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1冨
一東1紀 寺遺跡
奈良女手大学附属中学校・ 高等学校構内遺跡発掘調査報告
奈良目立文化財研究所編
巻頭 カラー日絵
調査地周辺 の現状 (東 か ら)
今回発掘調査 した東紀寺遺跡 の あ る地 域 は、奈良市街地 の東南部、春 日山西麓
に接す る住宅密集地 にあ り、 しか も、平城京域外 であ るため、 それ ほど調査 の進
んで いる地域 で はない。 また、明治42年 に開設 された歩兵奈良連 隊営舎・ 練兵場
の建設 な どによ り、条理遺構 を示 す地物 な ども失 われた と考 え られて い る。 その
ため、付近 には頭塔 のよ うに著名 な遺跡 もあ るが、従来 あま り注 目 され ることも
な く、不 明 な点 の多 い地域 であ った。
このたび、奈良女子大学 附属 中学校 の屋 内運動場新営 工 事 に ともない、 1500∬
とい う、 この地域 で はかな りま とま った面積 の発掘調査 を実施 す る運 びとな った。
調査地 内 は、予想以上 に後世 の削平 が著 しく、調査 の結果発見 された遺 構・ 遺物
な どの量 は、決 して多 い もので はない。 しか し、周辺 で は数少 ない、古墳 や奈良
∼平安時代 の遺構 を検 出 し、貴重 な成果 が得 られた。
調査 の成果 は本書 に詳述 してあ るとお りで、古墳時代 中期 にお ける、地域勢力
の分布 につ いて、新 たな知見 を加 え ることがで きた。 また、古代平城京域外 の様
相 を知 る上 で、新 たな手掛 か りが得 られた もの と考 え る。最後 に、奈良女子大学
を は じめ とす る関係機 関 の御協力、御援助 に感謝 す る次第 であ る。
1994年 3月 25日
奈良女子大学附属中学校・ 高等学校構内遺跡調査会長
町
田
章
I序
章
頁
1 2 後碑 1 2
………………… … …………"… …… 1
調査 の経過 と概要 … …Ⅲ
Ⅱ
遺
周辺 の調査 ……………………………………………………… 3
………・…… ………………………………5
遺跡 の概観… ………Ⅲ
遺
…………… ……6
構 Ⅲ…… …… … …・…… ……………Ⅲ
A 古墳 ………Ⅲ……………`… ………… …………・6
B 掘立柱建物Ⅲ…ⅢⅢ…… ……Ⅲ….… ………Ⅲ……6
C 井戸 …………・………Ⅲ………ⅢⅢ……………Ⅲ9
│・
D
E
・
・lo
土坑 ,溝 ………………………………………・
その他の遺構 `… ………………… ⅢⅢ
…… Ⅲ…hll
Ⅲ 遺 物
1
2
土器 Ⅲ土製品 ………………… ……………………… …… ……12
瓦
1類 …………………………………………………………13
Ⅳ まとめ
1
2
古墳の性格…………… …………………………………………・14
結
語… ・……………………………………………………17
!・
図 版
表紙 調査地 と若草山遠景 (南 西か ら)
PL.6(D SB6005
口絵 調査地周辺の現状 (東 か ら)
PL。
1
西から
似)SK6015 北東か ら
PL.7(1)SE6010
調査地周辺の航空写真
PL.2 調査区全景垂直写真
PL 3(1)調 査区全景 東から
鬱)調 査区全景 西か ら
PL.4(1)SX5990 北西か ら
東か ら
似)sE6010 井戸枠下半部
PL 8(1)望
壕 北東か ら
121 練兵場柵列 北か ら
PL,9
出土土器・土製品・ 軒平瓦
(2)Sx5990 】とか ら
PL.5 (1)SX5985
と
】
西か ら
鬱)SX5995 南西から
挿
図
頁
2
fig,1 調査位 置 と周辺の調査
5
fig.2 調査区土層図
fig.3 SX5985周 溝
fig.4 SX5990周 溝
) 6
(南 か ら)
6
(南 か ら
峰 5魏 請晩嬬
確
躍
塾
酔姻
五g.6
SE6010
9
表
調査 の経過
頁 2
tab.1
頁
Ag,7 SE6010土 馬出土状況
10
fig.8
望 壕
11
五g.9 出土土器・ 土製品・ 軒平瓦 13
fig。 10 古墳時代 の奈良盆地東北部 14
麟 図
峰
・ 杉山
fig。
12
野神古墳石椰実測図
16“
例
1
ロ
本書 は、奈良市東紀寺町一丁 目60の 1に 所在す る、東紀寺遺跡 (奈 良女子大学附属中
学校・ 高等学校構内遺跡)の 発掘調査報告 である。
2
調査 は、奈良女子大学附属中学校屋内運動場 の新営工事 にともなう事前調査 として、
奈良女子大学附属中学校・ 高等学校構内遺跡調査会 (会 長 町田 章 ―奈良国立文化財研
究所平城宮跡発掘調査部長 ―)が 実施 した。
3
調査 は、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部 の、平城宮跡第 240次 調査 に該 当
す る。
4
5
調査期間 は1993年 2月 10日 か ら3月 30日 で、調査面積 は約 1500∬ である。
調査 は小池伸彦 (奈 良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部)が 担当 し、岩崎大介、
重森正樹、中桐知博、吉田 学、米村岳尚 (以 上奈良大学生)の 協力 を得 た。 調査 にあ
たっては、奈良女子大学施設課、株式会社浅沼組 の協力 を得 た。
6
本書 の作成 は、町田 章 の指導 の もとに以下 のよ うに分担執筆 した。
I・
7
Ⅱ・ Ⅳ -2:小 池伸彦、 Ⅲ -1:毛 利光俊彦、 Ⅲ -2・ Ⅳ -1:岸 本直文。
遺構・ 遺物 の写真 は、個 幹男・ 牛嶋 茂・ 杉本和材 が担当 し、森本佐由理の協力 を得
た。
8
9
本書 の編集 は小池伸彦 が担当 した。
本書 の作成 にあた り奈良市教育委員会 よ り、杉山古墳測量図 (現 況平面図)の 提供 を
受 けた。 また、 fig。 12野 神古墳石椰実測図 は、奈良市発行『奈良市史』考古編 から第216
図 を転載 した。
1
土
早
序
調 査 の経過 と概 要
この報告書 は東紀寺遺跡にお いて実施 した、奈良女子大学附属中学校屋内運動場 (以 下、
体育館 とする)の 建設 にともなう発掘調査 の報告 である。
調査地 は平城京外京 の東方外、京東条里四条一里 中 にあ り、紀寺推定地 か ら約 300mの
距離 にある。 また、付近では古墳時代 の遺物等 の散布 も知 られてお り、重要遺構 の存在 が
予想 された。 そこで、奈良県教育委員会、奈良市教育委員会、奈良女子大学、奈良国立文
化財研究所 の間 で協議 した結果、東紀寺遺跡調査会 を組織 して調査 を行 うこととなった。
