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絵画による空間の聖別 安嶋 紀昭

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絵画による空間の聖別 安嶋 紀昭
絵 画 に よ る空 間 の聖 別
安嶋 紀昭
広島大学
は じめ に
刀 田 山鶴林 寺 は、兵 庫 県加 古 川市 加古 川 町 北在 家 に所 在 す る天 台 宗 の古 刹 で あ る。本 堂 に は、
応 永 四年(1397)銘 の棟 札 が あ る宮殿 に納 め られ た、 秘仏 薬 師三尊 像 を本 尊 と して祀 る。 また 「播
磨 の法 隆寺 」あ るい は「刀 田の太 子 さん」と親 しまれ て い る よう に、聖 徳 太 子信 仰 の一 拠点 と して
も著 名 で あ る 。伽 藍 に は 国宝 に指 定 され て い る太 子 堂 、 本 堂 をは じめ、 重 要 文 化財 の常 行 堂 、
行 者 堂 、 鐘楼 、護 摩 堂 、 県 指 定 の仁 王 門 、三 重;塔な どが 建 ち並 び 、右 の薬 師 三 尊像 の他 、 聖 観
音 立 像 、 十 一 面観 音 立 像 、二 天 王 像 、釈 迦 三 尊 像 とい った 彫像 類 や 、秘 仏 聖 徳 太子 画像 一 面 、
聖 徳 太 子 二 王子 二天 王 画 像 一 幅 、 聖徳 太 子 絵 伝 八 幅 、 慈 恵 大 師 画像 一 幅 、 阿 弥 陀 三尊 画 像 一 幅
な どの 絵 画 類 、梵 鐘 、楳 漆 厨 子 な どの工 芸 品、 天 蓋 や 扁 額 な どの荘 厳 具 等 々、 い ず れ も重 要 文
化 財 指 定 の宝 物 が 数 多 く伝 来 す る。
しか しこれ ほ どの大 寺 で あ りなが ら、 そ の歴 史 につ い て 明確 な記 載 あ る文 書 は ほ とん ど無 く、
そ れ を取 り上 げ た論 考 も これ まで 発表 され て い ない 。幸 い 私 は 、御 住 職 幹 栄 盛 師 をは じめ 一 山
の方 々 の深 い御 理解 と御 協 力 の も と、太 子 堂 内荘 厳 画 の研 究調 査 を始 め た とこ ろで あ り、 今 回
は そ の途 中経 過 を報 告 す る(付 記 参 照)。
1太
子 堂 に 関す る説 話
同寺 に遺 る文 書 で 、大 宝 二 年(702)沙 門聖乗 敬 白の 銘 を持 つ 『播 州鶴 林 寺 聖 霊 院縁 起 』には 、 そ
の 由緒 が次 の よ うに記 載 され て い る 。
「用 明 天 皇二 年(587)、 聖 徳 太子 は母 宮 と と もに当 地 に 臨幸 さ れ、 精 舎 建立 を念 願 され た とこ
ろ 、俄 に洪 水 が 起 こ って材 木 が 多 数 流 れ 来 た った 。 歓喜 の太 子 は秦 川勝 に そ の管 理 を命 じ、 国
中 の工 匠 を集 め 、 霊 木 を用 い て素 願 どお り三 間四 面 の精 舎 を建 立 され た 。 また 自 ら釈 迦 三尊 四
天王 の像 を刻 まれ 、内 陣 四本 の柱 に八大 童 子像 を図 絵 さ れ た。住 持 に は恵便 法 師 が招 か れた が 、
彼 は そ の 二 年前 に弓 削 氏 や 物 部 氏 の 悪 逆 の た め 山 城 国 に流 され て い た と ころ で あ っ た。
さ ら に太 子 は 、五 徳 博:士学 呵 を召 して散 華 焼 香 し、 三宝 に祈 誓 して仏 法興 隆 の立 不 立 を 占 わ
れ た と ころ 、仏 法 護 持 の多 聞 天 が地 よ り湧 出 し、 両 者 は密 か に言 葉 を交 され 、 その 日の うち に
仏殿 の左 方 の壁 に そ の様 子 をや は り自 ら図絵 され た の で あ る。 伽 藍 の 四 辺 には 四天 王 の 形 像 を
埋 め て 、 結 界 守 護 の 誓 い を示 され た。
一方 、 この 地 を刀 田 山 と呼ぶ の は、敏 達 天 皇 十二 年(583)に 百 済 か ら来 朝 した 日羅 が 、太 子 の
慰 留 を圧 して帰 国 し よ う と した際 、太 子 が これ を阻 止 し よ う と神 通 力 を現 わ され、 当 地 に数 万
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紀昭
の 刀 を逆 様 に立 て 置 い た こ とに 由 来 す る 。 日羅 の 申す に は 、太 子 の本 地 は救 世観 音 で あ る 。
ま た寺 伝 に、
「欽 明天 皇 二十 六 年(565)高 麗 か ら来朝 した恵便 法 師 が 、排 仏 派 の 迫害 を逃 れ て この地 に隠棲 し
てい た。 これ を聞 い た七 歳 の聖 徳 太子 は恵便 を訪 ね、 木 ノ丸 殿 を拵 えて教 え を受 け られ た 。 その
後 崇峻 天皇 二 年(589)秦 川 勝 に命 じて三 間四 面 の精舎 を建 立 され 、釈 迦 三尊 と四天王 を祀 って 四天
王 寺聖 霊 院 と命名 され た。 さ らに養 老 二年(718)武 蔵 国 の大 目身 人部 春則 が 、太 子 の遺徳 を顕 彰 す
るた め に七 堂伽 藍 を建 立 して刀 田 山四 天王 寺 と改 名 し、承 和五 年(852)に は慈覚 大 師円仁 が 入唐 へ
の旅路 の途 中 に立 ち寄 って、薬 師如 来 を刻 み 国家 安泰 を祈 願 して以 来 天台 宗 に属 した。 後 には鳥
羽 天 皇(1103∼56)の 行 幸 が あ り、 『鶴林 寺 』の扁 額 を下 賜 され たの で寺 号 を改 めた」
と も言 わ れ て い る。 なお 、文 永 五 年(1268)銘 『大 法 師某 ・左 衛 門 尉 平 某 浮面 寄 進 状 』で は、 大 講
堂(現 本 堂)は 行 基 菩 薩 本 願 で あ り、 薬 師 如 来 像 もそ の 自刻 とす る 。
これ らの 縁 起 の成 立 が い つ まで遡 る もの で あ るか は不 明 だが 、現 太 子 堂 内 陣 四本 の柱 絵 と し
て八 大 童 子 しか掲 げ て い なか った り、古 式 の数 え方 で は 一 間 四面 とな る筈 の と ころ を三 問四 面
と してい た りす る な ど、到 底創 建 当初 の もの と も思 わ れ な い(註1)。
しか し、現 存 す る建 造 物
や寺 宝 類 に鑑 れ ば 、平 安 時代 後期 には 間 違 い な く大 寺 に発展 して い た。 こ こ に取 り上 げ る太 子
堂 も、勿 論 そ の遺 産 の一 つ で あ る。
2従
来 の研 究
宝 形 造 り、 桧 皮 葺 きの太 子 堂 は 、本 堂 に向 か っ て右 や や 手前 に 、南 を 向 い て位 置 す る 。正 面
三 間、 側面 四 間 の うち 、正 面側 の 一 間 は通 り庇 を付 した礼 堂 と して後 に加 え られ た もの であ る。
明 治 三十 四 年(1901)特 別保 護 建 造 物 と な り、 昭和 二 十 五 年(1950)新 法 に よ って重 要 文 化財 と読
み替 え られ、 昭和 二 十七 年 に国宝 に指 定 され た。 内部 の 仏壇 上 には木 造 釈 迦三 尊 像(重 要 文化 財)
と木 造 四天 王 像(重 要 美術 品)を 、 東側 に は 「
植 髪 の 太子 」と呼 ば れ る 聖徳 太 子 立 像 を納 め た永 享
八年(1436)銘 の 木造 楳 漆 厨 子(重 要 文 化 財)お よ び聖徳 太 子 座 像 と二 王 子 立 像 の木 造 三 尊 像等 を
安 置 して い たが 、 い ず れ も現 在 は宝 物 館 に移 座 され て い る。 こ う した彫 像 類 が 、す べ て 建 立 当
初 か ら太 子 堂 に祀 られ て い た もの か否 か は定 か で は な い 。
さて 、太 子 堂 内 部 に荘厳 画 が 描 か れ て い る こ とは 、参 考 文 献 一 覧(註2)に
示 す とお り早 くか
ら知 られ て い る。 まず 若 井富 蔵 氏 が 、 来 迎 壁 の 表 面 に霊 山浄 土 図 、 裏 面 に涅槃 図 、天 井 廻 りに
千 体仏 が窺 い得 る と し、 た な か しげ ひ さ氏 が 来 迎壁 の表 面 は恐 ら くは九 品 来迎 図 で あ り、 表裏
と も釈 迦 八相 図等 の抄 出 と考 え て い る。 また両 者 は 、 冒頭 の縁 起 にい う柱 の 八大 童 子 図 は剥 落
の ため何 者 も見 え難 く、 厨子 内 は秘 仏 故 確 認 で きず信 貴 山縁 起 の 一 段 に類 す る もの か とも想 像
した 。 この よ うに曖昧 模糊 としてい た 図様 を、 赤外 線写 真 の撮 影 に よ って初 め て把握 した のが 、
当時 鶴 林 寺宝 生 院 の副 住 職 を務 め て い た 幹 栄盛 師(現 在 鶴 林 寺 長 吏 兼 宝 生 院住 職)で あ る。 そ の
後 倉 田文作 館 長 ほ か奈 良国 立博 物 館 の ス タ ッフが 調査 を敢 行 し、 い くつ か の 重 要 な論 考 が 発 表
され たの も、 同 師 の発 見 が 契機 とな っ た訳 で あ る。何 故 な らば 、太 子 堂 内 部 は永 年 の薫 香 や 灯
明、 添 護 摩等 の煤 煙 が 多 量 に付 着 し、 一 部 には油 の撥 ね 飛 ん だ た よ うな痕 跡 もあ り、黒 化 の た
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絵 画 に よる 空 間 の 聖 別
め 肉 眼 に よる識 別 は ほ とん ど不 可 能 な状 態 にあ るか らで 、従 って 諸 先学 の努 力 に も拘 わ らず 、
い まだ全 貌 が 明 らか に なっ た とは言 い 難 い 。 しか し逆 に 、 こ う した煤煙 等 が 保 護 膜 の 役 割 を果
た し、 画 像 を剥 落 か ら守 った こ と も見 逃 して は な ら ない事 実 で あ ろ う。
と ころ で太 子 堂 の建 立 年代 につ い て は 、 大 正八 年(1919)の 解体 修 理 に際 して屋 根 裏 か ら発 見
され た とい う古 い棟 札 の 墨書 を根 拠 に、 若 井 富 蔵 氏(註2①)が
「天 永3年(1112)」
と推 定 して 以
来 これ が 通 説 とな ってい る。 そ の板 は今 の とこ ろ所 在 が わ か らな いが 、 長 さが 約 六 尺 、 巾 が 一
尺 あ ま り とい うこ とか ら棟 札 で は な く屋 根 の部 材 で あ った と思 わ れる。 若 井氏 の メモ に よれ ば、
内容 は下 記 の とお りで あ る。
「
鶴 林 寺 法 華堂 修 理 、 自太 子御 草 蒼至 于 天 永 三 年 第 三度 注 之 、于 次 宝 治 三年(1249)修 理之 、 其
後相 当 于 ・・… ・/七 十九 年 、正 中三 年(1326)丙 刀修 理 之 、已 上 第 五度/(中 略)/別 当頼 玄生年卅七、
自保 延 二 年(1136)以 来 、 至 于 当 年 百 九 十 七 年 、 十 三 代 相 伝 之 、/寺 僧
阿 闍 梨伊勢和守忠 真 生 年 六 十 八 、(中 略)/講
法 華 堂 一和 尚 覚 明 房
堂 一 和 尚安田上 総 公 、(後 略)」
この 墨 書 は保 延 二 年 の197年 後 、 す なわ ち元 弘 二 年(1332)に 記 され た ら しい。 従 っ て鎌 倉 時
