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第Ⅲ編 忘れ得ぬ思い出
1. 大 井 町 の風 景
私 は大 正 14 年 末 に品 川 区 大 井 山 中 町 で誕 生 した。昭 和 19 年 3 月 31 日 に強
制 疎 開 * をさせられるまで、約 20 年 間 を過 したので大 井 町 は私 には心 の故 郷 であ
り、現 在 でも時 折 思 い出 す。兄 弟 と会 え
ば必 ず大 井 町 のことが話 題 になり、年 に
1 回 くらいは訪 ねてみて、幼 児 の時 から
の移 り変 わりを眺 めることがある。したが
ってこの町 についての思 い出 は書 き尽 く
せない程 多 い。これから特 に記 憶 に残 る
大 井 町 らしいものを取 り上 げてみる。
*空 襲 が激 化 することが予 想 されたため、昭
和 19 年 1 月 に疎 開 に関 する法 律 ができた。
大 井 町 駅 西 口 (昭 和 55 年 )
そ の中 で空 襲 火 災 か ら 町 を 護 る た め 、 延 焼 防
止 を計 る目 的 で一 定 区 域 を空 地 とすることになった。私 の住 居 はその境 界 に当 り何 処 かに疎
開 さ せ ら れ る こ と に な り 、 31 日 に ト ラ ク タ ー な ど で 住 宅 を 引 き 倒 さ れ た 。 ( 参 考 ) 『 戦 中 用 語 集 』
(岩 波 新 書 )
大 井 町 は浅 草 などの下 町 と同 様 に商 店 が多 く、商 人 、職 人 などが多 く、露 店 も多
く、隣 近 所 同 士 の付 き合 いも多 い。このような下 町 には祭 りとか夜 店 などがよく似 合
う。
1.1 神 社 と祭 り
この町 の住 人 を氏 子 とする地 域 の
中 心 をなす神 社 は鹿 嶋 神 社 である。
ここの例 大 祭 が 10 月 の第 3 土 曜 ・日
曜 に行 われ、当 時 小 学 校 では授 業
がなく、朝 学 校 での朝 礼 が終 ると全
校 で参 拝 に行 き解 散 することになって
いた。私 共 は一 旦 帰 宅 後 お小 遣 い
大 井 町 駅 前 (昭 和 55 年 )
(通 常 50 銭 ) をもらって兄 弟 で神 社 へ出
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かけ露 店 で買 い物 をするのがとても楽 しかった。姉 は主 にほおずきを、私 はハッカパ
イプを買 うこ とが多 かっ た。もしかす るとこれが 大 人 になっ てタバコを吸 う遠 因 に なっ
たのかも知 れない。
このお祭 りには大 きな神 輿 が 2 基 出 て、これが町 の中 で衝 突 を起 して喧 嘩 が始 ま
り 、 し ば し ば 負 傷 者 も 出 る こ と が 有 名 で あっ た 。 露 店 は 境 内 だ け で な く 神 社 前 の 大
通 りの約 1km にわたって出 店 し、大 変 な人 出 で町 の年 中 行 事 中 最 大 のものであっ
た 。 こ れ が私 の 子 供 時 代 の 最 も 大 き な 楽 しみで あり 、 今 でも お 祭 り への 興 味 は 減 る
ことがない。
(注 )この日 は東 京 オリンピックと同 様 に、天 候 の安 定 した時 期 で晴 天 の日 が多 く、私 の記 憶 で
は例 大 祭 の日 が雨 天 であった記 憶 はほとんどない。
1.2 縁 日 と夜 店
町 の中 心 通 り ( 俗 称 改 正 通 り) の一 端 にお地 蔵 様 があり、毎 月 4日 、14 日 、毎 月 そ
の縁 日 の日 にこの通 りに夜 店 が 100 店 くらい出 店 するが、その他 の平 常 の日 でも雨
天 でない限 り毎 日 夜 店 が出 店 していた。私 は父 と一 緒 に夕 食 後 散 歩 がてらに見 て
歩 いた。夏 は団 扇 などを持 って夕 涼 みを兼 ね、冬 になると父 はトンビというオーバー
のような黒 地 の布 の防 寒 着 を着 て行 ったものである。
昭 和 の 初 期 で あ る か ら 、 ま だ 電 灯 の 代 わ りに ア セ チレン ガ ス の 炎 を 照 明 に 用 い て
いる店 もいくつかあり、その近 くに行 くとアセチレン特 有 の鼻 をつくような臭 気 がする。
この臭 は余 り良 いものではないが、何 か懐 かしさがある。
父 は盆 栽 が好 きで、植 木 屋 に立 止 まることが多 かった。当 時 の出 店 としては、古
雑 誌 店 、表 札 書 き‥‥‥路 上 に敷 物 のマットを敷 き机 1 台 を置 いて毛 筆 で書 いて
いるが、仲 々上 手 で姉 などが一 緒 に行 くと姉 は感 心 していた。姉 はその頃 から書 に
関 心 があったらしく、書 道 の先 生 になってしまった。また、囲 碁 、将 棋 、計 算 * 、のぞ
き眼 鏡 * * 、古 道 具 屋 などが多 かった。
*学 生 風 の者 が黒 板 を立 て、そこに数 値 の速 算 をして見 せその解 説 本 を売 る
**八 角 柱 の筒 のようなものを、軸 を水 平 にして手 で回 転 し、穴 から中 をのぞくと映 画 のように
変 化 する絵 が見 られる…・これが多 分 映 画 の原 点 と思 われる。
冬 は特 に夜 店 見 物 の帰 りにしばしば中 心 通 りで一 番 大 きな菓 子 店 ( 武 蔵 屋 ) で殻
付 南 京 豆 を買 っ てき て 、炬 燵 に 入 って 種 々 の 話 を し な がら食 べ た こ とが 懐 か し く思
い出 される。
(参 考 )『露 店 市 ・縁 日 』(中 公 文 庫 :秦 孝 治 郎 、仮 本 武 人 編 )
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1.3 物 売 り
今 では大 変 少 くなって私 などは残 念 なことと思 っているが、昭 和 初 期 には以 下 に
列 挙 したような物 売 りが町 に毎 日 のようにやってきたものである。○印 は現 在 でも見
られるものであり、括 弧 内 はその人 々の売 り声 である。
金 魚 屋 主 として夏 に、長 いリヤカーを引 いて金 魚 鉢 に入 れた金 魚 と風 鈴 を売
る。
(キンギョーオ・キンギョー)
定 斎 屋 竿 (天 秤 竿 )の前 後 に、引 き出 しが 5 個 くらいある箪 笥 型 の薬 種 箱 を吊
し、中 に 各 種 の薬 が 入 れてあ り、こ の箪 笥 の 引 き出 しの金 具 がぶら ぶ らふれる音 が
「ガチヤン・ガチヤン」といううるさい音 を立 てる。
飴 売 り 頭 に小 さな万 国 旗 をたてた浅 い桶 をのせ、その中 に飴 を入 れて売 ってい
る。
○しんこ細 工 自 転 車 に材 料 を積 んで、お祭 りなどによく出 店 し、しんこで人 形 、動
物 などの形 を作 って売 る。
○ち んど ん屋 鉦 付 き 太 鼓 と トラ ン ペット 、ク ラリ ネッ トなど を 鳴 ら して 歩 き、 商 店 な ど
の宣 伝 をする。
ラウ屋 刻 みタバコを吸 う煙 管 (きせる)の中 の脂 (やに)を、水 蒸 気 などを通 して
除 去 する道 具 を、リヤカーに乗 せて町 角 などで止 めて客 を待 つ。現 在 は、浅 草 雷
門 々前 で見 かけることができる。
○竹 竿 売 り 竿 (昔 は竹 、今 はプラスチック)を売 る。(竹 ヤーサオダケー)
○やき芋 屋 主 として冬 に石 焼 き芋 を売 る代 表 的 冬 の風 物 。
玄 米 パン 主 として昼 間 玄 米 から作 ったパンを売 る。(玄 米 パンのホヤーホヤ)
○豆 腐 屋 自 転 車 (今 はオー トバイ あり) に豆 腐 を入 れた箱 を積 んで売 る。(トーフイ・ト
ーフイ)
納 豆 屋 主 として早 朝 納 豆 を売 り歩 く。(ナット・ナット・ナットー)
(注 )江 戸 売 り声 百 景 (宮 田 章 司 )CD 付 き 岩 波 新 書
1.4 怖 かったもの
当 時 は子 供 から見 ると気 持 ちが悪 かったり、恐 ろしく感 じるものが家 に現 れること
がしばしばあった。その中 から現 在 ではほとんど見 ることがなくなったものをあげてみ
る。
正 月 の獅 子 舞 正 月 に、大 きな赤 色 と金 色 の獅 子 頭 をかぶった男 と鼓 を打 つ男
が、二 人 一 対 となって家 々を廻 りお祝 いまたは厄 払 いの意 味 で踊 る。5 銭 または 10
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銭 をお祝 儀 としてあげるのが習 わしであったが、子 供 の時 にはこの獅 子 にかみつか
れるような気 がして大 変 怖 った。
猿 回 し 一 人 の男 が一 匹 の猿 をつれて、町 角 または民 家 に来 て猿 に芸 をさせて
祝 儀 を貰 う。
三 河 漫 才 三 河 地 方 (愛 知 県 )に伝 わる古 典 芸 能 で、二 人 一 対 で独 特 の衣 服 を
きて掛 け合 い漫 才 をして家 々を廻 って祝 儀 を貰 う。
千 手 観 音 観 音 信 仰 者 が白 い装 束 を着 て、背 中 に観 音 様 (子 育 て観 音 として人
形 も飾 ってあった。)の入 った仏 壇 のようなものを背 負 って各 家 を廻 り、経 文 のような
ものを唱 え て喜 捨 を え ていた。背 中 の仏 壇 の ようなも のが 子 供 には 気 持 ち悪 く 感 じ
られた。
ほら貝 吹 き 山 伏 のような男 が 1 本 歯 の高 下 駄 をはいてほら貝 を吹 いて歩 いてい
た。その姿 が恐 ろしく見 えた。多 分 これは山 伏 の修 行 の一 種 であったと思 われる。
虚 無 僧 今 では時 代 劇 に登 場 するばかりであるが、頭 が全 部 入 ってしまう竹 で編
んだ吊 り鐘 型 の笠 (または帽 子 )をかぶり、尺 八 を吹 く僧 侶 で、家 々で尺 八 を奏 して
喜 捨 を受 ける。我 々は顔 をかくしているので、顔 が人 に見 られては困 るような悪 事 を
働 いた人 ではないかと思 い * 、これが来 ることが大 変 恐 しかった。
*これは誤 解 で、正 しくはある仏 教 の修 行 の一 形 態 (詳 しくは『広 辞 苑 』をみよ。)
托 鉢 今 で は 新 宿 駅 構 内 な ど の人 々 が 多 数 通 行 す る 所 に 立 ち 、 鉦 な どを 鳴 ら し
たりして喜 捨 を求 めているが、あのような若 い僧 が家 々をまわり銭 ばかりでなく、衣 の
前 につけた袋 にお米 を貰 って歩 くことがよくあった。我 々子 供 はこれが修 行 とは知 ら
ず「乞 食 坊 主 」などと呼 んで気 持 ち悪 く思 ったものである。
1.5 未 遂 事 件
小 学 校 4 年 の頃 、家 の前 の狭 い路 上 で 1 人 で遊 んでいると、中 年 の変 な男 が急
に近 づ いて きて「 菓 子 を 買 って あげ るから 一 緒 においで」 と 言 って手 を 引 きずった 。
驚 いて恐 怖 を感 じ、相 手 の手 を引 掻 くと痛 いのでその手 を離 した。その瞬 間 に逃 げ
だし、家 に飛 び込 んで門 の鍵 を閉 めた。この事 件 (誘 拐 未 遂 ) 以 来 1 人 で外 へ出 るこ