体育館 は、敷地内にある旧講堂 を撤去 して、 その跡地 に建 てることとなっていた。 そこ
で旧講堂 の敷地全体 を含む、東西約50m、 南北約30mの 調査区 を設定 し、体育館建築面積
全体にほぼ匹敵す る約 1500雷 を調査 した。 2月 10日 、関係者立 ち会 いの もと調査区の設定
を行 った。設定 にあたっては、体育館敷地東辺 に相当す る部分 を、機材搬入路 として使用
す るために、調査区か ら除 いた。 また、調査区内東辺部 には汚水管 が南北 に横断 し、調査
期間中 も継続 して機能 していたため、管 の直下 については調査 できなか った。
調査区設定後、 ただちに重機 による掘削 を開始 し造成上、耕土 などの除去 に取 りかか っ
た。造成上が厚 いことや、給水管・ 汚水管・ 雨水管 が調査区内を縦・ 横断 して いたことな
どのために、重機掘削 にやや手間取 ったが、 2月 18日 か ら作業員 の手 による掘 り下 げにか
か り、本格的 な調査 に移 った。
調査区内は、 旧講堂建設や旧練兵場 の造成、あるいはそれ以前 の耕作 などによ り大 きく
削平 を受 け、古代 あるい は中世 の遺物包含層 は全 くといってよいほど認 め られなか った。
また、旧講堂 の基礎地業や建築廃材を投棄 した土坑 による役乱、調査区北辺部 の汚水管や
雨水管 の埋設 にともな う撹乱 が、現地表下 1.3m前 後、 ない しさ らに深 くにまで達 して い
た。 この うち、調査区北辺部を東西に縦断す る雨水管 は、調査期間中 も機能 していたため、
その部分 については調査不可能 であったが、埋設 された雨水管 の上面が遺構検出面 よ り約
50cm下 に位置 してお り、周囲 の遺構検出状況か ら見 て、遺構 が残存す る可能性 は極 めて低
いと判断 された。旧講堂基礎地業部分、廃材投棄土坑 については、整理・ 清掃 にかな りの
時間 と労力 を費や し遺構検出に努めたが、残念 なが ら遺構 はま った く認 め られなか った。
このよ うに攪乱 と削平 が著 しいために、遺構 の残存す る範囲はほぼ調査区中央部 に限 ら
れ、 しか も深 く掘 りこまれた遺構が比較的よ く残 っているに過 ぎなか った。 また、 中央部
の主たる遺構残存部 について も、旧講堂 の排湿用 の暗渠 が縦横 に延びてお り、遺構 の残 り
は良 くなか った。 しか しなが ら、予想外 にも古墳 3基 を検出 し、奈良時代 か ら平安時代 の
井戸 1基・ 土坑 1基 、時期 は明確 ではないが掘立柱建物 2棟 なども検出 した。 また、 その
他 に時期不明 の土坑 17基・ 耕作溝27条 、旧練兵場 の望壕などを検出 した。
実際 の調査経過 は、tab.1の とお りである。
tab.1 調査の1経 過
調査開始。現地 にて協議。重機掘削開始。
重機掘削完了。発掘機材の搬,塩 分電盤設嵐
18日 作業員の手による本格的な調査にはいる。
19日 調査区東半部で遺構が現れ始ある。基準杭、地区杭を設置。
2月 23日 旧講堂の基礎地業部に残る栗石、建築廃材を投棄した土坑め―
整理に手間取る。
2月 26日 旧講堂建築に関連する携乱上の除去が完了する。
3月 2日 遺構検出が本格化する。
3月 5日 遺構の掘下tデ を始める。
3月 10日 調査1区 南辺から始めた遺構検出が北辺に到島
3月 ■日 古墳の周溝を掘下げる。埋土からの遺物の出土―
は少ない。
3月 16日 調査区│の 清掃、航空写真撮影 。測量の準備にとりかかる。
3月 18日 午前中、清掃。年後、無事に空撮・空測を終える。
3月 19日 午前、地上写真撮影。年後から断割調査にはぃる。井戸の掘下げを開始する。
3月 22日 調査区南辺に設けたセタションペル トをはずし始める。
3月 25日 井戸枠上半部を検出 し.た ところで、写真撮影をする。土坑を完掘する。土馬出ニ
3月 29日 井戸を完掘する。柱穴の削平が著 しいため、建物の規模を明確にできない。
3月 30日 土層図の総仕上げもすべての調査を完了する。
2月
2月
2月
2月
10日
16日
t(Ⅲ
イ
占iF:,
r鳴
ド把帝
tig.1 調査位置と周辺め調査 (1:20000)
2
周 辺 の 調査
周辺 では古墳時代 の遺跡が い くつか調査 されて いる。東紀寺遺跡 の北東方、春 日 (御 ∋
山西麓 に広 がる奈良公園内の飛火野地区周辺 には、春 日山古墳群 (春 日山古墓)と 総称 さ
れる御料園古墳群 。飼料園古墳群が点在す る。 いずれ も横穴式石室 を有する小規模 な円墳
である。 この うち飼料園第 1∼ 5号 墳 と御料園第 1号 墳 が、 1948∼ 49年 に奈良県史跡調査
会 によ り調査 されて い る。御料園第 2号 墳 か らは須恵器・ 鉄刀等 が出土 して い る。
奈良市教育委員会 が奈良市紀寺町686-1番 地他で実施 した第243次 調査 で は、 左京五条
七坊十三坪南辺 の五条大路想定地を調査 しているが、古墳時代中期 の方墳 1基 を検出 して
い る。墳丘・ 埋葬主体部等 は失われていたが、幅1.5∼ 2.Om、 溝心心間 の距離 が東西・ 南
北 とも約 12mの 周溝 が見 つか っている。北側周溝底 に掘 り込 まれた土坑状 の窪みか らは、
5世 紀後葉 の須恵器 9点 がまとまって出土 している。調査地 は、東紀寺遺跡が立地 して い
るのと同 じ扇状地 の、末端部近 くに位置 してお り、両遺跡 の関連 が注意 される。
東紀寺遺跡 の南方、南紀寺町一帯 は、弥生時代 か ら古墳時代 の遺物散布地 として知 られ
ていたが、奈良市教育委員会 の行 った 3次 にわたる調査 で、古墳時代 か ら飛鳥時代 にかけ
ての濠、集落跡 などが発見 されている。紀寺南池北西で実施 された第 1・ 2次 調査 では、
旧能登川 に連係す ると考 え られる石積 みをともなう濠 が発見 された。その全容 は明 らか と
はならなかったが、37m以 上にわたる岸壁 の石積 みが検出されており、規模 の大 きさを物語 っ
ている。出土土器 か ら5世 紀中頃以前 に掘削 され、 6世 紀前半頃 に廃絶 したとされ、豪族
の居館、古墳、 あるい は園池 などではないか と考 え られて い る。一方、紀寺南池 の南方 で
行われ た第 3次 調査 では、 5世 紀後半 か ら 7世 紀 にかけての竪穴住居、掘立柱建物、掘立
柱塀、溝、土坑 などを検出 している。窯跡や古墳 の副葬品以外 には、 あまり出土例 のない
須恵器器台 が出土 したことか ら、須恵器製作二人 の集落 である可能性 が指摘 されて い る。
