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jrs019-06

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jrs019-06
137
演じる身体と自己
Playing Body and Self
KOSEKI Sumako
古 関 すま子
はじめに
本講演は大きなテーマとして「教育と身体」という問題を据えているので
あるが,具体的には教育の中心的課題である,
「自己」の確立や発展という
ことに,舞台の身体がどのように関わり得るかを えることから,そのテー
マに切りこんで行きたいと えている。
1)「自己」について
流行語「自 らしさ」と本当の(?)「自己」
「自己」の開発や確立ということが教育の根幹にあることに,大きな意味
において異論はないと思われるが,その場合そもそも開発し,確立すべき
「自己」とは一体何かと言う難しい問題が付きまとう。「自己」については,
心理学,社会学,及び哲学において多くの議論がなされてきた。しかし私は
本講演を,
「自己」の定義をめぐる議論から始めたくない。むしろ舞台の身
体に何が起こるのかを見ることのほうを,「自己」というものを捉える手が
かりにしようと思っている。ここではその準備として,
「自己」概念をめぐ
るごく初歩的な問題を喚起するにとどめたい。
最近良く耳にする「自 らしさ」
「自
言われる「自
」
「自 探し」などの表現の中で
」という言葉には,
「他の人とは違う自
だけのもの」とい
駒澤大學
138
教育学研究論集
第 19号
2003年
演じる身体と自己(古関)
う意味が含まれているだろう。さらにもう一歩進んで,
「他人の目に規制さ
れない」「社会の規範にとらわれない」,というような意味も込められている
とも えられるが,これは日本の社会及び教育状況を
なずけることではあるだろう。「自
えれば,ある程度う
らしい」生き方を求めて,
合学習や
139
2) 自己と他者
望むと望まないとに関わらず,生まれ落ちた時からすでに私たちは他者の
織り成す網の目の中に放りこまれている。例えば言語。言語はすでに私たち
が生まれる前から社会的,歴
的に存在しており,私たちは身近な者(主と
造性開発などの動きなどが見られることは,もちろん良いことには違いな
して母親)との密接な関係を通して,その既成の構造に参加してゆくのであ
い。しかしそれが数百年来の,
「右へならえ」
,
「出る杭は打つ」というやり
る。ラカンは選択の余地なく私達に与えられているこの枠組を「受難」とす
方の行き詰りに対処する,俄か仕立ての底の浅い議論に陥らないように注意
ら呼び,そこから生まれる様々な病理を
する必要はあるだろう。
「自
を失いつ
に対する反応や言語獲得の様子を観察し,自他未 化の状態から次第に自己
つある現代日本の姿が逆に浮かび上がるような,うすら寒さを覚えるのは,
の認識を獲得して行く仕組みをとらえた。このように「自己」とは本質的に
私だけではあるまい。
他者の織りなす網の目に組み込まれるように,決定づけられた存在なのであ
さがし」が声高に叫ばれる程,自
ちなみに私は二十年間フランスに居住し,子供を育てた経験があるが,そ
析した。またワロンは幼児の鏡像
る。
こでは初等・中等教育が,
「保守的」と言って良いほどオーソドックスな姿
しかしその対極には,もう一つの厳然たる事実がある。それは自 はどこ
勢を守っていることに驚かされた。初等教育で重視されるのは,十七世紀以
までも自 一人の自 であるという事実である。誰も人の代わりに誰かの生
来のアカデミー・フランセーズがその保持に目を光らせている,
「正しいフ
を生きることはできない。そのようなたった一人の「自 」とは何なのか。
ランス語」の習得。中学では数学と哲学が必修であり, える力,論理的・
その奥底には何があるのか。その深層を深く掘り下げて行けば,人はまった
抽象的思
く互いに了解不可能な,個別な秘密の花園に行き着くのだろうか。
の訓練が繰返される。
このような教育の保守性とは対照的に,大人になったフランス人は自由と
ユングの「自己実現」あるいは「個性化」の理論は,この点に関して意味
個性を何よりも重んずる個人主義者となる。彼らの教育プロセスは,人生の
深い世界を示している。ユングは自 というものの中で意識されている部
初期においては,ベースとして規制の枠組,クラシックな智恵やスキルをた
を「自我」として,より大きな無意識の層までを抱え込んだ「自己」と区別
たきこむ,と同時に哲学的な思 の訓練もする。そして時が熟したら,身に
した。そして「個性化」あるいは「自己実現」とは,この無意識の層に広が
付けたベースを自由に駆 して「個性的」な発想や生き方をする,という順
る「自己」に出会って行く過程なのであるが,その「無意識」の世界は一人
序に っていた。
の人間を超えて「集合的無意識」として普遍的なものにつながっていると言
現代の日本においては,初期の「習得」の時期と,
「自由」な
造の時期
う。すなわちユングは,この世にたった一人の自己を真に実現する「個性
をごちゃ混ぜにした,乱暴な「 造性」理論や,安易な「自 らしさ」追求
化」の道とは,人類に「普遍的」な元型に象徴されるような「集合的」な無
の傾向がないとは言えない。この辺で探すべき「自 」を,存在論的に捉え
意識へとつながってゆく過程だと言うのである。ただ一人の「自己」の奥底
返して見る必要があるだろう。
にある,秘密の花園にわけ行って見れば,そこは自
も他者も包み込んだ人
類共通の花ばなが咲いていた,と言うわけである。
ユングの自己実現理論は「無意識」と「普遍的元型」が連動するダイナミ
駒澤大學
138
教育学研究論集
第 19号
2003年
演じる身体と自己(古関)
う意味が含まれているだろう。さらにもう一歩進んで,
「他人の目に規制さ
れない」「社会の規範にとらわれない」,というような意味も込められている
とも えられるが,これは日本の社会及び教育状況を
なずけることではあるだろう。「自
えれば,ある程度う
らしい」生き方を求めて,
合学習や
139
2) 自己と他者
望むと望まないとに関わらず,生まれ落ちた時からすでに私たちは他者の
