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『ベル・ジャー』―エスタ・グリーンウッドのアイデン
ティティー探索をめぐって―
加茂, 映子
京都大学医療技術短期大学部紀要. 別冊, 健康人間学
(1996), 8: 48-58
1996
http://hdl.handle.net/2433/49537
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
京都 大 学 医療技 術 短期 大 学部紀要 別冊
第 8号 1
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健康人間学
『
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プ ラス (
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932-
休暇中,ス ミス女子大学の学生であったプラス
1
963)の詩人 としての名声 は,今 日,生前の彼
は自殺 をはかったが,運 よく助 けられ,病院に
女には想像 もつかなかったであろうほど高い。
移 され,そこで 5か月余 りを過 ごした。 この体
『
ベル ・ジャー』 (
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963)は彼女が
験 は彼女が書いた詩や短篇作品の中で断片的に
953年 8月の夏期
遺 した唯一の小 説 で あ る。 1
再現 されているが, 『
ベル ・ジャー』 は, 自殺
京都 大学 医療技術 短期 大学部一般教 育
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加茂映子 :シルヴイア ・プラス :『
ベル ・ジャー』
未遂 とその前後の状況 を主人公,エス タに回想
しい し,私の夫で,私たちの赤 ちゃんの父親で
させ,語 らせ るこ とによって 自らの体験 を描 い
あ ってほ しい。私 たちはいまも,そ して多分,
た自伝小説である。
今後 もず っと,著作で生計 を立てることはで き
ないであろう。 だが,著作 だけが私 たちが望 ん
ここで, プラスのその後の略歴 を述べてお き
たい。
でいる唯一の職業 なのだ。私たちのエ ネルギー
1
95
4年 2月 に復 学 した プ ラス は翌 1
955年 5
と時間を犠牲 にせず, また,本来の仕事 を損 な
わず にお金 を得 るには何 をすればよいのか。
月,ス ミスを最優等で卒業 し, フルブライ ト奨
学金 によ りイギ リスのケ ンブ リッジ大学 に留学
した。すでに高等学校在学中に創作 を始めてお
これ よ り四か月前の 8月 3日の 日誌 において
り,その作 品は 「セブ ンテ ィー ン」や 「クリス
プラスは 「もし今年,気違いみたいに書 きに書
チ ャン ・サ イエ ンス ・モニ ター」 などに掲載 さ
いて, あ る女 の物 語 を出版す るこ とがで きれ
れていたが,ケ ンブ リッジ大学 に留学 中 もプラ
ば,詩集 を一冊書 きあげることがで きれば,喜
スは英米の新 聞や雑誌へ の寄稿 を続 け,「自ら
ば しい ことだ」 と記 している。8月 27日の 日誌
の内 にあ る最高 の もの を言葉 にす るこ と」 に
には 「
昨夜,私の小説 を書 き始めた夢 を見た」
よって生 きてゆこうと決心 していた。
と述べ,9月 1
4日には 「
その小説 は来月着手す
るのがいちばん良いだろう」 と言 っている。
1
957
年 5月,ケ ンブ リッジ大学での課程 を修
了す るが, この間, 1
956年 6月 にはケ ンブ リッ
そ して上 に挙げた1
2月 1
2日の 日誌の続 きの部
ジ出身の イギ リス の詩 人, テ ッ ド・ヒューズ
分で, プラスは 「どうして私 は小説 を書 かない
(
Te
dHughe
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,1
930-) と結婚 した。二人が共
有 していたのは芸術への ひたむ きさと詩 にたい
のか」 と自問 している。そ してその余 白に彼女
す る情熱であった。 1
957年 6月, プラスはテ ッ
ル ・ジ ャー』」 と書 き加 えてい る。 この記録 か
は後 に 「
私 は書 いたわ !1
961年 8月 22日 『
ベ
ドとアメ.
リカに帰 り,母校 ス ミスで教職 につい
958年 1
0月頃
ら推察す ると 『
ベル ・ジャー』 は1
た。 しか し, この仕事 は彼女の創作のためのエ
か ら1
961
年 8月の間に書かれた と思われる。
ネルギーを甚 だ しく奪 ったために数か月で退職
1
959年 1
2月,二人 はふ たた びイギ リス にわ
した。その後,ボス トン大学の創作 セ ミナーの
たった。 1
960年 4月,プラスは自宅で フ リーダ
聴講生 とな り, また,秘 書 と してマサチ ュー
0月 に は 処 女 詩 集 『
巨 像』
を 出 産, 同 年 1
セ ッツ総合病院精神分析治療室 に勤務 した。そ
(
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)が 出版 され, 1
961年 8月 22日に は
の間に得 た患者の症例 や読み耽 ったユ ングやフ
『
ベ ル ・ジャー』 の 最初 の草 稿 が 完 成 した。
ロイ トの書物 はプラスの 自己分析への関心 を助
1
962年 1月, プ ラスはニ コ ラス を出産, やが
長 した と思われる。 1
958年 1
2月 1
0日には 5年前
て,テ ッ ドは他の女性に心 を惹かれるようにな
にマ クリーン病院で世話 にな り,信頼 を寄せて