とが怖 くなる。
中 学 2 年 生 の頃 、毎 朝 通 学 のため大 井 町 駅 に向 って歩 いていく途 中 の四 つ角
に、近 くの古 書 店 主 で容 貌 ・ 風 体 のよくない中 年 の男 が立 っていて、私 が通 ると何
処 で知 ったのか私 の名 前 を呼 んで声 をかける。毎 日 ではないがしばしばこのようなこ
と が あっ た 。 こ の 男 は 特 に そ れ 以 上 の こ と は 何 も し な か っ た が 気 持 ち の 悪 い 思 い 出
になった。
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図 6
戦前の大井町中心街
品川小学校
工藤眼科
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大井町風景
大井町改正通り
大 井 町 自 宅 前 の路 地
三 つ又 地 蔵 尊
鹿嶋神社
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鹿嶋神社手洗
鹿嶋神社神楽殿
2.中根・緑が丘・自由が丘の思い出
戦 時 中 の強 制 疎 開 により長 年 住 み慣 れた大 井 町 を去 り、目 黒 区 中 根 町 ( 現 在 中
根 ) に転 居 した。 そ れ 以 後 緑 が 丘 、自 由 が 丘 、奥 沢 と 何 度 も転 居 し たが、 何 れ も自
由 が丘 に徒 歩 で出 られるほどの距 離 であったので日 常 生 活 も自 由 が丘 が中 心 とな
った。この中 、思 い出 の多 い中 根 町 、緑 が丘 、自 由 が丘 について思 い出 すことども
を記 してみる。
2.1 中 根 町
私 の住 居 は隣 接 する町 、緑 が丘 との境 界 の道 路 に面 していた。この付 近 には有
名 人 も多 かったようで、私 の記 憶 では次 の 2 人 も在 住 していた。
作 家 の川 口 松 太 郎 氏 はあまりに
も有 名 なので説 明 は不 要 と思 う。
次 に紙 恭 輔 氏 。同 氏 は戦 後 占
領 軍 (進 駐 軍 )が旧 東 京 宝 塚 歌 劇
場 を占 拠 して、その中 に劇 団 オー
ケストラを編 成 し、アーニーパイル・
オーケストラと命 名 し、その指 揮 者
として活 躍 していた。更 に同 氏 は
日 本 大 学 芸 術 学 部 映 画 学 科 で映
画 音 楽 の講 師 をしていた。私 の弟
八 乙 女 家 の跡 に建 った家 (中 根 町 )
が同 科 で紙 氏 に教 えを 受 け、同 氏
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宅 へも伺 ったことがった。また、長 女 は紙 京 子 という女 優 であった。
この町 には私 の家 から 50m くらい離 れた所 に立 源 寺 という日 蓮 宗 のお寺 があり、
こ こ で はお会 式 が 行 わ れ る 。 紙 氏 は こ の 寺 の借 家 に 住 ん で い たが 、 お 会 式 の 太 鼓
の音 がうるさくないか尋 ねてみると、この太 鼓 のリズムに触 発 されて、良 い曲 が作 れ
るので、お会 式 の日 は作 曲 に都 合 がよいとのことであった。この立 源 寺 の石 井 住 職
も我 々学 生 会 のメンバーに加 わってもらった。
中根小学校
立源寺山門
2.2 緑 が丘
この街 の一 角 は俗 に海 軍 村 と言 われ、戦
時 中 には主 として海 軍 の将 官 がたくさん住 ん
でいて 、 各 住 宅 は 割 合 大 き く 、海 軍 から の借
入 金 で購 入 したとの話 であった。
私 の家 のホームドクター阿 部 先 生 はこの中
の 1 人 で元 海 軍 の軍 医 監 (中 将 )で、野 口 英
世 の知 人 であり、診 察 室 には野 口 英 世 と 2
人 で並 んだ写 真 が飾 ってあった。
この医 院 の向 いには海 軍 中 将 の里 見 氏 が
住 んでおり、敗 戦 によりその母 親 は世 をはか
なんで自 殺 した。その後 この家 は売 りに出 さ
れたが誰 が住 むのか注 目 していたところ、ある
日 平 岡 公 威 という表 札 が付 けられた。これが
都 立 大 駅 から中 根 へ行 く道
作 家 三 島 由 紀 夫 である。三 島 氏 はしばしば門 前 に立 ち周 囲 を眺 めている姿 を見
た。
三 島 氏 の隣 家 には、当 時 NHK のドラマを作 っていた放 送 作 家 の伊 馬 春 部 氏 が
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現 在 まで住 んでいる。
また、渋 谷 海 軍 中 将 ( 艦 政 本 部 長 ) も住 んでおり、私 の家 が中 根 町 に転 居 できたの
も渋 谷 氏 の世 話 によるものであった。同 氏 は大 井 町 時 代 私 の家 の近 くで親 密 に交
際 していた関 係 があった。なお、この家 は当 時 鉄 道 省 (現 JR) の局 長 の江 藤 智 氏 が
住 んでおり、同 氏 が昭 和 19 年 3 月 末 で地 方 に転 任 したのでその後 に私 共 が住 む
ことになった。なお、江 藤 氏 はその後 しばらくして参 議 院 議 員 となった。
この他 大 使 館 武 官 などの高 級 将 校 や文 化 人 も多 数 住 み、戦 災 も受 けず閑 静 な
美 し い住 宅 街 で あった 。 私 はこ の 町 の 中 を 通 り 抜 けて 東 急 大 井 町 線 緑 が 丘 駅 より
小 山 台 高 校 に通 勤 した。
2.3 自 由 が丘
この町 は現 在 では若 者 に有 名 な商 店 街 と
いうイメージの町 に発 展 してしまった。戦 後 東
横 線 に沿 う道 路 の片 側 (レール側 )に露 店 (い
わゆる闇 市 )が並 び活 況 を呈 したのが現 在 の
源 である。これが次 第 に整 理 され、私 が住 ん
だ頃 には 2 階 建 ての商 店 街 (自 由 が丘 デパー ト
とひかり街 )となり、道 路 の反 対 側 には各 種 の
専 門 店 が並 んだ。
この中 には喫 茶 店 モンブラン、榊 原 楽 器 店 、
時 計 ・宝 石 の一 誠 堂 、荒 井 時 計 店 、亀 屋 万
年 堂 などが今 も続 く老 舗 である。
特 にモンブランについて種 々な思 い出 があ
る。この名 は言 うまでもなく、アルプス (フランス)
の最 高 峰 Mont Blank の名 をとったもので、社
長 は迫 田 千 萬 億 (さこだちまお)氏 で、文 筆 家 で
もあり、毎 日 新 聞 にエッセイを書 いたこともある。
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亀屋万年堂
こ の人 は 他 に 支 店 を 作 らな い主 義 で、 自 由 が丘 は 勿 論 、遠 方 から 来 店 する客 が
多 く、開 店 (昭 和 25 年 前 後 ) より常 に賑
わっていた。作 曲 家 の芥 川 也 寸 志 氏
も常 連 であった。店 内 には東 郷 青 児
の独 特 な美 人 画 を飾 り、上 質 なケー
キと美 味 しいコーヒーを提 供 する店 と
して有 名 である。この社 長 の弟 は東
横 線 学 芸 大 駅 近 くに昭 和 30 年 代 か
ら マ ツ タ ー ホ ー ン ( Matt er Horn ) と い う
名 称 で開 店 している。
自 由 が丘 駅 前
また、家 から駅 まで行 く途 中 に一 軒
のお茶 屋 があり、毎 回 お茶 を買 うごとに奥 の座 敷 に上 げられ、お茶 を点 て千 利 休 の
講 釈 などを聞 かされた。たまたまこの店 の向 いは和 菓 子 で有 名 な亀 屋 万 年 堂 の本
店 であったので、そこの菓 子 まで添 えてくれ大 変 懇 意 にしてもらった。この主 人 は戦
前 麻 布 十 番 で有 名 な店 をやっていたとのことであった。
富 士 の山 登 る道 は数 あれど
行 きつく先 は一 つなりけり (千 利 休 )
との歌 を書 いた扇 子 などを出 し、1 時 間 くらいの講 釈 を聞 かされ、忙 しいときには
少 々閉 口 したが、非 常 に親 切 な心 やさしい老 人 であった。
ここに記 した商 店 は私 がよく買 物 をし、特 に懇 意 にしていた店 であった。例 えばモ
ンブランなどでは、私 の出 勤 がおそい日 には、開 店 前 に社 長 と 2 人 でその日 のコー
ヒーの味 を吟 味 することもあった。
ま た 、 通 勤 の 帰 途 に 雨 な ど が 急 にふ り 出 す と 、商 店 街 の 方 々 か ら 「 先 生 傘 を 貸 し
てあげます」という声 がかかったりした。
榊 原 楽 器 店 ( 当 時 商 店 連 合 会 監 査 役 ) の隣 のパチンコ店 は、私 がパチンコの物 理 を
無 料 で研 究 させてもらった店 である。
このように商 店 とのお付 き合 いがあったので、買 い物 には種 々便 宜 を計 ってもらえ
便 利 であった。しかし、通 勤 の途 中 に方 々で挨 拶 することが多 くその面 では大 変 で
あった。
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3.読 書 への目 ざめ
小 学 校 時 代 に読 書 に対 して興 味 がなかった私 が、中 学 校 以 来 現 在 まで、特 別 な
ジャンルで片 寄 りはあるにせよ読 書 が好 きになった原 因 は二 つあり、一 つは家 庭 環
境 、 他 の 一 つ は 友 人 の影 響 で あ る 。 そ の 中 で 家 庭 環 境 が 大 変 大 き いも の と 考 え ら
れる。
家 庭 において親 ( 両 親 また は一 方 の親 ) が読 書 に無 関 心 であったり、関 心 があっても
仕 事 に多 忙 なために読 書 をする時 間 がなく、家 庭 にも書 籍 (学 習 図 書 以 外 ) がほとん
ど無 い場 合 、子 供 に 読 書 を勧 めた り要 求 して も 無 理 で ある 。ここで も子 は親 の 背 を
見 て育 つという諺 が実 感 される。
私 の場 合 には、父 親 が普 通 の公 務 員 (技 術 者 )であったわりには、比 較 的 幅 広 く
種 々のジャンルの書 物 が割 合 沢 山 あり、そのために庭 の一 隅 に一 室 を増 築 して、
窓 、出 入 口 を除 く壁 面 全 面 を本 棚 としてあった。
本 のジャンルとしては、父 親 の仕 事 関 係 と兄 の専 攻 とが全 く同 じ土 木 工 学 であっ
たので、その道 の専 門 書 は当 然 として、それに関 連 があるために数 学 力 学 などの専
門 書 も勿 論 沢 山 あった 。その他 に 趣 味 的 に広 く文 系 の書 物 も多 数 あり、中 には 今
からみると 貴 重 な書 物 ( い わ ゆ る 稀 観 本 ) なども含 まれてい た。しかし、 小 学 校 時 代 に
はこれらに興 味 はなく、ただ漠 然 とどんな本 があるかということぐらい知 っているのみ
であった。
