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CGK002901 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

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CGK002901 - 天理大学情報ライブラリーOPAC
「特に一所を設けて」
一一喝石鎮総兵陳昂の奏摺と長 崎・広州、ト−
村
尾
進
はじめに
1
6
世紀後半以来,長崎はキリシタンの都市・ポルトカ、、ルの貿易港として
発展した。 1
5
8
7
年に「九州征伐」を行なった豊臣秀吉はキリシタン追放令
を発布し,長崎をイエズス会から回収,直轄領として支配を強化した。そ
の後,キリシタンの弾圧を断行し, 1
5
9
7
年には日本二十六聖人殉教事件が
起こった。続く徳川政権も 1
6
1
4
年に全国的にキリシタン禁令を発布,宣教
マカオ
師と日本人の信者を演門・マニラに追放し,長崎にあった教会のほとんど
すべてを破壊した。以後3
0
年間,全国的にキリシタンの弾圧が続いた。長
崎ではキリシタンを摘発するために, 1
6
2
9年ごろから踏絵が制度化され
f
こ
。
徳川政権は一方で, 1
6
3
5
年に中国貿易を長崎だけに限定し, 1
6
3
9
年には
出島に居住していたポルトガル人を国外退去させ, 1
6
4
1年にはオランダ商
館を平戸から出島に移転させた。来航外国船の貿易は最終的に長崎に集中
されることになったのである。その後,徳川政権は貿易の主導権を握り,
貿易額・貿易船の制限をするために,市法商法( 1
6
7
2)・定高仕法( 1
6
8
5)
・
唐船の 7
0隻制限( 1
6
8
8)・唐人屋敷の造成( 1
6
8
9)・正徳新例 (
1
7
1
5)を相
次いで施行した九
小論の目的は 2つある。すなわち清代中国の「広東システム」は,長崎
を中心とした禁教・外国商人の管理という近世日本の動向〔さらに可能性
(1)
マカオ
としては,中日間の交渉スタイルそのものも〕が,西南の方,広州・襖門
にまで伝播・拡張されたものにほかならないということ汽そしてこの事
情の解明が,西洋語史料に周到に目配りをしつつ,漢語史料を収集・読解
するという作業によってはじめて可能になることを示すこと,である O
)
7
1
7
1
. 陳昂の奏摺とイエズ ス会士一広州の背後 にある長崎 (
1
隻にまで縮
0
正徳新例が発布された後,信牌の発給によって唐船を年間3
小するという問題をめぐり, 2年間にわたって中国・日本間で交渉が行な
われた。これは官僚・朝廷による直接の外交交渉ではなく,両国の商人を
通じて情報の伝達や意思の通告が行なわれた。中国側では,信牌を相互に
融通したり,共同出資の船を組織したり,輪番制で信牌を行使するなどし
て,この問題を解決する案が示された。このようにして東洋(日本)側の
7)年正月に,中国
1
7
懸案が解決され,その安定が確認された康照五六( 1
商船がマニラ・パタビアなど,東南アジアに出航することを禁止する南洋
海禁の具体的規定が決定されたの。
6)年十月に南洋海禁を指示する上諭5)が下されたことを
1
7
康照五五( 1
受けて,おそらく同年末頃,広東省喝石鎮総兵の陳昂が,広州、|に来航する
外国商船・商人の管理の厳格化と天主教の禁絶を訴えた奏摺を康照帝に上
呈したヘパタビア・マニラに僑居する華人を問題視した南洋海禁に対し
て,陳昂はパタビアの「紅毛」とマニラの天主教を危険視したのである九
陳昂のこの奏摺は,その原漢文文書がおそらく失われ,『清実録』中にそ
の一部分のみが, しかも分断されて記載されるにとどまったのためであろ
う,これまで中国史研究者の間でとりたてて注目されることはなかったよ
うに思われるの。だが,京報に掲載され各省に配布されたこの奏摺を,北
)年の楊光先による告発以来の深刻
4
6
6
京のイエズス会士たちは康照三( 1
な攻撃とみなし,これに対抗して長文の嘆願書を上呈し,さらに康照帝に
謁見して直接嘆願を行なったのである。著名なイエズス会士中国書簡集に,
(2 )
この間の事情が逐一記されるとともに,陳昂の奏摺のいささか粗雑なフラ
ンス語訳が全文引用されている 10)ことが,この奏摺のもたらした衝撃を物
語っている。
陳昂の漢文奏摺を全文抄写したものが,バチカン市国の A
r
c
h
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v
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oS
t
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o
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iP
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p
a
g
a
n
d
aF
i
d
eに所蔵されている ω。以下にその原漢文と書き下し文・
現代日本語訳を掲げる(断句は筆者による。原文書にも断句,固有名詞で
あることを示す傍線などが施されているが,隅々まで正確とはいえない。
また,論旨を取りやすくするために,書き下し文と現代日本語訳では段落
を設けた。〔〕内は筆者による補足・訂正である)。
砲石鎖陳為聖主遠念海彊等事,切臣是年例臆統巡通省各海洋,自二月西下
理州,六月東上南襖,一年之閲,往返波濡,臣親率舟師,窮捜島唄,幸逝
徳威遠怖,海宇訟寧,因師次香山襖門,忽見紅毛船十飴隻壷入贋省貿易,
不勝骸異,慮胎後患,正擬将海外形勢・紅舞利害具摺奏聞,適十二月十八
日接関抵〔廷〕抄,伏讃聖諭,遠慮海彊,留心外国,禁止内地船隻,不許
南洋行走,以紹接酒,以杜後患,且詞問九卿,下及閑散之人,非我皇上以
尭舜競業為心,未雨綱謬,安能慮及此也,然海外形勢・諸園施要,非身歴
其境員知灼見者,誰敢妄陳子上前,臣少時曾経海上貿易,至日本・遅羅・
虞南・校日留日巴・呂宋諸園,悉知其形勢情形,故敢為我皇上陳之,夫東方海
園,惟日本為大,此外悉皆尾間,並無別番,其次則大小琉球,〔此〕外皆
高水朝東,亦誼無別園,至福建則惟童湾,西則違羅為最,此外有六坤・斜
仔・大泥・東捕塞・占城・交駈,市安南即興我理州南接壌,惟東南方番族
最多,如文莱・蘇糠・柔悌・丁機宜・麻六甲・馬神・吉里何等敷十園,皆
係小邦,謹守園度,不敢遠園,夫校日留日巴為紅毛市泊之所,呂宋為西洋市泊
之所,誠如聖諭所云,熟知岐噛日巴古時為亙来由地方,縁由輿紅毛交易,早
己被其侵イ占失,臣遍観海外諸番, 日本雄強,明時作首L
,皆因中園好人引誘,
今則通我商船,不萌異志,琉球久奉正朔,蔓湾己入版園,而還羅・安南諸
(3 )
番,年年奉貢,不生他心,惟紅毛一種好究莫測,夫紅毛為西北番之総名,
其中則有英助H
繁・干系蝋・和蘭西・和蘭・大小西洋各園,種族雄分,而気
則一,惟有和蘭西一族,兇狼異常,雄為行商,賓園劫掠,凡遇商船・番船,
康不遭其況滅失,且到慮窺規,園謀人園,況其船堅固,不伯風波,毎船大
焔多置百飴位,所向莫嘗,去年度門,一船且敢韓行無忌,其明鑑也,今以
十飴隻之船重量集虞省,且襖門一種是其祖家,聾勢相援,久居我地,虞東情
形早己熟嫡,倫内外交通,禍生莫測,悔莫及失,伏乞皇上早飴督撫闘部諸
臣,男為設法,多方防備,或子未入港之先,起其焔位,方許進口,或男設
一所,関東舞人,或毎年不許多船,輪流替換,不致狼奔家突,胎害無窮,
庶可消好完異心,市地方得以安堵,臣更有慮者,天主一教,設自西洋,延
及呂宋,明時邑宋輿日本通商,即将此教誘化圏人,数年後招集多人,内外
爽攻,幾滅日本,後被攻退,雨園寛仇,至今未休,今無故各省設堂,歳費
金銭敷寓,招集匪類,計期首豊奔,且窺我形勢,槍我山川,誘我人民,不知
其意欲何為,此臣之所不解者,然昔知天主延及呂宋,則奪其園土失,此輩
兇悪巨測,在日本則思園其園,在呂宋則己奪其邦,況目下虞城,設立教堂,
城内外怖満,而入教者不知其許多人,加以同類葬船叢集,安知不相交通,
陰謀不軌,此臣之所更為隠憂也,伏乞勅部早為禁絶,無使滋蔓為害非軽,
夫滑滑不息,持成江河,萌萌不紹,将尋桐斧,非我皇上園治未首L 保安無