大安寺町 に所在す る杉山古墳 は、昭和30年 に小規模 な調査 が行われた。現在 は、奈良市
教育委員会 によ り調査 が続 けられてお り、第44・
45。 47・
53次 調査 などの成果 か ら、墳丘
の全長が約 150m、 後円部径82m、 周濠 を含 めた古墳 の全長約200mの 大型前方後円墳 に復
元 されて い る。
白墓寺町 にある県立高円高等学校一帯 は、 白墓寺遺跡 として知 られる。昭和56年 か ら57
年 にかけて、奈良県立橿原考古学研究所 の手 によ り発掘調査 が行 われた。遺跡 は、高円山
西麓 の能登川 と岩井川 とに挟 まれた扇状地上 にあり、古代 の春 日の地 に含 まれて いる。 こ
こでは、 6世 紀中頃 の古墳が発見 されて い る。径10m程 度 の円墳か方墳 と考 え られて いる
が、墳丘 がほとんど失 われてお り規模 は明確ではな い。 かろうじて残存 して いた横穴式石
室か らは、須恵器、土師器、鉄釘、鉄刀、銀環、銅環 (以 上玄室内)、 金環 (羨 道部 )な
どが出土 した。
鹿野園町にある護国神社境内古墳群 (高 円神社境内古墳)は 、神社整地作業 が きっか け
となって、 1940年 に調査 された。 いずれ も横穴式石室 をもつ後期古墳 である。 もと 4基 の
3
古墳があり、調査 された 3基 も大半が破壊 され、横穴式石室 の一部 が残 っていたに過 ぎな
い。第 4号 墳 の石室内か らは、須恵器、鉄地金銅装 の馬具類、鉄族 などが出土 した。
古市方形墳 は、護国神社境内古墳群 の南方 に位置 してお り、一辺27m、 高 さ 3mの 規模
を持 っていた ものと考 え られて いる。調査 は昭和39年 に行われ、円筒埴輪列、 2基 の粘土
椰 が確認 された。西椰 は破壊が著 しく遺物 の出土 はなか ったが、東椰 か らは二神三獣鏡・
画文帯神獣鏡 など鏡 5面 、鉄斧・ 刀子・ 鎌 などの鉄製工具類、鉄剣、玉類、琴柱形石製品
などが出土 した。出土遺物 か らは、 4世 紀後半 ない し5世 紀代 の古墳 と考 え られて い る。
古墳時代 の遺跡 に比 べ、奈良時代 か ら平安時代 にかけての遺跡 の調査例 は意外 に少 ない。
東紀寺遺跡 は京東条理四条一里 に属す ると考え られて い るが、 これまで近辺 の調査 におい
て条里遺構 を考古学的 に検出 した例 はない。特 に調査地付近 においては、明治時代 に開設
された陸軍歩兵奈良連隊 の営舎 (現 奈良教育大学)、 同練兵場 (現 奈良女子大学附属中学・
高等学校)の 造成 によ り、条理遺構 が著 しく損 なわれていると考 え られて い る。
周辺 の奈良時代 か ら平安時代 の遺跡で注 目されるの は、上述 の白墓寺遺跡 で発見された、
7世 紀 か ら 9世 紀 にかけての遺構である。発見 された遺構 には掘建柱建物 5棟 、池 2、 井
戸 7基 、小溝、土坑、柱穴群、人為的 な改変 の加え られた谷などがあり、出土遺物 には天
平 5年 銘 のある木簡 1点 、軒丸瓦、鬼瓦、土馬、銅銭 (和 銅開弥、隆平永宝、富寿神宝)、
桧扇、下駄、二彩壷 などがある。試掘調査 の報告 では、池、集水施設 と考 え られて いる石
組井戸、鬼瓦 などの遺構・ 遺物か ら、 ここに春 日 (高 円)離 宮 の あ った可能性 が考 え られ
ている。 しか し、堀池春峰 によれば春 日離宮 は京東条理でいう六条三里 にあったとされ、
白墓寺遺跡 は京東五条五里 に相当す ること、奈良末 ∼平安時代初期 の「薬師院文書」には、
京東五条四・ 五里 に大宅氏、石川氏、大春 日氏、稲城王、並城王 らの家地 があった ことが
伝 え られて いることなどか ら、 白墓寺遺跡 もそうした貴族、王族 の邸宅跡 と見 たほうが妥
当であると考 え られて いる。 いずれにせよこの周辺 では数少ない、重要 な奈良時代 の邸宅・
庭園遺跡 である。
奈良市教育委員会 の第 118次 調査 は、東紀寺遺跡 にほど近 い奈良市立飛鳥小学校 の校庭
内で実施 された。 ここは、平城京東七坊大路 の想定地 であり、 また鎌倉期 には興福寺 の大
乗院が南市 を立てたと考 え られて いる地域で もある。検出された遺構 は柱穴、溝、井戸、
土坑などであるが、奈良時代 に遡 るものはな く、 12世 紀代、 14世 紀代、 18∼ 19世 紀代 に時
期区分 される。 12世 紀代 の遺構 には土坑、溝、井戸、 14世 紀代 の遺構 には土坑、井戸、 18
∼19世 紀代 の遺構 には土坑、井戸 がある。 この他、時期不明 の遺構 として、路肩 に石 を 2
∼ 3段 積 みあげた南北道路がある。明治23年 の地籍図には この道路が見あた らな いことか
ら、明治中期 には廃絶 して いたと考 え られて い る。
奈良市教育委員会 の実施 した新薬師寺旧境内第 1次 調査 では、掘立柱建物、 溝、土坑 な
どが出土 しているが、掘立柱建物 の時期 は13世 紀以降 に降 るようであり、奈良時代 に遡 る
遺構 は検出 されて いない。
4
連
逗
1
構
遺跡 の 概観
調査地 は、春 日 (御 蓋)山 西南麓 か ら派生 した、西へ緩 やかに傾斜す る扇状地上 に立地
してお り、西方 に隣接す る運動場 とは lm程 度 の段差 がある。
調査地 の基本的な層序 は上か ら造成土 (厚 さ1.8∼ 0.8m)、 耕土層 (同 20∼ 30clll)、 橙黄
褐色砂質土層 (同 50cm、 地山)が 堆積 し、以下礫層 と粘土・ シル ト層 の互層が続 く。橙黄
褐色砂質土層以下 での遺物 の出土 は認め られなか った。
耕土層 の堆積 は調査区西半部 に限 られる。 この層 の上面か ら、歩兵奈良連隊 の練兵場 に
関連す る遺構や、旧講堂 の基礎地業が掘 り込 まれて い る。
調査区東半部 では、橙黄褐色砂質土層 にまで、旧講堂 の造成 にともな う削平 が及 んでお
り、水平 に削平 された橙黄褐色砂質土層直上 に、造成土 あるいは攪乱土が堆積 して い る。
旧講堂 の造成 にともなう削平面 の標高 は99.7mで ある。調査区西半部では、橙黄褐色砂質
土層 は西へ緩やかに傾斜 しなが ら堆積 して い るが、調査区西端部付近 には耕作地 の境界 が
あるために、 そこで30cmの 段差 がついて一段低 くなっている。西端部 での橙黄褐色砂質土
層上面 の標高 は98,7mで ある。
遺構 は橙責褐色砂質土層上面 で検出 した。
L=999m
X5985
0
a:暗 灰色砂質土 b:耕 土層 C:暗 灰褐色砂質土層 d:黒 褐色砂質土層
●■1 橙黄褐色砂質土層 ■■ 礫層 罐爾 シル ト層
五g。