代 の 末 に は 、現 在 の太子 堂 は法 華 堂 、本 堂 は講 堂 と呼 ば れ てい た こ とが判 じ られ る が 、若 井 氏
は「太 子 御 草 蒼 」は単 なる伝 説 に過 ぎず 、 当 堂 の 藤 原 末期 造 建 は様 式 上 絶対 に動 か な い か ら、 天
永 三 年 が 太子 堂 の実 際 の 建立 年 代 と して 間 違 い な い とす る訳 で あ る。 しか し虚 心 に読 め ば、 天
永 の修 理 は あ くま で第 三 度 で あ り、 仮 に創 建 を第 一 度 に数 え た と して も、 第二 度 につ い て全 く
触 れ て い ない こ とは不 審 と言 わ ざ る を得 な い。 い ず れ に しろ若 井 氏 の 説 は 、建 造 物 そ の もの の
様 式 を綿 密 に検 討 した結 果 で は な く、 単 に一 点 の 墨 書 銘 か らの類 推 に過 ぎな い こ と に、留 意 す
るべ きで あ ろ う。
3太
子 堂 内部 荘 厳 画 の 図様
(1)研 究 の方 法
太 子 堂 の内 部 は 、 前述 の よ う に荘厳 画 の 表 面 を煤煙 が 覆 い 、 肉 眼 で は ほ とん ど認 識 す る こ と
が で きな い。 そ こで 、 堂 内 の一 体 何 処 に何 が 描 か れ て い るの か 、 まず 全 貌 を確 認す る こ とが 先
決事 項 とな るが 、 そ の調 査 に は周 知 の 通 り赤 外 線 の 透過 力 を応 用 す る のが 最 も有効 で あ る。 そ
こで ル ミナ ス製 の赤 外 線 ビデ オカ メ ラSV-3に
ニ コ ン製60ミ リマ イ ク ロ レンズ を取 り付 け、拾 っ
た動 画 の 情報 を三 つ に分 配 し、一 つ は シ ャー プ製 液 晶 テ レビLC13CIBに
を定 め 、 一 つ は ソニ ー製 ハ ンデ ィカ ムTRV10で
-MPGを
つ な い で構 図や 焦 点
の録 画 用 と し、 一 つ は ア イオ ー デ ー タ製USB
通 して静 止 画 と してパ ソ コ ン に入 力 す る とい う作 業 を 同時 に行 っ た。 この方 法 は 、現
像 して み なけ れ ば何 が 写 って い る か判 らな い 赤外 線 写 真 に対 し、構 図 や 焦 点 を そ の場 で確 認 で
きる長 所 を持 つ 一 方 、解 像 度 が 低 い短 所 を も有 す る 。 ま た四 天柱 の よ う に画 面 が 曲面 の場 合 、
光 源 の 照射 角度 に よっ て は無 用 な反 射 を 起 こす こ とが 問題 とな る。
さ らに 、 こ う して 得 られ た画 像 の 線 描 は、 必 ず しも仕 上 げの ため の描 き起 こ しとは 限 らな い
こ とに も注 意 せ ね ば あ る まい 。
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紀昭
(2)概 要
礼 堂 か ら太子 堂 内陣 を臨 む と、 中央 に一 間四 方 の 一段 高 い仏 壇 を設 え 、 四天 柱 は その 四 隅 を
突 き抜 ける 格好 で あ る。 仏壇 四周 の羽 目板 を飾 る格狭 間 には 、一 面 に一体 ず つ獅 子 な どの 動 物
を墨 一 色 で 表 わ して い るが 、現 状 で は剥 落 の ため ほ とん ど確 認 で き ない 。 もっ と も、制 作 当 初
の刳 型 を大 き くい びつ に削 り広 げ 、 白土 あ るい は胡粉 を塗 っ た上 に描 い て お り、 そ れ ら は後 補
と知 られ る。 羽 目板 は一 辺 が 一枚 か らな る重 厚 な もの で 、東 側 の板 の 裏 面 には格 狭 間の 下 地 と
同 じ顔 料 で 「安 永 四年(1775)」 、 「法 華 堂 」な ど と記 され 、手 を入 れ た年 代 が判 明 す る。
目 を上 方 に転 じれ ば、 四 天柱 筋 の小 壁 に は散 華 の飛 天 や 天衣 を結 ん だ 楽 器 が ぐる り と取 り巻
い て 、仏 壇 上 の 本尊 を供 養 讃 嘆 す る。 ま た 四天 柱 各 々 の 上部 に は横 長 方 形 に別材 を埋 め 込 んだ
箇 所 が二 つ ず つ あ り、元 来 は側柱 との 間 に虹 梁 を繋 い で 化粧 屋 根 裏 を見 せ る形 式 で あ っ た もの
を、後 世 繋 虹 梁 を切 除 して小 組格 天 井 に作 り替 え た こ とが判 明す る。 一 方 、礼 堂側 か ら見 る と
繋 虹 梁 尻 が 残 って い る に も拘 らず 、繋 虹 梁 の通 った 痕 跡 が側 柱 筋 の小 壁 に は認 め られ な い。 少
な く と もこ こ に描 か れて い る千 仏 は 、 改 装 後 に加 え られ た もの と思 わ れ る。
後方二柱 の 間は板 壁 で塞 ぎ、表 に九品来迎 図、裏 に仏涅 槃図 をそれぞれ画 面一杯 に表 わ して いる。
その縦 は実 測で 一六七 ・七 糎、横 は一 八六 ・五 糎 を示す 。 表面 を槍鉋 で仕 上 げ た縦 巾三 八 ・三 ∼四
三 ・九糎程 度(表 側左 端二枚 目以 下)の横 長 の板 五 枚(但 し、 一番 上 の板 は ほ とん どが天 井長 押 に隠
れ て い る)を上 下 に重 ね るが 、接 合 部 は矢筈 に切 っ て、つ ま り下 側 の板 を三 角形 に出張 らせ 、上 側
の 同 じく三 角形 の凹 み をこれ に填 め込 ん で、 ずれ ない ように組 み合 わせ てい る。 さらに槍 鉋 で接合
部 を均 し、 白色顔 料 を塗 って下 地 を調 えてか ら描 くの であ る。 三浦博 士 の調査 に よれ ば、 この長押
も繋 虹 梁 を切 除 した後 に加 え た ものであ る。 四天柱 はやは り槍鉋 仕上 げ と し、仏壇 か ら長押 まで の
縦 が各 々約 一 七 〇糎 、 円周が 約八 五 糎 で、 全面 に数多 くの 聖衆 を重 な り合 う よう に配 す る。
と ころ で 東壁 の礼 堂 寄 りには厨 子 を設 け、 聖 徳 太子 の 壁 画 を秘 仏 と して 祀 る 。 内部 の板 壁 は
二 重 にな っ て お り、す なわ ち現 状 で は最 初 の 壁 を画像 の 部分 の み切 り出 し、 内側 に持 ち送 り し
て新 しい外 壁 を付 け てい る 。壁 画 に は、 仏 後 壁 と同様 に矢筈 に切 って接 合 して い る隙 間か ら雨
水 の 滲 み 出 した痕 跡 が あ る が 、本 来外 壁 で あ った か ど うか は不 明 と言 わ ざ る を得 な い。 画 面 は
縦 一 七 九 ・五 糎 、横 一 九 〇 ・三 糎 、 厚 さ三 ・六 糎 を測 り、一 枚 の縦 巾 は 三 七 ・七 ∼ 四〇 ・二糎
程度(左 端 二 枚 目以 下)で あ る。 厨 子左 右 の 側 柱 か ら方 立 まで の壁 や格 狭 間 な どは取 り外 せ ない
た め 、 扉 を 開放 して も画面 四周 は遮 られ て しまい 、直 接 見 え る の は縦 一 一 三 ・八 ×横 一 一 二 ・
二糎 の ほ ぼ 正 方 形 の 範 囲 に 限 られ る。
(3)来 迎 壁 表 面
さ て来 迎 壁 表 面 の 九 品来 迎 図 につ い て は 、 す で に岡崎 譲 治 、倉 田文作 両氏(註2④
⑤)に よっ
て詳 細 な検 討 が な され て い るの で 、 こ こで は概 略 を説 明 す る に留 め た い 。本 図 を仮 に上 中下 の
三 段 に分 けれ ば、 山 や 川 を背 景 に して 、 上段 か ら中段 に か け て は九 つ の 来迎 の様 子 を、 中段 か
ら下 段 に か け て は俗 世 の善 悪 の行 ない を表 して い る 。
まず 左 上(以 下 、 原 則 と して 画面 に向 か っ て の左 右)は 、戒 律 を守 り大 乗 の経 典 を読 誦 し、六
念 を修 行 した行 者 が今 まさ に上 品 上生 の 迎 摂 叶 う場 面 で あ る。 阿 弥 陀如 来 は一 際 大 きな月輪 中
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絵 画 に よる空 間 の聖 別
にあ っ て、 胸 前 に両 掌 を見 せ て 第 一 ・三指 を捻 じる来 迎 印 を結 ぶ 。 そ の前 で 蓮 台 を持 つ の は観
世音 菩 薩 、 左 膝 を立 て て合 掌 す るの は 大勢 至 菩薩 で あ ろ う。彼 ら を先 頭 に して 如 来 を囲 む菩 薩
衆 は 、比 丘 形 二 体 と菩 薩 形 八 体 か ら構 成 され 、華 籠 を捧 げ た り楽 を奏 した り しつ つ 、 雲 に乗 っ
て 降 下 す る。 簡 略 な が ら軽 妙 な筆 致 で 、 ふ くよか な菩 薩 や個 性 豊 か な比 丘 の 有 様 を的確 に描 写
してお り、 この 画家 の並 々 な らぬ 技 倆 の 高 さ を感 じ させ る 。
また そ の右 方 、 山 の 向 こ うに隠 れ 行 くの はい わ ゆ る 還 り来 迎 の場面 で 、す で に迎 え摂 られ た
比 丘 を先頭 に、阿 弥 陀 三尊 といず れ も菩 薩 形 の 五 菩 薩 が斜 め後 ろか ら描 かれ てい る。 平 等 院鳳
凰 堂 扉 絵 や比 叡 山坂 本 弘法 寺 本 、 故 吉 川 英 治 氏 愛 蔵 本 や 瀧上 寺 本 な ど、還 り来 迎 は未 開 敷蓮 華
中 に往 生 者 の魂 を込 め て運 ぶ のが 一 般 的 で あ るが ∼ 本 図 は比 丘 に だ け頭 光が な い こ とで そ れ と
示 す 珍 しい 図様 と言 える 。 岡 崎氏(註2④)は
これ を 中品 中生 、柳 澤 氏(註2⑨)は
上 品 中生 に 当
て たが 、後 述 の よ う に比 丘 形 よ りも菩 薩 形 の多 い 本 場 面 は、 後 者 を表 す もの と考 え られ る。
次 に壁 面 上部 ほ ぼ 中央 で は 、象 徴 的 な夕 日を 山岳 の 中腹 か ら観 じるが 如 き様 子 を した比 丘 を
迎 え に 、阿 弥 陀 三尊 と四 菩 薩(い ず れ も菩 薩 形)が 霞 に半 身 を隠 しなが らや って 来 る様 子 を、 画
面 上部 右 端 で は、天 衣 を長 く棚 引 かせ て 阿弥 陀三 尊 と四菩 薩(い ず れ も菩 薩 形)が まっす ぐに降
下 した様 子 を、 そ れ ぞ れ描 い て い る 。彼 我 に顕 著 な差 異 は、 前 者 の 阿弥 陀 が 月 輪 中 に あ るの に
対 し、後 者 は頭 光 と身光 を負 う程 度 で あ る が 、左 か ら右 へ とい う順 序 に照 らせ ば上 品 下生 、 中
品 上 生 の 場 面 に比 定 で きよ う。
と ころ で菩 薩 形 の代 わ りに比 丘 形 の 多 い 来 迎 は 、 恵心 僧 都 源 信 の創 案 した来 迎 図 を想 起 させ
る。 そ の理 由 を源 信 は 、 自分 は下 品往 生 を望 む か らだ と答 え た こ とが 覚 超撰 『首 楞厳 院廿 五 三昧
結 縁過 去 帳 』に記載 され て い る。 本 図 の 中段 左 端 の 来迎 は、 蓮 台 を捧持 す る観 世 音 を先 頭 に菩 薩
形 三 体 と比 丘形 四 体 が 、 阿弥 陀 を囲 んで 山 間 を縫 う よ うに下 降 して い る 。本 図 の場 合 、 さ らに
