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1 純粋心理学におけるすべての弁証論的推理のアキレス ―『純粋理性

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1 純粋心理学におけるすべての弁証論的推理のアキレス ―『純粋理性
若手研究者交流会 2009 年 4 月 7 日(於上智大学)
純粋心理学におけるすべての弁証論的推理のアキレス
―『 純 粋 理 性 批 判 』第 一 版 に お け る「 第 二 誤 謬 推 理 」の 特 権 的 な 位 置 づ け に つ い て ― 1
佐藤慶太
はじめに
『純粋理性批判』の「超越論的弁証論」第二篇第一章「純粋理性の誤謬推理 について」
( A341ff./B399ff., 以 下 「 誤 謬 推 理 」 章 ) 2 は 、 第 二 版 で 全 面 的 な 書 き 換 え が 行 わ れ た 箇 所
の一つだが、第一版においてのみカントは「単純性についての 第二誤謬推理」に興味深い
特徴づけを行っている。
こ の 誤 謬 推 理 は 純 粋 心 理 学 に お け る す べ て の 弁 証 論 的 推 理 の ア キ レ ス ( der Achilles aller
dialektischen Schlüsse der reinen Seelenlehre ) で あ り 、 独 断 論 者 が 自 分 の 主 張 に う わ べ の
仮象を付すために捏造する単なる詭弁的な遊戯ではない。それは探求の最も鋭い吟味、
最 も 強 い 異 議 を も 耐 え 抜 く よ う に 思 わ れ る 推 理 で あ る 。( A351)
この「アキレス」は論駁困難ではあるが「不死身」ではない議論の喩えである、とする解
釈 者 も い る が 3 、お そ ら く カ ン ト は ベ ー ル に 倣 い 、こ の 語 を 合 理 的 心 理 学 の 議 論 の 心 臓 部 と
い う 意 味 で 使 っ て い る 。ベ ー ル の『 歴 史 批 評 事 典 』の 項 目「 ア キ レ ス 」に 次 の 文 章 が あ る 。
諸 々 の 学 派 の 間 で は 、 あ る 学 派 の 主 要 議 論 ( le principal Argument d ’une Secte) が 、 そ れ
のアキレスと呼ばれる。これはアキレスが無敵の戦士だったということよりもむしろ、
エ レ ア の ゼ ノ ン が 運 動 の 実 在 に 対 し て 試 み た 極 め て 厄 介 な 論 難 に 由 来 す る 4。
こ の「 ア キ レ ス 」と い う 特 徴 づ け に 呼 応 す る よ う に 、第 二 誤 謬 推 理 は 別 の 箇 所 で「 合 理 的
心 理 学 全 体 の 主 柱( Hauptstütze)」と も 呼 ば れ 、そ れ が 崩 れ る こ と で 、合 理 的 心 理 学 全 体 が
瓦 解 す る と さ え 述 べ ら れ る ( cf.A361)。 し か し 第 二 誤 謬 推 理 の こ の よ う な 位 置 づ け に 関 す
る 明 確 な 理 由 は 述 べ ら れ て い な い 。 確 か に 「 魂 の 不 死 」 を め ぐ る 議 論 の 歴 史 上 、「 単 純 性 」
が 果 た し て き た 役 割 に 鑑 み れ ば 5 、第 二 誤 謬 推 理 が 合 理 的 心 理 学 の 議 論 の 要 所 で あ る こ と は
1
本 発 表 の 内 容 は 、日 本 哲 学 会 編『 哲 学 』No.60( 2009 年 )に 掲 載 さ れ た 同 タ イ ト ル の 論 文( 201
- 216 頁 ) に 、 加 筆 、 修 正 を し た も の で あ る 。
2
カ ン ト か ら の 引 用 は 、ア カ デ ミ ー 版 カ ン ト 全 集 の 巻 数( ロ ー マ 数 字 )と 頁 数( ア ラ ビ ア 数 字 )
を 括 弧 内 に 示 す 。た だ し 慣 例 に 従 い『 純 粋 理 性 批 判 』か ら の 引 用 は 、A 版 =第 一 版 と B 版 =第 二
版の頁数を記す。傍点部は断りのない限り原文のゲシュペルト、太字は原文中の太字を示す。
〔〕は筆者による補足を示す。
3
Heiner. F. KLEMME, Kants Philosophie des Subjekts: Systematische und entwicklungs geschichtliche Untersuchungen zum Verh ältnis von Selbstbewu ßtsein und Selbsterkenntnis , Hamburg
1996, S.316.
4
Pierre BAYLE, Art. “Achille” : Dictionnaire histrique et critique Volume Ⅰ , Rotterdam 1696 1 ,
Amsterdam 1740 5 , p.59, cf. Heinz HEIMSOETH, Transzendentale Dialektik, Ein Kommentar zu Kants
Kritik der reinen Vernunft , Berlin/New York 1967 -1971, S.106f. Anm.
5
Cf. Ben Lazare MIJUSKOVIC, The Achilles of rationalist Arguments, The Simplicity, Unity, and
1
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理解できるが、この解釈では、第二誤謬推理が合理的心理学全体の死命を決する、という
ような位置づけの意味まで説明することはできない。いかなる意味において第二誤謬推理
は誤謬推理全体の「アキレス」と言われるのか。
従来の解釈において、この「アキレス」の意味が深く掘り下げられることはなかった。
解 釈 者 た ち は 、第 二 誤 謬 推 理 の こ の 位 置 づ け を 無 視 す る か 6 、あ る い は 取 上 げ た と し て も 一
般 的 に〈 論 駁 困 難 な 議 論 〉を 意 味 す る も の と し て 解 釈 し て き た 7 。こ の こ と の 原 因 の 一 つ は 、
従 来 の 「 誤 謬 推 理 」 章 の 解 釈 が 「 自 我 」、「 自 己 意 識 」 の 問 題 に 照 準 を 合 わ せ る ば か り に 、
誤謬推理の温床である認識の仕方に対するカントの批判に眼を向けることが著しく尐なか
ったことにあると思われる。第一版においてカントは、合理的心理学が「魂」を取り扱う
際 の 手 続 き を 「 単 な る 概 念 に 即 し て ( den bloßen Begriffen nach)」( A353)、「 単 な る 概 念 を
通 じ て ( durch bloße Begriffe)」( A361) と い っ た 表 現 を 用 い て 特 徴 づ け 、 た び た び 誤 謬 推
理を支える認識の仕方に注意を促しており、これが「誤謬推理」章の重要な論点の一つを
な し て い る 8 。本 発 表 で は こ の「 単 な る 概 念 」と い う 語 を 手 掛 か り に 、誤 謬 推 理 を 支 え る 認
識の仕方に照準を合わせて第一版の「誤謬推理」章を解釈する。先取 りして言うと、この
手続きによってはじめて第二誤謬推理の「アキレス」という位置づけの意味も明らかにな
る 。 要 す る に 、「 ア キ レ ス 」 の 意 味 を 掘 り 下 げ る と い う こ と は 、「 誤 謬 推 理 」 章 の 見 過 ご さ
れてきたアスペクトに光を当てることと別のことではないのである。
まず「単なる概念」について集中的な議論が展開される「経験的悟性使用と超越論的悟
性 使 用 と の 混 同 か ら 生 ず る 反 省 概 念 の 二 義 性 に つ い て 」( A260ff./B316ff. 以 下 「 二 義 性 」
章 )を 取 上 げ て 、誤 謬 推 理 の 基 礎 と な る 認 識 の 仕 方 の 特 徴 を 明 ら か に す る( 1 )。次 い で 誤
謬推理に共通の「媒概念多義の虚偽」の内実を、第一誤謬推理をモデルとして明らかにす
る( 2 )。そ の 上 で 、
「 媒 概 念 多 義 の 虚 偽 」の 手 前 に あ る も う ひ と つ の 誤 謬 、「 自 我 」と「 思
..
