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トランスナショナルな身体: メルヴィルの小説に見るそ

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トランスナショナルな身体: メルヴィルの小説に見るそ
Kobe University Repository : Kernel
Title
トランスナショナルな身体 : メルヴィルの小説に見るそ
の可能性と不可能性(The Transnational Body in
Melville's Fiction)
Author(s)
西谷 , 拓哉
Citation
国際文化学研究 : 神戸大学大学院国際文化学研究科
紀要,29:1-17
Issue date
2007-12
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000853
Create Date: 2017-03-29
口'
拓
哉
トランスナショナルな身体
メルヴィルの小説に見るその可能性と不可能性
ノ}、
性という視点からの研究が増えてきているのである。本稿でもそのテ l マに添いながら、しかし、もう少し話題を狭めて、
な特徴の一つとなっている(﹃白鯨﹂ の乗組員たちの出身は十数カ国に及ぶ)。そこに昨今の動向が相侠って、越境や他者
の代表作である ﹃白鯨﹄(一八五一年)に見られるように、人種、民族や国籍を異にする登場人物の接触がそもそも大き
ルである。 メルヴイルの小説は作家自身の旅や航海の経験を題材にしており、初期の﹃タイピ l﹄(一八四六年) や 中 期
十九世紀アメリカ小説において、トランスナショナリズムに結びつけて論じられることの多いのがハ l マン・メルヴイ
ように思われる。
る傾向が見受けられる。厳密に調べたわけではないが、 アメリカ文学研究にはとりわけこのような傾向が強く現れている
うにインターナショナル、 つまり二国間の関係というよりも、文学作品を多国間の交流関係の中に置いて考察しようとす
ラリズム、ポストコロニアリズム、そしてグロ l バリズムという現代社会の時流の影響がはっきり現れており、従来のよ
近年、文学研究において﹁トランスナショナル﹂という言葉をよく日にするようになってきた。ここにはマルチカルチユ
西
人間の身体感覚の共有、あるいは希離という観点からメルヴイルの描くトランスナショナリズム、ないしはトランスアト
ランティシズムを考察してみたい。というのも、人種、民族であれ国境であれ、何らかの境界を交差するような人間の実
存、あるいは想像力のありょうは、まずもって身体という最も素朴なレベルで現れると思われるからである。
アメリカン・ルネサンスとトランスナショナリズム
具体的な作品論に入る前に、右で述べたアメリカ文学、より狭くはアメリカン・ルネサンスに関する研究の動向を大ま
かに振り返っておきたい。ここ数年の我が国のアメリカ研究で最も注目された著作の一つに、古矢旬﹁アメリカニズム││
﹁普遍国家﹂ のナショナリズム﹄(二 O O二年)がある。この中で古矢はヨーロッパとアメリカの歴史的関係に注意を払い
ながら、合衆国の特質を次のように明快に説き明かしている。まず第一に、 アメリカはヨーロッパ文明との連続性に立脚
しているという自覚を持っていたが、同時にそれに対する批判と拒絶をも示してきた。 つまり、 アメリカには西欧との連
続と断絶という二重の意識が併存していた。第二に、近代における西欧化とアメリカ化という現象は根本的に異なってい
る。前者はもっぱら非西欧世界への働きかけであったのに対し、後者は合衆国以外の世界への働きかけのみならず、非西
欧からの移民を次々に取り込み、それをアメリカ化する、すなわちアメリカ国内をアメリカ化するという自己回帰的な要
素を含んでいた。それは別の見方をすれば﹁アメリカの世界化﹂と言うこともできる。そうしてアメリカは世界各国から
移民を受け入れるたびに社会のバランスをとりもどすべく自己調整に迫られてきた。このような﹁世界﹂ の漸次的な包摂
と自己調整の繰り返しにアメリカ史の本質的特徴があると古矢は言う。やがて第二次世界大戦後、 アメリカは超大国とし
て全世界に影響力を及ぼして、今度は世界をアメリカ化していく。そのような﹁世界のアメリカ化﹂は先に述べた﹁アメ
リ カ の 世 界 化 ﹂ を 前 提 と し て い た の で あ る さ 二 七 l 一九頁)。
