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企業犯罪に関する刑事法制の問題 について*

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企業犯罪に関する刑事法制の問題 について*
企業犯罪に関する刑事法制の問題
について
*
‹“ 秀雄**
初めに,意見・分析・評価にわたるものは
個人のものであることをお断りしておく。
されたところであるが,プロジェクトチーム
のうち民事法関係のテーマの一つである会社
企業あるいは法人に係る犯罪の処罰のため
法の全面改正が,現在法制審議会における審
の立法というテーマは,長い間,悩ましい問
議の最終段階を迎えつつあるところであり,
題であった。昭和 38年から 49年までの 11年
その他に公益法人制度についても,大きな法
間にわたる改正刑法草案の審議過程において
改正の動きがあるので,これらの法改正の動
も,結論が出なかった問題である。答申の時
向についても,慎重に見極める必要があるも
点では,この問題については,刑法の中に取
のと思われる。
り入れるかは別として,刑法改正の一環とし
一般的な法人処罰規定の問題を別とすれば,
て考える必要があるが,法人の犯罪能力や刑
法人や企業を処罰するための規定は,必要に
法上の責任能力との関係,類型,要件,処罰
応じて,順次立法化されているところであり,
の内容等,複雑な問題があるので引き続き検
プロジェクトチームの民事法関係と刑事法関
討することとしたい,とされ,現在に至って
係との共通テーマであった破産法の改正法の
いるのであるが,その答申からでも既に 30
中には両罰規定が初めて取り入れられたとこ
年を経過しており,刑法学上の議論としては
ろである。破産犯罪という現象は,典型的に
出尽くした感もある。
は企業の倒産という事象の中で発生するもの
法務省においては,平成 13年に,民事局
であり,その意味で企業犯罪の一つとして位
と刑事局とにまたがる組織として,経済関係
置づけられるものであるが,破産法に両罰規
民刑事基本法整備プロジェクトチームを立ち
定が入れば,法制審議会の現在ある部会の中
上げたところであり,そのうちの刑事法関係
では最も長く平成 8 年から続いている倒産法
のテーマとしては,既に支払用カード犯罪の
部会の最終検討対象である商法の特別清算に
処罰は立法化され,執行妨害犯罪とハイテク
も両罰規定が入るものと思われる。すなわち,
犯罪の処罰については法案が国会に提出され
企業活動の一般法である商法の世界でも両罰
ているところであるが,その他に残されたも
規定という形で企業ないし法人処罰の規定が
のとして,この法人処罰の問題が含まれてい
入ってくるということであり,断片的な立法
る。この法人処罰の立法化というテーマにつ
の限度でも,企業処罰規定が一般化していく
いては,昨年5月5日の日本経済新聞にも,
ということは,もはや不可逆の趨勢であると
間近のものであるかのような観測記事が掲載
思われる。なお,刑法の強制執行妨害罪は,
*
本稿は 2004年3月 13日に開催された「企
業と市場に係る刑事法制研究会」において報
告したものである。
** 法務省刑事局刑事法制企画官
破産法の詐欺破産罪と構成要件が似ており,
刑法の強制執行妨害罪においても両罰規定を
入れようという考え方すらあり得るであろう
が,結局は,企業犯罪としての色彩の強度と
164 ―
― いう側面において,両者には相違があるとい
罰するほか,法人に罰金を科するという形で
うことで,法案としての考え方を分けた。強
初めて現れることになる。もっとも,この規
制執行妨害罪の場合は,企業犯罪としての性
定は,我が国の経済が次第に統制的色彩を強
格よりも暴力団犯罪としての性格が強いとい
める中で,統制の実をより挙げるためには,
うことで,組織的犯罪処罰法に加重処罰規定
法人のみではなく自然人行為者をも処罰した
を置くことで対処することとしている。
方が効果的であるという実際的配慮に出たも
ここで現時点における立法化の動きを離れ
のに過ぎず,法人には犯罪能力がなく,行為
て,我が国の近代以降における企業犯罪に関
者の責任が転嫁されるのであるという転嫁罰
する刑事法制論議の歴史に目を転じると,こ
の考え方は,両罰規定の誕生後も一貫してい
の歴史は,明治 8 年の新聞紙条例,出版条例
た。このような考え方については,戦前から
ころから始まっているように思われる。もっ
美濃部博士により,責任主義の観点からは不
とも,これらの条例の場合には,編集人や出
