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馬ノ山 号墳出土の線刻人物円筒埴輪について
同志社大学歴史資料館館報第12号 馬ノ山 号墳出土の線刻人物円筒埴輪について 辻川哲朗・辰巳和弘 はじめに 同志社大学歴史資料館が収蔵する考古資料のなかに、鳥取県東伯郡湯梨浜町(旧羽合町)馬ノ山 (1) 4号墳(国史跡橋津古墳群1号墳) 出土線刻人物円筒埴輪片がある。本稿は、この資料に関して、 その来歴を跡づける(1章)とともに、馬ノ山4号墳の概要について述べ(2章)、続いて線刻人 物円筒埴輪片の報告を行った(3章)うえで、線刻人物像についての考察を試みる(4章)ことを 目的とする。 本資料を題材として選定したのは、線刻人物埴輪として著名であるにもかかわらず、線刻人物像 そのものが検討されてきたとはいいがたいことに加えて、その検討の基礎となるべき資料化につい ても十分とはみなしがたいと考えるからである。 本稿は辰巳(4章)と辻川(その他)が分担して執筆した。 1.資料の来歴(図1・2、表1・2) 1.1 倉光清六氏による資料紹介 学会への紹介 本資料が学会に最初に報告されたのは昭和6年(1931年)のことであった。森本 六爾氏が主宰する東京考古学会の機関誌である『考古學』に倉光清六氏によって記された資料紹介 報告である(倉光 1931) 。この号は「埴輪の新研究」と題された特集号であった。巻頭図版に馬ノ 山4号墳の人物線刻円筒埴輪片の拓影(図1−1)が示されるとともに、本文中には倉光氏の資料 紹介文をはじめ埴輪関連論文が収載されている。以下、倉光報告に拠って発見の経緯を確認してお こう。 資料の発見 倉光氏によると、本資料は伯耆国東伯郡橋津村公園の東方にある前方後円墳の前方 部前単端部付近で採集されたという。まず、大正12・13年(1923・1924年)頃に足立熊夫氏が一片 を採集し、さらに昭和2年(1927年)に別破片が谷田亀壽氏によって採集された。この両者が接合 し、同一個体であることが判明したという。 紹介の経緯 また、本資料は、 「昨年」(引用者註:1930年)の春、倉光氏が谷田氏の所有品のな かにあることを知って採拓した。そして、同年8月頃に直良信夫氏が倉光氏を訪問したさいに、そ の拓影を見せた。直良氏は編集者である浅田芳郎氏にそのことを知らせ、それにより、倉光氏は資 料紹介を執筆投稿するように依頼されたという。 長い空白期間 後述するとおり、この倉光氏の資料紹介以降、戦後に同志社大学に寄贈されるま で、森浩一氏が「久しい間その実物がどこにあるかは不明になっていた」(森 1967、p68)という ように、本資料の足どりについてはよく分からなかった。 1 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について 1:倉光1931 2:『上代因伯史 考古篇』編纂事業にかかる調査資料 (資料番号376)円筒埴輪片2 鳥取県教育委員会2003 3:『上代因伯史 考古篇』編纂事業にかかる調査資料 (資料番号375)円筒埴輪片3 鳥取県教育委員会2003 5:佐々木古代文化研究室編1962 6:財団法人鳥取県教育文化財団1982 4:佐々木古代文化研究室1956 *縮尺任意・不同 図1 線刻人物埴輪片の既報告図面 2 同志社大学歴史資料館館報第12号 1.2 『上代因伯史 考古篇』に伴う調査資料 空白期間を埋める資料 しかし、近年この空白期間の事情を知るうえで重要と思われる資料が公 刊された。それは鳥取県教育委員会から刊行された『上代因伯史 考古篇』の調査資料である(鳥 取県教育委員会編 2003) 。これにより、『上代因伯史 考古篇』に伴う資料調査のなかで実測・採 拓等がなされたこと、昭和17年段階において谷田氏が本資料を所蔵していたことを知ることができ た。以下、この調査に関して述べておこう(2)。 『上代因伯史 考古篇』 『上代因伯史 考古篇』は1940年(昭和15年)に「紀元2600年奉祝 鳥 取県記念事業」として計画された三事業のうちの一つである。「『上代因伯史』を文化史的方面と考 古学的方面から調査研究して、向後二ヵ年半に完成する」予定であった。 編纂事業の内容 編纂主任には京都帝国大学教授西田直二郎氏があたり、委員として梅原末治 氏・木山竹治氏・倉光清六氏・足立 立氏が任命された。1941年(昭和16年)から1943年(昭和18年) にかけて鳥取県下での資料調査が実施され、調査資料が作成された。しかし、戦時情勢の悪化によ って報告書作成にはいたらず、調査資料は当時京都帝国大学文学部助手であった小林行雄氏が一括 して保管した。そして、小林氏の没後、ご遺族から京都大学考古学研究室に寄贈されたのである。 調査資料の内容(図2・表1) 馬ノ山4号墳に関連する資料は実測図・写真・拓本10点(資料 番号369・370・373∼380)である(鳥取県教育委員会編 2003)。その内訳は遺物写真1点(資料番 号369)・遺跡遠景写真1点(資料番号378)、実測図3点(資料番号373・374・377)、拓本5点(資 料番号370・375・376・379・380)である。以下、資料番号ごとにその内容を概述する。 【資料番号369・370】 盾形埴輪の盾面と思われる破片の写真(図2−1)と拓本(図2−2)で ある。外面には鋸歯様の直線文が施されている。 【資料番号373】 (図2−3) 円筒埴輪片の実測図である。断面と「上端外径」と記された円弧が 示されている。断面は突帯をはさんで2段が遺存するもので、下段にはスカシの表現があり、 「形円、 半円アリ不明」と記されている。内外面には「刷毛タテ」という記入があり、タテハケ調整による ことが分かる。 【資料番号374】 (図2−4) 円筒埴輪片の実測図である。2個体が図示され、それぞれの断面に ⒶとⒸという記入があり、個体が識別されている。Ⓐは突帯をはさんで2段が遺存する破片の断面 である。下段には「方形一側面アリ」という記述があり、方形スカシの一辺が遺存することがわか る。突帯下辺付近には「×」印が記入される。やや離れた位置に円弧が描かれ、それに接して同様 の「×」が記されていることから、円弧はⒶの突帯下辺付近の外径を示したものと思われる。さら に、「箆描人物画アリ」という記入が確認できる。これに加え、突帯の形状・スカシの配置から判 断して、このⒶが線刻人物円筒埴輪片に相当すると考えられる。