2
2m
e:暗 褐色砂質土質 f:黒 褐色粘質土層
調査区土層図 (上 :調 査区束半、中・ 下 :調査区南半)
2遺
構
遺構 の残 りは非常 に悪 く、残存部分 は調査区中央部 に限 られて いる。主 な遺構 には、古
墳 3基 (SX5985・ 5990・
5995)、
掘立柱建物 2棟 (SB6000・
6005)、
井戸 1基 (SE6010)、
土坑、溝などがある。 これ らの遺構 も、上半部 は大 きく削平 されて いる。
A古
墳
SX5985 調査区中央部 の北半部 において古墳 の南半部 を検出 した。 一辺 ない し直径 12
∼13mの 方墳 ない し円墳 と考 え られるが、破壊が著 しいため不詳。墳丘 は完全に削平 され
て残 らない。埋葬主体部 は不明で、周溝 が僅 かに残 る。周溝 は東辺、南辺、西辺 に部分的
に残 る。周溝 は残存部 で幅2.4m、 深 さ25cm。 西辺 の周溝 は深 さ5cmで ある。埋土 は黒 褐色
砂質土 (15cm)と 黒灰色粘土 (10cm)。 黒褐色砂質土中 よ り埴輪片、土師器片少量が出土 した。
SX5990 調査区中央部、SX5985の 南東 に位置す る。一辺ない し直径 10m前 後 の方墳 あ
るいは円墳。東半部 と南半部 は完全 に失われて い る。墳丘 は削平 されて残 ってお らず、埋
葬主体部 も失われ る。周溝 は西辺部 と北辺部 に一部 が残存す る。残存部 の周溝 の規模 は、
西辺 の周溝 が幅 2∼ 2.3m、 深 さ10cm、 北辺 の周溝 が幅 lm、 深 さ10cm。 北辺 と西辺 の周
溝 は連結 しないが、後世 の削平 によって途切れた ものか、周溝本来 の形態 なのかは明かで
ない。周溝 の埋土 は黒褐色砂質 ∼粘質土 で、土師器細片 が少量出土 した。
SX5995 調査区中央部南端、SX5990の 南西 に位置す る。一辺 ない し直径 10m前 後 の方
墳あ るいは円墳 か。墳丘 は大部分が調査区外 にあり、 しか も検出部分 は旧講堂 の基礎地業
により、大 きく破壊 されて いる。周溝北端部 のみを検出 し、埋葬主体部 は不明である。周
溝 は残存部 で幅 2m、 深 さ30cm。 埋土 は暗褐色砂質土
(15cm)、
黒褐色砂質 ∼ 粘質土 (15
cm)で 、少量 の上師器細片が出土 した。
B掘 立柱建物
SB6000 調査区中央部 で検出 した東西棟。梁間 2間 、桁行 2間 以上。 削平 の ために、
側柱 は南・ 北側 とも東妻 か ら 1間 分 しか検出できず、全体 の規模 は明かでない。建物 の主
軸 は東 でやや南 に振れ る。梁間柱間1.8m等 間、桁行柱間2.7mで ある。柱穴 は、平面形 が
Fig.3 SX5985周 溝
(南 か ら)
fig.4 SX5990周 溝
(南 か ら)
「
古
0)、
睡12
命善
され
輪
0
分的
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掲色
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卿
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こ
︲
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忌
0
fig。
5
1 : 200
10m
東紀寺遺跡 (平 城宮跡第240次 )発 掘遺構 図
一辺40∼ 50cmの 長方形 ない し長 円
形 の小規模 な もので、深 さは30∼
40cm残 って い る。 時期 の明 らか な
遺物 は出上 しなか った。
SB6005 調 査 区北 西 部 、 井 戸
の北部 にお いて検 出 した柱穴 。小
穴 の一 群。 耕作 による柱穴 の削平
が著 しく、建物 と しての 明確 な ま
とま りを もたな い。 あ るいは柵 や
塀 の よ うな ものか も しれ ないが、
と りあえず南北棟建物 と考 えてお
く。規 模 は東 西 長 42m、 南 北 長
54m、
3間
× 2間 ほ どで あ ろ う
か 。 SB6000の 方 位 に ほぼ 揃 う。
時期 の 明 らか な遺 物 は出土 して い
ない。
C井
戸 (fig.6)
SE6010 調 査 区西 南 部 に 位 置
す る井戸。 掘形 は平面 円形 で、検
出面 の 直径 3.lm、 検 出面 か らの
深 さは2.2mあ り、 3段 掘 り構 造 。
検 出面 か ら50cm下 で段 がつ き、一
辺 1.5mの 隅丸方形 に狭 ま り、 そ こか らさ らに1,2m下 で直径
lmに 縮小 して段 が つ き、 底
部 はそ こか ら50cm下 にあ る。底面 の直径 は50cm。 掘形 は礫層 の下層 で あ る青灰色 シル ト層
に達 して い るが、現状 で は地 下水 の湧 き出 しは見 られなか った。
井戸枠 は 3重 構造 にな って い る。上半部 は方形縦板組横桟 どめ型 式、下半部 は一 回 り小
さい平面 6角 形 の縦板組 で、底部 に円形 曲物 を据 え る。上半部 の井戸枠 は、 幅20∼ 30cm、
長 さ12m以 上、 厚 さ 4∼ 5 cmの 縦板 を、 一 辺 に 3∼ 4枚 立 て並 べ 、5 cal角 の横 桟 で 支 持
す る。枠 の 内法 は70cm程 度 で あ る。 下 半 部 の 6角 形 井 戸 枠 は、 幅 20∼ 40cm、 長 さ0,7∼
lm、 厚 さ 2∼ 3 cmの 縦板 を並 べ る。 内法 は長径 50cm、 短径35cmで あ る。 曲物 は下 半部 の
井戸枠 に内接 してお り、 内径 が33×
45cm、
高 さ22cmで あ る。
井戸 中央部 で は、検 出面 か ら50cmの 深 さまで耕作 によ る撹乱 を受 けて いた。井戸枠 内 に
は、 暗灰色粘質土 あ るい は砂混 じり灰黒色粘土 が堆積 し、軒平瓦、 9世 紀前半 ∼ 中頃 の緑
釉陶器・ 土 師器 。須恵器等 が 出土 した。 また検 出面 よ り約
lm下 にお いて、井戸西辺部 の
掘形埋土 中 か ら、奈良時代後半 の上馬 が 出土 した (fig,7)。
土 馬 は、 既 に頭 部 と脚 の一
部 が失われてお り、失 われた部分 は井戸掘
形埋土中か らは発見で きず、偶然、埋土中
にまぎれ こんだ ものとも考えられる。また、
その他 の祭祀遺物 も伴出 しなか った。従 っ
て、井戸構築時 に行われ た祭祀 にともな う
土馬 とは断言 できない。
D
土坑・ 溝
SK6015 平面 円形 の上坑。 残存部 の直