合理であるとの指摘がなされていた。
版者を処罰するということで,それが企業や
そのような理論状況の中で,改正刑法準備
事業者を処罰するとする趣旨のものであるか
草案から言えば,昭和 31年の段階から,改
は必ずしも明らかではないのであるが,明治
正刑法草案に向けた審議が始められたわけで
10 年代以降,例えば酒造税則では,従業者
あるが,その中で,昭和 32年(個人事業者)
が違反した場合には,営業者を罰するとして,
と昭和 40年(法人事業者)の最高裁判例が
営業者処罰の趣旨が明らかになってくる。さ
現れた。そこで展開された過失推定説によっ
らに,法人の処罰についても,明治 33年の
て,一応,責任主義の観点からの説明はつく
法人ニ於テ租税及葉煙草専売ニ関シ事犯アリ
ことになったが,これは,ある意味ではコペ
タル場合ニ関スル法律において,「法人ノ代
ルニクス的転回であり,結局,改正刑法草案
表者又ハ其ノ雇人其ノ他ノ従業者法人ノ業務
では,企業や法人の処罰に関する結論を入れ
ニ関シ租税及葉煙草専売ニ関スル法規ヲ犯シ
ることはできなかった。その後,改正刑法草
タル場合ニ於テハ各法規ニ規定シタル罰則ヲ
案の立案にかかわった法務省刑事局関係者が,
法人ニ適用ス 但シ其ノ罰則ニ於テ罰金科料
昭和 50年代にかけて法人処罰について種々
以外ノ刑ニ処スヘキコトヲ規定シタルトキハ
の論文を執筆しているのであるが,現在の目
法人ヲ 300円以下ノ罰金ニ処ス」という形で
で見ると,それらの論文における法人処罰論
初めて登場する。もっとも,当時,法人の犯
は,無過失責任論に立脚したものと読めるの
罪能力が認められていたかと言えば,明治
である。転嫁罰が責任主義違反だと考えられ
36 年の大審院の判例において,法人には犯
てきており,最高裁が実質的に判例変更を
罪能力がないと判示されており,この考え方
行ったにもかかわらず,これをいわば元に戻
がその後長らく続くことになる。そのような
すようなことが考えられていたようであり,
考え方の下で,この法人ニ於テ租税及葉煙草
改正刑法草案の立案担当者にとって,昭和
専売ニ関シ事犯アリタル場合ニ関スル法律の
32年と昭和 40年の判例は違和感があったの
ような法人処罰規定は,その文面からも,自
ではないかと思われる。裁判実務においても,
然人行為者に代わって法人が刑事罰を受ける
過失推定説であって,過失擬制説ではなかっ
という意味で,代罰規定として理解されてき
たので,弁護人は反証することができるので
たのであるが,そのような代罰規定と異なり,
あるが,昭和 40年代以降では,高松高裁の
自然人行為者も処罰するという意味における
1件くらいしか過失推定が覆ったものはなく,
現在の両罰規定は,外為法の前身に当たる昭
そのほかは,そもそも弁護人が反証を試みた
和7年の資本逃避防止法において,行為者を
例すら見当たらないのである。このような実
165 ―
― 務の情況からすれば,過失推定説については,
の法人処罰論議の背景には,当時の悲惨な公
立案担当者のみならず,実務家にも当惑が
害情況があり,企業に民事法上の損害賠償責
あったのではないかと思われる。
任は認められるとしても,刑事法としてはそ
昭和 40年代から 50 年代前半にかけて,法
れでよしとすべきなのかという,刑事処罰の
人処罰論議が盛り上がってきた背景には,一
根源にあるべき正義観念を沸き立たせるもの
連の公害事件があるものと思われる。そして,
があったと思われるのであるが,各種の施策
公害事件に関する民事判決では,刑事法の理
が進められ,公害問題が,少なくとも表面的
論としてもアナロジーとして使える論理が展
には沈静化するにつれ,公害問題を背景とし
開されている。例えば,昭和 48年の熊本水
た企業処罰論も沈静化していった。先の2つ
俣病判決や昭和 52年のカネミ油症判決では,
の最高裁判例は,企業が社会に被害をもたら
企業活動の一環としての行為については,企
す行為を処罰の対象に取り込もうとする法人
業自身に過失があるとして,民法 44 条や 715
処罰論議という意味における一つの時代を画
条を経由するのではなく,法人自体について
したものと言えよう。
直接民法 709条を適用する,としている。こ
その後,企業処罰論議が次のピークを迎え
のうちカネミ油症判決には,「有機的統一的
たのは,平成3∼4年に法人重課の手法が取
組織体としての企業において複数かつ不特定
り入れられたときであったように思われる。
の被用者の企業活動の一環としての行為に過
このときは公害罪法のような人身被害を伴う
失がある場合には,むしろ個々の被用者の具