﹁アメリカの世界化﹂があってこそ﹁世界のアメリカ化﹂が実現したのだとする立論ーーーあるいはレトリックと言った
方がいいかもしれないが││これは私のような文学畑の人間にとっても大変面白いものに感じられる。というのも、古矢
の説明には二重の意味でトランスナショナル・アメリカが描き出されているからである。移民の到来・包摂・アメリカ化
一九八 O年
というプロセスに見られる超国境性と、 アメリカがグローバル化していくときの超国境性である。 アメリカにはこのよ、っ
に二種類のトランスナショナリズムが見られるのである。
右で見た第一のトランスナショナリズムは、 マ ル チ カ ル チ ユ ラ リ ズ ム と 言 い 換 え て も い い か も し れ な い 。
代のマルチカルチユラリズムの台頭によって、合衆国内の多民族・多人種的状況に対する意識は一段と先鋭になった。
そして、 ロナルド・タカキの ﹁別の鏡に映して﹄(一九九三一年)やエモリl ・エリオット編集の ﹃コロンビア米文学史﹄
(一九八八年)を代表とする、 マルチカルチュラリズムに立脚したアメリカ史、 アメリカ文学史の書物が陸続として現れ、
それまで周辺に置かれていた少数派がいかに合衆国の社会と文化を創り上げることに貢献してきたのかが明らかにされた。
このような動きによって合衆国を﹁トランスナショナル・アメリカ﹂として捉える見方が勢いづいてきたのである。ただ
し、トランスナショナルという言葉には、個々の民族や人種という構成要素が断片的に存在しているというよりも、それ
らの差異を超えて存在する、あるいはそれらのネットワークの総体としてのアメリカという、全体への志向がうかがえる。
トランスナショナルという言葉は、インターナショナリズムを越えて、グローバルな関係の中で合衆国の歴史や文化を
捉えようとするときにも使用される。ある歴史学者はインターナショナル・ヒストリーとトランスナショナル・ヒストリー
の違いについて、前者は外交史、軍事史といった分野を先導する考え方であったが、トランスナショナル・ヒストリーは
国境を越えて広がる、あるいは浸透しあう各種の現象を取り扱い、解釈の枠組みとしての国民国家、あるいは主体を形成
す る も の と し て の 国 民 国 家 の 優 位 性 に 疑 問 を 呈 す る も の で あ る と 述 べ て い る ( シ lゲル、六十三頁)。
係、あるいはストウ夫人の場合などに特にそうだが、カリブ海地域、 アフリカ大陸との関連も考察の対象にあげられてい
視点が大きなかたまりを作っていることは間違いない。大西洋を挟んだイギリスやヨーロッパ大陸とアメリカ文学の関
ンドンにおけるハワイなど、太平洋地域との関連を考察する研究も多数存在するが、トランスアトランティシズムという
が多いように思われる。むろん、たとえば、 メルヴィルにおけるマルケサス諸島や、 マーク・トウェイン、ジャック・ロ
きた。ただし、この場合、全世界的というよりは、環大西洋、トランスアトランティックという枠の中で論じられること
アメリカ文学、とりわけアメリカン・ルネサンスをトランスナショナルな視線で考え直してみようとする機運も高まって
たり、国境を固定的なものではなく流動するものと見たりする意識が高まってきたのである。そのような中で、十九世紀
リズムという社会動向と結びつき、合衆国の歴史をそれだけで単独に考えるのではなく、多国間関係の中で捉えようとし
以上のような、 マルチカルチユラル、ポストコロニアル、あるいはニュ l ・アメリカニスト的理解が、さらにグロ Iパ
し立てだと考えることができる。
ナリティというものに対する周辺・外部からの異議申し立てであり、 ニュ l ・アメリカニズムは中心・内部からの異議申
にある亀裂や脆弱さ、あるいは異種混交性をあぶりだそうとする試みだと言える。ポストコロニアリズムは固定したナショ
ちが行なっている一連のアメリカニズム批判も﹁帝国﹂としてのアメリカを歴史的、思想的に再検討し、その国家像の中
揺 ら ぎ を 生 じ さ せ る と 考 え ら れ る の で あ る 。 さ ら に は ド ナ ル ド ・ ピ iズら、 ニュ!・アメリカニストと呼ばれる研究者た
係 が 重 要 視 さ れ る 。 支 配 H被 支 配 と い う 関 係 は け っ し て 固 定 し た も の で は な く 、 む し ろ 相 互 浸 透 的 に ア イ デ ン テ ィ テ ィ に
配者によって決定されるとするのではなく、むしろ支配する側も支配される側によって自己形成されるのだという相互関