中 学 生 になって 2 年 生 時 代 に竹 内 豊 治 君 (法 政 大 学 教 授 、ドイツ語 ) と親 しくなる。
彼 の中 学 時 代 の渾 名 は「哲 学 者 」と言 われ、年 中 暇 さえあれば (授 業 中 でも) 哲 学 書
その他 の中 学 生 にとっては難 解 な書 物 ばかり読 んでいた。私 は彼 の刺 激 を受 け話
題 が合 うように彼 と同 種 の書 物 を読 むようになり、この頃 より哲 学 (特 に西 田 哲 学 )に
興 味 をもつようになり、理 科 系 の書 物 以 外 にも読 書 のジャンルが拡 大 していった。
次 に父 親 から受 けた強 い影 響 について思 い出 してみる。父 は仙 台 出 身 であるが、
若 い 頃 一 時 東 京 に 出 て 趣 味 の 英 文 学 ( 特 に シ ェ イ ク ス ピ ア ) を 勉 強 すべ く 上 田 敏 ( 英
詩 専 門 ) に教 えを受 けていたことがあった。ある時 上 田 先 生 が病 気 になられた折 、先
生 が夜 間 に教 えていた大 学 から、英 語 の講 義 代 講 を依 頼 され、英 語 を教 えていた
ことがあった。
ちょうどその頃 は夏 目 漱 石 も収 入 が少 くて経 済 的 に楽 ではなく、父 と同 じところで
アルバイトに英 語 を教 えていた。私 が中 学 生 時 代 にはその頃 の漱 石 の思 い出 話 な
ども聞 いたりし、父 は漱 石 およびそ の弟 子 特 に 寺 田 寅 彦 が 大 好 きで、漱 石 全 集 お
よび寺 田 寅 彦 の科 学 随 筆 の単 行 本 はほとんど全 部 揃 えていた。
私 はこれから最 大 の影 響 を受 け、特 に科 学 少 年 であった私 は寺 田 寅 彦 の随 筆 を
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ほとんど全 部 読 み、更 にその弟 子 の中 谷 宇 吉 郎 、藤 岡 由 夫 などの著 書 なども相 当
数 読 むようになり、科 学 随 筆 が読 書 の中 心 となった。
また、父 は経 済 的 には楽 でなくとも物 理 、化 学 、数 学 系 の書 物 は希 望 すれば何
でも買 ってくれ、大 井 町 時 代 には父 と古 書 店 にも毎 日 のように本 を探 しにいくことが
あった。このようにして、理 系 文 系 ともに読 書 のジャンルが次 第 に拡 大 し現 在 に及 ん
でいる。なお、寺 田 寅 彦 の影 響 で日 本 橋 の丸 善 にもしばしば行 ってみた。
4.夢 と現 実
人 間 は誰 でも夢 をみるものであり、人 によってはその夢 の内 容 によってその日 の出
来 事 や吉 凶 を占 ったりすることがある。しかし夢 による予 想 が当 たる確 率 は低 いのが
普 通 であろう。これはその夢 が見 るべくしてみた夢 でなく、単 に偶 然 にみた夢 のため
であると思 われることが、私 の次 の経 験 でわかると思 う。
私 がある時 家 庭 教 師 をしていた旧 制 高 校 の学 生 から、三 角 関 数 の式 の証 明 問
題 が解 けないので教 えてほしいと頼 まれた。しかし即 答 できず次 回 (1 週 間 後 ) まで待
ってもらうことにして一 所 懸 命 考 えた。
なかなかの難 問 であり、ちょうど夏 休 みでもあり時 間 の余 裕 が十 分 なので、毎 日 こ
の問 題 ばかりを朝 から晩 まで意 地 になって考 えた。しかしやはり解 けず、思 い余 って
高 等 師 範 の数 学 科 に持 っていき、居 合 わせた数 人 の教 授 に質 問 してみると大 部
分 の先 生 はできなかった。
ただ一 人 森 田 紀 一 先 生 だけが、ワイヤストラスの定 理 を用 いれば直 ちに証 明 され
る と い う こ とを 教 示 さ れた が 、 高 校 生 は こ の 定 理 を 習 っ てい な い ので、 も っ と 初 等 的
方 法 で証 明 する方 法 がないか尋 ねたが、ついに解 決 はされなかった。
ところが、その日 も帰 って寝 るまで考 えぬいて駄 目 なので寝 てしまうと、夜 中 の 12
時 30 分 頃 夢 をみた。この中 で解 決 のテクニックがわかったが、朝 まで待 つときっと
忘 れてしまうので、直 ちに起 床 して夢 で発 見 した方 法 で解 いてみると実 に見 事 に証
明 ができた。
このテクニックは通 常 の勉 強 状 態 ではとても思 いつくようなものでなく、極 めて特 殊
な技 術 的 変 形 を要 するものであった。記 録 に留 めておかなかったので、今 では具 体
的 に思 い出 せないのが残 念 であるが、この時 の喜 びは一 生 忘 れられない。
この夢 は、この問 題 を 6 日 間 も考 え抜 いた結 果 として現 れたもので、ただ単 に偶
然 現 れたものではない。努 力 が良 い結 果 をもたらしたと考 えられる。即 ち、夢 というよ
りは、徹 底 した努 力 に対 して神 が与 えて下 さった贈 物 であったと思 っている。「 神 は
自 ら助 ける者 を助 ける」 という諺 を実 感 として体 得 した貴 重 な経 験 であった。これ以
115
来 、生 徒 には努 力 の重 要 性 をこの例 を以 て指 導 してきた。
5.パチンコ
我 が国 でパチンコが創 作 されたのは、種 々の記 録 から昭 和 初 期 の私 が生 まれた
頃 であるらしい。私 との出 会 いは昭 和 10 年 頃 (小 学 校 5 年 または 6 年 頃 ) であった。
当 時 JR ( 当 時 は省 線 と呼 ばれていた ) 品 川 駅 の前 に京 浜 デパートという百 貨 店 があり、
この地 下 に遊 戯 場 (プレ イランド) があり、子 供 相 手 の多 種 多 様 の遊 具 が 100 台 前 後
あって、多 分 東 京 第 一 であったと思 う。
この中 の一 種 として現 代 のパチンコの元 祖 があった。当 時 のものは台 の縦 枠 の途
中 に一 銭 銅 貨 を入 れる穴 があり、これを入 れると中 の玉 を打 つ所 に 1 個 の鉄 球 が
出 てきた。これをはじいて穴 に入 ると、景 品 として 5 厘 (1 銭 の半 分 ) 程 度 の飴 や菓 子
が前 の皿 に出 てくる仕 掛 けであり、穴 によっては大 当 たりとして 10 銭 位 の景 品 (主 と
して 20 個 入 りのキャラ メルか 板 チョコレート) が出 てきた。
何 れにしろ、玉 を用 いる機 械 は 1 回 1 銭 で玉 は 1 個 、景 品 は菓 子 でその数 量 は
穴 によって異 り、極 力 大 当 りの穴 を狙 うものであり、現 在 のように玉 を連 続 して投 入
し、当 ると多 数 の玉 が出 てくるようなものは、昭 和 20 年 の戦 後 登 場 したものである。
私 は、何 等 かの折 にお小 遣 いを貰 うと、しばしば兄 弟 や友 人 と京 浜 デパートに 行
って遊 んだものである。当 時 この機 種 はその音 から「ガチャン」と言 われていたが、我
が家 では玉 がスーツと上 りトンと落 下 するので「スートン」などと言 っていた。これは戦
争 が激 しくなるに従 って禁 止 廃 止 され町 からすべて姿 を消 した。
戦 後 の昭 和 23 年 頃 から復 活 し、最 初 の中 は 1 円 で玉 1 個 の割 で、1 回 に 1 個
ずつ玉 入 れに投 入 すると、打 器 の前 に玉 1 個 が出 てきて、これを弾 くと穴 によって
入 ると玉 が前 の皿 に 1 個 または 2 個 または 5 個 、または 10 個 (最 大 ) 出 るような構 造
であった。したがって、1 時 間 やってもそれ程 玉 は弾 けず、それ程 多 額 の金 銭 を使 う
ことはなかった。
昭 和 30 年 代 になると、オール式 といってどの穴 に入 ってもすべて玉 が 10 個 出 てく
る形 式 が登 場 し、更 にこれがエスカレートしてオール 30 などと言 うのが登 場 するが、
これでは余 りにも射 倖 心 を煽 るというので禁 止 された。それ以 後 盤 面 に種 々の工 夫
がされ、釘 以 外 に風 車 とかチューリップなどが現 れ、更 に電 動 式 となり、ついに現 代
の よう な コ ン ピ ュ ー タ ー シ ス テ ム ま で 導 入 さ れ る よ うに な り 、 また全 世 界 に 輸 出 さ れる
ようになった。
しかし、何 れにしろ物 理 的 には同 じことであり、鉄 の玉 を弾 いて穴 またはそれに対
応 するものに入 れる装 置 である。すなわち、衝 突 (運 動 量 保 存 則 とはね返 り係 数 )とエ
116
ネルギー (摩 擦 がある ので力 学 的 エネルギーは保 存 しない) との問 題 である。
これを単 純 化 して、玉 の衝 突 と鉛 直 面 内 の円 運 動 と組 み合 わせたものが、大 学
入 試 の力 学 の問 題 について一 つの重 要 なパターンとなっていて、我 々はこれをパ
チンコの問 題 などと称 している。
しかし、問 題 を解 くのは容 易 であるが、現 実 に玉 を弾 いて希 望 する軌 道 を描 かせ
ることはほとんど不 可 能 であるため、大 多 数 の人 々は損 をする。
そこで物 理 的 にはいかなる点 にむずかしさがあるかを調 べるため、昭 和 20 年 代 の
ある時 期 毎 日 パチンコ店 に通 い 1 日 1 時 間 から 2 時 間 くらいデータをとりながら研
究 し、パチンコ機 の卸 業 者 、製 作 所 、問 屋 などを廻 って種 々の面 から研 究 してみ
た。
そこでわかった点 の第 1 は、玉 の直 径 はどこでもすべて等 しく 11mm ( 釘 の 間 隔 も
11mm) であるが、質 量 は等 しくなく最 大 5.5g から最 小 4.5g (平 均 5.0g) あり、最 大 最
小 の差 は 1.0g (玉 1 個 の 20%) がある。これが同 じように弾 いても同 じ軌 道 を描 かない
最 大 の理 由 である。
次 に、軌 道 は円 弧 でなく、楕 円 の一 部 分 の形 であり、これと玉 との摩 擦 などは計
算 も測 定 もできない。このような事 情 で、物 理 では処 理 できず経 験 に頼 るしかないこ
とがわかった。
なお、当 時 の卸 価 格 は玉 1 個 2.5 円 、機 械 1 台 2000 円 であり、パネル (釘 を打 つ
位 置 に穴 をあけてあるプラスチックの板 ) が 400 円 (特 許 品 ) であった。この時 代 の機 械 の
多 くは小 企 業 (小 さな町 工 場 ) で作 られていた。
この工 場 で一 つ大 変 便 利 なものを発 見 した。それは釘 を板 に垂 直 にすべて同 じ
高 さに打 つ道 具 である。1 本 1 本 手 で支 えて打 つ
のではこのようなことは不 可 能 のため、ペンチのよう
な形 で釘 を挟 む位 置 に溝 がつけてあり、これで挟
んで釘 の頭 を打 てば手 を怪 我 することもなく、正 確
に同 じ高 さで垂 直 に打 つことができることを知 っ
た。
素 人 が物 に釘 を打 つとき、支 えている手 を金 槌
で 打 っ て しま っ た り 、 釘 が 傾 い た り 曲 っ た り す る こ と
