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ヨット航海記 No.5 by 西崎孝志 2010/May

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ヨット航海記 No.5 by 西崎孝志 2010/May
ヨット航海記
NO,5
(筆者、満85歳のヨット旅日記)
5月1日~5月5日
平成22年
(Golden-week,2010)
Zipangu-7 号
艇長、田中一義
筆者、西﨑孝志
航路を下記します、詳細は海図又は府県地図を参照下さい。
1
2
ヨット航海記(No5
ヨット航海記(No5)はじめがき。
ヨット名、 Zipangu-7、、、、37 F
北欧艇、型式「ヘルベルグラツシー」
エンジン、 55 HP
船籍 岡山県牛窓、牛窓ヨットハーバー。
艇長とクルー(ワッチ)。
艇長 田中一義 (小型船舶操縦 1級免許所有)
クルー 西崎諭 (息子)( 同 1級免許所有)
西崎孝志(父 )( 同 2級免許所有)
「西崎親子の愛艇ヨットは「Green-Wich 号30 F」であるが、今回は応援の為乗艇す」但し
此のヨットは法的に、操縦は1級免許が必要であるので法的の応援は諭のみ。
乗艇者、、、、、、、、、田中一義 住、岡山、「Zipangu-7 のオーナー」
同、奥様 同
辻 義成様 住、高松
宮脇信行様 住、東京
同、奥様 同
西崎諭 住、岡山
西崎孝志 住、神戸,、、航海記筆者、
総員、7名
特に宮脇夫妻は田中氏の東京での知人で新婚1ヶ月のほやほや、為に艇内は
明るさが満ち溢れていた。
はじめに、
1、 毎年ゴールデンウィーク前には今年のヨットの旅は何所にするか?と迷うのである
が今年は迷うことなく初めから Zipangu―7に乗艇して遠出することに決めていた、
その理由は、
「ワッチ(Watch 操船と見張り)のお手伝いをする」、と言う思いが半分、
後の半分はヨットマンの誰もが垂涎の的である「ヘルベルクラッシー」に乗艇してそ
の乗り心地を楽しみたい、と言うことが正直な所である。
2、 当初の予定は4月29日から5月5日までの7日間をフルに使いゆっくりとセーリ
ングを楽しみたいと考えていたのであるが、皆さんの勤務の関係で5月1日から5
日までの5日間の航海に短縮された。
即ち、往路 牛窓、、、、、大三島宮浦港、、、、、(クダコ水道を経て)、、、、、別府
帰路 別府、、、、(クダコ水道を経て)、、、、岩城港海の駅、、、、、牛窓
何れにしても広い伊予灘は往復ともナイトセーリングとなる強行軍の計画であっ
たが、反面めったに見られない天体と自然が織りなす美しい光景の眺めに接 する
かもしれない、、、、と言う希望があった。
3
4月28日が満月である、そして4~5日後の朝1時頃の月の位置は概ね南南東
低めの位置である此のことは概ね天体の位地に恵まれていると言えるので天候さ
え良ければ、「ヨットの引き波が起こす(末広がりのさざ波」に当たる月光は金銀
に輝き、それに夜光虫の妙光が相和して素晴らしい幻想的な光景が見られる筈で
ある、それが何よりの楽しみであった。「荒い波では其の光景は望めない」
「余談」
今回の天体位置状況は一昨年の別府クルージング( CareFree 号と
GreenWich 号の2隻同伴で)の時と全く似ているので、其の時の幻
想的な光景が再び見られる、、、、と楽しみにしていたのである。
3、 この様な楽しみを胸にして出発したのであるが、初日に備後灘を西航するとき辺り
から潮流に逆行する真西(真向かい)の風が次第に強くなり時折大きな波飛沫を受
けるようになった、ヨット Zipangu-7 号は波を切り悠々と進んでおり、流石に名艇「ヘ
ルベルグラッシー」と感心するものの,今後の天候如何で明日の大きな伊予灘の航
海を危惧するものであった
「目的地(別府)を変更したこと」
4、 最初の寄港地(大三島、宮浦港)に到着し陣容(陣容の意味は本文に記載)が整え
ば、その夜極力早く別府へ向け出発を考えていたのであるが、夜10時を過ぎても西
風は勢いを増し係留のヨットは大きく揺れ、電線は風でヒューヒュー泣きだしたの
で、急遽相談して別府行きを中止する事に決定したのである。そしてゆっくり就寝し
翌朝、音戸の瀬戸を通り呉、広島、厳島方面を指向することとした、以後随時協議しな
がら海図を頼りに航路を決めることとした次第である。
ヨットもクルーも、此の程度の天候では安全上全く問題としないが、只始めての乗
艇者も居り,波による振動で就寝も叶わず、更に多分に強い船酔いに襲われる事態
が想定されるので、勇気をもって目的地を変更したのであった。
5、 変更後、何所に寄港、係留するにしても景色は似たようなものであるが、然し世界遺
産有り、随所に名所旧跡有り、歴史物語り有りで 寄港地選定には事欠かないと、思
ったものである。そしてヨット航海記を書けば「歴史探索のヨット航海記」にな
る?・?と思いながら海図を眺めた次第である。
6、 ヨット航海記を書けば関東の友人にも送ると思う、関東の方は瀬戸内海に浮かぶ
島々の特有の物語りなどに興味を持つ、、、、と聞いたことがあるので、、、、今回はその
辺のことも踏まえた航海記にしたいと思っている。
7、 随所に簡単な手書き海図を挿入しますから、それを参考にしながら読み進めて頂き
たいと思います。 はじめ書き終わり。
4
ヨット航海記、No5
ヨット航海記、No5 本文
4月30日
22時30分 乗艇予定者7名全員ヨット Zipangu に集合。揃っての夕食、明日からの
クルージングの安全を祈って先ず杯をかたむける。皆さん夫々の持ち込
み食料に舌鼓をうつ。筆者がヨットに乗艇する時の「お決まりの携行食
糧」は、ゴーヤのチャンプルー、とイナリ寿司、であるが今回は「和風粉吹
きジャガイモ」を追加したのである、、、何分にも男料理で出来栄えを心配
したものの、皆さん美味しいとの褒め言葉に安堵し、いささか自信を持っ
た心地、、、、、、。
東京からの新婚ホヤホヤの宮脇ご夫婦のお蔭で話は花やいたもので一同
若返る。
出発に先立ち先ず牛窓ヨットハーバーの全景と牛窓地区の特徴を披露する。
* 向かいに見える島が「前島」である。
* 写真では見えないが牛窓の市街と観光景観地区は此の写真の左の方である、
昨今平城遷都 1300 年と騒いでいるが此処牛窓はそれより遥か昔より海上交通の要衝と
して大陸文化とも交流し大いに栄えた地区と伝えられている。特に神功皇后にまつわ
る遺蹟が多いのも特筆される、又近代では日本のエーゲ海とも称される程、風光明媚の
処であり、更にオリーブの名産地としても名を馳せている.。
5
* かつて、NHK が由緒ある地域の方と(深夜放送で)アナウンサーが対談されたことが
ある、平成 11 年 4 月~平成 13 年 2 月までの間25回にわたり、牛窓神社の宮司が対談さ
れている、筆者は其れを聞いて牛窓に特に関心を持ったのであるが、たしかに牛窓地区
は古代の臭いが強いように思う。例えば地域名の「幡地区」
「紺浦地区」の名前は新羅国の
古代語に通じ、
「はた」とは海の意味であり、
「紺」とか「服部(ハットリ)」とか「「呉織
(クレハトリ」は紡績に関係する言葉で、
「トリ」とは指揮者とか棟梁の意味であると言
われている。
* 此のヨットハーバーは瀬戸内海屈指のハーバであるとともに、東方から瀬戸内海に来訪
されるヨット(ビジター)が最初に頼れるヨットハーバーであると思う。即ち淡路島を