り,家 を出た。プラスは子 どもたちを連れて 1
2
いたルース ・ポイシ ャー医師に会いに行 き,六
月 にロン ドンのフラットに移 った。 1
963年 1月
か月余 り面接治療が続 け られた。 プラスは1
2月
1
4日 『
ベル ・ジャー』はヴィク トリア ・ルーカ
1
2日の 日誌の中で 自分の恐怖 の感情の詳細 な分
スの筆名で出版 された。2月 8日プラスはテ ッ
析 を行 なっている。
ドと会 ってい るが,2月 1
1日の朝, ガス 自殺 を
しているのが発見 された。二人の子 どもは無事
書 くことについて :私 の恐怖論理 は次の よう
であ った。
に連鎖 している。 私 は多 くの短篇,請,そ して
プラスの作品 を読 むとき,他 の作家の もの を
一つの小説 を書 き,テ ッ ドの妻であ り,私 たち
読 むとき以上 に彼女の実人生のことを考慮 しな
の赤 ちゃんの母であ りたい。テ ッ ドの望 むよう
けれ ばな らない。 1
959年 1
0月 4日の 日誌 には
に書 いてほ しい し,好 きな ところで暮 らしてほ
「
私 の フィクシ ョンとは,子 どもの ときに, ま
- 49-
健康人間学
第 8号
1
996
たそれ以後,私が感 じたことを飾 らず に再創造
事 に加 えて,それに触発 されて彼女が思い出す
した もので あ る」 と書 か れ て い る。 『
ベル ・
過去の場面が彼女の心 に映るが ままに措 かれ,
ジャー』 は自身の 自殺未遂 を終始扱 っているの
この手法 は新鮮で興味 をひ く。 しか し後半,エ
で,彼女の実人生 との関係 についての観点か ら
ス タが神 経 の破綻 を きたす と描 写 は平板 にな
の考察 も必要ではあ るが,本論文 においては,
り,小説 とい うよ りむ しろ病歴 となって話が終
主人公,エス タ ・グ リー ンフィール ドの生 き方
わるとい うこの小説の書 き方 もまた,読み手の
に焦点 を絞 って,エ ス タのアイデ ンテ ィテ ィー
困惑 を助長す る。
の崩壊 とその回復 を跡づ け,その経緯 について
そ して最後 に, い まは回復 して い る とはい
考えてみたい。
え,エス タが振 り返 って語 るこの体験 には他人
は じめに,ス トー リーのあ らましを述べてお
事 として読み過 ご し得 ない ものがあ り,読み手
く。
を不安 にさせ る。 なぜ なら,エス タの神経の破
エス タ ・グ リー ンフィール ドはボス トン近郊
綻 は異常であるとして も,心の正常 と異常の問
の カ レッジ の 学 生 で あ る。 ニ ュー ヨー ク の
に明確 な境界がないか らには 「
私 はエス タにな
ファッシ ョン雑誌が アメ リカ全土か ら募集 した
らない」 とはだれ も断言す ることがで きないか
文芸作 品 の懸賞 で選 ばれ, 11人の女性 と共 に
らである。
1
953年の夏の-か月 をホテル ・アマゾンに投宿
心の病 をもた らす要因は単 に一個人の気質 に
して,8月号の編集 の仕事 に携 わる。 華 やかな
あるだけではな く,制度や慣習 とい った社会の
衣装 の山,知 名 人 との出会 い,宴会,奔放 な
圧力 に もあることをこの小説 は示 している。 こ
デー ト,写真 を撮 られることなどに違和感 を覚
れか らエス タのアイデ ンテ ィテ ィーの崩壊 とそ
えるエス タは,次第 に自分 を見失 ってい く。 だ
の回復 について考 えるが,特 に,彼女 を取 り巻
が, 自己分裂の萌芽 はすでにそれ までの生活,
く社会が彼女 に強いる女性像,お よび,彼女 と
とりわけ,ボーイフ レン ド,バデ イとの関係 や
母 との関係 とい う点か ら考 えてみたい。
母 との関係 の中にあ った。 さらに,ニ ュー ヨー
作 品の表題 となっているベル ・ジ ャーは,棉
クでの仕事の後 に参加す る予定であった夏期講
度の高い器具 にかぶせ,挨 よけな どに用 いる も
座の創作 クラス-の不合格の通知が彼女の 自己
ので, ガラスの厚みのために中の物体が少 し歪
喪失 に拍車 をかける。 精神分析医による治療 も
んで見 える。 この小説では, このガラス鐘 に比
効果 を奏 さない。追 い詰め られたエス タは自殺
倫的な意味 を持 たせ,主人公 に覆いかぶ さ り,
をはか る。発 見 され,助 け られ,精神 病 院 を
閉 じこめ,窒息 させ る ものの象徴 として用 い ら
転々 と し,最後 の病 院で良い主治 医の導 き も
れている。
あって快方 に向かい,退院の可否 を決める委員
エ ール大 学 の医学生,バ デ イは,エ ス タに
の待つ面接室 に向か うところで, この小説 は終
とって初 め は憧 れの男性 であ った。若 い娘 に
わる。
とって,将来有望 な青年 をボーイフ レン ドに持
この小説 には読み手 を困惑 させ,心 をか き乱
ち,結婚す ることこそ成功であ りまた幸福であ
す ものがある。 とい うの も,いわゆる教養小説
ると世間は考 えてお り,彼女 も何 とな くこれに
の主人公の要件,す なわち,成長 にともなう自
同調 していた。エールの学生が主催す るダンス
己発見,社会か らの疎外,世代間の乱蝶,愛の
パ ーテ ィーにバデ イか ら誘われたエス タはパ ー
試練 な どを, エ ス タ も経験 した に もかか わ ら
テ ィーの後ニ ューヘ ヴンの街 の灯 りが見下 ろせ
ず,小説の最終部でのエスタの前途 は教養小説
るところで 「
彼がキス している間,家の灯 りの
の主人公 の場合 と異 な り,全 くの未知数,いや
間隔 をこの夜 の記念 によ く覚 えておこうと目を
それ どころか不安 に満 ちているか らである。
大 き く開けていた」。エス タは見 られ る よ りむ
小説の前半では,ニ ューヨーク滞在 中の出来
しろ,見 る女性であるが,普通の娘が願 うよう