た こ と が 挙 げ ら れ る 。 そ こ で は 、 支 配 H被 支 配 と い っ た 単 純 な 構 図 に の っ と っ て 支 配 さ れ る 側 の 人 々 の 主 体 が 一 方 的 に 支
このような見方が出てきた背景には、かつての帝国の支配的優位を突き崩そうとするポストコロニアリズムが活発になっ
r
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:
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る。(註 1)
トランスアトランティックなアメリカ文学研究の代表格としては、﹃大西洋を挟んだ反乱﹂(二O O一年)、﹁ヴァ lチャ
ル・アメリカ﹄(二 O O二年)を上梓しているポ l ル ・ ジ ャ イ ル ズ の 名 前 を 挙 げ る こ と が で き る 。 前 者 は イ ギ リ ス の 作 家
がアメリカ独立革命をどのように見ていたか、また、この大西洋を挟んでの衝突によってナショナリズムとしての ﹁アメ
リカ文学﹂ の勃興がもたらされ、逆に敗戦の記憶を乗り越えるために﹁イギリス文学﹂が形成された過程を論じている。
また、後者では、 フレデリック・ダグラス、 メルヴィルからナボコフ、ピンチョンに至るアメリカ作家とイギリス文化と
の接触、あるいは排除の関係を具体的にたどっている。ジャイルズは英米文学をけっしてポストコロニアル的な従属関係
で捉えてはいない。同じく十九世紀の英米文学の関係を扱ったロパ lト・ワイズバックがアメリカ側の対抗意識とイギリ
ス側の無視という図式で捉えようとするのに対して、両者がパラレルな関係の中で互いを鏡に映しながら自己形成してい
く過程を比較文学的な視点で追いかけるところに、ナショナリスティックな研究の枠を越えようとするジャイルズの特徴
がある。
二重の手の幻想
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人
ナ人品川何戸レvjJ
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王
な感覚(冨可 859tcg 君。円。∞汁円。口問。・)﹂(第四章、二十五頁)(註 2) に捉えられる。幼いときの、ある記憶がよみがえっ
グと一つのベッドで寝ることになったイシユメ l ルは、翌朝目覚めたとき、その腕にかき抱かれているのを知り、 ﹁奇妙
が、その観点からまず思い出されるのはやはり﹁白鯨﹄におけるイシユメ l ルとクイ l クェグの関係である。クイ Iクェ
先に本稿の目的はメルヴィルの描くトランスナショナリズムを身体感覚というアプローチで捉えてみることだと述べた
2
一
身 体 的 接 触 と と る べ き か ( 後 者 は モ ! ピ l ・デイツクという圧倒的な存在との避遁の予表とも言える)、 い ず れ に せ よ こ
この ﹁ 超 自 然 的 な 手 ﹂ を 、 自 分 の 身 体 に お け る 現 実 と 幻 想 の 不 調 和 な 議 離 と 見 る べ き か 、 あ る い は 自 己 と 他 者 の 神 秘 的 な
しばしば私はあの神秘に頭を悩ませているのだ。(問、二十六頁)
出し、その後、何日も、何週も、何カ月も、その神秘を解明しようと試みたが無駄だった。いや、これを書いている今に至るも、
この意識からどのようにして脱け出したかはわからなかったが、翌朝目覚めると、私はそのすべてをおぞけをふるいながら思い
でいて手をほんの一インチでも動かすことができれば、この恐るべき呪縛から逃れることができるのにと、ずっと考えていた。
昔からと思えるほどの長いあいだ、私はベッドで横になったまま、恐怖のあまり身を凍らせ、手を引っ込める勇気もなく、 それ
想像しがたい、物言わぬ姿が、まぼろしが、ベッドの横に寄り添うように座り、私の手の中に手を置いているのである。太古の
たが、ただ何か超自然的な手が私の手の中に置かれているようなのだ。私の片腕は掛けぶとんの上に出ていたが、名状しがたい、
先ほどまで日が射していた部屋は夜のとばりに包まれていた。とたんに、戦慨が全身を貫いた。何も見えず、何も聞こえなかっ
に感じて恐怖に駆られるのである。
る。悪夢にうなされたまどろみから目覚めると、真っ暗闇の中で自分の手の中にもう一つ、超自然的な別の手があるよう
ていたが、今回は午後二時から翌朝まで謹慎させられるという苦行であった。このときイシユメl ルは不思議な体験をす