Ⓒは「口縁部破片ナラン」と記さ れた破片の断面である。外面には「外タテニアラキ刷毛」、内面には「内ヨコ刷毛」という調整に 関する記入がある。さらに内面には円弧が描かれ、横に「ヘラ線アリ」と記入されている。これ以 外に注目されるのは、余白に「他ニ足部ノミノ一片アリ」という記入があることである。 【資料番号375】 (図2−5) 円筒埴輪片2点の拓本である。それぞれの右下付近にⒷとⒸという 記入があり、個体が識別されている。Ⓒにはヨコ方向のハケメと下方に線刻らしき円弧がみとめら 3 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について 1:資料番号 369 7:資料番号 377 4:資料番号 374 2:資料番号 370 8:資料番号 379 5:資料番号 375 3:資料番号 373 *鳥取県教育委員会 2003 附録 CD-ROM の画像データに 拠り,一部改変して作成。 *遺跡写真(資料番号 378)については省略した。 *縮尺任意・不同。 6:資料番号 376 9:資料番号 380 図2 『上代因伯史 考古篇』編纂事業にかかる調査資料(馬ノ山4号墳関係) 4 同志社大学歴史資料館館報第12号 表1 『上代因伯史 考古篇』編纂事業にかかる馬ノ山4号墳関連調査資料一覧 (鳥取県教育委員会編2003に拠り作成) 資料 番号 369 370 373 374 375 376 資料 No. 名称 出土地 区分 埴輪 橋津古墳群出土? 写真 拓本 埴輪 橋津古墳群出土? 埴輪 図面 伯耆国東伯郡橋津 円筒 埴輪 東伯郡橋津村橋津公園東 図面 1 円筒 前方後円墳 埴輪 東伯郡橋津村橋津公園東 拓本 円筒 前方後円墳 埴輪 東伯郡橋津村橋津公園東 拓本 円筒 前方後円墳 377 図面 378 写真 379 拓本 380 拓本 3 記録日 出土状況 所在 その他注記事項 昭和17年8月 昭和17年8月 昭和17年10月17日 人物絵画埴輪円筒出土古墳 泊國民学校 坪井測 昭和17年8月11日 谷田亀壽氏蔵 箆描人物画アリ 昭和17年8月11日 昭和17年8月11日 埴輪 東伯郡橋津村橋津公園東 昭和17年8月11日 円筒 前方後円墳 前方部採集 谷田亀壽氏に渡 人物画埴輪出土古墳にて8月 す 11日採集せるもの 遺跡 東伯郡橋津村橋津公園東 昭和17年8月11日 遠景 前方後円墳 埴輪 昭和10年6月10日 埴輪 昭和10年6月10日 *ゴチック体は附録CD‑ROM画像で確認した記述内容に拠る。それ以外は「調査資料一覧」(鳥取県教育委員会2003)の記述に基づく。 表2 馬ノ山4号墳出土線刻人物埴輪片をめぐる諸事項の年表 年月日 関連事項 大正12・13年頃 1923・1924 昭和2年 昭和5年 1927 1930 典 拠 足立熊夫が線刻人物埴輪片1片を採集。 倉光1931 谷田亀壽が線刻人物埴輪片1片を採集。 倉光1931 春 倉光清六が谷田所蔵品中に線刻人物埴輪片があることを知り、採拓 する。 倉光1931 8月頃 直良信夫が倉光を訪問したおりに、倉光が線刻人物埴輪片を直良に 見せる。倉光は資料紹介論文執筆を依頼される。 倉光1931 木村竹治が埴輪棺を採集する。 寺西1985 倉光が『考古學』に資料紹介論文を発表。 倉光1931 昭和6年 1931 昭和10年 1935 6月10日 盾形埴輪片(資料番号379・380)が採拓され、写真撮影される。 鳥取県教育委員会2003 昭和15年 1940 紀元2600年奉祝 鳥取県記念事業の一環として、『上代因伯史 考古篇』の刊行が事業化。 鳥取県教育委員会2003 昭和16年 1941 『上代因伯史 考古篇』編纂主任・委員が任命され、資料調査が実 施される(�1943年)。 鳥取県教育委員会2003 8月11日 『上代因伯史 考古篇』にかかる資料調査の一環として谷田亀壽所 蔵円筒埴輪片2・3・4を実測・採拓(資料番号374�376)。現地にて 遺跡遠景写真撮影(資料番号378)。現地で円筒埴輪片5を採集し、 実測後、谷田へ渡す(資料番号377)。 鳥取県教育委員会2003 10月17日 『上代因伯史 考古篇』にかかる資料調査の一環として泊国民学校 において坪井清足が円筒埴輪片1(資料番号373)を実測。 鳥取県教育委員会2003 昭和17年 1942 2月末頃 馬ノ山4号墳で箱式棺発見。 昭和31年 1956 3月2日 馬ノ山4号墳で竪穴式石槨発見。 佐々木古代文化研究室編1962 馬ノ山4号墳発掘調査。 6月28日 佐々木古代文化研究室月報『ひすい』26号刊行。 佐々木古代文化研究室1956 昭和32年 1957 6月 昭和37年 1962 8月 昭和38年 1963 倉光清六没。 昭和42年 1967 佐伯義男が線刻人物円筒埴輪片を含む資料を同志社大学に寄贈。 森1967 昭和47年 昭和53年 1972 1978 谷田亀壽没。 『山陰の前期古墳文化の研究Ⅰ』刊行。 山陰考古学研究所編1978 1月 馬ノ山古墳群が「橋津古墳群」として国指定史跡となる。 『馬山古墳群』刊行。 佐々木古代文化研究室編1962 5 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について れる。これらの特徴からみて、資料番号374のⒸと対応すると考えられる。一方、Ⓑは、突帯をは さんで2段分が遺存する円筒埴輪片の外面の拓本である(図1−3)。タテハケ調整が確認できる ほか、注目すべきは上段に不整台形の線刻が認められることである。これは線刻人物埴輪片の人物 脚部の表現と類似していることから、資料番号374中に「他ニ足部ノミノ一片アリ」と記入された 破片に相当するものと思われる。このことは線刻人物埴輪片がもう一点存在したこと示している。 【資料番号376】 (図1−2・2−6) 今回報告する線刻人物埴輪片の外面拓本である(図1−2)。 先に述べたように 「箆描人物画アリ」 と記入された資料番号374のⒶの断面図に対応することになる。 拓本は現在の埴輪片の状況とほとんど変化がなく、とくに注記もみとめられない。 【資料番号377】 (図2−7) 円筒埴輪底部片の断面である。断面と外径を示すと思われる円弧が 一条示されている。外面には「細刷毛タテ」、内面には「刷毛ヨコ」と記入されるほか、「粗質 茶 褐 砂粒アマリミズ」という色調等に関する記入がなされる。 【資料番号378】 遺跡遠景パノラマ写真である。