過ぎ瀬戸内海に入って最初にある本格的ヨットハーバーであるので、、、、、。
* 牛窓ヨットハーバーの Tel,0869-34-5160「岡山県瀬戸内市牛窓」
5月1日
6時50分 牛窓ヨットハーバーを出港、
桟橋では西崎諭(息子)が手を振って見送っている、同氏も乗艇メンバ
ーであるが今日は会社で用事が出来たので出勤である、見送った後直接
に出勤し、社用を済ませた後、陸路追いかけて今夜大三島宮浦港で合流す
る予定である。
以後時に応じ、参考として手書きの海図と、潮汐の状況を記載する。牛窓
の潮汐は播磨灘(家島諸島の北)の潮汐時間と略同じと言われているの
で播磨灘の潮汐を記入する。 播磨灘潮流
転流時
最高時
00,35
03,17
-0,3(東流)
06,11
08,52
+0,3(西流)
11,18
14,54
-0,5(東流)
18,21
21,43
+0,5(西流)
「余談」
上記に牛窓の潮流は、公表されている播磨灘の潮流時刻と略同じ、と書い
たが、此のことは.牛窓の潮流のことに詳しい草木造船所の会長に教えて
頂いたのであるが、其の時付言されたことがある、それは、略同じと言っ
ても実際は播磨灘より牛窓の方の時間が少し早く、潮流の方は牛窓が少
し速い、、とも話されていた。
私は早速海図を開いてデバイダーを片手に色々と潮の流れを想像し、上
記のお話を理解したのであった。
少し早く、少し速いとはどの程度か?については他日潮汐表を片手に現
地で検証したいと思っている
6
絶好のクルージング日和で、万歳を叫びたい心地である、航く程に右遥か
に児島湾の入り口が望まれる、左を見れば小豆島がはっきりと見える土
庄(トノショウ)港の入り江もその先端の鹿島も確認できる。ヨットは
豊島【テシマ】と小豊島の間に定針、引き波は真っ直ぐに何所までも裾を
なびかせ、エンジンの音も軽やかである。メインセールを揚げエンジンは
巡航の2000 Rpm の機帆走とする。
「余談」
行政上では鹿島は小豆島の一部であるが、海図では土庄港
の狭部の南北の水路から以西の赤斜線部(前の図)をはっ
きりと鹿島として区分している、「鹿島」と言う字に何か古
代の特別の歴史的意味が有るように思われるが、?どうで
あろうか?。
7時45分 直島沖に到着
直島は小さい島で日本でも知らない人が殆んどと思うが、今では世界的
に有名な文化の島として名を馳せている、それは「地中美術館(安藤忠男
氏設計)」が在る島として知られているのである。殆んどの施設が地中に
在ると言う世界唯一の美術館と説明されている。今回乗艇7人の内美術
館を観光した者は艇長の田中氏一人のみ、田中氏のヨットの上での美術
館案内に一同耳を傾ける。
「余談」、、、、ヨット仲間がする直島の話、、、、、
直島港の一部が「海の駅」に指定登録されたと聞くが、何故
か?ヨットの寄港を拒否されると聞いている、日本には多
7
くの外国のヨットが立ち寄り名所を寄港しながら観光され
ているが直島は已む無く目的地から除外と思う、又ヨット
仲間の処に珍客(外国の方も含む)が来てクルージングし
て直島訪問を望まれてもそれが叶わず残念に思ってい
る、、、、、と。
8時00分 直島港入り口を右真横に見ながら通過。
8時15分 大槌島を真南に見て通過、
大槌島潮流
備讃瀬戸
06,22
11,42
転流時
09,12
14,44
最高時
+2,1(西流)
-2,6(東流)
変な恰好の貨物船に追い越される、よく見れば丸通の印がある、何を運搬
する船舶であろうか?と話し合う。、
あの船なんだろう、と双眼鏡で観察する筆者、
8
次の写真、
艇長も、彼女も変な恰好の船だな、、、、、、と関心を持つ。
変な恰好の船は次の写真の通り、(ご存知の方は教えて下さい)
9
前方彼方に、大きな瀬戸大橋が見える様になって興奮気味の新婚夫妻、さ
っそくと記念の撮影。
9時00分 瀬戸大橋(正確には北備讃瀬戸大橋、、)の下を通過する。
船速、7,5 Kn(対地船速)
備讃瀬戸―三ツ子島(瀬戸大橋の直下)の潮流
転流時
最高時
05,55
08,32
+2,2(西流)
11,19
14,21
-2,2(東流)
此の写真はヨット船上で撮った2枚の写真の合成の為変な恰好に見える
が、全体直線の橋である。
「岡山県下津井、から香川県坂出、を結ぶ鉄道、車両共用の大橋である」通
称「瀬戸大橋」と呼び、島々を結ぶ六つの橋からなり其の橋そのものの総
10
延長は7016mになる。
此の写真は与島【左】~坂出(右)間の橋で六つの橋の内、最も長い橋で且
つ美しく見応えのある橋の姿である。
写真中央に見える太く大きな橋脚を中心とした左右の長さを別々に公示
されているが、私達は3186mが一つ橋であると認識している。
左(与島)側
右【坂出】側
合計
「北備讃瀬戸大橋」 「南備讃瀬戸大橋」
1538m
1648m
3186m
因みに、上記の六つの橋とは、
下津井瀬戸大橋
1400m
櫃石島橋
790m
岩黒島橋
790m
与島橋
850m
北備讃瀬戸大橋、
1538m
南備讃瀬戸大橋
1648m
合計
7016m
10 時 05 分 広島の西端を右にみて過ぎ高見島の北沖にある No3 浮標を確認する。
船速、順調7,3 Kn(対地)を表示、
10 時 15 分 同型と思える貨物船が 2 隻相次いで追い越していく。
愈々備後灘に入る、備後灘で東西の潮流が衝突(分岐点)すると聞いて
いるが、、、、それはどの辺り?であろうか??船中大いに話題となる。
真向かいの西風次第に強くなり、潮流に逆行する風のため波高し、
風速計は23 Kn から25 Kn に上がる。(13M 以上の風速と思う)
波、風の影響の為、船速は次第に下がり、6,7~6,8 Kn を表示する様
になる
12 時 1 0分 波次第に高さを増す、かの有名な「日本海海戦時の、本日天気晴朗なれど
波高し」。の電文を思いだす。流石にヨット Zipangu―7は波を切り悠々と
進むものの、大きな波飛沫を受ける回数、数知れず。風速計はしばしば2
5 Kn をこえている。
キャビン内を見れば二人の女性は「現在の波の状況では」ソファーで横に
なって揺り籠宜しく安眠のようである、
11
13時40分 高井神島と豊島の間を西に越えたので方位を 255 度に変針し宮窪の瀬
戸を指向する。暫くすると急に風弱く、波穏やかになる、島並街道の島島
が近くなり風を遮ったためと思う。
1 4 時55分 宮窪の瀬戸の入り口に到着、瀬戸に突入の準備、全員観潮用意
新婚さんは何が観えるのか?興味津々の様子、手を握りあって海面を覘
いている。
「余談、1」。
朝、日の出時刻にここを航く(西航)のときはヨットの後
方遥かに朝日が顔をだし、思わず手を合わせたくなるもの
である。
「余談、2」
また伯方島の東側海上では多くの漁船が一隻叉一隻と朝も
やの中から姿を出し、早朝漁の励みの模様が眺められるの
である、
「余談、3」
今日は昼過ぎで時間帯が悪いのか?釣り舟は2隻のみ、多
分素人の遊び釣り人であろうか?と思い眺める。
15 時00分 宮窪の瀬戸に突入する。
5月1日、来島海峡の潮汐、
(転流時)
h m
h m
12,35
15,57
19,08
22,20
「余談」
(最高)
Kn
-7,4北流(西流)
+8,4南流(東流)
物凄い速さの潮流であるが、低い時もあるので、今年の低い
時の潮流を抜粋して下記してみよう。
今年の低い時の潮流
(転流時)
(最高)
h m
h m
Kn
3月10日
08,25
11,11
-2,0北流(西流)
14,17
16,55
+1,3南流(東流)
4月8日