暖 炉 の 煙 突 の 中 を 昇 ろ う と し た 罰 で あ る 。 そ れ で な く と も 日 頃 か ら イ シ ユ メl ル は 継 母 か ら 鞭 打 ち ゃ 食 事 抜 き の 罰 を 受 け
る 。 そ の 不 和 は も と も と 継 母 と の 関 係 か ら 生 じ た も の で あ る 。 幼 い イ シ ユ メl ルは母親によって寝室に閉じこめられる。
たたき落としたいという衝動にかられたりすると言うのだが、ここには明らかに世の中と自分との間の不和が語られてい
イシユメ l ル は 物 語 開 始 早 々 、 自 分 は 憂 欝 症 に か か っ て お り 、 我 知 ら ず 葬 列 の 最 後 に つ い て 歩 い た り 、 通 行 人 の 帽 子 を
ノ、
こ に は 二 重 の 身 体 と い う 感 覚 が 生 じ て い る 。 こ の よ う な 身 体 的 失 調 は 幼 い イ シ ュ メ 1 ルにとって強烈な体験であったはず
で 、 成 人 し た イ シ ュ メ l ルが周りの世界に対して抱く違和感の原点になっているように思われる。
しかし、その身体的な違和感はクイ1 クェグとの避遁によって消え去る││いや、消えないまでも、別の身体感覚に取っ
て代られる。最初の晩、すでに潮吹き亭のベッドに入っているイシユメ i ルは戻ってきたクイ lクェグの奇怪な入れ墨を
じ っ と 見 つ め て い た 。 暗 い 部 屋 の 中 で ベ ッ ド に 入 っ た イ シ ユ メ l ルが、不気味な他者の身体を目撃するという構図は幼い
頃の体験と同一である。しかし、幼い頃の体験では消えがたい違和感が残ったのに対し、 クイ lクェグとの場合では次第
に 溶 け 合 う 感 覚 が 生 じ て く る の で あ る 。 と い う の も 、 二 日 目 の 夜 、 宿 屋 で ク イ l クェグと二人きりになったイシユメ l ル
は、またもや奇妙な身体感覚を経験する。
はじめこそ威勢よく燃えて部屋の空気を暖めていた暖炉の火も、今はただ
私は今は二人だけのさびしい部屋に座っていた 1 1 1
目を楽しませるためだけに燃えているといった、おだやかな燃焼の段階に達し、窓辺には夕べの影やまぼろしが忍び寄り、無言
のままの孤独な二人連れをのぞきこんでいた。外では嵐が轟々と荘厳な音を立てていた。このとき私は奇妙な感じを覚えはじめ
た。身体の内部で何かが融けていく感じ。ささくれたわが心も、憤怒に燃えるわが手も、もはや対狼の世界に反抗することもな
F2P号。N8355。EO∞件。え己
ぃ。この心なごませる蛮人がそれをあがなってくれたのだ。(第十章、五十l 五十二貝)
今 度 の ﹁奇妙な感じ(己E口問。向。己庄町∞)﹂は、幼い頃の凍りつくような恐怖(﹂日ミ
(dp 巴
gミ玄
-sygロ
一色ロョ)、まったく異質な身体が並ん
向。ミヘ)とは対照的に、あたかも氷が融けていくようなものとして捉えられている点が興味深い。この箇所でイシユメ l
ルは意識の内で自分とクイ l クエグの身体を並べているが
でいるにもかかわらず、そこには両者が溶け合うような感覚が生じている。この感覚は第九十四章で乗組員たちが鯨の脳
寸二
油 を し ぼ る 箇 所 に も 顕 著 に 見 ら れ る も の で あ る 。 そ こ で イ シ ュ メ l ルは同僚の手を脳油のかたまりと間違えて採みしだき
つつ、全員が脳泊の中に溶け出して他我の別なく混ざり合うという狂おしいまでの官能的な幻想に浸るのだが、このよう
なトランスナショナルな融合の根底には、イシュメ l ルとクイ iクェグをつなぐ身体的な共感覚が存在しているのである。
しかしながら、二人の関係に非対称を見ることもできるかもしれない。たとえば福岡和子は﹃白鯨﹄ の陸上部分に関し
一人の独立した﹃他者﹄ である
て、イシユメ l ルとクイ lクエグは対等の関係ではないとしている。イシユメ l ルは﹁クイ lクェグから言葉を奪い、
イl クェグを利用して、自ら﹃物語﹄を作った﹂ のであり、そのとき﹁クイ iクエグは、
よりは、イシユメルの思い描くヴィジョンが投影された、実体を欠いた空疎な人物であると言っても言い過ぎではない﹂
(三十五頁)。その一方、海上部分ではクイ lクェグをはじめとする非白人種の肉体的躍動が克明に措かれており、﹁言葉
を越えた、したたかな存在感を感じさせている。これこそがメルヴイルなりの ﹃民主主義宣言﹂だ﹂(四十一一貝) と 福 岡