織り成す網の目の中に放りこまれている。例えば言語。言語はすでに私たち
が生まれる前から社会的,歴
的に存在しており,私たちは身近な者(主と
造性開発などの動きなどが見られることは,もちろん良いことには違いな
して母親)との密接な関係を通して,その既成の構造に参加してゆくのであ
い。しかしそれが数百年来の,
「右へならえ」
,
「出る杭は打つ」というやり
る。ラカンは選択の余地なく私達に与えられているこの枠組を「受難」とす
方の行き詰りに対処する,俄か仕立ての底の浅い議論に陥らないように注意
ら呼び,そこから生まれる様々な病理を
する必要はあるだろう。
「自
を失いつ
に対する反応や言語獲得の様子を観察し,自他未 化の状態から次第に自己
つある現代日本の姿が逆に浮かび上がるような,うすら寒さを覚えるのは,
の認識を獲得して行く仕組みをとらえた。このように「自己」とは本質的に
私だけではあるまい。
他者の織りなす網の目に組み込まれるように,決定づけられた存在なのであ
さがし」が声高に叫ばれる程,自
ちなみに私は二十年間フランスに居住し,子供を育てた経験があるが,そ
析した。またワロンは幼児の鏡像
る。
こでは初等・中等教育が,
「保守的」と言って良いほどオーソドックスな姿
しかしその対極には,もう一つの厳然たる事実がある。それは自 はどこ
勢を守っていることに驚かされた。初等教育で重視されるのは,十七世紀以
までも自 一人の自 であるという事実である。誰も人の代わりに誰かの生
来のアカデミー・フランセーズがその保持に目を光らせている,
「正しいフ
を生きることはできない。そのようなたった一人の「自 」とは何なのか。
ランス語」の習得。中学では数学と哲学が必修であり, える力,論理的・
その奥底には何があるのか。その深層を深く掘り下げて行けば,人はまった
抽象的思
く互いに了解不可能な,個別な秘密の花園に行き着くのだろうか。
の訓練が繰返される。
このような教育の保守性とは対照的に,大人になったフランス人は自由と
ユングの「自己実現」あるいは「個性化」の理論は,この点に関して意味
個性を何よりも重んずる個人主義者となる。彼らの教育プロセスは,人生の
深い世界を示している。ユングは自 というものの中で意識されている部
初期においては,ベースとして規制の枠組,クラシックな智恵やスキルをた
を「自我」として,より大きな無意識の層までを抱え込んだ「自己」と区別
たきこむ,と同時に哲学的な思 の訓練もする。そして時が熟したら,身に
した。そして「個性化」あるいは「自己実現」とは,この無意識の層に広が
付けたベースを自由に駆 して「個性的」な発想や生き方をする,という順
る「自己」に出会って行く過程なのであるが,その「無意識」の世界は一人
序に っていた。
の人間を超えて「集合的無意識」として普遍的なものにつながっていると言
現代の日本においては,初期の「習得」の時期と,
「自由」な
造の時期
う。すなわちユングは,この世にたった一人の自己を真に実現する「個性
をごちゃ混ぜにした,乱暴な「 造性」理論や,安易な「自 らしさ」追求
化」の道とは,人類に「普遍的」な元型に象徴されるような「集合的」な無
の傾向がないとは言えない。この辺で探すべき「自 」を,存在論的に捉え
意識へとつながってゆく過程だと言うのである。ただ一人の「自己」の奥底
返して見る必要があるだろう。
にある,秘密の花園にわけ行って見れば,そこは自
も他者も包み込んだ人
類共通の花ばなが咲いていた,と言うわけである。
ユングの自己実現理論は「無意識」と「普遍的元型」が連動するダイナミ
駒澤大學
140
教育学研究論集
第 19号
2003年
演じる身体と自己(古関)
141
ックな構造により,自己と他者の対置という平板な図式を一挙に乗り超えて
めしのない未知の世界,心の鈍るのも当然,
(云々云々)
」(『ハムレット』
いる。この構造こそ,これから述べようとする演劇のダイナミズムと同一の
福田恒存訳)
ものなのである。そのことを理解するためにシェークスピアの「ハムレッ
ト」の戯曲と上演の一部を見てみよう。
ほぼ同時代の日本で近 の心中物が死の美化と共に演じられていたことと,
このハムレットの独白は対照的である。即ちここには自殺者には死後の救済
は与えられず,地獄の苦しみが待つとするキリスト教の教義の反映がある。
3)「ハムレット」の一場面から
「ハムレット」は周知のように,
ハムレットは言わば神だけを前にして,孤独な独白をしているのである。
がその弟により殺害され,妻も王国も
さて「ハムレット」の中にはもうひとつ,よく知られたセリフがある。有
奪われたことを知ったハムレットの復讐の劇である。冒頭ハムレットは の
名な「尼寺へ行け」である。
亡霊に復讐を堅く誓うが,ことはそう簡単には行かない。今や権力の頂点に
為。女性の性(さが)に対するハムレットの嫌悪と憤りは,自身の婚約者オ
立ち,権謀術策の網の目を国の内外に張りめぐらしている叔 に対し,亡霊
フィーリアに対して振り向けられていくこととなる。
の言葉などという曖昧なものをだけを拠りどころとして,すぐに復讐の刃を
振りかざすことはできない。
を殺害した叔 と自
の母とのおぞましい行
「尼寺へ行け。なぜ男に連れそうて罪ふかい人間どもを生みたがるの
だこのハムレットという男は,これで自 ではけっこう誠実な人間のつ
そのうえ の亡霊は叔 に復讐はしても,決してその母を傷つけてはなら
もりでいるが,それでも母が生んでくれねばよかったと思うほど,いろ
ないと言い残していた。そのため母が を殺した男と共に毎夜を過ごしてい
んな欠点を数えたてることができる。…(中略)…誰も信じてはならぬ
るという,おぞましい事態に対しても,ハムレットはすぐに手を下すことが
…何も えずに尼寺へ行くのだ…」(福田訳)
できない。燃え上がる復讐心とそれを実行に移せない無力感,また女性への
敬慕の念と激しい不信感,嫌悪感…。出口の無い苦しみの中でハムレットの
吐くのが,おなじみの次のセリフである。
To be or not to be. That is the question. (生か,死か,それが疑問だ)
4) 上演の一例
さて以上戯曲「ハムレツト」を少しく見てきたのであるが,これを上演す