馬ノ山丘陵上から日本海を望む遠景を6枚の写 真を接合している。 【資料番号379】 (図2−8) 線刻人物埴輪片の拓本である。突帯をはさんで上下二段に配された 人物像二体の上半身と下半身を組み合わせて、一体の人物像に合成している。 【資料番号380】 (図2−9) 線刻人物埴輪片の拓本である。資料番号376とほぼ同じものである。 調査対象個体 以上、拓本・実測図等の資料単位の内容を述べてきた。それをうけて、調査段階 での所蔵先、拓本・写真・実測図との関係を調査対象個体ごとに整理すると以下のようになる。 【所蔵先不明】 盾形埴輪片: (写真)資料番号369=(拓本)資料番号370 【泊国民学校蔵】 円筒埴輪片1: (実測図)資料番号373 【谷田亀壽氏蔵】 円筒埴輪片2: (実測図)資料番号374Ⓐ=(拓本)資料番号376・379・380 円筒埴輪片3: (拓本)資料番号375Ⓑ 円筒埴輪片4: (実測図)資料番号374Ⓒ=(拓本)資料番号375C 【現地にて採集後、谷田氏へ】 円筒埴輪片5: (実測図)資料番号377 以上から、調査対象とされたのは盾形埴輪片1点、円筒埴輪片5点であったことがわかる。ただ し、盾形埴輪片は出土地が「橋津古墳出土?」とされており、確実に馬ノ山4号墳出土とはいいき れない。 線刻人物埴輪片A・B 現在同志社大学歴史資料館に所蔵され、今回報告を行う線刻人物円筒埴 輪は円筒埴輪片2に相当する。注目しておきたいのは円筒埴輪片3である。先述したとおり、本例 の拓本には円筒埴輪片2の線刻人物像の足部の表現と類似した線刻表現が確認でき、線刻人物像を もつ埴輪片がもう一点存在したことが判明するからである。以下においては、円筒埴輪片2を線刻 人物円筒埴輪片A、円筒埴輪片3を線刻人物円筒埴輪片Bと呼び分けることにしよう。 6 同志社大学歴史資料館館報第12号 調査日時 調査資料の記録日は、①昭和10年6月10日(資料番号379・380)、②昭和17年8月(資 料番号369・370) 、③昭和17年8月11日(資料番号374∼378)、④昭和17年10月17日(資料番号373) の4グループに分けることができる。出土地を馬ノ山4号墳と確定しきれない②を除外すると、少 なくとも昭和10年に一回、昭和17年に二回、合計三回にわたって馬ノ山4号墳出土資料を対象とし た資料調査が実施されたことになる。ただし、本編纂事業は昭和16年(1941年)から着手されたと されるので、①は本編纂事業と直接関わらない調査であったと考えられる。また、調査に参加した 坪井清足氏によると、③は東伯郡を主な対象としたものであり、「この時に谷田亀寿氏に御目にか かり、以後東伯の調査は谷田氏の御案内いただくことになった」という(坪井 2003、p8)。③では、 資料番号377の円筒埴輪を採集していることや、資料番号378の遺跡遠景写真を撮影していることか ら、谷田氏のもとでその所蔵資料の実測調査を行うとともに、古墳の現地踏査が実施されたことが わかる。④は泊国民学校の所蔵資料の調査であったと考えられる。 これ以降、次に述べる昭和31年の馬ノ山4号墳の発掘調査までの間、本資料(線刻人物円筒埴輪 片A)の足どりは空白期を迎える。 1.3 馬ノ山4号墳の発掘調査 馬ノ山4号墳の発掘調査 昭和31年(1956年)2月末頃、土地所有者が梨畑の作業中に箱式棺を 掘りあてた。引き続いて3月2日には竪穴式石槨を掘りあてるにいたった。これを知った当時の鳥 取県文化財専門委員である谷田亀壽氏・佐々木謙氏等が緊急調査を行った。その成果を受けて、こ の4号墳を含めた周辺の古墳13基を一括し、「史跡橋津古墳群」として国史跡に指定された。 佐々木古代文化研究室月報『ひすい』 調査後、調査を担当した佐々木謙氏が主宰する佐々木古 代文化研究室の月報『ひすい』26号には「伯耆・馬山古墳群」と題した調査概報が掲載され(佐々 木古代文化研究室 1956) 、線刻人物円筒埴輪片Aの線刻人物像の線描図が提示されている(図1− 4)。 調査報告書『馬山古墳群』 また、その後に刊行された調査報告書『馬山古墳群』(佐々木古代文 化研究室編 1962)においても、線刻人物円筒埴輪片Aの拓本が提示された(図1−5)。それに関 してつぎのような記述がある。 「前方部の削り取られた部分にあったと思われる円筒ハニワには(図12)(引用者註:本稿図1− 5)に示すようなヘラ描の人物しかも、二人の略画が胴にかかれたものが谷田コレクションにある が、これは稀な原始絵画であると共に円筒ハニワの意義・始原・ひいてはハニワの問題までにつな がるものであって、これがこの古墳に埋められ前方部にあったということは見過ごしてはいけない 重要なことがらである」 (佐々木古代文化研究室編 1962、p25)。 この拓本は、倉光報告の巻頭図版に提示された拓本とも、『上代因伯史 考古篇』に伴う資料調 査で作成された拓本とも明らかに異なっており、別個に採拓されたことは明らかである。おそらく 『馬山古墳群』刊行に伴う整理調査の過程であらたに採拓されたものであろう。そうなると、採拓 は発掘調査が実施された昭和32年(1957年)から、報告書が刊行された昭和37年(1962年)までの 6年の間になされたことになる。さらに、この線刻人物円筒埴輪Aが「谷田コレクションにある」 という記述からは、この時点において谷田氏が本資料を所蔵していたことを知ることができよう。 7 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について 1.4 同志社大学への寄贈 それ以降の線刻人物円筒埴輪片の足どりはふたたび判然としなくなる。そして、昭和42年(1967 年)になって、同志社大学へ佐伯義男氏の所蔵品が寄贈されたさいに、その中に線刻人物円筒埴輪 片Aが含まれており(森 1967) 、同志社大学歴史資料館収蔵品として現在にいたっている。昭和32 年から昭和42年までの間に、 「谷田コレクション」が何らかの理由によって散逸してしまったので あろう。同志社大学に寄贈された馬ノ山4号墳の資料は線刻人物埴輪片Aのみであり、それ以外の 谷田所蔵資料の行方についても現時点で明らかにしえていない。 以上、本章において整理した資料の来歴は表2にまとめたので参照いただきたい。 2.馬ノ山4号墳について(図3∼5、表3) 2.1 馬ノ山古墳群(図3) 馬ノ山古墳群は東郷池を見下ろす馬ノ山丘陵上に位置する古墳群である。