危,為億高年計,臣不敢以此言進,至子各海口姻蟻〔敬〕・焔蓋,各省提
鎖協管自嘗欽道修整,安頓得宜,母煩聖衷,如果臣言可採,伏乞僻賜全寛
施行,奉旨,該部議奏
喝石鎮陳,聖主遠く海彊を念う等の事の為にす。切かにおもえらく,臣,
是の年,例として臆に通省各海洋を統巡すべく,二月白り西のかた理州に
下り,六月東のかた南襖に上り,一年の開,波濡を往返す。臣親しく舟師
を率い,島 l
興を窮捜するに,幸にして徳威遠く柿き,海字誼寧なるに逝え
り。因りて師,香山の襖門に次るに,忽ち紅毛船十鈴隻,壷く虞省に入り
(4 )
て貿易するを見,鞍異に勝えず,後患を胎さんことを慮る。正に海外
の形勢・紅舞の利害を持って,具摺奏聞せんと擬るに,適たま十二月十八
日,抵〔廷〕抄を接閲し,伏して聖諭を讃むに,遠く海彊を慮り,心を外
園に留め,内地の船隻を禁止し,南洋の行走を許さず,以って接穂を紹ち,
とぎ
以って後患を杜さんとす。且つ九卿に詞問し,下は閑散の人にも及ぶ。我
おそれ・つつしみ
が皇上,尭舜の競
非ざれば,安くんぞ能く
みずか
じゅんび
業を以って心と為し,未だ雨ふらざるに綱謬するに
おもんばかり
慮此に及ばんや。然れども海外の形勢・諸園
へ
つまびら
の施要は, 身ら其の境を歴,真に知り灼かに見る者に非ざれば,誰か
わか
かっ
敢て妄りに上前に陳べん。臣少き時,曾経で海上に貿易し,日本・遅羅・
贋南・岐噌 u
巴・呂宋の諸園に至り,悉く其の形勢情形を知れり。故に敢て
我が皇上の為に之を陳べん。
夫れ東方の海園は,惟だ日本のみを大と為す。此の外は悉く皆尾聞にし
た
て,誼えて別番無し。其の次は則ち大小琉球なり。〔此の〕外は皆,高水
朝東にして,亦た並えて別園無し o 福建に至りては則ち惟だ塞湾あるのみ o
西は則ち逼羅を最と為す。此の外,六坤・斜仔・大泥・東捕塞・占城・交
E
止有り。而して安南は即ち我が瑳州の南と壌を接す。惟だ東南方,番族
最も多し。文莱・蘇穂・柔悌・丁機宜・麻六甲・馬神・吉里何等の敷十園
の知きは,皆小邦に係り,謹んで園度を守り,敢えて遠く園らず。夫れ岐
噛日巴は紅毛市泊の所,呂宋は西洋市泊の所なるは,誠に聖諭の云う所の如
u
e
し。熟〔執〕れか知らん,校日留 ,古時,亙来由地方たりて,紅毛と交易
するに縁由りて,早己に其れに侵佑されしを。
臣
, 遍く海外の諸番を観るに,日本は強きと雄も,明の時に首L
を作す
は,皆,中園の好人の引誘せるに因り,今は則ち我が商船を通し,異志を
萌さず。琉球は久しく正朔を奉じ,蓋湾は己に版園に入り,而して還羅・
安南の諸番は,年年貢を奉り,他心を生ぜずo 惟だ紅毛の一種のみ,好究
測る莫し。夫れ紅毛は西北番の綿名なり。其の中は則ち英蜘懇・干系臓・
和蘭西・和蘭・大小西洋の各園あり。種族分るると雄も,気は則ちーなり。
(5 )
ぼうえき
まね
惟だ和蘭西の一族,兇狼なること常と異なれる有り。行商を為すと雄も,
賓は劫掠を園り,凡そ商船・番船に遇わば,其の況滅に遭わざること磨し。
且つ到る慮窺視し,人園を園謀せんとす。況んや其の船堅固にして,風波
おそ
そな
を伯れず,毎船の大地,多きこと百齢位を置え,向う所嘗たる莫きにおい
てをや。去年の慶門,一船すら且つ敢えて障に行ない忌ること無きは,
其の明鑑なり。今,十鈴隻の船を以て,壷く虞省に集む。且つ襖門の一種
は是れ其の祖家にして,聾勢相援け,久しく我が地に居れば,虞東の情形
は早己に熟燭せり。倫し内外交通すれば,禍の生ずること測る莫く,悔ゆ
すみやか
るも及ぷこと莫からん。伏して乞うらくは,皇上早に督撫闘部の諸臣に
飴して,男に法を設くるを為し,多方防備せられんことを。或いは未だ入
はじ
おろ
みなと
港せざるの先に,其の焔位を起さしめて,方めて口に進むを許し,或い
かわるがわる
は男に一所を設けて舞人を閥束し,或いは毎年多船を許さず,
輪流替換
のこ
ろうぜきせんばん
せしめ,狼奔家突,害を胎すこと窮まり無きを致さざれば,好究の異心を
ちか
のぞ
消き,而して地方以て安堵するを得可きに庶からん o
おもんばか
こと
臣,更に慮る者有り。天主のー教は設くること西洋自りし,呂宋に
およ
ただ
延及ぶ。明の時,自宋は日本と商を通じ,即ちに此の教を持て園人を誘化
す。敷年の後,多人を招集し,内外爽攻して,幾んど日本を滅さんとする
ゃ
も,後,攻退せらる。雨園寛仇し,今に至るも未だ休まず。今,故無くし
て各省に堂を設け,歳ごとに金銭敷高を費し,匠類を招集し,期を計りて
躍奔す。且つ我が形勢を窺い,我が山川を繕き,我が人民を誘うは,其の
意,何を為さんと欲するかを知らず。此れ臣の解せざる所の者なり。然れ
およ
ども昔しく天主,目宋に延及べば,則ち其の園土を奪いしことを知る。此
の輩,兇悪測る巨く,日本に在りては則ち其の園を園らんことを思い,自
宋に在りては則ち巳に其の邦を奪う。況んや目下の虞城,教堂を設立し,
いくた
城内外に怖満し,市して教に入る者,其の許多の人なるやを知らず,加う
るに同類の舞船叢集するを以てするにおいてをや。安んぞ相い交通し不軌
を陰謀せざるを知らんや。此れ臣の更に隠憂を為す所なり。伏して乞うら
(6)
すみやか
くは,部に勅し,
早に禁紹を為し,滋蔓して害を為すこと軽きに非ざら
や
しむるを無からしめられんことを。夫れ滑滑として息まざれば,特に江河
を成さんとし,萌萌として組えざれば,特に桐斧を尋めんとす。我が皇上,
治を未だ簡L
れざるに圃り,安きを危き無きに保ち,億高年の計を為すに非
ざれば,臣敢えて此の言を以て進めず。
各海口の畑’殿〔敬〕・焔童に至りては,各省提・鎮の協・管,
おのず
白から嘗
に欽んで遵いて修整し,安頓宜きを得て,聖衷を煩すこと母かるべし。
如果し臣の言採る可くんば,伏して乞うらくは全寛を備賜し,施行せられ
んことを。
旨を奉じたるに,該部議奏せよ,とあり。
喝石鎖〔総兵〕陳〔昂〕が,はるか沿海国境地方に対して,天子にお気
わたし
遣いいただいた件などにつきて,上奏申し上げます。臣は本年,通例に
したがい〔広東〕全省各海洋をくまなく巡察すべく,二月から西は理州に,
六月には東の方,南漢に赴きました o 波濡の中を往来したこの一年間,
わたし
臣は自ら水軍を率い,島唄をしらみつぶしに探索し,幸いなことに〔天
子の〕徳威が光被し,海内が安寧である様子を目の当たりにすることがで
きました。そこで香山〔県〕の演門に水軍を駐留させましたところ,「紅
毛」船十余隻が交易すべくこぞって省城広州に向かっていくのが目に入り
わたし
ました o 〔臣は〕いたく驚き訪しみ,後患を遣すことを懸念して,海外の
情勢・「紅毛」の利と害を奏摺にて上奏申し上げようと考えていた矢先,
十二月十八日に廷抄(京報)に接し,聖諭を拝読いたしました。〔この中
で天子は〕はるか沿海国境地方および外国に心をお砕きいただき,〔米穀
の〕供給を絶ち,後患を杜ざすべく,内地の船隻が南洋に航行することを
禁止されました o また意見を徴せられること,上は九卿から下は閑散の官
おそれ・つつしみ
にまで及びました o 天子が尭・舜の「競競業業」を体し,「未だ雨降らざ
じゅんび
るに網謬J されればこその深慮と存じます。しかし,おそれ多くも海外の
(7)
情勢・諸国の要諦を天子に申し上げることができるのは,実際にそこに足
を踏み入れ,かっ熟知した者だけに限られます。臣は若年の際,海上貿易
に携わった経験があり,日本・還羅・広南・岐H
留n
e・呂宋の諸国を訪れ,
その情況に通暁しております。以下,あえて天子に申し上げる所以でござ
います。
東方の海国としては,日本だけが大きく,これ以外はみな〔すべての海
水の出口である〕「尾間」で,他に国はありません O 次に大小琉球ですが,
これ以外はすべて〔危険な海域として知られる〕「万水朝東」で,やはり
他に国はありません o 福建については,ただ台湾があるのみです。西は逗
羅が最大で,これ以外に六坤・斜仔・大泥・束捕・占城・交f
i
l
J
!
:などがあり,
安南は我が理州南部と境を接しています。東南方は番族が最も多いのです
が,文莱・蘇禄・柔仏・丁機宜・麻六甲・馬神・吉里何などの数十国のご
ときは,なべて小国で,国法を遵守し,大それたことを目論む気はありま
せん o 吹H
留日巴・呂宋がそれぞれ「紅毛」「西洋」の貿易港であることは,
たしかに聖諭に仰せの通りですが,唆H留日巴は古の~来由地方であり,「紅
毛」と交易を行なったがゆえに,早々に占拠されてしまったのです!!