考 す る 存 在 者 一 般 の 概 念 」( A354) と の す り 替 え の 機 序 を 、 第 二 誤 謬 推 理 の 議 論 に 即 し て
示す。このすり替えにおいて「単純性」が決定的な役割を果たしており、ここから第二誤
謬 推 理 の「 ア キ レ ス 」た る 所 以 も 解 明 さ れ る( 3 )。最 後 に 、他 と は 異 質 な 議 論 を 展 開 し て
いる第四誤謬推理にとっても、やはり第二誤謬推理は「アキレス」たりうるのか考察する
( 4 )。
1
誤謬推理の温床としての「単なる概念」
「分析論」の付録である「二義性」章で、カントはライプニッツに対する集中的な批判
を展開しているが、その狙いはライプニッツ批判にはとどまらない。この章でカントは、
「分析論」が斥けた認識の仕方(直観の形式を度外視する認識の仕方)を主題化すること
によって、
「 分 析 論 」の 成 果 を 裏 面 か ら 照 射 す る 。後 で 確 認 す る よ う に 、こ の 認 識 の 仕 方 は
Identity of Thought and Soul from The Cambridge Platonists to Kant: A Study in the History of an
Argument, Hague 1974.
6
Cf.Patricia KITCHER, Kant’s Transcendental Psychology , Oxford 1990, p.190sqq.; C.Thomas
POWELL, Kant’s Theory of Self Consciousness , Oxford 1990, p.91sqq.
7
Cf. Heimsoeth, Transzendentale Dialektik , S.105. ;Norman KEMP SMITH, Commentary to “Kant’s
Critique of Pure Reason ”, London 1918 1923 2 , p.453.
8
こ の 論 点 に 注 目 し て い る 数 尐 な い 解 釈 と し て 、以 下 を 参 照 。Alexis PHILONENKO, L’œuvre d e
Kant, La Philosophie critique , Tome Ⅰ ,Paris 1969, p .39,p.231sqq.; 福 谷 茂 「 存 在 論 と し て の 『 先
験 的 総 合 判 断 』」『 理 想 』 635 号 、 1987 年 、 51-62 頁 。
2
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誤 謬 推 理 の 温 床 と い う べ き も の で あ る か ら 、「 二 義 性 」章 は「 分 析 論 」と「 弁 証 論 」と を 架
橋 す る 役 割 を 担 っ て い る と 言 え る だ ろ う 9 。「 二 義 性 」 章 が こ の よ う な 役 割 を 担 っ て い る こ
と は 、さ し あ た り 二 つ の 点 か ら 根 拠 づ け ら れ る 。第 一 に 、
「 誤 謬 推 理 」章 で カ ン ト が 合 理 的
心理学の手続きを特徴づける際に用いる「単なる概念」という表現が、前面に押し出され
て い る と い う こ と で あ る 。 第 二 に 、「 二 義 性 」 章 の タ イ ト ル (「 経 験 的 悟 性 使 用 と 超 越 論 的
悟 性 使 用 の 混 同 か ら 生 ず る 反 省 概 念 の 二 義 性 に つ い て 」)が す で に「 誤 謬 推 理 」章 と の 関 係
を示唆している。カントは「誤謬推理」章で四つの誤謬推理に共通の錯誤を「媒概念多義
の 虚 偽( sophisma figurae dictionis)」と し て 取 り 出 す が 、そ の 場 合 の「 虚 偽 」の 実 質 は 、カ
テ ゴ リ ー の 「 経 験 的 使 用 」 と 「 超 越 論 的 使 用 」 と の 混 同 な の で あ る ( cf.A402)。
「二義性」章の議論に踏み込む前に、カントが悟性使用や、概念 の使用に関して「超越
論 的 」と い う 形 容 詞 を 付 す る 場 合 の 、そ の 意 味 を 確 認 し て お こ う(「 原 則 」や「 カ テ ゴ リ ー 」
に 関 し て 用 い ら れ る こ と も あ る )。通 常 カ ン ト は「 超 越 論 的 」と い う 語 を「 ア・プ リ オ リ な
認 識 の 可 能 性 、 ア ・ プ リ オ リ な 認 識 の 使 用 」( A56/B80)に 関 わ る 認 識 を 特 徴 づ け る た め に
(つまりカントの認識批判の方法を特徴づけるために)用いるが、一方で概念を図式化せ
ず に 「 物 一 般 ( Ding überhaupt)」 と い う 未 規 定 な も の に 関 わ ら せ る こ と を 、 概 念 の 「 超 越
論 的 使 用 」 や 「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」 と 呼 ぶ こ と が あ る ( cf.A56/B81, A238/B298,
A296/B352f.,etc.)。 後 者 の 用 法 は 、 カ ン ト が 客 観 的 妥 当 性 を 認 め る 、 概 念 の 「 経 験 的 使 用 」
あるいは「経験的悟性使用」と対比される。この多義的な用法を、カント以前の
transcendentalis の 用 法 を 踏 ま え て 統 一 的 に 解 釈 す る 試 み も あ る が 1 0 、 さ し あ た り 押 さ え て
おきたいのは「二義性」章や「誤謬推理」章で登場するカテゴリーの「超越論的使用」あ
る い は「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」と は 、直 観 の 形 式 を 捨 象 し 、
「 一 般 論 理 学( die allgemeine Logik)」
( cf.A52/B76) の 制 約 だ け に 従 っ て 対 象 を 捉 え よ う と す る 認 識 の 仕 方 を 意 味 す る も の だ 、
ということである。
で は「 単 な る 概 念 」と い う 表 現 に 焦 点 を 合 わ せ て「 二 義 性 」章 の 議 論 を 確 認 し て い こ う 。
「 二 義 性 」 章 の 最 後 の 部 分 ( A280ff./B336ff. ) で 、 カ ン ト は 「 単 な る 概 念 」 を 徹 底 し て 前
面に押し出し、
「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」の 内 実 を 吟 味 す る( A280/B336-A289/B346 の 箇 所 で「 単
な る 概 念 」 は 九 回 も 登 場 す る )。
… 何 ら か の 物 の 単 な る 概 念 の も と で は( bei dem bloßen Begriffe von irgend einem Dinge )、
直観における必要不可欠な制約の多くが捨象されているので、特別な性急さによって、
この捨象されるものがどこにも見出されないように看做され、物に、その概念に含まれ
て い る も の 以 外 の な に も の も 許 さ れ な い こ と に な る 。( A281/B337f.)