現在25基が確認されて おり、前方後円墳5基・円墳13基・墳形不明7基からなる。そのなかで馬ノ山4号墳は最大規模を 誇る。個々の古墳の時期をしる手がかりは十分とはいいがたいけれども、古墳群は前期後半頃の4 号墳にはじまり、中期から後期にかけて築造されたものと考えられる。 2.2 墳 丘(図4) 4号墳の墳丘は現在梨畑となっている。現在の墳丘全長は約88m、後円部径約58m、同高さ10m、 前方部幅35m、同高さ6mをはかる。主軸はほぼ東西方向である。前方部前端部は幕末に鳥取藩に よって橋津お台場が建設されたさいに削平を受けたとされるので、現状での墳丘全長はあくまで最 低値である。昭和63年度に前方部前端から隣接する3号墳との間で農道建設に伴う発掘調査が実施 されたさいに、現状の前方部前端から約25m離れた地点で落ち込みが検出されている(羽合町教育 委員会 1989)。この落ち込みの性格は確定しがたいが、それが前方部端部を示すとした場合、全長 は約110mに及ぶことになる。 2.3 埋葬施設と副葬品(図4、表3) 埋葬施設は12基が確認もしくは想定されている。このうち、第1・2主体は後円部に、第3∼8 は前方部に位置する。第1主体は竪穴式石槨であり、割竹形木棺をもつ。第2・4∼6主体は箱式 石棺、第3主体は円筒棺、第7∼12主体が埴輪棺である(3)。ただし、第10∼12主体は出土が伝えら れる円筒埴輪を埴輪棺とみなしたうえで存在が想定されたものであり、もとより正確な場所は不明 である。出土した副葬品については表3に示した。 2.3 埴 輪(図5) 昭和31年調査の出土品 埴輪棺として転用されていた円筒埴輪がある。 【第7主体(第1埴輪棺) 】 (図5−1) 本例は樹立された普通円筒埴輪を引き抜き、土坑内に横 倒しにして、両端部を板石で閉塞したもので、前方部西北端付近にある。現地表下約0.3m。主軸 を南北方向にとる。埴輪は4条突帯5段構成の普通円筒埴輪である。器高約94cm、口径約44cm、 底径約30cm をはかる。土師質焼成で、外面はタテハケ調整による。各段の間隔は底部高が約 20cm、胴部突帯間隔が約19∼18cm、口縁部高が約17cm をはかり、ほぼ均等といえる。スカシは 8 同志社大学歴史資料館館報第12号 日本海 馬ノ山古墳群 ( 下図の範囲 ) 馬ノ山古墳群一覧 国史跡 全長 概要 指定番号 ( m) 1 円 33 須恵器( 伝) 11 2 方円 70 埴輪・葺石 12 3 円 30 13 1 4 方円 88+ 本文参照 2 5 方円 38 箱式石棺・須恵器・馬具・刀 6 円 19 3 7 円 16 8 方円 41 埴輪 4 9 円 24 横穴式石室 5 10 円 34 箱式石棺 6 11 30 9 12 円 35 8 13 円 25 木棺?・捩文鏡・玉・鉄器 14 円 45 埴輪・葺石 10 15 不明 横穴式石室・須恵器 16 不明 横穴式石室 17 円 12 18 不明 箱式石棺 19 不明 横穴式石室・須恵器 20 不明 横穴式石室 21 円 30 7 22 円 20 23 不明 箱式石棺 24 円 9 横穴式石室 25 不明 横穴式石室・須恵器・鉄器・玉 * 山陰考古学研究所編1978に拠り作成。 ただし、25号墳は羽合町教育委員会1990に拠る。 番号 墳形 * 国土地理院 1/50000 地形図「青谷」・「倉吉」 をベースマップとして作成。 0 S=1/50,000 2000m 日本海 4 号墳 25 * 山陰考古学研究所編 1978 付図をベースマップとして、 一部改変。 0 S=1/10,000 500m 図3 馬ノ山古墳群の位置(上)・分布状況(下) 9 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について 9 2 6 S=1/1200 0 1 3 8 5 4 7 T4 40m T3 *山陰考古学研究所編 1978 に拠り、 一部改変。 *昭和 63 年度調査については , 羽合町教育委員会 1989 に拠る。 落ち込み T2 T1 T1 ∼ T4:昭和 63 年度調査 図4 馬ノ山4号墳墳丘実測図 表3 馬ノ山4号墳埋葬主体一覧 番号 形式 規模( m) 1 竪穴式石槨 8. 5×0. 85 2 箱式石棺 3. 15×0. 5 3 4 5 6 7 8 9 10? 11? 12? 円筒棺 箱式石棺 箱式石棺 箱式石棺 埴輪棺 埴輪棺 円筒棺? 埴輪棺? 埴輪棺? 埴輪棺? 1. 1. 0. 0. 0. 0. 6×0. 8×0. 6×0. 9×0. 9×0. 9×0. 3 3 2 2 4 4 副葬品 (銅鏡)三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡・方格規矩鳥文 鏡・内行花文鏡・変形盤龍鏡 (装身具)石釧12・車輪石3・硬玉勾玉1・管玉17 (鉄製品)鉄剣1・鉄刀2・ヤリガンナ?2・鉄斧1・鉄鋸1 (銅鏡)変形環状乳神獣鏡 (装身具)硬玉勾玉2・管玉5 (鉄製品)刀 内行花文鏡 - * 山陰考古学研究所編1978等に拠り作成。 10 同志社大学歴史資料館館報第12号 2 1 44 7 3 9 8 10 0 S=1/10 20cm 図5 馬ノ山4号墳関連埴輪実測図 11 5 6 1. 第 7 主体 埴輪棺 2. 伝馬ノ山 4 号墳出土埴輪(第 12 主体) 3. 伝馬ノ山 4 号墳出土埴輪(第 11 主体) 4. 伝馬ノ山 4 号墳出土埴輪(第 10 主体) 5.(参考)第 3 主体 円筒棺 6.朝顔形埴輪 7.伝馬ノ山 4 号墳出土埴輪 8.馬ノ山 4 号墳表採埴輪 9・10 馬ノ山 4 号墳表採埴輪 (1 ∼ 6:山陰考古学研究所編 1978) (7・8:寺西 1985) (9・10:財団法人鳥取県教育文化財団 1982) 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について 2段目に長方形スカシを、4段目に円形スカシをそれぞれ各段に2孔配置する。 【第8主体(第2埴輪棺) 】 本例も第7主体と同様に、土坑内に普通円筒埴輪を横倒し、両端部 を板石で閉塞したものである。埴輪については図面が提示されていないので、詳細をしりがたい。 そこで、昭和31年調査の報告書『馬山古墳群』の記述等を参考にすると、埴輪は器高約89cm、口 径約40cm、底径約30cm をはかる4突帯5段構成の普通円筒埴輪である。土師質焼成で、3段目と 4段目に逆三角形スカシを各段2孔配置していたという。