07,22 10,23
-2,1北流(西流)
13,30
16,16
+1,5南流(東流)
1 2 月 1 6 07,34
10,21
-2,3北流(西流)
日 13,04 16,07
+2,7南流(東流)
次の略図は安芸灘を中心にした概略海図であります。
航海記を読み進めるに当たり航路の参考として下さい。
12
以後危険灯台を越え左に転舵するまでの直線コース
の船速変化推移の記録は次の通り、
7,1 Kn、、、、、6,8 Kn,、、、、、6,9Kn
15時05分、危険灯台を避け(越え)左に転舵、名にしおう「通称船折れの瀬戸」に突
入する、
「エンジン回転数の変更、」
これまで2000 Rpm の巡航回転であったが奔流による操舵不能を危惧
して、2300 Rpm に上げる。左に転舵してからの船速変化の推移は次の
通り、
6,6 Kn、、、6,8 Kn、、、6,7 Kn、、、7,1 Kn、、、7,3 Kn、、、7,
5 Kn、、、7,9 Kn、、、7,6 Kn、、、7,8 Kn、、、8、5 Kn、、、7,9
Kn、、、、7,7 Kn、、、、7、8 Kn、、、、8,1kn、、、8,4 Kn、、、8,5
Kn、、、9,0 Kn「船速の急な高低は渦による現象と思う」
15時07分、小さい渦圏を過ぎると船速は急に伸びる。
8,9 Kn、、、9,1 Kn、、、 9,2 Kn、、、9,3 Kn、、、9,5 Kn、、、
10,0 Kn、、10,4 Kn、、、11,5 Kn、
「余りの船速の伸びに驚き
13
安全を期して、エンジン回転数を2500 Rpm に上げる。」
15時10分 12,5 Kn、、12,8 Kn、、、13,1 Kn、、13,2 Kn、、、13,4
Kn、、13,5 Kn、、、12,8 Kn、、11,5 Kn、、、
「船速推移の記録を中止する、」、
ヨットの長さ、エンジンの違いで一概に船速を言えないが、、、それに
しても最高13,5 Kn(対地船速)の船速に驚く。潮流が最高とな
る1時間前に宮窪瀬戸に突入したのである、若し最高時に突入して
おればその船速は??と想像を逞しくする。
15時15分、伯方、大島大橋の下(伯方島と大島を結ぶ橋)を通過する。
船速、10,3 Kn
エンジン回転を2300 Rpm に戻す、
14
次の写真は、、、、橋下を通過、パソコンで潮流を調査する艇長、
15時25分、鼻栗瀬戸を右に見て通過。
15時35分、左に来島海峡が望見できるラインに到着する。
船速、7,6~7,8 Kn
エンジン回転数を2000 Rpm の巡航回転に戻す。
16時00分、大下島(大三島西南端の位地)を右に眺めながら通過。
船速、7,2~7,3~8,2 Kn
次の寄港地宮浦港に行くためには大下島の東をを右折すれば近道である
が、、、何となく海底の様子が物騒であるので、君子危うきに近か寄らず、、、
遠廻りであるが大下島の西を右に迂回する事とする。
16時15分、大下島南西の灯台を確認して右に転舵する。これより逆潮航行となる、、、
大下島を通り過ぎるまでの逆潮船速、の推移記録は次の通り、
5,7 Kn、、、5,5 Kn、、、5,6 Kn、、、4,5 Kn、、、4,4 Kn、、、4,
9 Kn、、、4,1 Kn、、、40 Kn、、3,8 Kn、、、4,2 Kn、、、4,4
Kn、、、5,2 Kn、、、5,1 Kn、、、4,5 Kn、、、4,2 Kn、、、3,9
Kn、、、3,8 Kn、、、4,2 Kn、、、逆潮の影響が如実に表れている。
以後宮浦港までも逆潮であるが海面(海域)が少し広くなった為と思う
が船速は概ね、5,2~5,4 Kn を保っていた。
15
17時15分、大三島宮浦港、到着、大桟橋に係留する。
(参考)
牛窓ヨットハーバー
出発時刻、
6時50分、
大三島、宮浦港
到着時刻、
17時15分、
所要時間、
10時間25分
航海距離、
約、78海里
平均船速、
約、7,6 Kn
エンジン回転は、宮窪瀬戸を除き2000 Rpm.
先着のヨットは一隻のみ、日程から想像すると、多くのヨットは既に出港
した後であろうと思う。
西風は依然として強い、特に宮浦港は西が大きく開いているので風当た
りが強くヨットの揺れは静まる事なし。
早速、マーレクラッシャー大三島温泉にて疲れを流す。
温泉から眺める夕陽、大崎上島の山の端(は)に沈む夕陽。
今日の夕陽は空一杯に燃える様な「赤い夕陽」とならなかった。
19時30分、温泉より帰艇、
夕食の用意をしながら、、陸路を急ぎ此処で合流する予定の西崎諭(息
子)の到着を待つ。
「余談」
息子は業務終了後、JR と,急行バスを乗り継ぐため、此処宮
浦での合流は22時30分前後と予想していたので、別府
へ向けての出発は0時前後と思っていたのである
が、、、、、、、、 処がヨット仲間の山崎氏【住、松永】から「松永
から宮浦までマイカーで送る」との有り難い御話を戴き、お
蔭で別府へ向けての出発がかなり早くなる、、、、と喜んでい
たのであった。
20時10分、息子到着合流、陣容が整う。、
早速料理を囲み、山崎夫妻も加わり杯を挙げ乾杯。
自己紹介も終わり、話題は自然に天候、風、波のこと、、、、ヨットの揺れは
16
依然として大きく、外では電線が風でヒュウーヒュー泣いており、風の治
まる気配全くなし、これからの、航海(夜航)は 広い安芸灘、次いで更
に数倍広い伊予灘である、どちらも西が開いており、西風による波は高い
であろう更に潮流に逆らう波で、波は相当に高く「えげつない波」になる
であろう、と予想され、、、、、、、ヨットの揺れと振動で就寝もままならず、
更に船酔いに襲われる危惧も心配され、、、、、特に新婚夫妻に良い思い出
を提供する為にも(恰好のよい理由付けでない)別府往きは中止がベタ
ー、と判断したのである。
別府行きが中止と決まれば出港は明朝で、ゆっくりできる、話題は自然に
別府に劣らぬ寄港地の選定である、ヨット談議、名所旧跡観光談議に花が
咲く、次の寄港目的地はクルージングコースに適した音戸の瀬戸を経由
し、そして厳島にも程近い、
「広島観音マリーナー」とすることに決定する
目的地決定にあらためて乾杯する。
22時00分、山崎氏に感謝の乾杯、大桟橋出口に駐車のマイカーまでお見送りし、5
月4日岩城島でヨットでの再会を約してお別れする。
5 月2日
07時00分、起床、0 3 時トイレに起きた時にはヨットの揺れは相当なものであった
が、起床の時は風はかなり静かになっていた。
神は勇気あるコース変更の処置を愛でて風を納めた?と思う。、、、、先着
し て い た ヨ ッ ト は 既 に 出 港 し 桟 橋 に は Zipangu-7 が 一 隻 の み
09時00分、大三島宮浦港、出港
17
5月2日来島海峡の潮汐、
転流時 最強 07時46分 10時27分
13時09分 16時33分 Kn
+5,2(南流、東)
-6,6(北流、西)
猫瀬戸を指向、エンジン2000 Rpm の巡航回転とする。
左近くにに昨日眺めた大下島を望み、次いで、小大下島、岡村島、を過ぎる
と左に大崎下島の海の駅が目に入る、右は大崎上島の南西の島端である、
懐かしい景色と共に眼前の海は広がり、急に風を感じるようになった、西
風やや強めの適風であるフルセールとしてエンジンを切る、島蔭のため
時に風が落ちるものの概ねセーリングは快調。
島陰の多い内海で此の調子(風)であれば、広い伊予灘の西風と波は相
当なものであろうと想像を逞しくする。
12時15分、島蔭で風衰える。且つ猫瀬戸が近いため全セールを降し機走とする。
