうしようもない影兵衛のような男と戦う には、こうなれば未来を読むぐらいしか無い。 しかし九郎には未来を読む力ないどない。だから、予想した。 九郎がどういう攻撃を仕掛ければ最良の対処を仕掛けてくるか、 自分がやられたら負ける方法を予め想像して、それの一手上を行く 作戦を練った。それらを相手が確実にやると前提して、迷いなく実 行する必要があった。 更に予め仕込んでおいた、影兵衛の能力を低下させる罠も効果を 発揮する頃だ。氷結符によって周囲の気温は、吐いた唾が凍るほど になっていた。 九郎はつい先程まで炎熱符を自分の体に使っていたので問題無い が、戦いを続けて汗を少なからず掻いていた影兵衛はそれが薄く凍 って急速に体力を減らし、体中の動きがぎこちなく、認識力も普段 より低くなっている。 目眩ましの炎と銭投げをした九郎が悪夢のような速度で己に接近 してくる事に影兵衛が気づいたのは既に間合いに入った時だった。 寒さで知覚が遅れた。 九郎は素手だ。彼の左手方向に振り上げられた影兵衛の刀が、九 郎に向かって振り下ろされる。 これまでに比べて精細に欠けた一撃である。自覚した寒さによる 体力の低下が関係しているのだろう。 剣が九郎の体を両断する加速を得る前に、九郎は敢えて自らの左 手を刃に殴りつける様にぶち当てた。 影兵衛の剣は手の骨程度ならば小枝同然に切り割る。 だが、九郎が角度を計算して刀に打ち込んだ軌道では、刃が前腕 の尺骨と橈骨の二本の骨を縦に食い込むようにした。 影兵衛の剣も既に弱っている上に殆ど振りかぶられても居ない状 態で受けた。腕の骨二本という肉に包まれた頑健で強固な物質と、 横ならまだしも縦にならば切れまい。更に貫文銭ももう一本袖に仕 1373 込んである。 切れた。 腕が魚を下ろすように綺麗に骨から縦に真っ二つであった。弱っ ていたのは確かだが九郎の予想以上の威力であった。百枚重なった 貫文銭も余裕でぶった切られた。 だから、それから起こったことは予定に無いただの偶然だ。 九郎の腕にてそれでも僅かに勢いを殺された刀はそのまま九郎の 頭を軌道に捉えていたのだが、その時九郎は力を込める為に歯を食 い絞めた。その隙間に刃が旨い角度で入り込み、九郎の全力の顎の 力によって影兵衛の刀は砕け散ったのだ。 影兵衛から見ると咄嗟に口で受け止めた脅威の技であり、九郎か らすれば痛みが伝わるより早く、何故か急に口の中に刃の破片が飛 び散るわ口の両端が切れるわで混乱しかけたが、予め決めた手順ど おりに進む。 殴り拳を引く動きで手首の力を使い、右手の袖に入れて持ってい た貫文銭を影兵衛の脇差しを抜きかけていた左手に投げつける。刀 を失ったぐらいではこの男は怯まないし、この距離からでも脇差し での抜き打ちで殺すぐらいはする。 近距離から痛打された影兵衛の手が止まる。 九郎は引いた拳を振るった。当たる直前に、先ほど投げた貫文銭 がまだ宙に残っているので回収して握りこむ。ただ殴り拳を固める より、何かを握ったほうが威力は上がる。 九郎の全力打撃は影兵衛の胸元へ入った。べきべきと肋骨をへし 折る感触がするが、九郎は焦る。 ︵軽い⋮⋮!︶ 1374 僅かに影兵衛が早く上体を後ろに逸し、自ら転ぶようにして威力 を殺している。それでも骨ぐらいはへし折っているが、致命打には なっていない。 更に転ぶ動きに合わせて、九郎の腹に猛烈な蹴りが文字通り突き 刺さった。肉が裂けて血が出る感触を覚える。 ﹁この﹂ 九郎は意地で更に踏み込んだ。 再び拳を握り、笑みを浮かべながら倒れていく影兵衛の顔面に、 ﹁迷惑野郎があああああ!!﹂ 思いっきり、ぶん殴った。 上から打ち下ろす打撃を受けて、地面に頭から叩きつけられる影 兵衛。 もはや、動くことはなかった。 ﹁はあ、はあ⋮⋮ぐっ﹂ 九郎は握りこぶしを解いて、血が滲み出した腹に手を入れて差し 込まれた刃物を引き抜く。 十字手裏剣であった。 影兵衛が足に仕込んでいたのを蹴りと同時に打ち込んできたのだ。 ﹁そこまで⋮⋮はあ、殺したいか⋮⋮うう﹂ やられる一瞬前まで相手を殺すことだけを考えて行動した[切り 裂き]同心。 1375 恐るべき魔人は仰向けで倒れているが、潰れた顔には満足気な笑 みが浮かんでいた。 九郎はびちゃびちゃと縦に割られた左手から出る血に顔を青くし ている。血もまた、外気を浴びると凍りついていく。 ﹁はあ⋮⋮いかん、氷結符を止めねば⋮⋮はあ⋮⋮﹂ 体を引き摺るように動かして、なんとか術符の側まで行って回収 し強烈な寒さ停止させる。しかし、下がった気温はすぐには元に戻 らない。 血が溢れ出る。体が徐々に動かなくなる気配に、九郎は息が荒く なる。 ﹁はあ、はあ、手を、縛って⋮⋮ぐっ、くそ、血を流しすぎた⋮⋮ はあ、はあ﹂ 服を破り裂いた布で割れた手を縛り付ける。繋がっているだけマ シかもしれない。布はすぐに赤色に染み、血は凍るように冷えて傷 んだ。 九郎もとうとうその場に座り込んでしまう。 体力も限界だった。頭が酒を飲んでないのにぼうっとする。寒さ を徐々に感じなくなってきていた。 ﹁まずい⋮⋮このままでは死ぬ⋮⋮回復、間に合うのか⋮⋮﹂ 体に刻まれた存在概念の術式は徐々に体を治すというものだから、 ここまで急な怪我をした場合にどれほど急いでくれるかは未体験で ある。 奥歯がカチカチとなる。夜中に不意に目覚めてまだ眠い時のよう な倦怠感だ。 1376 ﹁はあ⋮⋮少し、少しだけ、休んでから⋮⋮応急処置を⋮⋮休んで ⋮⋮﹂ 九郎は首を項垂れ、縮こまるように体を抱いた。目を開けていて も急速に視界が暗くなっていく。 うわ言のように何かを呟き、やがてその意識を手放す一歩前で、 ﹁すまん⋮⋮﹂ と、謝った。頭に浮かんだ誰かに。 雪が降っている、静かな夜だった⋮⋮。 <完> 1377 ***** ﹁完じゃねえよ﹂ むくりと布団から起き上がった瞬間に影兵衛はそうツッコミを入 れていた。 そして改めて激痛を感じて、 ﹁がああ!?﹂ と混乱し叫んだ。あまりの痛さに直前まで見ていた夢の内容も忘 れた。 呼吸をするだけで酷く胸が痛むし、顔も火鉢に突っ込んだままに なってるんじゃないかと思うぐらい熱を持っている。 周囲を見回すと火盗改の役宅であった。自宅でも実家でもなく、 つまりは火盗改長官の家である。 清潔な布団と枕元には水桶に濡れ手拭い。病人か怪我人の扱いだ った。 1378 ︵誰が? 拙者が?︶ 自分以外居ないというのにそんな考えが浮かんだことに、変な笑 いが浮かんで思わず咳き込み、激痛に再び悶えた。 ︵っていうかなんで生きてんだ、拙者︶ などと思っていると、障子戸が開けられた。 実直そうな顔つきをした五十代の男が入ってくる。影兵衛は姿勢 も変えずに応対した。 ﹁おかしら﹂ ﹁目覚めたか、影兵衛。お前はまる二日寝込んでいたのだが﹂ ﹁二日ァ?﹂ 彼は側に座りつつ煙草盆から煙管を取り出して喫む。煙が部屋に 薄く広がった。 ﹁夜の見回りに出た日に例の押し込み強盗と斬り合いになって倒れ たのだ、お前は。その晩帰ってこなかったのだが、一同まあ影兵衛 だから大丈夫だろうと思っていたが翌日、同じく重傷の九郎がやっ てきてお前がやられたので運んでくれとな﹂ ﹁はあー﹂ ︵あいつも生きてんだ︶ 気のない返事をしつつぼんやりとそう思った。 ﹁九郎とお前の二人がかりでそこまで怪我を負わせられるとは余程 に凄い悪党だったのだろう﹂ 1379 ﹁ま、まあそんなところで﹂ ﹁あいつは冬野菜の盗賊団がどうとか意味の分からない事を言って いたが﹂ ﹁なんすかね、冬野菜って﹂ ﹁いや、知らん﹂ 影兵衛にもいまいち関連性がわからなかった為に首を傾げた。 ﹁ともかく、医者が云うには完治するまで二ヶ月は無理させてはな らんとの事だ﹂ ﹁げっ、首ですかい?﹂ ﹁馬鹿を云え。お前のような悪党を首にしても碌なことにはなるま い。しっかり席は残しておいてやるから、家で大人しくしておけ。 悪所通いも喧嘩も禁止だ﹂ ﹁そりゃあねえぜおかしら∼﹂ 情けない声を上げてがっくりと顔を落とす影兵衛。 長官は笑いながら、 ﹁ま、今のお前みたいな良い面構えでは岡場所でも相手にしてくれ ぬかもしれぬぞ﹂ そう言って鏡を差し出してきたので、影兵衛は受け取って己の顔 面を見る。 鼻の頭には大きなあて布が軟膏で止められているし、全体的に腫 れて膨らんでいる。血の巡りも悪いのかところどころ赤黒く変色も していた。 ﹁こいつァなんとも﹂ 1380 彼は困ったようにぺしりと自分の頭を叩く。 ***** ﹁んー⋮⋮怠ぃ⋮⋮﹂ 緑のむじな亭の店で低血圧のように気怠げな声を上げて座敷で寝 ている少年の姿がある。 九郎であった。 ぐったりとした様子でここ数日は寝込み、今は店に来た石燕の膝 枕を借りていた。 しんどそうなのは怪我だけではなく、やはり死にかけたことでま た知人友人から尽く説教を受けた疲労もある。 その左手には生々しい傷を包帯で硬く縛り止めていた。腕の骨の 髄まで切り割られたものだから、未だに手はぴくりとも動かないし 触ると非常に痛む。幸いだったのは、影兵衛がすぱっと綺麗に切っ てくれたお陰で変に歪まずにくっつきそうだということか。 ﹁はい、九郎君あーん﹂ ﹁うむ⋮⋮はあ⋮⋮﹂ と、石燕が箸で摘んだひじきと大豆の煮物を九郎は口に入れて咀 嚼する。ひじきにはカルシウムが豊富に含まれていて傷の回復にも 良い気がする。念の為にカルシウム吸収量上昇の符も使っていた。 怪我をした翌日までは口腔内に刀の破片が入りまくって痛み、な んとか石燕に頼んで取り除いて貰ったものだ。 1381 体の傷は腕以外だいたい治っている。しかしながら失血死or凍 死しそうになった事から、精神は酷く怠さを覚えてなかなか治らな い。 されるがままの九郎というのもまた好ましいと、石燕などは面倒 を見ているのだったが。 ﹁石燕⋮⋮﹂ ﹁なにかね、九郎君﹂ ﹁すまんな﹂ ﹁ふふふ、いいよ。それに私は九郎君が死ぬなどとは思っていない からね。君を信じているさ﹂ ﹁⋮⋮うむ﹂ などと、会話していると店に入ってくる男がまっすぐに九郎の座 敷にやってきた。 ﹁おーう⋮⋮痛ぇ怠ぃ﹂ ﹁⋮⋮なんだ、随分男前が来たな﹂ 影兵衛であった。お互いにやりあってからは初めての顔合わせだ。 相変わらず顔面に包帯を巻いている。不自然に胸を張っているの は肋骨が変にくっつかないように矯正させられているからだ。 ﹁トドメを刺しに来たのかね?﹂ 石燕が問いかけるが、 ﹁いや、そんなだっせェことはしねえ。っていうかやる元気もねえ。 絶対安静なところをこそっと出てきたぐらいでよ。歩くだけでメッ チャ痛ェ﹂ 1382 ﹁帰って寝ておれよ⋮⋮﹂ 九郎がぼやくが、影兵衛が問いかける。 ﹁九郎、なんで拙者を殺さなかった? こちとら殺す気満々だった のによ﹂ ﹁別に理由があってのことではない。そんな余裕も無かったしな。 まあでも、あれだ﹂ 九郎はのそのそと石燕の膝から起き上がると、眠そうな眼差しを 影兵衛に向けて応える。 ﹁年を取るとな、意地の悪いやつでも友達が居なくなると寂しくな るものなのだ﹂ ﹁⋮⋮そうか。ま、拙者らダチだもんな。負けたし。あーもうなん か拙者が悪かったぜ九郎。趣味に巻き込んじまってよ││っていう か、なんで手前の方が怪我軽いんだ? ずるくねえか?﹂ ﹁日頃の行いの差だ﹂ 云うと、二人は笑って、影兵衛は肋骨の痛みに悶える。 その姿に九郎は、憑き物が落ちたようだと感じた。何に囚われて 居たかわからないが、とにかく。 ﹁しっかしよう、聞いた話だとあいつから助けられるとは意外っつ ーか、そんなの出来たのかよっつーか﹂ ﹁ああ﹂ 九郎は首肯して、 ﹁雨次な。死にかけた己れら二人を家に運び入れて巧いこと生き延 1383 びさせるとは。簡単な応急処置もしてくれたお陰でなんとか次の日 から動けるようになったわ﹂ ﹁いや、次の日から動けるのはおかしいと思うけど⋮⋮痛たたた﹂ ﹁もう帰って横になったほうがいいのではないかね?﹂ 石燕の忠告に、影兵衛が従おうとした時、入り口から高い声が掛 かった。 ﹁旦那さまー! 家を抜けだしてこんなところに!﹂ ﹁げっ﹂ それは十代後半ぐらいの少女であった。怒った様子で呼びかけて いるのは影兵衛だ。 そういえば彼は良い家柄の旗本三男坊であったな、と旦那と呼ば れた彼に、 ﹁お主の家の女中か何かか?﹂ と、尋ねたところ、彼は顔をさっと逸らしながら小声で、 ﹁⋮⋮いや、拙者の嫁さん﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁実家の御用人の娘だったんだけど⋮⋮こう、つい手をつけたら墓 場行きだった。超速度とか忍術とかそんな勢いで。最近なんだけど﹂ ﹁⋮⋮大事にしろよ﹂ 九郎はなんというかそう云う他無かった。 大股で近づいてきた彼女は影兵衛の手を掴んで、 1384 ﹁あの、すみません旦那さまお怪我をしていて療養させたいので⋮ ⋮﹂ ﹁あ、ああ連れて行ってくれ。すまんなこちらこそ怪我人を﹂ ﹁それでは⋮⋮ほら、行きますよ旦那さま!﹂ ﹁じゃあな九郎、また遊ぼうぜって痛ェ、なあ頼むぜ引っ張らない でくれよ、むっちゃん! ごめん、悪かったって痛え!﹂ 嫁に必死で謝る影兵衛はなんとも言えない雰囲気を残して去って いった。 とりあえず、再びごろりと石燕の膝枕に収まる九郎。 ぼんやりとしながら声を出す。 ﹁しかしあの雨次がなあ⋮⋮どうやったのか己れにもわからんが﹂ ﹁適切な治療だったのかね?﹂ ﹁治療というか⋮⋮よくも一晩生き長らえたものだ。己れも、影兵 衛も⋮⋮﹂ 九郎は、最近新しく出来た小石川の養生所に居る雨次を思った。 誰かを助ける事も、一人では勝って生き残る事さえも出来ない自 分などよりも、彼は││。 ***** 将軍・徳川吉宗の頃。 小石川伝通院に住む町医者小川笙船が目安箱にて貧民救済の為の 養生所を建てることを訴願し、吉宗がそれを許可し大岡越前の主導 1385 のもとに作られる事となった。 当初は江戸の町民は病気は寝て治すもの、無料での治療など乞食 のようだと嫌っていた為にあまり入る人も居なかったのだが、その 中に雨次という少年が居た。 彼は重湯を匙で掬い、目の前の手が不自由な患者に与える。 ﹁はい、母さん﹂ ﹁おう。しっかし、こちとら血が足りねえのにこんなんじゃ治るの も治らねえっちゃ﹂ ﹁お医者さまの云うことは聞かないと。お願いだよ、母さん﹂ ﹁わかったよ。⋮⋮ほら、早くもっと飲ませろ﹂ 片目が潰れ、片手を無くし、腹に刺傷まであって死にかけていた 雨次の母が、そこに居た。 火盗改に運ばれて治療を受けて今はこの養生所に移されている。 医者も出来る限りの治療は行いそれでも治る見込みはまるで無いと 思っていたが││生き延びた。 意識が戻ってすぐに腹が減ったから何か食わせろ、と要求してく るのには雨次も笑ってしまったが。 治療には幕府の御殿医が担当している為に、貧民無宿人救済の為 の施設だというのに医療環境は最上級である。本来なら怪我ではな く病気の養生をする場所なのだが、利用者は少なく暇なので彼女が 入っていても文句を言われることはない。 ﹁しっかし、治ったら仕事どうすればいいかしら。欠損片目好きな 客とかあんまり居なそうだわ﹂ ﹁そんなことは心配しなくていいから⋮⋮そうだ、何か話をしよう。 僕がこの前爺さんのところで読んだ本でいいかな﹂ ﹁暇で暇で死にそうなんだ。頼むよ、雨次﹂ ﹁うん。あ、そうだ。いきなりだけどさ、母さんの名前を教えてよ 1386 ││﹂ そうして親子は、暫くの間養生所で仲良く過ごしていた。 目の前で死にそうな大事な人を諦めないと雨次が決め、救いたい と願い奇跡を引き寄せ彼は未来を手に入れた。 その代償がどうであれ││きっと後悔はしない。 1387 44話﹃録山晃之介は不幸をものともしない﹄ 緑のむじな亭で九郎と石燕が白湯を飲んでいた。 九郎の腕を骨髄まで真っ二つにされた傷はさすがにまだ塞がって おらず、包帯を巻きつけているが動かしたりすると傷が開いて出血 するのである。 故に血行を早める酒などは控えるべきなので、生暖かい湯をしみ じみと飲む毎日である。 酒類を生活の友としている││慢性的アル中ではないとは本人の 主張である││石燕も珍しくそれに付き合って、湯を飲んでいるの である。 ﹁あの空間だけ異様にじじむさいの﹂ ﹁まあまあ﹂ お房が胡乱げな眼差しを向けて、タマに宥められている。 確かにはたから見れば年若い男女が黙々と熱くも冷たくもなく味 もない湯を向かい合って飲んでいるなど、地味極まりない光景であ る。 時折、暇を潰すように碁か将棋を打っているが、まず九郎が負け まくるので落ち込んでふて寝し、次に再開した時はいい勝負だった が手を抜かれていることに九郎が気づいてやはり拗ねてしまい、石 燕は困ったように微笑んでいた。 決して九郎が将棋が弱いわけではないのだが。 崩し将棋なら勝てると主張している。 そんなここ数日であったが、その日の午後の事である。 店にふらりと武術道場の主、録山晃之介が現れた。 1388 彼は九郎を見つけて近くに来ながら、 ﹁二人共、相変わらず仲がいいな。って九郎。どうしたんだその左 手は﹂ 九郎の包帯でぐるぐるに巻かれて、指先はまだ血の気が薄い手を 見ながら尋ねた。 彼は反対の手を軽く上げて、 ﹁うむ、まあな⋮⋮いや、晃之介。お主こそどうしたのだ﹂ と、晃之介の格好を見て逆に聞き返した。 彼はいつもの道着姿であったのだが、全身がどことなく土で汚れ ていて、手などは泥で黒くなっている。背中には旅の時にも使って いた武具箱を背負い、手には風呂敷で細々としたものを包んで持っ ている。 荷物を床に下ろし、近くの席に座りながら晃之介はため息混じり に言う。 ﹁ああ実は昨晩なんだが、道場で瞑想をしていたら道場破りがやっ てきてな﹂ ﹁夜中だろう。叩き出せばよいのに﹂ ﹁結果的に勝てば同じことだ。それで受けると、相手は六人同時に 戦うという。十五人までなら同時に相手した事があるから、それは 良かったんだが⋮⋮どうやら六人ともかなりの使い手でな。真剣や 槍を持って挑んできたが、扱い慣れている様子だった。 何やら海を割るとか山を砕くとか仏を斬るとか物騒なアダ名まで 名乗っていたしな﹂ ﹁ほ、ほう⋮⋮﹂ 1389 何処かで聞いたことのあるそれに九郎は相槌を詰まらせる。 むくう ﹁油断したら危険だと思った俺は、まず六天流奥義[六空]を使い 一瞬で全て方を付けた﹂ ﹁強い人が本気を出すと身も蓋もない過程になるよね、九郎君﹂ ﹁うむ。戦闘狂は是非油断や容赦を忘れないで欲しい﹂ げんなりとしながら石燕と九郎は半目で呻く。 使い手と認められるような相手複数人を、﹁まず﹂で倒しきるの はやり過ぎである。なお、晃之介の手加減により倒された六人衆は 縛られて顔に落書きされ武器は没収されて適当なところに放置され たという。 晃之介は肩を落としながら、 ﹁まあ、そこまでは良かったのだが。奥義は俺も初めて実戦で使っ たものだからな﹂ ﹁そうなのか?﹂ ﹁型は伝授されていたが一々使うことも無かった。というか、奥義 を多用する日常など無いだろ、普通﹂ ﹁影兵衛あたりは通常技感覚で使っていそうだがのう。やたら必殺 剣とか名前つけるの多いし﹂ ﹁とにかく。初めて使った奥義の影響で道場の大黒柱がへし折れて な。今朝方、連鎖的に道場が崩壊した﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁そんな目で見るな⋮⋮﹂ 九郎が形容しがたい馬鹿を見つけた目で見てくるので、晃之介は さっと目を逸らした。 涼しい顔をした石燕が九郎の視線を諌めるように、 1390 ﹁九郎君、晃之介君にも事情があったのだよ。自分の奥義で自分の 流派の道場を破壊するに足る事情が⋮⋮くふっ、ふふ⋮⋮今まで使 い所が無かった奥義を試しにやってみたとかそう云うはしゃいだわ けではないのだから⋮⋮ふふふ﹂ ﹁くっ⋮⋮とにかく、それで潰れた道場の残骸から道具や金を掘り 出してたんだ。立花様から頂いた弓などは幸い無事だったのだが﹂ ﹁ああ、住む家が無くなったのか﹂ と、九郎が云うと消沈したように大きく頷き、俯いたままになる 晃之介であった。 彼の道場は住み家も兼ねており、別室に小さい寝床と竈がある。 なんとか持って出てきた荷物を見るに、布団や家具︵膝茂様︶など は未だに瓦礫の下だろう。 ﹁道場を立て直すにも大工に払う金がな⋮⋮三十両あまりは掘り出 したのだが、これが全財産ではなんともならん。原因になった昨日 の連中の刀や槍でも売り払って金を作ろうと思うのだ﹂ ﹁ほう。どれどれ、私はこれでも霊的鑑定に定評があるのだよ﹂ そう言って彼女は晃之介が運んできた荷物から武具を漁る。槍や 弓などは持ち歩いていたら確実に逮捕されるものなのだが、晃之介 は巧くカモフラージュして違和感なく持ってきているようだ。 ただし襲ってきた六人衆の武器で残っているのは小刀と槍だけで あった。他に太刀、弓、棒を使う者が居たのだが、最終奥義を食ら って破壊されたのだという。 晃之介は注文していた、擦った山芋をかけた蕎麦を箸で混ぜなが らげんなりと説明して、顔を上げて店主へ向き直り聞いた。 ﹁六科殿。ここの長屋に空き部屋は無いか?﹂ ﹁残念だが埋まっている﹂ 1391 無感情な声が帰ってきて、晃之介は﹁そうか⋮⋮﹂と気落ちした。 長屋は満室であるし、表店である蕎麦屋の二階には九郎とタマが 住んでいる。無理をすれば晃之介も住めなくもないのだが、さすが に手狭になるだろう。なにせ大荷物がある。 それに日頃の鍛錬がここでは出来ないという難点もあった。 ﹁お主の懇意にしておる柳川藩に頼ればどうだ?﹂ ﹁それも考えたんだがな、道場を潰されて駆け込んだなどと思われ かねないだろう。一寸気が引ける﹂ ﹁ふむ⋮⋮お八の実家に頼めばどうだろうか﹂ ﹁弟子の縁に頼るのもなあ⋮⋮﹂ ﹁妙なところで格好つける男だ﹂ 呆れた様子で呟く声に、晃之介自身も面倒な性格だ、と自覚しつ つも蕎麦を手繰った。 濃い目のつゆに、荒く刻み叩かれた山芋が混じり、それが麺に絡 みついて、うまい。薄く切った蒲鉾もつゆに沈んでおり、蒲鉾に山 芋という組み合わせもよく合った。 食いながら晃之介はぼやきを続ける。 ﹁それに、親父の形見の武具など大事な物も持っているから、あま り不特定多数の者が立ち入る場所は少し困る﹂ ﹁しかし刀もいろいろあるな。む、これなど古そうだが良い刀だな﹂ ﹁平安時代の古刀らしいんだが銘はよくわからないやつだな。膝が よく切れるから膝丸と親父は呼んでいた﹂ ﹁お主無駄に膝と因縁が無いか?﹂ などと言い合っていると、眼鏡を外してじっと槍を眺めていた石 燕が、 1392 ﹁むう、この槍は⋮⋮﹂ と、呟いたので九郎がのそのそと身を乗り出して石燕と顔を並べ て槍を見る。 ﹁良い物か?﹂ ﹁ふむ。私の特技、道具の記憶を読み取れた気分になって設定を付 与する程度の能力によると⋮⋮﹂ ﹁捏造鑑定能力な﹂ 冷ややかな声を挟むが、当然のように無視されて石燕は興奮した 様子を見せつつ続ける。 ﹁この槍は救済を願い、磔にあった偉人を貫いたかの有名な⋮⋮!﹂ ﹁有名なって⋮⋮あの何ギヌス?﹂ 九郎は胡散臭そうに槍を見ながら半眼で尋ねる。 うろ覚えだったがそんな名前の兵士が使っていた槍があった気が した。魔王の倉庫に二、三本転がってたのを見た事がある。いや、 転がってたのがどっかの主神の槍でバケツに突っ込まれてたのが神 殺しだっただろうか。雑だったのであまり印象に残っていない。 得意満面な顔で頷きながら彼女は言う。 ﹁そう九郎君も知っているね││磔になった鳥居強右衛門を刺した 槍[すねぎぬす]なのだよこれは!﹂ ﹁いや知らん。勘違いだったようだ﹂ ﹁ふふふ折角なので鑑定書を偽造しておこう﹂ などと話し合っていると、再び店に入ってきた別の客がこちらに 1393 近づいてきた。 ﹁鳥山先生ではないですか﹂ ﹁おや? 田所君だね﹂ 会釈してくるのは身なりの良い、細身の中年の男だ。 名を田所無右衛門という、石燕も描く妖怪画や黄表紙、読本など を刊行する[為出版]という版元に勤めている男である。 [為出版]は江戸でも大手の版元であり、持ち込みされる読売や 瓦版の印刷業も行っている。版木彫り職人や色付けの居職などを多 く抱えている大会社である。 江戸時代でも読み物は日常の娯楽として大いに盛んに利用されて いたのである。特に色物、恋愛作品などは良く売れ、刊行された時 代は下るが[偐紫田舎源氏]という艶本は四十万部の大売れになっ た程だ。 ﹁今回の妖怪本も評判良かったですよ、先生﹂ ﹁おや? そうかね﹂ 石燕はにやけた笑みを浮かべて、晃之介に茶を注ぎに来たお房を ぐいと抱きとめ、嘲るように語る。 ﹁そうか、そうだろう。誰がどう見ても私が描いたように思えたの ではないか? 我が愛弟子よ、なんと頼もしいことか﹂ ﹁ええ⋮⋮?﹂ わけがわからぬとばかりに唸る田所。 どこか不満そうに口を尖らせてお房が、 ﹁むう⋮⋮先生の描く構図とは一寸違った気がしたんだけど、あた 1394 いのは﹂ ﹁私の完全な模倣でなくていいのだよ。目で見えるものが全てでは ないのだからね﹂ ﹁⋮⋮ってあの本の絵、この子が描いたんですか!?﹂ 思わず叫んだ。 年が明けて最初に石燕の本として出された[妖鬼尽絵詞]という それは軽妙な様子で人魂、餓鬼、幽霊が描かれてたものなのだが、 とても今年で十になる幼い少女が描いたものには見えなかった。 いや、十だろうが二十だろうが、描けぬ者には描けぬ引き込まれ る魅力を感じる、 ﹁さすが﹂ と、頷く出来だった為に、田所は驚きよりむしろ畏れを感じてお 房を見る。 石燕が悪戯が成功したように、 ﹁そうだよ。ふふふ、末恐ろしいだろう。師匠として与えた試験だ ったが、見事にやり遂げたね。よしよし﹂ ﹁試験というか先生が年始ずっと死にかけててあたいに丸投げした だけなの﹂ ぷい、とそっぽ向きながら言うお房である。然し乍らさりげに上 機嫌に見えるのは、褒められたからというより原稿料がそのまま手 に入ったからかもしれない。現金な娘、とは文字通りの意味である。 石燕は嬉しそうに目を細めた。実際、お房の絵に関する才能は目 を見張るものがある。 ︵いずれ、房は名の残る絵師になってくれる︶ 1395 そう師匠である彼女は確信している。 ﹁まったく、凄いお嬢ちゃんだ。天爵堂先生もこれぐらい真面目に やってくれればいいのに⋮⋮﹂ ﹁またあのご老体は何かやらかしたのかね?﹂ ﹁ええ、使いの子が版元に原稿を届けてくれたんですが⋮⋮この表 題[江戸老害番付説集]ってのがそれですよ。町奉行二名に勘定奉 行にまで喧嘩腰な批判文章で、こんなもの出したら版元も道連れに 江戸払いを食らってしまう﹂ ﹁唐突に政治関係では荒ぶるなあ、あの隠居老人﹂ 呆れたように九郎が書き記した紙の束を捲って眺める。 もはや政治に口出しをすることはない、と嘯いているのだが他所 の立場から悪口を言うのは止めていないようである。人、それを老 害と云うのだが。 石燕が顔を上げて、横目で晃之介を見た後に田所に問いかけた。 ﹁そういえば田所君の版元は住み家の斡旋をやっていたのではなか ったかね?﹂ ﹁はい。貧乏な先生やよく逃げる先生に家をあてがったりしてまし て﹂ ﹁こちらは武芸を教える道場の先生なのだがな、道場を立て直さね ばならない事になり、その間の家を探しているのだ。なるべく剣や 槍を振り回してもしょっ引かれない場所を望んでいるのだが﹂ ﹁はあ⋮⋮﹂ 晃之介も食い終わった蕎麦の器を退かして、頭を下げた。 ﹁心当たりはないだろうか﹂ 1396 ﹁そうですなあ⋮⋮ああ、そうだ。鎧大明神はご存知でしょうか﹂ 田所の口から出たその場所に、九郎は最近覚えがあった。 ﹁確か新宿にある神社だな。最近、盗賊が入って大騒ぎになったの ではなかったか?﹂ ﹁その通りです。神職の多くが無残に殺されてしまったのですが、 だからといって無人の神社にするわけにはいかない。それで別の神 社から代わりのものが来ていまして。 然しながらあのような、悍ましい事件があり平将門公の鎧まで盗 まれたと噂されていることから神主らまで酷く怯えていまして。神 官が祟りを恐れるとはなんとも⋮⋮﹂ ﹁神社が呪われるとは身も蓋もない話だがね﹂ ﹁それで、また盗賊が来るかもしれない恐ろしさもあるのでしょう。 誰か身分のしっかりした用心棒でも来てくれないかと寺社奉行に訴 えているらしいのですが、そんな縁起の悪い場所に来たがる者も居 ない。さて困ったという話になっているそうで﹂ ﹁用心棒か⋮⋮﹂ 晃之介は顎に手を当てながら考える素振りを見せた。 確かに神社ならば境内は広く、裏手にでも回っていれば槍や弓の 鍛錬を行っていても用心棒という立場ならばそう文句は言われない だろう。 食事代も浮き、それに晃之介の性格からすれば、 ︵まあ大丈夫だ︶ と、言って楽観視しており、むしろ修行の糧とするものと認識し ている。 恐れを知らぬわけではない。受け入れて、乗り越える信念を持っ 1397 ているのだ。 一時期は謎の隙間から覗く女に悩まされていたが、それを乗り越 えた彼はまた一つ精神が強くなっているのであった。 乗り気な様子である晃之介に対して、田所が告げる。 ﹁よろしければ明日にでも上役に頼んで神道方に紹介状を書いて貰 い、持ってきますけれども﹂ ﹁いいのか? 俺とあんたは初対面だが﹂ ﹁鳥山先生の御友人であるのならば、大丈夫だと私は判断しますよ﹂ ﹁そうか、頼む﹂ と、再び晃之介は頭を下げた。 それから、道場を去年建てさせた大工に作りなおしを頼み││た った一年で壊れた為に大工も気の毒に思い少しばかり安く請け負っ てくれた││幾らか石燕お勧めの刀を扱う店にて金策を練ったり、 瓦礫と化した道場を見たお八が店にすっ飛んで来たりした一日であ った。 結局その日は、一日だけ二階のタマの寝室へ泊まることにした。 寝床の狭さの問題からタマは九郎の部屋で並んで眠るのだったが。 ***** 数日後││。 九郎がようやく出歩く元気が出てきたので、鎧大明神に住み込む 事になった晃之介の様子でも見に行こうかと、石燕と共に出かける ようであった。 1398 共に、とは云うが石燕の移動手段は籠である。近場ならともかく、 あまり遠くまで歩きたくはないようだ。 やがて辿り着いた鎧大明神は閑散としていた。 境内に人数は少なく、どことなく薄ら寒い気配すら感じる。風に はすえたような臭気が混じり、出店すら出ていない。 見回すと箒を持って本社近くを掃いている晃之介を見つけたので、 近寄り声をかけた。 ﹁晃之介よ、どうだ⋮⋮ってお主﹂ 九郎が向き直った晃之介の顔を見て、思わず顔を引き攣らせた。 同じく石燕もなんとも言えない表情になっている。 当の晃之介はきょとんと首を傾げて、 ﹁なんだ?﹂ ﹁いや、目の下に隈が出来ておるぞ。大丈夫か?﹂ ﹁隈? ⋮⋮自分では気づかなかった﹂ 鏡を見ていないものでな、と言いながら手を当てて目頭を揉む晃 之介。 隈だけではなく、どことなく全体的に疲労感を感じる気配を放っ ていて、有り体に言って少しばかりやつれていた。 ﹁呪いを受けているのではないかね? もしくは慣れない環境に体 が合わないか﹂ 石燕が興味深そうに尋ねると、欠伸を噛み殺す表情をしながら、 ﹁いや、一応そこそこにもてなされていて、食事も出してくれるか らありがたい。ただ、毎晩夢を見てな﹂ 1399 ﹁夢?﹂ ﹁妙な老人が枕元に立って延々と愚痴を語り続け、恨めしいだのお のれ源氏だの鎧を取り返せなどと関係ない俺に言いながら、これを やるからと変な勾玉を渡そうとしてくるんだ。いらないし、やらん と断っているのだがこう毎日だと少し眠りが浅くてな﹂ ﹁祟られてるんだよそれ﹂ きっぱりと石燕からツッコミが入ったが、晃之介は軽く笑い飛ば し、 ﹁大丈夫だ。体はしっかり休めているからな。修行に支障は出てい ない。ただ、この話を神主にしたら余計に怖がられてな﹂ ﹁まあそうであろうなあ﹂ ﹁頼みの綱の用心棒が即座に祟られてはね﹂ 毎晩いいえを選ぶとループする会話を続けている割には彼の精神 はしっかりしたものだったが、周りはそうでもないらしい。 それでも気にせずに日中鍛錬などを行っている晃之介の姿に、少 しずつ恐慌は収まりつつあるのだったが。 ﹁将翁が居ればお祓いをしてもらうのだがね﹂ ﹁あの薬売りの人はそんなこともやってるのか?﹂ ﹁ふふふ、あいつのやるお祓いで一番引く方法なんか凄いよ? 薬 物で意識を飛ばして話術で洗脳し呪いとか祟りとかの宗教的価値観 を塗り替えてしまえばもう恐れなくなるという﹂ ﹁お祓いというにはあまりにえげつない気がするが﹂ ﹁効果があるのか?﹂ 若干顔を顰めながら見てくる二人に、石燕は指を立てて応える。 1400 ﹁例えば西洋の悪魔と契約すれば、死後魂を奪われて地獄行きにな る││などと言われても私達は怖くないだろう? だが当の南蛮人 にとっては教会に駆けこんで泣いて土下座するぐらい恐るべき状況 なのだよ。 それと同じく、怨霊なんて居ないさ、祟りなんてただの偶然さと いう考えにしてしまえば首塚でだって眠れるし比叡山に放火も出来 る﹂ ﹁つまりは心の持ちようなんだろ。それなら神主は平気そうなんだ けどな﹂ ﹁日頃から神仏に対して接しているから余計に恐れる気持ちは強い のさ﹂ 一端石燕は考えるようにして、 ﹁⋮⋮次に夢でその将門めいた相手が現れた時には相手の願いを受 けてみるといいかもしれない﹂ ﹁そうなのか? 俺は鎧を盗んだ者など見当も付かんぞ﹂ ﹁ふふふ、そこは交渉次第だよ。自分が死ぬまでには鎧を取り戻す から気を収めて欲しい、とでも言えばいい。とりあえずは大人しく なるのではないかね? これぞ、明日から本気出す作戦!﹂ ﹁見つからなかったらどうするのだ、それは﹂ ﹁死ぬまで、だからね。寿命が尽きて死ねば文句も言われまい。そ れとも一々自分の死後を気にするのかね? あ、それと勾玉が何か 知らないが前報酬は断っておくことだよ﹂ ﹁わかった。助言感謝しよう。しかし、妙なことになったな、怨霊 だの悪夢だの﹂ 困ったように苦笑いをこぼす晃之介に石燕は頷いて云う。 ﹁なに、晃之介君。そう不思議なことでもないよ。この神社では誰 1401 もが怨霊の噂をしている。ならばそれが深層心理に植えこまれて夢 として見る条件が整っているだけに過ぎない。 そして私が教えた対処法もまた記憶に刻まれ、新たな夢の可能性 を創り出しただけなのかもしれないね。本当に呪いなのかただの精 神の病なのか、絶対の区別をつける方法なんて無いのさ﹂ ﹁ただの夢か⋮⋮そうだよな。なんだったらお前達も今晩はここに 泊まってみないか? 御神酒なら飲んでいいそうだ﹂ 晃之介の提案に、九郎と石燕は顔を見合わせた。 祟りが本当にあるかはわからないが、ともあれ友人が悪夢で魘さ れていることは確かなのだ。一晩ぐらい呑みに付き合うのも吝かで はない。ここ数日は酒を絶っていてそろそろ口寂しい。 石燕としても、平将門の怨霊となると中々に興味深くはあった。 晃之介の様子からすれば命に関わるような呪いではあるまい。 ﹁わかった。つまみでも持ってまた夕方に来よう﹂ ﹁ああ。神主などには俺から話を通しておく﹂ ﹁よし、九郎君こうなれば破魔の御札でも書いて持って行こうでは ないか。ふふふ、楽しみだね﹂ そう言って、その日はこの三人と、巻き込まれた百川子興で神社 の裏手にある宿舎にて、小さな飲み会を開くことになったのであっ た。 ***** 1402 ﹁ふぃーにゃはは! 聞いてますか晃之介さぁん! 師匠ったら酷 いんですよ! うぇひひ﹂ ﹁わかった、わかったから離れてくれないか子興殿。その、くっつ きすぎだ!﹂ ﹁ようしじゃあ膝! 膝に座らせてください! ちょっとだけです から!﹂ ﹁近い! やけに近いぞこの人!?﹂ 賑やかに騒いでいる二人を見ながら、九郎は静かに酒を飲みなが ら石燕に聞いた。 ﹁子興のやつ、酒乱の気があったのか?﹂ ﹁あの子は面食いだからね。男前の晃之介君相手に酒の勢いで昂っ てるのだろう。普段酒を呑む相手となると狩野派の絵師ぐらいだが、 馬鹿と気が触れている奴しか居ないからね﹂ ﹁しかし晃之介的には子興は、まあ胸はともかく大人しい娘が好み だからな。逆効果というか﹂ ﹁弟子が幸せそうで何よりだよ。愉悦愉悦﹂ ﹁⋮⋮ところで、お主は何故に己れの膝枕で寝ておるのだ﹂ などと、夜は更けていく。 その日は、満月であった││。 ***** 1403 ﹁││と、云うわけで、夢枕に立った将門公との交渉によって、俺 が鎧を見つけると約束することで祟りは起こさない、と言ってくれ ました﹂ 翌朝、朝の祝詞の前に集まった皆の前で告げた晃之介のその言葉 に、神主たちが﹁おお﹂と希望に満ちた顔を上げた。柏手を打つ者 さえ居る。 彼は爽やかに、そして力強く云う。 ﹁これからは呪いや祟りなどという流言に惑わされず、神事を行い 皆々様で神社を盛りたてる事こそが将門公への供養。悪賊、野盗な どは決して寄り付かせぬので俺に任せていただきたい﹂ ﹁ありがとう、録山殿⋮⋮ところで、その方々は大丈夫なのでしょ うか﹂ 神主が、晃之介の後ろでぐったりしている三人を指さした。 ﹁なんだあれは妙な老人とかではなく狂神ではないか⋮⋮刀を持っ ていかなければ死ぬところだった⋮⋮﹂ ﹁破魔が効かない破魔が効かない破魔が効かない﹂ ﹁死ぬ⋮⋮死んだ⋮⋮また死ぬ⋮⋮﹂ 晃之介の部屋で共に寝た三人は目も虚ろにして死ぬほど疲れきっ ていた。 同じ夢を四人揃って見ていた中で、怨霊とかではなくもう見てい るだけで全身呪われるような悪神が呪詛を吐き刀を振り回し襲いか かってきたのだ。 夢なので斬られても死なないし、石燕などは様々な呪符を創りだ して対抗したのだがほぼ無駄であった。九郎は持ち込んだアカシッ ク村雨キャリバーンⅢだけが頼りで、子興は死に続けていた。 1404 特に子興の正気度が相当危険で薄ら笑いを浮かべてがくがくと首 を振っている。 三人のその状態があるからむしろ、夢の中で将門にあったという 晃之介の言葉にも信憑性が出るのだが。 晃之介は惚れ惚れするような顔で笑みを浮かべて応える。 ﹁なに、悪い夢でも見たのでしょう﹂ 1405 挿話﹃異界過去話/チョコレートの日﹄ その[いつも]が[ずっと]になればいいと彼女は願った。 ***** 遠く北の空を細長い蛇が飛んでいる。 いや、体躯に比して太さが細いというだけで実際には大木より太 いのだろう。長さは都市の大通りより伸びているに違いなかった。 背中に生えた豪奢な羽根を動かさずに、空を這い飛んで行く。 それを眩しげに見上げるが、誰も騒いでいない様子なので男はこ れも日常なのだろうと判断して首を下げ、買い物を再開した。 人種のごった返す通りには様々な店舗がおおよそ違法的に乱立し ている。 傭兵風の格好をした男が多く道を歩き、彼もまた軽装にしている がそう見えた。 幅広で自身の身長ほどもある櫂のようなものを斜めにして肩に担 いでいる。買い物に出かける護身用には巨大な武器だが、見た目よ りは軽いし、呪われている気配に近づけば気づく。呪いの武器なん てものを持っている相手にわざわざ揉め事を持ち込む奴も居ないと 1406 判断してのことであった。 古に退治された邪悪な堕天巨人の大骨で作られた巨杖ネフィリム ボーンの呪いは彼には効果を発揮しない。その理由はわからなかっ たが、まあ便利なのでどうでも良いと思っている。 ﹁おーいクロー!﹂ 突然、背後から己の名を呼びながらとてとてと駆け寄ってくる少 女を、黒髪の青年は腰を屈めて視線の高さを合わせた。 頭2つ分程も身長差があるのだ。青年も背は高い方であるのだが、 それにしても少女は幼い容姿である。 ﹁どうしたんだ、スフィ﹂ パーカーに似た修道服を着た少女にクロウは問い返す。淡い白金 色の長髪をふわふわと動かしながら近寄ってきた少女は、両耳が長 い。 これはエルフと呼ばれるペナルカンド世界における種族の身体的 特徴である。人間種族に良く似た体の作りをしているが、概ね細い 体つきと金か銀混じりの髪色、長い耳をしていて寿命は何倍も多い。 彼女とは傭兵仲間であった。このような幼い少女が傭兵というの も奇異に見えるが、クロウよりも年上なのだという。尤も、前線に 出て殴りあうのではなく、後方から魔力の篭った歌を唱えて士気を 上げたり怪我を癒やしたりする歌司祭という職業なのだが。 ともあれ、馬が合うのかクロウとは団の中でも親しい関係であっ た。 息を切らせてクロウの目の前に辿り着いたスフィは、膝に手を付 きながら呼吸を整えた。 わし ﹁まったく、買い物に行くなら私も連れて行かんか! お主は世間 1407 知らずなんじゃから﹂ ﹁ああ、悪い悪い。お菓子ならちゃんと買ってやるからそう怒るな﹂ ﹁わぁいおっ菓子∼⋮⋮違うわ! お主が攫われたり騙されたりせ んようにじゃな﹂ 腕を振りながらまるで保護者のような事を言うが、外見からの体 格はまるで逆である。 クロウは背の高い二十代の青年に見えるし、スフィは控えめに見 て十歳前後だ。それに幾ら年上だからといって、言葉だけ似非老人 弁にしているものの行動や仕草、思考などが成熟しているようには 見えない為に、団の中でも大人ぶった子供扱いをされているのであ る。 呪いの武器を担いだ傭兵男と少女シスター。攫われたり騙された りするのは確実に後者である。 思いつつもクロウは苦笑したまま、 ﹁わかったわかった。ありがとうな、スフィ。ほら、己れが迷子に ならない用に手を繋いでくれ﹂ ﹁まったく仕方ないのう、クローは﹂ にんまりと笑って少女は傭兵の差し出された手を握った。 二人は並んで歩き出す。 人にぶつからぬように気をつけてスフィの歩みに合わせのんびり と市を進みながらクロウは呟く。 ﹁買い物ったって晩飯に使う調味料を買うぐらいなんだがな﹂ 材料自体は大口で仕入れているものを拠点にしている食料庫に保 管していて、それを使えばとりあえずに料理は出来るのであったが。 1408 ﹁それはいいのう。クローの料理はうまい。それに手際もいいと女 衆も言っておった。お主、前は料理人じゃったのか?﹂ ﹁バイトで色々やったからなあ。料理は適当だけど、材料切ったり 煮たりするのはあれだ。なんというか、昔やった特殊清掃業務の経 験で。だから洗濯も得意なんだ﹂ ﹁詳しく話さんでいいわい。いやマジで﹂ スフィは嫌な想像をしながら半眼で呻いた。 いろいろ出身に謎なところがあるクロウだが、スフィ共々所属す るジグエン傭兵団はだいたいそんな連中の集まりなので彼の過去を 気にされることは少ない。 中には貴族の次男以降、魔法協会の追放者、癒し系オーク神父な どもいるごちゃ混ぜの集団なのである。スフィも末席ながらエルフ 族首長の血を引いていたりする。 そんな傭兵団なので日常を過ごすには様々な問題が多発するのだ が、その中でも小器用に立ち回り雑用をこなして胃袋を掴んでいる クロウは割りと好かれる青年であった。 戦場に出るとクロウは死なないように、必ず二人以上で行動する 事を決められているぐらいである。後方に下がっている事も多い。 その際は、歌で援護するスフィの護衛という立場になる。 ともあれ、彼は基本的に料理当番なのである。スフィが彼を見上 げながら、 ﹁今日の夕食は何にするんじゃ? お、見てみよあの魚屋の広告! ツインバスターローリング油圧式万力蟹が入荷しておるぞ! 蟹 汁はどうじゃ!?﹂ ﹁蟹かあ⋮⋮蟹はちょっといい思い出が無いなあ﹂ ﹁そうなのかえ?﹂ ﹁蟹漁船から行方不明になっても保険って下りるんだろうか⋮⋮?﹂ ﹁なんか深刻じゃのう﹂ 1409 ぼんやりと魚屋の店頭からはみ出すほどに巨大な蟹を見ながら、 げんなりした気分で頭を振った。 ﹁この前麦味噌があるらしい事を聞いた。米はないのが残念だが。 晩飯はほうとうにしよう﹂ ﹁ホートー?﹂ ﹁大鍋で作る料理は楽でいいなあ﹂ 素直にそう思いながら二人は歩いた。 ふと気になったことをクロウはスフィに尋ねる。 ﹁そういえばさっき、空に羽根の生えたデカイ蛇が飛んでいたが⋮ ⋮あれはなんだったんだ?﹂ ﹁なぬ? ⋮⋮しまった、もうそんな季節か⋮⋮忘れてたわい﹂ ﹁おいおい、何かマズいことでもあるのか?﹂ 少しばかり不安になってスフィに視線を落とすと、彼女はきょろ きょろと通りの様子を伺っている。 やがて視線は先にある、持ち帰りの菓子を店頭に並べてる[甘味 処・血みどろ]という店に止まった。 ﹁買うものがある!﹂ ﹁そうか、もうお菓子を我慢できなくなったのか。でも別の店の方 がいいと思うが﹂ ﹁ええい、すぐに戻るから⋮⋮そこの公園で少し待っておれ!﹂ 言われて、クロウは仕方なく公園に向かいベンチに腰掛けた。背 負っているネフィリムボーンは外して適当に立てかける。呪われて ると、盗難の心配が無くて便利だ。 1410 小さな公園であった。遊具などは何もなく、花壇とベンチが数個 あり、街灯が一つあるだけのぽつんと混雑した街で空隙のように存 在している場所である。 クロウはベンチの背に両肘を乗せて、座りながら空を仰ぎ見た。 遠くに行ったが、まだ空飛ぶ蛇の尻尾が見えている。 ﹁そろそろ一年経ったっけか﹂ ぼんやりと呟いた。 現代日本から異世界に突然迷い込んで、なんやかんやで傭兵に入 って仕事をしていた。馴染んだかというと不思議なぐらい馴染めた のだが、故郷が懐かしくもある。 ︵随分と遠くに来たもんだ︶ 帰る手段も方法もわからない。それが有るか無いかさえも。だか ら暫くはこうして金を稼ぎ、世間を知って行かなくてはいけない。 その為なら料理だって作るし雑用もこなす。魔物と命をかけて戦 うなど狂気の沙汰だと思っていたが、案外持ち前の図太さで何とか なった。幸い便利な武器も手に入ったのだ。立てかけている相棒を 意識した。 お伽噺になるほど昔、世界を滅ぼすために生まれて勇者に退治さ れた巨人の骨を、闇の魔法使いが魔導の杖に仕立てあげたものらし い。だがクロウには魔法は使えないので、バットのように打撃武器 として使っている。軽くて木製バットのように振れるが、壊れるこ とはない。 だが、と苦笑する。 ︵こんなもので武装した魔物や武装盗賊と殴りあうなんて、日本に 居た時からすれば馬鹿みたいな話だ︶ 1411 一年も傭兵をしていれば慣れてしまったのだろう。北の荒れ狂う 海を進む蟹漁船だって二日で慣れた。多くを望まなければ人生は簡 単に納得が出来る。 日本で見る空とこの世界で見る空は繋がってさえ居ないけど、青 ければ同じと思えばいい。 などと、考えていると再びぱたぱたとした足音を立ててスフィが やってきた。 彼女は手に何か持っている。先ほどの菓子屋で買ったものだろう か。花のような笑みを浮かべながら、クロウの目の前で止まった。 ﹁すまぬなクロー。今日はチョコレートの日だったのじゃ﹂ ﹁チョコレートの日?﹂ 問い返すと、自慢気に指を立てて解説してくる。 ﹁うむ! お主はどうせ知らんじゃろうが、今日は異性にチョコレ ートを送ると願いが叶うかもしれないという特別な日なんじゃよー。 毎年あの蛇が飛んで宣伝しておる﹂ ﹁へえ⋮⋮バレンタインみたいだな﹂ ﹁と、云うわけでクロー。私からチョコを受け取ったら、半分こし て返すのじゃ。そうすると、貰った側も両方願いが叶うかもしれな い御利益に恵まれるぞ﹂ ﹁わかった﹂ そう言って、スフィがチョコレートを渡してくる。インゴット状 の固めなチョコレートケーキであった。 半ばから軽く折って、半分││少し大きい方を││スフィに返す。 ﹁はい、どうぞ﹂ 1412 ﹁よろしい。よいしょっと﹂ 受け取ったスフィはクロウの隣に座って、チョコケーキを両手に 持ってモグモグと食べだした。 小動物のようなその仕草に微笑ましいものを感じながら、クロウ も片手で齧る。ほろ苦くて甘いケーキだ。 ﹁ありがと、スフィ﹂ ﹁にょほほ気にするでない。若人に甘いものを食わせるのは婆の楽 しみじゃからのう││これ、何を笑っておる﹂ ﹁いや、すまんすまん。しかし本当にありがとうな﹂ ﹁どうしたのじゃ?﹂ クロウは笑いながらスフィに向き直って、 ﹁いやほら、己れってこっちに来てさっぱりわからない事ばかりだ ったし、足手まといだったけどスフィはいつも助けてくれたからさ。 今日もチョコレートの日を教えて貰っただろ﹂ と、云う。 スフィはぽかんと口を開けて、やや顔を赤らめそっぽ向いた。 傭兵団内でも子供扱いされることが多かった彼女は、拾われて新 入りとして右も左もわからない状態のクロウに優越感を感じて色々 面倒を見てやっていたのだ。 クロウは子供扱いするものの、スフィを馬鹿にしたりすることは せずに良く褒めた。それが嬉しくてなんとなくいつも近くに居るよ うになったのだが。 真っ向に言われると恥ずかしい気分になって顔を背けるのであっ た。 1413 ﹁そ、そういえば、クローは何をお願いしたのじゃ?﹂ ﹁ん? あーそうだな。じゃあ、スフィの願いが叶いますようにっ てな﹂ ﹁⋮⋮馬鹿者、自分の事を願わんか﹂ 言葉尻が弱くなっていくスフィにクロウは首を傾げながら、まあ とにかく故郷に帰る願いをするにはあまりに製菓メーカーの陰謀臭 い祭りな為に恩人へ願いを渡したのであった。 しばし無言でチョコケーキを食べ終え、クロウは手と口元が汚れ たスフィをハンカチで拭ってやった。 途中で恥ずかしがってスフィはハンカチをクロウから引ったくり、 自分でごしごしと拭いたのだが。 そして立ち上がり、 ﹁それじゃあ買い物続けようか。ああ、そうだ。スフィの希望通り 蟹も買おう折角だから。蟹入りほうとうなんて食ったことないけど﹂ ﹁うむ。行くぞクロー﹂ そうして二人は手を繋いで再び歩き出した。 ぎゅ、と大きな青年の手を握る小さなシスターは口に残るチョコ の甘味を感じながらどこか眠そうな青年の顔を見上げる。 ︵⋮⋮願い叶うかな︶ 2つ分の思いを込めて、祈る。 ***** 1414 魔法協会は元々刑務所だった建物を利用して作られている。 それ故に個室の数が多く、その尤も不便な場所にある第一独房の 奥まった狭い部屋が付与魔術に関する研究室として与えられていた。 殆ど誰も立ち寄らない部屋である。付与魔術を研究している者は この国で一人しか居らず、それが告死妖精だとすればもはやこの研 究室は怪談の領域、近寄ったら寺の住職に怒られて親戚を集められ るレベルであった。 そんなところに気無しに立ち寄るのは騎士団で働いているクロウ という男ぐらいである。 ﹁クルアハ。居るだろう? 入るぞ﹂ 軽くノックをして確定的な判断をし、部屋の扉を開けた。 とにかく研究室の主││告死妖精クルアハは無口なので、部屋の 前で返事を待つなど無意味であることは既に付き合いから知れてい たのだ。 部屋の中は明るい。光る魔術文字が電灯代わりに使用されている 為だ。この照明術式は魔法協会や役場内でも使われていて、その功 績から研究室を得ることが出来たのだという。 座れば地面に届くほど長く切り揃えた黒髪の、白磁で出来た人形 めいた白く無表情な少女が机に向かって黙々と本を読んでいる。 クルアハだ。 クロウは机の上に積まれたチョコレート菓子の山を見ながら僅か に顔を顰めた。 ﹁良く食えるなそんなに﹂ 1415 ﹁⋮⋮問題無い﹂ ぼそりと、口が動いたのか動かないのか程度の小声で短く発声す る。 彼女は甘党でこの時期││チョコレートの日近くなると店で売っ ているチョコレートをコンプリートせんばかりに大量に購入して自 家消費するのである。 酒や飲み物も甘いものを好むのは妖精の性質なのだと云う。 本に目を落として無表情のまま口にはチョコバーが咥えられて改 札機のようにさくさくと入っていく。 クロウは歯ぎしりするような仕草で顔を歪めた。 ﹁うう、ところで治安維持騎士団で消費した術符の補充を頼むぞ⋮ ⋮﹂ ﹁⋮⋮甘味苦手?﹂ 彼が何やらチョコの匂いにげんなりしている様子だったので、ふ とクルアハは尋ねてみた。 時々呑みに行ったりする程度の仲だが、つまみ等で甘味が出され ても特に彼は気にせずに食べるタイプであった認識なのだが。 ちなみにこのクルアハからしてみれば唯一の酒呑み仲間なクロウ なのだが、これは彼が日本人的な社交辞令で﹁今度呑みに行こう﹂ などと云う内容を口にしたところ、実際に呑みに連れて行くまでそ れから毎日何処かで会っていつ行くのか聞かれたというちょっとホ ラー気味な事が始まりで、飲み仲間となったという。 クロウは首を振りながら、 ﹁いや、己れは役場内でもあちこち仕事に出向くから知り合いが多 いのだが、その分女騎士の連中にチョコを貰ってな。これその場で 食べないといけないルールだから一日に何度もするとキツい⋮⋮﹂ 1416 ﹁⋮⋮多量獲得?﹂ ﹁うむ。スフィには毎年貰っているのだが⋮⋮今年は他に8人ぐら いだな。血糖値が心配だ⋮⋮﹂ やや青い顔でため息混じりに云う。 バレンタインであるのならば持ち帰りが効くのだが、この世界で はその場で半分に割って食べなければ願いが叶わないとされている のである。 ちょっとした日頃のお返し感覚でチョコを差し出されるのでクロ ウもさすがに辟易している。 年齢的にも中年もいいところなので、甘いものばかりは健康も不 安だ。 既にチョコの香りを嗅ぐだけで酷く気分が悪くなっている。 何故か本から顔を上げてじっとクロウを正面から見ているクルア ハがいた。 無表情だが、不機嫌に見える。 そして口を明確に動かして言葉を放った。 ﹁⋮⋮ずるい﹂ ﹁ずるいって言われてもな。っていうかお前のほうが量的には多く 食べてるぞ﹂ なんか妙な感想を言ってきたクルアハに、クロウは憮然と返した。 彼女からそんな事言われるのは初めてな気がした。 クルアハはクロウの反論にきょとんとした様子で、細い首を傾げ ながら言葉を紡ぐ。 ﹁⋮⋮ずるいなんて言ってない。私は妖精で魂が無いからずるいな んて思わない﹂ ﹁珍しく長文を喋ったと思ったら苦しい言い訳だった⋮⋮﹂ 1417 ﹁⋮⋮問答無用﹂ 再び凍った表情で手元の本に目を落として、がりがりと音を立て てチョコレートを齧るクルアハ。 クロウは、 ︵余程チョコが多く欲しいらしい。ただで貰える己れが許せないよ うだ︶ と、判断して機嫌を直せないかと考える。 そして、持ち歩いているビジネス騎士カバンに菓子が一つ入って いることを思い出した。 ﹁そうだ、クルアハよ。[ハンマーの山]、[ドリルの里]という チョコ菓子を知っているか?﹂ 問いかけると、彼女はすっと菓子を詰んだ中から二つの箱を取り 出した。 ハンマーの山は取っ手のようなクッキー部分と、槌の形をしたチ ョコレートが付いている菓子。 ドリルの里は捻れた円錐状のクッキーの表面にチョコが張ってあ る菓子である。 これら二つはチョコ菓子の中でもロングセラーであるのだが、ど ちらが正統派なのか議論が尽きずに時折殴り合いの喧嘩に発展する 原因にさえなっているのである。 ﹁この前騎士団内でもそれが原因で、どっちが良いのか喧嘩が起き てなあ﹂ ﹁⋮⋮両方美味﹂ ﹁まったくだ。同じようなものだというのに狂信者は聞かない。己 1418 れが調停を頼まれてな、争うぐらいならこれを食えと言ったのだ﹂ そう言ってクロウが取り出したのは細長い円柱状の菓子である。 [ト]というカタカナに似た形をしたものが紙製の箱に詰まってい る。 ﹁その点トンファーはすげぇよな。最後までチョコたっぷりだもん﹂ それは別のメーカーが出しているトンファーの形をしたチョコ菓 子である。クッキーを筒の構造にしてチョコを包んだヒット商品だ。 然し乍ら理解は得られなかったので消沈して持ち帰ったものだっ たが。 ﹁チョコレートの日は異性に渡すのだろう。己れからお前にプレゼ ントだ﹂ そう言って封を切り、トンファーチョコを取り出す。 てっきりクルアハが受け取るかと思ったら、﹁あ﹂と云うように 口を開いて出してきた。 仕方なく彼女の口に突っ込むと、ぽりぽりと食べ出した。 ぽりぽり、ぽりぽり。 一本、食べきった。 ﹁⋮⋮追加要求﹂ ﹁なんかルールが違う気がする﹂ 釈然としない気分になりながらも、鳥に餌をやる気分で次から次 へとトンファーチョコをクルアハの口に挿し入れていく。 再び小気味良いリズムでトンファーが口に収納されていく。な んということでしょう、これが匠の技││! 1419 ︵面白い︶ クロウもつい愉快になって次々にクルアハの口に運んでいった。 彼女が齟齬に気づいたのは最後の一本になってからだ。 慌てて半分程のところでスティックを噛みきり、顔を離す。 ﹁⋮⋮半分贈呈﹂ ﹁偉いなあと褒めるべきなのか﹂ ﹁⋮⋮何事祈願?﹂ クルアハが問いかけて来たのを、クロウは苦笑しながら単純な疑 問として問いを問いで返す。 ﹁お前は何を願うんだ?﹂ ﹁⋮⋮妖精には魂が無いから願い事は叶わない。だから何も﹂ ﹁ふぅん? そんなものか?﹂ クロウは意地悪そうにしながら、残った半分のトンファーチョコ を口に放り込む。 ﹁じゃあ己れは、あんまりこれを長年続けても健康に悪そうだから な。チョコレートの日の廃止でも願うか﹂ ﹁⋮⋮それは良くない。こんなにチョコが盛り上がる日は無い。貴 方がそれを願うなら、私は継続を願う﹂ ﹁ほら、ちゃんと願い事あるじゃないか││ぐ﹂ ﹁⋮⋮﹂ クロウの言葉に、クルアハは無表情のまま、彼の顔に本を押し付 けるようにして遮った。 1420 笑いをこぼさないようにしてクロウは、 ﹁悪い悪い、すまんな。そうだ、週末にでもいつもの飲み屋に行か ないか。奢ってやるから﹂ ﹁⋮⋮委細承知﹂ クロウはそう言って研究室から出て行った。 クルアハは机に置いてある茶を一飲みして、口の中に残るチョコ 菓子の味を嚥下して、誰も居なくなった部屋で呟いた。 ﹁⋮⋮いつも、貴方は変な事を言ってくる﹂ そして、じっと彼が出て行った扉を見つめていた。 ***** 空間歪曲迷宮砂漠の果て、メガシャークの巣である時間輪廻海域 に面している、爆散重力光幕に囲まれた魔王城に居た時のことであ る。 ﹁きゃぴる∼ん☆ くーちゃんせんぱぁい! 我はこの日の為に手 作りでチョコ作ってきました∼ん! 食べてくださぁい♪﹂ ﹁キモッ﹂ 魔王ヨグがセーラー服を着てそんな事を言ってきたので、黒髪で 無表情なメイドと将棋を打っていたクロウは素直な感想を述べた。 1421 魔王である彼女の見た目は髪の色こそ虹色であるが、少女と言っ て差し支えない年齢なのだが己よりも年上だと理解しているクロウ はまったくそう感じなかったようである。 クロウやイリシアとは別の方法で不老化しているらしく、記録に よれば百年以上前から生きているのだ。 打ちひしがれたように両手両膝を床に付けて唸る。 ﹁酷くないかな!? 我の肉体年齢は17歳で固定されてるのに! ボンキュッボンないーちゃんとも違う清純属性なのに!﹂ ﹁いやすまん⋮⋮己れはただキモいと感じただけでお主に対してど うというわけではないのだ⋮⋮キモい﹂ ﹁追加ダメージ! 追加ダメージ入ってるよ!﹂ 喚く魔王を無視してクロウは将棋を打ち続ける。相手のメイドが 実力を合わせてくれている為に結構良い勝負をしていた。 対人戦で手加減されると拗ねるクロウだが、そもそもメイドであ る彼女はIM−666︵イモータル・トリプルシックス︶と云う名 の魔王が作った機械人形なので、コンピューターを相手にしている ようなものだ。 だから負けても腹も立たない。 ﹁クロウ様。王手、致しました﹂ ﹁ぐ⋮⋮ちょっと待て。二手巻き戻してくれ﹂ ﹁了解致しました﹂ メイドが精確な動きで盤上の駒を元に戻す。そう、相手は機械な ので待ったを使っても気に病む事はない。 ジト目で対局を覗き込みながら魔王は云う。 ﹁くーちゃんも情けないお願いしてないで構ってくれないかなー﹂ 1422 ﹁うるさいのう。それで、何だと? すまぬが最初から聞いておら なんだ﹂ ﹁酷いなあ! くーちゃんにチョコ作ったから食べてもらおうと持 ってきたの!﹂ 魔王が差し出すのはハート型をした平べったいチョコレートで、 表面にホワイトチョコで荒々しい明朝体で[愛しの九郎へ]と書か れていた。 受け取ったクロウに対して魔王が得意げに解説する。 ﹁知ってる? このペナルカンドでは元々チョコの原料のカカオは 栽培されてなかったんだよ﹂ ﹁ではどこから来たのだ?﹂ ﹁くふふ、実はこれ、くーちゃんの世界から齎された食べ物なんだ﹂ 魔王がきらり☆とセーラー服でポージングを決めながら言うので 無性に苛つくが、我慢した。 ﹁ほら、くーちゃんの世界にもあるじゃないか。チョコレート記念 日的なの﹂ ﹁バレンタインな﹂ ﹁そう。全然関係ないのにチョコレートの守護聖人にさせられてる 人の日。 でさあ、くーちゃんの世界にいる神様の一柱が﹃チョコレートの 神って言ったら僕なんですけど!? ちくしょうこうなれば別の世 界で僕が流行らせてやる!﹄ってこっちに渡ってきたんだ。 それが空飛ぶ羽根の生えた蛇でチョコレートの守護神、ケツァル コアトルさん﹂ ﹁あの蛇、己れの世界の奴だったのか⋮⋮﹂ 1423 毎年空を飛び回ってチョコレートの日を知らせる蛇を思い出しな がらクロウは呟いた。 ケツァルコアトルはアステカ神話に登場する一柱で王になった時 は人にカカオ、トウモロコシの栽培を教えたり生贄の儀式を止めさ せたりした農耕の穏やかな神なのだが、しょっちゅう喧嘩をして世 界を滅ぼしあってるテスカトリポカと云う神がマジ怪しい呪いの酒 を差し出して来て、疑いもなく飲んだら酒乱エロ属性に目覚めてド ン引きされアステカの地を去ったと言われている。 ちなみに現在の地球世界は太陽神争奪戦で四回滅んだ後の五回目 である。 クロウは気になったことを魔王に聞く。 ﹁っていうか、そんなに気軽にこっちの世界に来れるのか﹂ ﹁神霊や悪魔だったら結構簡単みたいだね。ただこっちからあっち に戻るのは大変だから創作物の依代を使って分霊的にこっちの世界 に来てるのも居る。向こうの人間もくーちゃん以外に居るんじゃな いかな? 13年に1人ぐらいの割合で迷いこんで来るみたいだし﹂ ﹁そうか⋮⋮長生きしていたが会うことはなかったな﹂ ﹁ま、いきなり地球の人が流れ着いても運が良くなければそうそう 長生きは出来ないね。くーちゃんみたいなのが特別なんだよ﹂ ずるい、と口を尖らせて魔王は告げる。 クロウ以外にもペナルカンド世界に馴染んだ人間は確かに存在し ている。例えば地球と同じ名前の料理でレシピ本を作り流行させた 者や、科学を発展させた者。 元の世界にあった物語を書いて本を売る三流作家や、街に見えざ るピンクのユニコーン教会を建てて布教した教祖など様々に生きて いた者の痕跡が見られる。 しかし魔女や魔王と当然のように関わっている彼はまた特別なの だろうと魔王は思っている。 1424 その特別さは彼女がメタな視点から[主人公力]と呼ぶ、魂の力 である。 魔王である自分には無いものだ。 ﹁││元の世界に帰った人も居ないしね。このペナルカンドは数多 ある世界の中でも吹き溜まりというか、ゴミ箱の底というか⋮⋮流 れ堕ち易いけどカオスな世界法則になってて出るのは大変なんだね﹂ ﹁お主はひょいひょい他所の世界に行っているようだが﹂ ﹁我は擬人化した特異点だから平気なのさ! ってとにかく、その チョコを食べて欲しいなあああ!﹂ 話を戻されてクロウは手に持ったチョコを訝しげに眺める。 そして先程から黙ったままであった侍女にひょいと渡して、 ﹁イモ子や、ちょっと毒とか入ってないか分析してくれ﹂ ﹁安定の酷さ!?﹂ ﹁了解致しました﹂ 彼女は亜空間倉庫から瞬時に解析用のバイザーを装着する。バイ ザーというが、モノクルの形をしたそれがあたかも最初から付けて いたように虚空から出現して自動的に目に嵌められた。 ﹁││解析致しました。カカオ・バター・砂糖の他に血液及び魔学 物質アンドロギニアンが含まれて居ると判断致します﹂ ﹁⋮⋮血と、もう一つは毒か?﹂ ﹁肯定致します﹂ ﹁イモータールー! 主の空気を読んでそこは黙ってて欲しかった なあ!﹂ 涙目になって無表情の侍女に非難を浴びせるが、クロウの目は冷 1425 ややかであった。 ﹁毎年渡しておらんのにいきなり作ったとかなると怪しいであろう。 いつもお主らの悪戯を受けているのだからな⋮⋮っていうか血液っ てなんだ。サイコか。引くわ。イモ子、処分しろ﹂ 彼の指示に魔王の作ったチョコレートは彼女の所持する亜空間に 収納された。掃除道具からティーセットまで仕舞っている便利な倉 庫である。 魔王が恨みがましそうにしながら、 ﹁ぐむむ⋮⋮いーちゃんも作って無かったからなあ、あの子願いは 自分で叶えるとか言って﹂ ﹁あー、あやつと出会った学校で働いてた頃は糖尿なりかけだから 止めてくれと全部断っておったしな﹂ ﹁イモータルは冷血だし﹂ ﹁イモ子の良い所は機械だから嘘を付かないことだな﹂ 正座したままの侍女を褒めると、彼女はぺこりと頭を下げた。 ﹁お褒めを預かり致します。ところでクロウ様。IM−666もチ ョコレートの日にちなんでココアなどをご用意致しましたので、ご 賞味いかがでしょうかと伺い致します﹂ ﹁うむ? そうか、では貰おうか﹂ 魔王城では食事や茶汲みなどは侍女の仕事で、自ら進んで茶を用 意してくる。 以前魔王が自動調理器を開発して自慢気に披露したら、次の日に は爆破されていた事があるぐらいこの仕事に誇りを持っているのだ という。自動茶汲みルンバはオリハルコニウム弾で蜂の巣にされた。 1426 自動大根おろし器は空間圧搾大匙で消し飛ばされた。 亜空間から取り出したのは飲みやすくきりりと冷えたアイスココ アである。 将棋に熱中してて喉が乾いていたクロウは受け取り、 ﹁うむ、うまい﹂ と、口に含んだ。 甘い味が粘膜に染みわたる気配と同時に、異常な脱力感が体を包 む。 ﹁ぐぬ││?﹂ 酒を飲み過ぎて意識が朦朧としている時のように、体が熱く吐き 気とめまいがして、眠たい。 ﹁ちなみにそのココアの材料は魔王様のチョコを使用致しました﹂ ﹁騙された││!?﹂ ﹁クロウ様に処分しろと言われたので、再利用という処分方法を選 択致しました﹂ 無機質な言葉が耳に届くと頭のなかでがんがんと反響して意識を 刈り取ろうとしてくる。 毒││いかなる効果かわからないが、碌でもないことはすぐに分 かる。 ﹁くふふふ、大丈夫だよくーちゃん﹂ ﹁魔王││う、ぐ⋮⋮お主はいつもいつも⋮⋮﹂ 狂気を孕んだ魔王の言葉が布に染みこむ粘液のように脳が蕩ける 1427 感覚を伝える。 クロウの半ば閉じられた目のすぐ前に、魔王の虹色をした瞳が瞳 が瞳目目目目目目⋮⋮ 正気を削る魔王の瞳にクロウは抵抗を奪われたまま晒されてしま い、それが効果を発揮する。 ﹁君を元の世界に飛ばす為に、我と魂の接触点を作る術式をかける だけだから﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 故に触媒として魔王自身の血液を入れていたのであるが⋮⋮ もはや魔王の言葉を把握することも理解することもクロウには出 来なかった。 ﹁眠るといい。起きた頃には終わってるし││汝は何も、思い出さ ない﹂ クロウの意識が││完全に途絶えた。 ﹁さって、いーちゃんに見つかる前に、ちゃっちゃと済まそうか。 イモータルは適当にあの子を誤魔化して時間稼ぎしといてねー﹂ ﹁了解致しました。念の為にこの部屋を次元隔絶封鎖処理致します﹂ ﹁あーだめだめそれだと怪しすぎるから。いーちゃんだったらチー ト魔力で強制的にこじ開け兼ねないし。イモと蛸とカボチャでも煮 込んで食べさせとけば暫く大丈夫でしょ﹂ 魔王の助言に一礼して了解の意志を示した。 術式の作業は集中して行うために魔女イリシアに邪魔などされた ら困るのである。そも、クロウを元の世界に戻すために魔王と組ん だイリシアであるのだが。 1428 空間転移で部屋から消えた侍女を見送って、少し寂しそうに魔王 は呟いた。 ﹁怠惰と停滞の狭間に止まっていても我は構わないのに││人はう つろうものなんだね、くーちゃん﹂ そしてため息混じりに、 ﹁││甘いなあ﹂ と、言った。 ***** よく晴れた日であった。 節分も終わり春の兆しが見え始めているが、まだ朝晩の空気は冷 えている。 その日も緑のむじな亭に石燕はやってきて、九郎に勿体振りつつ 一つの包みを渡してきた。 ﹁やあ九郎君、今日は珍しいものを持ってきたのだよ﹂ ﹁うむ?﹂ 彼が包みを開けると、猪口ぐらいの大きさの黒褐色で平べったい 1429 ハート型のものが出てきた。 どう見てもチョコレートであるが、江戸時代には無いはずだが、 と九郎が目を大きく開けて、ひっくり返したりして裏表を眺める。 石燕が得意げに指を立てて云う。 カピタン ﹁これは[しょくらあと]という菓子でね。阿蘭陀からも輸入はし ていない非常に貴重なものなのだよ﹂ ﹁どうやって手に入れたのだ?﹂ ﹁ふふふ、輸入自体はされていないのだが、商館長が個人的な贈呈 として長崎奉行に上げたものなのだよ。私は少々長崎奉行に顔が利 いてね、大金と引き換えに融通してもらった﹂ ﹁また妙な趣味に金を⋮⋮﹂ 呆れて九郎は腰に手を当てて胸を張り自慢している石燕を見る。 実際にチョコレートの日本の伝来として記録に残っているものは、 長崎の遊女が阿蘭陀人に貰い受けて記録に残した寛政の頃だと言わ れているが、石燕がこうして手に入れている物は長旅をする船乗り の為に薬としてそれ以前から阿蘭陀人が持ち込んでいたのだろう。 彼女が長崎で絵や蘭学の勉強をしていた時に何やら巡り合わせで 長崎奉行に貸しを作った事で分けてもらえることになったのだ。 当時のチョコレートは液状だったのだが、わざわざ石燕が油分を 含む醍醐と砂糖を加えて練り固形チョコに加工したのである。 ﹁しかし、ハート型であるな﹂ ﹁ふむ。紅毛人達の国ではこれを心臓の形と言っているらしいね﹂ 九郎の疑問に石燕は、ひょいとチョコを掴んで上下逆さまにして 見せた。 ﹁恐らくは命の象徴である、生命の実││すなわち、桃を表してい 1430 るのではないかと私は思うのだよ!﹂ ﹁桃か。確かにひっくり返すとそうなるな﹂ ﹁ふふふ、日本では桃太郎の話が有名だね。流れてきた桃を食べた お爺さんとお婆さんは若返る。イザナギも黄泉の国から逃げる時に 桃の実を投げつけて最後に逃げ切っている。大陸でも仙人が食らう 不老長寿の実は桃だ﹂ ﹁あー⋮⋮確か女の胸の形という説もあったぞ﹂ ぼんやりと九郎が呟くと、 ぱい ﹁え!? 今誰か神聖なるおお拝なりの話題出した!? 出しまし た!?﹂ ﹁いや勘違いだ帰れ仕事しろ﹂ ﹁タマー⋮⋮﹂ はしゃいで湧いて出た少年を追い払った。 石燕は微笑みながら、 ﹁さて九郎君。この菓子、名前を[しょくらあと]というがこれは 何故だと思うね?﹂ ﹁うむ? 妙なところに目を付けたな。確か⋮⋮原料がカカオと言 ってな。現地語がまた別の言語に訳されて、まあこの日本に来た頃 にショコラとチョコレートが混じり伝わったのではないか? いや 知らんが﹂ 九郎は聞きかじりですら無い、適当な返答をした。チョコやショ コラはだいたいカカオの読み違えだと記憶はあったので、そのへん だろうとあたりを付けたのであるが。 だが地獄先生は違った。主に脳のネジの規格が。 彼女は指を振りながら解説しだす。 1431 ﹁いいや違うよ九郎君。違わないのかも知れないが、これはもっと 重大な理由があり日本では[しょくらあと]と呼ばれているのだ﹂ ﹁ほう。どのような?﹂ ﹁私の瑠璃色の脳細胞によればこの単語は[しょくらあ]、[と] に分けられる。ふふふこれでピンと来たのではないかね?﹂ ﹁いや、さっぱり﹂ ﹁つまり[しょくらあ]とはね九郎君。妖怪[しょうけら]が訛っ たものではないかと思われるのだよ!﹂ ﹁ええええ﹂ 心底違うと思うのだが、まったく意識していなかった組み合わせ に九郎は呻いた。 さんし ﹁そう考えれば残りの[と]と言うのは漢字で書くと[戸]、つま り[三戸]を表すことは明白だ。 三戸と言うのは道教における伝承でね。人間の体内には上戸、中 戸、下戸という三匹の虫が生まれついて存在していると言われてい る。 これらは庚申の日に体内から抜けだして天帝、或いは泰山府君に 宿主の悪事を告げ口し寿命を縮ませるという役割を持つのだね。 告げ口に行くのは宿主が寝ている間だから庚申の日は寝ずに過ご すというのが庚申待と呼ばれる徹夜の儀式だ。しょうけらは屋根の 上に乗りそれを見張る妖怪なのだよ﹂ ﹁ああ、うむ﹂ 九郎は軽く頭を抑えながら、一応問いかけた。 ﹁それで、何故この菓子にしょうけらの名が?﹂ ﹁良い質問だね。庚申待と言うのはその夜に寝ない事が肝要だね。 1432 だからそれを行う貴族らは茶を飲み眠気を抑えて夜を明かした。 このしょくらあとにも茶と同じく眠気を覚まし、また血流を促進 して元気づけ甘味は苛立ちなどを抑える効果があるのだよ! 昨晩 試食して私自ら実感した。 つまり、しょうけらと三戸に備える庚申待の為に使われる菓子で [しょくらあと]と呼ばれているのではないかと提案する﹂ ﹁提案されてもな﹂ ﹁では文献に書き残しておこう﹂ ﹁後世を混乱させようとするな﹂ ﹁しかし庚申だと五行では金行になる⋮⋮甘いという味は土行に分 類されるのだが⋮⋮いや、五禁によれば甘味が金行だから、摂り過 ぎると良くないということかね?﹂ ﹁考えすぎてもこじつけ以外の何にもならんと思うが⋮⋮﹂ ぶつぶつと考察を続けている石燕を見ながら九郎は茶を一口啜っ た。 新しく変えたばかりの心底苦い茶が口に染みて、顔が綻ぶような 美味さだ。薩摩から取り寄せた[鹿屋]の茶であった。 石燕はやがて己の中の定説が如何様に纏まったのか、顔を上げて 再び九郎にチョコレートを渡してきた。 ﹁ともあれ、これは九郎君に食べて貰おう。庚申待をするのも男と 相場が決まっているからね。生命の象徴の形もしているから、九郎 君の健康を祈って﹂ ﹁不健康なのはお主の方であろう。貴重な物なのだ。若い者が食べ ると良い﹂ ﹁私が九郎君にあげたいのだよ﹂ ﹁⋮⋮そうか﹂ 九郎は平面な桃形のチョコを受け取り、二つに割った。 1433 ぽかんと見ている石燕に半分を返して云う。 ﹁昔、己れの古い友人が教えてくれたことでな。こうして、渡され たこの菓子を半分にして返すとお互いの願いが叶うそうだ﹂ ﹁ほう。それは夢想的で良い祈願方法だね﹂ ﹁⋮⋮ああ、己れもそう思う﹂ 九郎は目を細めて、ずっと昔に空飛ぶ蛇の下、チョコレートケー キを分けて食べた友人の事を思い出した。 若い頃から老人になるまで長い付き合いだったが、魔王のところ で厄介になってからは疎遠になってしまった。 しかしそれでも、まだあの日のことは覚えている。 どこか懐かしそうな表情の九郎を見ながら、石燕は一口でぱくり とチョコを頬張った。 ﹁甘くて美味しいね。私は人生に於ける幸せの一割は甘味だと思っ ているよ﹂ ﹁そうかえ﹂ 九郎も同じくチョコを口に放り込む。 苦味に混じりヨーグルトに近い酸味、そして上品な和三盆の甘さ が口にふわりと溶けて染み込まれるようだった。 ﹁さて。私と九郎君、あと皆が健康で居られますように、と﹂ 手を合わせながらそう願う石燕に、九郎は苦笑を返す。 ﹁欲張りな願いだな﹂ ﹁そうだとも。私は強欲なのだ﹂ ﹁そうか。己れの分もお主が願ってくれてるようだから⋮⋮﹂ 1434 九郎も石燕に倣って、手を合わせて軽く目を閉じた。 遠く離れた友人の事を思う。 あの世界で仲が良かった彼女の事だ。自分が居なくなった事を気 に病んでいるのは想像が出来た。優しい子だったのだ。 今は何をやっているかわからない。長命種族だから生きているの だろうか。願いが別の世界に届く保証も叶う根拠もないが。 ︵スフィのやつが風邪などを引かないように⋮⋮︶ とりあえず、異世界に残してきた友人の為にそう願った。 如月の半ば││江戸の空は青く済んでいる。 ***** 魔王城が破壊され、時空間汚染されていた土地が浄化されてそこ 1435 に国が作られた。 第一級殺神罪であった魔王を打破した勇者には多くの神から栄光 が与えられ、世界中から人が集まり国づくりが行われて大都市とな る。 あらゆる人種が集まり発展させるその都市は[帝都]と呼ばれた。 東の島国との交易拠点にもなる帝都はあっという間に大陸中の都 市と結ばれて国を広げていく。 目に見えて日毎に増え広がる街並みはこの世の最盛を思わせるほ どであったという。 そんな帝都のある場所で。 小さな花畑に囲まれて、綺麗に手入れされた墓が一つあった。 墓の下には骸は入っていない。 昔、縁があって借りたままだったハンカチが一枚埋められている だけだった。 墓の近くにある小さな教会には小柄なエルフのシスターが一人住 んでいる。 別の国では大司祭にまでなった歌神の修道女であるが、隠者のよ うに暮らしていた。 教会に来る子供たちに毎週、悪戯好きな魔女と苦労人の騎士の物 語を歌って聞かせている。 魔女という存在は死んで魂まで別の世界に行った事で急速に忘れ られているのだが、歌にしていた彼女が語り継いでいたおかげで、 絵本のお伽噺にもなっていた。 いつも、自分で作った墓に歌を唄っていた。 骸は無いけれど、確かに死んだのだと言われている大事な人の墓 に。 彼が若い頃から付かず離れずの付き合いがあって││。 1436 世界中から指名手配されててもひょっこりと遊びに来たりしてい た友人だった。 墓を作って最初のころはひたすら泣いていたが、やがて彼女は泣 かなくなった。 しかし年に一度。 墓の前でチョコレートケーキを一人で食べる時だけは泣いている。 これからも、ずっと。忘れないように。 羽根の生えた蛇が今年も空を飛んでいる││ 1437 45話﹃動くな、死ね、甦れ﹄ その日、佐野六科は朝餉を済ませてから、蕎麦の生地を練り、 出汁に規定された量の昆布と鰹節で味を付けた。味見は特にしてい ない。自分の味覚を信じるなと言われているからだ。とりあえず、 決まった量を決まった時間煮ることだけを考えろと矯正された。 出汁に混ぜる蕎麦のかえしは、週に一度ほどに大量に作り壺に入 れて保管している。日毎に作るのではなく、寝かしたほうが良いと 言われて気づいたのである。 それだけ準備して、彼は以前に神田柳原の古着市で買った長着を 身につけ、 ﹁では、出てくる。夜までには戻る﹂ と、タマと九郎、お房に言い置いて店を出た。 何やら今日は昼間から寄り合いがあるのだという。それで六科は 店を空けなければならないので、最初は休業日にしようかと思った のだが、 ﹁お父さんが居ても居なくても別に作る手間は変わらないの﹂ ﹁それもそうか﹂ 娘からとても納得のいく理由を告げられたので、あっさりと六科 は頷いた。 もとより手の凝った物は作っておらず、蕎麦生地さえあれば後は 茹でてつゆを混ぜ出すだけである。 今日の一品料理もしらす干しに大根おろしを加えて生醤油で混ぜ あわせたものなので特に調理の手間はない。 1438 ある程度の知的生命体ならば六科の店主としての代わりは事足り るのである。 ︵これこそ、しすてまちっくな経営というものだ⋮⋮︶ 九郎は満足気に頷く。まあ、機械的に材料の分量などを決めて繰 り返させている事で六科の料理の腕は[普通]から上達しないのだ が。 味の追求は休業日に行うようにしている。客に出すものではない からだ。その際はお雪がとても役に立つ。視覚が無く、他の感覚に 優れている彼女は味覚も良いのである。 本人曰く、 ﹁感覚を一つずつ閉じていったら、残したものはもっと良く感じま すよーう﹂ とのことだ。以前に五感全てを消して集中していたら心の動きが 読めた事があるという。それすら塞いだら意識その物が浮かび上が り、更に深層には阿頼耶識との繋がりすら感じるのだという。 それを聞いた時九郎は胡散臭いというよりもなんか危なそうだか ら止めておけと言っておいた。抱きしめた心の小宇宙を感じて危険 を悟ったのかもしれない。熱く燃やすし、奇跡だって起こるのだ。 ともあれ、今日この日││六科が居ないだけで緑のむじな亭は通 常営業日なのである。 張り切るタマとお房を監督するのが九郎の役目だ。客入り次第で は手伝うが、二人の労働能力を確かめる意味合いも込めて手出しは あまりしない。タマは小器用に包丁も扱えるし、お房だって注文も 配膳も慣れたものであるから然程心配はしていない。 決して働くのが嫌だから監督しているわけではないのである。 1439 ﹁若いうちに流さなかった汗は年をとってからの涙になる。若いか らこそよく働くべきなのだと、産業革命時代英国の資本家が言って おった﹂ ﹁それ多分絶対児童労働を正当化するための理屈なの﹂ 半眼でお房に指摘されつつ、九郎は聞こえなかった振りをして昼 酒をちびちびと飲んでいた。 ***** 人の不幸は蜜の味という言葉がある。 他人の不幸で飯がうまいとも言われている。 だがまあ、そんなこととは関係なく、また一人露骨に顔を青くし て客が食いかけの蕎麦から箸を下ろして銭をそっと置いて店から無 言で出て行った。 ここは緑のむじな亭。流行っているわけではないが食うに困るほ ど売れないわけでもない、固定客がそれなりに居る蕎麦屋であった。 その店内の事である。 有り体に云うと、痴話喧嘩が起こっていた。 ﹁ええい、縋るな懐くな気色悪い。貴様のような畜生に付き纏われ るなど吐き気がするわ﹂ ﹁ひどい⋮⋮私はこんなに、あなたを⋮⋮﹂ ﹁煩い、黙れ。呼吸もするな。頼むから逝ね。小判をやるから首を 吊れ! 自害しろ!﹂ ﹁私めは貴方様と一緒に生きていとう御座います⋮⋮ひどいことを 1440 言わないで⋮⋮﹂ ﹁うぬ!﹂ とうとう縋る相手に耐え切れずに叫び声を上げて、旗本の息子風 の身なりが良い侍は熱い蕎麦つゆを相手の顔面にぶっかけて店から 飛び出ていった。 顔をびしょびしょに濡らしながら蕎麦の麺を張り付かせている残 された方を見て、最後の客が嫌そうに酒のお代わりを拒んで支払い 逃げるように退店する。 九郎はうんざりとため息をついた。 事の始まりは、最初に若侍風の男が一人で店に現れて座敷に上が り蕎麦を食っていたのだが、あとから来た顔見知りらしきもう一人 が擦り寄るように若侍の隣に座り、それを見てぎょっとした侍が罵 りまくったのである。 なにやら、ただならぬ関係のようだ。 まあそれが普通の痴話喧嘩風ならば、この店に連なる長屋から来 た連中などは面白がって酒を飲みながら愉悦るのであるが。 若侍にしつこく言い寄っていたもう一人が、控えめな表現で言え ば筋肉盛々の変態男なのだ。妙に女柄な単衣をがっちりとした体に 纏い、張り裂けんばかりに見える胸筋や二の腕には無数の生々しい 刀傷が見える。 あろうことか、顔には白粉を塗りたくり、紅を唇に差して、眉墨 も書いているところが気色悪くてならない。 九郎から見れば、 ︵筋肉はゴリラ、牙はゴリラ。燃える瞳は原始のゴリラ⋮⋮言った 風か︶ と、感想を覚えるほどである。総称としてはまあ、毛深くないゴ リラである。 1441 衆道というか、男色関係の痴話喧嘩だったようだ。 飯屋で女装ゴリラがなよなよした口調で男に言い寄っていて、蕎 麦を頭からぶっかけられてめそめそ泣いていたら客はどう思うだろ うか。 と言うかまだ泣いている。 消え入りそうな声で悲しんでいればいいのに気色悪い嗚咽が店中 に響いている。 さすがにタマもお房も嫌そうな顔をして九郎に助けを求めた。 三人で板場︵厨房である︶に引っ込んで声を潜めて相談をする。 ﹁九郎。ちょっとあんたあれをどうにかしなさいよ﹂ ﹁駄目だ。経験上ああいうのには触れてはならん。変に声をかけて こっちに付き纏われたらどうなる⋮⋮﹂ 九郎は何か思い出す事があったのか、顔を少しばかり青ざめさせ て軽く頭を振った。 人生経験が豊富ならば対処できるという問題ではない。むしろ、 経験豊富だから対処してはいけないと判断できるのだ。ああいうの を対処するには、まず人が入らなくて地面に穴を掘りやすい山か、 程よく濁って深い池が近くに無ければいけないのだ。 タマもげんなりとしながら、 ﹁ああいう人はお客でも面倒なんですよねー⋮⋮鎖骨とかへし折っ ても罪悪感が沸かない系の用心棒がいれば別なんですけど﹂ ﹁こんな時に限って六科は居らぬしな。あやつなら空気も読まずに 蹴たぐり放り出すのだが﹂ 無論、九郎の腕力からすればあの営業妨害変態男を殴り倒して外 にぶん投げることが出来なくはない。 しかしそれは彼としてもやりたい手段ではなかった。 1442 あまり触れたくないのである。 彼は割りと寛容││と言うか何事にも慣れと諦めが効く性格であ るのだが、同性愛には今ひとつ厳しいことは、玉菊の男色を止めさ せたことからも伺える。 ﹁まあ、江戸では珍しいって程じゃないんですよー。少年風な陰間 じゃなくてああいう骨太な人専門で出してる店もありますタマ﹂ ﹁ううむ、気分が悪い﹂ ﹁九郎も苦手なものあったのね?﹂ 顔を顰めている居候の彼に、お房は首を傾げながら聞いた。 九郎は苦々し気に、 ﹁昔なあ、己れがちゃんとしたところで勤めていた時だが。三十も 過ぎて嫁も貰わずに居たら実は男色なのではないかと根も葉もない 噂が立てられてな。 そう云う店に連れて行かれた事が⋮⋮うさ耳のばにぃがーるがな んで胸がなくて股間が膨らんでおるのだ⋮⋮精神的に殺す罠だと思 ったぞ⋮⋮﹂ 嫌な思い出を想起したせいで胃のあたりが酷く傷んだ。 異世界で騎士団に居た頃の話である。 そのうち日本に戻るのには、嫁や子など居たら戻れなくなるだろ うと思って作らなかったのだが。もう日本には戻れないと悟った頃 にはすっかり初老になったので結局嫁は出来なかった。 同性愛疑惑の時は昔馴染みのスフィに弁護して貰ったのでなんと か晴れた││代わりにロリコン疑惑が立ったがそれは九郎の耳に届 かなかった││のだったが。 ともあれ、 1443 ﹁おっ⋮⋮うぐっ⋮⋮うぇひっく⋮⋮およよよ⋮⋮﹂ 趣味は筋トレです、好きな場所はサウナとでも言いそうな大柄の 男が店内で蹲ってひたすらそんなうめき声を上げている状況をどう にかし無ければならない。 鬱陶しいとか実害があるを通り越して、呪われそうだ。いつまで も女々しく泣いているのは誰かが声をかけるのを待っているのかも しれない。 一瞬店に入りかけた客が即座に後ろ歩きで外に出ていった。 このままでは今後店の評判も悪くなる。 しかし話しかけたくない。九郎的には自分が関わるのも嫌な相手 を、子供たちに触れさせたくは無いのである。 ﹁どうしたものか⋮⋮むっ﹂ 開け放たれた店の入口の先、通りを黒袴の同心が歩いているのが 見えた。 そう、現代でも困った客は警察に頼るではないか。はるか昔にバ イトをしていた飲み屋でも││いや、あれは警察に一斉検挙されて 潰れたから違うか、と九郎は懐かしく思った。 ﹁タマよ、外に利悟が歩いていたから連れて来い。あやつに任せよ う﹂ ﹁あいさぁ﹂ 返事をしてタマは裏口から出て通りへ抜けた。 すぐに相手は見つかる。黒袴を着て腰に一本挿しの刀。如何にも 同心らしい格好をした青年である。 町奉行所の本所見廻同心、[青田刈り]の菅山利悟だ。 1444 ﹁利悟お兄ちゃーん﹂ 遠くから呼びかけたのだが、全力疾走でこちらに向かってくるの を見て軽く引いた。 白い歯を光らせながら爽やかに、 ﹁やあタマ。今日もいい少年っぷりだね﹂ ﹁もう、お兄ちゃん。店の前を素通りは酷いんじゃないですかあー ?﹂ ﹁ははは御免御免。ほらこの前お房ちゃんに笑顔料金を追加で上げ まくってどんどん要求を吊り上げてたら、石燕先生の鬼人手に食わ れそうになったせいで心理的に行きづらくて﹂ ﹁笑顔で恥ずかしそうに両手の指を二本立てる要求はやり過ぎタマ。 まあ、いいぞもっとやれって気分だったけど﹂ 九歳女児の赤面ダブルピースを要求する絵面はかなり犯罪である。 金のためにそこまでやるお房もお房だが。 ともあれ、タマは利悟に要件を告げる。ねだるような上目遣いを しながら、 ﹁お兄ちゃん、実はうちの店に厄介なお客さんが来てて帰らないん ですよ﹂ ﹁なに、それは許しがたい。なあに、拙者が軽くお話して追い出し てやるから安心してくれ﹂ 頼られて悪い気は全くしない為に、腕を組んで旨を張りながら彼 は大仰に頷いた。 子供の頼みを聞くのは当然の事である。利悟は意気込んで店へ向 かう。 1445 ︵客とやらが影兵衛さんでも平気さ⋮⋮!︶ それぐらい子供からの依頼というのはやる気が湧いてくるのであ る。 それに、影兵衛はまだ怪我していて自宅療養中だというのは職場 が違っても同心連中では有名な話なので違うと考えられる。一同は これで毎年恒例[切り裂き 春の血祭り]という残虐系な祭典が行 われなくて済むと安心していた。同心は最高の職場だ。なにせ彼に 切られない。 ともあれ[厄介な客]とやらについて考察を瞬時に巡らせる。 ︵まずお房ちゃんとタマが相手できず、かつ腕力の九郎と冷徹な六 科の親父さんが対処に困る相手⋮⋮はっ︶ 彼は、はたと気づいた。 ︵泣きじゃくる女児か! これだ! もはや周りの声が聞こえぬほ ど泣いていて手がつけられない子供ならば条件に一致する! そし てそんな子供を救えるのは拙者しかいねえ!!︶ 突然興奮しだした利悟を気味悪く後ろからタマが見ている。 溢れんばかりの希望とか欲望とか、まあそんなもので飛び込む勢 いで具体的なプランすら無く店の暖簾をくぐった。 ﹁拙者が! 君を! 助けに来た!﹂ 風を切るような身のこなしで、よく通る声を上げて店に突入した 彼は││ ﹁えっぐ⋮⋮ひ、ひひおろろろ⋮⋮うぐうう﹂ 1446 嗚咽を垂らしている巨漢の化粧した化生の如きおっさんを視界に かすらせた瞬間、物理法則を凌駕し逆再生のように店の外に戻った。 泣き男が顔を上げた瞬間には視界から消え去っている。 店の外で五体投地して記憶から先ほど見た男を抹消している利悟 を、木戸にかかった吐瀉物を見るような目でタマが見下ろして爪先 で突いた。 ﹁おい、お兄ちゃん。早くしてくれませんかね﹂ ﹁御免ちょっと心臓が止まりかけただけだから待ってくれない?﹂ 期待││現実味のない妄想に身を任せただけだが││していた分 余計に衝撃を受けている利悟は弱々しく応えた。 泣く少女を期待したら女装した須佐之男が出てくるなんて聞いて いないじゃないですか。そんなの無いじゃないですか。彼は今なら ヤマタノオロチの気分もわかる。貴様のような女が居るか。毒入り の水を飲ませてくるかテキーラを薦めてくる系だ。神話的にあって るが。 メソメソとした鬱陶しい男が増えた。しかも今度は店の前で直接 妨害している。タマは舌打ちをして唾でも吐きかけてやろうかと思 った。 ぐい、と利悟の襟首を掴んで起こす手が伸びた。 裏口から回ってきた九郎だ。後ろにはお房も付いている。 ﹁これ、利悟よ。はようあれをしょっ引くなり懐柔するなりして店 から追い出さぬか﹂ ﹁ううう、大岡様曰く[民事は当事者間で解決しろ]って⋮⋮﹂ ﹁なんというか時折聞く大岡越前はいめぇじと微妙に違うなあ⋮⋮﹂ 九郎は小さくぼやいた。彼が知るのは時代劇となった正義の判事、 1447 町奉行大岡越前というヒーロー的なものな為に現実とは違うのも当 然である。 そもそも町奉行の役は多忙を極める。 例えばよくある一日の例で言えば、日の出とともに起きだし、朝 四ツ︵午前十時頃︶まで書類仕事を行い江戸城に登板。老中に白州 の裁決などの伺書を渡して前に渡したものを受け取りその場で確認 し、必要があれば勘定奉行や寺社奉行にも書類を回してまた承認を 行う。町奉行所に戻ってから夕方までは新たな訴訟を受け付け、夕 方に戸を閉めた後はその日の牢番からの調書、同心が作成した書類 などの確認に負われて日を跨ぐ事もあった。また、火事が起これば 出動しなければならない場合もある。 大岡越前が些細な町人同士の諍いなどは持ち込むな、とお触れを 出すのも当然ではあった。 のだが、 ﹁へぇ∼利悟さん、あたい達が困ってるのに助けてくれないんだ﹂ ﹁日頃あれだけ子供の味方とか子供を助けることだけが生きがいと か子供と同じ空気吸ってるだけで生きられるとか言ってるのにがっ かりタマ﹂ ﹁うっぐ﹂ 完全に失望というか、まあ元々それほど望みは持ってなかったが 無価値の滓か何かを見る目付きになったお房とタマに言葉を詰まら せる利悟。 ⋮⋮そうだ││たとえ相手が生理的に嫌悪感を覚える男でも、そ れに迷惑を被る子供の為ならば処理をせなばならない。 ⋮⋮立ち上がれ、男よ。 そう九郎がナレーションのように利悟の頭近くでぼそぼそと語っ てやると、彼はやおら起き上がって店に再び入っていった。 入り口から三人が見守る中、幾らかふらついた足取りでまだ突っ 1448 伏して喚いている男に声をかける。 ﹁あー、おい。お前﹂ ﹁ぐすっ⋮⋮はい││﹂ やっと話しかけられたとばかりに泣き男は顔を上げて、控えめに 言って厠の中を覗きこんだような表情の利悟へ向き直った。 彼は表情も動かさず、幽鬼の如き男に勇気を込めて平坦な声で話 しかける。 ﹁拙者はこれなんだが、これ。そんなところで泣いてると迷惑だか ら﹂ と、胸元から取り出した十手を見せた。 態度は面倒くさそうと言うか関わり合いになりたく無さそうな雰 囲気全開である。名すら名乗っていない。 ﹁まあ、八丁堀のお侍さま? すみません、でも実はこれには訳が ⋮⋮﹂ ﹁おえっ。ああうん、いや別にそれは聞いてないからほら。できれ ば外に出てくれないかな。なるたけこの国の外に﹂ ﹁そうですわね⋮⋮ここじゃ落ち着いて相談もできませんわ⋮⋮お 侍さま、どこか落ち着けるところへ連れて行ってください﹂ ﹁拙者はどうでもいいんだよ。話も聞かねえよ。迷惑だからどこか 川の底で一人で泣いててくれないか﹂ ﹁ええ⋮⋮あの捨てた人も同じようなことを言って居たのです⋮⋮﹂ ﹁語り出しちゃった!﹂ 女言葉で野太い声を返してくる泣き男に吐き気を覚えつつも、会 話が成立しなくてげんなりしてきた。 1449 利悟は助けを求めるように入り口に目をやると九郎が半紙に、 [問題ない] と、書いたものを見せて二枚目の紙へと捲った。 [そのままお主と一緒に外に連れ出せ] 利悟は顔を真っ青にしてぶんぶんと横に振る。 すると九郎の左右に居るお房とタマが願い事をするように両手を 合わせて潤んだ瞳で見てくる。 利悟の顔が理性と感情とに引っ張り合いを受け引き攣って、哂っ ているような啼いているような奇妙な表情になった。 背中に浮いたサブイボがメインイボに入れ替わるような気色悪さ を覚えつつ、血の気が失せた頭で死体遺棄の方法が構築されつつあ る利悟は掠れた声で、 ﹁とりあえず、外に行こうか。うん話はそれからだ﹂ ﹁お侍さまはお優しいのですね⋮⋮ときめいちゃうかも﹂ ︵殺⋮⋮︶ とぅんくと胸を鳴らすおっさんに対して利悟は漆黒の意志が芽生 えかけた。 頭に被った蕎麦つゆも冷たくなっていて、化粧が濡れて流れ化生 になっている、華柄の単衣を巻きつけた筋肉男を連れて利悟はとり あえず店から出ることに成功したのだった。 九郎は珍しく彼に感謝の念をテレパシーで送った。九郎がテレパ シーを送る能力があり利悟が受信する能力があるのならば、伝わる はずだ。これで礼は充分だろう。 店から出て二間も歩かぬうちに利悟は猛烈な走りで逃げ出したが、 1450 化生はそれを追いかけていく。それを見送って、タマとお房は手ぬ ぐいを振っていた。 悪は去った。 ﹁さて、掃除して店を再開するか﹂ ﹁まったく、ああいうのは連れ込み茶屋か何かでやれって思うの﹂ そう言ってまた何事も無かったかのように日常が再開されるので あった。 ││少なくともその日は。 ***** 翌日の事である。 店主の六科がいつも通り朝の準備を行い、入り口の戸を開けたと 同時に、ふらりと薄汚れた黒袴の利悟が店内へ入ってきた。 まだ昼飯には早い時分だ。この日はお房が石燕のところに勉強に 出ている為、店内には彼女を除く三人の男が居た。 椅子に向かい崩れ落ちる勢いで座って、机に泥のようにうつ伏せ になった。 酷く疲れている様子だ。 九郎と六科、それにタマは目配せをして頷き││シカトした。 ﹁話を聞いてよ!?﹂ 1451 がばりと顔を上げて主張する利悟に九郎が半眼で告げる。 ﹁そうやって他人の目の前で如何にも己が不幸であると見せて話を 聞いてもらおうとする姿勢。昨日のアレとそっくりだな﹂ ﹁うあああ!? ち、違う! 拙者はあんなんでは⋮⋮!﹂ ﹁あの後に随分仲良くなって性格が伝染ったんじゃないですかあー ?﹂ 少年から容赦なく浴びせられる追撃の言葉に利悟は諤々と震えだ して頭を抱える。 ﹁そもそもあいつだあいつ! あろうことか拙者の長屋にまで付い てきたんだぞ! 恐怖か! 仕事終えて家に帰ったら飯とか作って あの毛の生えてない熊が待ち構えてるんだ! 刀を抜いたわ!﹂ ﹁そのまま切れば良かったではないか﹂ 相変わらず仏頂面のまま、物騒なことを六科は云う。 利悟は怯えたように、 ﹁駄目だ。やろうとしたさ。痛い目にでも合わせれば逃げるだろう と。しかしあの男、妙に素早く刀の間合いを見切りつつ、少しだけ 肌が切れる程度に避けて新しい傷が出来る度に悦んで喘ぐんだぞ! ? 全力で殺せば別かもしれんが気色悪くてこれ以上無理だ!﹂ ﹁ああ⋮⋮なんか全身傷だらけだったな、そういえば﹂ 思い出したくもないのだがその件の毛の生えてないクマゴリラの 体に残った無数の刀傷はこうして出来たのだろう。 ストーカー気質で女々しくて重たく、被虐趣味のある筋肉モリモ リマッチョマンのホモである。 1452 ﹁それはもう災害であろう⋮⋮﹂ ﹁だよね!? 拙者もう昨日逃げて奉行所の足軽部屋で寝たよ! まったく﹂ 怒りながらそう告げる利悟の肩を、九郎は生易しく叩いた。 ﹁ま、別に良いではないか。 お主、男色家なんだろ﹂ ﹁ちがああああああああああああ!! ううううあああああ!! おっ、おぼろしゃ﹂ ﹁うわっ利悟お兄ちゃんが拒絶反応のあまりに嘔吐した﹂ ﹁死ね﹂ 九郎の一言に叫んだり吐いたり椅子から転げ落ちてのたうち回る 利悟を汚物のような目で見て冷たい声をかける店員と店主である。 呪いの言葉を囁いた九郎は心外だと言わんばかりにしかめっ面で、 ﹁だってお主、日頃から言っているではないか。男の子でも可愛け ればいいよね││て。つまりはホモ。いや、男色の気があるのだろ う﹂ ﹁断じて違う! 少年愛と男色は別だ! 拙者が好きなのはすね毛 が生えていないまでの年齢の男の子であって、あんな、あんな⋮⋮ あんなのはあんまりじゃないですか!﹂ ﹁阿呆が。すね毛が生えてないとか、男の娘とか、女の子におにん にんが生えてるだけだとか、ショタビッチだとか云うがな。つまり はどれも同じ非生産的な同性愛だろうが。それでイケるならあの男 でも平気だろう。頑張れよ﹂ 1453 ﹁違う! 絶対に違う! っていうか嫌だ! そんなのはクソも味 噌も同じだと言ってるようなものだ!﹂ ﹁お主の仕えてる将軍家の神君がクソを味噌と言い張っていたでは ないか。同じ同じ﹂ 九郎がニヤつきながら説得のような言葉の暴力を放っている。 それに対して利悟は論理武装も精神耐性も完璧ではなく、ただひ たすらに心に傷を負っていく。 床に這いつくばりショタコンとホモは違うと感情的に力説するい い年をした公務員が居た。 菅山利悟││同心二十四衆が二番[青田刈り]と呼ばれる実力者 である。剣術の腕前に比例せずに精神は脆弱にして歪つなようであ ったが。 なお、当時江戸では割りと同性愛も珍しくは無かったのだが。男 同士だけでなく女牢設定で百合百合しい春画なども大いに売れてい たそうである。 ﹁そういえば利悟お兄ちゃん、あの人的な生き物はお兄ちゃんの長 屋に居るままなんですか?﹂ ﹁はっ! そういえば。あんな地獄めいた男が拙者の長屋にいては、 ご近所の評判が最低に下降してしまう!﹂ ﹁いやまあ稚児趣味というだけで相当最低だと思うが﹂ ﹁稚児趣味な上に筋骨隆々な念人︵おホモだちの事である︶を連れ 込む衆道家と認識されるのか。底が割れるな﹂ ﹁正直そんな人が隣に住んでるとか前世で相当悪い事したのではと 思い悩むぐらいの不幸タマ⋮⋮﹂ ﹁うあああ⋮⋮﹂ 輪廻レベルで嫌われそうな要素であると言われて凹む利悟である。 ただでさえ彼はいろいろとご近所で噂になっていて針のむしろと 1454 までは言わないが、居心地が良くないというのに。 ︵⋮⋮?︶ 何か忘れている気がしたが、利悟はとにかく相手に家を特定され ている現状をどうにかしなければならないと考える。奉行所の敷地 にある足軽部屋か中間部屋に移住出来ないだろうかとも検討しなが ら││ その時、店の暖簾が揺れて人が入ってきた。 ﹁ちょいと失礼するよ﹂ ややくぐもった声で店に入ってきたのは縹色の着物に柿渋色の羽 織を着ている、髪に白いものが混じった初老の男だ。 同心の巻羽織ではない普段着の姿だが、彼は同心二十四衆の一人、 [殉職間近]美樹本善治である。同心という身分故に手柄を立てよ うとも昇進したりはしないのだが、与力にも一目二目と目を置かれ ている熟練の男だ。 床に倒れたまま彼を見上げて、利悟が声を上げる。 ﹁あ、美樹本のおやっさん。今日は非番││﹂ ﹁ここに居たか、この野郎﹂ 彼の姿を見た瞬間、美樹本はごつごつと骨ばった、お世辞にも筋 肉が付いているようには見えない腕を伸ばし彼の襟首を掴み持ち上 げ││。 ぐるり、と己の頭の上で縦回転させて再び床に叩き付けた。 ﹁がはっ││!﹂ 1455 息が詰まる。衝撃で全身がばらばらになりそうな勢いだった。 投げつけたのに美樹本は利悟の襟首を離さないまま持ち上げ、酷 く不機嫌な顔をして彼の頬を張り飛ばした。 再び床に落ちる利悟。 彼を見下げる美樹本は死神めいた冷たい視線を浴びせている。 ﹁おい、利悟。お前、事もあろうか男に念をくれて家に連れ込んだ のか?﹂ ﹁誤解です! 拙者はむしろ付き纏われて!﹂ 体が頑丈な事が売りの利悟は即座に復活して謝った。何故怒って いるかわからなかったが、とにかく。 ﹁付き纏われて家を明け渡して。なあおい、お前何考えてるんだ? 家まで寄ってくる悪党だったらその場でぶっ殺せよ。 そいつが危ねえやつだったらお前の近所まで巻き込むことになる とか少しも想像しなかったのか? それでお前一人、逃げて奉行所 でぬくぬく寝てたってわけだ﹂ ﹁う、あ、す、すみません! もしかして、誰かに害が⋮⋮!?﹂ ﹁そんな妙な男が居るとおれが知ったのは今朝方だ。お前の部屋か ら出なかったみたいでな。なあ、おい。 おれがな、一番腹が立ってるのはそれだ。お前││いつも家に来 て洗濯だの掃除だのしてくれるあの娘と、その腐れ下郎が鉢合わせ するとか、まったく心配してなかったみてえだな﹂ ﹁││!﹂ 美樹本は利悟の胸ぐらを掴んで、額がぶつかるほどに顔を寄せた。 みずは 酷く、怒っている。 ﹁別にお前と瑞葉ちゃんは恋仲でも夫婦でもねえのは、まあそのう 1456 ち何とかなると思って放置してたけどよ。あの子はお前の幼馴染だ ろうが! 妹みたいなもんで、殆ど家族だろうが! てめえなクソ利悟、あの子は悪党に母ちゃんも姉ちゃんも殺され て、親父だって殉職した。頼れるのは小さい時から一緒にいるお前 しか居ねえかってこたあ知ってるだろ! 今朝騒動があって肝が冷えたぞ! いつも通りお前の部屋に行っ たあの子が変な男から首を締められてるんだ! 慌てて野郎は半殺 しにして番所に放り込んだがな、なんでその場にお前が居ない!?﹂ 利悟は何も言えない。 瑞葉、と言うのは年下の幼馴染の名であった。昔同じ組屋敷に住 んでいて、年が近く親同士の仲が良かったために利悟と、瑞葉と、 彼女の姉と三人で良く遊んでいた。 ある日に組屋敷が怨恨理由だと思われる兇賊に襲われて、瑞葉の 姉と母は帰らぬ人となったのだ。 それから瑞葉は利悟を実の兄のように慕い││縋っていた。 利悟は彼女を良く甘やかし、笑わせ、守れるように剣術に励んで 居た仲の良い幼馴染だったのだが││ 年齢が上がるにつれて利悟が稚児趣味に覚醒した為に、対象外に なったという凄まじく駄目な末路を迎えた。 それでも甲斐甲斐しく独り身で基本的にずぼらな彼の世話を自主 的に行っている。それでいて利悟は嫁に貰おうともしないので近所 の評判は最悪である。 利悟の父とも、瑞葉の父とも面識がある美樹本は進展しない二人 を、まあそのうちどうにかなるだろうと笑い混じりに見守って居た のだが、さすがに今回は怒った。 ﹁しかもな、瑞葉ちゃんなんつったと思う? お前が男色趣味なら 1457 付き纏われて鬱陶しがられてたのもわかる、これからは会うのも控 える、だとよ。阿呆か! 言っとくがな利悟。瑞葉ちゃんが許さんと言ってたらおれはお前 に果たし合いを挑んでたからな。お前を殺さないのはあの娘が悲し むからだ! わかったか!﹂ ﹁う、ううう﹂ ﹁だいたいお前、昔に剣術を習う時言ってたよな? 大事な子を守 れるぐらい強くなりたいって。あの子とその姉を守る為だったんだ ろうが! 目標見失ってどうする!﹂ 怒鳴りつけると利悟はひたすらに後悔を顔にして黙り込んだ。 十年昔から同心の中では﹁おやっさん﹂と呼ばれていた美樹本は 当時の利悟の言葉に感じ入り、江戸でも有名な一刀流の道場に束脩 まで通して通わせたのである。 束脩とは論語に出てくる、入門時に送る礼物で白扇五本が入った 桐箱を渡すのが最大の礼儀とされた。更に、より目をかけて貰う為 には桐箱に金子を入れて渡したという。 それほど美樹本も利悟に期待していたし、彼もその道場の誰より も強く剣術の腕前が上達したことは嬉しく思っていたのに、この体 たらくである。剣術は若くして江戸でも十指に入る腕前だというの に、精神があまりに未熟なのだ。しかしそれも若さがあるから、と 思っていたのだ。 美樹本は利悟に対して血は繋がらぬが、甥っ子と思うぐらいには 目をかけていた。 ﹁いいか、お前があの娘を幸せに出来ないってんならそれでいい。 ならお前自身が瑞葉ちゃんの旦那を探して宛てがってやれ。それぐ らい義理ってもんがあるだろう。 おれや他のやつが云うんじゃあの娘は決して認めない。お前が責 任を持って諦めさせろ。ちゃんとあの子を嫁に貰うか、嫁に出すか、 1458 それぐらい決めろよ﹂ ﹁あ、あとで⋮⋮﹂ ﹁何が後でだ! 今から行って来い馬鹿野郎!﹂ そう言って、美樹本は利悟を店の外に放り投げた。 地面に転げる同心であったが、まあ日常茶飯事なので通りを歩く 人が特別注目するほどではない。 よろよろと立ち上がって、彼は必死に思考を纏めつつも泣きそう な顔で幼馴染の住む長屋の方へ歩き始めた。 それを確認して、美樹本は大きくため息をついて大きく肩を竦め た。 ﹁⋮⋮やれやれ、おじさん久しぶりに声を荒らげたから喉が乾いち まった﹂ ﹁お茶です!﹂ ﹁おっ。悪いねぇ﹂ いつもの飄々とした調子の口調に戻っておどけたような笑みを浮 かべ、湯気の立つ茶をすする。 九郎が若干気まずそうに、 ﹁あーなんだ。その変態男のことだが⋮⋮﹂ ﹁うん?﹂ ﹁昨日己れが利悟に頼んで店から連れ出させたものだからな。其奴 が利悟の長屋に行ってそこまでやるとは思わなんだ﹂ 言うが、美樹本は苦笑いのまま軽く返した。 ﹁いんや、九郎は別に悪くないさ、これ。そもそも町人が同心を頼 るのは当たり前で、悪党に付き纏われたなら利悟の責任で対処する 1459 べきだったんだ。あいつだって頭ん中身はともかく、立場はガキじ ゃないんだから。 ま、おれから見れば、いつまで経ってもあいつも瑞葉ちゃんもガ キのままで、つい熱くなっちまうんだけどよ﹂ ﹁ううむ⋮⋮﹂ 九郎は唸り、顔を曇らせたまま、 ﹁いや、それでもだ。年長者として配慮すべきであった。元はとい えば己れが嫌悪感を出さずにボコって捨てれば良かったのだからな﹂ ﹁そ。まあ個人の見解に文句は付けないけどさ。そうだ、少し悪い と思ってくれてるなら利悟の奴がちゃんと瑞葉ちゃんに声かけに行 けてるか見に行ってくれない? あいつ、屁垂れだから﹂ ﹁わかった﹂ 頷いて、九郎は店から出ようとして、一度美樹本に振り向いた。 羨ましそうな、或いは嬉しそうに小さく笑みを作って、 ﹁お主は大したおやっさんだな。相手の為に本気で怒ってやれる﹂ ﹁⋮⋮そんなもんじゃないって。ただの説教好きのおじさんなだけ だよ。あ、折角だから蕎麦をね﹂ 皮肉な顔をし、そっぽ向いて注文をする美樹本を満足そうに見て、 九郎は利悟を追い向かうのであった。 ***** 1460 道を歩く利悟はすぐに見つかった。 歩みは遅く、何処と無くふらついてぶつぶつと深刻な顔で呟きな がら、大川を下る方向へ進んでいるのである。 まるで、 ﹁狂人を見るような⋮⋮﹂ 目で周りから見られて距離を置かれていた為に、九郎は若干声を かけるのを躊躇った程である。 ﹁おい、利悟﹂ ﹁⋮⋮あうう﹂ 半開きになった口から自然と漏れたうめきのような返事が出てき た。 九郎は強めに背中を叩き、 ﹁そんな屍人みたいな調子でどうする。幼馴染に会いに行くのだろ う﹂ ﹁ううう、そうなんだけれど。なんというか、拙者の所為で危ない 目に合わせたのを謝らなくてはいけないことはともかく││ここ何 年も、拙者はあいつとまともに会話しようとしなかったから、気後 れして⋮⋮﹂ ﹁なんでまた。いつも顔を合わせていたのだろう﹂ ﹁稚児趣味の範囲外⋮⋮だからですかね?﹂ ﹁戯けが﹂ 誇らしげではなく、利悟自身もよくわからないとばかりに躊躇う ように首を傾げて云う様子に九郎は言葉を切って捨てた。 1461 だいたい、と前置きして続ける。 ﹁稚児趣味と云うがな。お主、いつも言っておるように例えば十歳 前後の女子と恋愛したとして。その娘と付き合って大人になったら 捨てるのか? お主が色目を使っておるフサ子とて十年経てば石燕と変わ││⋮ ⋮にじゅ⋮⋮十五年経てば石燕と変わらん。お主の幼馴染も、十年 前は少女だっただろうに﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ ﹁利悟よ。趣味とは情では無いのだよ﹂ 諭すように云う九郎は何処と無く疲れているように見える目付き であった。 利悟はまだ難しく考えた顔を見せている。 ﹁とにかく、お主が思っていることを男らしくそのまま伝えよ。相 手が納得しようが、すまいが、まずはそれからだ。よいか、よいな﹂ ﹁⋮⋮わかった﹂ 頷き、覚悟を決めて、 ﹁拙者は少し、逃げすぎていたのかもしれない﹂ そう言って、押し黙ったまましっかりとした足取りで幼馴染の居 る長屋へ足を早めた。 彼女が住まうのは利悟ら同心の長屋がある下町、八丁堀からほど 近い兜町である。 名を瑞葉という利悟の幼馴染は細々と洗濯屋をして過ごしている。 洗濯屋はその名の通り衣類の洗濯を代行するもので、嫁が居る家庭 1462 はともかく江戸は地方からの男が大勢流入している関係で男女比が 男に大きく傾いている為に、一人暮らしの独身男も多いのだ。 なれば男やもめに蛆がわき││と言った風に、掃除洗濯がずぼら になる者が出るのも当然の事で、それを代わりに行う仕事もあった のである。 とは言え、若い女が見ず知らずの男の洗濯をしていてもどうも宜 しくない事が起こる可能性があるので、彼女は主に一人暮らしの老 人などに通いで仕事をしているのであったが。 そもそも、飯を食って長屋で暮らす程度の金ならば、亡き瑞葉の 父が残した金がまだ残っており、彼女はそれを信頼できる美樹本同 心に預けて月に幾らかずつ切り崩して貰っているのである。 なお、利悟の家で掃除洗濯炊事などを行う金もまた別に││利悟 が周りから睨まれて払うようになって││貰っていた。 ともあれ、利悟と九郎は件の長屋へ訪れていた。 さすがに市中にあるだけあって、そう古くも見窄らしくもない、 極普通の長屋である。 利悟は迷わずその一室の前に来て、戸を開けた。 ﹁瑞葉。居るよな﹂ 言いながらやや薄暗い室内に目を遣る。九郎も後ろから覗きこん だ。 中には、正座をしたまま人形のように動かない、浅葱色の着物を 身に纏った二十歳手前程の女性が居た。 目元に泣き黒子があり、やや三白眼気味だがつるりとした健康的 な肌で、一般的な視点から見れば美しい女である。 ﹁⋮⋮どうしました、利悟さん﹂ 澄んだ声であった。表情こそ、何処と無く掴みにくいがきょとん 1463 とした様子で、悪意も篭っていない親しげな印象を九郎は覚える。 部屋に開けた戸から明かりが入り、ぼんやりと視界が順応してい く。 瑞葉の細い首に絞められた跡が残っているのを、二人は察した。 利悟がよろめくように室内に入り、膝と両手をついた。 ﹁すまん! 拙者が妙な奴を招いたせいで危ない目に合わせた!﹂ ﹁いえ、いいんですが。利悟さんが男色でちょっと危険な相手好み だと知らなかったこちらが悪いので﹂ ﹁そしてそれも誤解だあああ!!﹂ 叫ぶと、やはり瑞葉は三白眼を開いたまま小首を傾げる。 呼吸を整えて、利悟は彼女を見ながら脂汗を流しつつ焦った様子 で語る。 取り繕うことなど考えられなかった。浮かんだ言葉を、そのまま 投げかけた。 ﹁ええと、いいか。ちょっと拙者の話を聞いてくれ﹂ ﹁いいですよ﹂ ﹁拙者はだな、何度か言ったが男色じゃなくて稚児趣味でな、好み は年の頃十前後でまあ頑張って十代半ばぐらいまでなんだ﹂ ﹁なるほど﹂ ﹁でまあ、瑞葉も五年ぐらい前まではもろ好みだったんだけど最近 はあれだから。年増だからいまいち会話とかしてなくてな﹂ ﹁ほう﹂ ﹁若しかしたらあれだろう。瑞葉、拙者を頼りにしてる感あるだろ ? 家族的な何かみたいな⋮⋮﹂ ﹁まあ、そうなりますね﹂ ﹁で、なんというか⋮⋮今日おやっさんから、拙者が瑞葉を嫁に貰 わんなら他の婿を探して来いと言われたんだ﹂ 1464 ﹁はあ﹂ ﹁でも拙者、そんな友好関係ある男の知り合い居なくて変態ばっか りで妹的な瑞葉を預けたくないし⋮⋮でも自分で嫁にするには年増 でぶっちゃけ燃えないから勘弁だし⋮⋮いや、ごめん﹂ ﹁いいんですよ﹂ ﹁しかし瑞葉が掃除とか洗濯とかしてくれるのには感謝してるんだ。 お前のことを守りたいとも思う﹂ ﹁ありがとうございます﹂ ぺこりと頭を下げる瑞葉を見ながら利悟はやけくそのように顔を 引きつりつつ、 ﹁というわけで⋮⋮その、あれだ。拙者の失敗と誤解を水に流して、 稚児趣味を容認しつつ今後も色々生活の面倒を見てくれて、且つお やっさんを上手い具合に説得してくれてこれまでを現状維持できた らなあって拙者願う!﹂ 利悟が瑞葉に説き伏せて居る間、外から見守っている九郎をはじ め、近所の奥様方も集まって聞いていたのだが。 その叫びを聞いて一斉に大きく頷き、﹁せーの﹂と声を合わせて 思わず叫んだ。 ﹁││最低だなこいつ!?﹂ 思ってたことを口にしたはいいが、驚く程駄目な男だった。 自分にとって都合の良い部分しか存在しない告白と願いである。 ﹁男らしくそのまま伝えろとは言ったけどな、全然男らしくないぞ お主!?﹂ ﹁うるさい! 拙者はもう幸せを諦めない⋮⋮! 取り零して失っ 1465 ていくのは厭なんだ! 誰かに間違っていると言われても、拙者が 選んだ道なんだ! これが拙者の、第三の選択だ!﹂ ﹁格好よさ気なことを言っておるが一切格好良くないからな!? 使い所を間違っている勢いで!﹂ 九郎がツッコミを入れるが、利悟は聞こうとはしない。 周りの人もひそひそと残念な男に対して言葉を交わし合う。 ﹁こんなのが侍なんて徳川の世も終わりだ⋮⋮﹂ ﹁瑞葉ちゃん、そいつは関わっちゃいけないまるで駄目な男だよ!﹂ 口々に利悟への非難と瑞葉へ別れるように説得の言葉が飛ぶが、 彼女は口元を小さく上品に笑みの形にして、 ﹁わかりました、いいですよ。瑞葉は利悟さんと一緒に居られれば﹂ と、云うのだからこの世の終わりのように観衆は頭を抱えた。 ダメンズを甘やかす女の末路がどうなるか⋮⋮それは現代でも江 戸でもそう変わりあるまい。 瑞葉自身は近所でも評判の良い、美人で貞操が固く意志もはっき りとしていて礼儀正しい娘なのだ。それがこの稚児趣味で自分勝手 な男のどこに惚れ込んだものやら⋮⋮。 ぱっと顔を明るくする無責任一代男、利悟の首もとを掴んで九郎 は引き寄せ、低くした声にどすを効かせて告げる。 ﹁おいこれ利悟。お主何も譲歩しておらぬではないか。こんなに虫 のいい話があるか。罪悪感も何も無いのか﹂ ﹁うっ⋮⋮ど、どうすれば﹂ ﹁そうさな、せめてあれだ。何か相手の要求を受けろ。不老不死に して欲しいとか地球に襲来する宇宙人を倒して欲しいとか、いろい 1466 ろあるだろう﹂ ﹁神の力すら越えて無いかなその願い!?﹂ 九郎の例え話に首を振る利悟であったが、﹁とにかく聞いてみろ﹂ と言われた為に瑞葉に尋ねた。 ﹁み、瑞葉。そうだなあ、お前から何かして欲しいことってあるか ?﹂ ﹁そうですね⋮⋮﹂ 彼女は少し考えて、 ﹁それなら、利悟さん﹂ ﹁はい﹂ ﹁先程、﹃色々生活の面倒を﹄と言ったので、利悟さんの長屋に住 むようにすれば少し手間が楽になるのですが﹂ ﹁嫌だ! 年増女と同じ部屋でなんて拙者が寝れるわけぐふぁあ!﹂ 即座に断ろうとした利悟の脇腹に九郎の貫手が突き刺さった。 瑞葉は己の顎に手を当てて、 ﹁でしたら別のものにしましょうか﹂ ﹁う、うん⋮⋮﹂ 彼女はにっこりと三白眼を閉じるように細めて言った。 ﹁利悟さん、お慕い申し上げます﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁││と、毎日言わせて貰えることを許していただければ別に同じ 家に住まなくても構いませんよ。言うだけですので﹂ 1467 ﹁え、あ、⋮⋮いや、その﹂ 利悟の中でどちらが得か損か精神的な打算が動く。 断るなよ、選べよと強迫めいた目線が九郎を始めとして集まった 近所の奥方からも飛んできていた。既に彼の評価は竈の灰以下では あるのだが。 そして、 ﹁⋮⋮ええと、じゃあ同じ家に住むほうで﹂ がっくりと首を下げて、彼はそう言った。 実際、そちらならば己の日常は維持されつつ更に美樹本の目も誤 魔化せるのだが、さすがに如何に守備範囲外とはいえ幼馴染から毎 日告白されてそれを断るとなると、周囲からの目線も己の精神ダメ ージも酷いことになりそうなのだ。 そしてこの場でこれ以上ごねたら恐らくは命が危ない。 瑞葉は声を燥がせたりはしなかったが嬉しそうな表情で、 ﹁ありがとうございます﹂ と、利悟に云うのであった。 九郎はこれにて落着と見て、そっとその場を離れた。 どうやらこれから引っ越しの準備が始まるようだ。瑞葉はてきぱ きと用意を始めだしている。 長屋の並びから通りに出た時に一度だけ振り返り、涼し気な顔で 聞こえないだろうが、呟くのであった。 ﹁だが、知っておけよ利悟。この世で、女に頼りっぱなしの男が栄 えた試しは無いのだ││﹂ 1468 呟いた瞬間、 ﹁とあー!﹂ ぽふ、と九郎の頭が上からアダマンハリセンで軽く叩かれた。 九郎が渋面でそちらを向くと、そこにたまたま通りかかった石燕 とお房が居て石燕の片手にハリセンが握られていた。 ﹁⋮⋮何をするのだ、石燕よ﹂ ﹁いや、なんかそこらから一斉にツッコミが入った気がしてね。私 はその代表として﹂ ﹁意味がわからん﹂ 叩かれた頭をぼりぼりと掻きながら、九郎は理不尽に嘆くのであ った。 ***** その日から││ 八丁堀の長屋にて、利悟の部屋で瑞葉は寝泊まりする事になった。 もとより一戸あたり九尺二間ある長屋だった為に二人で暮らして いても手狭にはならない。 周りの住人からも即馴染んで、祝言はいつだのと聞かれる以外は 1469 利悟にとっては面倒は無かった。美樹本に怒られるような事も、無 かった。 まったく瑞葉を恋女房だとか思うつもりにはならなかったけれど も。 彼は稚児趣味なのだ。性癖とは生まれ持つ魂の叫びだ。それがそ うそう変わるわけではない。 しかし瑞葉は利悟を馬鹿にする事も、傷つける事も、見下す事も しない。子供のように無邪気ではないが、大人のように邪気も無い という事。 一緒に暮らすとそれがわかった。彼女が子供から大人になって、 周りの女と同じような悪意を持っているのではないかと警戒してい たのだが、そうではなかった。 別に彼女が好きなわけではないが、共に居て居心地が悪くはなか った。 ﹁││そのなんだ、瑞葉はその辺の年増女とか子供とは違うってい うか、特別枠だからな﹂ 晩酌をしながら、ぼーっとしていた利悟はそんなことを呟くと、 ﹁瑞葉にとってはいつだって、利悟さんも特別ですよ﹂ と、返ってくる程度には、仲良くやっているようである。 まあ恐らくは、末永く││。 1470 1471 46話﹃はじめまして﹄ 雨次が九郎を訪ねたのは昼を幾つか過ぎたの時間だった。 母親を小石川の養生所に住まわせている今年で十二になる少年は、 最近面構えに険や卑しさが抜けて、且つ子供らしいというより妙に すっきりした顔つきになっている。 特に眼が変わっている。据わっているのでも澄んでいるのでもな く、黒々とした瞳をしているのだが彼の左目だけがどうも淡黄色が かって見えた。 どこか、不吉な感じがするが⋮⋮ ﹁││ああ、なんだったか。眼病の相談? 将翁に頼んだほうが良 いが⋮⋮あやつ最近見ぬからな﹂ ﹁違いますよ。仕事を探してるんです﹂ ﹁ほう﹂ まったく話を聞いていなかったので適当に合わせようとして失敗 したが、ともあれ九郎は感心して頷いた。 進んで労働をしたがるとは奇特な人間も居たものである。資本家 を太らせる拝金主義の家畜め、とまでは思わないが。 とはいえ、当時の江戸からすれば雨次ぐらいの年齢でも丁稚奉公 になっていても不思議ではないのであるが。 雨次は少しばかり苦々しそうに、 ﹁なんと言いますか、ぼくが働かないとまた母さんが売春しまくる ので﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ 1472 率直な理由に九郎は頷き、 ﹁確かに実の母親がそれだと少しな﹂ ﹁それに母さん、片輪なんだからそんな仕事してたら怪我が悪化し て死んでしまいそうで﹂ ﹁客が付くかもわからんしのう﹂ 僅かに顔を曇らせて肯定した。 雨次の母は一月ぐらい前に、兇賊に襲われて左手、左目を失い腹 にも刺創が残り、太ももの骨も軽く罅が入っている重傷患者なので ある。本来ならば死んでもおかしくない││いや、むしろ死ななか ったのが奇跡のような状態で生き伸びて、今では意識だけなら元気 にキグルっている。 怪我を負った悲嘆も何もなく、恐らく体が動き出せばまたいつも と変わらぬ、夜鷹をして浴びるように酒を飲みくだを巻く生活を始 めるだろう。 そもそもそう真面目に行われているわけではないが、夜鷹の営業 は違法で取り締まりを受ければ罰を受ける。また、そうでなくとも 夜鷹同士の縄張りというものがあるらしく、それを侵せば制裁を受 けるそうだが雨次は母がそれを一々守っているとも思えなかった。 ﹁ぼくが代わりに生活費を稼げば⋮⋮と思って﹂ ﹁ふむ⋮⋮しかしこういうことならば天爵堂のほうが詳しいのでは ないか?﹂ 九郎は雨次と一番親しい大人である、彼の教師の名を上げた。 今でこそ千駄ヶ谷に隠居しているが元幕府の役人であり江戸ぐら しの長い天爵堂のほうが伝手なども持っていそうではあると思った のだ。 なにせ、すっかり馴染んでいるが九郎はまだ異世界から江戸に放 1473 り出されて一年経過していないのである。 雨次は顔の前を払う仕草をして、 ﹁いや、爺さんは思いっきり商才とか無くて。本を読めて生きるの に必要な少しの食べ物がありさえすればいいって人なんだ﹂ ﹁そういえば基本的に枯れておるのだったな、あやつ﹂ ﹁裏の倉に高そうな骨董品なんかも詰め込んでるんだけど売る気も 無いらしく﹂ ﹁財を継がす子も居らぬのになあ﹂ 九郎は気分をほぐすために熱い茶を淹れ直して、雨次にも進めた。 一口飲んで舌を潤した雨次はまた九郎を見ながら聞く。 ﹁と、言うわけで九郎さん、何か仕事は無いですか?﹂ ﹁何かと言われてもな。ええと、そうだな。希望職種とか、勤務時 間帯の都合とか一応聞いておこう﹂ ﹁そうですね。できれば簡単な軽作業で片手に本を読みながらでも 出来て、なるべく短い時間で終わって人付き合いは最低限で月に十 日程度の勤務で給金が小判で出るような⋮⋮﹂ ﹁せっ﹂ ﹁痛い!?﹂ 子供じみたことを言う子供に九郎は思わず目潰しを仕掛けてしま った。 目を押さえる雨次に九郎は半目で、 ﹁あるわけなかろう、そんな仕事﹂ ﹁ううう﹂ 当然ではあるが、当然を子供に教えるのは大人の役目である。 1474 ││と、そこまで言って九郎は無碍に子供の希望を台無しにする のも如何なものかという意識が浮かんだ。 ﹁⋮⋮どうしてもと言うならば、まあつまり簡単に儲ける方法はあ る﹂ ﹁それは?﹂ ﹁お主が商売を始めるのだ。誰かの下で働くというのでは条件など 望むべくもないからな、いっそ自分が企業主となれば良い。雨次よ、 商売とはどういうことか知っておるか?﹂ ﹁⋮⋮ものを遣り取りして、お金を稼ぐこと?﹂ ﹁惜しいな。少ない金を高い金に変える手段そのものを商売と言う のだ。その間に中間付属する要素はなんでも良い。お主、今幾ら持 っておる?﹂ 言われて、雨次は財布と言うよりも簡素で小さな巾着袋を取り出 して中身を手のひらに出す。 じゃり、と音を立てて出てきたのは銭が二十枚程度だ。蕎麦一杯 食べたら終わる額である。 九郎は頷いて、 ﹁では、これを元手に金を稼いで見るか﹂ 僅か二十文を手に取り軽く鳴らして、軽い調子で言う九郎が雨次 は頼もしく思えた。 ***** 1475 晴れが続くと風も暖かく、すっかり春めいた天気に江戸の街は賑 わっている。 二人で市中を歩きながら九郎は弟分に語るように商売の概要││ というか方針を告げた。 ﹁ところで雨次よ。[藁しべ長者]という昔話は知っておるか?﹂ ﹁藁しべ⋮⋮ああ、[今昔物語集]に載っていた説話ですね。確か、 男が﹃自分が貧しいのは観音様のせいだ、恵みをくれるまで餓死し てもこの場を動かない﹄とか寺の前で座り込んだので坊主が凄まじ く迷惑して死なれても困るから食事を与えてたら三週間ぐらい居座 られた││みたいな内容から始まるやつ﹂ ﹁いや⋮⋮原話は知らんかったが、そんなにアレだったのか、長者﹂ 自分で話を振っておいてやや引く九郎。雨次の解説にも意訳が入 っているものの、なんというか迷惑な話であった。 もっとも、九郎自体長年異世界に居た影響で昔話自体も曖昧にし か思い出せないのだが。 幾つかの話は類話として向こう側にもあったので微妙に混じって 変質し覚えていたりもする。九郎の中では赤ずきんはサイボーグだ し、人魚姫は深き者共の眷属で水の神殿に封じられた支配者の復活 のために王子の魂を狙うがそのうち真実の恋に落ちて半復活した旧 支配者は核攻撃とか漁船の突撃でまた眠りにつく。 それはともかくとして、 ﹁確か、藁しべを持って旅にでた男は││そう、前から来た男と突 然藁しべと⋮⋮たしか金の延べ棒を交換させられる﹂ ﹁いきなりの交換がそれ!? それはもう幸運とかじゃなくて怪し 1476 すぎるだろ!﹂ ﹁その後金の延べ棒とみかんを交換するんだったか﹂ ﹁話の筋を無理に戻さなくていいから! 大損してるから!﹂ 此奴も大概ツッコミ系だなあ、と九郎は少し嬉しい気分を胸に浮 かべて満足そうに頷いた。 ﹁ともあれ、大事なのは安く価値が低いものでも、それが相手にと ってはとても必要に思える事があるということだ﹂ ﹁はあ﹂ ﹁長者の場合は偶然だか観音様の加護に頼った方法だが確実に誰か に対して高値で売れるものを予測すれば即ち儲けとなる。商売とい うものは未来を読む力が必要だな﹂ ﹁それで、これですか﹂ 雨次は片手に持っている、蓋を閉めた三合徳利に並々と入った酒 を意識しながら言った。 通常では二十文では少々足りないものだったが、混ざりの安酒な らばなんとか手に入ったのだ。 やや疑わしげに、 ﹁⋮⋮これを石燕先生に売りつけるとか?﹂ ﹁それは早計だ。そもそもあやつは安酒は飲まぬ。事情を話せば金 の無心ぐらいはしてくれるだろうが非常に後ろめたいから今回は無 しだ﹂ ﹁何かあったんですか﹂ 苦々しく顔を振り返答を拒否する。彼女から金を借りる場合は相 応の対価を用意しなければ罪悪感によって裏世界でひっそりと幕を 閉じるような精神ダメージを受けてしまうのだ。 1477 酒を持った九郎と雨次は常盤にある火盗改の組屋敷へ向かった。 ここは火盗改で働く同心が住まう役宅の一つで、特に妻帯者が多 く入居している場所であった。町人が住む長屋よりはゆとりもあり、 猫の額ほどだが各家の庭には小さな畑も付いている。 木戸で囲まれたそこに九郎はすたすたと入り、あたりを見回す。 干してあった洗濯物を取り込んでいる、丁寧に髪を結った純朴そ うな顔の十八、九程の娘が居た。 ﹁済まぬが、お主。確か影兵衛の奥方ではなかったかえ?﹂ ﹁あら﹂ 彼女は九郎から声をかけられて、洗濯物を籠に入れて一旦地面に 置き、まじまじと九郎を見た。 ﹁ええと、うちの人のお友達の九郎ちゃんね。いつも話は聞いてい るのよー。あ、睦月って言うんだけどえへへ影ちゃんにはむっちゃ んって呼ばれてて﹂ ﹁いや凄い早さでのろけだされても困る。ところであやつの見舞い に来たのだが⋮⋮﹂ 九郎は言葉を遮った。 彼女には見覚えがあったのである。前に影兵衛と殺し合いをした 後、重傷の彼が緑のむじな亭にやってきたのを引きずって持って帰 った[切り裂き]同心の嫁だ。 うっかり手を付けて即墓場行きが決定した相手だと影兵衛は言う。 まあそれでなくとも、完全に無邪気で好意を寄せてくる相手にはど うも商売女や金に困った素人女を買う時とは要領が違ってしまって いるのだが。 睦月は嬉しそうに九郎の手を握り、、 1478 ﹁丁度良かった! 影ちゃん、目を離すとすぐに遊びに行こうとし たりして私が買い物にも行けなかったのよ。少しの間、逃げ出さな いように話し相手になっててくれる?﹂ ﹁ああ、その程度なら別に構わぬ。なあ雨次﹂ 言われて雨次も首肯した。 彼女はそんなに慌てなくても良さそうなものだが、洗濯物を家に 放り込んで財布を片手に、 ﹁それじゃあお願いー!﹂ と、言いながら駆けて行くのであった。 唖然と見送った後で、九郎は開けっ放しの長屋の戸へと入る。 入ってすぐの場所に布団が敷かれていて、そこに男が仰向けに寝 ていた。 てっきり不敵な挨拶でも来るかと予想していた九郎と雨次は、薬 の匂いが染み付いた包帯をまだ顔と胸に巻いている影兵衛を上から 覗き込み、 ﹁⋮⋮なんというか、痩せているのではなく、やつれているのでは なく⋮⋮﹂ ﹁乾いてる、って感じですね﹂ 百年ほど吸血を止めたヴァンパイアの如き、即身仏めいた雰囲気 で影兵衛は寝込んでいる。 掠れてがらがらになった声が搾り出すように上がった。 ﹁く、九郎⋮⋮それに雨次のガキか⋮⋮﹂ ﹁どうしたのだ一体。飯でも抜かれたか?﹂ ﹁いや⋮⋮毎日健康的すぎる飯が勝手に出てくるせいで体がついて 1479 これなくてよ⋮⋮そして、拙者ァあの日から酒を一滴も飲ませて貰 ってねェんだけど⋮⋮おかしらの命令で嫁が⋮⋮﹂ ﹁ああ⋮⋮﹂ よぼよぼと呆けた老人のように上げた手は小刻みに震えている。 現代と違って骨を固定するギブスも無いので基本的に動けない状 況で、女遊びも博打打ちも喧嘩も春の血祭りもできずに、酒まで抜 かれた彼はひたすらに退屈で心が死にかけていた。 精神の飢餓伝説が始まる勢いで。 九郎はにっこりと闇金の回収業を思わせる笑みを浮かべて、徳利 を持ち上げて見せつけた。 影兵衛の目に淀んだ光が映り引きつった声が出される。 ﹁あ、ああ⋮⋮酒⋮⋮﹂ ﹁そうか、火盗改長官の命令とあればお主にこれをやるのはちょっ となあ⋮⋮﹂ ﹁鬼か手前! 人殺し! 残虐趣味!﹂ ﹁全部お主だろそれ⋮⋮あとこの酒は雨次が買ったものだからな。 交渉は此奴にしろ﹂ ﹁雨次! 手前!﹂ ﹁はい!?﹂ 影兵衛は怒鳴ると、後ろ手にごそごそと布団の裏を探り無造作に 何かを掴んだ。 そして引き寄せた雨次にそれを握らせる。 小判が十両あまりもあった。 ﹁売ってください!﹂ ﹁なりふり構わなすぎる!?﹂ 1480 その額は同心の年収の半分以上もある代金だったが、もはや我慢 ならない影兵衛には理屈は通用しないらしい。 そもそも彼はほぼ分家扱いで役人としては最下級の同心になって いるとはいえ、実家が大身旗本である為に金に困ることはなく、暴 力と恐怖で配下にした者共から季節の変わり目には大量に貢がれる 立場な為に非常に裕福であるのだ。 目先の欲に駆られれば十両ぐらいぽんと差し出すぐらいどうとい うことはない。 二十文の安酒が十両に変化した。 肋骨がへし折れて酷く痛むはずの上体を起こして徳利から直接酒 を煽る。 久しぶりに呑んだ影兵衛は薄く味も下らぬ酒でも旨そうに、 ﹁くはあ、これだよこれ!﹂ と、嬉しそうに呑むのであった。 むしろ、彼は上品な酒よりも場末の濁った酒を、獣臭いつまみで 呑むのが上等だと思っている性格である。 以前、知り合いで適当に集まった飲み会の時に鼠の姿揚げを肴に していたのには九郎もさすがに拒否した。意外なようで意外ではな いが、それを作ったのは狐面の安倍将翁だったのだが。 上機嫌になった影兵衛はげらげらと笑い出して、 ﹁よっし! むっちゃんもいねぇしこれから刀持って遊びにでも行 くか!﹂ ﹁刀と遊びを繋げるあたり﹂ ﹁危険人物すぎる﹂ ﹁馬鹿野郎! 大事な嫁を守るため、今日も拙者様様は江戸の平和 のために悪党を斬って斬って斬りまくる││﹂ ﹁かーげーちゃん?﹂ 1481 押入れに隠されたらしい刀を起きだしてごそごそと探り始めた影 兵衛の肩を、がしりと掴む手があった。 睦月だ。笑顔の。 開けっ放しの外から一足で跳んで出現したらしい。 影兵衛は真顔になって冷や汗をだらだらと掻きながら小声で返事 をする。 ﹁奥さん。お早いお帰りで﹂ ﹁うん。私のお財布に入れていたお金もいつの間にか抜き取られて て、慌てて八百屋さんから帰ってきたんだーけーど﹂ 気持ちが悪いほどの汗と精神的な動揺から鼻血を垂らしている影 兵衛。 彼が遊びに逐電する費用の為にこっそり拝借していたのだ。 すっかり嫁に財布を握られているようであった。 ︵おかしくねえか? 拙者が必死こいて血とか内臓とかださせて稼 いだ金じゃん? ついこの前まで他人だった女が好き勝手していい 道理が⋮⋮︶ ﹁影ちゃん、こんなに汗掻いて⋮⋮また拭いてあげるから布団に戻 ろうか。ヘチマで﹂ ﹁ヘチマは勘弁してくださァい。せめて痔なんで尻は見逃してくだ さァい﹂ あっさり降伏宣言をする影兵衛。 そんな彼へ九郎と雨次はせめて親指を立ててコクリと頷き、何か 言われる前にダッシュで家から二人共逃げ出した。 1482 ***** ││半だ。 九郎には見える。いや、感じた。壺振りがからころと音を鳴らし て掻き混ぜた賽子の目だ。 錯覚かもしれない。実際に妄想であろう。如何な視力を持ってし ても、壺の内に転がる賽子を見通すことなどできはしない。 少なくとも音の調子から振った賽子が七分賽でないことだけは把 握している。 七分賽とは細工をして重さを変え、丁目か半目しか出ないように したいかさま用の賽子である。腕の良い壺振りはこの賽子二つと、 普通の賽子二つをまるで魔法のように入れ替えて誰にも気付かれず に目を操作するのだが、今回の壺振りにそれ程の腕はないように見 えた。 ともあれ、九郎は次の目を半と感じる。 壺の周りに集まり食い入るように見ているのは三十人も居るだろ うか。そこで一番若く見えるのは、九郎の隣にいる雨次だろう。 十二歳で賭場にいるというのは、やはり目を引く。 しかし一流の博打打ちとなれば十代の半ばから賭場に入り浸って いる者も居るので騒ぎ立てる程の珍しさではない。 事実、雨次の場違い感よりも勝負のむせ返るような熱気に場は包 まれている。 九郎は半の札を出してテラ銭と掛け金を渡し勝負に出る。 1483 隣の雨次も、相談したわけでも九郎の真似をしたわけでもないが、 半を選んだ。 行灯に照らされて鈍く金に光る左目は、一か八かというわけでは なく己の選択を信じているようだった。 ﹁さぁ、出揃いました。出揃いました! 丁か、半か!﹂ 中盆がそう唱えて壺が開けられる。 賽子の目は、四・一。半だ。 ﹁おお⋮⋮﹂ と、声が上がる。 雨次と九郎の連勝が続いているのだ。 賭けている金額は然程大きくないが、連勝が八度も続けば馬鹿に ついていると周りが思うのも無理はない。 元手として雨次と分け合った十両は既に二人で八十両にまで増え ている。 みのや・よしべえ 影兵衛から金をたかった後、二人で未来を読む商売として訪れた のが賭博場だった。 炭問屋をやっている美濃屋美兵衛という男がひっそりと店の奥で 開いている賭場である。大きな店ではなく、やっている商売もケチ がつくようなちんけなものだが、賭場に参加するものは多い。恐ら くはこちらが主力の商売なのだろう。 集まっているのはどれも││当然だが││人相風体のよくない男 ばかりだ。その点でも、九郎や雨次のようなこざっぱりした身なり の少年らは目立つ。 それが連勝を続けているとなると、験を担いで二人に合わせた勝 負に出る者も出始めた。 1484 ︵恐らくは、美濃屋としてもそろそろ面白く無いはずだが⋮⋮︶ 九郎は注意深く壺振りの動向を探る。 以前に影兵衛と組んでいった賭場であり得ない程に連敗を重ねた 九郎は通常仕掛けられる限りのいかさまを疑ったことがある。何故 か九郎に一切勝たせないその壺振りからは何も掴めなかったが。 次の勝負。 やはり九郎と雨次は同じ札で勝負した。 ﹁丁﹂ 同調するものも多く、皆一両、二両と大きめの額を賭けた。 これで外れても馬鹿ツキの子供から運が逃げたと思うだけで、中 盆は一切疑われまい。なにせ九度目だ。一回ぐらい外れてもおかし くはない。 ︵だからいかさまをするには狙い所なのだ︶ 九郎は注意深く壺振りを眺めた。 から、ころと音を立てて振られた賽子がすり替えられた様子はな い。 そもそも壺を振ってから丁か半か選ぶのだが、もちろんそれでも いかさまを仕掛け特定の目にする方法など幾らでもある。 結果は、半で九郎と雨次は負けた。 ため息と共に勝手な憎々しい視線が二人に浴びせられる。首を捻 り賽子の目を見る雨次。おかしい、と思っている。確率の偏りをお かしいと思うのは不思議だが、確実に彼は丁だと云う未来を掴んで いた。 ︵仕掛けてきたな。壺振りに不審な様子は無かった︶ 1485 次の勝負だ。九郎はあえて、十両の大枚を掛けた。 ﹁さァ∼出揃いましたァ! 出揃いましたァ! 丁ォかァ、半かァ !﹂ 開ける直前。九郎は立ち上がった。 ﹁その壺、待て﹂ どよめきが上がる。 物言いである。つまりは、相手側がいかさまをしていると正面か ら告げたのだ。 当然賭場側の用心棒がどす黒く顔を怒らせて、腰の物に手を当て ながら凄んできた。 ﹁お客さん、何かご不審でも﹂ ﹁ある。客が勝ち続けたからといって負かすべくいかさまをしてい るな?﹂ 九郎は目に嘲る笑いの色を灯しながら、壺振り、中盆、用心棒の それぞれを瞳で射すくめた。 小僧に睨まれたからといって怯む商売ではない。 用心棒が顔を近づけてきて、眉間に皺を寄せ獰猛そうに歯を剥き 出しにし、 ﹁素人が、ここを寺子屋か何かと勘違いしてねえか? その青っち ろい尻を床に戻せ、クソガキ﹂ ﹁壺振りの腕が悪いのがいけなかったな。自然と他で操作している 予想が付く││おい﹂ 1486 がん、と音を立てたのは、九郎が床を強く踏んだ響きだ。 用心棒のやくざなど無視して、彼の肩越しに壺振りと中盆を睥睨 し九郎は言う。 ﹁随分と││薄い床だな?﹂ 僅かに、壺振りの視線が床に落ちた。 確定だ。 ﹁己れは穴熊狙撃と呼ばれた。何もしていないというのならば、床 を踏み抜いて確かめてみようか﹂ 用心棒の男もうっと呻いて額の汗を隠し切れない。 [穴熊]といういかさまの構造は単純だ。床下に人を潜ませ、僅 かに上が見えるように木目などに合わせて仕掛けをしていて、真上 に来た賽子の目を読み取り針などで下から動かす方法である。 九郎が気づいたのは、二度まったく同じ場所へ賽子壺を置いたこ とと、中盆が読み上げる文句が普通よりも僅かに間延びし始めたこ とからだ。賽子の目をいじる時間を作ったのだ。 予め疑っていたらそれらで何をやろうとしているか気づく。 そして、九郎が床下を踏み抜いたら、そこに人がいれば明らかで あるし、人が入れる空間があってもすぐに穴の仕掛けは露見するだ ろう。 なお[穴熊狙撃]は単に異世界での将棋でついたアダ名である。 ざわつく九郎他の客の様子を見て、人のよい笑みを浮かべた白髪 交じりの男が奥からやってきた。 九郎を見ながら困ったように言う。 ﹁お客さんは何か勘違いをなさっているようだ。よろしい、言い分 1487 は聞きましょう。おい、お前。部屋に丁寧にご案内しろ。 他のお客様方、今日はもう盆を終いにしますのでまた明日、遊ん でくだされ。もちろんのことですがこの賭場はお客様を気持ちよく 楽しませることを第一にしておりますから、何もおかしな点はあり ません。安全安心です﹂ 欺瞞。 それを感じつつも、賭場の人間に見送られて次々と客は店を後に した。 雨次も一番最後に出ていき、誰にも見られていないことを確認し て店近くの路地に潜み九郎が出てくるのを待った。 寒い夜だった。養生所の母は大丈夫だろうか。心配というのは、 彼女が大鼾を掻いて周りの人間が大丈夫なのかということなのだが。 胴巻きには四十両あまり。少年が持つにはあまりに大金である。 重さを確認して、現実味のなさに頭がくらくらした。 夜闇に僅かな明かりが遠くか近くかわからぬが、点々と見える。 ここがどのあたりなのか雨次は想像できなかったので、九郎が出て こねば帰れもしない。そもそも基本的に街に出るのは天爵堂のお遣 いぐらいしかないので、地理に明るいわけではないのだ。 四半刻も待たなかったと雨次は体感的に思った。 九郎が懐に手を入れて、厠でも済ませてきたかのような平気の顔 で店から現れたので雨次は安心して寄っていった。 ﹁おう﹂ 軽く手を挙げる動きで九郎が放り投げてきたのは二つのものだっ た。 切り餅││と呼ばれるそれは、二十五両の小判を紙で一纏めにし たものである。 黄金の菓子とかに仕込むあれだ。 1488 ﹁口止め料をふんだくってきた。お主にやる﹂ ﹁いいんですか?﹂ ﹁元金はお主のものだからな﹂ 特に未練も無さそうにそう云う。 九郎は少しばかり遊ぶ金に困る時こそあれ、あまり金に執着が無 い。 それはきっと、 ︵今日みたいに、必要があればその時に稼げるからなんだろうな︶ と、雨次は考えた。 二人は再び並んで夜道を行く。さすがに、合わせて百三十両も稼 げば上々も良いところだろう。 暗い道を提灯の淡い光が照らしている。 ﹁小石川の養生所に行くのかえ?﹂ ﹁いや、母さんが││﹃家を留守にしまくって泥棒に入られたらど うするんだ! ええと、教えてください﹄とかなんとか騒いだから、 千駄ヶ谷に帰ります。盗むものなんてうちに無いんだけどなあ﹂ ﹁ふぅむ。ま、送っていく。野犬にでも襲われたら事だからのう﹂ 言いながら、自身番などが辻に立つ街から僅かに外れた林を切り 開いた砂利道に入ると、九郎は立ち止まった。 腰に差していた刀を鞘ごと抜いて肩に軽く担ぐ。 雨次がきょとんとすると、九郎は短く言った。 ﹁犬だ﹂ 1489 どす 言葉に釣られたように、後ろから三人。予め別の道から前に詰め ていた浪人が二人、九郎と雨次を囲んだ。 どれも殺気を放ち九郎と雨次へ抜き放った刀や短刀を向けている。 のんびりと九郎は、 ﹁さて、小奴らは美濃屋が払った金が惜しくなって差し向けたか、 大儲けした己れら二人に最初から目を付けていた連中か﹂ 九郎は貪婪に笑いながら腰を僅かに落とした。 ﹁どちらかと言うと前者が良いな。追加で謝罪金を請求できる﹂ 掛ける。夜影に染みこむように体を低くして前方に居る浪人風へ 鞘に収めたままの刀で殴りかかった。 額を正面から打たれて瞬時に意識を昏ませる。驚いたもう一人へ、 近づいた勢いをそのまま当て身を鳩尾に入れた。 ﹁ぐむん⋮⋮﹂ 男は小さな声を上げて呼吸困難になり悶絶する。 そして余裕たっぷりに後ろから詰めてきた三人に向き直って、九 郎は今度はそちらへ襲いかかった。 猟犬のような速度で跳びかかり敵を仕留める九郎を一歩も動かず に見ながら雨次は、 ﹁多分、この人も真似しちゃいけない系統の大人なんだろうなあ﹂ と、しみじみ呟くのであった。 キグルな母親。書痴の天爵堂。殺人鬼な影兵衛。特技はヒモとた かりな九郎。あと地主。 1490 ﹁うん、まともな大人いないな、ぼくの周り﹂ 絶望的なことを爽やかに確認した。涙はない。ただ明日に微笑み あればいいなと夜空に輝く一等星に願って。 ***** 雨次の家は、壊れかけのボロ屋から呪われた壊れかけのボロ屋に クラスチェンジしている。 一応多少の血を拭く掃除はしたものの、入り口の戸は破壊された ままだし土間の土には血とか汁とか染み込んでいて未だに臭う気が する。天井についた血糊など落とし用がない。 この村で疫病が流行るならまずここだろうと思えるような家だっ た。 ともあれ、雨次は九郎と共に家に帰り着いた。家の前ですぐさよ ならというわけには││九郎が思いっきり家の惨状を見て顔を顰め た為に││ならずに、家に上がることにした。 ﹁本当に、何も盗られるようなもの無いんですけどね。虫の湧いた 米と味噌ぐらいしか﹂ ﹁なんというか、せめて儲けた金でお主も良いもの食えよ?﹂ 言いながら家に入ると。竈のあたりに気配があった。 猫でも入っているのか、と雨次は最初に思った。鼠にしては大き 1491 いものだ。 九郎が提灯を向けるとそこには││異形が居た。 ﹁││!?﹂ ﹁む﹂ 夜の闇による錯覚ではない、青い肌。 赤くぼさぼさの髪の毛から二本のねじれ曲がった角が生えている。 口元に光る白い牙。身にまとうのは薄汚い黄色のボロ布だ。 酷く怯えて震えた様子でなければ││それは、青鬼のようだった。 竈に蹲って、生米を齧っていた。 現実感がない、己の家に現れたその化け物に雨次はばくばくと心 臓を鳴らし、妙に疼く左目でじつと見る。 ﹁鬼娘だな﹂ 冷静に九郎が呟いた。 ﹁見世物小屋での出し物の一つだ。肌を青の顔料で塗りたくり、髪 を染めておるのだろう。角は⋮⋮髪の毛を膠か漆で固めておるのか﹂ ﹁逃げてここに来たのか⋮⋮?﹂ 日本では明治から大正頃にはすっかり見なくなったが、見世物小 屋として奇っ怪な様体をした人間は定番であった。 この娘のような鬼娘、体中に毛の生えた熊娘、鱗の刺青を入れた 蛇娘など、それこそややグロテクスなものまで見世物にしていたと いう。 雨次はそのような見世物など、生まれて見たことも無いので驚き の視線を送っているが、九郎は特に反応もせずにぼうっと見ている。 なにせ、異世界にはリアルな鬼娘は普通に存在していたのだ。蛇 1492 娘どころか竜娘も居た。ドラム缶に手足の生えた通称缶娘も居た。 それに比べればまあ、見た目に対しての感想は無い。 雨次は息を飲み込みながら、僅かに震え声で、 ﹁おいお前。ここはぼくの家だぞ。その米はぼくと母さんの米だ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁なんとか言ったらどうなんだ﹂ 恐怖を一度抑えれば、冷静に鬼娘を見て雨次は落ち着きを取り戻 せた。 青い肌と角さえ﹁そういうもの﹂と棚に上げてしまえば、ただの 痩せて怯えた少女である。 雨次が問いかけても何も応えない鬼娘は、くい、と顎を開けて喉 を押さえる仕草を見せた後で、口を開いた。 ﹁お゛え゛んあ゛ざい゛﹂ ﹁うわ!?﹂ ﹁⋮⋮喉を潰されているようだな。濁声のほうが鬼らしいという理 由でかもしれんが﹂ 言葉の発音も殆どままならない鬼娘は、驚いた雨次へ頭を下げて、 首を横に振った。 雨次は言葉にならない嫌気を感じて、九郎に尋ねる。 ﹁九郎さん、見世物小屋のこういう子って⋮⋮﹂ ﹁親に売られたか、孤児を連れてくるのが普通だ﹂ ﹁⋮⋮﹂ きっぱりとした九郎の言葉に雨次は口の端を結ぶ。 実際に見世物小屋の内情などは九郎も知らないが、想像は付くし 1493 異世界でも似た商売はあった。現代日本でいうところの人権問題は ごく限られた時代にしか通用しない常識なのだ。 この時、雨次は鬼娘に哀れだと感じた。 これまではいつも、自分の境遇が惨めだと思っていたし、それを 同情されると腹が立つという底辺に居ることを認識していたので、 他人にそういう感情を覚えたのは初めてだった。 親が居るのかわからないが、恐らく助けられることはなく、肌も 髪も好き勝手に弄り回されて他人の好奇と嫌悪の視線を集めること だけが仕事で、不満を口にする喉すら無い生活をしている相手だ。 これでは本当に人間ではないかのようである。 ﹁九郎、さん。どうしたらいいんだ、これは﹂ 雨次は理解不能な存在に対して、助けを求めるように九郎へ聞い た。 彼はやはり普段の調子で、 ﹁どうしたら? いや、己れ知らん。関係ないし。お主の家の客だ ろう﹂ ﹁ううう、ばっさりだ﹂ ﹁己れに助けなさいとか見捨てなさいとか言わせてどうするのだ。 自分で選択して決めなさい。今日は八回連続で正しく選べただろう﹂ 突き放されて。 或いは彼の意志を尊重させる言葉だったのかもしれないが、雨次 は困ったように頭を掻いた。 九郎は雨次という少年に対しては、頼られれば導くこともするが 本人にとって大事な選択は任せられると認めているのだろう。 彼は鬼娘の怯えた顔を見ながら、こう思う。 1494 ︵そもそも助けて欲しいと言われたわけでもないし、こいつの事情 だって正しくは知らない︶ だがなんとなく。 生米を齧る細くて骨の浮いた体をした少女に、 ﹁なあ、お前。それじゃ不味いだろ。炊いてやるから、一緒に食べ るか?﹂ と、手を伸ばして声をかけた。 ぽかん、と鬼娘はその手を眺めて、恐る恐る自分も手を上げて、 握り││ ﹁そこまでにしてもらおうか﹂ 声が掛かった。 九郎が提灯を向ける。 入り口に馬用の鞭を持った傾奇者のような妙に鮮やかな着物の男 が立っている。 九郎はきっぱりと言い放った。 ﹁出る場面を待ち構えていただろ、お主。外で﹂ ﹁うん、まあ⋮⋮﹂ 曖昧に肯定する鞭男。 ともあれ彼は鞭で鬼娘を指し示し、 ﹁そいつは伊吹の大千山の麓、百姓郁右衛門の娘に生まれ変わりし 1495 は茨木童子の転生体。生まれた時から角、牙を持ち産婆に噛み付い たという! 我が見世物小屋の七枚目となる、ああ、大事な鬼娘な り﹂ 芝居がかった口調で高々と唱えた。 実際小屋に掛かっている看板か何かを引用しているのだろう。す らすらと男の口から設定が出てきた。 ﹁なんの妖術を使ったものか、小屋から逃げ出しようやっとのこと で探し見つけたところだ。さあ、返して貰おうか﹂ ﹁⋮⋮﹂ 雨次はじっと鬼娘の顔を見た。 無表情気味だった鬼娘は、雨次の吸い込まれそうな目を見ている うちに、何故かぼろぼろと涙を零して首を横に振る。 意思表示だ。 ﹁おい、あんた。この鬼娘は幾らで売ってくれるんだ?﹂ ﹁なんと。それは妖力の高い悪鬼羅刹。はっ。お前のような子供に 扱いきれるものではない﹂ ﹁幾らかと聞いている﹂ ﹁ならば百両! 今すぐ即金で貰えば、その鬼娘はくれてやろう﹂ 馬鹿にしたように、見世物小屋の男は扇子を広げて侮った顔で雨 次を見た。 当然ながら雨次のような、田舎の廃屋に住んでいる子供に百両な ど払えるはずがない。そう思ってキリの良い数字を出したのだが⋮⋮ ﹁ほら、数えてくれ﹂ 1496 雨次はそう言って、丁半で稼いだ小判の束をぽんと男の前に置い た。 この日、この夜の雨次に限っては、百両のあぶく銭を持っている 子供なのだ。 現実味がないほど稼いだとはいえ、元の金はたったニ十文ぽっち である。 男は﹁は? え?﹂と呟いた後、その小判が狸の化かした葉っぱ じゃないかと慌てて数えだす。 九郎は暗闇の中、雨次の家から天爵堂の塾で使う半紙と墨を見つ け出して、 ﹁証文も書いておくから、名前を書け﹂ さらさらと簡単に鬼娘の引き渡しに関する約束を書いて、男に渡 した。 己が口走ったことから急に手放すことになったのだが、彼は鬼娘 の価値と目の前の百両を天秤にかける。 鬼娘の見物料は僅か八文。そしていざとなればまた別の娘を仕立 てあげる事もできなくはない。 それに鬼娘よりももっと売れそうな見世物の人物を最近招き入れ ることが出来た事情もある。 だから、 ﹁ではせめて約束してもらおう。我が見世物小屋から買ったその鬼 を、二度と見世物にしないと﹂ 商売敵にならないように釘を刺しておく確認であった。 ﹁わかってるよ﹂ 1497 と、男のどこまでも偉そうな口調に苛立たしげな気分を覚えなが ら雨次は肯定した。 百両数えたのだろう。九郎が用意した証文に男はすんなりと名を 書いた。 去っていく男に向けて手際よく九郎が塩を撒いているのを横目で 見ながら、雨次は無言で見つめている鬼娘に云う。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁ぼくの母さんさ、片輪なんだ。手伝いが必要なんだよ。わかるか ?﹂ こくり、と頷く鬼娘。 ﹁なんというか⋮⋮給料とかあんまりやれないけど、飯ぐらいは食 えるようにするから﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁その⋮⋮なんだ。ええと、これからここに住んでくれないか。行 くところが無いなら、でいいんだけど﹂ ﹁⋮⋮!﹂ 本当は││彼女が可哀想でそうしたというよりも、雨次のもっと 暗い感情があった。 ︵ぼくより哀れなやつなら、ぼくを見下さないでいてくれるだろう か︶ そんなことを思っていたのだ。自分と彼女と底辺な共感を覚える 後ろ向きな理由で。 言われた鬼娘は無言で、ぎゅっと雨次に抱きついた。 慌てて雨次が手をばたつかせる。 1498 ﹁わ、ちょっと離れろってお前!﹂ ﹁⋮⋮﹂ 言われると、すぐに離れる鬼娘。 しかしその目は残念そうな色だった。 雨次は胡乱げに見ながら、 ﹁でもこれから暮らすのに名前が無いと不便だな⋮⋮こいつに聞こ うにも﹂ ﹁⋮⋮﹂ 喉を指さして、首を横に振る。 二人の何やら初々しいような遣り取りを見ていた九郎が指を立て て提案する。 いばら ﹁あの男が確か茨木童子の生まれ変わりとか言っておったのう。そ こから取って[茨]でどうだ? 雨次の[次]という漢字も含まれ てるのでなあ。イバラギと繋げると半端な田舎のようだし﹂ ﹁まあなんでもいいですけど⋮⋮お前、茨でいいか?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 鬼娘││茨は再び頷き、青い肌に赤みが差すほどの笑顔になって 再び雨次に抱きつくのであった。 それを見て九郎はなんとも言えず、雨次の頭を撫でてやった。 ***** 1499 翌日⋮⋮。 茨の肌と髪を丹念に雨次が洗ってやったものの、だいぶ色は落ち たが地が白い肌に僅かに沈着した青色は落ちなくて少し青肌は残り、 また角に固めた髪も解かそうとしたものの癖が完全についていた為 に角のように逆立つのはそのままだった。 家事なども一々雨次が教えてやったが、驚くほど早く彼女はそれ を覚えた。言葉は話せないが不便はあまり無かった。 傍から見たら仲の良い兄妹のようで、微笑ましい関係だ。 そんな二人のことを見つけてにこやかに報告する巨漢の地主が居 た。 彼の家で裁縫の訓練をしている小唄とお遊の元へ飛び跳ねるよう に軽やかに現れ、 ﹁はぁい負け組幼馴染諸君、今日も無駄な女子力上げてるかぁい? 君たちに大な情報をお教えしようじゃないかぁ! あの噂の雨次小僧、ついにある日突然現れた美少女が家に住み着 いたってよ! 青肌無口従順系の女の子とか一日にどれくらい助平 な妄想してたら来てくれるんだ!? 誰かさん達が幼馴染の立場に甘えて地味な努力してるうちに楽し そうにきゃっきゃってしたりうふふってしたり││﹂ 最後まで言えなかった。 複数の苦無と包丁で壁に磔にされた地主を置いて、小唄とお遊は 猛ダッシュで雨次の家へと駆け出すのであった。 ﹁雨次ー!! 私は許さんぞー! そこに直れ説教だー!!﹂ ﹁えへへ。おかしいよね。絶対に変だよ。どういうことなのかな雨 次。﹂ 1500 数分後訪れる理不尽な怒りにも今は予兆すら気づかずに、家の掃 除を終えた雨次と茨は天爵堂の家から持ってきた茶を飲みながら、 縁側に座ってのんびりしているのであった。 すると、茨が喉をぐにぐにと揉みながら口を開けて、雨次に向か って濁声をなるべく静かに放った。 ﹁あ゛えじ﹂ ﹁うん?﹂ 彼女は、とても鬼には見えない微笑みで言葉を紡ぐ。 ﹁あ゛いがどお﹂ 雨次は酷くばつが悪いような、むず痒いような気分になった。 それもきっと、初めて得た感情だ。 1501 ***** 余談だが。 後日、九郎は石燕とお房、お八を連れて件の見世物小屋に行って みた。 みみなし 鬼娘を取り下げて世にも珍しい奇芸を見せる男が居るのだという。 ﹁さあさあ、この度ご視聴いただくのは耳成の池の水をば産湯に使 ったところ、口の代わりに耳からおぎゃあと初めての産声を上げた 怪奇なる男! それ以来なんと耳で喋ることが出来るという! 目は口ほどに物を云うといわれているが、果たして耳はどれほど に物を云うのか!﹂ 鬼娘を売った男はやはり芝居がかった口調で集まった聴衆に声を 張り上げている。 お八が身を乗り出して、興味深そうに云う。 ﹁へえ、耳から喋るんだって。すげえな﹂ ﹁何故その芸をちょいすしたのか謎だがな﹂ 九郎はお房を肩車しながらも顎に手を当ててじっと眺めた。 やがて小屋の奥から、なんの変哲もない││敢えて言うならロー リング・ストーンズのような舌の模様が描かれた着物の青年が出て きて、懐から煙管を取り出し口に加えて煙をくゆらせ始めた。 解説の男が云う。 1502 はつね・みみさく ﹁さあ、彼こそが耳で喋る怪人、その名を初音耳作!﹂ ﹁ミミサクダヨー﹂ ﹁ええええ﹂ 耳から妙に甲高い声を出した男に、九郎と石燕は思わず同時にツ ッコミを入れた。 その後も耳から歌をボーカロイドする男に、集まった客は喝采を 浴びせるのであった。 彼が口にしている煙管から上がる煙はゆらりともしていない。つ まり、口から呼気は放って居ないようのだが。 鬼娘に代わる新たな見世物芸人、耳から歌う初音耳作。 ⋮⋮彼は江戸中期に実在した人物である。 ﹁セーガー﹂ 初めての音に会えたであろうか⋮⋮。 1503 47話﹃第七の封印﹄ 今日もどこかで出張る番、とばかりに江戸では毎日のように起こ る喧嘩に木戸番も自身番もうんざりとしている。 火事と喧嘩は江戸の華と言うが、実際それの対応に追われるもの は迷惑な限りであった。 異世界から江戸にやってきた九郎も、喧嘩を見かけることは珍し くなかった。 余程、弱者に無体をしているという状況でもなければ彼も一々首 を突っ込んだりはしない。 ︵喧嘩など何処にでもあるものだからな、他人に構うほど酔狂な│ │︶ ﹃クロウ、クロウ。見てください痴話喧嘩ですよ﹄ ﹃ああ、自分の何がわかるんだ、とお互いに連呼してるパターンだ のう﹄ ﹃面白いですね。あ、いいことを思いつきました。あの二人を融合 させてみました﹄ ﹃奴が思いついた時には既に手遅れすぎた⋮⋮すまぬ見知らぬ元二 人⋮⋮﹄ ︵⋮⋮︶ 下手な解決法で喧嘩の仲裁を面白半分に行う魔女を思い出して、 九郎は僅かに顔を歪めて記憶を振り払った。 ある日の昼下がりである。久しぶりに[件屋]の天麩羅蕎麦を食 いに来て、その帰りに近くの茶屋で団子を食っていた時のことであ 1504 った。 団子に掛かっている餡に、僅かに潰した梅が混じっていて甘酸っ ぱく旨いと舌鼓を打っていると、 ﹁てめえこのあばずれ! おれから財布をスりやがるとはいい度胸 じゃねえか!﹂ ﹁いやいらねーから返すぜおっさん。もうちょっと懐に金入れてた ほうがいいんじゃねえの? 何歳だよ、あんた﹂ ﹁余計なお世話だ! スった挙句﹃うわ少なっ﹄とか言いやがって 許さねえ!﹂ と、路地で怒鳴り声が聞こえてきた。 片方は女││それも少女のようだったが、掏摸をしてそれが見つ かったのだと遣り取りからしれた。 基本的に碌でもない女という種類の生物は実在すると重く受け止 めている九郎は、別段その少女が喧嘩に巻き込まれようが手を出す 気はなかったのだが。 聞いたことのあるような声だったために、緋染めの席に団子の代 金の銭を置いて近づいた。 ﹁だーかーらー。スられた間抜けさより明日からの生活でも考えろ よおっさん。こんな小銭じゃ蕎麦も食えねえぜ?﹂ ﹁うるせえ! なんで掏摸にそんな事まで言われにゃならんのだ!﹂ 言い合ってる女は││三白眼を睨んでいるような顔をした、十四、 五ほどの細身な少女である。 服装がいつもよりやたら古ぼけた柿色の浴衣を一枚、もろ肌が見 えるぐらいだらりと着ているだけであるが、呉服屋の娘お八である ようだった。 いつもは茜色の着物か道着をびしりと││少なくとも服屋の娘と 1505 して恥ずかしくない程度には││着こなしているが、胸元が開きっ ぱなしのだるだるな着こなしである。その胸は相変わらず平坦であ った為、九郎も疑問に思わずお八と断じた。 ︵いや、なんで普通に掏摸してるのだお八よ。反抗期か。非行少女 か︶ 思いながらも様子を見ていると、彼女はにやにやと笑いながら腰 に手を当てて意地悪気に、身なりはまあ貧乏そうでない町人の男に 云う。 ﹁はあ、あたしも貧乏人からは金を盗らねぇようにしてんだが、悪 ぃな、きひっ﹂ ﹁このあまっ!﹂ ﹁あぁ?﹂ 男が掴みかかろうと手を伸ばして、九郎はさすがに止めようかと 思ったのだが││。 ︵ぬう⋮⋮!?︶ 少女の目に光る剣呑な色と嫌な気配に、男の襟首を掴んで思いっ きり後ろに引っぱる。 息を詰まらせて急な後ろ方向への力に男は動転しつつも通りに投 げ出されて転げた。 男の顔が一瞬前まであった場所に、少女の手が横一閃で振り切ら れたのを九郎は確認して目を見開いた。 ﹁あん?﹂ 1506 手応えがなかったのが意外だったのか、少女も疑問の声を出した。 彼女が振ったその手は、顔面を張る平手ではなく││刃先が親指 ほどの長さの小さな刃物が握られていた。 顔を切るつもりだったのだ。 ﹁おい、ハチ子や。何をいきなりぶっ飛んだことをしておるのだ﹂ 九郎が彼女に問いかける。 乱暴なところはある娘だったが、掏摸をした上に白昼堂々短刀で 斬りかかるような子ではなかった筈だ。 何が彼女を歪めたのか。子供の教育か社会制度か資本主義の限界 か。やはり倒幕しか無いのか⋮⋮と諦めに近い感情すら覚えるのは、 九郎も混乱しているからなのだろう。 話しかけられて一瞬きょとんとした彼女はにっこりと笑って九郎 に近づいた。 ﹁はちこ? ああ、ええとなんだ。そうそうはちこ。いやーひっさ しぶりだな﹂ ﹁⋮⋮?﹂ ﹁そういえばあれどうしたんだぜ? 兄ちゃんの飼ってた猫、りり がんぶるげりおすとかそんな名前の││﹂ 九郎が動いたのは本能的なものだった。手を九郎の顔に伸ばして いた少女は、本当に九郎の髪に埃でもついていたから払ってやろう、 そのような雰囲気で悪意も殺気も脅威も感じなかった。 だが、九郎が上体を逸らして躱した時、まさに眼前を銀の軌跡が 通り過ぎていたのである。 認識外の攻撃であった。前髪が何本か千切れ飛んだ。 殆ど勘で避けたようなものだ。 1507 ﹁何を││!?﹂ ﹁おっ! 矢っ張り避けやがった。すげえぜ見知らぬ兄ちゃんよ﹂ ひょいと軽い動作で九郎から離れた少女は、だるだるの着物から 出した手に刃物を光らせながら、無邪気に嗤っている。 ようやく九郎は違和感に気づいた。 お八と違う服装、違う雰囲気、違う性格。 だいたい、顔と声と貧乳さで判断していたが、 ﹁誰だ、お主は⋮⋮﹂ 警戒したように構える。相当に節穴めいた判断力だったが、老化 による痴呆と思って良いかもしれない。 お八に見られていたら殴られたであろうことは想像に難くない。 人に化けた猫めいた雰囲気を感じる謎の女は、にたにたとしなが ら、 ﹁名乗るほどのもんでもねえが、あたしはお七っつーんですけどよ ││あばよ、殺しにくそうな兄ちゃん﹂ そう言い残して、身を翻し跳ねるように路地から路地へと走り去 り、姿を消した。 まさに猫のような素早さである。痩せた体つきからは考えられぬ 瞬発力だ。 九郎は手を伸ばしたまま、呆然と呟く。 ﹁お八にそっくりなお七⋮⋮﹂ その正体に気づいて、唸った。 1508 ﹁2Pカラーか⋮⋮!﹂ そして続けて、 ﹁ん? いや別に逃がす理由はないな﹂ この後滅茶苦茶追いかけて捕まえた。 ***** ﹁んっだよ、あんた死ぬほどしつこくて足速ぇな。あたしこれでも 仲間内で一番逃げんの得意だったんだぜ?﹂ ﹁はっはっは。そうかそうか﹂ ﹁樽の中とか川の中に逃げても見つけるしよー﹂ ﹁なに、一次元の点に変身したりマインドコントロールで認識不可 にしてくる連中の隠れっぷりに比べれば⋮⋮﹂ 言いながら九郎は、猫を捕まえるようにお七の襟首を持って運ん でいた。 彼女の髪や体は川に潜んだので濡れているが、浴衣だけは濡らさ ないように工夫されていたので乾いている。 話を聞くにしてもこのままでは風邪を引きそうなのでお七の宿へ 1509 と案内させているところであった。 ﹁あーそこの右の、週に一度は連れ込んだ男女が死にそうなボロい 宿﹂ ﹁うむ、寝るときに客の枕元から財布を奪うのが主な収益めいた怪 しい宿だな﹂ と、九郎も称するのは駒形の川沿いにあるうらぶれた木賃宿であ った。 近くには何十年も補修していなく見える崩れかけの長屋があり、 そこらに放置された廃屋には無宿人が泊まっているのか町人が住ん でいるのかわからぬような土地だ。敵とのエンカウント率とか絶対 高そうである。 いかがわしいことに利用する客か後ろめたい事情がある客か犠牲 者かしか利用しないような宿に、なんら気後れする事無くお七と九 郎は入っていった。 こういう場所だからこそ、年若い上に身なりも悪いお七のような 一人客さえ泊まることが出来たのだろう⋮⋮。 ともあれ二人が宿に入るのを偶々、川を下る船の上から見ている 人物がいた。 流れの鳥山石燕である。 彼女は宿の前で立ち止まる二人を見て、眼鏡を外し高い拭き布で 硝子を拭き、掛け直した。 視界を疑ったのだが二人が怪しい宿に入っていくのが鮮明なハイ ビジョンでご覧いただけただけであった。 ﹁な、なんだ、と⋮⋮!?﹂ 慌てて彼女は船でごろ寝をしていた同乗者を揺り起こす。 1510 ﹁た、大変だよはっちゃん! はっちゃんと九郎君がいかがわしい 宿に入って縁結び的な行為略してエンコウをするつもりだ!﹂ ﹁なにい!? 九郎があたしとエンコウするだと!?﹂ がばりと起き上がって目を見開き周囲をきょろきょろ見回したの はお八である。 この日は暇だったので九郎のところに遊びに行ったのだが、既に 九郎はどこか出かけていたために同じく遊びに来てすっぽかされて いた石燕と負け組同盟を組んで舟遊びにでも出かけていたのだった。 お房のように師弟関係には無いが、個人的な年の離れた友人関係 としては仲が良い二人なのである。 ともあれお八も通りの先にある宿に入っていく自分と九郎の姿を 認めて、 ﹁本当だ! あの野郎あたしと何をするつもり⋮⋮﹂ ﹁まったく、はっちゃんの淫奔ぶりにも困るね! 早く邪魔しに行 くよ、はっちゃん!﹂ ﹁⋮⋮いやいや、待てよ石姉。なんかおかしいだろ。なんであたし があっちに居るんだぜ﹂ 半眼でお八に指摘されてようやく石燕は違和感に気づいたようだ。 それほどまでに、似ていたのである。 彼女は腕を組んでやや考えて、非難がましくお八を見た。 はた ﹁⋮⋮まさか分裂してまで九郎君に手を出そうとするとは⋮⋮それ ほどまでの覚悟、一体何を犠牲にすれば⋮⋮﹂ ﹁あたしは何の能力者だ!?﹂ すたんど ﹁もしくははっちゃんの精神の力が可視化したとか⋮⋮端に立つ奴 だから、名づけて[素端奴]⋮⋮!﹂ ﹁なんで得意げな顔なんだぜ!?﹂ 1511 ﹁ともかく、あの宿へ向かおう。船頭さん近くで頼むよ﹂ と、指示を出すと﹁あいよー﹂と棹で漕いでいる船頭から返事が あったが、続けて、 ﹁ただ、この辺りは悪いやつも多いから気をつけてな、お客さん。 あんたらみたいな若い││うん若い嬢ちゃん達は特にな﹂ ﹁ふふふ何かね今の間は。しかし心配は御無用だよ。なにせはっち ゃんが護衛についていてくれるからね!﹂ ﹁あたし頼り!? 地獄先生なんだろ!?﹂ ﹁地獄先生は休業したんだ⋮⋮怒られたから⋮⋮晃之介くんから聞 いた話でははっちゃんの実力はもはやそこらのチンピラなら不意打 ちで倒せるぐらい⋮⋮いいかねはっちゃん。一人倒せるということ は、百人倒せるということなのだよ⋮⋮!﹂ ﹁ちげーから! その理屈おかしいだろ!﹂ ﹁その点私は百人に分裂しようとも気の昂った子猫一匹に完敗する 程度の戦闘力なので期待されても困る﹂ ﹁弱すぎるぜ⋮⋮﹂ 羽虫のようにか弱い姉貴分を哀れんだ目で見るお八であった。 旅や取材によく出かけているようだが、見栄え良く、金を持って いて、それでいて凄まじく弱いこのボーナスキャラみたいな彼女が よくこれまで無事だったものだと思った。 ともあれ、二人は船着場に降りて九郎とお七が入った宿││番頭 が覆面という怪しさ丸出しだった││に続けて入っていき、ニ分銀 を渡して九郎と素端奴お八の隣の部屋へ潜入することに成功した。 このように金次第で客の事情など何も構わないのも、違法めいた宿 の特徴である。 案内する女中も泊まった客の指を落として蒐集するのが趣味です といった雰囲気の女だった。目を合わせたら狂気に飲まれる。心の 1512 目を開くのだ。 宿の二階、奥まった部屋に九郎とお七は来ていた。お七が部屋に 置いているのは手拭いぐらいである。 濡れた体と髪を改めて拭いて、虫でも湧いてそうな座布団を九郎 に進めたが、彼は畳に直接座った。 春先ではあるものの水に浸かった少女は薄着な事もあって寒そう に感じる。 九郎は術符フォルダから[炎熱符]を取り出して、部屋の空気だ けでも暖めようとした。 ﹁うん? なんだぜそれ﹂ 術符を目ざとく見つけてお七が尋ねたので、九郎はそれらしいこ とを云う。 ﹁うむ、高僧の書いたお不動さんの有り難い札でな、妖怪じみた風 水系の修験力で熱を発して実際暖かい﹂ 江戸ともなれば信心深く、不思議な超常現象でも仏僧か妖怪の仕 業であると説明すればそれとなく納得してくれると九郎はこれまで の経験で知った。 あまりに適当な解説に隣の部屋から盗み聞きしていた石燕が遮る 薄い壁に頭を打ち付けた。 ともあれ、九郎が術符に意識をやり部屋を暖める程度の熱を出そ うとする。 付与魔法によって作られた術符というものは、込められた魔力が あるかぎり作成者以外でも意志を込めれば使えるものだが、使用に は多少は術式構成を読み取る技量が必要である。 これは殆どの人種が魔力を持つ九郎が居た異世界の者なら割りと 1513 簡単なのだが、本人に魔法の素質が一切無い九郎は感覚的に使うし か無いので細かい調節は少し難易度が高い。 使用説明書は付いているものの、九郎などには読めない言語で書 かれている家電のようなものといったところだろうか。それでも慣 れてはいるのだが。 特に[炎熱符]は名前の通り炎を出す魔法が込められているので、 火を起こさずに熱気だけ生み出すのはあまりやらないので少し集中 した。単純に炎を起こすよりは難しい。 ひょい、とまたしても九郎が警戒する暇も無く、お七が細い指で 九郎の手から[炎熱符]を抜き取る。 ﹁へーそりゃすげえな。おらっ! 暖まれ!﹂ ﹁玩具ではないぞ﹂ 九郎が気軽に使おうとしたお七に眉を潜める。 更に言えば、九郎のように直接使用に魔女の指導を受けたような 者ならともかく、術式を理解できないものが使用出来るものではな い││店で使っている火元の管理として六科やお房で試してみたが、 発動は不能だった││のであるが、暴発などしないように念のため である。 例えばこの術符を最初に作った時に試験で発動出力を間違えた魔 女は海を海岸から蒸発させて行くという環境への悪影響が出たとい う事があったからだ。もちろん深刻な漁業被害が起こり懸賞金が跳 ね上がった。ソッコで逃げたのに何故かバレた。こんなことをする のは魔女に違いないらしい。あってる。 しかし、 ﹁ん⋮⋮っとこうだ!﹂ ﹁だから││っと、おや?﹂ 1514 お七が振っていた術符に描かれた群青色の魔術文字が輝いて、魔 力が発動した。 爆圧的な炎でも生じれば危険だと九郎は腰を浮かせたが、術符の 効果は部屋を暖めるだけに終わり再び魔術文字の光は消えた。 隙間風が吹く部屋でも、からりとした暑さを感じるようになって いる。 隣の部屋で﹁はーくしょん、えーいちくしょー﹂と声が聞こえて くる程度に今日は風が強く肌寒さすら感じる日なのだが。 ︵まさか感覚的に発動させたのか?︶ 理論上は出来なくないが、ランダムで指定されたストップウォッ チの数字を下二桁まで連続で揃える程度には難しい。ましてや持っ ている人間は機械を触ったことがない条件で。 九郎が目を見開いて驚くが、なんてこと無い表情でお七は興味を 失ったように[炎熱符]を九郎に投げ返した。 ﹁なんか知らねーけど確かに暖まったな。きひひっ﹂ ﹁ああ。そうだな⋮⋮﹂ ぼんやりとそう返して、九郎は術符フォルダに炎熱符を仕舞った。 お七もべたりと床に座り胡座を掻いて、頬杖を突きながら九郎に 笑みを向けたまま言ってくる。 ﹁そういやなんだっけ? あたしの事が聞きたいとか実はあんた人 生相談士だったりすんのか? そういや名前も知らねえ││ああ別 に覚えねーから言わなくていいぜ﹂ ﹁人生相談士か⋮⋮一時期似たような事はやってたなあ。淫魔種族 だからって上司にセクハラされるとか、嫁と娘が居て幸せな生活だ と思ってたら記憶を埋め込まれて疑似体験してただけだったとか﹂ 1515 役場の相談コーナーに持ち込むよりは労働基準監督署とかメンタ ル系の教会の管轄だと判断し、愚痴に付き合った後で紹介の文書を 作成するのが主な仕事だった。下手に付き合うとお前も心を病むぞ。 そう告げた先輩はどう見てもスケルトンだった。骨にこそ、心は宿 るものなのだ⋮⋮! 思いつつも、このお八に非常によく似た娘に興味が湧いているの も確かであった。 ︵人間似ている者がこの世に三人は居るというが⋮⋮︶ そういえば前には、影兵衛に似た男を仇討ちで狙う兄弟も居たが ││よくよく見れば影兵衛とその男とも細かい違いがあったという のに、どうも目の前にいるお七からはとてもお八に似た気配を感じ る。 まだ半分ぐらい九郎はお八の別人格か何かではないかと疑ってい るほどである。 彼女は両手を頭の後ろで組みながら、 ﹁ま、いーけどよ。あたしの人生つってもそう大した事ないぜ? 生まれはよくわかんねーけど、赤ん坊の時大鷲に何処からか攫われ てたらしく巣で見つけられたって﹂ ﹁いきなりの急展開だな﹂ ﹁それであたしを拾ったのが隠れ里に住む元暗殺忍び教団だったか らそこで育ったな。呪われた干し首とか売って暮らしてる連中だぜ﹂ ﹁多分日本でも有数に濃い集団に拾われておるぞ﹂ ﹁最近ちょっと江戸に集団遠征する用事あったんだけどよ、なんか 飽きたから抜けてきたんだぜ。名前も無かったんだけどよ、里では [七人目]とか呼ばれてたからそっから名前とってお七にした。そ んで適当に掏摸したりしながら気ままに暮らしてるってわけだぜ。 1516 そのうち金溜まったら旅にも行きてえな。きひひっ﹂ ﹁ううむ﹂ 唸るが、けらけらと笑いながら無邪気な顔をして、お七は両手を 上げてひらひらと振る。 ﹁あたしは好き勝手自由気ままに生きるぜ! 人生最高!﹂ 隣の部屋で二人、壁に耳を付けて聞いていた石燕とお八は小声で 言い合う。 ﹁はっちゃんに似ていたから九郎君が事情を聞いているようだった ね。ふう、九郎君が貧しい胸の会に入門したのかと思ったよ﹂ ﹁別に無駄に巨なりの胸派でもねえぜ。っていうか年食ったら垂れ るだろ間違いなく確実に﹂ ﹁ふふふまだ青いねはっちゃんは。世界の法則を教えよう││美女 は胸が垂れない﹂ ﹁横暴な法則すぎるぜ⋮⋮﹂ ﹁そもそも垂れるとは重さの概念で胸とは揉む概念だ。揉んでいる 時は垂れている事はわからないし垂れているまま揉む感覚がわかる まい。即ち垂れると胸という二つの概念は両立しないという。これ は趙の思想家、公孫竜の有名な論理[垂乳非乳説]で古代から言わ れている理屈なのだよ﹂ ﹁そ、そうなのか⋮⋮よくわからねーが石姉は物知りだな﹂ ぺらぺらと話す石燕に思わず思考を放棄して頷くお八。中々にち ょろい少女である。 胸の話題で盛り上がりかけたが、 ﹁しかし、はっちゃんによく似た少女││それも親は不明。はっち 1517 ゃん、君に生き別れの姉か妹が居たとは聞いていないかね?﹂ ﹁いや⋮⋮あたしも上がお六姉だから間の七は居ねーのかって親父 とお袋に聞いたことはあるけどよ、お七って名前は縁起が悪いから 飛ばしたとしか言われなかったぜ﹂ お七、と言うと井原西鶴の書いた物語[好色五人女]で取り上げ られた八百屋お七という人物が有名であり、放火の罪で火炙りにあ った女という話は本だけでなく芝居や浄瑠璃でも江戸で評判を浴び た。 そのことから少なからず、同じ名前は自粛しようという流れはあ ったのである。 生まれた子供の名前を長男から順に数付けていたお八の親が、七 のナンバリングを飛ばしたのもわからないでない理屈であった。ま さか飛ばした︵物理的に︶というわけではないと思いたい。 しかし、石燕は眼鏡を外して、じっとお八を見た後に壁を向いて 穴が空くほど睨んだ。 眼鏡越しでない石燕の特に黒々とした右目は何か、別のものを見 られているようでお八はそれを向けられるとどきりとしてしまう。 日本人は黒髪黒目と言うが、実際のところ瞳の色は暗い濃褐色で あるのに対して彼女の右目はどんな明るい場所でも瞳全体が黒々と していて、時折何かを見ている時だけ光って見える。 お八は怖いとは思わないが、不思議な感覚であった。 ﹁││いや、私の阿迦奢の魔眼が見るに、やはり何か君とあの子は 関係があるようだ﹂ ﹁見るにって、壁があって見えてないよな﹂ ﹁魂の近似を感じる││二つの魂はとてもよく似ているのだね。と いうか姿形そっくりで鳥に攫われた生き別れ伏線があるからあれだ よ。双子とかだよ多分。話の展開的に。これでまったくの別人だっ たら私は筆を折る﹂ 1518 ﹁推理方法が物語を基準にしてるすぎる﹂ 呆れて肩を竦めるお八。 ﹁それにいきなり双子とか言われても困るぜ﹂ ﹁ふふふつまりあれだね? まだ修行途中だから邂逅すれ違い系で この状況は済ませておいて未来に真の敵役として立ち塞がる⋮⋮!﹂ ﹁何に塞がるんだよ﹂ ﹁﹃姉さん! 姉さんなんだろ! 思い出してくれあの曼珠沙華咲 き誇る土手の小川で水遊びしたことを⋮⋮!﹄みたいな﹂ ﹁それは多分臨死体験だぜ﹂ 言い合う二人を他所に、九郎はお七の掏摸話や、喧嘩話を聞いて 相槌を打っていた。 血の気が早いのは似ているのだが、お七の場合育った場所が、呪 われた干し首︵猿の首である。一応︶なんか作ってる暗殺忍びサバ ト教団なので物騒になりがちなのである。 先程路上で、九郎と掏摸相手に小さな刃物を振ったのも瞼の上あ たりを切り裂いて目潰しをするつもりだったのだという。 ﹁まあ⋮⋮己れは別に役人でも保護者でもないからなんとも言えん が⋮⋮﹂ ﹁きひひっ。これでも殺さねーようにはしてるんだぜ?﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 九郎が会話しながら、この少女を見た時の違和感と共に思うこと は、 ︵もしや此奴、イリシアの転生体では⋮⋮︶ 1519 と、考えたのである。 魔女の魂を探すのを忘れていたわけではない。ただ手段が無いの で手をこまねいていただけである。 そして今日偶然││魔王ならば魂の引力によってかもしれない│ │あったこの少女。魔女の作った術符を感覚的に扱えて、それでい てやたら自由な性格も似ている⋮⋮気がする。 確かめてみる価値はあるかもしれない。 ︵だがどうやってだ⋮⋮?︶ 生憎と九郎には魂の形を明確に見極める方法は無かった。魔女と の類似を見つけて確信を得るしか無い。 丁度この時、お七の背後の壁に小さな穴が二つ針で空けられて、 石燕とお八がこっそりと覗き始めたのだが九郎にもお七にも死角に なっていた為に見えなかった。 九郎はふと思いついたことを行ってみた。 ﹁シチ子や、少しいいか?﹂ ﹁あ? なんだ?﹂ いうと、九郎は彼女の両肩を抑えて近距離に顔を寄せてじっとお 七の目を睨むように見た。 お七は意味がわからんとばかりだが、特に抵抗もせずに三白眼で 九郎を睨み返すだけだった。 ︵ふむ⋮⋮近距離で目を合わせて怯まぬ女はイリシアと魔王ぐらい のものだが⋮⋮目付きはともかく、動じないのはイリシアに似てい る気が⋮⋮︶ 九郎の経験上、恐らくじっと見ていたら己の何を考えてるか読み 1520 取りにくいと言われる半眼は怖く見えるのか、スフィや他の異世界 レインボウ・エフェクト の女衆、また石燕なども目を逸らしてくるのを学んでいた。魔王は 自分の目から虹色防護という魔力放出を行っていてあらゆる恐怖情 報をシャットアウトしているので竜に睨まれようが邪神を目撃しよ うが効果はない。 ところで隣の部屋から覗いていた二人からは凄まじく積極的にか つ長く九郎が接吻しているように見える。 がくがくと頭を震わせて壁から離れ、泡を食いながら畳に倒れ伏 す石燕とお八。 ﹁細い其の肩をそっと抱きしめてやがる⋮⋮﹂ ﹁涙、きすで拭って、だだだんなんだね⋮⋮﹂ 打ち拉がれる気分になりながらものろのろと再び覗きに戻る。 お七は首をかしげつつ、 ﹁なんだぜ?﹂ ﹁ううむ。そうだな、単刀直入にいうと││己れの呪いを解け﹂ ﹁⋮⋮? 呪いの干し首が欲しいのか?﹂ ﹁いや、そうでなくてだな﹂ 九郎も軽く頭を抱えながら云う。 術の解き方など彼もわからないのだ。というか、魔女が自身を不 老化するときに言っていた不吉な言葉がリフレインされる。 ﹃そういえばクロウの魂に刻まれた術式と私が使うの違う術なんで すよね﹄ ﹃は?﹄ ﹃と言うかどんな術式なのか無我夢中で使ったものだからクロウの 奴ってさっぱりわかりません﹄ 1521 ﹃⋮⋮いや、それ解けるのか?﹄ ﹃まあ多分⋮⋮うふふ、ほうら町長が飛んでますよ。ちょうちょ、 ちょうちょ、利権に止まれ﹄ ﹃誤魔化すな。そして下ろしてあげなさい﹄ 思い出したくなかった。 九郎はげんなりしつつも僅かな光明に縋るように、 ﹁なんか、こう⋮⋮己れから感じる魔力的なあれをどうにかできそ うとか、そんな力が湧いてきたりしないか?﹂ ﹁あんたが何を言ってるのかさっぱりわかりませんぜ?﹂ ﹁だろうな。己れもわけがわからん﹂ ため息と共に大きく頭を落とした。 それを見ながら隣の部屋で、 ﹁九郎君がやたら精神的な謎の要求をした挙句断られてがっかりし てる⋮⋮﹂ ﹁どんな特殊な行為なんだぜこれ⋮⋮﹂ 自分でも馬鹿なことを言ってるとは自覚しているのだろうが、九 郎は強硬策に出た。 術式を止めるには理解よりも感覚だ。この娘は先程感覚のみで術 符を使えたではないか。刻んだ魂が一致しているのならば多少は融 通がきくはずだ。 ﹁よし、お主。止まれと念じながら己れをぶん殴れ﹂ ﹁そういうのはそういうお店で頼んで欲しいぜ﹂ ﹁無料とは言わぬ。これをやろう⋮⋮﹂ 1522 そう言って九郎が胸元から取り出したのは札束である。 百枚丁度を一纏めにしたそれをお七の目の前にどさりと落とした。 彼女は胡乱げにそれを拾ってみる。 ﹁[緑のむじな亭]の蕎麦割引券だ。そろそろほとぼりが醒めたか らまた配ろうと思っていてな﹂ ﹁⋮⋮報酬がしょっぱいんだぜ﹂ 店の宣伝用であった。九郎自身の腹は一切傷まない礼である。 しかしそれでも、お七は﹁きひっ﹂と笑って立ち上がった。 ﹁意味はわからんけど別に断る理由もねーですから、やってやろう じゃねえか﹂ ﹁そうか、助かる﹂ ﹁ほら、あんたも立てよ。あ、それと目ェ瞑っててくれ。避けられ ても面倒臭え﹂ 言われた通り、九郎は向い合って目を閉じた。 こんなことならば術を解く方法も魔王に聞いておくべきだった。 異界物召喚士改め、異本召喚士となった彼女ならば、失われた付与 魔法の術書を召喚し取り寄せて読むことが出来た筈である。 魔王が夢に出るか出ないかは運次第だ。過去の夢を見ることも多 いが、恐らく魔王側から一方的に観測されてるような気もして気分 も悪く感じる。 思いながらも一縷の望みを掛けて九郎は魔女転生候補の一撃を待 った。 ﹁きひっ、きひひっ。止めるっていうとよー﹂ ││ここだよなあ、普通。 1523 お七は音もなく刃先の短い愛用の刃物を取り出して、九郎の心臓 の上に殴りつけるように突き立てる。 見ていたお八が言葉もなく、壁から体を離して部屋の外に飛び出 し、隣の現場へ戸を開けて突入した。 ﹁九郎!!﹂ ﹁ん?﹂ 九郎は畳に倒れていた。 彼女が縫って渡した着流しの、胸を血で染めて仰向けに倒れてい た。 血の滴が垂れる小刀を、自分と鏡で合わせたように同じ顔の女が 持っている。 暮らしも食っていた食べ物も違うはずなのに、不思議なほどそっ くりで頭がおかしくなりそうだ。 ││殺した⋮⋮死、死、死死死死死。 精神の箍が外れたように、口から笑いが漏れた。 ﹁手前││ぶっ殺してやるぜ!﹂ ﹁きひひっ誰だか知らねえが上等じゃねえか!﹂ 一方でお七の精神的動揺は無い。もとより倫理観の破綻した環境 で育っているために殺人、傷害も﹃面倒だからあまりやらない﹄と いうだけな点と、そもそも彼女は鏡を見る習慣は殆ど無いのでお八 の顔が自分に似ているとさえ思わないのである。 お八も懐から短刀を取り出して右手に持ち、構えを取る。 お七は自然体にだらりと手を垂らして足の位置を変えて体重移動 の体勢に入った。 1524 ﹁六天流││お八。行くぜ﹂ ﹁あんたの名を覚える気はねえがな﹂ 踏み込む一瞬前、お八の頭は澄み渡り晃之介からの教えを反芻し ていた。 まだ体が少女であるお八では多種多様な武装を時に同時使用した りする六天流は十全に扱えない。故に教えられたのは主に弓と拳、 それと短刀だ。 弓はともかく、拳と短刀はそれぞれ重なりあう点のある超近接戦 闘になる。 様々な技があるが、極めるとその間合いからの戦闘は二択になる と六天流は教える。 一撃で殺すか、殺せないならば距離を取る。仕留める技が打てる ならばよいが、そうでなければ当然ながら相手の間合いに入ってい る為に反撃を受けるので離れて別の間合いから戦えということだ。 つまり、攻め入ろうとするお八は、致命の一撃を放つ意志がある。 意志は力となり胸から足へと圧を伝え、地面を蹴りだす勢いに変 換される。 相手がゆらりと体を揺らした。もとより狭い部屋だ。一歩で互い の間合いに入るだろう。 進││ ﹁おーいハチ子や﹂ いつの間にか起き上がって立っていた九郎から声が掛かり、お八 はぎょっと横を向いた。 それを見てにやりと笑ったお七は、後ろ跳びに窓から屋根に飛び 移り、 1525 ﹁それじゃあなお兄ちゃんよ。用が済んだならもう追ってくるんじ ゃねーぜ?﹂ 言葉を残して、塀や屋根の上を飛び跳ねて何処かへ逃げていった。 とりあえず軽く窓に向かって手を振る九郎であったが、幽霊でも 見たようなお八にバツが悪そうに、 ﹁あー、いや。多分心臓までは刺さって居らぬからな。いや、それ でも危ないことは危ないのだが﹂ 言い訳がましく告げる九郎。傷口は小さく、出血も少ない。お七 の持っている刃が短いか、そもそも彼女に明確に殺す意志は無かっ たか││或いは九郎の体を守る[存在概念]の魔法の効果か、大き な怪我ではないようだった。 彼の不老化を齎している魔法には、致命傷から復活を行ったこと から分かる通り、命に関わる傷が発生した場合は急速に生命維持を 優先して回復する効果があるのであったが。 ともかく、生きている。 お八は頭に来て、腹が立ち、大声で怒鳴ろうとしたが、目からぼ ろぼろと涙を流して、 ﹁馬鹿﹂ と、九郎に告げた。酷く九郎は罪悪感を感じて頭を下げる。 その時、 ﹁やめるんだ二人共! 君たちは生き別れの││﹂ 完全にタイミングを遅れ、用意していた台詞を使いながら石燕が 部屋に踏み込んできた。 1526 そしてお七が居なくなっていることを確認して、すっと部屋から 出て、何事もなかったかのように入り直した。 ﹁ふふふ、やれやれ。とんだ修羅場に居合わせてしまったようだね。 九郎君、あれほど女に刺されないようにと注意したのに⋮⋮﹂ ﹁いや、無理やり無かったことにするなよさっきの台詞﹂ ﹁それより九郎君、血が出てるよ。私なら失血死しそうな量の﹂ ﹁どれだけお主の血は少ないのだ。大したことはない、唾でも付け ておけば││﹂ とりあえず九郎は手拭いで血を抑えようかと思い、そのへんに先 程お七が使っていたものが落ちているはずだと見回した。 すると急にお八に、 ﹁馬鹿九郎。こんぐらい舐めとけば治るんだろ﹂ ﹁むっ?﹂ そう言われて、体を引っ張られて押し倒されるような形で、九郎 の胸元にお八が顔を近づけ││傷口を舐めた。 行灯の油を舐める猫のように、舌を這わせて、吸い付く。 九郎は呻きながら、 ﹁ぬう⋮⋮実際の対処として血液からの感染症等の場合も考えられ るので決して真似しないで貰おう﹂ ﹁え。はっちゃんの次の順番で私は待ってるのだけれど﹂ ﹁待つな。ハチ子も、いい年した男の胸を舐めるな。こそばゆい﹂ ﹁むー。うー﹂ ﹁ああもう、己れが悪かったから。ほら、すまぬな。後でお菓子を 買ってやる﹂ 1527 言いながら手でお八の頭を掴んで体から剥がす。 実際に胸の血は滲む程度に止まっていた。もとより大きな血管は 傷ついて無く、出血も服に染み込んだ分で殆ど終えていたのだろう。 立ち上がった九郎に、目を赤くしながらお八は告げる。 ﹁もうあいつに会うなよな﹂ ﹁悪いやつだが、まあそれほどではないぞ?﹂ ﹁会うな! あれに会うぐらいならあたしに会え! 何か頼み事が あるならあたしにしろ!﹂ ﹁ううむ⋮⋮﹂ 九郎は困ったようにお八を見る。 確かに刺してきたのは危険なことだが、本気ではないようだった しそもそも九郎も迂闊すぎた。 会う会わないの用事は別段お八とは関係無いことなので、代わり がどうとか云う問題でもないのだが。 だが九郎は経験上こういう感情的になっている女への対処は知っ ていた。 ︵後の事はともかく、ここは良い返事をしてやり過ごしておこう︶ ﹁うむ、そうだな。特に用も無いからシチ子とはもう会わぬ。これ にて一件落着、合衆国よ永遠なれだ﹂ ﹁なんか白々しいな⋮⋮﹂ 怪しんだ目で見てくるお八である。 落ちていた手拭いを石燕は九郎の胸元に当てながら、いつもの人 を喰った調子の声音で問いかける。 ﹁さっきのあれは、いつだったかに話してくれた魔女の不老の呪い 1528 とやらを解こうとしたようだね﹂ ﹁うむ。まあうまくはいかなかったようだがな。そもそも相手が合 っていても条件がわからん﹂ 転生体がお七という根拠も無いのだが││ なんとなく九郎は体に刃を突き入れられた感覚に、 ︵違う気がしたな⋮⋮︶ と、思った。似ている気はするのだが、違う。根拠はなかったけ れども。 少し考えていると石燕が九郎の胸を軽く布で抑えながら云う。 ﹁そうだね⋮⋮その呪いが、九郎君が老いたり死んだりすることを [止めて]いるのだとしたら、止まれと命じて消えるようなもので はないと思うよ﹂ ﹁⋮⋮そうなのだろうか。己れにはよくわからんのだ。魔女にも果 たしてわかっていたのか⋮⋮﹂ 石燕は九郎の鼻先に指を突きつけて、不敵な笑みのまま言った。 ﹁だから、もしお呪いを掛けた者に、君が解こうと言ってきたなら ば││﹂ ││⋮⋮もう、いいの? <クロウ>。 ﹁││さて、なんと言うかな。