犯罪ではなく,証券取引法や独占禁止法が問
体的行為を問題とすることなく,使用者たる
題となった。ここでは被害者が誰かというこ
企業自身に過失があるとして,直接民法第
とが具体的なものとして想定されたわけでは
709条の責任があると解するのが直裁簡明で
なく,企業としての活動そのものを規律し,
あり相当である。」との判示が見られるとこ
それに違反した企業を処罰するということに
ろであり,これは民事の過失責任に係るもの
ついての刑事罰則のあり方が論じられたので
ではあるが,板倉教授の企業組織体責任論を
あり,先の昭和 40∼ 50年代前半当時とは法
彷彿させるものであり,刑事法の分野でも,
人処罰を論じることの意味が変わってきてい
このような考えが生じてきたのは当然であっ
る。
たとも思われる。このような流れの中で,昭
一方,当初は論点の中心であった法人の犯
和 45年に制定されたいわゆる公害罪法では,
罪能力論については,法人処罰は定着してし
それまでは行政犯の分野でしか見られなかっ
まっているので,論じても意味がないという
た両罰規定が,自然犯の分野においても採用
ように議論の情況が変わってきたように思わ
されるに至ったのであるが,その後,昭和
れる。その意味では,企業組織体責任論を含
62年,昭和 63年の最高裁判例で,公害罪法
めた処罰モデル論の意義も相対的に低下して
は事業活動の一環として生じた犯罪にのみ適
いるのではないかと思われる。もっとも,敢
用できるのであって,事業事故には適用でき
えてこの点を論じるのとすれば,個人的には,
ない,とされた。この判例には批判も強いが,
道義的責任論に立つとしても,法人の犯罪能
熊本水俣病判決やカネミ油症判決から考える
力はあると考えている。実際,我が国の現在
と,企業の日常活動自体を法的規制の対象に
における法人に対する責任追及の在り方を考
しようとする同じ考えに従っているのであっ
えた場合,社会を騒がせた責任を取るという
て,非日常的な事業事故に適用しようとした
だけでは,到底非難を免れることはできない
ことは,むしろ立法理由とは違うのではない
であろう。この社会に迷惑をかけたからとい
かとも思われる。いずれにしても,この時期
うのは,いわば社会的責任論のエッセンスで
166 ―
― もあるが,そうではなく,なぜ防げなかった
よって法人ではない企業を処罰しようとする
のか,どこに手抜かりがあったのかという点
のであれば,その両罰規定の中に,法人では
において責任を考えるという意味において,
ない社団又は財団も処罰の対象にするという
法人に求められている責任の在り方は,むし
ことが明示されていなければならないが,そ
ろあるべき規範からの抵抗を押し切って違法
のような例は少ない。法人以外の企業に罰金
な行為をしたことについて責任を問うという
刑の重課ができる例は,さらに限られており,
道義的責任論に近いものと思われる。経団連
金融庁の所管法令以外はほとんどない。さら
と経産省においてまとめようとしている
に,自然人について両罰規定で重課ができる
Corporate social responsibility は,そのまま
のは独占禁止法しかなく,結局,重課といえ
翻訳すれば,企業の社会的責任ということに
ば法人というイメージになる。そして,実際
なるが,刑事法の観点から見れば,道義的責
問題としても,そのような形になるのは無理
任と置き換えても変わらないと思われる。し
もないところがある。自然人以外は罰金が徴
たがって,およそ法人とはという観点からで
収できない場合は,労役場執行ができず,特
はなく,我が国の現在の法人についてという
に権利能力なき社団等については,罰金を任
限定の下であれば,企業の犯罪責任能力を認
意に納めてもらうしかないという隘路が存在
めることには積極である。
するからである。すなわち,刑事訴訟法上,
話を元に戻して,法人処罰がどのように定
権利能力なき社団等を被告人として,刑の言
着しているのかという点であるが,まず,当
い渡しをすることができるが,任意納付がな
然のことながら,現在の法人処罰は両罰規定
されない場合の強制執行においては,権利能
があるものだけに適用されており,年間の有
力なき社団を債務者とする債務名義により執
罪件数は 2,000件弱と推計される。平成 14年
行できるのは,権利能力なき社団が所有名義
の検察統計年報によると,法人起訴人員
となっている財産のみであり,権利能力なき
1,659人中,労安法違反が 370法人,廃掃法
社団が所有名義になっているということは概
違反が 314 法人,風営法違反が 115法人,法