は述べている。たしかにそれはそうなのだが、私はこのクイ iクェグの肉体はクイi クェグだけのものではなく、イシユ
メールにも共有されているものだと考えたいのである。クイ l クエグが鮫に固まれながら、鯨の脂身に吊上げるための鈎
ことができるのではないだろうか。
も根源的な身体のつながりの中に﹁メルヴイルの異種混交に関する哲学の実践がある﹂(マ l、 一四一ーー二頁) と 見 な す
ム双生児なみに結合されているのである﹂(第七十二章、三二O頁)。このロ l フはいわば象徴的な臓の緒である。この最
るのではなく、相棒の跡を追って引きずられてゆくのが私のさだめなのである。 つまり、われわれは長い靭帯によってシヤ
のベルトにつながれている。﹁もしクイ l クェグが海中に没すれば、慣行と名誉が求めるところにより、 ロ ー プ を 切 断 す
をかける場面があるが、滑り落ちないようにクイ l クェグの腰にはロ lプが結わえてあり、その一方の端はイシユメ i ル
ク
ノス、
イギリスとアメリカのディブティック
(河内乱
513)
﹄(一八四九年)
一八五一年以降の小説の中で割合と大きなクラスターを作っている。
3Q30¥同い江守)﹂(一八五五年)
う意味で、 二枚の絵が扉風のように合わさって一枚の絵を形作るように、 こ れ ら の 短 篇 で は 二 つ の 話 が ペ ア に な り
り、大西洋を隔てた両国を二つ折りの絵にするという特異な構成を持っている。
ブL
作品を形成するわけである。そして、各々のペアはアメリカを舞台にした短篇とイギリスを舞台にした短篇からなってお
つ
の
この中の三つの短篇は研究者の間でディブティック(任官々の﹃)と呼ばれている。ディブティックとは二枚折りの絵とい
﹃ピリ l ・パッド(切ロ守切に弘弘、回 SN01)
﹂ (一八九一年草稿、 一九二四年出版)
﹃イズリアル・ポッタ l (ケミ三可三宮1 同日﹃言、
﹃
ハ lパlズ・ニュ 1 ・マンスリ l ・マガジン﹂に掲載)
﹁独身者たちの楽園と乙女たちの地獄(↓宮司m
HEEmoo門出向。ZHogmDLF。、ロユR50﹃冨包含)﹂ (一八五五年四月、
﹁二つの教会堂(寸宮、吋者。、H
J
O
B
s
)﹂(一八五四年七月、﹃パトナムズ﹄に原稿を送るも不掲載)
マンスリ 1 ・マガジン﹄に掲載)
﹁貧者のプディングと富者の食べ残し(可。。円足山口正 H
U
E
-品目問自己目片﹃巳山口正のEEZ)﹂(一八五四年六月、﹃パトナムズ・
﹃レッドパ lン
イギリスを舞台にした主なものは以下の通りであり、
ンティックな身体という観点から考えようとしたときに興味深い事例を提供してくれるのである。 メルヴィルの作品中、
覚はなかなか見つからない。しかし、後期のメルヴイルにはイギリスを舞台にした小説がいくつかあり、トランスアトラ
ところが、 ﹃白鯨﹂以降の作品になると、イシユメ l ルとクイ i ク ェ グ の 例 に 勝 る よ う な ト ラ ン ス ナ シ ョ ナ ル な 身 体 感
3
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)﹂(一一一一一O頁)というス i。フについての色彩描写や、
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内∞ユ。
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親切を受けたとき語り手は﹁左目に奇妙な感覚(∞告の2
ヒラメについての ﹁雪のように白
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F色お 5Eu--。コミ。)﹂(一一一一一一頁)を覚えるのである。お
る事情で一文無しになった語り手は、劇場にも入れずにいたところ、ある労働者に半券を譲ってもらうことになる。その
﹁二つの教会﹂ のロンドン編でもまた、語り手とロンドンの群衆との関わりがある種の身体感覚を伴って描かれる。あ
差し融合したことを物語っている。
ことであり、先の警官の間違いともあわせ、語り手の身体とロンドンの浮浪者たちの身体とが会場の雑踏の中で一瞬、交
らな、 いいな﹂(三O 一頁)と念を押している。逆に言えばそれほど浮浪者と見分けのつかない格好になっていたという
着も汚れてぼろぼろになっていたのである。短篇の最後でも、案内役の友人は御者に対してわざわざ﹁この方は紳士だか