- 5
0-
加茂映子 :シルヴイア ・プラス :『
ベル ・ジャー』
に,バデイが 自分 を好 きになって くれることを
切望 して もいた。
伴侶であ り,女が男 に求めて いる ものは自分の
その年の秋,三年生 になったエス タは病院の
安定だ」 また 「
男 は未来に向 いるものは無限の
中を見せて くれるようにバデ イに頼 む。エス タ
矢で,女 はその矢が飛び立つ かって飛 んでゆ く
が見た ものの中に産婦の分娩の場面があった。
に言い聞かせ ようとする。 こ起点だ」 とエス タ
バデ イの友人, ウイルは 「
本当は見ない方がい
ているのは彼 の母 なのだ,その言葉 を彼 に言 っ
いんだ。見た らきっと子 どもが欲 しくな くなる
に暮 らしている, とさえバデ イはエ
して母 は父 と幸福
よ。 女 に見せ るもの じゃないんだ」 と言 う。 産
婦 は見 られる対象であ り, それ を見 るのは男性
た。
ところが彼女が最 もな りた
ス タに言 っ
に限 られているのである。 だが,エス タにとっ
が飛 び立つ起 点」 になる こ くない ものは 「
矢
て最 も重要 と思われるの は 「
赤 ん坊が私か ら出
『
ェ ア リアル』 (
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965)とで あった。詩集
て くるところを自分の 目で見,た しかに自分の
ム 「
エ ア リアル」 において もの タイ トル ・ポエ
子 どもだと確信す ることだ, どっちみちあの苦
"
AndI/Am t
hear
r
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"と 「
私 は矢 となる」
痛 を我慢 しな くてほな らないのなら, 目を覚 ま
エスタは結婚生活 を否定す る表 明 されている。
して耐 える方が よい」 と思 う。
見捨
病院を見た後バデ イの部屋 に寄 ったエス タは
彼 にだれか と性的な関係 を持 ったことがあるか
。
彼女 はバデ イを
ところが一週間後,彼が電
てることに した。
結核 にかか っていることがわ話で 「
定期検診で
と尋ねる。 そ してバデ イが夏休 みにアルバイ ト
に入 る,週 に一度 は手紙がほか ったので療養所
先 で ウエ イ トレス と頻 繁 に会 っていた こ とを
の休 み には療養所へ来て ほ しい, クリスマス
知 った とき,エス タの中の何かが凍 りついて し
た。エス タは 「あなたを見捨しい」 と言 って き
まった。性的に も対等であ りたい と思 っている
とは言 いそ びれたが,身軽 てることに した」
エ ス タに とって これ は裏 切 りで あった。 しか
た。ただ,彼女がバデ イといになって ほっ と し
し,女性の成功 と幸福 に至 る道 は有能な男性 と
イフレン ドを得 た と思 ってい うすぼ らしいボー
の結婚のみにあると,世間は主張す る。 また,
当の気持 ちを打 ち明けることる人々に彼女 は本
母が送 って きた リーダーズ ・ダイジェス トの切
彼 女 の考 えを馬鹿 げてい る はで きない。皆 は
り抜 き記事 は 「
女性 はた とえ夫 となるべ き相手
ら。 そ の結果,彼 女 はバ デ と思 うで あ ろ うか
とで も結婚後で な くて は絶対 に寝 て はい けな
知 った人々か ら同情の言葉 を浴
イの療養所
びせ られ行 きを
い」 と主張 していた。
になる
エス。タは本来の 自分 を抑 え
ること
う仮面 を着 けなければな ら て,社会通念 に合
る。 ベル ・ジャーはこの ときな くな り,孤 立 す
にかか って
すでに彼女 の頭上
クリスマスの休みに,エス
いた といえよう。
伴 われて心 な らず もバデ イに タはバデ イの父 に
は耳 もとで 「
バデ イ ・ウイラ会いに行 った。彼
とをどう思 う」 とささや く。 ー ド夫人になるこ
婚 しないの」 と言 うが,彼 はエスタは 「
私 は結
受 け取 らない。そこでエス タこの返事 を真剣 に
会話 を彼 に思 い出 させ る。「は以前 に交わ した
田舎 に住みたいか街 に住みたあの ときあなたは
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ベル ・ジャー』
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いか に住
って尋ねたわ
「
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私
は田舎
と街 と両方
バデ
「
男が女
に求めて
健康人間学
第 8号
1
996
らわれる。
て答えたわ・
-・
・
そ した らあなたは笑 って言 った
わ。 きみは本物の精神病患者 になる素質 を十分
エスタの 自己喪失 にかかわる別の体験 につい
て述べ よう。 先ほど彼女 は浴槽の熱い湯 につか
に持 っているって」
いまエスタは言 う 「もし精神病 ってい うのが
りなが らい ま見聞 きした ものに対 して,「
みん
二つの まるで相反す るものを同時に願 うことな
な溶けてな くなれ,私 は清め られたのよ」 と心
ら,私 は本当に精神病 よ。 私 は二つの相反する
の中で叫んでいた。浴槽か ら出て大 きい柔 らか
ものの間 を半分 はあち ら,残 りの半分 はこち
い白いバスタオルに くるまると 「自分が新 しく
らってふ うに,行 った り来た り飛 び回って過 ご
生 まれた赤ん坊の ように無垢で新鮮 になったよ
すの」 と。
うに感 じた」。
彼女のこの生 き方 はギ リシャ神話のケ レスの
また, この雑誌社が主催する昼食会に出され
娘,プロセル ピナの運命,二つの相反する世界
たアボガ ドのかにサ ラダでプ トマイン中毒 を起