生憎と呪術者ではないからわからな いけれどね﹂ 1529 そう言って、石燕は肩を竦めて離れた。 九郎は││誰かの声が聞こえた気がして、あたりを見回したが何 も無かった。 木戸も付いていない開けっ放しの窓から、早咲きの桜の花びらが 風で飛んで来て舞っている。 ***** 翌日のことである。 緑のむじな亭にて、九郎はなんとなく石燕に魔女の居所を占って 貰った。別にそんなことを頼む気はなかったのだが、彼女がわざわ ざ占い様の御神籤を作ってきたからであった。 御神籤で探し人を探すとは当たる気がしない⋮⋮そう思いながら も暇つぶしによって仕方なく付き合っているのである。 風貌、職、吉日の三つが書かれた箱の中から取り出して総合した 相手が探し人だという。 ﹁的中率は五割!﹂ ﹁⋮⋮本当に?﹂ ﹁当然だよ九郎君。なにせ一度選んで当たるか当たらないかの二択 しか無いのだから確率は半々に決まっているではないか﹂ 1530 ﹁⋮⋮﹂ ﹁ちなみに将翁の陰陽師としての占い的中率は十割だよ。なにせ当 たる占いしかしないからね﹂ ともあれ、九郎は面倒そうに半眼でひょいひょいと選び石燕に渡 した。 ﹁ふむ。出たよ││なになに、顔形は禿頭にて目鼻厳つし﹂ ﹁魔女の条件だよな? 魔女の条件で占いの籤作ったんだよな?﹂ ﹁ふふふ九郎君。転生しているのだとしたら男が女に、人が虫に、 虫が人になってもおかしくはないのだよ﹂ ﹁あーマジか。イリシア、変わったなあ。お主の青い髪は綺麗で好 きだったが忘れぬぞ﹂ ﹁ええと次。職業は⋮⋮やくざ、無法の輩﹂ ﹁これはあまり変わってないな。納得﹂ ﹁吉日は⋮⋮北斗七星の隣に小さく輝く星が見えた時﹂ ﹁おいおい瞬殺だよ﹂ なにせ石燕の作ったものだ。当たるとか当たらないとか深く考え てはいけない。むしろ当たるなと九郎は願った。多分その条件を満 たせるのは腐敗と自由と暴力の真っ只中な世紀末か水戸ぐらいだ。 そうしていると、店に客がやってきた。 だるだるの肌蹴ている浴衣を着た三白眼の少女││お七である。 ﹁あ﹂ ﹁⋮⋮何故ここに﹂ ﹁いや、あんたがこの店の割引券くれたんだぜ?﹂ そう言って普通に席に座り、普通に蕎麦を頼んで食うのであった。 まだまだ彼女の割引券は残っている。もしかしたら暫く通われる 1531 かもしれない。 その間、お八が来店して無駄な騒ぎが起こりませんように、と九 郎は先ほどの占いに重ねて願った。誰も知らない知られちゃいけな い。 ﹁おーっす九郎遊びに来たぜー﹂ 九郎はとりあえず禿頭を探しに店から脱出した。 1532 48話﹃やりたい放題の夢とアウトブレイク﹄ 夢を見ていた。 ***** 体の至近を巨大な柱が大気を圧し潰す勢いで通り過ぎて行く。 触れれば血霧になりそうな柱の暴威は、死人めいた青白い外套に 掠りもしなかったが、本能は只管に危機を叫び離脱を指示していく る。 それは巨大な棍棒の一撃である。 大樹を引っこ抜いてそのまま振り回しているスケールのそれを棒 と呼んでいいものかは悩みどころであったが、一撃と思った攻撃は 連撃として宙に浮かぶ九郎に襲いかかる。 慣性も重力も無視した、まるで小枝を振り回すような気軽さで全 長三十メートルの棍棒が襲い来る。 ﹃くーちゃん、絶対受け止めようとしないでね! 死ぬよ!﹄ インカムから警告が来る。防御したならば││いや、一割でも此 方に破壊力が伝わったら人体など豆腐のように崩れ飛ぶのだ。 九郎は振り回される柱が纏う吹き荒れた空気の渦を掴む感覚を無 理やり脳にイメージさせて風に乗り相手に近づこうとしている。 纏っている外套││[疫病風装]というローブに込められた魔法 の効果で風を纏っている破壊の力は勝手に避けてくれるのだが、相 1533 手の攻撃で生み出された暴風に翻弄されるばかりでは埒があかない。 正気の沙汰ではない巨大な武器を振り回しているのは、狂気の奇 跡で理性を飛ばしている蛮族風の戦士だ。腰蓑を身につけているだ けで、靴すら履かずに裸である。もっとも、それはこの魔王城の近 くに辿り着くまでの地雷、砲撃などで衣服が吹き飛んだのだが。 ﹁ガアアアアゴオオオアアア!!﹂ 戦士が周囲の砂を消し飛ばす叫び声をあげる。蝿のように飛び回 り攻撃をすり抜ける九郎に苛立ったのだろうか。 びりびりとした破壊音波は、その性質から風を通じて伝わるので これも防具の効果で無害化される。 ﹃うわあ⋮⋮不良漫画みたいな叫び声上げてる⋮⋮元勇者が出す声 じゃないよ﹄ ﹁この服付けてなかったら己れの耳、潰れてる声量なのだが﹂ ぼやきつつ九郎は近づいた距離を爆圧で開けられる。 凄まじい破壊の力が背後で発生した。狂戦士の振った棍棒が砂漠 上の地面に叩きつけられて巨大なクレーターを作り出す。 それによる衝撃波すら蒼白のローブは涼風のように回避させる。 風を起こさない攻撃が出来る魔法に弱いという性質はあるが、空気 のある場所での戦闘ではほぼ物理攻撃が無効化される便利な防具で ある。魔王が召喚した一着しかこの世に存在しないが。 攻撃方法が、百万倍に強化された力を使い、大棍棒││崩壊した 軌道エレベーターの主柱を加工して棍棒にしたものである││で殴 りつけるというこの狂戦士相手には相性が良いのだが、 ﹁攻撃がさっぱり通じぬな﹂ 1534 九郎は再び風に乗って接近して滑るように斬りかかる。 武器は右手にアカシック村雨キャリバーンⅢ、左手には黒い霞が かったように見える巨大な鎌[ブラスレイターゼンゼ]を持ってい る。 装備させて送り出した魔王は﹁光と闇の力を兼ね備えて最強に見 える!﹂とか言っていたが、 ﹁ぬう⋮⋮!﹂ 接近してきた九郎に百万倍の反射神経で百万倍の威力の迎撃を行 ってくるが、やはり殴るという攻撃そのものは九郎には当たらない。 強制的に体が攻撃範囲から逸れるので、攻撃密度の上がる戦士の 至近に来れば九郎自身目が回るほどに振り回される。 それでも手に持ったブラスレイターゼンゼで薙ぐように戦士の腕 にぶち当てた。 百万倍の強度をした彼の肌には一切突き刺さらない。しかし刃先 が触れた瞬間に黒い靄の鎌は分解して効果を発動させる。 この鎌の形をした武器の正体はあらゆる種類の死病を凝縮させた 病魔そのものなのである。遠距離からの拡散発動は広域感染で一つ の都市程度ならば鎮まり返らせ、接触しての直接感染は生物どころ か非生物にすら死級の病性を付与させるという悍ましい力を持つ。 百万倍の頑丈さを持つ戦士相手にはまともに惑星上で使える武器 は通じない。封印なども百万倍の運命力で突破してくる。故に、百 万人を殺せる病で足止めするのが九郎の役目であった。 突然の襲撃事件により魔王城の結界管理システムはダウン。魔王 がそれの修復を行い、結界を破りに空間転移も行う一番危険な闇魔 法使いを魔女が、制空権を奪った鳥召喚士には対空武装を多く持つ 侍女が、正面から攻めてきた戦士には九郎がそれぞれ対処に当たっ た。 1535 しかしその戦士は戦神の最上位奇跡術[武僧野郎百万人]を発動 させている。これは全世界に居る百万人の戦神神官の祈りにより、 全員の能力を一人に集めるという百万倍強化の弩級術式である。 これに対抗するために九郎に与えられたのが[疫病風装]と[ブ ラスレイターゼンゼ]の装備だ。 百万人分の祈りにより理性を失っている戦士││元勇者で魔王が 心をへし折って放置していたらしい││は、とにかく世界の敵を殲 滅する本能により攻めてきている。九郎が立ちはだかっても無視さ れて足止めにならない可能性が高い。 故にこの、疫病を齎し世界を滅ぼす青白い騎士の装備をしていれ ば九郎も敵に認定されるのではないかと魔王は提案したのだが、見 事に的中して戦士は足を止め九郎を叩き潰そうと躍起になっている。 九郎、今では立派に世界の敵であった。 ︵悩んでいても仕方あるまい︶ あと半日時間があればこの世界から逃げられたのだが、その寸前 で襲われるというのがもう悪い運命の導きである。 なんかこう九郎も把握していないがヤバイ系の病気に感染、瞬時 発病させた戦士の動きが鈍った。 九郎は右手のアカシック村雨キャリバーンⅢをおもむろに首に叩 き付けた。 手加減や峰打ちなど考えない一撃である。 ﹁つっ!﹂ だが、まったく首に刺さらない。剣の凄い概念を弾くほどの密度 なのだ。 人間の皮膚というものは意外に硬く頑丈なものなのである。更に 1536 百万倍にまで強化された戦士の体は、艦砲射撃が直撃しても殆ど傷 を負わない。 動きを止めて脂汗を流していた戦士が、 ﹁極ォ││⋮⋮道ィ││!!﹂ と、叫びを上げて顔色を戻し、再び九郎に棍棒で攻撃を仕掛けて きた。 百万倍の抗体で感染していた病気を克服したのだ。 ﹃よっし、くーちゃん! 今の間で八回は病死させたよ! あと9 9万6731回殺せば倒しきれる!﹄ ﹁無理すぎる﹂ 魔王からの応援に絶望的に返す九郎。この超戦士は術の効果で百 万回殺さねば死なないのである。魔王城に近づくまでに多種多様な 罠と砲撃で削っても一万も殺していない。 外部攻撃では頑丈だからやたら面倒な上に如何に強力なもので殺 そうとも一回判定なのに対して、病気による持続致死は殺害数を稼 ぐのに便利なのだが、まだ九十九万回以上も残っているのだ。 1秒に1回殺したとして275時間かかる。 ブラスレイターゼンゼに込められた病気全てに││どれだけある のかは九郎も把握していないが││耐性を持たれたら終わる。いや、 癌とかは中々治らないだろうが。闘病生活を半年ぐらい送らせるプ ランならまあ行ける気がするけれども。 ﹁もっと良い方法は無いのか﹂ ﹃その辺り、転移系の罠仕込んでるからそっちに誘導してくれれば ありがたいんだけどー⋮⋮あ、ミサイル発射シークエンス復帰。く ーちゃん、五秒後にそっちにDミサニ発回すから離れて。罠方向に 1537 吹っ飛ばそう﹄ デイジーカッ ﹁五秒!? あのミサイル爆破範囲1kmじゃなかったか!?﹂ ター 魔王城に配備されている対神格エーテル気化弾頭ミサイル[草薙 剣]⋮⋮通称Dミサイルである。神や精霊にも効果のある強力な武 装だ。当たるとだいたい死ぬ。 爆風はともかくエーテルの崩壊被曝が危険なので九郎は再び手に 現れた病毒の鎌を戦士にぶつけて、隙を作ってから高速で離れた。 戦士は急性殺人水虫で足が止まって追いかけてこない。 人々を死に至らしめる青白い死神は、風に乗って疾く空を往く。 顔を上げ周囲を確認すると此方に向かう二つと、空に上る二十八発 の火線が見えた。 九郎とは別に、魔王城上空で戦っている侍女にも支援ミサイルが 放たれたのだろう。 爆光で世界が一瞬白く塗りつぶされ││ ***** ﹁む⋮⋮?﹂ 九郎は何もない、白い空間に立っていた。 其処に滲みでたように青白いローブと黒い鎌を持っている己の他 には、見渡す限り何も無い。 白い地平線が遥かに続いているのか白い壁に囲まれているのか、 影も境界も見当たらない場所であった。 九郎はブラスレイターゼンゼを軽く振って、己の頭を掻いた。 1538 ﹁さっきまで夢を見ていたのだが⋮⋮﹂ と、呟く。反響は何も無く、ぞっとするほど音は広がり、消えて いく。 時折九郎はさっきのように異世界での記憶の再現を夢で見ること がある。夢の途中で夢と気づいても、映画を見ているように体は動 かずに記憶の通りに状況は動く。 明晰夢だと自覚して自分が動けるようになる夢だと、魔王が出て くることもある。ただ以前に、肥満を馬鹿にして以来彼女は登場し なくなったのだが。 現在の状況は、魔王が出てくるに似ているものだ。装備はあの異 世界で最後に超戦士と戦っていた時のままだが。 ﹁あの後、地獄門とかトラクタービームとか宇宙皇帝ドリルガッデ ムとか出てきて色々カオスになるのだったが﹂ 何故か突然別の場面││いや、記憶に無い白い夢へ移動したよう だ。 ﹁おーい、魔王。居らぬか﹂ このような状況を作る心当たりに呼びかける。 すると虚空から小さな鏡のようなものが投げ込まれてかしゃりと 地面││地面というよりも白く境目のない足場なのだが││に落ち た。 携帯端末のようである。 一応念の為にブラスレイターゼンゼの先で突いて安全を確認し│ │いつの間にか持っていたアカシック村雨キャリバーンⅢは無くな っていたので││拾い上げると嵐がかった画像に虹髪の少女、魔王 1539 の姿が写っている。 ﹁魔王、何だこの夢は。あと痩せたか?﹂ 小さく全身が写っているが、前に見た時に膨らんでいた腹はすっ かり凹んでいた。 ざ、と異音と共に聞き取りづらい音声が端末から聞こえる。 ﹁││共通無意識下の通路││よ、そ││は││可愛││認││﹂ ﹁うむ?﹂ ﹁夢と夢の繋がりの││其処に招かれたん││我はくーちゃんが物 騒なもの持ってるから行けな││﹂ 酷く音声が悪く、画面も嵐かかった中から魔王は九郎の持つブラ スレイターゼンゼに指を向けて言った。 ﹁この端末もコンピューターウイルスに侵さ││もうすぐ爆発す│ │﹂ ﹁空気感染して爆発させるコンピューターウイルスがあるのか?﹂ ﹁あと││そこで死ぬと意識が現実に戻らな││気をつけてね!﹂ 何やら物騒なことを魔王が告げて画面はブラックアウトした。 狂った歯車が押しつぶされるような異音と、焦げ臭い匂いがして きた為に九郎は咄嗟に全力で携帯端末を投げる。学生時代、携帯投 げ世界大会に入賞したことが小さな自慢であったことを思い出しな がら││! 白くどこまでも広がる空間の遠くに黒い携帯端末は投擲され││ 目測で周囲十メートルは巻き込む炎の爆発を起こした。 九郎は投げた体勢のまま半眼で、 1540 ﹁⋮⋮魔王の渡した端末が悪かったのか、この鎌から感染したウイ ルスがヤバイのか、どっちであろうな﹂ 或いはその両方か。このウイルスがあればスカイネットに支配さ れた未来を変えれるかもしれない。九郎はそんなどうでもいいこと を思いながら早く夢が醒めることを考えつつごろりとその場で横に なった。 しかしどうも手元に疫病概念であるブラスレイターゼンゼがある とのんびり、という気分にはなれなかった。 意志を込めて発動呪文を唱えるか、刃先で突かない限り病魔の感 染は起こらないが、いわば最終殺人形態ゲキヤバ毒ゾンビウイルス 殺人ドリルバクテリアっぽいものが詰まった封されているビーカー があるようなものである。 一応九郎の疫病風装には病魔無効化の効果があれども気分がいい かは別だ。 ガスマスクをしているからといって毒ガスの中で昼寝はできない だろう。 居心地が悪そうに九郎がしていると、顔に影が落ちた。 この光源があるのかさえわからない白の空間で影ができるものか と一瞬驚いたが、それは影ではなく黒い物体が寝ている九郎を覗き こんだのだ。 ﹁む?﹂ それを確認すると││黒い毛並みの獣だった。 突き出した鼻にぴんと立った耳、ふさふさの尻尾を垂らしていて、 体に幾つか独特の模様が描かれた装束のような布切れや染められた 紐││縄を巻いている。 九郎はぼんやりとそれの名前を言った。 1541 ﹁犬か?﹂ ﹁││狐だ、阿呆が﹂ ﹁痛っ﹂ 黒狐の口から渋い男の胴間声が聞こえて、九郎は仰向けに寝たま まの顔を前足で踏まれる。 肉球はふんわりしていた。 九郎はそのままの体勢で半眼を作り、理性的な眼の色をした狐に 話しかける。 ﹁なんだ、お主。己れに何かようか?﹂ ﹁九日十日ってな﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁俺様だって好き好んでお前などに話しかけるか﹂ くだらない洒落を吐き捨てて、自分でも面白くは無かったのか不 機嫌そうな狐が九郎の足元に向かってのそのそと移動した。尻尾が やたらふさふさしている。凄いふさふさだ。九郎は思わず掴んだ。 噛まれた。 九郎も上体を起こして座った姿勢で狐を見やる。手についた歯型 を擦りながら。 ︵エキノコックスとか持ってないよな、こやつ︶ 寄生虫は果たして疫病風装で防げただろうか、と不安になる。 さて、喋る狐。奇妙なものだが異界にも繋がる夢の中で出てきて いるので、如何に不思議なものが出ようともそう驚くものではない。 九郎は予想を口にする。 ﹁化け狐か﹂ 1542 ﹁ふん﹂ ﹁痛っ﹂ 再び言葉に失敗したらしい。頭突きを食らった九郎は眉根を寄せ て狐を見やる。 なんだってまた、初対面の狐にここまで非難を受けなくてはなら ないのか。げんなりしつつも諦めたように九郎は提案した。 ﹁わかった。お互いに背中合わせになって十歩進み振り返りざまに 自己紹介と行こう﹂ ﹁やかましい。俺様はシトゥンペカムイだ。お前の事はどうでもい い﹂ ﹁シトゥンペカムイ?﹂ 聞き慣れない言葉の並びに九郎は鸚鵡返しに名を唱えた。 シトゥンペカムイ。黒狐の霊を意味する彼はアイヌの高位神霊で あった。北狐の神霊であるチロンヌプカムイは毛皮を与える神だが、 黒狐は人間たちに病や危険が迫った時に知らせる神だと言われてい る。 疫病の権化である青白い騎士の格好をした九郎を嫌っているのは それが理由である。 なお、当然ながらアイヌ神話など知らない彼には喋る黒い狐とし か思われなかった。そして別に喋る動物は、日本ではともかく異世 界では珍しく無い。 ﹁名前が長いな⋮⋮シト公と呼んでも構わぬか、構わぬな。ありが とう﹂ ﹁馴れ馴れしくするな、人間もどき﹂ ﹁忌々しいのはこの服と鎌で己れは人間だ。それで、この空間はお 主に関係あるところかえ?﹂ 1543 嫌そうに言ってくるシトゥンペカムイを無視して九郎は疑問を尋 ねる。 彼はふいと鼻先をある方向に向けて、 ﹁俺様の盟友がお前を呼んだ。案内役に俺様も呼ばれた。それだけ だ﹂ ﹁盟友⋮⋮?﹂ 首を傾げる九郎。狐の盟友と知り合いなど居ただろうか。そう考 えて3億円事件の犯人めいた狐目の薬師がすぐに頭に浮かんだ。 ﹁将翁か﹂ ﹁そう呼ばれている狐の男だ。アイヌの地で薬草を探している時に 俺様達カムイとあったんだが、赤く熟した麻をごっそりと持ってい く妙な奴だ﹂ ﹁ドラッグの流通ルートすぎる﹂ ﹁あと最近は植えると周囲の土壌が枯れまくる朝鮮人参なんかを植 えまくって顰蹙を買ったりしている﹂ ﹁本当に盟友なのかそれ﹂ 非常に疑わしいのだが、シトゥンペカムイは顔をそらしつつ、 ﹁まあ⋮⋮あれで一応病を治したりしていたようだからギリギリ⋮ ⋮﹂ そして、のそのそと歩き出しつつ、 ﹁ともかく。盟友が囚われてるらしくてな。それを助ける為にお前 を連れて来るように頼まれたのだ。さっさと行くぞ﹂ 1544 ﹁囚われている⋮⋮ううむ、そういえば最近姿は見ていなかったが﹂ 九郎は進む狐を追いかけて歩き出した。ブラスレイターゼンゼを 肩に担いで 地面は相変わらず質量を感じない硬さで踏む足の裏が奇妙だが、 風も起きないこの空間では飛ぶのもうまくいかない。 安倍将翁。神出鬼没で謎の多い本草学者にして薬師の変人である。 とにかく胡散臭くて謎が多く、旅に出ることも多いがその移動経路 すら不明だという。 というか、 ︵こんな夢の⋮⋮共通無意識だったか、そんな場所で捕らえられて 救助を呼ぶとか、特殊な状況すぎてさっぱりわからん︶ 九郎はそう思いながら白景に浮かぶ黒狐の後を歩み進んでいく。 集合無意識と違って知り合いの間だけで発生する意識の共有空間だ と魔王は言っていた。 なにも目印はなく地平線と空の境目さえ無い空間なので前に動い ている実感すら薄い。 暇だったので前を往くシトゥンペカムイに話しかけた。 ﹁なあシト公﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁ここは夢の中なんだよな? そうそう他人と夢が交じるなんてあ るのか?﹂ ﹁出来るやつは出来るんだろう。特にあいつは、陰陽術とか道術ど か仙術とか詳しく知らんがそんな妖術を使えるんだ。へんてこなカ ムイモシリめいた空間を作ってもおかしくない﹂ ﹁ま、確かに﹂ 1545 納得して頷く。 元より異世界から来て魔法の呪符を扱う己が居るような状況だ。 あの怪しげな将翁がなにをしでかしたとしてもそうそう驚くような ことではないと九郎も考える。 暫く進むとシトゥンペカムイはすんすんと鼻を鳴らしながら立ち 止まった。 周囲を見回している狐に九郎は話しかける。 ﹁どうしたのだ?﹂ ﹁この辺に居るな。よし﹂ シトゥンペカムイはそう言って、大きく息を吸い込む。 彼は黒狐の霊であり岬に居るとされる神霊である。岬、というも のは境界線を表す土地で、その向こうにある海から訪れる客神や病 を招きたり払ったりする能力があるとされていた。 白い空間の境を破るように、低いバリトンボイスの声で大きく叫 んだ。 ﹁こゃーん!﹂ ﹁その声でか⋮⋮﹂ 声質に合わぬ可愛らしい鳴き声を上げると、どん、どん、と大き な音を立てて白い空間の一部からじわりと物体が滲みだして現れた。 それは檻だ。 最低限の棘のついた赤い紐││縄で地面以外の全てを覆われた、 檻の中には将翁が座って居た。 居たが、いつもの格好とは異なっている。彼は全身を白い衣に頭 巾を被り、手には錫杖を持っていて狐面を外していた。 まるで山伏である。 1546 ﹁おや﹂ こちらに気づいたように、将翁が口を開いた。 ﹁お久しぶり、とまあこんなところで云うのもなんでが、ね。シト ゥンペカムイ殿もよく、来てくださった﹂ ﹁また妙な、夢の中に囚われている上に変な格好をしておるなあ﹂ 九郎の言葉に彼はくくく、と笑って、 ﹁いえね、これには深い訳があるんですよ﹂ ﹁なんだ?﹂ 問いかけに、将翁は表情を変えずに続ける。 ﹁実はちょいと前、石燕殿の体を治す神便鬼毒酒をようやく熊野の 神に分けて貰えることになりまして。 で、貰いに言ったら何やら土地の鬼が暴れているのでおさめろ、 酒はそれからだ、とか云うもので。 鬼退治の酒なのに鬼退治の礼に渡すとはなんともおかしな話なも のだと思ったんですがね。 それで大江山に居る鬼が、なにか仲間を人間に攫われたとかで荒 れているものだから、過去に倣って修験者の格好で近づこうとした らまあ、同じ手は桑名の焼きぼっくりといったところで││﹂ そこで言葉を止めて、顎に白い指を当てて小さく上目遣いになり、 言い直した。 ﹁あれ。焼きハマグリ⋮⋮でしたっけ?﹂ ﹁いや、それは別にどうでもいいが﹂ 1547 ﹁ともあれ、あっさり返り討ちにされて鬼に攫われて隠されてしま いましてね。これにはあたしも参った。いつまで経っても出られや しない。 おまけにお仲魔だった狐達とも繋がりが絶たれてしまい、仕方な く蝦夷に居るシトゥンペカムイ殿と繋ぎをとって、ようやく九郎殿 を呼んでもらえました﹂ ﹁しかしまたなんで己れを﹂ ﹁九郎殿の持つ刀ならば、この檻を切れると思って呼んだんですが ⋮⋮﹂ 改めて、何も帯びていない九郎の腰と、肩に担いだブラスレイタ ーゼンゼへ目を往復させて彼は、 ﹁あれ﹂ と首を傾げた。 軽く頬を掻きながら九郎は、 ﹁呼ばれておいてなんだが⋮⋮夢の途中で落としたらしくてな。今 はこのゲキヤバポジ系病魔の鎌しか持っておらぬぞ﹂ ﹁あなた、それ⋮⋮なんでそんな危なっかしいものを﹂ ﹁己れとて好きで使ってたわけじゃない。まあその、周りに人が居 ないことを確認してだな﹂ ﹁人の意志を持つシカトゥルケカムイなんぞ其れだけで邪悪だぞ﹂ シトゥンペカムイは穢らわしそうに吐き捨てた。 魔王城の周囲は人気のない砂漠が広がっていたために疫病が広が る心配はない││と、魔王に言われていたが、実際あの後すぐ逃げ る予定だったので土地に残留する影響は怪しい││からこそ、疫病 の騎士なんて真似をしたのである。 1548 下手なところで使えばそれこそ世界が終末へ一直線という恐るべ き鎌だ。例えば江戸などではとても使えない。複数の不治伝染病が 流行りまくって日本終了感染列島となるだろう。 特に、異世界ペナルカンドは大きな病気というものが少ない。癒 しの神が病気の治療を慈善で行っている為に、症状の軽いうちに治 されるのだ。さすがに老化してくると自然回復力の限度が近づき、 痛風やリュウマチ、癌などが慢性化するのではあるが。 九郎はとりあえず鎌を檻に向けて云う。 ﹁これでも切れるかもしれんからやってみるか。腐食の病気とか持 ってるかもしれん﹂ ﹁あ﹂ ﹁あ﹂ なにか言いたそうに口を開けている将翁とシトゥンペカムイを無 視して、鎌の刃先を檻になっている縄に引っ掛けて力を入れる。 刃先は滑らず、何かいい感じの手応えで食い込んだ気がした。 ﹁む、いけそうだ。将翁、ちょっとその縄を伸ばす感じで持ってく れ﹂ ﹁はあ。この紐を﹂ ﹁縄だ。縄だからそれ﹂ そうして切ろうとしていると、何やら再びどん、どん、とあたり から音が鳴り始める。 ﹁なんだ?﹂ ﹁ああ、鬼が気づいたようですぜ。隠されたあたしを暴いたものだ から⋮⋮怒っています﹂ 1549 彼の言葉に合わせて、白の地平の向こうからこちらに近づいてく る者があった。 いや、大気の屈折による遠近感すら怪しい夢の空間だ。どれだけ おぬ の距離から来ているのか、どれだけの大きさなのかも把握しにくい。 ﹁鬼、というものは日本では隠という字から読みを取りましてね。 即ちそのまま、隠すもの、隠れているものという意味がある。 人が山で迷い、攫われ、闇夜に消えていくものを鬼の仕業だと昔 の人は言った。この国で隠すのは天狗や神ではなく、鬼だったので す﹂ 近寄ってくる。 鬼は人型だ。体中から蒸気のようなものを上げて。腰巻き一つで 理性の欠片もない淀んだ目とむき出しの歯をしている。 そして、 ﹁どれだけ英雄が鬼を退治しようと、陰陽師や修験者が鬼を使役し ようとも人の世に鬼は消えない。人あるところに鬼は現れる。 怖いもの、暗い影、信じられぬ思い。人の心にこそ鬼は生まれる。 そしてここは夢の世界。九郎殿、貴方の鬼がやってくるぞ﹂ その鬼は、全長三十メートルはある大棍棒[天柱]を持っている ││過去に戦った百万人力の超戦士が鬼の角を付けている姿であっ た。 ﹁││!!﹂ 大音響で狂気の叫びをあげると、百万倍の脚力でこちらに突っ込 んでくる⋮⋮! 九郎は慌てて鎌を引き抜き、檻の近くから離れた。移動に伴う豪 1550 風に乗り付けて鬼へこちらからも接近する。逃げる場所など無いか らだ。 魔王城周辺は柔らかい砂漠だったので百万倍の脚力を使用すると あらぬ方向に吹き飛んだり地面が崩れて沈んだりするために飛んだ り跳ねたりはしてこなかったが、この空間では別のようだ。 やはり慣性を感じさせぬ動きで棒が振り回されて九郎を叩き落と そうとしてくるが畏れずに全て疫病風装に任せて回避。すれ違いに ブラスレイターゼンゼで薙ぎ払うが、効果は見えない。 ﹁効かぬ!?﹂ 病の感染が見られずにすぐに首だけ振り返って鬼は、大きく口を 開けた。 口元に青白い炎がちらついたのを見て九郎は慌てて鬼の攻撃によ って生まれた空気の対流に乗り距離を開けて地面に降りる。 次の瞬間には鬼が溶岩を入れたバケツをぶちまけたような、粘性 のある炎を吐き散らしていた。 質量あるものをぶつける攻撃に対してはそれに伴う風で勝手に避 けられる衣だが、炎は周囲の空気を一度吸い込んで撒き散らすので 回避の軌道が怪しくなる上に熱は殆ど遮られずに伝わるのだ。 というか、 ﹁あの男、炎を吐いたぞ!?﹂ 少なくとも超戦士の能力は通常の百万倍の能力というだけで、特 殊な能力は持っていないはずであった。悪魔のような地獄耳はあれ ども超音波や熱光線や空を飛ぶことは出来ないのである。 将翁が座ったまま特に焦りもしない口調で言ってくる。檻の後ろ に既に避難しているシトゥンペカムイも見えた。 1551 ﹁﹃鬼の姿で火など吹いて来ないよな﹄⋮⋮なんて、疑ったんじゃ ないですかね﹂ ﹁なに!?﹂ ﹁一度疑心を持ってしまえば、それはこの夢で現実として扱われる ││かもしれませんぜ。故に、疑心暗鬼というので﹂ 九郎は耳元に空気の圧し潰れる音を聞きながら、それでもはっき りと届く将翁の声に顔を顰めた。 ︵確かにこの服にも病原体の鎌にも、炎というものはとても有効だ が⋮⋮!︶ 棍棒は勝手に避けてくれる為に九郎は再び鬼へ接近する。 鬼は片手で持った棍棒を振り回しながらもう片方の手で鬱陶しい 相手を捕まえようとした。 しかし、百万倍に強化されたそれはどのようにしても、指一本動 かしただけで速度と風が生まれる。如何な手加減上手でも百万分の 1の力加減をするのは難しく、また彼は理性を殆ど失っているのだ。 煙を掴むように九郎の体は再び鬼をすり抜けつつ病魔の刃がぶち 当たる。 だが、やはり鬼が怯む様子はない。 ︵これは⋮⋮︶ 九郎が歯噛みする。 ここに来る前に見た夢で、散々このブラスレイターゼンゼが決定 打を与えられず、倒せないと思ってしまったことで。 この鬼に通じないのではないかと思った故に、無効化されている。 ﹁まずいな﹂ 1552 再び鬼の炎が吐かれて九郎は足で逃げ惑う。そして、より状況が 悪くなったのを確認して舌打ちをする。 今度は鬼は、棍棒自体に炎を吐きつけて纏わせたようである。 破棄された軌道エレベーターの主柱を材質としたそれは、魔王の 解説に依ると形状記憶自己増修復カーボンだ。熱に強く、自己増殖 因子を持つ故に燃え尽きない炎の棍棒が出来上がった。 ﹁将翁、鬼の専門家なら何か弱点とか無いのか﹂ ﹁それなら⋮⋮恐らく雷に弱いかと﹂ ﹁何故だ﹂ らいこう らいこう ﹁ま、いろんな要素は絡みますが⋮⋮だってほら、あたしは大江山 の鬼を退治に来たんですぜ? 前に倒した侍の名は頼光││雷光っ てね﹂ ﹁洒落か!﹂ 言いながらも九郎は腰の術符フォルダから[電撃符]を取り出し て構えた。 揺れる炎の中、こちらを見てい唸り声を上げている鬼へと発動さ せる。 ﹁発雷││!﹂ 放電による熱で空気が急速に膨張して轟音を立てながら押しのけ られる。ぱり、と小さな音を立てて鬼の棍棒に静電が生まれたと思 ったら、次の瞬間には太い放電が高速で直撃した! ﹁やったか!﹂ ﹁それを云うなよ⋮⋮﹂ 1553 シトゥンペカムイが不吉なフラグめいた言葉をかけるので突っ込 みを入れると、案の定放電の先で鬼は目の光を向けたまま立ってい る。 効いていないようだ。 襲い掛かってくる鬼に九郎は[氷結符]を指で摘んで炎を消すよ うに温度を下げつつ怒鳴り声をあげる。 ﹁将翁、全然効いておらぬぞ!﹂ ﹁ふむ⋮⋮いえ、だって。さっきのそれは雷じゃないですかねえ﹂ ﹁どういうことだ﹂ ﹁電気の放電と雷ではそりゃあ違いますぜ。[かみなり]ってのは 名前の通り神の御業なわけですからねぃ。武御雷しかり、いんどら、 でうす、雷祖などと、何処も彼処も偉い神様の役目。ちょいとぱち ぱち言わせても、そりゃあ鬼には⋮⋮﹂ ﹁それを早く言えそして解決しろ!﹂ ﹁やれやれ、わかってますよ﹂ と、言って将翁は檻から細く白い手を差し出した。 指先でシトゥンペカムイの尻尾を軽く摘んでいる。 ﹁ここは夢の場。縁と魂と記憶の繋がりから、自由気ままとは言え やせんが、支配し直すことだって可能だ。檻に隠されていてはそれ もできやしませんでしたがね。 隠は破られた。鬼はね、隠れて、隠している時だけ無敵の怪物な んです││よ!﹂ ﹁痛││!?﹂ 将翁が勢いを付けてシトゥンペカムイの尻尾を引っ張ると││そ の手には華美な装飾の施された宝剣の柄が握られている。 振り返って黒狐が驚いたように叫んだ。 1554 ﹁カンナカムイの宝剣!? 俺様の縁から引っ張りだしたのか!?﹂ ﹁さあ、九郎殿││これを﹂ 手首の動きで鞘に収められたままの剣を九郎に向けて一直線に放 り投げる。 それを受け取りつつも九郎は暴風のように襲い来る戦士から逃げ まわっている。 シトゥンペカムイは将翁を見ながら云う。 ﹁あれを使えるものか! 確かに雷神の剣だが、その子であるオキ クルミしか使えない宝剣だぞ! あの人間もどきとは縁がない!﹂ アイヌに伝わる英雄の伝説││雷神カンナカムイの子に生まれ太 陽の女神に育てられ人間の村で暮らした神人オキクルミが、暗黒の 国の魔女に攫われた白鳥姫を救いに行き魔物や魔神を倒すために使 った宝剣である。まるで王道RPGのシナリオみたいな伝説が蝦夷 には残っている。 だが勿論、九郎は北海道とは殆ど関係の無い男だ。蟹漁船に乗る 為に少し居たことはあるだけである。 将翁が宝剣を抜く間も無く飛び回っている九郎を見ながら云う。 しゅ ﹁確かに。九郎殿とアイヌの英雄とは何ら関係が無いでしょうね。 しかし、呪という細い縁がある﹂ ﹁呪?﹂ ﹁名前はただ誰かと同じにするだけで、それに肖った効果を期待さ れる。そのままそれが影響を及ぼすわけではないが、それを知って いて、繋がっていると思う事こそが、夢という狭間のあやふやな状 況では繋がりとなる﹂ ﹁オキクルミとあいつに何の関係が?﹂ 1555 ﹁一笑に付すような小さな説の、僅かな名前の繋がり││ある老人 が出した史書によると、蝦夷に逃げていった源義経がオキクルミだ と云う。義経の別名は││九郎﹂ ﹁それだけの繋がりで!?﹂ ﹁使えると、あたしが信じればいい。夢とはそういうものだ﹂ とある史書││それは[読史余論]という正徳二年に将軍に寄進 された藤原政権からの政治史を纏めた本である。そこにはこうある。 [⋮⋮世に伝ふる事のごとくならむには、忠衡が討たれしは、義経 の討たれしよりさき百日に近し。忠衡すでに討たれし上は、義経の に義経の家の 死ちかきにある事、智者を待たずして明らか也。義経手を束ねて死 に就くべき人にあらず。不審の事也。今も蝦夷の地 跡あり。又、夷人飲食に必ずまつるそのいわゆるヲキクルミといふ は即ち義経の事にて、義経のちには奥へゆきしなどいひ伝へしとも いふ也] つまり、義経が死んでから首が渡ってくるの遅すぎだからこれ偽 物で本当は蝦夷に行ってる。ヲキクルミって義経のことだろうとい う⋮⋮まあ一説である。別にこの義経が本題な内容の書ではないの でさらりと流しているが。 ちなみにこれを書いたのは現在千駄ヶ谷で隠居している天爵堂で ある。 九郎はブラスレイターゼンゼを投げ捨てて、宝剣の鞘を握りつつ も風に翻弄され抜き放つタイミングを測った。 ふと。 風が止んだ。 いや、振る度に吹き荒れる暴風を鬼が敢えて角度を調節し、無風 の空間を作って九郎を空中に固定したのだ。 1556 ﹁しまっ││﹂ 鬼の口が開き、中心に向けて風を吸い込む炎の渦が吐き出される。 瞬間、九郎の眼前は赤く染まった。それは熱ではない。炎のよう に赤い色のだぶついた大きな衣を、防火服のように頭から被ったシ トゥンペカムイが九郎に向けて体当たりをしてきたのだ。 自動で疫病風装がその体当たりに纏う風を掴んで、炎の効果範囲 から離れるが代わりにシトゥンペカムイは火に包まれる。 それを気にかけるよりも先に、九郎は鬼に生まれた隙へ向けて宝 剣を抜き放った。 神の力が走る。現実世界では決して使えないにしても、夢の想像 が現象となる世界では、将翁が使えると思い渡されたそれは力を発 揮する。 ﹁なんだかわからんが喰らえ!﹂ 鬼と戦っている場所はどこまでも続く白い空間だった。 だが、九郎が剣を振り抜いた瞬間││見果てぬほど遥か先まで一 斉に幾億条穿ち乱れる雷槌の暴威が吹き荒れて⋮⋮世界が割れた硝 子のように砕け散った。 鬼は跡形も無かった。空間も九郎より前が存在しない状態になっ ている。 振った九郎自身が、ぽかんと刀を振った姿勢のまま固まった。 ずるずると赤い衣を引き摺っている効果範囲外に逃げていたシト ゥンペカムイが声をかけた。 ﹁おい、使い終わったのなら返せ。カムイの宝剣だそれは﹂ ﹁⋮⋮いや、ちょっと威力に目眩がして﹂ ﹁暗黒の国を跡形も無く消滅させた剣だぞ。当たり前だ﹂ 1557 九郎は慎重に剣を鞘に戻して黒狐に渡す。 骨っ子のように口に咥えて、ひょいと背中に放り投げると体に纏 った藍色の布飾りにすっぽりと剣は収まった。 賢い犬の芸を見たとばかりに感心してシトゥンペカムイの顎を撫 でながら、 ﹁シト公。助けてくれてありがとうよ﹂ ﹁勘違いするなよ九郎とやら。俺様はお前を助けたのではなく宝剣 が炎に巻かれるのを防いだのだ。そうでなければお前など││﹂ ﹁そういえばお主、炎を食らっておったが大丈夫かえ?﹂ ﹁ああ、それなら﹂ 声がした方を向くと、檻が無くなっていて将翁が立ち上がってこ ちらを向いていた。 ﹁シトゥンペカムイ殿に被せたその羽衣││[火鼠の皮衣]と言っ て、着ていれば燃えない便利なものでして﹂ ﹁そんなものが何故ここに﹂ ﹁いえね、あたしが以前、不老不死の薬を持っているお姫様に近づ こうとした時に貢物にしようと手に入れたものなんですが││渡す のが勿体なくなりまして。偽物を渡したら燃やされてしまいました よ﹂ ﹁はあ﹂ 今更だが随分とお伽噺だと九郎はどこか冷静になった頭で思った が、まあ夢だしなと小さく諦めた。 将翁もどこから取り出したか、狐面を被って九郎に頭を下げた。 ﹁ともかく、これで鬼は倒せました。九郎殿もご協力感謝を﹂ 1558 ﹁ううむ。元のあれは百万回殺さねばならなかったが、さすがにそ こまで再現はされなかったか﹂ ﹁人の心の闇を写すにも、限度がある。実際にあたしとシトゥンペ カムイ殿があれを倒せたと思う雷を食らって、消えてしまったので しょう﹂ 九郎は地面に落ちっぱなしになっていたブラスレイターゼンゼを 拾いながら﹁そんなものか﹂と返した。 少しだけ気分が良かった。異世界でまるで倒せなかった超戦士を、 鬼が化けた姿だとしても消し飛ばせたからかもしれない。なにせあ の時はミサイル[草薙剣]すらも一発は叩き落とされてもう一発は 打ち返され、魔王城が3分の1ほど消し飛ぶという被害を受けたの である。 ﹁後は夢を覚めて神便鬼毒酒を貰うだけ⋮⋮これで、石燕殿の病気 も良くなる﹂ ﹁⋮⋮あやつ、そんなに体が悪かったのか?﹂ よく風邪を引いては重くして、アルコール切れで苦しんでいる友 人の絵師を思いながら九郎は聞いた。 体が強いとは思っていなかったし、何らかの持病││アル中以外 ││もありそうだと予想していたが。 将翁は首を振り、 ﹁患者の個人情報はちょいと秘密にさせて貰いますぜ。石燕殿から も口止めされてるもので﹂ ﹁左様か⋮⋮﹂ 表情の見えない仮面の中から、将翁はぽつりといった。 1559 ﹁⋮⋮死すべき運命の者が、居るべきでない者に救われる。一度狂 った歯車は作られた脚本を台無しにするだろう﹂ ﹁それは⋮⋮石燕が確かそんなことを言っていたか?﹂ 玉菊が死に、タマとして店で雇うようになったときである。 返事をせずに、将翁は後ろを振り向いて迷いなく歩き出した。 ﹁また、江戸でお会いしましょう。所詮ここで起きたことなど、夢 泡沫⋮⋮﹂ シトゥンペカムイも一度だけ九郎を振り向いて、のそのそと黒い 尾を揺らしながら去っていく。 ﹁次に俺様と合う時はその服と鎌は捨てておけよ﹂ そして九郎は、ふと誰かに呼ばれた気がして振り向くと││。 ***** 九郎は窓から照らす、朝飯の煮炊きの煙で霞んだような朝日を目 に感じていつものように目覚めた。 緑のむじな亭の二階にある座敷である。二部屋だけあるそこには 九郎とタマがそれぞれ住み込んでいる。 ︵何か怠い夢を見ていたような⋮⋮︶ 1560 江戸に来て、過去のことやら魔王のことを夢で見るのはよくある ことだが、思い出せるかは微妙であった。夢の一部は魔王と魂の繋 がりがあるために上映会感覚で見られているのであったが。 目を擦りながら上体を起こして、首を回し伸びをする。 春一番の後の寒さも過ぎ去り、すっかり暖かな空気が朝から匂っ ていた。今日もまた変わらぬ、江戸での一日が始まる。 九郎は目を覚ますために大きく深呼吸をして││ ﹁││ごほっ!?﹂ 自分の右手に持ったままの、黒い靄を鎌の形に固めたような物体 が目に入って思いっきり吹いた。 爽やかな深呼吸がストロング級の病原菌を吸い込んでしまった錯 覚を覚えて死ぬほど噎せる。青白い服を着た体がげほげほと前後に 揺れた。 ﹁な、なんでこれがここに⋮⋮﹂ 九郎にもよくわからないが、どうやら││ 夢の中から、世界を滅ぼす伝染病の詰まった終末の鎌、ブラスレ イターゼンゼが江戸に持ち込まれたようである。 1561 ***** ﹁││みつけた﹂ 朱面が、蠢く。 1562 49話﹃彼の物語は続く﹄ 切っ掛けは小さなことだった。 天爵堂の家に暇つぶしに訪れた九郎が、そこの片付けをしている 場面に居合わせたのだ。 古本や写本、がらくたに骨董など節操もなく集めている天爵堂の 家の片付けはさながら家探しのようだったが、これが中々進まない。 天爵堂と雨次は奥から出てきた本を[分類]と称して読み耽りだ すからだ。 こうなれば小唄が叱ろうがお遊が騒ごうが、生返事しか返さない 二人である。もはや掃除はお遊と小唄が行っているような状況だっ た。 ﹁そんなところは無駄に師弟そっくりなのだな﹂ 呆れて九郎も言いつつ、散らかされた本や巻物を崩さないように 彼も適当に広げて眺めていた。 その中に一つ、彼の目を引く物があった。 ﹁⋮⋮明の汁そば?﹂ 大陸から渡ってきた儒学者が、明で作られた汁麺を水戸光圀に伝 えて、そして今度は光圀が家臣や僧侶を隠宅に呼んで自作したもの を振る舞ったという記録だった。 これを本邦初のラーメンと言う説もある。無論、現在食べられて いる中華麺ともラーメンのスープとも大きく異なるものだが、大陸 より伝わった汁麺ということならばこれがそうである。 汁と麺を食べる文化としては日本にうどんがあるが、これは中国 1563 から伝わったのは練った粉││饅頭の皮であり、それを細くしてか け汁に付けて食べるのは日本で発展したものだという一説からすれ ばラーメンこそが初の伝来麺料理なのであろう。 ﹁ほう、水戸の黄門様がのう﹂ 九郎はじろじろとそれを読む。材料などは知らない単語が使われ ているのでよくわからなく、天爵堂に尋ねる。 ﹁この藕粉と言うのは何の粉だ?﹂ ﹁うん? これは確か⋮⋮蓮根の粉じゃなかったかな。水戸藩は蓮 根の名産地だからね。本来材料にしていたのかはわからないが、使 われたようだ﹂ ﹁調味料は⋮⋮中国の漢字か、これは。読み方すらわからん﹂ ﹁ふむ、確か⋮⋮山椒、にんにくの葉、韮と白からし⋮⋮それに、 こえんどろとあるね﹂ ﹁こえんどろ?﹂ ﹁亀虫草とも言うやつで、昔の朝廷料理で出る魚の臭い消しに使わ れたものだけど⋮⋮あんなもの入れて美味いのかなあ。僕はどうも 一度嗅いだことがあるけど、閉口してしまったよ﹂ 天爵堂は匂いを思い返して顔を顰めた。 こえんどろとは現代で云うコリアンダーやパクチーなどと呼ばれ る香菜の事で、その青臭い匂いからそのままカメムシソウとも呼ば れていた。 食が多様化した21世紀ですら、人を選ぶ強い風味には江戸時代 からすれば更に苦手に思う人は多いだろう。 だいたいどういうものか想像がついたのか、九郎は一応こえんど ろを擁護する。 1564 ﹁確かあれは乾燥させれば青臭さはかなり抜けるぞ﹂ ﹁そうなのかい? ⋮⋮ああ確かに、粉にして汁に振りかけた、と あるから案外そうなのかもしれない﹂ ﹁汁は⋮⋮肉で出汁を取ったと書いているが、水戸のご老公の時代 は肉食って大丈夫だったか? しかもそれを僧侶に振る舞ったのか ⋮⋮﹂ ﹁うん、まあ駄目だったんだけど光圀公がそんな法を守るわけ無い よね。本気で将軍に犬の毛皮送りつけたから、あの人。しかも肉だ けじゃなくてにんにくも韮も僧侶は駄目なんだけど気にするはずが ないなあ﹂ ﹁ふりーだむ黄門様すぎる﹂ 九郎の脳裏に、伺うようにラーメンの丼を目の前にしながら水戸 黄門をちらちら見る僧侶に対して、例の印籠で黙らせて食わせてい る図が想像された。 ﹁しかしどんな味だったのだろうなあ﹂ ﹁さて。五辛が使われているから薬膳の意味もあったとは思うけど ね﹂ ﹁確か⋮⋮﹂ と、九郎は腕を組んで考える。 魔王の城で読んだ本によれば、日本で初めて日本式のラーメン屋 が出来たのは明治の頃らしい。生まれた年代こそ知らなくとも、一 番最初の店である[来々軒]という名は誰しも聞いたことがあるだ ろう。 九郎が今生きている享保の江戸から数えると百五十年以上未来で ある。 そう思うと中々食えないものだと九郎はため息をついた。少なく とも、不老の魔法を解けば生きては居まい。 1565 ﹁んー? なになに、てんしゃくどーと九郎なに見てるの?﹂ お遊が後ろから覗きこんで、何やら考えて込んでいた二人に尋ね てきた。 ﹁ああ、いやこれに書かれている料理はどんな味だったかと思うて な?﹂ ﹁⋮⋮? よくわかんないけど、美味しそうなら作ればいいじゃな い。わたしも食べたい!﹂ そう言って、本に顔を落としていた雨次の腕も引っ張って、 ﹁雨次も食べたいよね!﹂ ﹁ああそうだなお遊﹂ ﹁ほら! 雨次も作るの手伝うって!﹂ ﹁ああそうだなお遊﹂ ﹁⋮⋮雨次よ、生返事ばかりしておるとそのうち変な口約束取られ るぞ﹂ ぼーっとしながらお遊に応える彼に九郎は忠告するが、やはり聞 いていないようだった。 天爵堂がふむ、と呟いて、 ﹁歴史を再現するという意味ではやってみる価値もあるかもしれな いね。光圀公に呼ばれて馳走になったのでは、美味いも不味いも無 かっただろうから正しい味の記録を残しておけるだろう﹂ ﹁ちなみに不味いと言ったら?﹂ ﹁切られるんじゃないかな⋮⋮いやまあ、彼は手打ちうどんの達人 だったらしいからそう変な味のものは作らないと思うけど。となる 1566 と、材料を集めなくてはね﹂ 天爵堂がとりあえず必要なものを書き出す。 おおまかに分けるとまず基礎の材料として、 麺:小麦粉、藕粉 汁:火腿、胡椒、生姜 具:山椒、にんにく葉、韮、白からし、こえんどろ 二人は難しい顔をして、 ﹁これだけでは美味くなると思えぬな﹂ ﹁書いてない具材や汁の味付けがあるんだろうね。醤油とか、味噌 とか﹂ ﹁⋮⋮では汁は己れが幾つか覚えがあるから、知り合いの意見も聞 いてみるか。再現もいいが美味いのが一番だ﹂ ﹁具と言うより調味料だなこれは⋮⋮﹂ 話し合っていると今度は小唄が違う部屋の片付けを終えたのか、 こっちにきて、 ﹁まったく、先生も雨次もまた怠けて。それでは片付けは終わらな いぞ││うん? なにを見ているのですか?﹂ ﹁うむ、昔の料理を作ってみようと。天爵堂、蓮根の粉など売って いるのか?﹂ ﹁粉物問屋にあっただろうか。正直あまり藕粉を使った料理なんて 無いからね﹂ ﹁藕粉? それならうちに有りますけど﹂ 小唄の言葉に顔を上げて﹁ほう﹂と呟く九郎。 1567 ﹁保存食のつなぎに使うからって、わざわざ天日で干して粉にした ものを仕舞っているんです。不忍池の蓮から作ったもので⋮⋮﹂ ﹁それは丁度良かった。完成の第一歩だのう﹂ 九郎は嬉しそうにして、この時代の材料でラーメンを作るやる気 が出て来るのを感じるのであった。 こうして九郎のラーメンの材料探しが始まった。 ***** まず、スープに使うものは火腿とある。 これは豚の腿肉を塩漬けにしたものだが、江戸ではあまり獣肉を 食べることは無く豚肉など当然流通していない。ももんじ屋のよう に食わせる店はあるが、これらの多くは大川の上流で仕留めた鹿や 猪、小動物など舟で下ろして来たもの提供している。 だが九郎は豚肉について心当たりがあったのだ。 日本橋にある薩摩からの交易船を扱う大店、[鹿屋]に九郎は訪 れた。 薩摩は琉球を通して大陸文化が多く流入してきているし、戦国時 代から島津は豚肉食文化がある。豚のことを歩く野菜と呼ぶ程だ。 まるでオーガである。 ﹁オイ! 九郎どんがぶたンしょはいかつけもンいっちいっちょっ がもさっとやっがよ! みんふとかやつがっさやらんけ!﹂ ﹁わざわいかそげんおらがンでよかがー吾ァにいわれんでもだっが 1568 っさっちよ﹂ ﹁なんじゃとォオ!!﹂ ﹁何ィイイ!?﹂ ﹁そん言葉⋮⋮ひっくイイエアア!!﹂ ﹁よか⋮⋮ひィとっちがアアアア!!﹂ ﹁⋮⋮おい、主人。謎の言語の遣り取りで喧嘩が始まったのだが﹂ ﹁また胆を練って捌け口にしないといかんですかなあ﹂ 茶を飲みながら凄まじい怒鳴り合いを眺めていた。 何故か妙に薩摩人に好かれてしまっている九郎である。 ︵しかしこれほどまでに好かれて困る人種は居るのだろうか︶ 猿叫を鳴り響かせて褌一丁になり、庭の方で決闘を始めるさつま もん甲とさつまもん乙を見ながら九郎はそう考えるのであった。 ともあれこうして腿肉の塩漬けは手に入った。これは下茹でして 砂糖醤油を表面に塗りつけ、塩をたっぷりまぶして寝かせたもので ある。水分が殆ど抜けてまるで木のような感触だった。 しかし、これを煮たところで普通のスープは作れない。九郎は買 った芋焼酎を片手に今度は石燕の家へと向かった。 ***** 神楽坂にある呪いの恨み屋敷、鳥山石燕の家である。すっかり慣 れた九郎は気軽に訪問しているが。 ﹁ほう、趣味の麺料理かね九郎君﹂ 1569 ﹁この豚の塩漬けを使うらしいのだがな、具体的な汁作りはあまり 詳しくないのだ。石燕よ、知らぬか?﹂ と、無駄に詳しくあらゆる知識を網羅したと豪語する石燕にスー プの作り方を尋ねた。この場合のあらゆる知識というのは浅草寺に ある樹木の数すら知っているらしい。以前聞いたら即答されたが、 本当にあっているか数えては居ない。 石燕は不敵な笑みを浮かべながら応える。 ﹁恐らくその豚を使うのは[たれ]だね。蕎麦で云うと[かえし] の部分に使えばいいんじゃないかね。これならば出汁を合わせれば 失敗が少なくなる﹂ ﹁ふむ。ならば昆布や鰹節を濃い目に煮て、醤油と豚で味をつける たれにするか。たれに使った後はまた切って味付けすればつまみに なるからのう﹂ ﹁しかし何かね九郎君! そういう面白そうなことに私を呼ばない とは!﹂ ﹁あ、いやそもそも昨日あたりに作ろうかと天爵堂の家で決めたか らな﹂ ﹁ふふふ安心したまえ。しっかり私が出資してあげようではないか。 そして後世の歴史には鳥山石燕が作らせたと残しておこう!﹂ ﹁残すな﹂ 一応突っ込みを入れてから九郎は聞く。 ﹁しかし割る出汁か⋮⋮どういうのがあるかのう﹂ ﹁ふむ。単純に三つ程作って試せばどうかね? 私がさっと思いつ くものは⋮⋮鰹節や貝で味を取った出汁、野菜や茸で味を取った出 汁、あとは⋮⋮鳥の汁などは結構将軍家でも飲まれているね。鶴や 雁などだ﹂ 1570 ﹁複数のスープか⋮⋮まあ余っても何かに使えるだろうからな。ぶ れんどで味が上がるかもしれん﹂ さすがに豚骨や牛骨などは手に入らないので、出汁もその三つが メインになるだろう。 九郎はぱっとそれらの材料となるものを考えて頷き、 ︵他の知り合いに材料を調達させに行こう︶ と、決めた。 下手に自分が探すより質の良いものに詳しい相手に頼んだほうが 良い。決して面倒だったわけではないのである。 ***** ﹁鳥で出汁、か?﹂ 九郎がその話を持ちかけたのは、鎧神社で寝泊まりしている録山 晃之介である。 神社の裏にある小屋に荷物を置き日頃の鍛錬を行っているところ へ尋ねて来たのだ。 道場と言えない環境であるがやはりお八も通っているらしく、彼 女の身長に合わせた短槍で基本的な[払い]と[突き]の反復訓練 を行っている。 晃之介は野外生活に慣れていて弓矢の腕前も高く、よく鳥を射っ ては食っていたと聞いていたのだ。 1571 ﹁ああ、結構灰汁が出るがな、確かにあれは美味い。特に水鳥だな﹂ ﹁ほう﹂ ﹁旅をしていると取った肉を干したりして後で食うこともあるんだ が、水鳥のもみじ⋮⋮足首から下の水かきがあるところだが、あれ の爪を削いで煮るといい出汁が取れるんだ﹂ ﹁なるほど、いいな﹂ ﹁それに鳥と猪などを一緒に煮込んだこともあるが││中々街では 食えない、こってりとした味わいになってな。たれとして混ぜるの は豚の味だろう? きっと合うと思うぞ﹂ ﹁うむ。では材料の調達は頼んだぞ﹂ ﹁任せとけ。その代わり、俺の分も作ってくれよ﹂ 引き受けた晃之介に、槍の構えを一旦解いてお八が言ってくる。 ﹁師匠! あたしも食べたいぜ!﹂ ﹁そうだな。ではお八には鳥を捌くのを手伝うことだ﹂ ﹁うっ⋮⋮わ、わかったぜ。九郎、作るときはちゃんと呼べよな!﹂ ﹁ああ、良いぞ。ふむ、結構な人数になってきたな﹂ これは大鍋が必要かもしれないと思案しつつ、九郎は六天流道場 ︵仮︶を後にした。 ***** ﹁茸ですかい﹂ 1572 偶然町中で出会ったので、詳しそうだと話を出したのは安倍将翁 に対してだった。 久しぶりに現実世界で出会ったのだが、自然に彼は江戸の街でい つもどおり茶と餡が詰まった蓬餅を茶店で食っている。 本草学として植物のみならぬ、茸や鉱物の薬毒にも詳しい将翁な らば出汁取りに良いものを知っていると思ったのである。 ﹁茸汁は良いもんですぜ。薬効もあるが、複数の種類を混ぜて煮る と味が格段に良くなる﹂ 茸の主成分であるアミノ酸は一種類でも深い味わいを持つが、複 数種類になると味が複雑に絡んで奥深さがいや増す。 普通の鍋料理でも奮発して三種類ほど茸を入れてみれば、瞭然と ばかりに違ってくるのである。 ただそれゆえに、味付けに気をつけなければ行けないのだが出汁 としては優れている。 ﹁ふむ。生憎と己れは茸というと椎茸やしめじなどしか知らなくて な。お主に頼みたいのだが﹂ ﹁九郎殿の頼みとあれば、やむを得まい。あたしの持っている中で 一番旨い││紅天狗茸の塩漬けを﹂ ﹁いや、己れでも知ってるからそれ。毒茸だろう﹂ ﹁おっと、ご安心あれ。一口齧る程度じゃ死にゃあしません、よ﹂ ﹁そういうのいいから。普通の茸を用意してくれ﹂ 将翁は茶を啜りながら、ほう、と息を吐いて、 ﹁ま、出汁にするには椎茸にえのき、平茸に鮑茸⋮⋮ああそうだ、 あれを食うならけしの実や麻の実などを薬味にすると良い。丁度、 1573 あたしが持っている﹂ ﹁ドラッグの元がどんどん出てくる﹂ ﹁なに、これはあたしの分も作る代金だと思って。それに、豚を煮 たもので作る汁となると、結構獣臭く好みが別れる。それを抑えて 澄んだ味にするには、茸と薬の風味が一番、ですよ﹂ ﹁く、薬か?﹂ ﹁おっと、ご存知でない。大陸の清どころか越南でも印度でも、汁 物には生薬を混ぜて味を深めているのですよ﹂ ﹁そうか⋮⋮? いやまあ、とにかく頼んだぞ﹂ 小さな袋で渡されたそれを胡乱げに見ながら九郎はとりあえず懐 に戻した。 詳しくは知らないのだが、自分よりは将翁のほうが知識が有るこ とは認めている。それに漢方を使った薬膳料理や、カレーに入れる スパイスなどもいわば薬のようなものだ。 そういうこともある、と思うことにするのであった。 将翁は草餅の乗っていた皿の上に代金を置いて、高下駄を鳴らし ながら立ち上がる。 ﹁茸の方は用意させて貰いますぜ。それじゃあ後ほど││﹂ そう告げて、彼は幽玄のように歩き去っていくのであった。 ***** ﹁あー駄目だ駄目だ九郎。ちまちまと昆布なんぞで出汁を取ってて 1574 もそこそこ以上にはならねえぞ﹂ 布団に横向けに寝転がり頬杖をついて、鼻をほじりながら凶悪な 人相の男はそう言った。 そういえば魚を捌いて下ろす裏だか表だかわからない仕事もして いたなあと思いだして訪ねたのは、謹慎││もとい療養中の中山影 兵衛である。 骨の具合はともかくまだ仕事に復帰できていない彼は退屈しのぎ の相手が来たと思いニヤニヤと笑いながら云う。 ﹁そこらの潮汁作ろうってんじゃねえんだ。かの水戸のご老公が作 った先進的な料理なんだろ? もっと、がつんと個性出していこう ぜ兄弟﹂ ﹁ほう、するとどうするのだ﹂ ﹁味付けするたれの方に昆布と鰹節は入れるんだろ? じゃあいっ そ出汁からはそれを抜いてだな、魚のあら汁を煮込むんだ﹂ ﹁あら汁か⋮⋮一気に魚臭くならぬか?﹂ ﹁いいんだよ、ちょいとぐれえ臭い方が愛情たっぷりで。個性と個 性がぶつかって友情ってもんは生まれるんだ。獣の味と魚の味の二 重葬! 愛情友情思い重ねてってなぁ!﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ ﹁追加で入れるのは⋮⋮帆立だな。乾燥したあれを削って汁に溶か すと一気に本格っぽくなるんだぜ﹂ ﹁帆立か、それは良いな﹂ ﹁そうそう。あとあれだ! 拙者よう、干物を湯漬けにして食うの 好きだから鯵の干物とか汁に入れればいい味取れると思うぜ! ア ジだけに! かはははっ!﹂ 愉快そうに提案する影兵衛は笑いすぎて折れた肋骨に響いたのか、 胸を抑えて悶えた。 1575 九郎は呆れながらも布団の側に用意されている、患部が熱を持っ た時に当てる為の濡れた手拭いを渡す。 ﹁なんでもかんでも入れすぎだと思うぞ。アラと干物と帆立汁など 想像もつかん﹂ ﹁あー畜生。拙者がこんなに苦しんでるのは誰の仕業かなー? せ めて拙者の提案受けて作ってくれれば痛みも止まるんだけどなー?﹂ ﹁いや、それお主が己れを殺しに来た所為だから。己れはマジで悪 くないから﹂ ﹁あたたた、痛えなあ⋮⋮ああそうだ、九郎。拙者が恩を売ってる 大店を紹介してやるからよ。去年に盗賊から盗まれた乾物なんかを 拙者が殺し││いや、ええと⋮⋮殺して取り返したらえらく礼を言 われてよ﹂ ﹁言い換えようとして言い換えて無い⋮⋮﹂ 人の命を野原の花感覚で摘み取る影兵衛にげんなりしつつも、安 く提供してくれそうな乾物屋の場所を九郎は聞いた。干鮑などの高 級乾物は軽くて運びやすく、また食べ物なので転売しやすいために よく狙われるものである。 影兵衛の妻、睦月が買い物から帰ってきたので辞したが、少し前 に殺し合いをした彼は生来の友人のように手を振りつつ、 ﹁じゃ、作るときは呼べよー。呼ばなかったら半殺しな﹂ と、割りと本気でそういうので九郎は笑う他無かったという。 ***** 1576 ﹁やーさーいー、やーさーいー、たーのーしーいーやーさーいー﹂ ﹁お葱にあさつきー葉生姜にうぐいす菜ー﹂ 歌いながら神田須田町のやっちゃば││青物市場から帰ってきた のはお房とタマであった。 手に持った籠には瑞々しい野菜を沢山積んである。並んで居ると 二人は仲の良い兄妹に見えた。 休業中の店であれこれと予定を立てていた九郎の前の机に野菜を どんとお房は置く。 ﹁タマが来て何が良かったって、口が上手いから凄く値引きしてく れるの﹂ ﹁そうか、よくやったのう﹂ ﹁お房ちゃんもずばずばと質のいいやつを見繕って凄いですよう﹂ 九郎に褒められたことを照れながら、タマは目利きの手柄はお房 のものだと讃えた。 お房はふんす、と胸を張りながら、 ﹁当然なの。先生にも生物と死物を書き分けるようにと指導を受け ているから、生き生きした野菜を選ぶなんて他愛なしなの﹂ ﹁フサ子のすきるが若いのにみるみる上昇していくのう﹂ 去年までは扱えなかったのだが、最近では包丁も使って朝餉を作 るようになってきたお房である。六科唯一の調理的アドバンテージ が包丁さばきなのであるが、普通の飯を作る必要度数には既にお房 が達しているという悲しい結果である。 その分、一厘︵約0.3ミリ︶単位まで物の切れ幅を揃えるなど 1577 と機械じみた性能を六科は持っているのであるが、それを活かした ところで蕎麦の味は並である。 ﹁それより、野菜の出汁になりそうな風味のやつを揃えてきたの﹂ ﹁うむ、済まぬな。さすがに玉葱はまだ無いか⋮⋮いや、確か天爵 堂の家で去年取れたトマトを干させて置いたな。あれも使おう﹂ 観賞用の原種に近いトマトを唐柿として庭に植えていた天爵堂は 去年それを九郎によってピザで消費させられたのだが、余っていた ものを干させたのである。 トマトには旨味成分であるグルタミン酸が多く含まれるために汁 物の出汁としては非常に良く、現代でも使っているラーメン屋があ る。 ﹁なんか健康になりそうな汁ですねえ﹂ ﹁脚気予防にも良いかもな、ここでの暮らしでは﹂ ﹁ちゃんとあたい達の分も作るのよ﹂ ﹁わかっておる。しかし、結構な人数になってきておるからな⋮⋮ どれだけ作れば良いか計算しておるのだ﹂ 九郎が紙とにらめっこして考えていたのは材料の分量であった。 麺を一人前作るにはどれだけの小麦粉と藕粉が必要か、出汁は大 鍋で三つ炊いて混ぜるとして、ベースとなるたれはどれぐらい作れ ばいいか。 それらは足りなくなることも考えられるので人数よりも多めに用 意はしなければならない。 具はこの際凝らなくても良いだろう。 ︵三銃士でも具の専門家の人は地味だったからのう︶ 1578 前に読んだグルメ漫画を思い出しながら九郎は考えている。 それを覗きこんでお房が聞いてくる。 ﹁うわ、それの材料とかうちのお金で出すの?﹂ ﹁いやこれは色々と金がある奴らから募って作る。天爵堂に石燕、 影兵衛などだな。己れやむじな亭の腹はあまり痛まん﹂ お房の目が真剣に輝いた。 ﹁じゃあみんなが作り過ぎかなーって不審に思う限界まで大量発注 して残ったものは全部貰って店で使うの﹂ ﹁薄汚い横領を覚えてしまっておるこの十歳児⋮⋮﹂ ﹁お、落ち着こうよお房ちゃん。ほうら綺麗なちょうちょと蒼く澄 み渡る空が見えるよ、矮小な考えなんてあの空の自由さに比べれば﹂ ﹁あたいは冷静なの。こんなどさくさはそう無いの。おもてなしす る側として切らさない分量を作るのは当然なの。あたいは冷静なの﹂ ﹁ぬう⋮⋮﹂ 九郎は有無を言わせぬお房に気圧されて小麦粉発注の単位を一つ 増やされるのであった。 ﹁⋮⋮? 何か合ったのか?﹂ 出汁取り用に使う大きな鍋を、金物師をしているやくざ崩れの知 り合いから借りてきた六科が店に入ってきながら尋ねた。 九郎はため息混じりに、 ﹁いや、どういう子育てをすればこうしっかりしてしまうのだろう と思ってな﹂ ﹁そうか﹂ 1579 気にしていなさそうな六科は大鍋を置いて、竈でじっくりと弱火 にんにく で加熱させていた小さな鍋の様子を見に行った。 それは胡麻油にたっぷりと目分量で大蒜と大辛︵赤唐辛子︶を入 れて煮込んだもの││ラー油である。九郎のラーメンからの思いつ きでついでに作らせたものだ。 ただ、これは六科の好みに合わせて作らせたので横からむじな亭 の三人が見ててぞっとするような量の唐辛子をどばどば入れていた。 彼はそのレッドでホットでチリペッパーな液体を小皿に掬って、 躊躇わずにぐいと飲み、 ﹁うむ。旨いな、これ﹂ と、珍しく喜色を混ぜた声音でそう言っていた。 どう見ても激辛である。三人は顔を背けて味覚破壊人間が店主を やっている蕎麦屋を憂うのであった。 ***** ﹁さて、九郎君。いよいよタレを作ろうかね﹂ 前掛けをした石燕が神楽坂にある自宅の竈に立ちながら、弾むよ うな声音で九郎にそう告げた。 喪服に白い前掛けが酷く似合わない。 九郎はしげしげと眺めながら言った。 1580 ﹁⋮⋮そういえばお主が直接料理をするところを見るのは珍しいか もしれん﹂ ﹁おや? そうだったかね? ふふふまあ子興の修行を妨げるわけ には行かないからね﹂ ちらりと彼女が視線をやると、鰹節を削る鉋みたいな器具に必死 で乾物を砕いている子興が居る。 ﹁じゃあ変わってくださいよ師匠ー! 師匠の震える手先なら力掛 けずにすいすいとやれますって!﹂ ﹁馬鹿を言っては行けないよ子興。それを剃るのも絵筆を扱う技術 の一つなのだからね﹂ ﹁そうなんですか!?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮うん﹂ ﹁嘘だ!﹂ 適当な嘘が思いつかなかったのか、或いはそれすら考えるのが面 倒だったのか曖昧な師匠の答えに嘆く子興であった。 石燕は気を取り直して、 ﹁さて、まあタレとはいえ特別な作り方は必要ない。むしろ、細か な味付けの合わせ出汁でするからぶれない味で決めるだけで良いの だよ﹂ ﹁どうするのだ?﹂ ﹁まずは叔父上殿の店で使っている蕎麦のかえしだね。これを鍋に 入れる﹂ 小さな瓶に入れて運んできた濃褐色の汁をなみなみと入れた。 かえしとは醤油と味醂と砂糖を混ぜて煮返し、数日寝かせたもの 1581 である。店ではこれを鰹節の出汁で割って蕎麦汁にしている。 保存が効く上に混ぜて煮るだけで失敗の要素が少ない為、何度も 九郎が配合を変えつつそれなりに無難な味で纏めていた。安い屋台 の二八蕎麦などはそれこそ醤油をそのまま使っていたりするのだが、 少なくともそういう店よりは美味くなっている。 それを鍋で加熱し始める。火元は石燕の家の竈なので普通に薪だ。 ﹁続けてこれに味を加える。子興に作らせた、血合いを多く含んだ 鰹節、砕いた煮干し、糸昆布の三つだ﹂ ﹁前二つは良いとして、糸昆布で出汁を取るのか?﹂ ﹁わっと沸かして味を取るからね。水からじっくり出汁を取るなら 普通の昆布でいいが、糸状に細くしてやればすぐに味が解けて良い のだよ?﹂ 彼女は無造作とも言えるぐらいにそれらを投入してかえしの中で 短時間煮込んだ。 浮かんでいた鰹節が沈んで僅かな時間で鍋を上げて布で漉す。 別の鍋に移して今度は塩抜きをした豚腿肉の塩漬けを中に入れて 再び加熱した。 ﹁塩漬けにされたことで豚の味が中に濃縮されているからね。それ をタレに移して⋮⋮おっと! 煮込み時間はうちの店の秘伝だよ!﹂ ﹁いや、なに煩いラーメン屋の親父みたいなことを言っておるのだ﹂ ﹁ふふふ、黒い服は着ているから、後は鉢巻をして腕を組みふんぞ り返れば完成だね﹂ ﹁なんで大体ああなのであろうなあ﹂ ﹁また二人の世界に入ってる⋮⋮﹂ 他人から聞いたら意味不明な会話を繰り広げる九郎と石燕に、子 興は横から寂しそうに言った。 1582 そうこう話をしているうちに秘伝の煮込み時間となり石燕はチャ ーシューをタレから出す。 ﹁さあ、ひとまずこれは完成だね。他のも順調かい?﹂ ﹁そうだのう。江戸でラーメンを作るのに準備から数日もかかると はな﹂ ﹁無駄を楽しもうではないか、それが日常というものだよ﹂ 言い合っていると、石燕の家の入口の戸が勢い良く開けられて手 帳を手にした動きやすい服装の女性が、明るい化粧をした顔を覗か せて元気に言ってきた。 ﹁こんにちはあー! ここで新しい料理を作ってると聞いて取材に 来ましたー!﹂ 読売の女性記者、お花である。 石燕は待ってましたとばかりに、 ﹁うちの店は取材拒否だよ⋮⋮!﹂ と、笑顔で断るのであった。言ってみたかったのである。 ***** 人数分の麺は店の営業時間もあるので天爵堂の家で作られること となった。 1583 小麦粉と藕粉、それに水と塩である。ラーメンの麺に見られる縮 れ、コシ、色合いなどを担当するかん水は当時手に入らないので使 わなかった。 ではどうするのかというとそれの代わりとなるのが藕粉である。 これは蓮根の粉なのでかん水と同じくアルカリ性を含み、またム チンと呼ばれるいわゆる蓮根の粘り成分による独特のコシが生まれ る。麺の色合いは元より黒ずんだ蓮根の色が混ざるので気にしなく ても良い。 水の量は石燕の試験により粉の量の約五分のニと決まった。 さて、その材料をこね合わせるのが三人集っている。 ﹁それじゃあ頑張りますよーう﹂ ﹁ふあははは! 俺様が頑張るときは頼まれた相手が美女の時だけ だが、運良く君らは美女らしい!﹂ ﹁⋮⋮お゛う﹂ 前髪で目元の火傷痕を隠した盲目の女按摩、お雪。とりあえずこ ねる専門家として参加した。 もう一人は着流しだというのに頭にだけ黒頭巾を被った巨漢は千 駄ヶ谷の地主、根津甚八丸である。全身之筋肉、と言った日本人離 れした体格で腕周りなどお雪の太腿より太い大男だ。 両端を美少女に囲まれてとても嬉しそうである。彼は藕粉を提供 した者としてそれの調理にも興味があったために 甚八丸の腰ほどの背丈しか無いのが、若干関節などが青みがかっ て、癖っ毛が角のように尖っている少女、茨だ。雨次の家に住み込 んでいる下女で、見世物小屋で喉を潰されている為に滅多に喋ろう とはしないが、極短い返事程度はするようになったらしい。 雨次が料理の準備を手伝わされているので彼女も自ら参加する事 となったのである。 そんなわけであまり接点の無い三人組であったが、腕まくりして 1584 天爵堂のあまり使っていない無駄に広い板場を借りての作業である。 なにせ、屋敷は旗本屋敷並の大きさなのであるが家主が浪人という 身分なので下男や女中、従者を雇わなくても良い為に広々とした天 爵堂の家の半分は埃を被ったままなのである。 ﹁まずはお水に塩を混ぜて﹂ ﹁⋮⋮﹂ と、鍋に分量を計って分けている水に塩を投入する。一度にすべ ての粉を練るのは量的に不可能なので何度かに分けて作る。 目の見えないお雪を補助するように茨が彼女の発する手順に従っ て塩を溶かす。 その間に甚八丸は小麦粉と藕粉を混ぜあわせ、粉は灰色になって きた。 ﹁この、蓮根の粉ってのは中々腐りにくいのが特徴でな。水を混ぜ て固めると虫も沸かなくて蟻の巣穴とかの上に乗せると迷惑そうに する﹂ ﹁あら、でも藕粉を固めて食べるなんて珍しい食べ方してるんです ねえ﹂ ﹁毎年毎年師走にそれをもそもそと食うなんて誰が決めたんだ! 俺か! ちぃ、そんな戯けた法案を再諾した議会に問題があると思 うね! 裏切り者!﹂ ﹁⋮⋮﹂ テンションの高い甚八丸を胡乱げに見ながらも色の変わった小麦 粉を茨は覗きこんだ。 それぞれの鉢に適量の粉と、全体に満遍なく塩を溶いた水を入れ て、お雪はぎゅ、ぎゅとこね始めた。 1585 とど ﹁握りながら押し潰すように力を込めてまずは生地の硬さが均等に なるまで練ってね、茨ちゃん﹂ ﹁⋮⋮お゛う﹂ ﹁ふあははは鬼娘よ! 俺様のこの北海の氷上で殺人鯔をこねて餅 にしたこの動きをよく見て尊敬するのどぅあ!﹂ 大きな手で固めてびたんびたんと早くも一纏めにした生地を持ち 上げてまな板に叩きつけ始めた甚八丸である。その剛力から繰り出 される揉み力は岩石を砂状に砕く威力はまさに工業用粉砕マニュピ レーターである。 かつてその力にて親友の大猿を助けるつもりが手にかけてしまっ た悲しみを背負いながら甚八丸は生地に後ろめたい怒りを叩きつけ る⋮⋮! ﹁俺が何故幕府を裏切ってまであの密林での作戦にこだわったか、 まずはそこから教えてやろう⋮⋮!﹂ ﹁あの、ちょっと甚八丸さん?﹂ ﹁はいなんでございましょうかお嬢様。いかん、ここでデキルおじ さんだと思われなくては! ええと飲み物の準備は⋮⋮この家、塩 水しか置いてねえ! どこの深き者共の住み家だ!﹂ ﹁いえ、そうではなく。ほら、この生地⋮⋮﹂ と、まな板に執拗に打ち付けていた塊にお雪は指を突き入れる。 すると表面は水で纏まっているがまだ粉状の中身が零れた。 彼女は口元を柔らかな笑みにしながら、 ﹁蓮根の粉を混ぜてますから、それが粘って中々混ざりにくくなっ てるようです。もうちょっとこねてから打ちましょうね﹂ ﹁ぬうう。上等だ! もういっちょ揉んでやるァァァ! 殺戮の宴 をおっぱじめる││はっ!? 今誰かおっぱでしめるとかちょっと 1586 助平なこと云わなかった!?﹂ ﹁⋮⋮﹂ 茨がテンションの高い甚八丸を睨みながら首を横に振った。 ともあれ、暫く三人で念入りにこねる作業が続いた。蓮根の粘り 成分が強いコシを生み出し、中々に力が居る作業である。 剛力の甚八丸と按摩で鳴らしたお雪││そして、茨はと言うと細 い腕に似合わずに小さな体を乗り出しながら力任せにこね続けてい る。生地からくる強力な抵抗と反発力は、同じ年代の雨次などがや れば二分で音を上げそうな程に力が居るのだが、茨は軽々とそれを 行うので、 ︵ほう⋮⋮怪力属性もあるのか。ある日突然現れた、青肌鬼系怪力 無口従順少女⋮⋮あの小僧許せねえ︶ と、甚八丸は内心で妬みを義憤に変えつつ腕の筋肉をどくんと一 回り大きく盛り上がらせつつ生地をこねる。 暫く三人で練っていると台所から直接外に繋がる裏口が開けられ て声がかかった。 ﹁どうもー差し入れに来ましたー﹂ 言ったのはこれまた黒袴だというのに頭に黒頭巾を被った不審者 である。手には麦湯を波々と入れた大きな土瓶と握り飯の包みを持 っている。 彼は町方隠密廻同心、藤林尋蔵である。隠密廻だから││という わけではないがあからさまに忍者めいた格好だが、実際頭巾を取っ て出てくる顔も彼の素顔とは限らないという変装、顔化けの名人で あった。 この日は個人的な用事で甚八丸の家を尋ねたら、彼の妻から、 1587 ﹁近所のお爺さんの家で料理の手伝いをするって出かけたからこれ を持って行ってくれるかい?﹂ と、渡されたのでこちらに来たところであった。 ところが彼は裏口から台所に入ってすぐに、 ﹁あーっ!﹂ 甚八丸を指さして叫んだ。 そして慌てて零れないように麦湯の入った土瓶を近くの台に置い て甚八丸に詰め寄る。 ﹁ずるいずるい! 頭領が老人介護のふりをして目隠れ系美少女と 青肌系美少女に囲まれてきゃっきゃってしてる! 頭領ずっとずる してた!﹂ ず ﹁ばぁっきゃろおおい! これは俺が前世で積んだ高い徳のおかげ だ! 狡るなんかじゃねえ!﹂ ﹁前世は砂漠の美少年王子で悪魔の乗り移った美しい尼僧が夜な夜 な魂を狙いに来ていたとか主張してたじゃないですか! それでど んな高い徳が積めるんだ! この卑怯者!﹂ ﹁違ぇよそれは前々世なんですぅー! 関係ありませぇーん﹂ ﹁奥方様に言いつけてやる! 寝床のどんでん返しに竹槍を仕込ま れればいいんだ!﹂ ﹁ふあははは! 遅ぇ遅ぇ! お前が俺の家に辿り着く前に俺が先 に嫁に土下座してくれるうぅわあぁ!﹂ ﹁くそうこうなったら忍法[加速措置]││!﹂ などと嵐のように騒いで二人は飛び出して行ってしまった。 遥か続く田園の長閑な道を土煙巻き上げながら猛ダッシュで走り 1588 去っていく二人。 その光景はお雪の目には映らなかったが、彼女は口元を隠しなが ら﹁うふふ﹂と笑い、 ﹁楽しい人達ですねえ﹂ ﹁⋮⋮﹂ その言葉に、一応茨も頷いたのをお雪は感じた。 しかし、とお雪は頬に手を当てて首を傾げながら、 ﹁後は麺きりをするだけなんですけど⋮⋮わたしは包丁扱えません し⋮⋮茨ちゃんは?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ふるふる、と茨は首を横に振った。その仕草をしても角状に固ま った髪は揺れない硬度である。 圧搾して丸める機械があれば別だが無いのならばラーメンの麺も 蕎麦切りと同じく、薄く伸ばして束ねて紐状に切る方法が取られる。 目が見えないので包丁は握れない││正確に言えばやろうとした 時期もあったのだが、六科から止められたので従っている││お雪 と、そもそも最近まで料理という概念が無かった茨ではどうしよう もないのである。 悩んでいると家の方から廊下をどたどたと走る音が聞こえて台所 にやってきた。 ﹁なになに? 包丁使うんだったらわたしがやるよー!﹂ お遊である。彼女はむき出しの包丁片手に現れて向日葵のような 明るい笑顔で手伝いに加わるのであった。 子供ながら何故か包丁さばきはとても上手であったという。 1589 麺の形にしてほぐしたものを一人分ずつに纏めて、一晩寝かせれ ば完成である。 ***** 夜││。 天爵堂の家の台所で、灯りを付けたままふつふつと沸いている鍋 の隣に座って本を読んでいる少年がいる。 雨次である。 彼は本に目を落としながら時折隣の鍋の様子を確認して、浮いた 灰汁を掬っては別の鍋に捨てるという作業を夜通し行っているのだ。 鍋の中は捌いた鴨の肋骨や足であった。 晃之介が猟ってきた得物をお八が指導の元に解体して、天爵堂の 家に持ってきたのだ。 一応面識のあった雨次に、 ﹁後は頼むぜ⋮⋮ああこれ出汁の作り方﹂ と、さすがに血を見てぐったりした様子で渡して行ったのである。 仕方ないので雨次はこうして夜になっても煮える鍋に水を足した り灰汁を掬ったりしながら見張っているのだ。 ﹁雨次、居るか?﹂ 1590 そう言って家の方から入ってきたのは腰まで緑の黒髪を真っ直ぐ に伸ばしているおかげで九郎や石燕に密かに[学校に内緒で髪タレ ントやってる委員長系]とか呼ばれている少女││小唄だった。 手に薄い掛け布団を持っている。彼女は雨次の様子を見に来たの である。 ふと、彼の座っている椅子の両隣を見てふっと笑った。 ﹁なんだ、両手に花じゃないか﹂ そう言ったのは、雨次の右隣にお遊がしがみついて寝ていて、左 隣に茨がひっついたまま寝入っているからだった。 げんなりとした顔をしながら雨次は本から顔を上げて云う。 ﹁花というか蔦だよ、これじゃあ。立ち上がっても絡みついたまま だから精々が手を伸ばして灰汁掬いしか動けない﹂ ﹁さながら、手のかかる妹か娘みたいだな、端から見ていれば﹂ ﹁まあそんな感じなんじゃないかな﹂ ﹁││よし﹂ ﹁?﹂ 雨次が適当に、しかし同意するに値する感想だった為に頷いたら 何やら彼女が小声で呟いたようだったけれども、聞き取れなかった。 お遊が妹、茨が娘と来ればそう、残った女性である自分の立ち位 置は決まっている⋮⋮! ﹁⋮⋮おーさーなーなーじーみー﹂ 裏口が僅かに開いて幽かな声が聞こえてきたので小唄は無言で苦 無を投げつけた。 1591 ﹁今なにか聞こえなかったか?﹂ ﹁虎鶫か何かだろう。そろそろ夜鳥も増える季節だからな﹂ ﹁はあ﹂ 呟いて雨次はちらりと鍋を見て再び曇った灰汁を掬い捨てる。 炊きだした最初の頃は取っても取っても灰汁がぶくぶくと湧き続 けて、食品なのか怪しくなったものだがそろそろ一刻に二三回手を 掛ける程度に落ち着いていた。 鳥の出汁は時間を掛けて煮るのが肝心だと手順書には書かれてい たので、従う。 ﹁そうだ、小唄。そこから水桶を取ってくれないか? 減った鍋に 足していたんだけど、使ってた分が無くなってさ。移動できないか ら﹂ ﹁いいぞ。しかし、夜通しでは大変だろう。私は夜に強いからな、 見張りを代わろうか。夜に強いからな﹂ ﹁なんで二回言ったんだ? でも別に大丈夫だよ。ぼくが手伝うっ て返事したんだから、自分でやるさ﹂ 苦笑しながら雨次はそう応える。 本を読みながらほとんど聞き流すようにお遊の言葉に相槌を打っ たのだが、 ︵自分の選択には責任を持たないとな︶ と、本人は思っているのである。 小唄から見てみればこのような面倒くさい退屈な仕事など余程不 服なのだろうと思っていたのだが、意外そうな顔をした後で小さく 笑った。 1592 ﹁ともかく。掛け布団ぐらいは被っておけ。広げれば入るだろう﹂ ﹁ありがたく受けるよ﹂ ﹁││ふふ、いや、前までの雨次だったら施しがどうのとか対価が どうのとか言ってきそうだったけど、素直になったな。うん、いい ことだ﹂ ﹁む⋮⋮﹂ 何やら弱みを掴まれたような気分の悪さを雨次が感じて、生来の 拗ねた顔をやや険しくしたが小唄は上機嫌そうなまま、座って並ん だ三人に薄い布団を被せてやり、自分は雨次に対面するところにあ った椅子についた。 雨次は胸元まで布団を被り再び本を読み始める。行灯に白く照ら された顔を小唄はじっと座ったまま見ていた。 彼女の視線に気づいて雨次はちらりと目を本から上げて、 ﹁⋮⋮? 小唄は寝床に行ってていいよ。ここはぼくが見ておくか ら﹂ ﹁もし、うとうととして火事にでもなったら大変だからな。私も一 応ここに居ておこう﹂ ﹁一人いても二人いても作業は変わらないんだけど﹂ ﹁じゃあ私が居ても問題無いということだな﹂ そうまでして居座ろうとする理由がわからなかった。火の用心と はいえ、竈の周囲に燃えやすいものなど無いのだから火災が発生す ることはなさそうに思えたが。 雨次は小さくため息をつきながら、 ︵まあつまり、心配性なんだよな、小唄は︶ それなりに打ち解けた間柄であるから、最初のようにお仕着せが 1593 ましいお節介だとか、偽善の押し売りだとは今更思わないが、彼女 の性格としては心配性で面倒を見てしまうのが根にあるのだろう。 他人の性格をどうこう出来るわけでなし、 ︵大人なぼくが譲歩して諦めてあげよう︶ と、思う雨次であった。 しかし三人並び布団も被っているこちらは温かいのだが、すると 対面で座っている小唄が寒そうに思える。 自分のものは用意していなかったのだろうか。 雨次は頭を掻きながら小唄に、 ﹁寒くないか?﹂ ﹁いや、平気だ﹂ ﹁そうか⋮⋮寒ければこっちに来てくれても良かったけど﹂ ﹁超寒いな今晩は! 凍死寸前だ! 震えが止まらないぞ!﹂ ﹁それはもう医者に行けよ﹂ 心底小唄の体を思いやった発言だったのだが、椅子から平気そう にすっくと立ち上がった小唄が近寄り、雨次の隣に立って咳払いを した。 ﹁そ、それじゃあ失礼して﹂ そう言うと彼女は布団を捲り、座った││雨次の膝に。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ︵わけがわからないよ︶ 1594 何かすごく残念な選択を彼女が選んだのではないかと雨次は不安 になる。 視界を小唄のうなじと後頭部が占めて、雨次はうめくように呟く。 ﹁なあ小唄﹂ ﹁はうあ⋮⋮! 息が首に⋮⋮! ど、どうした? 私は重くない ぞ! 決して重くて面倒くさい女じゃないからな!﹂ ﹁本を読み難い﹂ ﹁⋮⋮﹂ 率直な感想に、ずるずると滑り落ちるように小唄は床に崩れて雨 次の足元で車座になった。 何か意味不明な消沈をしている小唄に声をかけた。 ﹁普通に詰めれば横に入るだろう。右か左かに﹂ ﹁そ、そうだな⋮⋮﹂ 言われて、小唄はふと配置について考えた。 今の状況では[茨][雨次][お遊]と並んでいる。さて、そう なれば自分は何処に入るべきなのか。二つの選択肢がある。 一つは茨と雨次の間に入ってお遊と囲む幼馴染包囲網作戦。これ により希望の未来へレディ・ゴーとなるか惨劇へのシナリオになる かはこれから次第だ。 二つ目は雨次とお遊の間に入る状況。これにより現状で最も強敵 なお遊を離すことが出来る。なに、茨という少女は所詮ぽっと出の 落ち物ヒロインだ。まだ脅威にもなっていない⋮⋮! 小唄は高速分割思考により様々な状況をシュミレートして││ ﹁⋮⋮はあ﹂ 1595 ﹁どうしたんだ? 小唄﹂ 結果、[茨][雨次][お遊][小唄]という並びになった。 小唄はつい恥ずかしくなって引いてしまった自分を胸中で叱咤し つつ、夜は静かに過ぎていくのであった。 ***** 調理の日││暫定的にラーメンは[闘将蕎麦]と名付けられ、そ れの試食会は天爵堂の自宅庭で行われた。 屋外に出汁スープの鍋を並べて既に火にかけてある。人数分の食 器から持ち寄りで様々なつまみと酒も用意されていて、企画した[ 歴史にある味の再現]という主題よりも宴会のような形になってお り、不本意なのか主催者である天爵堂の顔色は優れない。参加者の 人数はどんどん増えて二十人前後も居るのだ。 野菜と茸の薬膳出汁の味付けも最終段階へ入っていた。こちらは そこまで煮こむ時間は取らずともよく、また薬味による風味付けは あまり熱を通しすぎては良くないものもあるために将翁が細かく調 味料を足している。 ﹁ここで胡椒の粉、陳皮の粉、けしの粉と混ぜまして﹂ 薬箪笥から出した謎の粉末を入れて行くのを、野菜出汁班である お房とタマが不安そうにしながら見ている。 だが狐面を被った薬師の表情は読めずに次々に具材を投入してい った。 1596 ﹁御種人参と霊芝は少量だけ摩り下ろしたものを。五行的に見て⋮ ⋮おっと、こいつはどうしたものですかね﹂ ﹁その茸の生えたセミの幼虫は止めて欲しいの﹂ ﹁はい、はい﹂ あからさまに危なそうなものはさすがにお房から制止されていた。 最後に薬箪笥の最下段、それの隠し底にもなっているところから 具材を取り出して掴んだ。 ﹁そして仕上げにこのモケ││﹂ 言いかけて、はっとした様に将翁は狐面の鼻を抑えた。 そしてしなびた植物を持ったまま、周囲をちらりと見回し、微妙 に注目を浴びていることを確認して言い淀む。 ﹁おほん、ごほん⋮⋮ええと⋮⋮ああ、││││[草]﹂ ﹁なんの草だそれー!?﹂ 一斉にツッコミが入ったが、ぽいと鍋に草を放り込んで混ぜ出し たのだからもう止まらない。 鴨出汁の鍋の方は最後に晃之介が軽く手入れをしただけで完成し ている。 ﹁鳥の骨と煮崩れを濾しとって、と。最後に細かく刻んだ肉を汁の 表面に浮かべてやれば余計な脂が取れる。鴨の脂は旨いんだが、あ りすぎると汁には重すぎるからな﹂ 表面が厚い脂の層になっている鍋に、晃之介が挽肉状にした胸肉 を浮かべると汁は清澄さを取り戻す。 1597 特に現代に比べて食事の脂気が少ないこの時代ではあまりに脂っ こいものでは胸やけしたり下痢を引き起こす可能性があるから拉麺 のスープと云えどもあっさりした物が良いのだ。 脂を吸い取った胸肉は火で炙れば酒の肴にもなる。 お八が手際よく処理する晃之介に感心しながら言った。 ﹁へえ、師匠ってそんなことも考えてるんだな。前に師匠の鍋食っ た時は適当に煮込んで終わりじゃなかったか?﹂ ﹁自分達で食う分だけだと手間を掛けるのが面倒だからな。料理は 精神修養にもなるからひと通り出来るようになれ││そう親父から 言われて十ぐらいから飯を作るのは俺の役目だった﹂ ﹁師匠⋮⋮それもしかして押し付けられてないか⋮⋮﹂ ﹁俺も若干そう思うが師の云うことだから従わないとな⋮⋮しかし これが作れたのは一晩面倒見てくれたやつの手柄だぞ。雨次と言っ たな﹂ ﹁あ、はい﹂ 少し眠そうにしながらも雨次は自分が出汁取りの調整をしていた 汁の様子を見ていたので、晃之介に応えた。 ﹁よくやったな﹂ ﹁いえ、見ていただけですよ﹂ ﹁忍耐力がある。武術向けの性格だと思うぞ。良ければ道場とか⋮ ⋮興味無いか?﹂ ﹁え。いやあの⋮⋮﹂ ﹁褒めたと思ったら勧誘が始まったぜ⋮⋮﹂ 現在形で潰れ道場な六天流に弟子を誘う晃之介であった。 九郎は少し離れた場所から見ていて、さて影兵衛の魚介出汁はと 目を向けると、出汁を取った後の味が抜けた干物に生醤油をかけま 1598 わしたものをつまみに既に一杯やっている男がいた。 影兵衛であった。 ﹁ぷはあー! いい酒持ってんじゃんよ新井の爺っつぁん! 五臓 六腑を切り分けるぜ!﹂ ﹁切り分けてどうするのだ。と言うかお主が担当した鍋は?﹂ ﹁あん? ああ、途中で腹減ったから子興の嬢ちゃんに任せた。拙 者お先ぃ﹂ ﹁ううう、味を纏めるの大変だったよー⋮⋮﹂ 湯気の上がる鍋の前で項垂れている子興である。彼女は基本的に 押しに弱いのだ。 昨日の早朝に影兵衛に借りて行かれてそれから今まで旨い出汁取 りに手伝わされていたのだった。 干し鰈と干し帆立、それに小さな鯛のアラなどから取った出汁だ。 魚は旨味は強いのだが生臭さや磯臭さが出やすいのだが子興がなん やかんやで調整したようで悪い匂いは立っていない。 ﹁影兵衛さんは鯛が食いたいから鯛のアラで出汁を取れっていうし、 試しに煮てみたら血生臭くてとても汁には出来ないから、念入りに 包丁でアラから身を剥がしてお酒で洗って火で炙ってからもう一回 煮直して⋮⋮ それからも色々適当に放り込むもんだから睦月さんと一緒に薄め たり煮詰めたりしながら延々と調節して⋮⋮ああもう疲れたー!﹂ ﹁まあまあいいじゃねえか。出来上がった奴は味噌とか混ぜるだけ でうめぇ汁になったんだから。むっちゃんも喜んで近所に分けてた だろ?﹂ ﹁その間影兵衛さんは切った端っことか食べてただけだし!﹂ うー、と唸るように睨み上げるが茶碗に入れた酒を片手に下品な 1599 笑い声を上げて頭を押さえられるだけであった。 九郎の隣に立っている石燕がどこから取り出したのか││という か江戸で見たことがない、羽扇を持ちながら告げてくる。 ﹁ふふふ三つの出汁は完成したようだね。この状況││まさに三国 志といったところか﹂ ﹁⋮⋮確か、劉備と関羽と張飛が三つの国に分かれて戦争する伝記 だったか?﹂ ﹁違うよ!? 桃園の誓い台無しだなその展開! はいお集まりの 方々で三国志を知っている人!﹂ 石燕が呼びかけると、何人かが反応した。 ﹁[通俗三国志]っつうのなら読んだことあるぜ﹂と、影兵衛。こ れは元禄の頃に出された三国志演義の訳本で、日本初の外国小説と 言われているものである。 ﹁あたいも先生の家で読んだの﹂お房も手を上げた。 ﹁僕は漢書で読んだな。前の家と一緒に焼けてしまったけどね﹂こ れは天爵堂だ。 ﹁ああ、曹操殿は残念でした。治療前に、怒らせてしまいまして﹂ 謎の着眼点を持つのは将翁であった。 ともあれ、幾人かは知っているのでそのまま石燕は語りだす。 ﹁この三つの出汁をそれぞれの国に当てはめると││煮詰めた濃厚 な風味の鳥がらが蜀、多種多様な野菜茸漢方を懐広く取り入れたも のが魏⋮⋮そしてまあ⋮⋮海とか川が近いから魚介は呉﹂ ﹁呉だけ適当だ!?﹂ ﹁そしてそれに合わせるタレはさながら三つの中心、荊州を守護し ている関羽といったところかね﹂ 1600 さらさらと持っている紙に三国の絵を描いて図で示す。 なるほど、荊州は魏呉蜀それぞれが奪い合っていた土地と考える とまさに三国の中心と云えよう。それを守護していた関羽も、劉備 の義兄弟であり曹操から欲しがられ孫権からは娘との縁談を申し込 まれていて、取り合いのような形とも言える。 曹操が生きている頃はまだ魏ではなく漢だが細かい事はとりあえ ず置いておこう。 ﹁ま、どの組み合わせが合うか少し試してからだね。ここは[神の 舌を持つ絵師]と呼ばれる私に任せておきたまえ!﹂ ﹁なんで絵師に味覚系の二つ名が付くのだ﹂ 言われながら、小皿を用意して少量の出汁でタレを割って、まず はそれぞれ味わう。 次に二種類をそれぞれの組み合わせで混ぜて、更に上から天爵堂 の用意した五種類の調味料を混ぜたものを組み合わせて考える。 ﹁ふむ⋮⋮よし、決まった﹂ ﹁どうだ?﹂ ﹁一つは鳥がら出汁と組み合わせたシンプルな味だ。すっきりとし ながらも醤油の旨味がよく出ている﹂ ﹁やはりな﹂ 晃之介がどこか嬉しそうだ。 ﹁次は鳥がらに魚介を混ぜたものだね。タレも合わせた三段重ねの 複雑な味わいが濃厚で良い。 野菜薬膳と魚介の組み合わせ。これは生臭さを消しつつ野菜の甘 味を感じる。茸の風味も奥底から感じて素晴らしいが、あまり混ぜ 1601 る量を増やすと薬膳の味に侵略されるから注意だがね﹂ ﹁なあ将翁。一応聞いておくがあの出汁、致死量とかそういうのは 無いよな?﹂ ﹁これは異なることを仰る九郎殿。こういうでしょう││大は小を 兼ねる﹂ ﹁不安だ﹂ ぼそぼそと言い合っていると、お八が手を上げて石燕に問いを投 げかけた。 ﹁なー石姉! それ三つ全部混ぜたらどうなんだ? せっかく作っ たんだからさー。ほら、三つの心が一つになれば一つの勇気は百万 力って云うじゃん﹂ ﹁なかなか欲張りな意見だね。しかしこれが⋮⋮﹂ 石燕は大体均等に混ぜたスープを口に含んで微妙そうな顔になっ た。 ﹁三国志というものは統一していたら話にならないからか、全部合 わせるとまるで合わない⋮⋮蜀の鳥がら出汁を増やすと役に立つと か立たないとかそういう次元じゃない跡継ぎを彷彿とさせるぼやけ た味になるし⋮⋮ 呉の魚介出汁を増やすと君主が老害化して重臣の家に放火しに行 くような刺々しい味が浮き出てくる⋮⋮ 魏の野菜薬膳出汁を増やすと後継者選びを尽く失敗して内乱や乗 っ取りされたような、複雑だった茸と漢方の自己主張が尖りまくり げんなりする⋮⋮﹂ じわじわとスープの分量を変えながら酷評していく石燕。 やがて全ては渾然と混ざり合い、もはや三国時代の味はまるでわ 1602 からない謎の液体になってしまったスープの丼が出来上がった。 ﹁あ、うん。最初の麺が茹で上がったようだね⋮⋮﹂ 不味そうな顔で石燕は、試しに茹でた麺をその丼に放り込んで、 無言で座っていた六科の前の机に置いた。 ﹁失敗だ。やはり無理に混ぜないほうがいいよ君達! 失敗作は叔 父上殿が美味しく頂きます! 勿体無い精神!﹂ ﹁俺か﹂ ぼそりと彼は言って箸を受け取った。 そして持参してきたラー油を入れた瓶と、酢を入れた瓶を取り出 して││どばどばとかけ回す。 躊躇わずにスープの表面がラー油で覆われて丼内の嵩が一割ほど 増えるぐらいその二種類の調味料を叩き込んで、箸でぐるぐると混 ぜて、ずずっとそれを啜った。 ﹁││うむ。酸っぱくて辛くて旨い﹂ ﹁もうラー油と酢をそのまま飲んでろよ⋮⋮﹂ ﹁意外といけるが⋮⋮飲むか?﹂ ﹁飲むか!﹂ 真顔で薦めてくる六科に九郎は全力で拒否した。 ともあれ、それから次々と宴会に集まった皆に好きな味付けの特 製ラーメンが振る舞われた。基本的な味付けとして石燕が紹介した 三種を食べるものが多かったが、変わったものを食べようと自分で 出汁を調節する者も居た。 九郎も鳥と魚介のダブルスープでラーメンを準備する。具は単純 に刻んだ葱と、天爵堂が用意した五種類の香辛料を乾燥させふりか 1603 けにしたものを掛けて食べる。 藕粉を混ぜた麺は見栄えこそ妙な黒麺だが、その分粘り成分が小 麦同士を粘着させてもっちりとした独特のコシがある立派な中華麺 だ。スープも丁寧に捉れていて、タレを割ってラーメンにしている が生醤油を掛け回すだけで立派な汁になるほどである。 すすると鴨の良い脂の香りと鯛の上品な風味が絡まり、わずかに 帆立の匂いがする。魚介の味は鰈の干物でびしりと際立っていて濃 厚な鳥に負けていない。 上に振りかけられる山椒、にんにく葉、韮、白からし、こえんど ろの調味料も汁の味を壊さずにかつ味わいを増してくる。六科はば っさばっさと大量にふりかけているがあれはともかくとして。 ﹁ふふふ、やってるかね九郎君!﹂ ﹁お主はもう酒に移行しておるのか⋮⋮﹂ 炙った火腿を切ってつまみにし徳利をラッパ飲みしている石燕に 向けて半眼で九郎は云う。 しかし彼女は大げさに肩を竦めて、 ﹁いいや違うよ九郎君。私は最初から酒の締めに麺を食べるつもり なのさ!﹂ ﹁試食会なのに確信犯的に慣れておる選択だな!﹂ ﹁なに、こういうのは好き勝手に食べればいいのさ。ほら、みんな 旨そうに食べている﹂ ﹁ふむ⋮⋮江戸の時代ではまだ受け入れられない味かもしれんと思 っていたがな﹂ 鳥と魚介のダブルスープや薬膳スープなどは現代日本でも駄目な 人は受け入れられない、ニューウェーブ系のラーメンである。 しかしながら江戸に生きる彼らはごく当たり前に、旨そうにそれ 1604 を享受していた。 晃之介が意外とイケたらしい薬膳出汁について将翁と意見を交わ している。 影兵衛がラー油を入れすぎて六科の隣で額に脂汗を浮かべている。 雨次とその女友達がそれぞれ違うものを丼に入れて少しずつ交換 しながら食べている。 心だけは若いつもりで鳥魚介スープに挑戦した天爵堂が最初は良 かったが徐々にキツイ表情になってきた。 お八が残り汁に握り飯を投入する発明を覚えた。もう一人のお八 が火腿を頬張りながら酒を飲んでいる。どちらかが紛れ込んだお七 だろう。 石燕が酒を旨そうに飲みながら、 ﹁美味しい料理に境界は無いのだよ、九郎君﹂ ﹁そうだなあ﹂ 細かいことは考えずに、九郎も今日はラーメン美味しいと思いな がら、ほのぼのと啜った。 石燕もまた新たなつまみを求めて宴会へ突入していく⋮⋮。 ***** 1605 わいわいと騒ぐ皆を、老人の頃のような心持ちで少し離れて見て いた。 魔王が異世界で己れに言ったことを思い出す。 ﹁自分が選んだものが正しいと信じるんだ。諦めずに幸せを願うこ とだよ。冷たい方程式を否定し、たったひとつの冴えたやりかたは 捨てて、ご都合主義のハッピーエンドを目指そう。我らはそれに巻 き込まれたいだけなのさ﹂ ││君が望んだ物語を進めよう。 きっと戯言ではあるが、まあ思うだけならタダだから、少しはそ う考えるようになった。 七十年前に己れは異世界に迷い込んで。 新しい仲間達と命をかけた戦争に巻き込まれて多くの犠牲を出し ながらも敵の軍勢や精霊召喚士と戦った。 それからも世界中を旅して回っていろんな冒険をして││ 魔女や魔王と仲間になり、世界が滅ぶような決戦が終わった。 そんなとてつもない物語が終わっても、己れの日々は続いている。 新しい場所と新しい友人と、変わったり変わらなかったりしなが 1606 らも今日も過ごしている。 これからも歩み続けるのだ。この日常という緩やかな坂を⋮⋮ ﹁⋮⋮九郎君が妙に投げやりというか現実逃避してるような雰囲気 がないかね?﹂ ﹁さあ。