るとなるとどんなふうになるのだろう。世界中で何千万回となく上演されて
この誠に端的でドラマティックなひとつのセリフのおかげで,ハムレット
きたこの戯曲には,何千万通りの演出の仕方,演技の仕方があることは言う
は言わば「悩める若者」の代名詞となった,と言っても言い過ぎではないだ
までもないが,そのひとつとして,1997年上演の蜷川幸雄演出によるそれを
ろう。独白はこの後終始,ただひたすら死後の世界の恐ろしさを語りつつ続
ビデオで見てみる。講演では,
く。
①戯曲で見たセリフに関してどういうしゃべり方,演じ方が想像されるか
「死は眠りにすぎぬ…(中略)…永遠の眠りについて,ああ,それか
らどんな夢に悩まされるか,誰もそれを思うと いつまでも執着が残る,
(一人一人が演出家,及び役者になったつもりで)
。
②それらのセリフが自 たちとどう関わり得るか。時代や状況が変わっても
こんなみじめな人生にも。…(中略)…この辛い人生の坂道を,不平た
何か今の自 たちと通じるものがあるか。
らたら汗水たらしてのぼっていくのも,なんのことはない,ただ死後に
についてビデオを見る前に えてもらった。
一抹の不安が残ればこそ。旅だちしものの,一人としてもどってきたた
ビデオで注目して欲しかったのは次のような点であった。
駒澤大學
140
教育学研究論集
第 19号
2003年
演じる身体と自己(古関)
141
ックな構造により,自己と他者の対置という平板な図式を一挙に乗り超えて
めしのない未知の世界,心の鈍るのも当然,
(云々云々)
」(『ハムレット』
いる。この構造こそ,これから述べようとする演劇のダイナミズムと同一の
福田恒存訳)
ものなのである。そのことを理解するためにシェークスピアの「ハムレッ
ト」の戯曲と上演の一部を見てみよう。
ほぼ同時代の日本で近 の心中物が死の美化と共に演じられていたことと,
このハムレットの独白は対照的である。即ちここには自殺者には死後の救済
は与えられず,地獄の苦しみが待つとするキリスト教の教義の反映がある。
3)「ハムレット」の一場面から
「ハムレット」は周知のように,
ハムレットは言わば神だけを前にして,孤独な独白をしているのである。
がその弟により殺害され,妻も王国も
さて「ハムレット」の中にはもうひとつ,よく知られたセリフがある。有
奪われたことを知ったハムレットの復讐の劇である。冒頭ハムレットは の
名な「尼寺へ行け」である。
亡霊に復讐を堅く誓うが,ことはそう簡単には行かない。今や権力の頂点に
為。女性の性(さが)に対するハムレットの嫌悪と憤りは,自身の婚約者オ
立ち,権謀術策の網の目を国の内外に張りめぐらしている叔 に対し,亡霊
フィーリアに対して振り向けられていくこととなる。
の言葉などという曖昧なものをだけを拠りどころとして,すぐに復讐の刃を
振りかざすことはできない。
を殺害した叔 と自
の母とのおぞましい行
「尼寺へ行け。なぜ男に連れそうて罪ふかい人間どもを生みたがるの
だこのハムレットという男は,これで自 ではけっこう誠実な人間のつ
そのうえ の亡霊は叔 に復讐はしても,決してその母を傷つけてはなら
もりでいるが,それでも母が生んでくれねばよかったと思うほど,いろ
ないと言い残していた。そのため母が を殺した男と共に毎夜を過ごしてい
んな欠点を数えたてることができる。…(中略)…誰も信じてはならぬ
るという,おぞましい事態に対しても,ハムレットはすぐに手を下すことが
…何も えずに尼寺へ行くのだ…」(福田訳)
できない。燃え上がる復讐心とそれを実行に移せない無力感,また女性への
敬慕の念と激しい不信感,嫌悪感…。出口の無い苦しみの中でハムレットの
吐くのが,おなじみの次のセリフである。
To be or not to be. That is the question. (生か,死か,それが疑問だ)
4) 上演の一例
さて以上戯曲「ハムレツト」を少しく見てきたのであるが,これを上演す
るとなるとどんなふうになるのだろう。世界中で何千万回となく上演されて
この誠に端的でドラマティックなひとつのセリフのおかげで,ハムレット
きたこの戯曲には,何千万通りの演出の仕方,演技の仕方があることは言う
は言わば「悩める若者」の代名詞となった,と言っても言い過ぎではないだ
までもないが,そのひとつとして,1997年上演の蜷川幸雄演出によるそれを
ろう。独白はこの後終始,ただひたすら死後の世界の恐ろしさを語りつつ続
ビデオで見てみる。講演では,
く。
①戯曲で見たセリフに関してどういうしゃべり方,演じ方が想像されるか
「死は眠りにすぎぬ…(中略)…永遠の眠りについて,ああ,それか
らどんな夢に悩まされるか,誰もそれを思うと いつまでも執着が残る,
(一人一人が演出家,及び役者になったつもりで)
。
②それらのセリフが自 たちとどう関わり得るか。時代や状況が変わっても
こんなみじめな人生にも。…(中略)…この辛い人生の坂道を,不平た
何か今の自 たちと通じるものがあるか。
らたら汗水たらしてのぼっていくのも,なんのことはない,ただ死後に
についてビデオを見る前に えてもらった。
一抹の不安が残ればこそ。旅だちしものの,一人としてもどってきたた
ビデオで注目して欲しかったのは次のような点であった。
駒澤大學
142
①空間の
教育学研究論集
第 19号
2003年
い方。
演じる身体と自己(古関)
143
け云々」を投げかけるハムレットは,混乱の極致に陥っている。身の に余
蜷川演出では舞台が二階 てになっており,役者達は舞台全体を横切る階
る 藤と怒りに翻弄される彼は「身体言語」をもって語るしかないのである。
段を上がり下りして演じる。それがドラマ性にどういう効果をもたらして
演技の中では感情をめぐる心身の仕組みを逆に利用することによって,真
いるか。
②身体を
実の演技に近づこうとする。そのためスタニスラフスキーやグロトフスキー
った演技。
など演技論の専門家たちは,「感情に即した身体の反応を蘇らせること」
,
ハムレット(真田広之)は「生か,死か…」の独白を二階の片隅で行う。
現実の生活から身を隠し,孤独に問いをかけるこの独白にそれはふさわし
い。一方それに続くオフィーリアとの掛け合い「尼寺へ行け…」では,一
「身体の抱えている無意識を掘り起こすこと」をその演技理論の要としてき
