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フリージャンル短編百合小説集

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フリージャンル短編百合小説集
フリージャンル短編百合小説集
坂本一輝
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
フリージャンル短編百合小説集
︻Nコード︼
N9530CD
︻作者名︼
坂本一輝
︻あらすじ︼
1話4000字以内のフリージャンル短編百合小説集です。
中二病、VRMMORPG、アイドル、スポーツ、ロボット・・・。
みんな百合って、みんな良い。
1
中二病だけど百合ん百合んしたい
わたしには不思議な能力がある。
それは輪廻転生を繰り返し、ついに辿り着いたこの1億と200
ターニングポイント
0年の環が閉じようとしているこの時にこそ力を発揮する・・・。
いや、世界の分岐点に関する︻鍵︼とでもいうべき力だ。
だが、これを他人に知られるわけにはいかない。
知られれば組織が送り出してきた刺客がわたしの命を、いつ狙っ
てくるとも限らないからだ。
だから、今はまだこの能力が発現しないことを願おう。
・・・
それこそが、この世界の理を保持し続けられる唯一の方法なのだ
から︱︱︱
﹁で、その話って私には言って良いんだ?﹂
・・・・・・
・・
﹁貴様ならわたしを売るような真似はしまい・・・、いや。できな
いと言うべきかな?﹂
3年遅
ふっ、と笑いながらわたしは目を瞑り、栄養補助ゼリーのパック
をぎゅっと潰し、それを体内に流し込む。
﹁アンタさあ、遅いよ?﹂
﹁遅い・・・?﹂
私たち、今、高二だよ!?
わたしが眉間に指を当てて思案していると。
﹁中二病になんのが遅いの!
2
い!﹂
ばん、と彼女は手のひらを机にたたきつけた。
﹁落ち着けランスロット。頭に血が昇っては冷静な判断が・・・﹂
まな
﹁そのランスロットっていうのもやめろ!﹂
﹁貴様の愛名ではないか﹂
高校2年生にもなって円卓の騎士とか、
﹁ニックネームつけるのは良いんだけどさ、絶望的にダサいのよア
ンタのネーミングセンス!
ホントひどいよ!?﹂
ランスロットが、机を挟んで互いに向き合う形になっていた姿勢
から、立ち上がってこちらに上半身を近づけてくる。
そして、わたしにびしっと人差し指を差すと。
﹁あー、もう我慢の限界。幼馴染だから今まで我慢してきたけど、
それ止めないと友達やめるから!﹂
﹁えっ・・・﹂
途端、頭が真っ白になる。
﹁ま、待て。貴様は精神操作をされている。冷静な判断ができなく
一つだけ忠告しておくけど﹂
なっているのだ・・・﹂
﹁いい?
おろおろするわたしに対して、ランスロットは一泊を置き、言葉
を吐き出した。
﹁私以外、誰ともしゃべろうとしないコミュ障のアンタと違って、
私にはちゃんと、他に友達が居るんだからね!﹂
3
◆
わたしは間違っていたんだろうか・・・。
昔からアニメや漫画が好きで、わたしだって彼女らみたいになり
たかった。
わたしなら、なれるとさえ思ってる。
これはいけないことなんだろうか。
やっぱり、ランスロットの言う﹁普通﹂の人間にならなければな
らないのだろうか。
・・・彼女が大切な友達であることは間違いない。
︵大切な幼馴染を失うくらいなら、この思いは捨てて・・・︶
放課後の教室、窓際にある自分の席でぼんやりと夕陽を眺めなが
ら、わたしはそんな事を考えていた。
いい年して、高校生にもなって、もうすぐ受験なのに。
最近、そんな言葉をよく耳にするようになった。現実を見ろと言
われた時もあったし、ひどい時は誹謗中傷された事もあったっけ。
やっぱり、みんながそう言うのなら、それが正解なんじゃないだ
ろうか。
わたししか言っていないということは、わたしは多数の中の超少
数派、淘汰されるしかないのだろうか。
﹁・・・帰ろ﹂
4
学校の女子寮へ向けた帰路の足はとんでもなく重いものだった。
︱︱︱なんか、やだな。こういうの。
︵結局わたしは凡庸な一般人・・・。特別な存在なんて、思い上が
りだったのかな︶
明日、彼女にちゃんと謝ろう。
どういう謝り方をしたら良いのか、そんな事を考えながら自室の
ドアを開いた。
その瞬間。
﹁!!!?﹂
再び頭が真っ白になった。
知らない人物が、わたしの部屋で、それもわたしの本棚の前で、
わたしの書いたノートを読んでいる。
それが勉強ノートなら何の問題も無い。
だけど、あれは。あのノートは。
普段わたしが考えた事をそのまま書き綴っている、
︵聖天の書・・・!!︶
わたしのノートを読んでいるのは女の子だ。
女子寮なんだから女の子以外入ってこられないので当たり前の話
だけれど、それにしてもわたしの部屋に無断で入れているのはおか
しい。
5
そういえば今、放心状態だったから気づかなかったけれど、鍵を
開けなくても、ドアノブを捻っただけでドアが開いた・・・!
ぱくぱくと、口を動かすが声が出てこない。
だが、次の瞬間。
﹃わたしのノートを読んでいた何者か﹄が、くるりとこちらへ振
り向いた。
︵ひっ・・・!︶
ダメだ。あんなの見て、何か言われる。バカにされる。
みんながそうであったように、わたしがおかしい子だって、そう
非難される。
それが怖くて、わたしはその場から逃げようとした。
しかし。
﹁待たれよ︻鍵︼の欠片を持つ者!!﹂
その一言で、走り出そうとする足を止めざるを得なくなった。
﹁お前が︻第七の鍵︼を持つ者か﹂
顔も知らない彼女は、わたしに向かって確かにそう言った。
まさか・・・。
﹁き、貴様・・・。その言葉を知っているということは・・・!﹂
わたしは必死に言葉を返す。
︱︱︱もしかして。この女の子は。
6
ターニングポイント
﹁我は︻鍵︼の力を︻レベルA︼まで扱うことが可能だ。今、この
場で貴様を殺すことも我にとっては容易い・・・。世界の分岐点の
︻鍵︼である、貴様を﹂
今度は言葉も出てこなかった。
ただ、ひたすらに。
﹁・・・なんてねっ﹂
そうやって笑う彼女の笑顔が眩しくて、そして、かわいくて。
その笑顔に、しばらくずっと見惚れてしまっていた。
﹁ごめんね、あたし来週の月曜日からこの学校に転校するの。この
寮って2人部屋なのに、ここにはあなた1人しか住んでないからっ
て、鍵、渡されちゃってさ。寮母さんが入っても良いっていうから、
勝手に入っちゃった﹂
﹁あの・・・﹂
わたしはもじもじしながら、机を隔てて向かい合わせになってい
る彼女の顔を見られず、視線を落として指をあそばせていた。
﹁おかしい、って。思わないの・・・?﹂
﹁何を?﹂
﹁ノ、ノートの事とか、さっきの事とか・・・﹂
言えない。
はっきりと、﹃中二病なんてバカだと思わないのか﹄、という一
言が。
7
﹁あたし、ああいうの好きだよ﹂
﹁えっ・・・﹂
ぱっと、わたしは顔を上げる。
﹁だって、カッコいいじゃん。世界を救う英雄とか、超常の能力と
か、世の中を裏で操ってる悪の組織とか、そういうのあった方が、
絶対おもしろいもん﹂
﹁おもしろい・・・﹂
思わず、彼女の言葉を復唱してしまう。
﹁それに、ほら﹂
彼女は着ていた長袖のTシャツの、袖をめくる。
そこには、手首から肘にかけてまで、白い包帯がくるくると巻か
れていた。
﹁あ、これ怪我じゃないからね。この包帯で能力を封印してるんだ。
カッコいいよね、包帯とか眼帯とかさ。どうしてあんなのがカッコ
よく見えちゃうのかなあ。あと、お金があったらカラコンおすすめ
だよ。邪気眼っ!﹂
そこだけ語気を強め、左目の前でピースを横にしたような、そん
な決めポーズをつけて言う。
﹁ってできるから。できれば赤色が良いね。なんか1番能力発動し
そうじゃん!﹂
8
力説する彼女に対して、わたしはしばらくぽかんと口を開けなが
ら愕然としていたが、どういうわけなのだろうか。
次の瞬間、わたしの目が、ギラギラと輝きを取り戻したのを、明
確に感じた。
﹁フ、フード付きの服とか十字架のネックレスとかどうかな!?﹂
﹁いいねー。最近の流行りだと長いマフラーや大きなヘッドホンも
効果的だよ。なんか意味深な能力持ってそうじゃん﹂
お、おお・・・!
﹁風船ガム膨らませたり!﹂
﹁棒付きの小さな飴をくわえたり!﹂
わたし達は顔を見合わせる。
﹁﹁最高にカッコいい!!﹂﹂
こんなに話の合う人に会ったのは初めてだ。
この子はわたしの事をバカにしない・・・、ううん。そんなんじ
ゃない。
そういう能力
を、わたしは確かに、持っていた。
わたしはきっと、この子に会うために中二病に目覚めていたんだ。
﹁明日土曜日だし、早速買いに行こう﹂
良いところがあるの!﹂
﹁あ、でも、あたし、この辺のお店とかまだ何も・・・﹂
﹁わたしが全部案内する!!
どうしよう。この子の前だと、もう自分を止められそうにない。
9
︱︱︱でも、良いんだ。
﹁ビレバンあるの?﹂
﹁もっともっと良いところが、いーっぱい!!﹂
本当に気持ちの良い笑顔で、わたしは両手を広げた。
︱︱︱これはわたし達の始まりだから。
ずっと、ずっと。
これからはずっと一緒に、こうやって笑いあえるから。
10
特攻淑女?
ノーと言えない日本人、なんて言葉があるけれど、わたしはその
典型だ。
思えばどうしてあの時、﹃わたしなんかに生徒会役員なんて無理
です﹄の一言が言えなかったんだろう。この超お嬢様女子高の生徒
会なんて、その中でも特に優秀な人達が集まる場だと言うのに。
劣等生
。やめられるもん
右を見ても左を見ても、みんな綺麗で気品のある人ばかり。
︵わたしなんて合格ラインギリギリの
なら今すぐにやめたい・・・︶
そんな事を考えながら、黙々と与えられた仕事をこなしていた。
部活の予算案を数値化してパソコンのソフトに打ち込み、その部
の功績と前年比とが見合うかどうかを精査する。
︵昔から計算だけは得意だったし︶
なんとかなるはず。
そんな事を考えながらキーボードを打っていると。
﹁あ、あの。閣下・・・いえ、会長。こちらのエクセル?とは、ど
こをどう操作すればヨロシイ、のであ、でしょうか?﹂
︱︱︱また、宮森さんだ。
同じクラスで、席替えの時に近しい席になったんだけど、この子
はちょっとおかしい。
11
なんか勉強が苦手というか、全然出来ないように見える。
︵わたしが言うのもアレだけど、よく受験合格できたなあ︶
ただ、体育の授業では他の子をぶっちぎってどう考えても全国レ
ベルの成績を残しているのだ。
具体的に言うと陸上100メートルを11秒台で走ってしまう。
︵この学校、スポーツ特待生制度は無いはずだけど︶
それに、そういう特技があるならこの高校へ来なくてもスポーツ
で有名な高校に進学すればよかったはずなのに。
・・・なんか、よくわかんない子だなあ。
見とれるような腰まで伸びた銀髪含め、黙って立ってればただの
超美少女なのに。
﹁ここはこれをこの数字に当てはめて、ここをクリック・・・﹂
﹁なるほど。理解いたしました。この配列パターンの応用ですか。
じぶ・・・ワタクシも以前、同じようなものを扱っておりまして、
例えばこれは﹂
宮森さんはそこまで言うと、固まってしまっている会長の様子を
見たのか。
﹁あ、ありがとうございました・・・﹂
そう言って、黙ってしまったものだから。
わたしがフォローに回るしかなくなってしまった。
12
﹁宮森さんって、エクセル苦手なんですか?﹂
隣でばちばちとキーボードを打っている彼女に、ひそひそと話し
かける。
﹁このようなソフトを扱うのが初めて、でありまして。ワタクシ以
前は海外を転々としていましたもので﹂
﹁それじゃあ、日本語も覚えたてなんですか?﹂
﹁はい。特にこの学校で使われているような口調はなかなか慣れぬ・
日本語覚えたての割りにはイントネーションはちゃんとしてる
・・ませんでして﹂
。
、という疑問はとりあえず置いておくことにした。
﹁海外というと、どちらに?﹂
この子なんかおかしい
﹁えと・・・。UAE、とか﹂
やっぱり、
この違和感が、ただの気のせいだと良かったんだけど。
﹁内田さん、聞きまして?﹂
﹁どのような事を、でしょうか﹂
移動教室の途中で、普段あまり親交もないクラスメイトに突然話
しかけられた。
﹁これはあくまでただの噂、なのですけれど﹂
彼女はそう前置きした上で。
13
男
が居る?﹂
﹁今年の1年生の中に﹃不審者﹄が居る、という話をご存じかしら
?﹂
◆
﹁この学校に1人
端末の電話口で、思わず語気を強めてしまった。
いけない。
誰かに聞かれてはいないだろうか。
﹃どうやら向こうから仕掛けてきやがりましたね﹄
端末から聞こえてくる甲高い声は、いささか普段より言葉尻に余
裕が無かった。
﹁自ら真実を流布することで、場をかく乱する作戦か。なるほど有
効な精神攻撃ではあるな。特にこの国の学生というのは噂の類を好
む傾向がある﹂
1か月間、この高校で生活してきて学んだことの1つだ。
﹃ホシは余程、バレないという確信めいたものがあると思います。
いや、というより・・・﹄
﹁なんだ?﹂
﹃今の名前・・・ええと、宮森香菜。てめぇが1番に疑われるって、
向こうはそう確信したからそんな真似をしたんですよ﹄
14
﹁!?﹂
いや、冷静になれ。
このようなケースで最も憂慮すべきは錯乱することだ。
﹁待て。私は確かに諜報員をやってはいるが、れっきとした女だ﹂
﹃んなこたぁ三つ子の頃から一緒に居るワタシが1番よく知ってる
ですよ。問題はてめぇの生活態度。お前がその国のお嬢様学校で諜
報なんざ、無理に決まってるのです﹄
﹁どういうことだ。要点をまとめろ﹂
﹃ああ脳筋はこれだから。じゃあ一言で言いましょうか。もうすぐ
お前の部屋に風紀委員やら教員やらが乗り込んでくるでしょう。ホ
シは、その混乱に乗じて何かを起こす気ですよ。さあどうです、猿
でも理解で﹄
本当に猿でもわかる解説を披露した彼女からの通信を、一方的に
切る。
︵すまん。どうやら、手遅れだったようだ︶
この部屋をどんどんと叩く音、そして無数の女性の声が聞こえる。
・・・最悪の事態になってしまった。
﹁この手はあまり使いたくは無かったが﹂
非常時だ。
もはや私に手段を選んでいる余裕は無かった。
15
◆
﹁あの、何かあったのですか?﹂
もう日付が変わろうかと言う時間なのに、部屋の外が何やら騒が
しい。
こんな事は入学して以来初めてだ。
もしかして、火事・・・とか、かもしれない。
わたしは事態を確認しようと、部屋から顔を出し、部屋の外をち
ょうど歩いていた、比較的仲の良いクラスメイトを捕まえ、尋ねて
みる。
﹁例の﹃不審者﹄が現れたので、生徒は2人以上で非常通路から講
堂へ逃げるように、と﹂
﹁あの噂、本当だったんですか?﹂
てっきり、タチの悪いデマだと思い込んでいた。
﹁とにかく指示に従いましょう。非常通路はこちらですわ﹂
﹁は、はい﹂
小学校の時に避難訓練というものを受けたことはあったけど、あ
の時はまさか本当に自分がこんな事に巻き込まれるとは思いもしな
かった。
訓練、もうちょっと真面目に受けておくんだった。
﹁こちらですわ﹂
16
彼女・・・﹃仲野さん﹄に手を引っ張られながら学生寮の角へと、
走らない程度のスピードで急ぐ。
ここは寮の最上階。
この目の前にある緑色に発光した誘導灯の下にあるドア、ここを
開ければ屋外の非常用階段へと出られるはず。
はずなのに・・・。
仲野さんは、わたしとその扉の間に立ち、こちらにくるりと向き
直った。
﹁さ、ここなら誰も来ませんわ﹂
﹁え・・・?﹂
それがあまりに予想外過ぎて、わたしはろくに返事もできなかっ
た。
﹁ねえ内田さん、あなたって本当にかわいいですわね﹂
﹁な、なに言ってるの?﹂
これってもしかして・・・。
そんな事を考える暇もなく、仲野さんはわたしを壁際に追い込み、
逃げられないように壁へ腕をついてわたしの自由を奪った。
﹁入学式で見た時からずっと、ずっと思ってましたの。ああ、食べ
ちゃいたいって﹂
﹁待ってよ、待って!何かの冗談でしょ!?﹂
﹁冗談でこんな事すると思って?さ、ここならしばらく誰も来ない
でしょう。楽しい夜になりそうですわね﹂
17
怖い。
怖い怖い怖い。
たぶん、今わたしが思い描いている事と大差ないことを、これか
らされる。
怖くて怖くて、わたしの身体は足先までぴくりとも動かなくなっ
ていた。
彼
はその恍惚の表情を見せ、わたしの顔に
︱︱︱助けて。誰か、助けて・・・。
﹁ふふ・・・﹂
彼女・・・いや、
顔を近づけようとした。
その寸前で。
彼は真横から来た衝撃によって吹き飛び、非常口の固いドアに頭
から突っ込んでいた。
意味が、分からない
。
﹁へ、へええ・・・っ?﹂
理解が追いつかなかった。
だけど、次の瞬間。
﹁暴漢の無力化を確認。護衛対象に異常なし﹂
18
目の前で思い切り脚を振り上げ、蹴りのカタをとっている宮森さ
んの姿を見て、ようやく状況を理解した。
﹁み、宮森さん・・・?﹂
﹁大丈夫、で、ありますですか?何かされたりっ、しませんでした
でしょうか?﹂
たどたどしい丁寧語︵?︶で、彼女はわたしの肩を掴み、何度も
無事を確認する。
﹁う、うん。なんとか、何もされなかったよ。それより宮森さん・・
・﹂
﹁ご、ごめんあそばせ。このような実力行使はワタクシの本意では
なかったのです、が。ご学友に、ええと・・・何かあったらと思う
と、いやそれに今のは正当防衛と言いますですか、まさか内田さん
がターゲットだったとは気づきませんで、貴女に何かあったらと思
うと、その﹂
そんな宮森さんの様子を見て、思わずふき出さずにはいられなか
った。
﹁ふふっ。宮森さん、お嬢様言葉へた過ぎ﹂
笑いながら、そう言う。
安心した。本当に、本当に嬉しかった。助けに来てくれて。
気づくとわたしは完全に、宮森さんの美麗さに、見惚れていた。
だから。
﹁貴女自身の言葉で、言ってほしい﹂
19
そう笑いかけると、彼女は今まで見せたことが無いような真面目
な顔にして、眉間にしわを寄せると。
﹁・・・ムチャクチャ、腹が立った﹂
吐き捨てるように言った。
ああ、そうか。
きっとこれが、この女の子の本当の表情なんだな︱︱︱。
素直にそう思うことが出来たのは、彼女の生真面目さがあまりに
ストレートすぎたからだろうか。
それとも。
﹁どうした内田?何がそんなにおかしい?﹂
彼女が、パンツだけの、ほぼ全裸の姿だったからだろうか。
︱︱︱ああ、わたしより胸、大きいのね。
20
ユリコイ
﹁また明日なー﹂
ぶんぶんと手を振って、友達を見送る。
﹁ばいばい﹂
そのわたしの横で、おとなしく手を振っている女の子、美晴。
わたしの一番の親友で、家も隣同士。
だから、この子と別れるのは毎日玄関の前だった。
﹁これで期末も終わったし、あとは夏休みが来るのを待つだけだな
ー﹂
能天気にそんな事を言うと。
﹁でも期末の結果返ってくるし、それに終業式には通知表が﹂
美晴がグサリと、1番思い出したくないことを言ってくるもんだ
から。
﹁え?﹂
彼女の両ほっぺをぐにゃりと掴むみ。
﹁そんなテンション下がること言うのはこの口かー!﹂
﹁わぁ∼、ひょへんなふぁい∼﹂
21
こねくり回すように引っ張った。
こんな事を遠慮なしにできるのは美晴だけだ。
他にも友達は何人も居るけど、やっぱり親友と呼べるのは美晴1
人。
一見おとなしそうに見えるけど、案外わたし達じゃ思いつかない
ような事を言っちゃうような子で、面白いヤツなんだ。だから美晴
の周りには、いつもわたし含めて色々な人間が集まってくる。
中には美晴にちょっかい出してくるような奴も居るけど、そうい
う連中から美晴を守るのがわたしの役目でもあった。
﹁ねえ燐ちゃん﹂
ほっぺから手を放して数秒後、美晴は何やら表情を曇らせてわた
しの名前を呼ぶ。
﹁あたし達、親友だよね?﹂
﹁な、なんだよいきなり。そんなの、そうに決まってんじゃん﹂
いまさら確認するまでもない事実。
だけど、何か分かる。
美晴のこの様子は、いつもと少し違うというくらいのことは。
﹁こんな事、燐ちゃんにしか頼めないんだけど﹂
美晴は俯く。
・・・じれったい。
22
﹁もうっ。わたしに出来ることなら何でも言えよ。今までずっとそ
うやってきたじゃん﹂
かれこれ10年以上の付き合いだ。遠慮とか、そういう水臭い真
似はして欲しくない。
わたしが入念に説得すると、美晴はようやく口を開いた。
おかしいな。
いつもはこんなに頑なな態度をとるようなヤツじゃないのに。そ
んなに難しい事なんだろうか。
﹁あ、あのね﹂
美晴は意を決したように目を瞑ると。
﹁あたしの恋人のフリをして欲しいの!﹂
◆
美晴の親御さんが経営する会社の雲行きが怪しい。そこで、親会
社の社長が自分の息子と美晴を結婚させるなら経営をどうにかして
やる、と言ってきたらしい。
︵今時、ドラマでもこんなベタな展開無いぞ・・・︶
帰宅後、わたしはベッドで仰向けになりながら先ほどのやり取り
を思い出していた。
23
﹁い、いや、なんでわたしなんだよ﹂
﹁言ったでしょ、こんな事燐ちゃんにしか頼めないのっ・・・﹂
﹁でもさ﹂
わたし、女の子ですよ?
いろいろ、ヤバいんじゃないかと言う気持ちがまず第一に押し寄
せてきた。
美晴の親御さんはすごく良い夫婦だ。それこそ何度も何度もお世
話になった。
わたしがそんな事をしたら会社の経営はどうなるんだ、とか。そ
れに今まで﹁友達﹂としか認識して居なかった隣の家に住む女の子
が、急に自分の娘の恋人だと言い始めたら、親御さんはどう思うだ
ろう。
とりあえずその頼みを引き受けるかどうか、わたしは保留した。
だけど、時間が無い。
明後日の日曜日にその相手先の男とのお見合いがあるらしい。
﹁どうすりゃいいんだよ・・・﹂
いろんな気持ちが一気に押し寄せてきて、頭の中がぐちゃぐちゃ
になる。
どうすんだよ。わたしの行動次第で会社が潰れるかもしんないん
だぞ。
わたしはただの女子高生で、うちはただの中流家庭だからお金の
面倒なんて見られるはずもないし。
だけど、だけど。
24
1つだけしっかりとした感情はある。
それは。
︵美晴を誰かにとられたくない︶
その気持ちが何よりも強い。
美晴が誰かに奪われる、誰かのものになってしまう。そんなの、
耐えられない。
絶対に嫌だ。
だけど、これはわたしの我が侭じゃないか。会社1つ潰してまで、
押し通すべき気持ちなのか。
従業員の人達を路頭に迷わせて、それで美晴の隣に立つことが。
そんな事が、許されるのか。
小難しいことをくよくよと考えていたからだろうか。
今度は許さないぞ、ぶんなぐってやる!﹂
だんだんと瞼が重くなっていき、知らないうちに意識が遠のいて
いっていた。
◆
﹁またおまえらか!
わたしはそう言ってみいを囲む一団に向かって猛ダッシュする。
﹁げっ、おい燐が来たぞ!﹂
﹁男女が来た∼﹂
﹁逃げろ∼﹂
25
彼らはけらけらと笑いながらみいから離れて行った。
立てる?﹂
一番後ろを走って行った奴に、落ちていたドッジボールを思い切
ケガとかしてない?
りぶつけてやった後、みいに駆け寄る。
﹁み、みい。大丈夫か?
﹁りんちゃん・・・﹂
涙目になっているみいの手を取って、ゆっくりと立ち上がらせる。
すると、みいはわたしに抱き付いて泣いてしまった。
︱︱︱ああ、これ、夢だ。
確か小学校1年生になりたての頃だっけ。
﹁あいつら、明日学校行ったら覚えてろっ﹂
わたしがそうやって息巻くと。
﹁やめて、りんちゃん。あたしは大丈夫だから﹂
﹁あんな奴ら、3人がかりで来てもわたしは負けない!﹂
﹁そうじゃないの。あたしのせいでりんちゃんに迷惑かけたくなく
て﹂
まだしゃくりを上げているみいは本気でわたしを制止した。
﹁なんでだよ。悔しくないのかよ!﹂
﹁そんな事したら、りんちゃんが先生に怒られちゃう。そんなのや
だっ﹂
強引に言うみいに対して。
26
﹁それでもっ!﹂
わたしは。
﹁それでもわたしはみいを悲しませるような奴らは絶対に許さない
!それが神様でも、わたしはみいの方が大切なんだ﹂
力強く言う。
﹁世界中が敵にまわっても、わたしはみいの味方だもん。何があっ
ても、ぜったい!﹂
バカみたいだ。
神様とか世界中が敵とか、考えが幼稚すぎる。
︱︱︱でも、今、この夢を見たのはきっと偶然なんかじゃない。
︱︱︱思い出せって言っているんだ。わたしの生きる意味、しな
きゃならないことを。
目を覚ますと、もう深夜の2時だった。
だけど、ちゃんと話がしたい。
わたしは携帯を手に取り、美晴に電話をかけた。
︵美晴はまだ寝てない。だって︶
そう思いながら窓の外にちらっと視線を移す。
︵美晴の部屋の電気、まだ付いてる︶
27
カーテンがかかっていて中の様子までは見られないが、それくら
いの事は確認できる。
数秒後、そのカーテンが開けられた。
美晴は笑顔を見せて、嬉しそうに手を振る。
︵そうだ。この笑顔を守るために、わたしは生きてるんだ︶
わたしがすぐに窓を開けると、美晴も同時に窓を開けた。
足場・・・屋根に十分注意しながら、窓から美晴の部屋へと乗り
込む。
﹁久々だったから緊張した﹂
美晴の部屋に入って、笑いながら言った。
﹁燐ちゃん・・・﹂
彼女はわたしの目、そこだけを見つめている。
美晴も成長してるんだ。昔、わたしにすがることしかできなかっ
た弱虫とは違う。
だけど。
﹁美晴。恋人のフリ、わたしやるよ。美晴を守ること、美晴の1番
近くに居ること。美晴の1番大切な人であること。それがわたしの
願い。夢。すべて。だから、たとえたくさんの人たちに恨まれるこ
とになったとしても、わたしは自分の意思を貫き通したい﹂
ありのままを、全て、さらけ出した。
28
﹁本当?﹂
美晴は恐る恐る、聞き返してくる。
﹁本当﹂
﹁本当に本当?﹂
﹁ぜったい!﹂
好き
もうわたしの考えは変わらない。
何があっても、だ。
﹁燐ちゃんは、あたしの事・・・
なの?﹂
きっとその言葉は、美晴にとってとんでもなく重いものだっただ
ろう。
そして、これは最終確認だ。
わたしが本気かどうかの。
﹁・・・好き。大好き。何よりも、美晴が大切なんだ。結婚できる
なら、わたしが結婚したい﹂
誰にも渡さない。この子だけは。
﹁じゃ、じゃあさっ﹂
美晴は潤んだ瞳でわたしを見つめると。
﹁キス、できる・・・?﹂
29
そんな、あまりにも無粋な事を言うもんだから。
次の瞬間には、生まれて初めて、自分の唇を他人の唇に重ねた。
他でもない、美晴の唇に。
﹁これで、信じてくれた?﹂
さすがに恥ずかしい。
だけど、互いに目線を逸らすことはなかった。
わたしは本気だ。本気じゃなきゃ、こんな事できない。
﹁うんっ﹂
そしてそれに、美晴は嬉しそうに頷いてくれた。
﹁あたしも燐ちゃんが大好き。結婚したいくらいって言うのも一緒﹂
美晴はそう言って胸に手を当てると。
﹁・・・でも、ごめんね﹂
その言葉を聞いて、頭が真っ白になる。
終わった。
本当に、何も考えられなくなった。
﹁会社が傾いてるとかお見合いとか、全部嘘なのっ!﹂
30
!?
﹁えっ・・・?﹂
それって、どういう・・・。
﹁あたし、燐ちゃんに好き、付き合ってって言う勇気が無くて、そ
れで、あんな嘘を・・・。ごめん燐ちゃん。あたし、燐ちゃんに嘘
ついちゃった。最低だよ。でも﹂
美晴は自分の両手を見つめ、妙に饒舌に話していたが。
﹁これで正式な恋人だよね!?﹂
そこでパッと顔を上げる。
﹁う、うん。そうだけど・・・﹂
なんか、釈然としない。
ゆくゆくはその、大人の﹂
﹁こうやって窓で互いの部屋に行けるなんて、もう同棲と同じだよ
ね!
興奮している美晴の両ほっぺを、わたしは思い切り引っ張った。
31
BEGINNERS
﹁左ひざの半月板損傷・・・﹂
医師の診断を聞いて、愕然とした。
何も、本当に何も考えられない。今、何が起きているのかも。
﹁それで、全治は?﹂
﹁・・・半年はかかるでしょう﹂
半年。つまり、7月。
わたしの高校最後のインターハイ予選が、とっくに終わっている
頃だ。
インハイの予選は6月から始まる。
つまり、夏の予選出場は絶望的になった。
﹁起きてしまったことは仕方ない。問題はこれからどうするか、だ﹂
我が校は全国でも屈指のテニス強豪校。
そこでわたしは、2年生からずっとエースの座を守り続けてきた。
2年生の時点で、先輩含め、わたしに勝てる選手はうちには居な
かった。
いや、全国を見回しても、ほとんど居ない。良い勝負が出来そう
な選手は何人か居たが。
・・・これはわたしの驕りでも何でもなく、れっきとした事実で
ある。
﹁わたしは、インハイに出ます﹂
32
それでも、この強豪校で半年のブランクは大きすぎる。
他の部員が今のわたしより強くなるとは思えない。
わたし
に、自分た
だけど、わたしが。半年後までに自分のコンディションを現状に
戻すのは不可能だろう。
そして何より、半年もチームを離れていた
ちの3年間の集大成を預ける気には、なってくれないだろう。
わたしはみんなに恨まれるような事を多々してきた。
高圧的な態度をとったり、とんでもない練習量を課したり。
それも、全てはチームの事を考えてしたことだ。
︵ここに来て、それが裏目に出るなんてね・・・︶
もう面会時間ギリギリなのに、まだ病室に残っていたコーチはわ
たしに語りかける。
﹁お前のやり方は正直、手放しで褒められるものじゃなかった。ス
ポーツの本質は勝つことじゃない。特に高校で行う部活というもの
は、そこでスポーツを通して健全な精神を育むというのが1番の目
的だ﹂
﹁わたしはそうは思いません﹂
それを一蹴する。
﹁勝つことが全てですよ。わたしは部員たちに勝つことで全てを示
そうとしてきました。負けても得るものがあるとか、試合に負けて
勝負に勝つとか、そんなの負け惜しみじゃないですか。負ければ今
までしてきたことが全て否定される。勝てば、勝ちさえすればみん
なが自分の事を認めてくれる。それを、身を持って示そうとしよう
33
とした、それだけだったんです。実際、わたしは1年生のあの試合
を最後に、1試合たりとも負けてない﹂
ぎゅっと、自らの拳を強く握りしめた。
﹁それじゃあ、私が言いたいことも分かるな﹂
コーチは目を瞑る。
﹁勝てないわたしに用はない、ですか﹂
﹁・・・そうだ﹂
ぐっ、と。歯を食いしばった。
今、唇を噛んだら食いちぎってしまいそうだったから。
﹁お前が出られるとするなら個人戦だけだ。団体にお前の席は無い。
そしてこれは私がコーチとして言ってやれる最後の助言だ﹂
彼女は、そこで一拍を置くと。
﹁夏は諦めろ。ゆっくりリハビリをして治していけば、選手生命に
関わるような怪我じゃない。お前の実力があれば、その後の事なん
ぞどうにでもなるだろ﹂
﹁それが、わたしを団体から外すと言った本当の理由ですか﹂
﹁さあな﹂
団体には入れないと最初に言っておけば、わたしがチームを背負
うことなく、自分だけの問題としてこの怪我と向き合える。
コーチはそう思ったんだろう。
34
だけど、わたしはそんな事を言っているんじゃない。
﹁今だけなんですよ﹂
﹁ん?﹂
﹁わたしの高3の夏は、今を逃したらもう二度と戻ってこないんで
す﹂
だって、わたしは。
︱︱︱日本一の、本物の負けず嫌いだから。
◆
﹁こほっ、こほっ﹂
カラカラと点滴を引きずりながら、病院内を散策する。
私の病気は先天性・・・、お母さんからの遺伝らしい。
そして、お母さんは私を産んだ時に死んでしまったと、昔お父さ
んが言っていた。
でも、お父さんは最近、その話をしなくなった。
きっと、わたしの病状がだんだん悪くなってきてるからなんだろ
うな、と。
なんとなくだけど分かっていたんだ。
︵いつ、死ぬのかなあ︶
そんな事をぼんやり考える。
35
死ぬのは怖いとか、嫌だとか。そういうのはもうだいぶ前に通り
越してきた。
別にやりたいこともないし、あったとしてもこの身体じゃ出来な
いし。
そこまで生きることに執着したいわけじゃない。
どうせ人間なんて100年弱でみんな死んじゃうんだ。私が20
で死んでも、70年違うだけじゃないか。
そんな事を考えながら、春の心地いい陽気に押されてリハビリ室
の前を通り過ぎた時の事だった。
がしゃん、と。
中で、何かが倒れる音がした。
︵またあのおじいちゃんかなぁ︶
お年寄りの介護は大変だろうな、と思いながらリハビリ室を覗く
と。
﹁えっ︱︱︱﹂
文字通り、絶句してしまった。
﹁星村さん!まだ無理です。今日はここまでに﹂
﹁大丈夫です。これくらいの事で諦めてたら、6月には絶対間に合
わないッ・・・!﹂
そこに居たのは床に崩れ落ちている、年上くらいの女の子と、そ
れを気遣う看護師さんの姿だった。
患者の女の人は、一所懸命に身体を立てなおし、再び歩行のリハ
ビリを再開する。
36
何度転んでも、彼女は日が暮れるまで、ずっとリハビリ室から出
ようとしなかった。
﹁・・・﹂
なんというか、とんでもないものを見てしまったような気がする。
私は言いようのない気分になって、そこから逃げ出した。
︱︱︱なんかあの人、怖い。
それが正直な感想だった。
﹁あなた﹂
だからある日突然、廊下を歩いている時に、あの女の人に話しか
けられたのにはびっくりした。
﹁これ、落としたよ﹂
女の人はゆっくりとしゃがみ、立ち上がってそれを手渡してくれ
た。
杖をついた、痛々しい姿なのに。
他人であるわたしの落とし物を自力で拾ったのだ。
手のひらを見る。
そこにあったのは、いつも首から下げているロケットだった。
紐が切れてしまっていたらしい。
﹁それじゃ、わたし行くから﹂
女の人が後ろを振り向こうとした、その時。
37
﹁待ってください!﹂
私は、そう叫んでいた。
﹁どうして毎日、あんなムチャクチャなリハビリしてるんですか?
私、病院暮らし長いから知ってるんです。あなたの怪我はこじらせ
たら一生のモノになるんですよ!時間なんていくらでもあるんだか
ら、ゆっくり治せばいいじゃないですか!﹂
どうしてだろう。
なんで私は、こんな他人に大声を出しているんだろう。
﹁・・・わたしの一生を賭ける価値が、あと三か月の間にはある。
それだけだよ﹂
真っ直ぐに私を見つめて、そう言った。
﹁∼∼∼﹂
私はパニックになってしまう。
この人は何を言っているんだ。そんな短い期間に、人生を棒に振
る価値があるわけがない。
この人を止めなきゃ。どうしたら止まってくれる?
必死に考えた結果。
﹁私、手術受けます!失敗したら、多分死ぬくらい、大きな!それ
に成功したら、私の言うこと聞いてくれますか!?﹂
38
なぜだか、そんな事を言っていた。
女の人は数秒間、考えると。
﹁・・・分かった。約束する﹂
そう言って、力強く頷いた。
◆
﹁優勝、大阪代表・山神遊里﹂
本当ならあそこに居たのは自分だ
わたしはぱちぱちと、手を叩いた。
﹁もう、お姉さん!今、
思ったでしょ!﹂
って
わたしの車椅子を押してくれるのは、黒髪ロングの小さな女の子
だ。
中学2年生で、最近ようやく進路について考え始めたらしい。
いや、違う。
この子は最近になって、﹃生きること﹄を考え始めたんだ。
﹁ふふ、桜ちゃんに隠し事はできないね﹂
彼女は重度の病気を患っていたらしいが、超一流の医師による1
0時間を超える大手術を受けて、その病気はほぼ完治した。
これは聞いた話だけど、手術を受けるのがあと3か月遅ければ、
桜ちゃんの体力は手術に耐えられるものではなくなってしまってい
39
たらしい。
桜ちゃんは夏休みを前に無事、退院した。
学校に初めて通うことになった彼女の話は、新鮮で面白い。
わたしはと言うと、今現在はゆっくりと上半身の体力を保ちつつ、
ようやく足の曲げ伸ばしを行うようになっていた。
医師によると、今年の暮れには完治するとのこと。
﹁だってあいつ、去年の夏の大会でわたしにストレート負けした奴
だよ﹂
﹁過去の栄光を自慢するんですか?﹂
﹁はは、なかなか手厳しいね﹂
なんだか手術を受ける前と後で、この子の印象はまったく変わっ
た。
以前は弱弱しい病人みたいな顔をしていたのに、今ではこんな風
にわたしを叱りつけるくらいだ。
退院した後も学校終わってすぐ病院に来て、それが役目のように
わたしを監視してるし。
﹁・・・お姉さん﹂
そんな彼女が、わたしに目も合わせず。
﹁後悔してますか?夏の大会に出ればよかった、って﹂
その言葉は、儚げで、少しだけ罪の意識を感じているようだった。
わたしの返答なんて、最初から決まってる。
40
﹁ううん。全然。桜ちゃんと居られるだけで、今は幸せだから﹂
あの日を思い出す。
桜ちゃんの手術が終わり、﹃成功﹄の言葉を聞いて、大粒の涙を
流し崩れ落ちたあの日の事を。
﹁この選択が正しかったかどうか、一緒に見つけて行こうね﹂
そう言って、桜ちゃんの手を握る。
﹁はいっ﹂
彼女の笑顔を見られるようになった。
それで十分じゃないか。
︱︱︱焦る必要なんて、もう無いんだから。
41
ドット白アンド・オンライン
﹁今日はわたし、マコト・ユーキと嫁のシロ・ユーキが迎える初め
ての結婚記念日に来てくれてありがとう﹂
きちんとテーブルの前の椅子に座っている嫁の顔を見る。
かわいい。相変わらず完璧。
彼女と知り合って3日で告白したというのは、今でもわたしとシ
ロ以外誰も知らない話。
誰かに話すとしたら、このVRMMORPGに同性で子どもを作
れるシステムが導入された後の話になるんだろうな。
﹁この2年間で真白騎士団は世界最大のギルドになった。団員1万
人以上をまとめてくれてる君達には日ごろから・・・﹂
わたしがそこまで言ったところで。
﹁前置きは良いから早くー﹂﹁隊長、話ながーい﹂
という声が聞こえてきたものだから。
わたしはシロに目配せする。
﹁それじゃあみなさん、乾杯∼﹂
プライベートエリア
気の抜けたシロの音頭で、わたし達の結婚記念日の宴は始まった。
ここはわたし達ギルドが買い付けた、避暑地の森にある別荘。
特別な日でもなければ、あまり使わない建物だ。
42
﹁これだけの面子が一緒に食事をしてるなんて、信じられないね﹂
隣で炭酸ジュースをグラスに注ぐシロを見ながら、言う。
﹁みんな、貴女の腕を聞きつけてやってきた人達です﹂
シロは嬉しそうにそのグラスをわたしに手渡してくれた。
﹁違うよ。ここに居るのはみんな、シロが集めた娘らだもん。わた
しも含めて﹂
﹁ワタシにそんな魅力、無いですよ。ワタシはただ、貴女の隣に居
ただけで﹂
はシロだ。
﹁シロが隣に居てくれたから、わたしはここまでやってこられたん
最高責任者
だ。シロにしかできなかったことだよ﹂
そう、この真白騎士団の団長、
わたしはそれを補佐している。それだけに過ぎない。
﹁もう、貴女ったら。おだてても何も出ませんですよ?﹂
シロは照れ笑いをして、その白い肌を赤く蒸気させる。
互いが持っていたグラスをかちん、と合わせて、炭酸ジュースを
ぐいっと煽った。
﹁こほん。団長、隊長、お2人のラブラブ空間に割って入るのは申
し訳ないんですが﹂
気づくとわたし達の後ろに、小さな女の子が立っていた。
43
﹁むぅ、カレンっ。ここからが良いとこだったんですよ!﹂
珍しくシロが頬を膨らませる。
しかし、こう言っては何だが怒っても全然怖くない。
﹁いや本当に申し訳ない。しかし、どうしてもお伝えしなければな
らない事がありまして﹂
彼女はそこで声のトーンを目盛り3つくらい落とす。
﹁二番隊に属する団員が、例のプレイヤーキラーに遭遇し・・・ゲ
ームオーバーになりました﹂
そこで、今までのお祝いムードは吹き飛んでしまった。
このゲームにおけるゲームオーバーは、ユーザー情報の消去とい
う、かなり厳しいものだ。
そのシビアさが、このゲームをここまで大きくしたとも言えるの
だけれど。
﹁私も知ったのはつい先ほどです。全団員に注意喚起の知らせを一
斉送信しましたが、とうとう奴が私達まで標的にしてくるとは・・・
﹂
わたしは目を瞑った。
その団員への黙とう、そして。
﹁真白騎士団の団員、それはわたしとシロの家族だ﹂
意思を、固めるために。
44
﹁全員、HPとMPを全回復、回復アイテムを装備。わたし達夫婦
BLACK﹂。
の家族を殺した輩を許すわけにはいかない。全団員に通知・・・真
白騎士団12236人で、家族の仇を討つ﹂
◆
﹃漆黒﹄。正式なユーザー名は﹁BLACK
当初、こいつの存在は都市伝説めいたものだった。
それは、異常な戦闘力の高さ、そしてチートを使ってでもしなけ
れば不可能な事を次々と起こしてきたという、その規格外さに理由
がある。
噂に尾ひれがついて、100人以上のギルドを一晩で全滅させた
だとか、その存在は最早このゲームのバランスを崩すほどのものに
なっていた。
もちろん、プレイヤー側から運営に向けて再三再四、この漆黒は
運営が用意したNPCなのではないかと問い合わせているのだが、
運営はそれを完全否定している。
事実、漆黒が現れてからこのゲームのプレイヤーは減り続けてい
るため、運営に何のメリットも無いというのも頷けるし、全力をも
って調査をしているという言葉も事実なのだろう。
だからこそ、漆黒の恐怖は日に日に大きくなっていったのだ。
﹁四番隊、五番隊、六番隊は漆黒を捜索。見つけ次第、二番隊と三
番隊に報告、計5つの隊で漆黒を討伐する。七番隊以下の団員は直
45
接動くなと伝えて。最後に零番隊、一番隊を全員ここに召集。もし
も何かあったら、わたしが直接動いて漆黒を殺る﹂
﹁隊長からの指示は以上です。以下の指揮は全てワタシが担当しま
す。前線指揮官の隊長、副隊長各位はワタシの指示通り動いてくだ
さいです。なお、情報は全てこちらにまわしてくだい。多少の不確
定事項は・・・﹂
これがシロ、わたしの嫁、そしてこのゲーム最大のギルドの団長
だ。
彼女が得意とするのは電脳戦。
ありとあらゆる方法でゲーム情報を収集し、解析して各隊の隊長
に情報を流し続け、戦闘になればその無限大の情報量から最適な戦
術を指示。それと同時に戦略的な人の動きすらも計算して行ってし
まう。
真白騎士団がここまで大きく、強くなったのは謙遜でもなんでも
なく、本当にシロの功績なのだ。
このゲームはシロの盤上。わたし達はそれに命じられて動く駒。
今までそうやって、どんな敵だって倒してきた。漆黒も例外では
ないはずだ。
そして、それはすぐに証明されることになる。
二番隊の陽動に、漆黒が引っかかった。
奴はこのプライベートエリアの入り口まで追い詰められたらしい。
﹁一番隊、出撃。二番隊と漆黒を挟撃です﹂
総勢300人以上、それもプレイヤーランク三桁の連中がうじゃ
46
うじゃ居る一番隊と二番隊が相手。
そうなってはもう、結果は明白だ。
︵さすがの手並みだね、シロ。これで・・・︶
そんなことが頭を掠めた、その時。
﹁マコト、標的がここに入ってきたですよ﹂
﹁っ!?﹂
どうやって侵入した?
これで、何らかのチートを使ってるとしか考えられなくなった。
正規プレイヤーが、ここにシロとわたしの同意なしで入れるわけ
がないのだから。
﹁状況は?﹂
﹁芳しくない、二番隊の残存戦力が80%を切ろうとしてますです﹂
﹁・・・わたしが行く﹂
手元のカーソルで、大剣を顕現させた。
﹁待って。ここで貴女が動くのは得策じゃない﹂
﹁キングが動かなければ誰も付いてこない。シロが言ってくれたこ
とじゃない﹂
わたし達が初めて出逢った時の事を思い出した、その時。
全く考えられない事が起きた。
この別荘の光が届かない影から、プレイヤーキャラクターが出現
したのだ。
47
ここから見た限りそれは。まるで影から、ぼんやりと何かが浮き
出てきたように見えた。
漆黒は、こちらへ一直線に駆けてくる。
黒いフードをかぶり、右腕に銃と剣が一体化したランクBの武器
を身に着けている。報告にあった通りだ。
だが、何に驚いたかと言えば。
漆黒の、まるでゲームバランスを無視した、でたらめなスピード
だった。
﹁えぇぇい!!﹂
わたしは持っていた剣を振るう。
これは相手にダメージを与えるためではなく、相手を止めるため
の攻撃。
そう、なぜなら。
﹁総員射撃!!﹂
ここに居るのは全員プレイヤーランク二桁以上の女の子。
零番隊の一斉射撃で、漆黒のHPはそれこそ一瞬で無くなり、電
子的なエフェクトと共にこの世界から姿を消した。
﹁・・・あっけなかったね﹂
聞きしに勝る怪物も、わたし達夫婦の前ではこれが精いっぱいか。
﹁今の戦闘記録を全部運営につきつけるです。これで言い逃れもで
きなくなるですね﹂
48
確かにあれはチートだ。
通常プレイではありえない事を、奴はこの数十秒間に数えきれな
いほどやっていたのだから。
﹁そうだね、これはもうわたし達だけの問題じゃなくなった。零番
隊はこの別荘の警備を続けて。チートを使うような奴だ、生き返っ
ても不思議じゃない。臨戦態勢でね﹂
彼女たちの返事を待って、わたしはシロと別荘の中へ入っていく。
だけど、そこで異変を感じた。
どうしたの?﹂
シロが、別荘の2階、わたし達の私室の前で固まってしまってい
たのだ。
﹁シロ?
まさか何かされたんじゃ、と思いすぐに彼女のマイページを見た。
結婚した夫婦は、マイページの共有が出来る。シロに何かあった
ら、すぐ。
そう、思ったが。
それ
を見て愕然とした。
﹁な、なんで・・・﹂
﹁なんでわたし達のマイページに﹃子作り﹄のコマンドがっ!?﹂
おかしい。
49
だって、こんなのさっきの戦闘の時には無かったのに。
﹁わからない。あの漆黒と遭遇したことで、システムがおかしくな
ったのかも・・・﹂
いつもほわほわしているか、戦闘時のように冷徹なシロが、明ら
かに動揺している。
︱︱︱かわいい。
﹁あ、あの。マコト・・・﹂
わたしをちらちらと見ながら。
﹁これ、どうする・・・?﹂
恥ずかしそうに言う嫁。そして。
﹁や、あの・・・っ。そ、その。別に、わたしは、そういうことっ、
したいわけじゃ﹂
真っ赤になって、何も言えなくなってしまう嫁の嫁。
﹁もうっ。マコトのヘタレ!甲斐性なし!ワタシはマコトとそうい
うことしたいのです!﹂
そう言ってシロはそのコマンドを押し、わたしもそのまま押し倒
された。
ああ、誘い受けって言葉聞いたことあるけど。
わたしの事だったのか。
50
重女 ∼じゅおん∼
﹁やっと帰ってこられた・・・﹂
23歳。新卒1年目の夏。
私は仕事の後、無理矢理飲み会に連れていかれ、ほとんど飲めな
いお酒をこれまた無理矢理流し込み、酔っぱらった風を装ってなる
べく早めに帰る、そんな事を繰り返していた。それも毎日だ。
確かに定時に仕事は終わる。我が社はいわゆるブラック企業では
ない。
だけど、その後が長すぎるのだ。何が楽しくて飲み会、なるもの
に付き合わなければならないのか。そして断れば﹁最近の若い者は﹂
﹁これだからゆとり世代は﹂とテンプレのような台詞を吐かれ、嫌
われる。
それだけは避けたい。
死ぬ思いをして入社した企業なのだ。あの就活地獄をこんな事で
無駄にしたくはない。
だから今日も、アパートの一室・・・それも安い六畳半しかない
部屋へ帰ってきたのは夜の10時過ぎだった。
社会人になったら実家に帰るつもりだったけど、地方の企業なん
てそれこそブラックまがいのところばかりだったし、いつ傾くか分
かったもんじゃない。
私はこの東京で生きていくしかない。たとえ女1人きりだったと
しても。
51
﹁生きてるだけで、儲けもんだし・・・﹂
そう言って、ため息をついた。
その時。
﹁へえ。生きてるってそんな良いもんなの?﹂
携帯が鳴ったのかと思った。
だけど、違う。スリープモードのまま起動していない。
部屋の電化製品は電源が入ってないどころか、私はまだ蛍光灯す
らつけていない真っ暗な部屋に居る。
想像してみて欲しい。
こんな真っ暗なボロアパートで、誰も居ないはずの部屋から女の
子の声が聞こえてくると言うシチュエーションを。
﹁・・・いっ!!﹂
私は声にならない声を出してすぐに蛍光灯をつけた。ぶら下がっ
ている紐を引っ張って。
そして部屋が明るくなると、それは﹁明らかな形﹂となって私の
前に現れたのだ。
何も置いてないし。つか、
そこに立っていたのは、白い着物の長髪黒髪女性・・・。
ではなく。
﹁しっかし、ボロい部屋。なにここ?
52
クーラー無いのクーラー?
暑いんだけどさあ﹂
白と赤の巫女服を着た、見た目中学生か高校生くらいの女の子だ
った。
髪も茶髪で、大きなリボンで結ったツインテールの髪形が特徴的。
﹁あ、あの・・・。どなたですか?﹂
なんだか随分フランクな感じだけど、とりあえず敬語で話しかけ
る。
﹁ああ。ごめんね。あたしこういう者です﹂
彼女はそう言って巫女装束の胸元に手を突っ込み、そこから1枚
の紙を取り出す。
・・・どういう仕組みになってるんだ、あれ。
藤代奏美、平成8年12月12日生︵満18歳︶、住所先
ふじしろ かなみ
そんな事を思いながら私は紙に書いてある文字を読む。
﹁氏名
東京都・・・、学歴 東京都立夢の島高校卒業・・・﹂
そう、このペラい紙。
﹁履歴書・・・?﹂
もう見たくもないと思っていたけれど、こんなところで目にする
とは。
﹁そういうことだから﹂
﹁どういうこと!?﹂
53
言って、気づく。
ご両親はこの事ご存じなの?﹂
この時間にこの声量はヤバイ、と。
﹁あなた、何なの?
ぼそぼそと声を潜めて言うと。
﹁当たり前でしょ。そこに住所も連絡先も書いてあるじゃない﹂
﹁あ、そっか・・・﹂
納得しまって、いやいや違う違うと首を振る。
順番に整理しよう。
きっと私は疲れてるんだ。だから状況が把握できていないだけで。
﹁まず最初にだけど、あたし幽霊だから﹂
だがその言葉で、把握などと言う概念からほど遠いところに自分
が居る事に気づいてしまった。
﹁ゆ、幽霊・・・!?﹂
また大声を出してしまい、急いで口をふさぐ。
﹁そうそう。あんたに憑りついたの﹂
﹁ちょっと!ちょっと待って!﹂
何か説明に入ろうとした彼女の肩を掴んだ。いや、掴もうとした。
だけど。
彼女の肩に、わたしの手がめり込む。そしてよく見ると、めり込
54
んだはずの手がうっすらと透けて見える。まるで立体ホログラムに
手を突っ込んでいるような要領で。
﹁ひぃっ!﹂
腰が抜けるとはこういう事を言うんだろう。畳に尻もちをついて
しまった。
﹁幽霊だって言わなかったっけ?﹂
﹁い、言ったけど!!﹂
まさか本物の幽霊だとは、誰も思わないだろう。
だってこの子は宙に浮いても居ない。しっかりと両足で、畳に立
っている。
遠目から見たら、ただの巫女服を着た、かわいい女の子だ。
﹁えっと、あたしが何者かは分かってくれたよね。じゃあ次、気を
つけて欲しい事なんだけど。えー、まず金縛りは2日に1回の頻度
で起こすから。結構しんどいと思うけどまあ我慢してね。一応説明
するけど、金縛りっていうのは人間でいう睡眠の事ね。あたしは可
視型幽霊だから大丈夫だと思うけど、なんか物音するなー、とか。
誰かが後ろに立ってる気がするなー、とか、それ全部あたしだから。
まあ気にしないで﹂
・・・この子は、一体何を言っているんだろう。
全然、全く情報が入ってこない。
﹁あと夜中に変な電話かかってくるかもだけど、それ、あたし宛て
55
の電話だからこれも無視してオッケーね。こっちで勝手に出るから。
まあその分の電話代くらいは払うわ﹂
﹁ちょっとタイムタイム!ストーップ!!﹂
私はこれで最後だと思って、大声で彼女の説明を遮った。
﹁あ、あの。あなたが幽霊なのはわかった!それは認める!﹂
だって、さっき私の腕がすり抜けたもの。信じざるを得ない。
﹁でも、なんで私に憑りついたの!?私、心霊スポットとか行って
ないし!もしかして、誰かに呪われてるとか!?﹂
私はなるべく声を押し殺して、彼女に語り掛けた。
きょとんとした目で私を見上げた彼女は、はあ・・・とため息を
つくと。
﹁人間って本当にこうなんだ。学校で習ったこと、間違いじゃなか
ったのね﹂
彼女はこほん、と咳払いをする。
って大体間違ってるからね?﹂
が間違ってる・・・?﹂
幽霊像
﹁あんた達人間がどういう風にあたし達幽霊を見てるか知らないけ
幽霊像
ど、あんた達が考えてる
﹁
﹁人間ってそういうとこあるわよね。死んだ人間が幽霊になる、浮
遊している、足が無い、白い着物を着ている、黒髪長髪、廃墟や病
院とかに居る、トンネルに居る、何かと人間を呪おうとしてくる、
妖怪の親戚、恨みみたいな強いマイナスの感情。そんななんとなく
のイメージ。違う?﹂
56
彼女は指を折りながら、数えるようにそう言う。
﹁だって、実際そうじゃない。えっと、なんていうか・・・。私が
幽霊を見たのはあなたが初めてだけど、色んな人達が、大昔からそ
ういうものが幽霊なんだって、言い続けてきたもの﹂
﹁だからさあ。なんでそういう自分たちの価値観でしか物が見えな
いの?﹂
この時、彼女は初めて明確に苛立ちを声に出した。
﹁それはあんた達が勝手に決めた幽霊観でしょ?人間は自分たちに
持っていないもの、五感ではないものを第六感って言うらしいわね﹂
﹁言うけど・・・﹂
﹁持ってないものを持ってるって言い張るなんて、それがおかしい
って思わないの?﹂
﹁わ、私は哲学者じゃないからそんな事言われても・・・﹂
なんかもう、分かんない。
この子が本当に私達人間の言う﹁幽霊﹂なのかどうかすらも。
﹁自分たちの価値観で幽霊を決めつけないでよ。一部のバカな幽霊
たちのせいで、割食ってるのはあたし達なんだからね?﹂
だけど、私には必殺の術がある。これを使えば・・・!
﹁悪霊退散!!﹂
私はそう言って、小学校の頃から大事にしているお守りを握り、
彼女に突き出す。
57
有名なところでもらったお守りだ。これなら幽霊なんてあっと言
う間に・・・
﹁何この紙っぺら?﹂
そのありがたいお守り。
それを彼女は、あろうことか中身を取り出し、更に中に入ってい
た紙をびりっと言う音を立てて放り投げた。
﹁・・・﹂
中に入ってた
それ以上聞きたくない!!﹂
あんなもんが本気で効くと思ってたの?
あまりの衝撃に、私は声も出なくなった。
﹁なに?
もう言わないで!!
の、ただのコピー用紙・・・﹂
﹁あー!!
私は頭を押さえて滝のように涙を流した。
怖すぎる。
いや、なんかもうわかんないけど、わかんないけど怖すぎる。
﹁だからさ﹂
︵くわばらくわばら・・・︶
耳を塞ぎ、うずくまって目を閉じ、頭の中で何か効きそうな事を
唱え続けていると。
﹁話を聞けえ!﹂
﹁ぎゃあああああああ!!﹂
58
急に、とんでもない頭痛がして床を転がり回る。
彼女を見上げると、究極のドヤ顔をしていた。
﹁さ、さっき、呪いとか関係ないって・・・﹂
﹁関係ないとは言ったけど、出来ないとは言ってない﹂
﹁はあ・・・?﹂
なにそれ。もう、反則じゃんそんなの。
﹁もういい。憑りつかれちゃったもんはしょうがないし・・・﹂
﹁やっと認める気になったか﹂
﹁でも、聞かせて。どうして私に憑りついたの?﹂
たぶん、心霊スポット云々は一切関係ないのだろう。
どんな荒唐無稽な答えが返ってくるのか、そんな事私に分かるワ
ケがない。
だから。
﹁・・・一目惚れ﹂
その言葉は、あまりにも意外で。
﹁あんたに一生憑りついて、絶対に離れないんだから﹂
あまりにも、簡単で。
﹁あんたが浮気しようとしても無駄だからねっ。全員呪い殺してや
るんだからっ。全部あんたが悪いの、あんたがかわいいから・・・。
人間に憑りつくなんて、親にも超反対されたんだけど、それでも・・
・﹂
59
あまりにも、分かりやすすぎた。
60
わたしのなつやすみ
わたしは驚愕した。
﹁ここ、チャンネル4つしか無いの!?﹂
ふとテレビリモコンのボタンを押したものの、画面が真っ暗にな
って何も表示されなかったからだ。
そして新聞のテレビ欄を見て。
﹁しかも4つのうち2つがNHKなー﹂
﹁嘘でしょ!?﹂
大声を上げることになる。
この木造平屋にBSやCSなんてハイカラなものがあるはずもな
く、ケーブルテレビも無い。勿論インターネット環境もなければW
i−fiなどが飛んでいるわけがなかった。
﹁ここが陸の孤島かあ﹂
辛うじて、スマホだけは使える事を確認して一安心する。
充電に気をつけなければならないけれど、とにかくこれが使える
のならあとはどうとでもなる。たかが3泊4日、今から丸3日間。
そのくらいの苦行、まあすぐに終わるだろう。
建設的な考えの持ち主なら、この期間のうちに夏休みの宿題を済
ませようという発想になるんだろうけど、そもそも宿題を家に置い
61
てきたわたしに隙は無かった。
﹁あー、どうすっかなあ・・・﹂
畳二十畳くらいの大きな部屋に、わたしと、NHKで高校野球が
流れているテレビと、扇風機。
開始1分で暇になった。
ここはお母さんの実家。
東京から新幹線と電車を乗り継いでようやくやってきた、まさに
僻地だ。
外を見渡せば目に入ってくるものの6割以上が緑色。ギリギリコ
ンクリートで舗装されている狭い道路に、活気のない商店街らしき
もの。セミの鳴く声だけが大きく聞こえて、テレビの音が小さく聞
こえてくるほどだった。
﹁なんだよこの田舎ぁ!﹂
ぐでーっ、と畳に﹁大﹂の字になって寝ころぶ。
エアコンが無いのはさすがにしんどかった。山の中だろうとなん
向こう
だろうと、暑いものは暑いのだ。残念ながらここは避暑地じゃない。
﹁楓ー。おじいちゃんとおばあちゃん呼んできてくれる?
の田んぼに居るから﹂
﹁ええ?﹂
お母さんの声が聞こえてくるのは台所から。まだ外が明るいとは
言え、午後4時。
今日は親戚一同が集まって宴会のようなものが行われるらしいか
62
早く呼んできて﹂
ら、その準備に追われているのだろう。
﹁どうせ暇なんでしょ?
﹁もう、何でわたしが・・・﹂
ぶつぶつと文句を言いながら、わたしは身体を起こした。
暇なのは事実だし。暑いのも事実なんだけど、ここで押し問答を
していても仕方ないと思ったから。
﹁うー、暑い・・・﹂
直射日光を浴びると、暑さが倍増する。こりゃ早いとこ、おじい
ちゃん達を呼んでこないと。
﹁おじいちゃーん、おばあちゃーん、お母さんが呼んでるってー﹂
田んぼで何かしらの作業をしているおじいちゃん達にそう伝え、
しっかりと返事を確認する。
暑い。予想以上に暑い。さっさと扇風機のあるところに戻って麦
茶でも飲みたい。
そんな事を考えながら、踵を返したその時。
﹁・・・!﹂
わたしは、多分、見てはいけないものを見た。
見たら絶対に後悔する。そんなものを。
その人
は、そう言ってわたしの横を並ぶようにして歩いてい
﹁あちらの方々は、あなたのおじいさんとおばあさんですか?﹂
63
た。
ほんの僅かな違和感もなく、それが必然であるかのようにわたし
に声をかけて。
﹁あ、いや・・・。ま、まあ、そうかな﹂
その人
は黒髪が長い綺麗な女の子だった。年頃も同じくらい。
わたしはまたも驚愕した。
白いワンピースを着て、大きな麦わら帽子をかぶっている。
︵実際、こんな事ってあるんだ︶
まるで昔見たアニメや漫画からそのまま取り出したようなテンプ
レ通りの﹁帰省した田舎で出会う女の子﹂。
ご近所さん、とか?﹂
フィクションの中だけに存在すると思っていた美少女が、目の前
に居る。
﹁おじいちゃん達の事、知ってるの?
だから、わたしは知っていた。
﹁いえ、近所では無いんですけど・・・。気の良い方々なので、私
もお世話になった事があって﹂
﹁へぇ。君・・・、えっと﹂
﹁高宮涼です。あなたは?﹂
﹁武田楓。よろしく、高宮さん﹂
﹁ふふっ、涼で良いですよ﹂
この子と関わるべき・・・仲良くなるべきではない事を。
わたしがこの陸の孤島に居られる時間は残り3日弱。いくら仲良
64
くなっても、そこで全てが終わる。
ひと夏の思い出として、ただ頭の片隅に残るだけ。
メールする、とか。会いに行く、とか。そんな口約束が無意味な
事も分かっているんだ。
﹁東京から来たんですか。良いところですか、東京?﹂
﹁わたしにとっては良いところなんだけど・・・。こことは環境が
違い過ぎるかな。みんながみんな良いところだとは思ってないだろ
うし﹂
翌日、わたしは涼の家に上がり込んでいた。
なんてことはない、二階建ての家だった。他の家に比べればその
外観が明らかに現代的である事に違和感はあるが、まあそれはそれ
として。
﹁綺麗な部屋だねえ。わたしの部屋、漫画とかでぐちゃぐちゃだけ
ど﹂
﹁漫画はあまり持ってないですね・・・。この村には本屋が無くて﹂
﹁ええっ。じゃあコンビニとかも無いの?﹂
﹁コンビニはありますよ﹂
わたしの不意な一言から、コンビニへ行く流れとなった。
涼の家から歩くこと20分くらい。そこに﹁コンビニ﹂はあった。
﹁なにここ・・・?﹂
わたしが知っているコンビニとは違う。
﹁この村唯一のコンビニ、西尾商店です﹂
65
﹁
商店
って言っちゃってんじゃん!﹂
商店
。勿論ATMやタッチパ
まわりを見渡すと、普通のコンビニの1/3くらいの品ぞろえレ
ベルの商品が鎮座する、文字通り
ネルの機械なんて置いてないし、フードコートも無い。冷房すら効
いてなければ自動ドアではなく引き戸だ。
﹁ちなみにここの営業時間って﹂
﹁朝10時から夜の7時までです﹂
﹁・・・ですよねー﹂
なんとなく想像はついていたけど、やっぱり24時間営業じゃな
いんだ。
翌々日。色々なところを案内してもらった。街の石碑のような場
所、神社、綺麗な川、木陰になっていて心地いい場所では一緒にお
弁当を食べたりもした。
涼は終始、楽しそうだった。かくいうわたしも十分楽しい。田舎
を満喫している。
だから。
だから、考えたくなかった。明日には、東京へ帰らなければなら
ないことを。
﹁・・・明日の朝、わたし、東京へ帰るんだ﹂
言葉に出した時、わたしは涼の顔を見られなかった。
﹁そう・・・ですか﹂
66
しばらくの間、沈黙が長れる。
分かってた。こうなるって、分かってたのに。
今まで見てきたありとあらゆる情報が、こういう状況に追い込ま
れるんだって、警告してくれていたのに。
﹁わたし、この3日間の事、絶対に忘れない。涼のこと、絶対に﹂
なんかテンプレ台詞を言ってしまった気がする。
忘れないって、そんな根拠、どこにも無いのに。どうせ、1か月
もすれば忘れちゃうのに。
涼もそれが分かっているのだろう。
﹁私は、忘れてしまうかもしれません﹂
顔を伏せて、言う。
﹁だから、忘れない為に、その証が欲しい・・・です﹂
﹁証・・・?﹂
なんだろう。思い出の品でも交換するとか?
︵すぐ押入れの奥へ行っちゃいそう︶
もちろん、口には出さない。
たとえそれが99%確定している事実だとしても。
︵こんなこと考えてるなんてバレたら、さすがに幻滅されちゃうか
な︶
苦笑いをして、涼の方を振り向くと。
67
︱︱︱不意に、唇を奪われた。
﹁︱︱︱っ!﹂
顔を真っ赤にして絶句しているわたしに対して、涼は楽しそうに
笑みを浮かべながら。
﹁これで、忘れられなくなった﹂
と、そう言った彼女と、その後ろにある夕陽のコントラストがあ
まりに綺麗すぎて。
︱︱︱わたしは本当に、この時の事を永遠に忘れられなくなって
しまった。
◆
﹁あああ、あと10分で夏休みが終わるうぅ・・・!!﹂
バカだった。最後に頑張ればなんとかなると思ったけど、結局な
んともならなかった。
ああ、こんな事ならコツコツと夏休み初日から計画的にやるべき
だったのに。
なんで一行日記とか、やっておかなかったんだよ。
︵今更7月27日のことなんて思い出せるかっ!!︶
68
膨大な量の宿題を残し、時計の針は0時へと着々と進んでいる。
こりゃ徹夜したって終わりそうにない。
もう、逆に考えるしかないか。踏み倒しちゃってもいいさ、と・・
・!