12時25分、猫大橋(猫瀬戸)下を通過する。
猫と命名した由来は、、、、??と思いながら通過する。橋下通過の時は何
時も「マストと橋と衝突しないか??」判っているけど心配症、、、。 海開
け再び西風のやや強い適風となり、フルセールのセーリングとする。
12時30分、昼食、
炊事班女性二人の力作「特製カレー風カレーライス」美味しい、現代風新
婚の味の思い。
13時0 5 分、音戸の瀬戸が近ずき再び降帆、機走とする、コース指示浮標に従って左に
大きく廻り、右に転舵、直線に音戸の瀬戸に入る態勢を整える。
13 時15分、音戸の瀬戸橋下を通過する。
此の瀬戸はその昔平清盛の命により掘削された瀬戸と言い伝えられてい
るがそれは 850 年昔の話、その工事の偉大さに往時を偲ぶ。
13時35分、呉、軍港沖に達す。
此れまでは右に数隻の潜水艦、左にも数隻の艦船の姿を眺めたものであ
るが、今日は潜水艦の姿はなく、左に艦船(No4002)が一隻のみ。
何だか寂しい心地がする。
次の写真は、
似島近くの海上である、音戸の瀬戸を通過したと思われる色彩豊な船に
追い越される、
其の船は
(1) カタマラン(双胴)艇である。
(2) 水線が浮いているので、
水中翼船方式か?、
18
ホーバークラフト方式か?、
であろうと想像できる、
(3) 安芸灘で遠望した高速連絡船の色彩とよく似ているので、多分
広島~松山間を結ぶ連絡船であろうと想像し、随分と速いだろう
と思いながら眺める。
「余談」
4~5年前に竹原(JR呉線)~大崎下島(大長港)間の
高速 連絡船を利用したことがあるが、其の時の説明では
「自動車に例えれば時速50Km]とのことであったが、、、
あの船とどちらが速いかな?と思って眺める
5月2日の広島の潮高、
時刻(h、m)
潮高(Cm)
11、27
296
17,52
25
14 時 50 分、似島を過ぎ広島湾に入る、右手に広島市街が一望できる地点に到達。
西南のやや強い適風、メインとジブを揚げフルセールとし暫し帆走を楽
しみ乍ら厳島神社を目指す。南から現れた大型ヨットも Zipangu に追随し
て厳島神社を目指し、船上参拝をするようである厳島の連絡船桟橋の北
の岸壁に5隻程のヨットが槍ずけで係船している、土地の者がグループ
で係船と思うが無理した係船模様に驚く。
19
海上に浮かぶ大鳥居を観光したいと思ったが生憎く干潮のため思い叶わ
ず海底に建つ大鳥居を眺める、此れも又興あり。
宮島口との間を往復する連絡船も満員、陸上も人の波の様相であった。
次の写真は、
左前方には、海上に建立の厳島神社、ヨットは低速、全員艇上に出て、感慨
深く眺める様子が写真に現れている。
皆さんの一生の良い思いでになるであろうと思う。
(ヨットは上の写真の大鳥居の向こう側を航く)
20
「余談」
日本で最初に世界遺産に認められたのは「厳島神社」と古典
芸術の「能楽」だった?と思いながら、、、、何度見ても素晴ら
しいと感慨深く眺める。
16 時 20 分、厳島神社の海上大鳥居を眺めつつ徐航、海上からの眺め感慨また一入。
一同手を合わせヨット上から参拝する。東京からの新婚さん二人もヨッ
トから眺めた厳島神社の景色は、一生の思い出となる、、、であろう。説明
によると、厳島神社は推古天皇の代(約1500年の昔)の創建で現在
の優美な社殿は平清盛【約850年の昔】によると書かれている。
次の写真は、 新婚さんは感激の余り神社の赤い大鳥居をバックに思い出のポーズ、、。
21
16時30分、厳島神社参拝を終え広島観音マリーナーに向かう。
マリーナーの入り口が判らないので、マリーナーに電話して電話による
道案内をいただく。場所は旧広島飛行場に隣接しているように思う。
17時10分、広島観音マリーナー到着係船終了。
(参考)
大三島、宮浦港、 出発時刻、
09時00分、
広島観音マリーナー入り口、
到着時刻、
17時00分、
所要時間、
8時間
航海距離、
約32海里、
平均船速、
約4 Kn
途中セーリングを楽しみ且つ厳島神社に寄り道しているの
で船足結果に納得である。
中四国最大のマリーナー(ヨットハーバー)と呼ばれておるが、その通
りであった、、
「収容能力」と言い、
「マリーナーレストラン」
「ロープ等総て
が揃うマリンショップ」
「広い駐車場」、、、、、何れの設備も完備され、堤防
に囲まれ風波にも安心できる素晴らしいマリーナーであった。筆者始め
ての係船であったが従業員の行き届いた心くばりにも感心する。
マリーナーの住所等
22
株式会社ひろしま港湾管理センター
(呼称、広島観音マリーナ)
広島市西区観音新町4-14-6
郵 733-0036
Tel:082-234-7710(代表)
ビジターバース利用料(24時間までにつき)
全長(FT)
利用料金
25未満、、、、、、、、、、、、、、、、、1100円
25~30、、、、、、、、、、、、、、 1500
30~35、、、、、、、、、、、、、、、1800
35~40、、、、、、、、、、、、、、、2400
40~50、、、、、、、、、、、、、、、3300
その他、、、定休日、、毎週火曜日(当日が祝日のときは其の翌日)。
街に繰り出し入浴と名物の「広島お好み焼き」を美味しく戴く、夜である
が原爆ドーム界隈を散策、要所要所にある原爆説明看板を「懐中電灯で照
らしながら」読み、新婚さんも原爆の恐ろしさを改めて知ったと思う。
新婚さんのバックは原爆ドームの夜景。
23
帰艇後、翌日の予定を次のように決め、、、、、、船内泊。 21時30分、出発、、、江田島湾に入り「能美海上ロッジ」に寄港、下船、散歩昼食の
後、、、、、、倉橋島南端の名所桂浜海の駅(桂浜温泉)を目指す。
5月3日
07時00分、筆者起床、
「余談」
構内を散歩して帰艇してみると一人の初老の男が Zipangu
の傍らに立ってしげしげと艇を眺めている、その男が私に
話す内容を端的に書けば次ぎの様なものであった、即ち
「此のヨットはヘルベルグラシーと言う北欧の名艇である
が、新艇かと思ったが、良く見れば新艇でない、兎に角手入
れが行き届いたヨットで感心しながら眺めていたのであ
る、、、、、、と。」
私は何処かでお会いした??御仁と思いながら聞いていた
のであるが、先方もその様に思いながら話されていた様で
ある、そして今日はヨットでなくモーターボートで三原か
らのビジターですとの話である。私は三原と言えば3年前
にヨットカタマラン(双胴のヨット)で別府にお出での三
原の方にお会いしたことがある、、、、と語った所、その御仁
は即座に思い出しました貴方は、あの時のお父さん(私)
である、、、、と。誠に奇遇であった、、お名前は忘れたが「メカ
リ、(和布刈)ヨットクラブ」の大村さん、山崎さんも親し
いヨット仲間であとのお話であった。世の中は狭いもの
だ、、、、と、つくずく思う。
09時30分、観音寺マリーナを出発。
潮汐表による5月3日の広島の潮高
時刻
06時29分
12時00分
最高 Ht
133、Cm
280、Cm
引き潮になって約3時間後の好時間帯の出発である。
10時40分、江田島湾口に到着、即ち江田島と西能美島とのあいだの狭隘な水路を通
過している。観音寺から此処まで機走、距離は約7海里を約一時間で走っ
ている即ち7 Kn の船速である、、此処までは順潮であるが江田島湾に入
ってからは逆潮である。
西能美島の小さい谷に架かったロープに鯉幟が20~30匹元気に泳い
でいた、それを眺め思わず童心にかえる。
江田島湾に入って先ず驚いたのは、海水が澄み海で美しかったことであ
24
る。