さ し あ た り 、「 単 な る 概 念 」 を 、〈「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」 に よ っ て 確 保 さ れ る も の の 真 相 〉
を 意 味 す る も の と し て 理 解 し て お こ う 。さ て 、こ こ で 注 目 し た い の は 、
「 単 な る 概 念 」の も
9
「 二 義 性 」章 の 役 割 の 詳 細 に つ い て は 、拙 論「 区 別( Unterscheidung)と 混 同( Verwechseling)
― 「 フ ェ ノ メ ナ と ヌ ー メ ナ 」 と 「 反 省 概 念 の 二 義 性 」 の 役 割 分 担 に つ い て 」『 日 本 カ ン ト 研 究
9 』( 2008 年 日 本 カ ン ト 協 会 編 ) 123-140 頁 、 を 参 照 。
10
久 呉 高 之「 カ ン ト の Transzendental -Philosophie - 根 本 術 語 transzendental に 即 し て( 上 )
( 下 )」
『 哲 学 誌 』 第 28 号 、 第 29 号 ( 東 京 都 立 大 学 哲 学 会 編 1986,1987 年 ) を 参 照 。
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とでは「特別な性急さによってこの捨象されるもの〔直観における 必要不可欠な制約〕が
どこにも見出されないように看做される」という部分である。カントがここで言おうとし
ているのは、
「 単 な る 概 念 」の も と で は 、あ る い は 同 じ こ と だ が「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」に お
い て は 、そ の 本 質 か ら し て 二 種 類 の 悟 性 使 用(「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」と「 経 験 的 悟 性 使 用 」)
を区別する、という問題設定を行うことができないということ、逆から言うと二種類の悟
性 使 用 を 区 別 し な い 認 識 の 仕 方 は す べ て 「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」(「 単 な る 概 念 」 の 次 元 ) へ
と還元される、ということである。どういうことだろうか。
このことを、
「 二 義 性 」章 で「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」の 代 表 例 と し て 引 き 合 い に 出 さ れ る ラ
イ プ ニ ッ ツ の「 不 可 識 別 者 同 一 の 原 理( principium identitatis indiscernibilium )」を 例 に と っ
て考えてみよう。これは、同一の概念的徴表を備えた個体が二つ以上存在することはあり
え な い 、と い う 原 理 で あ る 。
「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」で は こ の 原 理 の 下 で 、概 念 的 徴 表 の み が
対 象 に お け る 「 一 様 と 差 異 ( Einerleiheit und Verschiedenheit)」 を 判 定 す る 基 準 に な る 。 こ
れに対して「経験的悟性使用」においては、直観の形式が認識の必要不可欠な制約として
考慮されるから、
「 概 念 に 関 し て す べ て が 一 様 で あ る と し て も 、同 じ 時 間 に 占 め る こ れ ら 現
象 の 場 所 の 差 異 は( 感 官 の )対 象 そ れ 自 体 の 数 的 差 異 の 十 分 な 根 拠 で あ る 」
( A263/B319)。
これら二種類の悟性使用のうち、
「 経 験 的 悟 性 使 用 」を 採 る 場 合 、対 象 の 概 念 的 徴 表 に 即
し て 把 握 さ れ る「 一 様 と 差 異 」に 加 え て 、空 間 上 の 位 置 に 即 し て 把 握 さ れ る「 一 様 と 差 異 」
が視野に収められていることになる。しかし「超越論的悟性使用」を採る場合、空間上の
位 置 に 即 し て 把 握 さ れ る「 一 様 と 差 異 」は「 不 可 識 別 者 同 一 の 原 理 」の 下 で 度 外 視 さ れ る 。
こ の よ う に「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」は 、
「 一 般 論 理 学 」の 制 約 を 唯 一 の 原 理 と し て 採 用 す る た
めに、それ以外の制約の根源性を認めることができない。この「一般論理学」の制約は思
考 の 最 も 基 礎 的 な 制 約 と し て 不 可 欠 で あ る か ら 、 認 識 能 力 の 区 別 を 通 じ て 、「 一 般 論 理 学 」
の 射 程 と 、客 観 的 妥 当 性 を 有 す る 認 識 の 射 程 を 峻 別 す る カ ン ト の 手 続 き を 踏 ま な い か ぎ り 、
「一般論理学」が実在について何かを主張しうるという考えから抜け出せない。 ここに私
達が、―「一般論理学」の制約に基礎を置くにせよ、経験論的な前提から出発してこの
制約に結果的に到達するにせよ―経験と「一般論理学」の対象とを峻別せずにあらゆる
表象を同一の制約に基づけるならば、
「 経 験 的 悟 性 使 用 」が 確 保 す る「 現 象 」に 固 有 の 秩 序
が逸せられてしまう理由がある。
カントが「経験的悟性使用と超越論的悟性使用の混同」と呼んでいるのは、まず二つの
悟性使用を前提にした上で、相互の秩序が入り乱れる、ということではない。 カント以外
の 立 場 で は 、そ も そ も こ の 区 別 が 成 立 し え な い 。ゆ え に 、こ こ で 混 同 と は 、
「超越論的悟性
使用」を採用する者は本質的に「経験的悟性使用」を視野に入れることはできず、絶えず
そ れ を 逸 し 続 け る 、と い う 事 態 を 指 し て い る の で あ る 。
「…超越論的なものと経験的なもの
の 区 別 は た だ 認 識 の 批 判 に の み 属 す る 」( A57/B81)と い う カ ン ト の 言 葉 は 、こ の 意 味 に お
いて理解すべきである。
以 上 を 踏 ま え る な ら ば「 単 な る 概 念 」に は〈「 超 越 論 的 悟 性 使 用 」に よ っ て 確 保 さ れ る も
の の 真 相 〉 よ り も 、〈「 現 象 」 に 固 有 の 秩 序 を 絶 え ず 度 外 視 さ せ る 擬 似 客 観 〉 と い っ た 特 徴
づ け の ほ う が 適 切 か も し れ な い 。加 え て「 誤 謬 推 理 」章 と の 関 連 で 重 要 な の は 、
「単なる概
念 」 に お い て 、 ① 認 識 の 可 能 性 の 制 約 と し て の 「 形 式 ( Form)」、 ② 認 識 の 対 象 に お け る 概
念と現存在との区別、が本来的な意味では問題となりえないということである。
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ま ず「 形 式 」の 不 在 に 関 し て 説 明 し よ う 。上 述 の よ う に 、
「 単 な る 概 念 」は「 一 般 論 理 学 」
の制約のみに基づく「超越論的悟性使用」によって確保されるものである。カントによれ
ば「一般論理学」は「認識のあらゆる内容を捨象し 、どこか他所から自分に表象が与えら
れることを期待する。そしてその後ではじめてこの表象を概念へと変えるが、これは分析
的に行われる」
( A76/B102)。要 す る に「 単 な る 概 念 」と は 超 越 論 的 論 理 学 の 主 題 で あ る「 総
合 」を 飛 び 越 し て 、与 え ら れ た 表 象 を 前 提 と し た 手 続 き の も と で 成 立 す る も の な の で あ る 。
それゆえ「単なる概念」においては「形式」を認識の可能性の制約として理解する余地が
な い 。こ こ で は 与 え ら れ た 表 象 が「 質 料 」と し て 先 行 す る か ら 、
「 形 式 」に は せ い ぜ い の と
ころ、質料の「規定の仕方」という、質料に依存的なステータスしか与えられないのであ
る ( cfA266f./B322f.)。
つ い で「 現 存 在( Dasein)」の 問 題 に 移 ろ う 。既 に 述 べ た よ う に「 単 な る 概 念 」は 原 理 的
に感性的直観の根源性が認められえない地平を構成する。この地平においては与えられる
表 象 は す べ て 「 同 種 的 ( gleichartig )」( A263/B318) で あ り 、「 概 念 」 と し て 処 理 さ れ る の
である。カントとすれば概念と感性的直観が協働することではじめて対象の現存 在が確保
されるが、感性的直観の制約が必然的に見逃されるような地平においては、概念がそのま
ま現存在の要件となるほかはなく、この場合、対象の現存在とその概念とを区別すること
が本質的に不可能になる。それゆえ「経験的思考一般の要請」のなかでカントは「或る物
.....