わたしが今、どうしてこんな事になっているかと言うと、結局の
ところあの日に帰結する。
まさか、あんなクソ田舎に1人で残ることになるとは思わなかっ
た。
相当驚かれたし、両親からは反対されたけど、あの時のわたしに
はもう、あの村に残るしか選択肢はなくなっていたのだ。
バカだと思われるかもしれない。
他人から見たら到底理解してもらえないかもしれない。
だけど、自分の意思でわたしはあの村に居残った。
涼と、ただ一緒に居たくて。
この大都会に帰ってきたのは、つい先日の事だ。
﹁ああ、もう知らん!!﹂
0時になると同時に、わたしはノートとシャーペンをぶん投げた。
もういい。どうでもいい。
この制服、似合いますか?﹂
超弩級の説教を食らう事になるだろうけど、それで済むならそれ
でいいや。
どうですか?
だって。
﹁楓?
69
わたしの隣には、東京にある我が高校の姿を着た、
楓のえっち!﹂
﹁うーん。やっぱ、涼は白ワンピが1番かな。・・・脱がせやすい
し﹂
﹁もう!
高宮涼が、居てくれたから。
70
なおも地球侵攻ルートへ直進中!﹄
3014.8.15 −The anniversary of
end of the War−
﹃敵大型要塞、距離1000!
宇宙に浮かぶ大きな戦艦、地球連邦軍の旗艦である月を改造して
我々の後ろには母な
造られた超大型外宇宙航行艦は、全ての照準を敵の大部隊へ向けた。
火星怪獣
へと。
あの怪物どもを、この先へ行かせるわけにはいか
﹃機動兵器部隊は全機発進、敵を殲滅しろ!
る地球がある!
ない!﹄
地球を侵略に来た怪物、
﹁エミリィ、私は行くよ。怪物を倒して、地球を守る。大好きな妹
のお墓を壊させるわけにはいかない・・・!﹂
その中で、とある機体のコクピットが表示された。そこに乗って
いたのは屈強な男ではなく、ぶかぶかな軍服を身にまとった少女だ
った。歳の頃にして、15前後と言ったところだろうか。
﹃軍曹、聞こえるか﹄
ロボットのインターフェイス画面に、50歳前後の初老男性の顔
が映る。
﹃我らアースセイバー隊、特に軍曹とその機体は連邦軍の切り札だ。
私に何かあったら、貴官は貴官の判断で動け﹄
﹁・・・イエス﹂
71
浮かない顔をしている少女に向かって、初老男性は言う。
﹃貴官は、日本の生まれと言ったな﹄
﹁・・・イエス﹂
終戦の日
と呼ばれていたらしい﹄
﹃その昔、日本において8月15日は特別な日だったそうだ。最後
の戦争が終結した日・・・
﹁終戦の日、ですか。戦勝の日でもなく、敗戦の日でもなく﹂
﹃私は歴史学者じゃない。その戦争がどういうもので、誰が得をし
て誰が損をしたのかは分からん。ただ、一つ確かなことは﹄
そこで言葉は一度途切れ。
にするぞ﹄
﹃たくさんの命が消えたという事実、それだけだ﹄
終戦の日
男の言葉に、少女は目を瞑った。
﹃今日を、人類にとって真の
﹁・・・イエス﹂
次に彼女が目を見開いた時。
﹁リーゼ・タナハシ、アースセイバーマークサーティーン、いきま
す!﹂
少女こと、リーゼは機体の操縦桿を前に押し出し、彼女の駆る機
動兵器、白と金の色でコーティングされたマークサーティーンを戦
艦から発進させた。
だが、状況はまさしく最悪だった。圧倒的な大きさを誇る火星怪
72
獣の前に、次々と破壊されていく機動兵器。群を為して何とかそれ
を倒しても、また次の怪物が後ろからやってくる。倒しても倒して
も倒しても、敵の数は一向に減らないのだ。
だが、人類には切り札があった。
主砲照準、敵大型要塞!
これで我々の勝ちだ!﹂
﹁指令、主砲のチャージ、100%です!﹂
﹁よし!
月から大きく突き出した主砲、これこそが連邦軍の最終兵器。
﹁しかし、射線軸上に友軍機が多数!﹂
そう。戦場はここまでぐちゃぐちゃに泥沼化している。
この主砲を放つという事は、味方ごとあの怪物を焼き殺すという
事になる。
﹁・・・彼らも軍人だ。地球の為なら、その命を差し出す覚悟はで
きているだろう。この主砲ならばあの怪物共を掃討できる。これを
撃てば、地球が無傷のまま戦いを終わらせることが出来るのだ﹂
司令官は自分に言い聞かせるように言うと。
﹁主砲を発射する。たとえ友軍機を巻き込もうと、これを撃てば我
々は勝てる!!﹂
この主砲の一発は太陽をも吹き飛ばすことのできる威力なのだか
ら。
﹁主砲、発射!!﹂
73
主砲からビームのようなものが撃ち出され、射程に居た火星怪獣
たちはどんどん消えていく。そしてその光はやがて火星怪獣の大型
要塞も包み込み、その中の全てが焼かれ、文字通り怪物は死滅した。
﹁おおおおお!﹂
旗艦のブリッジが歓声で包まれる。
勝った。
誰もが勝利を確信した、その瞬間。
﹁て、敵大型要塞、健在!!﹂
﹁なに!?﹂
大型要塞は、消えることもなく爆発することもなく、そこにあっ
た。
その要塞から、わらわらと火星怪獣たちが出てくる。
状況は、何も変わっていなかった。
あの光が吹き飛ばしたのは、独断で行動していた中型レベル程度
の火星怪獣と。
何百万にも及ぶ、連邦軍の軍人たちだった。
﹁我々は、ここまでなのか・・・!?﹂
旗艦の前を守っていた防御部隊を全て吹き飛ばして主砲を発射し
たのだ。その射線軸上には、何もない。がら空きの防衛線を火星怪
獣が次々と突破してく。
そして先頭の火星怪獣が主砲に組みつき、その牙でバキバキとそ
74
敵火星怪獣のブリッジ到達まで、あと30!﹂
れを噛み砕き、数秒後には跡形もなくなっていた。
﹁主砲、沈黙!
﹁・・・総員、退艦しろ。遺憾ながら、この月基地を放棄する﹂
退艦命令が艦中に鳴り響いたその時。
﹃私が時間を稼ぎます!﹄
ボロボロになったマークサーティーンが、ブリッジの眼前へ来て
地球へ、1人でも多く!﹄
いた火星怪獣に、パンチを食らわせる。
﹁あれは・・・!?﹂
﹁アースセイバー!﹂
﹃早く逃げてください!
艦の兵士たちは次々と、目の前の白い機体に敬礼し、立ち去って
いく。
﹁そうだ。それで良い﹂
アースセイバー
わたしは地球の守護者だ!﹂
リーゼの目は決意に満ちていた。
﹁ここは絶対に通さない!
マークサーティーンは火星怪獣たちを蹴り飛ばし、ビームの剣を
使って斬り、ミサイルで撃ち落としていく。たった1機で、100
万以上の兵がやる予定だったことをやっているのだ。
だが、それももう限界。
75
火星怪獣の一匹が、マークサーティーンの右腕を噛みちぎる。も
う一匹が左足を噛みちぎった。
﹁ぐあぁっ!﹂
コクピットが暗転する。エマージェンシーを告げる警告音が鳴り
響き、ウィンドウに操作不能の文字が出たかと思えば、全ての機能
が死んで、何も動かなくなった。
﹁エミリィ・・・。私は、私は戦ったよ。地球を、守って、最後ま
で・・・﹂
彼女が目を閉じようとした、その時。
﹁お姉ちゃん!!﹂
信じられない事に、リーゼの目の前に死んだはずのエミリィが居
たのだ。
﹁これは、幻覚・・・!?﹂
驚くリーゼ。
だが、違う。彼女を包む温かなこの光は、幻なんかじゃなかった。
﹁タナハシ!﹂﹁軍曹﹂﹁リーゼさん!﹂﹁軍曹殿﹂
この戦場で散っていった数百、数千万の命が、マークサーティー
ンへと集まっていく。
その青白い光は、まさに命の光だった。
マークサーティーンが、再び動き出したのだ。
76
﹁そうか。私は生きてるんだ。死んじゃ、ダメなんだ。だから、み
んなが力を貸してくれた﹂
涙を拭うリーゼ。彼女は真っ直ぐに前を見据えた。
半壊したコクピットから見える、宇宙を埋め尽くす火星怪獣の群
れを。
﹁行こう、みんな。私は生きて、地球へ帰るんだあぁぁ!!﹂
リーゼが叫んだ瞬間、マークサーティーンの半壊した機体からと
てつもない量の光が満ち、宇宙を照らしていった。
その青白い光は宇宙を包み込み、火星怪獣を包みこみ︱︱︱
﹁・・・、ここは・・・?﹂
次にリーゼが目を開けた時。目の前には地球があった。
﹁月の裏側で戦ってたはずなのに・・・、なんで地球が見えるの・・
・?﹂
後ろを見る。コクピット以外全て失われたマークサーティーンが
そこにはあった。
コクピットの中から、辛うじて何か音が聞こえる。
﹃ザッ・・・せい・・・﹄
よく、耳を凝らす。
﹃火星、怪獣は全・・・消滅・・・には平和が・・・﹄
77
そして、リーゼは微笑んだ。
﹁私はまだ、生きている﹂
人々の、喜びの声を耳にしながら。
﹃戦いは・・・終わり・・・地球は・・・守られたのです﹄
◆
。
anniversary
War−
−The
﹁なにコレ・・・この奇跡の押し売り感・・・﹂
3014.8.15
わたしは息を吐いた。
the
end
of
f
o
ハリウッドがとんでもない製作費と豪華すぎるスタッフ、キャス
トを集めて作った映画。
その出来がコレって・・・。
﹁えー、よかったじゃん。リーゼちゃん可愛かったし﹂
驚愕の結末に、全米が泣いた!
﹁可愛いのはエミリィでしょ。途中までは良かったけど、ラスト5
奇跡のラスト5分!
分の超展開・・・﹂
これがうたい文句の映画だもんなあ、コレ。
78
確かに奇跡だったよ。驚愕の結末だったよ。
﹁だけどさあ﹂
ため息が止まらなかった。
この映画の列に並んだ労力と、時間と、1800円返してくれ。
﹁しゅ、主人公が最後に、い、妹と抱き合うエンディングはよかっ
たじゃん!﹂
﹁確かに曲は良かったけど・・・﹂
毎日毎日、嫌がらせかと言うくらい、バカみたいにテレビから流
れてくるだけの事はある。
でも、まさかあの映像が死んだはずの妹が生きていました、感動
ですね。って展開だったなんて。
︵魅力半減だわ︶
心底嫌になった。あの曲、トラウマになったかも。
そんな事を考えながらネガティブオーラをほとばしらせていると。
﹁お姉ちゃんのバカーーー!!﹂
今までずっと、映画の擁護をしていた妹が、叫ぶ。
﹁あの内容で、あの展開で、あのエンディングで!しかもそれを妹
と見に来てて!そんな事言う!?﹂
﹁へ・・・?﹂
﹁まだ分かんないの!!﹂
79
突然の事で、本当に頭が真っ白になってしまう。
﹁あたしもエミリィくらい、お姉ちゃんの事が大好きなの!﹂
﹁あ、ちょ、待っ﹂
か
いいえ
か、ハッキリしてよ!﹂
﹁お姉ちゃんはあたしの事、好きなの!?﹂
はい
﹁いや、だから﹂
﹁
妹はもう泣き出してしまいそうだ。
そんな震える妹を、わたしは思い切り抱きしめた。
﹁そんなの、決まってんじゃん﹂
普通に告白すれば良いのに。
やり方が遠回しすぎるんだよ、あんたは・・・。
﹁・・・イエス﹂
恥ずかしい。
劇中の台詞を言わされたことじゃない。
・・・ここ、かなり人通りの多いシアター前通りなんだけど。
80
3014.8.15 −The anniversary of
end of the War−︵後書き︶
どんなに陳腐なご都合主義でも、みんな幸せに笑って終わるハッピ
ーエンドが良い
︵TVアニメ﹁彼女がフラグをおられたら﹂第12話より抜粋︶
81
世界の中心で愛を叫びたかったもの
﹁鬱だ死のう・・・﹂
そう思い立ったのはつい先ほどの事だった。
夏休み明け、学校へ行くと、そこにはもうわたしの居場所が無か
った。
みんながみんな、仲の良いグループを形成して、それぞれ内内で
盛り上がっているのを、わたしは呆然と見渡すことしかできなかっ
たのだ。
きっと、夏休みの間に何か繋がりが出来たのだろう。
これが俗にいう﹁2学期デビュー﹂と言うヤツなんだ。1か月強、
毎日毎日クーラーのガンガン効いた部屋に閉じこもり、昼くらいに
起床すると何をするでもなく1日を過ごし、深夜3時くらいに寝て
いたツケがやってきた。そうとしか言いようがない。
1学期にはそれなりに話していた子たちにも話しかけられず、か
と言って男の中に飛び込むなんてもっと無理。
気づくとわたしは、教室の中で誰とも目を合わせられず孤立して
いた。
宿題はちゃんとやった。提出もした。だけど、なんだろう。
全く満たされないこの感じは。
まるで心に穴が空いてしまったかのような、そこから大切な何か
82
が、どばどばと零れ落ちていくようなこの感覚は。
そんな事を考えて1日を過ごし、わたしは寝る前、﹁太陽が爆発
しますように﹂という事を延々と考えながら眠りについた。
でも、わたしの事情で太陽が爆発してくれるわけもなく。翌日・・
・、9月2日の朝はやってきた。
いつも通り朝食を摂って、重い足取りで家を出る。
嫌だ、行きたくない。学校なんてなくなればいいのに。そんな事
を考えながら、駅のプラットホームに立つ。
この時だ。死のうと思ったのは。
今、ここで飛び込んで、あっちから来てるあの光の中に行けば・・
・。
文字通り全て終わって楽になれるんじゃないだろうか。
そんな事が頭を掠めた程度だったのに。
気づくとわたしは、白線を飛び越え︱︱︱
﹁ちょっと待ったあぁぁ!!﹂
ようとしたところを、後ろから思い切り抱きしめられていた。
﹁えっ︱︱︱!?﹂
声色と感触から、相手が女性だという事は分かった。
彼女ははあはあと息を荒くして、思い切りわたしを抱きしめてい
る。
83
︵なに?なに?
ドラマとかで見る﹁早まるな!﹂的なものなの?︶
頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。そんなわたしに、彼女は。
﹁今、飛び込まれるのは困る!!﹂
わたしを抱きしめたまま、そう言った。
﹁ちょ、何、そんな大声で・・・﹂
見てないけど分かる。わたし達、まわりから結構見られているっ
て事は。
死にたいなら次の電車まで待って
﹁今あなたが飛び込んだら電車止まっちゃうでしょ!﹂
﹁は、はあ?﹂
﹁あたし今遅刻ギリギリなの!
!﹂
﹁と、止めないの・・・?﹂
わたしのその声が聞こえたのか聞こえなかったのかは分からない
死にたいならそこの
あ、忠告しておくけど電車に飛び込むのは
が、彼女はわたしを抱きしめていた腕を放す。電車がホームに付い
たからだ。
﹁それじゃあまたね!
良くないよ。ご両親に賠償金請求いくから!
階段に頭から落ちてみるとかどうかな!﹂
﹁ふ、ふざけ・・・!!﹂
何か言い返してやろうかと思ったけれど、彼女はぎゅうぎゅうの
満員電車に入って行ってしまって、すぐに姿が見えなくなった。い
84
や、目線を上げた時にはもう電車に乗っていたから、顔も見ていな
い。
そして満員電車は発進していった。わたしを乗せることなく。
プラットホームの電光掲示板に目をやる。次の電車は・・・15
分後か。
あの人、賠償金がどうのこうのとか言ってたなあ。
確かに、わたしの勝手な行動で親に多額の賠償金が請求されるの
は憚れる。
︵じゃあ、階段に頭から・・・︶
ホームから地下に伸びる階段、その下を見てみる。
・・・無理だ。
ちょっと、怖い。
わたしは文字通り、死に損なってしまった。
◆
結局、学校のある駅まで電車に乗ったものの、学校に行く気には
なれず駅前のコンビニに直行・・・。その後古本屋と喫茶店で適当
に時間を潰して、下校時間を少し過ぎた午後5時前。
わたしは再び、電車のホーム、その白線前に立っていた。
︵今度こそ・・・︶
85
今日1日、散々悩んだ。考えた。インターネットでいろいろ検索
して調べもした。
だけど、もうそんな事はどうでもいい。考える事がめんどくさい
んだ。
わたし以外の人間の意見なんてそんなもの知ったことじゃない。
どうせもうすぐ死ぬんだから。
大音量の発着メロディと共に、わたしは左を向く。夕暮れの少し
暗い景色の向こうから、まばゆい光がやってくる。
今度こそ、あの光の中に入るんだ。そうすれば、そうすれば楽に
なれる。
さあ、一歩を踏み出せ︱︱︱
﹁ちょおっと待ったあぁぁ!!﹂
なかった。
遅刻したらホント、マジで
本当にデジャブかと思った。わたしはまたしても、後ろから抱き
付かれていたのだ。
そしてこれは多分・・・。
﹁今、飛び込まれるのは困る!!﹂
朝、わたしを止めた人と同じ人だ。
﹁な、なんで止めるの!?﹂
﹁あたし、もうすぐ塾があんの塾が!
怖い先生の授業だからヤバイんだって!﹂
86
死にたいならそこの階段に頭から
﹁アンタの事情なんて知らないわよ!﹂
﹁そりゃこっちの台詞だバカ!
突っ込めっつてんでしょうが!﹂
ふざけんな放せ!﹂
そこで、わたしの中の何かがキレたのが分かった。
﹁はあ!?
﹁嫌!絶対離さない!﹂
あたしが遅刻するのが困るの
﹁わたしが死のうがわたしの勝手でしょ!?﹂
分かる!?﹂
﹁だからそれは止めてないんだよ!
!
﹁わかんないよそんなの!!﹂
そこそこ混んでいる駅のホームでこんなやりとりをしたのがまず
かったのだろう。
駅員に、バレたっぽい。それに真っ先に気づいたのは彼女の方だ
った。
︵ヤバい、このままだと駅員室連れていかれて親呼ばれるよ!?︶
彼女は、わたしに囁く。
︵そ、それは困る・・・︶
これはわたしの本音だった。親にバレるのはまずい。
自殺しようなんて事がバレたら多分、もう家から出してもらえな
い。病院に入れられるかもしれない。
だからわたしは大人しく彼女の指示に従って、抵抗するのをやめ
ると。
87
さも友達かのように、手を繋いで到着した電車の中へと入ってい
った。
﹁ふう、危なかった危なかった。これで授業に間に合う﹂
彼女はそんな事を言いながら、鞄からペットボトル飲料を取り出
してくいっと飲んだ。
わたしはそんな彼女の横で頭を抱えていた。
どうしよう。これから、どうしよう。
まさか自殺し損ねたなん
家にはたぶん、学校から連絡がいってる。わたしが登校していな
いと。
どういう説明を、釈明をすればいい?
て言えるわけがない。
遅刻遅刻って、そんなの
もう、どうしようもない。ああ、なんでこんな事になっちゃった
んだろう。
﹁・・・をただせば﹂
﹁うん?﹂
﹁元をただせばアンタのせいでしょ!?
どうでもいいじゃん!!﹂
わたしは彼女の胸倉を掴んで、ぐいっとこちら側に手繰り寄せた。
そして、この時初めて彼女の顔を見る。
わたしが掴んでいたのはTシャツであることを知る。
彼女は髪を茶髪に染めていて、赤フレームのオシャレ眼鏡をかけ
ていた事を知る。
案外美人だという事を知る。
88
そして。
明らかに自分より年上だという事を知る。
﹁どうでもいい∼・・・!?﹂
そして彼女はわたしの腕を掴んだ。
朝からバイトバイト、夜になれば予備校!
浪
﹁アンタにとってはどうでもいい事かもしんないけど、あたしにと
っては重要なの!
人生ナメんなよこんガキャア!﹂
﹁ガ、ガキぃ!?﹂
そんな事、初めて言われた。
﹁遅刻したら給料から天引きされんの、予備校の授業に遅れたら教
その制
アンタだってわたしの事分かんないで
室から締め出されんの、分かる!?﹂
﹁わかんないよそんな事!
しょ!?﹂
高校生なんて遊び放題じゃん!
あんなバカ高校、適当にやりゃ誰でも卒業でき
﹁分かるわけないだろ!
服、西高だろ!?
るんだからあと2年半我慢しろ!﹂
﹁2年半もあんなところに通えないよ!﹂
どうしてだろう。泣くつもりなんて無かったのに。
涙があふれ出して零れてくる。
でも、もう、無理・・・﹂
﹁こんなはずじゃなかった、わたしだって友達と遊んだり、青春し
たり・・・そういう事がしたかった!
89
掴んでいた胸倉を、離す。
﹁・・・大体想像はつく。サザエさん症候群のマックスバージョン
だろ、夏休み明け特有の﹂
わたしは黙って頷いた。
﹁夏休みを適当に過ごしてるとそうなるんだよ。・・・あたしの場
合、高1ん時は塾の合宿に行かされたからそれどころじゃなかった
けど﹂
﹁・・・アンタ、どこ高卒なの?﹂
﹁山野川﹂
﹁はあ!?﹂
そこって、この地方でもかなり有名な。
・・・バカ高校じゃん。
﹁ちなみに第一志望は東大、第二志望は早慶のどちらかで今悩んで
る﹂
﹁・・・い、一応聞くけど、何浪中なの?﹂
﹁三浪だよ。一浪した時は﹃あたしイチロー﹄ってネタが通用した
けど、二浪目はそんな冗談を言う気力も無かった。そんで今、三浪
して分かったんだけどさ﹂
彼女はわたしの方を見つめ、にっこりと笑いながら。
﹁この世の中、意外と楽しいよ﹂
そう、呟いた。
90
・・・不思議なものだ。
頬を伝う涙が、止まらない。
﹁あたしの頭で東大とか、無理、現実見ろって散々言われたけどさ。
でも行きたいんだよ、東大に。そんでエリートになって将来はでけ
ーマンションのてっぺんに住むんだ﹂
泣き続けるわたしに彼女は手をまわし抱き寄せて、よしよし、と
頭を撫でる。
﹁だから、遅刻は嫌なんだよ。﹃死ぬほど﹄ね﹂
これからどうすればいいか分からない。もしかしたらもっと辛い
思いをするかもしれない。
だけど。
﹁わたしは、生きてて良いのかな・・・﹂
そう思えただけで、わたしは救われたのかもしれない。
﹁当たり前だ。たかだか15年過ごしたくらいで、生きた気になる
なよガキィ﹂
わたしが高校を中退し、この人のアパートに転がり込むのは・・・
もう少し、先の話になる。
91
Chapter:2.0 テニスのお姫様
﹁みんな、お疲れ様。・・・なんて、観客席で見てただけのわたし
が言うのもなんだけど﹂
部員全員を見渡す。
このインターハイの舞台で団体戦は早々に負け、個人戦でもベス
ト16に入る選手は居なかった。
当然だ。この学校のこのチームは、﹃わたしありき﹄のチーム。
3年間そう言う風にやってきたのだから、今年の初めになって急に
戦術を変えても、それはまさに付け焼刃に過ぎなかった。
そんな選手たちの前に、わたしは立っている。松葉杖をついて。
﹁わたしは良い部長じゃなかった。良い先輩でもなかったと思う。
それに、最後の最後でみんなに迷惑をかけた。ごめんなさい﹂
わたしはそう言って頭を下げた。
松葉杖ではなく、隣に居る副部長、彼女に肩を貸してもらいなが
ら。
部員に頭を下げたことなんて、絶対の自信を持って言えるけどこ
れが初めてだった。許してもらおうとは思わないし、思えない。
だけど、わたしは頭を下げ続けた。数秒、十数秒と沈黙が流れて
いく。
顔を上げてください、だとか。そんな反応を期待したわけではな
い。わたしにそんな人徳が無い事くらいは理解しているつもりだ。
92
その時。
ぱちぱちぱち、と。一人の部員が拍手をする音が聞こえてきた。
それにつられもう一人、二人と拍手の音が大きくなっていき、そ
れは波状に拡散して部員たち全員が、わたしに拍手を送ってくれて
いたのだ。
・・・信じられない事だった。
﹁部長、ありがとうございました﹂
とんでもない練習量を課した。
﹁部長は私たちの目標で、憧れで﹂
とんでもなく嫌な奴に徹してきた。
﹁私たちなんかじゃなれっこないって分かってても﹂
背中で引っ張るなんて器用なことは絶対に出来ていなかった。
﹁ここに居る部員は全員、﹂
それでも。
﹁貴女みたいになりたかった﹂
その言葉を聞いて、わたしは溢れてくる涙を堪えることが、どう
してもできなかった。
﹁ありがとう・・・﹂
93
涙と共に、そんな言葉が漏れてくる。
﹁みんな、ありがとう・・・。わたしに着いてきてくれて、信じて
くれて・・・﹂
こんな人目の集まる場所なのに、みっともなく号泣することしか
できない。
でも、これがわたしの本当の気持ちだったのだろう。
﹁わたしの我が侭に、付き合ってくれて、本当に・・・感謝しても
っ、しきれない・・・﹂
少なくとも、わたしが高校テニス界でトップに近い位置へ上がれ
たのは、わたし一人の力じゃない。わたしはこの日、初めてそう、
心の底から思うことができた。
◆
﹁分かりました。前向きに検討します。今は怪我のリハビリに専念
したいので、それからの事は完治してから決めようと思います﹂
何度も頭を下げていく黒スーツの男性。
手元の名刺に目を落としてみる。誰でも知っているような有名ス
追い返せばいいのに﹂
ポーツメーカーのそれなりに偉い人の名前が書いてあった。
﹁またですか?
席を外していた桜ちゃんが、水を換え終えた花瓶と共に病室へ入
94
ってくる。
﹁これからの事を考えると邪険に扱えないレベルの人だよ﹂
﹁むっ・・・﹂
こういう風な話し方をすると、桜ちゃんは少しだけ不機嫌になる。
だから。
﹁桜ちゃん、嫉妬?﹂
﹁嫉妬じゃありませんっ!﹂
﹁心配しなくても桜ちゃんはわたしの中で別格だから。何よりも大
切で、愛おしいのは桜ちゃんだよ﹂
なら、良いんですけどっ・・・﹂
わたしはあえて本当の気持ちをど直球で言葉にすることがある。
﹁も、もう!
そうすると、桜ちゃんは露骨に嬉しそうに表情を緩めるからだ。
彼女は窓際に花瓶を置き、ベッド脇の椅子へと腰を掛ける。
﹁プロに、なるんですよね﹂
そうして桜ちゃんは感慨深げに言う。
﹁テニス始めた時から、なるつもりだったからね﹂
﹁でも、まだ何の実績も無いのにスポンサーのオファーがこんなに
来るなんて﹂
大人か
がどんどん増えていき、わたし1人では処理しき
夏休み以降、暑中見舞いや残暑見舞い、粗品という名の
らのプレゼント
95
れない量になっていた。
本当はやってはいけない事なのだろうけど、食べ物の類は桜ちゃ
んや、入院中に仲良くなった患者さん達と一緒に食べている。なか
なか高級なもの揃いで、体重管理的にも良くなかった、というのも
あるのだけれど。
﹁・・・お姉さんって、有名人だったんですね﹂
桜ちゃんはずっと病院暮らしで、テレビも見なければネットもや
らない子だった。勿論テニス、スポーツの知識なんて無いに等しい。
だから退院して以降、わたしの名前をインターネットで検索して
みて相当驚いたらしい。
﹁まあ、そこそこね﹂
別に知らなくても全然良いんだけれど、彼女は知っているだろう
か。わたしは一応、オリンピックに出たことがあると。
﹁お姉さんも、四大大会・・・グランドスラムっていうの、出るん
ですか?﹂
﹁もちろん出るつもりだよ。出られる自信もある﹂
お見舞いの品、どこかの名物である和菓子を食べながら会話をす
る。
﹁・・・でも、それって﹂
その時、桜ちゃんの声のトーンが下がった。
﹁活動の場を海外に移す、って事ですよね・・・﹂
96
和菓子を手元に置き、顔を上げると、桜ちゃんは泣き出してしま
いそうなくらい落ち込んでいた。
その俯いて弱気な表情は昔の彼女を見ているようで。
﹁私、怖いんです。調べれば調べるほど、お姉さんが遠くの人に見
えていって・・・。それに加えて離ればなれになるなんて、本当に、
怖い・・・﹂
︱︱︱わたしには耐え切れなかった。
﹁ダメですよね、こんなの。お姉さんはテニスプレイヤーで、世界
で活躍するべきで、もっともっと、日本を背負っていく人なのに。
私、自分のわがままでお姉さんを縛ろうとしてる﹂
彼女は自分に言い聞かせるようにそう言い捨てると。
﹁だから、私がお姉さんにとって邪魔になったら、いつでも言って
ください﹂
そう言って、笑う。
その笑顔は乾いているなどというものではなかった。
泣いてるんじゃないかと思うほど、暗く黒い表情をしている。
﹁桜ちゃん﹂
わたしはぽんぽん、と自分が座っているベッドの布団を叩く。
彼女はいぶかしげな表情をしながら椅子から立ち上がると、わた
しが叩いたところへと腰を落ち着かせた。
97
言葉にしなくても、こっちへ来て、というわたしの意思は伝わっ
たようだった。
︵それだけで、十分だよ︶
心の中でそう思うと。わたしは思い切り桜ちゃんを抱きしめた。
﹁わたしがどこへ行っても、いつまで経っても、1番大切なのは桜
ちゃんだから﹂
ぎゅっと、腕に力を込める。
桜ちゃんの表情は見えないが、放心しているのか、わたしを抱き
しめてくれない。
﹁そんなの・・・っ、嘘ですよ。距離を置けば心も離れていくんで
きっと、これからとんでもない数の人達が寄っ
お姉さんは私の思ってたよりずっとずっとすごい
す。どんなに言葉で取り繕っても・・・﹂
﹁離れないよ﹂
﹁嘘ですよっ!
人だったんです!
てくるし、お姉さんは引き寄せる力を持ってる!﹂
桜ちゃんの声からして、泣いてない。
きっと、泣かないよう気丈に振る舞っているんだろう。そんな事
が出来る状態じゃないのに。
﹁それに比べて、私は・・・っ、ただの中学生じゃないですか!﹂
﹁違う、全然違うよ。桜ちゃんは﹂
﹁違いま﹂
何か叫ぼうとした桜ちゃんの口に、自分の口をつけて塞いだ。
98
最初は抵抗しようとした小さな女の子は、やがてその全身から力
が抜けたかのように、無抵抗となった。
﹁わたしにとって、桜ちゃんは違うの。テニスとも、お金とも、地
位とも名誉とも、違う。世界にたった一人の、わたしの大好きな人。
だから、絶対に貴女を1人になんてしない﹂
﹁そんなの、何とでも言えるじゃないですか・・・﹂
﹁うん。だから何とでも言うよ。たとえ世界の裏側に居ても、桜ち
ゃんに会いたくなったら会いに行くし、桜ちゃんが言ってくれれば
すぐにでも帰ってくる。試合中だって﹂
そう、言った時。
彼女の瞳から一筋の雫が零れ落ちたと同時に。
﹁お姉さん、嘘、下手過ぎ・・・﹂
その表情に、笑みが戻った。
そう、彼女は泣いたり俯いたり呆けたりする顔より。
笑顔がかわいい。それをわたしは誰よりも知っている。
﹁桜ちゃんはわたしにとってたった一つの希望なんだよ﹂
その夜。
車いすに座り、彼女はそれを押し、病院の屋上へと来ていた。
今日はスーパームーン。大きく輝く光る月が見られると言う、一
大天体ショーの日だ。
﹁わたしを月だとするなら、桜ちゃんは太陽。月は太陽が無ければ
99
ただの衛星、光る事なんて出来ない。わたしが世界中の人に見ても
らえる日が来たら、それは桜ちゃんのおかげなんだ﹂
﹁私はそんな大したもんじゃありませんよ﹂
﹁それで良いの。桜ちゃんはただ、居てくれるだけで良いんだ。だ
って﹂
あの日、桜ちゃんがわたしを止めてくれなかったら、わたしはも
うこうして夢を抱きながら月を見上げることなんて無かっただろう。
自分が無理なリハビリをして、テニス選手として再起不能になっ
ていた事をただ、悔いていたと思う。
︱︱︱わたしの人生に光をくれたのは、他の誰でもない、貴女だ
から。
さすがにそれを言うと、桜ちゃんはぷいっと顔を背けてしまった。
素直じゃないなあ。このムードなら、その真っ赤になった顔も、
見せてくれればいいのに。
﹁わたしは欲張りだから。負けるのが、諦めるのが本当は大嫌いな
の﹂
﹁・・・うん﹂
桜ちゃんは、今度はこちらに顔を向けて、微笑みながらゆっくり
頷いた。
﹁わたしは世界一のテニスプレイヤーになる。四大大会だって、制
覇してみせる。毎日毎日テレビに出て、日本の話題を独占して・・・
。そんで、その全てを手土産にして﹂
大きな大きな月に照らされた、誰よりも大切な彼女を見つめ。
100
﹁桜ちゃんと一緒に笑うんだ。それが、わたしの夢だよ﹂
どちらかでもなく、自然に。
わたし達は顔を近づけると、もう一度唇を重ねた。
101
白、赤、青/青、白、赤/赤、青、白
︵﹃12:46、対象は友人3人と中庭で食事中。今日はお弁当の
模様﹄・・・、と︶
たんたん、とスマホの画面を叩いていく。
︵昨日はパン、今日は火曜日だからお弁当・・・︶
水曜日は確か購買のおにぎりの日だっけ。木曜日はまたお弁当、
金曜日はパンはパンでも菓子パン。
﹁はあ﹂
わたしはため息を漏らした。
何が楽しくて毎日毎日クラスメイトの一挙手一投足を観察してそ
れを文字に起こし、ラインで報告メールをしなきゃならないのか。
︵ホント、何でなんだろうね・・・︶
嫌ならやめれば良い。別にそれで生活に支障が出るほど困るわけ
じゃない。
わたしは中庭で楽しげに昼食を満喫する彼女を教室から見下ろし
ながら、スマホをスカートのポケットへと押し込んだ。
﹁﹃16:07、教室から出る。部活へ行くものと見られる。今日
の報告はここまでとする﹄・・・﹂
102
その瞬間、すぐに返事が来る。
﹃追え!﹄
そこにはたった3文字の日本語が書いてあった。
ボラン
だったらもう、従うしかない。この子が追えって言っているんだ
から。
ある程度バレない程度に彼女を追う。
の部室だ。
とはいえ、行き先は分かっていた。彼女が所属している
ティア部
﹁﹃16:12、第2校舎2階のボランティア部部室へ入る。今日
の報告はここまでとする﹄﹂
送った2秒後、返事が来る。
﹃張れ!﹄
︵マジか・・・︶
今日のこの子はどういうわけだか虫の居所が悪い。
文字でやり取りをしているだけなのにそれが手に取って分かる程
度にはご機嫌ナナメだ。
︵仕方ない︶
わたしはぱぱっと返信を送り、数秒後にその返事が来たのを確認
すると、いつものように携帯をサブバックに放り込み。
103
﹁ごめん、遅れた﹂
ボランティア部部室のドアを開けた。
・・・そう、わたしはボランティア部の部員その3なのだ。それ
がわたしの表向きの顔。
﹁葵衣ちゃん!﹂
この女の子・・・茜音を監視するための、仮面である。
◆
﹁ただいま﹂
疲れ切ったその言葉と共に、今度は学生寮にある自室のドアを開
ける。
﹁おい斎藤三振かよぉ!ちゃんとボール見ろ扇風機!!﹂
そこに居たのはロクに手入れもしていないぼさっとした長い金髪
が目を引く、一見小学生くらいに見える、ただの超、超、超美少女
だった。
ああ、葵衣か。乙﹂
﹁アンタねえ、わたしが今まで何してたと思ってんの?﹂
﹁ん?
彼女はわたしを確認するとヘッドホンを耳から外し、こちらを見
ることもせずにそう言った。
104
﹁ボランティアだろ?
をしてると思ってるんだか。
よくやるよなあ、そんなこと﹂
そんなこと
﹁・・・部活だからね﹂
誰のおかげで
わたしだって好き好んで自分からやってるわけじゃない。
﹁それより聞かせてくれよっ!﹂
だが次の瞬間、ついさっきまであくびをしながらベッドに突っ伏
今日、どうだった・・・!?﹂
してパソコン画面を見つめていた怠惰な彼女の表情が一変する。
﹁あ、茜音っ・・・ちゃん!
この子がオンラインでない出来事で唯一関心を示すこと、それこ
そが我がボランティア部部長の茜音に関する情報だった。
わたしはそのために一日中この子にメールを打ち続けている。
たまたま学生寮の同じ部屋だっただけで、まったくの他人である
この白亜に。
﹁ほとんどいつもと変わらないよ。・・・ああ、そういえば今日は
ボランティア清掃中に生徒会長と仲良くなったの﹂
﹁せ、生徒会長・・・だと・・・!?﹂
相変わらずいつものようにオーバーなリアクションを取ってのけ
反る白亜。
﹁うん。あの完璧超人で有名な3年の先輩。茜音、なんか文化祭の
そ、そこに痺れる、あ
企画会議以来あの人に気に入られてるみたいなんだよね﹂
﹁ぐ、ぐぬぬ・・・。さすが茜音ちゃん!
105
きょ、憧れるぅ・・・﹂
にへらぁー、と。だらしない、ゆるみきった笑みを浮かべる白亜。
﹁まあ、人当たり良いからね。ボランティア部なんて部活、あの子
じゃなきゃ誰もやらないでしょ﹂
それも先輩に押し付けられたのをバカ正直に引き継いだ結果だ。
わたしは偶然その場に居合わせて、何ともなしに入部することに
なってしまっただけなのだけれど。
生
﹁こ、これで9人目だぞっ・・・。茜音ちゃんに色目を使った女は
!﹂
アンタを含めれば10人目だけどね。
﹁ねえ白亜。アンタそんなに気になるなら学校に顔出さない?
茜音ちゃんに会えるよ?﹂
だけど、わたしが学校の話を始めた途端。
﹁だが断る。あたしは寮部屋警備員をやめるつもりはない﹂
彼女は急に心の扉のシャッターを下ろし、コンクリートで溶接し
て閉ざしてしまう。
﹁いくら理事長の孫だからって、出席日数とか、やばいんじゃない
の?﹂
﹁たかが出席日数、金とコネの力でごり押してやる﹂
﹁アンタねえ・・・﹂
106
クズだ。この子は根っからのクズ。
子供の頃から大金持ちの家に生まれて、その上かわいくて。何一
つ苦労することなく育ってきたその結果がこのクズ白亜。
ああ、この子を見ていると、結局世の中、生まれた時点で勝ち組
と負け組が明確に分かれていると認めざるを得ない。
︱︱︱だって。
﹁葵衣∼、身体拭いてくれ∼﹂
腹減ってたんだよおっ﹂
今日は駅前で肉まん買ってきたから﹂
Tシャツに短パンの彼女が、わたしにもたれかかってくる。
﹁ご飯が先、でしょ?
﹁おお、いつものやつかー!
そして、全ての法則を捻じ曲げてしまうような、文字通り天使の
ような笑顔をわたしに見せてくれた。
きっと彼女は意識してこの笑顔を出しているんじゃない。
小さい頃から白亜は、こういう顔を常に他人に見せなきゃいけな
いような環境に居たから、身についてしまった。癖のようなものな
のだろう。
︱︱︱それでも。
﹁お茶もあるよ。それともこっち?﹂
﹁わあ、これ新発売の味じゃん!﹂
キラキラと目を輝かせながら炭酸飲料を手に取る白亜。
107
きゅん・・・と。
誰でもなく、私自身の、心臓が、心が震える。
︱︱︱その笑顔に、その容姿に、その身体に。
他のみんなは?﹂
︱︱︱人はこんなにも簡単に、毒されてしまうんだ。
◆
﹁あれ、今日は茜音1人?
白亜への報告を終え、部室に入ると茜音以外誰も居なかった。
常に女の子に囲まれている茜音にしては非常に珍しい。
﹁ストーブが倉庫にあるんだって﹂
﹁ああ、今日寒いものね﹂
一気に1ヵ月季節を先取りしたような寒気と、1日戦っていたこ
とを思い出す。
教室はエアコンがあるけど、いかんせんこの部屋は廃部になるは
ずだった部活の部室。エアコンが無いので夏はファミレスに行き、
ほとんどここには来ない・・・という謎の扱いを受けている空間で
ある。
わたしは茜音の正面の席へ座り、スマホを取り出す。
︵この位置なら、見られる心配は無い・・・︶
108
100%その自信がある時しか、わたしは茜音の前でスマホは弄
らないことにしている。
﹁あれ、珍しいね。葵衣ちゃんが携帯構うの﹂
﹁わたしだってラインくらいするよ﹂
﹁へえー。ねえ、じゃあ今度は私としようよっ!﹂
﹁目の前に相手が居るのに?﹂
﹁だって、今、葵衣ちゃんは他の人とラインしてるじゃない﹂
その何気ない言葉に、わたしは思わず指を止めた。
﹁私は葵衣ちゃんと、2人っきりでお話ししたいな・・・なんて。
ワガママ・・・かな?﹂
この子は。
恐らく茜音にこんな言葉をかけられたら、大抵の人間は落ちる。
万人を虜にする最強の武器。それも本人はそれを使っていることを
自覚していない。天然ジゴロとはまさしくこういう子の事を言うの
だろう。
﹁いいよ。話そう﹂
﹁ありがとうー!さすが葵衣ちゃんっ!﹂
笑いながら、彼女はわたしのスマホを持っていない方の手のひら
を自分の両手で包む。
茜音に惹かれた人間・・・この部に所属するほとんどの女の子は
こうやって彼女が連れてきた。
手口は簡単。茜音が興味を持った子と話して、なんやかんやあっ
て、その子は茜音の取り巻きになる。
109
上級生、下級生、時には先生関係なく。茜音のまわりにはいつも
人が居る。この学校で人だかりが出来ていると大抵の場合は彼女が
中心にいるのだ。
わたし
茜音を中心に人がまわり、その大きな渦が絶えず続いている。
それが分かるのはその中心部に居る人間・・・、つまりは葵衣だ
け。
﹁葵衣ちゃんって、ちょっと難しい人なのかなって。だって、いつ
も私の方、睨んでたでしょ?﹂
﹁別に睨んでるわけじゃ・・・﹂
丁度、台風の様子をへそから見ているような感覚。
わたし
茜音という大きなハリケーンの強烈な風をかき分け、それに混ざ
ることなく核心部へと到達できた人物を、わたしは葵衣以外に知ら
ない。
﹁だから私、葵衣ちゃんがボランティア部に入ってくれた時、すっ
ごく嬉しかったんだよ﹂
﹁それはわたしだけに限った話じゃないでしょ?﹂
﹁ち、違うもん・・・﹂
茜音はそう言ってわたしから視線を逸らす。
・・・時々見るこの反応は何なんだろう。他の子と話す時はあま
り見せない表情。
︵1対1の時、専用の顔・・・?︶
要するに、他の子にもこういうような事をやっているんだろう。
顔を真っ赤にさせて、耳まで真っ赤にさせて。普段の茜音からは
110
あまり想像がつかないけれど、恐らくこれは茜音にとって必殺技の
せめて仕草だけでもコピ
ようなものなのだ。これをやっておけば間違いない・・・と。
﹁葵衣ちゃんは特別、だもん﹂
茜音はそう言ってまた目を逸らす。
少し、彼女を見つめすぎただろうか。
と。
・・・白亜に逐一言われているのだ。
ペして来い
その言いつけをただ黙って聞いているだけのわたしの方こそ、ど
うかと思うが。
︵あんな顔、わたしに出来るかなあ︶
︱︱︱その風が、ほんの少しだけ他の方向へ向いていたら。
︱︱︱こんな事には、なってなかったはずなのに。
111
ある国のお姫様と近衛騎士。
その日は珍しく王都に雨が降った日だった。
お母さまと一緒に庭へ出られると思った矢先、空が曇りだして雨
が降った時の事。
泣きわめく世とは対照的に、まわりの人間はたいそう喜んでいた。
何せ、雨だ。
当時干ばつに喘いでいた我が国にとって、その雨は喉から手が出
るなどと言う言葉では表せられないほど待ちわびたもの。
だから、皆、世に気づかれないように隠れて喜んでいた。
しかし子供と言うのは意外にその辺、分かったりする。気づいて
いたりする。
世はやるせない気持ちで1人、窓の外を打ち付ける雨音に耳を傾
けていた。
その時。
﹁殿下。今日より殿下の身の回りのお世話をさせていただきます、
我が娘にございます﹂
気づくと後ろから、この国の国防大臣の声が聞こえてきた。
お父さまと随分仲の良い男。世はそう、認識してる。
そんな男の後ろから、我が国の軍服を纏った女の子が顔を見せた。
112
﹁で、殿下・・・、泣いてらっしゃる、のですか?﹂
そんなにも世が怖いのだろうか。彼女の声が震えていることが、
一発で分かった。
でも、そうではなかった。
﹁殿下が泣いてらっしゃるのは、悲しい・・・です﹂
はっと、世は後ろを振り向く。
背丈もほとんど変わらない、同世代の女の子が涙を必死に堪えな
がら、世を見ていた。
﹁・・・どうしてじゃ?﹂
一言、世は問う。
﹁あなたが悲しいと・・・私も悲しいのですっ﹂
彼女は涙を必死に拭いながら、しゃくり上げながら言った。
﹁あなたには・・・笑っていて、欲しい。だから、悲しいです・・・
っ。おかしいですか!?﹂
初対面の人間に、こんなことを言われて不自然に思わないわけが
ない。
でも、どういうわけだか世は彼女の言動に何一つ疑問を抱かなか
った。
﹁そなた、名前は?﹂
﹁クリスティア・ノイン・・・﹂
113
﹁では、クリスじゃな。よろしく頼む﹂
泣きじゃくっている彼女を見ていたら、なんだか自分が泣いてる
場合じゃない・・・そう思った。
そう思い、彼女に向かって手を差し出したのだ。
◆
﹁よし、今日も良い天気じゃ﹂
すっと、手を天にかざす。雨季の終わりを告げる陽射しが眩しい。
﹁陛下﹂
﹁うん?﹂
隣を見ると、クリスがすっと前に出て。
﹁お召し物に乱れがございます﹂
世の首元、そこで少しばかり曲がっていたリボンを正してくれる。
﹁うむむ・・。いつになっても慣れんのう、このドレスは﹂
﹁陛下の御意向ならば、デザイナーを雇い新調させますが﹂
﹁そういうわけにはいかぬ。母上が遺してくれたものじゃ﹂
そう言って、こうべを垂れた彼女の頭をわしゃわしゃと撫でる。
この十年で、クリスは随分大きくなった。背は世より一回り大き
く、胸は二回りも三回りも大きい。
114
しかし世の背丈が伸びぬうちに、我が国は随分大きくなった。
この王都の下に眠る大量の高濃度メタンハイドレート。我が国は
それを魔法の力、魔力に転用する画期的技術の開発と共にこの十年
で世界三大国家と呼ばれるようにもなった。
戦いと呼べるほど大きな武力衝突もなく・・・、今日もこうして
庭でお茶会とも呼べるささいなパーティを開く。
それは病死なさった父上、母上に代わり皇帝に即位した、世の最
大の役目でもある。
﹁のう、クリス﹂
﹁はい﹂
世が他国の遣いと茶を飲んでいる時も、クリスは世の隣に立って、
世を守ってくれている。
そんな彼女に、何ともなしに話しかける。
﹁外の世界とはどういうものなのじゃ?﹂
そう。世は一度も、この城の外へ出たことが無い。
あの正面の門を抜け、大きな壁の外へ出て、その外に何があるの
か。それすらも知らないのだ。
﹁陛下、この城こそが世界の中心です﹂
﹁それは知っておる。じゃが、他に比べるものが無ければそれも分
からぬ﹂
世はメイドが淹れてくれた茶をすすりながら、ぼやーっと見とれ
るように城壁を見やる。
115
﹁クリスの見た世界を、世も見てみたいのう﹂
◆
﹁陛下と女王殿下が!?﹂
﹁連合軍は副都まで攻めてきている、このままでは!﹂
・・・うるさい。城内が随分とうるさい。
﹁静まれ!!﹂
私は雑音に対して、そう一喝した。
﹁貴様、ノインの忘れ形見が未だ後見人を気取るか!?﹂
父と随分仲の悪かった軍閥の男が、私に近寄ろうとする。
私は彼の一撃をかわし、身体を地面に叩きつけると腰から一本、
剣を抜いて彼の頭部付近へと突き刺した。
民を守る事か!?﹂
我らのなすべきことは何だ!?﹂
威嚇だ。剣は彼を傷つけず、謁見室の床へと突き刺さった。
﹁問おう!
国を守る事か!?
あらん限りの大声で叫ぶ。
﹁己が保身か!?
116
ノイン家のエゴで国を潰すの
我らがなすべきはシャーロット様を守る事だ!!﹂
場が静まり返る。雑音が消えたのを感じた。
﹁否!
﹁この期に及んで王族を守ると!?
か!﹂
その声を初めに、次々と罵声が飛んでくる。
陛下と王女殿下が臥
私は腰から今度は銃を取り出すと、それを天井に向けて撃つ。
﹁そんなことは関係ない・・・!﹂
威嚇射撃。弾は入っていない。
﹁シャーロット様は今、泣いてらっしゃる!
貴様こそ、シャーロット殿下に
され、1番悲しんでらっしゃるのはシャーロット様だ。貴様らでも、
私でもない・・・!﹂
﹁泣いてらっしゃるから何だ!?
あの方はこの国そのものだ。シャーロット様
肩入れするのは私情からだろう!﹂
﹁それの何が悪い!
が悲しむような事が、この国の為であってなるものか!﹂
私は床に突き刺していた剣を抜き、先ほど地面に倒した男に向け
る。
﹁今から国防軍は私の下に降りてもらう。拒否するならこの男を殺
す・・・!﹂
その瞬間、この場に居たすべての者が息を飲んだ。
﹁貴様、正気か!?﹂
117
私を刺激しないように、言葉が柔らかくなる。
余程、この男を殺されると不都合があるようだ。
﹁私を王都防衛の絶対防衛ライン、精鋭部隊の隊長にしろ﹂
そう、あの部隊はかつてノイン家の庇護にあった人間だけで固め
られた部隊。
あそこなら、私は自分自身の力を最大限に利用できる。
﹁お前はシャーロット様の側近だろう。あの方から・・・、離れる
のか?﹂
﹁だからこんな強硬手段を取っている。私が帰ってくるまでシャー
ロット様の私室には誰も入るな。要求はその2点だ。それを約束す
るのならこの男は帰す﹂
周囲はあっけにとられている。
・・・と言うより、呆れてものも言えないのだろう。
﹁連合軍と我が軍の戦力差は10倍以上だぞ。貴様、戦地に赴いて
帰ってくる気か?﹂
真正面からあの戦力と戦って、勝てるわけがない。ここに居る、
私以外の全員がそう思っている。
﹁面白い。貴様が帰ってくるまでシャーロット様には手は出さない。
だが、貴様が死んだら・・・﹂
﹁その約束は失効で良い﹂
﹁ふん。やってみろ、お前のような人間を命知らずと言うのだ﹂
118
本物の戦争をするのはこれが初めて。
暴徒の鎮圧とはレベルが違う。帰って来られる可能性がほぼ無い
ことも、分かっているつもりだ。
・・・だが。
私がこの城を離れる僅かな間だけだとしても。
この城は多少なりとも静かになるはずだ。シャーロット様の耳に、
これ以上の雑音を入れることもなくなるはずだ。
静かに、陛下と王女殿下の死を、受け止められるはずだ。
そのわずかな時間を稼げるだけで良い。
それだけで、私は生きていた意味があったと言うもの。
︵この命の最期の時まで、あなたと共に。・・・守ってみせる。我
が家がすべてを賭けて求めた、あなたの笑顔を︶
城を出る前、私は深々と王宮に頭を下げた。
もう恐らくここには戻って来られない。人生の最期をあなたの隣
で迎えられないことは悲しい。
・・・でも、そんなことより何百倍も何千倍も。
︵あなたが泣いているのだけは、耐えられない︱︱︱︶
私はもう、泣いている事だけしかできない少女じゃない。
行動を起こせる、強い人間になれた。それだけで、嬉しくて嬉し
くて。
頬に一筋の泪が伝ったのを、私は知らなかった。
119
◆
むにゅ。手に柔らかい弾力を感じる。
﹁相変わらず大きいのう・・・。なんなのじゃこの差は﹂
もう片方の手で、自らの全く起伏の無い胸を触る。
﹁昔は同じくらいじゃったと言うに﹂
世は湯船に鼻まで浸かり、息を吐いて水面にぶくぶくと泡を立て
た。
幼少の頃、みっともないからやめなさい・・・と母上によく叱ら
れたものだ。
﹁陛下﹂
﹁うん?﹂
﹁私は陛下ならつるぺたでも全く構いません﹂
だから、そんなことを真顔で言うクリスの顔を見て、たまらなく
恥ずかしくなってしまう。
﹁う、うう・・・﹂
古傷
を目にしてしまう。
赤面して目を背けようとしたその時。
彼女の
喉元の右から腰の左側にかけてある、大きな傷。これは第2次王
都決戦で負ったものらしい。
120
世はその時のことをあまり覚えていない。
父上、母上が亡くなったショックで記憶が消えているのか、はた
また何らかの意図で記憶が飛ばされているのか、それは未だに分か
らない。
クリスの傷跡を、人差し指でなぞっていく。
﹁すまぬな。このような傷、一生消えまい﹂
件の魔法を使っても、きっとこの傷はどうにもならない。
女が身体にこんな傷を残したまま生きなければならないとは・・・
。
﹁陛下。私は陛下以外に肌を露出する事など一生ありませんので、
何の問題も無いかと﹂
そんな世の弱音を、クリスは一蹴する。
﹁ふふ、分かっておる。言ってみただけじゃ﹂
そして自然に、顔から笑みがこぼれてしまう。
︱︱︱世は知っている。
﹁この傷をなぞると、あのクリスが一瞬でこれじゃからなあ。便利
なものよ﹂
そして身を預けるように倒れてくるクリスの身体を小さな世の身
体で受け止めた。
121
︱︱︱この傷はクリスにとって
﹁・・・陛下﹂
﹁うん?﹂
﹁今夜は、優しく・・・﹂
﹁さあて。どうしたものかのう﹂
性感帯
であると。
この城は世界の中心だ。ここには、世のすべてがある。
守られているだけの姫。それで良いのだ。それで喜んでくれる人
が、世の腕の中には居る。
それだけで、生きていた意味があるというものなのだから。
122
チェンジ・ユアセルフ
我が家はいわゆる大家族というヤツで、昔からガヤガヤわいわい、
やかましい家だった。
﹁コラ、あんた達も遊んでないで荷物降ろすの手伝いなよ!﹂
重いダンボールを持ち上げながら、歳の離れた弟たちに注意の言
葉を投げかける。
﹁うるせー﹂
﹁姉ちゃんがやれよー﹂
﹁ねんちょーしゃだろー﹂
まったくもって小生意気な年頃の弟たちが引っ越しの荷卸しなん
助け合いの精神!﹂
かを手伝うわけもなく、その辺を駆け回ってケラケラと笑っている。
﹁いいから手伝え!
﹁俺、いちぬーけた!﹂
1人が言うと、次々とそれに乗っかり、あっという間に姿を消し
てしまう。
﹁クソガキ共め・・・﹂
なかなかどうして、1人だけ歳の離れた姉というものは損な立ち
位置だ。
昔は﹁自分だけなぜ年が離れているのか﹂と真剣に考え込んだも
123
のだけれど、今になってもその答えはまったくもって出ていない。
別にわたしだけ腹違いというわけでもなく、全員、わたしの知っ
てる父と母から産まれたはずなのに。
︵倦怠期があったのかな・・・︶
そんな高校生には刺激が強すぎることを想像してみる。
でも、もうそれは知りようがない。この街に戻ってきたのは、両
親が他界したからだ。
﹁一縷、すまんな。引っ越し業者に頼められればよかったんだが・・
・﹂
﹁ううん、おじいちゃん。これくらい、わたしがやるよ。この家に
住まわせてもらえるだけでもすごくありがたいから﹂
だ。せめて義務教育を全員終えるま
腰の折れた白髪のおじいちゃん、おばあちゃんに押し付けるわけ
ねんちょーしゃ
にはいかない。
わたしは
では、わたしがあの子たちの親代わりにならなきゃ。
いちる
﹁しっかりしろ、小松一縷!﹂
自分に言い聞かせるように言って、両頬を叩く。
﹁・・・チルちゃん?﹂
その瞬間、後ろから誰かの声が聞こえた。
随分懐かしい、そして、かわいらしいこの声。
躊躇いを入れる前に、わたしは振り向いた。
124
︵っ・・・!︶
そこに居たのは間違いなく。
﹁・・・智恵、だよね﹂
智恵だった。
古湊智恵。この家に住んでいた時の、お隣さん。
わたしは一瞬、言葉が出てこなかった。相応しい言葉が見当たら
なかったからだ。
﹁久しぶり﹂﹁元気だった?﹂そんなものでお茶を濁すことも出
来る。
だけど、わたしが最初に思った事は口に出すにはあまりに失礼な
事だった。
︵・・・デカいし、かわいいし、無防備だし、なにこのエロい女の
子っ!?︶
そこに居たのはわたしの知っている智恵じゃなかった。
わたしの中の智恵は8年前の姿、つまり小学生で止まっている。
鮮明に覚えているのは人形みたいに儚げで、かわいい女の子だった
と言うこと。
それがどうだ。昔は大きく違っていた身長もほぼ同じだし、胸は
ムチャクチャ大きくて、顔なんかは垢抜けた感じがしていいとこの
お嬢様みたいな気品さえある。
そんな女の子が着崩れた白いTシャツにショートパンツで立って
たら、それはもう痴女・・・いや、それは言い過ぎか。
125
わたしは、なんか。
﹁ひ、久しぶりだね。元気だった?﹂
まっすぐに彼女を見つめられなくて、赤面したまま視線を明後日
の方向へ飛ばした。
◆
﹁みんな驚いてたね。なんか、男子の間ですごく話題らしいよ、チ
ルちゃん﹂
﹁ええ、何それ・・・﹂
帰り道、田園風景の中にある幹線道路の中を歩く。
昔はここも、コンクリート舗装なんてされてなかったのに。ド田
舎が、田舎になろうと頑張ってるんだな。
﹁昔のチルちゃんしか知らないから。男子に交じって喧嘩してた、
みたいな﹂
﹁あはは、そりゃさすがにもう無理だわ﹂
力の差、体格の差があるのはもちろん、もう人と喧嘩おっぱじめ
ようなんて思わないし。
﹁ってか、あいつらわたしが不良になってたと思ってたのか﹂
﹁チルちゃん、クラスで1番強かったからねー﹂
126
いじわるされた弟の仕返しに公園まで乗り込んで1対4で男連中
をボコボコにしたという事件が、未だに武勇伝のような形で語り継
がれているそうだ。
そんなことあったっけなあ。
﹁わたしだって女の子だよ。JKだっての﹂
﹁だからみんな驚いてたんだよ﹂
﹁普通になってつまんないって事?﹂
そう言った瞬間、智恵は目を丸くした。
何が?﹂
﹁・・・チルちゃん、分からないの?﹂
﹁・・・?
訳が分からない、という風に右手のひらを上に向ける。
﹁ねえ、この後、時間ある?﹂
そして急に話を変えられた。
﹁すぐに帰らなきゃならなくはないけど・・・﹂
すると智恵はわたしの手を取って。
﹁見せたい場所があるの!﹂
半ばわたしを引きずるような形で、歩き出した。
︵・・・これって︶
127
なんか、昔とは位置が逆になってる。そう思った。
前、この街に居た時はわたしが智恵を連れまわしていた。智恵は
わたしの言うことならなんでも聞いてくれる。それだけの認識だっ
たから。
︵変わったんだ、智恵︶
それが、立派に自分の足で道を歩ける子になっていた。
人は放っておいてもそういう風になる、それが成長だって言って
しまえばそれまでかもしれないけれど。
やっぱりそれは、智恵が自分の意志で歩けるように・・・、変わ
ったからだと思う。
﹁ここだよ﹂
連れてこられたのは何もない、更地だった。一面更地で、端っこ
には﹁売地﹂﹁マンション、テナント募集中!﹂という看板が立て
られている。
﹁ワクワクマート、潰れたんだ﹂
覚えている。忘れるはずがない。ここはこの近所で1番大きなス
ーパーがあったところだ。
地方の会社ながらも健闘していた。お惣菜は安くて美味しかった
し、お菓子の量が豊富で。
﹁1年くらい前にね。国道沿いにもっと大きなスーパーが出来たの﹂
﹁・・・そうなんだ﹂
128
なんだろう。この感じ。別に、あのスーパーが潰れたからって、
どうってことないのに。
﹁何でも売ってるんだよ。駐車場も大きくて、便利なの﹂
﹁何でもは売ってないでしょ﹂
その後も、3,4件。この8年間で変わった場所を案内された。
見てみればそうなんだ、と思う程度。それで別に大きく困るわけ
でもない。古びたおもちゃ屋や、少しおしゃれな喫茶店が潰れても、
近くにもっと大きな複合施設ができたら地方の人はその変化を何と
も思わない。
むしろ、街が発展した。都会になったと喜ぶ。そしてその反応は
正しいものだと思う。
でも。
さみしい
。
﹁世の中、理屈じゃないんだね﹂
少し、
街が変わることがではない。知っていたものが、消えていくこと
が、だ。
﹁チルちゃん、頭よくなったんだね﹂
﹁もうっ。わたし、もう高2だよ?﹂
智恵はわたしの口から﹁理屈﹂などという言葉が出てきたことが
おかしくて仕方がないようだった。
﹁チルちゃん、こんな事言うのって、すごく失礼だと思うんだけど﹂
129
帰り道。暗くなった幹線道路の脇を二人並んで歩いていく。
少し暗くなった閑散とした道。走る車のヘッドランプが時々道を
チルちゃん、女の子になった
明るく照らすだけの、少し幻想的な空間。
って、思ったんだよ﹂
﹁私、この間チルちゃんを見た時、
んだ
﹁なにそれ﹂
訳の分からない言葉に思わず失笑が出てしまう。なるも何も、生
まれた時から女じゃなかった瞬間なんて無い。
﹁スカート履いてるチルちゃん見たの、あの時が初めてだったから﹂
その言葉が、少しだけわたしの心に響いた。
﹁昔のチルちゃんはズボン履いてて、それこそ男の子たちといつも
一緒に遊んでて。私、チルちゃんに憧れてた思う。多分、地球を守
るヒーローと、チルちゃんがダブって見えたんだ﹂
強く、前に出て、気に入らない相手はぶん殴る。そんな子供の自
分勝手さ、不良さ。
そういうものに憧れる気持ち、分からなくはない。
﹁だから、ね。ちゃんと言うね﹂
気づくと智恵は隣に居なかった。わたしが智恵の方へ、振り向い
たその時。
ぎゅっ、と。正面から抱き着かれた。
130
﹁私、昨日、チルちゃんに一目惚れしちゃった﹂
﹁智恵・・・﹂
﹁昔の憧れてた気持ちじゃない。今の、チルちゃんが・・・好きな
の﹂
少し驚いた。でも、その手を振り払わなかったのは、嫌だと思わ
なかったのは。
﹁わたしも、智恵に一目惚れした﹂
からだと思う。
あの感覚は、一瞬で世界が変わったように思えたあんな気持ちは
今までになかった。
知っていたものから変わった変化に動じたんじゃない。今の姿が
明確に好きだと思えた。
気づくと車の光が無い真っ暗な空間で、わたし達二人の唇が自然
に重なる。
﹁わたしは昔、智恵のことお姫様だと思ってた。ヒーローに助けを
求める悲劇のヒロインに、智恵を重ねていたんだと思う。ほら、子
供の頃、人形とか好きだったじゃん﹂
﹁なにそれ﹂
くすくす、と智恵は笑う。
智恵はお姫様じゃない。人形でもない。1人の女の子だ。昔はそ
れが分からなかった。
でも、今は違う。
﹁ねえ、私のどこに一目惚れしたの?﹂
131
﹁うーん・・・﹂
それを言われるとキツイ。だって・・・。
﹁なんか、エロかったから﹂
正直にそれを言ったら、さすがに智恵からチョップを食らった。
﹁痛っ、暴力反対!﹂
﹁ふふ。私だって怒るときは怒るんだよ?﹂
﹁でも、ホントの事だし・・・﹂
嘘はつきたくなかったからありのままを話したのに。・・・難し
いなあ。
﹁子供の頃は智恵のエロさが分からなかったんだもんなあ﹂
﹁変わったからね﹂
月日が、時間が経過すれば見てくれは変わる。それはどうしよう
もないことだ。
だからこそ、その本質を見つけることは難しい。そこに自分の複
雑な気持ちなんてものが入ってきたらかなりの無理ゲーになる。
でも、この田舎に帰ってきて分かったことがある。
問題は変わったことじゃない。変わったことをどう受け入れるか
なんだ。
﹁あ、ガキどもの夕飯!すっかり忘れてた!!﹂
そんな小難しいことを考えていたせいか、すっかり飛んでいた。
132
﹁手助けしましょうか?
あ・な・た﹂
﹁そ、そうだね。下のガキは迎えに行かなきゃならないし、頼むっ
!﹂
走り出したわたしは知らなかった。思い出せていなかった。大切
なことを。
この数時間後、我が家は虹色に光る謎のシチューを食べさせられ
ることになる事を。
133
上京愛物語
﹁あ、ミヤちゃーん!﹂
ひどく懐かしい声に、身体が反射的に動いた。
﹁あっちゃん。久しぶりだね﹂
小走りで近寄ってきた旧知の友を、昔馴染みの愛称で呼ぶ。
﹁おひさー。二中の神童、1年と3カ月ぶりのそろい踏み!﹂
﹁神童って・・・﹂
いくらなんでもわたしには相応しくない俗称に苦笑いが隠せなか
った。
ぎゅっとわたしの手を握るあっちゃんは1年と3ヶ月経っても何
も変わっていない。
﹁我ら二中四天王の中でもこのコンクリートジャングルで生き残れ
るのはあたしとミヤちゃんだけだし﹂
そういや山の字は短大行ったとか?﹂
﹁やっこと山ちゃんって今、何やってるのかな﹂
﹁さあ∼?
結局、高校も違ったあの2人が今何をしているかなんて知りよう
が無かった。
それに、わたしとあっちゃんも同じ高校に進学しなければ2人の
ように疎遠になっていたかもしれない。
同じ私立高校でもわたしは体育科に進学し、あっちゃんは偏差値
134
がべらぼうに高い科へと行ったので、高校生活を一緒に共有した竹
馬の友というわけでもない。
駅から学校へ歩く道中、いつも一緒だったものの高校の中ではほ
とんど話したことが無かった。
だから、こうやって上京して、1日デートしようなんて、本当に
腐れ縁としか言いようがない奇妙な間からだ。
﹁なに観る?﹂
﹁えっ、決めてなかったの?﹂
﹁いや、なにやってるか知らなかったし﹂
﹁えー・・・っと﹂
まさかのブン投げに驚きながら、映画館の電光掲示板を見上げる。
あの歌のヤツ!﹂
﹁あれはネットでムチャクチャ叩かれてたし、あれは長すぎるし・・
・﹂
﹁ねえ、あれは?