11時20分、能美海上ロッジ海の駅に到着係船。
約1時間の予定で休憩散策食事、此のロッジは江田島湾の一番奥まった
所の突起岬に建てられ、国民宿者も温泉もある見晴らし絶好の地であっ
た。そして係船料は無料であった。
ロッジ備え付けの望遠鏡(無料)で旧海軍兵学校を望む田中艇長、
次の写真は能美海上ロッジの全景、
次の写真は海上ロッジの反対側の写真。
25
次の写真はロッジの屋上に設置の無料双眼鏡でながめる旧海軍兵学校の
姿。
白砂青松の緑に囲まれた学校で、戦前は「英国の王立海軍兵学校」
「米国の
海軍兵学校」と共に世界三大兵学校といわれ、世界に名を馳せた超エリー
ト校であった、現在は第一術科学校となっているが見学ができる由で、又
の機会に見学したいと思う。
ロッジから海岸に沿って学校まで歩いて行けそうに思えたが、、、
時、 分、
見学時間、 平日
10,30から
13,00から
15,00から
土、日、祝日、
10,00から
11,00から
13,00から
15,00から
夫々30分まえから受付開始とのよし、
(問い合わせは、学校の総務課広報係りへ、Tel,0823-42-1211)
屋上の双眼鏡で眺めると兵学校の右側(東)に大きな砲塔があって二本
の砲が海上ロッジの方を睥睨している、聞けば戦艦陸奥の主砲を改良の
際、改良前の主砲を此処に移設された、、、、との説明であった。
26
陸奥と言えば日本海軍の主力艦であったが昭和18年柱島近海で原因不
明の爆発で沈没したとの事であるが、そのことは国民には知らされず、国
民が知ったのは戦後であった。今尚海底に眠っているが一部副砲などが
引き上げられて屋代島の東端に在る「陸奥記念館」に収められて一般に公
開されている。筆者 GreenWich 号でのクルージングで屋代島に上陸した際
此の記念館を訪問したが、、、。感無量で、遺族の方は胸塞がる思いであろ
う、、、、と思ったものである。今日これから航く道すがら遥か右に「柱島」
があるが、其の島見えるかな??と思いながら砲をながめる。
「余談1」、、、、、、島の名称について。
現在此の島全体が江田島市の行政であるが、海図では三つの島
に分割されて表示されている。即ち江田島湾の、右側(東)が江
田島、左側(西)が西能美島、下(東南)側が東能美島となって
いる。
かねてから、不思議に思っていたので今回市当局に聞いたところ次の様な回
答であった、
即ち、今は完全に陸続きの一つの島であるが、昔は完全に三つの
島に分かれていたので、その名前だけが残っていたと言うこと
である。現在は江田島と西能美島のみが地区として名を残し、行
政上「東能美島」の名は消えている。
27
「余談2」、、、、兵学校の鍛え方(自己訓練)の激しさ。
筆者の航海記 No4 をご覧になった正木孝虎氏(筆者現役の時東
京本社で同僚だったお方)が参考にとの思いでお父上(正木生
虎様兵学校卒業)の短艇(カッター)巡航記録(大正10年)
を送って下さいました、その内容の要旨は下記の通りで兵学校
の鍛え方に驚き、流石と思いながら読み進めたものでした。
(1) 大正10年夏休み、兵学校2年生の時。、
(2) 乗艇カッター有志13人(2年生8人、3年生5人)
(3) 航程、、、、江田島から四国松山間(往復)昼夜兼行。
途中鹿島(桂浜温泉の続き、南側)にも寄港さ
れている。
(4)、携帯計器、、、、、携帯用磁石のみ。「計器無し」。
(5)、難渋箇所。計画と実際の航路線を拝見すると、クダコ
水道の東方海上で方向を見失った為と思うが
行ったり来たりされて相当に難渋されている。
今回ヨット Zipangu は上記カッターの航路の片道の約半分のコ
ースと同じ航路を航海したことになるので敢えて此処に披露し
て兵学校の鍛え方の激しかったことを偲ぶ事とした。
短艇海に浮かべては
鉄腕櫂(カイ)もたわむかな
いざ蓋世(ガイセイ)の気を負いて
不抜の意気を鍛わばや
江田島健児【海軍兵学校】の歌「抜粋」
「余談3」海上ロッジの支配人の話。
話の内容、、、以前、海軍兵学校の組毎の OB 会は殆んど此の海上
ロッジで開催され元気な声が聞こえていたが、最近急に開催頻
度が減った。思えば兵学校の最後の卒業生もとっくに80歳を
越えている。、、光陰を思い、歴史を思い寂しい思いをしている、、、
としんみりと話されていた顔が印象に残っている。
12時30分、能美海上ロッジを出発、
海上ロッジの Tel,を改めて記載する。
Tel, 0823-45-2335
12時55分、江田島湾の出口を通過。西能美島の多くの鯉幟に見送られて湾を出る。
13時15分、大奈佐美島を右に眺めながら通過すると、更に右遠くに厳島の裏側【東
側】が遠望される。
次いで、大黒神島を左に見て航き、倉橋島の西端の「城岸鼻岬」先端を指向する。
28
写真は、、大黒神島辺りからやや強い南風、適風である、ヨットはフルセールの帆走とする、
艇は15~20度程度にヒール【傾く】して走る、走る。
皆さんはセーリングとヒールが余程好きな様子、歓声を挙げながら艇に身を任す。
次の写真も、、フルセーリング、、15度以上にヒールして、、、。
歓声を挙げて喜ぶ皆さんの顔が浮かんでくる。
29
15時45分、「城岸鼻岬」を左に眺めながら越える
右を見れば遥か彼方に柱島の姿が目に入る。あの辺りで戦艦陸奥が沈没
したのかと思い、胸中合掌。
前述の正木様の父上の兵学校のカッターは多分満潮時に江田島を出発さ
れたと思うので此の辺りまでは順潮で順調に航海されたであろうと思い
ながら海面を眺める。
16時30分、本浦港(ホンウラ港)に到着。、、、、、、「船中泊」
「参考」
能美海上ロッジを
出発時刻、
12時30分、
本浦港に到着時刻、
16時30分、
所要時間、
4時間
航海距離、
約24海里
平均船速、
約6 Kn
本浦港は桂浜温泉館の前の港(漁港)で今年から「海の駅」に登録され、
係船料無料であった。
但し、海の駅に指定の桟橋は狭くヨット30 F 2隻が限度と思う、それ以
上はヨット同士の横付けとなる。
早速桂浜温泉館に行きゆっくりと汗を流し、食堂で夕食を摂る、温泉湯は
30
肌に優しい温泉であった。
20時15分、ヨットに帰艇、船中泊.。
帰艇して見れば Zipangu の隣に高松の佐々木様のヨットが横付けされて
いる。佐々木様とは、一昨年 CAREFREE 号と GREENWICH 号と連れ立っ
て別府へクルージングした帰路、斎島(イツキ島)でお会いしたヨット
であり、其の時四国一周した帰り道である、と話されていた。
佐々木様は誠に愉快な御仁であった、ご挨拶したいと思ったものの既に
就寝されていたので挨拶せず。
5月4日
06時00分、起床、隣を見れば佐々木様のヨットは既に出港されていた。
息子と連れ立って散歩に出掛ける、足は自然に松原や、桂浜海水浴場、桂
浜神社や昔の造船ドック、長門の造船歴史館、等でありり、何れも万葉の
昔の匂いを感じる構造物や風景である。
{余談、1}、
此処は5年程前に近くの*造船所を訪ねた際案内頂き観光
した懐かしい処である。
*、近くの造船所とは
筆者の妻の従姉妹(の夫)が50 F クラスの超高速艇を建造のさい
注文した造船所である、その誼で Green-Wich 号のクルージングの途
中に立ち寄ったのである。造船所社名は、
「KK マリンクラフト風の子」
「余談、2」、、、、長門の地名等のこと。
それにしても山口県には長門と言う地名があるが、何故此処が長門
なのか?判らないので呉市倉橋島観光センターに電話して尋ねた所
次ぎの様な詳しい回答を頂いた。
1.