がしばしば生 じるが、この道 具 を用 いるとそのような
ことなく、ある高 さまでは釘 を垂 直 に打 つことができ
て大 変 便 利 であろう。
(注 )パチンコについては次 の書 物 が参 考 になる。講 談 社 現 代
117
図 7 釘挟み
新 書 『パチ ンコと日 本 人 』(加 藤 秀 俊 著 )
6.珍 しい経 験
人 間 は一 生 の 間 には 種 々 珍 しい こと に 出 会 った経 験 が あるもの で あるが 、 私 にも
自 然 現 象 としての予 期 しない珍 しい経 験 があるので、忘 れぬために書 き留 め、物 理
の授 業 などで話 の種 にされると自 然 現 象 に対 する生 徒 の興 味 と関 心 を起 させる一
助 となるのではなかろうか。
6.1 雷 と火 の玉 *
雷 は言 うまでもなく雷 雲 中 の電 荷 の放 電 現 象 であることは子 供 でも知 っている。そ
こで、電 気 の講 義 の時 に、「雷 はどんな形 」をしているかという質 問 をしてみる。大 体
の答 えは、電 気 だから見 えないとか、稲 妻 の形 と答 えるものである。そこで私 が目 の
前 (50cm くら い離 れた位 置 ) で見 た形 は、直 径 約 10cm の球 形 でナトリウムの光 (Na−D
線 波 長 約 600 0 オングストロ ーム) の色 をしていたという話 をする。これの速 さが 2m/秒 く
ら い の ゆ っ く りした も ので あった 。こ れ は 雷 の 形 の 質 問 に 対 す る 正 解 とは 言 え な い こ
とは勿 論 である。
*火 の玉 につ いては平 成 2 年 頃 より、早 稲 田 大 学 理 工 学 部 の大 槻 義 彦 教 授 が熱 心 に研 究 し
て、ある程 度 原 因 と性 質 などが解 明 され つつある。ここに記 した現 象 も同 教 授 に報 告 してある。
実 はこの現 象 は次 のようにして生 じた。昭 和 29 年 の夏 の暑 い日 の昼 下 りのこと。
雷 が発 生 し、たまたま家 から 50m くらい離 れた電 柱 に落 雷 した。このとき私 は窓 の
隙 間 を通 して地 面 からラジオにアース線 をひきラジオをセットしておいた。電 柱 に落
雷 したときは非 常 に大 き な爆 発 音 ( 落 下 音 ) が 聞 えてから 数 秒 して、 窓 の隙 間 か ら ア
ース線 を伝 わ って前 述 のよ うな火 の玉 が室 内 に入 り、 ラジオの中 に入 って消 滅 した。
その直 後 には恐 ろしくてラジオの中 を調 べる勇 気 はなく、しばらくしてからラジオの
内 部 を調 べると、ケース(木 製 )内 面 の一 部 とトランスやコイルが黒 く焼 けていた。ア
←ス線 も消 滅 していた。したがって、火 の玉 はジュール熱 によりアース線 ( 銅 線 ) が融
解 ・気 化 して発 光 したものではないかと想 像 された。ただし、銅 原 子 の発 光 スペクト
ルは緑 色 であり、炎 色 反 応 も緑 色 なので、ナトリウムの色 ( 黄 色 ) とは一 致 しない。未
だに正 体 は不 明 である。
こ の よ う な 現 象 は 極 め て 珍 し い が 、 落 雷 の 二 次 的 現 象 で あり 、 む し ろ 「 昇 雷 」 と 呼
ぶべき現 象 といえる。
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6.2 水 道 管 の破 裂
水 道 管 内 の水 が冬 期 凍 結 膨 張 して管 を破 損 することは、中 学 の理 科 などでも知
識 として教 えられるこ と は多 く、また 昔 ならば都 会 の一 般 家 庭 でも屋 外 の水 道 管 に
縄 や布 などを巻 いて凍 結 を防 いでいる様 子 が方 々で見 られた。
しかし、実 際 に水 道 管 が破 裂 する状 態 を直 接 目 にすることは稀 であろう。昭 和 30
年 1 月 の雪 の降 る厳 冬 の宮 城 県 仙 台 市 内 にたまたま宿 泊 し、朝 手 洗 いで洗 面 しよ
うと思 って水 道 の前 に立 ったその瞬 間 、偶 然 にも水 道 管 が蛇 口 の栓 から 10cm くら
いの点 で縦 (管 の方 向 ) に 3∼4cm くらい「プスッ」という小 さい音 をたてて裂 け、そこか
ら水 が液 体 となって流 出 はじめた。
金 属 の管 が破 壊 するのだからさぞ大 きな破 裂 音 がするものと考 えていたが、余 り
小 さい音 であったのに驚 いた。ただし、この管 は鉛 管 であったために、材 質 が柔 かく
音 が 小 さ かっ たの か も知 れ ず 、 もし 鉄 管 で あれ ば 容 易 に裂 け ぬ か わり に 大 き な音 と
なるかも知 れない。とにかく予 想 外 の出 来 事 であった。
6.3 摩 擦 電 気 のいたずら
ある 冬 の 晴 れ た 日 、洗 濯 し た アク リル のセ ータ を 塩 化 ビニ ー ル 製 ( ? ) の 竿 に干 し
ておき、乾 いたので取 り込 むためにセーターを引 きずったところ、手 に肩 まで打 たれ
るような強 い衝 撃 を受 け感 電 した。勿 論 これは塩 化 ビニールとアクリルとの間 の摩 擦
による静 電 気 によるものであるが、我 々がしばしばドアの把 っ手 などに触 れて感 電 す
る場 合 にくらべ、その衝 撃 の強 さは遥 かに強 かった。
私 は直 流 では 1500 ボルト、交 流 では 500 ボルトまで感 電 したことがあるが、このセ
ーターの摩 擦 電 気 は感 覚 的 には交 流 500 ボルト程 度 の衝 撃 であり、肩 が突 き飛 ば
されるような感 じであった。 ( た だ し 、 こ れ ら 今 ま で の 感 電 は す べ て 電 流 は 微 弱 で あ っ て 生 命
にかかわることはなかった) しかし、これ以 来 洗 濯 物 を取 り込 むことに慎 重 になった。
6.4 コップのひび
ある時 日 常 用 いているカットグラスのコップを用 い友 人 と二 人 でビールを飲 み、コッ
プが空 になった状 態 で話 をしていると、急 に「ピシッ」という小 さな音 が目 の前 で聞 え
たのでよく調 べてみると、一 方 のコップの一 部 にひび割 れが生 じている。
使 用 前 にこのようなひびは入 っていなかったので、このとき偶 然 生 じたものである。
前 の 6.2 で述 べた水 道 管 が私 の前 で偶 然 に裂 けたのと同 様 、偶 然 の現 象 である。
これはガラスがコップとして製 作 されてから何 等 かのストレスを長 時 間 受 け、そのスト
レスによる疲 労 が限 界 に達 して破 損 したものであろう。
119
この現 象 は相 手 がコップであったため問 題 にならないが、これと同 性 質 の現 象 が
飛 行 機 、列 車 などに生 じて、多 数 の人 命 が失 われた大 事 故 は何 回 も生 じているの
で決 して無 視 できるような些 細 なことではない。
6.5 時 計 の針 の回 転
通 学 の途 中 、山 の手 線 に渋 谷 駅 で乗 車 し、大 塚 で下 車 する予 定 であった。乗 車
の際 腕 時 計 を見 て時 刻 を確 認 し、目 白 に来 た時 に再 度 時 計 を見 て非 常 に驚 いた。
乗 車 した時 刻 より過 去 の時 刻 が示 されていた。更 によく見 ると秒 針 は正 しく右 回 り
に回 つているので一 層 不 思 議 となった。
この日 は早 速 帰 途 自 宅 近 くの時 計 店 に持 参 して内 部 を調 べてもらったら、何 等
かの原 因 (主 として衝 撃 ?)により歯 車 のかみ合 わせが一 段 狂 ってそのまま回 転 した
ので、長 針 ・短 針 の回 転 の速 さも変 化 し、更 に左 回 りとなったとのことであった。しか
し、時 計 店 の説 明 では、歯 車 にこのような事 態 が生 じると通 常 時 計 は止 ってしまうも
ので、左 回 りにしても回 転 を続 けた例 は見 たことも聞 いたこともないということであっ
た。
因 みに、この時 計 は当 時 としては有 名 なスイス製 のモーリスという名 の時 計 である。
また、このようなことは奇 跡 的 な現 象 であるので、この時 計 は修 理 せずに保 存 するこ
とにした。
この経 験 以 来 、物 理 の授 業 で ( 数 学 で も ) 左 回 りのことを 反 時 計 回 り ということに抵
抗 を感 じるようになり、以 来 私 は決 して時 計 回 り ( ま た は反 時 計 回 り) という言 葉 は用 い
ず、右 回 り ( または左 回 り) ということにしている。
なお、現 代 のようにデジタル時 計 などが現 れれば尚 更 のことで、時 計 に針 があると
いうことは一 種 の先 入 観 かあるいは固 定 観 念 でしかない。
もともと、時 計 の歴 史 を考 えればわかる通 り、元 来 は日 時 計 、水 時 計 などとして発
展 し、現 在 でも砂 時 計 などはよく日 常 用 いられる。
更 に時 間 の基 準 として用 いられているものは原 子 時 計 であり、これらには何 れも針
などはない。また、特 殊 な目 的 では針 が左 回 りに回 転 するように作 られた時 計 * すら
存 在 する。大 袈 裟 に言 えば、一 つの事 物 に対 して固 定 観 念 をもつことは科 学 の進
歩 を阻 害 するので好 ましくないと言 えよう。
*理 髪 店 用 として鏡 に写 した時 計 で客 が時 刻 を知 るように作 製 したもので、この場 合 は文 字 も
すべて左 右 反 対 となる。(シチズンの子 会 社 で特 注 している)
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7.子 供 の遊 び
7.1 遊 園 地
当 時 ( 昭 和 初 期 ) には東 京 には現 在 程 多 くの遊 園 地 はなく、大 きなものは豊 島 園 、
丸 子 多 摩 川 園 、少 し後 に二 子 玉 川 園 、少 し小 さいが浅 草 の花 屋 敷 くらいであっ
た。
私 は住 居 の関 係 で主 として丸 子 多 摩 川 園 と二 子 玉 川 園 に行 った。この両 園 には
当 時 としては珍 しいものがあったので書 き留 めておきたい。なお、両 園 ともに現 在 は
存 在 しない。
丸 子 多 摩 川 園 は 現 在 の東 急 東 横 線 お よび 目 蒲 線 の多 摩 川 園 と言 う 駅 名 として
残 っている。
ここには有 名 なものが 2 つあった。一 つは、大 山 すべりという当 時 としては長 い
(50m 以 上 ) 木 製 の直 線 型 で途 中 に凹 凸 のある滑 り台 があった。落 差 は比 較 的 大 き
いので、滑 り下 りたときは相 当 なスピードであった。
もう一 つは、高 さ数 m の位 置 からボート形 で車 の 4 個 付 いた車 に乗 り、円 形 に近
い軌 道 を回 りながら 下 って地 上 で止 まるような 乗 物 に人 気 が あった。こ れ が多 分 現
在 のコースターの原 形 であると考 えられる。