は、語り手が見張りの警官から乞食の一人と間違われることである。群衆に採まれて、語り手の帽子は押しつぶされ、上
を見物に行くが、食べ物に殺到する群衆の波に巻き込まれ、 ほうほうの体で宿に戻る羽目になる。この短篇で興味深いの
一方、﹁富者の食べ残し﹂ では語り手はロンドン市庁舎で行なわれた大宴会の残り物を乞食たちに提供する﹁チャリティ﹂
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)﹂(同)といった感覚表現が多用されている。
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く、薄づくりで、ゼラチンをほどよく含み、かといって亀の肉のようにねっとりしすぎていない
び茶色の
イ、プディングと続く料理を堪能する。この食事場面には当然のことながら、読者の味覚を刺激するような、 ﹁豊かなさ
、 マトン、七面鳥、チキン・パ
たちと優雅な会食を楽しみ、オックステイル・ス lプに始まり、 ヒラメ、 ローストピ l フ
悪い意味でも集団や群衆と混じり合うことになる。たとえば﹁独身者たちの楽園﹂ では語り手はテンフル法学院の弁護士
り手の職業や貧富の程度は作品によってさまざまだが、イギリスを舞台とする短篇ではいずれの語り手も、良い意味でも
これらの短篇で興味深いのは、語り手がアメリカとイギリスで味わう身体感覚、ないしは身体的経験の違いである。語
く〉
そ ら く 涙 が あ ふ れ で き た の だ ろ う 。 語 り 手 は ﹁ た い て い の 人 の 場 合 と 同 じ で 、 左 目 の ほ う が 弱 い の だ 。 心 臓 ( ハ lト)と
同じ側にあるのだから﹂(同)と述べている。あるいはまた、天井桟敷││そこには職人やそのおかみさん、 悪 ガ キ た ち
が ひ し め い て い る ー ー に 上 が っ た 語 り 手 は 、 貧 し い 身 な り の 少 年 か ら ピ l ル (ωω目。ロ自己mo 同FCSEEm 巳。)をふる
一方のア
(}EE55m)﹂(一一一一四頁)という言葉はほんの些細な、紋切り型の表現
ま わ れ る 。 少 年 は 自 分 の 父 親 が 一 山 当 て る た め に ア メ リ カ に 行 っ て お り 、 そ の よ し み か ら だ と 言 う の で あ る 。 そ の ピ 1ル
の形容として使われている﹁プツプツと泡立つ
だとはいえ、少年と語り手の偶然の交歓を的確に伝えるものとなっている。
このように、イギリスを舞台とする短篇ではいわば他者に対して聞かれた身体感覚が随所に見られるのだが、
メリカを舞台にした短篇では語り手の身体はむしろ閉ざされたものとなっている。﹁貧者のプディング﹂ で は 語 り 手 は あ
る詩人に勧められ、貧しいアメリカの農家を訪れ、昼食をもてなしてもらうが、お米で作ったプディングはあまりの徽臭
さにほとんど語り手の喉を通らない。語り手はそのことに、 興 味 津 々 で 出 か け て い っ た 自 分 の あ さ は か さ と う し ろ め た さ
を覚えることになる。
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gさ え 石opωEP021
﹁乙女たちの地獄﹂はニュ lイ ン グ ラ ン ド 山 中 の 製 紙 工 場 が 舞 台 だ が 、 そ れ は 狭 い ふ い ご の よ う な 峡 谷 を 下 っ た 先
﹁悪魔の土牢﹂と呼ばれる窪地にあり、﹁雪に閉ざされ、霜に覆われて、石造りの埋葬所
百円宮古件。
Fm
(55丘町ロロ問
g
i∞EHHBE窓口∞)﹂(三三五百ハ)、 ふたたび
EUNr己向。∞
取れよう。﹁二つの教会堂﹂ では、 ニ ュ ー ヨ ー ク の ゴ シ ッ ク 教 会 の 塔 に 忍 び 込 ん で い た 語 り 手 は 、 鍵 を 閉 め ら れ 、 文 字 通
山を上り、帰途につく。ここに引用した短い一節からだけでも、外界と語り手の身体の双方における閉鎖性は容易に見て
5己mEPロ仏汁仲間︼唱のグ与さ ω江口何百可
EM占の民百円円君主1
寒気を覚えた語り手は、 ﹁ 外 套 と 襟 巻 き に す っ ぽ り 身 を 包 み 、 大 き な ア ザ ラ シ 皮 の 手 袋 に 両 手 を 入 れ て
F2)﹂(三二七頁) の よ う に 見 え る 。 そ の 陰 替 な 様 子 と 、 そ こ で 働 く 娘 た ち の あ ま り の 生 気 の な さ に
日)巳ロ汁包 Z