たわけである。
「我々の精神技術の基本的な目標は我々を,我々の潜在意識が自然に
転してハムレットは階下で走り回る。
働くような 造的状態に置くことなのである。役者が潜在意識の領域へ
これまで何度かこのビデオを学生たちに見せてきたが,みんな一様にこの
到達すると彼の魂の目は開かれ,…すべて,まったく新しい意味を持つ
場面の真田の演技に目を奪われる。怒り,苛立ち,皮肉…それらを表す言葉
のである。彼は役と彼自身の両方として,新しい感情や,概念や,ヴィ
と身体が一体となって爆発する。まさに「身体言語」である。
ジョンや,態度を意識するのだ」(スタニスラフスキ 『俳優修行』)
ここでグロトフスキーの方法を紹介しても良いのであるが,グロトフスキ
5) 身体と無意識
ー自身が日本(その中には私自身の参加したグループも入っている)やイン
概して私たちは,「体は魂や精神の入れ物」というふうに漠然と捉えてお
り,精神の持つ感情が,体という入れ物にも反映するというように えがち
ドの方法に学びつつそのメソッドを作ったという経緯もあり,僭越ながら私
自身のワークショップでの訓練法を簡単に紹介したい。
である。しかし実際はそのようにことが進むわけではない。ある感情は同時
に必ずホルモン,血流,筋肉,皮膚など身体の変化を伴っており,心身の
体的な反応として生じている。そのような
体的な反応のうち,意識された
ものが感情として気付かれ,またその一部
が「あいつが憎い」
「嬉しくて
たまらない」などと言語化をともなって意識されるに過ぎない。
精神科医でありユング派の精神療法も行っている,横山博は,精神的な
藤が身体的な症状として現れた,多くの症例を示している。心の 藤は,そ
れが言語化できない時や,意識化されていてもその解決の糸口が見つからず,
その 藤が持続する時,必ず「身体」にその症状を表す。それは不眠,胃潰
瘍などの心身症から反応性鬱病,時には自殺という不幸な結果に終わること
もある。
そもそもなんの罪もないオフィーリアに対し,まったく不当に「尼寺へ行
6) 演技のための心身の開発法
その具体的作業は大きく言って4段階からなる。まず,
①自然や他者に対して体を開く
新武道のひとつである「新体道」の中のいくつかの動き。開脚前進,切
り下ろし,横切り等,足腰を安定させ,垂直および水平に「気」を発展さ
せる訓練。腹式呼吸。
他者を皮膚で感じる・気や動きを与える・受け取る。受け手は解釈や抵
抗を加えず受け入れる。防御や 析的思 を除き体を開く訓練。
り足歩行。上下左右のブレなく彼方に視線を放ってゆっくり歩き続け
る伝統的「 り足」歩行は, 析的意識の抑制をストップし,より広い時
間・空間の中に意識を運ぶ。
駒澤大學
142
①空間の
教育学研究論集
第 19号
2003年
い方。
演じる身体と自己(古関)
143
け云々」を投げかけるハムレットは,混乱の極致に陥っている。身の に余
蜷川演出では舞台が二階 てになっており,役者達は舞台全体を横切る階
る 藤と怒りに翻弄される彼は「身体言語」をもって語るしかないのである。
段を上がり下りして演じる。それがドラマ性にどういう効果をもたらして
演技の中では感情をめぐる心身の仕組みを逆に利用することによって,真
いるか。
②身体を
実の演技に近づこうとする。そのためスタニスラフスキーやグロトフスキー
った演技。
など演技論の専門家たちは,「感情に即した身体の反応を蘇らせること」
,
ハムレット(真田広之)は「生か,死か…」の独白を二階の片隅で行う。
現実の生活から身を隠し,孤独に問いをかけるこの独白にそれはふさわし
い。一方それに続くオフィーリアとの掛け合い「尼寺へ行け…」では,一
「身体の抱えている無意識を掘り起こすこと」をその演技理論の要としてき
たわけである。
「我々の精神技術の基本的な目標は我々を,我々の潜在意識が自然に
転してハムレットは階下で走り回る。
働くような 造的状態に置くことなのである。役者が潜在意識の領域へ
これまで何度かこのビデオを学生たちに見せてきたが,みんな一様にこの
到達すると彼の魂の目は開かれ,…すべて,まったく新しい意味を持つ
場面の真田の演技に目を奪われる。怒り,苛立ち,皮肉…それらを表す言葉
のである。彼は役と彼自身の両方として,新しい感情や,概念や,ヴィ
と身体が一体となって爆発する。まさに「身体言語」である。
ジョンや,態度を意識するのだ」(スタニスラフスキ 『俳優修行』)
ここでグロトフスキーの方法を紹介しても良いのであるが,グロトフスキ
5) 身体と無意識
ー自身が日本(その中には私自身の参加したグループも入っている)やイン
概して私たちは,「体は魂や精神の入れ物」というふうに漠然と捉えてお
り,精神の持つ感情が,体という入れ物にも反映するというように えがち
ドの方法に学びつつそのメソッドを作ったという経緯もあり,僭越ながら私
自身のワークショップでの訓練法を簡単に紹介したい。
である。しかし実際はそのようにことが進むわけではない。ある感情は同時
に必ずホルモン,血流,筋肉,皮膚など身体の変化を伴っており,心身の
体的な反応として生じている。そのような
体的な反応のうち,意識された
ものが感情として気付かれ,またその一部
が「あいつが憎い」
「嬉しくて
たまらない」などと言語化をともなって意識されるに過ぎない。
精神科医でありユング派の精神療法も行っている,横山博は,精神的な
藤が身体的な症状として現れた,多くの症例を示している。心の 藤は,そ
れが言語化できない時や,意識化されていてもその解決の糸口が見つからず,
その 藤が持続する時,必ず「身体」にその症状を表す。それは不眠,胃潰
瘍などの心身症から反応性鬱病,時には自殺という不幸な結果に終わること
もある。
そもそもなんの罪もないオフィーリアに対し,まったく不当に「尼寺へ行
6) 演技のための心身の開発法
その具体的作業は大きく言って4段階からなる。まず,
①自然や他者に対して体を開く
新武道のひとつである「新体道」の中のいくつかの動き。開脚前進,切
り下ろし,横切り等,足腰を安定させ,垂直および水平に「気」を発展さ
せる訓練。腹式呼吸。
他者を皮膚で感じる・気や動きを与える・受け取る。受け手は解釈や抵