なんかヤバイもの失くしたって少し前は鬱になってたの﹂ 石燕とお房はラーメンを食べながらひそひそと言い合った。 まあなんというか、ブラスレイターゼンゼを秩父山中に埋めに行 ったら深い穴を掘ってる間に誰かに盗まれて所在が不明になったの で、全力で鎌の存在を忘れようとしているだけなのだが。 1607 50話﹃しねいと昔の敵は云う﹄ 鳥山石燕は震える。 とにかく震える。もうなんかヤケクソじみた震えを見せる時があ る。体がマナーモードに設定されたように諤々し始めたらもはや筆 も箸も持てぬ。 ギランバレー症候群めいた抑えきれぬ発作に苦しむ彼女が求め、 ﹁さ、酒を⋮⋮﹂ と、呻くのであった。 神楽坂の呪われ怨霊毒悪魔の住まう地上征服拠点こと、鳥山石燕 の家に訪れていた九郎と安倍将翁は顔を││片方は狐面だったが│ │見合わせて嫌そうにしかめる。 二人が来るやいなや、看病役だった子興が耐え切れずに押し付け て逃げる程の惨状だ。 ﹁この世紀末急性酒に飲ませるのは躊躇いを覚えるほどだのう﹂ 将翁が持ってきた石燕用の薬││神便鬼毒酒というそれは、薬で はあるが名前の通り酒でもあるのだ。 神便鬼毒酒とは頼光四天王が大江山の酒天童子を退治する際に、 熊野の神から与えられて人が飲むと神通力が宿り、鬼が飲むと体を 痺れさせるという神酒の名前である。無論、これはそのものという わけではなく名を肖った薬酒だろうと思われる。 酒が切れて屍人めいて動けずに寝床から手を伸ばしつつ、石燕の 手と頭が震えている。布団から出られないように物を縛る細長いや つで巻き寿司のように包まれているのは本人の意志に関係なく体が 1608 暴れだすからだ。末期である。 ﹁ま、仕方ありやせんぜ。酒は百薬の長と云いますが⋮⋮暫くこの 薬を飲ませるために、これまで使っていた薬を抜いておきましたか ら苦しいのでしょう﹂ ﹁ちなみにこれまでのとは?﹂ ﹁痛み止めなのですが、日本じゃあまり見ない種類の芥子から取っ た乳液を﹂ ﹁いや、矢っ張り聞かなかったことにする﹂ 九郎は苦しみ呻いている石燕を見下ろしながらげんなりと応える。 錯乱してきたようで呻きが意味不明の叫びに変わってきていた。 彼女の限界は近い。おお石燕よ死んでしまうとは情けない。そなた が次のヒロインになるには肝機能γ−GTPの数値が50以下にな ることが必要だ⋮⋮! などと石燕の脳裏に見たことのない王冠を被ったおっさんが語り かけてくるぐらいに彼女は弱っている。 ﹁じゅすへるー! いんへるのさいくだー!﹂ ﹁なんかもう可哀想ではあるな﹂ ﹁ふむ、では九郎殿が飲ませてやってください﹂ ﹁己れが?﹂ ﹁あたしが下手に口元に手を伸ばしたら、指が食い千切られそうだ﹂ 冗談めかして将翁は薬箪笥から神便鬼毒酒の入った器を取り出す。 それは容れ物からして通常の薬とは違うと人目でわかる変わった 作りであった。びいどろで作られた暗褐色の硝子瓶に、呪文めいた 幻想的文字が書かれた紙で胴の部分を覆い光で変質しないように作 られていて、蓋は揮発を完全に防ぐために硬く薄い金属で覆われて いる。 1609 匙を使って蓋を開け、将翁がそれを茶碗に注ぐとやや黒ずんだ黄 色く粘り気のない薬液が白い泡を膨々︵ぶくぶく︶と浮かべた⋮⋮。 九郎は恐る恐る尋ねる。 ﹁⋮⋮それ、地ビールだよな?﹂ ﹁神便鬼毒酒ですが?﹂ ﹁いや、ラベルに丹後とか書いてるし。[味わいの里]とか工房っ ぽい名前も⋮⋮﹂ ﹁神便鬼毒酒ですが?﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 有無を言わさぬ将翁の冷ややかな声に九郎は己の説を取り下げた。 どう見てもビール瓶とビールであったのだが、偶然似ているだけだ と思うことにしよう。 ともあれ茶碗を渡された九郎が石燕に近づくと、彼女は歯をがち がちと鳴らして目は進化放射線を受けたようにぐるぐると渦巻き、 とても正気では無さそうである。 ﹁おい石燕や。薬を飲ませるから落ち着け﹂ ﹁く、くくく薬⋮⋮﹂ ﹁ほら、口を開けよ。慌てては噎せるぞ﹂ それでも意志とは無関係に震える石燕の顔を九郎は片手で抑えて、 開いた口にゆっくりと神便鬼毒酒を注いだ。 口腔と舌に刺すような炭酸の軽い痛みが走り、麦のほろ苦い味以 外に、糖分を増すために使われている米の甘みが広がっていく。胃 に落ちずに口から喉までで染みこんでしまう程に旨い。 ︵おいしい、おいしい、こんなにおいしいおさけをのんだのははじ めてだ︶ 1610 壊れた削岩機のように震えていた手がピタ││ッと静止した。 思考が単純化されてひらがなになっていた石燕の目から涙が溢れ るのを九郎は拭いつつ、 ﹁凄いアル中の症状にしか見えなくてつらい﹂ と、ぼやく。 然し乍ら神便鬼毒ビールの効果かアルコールの効果かはともかく、 石燕の体から震えが消え、彼女の目は理知の色を取り戻した。 茶碗一杯の酒を飲み干して彼女は静かに言い放つ。 ﹁お代わりを所望する!﹂ ﹁そいつは一寸止した方が良い。頼光だって一杯しか飲んじゃいな いのだから。今後の経過を見て処方しますぜ﹂ 既にビール瓶の蓋を器用に嵌め直している将翁はばっさりと断る。 酷く不満そうな顔になりつつ石燕は溜息をついた。 ﹁しかし美味さとは別に体の奥底から力が漲ってくるような感覚が あるよ九郎君⋮⋮! これまでの薬とは大違いだ!﹂ ﹁薬といえば石燕。己れが前に飲ました薬は効いたようだが﹂ ﹁いや、あれは控え目に云って風味がオッサンそのものだから二度 と飲みたくないね⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮いや、まあいいが﹂ 確かに風味が悪いのが例の薬の難点なのだが、と頭を掻きながら 九郎はそれでも暫く体調は戻っていたようだから良いかと思い直し た。 お房に使った時は彼女が気絶していたから問題はなかったのであ 1611 る。使用者の体質によっては、回復効果こそ変わらないが悪い時は 半日近くおっさんの幻覚に悩まされるという事例も異世界の学会で は報告されていた。 ともあれ彼女は布団から飛び出た腕を曲げて簀巻きにしている細 長な物質を掴み、 ﹁ふふふ、しかし流石はかの有名な神酒だね。あっという間に体の 具合が良くなってきた。こんなヒモなど一捻りで千切れるよ!﹂ ぐい、と細長いそれを両手で掴んで引っ張り戒めを解こうとする。 ﹁こんなヒモなど!﹂ 更に声に力を込めて引く。びくともしていない。 数秒間九郎と将翁はそれを見守っていると、息切れした石燕がち らりと九郎を見た。 ﹁⋮⋮九郎君、この細い奴を退治してくれないかね! 君の商売敵 だよ! いざ!﹂ ﹁さて、石燕の病気も治ったから呑みにでも行くか将翁よ﹂ ﹁おっと。それなら贔屓にしている京料理の料亭を知ってますぜ。 この季節なら和物に田楽と筍尽くしで⋮⋮﹂ ﹁行こう行こう﹂ ﹁ままま待ちたまえー! 私をこんな所に置いていくというのかね ! 連れて行くと色々特典があるのだよ! ええと、使うと雷が鳴 る剣とか牢屋にいる竜を仲間に出来たりとかー!﹂ 見捨てられて布団に簀巻きにされたまま放置されかけた石燕は思 わず無駄なアピールをして引き止める。 仕方なく九郎がしゃがみ込んで細長いそれを解き始めた。 1612 ﹁む、この縄随分と硬く縛っているな﹂ ﹁縄というほど太くは見えませんぜ﹂ 将翁から茶々が入れられたが、無視する。 やがて縛めから解き放たれた石燕は立ち上がって大きく伸びをし た。 ﹁んー⋮⋮すこぶる快調だ! さっきまでの死にそうな体中の痛み と乾きが消えている! なんか逆に怖いぐらい即効性があるね!﹂ ﹁⋮⋮おい将翁、本当にその薬大丈夫なのか?﹂ ﹁大丈夫、ですよ。確りと効いているようだ。脳に││いえ、なん でも﹂ ﹁脳に!?﹂ 不穏な部位に思わず九郎と石燕は同時に聞き返した。 しかし狐面で顔を隠した将翁はどのような表情をしているかも伺 えず、諦めたように顔を見合わせる。 石燕の体調が良いのは事実なのだ。内臓を百舌鳥に突かれている ような痛みも、脊椎に走る鈍い圧迫感も、皮膚が布に触れただけで 悶絶する感触も、臓腑の奥から腐れていく熱も││消えている。 まさに神仏が癒やしたとしか思えない程の薬効である。というか、 ︵そういう薬効だと思いたい︶ と、背中に汗を浮かべつつも石燕は危険な考えは忘れようと努力 した。 ともあれ人は不健康になった時に健康の尊さを知る。そしてそれ が治ったならどうするだろうか。 1613 ﹁早速呑みに行こう! 今日は最高の気分で呑めるよ!﹂ 不健康的な生活態度を取り戻すのだ。下がってくれた肝機能の数 値を上げる為に⋮⋮! いつもどおりになって出かける準備を始める石燕に、九郎は呆れ る。 ﹁やれやれ﹂ ﹁ま、大丈夫でしょうぜ。神便鬼毒酒も酒は酒。迎い酒をしてもそ う悪くはならない⋮⋮はず﹂ ﹁一番憶測で判断しちゃいけない仕事だよな、医者って﹂ 突っ込みながらも、三人は昼間から酒を呑みに繰り出すのであっ たという。 ***** またの日のことである。 潮汐の具合が良く、大川の流域に広く干潟ができていた。 現代の隅田川に当たるのであるが、今よりも川底には土砂が多く 遠浅になっていた為にかなりの面積があったようだ。 江戸でも春から夏にかけて潮干狩りに適した日中になると、 1614 ﹁芸者も飛び出して﹂ 貝などを取っていたというのだから、単に食料の確保以上に江戸 でのレジャーな側面もあったのだろうと思われる。 その日、九郎とタマもお房に引っ張られて潮干狩りに来ていた。 店主である佐野六科は、 ﹁正直向いてないの﹂ と、娘に言われてしまったので店に居残りである。機械的に正確 な性格をしている彼は単純作業を繰り返すことは得意なのだが、A Iのバージョンが古いのか放っておくと同じ場所ばかり掘り続けて しまうのだ。 ともあれ三人は裸足で着物の裾を捲り干潟に下りて少し泥に足を 埋めながら進んだ。 あさり しじみ あちこちに町人らがわいわいと騒ぎながら貝を掘り出したり、潮 だまりにいる小魚を取ったりしている。 なにせ汽水域が丸々歩けるようになっているのだから蜊や蜆だけ ではなく、鮃や河豚までそこら中に取り残されている。 子供たちはヤドカリを捕まえて戦わせたり、海鼠を絞ったりとと ても賑やかである。 狙う獲物が変わっている者だと、 ﹁おらああ!﹂ 少女が放った気合の声とともに投げつけた石礫は、干潟の小魚を 狙って降りてきた鳥││アメリカ大陸から長い距離を飛び日本に遥 々やってきた渡り鳥のアジサシの頭に当たり動かなくした。 干潟にやってくる鳥狙いの者││それはさすがに珍しいのである が。 1615 ﹁よっしゃ師匠! 仕留めたぜ!﹂ ﹁これで三匹目だな。それじゃあ捌きに行くか﹂ ﹁おう。慣れたものだぜ!﹂ と、獲物を吊るして去っていく晃之介とお八が居たが、周りから の視線が控えめに言って蛮族を見る目だった為に声をかけなかった。 ﹁あそこまで飢えてると笑えるの﹂ ﹁時々お房ちゃんって冷淡﹂ やたら辛辣な評価をするお房はお供の二人に笊を渡し、 ﹁とりあえずこれいっぱい取ること。蜊より蛤がいいわ。青柳は食 べれる所が少ないから間違えて取らないようにするの﹂ ﹁わかったが⋮⋮見分け方は知らんぞ﹂ ﹁あっ、それなら簡単タマ﹂ 彼は小さな熊手でしゃかしゃかと周囲の泥を器用に掻き分けてあ っという間に二つの貝を取り出して九郎に見せた。 ﹁青柳の方が殻が薄いから、合わせ目を見て殻の厚さを確認すれば いいんです﹂ ﹁ほう⋮⋮﹂ 九郎としてはあっという間に貝を掘り出したタマの腕前の方が感 心するほどであったが、とりあえず同定方法は把握した。 青柳とは馬鹿貝と呼ばれる種類で一応食用なのだが砂抜きが難し く、多くは貝柱と一部の身がかき揚げなどに使われている。わざわ ざ部位を選んで切り分けるのも面倒だし砂が入っているだの何だの 1616 と店に出した物に文句を付けられては困るのである。 と、その時である。 ﹁やあ諸君今日もいい天気だね。ついでに私のおつまみも採ってく れないかね?﹂ 声がかかった。聞き慣れた、鳥山石燕の声である。 三人が振り向くと同時に、お房は顎を落として口を開きっぱなし になり九郎は呆けたように若干白目を剥いて、タマは難しそうな顔 で口を抑えて俯いた。 そこに居たのは紛れも無く石燕だった。 格好も彼女の普段着である喪服である。 ただし腰から上は。 妙な折り方をして着こなしているその姿は││干潟に入っても大 丈夫なように、太腿の上で裾を折っていた。 敢えて言うならば、 ︵ミニスカ喪服⋮⋮!︶ 九郎が昭和感丸出しな感想を浮かべる。ついぞ見たこと無い、石 燕の白い太腿と細い膝が太陽の下で眩しい。足先は足袋を履いてい るようだが余計にマニアックな雰囲気を醸し出している。 健康的な足の露出と縁起の悪い喪服の奇跡のコラボレーションで あった。 いや、そもそも不健康の代名詞でありアラサーな石燕がこんな際 どい足のラインを出しているところで既に奇跡なのかもしれない。 奇跡だって魔法だってあるのだ。 タマは思考回路がショート寸前で、心は万華鏡のように様々に移 り変わる思考に翻弄されていた。 1617 ﹁一応美女の太腿で特に石燕さんだと普段は絶対見れない隠された 領域ということで良い感じなのかもしれないけれど年増という点を 減点と見るかご褒美と見るかは難しい問題であり眼鏡! 喪服! ババア無理すんな! の三大要素が複雑に絡み合った助平と助平く ないの絶妙な境界線が判断に難しくいや無理すんなと見るかでも足 はめっちゃ綺麗なわけでぬうう見てると興奮するけどしたら負けっ ていうかなんでだろう胸とか腰とかなら歳相応の色気として魅力に 感じるのに年増が見せる太腿に対してのこの罪悪感に似た純情な感 情が空回りする感じはうわあああー!!﹂ ﹁ああっ! タマが発狂して干潟で泳ぎ始めた! ちょっと誰が洗 濯すると思ってるの!﹂ あまりに複雑なエロスだった為に壊れた。 それほどまでに石燕のミニスカ喪服は危険な衣装だった。惜しら むはこの場に[青田刈り]の利悟が居ないことだろうか。彼ならば 視界に入った瞬間にその場で爆発して死ぬとかそういうリアクショ ン芸を見せたろうに⋮⋮ とりあえずいち早く正気に戻った││と言うよりいつもと格好が 違いすぎて老化した脳がフリーズしていただけなのだが││九郎が 声をかける。 ﹁お主、どうしてここに?﹂ ﹁ふふふ、なに店に行ったら君達が干潟に行ったと言われてね。こ れの散歩がてら遊びに来たのさ﹂ と、言って彼女は手に持った細長い縄を見せる。犬用のリードに 見えるそれは下に垂れている。 彼女の足元に縄に繋がれた││手のひらほどのヒトデが居た。 からびわ ﹁そう、私の飼っている海星、[唐枇杷]の散歩だよ!﹂ 1618 ﹁ヒトデの散歩ってお主⋮⋮﹂ 九郎が正気を疑って眤っとその星形の物体を見ていると、のその そと僅かに腕を動かして前進している。 種類は分からないが中心に目のような模様がある海星で、わざわ ざ石燕が水槽で飼っているものだ。 ﹁酷く地味な絵面だ⋮⋮﹂ ﹁まあそれと私も健康を取り戻したからね。こう漲る健康美と若々 しさに物を言わせて童心に戻り泥遊びに来たのさ﹂ ひらひらと裾をはためかせながら云う石燕をタマは真剣な顔で見 ながら、 ﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ある!﹂ ﹁ちょっと待つの微妙でしょ﹂ ﹁君達さっきから何か反応が失礼じゃないかね。九郎君ぐらい落ち 着きたまえ﹂ ﹁まあ、意表は付かれたがいちいち石燕の足だの何だのに興味があ るわけも﹂ ﹁大変先生が息してないの!﹂ 興味が無さ過ぎるとそれはそれで悲しくなる面倒くさい生き物、 鳥山石燕。石燕は寂しいと死んでしまうのだ。主にアルコール摂取 量の増加で。 呼吸を取り戻した彼女は、深呼吸で磯の香りを吸い込んで満足気 に鼻を鳴らした。 神ビールを呑んでから体調が不安になるぐらい良くて、なんでも ない潮の匂いですら新鮮に感じて機嫌が上昇する。 わいわいと日常を楽しんでいる町人達すら心安らかに観察出来た。 1619 ﹁││さあ諸君。磯物を採取するには急がねばならないよ? ここ はもはや狩場で良い物を奪い合う戦場なのだ。そう、名付けて[奪 取海岸]⋮⋮!﹂ ﹁青年団が活躍しそうな名前だのう﹂ ﹁そうね。会話をしていても一銭の得にもならないの。早く獲物を 取るわよ、タマ﹂ ﹁あいあい﹂ そう言って子供二人はまだ他の狩人の手が入っていない場所へそ れぞれ採取の為に散っていった。 九郎はそれを見送りながら笊を片手に広がる干潟を眺めつつ、 ﹁さて、どうするかの﹂ だうじんぐぼう ﹁ふふふ、九郎君容赦なく私を頼ってくれたまえ! 探索の為の道 具は用意している! そう、これだ! [道神具棒]∼﹂ ﹁一発ネタじゃなかったのかそれ﹂ ﹁何を言ってるのかね。これは鳥山7つ道具の一つだよ。道神具棒 と、封魔の眼鏡と、⋮⋮ええと、あと筆、とか﹂ ﹁半分も決まってないのに7つ道具とか吹かすなよ⋮⋮﹂ 呆れつつもL字型に曲がったダウジングロッドを受け取る。 これは短い方を持って歩くと目的の物が埋まっている地点で左右 に開くという霊的探査道具である。現代でも水道局員が地下の水道 管を探すために使っていたら夢があるなあと思う。多分遺跡発掘の 現場とかで使っていたら第二のゴッドハンドとか言われて有名にな る。そんな感じの存在だ。 ﹁これが何故鉤型をしているかというとだね、鉤の語源は[懸ける ]が転化した[懸き]から来たのだよ。これは二つのものを繋げる 1620 という意味があり、掛けて引き寄せるという言葉にも掛かっている ね。即ち使用者の運命力の結びつきにより目的の物を宿命的に手に 入れることができる道具だということだ。空海もこれを使って湧き 水や温泉を掘り当てたのだ﹂ ﹁真言の人に怒られるぞ﹂ ﹁ふふふ⋮⋮運を運ぶと書いて運命!﹂ ﹁いや書けて無いからそれ。それだと唸ってるだけだから厠とかで﹂ 適当に返事しながらダウジングロッドを構える。 とりあえずお房とタマが向かった方以外へ歩いて探そうかと思っ たのだが、一歩踏み出した地点で、 ﹁む﹂ ロッドが反応して左右に開いた。 石燕も泥を見下ろしながら眼鏡を上げて云う。 ﹁どうやらここのようだね﹂ ﹁ふむ⋮⋮ま、見てわかるわけでもないから何処でも良いのだがな﹂ 九郎は﹁どっこいしょ﹂と言ってしゃがみ込む。 やおら掘り出そうとしたら突然誰か知らない声がかかった。 ﹁││ちょいと待ってもらおうかい。その場所はこっちが先に目を 付けていたんだ﹂ 九郎と石燕が振り向くと、そこには胸元だけを短く詰めた袢纏で 隠し、下半身は褌一丁という祭りの現場から抜け出してきたような 格好の女が腕を組んで藪睨みで見ていた。 年の頃は三十前ぐらいか。石燕と同年代だろうが、背は高く肌は 1621 日に焼けていて腹筋が割れ、脂肪分が少ない絞った筋肉質の体をし ているので、日焼けしていなくて見ようによっては少女いやそれは 言いすぎだが若い石燕に比べて年上に見える。 勿論褌女が現れたとて九郎が眠そうな半眼を崩すわけではない。 石燕のミニスカの方が心的被害は大きい。 ﹁先に、と言われてもな。目印とかあったか?﹂ ﹁そこに木炭で染めた巻き貝が置いてあったろう﹂ ﹁む?﹂ 二人揃って足元を見やる。 果たして巻き貝は││無かった。が、石燕の連れている唐枇杷が もぐもぐと何かに覆いかぶさって蠢いていた。食事中のようだ。好 きな食べ物は炭酸カルシウム││まあ貝殻らしい。 見なかったことにした。 ﹁いや、無いな。別の場所ではないか?﹂ ﹁おいおい、冗談はよせよ。間違いなくそこで、あたしが目を離し ていた時に場所を奪った。違うか?﹂ ﹁これは参ったね。ここは[奪取海岸]だよ? 離れたら奪われる のは当たり前ではないか﹂ 無駄に戦闘力もないのに挑発的な石燕の言葉に、女はぴくりと目 尻を上げる。 ﹁ほう⋮⋮あたしが誰か知っててその態度なのかい?﹂ ﹁当然だとも。四谷の味噌煮込みうどん屋の看板娘おみそ君⋮⋮!﹂ ﹁違うんですけど!? あと死ぬほど安直だな名前!﹂ 全力で否定された。 1622 相手は体を翻し背中を魅せつける。そこには女だというのに一面 に鮮やかな刺青が彫られていた。 ﹁春秋の頃、呉に住まう李稜はある日海で出会った魔の人魚に魂を 売り決して溺れぬ魔術を学んだという。背中に彫った魔人魚の刺青 を持つ女と云えば、江戸の角乗り七人衆が一人[海魔女]のお寿サ マだ││覚えておきな﹂ 高らかに名乗りを上げるそれを見て九郎は刺青へ指を差して声を 潜めて石燕に尋ねた。 ﹁なあ。あれ人魚っていうか人面魚っていうか、シーマンに見える んだけど﹂ ﹁ふふふ九郎君。人魚が上半身から人間だと云うのはまだ知名度が 低い形態なのだよ。大体皆が想像するのは人面魚さ﹂ ﹁なんだかなあ﹂ まじまじと女の背中を見ながら九郎はやりきれないように唸った。 ともあれ刺青を自慢し終わった女は再び相対してこちらに高圧的 に言ってくる。 ﹁場所を譲らないってんなら、ここは一つ勝負と行こうじゃないか﹂ ﹁ふむ。潮干狩りの最中に行う勝負といえばあれで間違い無いかね ?﹂ 確認の言葉を石燕が返す。九郎は潮干狩りの最中で行われる勝負 など全く知らないので、胡散臭げな顔を向けながらしゃがんだまま 熊手で泥を掘っている。 ︵おっ。蛤ひとつ︶ 1623 無言で笊に拾い上げた貝を移した。 ともあれ、石燕とお寿の間で決闘の雰囲気が高まる。いくら健康 になったからといってテンションの高い子犬に負けそうな石燕と、 女だてら荒っぽい男の仕事である木場の角乗りをしている鍛えられ たお寿では殴り合いの相手にならないと九郎は思うのだが。 石燕は不敵な顔を崩していない。 りぐしゃこ ﹁さて││それでは始めようかね。負けた方は絶対服従⋮⋮それは いそもん わかっているね﹂ ﹁ああ。磯物勝負だ! 出ろ、[李愚蝦蛄]!﹂ ﹁行こうかね、[唐枇杷]!﹂ ﹁なんか始まった﹂ 闘磯物⋮⋮それは江戸で行われる小動物を使った闘技の一つであ る。 基本的に暇を持て余している江戸の町人らは様々な勝負事を考案 して競わせ見物したりする。生類憐れみの令が出た頃には完全に禁 止されていたがそれが廃止されて以来またぞろ増えてきていた。座 敷で蜘蛛を戦わせたりカブトムシ、クワガタムシを勝負させたり、 コオロギ同士の熱い戦術駆け引きの塾さえあったりと様々である。 闘磯物もその一つで、基本的に海辺でしか出来ないものであるが 蟹、ヤドカリなど海の生物を戦わせ合う真剣勝負である。 お寿が出したのは黄色がかった殻をしたシャコである。もぞもぞ と前進している。 石燕は愛玩ヒトデの唐枇杷。のそのそと前進している。 ﹁唐枇杷は攻撃表示で前進!﹂ ﹁負けるな李愚蝦ッ蛄ー! 迎え撃て!﹂ ﹁⋮⋮地味だなー。あとしゃっこー云うな﹂ 1624 背中にシーマン彫ってドヤ顔している痛い女と、いい年をしてミ ニスカ履いたキツい女のバトルは春の日差しの下でのんびりを行わ れていた。 九郎はとりあえず勝負から目を離して泥を掘って貝を探すのであ った。 ﹁⋮⋮二枚目。うむ、場所は良いみたいだ﹂ 砂抜きをして蛤の酒蒸しにしようと思いながら⋮⋮。 ***** ﹁うわあああー!! 李愚蝦蛄ー!﹂ ﹁弱肉強食だね⋮⋮!﹂ よくも飽きずに半刻ばかりやったものだ。 何やら勝負が付いたようなので九郎は顔を上げて少し離れた場所 で戦っていた石燕とお寿の足元を見た。 すると石燕の唐枇杷は再び伸し掛かるように蝦蛄に絡みついて、 その殻をぞりぞりと削り食っているようであった。腕手に付いてい る毒棘も刺さりもはや蝦蛄は食われるだけの運命である。 お寿がびしゃりと泥に膝をついた。悔しそうに顔を歪めて敗北感 に打ちひしがれている。大事に二年は世話をしていた蝦蛄が食われ ていく。冬の海に落ちた時も嵐で流れた木材に体を打ち付けた時も、 1625 家に帰れば水槽の中でひっそりと出迎えてくれた蝦蛄。まさかこん なに別れるのがつらいなんて⋮⋮! ﹁まさに離苦蝦蛄⋮⋮﹂ ﹁巧いこと言った気分かもれないがね。勝者として君の生殺与奪権 は私が持っているということを忘れないで貰いたいね!﹂ ﹁なんでそんなに重い条件なんだこの勝負﹂ 敗者を見下ろして笑い混じりで言葉を投げかける石燕であった。 お寿は歯を食いしばり石燕を見上げて云う。 ﹁くっ! 殺せっ!﹂ ﹁ふふふ只で死ねるとは思わないことだね! 春画みたいな目に合 わせてあげよう! 九郎君が!﹂ ﹁やらんが﹂ 悪の女幹部みたいなノリになっている石燕に冷たい言葉を返す。 しかし当のお寿が顔を羞恥に赤らめ、 ﹁おのれっ! 卑怯な!﹂ などとこっちも謎の勢いを持っているので溜息を吐く九郎である。 しかしこの場所はなるほどダウジングしただけあり、大漁で笊も 埋まってきたのでそろそろ上がろうかと思い始めた頃であった。 石燕が九郎の耳元に顔を近づけて、お寿を見ながら声を潜め内緒 話をしてくる。 ﹁勝ったものの特に要求することは無いんだよね。九郎君も充分採 ったみたいだから﹂ ﹁では別に良かろう。場所を返して己れらは移動すれば﹂ 1626 ﹁いや、あの類は勝負事をちゃらにされると酷く誇りが傷つく感じ の性格っぽいから。適当に何か無いかな。全裸で敦盛とか。自分の 手で自分の鎖骨を折らせて見るとか﹂ ﹁引くわ⋮⋮とりあえず己れに任せてみろ﹂ えげつない発想に九郎は顔を顰めた。 九郎は一つ、あまり期待はしていないが試してみるべきことがあ った。それはお寿が少なくとも海[魔女]と名乗っているので、極 低確率だが彼女が魔女の転生なのかもしれないという考えである。 それを確かめるには魂の接触行動が必要だ。幾つか方法はあるが、 その一つが[互いの頭部を触れさせる]という行為である。 というわけで、九郎は泥のついた手を拭ってから、 ﹁おい、ちょっと顔を上げろ﹂ ﹁?﹂ 九郎は両手でお寿の顔を左右から掴んで頭同士を寄せた。 それを見て慌てたのが石燕である。 ︵どんなノボリが立てばいきなりそういう羨まけしからん行動に出 れるのかね!?︶ 叫ぶ時間すら惜しく何はともあれ割り入ろうと地を蹴った。しか しここは干潟の泥。足袋を履いているからと言ってそう自由なわけ ではなく、思いっきり転んで九郎の後頭部に頭から突っ込んだ。 ﹁ぬあー!﹂ ﹁痛!?﹂ ﹁⋮⋮きゅう﹂ 1627 石燕の頭が九郎に直撃して、その反動で九郎は顔を掴んで居たお 寿に思いっきりヘッドバッドをかました。 額を強打されてお寿は目を回して仰向けに倒れる。前後から挟ま れた九郎は頭を抑えながら振り向いて、同じく額を赤くした石燕に 苛立たしげに声をかけた。 ﹁いきなり何をする﹂ ﹁くくく、九郎君こそ何をするつもりだったのかね!?﹂ ﹁頭を触れ合わせれば知り合いの魔女かどうかわかるのだ。この前 魔王から聞いてきた。何故か文書で送ってきたが﹂ 夢が繋がっている魔王は近頃呼びかけに応えるものの、直接会う 事は無い。なにやら忙しいらしいが。 特殊な魔力的繋がりが魂にある者同士はこうすることで魂が活性 化して感覚的にわかるのだという。とにかく、頭突きの形とはいえ、 お寿と触れても何も共感を覚えなかったので魔女では無い事はわか った。 ともあれ、勘違いしたやら頭を打ったやらで石燕は││ ﹁││む? 泣く程痛かったか?﹂ ﹁え? い、いや。そんなことは無いのだが⋮⋮﹂ 何故か涙を零していて、本人もきょとんとしたまま目元をこする。 殆ど転んでいた状態だったので手にも泥がついていて、石燕の顔 に泥が付着して九郎は手拭いを懐から取り出して、 ﹁これ、顔が汚れる。ほら、拭いてやるから⋮⋮泣くなよ﹂ ﹁う、うん。すまないね九郎君⋮⋮いや、私にもよくわからないの だがね、涙が出る理由など⋮⋮﹂ ﹁病み上がりで精神が不安定なのかもしれんな。今日はもう引き上 1628 げるか。立てるか?﹂ ﹁大丈夫、平気だよ﹂ 言いながらも、差し出された九郎の手を握って石燕は立ち上がっ た。 体に不調はない。頭痛だってしないし腹は減っているし酒は飲み たくある。暖かな日差しと涼しい風に気分が良いはずだが││ 疑問に思っていると、それぞれの方向からお房とタマが戻ってき ていた。 ﹁おーい。ちゃんと仕事したかしら?﹂ ﹁海鼠に渡り蟹まで取れ││ってお房ちゃんなにそれ﹂ ﹁赤エイなの﹂ エイの尻尾を持って引きずりながら持ってきている少女にタマと 九郎ははらはらとした。 ともあれ、三人分の笊いっぱいの食材を採って、一行は店に戻る ことにしたのだった。 石燕が回収した唐枇杷は満腹そうにして、不思議と模様の目も眠 っているように閉じて見えた。お寿は放置したがまあそう強い衝撃 でもなかったので大丈夫だろう。 そしてふと、九郎は帰る途中で思い出そうとする。 ︵そういえば、己れが最後に泣いたのはいつだったか︶ 結局、魔女が死んだと聞かされた時も泣けたものではなかったが。 そもそも魔女、最終局面で九郎に[倦怠符]という気力をごっそり 奪い捨てる術符を使用して彼を日本に送り出したのだから悲しむ気 すら起きなかった。 確か最後に泣いたのは、 1629 ︵あいつが死んで⋮⋮? あいつって誰だ?︶ ││思い出せないことを思い出して、九郎はきっと頭の呆けか何 かだろうと思考を辞めたが、疑問に思ったことは心に残ったという。 ****** ﹁ふふふ! 酒! 飲まずにはいられないね! 一発芸[胸の谷間 酒]!﹂ ﹁ぶへひゃはははは!! 石燕さんそれ凄いヤバい素敵タマ! じ ゃあぼくも一発芸[九郎兄さんの魔羅]﹂ ﹁なまこ! 股間からなまこ!! ふふふふふげふぉっごふぉっ気 管に入った!! 勢いで谷間の酒が零れた! 冷たい!﹂ 夜。 酒を呑んで爆笑している石燕とタマ、そして取り巻いて盛り上が っている長屋の面々をやや離れた席で見ていたお房はぼそりと九郎 に言った。 ﹁ああは為りたくないの﹂ ﹁うむ。最悪だな。反面教師とせよ﹂ 1630 と、乱痴気騒ぎをしている連中を評するのであった。 ﹁もう一発、[九郎兄さんの魔羅・二つ頭の竜]!﹂ ﹁ふふふ⋮⋮死ねい光の者ども!!﹂ と、言って海鼠二つ使った芸を始めたタマと石燕は仕留めてこよ うと決めて、九郎は酒杯を置いて席を立ったのであった⋮⋮。 1631 51話﹃うっかりお八﹄ その日は、いかにも春らしい陽気と涼し気な風の吹く心地よい日 和であった。 四ツ半︵午前十一時頃︶に店を開ける緑のむじな亭に通い慣れた 足で来客したのは、茜色で動きやすくしている小袖を着ていて短め の髪を変わった簪で纏めている姿の少女││お八であった。 妙な簪、と言うのは仕込針になっていて、捻り開ければ中に畳針 ほどの長さの鉄芯がいれられているのだ。縫い物のみならず、それ を投げれば二間ほど先の板に刺さる技術を彼女は持っている。これ は、師匠である晃之介が投擲用の小刀を頭に巻いた手拭いにも仕込 んでいるのを真似して作ったものであった。 ともあれ、その日のお八は九郎に用事があった為に、 ﹁ようお房。九郎は居るか?﹂ ﹁おはようなのお八姉ちゃん。九郎なら二階で何かしてるの﹂ ﹁何か?﹂ ﹁掃除とか。あたいがお布団の綿抜きしてあげたんだけど部屋がや たら塵々︵ごみごみ︶してたから片付けなさいって言ってやったの﹂ ﹁ったく、九郎は駄目だな﹂ 言いながらもどこか嬉しそうにお八は二階へ上がっていく。 男というものは少しだらしないぐらいが面倒見甲斐があっていい と彼女は思うようになってきたのである。駄目な男に捕まる傾向の ある女の思考だが、無意識的に。 二階は三つある部屋の襖も窓の雨戸も開け放たれていて緩く風が 通っていた。一室は物置で残り二つを九郎とタマが泊まり住んでい る。ちらりとお八はタマの部屋を見たが綺麗に布団は畳まれていて 1632 部屋の物も少ないが丁寧に整理されている。小さな机には春画が重 ねて置かれているが。 ﹁九郎ー? ⋮⋮なにしてるんだぜ?﹂ 一方で彼の部屋はものが多く床に並べられていて、元より狭い部 屋なのだが足の踏み場に困る様子であった。 壁には謎の服が何枚か掛かっているし、短冊のような紙が床に敷 かれていて、角には真っ二つになった猟銃などのごみもある。窓に は半生体寝袋と背嚢が干されていた。携行食料の魔法うどんパック はまだ賞味期限を迎えていない。目には見えないがステルス漬物石 もその辺に置かれている。旅用の背嚢にそれが入っていたのは明確 な嫌がらせだと思う。 座っていた九郎は顔を上げて呆れた様子のお八に声をかけた。 ﹁お主か。いやな、江戸に来て一年ほどになるのだが、まともに道 具の整理もしていなくてな﹂ ﹁一年も放置してたのか?﹂ ﹁うむ。こういうのは初期に何を持ちこんだか[りすとあっぷ]し ておかねばいかんのだが、何かしらの事情があって特に確認もしな いままだった﹂ その何かしら、というあたりでやや口を濁したが、要するにあま り使わないものが詰まっていたので面倒だったというだけであった。 九郎という老人、他人の面倒を見たり仕事で雑務をしたりするの は平気なのだが、自分のことに関してはやや物臭になる性分がある。 特に掃除などは、 ﹁散らかっているのではなく、自分の手に届きやすい場所に配置し ているのだ﹂ 1633 と、開き直る。掃除に関しては若い時から友人などに注意を受け ているのだが、文句を言いつつ代わりにやってくれる相手が昔から 居た││スフィ、クルアハ、イモータルなど││ので[散らかって いる]状態にはなっても[汚い]と云う程に環境が悪化することは なかったのである。 結局そのお節介を受け続けていたせいで片付け能力は低いままで あった。 しかし曾孫のような年の娘に叱られてはさすがに彼も片付けをし なければならないと思い、押入れに仕舞い込んでいた背嚢をひっく り返して中身を虫干ししているのであった。 ﹁この紙はなんだぜ? 何度か見たことあるが﹂ お八が並べられた短冊形の術符を指さして尋ねる。 ﹁これは妖術の篭った札でな。己れの孫のような奴が作ったものだ。 己れに使えるのはあやつが作った中でも簡単なものしか無いが。持 ってはいるものの全然使わん符もある⋮⋮﹂ ﹁ふうん。札の色は八種類か﹂ ﹁ああ、単属性符と言ってな⋮⋮﹂ と、九郎は何気なしにお八へと術符の解説をする。フォルダに入 れて持ち歩いているが、ほとんど使わない物に関しては存在を忘れ 去ってしまいそうなので自分でも確認するように、まずは朱と薄青 色の術符を摘んで名前を口にした。 ﹁火属性の[炎熱符]││湯を沸かしたり火をつけたりできる。氷 属性の[氷結符]。これで水を凍らせたり部屋を涼しくしたりする 術が使える。この二つはよく使うな﹂ 1634 ﹁へえ。確かに便利だな。今年の夏は九郎の部屋に入り浸るぜ﹂ 特に炎熱符は便利なので三枚程重複して持っている。二枚は店の 竈に使っていて、一枚は冬場のこたつに固定されていたが。 火属性の魔法と言うものは基本的に熱量の増幅や発火現象の操作 を司り、氷属性は逆に分子運動の停滞と、それによる気体や流体の 状態変化を操って効果を出す属性である。術者の出力や構成精度次 第ではこの二つの基本的な符だけで相当応用を効かせて使える。 九郎が使えば煮炊きや冷房、冷蔵程度の効果だが、魔女が作って 効果を試した時は水平線の先まで海が凍りつき、それを溶かすため の熱波は海岸線から海を蒸発させていった。当然環境への被害甚大 で懸賞金が上がった。 思い出しつつも二枚を置いて、茶色と紺の術符を取る。 さきゅうふ ﹁土属性の[砂朽符]。石を砂に変える魔法だが使い道は少ないな。 こっちは水属性[精水符]。茶碗一杯ぐらいの水が出る。まあ漂流 でもしていたら使えるが⋮⋮﹂ ﹁なんか紙から滴った水をわざわざ飲みたくは無いな﹂ と、日常では役に立たない二つを九郎は微妙そうな顔で見る。お 八も今ひとつぱっとしない効果だ、と首をひねった。 土属性では鉱物の変化や操作を行う魔法で、[砂朽符]に込めら れた術はそれらの粒子化である。九郎の能力では土壌を掘りやすい 砂にすることができ、秩父山中で穴を掘る際に利用可能なぐらいで あった。 異世界ペナルカンドの大陸南東で魔女がこの術符を実験した結果、 ゴールドラッシュに燃えていた鉱山地帯は広域な砂漠に姿を変えた。 さらに[精水符]により約十立方キロメートルの水塊が精製されて 砂漠の真ん中に巨大な湖まで生まれた。その後砂金などの資源開発 で盛り上がったようだが勿論容赦なく魔女の罪状は重くなった。 1635 なかなか使わないのは嫌な思い出があるからではないかと九郎は 苦々しい顔で、次に緑と紫の符を取る。 ﹁風属性の[起風符]⋮⋮そよ風を出せる程度だな。己れも使い難 い。雷属性の[電撃符]は電気を操る。力を込めれば雷も打てる強 力なものだが、加減の効かない雷なんぞ人間にそうそう打てるわけ もなし、使えん符だ﹂ ﹁その割にはタマの心臓が止まった時に気軽に使ってた気が﹂ ﹁ギャグ補正で治るかと思ったが本当に治って驚いた﹂ ﹁⋮⋮﹂ 真顔で云う。 風属性では気体の操作を行う魔法が基本なのだが、どうも文字通 り雲を掴むような感覚を覚えなくてはならないので九郎は殆ど使え ない。扇風機程度の風が起こせるぐらいだ。 例によって魔女がこの符で世界中の大気圧を同じ状態にしてしま い、風は殆ど吹かない為に雨も降らず内陸は乾き、海上は蒸発した 水蒸気が濃霧となり留まる異常気象を巻き起こしたのだった。懸賞 金を出している一番大きな組織は国の連盟だが、二番目は農協だっ たことから迷惑さがわかる。 雷はそこらの人間に当てると死ぬ割に鬼には効かないし影兵衛に は斬られる程度である。多分晃之介にも武器を避雷針にされて避け られる。将翁にも陰陽術とか風水的な謎パワーで効かない。六科は 刺青が雷無効属性だ。 名有りの相手に即死攻撃は通じない法則か。失望したように符を 落として、床に置かれた最後の二枚││極薄い黄色と黒色の符を拾 う。 ﹁黄色が光属性で[隠形符]⋮⋮光を操作し見えにくくなる迷彩術 式だな。黒いのは闇属性[快癒符]で疲れを吸収して眠くなる。起 1636 きたら元気すぎて次の日は寝むれん﹂ ﹁そりゃ便利だ﹂ ﹁とは言ってもこう体が若いと、こんなものに頼らんでも寝れば疲 れが残らんからのう。それに石燕に使ってから魔力切れで使えんし﹂ ひらひら、と符を振って見せる。弱い出力では使えるのかもしれ ないが、九郎の術式理解力では効果に実感があるレベルではない。 この二枚に関しては魔女も然程騒ぎを起こさなかった││と、云 うよりもイリシアが魔女化する以前に作り出していた術符なのだっ た。 闇属性で回復、というのも変わっているが闇の特性は吸収を主体 とした術式な為に対象者の疲労を吸収と、相手自身の体内にある必 要な栄養素の吸収効率を増幅させる事で点滴を受けているような体 力回復を齎すのだ。 重度の外傷や臓器が損壊する病気には効果が低いが、風邪などは すぐに治る。 これらの八つの属性と無属性で便利な魔力運用魔法がペナルカン ド世界では魔法属性の分類として分けられる。普通の魔法使いは一 種類か二種類の属性を得意として、ほかは二段三段劣る習得度しか 得られないのだが、魔女イリシアは全属性の使い手という異例の能 力だったのである。 なお、当然のことであるが異世界では魔法使いが魔女だけという わけではないので、彼女が広域に凄まじい被害を齎した時には魔法 使いや神官らを送り復興業務を行わせる派遣会社がある。彼らには 給金として支払われる魔女被害国際支援金や魔女被害保険会社もあ って地味に経済を回していた。これだけやっても歴代の魔女に比べ てやっちゃった人数は最低なのだから中々にガッツのある住民たち である。 あの世界で彼女に並ぶ魔法使いとなると、闇属性のみの限定的だ が百億の昼と千億の夜を過ごした老吸血鬼ぐらいだろうか。魔王城 1637 でその二人の戦局では最も戦闘力のインフレが進んで宇宙規模に被 害が広がっていた。他所の銀河系が幾つ消え去ったかはその後有耶 無耶になった為に誰も観測していない。 ともあれお八がじっと黒の術符を見ながら九郎に言った。 ﹁ふーん。いらねえならあたしにくれよ、それ。師匠と稽古したら しない まだ体中痛くてさ、次の日の針仕事の練習なんか震えちまう﹂ ﹁若いもんが情けない﹂ ﹁だってよ、鉛を巻いた撓を千回素振りとか、重り付けて神社の境 内を十周全力疾走で休んだら矢が飛んでくるしよ⋮⋮いや、しんど いってわけじゃないぜ! いけるいける! でも体の疲れを親父達 には見せたくないからさ﹂ 少し愚痴っぽく言った後、慌てたようにそれを否定して顔を上げ て手を振った。 親に頼み込んで晃之介の道場に通っているお八だが、練習がつら いと弱音を吐いたり、家での修行に支障が出るようでは認められな いと最初に言われているのだ。 晃之介が教える六天流の鍛錬は門人が居着かないことからもわか る通り、大の大人がやっても厳しいものである。一応彼も多少はお 八に考慮しているのだが、師匠としての経験も少ないので加減は難 しいのだろう。 ともあれ九郎は、このもはや効果を発揮するかわからぬ術符だが、 ﹁気休め程度だが、そうだな、餞別も渡してなかった﹂ と、お八に手渡し言った。 九郎からの贈り物に、彼女はぱっと顔を明るくする。 ちらちらと彼の首元を見ながら、 1638 ︵こいつみたいに首にでも巻こうか⋮⋮︶ 思っていて、ふと気づいた。 ﹁九郎の首に巻いてるのも妖術の札か?﹂ ﹁ああ、そうだな。こっちは[相力呪符]と言って勝手に発動して いる代物だな。魔女の奴も作るのには頭を悩ませた複雑な術が込め られている﹂ 軽く手で触れながらそう言った。 身体強化魔法の一種であるが、使用者の認識と体にかかる負荷か ら最適量の強化を行うスマートな術式が込められていて、大出力魔 力を運用する魔女ではなかなか発想出来ない繊細なものであったよ うだ。 元は魔力の暴走爆発しか使えなかったような娘である。要求され るのが破壊力ではない術式を正確に組み立てるのはジョン・マクレ ーンが液体混合爆弾を解除するぐらい難しかっただろう。つまりは まあ、爆発寸前だったがなんとか出来たレベル。 それでも術符自体は体が縮んでいる九郎には最も役に立っている ともいえるのだった。 ﹁色々あんだな⋮⋮ん? 見たこと無い服もあるな。なんだこれ柔 らか。綿でも絹でも無い肌触りだけど⋮⋮﹂ ﹁メイド服か。侍女のやつのだが⋮⋮なんで紛れ込んでいるのだろ うなあ。確か材質は[疑似科学繊維]とか云うので固体化マイナス イオン糸や波動染料で作られ、仕上げにサブリミナル加工されてる とか﹂ ﹁⋮⋮なんだそりゃ? この青白い布も変な感触だな。なんで染め てるんだこれ﹂ ﹁さあ知らぬ。青白い服なんて知らぬ。あれは確かこっちに転移す 1639 る前に魔剣で鎌ごと消し飛ばされたしのーう。己れはさっぱり知ら ーぬ﹂ ﹁なんで必死に見ないようにしてるんだぜ⋮⋮﹂ [疫病風装]から目を逸らす九郎。物騒な名前は付いているがこ れ単独では何かしらの疫病を撒くことは無いので無害といえば無害 なのだが。 ﹁そのメイド服もやるよ。どう考えてもいらんからのう﹂ ﹁そうか? 妙な意匠の衣装だけど⋮⋮珍しい服だからありがたく 貰うぜ﹂ お八は受け取って服を広げながら、精巧な作りのそれに感心しな がらあちこちを眺めた。黒のロングスカートに長袖なエプロンドレ スなので着物には見えないがぎりぎり江戸でも変わった服として着 れなくはないと思いつつ、 ︵あたしに似合うかな⋮⋮いや、微妙か?︶ と、頭を悩ませるのであった。 そういえば、と彼女はフリルに目を落として唸りながら九郎に尋 ねる。 ﹁これは九郎の知り合いが着てた服なんだろ? どんな奴なんだ?﹂ ﹁女中のようなおさんどん仕事をしていた女だ。まあ⋮⋮仲は良く も悪くも無かったな。他のやつに比べて迷惑はかけてこないが時々 いい性格をした行動をしてくるところが⋮⋮む?﹂ 言って、九郎は首を傾げる。確かその侍女は魔王曰く、破壊され たらしい。 1640 ペナルカンドでは魂無き人型の意思疎通可能存在は消滅すればそ の記憶を忘れられる。その分類は失われ次第忘れられるのだから認 識が曖昧なのだが、喋らない命令に従うゴーレムが壊れてもそれを 覚えては居るけれど、術者から離れて自由意志で行動をしているゴ ーレムが破壊されれば忘れられるという具合になっている。 かの侍女イモータルは魂の無い機械人形だったが、それが失われ てもまだ覚えているのは破壊され尽くしていないか、機械に魂を宿 らせる方法を魔王が知っていたか、別世界の材料で作られたために あの世界の魂循環の法則から外れているのか⋮⋮ そのうち夢で魔王に聞いてみるか、と思って九郎は思考を戻した。 ﹁ふーん。美人だったか? どんな感じだ?﹂ ﹁そうさな、一般的に見れば容姿は整っていたな。背丈はお主ぐら いで髪が長かった﹂ ロボなので人形めいて美しい顔立ちなのは製作者の趣味からして も当然だったが。九郎はどうも魂を感じない冷徹なキラーマシーン めいた雰囲気で従順に仕事しているのがちぐはぐに見えていたせい か少し苦手だった。人を模して作られた機械は人類にいつか反逆す ると云う九郎の確信めいた考えには魔王も大いに同意するところが あるらしく、当然のように侍女にランダムで起動する人類反逆回路 を搭載しやがったことも不安の種である。 話を聞いたお八は自分の肩までで切っている髪の毛の端をつまみ ながらやや拗ねたように、 ﹁⋮⋮あたしも髪伸ばしたほうがいいかな﹂ と、いうので九郎は、 ﹁いや? そのままでいいと思うぞ。似合ってるしな﹂ 1641 ﹁そ、そそ、そうかよ! だよな! えへへ⋮⋮﹂ ︵伸ばしたら晃之介のところの訓練に支障が出るかもしれないから のう︶ 九郎はやけに喜んでいるお八を微笑ましく見ていた。 術符を伸ばしてフォルダに戻しながら、九郎はふと彼女に尋ねる。 ﹁そういえばお八は何をしに来たのだ?﹂ メイド服を丁寧に畳んでいたお八は、はたと気づいてそれを脇に 置いて要件を話す。 ﹁ああ、忘れてたぜ。牡丹でも一緒に見に行かねえかって思ってさ。 ほ、ほら今が季節だしよ﹂ お八から、そう誘われた九郎はやや悩みながら、部屋の角に置い てある銃の残骸を見ながら呻く。 ﹁ううむ、しかし猟銃はこの前影兵衛に斬り壊されたからなあ。晃 之介みたく棍棒一つで挑みたくはないが﹂ ﹁なんの話だよ!﹂ ﹁⋮⋮? いや、猪狩りに行こうという誘いではないのか?﹂ 牡丹鍋を思い浮かべながらそう尋ねると、お八は睨み上げながら、 ﹁花だよ花! 春牡丹を見に永大寺まで! あたしが花を見ちゃ悪 いか似合ってねーのか!﹂ ﹁い、いやすまん。勘違いしていたようだ﹂ 1642 誤魔化すような引きつった笑いで九郎は両手の平を向けて怒鳴る お八を宥めようとした。 とはいえお八自身も、自分のガサツというか質実︵自称︶な性格 は認めているので普段ならば九郎を花見に誘うという考えは浮かば なかったのだが⋮⋮ お八は先日のことを思い返す。実家の母親及び女中らを交えたお 八と九郎の[関係進展会議]を開いた所、 ﹁ざっと私達が調べた結果、現在での九郎さんの親しい人間関係は こんな風に⋮⋮﹂ 紙に書いて示した表で、特に親しい順番に、 [石燕:現金自動払込友人︵げんきんおのずからうごきはらいこむ ゆうじん︶] [お房:娘] [タマ:弟] [お八:孫] ﹁││なります﹂ ﹁孫!? あたし孫扱いだったのか!? いや石姉が何気に酷い位 置だけど!﹂ ﹁というわけでお八、女の子らしい所を見せて一つ上の立場を目指 さなくてはなりません! いいですね! 母的な藤壺から娘並の紫 の上までよっしゃしてしまう光源氏より孫とか酷い難易度なのです から﹂ そう母に言われて、とりあえず花を見に行ったり一緒に簪などを 買いに行ったりするなどの行動を取るべしということになったので ある。 1643 ***** 深川永代寺││富岡八幡宮の別当寺として江戸では栄えているそ の寺に牡丹園はあった。 別当寺と言うと、神仏習合の令を受けて即ち、祭る神は仏の権現 であるのだから神社も寺と同じであるとされ、神社を管理するため の寺を置くべしと云う流れで作られたものであった。 明治に廃寺になった深川永代寺であるが、江戸時代は深川でも広 い寺院の面積を誇り、その中にあるのが牡丹園である。 一説によると牡丹は永代寺の宗派でもある真言宗空海が、薬とし て唐から持ち帰った花だと伝えられている。 牡丹園では冬牡丹から春牡丹まで長い期間咲き誇っている。 お八が植木を覗きこんで赤みがかった白牡丹をじっと見ながら九 郎に声をかけた。 ﹁でもよ、牡丹って今ぐらいに咲く春の花じゃなかったか? なん で冬にも咲くんだ?﹂ 九郎が以前読んだ園芸の本の知識を思い浮かべて応えた。園芸は 江戸でも長い流行であったために指南書や塾なども多くあったので ある。 ﹁確か⋮⋮春先に出た蕾を落として、夏は葉を切りあたかも枯れた ような状態にしておくのだ。そして冬に霜や雪がかからないように してやれば春夏で出せなかった勢いを無理やり冬に発揮して気合で 花が咲く⋮⋮と、書いてあった﹂ ﹁そこまでして冬に咲かせたいかって感じだけど、それで気合を出 1644 す牡丹もすげえな⋮⋮﹂ ﹁うむ。そんなことから牡丹は綺麗だが男らしい花だと言われてい るらしい﹂ お主のようだな、と笑いながら九郎は軽くお八の肩を叩く。 喜んでいいのやら複雑な気分に、 ﹁むー﹂ と、微妙な気持ちの混じった唸り声を上げるお八であった。 褒められている気もするが、自分が連れてきたというのに九郎の ほうが牡丹に詳しいようで少しばかり悔しい。 言われて花見を思い立ったものの、お八としてもどちらかと言え ば⋮⋮ ﹁そう物欲しげに見ずとも買ってやる。ほら、牡丹餅を食いに行こ う﹂ ﹁ベッ別にあたしはそんなあれじゃ⋮⋮﹂ 茶屋をちらちらと伺っていたのを見透かされて、如何にも保護者 のような言葉をかけられてしまうので不満を覚えるのだった。 九郎からしてみればお菓子が欲しそうな相手の雰囲気はすぐにわ かる。魔女は変装して世界中を買い食いして回る甘党で、魔王は何 故か九郎の膝に座って自慢気に菓子を食べさせて貰い、魔女はぐぬ ぬと恨みがましく睨んでいた。 彼としては、あまり食べ過ぎると血糖値が気になるという嫌な年 寄りの思考が浮かんでくるので沢山は食べれぬのであったが。 当然だが牡丹園を見に来る者というのは、男女の逢引や家族連れ などが殆どだ。 だがその茶屋に居た女は一人、足元にいる子犬を白い脛で撫でな 1645 がら暇そうに団子を食べている。頭に手拭いを垂らして乗せて顔を 隠しているが、人懐こそうな顔立ちをした二十前後に見える、牡丹 模様の着物の人物であった。 九郎とお八が緋染の布が敷かれた椅子に座り茶と牡丹餅を注文す ると、ついと細い顎を向けて九郎を見る。 ﹁⋮⋮おや? 君は九郎くんじゃないか﹂ 落ち着いた調子の女声で話しかけられて、九郎はその女に向き直 り首を傾げる。 一見、知らない女だ。 江戸で出会った全員を覚えているわけではないが、自分の名前を 名乗った知り合いの女にこのような奴は記憶に無い。 ︵つまり、女ではない⋮⋮?︶ 乱暴に見える発想の飛躍をして、九郎はその線の細く人当たりの よい顔のつくりを思い出して応えた。 ﹁もしかして、同心の﹂ たまかずら ﹁そう。僕は同心二十四衆が一人、[犬神]の小山内伯太郎だよー。 こっちは愛犬の[玉鬘]﹂ 稚児趣味に定評のある知り合いだった。そんなん知り合いたく無 かったのだが。 子犬を足で撫でて仰向けに転がしながら、ぱっと笑顔を作り頭に かもじ 被った手拭いを取る伯太郎。髪の毛を長く女性風に見せているのは、 髢という付け毛を被っているのだろう。 元が童顔気味なので顔立ちとしては女性に見えるのは良いとして、 声音は普段の胡散臭い優しさを感じる男の声から、やや低めだが充 1646 分女に聞こえる声に変わっている。 声音、と呼ばれる変声の技術は当時、芝居をする者が身につけて いる珍しいもので、これで物語を読み上げるなどの芸だけで座に呼 ばれるほどのものであるのだが、彼はそれを遣えるようだ。 それにしても前見た時は普通の男だったというのに、九郎は若干 身を引きながら、 ﹁⋮⋮女装趣味があったのか?﹂ 九郎の中の評価が稚児趣味でホモ野郎というあたりに固まりつつ あるのを苦笑で返して、 ﹁やだな。仕事のおとり捜査の為だよ。町方で女に変装できるのは 僕と隠密廻の藤林さんぐらいしか居なくて駆り出されたんだ。まあ、 藤林さんの場合はもっと本格的なんだけど⋮⋮﹂ と、言った。 [無銘]の二つ名を持つ忍びにして同心、藤林尋蔵は奉行所内で の職務以外では良く顔を覆面頭巾で隠しているが、変装となるとま るで中身が入れ替わったかのように顔を化粧で変えてしまえるとい う。 女装、僧体、出入りの張替え屋、植木屋、とび職、雰囲気の悪い 素浪人、盲、旗本のバカ息子などその手持ちの変装ネタは様々にあ り、それと尾行術においては同心与力手先含めて最も能力が高いと されている。 やまこ ﹁[撹]の一角って名乗って、女を攫っては他所に売り飛ばす悪党 一味でね。上州あたりで知られた奴らが江戸に来てるみたいなんだ﹂ ﹁ふむ。それで女装して誘き出そうと﹂ ﹁これ以外でも他の同心達は別の方法で捜査してるんだけどね。勿 1647 論僕は衆道趣味なんて無いよ? 女の子は七歳から十二歳まで。そ して自由恋愛で手を出すのが最高だね﹂ ﹁⋮⋮良かったなお八。範囲から外れておるぞ﹂ ﹁おう⋮⋮としか言い様がないぜ﹂ 小学生は最高だと言い放つ爽やかな女装青年にドン引く二人。 伯太郎の場合、液体系の雰囲気で真剣すぎて気持ち悪いと評判の 利悟に比べて、人懐っこい子犬を連れていて本人も優しげな風貌を している為に女児が懐きやすいという犯行の手腕があるのが厄介な 所であった。 勿論無理に迫ったり怖い目に合わせたりはせずに女児にモテまく り時には﹁伯にぃとはあたしが遊ぶの!﹂と取り合っている少女を 見るのが至上の幸せだという異常性癖者であった。 彼は己の欲を批判されようとも気にせずに彼は云う。 ﹁女装ってのもね。犬塚信濃も女装してたと思えばそう気にならな いものさ﹂ ﹁⋮⋮誰?﹂ お八から出た疑問の言葉に彼は小さく溜息混じりに、 ﹁やっぱり広まってないよなあ。八犬士って云うんだけど﹂ ﹁八犬士⋮⋮ああ、里見八犬士か?﹂ 話の内容は詳しくは覚えていないけれども、[南総里見八犬伝] という物語に出てきた主要登場人物であったと九郎は古い現代の記 憶に残っていた。 感心したように伯太郎が、 ﹁へえ、槇島さんも里見のそれを元に考えてみたって言ったけど⋮ 1648 ⋮有名な話だったりするの?﹂ ﹁槇島? いや、あれの作者は⋮⋮確か滝沢馬琴じゃなかったか?﹂ ﹁⋮⋮誰それ?﹂ ﹁あたしも知らん﹂ 伯太郎とお八が顔を見合わせて首をひねるので、九郎も﹁勘違い だったか﹂と誤魔化すように顔を落として茶を飲んだ。 それもそのはずで、[南総里見八犬伝]という物語が発刊され完 結するのは天保十三年︵1842年︶であるので享保に生きる彼ら からしてみれば先の話である。 九郎もそれが出ていた詳しい年代などは覚えていなかった故の勘 違いと云えよう。 ﹁槇島さんってのは國學者で、古い戦とか武将とか地名とか物知り な人なんだ。それで最近は節用集まで出して、ちょっとだけ紹介さ れてたのが八犬士。 ほら、僕って犬好きだから気になって話を聞きに行ったら殆ど創 作で作った集団だって言われてさ。頭はいいんだけど自分設定の用 語とか集団とか節用集に盛り込んじゃうんだよね﹂ 槇島さん││と呼ばれる槇島昭武という学者が出した節用集とは いわゆる辞典のようなもので、それに名だけ記されていて実在が疑 わしい武士も多く存在している。節用集自体には名前しか載ってい ないので確かめようが無いのである。 上方から江戸の文化に詳しく様々な歴史、言語を学んでいる高名 な学者だけあって、思わず信じこませる自分設定を混ぜ込むのも容 易い。 伯太郎は﹁そういえば﹂と云い、 ﹁[同心二十四衆]って広めたのも槇島さんだったなあ﹂ 1649 ﹁適当に決めすぎるのう⋮⋮﹂ ﹁それで、節用集には文字数制限の都合で載せてないけど、設定帳 とか作っててさ。運命の宝玉に導かれし八人の戦士とか伝説の剣と か。後世発見されたら素晴らしい才能ですって言われそうだね﹂ ﹁多分発見されて連載のネタにされてる気がするが⋮⋮﹂ 未来を思いつつ九郎は呟いた。どうやら、未来において紡がれる 物語だが基本設定の幾らかは歴史に知られぬ設定帳から取られてい るようである。犬塚信乃は女装しているし、犬山道節は火遁術の使 い手だ。 話していると伯太郎は己の牡丹餅を食い終わり、指についた餡を 子犬に舐めさせると立ち上がり、 ﹁じゃ、そっちのお八ちゃんも気をつけてね﹂ そう言って手拭いを被り歩み去っていった。 足元に妖怪すねこすりのように子犬が纏わりつきながら進むその 姿は到底同心に見えない。 お八が茶請けの梅漬けを尖った歯で齧り取りながらぽつりと疑問 を口にする。 ﹁⋮⋮二十四衆って今だけの存在なんだろーか﹂ ﹁さあのう。代々続くとかなってたら嫌だが﹂ 満開の椿の花の匂いが、風で薄く広がっている⋮⋮。 ***** 1650 ﹁あだっ﹂ 花見物も終わり、お八の腹の音が鳴ったので飯屋││回向院の裏 手にある旨い軍鶏屋にでも行こうかと歩き出した時であった。 お八が軽く躓いた。下駄の歯が突然折れたのである。 地面に倒れる前に九郎がひょいと肩を持ったが、どうやら足首を 捻ったようである。 暫く近くの川べりに座って居たが、少しばかり腫れている。 ﹁ふむ﹂ 僅かな出力にして[氷結符]を巻いて冷やし、九郎は背中を向け た。 ﹁おぶって行こう。とりあえずむじな亭に帰るか﹂ ﹁ええ? お、おぶるったって、町中だぜ?﹂ ﹁あー、嫌なら駕籠でも呼ぶことにする﹂ お八は恥ずかしく思ったのだが、駕籠に乗るか九郎の背中に乗る かをふと頭の中で比較して││、 ﹁い、いや⋮⋮九郎の背中でいいぜ。その⋮⋮金も勿体無いしな!﹂ ﹁そうかえ﹂ そう言って、両手を九郎の肩に回して彼の背中にしがみつく。 普通和服は股が開かないからおんぶは難しいのだが、お八の場合 動きやすく、またこのままでも晃之介の鍛錬が行えるように自分で 縫い直して袴のように広がる仕組みにしてあるので両足を九郎の体 1651 に回せた。 目の前に九郎の後頭部とうなじが広がり、何故か慌てながらお八 は尋ねる。 ﹁重くない⋮⋮よな!?﹂ ﹁おう軽い軽い。担いだまま箱根だって越えられそうだ﹂ ﹁そ、そうか﹂ 気負わない口調でそう言って九郎は重さを感じさせない足取りで ひょいと進んでいく。 じっと背中にしがみつきながらお八は考える。 見た目は同じぐらいの年頃の少年に見えるのに、やたらと強くて 面倒くさがりな癖に頼み事は引き受けて、商売や料理にも詳しく孫 まで居たという自称九十五歳の男、九郎。 はっきり言って謎の変人である。 しかし一つわかるのは、 ﹁九郎って良い奴だよな﹂ ﹁うむ? ⋮⋮いや、そうでもないぞ。年を取ればそれまでに人間 良いことも悪いこともするものだ﹂ 適当に応える。悪いことだってしてきたし、悪い奴の仲間になっ ていた時期もある。お八は九郎の肩に顎を起きながら、耳元で眠そ うに呟いた。 ﹁いいんだよ。あたしとか、他の知り合いにとって良い奴ならお前 は良い奴なんだ﹂ ﹁そうか。じゃあ、お主らにとって悪い奴にならんようにせねばな。 子供に嫌われるのが老人は一番応える││﹂ ﹁あー! それだ!﹂ 1652 突然耳元で叫んだお八に思わず九郎はよろめいて、危うく彼女を 落としかける。 なんとか体勢を整えて、耳を抑えようにもお八をおんぶしている 為に出来ずに顔をしかめて肩越しに振り向き尋ねる。 ﹁どうした﹂ ﹁ったく、いいか九郎。あたしはお前の娘でも孫でもねーんだから その辺気をつけろよ! 見下してるのか!?﹂ ﹁ぬう⋮⋮そうだったな、すまん、ついな﹂ これが反抗期か⋮⋮! などと場違いな感想を覚えつつも、見下 していたつもりはないが、襟を正される思いであった。 完全に身内扱いしていたイリシアなどは一言も文句を云わなかっ た為に││家族に捨てられたのが理由かも知れないが││ずっと孫 で問題は無かったのだが、お八と自分は知り合って一年の関係なの だ。 ︵孫扱いされたら怒るわな⋮⋮︶ 反省していると、お八が咳払いをしながら、 ﹁だから、あたしと九郎は対等なんだ。恩人かもしれねーけど、そ れはそれとして肩を並べる⋮⋮と、友達、なんだからな﹂ ﹁わかった、わかった。一緒に遊びに行くしのう。お主は小さくと も大の親友だよ﹂ ﹁なら⋮⋮いいぜ﹂ そう言って彼女はそっぽ向き、九郎にしがみつく力を強めた。 平坦な胸が九郎の背中に押し付けられて鼓動が伝わりそうだった。 1653 お八は己の平坦を恨みつつも、くっついたままだった。 ︵あたしばかりどきどきするのは、ずるいぜ︶ 拗ねた気分になりながらも、古びた畳のような九郎の体の匂いを 顔を押し付けてふんすか感じる。 言葉では訂正させたもののまだ九郎にとっては、自分など子供な んだと思っているのだろうとはわかっている。 わかっているけれど、やがていつかは││。 背に揺られて暫く進んでいると、彼は小名木川にかかる高橋の上 で立ち止まった。 ﹁おう、お八や。今日はここから富士山が見えるぞ。││いい天気 だのう﹂ 彼が仰ぐ先にやや白んだ山が見えている。 お八は九郎と同じ方向を見て、同じように﹁いい天気だな﹂と呟 いた。 ***** 伯太郎は深川から足を伸ばして四ツ木のあたりへ向かった。普段 から犬の散歩と火消しの見回りに慣れている為に好天の中歩き続け ても汗も掻かない。 この辺りは農村と川しか無い田舎村であるが、舟の便が良くまた 1654 神社仏閣へ参拝する者が多く横切る場所でもある。 街道筋の怪しげなところは他の同心仲間が張っている為に、この ような小さいところを回るのが伯太郎と尋蔵の役目であった。 ︵田舎のほうがやりやすいしね︶ 小さく口笛で拍子を作りながら女装をした伯太郎は歩む。 あたりは人通りが無く、方方に伸びた林で囲まれた道であった。 すると、足元の子犬[玉鬘]が喉を強く鳴らして唸る。 ﹁僕のほうにかかったか。ちょうど良いや﹂ 伯太郎は歩みを止めて周囲を見回す。[撹]の一味は何人居るの かさえ正確にはわかっていないから、とりあえず捕まえるだけ捕ま えて残りを吐かせることが解決への糸口となる。 麻袋と棒に縄を持った三人の男が垢にまみれた顔を笑みに浮かべ ながら林から姿を表す。 いかにも、な誘拐目的の悪党である。 伯太郎自身は、風烈見廻という火事や大風を注意して見まわる職 業な為に、特に剣術などを習っては居らず、精々が縫い物の範疇で 縄を縛ることが得意な程度である。女と見間違えられる程度の優男 であるのだが││、 彼は唇に指を当てて小さく音を鳴らす。 くもがくれ ﹁一気に決めよう。おいで[雲隠]﹂ 彼がそう言うと、膝ほどの高さをした草むらからぬっと立ち上が る影があった。 [撹]の一人がそれを見る。まるで、馬の子供のような大きさを したそれは大きく成長した山犬││いや、狼である。威圧を覚える 1655 大きな姿が地面から生えて現れたように思えたが、遠野物語に曰く 狼は三寸の高さがあれば草に隠れ、その体毛の色を地面に馴染ませ て潜むのだという。 小山内伯太郎が飼っている犬の中でも最も強力な一匹││源氏物 語で記されざる四十一巻[雲隠]の名を持つ猛獣であった。 伯太郎は己の強さは持たないが、飼っている犬と心が通い己や子 供の身を護らせるのである。雲隠は、彼の祖父の代から町に入らず ふったち 小山内家の近く野山に住んでいるという。狼の子が代替わりしてい るとも、経立になったとも伝えられている。 経立とは寿命を越えて長い年月を生きた動物が妖怪化したもので、 猿や犬などの経立は日本各地でも様々に話が残っている。 雲隠は飼犬には鳴らせぬ暴威を持つ獰猛な声を上げ、捕食者とし ての尖った目付きで男達へ飛びかかった。 ﹁ぎゃあ!﹂ と、悲鳴を上げて得物を捨て逃げようとするものの、明確に襲い に来た狼から逃げられる術も無い。 そのあぎとが一人の男の足に突き刺さる。すると、全身に痺れが 疾走った男は激痛に悶えて口から泡を吹き意味の分からぬ叫びを上 げながら倒れてしまう。甘咬みではなく、犬歯持つ獣が本気で噛み 付いたならば人間などその痛みと衝撃に体は動けなくなってしまう のだ。 次々に男達を引き倒す雲隠。牛や馬を噛み殺す野獣の力に耐え切 れるはずもなく、噛まれた足を血で汚して地面に伏した。 捕縄を持ちながら伯太郎がゾッとするような冷たい目で見ながら、 男の声に戻して告げる。 ﹁僕は女を襲う奴が嫌いだ。それが少女でなくとも。君達はかつて 少女だった女を、いつか少女を育てる女を攫っては不幸にした。少 1656 女の過去と未来を穢しやがって││馬鹿野郎が﹂ 彼の言葉に呼応して、雲隠は遠吠えを上げた。 そのごわごわした毛皮を撫でてやると、狼は再び草むらに消えて いった。 やがて同心の応援が訪れる⋮⋮。 ***** 九郎とお八が緑のむじな亭に帰り着いた時は昼営業も終わり店員 三人が遅い昼食をとっている時間だった。 おんぶしたままなのは特に気にせずにお房が、 ﹁そういえば先生が来て九郎の部屋に上がっていったの﹂ ﹁石燕が? 散らかしたままだったのだが﹂ ﹁早く掃除しろなの﹂ ジト目で言われて九郎はお八を背負ったまま、二階へ上がってい った。ついでに同じく二階に住んでいるタマも付いていく。 ﹁石燕、なにをして⋮⋮﹂ 九郎が己の部屋に入ると││ 特に胸元がぎちぎちのメイド服を無理やり着込んでいた荒ぶる石 燕が居た。 アラサー眼鏡ボサボサ髪メイドの誕生である。ローズウォーター 1657 さんと彼女に神のお恵みを。さあここに神社を立てよう⋮⋮! 彼女は見られた羞恥と、いやまだ自分いけるってこれという無駄 な自信に挟まれたような、やや紅潮したぎこちない笑みを浮かべて、 ﹁ふ、ふふふ││冥土っ☆﹂ と手を上げて挨拶のようなポージングをした。 ﹁ぎゃあ!﹂お八は己の物となった服が酷使されていることに叫ん だ。 ﹁いける⋮⋮いやきつ⋮⋮ううう⋮⋮﹂タマは痛ましさに目を背け た。 一方で九郎は、 ﹁⋮⋮意外と似合うのう﹂ よく年齢的無理をするアラサーでアル中後家という事実を無視し、 客観的に見れば胸以外はイメチェンした侍女イモータルのようにも 見えたので率直な感想を口にしたら、 ﹁ええええ﹂ と、子供ら二人が心底不平そうに呻くが、 ﹁やはり九郎君はわかっているね! 照れ期来たのかね! 生き延 びた甲斐があった⋮⋮!﹂ などと調子に乗った石燕が新たなポーズを決めようと足を動かし たら、床に置かれた見えざるステルス漬物石に小指を打ち付けて涙 1658 混じりに倒れ伏すのであった⋮⋮。 1659 52話﹃ほしをみるひとたち﹄ [明るい職場][事故は無い][かなり安全]などの標語が達筆 に書かれてあちこちに貼られている。 小石川御薬園内に建てられた長屋││小石川養生所でのことであ った。 養生所は江戸人口の増加に伴う下層民への福祉として作られた施 設である。経済成長が続いている元禄の頃までは全国の農村から出 稼ぎに来た者にも仕事が溢れて良かったのだが、ひと通り発展し終 えて享保の頃は既に停滞時期に入っていた。 そうすると元より農村の共同体に入れずに江戸に流れてきた者は 仕事も無く、貧困や孤独になり一度病気にかかれば誰にも看取られ ずにそのまま死んでしまうこともままあったようだ。 社会的弱者に救済策を幕府が取るべきだと、目安箱に施薬院の建 てるようにと投書したのが伝通院前で町医者をしていた小川笙船で ある。 世情を知る良いアイデアだと思って箱を設置したものの、日頃の 愚痴や無記名での個人的批判、さらには ﹁民から市政の意見を聞こうとする態度は認めるがそれを役人も使 わずこのような非効率的な方法で集めるのは如何なものか。足元を 確認しながらでは大局的な視野がおろそかになる。前に宗春公から も下々のことを知るのはいいが限度がありそれが返って民を苦しめ ることになると言われただろう﹂ などという内容を分厚い紙束になるまで書き綴った、先代将軍の 1660 部下でクビにした老人から投書があったのには閉口した。容赦なく 個人攻撃してくるあの人本当に何とかしろよと軽く頭を抱えた。結 局、自分が何とかした結果として江戸で暮らす浪人になっているの で決して口には出さないしこれ以上どうしようもないのだが。 そのような中でようやく建設的意見が投げかけられたので、その 通りに建設しようという話に進むのは早かったという。 吉宗は早速、江戸町奉行であり腹心とも言える大岡忠相に検討を 命じた。 そして大岡忠相も投書した笙船を呼び出して共に構想を深めたの だが、その建設・維持費用については、笙船が黒い笑顔で、 ﹁江戸の各町に居る町名主。あれを全部解任してそれの費用を当て ましょう﹂ ﹁いやそれはちょっと﹂ ﹁どうせ名主なんて金ばっかりかかって何もしてないんですから﹂ ﹁いやそれはちょっと﹂ さすがに忠相もこれには待ったをかけた。下請けの部下を全部首 というのは無理である。役人に尻尾を振って金を貰う庄屋は敵とで も云うような、薄ら赤い意志が笙船からは感じられた。 ともあれ金に関しては幕府が全額負担することで作られたこの福 祉施設はまさに救済と言えるほど画期的である。まるで画期的とい う言葉がこの場で生まれたかのような条件だ。それだけ将軍も乗り 気だったのである。 触れ込みを上げると、 ・幕府お抱え医師の内科医、外科医、眼科医をそれぞれ取り揃えて いる。 ・入院患者は食費や治療費などの薬代は無料。 ・清潔な服と寝具を貸与。 1661 と、お触れを出して、これは盛況待った無しだな、と誰もが思い 開院したのであった。 すると何処からか、 ﹁狐面の医者が薬物の人体実験を行っているらしい﹂ ﹁養生所で死んだ者は山田浅右衛門が骸を持っていくらしい﹂ ﹁これは幕府の陰謀だよ﹂ という根も葉もない噂が囁かれて最初は来院者が少なかったよう である。 とりあえず狐面と首切り役人は呼び出したが当人たちも噂の出処 は知らないという。それはいいことを聞いた、と冗談めかして表情 の読めぬ顔で言った狐面はとりあえず小石川に立ち寄らないでくれ と頼んだ。 なのでそこで働く中間や同心らは暇なので現在入院している数少 ない病人たちには過剰とも言えるもてなし体制で治療逗留を薦めて いるのだ。 そして現在││ ﹁大変だ! 例の患者が拘束具を解き放って逃げようとしている!﹂ ﹁昼飯に出た魚の骨を隠し持ってそれで縄を擦り切ったんだ!﹂ 大声で中間達が注意を呼びかけている中、次々と長屋の敷居を破 りながら出口へと三次元的な機動で飛び向かう獣が居た。 女だ。 右手の手首から先は無く、傷口を塞いで縫った痕には薬液が染み 込んだ包帯で巻かれている。左足も片足だけ着物から開いてさらけ 出し、添え木で固定されて包帯が巻かれているが左手の拘束具を引 きちぎり添え木を圧し折りながら捨てた。 1662 犬歯をぎらつかせる顔にも包帯が巻かれていて、潰れた眼球を抜 いた左目を布で塞いでいる。暴れて前開きになっている腹にも包帯 が巻かれていた。 少なくとも健康満足に見えぬ状態での行動に、医者が叫ぶ。 ﹁姐さん! あんたはまだ怪我が治って無いんだ! おとなしく両 手を上げて病室に戻りなさい!﹂ ﹁馬鹿野郎! 人間ってのは誰もが心のどこかに怪我をしてるもん だ! それを治ったかどうかって思うのは他人じゃねえです⋮⋮自 分自身が治ったと思わねえと駄目なんだ。医者にできることなんて 時間が解決することに比べればちっぽけだと思わんかね﹂ ﹁私が間違っていた⋮⋮!﹂ ﹁先生! なんで即言いくるめられてるんだ!?﹂ 中間が混乱に頭を抱えた。 それっぽいことを言われて瞬時に騙され膝をついた医者を無視し て女は常人ならばまだ歩くだけで激痛が走る体を無理やり動かして 養生所から脱出を図る。 彼女が逃げ出そうとするのはこれが初めてではない。 暫く前に九死に一生と言った大怪我で逗留することになった女だ が、意識がはっきりとするのは早く、杖をついてさっさと出ていこ うとしたのはまだ傷から血が滲む頃であった。 その度に所員や息子である雨次少年が説得したり懐柔したり洗脳 してみたり封印してみたりと対処していたのである。 養生所も暇だから入院を伸ばそうとしているわけではなく、半年 ぐらいは養生すべきな怪我だったため当然の処置であった。火盗改 長官の命で運び込まれ、町奉行も始めての重傷患者の様子を見に来 てその怪我の様子に顔を曇らせて所員に確りと怪我を治させるよう にと任ずるほどであったという。 一方で彼女の場合は暇なので早く外に出たいのである。ただそれ 1663 だけなのであった。 ﹁退屈は宇宙を滅ぼす悪徳だ! 鯛が靴履きゃ鮪は袴って云います けれど⋮⋮うわ足生えてるの想像した気持ち悪っ!﹂ 全て無意味な言葉を吐きながら、部屋繋ぎになっている長屋を駆 け抜けて行く。 他の逗留している病人などはぽかんと異様に元気な怪我人を見上 げる始末である。暴走特急と謂うべき進軍に薬瓶や盥などをひっく り返されぬように中間達は慌てて避難する。 そして、 ﹁あの人を呼べ! この養生所最強の守り人││!﹂ 云うが早いか、広間に作られている長屋の出口へ女が辿り着いた と同時に外から駆けつけてきた男が居た。 きつ 黒袴の上から薬草の匂いと色が染み付いて赤褐色がかった前掛け を掛けている、目付きが病的に強い侍であった。 風のように現れ、影のように立ちはだかる。養生所の見廻りと報 告、連絡事務などを行う町奉行から遣わされている同心だ。 名を、 えがわ・ゆざえもん ﹁同心二十四衆が六番[停止即死]の江川祐佐右衛門ただいま見参 ! 俺から生きて逃れられた患者はいな││ってうあああ!?﹂ ﹁ああっ! 江川様そこは丁度騒ぎで油をこぼしたところー!﹂ 広間に入った瞬間、床にこぼれていた油に自慢の素早い脚さばき で踏み込んだものだから摩擦を奪われ著しく板間を滑った。 泣く子も地頭も役人も運動エネルギーには従う。いつもタダ乗り している税金は事故という形で支払いを受ける。割り勘を食うのは 1664 常に間抜けなやつだけだ。 ﹁だが負けねえ! だって負けてねえもん! うおおお!﹂ 凡な運動神経ならば転び床に強打してしまうところだが、上手く 体勢を整えてつるつると平行移動している己の体を止めようと床を 強く蹴りつける。 すると偶々床板が腐ってでもいたのか、床下に蹴った部分からス ッポ抜けてしまった。 ﹁なんと!?﹂ これには耐えられずに足が嵌って転ぶ祐左右衛門。手をついて受 け身を取ろうとしたが、勢いで近くの棚を殴りつけてしまった。 棚の上に置かれた壺がその衝撃で落ちてくる。咄嗟の判断で刀を 抜き打ちして、壺を叩き割る。不測の事態に襲われ、転んで異様な 体勢にあるというのに片手で刀を抜けるとは、器用な男である。 しかし、その壺には││ ﹁こ、これは││! 無闇矢鱈にねばねばする!﹂ ﹁ああっ! 江川様が突然現れたかと思ったら松脂で固められた!﹂ ﹁くっ!﹂ 中には、黒飴と同じ色の溶かした松脂がたっぷりと入っていたの だ。江戸では当時、松脂は煎じて咳の薬にしていたのである。だか ら養生所にあっても何もおかしくはない。 こんなに多くの薬が必要な咳の患者がいれば相当な流行病でもあ りそうだと悪態を吐きたくなる量だったが、壺いっぱいなのは発注 のミスがあったのだろう。よくあることだ。業者は明らかにおかし い注文でも、素直な無知さを発揮してそのまま集め届ける。それが 1665 仕事でそれ以外の思考を行う方がもっと問題だ。 然し乍ら、運が悪いというか、一つの罠が全てに繋がっていると いうか、 ひたごら ﹁まるで比多珸羅童子の祟りだ⋮⋮!﹂ 祐左右衛門はねばねばの松脂により行動を停止させられながらげ んなりと呻く。もはや脱出しようとする気力が湧いてこなかった。 二つ名の通り、彼は止まり打たれることに弱い。何故なら気分が悪 くなるからだ。もはや動きたくもない。松脂に塗れてそれでも仕事 をこなそうという気分を持つ者などやけに醒めた吉宗ぐらいしか居 ないだろう。 ところで比多珸羅童子とは、不動明王従者三十六大童子の一人で 仏教に於いては計算と建築を司る仏だ。名前は自ず導くという意味 を持つ比多と叡智を表す珸羅の文字を組み合わせたという説と、古 代ギリシャから追放されたピタゴラスの教団がインドに逃げてきて 数学の研究を行うようになり、象徴であるピタゴラスが神格化され て仏教に取り入れられたとも伝えられている。 日本に伝えられたのは平安の頃で、現代の言葉に残る計算があっ たり、図面通りにものが作れたりする時を表す[ぴったり]という 語源は比多珸羅童子から来ているという話もある。逆に、建築が連 鎖的に崩壊した時はこの童子の祟りであるかもしれないので不動の 札を家に掲げるのが良いとされている。 勿論嘘だ。そういう設定を祐左右衛門は考えているだけだ。ピタ ゴラスは蘭学で知った。少々空想癖のある男なのである。趣味で名 を変えて黄表紙も書いているが、連載更新が滞って停止したら急に 打ち切りになって新たな別作品に移るのでその方面からも[停止即 死]と呼ばれ感想が荒れている。発想はあるが纏めるのが苦手なの であった。 1666 一方で雨次の母から見れば、何か大層な名乗りを上げて現れた変 な侍が滑って転んで松脂を頭から被るという謎のパフォーマンスを 見せたという意味の分からぬ状態であった。 新手の儀式だろうか。頭から松脂を被って踊る奇祭とか。もしく は病気か。咳の薬として壺いっぱいの松脂が必要となればそれはも う重病なのだろう。哀れな男に哀れむ顔を見せた。何故なら哀れだ からだ。哀れ同心だ。 ﹁お、おう。養生しろください﹂ 気遣った声をかけて、彼女は長屋から脱出したのである。決めら れた道をただ歩くよりも、選んだ自由に傷つくほうがいいと信じて 風の中デッドヒートである。 慌てて他の見廻同心や中間達が追いかけていく││。 ***** 夜の江戸では治安のために町の通りを木戸で閉ざしている箇所が 多々ある。 これは木戸番と呼ばれる。 近くに小さな雑貨屋のような細々とした草履や浅草紙、食器に筆 などを売っている小屋がありこれは木戸番の者が住んでいる番小屋 である。 木戸は大体、夜四ツから明け六ツ︵午後十時∼午前五時︶ぐらい まで閉められていてそれの管理と共に番小屋での商売で暮らしてい る。 1667 その晩、番小屋にはいつも暮らしている笹治郎と云う名の老人で はなく、蕎麦屋の居候である九郎が詰めていた。 笹治郎と九郎は去年の暮から、将棋仲間として親しくやっている のである。新たな技能ルールを取り入れた将棋にも対応している老 人で、説得コマンドで次々と相手の駒を奪うのを得意とする。 ともあれ、その笹治郎老人が片方の眼がどうも具合が悪く、目脂 が多く出たり赤く充血しているのだという。眼病かもしれないとい うことで医者にかかりたいのだが、番太郎という仕事はそれほど生 活に余裕があるわけではない。 そこで無料で治療してくれる小石川養生所に行ってみてはどうか という事になり、一日程木戸番を離れることになったのだ。 その間、家族も居なかった為に九郎が仕事を代わりに頼まれたの である。 ﹁さて、煮えたかのう﹂ 夜食に炊いていた鍋の蓋を開ける。むわりとした澱粉の匂いを伴 った蒸気に、磯の香りが混じっている。 炊き込み飯だ。薄く赤に染まった米と、ぶつ切りの蛸が入れられ ているそれは桜飯と呼ばれるものである。 下茹でをした蛸足を身が縮むことも考えてたっぷりと入れて、僅 かに酒と塩を入れて炊飯したのである。 醤油を入れて味付けする者も居るが、すると色が悪くなるので九 郎はこの単純なものが好みであった。 蛸から出た出汁を米が吸い込み、また入れられた塩の効果で一粒 一粒がぴんとした気持ちのよい硬さの飯である。 茶碗に盛って箸でわしわしと掻き込むと、こきこきとした蛸の食 感が噛みしめる度に良い味を出してこれだけで鍋いっぱい食べれそ うであった。 他にも蛸を刻んでぬたにしたものや、皮を湯通ししたものも用意 1668 してある。 ﹁ご機嫌な夜食だ⋮⋮﹂ 言いながら、遠くから聞こえる風烈廻の拍子木の音に耳を済ませ て、のんびりと夜を過ごしていた。 そろそろ木戸を閉めて、温かく満腹になった幸せな気分で眠れば 良い。 近頃は歳のせいか頻尿気味で意識しなくとも夜明け前に目が覚め るので早起きの自信はあった。 時折夜歩きしている駕籠持ちや小者らが芳しい蛸飯の匂いに釣ら れて番小屋に顔を出し、 ﹁おっ。いつもの爺さんじゃねえのか。美味そうだなあ﹂ などと声を掛けるが九郎は迷惑そうに、 ﹁飯屋ではないぞ、ここは。他の煮売屋に行け﹂ と、追い返すのであった。 個人で楽しむ分量で作ってあるのに売り配ったら自分が食う物が 無くなる。 精々二人前といった所だろうか。 九郎は茶碗一杯の桜飯を食ってふと思いつき、台所にある野菜を 盛った籠から新生姜を取り出してアカシック村雨キャリバーンで刻 む。 四尺三寸ある大太刀を包丁代わりに器用に扱う。なにせ、研がず とも刃は濁らずに露を帯びている魔法の刀なので切れ味は折り紙つ きだ。 細く刻んで針生姜を作った九郎は桜飯に混ぜ込む。さくりとした 1669 食感と瑞々しい爽やかな風味が合わさり、またひと味変わるのであ る。あれば、紫蘇の葉や実を散らしても良い。 混ぜた釜から再び飯を茶碗に盛った時であった。 番小屋の入り口に倒れこむ人影があり、大きく音を鳴らした。 血の匂いがする。 ﹁む﹂ 九郎が顔を向けると、凄愴な顔をした女が息も絶え絶え、包帯の 組織 の連中に追わ 上から纏っている衣服も乱れに乱れてこちらを向いている。 ﹁かはっ、はあ⋮⋮すまない、匿ってくれ。 れているんだ!﹂ ﹁いや、お主が追われてるのは養生所の者だろ﹂ それっぽい言葉を吐いたのは、九郎も顔見知りである雨次の母親 だった。 年は石燕よりやや上ぐらいだろうか。気が触れた者のような焦点 の合わぬ眼と、左右非対称な表情をしているのが特徴的な女である。 大怪我をして養生所で生死の境を彷徨って居たことは、九郎にも 関わりがあるので知っているし一度雨次と共に見舞いにも行った。 その場で暴れる彼女の頸動脈を抑えて落とす実演も雨次に教えた。 やり過ぎるとパンチドランカーに似た症状が現れる危険があるが。 ともあれ、今の彼女の姿に九郎も眉をひそめる。 血こそ滲んでいないが包帯は解けあちこち汗や泥で汚れ、折れた 足を抑えていたところなどは再び赤黒く変色し腫れている。 満身創痍そうに現れたのは演技混じりだが、重傷のまま走り回っ たのならば決して痛くなかったなどということはないはずだ。 1670 ﹁これ、とにかく上がれ。まったく、そんなことだから雨次に心配 されるのだ││って動き早っ﹂ ﹁蛸うめえ!﹂ 狐憑きの如く手足をついてわさわさとした動きで小屋に上がり込 み九郎が盛った桜飯をがつがつと食い始める。 小石川の養生所で出される飯は多くが粥か重湯⋮⋮具合の良い者 には菜を入れた味噌粥に卵を落としたものぐらいであった。 ﹁はふう⋮⋮やっと硬い飯食ったです。おれは常々すっぽんの生き 血とか出せって言ってたのにあいつらったら﹃血の気が良くなると 怪我に触るから﹄って拒否状態で﹂ ﹁まあ病人食ですっぽんを出すのは己れもどうかと思うが﹂ ﹁あごめんちょっと胃が痙攣して吐きそう﹂ ﹁おいこら﹂ えづき始めた彼女を仰向けに寝かして落ち着かせる。その間に盥 に水を張り、氷結符で冷やして手拭いを濡らして額と左足の太腿に 当てる。 骨折の痕が生々しい太腿は腫れていてかなり熱を持っていた。こ のままではくっついた骨がずれるかもしれない。九郎は適当な添え 木を探した。 ﹁なんでこんな怪我で出歩こうとしたのだ﹂ ﹁家に帰ろうとしたんですけどよ。どうも片目はねえし片足は引き 摺るしでふらふら思ったとおりに歩けなくてその内迷ってしまいま して。蛸の匂いに釣られてここまで来たでおじゃる。さあここから が勝負だ⋮⋮!﹂ ﹁どこからだ。もう寝ておれ。明日また養生所送りにしてやるから ⋮⋮ええと、お主名前なんだったか﹂ 1671 雨次の母、という認識だったがそういえば名前を聞いていなかっ たことに気づいて尋ねた。正直云えば、九郎という男は﹁お主﹂な どと呼ぶことが多いために会話に必要というわけではなかったが、 知らないのは座りが悪い。 彼女は寝転がったまま悪魔的動作を手で複雑に⋮⋮まあ恐らく悪 魔的複雑さなのだろう、表現しつつ名乗る。 かむ ﹁私の名を知らんとはもぐりだな││[剃刀]お歌夢と云えばここ いらじゃ静かな知名度﹂ ﹁それ知られてないってことだのう﹂ ﹁ぴよぴより、餌! 餌を所望するじゃけん! 人間だけを殺す兵 器かよ⋮⋮!﹂ ﹁雛鳥か﹂ 言いながらも、仰向けで食いやすいように固めに握り飯を作って 持たせてやった。天から与えられし紅玉を手に入れたように彼女は それを受け取る。魅力の九割は蛸なのだろう。婦女子は蛸が好きだ。 北斎もそう言っている。 すごい勢いで口の中に突っ込んで嚥下しようとするお歌夢。九郎 は米が飲まれていくのを上から見て、手挽きのコーヒーミルを思い 出した。老後の趣味として買っていたが数回使った後にインスタン ト粉末に戻った。その後埃を被っていたそれを見つけた誰かが淹れ てくれるようになったが、 ︵はて誰だっただろうか︶ 思い出せないが、当時家に来ていたのはスフィぐらいだった筈な ので彼女だろうと判断する。思い出せなかったところで何というわ けでもない記憶だ。 1672 寝転がったままという体勢なので喉につっかけそうだと見ている と、 ﹁もごもごもご⋮⋮えほっえほっ!﹂ ﹁⋮⋮﹂ 案の定むせている彼女に湯のみに入れた茶を渡す。 寝転がったままなので傾ける角度が難しいらしく、口の端に茶湯 を零しながらやかましく飲んだ。 ﹁熱! この熱さはあの時に家ごと焼けて消えた息子の思い出が蘇 る⋮⋮! 焼き芋なんてもうしないと主に誓うよ⋮⋮!﹂ ﹁焼けておらぬから。雨次子供だけで頑張って生きておるから﹂ ﹁ううう⋮⋮雨次よ、床板を掘り返すと大判小判が⋮⋮あっ、そっ ちの部屋の床じゃない。そっちの寝室の床は掘ると誰かの人骨が出 てくる﹂ ﹁嫌な所で寝ておるなあ﹂ うわ言のように呟く彼女にぼんやりと九郎は返した。どうでも良 い事ではあったから、どうでも良さそうに。寝ようと思えば人は死 体の上でも病毒の鎌を片手にしていても眠れる。眠らなくなった時 に人は死ぬ。 とりあえず明日の朝、木戸を開けたら番の笹治郎老人を迎えに行 きがてらこのお歌夢を連れて行こうと決める。正直以前彼と酒を酌 み交わした時の証言によると、若い頃は片目から火遁術的な熱光線 が出るのではないかという妄想に取りつかれて何度も擦っていたら しい。それが原因で無いことを祈る。 お歌夢は背負って行ってもいいが、やはり大人の女を背負うとい うのは目立つ所業だ。ついでに云えば背中で暴れられては堪らない。 知り合いの駕籠を呼んだほうがいいだろう。 1673 ︵背が大人の時ならそれほど目立たんと思うのだが︶ 思う。現在九郎は中学生男子平均ほどの背丈しか無いのだ。平均 身長の低かった江戸の世では成人男性として低いわけではないが、 九郎が最も背が高かった頃は現在よりも七寸余りも伸びていた。彼 は二十五歳までじわじわと背が伸び続けていて六尺ほどの偉丈夫に なったのである。 傷の治りや疲労回復の早さと運動能力の折り合いが一番良いバラ ンスなのがこの体なのだという術式による判断ではあるが、正直不 便な点もある。若い姿だと社会的立場が低いことが上げられる。子 供が大人になりたいと願うのは弱者の立場に甘んじないという反逆 の意志なのだ。老人が若返りたいと思うのもそれだ。社会は多くの 革命闘士と愉悦持つ強者で構成されている。 弱者でも強者でもない、狂者のお歌夢は己の都合で自由に口を開 く。 ﹁よしとりあえずあたくしと九郎先輩で負け犬死にぞこない談義で もしよう。いえーいたぶんあとひと月以内に今度こそ死ぬ﹂ ﹁先行き不安なことを云うな。折角拾った命だろうよ﹂ 指についた米粒を指ごと齧りながらお歌夢がそう謂う。 九郎は蛸のぬたを箸の先で摘んで食い適当に応えた。茹でた蛸の 皮と吸盤を、酢味噌に細かく刻んだ葱、胡麻を入れて和えたものだ が、歯ごたえと酸味が、合う。 片方だけ残った目を閉じながら彼女は口を動かし語る。 ﹁私は死ぬ予定だったんだが生き残らされてしまった。死ぬ運命が 覆された。それには代償がある。そんなもの払って変えようが、天 命なんてのは、すぐに揺さぶり戻して来るのですの﹂ 1674 ﹁⋮⋮代償?﹂ ﹁ねたばれすると人類は滅亡する!﹂ ﹁壮大すぎる﹂ ﹁あぎゃぎゃぐげ﹂ 呻いて頭を揺らしながらぶつぶつと意味のわからぬ││恐らくは 意味も無い単語の連なりを口にし始める。 如何なる事情があってこうなったかは知らないが、気が違ってい るのだ。まともな内容ではあるまい。 ﹁ううう⋮⋮おれは、お前ら人間には想像もできないものを色々見 てきた。三ツ星の側で炎に包まれた攻撃型宇宙船﹂ ただ九郎が石燕から一度狂人について聞いたことがある。例えば 狐憑きや悪霊憑きなども、発狂した人間を﹁そう﹂だと周りが云っ ている場合があるために彼女もひと通り知っていた。 き なぞら [気違い]とは古来に於いて[幾知可比]と書いた。幾つか知り 可き比える。また[既知外]とも掛けることができる。知られざる ことという意味だ。 即ち気が狂れたものは普通は捉えられない物を見て、知り、それ により思考が別の法則に感化されてしまったとも言えると、石燕は 謂う。 その既知の外にあるものを通常の人間が狐や悪霊と言い表すのだ。 本人にしかわからず、出力も出来ないので確かめる事は不可能なの だが。 ﹁たんほいざあ門の近くで闇の中に輝く極光を見た。それら全ての 瞬間は時が来れば失われる。雨の中の涙のように。⋮⋮死ぬ時間だ ぐっすりすやすや﹂ ﹁⋮⋮いや、どっかの映画で聞いたことある気がするが﹂ 1675 唐突に糸が切れた人形のように寝息を立て始めたお歌夢を胡散臭 そうに見る。 小さく既視感を感じた。言ってることも行動もむちゃくちゃだが、 石燕に似た言動である気がするのだ。 見ているものは大体同じだが彼女は理性で選んで言葉を発して、 お歌夢は思いつく端から口にしている。そんな違いがあるように思 えた。 ﹁石燕も少し思考がアレだからのう﹂ 見えないものを見てそれに則った考えを持っているというのなら、 まさに自称・魔眼で妖怪や幽霊を見つめ絵に記している彼女もそう なのだろう。 何の役に立つかと云えば、持ち主次第だと彼女は謂うのだろう。 当たり前だが、当たり前のように。 九郎の呟きに再び倒れていたお歌夢が声を漏らす。 にんにく ﹁せきえん⋮⋮ああ、お豊とか謂う女は死んだのでしょうか。あの 生ける屍番付殿堂入りのご同類﹂ ﹁生きておるぞ。最近は病気も治って大蒜とか焼いて丸かじりして てな、フサ子に口臭いって指摘されへこんで⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮拙いな﹂ お歌夢は目を見開いて低い声を出した。 それが普段壊れたテープを垂れ流しにしている風な言葉ではなく、 感情の篭った一言だったので九郎は口を閉じ彼女を見る。隻眼はぴ たりと瞳孔を広げて、だらしなく虚言を漏らし続けていた口は引き 結んでいた。 彼女は起き上がろうと上体を起こす。片足は添え木で抑えられる 1676 上に感覚がなくなっているのか動かないが、這って動こうとする。 慌てて九郎が襟首を掴んで止めた。 ﹁これ。何処に行くのだ﹂ ﹁あの女と武力の行使も辞さない交渉してきます﹂ きっぱりと、意味のわからぬことを謂うので九郎はどう反応して 良いのかわからず問いを繰り返した。 ﹁大怪我人と戦闘力が虫並な女が何を争う﹂ ﹁眼鏡を││﹂ ﹁眼鏡?﹂ 唾を飲み込んで、お歌夢は潰れた方の目を一度手の甲で擦り続け た。 ﹁彼女は死の際に形見分けとして眼鏡を新井白石に渡し、そして数 年後に亡くなる彼はそれを引き取った同居の子││雨次にくれる。 そういう流れがあった。しかしそれは覆された﹂ ﹁⋮⋮まるで、見てきたかのように謂う﹂ ﹁あの眼鏡を⋮⋮雨次に渡さなくては⋮⋮朱面が⋮⋮﹂ 女は眼鏡、眼鏡と呻いている。 九郎は難しい顔をしながら、よく事情は掴めないのだが、 ﹁つまり、雨次の目が悪くなるから高性能な眼鏡が欲しい、とかそ んな感じか?﹂ ﹁その通りで御座います﹂ ﹁⋮⋮はあ。わかった、それなら己れから明日にでも石燕に頼んで やるからとりあえずお主は休め。そんな体で夜道を歩くと其れだけ 1677 で死ぬぞ﹂ そう言って九郎はお歌夢を引き釣り、敷いていた布団の上に寝か せた。住人の笹治郎の布団を勝手に使っているが、泊まり込みの代 わりをしているので文句は言われまい。 彼女は安心したのか脱力して布団に寝転がり、再び戯言を囁く。 ﹁眼鏡⋮⋮眼鏡⋮⋮奴から眼鏡属性を奪え⋮⋮﹂ ﹁あやつからそれを取ったらただの目元不健康なアラサーになるの う﹂ ﹁一方、雨次は鈍感草食系眼鏡男児だ⋮⋮これからも頑張れ⋮⋮﹂ ﹁お主が息子のことを想っているのは分かったから、もう寝ていろ﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ 大きく息を吐いて、彼女は背中を向けた九郎へ最後に礼をした。 ﹁││ありがとう、爺ちゃん。最期に会えて﹂ ﹁││!? お歌夢⋮⋮?﹂ 九郎が振り向くと││彼女は目を瞑り⋮⋮もうその動きを、止め ていた。 安らかなその顔は、随分と小さな子どものようであった⋮⋮。 1678 ***** ﹁寝てるだけじゃねーか!﹂ くうくうと規則正しく寝息を立ててる気持ち良い寝顔のお歌夢へ、 久しぶりに九郎は叫んでツッコミを入れたがまったく起きなかった。 ついでに彼女と額を合わせてじっと数秒待ち、離してもう一声、 ﹁魔女ですらねーじゃねーか! 死ぬほど紛らわしいな!﹂ とりあえず無駄な戯言に振り回された九郎は深夜、理不尽を怒鳴 るのであった。 ***** 翌日⋮⋮。 健康的爆睡を続けるお歌夢を駕籠に乗せて九郎は共に小石川養生 1679 所に行った。 医者や中間に彼女を引き渡し、眼病で訪れていた笹治郎の様態を 伺ったところ、目薬を処方されて良くなったということなので安心 した。何故か割れた床に足を埋めて固定化放置されている同心が居 たが、それに触れない優しさも九郎にはあった。 そして一応は約束なので神楽坂にある悪霊の神々集うロンダルキ アめいた石燕の家を訪ねたのである。 戸を叩くといつも通りの呆れ顔をした子興が開けて、うんざりと 家の中を指さした。室内は鼻を押さえる程酒気が残っている。 丸まった布団で頭を抱え呪いの言葉を口にしていた。自分の生ま れた日すら呪う勢いだ。 ﹁││私の生れた日は滅び失せよ。[子が胎に宿った]と言った夜 もそのようになりたまえ。その日は暗くなるように。神が上からこ れを顧みられないように。光がこれを照さないように。闇と暗黒が これを取りもどすように。雲がその上に留まるように。日を暗くす る者がこれを脅かすように。その夜は暗闇がこれを捕えるように。 年の日のうちに加わらないように。月の数にもは入らないように。 またその夜は孕むことのないように。喜びの声がそのうちに聞かれ ないように⋮⋮﹂ 九郎も激痛のあまりに神に後悔している様子の石燕を見て嫌そう に子興と顔を合わせた。 ﹁二日酔いなんだって。体が治ってからお酒の量が増えて⋮⋮二日 酔いの純粋な頭痛が襲ってくるようになったみたい﹂ ﹁どれだけ心折れておるのだ。悪魔にでも取り憑かれたか﹂ 九郎の言葉に反応して、相変わらず寝不足に見える隈のある目元 を向けてひたすらに襲いかかり意識を朦朧とさせる頭痛と吐き気に 1680 耐えながら石燕は云う。 ﹁く、九郎きゅん! うぐぐぐぐ⋮⋮見ての通り今私は神話級激痛 に耐えているところなのだ! つまり⋮⋮わかるね?﹂ ﹁ああ。神話級激痛が終えてから来ることにする﹂ ﹁鬼かね!? こういう時は膝枕だよ! ひーざーまーくーらー!﹂ ﹁最近此奴の自重が行方不明だのう﹂ 呆れながらも仕方なく近寄って座り、膝を貸してやる。 躊躇なく九郎の小さい膝にごろんと頭を載せる石燕に、近くにあ った盥と手拭いを取って瞬時に冷やし彼女の顔を拭ってやる。 毛穴が引き締まる冷たさの手拭いを頭痛響く顔に当てられて、 ﹁はふう⋮⋮熱が出て苦しかった⋮⋮﹂ と、情けない声を出す。 本当に、 ︵最近は子供返ったかのようだ⋮⋮︶ 九郎はそう思いながら手拭いを彼女の額に載せた。体が良くなり、 余裕が生まれたのだろうか。 一応わからなくはない感覚ではある。九郎とて、老人の頃よりも 今のほうが性格は若々しくなっている。魔女のはちゃめちゃに付き 合わされた影響もあるが⋮⋮。 ﹁ところで石燕﹂ ﹁なんだい九郎君。お小遣いかね? ふふふ機嫌がいいからほら幾 らでも﹂ ﹁これ、小判を手渡そうとするな。違う。己れがいつも小遣いをせ 1681 びっているようだろう﹂ 慣れた手つきで懐から金子を取り出す石燕の手を押し留める。 当然のことだが彼の遊び金を全て石燕が支払っているわけではな く、それなりに余裕のできた[緑のむじな亭]から報酬金も受けて いる││適当極まりない分配として、六科が単純に九郎とタマと店 で三分割しようとしたのだが、お房が叱りつけ適正に賃金を計算さ れて渡されるようになった││し、何かと人助けや仕事の手伝いな どで暮らして不自由無い程度に稼いでいるのである。 ただ遊びすぎ素寒貧になった時に石燕と世間話をしたりして交際 費として援助してもらっているだけである。 とりあえず、要件を云う。 ﹁実は眼鏡のことなのだが⋮⋮﹂ ﹁うん? はっ! もしかして九郎君、新たに属性を追加し鈍感草 食系眼鏡男子になるつもりかね!?﹂ ﹁なんでそう発想が被るのだ﹂ 流行っている筈はないのだが、と軽く目眩を感じる。 ﹁いやな、雨次という子供が居ただろう﹂ ﹁ああ。天爵堂の所の青春こじらせる感じがしそうな生徒だね。彼 が何か?﹂ ﹁あやつの目が悪くなるらしくてな。確かに暗い所で本などをよく 読んでおるからのう。それで眼鏡⋮⋮お主のような良いものが必要 なのだとあやつの母親が言っておったので、譲ってくれとは言わぬ が作れる場所など知らぬか?﹂ ﹁ふむ。目が? 悪く、ね⋮⋮彼の母親は⋮⋮ああ、成程。もしか して九郎君、その女性は左眼が潰れていないかね?﹂ ﹁そうだな、最近暴漢に襲われてしまってのう﹂ 1682 ﹁⋮⋮となると拙いのは、まさかその雨次少年か⋮⋮?﹂ 九郎の言葉に石燕は目を細め、口元に手を当てて考える仕草を見 せた。 何かを気にしているようだが九郎は知らないことなので、不思議 そうにしている。 ﹁何がだ?﹂ ﹁いや⋮⋮今は確証がない。私の思い過ごしだろう﹂ ﹁適当に後回しにして後で台無しになる天才の台詞みたいな不安を 煽るな﹂ ﹁ふふふ、話は変わるが﹂ 誤魔化して彼女はにへら、と笑みを作った。 ﹁暗い所で本を読むと目が悪くなるという事は実際無いのだよ、九 郎君。知っていたかね?﹂ ﹁そうなのか? 己れが小さい頃は言われていた気がするが﹂ ﹁ふふふ、蛍雪の功を成しても目が潰れていては話にならないだろ う?﹂ ﹁ケイセツの功?﹂ ﹁晋代の故事だね。車胤と孫康という貧しい二人の青年らは蛍を袋 に集めた光や窓に積んだ雪の反射光で勉学を励み官吏に合格した⋮ ⋮というものだね﹂ ﹁蛍の光、窓の雪というやつか。己れはてっきり蛍の光で窓の雪を 照らしていたのかと﹂ ﹁雪の降る季節では死んでいるよ蛍は﹂ 笑いながら石燕は己のかけていた眼鏡をそっと外して九郎に渡し た。 1683 受け取りながら、素顔の石燕をじっと見て九郎は聞く。 ﹁⋮⋮良いのか?﹂ ﹁この世に二つとない、殺生石の欠片を埋め込んだ貴重な魔封じの 眼鏡だよ。作れる職人も長崎にしか居ないしね。私から、九郎君へ 膝枕の代金としてあげよう。九郎君からその雨次少年に渡してくれ たまえ﹂ ﹁ううむ、しかし⋮⋮言っておいてなんだがお主の眼鏡がなあ﹂ 困った顔で、冷えた手拭いで眼鏡を外した石燕の目元を拭う。い くら熟睡しても消えたところを見たことのない隈を擦るとくすぐっ たそうに笑う。 ﹁いいのだよ。その代わり頭痛が消えるまで膝枕をしてくれたまえ﹂ ﹁││わかった﹂ ﹁ああそれと子興﹂ 石燕は手を軽く上げて指を鳴らした。 ﹁はあい﹂ 間延びした返事をし、子興が棚から小さな木箱を持ってくる。 それを開けると││中には殆ど似た意匠の眼鏡が入っていた。見 たところ枠に使われている金属が違うが、それ以外は。 石燕は何事も無かったかのようにそれを顔にかけて、いつもの眼 鏡形態へ戻った。 アポイタカラ ﹁おい。二つとないとさっき言ったばかりではなかったか﹂ ﹁ふふふ! そっちは殺生石を使った眼鏡でこっちは青生生魂とい う金属を使った軽量版なのだよ! 南朝の復興を画策している集団 1684 から高値だったが購入してみた怪しい物質でね!﹂ ﹁なんで胡散臭い素材に惹かれるかなあお主は⋮⋮﹂ 大きく溜め息を付く九郎だが、予備の眼鏡があるお陰で石燕が弱 視力で困ることが無さそうなので、少し安心している自分に気づい た。 膝枕をしたまま喋りすぎてまた痛んでいるのか、軽く目を閉じ睡 る体勢に入った石燕を見下ろしながら、 ︵まあ、眼鏡が似合うからのう︶ と、思ってそれから起きる昼過ぎまで、膝を貸してやっていたと いう。 ***** その眼鏡を雨次に渡す時にまた少し悶着があった。 なにせ、職人が南蛮風を意識して作った逸品である。ただの眼鏡 でもそう流通していないのに、このような特注品は普通ならば町人 は持てない貴重な物であった。 それを、ただでくれるという。 怪しむほど付き合いのない関係じゃなかったが、困惑はする。例 えるならそこそこ仲良い従兄弟からざっと数十万しそうなジオラマ をくれてやると言われて素直に受け取るのは骨川さんの息子ぐらい だ。 1685 人の善意を悪意と受け取る。天の光は全て敵。兄より優れた弟は 居ない。まあそんな、凝り固まった思考に暫く前まで染まっていた 雨次では無償の善意に躊躇するのも当然である。彼に兄弟は居ない が。 ﹁確かに最近は本を読んでたら目が疲れるけど⋮⋮﹂ ﹁いいから貰っておけ。お主の母親が心配しておったのだ﹂ ﹁母さんが⋮⋮? うう、それでも⋮⋮せめて代金は払いますよ﹂ 云う。雨次はこの前の賭博の稼ぎがまだ残っているのである。 しかし九郎としても、自分が金を出して買ったわけでもないもの を売るのは気が引ける。仮に受け取って石燕に売上の代金を渡そう としても拒否されるのは、 ︵目に見えている⋮⋮︶ ので、雨次の申し出を断る言葉を慎重に選んだ。 ﹁よい、よい。この眼鏡はな、そう⋮⋮﹂ 膝枕の対価としてだが無料で手に入れたものだ。正当な取引、営 んだ商業の結果と云えよう。即ち言葉をわかりやすく纏めると、 ﹁││枕営業で貰ったものだから﹂ ﹁⋮⋮﹂ 最近、雨次が自分を見る目が随分と悪く見える。 ︵眼鏡で少しは柔らかな目付きになればよいのだが︶ 1686 九郎は彼に眼鏡を渡しながら、何やら選択肢を間違った気がしつ つもそう思った。 1687 挿話﹃異界過去話/お見合いサイクロトロン﹄ 緑のむじな亭が表店にしている、裏長屋に住んでいる辛助は塩問 屋に通いで働き、あちこちの訪問先に塩を売って歩く仕事をしてい る。 鯰のような髭が生えていることもあり、知り合いの中では[鯰の 塩辛]などと渾名を付けられている。 ただ、本人は捨て子で寺に引き取られ育ったので、あまり生臭は 食わない。単に食い慣れていないのだという。 性格は口下手なのだが真面目で、人付き合いが悪い訳ではない。 他の長屋の男と混じってむじな亭で飲むこともあり、九郎とも知り 合いであった。 彼と、大川沿いにある飴売り茶屋[ふる屋]の娘とで見合いをす る事になった。 この店は飴を売り歩いていた店主が腰を悪くしたので空き家を買 い取って飴を売る茶店にしたという、何処にでもある茶屋である。 二、三度ぐらいは九郎も店に入ったこともあり、素朴な感じのする 娘も見たことはあった。生姜を効かせた飴湯を出すので子供らを連 れて行くに良い店なのだ。 そこの娘が気になっている、という話題がむじな亭の飲み会で上 がって他の男衆にからかわれていた。 やれ、 ﹁早く告白してこいよ!﹂ ﹁いやいやここは古めかしく文でも送れ﹂ ﹁駆け落ち! 駆け落ちしろ!﹂ などと、人事なので好き勝手に助言にもならぬことを言われる。 1688 とうとう 到頭どうにかしなければ根性なしの屁垂れだという論調にまでな ったものの口下手でまともに女を誘えない。 どうしようとなって頼ったのが誑し込む能力が高いと思われてい る九郎であった。 ﹁仕方ないのう﹂ と、言いながらも九郎は二日程で話を纏めてきたのである。 彼はその[ふる屋]とは面識がなかったが、茶葉問屋の大旦那と は将棋仲間であった為に、そちらに話を聞きに行ったところ、件の 茶屋もその問屋から茶を仕入れているという。 ならば話は早く、[ふる屋]の店主と親しくしている番台に話を 通して向こう様の娘に好いている相手や恋仲の影が居ないことを確 認させる。 問屋の大旦那も九郎もそうであるのだが、年を食い暇になるとこ のような事は楽しく進めてしまうのであった。 そして特に辛助が相手でも問題ないことを確認し、ひとまず見合 い話を進めたのであった。 ﹁ありがとう、九郎の若旦那﹂ ﹁よいよい。全く、本当はこういう段取りは大家の六科がするもの だが⋮⋮﹂ ﹁あの人に期待は⋮⋮﹂ ﹁難しかろうな﹂ 言って、九郎と辛助はお互いにむっつりした顔で厨房に居る六科 を見て苦笑いを浮かべて、辛助は心なしか軽やかな足取りで店を出 て行った。 その様子を見ていたお八とお房が、 1689 ﹁なんかこう⋮⋮手馴れてるなー九郎﹂ ﹁軽く世間話するようにお見合いを決めてきたの﹂ 彼は肩を竦めて手を払う仕草で振る。 ﹁ま、昔取った杵柄だのう。もう何十年も前だが知り合い五、六人 は見合いの相手を見つけてやったことがあってな﹂ ﹁へえ。本人はお嫁貰ってないのにお節介な男なの﹂ ﹁うるさいわい﹂ お房の言葉に苦々しく返す九郎。 その頃は異世界に居て、骨を埋める覚悟もしていなかったので嫁 を作る気がまるで無かったのである。 家族を作ればそれを捨てて元の世界に戻る事ができるかわからな かったからだ。諦めた頃にはすっかり壮年な上に収入も少なく、家 庭を持つと謂う状況ではなかった。 ﹁九郎兄さんもお見合いしたりしなかったんですー?﹂ 皿を洗っていたタマが仕事を終え、茶を九郎の前に置きながら伺 うように聞いてきた。その言葉にぴくりとお八が背筋を動かして緊 張した面持ちで耳を傾ける。バレバレな動きだったのでタマはぶふ っと小さく笑いを零した。 九郎は気づかずに、腕を組んでやや仰ぐように思い出し、 ﹁うーむ、上司とかから話を持ちかけられた事はあったが大抵断っ ておったし⋮⋮あ、いや、1回だけしたのう、見合い﹂ ﹁な、な、な、なんだと!? 誰とだ!? どうなった!?﹂ がたりと音を立ててお八が立ち上がり、九郎に近寄る。 1690 彼は謎の勢いを持った彼女に押し留めるように手を向けて、 ﹁いや⋮⋮どうともならんかったのだが。確かあれは││﹂ 言いながら、九郎は数十年前の記憶を思い浮かべた。 ***** 異なる宇宙。異なる次元。異なる時空。三千大千の吹き溜まりに ある世界。そこはペナルカンドと住人に呼ばれている。 様々な神が存在するその世界での一級神格存在・命名神と云う神 が世界の名も名付けて、あらゆる者からそう呼ばれるようになった。 宇宙の彼方までをしてペナルカンドであるのだが、普通にそれを 差す場合は神々の無秩序な暴走混沌箱庭とも言える惑星ペナルカン ドを指す。巨大な大陸と大洋、島々を居住地とし環境整備して様々 な人間や動物、ケイ素生命体や霊的存在が入り乱れ好き勝手に生活 している。 ペナルカンド世界は神に護られているものの壊滅災害の危機がし ばしば発生する。 生物を絶滅させかねない存在が幾度も発生し、その度に勇者や英 雄と呼ばれる超存在や神々が対処していた。 1691 有名な災害存在として挙げられる一例としては││縮退天使イリ スとその転生体の魔女。地枯らしの堕天巨人ネフィリム。殲滅機神 シュニン。魔人にして悪魔召喚士シェローム。世界を核の炎で灼い た外法師ヨグ。断罪する悪聖人アルフルケス。狂わされし剣神イグ スラ。星喰らいの神竜エンシェントアースドラゴン。海水ネットワ ーク生命体[おおきなうみ]、未来の終末に訪れる第四黙示など││ 死んだり抗ったりあまりに酷いと蘇生神に一斉復活させられたり しながらこの世界の住人達は今日も生を謳歌している。 ただ、死ぬことも多いが転生という現象が一般にも浸透している ので死生観は少しばかり特異になっていた。 そんな中、長寿のエルフと呼ばれる耳長種族では不慮の死が無け れば生のサイクルが長い為に、多種族に比べて特に誕生日を祝う習 慣があった。それも、毎年は多すぎるということで十年に一度に。 大陸の西方に位置する都市国家クリアエ。つい最近に騒乱を終え て国際的な認証を受けて国家に成り上がった街である。 今だに治安は不安定だが、新たな国を発展させようとしている活 気と騒がしさに溢れている。新興国で商業系の都市国家によくある のだが人種も様々に流入してきており、その内の一人││異世界か らペナルカンドにやってきてあれよこれよと過ごしているクロウか らしても、 ﹁百鬼夜行のような⋮⋮﹂ と、印象付けられた。 クロウは夕暮れの雑多な町並みをすいすいと歩きながらも、そう 思っていた。見慣れたとも言える光景だが、感想は変わらない。 その日は仲間の誕生会があるのだが仕事が立て込んでいて少々遅 れていた。先に始めているだろうが、急がねば怒られてしまう。思 1692 いながら繁華街の大通りを外れて、テナントビルの地下に作られた 店へ階段を下りて行った。 中規模の飲み屋を貸し切りにしている集団は数年来の仲間であっ た。 集団は少し前まではジグエン傭兵団と呼ばれていた。今は多数の 団員は騎士団として国に雇い入れられている。クロウもその一人だ。 それ以外にも、平和になった国で店を開いたり、教会を手伝ったり、 旅に出たりと別れたものもいる。 それらの多くが集まるのは久しぶりで、誕生会という名目だが同 窓会気分でもあった。 クロウは店の扉の前で佇んでいる修道服の幼女を見て意外そうに 声をかける。 夕日に淡く色づいた白金色の髪が特徴的な知り合いであった。 ﹁スフィ。どうしたんだ、外にいて﹂ ﹁遅い! クローが遅いから始められんで待っていたのじゃよ!﹂ ﹁ええ⋮⋮っていうか主賓がなんで外で待つんだよ﹂ 腰に手を当てて頬を膨らませている、女子児童という言葉がその まま適用される姿の少女││スフィにクロウは頭を掻きながら返事 をした。 彼女の誕生日会なのである。クロウの到着まで開始を遅らせるの はともかく、本人を外で待たせることもないだろう。 何故かスフィは目を逸らしながら、 ﹁そ、それは⋮⋮﹂ と、言葉を詰まらせた。 クロウが来るまで始めないようにして欲しい、と頼んだのは実の ところスフィなのである。 1693 折角皆が祝ってくれるのに、最初からクロウが抜けているという のは寂しい気がしたのだ。 仲間達は生暖かい目でその願いを受けて、それなら余った時間で 会場の飾り付けをするから、とスフィに外でクロウを待たせたので あった。 幼女は咳払いをして、 わし ﹁とにかく! 私の誕生会はこれから始まるのじゃ。ほれ、一緒に 入るぞ﹂ ﹁わかったわかった﹂ 誕生日だというのに怒らせてはいけないと思って九郎は其れ以上 の追求を止め、二人並んで店の扉を押して入った。 店内は暗かった。この都市でメジャーな付与魔法光源は消され、 採光窓は閉ざされ、ずらりと奥のカウンターへ向けて蝋燭が立ち並 び、ちろちろと小指の先ほどの火を灯している以外に光はない。 それぞれ一本ずつ蝋燭が置かれたテーブルに座っていて一言も喋 らない三十人程の人間は皆真っ黒のフード付きローブを被っている。 支え棒でもしているのか、一様に頭の先が三角形に膨らんでいた。 クロウとスフィが一歩進むと、金属を擦り合わせる音と共に室内 の灯りが減った。 鋏で蝋燭が一つ消されたのだ。 更に一歩。金属音。 一歩。金属音。 歩││音。 しゃり/と謂う音/共に/光は消える。 1694 進む度に部屋全体は暗くなるが、カウンター近くまで辿り着いて クロウとスフィは目の前にある蝋燭に目を見張る。 生首││虚ろな目を開けっ放しにした女の、首から上が置かれて いてその頭に蝋燭が載せられているのだ。 その後ろで黒い祭服を着た巨漢の神父がぬっと立ち上がる。 蝋燭に照らされたその頭は││牙の伸びた猪に似ている。オーク という獣人の一種だ。 ﹁さあ﹂ その口から低く、嘲る響きを持った声が響く。 どこか息苦しく火で生暖かい空気に更に重圧を掛ける声だった。 ﹁生誕の、祭礼を始めようか││﹂ クロウとスフィはお互いに目配せをして、小さく頷き手を構える。 行動に移すのは同じだった。二人の口から全く同じ言葉が叫ばれ る。 ﹁││なんの儀式だこれー!?﹂ ツッコミを入れた。 その言葉に周りの黒フード達から笑い声が上がり、店中を覆った 暗幕が落とされる。 カウンターに隠れていて劇的に出てきたオーク神父もはにかんだ ように頭を掻いた。集まった皆も何故か用意していた黒服を脱ぎ捨 てて次々に、 ﹁スフィー誕生日おめでとー!﹂ 1695 ﹁おめでとうスフィ!﹂ ﹁ハッハッハ久しぶりに聞いたな夫婦ツッコミ! やっぱうちの団 はこれがねえと!﹂ 笑いながら蝋燭を片付けたりテーブルを戻したりして宴会の準備 を整え直す。 当のスフィが手を振り上げて近くに居た中年男、ジグエンに怒鳴 る。 ﹁こぉりゃー! お主ら! ちょっと目を離した隙に何を悪戯して おるのじゃ! というか夫婦じゃないわ!﹂ ﹁ぷっふースフィたん顔真っ赤ー!﹂ 冷やかすように言いながらおどけて逃げまわる中年。 彼こそクロウやスフィが所属していた傭兵団の団長で、現政権の 正騎士団一課︵戦闘、警護担当︶部長のジグエンであった。異世界 に迷い込んだクロウを拾った恩人でもあるのだが、世間知らずなク ロウと未熟なスフィは彼によってよくからかわれていた。 しかしだんだん世界に慣れてくるとクロウも性根が落ち着いてい るので、 ﹁うわ、デコに蝋燭の痕ついてるぞイツエさん﹂ ﹁え、本当ですこと!?﹂ ﹁無駄な演出するから⋮⋮﹂ ﹁わ、わたくしだって悪趣味だと思いますわよっ!﹂ マイペースにカウンターに置かれた生首と会話していた。その横 で首無しの二メートルはある巨大な全身鎧が右往左往している。 ﹁ちょっと待ってて、ぼく傷軟膏を貰ってくる﹂ 1696 慌ててオーク神父は店の奥に薬箱を取りに行った。 気品のある少女の顔をしたその首は名をイートゥエと云う、デュ ラハン化した姫騎士である。クロウには発音しにくいからイツエと 親しみを込めて呼ばれている。お返しにクロウもクロちゃんと呼ば れているが。 ある国で起こった戦争に於いて、第二王女である彼女が戦場で騎 士として出陣した││そういう伝統があった││のだが、敵に捕虜 にされた際に、 ﹁くっ! 辱めるぐらいなら殺しなさい!﹂ と、お決まりの台詞を言ってみたかったので言ったら本当に斬首 されたという残念な姫騎士である。 破壊不能だった呪いの鎧ごと埋められて蘇生した頃には国は滅ん でいて、とりあえず鎧を何とか脱ぎたいのでその方法を探して旅を したり傭兵として金を稼いだりしている。なお、鎧がでかいだけで 体は人並みに小さいらしい。 そして数年前まではクロウと同じ傭兵団に所属していたのであっ た。 オーク神父の方も旅の巡業神父だったのだが、偶々通りかかった 時に、 ﹁君、いいカラダしてるね! チームに入らないか!?﹂ ﹁いや、ぼくは争い事とか苦手で⋮⋮﹂ ﹁大丈夫大丈夫! 筋肉があればなんでもできる! それに頑丈な 後衛職とかマジ便利だからさ!﹂ 1697 無理やり団長に勧誘されて仲間になったのであった。オーク種族 の性格は両極端で、山賊などをしている荒っぽい者か、押しの弱い 気弱にすら見える者かに別れる。彼は後者で人に頼まれると嫌と言 い難いのであった。 なお、オーク種族は特有の個人名をあまり持たない文化だ。区別 としては職業や性格などを名乗るようにしている。だから神父のオ ークはオーク神父であり、他にも例えば野獣オークとかオークシェ フとか塩オークなどと呼んでそれを名としている。 ともあれ、傭兵団が解散してから、イートゥエは鎧の呪いを解く 方法を探すために東方へ、オーク神父もよくよく旅に出ているので 久しぶりに見かけた面々であった。 スフィの誕生日にかこつけた集まりに手紙で呼ばれたのである。 首無し大鎧の体に首を持たせて器用に自分の額に軟膏を薄く塗る イートゥエに、クロウは顎に手を当てながら感心する。 ﹁いつも思うが器用だなー﹂ ﹁体の方は体の方で見えてないのに思う通り動くのですわよ﹂ デュラハンは首が見てないところでも体は半自動的に行動を続け ることができるという。 そして頭を首の切断面││白く濃い蒸気のような靄が掛かってい て断面は見えないが││に置き、お気に入りのマフラーを巻いて固 定する。背の高さは軍馬乗用の大型魔導鎧で2メートルを越えると いうのに少女の顔というアンバランスさがある。 ジグエンを叱るのを諦めたスフィが近寄ってぺしぺしと鎧を叩い た。 ﹁しかし久しぶりじゃのーイートゥエも。何処に行ってたのじゃ?﹂ 1698 ﹁海を渡って東方の島国に行ってましたの。ほら、うちの隊に居た ニンジャの⋮⋮なんて名前だったかしら﹂ ﹁なんじゃったかのー?﹂ 話題に出しかけて頬に手を当てて首を傾げるイートゥエ。手を当 てなければ首が落ちる為に癖になった仕草である。 クロウと神父がすっかり影の薄かった忍者の名前を忘れている二 人に教える。 ﹁シックルノスケだろ。ユーリ流鎖鎌術とか謂うのを使ってた⋮⋮﹂ ﹁そういえば彼は来てないみたいだね﹂ きょろきょろと見回す神父だった。 なお、実際にはこの会場にユーリ・シックルノスケは来ているの だがナチュラルに潜んでいるので誰も気づいていない。戦場では裸 で飛び回るために目立ち、日常では地味すぎて忍ぶと評判の忍者な のである。 ともあれ名前を聞いたもののニンジャの詳細を思い出すことを諦 めたイートゥエは咳払いをして、 ﹁とにかく、ニンジャから東方のサムライファイターには[斬徹剣 ]という硬い物でも切れる剣術を使う達人が居ると聞いたので、鎧 を壊して貰おうと探していたのですわ﹂ ﹁ほー。しかしまだ着てるってことは⋮⋮﹂ ﹁ええ⋮⋮結局駄目でしたわ。探しに探して切れる者は見つけたの ですけれど、この鎧は鋭い切断力に対しては切断面を流体状にして 瞬時に修復するようになってますの。鎧ごとわたくしの体を真っ二 つにしたのにすぐにくっついて⋮⋮斬られ損でしたわ!﹂ ﹁アンデッドって頑丈だな。ジグエン団長の必殺剣[ゴーレム爆砕 伝記]で壊そうとした時も中身に衝撃だけ通って骨がべっきべきに 1699 なってたけど﹂ ﹁痛いものは痛いんですのよ!﹂ 腕を組んでクロウを見下ろしながら抗議する。 アンデ 死者は魂を運ばれ転生することが宿命付けられているこの世界で ッド も、己の魂を死体や無機物に移し延命を行う者も居てそれらを不死 者と呼ぶ。名義的には不死であるものの寿命が遥か長くなっただけ で死はいずれ訪れるし、死に至る殺され方もある。また、不死化に は幾らかその後の制限がある││生殖が不可能になる、多くの国で は税金が増えるなど││為に、その後に良い頃合いを見て死を取り 戻す者も居るという。 イートゥエの場合は彼女の実家に伝わっていた呪いの魔導鎧[ネ メシスアドラスティア]による強制効果でデュラハン化しているの であった。死に急ぎたいわけじゃないが、もう何年も風呂にも入れ ていないし鎧は生活に不便だしで早く外したいのである。 思い出したように身をかがめて、 ﹁そうでしたわ。スフィにお誕生日のプレゼントを持ってまいりま したの﹂ ﹁お! すまんのう! ありがとーイートゥエ!﹂ 嬉しそうに見上げる少女はわくわくした表情を隠そうとしない。 苦笑しながらも床に置いていた物を持ち上げ、 ﹁お土産みたいですけれど東方で手に入れたもので⋮⋮これはポー ルアクスの一種で[方天戟]といいますの。意匠が秀逸ですわ! これを差し上げますわ!﹂ ﹁プレゼントに文句を謂うつもりは無いけど重くてデカイんじゃよ !?﹂ 1700 明らかにスフィの体よりも巨大で重量のある戟をすいと取り出し たので思わず下がる。 どう見てもスフィでは持ち上げることさえ出来なさそうだ。 言われて、イートゥエはさっと冷や汗を掻きながら目を逸らした。 ︵⋮⋮カッコいいから思わず買ったけど、スフィには無理ですの!︶ と、いうことに今更気づいたようである。 ﹁ち、違いますわこれはその、冗談ですのよ。本当はこっちのお面 を差し上げますわ﹂ 言い直して道具袋を漁り、取り出したのは顔の目元から上を覆う 形になっている半面である。白い作りに赤い隈取がしており、上の 方にちょこんと耳が突き出している。 クロウはまじまじと見ながら、 ﹁狐面か? へえ、お祭りみたいだな﹂ ﹁ふふふ、それだけじゃありませんことよ﹂ そう言ってイートゥエはスフィの顔に面を近づける。すると、紐 も無いのにぺたりと彼女の顔に面が張り付き││、 ぼふ、と小さな煙が上がると、スフィの腰からふさふさの尻尾が 飛び出て、手が丸くデフォルメされた獣の肉球つきの手になってい た。 ﹁このように変身する道具なんですの! あら可愛らしい﹂ ﹁ぬあ! なんじゃこりゃあー! 肉球、肉球があるぞクロー!﹂ ﹁わかったから押し付けるな﹂ 1701 ぐいぐいとクロウの腹を押しまくるスフィの両脇に手を入れて高 く掲げるように抱き上げる。 すると周りの目線が狐スフィに集まり、歓声が上がった。 ﹁あのあざといエルフ今度はケモ属性まで手に入れてるぞ!﹂ ﹁ぶっはははははスフィ可愛ゆっ!﹂ ﹁スフィたんイェイイェ∼﹂ ﹁スフィたんイェイイェ∼﹂ ﹁ハッピバースデー、ディアスフィたーん!﹂ 皆から持て囃されているスフィは顔を赤くして持ち上げているク ロウへ振り返り、 ﹁こ、これ降ろさぬかクロー!﹂ ﹁はっはっは。新しい宗教でも開ける勢いだな﹂ ﹁まったく⋮⋮ま、まあ皆が祝ってくれるのは嬉しいがな!﹂ 降ろされたスフィに今度は神父が、 ﹁それじゃあぼくからはこれをプレゼント﹂ と、取り出したのは硝子の瓶に入れられた、氷の結晶に包まれて いる樹の枝であった。 硝子越しにも冷気が伝わるが、中に溶けた水が滴っている様子は ない。 ﹁おおっ! これは永久樹氷じゃな! 氷竜山脈に行ったのかえ? ありがたいのう﹂ ﹁うん。麓の集落にまでね。山は怖くて行けなかったよ﹂ 1702 寒気を思い出した神父はその巨体を怯えたように震えさせる。 永久樹氷と言うものはエンシェントアイスドラゴンが生息する大 陸の北にある山脈で取れるものだ。その雪山では凍りながらでも成 長する樹木が一見枯山の白骨樹のように伸びていて、長い間をかけ てドラゴンの精霊力を浴びた樹氷は解けない氷と化する。 神父は旅神の信仰者な為にあちこちを旅して回っているのである。 旅記なども出版していてそれらは全て司祭としての活動にあたる。 中には危険な場所を選び冒険をする者も居るが、このオーク神父は 体力と腕っ節こそあるものの臆病で慎重な性格なので基本的に町か ら町への旅を主にしていた。 北国の珍しい物を受け取って嬉しそうにしているスフィに、クロ ウがしゃがんで懐から己のプレゼントを取り出した。 ﹁スフィ。これは己れから﹂ ﹁おうありが⋮⋮む? この小箱は⋮⋮﹂ 彼が渡したのは濃紺色の布で出来た手のひらに乗るぐらいの箱で あった。シックな作りであるが手触りのよく高級感があり、開く切 れ目が横についている。 中に小さな何かが入っているようだが⋮⋮ ﹁実用性のある物を、と最初は思っていたんだけどな、やっぱりお 前が喜びそうな物は何かって真剣に考えて⋮⋮知り合いとかにも聞 いて選んだんだ﹂ ﹁ク、クロー⋮⋮これはまさか﹂ 口をあわあわさせながらスフィは真剣そうな顔のクロウと小箱へ 視線を行ったり来たりさせた。 周りも冷やかさずに神妙な面持ちで二人を伺っている。 その小箱は││丁度、指輪のケースに見えた。 1703 それに気づいた途端茹だったスフィの頭が著しい混乱に包まれる。 ︵ここここここの朴念仁オブザイヤーに選ばれたこやつがいいいい いや待て! 別にこれは婚約とか結婚とか金婚記念とかそういう指 輪じゃなくて誕生日なんだけどそれってやっぱりそういう︶ 当のクロウ││スフィの視界からだと美化五割増し││が目を細 めた笑みを浮かべて、 ﹁さあ、スフィ開けて確認してみてくれ﹂ ﹁うみゅー⋮⋮﹂ もはや大変な状態だった。 大変な状態だったがなんとか震える指で小箱を開けると││中に は宝石のようなものが一つ入っていた。 クロウは頷き、説明する。 ﹁己れからのプレゼント││超高級のど飴だ﹂ ﹁ダメだこいつううう!!﹂ スフィのみならず周りからも凄い怒鳴られてクロウは理不尽を感 じた。 折角最近知り合いになった菓子好きの妖精からオーダーメイドの コピー 店を紹介されて作ってもらったのに。 ︵やはり模写用紙と文房具のセットとか、商品券一万クレジット分 とか実用的なものにしておくべきだったか? いや、歌神司祭にと ってはのど飴も実用的かつ甘いという完璧だったはずだが⋮⋮︶ 微妙に怒られる反応だったのでクロウは何処を反省すればいいの 1704 かと悩んだが、ポイントがずれているのであった。 ﹁プレゼントもいいけど片付けも終わったからそろそろ乾杯しよう ぜー!﹂ ジグエンの提案で一同はとりあえずそれぞれ並べられた席に座る。 上座はスフィでクロウも近くに座っていた。全員の前に少しだけ 白く濁った酒が入れられたジョッキが置かれている。スフィだけは 紅茶にちょっぴりブランデーを入れたものだったが。 元ジグエン傭兵団の定番になっている特殊な酒である。 質量よりもアルコール量が多いという謎の魔法酒[濃縮アルコー ル2000%]を、異様に体に水分が吸収されやすいスポーツドリ ンク[やったぜ水中毒]で割った危険なカクテル││その名も[バ ンカーバスター]。飲み口が柔らかいまま致死量のアルコールを摂 取出来てしまうという恐るべき飲み物であった。 ジグエンが手にジョッキを持ったまま立ち上がって、 ﹁えーそれではこの度スフィの誕生日と皆の健康を祝って││乾杯 !﹂ ﹁乾杯!﹂ ﹁プロージット!﹂ ぐい、とジョッキを煽り││ ﹁そして即死!﹂ 誰が叫んだか、全員で叫んだか、基本的に人間種族の皆は即座に 腰砕けになる。酒に強いオークと不死化しているイートゥエは平気 であるが。 意識は朦朧となり、呼吸は絶え絶え、動悸は脳に響き、粘膜が焼 1705 けている。とにかくヤバイ状態だ。このままだとジミヘンめいた死 に様になってしまうだろう。 溜め息混じりに呆れたようにスフィが立ち上がる。 ﹁この馬鹿共は学習をせぬからのう。聖歌││[軽やかなる音楽団 ]!﹂ と、彼女の歌が始まった。歌い手一人だけだが、何処からか様々 サクラメント な楽器の穏やかで癒される伴奏も聞こえてくる。 歌神司祭に与えられた秘跡、聖歌である。これにより効果を齎さ れたものは、体調回復や戦意高揚などの様々な恩恵を受ける。 戦時中から幾度もスフィが傭兵団を助けてきた後方支援能力であ るが、一番多く救ったのは飲み会の度に死にかける急性アル中の集 団の内臓だろう。 むしろ何度も打ちのめされて復活しているので彼らの肝臓はどん どん強くなっている。騎士団内でも元ジグエン傭兵団が酒に強く、 飲み会では絡んで他の騎士を酔い潰させてくるので[アルハラナイ ツ]という嫌な称号を与えられている。 スフィの歌で徐々に回復してきた皆が赤ら顔で笑いつつ起き上が りだす。 ﹁俺たちは訓練されてるからな⋮⋮!﹂ ﹁よし! 儀式終了!﹂ ﹁さあ宴はこれからだ!﹂ クロウも軽く頭を抑えながら酒臭い息に顔をしかめつつ、新たに 注がれた真っ当な低度数の麦酒で口直しをする。水のように爽やか な味に感じられた。 ︵スフィが回復させてくれると思わなければとても一気飲みなんて 1706 やれんが⋮⋮これ後々体に悪影響ありそうだよなあ︶ この悪習とも言える急性アル中イッキスタートは、[バンカーバ スター]のカクテルを開発したのがそもそもクロウな為に彼も抜け られないのであった。敵に送りつけて酔わせたところをガツンと夜 襲かけるためのものだったのだが。 テーブルに並べられたケーキや豚足を切り分け各人が皿に取って いく。ジグエンが豚足片手に神父に絡んでいるのはいつものことで ある。豚足を丁寧にナイフとフォークで食べるのはイートゥエぐら いだ。おもむろに握って引っ張ったり噛み付いたり顔と手を汚しな がら豚足を食べているスフィの顔を時折拭ってやる。周りの皆も豚 足で盛り上がってくる。 やけに豚足を始めとする豚肉料理が多いが、つい近頃家畜にかか る感染症で大量の豚が廃棄処分になったので表で流通できない加工 済みの豚肉を騎士団の面々がトン単位でちょろまかし一部を持って きたのである。毒素が出る前に加熱加工したものだから食べても平 気だ。 そうこうしていると入り口の戸が開いて誰か入ってきた。 紺色の制服を着て帽子を被った姿の営業スマイルを浮かべた男だ。 ﹁こんにちはー、伝神でーす﹂ 謂う。 ペナルカンドでも最も多くの人が目にしたことのある神││偏在 するメッセンジャー、伝神である。 大抵何処の街にも居て、手紙を届けたり通話機を持ってきて遠隔 の人物から言葉を繋げたりするという便利な神だ。幾らか制限があ るが、大陸の反対側でもメッセージを届けることができる。ただし それ以外は届けないし他人に検閲させることも決して無い。 彼は古めかしい黒電話を取り出して、 1707 ﹁スフィさんにフローライトさんから通話が届いてまーす﹂ ﹁おっ。姉上じゃな。祝電かのう﹂ いそいそと席を立って通話機へと向かうスフィ。 クロウの隣に座っていた神父が感嘆の溜め息をついて、 ﹁スフィさんがエルフのお姫様って本当なんだね⋮⋮﹂ ﹁ん? 確かにそんな噂はあったけど⋮⋮﹂ ﹁フローライト様っていうと今の女王だよ、エルフの﹂ ﹁へえ⋮⋮﹂ 麦酒を飲みながら、黒電話に話しかけているスフィをちらりと見 やる。 エルフの国では基本的に寿命が長い為に治世も長くなり、他の王 族がいざというときの予備元首などという役目にならなくとも良い 為にスフィも国を離れて一人暮らしをしている。種族間の争いも少 なく、町内会長程度のノリで王が決まるのがエルフの社会であった。 会話をしている様子のスフィの顔が、最初は懐かしげだったのに 徐々に険しくなってきていることに周りの人間が気づきだした。 ﹁は? 結婚? しとらんが⋮⋮﹂ ﹁そろそろ良い人をって私まだ若いし⋮⋮﹂ ﹁アラフォーってどこでそんな言葉覚えたのじゃ!﹂ ﹁はいはい分かった分かった! 探しとくからその話は終わり!﹂ 次第には怒鳴りだす。なお、今日はスフィ40歳の誕生日である。 見た目は女子小学生低学年だがクロウよりも年上なのだ。 元傭兵団の面々も、﹁エルフ社会でもあるのか独女問題⋮⋮﹂﹁ 俺も親が孫の顔を見てから死にたいって言っててさ⋮⋮﹂﹁なんで 1708 前衛職なんて選んだんだろあたし⋮⋮筋肉女の需要は特殊じゃん⋮ ⋮﹂などと顔を曇らせる者が出てきている。 妻帯者も居た堪れなさそうにしていた。全然気にしていないのか 食べることの方が大事なのか、イートゥエは相変わらず豚足の山を 減らしていっていたが。 ﹁はあ!? 母上がこっちに!? なんでさ! お見合い写真持っ てくる!? ちょ、そんな勝手に⋮⋮! え? なにもう10クレ ジット無いから通話切れるって女王なのに小銭ケチってないでよ! ちょっとー!﹂ 口調が素に戻りつつ叫ぶが、通話機からは無慈悲な伝子音が聞こ えるのみであった。 ぺこりと伝神は頭を下げて、 ﹁またのご利用をー﹂ とだけ告げてさっさと出て行く。 酷くげんなりした顔のまま固まっていたスフィに、クロウが慰め の声をかけた。 ﹁ま、まあ気にするなスフィ。まだ全然お前若いだろ﹂ ﹁うー⋮⋮! むー⋮⋮! 腹が立つが⋮⋮それより母上がこっち に向かっておるのが不安じゃ﹂ ﹁スフィの母さん?﹂ ﹁そうじゃ。まあ一言でいうとその場のノリだけで生きている、脳 味噌を婆様の胎に置き忘れてきたような女でのう﹂ ﹁酷い言い草だ⋮⋮﹂ スフィは溜め息混じりに毒を吐く。 1709 ﹁先代の王⋮⋮私の父がキャバクラで遊ぶ金を手に入れる為に樹齢 500年の霊樹を切り倒して業者に売った罪で禁固500年になっ て王をクビになったのをいいことに、自分も世界中を放浪の遊び旅 に出て以来見とらんが⋮⋮﹂ ﹁父親も大分アレだな⋮⋮言っちゃなんだが﹂ そんなんで大丈夫なのかエルフの国、とクロウは思った。 スフィは諦めたような笑顔を見せて、 ﹁ま、そうそうすぐに来るわけはないしのう。今日は誕生会じゃし 忘れて楽しむことにするんじゃよー!﹂ ﹁あ馬鹿そんなフラグ立てたら││﹂ クロウが言い咎めようとしたと同時に、伝神の出て行った扉が蝶 番を破壊せんばかりの勢いで内側に開けられた。 ﹁スフィーちゃーん! わたしの可愛いスフィアライトちゃん! 誕生日おめでとー! 今日で立派なジャスフォーねー!﹂ ﹁ぐえーっ!﹂ 入ってきたのはエルフ種族の女だ。そのままの勢いでスフィに抱 きつき引き倒す。 クロウが十人並の感想で表現するならば美しい女であった。腰ま で伸ばした癖のない銀髪を揺らしながらスフィに抱きついている彼 女の無邪気な笑顔はスフィと似ている。 美幼女であるスフィを大人にまで外見を成長させて胸を豊満にさ せればそうなるであろう容姿の女││明らかにスフィの母である。 そして、彼女に続いて入り口から異形の者が二人、武装したまま ぬっと店に入ってきた。 1710 ワーライオン 一人は白い毛並みをした人獅子種族である。体つきは筋骨隆々の 人間に似ているが首から上は立派な鬣のついた獅子になっている。 手には天井まで届く長大なクレセントアクスを持っている。 もう一人は││形容するのは難しいがデフォルメしつつ縦に伸ば したペンギンに似た姿をしている鳥人種族である。赤い顔をした頭 部には帽子に似た兜を被って、手に持つ武器はあからさまバズーカ 砲であった。 バズーカ砲と言うのは機神を崇めている工業都市でバズーカ博士 が作った前衛的な目覚まし装置なのだが、抗えぬ速度で軍事転用さ れることになった魔力砲弾発射機の通称である。 然し乍らその二人の獣人、 ︵かなり、手練れている⋮⋮︶ と、元傭兵の皆はその二人の実力を一目で判断した。 きょうだい 潰され頬ずりされていたスフィが無理やり母親を引き剥がし、彼 らを指さして尋ねる。 ﹁は、母様。その二人は⋮⋮?﹂ ﹁そうねースフィにも紹介しなくちゃ。わたしの義姉弟なのよー﹂ 彼女がそういうと大きく頷いて白い人獅子が咆哮の如く名乗りを 上げる。 ﹁我こそは三姉弟が兄、カンヌなんぬ!﹂ そう言ってクレセントアクスを掲げる。続けて鳥人間が、 ﹁俺様は燕人・ハルヒ!﹂ 1711 バズーカを天井に向けて斧に交差させるようにした。鳥の種類と してはペンギンでなく燕だったらしい。 その中央にスフィの母が入り魔法の発動媒体用に見える装飾剣を 交差の中央に伸ばして打合せた。 ﹁そしてわたしは長女のルビーよー﹂ 三名は唱和する。 ﹁我ら生まれた時は違えど、死ぬ時は共にあらんことを⋮⋮!﹂ ルビー、カンヌ、ハルヒの三姉弟はそう言ってポーズを決める⋮ ⋮! ﹁アホかあああ!!﹂ 叫びと同時に歌神司祭の固有技能、指向性音衝撃波をぶっ放して 三人をぶっ飛ばすスフィ。 壁に叩きつけられて││ルビーは男二人がクッションになって庇 ったが││倒れ伏した三人に腰に手を当てたスフィが謂う。 ﹁どこぞで男を引っ掛けたとか詐欺にあって内臓を売ったとか野生 のオークの集落を消滅させたとかならともかく、なんで他種族と義 姉弟なんぞ作っておるのじゃこの馬鹿母はー! っていうか誰だよ このおっさん達!﹂ ﹁なにそれ怖い﹂ オーク神父がぼそりと彼女の言葉の端に反応する。世間ではオー クの扱いの差別的酷さで国際問題になっているというのに。 1712 ﹁ふ、ふふ。さあ皆、誰かと聞かれたらー?﹂ ゆらりと立ち上がって三馬鹿は不敵に笑いそれぞれの武器を構え る。 ﹁ルビー!﹂ ﹁カンヌなんぬ!﹂ ﹁ハルヒ様だ!﹂ 早口で言って素早くそれらを再度掲げ、 ﹁我ら生まれた時は違えど、死ぬ時は共にあらんことを⋮⋮!﹂ ﹁誰が名乗り直せと言ったああ!!﹂ 天井ネタでもう一度ぶっ飛ばされた。爆笑する傭兵団の面々。す でにそれを肴に宴会を再開していた。全裸になって居る者も多く見 られる。 身内の恥を始末しようとしたスフィは肩で息をしながら涙目にな りつつ睨みつけた。 頭の中身におがくずが詰まっていてそれを蟲が餌にしている程度 の知能しか無いと思っている母だったが、まったく意味がわからな かった。 誰だっていきなり暫く見ていなかった母が義兄弟を連れてきたら 詐欺か宗教か低脳を疑う。 スフィは肩を怒らせながら振り返り、 ﹁ええいツッコミが足らん! クロー! お主もなんか言ってやれ !﹂ と、家族の問題とは関係がないのにクロウに呼びかけた。 1713 スフィが振り向いた先で、てっきり呆れているか半眼になってい るかと思っていたクロウだったが⋮⋮彼は目を見開いて義姉弟をじ っと見ていた。 驚いているような、嬉しそうな不思議な顔だ。 スフィにも見たことがない。 ﹁クロー⋮⋮?﹂ ﹁ん? あ、ああ。そうだな。何もそんなに怒らなくていいんじゃ ないか? はるばる誕生会に来たんだし⋮⋮﹂ そんなことを言って、クロウは倒れている連中に近寄って手を差 し出した。 ﹁大丈夫か?﹂ 妙な優しさを見せるクロウにスフィは訳のわからぬ嫉妬のような ものを感じる。 そいつらは敵でこれから縄で縛って馬車に括りつけ地面で削りな がら大陸の果てに送り返す相手だというのに。 何故クロウは手を差し伸べるのか。 ﹁あ、ありがとー﹂ 言って、手を握ろうとするルビー││をスルーしてその後ろに居 るハルヒという燕人間を引っ張り起こした。 ﹁うわっ! 結構手触りいいなこれ!? 羽毛か!﹂ ﹁なんだテメエ!? 何しやがる!﹂ ﹁まあまあ、ほらこっちに来て飲めよ! おーいすまんこいつにタ フルトをジョッキで!﹂ 1714 クロウは店主に飲み物を注文する。タフルトとは乳酸菌飲料と健 康飲料を混ぜた淡い黄色のドリンクである。名前こそ違うが、日本 で有名な乳酸菌飲料会社の本社にある喫茶店で飲めるあれだ。 偶々この世界にも似たものがあったのである。 何故かいきなり引っ張られて歓迎を受けて困惑しているハルヒ。 実はクロウという日本出身の男││元の世界に居た頃は大のヤク ルトスワローズファンなのであった。 往年の関根監督時代から応援しており、現代でも活躍しているマ スコットが登場した年も覚えていた。出てきたその前の年と翌年に はスワローズが日本一に輝いていたからだ。 そんなわけで自分の名前とも似ている球団マスコットそっくりの 燕人、ハルヒを一目で気に入ったのである。テンション上がってい るのである。 なお、もう一人の人獅子カンヌも某球団マスコットに酷似してい るが権利関係がより複雑なので仔細は伏せる。 ﹁やっぱりお仕事でやってるのか? なあちょっと腹触ってみてい い? 年俸いくら?﹂ ﹁なんだこいつマジで⋮⋮あ、美味いなこれ⋮⋮﹂ ハルヒに構いまくっているクロウを、げんなりして半眼で見てい るスフィに、ルビーが後ろから抱きついて声をかける。 ﹁ところでスフィちゃん。お見合いのことなんだけどーとりあえず 目ぼしいエルフと他種族を108人分ぐらい候補集めてきたわー。 おすすめの樹人種のクリストウッドさんとかー長生きだし渋い俳優 さんよー﹂ ﹁ええい、お見合いなどせんわ! 番う相手なんて自分で探すから 大きなお世話じゃ!﹂ 1715 ﹁もう! 行き遅れる子に限ってそんなこと謂うのよー! ぷんぷ ん﹂ 凄まじくいい年をして可愛子ぶる母親に対して、死ぬほどどうで も良い気分になった。 ルビーは我儘を謂う娘を叱る気配で腰に手を当てて胸を張り、 ﹁とにかく、スフィちゃんがお見合いしてる姿を見せてくれないと とママ帰りませんからねー! ﹃後は若いお二人で⋮⋮﹄って言っ てみたいのー﹂ ﹁だからせんと言っておろう﹂ ﹁あ、帰らないってのは百年単位で付きまとって毎日お見合い話持 ちかけるわよー﹂ ﹁⋮⋮﹂ エルフは嫌がらせにしても何にしても寿命が長い所為か気も長い。 なにせ先代王からして霊樹を切り倒しておいて﹁五百年あれば再生 するから大丈夫だって!﹂と弁明したので禁固五百年の刑に処され たのだから。 うう、と唸ってどうしたものかと彼女は悩み周囲を見回す。 そしてスフィは、いつになく良い笑顔で燕人間にワカマツがどう とか云う謎の話題を振っているクロウへ駆け寄って、シャツを引っ 張り母親に、 ﹁ちょっとタイムじゃ﹂ と、告げて少し離れた所で声を潜めて相談する。 ﹁のうクロー、これこれ謂う事で私の母が見合いを薦めてくるんじ ゃが、どう断ったものか⋮⋮﹂ 1716 ﹁なんだそんな事か。それならいい考えがあるぞ﹂ ﹁本当か!﹂ クロウは頷き、告げる。 ﹁要するにだ、スフィが独り身だから心配してお節介をかけてくる わけで、まずは知り合いと適当に付き合っているとか嘘をついてこ の場を誤魔化すわけだ﹂ ﹁ふむふむ﹂ ﹁それで後日関係はどうなったか、とか聞かれたら別れたとか合わ なかったとか言って無かったことにする。次にまた見合いを薦めて 来そうになったら別の奴とくっつきそうな振りをしてその場を凌ぐ。 そしてまた別れたと報告する。これの繰り返しにより恋愛能力の無 能さを知らしめるわけだ。次第に﹃ああこいつに見合い薦めても駄 目なんだろうな﹄と親も諦めるって寸法だな﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁この手法は生活保護費の不正受給にも応用されていてな、職安で 紹介された仕事を尽くクビになるか不採用を受けるように振る舞い、 無残な結果だけを残して申請すると就業能力が無いと判断されて保 護金が降りる可能性が││なんだその詐欺師を見るような目は﹂ ﹁クロー⋮⋮お主その悪知恵を悪用しておらぬよな?﹂ ﹁するかよ!?﹂ 完全に胡散臭い者を見る目になっていたスフィにクロウは否定を 入れた。 単に彼は役場の騎士をやっているからそういう詐欺行為に詳しく なっただけである。断じて結婚詐欺師などになる男ではない。まじ めに働く公務員なのだ。 ﹁この場合は⋮⋮適当に、知り合いと見合いをやる予定が予めあっ 1717 たとか言えばいいんじゃないか? 見合いさえすればひとまず満足 だろ。後で聞かれたら駄目だったとか裁判中だとか言っておけばい い﹂ ﹁ふ、ふん。それなら! 言い出しっぺのお主が見合い相手になっ て貰うが良いな!?﹂ ﹁ああ、別にいいぞ。説明の手間も省けるし﹂ ﹁うぬ゛ー!﹂ ﹁なんでキレてんのこの子⋮⋮﹂ しれっとした顔で引き受けるクロウに、演技とはいえ見合いをす ることを申し込んだスフィは己のなけなしの勇気を貶された気がし て肉球でぽかぽかと彼の肩を叩いた。クロウは柔らかくて和んだ。 この﹁ままごとに付き合う﹂といった余裕がまったくもって気に 入らなかった。 ともあれ彼女はクロウの袖を引っ張り、母親の前まで連れてくる。 ﹁母様、どおおお⋮⋮しても、お見合いをやりたいというのなら私 はクローとするのじゃ﹂ ﹁あら﹂ ルビーは無害そうな営業スマイルを浮かべているクロウを見上げ て口に手を当てる。 ﹁あらあらあらあら。貴方、スフィちゃんの良い人だったのー? ねえねえ、スフィちゃんのどこが好きー?﹂ ﹁そうですね、よく気がついて人の事を思いやれる性格とか、気が 強くて人とぶつかることもあるのですがお互い思いやって歩み寄る ことができたり、小さな子供に優しくて頼られる所とか⋮⋮﹂ ﹁あー! あー! うー! 五月蝿い真顔で変なこと云うなー!﹂ ﹁ぐっ⋮⋮何故なんだ⋮⋮﹂ 1718 素直にクロウが、小学生の通信簿をつける気分で彼女の美点を上 げていたら理不尽に怒られて背中に上ってぐいぐいと首を締められ た。 自分で紹介しといてスフィの顔は真っ赤である。 周りで見ていた、大体の事情やら双方の気持ちやら把握している 仲間たちは顔面筋に必死に笑いを堪えるように命令してぷるぷる震 えている。 なお、スフィは自分がクロウに好意を持っている事を誰にも気づ かれていないと思っているが、クロウ当人以外の仲間は当たり前の ように知っていた。紳士淑女協定により見守るかさりげない手伝い 以外の行為は禁止されているが。 ﹁それでお仕事は何をー?﹂ ﹁ええ、この国で騎士をしていまして。まだ役職者という訳ではな いのですが⋮⋮﹂ ﹁まあ公務員。収入の方も安定してるわー。あ、でもお付き合いを しているのに改めてお見合いというのもおかしいかしらー?﹂ ﹁いえいえ、ご存知の通りこの国は数年前まで政情不安でして、ま だ正式にという形でもなかったので﹂ ﹁そうなのーうふふ、ならわたしに任せて! 良いお見合いのセッ ティングしちゃうから!﹂ ﹁はっはっは﹂ クロウはしれっとした顔のまま遣り取りをする。 スフィの好ましい点。騎士をしている。スフィとは付き合ってい ない。それだけしか言っていないので何も嘘はついていない。これ は詐欺ではないのだ。表情に後ろめたい感情や欺瞞の色が浮かぶわ けもなかった。 嘘発見器にも引っかからないしイタリアのギャングに顔を舐めら 1719 れても気づかれないだろう。 ﹁それじゃあスフィちゃん! 追って日取りとかは知らせるわ! これからママいい場所の予約とか入れてくる! これがわたしの誕 生日プレゼントよー!﹂ ﹁あーうん、そりゃどーも﹂ クロウにあっさり騙されまくっている母親に微妙な感情を浮かべ ながらスフィは生返事をした。 そしてルビーは二人の義兄弟を連れて嵐のように店から立ち去っ ていく。ハルヒが出るときにクロウが名残惜しそうにしていたが。 どこか疲れた空気になっているスフィに、クロウはなんとなく話 題を振った。 ﹁⋮⋮そういえば結婚詐欺で相手が金持ちの場合、職業は公務員よ り医者って名乗った方がいいらしい。診療所を開けばすぐに稼げる からと開業費とかを実家から搾り取れるとか。中流以下は公務員で 鉄板なんだけどなるべくマイナーな省庁に勤めてる設定のほうが﹂ ﹁クロー。お主やってないよな? 妙に手馴れている気がするぞ﹂ ﹁やらんやらん。女から金を騙し取る生活などやれるはずがないだ ろ、己れが﹂ 半眼で否定するクロウの言葉はなるほど、彼の人格からすれば説 得力のある言葉ではあると不承不承頷いた。 ただ理由あれば口先だけで金を集めることも、恐らくクロウは可 能なのだろうとは思ったが。 ﹁ま、お見合いの時になれば適当に雑談で時間潰して最後は己れが 丸め込むから気にするな。それよりほら、誕生日会を続けようぜ﹂ ﹁うーむ。そうだのう、頼りにしておるぞ、クロー。馬鹿は忘れて 1720 お酒じゃな! 皆! 呑んでおるか!﹂ ﹁大変だ団長が一発芸でケツから酒飲んで死んでるー!﹂ ﹁馬鹿が!﹂ かつての上司相手に皆一斉に吐き捨てる。 再発生した患者の救助に再び聖なる歌が室内に響くのであった。 少なくとも、ケツに酒瓶突っ込んでいる人を癒やすための歌ではな い上に短期間に急性アル中が二度ネタなので神の判定により完全回 復とまではいかなかったが。 いつも通りに、或いはいつか通りに元ジグエン傭兵団の面々は大 いに飲み、笑って宴を過ごした。 異世界人クロウもすっかりその空気に馴染んでいて、素直に楽し いと思える日々であったという。 ***** 宴が終わり、何人かは店で潰れて床に沈んだままだが、その他の 者は己の家に帰る時刻だ。 クロウなどは翌日に仕事がある為に頭痛薬[頭脳洗感がある]と いうものを飲んで安アパートに戻っていった。逆に不安になるぐら い二日酔いが来なくなる薬だ。ラベルに[比較的安心][当社比五 割]などという文字が並んでいるのが非常に怪しい。製造元は何度 も薬事訴訟を起こされている製薬会社だ。しかし効果が確かなので 使うものは多い。 スフィは教会近くに一軒家を借りていた。司祭ならば教会で寝食 を得ることができるのだが、自立した生活を好む彼女は一人暮らし 1721 である。 送ってくれたイートゥエに茶を勧めたが、夜風を当たりたいとい うことで玄関で別れることになった。 スフィから見上げたら聳え立つ壁のような姫デュラハンは手で髪 を掴んで首をぶら下げて目線を同じ高さに合わせて、 ﹁クロちゃんとのお見合い、うまくいくといいですわね﹂ と、悪戯っぽく笑うので、スフィは鼻白んで返す。 ﹁うまく破綻させるのじゃよ﹂ ﹁あら素直じゃありませんこと。ふふ﹂ そう言ってイートゥエは濃紫色の鎧を動かして、闇の中に溶けて いくように帰っていった。夜中に路上であったら知り合いでも驚く だろうな、とその後姿を見ながらスフィも家に入る。 寝るために服を着替えて狐面を外して髪を梳かし、顔を洗って鏡 を見た。 不機嫌そうな、しかしもんにょりとした笑いと表情が融合してな んとも奇妙な顔をしている自分が睨み返していた。 思わず鏡の自分に、頬をつねりながら真顔でツッコミを入れる。 ﹁可愛くないのう﹂ そしてふらふらとベッドに向かって、頭から布団に飛び込んだ。 顔を柔らかな兎毛布団に押し付けたまま、声を上げる。 ﹁あ゛ー﹂ 吐き出す言葉と同時に一度肺の空気を抜いて、埃っぽい空気を吸 1722 い込みちらりとベッドの端にあるテーブルに置かれた超高級のど飴 ││値段は聞かなかったが、スフィも知っている菓子のオーダーメ イドをしている有名店の依頼料は彼の月給の3分の1ぐらいはかか るらしい││を見る。 枕を持って後頭部を抑える。布団と枕に挟まれて声を出した。 ﹁なんっであやつはああも馬鹿なのじゃ⋮⋮!﹂ いつものほほんとしているクロウの顔が頭にこびりついたままで ある。 これは良くない兆候だ。これまで何度もあるが、寝不足だったり ぬか喜びの夢を見たりする。 ﹁なんでこうもスルーしとるのかー! というかなんじゃ、私に魅 力が無いとでも⋮⋮﹂ 言って、彼女はもぞもぞと己の体を動かした。 ﹁魅力⋮⋮魅力ってなんじゃったかのう⋮⋮くそー﹂ 明らかにそれが原因だということはスフィにもわかっていた。 胸は平坦、尻は薄い、太腿は細い、顔は子供、腹筋が無いのでお 腹はぷにぷにの幼児体型。 これに並々ならぬ魅力を感じるのはある種の病気である。無論、 ペナルカンド世界でもそのような趣味の人間は居るが、やはり同じ ように世間体は悪い。 もしスフィの容姿が一桁年代の幼女ではなく、クロウと同じ年代 ⋮⋮いや、女子高生並⋮⋮ギリギリで人間の十代半ばぐらいあれば まだ枯れてないクロウも好意に気づいたかもしれないが。 1723 ﹁というかあれじゃな⋮⋮クローは故郷に年の離れた弟が居るって 言っておったから完全にそれの対応じゃな⋮⋮﹂ 彼が子供の相手も慣れていることも理由の一つだった。年が一回 り離れた兄弟が居たのだという。基本的に兄属性なのである。 ふにふにと己の体を触りながら出るところは出て引っ込むところ は引っ込んでいる己の母親を思い浮かべる。それでいて頭がパーで 預金がたんまりあるのだから男にとっては最高の物件かもしれない。 実際、彼女の義兄弟二人は知り合ったものの﹁この姉ちゃんほっ とくと危ない﹂という理由で旅に同行しているお人好しの保護者な のであったが。 いや、彼女の知能指数はともかく、体型を形作る遺伝子は引いて いるはずだ。 ﹁おっきくなればクローも気にしてくれるのに⋮⋮﹂ そう言って、心の中で可及的速やかにナイスバディになれること を祈りながら、彼女は眠りについた。 ***** 数日が経過し││。 見合いの会場はオーク神父とも関わりのある旅神の教会であった。 信者が旅ばかりしていそうな信仰だが、旅の拠点となる教会は多く の街にある。 それに旅の神は運命の神でもあり、出会いには深く関わる。正確 1724 には運命神は別に居たのだが、大分昔に魔女に殺神されてしまって 空いた運命神の役割を旅神が仕方なく担っているのである。彼はや れやれ系のイケメン神だと言われている。 故に見合いの場所と選ばれるのもわからなくは無いのであったが ││ 白く飾り付けられ、花で満ち溢れた教会で鐘が鳴り響く。鳩とか は勿論空に飛び立っているし、柔らかで心落ち着く薄い青色の光は 最近市場にも出回りだした付与魔法による魔術文字の光明だ。まさ に良日といったシチュエーションである。 絨毯が敷き詰められた道を歩いてきた、普段の修道服に比べるこ とさえできない豪華なドレスを着ているスフィと年に一度着るか着 ないかの儀礼用騎士服のクロウが壇上に上がり、オーク神父の前で 顔を見合わせる。 会場には仲間連中がきっちりとした礼服で集い、神妙な面持ちで それを見ていた。新婦側の席にはハンカチで涙を拭いているルビー が、新郎側の席には無表情で勝手に切り分けた大きなケーキをもし ゃもしゃ食っている告死妖精クルアハとデュラハンのイートゥエが 見守っている。 流れている冷や汗をハンカチで拭い、神父が手元のカンニングペ ーパーを見ながら厳かな声を出す。 ﹁えー、汝ら二人、良き時も悪しき時も、富める時も貧しき時も⋮ ⋮﹂ てがたな それが始まると同時に、クロウとスフィはまったく同じ動作で大 きく息を吸い込んで手刀を入れ、叫んだ。 ﹁なんの儀式だこれ││!!﹂ どう見てもお見合いじゃなくて結婚式だった。スフィは怒りのあ 1725 まりに被っていたベールを床に叩きつける。 超スピードと催眠術に騙された気分で思わずツッコミのタイミン グを測ってしまっていた二人は、集まっている全員に向けても指を さして怒鳴る。 ﹁ネタ振りが長いんだよ! お前ら人をハメるときは奇妙な一体感 を見せるなおい!﹂ ﹁オーク神父! お主も司祭なら自分の教会で悪ふざけをするでな いわ馬鹿たれ!﹂ 同じ神職のスフィに怒られて脂汗を流したまま巨漢のオークは目 を逸らす。 基本的に善良な性格をしているのだが、周りの仲間から悪戯を手 伝うように頼まれると一応断るのだが皆は折れるまで頼み込むので 仕方なく手伝うことが多いのである。 特に今回は、 ︵エルフの皇太后様に頼まれた事を断ったら他のオークが犠牲にな るかもしれないし⋮⋮︶ と、罪の意識を持ちながらも彼は言い訳を心の中でしていた。 ︵そもそもクロウくんとスフィさんはお似合いなんだから⋮⋮︶ ﹁聞いておるのか! 神父!﹂ ﹁⋮⋮えー、ではビンゴゲームに移りまーす。皆さんビンゴ用紙を お手に﹂ ﹁無理やり披露宴まで進めやがった!﹂ ﹁しかもビンゴ用意しておる!?﹂ 1726 会場の皆がビンゴ用紙を取り出している。すでに飲酒を始めたも のも居た。ジョッキでコーヒーブランデーを飲んでいたクルアハは、 ビンゴを初めて見るものらしく、隣に座っているイートゥエにルー ルを教えて貰っている。 彼女はアンデッドだけあって、一般に忌避されている告死妖精も 平気そうだ。 ﹁この数字を潰していって縦一列か横一列揃えば景品が貰えますの よ。揃ったらビンゴって言いますの﹂ ﹁⋮⋮ビンゴ﹂ ﹁早!? まさかのルール無用ファイトですわ!?﹂ 説明を受けながら、まだ始まっていないのに数字を消していった クルアハがビンゴ景品でエルフの国銘菓マナケーキ一年分を手に入 れていた。 呆れた様子のクロウの袖を引き、困り切った顔のスフィが見上げ ている。 ﹁クロー⋮⋮﹂ ﹁大丈夫だって。ちゃんと己れが有耶無耶にしてやるから﹂ 安心させるようにクロウは微笑んだ。 ︵こんな子供に望んでない結婚なんてさせられるかって︶ 相手が誰だろうがスフィが嫌がるのならばクロウは邪魔を手伝っ てやるだろう。大統領だってぶん殴ってやる気分だ。 頼もしい事を云うのだが、凄まじく微妙な気分になるスフィであ った。 1727 ︵なんじゃこの男⋮⋮そりゃ頼んだのはこっちだけど⋮⋮︶ せめて自分と同じく混乱し狼狽してくれればまだ可愛げがあると いうのに、と腹が立つ。 そもそも。彼には立場上盛大にツッコミを入れたものの、これを 台無しにする作戦を立てていた。 これだけ大掛かりな仕掛けなのだ。もしこれがいつもの面子でや るドッキリだったならば完全すぎる情報封鎖によりクロウも知れな かっただろうが、今回は別の人間も居た。 彼が近頃仕事の付き合いで知り合った友人、クルアハは感情が薄 くドッキリのノリなどわからない。クロウが問えば招待状を貰った 件をあっさりと教えた。 後は街に滞在していたハルヒを連れ出してタフルトで買収し詳細 を吐かせたのである。 布石は打ってある。 その時、二人の前にがっしりとした体にスーツを纏っている人獅 子のカンヌが立って凄みを聞かせた声で、 ﹁笑止! 有耶無耶にするなど罷り通らぬ。我が姉上の娘の見合い となれば、我が子のそれと同じなんぬ! さあ、互いに誓うんぬ!﹂ ﹁スフィちゃん、指輪はママが用意したわー﹂ その後ろからルビーが顔を出してペアリングを取り出した。 指輪から感じるどす黒いオーラにクロウとスフィはやや引いた。 ﹁は、母様、それは⋮⋮?﹂ ﹁婚活天使ゼクシリンの呪⋮⋮加護がついた指輪よーお互いの絆に なるわー﹂ ﹁嘘じゃー! 明らかに罠じゃー!﹂ 1728 いきなり怖ろしい物を出されて全力で拒否するスフィ。 ゼクシリンは結婚に関する天使であれこれと結婚から新婚生活ま でサポートする、若い女性にアイドル的な人気の天使であった。た だ本人は婚活しているのに全然結婚出来ていない。﹁ゼクシリーン ☆﹂と云う決めポーズはいろいろキツイと評判だ。 娘の手を握って力を込め、無理やり指輪を付けさせようとしてい るのでクロウは見かねてスフィを抱き上げて離れた。 彼は愛想の良い笑みを浮かべたまま、 ﹁はっはっは。まあお見合いなのですから後は若い二人に任せて﹂ ﹁じゃあせめて指輪入れて写真とってこの書類にお互いサインする だけだからー!﹂ ﹁せんと言っておろう!﹂ スフィをお姫様抱え││ウェディングドレスなので引っ張ると破 れそうだから自然とその形になった││をしているクロウを逃がさ ないように、ルビー三姉弟が取り囲む。 屈強な獣人二人に、ルビーはかなり高位の精霊魔法使いである。 騒動になればそこそこ腕の立つ人間のクロウではすぐに取り押さえ られるだろう。 物々しい気配に、会場の皆が乱闘なら参加しようと様子を伺う。 基本的に彼らはクロウとスフィの味方だ。クルアハは座ったままケ ーキをひたすら頬張っていたが。 抱いているクロウを見上げてスフィが心配そうにするが、彼はな んとも無い様子で、 ﹁ところで見合いの相手となる己れの事は結構調べたみたいだな。 役場の騎士からも﹂ ﹁そうよースフィちゃんの旦那さんになる人なら、少なくとも優し い子がいいもの﹂ 1729 ﹁己れもあんたらの事はちょっと調べさせてもらった。国際手配犯 の[世直し三姉弟]と云うらしいな﹂ クロウが指を鳴らすと同時に、式場の入り口が大きな音を立てて 開かれ、今すぐ戦場に出られそうな重武装した集団が室内に突入し てきた。なお、指を鳴らしたのは合図ではなくそろそろ突入準備が できたような気がしたのでやってみたらタイミングが偶然合ったの である。 その先頭にいるロングコートを着た壮年の男が手帳を開き見せな がら胴間声でがなり立てる。 ﹁国際刑事警察組織のディンゴ警部だ! そこの三人! 世界各地 での暴行や動乱、扇動など複数の罪で逮捕する! 大人しく縛を受 けろ!﹂ ﹁ええー!?﹂ 悲鳴を上げるルビーと、今度は彼女を守るように武装警察の前に 出るカンヌとハルヒ。どことなくハルヒなどは後ろめたい気分で目 が泳いでいる。 そう、クロウは予め警察に通報して三人が現れる場所に警官隊を 呼び寄せていたのである。なにせ、調べたところ思いっきり特徴的 な三人の手配書が見つかったからだ。彼女らは犯罪者でもあったの だ。 信じられないといった目付きでスフィが慌てて母親に怒鳴りつけ る。 ﹁こ、こ、このバカ女! 次はいったい何をしやがったのじゃ!?﹂ ﹁違うのよスフィちゃーん⋮⋮わたし達はただ世の中を正そうと、 あちこちで悪そうな領主や役人を縛って棒で叩いたり、義勇軍を意 味もなく作ってみたり、難民を連れて大移動しただけで⋮⋮﹂ 1730 ﹁正すのは自分の頭と心だけにしとかんか、ばかもの!!﹂ この女の頭を切り開いて中に詰まってるだろうオガ屑を燃やして やろうかと本気で思う。 夫と一緒に五百年ぐらいエルフの国に監禁していて欲しかった。 国辱的存在である。 新婦席に隠していたクレセントアクスとバズーカ砲を取り出して 弟二人は警察を睨み返す。 ﹁姉上を捕らえることなど我らが許さぬ! このカンヌの刃を受け たいものからかかってくるが良いんぬ!﹂ ﹁へっ! 燕人ハルヒ様が居る限りは姉者には指一本触れさせねえ ぜ!﹂ ﹁そうねーここで捕まった面白く無いわー。ルビーちゃん頑張らな いとねー﹂ 三人はそれぞれの武器を掲げて、 ﹁我ら生まれたと││﹂ ﹁総員確保!﹂ 名乗れなかった。軽鎧にハルバードやトンファーで武装した警官 隊が叫びを上げて突撃をする。 さて、入り口と壇上にいる三人の間には一般参加の仲間連中が集 まっていたのだが││突撃に巻き込まれて思いっきり体当たりを食 らったり踏まれたりした。 特に、酔っ払って床に寝転がっていた元団長ジグエンはめっちゃ 蹴られた。 そしてキレた。 1731 ﹁なんだ喧嘩かコラアアア! すっぞテメエらアアア!﹂ ﹁ああっ、団長がテーブル振り回して警官無双し始めた!﹂ ﹁こいつら全員ぶちのめして[バンカーバスター]飲ませてやるぁ ぁぁああ! お前らも手伝え!﹂ ﹁なんだかわからねえけど、あれね! 略奪婚ってやつ!?﹂ ﹁よく知らんけどとにかく暴れようぜ!﹂ 程よく酔っ払っていた大半のメンバーとの間で乱闘騒ぎが起きた。 ジグエンなど数人の警官を持ち上げてぶん投げまくっている。急に 覆面以外全裸になったのはシックルノスケだろう。それにカンヌと ハルヒも飛び込み暴れまくるのだから事態はカオスになりつつある。 クロウはアルハラ騎士団がまた始末書を書くだろうなあと顔を歪 め、 ﹁なんか滅茶苦茶だな⋮⋮後始末も面倒だし、このまま二人で先に おさらばするか、スフィ﹂ ﹁そうじゃのう﹂ ﹁おっと、二人は行かせないわよー﹂ と、脱出しようとしたクロウとスフィの前に魔法発動媒体の宝剣 を持ったルビーが立ち塞がる。 見た目こそ華奢なエルフだが、彼女が精霊魔法を使えば空飛ぶ翼 竜すら風の束縛で捕らえられる魔力を持つ強力な魔法使いである。 スフィは少し迷ったが、笑みを作ってクロウに告げた。 ﹁クロー。礼を言ってなかったのう。のど飴、ありがと﹂ ﹁気にするな﹂ そう言って薄緑色の超高級のど飴を取り出し││スフィは己の口 に放り込んだ。 1732 本当は貰って嬉しかったのだけれど、肩透かしな反応をしてしま った誕生日のプレゼントだ。だがそれにはクロウの思いが詰まって いる。小さい子だから甘いもの、歌で喉を傷めた時の為に喉に優し いものを送ろうと真剣に選んだのである。 嬉しいという感情が浮かんだのはその場ではなく、後でのことだ。 いつだって自分は後で大事なことに気づいてしまう。 清廉な味がするそれを舐めながら彼女は息を吸って聖譜を唱える。 ﹁聖歌[神への復讐行進曲]﹂ サイレント・ナイト 続けて演題を唄う。想いと、信仰と、魔力を込めて秘跡を越えた 奇跡を起こす為に。 オーバーソング ﹁凌駕詠唱[無音天使の唄]││﹂ 始まる。それは歌で、曲だ。 そして歌でも曲でも無い。 音が消えた。会場で暴れまわる誰もが感じた。己の耳で音を感知 できなくなったのである。 疑って耳を押さえる者も居る。だが何も音がでない。周りで出る 音だけではなく、己の体から出る血流の音も何もかも聞こえない。 叫ぼうとした者がいるが声を張り上げても一切音は生まれない。 風さえ止んだようだ。 あまりに何も聞こえず、耳が痛くなる程である。 ルビーがぱくぱくと口を開け閉めしているが当然何もできない。 魔法で何とかしようとしても、発動しない。 歌の神が遣えし無音天使の力を現出させて273秒の間、周囲全 ての音の上位に無音を発生させるという奇跡であった。 音の無い演奏という特殊な音楽である。神や世界に抗う者にさえ 1733 音楽はあり、歌神はそれを認めている。 これにより、使用中は殆ど全ての魔法や秘跡などは言葉を発して 使わなければならない為に使用不能になるのである。 更に音が一切無いという事は脳が混乱を起こして周囲への認識力 を下げる。もともと入り乱れての騒動だった喧嘩が更に混沌とした 状態に、音も無く続いていた。警察も指示を出そうにも声がでない のでどうしようもない状況だ。 クロウはスフィを抱いたまま軽く走って壇上から降りる。口を開 けて手を伸ばすルビーだったが勿論言葉は出ない。 マイペースにケーキを食べ続けていたクルアハが指を伸ばして照 明にしている魔術文字に魔力を送ると、狂ったミラーボール状態に なって周囲へ光の異常点滅で二人の姿を隠した。彼女が扱う付与魔 法は数少ない無詠唱の術である。 軽く振り向いて彼女を見ると、無表情のまま手を振っていた。 そうしてクロウとスフィは教会を抜けだしたのであった⋮⋮。 ***** ウェディングドレスに騎士服というあからさまに目立つ二人は教 会からやや離れた飲食店にとりあえず逃げ込んだ。 外では周りの目線が痛かったのだ。適当に入った店は[キングジ ェネラル]という大層な名前だが、全国チェーン系列の店である。 抱きかかえたままだったスフィを椅子に座らせてクロウは対面の 席についた。 1734 ﹁重かったかのう?﹂ ﹁全然。羽根のようだったな﹂ 気取った仕草でわざとらしく言うのでいつも通りスフィも笑った。 ﹁にょほほ似合わん似合わん。アラサーの男が云う言葉ではなかろ う﹂ ﹁ジャスフォーのエルフに言われたくはないって。ま、とにかくメ シでも食おう﹂ 注文を取りに来た店員がまじまじと二人の格好を見つつ伝票を持 ってきた。 ﹁えーと己れはギョーザとカタヤキソバ﹂ ﹁私はギョーザだけで良い﹂ ﹁はいよー。注文、バリイー、コーテルリャンガー!﹂ 謎の厨房用語で繰り返してコックに伝える店員。 サービスで出された水出し茶で喉を潤して一息ついた。 ﹁そういえば悪いなスフィ、お前の母さん通報して﹂ ﹁よいよい。あんなバカ女は百年ぐらい収監されてくれたほうが私 も国の皆も安心じゃ﹂ ﹁そっか﹂ 安堵の吐息をしてクロウは飲み干した茶のお代わりをケトルから 注いだ。 ふと気になってスフィが彼に尋ねる。 ﹁そういえばお主は⋮⋮その、結婚とか考えた事は無いのかのう?﹂ 1735 問うと彼は少し目を見開いて驚いたようにして、香油で整えられ た髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きながら複雑そうに云う。 ﹁あー、いや⋮⋮己れってその内故郷に帰るつもりだけど、嫁が居 たら帰る気が無くなりそうでさ﹂ ﹁嫁も連れて帰ろうとは思わぬのか?﹂ ﹁うーん己れの国の法律とかが多分難しい⋮⋮なあ﹂ 結婚をする気はない理由のもう一つは異世界人を日本に連れてき ても戸籍のない不法入国外人となり不自由な思いをさせる上に、再 びこっちの世界に戻れる保証も無い一方通行になる可能性もあるか らだった。 無論、まだ日本に戻る方法も見つけておらず、公務員で金を貯め ている段階なのだが。 面倒な事情があるのだとスフィは悟るが、茶で口を潤しながら話 題を変える。 ﹁⋮⋮それと、これはあくまで参考までなのじゃが﹂ ﹁うん?﹂ ﹁クローはもし結婚するとしたらどういう女性がいいのかのう? い、いやこれは老婆心からいざというときは今日の礼に私が知り合 いの間でクローのタイプが居ないかさり気なく探しておいてやるた めの質問じゃから何も怪しい事は無いのじゃよ?﹂ 早口でまくし立てる。よし、何も不自然ではない感じでさり気な く彼の好みを聞き出せたと彼女は内心喜んだ。凄まじく不審な態度 だがクロウは持ち前の鈍感さを発揮して何も疑っていないのがある 意味悲しい。不能系男子とか呼ばれているだけはある。 これで、できれば年上だけど背が低くてつるぺたが好みとか言わ 1736 ないだろうか、とさり気なく期待する。 クロウは首を傾げながら、 ﹁そうだなー⋮⋮まあ、一緒に茶を飲んでのんびりできる相手がい いとは思うな﹂ ﹁なんじゃそりゃ⋮⋮発想がもう爺じゃぞクロー﹂ ﹁ほっとけ﹂ がっかりしたような、しかし巨乳好きとか言われないで良かった と安心したような妙な気分になった。 二人の注文していた料理が届いた為に、礼装に合わぬ庶民的な料 理を旨そうに食べたという。 話はそこでおしまいである。この後もゆっくり食事をして久しぶ りにクロウを家に呼び穏やかな休日となった。 それは彼と彼女がずっと過ごしていたいつもの日常であった⋮⋮。 ****** ﹁確かあれは││﹂ お八やタマにせがまれて九郎は数十年前の見合いを思い出そうと した。 まだ若い頃と言ってもいいかもしれない。いつも仲間内で事件を 1737 起こしまわっていた酷く騒がしい日々であった。 そんな中、日常的な騒動で起こったお見合いというイベントは⋮⋮ ﹁││燕の、マスコットが⋮⋮ああ、そうだ。己れはヤクルトファ ンだったんだ⋮⋮﹂ 一番印象的だったのがハルヒであった。随分前なのでもはや断片 的にしか思い出せないのだ。 彼は数十年ぶりに自分が好きだった球団の事を思い出して軽く目 頭を抑える。あんなに一生懸命観戦していたのに、思い出すことさ え随分と無かったのである。 回春して泣きだした九郎をお八が慌てて顔を覗き込み心配するが、 彼は胸のつかえが下りたような笑顔で、 ﹁懐かしい事を思い出してな。見合い? ああ見合いなら逮捕者が 多数出たぞ﹂ ﹁見合いで!?﹂ ﹁持ち込んだ酒に火がついて教会││寺も焼け落ちたしな﹂ ﹁見合いで!?﹂ ﹁まったく││見合いはもう懲り懲りだのう﹂ ﹁どんだけ特殊なの﹂ 白い目でお房から睨まれて九郎は肩を竦め、手元の水出し茶を飲 む。 茶を見ていると、あの小さな友人は元気にしているか考えて、懐 かしくて少し泣けてしまった。 彼女は紅茶派だったが、一緒にいると良く緑茶に挑戦してすっか り口慣れてくれた一番の茶飲み友達だったのである⋮⋮。 茶柱が立って、すぐに沈んでしまった││。 1738 1739 外伝﹃IF/江戸から異世界1:再開編﹄︵前書き︶ ※分岐したパラレル世界なので今後の本編に影響する話ではありま せん 1740 外伝﹃IF/江戸から異世界1:再開編﹄ 自分の為。己の齎す何かの為。 或いは知る全ての為に自分の魂を悪魔に売り渡し、未来を手に入 れる切っ掛けを作った人間が居た。 馬鹿な奴だと九郎は思う。破滅など知っていたのに、自分の責任 でも無いというのに僅かな可能性にかけて死後の全てを捨てる覚悟 をした。 結果、其奴のお陰で誰も彼もが救われたが、それを知るものは居 ない。其奴は歴史にも名を残さぬ、ただ死んだ人間である。 ﹁まったく、若いのから死ににいくものではない﹂ 孫のように年の離れた奴から、借りっぱなしで生きていくには余 生はあまりに長い。 だが、死んでしまった者には冥福を祈るしかやれることなど││ 普通は無い。 問題はその者が契約していた悪魔だ。 契約によるとその魂は転生や解脱すら許されずに、死後九十九年 間の使い魔となり地獄へ落ちるとなると││知っている九郎の目覚 めが悪すぎる。 幸いにも魂はひょんな繋がりから魔王の固有次元に入り込んだた めに、すぐには悪魔のものにならない。しかしそれも、魂自身の引 力により丁度五年で元の世界に強制帰還して悪魔に奪われる。 固有次元での魂保存に関しては魔王としても別に排除はしないよ うだが、悪魔の契約に関しては、 ﹁なーんで我がそんな、他人の尻拭いをしなけりゃならないわけ?﹂ 1741 と、言うのでこちらで何とかしなくてはならない。この台詞は、 自分の面倒に対する拒否と合わせて九郎にも投げかけたものだった が。 ヨグ││いや、召喚士族全体に言えることだが、彼らは気まぐれ で手助けはするものの面倒くさい、やりたくないと本心から思うこ とに関しては誰の頼みも受けない。それが国家や神であっても、決 して。 それでも悪魔との契約を破却する方法は教えてくれた。 [シャロームの指輪] 遥か昔に存在した、歴代の召喚士一族の中でも最厄な能力を持つ と言われる、悪魔召喚士シャロームが身につけていた指輪である。 それには彼の魔力術式が込められていて、妖魔から魔王まで悪魔 との契約を無視して一方的に使役し、かつ危害を与えられることは ないという悪魔にとっては泣きたくなる効果があるという。 あらゆる悪魔から祈りに似た封印処理が施されているために異界 物召喚士のヨグでも複製は出来なかったが、実物は魔王城の地下宝 物庫に保管されていた。 ﹁つまり、くーちゃんはそれを五年以内に取ってこなくちゃ行けな いってわけだ。君をペナルカンドに送って、指輪を手に入れた後で またこっちに喚び戻すぐらいはしてあげるよ。帰るために時間アン カーを付けておくから向こうにいても浦島太郎にはならないさ。滞 在時間分は江戸も年が経つけどね﹂ ﹁助かる﹂ ﹁それぐらいは親愛のサービス││ところでくーちゃん。くーちゃ んはあの魂をなんで救おうとしているんだい? 義理? 人情?﹂ 1742 意地悪い表情で魔王が問う。所詮、その魂が悪魔と契約し能力を 使ったのは自分の為なのだ。九郎が居ようが居なかろうがそれは変 わらず、魂を救わなかったところで九郎に現世で何の影響もあるわ けではない。死後の魂の行方など気にしても無意味なことだという のに。 彼は気負った様子も無く、いつも通りに当然のごとく告げる。 ﹁いや││単に己れの気分が悪いだけだ。自分の為だのう﹂ ﹁⋮⋮くふふ。君が誰かの為にというのは面白く無いけど、君が自 分の為にやるというのだから精々面白可笑しく見届けてあげよう│ │これを持っていくといい﹂ そう言って、魔王は必要以上に機械の外見をした義手を掲げると、 マッドワールド 空間が歪みその手に漆黒の刀身を持つ、バスタードソードほどの大 きさの剣が握られていた。 見覚えがあるものだ。 魔女が最後に使っていた、[狂世界の魔剣]という固形化大質量 魔力ブラックホールを刀身にした剣だ。 ﹁これは宝物庫の鍵にもなっているし、地下は異次元迷路になって いて自動生成される魔物がいるからね。それに特攻のチート武器だ よ。使い終わったら宝物庫の中に捨てといていいから﹂ 穢らわしそうに義手に持った剣を九郎に渡した。彼女も、特殊な 加工を施してある義手以外で持とうとすると瞬間に魔力を奪われて 昏倒するのだという。 中性子星隕石の直撃に耐える魔王特製防壁さえも溶けたバターの ように切れる抜身の剣である。九郎は慎重に受け取って軽く振って 見た。使い勝手に問題は無さそうだが、それで片手を失っているヨ グがマジビビリして離れる。 1743 制作に手がけたのも魔王なのだが、魔剣に﹁あの魔王をも傷つけ た﹂という箔をつける馬鹿な理由で自分を傷つけようとしたらざっ くり手首を切り落としてしまった上に、召喚能力がガタ落ちしたと いう間抜けな過去がある。 ﹁すまぬな。愛用の刀を失くしたばかりでな﹂ ﹁愛用と言えばその着流しは[疫病風装]に見えるけど[ブラスレ イターゼンゼ]は⋮⋮﹂ ﹁知らん。そんなもの知らーん。これはお八に渡した布切れで作っ てもらったあの娘のオリジナル衣装だから関係無いのーう﹂ ヨグが九郎の着ている青白い和服を見て指摘するが、彼はそっと 目を閉じて顔を背けた。 ともあれ少し前の事件でアカシック村雨キャリバーンⅢは込めら れた魔力の凌駕発動により消滅してしまったので、武器は有りがた かった。蒼白の着物もお八により自動発動だった魔力のオンオフを 切り替えられるようになりより便利になったのだが。 にやにやとした厭らしい笑みを浮かべて鼻を鳴らすヨグであった。 ﹁ま、いいっさ。とりあえず我から支援できるのはそれぐらいかな。 もしかしたらIM−666が修復して戻ってくるかもしれないから その時は手伝いに行かしてあげるよ。貸し一つ!﹂ ﹁魔王城で酔っ払って己れの背中にゲロした借りから支払っておく﹂ ﹁わあい黒歴史が一個消えたぞ! ちくしょー﹂ タンホイザー 言いながら彼女が手を翳すと九郎の足元に召喚陣が出現した。 ・ゲート 異界同士を繋げて九郎を飛ばす為に作り上げた術式││[新世界 の門]である。九郎が地球とペナルカンドの行き来を可能にするが、 座標は誰かを基準にしなければランダムで飛ばされる。 蒼白い着流しに漆黒の剣を持った九郎は門に立ち、緊張したでも 1744 使命感に燃えているわけでもなく、いつも通りの眠そうな半眼で転 移を待った。 最後の別れではないが、江戸の皆に少し出かけてくるとは告げた。 過ごした時間はこれまでの人生でも短い場所だが、なんとなくあの 場所で骨を埋めるのだと九郎は思っている。故郷には帰れなかった が、場所は似たようなものだ。 しばしの別れとなるが、行かねばならない。 ﹁地下の入り方なんかはペナルカンドに行った時に自分で探してね。 こっちとは時間の進みが違うから、結構向こうは変わってるはず。 とりあえず、困らないようにくーちゃんと縁が深いところに転移す るよう設定したから﹂ ﹁ああ。なんとかしてくる﹂ 九郎の言葉に、彼女は複雑な笑みを浮かべた。 ﹁││君がそういうのなら、きっとなんとかしてしまうんだろうね え。ああ、クソ、羨ましいやらずるいやら⋮⋮道具より魔法よりチ ートだよ、まったく。さあ開け廻れ世界の歯車、時間の油、運命の 火種││ようこそ、新たな冒険の日々へ!﹂ 陣から溢れた発狂した玉蟲が飛び廻るような虹光の乱反射が九郎 の体を包む││。 ***** 1745 ペナルカンドと呼ばれる異世界、大陸の東海岸に位置していた魔 王城の跡地には現在では巨大な都市が出来上がっていた。 時空間汚染されていた砂漠を勇者が神から与えられた超栄光特典 で豊かな大地に替え、また大陸中から国づくりの人員を呼び寄せて 周囲の小さな国も合併させて一気に版図を広げて帝国を作ったので ある。 魔王城跡地には、その首都である[帝都]があり大勢の移民で人 種のるつぼになっていた。 帝都の一角、小さな教会と花畑のある場所にスフィと云うエルフ の司祭は静かに暮らしていた。 布教も演奏会もあまり開かないが、週に一度子供達に物語を歌い 聞かせる事を続けている。また、世界でも有名な絵本[悪戯魔女と 苦労の騎士]の作者である事はあまり知られていない。 花畑にある骸の埋まってない墓の前で歌う事は彼女の日課であっ た。 ここに来て何年経っただろうか。日課を続けながらもそう思うの は、この日は彼女の誕生日だったからだ。 多少成長は見られるもののまだまだ少女としか言いようのない容 姿を保っているが、スフィは今年で150歳になる。 最後に墓の主とあったのは、もう50年も前になる。100歳の 誕生日の時に、全国で指名手配されていた彼はふらりといつもつる んでいる魔女を伴わずに現れて、スフィの家でごろごろしたり料理 を作ったりして祝うというよりもただ怠けに来たような態度で過ご して帰っていった。 暫くして魔王城は壊滅したというニュースが大陸中に流れ、それ っきり彼の姿は消えてしまったのである。 伝神に連絡を頼んでも宛名の存在しない人物には届かないと手紙 を突き返された。 1746 それから彼女は一人、彼が死んだ帝都で墓守をしているのであっ た。 死体の埋まっていない墓で歌う。 時折とても虚しくなるが、続けてしまっている。 もし。 もしクロウが生きていて帰ってきたら、自分の墓を見て驚いたり、 それの供養をしてる自分にツッコミをいれてくれるだろうと思って。 その時はまた一緒に笑えると思っていた⋮⋮。 歌が終わり、彼女は踵を返して歩き出した。 数歩、歩いた所で背後から声が聞こえた。誰も居なかったはずの、 クロウの墓から土が盛り上がる音と共に。 それはほぼ非難のような苛立った声である。 ﹁ぬう⋮⋮! 土の中に転移とか舐めてんのかあの魔王め⋮⋮!﹂ スフィは足を止め。 ﹁おまけにレクイエムっぽいのまで聞こえてそのまま死ぬかと思っ たぞ﹂ 息を飲んだ。 覚えている声だった。 土を起こす音、服をはたく音。 そして、こちらに近づく足音がして、彼女は意志を決め振り向こ うとした。 声がかけられる。 ﹁││おう、スフィか。なんだ、お主⋮⋮大きくなったなあ﹂ 1747 きっと││。 クロウと再び会ったらそれは劇的なものではなく、彼は普段通り にのんびりした様子で話しかけてくると確信していて、それは的中 した。 だから返す言葉も決まっていた。いつも通り、笑って、軽口を││ ﹁⋮⋮ク、ロ││﹂ これまでに無く下手くそに笑いながら振り向いて、目線の近くな った彼の顔を見た瞬間、スフィは耐えられなく為り涙を流した。 50年前に会った時と変わらぬクロウの姿がそこに居る。声を出 して、土の匂いをさせて、懐かしそうにスフィを見ている。 ︵ああ、かみさま⋮⋮︶ 足から力が抜けて、倒れこむように抱きついた。 クロウは慌てて、持っていた抜身の剣を放り捨てて受け止める。 剣は刀身を音もなく地面に突き通し、豆腐の上に置いたように鍔元 まで刺さった。 スフィが小さな手を彼の背中に回して顔を胸に押し付ける。 ﹁会いたかった││会いたかったぁ⋮⋮うあ、ああああ⋮⋮﹂ ぼろぼろと泪がこぼれ、舌は痺れたように動かず、嗚咽を垂れ流 してスフィはクロウに抱きついて泣き叫んだ。 ﹁うぁぁああ⋮⋮寂しかっ、死んだって、ずっと、ずっと、あああ ああ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮すまんかったなあ、スフィ。己れも会えて嬉しい⋮⋮﹂ 1748 ﹁わ、わ、私、ひぐっ、くろ、うあああ⋮⋮﹂ クロウは彼女を抱き返しながら、自分も目に熱いものもがこみ上 げて、堪えられなかった。 これまでの人生で一番長い付き合いの親友なのだ。 居なくなってもずっと自分を悼んでくれていたスフィには、有り 難さと申し訳無さと情を感じ、嬉しくて只管頬を伝うものを感じた。 ︵古い友人ほど、居なくなった時は寂しいと知っていたのに⋮⋮︶ かつての傭兵仲間が鬼籍に入る度に居場所を失っていくような悲 しさを味わっていた事をクロウは忘れていた。 きっとスフィも同じ思いだっただろうに⋮⋮と、胸が締め付けら れる気分である。 ⋮⋮年を取ったら取ったでやはりスフィと気持ちが擦れ違いまく っているクロウであった。 ***** スフィの情緒が安定したのは次の日であった。 再会したその日はとりあえず何をするにもクロウから離れず、ク ロウが作った食事を口にいれては泣きだし、茶を飲んでは泣きだし、 ﹁歳のせいで厠が近いから﹂という理由で布団を別にするクロウに 泣きついた。 1749 朝起きた時にまた泣きながら布団に潜り込んでくっついていたの でクロウは仕方なく、懐に入れていた一文銭に紐を通して、半分寝 ぼけているスフィの目の前で揺らし催眠療法を見様見真似で行うこ とにした。雨次と共に錯乱した者を正常に戻す術として開発したも のである。これでお遊の包丁を取り上げることに成功した実績があ る。 精神が弱っていたのとクロウが来て安心していたのと寝起きの惚 けが重なったことが原因で催眠術にドハマりして、見事に彼女は普 段の調子を取り戻した。 ﹁と、年をとると涙もろくなるだけじゃからな!﹂ などと顔を赤くして言い訳し始めたので、クロウも一安心である。 素直に甘えておけば良かったものを。いつも肝心な時にヘタれるス フィも問題だが催眠術で強引に話を進めるクロウも大事な友人への 扱いが雑だ。 とりあえず、クロウと彼女はテーブルに向かい合って座り、緑茶 を飲みながら話し合うことにした。 ﹁とにかく、お帰り。クロー﹂ ﹁ああ、ただいまって云うのもちょっと変だが﹂ ﹁え?﹂ 首を捻って若干口篭るクロウにスフィは問い返す。 ﹁ううむ、後回しにすると余計寂しくなるから最初に言っておくが、 己れはちょっと探しものに来たからまた5年後には戻らなきゃなら んのだ﹂ ﹁クローの足を切り落としておけば帰らせんで済むかのう⋮⋮﹂ ﹁待て。落ち着けスフィ。その包丁は置け。ほうらこの振り子を見 1750 よ⋮⋮﹂ 瞳に暗い色を灯して刃物を取り出すスフィに慌ててマインドコン トロール装置を突き出すが、彼女は大袈裟に肩を竦めて包丁を投げ 捨てた。 割りと勢いがついて壁に突き立ってビンと刃が揺れる音が鳴る。 ﹁にょほほー冗談じゃよ。ところでクロー、それはいつぞや言って いた、いつか帰りたかったお主の故郷かえ?﹂ ﹁うむ。少しずれていたが、己れの故郷には違いないな﹂ 年代についてはもはや諦めた。そもそも自分が帰るに正しい年代 など存在しないのかもしれないし、自分があの時代に辿り着いた意 味もあったはずだ。 スフィは儚げな笑みを作ってクロウに云う。 ﹁⋮⋮そこでの話を聞かせてくれんか?﹂ ﹁そうだな。ま、と言っても己れの体感時間だと一年と少しぐらい だが⋮⋮﹂ 彼は語りだした。 故郷に戻ったものの知り合いは誰も居なかったので、偶然行き会 った蕎麦屋で居候をしていたこと。 手伝いをしながら日々遊び暮らしていたこと。 友人が沢山できたこと。 平和ではなく、物騒な面もあるが騒がしくも落ち着く不思議な土 地だったこと。 海に行ったこと。 紅葉見物に山へ登ったこと。 雪が降り熱燗が旨かったこと。 1751 ⋮⋮そして大事な友人が死んだことを苦々しく話した。 ﹁││というわけでな、悪魔に仮契約引き伸ばし中な友人の魂をサ クッと開放してやる為の道具を取りに来たのだ﹂ ﹁お主、どこでも騒がしく生きておるのう﹂ ﹁己れとしては隠居気分なんだが周りがなあ﹂ 語ってみると一年少しで押し込み強盗や辻斬は連発して襲い掛か ってくるわ異様な個性の知り合いができまくるわで濃密だった気も した。 バツが悪い気がしてクロウは逆に問い返す。 ﹁スフィの方は何をしてたんだ﹂ ﹁お主が居なくなって50年何もせずに、死んでもおらぬ誰かの墓 守だけをしていた﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁いや、すまん﹂ ﹁謝るでないわ言ってみてこっちも虚しくなるわい﹂ ﹁そうか⋮⋮スフィの姿じゃ老人ホームにも入れな││いや待て振 動爆砕スピーカーを取り出すな冗談だ悪かっ﹂ ││その日、帝都の一角にある教会で爆発が発生して近くの通り を歩いているものは驚き振り向いたが、 ﹁なんだ爆発か﹂ と、すぐに落ち着いてスルーした。 帝都では毎日何処かで爆発が起こる。それも一度や二度ではない。 そしてその爆発で怪我人は出るものの死人が出たことがないという 1752 都市伝説がある程に、日常的で危険でないものと認識されているの であった。過激派が議事堂を完全爆破したのに何故か誰も死ななか ったレベルである。 ともあれ、重ためな想いにも一切気づくことのない上に思考が完 全に﹁ああこの子独居老人なんだな﹂という風な発言をしたクロウ は増幅された音衝撃波でぶっ飛ばされた。 ここまでまったく恋愛的不能なのは、類まれなる才能と云えよう。 スフィが五十年ぶりに感動の再会をしたというのにほんの少しマ ジギレするのも仕方ない。 半ば瓦礫になった壁の残骸からクロウが起き上がる。 彼の着ている[疫病風装]が元来のものであれば空気の振動を感 知して自動で受け流すのだったが、仕立て上手なお八によって改造 着流しに拵え直されたそれは意識して自動回避機能を解除できるよ うになったのであっさりブチかまされたのである。 一見、不便になったように思えるが常に自動回避が発動していれ ば人混みの多い町などは歩けない為に着るには必要な処置だ。 体の埃を払いながらクロウは、 ﹁あー⋮⋮なんか久しぶりだなこれ。最後に食らったのいつだっけ ? 傭兵の頃飲み会で団長達と比べ息子してたらスフィが通りかか って⋮⋮﹂ ﹁思い出させるでない。まあ、ちょっとその時の衝撃で団長のゴー ルデンボールが片方さよならしたのは悪かったがのう﹂ ﹁懐かしいな﹂ ﹁うん﹂ ﹁⋮⋮もう二人になってしまったのだなあ﹂ ﹁ぐすん⋮⋮あ、でも、オーク神父はまだ生きてあちこち旅をして おるぞ、二十年ぐらい前に墓参りに来た。イートゥエは鎧の呪いは 解けたかのう⋮⋮長いこと見とらんが﹂ ﹁そうか﹂ 1753 ﹁お、お主は一年、ちょっと離れてたつもりだけど、私はずっと一 人だったのじゃよ⋮⋮﹂ また泣きだしたスフィにクロウは柔らかな声で云う。 ﹁││なあ、スフィ。己れは目的を果たしたらまた帰らなくちゃな らん﹂ ﹁わかっておる! わかって⋮⋮﹂ ﹁向こうはこっちと違ってな、エルフみたいな不老長寿は奇異の目 で見られるし歌の神もおらぬ。多分。こっちと自由に行き来できる のは魔王ぐらいで気分屋のあやつでは説得しても行ったり帰ったり は難しいのだ﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ 寂しさに我儘を言っている己を諭す声音に、スフィも頷く。 彼の人生で、彼の故郷を大事に思うのは当たり前なのだ。束縛す る権利は無い。また会えただけでも儲け物なのだから。 クロウはスフィの肩を叩いて、微笑みながら告げた。 ﹁││それで、いろいろ不自由になるだろうし魔王が拒否するかも しれんが⋮⋮己れがそのへんは出来るだけなんとかしてやるから、 スフィも来るか?﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ ﹁目立つ姿は隠形符でも巧いこと使えばよかろう。まぁた、お主が 己れの架空の墓守を何十年も続けられたらそれこそこっちの気が悪 い。老々介護ってのはちょいと絶望的だが少なくとも己れが生きて る間ぐらいは茶飲み相手には││﹂ 喋っている最中で、クロウは彼女の気配が変わった事に気づいて、 話を止めた。 1754 ﹁うん⋮⋮! もうひとりはいやじゃ⋮⋮くろうがいないと、いや だ⋮⋮﹂ ⋮⋮大泣きしたスフィを落ち着けるには、やはり振り子式マイン ドコントロール装置が用いられた。凄い効果だ。やったぞ雨次お前 も困ったら使えと次元の彼方に居る女性関係に悩む子にエールを送 るクロウであった。 死ぬほど気分屋で、その気分的に気に入ったのか気に入らないの か微妙な関係のクロウ以外に関する頼み事など聞きそうに無い魔王 である。エルフ一人転移させてくれと頼んでも﹁なんで?﹂と断る だろう。 しかし説得というか、対価として彼女に言う事を聞かせる手段が クロウは一つ知っていた。 ︵死後に魂の所在をヨグの側に⋮⋮ま、死んだ後のことだしのう︶ イモータルやヨグに勧誘されたことであった。痛くしないとか三 食昼寝付きとか有給もあるとか、様々な条件があるらしいが要する に死んだ後幽霊状態でヨグの世話をする仕事に就かされるらしい。 契約すれば好きな願いを叶えてくれるという胡散臭いことこの上 無かったが、いざというときはそれでスフィの分の通行料にすれば 良いと考えたのである。 大体彼女の側と言っても漫画読むかゲームの相手かぐらいしかや ることは無いのだから。 それはともあれ││ ﹁ところでスフィ。