mwω8z-。
の
り教会堂の狭い密室に閉じこめられてしまう。
以上、各々のデイブティックをばらばらに分けて瞥見したが、これらの短篇は本来はペアとなるセクション同士が互い
に相手を照らしあって、 ア メ リ カ と イ ギ リ ス の そ れ ぞ れ に 見 ら れ る 貧 困 や 搾 取 と い っ た 社 会 病 理 を 浮 き 彫 り に す る 仕 掛 け
になっているのである。しかし、こうしてイギリス編とアメリカ編に再編した上で比較してみると、 イ ギ リ ス 編 の 方 に
(食べ物や飲み物に関わる)より豊かな身体感覚があるのに対し、 アメリカ編の方にあるのは、特に﹁乙女たちの地獄﹂
に顕著に見られるように、空虚さや不毛性、閉鎖性といった負の身体感覚である。それによってメルヴイルはアメリカの
病理をむしろ強調して描いていると言えるだろう。
変装とナショナル・アイデンティティ
ていたのである。どうやって怪しまれずにその屋敷を出たものか苦慮した末、イズリアルはウッドコックの服を身につけ
るが、 ウ ッ ド コ ッ ク は イ ズ リ ア ル を 隠 し 部 屋 に 通 し た ま ま 、 そ の 後 い く ら た っ て も 顔 を 見 せ な い 。 ウ ッ ド コ ッ ク は 急 死 し
リアルは変装に変装を重ねていくのである。あるときイズリアルは親米派の地主であるウッドコックの屋敷にかくまわれ
では溝掘り人足の老人と服を交換し、まるで八十歳の老人そのもののような姿になる(第三章)。それを皮切りに、 イズ
イズリアルは脱走に際して、必ずと言っていいほど変装する。むろんヤンキーと見破られないためである。最初の脱走
へ戻るという物語である。
はロンドンの裏町に住みついて、妻をめとり、十一人の子どもをもうけ、やがて老人となって五十年ぶりに故国アメリカ
加した主人公が英国軍に捕虜として捉えられ、何度も脱走してアメリカへの帰還を試みるが、そのたびに失敗し、 ついに
次に長篇に日を移し、﹃イズリアル・ポッタl﹄における身体を検討してみたい。この小説は、 ア メ リ カ 独 立 革 命 に 参
4
るのだが、その結果、屋敷の者にウッドコックの幽霊と間違われてしまう。街道に出たイズリアルはそのままの恰好でい
ると正体がばれるため、それを脱ぎ捨て、今度は案山子の服を着る羽目になる(第十三章)。
こ の よ う な 変 装 、 変 身 は 、 た と え ば ト ウ ェ イ ン の ﹁ハックルベリl ・フィンの冒険﹄(一八八四年) に も 見 ら れ る よ う
に逃亡劇につきもののモチーフだが、 イ ズ リ ア ル の 脱 走 が 成 功 す る た め に は い か に 彼 が イ ギ リ ス 人 に な り き る か が 鍵 と な
る。ところがイズリアルはどんな変装をしても必ずすぐにアメリカ人と見破られてしまうのである。むろん、変装とその
露見の連続はストーリーを持続させるための物語上の要請ではあるが、そこにあるナショナリスティックな意味合いを見
逃すことはできないだろう。すなわち、イズリアルはあくまでイギリス側と戦っているアメリカ兵であり、それがやすや
すとイギリス人になりうるということはナショナル・アイデンティティの存立根拠が失われてしまうことになるのである。
つまり、イズリアルは生き延びるために変装し、 アメリカ人からイギリス人へなりすまそうとするーーーいわば﹁トランス
アトランティックな身体﹂を獲得しようとするのだが、けっしてそれを与えられることはない。それはイギリス対アメリ
カの戦争を扱う小説のイデオロギー的な要請でもあるだろう。
しかし、ひるがえって、それではこの小説の中で明確なアメリカン・アイデンティティが身体的に与えられることがあ
る の か と 考 え て み る と 、 ど う も そ れ は 疑 わ し い 。 小 説 の 終 盤 で イ ズ リ ア ル は 捕 虜 と な っ て い る 独 立 革 命 の 英 雄 イ lサン・
アレンに遭遇する。そのアレンの描写は次のようになっている。
アレンは、 ヘラクレスとジョ l ・ミラ!とパヤ lルとトム・ハイヤーを奇妙にも組み合わせたような人間であったと思われる。
体躯はベルギーの巨人のようで、内なるところにはスイス人のように山の音楽を持ち、心はク iル・ド・リヨンのように大きく
膨らんでいる。ニュ lイングランドに生まれながら、その特徴を何ら見せない。率直で、ぶっきらぼうで、朋輩つき合いのいい