に生 きざるを得 ない娘の運命 を思い起 させ る。
こし,激 しい苦痛の後 に鎮静剤 による眠 りか ら
すでにエス タは九歳の ときに自分は結婚 しな
覚めた ときにも,彼女 は 「
す っか り洗い清め ら
いだろうと思 っていた。その理由は明 らかにさ
れ,神聖 にな り,新生活が開けてい くような気
れていないが,エス タは母の生活 を見てそのよ
が した」のであった。
さらにまた,以前,スキーの指導者ぶ ったバ
うに思 ったのであろ う。 また,プラス自身の経
験 も反映 していると思われる。
デ イに強い られ,雪の急斜面 を滑 り降 りたとき
さて, ファッシ ョン雑誌, レデ ィズ ・デ イの
にも,彼女 は彼女 自身の過去の中へ落下 してゆ
編集員 と してボス トン近郊 か ら初 めてニュー
き,「その最後 にある,母親のおなかの中の白
ヨークに出て きたエスタは,奮修 と虚飾 と奔放
いかわいい赤ん坊のようなものに衝突 した」の
な性の世界 に取 り込 まれて しまう。 彼女の内部
であった。 自己を見失いそ うなとき,エスタは
で何かが崩れ始めた。 この崩れを示 している事
生 まれる前の状態 に,あるいは母の胎内に戻 り
柄 として,偽 名 を使 うとい うこ とがあ る。仲
たい と思 うのである。 これはまた,死への希求
間, ドリーンと共に街- 出かけたエスタは見知
で もあった。
らぬ男か ら声 をかけ られ, 自分 をシカゴか ら来
女性 だけが純潔 を守 り続けた結果到達する結
たエ レン ・ヒギ ンボ トムだと言 って しまう。 彼
婚 というものを否定す るエスタはそれなら自ら
女は 「その夜 の自分 を本当の 自分や出身地 と結
も純潔 を捨て,そ うでない者同士で結婚すれば
びつけた くなかった」。 ここに彼女が現実 との
よい と考 える。い ままでの ところ結婚 したい男
折 り合いをつけることの困難 さ,および彼女の
性 は居 ない し,彼女が何 よりも望んでいるのは
自己分裂の兆 しが見 られる。
「
変化 と刺激」である。 彼女 は 「
独立記念 日の
エスタは ドリーンと相手の男の繰 り広げる乱
痴気 さわ ざに耐えられなかった。 ドリーンを残
打 ち上げ花火の色 とりどりの矢のように,あ ら
ゆる方向に飛んでゆきたかった」のである。
して先にホテルへ帰 りついたエスタがおふろに
ニューヨーク滞在中の-か月間に彼女 は三つ
入 った後眠 っていた とき,帰 って きた ドリーン
の男性体験 を経 る。 一つ は ドリーンとその相手
が ドアを叩 き,「
エ リー,エ リー」 と呼ぶ。別
との激 しく露骨 な場面 を見せつけられたこと,
の声が 「ミス ・グリーンウッド, ミス ・グリー
二つ 目は背 は低いが直観力のあ りそ うな国連職
ンウッド」 と呼ぶ。酔 っ払 った ドリーンとメイ
負, コンスタンテ ィンとのデー トで,エスタは
ドの声が寝入 りばなのエスタの耳に入 り混 じっ
彼のアパー トまで行 くが,飲みつけないワイン
て響 く。 は じめ,エ リーなんて人,知 らない
のせいで眠 って しまい,そのまま夜明けに目が
わ, と思 ったエスタはやがて気がついて 「自分
覚め,そばで寝ていたコンスタンティンに送 ら
が二人の人間に分裂 したかのような錯覚」 にと
れてホテル-戻 る, とい うものであ り,紙潔 を
- 52-
加茂映子 :シル ゲ イア ・プラス :『
ベル ・ジ ャー』
捨てようという彼女の決心 は成就 しなか った。
た。母への依存 と憎 しみと自己の抹殺 とは無関
三つ 目は, もうすでにかな り虚ろな精神状態に
係ではない。
なっていたエスタがニューヨークを去 る前夜,
ニ ューヨークから帰って三週間が経 ち,エス
ドリー ンに誘 われて行 った ダンス ・ホールで
タは精神科医,ゴー ドンの面接治療 を受 けるこ
会 った冷酷です さみ きった男の暴力に屈 しそ う
とになる。 この医師にはエス タの心 が見 えな
になるところを辛 うじて, しか し, しっか り固
い。 この面接に失望 したエスタには待 っていた
めた握 りこぶ Lで男の鼻 をな ぐり,血 を流 させ
母の顔が 「レモ ンの輪切 りのように」見 える。
て,逃れる, とい うものである。エスタは取 り
診察代 は一時間二十五 ドルで,次週 も来 るよう
返 しのつかぬほどまでに, この大都会に毒 され
に医師が言 った とエスタか ら聞いた母 はため息
て しまった といえよう。
をついた。母に経済的な負担 をかけていること
もエスタを追い詰める一因 となる。
家に帰 ったエスタが 自殺 をはかるまでのお よ
そ-か月半の彼女の行動 を自己喪失の点か ら,
母は働 きに出かけるが,一方,エス タは家 を
外 にさ迷い歩 くようになった。行 きず りにデー
また母 との関係の点か ら考 えてみたい。
トをした少年水兵に自分の名はエ レン ・ヒギ ン
一般 に,
・自己を喪失す ることの徴候の一つは
ボ トムでシカゴ出身だという。
時間に対す る意識の変化であろう。以前のエス
タは 「
一 日一 日の連 な りを,光 る白い箱が並 ん
二度 目の面接 治療 の後,母が呼 ばれ,電気
でいて,その箱の一つ一つ を黒い影のような眠
シ ョック療 法 を勧 め られ た。 エ ス タは電 気
りが 区切 ってい る」 もの と して,思 い浮 かべ
シ ョックには思い出があった。子 どもの頃,父
た。最近, 自分 を見失い,眠れな くなってか ら
の遺品の古 びた電気スタン ドのコー ドを引 き抜
は 「
一つの箱 と隣の箱 を区分する影がほ じけ飛
こうとして感電 し,母のベ ッドに仰向けに倒れ
び,毎 日が どこまで も荒涼 とした白 く広 い道の
たのだ。 また,エ ス タはニュー ヨークに滞在
ようにつなが って 目の前 に光 って見える」ので
中,ローゼ ンバーグ夫妻が確かな証拠 もないま