抗を加えず受け入れる。防御や 析的思 を除き体を開く訓練。
り足歩行。上下左右のブレなく彼方に視線を放ってゆっくり歩き続け
る伝統的「 り足」歩行は, 析的意識の抑制をストップし,より広い時
間・空間の中に意識を運ぶ。
駒澤大學
144
教育学研究論集
第 19号
2003年
②自 の体を「客観的対象」として用いることができるように,体の統御を
高める。
145
この不思議な力は何なのか,その理解の鍵を与えてくれるのは,演劇の原
点の姿であろう。現代でこそ舞台は観客に「対する」役者のスタンドプレー
マチエール。水,石など体のマチエール感を変える。
マイムなどに拠る体の統御。各部 の
演じる身体と自己(古関)
節化と意識化。
③動物や人物,感情などを身体の記憶の中に探る。
のように捉えられることもある。しかし演劇や舞踊の根源は役者が観客と
「共に」
,あるいは観客に「代わって」突出した時間を過ごす儀式であった。
古代ギリシアで,神に憑依されたものたちの演ずる舞台は,日の入りから日
馬,鳥,魚,海藻などの動き。
の出までを立ち会う観客達と共に行われた儀式であった。日本においても,
神話や童話の鬼・お姫様・魔女・一寸法師など集合的コンプレックスに
山崎正和が示すように,演劇の発生は集団的祭祀の儀式にあった。普段は厳
開かれた象徴的役割を演ずる。
しい労働と,厳密な社会制度に統制された農民達は,その日だけは秩序を越
④演じる身体と見られる身体の統合。作品全体の演出・振り付けの視点の導
入。上演。
えた世界に踊り出る。ハレの日にだけ許された「狂気をはらむまでの非合理
的無意識の表出,集団的カタルシス」という舞台芸術の本質は銘記される必
要があるだろう。
④の最終段階では,第③段階で意識のたがを緩め,集合的無意識に開かれ
このような集団的儀式としての演劇を見れば,演劇の成立基盤として観客
つつあった身体に,ふたたび客観性や整合性の枠組を与えるのである。この
の立会いが不可欠であることは明らかである。さらに言えば「役者」とは観
二つの要求は矛盾するように聞こえるかもしれない。それは言ってみれば
客の欲望を,その祈りを,そのカタルシスを代行するものであった。そのよ
「無意識の意識化」と言えるだろうか。しかし
えてみればある種の意識の
うに,村の中で持ち回りでその役にあたったことから,
「役者」という言葉
統御をはみ出しつつ,別種の意識の枠組を与えるという,限りなく不可能に
が生まれたのである。能が,当初観客に背を向け,神殿に向かって奉納され
近い,危うい 衡の中にこそ舞台芸術の真髄はあるはずである。身体の無意
たという事実は,そのことを良く物語っているだろう。
識をえぐりつつ,さらに大きな客観性,合理性に結びつく,この稀有な一瞬
を可能にするのは, 演じる身体 見られる身体> という特殊な構造なので
役者の身体と観客の身体(視線)の共同作業が,初めて両者の深い無意識
の欲望の開示と「乗り超え」を可能にしていることを心にとどめたい。
ある。
8) 虚構によって信じられるもの
7) 他者の視線によって開示されるもの
演じるということは虚構の身体を生きることにほかならない。
演者は観客の視線に支えられて初めて,意識の検閲を超え,自 をも他者
渡邊保は歌舞伎などの伝統芸能で見られた,役になっている役者と日常で
をも超え出る時空に出てゆく。本当に演技がうまく行っている時には,役者
見る役者の間の,非常に大きな落差の例を示している。舞台の身体とは本来
は観客の視線を我がものとし,それに支えられ,またそれを自由に操る。一
的に「虚構の身体」である。役者は日常的な意味でのおのれを殺し,様式的
方観客の方は役者の身体を通して立ち現れる,より普遍的な感情に突き動か
虚構性をまっとうする中で,かえってリアルな感情を観客に訴える。
されている。役者も観客も包括し,より大きな感動の高みへと運び去る,何
かの力が働くように見える一瞬である。
そのような虚構性の構造は仮面劇や人形劇などにおいて,さらに典型的な
形を取る。演劇の起源の多くは聖霊や神の仮面をつけ,それらへの憑依のな
駒澤大學
144
教育学研究論集
第 19号
2003年
②自 の体を「客観的対象」として用いることができるように,体の統御を
高める。
145
この不思議な力は何なのか,その理解の鍵を与えてくれるのは,演劇の原
点の姿であろう。現代でこそ舞台は観客に「対する」役者のスタンドプレー
マチエール。水,石など体のマチエール感を変える。
マイムなどに拠る体の統御。各部 の
演じる身体と自己(古関)
節化と意識化。
③動物や人物,感情などを身体の記憶の中に探る。
のように捉えられることもある。しかし演劇や舞踊の根源は役者が観客と
「共に」
,あるいは観客に「代わって」突出した時間を過ごす儀式であった。
古代ギリシアで,神に憑依されたものたちの演ずる舞台は,日の入りから日
馬,鳥,魚,海藻などの動き。
の出までを立ち会う観客達と共に行われた儀式であった。日本においても,
神話や童話の鬼・お姫様・魔女・一寸法師など集合的コンプレックスに
山崎正和が示すように,演劇の発生は集団的祭祀の儀式にあった。普段は厳
開かれた象徴的役割を演ずる。
しい労働と,厳密な社会制度に統制された農民達は,その日だけは秩序を越
④演じる身体と見られる身体の統合。作品全体の演出・振り付けの視点の導
入。上演。
えた世界に踊り出る。ハレの日にだけ許された「狂気をはらむまでの非合理
的無意識の表出,集団的カタルシス」という舞台芸術の本質は銘記される必
要があるだろう。
④の最終段階では,第③段階で意識のたがを緩め,集合的無意識に開かれ
このような集団的儀式としての演劇を見れば,演劇の成立基盤として観客
つつあった身体に,ふたたび客観性や整合性の枠組を与えるのである。この
の立会いが不可欠であることは明らかである。さらに言えば「役者」とは観
二つの要求は矛盾するように聞こえるかもしれない。それは言ってみれば
客の欲望を,その祈りを,そのカタルシスを代行するものであった。そのよ
「無意識の意識化」と言えるだろうか。しかし
えてみればある種の意識の
うに,村の中で持ち回りでその役にあたったことから,
「役者」という言葉
統御をはみ出しつつ,別種の意識の枠組を与えるという,限りなく不可能に