臣が海外の諸番をあまねく観察するに,日本は強固だといっても,明の
時の騒擾(倭冠)はみな中国の好人が誘い込んだもので,現在はわが商船
を受け入れ,異心を萌すことはありません o 琉球は正朔を奉ずること久し
く,台湾はすでに版図に入っており,遅羅・安南の諸番も毎年朝貢し,二
心を抱くようなことはありません o ただ「紅毛」の一種だけが,邪悪なる
ことこの上ないのです。そもそも「紅毛」というのは西北諸番の総称で,
そこには英蜘繁・干系臓・和蘭西・和蘭・大小西洋の各国が含まれます。
種族は異なりますが,みな同じ穴のむじなです。とりわけ和蘭西の一民族
が凶暴を極め,通商のふりをして,その実,略奪を狙っているのです。こ
れに道遇した商船・番船で,沈滅の憂き目を見ない者はいません。また,
到るところで国を奪ってやろうと隙を窺い,さらにその船舶は堅固で風波
(8 )
をものともせず,各船の大砲は百余門の多きに上り,向かうところ敵なし
なのです!一般の船だけでやりたい放題できた昨年の慶門が,その明証で
す。今,十余隻の船舶をことごとく省城広州に集め,また襖門の一種はそ
の同族で,〔来航した船船と〕はるかに呼応・協同し,久しく我が土地に
居座っているため,広東の状況はとうに熟知している一〔これで〕もし内
外が通じ合えば,禍害甚大,後悔先に立たずです。速やかに総督・巡撫・
卑海関監督の諸臣に命令され,特に方法を講じ,折角防備することを,伏
して天子にお願い申し上げます。〔広州に〕入港する前に必ず大砲を船か
ら下ろさせる,特に一所を設けて外国人を閉じ込める,狼籍千万の末,無
窮の害を遣すことを避けるために,交替制にして一年に多くの船が入港す
るのを許さない,一このようにすれば,あるいは邪悪な異心を除き,当地
の人民は安堵できるかと存じます。
臣にはさらに憂慮していることがあります。天主教は「西洋」に始まり,
呂宋にまで及びました o 明の時,呂宋は日本と通商を行ない,ただちにこ
の教を以って日本人を誘惑・感化しました。数年後,大人数を糾合して,
内外示し合わせて攻撃をかけ,すんでのところで日本を滅ぼすところでし
たが,その後,撃退されました o 両国が不倶戴天の仇敵の間柄であること
は,現在にいたるまで変わりません o 今,故なくして各省に教会を設け,
毎年数万の金銭を注ぎ込み,匪徒を招集しては,日を決めて礼拝を行なう,
またわが形勢を窺い,わが山川を描き,わが人民を誘うーその底意は臣に
は分かりません o しかし,天主教が呂宋に及んだためにその国土が奪われ
たこと,これは夙に知るところであります。この輩は凶悪極まりなく,日
本にあっては国を奪い取らんとあれこれ画策し,呂宋にあってはとうとう
国を奪ってしまいました o ましてや現在,省城広州では教会が設立されて
まち
城内外に満ち溢れ,入信する者はその数計り知れず,加うるに同類の番船
が帽集している−〔これで彼らが〕互いに通じ合って陰かに不軌を図らな
いなどと,どうしていえるでしょうか。これが臣がさらに人知れず憂慮し
(9 )
ている点です。調漫して手遅れとなる前に,〔礼〕部に命令して早急に
〔天主教を〕禁絶されますことを,伏してお願い申し上げる次第です。ちょ
ろちょろとした水の流れも,止まざればやがては江河となります。小さな
芽も,成長を続ければやがては〔切り倒すために〕斧を必要とするように
なるでしょう。以上,わが天子が,億万年の計を立てるべく,乱に先立つ
て治国を図り,危機に先立って秩序維持をめざされればこそ,あえて申し
上げた次第です。
沿海各地の狼煙台・砲台につきましては,各省提督・総兵が統率する協・
営が,御心を煩わすことなきょう,必ずや謹んで指示に従い,適切に整頓
いたすことと存じます。もし臣の言に採るべきところがございましたら,
なにとぞ〔この奏摺を〕諸臣に閲覧させ,実行に移されますよう,お願い
申し上げる次第です。
聖旨を奉ずるに,「該部に伝え,審議の上,上奏せよ。」との指示があっ
f
こo
陳昂は欧州商人(「紅毛」)の拘束・管理と「西洋」天主教の禁絶・排除
をセットにしている o その際に対策のモデルとされたのが,「現在はわが
商船を受け入れ,異心を萌すことは」なく,天主教を「撃退」し,これと
「不倶戴天の仇敵の間柄」にある徳川政権下の日本,そして長崎であっ
たω。陳昂とその息子陳倫畑・陳芳,そして陳芳の息子陳壌は,三代にわ
たり広東の海防プロフェッショナルとして,康照帝・薙正帝・乾隆帝に重
6
8
6)年,陳倫畑は康照四九( 1
7
1
0)年に,
用され 13),陳昂は康照二五( 1
それぞれ日本の長崎を訪問したことがある凶。広州の貿易において「特に
一所を設けて外国人を閉じ込める(「男設一所,関東夷人」)」という陳昂
奏摺中の一節が,長崎の唐人屋敷・出島を念頭においていること,また同
じく「交替制にして一年に多くの船が入港するのを許さない(「毎年不許
多船,輪流替換」)」という提案が,輪番制で信牌を行使する正徳新例後の
(10)
長崎中国船の状況を参照したものであることは,疑問の余地がない。
陳昂の奏摺に対する「該部議奏せよ」の指示を受けて,三度の九卿会議
が聞かれ,その結論を兵部が上奏した。外国人の拘束・管理,入港の交替
制などの提案に対しては,広東省の将軍・督撫・提鎮に諮問し,その合議
の結果を踏まえてあらためて議論すること,天主教の禁絶・排除について
は康照八( 1
6
6
9)年の上諭(フェルビースト〔F
.V
e
r
b
i
e
s
t
〕ら宮中で効力
するイエズス会士たちの自己信仰を除き,全省の布教は禁止する)と康照
四五 (
1
7
0
6)年の上諭(印票を発給した宣教士のみ中国在留を認める)の
双方を踏まえ厳格に対処することを主張したこの議覆題本に対して,康照
帝は二日後の四月十四日,「議に依れ」という指示を与えた∞。同日,イ
エズス会士たちを接見した康照帝は,八年の上諭に乗じた天主教厳禁措置
が断行されるのではないかと不安を募らせる彼らに,あくまで四五年の上
諭の励行が主眼であること,印票を所有しない宣教師たちを広州で捜索し
ー箇所に集めるよう,すでに総督・巡撫に厳命したことを伝えた 16)。広州
では,「特に一所を設けて外国人を閉じ込める」という陳昂の提案を受け
て,すべての外国商船を襖門に集中させることが試みられたが(機を合わ
せるかのように,康照五六年十月,陳昂が本来満人ポストである広東右翼
副都統に特簡されている 17)),襖門議事会の反対で,結局これは実行され
ず18),康照五七 (
1
7
1
8)年二月,両広総督楊琳は合議の結果を述べた奏摺
の中で,現在,外国商人との貿易は何のトラブルもなく行なわれており,
陳昂の提案を実施するまでのことはない,と報告せざるを得なかった。同
時にこの奏摺の中で楊琳が,天主教の布教については九卿会議の結論通り
厳禁すべきである,と申し添えたのに対して,康照帝の上諭は結局,「天
主教については,数年待って,朕の指示があってから禁止を行なえ」とい
う,歯切れが悪く,かっ暖昧なものにとどまったのである 19
。
)
(11)
)
8
2
7
1
. 陳昂の奏摺ふたたび一長崎の行方にある広州 (
2
年間にわたって継続し,羅
0
)年に始まった南洋海禁は 1
7
1
7
康照五六( 1
7)年三月に闘斯総督高其悼の奏請を受けて解除された。その継
2
7
1
正五 (
続の過程において,また解除後においても,海外在留の華人をいかにして
減少させるか,あるいは逆に彼らの帰国を許さず,いかにして中国本土と
の繋がりを断っかという問題をめぐって,沿海諸省の督撫らと羅正帝の間
で活発な議論が交わされていた則。嘉正帝は海禁解除後の五年七月に,御
覧のために収集させた康照時期南洋海禁関連指案を抄写して,福建・広東
の督撫らにも送付するよう指示を行なった 2九海禁施行の履歴を参照する
ことで,羅正帝と東南沿海地方官僚は過去の経験と情報を共有することと
なった。
)年八月,漸江総督の李衛が,日本が中国のならず者を呼
8
2
7
羅正六( 1
び寄せ,弓矢の技術を学習し,船艦を建造するなど不穏な動きをしている,
という風聞を聞きつけて上奏してきた。羅正帝はただちに,李衛をはじめ
とする沿海地方官僚に,情報収集と沿岸警備を命じた。その後,李衛から
の報告で,風聞のいくらかは事実であることが確認されたが,一方で,日