来 迎 の 尊 数 が少 ない 図様 が あ る ので 、 これ まで とは 一 段 階下 が っ た中 品 中生 と見 る こ とが妥 当
で あ ろ う。 中 品下 生 は阿弥 陀三 尊 のみ が 、 下 品 上 生 は三 化仏 が飛 来 す る。平 等 院鳳 凰 堂 扉絵 や
高 野 山 有 志 八幡 講 十 八 箇 院本 阿弥 陀聖 衆 来 迎 図 な ど に見 られ る三 化 仏 は、化 仏 とは い え一仏 二
菩 薩 の 姿 を と って お り、 本 図 の よ うに三 体 と も月 輪 中の 如 来 形 で表 現 す る の は や は り珍 しい。
さ らに下 品 中 生 は観 世 音 菩 薩一 体 のみ が 登 場 し、 下 品 下 生 が 日輪 の 如 き金蓮 華 の み の来 迎 と
は『
観 経 』の説 くとお りで あ る。特 に後 者 の場 面 は 、家 屋 の 中で 口 を開 け て横 た わ る臨終 の男 が 、
そ の妻 女 で あ ろ うか傍 らの 女 に見 取 られ る 一方 、枕 元 で 右 手 に数珠 を持 つ 僧 侶 は左 手 で 日輪 の
浮 かぶ 上 空 を指 さ して お り、 男 に死 際 の十 念 を勧 め た善 知 識 が 来迎 の奇 瑞 に往 生 の確 定 を安 堵
す る様 子 と知 られ る 。他 に俗 形 二 人 と僧 形 六 人が 居 合 わせ るが 、 うち一 人 は小 坊 主 で あ る。 し
か し一歩 屋 外 に出 れ ば 、 そ こ に は鎧 に身 を包 ん だ 冥府 の使 者 が 生前 の罪 状 を記 す 銘 札 を掲 げ、
三 匹 の 鬼 が 今 に も死 者 を捕 え て火 車 で連 行 し よ う と迫 って い た と ころで あ っ た。
こ う した九 品往 生 の場 面 と と もに、 本 図 で は人 間 の 善悪 の行 状 につ い て も例 示 す る。 米 や衣
服 を貧 者 に施 す善 業 や 、仏 堂へ の放 火 、 仏 塔 の 破 壊 とい った悪 業 が描 写 され 、 ま た従 者 に獲 物
を持 たせ た狩猟 帰 りの 騎 馬武 者 、舟 を操 る鵜 飼 、 網 を引 く漁 師 の よ うな殺 生 の様 子 な ど、 当 時
の世 相 を反 映 した情 景 が 広 が る の で あ る。 物 語 的 内 容 や 岩肌 ・樹 木 な ど風 景 表 現 は、 本 図 の 画
家 の得 意 分野 で あ っ た ら し く、 各所 に習 熟 した筆 使 いが 認 め られ る。
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(4)四 天 柱 筋 小 壁
この 画 家 と同一 の 筆 に帰 す る と思 わ れ るの が 、 四天 柱 筋 小 壁 の飛 天 や 楽 器 の 類 で あ る 。薫 煙
等 が 籠 る た め か特 に煤 が厚 く、赤 外 線 も透 過 しに くい が 、豊 か な頬 を した飛 天 の 大 らか な 表現
が 確 認 で きる。 飛 天 は南側 を除 く三 面 に各 二 体 が宙 を舞 うが 、 北側 の一 体 の み 正 面 向 きで 琴 を
爪 弾 き、他 は いず れ も華 を盛 っ た華 籠 を奉 じて仏 殿 上 の 諸尊 を供養 賛 嘆 す る。 また 四面 と も蓮
弁 が 降 っ た り、 天 衣 を結 ん だ 楽 器 が 自然 と奏 で る妙 音 を表 した り してい る。
(5)来 迎 壁 裏 面(図1∼12)
来 迎 壁裏 面 は、 激 しい流 れ を呈 す る ク シナ ー ラの ア ジ タヴ ァテ ィー河 の ほ と りで 、 宣 字 型 の
枕 を北 に して宝 台 に横 た わ る釈迦 如 来 を、 画 面 中央 に一 際大 き く描 き出す 。 釈尊 は両腕 を延 べ 、
仰 向 け にな っ て う っす ら と開 い た眼 差 しを右 上 の 摩耶 夫 人 に投 げか け 、 これ に視 線 を返 す 摩耶
は今 や 、裟 婆 世 界 で の 息子 に別 れ を告 げ て仞 利 天 に戻 ろ う とす る と ころ と思 わ れ る 。 涅 槃 図 に
登 場 す る摩 耶 夫 人 とい う と、短 絡 的 に仞 利 天 か ら下界 に降 りる姿 と説 明 され るが 、 本 図 で は 身
体 が 画 面 の外 側 に向 い 、顔 だ けが 釈 尊 の 方 を振 り返 る様 子 で 、明 らか に天 上 界 へ の 進行 を示 し
てい る。 『
摩 訶 摩耶経 』巻 下 に、 「悲嘆 に眩れ る 生母 の ため に大 神力 を もって起 き上 が っ た釈 尊 が 、
仏 は滅 す れ ど も法 僧 宝 は常 住 で あ る 旨 を説 き聞 か せ る と、摩 耶 は漸 く安 らか な慰 め を得 て 、顔
色 も蓮 華が 花 開 くよう に悦 び の表 情 とな っ た」とあ り、本 図 はそ の後 の場面 を写 す もので あ ろ う。
釈 尊 の眉 は、 そ の頭 髪 に照 らせ ば群青 と墨 の二 色 で表 わ してい た もの と類 推 され、唇 は合 わせ
目の線 を朱 で引 い てか ら、 両 端 にの み墨 線 を重 ねて ア ク セ ン トを付 け る。 また面 貌 の輪 郭 な どに
は輪 郭線 に沿 った筆 の刷 毛 目が 明瞭 に判 じられ 、釈 尊 の 肉色 は白色顔 料 を下 敷 き と した藤 黄 に よ
る透 明度 の高 い黄色 で あ っ た こ とが わ か る。 胸 の卍 花文 相 は赤外 線写 真 で は見 出 し難 か っ たが 、
この度 の調 査 で は 明瞭 とな った 。 こ う した肉 身 は まず 墨線 で下描 き し、彩 色 を施 した後 に朱 線 で
描 き起 こす とい う、仏 画 に通 有 の方 法 で描 か れ てい る よ うで、足 の指 の輪 郭 には墨 線 よ り も長 く
引 か れ た朱線 を認 め る こ とが で きる。 いず れ に しろ線描 は暢 達 して お り、細 い なが ら も張 りの あ
る、 のびや か な美 しさ を保 っ てお り、表面 の 九品 来迎 図 とは、別の主 任画 家 の存 在 を想像 させ る。
釈 尊 の 法 衣 に は、 点 描 に似 た花 の文 様 が 数 多 くあ しらわ れ て い るが 、仔 細 に検 す る に単 な る
点 描 で はな く、 同系 色 の 濃 淡 を二 段 あ るい は三 段 用 い た花 弁 とわか る。 これ を三 重 の 同 心 円状
にす るが 、 地 が寒 色 系 の場 合 は花 文 を暖 色 系 に、 逆 に地 が 暖色 系 な ら花 文 を寒 色 系 に とい う よ
うに変 化 を付 け て い る。 また小 さな点 描 円文 や 、 暖 色 系 の 花弁 と寒色 系 の咢 とを組 み 合 わせ た
大 振 りの 団 花 文 も認 め られ る。
ところ で本 図 と、 応 徳 三年(1086)銘 金 剛峯 寺 所 蔵 仏 涅 槃 図(応 徳 涅槃 図)と が 、 良 く似 た構 図
を取 る こ とは周 知 の とお りで あ る。 宝 台 の 向 こ う側 の 衝立 の存 在 は大 きな相 違 点 の 一 つ と言 え
よ うが 、 そ の 主要 部 の 巴文 、 周縁 部 の花 弁 を幾 重 に も 開い た八 重 花 文 や 点描 に よる円 文 とい っ
た、 本 図 の 文様 を代 表 す る三種 類 の文 様 は、 実 は応 徳 涅 槃 図 に も多 用 され る こ とは興 味 深 い 。
宝 台 の 四方 に は、 そ れぞ れ二 株 ず つ の沙 羅 が 茂 り、釈 尊 に安 らか な木 陰 を献 じ る。 『
大般涅槃経
疏 』に四株 は枯 れ 四株 は栄 える と説 き、応 徳 涅 槃 図 が 栄 枯 の 区別 を忠 実 に描 くの に対 して 、本 図
で はい ず れ もが蓮 華 の よ うな花 を着 け て い る。 注 目 され るの は北 側 の 双樹 で、 釈 尊 の 旅 を助 け
178
絵 画 に よる 空 間 の 聖 別
た錫 杖 を立 て掛 け るの は応 徳 涅 槃 図 と通 じるが 、 風 呂敷 の よ う な包 み と と もに、 紐 で 結 ん だ独
鈷杵 と五 鈷杵 と を振 り分 け荷 物 の よ う に下 げ てい て 甚 だ密 教 的 な情 景 と言 え る。
さて釈 尊 の枕 頭 で は、合 計6体
の菩 薩 が 静 か に無 常 の顕 現 を見 守 って い る。 応 徳 涅 槃 図 の 短
冊 形 に記 され た名称 を参 照 す れ ば 、釈 尊 入 滅 の56億7千
万 年 後 に成 道 を果 たす 弥 勒 が 釈 尊 の 宝
台 に手 をか け て深 い 縁 を想 わせ 、地 蔵 が そ の後 ろ に控 え て 、無 仏 時代 の衆 生 救 済 を誓 う。 す な
わ ち『大般 涅 槃 経 』の 「聖 行 品」と「光 明 遍 照高 貴 徳 王 菩薩 品 」に、 「釈 尊 は か つ て雪 山童 子 で あ った
時 、 施 身 聞偈 とい う求 法 の結 果 、十 二 刧 の時 間 を超 越 して弥 勒 菩 薩 よ りも早 く成 道 した が 、釈
尊 の 出現 した の は西 に三十 二 恒 河 沙 の仏 国土 を過 ぎた先 に あ る無 勝 世 界 で あ っ た。 この 裟 婆 世
界 を清 浄 にす る の は実 は弥 勒 如 来 で あ る」とあ り、 また 『
地 蔵 菩 薩 本願 経 』で釈 尊 は 、仞 利 天 で 摩
耶夫 人の た め に説法 した際 、 地蔵 菩 薩 に弥 勒 出 世 まで の期 間 の衆 生救 済 を命 じて い るの であ る。
迦 葉 童 子 は 、姿 こそ子供 なが ら『
大 般 涅 槃 経』「寿命 品」に菩 薩 位 を得 て い る こ とが 明記 され る。
虹 彩 に は釈 尊 の 口唇 と同 じ濃 度 が検 出 さ れ 、朱 を彩 って い る こ とが 認 め られ、 ま た まる で 回 転
す る車 輪 の よ う角 髪 は、 淡墨 の地 に太 い線 と細 い線 と を交互 に引 き揃 えた細 か な描 写 と知 られ
る。 沙 羅 双樹 の 向 こ うで 目 を伏 る普 賢菩 薩 は 、一 転 して 簡略 な筆 使 い なが ら哀 悼 の 表 情 を見事
に演 出 して お り、 殊 に眉 間 の 一本 の皺 が効 果 的 であ る 。衝 立 の 陰か ら顔 を出す 菩 薩 が 観 音 で あ
る こ と は、宝 冠 の化 仏 か ら明 らか な こ とで あ るが 、 そ の 化仏 もま た小振 りなが ら、 豊 か な 頬 と
た っ ぷ りと した肩 巾 に膝 張 りの バ ラ ンス も良 く、 大 らか な雰 囲気 を漂 わ せ て い る。 観 音 の 右
目 を見 れ ば、輪 郭 を瞳 で 一 旦 途切 らせ て お り、鼻 梁 線 と人 中 を繋 げ る顔 側面 の描 法 と と も に、
古 様 な印 象 を与 え る。 衝 立 の前 で釈 尊 を合 掌礼 拝 す る菩 薩 の姿 は応 徳 涅 槃 図 に見 られ ず 、 一 概
に尊 名 を比 定す る こ とはで きない が、 文 殊 、高 貴徳 王 、無 辺 身 の う ちいず れか で あ る とす れ ば、
『
大 般 涅 槃経 』にお け る重 要 度 か ら推 して文 殊菩 薩 であ る可 能性 が 最 も高 い 。 「一 切 大衆 所 問 品」
に お い て釈 尊 が 方 便 の病 を現 じる際 、正 法 を付 嘱す る のが この 文 殊 だ か らで あ る 。