さらにスカシは別個体の破片で塞がれて いた。 これら以外に、朝顔形埴輪の破片1点が報告されている(図4−6、山陰考古学研究所編 1978)。 鳥取県立博物館収蔵品(図5−2∼4・7・8) 鳥取県立博物館には馬ノ山4号墳からの出土 を伝える埴輪が所蔵されており、 『山陰の前期古墳文化の研究Ⅰ』(山陰考古学研究所編 1978)と 寺西健一氏による報告(寺西 1985)によって様相をうかがうことができる。 2は4突帯5段構成の普通円筒埴輪である。器高約89cm、口径約40cm、底径約34cm をはかる。 各段の間隔は底部高が約20cm、胴部突帯間隔が約19∼18cm、口縁部高が約18cm をはかり、ほぼ 均等といえる。形態的には1と類似する。2・4段目に方形のスカシを、3段目に円形スカシをそ れぞれ配置する。内外面はタテハケ調整を基調とする。本例を埴輪棺とみて、第12主体の存在が想 定されている。 3も4突帯5段構成の普通円筒埴輪である。器高約83cm、口径約50cm、底径約37cm をはかる。 各段の間隔は底部高が約18cm、胴部突帯間隔が約18∼22cm(2段目)・約14∼16cm(3段目)、口 縁部高が約12cm をはかる。土師質焼成で黒斑が確認できる。各段に方形のスカシ2孔を千鳥状に 配置している。内外面はタテハケ調整を基調とする。本例を埴輪棺とみて、第11主体の存在が想定 されている。 4は口縁部以下4段分が遺存する普通円筒埴輪片である。残存器高約58cm、口径約45cm をはか る。各段の間隔は口縁部高約16cm、胴部突帯間隔約18cm をはかる。口縁部から3段目に長方形ス カシ2孔を配する。本例を埴輪棺とみて、第10主体の存在が想定されている。 7は普通円筒埴輪の口縁部片である。外面にタテハケ調整を、内面にナナメハケ調整を施す。 8は円筒埴輪の突帯部片である。各段に三角形スカシを穿孔する。突帯は台形で突出度が高い。 黒斑を有する。昭和5年に木山竹治氏により表採されたとする。 その他 『長瀬高浜遺跡発掘調査報告書Ⅳ(埴輪編)』 (財団法人鳥取県教育文化財団 1982)には、 馬ノ山4号墳表採埴輪として、線刻人物円筒埴輪片A(図1−6)とともに、2点の円筒埴輪片が 提示されている(図5−9・10) 。9・10はいずれも突帯部片である。10は突帯の上下段に方形ス カシの一部が遺存する。 埴輪の様相の整理 以上が管見によって検索しえた、馬ノ山4号墳から出土した、もしくは出土 が伝えられる埴輪資料である。 「伝」という制約がつく資料を含むものの、総体的にみて違和感の ある事例がないことから、本稿ではこれらを馬ノ山4号墳出土資料とみなしておきたい。そう考え たうえで、馬ノ山4号墳の円筒埴輪の特徴をまとめると、以下の諸点になる。 ①普通円筒埴輪は4条突帯5段構成品。 12 同志社大学歴史資料館館報第12号 ②スカシは底部と口縁部を除く各段に2孔を千鳥状に配する。 ③スカシの形状には円形・長方形・逆三角形がある。 ④外面調整は一次タテハケ調整を基調とする。内面調整についてもタテハケないしナナメハケ調 整を主体とする。 ⑤突帯は突出度が高く、断面形状が台形もしくはM字形を呈する。 ⑥有黒斑土師質焼成品。 馬ノ山4号墳の埴輪については、川西宏幸がその編年案のⅡ期(前期後半)に位置づけている(川 西 1978・1988) 。上記の②∼⑥等の特徴からみて、妥当な位置づけであると考える。 3.線刻人物円筒埴輪片Aについて(図6,写真) 3.1 特 徴 概 要 本資料は突帯部を含め2段分を残す円筒埴輪の胴部片である。復元径は約35cm である。 注 記 裏面には墨書によって、以下のような注記がなされている。 「橋津出土品/伯耆橋津/公園東/前方后円墳/全国中唯一出土品/高橋健自氏/日本原始絵画 (4) /参考品」 (/は改行を示す) 。 成 形 内面には粘土紐の接合痕跡が残ることから、通有の円筒埴輪と同様に、粘土紐を積み上 げることで成形がなされたと考えられる。 内外面調整 内面は左傾するナナメハケ(原体密度4∼5本 /cm)を施した後、突帯部を中心に ヨコ方向にナデを加えている。一方、外面にはタテハケ(原体密度5∼6本 /cm)を施している。 このタテハケは突帯の貼付に伴うヨコナデによって切られていることから、一次調整とみなすこと ができる。 突 帯 突帯は断面台形を基調とする。上下面および側面はナデによって調整される。突帯間隔 の設定については、遺存部分に突帯の剥落がなく、また突帯上辺にも設定工具痕跡が認められない ので、現状では詳細を知りえない。 スカシ 突帯下段において長方形スカシの側辺と思われる部分を一か所確認できた。上段には現 状でスカシは確認できない。他の資料を参考にすると、下段にスカシが確認できることからみて、 下段は底部以外の胴部と考えられる。また、断面形状からみて上段を口縁部とはみなしがたい。そ うなると、線刻人物像は2・3段目もしくは3・4段目の胴部外面に描かれたと結論づけることが できる。 3.2 線刻人物像 ここでは記述の便をはかるために、上段の線刻人物像を人物1、下段の線刻人物像を人物2と仮 称することにしたい。人物像はいずれもヘラ状工具の先端を用いて線刻された立像である。 人物1 人物の右肩から左脇腹にかけてのラインより以下、上半身の一部と下半身が残る。胴部 は右半身が遺存するのみであり、全形を知りえない。右半身は斜め直線で輪郭を描いている。その 上端部には直交する直線がわずかに遺存する。脚と胴部との境界は横方向の直線で表現している。 この付近を仮に腰部とすると、その左腰部には、胴部の外方に向けて右下がりの直線が描かれてい 13 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について 表 面 裏 面 人物 1 人物 2 写真 線刻人物円筒埴輪 14 同志社大学歴史資料館館報第12号 0 S=1/3 10cm 破片 2 人物 1 人物 2 破片 1 0 図 6 線刻人物円筒埴輪 A 図6 線刻人物円筒埴輪A 15 S=1/2 10cm 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について る。この直線が腰部と接する付近には、V字形をなす2条の直線が取り付く。また、その反対側の 端部にも2条の直線とそれに直交する1条の直線が付加されている。