倉橋島(安芸の国にある島)の古代は荘園であり都ではこの島を
「安芸の国の長門」と呼んでいたようである。荘園とは都の特権階
級が支配する地域のことで、荘園の始まりは聖武天皇743年と
言われている。
2.
とは言いながら、平安時代(桓武天皇794年~鎌倉幕府開始 の
1192年の400年間)には既に一般に倉橋島と呼ばれていた
物証が残っている。
3.
以上の(1)と(2)を総合して検討すると、 一般では倉橋島
と呼び都の特権階級の間では長門の国と呼んでいた、、、、、と
解釈している。
4.
長門造船歴史館と厳島神社管絃祭御座船展示について。
長門の船とは昔の遣唐使船のことで、その船は此処桂浜で作 られ
31
ていたのである。又厳島神社の祭礼に使用される御座船も此処桂
浜で造られており今もドック跡が残されている。
5.
桂浜神社は仁徳帝当時の約1600年昔には既に存在していたと
伝えられている由緒ある神社で国の重要文化財に指定されている。
桂浜公園を散策していると2~3箇所に万葉集の歌を刻んだ石碑が建立
されていた、万葉集は日本最古の文学書で早速調べてみると長門に関係
するものは次の通りであった。
* 安芸の国の長門の島にして,磯辺に船泊りして作る歌、、、、、、、、5首、
* 長門の浦より船出する夜に、月の光を仰ぎ観て作る歌、、、、、、、3首、
上記8首の内4首を選び下記し万葉の昔の人の胸中を偲びたい。
3617番、 石走る滝もとどろに鳴く蝉の
声をし聞けば都し思ほゆ。
32
此の1首、大石蓑麻呂作「天平18年(約1250年昔)頃の人」
3618番、 山川の清き川瀬に遊べども
奈良の都は忘れかねつも。
3620番、 恋繁み慰めかねてひぐらしの
鳴く島蔭にいおりするかも。
3622番、 月読みの光を清み夕なぎに
水手の声呼び浦み漕ぐかも。
「注記」上記の八首は万葉集巻十五の一部の歌である、天平8年(736
年)新羅に遣わされた「遣新羅使」達が本浦港に寄港した時に作った歌で
其れに伴う挽歌や反歌も記載されている。筆者は桂の字が好きである、桂
は古来「月に住む仙人」とか「月に生える樹」とかを表現すると聞いた事が
ある。上記の歌にも「月の光」を引用している、此処長門の桂浜も、高知の
桂浜も月景色の良い処であろうか?と想像する。此の
地は現在温泉を中心に、
「長門の船造船歴史館」
「厳島神社管弦船展示」
「歴
史民族資料館」
「25メートル総合温水プール」等々更に「日本渚百選」に
選ばれた桂浜海水浴場も有り観光客も結構あるようであるが、、、万葉の
昔は今以上に、牛窓や小豆島と同じく海航(うみいく)人々の風待ちな
どで大いに賑わったことであろうと想像を逞しくする。
「桂浜温泉の営業時間等」 Tel、0823-53-2575
営業時間、10時00~18時00(17,30受付終了)
月三日全館休館日あり、要注意、
寄港する場合は事前に電話して開業日を確認すること。
「次の図は、安芸灘を中心とした概略海図であります。」
図の説明が前後すると思うが適宜参考にして下さい。
「余談、1」次の略図の略中央に中島と言う島がある「美味しい蜜柑で有名な島である、
中島の蜜柑とはこの島のことである」
「余談、2」中島の北の水路が「クダコ水道」である、此の水道を意識してヨットで逆潮航
行したことがある、エンジン2300Rpm機走、対地1Knの船速を記
録した、「Green-Wich 号の話」
「余談、3」筆者の経験ではクダコ水道の東海上では軽い靄(モヤ)が発生する事が多
かった、前記した海軍兵学校のカッターが方向を見失って難渋されてい
るのは此の海域である。
33
5月4日
08時00分、本浦港出港。
「参考」近くに潮汐の表示地域が無いので釣島水道の潮汐を記す。
5月4日 釣島水道の潮汐。
(転流時)
(最強時)
h, m,
h, m,
Kn
07,40
11,11
+3,0 北東流(東)
14,29
17,09
-2,1 南西流(西)
港の堤防を出ると直ぐ左に日本百景の白砂青松の桂浜の松並木が見える、
その中に点在する朱色の物は万葉の昔の遺跡関係の構築物で、何だか万
葉の風に送られて遣唐使船に乗り船出する様な心地であった、
更に航くと、左に長々と続く山並みは倉橋島最南端の「鹿島」の山影で
ある、Zipangu はこれから「鹿島」の南の先端まで航き、其処から左に転舵
して湾外(安芸灘)に出るのである。
「余談」、、、、「鹿島(略図の赤斜線の所)」についての話。
34
「余談、1」、
行政地図には「鹿島」の字はないが、海図には「鹿島」と明記
されている、小豆島の「鹿島」の場合と同じ(6ぺーじ)で
ある。次いで桂浜の南の狭陸部に水路があるが、其処から南
が「鹿島」と a なってをり此の点も小豆島と似ている。さらに
は、万葉の昔から往来する防人(サキモリ)や遣唐使達の
立ち寄りは勿論海航く旅人で賑わった泊まり(港)が鹿島
の近くに在ったこと、も小豆島と同じである。
「余談、2」、
上記の事実から、筆者は次のように想像を逞しくしながら
山並みを眺めた次第。
1.
防人(サキモリ)制度は万葉の昔の制度で、九州の北岸
を守る為の兵士【防人】のことで頑健な東北の若人が主にその任に当た
ったと伝えている、又、兵士は鹿島神社(茨城県)に集合し鹿島から揃
って船出し、任期終了後も海路鹿島まで揃って帰る、、、方法だったと伝
えている。
2.
筆者、現役時代(38年程以前)に鹿島(茨城県)で土
地の方から聞いた話がある、、、、、、、昔々、防人の役を終え鹿島まで帰っ
たものの東北の故郷に帰らず此処鹿島に住み着いたものが居る、その者
たちが住む地域は今だに、言葉に「東北なまり」が残っている、とのこと
であった。
3.