な お、 宝 台 の東 西 で釈 尊 を守 護iする の は 、 帝釈 天 と梵 天 で あ る。 帝 釈 天 は額 に 第三 眼 を有 す
る こ とで、 ま た梵 天 は頂 に火 炎 宝 珠 を置 き、花 弁 や蕨 手 を象 る 大振 りの金 具飾 りを付 す 宝 冠 を
戴 くこ とで、 そ れ と知 られ る。 特 に宝 冠 の 意 匠 は 、 の びや か な線 描 の力 に よ って いず れ も活 き
活 き と描 か れ 、 画家 の技 倆 の程 を偲 ばせ る の に十 分 で あ る。
この二 体 の天 部 を挟 んで 菩 薩 衆 と反 対 側 、 つ ま りほ とん どが 釈尊 の足 許 を囲 む の は十 五 体 の
比 丘衆 で あ る。 本 図 の画 家 は 、菩 薩 衆 とは対 照 的 に深 い悲 嘆 の 淵 に沈 む比 丘 の何 人 か を沙 羅:双
樹 に見 え 隠 れ させ 、奥 行 きあ る構 図 を工 夫 す る。 応徳 涅 槃 図 よ りも一体 多 く、 姿 態 も位 置 も菩
薩 衆 ほ どに は似 通 って い な い た め、 各 々の 僧 名 の 比定 は難 しい 。 柳 澤氏(註2⑨)は
、左 下 方 で
仰 向 け に倒 れ つ つ号 泣 す る 一 体 を後 補 とす るが 、 顔 の 表情 は他 の比 丘 と良 く共 通 す る。
とこ ろで比 丘 衆 の表現 上 の特徴 は、 異 国 的風 貌が 顕著 な上 に、 そ れぞ れ の個性 を強 烈 に ア ピー
ル して い る 点 に求 め られ る 。例 え ば嘆 きの表 情 一 つ とっ て も、 号 泣 す る者 もあ れ ば下 唇 で しっ
か りと口 を塞 ぐ者 もあ り、鼻 を摘 む者 や鼻 の下 を押 さえ る者 、 目 を擦 る もの等 々 、様 々 で あ る。
指 も鋭 い 爪 の よ うに細 い 者 や 、 や や ふ っ くら と して爪 に何 らか の色 を付 け た者 、眉 も ピ ン と上
が っ た者 や 垂 れ 下が っ た者 な どの他 、鼻 に まで垂 れ る程 長 い者 もい るが 、 そ の眉 毛 は ほぼ 一粍
間隔 で 引 き揃 える とい う卓 越 した 筆遣 い も見 られ る。 また体 毛 の濃 い 者 は これ を手 控 えず に腕
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安嶋
紀昭
に まで 密 生 させ 、 剃 り上 げ た頭 髪 をつ む じの 向 きに従 っ て点 を繋 い だ り、 縮 毛 で あ る こ とを強
調 した りと、過 度 と も言 え る現 実 味 の追 求 が顕 著 に認 め られ る。 こ う した嗜 好 が 、 応 徳 涅槃 図
を は じめ とす る 日本 の 院 政 期 の 遺 例 に、 果 た して 求 め 得 る で あ ろ うか。
そ れ は ともか く、次 に画面 左 下 か ら中央 にか けて は、 俗 形衆 七 体が 配 され て い る。 迦葉 童 子 の
傍 で 変 わ っ た冠 を被 り、 供物 を捧 げ持 つ老 人 は眉 も顎髯 も長 く、 応徳 涅 槃 図 に照 らせ ば 「毘 舎 離
城 大 臣長 者」す なわ ち維 摩 居 士 で あ ろ うか 。 その 前 方 に唯 一 登場 す る優婆 夷 は後宮 夫 人 、釈 尊 の
左 肩 近 くで頭頂 に大 きな花 冠 を戴 き、袖 で涙 を拭 って い るの は耆 婆大 臣で あ ろ う。 彼 は単 な る王
宮 の大 医 とい うばか りで は な く、 悪逆 非道 の 阿 闍世 王 に入 信 を勧 め 、沙羅 林 で の釈 尊 の説法 に預
か らせ て とう と う菩薩 道へ の精 進 を発 心 させ た 、凡 夫 に とって善 知識 の象徴 ともい うべ き存 在 で
あ る。 そ の 背後 に あ って 、 袖 で 覆 った両 手 に布 包 み を抱 え る 人物 は応徳 涅 槃 図 に 「純 陀子 」と し
て 登場 して い る。 す る とそ の後 方 、 画面 の最 も左 下 隅 で 口 を開 け なが ら釈 尊 を仰 ぎ見 るの は、
表情 や姿 勢 、 服 装 か ら純 陀本 人 と も解釈 で きな くもな い が 、本 図 の場 合西 側 の沙 羅 双 樹 の手 前
で 、跪 座 しつ つ慎 しや か に椀 飯 を捧 げ る 人物 が そ れ に比 定 で きる こ とか ら、 む しろ釈 尊 最 後 の
弟 子 で あ り、 『大 般 涅 槃経 後 分 』「
橋 陳如 品 余 」で 自 ら焚 死 を遂 げ た とされ る須 跋 達 羅 と考 え るべ
きな の で あ ろ う。 梵天 の後 方 、顔 が 半 ば樹 幹 に隠 れ て い る男性 は 、威 徳無 垢 称 王 と思 わ れ る。
さ らに右 端 には 、金 剛力 士 一 体 が そ の逞 しい身 体 に も拘 わ らず 、 あ られ もな く泣 き くれ てい
る が 、 そ の衣 や 鎧 に も本 図 で支 配 的 な巴文 や八 重 花 文 をあ しらっ た華 麗 な装 い を呈 して い る。
右 下 隅 で右 前 足 を 目に 当 て て号 泣 す る獅 子 は、 仰 向 け に腹 を さ らけ 出 して 悶 え る。 この よう に
本 図 は 、釈 尊 一 体 を中心 と して、 合 計 三十 四体 の 衆 生 が 画 面 一杯 に取 り巻 い て い る の で あ る。
(6)四 天柱
A西
柱
四天 柱 の図様 は 、礼 堂 側 の 二 本 つ ま り東 柱 ・南 柱 と、 来 迎 壁 の付 い た二 本 つ ま り西 柱 と北 柱
との 二 つ の グ ル ー プ に分 け られ る が 、画 家 は四 本 と も仏 涅 槃 図 と同一 と考 え られ る。
便 宜 上 西 柱 か ら述 べ れ ば、 太 子 堂 の ち ょ う ど西 北 に当 た る曲 面 の ほ ぼ天 地 一杯 を用 い て、 蓮
台上 に直 立 して 火焔 に包 まれ る三 鈷 柄剣 に巻 き付 き、 これ を切 先 か ら呑 み 込 まん とす る勢 い の
龍 の姿 が 描 か れ る(図13∼15)。
龍 は 、根 が 一 つ で 中途 か ら二 本 に分 か れ る角 を生 や し、丸 い両
眼 で剣 の切 先 を見 つ め 、長 い牙 と鋸 歯 の如 く並 ぶ 上 下 の歯 を剥 き出す 。 鱗 の あ る脚 か らは渦 を
巻 く よう に毛 が 密 生 し、が っ ち り と刃 を把 む鈎 爪 は先 端 が 深 い屈 曲 を示 す 。 そ の 尖 鋭 な様 を、
的確 な筆 使 い と張 りの あ る熟 達 した線 描 に よっ て見 事 に表 現 す る 画家 の力 量 は、 高 く評価 され
な け れ ば な る ま い。
こ の倶 利 迦 羅瀧 剣 に従 う眷 族 は合 計 五 体 で 、 そ の うち最 も来 迎 図 寄 りの一 体 は四 臂 の 立像 で
あ る。 頭 頂 部 は 禿頭 とす るが 周 縁 部 に は勢 い 良 く渦 を作 る毛 髪 を生 や し、太 い 鎖 で 鉢 を巻 い て
額 上 に大 きな五 稜 形 の飾 りを付 け る。 額 中 央 に は皺 を重 ね、 ぎ ょろ りと した両 眼 で 上 目遣 に倶
利 迦 羅 龍 を見 上 げ 、鼻 は大 き く、頬 骨 は尖 り、 そ して上 唇 か ら上 の 歯 を 出 して舌 を噛 む とい う
奇 怪 な表 情 で あ りな が ら、両 側 の顳 纈 のあ た りに は可 愛 ら しい 小 さな リボ ンを結 び、 一種 の諧
謔 味 を も呈 して い る 。左 第 一手 は藤 を巻 い た 附 の部 分 だ けが 外 側 に出張 っ た弓 を垂 直 に立 て て
180
絵 画 に よる 空 間 の聖 別
握 り、 右 第 一 手 は鏃 を狩 誤 と腸抉 の尖 根 と した二 本 の矢 を、 第 一 ・二指 で摘 む よ う に持 つ 。 ま
た左 第二 手 の 五 鈷 杵 は 中鈷 の鋭 さ も さる こ とな が ら、 一 旦 窄 め な が ら さ らに先 端 を伸 ばす 脇 鈷
の描 写 は武 器 と して の 本来 の性 格 を強 く感 じさせ る。 何 も持 た な い右 第 二 手 は胸 前 に伏 せ て軽
く指 を 曲 げて い るが 、 この指 の 背 に膨 らみ が な く、 関節 で 突 然 に屈 曲す る よう な印 象 を与 え る
特 徴 あ る筆 線 は、 後 述 す る聖 徳 太 子 画 像 にお け る妹 子 や 馬 子 の外 耳 に も見 出 され る。腕 釧 は一
重 なの に対 し足釧 は重厚 で 、 巾広 の側 面 に巴 をあ しら う円文 を巡 らせ るが 、 この意 匠 はや は り、
来迎 壁 裏 面 の 仏 涅 槃 図 や 聖徳 太 子 画像 に 共 通 す る 。
そ の足下 付 近 に右 膝 を立 て て跪 く一体 は二 臂 で、 膝横 に降 ろ した左 手 に細 身 の宝 棒 を握 る が、
右 手 は リボ ン製 の腕 釧 を着 け た手 首 か ら先 が 膝 に隠 れ て見 え ない 。厚 い 瞼 を どん ぐ りの よ う に
開 き、 そ の奥 の瞳 か ら斜 め上 を仰 ぎつ つ 何 か を叫 ぶ よ うに 口 を開 け、歯 と舌 を見 せ る 。 ま た頭
の 周 縁 部 にだ け、 ま っす ぐな 毛 を伸 ば して い る。
この 童子 と視 線 を合 わせ る もう一体 の童 子(図16)は 、 頭頂 の や や後 ろ に金具 飾 りを付 け 、 そ
の 前 方 か ら両 脇 に か け て次 第 に濃 く巻 髪 を生 や す 。 眉 間 を寄 せ 、 両 眼 を見 開 き、 下 唇 を人 中 に
か か る 位 まで持 ち上 げ るが 、 上歯 を隠 し切 れず に両側 か ら見 せ て い る。 さ らに特 徴 的 な の は持
物 の 武 器 の物 々 しさ で、左 手 の木 製 の金 剛 杖 に は幾 本 もの鋭 い刺 が あ り、 第二 指 を伸 ば した ま
ま胸 前 で 右 手 に握 る五 鈷 杵(図17)に は 、脇 鈷 に大 き く鋭 い 三 日月形 を付 して い る。
一 方倶 利迦 羅 龍 の 向 か って左 には、 金 剛合 掌 す る童子 と蓮 華 を持 つ 童 子 とが、 一 体 ず つ 上 下
に重 な り合 う よ うに配 され て い る 。前 者 は 、仏 涅 槃 図 の 方 に頭 を差 し出 しつ つ斜 め下 方 か ら倶
利 迦 羅 龍 を見 上 げ 、 や は り頭頂 部 の み禿 頭 と しなが ら他 の部 分 は ふ さふ さ と した巻 髪 を獅 子 の
鬣 の よ う に靡 か せ 、拉 げ た鼻 の 大 きな孔 を膨 ら ませ て 吠 え る よ うに ロ を開 け る。 この躍動 感 溢
れ る童 子 に対 して 、後 者(図18)は 直 毛 を所 々 で束 ね 、 口 も緩 や か に結 び 、大 きな 目で穏 や か に
真 横 を見 る。 面 長 な面 貌 の向 く先 には掲 げ た左 手 が あ り、 第 二指 の み伸 ば して余 指 で 握 る蓮 華
の 茎 は頭 上 まで達 し、 開敷 、 未 開敷 の 二 花 を付 け る ので あ る。
B北
柱
西 柱 と来 迎 壁 を挟 む 北柱 は、 や は りち ょ う ど北 東 の 方 角 に当 た る 曲面 に、 火焔 光 を負 い 、 岩
坐 上 に立 っ て左 を向 く不 動 明王 が 描 か れ る。 頭頂 に髪 で 七 つ の 輪 、 い わ ゆ る七 莎髻 を拵 えて 中