二 子 玉 川 園 は、現 在 の東 急 田 園 都 市 線 および大 井 町 線 の二 子 玉 川 という駅 の
近 く の 多 摩 川 畔 に あ っ た 。 こ こ で は 戦 時 中 に 落 下 傘 塔 と い う も の が あっ た 。 地 上 で
開 いた落 下 傘 に人 が吊 され、これがそのままロープで高 さ 50m くらいまで持 ち上 げ
ら れ 、 そ こ か ら ロ ー プ に 沿 っ て 傘 は開 い た 形 で通 常 空 中 を 落 下 す る 状 態 に 近 い 状
態 で落 下 す る装 置 で あ った。高 所 恐 怖 症 の 私 などは地 上 から 眺 めて いるだけで あ
ったが、元 気 のよい人 々には人 気 があった。
そ も そ も 当 時 の 戦 争 では 落 下 傘 部 隊 * の 活 躍 が 有 名 で あっ た ので 、 その 疑 似 体
験 と言 うことで作 られたものであった。戦 後 この遊 園 地 はなくなったが、読 売 ランド *
*
に一 時 落 下 傘 塔 ができたが、これも現 在 なくなってしまった。
*当 時 の軍 歌 として「空 の神 兵 」という歌 があった。(梅 木 三 郎 作 詩 、 高 木 東 六 作 曲 )
**二 子 多 摩 川 園 も読 売 ランドも読 売 新 聞 社 の経 営 である。
また、二 子 玉 川 園 には東 京 で一 番 目 か二 番 目 に大 きなジェットコースターができ
人 気 を集 めていた。浅 草 の花 屋 敷 には遊 びに行 ったことはなかったが、中 学 5 年
生 の頃 、疎 開 により取 り壊 しが行 われ、その工 事 に勤 労 動 員 されて、お化 け屋 敷 な
どを壊 した記 憶 がある。
121
7.2 四 季 の行 事
子 供 特 に主 として小 学 校 時 代 で、四 季 折 々に行 われた行 事 の中 から思 い出 に
残 る、珍 しかったり面 白 かったものを記 しておこう。
先 ず 2 月 には初 午 と節 分 の行 事 があった。当 時 大 井 町 森 下 町 で借 家 に住 んで
いた我 々子 供 達 が初 午 の日 に大 家 の家 に招 かれ、お菓 子 や果 物 などをいただき、
手 品 などの面 白 い催 物 を見 せられ楽 しい思 い出 となつた。なお、この大 家 の家 の
庭 は広 く、中 にお稲 荷 様 が祭 ってあった。
また、初 午 前 後 に節 分 があり多 くの家 庭 では豆 まきを行 ったが、我 家 の豆 まきは
大 変 変 わっ たもので あ った。一 般 的 には 大 豆 をまくもの で ある が、 私 の家 では 大 豆
の代 わりに殻 付 き南 京 豆 (ピーナッツ)に加 えて、キャラメル、玉 チョコレート、蜜 柑 な
どを混 ぜて投 げていた。後 でこれを拾 って食 べることが大 きな楽 しみであった。
7 月 には各 地 で盆 踊 りが行 われるが、私 が初 めて見 た盆 踊 りは、昭 和 10 年 頃 大
井 町 の JR 大 井 工 場 の傍 にある高 台 の空 地 で現 在 と同 じ形 式 で行 われた。このとき
初 めて現 在 の「 東 京 音 頭 」 * が踊 られたので、私 にとっては「東 京 音 頭 」が盆 踊 りの
代 表 的 な踊 りとして印 象 づけられた。これは現 代 の「炭 坑 節 」と同 価 値 と考 えられ
る。
* 東 京 音 頭 は一 種 の東 京 の民 謡 。 西 条 八 十 作 詞 、 中 山 晋 平 作 曲 ( 最 初 は「 丸 の内 音 頭 」 と
言 われ、昭 和 8 年 に改 作 されて現 在 のも のとなる)
また、7 月 には二 子 玉 川 の花 火 大 会 に毎 年 伯 母 一 家 と一 緒 に見 物 に行 って楽 し
んだ。この日 、玉 川 畔 は大 変 な混 雑 なので日 が暮 れない中 に出 かけ場 所 取 りをし
て、用 意 し ていった夕 食 、茶 菓 な どを食 べながら空 を見 上 げる状 態 であった。 中 に
は早 くから来 て花 火 が上 るまで退 屈 なために、ポータブルの蓄 音 機 ( 今 のプ レーヤ ー)
を持 参 して、レコードを聴 いている観 客 もあった。
8 月 の学 校 の 夏 休 み には、 我 家 では江 の 島 の鈴 木 屋 旅 館 に 数 日 間 宿 泊 して、
海 水 浴 を楽 しむことが多 かった。当 時 は江 の島 に渡 る橋 が木 製 で、途 中 踏 み板 が
所 々で破 損 して穴 となり下 の海 が見 えたりして、おそるおそる渡 った記 憶 がある。
このような粗 末 な桟 橋 であったため、海 が荒 れたりして帰 れなくなることもあったらし
く、そのような場 合 には陸 から島 に既 に渡 っていた人 々が陸 に戻 れなくなり、島 の旅
館 に宿 泊 しなければならなくなった。島 の旅 館 の増 収 になるという理 由 で、桟 橋 を
堅 固 なものに造 り変 えなかったという話 を聞 いたことがある。
しかし、戦 争 中 にはこの島 も敵 の攻 撃 に備 えての要 塞 と化 し、戦 車 などが通 行 で
きるように強 固 なコンクリートの橋 となって現 在 に至 っている。
その 他 、 夏 休 みには しばし ば 小 学 校 の校 庭 で映 画 会 が 催 さ れ、 手 足 を蚊 に 刺 さ
122
れ団 扇 であおぎながら観 たが、当 時 は無 声 (サイレント)映 画 も多 く、弁 士 の活 弁 を
聞 きながら見 たのも懐 かしい記 憶 である。
10 月 に入 って、陽 気 も少 し寒 くなってきた 10 月 12 日 には池 上 本 門 寺 (日 蓮 宗 )
のお会 式 がある。この日 には東 京 および近 県 各 地 より信 者 がうちわ太 鼓 を打 ち「南
無 妙 法 蓮 華 経 」と唱 えて、万 燈 を持 って参 詣 する慣 わしとなっている。
万 燈 には図 のように紙 で作 った花 を傘 状 に配 したものや、人 の形 、野 菜 の形 、魚
の形 などさまざまな張 り子 に照 明 をつけたものが 100 基 以 上 も行 列 を作 り、大 井 町
駅 から鹿 嶋 神 社 前 を通 り、大 森 を経 由 して池 上 へと進 む。この行 列 が仲 々面 白 く
壮 観 であるので、毎 年 この沿 道 にある大 井 町 で最 も大 きな食 料 品 店 ( 津 多 屋 ) の 2
階 の座 敷 を借 りて、家 族 皆 でここから見 物 することが非 常 に楽 しく、毎 年 この日 がく
るのを楽 しみに待 った。
この他 、お正 月 には羽 根 つき、凧 揚 げ、3
月 にはひな祭 り、5 月 には端 午 の節 句 、7 月
には七 夕 飾 り、9 月 にはお月 見 (仲 秋 の名 月 ) 、
12 月 はクリスマスなどは年 中 行 事 として種 々
楽 しみがあったが、これらは現 在 でも多 くの家
庭 で行 われていて、昔 も今 もあまり変 わりはな
い。
ただし、大 晦 日 (12 月 31 日 ) は私 の誕 生 日
であるので、この日 は私 にとっては他 の人 々と
は異 った特 別 な意 味 と楽 しさがあった。
昭 和 20 年 頃 までは母 子 手 帳 など無 いので、
図 8 お会 式 の万 灯
法 律 上 誕 生 日 を事 実 と少 し変 えることもできた。
特 に 12 月 31 日 については余 り感 じがよくないので 1 月 1 日 にして届 け出 た人 が
多 く、したがって 12 月 31 日 の誕 生 日 は珍 しいと言 われる。私 の祖 父 の考 え方 では、
生 年 月 日 から嘘 の届 けをすれば、その人 間 は一 生 嘘 つきの人 間 になってしまうとい
う意 見 で、正 直 に正 しい日 付 を届 け出 たとのことであった。
123
第Ⅳ編 戦後アルバイトと地域活動
Ⅰ.アルバイト
1. ラジオ修 理
戦 後 の東 京 は食 糧 は勿 論 のこと、その他 の物 資 もすべて欠 乏 し、ラジオなども故
障 してしまうと修 理 の部 品 もほとんど入 手 困 難 であった。また空 襲 により広 範 囲 が戦
火 で焼 失 し、電 気 店 などもほとんどなくなり修 理 はほとんど不 可 能 であった。私 はた
またま真 空 管 他 の部 品 類 を比 較 的 多 数 保 存 していたので、知 人 などから依 頼 され
た修 理 にこれを活 用 して間 に合 わせることができた。
これはあくまでも収 入 を目 的 としたものではないので修 理 費 をいただかず、その代
わりとして当 時 不 足 していた食 品 とか外 国 タバコなどをいただいていた。現 代 のラジ
オやテレビはすべて IC などの半 導 体 部 品 回 路 のため、我 々プロでないものには手
がつけられないのが残 念 である。
2. 著 述
学 生 時 代 に松 田 ( 栄 ) 教 授 から、同 教 授 が何 年 も前 に著 した参 考 書 を、昭 和 23
年 当 時 の教 育 内 容 に合 うように改 訂 したいとのことで、私 が改 訂 版 の原 稿 の作 成
を依 頼 され た。ところが この参 考 書 は偶 然 にも、私 が東 京 高 師 を受 験 するときに役
立 つようにと 思 って父 が購 入 してきてくれたものであった。これを用 いて受 験 し入 学
したも のが 今 度 は立 場 を逆 にし て 改 訂 版 を 書 くこ とに なり 、 何 か の 因 縁 を 感 じ 一 所
懸 命 に立 派 な内 容 にすべく努 力 した。
学 生 時 代 はこれだけであったが、当 時 から面 識 のあった東 京 学 芸 大 学 の宇 井 (芳
雄 ) 教 授 からの依 頼 で、小 山 台 高 校 に就 任 した 2 年 目 (昭 和 25 年 9 月 ) に大 学 受 験
新 書 「物 理 学 」という参 考 書 を共 著 で千 代 田 書 房 から出 版 した。
私 の 氏 名 を 表 示 し た 単 行 本 が 出 版 さ れ た の は こ れ が 初 め て で あり 、 今 か ら み る と
不 十 分 、不 完 全 な部 分 もあるが、反 対 に現 在 高 校 で扱 わなくなった部 分 では相 当
専 門 的 に、または学 問 的 に深 く詳 解 した部 分 もあり、自 分 自 身 で今 でも勉 強 になる
ところもある。
124
3. 非 常 勤 講 師
1)定 時 制 高 校
昭 和 25、26 年 頃 小 山 台 高 校 定 時 制 の物 理 の授 業 を週 2 日 出 講 した。この場 合
は日 中 の全 日 制 の勤 務 を終 了 した後 、午 後 5 時 30 分 より 6 時 20 分 まで 1 駒 教
授 し、給 食 により夕 食 をとり、6 時 50 分 から 2 駒 教 授 した。
この頃 は現 在 と異 り、 生 徒 の学 力 はそれ程 低 くなく、熱 心 な生 徒 が多 数 であった。
特 に小 山 台 高 校 の生 徒 は、定 時 制 の都 立 の中 では優 れているとの定 評 があった
ので、教 えることに特 別 な苦 労 はなかった。
次 に昭 和 49 年 度 の都 立 松 原 高 校 で、定 時 制 の 4 年 生 1 クラスの授 業 を週 1 日
だけ担 当 した。このときは都 立 明 正 高 校 に勤 務 していたので、その勤 務 を終 了 して
