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栂野茂先生の遺稿

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栂野茂先生の遺稿
栂野茂先生の遺稿
―羅什『老子注』の研究―
太田陽治
松江高校第1期卒業写真から栂野先生の遺影
(昭和25年1月14日 撮影)
(1) 研究の動機
栂野先生は、広島文理科大学(現広島大学)漢文学専攻を卒業後の研究生活を考えた時に明
̄
焦竑の『老子翼』に引用されている羅什(Kumārajiva:クマラジーヴァ)の『老子注』は、第一級の文
化財であることを知り、これが解明されゝばインド思想とシナ思想の本質が明らかになり、両者の
交流の実状が明らかとなると考えられた。その研究の成果が上記の題名の本である。
(2) 羅什『老子注』の書と時代
最も古い記録は『古今書録』と考えられるが、この書は現存していない。しかし記録は残ってい
た。『古今書録』は唐王室の蔵書目録だった。 この書に記録されているのは『旧唐書』経籍志と
『新唐書』芸文志に再録されていた。
旧唐志と新唐志の記録から、羅什『老子注』は、722年(唐・玄宗開元10年)~733年、 (唐・
玄宗開元21年)の一時期、唐王室に存在していた。ところが安祿山の乱が起こったのちに唐は
滅びた。書籍は殆ど失われた。当時の慣例として、宋王朝は唐王朝滅亡の時、前王朝の書籍を
戦利品として没収した。その後、宋王朝は、政情が落ち着くと国内だけでなく、各国に書籍を求め
たが、羅什『老子注』を入手することができなかった。
(3) 羅什の生涯の概要
Kumārajīvaは、西域の亀茲(キジ:現在のクチャ)からシナに入り、後秦の国王・桃興の外護を
得て、梵語(サンスクリツト)仏典を漢語に翻訳し、大きな足跡を残した僧である。鳩摩羅什・究摩
羅耆婆などはその名の音訳(音写)であり、童寿は、その名の音訳である。 ( Kumāraは童、 jīva
は寿)
Kumārajīvaは翻訳した仏典に、翻訳者として名を記す時には、鳩摩羅什と記しているが普通は
羅什とよぶ。
344年(東晉・康帝建元2年)羅什1歳
羅什の父、鳩摩炎(クマエン)はインド人。宰相の家柄に生まれたが位は嗣がず出家する。後彼
は葱嶺(ソウレイ:現在のパミール)を超えて西域の小国亀茲に至り、 国師として待遇される
-1-
が、亀茲王に要請され還俗し、亀茲王の妹・耆婆(ギバ)と結婚する。耆婆は熱心に仏道を求
めた人であった。羅什はこの両親の子として亀茲に生まれた。
352年(東晉・穆帝永和8年)羅什9歳
羅什は母と共に北インド罽賓(ケイヒン)現在のカシミールに行き、槃頭達多(ハンズダ
ツタ)に学ぶ。
355年(東晉・穆帝永和11年)羅什12歳
羅什は沙勒国(サロクコク)現在のカシュガルに行き、仏鉢を頂戴する。この間彼が学ん
だ仏教は小条である。彼を大条に導いたのは須耶利蘇摩(スヤリソマ)である。
羅什訳龍樹『中論』(『大正新脩大蔵経』第30巻)観四諦品には、因縁によって生ず
る諸法(もろもろのもの)は空であると説く。
これにより羅什の名声は西域・東国(シナ)にひろまる。前秦王苻堅は、かねてから仏
教界の英才として羅什を自国に迎え入れたいと考えていた。
382年(前秦・苻堅建元18年、東晉・孝武帝太元7年)羅什39歳
苻堅は将軍呂光に命じ、西域各地を制圧し、前秦の支配権を確立し、羅什を同伴して帰国
を命じた。所期の目的を達成した呂光は帰国後、呂光と共にシナへの道を進む。
385年(前秦・苻丕太安1年、東晉・孝武太元10年)羅什42歳
この年呂光は亀茲から高昌(現在のトルフアン)に着き、苻堅が東晉の軍と淝水(ヒス
イ)で戦い、大敗したことを聞く。
呂光は敦煌に入り太守姚静をくだし、晉昌の太守李 を降し、酒泉の太守宋晧を殺し、