筆者、思ったのであります、、、、、、防人の任を終え此処長
門(桂浜)まで帰ったが、
「鹿島」には帰らず此処に住み着いた、その者
達の住む長門の南端を人々は「鹿島」と呼んだ??。
実は桂浜温泉で食事をした際、会計の女性に「鹿島にはズー
ズー弁や方言がありますか??」と聞いた所、「ずーずー弁
は有りませんが、鹿島独特の方言は有ります」との返事であ
った。
色々と万葉の昔に思いを巡らせながらヨットに身を任せていたが、気が
付けばヨットは既に鹿島の先端を左に転舵し安芸灘に出ており、鹿島の
島蔭は遥か後方となっていた。
漁船の影も少なく、只一隻「呉~松山間の高速連絡船」が交差して足早に
松山の方に消えて航く。其の船は広島湾で見た色彩豊なカタマラン艇と
同じタイプの連絡船である??と思いながら眺める。
Zipangu はエンジンも軽やかに大崎下島の南海上を目指している。
海の幸を満喫、英気を養う姿??。
35
10時50分、右に斎島(イツキシマ)を眺めながら通過する、 この島は温泉や宿泊施設も整っている「アビノ里いつき」があって何度か
お世話になった懐かしい島である。
今回別府行きに関して中継港の候補として事前連絡をとったのであるが
次ぎの通り「目下閉鎖中」の回答であった。
即ち、料理人が退職されて、後継者が無いので已む無く閉鎖中で、急ぎ料
理人を募集中の状態である。、、、との由であった。
11時20分、大崎下島(海の駅)の水路(海路)の南の入り口に在る「白い旧式灯
台」を真左に見て通過する。
今日、岩城島でミーチングする予定のヨット「美帆Ⅱ」から電話連絡有り、
聞けば「美帆Ⅱ」は目下三原瀬戸(因島の東側の瀬戸)を西に横断中との
由、Zipangu の方が1時間程到着が遅れるな、、、、、と思う。
次の写真は、、
、常に四囲の観察見張りを怠らず?????、、、、、、
然し眠い時もある。
これも英気を養う姿か、?????。
36
13時00分、鼻栗瀬戸を通過する。
筆者が此の瀬戸を通るのは2回目である。前回は誠にエゲツナイ潮流と
思ったが、今回は潮潮表からも判断できるように緩やかな潮流に順潮の
穏やかな航行であった。今後は潮流と相談しながら大いに通りたい瀬戸
と思うようになった。此の瀬戸にかかる橋は大三島橋(325 m)である。
5月4日来島海峡の潮汐。
(転流時)
(最強時)
h, m,
h, m,
Kn
09, 07
11,44
+3,5 南流(東流)
14, 24
17,53
-4,5 北流(西流)
13時30分、美しい多々羅大橋を左に眺めながら通過、暫くするとやや強いが右真横
の適風となる、メインとジブを揚帆フルセールとする、、エンジンを止め、
暫し心地良いセーリングを楽しむ、、、。
37
船速、6,4 Kn
多々羅大橋は生口島と大三島を結ぶ橋である、尚、斜張橋【橋を吊るワイ
ヤーの取り付け方式】としては世界一である。
14時30分、岩城港桟橋到着、
「参考」
本浦港(倉橋島、桂浜)
出発時刻
08時00分、
岩城島港
到着時刻
14時30分、
所要時間
6時間30分、
航海距離
約40海里、
平均船速
約6,2 Kn
桟橋には既に予定の皆さんは到着されており、手を振ってお迎えくださる。
「ヨット名」 「艇長」
先着艇
美帆Ⅱ
山崎氏(田島、内海)
石井氏(向島)
WENDY
せとかぜ
西原氏(四国、新居浜)
合流艇
田中氏(岡山、牛窓、)
Zipangu-7
桟橋に集合したヨット4隻。
次の写真は、係船の時撮って下さる。
38
今晩は、先着艇総員7名、合流艇総員7名、合計14名の大宴会??場所
は桟橋にて、、、どの様な、談議となるやら??。
楽しみにして先ずは温泉に、、、。
「参考」
1.
寄港の時は事前申し込みをすること、(航行中でも OK)。
申し込み先、岩城島【神島町岩城支所】役場
Tel, 0897-75-2500
係船料、、30 F、50円
2.
(2)、温泉名、 菰隠(コモガクシ)温泉
電話すれば直ぐに港まで送迎の車を出して下さる。
Tel, 0897-75,-3251
高台で海が一望できる環境に恵まれた温泉、、疲れを流し帰艇。
桟橋では素晴らしい料理が出来上がりつつあった、温泉にも行かず炊事
をして戴いた大村さんと女性の方に感謝、感謝。
思えば一人分5皿は有ったと思う、14人分合計で70皿の用意が必要
である、あらためて、炊事当番さんご苦労さま。
それにしても、美味しく、なかなかの味付けであった。
私も後学の為、烏賊(イカ)の刺身の手伝いをしてみたが、なかなか大変
で料理の難しさをしる。料理の勉強の褒美??として烏賊の墨を戴きズ
ボンに記録する。薄明かりの桟橋、14人車座になって先ず杯を挙げ、改
39
めての自己紹介が始まる、筆者音痴の為皆さんの後で歌うことをはばか
るので第一声に自作詩の「ヨット仲間の歌(帆艇仲間の歌)」を披露する
詩の内容は最後尾参考書き。
高吟、低吟、新婚談議、ヨット談議、時間経過を知らず。
次の写真は出来上がりつつある料理の数々。
40
41
次の写真は夜の桟橋宴会の様子。
42
5月5日
07時00分、岩城港出発。 出発に先立ち全員記念の撮影。
向かって右から、、、、、、、 艇長は後列3人目、 筆者は前列3人目、
船上手を降りつつ、胸中 UW 旗を掲げお互いの航海の安全を祈りつつ、、、、
「参考」UW 旗とは。
「航海の安全を祈る」との意味の国際共通、信号旗。 43
伯方島の東海上で、、、、此の時間帯では普段多くの漁船群を眺められるの
であるが、今日は不思議に7隻のみ。
08時00分、高井神島のラインに到着、右に No,3 の浮標を確認する。
西航の大型貨物船2隻が現れヨット Zipangu の右側を通り来島海峡に向
かって航く。
Zipangu のこれからの東航のコースは次の通りの最短コースを選択する。
即ち、本船航路よりはるか北を東航(東進)し左柳島の南端を指向
する左柳島を過ぎてから西航の下り船に注意しつつその間遠になっ
た機会に(高見島の東海上で)「西航の本船航路」を横切って本船
航路の、南に出て、、、、、瀬戸大橋に向かう。
08時50分、備後灘の真っ只中、、、、四面水平線、、、、船舶もヨットも姿を見せず。
連休の為船舶も少ないか?と思う。
09時15分、久振りの感じで船の姿を見る。
上り貨物船1隻(東航)
下り貨物船1隻【西航】
下りヨット1隻(西航)
09時45分、下り貨物船1隻
はるか右にヨット1隻 が現れる。
09時50分、下り貨物船3隻連なって現れる、其の内1隻は3本塔の如き異様な姿で
あった。
10時20分、六島が次第に近くなる。
上り、下り、共に貨物船の往来が急に多くなる
44
「余談」筆者と息子の二人で此の海域を航く時は必ず語る話がある、
それは、、、、、「ご無沙汰しているので、粟島へ寄ろうか」である。
10時25分、六島の直ぐ南を通過する。
六島の灯台の姿、今日は観音様の立像の様に見える。筆者最近白内症が進
んでいるのでその為と思う、その様な理由で常に双眼鏡を胸にしている。
11時20分、左柳島の直ぐ南を通過する。
船速、5,6 Kn「対地船速」(暫く船速記録を失念していた、)
東西の潮流の分岐点の関係で逆潮航行になっているようである。
11時35分、高見島北の浮標ラインに到着する。