の 単 な る 概 念 に お い て は ( In dem bloßen Begriffe eines Dinges) そ の 物 の 現 存 在 の い か な る
性 格 も 全 く 見 出 さ れ え な い 」( A225/B272) と い う 批 判 を 繰 り ひ ろ げ る の で あ る 。
まとめると、
「 単 な る 概 念 」に お い て は 、カ ン ト が 区 別 す る 三 つ の も の 、① 認 識 の 可 能 性
の 制 約 ( 形 式 )、 ② 「 単 な る 概 念 」、 ③ 認 識 対 象 の 現 存 在 が 、 本 質 的 に 区 別 さ れ る こ と な く
「概念」の次元へと吸収されているのである。この 「単なる概念」の次元こそが「誤謬推
理 」の 成 立 す る 舞 台 で あ る 。 こ の こ と の 裏 面 と し て 、「 意 識 の 単 な る 形 式 」( A382)と し て
の「 自 我 」、
「 単 な る 概 念 」、認 識 対 象 の 現 存 在 と い う 三 つ の 次 元 の 区 別 の 明 確 化 と 、こ れ ら
の混同の論理を暴きだすことが「誤謬推理」章でのカントの課題となるのである。
2
「媒概念多義の虚偽」―第一誤謬推理をモデルとして
「 誤 謬 推 理 」章 に お い て 、
「 魂 」の 諸 性 質 の 確 保 を 目 指 す 合 理 的 心 理 学 の 論 証 は 、カ テ ゴ
リ ー 表 に 即 し て「 実 体 性 」、
「 単 純 性 」、
「 人 格 性 」、
「〔 外 的 関 係 の 〕観 念 性 」の 四 つ の 性 質 に
関する論証に限定され、それらには定言的三段論法という共通の形式が与えられる。そし
てカントはこれら四つに共通して見出される誤謬を「媒概念多義の虚偽」として取り出し
ている。以下では「実体性についての第一誤謬推理」をモデルとして、この「媒概念多 義
の虚偽」の内実を吟味したい。第一誤謬推理において、三段論法は次のように定式化され
ている。
〔大前提〕その表象が私たちの判断の絶対的主語であり、それゆえ他の物の規定として
使用されえないものは、実体である。
〔 小 前 提 〕私 は 、思 考 す る 存 在 者 と し て 、す べ て の 私 の 可 能 的 判 断 の 絶 対 的 主 語 で あ り 、
私自身についてのこの表象は何らかの他の物の述語としては使用されえない。
〔 結 論 〕 そ れ ゆ え 私 は 、 思 考 す る 存 在 者 ( 魂 Seele) と し て 、 実 体 で あ る 。( A348)
5
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そしてこの三段論法に潜む「媒概念多義の虚偽」をカントは次のよう に説明している。
…媒概念多義の虚偽において、大前提はカテゴリーを、その条件に関して単に超越論的
に使用するが、小前提と結論は、この条件に包摂されている魂に 関して、まさしく同じ
カ テ ゴ リ ー を 経 験 的 に 使 用 し て い る 。( A402)
こ の 説 明 は 、「 誤 謬 推 理 」章 の 論 述 と か み 合 わ な い も の 1 1 、あ る い は「 超 越 論 的 」 と い う
概 念 の 曖 昧 な 用 法 を 孕 む も の と し て 解 釈 さ れ る こ と が あ る 12。 し か し 第 一 誤 謬 推 理 が ど の
ような認識の仕方に基づいて展開されているかを考慮すれば、この説明が妥当であること
が 分 か る 。カ ン ト は 第 一 誤 謬 推 理 の 手 続 き を 、
「 経 験 を 根 底 に す え る こ と な く 、あ ら ゆ る 思
考 が 内 在 し て い る 共 通 の 主 体 ( Subjekt)と し て の 自 我 に 対 し て 、そ の あ ら ゆ る 思 考 が 持 つ
.........
関 係 の 概 念 か ら の み ( lediglich aus dem Begriff der Beziehung … )推 理 し た 」( A349f.;傍 点 発
表 者 )と 特 徴 づ け て い る 。つ ま り カ ン ト は 誤 謬 推 理 を 、
「 二 義 性 」章 で 主 題 化 さ れ た「 単 な
る 概 念 」に 基 づ く 手 続 き で あ る と 理 解 し て い る の で あ る 。
「 単 な る 概 念 」の も と で は 、実 在
的 な 意 味 で の 「 実 体 性 」(「 そ れ 自 身 で 存 続 し … 、 生 成 も 消 滅 も し な い 」( A349) と い う 性
質)を確保するための条件である直観を視野に収めることは本質的に不可能である。それ
ゆえ論理的な意味での「実体性」の要件がそのまま実在的な意味での「実体性」の要件と
看做されるほかはない。誤謬推理の前提には、認識の必要条件がそのまま十分条件として
理解されているという事態がある。これをカテゴリーの使用に即して言うと、合理的心理
学 は 「 概 念 の 具 体 的 な 適 用 の 制 約 」( A403) を 伴 う 、 カ テ ゴ リ ー の 「 経 験 的 使 用 」 を 通 じ
てしか入手できないはずのものを「超越論的使用」で賄おうとしている、ということにな
る。
要するに、第一誤謬推理における「媒概念多義の虚偽」とは、①論理的な意味での「実
体 性 」の 規 定 を 提 示 し( 大 前 提 )、② 論 理 的 な 意 味 で の「 関 係 」だ け を 頼 り に 、大 前 提 の「 実
体 性 」の 規 定 を 満 た す も の を「 自 我 」の う ち に 見 出 し( 小 前 提 )、③ そ こ か ら「 魂 」が「 そ
れ 自 体 で 存 続 し 、生 成 も 消 滅 も し な い 」と い う 意 味 で の「 実 体 」
(これは実際には何らかの
直 観 な し で は 確 保 さ れ え な い )で あ る こ と を 結 論 付 け る( 結 論 )、と い う 誤 謬 推 理 な の で あ
る。
ア メ リ ク ス が 指 摘 し て い る よ う に 13、 合 理 的 心 理 学 の 誤 謬 を カ テ ゴ リ ー に お け る 「 超
越論的使用」と「経験的使用」との混同に見定めることはミスリーディングであるように
も思われる。というのも合理的心理学とは、一切の経験的なものの混入を許さない種類の
学 で あ る は ず だ か ら だ( cf.A342/B400)。し か し「 媒 概 念 多 義 の 虚 偽 」の 説 明 に お い て「 経
験 的 使 用 」 が 、「 具 体 的 な 適 用 の 制 約 」( A403) を 伴 っ た カ テ ゴ リ ー の 使 用 と い う 意 味 で
理解されている点に注意すべきである。合理的心理学が基礎づけようとしている実体性が
「それ自体において存続し、生成も消滅もしない」という、(カントからすれば)直観が
11
Kemp Smith, Commentary, p.466,470 ;Pawell, Kant’s Theory of Self-Consciousness,p.67.
Kitcher, Transcendental Psychology , p.190.
13
Karl AMERIKS, The Paralogisms of Pure R eason in the First Edition, in: Immanuel Kant,Kritik
der reinen Vernunft, hrsg. von Goerg MOHR und Marcus WILLASCHECK . Berlin 1998,p.382.
12
6
若手研究者交流会 2009 年 4 月 7 日(於上智大学)
な け れ ば 基 礎 づ け が た い 性 質 で あ る 以 上 、そ の 誤 謬 は カ テ ゴ リ ー に お け る「 超 越 論 的 使 用 」
と「経験的使用」との混同と看做されうる。結局のところ合理的心理学が三段論法におい
て犯している誤謬も、「二義性」章で問題とされた、感官の対象を「一般論理学」の制 約
に基づいて認識しようとするライプニッツの誤謬と同種のものと理解されうるのであり、
〈現象と物自体との混同〉の一種なのである。
だが、その上で次のことが問題となる。誤謬推理が、合理的心理学という、感性的直観
を排除する領域において遂行されるにもかかわらず、小前提と結論の「自我」に関する命
題において、「具体的な適用の制約」を伴ったカテゴリーの使用(「カテゴリーの経験的
使用」)がなされなければならない、という要求が出てくるのはなぜか、ということであ
る 。 こ の こ と の 理 由 と し て 、 カ ン ト は 「 自 我 / 私 ( Ich)」 の 表 象 の 特 異 な 性 質 を 挙 げ て い
る。以下は第一版「誤謬推理」章をしめくくる文章である。
......