径 1.3× 1.5m、 深 さ45cmあ り、 土坑底部 は
砂礫層 に達す る。黒褐色砂質 の埋土上部か
ら、奈良時代後半 ∼末頃 の須恵器・ 土師器
や土馬が出土 した。SX5995に 接す る。
SK5981 不整 な 円形 を呈す る土坑 。残
存部 の直径0.8m、 深 さ30cm。 埋土 は黒褐
色砂質土。遺物 は出土 しなか った。
fig。
SK5982 不整形土坑。 残存部 は東西長
7 SE6010土 馬出土状況
1.3m、
南北長 1.9mあ り、深 さは約 10cmで
ある。調査区南辺中央部、SX5990の 西側 で検出 した。旧講堂 の排湿用暗渠 によ り分断 さ
れる。周溝 の埋土 は黒褐色砂質土で、遺物 はほとんど出土 しなか った。
SK5983 平面長円形 の小土坑 である。調査区南辺中央部 で検出 した。 SX5990の 西辺周
溝 の東 に接す る。南端 は撹乱坑 によ り破壊 される。残存部 の直径 は南北0.8m、 東西0.5m、
深 さ10cmで ある。埋土 は灰褐色∼暗灰色砂質土で、出土遺物 はほとんどな い。
SK5984 不整形土坑。調査区南辺中央部、SK5983の 南側 で検出。SX5990の 西辺周溝 の
東 に接す る。北端 は撹乱坑 により破壊 される。残存部 の東西長0.4m、 南北長 0,9m、 深 さ
5 cmで あり、埋土 は黒褐色砂質土で、出土遺物 はほとんどな い。
SK5986 不整形 な小土坑。SX5990の 西辺周溝 の南延長線上 に位置 してお り、 あるいは
古墳周溝 の一部 か もしれない。南端 は旧講堂基礎地業 の破壊 によ り失われ る。残存部 の南
北長0。 7m、 東西長0.6m、 深 さ 3 cmあ り、埋土 は黒褐色砂質土、出土遺物 はほとんどない。
SK5987 小土坑。SK5986の 西隣で検出 した。 旧講堂基礎地業 により大 きく破壊 される。
SX5990の 周溝 の一部 か もしれ ない。残存部 は東西、南北 とも長 さ0.4m、 深 さ 3
cm。
埋土
は黒褐色砂質土。出土遺物 はほとんどない。
SK5988 小土坑。SK5987の 上 にある。旧講堂基礎地業 により大 きく失われ る。 残存部
は東西、南北 とも長 さ0.3m、 深 さ 6
cm。
埋土 は茶褐色砂質土。出土遺物 はほとんどな い。
SK5989 調査区北辺部 で検出 した、不整方形 の小土坑。残存部 の一辺05m、 深 さ 7 cm。
埋土 は責灰褐色砂質土。遺物 はほとんど出上 しなか った。
10
Q □
<
fig.8 望 壕
SK5991 調査 区北辺部 で検 出 した、 円形小土坑。残存部 の直径 04m、 深 さ 5 cm。 埋 土
は黄灰褐色砂 質土、遺物 は出土 して いない。
SK5992 調査 区北辺部 で検 出 した、不整形土坑。 旧講堂 の 基 礎 地 業 に よ り著 し く破 壊
され る。残存部 の東西長 2.4m、 南北長 1.8m、 深 さ10cm。 埋土 は黄灰色砂質土 。 遺 物 は 出
土 しなか った。
SK5993 調査 区南辺 中央部 で検 出 した、 大型 の長方形土坑。 一 部 分 は旧講 堂 の 基 礎 地
業 のために失 われ る。 残存部 の東西長 27m、 南北長 1.6m、 深 さ25cmあ り、 埋 土 は黄 灰 色
砂質土 で あ る。遺物 は出土 しなか った。
SK5994 調査 区南部 中央 で検 出 した小土坑。耕作溝 によ り破 壊 され る。 残 存 部 の東 西
長 07m、 南北長 0.4m、 深 さ10cm。 埋土 は青緑灰色混 じりの褐色粘質土。 出土遺物 はない。
SK5996 SB6005の 北部 で検 出 した小土坑 。 北半部 は撹乱 によ り失 われ る。 残 存 部 の 直
径 25cm、 深 さ5cm。 埋土 は灰緑色粘質土。遺物 は出土 して いない。
SK5997 SB6005の 南西隅付近 で検 出 した円形小土坑。残存部 の直径 04m、 深 さ 5
cm。
埋土 は灰緑色粘質土。遺物 の 出土 はなか った。
SK5999 SE6010井 戸掘形南端 で検 出 した長 円形 の小土坑。残存部 の直径 は東西 03m、
南北 0.5m、 深 さ15cm。 埋土 は茶灰色混 じり褐色砂質土 で あ る。遺物 の 出土 はなか った。
SD5998 SB6005の 南 で検 出 した南北溝。 幅30∼ 40cm、 深 さ10cm。 埋土 は灰緑色砂質亀
E
その他 の遺 構
耕作溝 27条 を検 出 した。南北溝 の方位 は北 でやや東 へ 振 れ、東西溝 の方位 は東 でやや南
に振 れ る。 いず れ も埋土 は灰色砂質土 で あ る。
練兵場 の遺構 と考 え られ る ものに望壕 と柵列 が あ る。望壕 (fig.8)は 調 査 区 の東 端 部
と西端部 で 出土 した。底部付近 が残 るのみで あ るが、長 さ1.5m、 幅0.5m、 深 さ30cmの 東
西 に細長 い小溝 が、 1.5∼ 1.8m間 隔 で南北 に一 列 に並 ぶ。調査 区西端部 で は13基 、 東 端 部
で は 8基 検 出 した。望壕 は底 部 の形態 に特徴 が あ り、 中央 が長 さ50cm程 度 の台状 に高 まり、
両端部 は中央 よ り15cm程 度低 く掘 り窪 め られて い る。柵列 は望 壕 の列 と方位 を揃 え る。耕
作溝 の上 か ら掘 り こまれて お り、耕作溝 よ りも新 しい。 西端部 の望壕 の東側 で集 中 して 出
土 した。 直径 30cmほ どの小穴 が東西 6∼ 7列 、南北 12列 の桝 目をな して並 ぶ。
遺
Ⅲ
1
土 器 。上 製 品
(fig。
9-1∼
11)
土器・ 土製 品 の大半 は井戸 SE6010、 土坑 SK6015か ら出土 して お り、 出土量 は少 な い。
井戸枠 内 の最上層 か ら緑釉 陶器 1点 、 須 恵 器 高 杯 1点 、 底
SE6010出 土上器・ 土製 品
近 くか ら須恵器小壺 2点 、土 師器杯 A・ 皿 A各 1点 、井戸掘形 か ら土馬 1点 が 出土。緑釉
(1)は 耳 皿 と推定 され る小片 で、底部 内面 と体部外面 に淡緑色 の釉 がわずかに残 る。
胎土 は軟質 で、黄 白色 を呈 す る。平 高台 で底 に糸切痕 が残 る。須恵器高杯 (4)は 脚上半
陶器
部 の破片。脚部外面 と体部 の底 を ロ ク ロなです る。焼成 は良好 で 自然釉 が 降着す る。愛知
県猿投窯産 で あ ろ う。 1・ 4の 年代 は 9世 紀前半 ∼ 中頃。
須恵器小壺 (5・
6)は 底部 に糸切痕 が残 る。 日縁部 か ら体部 内外面 は ロ ク ロなで。 5