念矛盾であって,実際は構成員の名義になっ
人税法違反が 88法人,入管法違反が 74法人
ている財産しか存在せず,それに対しては強
となっている。もっとも,公判請求人員は全
制執行できないので,結局は,任意に払って
体の約1 /7 と推計され,したがって約 6/7 は
もらわなければならないことになるのである。
略式起訴ということになるが,これは 50万
罰金は金銭という一般財産を対象とするもの
円以下の罰金刑により処断されるということ
であるのに対し,組織的犯罪処罰法第 8 条は,
を意味する。これに対して,公判手続により
権利能力なき社団等にすら至らないものも含
100万円以上の罰金刑の言い渡しを受けた法
めて,団体の財産をそのまま没収して国の財
人は約 250で,内 106法人が法人税法違反と
産にすることができるとするものの,その対
なっており,税法関係のものの比率が大きい
象は没収要件に該当する特定の財産でなけれ
が,そのような場合には,自然人行為者が懲
ばならず,この手法も一般化しては使えない。
役刑求刑を前提に公判請求され,これと併合
つまるところ,一般的な金銭罰である以上,
されて,法人も公判請求されているという
企業処罰とは法人処罰であるということにな
ケースがほとんどと思われる。
らざるを得ないのである。
ところで,企業処罰と法人処罰とは自ずか
それでは,その限度での法人処罰というこ
ら異なるが,ほとんどの場合において企業処
とであれば,うまくいっているのであろうか。
罰とは法人処罰であるという実態がある。そ
平成 14年度の罰金の未済件数は 173億円に
れは両罰規定の規定方法による。両罰規定に
なっているが,特に長期未済になっているも
167 ―
― のは,法人に対するものが多く,その相当割
合を法人税法違反と消費税法違反とが占めて
いる。これら税法違反に係る罰金刑はほ脱額
相当額を上限とするいわゆるスライド制罰金
になっており,実際にも何千万円というよう
な罰金が課せられることが少なくないことか
ら,自然と徴収未済額に占めるこれらの罪の
比率が高まることにもなる。しかし,罰金の
刑の時効は3年で成立するが,毎年少しずつ
徴収する形で,時効を中断させているという
実態が存する。徴収する側としては,法人が
存在する限りは,執行不能や時効にはしたく
ないのが道理であり,実際,徴収確保に向け
ては涙ぐましい努力も続けている。一方,法
人が消滅すると執行不能になるところ,罰金
を免れる目的で法人を消滅させれば,いわゆ
る法人役員処罰法によって処罰されるが,そ
の処罰例は戦後の全期間を通じて1件しかな
い。結局,高額罰金事案を中心として,法人
に対する罰金については,立ち往生になって
いる例が少なくない。法人処罰論では,腰骨
を折れるような厳しい制裁を求める声もある
が,腰骨を折るような高額罰金は,当然のこ
とながら,生きている企業を殺してしまう場
合もあることに留意する必要がある。
ここで,そもそも何故,法人その他の企業
を処罰するのかという問題に立ち返る必要が
ある。「制裁」には penalty と sanction があ
り,前者は just desert 論と結びつきやすく,
したがって,犯罪企業が死ぬことは当然想定
されることとして捉えられる。この場合の制
裁手段としては,社会的な非難の伝達手段と
しての刑事制裁が相当であると考えられる。
公害問題の時期の法人処罰論は,まさにその
ようなものであったと思われる。一方,企業
活動そのものを規制対象とし,そこに制裁を
持ち込もうとする場合には,そのような制裁
は企業をつぶすために行うわけではなく,更
正させるために行うのであるという考え方も
あり,これは sanction の考え方である。む
しろ,最近の法人重課以降の考え方は sanc-
tion の考え方であるように思われる。この場
合には,刑事制裁でも良いが,行政制裁で
あっても良い。社会的コストの観点からは,
行政制裁が使えるのであれば,そちらの方が
妥当という考え方もあろう。もっとも,刑法
犯については,所管官庁がないため,新たな
行政制裁システムを作らなければならない。
佐伯教授は,シャーマン反トラスト法が刑事
法であるのは,当時所管官庁がなかったから,
と分析している。証券取引委員会(SEC)が
存在する証券取引の分野では民事制裁が活用
されているが,それが調査・執行官庁がある
からである。日本で一般的な行政制裁を誰が
担当するかということで,検察官がというこ
とになると,刑事捜査手続は使えないであろ
うが,そうだとなると,刑事捜査手続と行政
調査手続とが並行しているときの問題等,困