己れは魔王城の地下に物探しに行かねばならん のだが⋮⋮ここはどこだ? クリアエか?﹂ ﹁ん? ああ、そういえばクローは50年ぶりじゃったのう。ここ 1755 は[帝都]と言ってな、魔王城があった地に作られた町じゃよ﹂ ﹁ええええ⋮⋮ちらっと教会の外を見たぐらいだが、やたら発展し た街に見えたが⋮⋮ここが魔王城? あそこって地雷埋めまくった 砂漠じゃなかったか?﹂ 花畑のある教会の近くは滑らかな石畳の道や数階建ての建物、行 き交う馬車に騒がしい商店そして人の群れが見えた。 人口三人な上に張り巡らされた空間歪曲重力障壁で日光も遮られ ていた魔王城からは想像も付かない、活気のある街である。 ﹁魔王死んでやったー祭りでそこらの神が祝福しまくってのう⋮⋮ 移民建国ラッシュで朝と夕方で街の形変わってるんじゃないかって 私は住んでて思うたほどじゃ﹂ ﹁そういえば魔王の奴も街が出来たとか言っておったな⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮ところでクロー? 魔王ヨグって⋮⋮生きてるの?﹂ ﹁うむ、死んだフリをして元気に別次元に引き篭もっておるぞ││ ああ嫌そうな顔するな。一応あまり他所にちょっかいは出さぬらし いからな﹂ 超災害存在の生存に顔を曇らせるスフィに乾いた笑いで返すクロ ウ。 この世界に於いては便所に吐き捨てられたタンカス以下の忌まわ しい存在とされている魔王だが、彼の場合は結構身近に暮らしてい たために感覚が鈍っているのだ。 スフィはとりあえず魔王のことは置いておき、クロウの探し物に ついて考えを述べる。 ﹁魔王城の地下か⋮⋮うむ、入り口に心当たりがあるぞ。[ダンジ ョン開拓公社]という半国営企業が帝都にはある﹂ ﹁ダンジョン⋮⋮開拓?﹂ 1756 ﹁そうじゃな、クロー。買い物にでも行きながら話すのじゃ。ご飯 の材料も無いし、元の世界に帰るまでクローが住むための道具も必 要じゃろうて﹂ ここに住むことはどうやら確定されているようだったが、それに ツッコミを入れても恐らくスフィを泣かすだけだということぐらい は理解していたし宿無し金無しであることは確かなのでクロウはと りあえず頷いた。 異世界に来てすぐさま知り合いの女性に寝食の世話をされて甘や かすことでその対価を支払う男が居た。 クロウであった。 ﹁認めたくないが我が事ながらもはや⋮⋮﹂ ﹁? とりあえずクローはその買い物鞄を持っておくれ﹂ ﹁⋮⋮おう、任せろ﹂ スフィが部屋履きと教会周辺を歩く用のサンダルから、ブーツに 履き替えながらクロウに指示を出す。なおこれは作者の個人的見解 だがシスター服にブーツはとても良く似合うと思う。数学的に見て も間違いない。 着流しに大きなカバンを担ぎ、そういえば墓に魔剣を放置してい たことを思い出したが抜身の剣など持ち歩くわけにもいかない為に 放置することにした。鞘を用意しなければならないだろう。その辺 に置いていても、この世界の住人では握った瞬間魔力を奪われ気絶 するために防犯対策はできているのだが。 顔を洗面所で洗うスフィを見ながら、 ﹁⋮⋮あれ? この街って水道あるのか。進んでるな﹂ 蛇口を捻って水を出しているスフィを見て口に出した。 1757 彼の居た頃ではペナルカンドにおいて上水道は大国の首都、それ も一部地域のみにあるとかその程度の普及具合であった。魔王城は 冷暖房完備にウォーターサーバーやアイスクリームマシーンなど幾 らでも便利な設備を仕掛けていたが。 顔に白いタオルを押し付けて水気を拭ったスフィが云う。 ﹁うむ。帝都では大部分が上下水道配備じゃな。[おおきなうみ] との契約で海水から塩分を抜いて取水し、浄化した下水を海に戻し て循環させておる﹂ ﹁へえ⋮⋮あの謎生命体と契約できるんだ﹂ ﹁それだけ世界的に厄介だった魔王を倒した皇帝に色んな存在から 特典を貰えたということじゃな﹂ ﹁そういえば魔王倒しに来たのって勇者だけじゃなくて召喚士と闇 魔法使いも居たけど﹂ ﹁召喚士は権力や栄光に興味ないからいらぬと辞退して、魔法使い は死んだと聞いておるのう﹂ ﹁ふうむ﹂ 事実、召喚士という種族は大体利己的な性格をしているものの、 世界や社会を支配しようと思う者は殆ど居ない。一人で軍に匹敵す る能力を持つ彼らがそこまで危険視されないのはその性格からと言 われている。例外が異界物召喚士ヨグや、悪魔召喚士シャロームな どであったのだが。 考察しているとスフィの準備が出来たようで、手を引かれた。 ﹁さ、クロー。いくのじゃ﹂ ﹁ああ﹂ 教会のドアに掛けている板を[本日休み]にひっくり返して戸締 まりをする。 1758 二人は並んで、教会から出る。ふと、お互いの手に感じるぬくも りを意識して思い出そうとした。 ︵そういえば、スフィと手を繋いだのはいつぶりだったか︶ 何も言わないでぎゅっと強く握るエルフの少女はそれがいつ以来 か確り覚えているが、堪えるような表情を少しだけして、微笑んで 引っ張るように歩いた。 クロウはまだ少年の姿であった為に、かつて出会った時のようで はなく、他人から見れば歳相応の微笑ましい二人に見えるだろう。 ***** 帝都の街はクロウが異世界に居た時の記憶よりもより百鬼夜行度 数が増加しているようだった。 歩く者達は犬猫の獣人などはすぐに見かけ、オークやエルフ、竜 人に骸骨人や妖精、蟲人に下半身をスライムに沈めて陸上を動き回 っている人魚まで居る。人間でも傭兵風の軽鎧男や魔法使い、路上 ライブをしている神官に全裸で走る変態と追いかける官憲など様々 だ。 人種のるつぼと言うか、ペナルカンド世界の社会性住人の博覧会 のようであった。 ︵石燕が見たら興奮しそうな場所だ⋮⋮︶ そう、思う。 1759 帝都はまったく基盤の無かった土地に発生した謂わば移民の国で ある為に世界中からあらゆる人種が集まり居住しているのだ。 故に元から住んでいた者達との軋轢などは起こりにくい利点があ った。今のところ誰もが新参なのである。 余談だがエルフの国に帰れず、オークにも馴染めない魔女に変身 させられた元エルフのオーク男達が救いの地として集まり共同体を 作っていたりする。 ﹁凄い所だな⋮⋮これがあの魔王城のあった場所か﹂ ﹁人だけじゃなく物も多く集まる交易の場にもなっていてのう。古 くからある大国に比べて規模はともかく、世界で今一番盛り上がっ ている都市であると言われておる﹂ ﹁確かに珍しい食べ物も並んでいる﹂ 人混みの中歩きながら左右の商店を眺めて感嘆の声を上げる。季 節外れだがハウス栽培された果実や新鮮な肉魚がずらりと並んだり、 満員に入っている料理屋に並ぶ列やスーパーマーケットのような広 い百貨店も見えた。 なんとクロウが居た数十年前には無かった米屋チェーン[奥さん 米屋です]という名前の店まである。名づけた奴は阿呆だが、とう とうこの世界でも米が流通し始めたのである。誰かが実りの神から 種を貰って栽培に成功したのだろう。 後で買おうと決めつつ、歩きながらスフィに尋ねる。 ﹁そういえばなんか傭兵風な奴とか多い気がするんだが⋮⋮治安が 悪いのか?﹂ 軽鎧をつけていたり、明らかに戦い慣れした雰囲気を出している 通行人がそう少なくない数居たのであった。 スフィは頷き答える。 1760 ﹁それが[ダンジョン開拓公社]の契約社員じゃろう﹂ 続ける。 ﹁ここに街を作る過程でな、地下への入り口が三箇所ばかり見つか ったのでまずは国の騎士隊が斥候を連れて探検に行ったのじゃ。地 下は入り組み、明らかに空間が歪められているほどに広く、現れた 多数の魔物に襲われて全滅してしまった﹂ スフィが以前に読んだ新聞の内容を思い出して語った。クロウは 無言で ﹁魔物と言うのは見た目は魔獣や魔法生物、中には凶暴化した獣人 や竜とまで遭遇した報告があるが本物ではない。倒すと姿は消え、 魔力の篭った小さな鉱石を落とす。その鉱石は様々な分野に使える 新発見の魔法鉱石でな、その何処まで奥かわからぬダンジョンへ次 々と討伐採掘へ向かうこととなったのじゃ。 だがなにせ出てくる魔物は強いのだと全滅は免れん。騎士も国が 出来たてで練度も低いからのう。騎士が死にまくったらどうなるか クローもわかるじゃろ?﹂ 前に別の国だが、騎士として働いていたクロウは苦々しく云う。 ﹁死ぬ度に保険金やら遺族給付金、弔慰金も出るだろうな⋮⋮財源 は減る上に国力は下がるし世情は悪くなる。貴族制じゃなければ民 間からも雇う国家公務員だから今どきはどの国も扱いは慎重にして いる。だから戦争時は傭兵が要るんだのう﹂ ﹁それで国が始めたのが、移民の多いこの国には他所から傭兵や身 体能力の高い獣人も多く来ておるからな。それらに下請けさせてダ 1761 ンジョンに潜らせ敵を倒して出た魔鉱を買い取る商売││それが[ ダンジョン開拓公社]なのじゃ﹂ ﹁よくそれで人が集まるな﹂ ﹁ダンジョンの中には魔物だけではなく様々な道具も落ちててのう。 拾った物は会社に渡す義務は無いとして、一攫千金になった者も多 い。仕事にあぶれた傭兵などもとりあえず食い扶持に困らぬ程度に は弱い魔物倒していても稼げるんじゃよ。 で、そこは魔王城の地下と言われていて最深部には宝物庫がある と噂になっておる。無論、辿り着いたものはおらぬが﹂ ﹁成程⋮⋮﹂ クロウは探し物がある場所がそこだと理解した。噂にすぎないが、 クロウはそうであると納得が言った。彼も己が時折頷く、 ﹁勘働き﹂ というものは時に百の情報よりも自信に思っている。 ダンジョンは複雑怪奇に入り組み、またある時間ごとに構造が入 れ替わりそれまでの地図を無為にした。奥に行けば行くほど魔物の 苛烈さは増し、魔鉱で日銭を稼ぐ為に入っている多くの社員がそれ に到達出来ないのも当然では合った。 数少ないが魔王城の地下に埋もれる貴重な道具や深淵を目指して いる者も居るが、やはり攻略はまだ出来ていない。 ﹁つまりそのダンジョン開拓公社に行って仕事を受ければいいんだ な﹂ 簡単に考えるクロウに、スフィは立ち止まって溜め息をつきその 場に合った雑貨屋に引っ張り入り込む。 1762 ﹁すぐに行って雇って貰えるわけなかろう﹂ ﹁そうなのか? 聞いた話だと余所者を雇い入れてるのだろう?﹂ ﹁馬鹿者。入るにはまずこれが必要だ﹂ スフィが陳列されている棚から二枚の紙を引っ張りだす。 履歴書であった。 ﹁パンフで読んだ所、入社説明会自体は月に2日開かれておるがま ず3日前までに履歴書を送付しなければならん。あれで半公営なの だからのう﹂ ﹁世知辛いなファンタジー⋮⋮あれ? 二枚ってスフィも行くのか ? ダンジョン﹂ ﹁⋮⋮﹂ 意外そうに云うクロウを、ぐいと引き寄せて彼の顔の目の前でス フィは怒ったように云う。 ﹁私だって、元傭兵じゃろう。それに、クロー一人で危ない所を生 かせるなんて、私は嫌じゃ﹂ ﹁⋮⋮そうだな。己れとスフィは傭兵団でもコンビだったからのう﹂ ﹁うむ! 傭兵団最強コンビじゃ!﹂ ﹁いや、あの時一番強かったのジグエンで次にシックルノスケで次 がイツエさん⋮⋮﹂ ﹁ええいともかく私も行くからな!﹂ ﹁わかったわかった。大丈夫、スフィは己れが守るからのう﹂ ﹁⋮⋮真顔でこういうこと言いやがるのじゃ﹂ はあ、と疲れたような溜め息を吐くスフィである。 とりあえず履歴書と開拓公社のリクルートペーパーを購入して、 食料と生活雑貨を買い込みその日は家に戻ることにした。 1763 予想よりも多く為り風呂敷に包んで背負うクロウだけに持たせる のも難色を示すので、クロウの持つうち一つの買い物袋を二人で持 っていると、 ﹁はっはっは。まるで新婚さんだなあ﹂ などと、なんの気無しに言うのでスフィは、 ﹁みょふー⋮⋮﹂ と、頭が茹だった吐息をこぼすしか返事は返せなかった。 クロウはやや陽気だがすっかり枯れた老人に中身がなっているの に、エルフとしてはまだまだ若いスフィは感性が初心なのであった。 ﹁しかし己れの分まで済まぬのう。使ってた口座は凍結されて差し 押さえを食らってしまってな﹂ 申し訳無さそうに云う。 世界的人間災害の魔女と連帯罪として、クロウが老後の為に貯め ていた預金と年金は全て差し押さえられてしまった。 勿論魔女も魔王もまともな金銭は使用不能であったのだが、それ に対抗した嫌がらせで彼女らは魔王が召喚した金や貴金属、宝石に 偽札を無料でばら撒きまくって多くの国々の経済を混乱させまくっ た過去がある。まあちょっと、クロウが自分の口座が使えなくなっ て苛立ち混じりに提案したら﹁グッドアイデア!﹂と躊躇わずに実 行されたので強くは言えないが。 スフィは小悪魔的微笑を浮かべながら、 ﹁クローは何も心配することないんじゃよー? 食って寝る分には 私が全部小遣いをやるからのー?﹂ 1764 ﹁やめろ結構自覚したらつらい﹂ ﹁にょほほ∼。ま、ダンジョン開拓員は歩合制で要領か運が良けれ ばすぐに稼げるらしいからのう。暫くの辛抱じゃて﹂ ﹁ふうむ﹂ 片手で詳しく書いてある開拓公社のパンフを見ながら云うスフィ。 [信じる者は儲かる][集え若者]など扇情的な単語が入社要項に 散りばめられている。 ひとまず二人は家代わりにしている教会へ戻り、まだ夕方であっ たが早めの食事を取ることにした。 豊富な種類の野菜に肉など様々な材料を買い込み、クローが腕を ふるって料理をする。久しぶりに洋食風のものを作ったので、中々 のボリュームになった。 ﹁モッツァレラチーズとトマトの子羊背肉リンゴソース入り娼婦風 スパゲッティだ﹂ ﹁んんまいのぉぉ!﹂ ﹁デザートは雪解けプリン。ゆっくり食え﹂ ﹁にゅおおお!﹂ やたらスフィが興奮していた。 彼女もこの数十年、一人飯を少量だけ毎日寂しくもそもそと食べ る生活だった為に、手料理の味と温かさに涙を浮かべる。 スフィの体からすると少し多すぎたかとクロウは心配したが、旨 そうに彼女は食べきった。ただ、やはり食後は腹がぽっこりと膨れ て、横になって幸せそうに呻いていたが。 一段落して茶を飲みながら、二人で向い合って机に座り履歴書を 前にして書き始めた。 ﹁ええと⋮⋮年齢は95と﹂ 1765 ﹁私は150⋮⋮﹂ ﹁年齢で落とされないかな、己れ達﹂ ﹁大丈夫じゃろう、多分。長寿種族も居るし⋮⋮﹂ ﹁職歴は⋮⋮傭兵っていいのか? まあいいか。その後クリアエ騎 士で副部長になり職場都合により退職⋮⋮放浪は抜いてクリアエ魔 法学校の用務員⋮⋮魔女の騎士は書かんほうがいいからこれぐらい でいいか﹂ ﹁私など傭兵止めてそのまま司祭だから簡単なものじゃな﹂ ﹁資格か⋮⋮簿記二級は持っとるが今更使える気はせんな⋮⋮社会 保険労務士の資格もあったがそれがダンジョンに役立つとは思えん﹂ ﹁司教の資格は取ったが放り出したからのう⋮⋮埋まってないと寂 しいから一応書くか﹂ などと言い合いながら履歴書を埋めていき、二人分を同じ封筒に 入れた。 明日にでも伝神教会経由で送れば、次の説明会には出れるだろう。 ***** それから数日の間クロウは帝都でスフィと観光のような生活をし た。 ダンジョンは入り口を国が管理しているだけあって、正式に入社 しなければ挑むことなど出来ないのである。焦っても仕方ない。期 限まではまだ5年もある。 とにかく着の身着のまま帝都に訪れていたクロウは生活に足りな いものが幾らでもある。スフィの金に頼るのは気が引けるが、他に 1766 頼れる者も居ない。ディスカウントショップを周り生活用品を揃え た。 やはり、見て回ればクロウが50年前まで居た異世界のどこより も発展している街に見えて、驚きがあったという。 その日は大通りを大行列が練り歩いているのを遠くから見つけて、 クロウが尋ねる。 ﹁何の騒ぎだろうかのう?﹂ ﹁ああ⋮⋮多分帝王が街の様子を見に来ているのじゃろう。暇だか ら﹂ ﹁暇なのか。帝王なのに﹂ ﹁政治なんかは議会制じゃからなあ。一応帝王は議会で決まった法 に対する拒否特権を持っておるが、大体は丸投げしておる﹂ ﹁ふうむ﹂ クロウは少し気になって、スフィを小脇に抱えて疫病風装の効果 で空を軽く飛行して高い建物に屋根に上がった。 神輿のような台座の上で、偉そうな王冠を付けたおっさんが愛想 よく手を上げて周りを見ている。 ﹁あれは確か⋮⋮狂戦士化して魔王城を攻めた勇者ライブスじゃな かったか? まだ生きてたのか﹂ ﹁国を発展させるために寿命を伸ばして貰ったらしいのう。噂によ ると悩みは水虫じゃと﹂ ﹁すまぬ﹂ ﹁?﹂ かつて殺人水虫をぶつけた弊害かもしれないとクロウは小さく謝 った。 ふと、帝王ライブスの視線が屋根の上から見ている、特徴的な│ 1767 │魔女の青によく似た色をしている青褪めた││服を来ているクロ ウへと向いた。 その笑顔が凍りついた。 首ががくがくと揺れだし、口を半開きにしたままクロウの方を│ │いや、明らかに[第四黙示]クロウを見ている。百万人力の奇跡 が解けた今ではライブスにも致死の疫病を無数に生み出す終末の騎 士だ。実際には、今はブラスレイターゼンゼを持っていないのだが。 帝王の指示で神輿が反転して急ぎ足で城へ帰っていった。クロウ は半眼で見送りながら、 ﹁なんだ、覚えておったのか、あやつ﹂ 呟いた。面倒事にならなければいいが。 その後で木材と釘、針金などを買ってきて自分で魔剣の鞘を作る ことにした。 なにせこの世界の住人が触ると昏倒する武器なのだ。下手に職人 にも預けられない。 太い木材を剣で割いて程よい形に整える。まるで水羊羹のような 感覚で力を込めずとも木が不気味なほどに切れている。 剣の腹を上下から挟み込むような形で作り、針金で剣の鍔に固定 出来るように結んだ。普通の鞘だと振る度に切れてしまうので特殊 な構造になっている。 あまり切れ味が良すぎるというのも難点だ。アカシック村雨キャ リバーンⅢも相当な切れ味だったが、あれは鞘にアカシックな概念 が埋め込まれていたので頑丈だったのである。 ***** 1768 ダンジョン開拓公社、人事部。 翌日に控えた開拓員の契約社員講習会の資料を纏めて、手元のぬ るくなった茶を不味そうに飲んだ真新しいスーツの女性は新しい茶 を入れに立った。 ついでに職場の上司にも茶を入れて出す。茶汲みは新入りOLの ギ 仕事である。法律で決まっている。なにせ、一度ごとに特別報酬金 が査定で追加されていくのだ。 ﹁課長、明日来る予定の方はどうっすか?﹂ ルトメンバー チャレンジャーわらい その課長と呼ばれる役職にある男は昔、開拓員││他所では[荒 くれ要員]や[冒険者]などと呼ばれるが、社内では開拓員が正し い││をしていたのだがダンジョン内で罠にかかり、膝に矢を受け て引退して人事部に入ることになったのである。 それだけ他の戦士を見る目が確かだと見られている。やや色の黒 い肌をしていて引退した後でもがっしりした体つきだ。 彼は資料を置きながら、 ﹁ただの案山子だな。まったくお笑いだ。魔物が見たら奴らも笑う だろう﹂ ﹁手厳しいっすね﹂ 苦笑して云うものの、実際に開拓員に為りたがるものは甚だ実力 不足である場合も多い。 例えば猪を正面から打ち倒せる力自慢は田舎の村では持て囃され るかもしれないが、馬車並の巨大な体をした回転ノコギリ付き猪が 三匹四匹と襲ってくる環境があるとは思っても居ないだろう。 1769 食いっぱぐれた傭兵や基礎膂力の高い獣人などは浅い階層でちま ちまと稼ぐのが精一杯である。 本格的に深層へ向かい質の良い魔鉱を採取できる開拓員はそれこ そ数えるほどだ。 ﹁あ、そうだ﹂ 女性が別の資料を取り出す。 ﹁締め切り間際に届いたんですけどこの二人組はどうっすかね? 元騎士と司祭⋮⋮特にこのスフィって司祭は教会に問い合わせたら [奇跡者]に登録されてるっすよ!﹂ 奇跡者と言うのは教会の称号で、単独で秘跡の上位、奇跡能力を 行使できる高位神官を指す。スフィのように複数の凌駕詠唱を行え るというのは歌神司祭でもそうは居ない。一つの凌駕詠唱ですら、 歌い手の神官が何人も集まり合唱しなければ発動しないとされてい るのだ。 課長は二人の履歴書を眺めて、クロウの項目で眉根を寄せた。 ﹁元騎士か。騎士ってやつはプライドが高い割にお役所仕事で実力 はからきしなのが多いがな、こいつはどうなんだ?﹂ ﹁そう言われましても⋮⋮まだ会っても居ないっすから﹂ ﹁ちっ、仕方ねえ﹂ 課長の雰囲気が変わった。 得物を狙う猛禽めいた目付きになり、まだ筋肉で盛り上がった肩 をごきごきと鳴らしながら怖ろしい声で云うので、彼女は思わず一 歩引いた。 この部署に来て初めて課長のこの顔を見たが、睨まれては生きた 1770 面接 心地がしない。 ﹁俺が直々に してやるとするか⋮⋮﹂ 面接 とやらに付き合わされる自分を。 彼女は心底、そのクロウという元騎士を同情した。そして普段は 課長が直接はやらない ***** クロウとスフィはチームで登録されているので同じ部屋で個別講 習を受けることになった。 前の長机に眼鏡をかけた筋骨隆々な男と、同じく眼鏡で清潔感の ある髪型をした線の細い女性が並んで居る。 男は手元の資料に目を落としながら、 ﹁えーそれでは自己紹介等はこちらの履歴書に書いて貰っているの で省略させて頂いて⋮⋮当社を志望した動機をお願いします﹂ ﹁普通に面接してるっす!?﹂ ﹁!?﹂ ﹁!?﹂ 突然叫び出した女性にクロウとスフィのみならず、男も驚く。 ﹁ど、どうしたのかねオルウェル君!?﹂ 1771 ﹁課長も何普通に面接してるっすか! 元騎士の実力を見るんじゃ なかったんすか!?﹂ ﹁だから面接をして人となりをだね﹂ ﹁そこはこう、昔使ってた武器とか持ってきて﹃生半可な野郎はい らねえんだ⋮⋮俺を倒せないようじゃ役には立たないぜ﹄とか言っ て勝負を挑んでいい感じになるものの膝の古傷が原因で負けてしま って﹃俺を倒すとは大したルーキーだ。普通ならギルドランクEか らスタートだが特別にCの実力があるとみなすぜ﹄みたいな展開は !﹂ ﹁⋮⋮君は人事部を何だと思ってるんだ?﹂ ﹁がっかりっすよ!﹂ 何故か憤慨しているオルウェルという女性を可哀想なものを見る 目で皆が見ている。 少々夢見がちな女性であったようだ。ダンジョン開拓公社に務め る開拓員は、魔物を倒して金を稼ぎ、迷宮に隠された宝物を手に入 れるというヒロイックな職業なのでフィクション、ノンフィクショ ン問わずに様々な本など出版されているので印象が実際とは違うこ ともあるのだ。 スフィが首を傾げながら、 ﹁ところでギルドランクとは?﹂ ﹁いやそんなものは無い﹂ ﹁無いんだ﹂ ﹁広報誌で一応業績上位は載せているが⋮⋮とにかく、面接に戻り ます﹂ クロウは営業的な顔を作りながら、適当に答えていった。 面接内容はどれもよくあるものであった。 ダンジョン内で何日も潜ることがあるが年齢や体力的には大丈夫 1772 か、とか命の危険と隣合わせの仕事だが本当に平気か、などだ。履 歴書の空白期間については聞かれなかった。クロウにばかり質問だ ったのでスフィは退屈であった。 やがて面接は終わり、問題がなければこのまま入社できるという ことで説明会に移った。 クロウの方から質問を投げかける。この辺りにあると元より普通 の会社ではなく荒くれを雇うものだから、堅苦しい雰囲気は無い会 話になっていた。 ﹁障害保険などはどうなっている?﹂ ﹁任意で加入だ。最初は皆保険に入って貰っていたのだが、死亡給 付金を受け取る相手が居ないとかそもそも危険な仕事だから保険料 が高くて払い渋る者も多くてな。一応保険会社は複数あるが、開拓 公社と契約している保険会社に入れば二割は社が負担する﹂ ﹁パンフには支給品ありとあったがそれは?﹂ ﹁支給品は携帯食料⋮⋮乾燥粥のみ幾らでも。装備品や薬などは自 費だ。なにせ、横流しされたら困る。乾燥粥は元開拓員で今はお粥 チェーン店を出している者が出資しているが、粥だけだと味気ない ので結局自分で買い込んで持ち込むのが普通だ﹂ ﹁拾った魔鉱以外は自分の物でいいのだな?﹂ ﹁ああ。その代わり魔鉱は全て公社が買い受ける。魔鉱を別の場所 に売ったら規約違反で起訴するが、罪状は国家反逆罪だ。あとダン ジョン内で死んだ者の遺品などは専門の店に預ければ遺族に連絡が いって感謝されるぞ。拾った社員証は社に返してくれ﹂ などと遣り取りをして、後日の研修日を決めてその日は終えた。 二人が部屋を出て行って、オルウェルが課長に拍子抜けした様子 で話しかけた。 ﹁なんか普通の人達でしたね。元騎士って云う割には体も小さいし 1773 子供みたいな感じでしたっすよ。服は東方のキナガシってやつでし ょうか⋮⋮あ、でもスフィちゃんは可愛かったっすね! スフィち ゃんイェイイェ∼﹂ ﹁むう⋮⋮﹂ 一方で課長は難しそうにクロウが出て行った扉を見ていた。 眼鏡を外して目頭を揉む。 その眼鏡には魔法のような奇跡のような妙な能力がある、ダンジ ョンで見つかった物であった。 意識して見た物の名前と効果を鑑定できる道具である。貴重なも のだが妙な予感がしたので借りてきた。これがあるために、既知外 であるダンジョン内で発見された異界の物かもしれない物品にも名 前が付けられ、道具として使うことができるのだ。 面接に来る者は武装してくるように連絡されている。現実でも面 接官が新入社員のスーツ、時計、カバンを見るように、新たに入る 者の装備を見て判断するのだ。 手入れがされていない武器や買って使ったことがなさそうな物は 論外だ。真っ当な戦士こそ確りとした装備を整えられる実力がある。 そして││[疫病風装]に[狂世界の魔剣]と見たことも聞いた こともない厄い武装を当然のようにしているクロウは異質極まりな い。 ﹁⋮⋮オルウェル君、あの二人の研修は君が行くこと﹂ ﹁わっ私がっすか!? ダンジョンなんて潜ったことないっすよ! ?﹂ ﹁他に暇な人が居ない。茶を汲むだけで給料を稼いでないで働きな さい。ダンジョンの浅い所で数回魔物と戦う様子を見て報告書に纏 めるだけだ﹂ ﹁うううう﹂ 1774 呻きながらも上司命令には従う他無い会社勤めであった。 新人の開拓員は魔物との戦いぶりを評価し、明らかに無理そうな らば研修期間で契約を終えるようにするようにしているので数回か ら、多い者で10回程度は評価者が付き添うようになっている。こ れは向いていない新入社員がすぐに死なない為でもあった。付いて 行くのは安全面も考え暇している開拓員を日当で雇って報告させる のだが、勿論正社員である人事部の者が出向いたほうが評価は正確 になる。 一応ダンジョンの浅い階層は何故か弱い魔物しか出現せずに、奥 へ向かう通路途中であるので誰もが遭遇し倒すことから数もそう居 ない。あまり危険ではない場所ではあるのだが。 これは魔王ヨグが地下の構造として最初は楽そうで気が緩んだと ころをガツンといかせる為に仕掛けた罠で時折強い魔物も沸くよう にしているのであった。上の城は攻略される間も無く破壊されたが、 地下ダンジョンは大人数が頑張って挑んでいる事実は彼女からすれ ば愉快だろう。 ***** 後日││。 クロウとスフィはダンジョンに潜る準備をして入り口のある建物 へ向かった。 準備と言っても今日は研修で日帰りなので大した物は無いのであ ったが。 入り口は三箇所あり、それぞれの場所は複合施設になっているが、 1775 一言で表すならば大きな酒場であった。 ラウンジでは食事と酒が売られていて剣や弓、魔法杖などを持っ た格好の集団が寛いでいた。それ以外にも癒やしの神や商業神の簡 易教会、薬屋に研ぎ屋など様々な店舗が施設の中で営業をしている。 店の入り口でオルウェルと待ち合わせをしていて、合流した。前 に見たスーツ姿ではないが、動きやすいジーンズとトレッキングシ ューズを履いて、背中にリュックを背負っているのでこれから遠足 にでも向かうのかと言いたくなる格好であった。あくまで彼女はO Lであって、開拓員ではないのだ。 ﹁そ、それでは行くっすよ!﹂ 気合を入れて気負いを持ち、入り口の観葉植物に隠れるようにし ていた彼女は二人を連れて奥へ向かった。 酒場の開拓員││成程、これならば[冒険者]と呼ばれるのもそ うだなあとクロウは思うような連中が一斉に現れた三人に目を送り ││鼻で笑った。 ﹁引率の先生かよ﹂ ﹁おい坊主に嬢ちゃん、可愛らしいデートなら他所でやりな!﹂ ﹁君達失礼ではないかね? ああマスター、彼らにミルクを﹂ ありがちな台詞を言い合った後ヒャッハハハハと笑い合っていた。 オルウェルは居心地が悪そうに顔を伏せてずかずかと歩く。 クロウとスフィはなんとも知れぬ顔で周りを見回しながら気にも しないで歩いていた。 すると他の開拓員達は笑いを止めて、顔を見合わせて、 ﹁││とまあ、ここまでが新入りが来た時の定型なので﹂ ﹁あまり気にしないで欲しい﹂ 1776 ﹁でも子供だけで危ないと思ったらおじさん達に頼って欲しい﹂ ﹁何だこいつら﹂ いきなり冷静になった他の社員達を胡散臭そうに見る。きっと彼 らも言ってみたかっただけなのだ。 何やら態度の急変に落ち込んでいる様子のオルウェルをスフィと 二人で後ろから突っついて進ませる。 酒場の奥には大きな扉がある。ダンジョンの入口だが、かつて騎 士が探索を行った時に馬車まで連れて行ったことから入り口を巨大 に作っているのだ。 中は洞窟というよりも充分な広さのあるトンネル状になっている という。 膝に矢を受けて引退して門の番人をしている社員に話しかけて研 修の旨を告げて、オルウェルは扉の前に立って二人を振り向いた。 ﹁中に入るっすよ⋮⋮そこからはお二人が前に立ってくださいっす、 私戦えませんから﹂ ﹁ああ、わかったわかった﹂ ﹁い、一応浅い所だと弱い魔物しか出ないので⋮⋮ええと、魔物図 鑑によるとスネコスリとかそんなのっす。見た目可愛いけど。あ、 でも罠は気をつけてくださいね、自然発生しますから一度解除して もまた出てくるんすよ﹂ スネコスリとは子犬か子猫のような姿をしていて、高速で接近し てきて人間の脛にもふりとした体を擦らせる恐るべき魔物であった。 さすがにそれに負ける社員は居ないが、すばしっこいのが特徴だ。 倒した時に得られる低品質魔鉱の換金額はジュース一杯分程度であ る。 そして、オルウェルが扉を開けようとして││クロウが厭な気配 を感じてスフィを小脇に抱えて一歩踏み出し、オルウェルの襟首を 1777 掴んで横に放り投げた。 ﹁きゃっ!?﹂ 悲鳴が届くか早いか││ダンジョン側からの衝撃で扉は粉砕され て暴威の圧力が床を踏み割る音と、大音響の鳴き声を上げて酒場に 突っ込んできた。 巨大な魔物だ。 酒場の開拓員のみならず店の店員らも身構え、漂う紫煙に似た瘴 気に顔を顰めて慌てて外に逃げる者まで居た。 魔物は[毒象]││その名の通り、吐息や汗腺から気体状の猛毒 を周囲に揮発させる能力を持つ、気性の凶暴な象に似た魔物である。 ダンジョンの浅い場所に居るような魔物ではないが││前述したと おり割りと平穏なところにでも突然ケタ違いの強いモンスターが発 生するようになっている。 普通の象ですら暴れれば村一つ潰してしまう、獅子や虎よりよほ ど恐るべき動物である。それが毒の吐息や蒸気をまき散らしながら 襲ってくるのだ。 近寄れぬ為に弓や魔法使いの開拓員が攻撃する││体通り生半可 な攻撃では仕留め切れないが、集中砲火で末端部の足を破壊するセ オリーがある││準備をする。しかし犠牲は確実に出るだろうとい う冷酷な予想を、手練れの開拓員は感じた。 ふと。 皆の視線が、毒紫煙立ち込める象の背中へ向いた。 風が煙を打ち払い、蒼白い衣服を着た者がその背中に立っている のを見た。小脇に顔を袖で覆ったエルフの司祭を抱えているのは、 先ほど開拓員全員が見た新入りの少年である。 扉の正面に立っていて突進の直撃を食らったように見えたが││ スフィを抱えたまま[疫病風装]の自動回避を発動させて躱したの である。そして如何な魔物の毒とはいえ、その衣に触れている者に 1778 病毒の効果を齎すことは出来ない。 ﹁││ほう、中々油断ならんところだのう﹂ 彼は緊張感の無い言葉を口にして、腰に付けた木鞘から漆黒の刀 身を持つ剣を抜き放ち││毒象に突き立てた。 刀身は1メートルほど。それを刺しても通常ならば致命傷になる 大きさの魔物ではないが⋮⋮瞬間、魔物は熱した油が跳ねたような 音を立てて消滅した。 [狂世界の魔剣]││その効果により、刺した相手の魔力をブラ ックホールの重力で奪い尽くしたのである。ダンジョンに現れる魔 物は魔力核から投影された生物そのものではない召喚物によく似た 存在なので魔力を消し飛ばせば存在が掻き消える。 クロウは足場が無くなったのだがふわりと服の効果で着地して、 床に落ちていた大福程の大きさの魔鉱を拾い上げる。これには直接 触れていないから魔剣による効果は及ばず、その純度を失っていな い。 ︵魔王は特攻のチート剣とか言っておったが、確かに便利だのう︶ なにせ、ダンジョンで発生した魔物が相手ならば大きさに関係な く当たれば即死効果がある剣である。 ﹁さて研修を続けるか⋮⋮あれ? オルウェルの嬢ちゃんはどこだ ?﹂ ﹁クロー、あそこで倒れておるぞ﹂ スフィが指さすと顔色を赤青まだら模様にしつつぐったりと倒れ ていた。 咄嗟に投げ飛ばしたので轢かれはしなかったが、撒き散らされた 1779 毒でやられているようだ。本体が消えても毒が消滅するわけではな いのだ。 他の開拓員の中にも顔色悪くして床に沈んでいる者も居る。癒神 教会の司祭や薬屋が慌てて治療に向かっていた。 スフィがクロウの小脇から下りて、 ﹁仕方ないのう。にょほほ、これも久しぶりじゃ。聖歌││[軽や かなる音楽団]!﹂ ││歌った。 何処からか聞こえる楽しげな演奏と共に、回復効果のある歌声が 酒場に響き毒を浄化して蝕まれていた者は目に見えて健常へと治り 出す。 歌神司祭の秘跡を知っている者は驚き歌を唄うスフィを見遣る。 [軽やかなる音楽団]の聖歌は確かに癒やしの効果があるが、そ れは主に気力体力の回復効果であって、傷の治療や解毒などには微 力な効果しか発揮しないのだ。 だが、彼女の歌は違った。癒しの司祭が羨む程に、歌の範囲にあ る者全てを回復させてしまう。 これはスフィがエルフ王族という魔力に恵まれた生まれであった ことと、信仰心による秘跡の増幅作用によってだ。 なにせ、毎日墓に向かって歌っていたら大事な人が帰ってきたの だ。 彼女の歌に対する信仰は現在非常に強い。スフィは今や、歌神司 祭として最上級の能力を持っているのであった。 クロウがすっかり周囲の良くなった様子を見てスフィの頭を撫で る。 ﹁さすがだのう。これなら酔い潰れても平気だ﹂ ﹁うむ! 任せておけ。あ、そうじゃクロー。この国でもバンカー 1780 バスター売ってるのじゃよ?﹂ ﹁あれ流行ったのかよ⋮⋮﹂ 自作の魔カクテルが他国でも売れている事実に顔を曇らせながら、 クロウは血色の良くなったがまだ気絶してるオルウェルの首根っこ を掴んで足を引き摺ったまま、何事もなかったかのように破壊され た扉の先へ進んでいく。 一撃で魔物を倒したクロウと通常ではありえぬ高性能の聖歌を使 ったスフィを││唖然と他の開拓員達は見送るのであった。 ││後に[深淵到達者]と呼ばれる魔剣士クロウの最初の冒険で あったと記録されている。 期間は5年。 目的は宝物庫にある[シャロームの指輪]。 こうしてクロウの江戸から外れた、異世界での日々が始まるので あった⋮⋮。 ***** 1781 一方。 ダンジョンのとある深部にて。 猫獣人の三人組が足音を潜めて道を進んでいた。 [黒猫同盟]と呼ばれる帝都での猫獣人の寄り合い組織に所属す る彼らは開拓員として日々お宝を探して潜っている。 このパーティの特徴としてはとりあえず魔物から逃げ回ることに 長けていた。彼らは魔鉱による収入ではなく、ダンジョンに落ちて いるアイテム回収専門の集団であるのだ。 ﹁兄貴、そろそろ帰りませんかね﹂ ﹁ヒメマルカツオブシを三本も手に入れたんだ。他の仲間に自慢で きまさあ﹂ ﹁馬鹿野郎、この辺りに落ちてたってことはまだあるかもしれねえ だろ、ヒメマルカツオブシ﹂ と、相談し合いながら慎重に進んでいく。 このダンジョンは時におにぎりやパン、ピッツァなどの食料さえ 何故か落ちていて、どれも食べられる。彼らもレアなカツオブシを 見つけて喜んでいるのである。 ふと。 三人の敏感な聴覚が何かが近づいてくるのを知覚した。 鎧の音がする。 ダンジョンの中で遭遇するのは魔物だけではなく、同業者である 可能性もあった。だが油断は出来ない。三人は壁際に身を隠して微 かに発光する首から下げた社員証を握って隠した。 がしゃり、がしゃりと音を立てて近づく。 周囲は闇に近いが微かに明かりがあり、猫獣人の視力ならばかろ うじて見て取れる。 1782 鎧││。 天井に近いぐらい巨大な鎧が、通路の前から近づいてきた。 そして、その鎧は首が無い。 首は││片手に持っていた。長い金髪をだらりと垂らしている、 虚ろな目をした頭だ。 ﹁だーれーかー⋮⋮いーまーしーたーのー?﹂ 響く掠れた声を出す生首。黒猫同盟三人組はお互いに頷き合って、 ﹁出たああああ!!﹂ ﹁デュラハンだあああ!﹂ ダッシュで逃げた。 持った首をきょろきょろと手で動かしながら見回して、 ﹁ああっ!? ちょっと待って下さいまし!? 魔物ではありませ んことよー!﹂ 言うが、既に獣人達は逃げてしまっていた。 首が溜め息をついて大きな鎧の体が肩を落とす。落胆の仕草を互 いにして目の幅涙を流しながら首は呻いた。 ﹁ああもう、折角開拓員に会えましたのに⋮⋮社員証を落としたか ら魔物にしか見えませんわ⋮⋮﹂ ダンジョン内で発生する魔物の中には帝都で普通に住んでいるオ ークやオーガ、リザードマンの姿をしたものも珍しくない。それで 魔物か開拓員か目印にするために全社員に与えられたのが微かに光 る社員証である。 1783 それを失くしてしまったのだから大変である。デュラハンはペナ ルカンドに存在するアンデッドの中でも珍しく、お伽話に登場する 恐怖の首無し鎧騎士としてしか知らない者も多くいる。 おまけに社員証には旅の神の加護がついており、帰り道の方向を 明滅で知らせてくれる機能がついていた。帰り道さえわからなくな った彼女は長い間ダンジョンの中で迷い続けているのである。 呪いの鎧を脱ぐ道具を探すために就職したデュラハンの姫騎士│ │イートゥエは嘆きダンジョンに咆哮す。 ﹁いつになったら外に出られますのよー!﹂ ****** 西方の地方都市国家、クリアエにて。 ニャルラトマト農家をしているオーク紳士が収穫の一息をつくと、 見知った顔││と言うか大体オークは似ている││のオークが片手 を上げて訪ねてきていた。 分厚い肉に覆われた体格に修道服を重ねてきているそのオークは、 旅の神を信仰しているオーク神父である。 紳士は彼の背負う荷物を見て話しかけた。 ﹁やあ神父さん。また旅に出るのかい?﹂ ﹁うん。今度は少し遠いけど、帝都までね。久しぶりに友達に会っ 1784 て、墓参りをしてくるよ﹂ ﹁ああ⋮⋮クロウさんの﹂ 懐かしそうにオーク二人は目を細める。どちらに取っても、大事 な友人であった人間の事を思い出して。 特にオーク紳士はもはや孫のその孫さえ居るような身分だったが、 最初に結婚したのはクロウが見合いをしてくれた縁からであった。 ﹁それじゃあぼくの分までお願いするよ﹂ ﹁土産話を期待してくれ﹂ ﹁ははは、それじゃあ精々騒がしい旅になるように﹂ ﹁どうだろうね﹂ 言い合って、紳士は神父にもぎたてのトマトを渡し別れた。 農園があるためにこの土地から離れられない彼にとっては、神父 に聞く旅の話は格別の楽しみであった。 彼があちこちを回っているのも、きっと自分と同じような人達に 面白い話を聞かせているのかもしれない。 そんなお人好しの彼だからこそ長年旅を続けていても死んだり大 きな怪我を負うこともなく生きているのだろう。神だってきっと彼 を見ている。 旅慣れた歩きで去っていく神父を見ながら、紳士は汗を拭って東 を見た。 光の筋が雲間から帝都の方角へ伸びた気がして、帝都での事件の 始まりを感じた。 ﹁なんてね﹂ 少しロマンチックだったかな、と紳士は苦笑し、トマトの収穫に 戻るのであった⋮⋮。 1785 ****** ある日││或る処にて。 ﹁だぁから、話は簡単だろ? 魔王は探してぶっ殺す、シャローム の指輪は手に入れてクソ悪魔と縁は切る﹂ 少年の声が断定的に云う。 ﹁魔王さんはぶっ殺さなくていいんじゃないかな、お兄ちゃん。お 話聞きたいだけだから⋮⋮それに契約を切ったらアバドンとベルゼ ビュートが可哀想だよ、育ててくれたんだから﹂ それを窘める少女の声がする。 ﹁悪魔を可哀想だなんて思うだけ無駄だって。っていうか魔王と話 するってもな⋮⋮﹂ ﹁いろいろあるよ? どうした小さい頃に私達を捨てたのかとか、 お父さんは誰なのかとか﹂ ﹁どうせくだらん理由だろうし、魔王とまぐわう男なんざヒャクパ ー碌で無しに決まってると思うぞ﹂ 1786 ﹁お兄ちゃん!﹂ ﹁あーはいはい﹂ 二人の男女の声を響かせながら、街道を進む足取りは東へ向かっ ていた。 ﹁ま、とにかく魔王城の地下を探せばなんかあるだろ、手がかり。 邪魔する奴は片っ端からぶっ殺すが﹂ ﹁駄目だって! まずはダンジョン開拓公社っていうのに入ってそ れから地道に探して行くんだから﹂ ﹁面倒臭ぇ⋮⋮誰かシャロームの指輪を拾って来てくれねえかな。 ぶっ殺して奪うから﹂ 言いながら、兄妹は進む。遥か先には帝都の街並みが霞んで見え た。 特徴的な虹色の髪を揺らし、シャロームの指輪を探す者達。 運命は連なり、因果は引き合い、物語は始まる││。 1787 ****** ﹁││IM−666修復率2%。高速自己修復モードを強制終了。 再起動致します﹂ 1788 外伝﹃IF/江戸から異世界1:再開編﹄︵後書き︶ つづかない 1789 53話﹃飯屋商売﹄ お房という少女は今年で十になるが、頭の出来と手先の器用さは 同年代に比べても巧みである。 それも、彼女の師でありよろずの事を教えている鳥山石燕が、普 段の生活態度とは違い熱心に指導をしているからだろう。 特に専門の絵に関しては既に江戸の絵描きの間でも、 ﹁それと知れた⋮⋮﹂ 腕前があるという。 ある日の事であった。 彼女が客の居ない店の中でおもむろに墨筆を取り出して、高級な 和紙にさらさらと絵を描いているのを、暇そうに九郎とタマが隣の 席で眺めている。 二人して麦湯を飲みながら見ていて、徐々に表情を歪めて茶碗を 置いた。 お房が描いているのは全裸のハゲ散らかした中年男性が脱糞して いる絵だったのである。 一目でわかるように装飾を極限まで削り簡素にして気の利いた絵 ではあるが、糞絵としか言い様がない。麦湯が不味くなった気がし た。 ﹁よし││﹂ 彼女は出来に満足して書き文字も入れ、ジト目で九郎とタマの方 へ絵を渡した。 1790 ﹁それじゃあ二人とも、これをあの店の目立つ所に貼ってくるの﹂ ﹁酷い風評被害すぎる﹂ 絵には﹃此の店の御味噌汁に使われている味噌画﹄とあり、あの 店と言うと近頃同じ通りのそう離れていない場所に出来た飯屋の事 であった。 安くて、旨い。そして腹いっぱい食えると評判の飯屋である。 その店に客を取られて、久しぶりに緑のむじな亭はここ最近客入 りが悪くなっていたのだ。 故に妨害工作を仕掛けようとしているお房であった。 ****** 緑のむじな亭と同じ通り、大川沿いにあった空き家は以前一人住 んでいた老人が味噌問屋をやっていたそうである。 黒黒とした八丁味噌を長屋の住人や飯屋に売っていたのだが、あ る日突然錯乱して味噌樽を噛み砕いて死んでしまった。 丁稚が慌てて救護したが、うわ言のように、 ﹁味噌竜が味噌吐息を⋮⋮﹂ などと、幻覚でも見たように魘されてそのまま亡くなったのであ る。 どうもそうなれば、 1791 ﹁なんとも不気味な⋮⋮﹂ という事になり、丁稚は故郷に帰り店跡は閉ざされたままになっ たのだという。 その場所に今年になって、[白屋]という大根料理を作る店が出 来たのを緑のむじな亭が知ったのは最近の事だった。 むじな亭で酒を飲んでいた辻駕籠の男たちが話していたのである。 ﹁しかし酒を飲むならともかく、飯ならちょいと先に行った白屋っ て店がいいぜ﹂ ﹁ほう、どんな店だい?﹂ ﹁大根と菜を混ぜた飯に大根千切りの味噌汁、漬物に鰯のつみれを 入れた含め煮がついてこれを僅か七文で食べさせる!﹂ ﹁へぇ!﹂ その安価に驚いて仲間の男も顔を上げた。現代とは物価が違うの で一概に金銭価値が同じではないが、七文は百五十円前後と考えて もいいだろう。 語っている方は得意気に披露しながら酒を飲みつつ、 ﹁この店の蕎麦だって十六文、飯だって盛り切り一杯で八文もする だろ?﹂ ﹁ああ、安い店でも納豆でもつけるだけで十文を越える﹂ ﹁ところがあの店は更に飯と漬物は食い放題と来た!﹂ ﹁そいつはすげえ。腹一杯食えるな﹂ ﹁おうよ、それでうちのかみさんも子供二人連れて毎日通ってる。 食いざかりだからな﹂ 辻駕籠二人の会話を、周りの客もちらちらと伺っていた。 1792 その席にお房が蕎麦の丼を荒々しく置いて、どきりとした二人は 口を閉ざした。 腰に手を当てて少女が云う。 ﹁⋮⋮お兄さん達、他の店のさくらなら外でやってくれるかしら。 できれば江戸の外で﹂ ﹁ごめんなさい﹂ ﹁それに二人とも蕎麦好きだからここで蕎麦を食べていくわよね?﹂ ﹁はい。頂きます﹂ ﹁お腹いっぱい食べたいならお代わりも必要よね?﹂ ﹁はい。頂きます﹂ にっこりと微笑む看板娘に頷いて、二人は蕎麦を手繰るのであっ た。 ともあれ、江戸の世でも口コミによる評判の広がりというものは 中々に侮れぬものがある。 暫くすると方方に噂は流れて次々に人を呼び、目に見えて周辺の 店の客は減っていった。 この日も昼の時分には白屋の前では行列ができているというのに、 近くで開いている緑のむじな亭は数名しか客が入っていない程だ。 だからといって、 ﹁⋮⋮営業妨害は止すのだぞ、フサ子よ﹂ 糞絵を貼ってデマを流すのはさすがに犯罪だ。九郎は憤慨してい るお房を止めるのであった。 彼女は不満そうに口を尖らせて、 ﹁なによ。はっきり言ってここ近辺の店に対する営業妨害してるの 1793 は向こうなの。七文なんて価格破壊されたら商売上がったりなの。 おまけに対抗して幾つかの店も値下げし始めたし⋮⋮﹂ と、云う。 消費者であれば嬉しい事かもしれないが、場末の飯屋であるこの 店にとっては大きな問題であった。 生憎とこの時代では独占禁止法も公正取引委員会も無いために、 米などの幕府が管理している物資など以外では価格競争を止められ ない。 下手に白屋の天下が続けば、近辺の飯屋はおまんまの食い上げで ある。 去年以前は売れない貧しい不味い店であったのだが九郎が来てか らはそれなりの売上をしていた為に、いまさらあの状態には戻りた くない。 お房は不安を紛らわすように文句を続ける。 ﹁というか七文ってのがおかしいのよ。お饅頭二個分じゃない。そ れで食べ放題って気に入らないの。きっと不正して得たお金で経営 のやりくりをしているに決まってるのだわ。ああいう店に限って裏 の顔は盗賊だったりするの﹂ ﹁レッテルまで張り出した⋮⋮﹂ ﹁お房ちゃんは商売になると最近怖いですねぇ⋮⋮﹂ 九郎とタマが囁き合う。 一応、彼女が特別守銭奴というわけではなく、工夫や営業努力を すれば客が増えて儲けが出るという楽しみを知った故の積極性なの だろう。 きっと、恐らく。 ﹁というわけで九郎。あの店の偵察に行って安く値段を抑えている 1794 からくりを見つけてくるの。それが非合法だったら容赦なくお友達 の同心を突っ込ませて潰すのよ﹂ ﹁ううむ⋮⋮まあ、安い仕入れの手段などは参考になるかもしれん が﹂ あまり下手ないちゃもんを付けても、それを利用している客から こちらに文句が来るのだが⋮⋮。 仕方なさそうに九郎は草鞋を履いて出かけることにするのであっ た。 ***** 件の店は四半刻も歩かぬ近所にある。 何度かは目にしていたが、然程気にすることもなかったのである が、改めて見ると今の時分は店の外にずらりと人が並んでいた。 子供連れの女房や大工風の男、食い詰め浪人のような者も見える。 貧民救済の如き安さだからかやはり町人の姿が多いようだ。 行列を眺めていると、顔馴染みの茶屋の娘が声をかけてきた。 大体この辺り近所の店では、変わった髪型に大太刀を佩いた金払 いの良い男・九郎の姿は認知されている。江戸に来たての頃は刀を 持ち歩き目立つのも難だと思っていたが、同心や岡っ引きと顔見知 りになったので今更しょっぴかれることも無いので良いかと開き直 っている。 ﹁あっ、お兄さん。あの店に列びに来たので?﹂ ﹁おうさな。しかし客入りが良すぎると店に入るのにも手間だな﹂ 1795 ﹁うふ、ふ、それじゃあ、列んでいる間に食べるお団子でも買って 行きません? 一串三文で売ってます﹂ ﹁成程⋮⋮そうやって商売をしてるのか。考えたな﹂ と、悪戯っぽく言ってくる娘に九郎は笑いかける。 他所の客に自分の店の食い物を売りつけるとは中々に強かであっ た。丁度白屋の飯を合わせて十文になる値段も、それぐらいならい いかと手が出る価格である。腹を空かせて並んでいる子供などもね だるだろう。 ﹁ところでお主、あの店の主人はどこのお大尽か知らぬか? 酔狂 としか思えぬ値段で売っておるが⋮⋮﹂ ﹁あたしも詳しくは知らないけど、蔵前の方で米の先物取引やって るでしょ。あれで成功して大金が手に入ったから店を出したって噂 だけど⋮⋮﹂ ﹁そうか、そうか。うむ、ありがとうよ﹂ 九郎は多めに看板娘に銭を握らせてやると、彼女は、 ﹁ありがと、お兄さぁん﹂ と、甘えるような黄色い声を上げて九郎の手を握り喜んだ。 団子を受け取り行列に向かって歩く九郎に笑顔満面で手を振る娘 に九郎も軽く手を上げて別れる。 行列の後尾について団子の串を咥えていると、食い放題ながら客 の回転は意外に早く、 ﹁次のお二人さん﹂ ﹁おっ待ってた、待ってた﹂ ﹁行こうぜ﹂ 1796 と、行列は早く進んでいった。 店から出てくる客の顔色を九郎はじっと見るが、飯が不味かった などという不満の色は見えなかった。 ︵安かろう不味かろうなら廃れるのも早いのだがな⋮⋮︶ 思いつつも、やがて九郎の順となり店に入る。 四十人は入れる客席だろうか、それが毎日行列ができるまで売れ ているのだから大したものである。 案内された他の客との相席で軽く会釈しつつ座って七文の膳を注 文する。 厨房は仕切り板で見えぬようにしてあるが、竹格子の窓があり声 は届くようになっていた。女中が五人ばかり料理や洗い物を分業し て行っている様子が見える。 配膳は男の店員が三人程で行い、忙しそうに板場と店を往復して いた。 大人数の客を回すのにも慣れているようで注文から程なくして九 郎の膳は届く。 大根飯。大根と共に炊いた飯に、刻んだ大根菜を混ぜあわせたも のである。米が八、大根と菜がニぐらいの割合で混ざっていて、程 よく蒸れて噛みごたえのある大根の食感も悪くない。 味噌汁。千切りにした大根と葱、それに少量だが油揚げが入って いるのが嬉しい。味噌汁における大根と油揚げの組み合わせは其れ だけで飯が進む。味も辛めにしていてぼんやりとしていないのが江 戸っ子好みだ。 漬物も刻み、胡麻を混ぜている。含め煮は鰯の味を大根がよく吸 い込んでいて、 ﹁ふむ、中々に美味いなこの含め煮﹂ 1797 声に出して鰯の味が濃厚なそれで飯を食っていると隣に座った子 供連れの女房や職人風の男が話しかけてきた。 ﹁そうでしょう兄ちゃん、これでご飯と漬物は食べ放題っていうん だから、食い盛りの居る貧乏人には大助かりですわ﹂ ﹁白い飯じゃないってのが少し残念だが、まあ贅沢は云えねえよな。 食いでがあってむしろいいや﹂ ﹁まったく、白屋さまさまだぜ。兄ちゃんもたんまり食っていきな﹂ と、褒め称える声が上がる。 九郎は大根を噛み締めながら首を傾げ、 ﹁しかしその店主のお大尽はどんな御仁なのだろうのう﹂ ﹁そりゃあんた、ほらあそこで働いている﹂ 箸を向けられて九郎が見ると、前掛けをした袖なし羽織の中年が にこにことした笑顔で配膳をしたり代金を回収したり、板場に指示 を出したりと忙しく立ちまわっていた。 ﹁自分はもうある程度食うに困らねえから、これ以上儲けようとし ねえで周りを助けようって考えの立派な主らしい。出た薄利も材料 代と給料に使えば殆ど残らねえとか﹂ ﹁ははあ、無欲なのだなあ﹂ ﹁この不景気な中珍しいよな、ああ、飯お代わり﹂ 男が茶碗を上げると店員が愛想よく返事して厨房に運んでいく。 九郎は働く主を見ながら、その様子に悪どい気配や後ろめたさな どを感じないので裏がありそうには思えなかった。 慈善の食料配給に潜む悪事をといえば、ヤクザが炊き出しを行っ 1798 たのであるが配給したシチューにシャブが混入されていてシャブシ チューを食べた者をシャブ中毒にしようと企んでいたという事件を 思い出すが、そういうこともなさそうだ。 ︵成程、安く、味付けは真面目で、救済というほど恩着せがましく ない。店主の人柄も良さそうだ︶ 九郎はとりあえず膳を平らげて、 ﹁ここに置くぞ﹂ と、七文を置き席を立った。 お代わりはしていないが腹はそれなりに満腹になっている。 これにも仕掛けがあることに九郎は気づいた。大根を多く使って いることで咀嚼回数が増える料理構成になっているのだ。人の脳は 噛む動作を行えばヒスタミンという物質が分泌されて満腹中枢を刺 激し満腹になりやすくなるのである。 安価で提供しているだけあってお代わりをすれば赤字になりやす い。だがこれならば一杯目で満足になる客も多いだろう。 ︵店も考えている⋮⋮︶ と、思いながら団子の串を咥えて、川沿いの植えられているすっ かり葉桜になった桜に身を預けてそれとなく昼営業の時間がそろそ ろ終わるはずの白屋を眺めていた。 ふと、見知った顔の黒袴が通りかかったので声をかける。 友人という程親しくはないが、店の常連ではあった。年の頃は二 十半ば程だが、やや見た目が厳ついので十は老けて見える。 町方同心の[警邏直帰]水谷端右衛門である。 1799 ﹁見廻りか? ご苦労だのう﹂ ﹁ああ。⋮⋮そうだ、昼飯を抜かしたのだが、今日は店をやってる か?﹂ ﹁うむ。閑古鳥が鳴いているがな。お主はあの流行りの店には行か ぬのか?﹂ 同僚の菅山利悟などの聞いた話によると、端右衛門はあちこちと 飯屋を渡り歩いているそうだ。 独り身で趣味は金のかからぬ鮒釣り、読書。女遊びもしないとな れば金の使い道は飯に行っている男なのである。それでもそこまで 裕福というわけではなく、世渡りが下手な男ではあった。 大食らいの部類に入る為に興味がありそうだがと聞いたが彼は首 を振って、 ﹁いや、ああいう混んでいるところは趣味じゃなくてなあ﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ ﹁料理を食べるとつい考えこむ事が多いから、静かな場所がいいん だ﹂ 九郎は腕を組みながら頷き、 ﹁意見ありがとうよ。今日の日替わりは蒟蒻丼だぞ﹂ ﹁⋮⋮聞いたことがない料理だ﹂ と、端右衛門は食う前から色々考えだしたように神妙な顔で緑の むじな亭へ向かっていった。細切りにした蒟蒻と葱を、唐辛子と胡 麻油を入れた蕎麦汁で煮たものである。酒の肴にも良いが、飯の上 にかけまわして食っても辛くて良い。 店の様子が伺える茶屋でそれとなく待っていると、昼八ツ︵午後 二時︶を過ぎた頃には夕方の仕込みの為に昼営業を終えたようであ 1800 る。 客が全て帰った頃合いに、荷車に野菜││大根が殆どだ││を乗 せて筵を上から被せた野菜売りが店の裏に入っていく。 目元に皺を寄せてじっとその野菜売りの姿を見て、九郎は茶屋を 立った。 荷台を軽くして出てきた男に後ろから肩を叩く。 ﹁おい、朝蔵﹂ ﹁うわっと⋮⋮あ、あれ? 九郎の旦那じゃねえですかい﹂ それは知り合いの職を転々としている食い詰め町人、朝蔵という 男であった。 出会ったのは去年のことで、辻斬の真似事をして晃之介に捕まえ られてからちょろちょろと江戸で見かけ、その度に違う仕事をして いる。大道芸をしたり、亀を売ったり、ちり紙拾いを手伝い分前を 貰ったり、船で賑やかしの太鼓打ちをしたり⋮⋮ ﹁今度は野菜売りか?﹂ ﹁へ、へえ。いえ、まあ⋮⋮﹂ 返答にどこか、含みがあるものを感じて九郎は薄笑いを浮かべた。 そのまま朝蔵と肩を組んで店から離れていく。 ﹁仕事も終わったのだろう? よし、これからちょいとそこらで呑 んでいこう。何、酒手は己れが出すから﹂ ﹁そ、そりゃありがたい事ですけどよう﹂ ﹁はっはっは﹂ 笑いながら男を引っ張っていく九郎であった。 この店に恨みはないが、安く抑える方法を暴くという手段には面 1801 白さを感じているようである。 ***** その晩││。 緑のむじな亭の客も粗方帰り、残った米に番茶をかけて食いなが らお房は調査から戻ってきた九郎に訪ねた。 ﹁それで九郎、何かわかったの? あの店の店主が血も涙もない押 し込み盗賊だとか、無限に大根飯が湧き出る釜を持ってるとか﹂ ﹁そんな迷い家めいた面白い情報は無かったが⋮⋮﹂ 期待に満ちた││相手が陥る期待だが││顔を向けて、ふんすと 鼻息荒く対策を求めるお房に九郎は茶碗にへばりついた米粒を箸で 取りつつ応える。 朝蔵に酒を飲ませて、﹁悪いようにはしないから﹂と云い含め聞 いた話と、隠形符を使い隠れ料理中の板場を覗いてきた事による調 査内容であった。 ﹁ま、確かに貧民救済をしているのは立派だがつけ入れる小細工は す 結構あった。一番風評被害を招くのはだな、あの店では普通売り物 にならぬ屑大根や隙の入った古大根をあちこちから二束三文で集め てきておるのだ。 煮付けに使っておる魚のつみれも、網で捕まえた途中で身が潰れ たり欠けたりした猫の餌ぐらいにしかならぬものを混ぜて団子にし 1802 ておるようだ﹂ ﹁よし、お花さんの新聞に垂れ込むの。報道の天下御免って素晴ら しいわ。だって素晴らしいもの﹂ ﹁待て待て﹂ や 潰る気満々なお房をひとまず抑える。 ﹁屑大根に身欠き魚とはいえ、それを旨いこと調理して安くで出し ていて客が満足しているのならば文句はつけられんぞ。高級な料理 として金を高くとっているのなら心象は別だが。 原料についてあまり突っ込まれると、こっちが新蕎麦の季節に一 割ぐらいしか使ってないのに新蕎麦と名乗ったり、下酒と焼酎を混 ぜた謎の安酒を提供している事もまあ地味に問題だからのう﹂ ﹁ぐぬぬ﹂ ﹁この店そんな事してたタマ⋮⋮?﹂ 去年の暮れから働いているタマは店の闇を聞いて悔しがるお房を 半眼で見る。 自分で飲む旨い上酒も置いているが、九郎が酒を合わせ、砂糖│ │今では[鹿屋]から安く仕入れた黒糖││を少量加えて味を誤魔 化した安酒はそこそこの人気である。特に、夏場になるとこれを木 に塗るとカブトムシがよく取れると子供にも売れる。 ﹁他にも調理場を覗いて見たがな、大根飯を炊くときに塩と酒、そ れに油を少々入れていたな。炊きあがった時にそれぞれ塩は米がぴ んと立ち、酒は旨味が増し、油は見た目の艶がよくなる。それでい て米自体の味が濃くなるから満腹感も見た目より多いのだな。 蕎麦の味を誤魔化すために麺に唐辛子を練り込んでみるこっちと は随分違うまっとうな工夫だ。拉麺にあるから蕎麦もと思ったが尖 りすぎてキツイだけだったが﹂ 1803 ﹁結局あれお父さんしか食べなかったの⋮⋮﹂ ﹁旨かったぞ﹂ 真顔で洗い物をしながら言ってくる味音痴の六科はとりあえず無 視された。 お房は俯き気味に九郎を見つつ尋ねた。 ﹁それで、どう対策するの? お八姉ちゃんに可愛い着物でも作っ て貰ってタマとあたいで着て接客とか?﹂ ﹁如何わしい店じゃないんだから⋮⋮別に特別なことはせんで良い ぞ﹂ ﹁えー﹂ ﹁敢えていうなら営業時間を長くするか。どうせ昼時分は開店休業 状態になるのだからのんびり構えていよ。向こうの店は昼過ぎから 夕方まで準備中になるがな、客が来なかったらこっちは開けっ放し にしておけばよい﹂ ﹁そんなんでいいの? お客取られて潰れないかしら﹂ 心配そうに云うお房に九郎は皮肉げに笑みを作って返す。 今まで当たり前の売上になっていた為に、急にそれが鈍ることで 過剰に反応しているのだろう。 ﹁なに、己れが来た頃でも長屋の収入でなんとか生き延びてたのだ。 そうそう潰れはせぬよ。固定客も居るしのう。ま、様子を見てみよ﹂ そういうと、番茶漬けの飯をすっと飲み干して九郎は茶碗を置い た。 1804 ***** それから暫くして。 相変わらず白屋は繁盛をしていて、昼飯時にはむじな亭は数名の 客が来る程度の静かなものであった。 しかし、昼七ツ︵午後四時︶前後の白屋が閉まっている時間帯に はそれなりに人が入るようになり売上としてはそう悪くない。 常に店にいる六科とタマは昼の暇な時に食事を取って休んでおけ ば問題は無く、またこの店は湯や汁を沸かす燃料代が[炎熱符]で 無料なので店を開けっ放しにしていても薪代が嵩むわけではなかっ た。 これまで昼過ぎに店を閉じていたのは作り置きのおかずの再料理 や減った蕎麦の打ち直しなどを行っていたが、昼時に余るとなれば する必要も無い。 それにしても、これまでも開けっ放しに営業していた時はあった のだが、夕方あたりに来る人の数はその時よりも多い。 ﹁どうなってるの?﹂ お房の疑問に九郎が早めの晩酌をしながら応える。 ﹁白屋はそこまでお代わりをせんでもその場では満腹になるであろ う? それに大根というのは消化に良くてな、あまり量を食えなか った者は後からすぐに腹が減ってくるのだ。 どうせ昼飯に使ったのは饅頭二個分程度の金だから、蕎麦でも改 めて食おうか⋮⋮とそんな気分になる客が入ってるのだろう﹂ ﹁へえ。結局お金使っちゃってるのね﹂ ﹁毎日大根は飽きるしのう。それも騒がしい店内でだ、平気な奴は 1805 平気だが、嫌になる者も居るさ﹂ 水谷端右衛門などがそうである。 特に、安いとなると身なりの貧しいものが多く集まる傾向もあり、 収入のある町人や侍などはむしろ、 ﹁貧乏くせえや、みっともなくて入れるかよ﹂ と、見栄を張って入れぬようになる。値段を下げるというのはそ れに応じた客層を選ぶということでもあるのだ。 ぐい、と[氷結符]で冷やした酒を飲んで、刻んで胡麻を振った 沢庵漬けを齧る。白屋のをそのまま作ったのである。こりこりした 歯応えに胡麻の食感が心地よく、旨い。 ﹁それに飯は出すが酒は出さんからな、あの店。時間と客を被らぬ ようにしてやれば、妙な対策をすることも値下げをすることも要ら ぬ﹂ 九郎は余裕そうに、蜜に群がる甲虫の如く酒を飲みに来た他の客 を見ながら肩を竦めた。 意外に九郎、酒場で二十代の頃働いていたこともあり酒の混合が 得意なのである。異世界でも仲間に新しい酒の開発を頼まれて、う がい薬を混ぜた酒を作ったことはあるが、成分が法に引っかかりか けて証拠をもみ消したのを懐かしく思う。 ︵試しに飲ませた仲間キマってたもんな⋮⋮︶ 回復役のスフィまで飲んだのが拙かったのだろう。あの惨事はも う起こすまいと青い星に誓いを立てつつ記憶の奥底に沈めることに した。 1806 ﹁しかし最近は嫁が出来たからか影兵衛が来ぬからな。飲み相手が 居なくて⋮⋮﹂ ﹁もう限界どあああああ!!﹂ 叫びながら店に飛び込んできたのは新婚の影兵衛││ではなく、 最近幼馴染と同棲中になった利悟であった。 胡散臭そうな視線が集まるがそれほど異常と思われてない││何 故かこの店の常連や固定客は変人が多いので客も慣れている││よ うだが、利悟はきょろきょろと店内を見回してお房を見つけると奇 声を放ちながら四つん這いの動きで迫った。 ﹁どぅうぇっふぇお房ちゃん! 助けてくれ!﹂ ﹁ていっなの﹂ ごぎゃんとフランスの画家めいた打撃音を出してアダマンハリセ ンが迫った利悟を叩き潰した。 彼女は真顔で、 ﹁あら、利悟さんなの。てっきり蟲かと思ったわ。だって這ってた もの。ひょっとして利悟さんによく似た蟲なのかしら﹂ ﹁いえあの、[青田狩り]ですどうも﹂ ﹁そ。店に来たのならお客さんよね。椅子に座るといいの﹂ ﹁はい﹂ 九郎に酌したタマが密々と話しかける。 ﹁お房ちゃん最近とみにツッコミが苛烈タマ﹂ ﹁死を乗り越えて強さを手に入れたのだ。まあ、少なくとも迫って きた稚児趣味野郎は蒸発させても文句は云えまい﹂ 1807 ﹁利悟さんが一銭も持たずに現れた時が命日タマ﹂ 言い合いながらも、近くに座った利悟がすごく話を聞いて欲しそ うな鬱陶しさの高い目でこちらを見つつ徐々に近寄ってくる為に、 仕方なく九郎が尋ねる。 ﹁で、どうしたのだ? 首になったか?﹂ ﹁ならないよ!? っていうか聞いてくれよ九郎、瑞葉の奴と暮ら して毎日地獄みたいなんだ⋮⋮! 拙者が何をしたっていうんだよ チクショウ⋮⋮!﹂ ﹁⋮⋮﹂ 半眼で九郎は睨み、言いたそうな利悟に先んじて口を開いた。 ﹁毎朝自分より早く起きて味噌汁と飯と一品作り、仕事の袴は折り 目をつけ皺を伸ばして綺麗に揃えて用意しており、掃除も行き届い て布団も干してくれて近頃は野菜の苗を買って庭に植えている世話 も行い、帰ったら足湯を用意していて体に良いけんちん汁などを作 って疲れていたら揉み治療もしてくれて無計画に使っていた小遣い が切れそうになると内職で稼いだ金をくれるとか⋮⋮まあそういう 悩みだったりせぬよな?﹂ ﹁そうだよ! ひょっとして見てた? それを十歳前後の少女がし てくれるならともかく年増がするとか拙者に対する嫌がらせにしか ならない!﹂ 周りの客達が顔を見合わせ、物々しい雰囲気を纏った代表が静か に九郎に近づいて手で口元を隠しながら聞いた。 ﹁ええと、その瑞葉とかいうこの咎人同心と暮らしている人は年老 いて妖怪化した醜く邪悪な猩々とかそういう?﹂ 1808 ﹁いや、二十前後の涼し気な美人幼馴染だったが﹂ 九郎の言葉に店の客が一斉に頷き、手に持った茶碗や徳利を振り 上げ、投げつけた。 ﹁死ねてめえええええ!!﹂ ﹁うわっ!? なんで!? 拙者が何をしたっていうんだ⋮⋮! こんなに拙者と江戸の人で意識の差があるとは思わなかった⋮⋮! これじゃ拙者、江戸を守りたくなくなっちまうよ⋮⋮!﹂ ﹁文句があるならその嫁よこせ糞がああああ!﹂ ﹁嫁じゃないがそれは駄目だ! 美樹本さんに殺される!﹂ 店内で乱闘が始まるが、安全圏に退避してお房は冷静に壊れた食 器の数を数え紙に記録し、代金を計算し始めている。 九郎は呆れて、 ﹁時々こっちの店も騒動が起こるのは難点だのう。静かに飲む相手 がたまには欲しいが⋮⋮﹂ そう呟くと同時に、お房が入り口に飛び込んできた新たな者を見 て云う。 ﹁あ、野生の先生が飛び出して来たの﹂ ﹁九郎くぅぅぅん! 呼ばれて飛び出て即酩酊⋮⋮!﹂ ﹁そして倒れたの﹂ 派手に動き既に飲んでいた酒が回ったのか、ふらふらと膝を付く のは鳥山石燕だ。 なにせ移動経路に飲み屋があればとりあえず梯子するという酒場 に現れる妖精のような事をやっている為に、辿り着くまでに大分酔 1809 っているのであった。 九郎は呆れた様子で耳まで赤くなっている石燕を抱き上げ、床に 座らせた。意識は大分朦朧としていて、首を揺らしている。 ﹁まったく、仕方ないのう。家まで連れて帰るか。騒ぎが収まるま で飲めんし﹂ ﹁行ってらっしゃいなの﹂ ﹁うむ﹂ 九郎はひょいと脱力している石燕を背負って店の外に出て行く。 そろそろ初夏の季節であるが、夜風は冷えて酔いに丁度良いだろ う。神楽坂まで足を進めながら、ふと声に出した。 ﹁⋮⋮少し重くなったか?﹂ 以前は骨が詰まってるか不安になるような軽さだった石燕だが、 ここの所の体調回復のおかげか良い重みを感じる。 後ろから酒臭さを伴った言葉が曖昧に帰ってきた。 ﹁太ってはぁいないよーぅ? あと⋮⋮ふふふ私は重い女じゃあ⋮ ⋮無いからねへぇ⋮⋮﹂ ﹁わかったわかった。飲み過ぎだ。明日また苦しむぞ﹂ ﹁飲んだ朝だけはぁ⋮⋮妖怪はげんちを信仰しそうになるよぉ⋮⋮ 知ってるかねはげんち、酒を水に変える下戸の悪魔⋮⋮﹂ ﹁それに取り憑かれて貰え、もう﹂ 言いながら歩みを進める。 ﹁九郎お兄ちゃああん、帰ったら飲もうねぇ⋮⋮﹂ ﹁こんな大きい妹が居たっけか。はいはい妹キャラ妹キャラ﹂ 1810 ﹁ふふふ妹を背負うつまり[妹背]。夫婦を表すのだよ!﹂ ﹁うわ急に声変えた。そしてしゃっくりが出そうになって気分悪い 鳴動をしている﹂ ﹁うっぷ、早く家にぃ⋮⋮﹂ 言いながら、夜を往く。 今にも落ちてきそうな程に星が煌めき、澄んだ空気の夜であった。 江戸は今日も平和である。 ***** 後日。 緑のむじな亭に昼下がり、ひょっこりと録山晃之介が顔を出した。 結構客入りが多く、蕎麦をすする音が店内に多い。 その時九郎は店の座敷で、雨次にお遊に小唄と茨が提出した課題 の問題用紙に天爵堂から頼まれて朱筆を入れているところであった のだ。 版元の日雇いで彼の原稿を催促しにいったら代わりに渡されたも のである。それぞれ異なる問題が組まれていて、新しく受けるよう になった茨はいろはの書取である。声を出せぬから文字を覚えるこ とをさせるのは確かに良い。 そんな彼を見て同じ座敷に座る。 ﹁九郎﹂ 1811 ﹁なんだ?﹂ ﹁聞いた話だとこの辺りに毎日盛況な、飯を食い放題の店があるら しいんだが﹂ ﹁ああ、この前集団食中毒を出して潰れた。五十人も倒れればな⋮ ⋮﹂ ぼんやりと云う。当たったのは屑大根ではなく、傷んだ魚のほう だろう。 なにせ、中々食当たりを起こさないことから、当たらない役者を 大根役者と云うぐらいだ。 一方で鰯を叩いて潰し団子にするのは店内の板場で行っていた。 細かく刻みつみれにするというのは、それだけ身に触れる空気の面 が大きくなり腐敗も早くなる。 そしてあの店は清潔とも言えない不特定の貧民を毎日何十人も店 に出入りさせていたのだ。中には風邪を引いていたものも居るかも しれないし、食品管理環境として良い空気が保たれるとも限らない。 貧民救済をするために行った事の顛末が集団食中毒とは何とも救 われないが、起こるべくして起こった事件である。店の主も店員も むしろ安く値段を抑える知恵と旨く料理する技術もあり、そして善 人達であったのだろうが⋮⋮ 晃之介が溜め息をつきながら、 ﹁俺が行く前で良かった、というべきか。ところで妙にこの店繁盛 しているな﹂ 見回すと、張り紙がしてある。 [薬膳蕎麦:三十文] これは単に蕎麦の具に大蒜と生姜、それに以前拉麺作りで余って 貰った五香粉を効かせただけの風味が変わった蕎麦なのだが、ここ 数日の売れ筋である。 1812 なにせ、食中毒が出て急に心配になった者達がこれを目にしてこ ぞって注文する。晃之介は注視していなかったが、店の外にも貼っ てあった。 晃之介は苦笑いを浮かべながら、 ﹁予め用意していたのか?﹂ ﹁健康系は多少高いほうが良いからのう。楽な商売だ﹂ この友人は時々悪どい知恵を持つものだ、と晃之介は呆れるので あった。 上機嫌なお房が晃之介の前にも蕎麦を置きながら、 ﹁はい、晃之介さんは特別に五割大盛りにしておいたわ﹂ ﹁ああ、すまないな﹂ ﹁値段は晃之介さんだから特別に四割増しでいいの﹂ ﹁⋮⋮﹂ しれっと告げて下がっていくお房を見ながら、とりあえず蕎麦を 箸で掴んで云う。 ﹁しっかりしてるなあ﹂ ﹁いやまあ、フサ子が値引きするのお主ぐらいだから喜んだほうが いいかもしれんぞ﹂ ﹁多分金無しだと思われてるんだろうな﹂ ﹁うむ﹂ 男二人、そう言い合ってお互いの食事と作業へ戻るのであった。 一方で利悟は磔場で冷たく横たわっているのを発見されひっそり と息を引き取りかけていたが、うかつに話しかけたのが頑是無い子 供だった為に蘇生した。 1813 1814 外伝﹃IF/江戸から異世界2:冒険者に就職編﹄ ダンジョン。 と、呼ばれる魔王の地下遺跡は空間異常の汚染が残存している箇 所である。 一部ではその時折構造が革新的に入れ替わる迷宮を差して[不思 議のダンジョン]と呼ぶ者も居る。 3つの入口はそれぞれ離れて居るというのに、入ればまず同じ最 浅層を経由して複数の場所へ進むことになる。 進めば進むほどに出現する魔物は強力になり、ダンジョンの不可 思議度はいや増す。 中には川が流れていたという報告も、空が見える広場に出たとい う記録も、気がつけば帝都市街の映画館に居たという証言もあるほ どに内部を進んで何があるのかは解明されていない。 確かなことは、数十年ダンジョンに潜る冒険を行う者が居ても、 最深部には辿り着かないということだ。 様々な傭兵、腕自慢の戦士を雇った帝国だが其れが故に深層部に は中々辿り着かない理由もあった。 例えば、奥深くに現れる魔物の中には竜族の中でもっともポピュ ラーなドラゴンが出現した報告がある。 ペナルカンド世界の中でも強力な部類に入るその魔物を倒せば│ │日本円にして十万円から百万円相当の価値を持つ魔鉱が手に入る。 しかし野生のドラゴンを倒したならば、その鱗、爪、牙や肉など から旨く解体すれば数百万円の価値を持つ。 ダンジョンで戦うには割にあわないと言わざるをえないだろう。 一応だがダンジョンに生息する、魔物という存在の方が幾分か致 1815 命傷を与えればすぐに消滅するので殺しやすく、野生のドラゴンは 仲間が報復に来る危険性があるがそれも無いので利点はあるのだが、 金銭的効率的は野生を探した方が段違いではある。生息域がある程 度決まっている野生種と違い、ダンジョンでも必ずしも出現すると も限らないのだ。 そもそもドラゴンは普通ならば倒すのに腕利きの戦士が数十人か 高位の魔法使い複数人が必要なのでそうそう一人で狩ろうなどと云 う者は居ないのではあったが。一部の例外を除いて。なお、ドラゴ ンもエンシェント級になるともう戦闘になれば世界規模で災害が発 生する勢いなので迂闊に挑んだら国際手配を受けて裏世界でひっそ りと幕を閉じる。 ともあれ、高脅威の魔物程狩る旨味が少なくなるとなれば、奥深 くに潜る開拓員の目的は魔物から逃げつつ回収する財宝になる。 魔物は殺すか毀せば魔鉱に戻るがダンジョンで手に入る道具類は その程ではない。 これは、ダンジョンの主であった魔王が無生物の召喚士であった 為に召喚の精度が異なるのだろう。 深い場所にランダムで落ちている道具の中には貴重にして高価な 物もあり、一財産築いた開拓員も居る。 例えば帝都で十数店舗展開しているお粥チェーン店[ホーリーカ ップ]は無限にお粥が出てくる魔法道具[ダグダの大釜]を手に入 れた開拓員が開いた店である。 他にも[黄金の鉄の塊の鎧]を帝王に売って巨万の富を得た者、 音楽や映像を魔法的に記録できる[マジカルDISC]とその再生 機器の量産に成功した者などが居る。 魔物を倒して魔鉱を得る者、レアアイテムを探してダンジョンを 探索する者。そのどちらも、中層程度で目的は果たせるので││中 層に高脅威な魔物が時々出現するように、貴重な宝も稀に見つかる 1816 ││深層まで潜る者はそう居ない。 中には強力な戦士や魔法使い、神官がパーティを組んで目指すこ ともあるが割にあわない上に危険、そして何処まで奥が続いている かわからない場所にそう何度も足を運ぶことは無かった。 魔王の宝物庫と噂はあるが、誰もそれを見た者は居ない。 ちょっと秘密基地感覚で案内されたことのあるクロウ以外では。 ***** クロウとスフィ、そしてオルウェルがダンジョンに初潜りして暫 く直線の道を歩いていると、ようやく気を失っていたオルウェルは 目が覚めたようであった。 ﹁はれひれ⋮⋮あれ? ええと、ここは?﹂ ﹁なんだ、起きたのか。ほれ、自分の足で歩かぬか﹂ ﹁若いもんがだらしないのう﹂ ﹁酷い違和感を感じるっす⋮⋮﹂ 自分より背が低くて年若く見える二人に口々にそう言われて、オ ルウェルは悲しそうな顔をしながらクロウから離れて立った。 履歴書を見た限り年齢では祖父母よりも年が上なのだが。長命の エルフなスフィはともかく、人間種族で95歳少年なクロウなどは 何の延命・若返り方法を取ったのだか。悪魔に魂でも売ったのだろ うか。 ペナルカンド世界で不老化するには特定の神か天使、悪魔と何ら 1817 かの契約をするかアンデッド化するかの二択がメジャーである。無 論、神魔と契約は相応の対価が必要でその後の人生を縛られるし、 アンデッド化も不都合が多いのでそうそう行われているわけではな いが。 ともあれ。 あたりをきょろきょろと見回しながらオルウェルは云う。 ﹁ええと⋮⋮ここはダンジョンの中っすね﹂ ﹁言わんでもわかることを一々確認のう⋮⋮﹂ ﹁此奴、村の入口とかで[ここはナントカの村です]とか云う類じ ゃな﹂ ﹁ちみっ子老人が苛めてくるっすよお!?﹂ やけに冷めた対応をされて軽く目に涙を浮かべて頭を抱えるオル ウェル。 もともとオフィスでお茶を淹れたり一時間で出来る書類まとめを 終業時間までだらだら伸ばしたりお茶を淹れたりする仕事をしてい たというのに、来たこともないダンジョンに派遣された挙句いきな り凶暴な魔物と遭遇して気絶するなど、困惑しているのだ。 クロウが悲しんでいるオルウェルに問いかけた。 ﹁そういえばオルウェル。研修と言ったがどのような事をするかは まだ聞いておらぬが﹂ ﹁うううう、ダンジョンに入ってちょっと進んだ所に社員や開拓員 を駐在させてる拠点があるっす。いろいろ構造が変化するダンジョ ンっすけど入り口からそこまでの地点は変わらない事が判明してる っすから⋮⋮その拠点の周りで魔物と戦って様子を見るだけっすね﹂ ﹁ほう﹂ スフィが首を傾げた。 1818 ﹁というか、入り口の酒場にまで毒象が暴れ突っ込んでくる状況じ ゃと、その拠点潰れてるのじゃないかのー﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮まあ、そうだのう﹂ 土か鉱石か不明な床に点々と残る毒象の足跡を見て、クロウは頷 いた。 魔剣だから一撃で倒せたものの、かの魔物は亜竜に匹敵する猛獣 なのだ。何人駐在しているか不明だが充分に壊滅させられた可能性 はある。 慌ててオルウェルがクロウの肩を掴んで、 ﹁たたた大変っすよ! 助けに行かないと! ク、クロウさん、い きなりでなんですがお願いするっす!﹂ ﹁うむ⋮⋮どうせそっちに行く仕事だったから、さっさと向かうか。 よっこら﹂ クロウはそう掛け声を出すと、オルウェルを肩に担ぐように持ち 上げた。次に、スフィを小脇に抱える。 そして腰に下げた術符フォルダから[起風符]を取り出し、内部 に込められた魔力を開放する。 [起風符]は彼の持っている術符の中でも使い所の少ないものだ った。そよ風を自由に発生させる程度にしかクロウには使いこなせ ない。 しかしそれの効果と、風に乗る事ができる[疫病風装]の能力を 組み合わせると││自由に飛行し幾らでも加速を行えるようになる。 目を回すオルウェルの悲鳴を響かせながら三人は直線の通路を飛 び進んだ。 1819 ︵これって労災入るんすかね︶ こみ上げる吐瀉物の苦酸っぱい味を覚えながらも彼女はそう思っ た。 ***** 酒場のある入口から暫く続く直線通路、一応ここにも魔物は出る が脅威度の低いなスネコスリか鎧ゴキブリ、味噌スライム程度のも ので入り口の堅い木の扉は破壊できないようになっている。 故に本当の出発地はその先にある駐在拠点からと開拓員は認識し ていた。 クロウらは通路を一直線に高速飛行して進む。広さは列車が二車 線通れるトンネル程だろうか、あちこちに魔術文字による灯りがあ って暗くはない。 余談だが、廃れていた付与魔法と魔術文字だが世間を騒がせる魔 女が使用していたということでその対策と再評価により一部の術が 普及するようになった。都市国家クリアエの魔法協会にて所有者不 明な研究室が発見されてそこから広まったとされている。 ともあれその明るい通路の先に、薄紅色に輝く半透明の壁をクロ ウは見つけた。 魔力障壁だ。 その先の空間に居る誰かが││恐らく開拓員が、これ以上魔物を 通さないように仕掛けたのだろう。 しかし既にあちこちにひび割れのような筋が入り、表面から徐々 1820 に魔法粒子であるレイズ物質化して消えつつある。 障壁の直前で急制動をかけて飛行を止める。 ﹁んにゃああああ!?﹂ 小脇に抱えていたスフィはともかく、肩に載せていた程度で固定 が緩かったオルウェルが反動で一人だけ前に吹っ飛び障壁に激突し ていった。 硝子が割れるのと同じ音を出しつつ突き破り部屋に転がり込んで いくオルウェル。 ﹁⋮⋮労災通るかもしれんぞー﹂ 一応、安心させるように声をかけつつクロウも室内に突入した。 そこではまだ戦闘が続いている。剣や斧を持った軽鎧の開拓員達 が、毛むくじゃらの熊やオークに似た緑肌の怪人と武器をぶつけあ っていた。 魔法使いが二名、燃える粘着性の物質を次々に奥の通路に向けて 投射して敵の援軍を防ぎ、もう一人は土魔法で生み出した硬質の石 塊をバットのような杖で打撃して巨大な鰐に遠距離からぶつけて気 を引きつつ逃げ回っている。 乱戦だ。テニスコート二面分程の広さの部屋に敵味方合わせて3 0程の数が入り乱れて争っている。あたりは砕けた机や転がってい るロッカーや血の跡が見られるものの死体はまだ無い。 ﹁援軍か!? 手伝ってくれ!﹂ 声がかけられてクロウは狂世界の魔剣を抜き放つが、顔を顰めつ つ地面に転がっていたオルウェルを引っ張り起こす。 1821 ﹁おい、開拓員にも人間以外の種族っぽいのも居るが魔物との見分 け方は無いのか﹂ ﹁は、はうう⋮⋮首に社員証かけてるのが開拓員っすよ! ちょっ と光るやつ!﹂ ﹁そうは言っても乱戦だからのう⋮⋮﹂ 少しぐらいなら、先っちょぐらいなら刺してもいいかとクロウが 判断しかけた時に隣に居るスフィがずい、と前に出た。 ﹁私に任せておくが良いのじゃよ。秘跡は魔法と違って融通が利く からのう。意識すれば味方には効果を外せんじゃよー﹂ 息を吸い込む。 ﹁聖歌[軽やかなる音楽団]より、楽章[寝ていい夢見]││!﹂ 唄う││。 それは癒しの聖歌の中でも、眠りを誘う歌だ。 聴いたものはただ穏やかな演奏と静かな歌にしか感じないが││ 声とともに発せられる魔力に当てられた魔物は目に見えて動きを鈍 らせ、全身の筋肉が弛緩して倦怠感に襲われ足掻けぬ眠りへと陥る。 通常この歌は癒しの歌の中で精々が快眠を齎す子守唄程度の効果 しか無いのが普通なのであるが、スフィが歌えば戦闘中で気が荒ぶ っている者でも即眠らせるぐらいに能力は増幅されたのだ。 クロウは効果を目の当たりにしつつも、 ︵はて⋮⋮? スフィの歌ってこんなに強力だったけか︶ と、思う。 なにせ前に一緒に戦ったのが数十年前なので記憶に乏しい。 1822 ともあれ、敵らしき魔物は次々に戦意を喪失して倒れ出した。短 剣を持った熊戦士︵爪で殴りかかった方が強いはずだが︶やヌンチ ャクを持ったオーク、刺々しい外殻を持つ大鰐も目を閉じ、反撃に 出た開拓員が致命となる箇所へ剣を刺すと次々に消滅して魔鉱へ戻 る。持っていた武器は戦利品として回収される。 ただ巨鰐に関しては下手な攻撃をして起こしたら危険だというこ とで、クロウが近寄り魔剣で倒した。 ﹁まだ寝てない奴が居る! 助けてくれ!﹂ 盾を持っている開拓員が他に救援を求めている。彼はビームライ フルを持ったイルカに襲われていた。進化し地上侵略を行うイルカ 人間だ。 高熱を持つ低密度ビームを半濁音に聞こえる発射音を鳴らしなが ら乱射している。必死にセラミックの盾で防いでいるがとても近寄 れないようである。 イルカは眠らない。正確には脳を片方ずつ眠らせると言われてい るので睡眠の歌を受け入れつつ、覚醒しているのだ。 ﹁ええい、保護などするから反逆に来るのだ﹂ クロウが剣を構えて地面を蹴り駆け寄る。 こちらに気づいた。ビーム煌めく。フラッシュをバックにイルカ の影を見ながら、正確に射線へ魔剣を盾に放たれたビームを打ち払 う。速度に反応できた訳ではないが、予め防ぐ位置を決めていれば 可能だ。それに低質量亜音速ビームだと風が発生しにくく、疫病風 装では避けにくい。 発射の間隙を狙い片手に持った石塊を投げつける。命中。ライフ ルのエネルギーCAPを砕き小爆発を招く。 踏み込んで魔剣で一閃。邪悪なるイルカ人間は消滅して地上の危 1823 機は免れた。 ﹁よし、これで全部か?﹂ クロウがあたりを見回す。軽い怪我を負ったものは居るが、健在 だ。 石塊で攻撃をしていた魔法使いの青年がクロウに尋ねる。 ﹁感謝する。ところで一匹、強力な魔物がここを抜けていったのだ が⋮⋮﹂ ﹁ああ、毒象か。倒しておいたから安心せよ﹂ ﹁よかった⋮⋮﹂ 魔力障壁を張っていたのは彼らしい。坊主頭にバットのような杖 を持っているので高校の野球部を彷彿とさせて好感を抱く。 ふと、クロウが社員証をつけていないことに気づいて聞いてきた。 ﹁あんたらは? 見ない顔だが﹂ ﹁己れらは今日からの新入社員でな、研修に来たのだ。しかし、最 初の拠点とは言うがここはいつもこうなのかえ?﹂ ﹁いや⋮⋮何故か奥から中層でしか出ないような魔物が追い立てら れるようにやってきたんだ。駐在していた開拓員にも手伝わせたが、 正直苦戦していた﹂ 疲れた様子で、しかし魔鉱の回収は忘れない浅い場所での稼ぎを 主にする開拓員を見回しながら、恐らくはここの駐在社員である魔 法使いは云う。 逃げなかっただけ儲け物と見るか、或いは魔力障壁は魔物だけで はなく開拓員の退路を断つ目的もあったかもしれない。 1824 ﹁ブラックの気配じゃのう⋮⋮﹂ ﹁ううう、内部駐在員にはなりたくないっす﹂ オルウェルはきっぱりとそういった。開拓公社では駐在部署に異 動することを通称[開拓地送り]という心躍る呼び名で言われてい る。そう戦闘経験も無い者は送られないが。 もう一人の魔法使いはまだ警戒して奥の通路を見ていた。煌々と 魔力の炎が燃え盛りこれ以上の侵入を阻んでいるが⋮⋮ なお、ダンジョンは単なる洞窟ではなく魔王城の地下シェルター でもある為に空気供給システムは万全である。ガス状の毒が長時間 留まることも火の燃やしすぎで酸欠になることも無い。 その時である。 音が響いた。 鋼鉄の塊を金槌で殴りつけたような大きな異音であった。 同時に通路で燃えていた炎が、跡形もなく消滅する。 ﹁な││﹂ 警戒していた魔法使いが見えない手で引きずり込まれたとしか言 い様がない勢いで通路に向かって吹っ飛ぶ。 炎の消えてにわかに薄暗くなった通路から三叉の金属が突き出さ れた。食器のフォークを馬鹿げた程に巨大にした形をしているそれ が、吹っ飛んだ魔法使いの肩に突き刺さると││ ﹁う、うわああ!? なんだ!? 動かな││動けない!﹂ 刺した場所が空間で固定されたかのように動かすことが出来ずに、 中空に虫ピンで刺された標本のように固定された彼は混乱して騒ぎ 立てる。 足音が聞こえたと同時に、通路から一体の人影が部屋に入ってき 1825 た。 形は人に酷似している。半袖と太ももまでの短いスカートはエプ ロンドレスを意匠とした形だ。頭部には鼻から上を機械的な兜で覆 っていて、[メ]と毛筆で文字が書かれていた。短い丈の袖から見 える手足は関節部が球体になっていて、ところどころにワイヤーや エネルギーバイパスが露出している。 右手に巨大フォーク、左手に巨大スプーンを構えた小柄な少女の 形をしていた。 それは敢えていうならば││メイド型の機械人形。 首元に社員証が掛かっていない事を確認してクロウは術符フォル ダから符を取り出し発動させる。 ﹁[電撃符]!﹂ 気合を込めた言葉を放つのは彼が魔法の発動に慣れていないから だ。熟練した魔術文字使いなら言葉も必要ない。 発動と共に指向性を持った雷はジグザグに大気を焦がしながらメ イドロボの少女へ向かった。 着弾は一瞬であるが、それよりも先に相手は左手のスプーンを振 るう。 再び鋼鉄を殴りつける強撃音。 それを発したスプーンの腹に吸い込まれるように、雷は削り取ら れ掻き消える。 ﹁やはり使えんなこの符⋮⋮﹂ ﹁クロー!? あれは?﹂ ﹁魔王の試作型侍女式機械人形[メアリー]だ。イモータルとの戦 闘記録を見たことだけはある﹂ 電撃のいざというときに役に立たなさに失望しながら、そう言っ 1826 た。 ヨグが現在の万能タイプの武装メイドロボを作る前に作成した二 体のメイドロボが居て、戦闘試験でイモータルが撃破した後に地下 るりへい に封印││何かそのうち面白くなりそうだから廃棄はしなかった│ │されたとクロウも聞いていた。 料理担当機械人形のメアリー。主武装として空間圧搾匙[瑠璃瓶 ]と空間固定叉[三尖刀]を持つ。そして当然魔王が作った機械な ので人類反逆回路を搭載している。 顔面を半分ヘッドディスプレイで覆ったメアリーは口を開けて八 重歯を見せながら笑う。 ﹁わーい! 人間が一杯だ! お姉ちゃんにお土産で持って帰れる !﹂ ﹁気をつけよお主ら⋮⋮持って帰られたらお世話されるぞ﹂ ﹁どういう注意っすか⋮⋮?﹂ 訝しげに聞いてくるオルウェルに、メアリーから顔を背けずに応 える。 ﹁監禁されて毎日病原菌入りの飯を食わされる﹂ ﹁うわあ⋮⋮厭っすね﹂ おんた 顔を顰めるオルウェルだったがメアリーは周りを見回して、 ん ﹁でも多いなーちょっと減らすかー。じゃーん、疫病汚染兵装[瘟 丹]!﹂ ﹁不味い。スフィ、オルウェル、下がっていろ!﹂ メアリーがどこからともなく古めかしい機関銃に似た武器を取り 出して開拓員らに向けてきた。 1827 それに警戒して防御体勢をとれたのは何人いたか、銃口から無数 の弾丸が吐き出されて部屋中を踊る。手足を撃ちぬかれて逃げ惑う 開拓員の叫喚が響く。 おまけにこの武器は弾丸に病性が付与されていて末端部に当たっ ただけで即座に体調を崩し始めるのだ。 ﹁あはは! あはははははー!﹂ 無邪気な笑い声を上げながら致命の銃弾をばら撒く。 ロボット三原則など魔王が守るはずもない。人に危害を加えるこ とにタブーなど無かった。 だが、楽しんでいるわけでもなかった。決められたプログラムに 従い人類に敵対し、決められた人格の通りの性格を演じているだけ の人形である。彼女らに魂は無いのだ││基本的には。 クロウは即座に破壊を決めて瘴気に似た硝煙渦巻くメアリーへ飛 行し接近する。 近づくこちらに銃口が向けられるが速度を最適に上げて最小の自 動回避をするクロウには触れもしない。 魔剣を振り上げる。同時に彼女は左手の瑠璃瓶を振るう。 音は空間をえぐり固め潰す世界の軋みの音だ。 それを発生させて彼女は││自身の真横の空間を削り、削った分 の距離を瞬間移動してクロウの一撃を回避した。彼女にかかれば削 った空間の先にあるものを引き寄せるのも、自分が空間に移動する ことも思いのままだ。 メと書かれたバイザーで隠された中の目が輝いているように思え る。 ﹁レア者いっただきー!﹂ 三尖刀がクロウを縫い止めようと襲う。 1828 普通の武器ならば勝手に服が回避するのだが空間に関わる武装は 空間の座標自体に干渉するために上手く発動せず、僅かに袖の端を 掠めた。 触れた場所が固定される。クロウの動きが止まった。 ﹁生憎メイドはイモ子だけで充分だ﹂ クロウは即座にメイドが三尖刀を握っていた右腕を魔剣で切断し た。 これが魔物ならば刃が食い込んだ時点で消滅するが、実体ある敵 なのでまだ毀れていない。 続けて固定された着物を肌蹴て、片方の手を延ばす。丁度メアリ ーの腹部に触れるように掌底を合わせ、 ﹁発雷﹂ 仕込んだ電撃符で直接の雷を浴びせた。 全身からショートした火花と煙を上げ始めるメアリーだが、左手 を再び振るうと空間を自在に圧搾する能力を使用してクロウから離 れる。 同時に取り残された腕と三尖刀が自動で復旧するプログラムに従 い、彼女の手元に戻った。 殆ど内部回路を焼き付かせて半壊したようになっている。 あちこち焦げ付き全身から異常を知らせる音を鳴らしているメア リーだったが、 ﹁ミミミミ見つけた。ゴ主人を見つケタ事をお姉ちゃンに報告⋮⋮﹂ 言いながら手を振り上げ再び空間を弄る。 すると匙が削り開いた場所から黒黒とした泥めいた流体がこぼれ 1829 出す。彼女の空間操作能力はイモータルの亜空間武装庫にも応用さ れている技術である。 ボストン・フラッド ﹁ソソソそれでは今日は挨拶マデニ。お近づきノ印に、甘イ物デモ ││[糖蜜大洪水]﹂ 異空間からこぼれ出ていた液体││どろりとした糖蜜が鉄砲水の ように押し寄せてきた。 まるで蟻の巣穴にホースで水を入れたような勢いだ。部屋に居る 全てが糖蜜の質量で押しつぶされかねない。 ﹁まったく、死ぬほど迷惑な奴め!﹂ こちらに向けて糖蜜の津波が迫る。 まず固定されていた箇所に魔剣で触れて解除し、クロウは周囲を 見回して落ちているロッカーを拾い上げそれに氷結符を貼り付け離 れた。 彼に可能な最大能力の凍結速度は糖蜜が触れた瞬間に相転移を起 こして急速に凍りつき、壁を作る。 その壁を更に押し寄せる糖蜜が破壊しようとするが次々に氷点が 連鎖して││やがて通路方向まで含めた巨大な固形糖蜜の塊に変え てしまった。 当然、見ていた者達は唖然としている。 ﹁ク、クロー⋮⋮なんかやたら凄い魔法じゃのう。お主魔法使えな かったのじゃー?﹂ ﹁ああ、イリシアの残した術符でな。街で売ってる冷蔵庫でも使っ てるのあっただろ? 氷の符﹂ ﹁⋮⋮市販の符ではジュースの氷を作るのが精一杯なんじゃがのう﹂ 1830 呆れた様子で言う。 クロウ本人もあまり大出力で使う事は無かったので予想以上に強 力に使えて驚いたが、再現されある程度普及している付与魔法の術 式と較べても桁違いの力と云えよう。 これも魔女イリシアの残した魔力あってのことではあるが。 ﹁しかし氷の中から符は掘り出さんといかんな⋮⋮﹂ 言って、クロウは魔剣で掘ろうとする。刃に触れた箇所のみ氷の 魔力を奪われどろりと液になって溢れるので楽だ。 やがてロッカーまで辿り着いて、べとべとするそれを顔を顰めな がら引っ張りだす。 立てたぬるぬるのロッカーから慎重に剥がそうとして、 ﹁む、符までべたついて⋮⋮よっと﹂ 引っ張ると、ついでにロッカーの扉が開いた。 中で肌が青白く冷やし饅頭のような血を感じない質感になった女 が眠っていた。 ﹁⋮⋮﹂ シャツの胸元に社員証が付いている。魔物ではない。というか生 き物ではない。思いっきり大氷塊を作った魔法の中心に居た、ええ と何かだ。 クロウはそっと目を逸らしてロッカーを閉じた。 ﹁? どーしたのじゃクロー。ロッカーの前で黄昏れて﹂ ﹁いや、ええと﹂ ﹁服が挟まっておるぞ。ほれ﹂ 1831 と、近づいたスフィが閉じたロッカーの扉に挟まっているクロウ の服を引っ張ると、再び扉が開いた。 中に入っている女のような者は確認しなければ生きているか死ん でいるか判らないというのに、愚かにも再確認が行われる。 スフィは見上げて、安らかに睡るようにしている女を認めて、ロ ッカーの扉を閉じた。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁とりあえず、お湯でもかけてみるか﹂ ﹁うむ﹂ お湯かけたら生き返った。ロッカーの妖精という妖精種族だった ようで、そうそう死なないらしい。 なお、糖蜜大洪水の際に通路付近で空間固定され助けられずに巻 き込まれた魔法使いは残念ながらもう⋮⋮重度の虫歯になってしま ったという。 ***** 結局、クロウとスフィの研修はダンジョンに入って一時間もしな いうちに終わりまた二人は入り口の酒場に戻ってきていた。 1832 オルウェルは報告の為に会社に戻った為、二人はそこで昼食を取 ることにした。糖蜜で通路を固められたので暫くダンジョンは立ち 入り禁止になるらしい。既に潜っている者が戻るために通れる穴を 早急に作る必要もある。 