は日縁部 を欠 くが、肩 が張 る。焼成良好 で淡青灰色。胴部最大径 6.7cm、 底部 径 4 4cm。
はほぼ完形 で最大径 が胴部 中央 にあ る。 やや軟質 で 暗灰色。 口縁 部 径 3.7
5 8cm、
底部径 3.8cm、 器高9
1cm。
5・ 6は
cm、
6
胴部最大径
9世 紀前半代 の京都府篠古 窯産 で あろ う。
土 師器杯 A(3)は ほぼ完形 で 口縁部 を幅狭 くよ こなで して外反 させ る。 内面 はよ こなで
で調整 す るが外面 はほとん ど不調整 で指頭圧痕 が残 る。 日縁 部 径 15,Ocm、 器 高 3 0cm。 比
較 的硬質 で暗黄褐色 を呈 す る。土 師器 皿 A(2)は 口縁 部 径 12.5cm、 器 高 1.3cmと 小 形 の
破片。 口縁部 を よ こなで して外反 させ、端部 が わずか に肥厚 す る。外面 はほとん ど不調整。
2・
3の 年代 は 9世 紀前半 ∼ 中頃。
土馬 (11)は 頭部・ 尾部 と脚 2本 を欠 く。全体 を指 でなでて仕上 げ る。 やや軟質 で淡橙色
を呈 す る。比較 的大型 で、体部 を折 曲 げて成形 す る ことか ら奈良 時代後半 に比 定 で きる。
SK6015出 土上器・ 上製 品
須恵器杯 Bと 蓋各 1点 、土 師器 杯 Bと 壺 B各 1点 及 び土 馬
1点 が 出土。須恵器杯 B(10)は 高台 の残 る破片。全体 を ロ ク ロなで仕上 げす る。体部 は
直立気 味。焼成 は良好 で淡青灰色 を呈 す る。 日縁部復元径 19.Ocm、 高台部径 14.2
器高 5,2cm。 蓋
cm、
復元
(9)は 平板 なつ くりで、 内外面 を ロク ロなで仕 上 げす る。 や や軟 質 で淡
灰色 を呈 す る。 日縁部径 19.6cm、 器高 1.8cm。
9と 10は 奈良時代末 頃 に比定 で きる。
土 師器杯 B(7)は 完形。体部 は内湾気 味 に立上 り、 日縁部 でわ ず か に外反 す る。底部
の仕上 げ はやや雑 で処 々 に押圧痕 が残 るが、 内面 はよ こなでで調整 し、体部外面 はヘ ラケ
ズ リののち全面 に ヘ ラ ミガキを加 え る。奈良時代後半 ∼末 頃。土 師器壺 B(8)も ほぼ完
形。 口縁部 が外反 す るやや浅 目の壺 で、底 は平底気 味。肩付近 に板状 の把手 を 1対 つ ける。
口縁部 の み はよ こなでで仕上 げ るが、底部・ 体部 は一部 なでを加 え る程度 で凹凸が著 しい。
本来 は墨書人面用 だが人 面 は描 いて いない。胎土 に砂 を含 み、軟質 で 暗褐色 を呈 す る。
その他
古墳 SX5985か ら円筒埴輪 の小片 が 出上 して い るが、調整手法 は残 りがわ る く、
年代 も不詳。 また、古墳 SX5985・ 5990・ 5995の 周溝 か ら土 師器細片 が 出土 して い るが 、
これ も年代 は不詳。 なお、表土 か らは縄文 中期後半 の土器細片 が 1点 出土 した。
12
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fig 9 出土土器・ 土製品・ 軒平瓦 (1:4)
2瓦
類
S E6010(1∼
6・ 11。
12)S K6015(7∼ 10)
(fig.912)
瓦類 は井戸 SE6010か ら軒平瓦 1点・ 丸瓦 4片・ 平瓦17片 が、土坑 SK6015か ら丸瓦 1片 。
平瓦 2片 が 出上 して い るに過 ぎな い。簿 は出土 して いない。
軒平瓦 は6732型 式 F種 で あ る。焼成 は良好 で、灰色 に焼 き上 が り表面 のみ青灰色 を呈 す
る。 凸面 は瓦 当部 か ら縦 に削 り曲線顎 Iに 形 づ くる。 凹面 は瓦 当部付近 を周縁 に沿 って横
に削 り、瓦 当部 を離 れ る と斜 めに削 って お り、布 目 は残 って いない。軒平瓦 6732型 式 は東
大寺式 と呼 ばれ、 F種 はそ の 中 で も古 い一 群 で、平城宮・ 京 の軒瓦編年第 Ⅲ期後半 か らⅣ
期 にか けて、比較 的長 く使用 され続 けた もので あ る。神護景雲元年 (767)に 造 営 され た
頭塔 の所用瓦 と して も使用 されて い る。 また新薬 師寺・ 西大寺 で も出土 して お り、 これ ら
の造営 に造東大寺 司 が 関 わ って いた ことを示 す とされ る。今 回 の調査地点 を考慮 すれば、
東側 ほど近 くに寺域 が想 定 され る新薬 師寺 との関連 を考 え るのが妥 当 か も しれ ない。
註
(1)毛 利光俊彦「平城宮 。京出土軒瓦編年の再検討」 平城宮発掘調査報告』 XⅢ 、1991年
(2)巽 淳一郎「頭塔 の調査」 平城宮跡発掘調査部発掘調査概報』昭和63年 度 1989年 。
(『
(『
)、
)。
Ⅳ
1
ま と め
古 墳 の 性 格 (fig.10)
発掘調査 によ り時期不明 の 3基 の古墳を検出 した。 いずれ も削平 されて埋葬施設 は明 ら
かでない し、建物基礎 により寸断 され方墳か円墳か も確 かめ られない。 それで も遺存状況
か ら見 ると、SX5985と 5990は 方墳 に、SX5995は 円墳 に復元す るのが妥当であろ うか。 ま
た周溝 か らの出土遺物 は、わずかに土師器細片 と埴輪片 1点 に過 ぎず、年代を特定す るこ
とができない。 これ ら単独 では評価 は難 しいが、参考 となる成果 が周辺 の調査 で得 られて
いる。 まず、今回 の調査地 か ら西 へ400mほ どの地点 で、奈良市教育委員会 が 1992年 に行
なった第243次 調査 で方墳 1基 が見つかっている。古墳 の周溝 か ら陶 邑編年 の T K23型 式
並行 に比定 できる須恵器 9点 が 出土 して いる。 また、同 じ奈良女子大学附属中・ 高構内で、
本調査区か ら南 へ わずか50mほ どの地点 の立会調査 により、 1985年 に土坑内か ら一括埋納
された土師器・ 須恵器 が 出上 して い る。遺構 の性格 は不明なが ら、遺構図 を見 ると、 この
土坑が埋葬施設 の墓壊であり棺外 に副葬 された土器群 になることも考 え られな くもな い。
出土 した須恵器 は、奈良市調査 の ものと同 じく、陶邑T K23型 式 に当てて い る。
平塚 2号 墳
,
佐紀盾列古墳群
鶯塚古墳
春日山古墳辞
0
市 258次
X
61
杉 山古墳
吉備塚古墳
°
,今
回の調査地
立会
市 243次 ・
´協
野 神古 墳
j与
高円山
大安寺墓 山古墳
春 日山
Q
伝 開化天皇 陵
岱
護 国神社境 内古墳群
宏
・ Θ.