・・・私 は 存 在 す る 、と い う 個 別 的 な 表 象 ( die einzelne Vorstellung )が 、合 理 的 心 理 学 の
諸々の主張を支配している。この表象はすべての私の表象に関する 純粋な定式化を(無
規定的に)表現する、というまさにその理由によって、すべての思考す る存在者に妥当
する普遍的命題として自らを知らしめる。だが、それにもかかわらずこの命題は あらゆ
...
る 点 に 関 し て 個 別 的 ( einzeln) な の で 、 思 考 一 般 の 諸 制 約 の 絶 対 的 統 一 〔 が 実 在 的 に 存
在するという〕仮象を携えており、それによって可能的経験が到達しうる以上に射程を
広 げ る の で あ る 。( A405;傍 点 は 発 表 者 に よ る )
先に述べたように合理的心理学の領域においては、認識対象の実在性を保障する本来の
条 件 、感 性 的 直 観 は 度 外 視 さ れ て い る 。そ こ で 代 替 物 と し て 使 用 さ れ る の は 、
「 直 観 」の 定
義 項 で あ る 「 個 別 的 」 と い う 徴 表 で あ る 1 4 。「 自 我 / 私 ( Ich)」 に つ い て の 命 題 は 、 命 題 の
...
主語と命題を述べる者が必然的に一致する(つまり「この私は第一の主語、つまり実体で
...
あ る 、 こ の 私 は 単 純 で あ る 」( A399) と い う 仕 方 で 表 現 さ れ う る )。こ の こ と に よ っ て 、 こ
の命題は純粋心理学で取り扱われうるものでありながら、
「 個 別 的 」で あ り 、そ れ ゆ え に 実
在的なものについての命題としてみなされてしまうのである。
「 自 我 」表 象 の こ の 特 異 な 性
質が、直観を度外視させる「単なる概念」の地平とともに誤謬推理の成立を支えているの
である。
カントが問題視するのは、
「 自 我 」の「 個 別 的 表 象 」と い う 性 格 が 直 観 の 代 役 を 担 っ て い
るという事態である。第一~第三誤謬推理の三段論法はすべて同一の構造を持つものとし
て 理 解 さ れ う る が 1 5 、こ れ ら の 誤 謬 推 理 で 罷 り 通 っ て い る の は 、
「 自 我 」に つ い て の 命 題 を 、
そのまま実在する物についての命題として理解することである。このことの裏面として、
14
「 認 識 は 直 観 で あ る か 概 念 で あ る か の ど ち ら か で あ る ( intuitus vel conceptus)。 前 者 は 直 接
的 に 対 象 に 関 係 し 、 個 別 的 ( einzeln) で あ る 。」( A320/B377f.)「 直 観 と は 個 別 的 な 表 象
( repraesentatio singularis ) で あ り 、 概 念 と は 一 般 的 な 表 象 ( repraesentatio per notas communes
共 通 の 徴 表 に よ る 表 象 )で あ る 、換 言 す れ ば 反 省 さ れ た 表 象( repraesentatio discursiva 論 弁 的
な 表 象 ) で あ る 。」( Ⅸ 91)
15
た だ し 、第 四 誤 謬 推 理 は こ の 枠 組 み に 収 ま ら な い と 思 わ れ る 。確 か に 第 四 誤 謬 推 理 も 超 越 論
的 な 意 味 で の「 私 の 外 」と 経 験 的 な 意 味 で の「 私 の 外 」と の 混 同 を 問 題 と し て い る が( cf.A373)、
両者をカテゴリーの超越論的使用と経験的使用に割り当てることはできない。
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第 一 誤 謬 推 理 に お け る カ ン ト の 批 判 は 、小 前 提 、結 論 で は 直 観 の 制 約 が 度 外 視 さ れ て い る 、
と い う こ と に 集 中 し て い る ( cf.A350)。 第 三 誤 謬 推 理 に お い て も 同 様 で 、 カ ン ト の 批 判 は
「 同 一 的 な 自 己 の 単 な る 概 念 か ら ( aus dem bloßen Begriffe des identischen Selbst)」、「 主 体
の 途 切 れ る こ と の な い 持 続 」 を 導 出 す る こ と は で き な い ( cf.A365f.) と い う 論 点 に 集 約 さ
れる。だが、第二誤謬推理において、冒頭で提示される三段論法は第一、第三と同一の構
造を持つものの、その議論は全く別の意図の下に展開されている。
3
「自我」と「思考する存在者一般の概念」とのすり替え
第 一 、第 三 誤 謬 推 理 の 反 駁 で は 、「 思 考 す る 存 在 者 」の 概 念 と「 自 我 / 私( Ich)」が 同 一
視されうることが前提となっており、この概念には直観が欠けている ために実在的なもの
と し て 理 解 す る こ と が で き な い 、と い う 批 判 が な さ れ る 。第 一 ~ 第 三 誤 謬 推 理 の 三 段 論 法 、
お よ び 第 一 、 第 三 の 論 駁 を 読 む 限 り 、「 誤 謬 推 理 」 章 の 狙 い は 、「 思 考 す る 存 在 者 」 で あ る
.....
「自我」の概念の吟味に尽きるように思われるが、実際はそうではない。注意すべきは、
「自我」と「対象についての概念」とは明確に区別されなければならない、ということで
あ る 。カ ン ト は「 … こ の 自 我 は 何 ら か の 対 象 に つ い て の 概 念 で も な け れ ば 、直 観 で も な く 、
こ れ ら 二 つ の 種 類 の 表 象 に 伴 う 意 識 の 単 な る 形 式 で あ る 」 と 述 べ て い る ( A382,cf. A346)。
こ こ で 「 意 識 の 単 な る 形 式 」 と は 、「 統 覚 ( Apperzeption )」 と し て の 「 自 我 」 の 働 き を 表
現したものである。統覚は総合の根源的な制約として、カテゴリーのあらゆる働きを可能
な ら し め る 「 す べ て の 概 念 一 般 の 乗 り 物 ( Vehikel)」( A341/B399) で あ る が ( 意 識 の 単 な
..
...
る 形 式 )、そ れ ゆ え に こ そ 総 合 と い う 働 き の 中 で こ そ 位 置 を 得 る も の で あ り( 意 識 の 単 な る
形 式 )、 そ れ 自 体 を 実 体 化 す る こ と は で き な い 。
そ れ ゆ え「 単 な る 概 念 」に 依 拠 し つ つ 遂 行 さ れ る 誤 謬 推 理 の 手 前 に は 、
「意識の単なる形
式 」 を 「 対 象 に つ い て の 概 念 」 へ と す り 替 え る 論 理 が あ る は ず で あ る (cf.A401f.)。 こ の 論
理を暴露し、
「 自 我 」か ら「 対 象 に つ い て の 概 念 」へ の 通 路 を 封 じ る こ と で 、カ ン ト は 合 理
的心理学の議論の開始を差し止めることができる。そして、当のすり替えの論理 を支える
の が 「 単 純 性 ( Simplizität/Einfachheit)」 で あ り 、 そ の 論 理 の 論 駁 が 第 二 誤 謬 推 理 批 判 の 課
題である。
「単純性」の特権的な位置づけを理解するための準備として、カントが「概念」をどの
ように理解していたのかを確認しておきたい。この点を確認しておくことが、第二誤謬推
理 の 議 論 を 理 解 す る た め に 不 可 欠 で あ る 。『 イ エ ッ シ ェ 論 理 学 講 義 』「 序 論 」「 Ⅷ C 質 か ら
見た認識の論理的完全性」においてカントは次のように述べている。
..