じゃあなんであそこに書いてあんの?﹂
﹁あれは8月からだよ﹂
﹁ええ?
﹁前売り券の発売みたいだね・・・﹂
歌には興味があるけどSFモノはちょっと食指が動かないなあ。
あと10分後だし!﹂
大体ああいうのって肩透かし食らうし。
﹁じゃああれでいいや!
﹁10分!?﹂
ギリギリすぎる。
今からチケット買って飲み物とか買ってたら上映時間に間に合わ
135
なくなるよ。そんな抗議をしたものの。
﹁どうせ最初の10分は予告とやっちゃダメ映画盗賊のCMでしょ
!﹂
という事で、無理矢理あっちゃんに手を引かれ、ガッツリとした
トイレ行く?﹂
ラブロマンス映画を見ることになった。
﹁うえぇぇ∼ん﹂
﹁あっちゃん、大丈夫?
﹁あんなの悲しすぎるよぉぉ、あんまりだあぁぁ﹂
感受性豊かなあっちゃんは悲劇の物語にかなり入り込んでしまっ
たらしく、ずっとこんな調子だ。
その後も色々な場所をまわってみた。
東京に来て曲りなりにも1年と3カ月が経過しているわけで、こ
の界隈は大分こすってきた場所だったけれど。
︵本当、旅行ってどこへ行くかじゃなくて誰と行くかなんだなぁ︶
こんな風に中学校の時と変わらずはしゃぐあっちゃんと歩く街は、
どこか違って見えた。
修学旅行で東京に来た時のあっちゃんってこんな風だったな、と。
あの日のことを思い出す。我々四天王が夜中に部屋を抜けてゲーセ
ンでUFOキャッチャーやっていたところを見つかり、廊下で正座
都市
伝説。
させられたのは今でも二中で都市伝説として語り継がれているらし
い。あんな田舎でも
﹁あん時さあ、夢の国でマスコット池にポシャらせるべきだったん
136
だよ!﹂
﹁それ無理らしいよ﹂
﹁マジで!?﹂
これは夢の国のアンテナショップでの一コマ。
あの中学生のテンションのわたし達だったらやってしまいそうで
怖い。
﹁国民栄誉ショーの人、見たよね?﹂
﹁見てないよ。あの時はもうメジャー行ってたから﹂
あっちゃんの言葉やふるまいはまるで中学で時間が止まってしま
じゃあホームラン打ったの誰だっけ?﹂
ったかのように天真爛漫で。
﹁あ、そっかー。あれ?
なんか、わたし1人だけが大人になってしまったかのように錯覚
するほどだった。
背ぇ、高っ!﹂
こういうのを浦島太郎状態、というのだろうか。
﹁っつーかミヤちゃんは大人になり過ぎ!
雰囲気?﹂
﹁いやいや、高校時代からそんなに伸びてないよ﹂
﹁じゃあ何?
﹁そうかもね﹂
昔はこのノリについていけたかもしれないけれど。今、これと一
緒の事をやれと言われたら無理だ。
羞恥心もあるし、自分で自分が嫌になりそうで。
1日デートの最後の場所に、あっちゃんが選んだのはファミレス
137
だった。
﹁この店、向こうには無かったよね﹂
﹁うんうん。っつーかこれ無いとか信じられんし!
だよ!﹂
やっぱ若者は肉を食わんとねー﹂
どんだけ田舎
そう言って笑うあっちゃんはとても眩しくて、羨ましかった。
﹁美味い!
ステーキを頬張るあっちゃんは本当に美味しそうで、初めて肉を
食べた人みたいな反応の仕方だった。
﹁・・・﹂
ツイッターに上げるの!?﹂
わたしはあっちゃんの食べているステーキを、スマホで撮影する。
﹁わー、何それ?
あたしも映してピース!﹂
﹁う、うん。ごめんね、ダメだった?﹂
﹁ダメじゃないダメじゃない!
﹃二中四天王降臨!﹄という文字と共に、それを投稿する。あっ
ちゃんの顔が映ってる写真はさすがに上げなかったけれど。
﹁最近どうよー?﹂
﹁うん、ようやく球拾い卒業できたよ。1年生入ってきたから﹂
﹁へえ。レギュラーとれそう?﹂
﹁とんでもない。試合に出られるのなんてほとんど4,3年生の先
輩ばっかりだし、2年生でレギュラーって本当に天才みたいな子ば
かりで﹂
138
﹁ふーん。体育会系は大変だねえ﹂
うちらはあんま縦社会じゃないから分かんないや、と零す。
そういえば、高校時代もこの話は何度かした気がする。あっちゃ
ん曰く、﹁偏差値べらぼう高い科﹂にはほとんど先輩後輩の付き合
いや礼儀というものが無かったらしい。
﹁でもさあ、二中のテニス部ってほぼほぼミヤちゃんで回ってたじ
ゃん。市内でミヤちゃんに敵うヤツなんて1人も居なかったし﹂
あっちゃんはステーキを口に運びながらうそぶく。
﹁強い連中をボコるミヤちゃん、かっこよかったけどなぁ。あれぞ
四天王の真の姿!って感じで﹂
﹁それも市内最強レベルだよ。県選抜に選ばれて合宿行ったとき、
正直足が震えたもん﹂
﹁んー?﹂
﹁わたしは持久力なら誰にも負けないつもりだった。県選抜でもス
タミナはそれなりにいけてたと思う。でも、あそこに居る子たちは
みんなそれプラス、他もすごいんだ。サーブも、ボレーも、スマッ
シュも、スピードも﹂
まさに井の中の蛙ここに極まりけり。
﹁高1の時、山神遊里さんのプレーを目の前で見たことがあったん
だけど﹂
忘れもしない。
﹁正直、無理だと思った。あれは同じ人間なのかって。うちの3年
139
生の先輩が1年生の山神さんから1点も取れずに負けてたのを見て
さ・・・﹂
すごい、すごすぎるとその日は眠れなかったのを思い出す。
﹁ふーん。そんなもんかねえ﹂
﹁でも、わたしはわたしのやり方でテニスをやっていくよ。テニス
が大好きなのは変わらないし、働きながらでもテニスが出来るなら
こんなに嬉しいことは無いけど・・・﹂
もう大学から先は難しいのは分かっている。
親に無理を言って、奨学金で大学へ通っている身。もう、これ以
上は両親にも迷惑はかけられないし、奨学金を返すためにはお金が
必要だ。テニスをやりながら働けるのなんて、それこそプロを目指
しているセミプロみたいな人だけだろう。
﹁けど?﹂
﹁え?﹂
このタイミングで聞き返されるとは思わなかった。
﹁けど何?﹂
あっちゃんは、曖昧な語尾で誤魔化すなんてやり方を、認めては
くれないみたいだった。
﹁あ、えと・・・が、頑張る!!﹂
だから、ホントは無理してそう答えた・・・のに。
140
﹁よっしゃあ!
じゃあ肉食え肉!
そ、そんなの悪いよ!﹂
りじゃおらぁ!!﹂
﹁え?
これ
このファミレスはあたしの驕
﹁あたしが良いって言ってんだから良いんだよ!﹂
山神遊里なんて、星村に比べれば雑魚だよ雑魚!
あっちゃんはそう言ってニカッと笑った。
﹁いい?
を見ろぉ!!﹂
そう言って、あっちゃんは全米オープンでベスト4に進出した星
村選手を特集したネット記事を見せる。
﹁そりゃそうだろうけどさ﹂
同い年でこんな事されちゃ、夢を見てしまう。頑張れば星村選手
みたいになれるんじゃないかって。
でも、それは彼女だから出来ている事だ。彼女は頭8つくらい飛
県大会ベスト32の
び抜けた存在。50年に1度の逸材、なんて言われてる。
﹁高3の時、星村は試合に出てないんだよ!
ミヤちゃんの完勝!!﹂
﹁あっちゃん、酔っ払ってる?﹂
﹁あたしは未成年だからシラフですYO!﹂
ケラケラ笑うあっちゃんを見て、なんだか明日からまた頑張ろう
と思った。
あっちゃん、こんなちゃらんぽらんに見えてあの大学でも頭良い
学部に入ってるんだもんなあ。
141
市内で最強のミヤちゃんは、国内最強の大学の上部に居るあっち
ゃんに完敗。
これが、今の二中四天王の世間的な立ち位置だ。
﹁あっちゃん﹂
帰り際、駅へと歩く道中でわたしは彼女の名前を呼ぶ。
駅までの道・・・、奇しくも高校時代とは逆のシチュエーション。
しかも舞台は大都会東京だ。
﹁また、会いたいな﹂
わたしは気づくと、そんな事を呟いていた。
﹁じゃあ1つ、約束してくれる?﹂
﹁え?﹂
﹁1つ、次会う時はテニスがべらぼうに上手くなっていること﹂
最低でも大学でベンチ入りだね、と。
これはゲキだ。あっちゃん流の気合を入れてくれているんだ。さ
すがにそれは気づいた。
﹁わかった、約束す︱︱︱﹂
でも。
﹁次、会うときは・・・この後、帰させないので。そのつもりで﹂
まさか目線を上げたと同時に、キスされるとは思わなかった。
ポカーンと呆けているわたしに、あっちゃんはぎゅっと抱き着く
142
と。
﹁・・・鈍いところだけはぜんっぜん変わってないのが分かったよ﹂
そんな甘い声が聞こえてきた。
﹁次、会う時は大人としてあたしを見て?﹂
たった一言。その事を打ち明けられただけで。
﹁が、頑張る・・・﹂
あっ
わたしはぜっっったいに夏休みまでにベンチ入りして見せる、と
心に深く誓った。
愛は勝つ。わたし達の愛言葉だったよね、愛ちゃん。
143
上京愛物語︵後書き︶
Touches
the
Walls/﹃TOKYO
遠いようでずっと近くに 誰だって見えるはず
︵NICO
Dreamer﹄の一節より引用︶
144
君を放さないと叫びたい
通りすがりの人をぶん殴ったら。
﹁おいテメェ何してくれんだ、あぁ!?﹂
﹁おかげで俺のイケメンフェイスが汚れちまったなあ﹂
﹁慰謝料出せや慰謝料﹂
路地裏に連行されてカツアゲされる事になった。
でも、困ったな。
﹁テメェらにくれてやる金は無い。さっさと消えろクソウジムシど
もが﹂
非常に、どうでもいい。
﹁んだとこのガキぃ・・・﹂
﹁痛い目見ねぇと分かんねえのか?﹂
﹁可愛いお顔がぐちゃぐちゃになっちゃいまちゅよ∼﹂
そう言って顔を近づけてきた金髪男。
あまりに気持ち悪かったものだから、とびきりの頭突きを食らわ
こっちが下手に出てりゃいい気になりやがって!!﹂
せておいた。
﹁ってえ!
﹁女に生まれた事を後悔させてやるっ﹂
だけど3人が3人とも、次の瞬間には刃物を手にしていたのには
145
さすがに驚いた。
いくら治安の良い国・日本だとしても夜中に歩き回って異質な雰
囲気の男をぶん殴ればただでは済まなくなりそうだ。
わたしがゆっくりと目をつむった、次の瞬間。
銃声が、夜の帳を落とした裏路地に鳴り響いた。
﹁チャ、チャカ・・・!?﹂
ここがうちのシマだって、分かって
3人は後ろを振り向く。さしものゴロツキも銃が絡んでくるとな
ると表情が強張る。
﹁お前らどこの組の若い衆?
んでしょうね?﹂
暗くて声の主は見えない。でも、分かることが一つだけある。
てめぇ何モンだ!?﹂
声の主は女性・・・、であるということ。
﹁うちのシマぁ?
男が威勢よく叫んだ次の瞬間、有無を言わさず2発目の銃声が鳴
り響く。
3人の男のうち、左に居た男の握っていたナイフが、宙を舞って
わたしの足元に刺さった。
﹁あら、間違えてナイフ撃っちゃった。次はちゃんと、人間に当て
ないとね﹂
ナイフを粉々にされた男が、嗚咽を漏らしながら一目散に逃げ出
146
した。
﹁アンタ達は逃げなくて良いの?﹂
﹁俺達ぁこれでも黒瀧組の一員だ!
﹁ははっ﹂
﹁何がおかしい!?﹂
恥を晒すくらいなら・・・!﹂
声の主はたまらず笑い出してしまった。なぜなら。
﹁あたしは極悪非道会会長、大東亜悟朗の娘、大東亜朱莉・・・﹂
相手の矮小さに、気づいてしまったからだ。
暗闇から人影が現れ、その人影はいとも簡単に2人の成人男性を
戦闘不能にする。
﹁黒瀧はカタギを巻き込むような教育してんだね。よくわかったよ。
このことはちゃんと伝えておくから﹂
その言葉は恐らく彼らには届かない。だって・・・
︵どう見ても死んでんじゃん・・・︶
多分、死んではないんだろうけれど、流れてる血の量とか半端無
いし、身体が曲がっちゃいけない方向に曲がっている。
﹁貴女、こんな夜中に散歩?﹂
2人の男をノした後、少女はパンパンと手をはたきながら、こち
らに話しかけてくる。
147
﹁違うな。こんな治安の悪いところに散歩に来るような奴は死ねば
いい﹂
﹁じゃあ、死にに?﹂
﹁いつでも死ぬ覚悟はあるが、さしあたって死に急ぐ事情もない﹂
﹁どうしてこんな事に巻き込まれたの?﹂
﹁ムシャクシャしながら歩いてたら、無性に人を殴りたくなった。
特に意味のない暴力ってヤツかな﹂
そう、吐き捨てた瞬間。右頬をすさまじい力でぶたれた。
﹁特に意味のない暴力を受けた感想は?﹂
﹁・・・バカ痛い﹂
お前は夜回り先生か何かか?﹂
﹁じゃあ、もうそういう事、他人にしちゃダメだよ。された方はバ
カ痛いんだから﹂
なんだこれ。
﹁説教のつもりか?
﹁残念、あたしまだ17歳だから教師にはなれない。でも、世直し
をすることくらいはできる﹂
﹁わたしが悪だと?﹂
﹁あたしにはそう見えた﹂
この女、ムカつく。気に入らない。腹が立つ。
でも、なんだろう。
﹁こんな気分になったのは久しぶりだ・・・﹂
自然と、笑いが込み上げてきた。
148
﹁そういう顔してる方がかわいいって﹂
﹁そりゃ不愛想な女より笑っている女の方が気分は良いだろうが﹂
﹁それが分かってるなら、どうしてずっと笑ってないの?﹂
﹁何時も笑ってたらアホに見えるだろ﹂
この女・・・、確か朱莉とか言ったかな。
今の言い合いといい、この女はわたしに一歩も引いて来ない。
妥協や落としどころというものを知らないのか。それともただの
負けず嫌いか。
どっちにしろ、いけ好かない女だ。
そのいけすかない女が、何か体の良いことを言ってこの場から去
ろうとしている。
・・・させるもんか。
なに?﹂
﹁なあ、アンタ﹂
﹁ん?
﹁・・・わたしを買わないか?﹂
ようやく見つけたんだ。
﹁言い値でアンタに売られてやるよ﹂
この世界で唯一、わたしが興味を持った他人を。
◆
﹁いくらなんでもホテルに連れ込まれるとは想定外だったぞ﹂
149
大きなベッドが1つ、部屋の中央にあるだけのホテルに連れてこ
られた。
貴女を連れたままじゃ家には帰れ
休憩とか宿泊とかがあるタイプの。
﹁しょ、しょうがないでしょ!
ちょっとだけ
と言いながら最後までやるタ
ないし、頼りになりそうな人はこの時間みんな寝ちゃってるし!
朱莉は
ひ、一晩だけ!﹂
﹁なんだ?
イプなのか?﹂
﹁そういう事じゃなくて!﹂
取り乱している彼女が面白くて、意地悪をしてみたくなった。
この朱莉という女、こういう色気に対しての耐性が無いのか。
︵まあわたしも、知識だけで経験なんて無いんだが︶
それにしてもまあ、面白そうなのでこの路線を続けよう。
﹁しかし﹂
手元にある福沢諭吉とにらめっこをしながら。
﹁わたしの価値は1万円か。命の価値観の違いで吐きそうだ﹂
﹁この先衣食住には困らないんだから良いでしょ。ご飯は毎日作っ
てあげるし、あたしの部屋なら自由に使っても良いし、お金が欲し
いならあたしのお小遣いから捻・・、出・・・﹂
捻出するのは非常に難しいらしい。残念。
150
﹁朱莉のヒモになる気は無い。わたしは学校へも行くし、将来的に
は定職に就くつもりだ﹂
﹁ってか貴女、名前は?﹂
﹁わたしの持ち主である君が決めれば良い﹂
﹁そういうわけにもいかないでしょ。それとも名前、言いたくない
?﹂
朱莉はまっすぐにこちらを見つめている。
名前を言いたくないのが完全にバレているのは分かった。問題は
それを肯定するか、否定するか。
﹁ひばり。そうだな、わたしは空ひばりだ﹂
自己紹介をして、スカートの裾をちょいとつかみながら頭を下げ
てみる。
朱莉の顔を見ると、眉間にしわを寄せ、疑い以外の意図を感じら
れない表情をしていた。
﹁・・・わかった。貴女はひばりね﹂
絶対に納得はしていないだろうが、彼女はくしゃくしゃと髪をか
き乱しながら自分にそう言い聞かせる。
﹁ずっと気になってたけど、その制服・・・、北高?﹂
﹁ああ。勉強は得意でね﹂
﹁こう言うのもなんだけど、ひばりって超かわいいし、頭良いし、
なんであんなとこであんな事してたの?﹂
﹁逆だな﹂
わたしはベッドに腰を下ろしながら答える。
151
﹁そういうようなものがストレスになって、人生どうでもよくなっ
た。どうでもよくなったから、普段から気に入らないと思っていた
チャライ男を殴った。その結果がさっきのシーンだ﹂
﹁自暴自棄になった、って事?﹂
むむむ、と朱莉は考え込んでしまった。
その間にわたしはスマホを枕元に放り投げ。
﹁そんな事より﹂
そして朱莉の首に手をまわして、そのまま仰向けに、背中からベ
ッドに倒れ込んだ。
﹁早くわたしを抱いてくれ。わたしだって健全な身体を持ってるん
だ。性的興奮に興味が無いって言ったらウソになるんだぜ﹂
﹁ちょ、ちょっと放しなさいよ!﹂
ま
﹁放さない。早くキスしろ。こんな制服破いても良いから。朱莉に
今のひばりは正常な判断が出来てないの!
なら何されても抵抗しないよ﹂
﹁ふざけないで!
ずは落ち着いて・・・﹂
朱莉は顔を真っ赤にさせながら、こちらから目線も顔も逸らして
くる。
﹁君もわたしを必要としてくれないの?﹂
語気を弱め、トーンを落として話しかける。
﹁そ、そういうわけじゃ!﹂
152
﹁わたしが必要ならわたしを使って性欲を満たしてくれ。そうしな
きゃ、持ち主の役に立たないわたしなんて生きている意味も価値も
ない﹂
﹁自分の生きている価値を自分でつけようなんて傲慢だわ﹂
﹁そう、傲慢だ。だからわたしは君に身を売った。君がわたしに生
きる価値をくれると思ったから﹂
こちらから、朱莉から目を逸らす。
段々と彼女の表情に同情や動揺にも似たものが見て取れるように
なった。
﹁そんな君から否定されたらわたしはもう・・・﹂
﹁キ、キスするだけで良い!?﹂
﹁舌入れても怒らないなら﹂
﹁お、怒らないわよ!﹂
朱莉はそのまま、わたしに覆いかぶさると、こちらに何も言わせ
ないまま唇を合わせた。
約束通り舌を入れても彼女は怒らない。
﹁・・・ファーストキスなのに刺激が強すぎるわっ﹂
﹁それはお互い様だ﹂
わたしはそう言って、微笑む。それを見た朱莉は真っ赤になって
いた。
﹁はは、朱莉はかわいいなあ﹂
寝そべりながら、わたしは枕元にあったスマホを手に取る。
153
﹁ここまで簡単に事案を作れるなんてね﹂
﹁えっ・・・?﹂
真っ赤になっていた朱莉の顔に、別の色が落ちた。
﹁わたしはね、警視総監の一人娘なの﹂
さーっと、彼女の顔から赤が引いていく。
﹁警視総監青嶋誠。それが父の名前。でもね、朱莉。わたしはもう
そんなことはどうでもいいの。わたしには朱莉さえ居てくれれば、
その他のことはどうでもいい。でも、わたしは警視総監の娘で、朱
莉は日本最大の暴力団組長の娘。絶対に結ばれることが無い間柄・・
・。だからね、わたし考えたの。どうすれば朱莉と一緒に居られる
例え
んだろうって。だから朱莉に身を売った。今のわたしは空ひばり。
警視総監の娘じゃない。でもね、他人にそれが分かるかな?
ば今の、わたしと朱莉がベロチューしてる映像がこのスマホの中に
あるよね。これを見た人はどう見るかな。警察のトップの娘とヤク
ザのトップの娘がラブホで前戯してるって、そう見えないかな。見
えるよね。それは朱莉にとっても都合が悪いよね。この映像、簡単
にインターネット上に流せるんだよ。それが嫌ならわたしと駆け落
ちして。ねえ、わたしは朱莉のこと、絶対に放さないよ﹂
154
最強のチカラ
﹁歌ちゃん、ただいま﹂
﹁明日香﹂
いつも通りにドアを開ける。すぐに歌ちゃんが反応してくれた。
﹁おお、明日香ちゃん﹂
﹁こんにちわ。歌ちゃん、変わったところはありませんでしたか?﹂
﹁異常はないよ。それじゃあ年寄りはお暇しようかね﹂
歌ちゃんのベッドの隣に座っていた看護師さんが折れた腰を上げ
る。
随分ベテランな看護師さんで、見た目はもうおばあちゃん。一見
したら、この人がベッドで寝てた方が良いんじゃないかと思うくら
いの。
頭を下げて看護師さんを見送る。
誰か来たの?﹂
夕暮れの病室で、2人。いつも通りの時間がやってきた。
﹁これお見舞い?
﹁私は寝てたから会えなかったんだけど、親戚の人が来てたみたい﹂
ベッドの脇に置いてあった果物の詰め合わせを見ながら、やいや
い会話をする。
﹁よし、じゃあリンゴ剥くね。一緒に食べよう﹂
﹁明日香が食べたいだけでしょ?﹂
155
﹁へへ、ばれたか﹂
だって早く食べないと傷んじゃうよ、と真っ赤なリンゴを手に取
る。
リンゴの皮剥きも慣れたものだ。最初のうちは剥いたら不恰好に
なっていたリンゴが、今では赤い皮が一切なく、ほとんど球体の形
に剥けてしまう。
でも、それじゃ面白くない。ただリンゴを剥くだけじゃ楽しくな
い。
﹁じゃーん﹂
﹁わあ﹂
お皿に乗っていたのは6羽のウサギさん。
﹁上手だねー。明日香は何やってもすぐ覚えられるし、上手くなる
んだもん。すごいよ﹂
﹁えへへ、もっと褒めてちょ﹂
そう言いながら、ウサギ型りんごを爪楊枝に刺し。
﹁あーん﹂
と言って、歌ちゃんの口の近くへ持っていく。
﹁あーん﹂
歌ちゃんはぱくっとウサギ型りんごを頬張り、しゃりしゃりと音
を立てながら美味しそうに眉をひそめてくれる。
ああ、そうだ。わたしはこの顔が見たくて、生きてるんだ。
156
リンゴの皮剥きを上手くなろうと思ったのも、ウサギ型の切り方
を覚えたのも、全部歌ちゃんのためなんだよ。前にそう言った事が
あるけれど。
﹁そんな事、知ってるし伝わってきてるよ﹂
と、そう言い返された。
﹁あーん﹂
﹁え、もう2羽目?﹂
﹁あ∼∼ん﹂
まったくわがままなお姫様。
でも、わたしはお姫様の従者になっても良いと思っている。それ
くらい、歌ちゃんの事が好きだから。
﹁それじゃあ、行くね﹂
だからこの瞬間だけは本当に辛い。
病院に面会時間なんてものが無ければいいのに。ここに住んでい
いって言われたら、住むのに。
﹁後は私に任せなさい!﹂
﹁豊田さんは信じられないっ﹂
﹁なんで!?﹂
﹁わたしの歌ちゃんに手を出しそうで・・・﹂
この看護師さんは新人さんで、注射とかする時も何か危なっかし
い。わたしがやった方が上手くやれるんじゃないかと思ってはいる
けど、それは勿論ダメだから・・・。
157
︵もどかしいな︶
歌ちゃんの身の回りのお世話は全部わたしがやりたい。だってお
風呂とか、絶対あの看護師さんじゃ上手くできてないはず。それに
堂々と歌ちゃんの裸見られるし、良いことずくめじゃない。
︵早く大人にならなきゃ︶
その思いは日に日に大きくなってきている。
でも、この間の模試は北高の判定Aだったし、やれることはやれ
るだけやっているはずだ。
わたしの夢は医者になること。
今の医療技術では歌ちゃんの病気は治せない。だから、わたしが
絶対に治して見せる。その為だけに医者になれるように毎日勉強し
てるんだし。
翌日。今日は朝からどんよりと曇天模様で、何か陰鬱な気分にな
ってくる。
︵こういう日は歌ちゃんに会って、歌ちゃん成分を摂取するに限る
!︶
そう思い、病院のエレベーター前でエレベーターを待っていると。
﹁豊田さん、こんにちわ﹂
隣に豊田さんが来たので、頭を下げておく。
158
﹁あ、明日香さん・・・﹂
この時、何か嫌な予感がした。
いつも明るい豊田さんに覇気が無いのが、分かってしまったから
だ。
﹁何かあったんですか?﹂
それでも、聞かないわけにはいかない。
﹁今日ね、住野さんが階段から落ちちゃって﹂
﹁えっ・・・﹂
住野さん。あのおばあちゃん看護師さんだ。
﹁大丈夫だったんですか?﹂
﹁ええ。でも当分歩くことはできないみたい。住野さん、階段から
落ちた時に気絶しちゃってね。その・・・﹂
まるで死んじゃったみたいだった、と。豊田さんは零した。
﹁しかもね、悪いことに・・・。その場を偶々、歌ちゃんが見ちゃ
ってたみたいで﹂
取り乱しこそしなかったものの、精神的に相当なダメージを受け
てしまって、それから今日1日不安定だったらしい、という話を聞
かされた。
病室の前、わたしは一瞬だけ、そこに入るのを躊躇してしまう。
どうやって話しかけたらいいんだろうって。少しだけ、不安にな
る。でも。
159
﹁歌ちゃん、ただいま﹂
わたしに出来るのは、笑顔で、いつも通り歌ちゃんと楽しい時間
を過ごすことだけだ。
﹁明日香・・・﹂
一目見て分かった。確かに、歌ちゃんはかなり疲れてるみたいだ
と。
﹁豊田さんから聞いたよ、住野さんのこと。・・・怖かった?﹂
﹁・・・明日香には隠し事、出来ないなあ﹂
歌ちゃんはうつむきながら、そう呟いた。
﹁住野さんはただ気絶しただけだって、分かってるんだけど。私も
いつか、この病気がこのまま治らなかったら﹂
﹁治らないなんて絶対にありえないよ!﹂
歌ちゃん、わたしね、またテスト
よくない事を言おうとする歌ちゃんの言葉を思い切り遮る。
﹁だって、わたしが治すもん!
で100点取ったんだよ。5科目中、4科目が100点だったの。
わたし、めちゃくちゃ頭良いから。だから、絶対歌ちゃんの病気も
治せるよ﹂
﹁明日香・・・﹂
歌ちゃんはさらに顔をうつむけてしまう。
160
﹁どうしたの歌ちゃんっ。歌ちゃんらしくないよ、そんな弱気なの﹂
﹁明日香がそう言ってくれるのは分かってた。だって、明日香はす
ごく優しいから。だから、私なんかの為に・・・﹂
﹁歌ちゃん!﹂
﹁時々思うの。私、明日香を縛り付けてるんじゃないかって。明日
香は部活とか、お友達と遊びたいのに、勉強なんてしたくないのに、
私のせいで・・・﹂
違う。違うよ。どうしてそんな勘違いするの。
わたしにとっては。
﹁私が明日香の前から居なくなれば・・・﹂
﹁歌ちゃん!!﹂
わたしは歌ちゃんの両頬をばっと掴み、一瞬だけ瞳を見ると。
そのまま押し付けるようにキスをした。
頭が蕩けるくらいの快感に麻痺しないように、ゆっくりと舌を絡
めて、歌ちゃんの口を開かせる。そしてそのまま、時間を忘れるく
らいお互いをむさぼり続けた。
﹁・・・ぁはあ、はあ、はあ、はあぁ・・・﹂
自分の息が絶え絶えになっている事で、歌ちゃんは大丈夫かと、
その時初めて気づいた。
歌ちゃんの顔を見る。
真っ赤な頬にとろんとした目をしていたけど、ちゃんと息はして
る。
・・・良かった。
161
﹁歌ちゃんのこと、殺しちゃったかと思った﹂
半べそをかきながらそう漏らすと。
﹁ふふ・・・っ。何それ﹂
歌ちゃんは、ようやく笑ってくれた。
その瞬間、わたしは天にも昇る気分になる。
歌
そう、この顔。この笑顔を守るためだけに、わたしは生きている
んだ。
﹁ごめんなさい明日香。私、少し混乱してて﹂
﹁ううん。もういいの。辛いことは思い出さなくても﹂
﹁明日香、私には生きる権利があるんだよね﹂
歌ちゃんのその問いに。
﹁権利じゃないよ。歌ちゃんには、生きる義務がある﹂
しっかりと彼女の手を、ぎゅっと握って。
﹁人間には生きる義務しかない。だから、変な事考えないで?
ちゃんはずっとずっと、わたしと一緒に居るんだから﹂
まっすぐに歌ちゃんを見つめて、一つ一つ確認するように言う。
﹁ありがとう、明日香﹂
歌ちゃんは目を瞑って顔を突き出した。わたしはそれに答えて、
重ねるだけのキスをする。
162
・・・今は、これで十分だ。
﹁わたしは、歌ちゃんとずっと一緒に居たい。だから、部活動とか、
友達とか、そういうのはどうでもいいんだ。だってそこには歌ちゃ
んが居ないんだもん。そんなの、興味ないよ﹂
﹁本当?﹂
﹁本当!﹂
﹁ホントに本当?﹂
﹁ホントに本当!﹂
胸を張って、Vサインをする。
歌ちゃんはそれを見て、笑いが堪え切れなくなったようで。
ずっとずっと、笑っていた。
︵何もしなくても歌ちゃんが笑ってくれるなんて︶
︱︱︱わたしは最強の能力を手に入れたみたいだ。
﹁歌ちゃんはあんまりテレビとか漫画とか、見ないと思うんだけど
さ﹂
﹁この病室、テレビ無いしね﹂
歌ちゃんははにかみながら答える。
﹁世の中にはいろんな子が居るんだよ。学生なのに魔女と戦ったり、
宇宙人と戦ったり、空から落ちてきた女の子と生活することになっ
たり、超能力が使えたり、ロボットに乗ったり、戦争に巻き込まれ
たり﹂
﹁うん﹂
﹁でもね。その子たち全員に共通することがあるの﹂
163
﹁共通すること?﹂
頭にはてなマークを浮かべる歌ちゃん。少しだけ歌ちゃんの知ら
ないことを知っているようで、いい気になる。
﹁みんな、学校へ行くんだ﹂
どうして?﹂
だからわたしは、元気いっぱいにそう言った。
﹁学校へ、行く・・・?
﹁それは分かんない。でもね、みんな、絶対学校をやめたりしない
の。みんな学校に通い続けながら、戦ったり、怪我したり、死にか
けたり、悩んだり、泣いたり。でも、絶対に学校へ行き続ける﹂
歌ちゃんは何が何だか分からない、という様子で目をぱちくりと
させながら。
﹁学校って、そんなに楽しいところなの?﹂
気づけばそんな事をこぼしていた。
学校は楽しいよ!﹂
わたしはそれを聞き逃さない。
﹁もちろん!!
そして、重ねていた歌ちゃんの手、その指と指との間に、わたし
の指を絡めるように入れる。
﹁それに、わたしが居るもん。歌ちゃんの通う学校は、それよりず
っとずっと、ずっと楽しい!﹂
﹁・・・!﹂
164
歌ちゃんの顔が、今よりもっと赤くなった。
﹁そうだね。楽しい学校に、明日香が居たら、楽しくないわけがな
い。私も、学校通えるかな﹂
﹁当たり前だよ!﹂
叫ぶように言うと、歌ちゃんはまたお腹を抱えて笑ってくれた。
うん。わたしの能力は、間違いなく最強だ。
165
或る百合の群青
﹁あー。あたし、何やってんだろ・・・﹂
だいぶ弱くなってきたとはいえ、初秋の陽射しはキツイ。ジリジ
リと弱弱弱火で焼かれているようだ。
分厚い作業服に帽子を被り軍手をしているので焼かれると言って
も顔まわりの肌くらいのものなのだが、それでも自分の顔が焦げて
いくと思うとあまり良い気分ではなかった。
︵ホント、何やってんだかねぇ・・・︶
華の17歳の思春期終盤少女が炎天下でひたすら草むしりと言う
のは、もやしだ軟弱だと、いわれのない非難を浴びている現代の若
者像にはまったく当てはまっていない。
夏が終わってこれから枯れていくだけの青い雑草を掴み、むしり
取る。これだけの作業だ。
だけど、直射日光と温度と、そして単純作業からくる飽きがあた
しの首を絞めて仕方が無かった。
でも。
自業自得だと言われればそれまで。
ここは俗に言う﹃少年院﹄。犯罪をやってしまった未成年がぶち
込まれる、塀の中なのだから。
︵また色の薄い食事だな︶
ここに来てからと言うもの、味の濃いものを食べた覚えが無い。
166
こういうのを﹁しょーじんりょーり﹂と言うんだろうか。出家す
る修行僧が食うような食事を毎日毎日出されれば、こう思うのも仕
方がない。
外に居た頃は、夏は水と塩分だ!とバカみたいに連呼された覚え
があるのに、これは塩分が明らかに足りてなくないか。それとも、
こんなところに居る輩は熱中症で死んでも構わないのか。
﹁あーねきっ﹂
怖い顔
を思いっきり披露
その時、随分とフレンドリーに声をかけられた。
﹁あ゛ぁ?﹂
瞬時にそれが癪に障り、昔特訓した
する。
﹁おー、怖っ。隣いいッスか?﹂
振り向いた先に居たのは嫌味なくらいニコニコの作り笑いを浮か
べた女だった。背格好は同じくらい、年齢も多分そう違わない。
なんか、こういうの居たな昔。誰にでも良い顔して取り入ろうと
する太鼓持ち。悪の組織の幹部ヅラ。
その女はあたしの隣にズカッと座り、自分の夕食を摂りはじめる。
﹁いやあ、ウチ、実は新入りで。みなさんに聞いたらここのボスは
姉貴だって言うんで、ご挨拶に来ましたッス﹂
﹁はあ?﹂
﹁ウチは前田というチンケな輩ッス。以後、お見知りおきを﹂
﹁聞いてねーし﹂
167
なんだこいつ。言いようのない気持ち悪さを感じたあたしは残っ
ていた食事を全て口に入れると。
﹁もう二度と話しかけんな。ぶち殺されてーのか﹂
﹁やだなあ。ここでそれやったら隔離施設行きッスよ﹂
なめくさりやがって。
これで未成年とか犯罪ッスよ!﹂
いつか絶対ぶん殴る。そう誓いながら、あたしはその場を去った。
﹁うわっ、姉貴、身体エロっ!
だから人がゆっくりシャワーを浴びていたところに、そんな台詞
が飛んできたのには我慢できなかった。
﹁てめえ、ぶち殺﹂
彼女に目をやったその瞬間。ひと時だけ、言葉が止まる。
︵︱︱︱ッ!︶
刺し傷・・・じゃねぇし︶
その左腹部にある、えげつない大きさの傷跡を見てしまったから
だ。
︵なんだこれ?
まるで腹に穴が空いて、それを無理矢理ふさいだかのような禍々
しい傷痕。
どう考えても、普通の女の子の腹にこんなものがあるはずがなか
った。
168
﹁いやん。姉貴がウチの裸体を凝視してるッスー﹂
﹁はあ!?﹂
﹁姉貴ぃ、こんなムショで悶々としてないッスかぁ?﹂
意識が傷痕にいっていた一瞬の間に、彼女の両手はあたしの両手
首をしっかりと掴んでいた。万歳のように手を挙げられ、そのまま
シャワー室のタイル壁に背中から押し付けられる。
﹁ウチ、スタイルには自信あるんスよぉ﹂
その言葉と共に、今まで意識していなかった腹部の上下に視線が
いく。
確かに・・・。
﹁いやいや確かにじゃねぇし!!﹂
そう言葉に出して、ぶんぶんと顔を振った。
﹁今夜、どうッスか一発だけ。後腐れないワンナイトラブ・・・﹂
姉貴、ノンケなんスか?﹂
﹁あ、あたしはそっちの趣味はねえ!!﹂
﹁え?
前田が一瞬だけ引いたその瞬間、あたしは彼女を突き飛ばして脱
衣所へ走って行った。
あいつはヤバイ。ヤバすぎる。色々こじらせすぎてる。
そりゃ少年院なんてこじらせてる連中しか居ない施設だけど、そ
の中でもあいつの異常性は半端無い。あたしは恐怖にも似た感情を
覚えていた。
169
その夜。
壁ドン
。
悪いことが起きる時はトコトンまで悪いことが起きる。
なかなか寝付けず、本当に悶々としてきた。
︵あー、ムシャクシャするぅ・・・っ!︶
こういう時はアレだ。壁ドンに限る。
あたしの考案した画期的なストレス解消方法
壁を思いきり蹴飛ばす事でストレスが解消されるというシンプル
かつ効果的な方法だ。左隣の部屋の女は年下で更に気が弱い。だか
らそいつの部屋と接している壁を蹴れば何も問題が起きず、ストレ
スだけが解消される。
・・・はずだったのに。
部屋と部屋を仕切っていたコンクリの壁がガラガラと崩れた時は、
さすがに腰を抜かしそうになった。
﹁あれ、姉貴じゃないッスか﹂
しかも左隣の部屋の住人がすっかり入れ替わっていることに全く
気づいていなかったのだ。
﹁お前、次やったら例の部屋行きだからな。あと壊した壁の代金は
そんな殺生な!﹂
全額弁償だバカヤロー﹂
﹁ええ!?
壁の代金は請求されたが、看守に2時間説教を食らってとりあえ
ず今日は許してもらえた。
ふらふらと重い足取りで部屋に帰る。そこにあったのは崩れた壁、
170
崩れたコンクリの破片が残っている部屋。そして。
﹁ふぁああ・・・。姉貴、お勤めご苦労さんッス﹂
壁が崩壊したせいで隣から侵入してきた異常者だった。
彼女は大きなあくびをして、上半身だけ布団から身体を起こしな
がらあたしに手を振った。
﹁なんなんだよお前・・・﹂
﹁?﹂
﹁お前に会ってから調子が狂いっぱなしだ。どうしてくれんだよ﹂
ぽかんと空を見上げる彼女とは対照的に、あたしはへなへなと部
屋のフローリングに腰から崩れ落ちた。
﹁おお、強キャラの姉貴がデレた﹂
﹁誰がデレただ。ダルいだけだよバーカ﹂
力なく言って、仰向けになる。暗い天井が、あたしの頭上には広
がっていた。
鉛色の空を見つめていたら、自然と言葉が漏れてくる。
﹁なあ、お前、なんで少年院なんか入ったんだよ﹂
﹁へ?﹂
前田の素っ頓狂な声が聞こえてきた。
﹁お、おお。ウチに興味持ってくれたんスか?﹂
﹁寝られねぇから暇潰ししてるだけ。他意はねーよ﹂
171
あたしは天井に手を翳す。
﹁ただ、風呂で見たお前の傷・・・ありゃどう見ても尋常じゃなか
った。なんなんだあの傷は﹂
眠れないから暇つぶしに聞くレベルの事じゃないのは分かってる
つもりだ。
だけど、あたしは不思議とこいつに興味を持った。
その結果、口から出てきた言葉がそれだったんだ。
﹁・・・実は、前田ってのは偽名でして﹂
﹁ムショで偽名使ってんのかよ﹂
あたしは笑い飛ばしたつもりだった。
﹁ウチはある一族に生まれたんス。信じられないかもしれないッス
けど、その家は一族内で殺し合いが未だ続いているような時代錯誤
実の兄に、ら
な家で・・・。ウチは小さい頃に父親を亡くしてるんス。顔も覚え
てない父親ッスけどね。誰に殺されたと思います?
これはどっちだ。そんなわけあるか、と突っ込めばい
しいんスよこれが﹂
なんだ?
いのか。
﹁ウチもその血みどろの殺し合いに巻き込まれて、その結果がこれ
鉄柱くらいの。あれが腹に刺さったらさすがに痛いッス﹂
ッス。いやあ、しんどかったなさすがに。コンクリの柱って分かり
ます?
でも、どうしてだろう。
彼女の言葉には、リアリティがあった。
172
﹁血は出てくるし、意識はすぐに遠のくし、それから数日間は三途
の川を行ったり来たり。死んだ父親が対岸で手を振ってるかと思い
きや、顔を覚えてないからなんでしょうねえ。そんな事なくて﹂
そこから明らかに、彼女の声のトーンが低くなる。
﹁ただ、死ぬのが怖かった。それだけなんスよ﹂
彼女は声を震わせながら言う。泣いてるのか、その区別すら分か
らないほど弱弱しい声。
あたしは起き上がった。
そして、すぐ傍で布団にくるまりながら体操座りで泣いていた彼
女を、後ろからぎゅっと抱きしめる。
﹁あね、き・・・?﹂
﹁悪い。怖いこと思い出させた。安心しろ、アンタは生きてる。あ
たしの体温・・・分かるだろ﹂
大粒の涙で濡れていた彼女の両手を掴んで、自らの手と絡ませた。
﹁あたしもホントの事話すよ。あたしがここに来たのは、妹の代わ
りなんだ﹂
今は誰も起きていない時間だ。この子だけに、真実を明かす。
﹁妹はあたしよりずっとずっと出来た子だった。昔から天才の妹と、
出来の悪いあたしはよく比べられて、笑われたりなんかしてさ。で
も、あたしはそれでいいと思ってたんだ﹂
173
﹁姉貴・・・﹂
﹁だけど、そんな妹がおふくろに手を挙げてさ、当たり所が悪くて
そのまんまサヨナラだ。妹はホントに錯乱してて。そんな妹を、見
てられなくて・・・﹂
あたしは一つ、息を吐く。
﹁だから、あたしが妹の罪を被ることにした。こんなポンコツが出
来るのなんて、それくらいだったから。あたしは家庭裁判所に送ら
れて、妹は一流大学に進学。随分立場が変わっちまったけど、妹が
幸せならあたしは何でも良いんだ﹂
﹁あ、あの・・・﹂
前田︵仮名︶はしばらく絶句していると。
﹁ガチのシスコンじゃないッスか﹂
と、それだけぽつりと呟く。
そして。あたしは次の瞬間、名前も知らない女の子を押し倒して
いた。
﹁そうだよ。だから正直、姉貴とか言われるとたまんねぇんだよ﹂
背中に冷たいものが伝った感覚がした後、全身が震えてゾクゾク
する。
﹁あ、姉貴っ。ちょっと落ち着いて欲しいッス。ウチ、女でして。
姉貴も女、でしょ?﹂
﹁だからなんだよ﹂
174
姉貴
じゃなくて
お姉ちゃん
この一言で、彼女の表情から余裕と不敵な笑みが消えた。
﹁あとこれからあたしの事は
呼ぶようにっ!﹂
と
﹁ははっ・・・、これもう諦めないとダメなパターンみたいッスね・
・・﹂
気づくとあたしはこの夜だけでいろんな性癖の扉を開けまくって
しまっていた。
・・・シャバがかなり遠のいたのを、明確に感じたほどに。
175
やさしい人形の使い方
小さな国があった。
資源に恵まれなかったその国は、技術を磨くことで己が価値を見
出していた。
しかし、国力で圧倒的に劣るその国を巡って大国が戦争を始める
のにそう時間はかからなかった。
わたしが生まれたのは、そんな小さな国の王都。
﹁少尉は王都から出られるのは初めてですか?﹂
﹁あ、はい﹂
﹁王都は我々辺境の住民にとっては憧れの土地です。この辺りの村
はひどかったでしょう﹂
﹁い、いえ。そんな事は・・・﹂
嘘が苦手な方だ、と笑われてしまった。
﹁こちらです﹂
通されたのは格納庫だった。暗く、1m先も見ることができない。
﹁ここに我が軍が開発した新型兵器があるんですよね?﹂
目を凝らしながら、ここまで案内してくれた技術士官を呼ぶ。
その直後、暗闇に光が差した。視界が開けていく。
﹁えっ・・・﹂
176
そこにあったのは、まだ成人もしていないような、それこそ自分
と同じ年齢ほどの少女たちだった。
普通の人間と違うところがあるとすれば、全員が全員、彼女たち
のか細い腕にまったく相応しくない、最新魔導兵器を所持している。
﹁な、なんですか、この子たち・・・っ﹂
異様な光景に、吐き気がしてきた。
﹁彼女たちは人形です﹂
﹁人形・・・?﹂
﹁地方のとある街に大犯罪者が居まして。その者は彼女たちのよう
な未成年の女性をただ嬲り殺していたそうです。何十人、何百人と﹂
なにそれ。そんな話、聞いたことが無い。
﹁でしょうな。王都にそんな噂は絶対に流れない。ですが、事実で
す﹂
﹁それと、この女の子たちに何の繋がりがあるんですか!?﹂
﹁この人形は殺された彼女たちの死体を利用して作ったものです。
頭に生体CPUを埋め込み、全身の強度とパワーを最大まで強化、
その他皮膚を防腐、再生させ機械化した決戦兵器・・・﹂
そんなことが許されると
その言葉を聞いて、わたしは彼につかみかかった。
﹁死体を使って兵器を作った・・・!?
思ってるんですか!﹂
﹁我が国に綺麗ごとを言っていられる余裕は最早ないのです!﹂
177
だけど、すぐに跳ね飛ばされて。
﹁もう国境線には白の国が大部隊を展開させている。連中の侵入を
許したら、今度は黒の国が黙っていない。そうなればこの国はおし
まいです!﹂
﹁だからって!﹂
﹁生きている国民を守るために死んだ者を利用するだけです。効率
の良い運用方法でしょう!﹂
わたしはここで、遂にキレた。
﹁命をなんだと思ってるんですか!!﹂
彼につかみかかろうとした、その瞬間。
わたしの頭の横を弾丸がかすった。
見ると、女の子のうちの1人が、構えた銃口をこちらに向けてい
る。
恐怖のあまり尻もちをつくと、技術士官がわたしを見下げる。
﹁あなたの役目はこの人形のうち、3割を王都に持ち帰る事だ。さ
っさと手続きを済ましておかえりいただこう﹂
わたしは何も言い返せなかった。
恐らくこれ以上暴れたら、あの子に殺される。その予感は外れな
いと言う自信があった。
﹁・・・選定に時間をいただきます。明日の夜明けまでには済ませ
ますので﹂
178
彼を追い返し、何百人という人形と向かい合う。
︵何が決戦兵器よ。こんなの、生物兵器以外の何物でもない︶
一度死んだその亡骸に、機械を埋め込んで動かしているなんて、
そんなことが国外にバレたら確実にこの国は潰される。
でも、彼が言うにはそれをしなくてもこの国はそのうち白の国と
黒の国に吸収されるという。
どうせ死ぬなら最後の抵抗に、という考えなんだろうけど。
﹁この子達が、可哀想すぎる・・・﹂
彼女たちの一覧表が映っているタブレット端末に、大粒の涙が落
ちた。
﹁ようやく土に還られるって安心しただろうに。無理矢理動かされ
て、戦わせられるなんて・・・﹂
死んだ時だって恐怖と痛みの中、命を失ったはず。
それをもう1回動かそうなんて、こんなの絶対間違っている。こ
んなのが正しいわけがない。
わたしが泣きじゃくっていたその時。背中に何かが当たった。
冷たい。冷たいのに、柔らかい。その何かが、わたしの背中をさ
すり始めた。
﹁えっ・・・﹂
恐る恐る振り返る。そこに居たのは。
179
﹁だい、じょう・・・ぶ、ですか?﹂
何百人と居る﹃人形﹄の女の子、その中の1人だった。
﹁どうして・・・?﹂
﹁どうして、と、は?﹂
﹁どうしてわたしの背中をさすってくれるの?﹂
﹁じょうかん、のメンタルケア、は、ワタシのヤクメ、ですから・・
・﹂
たどたどしい口調だ。
でも、確かにこの子は喋っている。1度死んで、機械の脳が詰め
込んであるだけの彼女が。
﹁大丈夫よ。ありがとう﹂
無理矢理な笑顔を作って精一杯の強がりを言う。
﹁ウソ、ですね﹂
﹁えっ・・・﹂
﹁すうち、が、異常を示しています。今のは、ウソ、です。ちがい、
ますか?﹂
わたしは顔を横に振った。確かに、今のは100%嘘だった。そ
れは当たっている。
問題は、どうしてそれが分かったか、だ。
﹁ワタシは、メンタルケア担当。ニンゲンの、気持ちを、正確にく
み取れるよう、作られ、ていますから﹂
180
驚いた。人工知能の技術がここまで進んでいたなんて。
他の子たちも、ちゃんと話をすれば普通の人間のように答えてく
れるのだろうか。そんなことが頭を過ぎったが。
﹁ありがとう。わたしは選定の作業に戻るから、貴女もゆっくり休
んでいて﹂
﹁それは、メイレイ、ですか?﹂
﹁ううん。提案だよ﹂
とにかく今はわたしに課せられた役目を行おう。あの彼の言うこ
とが本当なら、一刻でも早く王都に戻らなければならない。
﹁少尉、どの、の、メンタルに異常を、検知。疲れていません、か
?﹂
﹁え、ああ。そういえば﹂
ここには馬車で来たし、こんな夜更けなのに明日の明朝にはここ
を出なければならない。疲れていないと言えば嘘になる。
﹁疲れ、とりたい、ですか?﹂
﹁そりゃ取れるなら取りたいけど、わたし今日は眠れそうにないの。
ごめんね﹂
選定の作業に戻ろうとした瞬間。
﹁失礼、します﹂
﹁︱︱︱!?﹂
彼女はわたしの唇に唇をつけると、そのまま舌を入れてきた。
あまりの事に絶句してしまい、何も出来ない。
181
だけど、彼女が舌を入れたのは一瞬。すぐに唇を離し、顔色一つ
変えないでこちらを見上げていた。
﹁な、な、な、ナニスンノ!?﹂
思わずわたしが彼女のような喋り方になってしまう。
﹁疲労回復プログラム、を、口内に生成し、それを、少尉どの、に、
移しました﹂
﹁なんでいきなりキスなんて・・・って、ええ!?﹂
彼女の落ち着いた声も相まってか、急速に頭の中が冷静になって
いくのが分かった。今の今まで重かった瞼が急に軽く感じるように
なり、なんだか視界がクリアに見える。
﹁これ、貴女が?﹂
﹁メンタルケア、を、実行しました﹂
嘘でしょ。これほど高度な質のメンタルケアは投薬では不可能な
レベルだ。
︵この子・・・︶
正直、人間に魔導兵器を移植して機械の脳でコントロールするな
んて絶対に不可能だと思っていた。だけど、こうも彼女の有能性を
見せつけられると、信じざるを得なくなる。
﹁ありがとう。おかげでとってもいい気分よ。あなた、優しいのね﹂
﹁やさし、い・・・?﹂
182
女の子の頭をなでると、訳が分からないと言ったように小首を傾
げる。
﹁やさしいって、ナンデスカ?﹂
﹁また今度教えてあげる﹂
そう言ってほほ笑む。
正直な事を言うと、優しいを優しい以外の表現方法でなんと言う
か分からなかったから、お茶を濁したのだ。今度、辞書を引いてお
こう。
彼女に疲れを取ってもらったからか、それからの作業の捗ること
捗ること。
作業はすぐに終わり、日の出と共に基地を出る。
︵・・・また今度教えてあげる、だって︶
我ながら白々しい嘘をついたものだ。
・・・彼女をあの基地に置き去りにしておいておきながら。
出来ることならあの子も王都に連れて帰りたかった。わたしにそ
の権利があるなら絶対に持ち帰ってきている。
でも、これは軍の命令だ。私情を挟むことなんてあってはならな
い。
ちゃんと選考を行った結果、王都に必要なのは拠点防衛の機能を
持つ子だという結論に至った。彼女のメンタルケア能力は、このよ
うな最前線の基地で活かされるだろう。
︵・・・︶
183
気分が落ち込んで、ブルーになる。
あの子、名前も知らないあの子がメンタルケアを行う際は、さっ
きみたいにキスして、相手の口内にプログラムを流し込むことにな
る。そう、ケアが必要な患者なら、誰にだって。
それを思うと胸が締め付けられた。こんなのわたしのワガママだ。
あの子はわたしの私物じゃないし、本来の使い方はそういうものな
んだ。わたしも多く居る患者のうちの1人だった、だけのこと。
それでも彼女の顔を思い出すたびに、胸が痛んだ。苦しい。
﹁メンタルに、異常を、検知、しました﹂
そう、こういう時こそ彼女のメンタルケア能力が必要なのに。
﹁って、えええぇ!?﹂
その彼女が、隣に居る!
わたしは驚きすぎて、頭を思い切り馬車の壁にぶつけてしまう。
﹁いだい・・・っ﹂
﹁外傷、は、どうしようもありません﹂
彼女は困ったようにこちらを見つめる。
﹁あ、貴女、なんで!?﹂
この子は王都に持ち帰るリストに入っていない。それは間違いな
い。
184
﹁気づいたら、荷物に紛れ込んで、いました﹂
﹁どういう事・・・!?﹂
﹁少尉どのと、離れるのは、苦しい。そう、思ったからです﹂
﹁・・・!﹂
そうか、わたしは忘れていた。
この子は機械じゃない。元は遺体・・・人間なんだ。
人間ならもちろん感情がある。この子の中に、わたしと離れたく
ないという強い想いが芽生えたから。
だから、あの基地から逃げてきたんだ。
︵この子たちは多分、軍規なんて知らない。だから、何のためらい
もなく・・・︶
敵前逃亡なんてことが出来た。そりゃあそうだ。この子の頭の中
に、ルールなんて無いんだから。
わたしは彼女の瞳を見つめる。恐らく生身の眼球ではない、機械
で作られた眼を。
﹁わたしもだよ。わたしも、貴女と別れるのが嫌だった。だから、﹂
彼女の細い身体をぎゅっと抱きしめながら、わたしは言う。
﹁ありがとう。これからはずっと、一緒だよ・・・﹂
185
それでも世界はむずかしい
教室4分の1ほどの小さな部屋で、2人きり。
放課後の雑踏が遠く聞こえ、夕日が差す室内はのんびりとした空
気で溢れていた。
なに∼?﹂
﹁リオ、良い機会なので言っておきたいことがあるんですが﹂
﹁ん∼?
部屋の雰囲気に負けないくらい間延びした返事が来る。テーブル
を挟んで正面に座っている少女は、今もゆっくりと湯呑をすすって
いた。
﹁なに、じゃありませんよ﹂
だけど今日という今日は言っておかなければならない。
﹁いつになったら最初の参加者と戦うんですか!﹂
私はバン、と両手でテーブルを叩きつける。
﹁まあまあ。おせんべ食べる?﹂
﹁食べません!﹂
煎餅の袋を持ち上げてこちらに見せたかと思いきや、袋を触って
食べたくなったのか煎餅を一つ取り出して一口食べ始めてしまう。
お分かりいただけただろうか。そう、この人と私は。
186
︵致命的に会話が食い合わない・・・︶
言葉のキャッチボールをしようにも、彼女はグローブを付けてい
ないどころか起き上がってもくれないのだ。
リオは学校内でもかなりの有名人。それもあまり良い方向の有名
になり方ではなく、屈指の﹃不思議ちゃん﹄として。物珍しさに、
未だに他のクラスから我が教室まで見物客が来るほどだ。
だけど、私だって今までただ彼女に引っ張りまわされてきたわけ
じゃない。
︵今日こそは、彼女を私のペースに持ち込んでみせる︱︱︱︶
私は一つ、咳払いをして。
﹁リオ。実は私に先日、とある物が届きまして﹂
﹁へー。クリスマスプレゼントぉ?﹂
ガン無視する。ここで何か言ったら彼女のペースに巻き込まれて
しまうから。
﹁これを見てください﹂
・・・﹂
今週末までに参加者を1人、倒せなければ参加者としての資格
私のスマホに届いたメールを見せる。
﹁
をはく奪する
読んでる。ちゃんと読んでくれてる。
187
実はこのメールは狂言・・・、私が書いたものを別のメールサー
ビスから私のメールアドレスへ送信しただけ。
確かに主を騙してやましい気持ちがないかと言えば嘘になる。で
も、この人にはこれくらいの荒療治が必要なんだ。
﹁参加者でなくなると言うことは、私はもう人間界には居られなく
なるんですよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁そうです!﹂
これでどうだ。
リオは決して薄情な人間ではない。そして、この工作が見破れる
ほど勘が鋭くもない!
﹁困ったなあ。今日はこれから行かなくちゃいけないところがある
のに・・・﹂
﹁え?﹂
初耳。まったく知らない事実だった。
﹁な、なんですかそれは?﹂
﹁実はねぇ。これ貰っちゃって﹂
彼女は鞄を持ち上げると、それを逆さにして鞄の中身を全てテー
ブルにぶちまける。
﹁あれ、どこだっけ?﹂
・・・にも関わらず、目的のものが無かったようで。
188
﹁どんなものなんですか?﹂
﹁えっとね、これくらいの白い封筒で・・・﹂
リオは胸の前で必死にその封筒の長さを表現しようとしているの
だが。
︵円形の・・・封筒・・・?︶
どちらのパターンか考える。
その一、リオは四角形の封筒を丸だと思い込んでいる。その二、
ノートに挟まってないですか?﹂
実は封筒ではなく何かしらの丸いものを貰った。
﹁どれですか?
片っ端からリオの持ち物を隅から隅まで調べまくる。こうなると
もう、どれだけ根気があるかの勝負になってくるのは分かっていた。
分かっていたが。
﹁あ、ごめん手紙じゃなくてメールだった﹂
・・・さすがに予想の斜め上過ぎた。
﹁リオ・・・!﹂
﹁ごめんね、後で埋め合わせはするから﹂
﹁いいからそれを見せてくださいっ﹂
私は彼女からスマホを無理矢理奪い取った。そこには確かにメー
ルが表示されている。
よかった。ホントはネット記事を見ただけ、という可能性も覚悟
していただけに嬉しい。
189
﹁送信先・・・これは、ユーコですか?﹂
﹁うん。そだよー﹂
リオはそう言って急須からお茶を汲み、湯呑を持ち上げる。私は
好きです。付き合ってください。OKなら放課後、体育館裏に
それを無視してメールを読んだ。
﹁
・・・﹂
そこまで言って、私の頭から煙が出た。
﹁な、なんですかこれは!!﹂
思わず大きな声で叫んでしまう。
﹁愛の告白かなぁ?﹂
なんでそれは分かるんだ!
﹁へ、返事は・・・﹂
そこまで言って、言葉に詰まる。
良いのか、その先を聞いてしまって。もし、リオが﹁Yes﹂の
返事をしてしまったら。
私は、それを受け止められることが出来るだろうか。
﹁?﹂
リオは不思議そうな顔をして立ち上がった私を見上げてきた。
190
﹁こ、これは罠です!!﹂
気づくとそんな言葉が口から出てくる。
﹁ユーコは参加者、これはリオを貶めるための罠です!﹂
いつも一緒に行動していたのはリオを監
思えばあの女はおかしかった。いつもリオにべたべ
﹁そうかなあ?﹂
﹁そうです!
たしてたのも全て演出!
視するためだったんです!﹂
﹁考え過ぎだと思うけど・・・﹂
﹁あなたが考えなさすぎなんですよ!﹂
ユーコはこれでリオをはめたつもりなんだろうが、そうは問屋が
卸さない。
私はリオの守護者・・・。絶対に彼女を守ってみせる。
﹁いきましょう、体育館裏に・・・﹂
そう言ってリオを囃し立てようとしたが。
﹁あ、もしもし悠子?﹂
とんでもない事をしていたリオから、スマホを取り上げる。
﹁何やってるんですかあなたは!﹂
﹁罠かなって、直接聞こうと・・・﹂
﹁それはダメです!!﹂
まったく。そんな事をしたら真偽のほどが知られてしまう。それ
191
では私が困る。リオは私の・・・。
︵あれ︶
そこまで考えて、思考を一時停止させる。
︵なんか、当初の目的から逸れてきたような・・・︶
◆
﹁悠子、ごめんね遅れた﹂
告白の場にはリオ1人で行かせることにした。向こうが1人で来
ている以上、私が一緒に行くべきではないと判断したからだ。
もちろんリオに危険が無いよう、体育館の外壁に姿を隠しながら
監視はしている。
︵結局、また空回り・・・︶
いつもそうだ。
私ばっかり本気になって、リオのペースに巻き込まれる。
リオに悪気はない。そんな事分かっているつもりだ。でも、それ
でも。
︵ちゃんと話くらい、したい・・・︶
結局リオは、自分の面倒を見てくれる人なら誰でもいいんじゃな
192
いか。
たとえ私が彼女を守らなくても、ユーコがリオを守ってくれる。
そもそも私が人間界に来たのも、数か月前の話。それまで彼女は、
やっぱり他の誰かに頼って生きてきたんだろう。
その役割が、たまたま私のところにまわってきただけで・・・。
︵そもそも、こんな事を考える意味があるのか・・・︶
わたしは悠子とは付き合えません!﹂
どんどん気分が落ち込んできた、その時。
﹁ごめんなさい!
今まで聞いたことの無いほど大きな音量の、リオの声が聞こえて
きた。
﹁・・・に、好きな人が居て、それで、ごめん﹂
こんなことに精霊の能力を使うべきじゃない。でも、それでも。
気づくと私は、息をひそめて耳を澄ましていた。
﹁放っておけないんだもん。いっつも落ち着きがなくて、いそいそ
してるし、あと、なんかいろいろ考えこんじゃって、考え過ぎなの
がよくないっていうか、うーん﹂
黙って、リオの言葉に耳を傾ける。
﹁あの子には、わたしが着いてなきゃって、そう思ってたらなんか
ね・・・好きになっちゃった﹂
その瞬間、自分の心臓が跳ねたのが分かった。
193
﹁どうしてだろ、今までずっと・・・こんな風に感じたことなかっ
たのに﹂
ああ、そうか。なんで気づかなかったんだろう。
リオとは何から何まで正反対だと思っていた。
正反対の位置に居るから、彼女は私の事なんて理解してくれてい
ないんだと。
﹁ううん。全然。これからも良い友達で居ようねぇ。あ、急に話し
かけないようになるとかイヤだよー﹂
それは些細な誤解。だけど、あのままでは埋まらない大きな溝に
なるところだった。
︵言葉にしなければ、伝わらない︶
人間だろうと、精霊だろうと、それは一緒だ。
恥ずかしいし、リオにこの話をするのには相当な時間を要するだ
ろう。
でも、どれだけ時間がかかったとしても。ちゃんと話せば、私の
真意は伝わるはずだ。
だって。
︵今、こうして。私がリオの気持ちを理解できている︶
それが何よりもの証明だ。
194
﹁結局断っちゃったぁ﹂
戻ってきたリオは、そんなことをあっけらかんと言ういつものリ
オに戻っていた。
学校からの帰り道。すっかり冬になり、まだ夕方の5時過ぎだと
いうのに辺りは真っ暗だ。
私はリオの手をしっかりと繋いで夜道を2人で歩いていた。
︵手を放したら、転んでしまいそう︶
そんな単純な理由。でも、大切な理由。
﹁あ、結局あれはいいの?﹂
﹁あれ?﹂
何のことか分からず、首をかしげる。
﹁あれと言えばあれだよ。あの、えと・・・週末までに何とかしな
きゃダメ!ってヤツ!!﹂
リオは繋いでいた手を挙げ、万歳をするようなジェスチャーを取
る。
ジェスチャーの意味はまるで分からなかったが。
そなの?﹂
﹁それなら、大丈夫になりました﹂
﹁え?
︱︱︱こんな嘘を、リオは信じてしまう。
195
褒めて遣わす∼﹂
﹁リオがコクられてる間に、私が1人、倒しておきました﹂
﹁さすがわたしの精霊!