以上の表現は、柄頭側にあた るV字形表現や切先側の直線による付加表現の解釈が難しいものの、刀剣を佩用したようにみえる。 左右の脚部はいずれも直線によって表現されている。さらに、足先部は1条沈線によって不整半円 形に描かれている。注目されるのは、人物の左脚の足先部に描かれた短い2条の直線である。これ を足指の表現とみなすと、裸足を表したことになる。ただし、こうした表現は右足には認められな い。 人物2 頭部は顔面の輪郭をほぼ円形にヘラ描きしたのち、その中に鼻梁・両眼・口をそれぞれ 短直線で表現する。また、特徴的なのは頭頂部から2条の直線が左右にのびていることである。こ れは頭髪の表現とは考えにくく、何らかの頭部飾りを着装した状態を表しているものであろう。胴 部は一条の直線で輪郭を描いている。両肩部はなで肩であることにたいして、腰(股)部はヨコ方 向の直線で示されている。また、胴部中央付近には腕部の表現がある。まず、右腕はむかって左側 の胴部輪郭線付近から、ほぼ水平方向に短い直線を施し、その右端に放射状にひろがる短直線を6 条加えている。この直線のうち、上端と下から3条目の直線は他に比して長い。以上から、右腕の 仕草を復原すると、肘を下方にたらし、二の腕をほぼ水平に左方へ折り曲げ、手を胴部側へ向けた 状態となる。一方、左腕については、胴部の右側の輪郭線付近から、右腕と同様に5条の短直線に よって手を表現している。 3.3 小 結 以上が線刻人物円筒埴輪片Aに関する報告である。線刻人物像の有無を除けば、内外面調整、突 帯形状・スカシ配置・形状等の諸特徴は、前章において述べた他の資料群の様相と共通するといえ よう。 4.線刻人物画に関する検討(図7) 馬ノ山4号墳出土の当該の円筒埴輪に描かれた線刻人物像について、その文化史的意義を検討し ておきたい。 4.1 埴輪に描かれた人物像 いうまでもなく、古墳時代中期中葉以前、いまだ人物埴輪が創出される前段階の墳丘上(他界空 間)には、首長を表徴する家形埴輪や器財埴輪を中心としたさまざまな形象埴輪配置の光景のなか に、他界での被葬者とそこに奉仕する人々の存在が観念され、円筒埴輪はその他界空間を結界する 装置として機能した(辰巳2002・2008) 。馬ノ山4号墳がそうした段階に築かれた首長墓であるこ とは第2章で述べた。ことわっておくが、墳丘上に創出された他界の光景とは、古墳被葬者個々の 生前における政治的・社会的な業績や職掌とはまったく関連するものではなく、当時にあって「一 般にひろく観念された他界」の光景をいう(辰巳2004)。 さらに円筒埴輪が具有する本来的な機能に注視するなら、その表面に描かれたふたりの人物像(人 物1・人物2)が、キャンバス(円筒輪)がもつ他界空間を結界するという造形思惟をさらに高め ることを企図して描かれたものとする理解が導きだされる。すなわち古墳を守護する辟邪の意味を 16 同志社大学歴史資料館館報第12号 1: 黄金塚2号墳(埴輪絵画) 2: 中ノ城古墳(埴輪絵画) 3: 中ノ城古墳(埴輪絵画) (花園大学黄金塚2号墳発掘調査団 1997) (春成 1999) (春成 1999) 4: 高井田 3‑5 号横穴(壁画) (斎藤 1973) 6: 狩猟文鏡(設楽 1993) 5: 下郷天神塚古墳(埴輪絵画) (群馬県教育委員会 1980) 7: 寺戸大塚古墳(埴輪絵画) (向日市埋蔵文化財センター 2001) 8: 高井田 2‑27 号 横穴(壁画) 9: 飯ノ山横穴(壁画) 10: ハンボ塚古墳(埴輪) (安村 2003) (佐原 1999) (埋蔵文化財研究会 1985) 図7 本文に関係する人物の図像(縮尺不同) 17 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について もつ図像とみなすことができ、それが他界空間で永遠の生を送ると観念された被葬者自身を表現し たものでないことはいうまでもない。 前章で報告したように、当該の埴輪絵画資料はひとつの円筒埴輪の突帯を挟む上下2段の表面を キャンバスとして、それぞれにひとりの人物全身像を描いたものである。それは人物の姿が埴輪に 形象され始める古墳時代中期後葉段階以前に表出されたきわめて稀な資料であり、ほかに馬ノ山4 号墳と近い時期に築造された黄金塚2号墳(京都市伏見区)の墳丘を囲繞する円筒埴輪列にあって 一定の間隔で立てられた大型盾形埴輪のひとつに描かれた線刻人物全身像(図7−1)が指摘され るにすぎない(花園大学黄金塚2号墳発掘調査団 1997)。 黄金塚2号墳例に描かれた人物像は、右腕を挙げ、肘を張った左腕を振り下ろす動作をなし、地 面をしっかと踏み締めるように立つ姿に描かれる。かつて筆者はその人物が邪霊鎮撫の意味をもつ 反閇の呪歩を踏む力士を描いたものと論じた(辰巳 2002)。円筒埴輪とともに墳丘を囲繞し、その おもてを墳丘外に向けて立てられた大型盾形埴輪が、墳丘を守護する目的をもつことはいうまでも なく、その表面に描かれた反閇の呪作をなす力士の図像が盾形埴輪の属性をいっそう増幅・強調さ せる絵画であることは確かだろう。それは馬ノ山4号墳例の人物画についての解釈をたすけてくれ る。 なお水内古墳(京都府福知山市、中期)出土の円筒埴輪と、荒蒔古墳(奈良県天理市、中期末∼ 後期初頭)出土の大刀形埴輪には、弓をしぼって鹿に矢を放とうとする人物が全身像で描かれる。 狩猟の場面である。また中ノ城古墳(熊本県八代郡氷川町、後期初頭)出土の盾持人埴輪(東京国 立博物館蔵)の盾には、片手に弓を持ち両腕を挙げる人物像(図7−2)とその周囲に鹿とみられ る数頭の動物が描かれる(大野1912、春成1999)。そばに袖振りの呪儀をする人物像(図7−3) もみえる。やはり狩猟の場面を表現したとみてよいだろう。これら三例のほか、塚山西古墳(栃木 県宇都宮市、中期)例では人物像が省略され、鹿と矢をつがえた弓のみが描かれる事例から、人物 を表現することに本来的な造形思惟があるのではなく、狩猟行為やその対象となる霊獣である鹿の 存在を表出しようとしたことがうかがわれ、ひとり人物全身像のみを描いた馬ノ山4号墳例や黄金 塚2号墳例とはモチーフの選択を異にすると考えられる。 他方、人面のみを円筒埴輪に表出させた事例の存在にも目を向けておくべきだろう。 寺戸大塚古墳(京都府向日市、前期)例はもっとも初期の事例である(向日市埋蔵文化財センタ ー 2001)。それは縦位に向かい会う円弧を主たる図文とする撥形で、中央上寄りに小粘土塊を縦長 に貼り付けて鼻を表現する(図7−7) 。