が生まれたのである。能が,当初観客に背を向け,神殿に向かって奉納され
近い,危うい 衡の中にこそ舞台芸術の真髄はあるはずである。身体の無意
たという事実は,そのことを良く物語っているだろう。
識をえぐりつつ,さらに大きな客観性,合理性に結びつく,この稀有な一瞬
を可能にするのは, 演じる身体 見られる身体> という特殊な構造なので
役者の身体と観客の身体(視線)の共同作業が,初めて両者の深い無意識
の欲望の開示と「乗り超え」を可能にしていることを心にとどめたい。
ある。
8) 虚構によって信じられるもの
7) 他者の視線によって開示されるもの
演じるということは虚構の身体を生きることにほかならない。
演者は観客の視線に支えられて初めて,意識の検閲を超え,自 をも他者
渡邊保は歌舞伎などの伝統芸能で見られた,役になっている役者と日常で
をも超え出る時空に出てゆく。本当に演技がうまく行っている時には,役者
見る役者の間の,非常に大きな落差の例を示している。舞台の身体とは本来
は観客の視線を我がものとし,それに支えられ,またそれを自由に操る。一
的に「虚構の身体」である。役者は日常的な意味でのおのれを殺し,様式的
方観客の方は役者の身体を通して立ち現れる,より普遍的な感情に突き動か
虚構性をまっとうする中で,かえってリアルな感情を観客に訴える。
されている。役者も観客も包括し,より大きな感動の高みへと運び去る,何
かの力が働くように見える一瞬である。
そのような虚構性の構造は仮面劇や人形劇などにおいて,さらに典型的な
形を取る。演劇の起源の多くは聖霊や神の仮面をつけ,それらへの憑依のな
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演じる身体と自己(古関)
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かで演じられた。そもそもドラマという言葉の語源はギリシア語であるが,
多くの場合,両親などの他者によってあらかじめ設定されている舞台である
古代ギリシアでドラマとは神の仮面を被った役者達が,神の行為を演じるこ
が,その中で必死に与えられた役を演じつづける危うさを次のような例で示
とであった。人形劇については,私自身パリの市立劇場での文楽上演に立ち
す。
会い,数千人の観客が涙している光景を見て,高が一メートルほどの人形が,
ブライアンは精神錯乱に陥り妻に暴行を加えて29歳の時収容された。 析
これほどまでに世界の人々を感動させるということに,改めて驚いたことが
の結果,実はブライアンが4歳の時に母親の手から新しい両親のもとに連れ
あった。
て行かれ,大きな衝撃を受けていたことが明らかになった。そのときブライ
人は虚構や象徴の中で,普段は受け入れられない真実に目を向けられるこ
とがある。
アンは以前の「優しくて善良な母親」に見捨てられたのは,自
が「悪者」
だったからだ,と理解した。以前の「母親の息子」というアイデンティティ
ーを喪失し,自 を見失ったブライアンが,かろうじて取りすがったアイデ
そのことを表している例を,再びハムレットの中に見出すことができる。
ンティティーは「悪者」の役であった。ブライアンはその役を必死に演じた。
それは「劇中劇」の場面である。兄殺しの正体をなかなか見せない叔 に対
結局ブライアンは,
「善良で優しい母親」に似た妻との間に生まれた子供が
し,ハムレットが講じた一計である。 を殺した場面を演劇の形で旅回りの
4歳になった時,愛する妻に対して果てしない暴力を振るうようになった。
役者達に演じさせる。そのとき叔 にどのような反応が見られるかによって,
橋本はこのほか自身の行った,ラフカディオ・ハーンに関する研究を示し
真実を知ろうというわけである。そこでは劇中劇は,仮面,マイム,歌舞伎
ている。ハーンも異国人同士の間に生まれたことによる困難な子供時代を,
風など,「虚構性」の一段と強い様式で演じられていることに注目したい。
自 の結婚で繰り返している。そう言われると自 の周りを見まわしても,
親子が何代にも渡って似通ったパターンを繰り返す例は少なくない。意識の
9) いかに「他者になる」か
人間とは「他者になる」存在である。そのことは多くのプリミティブな演
上ではねじ伏せたかに見える幼児期の記憶は,無意識の中に生き続け,まる
で20年後にセットされたアラーム時計のように突然目を覚ますのである。
劇の原形である仮面劇を見ても,またもっと身近に「ごっこ遊び」をする幼
良かれ悪しかれ「他者になる」ことを通じて成長するしかない私たちは
児を見ても自然にうなずけることである。三浦雅士は人間とは他人になるこ
「他者になる」ことが両刃のやいばとなり得ることに思いをいたすべきだろ
とを覚えた動物であり,どのような他者にでもなれるという人間の仕組みが,
う。従って問題となるのは言わば「いかに,良く他者となるか」ということ
ひとつの制度として目に見えるようになったのがシャーマニズムだと述べて
になる。
いる。
受身的にペルソナを演ずることから出発しつつも,次第に自
で自 の生
「他者になる」機能は私たちの成長にとって不可欠である。マナビとはマ
を演出し演じて行くことが,
「自己実現」の大きな課題なのである。桑原知
ネビのことである。子どもは他者になる(マネル)ことを通じて必要なスキ
子が木村敏の「自己の場で他者を実現させたり他者の場で自己を実現させた
ルを習得し,他者に規定された役わりを演じながら社会に参加してゆく。し
りできる」ような他者との基本的信頼関係の記述を引いて,二重身の持つ
かしそこには次のような危険がひそんでいる。
橋本広信は人間の行動を絶え間ない舞台での演技にたとえる。その舞台は
「癒し」としての方向性を示していることにも注目したい。
演劇は自 以外の者に向かって自らを超え出て行く役者と,他者(観客)
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第 19号
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演じる身体と自己(古関)
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かで演じられた。そもそもドラマという言葉の語源はギリシア語であるが,