から電 車 ( 東 急 世 田 谷 線 ) を用 いて通 勤 した。
このクラスは松 原 高 校 でも最 も大 変 なクラスで、種 々の問 題 を起 した生 徒 が多 か
った。自 分 のことは学 校 で調 べるより警 察 に行 って聞 いた方 がよくわかるなどと平 気
で言 うような生 徒 や、全 日 制 で事 件 を起 こしてやむなく編 入 された生 徒 や、昼 間 の
アルバイトで教 師 より収 入 月 額 が多 いことを自 慢 する生 徒 などがいて、経 済 的 な理
由 から定 時 制 で学 習 する生 徒 はむしろ少 数 であった。
このような クラスのために多 くの教 師 は授 業 に 非 常 に困 難 を感 じていたようであつ
た。しかし私 は話 術 と実 験 などを適 切 に用 いて生 徒 の興 味 を起 させ、授 業 にあきず
に集 中 させることができた。
テストの成 績 なども結 構 良 好 であり、5 段 階 評 価 をすると 30 人 位 のクラスで 5、4、
3 で 2 は 1 名 位 しか生 ぜず、単 位 を失 格 するようなものは 1 人 もなかった。授 業 も多
少 遅 刻 者 はあるが、最 後 まで充 実 させることができたので、他 の先 生 の指 導 方 法 と
か指 導 力 に問 題 があるのではないかと思 われた。
夕 食 については学 校 の食 堂 が小 さく、多 くの生 徒 の長 い行 列 ができ、休 憩 時 間
に食 事 をとることが困 難 であったので、授 業 がすべて終 った後 の 9 時 頃 に外 食 をし
ていた。しかし無 意 識 ではあっても授 業 にはストレスが多 く、食 事 時 間 も不 適 切 なた
め途 中 で十 二 指 腸 憤 瘍 になり、治 療 しながら勤 務 を全 うした。
なお、この学 校 の全 日 制 の物 理 には、私 の小 山 台 高 校 時 代 の卒 業 生 が教 師 とし
て勤 めていた。
2)東 京 学 芸 大 学 付 属 世 田 谷 中 学 校
昭 和 37 年 前 より当 中 学 校 で理 科 (第 1 分 野 ) を担 当 されていた大 湾 政 仁 先 生 (東
京 高 師 の先 輩 ) が病 気 休 職 されたので、その補 充 に中 学 校 長 ( 森 先 生 ) より小 山 台 高
校 長 (斉 藤 先 生 ) へ講 師 派 遣 の依 頼 があり、私 が指 名 された。
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私 の住 居 がたまたま当 中 学 に比 較 的 近 く、近 所 に当 中 学 の理 科 (第 2 分 野 担 当 )
の東 氏 がいて、朝 の通 学 にはその先 生 の車 に便 乗 できたので引 き受 け、小 山 台 の
研 究 日 の日 (週 1 日 ) に理 科 第 1 分 野 を 2 年 生 3 クラス (1 クラスは 50 分 ×2 回 ) で朝
8 時 30 分 から午 後 3 時 まで、昭 和 42 年 までの 5 年 間 勤 務 した。非 常 勤 講 師 とし
ては長 い方 であった。
こ こ の 生 徒 は 選 抜 さ れ て 入 っ た エ リ ー ト の 集 団 で ある の で 、 授 業 に 極 め て 熱 心 で
理 解 も速 く、応 用 力 も大 きく、活 発 で質 問 も多 い。テストでは中 学 レベルの問 題 の
み出 題 すると平 均 点 が 90 点 をこえてしまうので、必 ず 1 題 は高 校 での中 間 、期 末 テ
ストに適 当 な問 題 を出 題 してやっと平 均 点 が 80 点 位 にすることができた。
数 学 などは中 学 3 年 では高 校 1 年 の内 容 を教 授 し、問 題 集 も小 山 台 高 校 の 1
年 生 が用 いている数 研 の問 題 集 を使 用 していた。
この中 学 は学 芸 大 付 属 であるから毎 年 教 育 実 習 があり、理 科 にも必 ず 4、5 名 の
実 習 生 が来 て 2 週 間 位 実 習 し、私 は講 師 ではあったが指 導 教 官 を務 めた。この間
指 導 した生 徒 の中 には甚 だ不 熱 心 な者 がいた。その反 対 に極 めて優 秀 でプロ並
み ま た は それ 以 上 と 思 わ れ た 抜 群 の 生 徒 が いた 。 そ れ が現 在 十 文 字 学 園 女 子 大
教 授 の井 口 磯 夫 君 であった。また、」この学 校 では毎 月 保 護 者 参 観 日 があり、講
師 の私 の授 業 にも 20 名 以 上 の主 として母 親 が参 観 に来 ていた。有 閑 夫 人 が多 い
証 拠 であろう。
私 はこの 5 年 間 理 科 の先 生 は当 然 として、数 学 の小 松 先 生 、音 楽 の田 中 先 生 と
特 に懇 意 に していただき、冬 など 皆 ですきや きパーティ ーを校 内 で 開 いたのが 楽 し
い思 い出 である。また、途 中 で校 長 が森 先 生 から宇 井 先 生 (参 考 書 共 著 の先 生 )に
変 わられ、私 としては一 層 具 合 が良 かった。なお、この中 学 の制 服 の上 着 は男 女 と
もに背 広 で、私 の中 学 (第 2 東 京 市 立 中 学 ) と全 く同 じなので懐 かしかった。
3)桐 蔭 学 園
昭 和 41 年 度 と 42 年 度 は、私 立 桐 蔭 学 園 の鵜 川 校 長 (元 小 山 台 高 校 補 習 科 主 任 )
の依 頼 で 3 年 生 の物 理 を週 1 回 1 クラス担 当 した。今 でこそ大 学 (特 に東 大 ) 進 学
率 が高 く (全 国 ベストテン入 り) 有 名 であるが、当 時 は創 立 (昭 和 39 年 ) 3 年 目 の初 めて
の 3 年 生 であり、学 校 生 活 の指 導 は厳 しく学 習 態 度 は立 派 であったが、学 力 の面
では当 時 の都 立 高 校 より低 い状 態 であった。
こ の 学 校 は講 師 の 採 用 に 当 た っ ても鵜 川 校 長 は 当 然 と して 、 創 立 者 で ある 柴 田
周 吉 氏 ( 当 時 三 菱 化 成 社 長 ) の承 諾 が必 要 であった。そのためと思 われるが、柴 田 氏
自 身 で私 の授 業 を参 観 に来 られ 30 分 近 く視 ていかれ、後 で教 頭 から聞 いたところ
によれば、ひどく感 心 され満 足 されていたとのことであった。
126
この学 校 では授 業 以 外 のことについて大 変 感 心 することが 3 点 あった。
第 1 点 は、清 掃 が極 めてゆき届 いていることである。校 内 のどこにも紙 片 の 1 つも
落 ちていず、ガラスは薬 品 (グラスター)で磨 き上 げられ、私 などはガラスが見 えず窓
が開 放 され ているものと 勘 違 いし て 頭 をガラス に衝 突 させ たことが何 回 もあり、 校 長
に注 意 されるほどであった。これらは各 担 任 が率 先 して全 生 徒 を指 揮 して実 行 して
いるようで、私 の見 た範 囲 では予 備 校 を除 いて東 京 第 1 であろうと思 われる。
第 2 点 は、私 が食 堂 (生 徒 ・職 員 共 用 ) で昼 食 をとっていると、全 く私 を知 らない男
子 中 学 生 などがお茶 を入 れて持 ってきてくれるというようなことが普 通 に行 われてい
る。
第 3 点 は通 学 バス(小 田 急 所 属 のスクールバス)はどんなに混 雑 していても私 (教
師 )が入 ってくると必 ず席 を空 けてくれることであった。
以 上 3 点 をみてもいかに学 校 における躾 が行 き届 いているかがわかり非 常 に感 銘
した。
なお、この学 校 は創 立 以 来 、朝 8 時 10 分 ( または 20 分 ? ) に「君 が代 」演 奏 (テー
プ)と共 に国 旗 を掲 揚 し、職 員 ・生 徒 はいかなる場 所 にいても(屋 内 ・外 を問 わず)掲
揚 塔 の方 を向 いて静 止 しなければならない規 則 となっていた。だからといって決 して
国 家 主 義 的 、右 翼 的 教 育 をして いるわけで はない。個 性 を尊 重 し 、個 人 の態 力 を
最 大 限 発 揮 させることをすべての主 眼 にした教 育 を行 っている。
私 の勤 務 している 2 年 間 に実 験 設 備 などもおおよそ充 実 され、私 は通 勤 にも相
当 な時 間 がかかったので昭 和 43 年 3 月 に辞 任 することにした。後 任 には教 育 大 物
理 科 出 身 の佐 藤 氏 が着 任 した。
4. 家 庭 教 師
職 業 柄 学 生 時 代 か ら 先 生 、 友 人 、 知 人 な どか ら 家 庭 教 師 の 依 頼 を受 け る こ と が
多 かったので自 分 から探 し求 めることはなかった。
教 える科 目 は、中 学 生 では主 に数 学 、高 校 生 では物 理 であった。なお、自 分 の
勤 務 する学 校 に在 学 中 の生 徒 は対 象 としないのが原 則 である。以 下 教 えた人 数 の
みを記 すと次 のようになる。
中 学 生 (男 4 名 、女 2 名 )
大 学 生 *(男 1 名 )
高 校 生 (男 3 名 )
大 学 受 験 生 (男 1 名 )
旧 制 高 校 生 * * (男 1 名 英 語 、数 学 )
127
*
日 本 大 学 工 学 部 建 築 科 1 年 生 (テスト直 前 のみ)物 理 の熱 力 学
**旧 制 成 蹊 高 校 1 年 生 (夏 休 み中 )
数 学 は高 等 三 角 法 (三 角 関 数 )
英 語 はサイ ドリーダー(白 鯨 )
この他 、隣 近 所 の人 々で随 時 質 問 に来 る生 徒 は数 名 あった。
第 Ⅲ編 編 集 完 了 後 見 付 かった資 料
ページの乱 れを避 けるた め,この空 きスペースに追 加 する。
戦 前 の山 中 小 学 校
現 在 の山 中 小 学 校
128
Ⅱ.地 域 活 動
1. 住 宅 調 査
戦 後 は復 員 軍 人 と外 地 からの引 揚 者 などで東 京 の人 口 は急 激 に増 加 したが、そ
れに反 して二 度 にわたる東 京 大 空 襲 により多 数 の住 居 が焼 失 し、都 の住 宅 不 足 は
深 刻 な状 態 となった。 そこで畳 数 が居 住 人 数 に対 して余 裕 のある家 には、半 ば強
制 的 に住 宅 困 窮 者 を住 まわせるという政 策 が作 られた。
そのために住 宅 状 況 を調 査 する法 律 ができ、各 区 役 所 を通 して特 定 の人 に調 査
員 を依 嘱 した。我 が家 では父 が依 嘱 されたが父 も年 令 上 負 担 が大 きいので、私 が
代 行 することにした。
仕 事 は 割 り当 てら れ た区 画 内 の 家 屋 をすべ て巡 回 し 、 各 家 屋 に入 り直 接 畳 数 と
居 住 者 氏 名 を確 認 して一 覧 表 にして報 告 することであった。私 の居 住 していた付
近 は比 較 的 高 級 住 宅 街 であったため、余 裕 のある家 も比 較 的 多 かったように思 う。
今 記 憶 している人 々の中 には、三 谷 侍 従 長 とか竹 内 三 菱 石 油 社 長 などが住 んで