その形が、弥生後期から古墳時代前期中葉の瀬戸内地方 や東海・関東地方に分布する、おもに壺の体部に描かれた顔面装飾図文の系譜上にあることは確か で、本来的に辟邪の意味をもつ図文であることを論じたことがある(辰巳 2002)。寺戸大塚例より やや後出の下郷天神塚古墳(群馬県佐波郡玉村町、前期後葉∼中期初頭)例には、いまだ弥生時代 以来の顔面装飾図文が線刻されており(図7−5、群馬県教育委員会1980)、顔面図文の造形思惟 が弥生土器に描かれた人面文に遡ることを明示する。やがてそれは保渡田二子山古墳(群馬県高崎 市、中期後半) ・蟹沼東28号墳(群馬県伊勢崎市、後期)・上神主狐塚古墳(栃木県河内郡上三川町、 後期)等で出土した人面のみを表出した円筒埴輪に繋がり、人面文が古墳時代をとおして辟邪の意 18 同志社大学歴史資料館館報第12号 味をもつ図文であることを語っている。 さて寺戸大塚古墳例は前方部端に埋められていた埴輪棺に表現された。この事例を馬ノ山4号墳 の前方部に幾つもの埴輪棺が埋納されていた事実に関連させて、ここで報告する人物画を描いた円 筒埴輪もまた棺として使用された可能性をうかがわせる。 4.2 人物1の姿態 馬ノ山4号墳の埴輪に描かれたふたつの人物図像について、古代の絵画資料を渉猟するなかでい ますこし検討を加えておこう。 人物1は、その左上半身と両肩部から上の部分を欠損するものの、その姿態を復元的に考察する うえでの多少の手掛かりが指摘できる。 まず右半身の輪郭線の上端ちかくからヨコ方向に引かれた線の一端が欠損部に遺っている点であ る。人物2の右半身を参考にすると、それが右腕の表現の一部である可能性が考えられる。事実、 人物1の体部右側には腕の表現はなく、右腕はそれ以外の方向に伸ばされていたと認識される点か らもその蓋然性は高い。また人物の体部左側線は腰付近が遺るにすぎないものの、その周辺に左指 先の表現が認められない点は、右腕に関する推察とあわせ、左腕も人物2と同じ形状に描かれてい たか、上方に振り挙げていたと推察される。さらに人物1の腰には両端が分枝した斜線がある。詳 細な観察は前章にゆずり、現状ではそれを刀剣佩用の様を描いたとみておきたい。 つぎに脚部の表現であるが、左脚の足先部に描かれた2条の短い線は指を表現したと理解するほ かなく、右足については指の表現を省略したものと理解され、裸足の人物を描いた可能性がつよい。 さきに反閇の呪儀をなす人物像と推察した黄金塚2号墳の線刻画では大きく描かれた両足に指の表 現がみられ、そこに地面を踏みならす呪作を強調する造形思惟をみてとることができる。また伝群 馬県高崎市八幡原出土のいわゆる狩猟文鏡(図7−6、前期)に鋳出された、武器などを持って舞 う十数人の人物像のすべてが足をことさら大きく指までも描いていることから、大地を踏みならす 農耕の予祝儀礼の光景かと推察される(設楽1993)。おそらく人物1が足をひときわおおきく描き、 さらに指を表現したとみられる点からも、大地を踏みしめる呪的祭儀を実修する人物像にあたると 理解される。 4.3 人物2の姿態 欠損する両脚部分をのぞき、その姿態がほぼ明らかな図像である。しかし両脚の付け根付近の描 写がわずかに遺っており、広がり気味にまっすぐ伸びると推察できる脚表現は人物1に近似してお り、両者の脚はほぼ同じ形状に描写されたとみられる。 しかし腰に刀剣佩用の表現がない点は人物1とのおおきな違いであり、両腕の表現と、頭頂部か ら左右上方に伸びる2条の線が当該の人物像を特徴づける。 右腕は肘を下に垂らし、二の腕をほぼ水平に左方向へ折り曲げ、手を胴部前にやる。他方の左腕 は体の脇に添わせるように表現され、手だけを胴部左側に描く。なにより指を放射状に描き、手を 大きく開いた動的表現に、腕の動作がなんらかの呪的意味をもつことをうかがわせる。ほかに黄金 塚2号墳例や、 「人物の窟」と呼ばれる高井田第3支群5号横穴(大阪府柏原市、後期)にみえる 袖振りの呪作をなす女性像(図7−4)などでも、両手の指をおおきく開く表現法が人物に動きを 19 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について もたらせている(斎藤 1973) 。 また人物2の所作に似た姿の人物像が高井田第2支群27号横穴の玄室右側壁の線刻画(図7−8) に見え、「古墳時代人の祈りか哀悼をあらわす作法」と推察されている(森1980)。しかし当該の壁 画の時期については再検討する必要があろう。 なお飯ノ山横穴(島根県隠岐郡隠岐の島町、後期)の壁画(図7−9、斎藤 1973・佐原 1999) やハンボ塚古墳 (鳥取県西伯郡大山町、後期)出土の人物埴輪(図7−10、埋蔵文化財研究会 1985) などでも、短い腕のさきに大きな手のひらが表現され、造形表現のうえでの山陰の地域性が指摘で きるかもしれない。 さて人物2の特徴は頭頂部から左右に伸びる2条の線表現である。それが緩やかな曲線に描かれ ることから鳥の羽を用いた頭飾りを描いたものと推考される。弥生時代の土器絵画に描かれる人物 像にはしばしば頭頂部に一本線や房状の装飾をかざすさまに表現され、人物像がとる羽振り(袖振 り)の所作とあわせ、それが鳥装のシャマンを象徴する鳥の羽を用いた頭飾りと認識される(辰巳 1992)。中ノ城古墳の盾持人埴輪に描かれた弓を持つ人物や袖振りをする人物の頭頂部にも、1本 の長い鳥の羽のなびくさまが表現される。古墳時代にいたっても同様の頭飾りが用いられたことを 物語る例である。 高井田第2支群3号横穴の玄室前壁に人物2と同じ頭飾りをもつ人物頭部の線刻画がある。しか し同横穴の玄室には天井にいたるまで多数のモチーフが統一なく、ある部分では重複して描かれ、 そこに時期や描き手の違いが指摘でき、安村俊史氏が分析するように玄室壁画の真偽のほどは保留 しておくべきであろう(安村 2003) 。 なお鳥の羽や翼を表現した冠飾は、古代朝鮮半島に散見され、高句麗の双楹塚古墳(5世紀末こ ろ)壁画では尖った帽の側面に2本の羽を挿した騎人が描かれ、徳興里古墳(5世紀初頭)壁画で は鎧馬騎馬隊が被る冑の頂部に長い鳥の羽がかざされる。それは『魏書』列伝88の高句麗条に「頭 に折風を著く、その形は弁の如し、旁に鳥羽を挿す。貴賤差有り」とみえ、また『隋書』高(句) 麗伝の「人は皆皮冠し、使人は鳥の羽を加せて挿す」という記述にうかがい知れる。