心 に頂 蓮 を置 き、 他 の 巻髪 の先 は流 し放 ち、左 下 に弁 髪 を垂 ら して先 端 付 近 を金属 性 ら しい 花
飾 りで 括 る。 そ の毛 筋 は ほ ぼ一 粍 間隔 で 平 行 線 的 に引 き重 ね られ て お り、 こ こ に も画家 の卓 抜
した技 倆 を認 め る こ とが で きる。 面 貌 表 現 は赤外 線 の透 過 力 で も全 て を 明 らか に は し難 いが 、
額 に皺 を刻 ん で両 眼 とも見 開 き、右 の 瞳 は 目頭 に寄 り、左 のそ れ は中央 に あ って 斜 め下 を睨 む
形 相 を作 る。 へ の字 に結 ぶ 口 に右 牙 は見 え な いが 、左 は捲 れ た上 唇 か ら歯 茎 ご と突 き出 る上 牙
が下 唇 を噛 む 。 三道 に はか つ て施 した濃 い暈 取 りの痕 が 明瞭 に窺 え、 肉厚 の足 の 甲 もは っ き り
と判 じ られ る。 また臂 釧 は、厚 み の あ る花 形 の金 具 を、長 さ も巾 もた っぷ り と余 裕 あ る リボ ン
で結 び つ け て お り、 か な り大 振 りな印 象 を受 け る。
不 動 尊 の持 物 は 、左 手 で 腹前 に羂 索 を握 り、右 手 は腰 の あ た りで 宝 剣 の 三鈷 柄 を執 るが 、 そ
の剣 の周 縁 に火 焔 が這 う こ とに注 目 した い。 何 故 な らば経 軌 で この 火焔 を説 くの は、 『慈 氏 菩薩
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安嶋
紀昭
略 修 愈 識 念 誦 法(慈 氏 軌)』(円仁 ・恵 運 ・円 珍 ・宗 叡 請 来)の み で あ るが 、現 存 遺 例 で は醍 醐 寺
本 八 大 明 王 図像(円 仁)、 仁 和 寺 本 別 尊雑 記 所 収 尊 勝 曼 荼 羅 図 や 同 じ く不 動 明 王 三童 子 五 部 使 者
像(い ず れ も円珍)に 見 られ、 本 図 の不 動 明王 も三 童 子 に加 えて 、大 分 不 鮮 明 で は あ るが 五 部 使
者 を も眷 族 と して い る ら しい か らで あ る。
す な わ ち不 動 尊 の左 手 側 を見 れ ば 、 まず 額 上 で 左 右 対称 的 に渦 巻 を作 る とい う変 わ っ た髪 型
の童 子 が 目 に付 く。 や や右 を向 き、大 きな両 眼 の 上 瞼 中 央 を少 し凹 ませ て 視 線 を心 持 ち下 方 に
落 と し、 口 を真 一 文字 に結 ぶ 沈 痛 な表 情 を して 、 右 肘 を曲 げ胸 前 に三 鈷杵 を持 つ。 その 三 鈷 杵
の真 下 に は、 逆 に上 瞼 中央 を極端 に 吊 り上 げて 正 三 角 の よ うな形 の 眼 を した童 子 が 、右 上 を向
い て静 か に両 手 を胸 前 で組 み 、左 右 それ ぞ れの 第 二 ・五指 を立 てつ つ 余指 に独 鈷 杵 を挟 んで い
る 。臂 釧 に は菱 形 に花 弁 の重 な る 金具 飾 りを、 腕 釧 には リボ ンを用 い る。 この童 子 の視 線 の す
ぐ先 に は 、肩 まで伸 ばす 髪 を頭頂 で左 右 に分 け た 童子 が 、 反対 に左 向 きの姿 勢 を取 る。 眉 も眼
も極 端 に 垂 ら し、下 唇 で上 歯 を噛 み 、今 に も泣 き出 しそ う な表 情 で あ る 。
以 上 の 三 童子 よ り下 部 は画 面状 態 が 甚 だ し く悪 い が 、 ち ょ う ど不 動 尊 の羂 索 の横 の辺 りに頭
頂 で左 右 に分 け た髪 が 見 出 され る の を は じめ 、跪 坐 す る臀 部 の形 を留 め る裳 な ど幾 体 か の 衣服
も確 認 さ れ る こ とか ら、 上 記 の推 測 が 成 り立 つ の で あ る。 前 述 の 縁 起 に照 らせ ば四 天柱 の 画像
は八 大 童 子 で あ るが 、 本 図 の場 合 は三 童 子 とそ の他 との大 きさが 異 な り、扱 い の上 で 明確 な差
が あ る こ と を考 慮 す るべ きで あ ろ う。 あ る い は西 柱 の五 童 子 と北柱 の 三童 子 とを合 わ せ 、八 大
童 子 と呼 ん だ もので あ ろ うか。 それ に して も、三 童 子 の描 写 を来振 寺本 や 延 暦 寺 本 、 園城 寺 本
とい っ た 同種 の 遺例 と比 較 す る な らば、 本 図 の特 殊 性 が 一層 際立 つ に違 い な い。
と ころ で北 柱 の上 方 、 最 も仏 涅 槃 図寄 り には 、一 体 の孔 雀 明 王 が描 か れ る。 孔 雀 は羽根 を広
げ、脚 を縮 め て先 も丸 め て お り、 明 王 の天 衣 が 風 を孕 んで 翻 って い る とこ ろ を見 る と、 た っ た
今 飛 来 して きたか の よ うな 印象 を与 え る。 明王 は頬 の豊 か な面 輪 に鋭 い眼 光 を秘 め た厳 しい顔
付 で 、一 種 の焦 燥 感 す ら漂 わせ て お り、孔 雀 は顔 を背 け るか の よ うに長 い 頸 を傾 げ て仏 涅 槃 図
とは反 対 側 を向 く。 明 王 は胸 前 の左 掌 上 に宝 珠 を載 せ 、 膝 元 の 右手 に宝 剣 を執 るが 、管 見 に し
て不 動 、孔 雀 の 両 明 王 を同 じ柱 に組 み合 わせ る教 義 的 理 由 を私 は知 らない 。 い ず れ に しろ こ う
した諸 尊 が、 北 柱 の 円 周 の う ち九 品 来迎 図側 のお よそ 四 分 の 一 を除 く面 に、 窮屈 に さえ感 じ ら
れ る程 集 中 的 に描 か れ る構 図 に は、 作 者 の 何 らか の意 図 を感 じず に はお れ ない 。
C東
柱
東 柱 の お よそ 下半 分 は灯 明 油 が撥 ね て固 ま った ら し く、水 泡 の よ う に粒 立 っ た汚 れで 覆 わ れ
てお り、 その 部 分 は赤 外 線 も全 く透 過 しな い。 この柱 を便 宜 上 、北 東 面 か ら時計 回 りに眺 め る
こ と とす る(○ 数 字 下 の 方 角等 は 、柱 にお け る画 面 の お お よそ の位 置 を示 す)。
① 北 東 上 段 。 頭 光 を負 い宝冠 を被 り、 蓮 台 上 に趺 坐 す る 菩薩 形 で、 斜 め右 を向 く。 柱 の 菩 薩
の服 制 はい ず れ も上 半 身 に条 帛 と天 衣 を纏 い 、 下 半 身 に裳 と腰 衣 を着 る もの の よ うで、 足 先 は
裳 に隠 して 見 せ な い。 こ の菩薩 は少 し口 を開 き、 下 歯 と舌 を見 せ 、 両 手 を固 く縛 しつ つ 何 か 言
葉 を発 す る模 様 で あ る。 三 道 は示 さず 、 一 本 線 で 頸 を示 す 。/② 北 東 中段 。頭 の鉢 に、 四 稜花
形 の 飾 り金 具 を付 す 帯 金 を巻 く神 将 形 。 汚 損 の た め 、確 認 で きるの は面貌 の左 半 分 に限 られ る
182
絵 画 に よる 空 間 の 聖 別
が 、 眉 も顎髯 も濃 く長 く、 眼 の周 囲 に幾 本 もの皺 を刻 む 。 耳 の 横 に持物 の柄 が 通 って お り、 こ
れ を辿 る と先 端 には旗 の よ う な布 が翻 って い るが 、 あ るい は矛 や 戟 の類 で あ ろ うか 。/③ 東 上
段 。 右 向 きの 菩薩 形 で 、第 一 指 と余指 の 問 を少 し離 しつ つ 合 掌 す る。 口 を 閉 じ、上 下 の 唇 の 境
に雁 金 型 の 墨 線 を一本 入 れ るが 、 そ の屈 曲 が深 いの も本 図 の 画 家 の 特徴 で あ る。/④ 東 上段 。
華 や か な花 葉 の装 飾 を あ しら う宝 冠 を着 し、五 指 を揃 えて 合 掌 す る菩 薩形 。 眼 窩 の弧 線 を引 か
ず 、 上 瞼 の す ぐ上 に平 行 線 的 に一 本 の線 を添 え た り、 小 さ な鼻 孔 を黒 く塗 り潰 した りと人 間 的
な表 現 が 目立 つ が 、 三道 は しっか りと三本 の弧 線 を用 いて 表 す 。/⑤ 東 中段 。 眉 間 を きつ く寄
せ て眉 部 分 の 筋 肉 を異様 に盛 り上 げた り、小 鼻 を大 き く して鼻 の 巾 を広 く した り、 鋭 角 の 頬 骨
を前 方 に突 出 した りと、殊 更 凹 凸 を強調 した面 貌 表 現 で あ る。 奥 に引 っ込 ん だ両 眼 も丸 い 眼 球
を飛 び出 させ て 瞳 は 上方 を睨 み 、 長 く弧 を描 く よう に頭 上 にか か る 眉 毛 や 、顳 額 か ら顎 にか け
て ぐる り と密 生 す る 毛 も逆 立 てた 、 恐 ろ しい 忿怒 の 形 相 で あ る。 や や 右 を 向 き、 左 耳 の横 を通
る柄 の 先 には 、細 長 くま っす ぐな 諸 刃 と段 違 い に取 り付 け た短 い 二 つ の逆 様 の諸 刃 とが あ り、
戟 と知 られ る 。特 徴 的 なの は額 の 上部 か ら輪 を積 み 重 ね た よ う な頸 が伸 び て、 大 き な眼球 と太
い 嘴 を持 つ 鳥 頭 を載 せ てい る こ とで 、薬 師 如 来 に随 従 す る十 二 神 将 の うち酉 神 か。 残念 な が ら
面 貌 よ り下 は 、水 泡 状 の損 傷 で ほ とん ど判 別 で きない 。/⑥ 南 南 東 中段 。 額 に 山型 の 皺 を三 筋
刻 む 。 そ の 下 は不 明 だが 、 宝 冠 正 面 に太 く長 い耳 を持 つ 動 物 を戴 く神将 形 で、 卯 神 と考 え られ
る。/⑦ 南 上段 。蓮 台上 で や や 右 を向 きな が ら第一 ・五 指 の み を合 わ せ余 指 を離 す 、 い わ ゆ る
初 割 蓮 合 掌 の 菩薩 形 。/⑧ 南 南 西 中段 。胸 前 で 、籠 手 を はめ た右 手 第 一 ・二 指 で 矢 筈 を摘 む 神
将 形 。 面 貌 は 全 く見 え ない が 、 宝 冠 に角 を二本 生 や した羊 の よ う な動物 を戴 い てお り、未 神 と
比 定 で き る。/⑨ 南 西 上 段 。 両 眉 根 を寄 せ 、悲 しげ な表 情 を呈 す る菩 薩形 。 蓮冶 上 に坐 して 、
合 掌 しつ つ 前 方 に突 き出す よ うな 手 勢 を取 る 。/⑩ 南 西 下 段 。 面 貌 は不 明 なが ら、 揉 上 か ら顎
にか けて 密 生 して い る と考 え られ る毛 が認 め られ る。/⑪ 西 南 西 中段 。 目頭 に縦 線 を入 れ る 大
き な両 眼 、 正 面 を向 く鼻 孔 、 上 下 の 歯 と舌 と を見 せ る ほ ど開 く口 な どの異 相 を示 しなが ら、 宝
冠 上 に蛇 身 が 確認 され 巳神 と推 定 され る。/⑫ 西 上 段 。 や や 右 を向 き、前 方 を ま っす ぐに 見 つ
め つ つ 蓮 台 上 に坐 す 菩薩 形 。 右 を上 に して 指 を交 互 に重 ね る、 い わ ゆ る帰 命 合 掌 を基 本 と しな
が ら第 一 ・五 指 の み腹 を合 わせ る。/⑬ 西 北西 上 段 。 右 下 方 を向 く菩 薩形 。/⑭ 西 北 上段 。 右
下 方 を向 き、 堅 実心 合掌 す る菩 薩 形 。/⑮ 北北 西 下 段 。 眉 間 に皺 を寄 せ 、顔 や 身体 は や や左 向