本に渡航した中国商人は,長崎の唐人屋敷において厳しく拘束・管理され
ており,そこで反清朝活動を行なう集団が形成される余地がないことも確
認された。さらに日本側は,中国と事を構えて,長崎における唐船貿易の
莫大な利益を捨てるようなことをするはずがない,という判断から,結局,
同年の末までには東洋側の安定が再確認されることになった 22)0
南洋海禁実施をめぐる経緯,そして陳昂の奏摺に明らかなように,清朝
政府は常に東洋側・南洋側双方に目を配りながら,海防の問題を論議し,
政策を決定していたお) 0 日本情報収集と沿岸警備を沿海地方官僚に命じた
六年八月二八日の上諭においても,薙正帝は長崎の唐人屋敷の様子を述べ
ながら,南洋の海禁を解除した現在こそ,念入りに調査する必要がある,
(12)
と注意を喚起している則。
従前聖祖皇帝欲訪問彼慮情形,曾遣人同商人前往,及至彼園,設有名目土
庫慮所,将内地貿易之人男住此地,不令聞知伊国之事,
E防範甚密,朕思
向来採買銅肋之商船往来彼慮,目今又開南洋之禁,不可不留心稽査以防詐
偽
従前,聖祖皇帝,彼の慮の情形を訪問せんと欲し,曾て人を遣わし商人と
同に前往せしむ。彼の園に至るに及ぶに,名づけて土庫と日う慮所を設有
かれ
し,内地の貿易の人を持て男に此の地に住まわせ,伊の園の事を聞知せし
めず,且つ防範甚だ密なり。朕思えらく,向来銅勧を採買するの商船,彼
の慮に往来し,目今又南洋の禁を開けば,留心稽査し以て詐偽を防がざる
べからず,と。
かつて聖祖皇帝(康照帝)は彼の地(日本)の状況を実地調査したいと思
い,人を派遣して商人に同行させられた o 彼の国に到着してみると,「土
庫」と名づけられた居留地が設けられており,中国商人は隔離してここに
住まわされた。彼の国の事を耳にすることも許されず,警備もはなはだ厳
重であった o 朕が思うに,従来から銅を採買する商船は彼の地との聞を行
き来し,加うるに現在,南洋の禁を解除したところであるから,虚偽・ペ
テンがないよう,念入りに調査しなくてはならないのである。
この上諭には,今ひとつ見逃すことができないポイントがある。唐人屋
敷に言及した「彼の園に至るに及んで,名づけて土庫と日う慮所を設有し,
内地の貿易の人を持て,男に此地に住まわせ」の一節が,長崎を念頭にお
きつつ広州における外国人の拘束・管理を主張した,陳昂の「男に一所を
こうそく
設けて舞人を関東し」という言い回しを踏まえているという点である o 内
(13)
閣に指示して収集・送付させた康照南洋海禁檎案の中に,陳昂の奏摺が含
まれていたこと汽そし て羅正帝がそれを閲覧 していたことは間違い ない
と思われる。
さらに注目に値するのは,羅正帝から情報収集を命じられた沿海地方官
僚のうち,広東に縁のある者たちも,陳昂の奏摺をふまえた回答を行なっ
6)年
1
7
ているということである。陳昂が上奏したと思われる康照五五( 1
末に広東布政使の任にあった,現盛京戸部侍郎の王朝思は,陳昂の奏摺か
らの引用であることを断った上で,その要点を自らの奏摺の中で紹介して
いる 26)0
臣前在贋東・漸江雨任藩使,倶係海彊,略知海外諸番情形,又見康照五十
六年贋東喝石鎮原任線兵官陳昂僚奏為聖主遠念海彊等事一疏,内開,西北
紅毛為諸番之総名,惟西洋荷蘭ー園為最大,人情為最険,其東洋惟日本為
最強,明時目宋輿日本通商,因西洋人以天主教延及呂宋,呂宋即以此教誘
化日本,後来呂宋招集多人,内外爽攻,幾滅日本,而日本強惇,不為所奪,
至今呂宋興日本相為讐敵,可以見日本之強失,聞商人往日本貿易者,彼男
設一城以防其身,又有女間以誘其心,其通事皆福建人,内地客商往往逗留
係内地好人
彼慮,因得引誘其好,聖諭己洞鑑情形失,又聞日本在明時作首L
所誘,其技無登岸之能,止於沿海捨奪而巳,自我朝定鼎以来,日本’陪守臣
,
服
臣,前に虞東・漸江に在りて雨たび、藩使に任ぜ、られ,倶に海彊に係れば,
略ぼ海外諸番の情形を知る。又,康照五十六年贋東喝石鎮原任総兵官陳昂
おも
の篠奏せる「聖主遠く海彊を念う等の事の為にす」のー疏を見るに,内に
開すらく,「西北の紅毛は諸番の綿名たり。惟だ西洋荷蘭のー園を最大と
為し,人情最も険と為す。其れ東洋は惟だ日本を最強と為す。明の時,呂
およ
宋は日本と商を通ぜり。西洋の人,天主教を以て呂宋に延及ぼすに因りて,
(14)
邑宋即ち此の教を以て日本を誘化せんとす。後来,呂宋,多人を招集し,
ほとん
内外爽攻し, 幾ど日本を滅さんとするも,日本強惇にして,奪う所と為
らず。今に至るも呂宋と日本は相いに讐敵と為す。」と。以て日本の強き
を見る可し。聞くならく,商人の日本に往きて貿易する者,彼,男に一城
を設け以て其の身を防ぎ,又,女固有りて以て其の心を誘う,と。其の通
事は皆,福建の人にして,内地の客商,往往にして彼の慮に逗留し,因り
て其の好を引誘するを得しことは,聖諭巳に情形を洞鑑せり。又聞くなら
く,日本,明の時に在りて観を作すは,内地の好人の誘う所に係り,其の
技,登岸の能無く,止だ沿海に於いて槍奪するのみ,と O 我が朝の鼎を定
めし自り以来,日本,臣服を惜守し…
わたし
臣は以前,広東・漸江と二度にわたって布政使の任に着き,(両省は)と
もに沿海国境地方であることから,海外諸番の状況にはおおむね通じてお
ります。さらに康照五十六年の広東喝石鎮原任総兵官陳昂の「聖主遠く海
おも
彊を念う等の事の為にす」の上奏には次のようにあります。「「紅毛」とい
うのは西北諸番の総称で,西洋「荷蘭」のー園が最も大きく,民心険悪で
あります。東洋では日本が最も強く,明の時,「呂宋」は日本と通商を行
ない,西洋の人が天主教を「呂宋」に及ぼしたのを踏襲して,この教を以っ
て日本を誘惑・感化しました o その後,「巴宋」は大人数を糾合し,内外
示し合わせて攻撃をかけ,すんでのところで日本を滅ぼすところでしたが,
日本も屈強で,国を奪われることはありませんでした。今に至るまで「呂
宋」と日本は互いに不倶戴天の仇敵の間柄であります。」ここから日本の
強盛ぶりが見て取れます。聞けば,貿易のために日本に赴く商人に対して,
彼らは特に一つの街(「城」)を設けて自己防衛し,また妓女が誘惑してく
るとのことです。その通事はみな福建人で,中国の客商は常々彼の所に逗
留することから,悪巧みに号|っ張り込まれる−これは聖諭がすでに見抜い
ておられる通りです。さらに聞くところによると,明の時の日本の騒擾
(15)
(倭冠)は内地の好人が誘い込んだもので,〔彼らに〕上陸する技術はなく,
ただ沿海地方で略奪を事とするばかりとのことです。わが朝の建国以来,
日本は臣服を’陪守し,…
王朝恩は長崎の唐人屋敷を表現するのに,広州、|における外国商人の拘束・
管理を提案した,陳昂の「男に一所を設けて」といういい方をほぼそのま
ま踏襲している(「男設一城」)。
さらに現任の両広総督孔銃殉の奏摺も,やはり陳昂の奏摺を念頭におき
, 5年前に長崎に渡航したことのある商人から聴取した情報で
ながら C4
あると孔銃砲はいっているが,奏摺中に忍び込ませた「男に一所を設けて」
というー句から,彼も陳昂の奏摺を参照していたことが分かる 2り,長崎
においては,中国商人だけではなく,その他の外国人も特別に設けられた
場所に拘束・管理されていること,日本と「西洋」の天主教徒は互いに相
容れない仇同士で交易関係がないことなどを報告している則。
凡所聞日本園情形,倶係四五年前往彼園貿易人所説者,接稀,中園商船輿
各葬貿易船隻,凡到日本,倶係男設一所居住,不得外出,伊圏内人船亦禁
出本園境界以防漏信,各外舞人船倶可前往該園,惟輿西洋天主教極仇,不
通貿易,商船所泊之長崎港口有東西砲台雨座,安銅大砲・銅子母等砲位,
すベ
凡そ聞く所の日本園の情形は,倶て四,五年前,彼の園に往きて貿易せし
人の説く所の者に係る。擦るに橋すらく,中園の商船と各葬の貿易の船隻
すべ
く
と
は,凡そ日本に到らば,倶て男に一所を設けて居住し,外出するを得ざる
かれ
に係る o 伊の圏内の人船も亦た本園の境界を出ずるを禁じ,以て信を漏ら
すを防ぐ。各外葬の人船は,倶て該園に前往す可くも,惟だ西洋天主教と
仇を極め,貿易を通ぜず。商船泊る所の長崎の港口は,東西砲台雨座有り
(16)
て,銅大砲・銅子母等の砲位を安く
0
..
