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「普通」 高校二年 私が彼に出会ったのは、中学二年生のときでした。彼は

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「普通」 高校二年 私が彼に出会ったのは、中学二年生のときでした。彼は
「普通」
高校二年
私が彼に出会ったのは、中学二年生のときでした。彼は生まれながらに身体に障
害のある少年でした。
私がボランティアとして保育園の手伝いをしたのは、中学校二年生の夏休みでし
た。そこは市内でも規模の大きい保育園で、たくさんの園児たち、そして職員の方
々がいました。そこで、私は彼に出会いました。彼は脳だけでなく、身体にも障害
を抱えており、一目見て私は彼を「普通」の子どもではないと思いました。「あの子
は障害のある子どもだから、誰かが手を貸さなくては。」と。
保育園でのボランティアの仕事は主に子どもたちとのコミュニケーションで、更
には給食の配膳や掃除などもありました。そのため、私はほとんどの時間を子ども
たちと一緒に過ごし、彼とも一緒に遊んでいました。そのときに、何度も彼と話を
することがあり、私は彼がどんな子どもなのかが分かってくると同時に、私には彼
が他の子どもたちとどう違うのかが段々と分からなくなってきたのです。そしてあ
る日、ある職員の方に言われた言葉があります。
「君にはあの子がどういう子に見える?」
私はそのとき、
「彼を『身体障害者』で、『普通』ではないと決めつけていました。しかし、彼の周
囲の子どもたちによって、その考えが間違っているということに気付かされました。」
と答えました。
彼と一緒に過ごしている子どもたちは、彼のことを障害のある子どもだとは思っ
ていないのです。これはどういうことなのか、それは障害を一つの特徴として見て
いるということです。その子どもたちにとっては、彼の障害は、例えるならば、「走
るのが遅い」、「ピーマンが苦手で食べることができない」などの、誰にだってある
「普通」の違いなのです。それゆえに、他の子どもたちは何一つとして彼を特別扱
いはしないし、ましてや彼に障害があることを理由に疎外したりは決してしません。
けんか
一緒に遊び、話し、時には喧嘩をし、彼を「障害者」ではなく、個人として対等に
考えているのです。私にはそのような考え方はできませんでした。ですから初めか
ら彼を障害者だと考えてしまった自分を、たまらなく恥ずかしく思いました。
あの夏休みに出会った彼らのような考え方、そして接し方こそが、現在の私たち
の社会に求められているものなのだと、私は今思います。それは、たとえ生まれな
がらに障害があるとしても、それを気にすることなく、生きることのできる社会で
す。
しかし、それは理想論であると言うほかはないのかもしれません。差別は減るこ
とこそあれ、消滅することはないということもよく聞きます。それは、自分とは違
う存在に対して不安や恐れを抱く人間の性質によるものなのでしょう。人は弱い存
在なのです。どんな人に対しても平等に接するためには、本当にその人のことを理
解して認めることが必要ですが、それはとても難しいことでしょう。
これは障害者についてに限らず、他の全ての差別問題についても共通することで
へんりん
す。しかし、私は確かに理想の社会の片鱗をこの目で見たと確信しています。障害
も一つの個性として見ることのできるような偏見のない社会の創造へ向かって、私
たち皆が努力し、何かを始めることこそ、あらゆる人権問題の解決に向けた第一歩
なのです。
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