古 市方形墳
fig。
宅
o草 塚古墳
10 古墳時代 の奈良盆地東北部 (1:50000 明治31年 発行 の仮製 2万 分 の 1地 形図 に加筆)
この よ うに、発見 された古 墳 はまだ まだ数少 な い とはいえ、面 的 にあ る程 度広 が る こと
が予想 で きる。 いずれ も一辺 な い し径 10m前 後 の小規模 な古墳 で あ る。 今 回発見 され た 3
基 の古墳 につ いて も、積極 的根拠 は乏 しいなが ら、 どち らか とい うと方墳 を基 調 とす るこ
と、 また埋葬施設 は削平 されて い るとはいえ横穴式石室 を想定 しが たい ことか ら、 奈良市
調査 の方墳 と同 じよ うな築造 時期 を考 えた い。 これ らは横穴式石室 を採用 した円墳主体 の
群集墳 で はな く、 その前段 階 に位 置付 け られ る木棺 を直葬 す るな ど した方墳主体 の古墳群
で あろ う。 5世 紀後葉 か ら 6世 紀前葉 にか けて の築造時期 が考 え られ る。 この古墳群 は、
春 日山 と高 円山 を分 か つ谷 が盆地 に出 た ところで 形 成 した 扇 状 地 に立 地 す る。 明治 31年
(1898)発 行 の仮製 2万 分 の 1の 地形 図 を見 ると、 旧奈良市街 の はず れ で 市 街 化 して お ら
ず、水 田が広 が って い る。近世 の絵 図 な どを検索 す る余裕 はな く確 か めて いないが、 おそ
らく耕地化 に ともない早 くに埋没 して いたので はな いか。 ただ、今 回 の調査 区 か らさ らに
東側 の、奈良教育大学構 内 には吉備塚 と呼 ばれ る古 墳 が あ り、 このあた りで は墳丘 を残 す
唯― の もので あ る。 現状 で は径 17mほ どの 円墳状 の墳丘 で あ る。 ここか らは最近 にな り画
文帯環状乳神獣鏡 の破片 が採取 されて い る。熊本県江 田船 山古墳 出土鏡 ほか 9面 の同型鏡
が知 られ る もので あ る。
ここで注 目で きるのが古墳群 の南 にあ る南紀寺遺跡 で あ る。 1990∼ 91・ 93年 の調査 で、
石積 み によ る護岸施設 を と もな う濠 が検 出 され、 まだ全 容不 明 なが ら、 豪族居館跡 で はな
いか と推定 されて い る。 濠 は 5世 紀 中頃以前 に掘 られ 6世 紀前半 には廃絶 した と考 え られ
て い る。 また、 この地点 か ら南 へ250mの 地点 で は、 5世 紀後半 か ら 6世 紀 前 半 にか けて
の竪穴住居数棟 か らな る集落跡 が見 つ か って い る。初期須恵器 の 出土 も注 目で きよ う。以
上 のよ うに、南紀寺遺跡 を生 活拠点 と し、 その北側縁辺 に墳墓地 を もつ、 ひ とつ の地域勢
力 が存在 した ことが うかがえ る。 この地域勢力 の首長 が、杉 山古墳 (墳 丘 長 約 145m)お
よび大安寺墓 山古墳 (墳 丘長約 80m)の 被葬者 と考 えた い。 この 2基 の前方後 円墳 は、先
の古墳群 か らは距離 的 にはやや離 れ るとはいえ、扇状地 か ら続 く同 じ台地 の先端 に位 置す
る。杉 山古墳 は、奈良市教育委員会 が調査 を継続 してお り、 出上 した埴輪 な どか ら 5世 紀
後半 の年代 が考 え られ る (fig.11)。 墓 山古墳 は年代 を考 え る資 料 に乏 し く位 置付 けが 困
難 だが、人物埴輪 の 出土 か ら杉 山古墳 に前後 す る時期 を考 えてお けば よいだ ろ う。 また、
野神古墳 は竪穴 式石椰 に古式 の春1抜 式家形石棺 を お さめ た古 墳 と して よ く知 られ て い る
(fig.12)。
墳丘 は開墾 によ って著 しく損 なわれて い るが、前方後 円墳 に復元 す る こ と も可
能 で あ る。 その場合 は、 50m前 後 の規模 にな ろ うか。棺 内 には鏡 2面・ 直刀 3日・ 玉類若
千 が副葬 されて いた らしい。 また、大正末年 か ら昭和初年 には石室 が調査 され、剣 菱形杏
葉 を含 む馬具類 が 出土 した とい う。 この石棺 の石材 は二上 山 の ピンク石 で、奈良盆地 東辺
に分布 の ま とま る「 三 輪型」 とされ、 5世 紀後半 の年代 が与 え られて い る。 また、 五 島美
術館 には「 大安寺村古墳 出土」 と して銅槃作細線式獣帯鏡 が所蔵 されて い る。 この鏡 は 5
世紀後半以 降頻 出す る、多 くの同型鏡 が存在 す る一 群 の鏡 のひ とつ で あ り、杉 山古墳 や墓
山古墳 あ るい は野神古墳 か ら出土 した蓋然性 が高 い。野神古墳 の石棺 内 の鏡 は径 1尺 と記
録 されてお り、 この 2面 につ いて も画文帯 同向式神獣鏡 な どの 同型鏡 の多 い一 連 の鏡 で あ
ろ うか。先 の吉備塚古墳 の画文帯環状乳神獣鏡 もそ の 1種 で あ る。
以上 の よ うに、 5世 紀後半 頃 を中心 と して100mを 前後 す る前方後 円墳 を首 長 墳 と して
築 き、南紀寺遺 跡 に居館 を もうけた勢 力 が あ った ことが確 かめ られ る。今 回 の調査 で検 出
され た小規模墳 は、 この地域勢力 を構成 した有力家長層 の墳墓 と位 置付 け られ よ う。 この
地域勢 力 が、古墳時代 中期前半以前 にど こまで遡 るのか は明 らかで ない。古市方形墳 や北
方 の鶯塚古墳 と系譜 的 につ なが るのか ど うか、 なお検討 を要 す るが否定 的 に思 われ る。 た
だ、奈良市教育委員会 が1992年 に行 な った第 258次 調査 にお いて、鎌 倉 時代 の 井 戸 か ら出
土 した石製合子 が注 目で きる。 単独 で あれば付近 の古墳 か ら出土 した もの とは必 ず しも言
い難 いが、 円筒埴輪片 を ともな う ことか ら、古 墳 その もの は全 く不 明 なが ら、近 くに前期
末 の古墳 を考 え る ことが適 当か も しれ ない。 これが妥 当で あれば、先 の方墳 ともほど近 い
ことか ら、前期末 な い し中期初頭 に系譜 が遡 ること も考 えな けれ ばな らな い。 その場合、
杉 山古墳 な どとの年代 的 な開 きが い くぶん あ るため、今 は消失 した未知 の 中期前半期 の古
墳 を想定 す ることにな る。 しか し今 の ところ、 その可能性 を残 しなが らも、 この地域勢力
の盛期 はや は り 5世 紀後半以降 で あ った とす るほか ない。 しか し、 この隆盛 も古墳時代後
期 に入 って衰退 す る。 豪族居館 とされ る濠 は 6世 紀 前 半 に は埋 る との こ とで あ り、 また
100mを 前後 す るよ うな首長墳 も 5世 紀末以後 は続 か ないよ うで あ る。 5世 紀 末 か ら 6世
紀前半 とい う時期 は、近畿 お よびその周辺 で は、 多 くの地域 にお いて大型前方後 円墳 の築
造 が 中断す る ことが指摘 されてお り、 こ う した動 向 は この地域 にお い も当て はまるので あ
る。 6世 紀前半以降、首長墓 と 目 され る中 。大型古墳 は今 の ところ見 出 しが た く、 6世 紀
中頃以 降、横穴式石室 を埋 葬施設 とす る、 いわ ゆ る群 集 墳 が 2群 認 め られ る程 度 で あ る
〔
春 日山古墳群・ 護 国 (高 円)神 社境 内古墳群〕。
fig,12 野神古墳石榔実測図 (1:80)
2結
語
今 回 の調査地 は、 平城京外京 の東方外 にあ り、京東条里 四条 一里 に相 当す ると考 え られ