聴取いたしました日本国の状況は,すべて 4
' 5年前に彼の国に渡航して
交易を行なった者の話でございます。それに拠りますと,中国商船および
諸外国の貿易船舶は,日本に到着するとすべて特に設けられた一所に居住
し,外出することも憧なりません。彼の国内の人間・船舶も,情報が漏れ
ることを避けるために,国境から出ることを禁止されています。諸外国の
人間・船舶はなべて該国(日本)に赴くことを許されておりますが,ひと
り「西洋」天主教とだけは不倶戴天の仇同士で,通商も行なってはおりま
せん o 商船の停泊する長崎港には,東西二つの砲台があり,銅製の大砲・
子母砲などが設置されています。..
陳昂のテクストを共有する王朝恩・孔銃殉そして羅正帝は,日本/長崎
と中国/広州の聞を行き来しながら思考・対話している o 陳昂の奏摺を媒
介して,日本/長崎と中国/広州が二重写しになっているのである。陳昂
のテクストが記述していたのは,広州の危うい現状とあるべき姿であった
が,背後にあったのはモデルとしての日本/長崎であった。逆に,王朝恩・
孔銃殉が陳昂のテクストを利用しながら記述しているのは日本/長崎の現
状だが,彼らの思考の行方は中国/広州のあるべき姿にある。陳昂は長崎
を念頭に(そのことは一言も触れられていない),広州、|に対する処方筆と
して「男に一所を設けて」というキーワードを使った。一方,(陳昂の仕
掛を見抜いていた)王朝恩・孔銃殉は,今度は「男に一所を設けて」を長
崎の唐人屋敷に対して使っている o (こちらも一言も触れてはいないが)
その思考の行方にあるのはまぎれもなく広州である o 王朝思がほんの短い
「紅毛」の記事をさりげなく挿入し(「西北の紅毛は諸番の練、名たり。惟だ
西洋荷蘭のー園を最大と為し,人情最も険と為す」),また「一所」を「一
城」とわざと言い換えて(「男に一城を設け」),広州の外国商人たちの具
(17)
銃殉が
体的な排除先として襖門を羅正帝に想定させたようとしたこと,子L
天主教を信仰する「西洋」以外の諸国はすべて長崎での貿易が許されてい
すベ
る(「各外舞の人船は,倶て該園に前往す可くも,惟だ西洋天主教と仇を
極め,貿易を通ぜず」)という,事実とは異なる記述を行なうことで,諸
外国に広く開放された広州の外国貿易を羅正帝に想起させようとしている
のは,その端的な例である。また,日本と「西洋」天主教の敵対をめぐる
3)年
2
7
1
彼らの記述についていえば,当時の大きな背景として,羅正元 (
末に天主教禁止令が羅正帝によって発布され,全国に展開していた宣教師
たちが,宮廷内で奉仕する者を除いて,広州もしくは襖門に追放されるこ
世紀初頭以後,中国に来航
8
1
ととなった,という事情があったのである (
する外国船も自主的に広州に集中していた)制。
漸江総督李衛による日本不穏の風聞の上奏にわずかに先立つ 羅正六
8)年八月,陳昂の息子陳倫畑が,高雷廉鎮総兵として海禁解除後の
2
7
1
(
広東に着任していた制。李衛の上奏を受けて,沿海防備強化の指示が両広
総督孔銃殉に下され,広東省の海防が再点検されようとした際,おそらく
孔銃殉の意を受けたので、あろう,陳倫畑も水師戦艦の各種火器撤収に異を
唱える上奏を行なっている(「男に一所を設けて」外国商人を拘束・管理
銃殉の上奏の十日ほど前のことで
しているという長崎の情報を伝えた,子L
ある) ω。一方,着任後の陳倫畑は,父親から継承した海防・海外事情の
知識に,自らの長崎訪問の経験,広東在任中に得た東南アジア以西の海外
)年に『海国間見録』を完成させた問。この
0
3
7
1
情報を加えて,羅正八 (
著作は当時の広東地方官僚の共通認識を表現しているだけでなく汽その
父陳昂の奏摺の趣旨をも踏まえたものとなっている o 同書「東洋記」では,
父陳昂の奏摺同様に,明代の倭冠は中国の好人が誘い込んだもので,現在
の日本は中国の商船を受け入れるが,日本から中国に商船を派遣すること
は禁止している(倭冠に関わった日本人を処罰した日本の「王Jが,異心
を萌すことはない),と述べられているいペ「東南洋記」では,呂宋が
Us)
「西洋」支配下の国際貿易港となり,天主教が盛行し,漢人も多く入信し
ていること,さらに「南洋記」では,「喝刷巴」をはじめとする「紅毛」
の活発な植民地獲得活動にしばしば言及しているのである制。
陳倫畑の著作が完成してから 2年足らずの羅正十( 1
7
3
2)年七月に,追
放されて来た宣教師らが広州で大規模な布教をひそかに行なっているのが,
署理広東総督郡弥達によって摘発され,宣教師たちの襖門への追放がただ
ちに実行に移されたお)。清朝政府の天主教禁止政策は,ここに一つの画期
を迎えることとなった。一方,これに合わせて,康照五六 (
1
7
1
7)年の時
と同様に,黄捕に停泊している外国商船を,ポルトガル船とともに演門の
内湾に停泊させることが,郡弥達によって主張された。しかし,こちらの
方は,今回は襖門議事会が同意したにもかかわらず,ポルトガルのインド
総督の指示にしたがった演門総督の反対のために,やはり実行には至らな
かったのである向。
3
. コーリン・キャンベルの日記一広州 1
7
3
2
スウェーデン東インド会社のはじめての広州来航船フレデリック国王号
(
F
r
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d
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r
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c
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sRexS
u
e
c
i
r
e)は, 1
7
3
2年 9月 1
9日に広州に到着し, 1
7
3
3年 1
月1
6日の出航まで,約 4ヶ月間貿易を行なった。同船に乗っていた管貨人
コーリン・キャンベル( C
o
l
i
nCampbell
)は, この間の出来事を記した詳
細な日記を残しており円漢文史料が記すことがなかった,宣教師たちの
襖門への追放直後,そして保商制度(s
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c
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's
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s
t
e
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)が部分
的に運用され始めて数年経った広州の状況をそこにうかがうことができる o
キャンベルは 1
7
2
6年にも広州に来航したことがあり 39>, 1
7
3
2年のこの日記
は前回の滞在経験後に出現した新しい状況を描いているという点で少なか
らぬ価値を持っている。
キャンベルの今回の広州滞在時の最大の問題,すなわち彼の日記の大部
分をしめるトピックは,広東巡撫兼卑海関監督であった楊文乾が 1
7
2
6C
羅
(19)
”)−各国東インド
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n
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0p
f1
yo
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正四)年に新設した「搬送」(“newd
会社が将来した商品・銀に対して,一律にその 1割を徴収する付加税。地
方貿易商人は払わなくてよかったーをはじめとする卑海関の諸関税の不当
性を広東地方官僚に訴えることであった。これをめぐるキャンベルの行動
はおおむね以下の通りである。
2〕
3
7
1
〔
)がキャンベルらを引率し,卑海
a
u
q
n
i
0日:保商のテインクァ(T
・9月1
)に謁見。キャンベルはスウェーデン東インド会社初来航
関監督(Hoppo
の挨拶を行なう。卑海関監督は,茶を供応,絹をプレゼン卜するなど丁重
にもてなす(前の卑海関監督にはなかったことだとキャンベルは述べてい
ヘ
ア
る
9日:キャンベル,「搬送」をはじめとする諸関税を取り除くため,
• 9月2
卑海関監督とのスウェーデン東インド会社単独の謁見を保商テインクァに
依頼。テインクァはすぐに卑海関監督に謁見を請願。キャンベルは,謁見
の際に上呈する上申書を中国語で作成することを考える。卑海関監督がす
)がファクトリー
t
s
i
u
g
n
i
べてのヨーロッパ人を翌日謁見する旨,通事(L
に来て伝える ω。
0日:各国の管貨人が広州到着順に卑海関監督の部屋に呼び込まれ
• 9月3
るO キャンベル,国王が派遣したスウェーデン東インド会社はじめての広
州来航船であることを卑海関監督にあらためて強調し,多種類の高関税
f1950
, とりわけ「搬送」「規礼」(“asumo
)
”
s
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i