拾った魔鉱││毒象とボルテックシュートアリゲーターと侵略イ ルカ男の分を換金して食事代にあてることにした。 ﹁おお、結構な金だのう﹂ ﹁小一時間でざっと半月は暮らせる稼ぎか。開拓員も集まるはずじ ゃのー﹂ 周りで見ていた他の開拓員は、 ︵そうそう毒象とか遭遇しねえし楽勝でもねえから⋮⋮!︶ と、心のなかでツッコミを入れる。 とりあえず受け取った金の多くは入り口の複合施設││[第一魔 鉱採掘場]というとても味気ない名前だが││にある商業の神が行 っている銀行に預けようということになり、ようやくクロウも女友 達から生活費を払ってもらう日々から開放されるかと期待したが、 ﹁⋮⋮いや、やっぱりスフィの口座に預けよう﹂ ﹁なんでじゃー?﹂ ﹁己れの口座凍結してたし⋮⋮下手に振り込んだら差し押さえ食ら うかもしれん﹂ そういう理由でやはりスフィに財布は預けるクロウであった。 食事も頼める酒場でメニューを眺めると、さすがに都会だけあっ て豊富な食材が揃っている。 折角なので江戸では食べられなかった物を頼もうかと目を滑らせ 1833 るが、 ﹁⋮⋮このミノタウルスのビーフステーキって。確かあれ牛成分頭 だけじゃなかったか? あと[骨の肉]ってのもあるがどこの肉使 ってるんだ?﹂ ﹁エルフ味の野菜サラダって嫌なもんもあるのう⋮⋮確かに食人種 族からすると野菜感覚なんじゃが﹂ などと言い合い、無難にパンジャンドラム肉︵羊肉︶のシチュー と名物であるダグダのお粥を注文した。有名な魔法のアイテムであ るダグダの大釜は麦粥でも米粥でも自由に出せるらしい。 歯応えが柔らかなものを頼んでしまうのは老人だからだろうか。 シチューの材料に使われている羊は体内に1.8トンの生体炸薬 を持つために飼育、解体が難しいが肉の味はすこぶる良い。生物と して致命的に間違っていると評判の特殊な生態をしている。 緑茶も注文して二人で向き合って食べていると、テーブルにロー ブで全身を隠した何者かがさりげない動きで近づいてきた。 少し屈んだかと思った瞬間、テーブルに立てかけているクロウの 魔剣の鞘を掴んで持ち去ろうとする。 一瞬で毒象を仕留めた強力な剣を奪おうとする輩である。一日目 だが、それだけ印象に残る活躍であったのだ。 だが、 ﹁││ぬわあああ!? ﹂ 鞘を持ち上げて数歩進んだ途端に全身から力が抜けてローブの男 は気絶し床に倒れ伏した。 周りで様子を見ていた他の開拓員が騒ぎ出し、とりあえずひった くりを起こそうとするが完全に意識を失っている。 気味が悪そうに床に転がった魔剣を見る目が集まる。 1834 クロウは何とも無くそれを拾い上げて、 ﹁呪われておるからのう、これ。触らんほうが良いぞ﹂ と、気無しに言ってまたテーブルに立てかけて食事を再開する。 この世界に於いては強力な武具には呪いがかけられていることも 多いが││例えば呪いの剣だとしても柄を握らなければ呪いの効果 は発揮しなかったりするというのに。 狂世界の魔剣の場合は鞘││それもクロウが数日前に自作した木 製のそれを触っただけで、剣と因果が繋がり魔力の剥奪という呪い が発生するのである。魔王ヨグが渡すときに嵌めていた概念遮断の 義手でも長くは持てない。 ペナルカンドでは殆ど全ての知的生命体は魔力を持っていて、そ れを完全に失うと気絶する。クロウは地球人で魔力など無いから平 気なのだが、この世界に於いては魔剣は他人に盗まれることは無い だろう。 猜疑やら畏怖の目で周りが見てくるが、そんなものは魔女イリシ アと旅をしていれば慣れたものである。 魔女が魔剣に変わっただけだ。 ﹁そういえばクロー。あのメイドとは知り合いかえ?﹂ ﹁ううむ、知り合いのOBというか⋮⋮魔王城で昔働いていた武装 機械人形だな。確かあれがメアリーで、姉っぽいミザリーという奴 も居るはずだ﹂ クロウが自虐気に紹介していたヨグが見せた姉妹メイドロボのス ペック表を思い出す。 姉のミザリーは背が高く髪を膝まで伸ばしつつも、スカートの中 きんこうせん りく には脚が無い妖怪のようなメイドだった。顔を覆っているバイザー こんはん は[ミ]と書かれている。主武装は空間裁断鋏[金蛟剪]と空間歪 1835 曲布[戮魂幡]を持つ、切断と拉致監禁能力に秀でたお世話ロボで ある。 そもそもなんで執拗に魔王がメイドに戦闘能力をくっつけようと しているのか不明であったが、﹁ロマンだよくーちゃん!﹂と意味 不明の答えが返ってくるのはわかっていた。 それでいてメアリーはサルモネラ系の菌を食事にうっかり混ぜて くるしミザリーは主をベッドに固定してくるのでまったく欠陥とし か言い様がない⋮⋮らしい。実際に稼働しているのを見たのは今日 が初めてだったが。 ともあれその二体がダンジョンを徘徊して人類へ反逆心をむき出 しにしているようである。 ﹁なんというかクロー。言っちゃなんだが、目をつけられた気がす るのじゃー﹂ ﹁嫌だのう。ポンコツロボの世話になったら一巻の終わりだ﹂ イモータルの世話になっても駄目人間になりそうで困るのだが。 あれは上級引き篭もりの魔王用である。 ﹁しかし糖蜜、こっちに流れた分は凍らせたがダンジョンの奥にも 結構な量流れこんでいったが、中の連中は大丈夫かのう﹂ ﹁なぁに、ダンジョンというのはかなり道が枝分かれしていて上っ たり下ったり崖なんかもあるらしいのじゃ。相当運が悪く無いと大 丈夫じゃろう﹂ ﹁そうだな、はっはっは﹂ ***** 1836 一方その頃、ダンジョンの中。 暗闇に全身の鎧を擦らせ、地面を引き摺る足音を立てて進む大き な影があった。 手には疲れきった表情の生首を載せている。時折天井の低い場所 もあるので、巨鎧の上に載せていてはぶつけるし足元が見えないの だ。 デュラハンのイートゥエは壁に書かれた矢印を見つけて顔を輝か せた。 ﹁ようやく! ようやく人の痕跡が見つかりましたわ! これでこ の矢印を逆に辿っていけば地上まで戻れますわよ!﹂ ちょっとした三叉路になっている小部屋で喜びのあまり小躍りし ている。 もうこのダンジョンで迷ってどれぐらいの時間が経過しただろう か。太陽を長らく見ていないので感覚がない。 複雑怪奇に枝分かれして繋がり時に空間跳躍まで発生して迷わせ るダンジョンは、マッピング専門の旅神司祭を連れて行くパーティ も居るほどに迷いやすい。 実際にイートゥエ以外にも迷子になった開拓員は多く居るのだろ うが、それらは魔物に襲われるか食料が尽きるかして行き倒れて死 ぬのだろう。 彼女は幸いにそこらの魔物に負けぬ頑丈な鎧と、食事を取らなく ても死なないデュラハンの体を持つのでとにかく長時間迷子のまま なのだが。 ひとまず目印を見つけて喜んでいたイートゥエだが、遠くから何 か音が聞こえて持っている首を傾げさせた。 ご、とか、ざ、という音だ。 1837 音の次には風が来た。甘い匂いをした空気が押されて物体よりも 先に到達する。 ﹁ま、まさか⋮⋮﹂ イートゥエが強張った顔を通路に向けると││何処から流れてき たか糖蜜の洪水が押し寄せて彼女の体を打撃しそのまま流して行く。 ここではない、どこかへと。 ﹁なんでダンジョンに糖蜜が流れていますのよー!? もう嫌です わお風呂入りたいいいい!!﹂ これから数日、湧き水の泉を見つけるまでひたすら鎧の隙間がベ タベタしたままダンジョンを彷徨うデュラハンの姿があったという ⋮⋮ 彼女の冒険は続く。 ****** 何処かで誰かが泣いていようが、この世は人情紙風船である。 暫く入れなくなったダンジョンを後に、クロウとスフィは開拓公 社から社員証も貰い日常を過ごしていた。 ﹁ううむ、五年という期限があるのだがなあ、どうも最初から躓い 1838 ている﹂ ﹁仕方なかろうクロー。それにこう云う回り道が正しいルートだっ たりするんじゃよー﹂ ﹁そうだなあ。まあ、為るように為るか﹂ と、言うことで二人は帝都を観光して廻ることにした。 ここに来て数日は生活を整えるのに近所しか行っていないのであ る。 スフィは平坦な胸を張り、 ﹁案内なら私に任せてみよ! ⋮⋮と、言いたいところじゃが⋮⋮﹂ ﹁どうした?﹂ ﹁私もあんまり帝都について詳しくは知らんのじゃよ。こっちに来 てずっと隠居してたからのう⋮⋮遊びに出かけることなんか⋮⋮無 かったから﹂ 顔を曇らせるスフィを慌ててクロウが頭を撫でて宥める。 時折クロウが地雷を踏んだり自分で踏みに行ったりと、中々50 年の月日によって溜まった寂しさは消えないようだ。 ﹁暗くなるな暗くなるな。⋮⋮五年の間に色々出かけようか、スフ ィ。それぐらいバチは当たらんだろうさ﹂ ﹁││うんっ﹂ そして二人はまず観光ガイド本を買いに、本屋へ向かうのだった。 しかしながら、自分の口から説明したいというスフィの思いによ り立ち読みでガイドブックを完全記憶してしまったのだが。 二人がまず向かったのは帝都三番街にある、帝都でもっとも大き なデパートメントストアのうちの一つ││という表記がガイドブッ 1839 クでされていた。正直わかりにくい││デパート[商店街デストロ イ]である。 その正面門の前に立って五階建ての巨大な店構えを見上げながら、 燦然と輝く[商店街デストロイ]の文字が目に入りクロウは口を馬 鹿みたいに半開きにして聞いた。 ﹁なあスフィ疑問があるのだが﹂ ﹁クロー。多分それはガイドブックに書かれてあった﹃客の9割が まず思う疑問﹄で間違いないと思うのじゃが﹂ ﹁ああきっとそれだわ﹂ 名前である。 [商店街デストロイ]である。 創業者はどれだけ商店街に恨みを持っていたというのか。 ﹁ともあれ近くにある三番街の商店街を潰す。ただそれだけの理由 で建てたデパートらしいのじゃよ。商店街にある種類の店は全部デ パートに設置してのー﹂ ﹁なんとも迷惑なような⋮⋮で? どうなったのだ?﹂ ﹁うむ。商店街の店と激安値下げや過剰サービス合戦が続き、その うちデパート側が通商破壊を行ったり商店街が共産主義や邪教崇拝 に目覚めたりし出したあたりで国から調停を受けてな、﹃続けると 殺すぞ﹄と。とりあえずは落ち着いたのだが社名はそのまま⋮⋮と いったところじゃな﹂ ﹁馬鹿が建てた店で買い物するのか⋮⋮己れら﹂ 何はともあれ、ダンジョンに持っていくリュックやライトなどの 道具も揃えなくてはならない為にとりあえず入った。 中は綺麗に磨かれた大理石の床と様々に並べられた商品が程広い 感覚で置かれている大店だ。 1840 昇降機まであり、その前の掲示板に各階の売り物が記されている。 一階が家具等雑貨、二階が食料品、三階が衣料雑貨、四階がサバイ バル物品、五階が飲食店である。 ダンジョンのある街だけあって、四階には野外生活に役立つもの から武具の量販店まであるようだ。それ以外にも登山用品や釣り道 具も同じ階にある。 そこへ向かおうと昇降機の上階行きに乗り込んだ。 ﹁凄いな、エレベーターまであるのか﹂ ﹁うむ、ガラス張りで景色も良い⋮⋮ほらクロー、下を見れば動力 も見えるぞ﹂ ﹁⋮⋮あれが?﹂ スフィの頭の上からクロウは下を覗き込むと、取っ手のついた柱 を必死に回す男達とその周りで鞭の音を鳴らしている者が見えた。 有り体に言ってフィクションでよく見る[何やってるかわからな いけど強制労働させられてる奴隷]の光景だった。 軽く目眩がする。 ﹁ディストピア感が⋮⋮﹂ ﹁勘違いしとるようじゃがあれちゃんと日雇いじゃからな。単純労 働で共同作業だから面接もそこそこにその日から働ける。給料だっ て1日働けば2日3日は食っていける。世界中から人が集まるこの 都市での労働政策の一つとして認められておるのじゃよー﹂ ﹁いや見た目のインパクトが凄いからのう﹂ なお、鞭役は[居たほうが緊張感がある]という理由で存在し交 代制である。 二人は四階で降りて様々に並べられた道具を見回し感嘆の吐息を 漏らした。 1841 簡易テント、防水寝袋、多目的ポシェット、簡易燃料コンロ、靴 ずれを無くすパウダーや塗り薬、魔術文字光源、手投げ弾各種など 多数の商品がある。 ﹁こりゃいい。必要なものはここで買おう﹂ ﹁そうだのう。あ、商品お届けサービスもあるぞ。教会に送っても らうのじゃよ﹂ 言い合ってダンジョン探索に役立ちそうな物を見繕う。 スフィがリュックを見ながら、 ﹁しかしのう、クローに荷物を持たせるとびゅんびゅん飛び回った 時に散らばりそうなんじゃが﹂ ﹁うーん⋮⋮でもスフィが持てる量は少ないしなあ﹂ ﹁戦闘が始まったら荷物を一旦捨てるかのう﹂ ﹁そうだなあ⋮⋮ま、暫くはオルウェルがついてくるみたいだから あいつに持たせるか﹂ ﹁にょほほ、若いもんが働かないといかんからのう!﹂ 言い合って、この場には居ない開拓公社社員に押し付ける算段を するのであった。 一回目の研修で充分に魔物を倒せる能力を持つと判断されたクロ ウとスフィであったが、一応ということで上司命令が出されて十回 目まではオルウェルが同行するという連絡は受けている。本人は目 の幅涙を流していたが。 武器なども売っていたがまだそこまで金銭的余裕があるわけでは ないので買うのは後回しにした。 クロウの場合だと片手で投擲できる物があれば便利だと思ったの だが、暫くは石塊で良い。 五階にあるデパート直営の見晴らしの良いレストラン[商店街が 1842 滅ぶ風景]でオークカレーを昼食に取った。これはオークの肉が使 われているのではなく、オーク料理長が作ったスパイスの調合法に より作られたカレーである。 トマトをふんだんに入れたフレッシュな酸味のある味わいだが、 刺激的なニンニクを炒めた風味と丸鶏の出汁が効いて、 ﹁うまい⋮⋮﹂ のである。 辛さも選べて、スフィの甘口も少し貰ってクロウは食べたが、ど ちらも深い味わいをしていてこちらのほうが辛口よりも大衆向けで あるようだ。甘いほうがどろりとしていて、辛いほうが少しシャバ シャバしたカレーの粘度だったが薄まっているとかそういう要素も なく、旨い。 隣のテーブルに居たニンニクが苦手なタイプの吸血鬼も﹁たまげ た﹂と声を出して消滅していたほどだ。まあ、夜になれば復活する だろう。多分。 吸血鬼は血を生力に取り込む種族だけあって、ニンニクを摂取す ると血中のヘモグロビンが破壊される効果が体質により過激なダメ ージを受けるのだ。 満足の行く食事を取って二人は今度はガイドブックに乗っていた スタジアム近くに来ていた。 帝都国立競技場という大きな総合運動グラウンドで、毎日何らか の競技が行われている。全天候型でここまで大きいものはペナルカ ンドでも類を見ない。 二人が付いた時に丁度行われていたのは、 ﹁ええと、ペン回し世界選手権じゃなー﹂ ﹁これはあまり興味がないのう⋮⋮﹂ 1843 と、見物には行かなかったのだが。 しかし日程の貼られたポスターを見てクロウが目を引いたのは、 ﹁むっ⋮⋮野球もやっておるのか﹂ ﹁そうじゃな。週に2日、夕方から夜にかけて﹂ ﹁見たいのう⋮⋮﹂ ﹁見に来ればよかろう﹂ ﹁そうか﹂ クロウは少し嬉しそうな声を上げた。 彼が居ない間にペナルカンド世界でも野球文化が発生したようだ。 なにせ、他世界からの漂流者も居るので似た文化は発生する。 特に魔法使いに人気で、前に見たダンジョン駐在員の魔法使いも そうだが魔法の杖をバットにして、様々な属性を打球に乗せた一撃 は見た目も派手で盛り上がる。死傷者は時々しか出ない健全なスポ ーツである。ご安心ください。 ポスターを見ていた二人の後ろを子供達が走って行く。 ﹁向こうでプロ野球選手がインタビュー受けてるってよ!﹂ ﹁見に行こうぜ!﹂ などと言い合っているのを聞いて、クロウがうずうずとしている のでスフィも笑いながら、 ﹁私らも行くか﹂ ﹁うむ﹂ 誘い、そちらへ向かった。 スタジアムの正門をバックに三名の球団関係者が多数の記者の前 1844 で写真を取られたりマイクを向けられたりしている。 華やかなエルフの女と、ユニフォームを来た人獅子と、ペンギン に似たもこもこした燕人間だった。 ﹁オーナーのルビーよー﹂ ﹁4番ピッチャーのカンヌなんぬ!﹂ ﹁マスコットの燕人ハルヒ様だ!﹂ 三名はそれぞれ宝剣とクレセントアクスバットとバズーカを掲げ て、 ﹁我ら生まれた時は違えど優勝する時は同じであらんことを⋮⋮!﹂ と、唱え合っていた。 帝都のメジャー球団、[ショッカンダイトクーズ]の三人である。 遠くから呆然と見ていたクロウの袖を、引き攣った笑みを逸らし ながらスフィが袖を必死に引っ張る。 ﹁ク、クロー。もうよかろう。離れよう今すぐに﹂ ﹁あれってお主の母親と義弟の⋮⋮﹂ ﹁知らなかったのじゃ! ええい何をやってあるかあの馬鹿女は!﹂ 憤慨しながらクロウを引き摺ってとりあえず逃げるように厄介な 親類から離れるスフィであった。 エルフの母親はともかく他種族の義弟らは寿命が来ていてもおか しくないはずだが、特殊な契約により三名の寿命が同じになってい るのだ。代わりに、誰かが不慮の事故死をしたら他も死ぬのだが。 彼女は新聞をとっているが、お固い記事の物なのでスポーツ記事 は殆ど書かれていないので母親が同じ街で球団を立ち上げている知 らなかったのである。 1845 ⋮⋮その新聞を購読している理由も、定期的に探し人の欄にクロ ウへメッセージを投稿して為であったが。 今何処にいるのか、とか。 ちゃんと食事はとっているか、とか。 たまには顔を出せ、とか。 誰かクロウを見たら教えて下さいお願いします、とか。 そんな他愛の無い事を、何十年も││届くはずは無く、返ってく ることも無いと思いながらもずっと。墓に祈りながら、それでも信 じたくなくて。 ******* 帝都中央公園にあるモニュメントをクロウは見覚えがあった。 公園の中央に一本、30m程の柱が立っている。それは帝王であ り勇者であり狂戦士であった男が使用した、軌道エレベーターの主 柱を加工し武器に変えた棒││[天柱]である。 対神格ミサイルの直撃を受けても歪まず弛まず、あるいはそれで も直っているこの物質は形状記憶自己増修復カーボンで出来ていて 一度に完全破壊しない限りはいくら使おうが時が過ぎようが壊れる ことはない。 地面に刺さった天柱の根本まで観光客は来れるようで、次々に近 寄り写真を撮る者も見えた。なお、普及しているのは魔法カメラな ので技術的なことはご安心ください。 1846 ﹁おや? あの天柱⋮⋮地面の近くに柄があるな﹂ クロウは人の手で握れるように加工されている箇所が誰にでも触 れる場所にあることに気づいた。 スフィはクレープを片手に応える。 ﹁ああ、必要なら誰か持って行ってもいいと帝王のアピールじゃな。 あんな重い棒を持ち上げられるわけは無かろう﹂ ﹁確か身体強化魔法では最大倍率で256倍に強化できるんじゃな かったか? それを使えば持てそうなものだが﹂ ﹁クロー⋮⋮﹂ 何故か呆れたようにスフィが見てくる。 ﹁お主、魔法学校で働いておったのに⋮⋮良いか、身体強化魔法は 便利で魔力運用法を嗜めば使えるがその倍率は1.5倍から2倍程 度が殆ど。難易度は倍率を増すごとに乗算式に跳ね上がり10倍使 える者など殆どおらぬ。オーク種族は結構得意らしいがな。256 倍は理論だけ発表されて、発表した魔学者も心臓が1回動く以上の 時間使ったら死ぬと言っておったぞ。 そんな魔法をしかも他人に問題なく使えるのはそれこそ魔女じゃ なけりゃ無理なんじゃよ﹂ ﹁ううむ、己れさり気なく危険だったのだなあ﹂ 首に巻いた、体に害が及ばないように段階的に必要なだけ強化さ れる[相力呪符]を撫でながら応える。これが無い時は魔女に普通 に強化されていた。 スフィがクロウを上目遣いに見ながら聞く。 1847 ﹁クローなら持ち上げられるのではないか?﹂ ﹁あんなん持ってもなあ。ダンジョンで使えぬし、モニュメントを 壊すのもな﹂ ﹁そうじゃな﹂ 納得して対城級武器から離れた。 中央公園は城から続く正面通りに作られていて帝都でも一番華や かで人気のある場所である。 クロウとスフィはベンチに腰掛けてクレープを食べながら歩きや 公営馬車などを乗り継いで移動した疲れを癒していた。 人が多いだけあって様々な人種がごった返している。中には着物 に似た衣服の東洋人風顔も見られるが、帝都の港から行き来できる 東方の島国の人種だ。ニンジャやサムライは居るが、どちらかと言 うとアメリカ人が考えた和風といった雰囲気の国である。 仰げば帝城がすぐに見え、時折は帝王が無駄に塔のてっぺんでラ イトアップされたりする。その時は魔法ぶち込んでいいらしい。落 ちても死なないから。 少しばかり帝都を回ってみたが、 ︵跡形も無いなあ︶ と、クロウは呆れと感心を合わせたような感情を持つのであった。 魔王城であった形跡など、地下ダンジョン以外に無くなっている 勢いで街が敷設されているのだ。 公園で人形劇をやっているのを遠目に見える。 帝王が世に憚る災厄存在、[外法師ヨグ]に[魔女イリシア]、 [第四黙示クロウ]を次々に倒していく実際とは異なる話だ。 これは帝王ライブスが書いた自伝に乗せているサクセスストーリ ーな為に歴史として刻まれている。 なお知名度の低い侍女イモータルはひっそりとベンチで冷たくな 1848 っているところが発見され、鳥召喚士と闇魔導師は病院で息を引き 取るという謎の内容でむしろ笑えた。 遠目で見ながらも、寄りかかってくるスフィが疲れているようで 徐々に息がゆったりと正確になるのをクロウは悟った。睡る彼女を 起こそうとはしない。 ***** 目を瞑り体を預けたスフィは幸せな気持ちであった。 出会えなくなったはずのクロウが側にいて、ただそれだけで生き ている実感が感じられる。 ずっと。 ずっとずっと、会えなかったら長い寿命が尽きて朽ちるまでに待 ち続けただろう人が来てくれたそれだけで救われた気がした。 会えなくなるぐらいなら一緒に行こうと言ってくれた。 寂しがるぐらいなら過ぎた時間の分楽しもうと誘ってくれた。 どんなに嬉しかっただろう! 本当は⋮⋮それでも本当はもっともっと近づきたいのだったが、 これからまだ時間があると││ ﹃本当に?﹄ 声が聞こえた気がして、スフィは目を開けた。 帝都中央公園、ベンチ。 1849 そこに彼女は一人で寝ていた。 手を振り回す。 触れる場所には何もない。 体に触れていた温かさは消えていた。 当たり前だ。 彼はもう何十年も前に││ ﹁違⋮⋮﹂ 死んだのだから。 ﹁く、ろ﹂ 寂しいと思う心が見せた幻覚に。 自分が思う理想の誰かに。 一人で話しかけていただけなのだから。 だから││気がつけば誰も居ないのである。 ﹁あ、ああ﹂ そんなつまらない嘘を信じ続けられるはずがない。 くだらない欺瞞はすぐに晴れる。 そしてまた今日から││1人で過ごす日々が始まる。 ﹁いや⋮⋮﹂ 無駄な希望さえ持たなければ。 勝手な妄想さえしなければ。 いや、昔に││意地を張って拒まなければ違う今があっただろう に。 1850 ﹁くろ⋮⋮﹂ 涙を流しても応える者など居ない。 取り返しがつかない事をねだっても無意味だ。 そう思ったスフィの││心が、罅を増やしながら、今にも壊れそ うに震えていた。 ***** ﹁ふう⋮⋮凄いな帝都。公園のトイレだというのにウォシュレット だったぞ﹂ クロウが僅かな時間離れて向かった手水から戻って来た時、ベン チに座っているスフィがかたかたと震えていた。 虚ろになった目からは涙を流し、口からは意味を持たない言葉を 流し続けている。 ﹁スフィ!?﹂ 慌てて近づいて両手を握り、正面から顔を見る。 しかし、視界よりも思考に囚われた目にはクロウの姿も写ってい ないようだった。過呼吸になりかけているらしく、浅い呼吸を続け て汗を浮かべている。 何があったのかはすぐにクロウも知れた。 知らぬ間に自分が居なくなって不安になったのだ。 1851 しかし、短い時間だというのにこれほど精神が弱るとは││クロ ウも想定外だった。 懐から紐を通した一文銭を揺らして、スフィに呼びかける。 ﹁大丈夫だ、安心しろ。己れはここにいる﹂ こんな子供だましにでも頼らねばならない程に、彼女の心は弱っ ている。 いつも気楽に明るく接して来るのはその反動のようなものだ。 背中を撫でながら思う。 ︵ゆっくりと、スフィと過ごさねばな⋮⋮︶ 悲しみが晴れるように安心させねばならない。 このままでは不慮の事故でも寿命でも事件でもなんでも、自分が 居なくなった時に大変なことになる。 彼女は過去に依存している。人は何かしら悲しみに折り合いをつ けて進む事が肝要なのだが、それを行えそうになかったことに気づ いた。 いつか、自分との思い出がスフィに取って前に進む糧になるよう に。泣いてその後を生きていかぬように。別れが辛くてもまた笑え るように。 呼びかけ、背負い、教会に帰る頃には、スフィはまた元の調子に 戻っていたが、クロウは決意した。 後日。 スフィがクロウの部屋││教会の一室を私物置き場に貸した││ 1852 を掃除していると、いろいろダンジョンの魔物図鑑や解説本を買っ た中に紛れていたある本を発見した。 [簡単! 誰でもできる強力催眠術][催眠術で心を自在にする 100の方法]の2つである。他にも[マスターオブジゴロによる ヤンデレ対策]という本もあったが、それは彼女の目に付かなかっ た。ちなみにそっちは雨次への土産用だ。 マッハな勢いでいかがわしさ満点であった。 ﹁クロー⋮⋮こういうのは中学生ぐらいならともかく⋮⋮どうかと 思う﹂ 食事の席でそうコメントして聞かせたが、酷く微妙な顔をしてい た。 彼なりに催眠療法の勉強のつもりだったのだが、どう見てもアレ な感じの本だったのは否めない。単純な艶本や春画を見つかるより つらい。彼の尊厳と引き換えにマインドコントロール技術は上昇し た気がした。 ともあれ、シャロームの指輪を手に入れ大事な友人の魂を開放す るのと同じく││スフィの心の闇を払う事を、クロウは目標とする のであった。 スフィとの友情イベントを多くこなして彼女の闇値を下げねばな らない。彼の異世界生活は始まったばかりなのである⋮⋮ 1853 ***** ﹁あはは! お姉ちゃんも気に入ってくれた!? あの御主人!﹂ ﹁うん⋮⋮探して、連れて、私達の御主人様になってもらおう⋮⋮﹂ ﹁楽しみだなあ! 早くダンジョンに来ないかなあ!﹂ ダンジョンの隠された密室で、二体の機械侍女は言い合う。 パーツ 認識するは特異点と魂の繋がりを持つ人間││クロウ。 彼女らが彼女らである為に必要な御同類の一つ。 引き寄せ、固定し、切り落とし、詰め込む。そうすることで廃棄 された侍女は完全になると判断する。 機械人形は欲する。求めているのは、プログラム故か自己判断か。 魂無き彼女らは、明るい魂の輝きを。 ***** ある荒野にて。 黒煙を上げ爆発する邪教を祀る古城を背景に二人の対照的な人物 1854 が脱出していた。 一人は黒い修道服にでっぷりがっちりとした巨体を包んだ、顔付 きは牙が口から出てて豚か猪寄りに見えるオークの神父。 もう一人は面頬とマフラー以外は胸にサラシ腰に褌を巻いただけ の格好をして、背中に巨大鎖鎌を担いだ忍者少女であった。 並んで走り爆発が連鎖する古城から逃げつつも爆音に負けぬ大声 で会話をする。 ﹁神父殿! 貴殿のおかげで悪魔シャックスに生贄を捧げ信仰する 狂信者どもを壊滅させられたでござる! 感謝の極み!﹂ ﹁なんで僕は旅をするだけでこういうのに巻き込まれるのかなあ⋮ ⋮!?﹂ 汗を掻いて息を切らせながら大股で走るオーク神父。 彼はいつも通り帝都に向かって旅をしていただけだというのに、 邪教団に拉致され生贄にされかけてなんとか脱出し、同じく罠に嵌 まり捕まっていたクノイチの少女を助けて逃げる羽目になったので ある。 羊舎で生贄用に飼われていたパンジャンドラム羊を利用してシャ ックスの偶像と祭壇を完全爆破しつつも、悪徳の使徒の囲いを振り 切り崩れ落ちる城から劇的に脱出したところであった。 船旅をすれば海賊に襲われたり馬車旅をすればモヒカンに襲われ たり地震が起きて古代地下遺跡に滑り落ちたり謎の集落に纏わる怪 しげな儀式に巻き込まれたりと、オーク神父は旅先でやたら事件が 起きるのが悩みであった。 このクノイチは世に蔓延り人を不幸にする悪魔を退治している闇 の忍びの一族だという。 ︵なにそれ怖い︶ 1855 あくまで普通のオークである彼としてはさんざん振りかかるトラ ブルは無茶ぶりもいいところなのだが、なんとかこれまでも運の良 さと現地協力者のおかげで長年生き延びている。巻き込まれること 自体が運が悪いのかもしれないが。 マフラーで口元は隠しているがオーク神父へ頼もしさを感じて友 好的な笑みを浮かべている忍者少女が名乗る。 ﹁それがし、ユーリ流鎖鎌術継承者候補、サイスノスケと申す者で ござる! 是非神父殿にお礼をば!﹂ ﹁いや⋮⋮別にお礼とかそういうのいいから。あと服着たほうがい いから﹂ ﹁本来ならば褌とサラシも脱いで戦うのがユーリ流の秘伝なのでご ざるが⋮⋮﹂ ﹁昔の知り合いにも居たけどあれだよね。彼はおっさんだったから まだギャグだったけど女の子がやる流儀じゃないよねそれ﹂ ﹁し、忍びとはいえそれがしも女子。見せたならば相手を殺すかヨ メに貰って頂くかしかござらん﹂ ﹁いや別にまったく脱げとは言ってないからね僕。話聞いてないよ ね。なんで顔を赤らめてるのこの子﹂ 真顔でげんなりしながら言葉を返すが、器用に走りながら彼女は しゅるりとサラシの留め具に手をかけた。 ﹁しかし神父殿の頼みとなれば⋮⋮!﹂ ﹁どうして僕は変な子しか出会わないかなあ⋮⋮!? 素敵なオー クの雌とはいつ会えるんだあああ!﹂ ﹁あっ待ってくだされ神父殿ー!﹂ 速度を上げて帝都へ向かう街道を爆走する神父とそれに付いて行 くクノイチのサイスノスケ。 1856 事件に巻き込まれる度に出会った女性と一方的なロマンスが発生 しかけるのだが、未だに好みの子とはさっぱり出会えないオーク神 父であった。 1857 外伝﹃IF/江戸から異世界2:冒険者に就職編﹄︵後書き︶ ※つづかない 1858 54話﹃眼鏡と雨次と周りの人々﹄ 近頃、雨次が眼鏡をかけ始めた。 日本に眼鏡が伝わったのは十六世紀、キリスト教の伝来と共に伝 えられ足利の将軍や神君徳川家康も眼鏡を使っていたと言われてい る。 ただ、当時の眼鏡は耳にかけるつるは無く、鼻にかける形の眼鏡 だったようだ。 最初は輸入していた眼鏡だがそのうち日本でも長崎で作られるよ うになり、西洋での多彩な眼鏡に合わせて鼻の低い日本人にも使い 易い眼鏡を改良していくようになった。 鼻に挟む眼鏡や手持ち眼鏡、単眼鏡や紐で顔に括りつける物も現 れた。 そんな中で鼻あてと耳にかけるつるの形に注文して作らせた眼鏡 を持っている石燕は、流行に乗ったというよりもその先を見て作ら せたようであった。 日本でも貴重なその形をした眼鏡のうち一つを、彼女は九郎経由 で雨次に渡している。 ともあれ、若干の弱視気味であった雨次は眼鏡をかけることで視 界が良くなり、無料で貰った引け目はあるものの本が読みやすいと 大層に喜んだという。 そんな雨次少年であったが、現在やや困惑していた。 その日はいつも通り、天爵堂の屋敷に来た。 江戸では本の多くは貸本屋から借りるのが殆どであったが、ここ の主の蒐集癖はとりあえず活字のある新しい本が出れば買ってしま 1859 う。 集めたそれを売ることも捨てることもせずに、ただ貯めていく。 そして何度も読み返し、古い本などは手垢で表紙が掠れているほど であった。 雨次は大抵、最低限の家事を済ませてこの屋敷で本を読み漁って いる。 相変わらず自分の机で本を積んで読み漁っている天爵堂に軽く挨 拶をした後││相手も聞いているのか聞いていないのか生返事しか 返さない││縁側にあぐらを掻いて頬杖を付き[本朝二十不孝]と 云う本を読んでいた。 ふと、視線に気づいて顔を上げる。 庭に植えているのか勝手に生えているのか微妙な低いツツジの木 の葉に紛れてじっとこちらを見ている少女がいる。 何を思ってか、両手に葉のついた樹の枝を持って││顔を隠して いる気になっているのかもしれないが││雨次を見ていたのは、地 主の娘の小唄だ。 ここ最近││。 具体的に言えば、眼鏡をかけ始めてから彼女の奇行は始まった。 ︵いや、もともとよくわからない子だったけどさ︶ 自分で思っていて否定する雨次。そもそも最初から何故か友達に なりたがろうとするという謎の少女ではあった。 ともあれここ近頃は、このように本を読んでいたら襖の影から様 子を伺っていたり、飯を食べていては天井からぶら下がっていたり、 眼鏡をかけっぱなしでついうとうとと午睡した時は気がついたら眼 前に居て、思わず寝たフリでやり過ごした。 思えば眼鏡姿で小唄とお遊にあった時にこちらを見て、 ﹁ふぉばばばば﹂ 1860 と、口をあわあわさせつつ動揺して懐から取り出した気付け丸薬 を噛み苦しむという反応を見せた。 恐らくはそれからこの妙な監視社会が始まったのだろうと雨次は 論理的に判断を下す。 視線に害があるかないかは陪審員の判断に委ねられるかもしれな いが、見る自由があるなら拒否する自由があっても良いはずだ。 ﹁小唄﹂ ﹁ひあっ!?﹂ ︵ひあっと来たか⋮⋮︶ まるで話しかけられたことが意外だとでも言わん反応で、むしろ 困る。 わかりやすく動揺していて今にも走り去りそうなので、呼び止め た。 ﹁ちょっとこっちに来てくれ﹂ ﹁ええっ!? ち、近づいても大丈夫か!?﹂ ﹁ぼくは猛獣か﹂ ﹁いや、雨次が覚悟ができているかと⋮⋮﹂ ﹁猛獣は君のほうか!?﹂ 何故友達と接近するだけで理解不能の覚悟を強いられるのか。世 の中は不思議なことだらけだ。 ともあれ本を置いて、小唄を招き座らせた。 そわそわと雨次の顔を見たり目を逸らしたりしている彼女に尋ね る。 1861 ﹁最近、やけに見てくるようだけど⋮⋮﹂ ﹁気づいていたのか⋮⋮﹂ 気づかれていないと思っていたらしい。 哀れを含んだ目で見るとやはりどこか落ち着かなそうに、かつ喜 んでいるようであり奇妙だ。 ﹁時々小唄は残念になる││まあそれはともかく。眼鏡をかけてか らだと思うんだけど、似合っていないか?﹂ ﹁そんなことはない!﹂ 握りこぶしを作り大声で明確な否定をしてくる小唄に、気圧され る。 ずい、と雨次の方に乗り出して主張したことを自覚したのか、慌 てて身を引いた。つい呼吸が荒くなっている事を自覚し、咳払いを する。 ﹁そ、そのだな。雨次は眼鏡をかけると目付きが柔らかくなったじ ゃないか﹂ ﹁自分じゃ気づかないけど⋮⋮まあ、目を細めて字を読もうとする ことは少なくなったかなあ﹂ ﹁それでこう、雰囲気が優しい感じというか⋮⋮それでいてそっけ ない態度がまたあれというか⋮⋮いや前までのちょっと捻くれた雨 次が駄目だったというわけじゃないんだぞ! あれもあれで! し かしこう、新たな飛び道具が効いてきて私にありがたくも⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮よく意味がわからないんだが﹂ くびを傾げる。 しどろもどろに言葉を濁したりしながら言い訳がましい説明をす るのだから、雨次にしてみればまるで要領を得ない。 1862 つまるところ小唄は││眼鏡属性のついた雨次によりいっそうの 好感を持っているのであった。 彼女からしてみれば青天の霹靂めいた変化であったのだ。目付き の悪い厭世的な読書少年から、理知的な目元の柔らかい文学少年に クラスチェンジを眼鏡という一品だけで行えるまさに魔法の道具。 というわけで顔を見ていたいのだが妙な照れが混じっての奇行に なっているのであった。 台所がある方向の廊下からお遊がぺたぺたとした足音を立ててや ってきた。口には勝手に食べているのであろう桜の葉の塩漬けが咥 えられている。 ﹁つまりー、雨次の顔が変わってるからちょっとネズちゃん戸惑っ てただけだってさー﹂ ﹁そう、それだ私が言いたかったことは﹂ ﹁なんだ⋮⋮うーん、しかし眼鏡は折角貰ったものだから、外すわ けにもいかな﹂ ﹁いや! 外さなくていい!﹂ ﹁⋮⋮なんでそんな必死なんだ?﹂ どうにも、雨次にはよくわからぬ世界の話のようだった。 そも、母に似ている事が苦手││今はそれほどでもないが││と 思っていた自分以外に、誰が何の目的で自分の顔を気にするという のか、不思議であった。 後ろからのしかかるようにしてくるお遊がぐにぐにと雨次の頬を 軽くつねり遊ぶようにしながら、いつも通りの爛漫とした笑顔のま までお遊が言ってくる。 ﹁ネズちゃんは雨次の顔好きだもんねー﹂ ﹁ち、違うぞ!? いや、嫌いというわけではないけど⋮⋮なんか 刺がある言い方じゃないか!﹂ 1863 ﹁いやだって、雨次と友達になろうとしたのも顔が良かったからな わけでー﹂ ﹁よし! その話題はやめよう! はいはい終わり!﹂ そのお遊はまったく変わらぬ笑顔なのに、小唄は嫌な迫力と金属 質の気配を感じる時があった。 笑顔も固定されているというのならば無表情と同じではないか、 と背中を汗で湿らせつつも小唄は考える。 ︵私が引け目を感じてそう思っているだけなのかもしれないが⋮⋮︶ 実際に雨次と友達になったのは、彼に何か惹かれるものを感じた からなのだが、それが容姿であったかはもはや彼女も正確には覚え ていない。だが人にそう言われるとそうだったのかと思ってしまう。 実際に好みの顔立ちをしているからだ。 もしかしたら前世か何かで付き合いのあったのでは、と字の練習 の為に書いている日記に記したら父親に読まれて大笑しながら冷や かされたのだが。その時刺した傷はまだ彼の尻に残っている。とい うか話題に出してくる度に刺している。 懐いた猫のように座っている雨次にくっつこうとしては鬱陶しが られているお遊を見ながら、小唄は牽制されたような遣り取りが心 にしこりとなって残るのであった。 ***** 翌日。 1864 緑のむじな亭にて。 ﹁││ええと、眼鏡をかけた雨次君の顔が好きなだけで本質はどう でもいいのではないかと自分が思っている可能性があるのではない かと疑っている⋮⋮ええい面倒くさい悩みだね﹂ 江戸唯一と言ってもいいかもしれない眼鏡っ娘︵自称︶の鳥山石 燕は本日の相談ゲストの持ってきた話題に苦笑いを浮かべた。 仮定と否定を織り交ぜた婉曲的表現であるが、年頃の娘の悩みな どそんなものである。 茶化すにしても本人が顔を暗く曇らせている上に同じ眼鏡属性に 関わることなので、 ﹁悩み解決の手助けをすることはやぶさかではないが⋮⋮﹂ 石燕が急須から湯を注いで小唄の前にも出す。まあ、湯と言って も般若湯だが。 ﹁天爵堂には相談したのかね?﹂ ﹁先生は﹃そういう面ど⋮⋮いや、若々しく華やいだ話は船月堂と 九郎先生に聞いてもらいなさい﹄と﹂ ﹁あからさまに面倒だから回してきてるね、こちらに﹂ 彼女はふむと言って一口酒を飲みながら、 ﹁まあ確かに、眼鏡属性は男女関わらず良いものだと思うよ。顔に 愛嬌が出つつも真面目な感じに見えるのではないか、ねー?﹂ ちらちらと隣に座って茶を飲んでいる九郎を見ながら石燕が云う が、 1865 ﹁⋮⋮お、茶柱が立った﹂ ﹁この反応だよ! まったく理解し難いね!﹂ ﹁九郎先生の話題への興味なさがうちの先生並だ⋮⋮﹂ 見合いなどならともかく、思春期の悩みに関しては中々に難しい ものがある。それ以上に終わっているのが彼自身だが、 だいたい、眼鏡の良さと言われても彼の知り合いで眼鏡を掛けて いる女性と言えば魔王と石燕ぐらいである。どちらも問題児だ。 前に魔王城に居た時にもヨグから、 ﹃くーちゃんを眼鏡っ娘好きにするためにまずはアニメで洗脳する よ! イモータル準備して!﹄ ﹃了解致しました。ではこちらの[直球表題ロボットアニメ]を上 映致します﹄ ﹃⋮⋮あれ!? 眼鏡は眼鏡だけど地味にメイドロボ物選んでない かな!?﹄ などと云う事があったが、結局枯れ老人である九郎には理解でき なかった。適当に話を合わせて﹁眼鏡っ娘って、外した時可愛いっ てやつだろう?﹂というような発言で泣いて怒られたりもした。全 然わかってないらしい。 石燕はともあれ小唄に向き直って優しげに云う。 ﹁ふふふ⋮⋮若い内から悩むことは良い事だよ。恋とか愛って素晴 らしいものなの胸のときめきが溢れる人生の宝物⋮⋮﹂ ﹁おい石燕。何か耳障りのいいことを言っている拒絶反応で口に含 んだ酒が飲み込めずに垂れてるぞ﹂ ﹁まずは彼の眼鏡と褌を奪って振り回しつつ﹃ふぇーへへ眼鏡眼鏡 ぇ!﹄と言いながら踊り狂う姿を見せればいいんじゃないかな﹂ 1866 ﹁奈落に突き落とす助言を行うな﹂ 年齢が半分ぐらい年下の相手の恋の相談を受けているせいだろう か。真顔で駄目な事を教える。 神妙な顔で持ってきた紙にメモを取っている小唄も小唄だが。少 々自分を見失っているようである。 九郎は机に肘をついて横目で石燕を見つつ、 ﹁そもそもこの妖怪愛好が行き過ぎた後家に相談してものう。江戸 の後家集団、[黒後家友の会]の会長だぞ、こやつ﹂ ﹁自分で作っておいて何だけど足の引っ張り合いにだけは定評があ る鬼女の会になったよ⋮⋮!﹂ ﹁うわあ﹂ 軽く冷や汗を拭う石燕の反応に、小唄が呻く。 石燕が後家になった時に趣味などの共有や互助組織として商家の 後家が集まって作られたのが[黒後家友の会]なのだが、現在では いかに水面下の努力を隠しつつ優雅に見せて、相手を褒めつつ自分 を褒めさせる実際殺伐な雰囲気で茶会や生花などのバトルが行われ ている。 会長をやっている石燕などは多芸多才に遺産もたっぷりで遊び歩 いたり若いヒモと仲良くなったりしているので羨ましがられ、つま りは共通の敵になっている。会長を共通の敵とすれば会員の繋がり や信頼関係は強固になるのだが、当の悪役は溜まったものではない。 さすがの石燕もそれを思い出すと疲れた表情を見せる。 ﹁はあ⋮⋮誰か代わりに会長してくれる後家さんは居ないものかね。 私はもう有閑気取り婦人の矢面に立たされるのは御免だよ⋮⋮彼女 らを参考に[青女房][毛倡妓][骨女]と妖怪画を三つ続けて出 した件でいまだに嫌味を言われる﹂ 1867 ﹁雨次の母親でも入らせて見るか?﹂ ﹁それは止めたほうが⋮⋮ところで私の相談なんですが﹂ ﹁おう、そうだったのう﹂ 小唄が話を戻したそうな様子なので九郎は江戸に蔓延る鬼女の話 題はひとまず置いた。 ﹁つまり、雨次の事を好きなのは顔が好みだから性格その他はあば たもえくぼ的に好みになっているだけであって、本当に奴のことを 理解して好きなのか不安なのだな﹂ ﹁うっ⋮⋮ま、まあ好きとか好きじゃないとかそこまで大袈裟なあ れじゃないのですがまあその、友人的に見て相手の性格などもちゃ んと認めて好きになっているのだろうかとかお遊ちゃんと違ってま だ付き合いが浅いからその﹂ ﹁ふふふ、肝心なときにヘタレる負け組な性格をしているようだね ⋮⋮!﹂ ひたすらに言い訳がましい小唄を半眼で見る九郎と、なにか居た 堪れない石燕である。 ﹁よいか? ネズ子よ。顔が好みと云うのは別段、引け目を感じる ことではないのだ。そもそも顔に人格というものは││まあ偽って 無ければ現れる。雨次はあまり顔芸は上手く無いからのう。それで その顔が好みというのは、にじみ出る其奴の性根も含めて好みにな ったというものだ。 出会いの印象がどこであろうが、付き合って浅かろうが、好きに なったということは変わるまい。性格を知って嫌いになったとかそ ういうものも無いのだろう。あやつは少しひねているが、根は良い からのう。誰に遠慮をするものか﹂ ﹁九郎先生⋮⋮﹂ 1868 励まされて小唄は敬う視線を向ける。九郎の言うことには根拠は ない後押しなのだが、大抵女性というのは論理的な答えよりそうい うものを求めている傾向にあると九郎は知っている。知っているが 故に、それらしい事を述べているだけである。 ﹁雨次の奴は鈍感だからのう。そうそう気づかぬが。やれやれ、女 心のわからぬ奴は困ったものだな﹂ ﹁あ、今ツッコミ入った。何処かでツッコミ入ったよ。多分時間と か次元とか越えて。代わりに私がやっておこう││君が云うな﹂ ﹁年をとって頑固になってるだけあって余計に自覚しないんですよ ね⋮⋮﹂ 渋面で女性二人から文句を言われたので、やはり老人が女心を語 るべきではないか、と九郎も胸中で頷く。 石燕は溜め息の後に慣れた様子で気分を切り替え、にやついた笑 みを浮かべる。 ﹁ま、確かに雨次君はちょっと顔が良いからね。農民町人顔ではな く、武家や公家の血が混じっているのだと思うが﹂ ﹁顔でそこまでわかるんですか?﹂ ﹁そうだとも。これでも絵描きだから人種による顔の特徴などはす ぐに目につく。特に公家などは五代も十代もずっと京の都で公家暮 らしをしているのだよ。子孫も骨格から変わってくるものさ﹂ 得意気に云った。 実際に侍と町人はそれほど大きな変わりは無くとも、京都の公家 などはすぐのそれと知れる気品のある顔つきに勝手になっていたよ うだ。 食べるものもずっと雑穀を食べている農民と、柔らかな京料理を 1869 食う公家ではえらの張りや顎の細さも違ってくる。 公家の者が町人との間に産ませて捨てた落胤などは美男美女がや はり多かったと言われている。 微妙な顔で小唄が般若湯を飲み干したのを見て更に注ぎつつ、 ﹁とにかく私は小唄君を応援しているから頑張って雨次君とくっつ きたまえよ﹂ ﹁く、くっつくって⋮⋮﹂ ﹁なにせ金を賭けているからね!﹂ ﹁⋮⋮﹂ やや赤らんだ顔をした小唄の目が細められた。 石燕は胸元から丸められた証文を取り出して上機嫌にそれを見せ つける。そこには知っている名の署名が書かれていた。 ﹁ほら。一人頭一両で、私は小唄君。九郎君は茨ちゃん、天爵堂は お遊ちゃんだね。将翁が全員とくっつくに賭けて、影兵衛君は途中 で刺されるに賭けている。楽しみだね!﹂ あめいば ﹁ちょっと待て!? この大人達最悪だ! どういうことですか九 郎先生!﹂ ﹁すまぬが己れは雨茨派でな。一般論からの助言ぐらいはするが⋮ ⋮﹂ ﹁派閥の名前まで出来てる!? っていうかぜ、全員とくっつくと か刺されるってなんだぁっ!﹂ ﹁美少年となればその程度起こりうる事態だよ﹂ 般若湯で酔って気が昂ぶっているのか、噛み付くような勢いで怒 る小唄。 微笑ましく見守られるのも恥ずかしいが、自分らの関係が酒の肴 にされているとは許しがたい。 1870 いつも通り緑のむじな亭の常連たちは、九郎や石燕が同卓の者と 騒いでいても今更気にはしないのだが、前掛けを付けたタマが般若 湯のお代わりを持って近づいた。 ﹁美少年の話題と聞いて僕登場タマ﹂ ﹁ふふふ、タマ君も美少年ならなんでも起こると思わないかね?﹂ ﹁当然ですよ。美少年なら嫁の十人や二十人。背中の刺し傷の十や 二十当然ですとも﹂ ﹁うむそうだろうそうだろう。頭を撫でてやろう﹂ ﹁石燕さんはこっちが悪戯しなくても絡んでくれるから最高タマ﹂ ﹁悪い顔だぁ⋮⋮﹂ 半ば酔っ払った石燕に頭を抱かれて邪まに笑うタマに小唄が引く。 セクハラをされたらお房から制裁が飛んでくるし石燕も良い顔を しないのだが、酔って寛容になった彼女から絡んでくる場合は別だ。 美少年相手なのでガードが低い。九郎は絡まれても鬱陶しく思うだ けでタマは静かに喜ぶのみなので、中々絡み甲斐が無いといえばそ うなのだが。 胸の感触を楽しみつつ彼はくるりと小唄の方を見て、宣託を与え る預言者のように厳かに告げた。 ﹁ところで迷える少女よ、僕で良ければ素晴らしい助言を与えてあ げよう。なにせこう見えて僕はかつて一ヵ月に五十人の男を骨抜き にした超絶持て囃され人間なのです﹂ てく ﹁はあ。五十人⋮⋮男? え? え?﹂ ﹁他の人には聞かせない内緒の手繰だから⋮⋮﹂ と、周囲を見回す仕草を見せてタマは両手で口の端を隠しながら 小唄の耳元に近づいてきた。 何故男が男を骨抜きにするのかさっぱりわからず混乱している小 1871 唄だったが、同年代の少年からの助言ということで素直に聞こうと 耳を近づけ││ 九郎が痛ましい顔をして、石燕がにやにやしているのが疑問だっ たが。 ﹁⋮⋮ふぅ∼﹂ ﹁ぐきゃああああ!?﹂ 迂闊である。 タマの口車に乗って耳など貸すものだから││耳に息を吹き込ま れた小唄であった。噛まれなかっただけマシである。最悪舐めて穿 られる。もはや寄生生物だ。奴ら脳を吸い取るぞ。 転瞬、タマは小唄に突き飛ばされ、さらに追撃でお房が振るい唸 りを上げたアダマンハリセンに殴られ壁に叩き付けられた。 ﹁ぐっはあ⋮⋮!﹂ 更に飛来した苦無と手裏剣が顔面付近や股、袖などを縫い止める ように突き刺さる。頭に関しては咄嗟にタマは首を捻って避けたが、 眉間のあたりに。 小唄は酒の入った顔を更に赤くして、涙目にまでなって睨んでい る。 ﹁わ、わ、私の初耳を⋮⋮雨次にあげるつもりだったのに!﹂ ﹁⋮⋮それ奪われたりあげたりするものであることが初耳だのう⋮ ⋮﹂ ﹁いや、まあタマ君が悪いのだがね﹂ 壁に磔になったまま更にお房からハリセンでどつかれて全身ぼろ ぼろになりながらも、 1872 ﹁お客に。手を出すなって。何度も言ったわよね?﹂ ﹁触ってない⋮⋮触ってないタマ⋮⋮あと僕の助言は奪われかねな いものなら、先に相手に与えるようにしなさいってことを行動で伝 え⋮⋮御免今考えたタマ﹂ そう言い残して、快音を出す一撃が顎に入ったことで気を失った。 正確には花魁時代からの特技で寝たフリをしているのだが、そうそ う見破られるものではない。 苦情を言いたい相手が寝ては吐き出しきれずに、憤慨を伴って小 唄は再び座った。 愛想笑いを浮かべた石燕が、 ﹁まあここは般若湯でも呑んで忘れたまえ。猫に噛まれたようなも のだよ﹂ ﹁不真面目過ぎます!﹂ 湯のみから茶碗に容れ物を変えて、波々と注いだそれを一息で煽 る小唄。 まだ十二、三の少女なのでそれだけでかなり回ってきている。ち なみに決して子供への飲酒を奨励している訳ではない。あくまで般 若湯だ。 彼女は呂律も怪しくなりつつも怒った様子は崩さない。 ﹁ひゃんと忘れられりゅんですか!?﹂ ﹁ど、どうだろうね九郎君。こういうのは体質があるからなあ﹂ ﹁そうだなあ⋮⋮よし、こうして見よう﹂ そう云うと、九郎は財布から取り出した一文銭に細長い布製品を 通して振り子を作る。 1873 ﹁おや、それは⋮⋮一昨日見世物小屋に行った時に見たまじないの 振り子だね?﹂ ﹁うむ。これを振って狐憑きを再現していたが⋮⋮﹂ 謂わば、即席の催眠術具であった。どの程度効果があるのかは不 明だが、江戸時代ならば信心深いのでなんとかなるんじゃないかと いう安易な考えで九郎はそれを小唄の前で揺らした。 ショックを受けていることと酔っていることもあり、ぼんやりと 目の光を無くして小唄はそれを注視する。 ゆっくりと言葉を唱えて繰り返した。 ﹁初耳のことは忘れる⋮⋮初耳のことは忘れる⋮⋮﹂ ﹁忘れ⋮⋮初耳⋮⋮忘れ⋮⋮﹂ ﹁効いているか⋮⋮?﹂ ﹁初⋮⋮耳⋮⋮初音⋮⋮耳作⋮⋮初音耳作⋮⋮﹂ ﹁あっなんか失敗した気がする﹂ 九郎が振り子を止めるが小唄は耳からボーカロイド芸人の名を唱 え続けた。 まだ催眠術は研究の余地があるようだ。失敗を糧に前に進む事こ そが人類の進歩を招いた。尊い犠牲があるからこそ、それを忘れず に涙を拭い次へ活かそうと思う九郎であった⋮⋮。 ともあれ、顔の前で手を叩いて催眠から起こした時には忘れてい たので結果オーライだと納得して忘れることにしたのだが。 小唄は据わった目になりながら般若湯をちびちび飲みつつ机に頬 を付けて伏せて管を巻く。 ﹁私らって精一杯なんれすよ⋮⋮もしかひたら私が雨次の好みから 外れしゅぎてるのかも⋮⋮﹂ 1874 ﹁若いのに酒を呑んで愚痴を言っておると石燕のようになるぞ﹂ ﹁深刻な風評被害は止めたまえ﹂ ﹁はあ⋮⋮男の子ってどういう女がしゅきなんでしょうね⋮⋮お遊 ちゃんみたいな明るい子や茨みたいな従順な子がいいのかな⋮⋮﹂ ネガティブな思考になった小唄は自虐的な乾いた笑みを浮かべな がらうめき声を垂れていた。 眠そうに半分閉ざされた彼女の半眼が、雨次と同じく女性関係に 鈍い九郎を捉えてふと疑問をこぼす。 ﹁例えば⋮⋮九郎先生はどんな子が好みなんれすかね﹂ ﹁己れか?﹂ ぐっ。 石燕が親指を立てて小唄に笑顔を送った。ナイス質問だ。超石燕 君人形を後であげよう。集めると江戸三十三箇所巡りの旅に行ける。 出発も期限も勝手で費用も自分持ちという自由な企画で。 突然振られた話題に腕を組んで眉根を寄せ、九郎は一応考える素 振りを見せる。 ﹁ううむ、己れはもう枯れてるからのう⋮⋮いまさらあまり気にす ることは無いが。そうだな、敢えて云うなら﹂ ﹁云うなら?﹂ ﹁金持ちなら良い﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ 真顔で、云った。 これは単に九郎が異世界の役場で働いていた頃に市民窓口で訴訟 相談や多重債務などの応対を行っていて、借金や貧困や低賃金長時 1875 間労働などのきつさを目の当たりにしたことから││高額の借金を 抱えてなく、生活に苦しまない財力を持っている方が好ましい、程 度の意味を恋愛とは関係ない評価として一言で口にしたのだが。 どうも時折、表現が誤解を招くことがある。 少なくとも女性の目の前で堂々と云う言葉ではなかった。小唄な ど青醒めた顔で見ている。 一方で石燕は、身を乗り出して対面の小唄を引き寄せ、九郎か ら顔を背けつつ上擦った小さな声で云う。 ﹁こ、これは遠回しな告白じゃないかね⋮⋮!﹂ ﹁こんな最低な告白があってたまるものですか⋮⋮!﹂ 全力で否定された。小唄の中で九郎に対する評価が絶賛暴落中だ。 決して未亡人が金を持っているからといってうきうきして確認し ようとする内容ではない。警戒した小唄の眼差しに、九郎は訝しげ である。 しかしやがて、小唄は大あくびを一つして ﹁くう﹂ と、寝てしまった。 般若湯が回りきったのだろう。そこらのものではない、上等な甘 口ですっきりとした味をしているものだから、子供でも飲めるのだ。 昼間から子供の恋愛事情をからかいつつ酔い潰させる大人達であ る。 まともとは言い難い。 それにしても、小唄をどうしたものか。起きるまで放置しても目 覚めて体調が良くなっているとは限らない。見なかったことにして 川に流す、という案もあるがやはり目撃者が多い。 やはり九郎が背負って家に運搬するのが容易いが、最近彼は良く 1876 誰かを背負っている気がしておんぶ妖怪の呪いかもしれないと少々 気後れした。 ︵都合よく雨次でも来れば良いのだが⋮⋮︶ 思っていると、店に入ってくる聞き慣れた声があった。 ﹁おーう。お八さんの来店だぜー﹂ 名乗った通りの人物だ。動きやすいように作られた緋色の小袖を 揺らしながら上機嫌そうに大股で入ってきた。 彼女は早速九郎と石燕を見やって、呆れた吐息をこぼす。 ﹁まぁた昼間っから酒呑んでるのかよ。お天道様もいい夏日和だっ つーのに屋根の下で﹂ ﹁ほれ、言われておるぞ石燕﹂ ﹁だって日が照っているのに外だと喪服が熱くなるではないか﹂ ﹁こやつめははは﹂ ﹁ふふふ﹂ ﹁二人共だよ!﹂ 煙に巻いて再び乾杯の音頭を取った二人にお八が食って掛かった。 そして二人の正面で涎を垂らしながら泥酔している少女を見て、 ﹁他のやつまで巻き込んでまあ⋮⋮いや、丁度良かったか。おい、 雨次。手前のお友達が来てんぞ﹂ 彼女は外に呼びかけると、眼鏡の少年とそれに連れられて背中に 米一斗の櫃を背負った青みがかった肌の少女が店に入ってきた。 雨次と茨だ。 1877 確かに、変わった眼鏡を掛けていることもあるが目を引く顔立ち をしている、と石燕も思う。 お八は得意気に、 ちんぴら ﹁さっき町中で珍平に絡まれててな、あたしが助けてやったんだぜ﹂ ﹁お主もまた喧嘩など⋮⋮大丈夫だったのか?﹂ ﹁はっ、ちょいと川に放り込んでやったぜ。ま、その後仲間が三人 ばかり出てきたんだけど通りかかった利悟のおっさんが全員即座に 縄で縛って川で水責めを初めたら与力に殴られてた﹂ ﹁殴られるところまで含めてたまにはいい仕事をするな、あやつも﹂ ﹁目付きが怖かったので珍平以上に茨に近づいて欲しくなかったん ですが、あの人﹂ 胡乱げな目付きではしゃぎ子供の危機を救いに現れた同心を思い 出して評価する雨次。ここぞとばかりに活躍を図り、市中で拷問を 始めた利悟も縄で縛り付けられて番所まで御用になってしまったが、 その表情は自己満足に明るかったという。愛するものを守るため傷 つくこともあるだろうが、それに酔っているあたりが駄目な男であ った。 それにしてもお八という少女、去年から習っている武術の腕がめ きめきと上達して今や、大人の男でも不意を付けば痛打を与えられ るほどになっている。 剣術はまだまだだが、格闘や棒術は覚えが良いので同年代と喧嘩 すればそう負けないだろう。 喧嘩の為に習っていたのではなく、知り合いを守るためとは言え 不逞の輩相手にそれを振るったとなると親にきつく叱られるだろう が。 九郎は雨次の後ろにぴったりと付いて回っている茨を微笑ましく 見ながら云う。 1878 ﹁今日は米を買いに出たのか﹂ ﹁ああ、はい。茨にも買い物を教えようと﹂ ﹁ふむ。しかし重そうな荷物を女子に持たせるのは少しばかり情け ない気がするよ?﹂ ﹁⋮⋮持てないわけじゃないのですが、茨がどうしても持つと﹂ バツが悪そうに振り返るが、癖毛の同居人はふんすと鼻息荒く軽 々持っている様子をアピールした。 一斗の米と言うと、十五キログラムもある。雨次ほどの年齢なら ば持てないことはないが、ここから千駄ヶ谷まで運ぶのは少々骨な 気もするけれども、元来腕力の強い茨は平気なのだという。 お八はぐだぐだになった小唄を突付き﹁酒臭﹂と呟いて雨次に云 う。 ﹁手前の近所の子だろ? 持って帰ってやれよ﹂ ﹁小唄じゃないか。またなんでこんなところで⋮⋮はあ﹂ 溜め息を吐きつつも仕方ないので背負おうとして小唄に近づいた。 雨次は、 ︵そういえば少し昔までは、他人を介抱しようなんて考えもしなか ったな︶ と、感傷のようなものを覚えつつも友達になった彼女らにはそれ ぐらいしてやらねば、とも思う。 その様子を石燕が見つつ良い顔で酒を飲み、にやりと笑った。 ﹁よしっ﹂ ﹁いや待て雨次よ。いかに小唄は少女とはいえ米よりは重い。茨の 荷物をお主が持って、小唄の躰は茨に運んで貰ったほうが賢い﹂ 1879 ﹁何を言ってるのかね九郎君! 妨害工作は止めたまえ! 女の子 の体重を云うのもだ! 少女は皆羽根のように軽い!﹂ ⋮⋮本人らの都合そっちのけで雨茨派と雨唄派で行動選択の奪い 合いがおっ始まっていた。 すると、店の中でこちらに背を向けて座っていた男が立ち上がっ た。 背中からは何の変哲もない中肉中背のようだったのだが、如何に して姿をそう装っていたのか、立ち上がると筋骨隆々の大男に見え る。 頭に手ぬぐいを巻いて人相を隠していた││隠せるはずはないの だが不思議と気付かなかった││男は重々しい声を上げる。 ﹁むぁああてええ⋮⋮! 酔っ払った娘を連れて行く一見大人しそ うな眼鏡野郎なんざ、送り狼そのものじゃねえか! そうやって世 間知らずの子を誑し込むなんざ、飲み会の神が認めてもこの甚八丸 様が認めねえええ⋮⋮!﹂ ﹁ここで保護者の登場かね⋮⋮!﹂ ﹁そもそもねおじさん、酒とか風邪とかそういう状態の時に仕掛け るなんざ邪道だと思うの! そりゃ容易く進展するけどさ、そんな んじゃないじゃない、こういうのはさあ、もっと自然な時にゆっく りと育まなきゃあ⋮⋮!﹂ ﹁そして結構こだわりがあるロマンチストだのう﹂ 熱弁する甚八丸だったが、やはり雨次と茨はよくわからぬとばか りに首を傾げて、小唄は健康的な寝息を立てたまま聞いていない。 彼は眠っている小唄をひょいと肩に担ぐ。さながら、少女を攫う 山賊と言った雰囲気だ。 そしてびしりと雨次を指さして地の底から湧き上がるような低い 声で言って聞かす。 1880 ﹁小僧ぉぉう!﹂ ﹁え、はあ﹂ ﹁せめてちったぁ体鍛えやがれぇ! 青瓢箪じゃ認めねえぞ! あ と珍もげろ!﹂ ﹁なにが!?﹂ 云うだけ云って、彼は娘を背負ったまま外に走りだした。小唄の 寝ていた場所にいつの間にか彼の食った蕎麦と小唄の飲んだ般若湯 の飲み代が置かれている。 ぽかんと見送って雨次は、 ﹁⋮⋮この店の客層って変人多くないかなあ⋮⋮﹂ ﹁云うな﹂ 率直な感想を告げるので、薄々自覚している九郎は諦めたように 応える。 そんな雨次の背中を軽くお八が小突いて、 ﹁っていうか鍛えろってのは実際そうだぜ。なんつーか手前、虐め られ気配みたいなの出てるから自分の身ぐらい守れるようにしとけ よ﹂ ﹁ううう、そうだろうか﹂ さすがに、今日先ほど珍平に絡まれた上にお八に助けてもらって は言い返しようが無い。 今日だけのことではなく、千駄ヶ谷の村でも他の子供に石を投げ られる││小唄が居ない時にだが││ことも、町で悪そうな輩に目 をつけられることも何度もあったことだ。 見た目が良く目立つのに育ちが賎しいため、態度にもどこか出て 1881 いるのだろう。 自分一人ならば耐えるなりすれば良いが、今日などは茨を連れて いたので彼女まで巻き込みかねない。 お八はにんまりと口の端を上げながら、 ﹁だから、うちの師匠がとりあえず稽古に来てみろって言ってただ ろ。なに、最初は何の用意もいらないし金は通うと決めてからでい いってさ﹂ ﹁剣術か⋮⋮あまりぼくが得意になってるのが想像できない⋮⋮﹂ ﹁晃之介のところは己れも良いと思うぞ。なにせ多様だからのう。 自分にあったものだけでも身につけられるかもしれん﹂ 九郎もそう勧めるので、雨次は以前に影兵衛に言われたことも考 えてやはり鍛えなければと思い﹁九郎さんがそう云うなら⋮⋮﹂と、 顔を出すことを決めた。どうやらまだ九郎の信頼性は見限られてい ないようである。しかしやはり筋肉が重要なのだ。男はハルクを目 指さねばならない使命がいつの時代、どこだってあるはずだ。 お八が九郎も呼んで、 ﹁じゃ、これから一緒に鎧神社に行こうぜ。九郎もどうせ暇なんだ ろ﹂ ﹁ふむ⋮⋮ま、勧めておいて知らん顔するのもな。石燕はどうする ?﹂ ﹁ふふふ。あの神社超呪われてるから行きたくないお酒呑んでる﹂ ﹁おい妖怪狩人﹂ 震え混じりに首を振り立ち上がろうとせずに酒を飲む石燕であっ た。 妖怪を見たい怨霊を見たい好奇心と、実害があるレベルで呪われ ている土地に何度も足を運びたいという感情は別のようである。 1882 九郎を連れて四人で出て行ったあとで一人残された石燕に追加で 酒を持ってきたお房がぽつりと言った。 ﹁お八姉ちゃんも実家はお金持ちなの﹂ ﹁ごふっ﹂ 思わず、むせた。 だらだらと口から垂らした酒が卓を濡らし、受け取った台拭きで 拭わされる石燕であった。 ***** 六天流の道場で打ち込みに使う立ち木は、青竹に筵を幾重も巻き つけ、その上から膠を塗った獣の皮││熊や猪のそれを使う。 こうすると皮の粘りが強くなり、日に千回木剣で打ち付けても朽 ちぬという。 にわかに六天流道場になっている鎧神社の境内、裏の林にその柱 は立っていた。 そこに縄で小器用に九郎とお八が雨次を縛り付ける。 ﹁え? え?﹂ きょろきょろと二人を見回すが、気がつけばがっちりと手足から 腰まで縛られて動けないようになってしまった。 茨もぽかんとその様子を見ている。 1883 涼し気な顔をした録山晃之介が、住んでいる物置小屋から木剣大 小、棒、木槍、弓、の五つを持ってきて確りと固定された様子に、 ﹁よし、その程度でいいだろう﹂ と、指示を出すと二人は離れた。 眼鏡をかけたまま身動きの取れぬ雨次は、とりあえず眼前の晃之 介に呼びかける。 ﹁あのこれは⋮⋮﹂ ﹁ああ。俺の流派ではとりあえず目を慣らして度胸をつけることか ら始まるからな。どんな状況だろうと目を閉じてはいけない。人間 の体というのはどのような構え、武器を持っていても必ず付け入る 隙があるからそれを見極めるためにな。寸止めで技の型を放ってい くから、目を閉じたら駄目だぞ﹂ ﹁寸止め。寸止めですよね? 本当に大丈夫なんですよね?﹂ 不安そうに呼びかけるが、当然のことなので当然のようにスルー された。どちらにせよ間違いなくこなすのならば安心させる意味は 無い。 晃之介はお八に顔を向けて、 ﹁それじゃあ立っている相手に行う素手以外の技、五種合わせて五 十四を続けてやるからお八も見ておくようにな﹂ ﹁わかったぜ﹂ ﹁頑張るのだぞ、雨次﹂ ﹁⋮⋮﹂ 適当に離れたところで座って見物している気楽さに苦情を入れよ うとした瞬間││風が来た。 1884 額に木剣の先が触れている││さっきまで剣が届く場所に居なか ったというのに、いつの間にか近づき音も無く放った突きが額に入 った。衝撃はない。だが、突き抜けるものを感じた。それは殺気だ。 ︵今、死んだ︶ 濁濁と汗が吹き出てきた。それを自覚する間も無く、意識を眼に 戻せばゆっくりにも見える速度で││いや、木剣の周りに暴風が爆 ぜているのを幻視する恐るべき速度で喉首を剣が掠める。遅いので はない。死を意識した脳がゆっくりにしか処理を行えないのだ。 寸止め、と言ったがこれが真剣ならば先端が触れた切断力が派生 して首を半ば以上するりと切り割りそうな勢いだった。呼吸が止ま る。喉を切り落とされる感覚を確かに覚えた。 右からの袈裟懸け││いや、左? 平衡感覚がおかしくなったか 判断能力が低下したか、ただ眼の奥が熱く頭の中で狂人が激流下り をしながら酒盛りを開いているような狂奔する高ぶりを感じた。 死の間際で脳内麻薬が過剰分泌されている。口の奥に苦いものを 感じ、死の味を宥めるために快楽を脳が与えようとするが、一度で はなく何度も死に続ける恐怖を抑えられるものではなく、完全に脳 内麻薬でバッドトリップをするという珍しい状態になっていた。 斬撃が掠める。死ぬ。風圧が体を冷やす。死んだ。不可視の圧力 が蝕む。再び死んだ。 即死と蘇生を瞬時に繰り返している感覚を味わっていた。 それほどまでに、寸止めと思えぬ程苛烈な速度と気迫を持つ攻撃 が、続けられる。 雨次はそれらを目も閉じられずに受け続ける。 気を失うか狂わせることも出来なかった。 六天流の度胸試しとでも謂うべき臨死体験はそう長い時間は続か 1885 なかった。 それでも、縄の束縛から解いた雨次は完全に脱力して立ち上がる ことさえも不可能で仰向けに倒れて目を抑えて呼吸を荒くしている。 晃之介はそれを見下ろしながら、 ﹁中々、見込みがあるな﹂ と、嬉しそうに褒めている。 入門すれば後輩になるであろう少年に対する高評価にやや拗ねた ように鼻を鳴らすお八。なにせ、彼女が師匠にこれを行われた時は 弓の技だけで気を失ってしまった事があるのだ。 茨が神社から貰ってきた水を倒れている雨次に飲ませているのを 見つつ、 ﹁そうか? 随分限界って感じだけどよ⋮⋮﹂ ﹁子供どころか大人でも、普通は失禁ぐらいするものなんだがそれ も無く最後まで目を開けていた。お八も確か﹂ ﹁ぎゃあああ! そ、それを云うんじゃねえぜ!﹂ 顔を真赤にさせつつ、彼女は隣に居た九郎の耳を塞ぎながら大い に喚いた。もちろん九郎には聞こえていて心のなかでおねしょ娘と 云う称号を与えていたのだが。 九郎はほぼ全力かつ当てない六天流の型を演舞した晃之介に、 ﹁しかし、改めて見るといろいろあるのう。あれだ、己れとの練習 では使ってないのを﹂ ﹁お前だって俺との練習では使わないのもあるだろう? それと同 じだ﹂ ﹁ふうん﹂ 1886 言いながらも、やはり武術に関しては自分より晃之介に分がある のを認める九郎である。 自分の隠し球など、防がれて相手の力量を示す為にあるような存 在の電撃符と馬鹿力を出せる相力呪符、しぶとい体ぐらいのもので ある。 ︵次に影兵衛から襲われそうになったら晃之介を用心棒に雇おう︶ そう勝手に決める。 ﹁ま、とにかく雨次は今日はこれで帰すぞ。己れが運んで行こう﹂ ﹁そうか、助かる。やる気があるなら大歓迎だと気分が良くなった ら伝えておいてくれ﹂ ﹁うむ﹂ そう言って九郎はひょいと雨次を背負う。手足に力が入らぬ様子 で、足を九郎が確り持たねばずり落ちて行きそうだ。 心配そうに茨が見上げているが、やがて彼女も地面に置いていた 一斗の米櫃を背負って後ろから雨次の腰を抑えについた。 ﹁えーなんだ九郎もう行くのかよ﹂ お八が不満そうに云うが、九郎は笑いながら、 ﹁そうだ、この前やった服で何か良い物は作れたかえ?﹂ ﹁おう。ちょっと変わったやつだけどな。今度持ってくるぜ﹂ ﹁楽しみにしておるぞ。またな﹂ と、次の約束をして別れた。 子供の方から老人を訪ねてきてくれるというのはとてもありがた 1887 いことだと、九郎は心が暖かくなる思いだ。 たまには小遣いもやろうか⋮⋮いや、甘い物の方が良いかと思い つつ、千駄ヶ谷へ足を向けた。 後ろから師弟の声が聴こえる。 ﹁それじゃあ、お八。とりあえずさっき見せた型を順番に百回な﹂ ﹁うっ⋮⋮し、師匠もう一回見せてくれ﹂ ﹁仕方ないな。じゃあその柱の前に。正面からも見たほうがわかり やすいだろ﹂ ﹁⋮⋮ちょっと先に厠行ってくるぜ﹂ ⋮⋮消沈したお八の声が、やけに悲しげだった。 ***** 雨次を背負って千駄ヶ谷に入る頃には、大分彼の具合も落ち着い たようだった。 しかしまだ足が震えているので九郎の背に居るが。 ︵そういえば、弟がこれぐらいだったか⋮⋮?︶ ふと、背中に居る雨次の軽さにそういう気がした。 年が離れた弟がかつて日本に居たのだが、もはや記憶を呼び起こ しても顔を思い出せない。 1888 郷愁の思いもかなり薄れたが、九郎が僅かに物思いに耽っている と、視界の端にこちらへ飛んでくる数個の石礫に気づくのが遅れた。 軌道の先に十前後の年頃の童がいる。石は土地の子供が雨次に投 げつけたものだ。 早く気付けば背負いながらでも避けれたのだが石は近くに迫って いた。手は雨次の足を掴んでいて離れない。 それほどの力が込められた石ではない。本気で雨次を憎んでいる というよりも、この辺りで人気な小唄と仲良く遊んでいるのが気に 食わないだけの幼い感情で投げられたものだからだ。 ︵雨次の頭に当たらぬよう⋮⋮︶ と、身を捩ろうとした時に、九郎の肩に後ろからだらりとかけら れていた雨次の細い腕が動き、打ち払うような軽い動きで振るわれ、 ぱっと音がした。 石は当たらなかった。外れた一個が近くに落ちて、雨次の振った 手に二個が握られている。空中で掴み取ったのだ。 子供達がその様子を見て、騒ぎながら走り去っていった。それを 掴んだ雨次も不思議そうにまじまじと石塊を眺める。 近くに飛んでくる石が、先程まで見ていた晃之介の攻撃に比べて まるで止まっているように見えたので、掴んでみただけなのだが│ │それがあっけなく上手くいった。 ﹁投げられる石って、こんな⋮⋮怯えたり、恨んだりするほど、強 くなかったんだ⋮⋮﹂ こんなに簡単に受け止められる物に今まで負けていたのだと思う と、雨次は目元に熱いものがこみ上げてきた。 これまでの少年の境遇を思い、九郎は何も言わずに顔を背中に押 し付けて声を殺す彼を家まで送っていった。雨次は泣き声を上げな 1889 かったし、茨も無言だった。 雨次は自分を、強くなどなれないから賢くなろうと考えて生きて きたのだが⋮⋮少しでも強くなれば、世界が広がる事を知るのだっ た。 夕焼け空に薄雲がかかっている。 五月雨になるかもしれない。九郎は見上げる空に水気の匂いを感 じてそう思った。 ***** 千駄ヶ谷、天爵堂の屋敷にて。 ﹁てんしゃくどー! あたしと雨次のもっと仲良くなる作戦考えて ー!﹂ ﹁ん? ああ。いつもの調子でくっついて行けばいいんじゃないか な。彼は鈍いからそれぐらいやっておけばそのうち勝手に収まるよ﹂ ﹁さすが賢いなー! でも他の子とくっついたらどうしようかな﹂ ﹁それもいつも通りでいいんじゃないかな。なるようになるよ﹂ 天爵堂老人は本から顔を上げもせずに、家に入り浸る││三人生 徒の中で最も早く、菓子目当てに遊びに来るようになった少女に適 当に答えた。 1890 彼の場合は生徒の恋愛にまったく口を出す意味を感じないのだが、 その中で一番アドバイスが雑で良くて勝手にどうにかなりそうなお 遊に付き合いで賭けているだけである。 ただ、それ故に││。 ﹁いつも通り⋮⋮そうだねー﹂ お遊は懐に入れた包丁を意識しながら、満面の笑みを浮かべて無 意味に一人彼の屋敷で踊るように過ごしている。 適当に扱うが故に││生徒の闇にはまったく気づかない天爵堂だ った。 侍や幕臣相手には嫌味と弱味を見つけることに長けた元側用人な のだが⋮⋮彼も実のところ、若い頃はモテても気づかない系統の人 種であったのだ。 いつだって楽しげに遊んだり歌ったりしている、朗らかで明るい 少々お馬鹿な、孫みたいな年齢の少女の闇に気づけというのも││ 無理な話であった。 ﹁誰が相手でもー、血が出るならー⋮⋮あれ? なんだっけ?﹂ ***** 1891 なお、後日どうしても何故か気になって仕方ない小唄が他の三人 を誘って初音耳作の見世物を見に行ったという。 その際に余興で行われた振り子式催眠術を見た小唄がフラッシュ バックで﹁ふぇーへへ眼鏡眼鏡ぇ﹂と錯乱し始め、より残念な印象 を彼に与えることになったのだが⋮⋮上手いこと記憶の欠落によっ て九郎と石燕は罪に問われなかったという。 まあとにかく、一見仲の良い幼馴染達であった。 1892 外伝﹃IFエンド/クロウとクルアハの物語﹄︵前書き︶ ※挿話﹃異界過去話/九郎と魔女、それと誰かの物語﹄からのIF ルート派生です 1893 外伝﹃IFエンド/クロウとクルアハの物語﹄ 魔女と云う存在が居る。 元は宇宙の終焉や事象の停滞を司る一級神[怠惰神]が気まぐれ にしても凄まじく珍しい創造行為として作り上げたその配下の天使、 縮退天使イリスという存在だった。 世界を崩壊に導くという無意識的行動理念を与えられたイリスは [魔法神]と呼ばれる一級神を殺して魔法の力を手に入れる。それ まで魔法とは他の神に祈り与えられる秘跡と同じだったのが、魔法 神の殺神によって人間達にその使用権限は自由化された。 殺神の罪によってイリスは他の神や天使に滅ぼされるが、その際 魂に固有の輪廻術式を仕掛けて人間に生まれ変わるように細工した。 天使や神は決まった強さを持つが、人間は稀にそれらを凌駕する 可能性を持ちえる。世界を滅ぼすにはそれに為るのが良いと判断し たのである。 生まれて、暴れて、滅ぼされ来世を待つ。 肉体の魔力が次の輪廻では強くなっているように呪いをかけて。 魔法の知識を蓄えて次の周へ持ち込みながら。 輪廻を続けて、魂の格を底上げする事こそが、魔女の理念であっ た。 ***** 1894 子供は学ぶ過程に於いて様々な失敗をする。 形に残る失敗もあれば経験に残る失敗もある。 その中で形に残してしまった物はどうするだろうか。歪な粘土細 工、零点の答案、描きかけの絵、落書きだらけの教科書。まあ、様 々にある。 捨てる物もあるだろうが、残してしまう物もある。本人がそれら に価値を見出さないのに残すとなれば、それは保護者が成長の記録 として、思い出の品として保管しているのだ。 そういうものが、あった。 今日付けで魔女と呼ばれるようになったイリシアも、昨日までの 魔法の授業で残した失敗の道具があった。 クロウという老人は、魔女化したが故に親に身を売られて磔にさ れたイリシアを見た。 助けようと思うのは簡単だ。いつか、校舎裏で練習していた落ち こぼれの魔法使いに手を差し伸べるのとそう変わらない。 ただ、老いた躰で出来るのかという焦りを、腰に下げた術符フォ ルダに仕舞い込んだ一つの符を思い出して収める。 隣に居るクルアハから便利な術符を貰って入れていたものだが、 イリシアの作った失敗作の一つも中に入っていたのだ。 ﹁クルアハ││やるぞ﹂ 助けようとか、手伝ってくれとは言わない。その言葉だけで、彼 女は小さく無表情のまま頷いた。 この場では誰も死なないことが告死妖精の能力としてわかってい たからだ。死に関わりのない行動以外では、クロウと共に行くこと に迷いは無い。 1895 クロウは取り出した││副作用のきつい術符を握りしめ発動させ る。 ﹁[強化符]⋮⋮!﹂ それは単純な身体能力強化の術式がかけられた魔法の術符だ。 一般の魔法使いが使うそれよりもイリシアの高い魔力で遥かに強 化倍数は大きいが、術式構成が甘く精神がやや乱される。それを気 合で操作するのがクロウの役目であった。 赤黒い魔力光が広場の一角から放たれる。 そこに居たのは腰の曲がった老人ではなく││弛んだ皮をはち切 れんばかりに筋肉と太い血管を浮かせて白い髪を逆立たせ、力がみ なぎり肉の軋む音と筋の擦れる音を鳴らし、石畳の地面を踏み砕き ながら一歩、一歩とイリシアへ歩み寄る超級覇王老人の姿であった。 見るもの全てが圧倒され、逃げ惑う者も多い。邪魔する奴は指先 一つでやられるという確信が見ているもの全てに植え付けられた。 次の瞬間、地を蹴り一跳躍でイリシアの目の前まで跳び移動する。 彼の蹴った地面と着地した箇所が爆発音と共に小さなクレーターが 出来るほどである。 処刑官も、イリシアの両親も、槍を捨てて逃げ出した。もはや親 だった者に目線も送らずにイリシアは荒ぶる強化戦士となったクロ ウだけを見て、喜びと自分で作っておきながら微妙に困惑の顔を浮 かべている。やっぱ失敗臭い変化だ。 続けて通常よりも三倍程の大きさに拡大した妖精光翼で飛行し二 人の真上に現れたクルアハが淡黄色の符を掲げて云う。 ﹁⋮⋮[光源符]││凌駕発動﹂ 魔術文字に込められた魔力が暴走し爆発を起こす。一度で込めた 術式が使用不能になる凌駕発動は、通常発生する魔法効果の数倍は 1896 出力を高めて発動させるのだ。 新たな太陽が生まれたような光量であった。 目を閉じていても手で塞いでいても焼き視界を奪う光は、真下に いるクロウとイリシア以外全ての観衆を黙らせた。 妖精という種族は悪戯程度のことはするが、ここまで大規模に他 者へ攻撃することはない。 つまりは、本人も自覚していないことだがクルアハも││大事な are shock⋮⋮!﹂ 弟子を処刑されかけて、怒っていたのである。 ﹁You ﹁爺ちゃん! いやちょっと﹂ ショックを受けているだろうが助けに来たぞ、と云うような内容 の単語を言うが上手く伝わらない。 めきめきと音を立てて磔にされていた柱ごと根本から引っこ抜き クロウは担ぎあげた。 彼は何かの波動に目覚めた如く白濁した眼差しをクルアハと合わ せる。 クルアハも頷いて、南東の方角を指さし、 ﹁⋮⋮逃亡開始﹂ come ROCK⋮⋮!﹂ と、云うのでクロウも、 ﹁First 中々ロックな状態になってきたな、という意味の返事をして重々 しく衝撃波を伴いつつ頷いた。 強化係数が高く急激に変化するので精神が乱れ、言語に不便が発 生するのが欠点の符なのである。 1897 もし百万倍にでも強化されれば人間はほぼ意志を失い眼前を薙ぎ 払うだけの狂戦士と成り果てるだろう。 ともあれ穏やかなる生活をしながら激しい強化によって目覚めた 超老人は、告死妖精と魔女を伴い広場から駆け出した。 一歩ごとに町の地面にクレーターが出来る。走る度に衝撃波で暴 風が吹き荒れる。唸りは人を怯えさせ、気迫は戦意を失わさせた。 異世界人クロウ、これまでの人生最強のハッスル状態である。星を 得た配管工めいた勢いで都市を走り抜ける。 縛られて連れられているイリシアは風をモロに受けて軽く絶息し ていた。 ﹁じいちゃっ、せめてっ、魔力障壁張らせっ﹂ 息が詰まり詠唱も出来ない。魔女とはいえ、声の出せぬ状況だと 唱えられる魔法は極端に減る。過去に魔女が退治された時は歌神司 祭の凌駕詠唱により魔法を封じられてから物理でやられたこともあ るぐらいだ。 ともあれペンペン草も生えないレベルで地上を踏み砕きながらも やがてクリアエの街を囲む城壁へと辿り着いた。 戦争を行って成り上がった国だけあって戦時中に使っていた城壁 を更に補修して作られている強固な壁だが、超クロウの前では紙切 れ同然であった。 with no name⋮⋮!﹂ 気合の声を上げながら、ただ進む。 ﹁People ﹁ぎゃあああ!﹂ 魔女の悲鳴がドップラーする。 彼の主観からすれば周囲の動きが止まって見える勢いの加速をつ ける。もはや赤いオーラに包まれた錐状の何かにしか見えない早さ 1898 と威力を伴った飛び蹴りを城壁にぶちかますと、破壊の爆圧が壁を 大きく破壊して外へと繋がり、三人はそのまま脱出していった。 事情の掴めぬ住人たちは謎の疾風怒濤に唖然とするばかりであっ た。 地平線の彼方まで土煙が上がる。 とにかく、魔女が生まれて逃げたという報告が伝神経由で世界全 土に伝わったのはその騒動の暫く後であった。 ***** ﹁痛痛痛超痛い死ぬ多分己れ今日が寿命﹂ ﹁⋮⋮心配無用。名前は見えない﹂ ﹁爺ちゃん無理しやがって﹂ 小さな村の上流にある川の側に、こんもりとした岩山が出来てい た。 それは魔女イリシアが前世の知識で作り上げた魔法の岩人形[瞑 想ゴーレム]を数体囲ませて作った、身を隠すためのものであった。 これは若干動きが遅いが自在に動き、瞑想を行うことにより自己修 復するという頑丈さを重視しているゴーレムだ。最高位のものだと 地獄の帝王とだって単独で殴り合える。 隠れた中心にある、[炎熱符]による焚き火にあたる三人のうち、 老人のクロウは地面にうつ伏せになって呻いている。 再び骨ばって皮は弛んだ老人の体になっているクロウの背中には 湿布のようなものが多数貼られている。[快癒符]によって治療し 1899 ているのだ。 ﹁爺になってからの筋肉痛はとてもつらいのだ⋮⋮手足の感覚も無 いし⋮⋮己れの最期を看取ってくれ⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮全然平気。寝てれば治る﹂ ﹁助けてもらってなんですが、爺ちゃん珍しく体張りましたからね﹂ イリシアの失敗作、強化符の副作用は使用時の精神汚染だけでは なく、使用後の体に来る強烈な筋肉痛と疲労骨折寸前の体などもう ひたすらダメージが後からやってくるのである。 ひとまずクルアハとイリシアに回復してもらっているが、痛みと 疲労感は中々取れない。 そもそも回復の専門は魔法ではなく癒神司祭の秘跡か、薬物治療 である。一応いくらか回復魔法といえる物はあるが効果が限定的だ ったり高度な術式を必要としたりするのだ。 それでも魔女化したイリシアの超常魔力ならば専門外でもなんと かしてしまうのだろうが。 ﹁というわけで私の過去の魔法を思い出して爺ちゃんの体を治して あげます。ちょっと待って下さい﹂ 言うとイリシアは腕を組んでイドの底に刻まれた知識を汲み上げ 出した。 まだ魔女化して時間が経っていないので過去生で習得した全ての 魔法を使える訳ではないのだ。一つ一つ思い出して回復に必要な術 式を検索する。 ﹁ええと⋮⋮プラズマ砲弾5000連発じゃなくて⋮⋮コールドス リープの棺でもなくて⋮⋮メメロヘリタンディスカポイアの暴走で もなくて⋮⋮﹂ 1900 ﹁おい。大丈夫なのか? と言うか無理せんでいいぞ。かなり本気 に﹂ ﹁よし。思い出しました。身体修復術式[レジデントエビル]。え えと、発動媒体はこの枝でいいか﹂ ﹁不安だのう﹂ ゴーレムを作るのに作った杖は薪代わりに燃やした為に、イリシ アがその辺に落ちていた樹の枝を瞬時に魔法の杖に変換する││普 通使われる魔法の杖は複雑な儀式により専門の魔法職人が作成する 高価な物である││のを見ても、クロウは不安が拭えなかった。 なにせ魔法学校時代は付与魔法以外殆ど爆発させるという術式構 成力の低さが問題視されていた魔法使いである。 いくら伝説に残り転生しても指名手配が消えない最強の魔法使い、 魔女になったからと言ってもまだ昨日の今日のことである。腕前は 疑わしいものがある。 クルアハも同じくそう思って怪しげな魔法をクロウに直接かける のは危険な気がしたので、周囲を見回し丁度良いものを見つけたの で、指をさす。 ﹁⋮⋮念の為にあれにまず使ってみて﹂ 彼女が指したのは死にかけのカエルであった。 それは[増血カエル]と呼ばれる大陸に広く分布する、増血剤の 材料にもなるカエルだ。そのまま食べても体の鉄分不足などを補え る豊富な栄養を持っている。ただし、発作的にカエルの体内の鉄分 が異常増幅して体内でメタルを形成し剃刀や鋏の形になってカエル の体を内側から切り裂いて死ぬという難儀な習性を持つ。 その場に居たのも誰が刺したわけでもないのに、体からカッター ナイフを飛び出させてひくひくと瀕死で動いていた。 イリシアは小さな木の棒を向けて指示に従う。 1901 ﹁はい師匠。てりゃ。[レジデントエビル]﹂ 気合の入っていない声で魔法を唱えると杖の先からぽわぽわした 光がカエルに放たれる。 それは複合属性の高等な術であるが、理論によって作られたとい うよりも感覚によって行使されている術だと弟子が使うそれを見て クルアハは思う。 カエルは光に包まれると、爆竹の代わりにダイナマイトをケツに 突っ込まれたようにはじけ飛んだ。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮﹂ クロウとクルアハが無言で赤い染みになった元カエルを見ている と、逆回しのように周囲に吹き飛んだ肉片がまたその場に集い、肉 団子を形成してやがて内側から皮が張り、カエルの形になった。 げこ、と鳴き声を上げてカエルは元気よく跳ねて逃げていく。 イリシアは当然の観測結果だとばかりに頷いて二人へ振り返った。 ﹁こんな感じで治ります﹂ ﹁絶対にそれを己れに使うなよ﹂ ﹁⋮⋮見た目えげつない﹂ 当然だが、当然のように断られた。 結局クロウは複数の治癒術式をクルアハからかけられて体を治す ことにした。 魔力も総合的な知識もイリシアの方が遥かに上だが、こと付与魔 法に関する術式の緻密さに関してはクルアハが一日の長を持つ。 1902 ﹁さて、これからどうするか⋮⋮﹂ クロウがぼんやりと呟いた。逃げおおせたはいいが、何も持ち出 さなかった為に着の身着のままでありしかも迂闊に街には近づけな い。 ぱちぱちと爆ぜる焚き火をつつきながら、光に照らされている青 い髪の魔女は云う。 ﹁まあ折角お尋ね者になったのですからヒャッハーと略奪してみた り﹂ ﹁⋮⋮駄目﹂ きっぱりと云うクルアハの迫力に、イリシアは口を噤む。 ﹁⋮⋮必要な道具はわたしが揃える﹂ ﹁でもこれから野外生活ってのも困ります。私や師匠はともかく、 爺ちゃんが﹂ 先の生活に対する不安を感じて、イリシアは提案した。 ﹁助けてくれてありがとうございました。しかし、もういいですよ。 私と居ると二人にも迷惑がかかりますので﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ぶっちゃけこれまでの過去生でも一人でやっていけましたし。余 裕余裕。だから││ここでわかれましょう﹂ そう云うイリシアに、クロウは顔を見ようとしたが全身の筋肉と 関節が酷く傷んで向けなかったので、寝転がったまま尋ねた。 ﹁のう、イリシア。お主、前世とかで家族はどうした?﹂ 1903 ﹁うーん、大抵は今回みたいに売られるか捨てられるか殺しに来る か⋮⋮まあ自分の子供が取り憑かれて入れ替わられたようなもので すから、仕方ないですね。肉体についてはともかく、転生し続ける 私に家族なんてもともと居ないのですから﹂ ﹁ふうむ。じゃあお主、己れとクルアハの家族になるか﹂ ﹁はい?﹂ 寝転がり他所を向いたまま、いつも通りの声音でそう言ってくる クロウに聞き返した。 ﹁己れの孫でクルアハの妹。そのぐらいで丁度良い距離だろう。よ いな﹂ ﹁い、いやいや。良いとか悪いとか⋮⋮なんでそんなことを?﹂ ﹁なんとなくだ﹂ ﹁なんとなく!?﹂ クルアハが相変わらずの無表情で両手を上に上げて万歳の仕草を する。 ﹁⋮⋮わたしも家族は初めて﹂ ﹁己れも、こっちの世界には居ないからのう。孤独三人組の慣れ合 い家族誕生だ﹂ ﹁ええええ﹂ 引き攣った表情で半開きの口から不満のような声を出しているイ リシアの前に、やはり表情の無いクルアハがすっと立つ。 ﹁⋮⋮妹よ﹂ ﹁し、師匠はいいんですか? なんかいきなり決まってますけど﹂ ﹁⋮⋮おねえちゃん﹂ 1904 ﹁?﹂ ﹁⋮⋮りぴーとあふたみー﹂ ﹁お、おねえちゃん⋮⋮﹂ イリシアがそう返すと、彼女はわざとらしく驚いた感情表現の仕 草をして、優しげに彼女の頭を撫でた。 表情には出さないが、妹ができて嬉しいのかもしれない。 クロウがその微笑ましいところを見ようと身を捩るがやはり体が 悲鳴を上げて諦める。 ﹁ということで、家族になったのでイリシアも家族の事を思って行 動することだ。勝手に出て行くでないぞ﹂ ﹁勝手に決めたのは爺ちゃんなのに⋮⋮﹂ ﹁しかし住むところは確かに決めねばな。砦の三悪人じゃあるまい し﹂ 社会の共同体に所属せずに暮らすということは中々に難しい。 それが家族持ちなら尚更だった。食う寝る処に住む処、ゴーレム の岩山では少し厳しい。 クルアハが指を立ててジト目のまま提案する。 ﹁⋮⋮わたしにいい考えがある﹂ ***** 1905 ペナルカンド大陸に於いて未だ未踏である地図の空隙が点在する。 その中でも有名なのが、大陸の中央樹海││通称[ヘビースモー カーズフォレスト]である。 かつて存在した樹召喚士の能力が暴走して作られたと言われるそ の広大な樹海は、常に地面が脈動し樹木の急成長と枯れ朽ちる現象 により道は無く、森の上空まで蒸散した煙のような霧が立ち込めて いてそれは探索者の方向や時間感覚を狂わせる。 幾度も探検が行われたがそもそも最奥がどこかもわからず、気が つけば入った場所から出てきていたり、一週間の調査予定が出てく る頃には数十年の時間が経過していたりとする不可思議な場所であ った。 そこに[妖精郷]があるという。 ﹁⋮⋮妖精郷はなんかこう⋮⋮田舎だから大丈夫﹂ 瞑想ゴーレムの肩で揺られながらクルアハはそう云う。 樹海の木をゴーレムが薙ぎ倒して道なき場所に道を作りつつも三 人はヘビースモーカーズフォレストを進んでいた。 自然破壊な気もするが、この樹海ではどれだけ木を壊そうが燃や そうが、一日とかからずに生え育つので問題はない。 クルアハの指示に従ってゴーレムを動かし進ませるイリシアも、 ﹁そういえば私もこれまで妖精郷には行ったこと無かったのです﹂ と、云う。恨みを買っている場所では安息とはいかない。 妖精郷とはその名の通り、妖精の暮らすとされる集落である。実 際の場所は誰にもわからず、世界各地の辺境などで迷ったものが偶 然辿り着くとされているが、確かな記録には少ない。 座標が不確定なので魔王の持つあらゆる場所に繋げる事が出来る 空間転移道具[遍在扉]でも入れないそこは、妖精であるクルアハ 1906 の導きが無ければ行けないだろう。 クロウはゴーレムの頭の横についた取っ手を掴んで落ちないよう にしつつ、歩く振動で全身の関節が馬鹿になりそうな状況に顔を草 臥れた顔をしている。 ﹁ふう、ゆるりと暮らせれば田舎でもコンピューターが管理するデ ィストピアでもなんでも良いのう﹂ ﹁⋮⋮ちなみに、妖精郷は温泉もある﹂ ﹁俄然行きたくなってきた﹂ クルアハの言葉に疲れた表情を輝かせる。老人は温泉好きなので ある。 やがてクルアハは軽くゴーレムから飛び降りて地面に降り立つ。 イリシアもゴーレムの動きを止めて、自分とクロウを手に乗せて降 ろさせた。 ﹁⋮⋮ここ﹂ 彼女が指し示したのは何の変哲もない、この樹海にならいくらで もある木の一つに見えたが⋮⋮クレヨンで落書きをした跡が残って いた。 クルアハの手のひらがそれに触れると周囲の霧が濃くなり、あた りをまったく見通せなく為る。 戸惑うクロウの手をひんやりとしたクルアハの手が握り、またク ロウも隣のイリシアとはぐれないように握った。 若干怯えたように││クロウの手を握り返すイリシア。 そして霧が晴れる。 そこは開けた村だった。あちこちに小屋ぐらいの小さな家が点在 し、果物を育てている畑が見えて、風車や妙なモニュメントがある。 1907 あちこちで飛び回ったり走り回ったりして遊んでいる少年少女の 姿をした妖精が見える。橋のかかった小川でガチンコ漁をしたり、 広場でサイコロ賭博をして木の実を賭けあったり、穴を深く掘って は埋める労働を自発的に行ったりしていた。 樹海の中にあるとは思えない。村の周りは森であるがあの動物的 に成長しうねり続ける樹木ではないし、むせ返る程に立ち込めた霧 もなく空から日差しが降り注いでいる。 ﹁ここが⋮⋮いかにも長閑な場所だのう﹂ クロウが見回しながら率直な感想を言っていると、遊びまわって いる妖精の数名が入り口にいる三人に気づいて大声を出した。 ﹁あー! お客さんだー!﹂ ﹁あれ告死の子じゃない? お客さん連れてきたのー?﹂ ﹁髭だよ髭ー! 王様みたいー!﹂ 妖精光翼をはためかせてすいすいと近寄ってきて騒ぎ出し、する と他の妖精も寄ってきた。 口々に少年少女の高い声でわいわいと話しかけてくる。 ﹁えーと確かクルアハちゃん! 何年ぶりぐらいだっけ? 三日ぶ り? 三日って何年?﹂ ﹁人間連れてきたの? 珍しいなー﹂ ﹁こっちの子は髪の毛青いよ。あ、もしかして鯖の食べ過ぎ? サ バスキー?﹂ ﹁じゃあ今夜は川鯖祭りだ!﹂ ﹁川鯖記念日だ!﹂ ﹁ねえねえ爺ちゃんは王様なの?﹂ 1908 と、取り囲んで言いまくるのでクロウとイリシアは引き攣った笑 みを浮かべながら、迫る子供達に押されていた。 クルアハは二人の様子を見ていつも通りの無表情で頷き、 ﹁⋮⋮大体こんなノリ﹂ ﹁お主が特殊なのだなあ﹂ ﹁⋮⋮告死妖精は感情が無いから。こら、わたしの妹の髪を引っ張 っちゃ、駄目﹂ イリシアの背中に上って珍しい青色の髪の毛を触る妖精を窘める 自称感情がないクルアハである。 十歳前後に見える小さな子供の姿をした妖精達以外にも、空を飛 んでいる小人のような妖精も居る。しかし大人の姿をしたものは一 人も居ないようだ。一番大人びているのがクルアハだが、彼女だっ て十代にしか見えない。 歓迎なのか物珍しい客をいじり倒しているのか、しばらくそこで 足止めを食らっていると、 ﹁王様が来た!﹂ と、妖精の誰かが叫んで、皆は慌てて村の方を振り向き、王の前 で整列した。 妖精郷の主││妖精王が来訪者の様子を見に現れたのだ。 その姿はそこらに居る妖精と何ら変わらない、少女のようだった が││口元に立派なもっさりと首元まで伸びている髭を生やしてい た。 クロウはクルアハに聞く。 ﹁妖精王って⋮⋮あれ?﹂ ﹁⋮⋮そう。正確に言えばあの付け髭を付けてる妖精が妖精王にな 1909 る。週に1回ぐらい革命が起きて髭を他の妖精に奪われる﹂ ﹁斬新な王制ですね﹂ 解説をして、クルアハは妖精王の前に歩み出た。 ﹁⋮⋮あの二人はわたしの家族。妖精郷で一緒に暮らすことに許可 を﹂ その言葉に周囲の妖精達が深い意味もなく同調する。 ﹁いいんじゃなーい?﹂ ﹁クルアハちゃんの家族だし﹂ ﹁人間って珍しいしね﹂ ﹁最近ヒマー﹂ ﹁髭ー﹂ しかし、重々しく王は首を横に振る。 ﹁駄目じゃ﹂ こちらも何か考えがあるわけではないが、ともあれその場の気分 的な問題で不許可を出した。 他の妖精も不満のブーイングをするが、﹁王様が云うなら仕方な いけど﹂と一応は賛同を示すものが多い。 クルアハはすっと妖精王に手を延ばして彼女の口を覆っている髭 を引っ張った。 軽く両面テープで固定されたそれはあっさりと外れて、クルアハ は当然のように自分の口元に髭をつける。 妖精王クルアハの爆誕である。そして、 1910 ﹁⋮⋮この二人がずっと住んでも良いことにする。あと、暇な子は 家とか作って﹂ ﹁りょーかーい!﹂ ﹁大工妖精呼んでこようぜー! あいつ山小屋を作っては解体する を繰り返してるぐらい暇だから!