きなが ら瞳 は右 を見 る 。両 眼 とも 目尻 の 方 を縦 に大 き く開 き、 鷲 鼻 で 、 閉 じた 口か ら舌 を長 く
出 し、 眼 の 周 囲 や痩 け た頬 には幾 筋 もの 皺 を刻 む異 相 を呈 す る。 乾 闥 婆 か 。
D南
柱
同 じ く、 北 東 面 か ら時計 回 りに記 述 す る。
① 北 東 上 段 。 蓮 台 上 に坐 す斜 め左 向 きの菩 薩 形 で 、 両手 の指 を付 けて 揃 え る 堅実 心 合 掌 をす
る。/② 北 北 東 中段 。 斜 め 右 向 きの唐 装 の女 神 形 で 、 若 干 開 い た 口 中 は黒 く塗 られ てい る。 大
きな 丸 い胴 に長 い頸 を付 け 、 蓋 の部 分 に宝 珠 を象 る水 瓶 の よ うな もの を胸 前 に捧 げ る。/③ 北
東 中段 。 眉 毛 の一 本 一 本 を、 面 貌 の外 側 に 向 けて斜 め に上 か ら下へ と引 き、 全 体 に反 りの 少 な
い横 一文 字 の 形 とす る。 この た め 、表 情 が とて も悲 し げ に見 え る 。 この 女 神 形 は 、上 瞼 の 上 に
183
安嶋
紀昭
短 い線 を添 わ せ た切 れ長 の 眼 が 殊 に美 しい 。髪 に は、 小 さ な横長 の飾 りを数 多 く装 う。 合掌 し
た形 の両 手 を袖 に 隠 し、 胸 前 で 長 四 角 の経 筥 の よ うな もの を抱 え持 つ 。/④ 北北 東 下段 。盛 り
上 が っ た眉 の 筋 肉 、真 円 に近 い 両 眼 、前 に 突 き出 た よ う な鷲 鼻 、尖 っ た頬 骨 、 開 い た 口 の両 端
か ら上 へ と伸 び る牙 、 い ず れの 要 素 を取 っ て も恐 ろ しげ な面 貌 の頭 上 か らは 、 長 い 胴体 をS字
状 に屈 曲 させ て 口 を 開 け る蛇 が鎌 首 を もた げ て い る。 す な わ ち天 衣 を纏 っ て跪 坐 す る摩 喉 羅 伽
は 、右 手 を拳 に握 っ て右 眼 の下 に当 て て い る 。/⑤ 東 中段 。 斜 め右 向 きの 女 神 形 で 、髪 を頭 上
に高 く結 い上 げ て耳 を見 せ る。左 手 は腹 前 で掌 を伏 せ 、右 手 は胸 前 に細 い 巻 物 を持 つ 。/⑥ 東
下 段 。 濃 い眉 に杏 仁 形 の両 眼 と鷲 鼻 を持 ち 、へ の字 に結 ん だ 口 には髭 を、 顔 の 周 囲 には 鬚 を 蓄
えて い る。 厳 め しい武 将 を髣 髴 させ る面 貌 表現 で は あ るが 、 その頭 上 には 、 左 右 三 本 ず つ の指
に生 え た鋭 い 鉤 爪 で額 に把 ま り、 長 い胴 体 を頸 に巻 き付 け た龍 が牙 を剥 き出 して い て 、 明 らか
に龍王 と判 じられ る。 左 右 の手 は、胸 前 で 四 角 い板 の よ う な もの を しっか りと握 って い る 。/
⑦ 東 南 上 段 。 蓮 台上 に斜 め左 向 き に坐 す 菩 薩形 で 、胸 前 の合 掌 手 は 内 を若 干 膨 ら ませた い わ ゆ
る虚 心 合 掌 とす る 。/⑧ 東 南 中段 。横 一 文 字 の眉 尻 を若 干 下 げて 、今 に も泣 き出 しそ うな表 情
の女 神 形 で あ る 。髪 の房 に は四稜 花 を組 み 合 わせ た大 きな飾 り金具 を装 い 、 両 手 で 豪 華 な胸 飾
りを捧 げ持 つ 。/⑨ 東 南 下 段 。 頭 部 は不 明 な が ら、左 手 で 腰 に差 した宝 剣 の 柄 を握 り、 防具 に
固 め た右 足 を前 に胡 坐 す る神 将 形 。/⑩ 南 西 中段 。 斜 め左 を 向 き、胸 前 で 堅 実 心 合 掌 をす る 女
神 形 。 横 一 文字 の眉 を し、 瞳 の 周 りに は 若 干 の空 白 を設 け て平 行線 的 に一 本 の 線 を添 え る 。/
⑪ 西 北 西 上 段 。 髪 に 円盤 状 の大振 りな飾 り金 具 を装 う女神 形 。斜 め右 を向 き、 四稜 形 の盤 に乗
せ た脚 付 きの香 炉 を胸 前 に捧 げ る 。/⑫ 西 南 西 上 段 。 髪 に細 く横 長 い飾 りを装 う女神 形 。斜 め
左 向 きで 、鼻 をつ ん と上 に 向け 、 下唇 を 山型 に強 く結 んで 、 鳴咽 を堪iえる よ うな仕 種 を表 す 。
右 手 は胸 前 に立 て 、 同 じ く面 脇 に立 て た左 手 か ら は雲 が 上 って い る。/⑬ 西 中段 。斜 め左 向 き
の 女神 形 。 右 手 を袖 に隠 し、 肩 まで掲 げ た左 手 に太 い 棒状 の持 物 を握 る。 持 物 は頭 部 の 三倍 ほ
どの長 さで 布 に包 ま れ てお り、 両端 の余 っ た布 を円 盤 状 の 飾 り金 具 の 中心 に穿 った 穴 に通 して
留 め てい る。/⑭ 西 南 西 中段 。 宝冠 上 に髦 を風 に靡 か せ た 馬 の首 を戴 くが 、 そ の他 は不 明。 し
か し十 二 神 将 中 の午 神 と考 え られ よ う。/⑮ 西 北 上段
他 の 女神 に比 べ る と髪 も房 を作 らず 揉
上 も短 く、 や や男 性 的 な姿 を とる が 、優 しい顔 立 ちの 女神 形 で あ る。 い わ ゆ るお ち ょぼ 口 で、
一 見 す る と微 笑 ん で い るか の よ う に も感 じ られ るの は
、 閉 じた唇 の両 端 を無 理 に上 げ て い る た
め で あ る。斜 め右 向 きで 、左 手 は不 明 なが ら右 手 に握 る独 鈷杵 を肩 口 に まで 掲 げ て い る 。/⑯
西 北 中段 。横 一 文 字 の 眉 を した斜 め右 向 きの女 神 形 で 、左 手 は胸 前 で蓮 台 を捧 持 し、右 手 は胸
前 に指 を伸 ば して立 て る。/⑰ 西 北 下 段 。 三 面 で 、 主 面 は斜 め左 を 向 く。左 右 第 一 手 を肘 を ほ
ぼ直 角 に 曲げ て上 方 に掲 げ、 球 を一 つず つ 掌 上 に乗 せ るが 、左 の球 中 に は三 本 脚 の 烏 が 明瞭 に
認 め られ て阿 修 羅 と判 じられ る 。
以 上 を概括 す る と、 現 在確 認 で きる だ け で東柱 は菩 薩形 入 体 、神 将 形 五 体 、 八部 衆 一体 、 南
柱 は菩 薩 形 二体 、 女 神 形 十体 、神 将 形 二 体 、 八 部 衆 三体 と なる 。 こ こで は柱 の 縦 を試 み に上 中
下 三 段 に分 け てみ たが 、 菩薩 形 は全 てが 上 段 に描 か れ て い るの に対 し、 神 将 形 や八 部 衆 は 中 ・
下 段 に集 中 してい る。 本 図 の 画家 が 対 象 の 尊 格 に応 じて描 く場 所 を 区別 して い る こ とは 明 らか
184
絵 画 に よ る空 間 の聖 別
で あ る。 かつ て菊 竹 淳 一氏(註2⑥)は
、 東柱 の根 元 部 に 白象 の 一 部 ら しい もの が描 か れ て い る
と して普 賢菩 薩 に 当 て たが 、 この原 則 に従 え ば可 能 性 は低 い と言 わ ざ る を得 ない 。
しか し、菊 竹 氏 が 九 人 まで確 認 され た南柱 の女 神 形 を、十 羅 刹 女 と した こ とに は賛 同 す る も
ので あ る。本 図 と『阿裟 縛 抄 』(名称〈持 物 〉)記載 の持 物 を比 べ て みれ ば 、② 黒 歯 〈軍持 ・刃 〉
、⑤
無 厭 足〈経 籍 〉、⑧ 持 瓔 珞〈瓔 珞 〉、⑪ 曲歯〈香 花 〉、⑫ 毘 藍 婆〈括 衾 ・風 雲 〉、⑬ 皐 諦〈独 鈷 ・嚢 〉、
⑮ 藍 婆く念 珠 ・独 鈷 〉、⑯ 華 歯 〈花 盤 ・花 戯 〉
が 辛 う じて相 通 じ、 残 る③ と⑩ は前 者 が 舎 那 院 本 や
廬 山寺 本 で 拱 手 す る多 髪 に、後 者 が 『類 雑 集 』で 合掌 とす る奪 一 切 衆 生 精気 に比 定 で き よ う。
す る と、一 見 何 の 脈 絡 も持 た な い これ らの 画像 が 、 どの よ うな意 図 で 一 堂 に表 され た の か が
問 題 となろ うが 、元 来 法華 堂 で あ った とされ る太 子堂 は 、三 七 日を期 した 法華 三 昧 の道場 で あ っ
た。 この 機 能 を考 慮 す れ ば 、 四天 柱 と仏 後 壁 裏側 とは 、行 道 とい う円 運動 に よっ て有 機 的 に結
び付 くこ と に気 付 か れ る。聖 な る空 間で あ る須 弥壇 の 周 囲 を右 繞 、 つ ま り時計 回 りに歩 くこ と
で 行 者 は、涅 槃 を現 じる釈 迦 如 来 とこ れ に参 集 す る諸 々の 尊像 が 繰 り広 げ る 、一 大 パ ノ ラマ を
目の 当 りにす る仕 掛 け なの で は な か ろ う か。 そ う考 え る こ とに よっ て、例 え ば一 般 的 な図 に は
相 応 しか らぬ 十羅 刹 女 の 悲 しげ な表 情 や 、 十 体 の 菩薩 ・十 二神 将 ・十 羅 刹 女 ・八 部 衆 ・不 動 明
王 三 童 子 五部 使 者 ・孔 雀 明王 ・倶 利 迦 羅 龍 剣 五 童子 とい った諸 尊 の集 合 に も、納 得 で き る理 由
を得 ら れ るの で あ る。 さ ら に、 「鶴 林」寺 とい う寺 名 の 由 来 が堂 内一 杯 に広 が る こ の一 大 涅 槃 図
で あ る な らば 、太 子 堂 が 元 来講 堂 と呼 ば れ てい た現本 堂 よ りも、 む しろ この寺 の 中心 的 存 在 で
あ っ た 時期 が あ る こ とも推 測 され る 。
また九 品来 迎 図 につい て は、 『
拾 遺往 生 伝 』巻 上 に「沙 門清 海 者。(中 略)初 於 此砌 。 修法 華 三 昧。
正 暦(990∼995)之 初 。勧 進 自他 。修 七 日念仏 。所 謂超 昇 寺大 念 仏 是也 」とあ って、 清 海 曼荼 羅 の
感 得 で 名 高 い 沙 門清 海(?∼1017)が
、超 昇 寺 で法 華 三 昧 を修 しつ つ七 日念 仏 を も始 め た とい う
記 事 が 想起 され よ う。 『
妙 法 蓮華 経 』薬 王 菩 薩 本事 品 に、 「若有 女 人 。 聞是 経典 。 如 説修 行 。 於 此
命 終 。 即往 安 楽 世界 。 阿 弥 陀仏 。 大菩 薩 衆 。 囲 遶住 所 。 生 蓮 華 中。 宝 座 之上 」とす るの は 、法 華
経 護持 が 女 人往 生 の善 因 とな る こ とを示 し、 法 華 堂 に来 迎 図 が描 か れ る こ とに不 思 議 は ない 。
(7)聖 徳 太 子 画 像
画 面 左 側 の 背屏 の前 にか な り高 さ の あ る礼 盤 を置 き、 そ の上 にやや 前 屈 み に な っ て、 ゆ っ た
り と胡 坐 す る聖徳 太 子(574∼622)を 描 く。 太 子 は顔 も身体 も斜 め左 を向 き、右 手 は 第五 指 のみ
湾 曲 させ て 余 指 を伸 ば し、左 手 は そ の前 で第 三 ・四指 だ け を曲 げ 、両 手 を胸元 で若 干 交 差 させ
る。 角 髪 を結 った童 子 形 を とる が 、面 貌 の描 写 は眼 光 も鋭 く口 も引 き締 ま り、 理知 的で 強 い意
志 を有 した青 年 を想 わせ る。 太子 は 、現 在 赤 茶 色 を呈 す る袍 衣 を纏 い、 袈 裟 を重 ね 、横 被 で 右
の肩 か ら手 首 まで を覆 って い る。 また 、礼 盤 の側 面 に は格 狭 間 を設 け、 そ の 手前 に は頂 上 に蓋