tmanyh
a
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(g
“
”)が不当であることを訴え,かつての関税表にし
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sbywayo
l
e
a
T
たがって支払うべき項目を公示してほしいと請願。また,前卑海関監督に
)・ピンキー
a
u
q
u
対する不正摘発・逮捕に連座して投獄されたスークァ(S
)などの中国商人の釈放も求める 42)0
y
k
n
i
P
(
2日:キャンベル,塁手海関監督には関税改正の権限がないかもしれ
0月2
•1
(20)
ないと考え,中国語の上申書を作成し,今度は巡撫に提出することを計画。
しかし,中国人はこのような面倒事には巻き込まれたがらないことを考慮
し,演門に友人を遣って宣教師・司祭を説得して翻訳を頼めないかと考え
る43)0
・1
1月2
5日:キャンベル,保商のテインクァと通事に連れられて卑海関監
督に謁見。中国語の上申書を提出し,卑海関監督の回答を請願する。上申
書は,キャンベルから通事,通事から卑海関監督の付き人,付き人から卑
海関監督という順で手渡される。卑海関監督は,天子の許可なく自分の権
限でできることではないと回答。来年は改善されるかもしれないし,やが
て赴任する新しい卑海関監督にも伝える,と付け加える o 謁見後の帰宅途
中,中国語の上申書のことを知らされていなかった保商のテインクァはキャ
ンベルに不満をぶつける叫0
•1
2月1
1日:キャンベルと(上申書を書いてくれた)中国人の友人ら 4人
が,入城して“s
a
l
tF訂 mer
”(本来,卑海関監督の許可がなければ入城で
きない。今回はこの“s
a
l
tF
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r
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e
r
”が入城の許可を取ってくれた)の邸
o
l
l
o
n
e
l
l'’も同席。キャンベル,中国人の
宅で饗応にあずかる。広州の“C
友人の付き添いで巡撫のところへ行こうと求めるが(以前から“ C
o
l
l
o
n
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l
l
”
は,巡撫の所へ連れて行ってやると中国人の友人にいっており,友人は通
a
l
tF
a
r
m
e
r
”と
訳の役割を引き受けるとキャンベルにいっていた),“s
“
C
o
l
l
o
n
e
l
l'’は謁見の許可を取り日時を予約しなければ無理だと回答。
“
C
o
l
l
o
n
e
l
l”は一両日中に謁見の段取りを決めてやると約束する 45
。
)
•1
2月 1
2日:キャンベル,“C
o
l
l
o
n
e
l
l'’らをファクトリーに招待して食事
を振舞う(“s
a
l
tF
a
r
m
e
r
”は理由をつけて来なかった。上申書を書いてく
れた中国人の友人も同席した)。高価なプレゼン卜と引き換えに,巡撫へ
の謁見の斡旋を依頼。“ C
o
l
l
o
n
e
l
l
”は,一両日中に巡撫に謁見できるよう
に手配すると答える的。
〔
1
7
3
3
〕
(21)
”らにかつがれていたことを悟ったキャンベルは,
l
l
e
n
o
l
l
o
• 1月 4日:“C
入城して巡撫街門に行くために,城門の門衛に賄賂を渡そうとするが,卑
海関監督の怒りを’擢れた門衛は請合わず。最終的にキャンベルは,関税を
改善することはもちろん,不満を訴えるために巡撫に近づくことさえも不
可能であると悟る 47)0
キャンベルは, ヨーロッパ人からは不正そのものと感じられた関税の改
正を訴えるために,執劫な努力を行なっている O その際に彼が不便さを痛
感したのが,宣教師たちが広州に滞留していた 6年前には当然のように得
られた助力・助言・情報(従来は,今はヨーロッパに帰ってしまったフラ
s)がその役割を果たしていた)が,今
e
u
g
i
eG
r
e
ンス人宣教師の友人(P
回は得られない状況になっていたことであった。これまでは広東地方官僚
に請願書を上呈するにあたって,中国語文書を作成する,あるいは適切な
文書のスタイルに整えるために,広州に集められていた宣教師からの助力
が簡単に得られていたのである的。
関税改正のための執劫な活動の中で,宣教師の不在以上にキャンベルが
ストレスを感じていたのは,保商(そして通事)が聞に入らなければ地方
5
1月2
0日,そして 1
0日・ 3
官僚に謁見できないということであった。 9月1
日の三度にわたる卑海関監督への謁見は,すべて保商テインクァの手配・
引率を必要とした。また,卑海関監督では埼があかないと思い詰めたキャ
”の虚
l
l
e
n
o
l
l
o
”と“C
tF紅 mer
l
a
ンベルが,巡撫と会わせてやるという“s
言に業を煮やしたあげし巡撫街門に赴いて直訴しようとしても,外国人
が単独で省城に入ることはすでに禁止されていたのである o
キャンベルの日記は保商制度の部分的運用開始から数年しか経っていな
年代末にいたって完成するこの制度の濫腸と過
0
5
7
い時期の記述であり, 1
渡的様相,始まったばかりの変更に対する各国東インド会社商人たちのあ
からさまな不満・抵抗をそこにうかがうことができる。後に保商制度の主
(22)
要な機能として必ず挙げられることになる徴税の請負もこの時期にすでに
始まっていた。キャンベルのスウェーデン東インド会社に対する「規礼J
納入の督促は通事が行なっている。 1
7
2
7
年に導入されたこの関税の納入を
保商制度の上にのせることには,各国東インド会社商人たちが強い抵抗を
示していた。イギリス・フランス両東インド会社商人は,広州到着直後に
保商・通事を通じてこれを支払ったものの,オランダ商人はこのやりかた
に納得せず,集団で直接,卑海関大関に赴いて納入したのである冊。また
広州入港直後に行なわれる「船紗(“M
e
a
s
u
r
i
n
go
fs
h
i
p
s”)」の丈量に際し
ては,保商テインクァが手配してその現場に付き添い 50),一方,出港の許
可証(“Grandc
h
o
p
”)を卑海関から取るのは通事の役割となっていた。後
者については,通事が許可証をなかなか取らず引き伸ばしを図っていると
して,キャンベルはテインクァと通事に脅しをかけ,結局,双方の別れは
随分気まずいものとなってしまったのである 5九やはり後に保商制度のも
う一つの機能として必ず挙げられることになる外国商人の行動の管理につ
いても,黄捕におけるヨーロッパ船に対する祝砲自粛の命令は,卑海関監
督から中国商人を通じて通達され,外国人が規則違反を犯した場合は,管
貨人よりも,彼らと取引をしている中国商人に圧力をかけるのが,スピー
ディかっ一般的な方法で、ある,とここでは考えられている,という記述と
して,キヤンベルの日記中に現われる 52)
生成期の保商制度に対するキヤンベルの記述が,広東地方官僚・地方衛
門から自分たちを疎隔する存在としての保商の機能に重点を置いているこ
とを考えれば,外国商人の徴税・行動管理をはじめとする業務万般を特定
の中国商人が一手に請け負う,と後に総括されることになる保商制度の本
来の目的が,卑海関監督をはじめとする広東地方官僚および地方街門が,
外国人との直接の接触・交渉から機能的に撤退することにあったのではな
いかと想像されるのである 53)。そしてそれは広東地方官僚・地方街門が所
在する省城内に,外国商人を単独では入れなくさせた,という空間的疎隔
(23)
と相即するものにほかならない。
年ころにあったとす
9
, 2
年
8
2
7
広州における制度としての保商の出発が 1
ればω,それはちょうど日本不穏の情報に触発され,嘉正帝と李衛・王朝
思・孔銃殉らが,陳昂の奏摺を媒介に対話を交わしていた時期にあたる o
保商制度が,安定していると見なされた東洋側の交渉スタイル(官僚・朝
廷による直接の外交交渉ではなく,商人を通じて情報の伝達や意思の通告
が行なわれた)を,南洋側にも適用する試みにほかならなかったのではな
いか,ということは検討の余地があるように思われる問。
保商制度の拡大と確立・外国商人の排除という 2つの課題は,次の乾隆
9)年に大きな
5
7
年聞にゆっくりと決着が摸索され,最終的に乾隆二四( 1
年代に積極的に活
0
3
7
画期を迎えることとなる O 保商制度は広州において 1
年
9
5
7
年代にかけては公認化と制度化を推進, 1
0
年代から 5
0
用され始め, 4
年にかけて最終的に確立された 56)0 これに平行して,外国商人たち
0
から 6
の襖門への排除が進行した。それは演門に対する管理の敏密化と,全国規
模のキリスト教布教の発覚・摘発を背景とし,フリントの寧波への来航と
9)年にいたっ
5
7
天津における告訴事件を直接の契機として,乾隆二四( 1
て実現されることになる 5九同年に発布された「防範外夷規条」冒頭に,
)外国商人
1)外国商人が広州で「住冬Jすることは永遠に禁止する,(2