て い る。奈良市街地東南部 の住宅密集地 にあた り、 あ ま り調査 の進 んで い る地 域 とは言 い
難 い。今 回 の調査面積 は1500だ に及 ぶ もので あ り、周辺 にお いて これ まで実施 された調査
のなかで は、 か な りま とま った広 さを もつ といえ る。調査面積 の広 さか ら、 条里遺構 の検
出が期待 され、 また、調査地 南 ほど近 くで は古墳 時代 の遺構 。遺物 な どが 出土 して い る こ
とか ら、古墳時代 の遺跡 の発見 も予想 された。
調査 の結果、予想以上 に近代 ∼ 現代 の覆乱 が著 しく、 旧講堂造成時 の削平 が地 下深 くに
まで及 び、 ほとん どの遺 構 は既 に失 われて い る ことが 明 らか とな った。 しか し、残存状態
は良 くないなが ら古墳 時代 中期 の方墳 ない し円墳 や、奈良時代 ∼ 平安 時代 の井戸・ 土坑 な
どを検 出 し、 それ らの遺 構 か らは少量 で はあ るが、土器、土製 品、 瓦 な どが 出土 した。
3基 の古墳 は、破壊 が著 しく、墳丘規模 や埋 葬主体部 な どの詳細 は不 明 で あ る。 また、
出土 した土 師器・ 埴輪 な どはいずれ も小片 で あ り、時期 の比定 は困難 で あ る。 しか し、残
存 す る周溝 か ら見 て方墳 を基 調 とす ること、横穴式石室 を埋 葬施設 と した ことは考 え難 い
こと、西方 の紀寺 町で本古墳 と同 じ扇状地上 に立地 す る、 5世 紀後葉 の須恵器 を伴 う方墳
が見 つ か って い る ことな どか ら、本古墳 も 5世 紀後葉 か ら 6世 紀前葉 頃 に築造 された もの
と考 えた い。 これ らの古墳 が一 体 とな り、古墳群 を形成 して いた と考 え られ る。
古墳群 の南 に位 置す る南紀寺遺跡 で は、 5世 紀 中頃以前 か ら 6世 紀前半 頃 の石積 み護 岸
施設 を もつ 濠跡 や、 5世 紀後半 か ら 6世 紀前半 にか けて の、竪穴住居数棟 か らな る集落跡
が発 見 されて い る。 お そ らく、 この古墳群 を形成 した地 域勢力 は、南紀寺遺跡 を生 活拠点
と して いた ので あ ろ う。 そ して、 この地域勢力 の首長 が、杉 山古墳、大安寺墓 山古墳 の被
葬者 と考 え られた。両古墳 と も、本古墳群 の立地 す る扇状地 の西端 に位 置 してお り、 出土
した埴輪 か ら、 5世 紀後半 頃 の年代 が考 え られて い る。南紀寺遺跡 に生 活基盤 をお き、 そ
の北方 の東西 に長 く延 び る扇状地上 に墳墓 を営 み、杉 山古墳 や墓 山古墳 の被葬者 を首長 と
して いただ く、地域勢 力 の存在 が うかがえ るので あ る。 なお、古墳群 その ものの内容 や地
域勢力 の具体 的様相 。系譜 な どにつ いて、多 くの解 明す べ き問題 もまた、残 されて い る。
今後 の周辺地域 にお け る調 査 の進展 が期待 され る。
土坑 は、 出土土器 か ら奈良時代後半 ∼末 頃 の年代 が考 え られ る。土馬 と墨 書人面用上器
の 出土 が注 目で きるが、 出土状況 か らは祭祀遺構 とは考 え に くい。井戸 は、 出土土器 か ら
見 て、 9世 紀 の前半 ∼ 中頃 に廃棄 され、埋没 した もの と考 え られ る。 9世 紀前半 頃 に使用
されて い た ので あ ろ う。後世 の削平 が著 しい ため、今 回 の調査 で は、 これ らの遺構 に伴 う
掘立柱建物 な どは検 出 で きなか った。従 って、奈良時代 か ら平安 時代 にか けて の、本遺跡
の具体 的 な様相 を明 らか にす るには至 って いない。 出土瓦 か らは、本遺跡 と新薬 師寺 との
関連 も考 え られ るが、周辺 の調査 の進展 を ま って 改 めて検討 す べ きで あろ う。
註
(1)三 好美穂・ 武田和哉「平城京左京五条七坊十二坪 の調査
第243次 」
『奈良市埋蔵文化財調査概
要報告書』平成 3年 度、 1992年 。
(2)坪 之内徹「東紀寺遺跡出土土師器焼成 の (須 恵器)高 郭」『 韓式系土器研究』 Ⅳ、1993年 。
(3)粉 川昭平・ 清水康二「吉備塚古墳表採 の銅鏡 について」『 青陵』第77号 、 1991年 。
(4)川 西宏幸「同型鏡 の諸問題 ―画像鏡・ 細線獣帯鏡 ―」『古文化談叢』27、 1992年 。
(5)関 野豊「南紀寺遺跡 の調査」『 奈良市埋蔵文化財調査概要報告書』平成 2年 度、 1991年 。 森下
浩行・ 武田和哉「南紀寺遺跡 の調査
第 2次 」
『奈良市埋蔵文化財調査概要報告書』 平成 3年 度、
1992年 。奈良市教育委員会『南紀寺遺跡第 4次 発掘調査成果概要』 1994年 。
(6)森 下浩行「南紀寺遺跡 の調査 第 3次 」『 奈良市埋蔵文化財調査概要報告書』 平成 4年 度、
1993年 。
(7)末 永雅雄「大安寺杉山古墳」『 日本考古学年報』 7、
寺旧境内の調査
第54・
1958年 。鐘方正樹・ 久保邦江「史跡大安
55次 の調査」
『 奈良市埋蔵文化財調査概要報告書』平成 4年 度、 1993年 。
(8)小 島俊次「大安寺地区」『 奈良市史』考古編、 1968年 。
(9)小 泉顕夫「大安寺字野神古墳発掘検分書」『 大和文化研究』第 2巻 第 4号 、 1954年 。 小 島俊次
『奈良市史』考古編、 1968年 。
「京終地区」
(10)和 田晴吾「畿内 の家形石棺」
『 史林』第59巻 第 3号 、1976年 。
『奈良市史』考古編、1968年 。
(■ )小 島俊次「 京終地区」
(12)川 西宏幸「同型鏡 の諸問題 一画像鏡・ 細線獣帯鏡 ―」『古文化談叢』27、 1992年 。
近畿 I〉 、角川書店、1992年 。
(13)和 田晴吾「群集墳 と終末期古墳」『新版 古代 の 日本』第 5巻 〈
『 奈良市埋蔵文化財調査概要報告書』平
(14)久 保邦江「 平城京左京五条七坊六坪 の調査 第258次 」
成 4年 度、 1993年 。
(15)白 石太一郎「 日本古墳文化論」『講座 日本歴史』 1(原 始・ 古代 1〉 、東京大学出版会、 1984
年。
調査地周辺 の航空写真 (1:5000、 1962年 撮影 )
│
PL. 2
棒真
︱ 諮
区全景垂 直写
(左 が北 、 1:250)
PL. 3
1
調査区全景
東か ら
2
調査 区全景
西か ら
PL. 4
】ヒ
西か ら
S X5990 】ヒか ら
PL 5
章
_生基
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││11.i■澱
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離
S X 5995 南西 か ら
PL. 6
l S B6005
西か ら
2 S K6015 ゴヒ東か ら
PL. 7
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,
S E6010
S E6010
東か ら
井戸枠下半部
PL. 8
壁壕
北東 か ら
PL。
9
6732F 参考写真 西大寺出土
出土土器・ 土製 品 。軒平瓦
(1:4)
東紀寺遺跡
―奈良女子大学 附属 中学校・ 高等学校構 内遺跡発掘調査報告 ―
1994年 3月 25日 印刷
1994年 3月 31日 発行
編集
奈良国立文化財研究所
奈良市二条町 2丁 目9番 1号
発 行
。
奈 良 女 子 大 学 (奈 良女子大学 附属 中学校 高等学校構 内遺跡調査会 )
奈良市北魚屋東町
印刷
明新印刷株式会社
奈良市南京終町 3丁 目 464番 地
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