﹁もうっ、何様のつもりですか﹂
急な上からの態度に、自然と笑みがこぼれた。
︱︱︱だから、これからもずっと、私が着いていてあげなきゃ。
︵ま、ホントは、︶
隣に居るリオに目を移す。
︵私がこの人に首ったけなだけなんですよね︶
196
人生効率厨︵イージーモード︶
気づけば人生、どうしたら効率良く生きられるのかという事を考
えるようになっていた。
周りから聞こえてくるのは世知辛い世の中、生きにくい人生、こ
んなはずじゃなかった、もう1回人生をやり直せるならこんな生き
方はしないという趣旨のものばかり。
・・・わたしはそうはなりたくない。だったらどうするのが最善
なのか。
答えは存外簡単に出た。効率の良い生き方をすればいい。
1に効率2に効率、3・4が効率、5に損得。そう考えれば何を
すれば効率がいいのか、その道が見えてくる。
とにかく自分に損になることはしない。同時に大きなデメリット
が伴うメリットも捨てる。
すべてはローリスク・ローリターンの為。そうやって生きていけ
ば自分の人生に後悔することも、進みづらい道を歩むこともない。
そんな味気のない人生を送ってきたわたしも、高校生になった。
︵地元じゃそこそこの県立高校か・・・︶
効率を考えて勉強していったらこの高校にたどり着いた。ここ自
体は毒にも薬にもならない学力レベルの位置。
だけど、それでいい。
わたしは勉強漬けで一流大学に入るつもりも、部活で全国大会へ
197
進むつもりもない。
ただ、この﹁高校3年間﹂を通り過ぎられればそれでいいのだ。
そうやって人生を消化していけば、少なくとも下らない結果や後
悔をすることもないのだから。
﹁風野さん、あの子の事どう思う?﹂
﹁別に何とも思ってないよ。みんなと居るのが楽しいから﹂
﹁やっぱそうだよね。あいつ最近さぁ・・・﹂
人間関係でモメるとか本当に勘弁蒙りたい。
自分の意見なんて出さない。とはいえ誰にでも良い顔をしてはい
けない。損得で笑顔と侮蔑の切り替えを行う。そしてそれが絶対に
バレることが無いように。
﹁好きな人とか居ないの?﹂
﹁別の高校に行っちゃってさ、最近連絡取れて無くて、わたしより
かわいい子見つけたのかな﹂
﹁既読無視状態なの?﹂
﹁あ、バレた?﹂
なんて言って、笑う。自分の嘘を。
何が好きな人だ。そんなもん居るわけないでしょ。
人間関係の中で1番危険なのが恋愛絡み。そんなものに飛び込む
なんて馬鹿がやることだ。
嘘をつき、架空の人物について話して、自分を少し卑下して笑う。
こうやっていればわたしに悪い感情を持つ人が少なくて済む。そ
の方が、効率が良い。
﹁かがみちゃんって、ウソ上手だよね﹂
198
だから高校で新しく知り合った仲が良くもないクラスメイトにあ
る日突然こんな事を言われても、深くは考えなかった。
﹁ウソって?﹂
﹁うーん。なんていうかな。嘘の盾で自分を守ってるって言うか﹂
面白い事を言う、と思った。
確かに的を射ている。わたしの嘘にはトゲ・・・攻撃性が無い。
自分以外には利が無いウソ。攻撃力0で防御力の高いウソだ。
﹁頭が良いんだね。わたしは難しいこと、分からないから﹂
だから、彼女・・・確か大橋さんと言ったかな、には近づかない
方が良い。
この子と深い仲になることはデメリットが大きいと判断したから
だ。下手したらわたしの思考を読まれてしまう可能性がある。そう
なったら学校での効率はとてつもなく悪くなる。
﹁分からないんじゃなくて、考えないようにしてるんじゃないの?﹂
﹁そんな事ないよ﹂
言って、もう部活だからと教室を出る。
あの手の人間はどこにでも居る。人の心の扉をピッキングしよう
とするおせっかい人間。
なんて効率の悪い人。わたしみたいな鉄格子の家より、扉を開け
っ放しにしている家を相手にする方が何倍も効率が良いのに。
﹁風野さん﹂
﹁かざのーん﹂
199
﹁かがみちゃん﹂
だけど大橋さん・・・可憐はいつまで経っても諦めてくれなかっ
た。
いつもいつも、わたしにまとわりついてくる。だけど、それを邪
険に扱えなかった。わたしはそういうキャラじゃない。この学校に
通っている風見かがみに、それは求められていない。みんなはそれ
をわたしだと認めてくれない。だから、クラスメイトの求めるかが
みを演じ、効率のいい生き方をしていたらこの子とはつかず離れず、
なあなあに付き合っていくしかなかった。
お互いを下の名前で呼ぶくらいには、仲が良いようにやっていく
のが、最善。
気づけばわたしは3年生になっていた。
文字通り、消化した3年間。進路も大体は決まってきた。
過ぎ去った時間に後悔はない。思い入れも無いので戻りたいとも
思わない。
効率よく、効率よく。イージーモードで進行していくゲーム。人
生イージーモードで何が悪い。それで損するのも得するのもわたし。
イージーモードなんだからもちろん経験値、喜びや楽しさは半減
していると思う。でも、わたしはその生き方が1番効率が良いって
判断したんだ。
何かに死に物狂いで本気になるやり方、そんなの嫌だ。怖い。理
解できない。わたしにはそんな生き方は出来ない。やらないんじゃ
ない、出来ないんだ。
だから、これでいい。わたしは何も間違ったことはしていない。
﹁あたし、かがみのこと好きだよ﹂
200
ある冬の日。一緒に勉強するために可憐の部屋へ行ったとき、彼
女はそんな事を言った。
﹁いまさら?﹂
わたしはそれを笑い飛ばした。好きって、嫌いな奴を部屋になん
か入れないでしょ。
﹁ううん、違う。初めてだよ、このことを話すの﹂
﹁えっと。どういうこと?﹂
可憐は英語の問題を考えながらシャーペンで自らの頭をこんこん
と小突き。
﹁かがみ、全然気づいてくれないんだもん。普通の友達同士、2人
きりでクリスマス過ごしたり、旅行する?﹂
﹁するんじゃ・・・ないの?﹂
少なくともこの2年間は可憐とそういう風に付き合ってきた。
﹁行かないよ。そういうのはね、友達じゃなくて恋人とすることな
の﹂
﹁へ、へえ﹂
なんとなく彼女の言わんとしていることが分かってきた。
わたしちょっとお母さんに用事があって電話﹂
まずい。話を変えなきゃ。
﹁あ、あの!
﹁待ってよ﹂
201
立ち上がろうとしたら、腕を掴まれた。
﹁一言、聞かせて。かがみはあたしの事、好き?﹂
﹁す、好きだよ﹂
﹁ウソ。じゃあ今、ここであたしがかがみを押し倒してムチャクチ
ャやっても良いの?﹂
可憐はこちらを見つめて視線を逸らさない。その瞳に吸い込まれ
そうになった。
その寸で、わたしは自我を取り戻す。ダメだ、この誘いに乗っち
ゃ。
人生イージーモード。
ここで可憐を肯定したら、わたしのゲーム難易度はハードに跳ね
上がる。
﹁い、良いわけないよ。わたし、友達としての可憐は好きだけど、
その。恋、とか。そういう関係はごめん無理。そういうのじゃない
し・・・﹂
ハッキリ拒絶した。これで、大丈夫。
そう考えたのが、わたしの敗因だった。
がたん。
強引に腕を引っ張られたと思ったら、わたしは仰向けに倒れてい
て。
その上に、馬乗りになっているのは可憐だった。
﹁可憐・・・?﹂
202
﹁ウソ、だよね。かがみはいつもウソをつくから。ね、ウソだよね﹂
﹁ウソじゃない。わたしは、可憐のこと友達として﹂
その瞬間。頬を掴まれて、無理矢理キスをされた。
わたしは何もできなくて、入ってきた可憐の舌がわたしの舌に絡
わ、わたし・・・っ﹂
むたびに頭に麻酔が打たれたような感覚に襲われた。
﹁ぷはっ﹂
やめてよ!
互いの口が離れる。
﹁な、何するの!
初めてだったのに。
言おうとして、やめた。言ったらそれが真実になってしまいそう
だったから。
﹁ねえ。今のファーストキスだよね﹂
﹁ち、違う。違うもん、初めてなんかじゃ、ない・・・﹂
そう言わないとやってられなかった。
これはどっちと答えるべきなんだろう。
﹁へえ。じゃあかがみは男の人とやったこともあるんだよね?﹂
どっち?
必死に頭をまわすけれど、答えが浮かんでこない。
今までこんな展開は想定していなかった。
そりゃあそうだ。誰が、ある日突然1番の友人に襲われると思う
だろう。
203
﹁あ、ある。あるよ﹂
わたしの答えはそれだった。
﹁何回もあるし、こんな事しても無駄だよ。何にもならない。こ、
これ以上やるといくら可憐でも警察に通報するからねっ﹂
声は震え、上ずっている。
それで﹂
﹁いいよ、別に。警察に言って、どうするの?﹂
﹁ええ?﹂
﹁丸く収まると思う?
身体の芯が冷たくなったのが分かった。
﹁あたしは認めないよ。自作自演だって訴えてやる。泥沼の法廷闘
争だよ。裁判・・・、今、そんな事してる時期かな。これから受験
もあるのにさ﹂
可憐の瞳にいつもの光が無い。真っ暗な目。
﹁クラスのみんなも、あたしとかがみの事、どう思うだろうね﹂
・・・ダメだ。考えれば考えるほど、人生が難しくなっていく。
効率が、悪くなっていく。
﹁かがみはウソばっかりついてきたから、誰もかがみのこと信じて
くれないよ。今までいろんな友達と深く付き合ってきたあたしと、
ウソつきオオカミ少女のかがみ。どっちが有利かな?﹂
204
﹁や、やめて。やめて可憐。なんでもするから・・・﹂
﹁なんでもするなら、あたしを止めないでよ﹂
かがみはわたしの制服、その胸元に手をかけ。
﹁いやっ、やめて!﹂
﹁嫌だ。かがみにあたしを刻んであげる。あたしがかがみの人生に
居たしるしを・・・﹂
ゆっくりと一つ一つ、胸元を開けられて。
全て剥ぎ取られた。
◆
起きると朝だった。随分、懐かしい夢を見ていた気がする。
﹁かがみー、起きて起きて。あ、服着なよー﹂
今日の朝はパンか。部屋中が香ばしい良いにおいでいっぱいにな
っていた。
﹁昨日、そのまま寝ちゃったんだ﹂
ぼんやりと思い出す、昨日のこと。
遅刻する!
あ、お皿ふやかしといてね、あたし今日
・・・冬なのに熱い夜でした。
﹁げーっ!
は夜遅くて・・・ああ、あとでメールするから!﹂
205
キスなら昨日散々したでしょ!﹂
﹁うん、いってらっしゃい。いってらっしゃいのチューは?﹂
﹁時間が無いの!
わたしは玄関から出ていく可憐に手を振った。
出勤していくかがみを見ていると、働くのは大変だなあと思う。
朝は早いし、夜は遅いし。
それを考えると可憐のヒモ、もとい未婚同棲している嫁としては
頭が下がる。
﹁さて、ご飯食べよ﹂
人生イージーモード。
ゲーム内容は、随分変わっちゃったけどね。
206
タケトリ・アブダクション
﹁えーっと、わたしは一ノ宮家長女の一ノ宮遥と言うものですが!﹂
緊張していた。
今現在、我が国で大旋風を起こしているカグヤ姫騒動。異国より
やってきたカグヤ姫と言うお姫様さまが可愛くて可愛くてしょうが
ないので、貴族の家や財閥が彼女を嫁にしたいと求婚をしてやまな
いと言う。
一ノ宮家もその例に漏れなかった。
嫡男である兄がラブレターをしたためて送ったらしい。そしたら
今日、この場に来いと書いてあったとのこと。
しかし、事実としてここにはわたしが居る。
兄は逃げたのだ。昔から気の弱い人だったけれど、まさかお見合
いを拒否して、実の妹に﹁お前が行って断ってこい﹂なんて事を言
うほど最低な性格をしていたとはさすがに想定外だ。
﹁あ、えー。兄は急に体調が悪くなりまして・・・。あの、宿題?
課題はやったらしいんですけど、現地に置き忘れてきたー、みた
いな﹂
なにいってんだわたしは。小学生の言い訳じゃないんだぞ。
﹁ですので我が一ノ宮家は婚姻を辞退させていただきたく・・・﹂
玉座の下に居る近衛兵たちがぽかんと呆れた様子でこちらを見て
いたのが分かった。
207
中には笑いを堪えている者まで居る。
︵あーあ。こりゃうちの家はしばらく笑いモンだわ。人生詰んだな
兄貴︶
こんなバカみたいな反省しに来たわたしも含めて、ちょっと長め
の傷心旅行にでも行った方が良いかもしれない。
﹁お前ら、うるさいゾ﹂
その瞬間。
玉座からそんな声が聞こえてきた。
随分機械的というか、言葉に抑揚のない、棒読みな声だ。
︵出来の悪い人形みたいな喋り方︶
そんな事が頭をよぎったが、驚いたのはここからだ。
この場に居る︵わたし以外の︶すべての者が背筋を伸ばして、玉
座に頭を下げている。
﹁お前、名をなんと言う﹂
玉座からカグヤ姫が立ち上がる。
そして一歩、前に出ると彼女を包んでいた視界遮断用立体ホログ
ラムが消える。
﹁あ、あんたがカグヤ姫!?﹂
その姿を見て、わたしも思わず叫んでしまった。
208
周囲から刺さるような視線が来るが、気にしない。
﹁そうだぞ。ワタシがカグヤである﹂
そこに居たのは随分幼い女の子だった。薄い色素の肌、異質とも
言える水色の長い髪の毛。
身長なんかは恐らく130cm少し超えたくらいで、何より着衣
が噂に聞く﹁ジュウニヒトエ﹂なんかではなく、水兵が着るような
セーラー服だったのには驚いた。
﹁で、お前の名は何なんだ﹂
﹁一ノ宮遥ですけど・・・﹂
最初に名乗ったでしょ。そんな悪態はつけるような雰囲気ではな
かった。
﹁ハルカか。お前、面白いな﹂
﹁面白いって、何が・・・﹂
﹁ワタシに謁見しに来た少女はお前が初めてだ。いつもここに来る
なぜ、ワタシに会いに来るのはオッサンばっかなんだ?﹂
のはキゾクとかいうオッサンばっかで飽き飽きしてたんだ。なぜだ
?
﹁いや、そりゃあ﹂
ここは正直に言うべきだろう。
﹁アンタ、かわいいじゃん﹂
場が一気に静まり返る。が。
﹁みんな、アンタみたいな超絶可愛くて、ロリぃ女と一発ヤッて子
209
供を作りたいんだよ﹂
次の瞬間には場が凍り付いた。
﹁貴様、姫に向かってなんという事を・・・!﹂
﹁この品の無い女は何なんだ!﹂
外野がやいのやいの言っているのを見ながら、わたしは転移クリ
スタルがポケットに入っているのを確認する。
イザとなれば、逃げる準備は出来ている。
﹁しずまれえ!!﹂
いよいよ誰かがわたしに殴りかかろうとした瞬間、カグヤ姫の抑
揚のない声が響いた。
﹁そうか。みんなワタシを襲おうとしてたのか﹂
﹁カグヤ様、そのような事は﹂
﹁そいつもヤろうとしてるよ﹂
カグヤを宥める、玉座の1番近くに立っていた老人を指差して言
う。
﹁貴様ァ、言って良いことと悪いことがあるのを知らんかぁ!﹂
その瞬間に、老人が癇癪を起こした。しかし。
﹁もういい。この中にワタシを犯そうとしてる奴が居るってのに、
こんなところに居られるか﹂
﹁姫っ!?﹂
210
﹁ワタシは自分の部屋に帰るぞ!﹂
下手な推理小説に出てきそうな言い回しをして、玉座から降りる
カグヤ。
﹁あ、お前は着いて来い。いろいろ聞きたいことがあるゾ﹂
帰り支度をしていたのだけれど、姫じきじきの指名で、わたしは
無理矢理カグヤ姫の部屋へと誘拐されてしまっていた。
◆
﹁あれ・・・?﹂
わたしの頭はどうかしてしまったのだろうか。確か、カグヤの部
屋に通されたはずだったのに。
気づいたらわたしは空に浮かんでいた。ありのまま、今起こった
ことを言いたくなったけど、言える相手も居ないのでそれは飲みこ
む。
空に浮かんでいるというのは比喩じゃない。わたしの眼下には白
く薄い雲があって、その下にわたしの家がある都がある。そしてわ
たしはどういうわけだか、重力に引かれて落下することが無い。
﹁こんなものちょいとした技術よ。人間はマホウを使うだろう。そ
れの応用なのだ﹂
カグヤはそう言うと、何の気も無しに虚空から瓶と2つのグラス
211
を取り出した。わたしには、何も無いところから何かが出てきたよ
うに見えたのだが。
﹁お前、タンサンはいけるか?﹂
﹁まあ炭酸なら。アルコールはダメだけど﹂
﹁ならよかった。この液体は美味いぞ﹂
これ、ピンクじゃん﹂
彼女はそれをグラスに注ぐ。ピンク色の炭酸水・・・?
コーラってあの茶色い?
﹁これはコーラだゾ﹂
﹁コーラ?
﹁こういうコーラがある世界もあるのだ﹂
ピンクのコーラを飲みながら言うカグヤを見て、わたしもそれに
口をつける。
・・・確かにコーラだ。
﹁ハルカよ﹂
﹁はい﹂
﹁薄々気づているかもしれんが、カグヤは人間ではないぞ﹂
そりゃそうだよ。今、ここで起きている事は人間ではできないこ
とばかりだ。
﹁カグヤはウチュージンなのだ﹂
﹁宇宙人?﹂
﹁そうだ。この青い星はカグヤの生まれた場所ではない﹂
いよいよもって突飛な事を言い始めた。
212
﹁ちょっと前まで、この星の衛星に都を作っていたのだが何もなく
てつまらんから、ここへやってきたのだ﹂
﹁衛星って、月のこと?﹂
﹁あれはツキと言うのか。現地ではサテライト・ムーンと呼ばれて
いたゾ﹂
﹁誰が呼んでたの?﹂
﹁そりゃあ月の民だ。あそこには月の民が住んでるのだ﹂
月にも人が住んでるの?﹂
頭が痛くなってきた。
﹁月の民って何?
﹁さあ、アレはヒトと呼んでよいものか・・・﹂
﹁急に怖いこと言うのやめてよ﹂
表情一つ変えることなく言うカグヤを見て、少し怖くなった。
どんなところだったの?﹂
毎晩見上げている月に、得体も知れない生物が住み着いていると
言われれば背中も冷たくなる。
﹁じゃあ、カグヤの故郷はどこ?
﹁ふむ﹂
そこでカグヤは少し思案する。
﹁カグヤが生まれたのは七次元世界だ。お前たち人間では理解でき
ん領域﹂
﹁七次元・・・﹂
確かに、分かんないけど理解出来なさそうな単語ではある。
﹁じゃあ、あなたは何をしにこの三次元世界へ?﹂
213
そんな高次元の存在が、ここに降りてきた意味が分からない。
﹁ふむ。お前は面白いことを聞くな﹂
﹁え?﹂
﹁理解できんと言ったはずだゾ﹂
言いながら、コーラを煽るカグヤ。
﹁理解できないかもしれないけどさ﹂
そんな彼女を見つめながら。
無駄なのにか?﹂
﹁理解する努力って、必要だと思うんだよ﹂
﹁むぅ?
﹁無駄かどうかはやってみなきゃ分かんないよ。ほら、アンタが何
をしにここに来たのか教えてよ﹂
わたしはそう言って、カグヤの無機質な目をじっと見つめた。
﹁わたしはカグヤの表現方法でそれを教えて欲しいんだ﹂
と、自分の気持ちを吐露する。
﹁・・・﹂
一瞬、カグヤは黙った。
﹁分かったぞ。教えよう。待っておれ・・・てい!﹂
214
彼女が叫んだ瞬間。
﹁︱︱︱!?﹂
一瞬。一秒もしないその刹那に、頭にとんでもない量の情報が流
れ込んできた。
そしてそれは98%が理解できない、気持ちの悪い映像だった。
七色のテレビ画面の砂嵐が立体になって、そこに謎の音まで加わっ
て、それが頭の中にざらっとした感覚と共に流れ込んでくる感じ。
﹁・・・今のが、カグヤの・・・﹂
ワタシたちの目的を教えて・・・﹂
言葉が上手く口から出てこない。頭が容量オーバーでパンクしそ
うだ。
﹁どうしたハルカ?
カグヤの言葉が、音がよく聞こえない。
ヤバイ、地雷踏んだっぽい。
わたしは気を失わないようにするので精いっぱいだった。
このまま、頭がおかしくなって意識が飛びそうだ。そしたらもう
元には戻らないかもしれない。
そんな覚悟をした、その時。
﹁んちゅっ・・・﹂
舌に、つるりとした柔らかい感覚がした。何かの味、違う。何か
が流れ込んでくる。そして、わたしの中に入っていた邪魔なものが
吸い取られていく。
215
﹁じゅるり﹂
唾液を一気に吸われた感覚と共に、意識が体に戻り。
﹁んぱっ・・・﹂
カグヤの唇がわたしの唇から離れ、白い糸を引いた瞬間に、わた
しは元の自分を取り戻していた。
﹁すまない。どうやらコレは毒みたいだったナ﹂
﹁あはは、そう、みたいだね﹂
苦しい笑いを浮かべる。
ああ、今、カグヤとディープキスしてたんだ。そんな煩悩まみれ
の情報だけが頭の中に残って、それを考えると少しだけ胸がきゅん
とする。
﹁なんともないか?﹂
﹁うん。カグヤがすぐに取り出してくれたおかげで・・・﹂
なんとか、立ち上がれた。
なに?﹂
宇宙人
と
地球人
の邂逅。その初事
﹁だが、ワタシもニンゲンのコミュニケート方法を1つ、覚えたゾ﹂
﹁え?
もしかしたらこれは、
例になるかもしれない。
そうなればわたしは七次元まで名前が轟く、人類の代表に・・・
216
﹁セックス!﹂
﹁・・・え?﹂
今、なんと?
﹁早速ハルカとセックスするゾ。もしかしたら子孫も残せるかもシ
レン﹂
﹁え、ええ!?﹂
でも、聞きたいことが・・・﹂
﹁ハルカはカグヤとの間に子供が出来るのはイヤか?﹂
﹁べ、別にイヤじゃねーし!
最後の方、ごにょごにょと尻切れトンボのように小さくなってし
まったが、これだけは確認しておきたい。
﹁・・・妊娠するのは、どっちなの?﹂
顔から火が出るような思いでそう問いかけると、カグヤはその無
表情を初めて崩し、にっこりと笑いながら。
217
タケトリ・アブダクション︵後書き︶
みんなが避ける中でぱちくり見ているあなたがいたから
︵エリオをかまってちゃん/﹃Os−宇宙人﹄の一節より引用︶
218
貴女の傍に、私だけ
﹃意志の弱いものが戦場へ出るな!﹄
わたしは剣を敵ののど元に突きつける。
﹃そのわずかな迷いが貴様と私を別けたものだ!
で、この私を止められると思うな!﹄
敵にとどめを差し、すぐに剣を構えなおす。
そうだ、
生半可な気持ち
﹃私が居る限り、この先に俗物は一匹たりとも通さん!
我が剣は﹄
になれる気がする。
構えた大剣を逆手にして、虚空を突き刺した。
彼女
﹃我が君を守りし最強の盾である!!﹄
そう、こんな事を言えば、わたしも
彼女
の様になれる気が。
聖剣コールブランドを構えれば、かつてこの国を救った最強の騎
士・・・
・・・たとえこれが文化祭の劇だったとしても、そんな気がして
くるんだ。
◆
219
﹁アーニャお疲れ。クリスティア様役、すごくよかったよ﹂
﹁メアリーにしか褒められないなんて、いよいよわたしの総隊長役、
ハマってなかったのかな・・・﹂
﹁ひどいなおい﹂
ふざけた声で反応してくれるメアリー。
1番の親友であるし、なんでも打ち明けられることのできる間柄
だけど、親密な分、褒められてもあまり嬉しくない。
あの総隊長!
この国を救った英雄!﹂
﹁アーニャはクリスティア様に思い入れが強すぎるんだよ﹂
﹁だって、総隊長だよ!?
総隊長と言えば!﹂
﹁まあ言っちゃえば上司だし、憧れるのも分かるけどさ﹂
﹁全っ然わかってない!
わたしはガッと、足を一歩踏み出して拳を握りしめる。
同じ時代を生きてるのがすご
﹁あの聖戦で1000人の連合国軍にたった1人で戦って、それを
返り討ちにしたまさに生きる伝説!
いくらいの英雄なんだよ!﹂
﹁あ∼、またアーニャのクリス様好き好き大好き話が始まったよ・・
・﹂
それからわたしは何度も何度も話したエピソードをもう1度話し
始める。
その一心で王宮の近
メアリーは若干引きながらも、文句も言わずにそれを聞いてくれ
る貴重な、大切な友達。
﹁わたしもいつか総隊長みたいになりたい!
衛騎士団に志願したんだから!﹂
220
﹁でも、騎士としての地位は?﹂
﹁・・・下から2番目・・・﹂
ものすごい角度の水差しを食らう。
﹁王宮の門番だっけ?﹂
﹁それも外壁のね・・・。ああ、こんなんじゃいつまで経っても総
隊長に会えない∼。わたしの王子さま∼﹂
頭を抱えて、すっかり夜になった学校寮・・・その床をのたうち
回る。
﹁私は、クリス様には陛下と結婚して欲しいな﹂
﹁むう。メアリーもロイヤル・ウェディング派かあ﹂
ロイヤル・ウェディング派。
世界の終わり
は全て総隊長が陛下の為に行っ
幼馴染という間柄の陛下と総隊長との結婚を支持する人達のこと。
先ほど演じた劇
た独断=当時の軍規に反するものだった、なんていう都市伝説があ
るくらいに、総隊長は陛下を愛しているというのはもう周知の事実
だ。
生まれ変わったこの国を象徴するのが陛下と総隊長であり、お二
人の仲睦まじい様子は国民にとって希望の光。
ロイヤル・ウェディングを、ほとんどの国民は望んでいるんだと
思う。
﹁でもぉ、わたしは総隊長が好きなのー!﹂
メアリーの肩をがくがくと揺さぶりながら必死に訴えかける。
221
﹁そんな事言ったって、アーニャがあの2人の間に入れるとは思え
ないわ。まず、話す機会もないのにどうやって振り向いてもらうの
よ﹂
﹁それを考えるのがメアリーの役目でしょ∼﹂
﹁いやそれ初耳だし・・・﹂
メアリーはほとほと呆れた様子で、肩にかけていたわたしの手を
払う。
運命の出会いがさ﹂
﹁ま、頑張りなさいな。アンタが陛下と総隊長に割って入れるなら、
そのうち来るんじゃないの?
この子のこういうところ、正直言って好き
やれやれ、と言いながらメアリーは零した。
他人事だと思って!
じゃない。
﹁ふん、メアリーに言われなくっても!﹂
わたしはむくっと床から起き上がりながら、呟いた。
﹁そんなの、分かってるもん・・・﹂
◆
﹁う∼、ざいやぐ・・・﹂
ベッドの上で泣きべそをかくわたし。
222
決闘トーナメント大会
と呼ばれるものがある。
今日は﹃騎士の日﹄という国民の祝日。その祝日のメインイベン
トに、
これは騎士が日頃磨いている己の技術を披露する場。厳しい予選
を勝ち抜き、選ばれたものだけがこの日に行われる決勝大会に出場
できる。
わたしは死に物狂いで練習して予選を突破し、決勝へ進出した。
そしてトーナメントを勝ち進み迎えた準決勝。
︵しまっ・・・!︶
あと一歩のところでわたしはけっ躓いて、倒れてしまった。挙句
に、左足を骨折。
この大会で怪我することは負けるよりひどい恥になる。規則を守
なんて言うのは自己管理のできない者の愚行。
って、美しく勝つのが何よりの名誉とされるこの大会において、
怪我
﹁あと2回、あと2回勝ててれば・・・﹂
宮中晩餐会に招かれる権利を掴めたのに。
︵わたし、何やってんだろ︶
準決勝で怪我して負けるなんて、そんなの脇役のやることだ。
物語の主人公はこんな負け方はしない。総隊長なら、こんな負け
方・・・するわけがない。
︱︱︱わたしは所詮、ただの一般人。
223
それを思った瞬間、止めていた涙があふれてきて仕方がなかった。
﹁意志の弱いものが剣を握ると、それは両刃の剣となる﹂
顔を両手で隠して、ベッドの上で仰向けになって泣いていると、
どこからかそんな声が聞こえてきた。
そして突然、顔を隠していた右手をぐいっと掴まれる。
何が起こったか分からなかった。
﹁良い太刀筋だった。惜しむべきは、足元がおろそかになった点。
それと﹂
でも。
﹁今のうちに泣けるだけ泣いておけ。来たるべき時、前を見て歩く
ために﹂
そこにあの憧れの総隊長︱︱︱クリスティア様が居たら。
涙なんて、すぐに止まってしまうんだ。
﹁︱︱ッ﹂
どうしよう。聞きたいことが山ほどある。言いたいことも山ほど
ある。
なのに、どうして。何も考えられないの。一つも言葉が出てこな
いの。
﹁どうした、呆けて。もう泣かないのか?﹂
﹁!﹂
224
はっ。わたしはここで、我に返った。
﹁な、泣きません!﹂
自分では姿勢を正そうと思ったものの、いかんせん左足が固定さ
れて吊るされているだけに、どうにも不恰好な形で返事をしてしま
う。
﹁今は公式な場じゃない。楽にしてくれ﹂
﹁はいぃ!﹂
そりゃあ返事も大声になってしまう。相手はわたしが大好きで、
尊敬して止まない、クリスティア様・・・。
顔が赤くなっているのが自分でもわかった。
わたしは半分起き上がろうとした姿勢から、ベッドで横になって
楽にする。
楽にしようとしたけれど。
︵そんな事出来るわけないじゃん・・・!︶
心臓がうるさいくらいにバクバク鼓動を打っている。
本当ならひざまずいて頭を下げなきゃいけない人。楽に寝ていら
どのようなご用件で・・・?﹂
れるわけがなかった。
﹁あ、あの!
消えてしまいそうなくらい小さな声で尋ねる。
225
﹁そうだな・・・。君が私に話があるという噂を耳にしたんだが﹂
総隊長は穏やかな顔で言う。
な表情だった。
それは劇の中の伝説の救世主ではなく。1人の人間としての、
楽
﹁え、ええっ!?﹂
頭の中にぐるんぐるんと色々なことが渦巻く。
なんだ。わたしは何を聞こうとしてたんだっけ。何も思い浮かば
ない。
でも、何か言わなきゃ。何か!
﹁ロイヤル・ウェディングなさるんでしょうか!﹂
言った瞬間、後悔した。
とんでもないことを言ってしまったと。こんな不敬なことはない。
一喝されることを、覚悟した。
﹁・・・現実的には難しい、と思う﹂
返ってきたのは予想外の反応。怒られるどころか、総隊長は神妙
な面持ちで。
そして、その内容がまともに頭に入ってきた時。
わたしは。
少し、寂しかった。
﹁陛下も私も女だ。同性婚、立場が違えばどうという事はない。し
かし﹂
226
遠くを見ながら言った総隊長の言葉は。
﹁陛下は王族であられる。私と結婚すれば、その血が途絶える。そ
れは歴代の王家、そしてそれを守り続け、王に命を捧げてきた我が
家としても望むところではないだろう﹂
先ほどとは比べものにならないくらい、冷たかった。
﹁そんなのおかしいですよ﹂
何を血迷ったのか。
﹁どうしてそんなことで諦めちゃうんですか。1000人の連合軍
に1人で勝ったことを考えれば、女性同士で子どもを作ることなん
て造作もないことのはずです!﹂
わたしは何も考えず、気づくと思った事を口走っていた。
しまった。そう思ったときにはもう遅い。
なに?
わたし、今、何を言ったの!?︶
場を、重い沈黙が支配した。
︵え、なに?
自分で言ったことが思い出せず、全身を震わせながら辺りをキョ
ロキョロと見回す。
﹁あ、あの・・・ワタクシ非常にお失礼なことををを・・・﹂
がくがくと震えながら、総隊長の顔色をうかがう。
227
﹁そうか。造作もない・・・か。うむ!﹂
何かを呟いた総隊長は、力強く立ち上がった。
﹁ならばやり遂げて見せよう。やはり私も陛下を他の者に奪われる
など許容できない!﹂
﹁え、あの・・・﹂
何のお話ですか、と言おうとした瞬間。
﹁ありがとう。君のおかげで決心がついた。まずは王族に関する法
を変えるところからだ!﹂
ロイヤル・ウェデ
総隊長はわたしに何故かお礼を言うと、随分とご機嫌な様子で帰
って行った。
◆
﹁やっぱ総隊長は陛下と結ばれるべきだよね!
ィング最高!!﹂
メアリーと顔を合わせるや否や、わたしはそう言って大笑いした。
﹁あのさ。あんたが歩けないからって呼ばれたんだけど﹂
﹁総隊長は器が違うな∼。あれ、でも、どうして総隊長はこんなと
こに来たんだろ﹂
228
頭を捻る。そういえば、理由が分からない。理由、言ってたっけ?
なに?﹂
﹁・・・アンタってほんと鈍感﹂
﹁え?
﹁何でもない。ほれ、おんぶするから背中に乗んな﹂
﹁お、おう・・・﹂
車いすとか用意してないんだ、と驚く。
わたしが抱き着くように、メアリーの背中に身体を預けると。
︵あれ、なんだろ︶
今まで全然気づかなかったことに、初めて気が付いた。
﹁メアリーに触ってると、すごく安心する・・・﹂
そんな事を言うと。
﹁ほんっと、アーニャのそばに居るのなんて、私以外じゃ無理でし
ょうね﹂
メアリーはまた、ため息をついた。
229
空から女の子が降ってきた
キッカケなんて明確なものはなかった。
ただ、ある日、何の気も無しに空を見上げていたら、ある一点が
チカチカと光っていたのだ。
︵UFO・・・?︶
最初はそう思った。だから携帯のカメラで写真なんかも撮ったり
した。
だけど、どうやら違うらしい。光はゆっくりとした速度で下降し
ている。
そして、これはしばらく経ってから気づいたことだったけれど、
周囲の人間が誰もそのことに気づいていない。
ここは街のど真ん中だ。あんなものがハッキリと見えているのに、
全員があれに気づかないなんてことはありえない。
わたしにしか見えていないとしか、考えようがなかった。
︵ああ、もうっ!!︶
確かめるしかない。
あの光は加速しながら落ちてきている。落下地点に行けば、ハッ
キリするだろう。
わたしは走り出した。
街を直線に移動するのは随分と難しい。普段使わない道を使い、
230
信号のある幹線道路を横断し、金網フェンスを1つ乗り越え、息も
絶え絶えになりながら光を追いかける。
光がどんどん大きくなる。そして、そのおおよその落下地点が見
えた。
﹁ウソでしょ・・・﹂
街の中心を流れる大河・・・。川の中だ。
﹁待て待て、今12月・・・っ﹂
川が冷たいなんて事はバカでもわかった。
空を見上げる。
いや、もう少し目線を上にする程度で光は視界に入ってきた。
﹁毒を食らわばっ﹂
気づくとわたしは靴を放り投げ靴下を脱ぐと。
﹁皿まで!!﹂
先週雪が降ったばかりの街を流れる川に足を突っ込んでいた。
︵︱︱︱っ︶
言葉にならないとはよく言ったものだ。
痛い。冷たいと言うよりもうこれは痛みに似た感覚だ。
ばしゃばしゃと水をかき分け、川の真ん中へと来る。浅い川だっ
231
たのだけが、不幸中の幸いだった。
見上げると、光・・・のようなものに包まれた影が落ちてきて、
やがてそれは形に見えるものになっていった。
どう見ても、人間。それも女の子だ。
わたしは両手を広げる。大丈夫、運動は出来る方だ。
︵女の子1人くらい、受け止められる︱︱︱︶
彼女に触れる。やわらかな肌。透き通るような肌色が全身に広が
って・・・。
﹁って、ウソっ、裸!?﹂
彼女の重みより何より、最初にそのことで頭がいっぱいになる。
わたしは急いで厚手の上着を脱ぐと、毛布にくるむような要領で
彼女の全身を包んだ。
身長や体つきを見ると、自分と同世代くらいに見える。
さっき一瞬見えて﹁しまった﹂んだけど、随分と発育のよろしい
子だったし・・・。
ちらっ。
一瞬上着をずらして、女の子の身体を二度見する。
︵うわ、すごいエロい・・・︶
232
けしからん身体でした。
そして次の瞬間、ここが街の中にある川の真ん中であることを思
い出してものすごい自己嫌悪に陥る。
﹁何やってんだわたしは・・・﹂
真冬の12月、川の真ん中で裸の女の子を捕まえ、一度上着をか
ぶせたうえで、もう一度やましい目で女の子の裸を見ようなんて。
あまりに特殊なシチュエーション過ぎて聞いたことが無い。
帰りは行きより厳しかった。
わたしだって女。女の子を抱えて歩くのは辛い。そのうえ手足の
感覚は無いほど冷たさで麻痺しているし、ただでさえ足が取られる
水の中を、川の流れを無視して歩くのはかなりしんどかった。
﹁はあ、はあ・・・もうだめ・・・﹂
河原に戻り、上着でくるんだ女の子を置くと、わたしはその場に
倒れ込んだ。
寒さと冷たさと疲労で死にそうだ。
﹁何なのこの子・・・﹂
仰向けになって横を見ると、布1枚被っただけのエロい身体の女
の子が寝ている。
空から女の子が降ってきた・・・。
超有名アニメ映画で見たことがあったし、そういう手合いの話は
いくらか聞いたことがあるけれど。
233
落ちてきた女の子を拾うのは大抵物語の主人公である少年。わた
しみたいな少女がこちら側にまわることは、ほとんどない。
﹁さて﹂
どうしよう、この子。
ここからこの子を担いでいく体力はわたしには無い。
﹁おーい。もしもーし﹂
ぺちぺちと頬を軽く叩いてみた。体温を感じるから死んではいな
い・・・はず。
︵息・・・してるのかな︶
そんなことが頭をかすめた。もししてなかったら。
︵じ、人工呼吸、とか・・・!︶
頭の中がいかがわしい妄想でいっぱいになりそうになって、それ
を振り払う。
なに変な事考えてるの。命がかかってるんだ。しょうがない・・・
よね。
そこで気づく。
﹁わたし、人工呼吸のやり方、知らんし・・・﹂
キスするだけ、じゃないよね勿論。
やめよう。人工呼吸の線は無しだ。
234
とにかく心臓が動いているかどうかが知りたい。
い、命に関わる事だから
じゃあどうすればいいか。胸を触るしか・・・ない。
ふか、不可抗力!!﹂
﹁こ、これは別に変な意味じゃなくて!
!
誰にしているのか分からない言い訳をしてから、わたしは上着の
中に手を入れる。
一段とやわかなものに手を当て、ゆっくりとそれに手を這わせる
と︱︱︱
ぱちっ。
その時、仰向けになっていた女の子の目が開いた。
不意に目が合う。視線が確実にぶつかった。
真実はただ1つ。わたしの右手が女の子の左胸を掴んでいると言
うことだけ。
﹁あ、お、おはようございます﹂
謎のあいさつ。
それに彼女はにっこり微笑みを返してくれる。
助かった・・・。
﹁なにすんじゃ、ド変態があああ!!﹂
そう思った瞬間、ものすごい威力の右ストレートが飛んでくる。
235
﹁この痴漢!
○○○魔!!﹂
○○○魔!!﹂
﹁わ、わたし男じゃなくて女・・・﹂
﹁じゃあ痴女!
ここどこ!?
なんであたし・・・﹂
﹃○○○魔﹄の方は訂正してくれないんだ、というショックを受
ける。
﹁アンタ誰!?
女の子ははだけた胸元を隠しながら。
﹁裸なのよーーー!!﹂
そう言って今度は左ストレートを貰う。
あまりに理不尽。わたしはただ、人助けをしただけ︵のつもり︶
なのに・・・。
◆
﹁ここがアンタの家なの?﹂
﹁今はわたししか住んでないけどね・・・いてて﹂
自分の頬に触れる。
わたしの服を2人で分けたおかげで何とか公序良俗に反しない恰
好で家まで戻ってこられた。
﹁わたし、シャワー浴びてくるから、ちょっと待っててね。あ、こ
れ着替え。わたしのだけど我慢してね﹂
236
彼女はいぶかしげな表情でそれを受け取る。
お風呂に入ると、シャワーの温度をいつもより高くして熱いお湯
を手足の指先に当てた。
感覚が段々と戻ってくる。身体に熱が戻ってきたのを感じた。
︵温かい・・・︶
何この服!?﹂
温かくて気持ちいい。こんなにお湯が気持ちいいと思ったのは初
めて・・・
﹁ちょっとアンタ!
﹁きゃー!!﹂
いきなり脱衣所の扉がガラッと開かれ、空から降ってきた女の子
がずいっとこちらに乗り出してきた。思わずシャワーを手放してし
まう。
﹁こんな変な服、見た事ないわ。ドレスは無いの!?﹂
わたし裸なんですケドー!!﹂
あ、﹂
﹁あ、あの!
﹁ん?
彼女はそこで一時停止をする。
﹁アンタさっきあたしの胸触った・・・、っていうか揉んだよね?﹂
﹁そ、そんな事してないしてない!﹂
必死になって顔を振ったけど、彼女の表情が一気に黒くなる。
237
﹁えいっ﹂
逃げようと身体をよじったのが悪かった。
後ろから胸を揉まれる。
﹁ひゃん・・・﹂
﹁あれ。おかしいわね。嫌がると思ったのに・・・、ってか、柔ら
かい・・・、大きすぎず小さすぎず、形は良いし・・・﹂
﹁も、もう許して。乱暴しないで・・・﹂
気づくと腰から力が抜けていき、ぺたんと床に手をついて、涙目
になり彼女に懇願する。
悪い!?
だって今まで胸揉まれたことなんて
﹁なに、アンタ。感じてんの?﹂
﹁そ、そうだよ!
無かったし、しょうがないじゃんっ﹂
﹁ふーん。へえ・・・﹂
気づくと彼女はじろじろとわたしの身体を頭から足までなめまわ
すように見つめた。
﹁ま、いっか。一応、アンタに助けられたことには変わりないし﹂
﹁あの、何の話・・・﹂
そこで彼女はわたしの肩に触れ、ずいっとこちらに身を乗り出す。
﹁あたし、サキュバスなの﹂
﹁は、はあ!?﹂
いや。いやいや。いやいやいや。
238
いくらなんでもそんなウソには騙されないぞ。そこまでバカにな
淫魔って言えばわかるかしら﹂
ったつもりはない。
﹁知らない?
﹁冗談やめてよ!﹂
﹁冗談じゃないわ、ホントよ﹂
彼女は嬉しそうに笑みを浮かべる。
あなたが悪魔だっていう、証拠!﹂
悪魔の笑み・・・。その言葉が脳裏をかすめる。
﹁しょ、証拠も無いのに!
わたしは彼女の目を見て、強い口調で言った。
今までこの子の言いなりになってここまで来たけど、ここで誘い
に乗っちゃダメだ。
それだけは分かったのだ。
﹁・・・良い目ね﹂
﹁・・・?﹂
﹁弱い人間にその目は出来ない。あたしを捕まえられたことにも納
得がいったわ﹂
急に褒められ、どうすればいいか分からない。
﹁運が良いわね人間。気が変わったわ。アンタは見逃してあげる﹂
﹁えっ・・・﹂
﹁あたしに関わる記憶は消すけど、アンタを獲物にするのはやめる
わ。なーんか興ざめって言うか﹂
女の子はすっと立ち上がり、服を脱ぎだす。
239
﹁待ってなさい。この服返すから﹂
﹁わたしは見逃すって・・・あなたはこれからどうするの?﹂
自称悪魔は半分まで外していたYシャツのボタンを外す手を止め、
少しうつむく。
﹁他の獲物を探すわ。ま、アンタみたいな女の子に捕まることは無
いでしょうけど、ベターに中年の男かしら﹂
その時。わたしの中に芽生えた感情があった。
﹁そんくらいが1番簡単って、学校で習ったし﹂
この子が他の人・・・。
他の誰かと、そういう行為をすることに対する強烈な嫌悪感。
﹁ま、待って﹂
わたしは彼女の手を握る。
﹁あなたを受け止めたのは、掴んだのはわたしだよ﹂
﹁え・・・﹂
﹁他の人間はあなたを見つけられもしなかった。そんな人たちのと
ころに行くなんて、その﹂
精一杯の勇気を振り絞って言う。
﹁許さない、んだから・・・﹂
240
顔は真っ赤だった。最後の方は発音出来ていたかも曖昧。
だけど。
﹁・・・っ。最初からそう言え、ばか﹂
彼女が顔を真っ赤にさせた時。
わたしの想いは伝わったんだと、ハッキリと分かった。
241
1日遅れの12月23日
まるで物語から切り取ってきたかのような美人だった。
長い金髪はサラサラで、澄んだ青い瞳は宝石のよう。
の出来上がり。
その見た目から彼女にはいつも注目が集まる。いわゆる
超人気者
︱︱︱かわいすぎる
わたしは一目で見惚れてしまった。
ただの
同じ学年、同じクラスだ。近づこうと思えば近づくことは出来た
のに。
︵・・・もう12月、か︶
この高校に入学して8ヶ月が経とうとしていた。
﹁あ、雪・・・﹂
ふと窓の外を見ると、真っ白な曇天から粉雪が舞い始めていたで
あろうことが分かった。
校舎から見えるクリスマスツリーに白い斑点が出来ていたのだ。
クリスマスツリー。
わたし達生徒は校舎前にある樅ノ木をそう呼んでいる。あの木が
そう呼ばれているのには、とある理由があるのだけれど。
最近、寒くなってきてからは図書室も人で賑わうようになってい
た。4月から放課後になるとここへ来る癖がついていたわたしには
242
関係のないこと・・・。寒いに加えて雪まで降っているこの日、図
書室に人が集まっても特段気にしていなかった。
︵・・・リースさんっ!?︶
だから、学園のマドンナがこの図書室に来るなんて思いもしなく
て。
わたしはしばらくぶりに、本の内容が頭に入らなくなるまでに緊
張していた。
︵お、落ち着け、落ち着け。別に焦ることなんてないじゃない︶
ただ、生徒が図書室を利用しに来たというだけ。
問題は、わたしが図書委員で、図書室のカウンターの中に居て、
今、この図書室には図書委員がわたししか居ないと言うことだけだ。
でも、それでも。
︵あ。あの本。リースさん、坂本龍馬の伝記に興味あるんだ・・・︶
彼女の、リースさんの。
︵髪をかき上げてる姿、かわいい︶
一挙手一投足に。
イギリス
︵あれは母国が舞台のファンタジー小説・・・︶
目が持っていかれてしまって仕方がなかった。
内容が一切入ってこないのに本を読むふりをして、ページをめく
243
るたびにリースさんを見てしまう。
どうしよう、見てるのがバレたら。
でも見てるのわたしだけじゃないだろうし。仮に見てるからなん
だっていうの。
そんな堂々巡りをしていたら、下校時間のアナウンスが流れ始め
た。
︵ああ、終わっちゃった︶
もっと彼女を見ていたかった。こんなに時間の経過が早く感じた
のは本当にいつぶりだろう。
生徒たちがあわただしく図書室から出ていく。
別
わたしがリースさんを目で追いながら、図書室の点検をするため
にカウンターから立ち上がろうとした、その時。
︵え、ウソ・・・!?︶
リースさんがこちらに歩いてきている。
ち、違う違う!
あれはたまたまこっちに向かって歩いているだけであって!
にわたしがどうとか関係・・・
﹁イツキさん、この本を借りたいのデスが﹂
その瞬間、心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じた。
﹁あ、えと。図書カード、ありますか?﹂
244
それに反して自分の行動があまりに冷静だったことに、自分で驚
く。
わたしは他の生徒全員にするべきマニュアル対応でリースさんに
接していた。声が上ずることも、震えることもなく、自然に。
﹁トショカード・・・?﹂
そこに日付とスタンプを押して
彼女は小首を傾げる。ああ、かわいいなあもう。
﹁生徒手帳に挟まってませんか?
本を借りた印を残すんです﹂
﹁ナルホド。少し待っててくだサーイ、確か生徒手帳は・・・﹂
リースさんは胸ポケットから生徒手帳を取り出す。生徒手帳にな
りたい。
﹁あ、これですね・・・。少し待っててください﹂
わたしは引き出しから一度仕舞ったペンとスタンプを取り出す。
そして、そこで気づく。
図書室に、今、2人しか居ないことに。
︵ま、まさか・・・!?︶
急に緊張してきた。だって、今なら。
︵今なら、なんでもし放題じゃないですかー!?︶
頭に何かが上がっていくのを感じた。
245
わたしが夢にまで見た2人きりのシチュエーション。こんなチャ
ンス、二度と来ない。
﹁明日、学校休みデスネー﹂
﹁そ、そうですね・・・﹂
﹁ワタシ、日本のクリスマス休暇は23日ダッテ、知りマセンでシ
タ﹂
﹁そ、そうですね・・・﹂
﹃12/22﹄という日付を書き、朱肉に強く押したスタンプを、
押す。
﹁日本のクリスマスはイギリスとはちょっと違いますケド楽しいデ
スネ。日本のハロウィーンも、イギリスとは少し違って楽しかった
デス﹂
﹁そ、そうですね・・・﹂
わたしは図書カードをリースさんに手渡す。
手渡そうとしたんだけれど。
﹁イツキさん・・・?﹂
カードを、手放せない。
これを手放してしまったら、終わってしまう。2人だけの時間が、
空間が。
あなたの事が好きです!!﹂
彼女はどこかへ行ってしまって、もう二度と触れられない。そん
な気がする。
﹁わ、わたし!
246
何をどうしてこうなったのかは分からない。
﹁リースさん、わたしと付き合ってください!﹂
﹁す、好き?
愛してます!﹂
ワタシを?﹂
気づいたら、そんなことを口走っていた。
﹁ラブです!
﹁ま、待ってくだサイ。あの、えと・・・﹂
﹁一緒にクリスマスを過ごしましょう!!﹂
何も考えない。何かを考えたらわたしはそこで止まってしまう。
ここまで来たら後戻りなんてできないんだ。どうせ倒れるなら、
前のめりに倒れたい。
﹁は、ハイ・・・。嬉しいデス﹂
えっ︱︱︱
自分で言っておいて何を言っているんだと思うけれど、最初に感
じたのは戸惑いだった。
﹁じゃ、じゃあ!﹂
﹁お付き合い、しマショウ﹂
﹁本当ですか!?﹂
リースさんの手を握って、ぶんぶんと上下に振る。
﹁こんな情熱的なコクハクは初めて、デス・・・。イツキさん、ゴ
ーイン・・・﹂
﹁わ、わたしの事はあやせと呼んでください!﹂
247
﹁ハイ、アヤセ・・・。フツツカモノですが、ヨロシクオネガイシ
マス﹂
彼女のカタコトが全開になっているのを初めて見た。かわいい、
かわいすぎる。抱きしめたい。
﹁わたしの方こそ!﹂
でも、もうこの子はわたしのものだ。わたしのリースさんなんだ。
そう思うと、いつまでもいつまでも興奮を抑えきれなかった。
◆
翌々日。いつものように学校へ登校する。
今日の気分は最高。何せ特別な1日だ。
︵とっておきのプレゼント、リースさん喜んでくれるかな︶
楽しみで楽しみで、学校へと続く坂道も足取りが軽くてしょうが
ない。
教室に入ると、いつものように彼女は窓際の最後尾、そこに座っ
リース・・・﹂
ていた。外の雪景色を見つめているリースさんは幻想的ですらある。
﹁あ、あの!
わたしはただ、彼女に話しかけようとした。でも。
248
﹁ヒドイデス、アヤセ・・・﹂
震えた声に、わたしは頭が真っ白になる。
﹁ど、どうしたんですか・・・?﹂
﹁ワタシの気持ちを弄んでっ﹂
彼女はそれだけ言うと、席を立って教室を出て行ってしまった。
どうして?
ぽつんと、わたしが教室に残される。
え?
何が起きたのか、状況が理解できない。
︱︱︱どうして彼女は泣いていたの?
﹁あー。今はあの子に話しかけない方が良いよ﹂
クラスメイトの1人が、そう言ってわたしの肩に手を置く。
﹁な、何か知ってるの!?﹂
﹁お、おう。五ツ木さん、どうしたの急に﹂
﹁良いから教えて!!﹂
彼女はわたしの剣幕に驚いたのか、たじろぐ。
﹁いや、昨日陸上部の練習で学校来てたんだけどさ。あの子、クリ
スマスツリーの下にずーっと立ってて﹂
わたしはその瞬間、
249
﹁あ、ちょっ、五ツ木さん!?﹂
鞄を放り投げて、気づいたらわたしは走っていた。
リース、リース、リース︱︱︱
話をしなきゃ。彼女に、謝らなくちゃ︱︱︱
﹁リース!﹂
彼女を捕まえたのはクリスマスツリーの前だった。
リースはそれを振り解くこともせず、わたしの目から視線を逸ら
す。
﹁ごめんなさい!﹂
わたしはただ、頭を下げ、謝った。
﹁昨日、ここで待っててくれてたんだよね、わたしのこと﹂
﹁そうデス・・・﹂
ぽつり、リースが零す。
﹁どうして来てくれなかったんデスカ!﹂
・・・、なのに、アヤセは来てくれなカッタ!﹂
クリスマスにこのツリーの下でキスしたカップルは永遠に結ば
こんなに声を荒げた彼女を、初めて見た。
﹁
れる
250
悲壮。彼女が涙を我慢しているのがこちらにも伝わってくるほど。
﹁ずっと一緒に居たいって思ってたのは、ワタシだけだったんデス
か!?﹂
そこでまた、彼女の目から大粒の涙が溢れてくる。
リースはそれを我慢しきれず、手で拭って泣きじゃくった。
﹁違う・・・、違うの!﹂
わたしは一歩、彼女に歩み寄る。
﹁何が違うんデスかぁ、日本のクリスマス休暇、の、昨日が・・・
日本でのクリスマスの日なんでしょ!?﹂
﹁・・・!﹂
これか︱︱︱
これが、わたし達のすれ違った原因︱︱︱
﹁リース、わたしの事、叩いて﹂
﹁な、何を・・・﹂
﹁思いっきり、ぶって﹂
わたしは自分の胸に手を当てる。
﹁リースが感じた痛みの何万分の一でも、わたしは一緒に感じたい﹂
そこで、初めて。
彼女はわたしの事を見てくれた。
251
﹁い、いいんデスか?﹂
﹁もちろん﹂
覚悟を決める。
その数秒後、右頬を思い切りビンタされた。
﹁・・・っ﹂
リースはそれを見て、彼女自身が青くなっていた。
﹁だ、大丈夫デスカ!?﹂
﹁ナ、ナイスパンチ・・・っ﹂
自分の右目から涙が出ていると分かっていたけど、何とかそう言
って親指を立てた。
そして隙を見せた彼女を︱︱︱思い切り抱きしめる。
﹁アヤセ・・・?﹂
﹁ごめんねリース。ちゃんと言わなかったわたしが悪い。昨日はク
リスマスイヴイヴの祝日じゃないの﹂
﹁え・・・、デモ、学校休みデシタ・・・﹂
﹁昨日は天皇誕生日の祝日・・・、クリスマスは関係ないの﹂
リースを強く、強く抱きしめる。
﹁でも、デモ・・・、﹂
彼女はそこでスン、とまた泣き始めた。
252
﹁昨日、寂しかった。ずっと、ひとりデ・・・﹂
﹁ごめん。ごめんね。わたしはもう、あなたをひとりにはしない﹂
ただ一点、彼女の青い瞳を見つめる。
﹁これからは、ずっとふたりだよ﹂
わたしはリースにキスをした。
永遠に結ばれる、魔法の呪文を唱えたのだ。
今日は、1日遅れの12月23日︱︱︱クリスマス・イヴ。
253
二人のサンタクロース
隣の部屋から妙な音がする。
そう気づいたのはなかなか寝付けず、布団の中で悶々としていた
正輝・・・?︶
時だった。
︵智樹?
小学生がこんな真夜中に何やってるの。ここは姉らしく叱る事に
しよう。
子供部屋の前に立つと、案の定中から音が聞こえる。
ふと、ドアノブに伸ばした手が止まった。
︵この声は、ラッキー?︶
お姉ちゃん怒・・・﹂
家で飼っているわんこ。もうおじいちゃん犬で、深夜に騒ぐなん
て事はしないはずなんだけど。
大方、弟たちが尻尾でも踏んだのだろう。
︵よし︶
わたしは顔を振って気合を入れる。
﹁ちょっとアンタ達、何時だと思ってるの!
服、服が伸びるっ・・・!﹂
バン、とドアを開けて部屋の中を見ると。
﹁おいバカ放せこの犬公っ!
254
サンタのコスプレした女の子が、犬に噛まれてもんどりうってい
た。
﹁この、いい加減にっ﹂
﹁ふ、不審者・・・﹂
あまりに予想外な光景に、口から上手く声が出てこない。
﹁げっ!?﹂
コスプレの女の子の視線がこちらへ移る。
﹁きゃ・・・﹂
大声で叫ぼうとした瞬間、彼女はこちらに突進してきて、わたし
は無理矢理押し倒された。
気づくと上には馬乗りになったサンタコスプレイヤー。
そしてわたしの口は彼女の両手で塞がれていた。
﹁んぐんぐ・・・﹂
必死に叫ぼうとするけれど、体勢が不利過ぎる。
静かにしろって!
アンタんとこのガキが起きちまう
どうすることもできないまま、じたばたと暴れるように身体を動
かした。
︵しーっ!
だろ!︶
女の子が耳元の近くで声を殺して言う。
255
わたしが抵抗をやめると、案外簡単に彼女はわたしを解放してく
れた。
﹁けほっ、けほっ・・・。あなた、何なんですか?﹂
﹁見て分かんないかい?﹂
彼女は自分の服装を強調すると。
﹁どっからどう見てもサンタクロースに決まってんだろ!﹂
自分に親指を向けながら自信満々に叫んだ。
その瞬間、弟たちのベッドから寝返りを打つ声が聞こえる。
サンタコスの女の子はびくんと身体を震わせ。
︵静かにしろっつっただろ!︶
︵あなたが大声出したんでしょ!?︶
自称サンタはわたしに覆いかぶさって、しーっと人差し指を立て
る。
どこが不審者だよ、おたくサンタ知らねーの?︶
︵どこからどう見てもただの不審者じゃない!︶
︵はあ?
︵わたしの知ってるサンタさんは白髭のおじいちゃんだもん!︶
︵全員が全員ジジイとは限らねーだろ!︶
夜中、弟たちの子供部屋でコスプレイヤーの女の子に押し倒され
ながら口論する事になるなんて・・・。
頭に血が上っているせいか、これがどれほど異質なことなのか、
わたしは気づいていなかった。
256
サンタコスの女の人なんて目
テメェんちのガキにプレゼントあげに来てやったのに、
︵あなたねえ、これは立派な住居不法侵入ですよ!︶
︵ああ!?
人をなんだと思ってんだ!︶
︵弟たちはまだ小学生なんですよ!
に毒です!︶
︵こんのババア、あたしを痴女呼ばわりとは良い度胸じゃねぇか!︶
︵バ、ババア!?︶
わたし、まだ16歳の高校生。
︵ここでこうしてても仕方ねぇ。あたしがサンタだって言う証拠を
見せてやんよ。表へ出な︶
ようやくわたしに覆いかぶさっていた身体を起こす。
本当なら今すぐにでも逃げてお父さんとお母さんを起こすべきな
んだろうけど、このコスプレイヤーがそこまで言うならサンタだっ
ていう証拠を見せてもらおうじゃない。
そう思い、一緒にベランダへと出た。
﹁少子化少子化って言うけどさ、この街にどんだけのガキが居ると
思う?﹂
サンタコスの女の子は外へ出ると、信じられないことに煙草を取
り出し、マッチで火をつけ、一服し始めた。
﹁サンタさんが煙草を吸うの?﹂
﹁あたしゃ成人してんだ。吸っちゃいけねぇ道理はねえだろ﹂
成人って。20歳以上ってことだよね。
257
﹁わたしより年上!?﹂
﹁まあそうなるわな﹂
ババア
﹁さっきわたしの事ババアって!﹂
﹁小学校卒業したら大人だろ﹂
彼女は白く濁った息を吐きながら言う。
﹁サンタさんがプレゼントをあげるのは子供だけ、ジジイババアに
はやらねぇってコトさ。仕事上そう呼ぶことが多くてね。アンタの
気に障ったなら謝るよ﹂
﹁・・・中学生になってもサンタクロースを信じてる子は居ると思
うけど﹂
﹁信じる信じないは個人の自由だ。ただ、あたし達がプレゼントを
配るのは小学生まで。どこかで期限を設けねえと、それこそ成人し
たのにプレゼントくれっつーバカには付き合ってらんねーだろ﹂
わたしは呆気にとられて、しばらく黙ってしまった。
﹁・・・なんか、不審者とか言ってごめんなさい﹂
﹁んあ?﹂
彼女は煙草を片手に、こちらを振り向く。
﹁ちゃんと話をしたら、意外としっかりした人で驚いちゃった﹂
﹁なんだよ。アンタはサンタさんを信じてないのかい?﹂
﹁わたし高校生だよ。さすがにもう、信じてなかった﹂
サンタコスの女の子の目を、きちんと見て。
258
﹁でも、あなたのおかげでもう1回信じてみようって、思えた。プ
レゼントありがとう。弟たちもきっと喜ぶと思うわ﹂
感謝の言葉を口にする。
﹁なんか、改まってありがとうって言われると、照れるな・・・﹂
サンタさんはベランダの外の雪景色を見つめながら、赤くなった
頬をかく。
﹁仕事柄、あんま直接お礼言われることねぇから・・・﹂
﹁子どもたちはみんな、ありがとうって思ってるよ﹂
不意に、彼女に肩を寄せる。
﹁こんな寒い中、こんな夜中に。大変だよね﹂
その時。
﹁げっ﹂
わたしの持っていたスマホの時間を見て、サンタさんは顔の色を
真っ青にさせる。
﹁2時から4時までの仕事が、まだ残ってんの忘れてた・・・﹂
﹁え、ええ!?﹂
今、もう3時半なんですけど。
﹁やべぇ、ノルマ達成できなかったら・・・最悪、資格はく奪され
259
るかもっ・・・﹂
﹁ど、どうするの!?﹂
﹁な、なあ。無理は承知でお願いがあるっ!﹂
嫌な、ものすごく嫌な予感がする。
﹁手伝ってくれ・・・!﹂
このとーり!!﹂
彼女はパンっ、と両手を合わせて頭を下げた。
報酬は弾むから、
﹁い、イヤ!﹂
﹁頼む!
﹁ムリムリ、絶対無理!﹂
何をやらされるかは知らないけど、サンタさんなんて出来っこな
い!
﹁人助けと思って、な、良いだろ!?﹂
﹁は、放してぇ・・・﹂
無事全部終わったら何でも言うこと聞くから!﹂
必死に逃げようとするけれど、このサンタさん、細身のくせに力
が強い。
﹁た、頼む!
手伝います﹂
瞳を潤ませながら懇願するこの子を見てたら、さすがに良心が痛
む。
・・・状況が状況だ。
﹁わ、分かった。分かりました!
260
﹁ホントか!?﹂
﹁お礼、お願いしますね﹂
﹁も、もちろん!﹂
そして彼女は満面の笑みを浮かべながら。
﹁じゃあまず、この服に着替えて!﹂
わたしの目の前に、サンタクロースのコスプレ衣装を差し出した。
﹁うう・・・。恥ずかしい・・・﹂
部屋着を脱ぎ、真っ赤なサンタ衣装に袖を通す。
﹁アンタ、いい尻してんなあ。あと意外とパンツが大人っぽい・・・
﹂
﹁いい加減にしないとホントに怒るよ!?﹂
とりあえずパンツを凝視するサンタを一発ぶん殴っておいた。
早く終わらせなきゃならないんでしょ!?﹂
﹁いてて・・・。なかなか似合ってんじゃん﹂
﹁良いから!
コスプレみたいな恰好を見られるのが恥ずかしくて、思わず顔を
背けてしまう。
﹁よし、じゃあいくか。ステルスモード、解除!﹂
女の子がそう言うと、今まで夜景が見えていたはずのベランダに、
大きな影が現れた。
261
そこにあったのは宅配業者が使っているような小型トラック。何
のことはない、それが宙に浮かんでいることだけが不思議なだけで。
面白い事言うねえ嬢ちゃん!
それタクシー見て﹃駕
﹁あの、トナカイのソリとかじゃ・・・?﹂
﹁ははは!
篭じゃないの?﹄って言ってんのと同じだよ﹂
そう、なのかなあ。そんな疑問が浮かんできたけれど。
﹁大体、ソリなんか乗ってたら寒くて仕方ねーだろ。風当たるし﹂
その意見を聞いて、なんか妙に納得してしまった。
確かに、寒いのは嫌だ。
サンタさんは運転席に、わたしは助手席に座る。
﹁運転と窓の鍵の解除はあたしがやる。アンタの役割は荷卸しだ﹂
﹁う、うん﹂
シートベルトを締めると、彼女はアクセルを思い切り踏み込んだ。
飛ばし過ぎじゃない!?﹂
ものすごいスピードで景色が後ろに流れていく。
﹁ちょ、ちょっと!
ははは、気持ちいい∼!﹂
怖いなんてものじゃない。空を飛んでるだけで足がすくむのに。
﹁空にはスピード違反が無いんでねぇ!
ダメだこの人。会話ができない。
そしてあまりにも急な急ブレーキでわたしはフロントガラスに鼻
262
アンタ、鼻真っ赤だぜ。トナカイかよ﹂
をぶつけてしまう。
﹁あはは!
けらけらと笑うサンタ。
・・・後で覚えてなさいよ。
わたしは込みあがっている黒いものを抑えて、外に出る。
﹁おい、サンタさん﹂
その時。
﹁絶対に見つかるなよ。あたし達は子供の夢なんだぜ﹂
そう言って笑った彼女の顔は。
紛れもない。子供に夢を配る、希望に溢れた笑顔だった。
◆
3時59分。
﹁あー、終わった∼﹂
人気のない路肩にトラックを停め、サンタさんは腕を伸ばす。
﹁ありがとな。アンタが居なかったら無理だったよ﹂
﹁・・・﹂
263
わたしはそんな彼女を見つめて、ひとつ思うところがあった。
﹁なんだよ、黙りこくって﹂
﹁・・・ねえ﹂
彼女の目を見つめて。
﹁サンタコスって、ちゃんと見ると、意外とかわいいね﹂
﹁おっ、アンタ分かるね。そうなんだよ。これかわいいんだよな﹂
サンタさんがそう言い終わるか終わらないかの時。
何でも言うこと聞くって﹂
わたしは彼女を強く抱き寄せていた。
﹁なっ・・・﹂
﹁さっきの約束覚えてるよね?
﹁そ、そりゃあ、まあ﹂
﹁じゃあ、これから結構なコトするけど、抵抗しちゃダメだよ・・・
?﹂
成人なのに﹂
おとな
大きく膨れている彼女の胸に手を這わせながら、ささやく。
﹁ひゃあ・・・んんっ﹂
﹁サンタさん、こういう事され慣れてないよね?
顔を真っ赤にさせて黙ってしまうサンタさんがかわいくて。
わたしはそのまま、手を止めることが出来なくなってしまった。
264
ダブルエー ︻序︼
﹁きょうからここは俺たちのもんだからな!﹂
まだ、物心もついていない
あれはもうどれくらい前の事だっただろう。
わたしが3歳、4歳、5歳・・・?
頃。
とにかくある日、わたし達は公園から締め出しを食らった。今ま
でみんな仲良く使っていた遊び場が、小学生を中心とする集団に乗
っ取られたのだ。
抗議しようものなら暴力を振るわれそうな雰囲気で、怖くて何も
できなかった。
公園をとりもどすんだ!!﹂
そんな時だ。
﹁いくぞ!
ヒーローは突然やってきた。
わたしが見たのは大勢の子どもたちが公園に向かって走っていっ
た姿。
これは大げさな言い方だ。でも。
その時わたしは、生まれて初めて戦争を見た。
﹁へっ、おとといきやがれ﹂
265
泣きべそをかきながら公園から出ていく敗者。それを見送るボロ
ボロの勝者。
戦いを分けたのは1つの水飲み場だった。ホースを使い水を自由
自在に扱った、後から来た一団が戦いに勝ったのだ。
﹁あ、あの!﹂
みんなに押されながら、わたしが一団のリーダーの前に立つ。
﹁あ、ありがとう。・・・あのね﹂
分かってる。これが子どもの遊びなんて事は。
﹁かっこよかった﹂
周りからヒューヒューと囃し立てる声が聞こえてきた。
﹁あいつらがまた来たら、いつでもボクたちを呼んでよ﹂
身体中ボロボロになった一団のリーダーは、にかっと笑いながら
言う。
﹁絶対に君を守るから!﹂
ああ、ヒーローって、テレビの中の戦隊ヒーローや、変身ヒロイ
ンじゃないんだ。
わたしのヒーローは、ここに居る︱︱︱
266
◆
﹁わー、麻衣ちゃんはやーい﹂
わたしの家はアスリート一家・・・なんて大層なものじゃないけ
れど、運動一家だった。
お父さんは陸上の大学日本代表にも選ばれたことのある選手だっ
た。お母さんは高校バスケットボールで全国大会に出場したことが
あるらしい。
当然、わたしにはその血が流れていた。運動でわたしに勝てる子
なんて、会ったことが無い。
女子は勿論、男子にも、わたしより足が速い子なんて見たことが
無かった。
だから、なのか。
﹁私、佐藤好きだなあ。かっこいい﹂
同級生がきゃっきゃ言いながら異性の事を好きだと話すのが、ど
うも理解できなかった。
そのことを、1番の親友だと思っている子に話したこともある。
﹁そりゃ、麻衣に勝てる人なんて居ないよ﹂
返ってくるのはそんな言葉だけで。
わたしの本当に知りたいことは、誰も教えてくれなかった。
﹁いでっ!﹂
267
﹁おい麻衣、お前手加減しろよ﹂
男子が不満そうに言いながら外野へ走っていく。
わたしの投げるドッジボールは弾丸と呼ばれるほど強力なものだ
った。
そのことに気づいたのが、小学校3年生の時。
﹁嘘だろ・・・﹂
﹁あれ、女の投げる球じゃねぇよ﹂
わたしは親に奨められて少年野球を始めた。
でも、ここでも同じことの繰り返しだ。誰もわたしに勝てない。
6年生の上手い人が、相手になるかどうかと言うところ。
4年生に進級する頃には、わたしは少年野球をやめて市の女子野
球チームに入っていた。
入ってすぐ、エースになる。
ここでも、誰もわたしに勝てない。投げても打っても走っても、
わたしが1番上手いんだ。
﹁4番、ピッチャー逢沢﹂
何をやっても満たされない。なんでこんなに楽しく
だから隣の市との練習試合で、わたしがエースで4番になるのは
当然だった。
︵どうして?