涼州の刺史梁煕を殺し、8月涼州の州都姑臧に入る。呂光はこの地で、始めて苻堅が姚萇
に殺され、長安は姚萇の建てた後秦の都となっていることを確認した。
386年(前秦・苻登太初1年、東晉・孝武太元11年)羅什43歳
呂光は涼州牧と自称し、年号を太安と定める。呂光は彼が建てた国を涼と呼び(後世、後
涼と呼ぶ)王と自称し、更に天王と自称する。
羅什は、長安や洛陽に近い涼州まで来たが、呂光が羅什をあしかけ16年の長い間離さ
なかった。呂光は彼の利益のためだった。
399年(後秦・姚興弘始1年、東晉・安隆安3年)羅什56歳
呂光は死去する。続く呂纂・呂隆の時代も羅什は留められたまゝだった。羅什は涼州で多
くの時間を翻訳の準備のために用いた。彼は翻訳の準備に漢語を学び、漢詩の外にシナの
古典を学ぶ。シナの古典の基本を概観し、その大要を得ようとしたであろう。
羅什は涼州で『易経』『書経』『詩経』『論語』を学習した。また、河上公『老子注』
を用いて『老子』を学習し、郭象『荘子注』を用いて『荘子』を学習した。
羅什は涼州滞在中、梵語仏典を漢語に翻訳すること試みた可能性は高いのであろう。
401年(後秦・姚興弘始3年、東晉・安隆安5年)羅什58歳
この年、呂隆は後秦の姚興に降伏する。呂隆は姚興の要求を受け入れ、羅什を姚興にひき
わたす。羅什は国師として後秦の都長安に入る。羅什は長安の逍遥園の訳場で梵語佛典の
翻訳を続ける。
-2-
羅什が翻訳した仏典は極めて多い。
①梁・僧祏『出三蔵記集』
②唐・僧祥『法華伝記』伝訳年代には、『凡訳経論、九十八部四百二十五巻』と記してい
る。
③『大正新脩大蔵経』著訳目録には「鳩摩羅什・・・弘始三年至于常安、以弘始四年至十
四年、訳大品小品経七十四部」と記している。
竺法護に続く羅什の翻訳により、シナにおける翻訳は一応完了する。しかし竺法護や羅什
の期待に反し、翻訳仏典は、梵語仏典を離れて、漢語の意味を加えて解釈されているのであ
る。それがいわゆる格義である。
413年(後秦・姚始15年、東晉・安義煕9年)羅什70歳
羅什は長安の大寺で没した。遺体は逍義国において、仏教の慣行に従って火葬された。羅
什は、長安で『梵語仏典』をなしとげたであろう。また『老子注』を作ったであろう。しか
し、シナで古典の教養ある者は、翻訳仏典を解釈するときに程度の差こそあれ、シナの古典
に影響される。特に彼らは翻訳仏典の思想を『老子』の無の思想で解釈することが多い。羅
什はそれを極力排斥した。私たちは羅什を彼をとりまく思想を理解するために、『老子』の
無の思想を整理しておく必要がある。
そろそろ本論に入って行くので、ここらあたりで筆を置かせて頂こうと思います。
最後に、論文中2点不明なところがあり、先生の愛娘の伊藤純子様にお尋ねしました。そ
の結果①『羅什』の読み方は(ラジュウ)で、(クマラジーヴァ)はサンスクリツト名。②
涼州の場所が「地図上見当たらない」は、横超慧日、諏訪義純著『羅什』に武威(姑蔵)と
ありますが、そこが涼州の場所だと思います。そして、『ウイキペディア』の武威市と歴史
の項のコピーを頂き、丁寧な返事を頂きました。
(参考資料)
『羅什』横超慧日、諏訪義純著(大蔵出版)258ページの「羅什足跡地図」を参考にさ
して頂きました。
著者絡歴 栂野茂(とがのしげる)
大正12年、島根県生まれ
昭和22年、広島文理科大学文学部(漢文学専攻)卒業
昭和22年、京都府立舞鶴第一中学校勤務
昭和24年、島根県立松江高等学校教諭
昭和28年、東京都立松原高等学校 “
昭和34年、
“ 駒場高等学校 ”
昭和44年、
“ 戸山高等学校 ”
昭和59年、
“ 戸山高等学校退職
平成23年、死去。
ー羅什『老子注』の研究―2015年5月31日
初版発行 株式会社三恵社
〒462-0056 名古屋市北区中丸町2-24-1
-3-
羅什足跡図
後記 1949(S24)年4月、私たちは高校3年でした。戦後初めて「漢文」の授業