いたが何 れも質 素 な生 活 であった。
この調 査 の結 果 がい かに有 効 に 活 用 されたかは明 らか でなかった。今 ではこのよ
うなことはプライバシーの侵 害 となり、とても実 行 できるものではない。当 時 はこのよう
な こ と に も 反 対 も な く 、 調 査 に 行 っ ても 拒 否 す るよ う な 家 はな く 、 「 ご 苦 労 様 で す 」 な
どと言 われたり、茶 菓 まで振 舞 って下 さる家 庭 もあった。
これにより私 はどこにいかなる人 が住 んでいるかを知 ることができたが、これは職 務
上 の秘 密 事 項 であることは勿 論 である。たまたま私 が町 会 事 務 所 にいたとき前 の路
を通 りかかった人 がある人 の家 への道 を尋 ねて来 た。私 がその道 を教 えてあげた上
で、その家 の誰 に会 いたいのかを尋 ねたら A さんということであった。ところが私 はこ
の調 査 により A さんという人 を知 っており、さき程 この人 は駅 へ出 て電 車 で外 出 した
ことを知 っていたので、その旨 教 えてあげると尋 ねた人 は驚 いていたがやむなく戻 っ
て帰 られた。
このような状 況 でこの調 査 以 後 町 の中 の人 々を沢 山 知 り、多 くの人 々と挨 拶 を交
わすようになった。なお、この調 査 で都 から僅 かの謝 礼 金 と粗 末 な木 製 長 方 形 の盆
をいただいた。
2.学 生 会
昭 和 23 年 頃 近 隣 の付 き合 いの中 で 1 人 の学 生 と知 り合 い、その学 生 と私 がたま
たま音 楽 (主 とし てクラシック) が好 きであり、その学 生 からの口 コミにより町 内 で音 楽 好
129
きの学 生 が互 いに親 しくなった。いつの間 にか皆 で集 まってコーラスの会 でもやろう
という話 がまとまり、会 場 はこの中 でピアノのある家 を毎 週 土 曜 日 の夕 食 後 をお借 り
して集 うことにして、クラシックのコーラスの会 が発 足 した。
会 のメンバーは旧 制 の専 門 学 校 、大 学 の学 生 であり、東 大 や慶 大 *などの学 生
はそれぞれの大 学 のオーケストラや合 唱 団 に所 属 していた。女 性 は音 楽 学 校 ( 国 立 、
武 蔵 野 ) の学 生 であり、音 楽 について全 くの素 人 は私 を含 めて数 人 であった。
* 東 大 オー ケストラ の岸 氏 (農 学 部 大 学 院 )
慶 大 ワグナ ーソサイティー中 原 氏
ただ 1 人 例 外 としてチェロを習 っていた高 校 生 富 沢 数 馬 君 がいた。彼 は、現 在 は
チェロの演 奏 家 として海 外 で活 躍 している。したがって、大 多 数 の人 は楽 譜 を初 見
で歌 う こと が できた。 私 などは自 宅 のピア ノを 用 いて きち んと 予 習 を して 出 席 す る有
様 であったが、全 く楽 しい土 曜 日 であり毎 週 この日 が待 ち遠 しかった。
何 の曲 を歌 ったかは記 録 がなくてわからないが、初 めのうちはなるべく平 易 なも の
(?)と言 う意 味 で、野 ばら、アベマリア、子 守 歌 などの外 国 歌 曲 を歌 っていた。しか
し、この当 時 各 人 は学 校 の卒 業 に近 い時 期 (東 大 の人 は農 芸 化 学 の大 学 院 生 ) であっ
たので、1 年 くらいで卒 業 後 住 居 が離 散 し、自 然 消 滅 してしまったのが大 変 残 念 で
惜 しまれる。
なお、この会 の運 営 を町 内 の渡 辺 さんがバックアップして下 さり、続 けられたことを
感 謝 したい。この集 まりはコーラス以 外 にも種 々のコミュニケーションに役 立 ったので、
我 々の 間 で は「 学 生 会 」 と言 う 名 称 をつけて呼 ぶこと にして いた。なお 、 私 はこの 会
を通 して 発 声 の 基 礎 や 合 唱 の歌 い 方 などを学 習 し、 中 学 での音 楽 的 素 質 に一 層
の磨 きをかけることができた。
3.町 会 役 員
前 項 2 に記 した学 生 会 を母 体 にして、これを町 会 ( 目 黒 区 中 根 町 会 ) の文 化 部 に
発 展 させたいとの町 会 長 の意 向 により、私 が町 会 の文 化 部 代 表 ( 役 員 ) に指 名 され、
町 会 の役 員 会 に出 席 することになった。
ところが、私 にとって初 の役 員 会 に出 席 してみると私 は 24 才 であり、町 会 長 は 70
才 近 く、他 の役 員 も皆 50 才 代 以 上 であり、私 は思 うように発 言 できず身 の縮 まる思
いをした。その中 私 も就 職 して社 会 人 となってしまい、文 化 部 からも身 を引 くように
なり、文 化 部 の活 動 は停 止 してしまったものと思 われる。
130
第Ⅴ編 忘れ残りの記
1.私 とカメラとの出 会 い
我 が家 には私 が生 れた時 から 1 台 のカメラがあった。これは多 分 父 が大 正 時 代 に
入 手 したものと思 われる。箱 形 直 方 体 でその一 面 を直 角 に開 くと蛇 腹 がついた形
で、現 在 のフイルムではなくガラス製 の乾 板 (ガラスの一 面 に感 光 乳 剤 を塗 布 したも
の)をはめ、シャッターをきって撮 影 するものである。レンズは暗 くシャッターは遅 くカ
メラの初 期 のものであった。私 が子 供 の頃 には既 にこのカメラは破 損 していて使 用
不 能 であったが、これで撮 影 した写 真 は今 でも数 枚 セピア色 に変 色 して残 されてい
る。
私 が手 にとって直 接 使 用 できたものは、中 学 1年 生 の頃 兄 がもっていた、小 西 六
写 真 工 業 製 のパーレット(Pearllette)という国 産 の初 期 の単 純 なものであった。レン
ズは固 定 焦 点 で(F:6.3)、距 離 を合 わせる必 要 はなく、シャッターは 1/25∼1/100
秒 で、写 真 の大 きさはベスト判 (4cm×6.5cm)であった。非 常 に原 始 的 で単 純 な構
造 なので、よい写 真 などとても写 せないものと思 い込 んでいた。
ところがある時 、それが私 の力 の不 足 によるもので
あることがはっきり自 覚 でき、このカメラも捨 てたもので
はないことがわかった。そ れは知 人 の 家 で見 せてもら
ったある一 冊 の写 真 の本 であった。これこそその名 も
「パーレット画 集 」という厚 手 のグラビアの当 時 として
は(現 代 からみても)豪 華 な本 であった。
この本 には沢 山 のポートレート、風 景 などが掲 載 さ
れていたが、何 れも相 当 高 級 なカメラで撮 影 されたも
のの如 くであり、私 が特 に注 目 して今 でも強 く印 象 づ
けられているのは銀 座 の夜 景 であった。これなどはと
ても安 価 な単 純 なカメラでは不 可 能 と思 われる程 の
美 しいものであった。
これは撮 影 者 の技 術 とセンスが素 晴 しいことは勿
論 であるが、パーレットも当 時 としては相 当
パーレットカメラ
なものであるといえる。私 としてもこのカメラでこの本 に近
い写 真 を と ってみたい と思 って 努 力 してみた が、 残 念 な がら思 う よう にはいか な かっ
131
た。
中 学 4 年 生 になった頃 、ドイツ製 の高 級 カメラ(カール・ツァイス製 のツァイス・イコ
ン)をもった友 人 があり、遠 足 の折 に持 参 し撮 影 した素 晴 しい写 真 を羨 望 の眼 で眺
めたものであった。当 時 (昭 和 10 年 代 )はまだカメラをもっている人 々は少 く、その
中 では特 に外 国 製 * をもっている人 は極 めて珍 しい時 代 であった。
*当 時 の外 国 製 の代 表 的 なものはドイツのカール・ツァイス社 のもの。
私 も国 産 でもよいから少 しは近 代 的 なカメラを望 んでいたが、やっとセミライラ
(Semi Lyre 富 士 光 機 製 ) というカメラが入 手 でき、私 の技 術 をもってしても前 のパ
ーレットよりは見 栄 えのする写 真 をとることができた。
ところが私 の志 向 は当 時 「私 の
歩 んだ道 」にも記 したように気 象
学 に向 いていたので、特 に気 象
現 象 として雲 の写 真 の撮 影 を中
心 とした。その中 でも最 も気 に入
ったものは積 乱 雲 (入 道 雲 )であ
った。雲 の撮 影 には赤 色 フィル
ターを用 いると一 層 鮮 やかに際
立 たせることができることをはじめ
て知 った。
なお、雲 に興 味 を抱 いた直 接
の原 因 は、理 科 の授 業 中 に先
生 から「雲 」という写 真 集 (岩 波
版 、藤 原 咲 平 写 )を見 せられたことで
セミライラ
あった。この写 真 集 は日 本 初 の最 高
の雲 の写 真 集 であり、現 在 でもその価 値 は失 われない。
この頃 から第 二 次 世 界 大 戦 がはじまり、写 真 のフイルムなども大 半 が軍 需 用 となり、
一 般 の人 々に市 販 される量 は僅 少 となり、雲 の写 真 などに大 量 のフイルムを用 いる
ことなどは難 しくなった。
また、更 に日 本 への米 軍 の空 襲 が盛 んになると、B29 爆 撃 機 などは当 時 の日 本
の航 空 機 が上 昇 できない高 空 高 さ 10km 程 度 の所 を飛 行 することが多 く、この付 近
では水 蒸 気 の過 飽 和 状 態 が多 いの で、しば しば 細 長 い 飛 行 機 雲 を作 っ て飛 行 す
ること が 日 常 茶 飯 事 と なってし まっ た。 それ まで の日 本 では ほと んど 見 られ なか っ た
132
この雲 に魅 せられ多 数 撮 影 した。
次 は前 述 した積 乱 雲 と関 連 した気 象 現 象 としては当 然 雷 ということになる。したが
って雷 (空 中 放 電 ) の 電 光 ( 稲 妻 ) の写 真 の 撮 影 を 試 み た。これは 出 現 す る位 置 と
時 刻 が不 定 であり、しかも夜 間 雨 の中 での撮 影 ということで、その撮 影 は相 当 難 しく、
運 に左 右 されることが多 い。
まず、しばらく何 回 かの電 光 を見 て、出 現 頻 度 の高 い方 向 を見 定 め、三 脚 にセッ
トし たカ メ ラ をそ の 方 向 に向 け 、 周 囲 から の 光 がカ メ ラに 入 ら ぬ よ うに 工 夫 し 、シ ャッ
ターを B(バルブ)にして電 光 の発 生 を待 つ。設 定 した方 向 に現 れたときはそのカメ
ラの視 野 に 入 ったものとみなしてシャッターを閉 じ、フイルムを回 して、このようなこと
を何 回 も繰 り返 す。
このようにすると私 の経 験 では 36 枚 の写 真 で数 枚 の電 光 が写 る。したがって、予
めフィルムの大 部 分 が無 駄 になることを承 知 の上 で撮 影 するほか方 法 がない。特 に
雷 が近 づいたときに写 す必 要 があるので、撮 影 場 所 に落 雷 しないように適 切 な場
所 を選 定 しなければならない。