ある。
まに電気椅子で処刑 されたことか ら甚だ しい衝
エスタはタイプライターに向かって創作 を試
撃 を受 けていた。
みた。 それは 「イレインは母の古 びた黄色のナ
処刑が行 なわれるという日,エスタは仲 間の
イ トガウンを着て--」で始 まる。 このことは
一人に 「ローゼ ンバーグ夫妻のことおそろ しい
エスタが 自分の分身である作中人物 を媒体 とし
わね」 と話 しかけた。「ほん と !」 とい う返事
て母に依存 していることを示 している。一方,
に共感が こめ られていると思 ったの も束の間,
彼女の母-の潜在的な憎 しみは,同 じ部屋で寝
相手 はす ぐ続けて 「
あんな人たちが生 きている
起 きしている母への思いに表わされている。先
なんて本 当 におそろ しいわ」 と言 ったのであ
に休 んでいるエスタの隣のベ ッドへそっと横 に
る。電気椅子による非人道的な処刑が もたらす
なった 「
母の頭のピンカールが下ろ してあるブ
恐怖 に加 えて,彼女のす ぐそばに処刑 を唱道す
ライン ドか ら忍び込む街灯 の薄明 りで小 さな銃
る人々がいるということがエス タの混乱 と分裂
剣のように光 って見え,口を少 し開いている母
を促 した。彼女の受けた衝撃の大 きさはこの小
のい び きの豚 の ような音 はエ ス タをい らだた
説が このニュースの描写で始 まっていることか
せ,それを止めるにはその昔 を出 している皮膚
電気椅子で死刑 に され る
らも明 らかである。 「
と筋肉でで きた円筒形の ものを両手でつかんで
ことを想像するとや りきれな く--・
生 きたまま
静かになるまでね じる しかないように束の間思
神経 に電流 を通 して焼かれるなんて どんなふ う
えた」のであった。そ してエスタ自身はマ ット
だろうと想像 しないではいられなかった--こ
レス と詰め物 をしたベ ッドの台の間にもぐりこ
の世で最低 の ことだわ」 と彼女 は思 ったので
んで,墓石 の ようにマ ッ トレス をひっかぶ っ
あった。
-
53-
健康人間学
第 8号
1
996
シ ョック療法 を逃 れるために遠 くへ行 って し
まうかそれ とも自殺す るか, と思いが頭 を駆 け
静寂が小石や貝殻や,その他一切の私 の生命
め ぐるうちにその 日が きた。
の残骸 をさらっていった--それ らは集 ま り,
シ ョック療法が施 された瞬間の状態 を彼女 は
一つの潮の ような流れ となって私 を眠 りの中に
「
何 かが襲 いかかって きて私 をつか まえ, この
押 し流 した--・
石 を投 げ込 まれた暗い水の表面
世の終 わ りの ように私 を揺すぶ った--私の骨
が もとの静かな水面 に戻 るように,静寂が戻 っ
が折れて,折れた木 の ように液汁が私の体 か ら
て きた。冷たい風が吹 き過 ぎた。大地の中心 に
流れ出 して しまうのではないか と思 った」 と表
向かって掘 られた トンネルを,私 はとてつ もな
現 している。
いス ピー ドで落下 していた。
ゴー ドン医師は母 に, もう二,三度 この治療
を受 ければェ ス タは良 くな るだ ろ う, と言 っ
この昏睡 と覚醒 はこの小説 において最 も衝撃
た。母 は 「い ま,病 院で見 た生 ける屍 みたいな
的な場面の一つである。 に もかかわ らず, この
人たちの ようにな りた くないで しょ。 治療 を受
くだ りは,冥界か らのオルフェウスの帰還や,
けるのは,あなたが良 くなるためなの よ」 と言
怪物の毒 にあて られた トリス タンの起 りや,兎
うが,エス タはあのおそろ しい治療 を二度 と受
の穴 を落ちてゆ くア リスを思 い起 させ る。 とは
けるつ もりはない し,生 ける屍 となって生 き永
いえ, ここにあるのは錯綜す る光 と闇 と不快 な
らえた くもない。死 を選ぶ以外 に道 はない。彼
ざわめ きだけがあ り, オルフェウスの場合の よ
女の放浪は続 く。
うに妙 なる調べ も, また トリス タンの場合の よ
友人 に誘 われ, 海へ行 ったエ ス タは疲 れ て
うに生い茂 る葦の水辺の潤 い も, ア リスの場合
戻 って こられな くなるほ ど遠 くまで沖 に向か っ
の ように好奇心 を満たす出来事 もない。
て泳いで ゆこ うと思 った。 しか し, 「
水 を掻 く
だが, このように時 にこの世 な らぬ伝説や童
と心臓 の音が単調なモーターの うな りの ように
話の世界の雰囲気 を漂わせ るこの手法 は, ひと
『
わた し わた し わた し』 (
Iam lam lam)」
とき読者の緊張 を解 き,読者 を集団的無意識の
と響 く。精神 はほどけて しまったけれ ども,心
領域へ引 き入れ,エス タの体験 に同化 させ るの
臓の鼓動 は彼女の存在 を主張 していた。
に効果があると思われる。
エス タは二度 自殺 を しようとしている。 その
さて,エス タの 自己喪失の意識 と母への愛憎
内一度 は母のベ ッドに座 って,母の黄色 いバス
との関連 は彼女の意識が戻 る際 に もみ られる。
ローブー エス タが書 きかけた小説の主人公 に着
エス タは無意識の うちに母 を想 った。「
のみが
せた- のひ もを首に掛 けてそれ を引 っ張 ってみ
打 ち込 まれ,光が私の頭の中に飛 び込み,厚 い
た。彼女の母への強い執着が この ような方法 を
温かいふわふわ した暗闇 を切 り裂 いて声が叫ん
取 らせたのであろう。 彼女 は自分の意識が正常
私 に会いた
だ。 『
お母 さん !』」 しか し,母が 「
でな くなってゆ くのに気づいていた。貧 しけれ
が って い るって聞い た ものだか ら」 と言 い,
ば貧 しいほ ど,回復 の望みが少 な くなればなる
ベ ッドの端 に浅 く腰かけた とき,エス タは 「
何