.. ...........................
徴 表 ( Merkmal) と は 、 物 に あ っ て そ の 物 の 認 識 の 部 分 を 形 成 す る よ う な も の で あ る 。
.......... ............................
あるいは同じことだが、全体としての表象の認識根拠として看做される限りでの部分表
....
..
......
象である。だから私たちの概念のすべては徴表であり、また思考することすべては徴表
に よ っ て 表 象 す る こ と に 他 な ら な い 。( Ⅸ 58)
....
....
....
…分析的な徴表と総合的な徴表。前者の分析的な徴表は私がもつ現実的な概念の(私が
この現実的な概念においてすでに思考している)部分概念である。それに対して後者の
.....
総合的な徴表とは、単に可能な全体としての概念(それゆえ多くの部分を総合すること
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に よ っ て は じ め て 生 じ て く る は ず の 概 念 ) の 部 分 概 念 で あ る 。 ( Ⅸ 59)
カ ン ト に お い て 概 念 と は 、徴 表 を 部 分 と す る 全 体 で あ る 。例 え ば「 物 体 」と い う 概 念 は 、
こ の 名 辞 に 関 係 づ け ら れ る「 延 長 」
「可分割性」
「不可侵入性」
「 硬 さ 」等 々 の 徴 表 に よ っ て
構 成 さ れ る 全 体 の こ と を 言 う 。そ れ ゆ え 概 念 は 、
( 尐 な く と も 一 つ の )主 語 名 辞 と そ の 徴 表
と の 関 係 を 通 じ て ( S ist P の 形 で ) 表 現 さ れ る も の で な け れ ば な ら な い 。 こ こ か ら 「 悟 性
はそれによって判断するという以外のいかなる仕方でも概念を使用することができない」
( A68/B93) と い う 判 断 の 位 置 づ け が 出 て く る し 、 概 念 と 判 断 ( Cf.A341/B399)、 概 念 と 命
題 ( cf.A356) が 換 言 可 能 な 理 由 も 説 明 さ れ う る 。
さて、先の引用からも分かるように、徴表は或る物の認識根拠ともなりうるわけだが、
その場合「十分で必然的な徴表」と「不十分で偶然的な徴表」が区別される。徴 表が十分
であるとは、
「 物 を い つ で も 他 の す べ て の も の か ら 区 別 す る の に 十 分 」で あ る こ と を 意 味 し 、
必然的であるとは「表象されている事象にあっていつでも見出されうる」ことを意味する
( Ⅸ 60)。こ の「 十 分 で 必 然 的 な 徴 表 」と は 、
「 対 象 に つ い て の 概 念 」が 成 立 す る た め に 最
低限必要な条件であるといえるだろう。
では第二誤謬推理の議論を順次検討していこう。第二誤謬推理の議論は、合理的心理学
における魂の「単純性」の論証の再構成から始まる。物体の運動のように外的な結果が問
題である場合、この結果の全体は物体を構成する諸部分の運動の結果が統一されたものと
理 解 す る こ と が で き る 。 し か し 「 思 想 ( Gedanke)」 で は 事 情 が 異 な る 。 こ れ は 一 つ の 単 純
な実体に帰属するものとしか看做されえない。例えば〈思考するもの〉が部分からなり、
その各々が思考するとして、ある一つの詩に含まれる個々の語が、思考する各部分に帰属
するとしたら、この部分を集めても個々の語についての別々の意識があるだけで、詩全体
についての単一な意識は成立しない。ゆえに思想は一つの単純な実体に帰属する以外に考
え ら れ な い ( cf.A351f.)。
この論証に対するカントの反駁は、論証の帰結自体に向けられるのではなく、この論証
....
が 「 概 念 か ら ( aus Begriffen)」( A352) は 論 証 さ れ な い 、 と い う 点 に 向 け ら れ て い る 。 上
述 の 論 証 の 「 主 要 論 拠 ( nervus probandi)」 は 「 多 く の 表 象 は 、 そ れ が 一 つ の 思 想 を な す た
め に は 主 体 の 絶 対 的 統 一 性( die absolute Einheit des denkenden Subjekts )に 含 ま れ て い な け
ればならない」
( ibid.)と い う も の だ が 、
「 単 な る 概 念 に 即 し て( den bloßen Begriffen nach)」
( A353)、 つ ま り 分 析 的 に 考 え る な ら ば 、 こ の 論 証 は 成 立 し え な い 。 思 想 や 思 考 の 固 有 性
を さ し あ た り 捨 象 し て 、 上 述 の 「 主 要 論 拠 」 を 、 主 語 が 「 一 つ の 思 想 を な す 多 く の 表 象 」、
述語が「絶対的統一性に含まれる」となる命題へと変換すると、主語から「統一性」の概
念 は 導 出 で き る も の の 、 そ れ が 「 絶 対 的 ( absolut)」 か 、 そ れ と も 「 集 合 的 ( kollektiv)」
か、ということは決定できないことが分かる。
合理的心理学の論証は「思考すること」に固有の「主体の絶対的統一性」を前提してい
るが、これは「自我」の意識以外に出所をもたない。意識の構造が外的に与えられない以
上 、「 思 考 す る 存 在 者 」( 魂 ) の 性 質 は 、 結 局 の と こ ろ 「 私 」 の 自 己 意 識 に よ っ て し か 確 保
さ れ え な い ( cf.A346/B404f., 352f.)。 合 理 的 心 理 学 は 「 思 考 す る 存 在 者 」 の 概 念 に つ い て
語りながら、そこに「自我」を読み込んでいるのである。
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........
・・・私 た ち は 可 能 的 認 識 一 般 の 単 な る 主 観 的 制 約 を 、不 当 に も 、あ る 対 象 の 認 識 の 可 能 性
..