が復活し、栂野茂先生と出逢いました。長い人生には、人は一度や二度、初対面の人に、昔
から既に知り合っていたかの様な懐かしい感情を持った人に出合うことがありますが先生は
その様な人柄の持ち主でした。
東京でサラリーマン生活を十年余り過ごしたある日、偶然、不思議なご縁で先生と電話連
絡ができ、時折り文通を交わさして頂きました。 『一双会たより』やTV局の俳句誌『枸
杞』(くこ)の記念誌などを送付し、先生から俳句の批評を、また『胡茄ノ歌』を手紙で教
授賜わったり致しました。
私たちの定年制は55歳でしたが、1985(S60)年頃から60歳定年が叫ばれて今
日の様になりました。定年迄が一年を切ったS61年7月頃、先生宅をお訪ねして、絆を深
めたひとときを楽しみました。
ある日『汲古』第44号古典研究会創立40周年記念号2003(H15)年12月号を
頂きました。先生の[傳顧歡(でんこかん)『道徳眞經注疏』(どうとくしんきょうちゅう
そ)所引の『老子注』・『老子疏』]が掲載されていました。(『一双会たより』第12号
P.16参照)これが最後の交流となりました。
茲に先生の遺徳をしのびご冥福をお祈り申し上げます。
-4-
―前記関連記事ー
2014(H26)年4月20日だった。
『一双会たより』の編集長から一枚のFaxが届いた。ある大学の女性留学生(老子研究
者)からだった。
私は江戸初期の帰化明人、陳元贇(ピン)が書いた『老子経通考』について研究してお
ります。先行研究として、小松原涛『陳元贇の研究』272頁 栂野茂稿『老子経通考小
論』の思想内容に関する唯一先行研究であり、どうしても読みたいのですが、なかなか見
つかりません。栂野茂先生の名前で、インターネットで検索したら、以下のようなものが
ありました。
1968年、支那学研究(33)という雑誌に『近世における老子口義』という論文。
2003年、「汲古」という雑誌の第44号に傳顧歡『道徳眞經注疏』所引の『老子
注』・『老子疏』という論文が載せられています。一双会たより第15号『栂野茂先生を
悼む』の記事。
これによれば栂野茂先生は老子の研究をしておられたと存じますが、失礼かもしれませ
んが、貴会の一双会たより第15号の記事に載っている栂野茂先生と同じ方でしょうか。
ほかの手立てを思いつかなくて、このような形になってしまい、誠に申し訳ありません。
どうかお許しください。お手数をおかけしますが、是非教えて頂けますようお願いいたし
ます。
2014(H26)年5月15日 返信
栂野茂先生の愛娘伊藤純子様から5月13日付けの返信が届きました。先生の奥様は
去る2月、骨折され入院中で5月末に退院できる予定だそうです。
お尋ねの件『老子経通小論』は残念ながら手元にはなく、また汲古書院からも出してい
ません。しかし、母の話では、当時の記憶がかすかにあるようです。見つかる可能性は少
ないと思います。
尚、先生の奥様に「直接電話できないか」おねがいしたところ、母は高齢のため、自分
宛にしても良いと了解頂いております。下記番号をお知らせ致します。
2015(H27)年7月14日、巴里祭の日だった。ゆうメールが届いた。伊藤純子
様からだった。先生が家族に託された上記題名の本だった。先生が病魔と闘っておられた
3年間に、ガリ版刷の頃からの資料の分類、ワープロで作られた家族の努力の跡が伺われ
る暖かい一冊の完成本だった。添えられた手紙にはその後彼女は上京して、先生宅で主要
な論文をCDに納め帰省されたとの事だった。
私たちの『一双会たより』という小さな同窓会誌が、ささやかな日中友好の架け橋と
なった。まさに“Raison d’être”存在理由(リェーゾン・デートル)があった事を喜んでおります。
中継して頂いた中沼尚編集長に伊藤純子様と同様私も感謝致しております。
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