難な問題が生じることになる。
法人処罰モデル論の持つ意義が低下してい
るということは先に述べたとおりであるが,
法人処罰モデル論について,sanction という
観点から議論する意味が残っているとするな
らば,それは違反行為者の特定の要否の問題
ということになろう。先に引用したような公
害関係の民事判決や,藤木,板倉教授の議論
では,この特定は必要がないとされた。しか
し,民事法の場合であれば,生じた被害を誰
に負担させるのが社会的に公平かということ
が当面の問題になるわけであって,そこでは
加害企業内における違反行為者の特定という
ことは大きな意味を持たないということは理
解できるが,刑事の場合には,疑問がある。
この点で参考になると思われる民法 709条の
直接適用を否定した判決として,平成 11年
の信楽高原鉄道判決があるが,この判決は,
同条の適用を否定する理由の一つとして,行
為者の特定を不要とすると,同種行為の抑止
機能に欠けることになる,としたのである。
行為者特定不要論を推し進めると,アメリカ
の法人処罰に関する判例法において是認され
ている collective knowledge 論 (集合的認識
168 ―
― 論)になり,特定の個人については誰も犯罪
ばならないであろう。
の主観的要素に係る全体を認識していなくと
いずれにしても,制裁を可とした場合には,
も,企業に属する構成員の認識全体を総合す
次はその内容の問題になる。そのうち金銭制
ればこれを満たすというときは,企業の故意
裁か非金銭制裁かの問題に関して,例えば,
を肯定することになる。行為要素についても
独占禁止法の改正論議において,日弁連が,
同様とされよう。しかし,これを処罰して良
刑の免除になっても良いから,公正取引委員
いのかは大きな問題である。アメリカの証券
会からの告発がなくても検察が起訴できるよ
取引上の違反行為について適用されている
うにすべきであるという主張をしているよう
civil fine については,fire wall defense 理論
が定着しており,企業内で他者の情報に接す
ることが多いプローケージ部門と自己名義で
証券取引を行うディーリング部門とが fire
wall で隔絶されている場合には,両部門を通
じた認識について collective knowledge が成
立する場合であっても,その企業にインサイ
ダー取引に係る civil fine を課すことはでき
ない。企業とは種々の立場の人が,種々の行
為をし,種々の情報を持っていることで有用
性を満たしている組織体である。モザイク細
工のように,つなぎ合わせて犯罪を成立させ
るのであれば,このような企業の良さを損な
うことになる。また,企業一般について全て
のセクションに fire wall を作ることもできな
い。一見,行為者特定不要論は魅力的に見え
るが,少なくとも企業の社会的有用性を保全
するための制裁という sanction の立場から
は,その導入には慎重でなければならないで
あろう。
また,報償責任論的な考え方,つまり個人
の活動によって企業が利益を受けているのだ
から,企業が責任を負うべきという考え方も
疑問である。この考え方は,営利企業を前提
に考えているが,現在の社会においては,私
立大学について消費者保護法が適用されたり,
弁護士会が報酬基準を廃止するについて独占
禁止法との関係が問題とされたりするなど,
営利と非営利の境目は不明確になっている。
企業が自己保存を図るには,少なくとも損益
相斉うことは必要であろうが,それを超えた
報償の論理を一般的な企業処罰の根拠論理と
して持ち込むのは妥当か,慎重にならなけれ
であるが,これは,刑の免除であれ有罪判断
が下されたことに意味があるとする点におい
て,非金銭制裁の議論である。同様の発想に
よるものと思われるものとして,アメリカに
は,nominal fine というものがあるが,これ
も,僅かな罰金だけであっても,有罪の判決
を下したこと自体に意味がある,とするもの
である。フランスの法人処罰法制における判
決公示制度も同様であるが,これらの場合,
有罪の事実を社会一般に知らせ,企業に対す
るペナルティは社会,市場に委ねるというこ
と に な る 。 社 会 的 責 任 投 資 論 (Socially
Responsibility Investment)を 前 提 と し て ,
「そういった企業には誰も投資しなくなる」
という制裁の方が,実効性がある,という考
え方も同様の発想によるものと思われるが,
現在の我が国のように,検挙の段階で繁華な