ないの?︶
練習試合でも黙々とボールを投げ続ける。
どうせ、誰もわたしの球は打てない。打てるわけがない。
268
わたしは
さいきょう
なんだ。みんなとは違う。
誰も、わたしと一緒には︱︱︱
その瞬間。
金属バットの音がこんなにうるさく聞こえたのは初めてだった。
打球はぐんぐんと伸び、センターの頭を超え、グラウンドを転々
とする。
︵うそ・・・︶
わたしの本気の球が外野まで運ばれたのは、初めての事だった。
呆然と外野を見つめるわたしの視界。その端に映ったのは。
ホームベースに滑り込んでガッツポーズをする、
﹁よっしゃあ!!﹂
ヒーローの姿だった。
3回を投げて、6失点。
わたしが運動で負けたのは、間違いなく初めて。
﹁ねえ!﹂
居てもたってもいられず、わたしは相手ベンチへ向かい、彼女に
話しかけた。
う、うん﹂
﹁あなた、峯山アパートに住んでたでしょ!?﹂
﹁・・・え?
269
分かる。わたしには分かる。
まいひめ
だよ・・・!﹂
さっき、わたしの打球を外野まで運んだこの子は。
﹁わたし、
まいひめ
って、あの!?﹂
幼かったあの日。わたしの前に現れた、
﹁
﹁そうだよ。公園でよく遊んだよね、わたし達﹂
ヒーロー
そっかそっか。君かぁ・・・﹂
その人だった。
﹁ホントに・・・?﹂
﹁うわあ、懐かしい!
彼女は帽子を脱ぐと、すぐにベンチを立ち上がってわたしの近く
へ寄ってくると。
﹁ずっっっと、会いたかった!﹂
思いっきり抱き着いてきた。
﹁なっ、ちょ・・・!?﹂
あまりに予想外な行動に、顔が真っ赤になる。
なに、なになに?この気持ち。
身体中が熱くなって、頭の中がぐちゃぐちゃになって、何も考え
られなくなって。
270
まいひめ
と運命の再会をするんだって、ず
夢が叶ったよぉ∼﹂
﹁あたしね。いつか
っと思ってたの!
﹁うー、離れなさいよ暑苦しい!﹂
﹁やーだよー﹂
まいひめ
だったなんて﹂
心臓がすごくドキドキするこの気持ちは、何なの。
﹁驚いたよぉ。あの逢沢さんが
夕焼けの河川敷を2人で歩く。
いつも1人で歩く道とは、景色が、ううん。何もかもが、まった
あの
麻衣は有名人なんだよ。隣街にとんでもない逸材
逢沢さん?﹂
く違って見えた。
﹁
﹁知らないの?
が居るって!﹂
﹁大げさだよ﹂
わたしなんて。
﹁貴女に、打たれちゃったし﹂
わたしなんて、貴女に比べたら。
﹁まあねー。ま、あたしを抑えられるピッチャーなんて居ないっし
ょ﹂
ヒーローの貴女に比べたら、わたしはただの人。ただの1人の、
小学生の女の子。
そう、思った瞬間。
271
あたしの顔になんか付いてる?﹂
どくん、と。心臓が高鳴ったのを感じた。
﹁なに?
﹁う、ううん・・・﹂
なんとなくわかった。みんなが言う、人を好きになるって感覚が。
この気持ちが、恋︱︱︱
︵そうか、わたしはただ・・・︶
さいきょう
のわたしを、普通の子として見てくれる人を、探
普通で居たかっただけなんだ。
してたんだ。
◆
﹁勝てば県大会出場だ。いつも通りの野球をしよう!﹂
監督の言葉に大声で返事し、散っていく。
小学校6年生の、7月。このチームで戦うのはこの大会まで。
負ければそこで終わり、勝てば県大会出場。
わたしはこの2年半で全日本の代表になり、世界大会にも出場し
た。
そんなわたしにとって県大会なんてものは、規模の小さな大会で
しかなかったと思う。
272
でも。
︵相手がれんちゃんなら、話は別︱︱︱︶
秋山蓮華。それがヒーローの名前だった。
れんちゃんはお金が無くて日本代表には入ったことが無い。
そして日本代表には確かにれんちゃんより打てるバッターは何人
もいた。
でも。
︵れんちゃんより才能のある選手は、1人だって居なかった︶
本気で練習をしたら、れんちゃんはきっとすごい選手になる。
世界最強のバッターにだってなれる。
︱︱︱でも
わたしの投げたストレートに、れんちゃんのバットは掠りもしな
かった。
︱︱︱今の段階では、負ける気がしない
3打席連続三振。それがれんちゃんの小学校最後の試合の成績。
結局わたしは1人のランナーも出すことなく、試合はコールド勝
ち。結果として、県大会への切符を手に入れた。
﹁すごいね麻衣。これが世界レベルかあ、はは・・・﹂
わたしの前では気丈に振る舞っていたけれど、
273
試合直後、れんちゃんは大泣きしていた。
わたしは彼女が泣いている姿を、初めて見た。
公園で小学生相手にどれだけ殴られても泣かなかったれんちゃん
を。
︵わたしが泣かせたんだ︶
なに。なんなのこの気持ち。
色々な感情がごちゃごちゃになって、自分ではこれが何なのか分
からない。
分かることは、勝ったのに全っ然嬉しくないと言うことだけ。
今まで、相手がどんなに弱かったとしても、勝てば達成感があっ
た。充実感があったのに。
今は、何もない。
﹁れんちゃんのばかっ!﹂
わたしにこんなにボロ負けして、なんでそん
気づくとわたしは激昂していた。
﹁悔しくないの!?
2年前、わたし、れんちゃんに全然歯が立たなかっ
な風にへらへらしてられるのよ!﹂
どうして。
﹁覚えてる?
たんだよ!?﹂
274
わたしは死に物狂いで練
どうして勝ったわたしの目から、涙が出てくるんだろう。
なのに!!﹂
﹁あれが悔しくて、悔しくて悔しくて!
習した!
こんな事を言うのは筋違いだ。そんなのは分かってる。
でも、でも。
れんちゃんだけは、れんちゃんの事に関してだけは、冷静でいら
れなくなる。いつもの自分を保っていられなくなる。まわりが見え
なくなって、他人なんかどうでもよくなってくる。
﹁れんちゃんはこの2年間、何してたの!?﹂
この気持ちが恋じゃないとしたら、何だっていうの。
﹁ねえ、答えてよ!!﹂
・・・しまった。
今のはいくらなんでも言い過ぎた。
れんちゃんはわたしみたいに、望めば何でも手に入るわけじゃな
い。思うようにならないことだってたくさんある。それを、誰より
も分かっていたはずなのに。
﹁麻衣、ごめん﹂
突き放されるのも当然だ。
れんちゃんの人生はわたしのものじゃない。それをどうにかしよ
うなんて、独りよがりでしかないじゃない。
でも、でも・・・。
275
それでもわたしは、れんちゃんには、れんちゃんにだけは。
︱︱︱ヒーローで、居て欲しかった
◆
﹁三崎小出身、逢沢麻衣です。よろしくお願いします﹂
頭を下げる。
つまらない。みんな、つまらない顔をしている。
︵これから3年間、こんなところで過ごすのか︶
それが億劫で仕方が無い。
﹁篠浦小から来ました。秋山蓮華です﹂
一目、その姿を見た瞬間。
気づくとわたしは、後ろを振り返っていた。
︱︱︱
せかい
﹁目標は女子野球部で、全国制覇をすること!﹂
いろどり
わたしの世界は彩を変えた。
その一瞬で。間違いなくわたしの日常は、崩壊したんだ。
276
ダブルエー ︻破︼
思い切り腕を降ってボールを放つ。
自慢の直球に相手バッターは完全に振り遅れ、三振で3アウト、
チェンジ。
﹁ひゃー、すごいねあの1年﹂
﹁U−12の日本代表でエースだった子でしょ?﹂
まわりからの雑音をスルーする術は世界大会で身に着いたものの
1つだ。
海外でのブーイングやヤジは割とえげつない。そういうものを無
視していたら、自然と出来るようになっていた。
﹁麻衣、ナイスピッチ﹂
﹁うん。れんちゃんが相手だから安心して投げられるよ﹂
キャッチャーマスクを外しながら、れんちゃんのグラブとわたし
のグラブをこつん、と合わせる。
今日は春の新人大会。わたしもれんちゃんも1年生だけど、この
試合のスタメンを任されていた。
﹁次の回からはカーブも使っていこう。相手もそろそろストレート
を見慣れてきただろうし﹂
れんちゃんは投手をたてるタイプのキャッチャーだ。わたしの事
を優しくリードしてくれる。
だから、安心して投球に専念することができた。
277
そして。
﹁タイムリーツーベース!﹂
﹁あの1年、また打ったよ!﹂
2塁で大きくガッツポーズをするれんちゃん。
れんちゃんはようやく、本来の力を発揮し始めていた。
わたしが小学校最後の試合でれんちゃんに怒って以来、彼女は目
の色を変えて野球に取り組むようになったと言う。
事実、わたしもれんちゃんも地元の中学ではなく硬式野球部のあ
る私立中学へ進学した。
全寮制で、ひたすら野球に専念できる環境。れんちゃんはご両親
の反対を押し切り多額の奨学金を借りたらしい。
わたしとれんちゃんは寮の2人部屋で同室になった。文字通り朝
起きてから夜寝るまで、ずっとれんちゃんと一緒。
﹁麻衣ってさぁ、身体の線細いよねえ﹂
れんちゃんがそう切り出したのは、部屋の個室風呂に2人で入っ
ていた時のことだった。
﹁え、そ、そうかな・・・﹂
﹁それであのストレート投げられるってすごいよ。全身がバネでで
きてるみたい﹂
﹁投手としてもう少し、体重上げた方が良いのかな﹂
﹁や、そんな事はまだ考えなくて大丈夫だよ。変に太って今の投球
スタイルが崩れたら元も子もないし﹂
278
無邪気に笑うれんちゃんを見て、羨ましいと思う。
いつもお風呂に2人で入ってるけど、正直目のやり場に困る。
れんちゃん、身体つきがどんどん女っぽくなってるっていうか。
胸も日に日に大きくなっていって、お尻とか、全身が丸みを帯びて
きている。
自分の身体を見ているだけじゃ気づかない、女の子が女性になっ
ていくのをまじまじと見ているようで、恥ずかしくなる。
見ている相手が恋心を抱いている相手なら尚更だ。
中学生には、刺激が強すぎる。
﹁んっ、んぁ・・・はうぅっ・・・﹂
﹁麻衣、わざとエロい声出してない?﹂
﹁ち、ちがっ・・・ぅんん!﹂
お風呂から出ると、れんちゃんは毎日わたしにマッサージをして
くれていた。
誰に言われたわけでもないらしいけれど、先輩辺りに吹き込まれ
たんじゃないかって思ってる。
投手は重労働だ。肩、肘、腰、脚、どこかに異常が出たら他の箇
所も悪くなって、選手生命を絶たれる可能性が出てくる。
それを防ぐため、毎日お風呂上りに上半身裸のままうつ伏せにな
って、れんちゃんはわたしの上に馬乗りになり、マッサージをして
くれるんだけど。
分かってる。これは変な意味じゃなくて、ちゃんとしたマッサー
ジ。アスリートとして必要な事。
わたしだって相手がトレーナーやコーチの人、両親だったなら何
279
とも思わない。
でも、繰り返すようだけどそれをしてくれるのが自分が誰よりも
好きな子だったなら。
感じないわけがない。・・・絶対に口には出さないけれど。
﹁あ、ありがとれんちゃん・・・。ごめんね、毎日毎日﹂
﹁いいって事よ。あたしに出来ることならなんでもやるから﹂
そんな事を言いながら笑うれんちゃん。
1年生エース逢沢、準決勝
、れんちゃんのこの対応はもはや重
﹁いつでも頼ってくれていいんだよ。どんな時でも、あたしは麻衣
の味方だから﹂
たとえ無自覚だとしても
心の中の黒い声が言う。
罪だと。
◆
﹁武蔵女子、10年ぶりの全国制覇!
に続き完封でV﹂
﹁武蔵連覇成る。エース逢沢を支えた4番秋山が試合を決めた!﹂
連覇で迎えた中学最後の全国大会決勝戦。
1点リードで最終回、フォアボールで出したランナーが3塁に。
ヒット1本で同点に追いつかれる。
280
﹁相手は関西最強のバッター麻野。1塁も空いてるし、無理して勝
負する場面じゃないね﹂
マウンドに駆け寄ってきたれんちゃんはそう言って、わたしにボ
ールを手渡す。
目を見ると、れんちゃんはまっすぐにこちらを見ながら。
﹁勿論、勝負だよね﹂
と言って、わたしの胸をぽん、とグラブで押した。
﹁あたしと麻衣の2人で、出来ない事なんて何もない。麻野を抑え
て試合を終わらせよう!﹂
﹁れんちゃんが敬遠しようって言ったら、どうしようかと思ったよ﹂
﹁あたしも。お互い考えることは一緒だね﹂
れんちゃんはウィンクし、笑って見せるとホームへ戻っていく。
︵わたしとれんちゃん、2人ならなんだって出来る。れんちゃんは
わたしの半分・・・︶
嬉しいことも悲しいことも、楽しいことも辛いことも、全部はん
ぶんこにして3年間戦ってきた。
そんなわたし達2人だから。
勝負を避けるなんて選択肢は、最初からなかったんだ。
︱︱︱夏の全国大会3連覇。
輝かしい金字塔を立ち上げて、わたし達の中学野球は終わりを告
げた。
281
◆
﹁進路調査って言われても﹂
﹁この学校エスカレーター式だから受験する必要もないんだよねー﹂
夏休み最後の日、わたし達は最後の宿題である進路調査書に、﹃
附属校への進学﹄と適当に書くと、学校の購買で買ってきたアイス
を一緒に食べていた。
﹁あ、いちご味良いな、一口ちょうだい﹂
﹁はい、あーん﹂
﹁あ∼∼ん﹂
スプーンをれんちゃんに向けると、ぱくっとそれを頬張って美味
しそうに顔を緩ませた。
﹁なんか、麻衣の味がする﹂
その言葉を聞いて、思わず吹き出しそうになる。
﹁へ、変な事言わないでよ!﹂
心臓がドキドキと鼓動を打って仕方ない。
試合中でもこんなにドキドキする事なんて無いのに。
﹁ねえ、麻衣﹂
﹁もうあげないから!﹂
282
﹁そうじゃなくてさ。あたし達、ずっと一緒に居ようね﹂
れんちゃんは何でもないようにその言葉を使う。
﹁高校行っても、その先どうなっても、あたし達ずっと一緒だよ﹂
﹁・・・﹂
どうしよう。この言葉に、軽くうなずいていいものだろうか。
きっとれんちゃんはただの日常会話程度にしか思ってない。
でも、わたしは。わたしは違う。
このままでなんて居たくない。わたしは、れんちゃんに好きって
言って、キスとかしたい。
そんな事を願ってしまうのは、やっぱり独りよがりだろうか。
﹁麻衣。おーい、麻衣ー?﹂
﹁・・・あっ、え、えと。なんだっけ?﹂
わざと分からないような反応をする。
﹁べーつにー、明日から学校めんどいねって話ー﹂
そしてこの話題はうやむやになる。わたしがそういうような対応
をしたからだ。
れんちゃんは今のままでずっと居たいって思ってる。友達として、
チームメイトとして、あるいは相棒として。
でも、わたしは。わたしはそれじゃあ、満足できない。
わたしの想う未来の姿と、れんちゃんの望む未来の姿は、明らか
283
に形が違う。
このまま、このままこんな、なあなあの関係が続いたら、いつか。
いつかわたしは、自分の気持ちで何か大切なものを壊してしまい
そうだ。
・・・その日の夜。
れんちゃんが寝静まった後、わたしは自分の鞄から進路調査書を
取り出し、机に向かった。
◆
﹁えっ・・・﹂
長谷田に進学するって・・・﹂
れんちゃんは大層驚いた顔をした。
﹁どういうこと?
﹁監督や先生と相談して決めたの。わたしはプロになりたい。長谷
田の高校見学行って、それにはここが最高の環境だって、思って﹂
﹁・・・なに、言ってるの?﹂
れんちゃんは珍しくうつむくと、すぐに顔を上げる。
﹁麻衣ならどこの高校へ行ってもプロになれるよ。だって、麻衣み
たいな逸材をプロが放っておくわけがない!﹂
﹁それじゃあ嫌なの﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁わたしは・・・﹂
284
目を瞑る。そして一つ、呼吸をすると。
﹁いつまでもれんちゃんに甘えてたら、ダメになる﹂
﹁・・・!﹂
﹁そう、思ったの﹂
空気が張り裂けるような沈黙が流れる。
﹁れんちゃんは最高のバッターで、最高のキャッチャーだよ。友達
としても・・・。でも、れんちゃんはわたしじゃない。わたしの所
有物でもない。いつか、れんちゃんと離れるときがくる。だから、
だから﹂
声が震える。泣くのを必死に我慢していたけれど、もうこれ以上
は無理だ。
﹁高校進学は、良い機会だと・・・おもっで・・・っ﹂
嘘だよ。こんなの嘘だ。
れんちゃんと離れたいわけがない。ずっと一緒に居たいよ。
でも、わたしはもうこれ以上耐えられない。れんちゃんへの思い
は一緒に居る時間が長くなれば長くなるだけ強くなっていく一方。
今のままだと、わたしは本当に間違いを起こしてしまうかもしれ
ない。
だから、わたしはれんちゃんから離れる。
それがれんちゃんにとって、1番良いことなんだ。
285
﹁麻衣は、それでいいの?﹂
﹁いいっ・・・いいよぉ・・・一生懸命考えで・・・ぎめだことだ
から・・・﹂
2人だけの部屋でわたしは子供みたいに嗚咽を漏らして大泣きし
た。
ねえ、れんちゃん。止めてよ。わたしを止めて。
れんちゃんにはわたしが必要だって、それだけ聞けたら、わたし
は・・・!
﹁わかった。麻衣が自分で考えて決めた事だもん。あたしも、麻衣
の意見を応援するよ﹂
身体に悪寒が走る。全身から生気が抜けていくようだった。
れんちゃんは少しだけ目を伏せて、確かにそう言ったのだ。
まいひめ
。
結局、こうなる運命だったんだ。
わたしは
それが、他の国のお姫様と恋愛をしようなんて、最初から無理な
話で・・・。
そう考えると、いろんなことに諦めがついた。
退寮の日。
見送りに来た子の中に、れんちゃんは居なかった。
286
ダブルエー ︻急︼
﹁バッターアウト!
ゲームセット!﹂
マウンド上で小さくガッツポーズをして、駆け寄ってくる先輩た
ちとハイタッチする。
試合に勝ったのだ。嬉しくないはずがない。
案の定、長谷田は全国大会で優勝した。
わたしは1年生ながら背番号1を背負い、エースとしてフル回転
し、優勝の原動力になった。
だけど、それが何になるって言うの?
︵考えるだけ無駄だよね・・・︶
もうそんな事で悩んでる場合じゃないんだ。
ここまで来ると、自分が全国ネットのニュース番組で取り上げら
れるくらい有名になっているのには気づいていた。
もの
を1つしか知らない。
女子野球界に颯爽と現れた天才美少女投手。女子野球の星。
わたしはこういう扱いをされる
ヒーロー
︱︱︱救世主
わたしはヒーローになりたかった。そして今、わたしは間違いな
くヒーローになっている。
287
人助けに理由が要るのか。
ヒーローに戦う理由なんてない。
困っている人が居るから、敵が居るから、まわりがそう望んでい
るから。
それを叶える記号が、ヒーローなんだ。
◆
それはわたしが2年生の、夏の大会での事。
時は唐突に訪れる。
﹁まさか3回戦で武蔵とぶつかる事になるなんて﹂
動揺する先輩たちに。
うち
﹁大丈夫です。わたしが投げる限り、長谷田に黒星はつけさせませ
ん﹂
そう言うと、先輩たちは顔を合わせ。
﹁まあ、逢沢がそこまで言うなら・・・﹂
と声を揃える。
武蔵女子・・・、普通に投げれば打たれない自信はある。
問題は、たった1つ。
わたしはホワイトボードに書かれている5番打者の名前を一瞥し
た。
288
︵れんちゃん︶
胸にこみ上げてくる想い。これはもう、恋じゃない。
貴女はわたしを受け入れてくれなかった。認めてくれなかった。
じゃあこの心を揺さぶる想い、これはもう憎しみ以外の何物でも
無いじゃないか。
今のわたしを突き動かすもの。それはれんちゃんへの・・・、自
分の過去への執着だ。
次の日、マウンドに立つ。
2回表。5番のれんちゃんに打順がまわる。
︵れんちゃん・・・︶
わたしは全力のストレートを厳しいコースに投げ込んだ。
リリースの感触はすこぶる良い。完璧なストレートを投げられた
はず。
︵打てるもんなら、打ってみろ!︶
その刹那。夏空に金属音が響き渡る。
反射的に振り向きながら、わたしはあの時のことを思い出してい
た。
初めて自分の投げたボールをいとも簡単に打ち返された時。あの
河川敷での出来事を。
打球はセンターの頭を超え、外野を転々としている。
れんちゃんは快足を飛ばし、一気にホームへ滑り込んだ。
289
︵︱︱︱ッ!︶
わたしはぐっと帽子を深く被り直す。
マウンドを蹴り飛ばしたい衝動を、必死に我慢したのだ。
あの時とは状況が違う。
何も知らないままに、遊び半分で野球をやっていたあの時とは、
何もかもが違い過ぎる。
れんちゃんの弱点は付いたはず。投げたボールも悪くなかった。
コースだって良いところにいっていた。
さいきょう
の投手が、打たれるわけなんて無いのに︱︱︱
じゃあ、なんで打たれた?
とにかく、まだ1点だ。
たかが1点。味方がすぐに取り返してくれるはず。
だけど、こんな日に限って武蔵の投手がすこぶる調子が良い。
れんちゃんの的確なリードも相まって、塁にランナーが出ても点
が入らない。
そんな状況で迎えた、れんちゃんとの2回目の勝負。
﹁フォアボール!﹂
力んでしまった。こんなにボールが言うこときかないのなんて、
初めて。
︵落ち着け。何を焦ってるの。これより強い相手となんて、今まで
290
いくらでも戦ってきたじゃない︶
思い出せ、U−12でアメリカと戦った時のこと、去年の全国大
会決勝のことを。
武蔵は強豪とはいえ、所詮都大会レベルだ。
﹁アンタが1人のバッターにこんな苦戦するの、初めて見たよ﹂
﹁すみません。1打席目のイメージが消えなくて﹂
わたしが言うと、先輩は随分驚いた顔をする。
﹁それこそ初めて見たよ。アンタが過ぎたことを引きずるなんてさ。
らしくない﹂
らしくない・・・って。
わたしはずっと、過ぎたことを引きずってる人間ですよ。
いつまで経っても忘れられない。
何度忘れようとしても、諦めようとしても、そうするたびにれん
ちゃんと過ごした思い出が溢れてきて、消しゴムをかけたその上を
再度塗りつぶしていく。
︵だから、その想いを憎しみに変えようとしたのに・・・。どうし
て。どうしてそれが通用しないの!?︶
他の打者は難なく抑えられるのに。
れんちゃんだけは抑えられない。
︱︱︱わたしはあることに気が付いた。
291
こんなのはおかしい。でも、
他の打者は難なく抑えられるのに。
れんちゃんだけは抑えられない?
逆に考えられないだろうか。
れんちゃん
だと思って投げているから、おか
︵他の打者と同じように投げれば、抑えられるんじゃ・・・︶
5番バッターを
しなことになる。
彼女への執着を捨て、ただの普通の打者だと思い込めば・・・。
バッターアウト!﹂
わたしは3打席目の対戦で、それを実行した。
すると。
﹁ストライク!
いとも簡単に抑えることが出来た。
相手バッターの顔を見ず、力を抜いて投げただけで、れんちゃん
のバットは面白いように空を切る。
でも。
それをやった途端、すべてが色褪せて見えた。
わたし
勿論これはルール違反でもなんでもない。気の持ちようだ。
それでも。
れんちゃんに執着しない麻衣のピッチング。
それが途轍もなくつまらないものに感じてしまったのだ。
まるで心に虚無が出来たよう。
その先には何もない。嬉しさも、楽しさも、面白さも、辛さも、
292
悲しさも、悔しさも、何もない。
ただ、結果があるだけ。内容をすっ飛ばして、結果がだけが降っ
てくる。
︵・・・そんなの︶
わたしは、こんな事
気づくとわたしはベンチに座って、膝の上で拳を握りしめていた。
︵そんなの、わたしが好きな野球じゃない!
をやるために︶
あの日、れんちゃんに言ったことを思い出す。
いつかれんちゃんと離れてもわたしがわたしのまま生きていける
ように、わたしは彼女と別の道を選んだはずだ。
そのゴールが、こんなものなんて認めない。
わたしはこんな風になりたかったんじゃない。
こんな結果を得るために、大好きで大好きで大好きなれんちゃん
どこか痛いとか?﹂
を、突き飛ばしたんじゃない。
﹁どうした逢沢?
わたしはマウンドの上に居た。
ただならぬ雰囲気を察したのか、キャッチャーの先輩が近寄って
声をかけてくれる。
﹁わたしは・・・、わたしは逢沢麻衣です!!﹂
293
大声で叫んだ。
ヒーロー
﹁わたしは誰かの為に救世主を演じることなんてできない!
なのは、わたしの目指したヒーローじゃない!!﹂
さいきょう
そん
の投手になれ
自分の思いの丈を、言いたいことを思いっきり叫ぶ。
確かにさっきのピッチングをすれば
るのかもしれない。
でも、それは同時にわたしがここまでやってきた総てを否定する
行為だ。
極論を言えば、あんなものは誰でもなれる。
でも、でも。
逢沢麻衣になれるのはわたしだけ。他の誰かじゃ、絶対になれな
い。
みんなが求めるヒーローの座に、わたしが座るんじゃない。
じゅんじょ
わたしが、わたしの道を走った結果、その過程を見てヒーローだ
と認めてもらいたかった。
いつの間にかわたしは、その後先を間違えていたんだ。
︱︱︱わたしは大きく振りかぶる。
自分でもフォームが崩れているのが分かった。
・・・きちんとした理論で計算されつくされた、理想のフォーム。
︵そんな行儀の良いフォーム、こっちから願い下げだわ!!︶
294
力配分も無茶苦茶。こんな全力投球をしていたら絶対に試合終了
まで投げられない。
でも、それが何なの。
︵だったらそれに耐えられるようになるまで走り込めばいい!!︶
いやー負けた負けた!
覚醒麻衣すご過ぎ!﹂
わたしはただ、自分の身体が感じるままにボールを投げ続けた。
◆
﹁あはは!
翌日、わたしはれんちゃんを遊びに誘った。
レストランで笑いながらお茶を飲むれんちゃんの目は、赤く腫れ
上がっている。
﹁最後はマジでボールが目で追えなかったよ﹂
れんちゃんが褒めてくれる。
わたしは、まるで初めて外に出た子供のように顔を真っ赤にさせ
て俯いていた。・・・彼女の肩に、全身を預けながら。
どうしよう、嬉しい。嬉しすぎて泣きそう。
れんちゃんの手を握る力が、指と指の間に絡める指先の力が強く
なる。
﹁わたしはれんちゃんにそう言ってもらう為に、頑張ったんだよ﹂
﹁麻衣、そういうの隠さなくなったね﹂
295
﹁うん。だって、そうしなきゃ勿体ないじゃん。折角れんちゃんと
一緒に居られるのに﹂
﹁あはは・・・﹂
彼女は気恥ずかしそうに赤くなった頬をかく。
﹁今、寮が同室だったらさ﹂
﹁そんな事になったらわたし、1秒で理性が壊れる自信あるよ﹂
﹁1秒で貞操の危機かよっ﹂
れんちゃんが笑いながら語り掛けてくれるだけで、全身がびくっ
と震える。
﹁どうして中学時代、1回も襲わなかったんだろ。チャンスなんて
24時間ずっとあったのに・・・。逆にどうしたら何もしないと言
う選択にいきついたのか﹂
ああ、わたしはきっと中学時代どうかしてたんだろう。
れんちゃんと1つ屋根の下、生活を共にしていたのに。
﹁あたし達、ずっとすれ違ってばかりだったから。物心つく前に出
会って、それからもう10年以上経つのに﹂
れんちゃんはその時、わたしからあからさまに視線を逸らした。
﹁ずっと、あたしだって麻衣のこと好きだったのに、全然気づいて
くれないんだもん﹂
そして今度は、れんちゃんがわたしの肩にもたれかかる。
296
﹁だから・・・、これからは手加減なしでいくから﹂
﹁へえ。手加減してくれないんだ﹂
﹁リミット外したあたしは、すごいんだからっ・・・﹂
それがどういう意味なのか、そんな事は手に取るようにわかった。
もう、姫と英雄を気取る必要もない。
最初からそうだった。わたしは逢沢麻衣で、この子は秋山蓮華。
ただ、それだけの事だったのに。
︱︱︱そんな簡単なことに気がつくのに、こんなに時間がかかった
だから恋愛って、難しいんだ。
297
忘国の兵と亡国の姫︵前書き︶
今年もよろしくお願いします。
298
忘国の兵と亡国の姫
燃え上がる爆炎をぼうっと見つめる。
離れているここからもその熱さが分かる炎、黒い煙、そして何か
が焼ける臭い・・・。
わたしは携帯に話しかける。
﹁こちらM−49、任務完了。軍施設の破壊を確認﹂
﹃声明を出す。ルート4から離脱しろ﹄
﹁了解﹂
この爆発させた施設が何なのかはよく分からない。
わたしは傭兵。傭兵は考えることはしない。与えられた戦地で、
生き残ることが全て。
その時。
﹁まずい、通信を終了する﹂
悪寒がした。明確な殺気を感じたのだ。
俺の弟を殺ったのは!
間違いねえ!﹂
気づくとわたしは、地面に叩きつけられて頭を踏み潰されていた。
﹁こいつだ!
どこの誰とも分からないような男。
もしかしたらどこかの戦場ですれ違ったかもしれない。
299
でも、覚えていないのだ。それ以上でも、以下でもなく。
﹁ぶっ殺してやる!﹂
その男は持っていた酒瓶をコンクリートの地面で叩き割って、そ
れを振りかぶった。
﹁やめてください!!﹂
激昂した男が右腕を振り下ろそうとしたところに、誰かが仲裁に
入る。
その人物は彼の身体に組み付くと、梃子でも動かないと言った様
こいつが、こいつが俺の弟を・・・!﹂
子で彼を止めた。
﹁離せ!
気づくと、周りに人だかりができている。
これを利用しない手はない。
﹁ひ、人違いですっ。どうしてこんな事をするんですか!?﹂
上半身だけ起き上がると、頬を手で押さえながら泣いたふりをす
る。
ちょろいもんで、群衆は男を捕まえ、勝手に警察がやってきて男
を連れて行った。
︵30分ほど無駄にしたな。さっさと逃げるか︶
わたしがこっそりとその場を離れようとしていると。
300
﹁待ってください﹂
右手が誰かに掴まれていた。
ちっ。心の中で舌打ちする。
﹁あ、あの。わたし、急ぎの用が・・・﹂
﹁・・・私とお話していただけないでしょうか?﹂
﹁ごめんなさい。本当に急いでいるの﹂
女か。めんどくさいから手を振り解いて逃げようとしたが。
︵なっ・・・!?︶
どんな怪力だ。右手がぴくりとも動かない。
﹁お願いします。話し合いをするだけで結構ですから﹂
﹁・・・あなた、何者?﹂
﹁私はエゼミスタン王国の第一皇女、アルエと言います﹂
﹁エゼミスタン・・・!?﹂
その名を聞いて驚いた。何故なら。
﹁3日前に解体された国の王族がどうしてここに・・・﹂
そんな国はもう、世界地図に存在しないからだ。
﹁お話を、していただけますか?﹂
彼女はそれしか言わない。さっきからずっとだ。そして引き下が
る様子もない。
301
﹁・・・わかった﹂
だから、わたしが折れるしかなかったのだ。
◆
話し合いの場所に選んだのは破壊した軍施設から少し離れた繁華
街にある、ファストフード店。
ここならいくらでも逃げようはある。最悪、客を人質にとればど
うとでも。
﹁さっきはありがとう。顔は見えなかったけどアンタだろ、あの男
を止めてくれたの﹂
記憶にある外見と、彼女が一致している。
﹁止めなければ貴女に危険が及ぶと思ったからです﹂
﹁ここのお代くらいは奢らせてくれよ。こんな礼しかできないが、
家が貧乏でね﹂
﹁・・・お家のこと、お聞きしても良いですか?﹂
彼女は言いづらそうにその事を聞いてきた。
﹁語るほどの中身もない。内戦中の国だ、大抵の家は貧乏だろ。わ
たしがこの年まで生きてこられたのは単に運が良かったからだ﹂
﹁・・・疑うようで申し訳ないのですが﹂
302
わたしが流暢に嘘八百の設定をくっちゃべっていると。
﹁貴女は東の出身ではないですか?﹂
彼女は思いもしないことを差し込んできた。
﹁・・・なんでそう思う?﹂
﹁言葉のイントネーションが、その、独特でしたので﹂
痛いところを突かれた。こんな事なら標準語をもう少し上手くし
ゃべれるようになっておくんだった。
﹁当たり。わたしはモノロの出身なんだ﹂
﹁・・・モノロ共和国ですか﹂
その名前を口にした途端、彼女は下をうつむいた。
﹁その昔エゼミスタン王国に敗戦して、併合された国さ。今はもう、
モノロって名前も残ってないんじゃないのか﹂
﹁・・・﹂
彼女は沈痛な面持ちで黙ってしまった。
そりゃそうだろう。自分の国が植民地にした国の人間なんかと話
したくないに決まってる。
﹁なあ、もう帰っても良いか﹂
﹁・・・﹂
﹁わたしだってエゼミスタンが戦争を始めなかったらもっと違う人
生を歩めてたかもしれないんだ。アンタとは、これ以上話したくな
いね﹂
303
これも嘘。逃げる口実を作っているだけ。
わたしは消滅した母国の事なんてどうでもいい。さっさと帰りた
いだけなんだよ。
﹁もう少し、お話をさせてください﹂
﹁アンタなあ﹂
﹁お代は結構ですから・・・﹂
その時の彼女の表情はあまりに悲痛なものだった。
わたしの嘘泣きとは次元が違う。彼女が大粒の涙を流しているの
を見て、そう思った。
・・・今後の泣き演技の参考になるかもしれない。自分をそうや
って納得させる。
﹁かつて私たちが貴女の国を滅ぼしたように、私たちの国もまた、
より大きな力によって滅ぼされました・・・﹂
﹁仕方がない。だから人間は法律やらを作って、それを最小限に抑
えているんだ。わたしが今、アンタを殺せないのは法の縛りがある
からなんだよ﹂
﹁貴女はそれが無くなったら私を殺しているのですか?﹂
﹁ああ、そうだ。アンタを殺したくてうずうずしてる奴と話してて
も仕方ないだろ﹂
だからさっさと諦めてくれ。わたしはそんなニュアンスを込めて
みるが。
﹁先ほどの男性も、貴女と同じ気持ちだったと思います。でも、貴
女は彼のように無理矢理それを行わない。何故ですか?﹂
304
全然諦めない。なんだこの女。段々物珍しさを通り越して腹が立
ってきた。
﹁・・・あいつほど憎しみが強く無いからじゃないかな﹂
﹁強くない?﹂
﹁モノロが敗戦したのはわたしが物心つく前。それに肉親を目の前
でアンタに殺されたわけでもないしね﹂
半分イライラしながら話を続ける。
﹁達観してらっしゃるんですね﹂
﹁怒っても国が元に戻るわけじゃないから﹂
わたしが言った瞬間だった。
いきなり店の入り口から軍隊が入ってきて、わたし達が座ってい
るテーブルを囲む。
ビヨンド
の実行犯、マリイ・エクスだな。貴様
全員がこちらに銃口を向けていた。
﹁国際テロ集団
には射殺命令が出ている!﹂
・・・やってしまった。
﹁アンタ、わたしを引き留めておくために一芝居打ったな﹂
この方を殺してはダメです!﹂
ギロリ、と皇女と名乗る女を睨みつけた。
しかし。
﹁やめてください!
305
マリイ・エクスの仲間か!?﹂
彼女はわたしの前に出ると、両手を広げた。まるでわたしを守る
ように。
﹁なんだ貴様!?
﹁私はアルエ、旧エゼミスタン王国の第一皇女です!﹂
彼女が名乗った途端、軍隊がざわめき始める。
それに﹂
﹁行方不明のアルエ皇女・・・!?﹂
﹁嘘に決まっている!
軍人の一人が銃口を彼女に向けた。
﹁敗戦国の王族など、殺しても構わん﹂
ダメだ。こいつらは止まらない。
アンタだけでも逃げろ!﹂
元々殺人ありきで来ている連中だ。こんな奴らに説得は通用しな
い。
﹁もういいっ!
彼女の背中に叫ぶ。
憎しみと恐怖が連
﹁わたしは殺されても仕方がない人間だ。でも、アンタは違う!﹂
だって。
﹁アンタはわたしなんかの命を助けてくれた!
鎖するこんな場所で、他人の意見を聞いて話し合いが出来る人間だ
306
!
これからの世界に必要とされるのはアンタみたいな人間なんだ
!﹂
だから・・・。
﹁だから、もう少し自分の命を大切にしろっ!﹂
必死で叫んだ。語り掛けた。説得した。
﹁・・・ようやく、貴女の本音が聞けた気がします﹂
でも、彼女は振り向かない。
死ぬんだぞ!?﹂
﹁それでも、ここで貴女を見捨てたら、私は今までの自分の言葉す
べてを否定することになる﹂
﹁屁理屈を言ってる場合か!
﹁大丈夫です﹂
そこで彼女は。
アルエは初めてわたしの方に振り返った。
﹁貴女を独りで死なせない・・・。その為に、私は自分の命を使い
ます﹂
この時のアルエの笑った顔。
それを見て、わたしは生まれて初めて、天使に触れた。明確にそ
う思えたのだ。
アルエは覆いかぶさるようにわたしを抱きしめる。
初めてだった。誰かに抱きしめられたのなんて。愛という気持ち
307
を、感じたのなんて。
一発。耳に入ってきた銃声は一発だけ。
﹁ぐっ・・・﹂
前を見ると、一番前でこちらに銃を向けていた軍人が、よろめい
ている。
︱︱︱これが最後のチャンスだ!
わたしは左手ポケットから催涙弾を放り投げると、右手のハンド
ガンでそれを撃ち抜いた。
◆
﹁はあ、はあ・・・﹂
右も左も分からず、ただ走り続けた。
離脱ルートなんてとっくに見当もつかないような見知らぬ場所に
居たのだ。
わたしは膝に手をついて、息を整えた。
︵誰かを抱えて走るのがこんなに疲れるとは、思わなかったっ・・・
!︶
でも、守ったんだ。
わたしはこの腕の中に居るアルエを守った。
308
マリイさん
﹁マリイさん・・・﹂
﹁はは。
か﹂
コードネームにさんを付けらるなんて、少しくすぐったい。
﹁なあアルエ。約束して欲しいことがあるんだ﹂
でも、それも良い。
マリイさん。それがわたしの名前だ。
﹁もう、絶対にわたしと一緒に死ぬなんて言わないでくれ﹂
﹁ですが・・・﹂
わたしは嘘が上手いと思う。
アルエはそれを全て見抜いたのだ。
︱︱︱嬉しくないわけがない。
﹁アルエはわたしが絶対に守る。一生、誰にも殺させない﹂
︱︱︱初めてだったんだ。独りで死ぬ怖さから解放されたのなん
て。
そうか、この優しくて暖かい気持ち。これが愛なんだ。
愛なんてまるで縁の無い、戦災孤児の傭兵がそれを分かるんだよ。
それほどまでに、確かな気持ちだった。
﹁・・・でも、これから先、大変だよ。わたしは国際指名手配犯な
んだ。日影の道を歩く覚悟はあるか?﹂
309
わたしが歩いてきた冷たく、暗い道。
彼女にそこを歩かせると思うと、後ろめたさで押し潰されそうに
なる。
︱︱︱だけど、
︱︱︱もう、放す気なんて無いけどね。
﹁はい。どこへ行こうと私のやることは変わりませんから﹂
わたしはこんなにもアルエを愛してしまったんだから。
310
わたしのお姉ちゃんがこんなにかわいい!
﹁お姉ちゃん、朝だよ。起きなきゃ﹂
いつものように﹁落ちたら危ないから﹂と言う理由で二段ベッド
の下で寝ている姉に話しかける。
お姉ちゃんは布団を頭から被って、巻き寿司の具になったかのよ
ほら布団から出て!﹂
うに布団で自分の身体を巻くという癖があった。
﹁う∼ん、あと5分∼﹂
﹁それ10分前に聞いたから!
﹁いやだぁ∼、寒いのやぁ∼﹂
ダメだ。完全に寝ぼけてるし、強硬策に出るしかない。
﹁もう、お姉ちゃんの・・・﹂
布団の端を掴んで、それを思い切り引っ張る。
﹁ばかぁああ∼∼∼!!﹂
ぐるぐるぐる。
まるで悪代官に着物の帯を引っ張られた町娘の、あの光景。
着物の代わりに布団がお姉ちゃんから引きはがされ、掛布団の無
くなったベッドにお姉ちゃんだけが取り残された。
﹁・・・う゛う゛、ざむい・・・﹂
﹁お姉ちゃん起き上がって。手、ほら﹂
311
仕方がないので姉の手を取り、ゆっくりと起き上がらせ、ベッド
から引きずり出すのに成功する。
きょう
﹁あ、杏、おはよぉ﹂
﹁おはよ。とりあえず着替えよっか﹂
﹁えぇ、寒いよぉ﹂
﹁寒いのはみんな一緒。ほら、リビング行けば暖房あるから﹂
はぁい、という気のない返事が聞こえてくる。
﹁着替えはぁ・・・?﹂
﹁机の上に置いておいたから。わたし、朝食作るけど、あと1人で
出来るよね?﹂
﹁むぅりぃ、着替えさせてぇ∼﹂
﹁子供か!﹂
今日は一段と寒いせいか、ぐうたらっぷりがいつもの比じゃない。
﹁あたし子供だもーん。まだ17歳だしー﹂
お姉ちゃんはふらふらとテレビのリモコンに手を伸ばし、電源を
起き上がれなくなるから!﹂
付けるとソファに・・・。
﹁あー、ダメダメ!
急いでお姉ちゃんに駆け寄ると、無理矢理腕を掴んで寝ころばせ
ないようにした。
朝のお姉ちゃんは1回横になると最低5分は動かなくなるんだ。
それはまずい。
312
﹁ほら、パジャマ脱いで﹂
﹁杏、いい匂いするねぇ。くんかくんか﹂
﹁そんなにくっついたら着替えさせられないでしょっ﹂
ボタンを1つ1つ外していく。上を脱がせて、片手に持ったYシ
ャツをお姉ちゃんに着せようとすると。
ふと、不意に胸元へ目がいった。
︵でかい・・・︶
自分のものと比べて、少し愕然とする。なにこの姉妹格差。同じ
DNAが流れてるはずなのに。
お母さんのスタイルを考えると、お母さんに似たのは明らかにお
姉ちゃん。
﹁杏ぉ∼、寒いよぉ∼、着させてー﹂
﹁ああ、ごめんごめん﹂
上半身下着一枚のお姉ちゃんにYシャツを着せる。
お姉ちゃんがボタンを付けているその間にズボンを抜かせ、学校
指定のスカートを履かせ、最後に黒いニーソックスを履かせる。お
姉ちゃんは黒ニーソ派なのだ。
﹁はい、これ髪飾り﹂
洗面所へ向かうお姉ちゃんにそれだけ持たせて、その背中を見送
る。
︵あれだけ無茶苦茶な寝相して、髪の毛ほとんど乱れてないんだも
313
んなあ︶
腰まである、結構長い髪の毛なのに。本当にああいう髪質の人っ
て居るんだ。
因みにわたしは1週間に1回、運が悪い週だと3回、髪が爆発す
る。
朝食を作り終わり、2人でいただきますをして食べ始める。
トーストにジャムを塗るのはわたしの仕事。隣に座るお姉ちゃん
に、出来上がったジャムトーストを渡す。
﹁杏の作るジャムトーストは最強だねえ。はずれが無い﹂
﹁大体誰が作っても外れないでしょ﹂
﹁いやいや、あたしが作ったらまず黒焦げになるもん﹂
・・・それもそうか。言われて納得してしまう。
﹁杏﹂
﹁んん?﹂
急に、お姉ちゃんはわたしの方を見ると。
﹁ジャムついてる﹂
と、そう言ってぺろっとわたしの頬についたイチゴジャムを舐め
る。
ひたすら柔らかくて、少し湿った感触が頬に残り・・・。
﹁お、お姉ちゃん!!﹂
314
わたしは真っ赤になって椅子から立ち上がった。
﹁んん、なに∼?﹂
﹁う、うちでは良いけど、外に出たらこんな事しちゃダメだからね
!﹂
﹁なんで?﹂
やったら怒るよ!﹂
何も分からない、ような顔をして小首を傾げる。
﹁とにかくダメなの!
お姉ちゃんは世間の目、とか気ならない人だ。そんな事はもう分
かってる。
だから、だ。
﹁うぅ・・・はぁい﹂
だから、自分が平気でも他人に迷惑がかかると分かれば、すぐに
引いてくれる。
素直なんだ。
﹁はい、いい子いい子﹂
小さくなってしまったお姉ちゃんの頭を撫でる。
﹁もうっ、バカにしてえっ。あたし、お姉ちゃんだよ?﹂
﹁はいはい、お姉ちゃんお姉ちゃん﹂
﹁子供じゃないんだからねー!﹂
さっきとまったく真逆の事を言うお姉ちゃん。
315
微笑ましい、わたしだけのお姉ちゃん。
﹁いってきまーす﹂
家のドアに鍵をかけ、1月の寒空の下を歩き始める。
︱︱︱一歩外へ出ると。
﹁生徒会長、おはようございます﹂
わたしの高校の同級生が、お姉ちゃんに挨拶をした。
︱︱︱お姉ちゃんは、
﹁おはようございます、大村さん﹂
にっこり笑顔のハッキリした口調で、生徒会長は優しく下級生に
挨拶を返す。
︱︱︱完璧超人の生徒会長になる。
﹁きゃー、会長∼﹂
﹁会長、今日もお綺麗ー﹂
そんな声があちこちから飛んでくる。
学校に近づき、完全に通学路へ入るといつもこんな調子だ。みん
ながみんな、わたしではなくお姉ちゃんを見ている。
別にわたしが無視されてるとか、そう言うんじゃない。
お姉ちゃんがあまりに完璧過ぎて、そっちに目が行くしかない状
316
況を作ってしまう。
これがわたしのお姉ちゃん。誰もが羨むパーフェクト生徒会長だ。
﹁おはようございます、東岡さん。昨日の生徒会引き継の件だけれ
ど、前会長の山口先輩に了解をいただいたわ。ええ、なるべく受験
後の方が都合がよろしいらしくてね﹂
同級生と矢継ぎ早に会話をするお姉ちゃん。
︵誰・・・?︶
そう言わざるを得ない豹変の仕方だ。この会話がどうして家の中
ではできないんだろう。
あわただしい朝を終え、授業中。
ふと注意力が散漫になって窓際の席から校庭を見下げてしまう。
︵あ、お姉ちゃん︶
持久走だろうか、2位以下を突き放してダントツ。
ゴールしたお姉ちゃんを、見学の女の子たちが取り囲む。
わーきゃー言う歓声が校舎にまで聞こえてきそうな勢いだった。
﹁すごいよねえ、会長﹂
﹁この間の全国模試、また5位だったらしいよ﹂
お弁当の時間。
友人たちがそんな会話をしているのを、わたしはいつものように
気にするともしないともせず、ご飯を口に運んでいた。
317
﹁実際、どうなの杏?
何位だって?﹂
﹁はは、お姉ちゃん、家じゃそういう話あんまりしないから﹂
そりゃ、あんな風にだらーっとしてるだけだし。
﹁仕事は家庭に持ち込まぬ!ってタイプなの?﹂
﹁なにそれカッコいい﹂
確かにカッコいいね。お姉ちゃんはそういうんじゃないけど。
﹁良いなあ杏は。あんな人がお姉さんなんて﹂
﹁藤村先輩も良い人だと思うけど﹂
﹁ダメダメ。姉貴、家では私の相手なんてしてくんないもん﹂
それって世話しなくても姉妹別々に1人で生活していけてるって
こと?
羨ましすぎる・・・。
﹁でもこう言っちゃなんだけど、杏ってあんまり会長に似てないよ
ね﹂
﹁ん∼、まあねえ。わたしも正反対だと思う﹂
言って、苦笑を浮かべた。
似てないと言われれば似てない。わたしはあんなにだらけた人じ
ゃないし、1人で生活していけるし。
﹁1日で良いから杏と入れ替わってみたいわ∼﹂
﹁やめといた方が良いと思うけど・・・﹂
318
心の底からそう思う。
◆
﹁お姉ちゃん、今晩なに食べたい?﹂
学校の帰り道。いつものように近所のスーパーへ寄る。
何か決めてよお姉ちゃんの優柔不断人間!﹂
﹁そうね・・・。杏の作ったものなら何でも美味しいから﹂
﹁あ、それ1番困る!
﹁じゃあ、ビーフストロガノフとか﹂
﹁作れるわけないでしょ・・・。それ十何時間も煮込まなきゃいけ
ない料理じゃない﹂
まったくもう、お姉ちゃんはいい加減なんだから。
そんな小言を言いながら、ふくれっ面をしていると。
﹁ふふ、杏の怒った顔、やっぱ可愛いわね﹂
﹁なっ︱︱︱﹂
今、それ言う!?
そんなこと言われたら、恥ずかしくて、顔赤くなって、話、終わ
っちゃうじゃん・・・。
﹁ごめんね。こんな事言えるの杏だけだから、つい面白くて﹂
﹁・・・ん、それは分かるけど﹂
﹁こんなお姉ちゃんだけど﹂
319
そこでお姉ちゃんはショッピングカートを押していたわたしの手
に、手を重ねる。
﹁お姉ちゃんにとって妹は杏だけだから﹂
一拍置き。
﹁甘えたくなっちゃうの。・・・許してね﹂
小さな声でそう呟く。
ずるいよ、こんなの。
﹁うん、わかってる。お姉ちゃんにはわたしが着いてなきゃだもん
ね﹂
笑顔で、お姉ちゃんに言葉を返す。
とんでもなく世話が焼けて、ちょっとだけ外面が良い人だけど。
血の繋がった家族・・・、ううん、それ以上に﹁お姉ちゃん﹂だ
もん。
﹁しょうがないから、わたしに任せて﹂
お姉ちゃんに代わって、わたしが夕食のメニューを決めよう。
﹁ただいま﹂
﹁ただいまーー∼∼・・・あぁぁ∼﹂
お姉ちゃんは家の敷居を跨いだ途端、今までピシッと伸びていた
背筋が曲がっていき、言葉にも覇気がなくなってよろよろと倒れ込
320
むように玄関でうつ伏せになる。
﹁疲れたあ∼。杏∼、靴脱がしてぇ∼﹂
﹁わたし、夕食作らなきゃならないんだけど?﹂
﹁そんなの後でいいからぁ、靴脱がしてぇ∼﹂
言いながら、バタバタと手足を暴れさせる。
ああ、始まってしまった。これが始まるともうお姉ちゃんは1人
じゃ起き上がる事も出来ない。
﹁はいはい、靴脱がすから足、動かさないで﹂
そうやってお姉ちゃんの身体を起こして、ぎゅっと抱きしめるよ
うに支えていると。
﹁ただいまのチュー﹂
顔が至近距離だったのを良いことに、ほっぺに唇を這うお姉ちゃ
ん。
﹁もうっ﹂
きちんとお姉ちゃんに向き直り、顔を真正面から見つめながら。
﹁それは後で、ね﹂
と、少し声を潜めてくすぐるように言う。
﹁うん・・・﹂
321
お姉ちゃんはこういう時だけ、しおらしくなる。
まったく、自分勝手なお姉ちゃん。こんな人、危なっかしくて絶
対に1人にしておけない。
わたしがずっと一緒に居てあげるんだから、平気だと思うけど。
322
Chapter:2.0 ユリサクラ
﹁・・・ん﹂
何だろう、こんな夜中に。
いつもなら真っ暗なはずの六畳くらいしかない部屋に、ぼやっと
した灯りが点いている。
眩しいんだけど﹂
わたしが寝ていたと言う事は、つまり。
﹁なあにい?
同居人である、あがりの仕業なのだ。
﹁ああ、起こしちゃったね。ごめんごめん﹂
そこで少し、おかしいと思った。
いつも﹃大人の余裕∼﹄とか言ってひょうひょうとしている雰囲
気が、今のあがりには無い。
こんなに寒いのに汗をかきながら、彼女の瞳は一心不乱に何かを
追っていた。
そしてわたしは気づく。明日は、いや今日は。
﹁センター試験か・・・﹂
不思議なことに。
寝起きなのに頭が妙にクリアで、すぐにそのことを飲みこめた。
323
少しだけ
﹁そうだよ。これで決まるんだ・・・﹂
勉強をしている時のあがりは
そりゃそうだよ。だってこいつ、
︵東大合格が目標だもんなあ︶
フチ
カッコいい。
今から起きてたら絶対疲れ
普段、家ではかけない縁が太い眼鏡をかけている事から、あがり
の心情は大体わかった。
﹁ねえ、寝た方が良いんじゃないの?
るよ﹂
﹁疲れるのなんて分かりきってる。でも眠れないんだ。ここまで来
たらランナーズハイ理論で、極限まで自分を追い込めば・・・﹂
ああ、ダメだ。
こいつ今、冷静じゃない。
﹁なに焦ってんの?﹂
﹁・・・﹂
﹁今更付け焼刃したところでどうにもならないでしょ?﹂
あがりはガンッ、と蛍光電気スタンドが乗っているちゃぶ台に拳
を叩きつけると。
﹁焦らずにいられるか!﹂
と、珍しく声を荒げた。
324
﹁あたしだってわかってる・・・いや、わかってるから焦るんだよ
っ﹂
あがりはノートに何かを猛スピードで書き写しながら続ける。
やらずに後悔するより、やって後悔し
﹁なんか、今までやってきた事なんて何も意味が無くて、全然足り
ない気がしてくるんだよ!
た方がマシだ。ほっといてくれ!﹂
・・・わたしはこういう人間を知っている。
追い込まれた時の人間だ。いや、正確には追い込まれたと錯覚し
ている時の人間。
ちょうど、駅のホームから身を投げようとしていた時のわたしの
よう。
﹁ねえ、あがり。アンタさ﹂
﹁・・・﹂
彼女はもう返事もしてこない。
﹁アンタがどれだけ頑張ってきたかなんてアンタにしか分からない
し、だから焦るのも分かるけど。そんなに自分がやってきた事が信
用できない?﹂
﹁・・・﹂
﹁アンタが今まで頑張ってやってきた事は、こんな間際の数時間で
補完できるものなの?﹂
あがりの走らせていた手が止まる。
325
﹁アンタがどんだけ努力してきたかは想像もできないけど、でもさ。
わたし、見てたよ。アンタがずっと頑張ってたの。一緒に住んでる
んだもん、アンタ、十分頑張ってたよ﹂
﹁・・・﹂
﹁だから、アンタには万全の状態で試験に臨んでほしいよ﹂
わたしは後ろからぎゅっと、あがりに抱き着く。
﹁自分が信じられなくなったら、わたしのことを信じて。信用の外
付けHDDくらいにはなるでしょ﹂
﹁早希・・・﹂
おっぱい揉むなこのバカ!﹂
﹁はは、どんだけ緊張してんのよ。心臓バクバク言い過ぎ﹂
﹁え・・・、う、うわああ!
揉むっていうか、掴んでるくらいの感覚なんだけどね。
﹁びってんじゃねーよ。わたし、アンタのメンタル強いとこに惚れ
たんだから﹂
﹁・・・うう、び、びってねーし﹂
あがりは眼鏡をかけ直しながら、必死に強がってそっぽを向いた。
﹁くそっ、早希に怯んでるところを見らるなんて、一生の不覚っ﹂
﹁怯んでるっていうか、脅えてたからね﹂
﹁これは武者震いって言うんだよ!﹂
あはは、ホントだ震えてる震えてる。
そりゃこんなに寒いし、目の前の敵はデカイし、怖いし、ビビる
よね。
326
﹁・・・ごめん、もう少しこのまま﹂
﹁うん。いくらでも付き合うよ﹂
後ろから抱き着いて、胸を鷲掴みにしたままの体勢を続けるなん
て、どんなプレイだ。
そんなことも思ったりするけれど。
︵今日くらいはいいや︶
普段は絶対に見られない、こいつの弱ってる姿は、それはそれで
可愛かったし、なんかそそる。
﹁・・・今、変な事考えてただろ﹂
お前いっつも・・・﹂
﹁え、なんでわかったの!?﹂
﹁分かるよ!
そこまで言って。
﹁ぷ﹂
﹁ははは﹂
おかしさに気づいたのか、2人でしばらく大笑いしてしまった。
﹁ま、やるのはアンタだからね。誰も結果に責任なんか取ってくれ
ないよ﹂
﹁ここに来て急に突き放すのやめてくれる!?﹂
なんだかこそばゆい雰囲気だったので、一応毒を飛ばしておく。
﹁こんな良い嫁が居るんだから、成功しないわけないじゃん﹂
327
﹁ここに来てすげぇ運命論ぶち込んできたな・・・﹂
﹁運命論だろうと、気休めだろうと、ゲン担ぎだろうとなんでもい
い。わたしが居る事を適当に理由づけして、成功するって信じてみ
なよ﹂
むすっとした顔のあがりの頬に、わたしの頬をこすり付ける。
﹁わたし、アンタが居なかったら死んでたんだよ。これが運命じゃ
ないわけないじゃん﹂
それを聞いた彼女の頬が熱くなったのを直に感じる。
﹁・・・ちょっとムラッと来ちゃった。これ以上はまずい﹂
﹁あはは、それはまずいね﹂
余計に体力使っちゃいそうな事態は避けよう。
﹁ありがと、早希。君が居てくれて本当によかった。ひと眠りする
よ﹂
﹁うん。寝な寝な。わたしは起きてるから。時間になったらバッチ
リ目覚まししてあげる﹂
﹁じゃ、お言葉に甘えて。ふわぁあ、なんか急に眠くなっちゃった﹂
あがりは布団にもぐりこんで3分もしないうちに寝てしまった。
︵超眠かったんじゃん・・・︶
ああ、よかった。あのまま行かせてたら大変なことになってたか
もしれない。
328
﹁ぶちかましてやれ、あがり﹂
アンタになら出来るよ。
忘れ物無し!
いける!!﹂
心の中で呟きながら、寝ている彼女のおでこにキスをした。
◆
﹁よし!
受験票!﹂
あがりはガッツポーズをするが。
﹁バカ、アンタこれ!
こいつのどうしようもなくバカなところが出た。
1番大切なものを忘れるなんてどういう神経をしてるんだろう。
﹁うわー、危ない危ない。サンキュー早希﹂
やれやれ、と汗を拭うジェスチャーをして笑うあがり。
・・・いつもの彼女だ。こういう致命的なポカをやる点も含めて。
何より、こんな事をやったのに取り乱していない。あがりの鋼の
メンタルが、通常に作動している。
﹁ねえ、あがり﹂
﹁ん?﹂
いそいそと靴を履くあがりに、話しかける。
329
﹁アンタの人生はここで終わりじゃないんだ。何回でもチャンスは
ある。アンタが諦めない限りはさ﹂
﹁早希にそれを言われるとはね﹂
あがりは肩をすくめて笑う。
あの日、あの時。絶望に暮れた顔をして駅のホームに突っ立って
いたわたしを思い出していたのだろうか。
﹁このボロアパートもそろそろ飽きてきたし・・・。早いとこ、で
けーマンションのてっぺん、住ませてよね﹂
わたしはそう言って握り拳を作り、前に突き出す。
﹁おーらい。んじゃ、いってくるわ﹂
わたし
あがりの作った握り拳が、こつんと当たったのを確認すると。
﹁いってらっしゃい﹂
あの日、あの時。
あがりが助けてくれた、早希の手が。
ぽん、とあがりの背中を押した。
330
Chapter:2.0 ユリサクラ︵後書き︶
ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん。
︵TVアニメ﹁交響詩篇エウレカセブン﹂第35話より抜粋︶
331
百合婚!
﹁ふわぁあ∼、今何時・・・、ん、6時ぃ?﹂
窓の外は真っ暗。
これじゃ分からないじゃないか。どっちの6時か。
﹁昨日は2時までアニメ見てた記憶はあるけど、そのまま浅い眠り
についたか、深い眠りについたか・・・﹂
決め打ちしてみることにしよう。
今は朝だ。
夕方だったぁぁ!!﹂
そう思ってテレビモニタの電源を入れると。
﹁アニメやってる!
昼間に起きてもやること無いけど、15時間も寝てたら何故か損
した気分に・・・
﹁ナツコー、ちょっといい?﹂
その瞬間。
メシは後で食うからさっさと失せろ!!﹂
わたし1人の世界に邪魔が入った。部屋のドアを叩く、不快な音
が聞こえる。
﹁うっせーババア!
こっちは寝起きだぞ。
332
わたしはいわゆる引きこもりだった。
貴族の名家に生まれ、幼い頃は両親の思うが儘に人形をやらされ
ていた。親戚に良い顔をするために勉強も習い事も、タシナミとや
らも頑張った。
だけど、それにも限界があった。
わたしという人形の器は、この家の大きさと比べればあまりに小
さすぎたのだ。
成人
と呼ば
ヒビが入ったことに気づかず使われ続けた器はある日、パリンと
木端微塵に割れてしまった。
以降、引きこもり歴5年。わたしは世間でで言う
れる年齢になっていた。
﹁ごめんねナツコ。部屋に電気が点いてなかったから、どうしたの
かなって・・・﹂
家族も親族もわたしを腫れ物に触れるかのように扱う。
そりゃそうだ。ダメ娘だと捨てることも出来ない。わたしは一人
っ子・・・、わたしを切り捨てればバートランドとかいう伯爵家の
血が途絶える。
それはそれで面白いと思うけど。ってか、多分そうなるだろうし。
︵この家にわたしに逆らえる奴は居ないからね∼︶
るんるん気分で電子レンジの前で右往左往する。
2分が長い。なんでドラゴン焼きの解凍に2分もかかるんだよ、
333
おかしいだろ。
チン、と電子レンジの音が聞こえた瞬間。
﹁えっ・・・﹂
信じられないことに、チクリとした痛みを感じると、脚の力があ
っという間に抜けて行って、床に突っ伏した。
最後の力を振り絞って顔を上に向けると、そこに居たのは。
﹁ババア・・・﹂
母親の顔を確認したところで、意識を失った。
自分の人生が、自分をこの世に産み落とした親によって閉じられ
ようとは。
・・・まあ、わたしのクソみたいな人生の閉めるには、相応しい
終わり方だった。
◆
﹁ボクはシュタイナー家の嫡男、バンリ・E・シュタイナーです﹂
﹁・・・ナツコ=バートランド﹂
わたしはぼそっと消え入るような声で呟く。
﹁こらナツコ。失礼だろうその態度は﹂
334
オヤジが注意を入れてくる。
うるせえ指図すんなクソ親父。普段はわたしにすら頭が上がらな
ボクは無毒ですよ
を出し過
いのにこういう時だけ当主ヅラして、だから貴族の男は嫌いなんだ。
このバンリとかいう男もそう。
嫌い。虫唾が走る。
さわやか美少年という感じがして
ぎ。逆に怪しく思えてくる。
︵ちっ・・・︶
わたしはかけていた伊達眼鏡のフレームを直す。
どうしてこうなった。
気づいたらわたしはこのホテルのVIPルームでおしゃれなお姉
さん達にこのドレスを着させられていた。
鏡を見たら自分でも引くくらいキラキラしてたので、せめてもの
抵抗にオシャレ黒縁眼鏡の伊達レンズ、1番ダサい奴をかけたんだ。
こうなったイキサツは誰も説明してくれなかったから分からない。
でも、察するに。
︵政略結婚︶
嫌になるね、貴族って。
ニートになった娘を最後の手段として、他の貴族と無理矢理結婚
させるという方法で放り投げたんだ。
結局、自分の家の血さえ残ればわたしがどうなろうがあの人たち
には関係のないこと。そう思った瞬間、わたしには戻る場所なんて
335
もうどこにもない、と気が付いてしまった。
﹁・・・﹂
﹁あの、ナツコさん、気分がすぐれませんか?﹂
﹁元からこういう顔なんです﹂
吐き捨てるように言う。
﹁ナツコ、お前いい加減に﹂
オヤジが何か言いかけた瞬間。
﹁バートランド伯爵、少しナツコさんと庭を散策したいのですが、
よろしいでしょうか?﹂
名前忘れたけど、相手の男がそう言って、オヤジを遮った。
﹁え、ええ﹂
少し気圧されたのか、あっさり了承する。
それを確認すると、男はわたしの手を取った。
﹁少し外の空気でもどうでしょうか。気分が楽になると思いますよ﹂
その瞬間。
︵指、細いな・・・︶
なんだこいつ。
シュタイナー家って武勲で鳴らす歴代将軍を排出してきた家だろ。
336
バンリ・・・、とやらの指はとても殺し合いをする人のものでは
なかった。
硝子細工職人でも目指しているんじゃないかと錯覚するほど。手
入れの加減でいえばわたしなんかより・・・。
︵いやいや、なに言ってんだ︶
指先の綺麗さで男に負けるのは、それはそれでイヤだ。
◆
中庭と言っても貴族専用のVIP中庭。広い広い。
迷路のような花畑の中央に、噴水がある。わたしはそこで少し疲
れたと言い、噴水のヘリに腰かけた。
︵・・・なんか想像してたのと違う︶
そもそもがおかしい。
このバンリとか言う男は随分と綺麗な顔立ちをしている。それに、
性格も紳士的で問題があるようには見えない。
そんな男が、どうしてわたしと政略結婚?
こいつなら、放っておいてももっと良い家のお嬢様とかと普通に
結婚できそうなのに。
どうしてわたしと政略結婚なんてするんだろう。
337
本人の意志に反して結婚させようとするものが
政略結婚
だと
言うにしても、これじゃシュタイナー家に何のメリットもないじゃ
ないか。
︵まさかっ!︶
そこでハッと気づく。
・・・こいつ、見た目と外面は良くても本性がよっぽどヤバい人
間なんじゃないだろうか。
︵いや、そうだ。きっとそうに違いない︶
ソシャゲに億単位の課金するとか、地下に謎の実験場があるとか、
を思い切
夜の趣味があまりにHENTAI過ぎて誰もついて来られないとか、
働いたら負けだと思ってるとか・・・
︵やられる前に殺るッ・・・︶
あの、どうされたんですか?﹂
もうそれしかない!
﹁ナツコさん?
今だ。
こいつが油断しきっている今なら。
﹁歯ぁ食いしばれ!!﹂
暴漢撃退パンチ
わたしはいきなり叫び、立ち上がると。
5歳の時、護身用に覚えさせられた
りバンリの右頬に食らわせた。
338
当然、バンリは噴水の中へ勢い良く倒れ込む。
﹁へへっ、すごいもんでしょ。男ってね、この右頬と喉の間の顎の
ラインに魔力が集中する箇所があんの﹂
ちょいちょい、とわたしは自分のそこを軽く叩く。
わたしは女だから関係の無い話だけど。
﹁男はここを思いっきり突くと10秒から20秒の間、全身の魔力
が止まって動けなくなるんだってさ﹂
その間に逃げる、それが対暴漢の最善方法なのだ。
﹁よし、今のうちに﹂
﹁・・・いてて﹂
!?