(
が広州に到着したら仮寓先の行商にこれを管理・稽査させる,という 2箇
条がそろって掲げられていることは,外国商人に対する 2つの措置(外国
商人を省城広州から演門へ排除するという空間的疎隔と,広東官僚・地方
街門が外国商人との直接交渉から完全に撤退するという機能的疎隔)が完
全に対応したものであることを示しているのである o
おわりに
清朝政府は常に沿海地方の東洋側・南洋側双方に目を配りながら,海防
上の問題を論議,政策を決定し,結果的に南洋側に比べて,東洋側の海防
(24)
は安定している,と認識されていた。長崎における禁教,外国商人の拘束・
管理という政策は,陳昂の奏摺を通じて,南洋側に面する広州、|と襖門にま
で延長された。また官僚・朝廷による直接の外交交渉ではなく,両国の商
人を通じて情報の伝達や意思の通告が行なわれた中国・日本間の交渉スタ
イルは,保商制度という形をとって広州と襖門にまで伝播した可能性があ
る。もしそれ以西に,厳格さにおいて類似したキリスト教禁教・外国商人
管理の形態が見られないとすれば, 1
8世紀半ばから 1
8
4
2年までの間,広州
と襖門を隔てる境界はその東側のゾーン(東アジア)を世界の中の独特な
地域として区切り,広州はこのひとまとまりの領域に栓をする役割を果た
していたといえる 58)。やがてアへン戦争と南京条約によってこの栓は抜け,
その衝撃は今度は逆に広州から中国沿海地方,そして日本へと及んでいく
ことになるだろう。
一方,宣教師・外国商人が排除された省城広州には, シャムの朝貢が残
され,こちらは広東地方官僚の指揮のもと,「験貢」「延宴」の朝貢儀礼が
城内で展開された 5九北辺イリ地方におけるジュンガル「平定」が最終段
階を迎え,最も素直に中国の冊封と教化をうけた朝貢国として顕彰すべく,
『琉球国志略』が「天使」周埋によって著され60),国家的プロジェクトと
しての『職貢図』と,朝貢儀礼下の北京紫禁城を活写した『万国来朝図』
が編纂された 61)この 1
8世紀半ばに,外国商人が広州から襖門に排除された
のは,天子の徳の「光被」にともなう「中外一統」というキーワードにお
いて,決して偶然ではないのである。
民間貿易と朝貢を明確に分離した,省城広州、|と襖門を双焦点とするこの
空間には,由来を異にする二つの広域情報,二つの論理が,緊密に結び合
いながら,きれいに折り畳まれているのである o
〔追記〕本論文は科学研究費補助金(基盤研究(B))「ヨーロッパ人の文献史料
にもとづく清朝前期の政治と社会に関する総合的研究」(研究代表者:松浦茂)
の成果の一部である。
(25)
註
)原田博二「長崎と広州」(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外
1
。
頁
4
0
2
2
0
) 2
年
0
1
0
関係 6近世的世界の成熟』吉川弘文館 2
。
頁
0
1
2
9
0
)同上 2
2
世紀前葉に広州と襖門を双焦点とする辺彊の空間を清朝政府が
8
)小論は, 1
3
デザインしていく一連のプロセス(村尾進「乾隆己卯一都市広州と襖門がつ
年)におけるコンセプトと行
7
0
0
巻第 4号 2
5
くる辺彊−J『東洋史研究』第6
動計画を示し,また実際にそれを発動・推進した重要テクストとして,張伯
行の奏稿「擬請廃天主教堂疏」(村尾進「港市を離散化する一懐遠駅・十三
8頁)とともに,陳昂の奏
9年 7
0
0
5号 2
行・襖門−」『中国文化研究』第 2
摺「為聖主遠念海彊等事」があったことを指摘したもの,ということもでき
。
る
)岩井茂樹「「華夷変態」後の国際社会」(荒野泰典・石井正敏・村井章介前
4
。
頁
7
5
2
掲書) 5
9年)康照五五年十月二五
0
0
冊(中華書局 2
0
)『清代起居注冊康照朝』第 3
5
7o また『清実録』康照五五年十月二六日壬子
6
3
5
1
0
B
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5
1
0
日辛亥の条, B
の条。
)年十月の南洋海禁上諭を受けたものである
6
1
7
)陳昂の奏摺が康照五五( 1
6
ことは,奏摺中の「適十二月十八日接閲抵〔廷〕抄,伏讃聖諭,遠慮海彊,
留心外園,禁止内地船隻,不許南洋行走,以紹接漕,以杜後患,且詞問九卿,
巴為紅毛市
下及閑散之人」という一文から分かる。また,奏摺中の「夫岐噌H
泊之所,呂宋為西洋市泊之所,誠如聖諭所云」という一節の下線部は,南洋
参照。
1
海禁の上諭中から引用したものである。註2
)おそらく陳昂は,上諭の末尾に添えられた,「外国」「西洋」への警戒を喚
7
起する康照帝のコメントに乗じたものと思われる。「上又日,通海口子甚多,
此時無擬,若干百年後,中園必受其害実,外園人心最費,不似中園之人,爾
)
。
7
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冊
0
等漢人,凡是謄顧,心便不費」(『清代起居注冊康照朝』第3
「海外如西洋等園,千百年後中園恐受其索,此朕逆料之言,……園家承平日
久,務須安不忘危」(『清実録』康照五五年十月二五日辛亥の条)。
)『清実録』康照五六年四月十四日戊成の条に,天主教について述べた部分
8
を,さらに大きく端折った記述が見られる。また康照五七年二月八日丁亥の
条にヲ|く両広総督楊琳の上奏は,「紅毛Jに言及した部分のさわりを紹介し
たものである o
.
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)例外として,インターネット上に公開されている以下の論考がある(s
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s リヨン新版の漢訳本である,杜赫徳
編・鄭徳弟訳『耶蘇会士中国書簡集中国回憶録 E』(大象出版社 2
0
0
1
年
)
の当該部分を参照,英訳したものである。
1
0)矢沢利彦編訳『イエズス会士中図書簡集 6信仰編』(平凡社 1
9
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) 1
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8
7
4
1。原漢文を抄写した同じ紙に,そのラテン語訳も書き込まれている。
また,これに続く N
o
.742-745の文書は,陳昂の奏摺を閲覧した康照帝が発
した「該部議奏」の指示に対し,兵部が議覆を行なった康照五六( 1
7
1
7)年
四月十二日付けの題本を抄写したもの(およびそのラテン語訳)である(こ
の議覆題本の一部が,註 8で述べた「清実録』康照五六年四月十四日戊成の
条に使われている)。これら両文書の存在は,矢沢利彦氏がつとに指摘され
ているところである。矢沢前掲書 1
4
1
頁,註四。
1
2)徳川政権下日本の禁教を鑑とすべきであるという議論は康照時期からあっ
た。たとえば郁永河『海上紀略』(天理大学付属天理図書館蔵抄本)「日本」:
「其先西洋人観観其園,以天主教惑之,事露,悉被諒夷,今商舶至彼,必問
有無天主教人,又鋳天主像,令人足践而登,若誤揖一人往,則其船牽置岸上,
壷納舟人於腫底焚之,自此西洋人無復敢至日本者」,「西洋国」:「今各省郡勝
衛所皆有天主堂,肩閉甚密,外人曾不窺見,……彼園多産白金,自明時己縞
慮卑之香山,雌納貢賦,而醜類貫擾我遺陸失,歳運白金巨高至香山演,轄送
各省郡巴天主堂,資其所用,京師天主堂,屋宇宏麗,垣摘周複,文製為風琴・
自鳴鐘・刻漏・揮天儀諸器,皆神鐘鬼斧,巧奪天工,為費不可量,窮年積歳,
製造不轍,不籍中国一銭,……計中園郡邑衛所,天主堂何止千百飴匡,而居
堂中醜類不下高人,皆指其父母妻子遠来,必有所為失,其園君歳腫其民於中
園,又歳摘金銭鎧寓資給之,曾無厭倦,果何所求,其有大欲存罵,不待智者
然後知也,而堂堂天朝,曾無一人能破其好,巳為醜類歯冷,脱有不信余言者,
試問日本何以禁組之,不令脂其境」。
1
3)王重民「陳昂伝」(『冷庫文薮』上海古籍出版社 1
9
9
2
年 上 巻 212-214
頁
)
。
陳昂は砲石鎮総兵・広東右翼副都統,陳倫畑は高雷廉鎮総兵,陳芳は碩石鎖
遊撃,陳壊は大鵬営参将・香山協副将・署喝石鎖総兵など,広東省内の武官
職をそれぞれ歴任した。陳昂一族に対する康照・羅正両帝の思顧については,
以下にも記述がある。『羅正朝漢文献批奏摺量編』第 1
2冊(江蘇古籍出版社
(27〕
3頁,陳倫畑『海国間見録』自序。
) 4
年
9
8
9
1
3頁。ここに収められている
4
6
2
4
) 6
8年
5
9
)『華夷変態』上冊(東洋文庫 1
4
1
「大明客総管陳昂為裏請」によれば,陳昂は長崎貿易を目的として,康照二
6)年六月八日に慶門を出発,二九日に五島に至ったが,風向きが悪
8
6
五( 1
く入港できないでいるうちに,七月五日暴風に襲われ,翌日船が難破,漂流
の後,十一日に救出されたようである。この後,長崎に送り届けられたもの
と思われる。陳倫畑『海国聞見録』自序:「少長,従先公宣漸,聞日本風景
聞斯江南情貫,庚寅夏親遊其地」。
佳勝,且欲周諮明季擾首L
” 1715-1717,No.