なお、当 然 のことながら、電 光 は雷 鳴 よりも早 いので、雷 鳴 が聞 こえてから電 光 の
方 向 を探 しては手 遅 れである。
当 時 見 事 に撮 影 された写 真 を 4 っ切 に引 き伸 ばして雷 の研 究 者 * 中 谷 宇 吉 郎
氏 と、中 央 気 象 台 ( 現 気 象 庁 ) の 予 報 課 雷 雨 係 宛 に 送 ったところ、 気 象 台 の 雷 雨
係 長 から自 筆 の鄭 重 な礼 状 をいただき大 変 嬉 しかった。
*当 時 北 海 道 大 学 教 授 で雪 の研 究 で有 名 。
これら雲 、雷 の写 真 は残 念 ながらフイルムと共 に昭 和 20 年 5 月 25 日 の東 京 大
空 襲 火 災 ですべて焼 失 してしまい、手 元 に一 つも記 録 がないのが残 念 である。この
他 顕 微 鏡 写 真 については「私 の歩 んだ道 」に記 した通 りで、自 作 品 が使 用 する前
の段 階 で終 ってしまった。
(参 考 )雷 の写 真 の撮 影 については、岩 波 新 書 :雷 (中 谷 宇 吉 郎 )が参 考 になる。
戦 後 日 本 のカメラも世 界 的 になり、昭 和 30 年 当 時 のアメリカのカタログでも、カメラ
の項 をみると最 初 にドイツのライカと並 んで日 本 のニコンとキヤノンが掲 載 されてい
た。
私 も昭 和 25 年 以 降 種 々のカメラを用 いてみたが、その中 1 つだけ特 殊 なものを
記 しておく。
これは「エコー8」という盗 み撮 りカメラで、ライターの形 をし、ライターの機 能 も備 え
て い る が 、 中 に カ メ ラ ( レ ン ズ と フ ィル ム ) が 組 み 込 ま れ て い て 、 撮 影 し た い 方 向 に レ
ンズを向 け、タバコに火 をつける格 好 をして、点 火 の際 の発 火 石 を廻 すと同 時 に
133
シャッターが切 れる仕 掛 となっていた。
写 真 の大 きさは 8mm×8mm の正 方 形 で、レンズ
は F8 程 度 の固 定 焦 点 で、比 較 的 暗 いので、当 時
のフイルムの感 度 では相 当 明 るい場 所 でないと鮮
明 な写 真 が撮 れなかった。
なお、このライター形 カメラは、当 時 「ローマの休
日 」という映 画 の中 で主 演 女 優 のオドリー・ヘップ
バーンが用 いたので有 名 になった。現 在 では旅 行
などの折 にスナップ写 真 を撮 る程 度 で、簡 便 なカ
メラを用 いるのみとなった。
2.ラジオと私
中 学 1年 生 時 代 (昭 和 10 年 代 前 半 )は少 年 達
の間 にはラジオに対 する関 心 が広 く、それらに関
す る 書 籍 も多 数 出 版 さ れ て い た 。代 表 的 な もの は
エコー8
日 本 放 送 協 会 (現 NHK)出 版 の「ラジオ技 術 教 科
書 」と、誠 文 堂 新 光 社 刊 行 の各 種 書 籍 (「ラジオ受 信 機 の作 り方 」など)があった。
友 人 の中 にもラジオに熱 心 な人 々が何 人 もいたが、その中 の代 表 的 な一 人 笠
原 彰 君 ( 私 と 共 に ク ラ ブで は 天 文 ・気 象 部 に 属 し 、 そ の 後 ア メ リ カの 大 学 の 気 象 学
教 授 )と親 しく、二 人 でよく学 校 の帰 途 JR御 徒 町 に近 い所 にあったラジオ部 品 卸 問
屋 (松 川 無 線 )に寄 って小 遣 いで買 える範 囲 で種 々の部 品 を卸 価 格 で購 入 し、主
として鉱 石 ラジオを作 り、その上 で種 々の改 良 を重 ねて感 度 の向 上 と音 量 の増 加
を研 究 して楽 しんだ。
当 時 はまだ秋 葉 原 ラジオ街 は現 在 程 店 数 もなく、それ程 有 名 ではなかった。私 共
は学 校 から 歩 い てい け る距 離 で 便 利 で 安 く 、 我 々 中 学 生 にも 卸 価 格 で販 売 して く
れる店 ということで松 川 無 線 に行 くことが多 かった。当 時 、卸 問 屋 では部 厚 いカタロ
グを作 成 していて、これを貰 うことも一 種 の誇 りのような感 じがあった。参 考 までに当
時 の鉱 石 ラジオ回 路 の一 例 をあげておく。
134
L−C部 分 の同 調 回 路 と整 流 器
Kを用 いた検 波 回 路 から成 り、電
源 はないので、放 送 電 波 のエネル
ギーをコイルLによって起 電 力 にか
えて電 流 として受 話 器 (レシーバ
ー)Rで聞 くことになる。エネルギー
が小 さいのでスピ−カーを鳴 らすこ
とはできず、両 耳 にあてた直 径 6cm
くらいのレシーバーで聞 いた。今 で
はレシーバーの代 わりに小 さく便 利
なイヤホーンを用 い、検 波 器 Kとし
ては半 導 体 ダイオードを用 いる。
東 京 ではこのような単 純 な回 路 で
鉱 石 ラジオ回 路 図
も十 分 鮮 明 に比 較 的 大 きな音 量 で放 送
(JOAK と JOAB)を聞 くことができた。これは、その当 時 の放 送 局 (現 NHK)の送 信
所 が埼 玉 県 の川 口 市 の新 郷 という所 にあり、東 京 に極 めて近 いので電 波 の減 衰 が
少 かったためであった。
JRの京 浜 東 北 線 で蕨 と川 口 の間 を通 過 すると、電 車 内 から空 中 高 く聳 える二 本
の大 きな送 信 用 アンテナがよく見 えた。現 在 この送 信 所 は無 く、跡 地 に平 成 15 年
NHKアーカイブスが開 設 された。なお、日 本 におけるラジオ放 送 は私 の誕 生 した
年 大 正 14 年 に開 始 されたので、昭 和 一 桁 の時 代 にはまだ鉱 石 ラジオが十 分 世 の
中 で通 用 していたが、昭 和 5、6 年 頃 から真 空 管 ラジオが普 及 してきたので鉱 石 ラ
ジオは趣 味 のものとなってしまった。
戦 争 が激 しくなってくると部 品 などの入 手 は不 可 能 となり、敗 戦 後 は食 糧 難 時 代
となりラジオ 製 作 どころではなくなり、しばらくの間 ラジオ製 作 をすることはなくなった。
私 は戦 争 中 から機 会 あるごとに各 種 の部 品 をストックしておいたため、戦 後 にはこれ
を用 いていろいろな方 々のラジオの修 理 依 頼 に応 じていた。
昭 和 25 年 頃 より世 の中 も多 少 落 ち着 きがでてきて、ラジオの回 路 にも新 しいもの
が研 究 開 発 された。今 までの電 球 に近 い大 きさの真 空 管 (ST管 )より小 さい親 指
大 のガラス製 のもの(ミニチュア管 )や、外 部 からの電 磁 界 の影 響 を受 けず衝 撃 によ
り破 損 することのないような金 属 製 の真 空 管 (メタルチューブ)などが発 明 され、全 体
の形 も小 さくて大 出 力 のラジオおよびアンプ(増 幅 器 )が作 られるようになった。
これと同 時 にアンプもハイファイ(高 忠 実 度 High fidelity)という回 路 が広 く用 いら
135
れるようになり、更 にレコードも黒 色 のSP盤 (1 分 間 78 回 転 )からビニール樹 脂 のL
P盤 (1 分 間 33 回 転 )とEP盤 (1 分 間 45 回 転 )のものができ、録 音 技 術 も高 度 とな
り、生 の音 に近 い高 音 質 の音 がスピーカーから出 てくるようになった。
当 然 これらに合 わせてプレーヤー(ピックアップ、モーター、ターンテーブル)なども
新 しいものが多 種 考 案 された。
昭 和 35 年 頃 より半 導 体 を用 いたダイオードやトランジスタが実 用 化 され、ラジオは
大 きさも小 さく発 熱 量 も極 めて少 く消 費 電 力 も非 常 に小 さくなった。回 路 の配 線 も
プリント配 線 (絶 縁 性 基 板 に導 線 を 印 刷 したもの) に代 り、 素 人 の手 に おえるもの、
即 ち大 きな半 田 ごてで半 田 付 けして線 をつなぐ方 法 では無 理 となった。私 もこれ以
来 自 分 で製 作 とか修 理 などをあきらめてしまい、以 来 現 在 用 いているものまで既 製
品 を買 うようになってしまった。
3. ラジオこぼれ話
昭 和 30 年 頃 小 山 台 高 校 の在 職 中 のこと、ある家 電 会 社 から当 時 としては極 めて
珍 しい図 のような球 形 のラジオを宣 伝 販 売 にきた。業 者 の宣 伝 文 句 では、デザイン
が斬 新 であり、音 は四 方 に一 様 に伝 わり無 指 向 性 であり、感 度 、分 離 度 、音 質 共
に秀 れているということである。しかも、メーカーは一 流 のT社 であるという説 明 であっ
た。
私 は後 に述 べるように、物 理 的 に大 きな欠 陥 があることを指 摘 し、いずれ内 部 をト
ランジスタ一 に組 み かえることを目 的 としてこ の ラジオの球 形 のケース のみ所 望 し た
が、それは無 理 ということで 1 台 購 入 した。こ
の欠 陥 は次 のような点 である。
このラジオは図 に示 した構 造 のように、外 部
との空 気 の流 通 箇 所 が回 転 部 分 (ダイヤルと
ボリウム)のすき間 とスピーカーのすき間 のみ
である。しかし内 部 はミニチュア真 空 管 5 個 か
ら成 り発 熱 量 は大 きい。
数 学 を少 し知 っていればわかるように、体 積
が一 定 で表 面 積 が最 小 の形 は球 形 であるた
め、熱 が外 部 に放 散 される割 合 は最 小 となる。
容 器 内 に熱 が充 満 して温 度 が次 第 に上 昇 し、
回 路 各 部 の機 能 が変 化 して音 量 が次 第 に
減 少 し、30 分 位 すると音 は全 く消 滅 してしまう。
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欠 陥 ラジオ
スイッチを切 ってしばらく放 置 し、温 度 が室 温 まで下 ったら再 度 スイッチを入 れると、
一 旦 は回 復 するがまた 30 分 位 で聞 えなくなる。即 ち私 が初 めから予 想 した通 りの
結 果 であった。
勿 論 発 熱 量 の小 さいトランジスタ回 路 にすればこのような現 象 は生 じないが、トラ
ンジスタにすればこのような大 きな容 器 は不 要 である。デザインばかりを考 案 し見 栄
えをよくすることに意 を用 い、電 気 器 具 としての肝 心 の性 能 に欠 陥 が生 じては商 品
価 値 が0と なる。またもしこのような ことを承 知 の上 で販 売 したとすれば詐 欺 とな るで
あろう。
このラジオは発 売 開 始 から 6 ケ月 で販 売 中 止 となったのは当 然 であった。T社 に
は社 員 の中 に理 学 博 士 ,工 学 博 士 が多 数 おり、私 以 上 の物 理 の専 門 家 が多 数 い
るのにかかわらず、物 理 の初 歩 を忘 れているのが驚 きである。これも「医 者 の不 養
生 」と同 じであろうか。この概 略 はかつて物 理 教 育 学 会 誌 の「話 のたね」に記 した。
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