の 制 約 、 す な わ ち 思 考 す る 存 在 者 一 般 の 概 念 へ と つ く り か え て い る 。 な ぜ な ら 〔 sc.こ の
手 続 き が 不 可 避 で あ る 理 由 は 〕、私 た ち の 意 識 の 、
〔「 私 は 考 え る 」と い う 〕あ の 定 式 で も
ってあらゆるほかの知性的存在者の場所に私たちを置き移すことなしには、私たちは思
考 す る 存 在 者 を 表 象 す る こ と が で き な い か ら で あ る 。( A354)
カントはここで、合理的心理学が「思考する存在者一般 の概念」の根底に「意識の単な
る 形 式 」で あ る「 自 我 」を 忍 ば せ て い る こ と 、逆 か ら 言 う と 、
「 自 我 」を「 思 考 す る 存 在 者
一 般 の 概 念 」と し て し か 理 解 し て い な い こ と を 告 発 し て い る 。合 理 的 心 理 学 は 、
「可能的認
識一般の制約」である「自我」を、各々の思考する存在者を表象するための、いわば範例
として利用しているのである。確かにこの範例もカントとは別の意味で「対象の認識の可
能 性 の 制 約 」と 呼 ぶ こ と も で き る だ ろ う 。
「 単 な る 概 念 」に お い て は カ ン ト の 意 味 で の「 形
式 」 が 視 野 に 収 め ら れ え な い か ら 、「 可 能 性 の 制 約 」 も 別 の 意 味 を 帯 び る こ と に な る 。
そしてこの「意識の単なる形式」と「対象についての概念」とのすり替えを支えている
の が「 単 純 性 」の 徴 表 で あ る 。
「 私 は 単 純 で あ る 」と い う 命 題( 概 念 )に お い て 、「 単 純 性 」
は、
「 十 分 で 必 然 的 な 徴 表 」と い う 概 念 の 成 立 条 件 を 満 た し て い る よ う に 見 え る 。と い う の
も 、 こ の 命 題 が 、 多 様 の 総 合 の 根 源 的 制 約 で あ る 「 統 覚 」 の 「 直 接 的 表 現 」( A354) で あ
ることをカント自身も認めているし、伝統的に「単純性」という徴表は、魂を、合成され
た 実 体 で あ る 物 質 か ら 区 別 す る た め の 論 拠 と し て 用 い ら れ て き た か ら で あ る(「 実 体 性 」や
「同一性」は、魂と物質を区別するために十分な徴表とはいえない。カントは「合成され
た 実 体 」( A351) や 「 外 的 対 象 の 数 的 同 一 性 」( A361) に 言 及 し て い る )。 合 理 的 心 理 学 の
舞 台 を な す「 単 な る 概 念 」に お い て は 、概 念 と 現 存 在 と が 本 質 的 に は 区 別 さ れ え な い の で 、
「 自 我 」と そ の「 十 分 で 必 然 的 な 徴 表 」と の 関 係 の 成 立(「 自 我 」が「 対 象 に つ い て の 概 念 」
に な る こ と )が 確 保 さ れ れ ば 、あ と は「 自 我 」表 象 の「 個 別 的 」と い う 性 質 を 論 拠 と し て 、
即 座 に 「 自 我 」 の 「 実 体 化 ( hypostasieren)」( A402) が 引 き 起 こ さ れ る の で あ る 。
こ れ に 応 じ て 、 A354 以 下 の 箇 所 で は 、「 単 純 性 」 が 「 十 分 で 必 然 的 な 徴 表 」 で は な い と
いうことを示す論証がなされる。まず、この「単純性」という徴表が対象化可能な物とし
て の「 自 我 」の 認 識 根 拠 と し て は 使 用 さ れ え な い こ と が 示 さ れ る( cf.A355-356)。確 か に 、
多様な表象を総合する統覚は、そのうちに多様を含んでおらず、その意味で「自我」の表
象 は「( 単 に 論 理 的 で は あ る が )絶 対 的 な 統 一 性 」
( A355)と 看 做 さ れ る 。し か し こ れ は「 自
我 」の 働 き が 単 に「 超 越 論 的 に 表 示 さ れ て い る 」だ け で 、
「 自 我 」の 何 ら か の 性 質 を 知 ら し
めるものではない。私たちは「自我」について確かに単純な表象を得ることができるが、
それは私たちが「自我」に関して何も規定することができないからである。これは「主体
に つ い て の 表 象 の 単 純 性 」で あ っ て 、
「 主 体 自 体 の 単 純 性 の 認 識 」と は 区 別 さ れ な け れ ば な
らない。以上から、統覚に見出される「単純性」は「自我」の認識根拠としては機能しえ
ない、ということが結論づけられる。
次いでカントは、
「 超 越 論 的 感 性 論 」の 成 果 に 基 づ い て 物 質 を 現 象 と し て 理 解 し 、そ の 根
底 に 私 た ち を 触 発 す る 「 基 体 ( Substratum)」 が あ る と 考 え る な ら ば 、 物 質 が 単 純 で あ る と
い う 可 能 性 も 排 除 さ れ え な い 、 と い う 議 論 を 展 開 し て い る ( cf.A356-361)。
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こ の 箇 所 は 解 釈 者 た ち に よ っ て し ば し ば 不 可 解 な 論 証 と み な さ れ て き た 1 6 。と い う の も 、
物質も基体において単純かもしれない、ということを論証したとしても〈魂は単純な実体
である〉という合理的心理学の主張は揺るがないからだ。だが、ここでのカントの目的は
「 私 は 単 純 な 実 体 で あ る 」 と い う 「 概 念 、 あ る い は 命 題 」( A356) の 「 使 用 可 能 性 と 思 い
込 ま れ て い る も の ( die vermeintliche Brauchbarkeit)」 の 吟 味 で あ る と い う こ と が 見 逃 さ れ
て は な ら な い 。つ ま り 、こ の「 単 純 性 」と い う 徴 表 が 、
「物をいつでも他のすべてのもの か
ら 区 別 す る の に 十 分 」 で は な い 、 つ ま り 「 十 分 な 徴 表 」 で は な い ( cf.Ⅸ 60)、 と い う こ と
を 示 す こ と で 、「 私 は 単 純 な 実 体 で あ る 」 と い う 命 題 ( 概 念 ) が 、「 対 象 に つ い て の 概 念 」
にはなりえないことを論証する、ここにカントの狙いがあるのだ。以上の二つの論証によ
っ て「 自 我 」か ら「 思 考 す る 存 在 者 一 般 」へ の 通 路 は 完 全 に 封 じ ら れ 、
「 単 な る 概 念 」に 依
拠して遂行される誤謬推理の舞台に「自我」が引き込まれることが防がれる。ここにおい
て 、「 合 理 的 心 理 学 全 体 は そ の 主 柱 と と も に 崩 壊 す る 」( A361) の で あ る 。
4. 第二誤謬推理と第四誤謬推理
以上の考察から、第一~第三誤謬推理に関して、第二誤謬推理が「アキレス」であるこ
とは理解されうるが、第二誤謬推理と第四誤謬推理との関係はどのように理解すべきだろ
う か 。「( 外 的 関 係 の )観 念 性 に つ い て の 第 四 誤 謬 推 理 」の 議 論 は「 経 験 的 観 念 論 」の 論 駁
を狙うものであり、
「 自 我 」と「 思 考 す る 存 在 者 一 般 の 概 念 」と の す り 替 え を 前 提 と し た う
えで、
「 魂 」の 諸 性 質 を 導 出 す る 第 一 ~ 第 三 誤 謬 推 理 と は 一 線 を 画 し て い る 。ま た カ ン ト は 、
1770 年 代 後 半 の 形 而 上 学 の 講 義 録「 形 而 上 学 L 1 」で は 、合 理 的 心 理 学 の 四 つ の 問 い に 観 念
性 の 問 題 を 数 え い れ て い な い し( cf. XXVIII 265)、『 純 粋 理 性 批 判 』第 二 版 に お い て は 、第
一 版 の 第 四 誤 謬 推 理 の 議 論 を 全 面 的 に 撤 回 し て 、 唯 一 の 「 本 来 の 増 補 」( BXXXIX Anm.)
で あ る 「 観 念 論 論 駁 」( B274ff.) を 書 き 下 ろ し た 。 こ れ ら の 事 実 か ら す で に 明 ら か な よ う
に、第一版において第四誤謬推理を誤謬推理の体系の中へ整合的に位置づけるという課題
は、容易に果たされるものではない。
しかし自我論(魂論)と認識理論との関係に着目すると、第二誤謬推理と第四誤謬推理
の関係が理解されうる。すなわち「自我をどのようなものとして捉えるか」という問いが
「どのような認識理論を採用するか」という問いを規定するがために、両者がつながって
い る の で あ る 17。 ど う い う こ と だ ろ う か 。
第 四 誤 謬 推 理 の 結 論 は「 外 的 感 官 の す べ て の 対 象 の 現 存 在 は 疑 わ し い 」( A367)と い う
経験的観念論の主張だが、カントによればこの主張は外的対象を「私たちと私たちの感性
と は 独 立 に 現 実 存 在 す る 物 自 体 そ の も の 」と し て 表 象 す る 「 超 越 論 的 実 在 論 」( A369) を
前提としている。なぜなら外的な対象を私たちの感性とは独立なものと看做すことは、そ
れが感官なしでも現実に存在すると想定することであり、結果的に私たちの感官はこの対
象の現実存在を確信するには十分ではない、ということになるからである。
16
Cf.Ameriks, The Paralogisms of Pure Reason in the First Edit ion, S.379.; Pawell, Kant’s Theory o f
Self-Consciousness, p.109.Bird は こ の 箇 所 で の カ ン ト の 意 図 を 適 切 に 理 解 し て い る 。 Cf. Graham
BIRD, The Revolutionary Kant, A Commentary on the Critique of Pure Reason, Chicago and La Salle,
Illinois 2006, p.633.