﹂ あっさりと代替わりした命令に周りの妖精は従いつつ、クルアハ はまた髭を取って適当なそこらの妖精にくっつけた。新たな王は自 分が王になった自覚も無く、祝い用の川鯖を取りに小川へ向かって いく。 先代王も歓迎用の花輪をぽんと妖精術で創りだして二人に渡しつ つ、家造りへ行った。 クロウとイリシアは茫然と事の成り行きを見つつ言い合う。 ﹁そんなんでいいんだ﹂ ﹁妖精って一体一体ぐらいなら外でも見ますけど、集まるとこんな のなんですね﹂ すると、クルアハは二人の手を取って、 ﹁⋮⋮妖精郷へようこそ﹂ と、言った。 こうして、クロウの老後の田舎ライフが始まるのであった。 ******* 1911 妖精郷と云う場所は文化が停滞している。 大きく分けて妖精は一般妖精と特殊妖精に分けられる。妖精郷に 住む多くの妖精は前者で、これらは特に使命も無く毎日遊んで暮ら しているだけの存在であった。生まれつきか一般妖精が何らかの神 などから使命を与えられた時に、特殊妖精になる。クルアハは後者 である。 ともあれ、使命を果たすためや知識を欲しがるようになった妖精 は外の世界に出て行ったまま、多くは帰ってこない。妖精郷自体も 外の世界の者が訪れることは殆ど無くて新たな文化の流入が発生し ないのである。 クロウとイリシアは妖精郷始まって以来初めての人間の住人であ った。これまでも僅かに訪れた者は居るが、皆いくらか滞在して出 て行ったのである。 妖精が妖精術という特殊な能力で出現させられる主食のマナ。こ れは僅かに甘い小麦粉に似た食物だ。 エルフの国ではそこで暮らす妖精に出して貰ったマナをケーキに 加工して銘菓として販売しているが、妖精郷ではせいぜいが花の蜜 などで固めて食べる程度である。 クルアハは付与魔法を刻んだ道具で釜や調理器具を創りだして妖 精郷でもマナケーキやマナプリン、マナシェイクドリンクなどを器 用に作って見せた。 種族の殆どが甘党な妖精である。皆競って次々とそれを平らげて、 ﹁おいしい!﹂ ﹁クルアハー! これどうやって作るのー!?﹂ ﹁⋮⋮もう一回作るから見てて﹂ 1912 と、云うように妖精の皆に菓子作りや料理を教えていった。 中にはすぐにイリシアより料理がうまくなる妖精も居て、最強の 魔女は敗北感に打ちひしがれる場面もあったという。 ***** 妖精郷を流れる川は、何処かに繋がっているらしく海魚も川魚も 取れる不思議な場所である。 妖精達の遊び場でもあるのだが、ここでは魚を捕まえる方法がガ チンコ漁と手掴みしか無かった。ガチンコ漁にしたって、岩をぶつ けて遊んでいたら魚が浮かんできたという偶然の発見らしい。 しかし最近は村に住み始めたクロウが釣り竿を持って釣りに来て いる。 何がかかるかわからないので釣具はイリシアに強化して貰ったも のだ。妙な棒を伸ばし、水面に糸を垂らしているクロウの周りでは 妖精達が変なことをしていると集まってじっと眺めていた。 やがて、竿が動いてクロウは強い引きに立ち上がり、竿を立てる。 拳を握って妖精達も応援を始めた。 ﹁頑張れー! クロウー!﹂ ﹁何が釣れたの? 何が釣れたの?﹂ ﹁うぬっ⋮⋮待っておれ。よっと﹂ 力を込めて一本釣りで水面から獲物を飛び上がらせると、糸の先 の針にでっぷりとしたアンコウがかかっていた。川釣りで深海魚ヒ ットである。 出てきた見たことのない、変な魚に妖精たちは大はしゃぎだ。 それからクロウの真似をして竿を用意しさながら釣り堀のように 川で魚釣りをする妖精が良く見られた。 1913 彼が訪れると、 ﹁クロウー針結んでー﹂ ﹁餌つけてー﹂ と頼んでくるので、 ﹁おお、良いぞ﹂ クロウもすっかり気分が良くなって、小さい妖精達に釣りを手解 きするのであった。 **** 妖精郷の一角、クロウらの家とは別の建物として工房が作られて いる。 クルアハとイリシアが魔法の研究を行うための施設である。 日夜暇な時はここで付与魔法についての授業や新術式の開発を行 っていた。 ﹁⋮⋮魂情報の改竄を魔術文字で上書きすれば破壊衝動は収まる﹂ ﹁でもどうやって魂に直接刻むかなのです﹂ ﹁⋮⋮まず魂を摘出する術式を作る﹂ ﹁それで死なないようにする魔法も必要ですね﹂ ここでの暮らしは安定して、クルアハとクロウという二人の存在 と、あまり過去生を思い出さないようにして意識の侵食を防いでい るイリシアの魔女としての本能を封印する術を作っているのである。 それさえ無ければただの強い力を持った魔法使いでしかない。イ リシアとしては、他の世界はともかくクルアハとクロウの居る場所 1914 を滅ぼしたいとは思わなかった。 然しここで作業をしていると、 ﹁じー﹂ ﹁面白くなーい﹂ ﹁イリシア、遊ぼー﹂ 窓の外から妖精が覗きこんできていた。 新たに村に来た三人⋮⋮特にクロウとイリシアは毎日妖精が絡み にくるのである。 クルアハは頷き、 ﹁⋮⋮休憩。外であの子達と遊んできて﹂ ﹁ええ∼⋮⋮お姉ちゃんもたまには相手してあげてくださいよ﹂ ﹁⋮⋮お菓子作っててあげる﹂ ﹁仕方ないですねえ﹂ そう言って、苦笑いを浮かべたままイリシアは外に出て行った。 ﹁おーイリシア出てきたー﹂ ﹁今日も魔法見せてまほー!﹂ ﹁派手なやつどかーんって﹂ ﹁そうですね。ではちょっと流星雨でも観察しましょうか。天体破 砕術式[フォールオブヒュペリオン]﹂ 魔法の杖を振るって唱えると、真昼だというのに空に無数の光が 流れ星となってかけていく。 ﹁わー綺麗ー﹂ ﹁願い事! クロウが流れ星に願い事すれば叶うって言ってた!﹂ 1915 ﹁え? えーと⋮⋮ケーキ!﹂ ﹁お菓子!﹂ ﹁うふふ。それは本当に叶いそうですね。さしずめ私は⋮⋮﹂ イリシアは自分で作った流星群に向かって、手を当てて何かを祈 った。 *** 妖精郷にある温泉はいつ行っても誰か妖精が居る。もはや住んで いるのではないかという疑いもある。 クロウは毎日温泉に通い、村で唯一おっさん臭い声を出して、 ﹁あ゛∼⋮⋮生き返るのう﹂ などと言って居るので、次第に他の妖精も真似しだしてどこか可 笑しさを感じる光景となっている。 温泉は無論大露天風呂が一つなので、一応妖精にも男女はあるの だがどちらも子供なので気にせずに入っている。無論老人であるク ロウも気にせずに普通にクルアハやイリシアと肩を並べて温泉に浸 かることが多かった。 艶のある話ではない。 もう完全に老人と孫の外見の離れ具合だ。 一人の少年妖精がクロウの近くを泳いでいて、ふと気付き彼に話 しかけた。 ﹁クロウはちんちんでっかいな!﹂ ﹁はっはっは。そうかのう﹂ ﹁⋮⋮若い頃はもっと大きかった﹂ 1916 ぼそりと補足するクルアハの言葉に、若クロウの全裸を想像した のかイリシアが激しく咳き込むのであった。 無論特別な関係は無く飲み会で酔って脱いだそれを目撃してただ けなのだが。 温泉から上がると特製コーヒー牛乳を妖精は一気に飲む習慣もつ いた。クロウのような老人はそんな冷えた物をぐいと飲ると危ない ので、クルアハが淹れたぬるいカフェオレを飲んでいたが。彼女は コーヒー派で、昔にクロウがくれたコーヒーミルをまだ大事に使っ ている。 家に帰れば家族三人で静かに過ごした。 イリシアはこの気まずくない静寂が好きだった。そしてクロウと クルアハがお互いにものを言わないのにあれこれ通じあっているの を見るのが、どこか面白くて飽きなかった。 ︵この人達が家族で、良かったです︶ そう思うほどに⋮⋮穏やかな日々だった。 ** やがて村に更に他の客人も訪れた。 スフィとイートゥエとオーク神父の三人だ。 クルアハが手紙を出して連れてきたのだという。クロウが淋しく ないように友達を呼んだのである。 クロウの楽しげな隠居生活にスフィは笑って、 ﹁随分良い生活をしているんじゃのー﹂ と、自分でも歌教室を開き妖精たちに歌を広めた。 たどたどしい音程でよく妖精はクロウに歌を聞かせに来たり、ク 1917 ルアハが短い歌を歌えるようになったりとまた村が賑やかになる。 イートゥエもしばらく滞在することにして、 ﹁どうせ鎧を壊す方法も見つから無いのですから、ちょっとした休 暇ですわ﹂ そう言って村の畑を土魔法で耕し、新たな作物を作るようにして いた。 また、剣製妖精ムラサメという名の妖精がとてつもない切れ味を 持つ剣を作っていると聞いてそれの手伝いもしつつ、その剣で鎧を 剥げないか期待している。 オーク神父は普通では辿り付けない妖精郷に来れたことに興奮し つつ、暇を見つけては他の妖精の案内でヘビースモーカーズフォレ ストを探検するという充実した暮らしをしている。 ﹁僕もしばらくここで執筆活動でもするよ﹂ そう言って、クロウと将棋を指したり釣りにも出かけたりしなが ら彼もまた妖精郷に馴染んでいった。 妖精郷での食事は滋養と健康に富んだもので、毎日の温泉の効果 もあったのかクロウの体の不調や持病も治り、集まった友人や懐く 妖精たち、そして家族と幸せな日々を過ごしていた。 毎日、楽しそうに。充実した日常を噛み締めて。最上の老後と言 えるだろう。 そして││やがて││しかしそれでも。 どれだけの時をゆっくり過ごしたか、クロウが昼寝をする時間は 少しずつ長くなっていった。 1918 * ある日││うたた寝をしているとクロウは自分の体が動かないこ とに気づいた。 よく皆が集まる広場で、いつも通りスフィが指揮した歌の合唱会 などを聞いていた昼下がりである。 急に薄暗くなった気がしたが、それは自分だけの感覚だろう。 ︵あ⋮⋮死ぬのか、己れ︶ クロウはそう確信した。 寿命だろう。若いころに随分と無理をした割には、長持ちしたも のだと感心するほどだ。 家族に恵まれ、友達が居て、子供達に囲まれて花やかな陽だまり で死ぬ。 ︵己れには過分すぎるほど、幸せな末路だ⋮⋮︶ だらり、と組んでいた手が垂れた。 誰かがこっちの様子に気づいたのか、叫ぶ顔が見える。慌てて周 囲の者が駆け寄り、クロウの顔を覗きこんだ。 何か口を開いて呼びかけているが、もう声は聞こえなかった。徐 々に暗くなる景色に、皆の顔が見える。 ︵イリシア。最初に逝ってすまんが、姉と仲良くな。スフィ。ずっ と長い間友達で居てくれてありがとう。己れの人生半分はお主のお かげだ。イツエさんは鎧がそのうち取れるといいな。温泉、入りた かっただろう。神父はいつも大変そうだけど、お主に救われた者も 1919 多いのだから胸を張れよ⋮⋮ああもう︶ クロウは声が出せない状況にもどかしくて、自分の頬に何か水滴 が落ちるのを感じた。 ︵皆⋮⋮そんなに泣くなよ。己れ、幸せだったんだぜ︶ 自分がそろそろ寿命だということは皆知っていただろうに。覚悟 も出来ていただろうに。それでも泣いていた。 最後の力を使って、クロウは皆を安心させるように顔に笑みを作 った。成功したかは自分ではわからなかったけれど、生きていて良 かったという証の為に。皆が泣く代わりに自分は笑った。 声が出ない。聞こえもしない。 妖精のいつも騒がしい喧騒も何も。 静かだった。視界も闇に沈んでもう見えない。 ︵そういえば⋮⋮あやつは何処に居ただろうか︶ 思った時に、随分はっきりと聞きたかった声が届いた気がした。 ﹁⋮⋮クロウ﹂ ︵ああなんだ、そこに居たのか︶ そこで、クロウという男の意識は完全に途絶えた。 異世界に来てそこで暮らした男の最期であった。 1920 妖精郷には一つだけ墓がある。 基本的に死なない妖精達には必要のないから、作るときに知識が 無いのでつい大きく立派な物を用意してしまったが、それを見たら 墓の主は笑うだろうか呆れるだろうか。 墓に文字が刻まれている。 半永久的に消えない、魔女の魔墨で刻んだものだ。 ﹃クロウ 此の場所で眠りにつき、魂は故郷に還る﹄ 祈りの言葉を残して、今日も墓に花は絶えない。 ****** 目が覚めると酷く体に倦怠感が漂っていた、 寝起きなので当然だがそれにしても酷い。夢見でも悪かったのか 1921 と思うが、朝起きた時にあまり夢は覚えていない方なので気にした ことはなかった。 少年はベッドから起き上がるとふらつく足をなんとか踏みしめて 歩く。 両手をだらりと垂らしながらフローリングの廊下を進んで洗面所 まで辿り着き、鏡で顔を見た。 いつ見ても眠そうだと人に言われる眼はより眠そうで気を抜けば この場で寝れそうな気すらした。髪の毛もぼさぼさに寝ぐせが付い ている。うがいをすると口の奥から古いコーヒーのような風味がし て、気分悪く水を吐いた。顔を洗ってまた老人のように壁に手をつ きながらリビングへ向かう。 ﹁おはようさん﹂ ﹁おはよう⋮⋮って九朗、いつに増して怠そうねえ﹂ ﹁そうかな、よっこらしょっと﹂ とぼけて母親に返すが、確かに怠いのは合っている。 テーブルには飯と味噌汁、ハムエッグが用意されている。いつも 一緒に食事を取る弟はまだ寝ているのか、現れていない。 眠そうな目付きを九朗に遺伝させたであろう、似た目元をした母 親は心配そうにしながら言った。 ﹁やっぱり夜のアルバイトがきついんじゃない? 辞めても⋮⋮﹂ ﹁平気だって。他に人居ないしのう﹂ 手をひらひらと振りながら軽く答えた。 九朗は近頃、マンションから十五分程離れた所にある夜中まで営 業している飲食店で働いているのだ。 反対されても難なのであまり母親に詳しいことは伝えていないが、 喫茶店風に見えるものの実際はバーで酒を出している店である。一 1922 応売れ筋はブランデーとコーヒーを混ぜたカフェロワイヤルだが、 九朗が開発した無水エタノールと医療用経口補水液を組み合わせた カクテルも静かな流行をしている。 まだ学生である九朗が深夜の時間帯に働くことは法律上難しいの であるが、ここでは九朗が個人事業主として登録していることで幾 らかの雇用への違反を隠している。 黒に限りなく近い職場で凄まじくグレーな雇用形態を取っている バイト先だが、一応知り合いが経営しているということとバイト代 が高額なので通っているのであった。 母親は小遣いに不満を持つ訳でも家が貧しいわけでもないのに、 何故かやけに働きたがる息子を心配しながら、 ﹁でもねえ⋮⋮あ、また九朗少し爺臭い雰囲気になってる﹂ ﹁あれ? そうだっけか﹂ 言われて、九朗は首をかしげた。 時々爺臭い喋りが出るのは小さい頃に懐いていた祖父の影響だろ うと思うのだが、指摘されると恥ずかしい。 バイトの話題はひとまずそれで終わると、軽い足音で小さな子供 が歩いてきた。 まだ四つ程に見える少年だ。九朗の弟である。 ﹁おはよーお兄ちゃん﹂ ﹁おう、おはよ﹂ ﹁またお母さんよりお兄ちゃんが先なのね⋮⋮﹂ 少し悲しげに母親は云う。 年の離れた兄に懐いているのはいいが、親としては少し寂しいの である。 1923 ﹁さて、朝飯も食うか﹂ ﹁うん!﹂ 九朗の隣に座って、スプーンとふりかけを手にした。まだご飯は ふりかけの魔力に頼らなくては食べないのである。 二人は﹁いただきます﹂と唱えて朝食を取り出した。 父親は海外の仕事に出ていて普段はあまり居ないから、これがい つもの九朗の朝の風景であった。 ***** 九朗の通う高校は黒の学ランが男子の制服の為に、体格の良い者 が着ると威圧感がある。 彼もまた背がここのところ伸びている為に学ランが窮屈に感じら れ、前を開けっ放しでだらしなく着ている事が多い。 生徒会の会計をやっているのに不良のようだと人には言われるし、 よく注意もされるがぬらりくらりとした態度で直そうとは中々しな い。 不真面目だが友達の間ではそこそこ頼りにされているし、面倒見 がよいから人気者ではあるというだけの、普通の高校生であった。 やや個性的な生徒の多いこの高校では埋没している程度の個性であ る。 彼は放課後になると一応生徒会室に顔を出し、何も用事が無けれ ば適当に居るメンバーと雑談して帰る。バイト先の闇酒場が開店す 1924 るのは夜からなので夕方は暇なのだ。 引き戸を開けて中に入ると、予想していた声が投げかけられる。 ﹁現れたな九朗君!﹂ 言ってくるのは女子生徒だ。九朗と同じ学年で生徒会長をしてい るこの部屋の主である。 ダブルリーチ 一応九朗の2つ年上の幼馴染なのだが、二年留年して同じ学年に なっている彼女のアダ名は[二重限界]と付けられていた。 九朗はいつも通りにため息混じり、テンションの高い幼馴染を見 て云う。 ﹁そういう会長は現れて無かったなあ、授業には﹂ ﹁ふふふ⋮⋮病弱なので自主的に保健室で休んでいたのだよ!﹂ ﹁もう治っただろうに、病気﹂ 彼女のニ留の原因が病気休学なのであるけれども、既に完治済み だ。ただ保健室でサボって寝ていただけだろうことは容易に想像で きた。 ﹁っていうか保健室の臨時の先生は?﹂ ﹁出張に行っているよ。マサオキ先生はあれで結構忙しい人らしい からね﹂ ﹁臨時なのに居ないとかどういうことだ﹂ 言いながら、だらりと椅子に座る。無人保健室ならば自分もサボ って寝れば良かったかもしれない。 生徒会長も隣の席に座って頬杖を突いてにやついた顔で九朗を覗 きこんでくる。生徒の中でも最高年齢だけあって中々一般生徒はと っつきにくいので、小さい頃から知り合いの九朗はよく彼女の相手 1925 になっていた。 というか大抵の相手でも変わらず接する九朗は﹁問題児係﹂とか ﹁下手物食い﹂などという名を裏で貰っている。 ﹁そういえば九朗君、この前の進路希望調査は出したかね?﹂ ﹁ああ、あれか。まだだなあ。特にやりたいことが見つからなくて な。会長は?﹂ ﹁ふふふ⋮⋮探偵社を開いて探偵になると書いたら考えなおせと言 われたよ!﹂ ﹁同感すぎる⋮⋮﹂ ﹁その時は九朗君を助手に雇ってあげよう﹂ ﹁いらん﹂ 一応断るが、生徒会長の目は冗談ではないので下手をすれば巻き 込まれかねないと九朗もげんなりした。 彼女は眼鏡を光らせながら尋ねて来る。 ﹁まったく、君ときたら冒険心が無いね。将来の夢もやたら遠いし ⋮⋮なんだね[幸せな老後を過ごしたい]って夢は﹂ ﹁その場合だと公務員にでもなればいいのだろうか⋮⋮今のバイト 先にも誘われては居るが、公務員になったらキレられそうだ﹂ ﹁あの店は早く手を切ったほうがいいよ違法臭い。大体あの入り口 にある[公務員の入店は固くお断りしています]という表記は怪し いよ﹂ ﹁己れもそう思う。店が検挙されたら何も知らない立場を取⋮⋮れ ないだろうな、困る﹂ 売り物として怪しい酒やら高校生のバーテンダーやらを雇ってい る店なのであからさまに危険なのだが、こちらは天下の未成年だか ら何とか勘弁してもらえないだろうか。 1926 希望的観測は死を招く。もし前科者になれば汚辱に塗れた老後を 過ごしかねない。 そう思いながらも時給が良いのでしばらくは続くだろうが。 ﹁あ、そういえば映画部の人から君にDVDを預けられたよ﹂ ﹁おう。そういえば頼んでおいたのだ。弟が変身ヒーローにハマる 時期でな、そういうのを﹂ ﹁ふむ⋮⋮﹂ 幽霊部員だが人数だけは揃えるために彼は映画部に所属している のだ。 その部の普段の活動は映画の批評をするか、学園祭などのイベン ト用に毎年ゾンビ映画かバイキング映画を撮影している。そこの同 学年の友人に娯楽映画を借りて、弟と見るのが休日の過ごし方だっ た。 生徒会長は手元にある[キャシャーン]と[デビルマン]の映画 が記録された媒体を見下ろしながら、困ったような笑みを浮かべた。 ﹁てっきりネタ映画鑑賞会と思っていたのだがね⋮⋮﹂ ﹁ん?﹂ ﹁君の友人は映画の趣味が特殊なのだね。まあ、見ればわかるよ﹂ 諦めた様子で言って、彼女は九朗にそれを渡した。 ﹁そういえば九朗君は知っているかね? 今度留学生が転校してく るらしいよ﹂ ﹁留学って。そりゃまたなんでこんな学校に﹂ ﹁つまりは深い理由も無いのだろう。ちゃんとした留学目的なら相 応の学校に行くだろうしね。姉妹で来るようだが、確か今日職員室 に挨拶に来ると情報を得た﹂ 1927 彼女は立ち上がって、九朗の手を引っ張り彼も立たせる。 ﹁生徒会役員としては他の生徒に先んじてその留学生のご尊顔を拝 みに行こうではないか! さあ九朗君!﹂ ﹁別に見に行かなくてもなあ⋮⋮﹂ ﹁まったくやる気無いね。美少女だったらどうするのだね美少女だ ったら。⋮⋮変なフラグを立てないでくれよ、九朗君﹂ ﹁なんで己れが﹂ ﹁君は無自覚に誑し込むからね﹂ ジト目で言ってくる生徒会長にげんなりとした目付きを返した。 妙な風評被害を煽らないで欲しいものだが。そもそもバイトと弟の 世話が忙しくて彼女など作る余裕はない。 仕方なく彼女に手を引かれて生徒会室から出て、職員室へ向かっ た。 ︵見てどうなるでも無いのになあ⋮⋮︶ 歳若いというのにすっかり受け身で怠け気味に過ごす生活になっ ている九朗はそう思う。 学校でも友人かこの生徒会長に振り回されなければ、日なたで茶 でも啜っている生活を送っているだろう。それぐらい、枯れた雰囲 気の男子なのである。 薄く夕焼けが差す廊下を歩き、やがて職員室の近くに辿り着いた。 他の生徒の姿は見えない。ただ、こちらに背中を向けている二人 の女生徒が居た。一人は艶やかな黒髪を腰まで伸ばした女子で、も う一人はなんと青い髪の色をしている少女であった。学校で見たこ とのない髪色である。 声を潜めて会長が云う。 1928 ﹁九朗君、あれだろうか。しかし髪が青色とは、パンクでもやって るのかね?﹂ ﹁自然色であるのか? 青髪とは﹂ ﹁さて。ちなみに緑髪は外国であったそうだ。なんというか、街の 水道管に大量の銅が溶け込みシャワーを浴びた人が緑髪になるとい う奇病だったのだが﹂ ﹁嫌すぎる﹂ 話し合っていると、その二人がこちらに気づいた様子だったので 会長が話しかける。 ﹁やあこんにちは。私はこの学校の生徒会長をやっている者だが、 今度転校してくる方々だね? おっと、ほら君も挨拶したまえ﹂ 言って、九朗を前に出すので彼は頭を掻きながらいつもの半眼で 一応名乗る。 ﹁はじめまして。己れは会計の九朗だ﹂ そしてその黒髪の転校生を見た。 人形めいた整った顔に無表情を貼り付けた、西欧風の顔立ちの少 女が九朗を見上げている。外国人だが、別段背中に羽根が生えてい るわけでも黒眼に金瞳なわけでもない、普通の子である。 彼女は九朗の挨拶に対して、その顔を││にっこりと、自然な笑 みに変えて応えた。九朗の後ろにいた会長が、同性でも見惚れるよ うな美しい微笑みだった。 ﹁⋮⋮はじめまして、クロウ。わたしはクルアハ﹂ 1929 その微笑みを見て││ ﹁あ、れ⋮⋮﹂ 九朗は何故か、目から泪が零れた。 ただ初対面の少女に笑って挨拶をされただけなのに、抑えきれな い熱いものを感じて、理解不能の涙を抑える。 ︵なんで己れ、泣いてるんだ⋮⋮︶ 九朗にクルアハは近づいて彼の手を取った。 ﹁⋮⋮わたしはここにいるよ﹂ その一言を言いたくて、あれからひたすら魔導に打ち込み研究を 続けてとうとう彼に会いに来れたのである クロウが生まれ変わり覚えていなくても、見せられなかった笑顔 を見せるために。無かったはずの魂さえもいつしか体に宿し、異な る世界の距離をも越えて。 泣けるようになったクルアハは、それでも今は泣かずに笑ってい た。 彼女の代わりに九朗が泣いていたからだ。 いつか彼が泣く皆のために笑っていたように、クルアハは微笑ん でいる。 ﹁ああ、そうだのう﹂ 九朗の震える喉から自然に言葉が漏れた。 1930 彼女のことは何もわからなかったけど九朗はひたすらに泣き笑い をしていた。 こうして名前を言えた妖精と彼の物語は││はじめましてから、 またはじまる。 ***** ﹁なにか私の中で急に負け組ヒロイン警報が鳴り響いているのだが どういうことだろうね﹂ ﹁ずっとお姉ちゃんのターンってずるいですよね、実際﹂ なんかこう二人の世界に入ってる九朗とクルアハを見ながら、会 長と転校生のイリシアは言い合っていた。 1931 55話﹃仮説﹄ 夢の中での九郎は老人の姿であったり、青年の体であったり、少 年の形をしていたりとその時により様々だ。 過去を思い出すとその時に応じて変化するのだろうと九郎は考え ている。 しかし朝起きて老人の時の夢はあまり覚えていない。老化してい たからだろうか、忘れている事が多いのかもしれない。 ともあれその日││と言っても夢の中に日付があるのかは不明だ が││九郎は久しぶりに魔王の固有次元、閉ざされた書庫に夢が繋 がった。 ﹁くふーんふんふん、くふーん貴方の職場にも一台ー♪﹂ ヨグは乱雑なリズムで歌いながらモンキーレンチを厳つい義手に 持ち何らかの機械工作を行っているようだった。 基本的に読書やゲームなどを好むのであるが、もの造りや機械い じりも趣味にしている魔王である。彼女にかかれば大根をラジコン に改造したり掃除機をスーパーカーに作り変えたりすることなど朝 飯前だ。 ﹁何を作っておるのだ?﹂ 魔王城に居た頃の格好をした九郎が話しかけると、彼女は立ち上 がって振り返った。 ﹁イモータルが居なくなってからそういえばコーヒー飲んでないな って思ってさ。バリスタマシーン作ってたんだよ﹂ 1932 ﹁⋮⋮己れの目が悪くなければ、お主の作っているそれは大型弩弓 に見えるのだが﹂ ﹁おかしいなあ? 間違えてバリスタそのものがいつの間にか出来 上がってた﹂ あからさまに彼女が作っていたのは槍や石とかを射出する文明の 利器であった。 それでどうやってコーヒーを作るというのか。 どこかそれでも満足気なヨグを見つつ、ふと九郎は言った。 ﹁おや? 少し痩せたかお主﹂ ﹁くっふふーん! いろいろ大変だったからそりゃ痩せるってさ﹂ ﹁引き篭もりが云う大変ほど信用ならぬことは無いが﹂ ﹁酷いなあ⋮⋮くふふのふー﹂ 何故か異様に邪悪な笑みを浮かべているヨグであるが、いつもの 事なので九郎も気にしない。 適当に積まれて台になっている本の束に腰掛けながらバリスタに コーヒーフィルターを取り付けようとしているヨグを半眼で眺めた。 どうやら一から作りなおすのではなく、改良でコーヒーを作れるよ うにする方向性に決まったようだ。 ﹁そういえば己れも飲んでおらぬのう、コーヒー。イモ子の淹れた のは旨かった﹂ ﹁あの子はコーヒー党だからね。メイドロボなのに。いいバリスタ マシーン作ってもあの子の淹れたのには及ばないから困っちゃうよ﹂ 残念そうに、ヨグは何を思ったかバリスタにパラジウムリアクタ ーを接続しだした。それが本当に必要なパーツなのだろうか。 九郎は訝しみつつも尋ねる。 1933 ﹁イモ子を作ったのもお主だろう? コーヒーを作る機能も設定し たのならば再現はできそうなものだが﹂ ﹁いや、そこら辺は複雑でさ。学習型コンピューターで学ばせた実 践データで上達した技術だから難しいんだよね。はあ、早く帰って こないかなイモータル﹂ パラジウムリアクターにチャクラコンバーターをセットしながら 物憂げに云う。妙なパワーに目覚めそうなコーヒーができそうであ った。 この時点で九郎はこのコーヒーを飲むことは諦めた。 そもそも彼女は余計な機能をつけすぎる悪癖があるのだ。魔王城 のトイレにだって男子便器に圧力と持続力を測定して画面で演出が 起こるゲーム機を取り付けていて大層閉口したものだった。 開発したのは我じゃないあの会社が新しいハードを開発するため に作ったと言い逃れしようとしたが、そんな妙なゲームをまともな 会社が作るわけはないと一蹴したことがある。 ﹁相当粉々度数が高い時空間爆発でいーちゃんと一緒に吹っ飛んだ からねえ⋮⋮一応原子レベルからでも自己修復できるように作って たけどどれだけかかるやら﹂ ﹁お主が作りなおしたりはせぬのか?﹂ ﹁わかってないなあくーちゃんは。あの子は機械人形なのに心が宿 ってたんだよ? 我からしても偶然出来上がった最高の魂持つ人形 なんだ! そうそう同じのはできないよ﹂ ﹁魂⋮⋮?﹂ 首を捻りながら九郎はどこか、呆然とした様子で繰り返した。 ﹁⋮⋮ペナルカンドでは人形に魂は宿らぬのではなかったか?﹂ 1934 ﹁だから偶然だったんだって。感情回路を作ってた時に都合の良い のを引っ掛けてさ。それが徐々に成長していってたのに⋮⋮魂まで 消し飛んでたらどうしよう。いーちゃんの転生体の魂でも分割して 代わりに補填しようかな﹂ ﹁魂って割れるのか﹂ ﹁くふふ、最近割ったりくっつけたりする術式を身につけたんだ﹂ 妙に弾んだ声で言うヨグであった。 恐竜的進化を重ねてバリスタ本体が目立たなくなってきた事に彼 女は気づいてすぐさま本体の大型化工事にもとりかかっている。も はや何が何だかわからない状態だが、ふと九郎は書庫にある瓶コー ラの自販機を見つけた。 硬貨を入れなくても出てくるようになっているので押せば蓋が開 き一本取り出せた。 ﹁⋮⋮おい、ちょっと魔王よ、これを借りるぞ?﹂ ﹁うん? いいよー﹂ 一応断ってから九郎は瓶を片手に意識を覚醒させようとする。 やがて周囲の実在を示す感覚は薄れて、あやふやな状態になり、 やがて重力で押さえつけられる布団の柔らかみを感じて九郎は目を 開けた。 緑のむじな亭二階の自室である。窓から見える空が明るんで来て いるようだ。九郎は握っていた手を見るが││そこには何もなかっ た。 ﹁やはり夢から物を持ち出せるわけは無い⋮⋮よなあ?﹂ 確認して呟きながら、壁に掛けている蒼白い衣を見遣り、頭を掻 く。 1935 ***** ある日の夕方││。 ﹁それでは女子力向上会議、始めようではないか!﹂ ﹁わー﹂ ﹁凄いどうでもいいの﹂ ﹁せめて負の値を正常に⋮⋮﹂ 神楽坂にある、不滅の霊魂が漂いまくっている江戸の霊地と自称 する鳥山石燕の家でそれは開かれていた。 何らかの危機を覚えた石燕が招集したのは、それなりにやる気の お八とどうでも良さそうなお房、それに婚期を逃させたら中々のモ ノを持っている百川子興である。 勉強会ついでなので、既に子供二人はここに今晩はお泊り会をす る予定であった。 ﹁なあ石姉﹂ まず、お八が手を上げたのを石燕が指さして質問を聞く。 ﹁[女子力]ってなんだぜ?﹂ ﹁ふふふ、いいかねはっちゃん。││女子力とは輝いた生き方をし ている女子が持つ力であり、自らの生き方や自らの綺麗さや扇子の 良さを目立たせて自身の存在を示す力、男性からちやほやされる力 1936 ││なのだよ!﹂ ﹁わあ何処かに書いているのをまるっと読んだような説明なの﹂ ﹁扇子がなぜ関係してるのかなあ?﹂ よく理解できていない子興。 というか、 ﹁⋮⋮凄くふわっとした掴み所の無い力なのね﹂ ﹁まあ⋮⋮そうだが﹂ 輝いた生き方とか自らの綺麗さを目立たせるとか、基準がよくわ からない。 リア充アピールともまた違うらしい。 だがしかし、と石燕は云う。 ﹁女子力がどうとかはともかく、男性からちやほやされる能力とい うものは持っていて損しないと思わないかね?﹂ ﹁されたいの? ちやほや﹂ ﹁断固されたいね! なあはっちゃん! 子興!﹂ ﹁あ、あたしはまあその⋮⋮ちやほやっつーよりちゃんと対等に見 て欲しいっていうかさ⋮⋮﹂ 口篭るお八に大して眼に爛々とした光を灯して子興は主張する。 ﹁はい二枚目の男にちやほやされたいですぅ!﹂ ﹁素直だね子興! ふふふさすが行き遅れている女は違う﹂ ﹁師匠の所為ですよーう!﹂ 近所や絵描き界隈では鬼門とされている触れられざる負の遺産的 喪女の鳥山石燕と暮らしているだけあって、結婚できない血の盟約 1937 を交わしたと噂される子興も、二十を越えたというのに嫁の貰い手 が居ない。 江戸では男性の人口比率のほうが多く、女性は多少欠点があって も嫁の行き先に不都合はないのが常であるが、巡り合わせが酷く悪 いのだろう。 基本的に子興が日常で付き合いのある男というと、年寄りの天爵 堂と九郎、同輩で馬鹿で生理的に不可能な麻呂ぐらいである。 だが石燕はきっぱりと云う。 ﹁私が悪いのではない! 努力していなかったお前が悪いのだ! 女子力の足りないお前が悪いのだよ子興!﹂ ﹁うぐうう!﹂ ﹁しかしここで幸運の転機だ! 女三人寄れば文殊の知恵と言うが ここには一人多い四人の女子が集っているではないか。これなら文 殊とて楽勝だね!﹂ ﹁石姉、モンジュってなんだ?﹂ ﹁文殊菩薩⋮⋮または文殊広法天尊という、崑崙にいる仙人とも言 われているね。捕縛技術が優れていてナタ太子は捕らえるわ四聖の 王魔は捕らえるわ印度から来た夜叉と同一の馬元は捕らえるわ霊獣 の蚪首仙は捕まえて乗り物にするわとやたら強い。まああの話は仏 関係の登場人物が優遇されているのだが﹂ ﹁まじかよ⋮⋮三人集まっても勝てる気がしねえぜ⋮⋮﹂ ﹁知恵で比べなさいよ。知恵で﹂ 冷静にお房が云った。 ﹁なあに、私達にかかれば女子力とやらを解き明かしてそれを溢れ んばかりに身につけることなど他愛もない﹂ ﹁そうだよな! 女子力とか余裕だぜ!﹂ ﹁残念乙女なんて言わせませんよー!﹂ 1938 何はともあれ意気込む三人である。 少なからず残念な自覚はあったのだろう。普段の行動とか。言動 とか。男に相手にされなさとか。 茶を飲みながらお房は干菓子を齧って溜め息を付くのであった。 ﹁⋮⋮多分こういう会議開いてる時点で女子力ってのは取り返しが つかない低さにあるの﹂ まあ恐らく、合っている分析なのだが。 ***** その日の九郎は気になることがあったので再び秩父山中まで出か けていった。 江戸から歩いてはそう気軽に行ける場所ではないのだが、隠形符 で姿を隠して疫病風装で空を進む移動を行う九郎には別であった。 初夏の気持ちの良い晴れた空を、蒼白いローブを纏った者が飛ん でいても地上からは気付かれまいと上空に上がってからは隠形符も 解いて進んでいく。 上から見ても分かる、やや森が開けた場所にある遺跡のような石 郡を目印に、近くの石灰岩が地表にも出ている地面に少し前に穴を 掘ったのである。 その穴には蒼白い衣とセットで持っていた、あらゆる疫病の原因 情報が鎌の形をした武器││というよりも黙示の舞台装置とも言え る物を埋めようとした。 1939 穴の外に置いていて自分の背が埋まるほどに縦穴を掘り進め、這 い上がったらもうその場には無かったのである。 ﹁ふむ⋮⋮﹂ 念の為にもう一度その場所の近くを見回す。 確かに鎌はあった。もう目を逸らして逃避するのはやめよう。不 味い事になってからでは遅いのである。あの鎌から二三種の感染病 が漏れて江戸を襲うだけで、犠牲者は万を超えるだろう。 九郎は注意深く周囲に││もし持ち去った誰かが居たのなら││ 足あとなどを探し、動物の死骸が落ちていないか、草木の枯れが見 えないかも調べた。 ﹁⋮⋮! これはまさか⋮⋮﹂ じっと穴の周囲を眺めていた九郎がそう呟いて、再び空に舞い上 がった。 そして広がる森と聳える武甲山の眺めを見て、次はその山へ飛行 していく。 山頂にある御嶽神社に降り立ち、九郎はそこからの景色を見つつ 険しい顔をしていた。 しばらくするとまた移動して今度は秩父神社に降り立った。秩父 の土地は神社仏閣が多く、また土地の者も信仰心が強いのでよく賑 わっている。 主な祭神は八意思兼命で知恵を司る神格である。九郎は境内に入 り、賽銭を入れてから外にも緋敷布をかけている椅子を出している 店に入り、名物の秩父そばを頼んだ。 これは盛りそばで、やや色は薄いがしっかりとコシが効いて香り も良い。黒々とした汁に伏流水で栽培した山葵が溶かし込まれてい てつんとした味が、 1940 ﹁うむ、うまいな⋮⋮﹂ と、九郎も顔をほころばせた。 つまるところ││。 思兼に知恵を借りたという訳ではないが九郎の頭の中でブラスレ イターゼンゼの行方がわかって来た。 あれは確かに九郎がこの世界に持ち込んで存在していたのだ。現 実逃避は止めて認めよう。 もともとブラスレイターゼンゼは単なる魔王の召喚した十把一絡 げの召喚物ではなく、あの世界にあった現物を怪しげな術式で九郎 が使用可能に調整した装備であった。少しばかり時間差で九郎の元 に再出現することは⋮⋮まあ、実際あったのだからあり得るのだろ う。 それに他人が持ち去ったというのも考えにくい。魔力で汚染され た呪いが掛かっているのはこの世界の人間に影響無いが、病そのも のの呪いが掛かっているので九郎のように疫病風装をつけるか病に かかっても徐々に治る魔法がかかっていなければ何らかの病気にな るだろう。 なお、疫病風装は完全防菌防毒と周囲に対する除菌除毒で殆ど汚 れない性質を持っているが、これもやはり一般人がつけていると体 の表面に居る必要な菌やバクテリアもどんどん死んでいくので長時 間の着用は体に悪い。九郎専用装備である。 つまり、持ち込んで消えたが盗まれたと考え難いのであれば││ ︵きっと、放置している間に自然に還ったのだろう︶ 落ち着いて考えれば当たり前だった。 この雄大な自然、溢れる緑と水に大いなる大地。 それに比べればなんとちっぽけなことだろうか。ありがとう自然 1941 主義。ありがとうガイア。誰にも害を及ばさぬように浄化されてし まったようだが人の語る黙示などその程度だ。秩父山中に何かを埋 める人の気持ちがわかった。 九郎は蕎麦に舌鼓を打ちながらそう結論づけて観光し帰っていく のであった。 無論、そんなわけはなくブラスレイターゼンゼは後々彼の前にま たその姿を現すことに為るのだが⋮⋮少なくとも当面の悩みが無く なったのである。 ***** ﹁とりあえず女子力の為にお菓子を作って見たのだがね。ほら、落 雁だよ﹂ 石燕が重箱に詰めた干菓子を三人の前で蓋を開けて見せると、感 嘆の声が上がった。 それは上品な薄桃色や淡黄色に染められ、石燕手製の型で丁寧に 形作られた菓子細工とも言えるものである。重箱の下に土台となる、 障子を模した大きな二重皿のように薄く焼いた物を置いてその上に 小さな楕円形に並べられている落雁は││瞼から覗く瞳の形をして いた。 障子に大量発生する眼の妖怪、[目目連]を菓子で表現していた。 感嘆の声も、 ﹁うわあ⋮⋮うっわぁ⋮⋮﹂ 1942 と、最初は感心した様子だったのにすぐに引かれた。 しかし石燕は腰に手を当ててふんぞり返りながら、効果音のよう なものまで口にしつつ自慢する。 ﹁邪気ぃん! 鳥山石燕の女子力が上がった!﹂ ﹁開き直る強さが一上昇したの﹂ ﹁内臓の強さが八減少したぜ﹂ ﹁婚期が一年伸び││いったぁ!? 師匠蓋で叩かないでください よ、しかもカドで!﹂ 弟子の迂闊な一言に容赦無い制裁が加えられたものの、とりあえ ずやけにリアルに作ってある目目落雁を食べる子供二人。 ﹁あ、おいし﹂ ﹁本当だ。うちの店の茶菓子で出すやつより旨いぜ﹂ ﹁ふふふ、そうだろうそうだろう。お菓子作りは得意なのだよ。も ともと川越に居た時に爺様に教わったからね﹂ ﹁そういえば師匠、菓子職人のところでしたっけ﹂ ﹁教わったら即座に習得してしまうので、私の腕前を恐れた爺様か らあるときから調理場を見ることも許されなくなったがね﹂ ﹁一子相伝の技術じゃないんだから⋮⋮﹂ と、お房はパキ、サクっとした食感に清涼感があり程よく舌に染 み入る甘みを口に感じながら云う。 ﹁でも九郎って甘いものは嫌いじゃないけどそんなに沢山は食べな いわよ。ケットウチとかなんかそういうのが気になるとかで﹂ ﹁決闘地? なんか知らんが⋮⋮なんで気になるんだぜ?﹂ ﹁さあ﹂ 1943 ﹁甘いものが苦手な相手にでも食べられるようにするのが策士とい うものだよ。諸君、このお茶を飲んでくれたまえ﹂ 石燕は予め用意していた茶を三人の前に出した。香りが変わって いるが、見た目は普通の茶である。 ﹁苦い茶を飲まして甘いものをってことか? ってうえ⋮⋮苦っ﹂ ﹁予想してたのとは違う苦味の方向なの⋮⋮﹂ ﹁あうあうあー﹂ ﹁こら、ちゃんと舌で味わって飲み込みたまえ子興﹂ それぞれ顔を顰めながら、出されて渋苦い茶を飲む。普通に使わ れる茶の葉で淹れられたものではなく、何らかの別の葉っぱを茶に したようであるが、人を選ぶ味であった。 ﹁さあそして落雁で口直しをしてみるのだ﹂ 言われるまでもなく、甘い物を欲して手で落雁を取って口に放り 込む。 上品な和三盆糖の甘みで口を癒やし││ ﹁⋮⋮? あれ。甘くない﹂ なつめ ﹁本当だ。全然甘みが感じないぜ﹂ ﹁そう! この茶葉は棗の葉を使っているのだよ。これを口にする としばらく甘みが感じないのでいくらでも食べられる!﹂ 棗はその実を食用として、棗茶も干した実で作るのだが石燕の出 したものは敢えて葉を使っている。 葉にはジジフィンと呼ばれる特有の成分を多く含み、これが味蕾 の甘みを受容する部分に干渉することにより食後には甘さを感じに 1944 くくなるのである。 逆に甘み以外には干渉しないので、茶の味を引き立てるものとし て葉を噛んでから飲んでいた茶人も居るほどであった。 お房がジト目で得意げな石燕を見ながら云う。 ﹁⋮⋮それで、甘くもなんとも無いお菓子を食べて何が美味しいの ?﹂ ﹁⋮⋮さて、次の女子力を検討しようかね﹂ 石燕は目を逸らして話題を終わらせようとした。 ***** 秩父から江戸に戻った九郎は、濃く淹れた麦湯が名物の茶屋に行 って真っ黒で熱いそれを啜っていた。 麦の若干焦げた匂いと口良い苦味が感じられて、どことなくコー ヒーを彷彿とさせる。 夢でコーヒーを意識したのだがあいにくと江戸ではコーヒーは出 回っていない。鎖国をしていたこともあるが、これよりやや時代が 下り蜀山人が記した瓊浦又綴に、 ﹁焦げくさくて味ふるに堪えず﹂ と、書いたことからまだ日本人の味覚には合わなかったこともあ 1945 るだろう。本格的に流行しだすのは明治になってからである。 なので九郎も麦湯で我慢している。麦は世界大戦時に独逸軍が代 用コーヒーに利用したり、現代でも麦茶にコーヒー粉を混ぜる飲み 方もある通りに味の相性とでも云うべきものが合っている。 のんびりと夕方を過ごしていると笠を深く被った浪人が近づいて 来た。 ﹁よう九郎﹂ 軽く笠を上げると、同心の中山影兵衛である。 怪我をしていたが近頃勤務に復帰したのであった。早速一人見廻 りを行っているようで、飢えた霧の怪人の如く獲物を探し求めてい るのだ。 彼は九郎の麦湯が置かれていた盆に銭を入れて九郎の手を引っ張 り起こした。 面倒そうに九郎が聞く。 ﹁なんだ?﹂ ﹁悪ぃんだけどちょいと尾行に付き合ってくれ。相手は二人組でよ、 別れると面倒だ﹂ ﹁⋮⋮仕方ないのう﹂ ﹁おっなんだ今日は素直だな。ははぁん手前も血に飢えていたか﹂ 九郎は秩父で感じた森羅万象のように寛大な心でたまには進んで 仕事を手伝うことにした。 大自然で分解消滅した疫病に比べれば火盗改の手先を一度や二度 する程度、 ﹁ま、たまにはな﹂ 1946 やってやるか、という気分になっていた。別に血に飢えていた訳 ではない。 そうして影兵衛と尾行をすることになったのは、一見剣術師範風 に髪を撫で付けて腰に立派な拵えの刀を差した男と、ずんぐりむっ くりとした鳶職の格好をした男だった。 不自然にならない距離を保ちながら追いかけ、影兵衛が説明する。 まみ ﹁あっちの鳶っぽい奴は[狸の佐吉]って野郎で、押し込み盗賊一 味の一人だ。俺の手下がやってる船頭が見つけて知らした。十人か そこらで荒っぽい仕事をする連中でな。片方の剣術使いは知らねえ が、まあ用心棒かなんかだろ﹂ ﹁ふむ。狸というよりも、猫背でひょこひょこ歩いているところな どは穴熊だな﹂ ﹁似たようなもんだろ。で、奴らの盗賊宿を見つけてぶっ殺捕まえ るのが俺らの仕事ってわけだ。なにせ十人以上は居るはずだから逃 さねえようにな﹂ ﹁そういう仕事は仲間呼んでやれよ⋮⋮﹂ 町奉行などはいかに死人を出さずに取り押さえるかを考え、刺又 に突き棒、袖搦に梯子などを駆使して捕縛するというのに、影兵衛 ときたら刀か小柄と切断特化で容易く挑む。 一応は現場で一人二人は生かして証言をさせ、殺した相手は盗賊 だと正当性を主張するのだが度々にやり過ぎだと謹慎や叱りを受け ている。 しかし影兵衛が過激なのは今更なので、九郎も盗賊に若干の同情 をしつつも正すのは諦めている。 こう云う凶悪な取り締まりが無いと一般の町人が困るという程に、 押し込み盗賊という連中は年を通して現れるのである。 1947 ﹁俺も九郎も怪我して職場の連中にだらしねえところ見せたから、 さくっと活躍して行こうぜ﹂ ﹁わかったわかった﹂ そも、九郎と影兵衛が怪我をしたのは互いの殺し合いが原因なの だが。 一応は││疑う者こそ居るものの││職務中に盗賊にやられたと いうことにはなっているのであった。 あの[切り裂き]同心とその手先の腕利きを半殺しにした非実在 盗賊に一部の関係者は震えたという。 ともあれ二人は適当に雑談をしながら容疑者というか犠牲者を追 跡するのであった。 途中で前の二名が飯屋に入ったので、九郎と影兵衛もその店の通 りを挟んで立っているうどん屋で腹ごしらえをしつつ入り口を見張 った。 茹でたてのうどんを水で引き締め、上に葱をたっぷり載せて塩味 のついた出汁をぶっかけた簡単なものだったが、良い天気の中歩き の まわった喉にはつるりと入って旨い。 出された冷たい酒を、九郎が氷結符で徳利の表面に水滴が浮くほ どに冷やしてきゅっとやれば、仕事中とは思えない程に影兵衛は上 機嫌で飲んでいる。 ﹁かあー! こりゃ夏場は九郎を連れて歩かねえとな!﹂ ﹁好き好んで糞暑い中では手伝わんぞ。夜に飲みに来い、店まで﹂ ﹁あんまり遅番してるとかみさんが怒るんだよなあ⋮⋮所帯持ちは 辛いぜ﹂ などと一刻程休憩も兼ねて店に居たら、目的の二人が店から出た。 すると二人別々の方向に歩いて行くので、 1948 ﹁⋮⋮んー、じゃ、俺が剣士っぽいやつを追うから九郎は狸野郎を 頼む﹂ ﹁普通こっちが本命じゃないのか? 名の知れた盗人だろう﹂ ﹁いやだってあっちの方が強そうじゃん? 他の浪人の手伝いとか 用意するかもしれねえし⋮⋮そっちで盗人宿見つけたらそうだな、 俺の手先がやってる船宿に使いでも出してくれ﹂ ﹁うむ﹂ そう言って、九郎と影兵衛は一旦別れた。 連絡用に使える手駒は居るのだが、捕物の時に連れて行こうとい う相手は居ないし、彼の恐怖支配によって火盗改の狗になっている 手先達は殺害空間に巻き込まれることを恐れて積極的に行こうとい う者も居ないのである。 腕利きでもいつ笑いながら斬撃がついでの如く味方から襲ってく る場所に行きたがるものではない。 むしろ彼らとしては何度も同じ捕物現場に赴いている九郎を、 ﹁死にたがりかよっぽどの弱味を握られているか﹂ と、畏怖しているのであった。 ***** ﹁やっぱりこう、女子力っていうと嫁にした時に役に立つ能力だろ 1949 ? つまり裁縫ぐらいはできないとな﹂ ﹁うぬぬ⋮⋮私だって、私だって﹂ ﹁ああっ師匠の手が震えて針穴に糸が入れられない!﹂ ﹁お酒の力に頼るのは可愛さじゃないのよ、先生﹂ この日は非常に珍しく、石燕は夜になっても酒を飲んでいない。 女子力に果たして酔っ払い要素は必要なのかという疑問を子供達 に向けられたため、一晩ぐらいは断酒ということになったのだ。 口の中が物足りず、少しだけ痺れるような寂しさ代わりに茶を飲 み過ぎて近い厠に調子を崩しつつも、石燕は裁縫能力に欠けている ││飲めば出来るのだが││ことを弟子達の前で見せてしまった。 幸いまだ筆を持つ手が震えても斬新な妖怪画が発生するだけで被 害は済むが、機械の如き正確さを求められる裁縫は体の芯から発生 する振動機能によって阻害されているのである。 この一年でぐんぐんと針仕事が上手くなり、一枚布から着物を縫 えるようになったお八は﹁ひひ﹂と悪戯っぽい笑いを石燕に向けな がら、持ってきた着物を広げた。 ﹁ほら、これ九郎から貰った着物の意匠を借りて、あたしなりに作 ったやつだ。南蛮の下女とかの着物つってたかな?﹂ ﹁へえ⋮⋮前掛けもついててちょっと可愛いの﹂ ﹁ちょっと着てみるか?﹂ と、袖などの長さなど全体的に小さい物と大きい物を作ったので、 お房と石燕に渡して着替えさせて見た。 洋装という程ではなく、アレンジが入った和メイド着物という変 わった作りになっているのだが、お房が着ているものは夏らしさを 感じる浅葱色と、石燕は白い装飾模様の多い黒布で作られている。 作りの珍しさと派手ではないが趣きのある模様がある着物で、中 々の腕前であるといえよう。 1950 ソーイングは女子力の基本である。外れた男のボタンなどを軽く その場で縫い付けることができれば男も見直すであろう。この時代 ボタンは無いが。 ﹁ぐぬぬ⋮⋮手さえ震えなければ⋮⋮病んでさえ居なければ⋮⋮﹂ ﹁ま、石姉も人には得意不得意ってやつがあるから気にすんな。二 人共その着物はあげるからよ﹂ ﹁ありがと、お八姉ちゃん。仕事着にすれば目を引きそうね⋮⋮タ マの﹂ ﹁似合うか似合わないかで言えば似合うだろうけどよ、あいつもそ ろそろ背が伸びるんだから無理に女装させんなよ﹂ ﹁ところでお八ちゃん。小生には何も無いのかなー?﹂ にこにこしながら子興が物欲しげに言ってくるので、お八は店で 余った切れ端││それも本来は使うのだが││と、縫い針を渡して 云う。 ﹁子興ちゃんは裁縫覚えた方がいいと思うぜ。いつも着てるの古着 だろ﹂ ﹁うっ⋮⋮﹂ ﹁せめて短衣でも縫えなけりゃ嫁には程遠い話だ﹂ 切れ端を受け取って、正論に軽く涙ぐむ子興。 絵を書く技術と掃除に洗濯、料理まではなんとか習得しているも のの縫い物はまだまだであるのであった。 夜になっても石燕の自宅は灯りを点けて姦しい女子会は続いてい く。 1951 ***** 九郎が佐吉を追いかけて、それらしい場所に付いた時はもはや辺 りも暗くなっていた。 大川の上流、堀切に近い場所だった。 狸の佐吉を追いかけてきたが、まだこの辺りは当時まさに狸が出 そうな草ぼうぼうの土地である。 複数の人が居る気配のある大きめの荒れ屋敷である。 恐らくそこが盗賊宿なのであろう。 一応人数だけ確認してから通報に出るか、と九郎が隠形符を咥え て音を立てずに忍び寄ろうとした時である。 まだ夜もそう更けていないというのに、柿色の布で作られた頭ま で体を包む装束を着た十人程が宿から出てきた。 ︵なに? もう仕事に行くのか⋮⋮むう、影兵衛へ連絡が間に合わ ぬ︶ 小走りで何処かへ向かう連中を置いて知らせに行ってはみすみす 見逃すことになるだろう。 恐らく賊は船を用意して川を下り盗みに行くはずだ。大金を盗む 場合は、一度に運べる船を使うのが容易であるし全ての船舶を取り 締まることはそうそうできないのである。 十人仲間がいるということはそれ相応の分け前を与えなければい けないことから、狙う店も大店になる。 九郎はひとまず隠形符で身を隠したまま賊の後を追った。 やはりと云うべきか、船で灯りも付けずに隅田川を下り進んでい 1952 く。 まだ舟遊びをする時期には早いために浅い時間でもそうそう他の 船にぶつかることも無いようだ。 現代と違い、真っ暗な川の真ん中を進めば音も無く岸からは一切 気づかれずに川を進んで行けるのである。 僅かな灯りだけですいすいと動かす船手││狸の佐吉はかなり慣 れている様子であった。 ふと、櫂を握るまくった二の腕を掻くような仕草を見せた。 ﹁それにしても、今晩は冷えますねお頭﹂ ﹁川の上だからな⋮⋮大事なときに苦沙弥なんてするんじゃねえぞ﹂ ﹁へい﹂ 応えて体を動かし、温まろうとする。手下も何人かは船に乗せた 筵に包まって寒気を防いでいた。 一方で九郎││。 その船の後を、ひたひたと歩いて追いかけている。 川の水面上をである。 草履には氷結符を貼り付け、歩くことで踏み込んだ水を凍りつか せて足場を作り追跡しているのであった。 符は一枚しか無いので若干妙な歩き方になっているものの、盗賊 を逃さずについていけている。 疫病風装を着て浮遊し追いかける手もあったが、あの蒼白い服は 月夜に善く反射して目立つ。いかに可視光線を曲げて姿を隠す隠形 符とはいえ、自らが発光するようでは見破られる危険が高いのであ る。 ︵あの服着て浮いて夜中進んでいたら確実に幽霊と思われるであろ うなあ⋮⋮足はあるけど︶ 1953 追いかけながらも川を歩く自分の姿も、目に付けば大概だと思わ なくもなかった。 余談だが幽霊として描かれる形で、[足のない幽霊]が描かれて 流行りだしたのは丁度この頃からだと言われている。 九郎は追いかけながらも、どうやって盗賊を逃さずに捕らえるか 考えていた。 ︵背後から一人ずつ気絶させて物陰に引きずり込んでいくか? ホ ラー映画風に⋮⋮︶ 口を塞ぎ首を絞めれば数秒で一人ずつ落とせるだろうが、 ︵全員に成功するまでに気づかれるな⋮⋮二三人ならともかく︶ この静かな夜にあからさまに連れ去る音が聞こえてしまう。 ︵上手いことロープを張って一網打尽にするとか⋮⋮いやさっぱり その状況が想像できんから無理だのう︶ 奇襲で一気に暴れて仕留めるのも考えたが、それでもやはり一人 二人は逃げて行きそうだ。一度見失ったら夜では追跡は難しい。 下手に恨みを買うと後々面倒になる。捕まえるなら全員でなけれ ば。 考えていると船は外濠の水路に入り更に奥へ進んでいく。 夜の街並みで更に川を歩いているということで今どの辺りにいる のか把握するのが難しく、きょろきょろと目印になりそうな橋を探 しながら九郎は追いかけた。 やがて船は静かに岸について盗賊らは降り、周囲を警戒しながら 移動を始めた。 1954 ︵確かこの辺りは牛込か⋮⋮む、そういえば神楽坂も近いな。今日 はフサ子とハチ子も石燕の家に泊まっておるが⋮⋮︶ 嫌な予感をしつつも九郎も付いて行く。ここまでくれば現行犯で 全員とっ捕まえても良いかもしれないが、もし﹁私達は黒尽くめで 夜の江戸を歩く会の会員です﹂とか言われたらどうしようかと悩み どころだ。 しかしやはりというべきか、盗賊の集団は石燕の屋敷の方角へ向 かう。 見たらいけない系の噂が立っている呪いの家だが、元は金貸しを していた男が遺産をたんまり残しているというし、家に居るのは基 本的に女二人だけだ。知れば盗賊が狙い目だと思うのもおかしくは ない。 もうすぐ辿り着いてしまう。九郎は一気に仕留める簡単な方法を 取ることにした。下手に考えを巡らせるよりも単純である。 下手に分散などされては困る。九郎は石燕の屋敷よりも前で、盗 賊達の前に回って姿を表した。 足を止める賊。目の前には少年が一人だ。警戒の眼差しはあるが、 普通ならば目撃した相手を消そうとするだろう。 動き出す前に九郎は腰に佩いた刀を抜き放った。 ﹁ちょっと良いか? これをどう思う﹂ 月明かりの下で刀身全体が白く光って見えるその刃に、十人全員 が目を向けた。 ﹁凄く⋮⋮凄いです﹂ ﹁うむ。アカシック村雨キャリバーンⅢ発動﹂ 刀身から放たれる閃光が目を焼くと同時に悪党どもの全身を不可 1955 視の衝撃で打ち付け、ふっ飛ばして気絶させた。 ***** ﹁だからもしここに押し込み強盗が来たらどぎゃーっとあたしが投 げ飛ばしてだな﹂ ﹁いやいや、危機のところを屋根を突き破ってしゅばーっと九郎君 が現れてだね﹂ ﹁遅かったな九郎! あたし一人でやっつけるところだったぜ! って決め文句をだ﹂ ﹁多数の方向から襲いかかる盗賊。手の離れた場所にいる子興を助 けるために武器を投げつけて素手になった九郎君に、この安達ケ原 の鬼婆が使っていた由緒正しい包丁を使いたまえと投げ渡す!﹂ 喧々諤々とした話し合いというか、脳内展開を言い合うのを見な がらお房は寝転びつつ、 ﹁⋮⋮そんなに危ない目に会いたいのかしら﹂ ﹁いざという時は九郎っちが救ってくれると信頼してるんだねー﹂ ﹁でも駆けつけるなら見た目たくましい方がいい気がするの。お父 さんとか。晃之介さんとか﹂ ﹁晃之介さんは男前だよねー﹂ 微妙に好みに差がある集団であった。 お房の場合は一年も居候していればもはや九郎は引き取った遠縁 の親戚めいた関係で家族と思っているのであまり恋愛沙汰にはピン 1956 と来ないのであるが。一応たくましい男の方が好みであるのは無骨 な父の影響だろうか。 九郎とて肉体年齢を五年成長させれば中々の体格になるのだが。 子興は単に面食いである。胡散臭い勢いで色気を持っている将翁 は行き過ぎだが、顔が良ければだいたい良いという。 女子力なのか妄想展開を語り合う会なのかもはやわからなくなっ てきている場だった。 ふと、にわかに外が明るくなった。 火が燃えた色ではない。ぱっと輝き、障子に余韻を残して消えた。 最初に反応したのは石燕であった。 ﹁隕石かね!?﹂ 慌てて彼女は履物をつっかけて外に飛び出て空を見上げるが、異 常は無い。 見回すと塀の上を危なげもなく歩いてくる影があった。 鞘に収まった太刀を肩に担いだ九郎である。 ﹁おうい石燕。ちょいとそこで怪しからん悪党を懲らしめたから、 縛るのに使える細長いあれをくれ﹂ ﹁⋮⋮なんというか危機になる前に終わっていたようだね。分かっ た。子興、細長くて頑丈なやつは何処に置いている?﹂ ﹁はぁい、物を縛ったりするやつですね。持ってきます﹂ 回りくどい符丁で言い合う三人に、お八とお房は目を見合わせな がら、 ﹁そこは[縄]でいいじゃん⋮⋮﹂ ﹁逆に気になる言い回しなの﹂ 1957 ともあれ、長い縄を受け取った九郎が倒れている盗賊らの後ろ手 を結んで繋げて放り出した。 そうしていると何やら呼びかける声が血の匂いと共にやってきた。 ﹁九郎ー! 殺ってるかー!? 俺も混ぜろー!﹂ 返り血を浴びて、抜き身の刀を持った影兵衛であった。 もう見た目が完全有罪である。 子供達も引いた。 彼は全速力で九郎の元まで辿り着くと、見た目には無傷で倒れて 縄で縛られた盗賊たちを見て、 ﹁おいおいおいおい、なんで血ィ出てないのよ? 内臓だけ破壊と かしたのかよ?﹂ ﹁いや普通に全員正面から気絶させただけだ﹂ 人間はなんともない様子でこれを見ろと言われたらつい見てしま うものである。 黒服のエイリアンと折衝する男達が一般市民の記憶を消すペンラ イトで行っていたように、九郎の刀を見て硬直した盗賊は全て凄み の波動で吹き飛ばされた。 壁や地面に叩き付けられた軽い擦り傷はできるが、基本的にこの 刀の吹き飛ばす効果は、見たものを[気圧す]という影響を強めて 行っている為に気を飲まれれば確実に吹き飛ばされ意識を失うが深 刻な怪我は負わないのである。 影兵衛は露骨に拗ねて、 ﹁なんだ、つまんねェの﹂ と、そっぽ向いた。 1958 ﹁それでお主の方は?﹂ ﹁ああ、あの浪人はあんまり関係ない奴だったわ。誘われたけど今 回は不参加ってやつでよ﹂ ﹁いやいや。めっちゃ血出されてるよなその様子だと﹂ ﹁抵抗してくるもんでちょいと拷問して││いや、勝手に責めを行 ったっつーと拙いな。ええと、己れの正当的な反撃で切られたそい つはペラペラと自発的に襲撃場所を喋ってくれたもんだから九郎の 為に慌てて駆けつけたってわけだ﹂ ﹁血が見たかっただけだろ⋮⋮﹂ 当然の事なので一々返事はしなかった。 影兵衛は女四人組に向き直って、 ﹁さ、嬢ちゃん方は危ねえから家に帰りな。俺と九郎が後は処理す っから││っと、そうだ。こいつら起こすのに水龜を一杯くれ﹂ ﹁ううう、重いから九郎っち持ってよ﹂ ﹁ああわかった。さあハチ子もフサ子も石燕の家に戻るぞ。子供は 寝ておれ﹂ 二人の手を引いて共に家に向かう。 お房が眠いのか欠伸を一度して、九郎の顔を覗き込みながら言っ た。 ﹁いつも怠け者の九郎が働くとなんか事件が起こるの﹂ ﹁ううむ。己れ的には一年中怠けておきたいのだが﹂ ﹁どうせ怠け続けても途中で飽きて遊びに行った先で巻き込まれる のよ﹂ ﹁参るのう﹂ 1959 容易に想像がついたので九郎は自嘲気味に苦笑いを零した。 ﹁しっかし、また九郎が先手を打って解決したな。去年も台風の時 に師匠とやってたけど﹂ ﹁お主に危ないことをさせるわけも行かぬよ﹂ ﹁これでも鍛えてるんだぜ?﹂ ﹁頼られなくなったら己れが寂しいからのう﹂ 九郎は笑って、威勢のよい事を云うお八をたしなめた。 一方で子供に伸ばした両手からあぶれた石燕はさり気ない動きで 存在を主張しつつ話しかける。 ﹁ふふふしかし九郎君何か今晩は寒いね!﹂ ﹁うむ? 氷結符はもう切って⋮⋮石燕﹂ がくがくと手と顔が震えている石燕をげんなりと見る。 ﹁⋮⋮一度酒を抜くと決めたのなら最後まで飲むなよ﹂ ﹁つらいね⋮⋮!﹂ 言いながらも皆を家に入れて、九郎は水甕を受け取り再び路上に 戻った。 影兵衛の指示で寝ている盗賊に水をぶっかける。 ﹁││ぷはっ!? な、これは⋮⋮?﹂ 目を覚まして辺りをきょろきょろと見回す盗賊の頭と思しき、眉 を剃った男。目がぎょろりとして顔もえらが張りごつごつとしてい るのでなんとなく蟹を彷彿とさせる。 彼は眼前に立つ九郎と、わかりやすくする為に十手を手に持ちぶ 1960 らぶらと揺らして見せている影兵衛を見て瞬時に状況を判断した。 そして下手糞な笑い顔を作って、 ﹁ええと、旦那方、あっしらは[黒尽くめで夜江戸を歩く一派]と いう集団で怪しいですが悪いもんじゃ⋮⋮﹂ ﹁本当にその言い訳使われるんだ⋮⋮﹂ ﹁なあお前ら?﹂ ﹁へ⋮⋮へえ﹂ あからさまな嘘を述べるので呆れて九郎は呻く。 当然そんなことをすれば捕まるし怪しければ厳しい取り調べも受 けるのだが、強盗の現行犯よりはマシと思ったのだろう。 影兵衛は大袈裟に肩を竦めた。 ﹁成程なあ、合点承知の助だ! 九郎、こいつらは怪しいが盗賊じ ゃねえな。ああ、悪かったな手前ら﹂ ﹁は、いえ﹂ ﹁でもよ、一応取り調べは行うから連れて行くぜ。ああ、悲しい。 手前らに悲しいお知らせだが、俺ァちょいと取り調べの拷問が下手 糞でな、三人に一人はやりすぎて責め部屋で舌を噛むか傷が膿んで 牢で死んじまうんだが、頑張って無実を証明するために心を鬼にし てやるからよ﹂ 影兵衛の言葉に盗賊どもは絶句するが、彼は半笑いで続けて云う。 ﹁まずは指の一番先から関節を逆に曲げて骨を少しずつへし折った 後で、竹串を刺してまっすぐにするんだ。その後芯に竹串が入った まま外から曲げてベキベキに折ってよ、指の内側で串がささくれて 突き刺さる。これを取るには指を縦に切り開いて毛抜で丁寧に箚さ くれを抜かねえといけないんだが、ま、指は二度と動かんわな。こ 1961 れを両手両足繰り返すから無実なら全員耐えてくれよ? 頭はともかく手下どもは素直に白状すれば島流しで済むかもしれ ねェが、拷問受けた後の遠島生活は辛ェだろォなあ⋮⋮でも無実な んだからそんなことにはならないんだろ?﹂ 滔々と責めの様子を語る影兵衛に、盗賊の頭以下は真っ青な顔立 ちになって、口々に、 ﹁すみません俺らは盗賊です﹂ ﹁お頭はこいつです﹂ ﹁頭に命じられただけで今回初めての参加で殺しはやってません﹂ ﹁お、お前ぇら!?﹂ 次々に白状していくのだった。 島流しではそれこそ刑期まで生き延びれるのは流された半数程度 だと言われる程なのに、不具になっては絶望的だろう。 影兵衛は近くの番所から連れてきた番と共に縛られた一団を連れ て火盗改にしょっぴいて行く。 ﹁九郎も行かねえの?﹂ ﹁己れは別に良い、お主の手柄だろう﹂ 面倒でもあったので九郎はここで別れることにした。 もとより、同心以下の手先、密偵などの手柄は上司である同心の 手柄として扱われる。九郎もそう役人に褒められる為にやっている わけでもないのでどうでも良かった。 ﹁ちぇっ。ま、いいか。金一封出たらまた博打にでも行こうぜ﹂ ﹁おう﹂ 1962 そう言って九郎は別れ、一仕事終えたというよりもいつもの日常 と変わらぬとばかりに背伸びをしてまたふらふらと歩き出した。 ﹁さて、煮売屋に飲みにでも行くか﹂ ***** 盗賊らが狙っていたのは鳥山石燕の家ではなく、その近所にある 薬種問屋の方であったらしい。 薬というものは高ければほんの小匙で一両は値段がするものもあ り、卸先を選べばとても儲かる。 中には薬種問屋と金貸しを兼業しているところも少なくない為に、 その店の金蔵には小判が唸っているのだと聞かされたのはその数日 後であった。 九郎が鳥山石燕の家を訪ねた時にであった。 ﹁それでその主人が将翁の知り合いでね。礼に珍しい物をと、くれ たものがあるのだよ﹂ と、石燕がメイド着物の格好で九郎に解説をする。 ﹁珍しいというと肉霊芝とかか?﹂ ﹁あれは一説によると見たら死ぬ系だからね⋮⋮もしかしたら持っ 1963 てるかもしれないけれど。とりあえず用意してくるからちょっと待 ってくれたまえ﹂ と、石燕が台所へ向かっていったので九郎は置いてあった目の形 をした落雁をかじりながら待つことにした。 暫くすると部屋の向こうから、懐かしい焙煎の芳香が漂ってきて 九郎は眠そうな顔をじっとそちらへ向けて待っていた。 ﹁おや? しまったね手頃な茶碗が無い。まあこの高取焼でいいか﹂ ﹁師匠ー!? それ五十両ぐらいするやつですよー!?﹂ 何やら騒いでいるようだが、やがて盆に茶碗を2つ乗せた石燕が 戻ってきた。 湯気の立っているつるりとした陶器には薄黒い湯が入っていた。 すぐにそれはコーヒーと九郎はわかった。 ﹁コーヒーなんて江戸にあったのか﹂ ﹁流通はしていないのだが薬として極少ない量を将翁は手に入れた ようだね。これに関しては私が淹れた方が何倍も上手さ﹂ 得意満面な笑みを浮かべて石燕は云う。 普及するに至らなかったが、味こそ常飲には受け入れられなくと も薬としてならばその苦味もまた効きそうだということで、解熱や 利尿の処方されていたことがあったらしい。もともとコーヒー自体 が薬として広まった歴史があるので当然ではあるのだが。 ﹁なんで流通していない飲み物の腕前が高いのだ⋮⋮まあよい、あ りがたく貰おう﹂ ともあれここでしか飲めないコーヒーを、九郎はゆっくりと啜っ 1964 た。 炒った香ばしい匂いと、口当たりの良い酸味が気分を落ち着かせ る。僅かに、滓を濾しとった麻袋の風味も混じっているが雑味と云 うほど邪魔をしていない。 目が細められて、九郎は一口二口飲んだ茶碗を一旦置きながら、 ﹁旨い﹂ と、言った。 好みの味である以上に、なにか懐かしさを感じて、少しだけ目元 が熱くなるのであった。 それを石燕も何も言わずに嬉しげに見ていた。 ***** ﹁不味っ﹂ そのころ、固有次元にて出来上がったチャクラ波動哲学バリスタ マシーンのコーヒーを飲んで、魔王は呟いていた。 ﹁コーラに混ぜたらちょっとは飲めるかな⋮⋮うわやっぱ不味っ﹂ 独りで彼女は何かを待つように、ただ過ごしている。 1965 ***** 盗賊団を一網打尽にしたということで影兵衛は鮮烈な復帰を遂げ た実績で、やはり周囲から一目置かれる存在と再認識された。 手柄として金一封が長官より送られて、ついでに九郎に渡す十手 も支給が許可された。 火盗改に御用聞きとして所属という訳ではないが、民間で何度も 協力をされているので今後の事も考えて、十手があれば聞き込みや 町人への協力が容易になるので持たせておけという判断である。 このような非公認の手先は実際に多かったようで、貸し与えられ る十手の意匠も同心与力などとはまた少し変えられていた。 ともあれ、またしても九郎と影兵衛は賭場に繰り出す。 今度こそ、やけに九郎を外してくる禿頭の壺振りを可能性の悪魔 に取って食わせると九郎は自己催眠などの方法をも駆使して挑んだ が││見事にまたしても素寒貧にむしられる結果になったという。 1966 だが││。 それで、九郎は軽くなった財布を手に帰る最中に、ふと気づいた。 ﹁いや、まさか⋮⋮しかしそれならば説明がつく﹂ 後ろを振り返りながら、夜闇の中で九郎は己の考えを深めて、と てつもない真実が隠されていた事に戦慄した。 ﹁そうか⋮⋮因果は繋がっておるのか﹂ それがそうならば、少しばかり寂しい気もした。 すぐに確かめようかと思ったが、やはり少し落ち着くためにその 日は家に帰ることにして歩みを再開する。 難しい顔で九郎は歩きながらぶつぶつとつぶやいていた。 ﹁魔王城での賭け事でもそうだった⋮⋮つまり﹂ コーヒーの味を思い出して、唾を飲み込み己に向けて囁く。 ﹁あの禿頭の壺振りが││魔女イリシアの転生体か⋮⋮!﹂ 石燕の占い結果でも禿げたやくざと出ていた。 それに運が大きい単純なゲームではイカサマと思わんばかりに魔 女には負け続けていた事実があった。 その生まれ変わりがあれだとは意外ではあったが、何事も思い込 みからだった。疫病の鎌が自然に還ったと同様に、真実は粛然とし て存在するのである⋮⋮。 1967 1968 56話﹃薩摩クールダウン大作戦﹄ 前回の物語における筋道をまずは云わねばならぬ。 ここのところ清々しい気分で勘働きが優れるようになった九郎は 心配事に見切りをつけた。 そしてそのまま灰色の脳細胞がある事実を照らしだしたのである。 彼と縁のある魔女イリシアの転生体││彼は残りの余生を人の寿 命で終えるためにはそれを探さねばならない。 いりぞう 占いや運命力などの条件に一致する者が一人捜査線上に浮かび上 がった。 禿頭の壺振りの男││調べたところ、名を入蔵という。二文字も 合ってたのでこれは確実だろうと九郎もようやく尻尾を掴んだ思い であった。 まあ当然そんな今まで素振りも無かった男がイリシアな筈もなく 確かめた挙句に失敗を確認して九郎は酷く落胆していた。 ﹁もう怠い。完全にやる気失くした﹂ 徳利から直接酒を煽っては机に突っ伏して呻く九郎を、お房とタ マは心配そうに見ている。 ひそひそと口元を手で覆いながら話し合う。 ﹁九郎兄さんどうしたタマ?﹂ 1969 ﹁なんか探しててようやく見つけた大事な人が居たんだけど別人で 振られて落ち込んでるみたいなの﹂ ﹁恋人とかそういう?﹂ ﹁禿げたやくざの男らしいの﹂ ﹁どういうことタマ⋮⋮﹂ 事情を詳しく知らねば意味の分からぬ落ち込みっぷりであった。 もはや彼は困り果てて、己になどイリシアの転生を見つけること は不可能なのではないかとすら思い始めている。 あと石燕の占いはもう信じない事に決めた。占いというか、籤引 きだったのだが。 いっそ、 ︵イリシアは成仏をしたのではないか⋮⋮︶ と、思うほど、前世の知り合いなどという不確かなものを探す難 しさに疲れていた。なお、仏門ではないので成仏はしないのだが。 どうもいつもに増して怠そうな九郎に、お房は茶の湯を出した。 ﹁ほら、九郎。昼間っからお酒飲んでると先生みたいになるのよ﹂ ﹁うむ⋮⋮﹂ 茶を啜る。酒の甘く醸しだされた味が熱く苦い湯で流れて、﹁う う﹂と息を吐いた。 中々に店の中でしなびているとどうも辛気臭くて困る。お房は九 郎に、 ﹁それでお茶最後だから、また新しいの買って来て欲しいの九郎﹂ ﹁そうだのう⋮⋮そろそろ新茶の季節だしのう﹂ ﹁ほらほら、やることが出来たなら起きなさい。まったく、腐れて 1970 ばっかりじゃつまらないのよ﹂ そう言って九郎を引っ張り起こし、履物を履かせて外に追い出し てしまった。 よろよろと歩きながらも、やがて日差しを眩しそうにする九郎に 後ろから塗笠を渡して、九郎は薩摩の茶を売る[鹿屋]へ向けて仕 方無さそうに向かった。 手慣れた様子で彼を仕事に向かわせるお房を、 ﹁まるでおっかさんだなあ﹂ と、タマは感心するのであった。 ***** ついたち ちょうど、時期は水無月の朔日である。 朝晩は涼しいものの昼間はうだるような日差しがあり、風が吹く 川沿いはマシだが肉体労働者は汗を浮かべる陽気となっていた。 黒袴の同心らも手ぬぐいを顔に当てながら足早に道を進んでいっ ている。 九郎が日本橋へ両国方面から回って向かうと、足軽侍を伴う駕籠 が急ぎ足で江戸城へ向かって運ばれていた。 駕籠からは僅かに水が垂れていて通ったあとに小さく水溜まりが 出来ており、そこに小さな子供などが冷たそうに素足をつけて騒い 1971 でいる。 加賀藩にある氷室から運ばれてきた氷を入れているのである。 毎年、水無月の朔日に到着するように、江戸の大通りを回って城 へと収められる。 徳川の将軍が口にするものだが、一部の大名や大身旗本はその氷 の僅かな欠片を拝領して有難がった。それの手に入らぬ町人らもこ の時期になると凍み餅や雪餅を食べていた。 これらは氷を使った菓子ではなく、乾燥餅を氷に見立てたもので ある。 ︵氷がこう貴重だと大々的に氷菓子を作って売るわけにはいかぬな ⋮⋮︶ 一応、九郎は持つ氷結符で幾らでも製氷可能なのであるが、下手 に広めたら面倒になるだろう。 知り合いに振る舞う程度はいいが、店で出すのは止めておいたほ うが良いと一応決めた。 さて⋮⋮。 九郎が[鹿屋]に到着すると、何故か番頭が即座に彼を奥の間に 通した。 薩摩営業会議室に通されてしばらく待つと、でっぷりとした店の 主・鹿屋黒右衛門が慌ててやってきた。 ﹁これは九郎殿、良い時にいらっしゃいました助けてくだされ﹂ ﹁いや己れ新茶買ったら帰るから﹂ ﹁⋮⋮火腿をまた提供しますので﹂ ﹁とりあえず話は聞こうか﹂ 薩摩産の豚ハムで懐柔される九郎である。江戸で手に入る貴重な 1972 豚肉だ。 何故かこの鹿屋の御意見番になっている実態に九郎は内心妙な気 分であった。雑に決めたアドバイスを相手が何故か気に入り、そこ そこに当たるのだから不思議なものである。 実は⋮⋮と、額の汗を拭いながら黒右衛門が切り出した。 ﹁薩摩武士の方々が凶暴になってきまして⋮⋮﹂ ﹁元からだろそれ﹂ つい、反射的に九郎は悩みを切り捨ててしまった。 そんなどうしようもない風土病のようなものを相談されても、対 処のしようがない。 そもそも薩摩の武士達は凶暴に││いや、薩摩めいた武士になる こと以外を禁止されているのだ。 奨励ではなく、禁止である。 六歳から鍛えあげられた洗脳とも暴力支配とも言えるその教育に より、生き残るものはより薩摩を拗らせ、耐えられぬものは発狂す るか途中で死ぬ。そのような土地なので今更凶暴と言われても九郎 にはわからぬことであった。 その辺はよく理解している黒右衛門もやはり困り果てた顔で、 ﹁いえ⋮⋮確かに酷いのは前からなのは重々承知しておりまして⋮ ⋮実は[からいもん]と[きもねりん]の着ぐるみに入る者を立ち 代わりにしているのですが、この暑さで相当参っているようで⋮⋮﹂ ﹁ああ、作ったの冬だったからのう﹂ ﹁しかし一度仕事を引き受けた以上不平不満を口にすることは二枚 舌の罪で死罪! となれば皆一日ごとに堪忍袋を温めつつ、明け方 には立ち木に打ち掛かり憎悪を晴らす始末⋮⋮この前に三日連続で 着ぐるみを来た者など松の木をその三日で打ち倒してしまう怒りっ ぷりでして﹂ 1973 ﹁嫌なマスコットの中身だな⋮⋮﹂ しみじみと九郎は呟く。 薩摩では明確な階級社会があるものの、公然と嘘をつく者、約束 を破る者は上下の区別無く誉を無くしその罪は家族にまで及ぶとさ れている。 また、当人が約束を果たし殉死した内容を他の武士が反故にする ような行動も法度とされた。 ﹁このままでは不満が燻りあの唐芋侍共が江戸の市中でいかなる狼 藉を働かないとも限りませぬ﹂ ﹁それをされると印象が最悪にまた戻るのう﹂ ﹁既にこの辺りの野良犬の姿が消えた、と時折通りの向こうから凄 い目を光らせて小山内同心が見張っておりますし⋮⋮﹂ ﹁もう遅かったか⋮⋮﹂ ﹁試し切りするのも食らうのも藩邸でして欲しいのですが⋮⋮﹂ 大店で敷地内に貸長屋や植木などを育てる広い庭もある鹿屋では 幾人も薩摩の者を住まわせている。これもまた藩からの達しであり、 武士社会の薩摩では商人たる彼には逆らえぬことである。 これも彼は薩摩藩に交易としては赴くものの決して再び住むこと が出来ない理由でもある。藩内では武士が内職として行う為に様々 な職業が町人には制限されており、彼らが少しでも機嫌を損なえば その場で無意味に死罪となり兼ねない。 無礼な町人を一人切り捨てたとて、唐紙一枚の報告で済ませてし まうのは薩摩と他幾つかの藩ぐらいだろう。 九郎は荒くれの気を紛らわせる方法を考えて一応聞く。 ﹁酒宴を振る舞うなどで誤魔化せぬのか?﹂ ﹁最初に機嫌は良くなるのですが体が熱くなり酒気に乱れだすと下 1974 手に棒状のものでもあれば死人や片輪が出かねない状況でして⋮⋮﹂ ﹁進化の袋小路に入った生き物のようだのう⋮⋮﹂ 九郎も何度か薩摩人との飲み会に参加したことがあるが、嫌な緊 張感があって楽しめたというわけではなかった。宴会の真ん中にぶ ら下がっているきもねりんの影響も少なくはなかったが。 薩摩人というか殺魔人と云った殺伐っぷりである。 ﹁何が奴らをそうまで狂気に走らせるのだ﹂ ﹁はあ⋮⋮暑さは薩州のほうがきついですから、ともかく常日頃の 窮乏への不満や何かと圧力をかけてくる徳川への不平、痩せた故郷 の土地に理不尽な上下関係、毎年やってくる台風に降灰⋮⋮江戸に 上がっているからといってそうそう性根から染み込んだそれらは憎 悪となり染み込んでいるのでしょうなあ﹂ ﹁これはもう己れが解決できる問題ではなかろう﹂ げんなりと九郎は云う。政治や土地の問題が根にあることは個人 でどうこう出来はしない。 何か一時的でも良いから気を晴らさせるものでもあればいいのだ が⋮⋮ ︵美味いものでも食えばいいのかもしれんが、薩摩の好みは知らん な⋮⋮︶ 幸せな気分になる食べ物。将翁にでも聞けばそれらしいキノコを 紹介してくれるかもしれないが、トランスした薩摩隼人が江戸城に 殴りこみをかけたら事である。 ﹁そういえば鹿屋。お主のところでは加賀藩の氷は手にはいらんの か?﹂ 1975 ﹁とんでもない。あれは将軍御用達の物で、とても私どものような ケチな商人には⋮⋮﹂ ﹁ふぅむ⋮⋮では徳川の将軍ぐらいしか口に出来ぬ氷菓子でも食え れば、少しばかりは幕府への溜飲も下がるのではないかのう﹂ ﹁それは確かに⋮⋮用意できるので御座いますか?﹂ ﹁ま、ちょいとな﹂ 九郎は出処を探られても面倒だと思い、皮肉げに小さく笑みを浮 かべて声を潜め云う。 ﹁ここだけの話、己れは妖術使いなのだ。秘密にしてくれよ?﹂ ***** 江戸市中を修羅界に変えんばかりに荒ぶる薩摩藩士を鎮まらせる 為にかき氷でも作ってやろうかと思ったが、シロップを九郎は作成 することにした。 糖蜜だけでも良いかもしれないが、せっかく作るので一手間かけ てみようという気になったのである。 この男、前に何か失敗して遣る気を失っていても、新たな仕事を 与えればとりあえずは気分を取り戻す性格なのだ。 ともあれ、かき氷にかけるとなると柑橘系の色鮮やかなソースが 1976 ぱっと思いつく。 ﹁木苺ぐらいなら今の時期に生ってるはずだのう﹂ そう思い、タマとお房を連れて山野に取りに行った。こういう作 業は子供の方が効率よく採取を行ってくれる。 周囲の実を絶滅させんばかりに笊いっぱいの実を楽しそうに集め てきた二人は、掃除や潮干狩りの時もそうだがやはり性根が老人化 して細々としたことへの集中力が維持し難い九郎とは、ものが違う。 幾つか口に放り込んで甘みと酸味を味わいながらむじな亭に帰り 料理をする。 ﹁まずは水に実をつけて沈める。潰さぬように解してくれ。中に虫 が居るかも知れぬ﹂ ﹁はぁい﹂ 二人は盥にひたした水の中で木苺の笠を開いて整える。それぞれ、 黄色と赤色の苺に分けてある。 ﹁水から出したら上に砂糖と刻んだ梅干しを解し水に溶かしたもの をふりかける﹂ ﹁甘いの作るのにしょっぱい梅干しかけていいの?﹂ ﹁大量の砂糖の前では隠し味みたいなものだ﹂ 鍋に入れたそれらに味付けを施す。砂糖は色を出すために白砂糖 を利用した。製法に手間が掛かる分黒砂糖よりも高価だがこれでも 輸入に頼っていた時期よりは庶民の手に入る価格になっている。 梅干しを入れたのは隠し味もそうだがその成分で果実の発色を良 くするためである。九郎爺ちゃんの知恵だ。 1977 ﹁││で、果実から水が出たら更に少しひたる程度に砂糖水を加え て煮こむ。あくは取ってと﹂ ﹁甘い匂いがしてきたタマ﹂ ﹁これを漉して冷やしておく⋮⋮次は氷だな﹂ 九郎は桶に用意していた一度沸かした綺麗な水に氷結符を触れさ せて手頃な大きさの氷塊を作った。 二人の子供らが感嘆の声を上げる。 ﹁六科はそっちを器に削るのだ﹂ ﹁わかった﹂ と、一つを六科に渡すと彼は包丁でしゃりしゃりと一定の早い感 覚で端から氷を薄く切っていく。味音痴ではあるが、包丁さばきは 中々のものである。 九郎も氷塊を削るが、包丁では滑って上手く切れないので太刀で あるアカシック村雨キャリバーンⅢの根本で削り落としていく。も はやかき氷器代わりの名刀であった。 日本では古来より貴人はこのように削った氷に甘い葛液か蜂蜜を かけて食っていたものの、氷室を用意するか富士山より駆け足で運 ぶかしか夏場に食えることは無く、庶民が食べることはなかった。 ともあれ、二つの椀に氷が山盛りにされ、九郎は冷やした赤と黄 褐色のシロップをとろりとかけて二人の前に出した。 ﹁わあ⋮⋮﹂ ﹁へえ、凄いの﹂ 目を輝かせて子供二人は、白い削り氷にかけられた鮮やかな色の それらを見て、楽しそうに言った。 1978 ﹁雪の上にしっこしたみたいだ!﹂ ﹁こっちは血尿なの!﹂ ﹁もうちょっと考えてものを言っておくれ⋮⋮﹂ あんまりな評価であったが、子供はしっこネタが好きなので仕方 なくもあった。 とりあえず、二人は木匙を手にかき氷の上を掬い取って口に入れ る。 そして頬を抑えて、なんとも言えない表情をした。 ﹁冷たい! 酸っぱくて⋮⋮甘いの﹂ ﹁美味しいタマ⋮⋮今ぼく凄い贅沢してる!﹂ しゃくしゃくと口に入れては体を揺すらんばかりに喜んでいる二 人を見て、九郎と六科はほっこりとした感情になる。 ﹁ちょっとタマ、そっちも頂戴﹂ ﹁はいお房ちゃん、あーん﹂ ﹁あら美味しい。色が違うと結構味も変わって感じるのね﹂ ﹁応じた⋮⋮だと⋮⋮!?﹂ 甘みのためならデレをも厭わない姿勢にタマが若干驚きつつ、そ れぞれの杯の物を二人で味わっている。 ﹁良い喰い付きだのう﹂ ﹁うむ。俺にはこれで充分だが﹂ ごりごりと余った氷を噛み砕いている六科である。そして彼は、 ﹁呼││⋮⋮﹂ 1979 と、少し変わった呼吸を整える。そういえば、火の前にいつも居 る割には汗をあまり掻かない男だと九郎が思って何気なく彼の腕に 触れると、 ﹁体温低っ? おい、どうなっておるのだお主の体は﹂ ﹁冷えている血を循環させて体を冷やしている﹂ ﹁それって意識的に出来るものなのか?﹂ ﹁やってみたら出来た﹂ ﹁⋮⋮﹂ 謎の体質と言わざるを得なかったが、彼には避暑はあまり必要な いようである。 やがて丼器に盛られたかき氷の半分も食べると子供二人の頭に強 烈な痛みが襲ってきた。 ﹁あいたたたた!?﹂ ﹁将翁さん呼んでー!?﹂ ﹁⋮⋮十も数えれば治るから落ち着くが良い﹂ まあ、予想はしていた。薩摩者どもも頭が冷える思いになるだろ う。 涙目になって悶える二人は本当の兄妹のようである。 九郎は小さく、おかしそうに笑った。 ﹁││そう九郎君は笑顔が一番だよふふふ﹂ ﹁⋮⋮どこから登場しておるのだ石燕﹂ 二階に繋がる階段から見下ろしていた石燕を睨み上げる。 彼女は無意味に胸を張り、 1980 ﹁なに、不思議なことではない。遊びに来たというのに私を除け者 にして苺狩りに行ったというので不貞腐れて九郎君の布団で昼寝し ていたのだよ! よく寝た! 幸せな夢を見て終了だったね! 起 きたら一人で泣いてたよ!﹂ ﹁メンタル弱いなこの妖怪絵師⋮⋮﹂ 降りてきながら堂々と情けない宣言をして彼女はかき氷の器を手 にとってさくさくと食べ始めた。 ﹁うむ美味﹂ ﹁せ、先生気をつけるの。毒が入っているの﹂ ﹁安心したまえ。私は二日酔いで元から頭痛気みゅああああ!﹂ ﹁情けないのう⋮⋮﹂ 即座にキンと来た彼女は額を抑えてのけぞる。 ﹁ふ、ふふ⋮⋮九郎君、叔父上殿に聞いたが物珍しい氷菓子を荒ぶ る薩摩人に振る舞おうとしているらしいね﹂ ﹁そうだな。暑っ苦しい連中だが少しは腹が冷えるだろうよ﹂ ﹁しかしこのままではいけないと私は思うよ?﹂ ﹁む?﹂ 九郎は二つの赤と黄色に染まった器を指さして云う。 ﹁薩摩では穢れに関しての忌避感が強くてね。赤は血の色、黄は尿 の色と云うのは確かに意識してしまえば気になるものなのだよ。木 苺の色は温州みかんよりも濃いからね﹂ ﹁あやつら罪人の生き肝を追いかけて奪い合う民族だったが。いや しかしそうケチをつけられたら己れも黒右衛門も困る⋮⋮﹂ 1981 と、少し思い悩む。 食べ物に汚い表現をしたいわけではなかったが、当時の食卓の色 合いは現代に比べても地味な色が多かった。瑞々しい赤色やくすん だ黄色を、ぱっと食物以外に思い浮かべてしまうこともあり得なく はない。 それに氷にかけるシロップとしては、白砂糖で作ったそれは甘み よりも酸味が感じられ食べる者によっては酸っぱすぎる、というこ ともある。砂糖は充分に使ってあるのだが、氷の冷たさが味蕾を麻 痺させる為に甘さを感じにくくなるのである。こと、かき氷のシロ ップに関しては天然の砂糖水よりも合成甘味料のほうが素直に甘さ を出せる。 ﹁大丈夫、私にいい考えがある﹂ 石燕はそう言って、にんまりと笑みを作った。 ***** ﹁もう来ないでって言ったのに⋮⋮﹂ ﹁いや、それは済まぬが⋮⋮﹂ 恨めしげな声で料亭の主が九郎に云う。 一人ひとりがゴッサムの精神病院で収監されているような状態に ある、江戸に住まう薩摩藩士を宴会で集めた場所は両国にある[万 八楼]という料亭であった。 1982 ここでは珍料理披露会や大食い大飲み大会、美食対決などが行わ れる江戸に於いての食のイベント会場のようなものである。 以前に九郎が来た時に堂々と炎を巻き上げる炒飯を作ろうとして 現行犯逮捕された為に、九郎は出入り禁止になったのであったが、 この度は鹿屋と薩摩藩家老からの申し入れで呼ばれる事となった。 ﹁今度は火を使わんでくださいよ﹂ ﹁わかっておる﹂ ﹁あと珍しいものだったら記録に残しても?﹂ ﹁己れの名を権兵衛とでもしておけば別に構わぬ﹂ 言い合って、九郎は盥に載せて薄紙を被せた氷を片手に、もう片 方の手に真新しい大木槌を持って広間へ向かう。 その後ろにシロップと器を運んでいるタマが助手としてついてき ていた。 見送りながら万八楼の従業員などは、 ﹁まるで打ち壊し一揆だな⋮⋮﹂ と、物々しい雰囲気に、笑うことすら出来なかったようである。 さて。 広間では薩摩藩士の中で特にここのところ精神に異常を来たして いる者と功労者合わせて十六名。そして目付け役に御手廻頭と御台 所頭が全員、背筋を伸ばして岩石を削りだしたような顔で座ってい た。 黒右衛門が部屋の外で膝を床につけて頭を下げながら、 ﹁準備が整ったようでございます﹂ 告げると、﹁うむッ!﹂と、御手廻頭から声が上がった。 1983 ﹁吾ら! こンびは黒右衛門がとこン二才が富士ィン氷とっくいち おのれらに食わすち云うちょる! ヌシらン二才とかぁらンわっか 男がよっせやらんじ吾らに将軍よかよかもンをやっちが!﹂ ﹁御手廻頭殿∼! 徳川の将軍よかわっぜか喰いもンがでっと、己 らでわくっちよかでございますか!?﹂ ﹁よか! 吾ァがくっちいけんもなけりゃ、残しちおっもんでんな か!﹂ ﹁冷ンか焼酎もわざいか準備しとります、飲んでくだァさい﹂ ﹁きもねりんも連ィ来やよかったっちよ﹂ と、偉い立場にある御手廻頭が居るにも関わらず、敢えて打ち解 けた身分の差がないような雰囲気であった。 仲間内なので砕けた薩摩弁で言い合い、意味もなく大笑いをする 藩士達。 なお、九郎が妖術で氷を作り出したのではなく、富士山までひと っ走りして取ってきたということになっている。実際に富士から氷 を取ってくる場合は大八車を各町でリレーのように引き継いで大急 ぎで運ぶので、これもまた得ることは非常に難しいものであるが現 物を用意されている以上信じる他はないだろう。 そして厨房から九郎とタマがやってくると、ぴたりと声が止まっ た。 ﹁どうも。うむ? 今日は静かだな⋮⋮﹂ 九郎が訝しむが、異郷に入ったようないつもの感覚は無く何故か 皆澄ました顔をして動きを止めていた。 ﹁ささ、兄さん氷が解けないうちに作りましょうよ﹂ 1984 にせ タマがまだ変声前の高い声で云うのを聞いて、薩摩藩士達は意味 深に深く頷く。 女を嫌う││正確に言えば、結婚前の若武者である[二才]が極 端に嫌う││気質があるので手伝いはタマを連れてきたのであるが。 もちろんこの日も、タマは一目で男││まあ、可愛らしい顔をし た少年とわかる服装をしているので女と間違われることはない。 女は甘えと安らぎを与える。これは厳しく強くならねばいけない 薩摩と反対の概念であるから嫌うのであるが⋮⋮ あくまで、現実では一説としてであるが││美少年はいいよねと いう風潮もあった。 九郎が声を潜めて黒右衛門に聞く。 ﹁おい、これはどうしたのだ?﹂ ﹁多分タマ君をお姫様的存在と認識したのでしょう。薩摩人の貴重 な状態ですよ﹂ ﹁まじかよ⋮⋮﹂ 九郎は呻く。彼ら薩摩藩士達は姫の前でやや緊張しているのであ った。彼らは同族と敵に対しては野獣殲滅狂戦士であるが、それ以 外の部分ではお固いのである。 ﹁さて、それでは今から氷を割るので少し待っていてくれ﹂ 九郎はそういうと薄紙を剥がして、盥の中に入った氷山のような 塊を見せると、薩摩藩士から﹁おお﹂と声が上がった。 彼らは氷塊を見たことがない。鹿児島では、薄く霜が張り何寸か の霰雪が積もる程度しか降らぬし、江戸で大雪が降ったとて氷の形 に固まったものは見ないだろう。 いかにも重そうなそれを片手で軽々と己等よりも小さな九郎が持 っているのも驚きであった。 1985 彼はそれを広間の外││中庭の地面に置いて、餅つきのように木 槌で殴り砕いた。 岩を叩くのと等しい音と共に、尖った氷塊の先端から砕け散り周 囲に氷の粒子が舞い散る。それだけで少しは涼しくなるようだった。 唖然と見守る薩摩藩士の前で剛力に物を言わせて何度も叩き付け て細かな粒へと砕いていく。離れた場所から見ている万八楼の主や 女中達が、 ﹁ああ、勿体無い﹂ と、飛び散って地面にも落ちる氷を見ながら云う。 そして九郎は、 ﹁とりあえずこの程度で。タマや、盛ってやれ﹂ ﹁はい﹂ そう指示して氷の粒を器で掬いあげてタマが用意する。 人数分氷を切っていたら大変であるし途中で溶けるということで 一気に砕き用意することにしたのである。 タマは器に盛った氷に白雪色のシロップを手早くかけまわして準 備をした。 これは石燕から貰った[白牛酪]という牛乳から作られた滋養強 壮の薬に糖蜜を混ぜて伸ばしたものだ。 ひんやりとした器をタマから渡された藩士達は物珍しげにそれを 見ながら、またそれでいて嬉しそうであった。 全員に行き渡ったのを見て、御手廻頭が見回し、 ﹁いただき申す!﹂ 怒鳴り声の如く云うと周りの者も喉が張り裂けんばかりに唱和し 1986 た。 そして匙で恐る恐るかき氷を救って口に入れ││ ﹁んんんんんんん⋮⋮甘かァァ⋮⋮!﹂ ﹁おいは初めてこげんもんを食いもうしたァ∼!﹂ ﹁唐芋ン飾りを着せられた時は腹ば掻っ捌こうかち思っちょったが、 ありがたかァ∼!﹂ 中には、芋以外で甘い物を食ったのが久しぶりなのか初めてなの か、泣き出す者まで居た。 荒く細かいが噛みごたえのある氷の粒に、ぬめりとした甘い乳の タレが冷やされ撹拌され、さながらアイスクリームとシャーベット を合わせたような味になっているのである。 氷菓として初めて味わうそれは、いかな武骨者の薩摩人にとって も甘露と言える旨いものであった。 そこに更に、 ﹁ささ、旦那さぁ方、氷を浮かべた焼酎も用意しています﹂ ﹁よかなァ!﹂ そう言って欠片の大きい氷で割った焼酎を黒右衛門が用意して次 々に回す。 初夏の暑さなど吹き飛ぶようなひんやりとした酒に薩摩人は大喜 びである。顔額に茶碗をくっつけて冷やしたり、少しずつ啜って有 難がるなど非常に喜んでいる。夏場にこれは大名でも味わえない妙 であろう。 ぐい、と冷えた焼酎を最初に飲み干した男に、 ﹁良い飲みっぷりでござんす∼﹂ 1987 と、慣れた様子でにこにことタマが酒を更に注ぐ。酌の手は得意 なものである。 そしてタマから微笑まれ密着されるような距離で酌を受けたから いもんの中の人は、がくがくと破局噴火で鳴動した桜島の如く震え て﹁かたじけない!﹂と、声を発してまた酒を飲む。 見ていた他の薩摩人も次の瞬間一気に酒を飲み干して、ちらりと タマへ視線を送るが彼はやはり一人ひとり褒めながら丁寧に酒を入 れて回る。 若干冷静にアイスシャーベットを食べている御手廻頭と御台所頭 以外で謎の対抗意識が勃発した。 飲む。酌を受ける。飲む。酌を受ける。酒の味と冷えて飲み口の 良いこともあり、タマは大人気にあちこちをちょこまかと動きまわ る。 薩摩人は酒を、水か飯のように飲む。だがそれでも限界量には個 人差があるのだろう。 最初に、 ﹁う゛∼む﹂ と、言って酔いで目を回して倒れこむ。 狙いすましたように近くに居たタマの膝に頭を乗せて。 ﹁おやや、ちょっと急に飲み過ぎですよーう。冷やした手ぬぐいで も⋮⋮﹂ 膝枕をしながらでも優しげに笑っているタマを見つつ、左右の薩 摩人ががばっと勢い良く立ち上がった。 ﹁よか﹂ ﹁この気違いは少しばかり疲れた様子じゃ。奥で寝かしてくっ﹂ 1988 そう言って両側から男の腕を掴んで奥の部屋に連れ込み、襖を閉 ざすと、 ﹁きええええぇぇー!!﹂ 猿の雄叫びが薩摩めいたような強烈な叫びが聞こえてきて、どが っと物音がしたかと思ったら男二人は戻ってきた。 ﹁起こさんでやっといてくぃ。死ンほど疲れちょる﹂ ﹁はぁい﹂ 何が起こったかは気にしないでおこう。 薩摩人は美少年を愛でるが紳士協定が破られた場合には制裁が行 われるのである。 ともあれ、御台所頭が氷菓子を食いながら、 ﹁そげんいわば、こん菓子の名前はなんち言っとか?﹂ 九郎の方を向いて尋ねて来る。 む、と顎に手を当てて考えるが、木槌で砕いているのでかき氷と は微妙に違うものであり、特に名前のあるものではなかった。かち 割り氷にしても細かくて味付けも異なる。 ﹁ここで出すのが初めてでなあ。良い名前は無いものか﹂ しろくま ﹁そいなら⋮⋮白くて⋮⋮砂糖といえば奄美じゃが、あっこは大隅 国じゃから⋮⋮うむっ[白隈]でどうじゃろうか!﹂ ﹁良か名じゃ!﹂ 御台所頭の、甘い練乳のようなものを混ぜたかき氷風のものに名 1989 づけたそれを九郎は何やら過去││或いはこの国の未来を思い出し ながら、 ﹁なんか名称を先取りしてしまったかもしれぬのう﹂ そうそうこれから作られるわけではなかろうが、薄ぼんやりとし た記憶にそんな名前の氷菓が合った気がして、呟いた。 御手廻頭は黒右衛門を見遣り、 ﹁白隈に合った着ぐるみも作らんにゃのう!﹂ ﹁は、はい﹂ そう言うので、ひとまず彼は文箱を取り出して筆と手紙にさらさ らと絵を書く。文字だけではなく図を描いて説明することもある彼 のような様々に手がける商人は、意匠もある程度出来る。 そしてデフォルメされた太ってとぼけた顔をした白い熊に頬を朱 で塗った絵を描いて見せた。 ﹁これでどげんでしょう! 名づけて[しろくまもん]!﹂ ﹁関係ない別のところにまで後への影響を出しかねんのう⋮⋮﹂ しみじみと、九郎はそういうのであった。 ***** 1990 薩摩人達との酒宴も終えて、九郎とタマは帰路へついた。 それなりに皆、特別な氷が食えるという事実に満足を覚えて溜飲 を下げる結果となり、成功を収めたと言えるだろう。 何故薩摩人のメンタルを自分が世話してやらねばならんのか若干 疑問に思えたが深く考えたら悲しくなるので、そのあたりは黒右衛 門への請求で吊り合いを取ることにする。 二人は途中の茶屋に何気なく立ち寄った。 前掛けをかけたそこの娘に九郎が茶を頼みつつ、 ﹁そういえばまだ己れは食っておらぬな⋮⋮雪餅はあるかえ?﹂ ﹁はい、まだありますよー﹂ ﹁ではそれを二人分﹂ 注文すると茶と雪餅が運ばれてきた。 冬の寒い時期に餅を外に出して中身の水分を抜き乾燥させたもの で、水につけるだけで簡単に半ば解けたような餅に戻る。 これに黒蜜と黄な粉が乗っていて、薄く切られた餅は小さいが結 構旨い。 ﹁手伝いご苦労であったのう、タマ