ほど,待遇の悪い精神病院の,地下室の大 きな
も言 った覚 えはないわ」 と言 う。 実際,彼女 は
櫨のような ところに移 されるだろう。 時間は も
自分が母 を呼んだ とは気づいていないのか もし
う残 されていないのだ。
れない。が,彼女 は 「
母 は愛情深 く,同時に私
翌朝,母が仕事 に出かけるとす ぐ,エス タは
を非難 しているように も見 え,私 は母 に行 って
母が念入 りに しまい込んでいる睡眠薬 を取 り出
しまって もらいたか った」のであ った。
し,地下室 に降 り,暗い穴 にうず くま り,薬 を
エス タは自分の町の病院か らよ り待遇の悪い
飲 んだ。 その様子 は次 の よ うに述べ られてい
市立病院へ移 される。 彼女 は母 に 「お母 さんが
る。
入 れ たの だか らお母 さんが 出 して」 と言 う。
-
54 -
加 茂映子 :シル ヴ イア ・プラス :『
ベ ル ・ジ ャー』
る。 目立たない仕方でではあるが プラスが この
「もし母 を説 き伏せ,病 院 か ら出 られた ら,母
の同情 につけ込み, 自分の思い通 りに母 を操れ
ことを作品に反映 していることは注 目して よい
るか もしれない」 と彼女 は考 えている。
であろ う。
窮迫すれば大 きな櫨 の ような ところ-移 され
エス タにとってジ ョー ンはかけがえのない分
るのではないか と怯 えていたエス タは,意外 に
身であ った。 しか し,暗い分身,す なわちエス
もカ ン トリー ・クラブの ような立派な私立の病
タが切 り捨 て た く思 って い る分 身 で あ った。
院へ移 された。 これはエス タに奨学金 を出 して
ジ ョー ンの症状 はエスタよ り良 くなった り悪 く
くれている裕福 な作家, フ イロメナ ・ギニアの
なった りしなが ら,結局 ジ ョーンは自殺 して し
志 しによるものであ る。母 は ミセス ・ギニアに
まう。 作者, プラスはエス タの 自己収束 を推 し
感謝 しなければいけない と言 う。 それは分かる・
進めるためにジ ョー ン,すなわちエス タの暗い
のだが,エスタは 「どこに居 ようとも私 は相変
分身, を自殺 させ たのであろう。 話 を戻 そ う。
わ らず コ ップの中で 自分が発散す る酸 っぱい空
ジ ョーンの 自殺の原因は明 らかにされていな
い。ただ, 自殺の数 日前の深夜,外泊の許可 を
気 にむせ返 っているだろう」 と思 う。
さて, この 病 院 で 彼 女 を受 け持 った ドク
もらえるまでに回復 し, アパー トに住 んでいた
ター ・ノラ ンを一 目見た ときか らエスタは彼女
ジ ョー ンの ところへエス タは行 った。 とい うの
に信頼感 を覚 えた。 ノラン先生 はエス タが ゴー
は,エス タは外 出先で起 きた性器か らの激 しい
ドン医師か ら受 けたシ ョック治療 について話す
出血 の ため に助 け を求めて駆 けつ けたので あ
の を静かに聴 いてい た。 そ して,「ここで行 な
る。 思いがけない友人の訪問 を喜 んだの も束の
うのはそんな もので はない,す ーっと眠ってい
間, ジ ョーンは動転 しつつ も救急病院 と連絡 を
くようなものだ」 と言 う。 本人は経験 していな
取 り,治療 が 済 む まで終始 エ ス タにつ きそっ
いに もかかわ らず, こうい うものだ と断定する
た。 この ことが ジ ョーンの死の原因であ ったの
ことにエスタは納得 で きない。それで も強い反
か どうかは分か らない。 しか し,エス タは自分
発の気持 ちが起 きなか ったのは,彼女の内にノ
の行動が ジ ョーンの死の引 き金 になったので は
ラン先生への信頼があ り, また 自己収束の芽が
ないか と悩 んだ。 しか し, ノラン先生 は 「もち
育 って い た か らで あ ろ う。 後 に彼 女 は電 気
ろん,あなたのせ いではないわ」 と言い, また
シ ョック治療 を受 けることになるが,それにつ
「
非常 にす ぐれた精神科医の患者で も自殺す る
いては後で述べ る。
ことがある」 と話 したのだ。 ジ ョー ンの両親が
それ まで しば しば抱 いていた 自殺志向の気配
エス タに葬儀 に出て くれるように言 って きた。
をエス タが見せ ることはな くなった。ぼやけて
ノラン先生 は行かなければならないことはない
しまった自己の像がふたたび彼女の内で形 を取
と言 ったが,エス タは自分の意志で出席す る。
り始 め る。 それ には主 に二つ の出来事 がかか
それは彼女 自身の暗い分身 を埋葬す るためで も
わっていると思 われる。 一つ はス ミス大学の上
あった。やがてジ ョーンの新 しいお墓の上 を土
級生, ジ ョー ンが この病院の彼女の隣の部屋 に
が覆い,雪が降 り積 もって,その跡 を消 し去 る
来たことである。 もう一つ は母の訪問の際にエ
だろ うと,エス タは思 った。深 く息 をつ き,彼
ス タの取 った態度である。
女は 「
心臓 のいつ もの法螺」 に耳 を傾 けた。そ
まず,ジ ョー ンについて考 える。彼女 もまた
神経の破綻 をもた らす ような結果 に至 り,その
Iam,I
れは 『
わ た し, わ た し, わ た し』 (
am,lam) と響 いて くる。
エス タは前 に死 に場所 を求めて海へ行 った と
過程でエスタの 自殺未遂事件 を新聞で読んで,
エスタに共感 を抱 き,後 を追 うようにこの病院
きに も同 じような心臓の訴えを聴いた。 いずれ
-やって きた。当時,高等教育 を受 けている女
の場合 に も彼女 は肉体 を通 して 自己の存在 を意
性が心 を病 む例 は少 な くなかった とのことであ
識 してい るが,後者 の場合 は三つの "lam"が
- 55-
健康人間学
第 8号
1
996