﹁いきなり殴るなんてひどいよ、痛いじゃないか﹂
わたしの中のありとあらゆる思考が停止する。
パンチと水面に叩きつけられた衝撃で乱れたバンリの衣服。
その胸元から、明らかに女性の・・・丸みを帯びたおっぱいが見
えていたから。
しかも。
﹁・・・わたしよりちょい大きい﹂
339
彼女はわたしの視線を察したのだろう。
反射的に、両腕で抱えるように露出した胸元を隠した。
﹁∼∼∼っ!﹂
さらに耳の先まで真っ赤にさせ、恥ずかしがっている様子を見て
確信する。
こりゃ女だ、と。
﹁ごめんさい、ナツコさんを騙すような真似をして・・・﹂
﹁なんで男装なんかしてたの?﹂
それも、これから結婚の話をする相手に対して。
﹁・・・我がシュタイナー家は代々将軍を排出してきた武闘の家系
なんだ。でも、ボクの両親はとうとう男児を生むことが出来なかっ
た﹂
バンリは自分の震える両手のひらを見ながら。
﹁それでも、と。ボクは幼いころ、必死に親の、家の気持ちに応え
ようとした。毎日毎日剣を振り、弓を射た。実際、10歳くらいま
では誤魔化せていたんだ。・・・でも﹂
彼女の顔から光が消える。
﹁その頃からかな、明らかに力の差が出始めたんだ。当然だよね。
ボク、女の子だもん。鎧を身にまとった屈強な大男に、勝てるわけ
ないじゃん﹂
﹁・・・﹂
340
なんか。
﹁身長も止まるし、胸だって大きくなるし、声変わりもしない。決
定的だったのは憲兵隊の入隊テストに落ちたこと。・・・憲兵隊に
も入れない女が、将軍なんて・・・、とても﹂
こんな事、言いたく無いけど。
﹁アンタ、わたしに似てるね﹂
﹁え・・・?﹂
﹁不気味なくらいそっくりだよ。わたし、こんなに自分に似てる人
間がこの世にいるなんて思わなかった﹂
不思議と、わたしはバンリの手に自分の手を重ねていた。
﹁辛い、苦しい、どうして自分だけがって毎日そんな事ばかり考え
て、大切な人の期待に応えられない自分がみっともなくて、また嫌
になる﹂
﹁ナツコ・・・﹂
﹁わたし達は写し鏡でも見てるくらいに同じなんだ﹂
だから。
貴女の辛さも苦しさも、どうにも為らないもどかしさも、分かる
から。
﹁結婚しよう、バンリ﹂
さらっとこんな事が言えたのだろう。
341
﹁で、でも、ボク、女の子だよ?﹂
﹁構うもんか﹂
﹁子供、とか・・・どうするの?﹂
顔を真っ赤にしながら、抵抗を続けるバンリ。
かわいいなちくしょう。
﹁バンリ、良いこと教えてあげようか﹂
﹂
そういえばiPS細胞というので同性の間でも子供ができるら
だったら、この至言を食らわせてやる。
﹁
しいです
﹁ふぇ・・・?﹂
ぽかんと、放心したようにこちらを見つめるその目は。
先ほどまでの暗いものではなかった。
その瞳から零れ落ちる涙を、ぺろっと舌を這わせて舐めとる。
﹁さっきは殴ってごめん。痛かったよね﹂
︱︱︱そうだ、最初から相手のこと疑って、勝手に敵作って。
﹁あは・・・、もう。DVは無しだよ?﹂
﹁うん、約束する﹂
わたしは腫れ上がったバンリの右頬を、そっと手で触れて、撫で
た。
342
﹁わたしバカだね﹂
︱︱︱もっと簡単に物事を見れば、
﹁だって、こんなかわいい顔した子、女の子に決まってるじゃん﹂
︱︱︱ずっとずっと、楽に生きられるはずなのに。
343
百合婚!︵後書き︶
そういえばiPS細胞というので同性の間でも子供ができるらしい
です
︵漫画﹁咲−saki−﹂単行本5巻より引用︶
344
鬱百合︵前書き︶
※過剰に鬱い話です。ご注意ください。
345
鬱百合
﹁本当ですか?﹂
わたしは目を輝かせながらその報せを耳にした。
﹁ああ。どうやら今日、客席に審査員が来てるらしい﹂
﹁じゃあ、勝って優勝したら・・・﹂
﹁オリンピック日本代表に選出される﹂
身体に電撃が走ったように鳥肌が立つ。
オリンピック・・・、その言葉のすごさが理解できないほど大き
な舞台。出場すれば日本中から注目され、称賛される。
わたしにとっても大きな名声を得られるのは勿論、スポンサー契
約やCM契約をしてもらえるかもしれない。
︵そうすれば、ママやパパが楽になる︶
物心ついたころから両親の帰りはいつも遅かった。
わたしをスクールに通わせるために、毎日残業。身を粉にしてわ
たしを支えてくれている両親だ。
その2人に、恩返しをしたい。ママとパパの娘は日本一だって、
証明したい。
﹁勝ちます。絶対に!﹂
試合前、コートに入る時。自分に言い聞かせた。絶対にいけると。
346
家が貧乏な分、人の3倍は努力してきたんだ。そして今に至るま
で、その努力は勝利という確かなものに結びついてきた。
テニスの神様が見てくれているのなら、わたしは負けるわけがな
い。
目を見開いた。神経全てを研ぎ澄ませて、対戦相手を見る。
相手選手は異常なほど冷静なたたずまいだった。わたしが燃え上
がる炎なら、彼女はすべてを凍てつかせる氷。そんな印象を受ける。
︵その冷静さがいつまで続くかな︶
わたしの炎で溶かしてやる。そう思い、わたしはサーブを打ち込
んだ。
◆
﹁はあ、はあ、はあ・・・﹂
全身から汗が噴き出す。試合が始まってからというもの、走らさ
れてばかりで息は絶え絶え。もう疲労困憊の中、気力だけで立って
いた。
そして次の1球、鋭いサーブがコートギリギリに突き刺さる。
わたしは、手も足も出なかった。
0−6、0−6、0−6、セットカウント0−3で敗北。
文字通り、完敗だった。
347
Hoshimura・・・︶
その瞬間、わたしは膝から崩れ落ちた。対戦相手の名前を見る。
︵Yui
何なの。人間?
今まで対戦した誰よりも超超超圧倒的に強かった。今まで対戦し
てきた選手、・・・わたし含めて、誰もこの選手の足元にすら及ん
でいない。
そう確信できるほど、力量差が歴然としたものだった。
◆
︱︱︱あっ。
まただ。またそう思った。
放ったサーブは大きく逸れ、これでダブルフォルト。
﹁・・・すみません﹂
わたしはコーチに頭を下げる。
﹁今日はここまでにしよう、遊里﹂
コーチは優しく言ってくれるけれど、今はその優しさすら辛かっ
た。
﹁遊里、切り替えていこう。今回のオリンピック代表には選ばれな
348
かったけど、君なら4年後8年後も十分代表になれるさ﹂
﹁・・・でも、ママとパパは4年間、残業漬けですよ﹂
﹁それは君が気にすることじゃ﹂
﹁気になりますよ、家族が苦しんでるのに・・・!﹂
わたしは語気を強めて握っていた飲料水のペットボトルを潰す。
まだ入っていた中身が噴き出すのも、目に入らなかった。
﹁星村は代表に選ばれて、毎日毎日ニュースに出てCMにも出て有
名になって、それに比べてわたしは﹂
ぐっと歯を食いしばる。
﹁全国大会決勝でストレート負けした時の映像が何回も何回もテレ
ビから流れてくるんですよ。頭がおかしくなりそうです・・・!﹂
﹁遊里・・・﹂
コーチは何も言ってくれない。
奨められてメンタルケアの病院へも行ったけれど、結局何の解決
にもならなかった。
あの日、決勝で負けたことがトラウマになって、わたしは完全に
スランプに陥ってしまっていた。
自分でもこんなにメンタルが脆いなんて思わなくて、そのことを
考えるとまたイライラしてしまって。
オリンピックの中継もまともに見られなかった。
自分に圧勝し
星村が勝つ姿も負ける姿も、冷静に見られる気がしなかったから
だ。
負ける姿なら・・・と最初は考えていたけれど、
349
た相手
が
さらに強い相手
なかったんだ。
に負けると思うと、とても耐えられ
︵生まれた時から才能に祝福され、環境に愛され、そして練習する
ことを苦とも思わない精神を宿した選手・・・。そんな奴に、わた
しなんかがどうやって勝てって言うのよ︶
次元が違う。いくら小リスが強く突進しても、人間を倒すことな
どできない。それほどまでの違いだ。
﹁来年は今年3年生を差し置いて主力を張った2年生の年だから楽
しみだと思ったけど、ここに来てエースの山神が大スランプ・・・。
どうなるか分からなくなってきたね﹂
どこからか、そんな声が聞こえてくるようだった。
﹁ゆーり﹂
そんな事を考えながら学校の校舎をとぼとぼと歩いていた時。
﹁ハル・・・﹂
後ろから話しかけてきたのは春だった。
テニス部ではダブルエースと言われてきた仲。でも、決して仲が
良いというわけでもなかった。
互いに反発するようにぶつかり合い、毎日ケンカしながら、それ
でもお互いに競い合ってチームを引っ張ってきた。
そんな彼女に、今の弱ってる姿を見られるのは辛かったけど。
﹁なに?﹂
350
もう、逃げる気力も残ってなかった。
﹁うう、アンタがそんなんだとホント調子狂うのよねえ﹂
そういうのが・・・!﹂
﹁・・・ごめん﹂
﹁だから!
うるさい!春のくせに!
って、そうやってあた
怒鳴ろうとして、慌てて春は両手で口を塞いだ。
﹁いっつもなら
しのこと挑発するじゃん・・・﹂
﹁ごめん、そういう気分じゃ・・・﹂
﹁アンタの責任じゃないって。誰が戦っても星村に勝てる奴なんて
居なかった。ウチの部に、ううん。日本全国を見てもアンタより強
いプレイヤーなんて星村だけなんだよ!?﹂
・・・わかってる。そんな事、わかってる。
でも、そんな理屈じゃわたしの本心は納得できないんだ。
誰かが星村と戦わなきゃならなかった、それ
﹁部員はみんなあの試合、遊里が出てくれたことに感謝してるんだ
よ。あたしだって!
を引き受けてくれた遊里のこと、みんなすごい人って尊敬してるも
の!﹂
﹁・・・嘘だよ﹂
﹁ウソじゃない!﹂
いや、嘘だ。嘘に決まってる。
﹁じゃあなんで・・・﹂
351
自然と瞳から涙が溢れてきた。
﹁なんで誰もそう言ってくれないの?
みんな星村星村って、星村
みたいになりたいって・・・。それってわたしみたいになりたくな
いって事でしょ、違う?﹂
自分の目から光が消えているのが分かる。
こんなのただの怨念返し、醜い嫉妬。
そんなことはわかってるんだ。でも、分かっていても。こうでも
言わなきゃやってられないんだ。この状況を黙ってやり過ごせるほ
ど強靭なメンタルなんて、わたしは持ってない。
﹁遊里っ!﹂
瞬間、ギュッと春がわたしを抱きしめた。
﹁あたしだけは、あたしだけは遊里の味方だよ。何があっても、絶
対に遊里から離れたりしない。あたしは貴女の傍に、ずっと居るか
ら。だから・・・﹂
春は涙声になりながら必死に言葉を絞り出す。
﹁だからそんな寂しいこと、言わないで・・・っ﹂
それから何分経っただろう。
春はずっとわたしを抱きしめてくれていた。まるで固まってしま
ったように動かない。
・・・わたしも、春も。
352
2人で仲良く一緒に死んでしまったかのように。
﹁春、わたしの事好き?﹂
﹁・・・好き﹂
﹁愛してる?﹂
﹁愛してるに決まってるでしょっ﹂
長い沈黙を破ったのはそんな言葉だった。
﹁じゃあ、キスしてよ﹂
﹁・・・っ﹂
そこで、言葉が途切れる。
﹁わたしの好きはそういう好きなの。友情ごっこを続けるなら、今
すぐわたしの前から消えて﹂
おかしな事を言っていると思う。相手はただのチームメイト、ク
ラスメイトだ。
恋人関係でもなければ、ましてや同じ女の子にこんな事を言われ
たら。突き飛ばされて軽蔑されても文句は言えないだろう。
あたしにも
・・・むしろ、それをわたしは期待していたのかもしれない。
︱︱︱だから。
本当に唇を重ねられた時は、驚いた。
﹁なんでそうやって1人で抱え込もうとするわけ!?
話してよ。遊里が苦しんでるその何万分の一でも、あたしは一緒に
353
苦しみたい、背負いたいよ﹂
﹁・・・﹂
・・・嘘だ。嘘に決まってる。
﹁わたしと同じ苦しみが知りたい?
ったら、春が星村と戦ってよ﹂
じゃあ来年、もし帝都と当た
そこで春はぴたりと動きを止めた。
﹁あいつと戦えばわかるよ。わたしの苦しみも、惨めさも﹂
次にあいつが目立った大会で優勝するまで、延々と負けた映像を
流される。
日本全国からバカにされるこの苦痛に耐えられるって言うなら耐
えてみせてよ。
﹁・・・わかった。来年、もし帝都と当たったら、あたしがシング
ルス1をやる。だから遊里も逃げないで。コートに顔出すだけで良
いから練習に来てよ﹂
﹁ずるいよ﹂
﹁え?﹂
﹁それって来年まで苦しまないで済むって話だよね。そんなの、ず
るい﹂
もうムチャクチャ。言ってる事が破綻してる。
そんなのは分かってるんだ。誰かに八つ当たりでもしないと、や
ってられないんだよ。
でも、他人への暴力は絶対にダメだ。
354
だから、わたしは。
﹁じゃあ遊里、あたしはどうすればいいの?
あたしのこと許してくれる?﹂
春に無理難題をぶつけて、遊んでるんだ。
どうしたら、遊里は
この子の困るような事をするくらいしか、もう気晴らしの場が無
い。
家に帰っても両親は仕事、一人っ子のわたしに家庭なんてない。
幼少の頃からテニスしかやってこなかった。テニス関係以外の友
達も知り合いも居ない。
﹁身体、好きにさせてくれるなら考える﹂
︱︱︱だから、もう春しかいないんだ。
︱︱︱この子が受け止めてくれないなら。
﹁・・・、わ、分かった﹂
春は声を震わせながら頷く。
﹁じゃあ練習終わったら春の家行っていい?﹂
﹁う、家は困るな・・・。ホテル、とか﹂
﹁わたしにそんなお金ないよ﹂
﹁あたしが払う、から﹂
・・・わたし、最低だ。
何やってんだろ。
355
こんなのどう見てもわたしがクズじゃん。
何の罪もない春を半泣きにさせて、揺すって、やらせろって。
︱︱︱いっそ全部壊しちゃおうって。
︱︱︱本気でそう思っていた。
わたしはスカートのポケットから取り出しかけていたナイフを仕
舞うと。
春を抱きしめた。
356
あなただけを見てる
﹁う、うわわ、遅刻だあぁ!!﹂
明らかに寝すぎてしまった!
・・・そんな感覚が明確にしたのに。
﹁あれ﹂
まだ6時半。早く起きたわけじゃないけど、決して寝過ごしては
いない。
そう、何故こんな感覚に襲われたのかと言えば。
﹁騒々しいわね。貴女は起床から就寝までずっとそうなのかしら?﹂
﹁・・・ごめん、北條さん﹂
完璧すぎる同居人の影響なのだろう。
﹁朝食へ行くわ、早くして頂戴中野さん﹂
﹁ま、待って。靴が左右逆で・・・﹂
わたしが玄関であたふたしている間に、北條さんはあっという間
に支度を済ませ、玄関の扉に手をかけながらため息をついている。
﹁貴女、よくその要領の悪さでこの高校の受験に合格したわね﹂
﹁あはは。ダメ元で受けたんだけど、本番でいつもの3倍の力が出
ちゃって﹂
﹁その愛想笑い、やめなさい。貴女の悪い癖よ﹂
357
と、このように。
超お嬢様学校に主席で入学した北條さんは絵に描いたような完璧
な人。
完全寮制の学園寮で、どういうわけだか同室になってからと言う
もの、1日中彼女と生活を共にしている。
そのせいと言うかおかげと言うか、北條さんの生活リズムに引っ
張られる形でわたしの1日は信じられないほどキチンとしたものに
なっていた。
﹁ごきげんよう北條さん、中野さん﹂
﹁ごきげんよう長坂さん﹂
﹁ご、ごきげんようっ・・・﹂
最後の部分、ちょっと噛んじゃった。この挨拶にまだ慣れてない
わたし。
の人達って。
︵本の中でしか﹃ごきげんよう﹄なんて言ってる人、見たことなか
ったのに︶
上流階級
みんな普通に使ってるもんなあ。
居るところには居るもんだ、
なんで?﹂
﹁貴女を見てるとイライラするの﹂
﹁え?
ドーベルマン?﹂
﹁自覚が無いのかしら。騒々しいしどんくさいし、貴女を見てると
家で飼っていた犬を思い出すわ﹂
﹁北條さんの家ってワンちゃん飼ってるの?
358
お金持ちの人が飼ってそうな犬と言えばドーベルマンでしょ!
北條さんは何も言わずに、口元を指差す。
わたしは意味が分からずぽかんとしてしまうが。
﹁・・・貴女、食事中も品が無いのね﹂
とため息交じりに言われてしまって、初めて口元が汚れているの
に気が付いた。
急いでハンカチで口元を拭う。
北條さんの方をちらりと見ると、もう朝食は摂り終わっていて、
これはもう毎日のことなのだけれど、目を瞑ってコーヒーを飲んで
いた。勿論ブラック。
以前、
﹁どうして目を瞑るの?﹂
と聞いたら
﹁香りを楽しむためよ﹂
と真顔で答えられてしまって、どうしたらいいのか分からなくな
った事があった。
あれ以来、﹁ブラック苦くない?﹂なんて下手な質問は出来なく
なってしまったのを思い出す。
﹁北條さんはすごいね。なんでもできて・・・﹂
﹁そんな事ないわ。私は自分に出来ることを努めてるだけ﹂
359
﹁わたしなんか毎日、北條さんに付いていくだけで精一杯だもん﹂
そう言ってまた笑うけど。
﹁愛想笑いはやめなさいと言ったはずだけれど﹂
愛想笑い
、かあ。
なんて返されちゃって。
﹁・・・それってそんなにダメな事なのかな﹂
わたしは知らないうちに自分でも気づかないほど小さな声で呟い
ていて、そしてそれに気がついた時にはもう遅い。
﹁今の、どういう意味かしら?﹂
な、なんでもないの!﹂
地獄耳の北條さんに、バッチリ聞かれてしまっていた。
﹁う、ううんううん!
﹁中野さん?﹂
北條さんは微笑みながら、完全にこちらを威圧してくる。
﹁う、うう・・・﹂
そしてわたしはその一睨みで、完全に怯んでしまって。
問に答えるしかなくなってしまうのだ。
﹁わ、わたし昔っから何の取り得もなくて!﹂
﹁そうね﹂
360
﹁うっ・・・﹂
ただ同意されただけなのに、どすんと重いパンチをもらったよう。
﹁で、でもっ。昔、おばあちゃんから言われたの。まあちゃんの笑
顔見てると不思議と和むわね、って﹂
わたし、何言ってるんだろう。
﹁だから、わたし、何もできないから。何もできないけど、笑えば
みんなが少しでも和んでくれるならって。そう、思って。それなら
笑っていようって・・・﹂
段々と言葉に自信が無くなって、小さくなっていってしまう。
北條さんは相変わらず目を瞑りながら、その話をノーリアクショ
ンで聞いていた。
︵バカな子って思われたかな・・・︶
北條さんからしたら、こんなのただの誤魔化しだって、そう思う
だろう。
だから。
﹁・・・少し驚いたわ。貴女、ただのバカかと思ってたけど﹂
﹁ご、ごめ﹂
﹁ちゃんと、自分の芯は持ってる子だったのね﹂
北條さんがわたしの考えを認めてくれたのには、すごく驚いた。
﹁くだらないって、言われるかと思った﹂
361
﹁貴女、私のこと冷血サイボーグか何かだとでも思ってるの?﹂
北條さんはコーヒーのカップを置くと。
﹁そんなにもしっかりした理由を持っていたなんて、知らなかった
わ。ごめんなさい、愛想笑いだなんて言って﹂
間違った事をしたら謝るのは当然でしょう?﹂
﹁え、なんで北條さんが謝るの・・・?﹂
﹁・・・?
なんだろう。
わたし、今、ちょっと北條さんのこと、好きになったかもしれな
い。
◆
﹁はあ。あの冷血サイボーグも人の子なんですねえ﹂
﹁ミヤちゃん、北條さんのこと悪く言わないで﹂
5科目で497点ですよ。はあ
その日のお昼休み。昼食のお弁当を友達のミヤちゃんと食べてい
た時のこと。
﹁中間テストの結果聞きました?
∼、世の中、ああいう天才ってのがホントに居るもんなんですねえ﹂
﹁北條さん、いつも部屋でも勉強頑張ってるし﹂
部屋ではほとんどの時間を机に向かって過ごしている北條さんの
姿を思い出す。
362
﹁いやいや、それが天才の証ですよ。普通、365日そんな生活し
たら疲れちゃいません?﹂
﹁・・・疲れちゃうね﹂
もうやんなっちゃいますよ。あたしのルームメイトもド
苦笑いを浮かべながら答える。
﹁かー!
が付く真面目ちゃんで。中ちゃんみたいな子がルームメイトだった
らねえ﹂
﹁それはそれで疲れそうだけど﹂
﹁なにおう!﹂
こんな風にふざけ合える相手は確かにこの学校では少ない。
でも、北條さんと一緒の部屋で、わたしは良かったと思ってる。
北條さんくらいしっかりした人に見ててもらわないと、なんだか
だらけてしまいそうで。
高校に進学してから勉強が少し得意になったのも、北條さんのお
かげだと思ってるんだけど。
︵わたしからは北條さんに、何も返せてないんだもん・・・︶
なんかちょっと、寂しいな。
そんな事を考えてしまう。
◆
︵・・・あれ︶
363
珍しいこともあるもんだ。
部屋に戻ると、北條さんが机に伏して寝ていた。
﹁北條さん、そろそろ夕食の時間だよ、食堂行かなきゃ﹂
北條さんの肩を揺らす。
・・・意外と肩幅小さいな、なんてことを少し考えていると。
﹁ん・・・﹂
北條さんが顔を上げる。覗き込むように顔を見ると。
﹁リリ・・・?﹂
リリ
って何だろう。そんな事を考える前に。
北條さんの目から大粒の涙が溢れてきていた。
﹁北條、さん・・・﹂
普段では絶対見られない北條さんの弱った泣き顔に、きゅんとし
てしまった自分が居た。
胸を縄か何かできつく締め付けられたよう。
﹁ごめんなさい、驚かせてしまったわね﹂
北條さんは人差し指ですっと、自分の目元を1回だけ拭う。
﹁夢を見ていたの﹂
﹁夢・・・?﹂
364
﹁昔、家で飼っていた犬のことよ。リリっていうのだけれど﹂
そうなんだ、と軽い返事をして、彼女の言葉を待つ。
・・・なんか、いつもと様子が違う気がして。
﹁私が中学に上がった時くらい、だったかしら。死んでしまったの﹂
﹁病気?﹂
﹁いいえ、交通事故よ。ペットの交通事故だもの。誰に責任が、な
んて事はわからないし・・・﹂
北條さんは一瞬、目を泳がせた。
﹁ただ、貴女を見てるとたまにリリの事を思い出すの。貴女のよう
に騒々しくて、ものわかりは悪いし、部屋の中を走り回って、ホン
ト迷惑で﹂
﹁・・・好きだったんだね、リリのこと﹂
わたしがそう言うと、北條さんはこくりと頷いた。
﹁気分を悪くしたのならごめんなさい。犬に似てるだなんて、失礼
よね﹂
﹁ううん。そんな事ないよ﹂
わたしは北條さんの手を握って、ゆっくりと起こしてあげる。
﹁わたしの事、かわいいって思ってくれてるって事・・・だよね﹂
その時。少しの間だけ、北條さんは顔を赤くしていた。それはも
う、間違いなく真っ赤に。
365
﹁・・・貴女、本当におめでたいわね。そんなわけないでしょう﹂
﹁あはは﹂
でも、次の瞬間にはいつもの冷静な北條さんと、笑みを浮かべる
わたしに戻っている。
・・・これで、良かったのかな。
﹁リリの事とは全く別の話で、私、貴女のこと好きよ﹂
・・・はい?
﹁え、えっと。わたしも北條さんのこと好きだよ﹂
﹁そう﹂
北條さんはそういうと、わたしの頬にやさしく触れ。
︱︱︱ファーストキスを、奪っていった。
なに?
どういうこと?
今、何が起きたの?
顔が真っ赤になる。頭がぐるぐるまわって、何が何だか分からな
い。
え?
﹁こんなにドキドキするとは思わなかったわ。これが恋をするって
事なのね﹂
﹁ほ、ほーじょーさん!!﹂
言葉とは裏腹に冷静過ぎる北條さんの肩をぽかぽかと叩く。
﹁どういう事なの!?﹂
﹁お互い好き同士なら、特段変わったことでもないのではなくて?﹂
366
いいの北條さん!?﹂
北條さんは分かってるようで何も分かってないじ
﹁そ、そうだけど!
﹁何が?﹂
この朴念仁!
ゃない!
﹁わ、わたしなんかが北條さんとキスして良いのって、こと・・・﹂
、
勘違いしないで
それを言葉にすると、不思議と落ち着いてきた。
﹁貴女、何か勘違いしてない?﹂
、そう言われると思った。
キスしたくらいでなに発情しているの?
﹁え、なに・・・?﹂
頂戴
﹁私、貴女にべた惚れしてるの﹂
﹁ふえ・・・?﹂
嘘みたい。
﹁貴女がどう思っているのか知らないけど、私は貴女にくびったけ
だもの。誰にも渡すつもりはないから、覚悟してね﹂
好きな人と両想いだって思うのが、こんなに幸せなことだなんて。
今まで知らなかった感情が、わたしの中で広がっていき、満たさ
れていくのが分かった。
367
十畳間のセカイ
国家の為に尽くして二十余年、真面目だけをモットーにして生き
てきた。
その甲斐あって、わたしは遂に、遂に念願の佐官へ昇進したのだ。
努力、真面目、勤勉、そして国家への従順さと問題行動がゼロとい
う点が大きく評価されたらしい。
﹁ヨウコ・スタット少佐であります!﹂
わたしには昇進と同時に新たな任務が与えられた。
その任務とは。
特殊部隊への派遣及び、そこでのマル秘事項への調査協力。
﹁んあー?﹂
・・・の、はずなんだけど。
自動ドアが開いたと同時に敬礼したら、中にあったのは信じられ
ない光景。
照明がなく、暗い部屋・・・その奥で10ほどのモニタが青白く
光っていた。更に奥には見た事がないほど大きなCPUとHDDが
見え隠れしており、そして何より。
﹁さ、寒っ・・・!﹂
室温が、あまりに低すぎる。
368
﹁ああ。CPUを冷却するために業務用の冷房使ってるから﹂
よく見るとこの部屋の主は大きなコートをしっかりと着込み、こ
たつに入って防寒している。
﹁あ、貴女がヤマダ技術士官殿ですか・・・っ!?﹂
話を続けようとするが、寒くてうまく口がまわらない。
﹁ん∼、まあなんだ。こっち来な。寒いでしょ?﹂
彼女はモニタを見つめたままそう言って、こちらを振り向こうと
もしない。
失礼だとは思わないのだろうか。さっきも首を後ろに逸らしてこ
ちらを一瞥しただけで、身体はずっとパソコンの画面とキーボード
の方を向いたまま。
﹁・・・お邪魔します﹂
相手が無礼者だろうと、とにかく話をしないことには始まらない。
そのためにはとりあえず、暖を取らなければ。
わたしは彼女の隣からこたつに入ろうとした。しかし。
﹁あ、その辺コンビニの袋あるから気をつけてね﹂
﹁ぎゃあー!!﹂
食べかけの弁当や、空きのペットボトルや缶が無数に出てきて、
反射的に退いてしまう。
369
﹁ゴミはゴミ箱へ!﹂
﹁貴様のような社会のゴミは強制的に粛清してゴミ箱送りにしてや
るだと・・・?﹂
﹁そんな事一言も言ってません!!﹂
ここでわたしは大声を出し続けていることに気づいた。
﹁・・・こほん。ええと、貴女は﹂
彼女の後ろで正座をする。
しかし、本当に寒い。奥歯が既にがたがたと震えているのだ。
﹁声が震えてるよ。こっち来いって、入れてやるから。ほら、もう
ゴミとか無いし・・・多分﹂
﹁・・・うう、最後の言葉が気になりますが、失礼します﹂
ゆっくりと足をこたつの中へ入れる。
﹁うわ、あんた良い脚してんねえ﹂
﹁ひゃあ!﹂
それと同時に足をなでられて、全身の毛が逆立った。
﹁や、やめてくださいセクハラですよ!﹂
﹁あたし女だけど﹂
﹁セクハラに女も男も関係ありませんっ!!﹂
この人の頭の中は一体どうなっているんだろう。
ここまでふざけた態度をしておいて、何とも思わないのか。
370
﹁・・・へえ。ふーん﹂
彼女、ヤマダ技術士官は何かに納得したかのようにわたしの身体
を見る。
頭の先から、こたつに入れている足の付け根辺りまでを、なめま
わすように。
﹁あ、あの!﹂
﹁ほい﹂
そんな話、聞
・・・と言うか、貴女はいったい誰
ようやくまともな返答が来た。
﹁ここは一体何なのですか?
で、何をなさっている方なのでしょうか?﹂
﹁何って、特別諜報部だけど﹂
﹁貴女の私室のようにお見受けするのですが﹂
﹁ん∼、まあ。あたししか居ない部隊だからねえ﹂
ちゃんちゃらおかしな話だ。たった1人の部隊?
いたことが無い。
この会話をしている間にも、彼女はキーボードを叩いている。
﹁2つ目の質問への回答∼。技術士官のヤマダ、そんなのは偽名だ
よ。ヤマダて﹂
﹁コードネーム、という事ですか?﹂
﹁いんや。偽名だが、今の戸籍は確かにヤマダさ﹂
﹁・・・どういうことでしょうか?﹂
話が全く見えないのだが。
371
・・・﹂
﹁ヤマダなんてのは偉い人が勝手に割り振った名前。あたしは
カナ・ウィル・デスバーグ
﹁!?﹂
ミ
﹁少なくとも生まれてからの15年間は、それがあたしの名前だっ
た﹂
その名前を聞いて戦慄した。
﹁う、うそ・・・﹂
これが驚かずにいられるだろうか。
電子の悪魔といわれた、史上最悪の電脳犯罪者の名前と、今、目
の前に居る女の子の名前が、一致しているのだから。
﹁フィラーウィル事件の首謀者・・・、そんな、だって、﹂
ミカナ・ウィル・デスバーグは。
﹁処刑されたはず・・・﹂
わたしはまだ、頭の中の整理がつかない。
思考が言葉になって出てこないのだ。
﹁公にはね。ただ、事実として生きている。ああ、実は立体映像だ
とか、そういうんじゃないから。さっきあんたの脚、触ったよね﹂
﹁じゃ、じゃあどういうこと、なんですか?﹂
﹁ん∼、まあざっくり言うと司法取引っていうのかな﹂
し、司法取引って。
372
﹁なんですか・・・!?﹂
そんなの士官学校時代の教科書に書いてなかった。
﹁ググれカス﹂
﹁カ、カス!?﹂
﹁はあ∼あ。ウブってのも行き過ぎると鬱陶しいな。まあいいや、
あんた美人だから特別に教えてやるよ﹂
今、悪口と同時にすごく褒められた気がする。
﹁司法取引っつーのは、何かと交換に犯罪者の刑罰を軽くしていた
だけるありがたーい制度﹂
﹁我が国ではそんなもの・・・﹂
﹁あるんだよ。あたしが生きてるのが何よりの証拠﹂
それを言われたらどうしようもない。
﹁これは3つ目の質問にも重なるけど、あたしはこの部屋と設備を
与えられ、ここで一生タダ働きすりゃあ命だけは助けてくれるって
条件を提示されたんだよ﹂
﹁・・・一生、タダ働き﹂
﹁あたしはこの部屋の中での行動の自由と、監視や盗聴を一切しな
い事だけを条件にしてそれを飲んだ。この部屋は誰にも侵されない、
絶対安全領域ってワケ﹂
それが特殊諜報部の実態、だったのか。
﹁今は何をなさっているんですか?﹂
﹁ウチの国の機密情報が漏れないように世界中の電脳犯罪者からサ
373
ーバを守ることと、まあ、他国のそういう情報を盗み出すことだね﹂
国をあげて犯罪
彼女レベルの電脳犯罪者ならそれは容易だろう。でも。
﹁こんな事が他国に知られたらどうするんです?
に加担しているなんて、そんなことが﹂
﹁バレないよ。この事を知ってるのは国のトップ級、その一部だけ。
ネットを介しての漏えいはありえない。何せ、あたしがガードして
るんだから﹂
﹁じゃ、じゃあ!﹂
わたし
は何なんですか!?﹂
わたしはそこまで聞いて、とある疑念を抱いた。
﹁
国の上層部しか知らないような事を、たかが軍の佐官でしかない
わたしに漏らすなんて。
どう考えても合理性に欠けている。
﹁あんた、真面目だけが取り柄なんだろ。そんな奴が自分の国を売
るかよ﹂
﹁確かにそうですがっ・・・!﹂
わたしは今までのモヤモヤを口に出した。
わたしがここに来る必要性が、まったく分かり
﹁わたしから情報が漏れるかはともかく、どうしてわたしをここへ
呼んだのですか?
ませんっ﹂
そうだ。わたしはどうしてここへ派遣されたんだ。
374
ここがヤマダ技術士官のプライベートルームであるのなら、それ
こそ他の第三者を入れる必要などまったく無い。考えれば考えるほ
ど、わたしは必要ないじゃないか。
﹁かー、こりゃ酷い﹂
﹁ひ、酷いって何が・・・!﹂
その瞬間。
脱いだ
わたしは自分の胸を鷲掴みにされているのに気が付いた。
﹁︱︱︱!?﹂
あまりの出来事に、脳みそが焼ききれそうになる。
﹁あら、思ったより大きい。あんた、着やせするタイプ?
らすごいんです、みたいな﹂
﹁は、・・・、あ、あ、っい・・・!﹂
自分で、自分が何を言っているのか分からない。
それほどまでの驚きだった。
﹁こりゃホンマもんだな﹂
﹁・・・な、にが﹂
﹁あんた、処女だろ﹂
仕方ないじゃないですか、わたし
わたしは呆然としながら頷いた。
﹁い、いけない事ですかっ!?
はずっと軍の中で仕事一本の人生を送ってきたんですっ。そういう
体験なんてしたこと無いに決まってるじゃないですかっ﹂
375
気が付くと、自然と目から涙が零れてきた。
﹁おいおい、その表情で胸を隠しながら泣かれたら、あたしが犯っ
ちゃったみたいじゃんか﹂
﹁犯されたも同然ですよっ﹂
わたしは目を瞑り、顔を俯けてしまう。
﹁・・・ごめん。あんたを傷つけたのなら謝るよ。やっぱ、ダメだ
なあたしは。他人の気持ちを考えられない人間なんだ﹂
目の前の女の子は、初めてこちらに向き直ると、深く頭を下げた。
﹁い、いえ。わたしも少し、取り乱し過ぎました。・・・ごめんな
さい﹂
しばらく、居心地の悪い沈黙が流れる。
﹁・・・のさ。正直に言うよ。あんたをここに呼んだのは、あたし
の要求なんだ﹂
﹁え・・・﹂
﹁あたしはずっと1人だった。1年間独房に入れられて、ようやく
出られたと思ったらこの部屋からは一歩も出るなって﹂
彼女は目を泳がせる。
﹁ここ、なんか寒いしさ。全部自業自得なのに、今さら甘えるなっ
て言われるかもだけど。それでも、・・・寂しくなっちゃって﹂
376
そうか。
なんて事はない。この子はただ、人肌が恋しかったんだ。
誰かくっついて、温め合う隣人が必要だった。きっと、それだけ
の事なのだろう。
﹁ヤマダさん、わ、わたしで良いのなら。貴女の隣に、居ても良い
ですか?﹂
だから、わたしは自分の気持ちを包み隠さず、そのままぶつけた。
﹁ちょっと違うかな﹂
﹁・・・?﹂
﹁あんたで良いなら、じゃない。あんたじゃなきゃイヤなんだ。言
ったろ、あんたを呼んだのはあたしの要求だって﹂
なるほど。そう言うことか。
﹁それはわたしが情報を漏らさない真面目な軍人だから、と言うこ
とですよね?﹂
﹁・・・はは、ばーか﹂
ば、ばか!?
今のはホントに正解を狙いにいったのに!
﹁あんたにはかなりストレートに言わないと伝わらないんだろうな﹂
﹁じゃ、じゃあ分かるように言ってください!﹂
そう言ってそっぽを向こうとした瞬間。
﹁好きだ﹂
377
︱︱︱彼女のその時の表情は、あまりに真剣で。そして。
﹁あんたが好き。・・・これであたしの気持ち、伝わったかな﹂
︱︱︱あまりに可愛くて。
﹁ひ、非常によく、分かりました・・・﹂
その言葉は心のど真ん中に、すとんと入ってきた。
378
双リノコイ
わたし達は双子の姉妹。
双子というと、どんなイメージを持つだろうか。
見た目ソックリ、性格も似てる、お互いの考えていることが分か
る、などなど。世間のイメージはこんなところだろう。
実際にそういうタイプの双子が多いのは自分でも理解しているつ
もりだ。それが一卵性ともなれば、尚更。
しかし。
﹁先輩、昨日駅前の塾入っていきませんでした?﹂
じゃああれ何だったんですかね・・・ドッペルナントカ?﹂
﹁いくわけねーだろ、金の無駄﹂
﹁え?
﹁それ、ウチの妹﹂
守山ビックリですー﹂
わたし達姉妹は多分、世間の双子像からズレていた。
﹁えぇー。先輩、双子だったんですかぁ?
放課後、購買で買ったジュースを飲みながら、この学校で作った
グループで体育館裏をたむろする。
﹁髪型とか服装とか全然違うのに、顔はそっくりだったんですよ妹
さん!﹂
﹁そりゃ学校違うんだから、服装は違うだろ﹂
﹁どこ高なんですかぁ?﹂
379
﹁西﹂
﹁うわ、姉妹間格差パネェ・・・﹂
半ば舎弟状態の後輩の頭をぶん殴る。
﹁いいか、これからわたしの前で妹の話すんじゃねぇぞ!
ボコる﹂
﹁きゃー。暴力はんたーい﹂
したら
そんな茶化す声と同時に笑い声が起きた。バカの扱いは簡単で助
かる。
わたしリンゴジュース!﹂
・・・なにせ、妹にはこんな力技が通用した試しが無い。
﹁これ!
﹁いや、わたしがリンゴジュース飲むのー!﹂
物心付く前からずーっと、わたしと妹は磁石の同じ極だった。
﹁わたしワンちゃん飼いたい﹂
﹁わたし猫ちゃん飼いたいっ!﹂
常に反発し合い、決してくっつくことは無い。
﹁今度の運動会のリレー、わたしアンカーだよ!﹂
﹁お母さん、わたしテストで100点取ったの!﹂
そして思春期に入るとその感情はねじれにねじれ、相手と自分が
同じ容姿だという事を許容できなくなっていた。
﹁髪染めたから。中防じゃあるまいし、山野川じゃ髪型は自由だも
380
んね﹂
﹁髪、切った。長いと鬱陶しいし、あと視力が落ちてきたから眼鏡
も﹂
ゆたか
の事をガリ勉のクソ真面目なつまら
いちいち相手のやることが癪で仕方がなかった。
わたしは妹・・・
ない女だと思っているけれど。
﹁先輩、少し手加減してくださいよぉ﹂
﹁先輩が本気出すと誰もボール奪えないんだって!﹂
﹁これで3得点目かな﹂
﹁開始10分でハットトリックっすか!﹂
ゆたかはゆたかで、わたしのこと脳筋でバカ、しかも名前書けば
入れる底辺の高校入った負け組とか思ってそうだし、そこはお互い
様だ。
﹁ただいま﹂
わたし達2人の部屋
にもう1人の主が
そんなゆたかが帰ってきたのはいつも通り、10時過ぎのことだ
った。
部屋のドアが開かれ、
戻ってくる。
﹁・・・かえり﹂
わたしはこれもいつものように、壁にもたれかかってスマホを操
作していた。
適当な返事と、目を合わせないのもいつものこと。
ゆたかは眼鏡を外し、制服から部屋着へ着替えはじめていた。
381
その瞬間。ゆたかの視界から完全にわたしが消えたその一瞬だけ、
わたしはゆたかの方を見る。
︵なんか、変だな︶
違和感とも呼べないほど小さな、何かがわたしの中で引っかかっ
た。
何かがおかしい。そんな事を考えながら、瞬時にゆたかから視線
を外す。
﹁・・・みのり﹂
その時。部屋着になったゆたかが、わたしを見おろしていた。
いつぶりだろう、妹から声をかけられたのは。
﹁んだよ﹂
その驚きもあって、わたしはゆたかに返事をしていた。
﹁わたし、お付き合いする事になったの﹂
﹁・・・!﹂
﹁同じ塾の子でね、頭良くて優しいし、みのりみたいにガサツじゃ
ないし、すっごくかわいいの﹂
妹からのあまりに衝撃的な宣言に、わたしは何も考えられなくな
る。
﹁へ、へえ。だから?﹂
382
咄嗟に言葉を絞り出し、その場を繕う。
﹁いい加減、部屋も別けてもらおうと思って﹂
ゆたかは平然とその言葉を口にした。
はた
それが引き金になってしまったのだろう。
気づくとわたしは、ゆたかのことを叩いていた。
﹁・・・何するの﹂
尻もちをついて、左頬を抑えながら妹はわたしのことを見上げて
いた。
心の底から、軽蔑したような目で。
﹁ゆたかなんかっ・・・﹂
自分の瞳に大粒の涙が溜まっていた事に気づいた時にはもう遅い。
﹁ゆたかなんかっ、大っ嫌い!!﹂
喉が擦り切れてしまうのではないかと言うくらいに、その言葉を
出すのは苦しかった。
﹁・・・わたしも嫌いよ、みのりなんて﹂
﹁アンタはいいでしょ、その恋人とやらに慰めてもらえばっ!﹂
﹁あんたも、可愛がってる後輩ちゃんの誰かに甘えてみれば?﹂
﹁てめえ!﹂
わたしはゆたかをもう一発、ビンタしようとして手を挙げた。
383
しかし。
﹁︱︱︱ッ﹂
ゆたかは振り上げたわたしの左手を、がっちりと掴んで止めてし
まう。
﹁・・・みのり、わたし達は双子なんだよ。みのりの腕力と同じ力、
わたしにもあるの﹂
よりにもよってこの状況で、ゆたかに冷静に諭されたことが、わ
たしの神経を更に逆なでした。
﹁っく、なんだよ。これじゃ、わたし・・・﹂
ゆたかの手から逃れようとするが、まったく彼女を振り払えない。
それはそうだ。
﹁みっともなさすぎる﹂
わたし達は双子・・・。
基本スペックは、ほぼ同じなのだから。
自然と腕から力が抜けていき、目からは溜まっていた涙が零れて
きていた。
﹁みのり﹂
わたしが大泣きしていると、ゆたかはスッとわたしの頭に手を差
しのばした。
384
そしてわたしの前髪を片手でかき上げると、もう片方の手で自分
の前髪をかき上げ。
こつん、と。
互いのおでこを合わせた。
﹁えっ・・・﹂
瞬間、わたしは絶句する。
見たこともない景色や記憶、情報、そして想い。そんなものが、
自分の頭の中に流れ込んできたからだ。
もの
。
その流れてきた記憶の中にあった、もっとも古くセピア色になっ
てしまった
それは・・・いつかの日。
この部屋で交わした約束だった。
︱︱︱わたし達、おでこを合わせるとお互いの事がわかるんだよ。
幼いゆたかがそう言っている。
まだ小学校低学年の頃。わたしもゆたかも、ほとんど同じ容姿を
していた頃の記憶だ。
﹁なに、今の・・・﹂
ゆたかの顔が至近距離にある状態で、わたしは唖然としていた。
逆に、ゆたかは。
385
﹁ごめん、みのり。わたし・・・﹂
先ほどまでのわたしと同じく、大粒の涙を流していた。
﹁わたし、忘れてた。約束、したのにっ・・・!﹂
﹁ゆたか・・・、今の﹂
わたしは呆然と目の前に居る、愛しい妹を見つめる。
涙でぼやけたせいだろう。
髪型も全然違う妹が、まるで自分と同じ顔をしているように見え
た。
︱︱︱まるで、あの頃のように。
﹁みのりと結婚するって、約束してたのに!﹂
絞り出したその言葉と共に、ゆたかはわたしを抱きしめた。
﹁痛いよ、ゆたか﹂
さすがわたしと同じ腕力を持っているだけある。
﹁みのり、こんなに大きくなったんだ﹂
﹁それはお互い様﹂
出ているところは出ていると言うことが、抱きしめられたから余
計に分かってしまって。
少しだけ、顔が赤くなる。
﹁・・・ゆたか、わたしと結婚してくれるの?﹂
386
﹁当たり前だよ。わたし達は、生まれる前から一緒だったんだもん。
もう離れられない・・・ううん、離れたくない﹂
そう言ってゆたかはギュッと、もう一度わたしを抱きしめた。
◆
わたし
姉・・・みのりと、妹・・・ゆたか。
これほど仲の良い双子は居なかった。恐らく普通の双子以上の何
かが、わたし達の間にはあったんだ。
それが、些細なことから互いを嫌悪するようになった。知らず知
らずのうちに互いを拒否するようになっていた。
でも、本来似て然るものが、無理矢理互いを疎み反発しあうのに
だ。
は形として現れることになった。
は、やはり無理があったのだ。
無理
同じだった頃の記憶の欠如
そしてその
例えば、わたしが覚えている事を、ゆたかは覚えていない。
ピース
ゆたかが覚えている事を、わたしは覚えていない。
まるでバラバラになったパズルの欠片のように。
覚えていない部分は、自分が勝手に作った妄想で埋めていた。だ
から、わたしにはゆたかがどんどん違うものになっていくように感
じたのだろう。
本当はわたしの方から、ゆたかから離れて行っていたということ
に気がつかず。
387
﹁みのりは、わたし達は大人になったら結婚しようって約束を覚え
ていて﹂
﹁ゆたかは、おでことおでこを合わせてそれを誓おうって約束を覚
えていて﹂
そしてもう片方は、そのことを忘れていた。
﹁ゆたか、やっぱ眼鏡かけない方が可愛いよ﹂
﹁みのりは髪、黒い方が可愛い﹂
そう言ってお互いを見て、ニッコリ笑うと。
﹁﹁それは無い﹂﹂
と、声を揃えて言ってしまって。
もう一度、大笑いする。
﹁昔みたいには戻れないし、戻る必要もないんだ﹂
﹁うん、みのり。みのりとはずっと一緒だよ。だって、結婚したん
だもん﹂
そう言いながら、ゆたかは頬ずりして甘えてくる。
﹁結婚したんだから、浮気は許さないよ﹂
﹁うん。・・・真梨子には悪いけど、別れる。だって、わたしが好
きなのはみのりだから﹂
わたしも、ゆたかをぎゅーっと抱きしめがら言う。
388
みのり ゆたか
﹁わたしもゆたかの事、大好き。愛してる。この気持ち・・・もう、
絶対に忘れない﹂
忘れるはずがない。
わたしはゆたかと結婚したんだ。姉と妹は、ずっとずっと、永遠
に一緒だから。
389
幸せについてゆるりと考えてみた
﹁ほしのーん﹂
ぶんぶんと手を振りながら屋上へと続く階段を昇る女の子を呼び
止めた。
﹁月子﹂
寂しかったよー﹂
ほしのんが振り向いたと同時に、ぼふっと勢い良くもふもふのブ
レザー制服に飛び込む。
﹁昨日なんでLINEやめちゃったのー?
﹁ああ。そうだっけ。めんどかったし﹂
﹁わたしはめんどくさい女かいっ!﹂
抱き着いたお腹から上を見上げる。
大きな丘があってほしんの顔を見ることができないけど、多分め
んどくさそうな顔をしてると思う。
﹁ほら、いくよ。ここさみーし﹂
確かに晩秋の朝の廊下は寒い。でも。
﹁ほしのんにくっついてるからあったかいよー﹂
そう言ってぎゅーっと抱きしめた。
柔らかい。ほしのんはいつ抱きしめても柔らかいんだ。
390
﹁あー、はいはい﹂
ほしのんはけだるそうに息を吐くと、わたしを引きずりながら階
段を上り始めた。
﹁あんたのクラスは何やってるの?﹂
﹁お化け屋敷づくり!﹂
ほしのんとくっついてられ
おかげでわたし、何の役も与
わたしは鞄から水筒を取り出しながら答える。
﹁あー・・・、くだんないね﹂
﹁そのくだらなさがいいんじゃん!
えられずに何もしなくていいんだよ?
てうれしーよ!﹂
水筒に暖かな紅茶を注いで、一口、口をつけてみる。
﹁あっち!﹂
これは熱過ぎる。わたしがふーふーとコップに息を吹きかけると。
﹁一口ちょうだい﹂
﹁ほしのんコーヒー派じゃなかったっけ?﹂
﹁別に紅茶も飲めるし﹂
ほしのんが言うなら仕方ない。わたしはコップを手渡す。
︵あ、ほしのん、手、冷たい・・・︶
391
そんな事を考えているうちにほしのんはコップ一杯の紅茶をひと
飲み。
したかと思っていると。
ほしのんの冷たく細い指がわたしの両頬に触れ。
そのまま唇を合わせられ、舌を入れられてその隙間から紅茶が流
れ込んできた。
﹁・・・っんく﹂
零さないようにわたしからも舌を絡めながら、何とか紅茶を飲み
干す。
紅茶か唾液か分からないものが口内に残る中、ゆっくりとほしの
んはわたしの口から舌を抜いた。
﹁熱くなかったでしょ?﹂
﹁う、うん﹂
﹁月子が困ってるの見てるとなんでもしてあげたくなっちゃうんだ﹂
ぽーっとした熱っぽい目でほしのんを見つめる。
ほしのんも同じようにとろんとした目でわたしを見つめていた。
﹁手、繋いで﹂
﹁うん・・・﹂
どちらかともなくわたしの右手とほしのんの左手の指が絡み合う。
あ、やっぱり冷たい。ほしのん、冷え性だからなあ。
なんで?
食べ物いーじゃん!﹂
﹁うちのクラスは出店だって。興味ないから逃げてきたけど﹂
﹁えー?
392
試食か何かで食べられそうだし、良いにおいするし、最高だと思
うんだけど。
﹁あたしは月子と一緒に居たいから﹂
﹁わ、わたしもほしのんと一緒に居たいよ﹂
﹁じゃあこれで良いんじゃん﹂
﹁そうだね!﹂
ここで一つ、会話が終わる。
わたし達の会話なんてこんなものだ。お互いの事は知り尽くしち
ゃったから、あんまり話すことが無い。
知り合ったのは1年生の時だった。同じクラスで席が近くて話が
合って。
最初のうちはそんなありふれたものだったけれど。
﹁月子、チョコ食べる?﹂
﹁食べる!﹂
﹁チョコ好きだよね﹂
﹁甘いから﹂
﹁月子﹂
じーっと、ほしのんがわたしの方をジト目で見る。
﹁ほしのんの方が好きだけど!﹂
﹁よろしい﹂
﹁わたしは犬か!﹂
チョコを手渡してくるほしのんに対して突っ込むが。
393
﹁どっちかって言うとネコだけどね﹂
ダメだよお昼からそんなこと!﹂
そんな簡単な言葉で顔が真っ赤になってしまい。
﹁え、えっち!
ぽかぽかとほしのんの肩を叩く。
﹁クラスが違うと圧倒的な月子欠乏症になる時があってさ﹂
﹁ほしのんもなの?﹂
﹁あたしの方が深刻だと思うよ、死ぬ時あるし﹂
﹁わたしのほしのん欠乏症でもさすがに死なない・・・﹂
しまった。口が滑った。
﹁つ・き・こ∼?﹂
ほしのんは覆いかぶさるようにわたしに抱き着くと、そのままこ
ちらをうつ伏せにするように押し倒す。
そしてそのまま、胸辺りに手をまわしてきた。
﹁あ、あはは、やめてやめて、くすぐったい!﹂
﹁あたしが居なくても死なないなんて言う月子はー・・・﹂
﹁ほ、ほんとにくすぐったいんだって!﹂
くすぐったい笑いで呼吸が苦しくなってくる。
このまま続けられたら、ほんとに過呼吸になって。
死んじゃうんじゃないかってくらい。
394
そこで、ぴたりとほしのんの手が止まる。
﹁・・・月子﹂
﹁ほしのん?﹂
声に元気がない。ほしのんのふわふわ金髪がわたしのうなじ辺り
をくすぐるだけ。
﹁あたし、月子とずっと一緒に居たい。1秒だって離れたくないよ﹂
﹁わ、わたしもだよ?﹂
﹁本当に月子と離れてる時間は苦しいの。月子は、月子はそうじゃ
ないの?﹂
﹁苦しいに決まってるじゃん・・・﹂
ほしのんの体重と、身体のやわらかい感触。そして温かさ。
それが全身を包んでいた。
学校の屋上、コンクリートの上で。ふざけあってくすぐりあって。
それでも感じる。
ほしのんの体温。彼女がわたしと繋がってるって事を。すぐそこ
に居ると言うことを。
﹁ほしのん、もう少しこのままで居て﹂
﹁・・・重くない?﹂
﹁重くないよ。ほしのん、おっぱい大きいのに全然軽いもん﹂
﹁・・・いや。月子が潰れたらいやだから退く﹂
ほしのんが腕に力を入れて身体を浮かそうとした瞬間。
﹁ほしのん﹂
395
小さな声で呼びかける。
﹁もうちょっと、ほしのんのおっぱい、背中に感じてたいから・・・
お願い﹂
うつ伏せになってるからほしのんの顔は見えない。
でも、背中からほしのんの感触が離れなかったって事は。
ほしのんもわたしと同じ気持ちになってくれたってことだよね。
しばらくすると、ほしのんはわたしの後頭部に顎を乗せてきた。
﹁ねえ月子。学園祭の間もずっと2人で居ようね。学園祭なんて関
係ない、みんなが出店とか、ブラバンとかやってても、ずっと二人
で居よう﹂
﹁あー、先に言うなんてずるい。わたしがお願いしようと思ってた
のに﹂
﹁あたしが上に居るからね﹂
﹁物理的にね・・・﹂
わたしはほしのんがすぐ近くに居てくれる、それだけでよかった。
今だって二人くっついて、他愛もない話をだべって。
1年生の時はそれがずっと出来ていた。でも、2年生になって半
年。違うクラスになったら、一緒に居られる時間は半分くらいにな
った。死ぬかと思ったんだ。
でも。それじゃあ。
もし、これ以上離れちゃったら、わたし達はどうなるんだろう。
﹁月子ぉ、お腹空いたあ﹂
396
﹁鞄にパンあるけど・・・﹂
﹁お惣菜パン食べたい∼﹂
﹁じゃあ買いに行かなきゃ﹂
﹁月子も一緒に来てくれるなら行くけどお﹂
﹁わたしもほしのんが一緒じゃないと絶対行かないよ﹂
ようやくほしのんはわたしの上から降りる。
わたしもうつ伏せ状態から解放されて、ぱんぱんと制服を叩いて
小さなゴミを落とす。
﹁ほしのん、あのね﹂
﹁ん?﹂
﹁わたし、学校に住むのアリだと思うよ﹂
至極真面目な表情でほしのんを見つめる。
﹁宿直室か保健室に泊めてもらうの。そしたらほしのんとずっと一
緒に居られるよね﹂
﹁ずっと一緒・・・?﹂
﹁そうだよ。教室から帰ってから次の日学校行くまで、ずっと﹂
﹁うそっ。それ天国じゃん﹂
﹁何でもやり放題なんだから﹂
﹁なんでも・・・!?﹂
﹁何でも﹂
わたしはほしのんを真正面から抱きしめる。
﹁だからね、そんなに心配しなくても大丈夫なんだよ。わたし達が
離れ離れにならない方法なんていくらでもある﹂
﹁う、うん・・・﹂
397
﹁ほしのんが望むなら、わたしは何だってするから。だから、ほし
のん。ほしのんは辛いことなんて考えなくていいんだよ。そんな表
情してちゃダメだよ。ほしのんは笑ってなきゃ。ほしのんはわたし
なんだよ﹂
﹁う、うん・・・﹂
ほしのんの目を見ると。
すっかり火照った瞳がこちらを見つめていた。
﹁月子、まじで惚れ直した﹂
﹁うん﹂
﹁大好き。愛してる。食べちゃいたい。むしろ結婚したい﹂
﹁わたしもだよ﹂
﹁月子になら何されても許せる・・・﹂
﹁じゃあ﹂
ほしのんの唇に、しゃぶりつくように唇を重ね、何度も何度もほ
しのんの唇を食べた。
ふにゃふにゃになっちゃうんじゃないかってくらいに。
﹁も、もっとして﹂
唇を放した時、ほしのんの第一声がそれだった。
﹁また後でね﹂
今は・・・そうだね。パンを買いに行かなきゃ。
わたしはほしのんにぎゅーっと抱き着くと。
﹁大好きだから・・・いつでも、いいからね﹂
398
そう言って、自然と笑みが溢れてきた。
なんてことはない。
わたし達2人の、とある1日の。午前中の出来事だった。
399
私と貴女の生徒会
﹁これでよし、部費前年比プラスマイナスゼロ・・・。ふ、わたし
にとっては容易な作業だったな﹂
生徒会室から手芸部部長もとい、手芸愛好会の会長に出て行って
もらったところで呟く。
泣いて
﹁何がよし、よ。私がフォローしてなかったらあの子、泣いてたわ
よ﹂
﹁泣けばすべて解決すると思っているのなら大間違いだ!
もわめいても帰って来ないものはある!﹂
副
会長に対して。
﹁貴女、他人の気持ちを汲まないと高校卒業してから大変よ﹂
いちいち茶々を入れてくる生徒会
﹁問題ない。あと1年あればそれくらい容易にマスターできる﹂
﹁なら良いですけどね﹂
彼女はこちらを見て、息を吐きながら肩をすくめる。
﹁ん、もう6時か。外が明るいから気づかなかった﹂
﹁昼の長さだけでいうならもう完全に夏ね﹂
﹁昼が長いとテンション下がるよな﹂
﹁そうかしら。私は夜が長いと気が滅入ってくるわ﹂
あかつき
何ともうるさい副会長だ。
副会長こと暁はわたしの意見を絶対に100%肯定しない。今の
400
ように、なんらかの文句を差し込んでくる。そして大体の場合、最
終的に真正面からぶつかるのだ。
しかし、わたしは生徒会長である。
ナンバー2の意見はただの意見だが、わたしの言葉は絶対だ。
ぶつかった場合はわたしの見解を押し通す事になっている。別に
示し合わせて決めたわけではなく、なんとなくそういうような流れ
が出来てしまっていたのだ。
﹁ほら、寮に帰りましょう﹂
﹁鞄持ってきてくれ﹂
﹁私はあなたの秘書でもメイドでもないのだけれど?﹂
﹁じゃあ何なんだ﹂
﹁自分の胸に聞いてみたら﹂
それで答えが出たら誰も苦労しない。すべての人間が自分の胸部
に話しかけてる社会が出来上がる。
暁はわたしの鞄を持ち、こちらに歩いてきて両手で。
﹁はい、会長様﹂
すっと差し出し、満面の笑みを送ってくる。
﹁暁﹂
わたしはその姿を見て。
﹁お前、わたしのパシリか?﹂
真顔でそう言ったら。
401
さすがに鞄でぶん殴られた。
◆
わたしは1年生の時、生徒会長に対して圧倒的な憧れを感じてい
た。
彼女は完璧すぎるほど完璧な人だった。
完璧とはいえ、人間のやることだ。そこまで完璧な人物がいるわ
けがないと、彼女に会うまではそう思っていた。
でも。
居るところには居るものだ。
容姿完璧、勉強完璧、運動神経完璧、性格完璧、人望完璧、完璧
度完璧。パーフェクト完璧人間とはああいう人を言うのだと思った。
あっという間に憧れてしまって、わたしは彼女について回った。
あらゆることにおいて彼女の真似をした。彼女のようになれば間違
いないと思った。
その完璧会長が卒業した後。
生徒会長になったのはわたしとは全然違う意見を持つ人だった。
先代会長派
の筆頭だった。いつも
彼女のやり方を一言でいうのなら・・・、そう、暁だ。暁がさら
に悪化したような人だった。
それはそのはず。暁は元々
彼女の後ろをついてまわっているサマはわたしの後ろをついてくる
今の姿と何も変わらない。
402
わたしにはどうしてあの完璧会長が、あの人を次期生徒会長に選
んだのか分からなかった。今でも分からないでいる。
現生徒会長
という小論文に目
職に、わたしを指名したことだ。
そしてもっと分からないのは。
先代生徒会長が
◆
始まった高校生活
﹁この1年生、なかなか見込みがあるな﹂
わたしは1年生の書いた
を通していた。
﹁考え方が実に良い。現実主義でしっかり自己主張が出来ている。
確かテストの点も良くて体力テストでも抜けた成績を残していたは
ず・・・﹂
﹁貴女、また夜中までピコピコ?﹂
ピコピコ
などと言う雑音を入れる無
真っ暗な部屋で、普段はかけていない眼鏡に光るパソコンの青白
い画面。
そんな理想的な情景で、
粋さ。
﹁今時ピコピコなんて言葉、ご老人でも使わんぞ﹂
﹁ご老人とロクに話したことも無いくせに﹂
﹁うちは実家が遠いんだ﹂
﹁あら、うちは父方の両親と一緒に暮らしていたわ。2人とも今も
元気よ﹂
403
すっかり起こしてしまったらしい。
暁は隣のベッドからパソコンのディスプレイを覗き込んできた。
﹁この子、確か学級委員じゃなかったかしら。生徒会にまでスカウ
トしたら負担じゃない?﹂
﹁それくらい両立しなければ生徒会幹部にはなれん﹂
﹁全員が全員、貴女みたいな生徒会マニアじゃないことに気づいて
ね﹂
そういうと暁はベッドから起き上がって、電気を点けた。
同時にわたしは眼鏡を外す。
﹁ココアでも淹れるわ。ホットで良いかしら?﹂
﹁いや、アイスで頼む﹂
﹁二度手間なんだけど?﹂
﹁わざわざ確認したのはそっちだろ﹂
返事が来ない。暁が折れた証拠だ。
﹁このココア美味っ!﹂
急にアイスを注文したのに、この完璧な仕上がりのココア。
生徒会室で淹れるコーヒーもそうだけれど、このわたしの口に合
うレシピはどこで仕入れたのだろう。
◆
﹁生徒会長、学校の備品が﹂
404
﹁備品担当、行って来い﹂
﹁保健室が満室で﹂
﹁保険担当、行って来い﹂
﹁部活の助っ人を﹂
﹁運動部担当、﹂
ばたん、と生徒会のドアが閉まるのを見届ける。
﹁完璧な人事だ。我ながら惚れ惚れする﹂
うちの役員は凄腕ぞろいだ。わたしが采配を誤らなければ大事に
発展することはない。
﹁貴女、自分では何もしないの?﹂
﹁人を動かしているだろう﹂
﹁自分は動かないのかって聞いてるの﹂
また暁が茶々を入れてきた。
﹁王がブレれば国が揺れる。上の立場の人間こそ、どっしりと構え
ていなければ﹂
﹁ものぐさなだけじゃない?﹂
﹁わたし以外に誰がこの位置に居られる?﹂
またいつも通り押し問答を始めようとしたのだが。
﹁・・・そうね、生徒会長は貴女しかできないものね﹂
わたしは目を見開いて驚いた。
暁が全面的にわたしの意見を肯定した・・・だと・・・
405
それが100%正解だったとしても、イチャモンをつけて99.
9点にするのが暁の役目だとばかり思っていた。
﹁・・・それは﹂
だが。
優秀過ぎるわたしは分かってしまった。
﹁それは、わたしを生徒会長に任命したのが先代会長だから、か?﹂
暁はあの人を慕っていた。だからわたしを認めざるを得な
﹁いえまったく関係ないわ﹂
﹁ふぇっ﹂
しまった変な声が出た。
﹁・・・こほん﹂
とりあえず咳払いをして誤魔化そう。
﹁なに、今の声。随分とおかしな声だったけれど﹂
﹁い、いや﹂
﹁貴女あんな間抜けな声が出るのね。パーフェクト完璧人間目指し
てるならあんな声出しちゃダメよ﹂
﹁あれは﹂
﹁今もそう。私にちょっと責められたくらいで慌てちゃダメ。二人
貴女の意見を聞かせて頂戴﹂
っきりだから良いけれど、他の人がこんなところ見たらどう思うと
思う?