付 きの香 炉 を乗 せ る宝 棒 一 基 を立 て る 。 同 じよ う な香 炉 は太子 の左 肩 付 近 、 ち ょ う ど左 手 の第
一 ・二 指 の延 長線 上 に も存 在 す る が 、周 囲 の剥 落 が 多 い とは言 え、 そ の下 に背 屏 の点 描 入 り小
円文 が はっ き り見 られ る に も拘 わ らず 、香 炉 を支 え る宝 棒 はお ろか何 らかの 台 も認 め られ な い。
従 っ て 、 こ こ は孝 養 像 の よ う に柄香 炉 を持 す 場 面 と考 え るべ き なの で あ ろ うが 、赤 外 線 写 真 に
よ っ て も太子 の両 手 に は何 も確 認 で きず 、 今 の と こ ろ不 可 解 と言 わ ざ る を得 ない 。
185
安嶋
紀昭
格狭 間の前 には 、束 帯姿 の 二人 の侍 臣が 向 かい 合 う よ うに して坐 す姿 を、 斜 め後 方 か ら描 く。
い ず 丸 も顎髯 を生 や し、袍 を着 して冠 を被 り、笏 を把 る。左 の人物 の腰 に は石帯 を締 め てい るの
が 、右 の人物 は俯:きつ つ も口 を開い て何 事 か を発 言 して い る様 子 が 、そ れぞ れ確 認 で きる。 法 隆
寺 や斑鳩 寺 に伝来 す る聖徳太 子勝 鬘経 講讃 図 中の短冊 形 の書 入 れ文字 に照 らせ ば、左 は小 野妹 子 、
右 は 蘇我 馬 子(?∼626)と
推 定 され る。 ま た礼 盤 の 正面 、 ち ょう ど太 子 と向 き合 う位 置 に は、 や
は り冠 を着 け た一侍 臣が 、左 手 で長 方形 の平 た い木箱 を捧 げ てい る 。通常 の 講 讃図 で あ れ ば、 百
済 五経 博 士 覚曹 に比 定 す るべ き人 物 で あ り、現 在 の時 点 で は私 もそ う考 えてお きた い 。
覚曹 の 向 う側 、す なわ ち画面 で の上 方 に は、僅 か に右 目 とこ れ にか か る長 い眉 毛 が 残 り、 さ
らにそ の 右 上方 に顎髯 の 一部 と思 わ れ る毛 描 きが見 られ る。 こ う した剥落 著 しい 人 物 達 の 右 側
には 、 岩 坐 上 に立 つ 大 きな武 将 神 が、 太 子 と同 じよう にや や左 向 きの姿勢 で表 わ され て い る。
残 念 なが ら頭 部 は剥 落 して い るが 、 その 部 分 だ け板 壁 の地 色 の変 色 具 合 が違 うので 、 大 方 の 位
置 だ け は 判 じ られ るの で あ る。 岩 坐 は妹 子 や 馬 子 の腹 の高 さ の あ た りに、頭 部 は厨 子 の 天 井 付
近 まで とい う巨躯 で あ る。右 手 は宝 剣 の柄 を しっ か り と握 り、仰 向 けて前 方 に差 し出 した左 の
掌 には 蓮 弁 が認 め られ て 、恐 ら く宝 塔 を載 せ て い た もの と思 わ れ る。 先端 が長 く反 り返 る鰭 袖
や 、 翻 る天 衣 が 印 象 的 な 多 聞 天 で あ る。
以 上 が 、 扉 を開放 した 時 にほ ぼ 直接 目 にす る こ とが で きる情 景 で あ るが 、 図様 は勿 論 そ の 周
囲 に も広 が っ てい る。 す なわ ち 、太 子 の背 後 には少 な くと も三人 の 童子 が控 えて各 々翳 を持 つ 。
例 え ば 鶴 林 寺 の聖 徳 太子 二 王子 二 天 王 画 像 の よ うな孝 養 像 や前 述 の講 讃 図 を参 看 す れ ば、 この
うち 赤 い 袍 を着 る一 童 子 は 山背 大 兄 皇 子 と もで きる。 しか し同 じ翳 は太子 の前 方 上 側 に も二 本
あ り、 今 は剥 落 して しま って い る が かつ て の二 童子 の存 在 が推 測 さ れ、本 図 にお け る童 子 は合
計 五体 以 上 数 え られ るの で あ る 。 一方 多 聞天 の 右 に は 、 そ の足 下 近 くに冠 を被 る さ らな る一 侍
臣が 坐 してい る。
こ う した 登場 人物 達 に取 り巻 か れ た聖 徳 太 子 は 、彫 刻 に しろ絵 画 に しろ他 に類 例 を見 ない 。
す る と俄 に想 起 さ れ るの は 、 第二 章 で述 べ た鶴 林 寺 の縁 起 説 話 で あ る。 殊 に太 子 が 、 地 よ り湧
出 した 多 聞 天 と言 葉 を交 わ し、 しか も仏 堂 左 方 の壁 に こ れ を 自 ら図絵 した とい う内容 は、 本 図
の図 様 に ぴた りと当 て は ま る。説 話 と絵 画 と どち らの成 立 が早 い か は、 稀 な 図様 の特 異 性 に鑑
れば 、 説 話 に合 わせ て画 像 が 生 み 出 され た とす る方が 自然 で あ ろ う。 とす れ ば 、覚 寄 の 向 う側
の二 人 は、 講 讃 図 に参 加 して い る 高麗 僧 恵 慈 と説 話 に登:場す る恵 便 、多 聞 天 の足 下 の侍 臣 は秦
河 勝 か と推 定 され る。
本 図 は 、寺 伝 で は 孝養 像 と も勝 鬘 経 講 讃 図 と も言 われ て きた ら しい が 、 この よ うに分 析 す る
と尤 もな こ と と首 肯 で きる 。す な わ ち本 図 は基本 的 に は講 讃 図 に則 りな が ら、 太 子 十 四歳 の 出
来 事 を表 す た め に孝 養 像 の太 子 像 に入 替 え 、 さ ら に説 話 に登 場 す る諸 要 素 を加 えた独 特 の構 図
を採 用 した類 例 皆 無 の 図様 とい う こ とが で きる。
186
絵 画 に よ る空 間の 聖 別
お わ りに
前 章 にお い て 、鶴 林 寺 太 子 堂 内部 荘 厳 画 の 図 様 につ い て縷 述 した が 、 そ れ は前 記 の よ う に堂
内全 体 が煤 煙 に よ り黒 化 し、赤 外 線 の透 過 力 を利 用 しな けれ ば到 底 把 握 不 可 能 で あ るの と、厨
子 内の 聖徳 太 子 画像 は秘 仏 で あ っ て通 常 拝 観 が で き ない か らで あ る。 こ う した 図様 の 確認 が 整 っ
て こそ初 め て 、 これ らの 画像 の 図像 学 的 考 察 や 表 現 ・技 法 とい っ た様 式 上 の 検 討 を踏 まえ 、本
図 の制 作 年 代 を含 め た歴 史上 の位 置 付 け を論 じる こ とが で きる の で あ る。 しか しそ の 際 、 天永
三年 とい う従 来 の通 説 に拘 泥 す る こ と な く、本 図 そ の もの を読 み解 くこ と を心掛 け ね ば な る ま
い。 今 後 の 課題 で あ る 。
註
1古
建 築 を専 門 とす る 三浦 正 幸 博 士(広 島大 学 大 学 院 教授)の ご教 示 に よれ ば、 鶴 林 寺 太子 堂正 堂 の よ
うな建 造 物 にお け る 間 ・面 の 表 記法 は 、 四天 柱 の 内 側 一 間 の周 囲 に庇が 付 属 して い る と見 做 して一
間 四 面 堂 とす る のが 正 し く、 この 形式 を三 問 四 面 と数 え る よ う に なる の は文 献 上 応 安 年 問(1368∼
1371)以 降 に しか 見 ら れ な い との こ と で あ る。
2鶴
林 寺 太子 堂 に関係 す る 主 な 参考 文 献 は、次 の とお りで あ る。
①
②
若 井 富 蔵 「鶴 林 寺 太子 堂 考」(「
史 迹 と美 術 』158号、 史 迹 ・美 術 同攷 会 、1944年2月)
た な か しげ ひ さ 「
鶴 林 寺 法 華 堂 の 壁 画 」・「
鶴 林 寺 法 華 堂 の壁 画 と柱 絵 」(『
日本 壁 画 の研 究 』総
芸社 、1944年11月)
③
④
鶴 林 寺 本 堂 修 理 委 員 会 『国宝 鶴 林 寺 本 堂 修 理(屋 根 付 葺 替)工 事 報告 書 』(1969年7月)
岡 崎 譲治 「
鶴 林 寺太 子 堂 の 壁画 一奈 良国 立 博 物館 調 査 概 報 一」(『
月刊 文 化 財 』153号、 第 一 法 規
出版 、1976年6月)
⑤
倉 田 文 作 「鶴 林 寺太 子 堂 の来 迎 壁 につ い て 」(『
文 化 庁 月報』94号、 ぎ ょ うせ い 、1976年7月)
⑥
菊 竹 淳 一 「図版 解 説
⑦
た な か しげ ひ さ 「
鶴 林 寺 法 華 堂 の 壁 画 と柱 絵 」(『
日本 壁 画 の研 究 一補 遺 一』総 芸 社 、1979年5
鶴 林寺 太 子 堂 の柱 絵 」(『
美 術 史 』104号、 美 術 史 学 会 、1978年3月)
月)
⑧
大 阪 大学 文 学 部 国 史 研 究 室 「
鶴 林 寺 文書 お よ び史 料 目録 」(『
大 阪 大 学 文 学 部 紀 要 』20巻、1980
年3月)
付記
⑨
柳 澤孝「
鶴 林 寺 太子 堂壁 画」(『
改 訂版
⑩
幹覚盛ほか『
古 寺 巡礼
⑪
有賀 祥 隆 「
鋳 銅 刻 画蔵 王権 現 像 雑 考 」(『
國 華 』1094号 、 國華 社 、1986年6月)
⑫
安 嶋 紀 昭 ・井 筒信 隆 『国宝 仏 涅 槃 図 一応 徳 三 年 銘 一』(高野 山霊 宝 館 、1999年7月)
⑬
有 賀 祥 隆 「金 剛 峯 寺蔵 仏 涅槃 図(応 徳 涅 槃)」(『
國 華 』1263号 、國 華 社 、2001年1月)
西 国4鶴
原 色 日本 の 美 術7仏
画 』小 学 館 、1980年11月)
林 寺』(淡交社 、1981年8月)
本 稿 は 平 成13年11月 、 国 際 日本 文 化研 究 セ ン タ ー第 十入 回 国 際研 究 集 会 「聖 なる もの の
形 と場 」に おい て 口頭 発 表 した 内 容 に即 して い る。 脱 稿 以 後 、 屈 曲 自在 の 赤 外 線 ラ ンプ
の 開 発 や ソニ ー製 サ イバ ー シ ョ ッ トDSC-F707を
利 用 した500万 画 素 の デ ジ タル デ ー タ
の 収 集等 、著 しい調 査 方 法 の 進展 を見 たが 、そ の 成 果 を加 え得 なか った こ とを遺 憾 に思
う。 別 稿 を期 した い 。
187
安嶋
図1鶴
紀昭
林寺太子堂
仏 涅槃 図
釈迦如来面 部
図2同
摩耶夫人面部
(赤外線 写真 、以 下 同)
図3同
勝音天子頭部
図4同
弥勒菩 薩面部
図5同
迦葉童子面部
図6同
地蔵菩薩面部
188
絵 画 に よる 空 間 の聖 別
図7同
一弟子面部
図8同
図9同
一 弟 子 頭 部 と左 手
図10同
金剛力士面部
図12同
阿利 羅 跋 提 河
図11同
獅子獣王頭部
一弟子面部
189
安嶋
紀昭
図13鶴
林寺大子堂西枉
倶利伽藍龍頭部
図14同
剣先
図15同
爪
図16同
一 童 子面 部
図17同
一童子持物
図18同
一童 子 面 部
1go
絵 画 に よる 空 間 の 聖 別
[Abstract]
Sanctification of Space through Portraits
- Decorating Figures of the Interior Kalcurinji Taishido AJIMA Noriaki
HiroshimaUniversity
The Taishido of the Kakurinji (Hyogo Prefecture, Kakogawa City, Kakogawa town) faces south,