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見録」。
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1
9)『清実録』康照五七年二月八日丁亥の条。
1
。
頁
8
5
7
0)岩井前掲論文 5
2
冊(江蘇古籍出版社
0
頁。『嘉正朝漢文殊批奏摺量編』第 1
1
1)岩井前掲論文 6
2
頁:「又於八月十八日准内閣行文,羅正五年七月初二日奉上諭,
0
8
) 5
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9
1
爾等所査康照年開耕理海洋及台湾各案,著繕寓護輿高其停・楊文乾,伊二人
現有料理海洋・台湾之事,持此奮案密行嚢興関看,若有査考之慮,伊等便於
稽査,欽此,井奉到繕寓御寛奏摺ー摺」。この「康照年開耕理海洋及台湾各
案J「奮案」が康照南洋海禁をめぐる槽案であることは,上記引用部分を含
む広東巡撫楊文乾・福建総督高其停・福建巡撫常賓連名のこの奏摺の冒頭に
引かれた〔羅正帝の上諭中の〕康照帝の「諭旨」(「昔年曾奉聖祖仁皇帝諭旨,
海外喝刑巴乃紅毛園泊船之所,呂宋乃西洋泊船之所,彼慮戴匿盗賊甚多,内
地之民希園獲利,往往有留在彼慮之人,不可不預為措置,欽此,…」)が,
註 5に掲げた南洋海禁を指示した康照帝の上諭中の一節であることから明ら
かである。また註 6参照。
2)この事件をめぐる関連指案は以下の通り。『羅正朝漢文殊批奏摺量編』第
2
7
3
, 6
6頁
3
5
4
3
, 5
, 493-494頁
0頁
5
1
8
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) 1
9年
8
9
3冊(江蘇古籍出版社 1
1
(28)
6
3
8頁
, 6
6
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6
6
5頁
, 6
8
3
6
8
4頁
, 7
8
2頁
, 8
1
7
8
1
9頁。同第 1
4
冊(江蘇古籍出
版社 1
9
8
9年
) 3
2
3
4頁
, 1
8
6
1
8
7
頁
, 1
9
0
1
9
3
頁
。
2
3)岩井前掲論文は全篇にわたって, 1
7・1
8
世紀の国際環境の中における清朝
政府のこの動向を,余すところなく記述している。また,「漢人の反抗に対
する警戒心を解くことができなかった清朝朝廷は,安全と危険の分水嶺を
「東洋」すなわち日本と「南洋」のあいだに見いだしたのであった。 JC
岩井
前掲論文 6
4
頁
)
。
2
4
)『羅正朝漢文殊批奏摺量編』第 1
3冊6
3
8
頁
。
2
5)内閣が康照南洋海禁関連槽案を収集した際,康照五五( 1
7
1
6)年十月の南
洋海禁上諭を基点として,芋づる式に関連の文書をたどったであろう。その
際,南洋海禁上諭に言及,引用している陳昂の奏摺はすぐさま網に号|っかかっ
たものと思われる。註 6参照。
2
6)『羅正朝漢文昧批奏摺量編』第 1
3冊6
6
4
6
6
5頁。王朝恩の奏摺中に陳昂の奏
摘が引用されていることは,彰浩氏が「清朝は近世日本の対外関係をどう見
たか」(『東京大学日本史学研究室紀要』別冊「近世政治史論叢」 2
0
1
0
年 1
3
7
頁)においてすでに指摘されている。王朝思の広東布政使在任期間は,康照
五五 (
1
7
1
6)年八月から羅正元 C
l7
2
3)年九月までである D すなわち陳昂の
上奏,それを受けた広東官僚に対する諮問と合議・回答,すべての外国商船
を演門に集中させようとして失敗に終った試み,広州、|において印票を所有し
ない宣教師たちが捜索されー箇所に集められたことなどは,すべて王朝恩が
間近で見聞・体験してきた事柄なのである。なお,康照末年の広州、|において
宣教師たちが強いられた苦境については,以下に簡単な記述がある。前掲
『耶蘇会士中国書簡集中国回憶録 E』 2
8
1頁
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9
9
.
2
7)孔銃殉は,広東巡撫楊文乾あてに送付された康照南洋海禁関連指案を閲覧
しなくてはならない立場にあった。また,総督街門において引き継がれてき
た棺案中にも陳昂の奏摺が含まれていたであろう。
2
8)『羅正朝漢文珠批奏摺藁編』第 1
4
間3
2
頁
。
2
9)前掲村尾進「乾隆己卯一都市広州と襖門がつくる辺彊−」 4
6
4
8
頁
。
3
0)『羅正朝漢文献批奏摺量編』第 1
3冊9
0
8
頁の陳倫畑の奏摺に「縞臣荷蒙聖恩,
調補贋東高雷廉糖、兵,自羅正陸年柴月抵任以来,…」とある。
3
1)『羅正朝漢文殊批奏摺量編』第 1
3
冊6
3
8
頁の孔銃殉の奏摺(羅正六年十月二
十日付)に「至子水師,以砲火為重,其砂砲等項必臆存留,臣男摺請旨外,
…」とあり,これに呼応して陳倫畑は薙正六年十一月十日付の奏摺で,水師
戦艦における各種火器撤収の不合理さと「百子鞭砲」の導入を主張している
(29)
。
)
頁
8
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7
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冊9
3
(『薙正朝漢文珠批奏摺葉編』第 1
2)「海国聞見録』自序。なお同書については,中国方志叢書に収められたテ
3
キストを参照した。
3)たとえば,「男に一所を設けて J外国商人を管理しているという長崎の情
3
報を伝えた孔銃殉の上奏に「番王住在祖家,地名目京,水陸路程,至長崎有
2頁)とあるのに対応して,
3冊 3
一月齢」(『薙正朝漢文殊批奏摺藁編』第 1
『海国聞見録』「東洋記」では「園王居長崎之東北,陸程近一月,地名禰耶穀,
誇日京」とある o また,閉じ孔儲殉の上奏の「其園敬語豊僧人,現有幾個皐問
2頁)は,
冊3
3
好的大和尚,乃是中園人」(『羅正朝漢文献批奏摺葉編』第 1
「海国聞見録』「東洋記」の「俗尊悌,尚中園僧」に対応している。
,究費
)「日本原市舶永嘉,因倭之漁者十八人,被風入中園,好人引之為首L
4
3
薙額,雑以遠慮土語,逓相撞掠,群栴倭奴,後平田園,僅十八人,王正以法,
随禁市舶中園,聴我彼往,至今無敢来者,倭載十八奇士」。
5)「東南洋記」:「東南洋諸番,惟目宋最盛,因大西洋干耕、臓・是班明番舶運
3
銀到此交易,綜網・布吊・百貨量消,島番土産雲集,西洋立教,建城池,東
夷族,地原係無来由番,今為擾轄,漢人妻無来由番婦者,必入其教,櫨天主
堂,用油水量十字子印堂,名目涜水,焚父母神主,…」。「南洋記」:「就中園
往喝酬巴而言,…原係無来由地方,為紅毛荷蘭所擦,分官属,名目岬必丹」。
。
頁
9
4
8
6)前掲村尾進「乾隆己卯一都市広州、比襖門がつくる辺彊−」 4
3
。
5頁
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7)『明清時代襖門問題槽案文献陸編』(ー)(人民出版社 1
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5
3)保商制度の完備にともなって,卑海関監督をはじめとする広東地方官僚・
地方街門が,外国人との直接の関わりから撤退していくという点については,
もちろん以下の著作のように,これまでにも言及があるが,それが本来の目
的であったという視点は希薄であ るように思われる。 E
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4
)プリチヤードは,信頼できる中国商人とのみ取引をするよう,外国商人に
卑海関監督が命令した 1
7
2
8
年を保商制度の出発点と見なしている。 P
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. チョンは,制度としての保商の最も早い適用例は,上記 1
7
2
8
年の命
令に続く, 1
7
2
9
年のオランダ商人に確認されるとしている(ただしこの制度
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年代初期としている。 P
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5)その意味で,行商を介さないと広東地方官僚への謁見が許されなくなった
こと,および外国商人が自由に省城に出入りすることが許されなくなったこ
との 2点が, 1
7
2
8
年にはじめて,そして同時に通達されたということは,き
わめて興味深い事実である o J
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7)前掲村尾進「乾隆己卯一都市広州と襖門がつくる辺彊−J4
9
6
1頁。演門
海防同知印光任と張汝霧は,演門に関する初めての専書『演門記略』−乾隆
二四 (
1
7
5
9
)年に向かう半世紀にわたるプロセスの関鍵となる著作ーを乾隆
十六 C
l751)年に完成し,まもなく刊行した。同書には張伯行の奏稿(下巻・
演蕃篇)とともに,陳昂の奏摺のごく一部が掲載されており(上巻・官守篇),
上記のプロセスの根底にこの 2つの文献のコンセプトがあったことを示して
いる。ただし,陳昂の奏摺の提案が日本長崎の体制に由来していることはす
(31)
でに忘れられている。「喝石線兵陳昂言,夷船入虞貿易,宜起其焔火,男設
関東,以巌防範,凡夷船入口,起焔封舵,肩之一合,故聞例也,昂故以為言,
不果用」。
。
)
年
0
1
0
」(『アジア史学論集』第 3号 2
8)村尾進「広州、|と襖門の「間J
5
。
)
年
9
9
9
号 1
6
9)村尾進「懐遠騨」(『中国文化研究』第 1
5
増訂使琉球録解題及び
(夫馬進編『
志略』解題」
煙撰『琉球国
)村尾進「周
0
6
。
)
年
9
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9
研究』格樹書林 1
1)頼備芝「図像帝国:乾隆朝《職貢図》的製作与帝都呈現」(『中央研究院近
6
。
)
年
2
1
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5期 2
代史研究所集刊』第7
(32)
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