406
まずい。どうしよう。
・・・切り返せない。
生徒会長に対してその態度は何だ
﹁わ、わたしは﹂
ここで
ってはならない。
、は禁句。絶対に言
それは権力を振りかざして黙らせる最悪の手段。完璧な人間はそ
んな方法はとらない。
完璧な人間なら、この場面でも暁を論破できる。論破できるはず・
・・、なのに。
﹁わたしは、わたしの考えは、えっと・・・﹂
考えろ。考えろ考えろ考えろ。何かを言うんだ。
﹁生徒会長として、だな。今までの経験を踏まえて・・・﹂
完璧な人間
・・・。
何か言わなきゃ。何か。言え。言おう。言うんだ。
言うのが、
﹁ねえ、会長﹂
﹁な、なんだ。まだわたしは答えを言ってない・・・﹂
下を向くな。こういう時こそ上を向け
隣に立っている暁を見上げる。
自分に言い聞かせる。
﹁貴女、完璧な生徒会長になりたいんでしょう?﹂
407
﹁そ、それは勿論!﹂
﹁でも無理よ、貴女1人じゃ﹂
﹁いやそんなことはっ﹂
切り返すチャンス、そう思ったけれど。
﹁無理。だって現状、この生徒会は貴女を中心にまわっていても、
裸の王様
﹂
貴女1人ではまわっていない。2年生の子達が頑張ってくれて動い
てくれるから生徒会がまわってる﹂
﹁それは﹂
﹁彼女たちが居なかったら、貴女は
その言葉が、ぐさりと突き刺さった。
﹁・・・﹂
何も言葉が出てこない。頭が真っ白になった。
その瞬間。
わたしは暁の腕の中に、胸の中に居た。
ぎゅっと頭から抱きしめられて。
﹁安心して。貴女は裸の王様なんかじゃない﹂
﹁でも、みんなから見放されたら﹂
﹁見放されないわよ。貴女を見放す子なんて、生徒会の中に居るわ
けがない﹂
﹁そんなの分からないじゃないかっ﹂
信じられなかった。この期に及んで自分の口から泣き言が出てく
るのが。
408
それを、暁に言っているのが。
﹁じゃあ分かるように言ってあげる﹂
﹁・・・うん﹂
わたしは、こくりと頷く。
﹁貴女は独りにはならないわ﹂
﹁・・・どうして﹂
まるで幼子のように問を口にして。
﹁私が居るじゃん﹂
そして。
まるで幼子のようにその答えを、100%真に受けてしまうのだ。
﹁簡単なことでしょう?﹂
﹁暁・・・﹂
わたしはぱっと、暁の胸にうずめていた顔を上げ、彼女の顔を見
る。
﹁完璧な人間がそんな顔をするものじゃないわ﹂
わたしの目元を、柔らかくて少しざらついた感覚がなぞった。
﹁少ししょっぱいわね﹂
暁はぺろっと舌を出して言う。
409
﹁・・・わたし、泣いてたのか﹂
﹁大丈夫でちゅよ∼。涙はなくなっちゃいました∼﹂
幼稚園児に話しかけるような、赤子をあやすような声で言う暁。
なんか、ムカつく。
﹁な、泣いてねーし!﹂
気づくとわたしの目から涙は消え、活力が戻ってきていたのだ。
﹁あら、じゃあこれは何かしら?﹂
左目の目元をぴっ、と。細い指がなぞる。
そこにあったのは雫だった。
﹁これはぁ何かしらねえ?﹂
厭味ったらしく言ってくる暁。
わたしは一拍を置いてそれに切り返す。
﹁それは君が持っていてくれ﹂
﹁えぇ?﹂
﹁時折、君の顔を見ては自分の泣き顔を思い出して戒める﹂
それしかない。
もう暁をわたしから切り離すことなんて不可能だと知ってしまっ
た。
410
なら。
﹁一生付き合ってもらうぞ、副会長﹂
わたし達は2人でパーフェクト完璧人間になる。
手段を少し、変更するだけのこと。
それを聞いた暁は。
﹁はい、貴女﹂
いつものように呟いて。
今までとは少し違う優しい笑顔に、わたしは安堵した。
411
私と貴女の生徒会︵後書き︶
僕にない強さとキミが持ってないチカラを重ねて
︵BACK−ON/﹃ニブンノイチ﹄の一節より引用︶
412
百合探偵シャロちゃん最期の事件
﹁この写真の女性を探して保護していただきたい﹂
そんな言葉と共に渡された1枚の写真。
随分とかわいい女の子だった。年齢は・・・わたしと同い年くら
いか、制服着てるし。
﹁・・・この仕事をどうしてわたしに?﹂
﹁捜索が袋小路に達したから、でしょうか。しかし最後の最後に学
生と一緒に居たとの情報を掴みましてね﹂
目の前の黒スーツを着た随分と目つきの悪い女は煙草を灰皿に押
し付けながら言う。
今まで目つきの悪い人間を幾人と見てきたけれど、こんなに目つ
きの悪い人を見たのは初めてだ。
﹁で、高校生探偵であるわたしに辿り着いたのか﹂
﹁学生のコミュニティというものは独特で、そこに深く入り込むの
は至難の業・・・。しかも我々のような者は学生相手にはどうにも
不向きなようでして﹂
ソファに座る女の背後で、手を後ろに組んで背筋を伸ばしている
相当ガタイが良い男達をちらりと見やると。
﹁確かに、アンタ達じゃ話しづらいかもな﹂
だって年端もいかない女の子が話すには怖すぎる。どう見てもカ
413
タギの人間じゃないもの。
オフィス
で待ち合わせをしたのだ。
だからこそわたしは普段使っていない、とあるビルの4階に入っ
ている
﹁・・・わかった。この依頼、名探偵シャロちゃんが任されよう﹂
﹁ありがとうございます﹂
断ったらタダじゃ帰してくれないでしょ。
わたしはガラにもなく、頬を伝う脂汗の感触にどうしようもない
気持ち悪さを覚えていた。
◆
﹁りーちゃん、なんか疲れた顔してるねえ﹂
﹁うん、最近ちょっと寝不足で﹂
ふわ∼、とあくびをして見せる。
﹁また他の女の子とえっちなことしてるの?﹂
﹁それだけじゃないよ﹂
﹁・・・否定しないんだ﹂
﹁嘘はつきたくないから﹂
すると彼女はにっこりと笑って。
﹁たまにはあたしもりーちゃんとえっちな事したいよ?﹂
と言って、わたしの腕を掴む。
414
﹁今から?﹂
﹁ううん。今日はいいや。りーちゃん疲れてるし・・・それに﹂
わたしは小首を傾げる。
いつもの彼女なら、もっと押してくるのに。そんな事が頭を過ぎ
る。
﹁あたしは待てる女だから﹂
そう言った彼女があまりに可愛くて、唇が合うだけのキスを反射
的にしてしまう。
核心
に触れられそうなの
それで満足してくれたのか、彼女は嬉しそうに帰っていった。
︵ここもダメ・・・、か︶
あれから1週間・・・、もう少しで
に、寸前のところで指の間を通り抜けてしまう。わたしなりの手段
で色々な学校の各学年、グループに接触し続けてきたけど、未だ本
丸が見つからない。
この地区も高校と中学には当たった。
虫眼鏡﹂
小学校の可能性は薄いと思うけれど、一応ダメ元で南小へ行った
時の事だ。
﹁お姉ちゃん、探偵さんなの!?﹂
﹁そうだよ∼。ほら、漫画とかで見たことない?
小道具でしかないそれを、小学生の女の子たちに見せびらかす。
そうすると彼女たちは喜んでくれるのだ。幼j・・・じゃなかっ
415
た、子供がよろこぶ姿は良いもんだ、うん。小学生は最高だね。
﹁この人、知ってるかも﹂
そして、とうとう突き当たった。
﹁お姉ちゃんのお友達・・・、おうちに遊びに来たところを何度か
見ました﹂
﹁詳しくお話聞かせてもらっても良いかな?﹂
﹁う∼・・・ん・・・﹂
わたしは満面の笑みを浮かべながら女の子に言い寄る。
見よ、この完璧な営業スマイルを。作り笑顔の天才と呼ばれたわ
たしの力は小学生にも通用する、するはず。
﹁・・・わかった。探偵さんなら良い・・・よね?﹂
したぞ。押し切った。
わたしは彼女の家へ上がり込むと、すぐに手籠めにすることに成
功する。
﹁ん・・・ちゅ・・・﹂
今みたいにすっご
﹁ちゅぱっ。ふう、紗希ちゃん、キス上手だね。初めてじゃないの
?﹂
﹁は、はい。同級生の男の子と前に・・・﹂
﹁そっかそっか。今度は女の子としてみたら?
く気持ちいいから﹂
彼女は少しだけ何かを考えたのか、返事に戸惑うと。
416
﹁はい・・・﹂
と言って、顔を赤らめた。堕ちたな。
何もしてないよ?﹂
﹁貴女、妹に何かしました?﹂
﹁え?
﹁しらばっくれて。ホントに探偵なんですか?﹂
お姉さん登場。
妹ちゃんと違って真面目な子だね、一目でわかった。南高の生徒
にしては珍しいくらいの真面目ちゃんだ。
﹁探偵だよ。だから知ってるの﹂
﹁何を・・・﹂
﹁極悪非道会のお嬢さんが行方不明ってこと﹂
その名前を出した途端、彼女はびくんと身体を震わせた。
﹁その反応、何か知ってるよね?﹂
﹁知りません・・・﹂
﹁あのね、真貴ちゃん。今、あの子を探して組の怖い人たちが街中
探し回ってるの、知ってる?﹂
﹁・・・﹂
﹁あの子と真貴ちゃんが友達だって知られたら、真貴ちゃんにも被
害が及ぶかもしれない。それを止めたくてわたしは来たんだよ﹂
こんなかわいい女の子に脅しみたいな手を使うのは主義に反する
けど・・・、今は許してほしい。
417
﹁ど、どうすれば良いんですか?﹂
﹁お友達が行きそうな場所、知ってること・・・どんな些細なこと
でも良い、何か知らない?﹂
﹁い、行きそうな場所は、ゎ・・・わかります﹂
ビンゴ。
﹁それはどこ?﹂
・・・真貴ちゃんは混乱している。攻め落とすなら、今。
﹁あ、あのっ。落ち着いて聞いてくださいね・・・。へ、変な意味
じゃありませんからっ!!﹂
そこで一泊を置き。
﹁ラブホテル街﹂
真貴ちゃんは囁くように小さな声で呟いた。
◆
﹁・・・確かに今、ここに入っていったね﹂
人影
がここに入
ネオンが光る夜の街。ピンクの看板の建物の前に、わたしと真貴
ちゃん。
2人で顔を確認して、ほぼ間違いないという
418
るのを見た。しかも一緒に入っていったのは同い年くらいの女の子
だ。
︵長めの家出をしたと思ったらカノジョ作ってラブホ渡り歩いてる
とか。あーあ、お盛んだこと︶
状況報告ではなく保護の仕事で助かった。
﹁ほ、ホホホントにここに入るんですか!?﹂
それとも何かした
隣でわたしの腕の中に居る真貴ちゃんが声を震わせながら話しか
けてくる。
﹁別に入るだけだから何の問題も無いでしょ?
い?﹂
﹁したくありません!﹂
﹁あら残念﹂
今回はしてる時間も無さそうだし仕方ないか。
2人組がエレベーターに乗るのを確認すると、ラブホの中へと入
り、すぐにエレベーターが止まった階を確認する。
﹁5階か・・・﹂
﹁見失っちゃいましたよ?﹂
﹁いや、見失ってない。奇数階のカメラを押さえてある。ほら、見
てこれ﹂
1つのスマホを取り出し、画面表示を切り替える。
そこには5階の廊下カメラ3台の映像が3分割されて映し出され
ていた。
419
﹁・・・﹂
さすがに異常さに気づかれたのか、真貴ちゃんはドン引きしてい
るご様子。
﹁あ、あなた、何者・・・?﹂
肩を抱いているのに、真貴ちゃんがすごく遠く見えた。
でも。この手の質問には答えが用意してある。
ほう む づ しゃり
こんなことして良いんですか!?﹂
﹁峰無津斜理、探偵さ﹂
◆
﹁あ、あの!
﹁勿論よくはない・・・。でも、もう真貴ちゃんも共犯だからね﹂
﹁そんなぁ!﹂
部屋のカードキーにハッキングを仕掛け、手元のタブレットでセ
キュリティを解除していく。
その間紗希ちゃんにやってもらってることは・・・。
他の部屋から誰か出てこないように、監視してもらうことだ。
﹁セキュリティ解除!!﹂
わたしは端末を投げ捨て、ドアを勢いよく開いて部屋の中に突入
する。
420
﹁探偵だ!
大東亜朱莉ちゃん、一緒に来てもらうよ!﹂
そう叫んだ瞬間、蹴りが飛んできた。
瞬時に防御したものの、それでも。
﹁!!﹂
何も考えられないくらい防御に使った両腕が痛くなった。
CQCを一通り会得したわたしが耐えられないほどの蹴り、・・・
これは。
﹁朱莉ちゃん、だね﹂
、その人だった。
目の前に居たのは上も下も下着のまま蹴りの姿勢でこちらを睨み
大東亜朱莉
つけている美少女。
保護対象である
﹁・・・あたしの攻撃を防ぐなんてね。相当な手練れと見た﹂
﹁まあね。さ、家へ帰ろう﹂
わたしがそう言って、彼女が何かを言い返そうとした瞬間。
腹部に、嫌な痛みが走った。
﹁・・・!?﹂
そこを見てみると。
わたしのお腹に何かを突き立てている、女の子の姿。
421
その女の子の顔を確認した後。
わたしの視界は急速に暗くなっていき、そのまま意識が遠のいて
いった。
◆
﹁・・・偵さん!探偵さん!﹂
ハッと、意識を取り戻した。我に返ったと言っても良い。
﹁まき・・・ちゃん・・・﹂
まだ視界と思考がぼうっとする。真貴ちゃんの顔がよく見えない
し、口がまわらないのだ。
﹁よかった、よかったよぉ。探偵さん、生きてて・・・﹂
﹁わたし、どうして・・・﹂
﹁探偵さん、スタンガンで気絶させられてたんだよ!?﹂
あの時、誰かに刺されたと思ってたけど、スタンガンだったのか。
﹁刃物じゃなくてよかった・・・﹂
探偵さん、死んじゃったのかとっ!﹂
はは、と空笑いをする。
﹁良くないよ!
真貴ちゃんは本気で心配してくれていたようだった。
422
・・・でも、失敗したな。
朱莉の為なら人殺しちゃう系女子
だっ
あの大東亜朱莉と付き合おうって子だ。タダモノじゃないとは思
っていたけれど、まさか
たなんて。
さすがに想定外だった。
﹁あーあ、これで捜査はスタートに逆戻り。ここまで結構苦労した
のに﹂
﹁そんな事より自分の心配をしなよ!﹂
真貴ちゃんがボロボロと零した大きな涙が、わたしの顔の上に落
ちてくる。
もう誰も居ないけど、ここしか逃げ場が無
﹁ねえ、真貴ちゃん。ここ、どこ?﹂
﹁朱莉が居た部屋っ!
くて!﹂
﹁そっか、はは・・・﹂
それだけ確認できたら十分だ。
﹁真貴ちゃん、わたしの最期のお願い、聞いてくれる?﹂
﹁うん・・・うん。聞くよっ﹂
真貴ちゃんは口を押えながらこくこくと頷く。
﹁えっちしたい﹂
依頼がパーになったイライラと、身体に力が入らないモヤモヤと、
ラブホに来たと言うモンモンと。
423
全てを解決するにはもう、それしかなかった。
にしても驚いたのは真貴ちゃんがもう脱ぎだしてる事だ。
・・・ノリノリじゃないですかやだー。
424
永遠の孤独から
突然ですが、わたしは神です。
正しく言えば神の遣い、天使ちゃんです。
﹁天使ちゃんおはよう﹂
﹁おはようございます、藤野さん﹂
呼びかけてきたクラスメイトの藤野さんに笑いかけて頭を下げる。
﹁天使ちゃん、俺の名前覚えててくれたの!?﹂
﹁はい。クラスメイトですから。藤野泰人さん﹂
そう言うと、彼はガッツポーズして走っていき、随分遠くで友人
たちと嬉しそうに談笑を始めた。
︵彼と直接会話をするのは初めてなのに、随分と嬉しそう。わたし
に気があるんですかね︶
思春期の多感な時期だ。仕方ない。
人間も生物である以上、種を後世に残さなければならない。彼の
反応はある意味当たり前なのかもしれない。
てんし
﹁山田天使ってさ、キラキラネームだよね﹂
その日の昼休み中、クラスメイトにそう話しかけられた。
﹁そうでしょうか?﹂
425
﹁いや天使はキラキラでしょ﹂
前任者は別の名称で呼ばれていた・・・そうだ、DQNネームと。
たった数年間で天使という名前の認識に違いが出始めるとは、や
はり。
︵この国の人間はどこかおかしい︶
そんな事を考えながら空を・・・天元を見つめた。
︵地球からは天元が青く見える。宇宙から地球は青く見える。でも、
その実どちらとも青くはない︶
大気と豊富な水資源、そして適正な恒星からの距離に恵まれたこ
の星らしい特徴とも言えるかな。
知的生命体がここまで高度な文明を持つことは非常に珍しい。
わたしも長い間、天使というものをやっているけれどこれは本当
に驚かされることだ。
大抵の生物は時間を止める。
二足歩行に至った生物はいくらでもあるが、そこから高度な知性
を宿した生物になるのは本当に一握りだけである。
だが、その一握りのほとんども高度な文明を持つことは無い。
そこで形成される社会構造もルールも、全ては種を後世に残すこ
とが目的である。
﹁その中で、この地球文明は第4の時代に至った希少な種・・・、
今後も要監視、と﹂
Wordにそう打ち込んで、ファイルを保存する。
426
地球人類はそういった生物の種の保存という枠から突出しつつあ
る。単純に自分たちの子供や孫を生み出すことが幸福であるという
価値観から出つつあるのだ。
︵これは第4の時代が終わる兆しなのか、それとも地球人類そのも
のが終わりつつあるのか︶
そこまではわたしにも分からない。
パソコンをシャットダウンするとベッドにもぐりこんだ。
どちらでも良い。
人類が第4の時代を乗り越えようというのなら、それはそれで歓
迎だし、滅ぶというのならわたしはさっさとこの星から出ていけば
いいだけのこと。結局は他人事なのだ。
◆
﹁天使先輩おはようございますっ!﹂
﹁今日も元気ね、渡辺さん﹂
あたしは小悪魔琥亜ちゃんですよ
こあ
最近、やたらすり寄ってくる後輩の女の子に挨拶をする。
﹁渡辺はやめてくださいよー!
ぉ﹂
言い回しですよ。小悪魔っぽ
﹁あなたは悪魔には見えないけれど﹂
﹁あーもう、先輩は堅いんだから!
いでしょ?﹂
427
言うと、彼女は八重歯を見せて爪を立てるポーズを見せる。
﹁それは悪魔ではなく、肉食獣じゃ?﹂
﹁先輩の重箱の隅をつつくような突っ込み、そこも好きです!﹂
きゃー、と嬉しそうに頬に手を当てて身体をくねらせる琥亜ちゃ
ん。
・・・なるほどね。
︵わたしに甘える自分の可愛さをアピールしてる、と︶
若いころの女性に見られる傾向だ。
より良い男性を捕まえる為のポーズ。これも血の継承を目的とす
る生物にとっては当然の事なのだろう。
﹁琥亜ちゃん、そういうのは他の人にやってみたら?﹂
わたしでは相手に出来そうにない。
だから、他の女の子・・・同級生でも良いので、それを相手にし
てほしい。そう言うつもりだったのだけれど。
﹁ぐすん・・・﹂
ここで彼女に泣きだされるのは想定外だった。
﹁こ、琥亜ちゃん?﹂
﹁ぜんばいは、あだじのごど、ぎらいなんでづか・・・?﹂
﹁嫌いじゃないよ。でも、その、そういう事じゃなくて﹂
対応に困る。この子は要するに対処がめんどくさい人間なのだろ
428
うか。
﹁わたし、ノリ悪いし、琥亜ちゃんが望むような対応はできないと
あたしは
思うの。だから、こんなわたしの相手をしても疲れるだけだと思う
よ?﹂
﹁なんでそんな事言うんですか・・・﹂
彼女はうつむきながらわたしの手を握る。
﹁こんなこと、他の誰かにやれるわけないでしょう!?
先輩だから、先輩が好きだから、先輩に振り向いて欲しいから・・・
﹂
﹁・・・!﹂
その独白は至って真剣なものだった。
そこに不純なものは何も混じっていないことが感じられる。
これは天使として相手に踏み込んだ結果じゃない、人間である﹁
山田天使﹂として、琥亜の想いを受け取り感じた事だ。
﹁わ、わかったよ琥亜ちゃん。無神経なこと言ってごめんね﹂
﹁・・・﹂
﹁わたしもあなたの事、好きだよ﹂
﹁ホント、ですか?﹂
そこで彼女は頭を上げる。
﹁うん。本当﹂
彼女の顔に少しだけど、笑顔が戻った。
429
その後は手を繋いで、学校まで歩く。
︵琥亜ちゃんは憧れや博愛を恋愛と勘違いしてる。この子くらいの
女性には珍しくないことだけれど︶
可愛いものや綺麗なものに憧れや過剰な反応を示す傾向。
その気持ちは嘘ではないのかもしれないけれど、大抵、その先に
は何もない。
人生などその何もないことの繰り返しだという事を前提として言
うけれど、彼女のこの気持ちは結局、後の思い出になるだけだ。
︵自分を目立たせるために他者との関係を利用する。人間の狡さ故
の賢さ、か︶
これが人間が第4の時代を抜けられない理由の1つでもある。
そんな小手先の策を弄しても、その先には何もない事に気付いて
ほしい。それはあなた達が第4の時代に置いていかなければならな
いことだ。
﹁先輩好きです﹂
﹁夏休みは一緒に海行きましょう海、泊まりで!﹂
﹁今日は先輩の家へ行ってご両親に挨拶をば!﹂
﹁じゃーん。バレンタインということで愛を込めてチョコ作っちゃ
いました﹂
琥亜と出会って1年が過ぎようとしていた。
飽きないな、この子。なかなかわたしから離れようとしない。
どうするんだろう。あと1年でわたしは高校を卒業する。そうし
たら。
430
わたしは天元に還るというのに。
﹁ねえ、琥亜ちゃん﹂
﹁なんですかぁ?﹂
ある日。ファミレスで内容の無い会話をしていた時のこと。
﹁わたしが卒業したらどうするの?﹂
﹁うーん。そりゃあ学校はつまんなくなっちゃうかもですけど・・・
。でも、放課後になれば会えますし、問題ないのでは?﹂
﹁あのね、琥亜ちゃん﹂
県外の大学に進学するとか、適当な事を言って別れを切り出すし
かないだろう。
これ以上一緒に居ても。
互いに辛いだけだ。
﹁・・・わかってます。別れたいんですよね﹂
﹁えっ・・・﹂
こちらが言う前に、言われた。
﹁良いんです。分かってました。先輩はあたしの事、懐いてる後輩
くらいにしか思ってくれていないんだって。でも、それでもいい。
それでもいいから近くに居たい。先輩と一緒に過ごしたいって、あ
たしが勝手にやってたことですから・・・﹂
﹁・・・ごめんなさい﹂
﹁謝らないでくださいよ。あたし、もっと惨めになるじゃないです
か﹂
431
琥亜ちゃんは立ち上がると、財布だけを残して席を立って行って
しまった。
わたしはそれを追いかけられない。立ち上がることが出来なかっ
たのだ。
︵どうして、琥亜ちゃん。わたしに恋愛なんてしても、その先には
何もない。わたしと付き合うなんて無駄なんだ。いくらわたしと愛
し合っても、そこに血の継承は無い。生物の使命である種の保存は
無いんだよ︶
・・・じゃあ、どうして。
どうして、わたしは天使としての使命を逸脱して彼女の好意を受
け続けたんだ。
どうして彼女が泣きだしたあの時、切り捨てることが出来なかっ
た。突き放して、わたしには付き合ってる人がいるからごめん、く
らいの嘘がつけなかったんだ。
それは。
︵わたしが、琥亜ちゃんの事を・・・愛してしまったから︶
天使であるはずのわたしが、1人の女の子の人生を大きく曲げて
しまった。
意識するより前に、わたしはその場から駆け出した。
レストランから出ると、真っ暗な夜道で泣きながらぽつぽつと歩
いている女の子を見つける。
﹁琥亜ちゃん!﹂
432
わたしは叫んで、彼女を後ろから抱きしめた。
﹁先輩・・・﹂
﹁わたしはあなたの事が好き!﹂
わたしはあなたのこと
﹁優しいんですね、先輩は。でも、もういいんです﹂
﹁良くない!!﹂
わたしはお腹の底から声を出して言う。
﹁琥亜ちゃんがよくてもわたしが嫌なの!
が好き。だからわがままも言うし、あなたを手に入れるためなら何
でもするわ!﹂
﹁せんぱい・・・?﹂
﹁この世界や人間がどうなっても、そんな事はどうでもいい。わた
しは琥亜ちゃん、あなたと一緒に居たい。あなたを愛していたい・・
をさら
・、自分の使命や地球の未来より、わたしにはあなたが大切だって、
気づいたから。だから、だから﹂
自分
そう。天使として生きてきて、ずっと抱いていたもの。
﹁わたしを、独りにしないで・・・﹂
人との間に壁を作り、決して相容れなかった。
知らず知らずに他者を見下し、人間を理解しても
け出し分かり合おうとは思わなかった。
それが己を、天使を特別だと思い込んでいた、わたしの限界だっ
たのだ。
433
﹁先輩、ようやくホントのこと、話してくれましたね﹂
﹁うん・・・﹂
﹁でも、あたしはそれでも良かったんです。先輩があたしのことを
好きじゃなくても、あたしが先輩を好きな気持ちは変わらないから。
だから、先輩の1番近くに居られれば、それで﹂
腕の中の少女はとても小さく、とても温かい。
﹁これからは、その何倍も、わたしがあなたの事を愛するわ﹂
この温かさこそが、人の本質なんだ。
神が何のためにわたしを人間界で生活させたのかは分からない。
だけど、この温かさを知ることが天使の役目だったのだと、今は
思いたい。
﹁それじゃあ、あたしはその十倍、先輩のことが好きって言い続け
ます﹂
ようやく手にしたこの温もりは、絶対の絶対に嘘じゃないから。
434
超能力VS異能力VS霊能力
﹃いや不覚を取ったよ﹄
電話口の相手はまるでアメリカンジョークを言うように饒舌だ。
﹃わたしを真正面からぶつかってきてノすなんて、正直想定してな
かった。いくら搦め手を使われたとはいえ、言い訳にはならないよ
ね﹄
﹁お前の様態なんぞ知ったことか。何でもいい、要件だけを言え﹂
こちらも本気だと思ったのか、彼女は声色を変える。
﹃さっき、気づいたら病院のベッドで寝てたんだ。何を言っている
のかわからねーと・・・﹄
﹁そのくだりはいい!﹂
恐らくこれから30秒くらい続くであろう長台詞を遮って電話口
に向かい叫ぶ。
﹃覚えてるのは謎の敵Xにボコボコにされたことと、そいつが妙な
技を使ってたってことさ﹄
﹁妙な技?﹂
﹃目が合った瞬間に幻覚を見せられた。幻覚に酔ってる間にタコ殴
りにされて病院送りってわけ﹄
・・・こいつは時に突拍子もない事を言う奴だが、恐らくこれは
事実なのだろう。
435
嘘にしては悪質、かつ病院の電話番号がわたしの携帯の画面に表
示されている以上、手が込み過ぎている。
﹁単刀直入に聞く。そいつの容姿は?特徴は?﹂
﹃覚えてない。多分、幻覚を見せていた時にXの視覚情報を麻痺さ
せられたんだと思う﹄
﹁ちっ。なんだそりゃ。バケモンじゃねーか﹂
この自称探偵をボコって病院送りにした時点で少なくとも普通の
人間ではない。
いけ好かない奴だけど、自衛能力だけは超一流の探偵だし。
﹃まあね。だからバケモノを倒すワンポイントアドバイス。変な奴
とは目を合わせるな。恐らく本気を出したら視界に入っただけで脳
を乗っ取られる可能性もある相手だよ﹄
﹁目ぇ瞑って勝てるくらい弱いのか?﹂
﹃いや。IQ150のヒグマと戦ってる気分だった﹄
・・・頭が痛くなる。思わず後頭部をかきむしった。
﹃だから君を頼ってるんだよ、用心棒。わたしが正面切って勝てな
いのはこの街じゃ君くらいだし﹄
﹁お前、この間マフィアのガキ探した時も負けてなかったか?﹂
﹃あれはずるい。あのスタンガンどれだけの強さだったと思う?
性能限界ギリギリの出力だって。笑っちゃうy﹄
これ以上会話をしても無駄のようだ。
わたしはスマホを切るとそれをソファに放り投げた。あれは仕事
の受付用、これから行く戦場には持っていなくても良いものだから。
436
﹁敵も
同族
か・・・﹂
どこの施設出身かは知らないが、人工超能力者と見た。
︵相手の脳に介入できるなんてトリッキーな能力だな︶
かつ、高度な超能力者だ。単純な能力の比較をするのならわたし
の超能力じゃ相手にならないレベル。
どうしてそんな国家権力レベルの相手がこの街に来ているかは分
からないが、単身で動いている以上、目標は個人とみるべきか。
いよいよ
︵もしかしたら探偵が逃したマフィアのガキとその同伴者を狙って
るのか・・・︶
可能性はある。
しかしこの街も混沌としてきたものだ。
遂に悪の超能力者が来訪してくるようになったか。
だな。
◆
﹁どうなってんだ、こりゃ﹂
夜の街を歩いていたら歩行者9人が同時にわたしに襲い掛かって
きた。
いくら物騒な街でもここは日本だぞ、スラム街じゃねーんだ。通
常ならこんな事は起こりえない。
437
そして恐ろしいのは、襲ってきた9人がまったく整合性の無い姿
をしていたことだった。
︵リーマン、リーマン、JK、こいつは・・・怖いお兄さん、自転
車に乗るジジイ、ビラ配りの姉ちゃんに私服姿の女が2人、最後の
1人は塾帰りの小学生だぞ︶
その場に居合わせた歩行者全員がまるで何かに命令されたかのよ
うにわたしに殺意を向けてきた。
・・・間違いない。
︵これがXの能力か︶
当の本人は既に姿を消しただろうが、あの瞬間、この通りのどこ
かに奴は居たんだ。
そして視界に映る一般人の歩行者を9人同時に操ってわたしを殺
そうとしてきた。
これはヤバい。
わたし1人でどうにかなる相手じゃなさそうだ。
﹁そこでどうしてあたしなんですか?﹂
セーラー服を着た少女はカーディガンを脱ぎながら言う。
﹁この街で殺しならアンタの上をいく奴は居ないだろ﹂
﹁その方には殺人の許可は出ているんですか?﹂
﹁許可は出てねーが、会ったら全力で殺しに行け、1ミリも情けを
かけるなとは言われてる﹂
438
それを聞いて彼女はうねる。
﹁・・・ですが、あたしはアサシン。暗殺は十八番ですが、相手の
顔が分からないというのは﹂
﹁そこなんだよなあ﹂
Xの顔を探ろうにも、またあんな風に関係のない通行人を操られ
たらたまったもんじゃない。
﹁こういう事が得意そうな、タラシの探偵さんはこんな肝心な時に
入院してますし・・・﹂
﹁ここぞって時に役に立たねー奴だよな﹂
逆に考えれば、Xの第一目標は探偵だったのかもしれない。
﹁・・・ならば、超能力にはこちらも異界の能力で対抗しましょう﹂
柔和なアサシンはぴん、と人差し指を立てる。
﹁腕利きの霊能力者を知っています﹂
そう言って紹介されたのは、疲れた顔をしたOLだった。
冴えない上によく寝てないのか、非常に眠そうな表情をしている。
﹁アンタが霊能力者か・・・?﹂
﹁霊能力者って言うか、自称幽霊に憑りつかれてます﹂
言葉に覇気もないし、大丈夫かこいつ。
439
﹁今、わたしのこと頭のおかしいメンヘラだと思ったでしょ﹂
﹁まあな。正直、アンタを疑ってるのは確かだ﹂
﹁わたしに憑りついている幽霊は強力ですよ。幽霊学校を主席で卒
業したらしいですから﹂
なんだよ幽霊学校って。
﹁分かります。幽霊学校なんて、笑っちゃいますよね。信じてくれ
とは言いませんよ・・・。ただ、仕事はします。いただいた多額の
報酬分の仕事は・・・﹂
そう言ってメンヘラ女はインスタントカメラをあらぬ方向に向け
てシャッターを切った。
パシャ、という音と共に。
﹁あなた達が探してるのはこの人でしょ﹂
出てきた写真を見て驚いた。
そこには明るい場所で真正面から、明らかに個人を特定できるほ
どはっきりした女の顔が映っていたのだ。
﹁アンタ、これどうやって・・・!?﹂
でも、これ間違いなく本人ですよ。わ
﹁念写って言うんですかね。それをやったんです﹂
念写・・・!?
﹁信じられないでしょう?
たしに憑りついてる幽霊も絶対だって言ってます。あれだけのお金
をいただいたんですからそれは保証します﹂
440
とんでもなく胡散臭い話だが、これを信じるしかない。
たくさんの人が住んでいるこの街で、脳を乗っ取ることが出来る
危険人物を闊歩させるわけにはいかない。1分1秒でも早く、この
女を殺さなければ。
﹁顔が分かればあとはお任せをば。必ず殺す技と書いて必殺技を使
います﹂
美少女JKはそう言うと、スカートの下に忍ばせていたナイフを
取り出す。
﹁超能力者の暗殺は初めてですが・・・。最悪、相手の目を潰すく
らいの事はしてご覧に入れましょう﹂
わたしはそう言う彼女の背中を見送った。
もしもの時、シメは頼むと言われ、探偵がボコられた人気のない
高架下で息を潜ませる。
数十分とその場で潜伏していると、持ち歩いている小型携帯が震
えはじめた。
﹁上手くいったか!?﹂
必殺技とやらはどうしたんだ!﹂
﹃すみません、善戦しましたが目を潰そうとした瞬間に・・・幻覚
を・・・﹄
﹁なんで即死させなかった!?
﹃それは・・・貴女自身が・・・確かめて・・・﹄
ダメだ。幻覚が残っているのか、会話にならない。
どういうことだ。どうして取り逃した。まずい、このままじゃX
はこの街を囮にしてくる可能性すら出てきたぞ。
441
しかし。
暗殺者の言う、善戦したというのは嘘ではないようだった。
血だらけのXが、こちらに向かって走ってきている。
ここで逃したらもうチャンスは無い。わたしの武人としての本能
がそう告げていた。
暗闇で息を潜める。
チャンスは一度。そして一瞬。それで勝負は決まる。
わたしの前をXが通り過ぎようとした瞬間。
﹁捕まえたあっ!!﹂
間違いなく、Xの腕を掴んだ。その刹那に。
﹁アンタには悪いが、死んでもらうぜぇ!!﹂
わたしの能力をフルパワーで発動させた。
︱︱︱超人育成機関で植え付けられたわたしの能力。それは。
暗がりの高架下から、紅蓮の炎が燃え上がる。一瞬その色は真っ
暗闇の高架下を昼間の様に照らし上げると。
次の瞬間には、またただの暗闇に逆戻り。
︱︱︱人体発火の能力。
︱︱︱自分の全身から炎を出せるだけの力。
周囲数十メートルを焼野原に出来る代わりに。
442
﹁あーあ。あの下着気に入ってたのに﹂
身に着けているもの、所持しているものを全て灰にしてしまうと
いうリスクを伴う。
だからわたしはスマホを所持しない。小型のやっすい携帯電話を
持ち歩くのはそのためだ。
文字通り一糸まとわぬ姿になって、周りを見渡す。
どうやらXは灰になってしまったらしい。
あいつは関係のない他人を利用してわたしを殺そうとした。探偵
を病院送りにした事実もある。
・・・だけど、少しだけ考えてしまう。
実験動物のマウスのように能力だけを与えられて、ただ命令をこ
なしていた彼女の人生を。
﹁わたしだって一歩間違えてたらアンタみたいになってたかもしれ
なかった。この瞬間だけは神に祈るぜ。・・・安らかにな﹂
一瞬、目を瞑った。
﹁用心棒さん﹂
﹁おう、暗殺者。Xは殺したよ。・・・見ての通り、消し炭だ﹂
そう言って振り向いた瞬間。
ムチャクチャに押し倒された。
こちらは何も着ていないのに、馬乗りになって。
443
﹁っ!
アンタ、まさかまだ幻覚を・・・!﹂
ヤバイ。相手はモノホンの暗殺者だ。
こんな状態にされたら、次の瞬間には首を切られて殺される。
わたしは本気で死を覚悟した。
・・・が。
むにゅ。
やさしく、胸を揉まれた。
﹁ひゃっ﹂
思わず変な声が出てしまい、口を抑える。
﹁今回の成功報酬、確か身体で支払っていただけるんですよね?﹂
﹁ちょ、だ、誰がんな事言っ・・・んっ﹂
暗殺者の女子高生はわたしの太ももを持ち上げる。
やばい、マジでやばい。
わたしの貞操が。
﹁抵抗したら、ここを掻っ捌いて殺しちゃいますよ・・・?﹂
彼女がナイフを突き立てた先は︱︱︱
444
ガラパゴス・グリーティング
わたしはこの病院から出たことが無い。
呼吸器官がすごく弱いらしくて、ナントカっていう細かい空気上
の小さい物質を吸い込むと咳が止まらなくなり、悪いと死んでしま
うのだそうだ。
だから無菌状態の病棟でしか生きられない。
わたしはこの小さな病院の中の、更に小さな無菌区域しか見たこ
とが無く、それがわたしの世界全てだった。
そんなある日、病棟に新しい患者さんが入院してきた。
もの珍しさに病室を覗き込むと。
全身包帯で包まれた患者さんが、無菌病棟なのにも関わらずガラ
スケースのような透明の壁で囲われた病室に入れられていた。
先生や看護師さんは、基本的にそれを外から診るだけ。
たまに中に入る人が宇宙飛行士さんみたいな恰好をしているのに
は、さすがに驚いた。
﹁ねえ、お隣さん、大丈夫かな?﹂
﹁ここに入ってくるのは今すぐに命が危ない人じゃないから、大丈
夫だよ﹂
いつも通り喉の検査が終わった後、先生に聞いてみたけど、それ
以上の事は教えてくれなかった。
︵全身包帯でぐるぐる巻きなのに・・・?︶
445
そんな事を思ったけれど、先生が言うって事は大丈夫なんだ。
なら。
︵お話・・・出来るかな︶
あくる日、隣の病室へ行ってその人に話しかけてみることにした。
﹁あ、あの。わたし、遠山亜美って言います。ご、ごきげん・・・
よう?﹂
他の病室の人に話しかけるなんて初めての事で、緊張してしまう。
ここに来るのは基本的に大人が多い。だから、なんとなく話しか
けづらくて。
包帯でぐるぐる巻きの人は何も言わない。
︵寝てるのかな・・・?︶
と、思った瞬間。
﹁寝てないよぉ﹂
ガラスの向こうで、消えそうな声が響いた。
﹁包帯ぐるぐる巻きだけど、大丈夫ですかっ?﹂
返してくれたのが嬉しくて、わたしはそんな事を聞いてしまう。
﹁ああ、これ。手術痕があるからって言うんだけど、もう治ってる
446
のよね﹂
﹁じゃ、じゃあ、お顔、見せてくれないかな?﹂
わたしはただ嬉しかった。それだけのことで言った台詞だ。
半分無理だと思っていたけど。
﹁うん、良いよ﹂
﹁ほんとう!?﹂
﹁でも、先生や看護師さんには内緒だからね﹂
内緒・・・その言葉に少し、胸の辺りが重くなったけど。
それが逆に、わたしを後押ししてくれた。
﹁うん・・・っ。内緒!﹂
誰かと秘密を共有する事なんて、生まれて初めてで。
胸が躍った。
包帯の人は包帯でぐるぐるの手を動かして、頭の包帯を取ってい
く。
次第に顔が見えてきた。
まんまるで大きい目、小さな鼻と口。まるでお人形さんみたいに
かわいらしい顔つき。髪の毛は銀色のウェーブがかかっていて、肩
の少し上辺りで切りそろえられている女の子だった。
﹁かわいい・・・﹂
わたしは気づくとそんな言葉を口からこぼしていた。
﹁ふふっ。ありがとう。君もかわいいね。声がかわいいからきっと
447
そうだと思った﹂
彼女はこちらに笑いかけてくれる。
わたしは嬉しくて、ガラス張りの部屋の透明な扉に手を付け、彼
女に近づこうとする。
わ、わたし、友達が出来るなんて初めて!﹂
﹁亜美、だっけ。私はアリス。私たち、友達になりましょう?﹂
﹁うんっ!
﹁ふふ。あなたの初めてになれて嬉しいな。そろそろ先生が来る時
間だから、また明日お話しましょう﹂
わたしは強く頷くと、急いで自分の病室へと戻った。
◆
翌日。
会いに来たよ!﹂
太陽が1番上に昇った時間に、アリスへ会いに隣の病室へ向かう。
﹁アリス!
﹁ふふ。そんなに慌てなくても、今日は夕方までお話出来るから﹂
昨日の様に包帯を取って微笑むアリス。
それからわたし達は色々な話をした。
わたしの事、わたしの病気の事、アリスの事、そしてこの病棟の
外の事。
﹁世界は広いわ。亜美の想像もつかないようなものが、この外には
広がっているの﹂
448
﹁写真や絵なら見た事あるけど・・・﹂
﹁実際に行ってみると全然違うよ。いつか、亜美と一緒にいろんな
ところへ行ってみたい﹂
っていつ
絶対行こう。今は無理でも、明日。明日が無理なら、明
アリスはそんな事を言いながら遠くを見つめる。
﹁うん!
後日。いつか、絶対にいけるよ﹂
医学は日進月歩で進化してる
﹁・・・亜美は、いつか自分が外に出られると思う?﹂
﹁当たり前だよ。先生が
も言ってるもん。いつか、わたしみたいな子でも世界のどこでも自
由に行ける日が来るって!﹂
それがいつかは分からないけど、きっと行ける。
﹁生きていれば、絶対にそういう日が来るって、信じてるから﹂
わたしはそう言って、ぺたんと透明な壁に両手をつけた。
﹁・・・亜美は、強いね﹂
アリスは寂しそうな笑いを浮かべながら言う。
﹁そうね。あなたの未来は希望に溢れている。亜美はそういう未来
を生きられる子だよ﹂
﹁わたしだけじゃない。アリスも・・・わたしの未来には、アリス
も居るよ﹂
﹁・・・﹂
アリスはそれを聞いて、しばらく黙り込んでしまう。
449
何か、変なこと言ったかな。怒らせちゃったかな。そう思い、焦
っていると。
﹁亜美、これからここで起きること、絶対に誰にも言わないって誓
える?﹂
﹁うん。ちか﹂
わたしが言いかけた瞬間。
﹁絶対の、ぜったい、だよ?﹂
今までと違う声色で、アリスはこちらを一点に見つめながら言う。
どうしてだろう。
わたしはそれを、怖いと感じてしまったのだ。
﹁うん・・・﹂
それでもそう言ったのは、アリスが友達だから。
友達の約束は絶対だもん。わたしはそう言って、頷いた。
﹁分かった。私も亜美のこと、信じるね﹂
アリスがそう言った瞬間。
彼女の左腕の包帯が、引きちぎられた。
と言うより、中からの力で破裂した。
﹁︱︱︱﹂
なにも言えなかった。
だって、アリスの左腕が・・・銀色で、大きくて、ギザギザして
450
いて・・・ガラス部屋の左半分を埋めてしまいそうなほど、大きく
なって。
その大半は、透明な壁に張り付いていたから。
﹁わたしはね、宇宙人と一つになったの﹂
﹁宇宙・・・じん・・・?﹂
﹁宇宙人は言語によるコミュニケーションと言う概念が無い存在。
だから、わたしの身体に入り込んでわたしの一部になったの。そう
分かんない、わたし、分か
すればわたしが、この子の言葉を人間に伝えることができるから﹂
﹁な、なに言ってるのアリス・・・?
んないよ・・・!﹂
げんごによる、とか。がいねん、とか。一部になった・・・とか。
わたしには分からない言葉だった。
﹁驚かせてごめんなさい。わたしの中にいる宇宙人が、亜美に挨拶
がしたいからって﹂
﹁その・・・、腕が銀色になって大きくなるのが、うちゅうじんさ
んの挨拶なの?﹂
﹁これが自分たちの存在を亜美に1番強く伝えることが出来る手段
だから。宇宙人も亜美のこと、良い子だって思ってるから、嬉しく
なっちゃったみたい﹂
わたしはごくり、とつばを飲み込む。
外の世界
では普通の事なのかもし
目の前にある光景は、今までの写真や絵じゃ見たことが無い光景
だ。
でも、これがアリスの言う
れない。アリスは実際に行ってみなければ分からないこともあると
言っていた。
451
﹁う、宇宙人、さん・・・﹂
わたしは怖いと言う気持ちを必死に堪えながら。
﹁わたし、遠山亜美・・・です。お友達に、なってくれますか?﹂
涙を精一杯我慢して、アリスの顔を見つめながら言った。
すると。
アリスの左腕から膨れ上がり、透明な部屋の左半分に張り付いて
いた銀色が、一瞬のうちに小さくなっていき。
次の瞬間にはアリスの左腕は白い肌に華奢な、普通の女の子の手
に戻っていて。
その指先では、親指と人差し指を使ってOKマークを作っていた。
﹁ふふ、是非。だって﹂
アリスはそう言って、噴き出すように笑ってわたしの方を見た。
﹁少しリアクションがオーバーな子なの。これからも怖がらせちゃ
うかもしれないけど・・・許してね?﹂
﹁ううん。ごめんなさい、わたしもちょっと驚いちゃって、涙が・・
・﹂
怖くて怖くて泣いてしまった涙を、必死にふき取る。
﹁私たち地球人がこうやって言葉や仕草で自分の気持ちを伝えるよ
うに、この宇宙人たちには宇宙人たちなりの気持ちの伝え方がある
の。それが地球人のものとは少し違っていて﹂
452
﹁・・・それで、うちゅうじんさんと一つになったの?﹂
﹁この子たちに悪意は無いの。地球人と仲良くなりたい・・・、で
も、相手に気持ちを伝える方法が無い。だから、わたしはこの子た
ちの気持ちを地球に生きる人みんなに伝えられるような、そんな人
間になりたいって、そう思って﹂
翻訳者
さんって言うんだよね?﹂
わたしはそのような存在に、心当たりがあった。
﹁そういうのって、
﹁翻訳者・・・?﹂
それを聞いたアリスは。
﹁そう・・・かも、しれない・・・わね﹂
噛み締めるように、うんうんと頷き。
﹁宇宙人と1つになることが翻訳者だなんて、考えたことも無かっ
た。やっぱり亜美、あなたってすごいわ﹂
アリスは心底嬉しそうに、ぶんぶんと手を振りながらわたしに笑
いかけてくれた。
﹁亜美・・・わたし、あなたの事が好きみたい﹂
﹁友達ってこと?﹂
﹁ううん。違うわ。これは・・・恋﹂
こ、恋!?
﹁愛と言っても良いんじゃないかしら﹂
453
愛!?
﹁ねえ亜美、私たち、将来は結婚しましょう﹂
﹁ひゃううう、け、結婚・・・っ﹂
どうしよう。でも、友達になれたんだから・・・。
恋人にもなれるし、結婚だって、できる・・・よね?
﹁うん。大人になったらアリスのお嫁さんに・・・なりたい﹂
﹁ふふ、亜美がお嫁さん・・・ね。あなたがウェディングドレスを
着るのなら、私はタキシードを着こなせるような素敵なレディにな
りたいわ﹂
﹁ああっ、でも!﹂
わたしはその瞬間、決定的な事に気づいてしまった。
﹁アリスのウェディングドレスも見たい・・・!﹂
でも、わたしも勿論ドレスは着たいし!
﹁ドレスもタキシードも、両方着ましょう。この子も、そう言って
るわ﹂
﹁えっ、宇宙人さんもドレス着たいの!?﹂
わたしが驚いたように言うが。
﹁当たり前よ。この子も女の子だもの﹂
アリスは平然とした顔でそう言って、少し頬を赤くさせた。
454
わたくしのちっちゃな騎士
あれは、まだわたくしが王立学園の中等部に通っていた時のこと。
いつも通り授業を受けて、付きの者と共に寮へ帰ろうかと中庭を
歩いていた時だ。
﹁ひめさま!﹂
あの子は、いきなり現れた。
﹁私、ひめさまの騎士になります!﹂
彼女は小さな身体から必死にこちらを見上げながら言うのだ。
﹁今は無理かもしれません。でも、いつかひめさまをお守りできる
立派な騎士になって、あなたの下へ、お迎えに上がります!﹂
ちっちゃくてかわいいね﹂
それを見ていた周りの生徒たちはくすくすと笑みをこぼした。
﹁なにあれ、かわいいー﹂
﹁あの子新入生じゃない?
微笑ましい
まだものをよくわからない幼子が
というよう
その多くは、笑いというよりは微笑みという表現の方が近い。
な、暖かなものだ。
﹁子供の戯言に付き合っている時間はありません。行きますよ﹂
455
言って、付きの者たちを先導する。
呆れた
ぜっっったい、ひめさまを振り向かせてみ
のが半分だったのは確か。でも。
わたくしはその子を、まるで無視するかのように通り過ぎたのだ。
・・・
﹁嘘じゃありません!
せますから!!﹂
後ろで大声で宣言する、まだ年端もいかない女の子に。
こんなにも真っ赤になった顔を、見られたくなかったから。
◆
﹁でえええい!﹂
負け、僕の負けだから!!﹂
一閃。振るった剣が、相手の槍を真っ二つに割る。
﹁ご覚悟ー!﹂
﹁ちょ、ちょ、待って!
戦意のない相手に追い打ちはしない
・・・!﹂
そう言って上級生の男子生徒は両手を挙げた。
﹁
私は授業で教わった言葉を口にすると。
﹁先輩、ありがとうございました!﹂
456
試合を受けてくれた相手に敬意を表し、深くお辞儀をした。
﹁すげーな、あの子﹂
﹁小学部卒業前に、中等生のトップに完勝かよ﹂
﹁ちっちゃいのに﹂
私の心は5つの海よりも広いです!﹂
むむ。今、看過できない言葉をキャッチしましたよ!
﹁ちっちゃくないです!
すると先輩たちに、笑われながらぽんぽんと頭を撫でられた。
﹁そんな一斉に私を撫でないでください、背が縮むじゃないですか
!﹂
そう言って先輩たちを追い払う。
皆、良い人たちだ。そしてその強さがこの国でトップレベルの腕
利きであることも間違いないと思う。
・・・でも、私より弱い。
・・・最後の椅子って言われちゃいましたけど、気持ち
﹁リーシャちゃん、王立学園の十二騎士に選ばれたんだもんね﹂
﹁はい!
は負けません!﹂
﹁マジかよ。あれってほとんどが高等部の上級生って聞いたけど﹂
﹁小学部生徒では史上初だそうです﹂
でも、そんなのは全部、目的のための手段に過ぎない。
そう!私が目指すのは!
457
﹁マリー王女の騎士になること、ですから!﹂
ビシッと人差し指を天に向けながら言う。
・・・決まった。
﹁ははは。大きく出たなあ﹂
﹁確かに王女殿下はまだ専属騎士を持っておられませんけど・・・﹂
﹁それこそ十二騎士のトップ3が猛アタックしてるって噂、結構ホ
ントらしいよ﹂
わ・た・し・が、ひめさまの騎士になるんです!﹂
先輩たちはまるで他人事のように私の話を流す。
﹁もう!
そう、なぜならば。
﹁私はあの頃の私じゃない。もう、何もできずにひめさまの背中を
見送るなんて事は絶対にしたくないんです。だから!﹂
あの時。ひめさまがおっしゃられた言葉を、一時も忘れたことは
ない。
︱︱︱
それこそあの言葉を字にしたためて、寮の部屋の壁に貼って自分
こどものざれ言に付き合ってる時間はない
を奮い立たせてきた。
﹁今からひめさまの下へ、お迎えに上がります!﹂
気づいたらその場を駆け出していた。
今日の朝、十二騎士への任命式を終えた後からずっとずっと、逸
458
る足を必死に抑えていたんだ。
︵止まらない、止まるわけない︶
3年間、この日を待ちわびた。
ひめさまが住まう特別寮へ立ち入る権利・・・十二騎士の位を手
に入れる、この日を。
◆
﹁うーん﹂
おかしいな。もうすぐ日が暮れちゃう。
オレンジ色の夕雲を見つめ、それが色を失っていく様子をぼんや
りと眺める。
﹁この外門の前で待っていれば、すぐにひめさまがいらっしゃるっ
て言ってたのに・・・﹂
寮内でひめさまの行方を訊ねた人のことを思い出した。
﹁ううん、十二騎士が人を騙すわけがないっ﹂
頭に浮かぶ、ネガティブな考えをかき消す。
あの人は以前、何度か見たことがある。
十二騎士の中でもナンバー3。つまり幹部中の幹部。偉い人オブ
偉い人なんだ。
459
その人が言うんだから間違いない。間違いない・・・はずなのに。
ぽつ、ぽつぽつ。
︵あ、雨・・・︶
気づくと雲は黒く濁り、大粒の雨が落ちてきていた。
・・・これはチャンスだ。
これだけの雨なら、ひめさまもすぐに寮へ帰って来られるはず!
﹁普段の私なら、そう思えたのかな・・・﹂
雨が冷たい。小学部の制服はびしょ濡れ。
明日も学校なのに、どうしよう。そんな事を考えていると自然に
目から大粒の涙が溢れてきた。
帰ろうか。頭にそれがよぎったものの、私の足は動かなかった。
帰っちゃダメだ。ひめさまに会うまでは・・・絶対に。その気持
ちこそが私の全て。だからそれを諦めるなんて選択肢は、最初から
無かった。
︵絶対の絶対の、絶対に・・・︶
でも、気持ちと相対するように体力はどんどん削られていく。
視界がおぼつかない中、私は膝を地に付け︱︱︱
﹁何をやっているのです﹂
その声を聞いた瞬間、脚が力を取り戻した。
強く踏ん張り、その場に立ち残る。
460
﹁︱︱︱っ!?
あなた!?﹂
振り返ると、そこに居たのは。
﹁ひめさま﹂
誰よりも愛しい人だった。
マリー王女殿下・・・私のひめさま。美しくて、おっきくて、と
ても気高く。そして何より優しい心を持っておられる方。
そのひめさまが、私に傘を差しだしてくださっている。
自分が雨に濡れるだなんて、まるで気にしていないように。
﹁お迎えに上がりました﹂
私はその場で腕を前に差し出し、ひざまずいて頭を下げた。
﹁私を、姫様の騎士にしてください!﹂
そうして、目いっぱいの笑顔で顔を上げ、ひめさまに笑いかける。
︱︱︱ようやくここまでたどり着くことが出来た。
あなたとお話が出来る、この場所まで。
◆
でも、まさか。
461
︵ひめさまと一緒にお風呂なんて、進展し過ぎだよぉ!!︶
私、大人の階段を一つ飛ばしで駆け上がっているかもしれません!
だって、すぐ後ろにはひめさまが居て、私の頭を洗ってくださっ
ているなんて!
私、自分で洗えますっ・・・﹂
私はもう子供では無いんですから!﹂
そう?﹂
﹁あ、あの!
﹁え?
﹁そうです!
えっへん!といつものように胸を張っていると。
ぺたん、と。
その何もない胸を揉まれた。嘘です。揉むところなんて無いので
触られただけです。
﹁・・・子供のように感じるけれど﹂
﹁ひ、ひめさまぁ!﹂
当然、後ろから私の胸を触るにはひめさまの身体は密着した状態
になる。
つまり、この背中に感じる大きくて柔らかい2つの感触は、ひめ
さまの︱︱︱
︵し、しかもこのふくらみの真ん中に感じるの・・・!︶
刺激が強すぎる。
私は目を瞑って歯を食いしばり、全ての刺激に耐えるように背筋
を伸ばした。
462
﹁これ以上はダメですっ!
理性が、抑えきれないです!﹂
無我夢中でそう叫ぶと、大浴場にそれが木霊す。
﹁・・・もう、我慢しなくて良いのですよ﹂
姫様はそう呟くと、私をもっと強く抱きしめた。
﹁あの時、突き放すようなことを言った事・・・すごく後悔してい
ました。あの言葉が、あなたを苦しめてはいませんでしたか?﹂
﹁そんな・・・逆です。私はあの言葉があったからここまで来られ
たんです﹂
﹁強く、なったのですね﹂
﹁・・・はい﹂
たまらなく嬉しかった。
ずっと、ずっと。この時の為にやって来た。どんなにつらい練習
も、雨の日も雪の日も、どんなことだって辛くなかった。
ひめさまが、私を認めてくださった。何よりもの喜びだ。
そこで一瞬、記憶が飛んだ。
気が付くと私はひめさまの上に居て、その大きな胸に思いっきり
顔を埋め・・・ひめさまは火照ったように顔を赤らめ、こちらをと
ろんとした目で見つめていた。
﹁リーシャ、あなたの事、ずっと待っていました﹂
﹁・・・﹂
﹁あなたが成果を上げればそれだけで嬉しくなった。剣技の大会で
入賞するたび、校内で有名になっていくたびに、もうすぐわたくし
463
を迎えに来てくれるんだって﹂
そして、ひめさまは私をぎゅっと抱き寄せる。
﹁こんなに小さな女の子を好きになってしまうわたくしは・・・変、
でしょうか﹂
﹁変じゃありません!﹂
私は最後の理性の糸を何とか切らさずに、言う。
好
﹁たとえ変でも、私はそれ含めて全部ひめさまが好きです。他の人
がどうかとか、そんなのは関係なく!﹂
言い切るんだ、自分の気持ちを。
﹁初めてお会いしたあの日から、ずっとお慕いしていました!
きです、愛してます、ラブです!﹂
﹁リーシャ・・・﹂
言った。言いたかったことを、今まで思ってきた事を、全部。
だから。
﹁ひめさま!﹂
﹁はい?﹂
﹁ムチャクチャにしても、良いでしょうか!?﹂
とうとう、私を縛っていた最後の糸が切れた。
だって愛している人がこんな無防備な格好で誘っているのだもの。
何もするなっていう方が無理な話だよね。
464
・・・この日だけで、私は今まで知らなかったたくさんの事をひ
めさまに教えていただきました。
◆
﹁我が国へようこそ、マリー・テルタニア殿下﹂
しばらく経った後、ひめさまと一緒にとある国の王宮に招かれた
日の事だった。
﹁お初にお目にかかります、陛下。このたびはお招きいただき、あ
りがとうございます﹂
ちっちゃな
陛下と目があった。
﹁ふむ。そなたの国とは善い関係をこれからも続けたいと思うてお
る。・・・ん﹂
その時、来訪した国の
﹁随分と小さいのう。侍女・・・にしては大層な剣を持っておる。
お前はなんじゃ?﹂
ほとんど見た目年齢が変わらないくらい小さな女の子とはいえ、
歴訪中の国の陛下のお言葉。
私はマリー殿下の騎士にして王国十二騎士第一序列、リ
・・・しっかり答えねば!
﹁はい!
ーシャ・F・ミリスと申します!﹂
465
スリーピング・ビューティー
﹁あら﹂
彼女はまるでレーダーでも見ているかのように、わたしが一歩、
屋上へ上がり込むと即座に反応して、指先に挟んでいた煙草を屋上
のコンクリ床に押し付けた。
﹁・・・伊藤さん﹂
わたしは意を決して彼女の名前を呼ぶ。
﹁ここに人が来るなんて珍しいわね。デートのお誘いかしら﹂
こちらは真面目な話をしようとしているのに、ふざけてはぐらか
す。
多分それは、授業をさぼって屋上で煙草を吸っている生徒には相
応しい言葉だろう。
﹁デートではありません。教室へ戻って授業を受けてください﹂
これ以上授業を欠席すると、出席日数の問題で
﹁お断りよ。おとなしく従うとでも思った?﹂
﹁貴女は・・・!
進級できなくなりますよ﹂
﹁構わないわ。このまま永久に高校生をやっていられるものならし
ていたいし﹂
﹁そんなの、学校が許すわけないでしょ!﹂
わたしは一歩、前に踏み出して彼女の方へ駆け寄ろうとした。
466
その瞬間。
﹁動くな﹂
今までと明らかに違う声色。
語気が強く、だからと言って声を荒げるでもなく。凄んでいるわ
けでもないのに、頭に響く声で彼女はわたしに命令した。
そして何故だか・・・わたしは歩みを止めていたのだ。
って帰るわけにはっ﹂
﹁お節介が過ぎるわね。教師に言われたんでしょうけど・・・私に
はいそうですか
これ以上関わらないで﹂
﹁そ、それで
わたしは必死に彼女の言葉を否定する。が。
﹁貴女にはわかるでしょう?﹂
そう。誰よりもこの場に居て、この場の空気を吸っているわたし
毒
を吸い続けるのがどういう気分なのか﹂
の身体が告げていた。
﹁
早く、ここから立ち去るべきだと。
﹁︱︱︱ッ﹂
わたしは口を押さえると、一目散に階段へ続く扉を開け、屋上か
ら逃げ出していた。
467
◆
4時間目になる頃には、身体から痛みとけだるさは無くなってい
た。
あの時。屋上で感じたもの。
だ。
何か
身体の奥底から吐き気がこみあげてくる何か。身体の器官が痛み
毒
をあげ、長く吸い続けていたら命の危険さえも感じるような
。
あれは・・・
︵でも、そんなのおかしい。だって、あの感覚が毒だとしたら・・・
屋上に居続けている伊藤さんは︶
ううん、その前に・・・。
どうしてわざわざ屋上に居座ってあえて毒を吸い続けているのか
が説明できない。
・・・もしかしてあの毒のような感覚は、全部気のせいとか、夢
とか、疲れからくる何かだったりする可能性は無いだろうか。
寧ろそうであって欲しい。それほどまでに異常な体験をしたのだ。
一種のトラウマと言っても良い。
︵・・・もう1回、屋上で伊藤さんに会えばハッキリする︶
わたしはそう思い、昼休みになると教室を出ようとした。
すると、普段はあまり会話をしないクラスメイトに呼び止められ
る。
468
﹁あの、これ・・・﹂
彼女が手渡したのは、1枚の紙だった。手紙と言うのもおこがま
しい、大学ノートを切り取った紙切れ。授業中に後ろの席から回っ
てくるような、あんな感じのものだった。
そこには割としっかりした字体で。
﹁もう二度と屋上には来ないことね。次、毒を吸い込んだら﹂
その次の文字を読んで、わたしは戦慄した。
﹁中毒になってしまうでしょうね﹂
◆
︵伊藤さん、貴女はもしかして・・・︶
午後の授業中は彼女のことで頭がいっぱいになって、何も考えら
れないでいた。
そんな上の空の5時間目が終わろうかという、その時だ。
キンコンカンコン、と授業終了には数分早いタイミングで、全校
放送が流れた。
﹃学校内で危険物が発見されました。全校生徒は担任の先生の指示
に従い、落ち着いて避難を開始してください﹄
469
その時、わたしは直感的に思った。
これは彼女・・・伊藤さんの仕業であろうと。
わたしは避難の混乱に乗じて、屋上へ通じる階段を昇り、外へ出
るためのドアに手をかけていた。
︵どうしよう・・・︶
思い出すのは、あの言葉。
次に毒を吸い込んだら、中毒になってしまうと。
ただの脅し文句かもしれない。だけど、そうタカを括るにはその
言葉はあまりに重く、怖いものだった。
彼女のために、わたしはそのリスクを冒す必要があるのだろうか。
あんな子、放っておけば良い。
ゆう
伊藤さん・・・由宇とは。
昔・・・少しの間、同じマンションに住んでいたことがあるだけ。
その時、本当にわずかな時間を共有しただけの仲だ。
入学式の日。幼馴染との再会に喜んだが、彼女は変わってしまっ
ていた。
周りのもの全てを傷つけるような態度、鋭い目つきに着崩した制
服、教師には掴みかかるし、入学したその日に先輩とはすぐに喧嘩
を始めていた。
挙句、授業をさぼって屋上で煙草を吸っている姿を見たと言う話
を聞いた後からは、もうわたしが彼女と知り合いであることすら周
囲に明かすことは出来なかった。
・・・逃げ出すならもう、これが最後の機会だろう。
470
︵由宇・・・︶
あの時も貴女はそうだった。
自分の部屋に籠って、そこからなかなか出てこない貴女を・・・
わたしは半ば無理矢理みたいな形で手をとって、引きずり出したっ
け。
︱︱︱どうして私なんかに構うの。
︱︱︱由宇と仲良くなりたいからだよ。
︱︱︱だから、どうして私なの。
︱︱︱もうっ、わたしは他の誰かじゃなくて、由宇と遊びたいの!
あの時、部屋の隅で小さくなっていた由宇はとても悲しそうで・・
・儚かった。
このまま放っておいたら干からびて死んじゃうんじゃないかって
くらい。きっとそんな事は無かったのだろうけど。
あんな子放っておいて、他の子と遊べばよかったのかしれない。
だけど、人間はそんな理屈ばかりで動くわけじゃない。
どうしたって気になる子は居るし、1回気になっちゃったら、も
うずっとそれに執着してしまう。
それがたとえ自分にとって、毒であったとしても︱︱︱
ドアを開けると、あの感覚がもう一度身体を駆け巡った。
﹁ごほっ、ごほっ!﹂
思わず咳き込んでしまう。強烈な吐き気と言っても良い。
471
﹁・・・どうして来たの﹂
彼女はまた、手に持っていた煙草を床に押し付けた。
﹁警告はしたはずよ。・・・貴女を遠ざけるために、毒の濃度を高
くした。それなのに、どうして・・・!﹂
﹁由宇と、話がしたかったから・・・﹂
わたしは一点、由宇の顔を見つめ続けながら。
彼女と話をする。
多分、これが・・・。
﹁由宇。この毒は・・・?﹂
﹁私の身体は全身から毒が出るの。まだ人間が知らない種類の毒・・
・﹂
﹁・・・辛かったよね﹂
わたしの言葉に、彼女は目を瞑って小さく頷いた。
﹁自分ではどうにもならないの。私はこの体質のせいで・・・成長
するにしたがって、食べ物から味がしなくなっていった﹂
彼女は全てを諦めてしまったように絶望した顔で。
﹁こんな煙草なんて、いくら吸っても苦味も旨味も何も感じないの
!﹂
そう言って、持っていた煙草の箱を握りつぶす。
472
﹁もう数年もすれば、私は自分の毒で死ぬでしょう。それくらい強
い毒なの﹂
そして子供のように泣きじゃくって、その雫を手で拭い、顔をぐ
しゃぐしゃにさせていった。
りか
﹁ごめんね、ごめんね梨花・・・﹂
涙でぐしゃぐしゃになった顔を手で覆い、大声で泣き始める。
・・・わたしの名前を呼びながら。
その姿は。
あの日、自分の部屋の隅で泣いていた由宇、そのものだった。
﹁ゆうっ・・・﹂
わたしは残っていた力すべてを使って、由宇の手を取って、ぐい
っと自分の方へ引き寄せた。
そしてそれと同時に、身体から力が抜けていって・・・倒れ込み
そうになったところを、由宇が支えてくれた。自然と抱き合うよう
な形になるわたし達。
早く私から離れて!﹂
﹁寂しい思い、させちゃったね・・・﹂
﹁梨花、どうして・・・!?
﹁もう遅いよ・・・。わたし、完全に由宇中毒になっちゃったみた
いだから﹂
かろうじて顔はまだ動く。
伝えるんだ。わたしが本当に言いたかった事を。
473
﹁これからは、ずっと一緒だよ。由宇を独りになんてさせない﹂
﹁うん・・・﹂
私も、私も梨花が好きだよ。だから、
﹁わたしは、由宇が、好きだから。愛してる、から・・・﹂
﹁うん・・・、うん・・・!
だから!﹂
私は梨花が生きててくれれば、それで良
意識がぼうっとする。景色が揺らいできた。
生きてよ!
ねえ、梨花!!﹂
﹁生きて!
いの!
由宇が何か言っている。
でも。
わたしもう、由宇がなに言ってるのか、分からないよ。何も見え
ないし、何も聞こえない。
ああ、そっか。
これが。この感覚が、死ぬってことなんだ︱︱︱
﹁由宇と一緒なら・・・怖く、ないね・・・﹂
◆
﹁・・・あれ﹂
生きてる。少なくとも、ものを考えることは出来ている。
﹁梨花、大丈夫?﹂
474
﹁由宇・・・﹂
﹁よかったあ﹂
わたしが微笑みかけると、彼女は涙を流して安堵の表情を浮かべ
た。
﹁死んだかと思ったよ﹂
﹁もうすぐで死ぬところだったの﹂
﹁そうだよね・・・﹂
少なくとも死を体験した感覚はある。
﹁じゃあ、どうしt﹂
わたしがそれを言いかけると。
由宇は言葉を遮るように唇でわたしの唇を止めた。
﹁梨花。白雪姫だよ﹂
﹁白雪姫?﹂
魔女とか、リンゴとかの?
わたしがまだ要領を得ない顔をしていると。由宇は満面の笑みを
浮かべながら。
﹁白雪姫は王女さまのキスで目を覚ましました・・・ってこと﹂
言って、由宇は自らの唇に人差し指を乗せ、なぞる。
かお
その微笑みは、わたしからすればどんな毒より中毒性の高い・・・
病みつきになるように魅力的な表情だった。
475
あなたを選んだ私です
スリーピング・ビューティー︵後書き︶
なんでだろ
︵平野綾/﹃冒険でしょでしょ﹄の一節より引用︶
476
あなたが幸せなら、わたしも幸せ・・・
人の一生には運命の出会いというものが存在する。
その一瞬だけで人生そのものが大きく変わるもの。その先数十年・
・・下手したら死ぬまでずっと共に居る存在との邂逅。
もう少しで頭から階段転げ
︱︱︱それは入学式後の出来事だった。
危ないよどこ見てたの!?