の顕現の瞬間である。しかし、﹃白鯨﹄ の 場 合 と 異 な っ て い る の は 、 相 対 し て い る の が 同 国 人 で あ る が ゆ え に 、 な お さ ら
これはまさにイシユメ l ルとクイ i クェグの寝室の場面の再現であり、ジョ l ンズにおけるトランスナショナルな身体
れ墨があるのを発見して驚くことになる(第十一章、六十二頁)。
くするようなものではなく、 ニュージーランドの戦士がするような﹁濃い青色の、複雑で、迷路のような、秘教的な﹂入
に入ったイズリアルが寝たふりをしてジョ l ン ズ の 様 子 を う か が う と 、 袖 を た く し 上 げ た 右 腕 の 内 側 一 面 に 、 船 乗 り が よ
フ ラ ン ク リ ン の も と を 訪 れ 、 そ こ で ジ ョ l ンズに紹介されて、その晩、ジョ l ン ズ と 同 じ 部 屋 で 寝 る こ と に な る 。 ベ ッ ド
れているが、その描写にも非アメリカ的な要素が入り込んでいる。イズリアルは密使として、 パリにいるベンジャミン・
独 立 革 命 の も う 一 人 の 英 雄 ポ l ル・ジョ l ンズの場合はどうだろうか。ジョ I ンズは非常に勇猛果敢な戦士として描か
このような人物造型はむしろアメリカン・アイデンティティの不在の表象と受け取った方がいいだろう。
ればメルヴイルのナショナル・アイデンティティに対する意識はずいぶんと時代を先取りしていたことになるが、しかし、
は薄い (ハイヤーのみアメリカのボクサー)。それともこの多民族性こそがアメリカの印とでもいうのだろうか。だとす
に喰えられており、 ニュ 1イングランドに生まれたがその印はないとあるように、 アレンの人となりにアメリカの固有性
、 ベルギーの巨人、獅子心王ことリチャ lド一世など
レス、イギリス人俳優のジョ l ・ミラ1、 フランスの騎士パヤl ル
引用の最後でアレンの西部魂が真のアメリカニズムとして称えられるとはいえ、しかし、前半ではギリシャ神話のヘラク
未来に向かってもそうであろう(他にアメリカ精神を表すものはないし、またありえないだろう)。(第二十二章、 一四九頁)
だ。彼の精神は本質的には西部人だった。この点にこそ、彼特有のアメリカニズムがある。西部魂こそが真のアメリカ精神だし、
ことは︽異教徒﹀のようで、ともに浮かれることはロ l マ人のようだし、元気一杯、腹一杯のことは︽秋の刈り入れ﹀のごとく
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はアメリカという国家の代理表象としても使われている。
アメリカは英国と同じ血を分けながら、それでも二度の戦争で立証済みの仇敵となりlil
心底では旧怨を忘れる気質も必ずしも
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ないようであり││剛勇で無節操、無謀で掠奪的、涯てしない野望を抱き、外面は文明化されながら心では蛮族││このような
アメリカは諸国のうちのポ lル・ジョlンズである。あるいは、いっそうなるかもしれないのである。(第十九章、
一
トランスナショナルな身体とは本当ならば他の民族、人種に開かれたものであるはずだが、。ホi ル・ジョ l ンズのそれは
他者との融合の方向とは逆に、むしろ他者を滅ぼす凶暴さを秘めた身体として機能しており、ここにもまたメルヴイルの
アメリカン・アイデンティティへの不信感を読み込むことができるのである。
﹃白鯨﹄がトランスナショナルな身体の可能性に対するロマンティックな希望であるとすれば、﹁イズリアル・ポッタ!﹄
は皮肉にもトランスナショナルな身体の不可能性を表している。 メ ル ヴ ィ ル は 何 事 に よ ら ず 物 事 の 両 極 を 激 し く 往 復 す る
作家であるが、以上のような、身体表現について見てきた振幅は、 メルヴイルの小説の豊かきであると同時に、人は果た
してトランスナショナルたり得るか、果たして本当にトランスナショナルな身体を獲得することができるのかという根源
的な聞いを我々に突きつけるものでもある。それはメルヴィルの生きた十九世紀アメリカの課題であったというにとどま
らず、今日もなおトランスナショナリティという事態そのものにまつわる難問であり続けており、そこにメルヴィルの小
説を身体という観点から読み直すことの現代的意義の一端があるように思われる。
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