それぞれ区切 られている。 それゆえ,い ま彼女
結婚 して しまうことか らの 自由,避妊 しないで
は自己像 をよ り明確 に捉 え始めた とみなす こと
妊娠 して しま う貧 しい女 の子 の行 く 「
未婚 の
がで きよう。 ジ ョー ンの出現 はエス タに自分 を
家」か らの 自由へ と上昇 してゆ くのだ」 と考 え
直視 させ, アイデ ンテ ィテ ィーを回復 させ るの
た。
手 に した自由 を使 ってみ ようとい うはっき り
に寄与 した といえよう。
次 に母の訪問につ いて考 える。母 はエスタに
した意図はなか ったか もしれない。だが,町の
バ ラの花束 を持 って きた。「
私 のお葬式 のため
図書館の階段 の ところで二十六歳ですでに数学
にとっておいて」 と彼女 は言 った。母 は顔 を歪
の教授 の職 にあ る とい うア-ウイ ンに誘 われ
め,泣 き出 しそ うにな りなが ら,誕生 日のお祝
て,エス タは彼 のアパ ー トへ行 く。 昼間に避妊
いの花束 だ と言 った。それを聞 くや否や彼女 は
具 を装填 しておいたのはラ ッキーだった とい う
その花 をごみ箱 に叩 き込 んだ。 この行為 は自分
思いが ワイ ンのせ いで面倒 なことは した くない
と母 との杵 を否定 したい,内に潜 む母-の依存
気分のエス タの頭 をかすめた。妊娠の危険 はな
心 を断 ち切 りたい, とい う気持 ちの現 れであ
か った とはいえ,処女 を捨 てた彼女が得 た もの
る。エス タは自己再生へ の苦渋 に満 ちた道 を歩
はひどい痛み と激 しい出血であ った。 ア-ウイ
き始めたのである。 この ことをエス タか ら聞い
ンは送 ってい くと言 うが, まさか精神 病 院へ
たノラン先生 はエス タを理解 し,彼女の 自立の
送 って もらうことはで きず,すでに述べ た よう
支えとなるのである。
に,近 くに住 んでいるジ ョーンの ところへ車 を
ある朝突然,電気 シ ョックにかけられること
つ けさせ, ア-ウインと別れたのであ った。
を知 り,彼女 は動転 す る。 あ らか じめ知 らせて
ア- ウイ ンとの会話 の際 にエ ス タが偽 名 を
くれなか った ことで ノラン先生 を恨み,抵抗 し
使 った形跡 はない。 しか し,彼女 自身は しきり
ようとした。そんなエス タを見て先生 もまた動
に 「ね え, ア- ウイ ン」 と呼 びか けて い る一
転 しているの を見取 ったエス タは共感 して くれ
方, ア-ウインが 「
エス タ」 と呼 びかけた形跡
る人のや さしさを感 じたのであろう,先生か ら
もない。一緒 に過 ご しなが ら彼がエス タの名 を
ず っ とそ ば に付 い て い る とい う約 束 を取 り付
知 らない ままでいるのはきわめて不 自然 なこと
け,「
古 い友人の よ うに腕 をか らませ て」電気
といえよう。 か といって,精神病院か ら出て き
療法室-向か う。
たエス タは本当の名 と出身地 を明かす ことはで
きない。だか ら作者 はこの点 をぼやか している
「
黒板 に書 かれたチ ョークの文字 の ように暗
闇が彼女 を消 し去 った」が, 目覚めた とき彼女
のか もしれない。
年が明けた。大雪がマサチ ューセ ッツの平原
は緊張や怖 れはす っか りな くな り,驚 くほ ど穏
をおお う。 医師団による面接 に合格 した らもう
やかな気分」 であった。
さて,性的に も対等であ りたい と望 んだエス
す ぐ大学 に戻 り,学業 を続 け るこ とにな るの
タには,妊娠 の危険がある女性 は男性 と比べて
だ。雪のために大地の表面 はす っか り変わって
自由 に振 る舞 え な い こ とが不 当 に思 え た。
見 えるけれ ども,その下 にはいつ も同 じ大地が
ジ ョーンの死 よ りも前の ことであるが,エス タ
あるのだ,その ことを思 えば,六か月の欠落の
の訴えを静かに聴いていたノラン先生 は避妊具
後,い ま再出発す ることもある意味ではご く小
の装填の仕方 を教 え,サ イズを合わせて くれる
さいことに過 ぎないのか もしれない, とエス タ
信頼で きる医師 を紹介 して くれた。
は思 う。
許可 された外 出の時間 を利用 してエス タは医
母 は最近,誕生 日以来初めて面会 にきて 「
止
院 を訪れた。彼女 は診察台の上で 「い ま, 自由
まった ところか ら歩 き出 しましょう,みんな悪
-上昇 してゆ くのだ。恐怖か らの 自由,私 には
夢 だった とい う ように振 る舞 い ま しょう」 と
不適切 な相手 とただセ ックス しただけのために
言 った。エス タは思 う 「
悪夢,私 は何 もか も覚
ー 5
6-
加茂映子 :シルヴイア ・プラス :『
ベル ・ジャー』
えている・
--いつかは忘却 がや さしい雪の よう
り合 ったエス タ ・バスキ ン (
Es
t
he
rBa
s
k
i
n)に
にそれを覆い,感 じな くして しまうのだろう。
命名の ヒン トを得 たのではないだろうか。画家
けれ どもそれは私の一部 だ った。私の風土 だっ
であ りまた彫刻家である レナー ド・バスキ ンの
た」 と。 いま,彼女 は自分 自身や 自分の過去 と
秦,エス タは多発性硬化症 のために手足 に障害
向 き合 えるようになった。 い まだに自分 を理解
があったが,「自然」 についての著作家であ り,
していない母の 「
青 白い嘆 いているお月 さまの
一児の母であった。バスキ ン夫妻 をプラスは敬
ような顔」 を見て 「
精神病 院に入 っている娘 を
愛 していた。
持つ なんて !私 はそんなこ とを して しまったの
また,旧約聖書 のエステル書 において,エス
だ」 と母の気持 ちを察 しで 悔いるように もなっ
タとい うユ ダヤ人の女性 はアハ シュエロス王の