犯罪報道が繰り広げられる場合,これらの考
え方に立脚した制裁制度がうまく機能するの
か,慎重に考えなければならないであろう。
また,先に触れた日本経済新聞の記事では,
アメリカにおいて採用されている corporate
probation の導入について積極の論旨が展開
されていたが,現在の我が国でこれを実施す
るにしても,誰が執行するのかが問題となる。
日本で社外監査役,社会取締役が定着してい
れば,その適格者に嘱託するということもで
きるが,定着していない状況では, corporate probation を利用することには多大な困
難を伴うであろう。したがって,依然として
金銭制裁に頼らざるを得ないというのが,現
実論であろうと思われる。
次に,制裁要件論のうち,いかなる違法行
169 ―
― 為を制裁の対象にすべきかという点では,刑
れるべきである。そういったものを免責しな
法犯についても法人処罰をすべきであるとい
ければ,企業は自己改善へのインセンティヴ
う考え方は,もはや動かしがたいように思わ
を失い,たとえ制裁が道義的非難を本質とす
れる。もっとも,その場合にも,刑法ないし
るはずの刑事罰であっても,それを単なるコ
特別法に法人処罰の一括規定を置くことによ
ストとしてしか見なさないようになるであろ
り全罪種で法人処罰が当然に可能になるよう
う。
にすべきか,というと,そうは思えない。企
法人に課された罰金相当額を代表訴訟に係
業が企業活動の一環として犯すものを,法人
る請求額に含めることを認めた大和銀行事件
処罰規定の適用罪種として,sanction の観点
判決をめぐる議論において,法人という実質
から選択することが相当であり,現在ある過
に即して高い罰金が規定されているのであっ
失犯や未遂犯の処罰規定のように,法人処罰
て,それを個人である取締役に転嫁するのは
規定が適用になるということを個別に書くの
法人重課の趣旨に反するという点と,刑罰は
が自然であろう。例えば,イギリスでは,
corporate homicide に係る立法が永年の懸案
になっているが,その場合には,我が国では
過失犯と考えられるものが相当の比重を占め
ているのであって,故意責任に係る責任主義
を貫徹しようとする傾向の強い我が国におい
て,殺人罪で企業を処罰しようとするのは,
いかにも奇異に思われる。強姦罪などはなお
さらであろう。
制裁要件論のうち,行為主体要件について
は,例えば,イギリスでは上位監督者要件が
あり,法人内の上位監督者の行為のみが法人
の行為であるとされているが,それは,本来
は,取引法上,誰の行為の法律効果が法人に
帰属するかを決するための概念である。企業
とは,上下一体としての活動において,その
本質的な価値を持つものであるから,犯罪に
係る行為帰属の認定については,むしろ不法
行為法の概念によるべきであり,企業活動の
一環としてなされた行為である限り,行為者
の身分は問わない方が自然であるように思わ
れる。ここでも,行為者の特定が不要だとす
るならば,トップにおいて,法人構成員の全
てが何を思っているか認識し,集約した上で,
これを制止しなければならないということに
なるが,トップが全て認識しろというのは不
可能である。 CSR 上の要請としてなすべき
ことを備えていれば,個々の人間の犯罪と因
果関係があろうがなかろうが,企業は免責さ
道義的責任であるが,そのような刑罰を法人
に科したのに,これを個人取締役に転嫁する
のは不合理であるという点との二つの観点か
らの批判がされているが,賛成できない。最
近 の corporate governance 論 に お い て は ,
株主をもその視野に入れた議論が展開されつ
つあるように思われるが,そうであるとする
と,取締役と株主の間には一定の緊張関係が
必要である。一旦,法人に罰金を科した上で,
割合的帰属論にもとづいて,全て取締役に負
わせるのではなく,法人内部の配分の問題と
して処理することは,この緊張関係の適正な
設定に寄与するものと思われるし,この問題
を企業に内部化することができれば,いわゆ
る三罰規定も不要になるであろうが,そのよ
うな姿こそ,法人に対する sanction のあり
方ではないかと思われる。利益は株主に帰属
するものの,罰金については株主は全く責任
を負わないとすることは,準則主義と有限責
任化の度合いを強めつつある法人法制の改正
議論の動向に照らしても,むしろ危険を含む
もののように思われる。
170 ―
― 
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