多くの場合,両親などの他者によってあらかじめ設定されている舞台である
古代ギリシアでドラマとは神の仮面を被った役者達が,神の行為を演じるこ
が,その中で必死に与えられた役を演じつづける危うさを次のような例で示
とであった。人形劇については,私自身パリの市立劇場での文楽上演に立ち
す。
会い,数千人の観客が涙している光景を見て,高が一メートルほどの人形が,
ブライアンは精神錯乱に陥り妻に暴行を加えて29歳の時収容された。 析
これほどまでに世界の人々を感動させるということに,改めて驚いたことが
の結果,実はブライアンが4歳の時に母親の手から新しい両親のもとに連れ
あった。
て行かれ,大きな衝撃を受けていたことが明らかになった。そのときブライ
人は虚構や象徴の中で,普段は受け入れられない真実に目を向けられるこ
とがある。
アンは以前の「優しくて善良な母親」に見捨てられたのは,自
が「悪者」
だったからだ,と理解した。以前の「母親の息子」というアイデンティティ
ーを喪失し,自 を見失ったブライアンが,かろうじて取りすがったアイデ
そのことを表している例を,再びハムレットの中に見出すことができる。
ンティティーは「悪者」の役であった。ブライアンはその役を必死に演じた。
それは「劇中劇」の場面である。兄殺しの正体をなかなか見せない叔 に対
結局ブライアンは,
「善良で優しい母親」に似た妻との間に生まれた子供が
し,ハムレットが講じた一計である。 を殺した場面を演劇の形で旅回りの
4歳になった時,愛する妻に対して果てしない暴力を振るうようになった。
役者達に演じさせる。そのとき叔 にどのような反応が見られるかによって,
橋本はこのほか自身の行った,ラフカディオ・ハーンに関する研究を示し
真実を知ろうというわけである。そこでは劇中劇は,仮面,マイム,歌舞伎
ている。ハーンも異国人同士の間に生まれたことによる困難な子供時代を,
風など,「虚構性」の一段と強い様式で演じられていることに注目したい。
自 の結婚で繰り返している。そう言われると自 の周りを見まわしても,
親子が何代にも渡って似通ったパターンを繰り返す例は少なくない。意識の
9) いかに「他者になる」か
人間とは「他者になる」存在である。そのことは多くのプリミティブな演
上ではねじ伏せたかに見える幼児期の記憶は,無意識の中に生き続け,まる
で20年後にセットされたアラーム時計のように突然目を覚ますのである。
劇の原形である仮面劇を見ても,またもっと身近に「ごっこ遊び」をする幼
良かれ悪しかれ「他者になる」ことを通じて成長するしかない私たちは
児を見ても自然にうなずけることである。三浦雅士は人間とは他人になるこ
「他者になる」ことが両刃のやいばとなり得ることに思いをいたすべきだろ
とを覚えた動物であり,どのような他者にでもなれるという人間の仕組みが,
う。従って問題となるのは言わば「いかに,良く他者となるか」ということ
ひとつの制度として目に見えるようになったのがシャーマニズムだと述べて
になる。
いる。
受身的にペルソナを演ずることから出発しつつも,次第に自
で自 の生
「他者になる」機能は私たちの成長にとって不可欠である。マナビとはマ
を演出し演じて行くことが,
「自己実現」の大きな課題なのである。桑原知
ネビのことである。子どもは他者になる(マネル)ことを通じて必要なスキ
子が木村敏の「自己の場で他者を実現させたり他者の場で自己を実現させた
ルを習得し,他者に規定された役わりを演じながら社会に参加してゆく。し
りできる」ような他者との基本的信頼関係の記述を引いて,二重身の持つ
かしそこには次のような危険がひそんでいる。
橋本広信は人間の行動を絶え間ない舞台での演技にたとえる。その舞台は
「癒し」としての方向性を示していることにも注目したい。
演劇は自 以外の者に向かって自らを超え出て行く役者と,他者(観客)
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教育学研究論集
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演じる身体と自己(古関)
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の視線,この両者の出会いによって,共により大きく深い無意識を開示して
自 から遠く見えるような役に取り組む,虚構の身体になる,他者の視線
ゆくプロセスである。ユングもこのような意味で,自己実現の過程を演劇に
を我がものとする…さまざまな意味で,演劇は「他者」になることである。
なぞらえて捉えていた。
「他者(観客)」と共にあることによって,初めて意識の抑圧を開放し,閉塞
的自我の彼方にある普遍的無意識の深い真実へと向うのである。
「他者にな
10)結語
「他者になることを通じて自己になる」パラドックスの現代的
意味
ることを通じて自己になる」パラドックスをはらんだ演劇のダイナミズムは,
教育の場においてもっと注目されてもよいだろう。
ユングは人類の得体の知れない恐れ,大いなる畏敬の念などが,元型とし
て,外在化されること,形をとること,
「身体」を与えられることで,よう
参
やく収まりを見出すことの意義を,深く捉えていた。前述の横山は,次のよ
C.ケイス╱T.ダリー著 岡昌之訳『芸術療法ハンドブック』 1997
うに述べている。意識化したり言語化したりすることが難しい心の深い傷は,
ジェルゼイ・グロトフスキー『実験演劇論』テアトロ
時に身の
を超える狂暴な破壊力となって嵐のように吹き荒れる。例えば早
期に母性剥奪を背負わなければならなかった子供のプレイ(遊戯療法)の中
文献
今野義孝『癒しのボディ・ワーク』学苑社
C. G.ユング著 小川捷之訳『
ナカニシヤ出版
1997
析心理学』みすず書房
梶田叡一(編)『自己意識研究の現在』
で,子供はわが身を超えた狂暴な破壊性に翻弄される。治療者がプレイの象
1962
1976
橋本広信『
《本当の自
》のドラマトゥルギー』
2002
徴性の意味を深く感じとり,子供の怒りに寄り添って行けた時,子供はこの
河合隼雄(監)『心理療法と身体』
横山博『表現のとりでとしての身体』岩波書店