同時期の倭国 にあっても、二本松山古墳(福井県吉田郡永平寺町、中期)出土の金銅製冠の裏面に山鳥の尾羽と おぼしい鳥の羽の痕跡が認められ(高橋 1908)、また衝角付冑の頂きに付けられる三尾金具にしば しば鳥の羽の痕跡が指摘されるのも同様であろう。 さらに『魏書』韓伝にみえる「大鳥の羽を以って死を送る。其の意は死者をして飛揚せしめんと 欲するなり」という、葬送にあたって大鳥の羽で死者を飾る習俗の存在に関する記述は、埴輪絵画 や古墳壁画を理解するうえでの参考となろう。鳥の羽をかざし両腕の呪的な所作を描いた人物2が 円筒埴輪をキャンバスとして描かれる点に留意すれば、それが辟邪の意味をもって描かれたとする 理解を可能にする。 なお頭に2本の長い羽状の装飾をかざした人物画は北海道余市郡余市町のフゴッペ洞窟(峰山 1983)や小樽市の手宮洞窟(小樽市教育委員会 1997)、さらには中国甘粛省黒山・新疆ウイグル自 治区雀溝郷家石門子をはじめ雲南省や広西壮族自治区など(文物出版社 1993)、ひろくアジア一帯 の岸壁画にみえるモチーフであることを指摘しておく。 20 同志社大学歴史資料館館報第12号 おわりに 以上、馬ノ山4号墳出土線刻人物円筒埴輪に関する報告と、線刻人物画に関する検討を進めてき た。それぞれの詳細については、すでに本文中で述べ来たったので、あらためて触れることはしな いけれども、今回の検討の結果、①線刻人物埴輪片の来歴の空白の一部を埋めることができた、② 本線刻人物像が人物埴輪成立以前の稀な人物表現例であり、古墳を守護する辟邪の意味をもつ図像 として解釈できる、という新たな知見がえられたことは強調しておきたい。 本稿が馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪に対する認識を深める一助となったならば望外な喜 びである。 註 1.本古墳名については、「馬山4号墳」・「馬の山4号墳」 ・ 「馬ノ山4号墳」という名称のほか、史跡名である「橋津古墳群」によ る表記が併用されている。本来は、周知の埋蔵文化財包蔵地の名称である後者によるべきである。しかし、本古墳の史跡番号 は「橋津1号墳」(山陰考古学研究所編 1978等)と「橋津4号墳」 (羽合町教育委員会 1989等)という記述があって混乱してい る。そこで本稿では、さらなる混乱を避けるためにあえて史跡名を用いず、暫定的に「馬ノ山4号墳」という名称を用いるこ とにした。 2.以下の記述は、調査に参加された坪井清足の記述(坪井 2003)に拠った。 3.本稿では、橋本博文氏の論(橋本 1980)を参考として、樹立していた円筒埴輪を棺に転用したもの、およびその可能性がある ものを「埴輪棺」、棺としての機能をもって特製されたものを「円筒棺」と呼び分けることにする。 4.なお、高橋健自氏『日本原始絵画』(高橋 1927)に本例に関する記述はみあたらないが、この墨書による注記が1927年以降に 記入されたとはいえるだろう。 文献(著者名・刊行機関名50音順、刊行年順) 大野雲外(1912)「銅鐸と埴輪土偶の関係に就て」『人類學雑誌』28−2 小樽市教育委員会(1997)『手宮洞窟シンポジウム記録集』 川西宏幸(1978)「円筒埴輪総論」『考古學雑誌』64−2、日本考古学会、 (川西 1988に補訂再録) 川西宏幸(1988)「円筒埴輪総論」『古墳時代政治史序説』塙書房 群馬県教育委員会(1980)『下郷』 倉光清六(1931)「人物の繪畫のある埴輪円筒」『考古學』3−4、東京考古學會 財団法人鳥取県教育文化財団(1982)『長瀬高浜遺跡発掘調査報告書Ⅳ』 (鳥取県教育文化財団報告書11) 佐々木古代文化研究室編(1962)『馬山古墳群』 佐々木古代文化研究室(1956)「伯耆・馬山古墳群」 『ひすい』 (佐々木古代文化研究室月報26) 佐原 真(1999)「古墳時代の絵の文法」『国立歴史民俗博物館研究報告』第80集、国立歴史民俗博物館 山陰考古学研究所編(1978)『山陰の前期古墳文化の研究Ⅰ』 (山陰考古学研究所記録第2) 設楽博己(1993)「狩猟文鏡を読む」『歴博』61、国立歴史民俗博物館 高橋健自(1908)「越前吉田郡石船山の古墳及発見遺物」 『考古界』第7編第8号、考古學會 高橋健自(1927)『日本原始絵画』大岡山書店 辰巳和弘(1992)『埴輪と絵画の古代学』白水社 辰巳和弘(2002)『古墳の思想−象徴のアルケオロジー−』白水社 辰巳和弘(2004)「他界はいずこ」、国立歴史民俗博物館編『王の墓と奉仕する人びと』山川出版社 辰巳和弘(2008)「埴輪の構造と機能−「他界の王宮」創造−」 『埴輪の風景』六一書房 坪井清足(2003)「『上代因伯史』考古篇 紀元2600年奉祝 鳥取県記念事業」 、鳥取県教育委員会編(2003) 『上代因伯史 考古篇』 (京都大学考古学研究室遺跡調査資料集)鳥取県教育委員会 21 馬ノ山4号墳出土の線刻人物円筒埴輪について 寺西健一(1985)「円筒埴輪の地域性」『鳥取県立博物館研究報告』22、鳥取県立博物館 鳥取県立博物館(2007)『因幡・伯耆の王者たち』(特別展図録) 鳥取県教育委員会編(2003)『上代因伯史 考古篇』(京都大学考古学研究室遺跡調査資料集)鳥取県教育委員会 橋本博文(1980)「円筒棺と埴輪棺」『古代探叢』早稲田大学出版部 花園大学黄金塚2号墳発掘調査団(1997)『黄金塚2号墳の研究』 (花大考研報告10)花園大学文学部考古学研究室 春成秀爾(1999)「埴輪の絵」『国立歴史民俗博物館研究報告』第80集、国立歴史民俗博物館 羽合町教育委員会(1989)『馬ノ山遺跡分布調査報告書』(羽合町文化財調査報告書第4集)羽合町教育委員会 羽合町教育委員会(1990)『橋津25号墳発掘調査報告書』(羽合町文化財調査報告書第7集)羽合町教育委員会 文物出版社(1993)『中国岩画』 峰山 巌(1983)『謎の刻画フゴッペ洞窟』六興出版 埋蔵文化財研究会(1985)『形象埴輪の出土状況』第17回埋蔵文化財研究会実行委員会 向日市埋蔵文化財センター(2001)『寺戸大塚古墳の研究1』 水野正好(1992)「倉光清六先生・一日」『上淀だより』2、上淀町教育委員会 森 浩一(1967)「馬山の原始絵画−佐伯義男氏寄贈の考古学資料−」 『同志社時報』27 森 浩一(1980)「なぜ考古学の表面に出てこないのか」『アサヒグラフ』通巻2954号、朝日新聞社 安村俊史(2003)『高井田横穴群の線刻壁画−資料集−』柏原市立歴史資料館 22