and the front is three-gen, on the sides the canopy of the one-gen corridor on the front side is the
four-gen reido (praying space). It has a jewel shape structure of roof, and has cypress-bark roof
(designated as national treasure in 1952). Inside, there used to be the Sakyamuni statue with two
attendants, and four Tenno statues on the Sakyamuni image dais, and the image of Shotoku Taishi
which is called "Shokuhatsu no taishi (doll with hair)" on the wooden miniature at the eastern side,
however at present all are moved in to the treasure house. It is not certain whether the sculptures
were enshrined from the very first, yet it is believed that the numerous painted images enumerated
below keep their original sublimity with respect to their expression and technique.
Inside is packed with all sorts of sacred images. On the wall behind the Buddha, on the front side
there is the image of Amida Buddha coming to welcome the spirits of the dead in nine worlds (1),
on its back side there is the image of the nirvana of shaka (2), at the four pillars supporting the
heaven, there are Boddhisatva on the clouds, Tennyo (Goddess) figure, Doji (Child) figure, figures
of eight guardian deities etc. on the eastern and southern pillars, there are Kurikararyuken and four
children images on the western pillar, and there are Fudomyoo with three children and five
messengers and Kujakumyoo on the northern pillar (3), on the narrow wall above the horizontal
frame timbers of the Buddhist image dais, there are flying sky and musical instruments (4), on the
narrow wall above the horizontal frame timbers of the inner sanctuary there are thousand Buddhas
(5). The smoke of incense and torches used in praying has stuck on these over the long years, and
partially there are signs of greasing, and it should be pointed here that images are almost impossible
to distinguish with naked eye due to darkening. However, fortunately, it is possible to perceive the
illustrations through infrared ray photographing and computers. Still more, on the southern side of
the eastern wall of the inner sanctuary, there is an image of Shotoku Taishi (6) drawn, and as it was
furnished in the palace in Kamakura period and kept as a hidden Buddhist idol, it evaded peel off on
its cosmetics, and the degree of darkening on it is quiet light, closely resembling its original
coloring. For that reason the whole plate surface is designated important cultural assets in 1977.
(The front -reverse of the wall behind the Buddha reference)
On the other hand, what could be the intention behind setting these portraits that do not seem to
have any logical connection at first sight to the same space? The taishido which originally was
Hokke-sanmaido, and was the place for the continuous sutra reading that lasts 21 days. When this
function it has is considered it is understood that the four pillars supporting heaven (3), and the back
of the wall behind Buddha (2), are organically linked to each other by a circular motion.
Surrounding the right hand side of the sacred place, the Buddhist image dais, that is to say to the
ascetic walking clockwise, the Sakyamuni revealing nirvana and each icon assembling around this
191
安嶋 紀 昭
would unroll. That is, he can see a big panorama commenced in front of his eyes. Furthermore,
Shotoku Taishi stands at the end of that route, put in other words at the exit from the sacred place
back to the workaday world. Does not it point to a will to connect the spiritual and worldly spaces
to each other via intentionally placing Shotoku Taishi (574 AD -622 AD), the regent crown prince
of Empress Suiko, and who was exceedingly erudite in Buddhism, on the sidewall? Besides,
concerning the image of Amida Buddha coming to welcome the spirits of the dead (1), the article in
the "Shuiojoden (gleanings of death)" that puts that Priest Seikai, or Chinhai (?-1017 AD) well
known for his getting the image of Seikai mandala mystically, had studied Hokke Sanmai at
Choshoji, and started seven-days prayer formula.
Concerning the erection of the Taishido, based on the fact that on the ridgepole placard that was
found during the dismantle and repair works in Taisho era, the sentence of "Kakurinji Hokkedo
repair, taishi ordered this on the third year of his inauguration" was written, and it is the main
opinion to take third year of Ten'ei (1112 AD). However, when the sublimity of the Taishido is
compared to primary works from eleventh century such as the Zao Gongen figure of incarnation of
Buddha -a national treasure-, made in naishoryo of the Sojiji temple in the third year of Choho
(1001 AD), or the nirvana of Buddha image in Kongobuji with the inscription of the third year of
Otoku (1086 AD), or five Great Icons of the Kiburiji which are Important Cultural Assets, and
dated to second to fourth years of Kanji (1088 AD-1090 AD), it seems there is room to debate
whether or not the Taishido dates as back as the 12th century.
The style should be examined in a triple grouping (1) and (4), then (2), (3) and (6), and yet again
(5).
192
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