幸い西航の船舶の姿なし、右15度に転舵し一挙に本船コースを横切り
高見島の東方海上に出る、。
船速、5,3~5,4 Kn
コースを横切って改めて東方海上を眺めれば西航の貨物船が4~5隻
続いていた。
12時00分、広島の西端のラインに到着する。
右前方に一際高い建物が目に入る。艇長の説明によれば有名な
「宇多津のゴールドタワー」である、、、、と。
12時40分、牛島を左に見て通過する。
船速、6,0 Kn
13時18分、瀬戸大橋(正確には南備讃瀬戸大橋)直下を通過する。
5月5日の備讃瀬戸「三ツ子島―大橋直下」の潮汐。
(転流時)
(最強時)
h, m,
h, m,
Kn
08,59
11,37
+1,1(西流)
13,59
17,33
―1,5(東流)
船速、、5,3 Kn
13時25分、与島のラインを通過する、ジブセールを挙げ。
エンジンを1700 Rpm とする。
船速、、6,9~7,1 K n
[次は大槌島の潮流が気になる、]
5月5日の備讃瀬戸「大槌島」の潮汐。
(転流時)
(最強時)
h, m,
h, m,
Kn
08,57
11,48
+1,1(西流)
14,14
17,15
―1,4、(東流)
14時30分、直島の西端のラインに到着。
船速、7,3~7,5 Kn
次の写真は、、、艇長暫し休憩の模様、やれやれ帰って来た、見慣れた島を
眺めつつ、海の幸を胸一杯満喫する姿。
45
14時45分、直島の東端のラインを通過する。
船速、8,5 Kn
14時55分、豊島(テシマ)西端を迂回し牛窓に向け方位を指向する。
ジブセールを楊帆、エンジン1900 Rpm とし最後のセーリングを楽し
む。
船速、6,9~7,0 Kn
此処まで帰れば我が庭に帰った心地、乗艇の皆さんの顔は安堵と、心地
良い疲れの顔である。
5月5日、播磨灘の潮汐。
(転流時)
h, m,
h, m,
10,42
12,36
14,26
18,49
46
(最強時)
Kn
+0,1(西流)
-0,4(東流)
17時15分、母港、牛窓ヨットハーバーに帰港する。
(参考)岩城島港
出発時刻
07時00分
牛窓 Y,H,
帰着時間
17時15分、
所要時間
10時間15分、
早航距離
約61海里
平均船速
約5,9 Kn
備後灘は概ね逆潮だったので此の船速は満足である。
無事帰港に乾杯。
この写真は、、牛窓ヨットハーバーにてマイカーに乗る前のお別れの挨拶。
お疲れ様でした、有難うございました。
ヨット航海記 No5 本文おわり
おわりに。 47
少しはワッチのお手伝い、と思っていたのであるが、夜航がなくなった関係で殆んど田中艇
長が一人で操船のような恰好となった。筆者気が緩んだのか??眠り姿の写真を撮られてしま
った。筆者昼間ヨットの上で本格的居眠りをしたのは今回が始めての経験で恥ずかしい思
いをしている。余程雰囲気に慣れ気が緩んだのだと思う。
1、 別府行きが中止になり、
瀬戸内海名所旧跡巡りの様な格好になったが、考えようによ
っては別府より良かったようにも思はれる、それは別府は何時でも行けるが、今回寄
港した所は、滅多に行けない所なので、、、、、、。
2、 それにしても賑やかなヨットの旅であった、新婚さんのお蔭と思う特に新婦の人柄
によるものと思っている。結婚を祝い末永き人生に幸多かれと祈ることせつ。
3、 天気晴朗なれど波高い日、
もあったが、概ね素晴らしいクルージング日和に恵まれ楽
しい航海であった。
4、 又岩城島では多くのヨットマンとお会いできて、そして桟橋上での一夕の催し忘れ
難い楽しい思い出であった、。
「余談、岩城島の特徴」
(1) 瀬戸内海の殆んどの島は人口減少で過疎化に悩んでいる模様である
が岩城島は産業が活発で労働力不足になやんでいる、為に外国から
多くの若者が「技術研修生」の名目で働きに来島されている。
(2) 4キロ等辺のオムスビの様な小さな島であるが桜で有名である、中
央の積善山の尾根を目指して桜1万本が咲き誇ると言われているが
実際は3~4千本と思う。それにしても素晴らしい桜の眺めである。
(3) 毎年4月1日前後に桜祭りが開催され、多くの企業が多くのマイク
ロバスを提供され、無料でピストン往復で山頂まで送迎くださる、。
(4) 岩城港には昔の「陣屋、
【殿様が宿泊する指定宿】が残っていると言う
ことは、昔から栄えていた港(島)と言えよう。
(5) 昔から現在まで栄えている島と言うことは、此の島を治める昔の長
【オサ】の指導が昔から良かった、、と言うことと思われる。筆者は山
の名の「積善」と言う言葉の由来に関心を持ち、
「教育委員会」
「神社、
仏閣」
「島の古老知識人」の方に由来を伺ったが皆様異口同音に「大昔
に付けられた名称と思うが由来は判らない」とのことであった。因み
に中国の古書易文言にある「積善の家には必ず余慶あり」
を思い出し、家を島の字に置き換えれば「善行を積んだ島には、当代
の人だけでなく、必ず子孫にまで福慶がある」となる。筆者は山の名
と島の現在の繁盛を因縁ずけ、したかったのである。
5、 田中艇 Zipangu-7 に改めて感謝、
6、 新婚さんの寄り添った写真が2枚あるので最後ながら披露してお二人の末永 き幸福を祈りつつ、ペンを置きます。 48
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海友の詩
こんぺき
(ヨット仲間の詩) 作詞者、 西崎孝志。
ようよう
1、 紺うなばら
碧 の海、 洋 々 の
海ちどり
原 はるか、風わきぬ
かもめ
おき
千鳥 鴎 の、 沖
つ風
あま
みそら
ほどこ
天 つ御空の、 施 しや
はくうん
今こそ セール(帆)、
白 雲の
たいはん
さち
大 帆ひうち
今日も、 幸 求めいま
はりま
びんご
あ き
かいゆう
ともかき
2、播磨や
備後、安芸 燧 3、今 はん
海てい
友の、
友垣よつら
あお
カクチ
こ こ
各地の富士を、
仰かんもん
ぎつつ 帆艇 此処に、
連なりて
なると
くるしま
そで
つず
さかずき
鳴戸 来 島、関 門
の 袖 ふれ
続く、 杯
に
はやせ
とも
ともな
よ
く
早瀬とセール、
友として 伴 い寄りて、
汲みて知る
タイハン
きょう
さち
え
たか
ゆうじょう
大帆、今日も、
幸を
得て いざ
高めなん、
友
情を
かえ
わ
と
やしな
たけ
み
いざ帰りなん、我が泊まり いざ 養 わん、健き身を。
曲趣、手拍子を打つ気持ちで、、、、、
又は、手拍子を打ちながら、元気よく。
*、アンダーラインの「我が泊まり」の所は適宜に「泊地、倶楽部等の名称」に変えて歌う事ができる。
**、曲は「旧一高寮歌、嗚呼玉杯に花うけて」の曲を借用して歌う。
「註」一高寮歌は随分古い歌であるが、著作権法上 勝手に借用して歌うのは、可否に微妙な所があるので、
念のため権利保有扱い会社である「コロンビヤ社―管理部」に連絡して了解を求めた所、、此の「海
友の詩」の詩句其のものを確認された上で『ヨット仲間で歌う程度であれば問題ありません。、但し
CD 又はテープ化は不可」との回答を得ているので、念の為、申し添えます。以上、
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