﹁あ、ありがとう高村さん・・・﹂
﹁もう!
落ちるところだったんだよ!?﹂
﹁ごめんね、私ぼうっとしちゃうことあって﹂
﹁そそっかしいんだから・・・。それで君の身体に傷が付いちゃっ
たら大変でしょ。ほら、手﹂
運命の出会いと言うのは傍目から見ていても、こうも分かりやす
いものなのか。
同じクラスのお姫様みたいなかわいらしい女の子を、少し活発そ
うな、クラスの中心に居るような強気な女の子が助けていた。
二人とも、顔も初めて見たし、名前だって知らない。
でも、明確に感じた。
わたしは目の前で、運命の出会いを見たと。この2人はきっと・・
・これから運命に導かれた素敵な道を歩んでいくことになるんだと。
だからわたしは入部した文芸部に、彼女︱︱︱少しぼうっとした、
お姫様みたいなかわいい娘こと宮瀬都が1人で居たことに、多少驚
いた。
477
﹁高村さんは一緒じゃないの?﹂
気づくと、わたしは部室で彼女にそんな無神経なことを聞いてい
た。
﹁涼子ちゃんはバスケ部だよ。ちっちゃい頃からずっとやってたん
だって﹂
﹁さいですか・・・﹂
運動、得意そうだもんね、あの子。
典型的な王子様・・・、約束されたリア充への道を持つ限られた
人間。
いつも教室
こうして小さな部室に籠って本を読んでる人間には縁のない世界
だ。
﹁あの、同じクラスの空井さんだよね?﹂
﹁そうだけど﹂
﹁この間の入学後試験でクラス1位だったんだよね?
で眼鏡かけて教科書読んでるの、かっこいいなーと思いながら見て
たんだー﹂
彼女は椅子をわたしのすぐ隣に持ってきて、こちらの表情を覗き
込むように話しかけてくる。
本を読んでいるのを邪魔されて、わたしは多分、ムッとしていた。
宮瀬さんに文句の1つでも言ってやろうと、彼女の顔に目を合わ
せた瞬間。
︵うわ︶
478
見るんじゃなかった、と後悔した。
その吸い込まれそうな大きな瞳、整った顔、お姫様のように幼さ
やあどけなさの残る表情。
胸が高鳴ったのを感じた。
そして高鳴りの後、嫌な痛みを感じたことも。
教科書読んで勉強して
﹁でも今はね、空井さん楽しそうだなあって﹂
﹁・・・楽しそう?﹂
﹁うん。好きな本を読んでるからかなあ?
るときとは、全然違う表情してる﹂
・・・なんでだよ。
なんで、そんな事が分かるんだ。わたしは何も言ってないのに。
どうしてわたしはこれを嬉しいと感じるんだ。
どうしてこの子は・・・あの高村が居るのに、他のクラスメイト
とも、彼女と同じような態度で接するんだ。
︵落ち着け。別にあの2人は恋人でもなんでもない︶
勝手に運命の出会いなんて決めつけたのはわたしじゃないか。
あの2人に恋愛感情は無い可能性だって・・・。
︱︱︱クラス委員は宮瀬と高村が務めることになった。
︱︱︱宮瀬が他校の男子に絡まれそうになったところを、高村が
助けたらしい。
︱︱︱部活が終わると、宮瀬は毎日体育館に寄って、高村と一緒
に帰っている。
ある日の昼休み。2人が楽しそうにお弁当を食べている。高村は
479
宮瀬の頭を撫でたりして、とても楽しそうに。
︵・・・やっぱり、運命の2人なんだ︶
諦めよう。
何よりこうして毎日毎日、あの2人を見て嫌な気分になるような
ことはもう終わりにしたい。
わたしは翌日。
宮瀬の机にラブレターを忍ばせた。
もうこんな悶々とした毎日とはオサラバだ。真正面からフラれれ
ば、諦めもつく。
少なくとも今の状況からは解放されるだろう。そう思った。
誓って言えるが、わたしは心の底からそれを望んでいた。
﹁わ、私で良ければ・・・よろしくお願いします﹂
高村・・・の、こと。好きじゃないの?﹂
なのに。どうして宮瀬はわたしの告白にOKなんてするんだ。
﹁え?
告白にOKしてくれた相手に向かって、何を言っているんだと思
った。でも、聞かずにはいられなかったんだ。
﹁好き・・・と思ってたんだけど。なんか違ったみたい。だって、
空井さんに好きって言われて、すごく嬉しかったし。今日からは空
井さんが恋人だよ﹂
﹁あ、ありがとう・・・﹂
480
嬉しかった。ただ、嬉しかった。
絶対に無理だと思った。運命の2人を引き裂くことなんて、絶対
に出来ないはずだと。
でも、そうじゃなかったんだ。わたしは自分の勘違いを呪うやら、
逆に感謝するやらで、幸せな気持ちで頭がいっぱいになっていた。
﹁晴ちゃんはなんで最近の小説をバカにするの?﹂
﹁懐古厨だから﹂
﹁真面目に話してよ∼﹂
ぽかぽかと肩を叩かれる。
付き合う・・・と言っても、何からしたらいいのか分からなかっ
た。
ベタなところで、手を繋ぐ・・・とか。そんな事くらいしか。
︵教室でいちゃつくのは嫌だし、それ以上のことは、まだ・・・︶
覚悟が出来てない。
けど、次第に仲を深めていって・・・1学期中には、キスくらい、
出来ると良いな、なんて。
都の方からも何も求めてこない。
でも毎日好きだよって言ってくれるし、相変わらずわたしにべた
べたしてくるのは変わらなかった。
変わった事と言えば。
︵高村と、一緒に居るところ見なくなったな︶
わたしはそこから何か、底知らない怖さを感じていた。
何だろう、この感覚。どうしてこんなことを思うのだろう。
481
﹁晴、考え事?﹂
﹁・・・ううん。ちょっと目が疲れただけ﹂
こんな事を考えていると知られたくなくて、わたしは眼鏡を取っ
て目を指で押さえた。
﹁じーっ﹂
都のまっすぐな視線がぼやけた視界に突き刺さる。
﹁な、なに?﹂
﹁晴は眼鏡かけてない方がかわいいね﹂
その時の都は筆舌に尽くしがたいかわいさで。
気分の高揚もあって、わたしは都をぎゅっと抱きしめていた。
﹁・・・都﹂
﹁なに?﹂
﹁キス、しても良い?﹂
抱き着いているので顔は見られない。
今の彼女はどういう顔をしているだろう。きっと、喜んでくれて
るよね︱︱︱
﹁そういうのは、まだ早くない?﹂
わたしはそれで、一気に現実に引き戻された。
﹁あ、ご、ごめん﹂
482
﹁あ、違くてっ。晴が嫌いとか、そういう意味じゃないのっ。今は
ちょっと気分じゃないっていうか・・・﹂
必死に取り繕う都。
だけど、わたしは気づいてしまった。
︱︱︱彼女の心の真ん中には、高村が居るんだ。
︵・・・なんで︶
こんな台詞、絶対に言わないでおこうと思っていた。でも、わた
しはもう我慢できなかったのだ。
︵なんで、わたしじゃないんだ︶
高村は何をやっても華がある。彼女の一挙手一投足には人が着い
てくるのだ。
でも、わたしが同じことをやっても・・・ああはならない。
平凡、凡庸、普通。特別でも天才でもないわたしは、スターには
なれない。
高村に魅了されている都を振り向かせようなんて、無理な話だっ
たんだ。
でも。都はわたしの彼女だ。その分の有利さはある。
それに、全てを賭けることにした。
わたしだって黙って負けてやるつもりはない。最後の最後まで、
みっともなくあがいてやる。
﹁都、誕生日だけど、一緒に駅の展望台へ行かない?﹂
483
﹁え。う、うん。良いよ﹂
7月18日は都の誕生日だ。
恋人なら一緒に居て当たり前の日。
そして、わたしは知っていた。その日がバスケ部の、県予選決勝
戦だって。
当日。今日は丸一日、都と過ごす。
出来る限りのおしゃれもしてきた。これを勝負服と言うんだろう。
恥ずかしいくらい、かわいらしい服。
これで外に出るのは照れがあるけれど・・・わたしは勇気を出し
て家を出た。
その瞬間、携帯が鳴る。着信・・・都からだ。
﹁もしもし﹂
宮瀬が・・・交通事故に﹂
携帯に耳を当てると。
﹁大変だよ空井!
聞こえてきたのは・・・高村の声だった。
◆
明かりの点灯した手術室の前で、ぐったりとうなだれる、わたし
と高村。
484
﹁・・・宮瀬は、君のところに向かう途中だったの﹂
﹁わたしの誘いを断って、あなたのところへ行くって、それを言い
に行く途中だったんでしょ﹂
﹁・・・すごいね、空井。さすが宮瀬の彼女だ﹂
痛い沈黙が流れる。場の雰囲気に殺されてしまうと錯覚するほど、
重い。
﹁高村、バスケの試合、行かなくて良いの?﹂
﹁・・・宮瀬がこんな状態なのに、無理だよ。何より、こんな精神
状態の奴が居たら、チームに迷惑がかかる﹂
素人のわたしに、バスケのことは分からない。
でも。
分かることが、1つだけあった。
﹁・・・甘ったれるな﹂
わたしは思いっきり、高村の顔を叩く。
そして面を食らった彼女の服の襟元を掴んで。
アンタがバスケやってるところを、都は何より見
﹁都に責任を押し付けないで。都は、わたしじゃなくてアンタを選
んだの・・・!
たかったんだよ!﹂
﹁でも・・・、宮瀬はっ!﹂
﹁都が自動車に跳ねとばされたくらいで死ぬもんか。そんなことも
分かんないの、高村涼子!!﹂
勢いのまま、高村を突き飛ばす。
485
﹁そんなんで都とキス出来るの!?
都を抱けるの!?
わたしは
都がアンタみたいなヘタレと一生過ごすと思うと不安で仕方ないよ
!﹂
﹁空井・・・﹂
都を任せても大丈夫だって、
自分の目から大粒の涙が溢れてくるのを、止められなかった。
﹁都の彼女として、最後に言わせて!
わたしに見せつけてよ。あの子の一生を背負っていけるって、証明
してよ!﹂
﹁・・・ごめん﹂
﹁謝るな、バカ!﹂
高村涼子が試合会場へ向かったのを確認すると、わたしはその場
に座り込んだ。
これでよかったんだ、これで。わたしは立派なピエロを演じきっ
たさ。
道化には道化のプライドがある。これで高村涼子が都を幸せにで
きないようなら・・・わたしは一生あの女を許さない。
でも、きっとそんな事は無いだろう。
都と彼女は、お似合いの恋人になって、一生添い遂げる。そうい
う確信が、わたしにはあるんだ。
︵だって、あの2人は・・・運命に導かれた関係だから︶
心残りがあるとすれば、高村の前で泣いてしまったこと。それだ
けだ。
486
﹁あーあ、ほんと﹂
損な人生だなあ。
487
美少女の生血をすすらないと生きていけない
﹁痛っ﹂
あの、ハードなプレイも楽しいんだけど、身体
その女の首筋に噛み付くと、大層痛がった。
﹁ヴィルちゃん?
に痕が付くようなものはちょっと﹂
抵抗されたのですぐに歯を外したからちょっとしか吸えなかった。
まるでミックスジュースみた
この女、人間の割には意外と力が強く、油断していたのもあって
離されてしまったのだ。
﹁・・・探偵サン?﹂
﹁なに?﹂
﹁ユーの血、何コレ。何味・・・?
いデス﹂
いろんな女の子の匂いが混じってて、元の味が判別できない。
︵この女・・・︶
かわいい顔してホイホイ着いてきたからしばらくこいつから血を
それって、褒められてるのかなあ?﹂
いただこうと思ったのに。
﹁え?
呑気な顔をして後頭部をかくこいつに向かって。
488
﹁一体どんだけの女とどんだけの頻度でヤッてんデスか!
ッチ!!﹂
﹁ええええええ!?﹂
このビ
ワ
ワタシは清涼剤が飲みたかったのに、
ワタシは彼女を突き飛ばす。ベッドから転げ落ちるビッチ女。
﹁ユーの血は不味いデス!
ミックスジュース飲まされたら堪らんデス!﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってよ。どこ行くの?﹂
デス!﹂
﹁一週間に二桁の女と寝るビッチと一緒の部屋に居られるか!
タシは1人で出ていくぞ!
女の子が1人で出歩くのは危ないと・・
急いで下着を拾い上げ、パンツを穿く。
﹁あの、今、真夜中だよ?
・﹂
﹁ワタシにとっては今がゴールデンタイムデス!!﹂
最後に黒いコートを着込んで、バッグを持つとドアノブに手をか
け。
﹁グッバイ、ジャパニーズタンテイガール!﹂
ベー、と舌を出して、その女と別れた。
何が探偵だ。
大の女嫌いとして知られたホームズとは似ても似つかない日本の
探偵に、カルチャーショックを受けながらドアを力強く閉めた。
489
◆
﹁夜は良いデス・・・﹂
と言うのはそういう生き物だ。
と言うか、日光を浴びたら灰になっちゃうから夜しか知らないん
吸血鬼
ヴァンパイア
だけどね。
そんなヴァンパイアにとって、日本は非常に住みやすい。
まず、地下街が非常に発達している。1日中そこに居ても飽きな
いほどに。
たまに地上に出たりする地下鉄には乗れないけれど・・・。
︵巨大なダンジョンみたいになってる場所もあるデスし︶
毎日楽しく時間が潰せる日本は良いところ。
しかし日本での暮らしが長くなるにつれ、ワタシの身体が衰弱し
ていっているのは分かっていた。
理由は1つ、主食である人間の生血を摂取できていないから。
この1ヵ月、まともに食事をしていない・・・。
遂に我慢しきれずさっきの女の血を吸おうとしたらあの有様だし。
﹁このままじゃ空腹で死んでしまうデス・・・﹂
嘘です。吸血鬼は死にません。ちょっと長い眠りにはつくけど。
これはアピール。こうやって死にそうな顔して、死にそうなこと
を言っていれば。
490
︵きっと誰かが助けてくれるはずデス。ジャパニーズニンジョー!︶
う、うう・・・と。うめきながら、よたよたとおぼつかない足取
りでふらついてみる。
その瞬間。
何かにぶつかったのを感じた。
﹁あ゛ぁ?﹂
相手の顔を見ると、ものすごい美人。
しかし、ものすごく鋭い目つきでこちらを見おろしていた。
﹁ひっ﹂
あまりの凄みに、咄嗟に怯んでしまう。
﹁・・・ちっ。ガキか﹂
その怖い女の人は面白くなさそうにコンクリートの地面を蹴ると、
最近物騒だから気を付けてね﹂
それ以上何も言わずに去って行った。
﹁君、こんな時間に大丈夫?
その女の人の後ろを歩いていたセーラー服の女子高生に、フォロ
ーをされたけど。
︵あの女が1番ブッソウだったデス・・・︶
ありゃあ、人を殺ってる奴の目だったデス・・・。
491
ワタシ
ニホ
世界一安全と謳われている日本の治安に愕然とし、後ずさりなが
ら戦慄していると。
また、何かにぶつかった。
あ、アイムソーリー、ソーリー大臣!
ワカリマセーン!﹂
﹁ひーっ!
ンゴ
あの探偵や、さっきの怖いお姉さんみたいな奴と関わり合いにな
るのはもう懲り懲りだ。
日本でマックス困ったら言えと言われていた台詞を口にし、ワタ
シは思い切り頭を下げた。
﹁あ、え、あの。えと﹂
そこに居たのは。
﹁あい、どんと、すぴーく、いんぐりっしゅ﹂
どのくらいの年齢かはあえて伏せるけれど・・・幼い女の子だっ
た。
︵キター!!︶
思わずガッツポーズをするワタシ。
﹁あ、あの・・・大丈夫ですか?﹂
ワタシの様子をおかしく思ったのか、心配してくる幼女に対して。
492
﹁ぜんっぜん大丈夫デス!
今、1人?
﹁マネージャーさんとはぐれちゃっt﹂
﹁お姉さんが解決してあげまショウ!﹂
くい気味で彼女の手を取る。
そして、コートをばっと広げると。
1人デスよね?﹂
﹁ワタクシ、ヴィル・ヘルシングと申します、お嬢さん﹂
跪き、まるで女王陛下に接するようにこうべを垂れた。
﹁あ、はい。日本語しゃべれるんですね・・・﹂
﹁ええ。英国淑女たるもの、語学は堪能でなければ﹂
そして彼女の手を取って、手の甲にキスをする。
﹁お嬢さん﹂
﹁あ、はい﹂
キラキラと輝く、幼女の瞳をまっすぐに見つめながら。
﹁お姉さんと、イイコトしませんか?﹂
特に深い意味も他の意味もない言葉を、投げかける。
﹁うんっ。よかったあ、ホテル連れてってくれるんだよねっ?﹂
彼女は満面の笑みを浮かべながらそう言ってワタシの手を取って
くれた。
493
︵ま、眩しい・・・、これが、サンシャインと言うモノデス・・・
!?︶
今の台詞を本当に純粋無垢な気持ちで言えることのできるこの子
にとてつもない背徳感。
・・・しかし。もういい加減、本当に理性が抑えきれなくなって
きていた。
空腹で気が遠くなりそうで、渇きで頭が痛くなってきたくらいな
のだ。
この子には少し、我慢してもらおう。
◆
﹁わー、おっきいベッドー。ふかふかー﹂
さすがに幼女をラブホには連れて行けず、ビジネスホテルの部屋
みゆ
に泊まることにした。
この幼女の名前は深優と言うらしい。
︵うん、少し首元が隠れてる服デスね・・・︶
服を破くのはさすがに憚れる。
﹁お着替え、シマショウネー﹂
なんて言って、適当に服を脱がせることにした。
494
﹁あ、下着は替えなくていーい?﹂
﹁さすがにそれはお姉さんも持ってませんからネー﹂
カーディガンと、薄い長そでのTシャツを脱がせる。
・・・結構マセた下着つけてるね。上も下も淡いピンク色でかわ
いらしい。
﹁あ、ちょっと良いカナ?﹂
﹁うん?﹂
その、一瞬の隙に。
﹁はむ・・・﹂
ワタシは深優の首筋にかぶりつく。
﹁ひゃんっ﹂
彼女は最初、くすぐったそうな声を上げた。
そりゃあそうだ。甘噛みもしていない、唇を首筋に当てただけな
んだから。
︵血管の位置・・・ここで良いか︶
出来ることなら痛くしてあげない方が良い。
とはいえ、気休め程度の緩和にしかならないだろうけれど。
﹁かぷ﹂
ワタシは歯を立てて、思い切り深優の首筋・・・うなじの下あた
495
りに、噛み付いた。
﹁いっ、いたっ・・・!﹂
久々の吸血だ。
痛い、痛いよお姉さん!﹂
相手が子供だという事を考えて、あんまり量は吸わないように。
﹁きゃあああ!
でも、抑えられない。
やだ、やだよお!﹂
吸血衝動を、抑えることがどうしてもできない。
﹁やだ、放して!
︵ん・・・美味しい・・・︶
空腹が満たされ、乾いた喉が潤っていく。
いや、いやあああ﹂
この子の血・・・すごい。未熟なのに、変なみずみずしさはなく
助けてお母さん!
て、新鮮さだけが残る。
﹁痛い!痛いぃ!
それに何より、深優の泣き喚く声・・・堪らん。良い声で鳴くわ。
耳の膜が良い感じに刺激され、頭が心地いい気分で満たされる。
﹁ぷはっ﹂
どれくらい、吸血をしていただろう。
深優の首筋から口を放す。
﹁・・・ごちそうさま﹂
496
最後の方は泣くことも出来ず、声を出すこともできないようだっ
た深優は。
﹁痛い・・・痛いよぉ﹂
かすれそうな声で言うと、涙でぐしょぐしょになった顔を覆い、
さらに泣き出してしまった。
そんな彼女を︱︱︱
ワタシは、ぎゅっと抱きしめた。
﹁よく耐えてくれたネ・・・ごめんなさい、怖かったでショウ?﹂
まるでふわふわの綿菓子を抱くように、力を加えず。包み込むよ
うに。
﹁ワタシはね、吸血鬼なの﹂
﹁きゅうけつき・・・?﹂
﹁人間の血を吸わないと、生きていけない生き物デス。許してくれ
とは言わない・・・。ワタシ達も、他に食べるものがあればそうし
たいデス。でも・・・﹂
ううん。こんなのただの言い訳だ。
幼い女の子に本当の事を言わないでこんなところに連れ込んで、
血を吸ったのは紛れもない事実。
深優に殴られても蹴られても、ワタシは決して抵抗することはし
ない・・・それだけ、心に決めていた。
497
﹁それしか、ないの・・・?﹂
ワタシは、黙って頷いた。
﹁じゃあ・・・しょうがないね﹂
ハッと、顔を上げる。
﹁痛かったし、怖かったけど・・・。お姉さん、真剣に謝ってくれ
たから。だから、最初の1回だけは・・・許してあげる﹂
嘘・・・でしょ。
こんな小さな子が吸血の痛みに、恐怖に耐えられるわけがない。
なのに、どうして深優は笑っていられるんだろう。
まさか。目の前に居るのは・・・。
︵天使・・・!?︶
彼女から後光のようなものが差しているように見えた。
﹁こ、これがサンシャインデスか・・・!!﹂
あまりの眩しさに、腕で目に入ってくるものを遮る。
﹁次からは・・・ちゃんと、言ってね﹂
ワタシの腕に包まれている女の子は、深優は、そんな事を言って、
また微笑む。
﹁ま、また血を吸っても良いんデスか・・・?﹂
498
﹁うん・・・。お腹減るのも、喉が渇くのも、辛いもん。それに、
他の子にこんな痛い思いはさせたくない。わたしが我慢して済むの
なら・・・それでいいの﹂
この年にして、この達観の仕方は尋常じ
ワタシは全身が震えていた。
この子は聖女ですか?
ゃない。
何より。
探偵みたいなビッチ女と
︵これは将来、よからぬ輩に捕まったら大変な事になるデス・・・
!!︶
さっきの探偵みたいなビッチ女とか!
か!
﹁守らねば・・・﹂
﹁?﹂
ワタシの小さなつぶやきに、深優は頭の上でクエスチョンマーク
を浮かべていた。
499
純愛なんかじゃない、きっと不純な愛
﹁遂に東の国との決戦が間近・・・、この戦いこそが天王山となる
だろう!﹂
長きにわたった1つの戦争が、最終局面を迎えようとしている。
東の国の国境を突破した我らが中央の国軍は、東の国の絶対防衛
大英雄
を招く。
エリン様のおかげである!﹂
線まで進軍していた。
﹁これも
。
彼女
大英雄
将軍は壇上に
︱︱︱
︱︱︱北の大陸で起こった戦争を終わらせたという勇者。
彼女の加入により我が軍は一気に戦局を押し返し、戦線をここま
で進めることができた。
戦場で彼女の戦う姿を見たことがあるが、あれはまさに一騎当千。
たった1人で戦場を支配してしまう圧倒的な戦闘能力。
︵でも、なんでだろう︶
︱︱︱今の勇者さま、少し顔が俯いているように見える。
◆
500
﹁勇者さま﹂
出陣の数時間前。
こちらこそ申し訳ありません、お邪魔じゃなかっ
ああ、ごめん。少し、空の様子を見ていた﹂
指令所の前に立ち、どこか遠くを見ていた彼女に、話しかけてい
た。
﹁・・・ん?
﹁い、いえっ!
たでしょうか!?﹂
出撃前の精神統一でもしていたのかもしれない、と思い慌てて頭
を下げる。
﹁ふふっ。邪魔なんかじゃないさ。君は﹂
﹁前衛部隊副隊長、アイナと申します﹂
﹁前衛・・・、精鋭部隊じゃないか﹂
﹁い、いえ精鋭部隊なんてそんな﹂
突っ込むことしか出来ないから入れられただけで・・・、と誰に
するでもない言い訳をしていると。
﹁アイナ﹂
﹁はい?﹂
急に、名前を呼ばれる。
﹁君はこの戦いについて、どう思う?﹂
﹁え、あの。どう・・・と、言いますと?﹂
﹁聞き方が悪かったかな。どうして戦争をしようと思った?﹂
501
だ、ダメでしょうか・・・﹂
勇者さまの言いたいことは分からないけれど、正直に返しておこ
う。
﹁勿論、祖国の為、敵を倒す為です!
段々言っていて自信がなくなってきた。
﹁いや。立派な理由だ。そもそも戦う理由なんて言うものは千差万
別、他人の私がどうこう言えるものじゃない﹂
﹁失礼なことを聞いてしまうかもしれませんが﹂
わたしは勇気をもって、一歩前へ進む。
﹁勇者さまは、何のために戦いを?﹂
そう言うと、勇者さまは少し驚いたような表情をしたが、すぐに
顔を引き締めると。
﹁1人でも多くの命を見捨てないためだ﹂
彼女のこの時の様子は鬼気迫るものがあった。
それこそ戦場でこの雰囲気を纏った者と対峙したら、普通じゃい
られなくなってしまうほどのものを。
◆
戦場は大きな草原。矢などの長距離攻撃による奇襲ができないほ
502
ど大きく、平らな草原だ。ここは純粋に、兵と兵の数と力量勝負に
なる。
わたしは必死で応戦した。
剣で敵の兵士を斬り、相手の攻撃を自分の上半身が隠れるくらい
の大きさの盾で防ぐ。死に物狂いというのは、こういうことを言う
のだろう。一瞬でも手を抜いたら殺される。
戦場とはそういう場所だ。そこには矜持も倫理もない。
殺すか、殺されるか。それだけだ。
﹁くうっ・・・!﹂
戦線は一進一退。しかし、段々と押され始めている。このままで
はジリ貧だ。
その時。
﹁な、なんだあれは!?﹂
敵の兵の1人が、驚きの声を上げる。
それ
が何なのか、一瞬で理解した。
次の瞬間、数十の兵が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
わたしは
﹁勇者さまだ!﹂
戦場にあって、優雅な姿を崩さない孤高の存在。
彼女は大剣を構え、次の攻撃に備える。
﹁勇者さま、わたし達前衛部隊が道を拓きます。突撃を・・・﹂
503
﹁すまない!
に任せる!﹂
私には他にやるべきことがある。この場は前衛部隊
﹁えっ・・・﹂
予想とは違った反応に、一瞬言葉が出てこない。
彼女はその場から駆けはじめると、最も戦線が不利な場所へ行き、
襲い掛かる兵たちをなぎ倒す。
﹁負傷者を連れて下がれ、この場は私が引き受ける!﹂
﹁は、はいっ・・・﹂
負傷者を2,3人がかりで引っ張り、その場から離脱していく味
方兵たち。
彼ら数十人分の空きを1人でキープする勇者さま。
︵勇者さまは・・・何がしたいの?︶
わたしはそれを見て、一抹の疑問を抱いた。
彼女ほどの突破力があれば、独断先行してあらゆる兵をなぎ倒し、
敵の本陣に入り込むことなど造作もないことのはず。
しかし、彼女がやっているのは。
戦局の悪くなったところへの補助と、負傷者の救援︱︱︱
﹁副隊長!!﹂
隊員にほだされ、意識が戦いに戻ってくる。
しかし、時すでに遅しとでも言うべきか。
﹁︱︱︱っ!?﹂
504
気づくとわたしは多数の敵に囲まれていた。
その中の隊長クラスの大男が、斧を振り下ろす。
わたしは不意に、目を俯けた。
これはもうダメだ。死︱︱︱
﹁ぐううっ!!﹂
その時。乾いた金属の音がした。
勇者さまがわたしの前に出て、その聖剣で大斧の一撃を完全に受
け切っていたのだ。
﹁勇者さまっ。その、剣が・・・﹂
その瞬間、勇者さまの聖剣にひびが入る。
﹁剣の1本や2本、くれてやろう!!﹂
聖剣が折れた瞬間、彼女は腰に差していた鞘を、思い切り大男の
腹にぶち当てる。
大男は倒れ、勇者さまはボロボロになった鞘を放り投げた。
敵の増援です!
なんて数っ。60、70・・・それ以
そしてもう片方の鞘から2本目の剣を抜刀し、また戦い始めたそ
の時。
﹁隊長!
上です!﹂
索敵を行っていた兵からの一言に、場が凍り付く。
そんな数の兵力がどこに残っていたんだ。
505
﹁まさか首都防衛の兵を全て投入してきたというのか!?﹂
ルートBを使って拠点まで戻れ!!﹂
東の国はここで我々諸共滅びるつもりなのか。雑念が頭をよぎる
が。
﹁撤退だ!
隊長の言葉で再び頭がまわりはじめる。
あの数の増援・・・勝てるわけがない。退くのが被害を最小限に
ひよったか、この臆病者め!﹂
抑えられる唯一の手段だろう。
﹁撤退だと!?
後方からやってきた主力部隊の隊長が血気盛んに叫ぶ。
﹁ここを退いたら、泥沼の戦いになるぞ。大局を見たら退くなど有
り得ん、戦うべきだ!﹂
﹁戦えば全滅もあり得るんだぞ!?﹂
﹁元から覚悟がなければ国の為に軍など入るか!﹂
驚いたのは、彼に賛同する兵が少なくないことだ。
最後の1人になるまで戦う、彼らは口々にそう言っていた。
主力部隊長が、兵を率いて特攻を仕掛けようとした瞬間。
鈍い音が、戦場に響いた。
﹁・・・やめろ﹂
勇者さまが、盾で部隊長を平手打ちのようにして・・・気絶させ
たのだ。
506
﹁最後の1人になるまで戦う・・・、立派な意思だが、そんな独り
よがりの蛮勇のために人が死ぬことを、私は絶対に認めない・・・
!﹂
彼女の鬼気迫る表情と言葉に、この場に居る全員が怖気づいたの
だろう。
前衛部隊を中心にして、我が軍はこの戦線を放棄、離脱していっ
た。
戦略的に見ればわたし達は大敗北をしたのかもしれない。
でも、戦術的に・・・いや、違う。戦場に居た1人の兵として言
うのなら。
奇跡
以外の何物でもない、と。ハッキリそう
戦死者を1人が出ずに戦いが終わった戦場を、わたしは初めて見
た。
それはまさに、
感じたのだ。
◆
﹁ふざけるな、何が勇者だ!﹂
﹁戦場の最前線で人助けなんて聞いたことが無い!﹂
﹁俺はあいつに攻撃されたんだぞ﹂
拠点撤退後の会議は紛糾した。
紛糾なんてレベルじゃない。みんながみんな、完全に混乱してい
た。
507
﹁あの女が自分の力を最大限使って一点突破していれば、増援が来
る前に勝てていたはずだ﹂
﹁聞けば聖剣を1つ失ったそうじゃないか﹂
﹁もうあの女にはついていけない!﹂
﹁偽善者を許すな!﹂
わたしは最後まで聞いていられず、その場から飛び出した。
︵確かに・・・勇者さまは正しいことをしたのかもしれない︶
でも。世の中、正しさが全てではない。
特に戦争なんてものは居場所によって正しさがコロコロ変わるも
の。
わたし達に必要だったのは正しさじゃなく、圧倒的な結果だった
んだ。敵を・・・相手の国の兵を1人でも多く殺して、敵将も殺し
て、降伏する者、逃げる者以外は全部殺して・・・。
﹁なにやってるんだろう、わたし・・・﹂
︱︱︱君はこの戦いについて、どう思う?
きっと、わたし達が本当にしなきゃいけないのは、あの問いの答
えを考えることなんだ。
そんなの、一介の兵が考えるべきことじゃないのかもしれない。
︱︱︱でも。
﹁勇者さま﹂
﹁君は・・・、アイナ﹂
508
指令所の入り口付近で、恐らく全てを聞いていたであろう勇者さ
まは、わたしに向かって。
とても悲しい笑顔で、微笑んだ。
それを見たわたしは、思わず彼女を抱きしめてしまう。
触ってみれば、なんということはない。普通の女の子の細い腕と、
小さな身体。
﹁わたしはもう、何も考えずに戦うことは出来ません!﹂
この人は、それらを全て知った上で・・・。
軍はあなたを殺すつもりですっ﹂
彼女は一体、どれくらいの悲しさをこの小さな入れ物に押し込ん
でいたのだろう。
﹁逃げましょう勇者さま!
わたしは彼女の瞳をまっすぐに見つめて言う。
﹁勇者さまが殺されるなんて・・・絶対に嫌です!﹂
勇者さまは同じようにこちらをまっすぐ見つめて言う。
﹁それだけの理由で、君は自分の国を棄てられるのか?﹂
︱︱︱この時わたしは初めて、彼女の心に触れられた気がした。
﹁君の気持ちは受け取ろう。私も死ぬは無い。逃げるなら、1人で
逃げるさ﹂
509
きっとこの言葉は、本当に彼女が勇者だから、言えたことなのだ
ろう。
彼女はわたしを突き放そうとした・・・でも。
﹁わたしも、連れて行ってください﹂
﹁ダメだと言っているだろ﹂
わたしはもう、絶対に勇者さまから
わたしを連れて行ってくれないのなら、わたし
わたしを振り解こうとする勇者さまの腰を、放さない。
﹁絶対に嫌です!
と一緒に死んでください!
離れません!﹂
愛。
この感情をそう言うのだろう。
﹁わたしの命を助けたのは勇者さまです。その責任は、取ってもら
いますから!﹂
でも、この感情は決して純愛じゃない。
歪んだ感情、依存や執着という言葉が混じってくるのも間違いは
ないのだ。
それでもわたしはこれは愛であると、胸を張って言える。
たとえ歪んでいても、屈折していても。
今、この人と一緒に居たいと言うこの気持ちだけは、確かなもの
だから。
510
寝台列車の夜
﹁飛行機が飛ばない!?﹂
大型休暇1日目。
今日から故郷へ戻って毎日毎日遊んで暮らす楽園のような毎日が
待っている・・・かに思われた。
﹃まさか労働組合のボイコットが始まるなんてねえ﹄
わたしの故郷はまあまあの田舎で、あの空港もそろそろ経営が・・
・なんて話を聞いていたけれど、所詮は関係ない事だとタカをくく
っていたら、こんなことになるとは思いもしなかった。
﹁ママ、どうすれば良いの?﹂
﹃寝台車で大陸を横断するしか・・・﹄
ボイコットがいつ終わるか分からない以上、それしかないらしい。
両親は1日先に飛行機で帰ってしまったし、仕方ないか。
翌日。
たくさんの荷物をキャリーバックに詰め、わたしは駅のプラット
ホームに立っていた。
部屋は個室ではなく4人での共同。勿論女の人だけの部屋にして
もらったけれど、どんな人たちが相室になるのかまでは聞いていな
い。
︵食堂車とか、自由席の普通車とか、いろいろあるみたいだけど・・
511
・︶
1週間、電車の中はさすがになあ。
ブルーな気分になりつつ、キャリーバックを一瞬持ち上げて、ホ
ームから車両へ乗り込む。
狭い廊下を通り、切符に書いてある番号と同じ部屋に入った。
中には、誰も居ない。
2段ベッドが左側と右側にそれぞれ1つ、計4つあって、カーテ
ンが閉められるようにはなってるみたいだけど・・・。
︵あの小さな空間を個室にしろってコト・・・?︶
嘘でしょ。こんな安っぽい部屋に泊まるなんて初めて。
そもそも寝台車なんて初めて乗った。いつもは飛行機でひとっ飛
びなので大陸を横断するような長距離列車に乗る事自体が初体験だ。
﹁着替えよ・・・﹂
気分を変えるために、とりあえず服だけでも。
そう思って上着を脱ぎ、シャツも脱いでスカートを下した時。
﹁﹁あ﹂﹂
4人部屋の扉が開かれ、声が重なる。
そこに立っていたのは猫っ毛の黒ボブカットが特徴的な、かわい
らしい女の子だった。
こんな出会い方をしてなかったら、撫でてあげたいくらいの。
でも。次の瞬間、わたしは恥ずかしさで頭が回らなくなり。
512
﹁へ、変態ーーーっ!!﹂
と言いながら、真っ赤な顔で手に持っていたポーチをぶん回し、
それを思い切り彼女にぶつけていた。
◆
﹁ひどいよ・・・。4人共同の部屋で勝手に着替えてたのはそっち
じゃん﹂
彼女はジトッとした目でこちらを睨みながら、頬を手で押さえる。
﹁ご、ごめんなさい。気が動転しちゃって﹂
﹁別にいいよ。あたし、そんなヤワじゃないし﹂
彼女はぶんぶんと顔を振ると、次の瞬間には明るい笑顔でにっこ
りとほほ笑み。
﹁あたしミキ。これから1週間、仲良くしようね﹂
と言って、手を差し伸べてくれた。
わたしは嬉しくて仕方が無かったけど、さっき殴った子に対して
急にべたべたは出来ないと理性がブレーキをかけてしまい。
﹁ふ、ふん。別に、あんたなんかと仲良くしたくないけど。そこま
で言うなら1週間、一緒に過ごしてやらないでもないわっ。・・・
わたしの事は、シエルで﹂
513
こんな返事をしてしまう。
それでもミキはへらへら、にこにこと笑いながら。
﹁よーし、じゃあ頭から尻尾まで、この列車を探検しよう!﹂
わたしの手を引いて、元気いっぱいにそんな事を言い始める。
︵なんか・・・、変な子︶
こんなガツガツした人間に初めて会った。
でも、不思議と嫌じゃない。わたしはそんな事を思い始めていた。
◆
寝台列車1日目の夜。わたしは眠れないでいた。
慣れない環境、ゆっくりと揺れる部屋。どうしても目が冴えてし
まっていたのだ。
﹁ミキ、起きてる?﹂
寂しくって眠れないのかにゃー?﹂
ふいに、上の個室ベッドで寝ているミキに話しかけた。
﹁なにー?
子供じゃないんだから、もうっ﹂
あまりに直球過ぎる言葉が胸に突き刺さる。
﹁ち、違いますっ!
514
わたしがそんな風にへそを曲げて、膨れていると。
﹁あたしはちょっと・・・寂しいけどね。えへへ﹂
彼女は甘えた声でそう言う。
今日出会ったばかりの人間にここまで心が開けるなんて。
不思議に思うやら感心するやらで、彼女といろいろ話をしている
とまぶたが重くなり、気づくとわたしは寝てしまっていた。
﹁電車、まだ動かないのかなあ﹂
次の日。
列車はレールの切り替えや特急待ちと言う理由で、小一時間同じ
駅で停まっていた。
ミキは暇で暇で仕方ないと言った様子で、自由席の窓を開け、日
向ぼっこをしながら駅のホームで買ったお菓子を広げ、さながらお
茶会のようなものを始めていた。
﹁あなた、こういう長距離列車って慣れてるの?﹂
﹁慣れてるのかなあ。慣れてるんだろうねえ﹂
ぼけーっとしているミキには何を言ってもこんな風にぼやっとし
た事しか返さない。
昨日はあれだけ騒がしかったのに、どういう気の持ちようをして
いるんだろう、と。わたしは少し気になって。
﹁ねえ﹂
つとめて自然に。
515
﹁わたしの事、好き?﹂
流すように、そう聞く。
﹁シエルはお嬢様って感じがして綺麗だなーって思うよお﹂
﹁・・・だから、好きかどうかって聞いてるのっ﹂
﹁じゃあ、好き﹂
彼女は無邪気にそう言って窓際にもたれかかりながら、ふわあ、
とあくびを1つする。
︵・・・何よ︶
そんな風になんでもないように言って。
あなたがそんな感じじゃ、本気でドキドキしてるわたしがバカみ
たいじゃない。
◆
その日の夜。また眠れなくなったわたしはと言うと。
﹁・・・狭い、暑い﹂
﹁うー。じゃあ、帰る!﹂
﹁嘘だって。ごめんね﹂
二段ベッドの上・・・ミキの個室に上がり込んで、2人背中合わ
せになって一緒に寝ていた。
516
﹁シエルは寂しがりやだなあ。そんなんでよく寝台車に乗ろうと思
ったよね﹂
﹁本当は飛行機に乗るつもりだったの。それが、飛べなくなっちゃ
って・・・仕方なく﹂
﹁へえ、そうなんだ﹂
ミキは軽くその話を流すと。
﹁じゃあ。あたし達がこうやって出会えたのって、奇跡みたいなも
のだよねっ﹂
なんて事をくすくすと笑いながら、何ともないような風に言うの
だ。
わたしはたまらなく照れくさくなって、狭い空間ということもあ
りその感情をどこにも持って行けず。
﹁・・・っ﹂
ミキに背中からぎゅっと、抱き着いていた。
﹁シエルって、意外とふかふかだね。着やせするって言われない?﹂
その後、ミキがギブアップするまで力の限りぎゅーーーっと彼女
に抱き着いてやりました。
◆
517
それから数日が経った。
4人部屋には他の乗客・・・同世代くらいの女の子が2人、乗車
してきて。
どうしたの?﹂
列車の旅はそろそろ終盤を迎えようとしていた。
﹁ミキ?
食堂車での夕食の後、珍しく暗い表情をしている彼女の顔を覗き
込む。
﹁もうすぐ、終点に着くなあって、思って﹂
﹁その為に列車に乗ったんでしょ﹂
﹁ねえ、シエル・・・﹂
4人部屋に入ると、ミキは切り出す。
﹁あたし、思い出が欲しいな﹂
﹁思い出?﹂
思い出が欲しいって、思い出はこうして今も積み重なっているも
のじゃない、なんてことをわたしはぺらぺらと喋る。
その間もミキは浮かない顔をしていた。
あなたらしくないじゃない。い
﹁そういうんじゃない。特別な、思い出が欲しい・・・﹂
﹁ミキ。あなた具合でも悪いの?
つも言いたいこと、ストレートに言ってたくせに﹂
わたしがそう言ったか言わなかったかのうち。
ミキはわたしの肩を掴んで、そのままわたしの個室である二段ベ
ッドの下へと自分ごと押し込んだ。
518
﹁な︱︱︱﹂
あまりの事に、言葉が出てこない。
﹁シエル、あたしね・・・。シエルのこと、好き・・・なんだよ﹂
﹁わ、わたしだって、好き・・・だよ﹂
﹁じゃあ、問題ないよね﹂
ミキはわたしの顎をくいっと人差し指で上へ押し上げると。
そのままキスをする。
どうしてだろう、わたしは・・・キスなんて初めてなのに。舌ま
で入れられてるのに。全然抵抗しようと思わなかった。
そう、この時は。
﹁いやあ。疲れたあ﹂
﹁ご飯美味しかったねー﹂
!?
頭が真っ白になる。
・・・他の2人が部屋に帰ってきたんだ。
当然と言えば当然。ここは4人部屋で、今は夜。普通に考えれば
帰ってくるに決まっているのだ。
︵ちょ、ミキ・・・、やめっ︶
︵やだよ・・・んちゅ︶
行為を止めようとするわたしを全く意に介さず、彼女はキスした
まま、わたしをベッドに押し倒す。
519
わたしは逃れようと身体をくねらせるが、彼女の指がわたしのブ
ラに手をかけるのを止めようがなかった。
何せ、騒げばバレてしまう。カーテンを1枚隔てて、こんなこと
をしているのが。
︵なに考えてるのっ。見つかっちゃうっ・・・︶
︵しっ。声を出さなきゃ大丈夫だよ︶
︵ばかあ、無理言うなあっ・・・︶
ミキの手が下着を押しのけて、直接肌に触れてくる。
︵ひゃっ︶
思わず声が出てしまいそうになった瞬間、ミキが強引にキスをし
てきて、無理矢理声を殺してきた。
︵ん、んんん・・・っ︶
やだ、こんなの。激しすぎる。
初めてなのにプレイが高度すぎる・・・っ。
︵それなのに︶
どうして、こんなに興奮するの。こんなに気持ちが良いの。
それはきっと相手がミキだから。ミキの事を愛しているからだろ
う。
本当に嫌だったら、気持ちよくなんてなるわけがない。でも、だ
からって、声を出しちゃいけないのは辛い。
︵ふぇっ!?︶
520
一瞬の隙を見つけて、今度はわたしがミキの下着に手を入れる。
︵だ、だめ。そこはっ!︶
必死に声を押さえているミキがかわいくて、そしてえろくて。
わたし達はお互いに我慢なんてできずに、結局疲れて寝るまで、
ずっとそんな事をしていた。
◆
﹁大人の階段、のぼっちゃったなあ﹂
もうちょっとロマンチックな初めてが良か
終点駅に着き、すっかり疲れた様子のミキがため息をついた。
﹁わ、わたしだって!
ったんだから!﹂
彼女から、ぷいっと顔を背ける。
奇跡の出会いをしたわたし達の旅も、終わりの時間︱︱︱
︵ああ、結局︶
とてもとても、素敵な旅だったな。
駅を去る時、溢れ出す涙を抑えることは、わたしには出来なかっ
た。
﹁﹁あ﹂﹂
521
翌日。
近所のコンビニで再びミキと顔を合わせることになることになる
のだけれど。
それはまた、別の話。
522
ナンバー1アイドルになって女の子をはべらせてみた
最後のポーズを決め、曲が終わる。
数万人規模のライブ会場からカーテンコールが聞こえ、万来の拍
ありがとー!
みんな最高だよ∼﹂
手があらゆる方向から飛んできた。
﹁ありがとー!
大きく両手を振って、客席に向かって頭を下げるとすぐにステー
ジからはける。
わたしの所属するアイドルグループは数十人というアイドルを抱
えているため、本来ならソロの曲など歌えない。ほとんどが大人数
か、グループの曲だ。
そう、普通のアイドルなら。
﹁お疲れさま、藍子。良いステージだったわ﹂
マネージャーさんから水を受け取って、一気に飲む。
﹁いやあ、押しも押されぬスーパーアイドル、エースでセンター張
るのも楽じゃないよ﹂
﹁それを実行できているのがあなたのすごいところよ﹂
﹁えへへ、だってわたしかわいいし﹂
褒められたのが嬉しくて、思わず笑みが零れてしまう。
もっと褒めてと催促したけど、調子に乗るなと逆に怒られてしま
った。
523
﹁よし、次の曲全体だよね﹂
﹁ええ。早く行ってあげて。あなたが居るとみんな安心するから﹂
その時。今し方ステージから降りてきた子が、浮かない顔をして
いた。
あれは。
﹁三久?﹂
﹁あ、センパイ・・・。実は、今の曲で失敗しちゃって・・・﹂
最近、頭角を現してきた後輩だ。
強気な子で、物怖じしないタイプ。あんまり話した事なかったけ
ど。
︵落ち込んでる顔、やばいねこれ︶
﹁めちゃくちゃかわいいじゃん﹂
﹁え・・・﹂
なに言ってんのこの人、みたいな顔をされる。
﹁Sキャラっぽいと思ってたけど、しおらしくなってる顔、超良い
よ。食べちゃいたくなるくらい﹂
﹁あ、あの。失敗しちゃったって話をしてるんですけど﹂
この反応に怒ったのか、こちらを下から少し睨みつけながらそん
な事を言う。
﹁ん・・・﹂
524
だから。
﹁そんなことを言うのはこの口か﹂
わたしはキスをして、物理的に言葉を遮った。
﹁い、い、い、いまき、キキキ・・・﹂
何するんですかアイドルに向かって
﹁えへへ。かわいいねえ。初心だねえ﹂
﹁初めてだったんですよ!?
!﹂
﹁アイドル同士はノーカンじゃないの?﹂
﹁そんなルール初めて聞きましたよ!﹂
彼女がいきり立ったところで、ぽんと背中を押す。
﹁よし、その元気のまま行こう﹂
そして手を取り、一緒にステージへと駆けていく。
﹁・・・っ﹂
彼女は一瞬、真っ赤な顔で呆けていたけど、ステージに上がると
さすがはプロだ。
三久も!﹂
﹁ごめん、遅れちゃった﹂
﹁藍、なにやってたの!
﹁準備はできてます。絶対に完璧にやりますから。センパイを怒ら
ないでください﹂
525
三久から先ほどまでのマイナスオーラは消えていた。
そして彼女は連続して続く全体曲を、全部完璧にやりきったのだ。
﹁センパイ﹂
﹁んん?﹂
﹁さっきは・・・ありがとうございました・・・﹂
彼女はもじもじとしながら、バツが悪そうに視線を逸らす。
﹁三久﹂
﹁はい・・・﹂
﹁後で、続き・・・しよっか﹂
三久はすぐに顔を赤くさせると。
﹁はい・・・﹂
また恥ずかしそうに顔を俯けた。
ちょっと・・・やりすぎたかな。この子、初心だと思ってたけど
ここまでとは思わなかった。あまりにチョロ過ぎる後輩に、少しだ
け危機感がしたけど。
結局この後、めちゃくちゃやりました。
◆
﹁野瀬ちゃん、女優って楽しい?﹂
シャワーを浴びてきた彼女に対して、わたしも着衣を整えながら
526
聞く。
﹁楽しいっていうか、やり甲斐は感じるわ。アイドルも一緒でしょ
う?﹂
﹁うーん、最近アイドルが楽しいのか、かわいい女の子に囲まれて
るのが楽しいのか分かんなくなってきて・・・﹂
﹁アンタらしいなおい﹂
彼女が同年代の割に随分と大人びているのは何故だろう。
そういえばリードしてくれる方だし、やっぱ女優さんって気品が
あるよね。
︵散々あんなことやっておいて気品って︶
我ながら苦笑してしまう。
﹁あなたは女優業、興味ない?﹂
清純ですよ∼
なんて嘘言ってカメラに笑ってる
﹁あはは、わたしに演技なんて無理無理。嘘つけないもん﹂
﹁よく言うわ。
くせに﹂
﹁あ、じゃあ女優いけるかな﹂
今のは怒られました。
これで帰るのも何なので、最後にキスだけして、玄関でブーツを
履く。
﹁次、いつ会えるの?﹂
﹁2週間後・・・くらい。わかったらラインするよ﹂
芸能界に入ろうと思った理由もかわいい女の子と知り合いたいっ
527
ていう理由で、アイドルになったのはその機会が確実に1番多いと
思ったから。
そんな理由で始めたアイドルだけど、楽しいし今はすごく幸せだ。
結果を残せばいろんな現場に呼んでもらえて、他のグループの子や、
女優さんやモデルさんとお知り合いになれるし。
ところ構わず、好き勝手に女の子を食いまくれるなんて、ここは
桃源郷かな。
一緒に食事してるところや、部屋に連れ込んだり上がり込んだの
がバレても﹁お友達です﹂の一言で完封ですし。
そんなある日。
﹁あ∼い∼こ∼!﹂
﹁ま、マネージャーさんっ。マネージャーさんは笑顔が1番似合う
よ?﹂
﹁確かに私はあなたのそう言うところも全部認めてうちの事務所に
スカウトしたわ。そしてあなたがうちの事務所に欠かせないほどの
存在になってるのは確か。でも・・・﹂
バン、と目の前のテーブルを叩きつける。
﹁ものには節度ってものがあるでしょう!﹂
﹁いっ﹂
びくん、と身体を萎める。
﹁いい加減あなたの嘘八百も通用しなくなってきてるの﹂
﹁お友達・友情作戦?﹂
﹁ええ、そうよそれ﹂
528
無敵の作戦だと思うけど。
﹁ちょっとやりすぎよ。しばらくは自粛してもらいます﹂
ええっ!?
﹁そんなっ。それじゃあわたしは何を楽しみにして生きていけばい
事務所のために働くだけの歯車になれって言うんで
わたしに人権は無いのか!?﹂
いんですか!
すか!
﹁他所の事務所さんに迷惑をかけるわけにはいかないの!﹂
マネージャーさんのゲンコツが一発、脳天に突き刺さる。
﹁・・・じゃあ、この事務所の娘ならいいんですね?﹂
﹁え、ええ。ただし、1人よ。最低1ヵ月はその1人とだけ遊びな
修羅場ってコトですか!?﹂
さい。あなたと同じマンションに引越しさせるから﹂
﹁1人を選べ・・・!?
﹁全然違うから﹂
その後も散々こっぴどく怒られて、マネージャーさんの運転でマ
ンションまで送られると、玄関の扉を閉めるまでピタリと監視され、
ようやく帰宅する。
さながら看守に連行される囚人の気分。
﹁うちの事務所だと・・・さすがに先輩には頼みづらいなあ﹂
そうなると、同じグループの直の後輩が無難なところか。
携帯にアドレスが入っている子の中で、同じ事務所の後輩を物色
する作業に入る。
529
慎重に選ばないと・・・。
︵長い期間一緒に居ても楽しくお話出来る子が良い・・・それと料
理は得意な方が。あと優しい子が良いなあ。顔はもちろん超がつく
ほどかわいい子で︶
この時、ぴたりと携帯の画面に触れる人差し指が止まる。
﹁これって・・・﹂
気づいてしまった。
﹁結婚する相手を決めてるみたいッ・・・!!﹂
同じ事務所という縛りがなければ、今の判断基準はまさに結婚相
手に求めるもの、そのまんまじゃないか。
﹁よ、よし。じゃあ、1番付き合いが長い小夜に頼もう・・・﹂
今のグループの立ち上げメンバーで、後輩じゃなくて同期だけど、
1番変な気を遣わずに一緒に居られる相手でもある。
わたしは震える手で携帯を操作し、小夜に電話をかけた。
﹁もしもし、アイ?﹂
小夜の声が聞こえて、なんか余計に緊張。
お風呂入っちゃったし﹂
﹁小夜・・・話があるの。あなたにしか頼めない・・・ううん、あ
今日はもうやだよ?
なたに言いたいことがあるんだ﹂
﹁なぁに?
530
﹁そ、そういうんじゃなくて﹂
すうっと、一つ、息を吸い込む。
大好き!
だから!﹂
﹁これから毎日わたしの朝食を作って欲しいのっ﹂
﹁え、ええええ!?﹂
愛してる!
小夜は随分と驚いた。
﹁お願い、小夜!
﹁ちょ、ちょっと待って!﹂
まくしたてるわたしを、彼女が止める。
﹁あ、あんたが誰か1人に身を固めるなんて・・・。良いの、他の
子は?﹂
﹁他の子じゃダメなの。小夜しか居ないのっ!﹂
﹁そ、そんなの急に言われても﹂
煮え切らない態度の小夜を、ひたすら押し続ける。
どうして、そんな急に﹂
﹁明日から一緒に住んで欲しいんだ﹂
﹁あ、明日から!?
﹁1秒でも早く、小夜に会いたいから﹂
﹁う、ううう・・・﹂
小夜はしばらくそんな風に唸っていると。
﹁アイは、ずるいよ。いっつもそうやって﹂
﹁ダメ・・・かな﹂
531
彼女がダメなら、もう本当に後輩の子に頼むことになる。
でも、冷静に考えたら色々な面から考えて小夜が1番良いんだ。
この事情を変な気持ちじゃなくて受け入れてくれそうだし、理解し
てくれそうだから。
﹁わかった。今から準備するね。あたしもあんたに会いたくなって
きた。2人きりで会うの、久々じゃない?﹂
﹁これからはずっと2人だよ﹂
﹁うん・・・﹂
事実を言っただけなのに、照れてしまう小夜。そういうところも
かわいいんだけどね。
事務所が話を通してくれてたってコト?
﹁アイなら、あたしを選んでくれるって、信じてたよ﹂
どういうコト?
﹁え・・・?﹂
ん?
﹁初めて会った時から、あんたは1番かわいくて、歌も踊りも全部
1番だった。あたしは2番目。でも、アイはすごすぎたから・・・。
あたし、全然嫉妬みたいな気持ちはなかった。逆にこんなすごい子
と一緒にやれて嬉しいなって﹂
あれ、小夜さん。何か盛り上がってらっしゃいますが・・・。
﹁これからは一生、アイの隣に居られるんだね。結婚しよう﹂
﹁えっ・・・﹂
結婚・・・?
532
︵完全に勘違いされた!?︶
でも今から違うって言ったら絶対怒られるし、断られちゃう。
わたしは悩んだけど、こうなったら既成事実を作って︵引越しさ
せて︶から説明するしかないと判断し。
﹁うんっ。小夜、一緒になろう﹂
力強くそう答えていた。
あーあ。これダメだ。下手したら刺されちゃうかもしんない。
嘘がつけないなんてとんでもない。
野瀬ちゃんの言う通り、わたしは嘘をつくプロフェッショナルだ
と、この時完全に自覚した。
533
これまでも、これからも、ずっと
ふと、目の前が暗転する。
すべての景色が裏返り、ぐにゃりと曲がったかと思えば次に見え
たのはどこまでも続く暗闇。
﹁何が起きてる・・・?﹂
自分では理解できなかった。
こんなことになったのは初めてだ。今まで一度の失敗もしたこと
はなかったのに。
︵・・・違う、これは︶
失敗とかそういう問題じゃない。
私の力が衰えたわけでもない。これは明らかに外部からの干渉が
あったのだ。
この真っ暗な空間は何だ?﹂
﹁ようやく見つけた・・・﹂
﹁誰だ?
何もない空間において、彼女の声だけが聞こえる。
﹁その能力がアンタのものだけだと思ったら大間違いだよ﹂
﹁・・・ときわたりの能力を持つ者が、私の他にもっ・・・!?﹂
そんな話は聞いたことが無い。
瞬間、自分のまわり数メートルだけが上からスポットライトが当
534
てられたように明るくなり、相手が近くに居るのも見えるようにな
った。
相手は私の首を思い切り掴むと、躊躇なく絞めてきた。
﹁ッ、こんな事をしでも・・・!﹂
﹁アンタは死なない、そんなこと分かってる。でも!﹂
手を離した瞬間、私は一瞬よろめく。
その瞬間に、顔が割れるんじゃないかというくらいの右ストレー
トが飛んできた。
痛いと言う感覚もなく、何もない黒の床にたたきつけられる。
﹁ゲホッ、ゲホッ・・・﹂
絞め付けられた首が苦しくて、言葉が出てこない。
﹁わたしの能力でアンタのときわたりの力は停止してる。わたしと
アンタは、文字通り永遠にこの空間で生き続けるんだ﹂
﹁正気か!?﹂
﹁わたしは本気だ。ここは無間地獄・・・終わりは来ない。それに
付き合ってもらうぞ・・・!﹂
立ち上がり、目の前に居る女を屈服させようとするが。
身体能力が違い過ぎる。生身の殴り合いでは勝てそうにない。
﹁最凶の神も能力を封じられたら形無しか。能力だけに頼り切って
るからこんな隙が生まれるんだ﹂
﹁ば、バカにしやがってこのクソアマァ!﹂
535
何度やっても結果は同じだった。
一切の武器も、能力も持ち込めない︱︱︱。ここは0と1との狭
間。無と有の間に存在する虚数空間だから。
◆
家族の仇とも言うべき相手は意外な姿をしていた。
白いマントのようなものをくるむように着た女の子。
真っ黒な髪に、白い肌。背格好は小さく、わたしを殴りに来たそ
の力は貧弱そのもの。歳にして5つくらいは下に見える。この子が・
・・。
︵悪神・・・。世界の歪みの中心・・・︶
様々な世界、様々な宇宙に存在する悪の根源。根本。
﹁アンタはわたしの家族を殺したな﹂
﹁ふっ。いつ、どこでの話だ﹂
﹁神聖歴3025年、東京で起きた大規模テロのことだよ。主導者
はアンタの配下の悪魔だろ﹂
﹁覚えてないね・・・﹂
そりゃそうだ。こいつは無限に存在する世界で無限に災厄をばら
まいていた。覚えているわけがない。
﹁そんなことのために私を追ってこの空間へ来たのか﹂
﹁ああ。アンタをここに閉じ込めておけば、世界に災厄がばらまか
れることもない﹂
536
﹁本気でそう思うのかい?﹂
彼女は腕を広げる。
﹁私が直接手を下さなくなっても、悪は無くならない。私ひとりを
封じたところで、世界が平和になると本気で思ってるのか?﹂
﹁なに・・・?﹂
﹁もはやそんな次元じゃないんだよ。人間は放っておいても勝手に
殺し合いを始めるし、それを止めようともしない。私はその背中を
少しだけ押してやったに過ぎないんだ﹂
悪神は嗤った。
﹁こんな事をしても無駄なんだよ。分かったらさっさとここから出
せ!﹂
﹁・・・やだね﹂
わたしはその場に座り込んだ。
﹁確かにこんなことしても何も変わらないのかもしれない。だけど、
それでもやらないよりやった方が良いんだ﹂
﹁お前・・・﹂
﹁並大抵の覚悟でこんなところまで来られるかよ﹂
これから永遠にここでこの女と過ごすんだ。
こんな無為な会話は早く終わらせたい。
﹁わかった。お前の家族を生き返らせてやろう﹂
悪魔のささやきが聞こえる。
537
﹁お前の家族だけじゃない。お前の世界に存在したあらゆる悪を取
り払ってやる。そしてその世界には二度と手出ししない。どうだ、
悪い条件じゃないだろう﹂
﹁・・・ッ!﹂
正直。心が揺らいだ。
こいつが万能の力を持つ神であることは分かっている。
ただ、その力の使い方が常にマイナスであるだけで、神は神。そ
の能力は確かなものなのだ。
だから、こいつの言っていることは恐らく、本当で・・・。
﹁・・・その手には乗らない﹂
﹁おいおい。私はお前を騙す気は無いぞ﹂
﹁それが傲慢だと言うんだ!!﹂
わたしはその場から一歩も動かず、下の黒い空間を見ながら言う。
﹁どんな悪いことをしても、何をしても後からやり直すことが出来
人間なんていくらでも生き返らせれば良いし、建物も
る。お前はそうやって人間を見下してるからあんなひどいことが出
来るんだ!
直せば良い。壊れた世界も指先一つで元に戻せる・・・﹂
﹁だからなんだ。私にはその力があるんだよ﹂
﹁お前のその力に頼ったら・・・わたしもお前と同じじゃないか﹂
ぽろぽろと、額から涙が零れてきた。
﹁家族が死んで思ったこと、考えたこと、そこでわたしの為に動い
てくれた人たち・・・。それを全て、お前は自分の裁量1つで全部
無駄にしようとしてるんだ﹂
538
﹁それを全て消して救ってやろうと言っているのに﹂
﹁・・・そんなものが救いであってたまるものか。わたしはこの気
持ちを忘れたくない。家族を奪われた悲しみ、痛み、後悔、苦しみ・
調子に乗るなよ人間の分際で!﹂
・・全部わたしのものだ。誰にも奪わせるもんか・・・!﹂
﹁ッ!
私はこんなところに居るべきじゃないん
両手で握り拳を作って、悪神はそれをわたしの脳天に叩き込む。
﹁出せ、ここから出せ!
だ。私は神だぞ!?﹂
がん、がん、がん。何度も叩かれたが、絶対に死ぬことは無い。
痛みが残るだけで・・・。
﹁はあ。はあ。はあ・・・﹂
やがて殴り疲れて、彼女はその場に倒れ込んでしまった。
﹁ここには変化なんて無いんだ。わたしもお前も、永遠にここで変
わることなく過ごし続けるんだよ﹂
﹁くそっ、ふざけるな・・・っ。お前なんかと、こんなところで!﹂
彼女は何度も何度も外部と連絡を取ろうとしたが、全て無駄だっ
た。
変わることの無い空間。外部から一切干渉不可能な領域。何も起
こることがない黒い空間。
そこに閉じ込められたことを、ようやく実感したようだった。
﹁私は神だぞ、こんな・・・!﹂
539
﹁みっともないね。何が神だ﹂
﹁このぉっ!﹂
彼女は何度も何度もわたしを殴ったが、やがて飽きると、どこか
へ立ち去ろうと駆け出す。
しかし空間は動かない。このスポットライトの当たっている場所
からは少したりとも外へ出ることは出来ないのだ。
どれだけ走っても、何の意味もない。
時間が経つと・・・この場に時間と言う概念もないけれど、しば
らくすると彼女も座り込んで、しまいには横になり、目を瞑った。
﹁眠れないよ﹂
﹁分かっている。目を瞑っているだけだ﹂
﹁対して変わらないのに﹂
﹁お前の姿が見えるのと見えないのとじゃ大違いだ﹂
へいへい、と生返事をする。
彼女が目を瞑るに至るまで、一体どれだけかかったろう。時間に
すると・・・億年はくだらないんじゃないだろうか。
﹁おい、人間﹂
﹁なんだい悪神﹂
﹁・・・話し相手になれ﹂
彼女にはもう、交渉しようなんて考えはこれっぽちも残ってなか
った。
暇だから、相手になって欲しいんだ。
﹁つまらんな、お前の人生なんて﹂
540
﹁はは。もう怒りすら感じなくなってきたね﹂
前のわたしなら、わたしの人生がつまらないなんて言われたら激
昂しただろう。
﹁・・・このまま感情が死んでいくのかな﹂
﹁さあな﹂
なんか、やだな。
わたしはきっと、そんな程度にしか考えていなかったのだろう。
ついに気がふれたか﹂
﹁ね、キス・・・しよっか﹂
﹁はあ?
﹁もう何でもいいよ。生きてるって実感が欲しいんだ﹂
恐らく永劫に近い時が過ぎただろう。
家族の仇とキスしようなんて、我ながらおかしいことをしている
と思う。
﹁ちゅ・・・﹂
結局キスしたくらいじゃ何も変わらなかった。ああ、そうだなく
らいの気持ち。
﹁お前、好きでもない相手とこんなことして気持ちいいか?﹂
﹁全然・・・﹂
﹁私もだよ﹂
そっか。感情が無かったらキスしても、気持ちよくもなんともな
いんだ。
541
感情なんてそんなもの、随分前に忘れてしまったから。
﹁んん・・・﹂
﹁歯を立てるな。痛いだろ﹂
﹁アンタも、上手くなったね﹂
﹁そりゃずっとこんなことをしていれば上手くもなる﹂
結局その後、いろんなことを試したけど同じだった。
きっと身体は何か感じているのだろうけど、それを感じてもどう
も思わなくなってしまった。
胸を揉まれても、噛み付かれても、殴られても、抓られても、何
も。
︵そっか。これが︱︱︱︶
これが︱︱︱永遠︱︱︱
﹁哀れだな、人間。所詮人間では永遠には辿りつけない・・・。こ
うなる事は分かっていた﹂
悪神はそう言って、わたしの身体に触れる。
﹁勝手に逝くな。貴様が無間に付き合えと言ったんだろう﹂
彼女が触ったところだけが、暖かい。
﹁この世界はどこの世界とも繋がっていないがすべての世界と繋が
っている。私がお前とここでこうしている限り、全ての世界は私た
ちの下に置かれる・・・﹂
﹁終わりが・・・こない・・・って事?﹂
542
﹁今のところはな。そしてこの世界の下に置かれた世界は・・・そ
うだな。きっと﹂
彼女はぎゅっと、わたしを抱きしめる。
﹁私とお前の願ったようになるさ﹂
﹁願ったように・・・?﹂
﹁私たちが今、お互いを必要として、求めあっているように。イヴ
とイヴが結ばれる世界になる﹂
﹁なにそれ﹂
わたしはそれに、少しだけ笑みを浮かべた。
薄れながらも、しっかりとした意識の中で、そのことだけが温か
く感じたのだ。
﹁しっかりしろ。私を永遠に捕まえておくんだろう﹂
﹁うん・・・。そうだね﹂
1人じゃない。
この永遠の世界でも、2人なら生きていける。
無限に近い時間の中で、わたしは彼女を、彼女はわたしを必要だ
と思うようになったのだから。
543
これまでも、これからも、ずっと︵後書き︶
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
如何に短編集と言えども、どこかで終わりを設定しなくてはと思っ
ていたところ、そろそろこの短編集を書き始めて1年になるという
事を1話の日付を見て思い出し、キリの良い50話を1つの区切り
にしよう、と考えた次第です。
﹁いろんな百合が書きたい﹂と思い書き始めた短編集でしたが、今
までに書いたことがないような設定を使うことで新しい発見がいく
つもあり、とても楽しく女の子同士の恋愛を書くことが出来ました。
たぶん自己満足です。
50の短編のうち、1つでも読者の方に刺さるものがあったのなら
本望です。
それでは、また。
544
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n9530cd/
フリージャンル短編百合小説集
2016年9月7日11時42分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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