た。
妃 となった とされている。 童話や物語の中の王
エス タはア-ウインに電話 をかけた。救急病
妃 はロゴス,す なわち,分割す る もの に対 し
院での応急手当て と一週 間後の検査 の費用 を合
て, しば しば集合 的 な女性 原理,新 しいエ ロ
わせ て二十 ドルの請求のためである。 ことが露
ス,す なわち,結 びつける もの,一つ にす る も
になるのを怖れたア-ウインは直ちに救急病院
の を意味す る とユ ング派 の分析 家, S
.ビル ク
あてに小切手 を送 る とい った。エス タは 「これ
ホイザ 一 ・オエ リは述べ ている1)。 この ような
でア-ウインか らも完全 に 自由だ」 と思 う。だ
見地 に立つ な らば,死 と再生 を経て生 き残 り,
が,彼女 は果た しで 性的に男性 と対等であった
い ま,母,そ して 自分史の語 り手 として創造的
といえるであろうか。た とえ肉体の傷 は癒 えて
な仕事 に携 わっている主人公 にエスタの名 はふ
も心 に刻 まれた深 い傷 は癒 えることはないであ
さわ しい もの と思われる。
ろ う。
グリー ンウ ッ ドはプラスの母方の祖母のメイ
医師団の面接 を前 に してエス タは不安 に駆 ら
ドゥンネームである。 プラスのファース トネー
れて いた。「いつ の 日か, 大学で, ヨーロ ッパ
s
yl
va
n"
ム 「シル ヴイア」は 「
森」を意味す る "
で, どこか, どこでで も, あの窒息 させ るよう
に因んでつ け られた。
な歪 んだ吊 り鐘が また私の上 に下 りてこない と
大地の表面 はさまざまに変化す る ものの,そ
はいえない」 と彼女 は思 う。 また,「
生 まれ変
れで も大地 は生 き続 ける, と悟 ったエス タの名
わって」社 会 に戻 ろ うと して い る 自分 自身 を
字 と して グ リー ンウ ッ ドは まこ とにふ さわ し
「
修理 し, タイヤ を取 り換 えられた車」 にた と
い。 「
森」 の持 って い る, 尽 きる こ との な い
えている。
「いのち」 と超 自然的な 「
魔法」 の力 を暗示 し
この小説 は面接室 の入 り口で 「その 日と顔が
ているように も思われる。
一斉 に私の方 を向 き,それ らに導かれて,魔法
その上,小説の始めの部分 (
第-辛)で,請
の糸 に引 き寄せ られるように」エス タが部屋 の
り手であるエス タがいまは良 くなって,赤 ん坊
中に入 っていった ところで終わっている。 それ
の母親 となっていることが分か り,読者 は少 し
は読者 に言い知れぬ不安感 を与 える。 なぜ な ら
ばか り安堵す るか もしれない。 しか し,現在の
「
魔法 にかけ られ る」 とは,否定的 な意味で は
エスタについて語 られているのは全編 を通 して
自己の固有の本質 を奪 われ ることであるか ら。
この箇所 だけであ り, しか もプラスはほんの数
しか し, これを知性 や理性 では解 き明か し得ぬ
行 しか割いていないのだ。読者 は否応 な しに主
自らの深淵か ら語 りかける声 を聴 こうとす るこ
人公エス タの不安 を共有 させ られるであろう。
と, として肯定的に解釈す ることはで きないで
あろうか。
この小説がいわゆる教養小説ではないことは
初めに述べ た。作者,プラス もまた,その よう
ここで主人公の名,エス タ ・グ リーンウ ッド
について考 えてみる。 プラスは1
958年 5月に知
- 57-
なつ もりで書 いたのではないであろう。 1
959年
1月 8日の 日誌 において言 っているように彼女
健康人間学
第 8号
1
996
に とっ て 「
書 く こ と は 自 らの ア イ デ ンテ ィ
の作 品が問いか けてい る もの を理解 し, この作
テ ィー を証 明 す る 手 段」 で あ っ た。 「フ ィ ク
品か ら多 くを汲み取 ることに よって こそ生 か さ
シ ョンは 自分 の感 じた こ との再創造」 であ り,
れ るであろ う。
過去 の経験 は どんな に傷跡 を残 そ うとも 「自分
一人の女
の風土 」 だ と考 える プラス に とって 「
* テ キ ス ト は Syl
vi
a Pl
at
h:Th
eBc
l
lJa
r
.
の物語」 の出版 は成 し遂 げなければな らない仕
London:Fabe
rand Fabe
r
,1
963 お よ び The
事であ った。 この小 説 においてエス タのた どる
Jour
nal
sorSyl
vi
aPl
at
h.Ne
w Yor
k:TheDi
al
道程 は, 当時 の女性 に課せ られた抑圧 された役
田中
Pr
e
s
s
,1
982 を用 い た。 なお 『自殺志願』 (
割 が分 裂 病 の一 因 とな り得 る こ とを示 して い
974を参考 に させ て
融二訳)東京 :角川書店 , 1
る。エ レン ・モ アズ に 「
現代 の女権運動 に彼女
いただいた。
ほ ど大 きな意味 を持 つ作 家 はいなか った2)」 と
言 わ しめ たゆえんで あろ う。 また, この小説 は
当時おお っぴ らにはで きなか ったであろ うロー
ゼ ンバ ー グ夫 妻 の 処 刑 を批 判 して お り, さ ら
に,マサ チ ューセ ッツ州 で禁 じられていた避妊
を肯定 してい る点で意義 があ る。
プラス は この作 品 が世 に出てか ら-か月 を経
ず して 自 ら命 を断 った。短 い彼女 の生涯 は, こ
- 5
8-
文
献
1
)S.
ビルクホイザ一 ・オエ リ :おとぎ話におけ
る母 (
氏原 寛 訳).京都 :人文書院,1
985:
1
7
3
2)ェレン ・モアズ :女性 と文学 (
青山誠子 訳).
東京 :研究社,1
963:Ⅹ
Fly UP