世的なつながりを治療者との間に見出し,怒りの収まりを見出す。ユングの
桑原知子『もう一人の私』
1994
言う,無限に広がり得る恐怖や破壊性に,他者との関係の中でひとつの形や
J.ラカン著 小川浩之他訳『フロイド理論と精神
「身体」が与えられることが救いとなる様子が示されている。
演劇の持つ力についても同様なことが言える。他者の前で「演じられる」
ことにより,もやもやしながら渦巻いていた絶え難いものが,形をとって共
元社
析技法における自我』岩波書店
アーノルド・ミンデル『プロセス指向心理学』春秋社
三浦雅士『
える身体』NTT出版
新田義弘,宇野昌人『他者の現象学
1996
哲学と精神医学からのアプローチ』 北斗出版 1992
齋藤孝『身体文化を取り戻す』NHK出版
2000
シェークスピア(作),福田恒存(訳)『ハムレット』新潮文庫
力を持った。能においては,死者の霊がその生前の物語を「他者の前で演じ
スタニスラフスキー『俳優修行』未来社
る」ことが鎮魂と集合的カタルシスをもたらすのである。
G.ヴェーア『ユング』理想社
の中だけに自 らしさを求めて行くことには,おのずから限界がある。横
山は1970年頃からの摂食障害,アトピー性皮膚炎の増加,近年の自殺の増加
など,
「身体」に噴出した心の病を危惧している。意識された自我のみに注
目していたのでは,事態は解決されそうもない。
山崎正和『世阿弥』中央
H.ワロン著
付
論社
1967
1975
1987
渡邊保『歌舞伎の身体』講座『歌舞伎』岩波書店
探し」が流行語にすらなっている。しかし,他者を閉じることや自
1998
1999
有化され「身体」を持つ。ハムレットの劇中劇は隠れていた犯罪を暴き出す
「自
2000
1998
1984
浜田寿美男訳『身体・自我・社会』ミネルヴァ書房
1983
記
本稿は,2002年11月18日の講演会(於駒澤大学)の内容に基づいて新たに加筆したもの
である。
駒澤大學
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演じる身体と自己(古関)
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の視線,この両者の出会いによって,共により大きく深い無意識を開示して
自 から遠く見えるような役に取り組む,虚構の身体になる,他者の視線
ゆくプロセスである。ユングもこのような意味で,自己実現の過程を演劇に
を我がものとする…さまざまな意味で,演劇は「他者」になることである。
なぞらえて捉えていた。
「他者(観客)」と共にあることによって,初めて意識の抑圧を開放し,閉塞
的自我の彼方にある普遍的無意識の深い真実へと向うのである。
「他者にな
10)結語
「他者になることを通じて自己になる」パラドックスの現代的
意味
ることを通じて自己になる」パラドックスをはらんだ演劇のダイナミズムは,
教育の場においてもっと注目されてもよいだろう。
ユングは人類の得体の知れない恐れ,大いなる畏敬の念などが,元型とし
て,外在化されること,形をとること,
「身体」を与えられることで,よう
参
やく収まりを見出すことの意義を,深く捉えていた。前述の横山は,次のよ
C.ケイス╱T.ダリー著 岡昌之訳『芸術療法ハンドブック』 1997
うに述べている。意識化したり言語化したりすることが難しい心の深い傷は,
ジェルゼイ・グロトフスキー『実験演劇論』テアトロ
時に身の
を超える狂暴な破壊力となって嵐のように吹き荒れる。例えば早
期に母性剥奪を背負わなければならなかった子供のプレイ(遊戯療法)の中
文献
今野義孝『癒しのボディ・ワーク』学苑社
C. G.ユング著 小川捷之訳『
ナカニシヤ出版
1997
析心理学』みすず書房
梶田叡一(編)『自己意識研究の現在』
で,子供はわが身を超えた狂暴な破壊性に翻弄される。治療者がプレイの象
1962
1976
橋本広信『
《本当の自
》のドラマトゥルギー』
2002
徴性の意味を深く感じとり,子供の怒りに寄り添って行けた時,子供はこの
河合隼雄(監)『心理療法と身体』
横山博『表現のとりでとしての身体』岩波書店
世的なつながりを治療者との間に見出し,怒りの収まりを見出す。ユングの
桑原知子『もう一人の私』
1994
言う,無限に広がり得る恐怖や破壊性に,他者との関係の中でひとつの形や
J.ラカン著 小川浩之他訳『フロイド理論と精神
「身体」が与えられることが救いとなる様子が示されている。
演劇の持つ力についても同様なことが言える。他者の前で「演じられる」
ことにより,もやもやしながら渦巻いていた絶え難いものが,形をとって共
元社
析技法における自我』岩波書店
アーノルド・ミンデル『プロセス指向心理学』春秋社
三浦雅士『
える身体』NTT出版
新田義弘,宇野昌人『他者の現象学
1996
哲学と精神医学からのアプローチ』 北斗出版 1992
齋藤孝『身体文化を取り戻す』NHK出版
2000
シェークスピア(作),福田恒存(訳)『ハムレット』新潮文庫
力を持った。能においては,死者の霊がその生前の物語を「他者の前で演じ
スタニスラフスキー『俳優修行』未来社
る」ことが鎮魂と集合的カタルシスをもたらすのである。
G.ヴェーア『ユング』理想社
の中だけに自 らしさを求めて行くことには,おのずから限界がある。横
山は1970年頃からの摂食障害,アトピー性皮膚炎の増加,近年の自殺の増加
など,
「身体」に噴出した心の病を危惧している。意識された自我のみに注
目していたのでは,事態は解決されそうもない。
山崎正和『世阿弥』中央
H.ワロン著
付
論社
1967
1975
1987
渡邊保『歌舞伎の身体』講座『歌舞伎』岩波書店
探し」が流行語にすらなっている。しかし,他者を閉じることや自
1998
1999
有化され「身体」を持つ。ハムレットの劇中劇は隠れていた犯罪を暴き出す
「自
2000
1998
1984
浜田寿美男訳『身体・自我・社会』ミネルヴァ書房
1983
記
本稿は,2002年11月18日の講演会(於駒澤大学)の内容に基づいて新たに加筆したもの
である。
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