17
こ の 論 点 に 関 し て は 、 稲 垣 良 典 『 抽 象 と 直 観 』 創 文 社 1990 年 を 参 照 。
11
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こ の「 超 越 論 的 実 在 論 」の 前 提 に 、合 理 的 心 理 学 の 自 我 の 理 解 が あ る 。合 理 的 心 理 学 は 、
自我を「思考する存在者一般の概念」とみなし、まずそれが与えられていることを前提と
し て 議 論 を は じ め て い る 。自 我 が 存 在 者 と し て ま ず 与 え ら れ る な ら ば 、「 外 的 対 象 」は「 自
我」とは区別される存在者として理解されることになる。この場合、 〈内と外〉という枠
組 み を ま ず 設 定 し て か ら 自 我 と 外 的 対 象 と の 関 係 を 捉 え る ほ か な く 、結 局「 経 験 的 観 念 論 」
が 帰 結 す る 。そ れ ゆ え 自 我 と「 思 考 す る 存 在 者 一 般 の 概 念 」と の す り 替 え を 封 じ る こ と は 、
「超越論的実在論」及び「経験的観念論」が維持しがたいものであることを示すことと別
のことではない。自我を「意識の単なる形式」として、つまり表象の総合のプロセスのな
かでのみ位置をもつものとして理解するならば、外的対象 は統覚の総合によってはじめて
成立するものと看做される。この「自我」の把握のもとでは、「超越論的観念論」が不可
避である。自我論(魂論)における態度決定が、認識理論における態度決定に直結するが
ゆえに、第二誤謬推理は第四誤謬推理にとっても「アキレス」たりうるのである。
おわりに
以上、第一版の「誤謬推理」章において第二誤謬推理に与えられる特権的な位置づけの
意味について考察した。
「 単 純 性 」が「 自 我 」と「 思 考 す る 存 在 者 一 般 の 概 念 」と の す り 替
えにおける不可欠な契機として、誤謬推理の前提を支えているということを示すこ とで、
第二誤謬推理に与えられる「アキレス」という位置づけの理由を明らかにすることができ
たと考える。
本発表ではもっぱら第一版の「誤謬推理」章の議論に考察の範囲 を限定してきたが、こ
の 考 察 を 踏 ま え て 第 一 版 と 第 二 版 の 書 き 換 え に 関 し て 考 え る と こ ろ を 述 べ て お き た い 18。
第二版の「誤謬推理」章では、四つの推理の論駁において「単なる概念」という語は一切
出 て こ な い 。か わ り に 議 論 の 枠 組 み を 構 成 す る の は 、
「 客 観( Objekt)」と い う 概 念 で あ る 。
このことは誤謬推理論駁の直前の「注釈」にみられる次の文言によって端的に示されてい
る。
単 に 思 考 す る( denken)こ と に よ っ て 、私 が な ん ら か の 客 観 を 認 識 す る( irgend ein Objekt
erkennen)こ と は な い 。… 思 考 自 体 に お け る 自 己 意 識 の す べ て の 様 態 は 、ま だ 客 観( Objekt)
についてのいかなる悟性概念(カテゴリー)でもなく単なる論理的な機能である。
( B406f.)
第二版の改訂において、
「 形 式 」と「 概 念 」と の 区 別 の 議 論 は 削 除 さ れ 、論 点 は〈 統 覚 に
おいて認められることは「客観」の要件を満たさない〉ということに収斂する。同時に第
二誤謬推理の「アキレス」という位置づけも消えるわけだが、これは「概念」についての
議論が削除された以上、当然のことであろう。
と こ ろ で「 概 念 」
( 厳 密 に 言 う と 、概 念 ‐ 徴 表 ‐ 対 象 の 媒 介 関 係 )を 枠 組 み と し た 議 論 の
削除は、
「 誤 謬 推 理 」章 だ け に み ら れ る こ と で は な く 、大 幅 な 書 き 換 え が 行 わ れ た「 演 繹 論 」
18
「 誤 謬 推 理 」 章 の 改 訂 問 題 に 関 し て は 以 下 の 文 献 を 参 照 。 Rolf-Peter HORSTMANN,Kants
Paralogismen, in: Kant Studien 83 1993, S.408 -425. ;Klemme, Kants Philosophie des
Subjekt,S.271-284, 289-292.
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若手研究者交流会 2009 年 4 月 7 日(於上智大学)
と「フェノメナとヌーメナ」においても確認できる。第一版の「演繹論」では、表象の総
合 の 必 然 性 を 担 保 す る の が「 規 則( Regel)」と し て の「 概 念 」で あ る( cf.A106,A108,u.s.w.)。
し か し 第 一 版 の「 演 繹 論 」で は 30 箇 所 以 上 あ っ た「 規 則 」と い う 語 は 、第 二 版 で は 2 箇 所
( B145,B168) で し か 確 認 で き な い 。 代 わ り に 重 要 な 役 割 を 果 た す の は 、「 客 観 ( Objekt)」
という概念である。議論の枠組みが「概念」から「客観」へ移行したことは、第一版演繹
と第二版演繹における「認識」の定義を比較してみるとよく分かる。
もし個々の表象各々が他の表象と全く異質であり、他の表象と切り離されているとすれ
ば、認識のようなものは決して生じえないだろう。認識とは、比較され結合された表象
の 全 体 ( ein Ganzes verglichener und verkn üpfter Vorstellung) な の で あ る か ら 。( A97)
悟性は一般的にいえば認識の能力である。認識は、与えられた諸表象と一つの客観との
規 定 さ れ た 関 係 ( die bestimmte Beziehung gegebener Vorstellung auf ein Objekt ) を 本 質 と
する。さて客観とは、与えられた直観の多様がその概念において統一されているもので
あ る 。( B137)
「 フ ェ ノ メ ナ と ヌ ー メ ナ 」で は 、
〈 カ テ ゴ リ ー は 定 義 さ れ う る か 〉と い う 問 題 、す な わ ち
カ テ ゴ リ ー と そ の 徴 表 と の 関 係 の 問 題 が 大 幅 に カ ッ ト さ れ て い る ( A241ff.)。 そ し て 序 論
に お け る「 超 越 論 的 」の 定 義( A11f./B25)に お い て「 概 念 」が「 認 識 様 式( Erkenntnisart)」
へと書き換えられていることも、同じ理由から説明されるのではないか。この枠組みの変
更の詳細についてはここでは述べることができないが、
「 概 念 ‐ 徴 表 ‐ 対 象 」か ら「 認 識 ‐
客 観 」へ の 枠 組 み の 変 更 と い う 捉 え 方 は 、
『 純 粋 理 性 批 判 』の 書 き 換 え の 意 味 を 考 え る 上 で
ひとつの手掛かりになると考えられる。
(おわり)
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